2 :
北松斎 ◆VKH5D46a86 :03/01/02 16:02
3 :
日本@名無史さん:03/01/02 16:06
南部十左衛門信景
あれれ前スレ落ちちゃったんだ。
>>スレ立て乙です。
5 :
日本@名無史さん:03/01/02 17:16
1000目前にして落ちてしまったのは残念です
冬厨が糞スレ立てまくるからなぁ、保守しないとな。
7 :
日本@名無史さん:03/01/02 17:30
とりあえず各家庭に南部氏関連のネタがあったら書き込んでみてください。どんな事でも
些細なものと思われがちな話が案外知られてなかったものだったりします。
また全国各地の南部氏はどういった経緯でその地に住み着いたのでしょうか。
今スレでは近世現代の南部氏にもスポットを当てつつ進めて行きましょう。
私的に南部忠平氏や南部虎弾氏など彼らのルーツも知りたいところなので。
9 :
日本@名無史さん:03/01/02 19:49
北家って南部家の庶流なの?
11 :
日本@名無史さん:03/01/03 02:35
いぇす!!
現御当主は45代目で、気さくな御人柄。カラオケもなかなかのもの。
盛岡市内に住む、現御当主の情報キボンヌ。
盛岡文士劇の開幕の挨拶に裃姿で出てきて、
「今宵は無礼講じゃ、皆の者存分に楽しむがよいぞ。」
なんてことをしております。
↑殿様、最高!! 今や何してる人なんですかね?
市内のスーパーで一人で買い物していたりする。
家族は東京住まいなんで、自炊生活しているのかな。
17 :
日本@名無史さん:03/01/03 21:23
いきなり落ちたんで
しったかぶりさん達が気がかり。
>>17 きっと大丈夫だよ、南部スレは沈んでいるのが基本だから。
沈みすぎて落ちたのは失策だがな。
19 :
d2c67f4a.t-net.ne.jp:03/01/03 21:34
興味を持たれているみなさんは、南部氏に関わりがある(末裔等)人達ですか。
差支えない範囲で教えてもらいたいです。
お願いします。
20 :
日本@名無史さん:03/01/03 21:36
あの上のれす削除できないでしょうか。
お願いします、教えて下さい。すごいあせっています。
22 :
日本@名無史さん:03/01/03 21:45
21さん、はい19=20です
7さんと同じ内容になっていましたね
あの本当にあせってます。
すぐ消せないでしょうか。
お願いします
>>22 別に構わないのでは?
それより何で
>>19でfusianasanさんしているの?
もしかしてそれであせっているとか?
24 :
日本@名無史さん:03/01/03 21:56
fusianasanと入れないと
情報が解ってしまうと言うのを見て
いれてしまいました。
このコンピュータのローマ字が解ると
まずいのではないのでしょうか?
全部解ってしまうのでは?
と思っているのですが
23さん教えて下さい。
25 :
日本@名無史さん:03/01/03 23:01
>>24 気にすんなよ、君の使っているプロバイダーとか居住地が県別程度で
わかる程度だから。
フシアナトラップなんて何の意味も無い、ましてや今は2Chで全IP保存だし。
26 :
日本@名無史さん:03/01/03 23:10
モデムをぬいてみました
27 :
日本@名無史さん:03/01/03 23:11
25さん
励ましの言葉ありがとうございます
どうやら、深刻に考えなくても
なんとかなりそうですね
さすが南部氏レスの人達だ
そうだよ
あんまり深刻にならんでも
29 :
日本@名無史さん:03/01/04 23:30
ハートウオーミングスレ認定アゲ!
30 :
波木井実長 ◆M2TLe2H2No :03/01/06 15:44
認定ありがd
友人の親から聞いた話だが、今の御殿様は
御世継ぎがなく、一人暮しだと聞いたが?? 御家で何か...
32 :
日本@名無史さん:03/01/10 17:48
皆のもの、あげるのじゃ!
33 :
日本@名無史さん:03/01/10 23:38
江戸時代、南部藩領内にもアイヌ民族が残っていたらしい。
34 :
日本@名無史さん:03/01/10 23:54
>>33 津軽藩の三厩あたりには残っていたけど…。どこに居住してたの?
(^^)
36 :
日本@名無史さん:03/01/13 01:54
スレタイが秀逸
37 :
日本@名無史さん:03/01/13 20:47
家紋のつもりらしい・・・
あぁいま気がついた、向鶴なのか〜。
>>1よ、殿に替わり誉めてつかわす。
39 :
日本@名無史さん:03/01/15 21:57
鶴といえば
新南部町が町章を公募するかもしれないんで
鶴をモチーフにしたのを考えとります
40 :
日本@名無史さん:03/01/15 22:12
南部家は会津に味方して賊軍になったDQN。
津軽家は皇室に味方して官軍になった英雄。
41 :
日本@名無史さん:03/01/15 22:14
南部は戦国時代から時勢眼なし。真正の田舎者。
津軽は常に中央の情勢に敏感。
42 :
日本@名無史さん:03/01/15 22:54
43 :
日本@名無史さん:03/01/15 22:55
44 :
日本@名無史さん:03/01/15 22:59
45 :
日本@名無史さん:03/01/16 00:06
>>43 未だに白人コンプレックス有り有りですか。
>>41 いち早く天下が秀吉のものと観るや、秀吉が小田原遠征の時に、
前田利家を介して、津軽の悪行を訴えて「所領安堵」の朱印状を
貰っているので、時勢眼がないというのは、おかしいのでは?
秀吉から朱印状を交付された後も、津軽は南部との領土紛争を
繰り返して、「お仕置き」を食らった経緯を考えると、中央の
時勢に敏感というのも、どうかと...
ちなみに、秀吉に対して尽力してくれた利家に感謝して、南部家
では、その後の歴代当主の名前は「利」の字を付けております。
「信長の野望」のプレーヤーを南部家で始める時は、
真っ先に津軽家を攻めております。
ここは日本史スレには珍しい良スレだぞ。
煽り厨や三戦厨房は立ち入るな。
>>40 先代南部家44代目御当主、南部利英伯爵の御長女の○子様は、
今から40年前に現天皇陛下のお后候補といわれて、週刊誌などで
騒がれておりましたが、何か?
50 :
日本@名無史さん:03/01/16 02:48
蝸牛角上の争いってこういうのをいうんですかね?
下北半島と津軽半島がツノかな(^^
(^^)
52 :
日本@名無史さん:03/01/16 15:09
秀吉に喧嘩を売った男の旗印が「武田菱鐘の白旗」だったと思うと感慨深い
53 :
日本@名無史さん:03/01/16 23:57
皆のもの、上げるのじゃ!
54 :
日本@名無史さん:03/01/16 23:59
九戸政実の方が偉大です。
55 :
日本@名無史さん:03/01/17 00:00
南部信直は九戸の反乱を鎮圧できず秀吉に泣きついたヘタレ武将(プ
56 :
日本@名無史さん:03/01/17 00:28
>>46 たしかに南部はおっとりしてるというよりも、結構こすっからいです。
勝手に遠野や上閉伊を自分の領地として申告して、認められて
いるくらいですから。
まあ津軽の方がもっと南部よりこすっからいといえば、いいんでしょうけど。
57 :
日本@名無史さん:03/01/17 00:30
>>56 「すっからい」とは「抜け目ない」ということ?
>>54 総大将の豊臣秀次を筆頭に、蒲生氏郷、浅野長政、井伊直政の10万の大軍
が押し寄せて、九戸城はあっけなく陥落してますが、何か?
>>55 おかげで、二群を加増されて、領地が一気に南に拡大しましたが、何か?
59 :
日本@名無史さん:03/01/17 00:40
山崎渉ワッショイ!!
\\ 山崎渉ワッショイ!! //
+ + \\ 山崎渉ワッショイ!!/+
+
. + ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ +
( ^^ ∩ ( ^^ ∩) ( ^^ )
+ (( (つ ノ(つ 丿(つ つ )) +
ヽ ( ノ ( ノ ) ) )
(_)し' し(_) (_)_)
>>57 そういうことですが、南部スレは真面目に歴史を語るスレですので、
その辺はヨロシク!
61 :
日本@名無史さん:03/01/17 05:20
定期あげ〜
現代から見ると松前一族と南部一族はカコワルい。
抜目ないっていうか、こっぱ役人てイメージ。
>>55と
>>56と
>>58の反論の仕方に本質が宿っている。
63 :
日本@名無史さん:03/01/17 06:41
>>62 何を言ってるのか、さっぱりわからん。
もっと具体的に書いてくれ。
とにかくカコワルイということだろう。
65 :
日本@名無史さん:03/01/17 15:16
東北の政治勢力には
長いものには巻かれるが地元の弱い者にはとことん強い奴と
中央の攻撃に屈せず地元をたばねて負けていく奴と
二種類のパターンがあって、
九戸政実なんかはアテルイや安倍一族のパターンだからドラマになるんだよな。
66 :
日本@名無史さん:03/01/17 15:40
67 :
日本@名無史さん:03/01/17 19:55
バカは南部ヲタ。
君は弘前?黒石?
69 :
しったかぶり:03/01/17 21:55
青森県内で発見されている最古の棟札といわれているのが、八戸市の南
にある松館の宮内観音堂のものです。「この観音堂は、正平21年
(1366年)に建てられたが、再建した」とあり
明徳5年(1394年)極月 平朝臣守長 の名が記されています。
さて、この「平朝臣守長」とはだれでしょうか?
1392年南北朝合一がなってから二年後です。場所は根城の近くです。
工藤氏はこういうとき、平氏を名乗るものでしょうか?五戸の三浦氏?
この時期平氏を名乗ってるのはなかなか面白いもんで。
70 :
日本@名無史さん:03/01/18 00:35
>>67 ここはなあ、善良な南部ヲタが集まるスレなんだよ。
お前もみたいな、ヒキコモリは来るな。
71 :
日本@名無史さん:03/01/18 01:10
72 :
日本@名無史さん:03/01/18 02:10
しったかぶりさんひっさしぶり
73 :
日本@名無史さん:03/01/18 06:29
皆のもの、上げるのじゃ!
74 :
日本@名無史さん:03/01/18 10:09
えい、えい、おー
75 :
日本@名無史さん:03/01/18 10:56
南部って地元ではでかい顔してて
中央にはとことん弱いイメージあるのですが。
これは誰が作ったイメージでしか?
76 :
日本@名無史さん:03/01/18 19:02
嘉永六年,南部の一揆1〜2万伊達領唐丹番所を越境し圧制を提訴す
77 :
しったかぶり:03/01/18 21:04
>72さん
どうもありがとうございます。
去年一年間、おかげさまで楽しませていただきました。
今年も、ゆっくりと楽しませていただきます。
で、先の続きですが
工藤氏はこういうときは、藤原氏を名乗るものでしょうか?
78 :
日本@名無史さん:03/01/18 21:14
旧南部藩北部はどーゆー経緯で旧津軽藩と統合されてしまったの?
俺は佐竹藩だから、なんでそんなに仲悪いんだーって思っているんだけど…。
お久しぶり!
南部ネタともずいぶんご無沙汰してましたが、第2弾突入ってことで、ご挨拶を。
南部家ご当主とカラオケしたいですね!
80 :
日本@名無史さん:03/01/19 16:27
やっぱり僕は津軽為信が最強だと思う。
81 :
日本@名無史さん:03/01/19 22:19
マイルチャンピオンシップ南部杯
壬生義士伝みろよおめえら
83 :
円子金五郎兄弟:03/01/20 00:43
見るよおれえら
>>58 「何か?」じゃねーよ。
まずレス番間違えんなよ。
俺の言う「南部はこすっからい」というのには同意なわけね?
85 :
日本@名無史さん:03/01/20 09:46
>>84 この人は、何故怒っているのですか?
レス番号が違うというのも、よくわかりませんな。
86 :
日本@名無史さん:03/01/20 09:53
二戸の蔵元、南部美人は木おけの醸造を50年ぶりに復活させたらしい
>>84,56
私はレス番号は間違えていないようですが、、、何か御不興を、、、
「こすっからい」というのには同意ですね。そうとう「こすっからい」
殿様や重臣連中でなければ、鎌倉時代から戦国時代を経て、明治まで
生き残ってないでしょうし。でも、地勢的に「中央」に近かったら
どうだったでしょうね?
>>79 盛岡市内の方ですか? カラオケやりたいですね、殿様と。
私も一度だけ、御一緒した事がありますが、十八番の
「ラブミーテンダー」はしぶかったっす。
89 :
日本@名無史さん:03/01/20 12:57
殿様には是非「南部の火祭り」カラオケ大会に出てほすぃ
90 :
日本@名無史さん:03/01/20 14:28
南部の殿様には是非弘前城で津軽公の末裔に拝謁してほすい。
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92 :
日本@名無史さん:03/01/20 14:38
津軽公の末裔って、何してんですかね??
58の発言の>55に当てた部分は、>56の間違いじゃないの?
55 :日本@名無史さん :03/01/17 00:00
南部信直は九戸の反乱を鎮圧できず秀吉に泣きついたヘタレ武将(プ
56 :日本@名無史さん :03/01/17 00:28
>>46 たしかに南部はおっとりしてるというよりも、結構こすっからいです。
勝手に遠野や上閉伊を自分の領地として申告して、認められて
いるくらいですから。
まあ津軽の方がもっと南部よりこすっからいといえば、いいんでしょうけど。
58 :46代目 :03/01/17 00:37
>>54 総大将の豊臣秀次を筆頭に、蒲生氏郷、浅野長政、井伊直政の10万の大軍
が押し寄せて、九戸城はあっけなく陥落してますが、何か?
>>55 おかげで、二群を加増されて、領地が一気に南に拡大しましたが、何か?
>>93 いえいえ、南部が自力で反乱を鎮圧できずに、利家との関係を
伝手に秀吉に取り入ったおかげで、結果的に領土が広がったので
「へたれ」というよりは「知略」と解釈したかったもので、、、
加増された二群とは和賀ともう一群(失念)だったのですが、
これが、いわゆる遠野と上閉伊のことなのでしょうか?
>46代目さん、56さんへ
私も
>>55に当てた返答だと思っていましたが。でも、これって
反乱を利用した「知略」だったんでしょうか?
あと、46代目さんは、南部一族の方ですか?
96 :
日本@名無史さん:03/01/20 20:40
信直って同情買うの巧いな。
なんかオーラでも出てたんか?
97 :
日本@名無史さん:03/01/20 21:05
小さい頃から命狙われるような身の上だったからかな
>>94 ああ、そっちの話ですか。
俺が「遠野、上閉伊」と書いた直後に「南方に2郡」とのレスを見たので、
俺の話しかと思った。
あと、
>>85 個人的に「〜だけど何か?」と言われると、「何か文句あんのかよ」
みたいなニュアンスを感じるので。
本当ななりきりスレの「俺、〜だけど何か?」から来ていると
知ってはいるんですが。
>>95 血族ではないのですが、姫(結婚する前から、そう呼んでおります、私の嫁)の
母君が、現御当主の妹にあたられます。私は庶民の出自なので、家ではよく、、
姫「早く〇〇をやってよお」
私「うーん、今忙しいから、後で...」
姫「ええーい、早くやらぬか、農民の分際で!」
私「ひ、姫様、そのような事を言われましても...」
姫「新羅三郎義光の血をひく、妾の言う事が聞けぬと申すか!」
私「...情けなき、お言葉...」
といったような、プチ時代劇は、日常茶飯事でござるよ。
100 :
日本@名無史さん:03/01/21 08:06
おお、皆のもの、100ゲトじゃ!勝鬨じゃ、勝鬨を上げるのじゃ!
101 :
日本@名無史さん:03/01/21 08:17
102 :
日本@名無史さん:03/01/21 09:05
103 :
日本@名無史さん:03/01/21 09:20
>>99 子供に将来は同じ事を言われてしまうのでは......
104 :
日本@名無史さん:03/01/21 09:33
子供 「パパー、おもちゃ買ってよお」
46代目「だめだめ、帰るよ」
子供 「ええーい、買わぬか、農民の分際で!」
(以下、省略)
これは、修羅場スレの方がよいのでは。
105 :
日本@名無史さん:03/01/21 17:35
修羅場ですな
現御当主は他家からの婿殿と聞いております。
>>106 いえいえ、現御当主は先代 利英伯爵の御三男です。婿殿だったのは、利英様の
ほうで、五摂家・一条家から来られました。ちなみに、利英様の叔母様が、
昭憲皇太后様にあたられます。
108 :
日本@名無史さん:03/01/22 09:36
109 :
46.5代目:03/01/22 09:46
>107
ウォウウォウウォウ!
>>108 すみません、間違えました。「先代の大叔母様」でした。叔母様では年代が
合わなくなりますね。ちなみに、南部家43代目の姫君が嫁がれましたのが、
都城・島津家で、御当主の久厚様と南部家現御当主様とは従兄弟にあたられ
ますが、久厚様の奥方・光子様の御実兄が天皇陛下にあたられます。
111 :
日本@名無史さん:03/01/22 17:04
定期あげ〜
112 :
日本@名無史さん:03/01/22 17:05
地元で殿様気取ってる末裔はどこでもいっしょだな。
殿様の権威は職務あってのものだった訳だが。
113 :
日本@名無史さん:03/01/22 17:57
殿様の末裔には、もはや職務権限はないが、血筋は金では買えないので、
それなりの権威は、今も存在するぞ。
そうでなければ、天皇の妹なんかと結婚できん。
114 :
日本@名無史さん:03/01/23 14:50
>>112 維新後落ちぶれた華族も多い中、南部も島津もうまいこと立ち回ってるなー
やはり鎌倉以来の名家は何かが違う
115 :
日本@名無史さん:03/01/23 15:57
津軽は侯爵。
南部は・・・伯爵(プ
116 :
日本@名無史さん:03/01/23 16:30
まああれだな、苛政を敷いた南部の殿様の因果が巡り巡って
46代目の子供に行くかもしれんな。
因果応報ってやつ。
117 :
戸栗六之丞:03/01/23 16:51
山梨県の武田氏伝説(笹本正治編)より
【南部の城跡】(南部町南部)
村の西を城山という。
山の上の平な場所が本城で、高さニ、三町に過ぎない。
北を城の沢という。
狼煙場とも呼ばれる所がある。
三郎光行から信玄の時の南部下野守まで、南部氏が相続した。(『甲斐国志』)
土地に伝わる「月の南部城」というやつです。
南部氏が治めていた頃の詰めの城でしょう。
118 :
日本@名無史さん:03/01/23 17:34
結構治世下では苛政で憎まれてたりするね。
悪い事は出来んのう…
119 :
日本@名無史さん:03/01/23 18:36
死人の肉を喰らい、子供と子供を交換して喰らい、という
惨状にろくに手を打てず、豪遊していたバカの子孫だからな。
盛岡の人はお膝元で恵まれていたから、あまり悪く言わないし
かばったりもするんだが、沿岸に行けば南部の
いい意味の逸話なんてないよ。
120 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:48
121 :
しったかぶり:03/01/24 20:23
戸栗六之丞さん おひさしぶりです。
1392年、南北朝合一して、根城南部氏は波木井の本領をすてて
八戸に移住したと言われていますが、その後、波木井郷はどなたが知行
したのでしょうか?
又南部郷にいた南部氏はどなたでしょうか?
1333年の重鎮状に依れば、武行は南部郷にいたとおもわれます。この系統の
南部氏でしょうか?
三戸南部氏とはどういう関係になるのでしょうか?
分からないことばかりです。
御返事できるなら、ゆっくりとでおねがいします。
122 :
戸栗六之丞:03/01/25 17:35
加倉井氏ゆかりの妙徳寺HPに以下の記述がありました
http://homepage1.nifty.com/kakurai/index.htm ------------------------------------------------------------------------------------------------
波木井殿御報「常陸の湯」について 宮崎 英修氏
『大崎学報』125、126合併号(昭和46年2月)抜粋
実長には4人の子息があって、諸系図及び南部家の文書其他を勘案すると
実長 ┬ 総領 実継 六郎二郎 次郎 清長
.│
.├ 次男 実氏 弥三郎 六郎三郎 家長
.│
.├ 三男 祐光 孫三郎 六郎四郎 光経
.│
.└ 四男 長義 弥六郎 法名日教
上段系譜のようである。
さて、実長の所領は波木井郷、南部郷の一部と其他数ヶ所であるが、
まず、実継は総領職をつぎ、三男祐光と四男長義は波木井に居住し、
祐光は西谷・船原・小田等の地を、長義は宮原・杉山・原等の地を領した。
南部一族が京・奥州に活躍している頃は長義の子長氏が波木井郷の実質上の総領職の権限をもち波木井氏を称し
身延山5世日台、6世日院を一族より任じ身延山を支配する実権をもつに至っている。
------------------------------------------------------------------------------------------------
以上から波木井を知行したのは「原弥六郎」こと波木井長義の系統であることがわかります。
甲斐波木井氏は武田信虎時代の波木井義実まで続きます。
123 :
しったかぶり:03/01/25 21:49
戸栗六之丞さんありがとうございました。早速加倉井HP
を拝見さしてもらいました。加倉井氏のことは初めて知りました。
南部一族もあちこちにひろがっているのですね。
実継−長継−師行−政長−信政 とくるわけですが、信政の子の
信光、弟政光が政長死(1350年)のあと二人とも甲斐にもどってるらしいのですが
そのあたりの事情がよく分かりません。信光は甲斐で死に政光の時、波木井を捨て
根城に戻ってきたことになっています。信光の子に跡を譲り自分は七戸に隠居し、
子孫が七戸氏を名乗りました。( 九戸の乱の時、九戸方につき七戸家國で滅びます。)
1350年から1392年の40年間に一番大きな事は何か?というと三戸南部氏が
糠部で支配権を根城南部氏に替わって握ったことです。
124 :
日本@名無史さん:03/01/25 23:19
青森県民だけどしっかりせんか〜っと喝を入れたくなる奴ばかりいる。田舎政治家が権力者に札束掴まされ県内にロクな施設を持って来ない。原発・核燃料再処理施設・基地etc.人間的に卑しい人が多いのかなぁ?
政治家以外にも変な奴は羽柴誠三秀吉。他県の知事選挙に立候補して天下に青森の恥を曝さないでくれ!
125 :
日本@名無史さん:03/01/26 00:00
>124
青森は日本ではありません。
126 :
日本@名無史さん:03/01/26 00:17
↑ふざけろ・ボケ!
日本じゃないだと〜?じゃあ何処までが日本なんだ?
127 :
日本@名無史さん:03/01/26 01:25
128 :
日本@名無史さん:03/01/26 01:29
>126
日本の中心とかいう石碑があるンだっけ?
129 :
日本@名無史さん:03/01/26 01:51
>>126 旧津軽藩と旧南部藩との国境が日本国か否かを隔てる境界線。
境界以南が日本、以北は化外の地。
130 :
日本@名無史さん:03/01/26 15:01
>>124 羽柴誠三秀吉は『三上』って名字だよね。(息子の三上大和の例から…)
三上って名字は、南部氏が甲斐から下向したときに何人かくっついてきた
「甲州譜代」っていう甲州侍の苗字からきてるんだよね。
ただし羽柴誠三が三上氏の直系かどうかは眉唾もんだがな。明治になって
苗字つけなきゃいけないときに、勝手に名乗った可能性は高いからな。
131 :
日本@名無史さん:03/01/26 16:43
132 :
日本@名無史さん:03/01/26 21:12
ついに甲州の上九一色村そのものが解体されてしまいます
133 :
日本@名無史さん:03/01/26 22:36
>>132 下九一色村が消滅した時点でどうでもよくなったから別に。
134 :
歴史の勉強:03/01/26 22:54
三上「秀吉」さんのことは詳しく知りませんが、
あのオッサンはたしか太宰治と同郷の金木中学を卒業してたと思います。
出身が津軽地域なので、ホントに甲斐以来の南部被官だとしたら、
大浦為信についた方の子孫でしょうね。
でも、学歴は確か「中学卒」だったぞ?
お武家さんの末裔にしては「金のなさそうな」出身じゃないですか?
青森県に基地や核施設が建設されとるのは、
青森県あたりが日本でどんな役割を与えられているかを暗に示唆してますよね。
藩政時代はともかく、東北最北部ってやっぱ「辺境」に位置づけられてるんでしょうね。
でも、それこそが南部氏の歴史を解明する上で非常に重要だと思います。
南部氏がなぜ「日ノ本」で強大な権力を築き得たか。
逆に言うと、あの土地でなければ、南部氏のあの歴史は有り得ない気がします。
南部氏と島津氏では歴史に持ってる「意味」が全然違うと思う。
島津氏はただ単に、後世の感覚でいう「最辺境」にいただけで、
中世にあの辺が辺境という役割を果たしていたかは疑問だし。
島津氏の特殊性はむしろ藩政時代のほうが大きくなったと思う。
琉球を植民地にしてたから。
135 :
しったかぶり:03/01/27 22:28
歴史の勉強さんにはいつもうーんとうなされてしまいます。
「辺境」と南部氏の繁栄とを結びつけていますが、もうちょい
よくわかりません。
去年展開された、「植民地論」は深化いたしましたか?
136 :
歴史の勉強:03/01/27 22:48
いや、去年からさほど勉強してはいないんですが、
南部氏の歴史は東北最北部の特殊性を考える上で非常に重要でしょう。
少なくとも、戦国時代までの薩摩はそういった意味では辺境ではないと思います。
藩政時代の南部藩も津軽藩も別段「辺境」ではないと思うのですが
(あの時代だと松前藩と対馬藩こそが「辺境」の特殊性を最大限に利用してた気がします)、
中世と呼ばれる時代の東北最北部は「辺境」で、
しかも、その特性を最大限に利用して発展した土地だったと思います。
南部さんのライバルだった安藤さんは、津軽でないと活躍できなかったろうし。
初めてお読みになる方も多いでしょうから、その植民地論についてちょっと。
えー、植民地って言うと非常に見下した表現と思われる方も多いでしょうが、
僕が言ってる植民地ってのは本来の意味での植民地、
つまりは、移民を移住させて開発する土地のことです。
かつての東北は、そういった意味でフロンティアの役割を果たしてたんじゃないか、
特に御家人による征服(1189の奥州征服)は大きな意味を持ったんじゃないか、
そういうのが僕の考えているところです。
南部さん自身が元をたどれば関東の御家人だったわけですから、
南部さんを初めとする御家人たちは技術移転を推進した人たちだったんじゃないでしょうか?
東北地方は、最南部の福島県あたりから、ごく一部の例外的地域を除いて、
関東の御家人が最も強力に浸透した地域でした(伊達も御家人の末裔)。
また、鎌倉時代には北条氏が最も支配に力を入れた地域です。
この辺の意義を正しく把握しないと、東北の歴史は解明できないと思います。
137 :
日本@名無史さん:03/01/27 23:05
>>136 島津や毛利も、元々は関東の御家人なんだっけ?
138 :
歴史の勉強:03/01/27 23:16
島津はもともと「惟宗(これむね)」という姓で、摂関家の家司だったのが、
源頼朝に仕えて御家人になったそうです。
島津家の元祖・惟宗忠久(島津忠久)はお母さんが比企氏で、
薩摩・大隅・日向の守護に任じられたのも、
おそらく摂関家との関係+お母さんの血筋のせいだと思います。
間違いないのは、島津氏は頼朝の落胤ではないこと。
毛利氏は大江広元の末裔で、広元から継承した
今の神奈川県厚木市にあった「毛利庄」という庄園から苗字を採りました。
安芸の毛利氏は南北朝時代に吉田庄に移住したものです。
まあ、どっちとも大変な名家ですね、南部氏に劣らない。
御家人は日本中に移住しましたが、東北・中国・九州が特に多かったようです。
中国+九州のばあいは蒙古襲来との関係がよく原因とされますが、
それだけじゃなく、東北みたいに余剰人口の移動先って側面もあったと思います。
御家人の果たした歴史的役割はもっと研究されるべきでしょうね。
余談ですが、安芸の小早川氏は土肥実平の子孫です。
毛利元就に出てくる武将の大半は関東の御家人の子孫です。
139 :
日本@名無史さん:03/01/27 23:18
春日局もごけにんです。
140 :
浅野ます道 ◆YNb5Lv2Www :03/01/28 02:07
141 :
日本@名無史さん:03/01/28 04:48
伊達の先祖の伊佐氏は常陸の御家人。奥州征伐で伊達郡に
領地を持った。
伊佐氏の娘が鎌倉幕府に女房として出仕していて、頼朝に
見初められ、北条政子の目を盗んで懐妊させたなんてこと
があった。確かその赤ん坊は京都の寺に預けられて「貞暁」
って名前で、頼朝の子の中では珍しく長寿全うして死んだ、
と思ったけど……うろ覚え。
茨城、福島、宮城の訛りが似てるのは、伊達の北上が原因かもね<藁
142 :
歴史の勉強:03/01/28 22:39
東北が一括りに考えられがちなのは奥州藤原氏の影響なんだろうけど、
一口に「東北」と言っても、福島県はそれ以北とは分けて考えたほうがいいかも。
かなり早い段階で大和政権に従っていたし、
戦国時代も大勢力の広域支配というより群雄割拠の状態で
東北地方というより関東地方北部に近い感じがする。
福島県あたりは、もともと地理的に関東に近かった上に、
古代から北関東との結びつきが強かったんじゃないかな?
足利時代に、関東公方の支局的存在だった(すぐ亡ぶけど)
「ささがわ」「稲村」両御所が派遣されてるのも偶然じゃない気がする。
そもそも、「関東」という広域地方単位が成立するのも鎌倉幕府の成立と直結してるから、
福島県あたりは本来、甲斐や信濃のように関東ときわめて近い地域だった可能性も。
南部氏は得宗被官だったと考えて間違いないんでしょうけど、
伊達氏もそうだったのかな?
