南部氏

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1日本@名無史さん
授業で南部氏という言葉が1度も出てこなかったのはおかしくないか
2日本@名無史さん:02/01/17 21:50
南部鉄器なら出てくるぞ。
3日本@名無史さん:02/01/17 21:50
別に。
4日本@名無史さん:02/01/17 21:51
正常だっ!
5日本@名無史さん:02/01/17 21:53
南部の祖は、甲斐源氏・加賀美遠光の二男南部光行。
6日本@名無史さん:02/01/17 21:54
南部センベイならコンビニにうってるなぁ!over
7日本@名無史さん:02/01/18 03:54
>1
教科書には出ないが、今の殿様は市内で買い物してるよ。
8日本@名無史さん:02/01/18 08:00
「街道を行く」から
「久慈街道を行く」おすすめ
南部伝説の話が面白いよ
9歴史の勉強:02/01/23 23:48
中学高校の授業で南部氏を出すのは無理だ。
戦国大名をいちいち検討するほど余裕はないだろうし、
もっと優先すべきことは山のようにある。

ただ、純粋に南部氏を研究するに際して最大の難所は、
戦国時代までの実態がほとんど不明であることだろう。
安藤氏との抗争も十分にわからない。

南部氏研究がとても大事なのは百も承知だが……。
ある意味、薩摩の島津氏と比肩しうるかも知れない。
10日本@名無史さん:02/01/24 00:03
>>9
>ある意味、薩摩の島津氏と比肩しうるかも知れない。

いくらなんでもそれは無いでしょう
島津氏が中央政権に与えた影響力はかなり大きいですよ
11日本@名無史さん:02/01/24 00:15
島津と南部、相馬は幕末まで残った大名としては
家系の古さがすごいよ。奇跡だね。
そーゆー意味で比肩するでしょ
12魔物:02/01/24 00:34
あけましておめでとうございます
13歴史の勉強:02/01/25 22:26
僕が言いたかったのは、
当時の最辺境地帯を支配し、かつ歴史的にも重要な武家だってことですよ。
何と言うかなあ……普通の戦国大名と違うんだよね。
南部氏のばあい、徳川時代は海外貿易権を失ったけど、
島津氏は琉球支配によって絶大な力を有してたからね。

南部氏のばあい、結局は本州最北部を完全には制圧できなかったからかな?
津軽は大浦氏に奪われてしまうし、北海道は蠣崎氏に押さえられて。
やっぱ、南部氏も島津氏と同様「辺境」を支配してたことが大きいと思う。
かなり裕福な大名だったらしいし(徳川以降のイメージで見てはいけない!)。
北方貿易による巨大な利潤が南部氏の源泉にあったと思いますよ。

また、南部氏と島津氏に共通することは、広大な藩領を持ってたことでしょう。
だって盛岡から下北半島まで全部南部領なわけじゃない?
あれって、けっこう地域性を研究する上で重要だと思うんだよな。
東北と九州は特に大藩が多かったわけだが。
14日本@名無史さん:02/01/25 22:43
南部や相馬の場合、武士だけでなく地名まで奥州に植民したわけです。

甲斐の南部村に、残留した南部一族は居ないのでしょうか?
15日本@名無史さん:02/01/25 22:46
>>13
根城へ訊け!
16日本@名無史さん:02/01/25 22:47
>>13
北方貿易による巨大な利潤て・・・?

南部は十三湊を潰した張本人じゃん。
南部の頭に貿易のボの字も無いって。
17日本@名無史さん:02/01/25 22:48
東北地方は鉱山業が盛んだったのでしょうか?

網野先生の
いうところによると、
江戸時代に東北で飢饉の餓死者が多かったのは、
東北が「貧しい農村」(農家の人間はなんとかくいつなぐことができる)ではなく、
都市型経済だったせいらしい。食糧を金銭で買う人間が多かったらしい。
18歴史の勉強:02/01/25 22:54
いや、南部氏はかなり北方と交易してたはずだ。
京都の将軍に献上品を送ってるぐらいだから。
それに、南部氏が特に(陸奥南方ではなく)津軽への進出を図った原因も、
安藤氏の貿易権を奪取するためだったと思う。
それに十三湊の衰退は南部氏の破壊(安藤氏の放棄)によるだけでなく、
北方貿易の中心地が北海道に移行したためだと思う。

(でも南部氏で熱くなれるっていいなあ……)
19日本@名無史さん:02/01/25 22:55
>(でも南部氏で熱くなれるっていいなあ……)
藁田!
20歴史の勉強:02/01/25 23:04
東北が(他地域と比べて)特に鉱工業が壮んだったかは断言できないけど、
南部氏や浪岡氏の居城で製鉄炉が発見されてるよ。

東北は……「植民地的」経済の様相が濃厚だと思う。
特に鎌倉の征服後はそんな印象がある。
つまり、その土地の人間が消費するためではなく、
最初っから他地域で売ることを目的とした商品経済が成り立ってる気がする。
関東の御家人の末裔が大量に送り込まれていることも、
鎌倉が東北を植民地化しようとした証左ではないだろうか?
鎌倉幕府は日本全国を植民地のように支配したと海津先生は言ってるが、
それが最も該当するのが東北だろう。
北条氏の絶大な権力の源泉は東北だったわけだし。
それを都市型経済と呼ぶか植民地経済と呼ぶかは分かれるとこだが、
僕はかなり明白に植民地的だと思う。

東北は後れてて貧しいから悲惨な飢饉が多かったわけではなく、
かなり早い段階からそういう植民地的傾向があり、
また支配者もそういう輸出経済を志向したためではないだろうか?
21歴史の勉強:02/01/25 23:12
今は昔ほどひどくはないと思うが(昔はひどかったらしい)、
関東人は東北をバカにする傾向がある。
翻訳小説なんかでも、田舎者というと東北弁をしゃべる(なぜ外人が?)。
こういうとこに、無意識のうちに「東北人=田舎者」という縮図が表れていると思う。

いつごろからか知らないが、たぶん江戸時代には遡れるんじゃないかな?

しかし、東北をバカにするのは間違ってるだろう。
東北で米が不作だと、江戸で価格が急騰して困ったのだから。
しかし、関東が東北に優位を持って君臨するという構図は
かなり旧い時代から始まると思う。

でもそれゆえに、
「伊達政宗の天下取りの野望」は最初っから有り得ない妄想だと思う。
おそらく後世の作家がおもしろ半分に考えた妄想なのだろう。
22日本@名無史さん:02/01/25 23:31
テレビ、出版物の東北弁=北関東弁

ま、そんなことどうでもいいですけどね。byみつまJAPAM
23日本@名無史さん:02/01/25 23:46
南部氏は徳川安定政権以降も、鎌倉以来の植民地主義。
24U-名無しさん:02/01/26 00:26
悪いのは大和
25U-名無しさん:02/01/26 00:26
悪いのは大和
26日本@名無史さん:02/01/26 00:44
>>24-25
おまえ、サカ板の
萩ヲタ:( ● ´ ー ` ●) だろ?
27日本@名無史さん:02/01/26 19:29
南部藩は江戸時代後期?醤油の原料の大豆のモノカルチャーで
飢饉がひどくなったらしい。
で、古着を売りに来た近江商人が、借金のかたに
農民の土地を取り上げて、地主になったそうだ。
28日本@名無史さん:02/01/26 19:34
八戸の安藤昌益が幕藩体制や商業資本への憎悪と糾弾に
心血を注いだのも、奥羽がおかれた経済的ー社会的
従属状況が根底にあったのだろうか。
29南部民族解放戦線:02/01/26 19:38
津軽衆の青森県よ!
南部衆同胞への民族虐待を止めろ!
弘前を火の海にしてやる!
南部領を返還せよ!
30日本@名無史さん:02/01/26 20:28
南部地方の名主は甲州から来たという伝承を持つらしい。

南部氏が、奥州に入部したのは、
南北朝の頃らしいが、
では、鎌倉時代には、頼朝から与えられた奥州の所領の
在地は、誰が支配していたのか?

南部一族の中には、北条高時と共に
鎌倉で死んだ者もいるらしい」。
31日本@名無史さん:02/01/26 20:51
なにはともあれ、百姓一揆の発生回数は日本一。
32知ったかぶり:02/01/26 20:59
頼朝が、奥州藤原氏を滅ぼした後
従軍した,甲斐源氏の一族南部光行に
今の、岩手県、青森県の太平洋側を与えたもの
 というのが正史かと思われます。
そのときに、館を置いたのが青森県の三戸です。
 今でも、山梨県には、南部町というところがあり
そこが発祥の地です。
 ちなみに南部の紋章の向鶴の前は武田氏と同じ
武田菱を使用してました。
 
 

33日本@名無史さん:02/01/26 21:14
 南部藩で飢饉が大発生しても、秋田藩ではヤマセが奥羽山脈を越えるこ
とができないため、飢饉がそれほどでもない事があるんですよね。
 だから、南部藩の金持ちは、わざわざ秋田藩の大館に来て旅館に寝泊り
して飯を食っていたそうです。そのほうが安上がりとか…。

 時代は下って平成大不作の時、岩手県や青森のスーパーからは米をほと
んど見かけなくなったことがあったんですよね。で、大館とか鹿角とかの
青森や岩手に近いところのスーパーには青森・岩手ナンバーの自動車で満
杯だったとか…。で、本当は余裕があったものの、連鎖反応的に全国的に
米不足のイメージ→主婦が買い占め→本当に米不足→外米輸入→日本人の
好みに合わない→北朝鮮へ って事になったんですよね。
34日本@名無史さん:02/01/26 21:17
>33
佐竹君?
35日本@名無史さん:02/01/26 21:46
鹿角(なんと読むの?)も南部藩領?
36日本@名無史さん:02/01/26 21:53
>>35
 鹿角(かづの)には昔からの鉱山が沢山あって、藩の財政を潤していた
みたいだね。昔は南部藩で、戊辰戦争で負けたから秋田県の領域になった
んだね。
37日本@名無史さん:02/01/26 22:00
>>36
岩手県になった時には、伊達の穀倉地帯ごっそり持っていった。
38日本@名無史さん:02/01/26 22:10
>>32
名家と言われる家は、大名家にかぎらず、定紋の他に、添え紋とか裏紋とか
色々使うんだよ。
南部家も江戸以降も、武田菱紋を使ってるよ。
39日本@名無史さん:02/01/26 22:18
『おくのほそみち』で出なかったか?「衣川は、北上川南部より流るる大河なり。」
40歴史の勉強:02/01/26 22:23
南部氏が東北に所領を有するようになったのは早くて頼朝時代、
おそくても北条氏の専制時代。
南北朝に今の八戸に入部したらしい。
それ以前は工藤氏が八戸あたりを支配してたらしい。
南部氏の強大化が始まるのは南北朝時代と見ていい。
それ以前は広大な北条氏領を、曽我、工藤、南部、安藤などが支配していた。
「太平記」第10巻の北条泰家(高時の弟)奥州落ちの段で、
泰家がともに逃亡した武士が「伊達」「南部」だったことは注目に値する。
南部氏は南朝寄りだったようで、それによって安藤氏や曽我氏に対抗したらしい。
41知ったかぶり:02/01/26 22:30
>38
恐れ入りました。
 
<33
は何をいいたいんだろう?
42日本@名無史さん:02/01/26 22:32
江戸時代南部は津軽との家格争いに無駄金使いすぎ。
幕末に蝦夷警備の見返りとして10万石から20万石格にしてもらったが
別に何の得もないのに金かかるだけ。
こういった南部の無駄使いの構図に激怒したのが高山彦九郎。
『北行日記』で天明飢饉の時も家格上げ工作に明け暮れる南部に怒ってる。
またその根本は幕府が諸藩の射幸心を煽る事にあるとして反幕思想をもつ
事になる。
維新の思想的立役者の一人は南部が創ったといえる。
43日本@名無史さん:02/01/26 22:34
>>40
批判するのではないよ。
文末「・・・らしい」君は南部家の歴史に詳しいらしいから、
何をここで話合いたいのかを、あげてくれ。
44歴史の勉強:02/01/26 22:40
南部氏の歴史。
およびその背景。
45日本@名無史さん:02/01/26 22:45
>>44
南北朝まではともかく、江戸期になると悲惨だぞ。
つらい歴史をたどるは承知の上か。
46日本@名無史さん:02/01/26 22:50
>>43
>>45
キミ、ジャマ。
47歴史の勉強:02/01/26 22:57
まあ、僕個人が一番興味あるのは南部氏が強大化していう過程、
およびそれを可能たらしめた要因です。
南部氏は700年ぐらい東北に蟠踞してたことになるから、
歴史も長くて(しかも不明部分がとても多い!)たいへんですが、
つらくても、輝かしくても歴史は歴史だと思います。
48日本@名無史さん:02/01/26 23:20
南部氏が入る以前から、あの地の特産は馬です。
義経の昔から歴史上名の付く馬の冠には、「南部駒〜」
との名のりがあります。土佐の殿様になった人の奥様が
買ったのも、南部駒。
>>46
真摯に歴史の話できないなら、きらいな言葉だけど。
「逝ってよし!」
49日本@名無史さん:02/01/26 23:43
義経[平泉]は大崎領だべした?
50日本@名無史さん:02/01/26 23:50
>>49
おめはん、それ時代が違うべ。
51日本@名無史さん:02/01/27 00:46
>義経の昔から歴史上名の付く馬の冠には、「南部駒〜」
>との名のりがあります。

おめはん、それ時代が違うべ。

が、正解?
52日本@名無史さん:02/01/27 02:58
>>51
義経の愛馬は南部駒「薄雪」。山内一豊の妻が買ったのも
南部駒、ずーっと後で明治帝の愛馬も南部駒。
義経軍団が騎乗に優れ強かったのは、平泉騎士団だったのさ。
頼朝に嫌われた一番の理由はそれ。
北海道開拓以前は岩手は馬の産地。
53日本@名無史さん:02/01/27 03:48
へ〜。
平泉周辺の胆沢、江刺、磐井郡産であろう義経の愛馬も
同じ岩手県てだけで南部馬に入っちゃうんですな。。。
そういや、水沢の鉄器も「南部鉄器」って言ったっけ・・・。
54日本@名無史さん:02/01/27 05:12
>>53
奥州藤原氏が制した領域を考えれば、はるか蝦夷の土地までも
制したとは言わねども、影響を及ぼしていたであろう。
と怒壷。南部氏のスレか。

南部で一揆が多発したのは、領地を取られた伊達の扇動による
ものだ。伊達の民衆工作で南部の農民は無理やり一揆したんだ。

これでいいんだよね。

55日本@名無史さん:02/01/27 06:31
南部氏は甲州の故地でも、
牧場を経営していたらしい。
だから、糠部(ぬかのぶ)に領地をもらえたのではないでしょうか?
南部(植民した武士(西部に植民したカウボーイの集団のような存在?)の苗字
が地域名にまでなった)の旧名は糠部でよいのでしょうか?
56日本@名無史さん:02/01/27 06:36
南部氏は三戸(根城)南部と、
八戸南部の2つあるが、
近世に生き残ったのはどっち?
(支藩の八戸藩は江戸時代に作られた?)
57日本@名無史さん:02/01/27 08:24
>>55-56
貴公その由来をすでに存じておる上での質問ではないのか?
ちなみに幕末にあった、南部藩は三家じゃ。
近世であれば三戸、よもや氏郷軍の南部九戸の戦を忘れた
わけでもあるまいに。
58白鳥のジュン:02/01/27 08:36
南部博士は一族ですか?
59大鷲の健:02/01/27 08:44
忍者隊では、言ってはいけない事もあるんだ。
60つばくろのジンペイ:02/01/27 09:22
へっ!おいらみたいな子供には関係ねえや!!
61日本@名無史さん:02/01/27 09:28
>>54
 うそつけ(w 伊達藩からかなり離れた場所でも大量に一揆が発生
したぞ。佐竹藩の藩境とかでね。
 それに、海岸方面じゃ一揆の集団が伊達藩に「南部の殿様は酷いか
ら伊達の殿様におらほの地区を治めて欲しい」なんて言って断られて
いたぞ。
62日本@名無史さん:02/01/27 09:40
>>61
海岸方面てのは、三閉伊一揆ね、江戸時代最大の一揆。
首謀者は伊達藩領に逃げ込んだのを、南部が罪は赦免する
と呼び戻して、断罪したのさ。
ところが首謀者の中にいたはずの浪人者がいなかった。さては
奴こそ伊達の忍びに違いないと。これは南部説。
でも当時の農民が国替えならともかく、殿様替えろというのは
どこかに扇動者がいたんじゃないかと思う。
南部の治世が最悪なのは、承知の上だが擁護派になろうか。
63日本@名無史さん:02/01/27 10:46
 戊辰戦争で大館市が南部藩に占領されたとき、商人は新しい支配者
に魚とか酒とか米とか結構贈り物をしているんだよね。それなのに、
立場が悪くなって逃げる際に、町に火を付けて燃やしちゃうのはない
んじゃないの…
64歴史の勉強:02/01/27 12:47
>55
糠部郡は奥州藤原氏の時代に成立したらしいので、南部とは直接関係なし。
ただ、「戸」という行政単位は糠部郡特有。
この「戸」は牧畜と関係あったとも言われる。
南部氏の財源はかなり馬に依存していたとも考えられる。
「戸」は一〜九まであって、それぞれを地盤とした南部氏が「〜戸南部氏」と呼ばれる。
南部侯は三戸に出自。豊臣秀吉の時代に九戸南部氏と争って下した。

