津軽安「藤」氏★弐

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306日本@名無史さん
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1041490872/647
>津軽外濱宇楚里鶴子遍地悉安堵仕候者〜
蠣崎氏は、1468年にはまだまだ道南の一勢力に過ぎないような。蠣崎光弘が
松前大館に乗り込むのは1514年だし。
政季が箱館(函館)の回復を祈るとすれば、1456年から勃発した蝦夷との戦い
で何度か占領されたことに対してなら可能性アリだと思うが、和人による箱館
の完全放棄は1512年だから、1468年の段階は、政季が箱館にそんなにこだ
わっていたかは微妙な感じがする。個人的には。

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1041490872/642
翻って、「鶴子遍地」だが、これを無理に「鶴子」「遍地」の2地名に分割する
必要はないと思う。遍地=アイヌ語のペッだとすると、川って意味だがら。
同一地を「ツルコペッ」と「ツルコ」の2通りで呼んでいたとしてもおかしくない。
サリポロペッが札幌になったように。
七戸野辺地以外に、どこか下北か西浜の方にツルコとかケシとかつく地名を
探した方がいいのかも。