伊達郡が安達郡と隣接してる所から察すると、
やはり北条氏の勢力下にあったような気がするけど……。
伊達さんは鎌倉時代にはさほど有力な御家人ではなかったみたいだし、
南部氏同様、南北朝時代に勢力を拡大してるのが気になる。
143 :
日本@名無史さん:03/01/30 14:29
>>138 西遷御家人は蒙古襲来によるものではなく、
源平合戦の結果、東国の武士が移住するようになったものです。
余剰人口とはまったく関係ありません。
144 :
戸栗六之丞:03/01/31 11:29
【波木井氏の断絶】(身延町波木井)
大永年中(1521-28)に波木井義実は福島正成に一味して、
河内領の武士と共に武田氏に逆心を企てて、峰の城にこもった。
しかし、福島正成が荒川河原で武田信虎と戦って終に打ち負けたので、
大永七年(1527)12月23日に波木井義実も峰の城で自害して家が断絶した。(『甲陽随筆』)
なお、この時に河内領で福島に味方した者は皆所領を没収された。(『甲斐名勝志』)
※飯田河原の戦い
大永元年(1521)今川の老臣福島兵庫頭(高天神城主)が
駿河・遠江の兵15000を率いて下山−十日市場(中富町)を経て甲府盆地にに襲来、
武田信虎は2000余の兵で千塚(甲府市)に迎え
60日近く対陣したが萩原常陸介の奸計で11月23日一気に討ち取った。
【大島古戦場跡】(身延町大島=旧八代郡)
ここは大永元年(1521)今川の将福島正成が侵入し、武田勢と戦った所と伝え、
戦死者の供養塔という五輪塔一基が残る。(『東河内路』)
──「又、川内へ八月廿八日惣勢立テ鑓ツキ其日有之。富士勢負玉フナリ。」(『妙法寺記』)
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
信虎が身延方面に総攻撃を仕掛け今川方が負けたのが8月28日で、
福島正成が甲府に乱入したのが9月末〜10月初め。
「総攻撃」を受けた今川方がよく立て直したと思うが、
あるいは乱入に協力した波木井氏の影響が相当大きかったと見るべきか。
今川に加担した義実は許されている。身延山と関係が深い以上、簡単に潰すことも出来なかったのだろう。
翌年の「当国屋形様身延ニ而御授法。御供ノ人数皆々授法云々」(『妙法寺記』)は河内統一の証に信虎が行ったとされる。
この行事に義実も関わっていたのだろうか。
大永七年の波木井攻めは義実が再び今川氏と通じたからとされる。
今川と武田が対立関係を解消したのは天文六年(1537)。10年後である。
145 :
日本@名無史さん:03/01/31 11:38
>>144 福島正成なる人物の実在性は疑われています。
軍記類以外には出てきません。
146 :
戸栗六之丞:03/01/31 15:30
(・>南部氏の系図<・)
.....┌行朝──行長(一戸)
光行@┼実光A─時実B┬政光C
.....│ ........├政行─┬時長
.....│ ........│ .....├師行◇
.....│ ........│ .....├政長◇┬信政◇┬信光◇─長経◇…
.....│ ........│ .....│ .....│ .....└政光◇─政慶(七戸)
.....│ ........│ .....└資行※├政持(新田)
.....│ ........│ ........└信助(中舘)
.....│ ........├宗経D
.....│ ........├宗実─┬尼了心─資行※
.....│ ........│ .....└武行──行宗─右馬助
.....│ ........└義元●┬義行●┬義重●…
.....│ │ .....├茂時I
.....│ │ .....├信長J─政行K…
.....│ │ .....├仲行
.....│ │ .....├茂行
.....│ │ .....└信行
.....│ ├宗行E┬政連G
.....│ │ .....└祐政H
.....│ └祐行F
.....└実長◇─実継◇┬長継◇
├実氏(加倉井)
├祐光
└長義◆…
○三戸南部
●甲斐南部
◇根城南部
◆波木井南部
147 :
戸栗六之丞:03/01/31 15:31
>>146 確かに宗実−武行系と、特に義元系が長く南部に居住していました。
系図には疑問が多いのですがここでは割愛します。
義重以下は次の通り(諏訪神社神官若林家伝南部系図)
義重─為重─重時─則時─元時─元秀─定秀─宗秀─満秀─慶秀
定秀と宗秀が通称下野守でこの代に武田氏によって八代郡に追われたようです。
また武行系は伊豆国二宮に所領を持っていた事実が万沢君泰所蔵文書の『南部武行譲状』には出てくるのですが
この二宮の詳しい場所がわからないですね。
148 :
戸栗六之丞:03/01/31 16:32
149 :
しったかぶり:03/01/31 21:02
戸栗六之丞さん ありがとうございます。
お疲れ様でした。じっくり、読ませていただきます。
武行系の南部氏が伊豆に所領があったのは工藤氏との関係を考えるとき
実に面白いですね。二宮ですか。
150 :
日本@名無史さん:03/02/01 18:02
「近世こもんじょ館」で見ましたが、
菊池氏は南部氏とどのような関係にあったのか
御存知の方は、いらっしゃいますか。
151 :
日本@名無史さん:03/02/02 09:24
九州の豪族の苗字である菊池(菊地)が岩手県南から遠野地方に多いのは
子供の頃から不思議だった。関東の千葉氏は九州や岩手県南に、所領を持
っていたので九州の菊地氏が千葉氏と主従関係を結んで奥州にやってきた?
のだろうか?それとも九州の菊地氏は常に南朝方北畠顕家にしたがってつ
いてきたか知ってる人がいたら教えてくれ。
152 :
たそがれ男爵:03/02/02 12:47
<<46
島津重豪の息子で南部家に養子入りした信順さんの血筋はどうなりました?
154 :
日本@名無史さん:03/02/02 13:34
南部家は明治以降、一条家から養子が入っている。
一条家は四条家経由で(かなり複雑な経路だが)後陽成帝の血が入っている。
155 :
日本@名無史さん:03/02/02 14:01
>>151 九州で負けて、逃げてきたんじゃないかと言う話を聞いたことがある。
いつの時代かは知らないが。
だから菊地と、池ではなく地を使っている家が多いらしい。
156 :
日本@名無史さん:03/02/04 10:07
>>155 越中の菊池氏の系統と思われます。越中菊池氏も肥後菊池氏の一族ですが。
越中阿尾城主菊池伊豆守武勝(正信)は佐々成政に属していたのですが、その後前田利家
に寝返りました。しかし弟豊後守正義はそれをよしとせず佐々方に留まり、敗戦後一族郎党
を引き連れて佐渡に逃れ、さらに秋田、下北へと逃れ、城ヶ沢に上陸、下北田名部に
一城を構えて住み着いたといいます。正義の子・正興は南部利直に仕え、関ヶ原の役にも
従軍したそうです。このことから佐渡、秋田、山形、青森には菊池(地)姓が多いようです。
佐竹の人殺し、津軽のテナガザル
159 :
日本@名無史さん:03/02/11 19:52
南部と早稲田大学の繋がりは意外と知られてない?
東京専門学校(早大の前身)と早実の初代校長を務めた大隈英麿氏は南部藩主の次男で
1902年に自ら大隈家と絶縁したのは確か金銭トラブルが養家に及ぶのを恐れての事だったかな?
160 :
しったかぶり:03/02/11 20:18
>150 についてですが。
前面 檀那菊地武義
太歳
応永廿肆年七月一日
丁酉
裏面 初百内
福王寺
右側面 五戸
羽禰崎
(デーリー東北)
ですが、応永24年は、1417年です。
是より5年前の応永19年には「向鶴」の家紋の由来となった
秋田合戦を、根城の南部光経が行い、そのお礼として、国宝の「白糸嚇褄取鎧」
を奉納しています。三戸南部は守行の時代で、南部氏の最初(?)の隆盛期に
当たるといっていいと思います。
この時期に櫛引八幡宮という南部氏の一の宮に奉納しているのは、「ただ者」
ではないと思いますが、「菊地氏」はあまりみえませんねー。
「福王寺」も、五戸に「羽禰崎」(はねさき?)と言う地名もみえません。謎ですね。
もう一つ私が気になるのは、旦那菊地武義、と官名が何もついてない事です。
普通こういう場合、官名(たとえば、大膳太夫とか)をつけると思うんですが。
南部氏のこの時期は謎が多いですね。
161 :
日本@名無史さん:03/02/12 11:26
南部盛岡は日の本一美しい国でござんす。
162 :
日本@名無史さん:03/02/12 14:47
弘前>>>仙台>>>>>秋田>>>>>>>>>>>会津若松>盛岡
163 :
日本@名無史さん:03/02/12 18:28
会津>米沢>久保田>仙台>盛岡>弘前
マジレスで普通はこうだろ
佐竹家は、正真正銘の清和源氏です。あまり他の家と比べないでください。
特に徳川家とかねW
165 :
日本@名無史さん:03/02/12 19:53
徳川家は、正真正銘の似非源氏です。あまり他の家と比べないでください。
特に佐竹家とかねW
166 :
日本@名無史さん:03/02/13 10:16
佐竹、南部、松前、津軽
北東北は甲斐源氏の親戚で見事に固められてますね
津軽は本当は源氏(南部庶流)なんだろうけど自称藤氏だよね?
あと佐竹は甲斐源氏の親戚と言ったらそうだけど甲斐源氏そのものじゃないし…
168 :
日本@名無史さん:03/02/13 22:12
やっぱり伊達だよね
169 :
日本@名無史さん:03/02/14 09:46
東中務>>>>>>>>>>>>>>>>楢山佐渡
170 :
日本@名無史さん:03/02/14 14:39
>>167 佐竹家って新羅三郎源義光の嫡流じゃないの?
武田家他甲斐源氏一党は義光流源氏では庶流とか...
なんかの文献で読んだなぁ〜
172 :
日本@名無史さん:03/02/14 17:59
佐竹家は、正真正銘の新羅三郎源義光の嫡流です。あまり他の家と比べないでください。
特に庶流の武田家とかねW
173 :
日本@名無史さん:03/02/16 12:31
波木井坊竜尊氏についてどうです?
175 :
日本@名無史さん:03/02/18 00:32
嫡、庶の別が厳格になってきたのは、鎌倉時代から。
平安〜鎌倉初期の武士はあまりその辺を意識してない。
なぜなら兄弟とはいっても母親も違うし、一緒に育つ
わけでもなく、それぞれの母親の実家に養育されるか
らね。兄弟とはいっても遠くの親戚に近い存在。
佐竹は常陸大掾氏と源義光の間に生まれた子の子孫。
顔をあわせるのは宮仕している父の義光の元に上京し
たときぐらいでは無いでしょうか?
そんなこといったら、清和源氏の嫡流は源義光の先祖
の頼信が、多田満仲の壮年以降の子供で嫡流は先妻の
子供の源 頼光の系統になってしまいますので…。
176 :
日本@名無史さん:03/02/21 22:21
建武元年(1334年)四月晦日
多田貞綱書状 (南部家文書)
糠部郡闕所事
一戸 工藤四郎左衛門入道跡
同子息左衛門次郎跡 八戸上尻内
八戸 工藤三郎兵衛尉跡
三戸 横溝新五郎入道跡
南部又二郎殿 戸貫出羽前司殿 河村又二郎入道殿
両三人預由候 能々郡内可有御警固候 諸事御談合
候者可宣候 恐々謹言
建武元年四月晦日 源貞綱(花押)
南部又次郎殿
前にも紹介さしていただいた文書ですが、この文書のなかに、二人の南部氏がいるのに
気づかれたでしょうか?「南部又二郎」、と「南部又次郎」です。学者の間でも長い間論争
されてきたらしいのですが、これが微妙な問題を孕むむのはなぜかと云えば、このあと
登場してくる三戸南部氏がこの時期何をしていたかがさっぱり分からないからです。
でここにある南部又二郎が三戸南部氏のだれかではないか?という方もおられるわけです。
さてこの二人は別人でしょうか?(又次郎は師行です。)
最近、信長は通称又二郎とよばれていたらしいとのことですので、(出典がメモ取ってないので
分かりませんが)そうならば、にわかにこの二人の「またじろう」がおや?と思うようになりました。
「信長」については>146の系図を参照してください。
177 :
しったかぶり:03/02/21 23:21
>176
は私です。うちわすれました。
>>175 君、理屈つけてるけど、親が認知すれば子供だって事は大昔から現在になるまで変わらんよ。
逆に認知しなけりゃ息子じゃない。血がつながっててもね。
和賀忠親キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!
180 :
しったかぶり:03/02/26 21:05
『陸奥 南部一族』 七宮A三 によれば
三戸南部氏らしき人たちが次に出てくるのは以下の文書です。
1340年北畠顕信が顕家に代わり陸奥に来たので、政長が
陸奥の状況を報告し、それへの顕信からの返書です。当時の糠部の状況が
書かれていて興味深いのですが、政長の報告書の中に官途をあげて欲しいという
二人の人物がいたらしく、それについても触れています。
十二月廿日北畠顕信御教書 興国元年 (1340年)
略
一、官途所望輩、無子細候、定成其
勇候歟、長貞 長継官途事、
助ハ是にて無沙汰候、
略
長貞、長継という、親子とも兄弟とも思われるこの二人も謎の人物です。
官途は多分もらったらしい?のですがそれもよく分かりません。
「八戸根城・南部家文書」小井田幸哉
【新南部町あす誕生】2町合併 48年の歴史に幕
南巨摩郡南部町と同郡富沢町が合併して来月1日、新南部町が誕生する。
1965年に施行された合併特例法を適用して山梨県内で実施される初の市町村合併で、
合併方式は28日をもって両町を廃止して新町を設置する新設合併(対等合併)のため、
両町は48年の歴史に幕を閉じる。
県市町村課などによると、新南部町の人口は1月31日現在で10,677人(南部6,487、富沢4,210)で、
県内の市町村では西八代郡市川大門町に次いで24番目、
面積は200.63平方`bで、南巨摩郡早川町、大月市に次ぐ3番目の広さを有する。
182 :
こんにちは南部氏の郷:03/03/01 00:00
かんぱーい
183 :
しったかぶり:03/03/06 21:41
1350年(正平五年、観応元年)政長が亡くなります。その翌年1351年
顕信が多賀城を攻め十数年ぶりに奪還します。(観応の擾乱のため足利方が弱体化)
その主力が南部軍らしいのですが、
着到
和賀彦次郎義勝代野田兵衛三郎盛重申
右、今年壬二月十日,為米倉城後迫罷向之処、御敵等引退之間、同廿五日、
於持渡津馳属于御手、押寄符中南部城、同自三月十日至于同十三日、後迫合戦
抽忠節畢、仍着到如件、
正平七年三月廿五日
承了(花押))
『鬼柳文書』
和賀郡の国人、和賀義勝の従者野田盛重が参加した軍忠状。
(府中南部城に注目)
さらに、和賀義勝にあてた吉良貞家感状に
「顕信卿并南部信濃守已下凶徒等蜂起之間,云奥方、云府中、致軍忠状 ... 」とあります。
この「南部信濃守」が三戸南部氏のどなたからしい。(根城南部氏の信光、政光はまだ幼児)
さてこの信濃守が系図ではどなたに当たるかは不明らしいのですが、三戸南部氏であるのは
研究者のみなさん方の一致するところらしいです。
185 :
しったかぶり:03/03/08 21:16
1351年の多賀城をめぐる顕信と足利方の合戦は1353年足利方の勝利となり
顕信は出羽方面へ落ちてゆきます。
この時、もう一人の南部氏が出てきます。「山村城」を護ってた「南部伊予守」です。
この「伊予守」は降伏して、足利方になります。ここに南部氏は北朝方、南朝方二つにわかれます。
さてこの二人の、「薩摩守」と「伊予守」は誰でしょう?(三戸南部氏には間違いないと
思われますが、)通常伊予の守は「又二郎信長」ではないかといわれています。
(「八戸根城・南部家文書」小井田幸哉氏)
この辺から根城と三戸の南部氏が、糠部、八戸、三戸、甲斐と場所もごっちゃになりながら
錯綜してきます。三戸南部氏のこの時期の資料がないのでよく分かりませんが足利からの
文書でもないものでしょうか?なんかあると面白いんですが。
186 :
日本@名無史さん:03/03/10 02:37
南部氏の歴史をめちゃくちゃにしたのは晴政の女癖
187 :
日本@名無史さん:03/03/10 21:40
188 :
日本@名無史さん:03/03/11 20:50
壬生義士伝読んだけどあれはどこまで本当なの?
大野次郎右衛門って実在?
189 :
しったかぶり:03/03/11 21:06
186>
かえすがえすも、三戸城が燃えたのが惜しい。
赤松備中守の放火には異説もあって、晴政と反晴政の争いが
もうはじまっていたのではないか?とみるひともいます。
きょうの、夕刊に青森県の名字ランキングがのってました。
1,工藤 12283
2,佐藤 10178
3,佐々木 8037
4,木村 7020
5,成田 5799
6,斎藤 5045
7,中村 5023
8,田中 4722
9,三上 4181
10,高橋 4101
三浦、11 小笠原、13 今、24 福士、30 神、33
190 :
日本@名無史さん:03/03/11 22:17
>>188 「壬生義士伝」は全て浅田次郎の創作です。
191 :
日本@名無史さん:03/03/11 23:33
>>190 チョッと感動して泣いちゃったオレは厨房ですか?
>>191 俺はチョッとどころじゃなかったですが。滂沱しますた
自分なりに検索して調べてみた結果、大野次郎右衛門の実在は確かめられなかった。
抗戦を主張したのは楢山佐渡ということでした。
193 :
日本@名無史さん:03/03/13 01:15
>>191 いいんだよ泣け!涙がつきるまで泣いたら、
盛岡という街に行きたくなるはず。
浅田次郎氏が盛岡という街に惚れて書いた小説なんです。
195 :
日本@名無史さん:03/03/13 01:28
>>193 >>南部鉄にも甲州人が関与している。これは偶然?
偶然ではないし、鈴木さんちは盛岡では盛九さんだな。
196 :
日本@名無史さん:03/03/15 01:19
九戸政実の乱あげ
197 :
日本@名無史さん:03/03/15 01:33
>>196 九戸政実には大局が見えていなかったのだ。
198 :
日本@名無史さん:03/03/15 08:14
>>152,153
信順公、八戸南部家ですね。
家督は嫡子栄信公が継ぎましたが早世し、栄信公室(南部宗家より)が女性ながら家督相続。
その後、南部宗家より栄信公室の弟君利克公(父:南部利剛、母:水戸徳川斉昭公姫)が養子として家督相続。
現状の八戸南部家は宗家の血筋です。
よって信順公の血脈は途絶えました。
199 :
日本@名無史さん:03/03/15 11:05
南部宗家は女系でこそ血脈を守っているが、男系では一条家。
八戸南部家は男系で盛岡南部家(宗家)の血脈。
因みに、後に男爵となった遠野(根城)南部家も盛岡南部家の血脈。
分家が宗家の流れを汲んで、宗家が他家の血脈、おもしろい...
200 :
日本@名無史さん:03/03/15 12:24
24代晴政に男子が無かった為、田子信直が嗣子(晴政の娘婿)として迎え入れられた。
その後、晴政に晴継が生まれた為、家督相続が出来なくなった。
単純に考えて晴継が亡くなれば信直に家督相続の権利が出てくるよね。
その時、九戸は...
政実の弟実親も晴政の娘婿だけど、政実には宗家の家督相続する権利が無い。
実権を握る事は出来るだろうけど...
201 :
日本@名無史さん:03/03/15 13:34
仙台>>>>>>>会津若松>弘前>>秋田>盛岡
202 :
日本@名無史さん:03/03/15 14:42
投稿者 南部藩家老・楢山佐渡の末裔 日時 2002 年 4 月 12 日 21:53:42:
回答先: Re: 失礼申し上げました。・・こちらこそ 投稿者 雲の絶間 日時 2001 年 12 月 19 日 19:05:30:
初めまして皆さん。
「壬生義士伝」では吉村寛一郎は鳥羽伏見の戦いで重傷を負いますが大阪の南部藩仮屋敷にて切腹しております。
この元ネタとなった子母澤寛「隊士絶命記」、さらに「壬生浪士始末記」ようですが、新撰組・隊士だった横倉甚五郎の隊士名簿にもやはり「大阪ニテ脱走」とあります。
また名前が変わった?というお話ですが、そうではなく盛岡藩士・嘉村権太郎(かむらごんたろう)と同一人物説「最新研究・新撰組隊士総覧/歴史と旅」があるようで、それは、南部藩「覚書」に嘉村が伏見(一説に淀)で戦死したと伝えれられているところからの説ようです。
しかし、さらに調べてみると嘉村家の過去帳には「明治三年正月十五日」没とあり、こうなると、やはり南部藩仮屋敷での自刃説が俄然有力となってくるのです。
203 :
日本@名無史さん:03/03/15 21:00
仙台>>>>>>>会津若松>弘前>盛岡>>秋田
205 :
日本@名無史さん:03/03/20 00:53
仙台の人は東北の各県出身者を田舎者扱いするところがあるようだが仙台も十分田舎なので凶付けましょう
>>203w
207 :
しったかぶり:03/03/23 18:27
正平八年頃(1352年)「南部伊予守」が足利方に降伏して
南部氏が南朝、北朝に分かれたとすると、その後の「糠部」の状況は
どうなっていたのでしょう?
信光は正平10年、「大炊介」に、翌年「薩摩守」に任ぜられています。(1356年)
所被挙申也
顕信(花押)
申 薩摩守
大炊助源信光
正平十一年十一月十九日
根城南部氏は信光を中心に健在だったのは間違いないようですが
この時期、三戸南部氏(「伊予守」)との 関係はどうなっていたのでしょうか?
根城と三戸に居住して睨み合っていたのでしょうか? もう一つの疑問はこの時
「国人」層はどちらについてたのでしょう?伊予守が南部軍を率いて國府に往った
時は伊予守についていったと思われますが。
さてこの時期の南部氏関係の文書は先に出てきました「近世こもんじょ館」に
ある、
http://4d.hops.co.jp/komon/index.html 「こもんじょ館 」
「南部を名乗る諸家 8 家臣諸家 1 八戸南部家 1 南北朝期 南朝の忠臣の系譜」
の「政長」編をお読みになって下さい。面白いですよ。
208 :
しったかぶり:03/03/29 21:17
信光が薩摩守に任ぜられてから4年後ですが、二つの資料があります。
正平15年6月5日北畠顕信御教書 (1360年)
(顕信花押 )
陸奥国津軽田舎郡黒石 (黒石郷)
郷并鼻和郡目谷郷等事、 (目屋郷)
任相傳、領掌不可有相違者、
依仰執達如件、
正平十五年六月五日 前右馬権頭清顕奉
南部薩摩守殿
(顕信花押 )
陸奥国津軽田舎郡冬井、 (冬井郷、日野間郷)
日野間両郷、并外濱野尻郷 (野尻郷、)
事、任相傳、領掌不可有
相違者、依仰執達如件、
正平十五年六月五日 前右馬権頭清顕奉
南部雅楽助殿
顕信が本領安堵している文書です。同じ日に「南部薩摩守」と「南部雅楽助」に
出しています。不思議なことに前者は根城南部家に、後者は盛岡南部家
に昔から保存されていて、盛岡南部家はこの南部雅楽助は信長の弟の「茂行」としている
そうです。これは明らかにおかしいと思います。場所、時期とも根城南部氏に出された
ものと思われます。
この時期三戸南部は、北朝方ですから顕信から御教書がくるわけがありません。さらに黒石
、外ヶ濱といいすべて根城南部氏が、工藤貞行、顕家から譲られた物です。
なぜ、後者の文書が盛岡南部家にあったのか不思議です。
で、雅楽助は、「政光」だと思う方が自然だと思います。信光、政光兄弟に顕信がこの時期
安堵状を出した物と思われます。
209 :
日本@名無史さん:03/03/29 22:49
>200
晴継死去のとき、既に信直室(晴政女)が死去していたので家督相続権の優位性が無かったと記憶しているが。
血筋の近い信直、実力のある九戸家をバックとする実親。
210 :
日本@名無史さん:03/03/30 01:48
実親はこの騒動で狙撃された説があるみたいで
九戸の乱で抗戦を主張したのは実親でなく隼人正とか
保全
212 :
日本@名無史さん:03/04/03 11:03
ではそろそろ召喚します
213 :
切り捨てごめん:03/04/03 21:25
正平15年(1360年)の安堵状から正平21年(1366年)の
「四戸八幡宮毎年御放生会役支配注文案」がでるまでの6年の間のいつか、信光は
甲斐の国へ帰ったことになっています。
実はこれが疑問なんです。帰る理由が分かりません。南朝が衰退したので
本領へとリあえず帰国した??
甲斐の国に帰国というのは多分次の文書があるからだと思います。
正平二十二年六月二十五日 (1367年)
後村上天皇倫旨
甲斐國神郷半分
大和守跡可令知行者、
天気如批、悉之以状、
正平廿二年六月廿五日 右大弁(花押)
南部薩摩守館
甲斐國倉見山三分壹中野入道跡 可令知行者、
天気如此、悉之以状、
正平廿二年六月廿五日 右大弁(花押)
南部左馬助館
(刊本「南部家文書」所収新田家文書)
この二つの文書のために、学者さんたちは断じておりますが、如何なものでしょうか?
甲斐のほうにはその痕跡があるのでしょうか?
さらに後に、政光も甲斐に帰ることになります。
(疑問はあるけど「甲斐國」と書かれているから、しびれてしまうんだなよー。)
214 :
しったかぶり:03/04/04 06:43
>213はわたしです。
(お恥ずかしい。)
>>214 文責を見れば誰がお書きになったのかはわかります。
恥かしい事でもないし。
216 :
しったかぶり:03/04/05 22:36
>213の追加です。信光、政光が糠部と甲斐を行き来するのはどう考えても
不可解です。それを否定したいんですけど、上記の「後村上天皇綸旨」と、
「白糸嚇褄取鎧」もこの時期拝領されたことになっているので無理?
さて、先の綸旨の九年後信光が若くして死にます。(天授二年、1376年)
天授二年正月廿二日南部信光譲状
譲渡
陸奥国糠部郡内
八戸
右彼ところハ、くんこうのしやうたる 勲功の賞
あいた、信光ちきょうせしむるお、 知行
政光譲あたふる物なり、此うち二日 二日市、
いち、さかいたおハ、しやうせう殿、しやう 境田おば、少将殿、
さく殿、しやうけん殿三人譲なり、 匠作殿(修理太夫)、将監殿
せんさい、たけまつ二人にわ、女子三人 千歳(長経)竹松(光経)
のことくに、はいふんすへし、もし
さいけにならん時ハ、はいふんにあつ 在家=農家
へからす、彼の譲状おまほりて、は 護り手
いりやうすへし、
天寿二年辰丙正月廿二日
前薩摩守源信光 (花押)
「二日市」、「境田」の地は現在も根城の近くにあります。
八戸だけ、ゆずってます。甲斐で死んだことになってますので
甲斐も何か一言あってしかるべきかと思いますが、触れてません。
別に譲り状でもあったのでしょうか?
217 :
日本@名無史さん:03/04/16 17:24
八戸南部家二代直政公(?)は、柳沢吉保公と共に徳川家五代将軍綱吉公の側用人になりました。
が、生来病弱の為か、短期間で辞職しました。
身体が丈夫なら外様小大名から異例の出世をしたかも...
でも、柳沢吉保公同様に六代家宣公によって罷免されてたかなぁ〜?
218 :
日本@名無史さん:03/04/17 04:03
>>217 ちなみに将軍家宣は甲府中納言徳川綱豊。
甲府藩主が前藩主に罷免されるのだから皮肉な話だ
(^^)
220 :
日本@名無史さん:03/04/18 00:33
あの上のれす削除できないでしょうか。
お願いします、教えて下さい。すごいあせっています。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
222 :
しったかぶり:03/04/27 21:58
この時期、三戸南部氏の「巨人」が姿を表しつつあります。
何度も出させて戴きましたが
定 四戸八幡宮毎年御法生会流鏑馬支配事付
相撲並二十烈子
番列
四戸 八戸 一戸 二戸 三戸 五戸 六戸 七戸 九戸 東門
西門 北門 四戸 八戸
正平廿一年八月十八日 大膳権太夫 在判 (1366年)
この「大膳権太夫」と云われている、「南部守行」です。
この時期南部信光は甲斐にあり、八戸、七戸は弟の政光がみていたらしいと
云われています。で疑問な点が二つ三つ、
守行は1437年、「大槌城攻め」の時流れ矢にあたって死亡したことになって
います。単純に考えても70歳以上もしくは80歳に近いかと思いますがこの時期
この年で野戦にでるものでしょうか?
もう一つは、北朝の年号でなく南朝の年号を使っていることです。
三戸南部氏は北朝方に下っていなかったのでしょうか?
そして「大膳権太夫 」は守行でないとしたらだれでしょう?
なんにしても南部氏が糠部を支配しているのは事実ですが。
223 :
日本@名無史さん:03/05/03 18:18
多民族国家アメリカは、大味が好み。ジョークが基本。
イギリスでもジョークが基本。
確かに質は違うな。
ちなみに、世界で唯一ジョークが存在しない国が日本。
そのため日本人には香具師らの壷が理解しづらい。
224 :
日本@名無史さん:03/05/03 20:59
甲州に残留した南部家は居ないのですか?
226 :
日本@名無史さん:03/05/04 11:40
和賀家(南部家に領地とられた)の子孫は居ないの?