甲斐の南巨摩郡南部町は富士川沿いにあって、感覚的に駿河に近い。
北条氏との結びつきも、この辺に求められるかも知れない。
ちなみに、身延山を日蓮に寄贈したのは南部氏(波木井氏)。
65大館給人:02/01/27 13:03
>>63 町が燃えたのは1868年8月22日に大館城が
   陥落したとき戦火で焼失です。9月に南部軍が撤退した時点で
   焼け野原。南部側で従軍した武士が書き残した絵がありますが
   そのなかで焼け野原の大館を描写したものもあります。
   南部が大館を占領したとき勝手に新元号を作ったそうな。
   「延寿元年」だったけか?
66菊駒:02/01/27 21:29
>>64
確か「戸」=「厩(うまや)」
のハズです
67日本@名無史さん:02/01/27 21:38
>57
>よもや氏郷軍の南部九戸の戦を忘れた
わけでもあるまいに。


1南部九戸の戦とは?
2近世に生き残ったのは、三戸家ということ?
忘れたけど、三戸(北朝)、八戸(南朝方)に
一族が別れて相戦ったということだったような??…
68日本@名無史さん:02/01/27 21:42
根城はどこにあったの?
盛岡?
69歴史の勉強:02/01/27 22:26
根城が今の八戸でしょ。
盛岡の歴史はもっと新しいはずだ。
九戸の戦いとは、三戸南部氏(南部藩の祖)が九戸南部氏を下した戦い。
70日本@名無史さん:02/01/27 22:42
南部氏が書かれた数少ない小説のなかで、唯一直木賞受賞作
があります。
第41回昭和34年上半期、渡辺喜恵子著「馬渕川」。
現在は絶版ですが、図書館、古書店等であたってみて。
南部の土地では禁書扱いですので、充分注意するように。
71日本@名無史さん:02/01/27 22:45
禁書扱いってどういう内容なの?


72知ったかぶり:02/01/27 22:48
>>66
 戸=厩
のソースは?
73日本@名無史さん:02/01/28 02:28
>69
九戸政実の「乱」のことですか?
中央から派遣された討伐軍に、
降参した6千の九戸軍の兵は全員皆殺し(怨)にされた。
74 :02/01/28 02:33
司馬遼太郎の小説で書いておったが、大坂の陣のとき、
南部家の足軽が大量ににげちゃって、アイヌ系の人を
なかば騙しこんで大坂までつれてきたって本当ですか。
75日本@名無史さん:02/01/28 12:02
>>70
渡辺喜恵子なら「南部九戸落城」でしょ。
76日本@名無史さん:02/01/28 12:55
根城って八戸市だよ。
城跡も根城にあるYO!
三戸は城山公園になってるが。
三戸が本家、八戸がかまど、盛岡はさらにかまどと聞いてるけど?
正直2ちゃんで南部氏の話がでるとは思わなかった。
77日本@名無史さん:02/01/28 12:57
でも今と都会度が逆転しているのが笑える。
78日本@名無史さん:02/01/28 13:07
南部衆は津軽衆と違って穏やかでまたーりしてるんで
(押しが弱いともいう)あんまりいぢめないでね。

青森のTV局では津軽弁・南部弁にかたよらない放送を
心がけてるそうな。視聴者からクレームがつくから。
でも津軽弁がまかりとおってるYO!
心情的には青森市より盛岡に親近感。
なんで八戸・三戸・五戸だけ青森に組み込まれたの?
だれか教えて??
79日本@名無史さん:02/01/28 13:12
ごめん、六戸・七戸も青森だった。
岩手の方が少ないんだった(一戸・二戸)
すまそ。
80歴史の勉強:02/01/28 13:23
青森県、江戸時代は津軽藩と南部藩(八戸支藩)に分かれてたからね。
もともとは東半分が糠部郡、津軽はもちっと細かく数郡に分かれていた。
糠部郡は藩政初期に分割された。

なんでああいう行政区画になったかは不明。
でも青森県が国防上重要な位置にあったからじゃない?
本州最北端を一県にするってことじゃない?
北海道は明治政府の感覚では完全な「植民地」で、
屯田兵を送り込んでたぐらいだから。
東日本の行政区画は、あんまり正当性がない気もする。
関東も東北も、かなりおおざっぱに編成されてる観がある。
81日本@名無史さん:02/01/28 14:46
維新政府の陰謀です。
旧佐幕派の領土は行政区画を分けられてる所が多いよ。
82日本@名無史さん:02/01/28 15:04
漏れは宮城県出身。岩手県のイメージはすごくいいね。
宮城県と岩手県はいい具合に自己イメージちがってるからケンカしないし。
でも南部と津軽の仲になると、漏れは断然、南部の味方。
東北人はほとんど南部の味方だろう。津軽派は津軽人だけ。
(福島県仲通りとか秋田県はわからんが)
83日本@名無史さん:02/01/28 15:32
う〜ん、のんきな田舎町だと思ってたけど
なが〜い歴史の中じゃ色々あるみたいだね。>南部藩
地元民なのに知らなかったよ。調べてみよーっと。
東北の中でも太平洋側と日本海側ではなにげに雰囲気が違うよね。。。
秋田は鹿角とかは割とこっち(南部)側のような気がするけどな。
84日本@名無史さん:02/01/28 15:50
ところで、南部藩って教科書に載るような凄いことしたの?
安藤昌益は載ってたけど。
もしよかったら、これも教えて?
地元の事だったら教えられるんで。
85日本@名無史さん:02/01/28 18:49
http://acqua.lib.u-tokyo.ac.jp/sizen/

安藤昌益は封建制度を根本的に批判した、
江戸時代の日本では稀有な思想家です。
86北信愛:02/01/28 19:47
>79
九戸村も岩手だよ。
87日本@名無史さん:02/01/28 19:50
下北半島は津軽民族も居住するらしい
88日本@名無史さん:02/01/28 20:14
 そいや、下北半島は何藩だったの?全部南部?
89日本@名無史さん:02/01/28 20:36
>>88
斗南藩です!(藁
90日本@名無史さん:02/01/28 20:46
斗南は三沢にお城があったんだよね。。
うちらの認識は盛岡以北〜九戸郡〜三戸郡〜八戸市が南部という感じかな。
結構な偉人もでたし、明治維新の時は頑張った方なのかな。>南部。
十和田とか上北・下北のほうは良く分からない。
言葉も違うし。
斗南藩ってなんか恥ずかしい事したの?
91日本@名無史さん:02/01/28 21:02
斗南に残った会津人は多いのか?
下北地方での会津人割合や地位は高いのか?
教えてくれ。
新政府で出世した斗南人は柴五郎、三郎、日本海海戦の時の中将(名前忘れた)
しか知らん。
92日本@名無史さん:02/01/28 21:45
大間は朝の連ドラになっとるw
93歴史の勉強:02/01/28 22:48
大間は、正月の新撰組のドラマで出た。
渡辺謙が新撰組で一番強いという設定のドラマ。
渡辺謙の息子が一人で舟こいで函館まで渡るって設定があった。
あん中で「南部領の大間から」と言ってたな。

朝の連ドラでは、第1話でいきなりフェリーに乗って花婿が逃げた。

維新政府の陰謀ってより、やっぱ国防問題が大きかったと思うんだが。
軍事施設が複数の行政区画にまたがってると不便だったりするから。
まあ、陸奥・出羽の国があまりに大きい国だったからでしょう。
94知ったかぶり:02/01/28 23:50
太平記に出てくる北畠顕家は有名だけど
 彼の軍の主力は南部軍です。南朝方として最後まで戦いました。
というよりも北畠とは同格ぐらいのはずなんですが低く扱われてれています。
 残念。
南北朝の騒乱に、岩手、青森の兵隊さんたちも何万人もはるばる京都あたりまで
出征したわけです。

 >>74
その中で南部軍の特異さについても書いています。
 それは、南部軍は戦の時、まったく喚声も上げず突撃していく
というものです。それで随分と評判になったというものですが、
 なんとなく、南部衆らしいなーとおもいました。

>>90
三沢には城はありません。斗南藩の中心地は今のむつ市
あたりですが城を作れるほど余裕はなかったはずです。

 それでは又
95歴史の勉強:02/01/29 00:02
南部氏が「ひのもと」の武士としては南朝寄りだったことは認めても、
北畠軍主力が南部関係だったかは疑問。
もちろん、南北朝の後半に入ってからはそうでしょうが。
北畠顕家の遠征は1335年と38年の2回あるが、
その時期、南部氏がそんなに強大だったとも思えないので。
北畠軍は、降参者や足軽を随時雇用することで膨れあがっていったと思う。
あの時代、足軽がどれくらいの規模で発展していたか、
また北畠軍に含まれる「悪党」が何%くらいだったかわからないかな?

それに南部氏は、南北朝までは甲斐の本領ともまだまだ関係を維持してたらしい。
北畠顕家の時代は、糠部郡にどれほど重点を置いていたか未詳。
96日本@名無史さん:02/01/29 00:27
遠く陸奥の地より、京へ駆け上る南部騎馬軍団。
詳しい歴史資料がないので、ロマンを語るしかない。

南北朝後期は北朝方でしょ。
97日本@名無史さん:02/01/29 00:45
なんだか戦国板みたい。面白いからいいけど。
98知ったかぶり:02/01/29 00:52
贔屓の引き倒しかもしれないが
 南部騎馬軍団 いいねー
何人帰れたんだろうね。 安倍の貞任、宗任の敵討ちだ!
と思ったかなー(ないか) 
99日本@名無史さん:02/01/29 00:56
 江戸時代の民衆に対する圧政は南部はピカ一なんだけど、何か心
惹かれるものがあるねー。

 俺は秋田なんだけど、明治時代の秋田県の偉人って実は南部出身
が多いんだよね。ヒメマス養殖の和井内貞之とか、この板では邪馬
台国論争で有名な内藤湖南とかね。どっちも、鹿角出身。
100日本@名無史さん:02/01/29 01:00
>>98
南部は源氏の武士ですから、安部氏にとっての敵と思われ。
101知ったかぶり:02/01/29 01:19
>>100
そりゃそうだけど
地元衆は複雑なものが合ったのではないかと(ないか)
102日本@名無史さん:02/01/29 01:22
北部(きたのべ)王家という皇族が、
南北朝のとき、一時下北半島に居たそうです。
103日本@名無史さん:02/01/29 01:24
あれ?北畠顕家の主力?は当時最大勢力だった
白河結城氏じゃなかった?
104日本@名無史さん:02/01/29 02:08
>>103
結城宗広のように有名ではない、南部師行らを語ろうというスレでしょ、ここは。
105日本@名無史さん:02/01/29 03:11
南北朝の時、南部師行って北畠顕家と一緒に戦死したんだよな。

南北朝の時代は関が原みたいに簡単に決着がつかなかった分、地方でも戦乱
が収まらず、全国で豪族が応援しあうためにあっちこっちに出かけていった。

九州の菊池氏の家臣が菊池、菊地を名乗って移住しているし、同じ事を南部氏
にも起きていないかな?
106日本@名無史さん:02/01/29 03:24
>>105
「・・・いないかな?」という用法はいけませんよ。
105が知ってるなら書きなさい。
107歴史の勉強:02/01/29 11:31
そうだな、北畠顕家の主力は白河結城だろう。
結城も、どっちが本家だったかハッキリしないような家だよなあ。
白河が強すぎたんだ。
南部氏は、まだそんな有力じゃなかったはずだし。
だいたい、1440ごろ安藤や曽我と争ってたはずだから、
そんなに大量の軍を送れなかったのは?

そうですね、南北朝後期には南朝勢力が没落しちゃうから、
中途で北朝に帰参してますね(下限はいつなんだろう?)。
南北朝中期まで、が適当か?
どっちみち、南部氏が南北朝動乱で最大の利を得たのは事実でしょうね。

しかし、南部藩てそんな苛政を布いてたの?
正月ドラマ「新撰組で一番強かった男」では
「民百姓の苦しみを考えて降参された南部の殿さまに……」
なんて科白があったけど、
あれは作者(脚本家)が南部支配の実態を知らなかったということなのか?
108日本@名無史さん:02/01/29 16:20
浅田次郎氏は盛岡が好きでよく遊びに行くそうだ。
だから南部を美化してる部分が多々ある。
109歴史の勉強:02/01/29 23:32
東北諸藩や新撰組を客観的に見ることは(彼らを主人公にした作品を作ることは)、
ある程度「薩長に偏った」歴史観を修正する上で有益だと思う。
しかし、単純な郷土愛に偏した歴史観になってしまったら、
薩長史観と大差なくなってしまう。

ただ、南部藩が(他藩、特に関東への)モノカルチャー経済に傾いていったのは
やむを得ない側面もあったと思う。
それ言ったら仙台藩だって、米を過剰生産してた面もあるだろう。
東北の藩は常に関東を意識した政策を採らざるを得なかった面はあるだろう。

浅田次郎さんの「壬生義士伝」にはボロボロ泣かされましたが。
110日本@名無史さん:02/01/30 00:28
太平洋側の諸藩は仙台藩に右に倣えで廻米に走ったからな〜w
おかげで北上川、阿武隈川河口の蔵は一杯一杯。
仙台藩ウハウハ。港もウハウハ。船商人もウハウハ。
そして飢饉で皆あぼ〜ん・・・萎え萎え。
111日本@名無しさん:02/01/30 01:50
南部一族堤氏について教えてください。
確か、現青森付近で津軽郡代をしていたそうですが。
それで大浦氏に滅ぼされていまは何をしているんでしょうか?
112日本@名無史さん:02/01/31 04:00
>>111
プライベートは自分で調べてね。
日本史板はストーカーではない。
歴史の鍛練所よ。
113しったかぶり:02/01/31 22:43
いまでも盛岡以北の南部地方では、米作は大変なのに
江戸時代はなおさらだね。
 よく米を作ってたもんだよ。
司馬氏が、思い切って米を棄てて別なものを以て経済を
立てるべきじゃなかったというのは、ごもっともと思うが
 さて、じゃ何を持って立国(立藩)していったらよかったのだろう?