227 :
しったかぶり:03/05/04 12:59
228 :
しったかぶり:03/05/11 22:09
いつも同じ話題ですみません。
この頃の動きを箇条書きします。
1360年(正平15年) 「 顕信御教書」 南部薩摩守、南部雅楽助あて
1361年(正平16年) 「曽我氏文書の最後」これ以後曽我氏は北奥の歴史に出てきません。このころ滅んだと思われます
「 後村上倫旨」信光あて
1362年(正平17年) 「顕信、最後の文書」信光あて
これ以後顕信は姿を消します。実質「奥州南朝」が消滅と言っていいかと思います。
1366年 (正平21年)「大膳権太夫」の放生会
1367年 (正平21年) 信光「神郷拝領」 (甲斐の国在住?)
1361年から1362年の間に、曽我氏の滅亡、顕信の行方不明=奥州南朝の崩壊と大きいできごとがあったと推測されます。
で、曽我氏文書が根城南部家にあるのは根城南部が曽我氏(御存じの通り古くから北朝方で南部氏と争って来た)を滅ぼしたから
だといわれてます。しかし 南朝衰退期のこの時期に何故根城南部氏が曽我氏を滅ぼし得たか?またこの時期北朝方になっていたと
いわれている三戸南部氏はどう動いたか今ある資料だけではさっぱり分かりません。このあたりからも三戸南部氏は北朝方になっ
ていなかったという説も生まれてきます。もしそうなら、守行と政光の話し合いもおかしな具合になってきます。(1392年頃の)
簡単に言いますと、津軽の曽我氏を根城南部氏が滅ぼした。そのくらい勢力のある根城南部氏(信光、政光)がなぜ甲斐の国へ戻
らなければならないのか疑問な訳です。
また、大膳権太夫が守行でなかったとしたら誰だろう?といろいろ考える今日この頃。です。
230 :
日本@名無史さん:03/05/12 20:03
南につくか北につくかなどは名目だけなんじゃない?といってみるテスト
だって日本の果てだから。細かいことは中央からはなかなか把握できないと思う
野合があってもおかしくない
231 :
しったかぶり:03/05/13 20:59
この時期から、ほぼ200年間、三戸と八戸は表だって
干矛を交えた事はありません(と思いますが。)まあ、長い間だから全く
何もなかったとは言えませんが室町、戦国時代には珍しいと思いますよ。
確かに京都、鎌倉から見れば曽我氏が滅ぼうが、南部氏が滅ぼうがたいした
事はなかったでしょうね。
うーん、野合して曽我氏を攻めたかな?
一寸話は飛びますが、この時期、安藤氏の名があんまり登場しません。
津軽で合戦しているのにお前等何してたの?という感じがします。
>>231 大陸と貿易していた。
大陸にも拠点持っていたりして安藤氏。
233 :
しったかぶり:03/05/14 23:24
安藤氏は、秋田実季の系図作成以来、「外三郡誌」問題まで根本資料が
乏しいので過大評価は危険です。「伝聞」、「言い伝え」が史実になりすぎて
います。
234 :
日本@名無史さん:03/05/15 22:22
実は安藤氏、日本にいなかったとか。
安藤氏シベリアン説
秋田美人の色白はコーカソイド遺伝子説と繋がるか、
って歴史の話ではないな。
236 :
日本@名無史さん:03/05/17 23:23
昨日の「日蓮伝説殺人事件」は大したことなし
237 :
しったかぶり:03/05/18 23:19
1360年代の微妙な時期(そう思っておりますが)にもう一つ
大事な資料がありました。
浄法寺町の「天台寺」にある銅鰐口に刻んである銘文です。
奉 大旦那源信行聖頼尊
正平十八年大才癸卯 五月四日
行定 大工威重
(1363年)
この源信行が誰であるかは定説がありません。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
239 :
日本@名無史さん:03/05/27 23:09
ほすあげ
240 :
しったかぶり:03/05/27 23:14
南部衆の皆様地震お見舞い。
パソコンはひっくり返りませんでしたでしょうか?
241 :
日本@名無史さん:03/05/28 00:20
南部さんの八戸藩の最後の藩主は、薩州島津家から養子が入り、
そこに、ある内親王が嫁いだと聞いたが、
ほんと?
>>241 青森県つながりで津軽華子さんとゴッチャになてると思われ。
243 :
日本@名無史さん:03/05/28 09:21
>>241 いいえ、嘘です。
八戸南部家の幕末時当主は薩摩島津家からの養子入りされた信順公ですが、妻は前当主の御息女です。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
245 :
日本@名無史さん:03/05/28 15:50
盛岡城の石垣は無事か?
ガクガクブルブル…
246 :
日本@名無史さん:03/05/28 15:59
石垣は蕪辞です。
247 :
日本@名無史さん:03/05/29 22:02
石垣が壊れたとニュースで聞いたんですけど、大丈夫なの?
あれ??
それとも仙台だか秋田だったかな。。。
( ゚Д゚)<大変だ!本丸の銅像がぶっ取れてるぞ!
249 :
日本@名無史さん:03/06/01 11:21
秋田>>>>盛岡>>>弘前>>>>秋田>>>>>>>福島>>>>会津若松>>>>>越えられない壁>>>>>>>仙台
250 :
日本@名無史さん:03/06/02 03:55
251 :
日本@名無史さん:03/06/03 21:27
お暇でしたらおつきあい下さい。
天寿2年(1376年 )信光が政光に譲状を残して死にます。(
>>216)
1366年「毎年放生会」から10年後です。(
>>222)以後長く政光が
根城にあって根城南部家を支えます。
それから6年後
弘和二年卯月三日沙弥道重契約状 (1382年)
一揆契約之状事
右意趣者、南部薩摩 右意趣は南部薩摩
入道殿与、道重契約申 入道殿と 道重契約申し
候上者、就大小事、相互披見 候うえは大小の事につき相互に
継申、見継可申候、若此條偽候者、 みつがれ申し、みつぎ申すべく候
八幡大菩薩、諏訪上下大明神、御 もしこの條に偽り候はば 云々
罰可罷蒙候、仍契状如件、
沙弥道重(花押)
弘和二年卯月三日
「一揆状」と呼ばれる物です。お互いに助け合おうと言ってるわけですが
相互不可侵条約とでも言うものでしょうか?
根城南部家に4通残っている内の一番古い物です。
「薩摩入道」は、政光といわれています。「沙弥道重」は何者か不明です。元号は
南朝です。
252 :
しったkぶり:03/06/03 23:17
再ロード
弘和二年卯月三日沙弥道重契約状 (1382年)
一揆契約之状事
右意趣者、南部薩摩
入道殿与、道重契約申
候上者、就大小事、相互披見
継申、見継可申候、若此條偽候者
八幡大菩薩、諏訪上下大明神、御
罰可罷蒙候、仍契状如件、
沙弥道重(花押)
弘和二年卯月三日
右意趣は南部薩摩
入道殿と 道重契約申し
候うえは大小の事につき相互に
みつがれ申し、みつぎ申すべく候
もしこの條に偽り候はば
八幡大菩薩 諏訪上下大明神
御罰を蒙るべく候 仍って契り状くだんの如し
です。
253 :
しったかぶり:03/06/04 19:57
お暇なら、おつきあいを。
永徳4年八月十五日藤原守綱契約状 (1384年)
一揆契状事
右於向後者、就大小事、見継、被
見継可申候、不思儀凶害出来候
者、相互可申披候、就其此中於
沙汰者、依理非申談可相計候、若
此条偽申候者、
日本國中、大小神紙、殊八幡大菩薩、
天満大自在天神、御罰於御罰於可罷蒙候、
仍って契約起請文之状如件、
永徳四年八月十五日 藤原守綱(花押)
七戸殿
読みくだしは皆様で御願いします。先の一揆状から2年後です。
「藤原守綱」、は不明ですが、小井田幸哉氏に依れば、鹿角郡の「成田」氏
の可能性もあるとのことです。(工藤氏の可能性もあるとは思います。)
さて「七戸殿」ですがこの時期政光の子「政慶」が七戸にいたのではないか
といわれています。
254 :
日本@名無史さん:03/06/05 09:44
255 :
日本@名無史さん:03/06/07 19:48
>>254 日露戦争で戦死した騎兵中尉南部利祥公像。
太平洋戦争の時供出して以来台座のみが盛岡城本丸に残ってます。
波木井坊竜尊氏の話題はここではタブーなのか?
南部人と津軽人は犬猿の仲、と本で読んだ記憶があるけど本当ですか?
>>258 むしろ問題はそれが今も続いているのかどうかだ。
261 :
日本@名無史さん:03/06/08 05:45
野辺地?
262 :
87073:03/06/08 05:46
>>259 続いていません
仲良しです
津軽女は南部人にとって良き風俗嬢、良き公衆便所です
南部城
月の南部城
267 :
日本@名無史さん:03/06/12 04:32
ハキリ坊南部スレにまで!!!?
268 :
日本@名無史さん:03/06/12 18:13
coming soon
南部で天下統一する方法を教えてください
270 :
日本@名無史さん:03/06/13 00:02
南部城って盛岡城の別名?
>>270 盛岡城の別名は不来方城。
南部城は盛岡唯一のソープランド。
272 :
しったかぶり:03/06/14 23:28
一揆状の三通目です。
信濃守清継一揆状 ( 1387年 )
一揆契約申候間事
右之条者、八戸左近将監殿与、清継 右のじょうは八戸左近将監殿と清継
契約申候之上者、大小事見継申、 契約申し候の上は、大小事みつぎ申し
可被見継申候、若此之条、偽 みつがれべく申し候、もしこの条
申候者 いつわり申し候 ば
日本國中大小神祇、殊八幡大 日本国中大小神祇、殊に八幡大菩薩、
菩薩、香取大明神、御罰お可 香取大明神、御罰罷り蒙るべく候
罷蒙候、仍契状如件、 よって契り状くだんのごとし
至徳四年三月廿九日 前信濃守清継(花押)
これがどうも三戸かららしいんですが。前信濃守の官途があり、年号は
北朝です。八戸左近将監は、長経といわれています。
*先の藤原氏の年号も北朝です。
273 :
しったかぶり:03/06/14 23:37
再度です。
読み下し分だけです。
信濃守清継一揆状 ( 1387年 )
右の条は八戸左近将監殿と清継
契約申し候の上は、大小の事みつぎ申し
みつがれべく申し候、もしこの条
いつわり申し候 ば
日本国中大小神祇、殊に八幡大菩薩、
香取大明神、御罰罷り蒙るべく候
よって契り状くだんのごとし
至徳四年三月廿九日 前信濃守清継(花押)
清継、どっかで聞いた事がある様な名ですが....
書状の取り交わしは、鎌倉からなのでしょうか信濃からでしょううか。
陸路からなのかな、海路もあったかな。
275 :
しったかぶり:03/06/15 21:48
4通目の一揆状です。>273の一揆状から2日後の日付です。
近江守清長一揆状 (1387年)
一揆契約状事
右南部左近将監殿与清長一揆契約申候上者、
於向後見継申、被見継可申候、若此條偽申候者、
惣日本國中大小神祇、殊者 八幡大菩薩、
諏方大明神、御罰可罷蒙候、仍起請文如件
近江守清長(花押)
至徳四年三月晦日 (北朝年号)
右南部左近将監殿と清長一揆契約申し候上は
向後においてみつぐ申し、みつがれべく申し候
もし此の条に偽り申し候はば 忽ち日本国中大小神祇、
ことに八幡大菩薩、諏訪大明神、御罰
罷り蒙るべく候、仍って起請文くだんの如し
信濃守は、1351年の多賀城付近の南部城で降伏した「信濃守」
ではないか(小井田氏)と思われますし、「清長」はその息子ではないかと
思われるのですが?信濃守は長経を八戸左近将監とよんでいるのに対し清長
は、きちんと南部左近将監とよんでいるのも気になります。
この時期(1380年代)は南朝方だ、北朝方だ、と争っては
いないみたいですね。
>274さん 信濃守、近江守は官職名ですね。
両者とも糠部地方に在住でしょうね。
276 :
日本@名無史さん:03/06/19 15:26
南部鶴ってカワイイ!!でつね!目がテンで
>>241 禿同
話変わるけど、携帯ゲーム機"プレイステーションポータブル(PSP)
このPSPは、新規格UMD(ユニバーサルメディアディスク)というディスクを利用しており、そのサイズは直径6cmととても小さい(CDの半分程度)。 容量は1.8GBとなっている。
画面は4.5インチのTFT液晶で、480px x 272px(16:9)。MPEG4の再生やポリゴンも表示可能。外部端子として、USB2.0とメモリースティックコネクタが用意されているという。
この際、スク・エニもGBAからPSPに乗り換えたらどうでしょう。スク・エニの場合、PSPの方が実力を出しやすいような気がするんですが。
任天堂が携帯ゲーム機で圧倒的なシェアをもってるなら、スク・エニがそれを崩してみるのもおもしろいですし。かつて、PS人気の引き金となったFF7のように。
いきなり変な事書いてスマソ……
GBAと比較してみてどうなんでしょうか?(シェア以外で)
278 :
日本@名無史さん:03/06/26 21:04
ものすごい誤爆だな・・・
279 :
日本@名無史さん:03/06/27 01:11
>278
277はマルチだよ。いろんなとこで貼られてるんで誤爆じゃない。ランダム選択で貼ってるのかもしれないけどね。
280 :
日本@名無史さん:03/07/04 00:26
しったかぶりさんのレスを期待しているのは私だけではあるまい。
281 :
日本@名無史さん:03/07/05 15:17
282 :
しったかぶり:03/07/05 19:54
>280 281さん ありがとうございます。
1400年代になると、根城も三戸もビックリするくらい拡大して
いきます。相手は安藤氏が主ですが安藤氏側の資料がなくて、ぼつぼつ
と調べております。
さて「清継」「清長」の一揆状から、5年後南北朝の合一で室町幕府の
時代となります。(1391年、南朝ー元中9年、北朝ー明徳三年)
この年「天台寺」銅鐘銘文に「守行」の名がきざまれています。
天台寺 銅鐘銘文
(略)
于時元中九年壬申三月廿六日
幹縁沙門土佐阿闍梨道尊敬誌
長久住持義山叟釈明恩 謹撰
大旦那左馬権頭源朝臣守行
大工七郎沙弥
(略)
鋳造は明暦3年(1657年)南部重直ですが、元中9年南部守行が
施主となって鋳造したが、何故か銘文を刻む事ができなくて、重直が
鋳造し直して刻んだと、「方長老」が撰者となって記しております。
一揆状の、「清継」「清長」が三戸南部だとしたら、さてこの「銘文」
にある「守行」との関係は? と又頭を抱えるわけです。
(「清継」「清長」は三戸南部氏のだれかではないのかなー?)
283 :
一南部町民:03/07/08 03:46
私事で失礼。妹が結婚したのですが
嫁ぎ先が前田氏の城下町・金沢。南部とは親交ある土地だけに縁を感じますね。
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|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
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286 :
しったかぶり:03/07/14 23:15
1392年 南北朝の時代は終わりました。それから二十年近く、両南部家の様子を知る
文書は「八戸根城と南部家文書」にはのっておりません。(ないのでしょうか?)
しかし、
修理亮所望之事 所
挙申也 可被存知
其旨之状如件
應永十四年夘月廿八日
左京大夫(花押)(斯波満持)
南部二郎殿 (光経)
1407年に 光経が修理亮に任ぜられております。
それから4年後1411年に有名な秋田戦争が勃発しております。
「向鶴伝説」の舞台となった、「安藤鹿季」との戦争ですが、客観的な
資料はないようです。が、歴史的事実として間違いないでしょう。
一見、小競り合いのように感じますが、むしろ相当大規模な衝突だったと思われます。
これに勝ったのが後の南部氏と安藤氏の趨勢に決定的な差を与えた、と云っても
いいのではないのでしょうか。(続く)
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
288 :
しったかぶり:03/07/15 22:11
これ以後安藤氏との戦いは主として出羽、津軽方面でおこなわれ、安藤軍が糠部に侵入し
てきたことはありません。(たぶん)
南部軍に反撃できない状況に追い込まれ、この戦いの打撃を回復できないまま、
ジリ貧状態に落ち込んでいったかにみえます。
289 :
しったかぶり:03/07/16 21:44
この戦場が「鹿角」かそれとも横手盆地の「刈和野」付近か2説ありますが
小井田幸哉氏の「刈和野」説を採りたいと思います。
地図が手元にありましたら、是非横手盆地の西側の「かりわの」駅を探してみて下さい。
この付近に横手盆地を横切って秋田平野に注ぎ込む、雄物川が蛇行しております。
其の雄物川に流れ込む「淀川」も見つけておいて下さい。さらに横手盆地の大曲市と角館町
のあいだに「長野」という地名も見つけましたら、以下の文書
政光書下文 応永廿六年八月六日 (1419年)
八戸郷之内、其外岩手之 岩手の平舘
たいらたて、山北之長野、淀河、
へいのいヽおか、このあひたの 閉伊の飯岡
ことく、上をハしゆりのすけのはからい 修理亮の計らい
たるへく候、その内もちもちの所ハいらん
あるましく候、
聖守(花押) 政光
応永廿六年八月六日
政光からの光経への譲り状です。この中の、「山北之長野、淀河」
が秋田戦争の戦場となった地だと思われます。
八戸からはずいぶんと遠いところですねー。少なくとも
横手盆地の北半分は南部氏が占拠していたわけですか。
290 :
日本@名無史さん:03/07/20 03:46
横手盆地まで延びてる訳ねえだろ!
って史家が鹿角説を出したんだろねー
291 :
しったかぶり:03/07/20 23:01
補足します。
岩手のたいらたて は現岩手郡西根町平舘
へいのいいおか は現山田町にある飯岡とのことです。(小井田幸哉氏)
292 :
日本@名無史さん:03/07/21 03:34
南部氏とは直接関係ない話題で恐縮ですが
甲子園へ向けて南部身延の球児が頑張っております。
甲子園の地に身延高等学校が出てくるような場合は
何卒応援よろしくお願いしますm(__)m
294 :
日本@名無史さん:03/08/01 01:36
しったかぶり氏は夏休みかな?
身延の人達は盛岡応援してね。
296 :
日本@名無史さん:03/08/01 21:24
應永十九年壬申歳九月廿一日 1412年
糠部郡八戸松楯
大慈寺鐘勧進奉加帳事
馬一疋 沙弥聖守(花押) (南部政光)
馬一疋 近江守親光(花押) (新田氏)
馬一疋 式部大輔政経(花押) (中館氏)
馬一疋 修理助 光経
馬一疋 左近将監 長経
1411年の翌年です。「松楯」は「松館」とのことです。
根城南部の錚々たる面々ですね。
さてこの時期の守行についてのちょっとした資料があります。
『中野八幡宮覚書』 (1413年)
安東氏滅亡之兆。
応永癸巳年(同二十年)四月、伊達松犬丸陸奥ニ
兵ヲ起ス。時ニ安東氏吹浦湊(深浦?)ヨリ兵馬七百ヲ
伊達氏ニ新手セルモ、伊達氏ハ足利持氏ニ討伐サルヤ、
東日流国守タル南部守行、安東氏ノ左道赦シ難シトシテ
兵ヲ挙シテ藤崎城主安東教季ヲ、同年七月攻メ、ココニ
安東一族応戦シテ一族滅亡ノ兆シヲナセリ
『陸奥南部一族』七宮A三
市浦村近くの中野八幡宮にあった覚書だそうですが
「東日流国守」は使われたことがないと思いまし、全体が新しい
感じがしますので、江戸時代以後のものでないかと思います。
只、伊達松犬丸の乱は実際あったことですし2年前には
秋田戦争がありますから本当らしくにも思われますが。はたして?
297 :
しったかぶり:03/08/01 21:30
>296は私です。
うちわすれました。
今年は夏が来そうもありませんねー。
(^^)
299 :
しったかぶり:03/08/02 21:59
[鎌倉大草紙]
新御堂殿の御内書に禅秀副状に回文をつかはし、京都よりの仰にて持氏公並びに
憲基を追罰せらるべき由仰せられければ、御請申人々には、千葉介兼胤、岩松治
部大輔入道天用両人は、禅秀のむこなれば申すに及ばず。渋河左馬助、舞木太郎、
兒玉党には大類、倉賀野、丹党の者ども、その外荏原、蓮沼、別府、玉井、瀬山、
甕尻、甲州には武田安藝入道信満は禅秀の舅なれば最前に来る。小笠原の一族、
伊豆には狩野介一類、相州には曽我、中村、土肥、土屋、常陸には名越一党、佐
竹上総介、小田太郎治朝、府中、大掾、行方、小栗、下野に那須越後入道資之、
宇都宮左衛門佐。陸奥には篠河殿へ頼申間、芦名盛久、白川、結城、石川、南部、
葛西、海道四郡の者どもみな同心す。鎌倉在国衆には木戸内匠助伯父甥、二階堂、
佐々木一類を初として百余人同心す。かくて、国々の調儀終て、
略
上杉禅秀の乱(1416年)の時の記載です。久しぶりに南部が出て参ります。
陸奥からは芦名、白川、結城、石川、葛西、そして南部ですね。(南部以外は
みんな滅んだでしたか?)
師行以来80年ぶりに南部騎馬軍団が鎌倉に入城します。守行、光経二人が
率いて行ったものでしょうか?
鎌倉を見たときの気持ちをきいてみたいものです。三戸、根城どちらも万感
胸に迫った! かな。
「大草紙」の現代誤訳は、
http://homepage1.nifty.com/sira/oozousi/ 鎌倉大草紙 現代語訳 HP で どうぞ。
300 :
日本@名無史さん:03/08/06 06:12
南部地方の旧家はみな甲州から来たと自称?
302 :
日本@名無史さん:03/08/06 07:47
この300をしったかさんに捧げます
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
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...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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306 :
しったかぶり:03/08/07 21:43
>302さんありがとうございます。
何とかもおだてられりゃ、木に上る、です。
この時期、(1410年代)南部氏は元気がいいです。
上杉禅秀の乱で関東平野を久しぶりに席巻した南部軍はその二年後
京都に現れます。
伏見宮貞成の日記 「看聞御記」
応永25年年8月5日 1418年
「晴。聞ク、関東大名南部上洛、馬百匹、金千両室町殿ヘ之ヲ献ズ...」
関東大名南部!誰だかが知りたい!
この翌年、(1419年)>289の政光譲り状が書かれます。政光もまもなく
亡くなったのでしょうね。
307 :
日本@名無史さん:03/08/07 21:55
関東大名南部
京都人にとっては、箱根の関以東はすべて関東なのかも。
308 :
日本@名無史さん:03/08/09 13:39
>>307 その辺はしったかさんも承知しているのでは?
エエー!?晩年の政光ではないのですか!?誰なんだろう?
309 :
しったかぶり:03/08/09 22:31
政光は兄から家督を譲られて間もなく、若くして出家し
兄の長男、長経を根城南部氏の表に立てているみたいですので
こういう晴れがましい所には出なかったと思います。
誰かは永遠に謎ですが、三戸と根城との関係が微妙
な時期だと思いますし、根城が代表で行ったら、長経か光経
三戸だとしたら、守行というところではないでしょうか。
この一行だけで、いろいろ想像させてくれます、例えば京都迄行った
のですから師行戦死の石津に出向いて花を捧げたとか...。
(まーそういうことはしないでしょうね。)
310 :
日本@名無史さん:03/08/09 22:46
>>306 >>馬百匹、金千両室町殿ヘ之ヲ献ズ...
馬100頭に金1000両ってどの位の価値になるんだ、
フェラーリ100台と数億円とか
戦車1000両に数100億円とか
そんな大量の物資を東北から運ぶのには何人位の
随員が必要になるのか、何日かかって運んだのか
当時は宿場町というものがあったのか。
311 :
日本@名無史さん:03/08/11 09:52
>>311 すんまそんですた。
「両」
中世まで用いられた目方または重さの単位。
律令制では斤(きん)の一六分の一。
41〜42グラム。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
314 :
日本@名無史さん:03/08/16 08:30
遠野保(郡とみなされたこともあったが、阿曾沼氏が滅ぼされたので、閉伊郡に吸収された)
に居たのが阿曾沼氏。
315 :
日本@名無史さん:03/08/16 16:52
南部に併合された領土にいた阿曾沼氏、和賀氏、稗貫氏、斯波氏はどうなったの?
316 :
日本@名無史さん:03/08/16 16:56
和賀、稗貫、斯波は滅んだよね。
317 :
日本@名無史さん:03/08/17 21:08
和賀は伊達に召抱えられた?
吉村かんいつろうは南部武士でござんす
319 :
日本@名無史さん:03/08/18 00:56
阿曾沼は南部の家臣じゃなかったっけ?
阿曾沼氏、和賀氏、稗貫氏、斯波氏
みな南部藩士の御上役でござんす。
321 :
日本@名無史さん:03/08/18 03:21
↑子孫は残ったということ?
葛西、大崎氏は完全に絶滅か?
323 :
日本@名無史さん:03/08/18 03:37
阿曾沼氏で南部に完全あぼーんされたのは、鱒沢家?
324 :
日本@名無史さん:03/08/18 03:39
下北には、江戸時代中期までアイヌ民族が居たらしい
アイヌ族長で南部藩士になった者居ないのだろうか?
325 :
日本@名無史さん:03/08/18 03:43
去年の水戸黄門で
遠野の「阿曾沼衆」(遠野保に地侍か?)が
南部藩から弾圧されていたというふうに描かれていた
遠野は根城系の八戸南部氏(支藩のそれではない?)が
移されてきたのが治めていた?
326 :
日本@名無史さん:03/08/18 03:45
>>324 >>アイヌ族長で南部藩士になった者居ないのだろうか?
いない。
327 :
日本@名無史さん:03/08/18 03:50
金田一とか下斗米とかアイヌ語みたいな響きだけど、
南北朝の頃南部が入部してきた頃の
糠部はアイヌ民族が未だ居たのでは?と思ったりする・・・
328 :
日本@名無史さん:03/08/18 03:54
>>327 それはいたでしょうね、北上山地の奥の方に。
329 :
日本@名無史さん:03/08/18 03:57
アイヌとか先住民のDNAと縄文人のDNAが一緒なんでしょ。
東北(仙台除く)と鹿児島、高知は、
大和民族との混血があまり為されていないように思う。
決してマンセーじゃなくて、事実として。
旅行してみても、地名を見ても、大和民族という感じがしないんだよな。
一応、仙台除くと書いたのは、仙台は他圏からの流入人口が多そうだから。
関東圏の俺でも普通に話せた。
332 :
日本@名無史さん:03/08/18 11:19
東北には久慈、相馬、のように関東から北上した地名が有る
南部藩領には山梨と同じ地名とかはありますか?
334 :
日本@名無史さん:03/08/18 22:54
奥六郡のどっかに甲斐郷があったような・・・?
335 :
日本@名無史さん:03/08/18 23:11
>>325 遠野の八戸南部氏は近世の本家、三戸南部氏と家格では差がないからね。中世はどちらかというと八戸南部氏の方が勢いが良かったよね。
336 :
日本@名無史さん:03/08/18 23:14
>南部藩領には山梨と同じ地名とかはありますか?
岩手、松尾 など
南部スレ初心者の皆様方。
ここは巻之ニスレ故、巻の一からって落ちてるジャン!わははは。
>>336 山梨に岩手があるの〜?
岩手県の鬼の手伝説がーーーー!!
あぁ、勘違いした。スレ汚し、ゴメソ。
検索していたら東山梨郡岩手というのが出てきたけど。
今はない地名なのかな。
岩手氏という人もいたのか?
342 :
日本@名無史さん:03/08/20 01:56
>>341 今もあるよ。確か山梨市。
で、静岡には山梨氏がいる。これは掛川あたりに山梨の地名があったはず。
>>342 その山梨市にある岩手の地名の由来とかはあるのだろうか?
344 :
日本@名無史さん:03/08/20 08:20
>341
岩手縄美。
甲斐守護武田信昌の三男。
次兄の油川信恵と組んで長兄の武田信縄と対抗。
最後は信縄の子・信虎に信恵ともども滅ぼされる。
346 :
日本@名無史さん:03/08/26 19:44
(・> 俺たちって2ちゃん受けしそーだと思わない?
オモワナイ <・)
347 :
日本@名無史さん:03/08/26 19:48
浅田次郎原作の映画「壬生義士伝」で、南部の紋が出て来るね
余談ながら、端役で出ていた大久保利通のキャラには非常に違和感を感じた。
浅田的には大久保のイメージってああいう感じなのか?
>>347 浅田は原作者というだけで、映画のキャスティングや脚本は監督の趣味でしょ。
349 :
日本@名無史さん:03/08/27 06:09
千円札の裏の鶴は南部家の紋を意識してるんじゃないのかと
常々思ってるのですが、確証がとれないので
『トリビアの泉』への投稿を諦めることにしました。
誰か出してみる?
>>349 五千円札の新渡戸稲と千円札の向かい鶴か、あの札を発行した時の
総理大臣の力技だな。
五千円札の湖に写る逆さ富士が、札を逆さにして見ると富士山に見えないのも有名。
351 :
日本@名無史さん:03/08/28 16:43
>>350 一万円の雉と五百円の桐も岩手の産物ではないですか!
この20年で何人が気づいたのかなあ…
353 :
日本@名無史さん:03/09/02 23:36
市長選で当選した人は南部藩関係の人ですか?
近世こもんじょ館で『光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚』が見た
諸大名(国人)の並びを見てると、北条が今川や武田より上にいたり
おもしろいんだけど、これって史料的に信頼はおけるの?
が見た⇒を見た
356 :
日本@名無史さん:03/09/12 11:22
357 :
しったかぶり:03/09/12 21:48
満済准后日記 永享四年十月 1432年
廿一日、(略)、今日於小松谷被仰条々事、
一、奥ノ下国与南部弓矢事ニ付テ、下国弓矢ニ取負、
エソカ島ヘ没落云々。仍和睦事連々申間、先度被仰遺
候処、南部不承引申也。重可被仰遺条可為何様哉。
各意見可申入旨、畠山・山名・赤松ニ可相尋云々。
仍三人ニ相尋処、畠山重可申入云々。山名・赤松ハ
重可被仰遺条尤宣存云々。
さて、これが第一回目の十三湊の陥落の記事です。この後幕府の
斡旋により、安藤氏は十三湊へ戻ってきた模様です。しかし
この十年後再度十三湊は陥落して安藤氏は津軽から追い払われる
ことになります。
>>349 マニアックすぎてへぇといわないだろう
南部藩なんて普通は地元人か、歴史オタ知らないし
「ガチャピンが子供を食べようとした」とか分かり易いネタじゃないと
359 :
日本@名無史さん:03/09/15 02:44
>>358 2ちゃんねるがマニアックであった時代以来の名門、南部氏スレ。
2ちゃん素人が無闇に足を踏み入れるでない。
疑問におもったこと
1.載せられた大名の基準
2.姉小路中納言・同宰相・伊東三位入道
官位が高すぎないか?それとも単に自称なのか?
3.三好義継
三好長慶(1564年没)は隠居していたのか?
4.芦名盛重
芦名盛重は生まれてない(1575年生)、盛滋なら既に没している
北条と長尾は関東衆じゃない?
361 :
浅野ます道 ◆YNb5Lv2Www :03/09/25 02:05
新南部町の町章募集で鶴をモチーフにしたデザインを役場に提出してきた。
とりあえず2万は堅いな
>>361 へぇ〜、
詳細を教えて、応募するから。
>>362 今月19日が締め切りでした。
早めに教えてあげれはよかった。申し訳なかったです。
ちなみに採用20万円佳作5点に2万円です。
364 :
日本@名無史さん:03/09/25 19:35
>>360 2.は合っているよ。別に高すぎるわけではない。
姉小路なんか三木氏じゃん
古河公方ですら持氏以外は四位どまりなのに伊東もそんなに家格高いの?
献金かな?
相良頼房も修理大夫になってるけど・・・
>>33 現代でもうちの町には残ってますが。南部八戸藩です。w
もうウチらと同化されてますが、あそこの家はアイヌだ、
って皆知ってるし普通に暮らしてる。
368 :
南部光行 ◆83ylKDZ5ZE :03/10/07 03:46
保全だ
369 :
日本@名無史さん:03/10/07 09:38
>>365 擦違いだけど
姉小路は姉小路だからね。
伊東の場合は三位入道だけ高い。
しかも三位になったのは、領地を失って京に上ってから。
南部か..
岩手の由来が 岩に手形か..
新渡戸稲造 = 花巻
俺の母方の母=俺のおばあちゃん
南部藩の殿様の側?で
自宅に帰っても高級なものしか食えなくて..
お砂糖のファンだったらしい..
ごめん、その 上のようだ..
母のおばあちゃん=ひいおばあちゃん?
年代的に
奥州郷土研究旅行なるツアーが
噂では今回で最終回らしい
それ行きたかったなぁぁ・・・_| ̄|○
374 :
浅野ます道 ◆YNb5Lv2Www :03/10/08 11:04
>>372 甲州南部を5時出発。
中央道、首都高、東北道を半日かけて繋温泉着が17時。
1日目はこれで終了。
2日目は8時盛岡を出て10時三戸・南部を2時間半視察、
14時久慈。15時北山崎、これは展望台を見に行くんですね。
で、その日は浄土ヶ浜に一泊。
最終日は浄土ヶ浜を1時間遊覧して9:30帰りの準備。
盛岡に戻って昼食。来た道を戻って甲州南部着は22:40。
随分慌ただしいです。
2日目の2時間半のために2泊3日かけるんですよね。
まあ長い道のりを体験すると思えばね。
>>375 強行軍だなは、スン幹線さ乗っておでんせ。
>>369 姉小路中納言・宰相は三木(姉小路)自頼なんかとは別もん?
伊東は天正期の話か。つかホームレスが三位に叙されたのか、凄いな
ま「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚永禄六年五月日・・・右は永禄六年諸役人附、以伊勢貞春本校合了」
が嘘ってのは分かった
378 :
しったかぶり:03/10/15 20:39
>357と同じ年に、天台寺(浄法寺町)に津軽の地が寄進されています。
奉寄進
津軽田舎郡平内郷内
五千刈
渡申候 仍執達如件
永享四年六月廿七日 1432年
前伊勢守親経(花押)
奉寄進
津軽鼻和郡目谷内
目谷川田代二ヶ村
天台寺為造営渡申
候 仍執達如件
永享四年六月廿七日 1432年
源 家行(花押)
同じ日に寄進されています。更に翌年
奥州津軽平賀郡日照田
天台寺奉寄進也
此内薬師堂御立 如本可有造営候
右於彼所者 任先例
可有知行状執達如件
永享五年六月十二日 1433年
修理亮家行(花押)
源家行、前伊勢守親経とは又誰であるかはっきりしませんが、この時期
津軽を、南部氏が制圧したのは間違いないと思われます。
これ以後安藤氏の資料等は、南部氏もそうですが、殆どありません。
以後は、「新羅乃記録」「下国伊駒安陪姓乃系譜」「八戸家系図」等
半分、物語の世界に入るように感じられます。
面白いのは、「下国伊駒安陪姓乃系譜」に記載されている安藤師季
でしょうか。(後程カキコしたいと思います。)
佐々木氏についてまとめた本にここを通じて出会うことができますた。
380 :
しったかぶり:03/10/19 20:13
以下はもう「物語の世界」として楽しむのが良いと思っております。
「下国伊駒安陪姓乃記録 」 (部分)
安東太
政季 潮潟重季之嫡男
十三湊破滅節弱冠而被
生虜於糠部八戸改名
安東太知行田名部其後
下國義季生害惣領家
断絶蛎崎武田若狭守
信廣新羅姓
相原周防守政胤河野
2度目に十三湊が陥落したとき(1442年)に幼かったため
八戸に送られそこで成人して田名部を知行し、更に安藤家の惣領家
が断絶したとあります。その後がとぎれてます。
さて潮潟重季嫡男とありますが、この潮潟氏は
暦応二年十一月一日曽我太郎貞光軍忠次第事(1339年)
目安 曾我太郎貞光軍忠次第事
一、去六月安藤四郎以下御敵等、尻八楯打入、依令
致合戦。(略)
この安藤四郎の孫?に当たると思われます。安藤宗家に反して顕家側について
曽我氏、安藤氏と戦ってます。其の末裔が安藤本家に居たというのも不思議な話
ですし後に、安藤宗家をこの政季が継いで秋田に居住します。
更に、この政季が「夷千島王」ではないかともいわれています。
この人の時に、蛎崎蔵人の乱等いろいろおきています。
「下国伊駒安陪姓・・」という文書は松前家の編纂なんですか?
382 :
しったかぶり:03/10/20 21:27
>>382 書名の間違いとか指摘するつもりもありませんでした。
ごめんなさい、めんどくさいから・・・にしただけだよ。
偽書ではないようですね、何代も写しつがれた物なのか・・。
384 :
しったかぶり:03/10/21 22:26
この「政季」の続きです。
「下國伊駒安陪姓之系譜」部分
後土御門院 庚寅
文明二年正月貳九日政 (1470年)
季打入津軽攻藤崎之
館引退而後長木大
和守起謀叛長戌申
亨二年三月十日河北 (長享二年?)(1482年)
□野城而政季生害
森山飛騨守奉討御
頚也号泰厳宗公大
禅実院
1470年、津軽の藤崎館に攻め込みますが引き退き、
1482年 河北の□(不明)野城で長木大和守が謀叛し森山飛騨守
に頚を打たれたとあります。
385 :
しったかぶり:03/10/23 22:34
「下国伊駒安陪姓乃系譜 」部分
義季 安東太
後花園院
享徳二年楯籠津軽 1453年
鼻輪郡大浦郷狼
倉館之處被攻南部
之軍勢六千餘騎而
生害畢本所侍生殘□
退散築深浦之館而
籠焉
時代は前後しますが、安藤家嫡流、「義季」最後についての記述
です。北海道から津軽へ上陸し大浦の狼倉館に立て籠もったが南部軍
に攻められ、生害しおわんぬとあります。
六千騎は?ですが、ここに安藤家宗家が途絶えたらしい。
でその志をついで、潮潟政季が、安藤家を継いだと、なっております。
其の子孫が秋田実季まで続いていることになっているみたいです。
386 :
日本@名無史さん:03/10/25 00:03
>>372 そのツアー去年問題あったみたい。
南部家の墓所から記念にとかで石を持ち出して祟られたらしい。
後で役場に郵送で返したらしいが。もうねアホかと
387 :
日本@名無史さん:03/10/25 04:52
誰か相馬大作について教えて
388 :
日本@名無史さん:03/10/25 15:07
389 :
日本@名無史さん:03/10/25 15:27
↑すごい!ありがとうございました。実は下斗米の縁者なんですけど、家の人は誰も詳しく知らなくて。本家様を訪ねて聞く勇気もなかったものですから(大作はあまり評判が良くない) どうもです。
390 :
日本@名無史さん:03/10/26 02:21
391 :
日本@名無史さん:03/10/26 02:25
東京某所に田中館医院なる所をハケーン子孫かな。
393 :
日本@名無史さん:03/10/27 00:02
家系が古いというだけで近世に名君といはれる人が出ないのは何故なんんだろう。
395 :
日本@名無史さん:03/10/27 20:52
昔、田中館くんって同級生居たな。
396 :
いつぞやの大作:03/10/29 01:05
北信愛を不忠の臣と捉える見方があるみたい。晴政の子供の晴継が死んだ後の後継者争いで無理矢理石川信直を擁立した為に九戸政実の乱を招いたんだって。
397 :
日本@名無史さん:03/10/29 01:12
>>394 伊達藩の様に「俵物」などの名産の育成に力を入れなかったからだろうな。
経済の建て直しに力量を示そうとしない(出来ない)小泉見たいなもんだ
ろうな。
いまでも盛岡の奴は、律儀で優しいが、視野が狭い人が多い。
でもいい奴がめっちゃ多いけどね。
398 :
いつぞやの大作:03/10/29 01:15
なんでも政実の弟の親実を三戸南部家の跡取りにする話が晴政との間にあったらしい。そしてそれを主張して信愛と争っているうちに先に小田原の秀吉に使者を出した信直側が
●●●マスコミの「盗聴、盗撮」は許されるのか?その2●●●
http://natto.2ch.net/mass/kako/988/988402795.html 848 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 2001/05/24(木) 22:24
そういえば、トイレネタがあった人いたけど、私も盗聴(盗撮?)されていました。
マスコミ以外のある事情で、トイレで泣いていて、出る時には泣きやんでいたのですが、
それをそのまま、インターネットでお話に使った方がいました。
マスコミの人かどうかは、わかりません。
「泣いた後、何事もなかったように、トイレから出て・・・」という感じで書かれていました。
でも、証拠としては弱いですね・・・
799 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 2001/05/24(木) 02:10
>798
「すべて盗聴被害者」とは一言も言ってないけど。
逆に「本人に問題があるから引きこもる」のがすべてではないだろう?ちがうか?
中には職場や学校などでの嫌がらせや脅迫、ストーカー、痴漢、
子供を使った嫌がらせなどが含まれるのではないか?理由もなくひきこもるか、ボケ。
803 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 2001/05/24(木) 02:17
このスレッドにある盗聴による嫌がらせを否定する(ためにされた)発言と。
マスコミが報道する「ひこもり」に対するものの見方が酷似している。
400 :
いつぞやの大作:03/10/29 01:24
正当な後継者として認められたんだって。そして政実は反乱軍。 そんで晴政の意思は親実に後を継がせるということだったからそれにそむいた信愛は不忠なんだって。地元福岡(二戸)で聞いた九戸びいきの話だとは思うけど、どぉ?
401 :
いつぞやの大作:03/10/29 01:35
おばあちゃんに聞いたんだけど、南部藩と伊達藩の領地の境は不来方と仙台を同時にスタートして出会った地点にしたって本当? それで南部藩士は徒歩でいったのに伊達藩士は馬で急いだから一ノ関は伊達領なんだって。本当なら両藩の性格の違いがよく出ていて笑える。
402 :
日本@名無史さん:03/10/29 01:43
一ノ関ということは、二の関もあるの?
403 :
いつぞやの大作:03/10/29 02:03
僕の知る限りではないなぁ。
404 :
日本@名無史さん:03/10/29 11:32
『奥羽津軽一族』では津軽為信の反乱は晴政が黒幕説を唱えてます。
父安信が早くに亡くした晴政にとって後見人だった叔父高信は目障りだったようです。
つまり九戸・大浦は南部宗家にとって厄介な存在どころか、こちらが与党だったわけですね。
それが
>>396→
>>398→
>>400を経て官軍が賊軍になったと。
かろうじて為信は津軽氏を興し、叔父VS甥の争いは南部VS津軽にすり替わった。
まあ晴政側から見れば宗家を牛耳る叔父とその取り巻きは不忠の臣だったろうし
高信側から見れば家臣の妻を寝取って館に放火されるような甥には任せられない、家を守り抜く忠義もあったでしょう。
405 :
いつぞやの大作:03/10/29 14:35
↑そんな説まで有るんですか!南部氏意外とドラマがありますね。地元の作家だけでなく全国区で売れている作家が小説にしたら一気にメジャーになるかもしれませんね、南部氏。それで大河ドラマになったりして。タイトルは《三日月が丸くなるまで》とか。長いか
高橋克彦は全国区なんだけど・・・・。
そうなんですか?知らなかったです。東京の知り合いに知っているか聞いてみます。
>>407 一応大河ドラマの原作者(「炎立つ」)。
10年近く前だから若い人はもう知らないかも。
南部氏関連の作品では高橋氏の「天を衝く」(九戸政実)が有名。
長部日出雄氏の「津軽風雲録」(津軽為信)などがあります。
信直側を描いた作品はまだ発表されていないはず。
茫洋として人物像が定まらないからかな。
>>405 こんな配役を立ててみました。
田子信直=上川隆也
九戸政実=榎木孝明
大浦為信=嶋田久作
北信愛=里見浩太朗
個人的には大河より日テレ年末時代劇が好み。
↑その配役は熱いですよ。
410 :
日本@名無史さん:03/10/30 11:38
高橋克彦原作の大河ドラマなら「北条時宗」もだよ。
411 :
日本@名無史さん:03/11/01 10:20
>>406 ただ、人を信じ易く、「ノストラダムス」の予言では片っ端に自称研究家の説を矛盾構わず信じた言動をしてと学会あたりからは相当批判された。
歴史小説はいいんだけどね。そっち関係の著書は注意したほうがいいかも。
>>411 おいおい、ノストラ予言が矛盾してるといってたやつは
歴史の勉強を最初からやり直しです。
自称研究家が正しかったということばれちゃったんだしね
411タイプを放置しとくと また世界に日本人の恥をさらされそうなので
注意しとくよ..
世界を旅行する時の心得を教える本の側面があったんだし..
あの系の本は..
皆なんやかんや言ってお世話になってきてんだから。
ああいうのがあるから、聖書の勉強やイスラム教の勉強した
やつも多いんだぞ。
414 :
日本@名無史さん:03/11/02 21:08
415 :
日本@名無史さん:03/11/03 09:25
三戦板の方で振った方がいいのかも知れないが「信長の野望・蒼天録」で南部安信が死んで晴政が相続したら、三戸城がいきなり火事になるというイベントが起こった。
あれって、盛岡藩の御用史家の脳内妄想じゃないの?
保全
417 :
日本@名無史さん:03/11/09 22:19
南部といえば パソナの南部靖之代表が思い浮かぶ
「斬」のプロデューサーがあげた好きな戦国武将:南部信直
いいゲームだと思った
420 :
日本@名無史さん:03/11/13 08:31
南部の系統は少ないので
ガッチャマソの南部博士や
両津勘吉の先輩・南部刑事なども
きっと末裔なのだろう。
421 :
日本@名無史さん:03/11/13 10:43
俺の近所に岡山藩士末裔と称する福士さんというヒトが居るけど
福士一族も南部氏支族ですか?
福士一族は滅亡ですか?
423 :
日本@名無史さん:03/11/13 12:46
ありがとうございます。
本貫地には居なくなっていたとは残念ですね。
424 :
日本@名無史さん:03/11/19 00:27
425 :
日本@名無史さん:03/11/19 16:49
↑このシリーズって値段高くて
買い揃えるのは無理だけど
信直公は是非とも欲しいね!
在庫が無いみたいですけど…_| ̄|○
426 :
日本@名無史さん:03/11/20 14:00
信直、顔恐い。ていうか、信玄と顔一緒。親戚だから?
427 :
日本@名無史さん:03/11/21 11:19
428 :
どしろうと:03/11/21 22:17
維新のあたりのお話が聞きたい。
一族の方もいるようなので、もしかすると宝の山になったりして・・・。
429 :
日本@名無史さん:03/11/22 01:25
身延町・南部町は共に町名が残りました!
ヽ( ´ー`)人(´ー` )ノ
430 :
どしろうと:03/11/22 19:20
新南部町のホームページ見たら、役場の住所が南部町福士
となってました。旧富沢町のほうの役場が新南部町の役場
になったんですねぇ〜。
南部町主体だと勝手に想像してたのですが意外。
432 :
日本@名無史さん:03/11/24 20:56
で、みんな結局のところ晴政、信直、利直、誰が一番好きなのよ
434 :
日本@名無史さん:03/11/25 10:17
435 :
日本@名無史さん:03/11/25 10:19
ただ利直やさらに重直の気性から考えると
喧伝されてる信直像ってどうなのかな、と思うときがあるが
436 :
日本@名無史さん:03/11/25 10:32
>>434石川高信はどうよ?ていうか一族限定なのか?北信愛なんか好きなんだが
437 :
日本@名無史さん:03/11/25 12:06
>>436 それは432に聞いてくれ。
一族なら信愛も一族だから俺も好きだ
じゃあ好きな殿様ランキングってことで。好きな家臣ランキングも後でやろう。今のところ信直に一票
ちなみに名君を決めるランキングじゃあないので、有名人に票が集まってもあしからず。端的な人気度を測ろう。
440 :
日本@名無史さん:03/11/25 20:27
書きこみを増やすため上げ
九戸や津軽といった叛臣はナシにしとく?
442 :
日本@名無史さん:03/11/25 21:36
安信
443 :
日本@名無史さん:03/11/25 21:37
とりあえず今は殿様だけで
J−WAVEで姫の声が聞けるだけで満足でし。
445 :
日本@名無史さん:03/11/26 07:43
↑南部の姫様ランキングはもう少し待っててね
446 :
日本@名無史さん:03/11/26 15:13
南部は意外と姫も魅力だ。
447 :
日本@名無史さん:03/11/26 19:08
448 :
日本@名無史さん:03/11/27 13:19
harumasa
は る ま さ
晴政
晴政公だね
450 :
日本@名無史さん:03/11/29 21:16
俺は実長公を推したい
日蓮宗が今日あるのは彼の尽力もあると思うんだ
あと日蓮正宗・創価を生み出すきっかけを作ったのもこの人
453 :
書蹟研究者:03/12/04 00:36
南部信直の手紙かたよー。江刺宛。九戸の乱に関る書状ナリ。
>453
是非記載してくだされ。
ぬまぐないの駅舎内でやっているの?
456 :
日本@名無史さん:03/12/04 03:02
458 :
日本@名無史さん:03/12/06 14:17
南部一族の甲州残留組はどうなったの?
460 :
日本@名無史さん:03/12/09 13:46
三日月が丸くなるまでage
461 :
どしろうと:03/12/09 22:18
維新ネタないですか。
く・・・くどい。
462 :
日本@名無史さん:03/12/11 13:08
三戦板よりコピペ
292 :残九郎 :03/12/07 12:23
遠野南部氏のこと→おいらの曾祖母が遠野南部家の家中だったらしく、
戦前まで拝領の白い茶碗があったと親父に聞いていたから由来をしりた
くて書き込みました。
293 :残九郎 :03/12/07 12:25
亡くなった祖父の話では遠野南部男爵は大正時代に破産したとかと聞い
ていますけど詳細を知っている方教えてください
463 :
どしろうと:03/12/18 22:11
ごめんなさい。こだわりません。
あげ。
464 :
日本@名無史さん:03/12/25 03:18
秋田戦争の小説を読んだ事あるよ。
マタギ隊の話だったけど、検索しても出てこないな。
465 :
日本@名無史さん:03/12/28 00:29
またぎものみたいてんまつ
>>465 それだ!
葉治英哉 「またぎ物見隊顛末」絶版でつね。
467 :
日本@名無史さん:04/01/07 01:20
三戸も合併しる
南部氏は海路渡ったというが、ほんとうかな?
とうじの操船技術では無理だよね。
469 :
日本@名無史さん:04/01/10 11:45
>>430 名を捨てて実を取ったということだろう。
470 :
日本@名無史さん:04/01/12 21:33
>>468 それが伝説の伝説たる所以でね。
実証できれば凄いことだけど今となってはねー…
471 :
日本@名無史さん:04/01/12 21:34
今でも南部人って
津軽人と仲悪いの?
>>471 そんなことないよ。
俺んち昔は南部の御用商人だったけど明治時代に津軽から嫁が来ている。
473 :
日本@名無史さん:04/01/12 21:38
474 :
日本@名無史さん:04/01/13 02:34
長野と松本の争いも一緒だな
いつの時代だよ田中
475 :
日本@名無史さん:04/01/25 09:29
最近「しったかぶり」さん来ないね。
477 :
日本@名無史さん:04/01/26 23:05
>>476 最近ネコ耳とかウサ耳とかの帽子被ってる子とかいるけど
そのはしりかね
盛岡公民館で見たなんとか公の鎧は布製の軽そうな奴だった。
年寄りなんで重い鎧は着れなかったらしい。
でも格好いい鎧?だった。
なんか先祖が南部の家臣だったみたい。
明治維新後、北海道に渡っているから下級藩士だったんだろうね。
明治の中頃には東京に移っていたみたい、漏れのじいさん東京生まれだ
>480
糸吉 土成 でつ
483 :
日本@名無史さん:04/02/08 08:12
あげ
484 :
日本@名無史さん:04/02/11 11:22
俺の名字「伊保内」なんだがやはり祖先は九戸とマブダチの氏族なのかな?
486 :
日本@名無史さん:04/02/17 04:20
>>485 九戸の同族か藩主の命で名跡を継いだかどっちかだろ。
とりあえず誇れ
そういや俺の曾祖父は南部藩の料理番だったな。
ついでに合気道の達人で気功に近いこともできたとかで身内近所では有名だった、
と聞かされたっけ。
22840 伊保内 約170 陸奥国九戸郡伊保内邑発祥、清和源氏南部氏族。現在、青森県に多い。
490 :
日本@名無史さん:04/02/21 16:05
福士、岩間(常陸が苗字由来の地らしい)、桜庭などは、甲州以来の譜代の家臣。
甲斐の国にいた頃からの南部氏の被官。岩間という地名は、常陸と遠いのですが、
南部と同じ新羅三郎義綱の子孫である、佐竹氏の祖先、義綱の時代に被官化し、
義綱の甲斐守就任とともに、移住してきた可能性もあるかなと考えてます。
さいきんこのスレに出てこない「しったかぶり」さんはどうしたんだろうな?
南部一族の興亡史もたのしいけど、家臣筋の挿話もかたってほしいなあと思う
今日この頃。
491 :
しったかぶり:04/02/22 23:02
去年青森県七戸町で、「町政施行100周年」を記念して
講演会が開かれました。楽しみにしてましたが入場制限にひっかかりまして
聞くことが出来ませんでした。
最近、其の講演会の本が出版されたので、早速それを種にひとこと。
「市村高男氏」の南部氏の系図について触れている部分ですが、「新田政持」は
政長の次男ではなく、比内地方にいた地侍であって南部氏と婚姻関係をむす
んだのではないか。其の証拠として、以下の文書
建武五年五月十一日 (1338年)(南朝延元三年)
浅利清連注進状
浅利六郎四郎清連注進事、
去建武三年正月十三日、清連為
令退治國司方凶徒等、馳越津軽
中之處、曽我太郎貞光、最前
馳参御方、於津軽中國代等楯々、抽
軍忠、次比内郡凶徒新田彦次郎
政持等、并鹿角郡國代成田小次
左衛門尉頼時、同南部又次郎師行
代官等、小笠原四郎、鳴海三郎太郎
以下凶徒等、自令株伐以来、抽度々忠節
之間、恐々令致注進者也、以此旨、可有
御披露候、強行謹言、
建武五年五月十一日 源清連(裏花押)
進上 御奉行所
つまり、建武三年にすでに新田政持を名のっているのは
年が合わない、と言うことです。
言われてみれば、ああ、そうだな。という気になりますが
皆さんはいかがでしょうか?
(「新田」は「にいだ」です)
492 :
日本@名無史さん:04/02/22 23:09
『しったかぶりさん』おひさです。
493 :
しったかぶり:04/02/25 21:05
492さんおひさしぶりです。
さて、続きですが、その前にこの浅利氏も甲斐源氏で、其の祖は
加々美遠光(南部氏祖)の弟です。現在も山梨県に浅利の地名も川も残っています。
この時期北朝方についたようです。(後に秋田愛季にほろぼされます。)
その十八年後 この清連ではないかと思う人物が南部伊予守と共に正平八年正月に
多賀城近くの山村城で足利方に降伏しています。「浅利尾張守」と出てきますが
清連でしょうか?
494 :
magnus:04/02/26 00:11
秋田の平鹿郡の高田なのですが、南部行連、あるいは九戸から派生した高田の子孫でしょうか。
495 :
magnus:04/02/26 00:19
494↑
ちなみに家紋は、柊紋です。
496 :
しったかぶり:04/03/01 22:45
南部氏の系図をみると南部光行の子供達の但し書きに、一戸祖は「行朝」、
四戸祖は「宗朝」、七戸祖は「朝清」、九戸祖は「行連」と書かれていますね。
しかし光行一族が糠部に下向したとは考えられませんので、創作であるとの見方が一般的です。
私もそう思います。
「これはこの系図が出来たとき、もしくは創ったときの南部氏の有力家臣団の分布図として
見た方が良いのではないか?」という見方があります。
一戸氏、四戸氏、七戸氏、九戸氏と南部家を支える有力武士団には南部氏の血が流れているんだ、
とお墨付きを与えた、というわけです。
いかがでしょうか?
でも ただの偶然の一致でしょうか?「九戸の乱」で九戸方ですね。(一戸氏を除く)
九戸って本当に南部?それとも詐称?
何かどっかで実は小笠原だって聞いた覚えがあるんだけど。
498 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:46
>>490 甲斐にも岩間の地名はあります。
西八代郡六郷町岩間。
ここ発祥の甲斐源氏もいたはずですから、
>>498 おひさです。
ひょっとすると系図を造ったのは九戸党に関与していた人物でしょうか?
ん?待てよ。北信愛だったような…
499 :
しったかぶり:04/03/02 22:57
系図の話の続きです。
思いつきですが、一戸、四戸、七戸、九戸が九戸の乱で闕所地(知行主がいない)
になって信直派が「接収」したわけですよね。その時この土地は代々南部一族のものが
これこのとおり知行してたから、と理由ずけしたというのはどうでしょう?
>497さん 九戸氏は二階堂氏との関係が緊密らしいです。「近世こもんじょ館」を
覗いてみて下さい。
500 :
日本@名無史さん:04/03/03 11:03
>>499 系図は確か秀吉に津軽所領の正統性を主張する為北信愛が作成したのですよね。
併せて九戸云々も記したということなら
この系図で抵抗勢力を一掃するつもりだったのでしょうか。
501 :
しったかぶり:04/03/03 21:10
>500さん
すみません、北氏が作成したのは「九戸の乱」の前でしょうか?後でしょうか?
それぞれに何等かの意図があったとしても、前と後ではだいぶ違うような気がしますが?
502 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:56
>>501 それは前ですね。小田原参陣の時に携えたはずでしたから。
503 :
しったかぶり:04/03/04 22:05
>502さん
そうだとすれば、九戸氏をはじめとして四戸氏等は南部一族であり
南部宗主は三戸南部家であると主張したかったものでしょうか。
>>503 で九戸党の騒動はこれは主家に弓引く叛乱である、と
なるほど、しったかぶりさんこういうことですね。
505 :
しったかぶり:04/03/04 22:52
>504さん
そう云う見方もあるかと。
でもまあ、事実は神のみぞ知る、でしょうね。
七戸氏祖などは明らかにまちがってるとおもいます。
根城の南部政光からですよねこの時の七戸氏は(家國)
506 :
書跡研究者:04/03/05 01:40
462 遠野南部の直系さんは府中の東郷寺の住職で2代やっているよね。現代は
光徹師とか仰るのだそうだが。オソレスすまそ。因みにうちの親類は太平洋戦
争で戦死したから、優先的に東郷寺の墓地に入れてくれたそうだ。
507 :
日本@名無史さん:04/03/05 03:06
508 :
日本@名無史さん:04/03/06 04:42
そういや、盛岡競馬場でやる「南部杯」ってレースの表彰式でお殿様出てくるよ。
J−WAVE聞いてりゃ姫様の声が聞けるよ。
510 :
しったかぶり:04/03/08 21:59
さて市村高男氏の続きです。
「師行、政長が波木井南部氏の養子となり波木井南部氏を継いだと
いうのは後世の創作である。」
そうであるとすれば、後に信光、政光が甲州へ行ったり
来たりする不自然さがこれで解消されるわけです。
でもそうだとすると悩ましい事がでてきます。
正平二十二年六月二十五日 (1367年)
後村上天皇倫旨
甲斐國神郷半分
大和守跡可令知行者、
天気如批、悉之以状、
正平廿二年六月廿五日 右大弁(花押)
南部薩摩守館
甲斐國倉見山三分壹中野入道跡 可令知行者、
天気如此、悉之以状、
正平廿二年六月廿五日 右大弁(花押)
南部左馬助館
(刊本「南部家文書」所収新田家文書)
上が信光、下が政光へのものだとされています。
これを解決しないと研究なさってる皆さんが納得しないと
思います。勿論二人とも糠部にいたとしても不思議でないかとも
おもいますが....。
511 :
しったかぶり:04/03/08 23:15
<510
訂正 南部左馬助は新田政持 小井田幸哉氏
513 :
しったかぶり:04/03/09 21:06
<510
の綸旨の二十日前の日付けで、もう一通あります。
正平二十二年六月五日
後村上天皇綸旨
年来軍忠之次第、
叡感不少、猶殊可抽
貞節者、
天気如此、悉之以状、
正平廿二年六月五日 右大弁(花押)
南部薩摩守館
この三通で気がつくことは
宛名が、「館」で終わってることです。
この「館」で終わるのは何か意味があるのでしょうか?