 
114歴史の勉強:02/02/01 00:18
いや〜、どう考えても気候的に米作に向かない東北が
日本(特に東)の「米どころ」になっちゃったことが、
今も少しも変わらない「従属」を象徴してる気がするなあ。

世界各地で見られる現象ですが、
「金になる」農産品を優先的に栽培することは多いんだよね。
その土地に住民にためではなく、最初っから輸出主体みたいな経済。
インドやエチオピアでも見られた現象なんだよね。
また、これによって経済的に弱い地域が強い地域に従属していくっていう。
まあ、農民が理想化されるような集団でない以上、
金になる作物を作るのは経済的に当然のことなんだけど、
それ言っちゃうと、根本解決にならない気がする。

特に江戸時代、東北の飢饉がひどくなってしまった背景には、
そういう政策あってって気もするね。
また、そういう構図を作りだして(東北の大名は他地域から来た家が多い)、
なおかつそれで儲けようとした東北諸藩の藩主面々の責任も重大だと思う。

何かこう、東北と北海道は非常に「植民地的」な気がするね。
沖縄も同じだろうけど。
沖縄が世界有数の砂糖生産地になったのは、沖縄の住民のためじゃなく、
薩摩藩が儲けようとしたからってことは明白じゃない?
北海道と沖縄を見てると、東北はまだいいかな〜って気もしますが。
115日本@名無史さん:02/02/01 04:53
南部の商人にも鮭漁で稼いで、紀伊国屋文左衛門以上と
いわれた人がいましたが・・・、言うまい。
殿への誹謗中傷は許さぬぞ。
116:02/02/01 16:31
2ちゃんねる宣言 挑発するメディア

著者:
井上 トシユキ著
神宮前.org著
出版:文芸春秋
サイズ:B6判 / 331p
ISBN:4-16-358050-6
発行年月:2001.12
117日本@名無史さん:02/02/01 19:07
南部門族同胞諸君、
主食を蕎麦と馬鈴薯
牧畜・漁業を
振興しよう
118日本@名無史さん:02/02/01 19:13
新渡戸稲造の祖父は三本木ヶ原の開墾をしました。
米の生産を高めようとする努力は評価されるべきでは?
問題は、丈夫な品種よりも、美味い(が弱い)品種を植え付ける事を
勧めたお上の責任
119歴史の勉強:02/02/01 22:22
藩政期の東北諸藩を考える上で無視できないのが「植民」だよね。
「移民」でもいいと思う。
伊達政宗も藩領の治水工事をして、農産物の増産を図っている。
東北のばあい、特に人口が増えた地域でしょうから、
新田開発なんかでどれくらい人口が増えたかを調査するのも重要だと思う。

この人口増加が飢饉の被害を大きくした可能性もあるから。
120日本@名無史さん:02/02/02 00:51
>>119
南部の場合は、伊達とは比較にならないんだよ。
東北地方は南と北、東と西でまったく気候が違うから。


121日本@名無史さん:02/02/02 01:04
まだ私が幼き頃、社会の教科書の写真に”明治の飢饉で食べ物がなく
大根をかじる岩手の子供達”の解説で掘ったばかりの大根を生で食べてる
男の子二人の写真が載っておりました。
当時まだ存命だったひいおばあさん(通称百ばあさん)に、その教科書の
写真を見せたら、「豊作だったんだな、わらしが喜んで大根食っとる。」
との教科書の解説とは正反対の事を言ったときの驚き。
122井沢狂信者:02/02/02 01:17
岩手県遠野市の写真ね。
俺はその西隣の市町村出身だども、確かあの写真には様々な噂があったよ。
真偽の程は知らんけど、写真撮るとき「はいずーっとそのポーズのままね、我慢して」
と写真屋があのアングルで撮影したとか。
一種のヤラセ疑惑ね。
123121:02/02/02 02:05
>>122
私も岩手人バレバレのレスだが、同県人とはあら嬉し。
124     :02/02/02 12:03
何部半ってどんな半だったの?
125井沢狂信者:02/02/02 13:19
確か大豆作るために焼畑農業やって、大飢饉起こしたと聞いたのだが
しかし県中部の花巻市じゃ飢饉の話は県北や沿岸部ほどエグくない。

馬産地、鉱山、鉄器、木材、漁業と農業以外は並ぐらいの藩だったと思う
のだが。

>>121
どうも。
126歴史の勉強:02/02/02 15:47
南部氏の歴史は、その地方の特殊性から考えても、
鎌倉〜足利〜徳川すべての時代を把握しないと理解できない気がする。
もともと糠部郡は陸奥の中でも最も特殊な地域として発展したし、
南北朝以降、南部氏が強大化していく背景を考えても、やっぱ特殊な地域だ。
津軽地区との関係も考慮しなきゃならないし。
今の青森〜岩手北部〜秋田北部は、東北の中でも最も特殊な地域でしょう。
「周縁から見た日本中世」でも、宮城県以南とは別個の扱いを受けている。

ただ、どーなのかね?
乱開発とかは無かったのかな?
南部藩の産業は、日本各地の取り柄もない藩に比べると、やっぱ特殊な観があるが。
藩政期になっても、いろんな産業が開発されて、そのせいで人口が急増したとか。
その乱開発のせいで、飢饉の被害が大きくなったとかさ。
127井沢狂信者:02/02/02 20:07
岩手県沿岸部と津軽地方は実質上南部の植民地扱いだったらしいからね。
そりゃ久慈氏(為信)が叛乱起こすわ。

明らかに北東北は大和的じゃないですよね。
なんか女真系に似た生活スタイルな気がする。
騎馬軍団に金の産出、鷹を謙譲したりと共通点は多い。
やっぱり十三湊や安藤氏関係が日本海貿易してた影響かな?
128名無しさん:02/02/02 21:46
>>46
でも、韓国の若い世代はあまり日本を敵視なんてしてないよ。
30代の方は日本マンセーだったな。
多分ちょっと報道が偏ってたんじゃないの?
129日本@名無史さん:02/02/02 23:02
>>歴史の勉強さんへ
江戸期においては南部で人口が増えるような事象はないと思う。
三年に一度は、不作か凶作で石高十万石でも厳かったところを殿様の
見栄で藩内家老や幕府老中の反対を押し切って二十万石に加増した
実高に見合わない二十万石ですから。
>>127
南部は江戸になってからも盛岡内への農民の立ち入りは、お盆以外
は禁じてました。でも女真系とかではなく、与えられた領地を律する
という平安以来の古式ゆかしい統治法をとっていたのかなと。
130日本@名無史さん:02/02/02 23:24
貧農史観、米作単一史観丸出しだな、この人
131129:02/02/02 23:30
>>130
貧農は事実、米作単一は幕府政策。
君はいつの時代の話をしてるのかな。
132しったかぶり:02/02/02 23:46
江戸時代の南部藩は、多分全国のワースト3(?)に入るくらい
悲惨な藩かと...
 「米本位制」
では、経済が成り立たない。

 >>127
北東北は、最後まで平安朝廷の版図にはいりませんでした。
ほとんど、独立国です。
 だから、そういう意味では大和の影響が一番少なかったでしょうね。
女真族との関係はちょっと面白い見方ですね。
 
 
133歴史の勉強:02/02/03 00:19
でも石高って、あまり事実を反映してない面もありますからね。
一応、太閤の検地は人口を反映したものになってるらしいけど、
江戸時代の石高は「大名家の家格表示」って面が強いじゃない?
もちろん、太閤の検地が良かったと言ってるわけじゃなく(むしろ杜撰だろう)。
たとえば、山口の毛利藩は、初期で50万石、幕末には100万石ぐらいの
実力があったわけじゃない?
でも石高はずーっと29万石なんですよね。
鹿児島だって、人口はいざ知らず、80万石も米を生産できたとは思えないしね。

ですから、
南部10万石、津軽5万石、仙台60万石、秋田20万石として計算すると、
総計85万石ですか?
この4藩だけで、東北の北半分がまるまる入っちゃうわけじゃないですか?
ちょっと少なすぎやしないかな、と。
ただまあ、経済力の算出は今でも難しい問題なので、一概には否定できませんが。
134歴史の勉強:02/02/03 00:27
貿易関係はともかく、女真の影響はちょっと飛躍しすぎかな?
って気もしますけど。(面白い発想ですけど)

古代国家の権力が及ばなかったことが行政区画にも反映されてますね。
陸奥の国は異様に広い国ですが(糠部郡より狭い国はいくつあるだろ?)
これだって、結局は古代国家の力が及ばず、
旧国制の意味が失われつつあった時代に日本に組み込まれたからでしょ。
だから、陸奥と出羽は異様に広い区画のまんま
「これでいいや」ってことんあったんでしょう。

頼朝の時代には、もう旧国制が十分には機能しなくなってただろうから。
だから鎌倉幕府は、複数の国の守護を兼任するのが一般的だったりした。
北条氏に権力が集中する前はそうですね。
梶原景時や土肥実平っていう、小さい御家人が複数の守護やってたから。
足利氏の時代になると、もう郡を単位に守護が設置されるに至る。
後醍醐天皇も、郡を行政の中心としようと考えてたらしいですね。
江戸時代には、もう旧国名は単なる地名になっちゃったしね。
135日本@名無史さん:02/02/03 00:58
 九州地方は幕末には、二期作・二毛作をしてたのでは。
北東北は年一度でも収穫出来るか出来ないか、という気候
不安定な地域なので、面積比率では比較できないと思う。
 小学校の頃、岩手の面積は四国四県に匹敵し、北東北三県
の面積は九州と同じだ。と大げさに力説してた教師がいました
が。
136日本@名無史さん:02/02/03 01:04
>>133
”太閤検地”は度量衡の全国統一の目的が大きいと思います。
137歴史の勉強:02/02/03 15:09
度量衡は大きいね。やっぱ豊臣秀吉って優れた政治家だったと思う。
今大河で前田利家やってますが、
織田家臣団の中でも秀吉がずば抜けてた才幹持ってたんでしょうね。
あれじゃ、柴田勝家じゃ勝てないね。

まあ、昔は尺度も地方によってバラバラでしたから。
たとえば、関東では「一里」は約600mだったそうです。
七里ヶ浜もだいたい4kmくらいの浜って意味なんだってさ。
秀吉が尺度を統一したのも、時代のなせる業でしょうね。

農業だけで土地を量るのもどうかと思う。
水産資源も大きいし、林業や繊維産業の問題もあるから。
そういう産業を詳細にチェックした資料があるといいんですけどね。
まあ、たしかに東北地方はバカでかいよ。関東の2倍か?
138日本@名無史さん:02/02/03 16:39
>東北地方はバカでかい

太平記「奥州五十四郡あたかも日本半国に及べり」

豊臣秀吉「奥羽は日本の三分の一にもあれば」
139歴史の勉強:02/02/03 23:36
昔の人だから、正確な面積は知らなかったと思うんですけどね。
「日本半国に及べり」は有名な表現ですね。
ただ、昔は日本列島はずーっと東に延びてると考えられてたそうだから、
その「半国」の中に関東地方(越後も入れたほうがいいかなあ?)が含まれてるか
考える必要もあるでしょうね。
特に畿内の公家は東国を蔑視してたらしいから、
「東国=蛮人の居住地」と考え、関東も含めて「半国」と表現したのかも。
140歴史の勉強:02/02/04 01:17
津軽と南部が並んだら面白いかな〜と。
南部と津軽、美人が多いのはどっちでしたっけ?
141日本@名無史さん:02/02/04 02:26
美人が多いのは秋田です。
ちなみに南部は津軽との比較を嫌う傾向にあります。
>>140
貴様それが狙いか!
142歴史の勉強:02/02/04 10:16
冗談だよ!
おれは外人が好きだから(発言に問題ありすぎ……)。
いやいや、昨日の夜、偶然「津軽氏」のスレッドが立ったからさ。
南部氏と津軽氏が並んだら面白いかな〜、と思って。
143日本@名無史さん:02/02/04 10:32
>>142
並べてるし。
144日本@名無史さん:02/02/04 13:47
厨房的質問いいですか?
地図見たら四戸と七戸だけないんですけど、滅んだんですか?
145んわんん:02/02/04 18:42
南部は秋田や津軽より貧乏だったの?
146日本@名無史さん:02/02/04 19:00
>>144
七戸町はあるでしょ、四戸は地名に残ってない。
147日本@名無史さん:02/02/04 19:10
 そもそも、n戸って何であんな数字の並びになっているの?
148日本@名無史さん:02/02/04 20:41
今テレビの「水戸黄門」でやってる
南部藩で、「浅沼衆」って実在したの?

149日本@名無史さん:02/02/04 20:54
TVの水戸黄門と歴史は、なんの関係もない。
150日本@名無史さん:02/02/04 21:22
北郡が、上北郡と下北郡に分かれたのですか?
秀吉の頃、南部氏の支族に北家というのが有ったと思いますが、
続いたのでしょうか?
151日本@名無史さん:02/02/04 21:23
津軽氏の出た?久慈氏は九戸政実の乱で皆殺しになったはず。
市民運動の世界で久慈力と言う人が居られるが、
自分は久慈氏の残党の子孫と言っていた。

152日本@名無史さん:02/02/04 21:33
北氏は江戸期もずっと南部氏の重役。
久慈市長は久慈氏。
153しったかぶり:02/02/04 21:42
>>146
四戸は地図から消えてますが、今の剣吉というあたりではないかといわれてます。
縁起は悪いとの事で消したらしい。 姓で四戸さんはいる模様です。
>>147
? 一から順番に北に向かってます。今の四号線、つまり昔の陸羽街道ぞいです。
八戸と九戸だけが東側にずれてます。
 地図をひろげてみるとだいたい同じ距離になります。一説には馬で一日の
距離との事です。 
 ところで
この間本屋で高橋克彦氏の「九戸政実」の乱の本が出てましたが、一冊2000円はちと痛い。

154井沢狂信者:02/02/04 21:44
北信愛の直系は大阪の陣で断絶したはずだが……。
北、東、南家というのが南部庶流にいたが何故か西は聞いたことが無い。
知っている人いたら教えてください。

n戸てのは馬の牧場のことだっけ?
糠部郡を1〜9戸に分けたんだよね?
県北はよく分からん。
155井沢狂信者:02/02/04 21:47
>>153
「天を衝く」ですね。
北信愛は完全に悪役でトホホ……な気分です、俺の故郷の殿様だった人ですから。
ちなみにこの人の若い頃の名前が剣吉彦太郎です。
しかし伊達政宗をそそのかす九戸政実って一体……?
高橋克彦大先生の将来が不安です。
156日本@名無史さん:02/02/04 21:51
七戸をあまり惨めにするなよ。
一応七戸藩(盛岡新田藩)があったんだから。
町並みも陣屋しかなかったらしいけど城下町に近いつくりをしていたよ。
157日本@名無史さん:02/02/04 21:52
高橋克彦氏の歴史物はトンデモ系ですから、あくまで
物語として読まれたらよいかと。
158しったかぶり:02/02/04 22:04
>>157
実は「炎立つ」はがっかりした。
「陸奥話記」を読もう!
アテルイはまだ読んでません。
 
159日本@名無史さん:02/02/04 22:09
>>156
新田藩は領地を持たない蔵米支給の殿様のことですね。
七戸藩は明治になってからの藩だから町作りできたかなぁ?
160日本@名無史さん:02/02/04 22:22
>>158
『アテルイ2世』は?
161厨房No.144:02/02/04 22:22
>七戸
すいません、見落としてました。あんなに北にあるとは思わなくて。
>四戸
剣吉というのは地図に見あたりませんが、要するに三戸と五戸の中間あたりってことですよね?
いやー子供の頃、はじめて青森ー岩手のあたりの地図を見てからずっと気になってたんですよ。
すっきりしました。
162日本@名無史さん:02/02/04 22:40
>>159
新田藩は1858年に城主格になり陣屋を構えてるから
小さいながらも、それっぽい所は在ったと思うが。
俺も6,7年前に数回行った程度だから不確かではあるけど。
当時八戸にいたので全戸制覇とか言って周ってたので記憶が混同
してる可能性もあり・・
163しったかぶり:02/02/04 22:49
>>160
残念ながらよんでません。

このごろ本が高くてそれになぜかしら上,下巻になって気楽に買えませんねー
おもしろいんでしょうか?
164日本@名無史さん:02/02/04 23:09
四戸は浅水でしょう。
165歴史の勉強:02/02/04 23:11
糠部郡を「戸」を単位に分割したのは有名だが、
「戸」が設置されなかった地域はどんな行政単位になっていたんだろう?
「四戸」が廃止されたのはいつだっけ?