どうも気になるんですが。
訂正 <491 強行謹言、は 恐惶謹言
514 :
日本@名無史さん:04/03/09 23:08
館=舘=庁=たちorたて つまり国庁舎の主に対する尊称ではないでしょうか?
後村上の綸旨であることから察すると、延喜天暦の治をめざした南朝側の政治は
国庁の場で行われるべきという立場から、南朝方である南部氏を、天皇の命令を、
忠実に遂行する国庁の官吏に見立てた言葉ではないだろうかと考えます。
かつて奥州の王者であった藤原 秀衡のことを旧家臣の由利何某は、「御館」と
呼んでいて、かつて奥州押領使や鎮守府将軍、陸奥守であった主筋を尊称で呼
んでいることもなんとなく思い出されます。
南部氏の奥州支配は、南朝の後ろ盾で始めて可能だったのだろうと想像しますが
戦国にいたるまでの上官たる北畠氏との関係や、大浦氏の自立まで是非、
「しったかぶり」さんには活躍して欲しいと思います。
515 :
しったかぶり:04/03/10 21:00
>514さんありがとうございます。たいへん参考になりました。
「期待」にそえられる自信はございませんが、細々と今の調子で
やっていけたらと思います。
さてもう一通、後村上天皇倫旨がこの六年前にあります。
正平十六年十一月九日 後村上天皇綸旨 (1361年)
今度合戦致忠節之
由、被聞食畢、尤以
神妙、御感不少者、
天気如此、悉之以状、
正平十六年十一月九日 左中将(花押)
南部薩摩守館
ここでも館がついていますね。
南部氏になんで薩摩守なんだ?
>>512 学芸員のセンスがいいんだな。
歓迎の仕方が盛岡的だよ。
518 :
しったかぶり:04/03/13 21:30
「師行、政長が波木井南部家を継いでない」というのは正しいかそうでないかは
分かりませんが「政光、信光等が甲斐の国と糠部を行き来したというのは不自然
である」というのは私もそう思います。
そうだとするならば、後村上天皇の綸旨はどう理解したらいいのでしょうか?
糠部にいた、信光、新田政持に甲斐の国を与えるのはそれほど不自然ではない様な気もしますが。
当時の甲斐の国の南北朝の様子が分かりませんので何ともいえません。
先に「倉見山」を新田氏がもらっていますが、建武元年の後醍醐天皇の
綸旨が残っています。
建武元年五月三日後醍醐天皇綸旨(宿紙)(1334年)
甲斐國倉見山在家
三宇、畑地、町屋等、南部
六郎政長可令知行
者
天気如件、悉之以状
建武元年五月三日 左衛門権佐(花押)
この時期政長は師行と一緒に糠部にいってないんでしょうか?
翌年には、政長が糠部にいるみたいですが。
北畠顕家下
花押(顕家)
下糠部郡
可分早 南部六郎政長領知 当郡七戸結城七郎左衛門尉跡事
右人為勲功賞所宛行也 早守先例可被其沙汰之状所仰如件
建武二年三月十日
政長に七戸をあたえております。
519 :
日本@名無史さん:04/03/14 06:59
>>514 今見て思ったんですが
後ろ盾の語源もそういうことなんでしょうか。
520 :
日本@名無史さん:04/03/16 00:00
>>519 いや、そのまんま言葉の意味どおりかと…。
521 :
しったかぶり:04/03/20 22:12
市村高男氏の続きです。
「信光から政光への家督相続は、政光による権力奪取であった可能性が高い」
更に、「長経へ相続され更に光経へ相続された事になっているが、光経は
政光嫡子であり、長経は八戸の一部を相続したにすぎない。根城南部氏は政光、光経
の家系によって継承されていった。」
その証拠として、信光嫡子が幼かったからというのは不自然。
信光は譲り状を書いた後すぐ亡くなったとされているが、その後も生きている痕跡がある。
さらに「道重」との一揆状 七戸の見町(みるまち)観音堂の棟札 大慈寺梵鐘鋳造勧進
奉加帳 などをあげています。
さあ、どうでしょうか?以下信光譲り状です。
天授二年正月廿二日南部信光譲状 (1376年)
譲渡
陸奥国糠部郡内
八戸
右彼ところハ、くんこうのしやうたる
あいた、信光ちきょうせしむるお、
政光譲あたふる物なり、此うち二日 二日市
いち、さかいたおハ、しやうせう殿、しやう 境田
さく殿、しやうけん殿三人譲なり、
せんさい、たけまつ二人にわ、女子三人 せんざい=長経 たけまつ=光経
のことくに、はいふんすへし、もし
さいけにならん時ハ、はいふんにあつ
へからす、彼の譲状おまほりて、は
いりやうすへし、
天寿二年辰丙正月廿二日
前薩摩守源信光 (花押)
522 :
しったかぶり:04/03/22 23:21
信光、政光父の信政(政長嫡子)は1345年、吉野の宮へ召されてそのまま
戦死したようなので、信光政光はそれ以前に産まれたのはまちがいないでしょう。
さらに、1333年師行等が糠部にきた後でしょうから
最大1333年から1345年までの、12年の間に生まれたものと推察できます。
そんなふうに仮定すれば、「譲り状」を書いたときは43歳から36歳くらいかと思われます。
「女子3人」とありますので、5人の子持ちだったわけですね。
そんなふうに考えれば、やっぱり子供達は10代だと思いますがいかがでしょうか?
(資料のほうは出来るだけ正確にうっているつもりですので、そっちの方を
読んで自分なりに新説などを考えてくれるとありがたいし面白いと思います。)
523 :
しったかぶり:04/03/25 23:25
1376年に譲り状を書いて亡くなったと思われる信光ですが、そうでないと
主張する市村高男氏の根拠のひとつである一揆状です。
弘和二年卯月三日沙弥道重契約状 (1382年)
一揆契約之状事
右意趣者、南部薩摩 右意趣は南部薩摩入道殿と
入道殿与、道重契約申 道重契約申し候うえは、大小の事につき
候上者、就大小事、相互披見 相互にみつぎ申し、みつがれ申し候
継申、見継可申候、若此條偽候者、
八幡大菩薩、諏訪上下大明神、御
罰可罷蒙候、仍契状如件、
沙弥道重(花押)
弘和二年卯月三日
信光譲り状から6年後ですね。その中にある「南部薩摩入道」が
信光だというわけです。
信光は「薩摩の守」でしたからというわけでしょうが
いかがでしょうか?
「沙弥道重」も具体的に誰を指すかは不明です。
524 :
しったかぶり:04/03/27 21:13
すみません続きです。さて、見町観音堂棟札です。市村高男氏が実見したところに依ると
「地頭源南部延光」とありこの人が造営の中心となったとのことです。
さて、「のぶみつ」と音が同じだから「延光」は「信光」に違いないとのようですが
どうでしょう?
またこの時期に「源」と「南部」を一緒に書いてあるのはなかなか見ないんですが
このような表記はあるものでしょうか?更に「地頭」と書いてるのも初めてみますがこれも
どうでしょうか?
ところで 見町観音堂は良いところですから一度見に行って下さい。車も止めれるように整備されてます。
ちなみにここから出た、羽子板は日本最古のものだそうです。
525 :
日本@名無史さん:04/03/27 22:04
今月号の歴史読本で現在の伊達の殿様と南部の殿様の対談読みました。
今の南部の殿様は長男が22年前亡くなられて、その後を継いだ三男なのですね。
次男の方は他家に養子なそうですが、何処の家に入られているのですか。
526 :
しったかぶり:04/03/30 21:57
さて最後の大慈寺梵鐘鋳造勧進奉加帳についてですが、光経、長経の順序について
一番最後に置かれているのが長経で弟の方が上位に置かれてるのはおかしいとの主張です。
応永19年 大慈寺梵鐘勧進奉加帳 1412年
應永十九年壬申歳九月廿一日
糠部郡八戸松楯
大慈寺鐘勧進奉加帳事
馬一疋 沙弥聖守(花押) (南部政光)
馬一疋 近江守親光(花押) (新田))
馬一疋 式部大輔政経(花押) (中館))
馬一疋 修理助 光経
馬一疋 左近将監 長経
さてどうなんでしょうか?こういう場合やっぱり、順番が重要だとは思いますけど。
わーん訳わからないよ、元々の南部総本家は八戸氏なの。
528 :
しったかぶり:04/03/30 23:34
本家、分家という区別はできないと思っております。
南部氏の沢山の庶流がたまたま、根城南部氏として奥州で繁栄し
更に三戸南部氏が繁栄した、と思っています。
根城と三戸は勿論親戚同士です。
ただこの時期資料が沢山残っているのが根城南部氏なわけです。
南北朝期(特に前半)の主役は根城南部氏だとは言えるとは思っていますが。
>>528 なるほどな〜、根城の記録が多いんだ〜。
他の南部氏は記録を残していなかったのか最初からないのか、それとも消したのかなんて思ったりしました。
531 :
しったかぶり:04/04/01 22:43
さて話は変わりますが
師行はなんと、1333年鎌倉陥落の年に、糠部から上洛していた!
そして、無事に糠部に帰ってきた。
建武元年 1334年
安倍祐季書状
御上洛之後 久不承候之間 無御心本相存之処 先日安東入道便宜にこそ
御下之由承候へ 無為に御下向候へは 一身之悦と存候 尤入御見参に
諸事可承候処 兼令申候治部左衛門大夫にあたされ候て 一両年合戦に候
干今無隙候之間 乍思其義候条 背本望候 世間静謐候者 懸御目候て
此間事等承 又可令申候
一雖主少候 筋黒一尻 同保呂一鳥令進候 尚々少事之至不少其憚候 恐々謹言
二月廿日
謹上 南部殿 安倍祐季 (花押)
(新渡戸文書)
いやーびっくりです。
安倍祐季から師行にあてた書簡です。
無事に帰ってきてなによりです。
本当なら、出向いてご挨拶にあがるところですが、ご存じとうり
治部左衛門大夫に仇されて合戦していたので出来ません、その代わり
鷲羽と鷹を送ります。というものです。
師行は糠部に住んでたたわけですね。
師行は討ち死にしていなかったと言う事ですか?
533 :
しったかぶり:04/04/02 22:25
>532
いいえ、そうでなく、鎌倉幕府が滅んだ年に、糠部から上洛し、糠部に
帰ってきた。そういうふうに読めるということです。
師行戦死はまだ先のことです。
参考本 物語南部氏 北斗太平記天の巻 大正十三造 著
です。上記は大正氏の受け売りです。
糠部には、政長が奥州にいた形跡がありますが、実は師行も
糠部にいた、というわけですね。
534 :
しったかぶり:04/04/03 22:06
私なりに、恥を覚悟で「現代語」に訳してみます。間違いを指摘して下されば幸いです。
「御上洛のあと、久しく様子を承らず心許なくおもっておりましたが、先日
安東入道からの知らせによって、お帰りした事を知りました。ご無事にお帰り
なされて、吾が身の喜びでございます。すぐにも御見参にうかがって、いろいろ
お話を承りたいのですが、かねてよりご存じの、治部左衛門入道に仇されて、一両年
合戦しており、いまも隙を創ることが出来ません。というわけで本望に背いております。
争いが収まりましたら、伺っていろいろ語り合いたいと思います。
一雖主少候(わかりません)筋黒一尻(鷲の羽)保呂一鳥(鷹)お送りします。
尚々少事之至不少其憚候(わかりません)恐々謹言
二月廿日
謹上 南部殿
いかがでしょうか?安東入道は安藤明師、祐季は湊孫次郎(大正十三造氏)
みたいです。
しったかぶりさんへ
いつも変な質問してごめんなさい、レスありがとうね。
母方の曾祖母が南部家の人なんだけど私何も知らないので。
536 :
しったかぶり:04/04/06 22:20
>535
いいえ、なにか質問があった方が楽しいです。
顕家御教書 建武元年 6月
(略)
所詮、當時安藤一族、強無異心之色歟、而家季
一身造意非無疑、國之御大事ニ候へは、能々可被廻思
案候、如何さまニも明師、祐季ヲ能々可被誘仰歟之
由思食候也、(略)
顕家から師行への御教書です。同じ年の6月です。
上記の部分に、明師、祐季がみえています。
此の文書は難解で有名だそうです。この部分は、
安藤五郎次郎(安藤宗家の弟)を警戒せよ、明師、祐季を味方にすれば
安藤氏一族?はたいしたことがないから必ず味方にひきいれよ。
とのことらしいです。
537 :
〉〉533:04/04/11 10:38
>鎌倉幕府が滅んだ年に、糠部から上洛し
だって、まだ波木井師行なんだし、5月に新田義貞と鎌倉落として、7月上洛、
建武の新政で10月に顕信とこっちにきたわけだから、住民票はまだ山梨県。
どこにも糠部から上洛したなんて書いてないジャン。
おべだふりとは、さては津軽の間諜であるか。
538 :
しったかぶり:04/04/11 21:02
ご存じの通り、この時期の南部氏は分からないことが多いです。
定説では、師行の糠部下向はおっしゃるとおりですが、「祐季書状」を読むと
上記のように、読めるのではないかと思うわけです。
539 :
日本@名無史さん:04/04/17 05:47
ネット上で高名な波木井坊竜尊も南部氏流波木井氏族
540 :
日本@名無史さん:04/04/18 05:46
読売新聞日曜版で「男を美学(みがく)」を連載している原由美子は原敬の孫。
541 :
日本@名無史さん:04/04/18 05:58
伊勢丹新宿本店婦人服売り場の真能英子さん、かわいい
542 :
浅野ます道 ◆YNb5Lv2Www :04/04/29 01:30
やばい。10日間何も書かれてない。
とりあえず天気よかったんで
南部氏館跡周辺の写真を撮りますた。
あとでうpしますよ。
543 :
しったかぶり:04/05/07 00:14
え−この数週間「八戸根城・南部家文書」小井田幸哉氏の「入道跡注文」
の五つの文書の写真図をながめています。
この五つの書状の表(おもて)に「安藤祐季書状」その他の文書が書かれています。
当時は紙は貴重品らしく表、裏両方とも使っています。「入道跡注文」
は、バラバラに保存されていたのを、「森嘉兵衛博士」が一連の文書であると推定した
ことらしいです。
一番、二番、三番は同じ人が書いてるなと思われますが、四番、五番は?なわけです。
で何が悩ましいかというと、この五番目にだけ「建武元年八月六日」の日付がついていて
あとの四通には日付がないという事です。
この五番目が、一、二、三番の筆跡と似ているのですが、なんだか微妙に違うような
気もするし、でもやっぱり似てるなー と見るたびに首をひねってる状態です。
内容的には、一連の文書と云っても間違いないと思いますけどね。
544 :
浅野ます道 ◆YNb5Lv2Www :04/05/07 00:59
>>544 浅野さん、写真Upありがとう。なんか懐かしい風景ですね。
546 :
しったかぶり:04/05/08 22:57
No5の字は読みずらいですね、左手で書いたのだろうか。
548 :
しったかぶり:04/05/08 23:42
参考までにNo1は以下の通りです。
□□入道跡注文 (一)
□□□□入道跡注文事
□□□□太郎 二町八段
□□□□疋
□□□□二 字那祢田八段
□□□□う三郎 一疋
□□房 一町
例進一疋
彦三郎 一丁
同 一疋
源太 七反
一疋
権守 五反
一疋
又四郎宮 六反
一疋
五郎三郎入道 三反御公事ロ也かん田三段
一疋 以上六反
五郎太郎入道 七反
一疋
公田 六人
てつくり 一町
(略)
「八戸根城・南部家文書」
5、は女性の字ような感じもしますけどもね。
素人ですけど、内容そっちのけで「疋」「丁」「町」「田」「反」で見比べてみた
なんか1と2は別人ぽくないかなあ、「疋」の二画目が違う、「丁」や「町」の筆の抜け方も違う。
2と3は、「疋」の三画目と四・五画目が似通ってるような。
4は丁寧に書いてある(?)せいか、1・2・3どれとも違うふうに見える(1が丁寧に書くとああなる?)。
「反」は2と5が似てる(「反」をフ+フ+右祓い、と見た場合、1の「反」は殆ど一つ目のフのノの部分に溜めがない)。
1は、表現が正しいかわかんかいけど、やたらと筆が軽そうな印象をうける。
けっか、1=5、2=3、4はわからない、て感想。
550 :
しったかぶり:04/05/09 22:03
どーもありがとうございます。
2=3は確かだと思いますよ。見えずらいですけど右上に数字が
二、三と振ってあります。
ちょっと見には、1,2,3は一緒のような気がしますがどうなんでしょうか?
1=5だとすれば、やっぱり建武元年の書状群になりますね。
ちなみに
1の裏(本当は表)に 「安倍祐季」書状 二月廿日付け
2 〃 「金頼清」書状 二月廿一日付け
3 〃 「沙弥道覚」御返事 二月廿六日付け
4 〃 不明
5 〃 某書状 名前と日付は 欠 です。
江戸城内では、文政期に、津軽藩の津軽寧親と、南部藩の南部利用が
将軍の前で大喧嘩している。
将軍「喜べ津軽。そのほうに従四位の官位を賜るよう、帝に奏要しておいた。
まもなく達しがこよう」
津軽「はっ。格別のご配慮、ありがたき幸せに存じ奉ります」
南部「上様! 恐れながら・・・」
将軍「それへ」
南部「200年前、わが藩のもっとも豊かな土地を奪った津軽藩が、
従四位の位まで賜って、わが藩の上位に座るのに、到底承服しがたいことに
ございます。」
将軍「しかしそれはすでに決まったことである」
南部「それならばせめて、野辺地・烏帽子山を当藩に返すと、御裁可、頂きとう存じます。
野辺地・烏帽子山は、当藩固有の領土でございます。それを津軽藩は、200年前と
同じように武力をもって無理やり奪い取ったのでございます。何卒、何卒ご配慮く
ださいまするように・・・」
津軽「笑止なり南部。野辺地・烏帽子山は既に御公儀も、津軽領と認めておるのじゃ。
上様拝謁の儀礼もしらぬ愚か者が、今更何を!」
南部「愚か者じゃと!!!」
これが原因で相馬大作事件が起きる。
「疋」の形にこだわり過ぎてました。
拡大して並べたのを見てたせいで、1の「源太」以降の「一疋」を「疋」一字として間違えて見てました。
1の「疋」は一・二画目が離れてるように見えたけど、1も2も、「疋」の一画目が殆どないですね
そうして見てみると「田」も一致するし1と2は同じ人でしょうか。
3を見てみると、通し番号の「三」と文中の「三」の筆跡も同じに見えるし、1・2・3・5同一人物か。
553 :
しったかぶり:04/05/11 00:02
たびたび、ありがとうございます。
No 4は「小井田幸哉」氏は以下のように読んでいます。
とまへちいにしか両所 五反さいけ一う (苫米地)(いにしか=西河)
はゝし里のひこ三郎 ( 馬場尻)
すまもりのけんた うなり田 四反 ( すまもり=島守)
まつりはかり
同所 作人八郎以上 大明神田
まつりはかり
以上田形四十丁八反
一一わけふちた わたくしむま
欠(と思われます)
( 新渡戸写本 )
「いにしか」という聞き慣れない地名は、NO.3にも出てきまして
「小井田幸哉」氏は、西河と解釈しています。
ですので内容から見ると、4も一連の文書かもしれませんね。
554 :
浅野ます道 ◆YNb5Lv2Www :04/05/11 00:18
555 :
しったかぶり:04/05/11 00:29
浅野さん
どうも失礼しました。一回行ったことがありますよ。
私もリンクの張り方覚えましたので、このあたり(青森)の写真を
アップしようかなと思っております。
>>555 三戸が七戸・・八戸が。
すったがぶり氏のウプたのすみだな。
558 :
しったかぶり:04/05/17 22:30
入道跡注文の「表」を以下のページで参考にして下さい。
http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/ 安倍書状以外は、返事ですね。
それも、すべて津軽へ軍を出してくれという内容だったと思われます。
建武元年のこの時期は、去年暮れに「大光寺合戦」がおきています。
次に「石川合戦」が始まろうとしてる時期に当たると思います。この
合戦への軍勢催促状ともいうべきものを有力者にだしたものでしょうか?
559 :
日本@名無史さん:04/05/19 17:38
南部氏関連の訃報です。
国語学者で文化功労者の金田一春彦(きんだいち・はるひこ)さんが19日、くも膜下出血のため死去した。91歳。
葬儀は未定。自宅は東京都杉並区松庵2の8の25。
言語学者・金田一京助の長男。東大国文科卒。
東京外国語大教授を務めたが学園紛争で1970年辞任し、のち京都産業大、上智大教授などを歴任した。
日本語アクセントの歴史的な体系変化を初めて実証的に分析、各地の方言を調査し東西アクセントの系統を解明した。
国語審議会委員、NHK用語委員などを務め、「明解国語辞典」をはじめ多くの辞典編さんも手掛けた。
77年NHK放送文化賞を受賞。また、63年の「吉展ちゃん誘拐殺人事件」などで脅迫電話の声から犯人の出身地を的中させた。
一方、邦楽史や童謡の研究でも知られ、83年「十五夜お月さん−−本居長世 人と作品」で毎日出版文化賞と芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
レコード大賞審査員やテレビのクイズ番組解答者も務め、茶の間にも広く親しまれた。
98年には85歳で自作の作曲集「白いボート」を刊行し話題となった。
主な著書に「日本語音韻の研究」「日本語」「平曲考」などがある。
ご冥福をお祈りいたします
http://friend.vill.oizumi.yamanashi.jp/kindaich/ 毎日新聞 2004年5月19日 14時25分
561 :
浅野ます道 ◆YNb5Lv2Www :04/05/23 02:24
容量の関係で
>>544は消しました。
落とし損ねた方は気軽にメールしてください
564 :
日本@名無史さん:04/05/24 19:01
565 :
しったかぶり:04/05/28 20:46
師行が鎌倉陥落の前に糠部にいたという説は、結構ありまして其の論拠のひとつとして
「師行寄進状」というものがあります。
残念ながら年号の記述がありませんが元弘4年(建武元年)か?といわれていて
師行自筆とつたえられています。この時期寄進できるほどの土地を持っていたのは
前からこの地にいたからではいかということです。さて皆様方のご判断はいかがでしょうか?
達筆と評判の文書ですが、見るとおおらかな人物という感じはしますね。
以下参考にして下さい。
http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/moroyuki.htm
566 :
しったかぶり:04/05/28 20:48
師行が鎌倉陥落の前に糠部にいたという説は、結構ありまして其の論拠のひとつとして
「師行寄進状」というものがあります。
残念ながら年号の記述がありませんが元弘4年(建武元年)か?といわれていて
師行自筆とつたえられています。この時期寄進できるほどの土地を持っていたのは
前からこの地にいたからではいかということです。さて皆様方のご判断はいかがでしょうか?
達筆と評判の文書ですが、見るとおおらかな人物という感じはしますね。
以下参考にして下さい。
http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/moroyuki.htm
567 :
日本@名無史さん:04/05/29 15:33
568 :
日本@名無史さん:04/05/29 17:02
569 :
日本@名無史さん:04/06/05 00:00
>>566 おおらかで繊細な筆致ですね、でも漢字はあまり知らなかったのか。
570 :
日本@名無史さん:04/06/05 15:33
南部氏を題材にしたお薦めの小説があったら教えて下さい。
571 :
日本@名無史さん:04/06/05 15:51
江戸城内では、文政期に、津軽藩の津軽寧親と、南部藩の南部利用が
将軍の前で大喧嘩している。
将軍「喜べ津軽。そのほうに従四位の官位を賜るよう、帝に奏要しておいた。
まもなく達しがこよう」
津軽「はっ。格別のご配慮、ありがたき幸せに存じ奉ります」
南部「上様! 恐れながら・・・」
将軍「それへ」
南部「200年前、わが藩のもっとも豊かな土地を奪った津軽藩が、
従四位の位まで賜って、わが藩の上位に座るのに、到底承服しがたいことに
ございます。」
将軍「しかしそれはすでに決まったことである」
南部「それならばせめて、野辺地・烏帽子山を当藩に返すと、御裁可、頂きとう存じます。
野辺地・烏帽子山は、当藩固有の領土でございます。それを津軽藩は、200年前と
同じように武力をもって無理やり奪い取ったのでございます。何卒、何卒ご配慮く
ださいまするように・・・」
津軽「笑止なり南部。野辺地・烏帽子山は既に御公儀も、津軽領と認めておるのじゃ。
上様拝謁の儀礼もしらぬ愚か者が、今更何を!」
南部「愚か者じゃと!!!」
これが原因で相馬大作事件が起きる。
572 :
日本@名無史さん:04/06/05 19:19
>>570 渡辺喜恵子
「南部九戸落城」
「馬渕川」←第41回直木賞受賞作
どちらも絶版のようです図書館で借りてください。
>>572 サンクスッ!!o(^^)o
早速探してみます。
574 :
日本@名無史さん:04/06/06 02:03
>571
まったく南部は愚かですね。
安藤氏の子孫が南部領ももとは安藤領だったち言っても安藤氏に返すわけじゃないし。
幕府の中の石高による席次争いに気を取られ領民に負担ばかりかけて南部は大バカです。
575 :
日本@名無史さん:04/06/06 02:13
>>573 南部衆にとっては辛い小説だろうな。
高橋克彦的なデムパもない重い内容だぞ。
覚悟して読め。
貴方はどこの方ですか?
相馬大作事件には別説もあります。
>>526の
>馬一疋 修理助 光経
>馬一疋 左近将監 長経
は元々「修理助 光経」と書いてあるんですか?
>>534 「大正十三造氏」というのは人物比定をした人ですか?
578 :
しったかぶり:04/06/06 20:50
>石高による席次争いに気を取られ領民に負担
これは寧親パパと信順バカ息子への批判?
580 :
しったかぶり:04/06/12 22:11
1333年の「重陳状」は興味の尽きない文書です。政長が奥州から来たとか
鎌倉陥落時の話とか出来ればごゆっくり読んで頂きたいのですが、実は
前にこれを読んだときに、ちょっと不思議に思ったことがありました。
それは師行の名が最初に「奥州下向」と出てきてその後全然出てこない事です。
特に鎌倉攻めの時、名が出てこないのは不思議な気がしました。しかし師行は
京都に居て鎌倉攻めに参加してなく、京都から直接北畠顕家と共に奥州に
下向したんだ、と考えると納得出来るのですが、さていかがでしょうか。
以下を参考にして下さい。
http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/jyuutinnjyou.htm
581 :
南部はいやじゃ 田舎は嫌いなのじゃ:04/06/14 09:44
奥羽題
奥羽夫何如 不可愛遑居
道路皆幽谷 山々惟猟狙
残雪壮宇懼 秋風氷陝阻
世上無相識 差嘆憶兆監
南部利謹 −利水集−
582 :
しったかぶり:04/06/14 22:44
ちょっと話はそれますが、前にこの「重陳状」に触れた時、以下の文で
時長者、最前馳参御方、於関東致合戦之忠、親類中村三郎
二郎常光、五月廿日討死之条、新田三河弥次郎見知畢、同廿一日
霊山大将軍武田孫五郎相共、愚息行長懸先、若党数輩被疵畢、
五月二十一日は大激戦で新田軍は「霊山寺」付近で一進一退をの戦いを
してどうしてもここを抜くことが出来なかったと「太平記」にあります。
前はこの霊山寺が顕家の「霊山」と重なってしまったものですから、分から
なかったですが、この文章から想像出来ることは
南部軍は甲斐源氏の軍と共に行動して、新田軍の前衛で奮戦した、その時の総大将
は時の甲斐源氏の惣領だった、ということです。
あの有名な稲村ヶ崎の剣の時、新田軍と共に行動したもののようです。
明治二年 旧主旧領復帰嘆願運動を記した内藤十湾調一「出陣日記」の中に「瀬田右の平助」と
ありますが、瀬田右とは現在の何処でしょうか?御存知の方、教えて下さい。
私の4代前も同名で、陸中国南閉伊郡〜の除籍謄本があるのですが・・・
584 :
しったかぶり:04/06/15 21:09
訂正 <その時の総大将は時の甲斐源氏の惣領だった、ということです。>
これは断定できませんね。
さて、この重陳状はやっぱり面白いんですが、これにつづいて
同廿二日於高時禅門館、生補海道弥三郎、取高時
一族伊具土佐孫七頚畢、
とあります。この頸を取られた伊具土佐孫七ですが、
のちに工藤貞行の譲り状に以下の部分があります。
元亨三年工藤貞行譲状 (1323年)
略
ゆつりわたす、ひたちの國田む
らの村、みちの国いくのしやうかな
はらの保のうち、かた山のむらの御
たいくわんしき、ならひにかまくら
西御門の地事、
略
ここに、「いくのしょう..」とありますが、これは
伊具荘、金原保、片山村で現在宮城県伊具郡丸森町との事ですが
この頸を取られた伊具孫七がこの伊具荘の人だとすれば運命の
不思議さを感じてなりません。
>583
瀬田石だと鹿角市に、ありますね。
585 :
日本@名無史さん:04/06/16 00:30
バツラジに南部vs津軽キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
深夜の知的バカラジオで語られるとは寝耳に水。
588 :
しったかぶり:04/06/16 22:14
又訂正です <のちに工藤貞行の譲り状>
のちではないですね。1323年ですから、逆に10年前です。
<高時禅門館>とありますから、南部勢は北条高時屋敷へ突入してたんですね。
「太平記」を読むときはそのへんのことを思い出して下さいね。
>>587 そう、それです。詳しい内容ですが
織田家の末裔と明智家の末裔が本能寺で和解したというニュースを取り上げたのです。
それを素材にして、他に今に遺恨を残す関係でどのようなものがあるのか
浅野家と吉良家、会津若松市と萩市といった具体的な例が挙げられていったわけですが、
ここで南部家と津軽家が真っ先に話題に出たというわけです。
590 :
日本@名無史さん:04/06/19 01:46
すいません。突然質問で恐縮なんですが
七戸藩主だった南部信民の父、南部信也の出自というか系譜について教えていただけませんでしょうか。
いろいろ調べてもわかりませんで・・・
南部正信家譜
利済叉其一族ニテ信濃守利幹ガ孫南部主水信駕三代ノ後ナル左近信也ガ第四子
璋五郎信民ヲ養フテ子トナシ嘉永二年五月六日信誉ノ嗣トナセリ
>>591 ありがとうございます!
系図にすると
利幹┬利雄─利謹─利済
└某─信駕─某─某─信也─信民
といったところでしょうか。
某の名前も分かればうれしかったのですが、でもとても参考になりました。
感謝です。
593 :
日本@名無史さん:04/06/22 16:27
南部って不思議な苗字だよね、なんで北部とか西部はいるか。。東部なんているか。
漏れは岩手沿岸在住の南部家の庶流なんだが、それって威張れる?
597 :
日本@名無史さん:04/06/28 20:41
>>595 西部はいるんだよ。芦屋雁之助・小雁兄弟
598 :
しったかぶり:04/06/29 22:18
すみません <訂正>
>>550の
1の裏(本当は表)に 源某書状
2 〃 「金頼清」書状 二月廿一日付け
3 〃 「沙弥道覚」御返事 二月廿六日付け
4 〃 「安倍祐季」書状 二月廿日付け
5 〃 某書状 名前と日付は 欠
です。日付が重要な書状なのにすみませんでした。
一昨年から青森県教育委員会編の青森県史資料集が発刊されていましたが
今年やっと南部氏中世資料編が刊行されました。それを調べましたら以上のようになりました。
入道跡注文4番は、建武元年8月6日になっております。(NO443 P231)
それで、「祐季書状」はやっぱり建武元年だと思われます。
>>380 武田若狭守新羅姓ってなんだろ。源朝臣や源氏じゃなくて新羅姓、どうゆう意味だ?
新羅三郎の流れだよ〜ん
って言いたいんじゃ?
実は南部公(波木井氏)の本姓は加賀美だったりする。
加賀美だとしても新羅三郎の流れだろうが。
603 :
しったかぶり:04/06/30 20:47
で、なんで新羅"姓"になるのか。むしろ交易の面でフカシ入れたのかと思ったんだけど
605 :
しったかぶり:04/07/01 23:06
良い機会ですので自分なりに訳してみました。
読んで下さい。あくまでも物語と思ってますが、面白いんですよ。
「下国伊駒安陪姓乃記録 」 1
□時住焉享徳元年 享徳元年(1452年)
春來奥乃東隅田名 奥の東隅、田名部に来て
部令知行於是於 ここを知行して、蛎崎と号す。
号蛎崎也河野加賀 河野加賀守、越□政通その先祖は
守越□政通其先祖 唐土越國王で海を流れ成務天皇
者唐土越國王流海 三十年に来たりて住す。
人王十三代成務天皇 □□時天皇哀れみて伊豫の國を
御宇三十年始來住 賜故...
□和朝□時天皇憐
愍豫賜伊豫國故
<604氏 何とも言えないですね。 「新羅の記録」を読んでみたらいかがでしょうか?
606 :
しったかぶり:04/07/01 23:14
その2です。「下国伊駒安陪姓乃記録 」 2
義季 安東太 義季 安東太
後花園院 後花園院
享徳二年楯籠津軽 1453年 津軽大浦郷おいの倉館
鼻輪郡大浦郷狼 に立て籠もっているときに南部六千余騎
倉館之處被攻南部 責められ死亡した。
之軍勢六千餘騎而 残党は退散し深浦の館に籠もった。
生害畢本所侍生殘□
退散築深浦之館而
籠焉
六千余騎はおおげさかと。
607 :
しったかぶり:04/07/01 23:29
その3です。
下国伊駒安陪姓乃記録 」 3
安東太 安東太
政季 潮潟重季之嫡男 政季 潮潟重季之嫡男
十三湊破滅節弱冠而被 十三湊が落ちたとき幼年のため
生虜於糠部八戸改名 生け捕られ糠部八戸で(育てられ)
安東太知行田名部其後 安東太と改名し田名部を知行した。
下國義季生害惣領家 その後下國義季が死亡し惣領家が
断絶蛎崎武田若狭守 断絶した。 蛎崎武田若狭守
信廣新羅姓 (新羅姓))
相原周防守政胤河野
608 :
しったかぶり:04/07/01 23:39
その4です。
後土御門院 庚寅
文明二年正月貳九日政 1470年1月9日政季が津軽に討ち入り
季打入津軽攻藤崎之 藤崎館を攻めたが退却した。
館引退而後長木大 そののち長木大和守が謀叛し
和守起謀叛長戌申 長享二年?1488年 河北
亨二年三月十日河北 □野城出死亡した。
□野城而政季生害 森山飛騨守が頸を打った。
森山飛騨守奉討御 泰厳宗公大禅実院戸号した。
頚也号泰厳宗公大
禅実院
長々と失礼しました。図判から読みましたので間違いがあると思いますが
その時はごようしゃのほどを。
我こそは八幡太郎義家、でも八幡は姓じゃないよ。
「義光、新羅三郎と號す、園城寺の新羅明神社壇に於いて首服を加ふるの故也
その子覺義(寺、阿闍梨)」
義光パパの頼義も新羅神社信者だったらしく、長男は八幡太郎義家、次男が
加茂次郎義綱、で三男が新羅三郎義光。神社マニアですな。
おそらく八男は春日八郎になったかと。。
ちなみに、新羅神社は僧円珍が遣唐使から帰ったときに、向こうで新羅人
が拝んでいた神社を仏教護持のために持ってきた天台宗園城寺のありが
たい守り神(国宝)ということになっている。
http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/picture/01.htm >>604 >むしろ交易の面でフカシ入れたのかと思ったんだけど
いくら夷千島主(王)だって、李朝と新羅が違うくらいは知ってると思う。
613 :
日本@名無史さん:04/07/03 16:28
>>612 ( ・∀・)つΩヘェーヘェーヘェー 9代目の靖国神社とはねえ。
定年が75歳。最大7年務めるのか。
614 :
日本@名無史さん:04/07/03 17:56
>>613 言い方は古いが靖国神社に賊軍だった盛岡藩の末裔が就くっていうのは
ひょっとすると何か新しい動きでもあるのかね?
615 :
日本@名無史さん:04/07/06 07:22
現当主・利昭氏に後継ぎはいらっしゃるの?
誰か教えて〜!
南部公といえば、学習院赤化事件では、「赤い華族サマ」といわれ・・・。 (以下自粛)
南朝の忠臣のプライドを捨て、北朝に寝返るとは師行公も泣いておられであろう。
八戸南部と三戸南部は違うでしょ。
根城南部(遠野南部)→南朝
三戸南部(盛岡南部)→北朝
では?
ついでに>592
>利幹─某─信駕─某─某─信也─信民
は、
利幹─利視─三戸主水(万之助)信駕─雅楽助信敞─芳都(廃嫡)─左近信也─璋五郎信民
になるらしい。南部三十三代利視の五男が信駕だが、利幹─利視は兄弟なのか親子なのか
わけわかめなので、詳しいことはしったか君が説明するはず。
(角川日本姓氏歴史人物大辞典3 岩手県姓氏歴史人物大辞典 角川書店 平成十年刊)
620 :
日本@名無史さん:04/07/07 16:53
>>618 南部氏 →三戸南部→盛岡南部(=北朝)南部伯爵家
波木井氏→根城南部→遠野南部(=南朝)南部男爵家
※近世八戸藩は盛岡南部の支族。南部子爵家。
おおざっぱに書くとこうなるね。
>>605だけを読むと、越王の子孫河野政通(越智姓)が陸奥田名部を領して蛎崎を号したってことになる?
江戸時代の人間、しかも家記の編纂を任されたような人物が
「氏」(当時、既に「姓」と混同されてたのか)と「字」(あざな)の区別も
つかなかったってのは、いくらなんでもちょっと信じがたい。
タイトルからして「下国伊駒安陪姓乃記録」なわけで、「安倍」「越智」「新羅」が同列で扱われている。
なぜ「源」ではなく「新羅」としたのか
当時の朝鮮との交易上、かつての新羅の末裔を称したってことはない?
>>611 交流を目的としたら普通、現行の王朝の末裔は騙らんでしょうな。
>下国伊駒安陪
もともと蠣崎蔵人が主家下国安藤の本家をのっとって松前氏を起こした話だし、
誰が誰やら良く分からん人物なので。。。普通は源なんて名乗らんと思う。
梁塵秘抄にだって、「同じ源氏と申せども、八幡太郎はおそろしや」っていう
くらいだから、新羅三郎の末裔を自称した松前氏が自家の記録を「新羅」之記録
とするのは当然かと。
うちらの世代だと「新羅」と書いて「シラギ」と暗記させられたが、今は「シンラ」
と読むことになっているので、国名としての「シラギ」と「シンラ」大明神の「新羅」
にはあまりかかわりは無いような気がするのだが。
>なぜ「源」ではなく「新羅」としたのか
源氏だけに「ゲンジ名」をつかてる。三郎と同伴出勤は・・・、ちょっとだけ萌え。
>もともと蠣崎蔵人 ×
もともと蠣崎家 ○
ついでに「しんら」の記録を書いたのは三井寺の坊さんなので、自分の神社の
アピールの意味の方が家記の編纂の意味より大きい。
625 :
しったかぶり:04/07/09 21:56
訂正 「下国伊駒安陪姓乃記録 」の「記録」は「系譜」又は「家譜」
本来なら「安藤氏」と「蛎崎氏」の話題でしょうが、実は「政季」が面白いので
紹介しました。
1432年一回目の安藤氏の津軽追放の時幕府の斡旋により
(満済准后日記 永享四年十月 )和議がなって安藤氏が津軽に戻ってきてたらしいのですが
その和議の時に実は義政が安藤氏の婿になったという話があって(安藤氏関係の方の情報)
それが本当だとすれば、そのほぼ十年後南部義政が十三湊を落とした時、この命を助けられた
「政季」は実は義政の子だった!という可能性があるのではないかと思ったわけです。(妄想だね)
その後の行動は、蛎崎蔵人の乱(1457年)が絡んで登場人物が、武田信広、蛎崎季繁、
河野政通、相原政胤、北海道、下北を舞台の松前氏の「英雄譚」の世界になりますね。
「新羅」にしても蛎崎氏に聞かなければわからないでしょうね。
626 :
しったかぶり:04/07/10 20:04
「政季 」について 続き
「青森県の歴史」(山川出版)によれば、
(略)、十三湊の攻略後、南部氏も又北方世界の覇権掌握をめざし、安藤氏権力の
接収に乗り出していた。そのキーポイントは、南部氏に従順な「傀儡安藤政権」の
擁立にあり、担ぎ出されたのが盛季の弟道貞の子にあたる潮潟四郎重季の嫡子師季
(のちに改名して政季)であった。『新羅の記録』『下國伊駒安陪姓之家譜』は十三湊没落の際、
政季(師季)は弱冠にして南部氏の捕虜となったが、糠部八戸で元服して「安藤太と名乗り
「田名部」を知行して「家督を継いだ」と記している 。略。これが南部氏による傀儡政権の擁立であり、
下國安藤氏が有していた権限の乗っ取りをくわだてたものであることは明らかである。(略P.142)
このように書いてありますが、
第一に 『下國伊駒安陪姓之家譜』の内容をを歴史的事実であると思っていること。
第二に 傀儡政権の擁立であり 安藤氏の権限の乗っ取りであると断定している事
しかし
一、について資料自体どこまで信じて良いか疑問である事。
二、については、わざわざ傀儡政権など立てなくても武力で制圧出来たと思われる事。
(この時期津軽は武力制圧されている)
いかがでしょうか?このような疑問を感じます。
*ちなみに「政季」が謀叛にあって死んだことには触れてません。
627 :
四戸南部の末裔:04/07/11 14:59
こんなところがあったとは感激です。これから時々立ち寄ります。
>わざわざ傀儡政権など立てなくても武力で制圧出来たと
斉藤利夫が言っているのは、北方世界の覇権掌握を目指した南部が十三湊を
占領しておきながら、まったく放置プレイをした考古学的疑問にあるわけで。
つまり、安藤氏を追い出したものの、「蝦夷の沙汰」は依然安藤氏が持った
まま。アイヌ相手に、昆布やら、鷹の羽やら、ラッコの毛皮をくすねて、京
都でボロ儲けしようにも、出来ない。で、同じ安藤の血を北方交易が出来る
田名部蠣崎において、アイヌを支配しようとたくらんだ。っつことであろう。
結局、蠣崎と南部は杉生事件以後、しんら三郎の「同姓のよしみ」として、
仲良くしていくわけだ。蠣崎氏が武田氏(新羅三郎)を祖とするのは、南部と
お近づきになってからのことではないか? 海保嶺夫なんて、武田信廣をただ
の昆布屋って呼んでるし。
629 :
しったかぶり:04/07/12 22:17
>628氏へ
『新羅の記録』『『下國伊駒安陪姓之家譜』は江戸時代に成立したと思われます。
この資料から上記のように「北方世界の覇権掌握」「傀儡安藤政権」の擁立を目指した
などと言う見方を引き出すのはあくまで斎藤利夫氏の想像もしくは歴史的見解な訳です。それを
まるで歴史的な事実であるかように書くのは果たして正しいのかどうか?疑問に思うわけです。
>『新羅の記録』『下國伊駒安陪姓之家譜』は江戸時代に成立した
もっとも遠野南部文書だって、実際には盛岡藩に提出したものの写しだしな〜。
潮潟四郎の系統が南部支配下の田名部に行って、その後渡道、津軽狼ノ倉で
断絶した安藤宗家を継いで、さらに脱北したって流れ自体には江戸の文書だから
「東北太平記」みに信じられないことはないと思う。
中世津軽の歴史からすれば、文書資料なんて存在しないわけで、考古学的には
南部は支配下の津軽で十三湊を廃絶して、田名部あるいは北畠支配下の大浜に
重点を移したことが伺えるわけで、潮潟四郎の系統を「傀儡安藤政権」と呼ぶ
ことは、根城南部の祖、光行上陸伝説ほどには疑問に思うことでもないと。。。
>斎藤利夫氏の想像もしくは歴史的見解な訳
んなこと言ったら、南部師行が糠部在住って説も想像なわけで、あえて必要が
あって残された文書以外(都合の悪い文書は改ざんされるか、のこらんだろう
から)なんもいえなくなる。
ユリウス・カエサルが楽しいことをいっている。
「人々は己が見たいと思うものしか見ようとしない」
歴史って、自説に都合のいい部分だけを見る学問なのよん。
631 :
しったかぶり:04/07/13 21:19
歴史の楽しみ方の一つに、いろいろな資料から独自の説、もしくは仮説をつくりだす
というものがあると思います。
ですからどんな想像も、仮説もそれは歴史家の数ほどあって当たり前でしょう。
しかし「青森県の歴史」という本を初めて青森県の歴史を調べようと思って
読んだた人には、斎藤利夫氏の「説」が歴史的事実だと思われるのではないでしょうか?
それは少し間違っているのではないかと思ったまでです。
おっしゃるとおり中世津軽の文書資料は存在しない、でしょう。
それなら江戸時代に出来たと思われる安藤氏資料は自分に都合のいい説を
作り上げるために恣意的に利用されるだけでないでしょうか?
「もっとも遠野南部文書だって、実際には盛岡藩に提出したものの写しだしな〜。」
これは初めて聞きますが本当でしょうか?
「歴史って、自説に都合のいい部分だけを見る学問なのよん。」
これでは「歴史」の世界ではなく、「物語」の世界になるだけでないでしょうか?
南部師行糠部在住説はおっしゃるとおり私の想像、もしくは仮説です。
>しかし「青森県の歴史」という本を初めて青森県の歴史を調べようと思って
>読んだた人には、斎藤利夫氏の「説」が歴史的事実だと思われるのではないでしょうか
これは自己責任というものでせう。例えば、県内某地方紙じゃ縄文の源流をもと
めて中国の旅なんてやってるけど、書いている人も、仕組んでいる文化庁の岡D
も三内丸山のルーツが内蒙古にあるなんて思っていないしね。大人になると商売
気が出てくるもので、斉藤利男や師匠の入間田宣夫のリップサービスが多い傾向
は私も同意するものではある。
入間田なんて、武田蠣崎信廣の入北をこんなふうに説明してる
「南部氏による夷が島統治の強化のために、南部氏によって派遣されたと見るこ
とも不可能ではありません」(北の内海世界)
オイオイオーイと突っ込みいれたくなるのは私だけではないだろう。
>江戸時代に出来たと思われる安藤氏資料は
でもね、今のわれわれと違って湊家も松前家もお互いの資料を読んで書いて
いるわけじゃないし、異なる家の伝に「政季が八戸の虜となって安藤太郎を号す」
とかかれていたら、複数証言の一致として、裁判でも有効な証拠になる。
複数証言は信じても悪くはないと。。。もっとも湊家は八戸の家来なので八戸で虜
という部分にはつまずくのだか。系図を論議したら、秋田実季ですら自分の二代前
以前は知らんという驚くべき事実があるし、なんと言っても源氏の長者たるはずの
松平家にいたっては。。。。
同時代資料しか使えないなら、記紀はもちろん、南京事件ですら語れなくなる。
自分に都合のいい説を作り上げるために恣意的に利用されるのが「歴史」だと思ってい
たほうが、歴史なんて常に書き換えられるものなんて思っていたほうが楽ですよ。。
>「もっとも遠野南部文書だって、実際には盛岡藩に提出したものの写しだしな〜。」
>これは初めて聞きますが本当でしょうか?
多くの原本が盛岡藩の藩史編纂のため盛岡城内に集められ、火災消失していることは
有名です。歴史文書は大体が書き写しで伝えられることになっているので、
外三郡史に疑いを持たない人たちが多かったりしたのですね。
633 :
しったかぶり:04/07/14 21:46
けんかなどするつもりはありません。
同時代資料についてですが、おっしゃられる面をあると思いますが、
やっぱりそこが、歴史的事実かどうかの分かれ目になるのではないでしょうか?
諸説でたときはそれが判定の基準となるものでしょうし、万人の認められるものと
なるものと思います。
「自分に都合のいい説を作り上げるために恣意的に利用されるのが「歴史」だと思ってい
たほうが、歴史なんて常に書き換えられるものなんて思っていたほうが楽ですよ。。」
何となくあきらめの境地というものを感じますが穿ちすぎでしょうか?
青森県、それも南部にいると
安藤氏関係の諸説は、「ろくな資料もないくせによく言うわ」と言うのが
長年の思いでしたので、いろいろけちをつけたくなるんです。
>歴史的事実
これが歴史の一番難しいところなんですね。たとえば南京事件の証言で、
「捕虜の殺害は見たが、虐殺はみなかった」
という証言があれば、肯定派、否定派両方にとって自説に都合よく利用できるわけですね。
もちろん、やられた側とやった側で共通の歴史認識なんてありようが無いし、南部と
津軽で津軽開放(横領)の歴史に、あるいは安藤VS南部でもよいでしょう、
>万人の認められるものと
いう見解がありえるのかという部分に重なるわけです。
波岡城の落城年代にしても、ご承知のように・・・。
それでも歴史的な事実は存在するわけですが、解釈は多様にあると思っていたほうが楽。
というより楽しい。私は色々な見解があったほうがよいと思いますよ。
ま、安藤氏関係の諸説は、「ろくな資料もないくせによく言うわ」と言う
のではなく、逆に、「ろくな資料もない」からいろいろなことが言えると発想を転換してみ
るくらいに見たらどうかしら。
邪馬台国論争とおなじで言ったモン勝ち、言う人の数だけ説があるわけだし。
ROMってても2chにしては、しったかぶりさんの良心性はみんな楽しんでいるので。
635 :
しったかぶり:04/07/15 21:43
『南部氏が安藤氏と争い津軽から追放し、制圧した。』
という時歴史的事実ははっきりしてますが、どうして南部氏が安藤氏を
攻撃したか分かりません。その解釈は歴史家の数ほどにあるでしょう。
それが歴史の楽しみかたの一つであると思います。様々な事を想像するのは
大変楽しいことです。それを主張しあうのも楽しいことです。
それでもその時、その基になるのはやっぱり歴史的事実でないでしょうか?
それで、大変なことですが出来るだけ歴史的事実に近づく努力は大事だと思っております。
南部氏を追ってきますとこの時期から極端に資料がなくなります。
それで『新羅の記録』『下國伊駒安陪姓之家譜』等の、?、の資料に頼らざる獲なくなります。
15世紀、16世紀の北奥の歴史は分からなすぎると言うのが正直なところでないでしょうか?
<「ろくな資料もない」からいろいろなことが言えると発想を転換してみ
るくらいに見たらどうかしら。>
これは大変楽しい話ですねー。
そのうち私もその境地に達せれるかもしれませんが今のところまだ無理なようです。
(お褒めいただき恐縮のいたりです)
ところで「浪岡御所」の成立はいつ頃とおもっていますでしょうか?
637 :
しったかぶり:04/07/16 22:28
安藤氏スレでないのでこの変にしたいと思います。
最後に、浪岡御所の成立に関して以下の文をみて下さい
政季願文として有名なものです。(津軽他を回復させてくれと願ったものです。)
熊野那智山願書之事 (1468年)
右意趣者 奥州下國弓矢仁達
本意如津軽外濱宇楚里鶴子
遍地悉安堵仕候者重而寄進可申
處実也怨敵退散武運長久
息災延命子孫繁盛殿中安穏
心中所願皆令奉祈申所之願書
之状如件
應仁弐年つちのへ祢二月廿八日安東下野守師季(花押)
この中で「外濱」がでてきます。浪岡御所は確か外濱も
知行地としてたと思いますが、ここで政季が外濱を入れているということは
この時期まだ成立してないのではないでしょうか?
願文読んでの思いつきですが。
津軽衆にとって、為信は「郷土の英雄」ですからそっちの事績を優先するのでしょう。
位は高く隠棲していた人達?
ハートぶれいくな人は昔から北を目指すのです。
これって青森県の研究者だけが宇楚里鶴子遍地を下北、上北と理解しているが、北海道を
はじめ、よそではウスケシ函館ってことで一致しているよね。
浪岡御所が影響力をもっていたのが確認できるのは大浜、今別、野田玉川だけで、
師季が回復を祈願した「外の浜」は地域名称だね。Point知行地じゃなくRegionだから。
ノープロブレム。
641 :
日本@名無史さん:04/07/17 20:30
三浦半島に三戸という地名がありますが南部氏関連でしょうか。
642 :
しったかぶり:04/07/18 23:54
>640氏へ
安藤氏スレでないので恐縮です。「宇楚里鶴子遍地」についてですが
現七戸町の北西に「鶴児平」が有り「野辺地」町がありますのでそれをあわせると
「つるこべち」とよめるので「上北」というのはこの辺を指すものではないかと言う説だと思いますが、
その説は、
北畠顕家(花押) (1334年)
伊達五郎宗政申 糠部郡七
戸内野邊地事 任御下文
旨 莅彼所可被沙汰付宗政
使節緩怠者 可有其咎
者依 国宣執達如件
建武二年二月卅日 大蔵権少輔清高奉
南部又次郎殿
七戸に野辺地が入っております。それで私も安藤氏がこのあたりを領地した
事はないと思いますのでちょっと無理だと思っていました。
「宇楚里」は田名部ではないんですか?
643 :
田名部元農相:04/07/19 02:49
相馬大作事件とか、津軽越中守が轅を乗りまわして逼塞を命じられた件といい、
江戸庶民は津軽をこき下ろしていましたが、江戸庶民は南部贔屓だったんですか?
644 :
日本@名無史さん:04/07/19 02:57
,.r<弌ヾヾヾヾヾヾ`ト`、-、__
/-ニニヘヾヾヾヾヾヾヾヾヾヾ`ー-、
./ー二e `゙ `゙ ゙`ヾヾヾヾヾヾヾヾ、シナヘ
仁一彡 ゙、ヾ、ヾヾ ゙ヘイ〃メ入
f‐ニ=ツ ,.' - 、 __ チ彡ニ┤
!彡ニヽ ` ー -- 二 _ー_-- 三ニ-}
V;〃ラ /〃ニー  ̄ メ二ーヲ
ハテj ,. ニ、 、 、tヘヾi、 ヾミニソ
.l. レ < (・) > .; .;:' ,.= 、 lミ,‐ヲ
! l 、  ̄ ,! .i < (・) > レ' ノ
l ト 、 ` '"´ ,! l 、  ̄ , : ,j
`1゙ヽ ,! l ` ´ ,.イ ,/
l '; ,.:' (´,、 ,. ヽヾ ,.:' /`
.| ; ,:' ` ´ ′ヽ ,.' /
! ; ,.' _,,,_ __ ; ;' /
', ゙、"ー-ニニニ=ヽ ,.' /
ヽヾ `ー--'''ー-一''′ /
`ヽ、 、 _ノ/
` ー--一''''"´
仙台の緑ヶ丘に住んでいる
わしの妹のところに無言電話をかけてくるやつは許さん
電話会社に盗聴させるぞ
靖国神社の宮司になられるそうで、貧乏クジ引いてしまったののね。
>641
神奈川県三浦市三戸は「みと」と読みます。
三浦郡志では、内田太郎、庄司次郎、海戸五郎の三人で分領したことに由来すると記述があります。
後北条氏時代は玉縄衆朝比奈孫太郎所領との伝えが残っています。
ちなみに「戸の兄弟」は↓
http://www.town.rokunohe.aomori.jp/html/he.htm >「宇楚里」は田名部
青森県だけですね。私も田名部だとは思いたいのだが、ウスケシベチが函館のアイヌ語地名ですから
蛎崎に乗っ取られた道南と外の浜の回復を願ったとみなすのが自然なのでしょう。
三沢航空祭で一個600円もするパック釜飯を売り出して、ひんしゅくを買ったT部組の元農相さんへ
津軽信順はバカトノでしたから。
650 :
しったかぶり:04/08/04 20:56
651 :
しったかぶり:04/08/05 22:47
すみません、早とちりしてました。
文1の
1326年 (正中三年))
3月29日
工藤右衛門の尉祐貞蝦夷征罰の為に進発す。
の祐貞を 文2の工藤右衛門尉/貞祐法師と同一人と思いました。
祐貞と貞祐ですけどやっぱり違うんでしょうね。
652 :
しったかぶり:04/08/09 22:38
いつの頃からかは分かりませんが、工藤貞行の本拠地は「黒石郷」で「黒石政所」識も兼ねて
いたことは間違いないと思います。(文6)
それに、勲功の賞として顕家から、「津軽鼻和郡目谷郷」、「外濱野尻郷」をもらい
さらに、「津軽山邊郡二想志郷」、「田舎郡上冬居郷」 (文2,4)も貰ったものと思われます。
で、それらが信光へゆずられたかは、(文8、9)の顕信御教書によって明らかになります。
黒石郷、目谷郷は、「南部薩摩守」へ。冬井郷 日野間郷、外濱野尻郷は「南部雅楽助」へ安堵されています。
この年、「尼しれん」が亡くなったので顕信に安堵状を出して貰った事らしいです。
薩摩守は信光、雅楽助は政光と考えるのが自然でしょうね。(仲良く二人に分けていますね。)
1360年ですが、安藤氏、曾我氏等北朝派が回りにいた筈ですがどういう風な具合だったのか
興味は尽きません。
でも、まあ間違いなく貞行の地は根城南部氏へ引き継がれていってるわけですか。
653 :
しったかぶり:04/08/15 22:02
補足です。
文9の「南部雅楽助」宛の文書は、どういう訳か盛岡南部家の所蔵になっていて
盛岡南部の方では「雅楽助」は、信長の弟だということになっているそうです。
654 :
日本@名無史さん:04/08/16 23:14
南部利昭さんの息子は名前何ですか?あと南部治氏は南部一族の方ですか?