よし! これでまた津軽と並ぶ!
166井沢狂信者:02/02/04 23:22
>>163
漫画ですよ、アテルイU世。
原哲夫が作画。
凄い濃い内容です。
167日本@名無史さん:02/02/04 23:39
四戸という地名が歴史に存在したことあったのかな?
死に通ずるからないんだと聞いたことあるよ。

俺も並べるぜ!
168歴史の勉強:02/02/04 23:41
南部氏と大浦氏で津軽争奪騎馬大合戦を映像化したら面白そうじゃない?
さっき、「津軽氏」で南部騎馬軍団を書かれていて、そう思った。

しかし、南部氏の馬の販路って、どうだったの?
海を使って運んだと考えるべきなのか……?
169日本@名無史さん:02/02/04 23:53
馬の搬送は陸路でしょ、馬の背に商品も載せて商品さばいて
馬も売る。
170しったかぶり:02/02/04 23:59
>>164
浅水と剣吉は3キロくらいしか離れてないので
 剣吉近辺ということで....
>>168
船は使ってないでしょう。

南部は馬で有名ですが、この歴史はどうなんでしょう?


どなたか詳しく知ってましたらおしえてください。
171日本@名無史さん:02/02/05 00:21
奥州産の馬は平安時代すでに著名であったが,鎌倉時代に糠部地方に進出した南部氏が
本貫地の甲斐から馬を移入し改良したのが南部馬であり,その耐久力から
第2次大戦時まで軍用馬として高く評価された。
172日本@名無史さん:02/02/05 00:32
明治天皇の愛馬「金華山号」も南部駒、剥製が残ってるが
小さいよね、モンゴル馬みたいな感じ。
現在TV・映画に出てくる馬はアラブ種だから明治以降のもの
173日本@名無史さん:02/02/05 13:51
南部鉄瓶はなんに使用するための物ですか_?__
174歴史の勉強:02/02/05 14:19
今日、大学で借りた「戸の町の歴史」(どういう大学生なんだろね?)
を読んだら、やっぱり
「南部藩形成期に、中央政権の命令で糠部郡が4郡に分割され……」
としか書いてなかった。
二戸、三戸、八戸、九戸のほかはいずれも廃止されてしまって、
明治以降復活したものが多いんだとか。
地元人よ! 四戸復活を!
175歴史の勉強:02/02/05 14:23
藩政以前、下北半島の支配状況はどうなっていたのだろうか?
三戸南部信直が前田利家と連絡している事実から考えると、
津軽こそ失ったものの、日本海交通は使っていたように思える。
大崎・葛西といった大名が豊臣と連絡していなかった可能性が高いのに、
三戸南部氏はどうやって京都と連絡していたのだろう?
176日本@名無史さん:02/02/05 15:08
電話だよー
177日本@名無史さん:02/02/05 15:15
大崎・葛西は、豊臣の脅威が迫ってきた頃はすでに半分伊達の子分みたいな存在だった。
だから豊臣への対応どうしようかと政宗に相談したら、
「俺が代表だから心配すんな」という返事。それで伊達に任せてしまった。
ところが秀吉は、大崎・葛西を伊達の家臣とは認めず独立大名と看做したので
大崎・葛西はお取り潰しになってしまった。
178日本@名無史さん:02/02/05 18:58
>>173
元々は茶釜です、茶道に使うやつね。明治になってから南部様の
つくった研究所で、一般用に、やかん型の現在の物が開発されました。
179しったかぶり:02/02/05 20:57
又 馬の件ですが、
平家物語にでてくる、宇治川の先陣争いの段で有名な、スルスミ
ともう1頭(今、手元に平家物語がないので)のどちらかが、奥州尾駁(おぶち)
の産で、その尾駁が今の青森県六ヶ所村の尾駁だといわれている。
しかし、どうも遠すぎるし、当時そんなに人がいた風にも思えないので
ちょっと疑問なんですよ。
 岩手県に尾駁の地名がどこかにないのだろうか?


180日本@名無史さん:02/02/05 21:19
イケヅキですか、馬の名のスルスミもイケヅキも漢字変換で描かれますが
アイヌ語のような気がします。調べてないけどね。
遠いというのはどこから、どこまでですか?陸奥から西日本までの距離
を思えば。
181歴史の勉強:02/02/05 23:22
いやー、伊達政宗を批判するつもりはないけど、
戦国最末期の伊達政宗は卑怯卑劣きわまるね。
一揆煽動、一転弾圧虐殺、関ヶ原合戦に乗じて友藩まで侵略画策。
戦国大名の業を感じるなあ……。
しかも名君だったというし、たいへんな教養人だったのだから面白い。

大崎・葛西の中央政権への対応の遅さで思うのは、
おそらく当時はあの辺が一番中央から遠かったってことでしょう。
わかりやすく言うと、南部領はおそらく日本海水運で京都とも結びつき、
交通面では最辺境ではなかった、ということ。
下北は水運で日本海に通じていたと考えれば、
九戸が中央への連絡でどうして三戸に後れを取ったか納得できる気がする。

しかし、九戸と通じてたはずの津軽は何も協力しなかったわけ?
182日本@名無史さん:02/02/05 23:26
>>181
 政宗は大坂の陣の時なんて最低だしな……
183歴史の勉強:02/02/05 23:32
まあ、先年の「毛利元就」でも、信仰あつく子煩悩だった元就が
的を葬り去るためには悪鬼のごとく……
って感じだったから、戦国大名としては批判できないと思う。
治水にも熱心で、名君だったらしいしねえ。
184日本@名無史さん:02/02/05 23:35
>>182
そだね、金にモノいわせて本陣だけで鉄砲3500丁以上
1万の兵の半分が鉄砲装備してるなんて反則だよねw
185日本@名無史さん:02/02/06 00:01
南部としては秀吉の所領安堵のさいに津軽に騙し盗られた
分を伊達所領分もらったんで良かったよ。
186日本@名無しさん:02/02/06 00:01
北部九州の私の先祖の家臣に南部八戸系を名乗る家臣がいますが、
やはり南朝の本場の九州まで彼等・南部氏は転戦してきたのでしょうか?
187日本@名無史さん:02/02/06 00:15
南部姓の武士は全国にいるよ、甲斐南部だから。
四男五男とかで九州まで行って残った人もいるでしょ。
いつの時代に召抱えたかもあるし。
188日本@名無史さん:02/02/06 00:18
>>184
 そして自分の手柄が減るのを恐れて、その鉄砲で
味方の神保隊を意図的に後から撃ってかいめつさせたしなw

189日本@名無史さん:02/02/06 00:38
 南部藩には名君と言われる人物はいないのかな?民衆にそう呼ばれ
るような…。
190日本@名無史さん:02/02/06 01:06
南部の殿様に失礼であろうが、名君がいたかなどと禁句であるぞ。
皆々名君であったに決まっておるであろう。
1917代目勇魚大五郎:02/02/06 01:58
>>188
そんな伊達さんは夏の陣後、正四位下参議に任命され
逆に神保家は断絶、本隊の水野家は3万石の増加にとどまることに・・・。
ふっ。やっぱり幸村に認められる男の主人は、常人とちょっと違うねw
192しったかぶり:02/02/06 07:06
>>171 172
ありがとうございました。
甲斐源氏の武田氏も騎馬軍団で有名でしたからね。でももうちょっと古くから
いたかと思われますのでそのへんどうかなー?と
>>180
まーそのとうりですが、六ヶ所村あたりは、失礼ながらこんな所は
900年前は草ぼうぼうの原始林だけじゃなかったかなーとおもわれるもんですから。
 
193歴史の勉強:02/02/06 10:01
甲斐源氏の騎馬軍団たって、あれは「甲陽軍艦」で造られた虚像らしいぞ?
つーか、馬に乗ったまま戦わなかったんだって、普通(例外はどこまでも例外である)。

それはそうと、津軽藩領域と大崎葛西領域とでは
どっちのほうが経済価値があったのかな?
軍事的視点から見ると、南部藩が津軽領を持ってたら徳川の脅威となったと思うんだが。
194日本@名無史さん:02/02/06 10:59
>193
なんで脅威なの?
195関口宏:02/02/06 11:27
どっちの航路ショー!!
日本海航路の北前船と太平洋航路の廻米船・・・
さあ、、どっち!!
196日本@名無史さん:02/02/06 15:28
>>181,>>193
>それはそうと、津軽藩領域と大崎葛西領域とでは
>どっちのほうが経済価値があったのかな?
>軍事的視点から見ると、南部藩が津軽領を持ってたら徳川の脅威となったと思うんだが。

かなり誇大な表現かもしれんが葛西大崎ともに二十万石(あわせて四十万)といわれていた。
津軽一藩とは比較にならない。
南部が津軽をもってても、大崎葛西を支配した伊達に及ぶべくもない。

>大崎・葛西の中央政権への対応の遅さで思うのは、
>おそらく当時はあの辺が一番中央から遠かったってことでしょう。

ハァ? 秀吉からのお達しは中央に近い順に順次届いたろ。

>わかりやすく言うと、南部領はおそらく日本海水運で京都とも結びつき、
>交通面では最辺境ではなかった、ということ。

んなこたない。
大崎は古代以来の陸奥国衙領に国を営み
室町時代の歴代奥州探題の下向地でもあった。
葛西は良港にめぐまれた南三陸の海岸線をもってるし
奥州藤原氏の本拠を領有し、京都との交流も続いていた。
南部と比べて葛西大崎が辺境なんてこたありえない。

葛西大崎は滅亡してしまったので近世まで生き残った南部と比べれば印象はうすいが
これは現代人からみた感覚。
伊達が指導力を発揮して葛西大崎を合力させ伊達軍とともに北進させれば、
南部ごときを平定するのは不可能ではなかったが、
実際には葛西と大崎は旧怨から信頼しあうことなく
伊達も分断支配でよしとしたので北進はなかった。
逆にいえば伊達は葛西大崎を盾とすれば十分と考え
北方を脅威なんぞとはみていなかったということ。
197歴史の勉強:02/02/06 15:48
なるほど。196さんの書き込みが正しいと思う。
ところで、葛西大崎の旧領を分割して、伊達60万石、南部10万石なの?
やっぱり検地(中央に対する報告)をめいっぱいごまかしてるのか?

そりゃそうだ。辺境っていえば、やっぱ「ひのもと」でしょう。
ただ、僕が考えたのは、葛西・大崎は太平洋岸にいたので、
京都への連絡は意外と不便だったんじゃなかろうかってことです。
ところで、葛西・大崎がいつの時点で太閤と連絡したか教えてくれませんか?
南部と津軽はそれで身を保持したのですが、両氏は潰れてしまったので、
あまり本にも載ってないのです。

僕が言った「軍事的脅威」ってのは、徳川時代、徳川幕府から見たものです。
東北諸藩はだいたい徳川に友好的でしたが、もし南部が津軽領も押さえ、
それで伊達と組んだら徳川の脅威にならなかったかと。
南部は単独で徳川に挑むなんて考えもしなかったでしょうが。
戦国時代、距離的に見て、伊達領から南部領はあまりに遠いので、
政宗は南部征服には何の関心もなかったと思う。
強弱で比較したら、南北朝以来ずっと東北一の大名だった伊達に勝てるわけがない。
「独眼竜政宗」でも、芦名の次は佐竹、なんて言ってましたが、
経済的に考えても、そっちのほうが得でしょう。
198井沢狂信者:02/02/06 15:57
伊達と南部の関係ねえ……。
北上、東和などの和賀郡を境に結構陰湿な争いを繰りかえしています。
有名なのは牛と午の話とかですね(虚構だった気がします)。
家格はどっこいどっこいでしょうが、食糧生産力では伊達のほうが上っ
ぽいですね、北上川治水以前からでも。

でも果たして政宗のDQN(実際周囲の大名にちょっかい出すたびに領土
を削られているし、悪あがきと言うにはあまりにも短慮すぎる)が南部と
本気で事を構えるか疑問符がつきますね。
何しろ花巻城には歴戦の猛者北松斎公が居られたからです。
南部全盛期の唯一の生き残りと言っても過言じゃないですし。
南部信直ほど有名じゃないのが玉に瑕ですが、彼を強引に擁立して藩
政を牛耳ったほどの権謀家です。
南部をひとつにまとめた人ですから流石に伊達もおいそれとは手出しで
きなかったでしょう。
外交手腕なら政宗以上な気がする。

実際のところ北松斎の客観的な評価ってどんなものなのでしょう?
県中部の者としてはどうしても贔屓してしまうんですが。
199井沢狂信者:02/02/06 16:12
>>197
伊達は実質200万石といわれるくらいまで生産力を向上させました。
南部はどうしても夏の寒冷な気候が災いして農業生産には向いていない
んです、特に米なんかは。
粟や稗なら十分いけると思いますけど米本位制じゃねえ。

ちなみに伊達は結構見掛け倒しの面が強くて、稙宗以後は内紛で苦しん
でいて南奥州の覇権を芦名に掻っ攫われている印象が強いのですが。
少なくとも北東北は勢力圏外だったでしょう。
そこを無理して狙うよりは、相馬の同盟者の佐竹を叩くでしょう。
あと、南北朝の頃の東北の大大名って斯波と大崎、北畠とかですか?
伊達は名門と言っても政治力的には大崎や葛西の下だったでしょう。
大崎や斯波は足利一門ですものね。
決東北のイニシアチブを伊達が執った時期は無いと思います。
200日本@名無史さん:02/02/06 19:06
南北朝が終わり、室町幕府が機能し始めたころに出てくる
伊達政宗が金や馬、書物などの膨大な進物で将軍足利義満の
懐に入り込み、至っては義満の親族と婚姻し
実質的に奥州探題の大崎氏を越える勢力となっていました。
201井沢狂信者:02/02/06 20:13
九代政宗って義満の時期でしたっけ?
名君って謳われた人ですよね。
どのくらいの勢力を持っていたんですか?

大崎の権威は室町末期には地に落ちていたってのは聞いたことがあり
ますが義満のときに伊達に凌駕されてたなんて早すぎる気が。
1300年代後半って南北朝終わったばかりじゃ。
てっきり政宗だから義政の頃の人だと思っていたんですけど。
202しったかぶり:02/02/06 21:11
 お話の途中ですが
歴史の勉強さん
 馬に乗ったまま戦わない とのことですが、
ではどういうふうに戦ったんですか騎馬軍は?
 
203リットン調査団:02/02/06 21:17
騎馬軍なんてもの自体が存在しなかったということじゃないのかな?
俺はいろいろな書物を読んだ結果として、そう受け止めているが?
戦国時代の日本の合戦では、馬はほとんどの場合、将校級の移動手段・
物資の輸送手段であって、戦闘具ではなかったということだろう。
控え目にいっても騎馬軍・騎馬隊などといった騎馬武者だけで組織された
部隊は存在しなかった模様。
204しったかぶり:02/02/06 22:53
>>203
それはちょっと、にわかには信じられないなー
205日本@名無史さん:02/02/06 23:09
>>201,>>202
そっちの政宗って義政時代では?
政宗の「政」は義政の扁いみなだと思ってたんですけど。
206日本@名無史さん:02/02/06 23:20
足利義政からの偏諱は”義成”時代に
稙宗の祖父伊達成宗が頂いています。
207日本@名無史さん:02/02/06 23:39
大膳大夫政宗は義満時代の人だよ。
室が義満生母の妹だったので叔父にあたる。
伊達が勢力拡大したのは南朝方として名をはせた
行宗・宗遠の頃で、政宗の時転機が訪れ将軍家との繋がりを
もち安定させた。
208日本@名無史さん:02/02/06 23:39
伊達政宗は、上杉禅秀率いる関東公方勢10万と2度も互角に戦ったヤツダネー。
伊達成宗は、上洛して貧乏な義政に金銀ザックザク献上したヤツダネー。
んで、歌を読んで泣かしたんダネー。
、、、って、ここは南部スレだろに。。。
209日本@名無史さん:02/02/06 23:46
南部って元々三河か尾張じゃなかったっけ。
210歴史の勉強:02/02/07 01:23
ノノノノ! 南部は甲斐巨摩郡(現・山梨県南巨摩郡南部町辺)の武士よ。

しかし、井沢狂信者さん、斯波と大崎ってどういうこと?
大崎も斯波の一族ですよねえ。斯波と最上、でなく?