655 :
日本@名無史さん:04/08/17 11:33
656 :
日本@名無史さん:04/08/18 22:05
>>655 利文氏は利昭氏の実子ではなく先代の子を利昭氏が養子に入れた。
盛岡帰省中に南部幕末史を描いた小説。
「武士」松田十刻著 光人社刊 を読みました。
657 :
日本@名無史さん:04/08/19 22:53
うちのじいさん曰く伊達家の家来だったようだけど
元は南部の家来だったらしい。大船渡で金山の管理をしてたらしい。
南部にいた時はまともな扶持をもらえなかったようだけど伊達にうつってからは
300石もらってたらしい。
だから三閉伊大一揆なのね。
先祖が代々このように言ってたそうでつ・・・
「南部の家来のままだったら折れ達はなかった」だそうな・・・・。
660 :
日本@名無史さん:04/08/20 08:55
661 :
しったかぶり:04/08/20 20:30
天台寺への寄進状は、1432年、1433年ですので信光、政光の時代から
70年後になります。この間南北朝の争いがなくなり(1392年)新しい
時代へと移っていっておりますが、南部氏と安藤氏の争いが激化してゆく時代
とでもいえるでしょうか。
寄進状の、「源家行」は上記の譲り状等から、目谷郷の一部だと思われますが
ここは、代々根城南部家に相伝されたものと思われますので、根城南部家の当主
だと思われます。この時の当主はだれかというと、光経か長安かと思われます。
面白いのは、此の永享四年は、「満済准后日記」にでてくる、安藤氏を津軽から
追い出した年です、「満済准后日記」は十月ですが、この寄進状は六月です。
六月には、もう戦いは終わってたのでしょうか?
662 :
日本@名無史さん:04/08/21 00:55
佐竹は曹洞宗おがんでたけど南部は何宗おがんでたねの?
全部じゃないよ
666 :
日本@名無史さん:04/08/24 15:59
667 :
しったかぶり:04/08/25 21:08
>663についてですが
詳細は分かりませんが私が主として参照しているのは
「八戸根城と南部家文書」小井田幸哉氏 1984年 八戸市発行
と
「青森県史 資料編中世T 南部氏関係資料 2004年 青森県教育委員会発行
です。
その他は、数冊の歴史書の中で引用されているの文書類です。
疑問の文書があれば、指摘して下さればありがたいです。
668 :
しったかぶり:04/08/26 20:48
源家行の二通目
奥州津軽郡日照田
天台寺奉寄進也
此内薬師堂御立 如本可有造営候
右於彼所者 任先例
可有知行状執達如件
永享五年六月十二日
修理亮家行(花押)
(1433年)
この「日照田」を現在の地図から探すと「種里」の近くにあります。
ここは当時「西の濱」の一部だと思いますが、もしここが修理亮家行
の「日照田」だとすると、もう南部氏はここら辺もこの時期には領有
していたことになります。しかし場所、情勢等いろいろ考えるとそう
断定していいものかどうか...。悩ましいところです。
>>667 そうゆうわけじゃないです。
>>『新羅の記録』『下國伊駒安陪姓之家譜』は江戸時代に成立した
>もっとも遠野南部文書だって、実際には盛岡藩に提出したものの写しだしな〜。
「遠野南部文書」という名の古文書群が
原本の(残って)ない書写史料なのかきになったわけです。
その群の一部が盛岡藩の歴史編纂に集められ、消失しているという事
671 :
しったかぶり:04/08/27 21:29
よく分かりました。ありがとうございました。
写真で文書類を見る限りそれらの区別がつきませんね。
原本がなくなっても今まで発表されている文書は「本物」と思って観ることにします。
どの原本が「消失」しているか知りたいとこですね。それが何等かの
意図があったとすれば、それはそれで興味深いですから。
さてもう一通の寄進状
奉寄進
津軽田舎郡平内郷内
五千刈
渡申候 仍執達如件
永享四年六月廿七日
前伊勢守親経(花押)
(1432年)
この「平内」は現在の平内ではないのではないでしょうか?田舎郡は「外濱」
を含まないと思われます。どこでしょうか?「前伊勢守親経」もさっぱりわかりません。
672 :
日本@名無史さん:04/09/03 06:52
>前伊勢守親経
北畠氏ではないですか?
673 :
しったかぶり:04/09/03 23:24
そうかもしれませんね。
「平内」が何処かがはっきりしないし、「浪岡御所」の成立も何時かは
結局分からないようですから何とも言えませんが、「伊勢守」あたりがそれらしく
も思われますね。
674 :
しったかぶり:04/09/05 09:45
さて師行への国宣です。
建武二年三月十日北畠顕家国宣
(顕家花押)
外濱内摩部郷并未給村々、
泉田、湖方、中澤、真板、佐比内、中
目等村、被宛行南部又次郎師行
同一族等候、可沙汰付之由、被仰政所
畢、然而同莅被所、無事之煩、可令
沙汰付者、依仰執達如件、
建武二年三月十日 大蔵権少輔清高奉
尾張弾正左衛門尉殿
ほぼ外濱の主要な地です。
安藤氏の外濱の勢力が一掃されているように思います。
これと工藤貞行の分をあわせると南北朝期には南部氏の津軽
における勢力は相当と思われます。
さらに、曾我氏が南部氏に討たれた(多分)の闕所地はどうなったか?です。
普通に考えれば南部氏がそのまま引き継いだと思われます。
そうなると、津軽の三分の一くらいは南部氏が支配下に置いたと言って
良いんでないでしょうか?
675 :
安東宗季:04/09/11 00:41:29
南部は差別が激しいからな
保守
677 :
日本@名無史さん:04/09/20 14:52:47
>
>>656 >利文氏は利昭氏の実子ではなく先代の子を利昭氏が養子に入れた。
確か三年程前に利昭氏が伊達泰宗氏と対談した際、ご自身の家族構成について述べられていました。
氏は7人兄弟の3番目で、上に2人の兄上がおられ、下の4人はいずれも妹君だとか。
しかし長兄はすでに他界され、次兄は他家に養子に行かれたと述べられていました。
となれば利文氏はこの他家に養子で行かれた次兄ということなんでしょうか…?
678 :
日本@名無史さん:04/09/21 12:24:29
>>677 亡くなった長兄(先代)の長男が利文氏。
そろそろROMる身にもなってね。
680 :
しったかぶり:04/09/25 21:50:07
名前: しったかぶり
E-mail:
内容:
http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/hatanosshi.htm 又々、安藤氏ですが、上記の内容は簡単にいうと「安藤四郎」が建武二年以来
先祖代々相伝してきた、「陸奥国山邊郡亀山郷」を横領しているから「波多野次郎義資」
に返せと、二度にわたって、訴え出ているものです。
建武二年に詳細は分かりませんが、「山邊合戦」が行われており、これに関した物でしょうか?
山邊郡は現浪岡町周辺ですが、「亀山」という地名は地図を見ている限り見つけれません。
「波多野氏」もこれ以外に見あたりません。更にこれはどこに訴え出たのかも分かりません。
二通目に曾我氏が出てくるので、北朝方かと思われますがこの文書が南部氏が持っているのも
不思議です、南部氏が討ったかもしれませんね。
この文書で、一番不思議なのは「安藤四郎」と書いてその下に二行に分けて
「実名不知」とわざわざ書いていることです。どういう事でしょう?
681 :
しったかぶり:04/09/25 21:51:33
続き
さてこの、安藤四郎は南朝方として大活躍しております。
暦応二年十一月一日曽我太郎貞光軍忠次第事 1339年
目安
曾我太郎貞光軍忠次第事
一、去六月安藤四郎以下御敵等、尻八楯打入、依令 (尻引か?)
致合戦。御奉行発向之時、同心致軍忠之間、若党中
間等、或打死、或手負。分取不及注文御披見候了。
同九月廿三日、又御敵等貞光楯寄来之時、若党矢木
弥次郎・同太郎・中野弥八・野呂彦八・恵藤三郎・
中間二郎大郎打死仕候了。同十月、尾崎合戦之時、
分取五人仕候了。其外毎度合戦於軍忠者、不可勝
計。仍賜御判形、為備後証。粗目安言上如件。
暦応二年十一月一日
承候了(花押)安藤太師季
安藤師季の花押のある珍しい文書ですが津軽中を暴れ回っております。
これが書かれたのが、1339年で先の「波多野氏」の文書は一通目が1345年
二通目が1345年付けです。少なくとも1345年頃までは安藤四郎は南朝方として
頑張っていたようです。
南部てつびんがほすいけど、
あれって使ってて錆びない?
684 :
しったかぶり:04/09/28 22:03:06
南部氏の事でなく恐縮ですが、南部家文書に60通くらいの曾我家文書があります。
そのなかでちょっと特異なものがありますのでご紹介します。
曾我資光譲状
略
、すけミつニゆつりあたへられ候て、
すかねんちきやうさをいなく候ところニ、おやよりさきたちまいらせ候あいた、 先立
てつきせうもんをあいそへ候て、恐れなからしんふそかのミつよりニ、 *二行
かのところをゆつりしんしやうせしめ候、いかなるしんるいいてきたり候て、
略
元亨二年五月十五日
そかのよ一すけミつ(花押))
資光
親父曾我光頼 (しんふ)
一旦、譲られた物を親より先に死ぬので、譲りかえしているものです。
同じ日付で三通あります。
どうして死んだのかは、何も書いておりませんので分かりません。
(元亨二年は1322年、津軽大乱の年ですのでひょっとしたら合戦で
疵でも負ったものでしょうか?)
685 :
しったかぶり:04/09/30 22:58:03
資光に譲り与えられ候て、数ヶ年知行相違なく候ところに、
親より先立ち参らせ候間.....
何となくぐっときますが、さてこの後の事です。資光には幸い
子があったらしく光頼が「沙弥光称」となって5年後 その譲り状があります。
沙弥光称曾我光頼譲状 1327年
(端裏書き)
「おと房うおおひらかなとりのゆつり状」
譲渡
津軽平賀郡大平賀郷并なとりのこほり四郎丸郷おたかせのむらの事
右、かのところところは、光稱ちうたいそうてんのそりょう、ちきょうさおいなし
、しかるを一子たるによんて、をとはう丸にてつき証文たいたいの御下文をあいそへて
、のこるところなく、ゆつりわたすところ実正也、しかれはこの状にまかせて、
ゑいたい知行すへし、又いわたての郷のゆつり状ハ、去年かせんにいつるとき、
自筆をもんてかきあたへしうへハ、さおいあるへからす、仍譲状如件、
嘉暦貳年九月三日 沙弥光稱(花押)
「乙房丸」のちの「曾我光高」となって鎌倉陥落を迎えます。
686 :
しったかぶり:04/10/01 22:28:04
続き
左衛門尉政綱奉書
曾我人々相共常葉可警固之由、被仰下候、御書下如此候、仍執達如件、
元弘三年六月三日 左衛門尉政綱(花押)
曾我左衛門太郎入道殿(光頼)
*常葉 現鎌倉市常磐
政綱着到状
二階堂三辻役所警固事、相共勤仕候畢
元弘三年十月十日 政綱 (花押)
曾我乙房丸 (光高)
なんとなんと、この祖父と孫が元弘三年六月には鎌倉にいて、祖父は「常葉 現鎌倉市常磐」
で警固、十月曾我乙房丸(光高)は「二階堂の三辻」の警固をしております。
何時鎌倉に出たのでしょう?念のために申し上げますと鎌倉陥落は五月二二日です。
両人とも新田側について合戦したのでしょうか?
この時期、南部政長も鎌倉にいたはずです。なんとも不思議な縁としかいいようがありません。
さらにこの「光高」は後に「曾我太郎貞光」と名乗り、政長等と北条側と戦い、残念ながら
南北朝の争いが始まると、北朝側について政長と戦います。
(さてこの「政綱 (花押)」はどなたでしょうか?鎌倉警固をしてますので新田側の武将でしょうけども。)
街道も整備されていない時代にいったりきたりで大変そう。
688 :
日本@名無史さん:04/10/02 01:28:09
ほしゅ
690 :
しったかぶり:04/10/12 21:27:54
沙弥光称 曾我光頼 譲状案 1334年
譲渡
奥州津軽平賀郡内大平賀・岩楯、并なとりのこほり四郎丸おたかせの村内
小若四郎名之事
右、かの所々者、光稱重代相傳の所領、知行于今さをいなき間、子息曾我乙
房丸に段歩をのこさす、代々御下文をあいそへて、譲渡ところなり、但岩楯村
の内女房のふんに田壹町・やしき壹宇、并女子くろ御前ニ、田五反・やしき
壹宇譲与訖、彼等一期後者、いつれもいつれも惣領乙房丸一円になかく
知行すへし、すへてのさまたけあるへからす、仍譲状如件、
正慶三年五月十五日 沙弥光稱 (在判)
これを書いて間もなく亡くなったのでしょうか?
これで不思議なのは「正慶三年」という北朝年号を使っていることです。
鎌倉で書いたのかもしれませんね。曾我氏関係は以下を見て下さい。
http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/soga.htm
691 :
日本@名無史さん:04/11/06 22:55:15
ほしゅあげ
692 :
日本@名無史さん:04/11/06 23:22:41
天下取りももうすぐだんべ。
621 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/10/27 19:10:20
東北の大名・南部家の現当主(南部恒産社長)が、
皇統(後陽成帝系・一條昭良派)とは驚き。
驚く事でもないわけだが。
694 :
日本@名無史さん:04/11/21 00:12:59
>>693 次の次の次の天皇候補竹田君より南部氏のほうが平成皇室に男系で近い。
じゅうぶん驚きだとおもうが
東北に落ちた時点でダメぽ
肥溜めの中から「わしゃ高貴じゃ」などとさけんでもねー
それはいえる
例えがおかしいな、アンチ東北の方はいらない。
698 :
日本@名無史さん:04/11/22 21:19:12
現当主の利昭氏は東京生まれの東京育ちですが、何か?
しかも靖国神社宮司。
東北と離れれば離れるほど良い。
人類普遍の法則。
それは確かにその通り
701 :
しったかぶり:04/11/23 20:24:12
間が開きましたが、またまた、安藤氏、曾我氏、南部氏の争いについてですが
一、安藤五郎二郎事、所存之趣、旁以非無疑貽候、所詮
外濱ヲ押領之志候歟、足利方ヘハ自國方預由ヲ
申、國方ヘハ自足利方預之由構候歟、
安藤五郎二郎の事、所存の趣、はなはだ以て疑貽無きにあらず候
所詮、外濱横領の志候か、足利方へは國方(國府)から預かったと言い
國方へは足利から預かったと構え候、
この安藤二郎の狡い対応で顕家はかなり安藤氏に不審を持ったと思われますが、
この時期北条方の残党が「持寄城」に結集しつつあり、どうにかして安藤一族を
顕家方につかせ、北条方を討とうとしており師行に、祐季、明師を使って
説得させろと指示しています。その甲斐があってか11月頃「持寄城合戦」が
あって、ここに北条方は糠部、津軽から一掃されます。
曾我氏も二派に分かれ、一族同士争いました。
この年が、建武元年(1334年)です。さて南北朝の争いが始まる建武三年
この三氏が、三つどもえとも言うべき争いに入ってしていきます。
702 :
しったかぶり:04/11/24 21:55:11
http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/soga.htm 曾我氏の資料ですがその一番最後に「貞光」の軍忠状がありますので参考にして下さい。
糠部における南北朝の争いがどうやって始まったのかがよく分かります。
長いですが読みやすい方だと思いますのでじっくりお読みになることをお勧めします。
建武三年と言えばこの文書が書かれたときより13年も前になります。
13年間の戦いの恩賞を石塔義房に要求しておりますが、おかげで貴重な資料が残りました。
顕家が危惧してたように、やっぱり安藤五郎二郎が首謀者となりました。
いろいろ感想がありますが、一番最初に、おや?とおもったのは
何故、安藤五郎二郎が御教書をたまわり、又津軽合戦奉行になって、
兄の師季(この時はまだ高季?)がそうでなかったのか?
更に、安藤五郎次郎家季称下給御教書、この中の「称」の一字がよけいな気がします。
普通は、安藤五郎次郎家季下給御教書、 御教書を下し給わり、で良いと思いますが。
なんととなく、本当か?と曾我貞光が安藤氏を信用してない気がします。
いかがでしょうか?
703 :
しったかぶり:04/11/25 22:36:15
この貞光の軍忠状(土台)は13年間をまとめて書いております。
その節目節目に一見状とか軍忠状があります。
「建武四年軍忠状」にも、この中の建武三年五月廿七日の合戦の模様が書かれており
ます。
略
一同年五月廿七日、御奉行御楯押寄諸方敵
致合戦之時、貞光之手勢,同一族等計、押寄倉
光之楯、致終日合戦之時、
略
倉光之楯とは倉光孫三郎の小栗山楯のことですが、(現弘前市)
その前の「御奉行御楯」とは「家季」の楯とのことです。
家季の楯を四方八方から攻めたとあります。記述からみると小栗山楯の近くのように
思いますがはっきり分かりません。元弘前市のどこかに間違いはないようですが、
さてどこにあったのでしょうか?
この後「家季」が消えてしまいます。(そんな感じがします。)そういうわけで
一寸興味があります。
704 :
しったかぶり:04/11/26 21:40:48
第一次顕家西上軍が多賀國府を発向したのは、建武二年(1335年)10月で、帰国したのは
建武三年(1336年)6月です。この留守中に挙兵しています。正月といへば、今の二月頃で
雪も深いし寒さも一番きつい時なのに、吹雪いたりしたら大変だったでしょうね。
さてこの中で名が出てくる南部方と其の楯、城をまとめてみますと次の通りです。
藤崎城 對御敵 南部叉次郎師行、同舎弟政長
平内城 成田六郎左衛門尉
船水楯 小笠原孫四郎
小栗山楯 倉光孫三郎
師行は多賀國府にいたことになってますが、この記述からだと藤崎城にいたように
も読めます。藤崎城は落ちたようですが、平内城はもちこたえたようです。(小井田幸哉氏)
敵方は
曾我一族
安藤五郎次郎家季
安藤太師季 (他安藤一族)
浅利清連
といったところでしょうか。
705 :
しったかぶり:04/11/27 22:52:39
其後九州御下向之時分、顕家卿又下國之間、當國
賊徒等弥蜂起之、御方之軍勢等大略雖心替申之、貞光
始終致無貳之軍忠之間
これは、顕家が「九州」まで下向し、多賀國府へ戻ったところ
「賊徒」が蜂起し更に多くの軍勢等が北朝方から南朝方へと心替り
した、しかし貞光は無二の忠誠を貫いたと自画自賛しているところです。
しかし、他の武士達にしてみれば一族の命運をかけてるわけですから
悩んだだことでしょうね。
成田、小笠原、倉光等は加伊寿御前の妹達の婿さんではないでしょうか?(大正十三造氏)
これはなんだか楽しい推測だと思いますが、残念ながら証明出来る資料はないと思います。
706 :
日本@名無史さん:04/11/28 18:04:11
707 :
日本@名無史さん:04/11/29 22:54:30
708 :
日本@名無史さん:04/11/30 11:32:25
709 :
日本@名無史さん:04/11/30 21:34:10
379 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/11/29 00:43:30
>>375 新潮によると旧久邇宮さんの推薦らしいね。
しかし、江戸初期から現代まで10代でくるというのもすごいもんだな。
380 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/11/29 09:07:27
学習院卒とあったけど、神主の資格とかはどうするのでつか?
381 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/11/29 12:21:33
即席の講習でとるんじゃないの?
382 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/11/29 13:15:07
現在の靖国神社の宮司、皇統の南部利昭さん。
http://www.jinja.co.jp/ycBBS/Board.cgi/001/db/ycDB_news-pc-view.html?mode:view=1&view:oid=178 系図:
(後陽成天皇)ー(一条昭良)ー(醍醐冬基)ー(醍醐冬煕)
ー(醍醐経胤)ー(醍醐輝久)ー(四条隆生)−(四条隆謌)
−(一条実輝)ー(南部利英)−(南部利昭)
383 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/11/29 16:00:02
そろそろ、南部ヲタがウザくなってきた。
うざ
711 :
しったかぶり:04/12/05 18:30:30
曾我師助はこの時相模国足柄郡曽我庄の曾我氏の当主ですが、
この時わざわざ御教書を下されてはるばる津軽まで助勢にきて南部勢と戦いました。
糠部に侵入して壱年以上に渡って戦った模様ですが、ご存じの通り敗退し引き揚げました。
さてこの師助から貞光に譲り状が残ってます。
曾我師助譲状 (1342年)
譲渡 本領曽我郷内田畠等事
合参段内 田貳反/畠壱反 号河原田/四郎次郎作 者 ( /は二行 )
右彼田畠者、雖為師助重代相伝之本領、乍一族与一左衛門尉為猶子、
限永代所譲渡也、仍之状如件
暦應五年卯月廿九日 佐衛門尉師助(花押)
津軽曾我氏はこの貞光の子の代で滅ぼされますが、本家の曾我氏は現代まで無事続いたようです。
この南北朝の戦いはこの時期が最盛期で、1340年以後はそれほど大規模な戦いが起きてないような
気がします。
南部氏、曾我氏、浅利氏、安藤氏、この中でもやもやしてるのが安藤氏で、安藤は
南朝方だと思っている津軽衆がいるし、はては南部氏が北朝方を裏切り最後まで南朝の忠臣なのは
安藤だったという説まで流布しているようです。
私は、途中から、安藤氏は日和見主義、または洞ヶ峠を決め込んだんじゃないかと思っていますが。
712 :
日本@名無史さん:04/12/05 18:54:36
375 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/11/28 19:48:10
現在の靖国の宮司、南部利昭さん。
http://www.yasukuni.or.jp/new/guji.htm 東北の南部藩の御当主だが、
実は、この南部家には養子が何人か入っており、
父系で辿ると、後陽成天皇(江戸時代の最初の天皇)の
10世の孫だったりする。
系図:
(後陽成天皇)ー(一条昭良)ー(醍醐冬基)ー(醍醐冬煕)
ー(醍醐経胤)ー(醍醐輝久)ー(四条隆生)−(四条隆謌)
−(一条実輝)ー(南部利英)−(南部利昭)
376 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/11/28 19:55:50
713 :
日本@名無史さん:04/12/05 18:59:56
うざ
714 :
日本@名無史さん:04/12/05 23:10:11
近世こもんじょ館はもう見れないんですか?
715 :
しったかぶり:04/12/11 00:08:02
この土台案の中に、建武三年六月と建武四年に田舎楯合戦をしたとありますが
この時の田舎楯の主は、工藤貞行らしい。(小井田幸哉氏)そうなると、平内、
藤崎、船水、小栗山、更に田舎楯と津軽のこの時の情勢はどう見ても北朝有利とは
思えませんね。
さて1338年(延元三年)に顕家、師行が石津に戦死した翌年、
曾我貞光軍忠状 (1339年)
目安
曾我太郎貞光大光寺合戦忠節次第事
一、去三月、為大将軍先代越後五郎殿、南部六郎普類并成田
小次郎左衛門尉、同六郎、工藤中務右衛門尉跡若黨等、安保
小五郎、倉光孫三郎、瀧瀬彦次郎入道以下御敵等、令乱入國中、
大光寺外楯打落之處、馳向貞光最前、令致散々合戦之間、一族
曾我孫次郎師助代官等馳来、令致合力候處、経三ヶ月令退散了
此間分取、討死、手負、不可勝計、仍賜御判形、為備後證、
粗々目安言上如件、
暦應二年五月廿日
「承候了(花押)」(安藤師季)
大光寺に南部方が押し寄せたときの軍忠状ですが、この中の
「工藤中務右衛門尉跡若黨等」(工藤氏は貞行)の、「跡の若党等」とあるのは
もう亡くなってるということではないでしょうか?そうだとすれば工藤貞行が
師行と一緒に従軍し戦死したという説も本当かもしれませんね。
誰にも聞かれてないのに
ここまで書くのは池沼寸前だね。
いや俺は読んでるぞ。できれば読み下してほしいとは思ってるが・・・
楽しみにしてるので続けて下さい。 >>しったかぶり
俺はウザイ。
正直キモイからもう来るなよ。
漏れもしったか野郎に用は無いに一票
おまえら史料を解釈できる人材をこの板から追放したいのか?
板のレベルを落としたいのか?
俺はいやだ。ここは学問板だ。だいたい学問板なんてみな「しったか」するため
の板だろうが。どうせならレベルの高い「しったか」を読みたい。
直前の流れを見れば荒らしたいだけの池沼が流入してるのが一目瞭然
てことはレベルの低い715は来なくていいってことでFA
723 :
日本@名無史さん:04/12/12 22:10:41
いろいろ、湧き出ておもろい、このスレ。
ageとこ。
厨房はROMしていなさい。
>>722君あたりがレベルの高いレスをしてくれるなら相手をしてあげる。
レベルが高い低いかどうかは知らないが
>>715はキモイね。
池沼をありがたがることはない。
東北人が歴史板に出入りするのが間違いだな
場面転換に、どうでもいい事を一つ。
旧約聖書に、特殊なお供え物として、「油塗りたる種入れぬせんべい」ってのが出てくる。
昔は、南部せんべいには、ダビデの紋章が押されてあったそうだ。それだけ。では
それがまた妄想捏造に使われるわけだ。
東北超古代史とかってなw
ホント東北人に歴史を語る資格無し。
731 :
しったかぶり:04/12/13 22:38:30
浅利氏は元々甲斐源氏の一族ですが、この時期秋田の比内郡、「獨錮」に城を
構えていました。いつ頃からかはよく分かりません。南北朝の争乱が始まると
北朝方について、最後まで奮戦します。長く続いて、戦国時代に滅びます。
さてこの時期の注進状があります。
建武五年五月十一日 (1338年)(南朝延元三年)
浅利清連注進状
浅利六郎四郎清連注進事、去建武三年正月十三日、清連為
令退治國司方凶徒等、馳越津軽中之處、曽我太郎貞光、最前
馳参御方、於津軽中國代等楯々、抽軍忠、次比内郡凶徒新田彦次郎
政持等、并鹿角郡國代成田小次郎左衛門尉頼時、同南部又次郎師行
代官等、小笠原四郎、鳴海三郎太郎、以下凶徒等、自令株伐以来、
抽度々忠節之間、恐々令致注進者也、以此旨、可有御披露候、恐惶謹言、
建武五年五月十一日 源清連(裏花押)
進上 御奉行所
浅利清連注進状
浅利六郎四郎清連注進の事、
さる建武三年正月十三日、清連国司方の凶徒等を退治せしむる為
津軽中に馳越すのところ、曽我太郎貞光最前御方に馳せ参じ津軽中
の国代等の楯々において軍忠をぬきんず。次に比内郡凶徒、新田彦次郎
政持等、ならびに鹿角郡國代成田小次郎左衛門尉頼時、同じく
南部又次郎師行代官等、小笠原四郎、鳴海三郎太郎、以下凶徒等を
誅伐せられし以来よりたびたび忠節をぬきんずるの間、恐々注進を
いたされる者也。この旨をもって御披露あるべく候。恐惶謹言
進上 御奉行所
建武五年五月十一日 源清連(裏花押)
比内、鹿角方面の南部方の陣容がわかります。注目すべきは、新田彦次郎
政持(新田氏祖)が頑張ってる事でしょうか。
キモイですよ。
733 :
日本@名無史さん:04/12/13 22:51:09
しったかイラネ
734 :
日本@名無史さん:04/12/13 23:01:22
こいつらが幼稚なクチ喧嘩を始めたスレ
みんな死んどる
まさに日本史板の公害だ
>>731 おっ、本当に読み下してくれた。感謝です。
浅利氏は曽我氏の息子を預かったりして、緊密な関係を保っていたようですな。
738 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:19:50
457 :削除屋@放浪人 ★ :04/12/12 20:00:14 ID:???
>>451 レス削除依頼して下さい。
その他は様子見したり処理したり。
武田のスレ削除依頼はまたまた却下。
739 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:20:25
>>75 >武田って「スレ潰し」とか「スレ主」とか変な言葉使うよね
>自分じゃ変だとわかんないんだろうけど(w
「スレ潰し」なる言葉は既に
>>55で使ってるね。
________________________________________________________________________________
55 :日本@名無史さん :04/11/27 15:54:55
意地でも会津戦争を語らせたくない東北人
必死でスレ潰しもなんだか傍から見てると憐れだね
67 :日本@名無史さん :04/11/27 20:04:08
このスレを立てたのは武田に間違いないのだな
武田に目茶苦茶に荒らされて潰されたため、恨み骨髄に徹してるんだ
違うのなら、違うとはっきり言え!
さもないとスレ潰ししてやるぞ
________________________________________________________________________________
↑
しかし武田を叩いてる人のふりまでしてねぇ
『傍から観てると』バレバレだけど(失笑)
740 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:21:47
武田とは皇室、地方、新撰組関係のスレッドを主に荒らす変な人。
プロバイダはTIKITIKIインターネットを使用。大阪人。
武田信玄と名乗ることがあるため、「武田」とよばれることがある。
「負駄珍犬」ともよばれる。童貞説あり。
自分の立てた糞スレや、荒らし対象のスレでの見苦しい自作自演が特徴。
自作自演はageで行うことが多い。稚拙な性知識を動員したキモイレスも(笑)
戦国大名とその子孫の話題が好きみたい。
地方関係スレでは、東北人や新潟人を騙って相手を罵倒。自称・仙台市泉区民。自称京大生。
活動時間は平日、休日ともに一日中。無職認定済み。
日本史、三国志・戦国、時代劇、大河ドラマ、既婚女子、中国、削除整理板等で目撃されている
741 :
もう武田は既に規制議論板へ行ってますが、何か?:04/12/14 00:24:55
680 名前:名無しの報告 投稿日:2004/09/23(木) 14:01 ID:7BZJrKKP
一度、削除人さんが「続くようなら規制議論板行き」
と発言されてる荒しが、つぎのスレに移ってもずっと続いてるんですけど、
規制議論板行きにはならないのでしょうか?
現在Part21まで続いているスレなのですが、当初からしつこい荒しにあっています。
削除人さんの「規制議論板…」の話が出たのはPart19です。
正直、荒し行為がなければ、こんなにスレを消費している話題ではないのですが。
同様に荒されてきた、皇族外で最優先の皇位継承者は?スレですらまだPart12です。
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1086681788/67 67 名前:無外流削除宿酔 ★ 投稿日:2004/08/13(金) 19:30 ID:???
ここまで。
>>66 一部削除。
続くようなら規制議論板行きですかね。
682 :t588147.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ◆arc/U573Xw :04/09/23 14:17:48 ID:wfVcVfCS
>680
規制議論行きというのは規制議論に荒らし報告してねと言う意味に取れますが…
うーん…意思の無い投稿には見えないので
削除人さんからの報告でないと掘ってもらえない予感がします。
398 :日本@名無史さん :04/11/11 17:45:55
男系断絶!女帝出現後の天皇制を追究しよう!Part23
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1099143723/ 朝から1分に1レスのペースで進んでいるんだけど
不自然に途切れすぎw
(一例)
291 :日本@名無史さん :04/11/11 13:25:19
292 :日本@名無史さん :04/11/11 13:52:59
321 :日本@名無史さん :04/11/11 15:37:20
322 :日本@名無史さん :04/11/11 15:51:37
334 :日本@名無史さん :04/11/11 16:32:04
335 :日本@名無史さん :04/11/11 17:14:15
400 :日本@名無史さん :04/11/11 17:51:18
連投制限+トイレ休憩+オヤツタイムとかかな?
武田とは皇室、地方、新撰組関係のスレッドを主に荒らす変な人。
プロバイダはTIKITIKIインターネットを使用。大阪人。
武田信玄と名乗ることがあるため、「武田」とよばれることがある。
「負駄珍犬」ともよばれる。童貞説あり。
自分の立てた糞スレや、荒らし対象のスレでの見苦しい自作自演が特徴。
自作自演はageで行うことが多い。稚拙な性知識を動員したキモイレスも(笑)
戦国大名とその子孫の話題が好きみたい。
地方関係スレでは、東北人や新潟人を騙って相手を罵倒。自称・仙台市泉区民。自称京大生。
活動時間は平日、休日ともに一日中。無職認定済み。
日本史、三国志・戦国、時代劇、大河ドラマ、既婚女子、中国、削除整理板等で目撃されている
武田は一晩中あらしてんなよ!www
ニート野郎w
746 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:48:20
武田って大阪のヒッキーなんだ。
かわいそうだね。
毎晩独りで大変だな、武田!!
おまえのことみんな嫌いなんだってことがこれでわかったろう!!!
いつまでもオナッテンジャナイぞWWW
748 :
しったかぶり:04/12/14 23:50:29
>737さん
<浅利氏は曽我氏の息子を預かったりして...>
これはいつ頃のことでしょうか?出来ればその資料を教えて下さい。
確認もせずにかきこんでんじゃねーよ。低脳
751 :
しったかぶり:04/12/15 22:10:38
甲斐源氏が、北奥にどっときてますね。
南部氏のそれは未だにはっきりしませんが、結構早い時期に奥州にきているとは
思っています。
浅利氏は誇り高き一族ですね。それで最後まで南部氏、安藤氏と戦い、どちらにも
頭を下げずに滅んだのでしょうね。
馬鹿みたいだねw
低脳ばかり集まるな。ここはw
>>751 甲斐源氏が奥羽にどっとやって来た訳はなんなのでしょう。
755 :
しったかぶり:04/12/19 17:22:20
>754さんへ
どっと来たいうのは一寸大げさすぎますね。
関東辺の御家人が多いと言うべきでしょうか。
さて其の訳はと、聞かれても私にはよくわかりません。
どなたか、詳しい方がいるかもしれませんので、その方が
レスしてくれるとありがたいんですが。
どっと流されてきた。
日本にいられなくなった負け犬が。
東北はそうした奴らの吹き溜まり。
東北には負け犬とその子孫しかいないからねー。
IQも進学率も低い。高校野球始めスポーツもパッとしない。
高校生の平均身長は全国平均と変わらないのに平均体重が2%も上回っている欠陥民族だからしょうがないけどねー。
758 :
日本@名無史さん:04/12/20 17:39:45
787 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/12/17 21:03:02
■岩手県人会=〃殿様〃が名誉総裁に=賛助会員制度に弾みつく=朗報を「南部美人」で祝う
http://www.nikkeyshimbun.com.br/041215-71colonia.html 〃殿様〃が県人会の名誉総裁に――。
世が世なら青森県と岩手県にまたがる広大な領土を統治する血筋である旧南部藩第四十五代
当主、南部利昭氏が岩手県人会の名誉総裁への就任を内諾した
「災い」落とし「幸い」の年に 仙台・瑞鳳殿ですす払い
http://www.kahoku.co.jp/news/2004/12/20041215t15039.htm 仙台藩祖伊達政宗の霊廟(れいびょう)「瑞鳳殿」(仙台市青葉区)で15日、年末恒例のすす払
いが行われ、伊達家十八代当主伊達泰宗さん(45)らがはたきや筆などを使い、本殿の装飾品
についた1年分の汚れを取り除いた。
どっちも古い家だけど、代数の数え方は初代藩主からかな。
788 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/12/18 00:49:17
伊達が十八代ってのは初代藩主(政宗)からだけど、南部の四十五代が初代藩主からのわけ
がなかろう。
どんだけ代がわりしとんねん!
南部家は南部光行から数えてるんでしょ。
789 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/12/18 01:20:25
南部家の歴代って早死がめちゃくちゃ多い。
コピペで荒らすなよ!!
>南部家の歴代って早死がめちゃくちゃ多い。
東北人自体早死にだろ。
劣った遺伝子と劣った食生活とアル中と村社会の過酷な生活でみな早死にw
761 :
日本@名無史さん:04/12/21 18:28:09
>>755 南部御牧は山間地。いまでこそ平地もあるが昔はほとんど富士川の氾濫地だった。
国中に比べて馬を飼育するのに適してる地域とはいえない。
糠部を得たのは絶好の機会だったんじゃなかろうか。
東北は人間を飼育するのに適してる地域とはいえない。
>>760 平均寿命が低いのは子供を食べる習慣のせいです。
それを割り引けば沖縄並みの長さ。
>>758 へー、面白ね、名誉総裁は歓迎だ。
ところで南部美人美味しいよね。
766 :
しったかぶり:04/12/22 22:40:49
>761
南部氏、工藤氏、浅利氏、等共通点があるとすれば、「馬産」に長じていた
ことでしょうか。五戸の三浦氏も宝治合戦で滅んだ三浦一族だし、ここも
伊豆半島で馬の生産をおこなっていたしらしいですから。地形的にみても
平野部に本拠を構えてませんね。台地の上とか背後が丘陵地とですね。
もう一つは、「製鉄」ではでないかと思ってますがいかがでしょうか。
767 :
日本@名無史さん:04/12/23 02:53:50
2日前の読売朝刊に利昭氏のインタビューがあった。
「旧華族から次の宮司を」ということで、就任だそうで。元電通マン。
元は賊軍指定された南部の賊軍指定は、先祖が日清戦争だかで
戦場で皇族の将校をかばって戦死して、靖国に祀られたことで
賊軍指定は終わったと。
そう書いてあった。
>賊軍指定された南部の賊軍指定は、靖国に祀られたことで賊軍指定は
よっぽど賊軍であった事実にコンプレックスがあるらしいなw
769 :
日本@名無史さん:04/12/23 20:18:35
790 名前: 日本@名無しさん [sage] 投稿日: 04/12/18 17:31:10
南部の当主と伊達の当主、歴史読本別冊で対談しているけれど、好対照なんだよね〜
791 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/12/20 12:52:39
>>790 前者は人格者、後者はDQN。
東北なんてDQNばかりだろ
771 :
日本@名無史さん:04/12/23 20:47:14
南部氏の記事に関する、津軽家の当主の公式声明はまだですか?
772 :
日本@名無史さん:04/12/23 22:45:31
773 :
日本@名無史さん:04/12/23 23:26:27
774 :
しったかぶり:04/12/25 22:57:30
太平記 巻19 (延元2年 1337年 八月11日)
(略)
顕家卿時を獲たりと悦んで、廻文を以て便宜の輩を催さるるに、結城上野入道道忠
を始めとして、伊達、信夫、南部、下山、六千余騎にて馳加る。国司則其勢を合て
三万余騎、白川関へ打越給に、奥州五十四郡の勢共、多分馳著て、程なく十万余騎に
成りにけり。さらばやがて鎌倉を攻め落として上洛すべしとて、八月十九日、白川関
を立って、下野國へ打越給ふ
(略)
このあと、鎌倉を落とし足利義詮等を敗走させますが、ご存じの通り翌延元三年(1338年)
南部師行等が顕家と共に戦死します。(北朝、暦応元年)
つまり第二次西上軍は1337年八月から翌1338年5月22日迄です。
南部勢はここでシュンなとっておとなしくしてるのが普通かと思うのですが、
不思議な事に逆に翌年(1339年)糠部の南部勢が津軽へ攻め入っています。
(土台案)
一暦應二年三月、御敵越後五郎(号先代一族) 南部六郎、成田小
次郎左衛門尉以下輩、率数百騎、責入津軽中之間、貞光 、
馳向、致散々合戦、凶徒多々討取之畢、仍所残御
敵無程令没落之者也
一、暦應二年三月、御敵越後五郎(先代一族と号す。) 南部六郎、成田小
次郎左衛門尉以下の輩 数百騎を率い、津軽中へ攻め入るの間、貞光馳せ向い
散々合戦を致す。凶徒を多数討ち取り終わんぬ。よって御敵残るところなき程に
没落せられる者なり。
これは、大光寺合戦といわれてる時のものです。
この「越後五郎」が何者か謎です。「先代」とは北条氏との事ですのがだれでしょう?
これ以後あらわれてきませんね。
775 :
日本@名無史さん:04/12/25 23:01:27
また、しったかか。
鎌倉道ともいうのでしょうか、当時の交通路事情は
どういうもなのであったのかにも興味が拡がります。
777 :
日本@名無史さん:04/12/26 06:43:31
781 :
しったかぶり:04/12/26 22:29:27
>777、778
第二次西上軍の中に、北条時行が加わってます。この時期生き残り
の北条氏一族が、日本のあっちこっちで加勢してたのでしょうか。
わざわざ、北奥の糠部まで来て戦ったのも大変だったでしょうし、その後のことも
分かりません。
北条実時の息子北条顕時が通称越後四郎、赤橋殿とあります。「霜月騒動」
で一時失脚してますが、この時「南部孫二郎」が切られています。
なにか「縁」みたいなのがあったような気がしてきました。
(越後五郎が金沢流北条氏ならばですけど)
北条実時の父(北条実泰)が、通称、陸奥五郎というのも面白いですね。
面白くねーよ。キチガイw
783 :
しったかぶり:04/12/28 22:15:31
784 :
日本@名無史さん:04/12/28 22:30:21
しったかぶりを筆頭に異常者多いね。このスレ
あけおめ。
九戸政実が主人公の小説で高橋克彦の『天を衝く』って読んだヒトいます?
ぜひ感想を聞かせて下さい!
買おうか思案中なもんで。
図書館で借りるか古書店で買うならいいけど、
下巻の後半はデムパ飛びまくりですから。
デンパでなければ東北の田舎大名のミジメな歴史など語ることはできないよ。
>>788 逆にどんなデムパがとぶのか気になるな。
政実が魔王になるとか?(w
792 :
南部:05/01/09 03:28:37
興味を持ってくれている人が増えてくれて嬉しいです。
しったかぶりさん、
おくれましてしまったが。
あけましておめでとう。今年もよろしく〜。
794 :
しったかぶり:05/01/09 23:35:08
どうも わざわざ
あけましておめでとうございます。
今年もよろしく。
今ちょっと、曾我氏の滅亡を知りたいと思ってます。
自作自演キモイよ
自作自演している者は一人しかいないのでは
>>791 このスレみて文庫本買って読み出したがなかなかおもしろいね。
まだ斯波氏攻めのあたりだが。
今のところデムパがとぶ気配はない。今のところは。
798 :
日本@名無史さん:05/01/13 17:02:11
「津軽は南部にそろそろ謝ったほうが」
が大反共のうちにおわりますた。
801 :
日本@名無史さん:05/01/17 18:37:39
文庫本出てるよ、約半額だったかな。
何でもりおかかいうん神社は平仮名表記なの??誰か教えて??
このあたりの人たちって異常に池沼多いよな。
805 :
日本@名無史さん:05/02/03 08:45:16
>>804 大阪民国にくらべれば、まだまだあしもとにも及びません。数の上でも、質の上でも。
806 :
日本@名無史さん:05/02/03 13:18:21
>>805 「このあたり」に仙台や会津を含むのなら、正にそのとおりだと思うんですがどーよ?
>>806 日本人なら仲良くしなさい。
どこかの民族に踊らされてない?
自分達の生活のためになんとかして日本の血税を吸い取ろうとする薄汚い東北民族か。
東北に住んでいるのは鎌倉武士の末裔だけどな。
敗残者のなれの果てと劣った原住民のなれの果てがほとんどだけどなw
それはいえる。
民族的には明らかに日本人と違うしな。こいつら。
812 :
日本@名無史さん:05/02/06 18:38:40
日本=日の本だとすると、本来の日本は白河の関以北。
地球は丸いことを知らない人がまだいたなんて。
スレタイのマーク、熱いか痛いかでしかめっつら
してるのかとずーと思ってた
東北では義務教育もろくに受けてないのかねw
つーか日本の呼称に拘っても輝かしい白河以西の大和民族の歴史にあって
東北人が寄生しているだけという事実は何も変わらないわけだが。
朝鮮の電波とかでも言う奴いるよね。我らこそ日本とかって。
実に無意味。つーか馬鹿w
817 :
日本@名無史さん:05/02/10 23:17:57
日の本の語源ルーツを調べてみなよ。
かつては、倭 = 日の本 ではなかったことをお勉強してみなさい。
818 :
日本@名無史さん:05/02/10 23:27:33
↑続き
確かにここは『倭』ではないよ。かつては『日高見国』とよばれていた。(古代)
また中世初期まで八戸より北は『津軽』という、朝廷の支配外の土地だし。
現代の西日本優勢論からすると受け入れがたい事実かもしれないが、下北半島まで
朝廷の管理(鎌倉幕府を介在して)に入ったのは。奥州征伐の後。お勉強してね。
何を嘲笑われているか気がついていないんだな。この猿は。
嘲笑われているその行為を繰り返してるよw
アホまるだしですね
821 :
日本@名無史さん:05/02/15 18:58:10
アホでも、こんな人間以下の関西人になりさがりたくないもんだね。奈良の小林、宅間、酒鬼薔薇、寝屋川と関西人は弱い者には酷い最低な奴の宝庫。ひとばかりさげすんで、とげとげしい人種ばかり。ねじけた奴らの集団。関西人。
822 :
日本@名無史さん:05/02/15 21:37:20
全国の名字の分布を見たら
青森にやたらと名家のはずの葛西姓が多いけど、
秀吉に潰された南部領から流れてきた農民の子孫がずうずうしくも勝手に名乗ったの?
まさか血縁者が増殖したとは考えられないし。
そういうフシギなことが起るのが人外魔境のフシギなところ。
>>822 葛西氏は、遅くとも南北朝期には出羽河北郡(檜山郡。現在の秋田県能代市、
山本郡全域、青森県西津軽郡深浦町、同岩崎村)に所領を持っていて、一族の
木場袋(きばくら)氏が土着していた。
木場袋氏は、15世紀後半に蝦夷地から渡来した安東氏の嫡流と戦って敗れ、
従属することになった。喜庭(きば)氏とも名乗り、深浦に本拠を構えた。同じく
安東に従属していた蝦夷地の蠣崎季広の娘を娶ったりしている。
現在青森に多い葛西氏は、この木場袋葛西氏の子孫が大部分と思われる。
貧乏ななんたら氏以下とかは江戸時代にみんな餓死した。
上のほう以外は残らなかった。
残った人らで近親交配を繰り返し。
826 :
日本@名無史さん:05/02/15 23:40:59
>>824 スレ違いぎみなのにどうもです。
正宗に乗せられて一揆を起こした後
四散し、一部は一門をはじめ遺臣が南部に登用された。
それにしても青森だけで3400件は多すぎると思っていたけど
宮城方面以外にも西側に土着の分流がいたんですか。
まぁ、あれですな。
武士として残れたのはわずかで
多くは江戸時代は南部や津軽の素晴らしい殿様の下で農奴としてせっせと田を耕し、
名物の飢饉に喘いで、非儒教的な事までやって生き抜いたいたということは確かだと。
827 :
日本@名無史さん:05/02/19 21:29:18
弱いものを叩いて優越感に浸るだけしか能が無い関西人が、こそこそ北朝鮮の工作員の
ように書き込んでるけど、『弱者たたきの関西人→小林、宅間、酒鬼薔薇、やっぱり人間
が腐ってる人種』って書き込んだあとはどのスレでも関西人工作員は書き込みしずらくな
るみたいだね。えげつない書き込みか極端に減る。まじめな論争に差別主義者が入ってき
たら、みんなも書き込んでみなよ。ホントマジで効果あるからさ。
地域差別してるのはあなたでは?
>>827 どこのコピペかはわからんが南部スレに貼るなよ。
またすごいキチガイがあらわれたなw
831 :
日本@名無史さん:05/02/21 17:58:30
質問です。
遠野南部36代の名前を知ってる人はいませんか?
誰か知ってる人が居たら教えて下さい。
36代って称しての話で実際はそんなにいないんだけど。。。
833 :
831:05/02/22 10:21:15
身照寺という宮沢賢治のお墓があるお寺を開基したのが
日実上人(法名)といって、この人が遠野南部36代に
あたる人らしいのです。
この日実上人の俗名を知りたかったのですが‥‥
んなもん寺に聞け
しょせんはトーホクw
837 :
日本@名無史さん:05/02/25 04:20:07
静かな良スレが…。
ちなみに、釣りに付き合うと、南部地域は国の資本投下は全国の田舎地域一般
(北陸は別格として、北海道四国中国九州南東北など)
と比較して多くはないよ。それどころか、かなり国策に右往左往させられている
そんなに国がいやなら独立すればいいのに。
誰も止めないよ。
>>838 > 誰も止めないよ。
もっとも、誰も止めないのはトーホグが独立宣言した時だけだな。
他の地方の時は、一応は慰留する。
840 :
日本@名無史さん:05/02/26 21:42:37
南部重直はどうして早めに世継ぎを決めなかったの?
滅びた方がいいとおもったんじゃないの?
薄汚い東北部族の長という存在に耐えられなかったのだろう。
237 名前:日本@名無史さん 投稿日:05/02/26 15:41:49
>>234 他所のスレに出て行って暴れるどころか、ホームグラウンドで世界中から叩かれまくってい
るのでそれどころではない模様。
九州人より東北人の方が叩くのに憐憫覚えないし、必死になって反撃してくるから面白いよ。
843 :
日本@名無史さん:05/03/01 05:44:32
何か南部スレでキチガイが暴れているよ。
>>831-833 36代は調べてみたけど分からなかった。やはり
>>835 遠野の当主は慶応義塾で学んだんだね
早稲田に関わりの深い盛岡と好対照
なんだ。結局わからないのか。
無能な奴だ。
846 :
しったかぶり:05/03/03 00:45:29
1338年、顕家と師行が石津で戦死した後、北畠顕信が奥州にやってきます。
しばらくは、(1360年頃まで)この顕信が奥州南朝方の総大将となります。
南部政長が出した「御状」への返事があります。1340年頃の北奥州の
情勢が浮き上がってきます。大変面白いものです。又おつきあい下さい。
http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/ の「顕信文書」を参照して下さい。
十二月廿日北畠顕信袖判御教書 興国元年 (1340年)
花押 (顕信)
去十一月七日御状、同十二月十八日到来、
委細令披露候了
一、津軽安藤一族等、参御方候之条目 津軽安藤一族等味方に参り候の條、めでたく候
出候、併御方依被誘仰候,如此候、殊 あわせて御方誘はるる二よると仰せ候。かくの如くに候
神妙候、 ことに神妙候。
まず、安藤一族の事ですが、これだけ読めば安藤一族全員が南朝方に成ったかのように
思われますが、後の流れを見るとこの安藤一族は「安藤四郎」を指すとしか思えません。
安藤氏が南朝方だと主張する方がありますが、其の根拠を示して欲しいものです。
847 :
しったかぶり:05/03/03 21:43:58
続きです。
鹿角合戦に、将監忠節を致され候
ことにめでたく候の由感じ仰せられ候
今度、又岩手西根を退治し要害を構えられ候の条
めでたく候。この上は明春急ぎ、和賀(氏),滴石(氏)
一手となり斯波(氏)を退治せらるべく候。左様候はば
和賀、稗貫辺に馳向うべくの由、葛西一族等に仰せられるべく
候、此の途入眼(?)候はば當國の静謐子細あるべからず候か、
河村六郎御方に参るべき由申さしめ候なれば相構えてよきように
誘い仰せられべく候、所望地等の事注進に従い御沙汰へらるべく
候也
先年(1339年)に、津軽方面で曾我氏、安藤氏等と戦っていた政長が
今度は南方の岩手郡に押しだし、西根を(西根氏でしょうか?)退治し更に
ここに要害を築いています。(現、西根町、平舘?)劣勢の南朝方としては
信じられないばかりですが、ここに出てくる和賀氏は、後に出てくる
北朝方の和賀氏とは、どういう関係になるんでしょうか?
更に、「斯波氏」とは先年第二次西上軍によって鎌倉で討ち死にされた「家長」
とどういう関係の人でしょうか?
なんにしても、西根、和賀、滴石、斯波、河村、(一戸あたり?)更に葛西氏
等錚々たるメンバーが顔を揃えていると言うべきでしょうか。
848 :
しったかぶり:05/03/04 20:56:18
又つずきです。
一、著到見参に入れ候おわんぬ面々成し下さる御感の御教書候
彼の輩抽賞の事は其れより注進につき其の沙汰あるべく候
長継、忠節を致し候、神妙に候、感じ仰せられ候也
一、官途所望の輩子細なく候、定めて其の勇を成し候か、
長貞、長継官途のこと助けは是にて御沙汰なく候、
常州は有るべく候、定めて相違なく候か、尚々日頃の忠節といい
今の退治と云い併せて御高名候の間、かんえつ少なからざる由、
仰せられ候也、抽賞の事追って其の沙汰有るべく候
さてここに出てくる「長継」、「長貞」は一体誰でしょう?この文書を
読むかぎり、南部長貞、南部長継、としてもいいと思います。(他の人間
は名字をつけて読んでいる。)先年鹿角方面にて活躍している模様ですので
政長の孫、信光、政光はまだ幼くてこの二人ではないでしょう。
名前から見て親子、少なくとも、兄弟と思われます。
三戸南部氏の誰かだという説が有ります。時代から云うと、信長、
守行、か?となりますが果たしてどうでしょう?ただ政長がこの二人に官途を
望み、其れは許されるだろう、と顕信は云っております。
なに長文だらだら書きこんでんの?
キモイよw
頭がおかしい人なんだよ。ほっといてあげなさい。
東北にはこの手のキ○ガイ、多いよな。
粘着質もいいところだよな。
853 :
しったかぶり:05/03/05 20:08:54
さて最後の段です。
一、倉満三郎左衛門尉忠節のこと聞こしめしをわんぬ、
所望地の事先だって岩立太郎跡を宛行われ候の処、
不足の由歎き申し候か、只今楚忽に仰せられがたく候、
追って仰せら琉べく候、このように問答せらるべく候也
恐惶謹言
十二月廿日 清顕
南部遠江守殿
御返事
此の倉満三郎左衛門尉は、「 同年(建武三)五月廿七日、向小栗山楯、(御敵倉光孫三郎)致軍忠之處、」の
津軽、小栗山楯で曾我氏と戦った倉光氏でしょうか?
岩立太郎(跡とあるから滅んだ者と思いますが。)もどこの住人でしょうか?
これで、1340年時の状況がよく分かると思います。
この時顕信がどこから、此の文を出したか、はっきりしませんが、「葛西」氏
のもとに身を寄せていた模様です。
書くのに時間かかりすぎなんだよ。低脳。
855 :
日本@名無史さん:05/03/05 20:53:36
誰からもあいてされない基地外が立ち寄りしてますが、スルースルーでよろしく!
よしわかった。
のぞみどおり
>>855はスルーの方向で。
>>853 行間から頭の悪さがにじみ出てくるような文章ですね。
人様に主張を読ませるにはちょっとレベルが足りないのでは?
しったかぶりさんいつも拝読しております。
最近はsage入れて書かなければならなくなったのか
これも時代かな
( ・> ( ・>v─~
∠ヽ_ヽヘノ(ヘ )ヘ
 ̄ ̄
>>853 まじでつまらないんでいいかげんにしてください。
掲示板を使ってやることじゃないな。
オナニーは自分のホームページでやれ<しったかぶり
862 :
しったかぶり:05/03/06 23:15:20
1341年、顕信文書にある翌年ですが、曾我氏土台案によれば、相模の曾我師助が、
御教書を賜ってはるばる津軽曾我氏の「応援」に来ます。そして糠部郡へ侵入しますが
次の文書にあるとおり、失敗に終わります。一年以上も戦っていますが。
どうして、南部軍はこんなにも強かったのか?この時、津軽の安藤氏はどうしていたのか?
浅利氏もどう動いたのか?等不思議なことだらけです。
特に師行も戦死しているのに、こんなにも南部氏が強力なのは一体どいううわけでしょうか?
糠部郡中には南部氏に刃向かう者がいないかのようです。
略
一同四年(暦応)六月、曽我左衛門尉師助賜御教書、令発
向凶徒南部六郎政長等城郭糠部之處、同
御敵滝瀬彦次郎入道以下輩、打塞路次、致防
戦之間、自同年六月 至翌年七月、数十ヶ度 *六月=冬夏比 *七月=秋比冬
合戦仁、或貞光自身被疵、或若當以下手勢 仁=に
数百人被疵、討死之上、若干凶徒等討取
之訖、此状師助連々令注進之間、被下御感御教 訖=畢
書畢、巨細師助之一見状 矣
以前状々粗恐々言上如件
貞和三年 五月 日
だからおなにーは自分のHP作ってやれってのw
今の南部の殿様は靖国神社の大宮司、娘の姫様はフリーアナウンサーで
J・WAVEの朝日ニュースを読んでいる。
歴史と関係のない現実だけどさ。
866 :
日本@名無史さん:05/03/08 22:07:14
姫アナウンサーの画像キボンヌ
キティは士ね
868 :
日本@名無史さん:05/03/08 22:40:43
>>865 その南部さんは
父系でたどれば
江戸時代初期の天皇の子孫なんだよね...
南部さんは、そのこと
どう思っているんだろうね。
869 :
話題変えようぜ:05/03/08 23:53:01
北上川を挟んで、南側つまり水沢よりの人間は「伊達の連中」として北側に嫌われている。
なんでも商売に汚くて、通った後には草も生えないんだと。
南部藩はあちこちの国境でいがみ合っていたようです。
その辺のエリアの話なんだけど、和賀氏とか小原氏って、征伐後はどうなったの?
南部の代官でも来たの?
誰か教えて。
870 :
話題変えようぜ:05/03/08 23:54:47
>869
間違った。和賀川だ。
ちなみに私は郷土を脱出した元北上市民。
>元北上市民。
どうりで日本語がおかしいと思ったw
つーか岩手県人は日本中から嫌われてるだろ。
それは確かにいえるかもw
>>871-873 そういう煽りではなく、論理的には語れないの?
頭が悪いから出来ないってのはなしでさ。
875 :
日本@名無史さん:05/03/10 13:21:13
>>12 盛岡の殿様って、靖国の宮司さんではないの?
盛岡にすんでらっしゃるの??
盛岡に殿様なんていねーよ。
アホかw
うむ。岩手県人はアホばかりである。
>>875 靖国の大宮司になったのは去年からだから。
879 :
しったかぶり:05/03/10 23:03:48
>869さんへ
天正18年(1590年)7月、小田原の北条氏を滅亡させた、秀吉は
7月26日、宇都宮に到着し、小田原攻めに参陣しなかった、和賀義忠・稗貫広忠
らを改易、所領を没収し、同じ理由で葛西晴信・大崎義隆・石川昭光・白川義親・
田村宗顕らの所領を没収しました。ここに鎌倉時代からの名族が滅ぶわけです。
その後いろいろあって、南部氏は、「南部内七郡」を安堵されます。
糠部、鹿角、閉伊、岩手、志和、稗貫、和賀郡と言われます。
現在岩手県となっている気仙、東磐井、西磐井、胆沢、江刺の五郡は
伊達藩領となります。
明治維新時の廃藩置県の動きは複雑すぎますが、結局現在の岩手県、青森県、宮城県
秋田県にきめられますが、藩と同じ地域がそのまま県になってないのはご存じの通りです。
こういうのを見ますと、つらいこともありましたが、南部氏はやっぱりどこか
ツキのある一族だなーと思います。いかがでしょうか。
あんたには聞いてないよ。
>>879 なんか基本的な事実の間違いが多いなあ。
駄文でリソースを消費するのもたいがいにしたら?
盛岡は本土ではもっとも冬冷え込む土地。
だけど寒いのは気候だけじゃない。
人間がいちばん寒い。
なんで粘着嵐がいるのだろう。
まったく
>>879みたいな粘着はなんとかして欲しい。
日本史板全体のレベルが下がる。
そのとおりだな。
いくらなんでも発言のレベルが低すぎる。
ほとんどうわごとだ。
889 :
日本@名無史さん:2005/03/22(火) 17:47:07
>>879 日本の端に構えているのも関係してるんですかね?
ほっといても飢えて人がバタバタ死んで行くような土地を侵略してもしょうがないからね。
あはは。そりゃそうだ。
保守