伊達政宗(初代)は足利義満のころの人だよ。
鎌倉公方と終始仲が悪くて、陸奥のアンチ鎌倉の筆頭でした。
伊達は南部同様、南北朝期に勢力を拡大しました。
「太平記」第10巻に北条泰家の奥州落ちが書かれていますが、
泰家が同伴を命じた武士が伊達・南部なんですよ。

伊達は南朝降伏後はほぼ一貫して京都将軍家と密でした。
おそらく大崎氏の権威に対抗するためだったでしょう。
南部は逆に大崎・葛西両氏と友好的だったみたいで、
これは津軽の安藤氏に対抗するためだったと言われてますね。
211日本@名無史さん:02/02/07 01:54
最上も斯波氏です(w
212歴史の勉強:02/02/07 02:11
スマソ、間違えた!
大崎と最上のこったろうと思ったんですよ。
213井沢狂信者:02/02/07 11:03
>>210
レスありがとうございます。
どうも伊達については不勉強なもので。

斯波と葛西の凋落振りは酷いな。
斯波は戦国に一応それなりの人が出てた気がしたが、名前忘れた。
しかし、奥州探題もらった時期が伊達の最盛期だと思ってたけど、意外と
昔から勢力あったんですね。
政宗(独眼竜)の時期はあんまり最盛期とは呼びたくないですけど。
214日本@名無史さん:02/02/07 14:24
馬を育てていた人たち?は、年貢を馬で納めていたのですか?
それとも奴隷みたいな存在だったの?
甲州から来た武士が主人だったのだろうか?
「名子」「被官」と呼ばれる奴隷身分(先住アイヌ系が馬番?)
が南部にはいたそうですが
215205:02/02/07 17:05
いま誤りに気づいて謝ろうと思ったら、もうつっこみが。
スマソ。成宗の間違いでした。
216日本@名無史さん:02/02/07 18:10
相馬大作万歳!!
217日本@名無史さん:02/02/07 21:36
南部と津軽を同じ県にするな。
奥羽山脈が中央にあるぞ。なんぼなんでも無理がある

218しったかぶり:02/02/07 21:55
>>214
名子,彼官は日本全国のもので南部固有のものではありません。
 yahoo でもいいから調べてよ。

年貢の件は、江戸時代として考えれば、南部九牧と呼ばれる所では
御馬と記載され、藩の所有物として厳重に管理されていた模様です。
 南部は歴史が鎌倉時代以前から江戸時代まで長いですから、
それぞれの時代をきちんと分けて考えたほうがいいと思います。 
219日本@名無史さん:02/02/08 11:26
>>217
もともと陸奥国だけど。
220しったかぶり:02/02/08 21:44
ところで いきなり季節外れ「忠臣蔵」ですが
 その中で大石が、内匠頭の未亡人の所に、討ち入りの前夜、暇乞いにいく
シーンがあります。「ああ、南部坂」とかいうものだったと思いますが
このごろ忠臣蔵のドラマにあんまり出てこないのが残念です。なかなか
いい場面で私は好きなんですが、仇はまだ討たないのかと未亡人に責められ
るが,吉良のスパイがいるので本当のことを言えず血判状を手土産の
下に入れて、ののしられながら去って行く大石。その大石の肩に折から降り出した
雪がさくさくと降り積もる...。そこが南部坂と呼ばれる場所というわけで。
 江戸の南部藩の屋敷があった所からそう呼ばれたらしいんですが。大石の脇の塀
が南部屋敷の塀だと思うと感動!(笑)
 現在、東京のどこでしょうか?ご存知のかた教えてください。

壬生義士伝の中でよく雪のシーが出てきたのでなぜかこの南部坂を連想しました。
はい。
 
 
221歴史の勉強:02/02/09 00:27
「北斗太平記」を借りました。
良書は場所を選ばない、と感心(だって神奈川県だぜ?)。
南部氏は糠部郡入部時期が確定できないのか……。
ホント、東北の歴史はつらいぜ!

石川啄木のお母さんが工藤の流れと初めて知りました。
無学を恥ず……!
222日本@名無史さん:02/02/09 00:31
現在の東京には南部坂が二ヶ所あります。
あっ現在地名で残ってるのが二ヶ所だけど、幕末でも
その名で呼ばれてるな「南部坂」。
いまだにあるのよ、雪の別れの南部坂はその坂じゃないとか。
223日本@名無史さん:02/02/09 00:49
東京で今、南部坂といえば広尾だよ、歌舞伎の
「南部坂雪の別れ」の坂は、赤坂の裏通りUSA
の宿舎沿い、雪が降れば車で上れぬ急坂です。
224日本@名無史さん:02/02/09 02:15
>>221
ちっ!ばれちまったか!!
22582,97 ,138,177,196:02/02/09 05:29
>>221
津軽スレの方で北斗太平記を紹介した者ですが、
あまり学問的には?なところも多く著者は本業の学者でもないようなので
注意が必要かと。でも面白かったのは事実だけど。
(漏れはしったかぶりの素人だけどこのスレは勉強になるしおもしろいなあ。
みなさんの書き込みいつも楽しみにしてるyo!)
226日本@名無史さん:02/02/09 05:40
>>225
御忠告ありがとうございます。
小説と歴史の境界に己の創造までも加えて捏造しよう
と試みている者ですから、ご心配にはおよびません。

227日本@名無史さん:02/02/09 05:44
ならべ!
228しったkぶり:02/02/09 07:44
>222,223
 ありがとうございました。何年ぶりかで判明しました。
1600年代の江戸地図が家にあるはずですから今日探し出して、南部屋敷
もう一度をさがしてみます。
 それでもそんなに急坂で、大石はすべって転ばなかったのかな?(笑)
229日本@名無史さん:02/02/09 08:25
南部は太平洋側で、
230日本@名無史さん:02/02/09 08:31
気持いい朝をどうぞ。
231日本@名無史さん:02/02/09 09:03
さすがに津軽衆というものは、百とかで浮かれおるは。
232しったかぶり」:02/02/09 13:04
>>180さん
 又馬の話で恐縮ですが、近くの物知りさんに訊いた所、イケズキ、スルスミは
俺のとこから行ったんだ! という場所が、青森県南部地方には沢山あるそうです。(笑)
 
 ちなみに、グリーングラスは七戸の盛田牧場産です。(若い人は知らないでしょうけど)
233井沢狂信者:02/02/09 13:31
>>232
懐かしいですね、TTG。
セントライトは小岩井産だったりして、ちょっと嬉しいです。
234日本@名無史さん:02/02/09 13:53
アズマヲタもいれば南部ヲタもいるみたいだな。
235歴史の勉強:02/02/09 16:37
工藤は南部家臣として江戸時代にも続いてましたが、
同じく南部氏の軍門に降ったはずの曽我氏はどうなったんですか?
今、関東御家人のスレッドで中村氏や曽我氏がヒートしてまして。
関東(甲斐ではなく)に所領を持ってた南部氏もいたと思うんですが、
どーなっちゃったのかな?

それはそうと、旧南部藩領出身の有名な小説家って知ってますか?
どうも津軽に比べて分が悪い気がして。
太宰治の「津軽」に匹敵する紀行の名文とかない?
236しったかぶり」:02/02/09 18:06
歴史の勉強さんへ
 >174で二戸、三戸、八戸、九戸以外使用しなくなっていたとの指摘でしたが
それはちょっと?と思いまして少し調べたのですがやっぱりそれは間違ってると思います。

『雑書』慶安五年四月十七条
一、津軽領めない沢より御当領六戸之内沢田村へ欠落(かけおち=逃散)参候、
  左京助手回廻八人ニ被下候御扶持方三ケ月分、日数八十八日分三石八升、
  五戸蔵にて被下、御代官摂待忠兵衛、右之通披露乃
これは津軽領より逃げてきた農民のことを記しているものですが、読んで字の如し
六戸、五戸もでてきております。
 藩の公式文書でしょうか?使われなかったのは。

                    揚げ足取りではないのでよろしく。


237歴史の勉強:02/02/09 18:13
廃止された、と言っても、行政区画として廃止されただけで、
地名としては使われていたんでしょう。
福島県にも行ったことない男なのであの地方には不案内ですが、
要するに、藩政初期に糠部郡が分割され、
二戸、三戸、八戸、九戸が新規郡名に採用されて、
他は行政区としては意味を失い、後世町名等で復活することになった、と。
行政区と謂い条、南部藩にとての行政区ですから、
一般庶民は使っていたのではないでしょうか?
238しったかぶり:02/02/09 18:47
>>233
セントライトはよく府中の競馬場で会っていました。(笑)
 まだあそこにたっているんでしょうか?
239日本@名無史さん:02/02/09 20:42
銭形平次の原作者、野村胡堂は岩手県出身。
240井沢狂信者:02/02/09 21:01
>>238
どうなんですかね?
自分は東北から出たこと無いんで解りません。
しかしセントライトって戦前ですよね、確か。
岩手から出る名馬って近年先細り傾向にありますから、ちょっと淋しいです。
241しったかぶり:02/02/09 21:54
>>237
 つまり、統合したって事ですね。二戸と一戸を一緒にして二戸と。
それもあくまでも行政区画として。それならば納得です。
 ところで
 へ (戸)の起源論争というようなものがずーとありまして
光行入部の前から地名としてある、というのが今では定説なんです。
南部氏が分割したとずーといわれてきましたがそれはまちがいです。
 光行が鎌倉初期には入部してたでしょうから、それ以前といえば
奥州藤原氏、もっとさかのぼって安倍氏のころからではないかと。
 ちょっとこれはなかなか想像をかきたてられんですよ。
>>240
 エー府中の競馬場にあるのはセントライトの銅像です。
242歴史の勉強:02/02/10 00:26
ああ……おれが筆頭に挙げても40以下に落ちる……
恐るべし、終末2チャンネル(もうすぐワンダフル、みたいな感じで)

東北最北部は「神秘の世界」ですからねえ。
一応、郡制が定着したのは奥州藤原氏の前後らしいというのが定説ですね。
奥六郡の安倍氏が糠部あたりまで勢力を伸ばせたか疑問ですので、
僕も通説どおりだと思います。
「戸」はもっと遅いんでしょうが、南部氏によるものではないでしょう。
南部氏は鎌倉時代はそんなに強大じゃなかったようだから。
戸は牧場に関わっているようだから、いつから馬の飼育が始まったかでしょうね。

井沢狂信者さん、「東北から出たことない」って、海外もまだってことですか?
かく言う僕も、箱根の山は3回しか越えたことがないんですが。
(山梨、長野両県に行ったことは除く。箱根越えないから)
今までで行った一番南はどこですか?(僕は新潟県村上市)
意外と広い日本。

ところで、浅田次郎さんて、岩手の人じゃないの?
243日本@名無史さん:02/02/10 00:57
浅田氏は東京の人。
昭和40年代の青春を書いた「霞町物語」なんてリアルで面白いけど、
「壬生義士伝」は盛岡の事美しく書いて戴いてありがとうございます。
という感じ。
岩手県人として奇異なのは、コブシの花なんだよ、千昌男の「北国の春」
の歌詞でも〜コブシ咲く〜ってのがあって、それ以前はコブシの花なんて
気にも止めてなかったし。
244日本@名無史さん:02/02/10 01:10
盛岡の若手小説家で、斎藤純もいます。
岩手の新聞に連載中。
245歴史の勉強:02/02/10 02:05
岩手県は文人墨客を輩出してそうな県に思えるんですけどね〜。
ま、文学少年くずれには、どうしても石川啄木と宮沢賢治が連想されちゃうけど。

しかして、その斎藤純なる作家はいかなる小説を書くや?
どうでもいい話ですが、斎藤姓は圧倒的に東日本に偏在しとるそうです。
246日本@名無史さん:02/02/10 02:25
岩手はやはり新渡戸稲造や総理(原敬、斎藤実、米内光政、鈴木善幸)
が代表人物でしょう。
東条英機の親父もここ出身だし。
247日本@名無史さん:02/02/10 02:46
オウムって、切りつけられて殺されてその上極悪人扱いって
悲惨な存在だったのか、お前の中では・・・
こっちの方が怖っ!!

248しったかぶり:02/02/10 08:36
高木琳光も盛岡出身でしょう。
残念ながら、太宰治レベルの小説家はいないかな?
井上ひさしは、岩手県を舞台にしたものを書いているけど、山形?でしたか。
八戸出身は三浦哲郎。
249日本@名無史さん:02/02/10 14:58
>>248
高木彬光は青森市生まれ、井上ひさしは母と釜石で暮らしたことがある。
250しったかぶり:02/02/10 18:55
>>249
失礼しました。なぜかずーっとそう思っていました。

井上ひさしの「新釈遠野物語」なぞはマイナーですけど好きです。
251歴史の勉強:02/02/11 01:25
陸奥で没落した曽我氏は南部氏の被官になってる形跡はありますか?
今日、「曽我物語」(東洋文庫)を読みまして、
そう言えば陸奥にも曽我氏がいたな〜、なんて思いまして。

しかしこういう時、つくづく思う。有名な小説家は郷土の宝だ、と。
斎藤純さんは推理小説を書いてるのね。
252日本@名無史さん:02/02/11 02:22
斎藤純氏は岩手日報夕刊に、昭和初期の自転車レースの小説を連載
しています。
>歴史の勉強さん、南部と津軽のスレ並べるの好きだよね。
253しったかぶり:02/02/11 14:03
>>252
私の持っている本によると、曽我氏の顛末は以下のごとくです。
鎌倉時代に北条氏の代官として工藤氏とともに津軽内三郡を支配していた
曽我一族は鎌倉末期に一族で北条方と天皇方にわかれ曽我道性と、曽我貞光
二派に別れにらみ合っていました。そこへ鎌倉陥落の際ひそかに逃れた,名越時如
安達高景が曽我道性を頼ってきました。道性は名越を担いで北条市再興の旗を揚げたけど
南部師行,安東家季等に敗れる。
 その後、曽我貞光は平賀郡の法師脇郷と沼館村を与えられる。
しかし、光高はその後足利方に走り、建武三年安東家季が今度は足利方で旗を揚げると
そちらにつき詳細不明ながら、その後滅ぼされた模様。
 
津軽地方に工藤姓はたくさんあるけど、曽我姓はあんまり聞かない。

曽我兄弟の話ですが、あだ討ちされたのは工藤祐経ですね。彼らは津軽に来た一族と
関係あるのでしょうか?

 曽我氏については、津軽氏板のほうで探してもらったらいいかと思います。
 


254日本@名無史さん:02/02/12 02:15
盛岡城(不来方城)が位置する地の、東西南北には古代巨石文化の遺跡が
きれいに並んでます。
盛岡のここに城を造れば良いと、薦めたのは蒲生氏郷なそうだ。
255歴史の勉強:02/02/12 02:54
蒲生氏郷も、よくわかんない人だな〜。
伊達政宗とは仲良かったんでしょうかね?
政治家として先見の明ある秀才なのか、はたまた秀吉に嫌われてたのか。
南部藩にとっても糠部郡域より北上流域のほうが生産は期待できたでしょうけどね。
軍事的に見ても、そのほうが好かったかもね。
津軽と伊達じゃ、怖いのは歴然だったから。
256日本@名無史さん:02/02/12 03:36
徳川家康・伊達政宗・和賀忠親vs前田利家・蒲生氏郷・南部利直
って感じやね。
257しったかぶり:02/02/12 07:33
>>254
巨石文化、というのはいわゆる、ストーンサークルですか?
258日本@名無史さん:02/02/13 02:23
巨石の話だけど、話半分で聞いてね、今にも死にそうな
ジジイから聞いた事だから。
トンデモ系なんだけど、なるほどと思える所もあると言う事でね。

盛岡城内には巨石が多くあり、一部は城壁のもなっている。城の
最も高い部分にある巨石は、ご神体として祭られてる。

このご神体の北には、石割桜で有名な巨石、岩手の名の由来となった
三石神社の巨石が連なる。
また石割桜と三石神社の間には、蒲生氏郷家より南部家に嫁いだ、
ムカデ姫の墓所あり。(この墓が、南部家墓所ではなくちょっと
変なとこにあるのよ、)

東には岩山の大石ありて、兜明神岳山頂の大石に通ず。(兜明神
岳は古代ピラミッドだと言うMUもいるのよ。)

西にも南にもなんかあるらしいけど、覚えてないからゴメン。
259日本@名無史さん:02/02/13 12:02
>>232
グリーングラスは七戸・盛田産ではなく天間林村の諏訪牧場産ですね。
揚げ足取りではないのでご容赦を!
260しったかぶり:02/02/13 19:12
>>259
 すみません。間違えてばっかりでこれから気をつけます。
北海道に移ったと聞いてますが、まだおげんきでしょうか?
261しったかぶり:02/02/14 20:58
前にも出てきましたがやっぱりこの話題が出ないと、ということで
   相馬大作 について
参考URLは地元二戸市です。(勝手にリンクはらさせてもらいました。)

  >>http://www.city.ninohe.iwate.jp/kankouka/ninohe/daisaku.html

いくらにっくき津軽氏でも200年も立ってから暗殺に及ぶとは、いかなる思いにて
あるや?
 下手すれば南部藩自体がおとり潰しの危険があったと思われる。
南部衆の皆様の意見はいかに?

司馬オタではないがこれに関しては以下のごとく。
「略..このことを解くカギがもしみつかれば、ひとりの相馬大作にとどまらず、南部衆
というごく一般的な気質を考える上でずいぶん楽になるかもしれないとおもったりする。」
  『陸奥のみち』
です。

262日本@名無史さん:02/02/15 00:46
>>260
グリーングラスは種牡馬引退後九州で余生を過ごし、
3年ほど前(記憶が曖昧。資料も手元になし)に亡
くなりました。
263日本@名無史さん:02/02/15 00:53
>262上げてくれてサンクス。
>>261
司馬が疑問に思ってるのがなんなのか判らない。
もちろん本は読んでるよ。
仙台伊達と宇和島伊達の例もあるし、武家社会の通例
じゃないのか。
264歴史の勉強:02/02/15 11:01
大正十三さん(北斗太平記の著者)によると、
藩政期、諸藩の実収は石高の倍以上あるのが普通だったそうです。
南部藩のばあい、面積に比して石高が低すぎる印象を受けるので、
実収はかなり多かったと見るべきなのでしょう。
太閤検地の時も、南部領は石高ではきちんと表示されなかったらしいし。
当時としては、把握しにくい地域だったのでしょう。
265     :02/02/15 12:57
南部は
266日本@名無史さん:02/02/15 16:30
南部地方では現在も競馬用の馬を生産しているのですか?
それとも馬刺し用?
267日本@名無史さん:02/02/15 23:07
>>266
両方ですね。私の近所ではペットフード用のぽにぃ牧場があります。
268日本@名無史さん:02/02/16 01:11
盛岡の競馬場でポニー見て、オジイに欲しい家でも飼おうよ、
と言ったら、高いからダメって言われたよ。
ペット・フードになっちゃうの?
269日本@名無史さん:02/02/16 01:23
>>264
南部の土地は広いですが、そのほとんどが山岳地帯です。
米栽培に適する土地は現在も多くありません。
その代り山からは木材、炭。海からは塩・鮭等の魚産物が多く
産しましたが、商人が開拓したそれらの産物を藩が専売として
奪りあげ専売化し失敗の繰り返しだったと聞き及びます。
270歴史の勉強:02/02/16 02:02
いや〜、米だけが経済指標じゃないでしょ?
松前藩は米ゼロ政治やってましたが、ぼろ儲けしてましたし。
松前藩も失敗(その結果、一時蝦夷地没収)した専売制はおもしろい。
なぜ失敗するか検討すべきでしょうね。

これを「自由競争マンセー、ゆえに政府事業なんてダメなのよー」
という、小泉純一郎をマイナス3乗したようなことで片づけちゃダメよ?
タバコが専売でも失敗してないからね。
271歴史の勉強:02/02/16 02:09
しかし、「小泉をマイナス3乗」ってわかりにくい表現だったなあ……
272日本@名無史さん:02/02/16 02:17
あっ!並べた。東西が逆なんで直します。
273歴史の勉強:02/02/16 22:32
北斗太平記には、北畠顕家がかなり熱心に文書を発給していたことが書かれていた。
北畠氏はかなり真剣に東北支配を考えていたことが察せられる。
霊山への移動が国府陥落によるものでないと大正氏は書いてたけど、どうかな?
僕は南奥に反足利勢力が多かったからだと思うけど。
霊山は伊達郡にあったし、伊達氏は南朝党だったから。

やっぱり南部氏は南北朝以前は一領主に過ぎなかったみたいね。
南部氏は南北朝対立と関係ない次元で戦ってた気がしますけどね。
工藤、曽我、安藤も、もともとは北条被官だったわけですから、
その昔のお仲間と争っていた、という側面が強い気がします。
274しったかぶり:02/02/16 22:50
>>262
ありがとうございます。長生きでしたね。
人間では90歳くらいですか?
275菊駒:02/02/18 00:20
>>266
青森県五戸町、尾形の馬肉は絶品ですヨ!
276しったかぶり:02/02/19 06:56
 ほんとに知ったかぶりですが、相馬大作事件で、密告した刀鍛冶がいましたね。
彼はその後、津軽藩に二百石でかかえられ、小島嘉兵衛と名乗りました。
 それから四十年、その息子左近は「馬門戦争」で野辺地,官所下で戦死。
そのとき、父親が褒美にもらった陣羽織を着ていたそうです。
 (意地悪ではありませんが、)なんとなく歴史の皮肉を感じました。        

277日本@名無史さん:02/02/19 11:52
昨日、黄門様の番組で、津軽藩と南部藩の抗争が出てましたが、
無論番組は史実ではないでしょうが、
津軽藩と南部藩はなかが悪く江戸期でも常に臨戦体制であったと聞きましたが。
278日本@名無史さん:02/02/20 04:26
野辺地の浜に、藩境の塚が残ってます。
南部人としては当然のものかと思いますが、江戸期の
藩境としては、特殊であるらしいね。
279日本@名無史さん:02/02/20 16:04
>>278
何故?
280日本@名無史さん:02/02/20 16:06
南部人などという日本に貢献もしていない人種が
教科書にのっていないからいけないなどと駄々をこねるのは
子供みたいだからやめなさい。いいわね。
281しったかぶり:02/02/20 21:44
>>279
ふつう、江戸時代の藩の境は、よくて石柱、悪くても木柱がたっているだけ。
ところが、野辺地、狩場沢にあるそれは古墳のように土を盛り上げ、2つも作っている。
 それらの藩境は明治維新後殆どが取り払われたが、ここにはまだのこっている。
と言うところでしょうか。
 仲の悪さは今もつづいておりますね。
282317:02/02/20 21:48
南部藩領では、江戸時代としてはタブーだった肉食(具体的には、いわゆる、モツ)の風習があったそうですが、
マジですか。
283日本@名無史さん:02/02/20 22:30
青森県議会は最近まで津軽選出議員と下北(=南部)選出議員がいがみあってたとか。
世代交代がすすんで現在はどうなのか知らないが。
284日本@名無史さん:02/02/20 22:50
曖昧な記憶で申し訳ない・・・
野辺地の辺りに津軽VS南部を証明する
ベルリンの壁もどき
があったって話は本当ですか?
285日本@名無史さん:02/02/21 00:14
今だ!285番ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄       (´´
     ∧∧   )      (´⌒(´
  ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
        ̄ ̄  (´⌒(´⌒;;
      ズザーーーーーッ



286日本@名無史さん:02/02/21 12:25
>>282
そもそも肉食がタブーなんて嘘。
287日本@名無史さん:02/02/21 12:35
>>284
へー、そうなの?
でもあったとしても野辺地じゃなくて青虫になりそうな気がするが。
288日本@名無史さん:02/02/21 22:03
age
289しったかぶり:02/02/21 23:19
隠れキリシタンについて
 青森県新郷村に、キリストの墓とか、興味ありげな風習とかがあります。
これらはこの里が隠れキリシタンの里だったことを示してるものだと思います。
 江戸時代初期、二代目津軽藩主はキリシタンであって、弘前付近にキリシタンの
村があり、その後の後処刑されてますし、さらに佐竹義宣の婦人がキリシタンでした。
 また伊達藩もご存じのとうりです。
 東北地方のキリシタンの研究はあまりないみたいですけど、南部藩はどうだったんでしょうか?
盛岡あたりにいたのでしょううか?
 新郷村のキリシタン(だとしたら)はどこからやってきたのでしょう?



290誠三:02/02/21 23:21
俺に任せとけ
291日本@名無史さん:02/02/22 03:03
消防の頃歴史の副読本で、盛岡の歴史みたいなのがあって、
虎に食われるキリシタンという絵があった。
292日本@名無史さん:02/02/22 05:56
隠れキリシタンの研究はかなりの程度さえているはず。
どっちかっていうと南部よりは伊達の方でしょう。
少なくとも青森県新郷村のキリストの墓はキリシタンとは関係ない。
293歴史の勉強:02/02/22 09:47
旧南部領出身者は今でも原敬を崇拝する人が多いんですか?
294日本@名無史さん:02/02/23 03:44
原敬は、日本全国で尊敬されてますよ。
みんな学校の教科書で習ったでしょ。
295日本@名無史さん:02/02/23 04:03
>>280
アフォか君は。
日露戦争終結の仲介役アメリカのルーズベルト大統領は「武士道」を読んで
日本に好感を持ち仲介役を引き受けて日本は日露戦争に勝てたのだよ。
武士道の作者である南部人は君の無知さが今後持つ続く事を願いに教えない。
296しったかぶり:02/02/23 07:19
>>292
キリストの墓だとはみんな信じてないでしょうけど、周りの藩(津軽 伊達)
とか、その当時西日本の方から流刑されたキリシタンたちが東北にはいたらしい
と言う状況から、南部藩にもいたかな?と思ってるんですけど、どうなんでしょうか。
297日本@名無史さん:02/02/23 09:47
新郷村のキリストの墓は昭和になってから作られた話。
隠れキリシタンとは関係ない。

ちなみに東北の隠れキリシタンの研究は昔からたくさんあるよ。
うろおぼえだけど隠れキリシタンは南部領より伊達領が本場だったような。
298日本@名無史さん:02/02/23 18:09
岩手県人は「東日流外三郡誌」に対抗して「糠部奥六郡誌」とか作んないの?
299日本@名無史さん:02/02/23 18:12
宮城県人ならそんなせせこましいもの作らない。
作るなら「日本半国五十四郡誌」だな。
300日本@名無史さん:02/02/23 18:18
                / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         Λ_Λ <  コソーリと、お茶の間そろって
        (´∀` )  \__________
  ∧ ∧   (___,,)_     
 (.,゚Д゚)/ ̄ ̄ ̄ ̄ /|     
 │ /∧ ∧    //||
 (/___(   ,,) _//  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ||  ,,/  つ ||/   <  300!!
 ||  (__丿  ||      \__________


301日本@名無史さん:02/02/24 20:07
南部じゃやっぱり昔は稗に干した菜っ葉が主食でしたか?
302日本@名無史さん:02/02/24 21:32
 きびしい気象と山間部という自然のなかで、たび重なる飢饉と闘ってきた北部では、食の基本は雑穀であった。
 なだらかな山々の間に耕地がひらけ、どの家でもひえをつくり馬を飼う。
 早春の雪どけ水で水車をまわし、雑穀の精製に利用する。
 屋敷まわりの畑には、主食を補う大根、じゃがいも、かぼちゃなどがつくられる。
 水田は少なく主食はひえ。朝は米やあわを混ぜて炊き、昼はぞうすい、夜は小麦のひっつみという組み合わせとなる。
 大豆でつくる豆腐、きらず、納豆も日常の食膳に供され、晴れ日・行事日には、必ずそば料理が登場する。
 長い冬のための多様な保存、貯蔵、加工の工夫、風土を活かした豊富な食材の一つ一つに、積み重ねられた主婦の知恵がこめられている。
303日本@名無史さん:02/02/24 21:40
盛岡から北上あたりまでの北上川流域を中心とする地域では、北は岩手山の裾野から南は北上付近にかけての一帯である。
 古くから水田地帯がひらけ、その規模も県内では大きく、生産も安定している。
 雪が少なく大麦・小麦も栽培され、米・麦を基本にした多種多様な食べ方の工夫が、食生活全体を豊かにしている。
 そこから生まれた米麦、そばなどの粉食「しとねもの」がこの地域の特色となっている。
 畑には、大豆、小豆など豆類、大根、里芋、ごま、じゅうねなどもつくられ、食素材の豊富さと季節野菜の多様さが、
味噌・醤油などの味つけの妙と相まって、食全体を豊かにしている。 長い冬のための多様な保存、貯蔵、加工の工夫、
風土を活かした豊富な食材の一つ一つに、積み重ねられた主婦の知恵がこめられている。
304日本@名無史さん:02/02/25 02:57
南部の人って、貧しくてもえらい!
305日本@名無史さん:02/02/26 00:08
わんこそば は?
どうして小出しにして食うのでせう?
306日本@名無史さん:02/02/26 00:23
”わんこそば”は、大食いゲームであって歴史的なものでは
ないです。太平洋戦争後にはじまった遊びです。
307井沢狂信者:02/02/26 00:28
わんこそばは盛岡発祥か花巻発祥かで揉めることがあります。
花巻発祥と言われるものに冷麺がありますが、これもただ今係争中です。

ネームバリューで大抵盛岡になっちゃうんでしょうが・・・。
308日本@名無史さん:02/02/26 01:04
>>307
初耳ですよ、わんこそばは盛岡紺屋町の「わんこや」店閉めたけど、
冷麺は「食道園」でしょ。それは花巻の言い掛かりとしか思えん。
309井沢狂信者:02/02/26 02:03
>>308
俺も親父(五十路)から聞いた話ですから、真偽は分からんとですよ。
どっちでもいいのだけれど、何だかねえ……。
これが弘前や伊達との係争だったらあな恐ろしや。

花巻は所詮、南部の前線でしかないのか……。
310日本@名無史さん:02/02/26 03:17
井沢氏は花巻の人ですか?
311井沢狂信者:02/02/26 09:43
>>310
俺は花巻ら辺の出身ですけど、井沢元彦氏は愛知の出身。
母方の実家が大崎の出だったかな?
312日本@名無史さん:02/02/27 02:42
前近代の日本で
いちばん栄養状態が良かったのは
漁民でしょうか?やっぱり。
でも、漁業技術の問題もあるし?八戸などは、
江戸時代も漁業が栄えていたのでしょうか?
313日本@名無史さん:02/02/27 03:01
南部でも宮古の人達はあかるいからね、内陸と違って。
314井沢狂信者:02/02/27 10:24
>>313
DQNも多いよ。
綺麗に分かれてる、沿岸と内陸。
あと北上市(俺の実家に近い)も多い。
315日本@名無史さん:02/03/02 20:39
下斗米という姓は南部に多いのですか?
316日本@名無史さん:02/03/02 20:45
>>315
多くはないが盛岡藩の武士にいます。
二戸市の地名にもあります。
317しったかぶり:02/03/02 21:41
 南部牛追い唄、ですが九州の「刈干切唄」とそっくりだそうでどういう訳だろう
と調べますと、共通点は鉄の生産地とのことです。(人的交流があったらしい)
 それは、まあ納得したんですが、これがですねモンゴルにもそっくりな唄があった
と、司馬遼太郎がそれを聞いてびっくりしたと何かのエッセイで書いてました。
 それじゃ、やっぱり義経がジンギスカンだ! とは思いませんが昔南部衆の誰かが
モンゴルにいったのかなーと思ったりもして(たとえば元の捕虜になったとかで....)
 この唄はいつ頃できたんでしょうかね?


318日本@名無史さん:02/03/02 22:37
>>317
それテレビでもやったよ。
モンゴルの民謡が、南部牛追い唄かどうか知らんけど日本の東北民謡に曲調がそっくりだったね。
はじめて聞いたらかなり驚くよ。(ちなみに漏れも東北出身)
319歴史の勉強:02/03/04 10:53
山川出版「青森県の歴史」を買う。古本屋で¥100。
しかし、藩政期のことは津軽ばっかりで、
南部支藩のことは少ないとの印象を受けたが?
やはり南部藩の歴史は岩手県中心に語られてしまうのだろうか?
320しったかぶり:02/03/04 20:52
>>319
 その本はそれでも南部にも気をつかって書いている方だよ。

それにも書いているが、
 1,根城南部氏が、遠野に転封になったこと。
 2,七戸家国が九戸方についたので、上北在住の武士団が
   ほぼ全滅したこと。
 3,八戸藩の支配地域は、岩手県の方に偏っていたので
   記録が少ないこと。
 4,青森県南部地方は盛岡藩の支配地だけれども、江戸時代は
   米作はほとんどなかったのでかるくみられた。
   (一部地域では、年貢が現金で徴収されたとの記録がある。) 
 5.でもやっぱり本家は盛岡に行ってしまって、遠いから、だな。

 青森の南部地方は、ちょっと辛い。
 
321歴史の勉強:02/03/05 09:48
これもやっぱ、
南部氏と「ひのもと」の歴史を考える上で不可欠だと思うんだけど、
下北半島の支配ってどうなってたのかな?
下北にいた安藤一族を擁立して、南部氏が下国家を津軽から追ったと聞くけど。
でも、いろんな意味で南部氏の下北半島支配は重要だと思うんだ。

しかし、武富士放火犯が浪岡の人とは……。
御所の名を辱めるな、こら!
322日本@名無史さん:02/03/05 12:54
歴史の勉強さんへ
>>20
鎌倉幕府は日本全国を植民地のように支配したと海津先生は言ってるが、

この海津先生って誰ですか、俺その本読みたくなったんで教えて下さい。

323日本@名無史さん:02/03/05 13:37
>321
サラ金を成敗してどこが悪いっ!
324日本@名無史さん:02/03/05 13:38
下北半島は大湊で砂鉄が採れた。
順法寺御所もあったぞ。
325日本@名無史さん:02/03/05 13:52
海軍に入ったのに乗る船が無くなって爆弾抱えてシャーマンに特攻する
訓練してたウチの爺さんが終戦迎えたところだな・・・大湊。
326日本@名無史さん:02/03/05 13:53
>>323

というかムネヲ的犯罪ならぬロシア的犯罪が
遂に下北半島にも進出したんじゃないの?
ロシアの地主と小作人の関係ってそうだよね。
旦那様旦那様と領主を慈父のように慕っていた小作人達が
ある日突如領主館を襲撃して焼死させてしまう。
この恐ろしい人間の本性が革命理念につながったという説もある。
日本的な阿吽の呼吸とか以心伝心とかわびさびがない。
北海道、東北でもこの手の犯罪はどんどん増えると思うよ。
327歴史の勉強:02/03/05 15:25
「楠木正成と悪党」って本です。ちくま新書。
ただ、鎌倉は全国を植民地のように……ってのは簡単にしか触れてません。
あの本は、関東の南北朝を特に重点的にあつかった本ですから、
関東に興味ない方にはちょっとつまんないかも……。
でも、東北地方の中世史を追うと、必ず鎌倉の影がチラつきますね。
えー、鎌倉をきれーな着物の女性が歩く優雅な町〜と思ってる方、
鎌倉時代と幕府は勉強なさらないほうが好いです。

津〜軽〜、八のー戸〜、大〜みな〜と〜、の大湊か。
どうせギャグだと思うけどさ、
大土地所有制が発達したロシアの社会風土をそー簡単に談じられるもんかね?
こんな高度に発達した社会で、あうんの呼吸なんて通じない人のほうが多いって。
でも、賭博で借金でしょ?
意外とつまんない動機でしたね。怨恨かと思ったよ。
どっちみち、犯罪は増えると思いますね。悲しいけど(警察無能だし)。
328322:02/03/05 16:08
歴史の勉強さんへ

有り難う御座います。
自分は小田原北条ヲタなんですが中世の東国史全般に興味があるので
早速読んでみたいと思います。
329日本@名無史さん:02/03/05 16:42
>>115
吉里吉里善兵衛ですね?
無体な献金強要によりつぶされました。
海苔羽織伝説がありますね。

しかし、なんで南部のようなバカ殿を崇拝してるのかね、ここの人は。
盛岡市民か?
330日本@名無史さん:02/03/05 21:09
南部さんを崇拝してるわけではないが、先祖がニ百年以上も世話になったんでね。
331歴史の勉強:02/03/05 22:14
「楠木正成と悪党」、
買って損はない本だと思いますので、スレ違いは承知で附記しときます。
同書は前半で楠木正成と新田義貞の実像を検証し、
それがいかに皇国史観に悪用されてきたかを書いています。
後半が関東の南北朝史で、特に武蔵野合戦(1352)以降の政治史を扱ってます。
最近の史学書に頻出する「薩多山体制」なんて語も説明されてますから、
初学者には好適な本だと思います。
ただ新書のわりにはマニアックなことまで突っ込んでるので、
これを読んだ後、「鎌倉府と東国」という本も読むといいでしょう。

まあ、南北朝史ですから、これと先に挙げられた「北斗太平記」を読めば、
おおまかな同時代の流れは把握できると思います。
やっぱ関東と東北は「近い」です。
南北朝以後、戦国時代までの概史を把握することはとても重要だと思います。
332日本@名無史さん:02/03/05 22:55
南部は津軽にいつも大敗。そして南部は退廃していく。
333日本@名無史さん:02/03/05 23:03
>>332
歴史と関係ない意味不明のレス付けないでね。
334329:02/03/06 00:24
私は沿岸なもので、南部が憎くてたまらないんですわ。
335日本@名無史さん:02/03/06 00:27
東条すれたってるけど
東条って結局血は南部なの?
それとも単に江戸藩邸出入り役者の出生?
336しったかぶり:02/03/06 00:31
三戸南部氏が安藤氏を津軽から追った頃、下北半島の北半分あたりには田名部
の順法寺城に北部王家、と称する新田義純がいた。この王家は護良親王の遺児
八幡丸に始まり、1347年八戸南部信政が吉朝から奉じて来たものという。
この5代目が新田義純。彼ははるばる上洛して将軍義量に謁して足利将軍家
に服した。
 これに不満だった重臣の蠣崎蔵人(かきざきくらんど)が義純を殺して南朝回復
の旗を揚げた。 【蠣崎蔵人の乱】 1448年 文安5年
 これに上国安藤氏が加勢したので一時は、七戸城まで危なくなった。
8年後、勅許を得て八戸南部13代政経が順法寺城を落城させ、蠣崎蔵人は松前に
にげた。この蠣崎が、後の松前藩の祖と言われる。
 南部氏は安藤氏ほかの勢力を駆逐して下北半島は根城南部氏の支配下におかれる。
後、南部利直が無理矢理根城南部氏から取り上げている。明治維新まで盛岡藩領。
 とまあ、こんなものですが蠣崎氏は自分は若狭の武田氏の流れだとしているけど
実態は、南朝方の落ち武者が南部氏を頼って下北半島に流れ込んでいて、その中から
蠣崎蔵人みたいな元気のいいのが出て反乱を起こしたというところのがほんとではないでしょうか?
 下北半島は、金ですね。今は殆どでませんが。
江戸時代には海産物、あわび、昆布、等の生産地ですし木材もあるし、結構おいしいところではあった
でしょうね。
 下北半島の金は砂金らしいので、まだあるかもしれませんよ。
夏休みにでもでかけてみたら?でも、このごろ熊が出ますので気をつけましょう。
337日本@名無史さん:02/03/06 03:22
しったかぶりさんすげぇ−!
失礼いや驚きました、ちなみに参考文献なども教えて戴きたい。

東条さんは南部お抱えの狂言師のお家。能狂言のは師で役者ではない。
338しったかぶり:02/03/06 07:15
336の続きですが、「北部王家」の話は、伝説のたぐいですね。
よくわからないらしい。
 【蠣崎蔵人の乱】は本当。
今下北半島の真ん中に横浜町がありますが、このとき南部方についた横浜氏
と言う在地の豪族からつけられたらしい。

339日本@名無史さん:02/03/06 11:27
>329
すいません。非東北人です。
吉里吉里善兵衛とは、
井上ひさしの『吉里吉里人』のモデルのことですか?
吉里吉里(きりきり)という姓があるのですか?
340日本@名無史さん:02/03/06 11:57
蠣崎蔵人=蠣崎季繁
という説は正しいのですか?
341日本@名無史さん:02/03/06 12:43
南部の殿様ってバカだったんですか?
342329:02/03/06 14:41
>>341
名君と暗君が一代ずつ、といわれています。
暗君が一代おきに出るというのは凄いです。
名君といってもこの世が極楽になるわけじゃなく、まあマシという程度。
暗君なら目も当てられない地獄ですからね。
つーか、領民が疲弊して一揆乱発してるのに、家格無理に上げるわ、隠居殿様は
無駄遣いで遊びまくるわ。
相馬もあんなことする暇あるなら、領民のこと考えろと思うね。
>>339
吉里吉里は地名です。
吉里吉里人は、その地名を基にした作品。
吉里吉里善兵衛は、吉里吉里の豪商。
343日本@名無史さん:02/03/06 18:27
南部は津軽にやられっぱなし。情けないところです。
344しったかぶり:02/03/06 22:41
>>340
 蠣崎蔵人と武田信広が交錯してややこしいのですが、蔵人は武田信広で
渡島に逃れて、蠣崎季繁のもとにやっかいになり、コマシャイン父子を射殺。
 その後季繁の婿になって蠣崎家を継ぐ。 「新羅之記録」
どうもこの辺は人物が錯綜しておりますのではっきりしません。
北海道の蠣崎氏と下北の蠣崎が同名なのもややこしい。
345歴史の勉強:02/03/06 23:28
新田の残党ぐらいなら、まだ可能性も否定できないと思いますが、
大塔宮の末裔ってのはねえ。
宮自身が「淵野辺義博に殺されなかった〜〜」と信じる人さえいるぐらいじゃん?
しかも、後醍醐天皇の王子の中でも、護良の子孫はちょっと微妙なんですよ。
親王の子「興義王」(一応慣例に従って「王」としとく)は関東で小山氏にかつがれ(註)、
しかも途中で南朝を裏切って奈良で戦死してるんです。
護良が人気あったのも事実だけど(民衆にじゃなかろうが)、
その子孫はかなり南北朝の犠牲になってるらしいんです。
ほかの王子と比べても特殊な一統なので、軽はずみな説は信じないほうが好いでしょう。

(註)1380年の小山義政の乱ではなく、北畠親房の常陸経営のころの話。
346日本@名無史さん:02/03/06 23:36
南部ってイメージ薄いね。全国的にみてかなり薄いよ。正直。
347日本@名無史さん:02/03/07 10:54
蠣崎蔵人=蠣崎季繁
蠣崎蔵人=武田信広
つまり
蠣崎季繁=武田信広
348日本@名無史さん:02/03/07 23:43
幕末の南部藩出身、近代製鉄の父大島高任も称えよう。
349歴史の勉強:02/03/07 23:51
南部が影薄いっていうなら、長野県なんかどーすんの?
まさか、中先代に従った諏訪氏や真田昌幸で代表するとか?
でもさあ、大名でその土地を誇るってとてもむなしいよね。
弱小戦国大名しか生まなかった富山県とかどーすんのさ?

こういうとこに、僕は日本人の歴史観がまだまだ貧相であることを感じる。
どんな土地も歴史を語れるさ。
それを感じ取るのが感性。
ただのボタ山に無限のロマンを感じ取るようなものだと思う、学問と芸術は。
杜甫が汚い長江の流れに万感の思いを馳せたようにさ、
人間はどんな土地にでもロマンを見いだせるよ。
350日本@名無史さん:02/03/08 16:55
自己陶酔バカ発見↑
351しったかぶり:02/03/08 21:44
 俺も自己陶酔の馬鹿だけど

蠣崎のことをちょっと調べてみたらこいつはおもしろい奴だ!!
 腕と度胸一本で松前藩の祖になってしまった。
若狭の武田氏の血筋だといってるけどこれは嘘だな。
食いっぱぐれの浪人ものが下北に流れてきて、たぶん口八丁手八丁で腕も立つ!
 そこへ南部と安藤氏の戦争だ。こりゃチャンス!と言うわけで、大働き!
なんだかんだいってる間に渡島を自分のものにした。
 えらい!
松前藩は好きじゃないけど蠣崎蔵人は歴史のロマンだよ。
352日本@名無史さん:02/03/09 00:33
南部のことを語れ!この影薄い南部オタどもが!
それともすでにネタ尽きたか。ははははは!やれやれ・・・
353日本@名無史さん:02/03/09 02:39
>>352
↓で、お待ち申し上げまする
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1012749768/
354日本@名無史さん:02/03/09 04:25
>>352
馬鹿は相手にしないのが、名門南部の礼節ですので。
355日本@名無史さん:02/03/09 11:47
Jリーグで、
「スターキング津軽」「サラブラッド南部」
なんてチームが出来たら、
フーリガンのサポーターが生まれるだろうか?
356歴史の勉強:02/03/09 14:59
入間田って先生が講演の中で、
「南部の一族が大浦に入部、大浦氏の祖となった」
と書いてましたから、やっぱり大浦氏は南部氏の庶家なんでしょうね。

松前藩の前史も、おもしろそうですけどねえ。
ただ、あれを日本vsアイヌの民族紛争と考えるのは誤りなようです。
実際にはアイヌと日本人(倭人)は共存共栄してたようです。
そりゃそうだよね。
これと言って強力な後ろ盾もなかったであろう蠣崎氏があんな力を持つはずないもの。
357信者@東北:02/03/09 21:33
>>356
井沢スレの狂信者だった者です。
入間田の爺さんには東北アジア史の時、世話になって以来会ってないな。

爺さんによると東北アジアの交易圏は相当広かったらしいなあ。
南部の馬が精悍なのもそこら辺に理由がありそうだと思った。
歴史の勉強さんトンペー?
358しったかぶり:02/03/09 22:05
影はどうか知りませんが、頭の薄い南部オタです。
大浦氏の件
 元、仙北(秋田)にあった金沢城主、金沢家光(秋田)安藤氏秋田攻めのため死。1434年
幼き 家信、南部氏に逃げる。
 南部氏、下久慈に領地を与える。
その子 光信、1491年南部氏支配のため、津軽の要地、大浦種里へ入部。
1502年大浦城を築く。このときより、大浦氏を名乗る。
        (全部、受け売り)
 ところで、馬について教えてください。
どう見ても、南部馬は大陸から来ていると思いますが。
359日本@名無史さん:02/03/09 22:22
>>1
教科書になんで南部ごときの一地方のしかも影薄い在地勢力のことを
書かなければならないのか?まずそこから議論すべし!
360歴史の勉強:02/03/09 23:27
トンペーって何すか? 東北って意味?
僕は関東人ですよ。本来、東北の方とは敵対関係にあるかもね。ハハ。
関東人の3分の1は東北から来た人とその子孫だって言いますけどね。
東北も関東から行った人の子孫が多いはずです。

大浦為信の出自は常に問題となることだけれども、
これに関しては津軽藩の資料を信じるわけには行かないと思う。
だって、「装飾」してる可能性が高いじゃないですか?
近衛の末裔とか言ってるぐらいだし。
僕は南部氏の庶流の可能性が一番信憑性高いと思いますけどね。

それにしても、蠣崎氏ってのはどういう者だったのかね?
南部氏によって北海道に派遣されたのか、それとも南部とは敵対してたのか。
安藤師季だって、この手の問題がついて回るわけじゃないですか。
しかもこれ、コシャマインの実体を知る上でも重要だろうし。

うんうん、教科書に南部氏を載せる必要はない。
南部氏は最低でも中級者以上じゃないと理解の入り口に達しないから。
と、嫌みはここまでにしといて、教科書に戦国大名なんか載せる必要ないよ。
だって、戦国大名の実態を知らないで知識増やしても、
アホーな子供が増えるだけだもん。
個人名より先に、まず「国人」「一揆」を正しく知ったほうが好い。
戦国大名なんて、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だけで十分。
この手のことを言い出すと、天王だって、ほんの数人でいいし、
政治家なんて、そうだなあ、近代まででも20人もいれば十分じゃない?
たとえば、藤原道長を暗記する必要ってあるんでしょうか?
361日本@名無史さん:02/03/11 03:11
馬を大陸から運んだってのは僕も考えた事あるけど、
馬を運べる船があったのかというのは疑問に思う。
大陸からやって来たには違いないけど陸続きの時代だと思う。
肥後の馬もきっとそうだと思うし。

岩手の田舎の農家のペット馬でこれが南部駒だという馬がいたりする、
頭の長さがサラブレッドの3倍くらい長くて胴長・短足、飼い主はタクヤ
と呼んでたキムタクに似てるって事でした。かわいがられてんだね。
362日本@名無史さん:02/03/11 22:40
こら!「歴史の勉強」君。
君が閉鎖的、排他的なものの言い方をするからこの2日間で
1件しか書き込みがないじゃないか!(おかげで駄スレになりつつある)
中級者以上しかこのスレにレスするなと言ってるようなもの。
君は>>1にかわってココを盛り上げる責任がでてきてしまった。
影薄い南部氏を盛り上げることがいかに難しいか?中級者以上に限定したことを反省しろ!
南部氏を応援する皆さん!ココは初心者にも開かれた南部氏スレです。どんなことでも書き込んでください!
363歴史の勉強:02/03/11 23:11
え〜(不満げな子供のような声)、
あれは「南部氏が教科書に載る必要などない!」という書き込みに対抗して、
「そりゃそうだ、歴史小説マンセー野郎には南部氏なんか勉強しようもねえよ!」
って、辛辣な当てこすりを書いただけですよ。
実際、こちらの方々は中級どころじゃないレベルにいるじゃないですか?
なぜか競馬の話に飛んでしまいがちだけど……

まあ、そのせいで書き込みが減ったなら、ここに陳謝いたします(ペコ)。

でも、南部氏は「一在地勢力」どころじゃないよ。
日ノ本の歴史を握る最重要豪族だと思う。
南部+安藤氏+浪岡御所(+大浦為信)は何を基盤に歴史を展開したか?
南北朝以前、工藤や曽我より小さかったと思われる南部が
なぜ津軽(の南部地域と限定すべきか?)まで進出できたのか?
蠣崎氏はいったい何者で、どういう意図から北海道に渡ったのか?
日ノ本は、講談社「日本の歴史」第14巻でわざわざ琉球+対馬とともに
採り上げられた……つまりは特殊な地域だったことは事実でしょう。
とすると、凡百としか言いようがない平凡な戦国大名とは価値が違うし、
地元の大名マンセーの方も「用がない」でしょ?
南部氏がなぜ強大化したかは、非常に重要な問題だ。
また、日ノ本の歴史は日本史、いや世界史的にも大きな意義を持っている…
と僕は思ってるのですけれど。
364しったかぶり:02/03/12 22:33
そうかー馬はやっぱり大陸からじゃないのかー
 私は考古学も好きですが、全くと言っていいほど 馬の骨がでないんですよ。縄文時代の遺跡には。(牛も)。
北東北の弥生時代はまだ謎が多いんですがそこからも出てないと思います。
 とすると、どこからかきたのか?いわゆる歴史時代になってから
馬、牛をつれて西日本からきたのかなー?そうすると彼らはどこから、どうして
南部地方にきたんだろう?と思うわけです。
 ちょっと思いついたんですが、馬と鉄はパックできたような気がしますが。

歴史の勉強さんは、時々あっと思うことをいうからおもしろいんですが、
ちょっとまあ観念的なとこもあるかな。まあ広い心でいきましょう。
365日本@名無史さん:02/03/13 00:02
「歴史の勉強」君はしぶしぶながらも自分の非を認めましたので
初心者のみなさん、彼を許してあげようではありませんか!
レスを見る限り彼はなかなかの物知り、かつ歴史を愛する人間です。
影薄い南部氏をみんなで(もちろん初心者も含め)盛り上げよう!それとこれは全国へと発信する
インターネットです。九州の人が見てもわかるような(例えば地名など)
書き込みをしましょう!
366日本@名無史さん:02/03/13 00:15
>大浦為信の出自は常に問題となることだけれども、

研究者の間では
『津軽一統志』付巻の
金沢右京亮家光、家信、光信、盛信、政信、為則、為信
というのが信憑性が高いとされているらしい。
金沢家光・家信の口宣案が残っているからだそうだ。
367歴史の勉強:02/03/13 00:40
南部氏関係はまじ難しいっす!
これは関係書を一回は読まないと、まーず頭に入らないよ!
さいわい横浜中央図書館(+my大学図書館)には日ノ本の本があったけど、
これは地方によってはものすごく調べにくいと思う。
My hometown の図書館には一冊もなかった。
もし、講談社が最近出した「日本の歴史」第14巻『周縁から見た中世日本』
を読んで、漠然とでも興味を持つ人がいれば……と思う。

「蠣崎」という地名も、うちのボロ地図でやっと発見した。
南部関係の地名は、まず初心者には難しい。
かなり詳しい地名の本は出てないものだろうか?
368日本@名無史さん:02/03/13 01:03
リアル厨房か?
蠣崎なんてメジャーな地名
平凡社・角川の地名辞典で充分。
369歴史の勉強:02/03/13 01:11
やっと発見した、というより、今まで関心持ってなかったから。
どうしても、南部、安藤、大浦為信、浪岡御所に関心が向くから。

んでもって、うちのボロ道路地図で見たら、ちゃんとあった。
地図で地名を発見すると、とても嬉しい。
関東地方の地図で関東武士の苗字を見つけた時と同じ嬉しさだった。
そんだけのこと。

しかし、蠣崎氏のルーツって判明してるの?
あの辺だと、微妙な気がするな〜。
370信者@東北:02/03/13 09:59
浪岡北畠と南部の関係って室町の頃はいかがなものだったのでしょうか?
安藤とはたびたび争っているわけですけど。
この頃は八戸の方が主家をしのぎつつあったんでしたっけ?
最近本読まないから忘れちまいました。
371日本@名無史さん:02/03/13 10:21
蠣崎って南部系じゃないの?
372歴史の勉強:02/03/13 22:59
八戸の南部氏って「根城」南部氏ですか?
だったら、もともとこっちが本宗家だったと思うんですけど……。
まあ、そのころは嫡流絶対でもないから。
浪岡御所は南部氏と仲好かったんでしょ?
御所の勢力基盤が外ガ浜だったなら、南部寄りでしょう。

蠣崎はホント謎ですよね。一応、当人たちは武田を自称してるけど。
下北半島から北海道(蝦夷が島という名称もどうかと思うので)に進出したんだから、
安藤系って可能性も高いでしょうね。南部系の確率も。
しかし、若狭武田ってのがどーもひっかかる。
一概に否定できないような気もする。

でも、蠣崎って「今は」マイナーな地名でしょ?
かなり大きい地図じゃないと、載ってなかったよ。
しかし、「むつ」市はやめてくれ……(しかもヒラガナ!)。
以前、「何で糟屋じゃなく伊勢原なんじゃー!?」(神奈川県の市名)
と宗男並に咆吼したことがあったけど、みちのくもそういうの大事にしてほしいなあ。
373日本@名無史さん:02/03/14 02:13
>>372 :歴史の勉強 :02/03/13 22:59
 >八戸の南部氏って「根城」南部氏ですか?
 >だったら、もともとこっちが本宗家だったと思うんですけど……。

八戸南部が本当は本家だ!という説はよく聞くが、そんなことはない
八戸根城が南部最初の城でそこを任された八戸分家が三戸本家を盛り立て
たのに、遠野へ移封されたことへの禍根の故なのかな。
・八戸南部は新田氏から婿を入れてるらしいから南部よりも源氏の血が
濃いとの気持もあったかもしれない。
 
松前藩は商人のつくった藩だと密かに思ってます、カキザキ氏は南部の
別れかもしれないけど若狭武田を名のらせたのは、北前交易船を扱っていた
近江商人の入れ知恵ではないかと。
・米本位制の時代に物納で一国を建てようという発想はとても商人的だと
 思う。
374日本@名無史さん:02/03/14 06:12
何で平仮名じゃいけないんだよ。
そんな地名山のようにあるぞ。
厨房君は知らないだろうが
カタカナだってある。
375日本@名無史さん:02/03/14 07:03
ひらがな地名は山のようにはないですが、新興都市や
合併都市に多いですよね、最近では”さいたま市”とか。
歴史好きにとっては歴史的遺産を破壊してるのと同様の
所業に思われるのですよ。
376歴史の勉強:02/03/14 08:50
僕はまず、古い地名が尊重されてないように思えて嫌ですね。
東京に「あきるの」市ができましたが、あれはまだ許容範囲かな〜と。
もともと「阿伎留野」自体が完全な当て字なわけだから。
せめて「秋琉野」とかしてほしかったけどね〜〜。ま、いいか。

むつより「田名部」にしてほしかったな〜。
陸奥が難読に思われたのだろうか……?
ニセコなんかはカタカナでいいと思います。
個人的に北海道の地名は漢字が難読過ぎると思うので、
まあ定着してるので仕方ないですが、
今だったら、北海道のアイヌ語地名こそカタカナを使うべきでしょうね。
しかし、「さいたま」はないよなあ。
「彩の国」とか言ってたんだから(関東人しか知らないかなあ?)、
「彩玉」でも好かったんじゃないですかねえ。
まあ僕は、大宮と浦和を合併すること自体、疑問がありましたが。
鹿島が「鹿嶋」とされたのも納得しがたい。
同一の市名はあっちゃならんというのが、なぜなのか理解に苦しむ。

こういうとこが非常に日本人的な発想かも知れませんが、
やっぱヒラガナ地名って「軽い」よね〜。漢字が好いよね。
だって皆さん、「閉伊」が「へい市」とかなったら、そこ住みたいと思う?
市町村の下にある「番地」だったらヒラガナでもいいけど、
市町村は漢字にしてほしいような気が強いなあ、どうしても。
それに現代日本語だと、ヒラガナの名前ってかえって読みにくいんだもん。
みゆき、とか。
「みゆきがみゆきの友達ケンカしたとはみゆきの姿からは想像もできなかった」
とか書くと読みづらいじゃんさあ。
現代日本語のばあい、単語の頭がヒラガナだと非常に読みづらいです。
377信者@東北:02/03/14 10:26
はなまきは平仮名でもイケル!……はず。
378日本@名無史さん:02/03/14 10:37
私鉄の駅名に多い
「なんとか台」「なんとかが丘」「なんとか野」
みたいなのってなんかビンボーくさくてイヤだね
「なんとかプラーザ」ぐらいならむしろ許せる
379歴史の勉強:02/03/16 01:17
花巻がヒラガナだと、「はなまるマーケット」みたいで嫌だぞ??
おっと、この番組、関東ローカル以外でも放送されてるんですか……?
何か、「時代劇やってそうな」イメージあるけど……

今日、図書館で「奥羽・津軽一族」を借りました。
まだ150pほどしか読んでませんが、大浦為信だけで100p書けるのは凄い!
こんな大名、津軽氏だけでしょう。
大浦為信が南部庶流だったという論証はかなり好いんじゃないでしょうか?
しかし、久慈南部氏だった為信が大浦氏に養子に入る過程にちょっと難が……。
でも、この本の著者によると、大浦氏の覇権は九戸に呼応したもので、
あの時代としては非常に「正統」なものに思えるんだけど……

「惣無事令」も、もう解除されたことだし、
大浦為信の出自はもっと解明されていいと思います。
380信者@東北:02/03/16 01:25
>>379
花巻はアイヌ語の「パナマキ」だかが語源っていう説もあるんでオーケー
だと思うよ。
近所では江釣子って地名があるけど、語源は「イェーチェリコ」っていうア
イヌ語だったな。
なんかカッコいい気がする。
何気に北上もアイヌ語が元になっっているって俗説、本当かな?

九戸、大浦VS田子、北、石川 中立八戸、他
でいいのかな?1572年以降は。
381信者@東北:02/03/16 01:27
>>380
よくよく考えたら、平仮名じゃなくカタカナの方でイケるんでした。
すいません。
382歴史の勉強:02/03/16 01:57
そっすねー、「パナマキPanamaki」だったら、
中南米のインディオ語地名みたいで好いかも。
つーか、北海道の地名、まじでカタカナ化してほしい。
いいじゃん、アイヌ語の地名なんだから。

僕が「むつ」市が嫌なのは、
あそこ出身のマンガ家・むつ利之を思いだしちゃうので……
いやいや「Dr.Noguchi」も竜馬も(しかし、東北人が何故?)読みました。
鼻についたのが「第三野球部」。
決勝に行ったのが青森県の高校で、
ピッチャー「小比類巻」、
しかも決勝戦は津軽三味線で客席が埋まるという無謀さ……。
しかも、優勝。
「ドカベン」でも、新潟県の高校が準決勝まで行きましたが、
あれは「まだ」許容範囲な負け方したんで。

郷土愛って、ああいうもんかあ?

余談ですが、「第三野球部」では、
「青森県の人は出稼ぎしないと食ってけない……」
と書かれてるんですが、あれホントですか?
何か旧い時代の記憶で書かれてるような気がして。
今はそんなことないですよね?
383日本@名無史さん:02/03/16 03:15
南部氏を書いた小説で最新の
高橋克彦著「天を衝く」の上巻読みました。
もちろん小説なんだけど結構読ごたへあります。
384しったかぶり:02/03/16 07:37
為信の出自に謎とか不明の部分が多いのは、要するに
自分が南部の一族、もしくは南部に関係ある人間だと言うことを隠したいため
で、そう言わないと在地の津軽衆がついてこないとを知っていたから、自分と
南部の関係がばれそうなものを全部処分したから、と見るのが分かりやすいか
と思いますよ。 大光寺、乳井、等ももともとは南部氏の家来ですし。
 為信が津軽に下向したいきさつは諸説あっておもしろい。


385日本@名無史さん:02/03/16 13:23
>>383
上巻はまだいいが、下巻はいつもの克彦たんの
電波が出まくりだから心して読め。
386歴史の勉強:02/03/16 14:47
大浦氏の出自詐称は、秀吉の「惣無事令」のせいだって気が。
しかも、南部氏サイドの資料が大浦為信の津軽制圧を天正年間としてるのも、
大浦氏を秀吉の法に違反した者として、
あわよくば津軽没収(=南部領化)を目論んだものではないかと思います。
南部氏は浪岡御所の滅亡年代も偽証していますしね。

当時、大浦氏についた武士はみんな実情を知っていたでしょう。
大浦氏がそう喧伝しないと、家臣団がついてこなかったことは無いと思います。
問題なのは、江戸時代の後期になっても、
まだ非南部氏にこだわる必要があったのかってことです。
一族分裂も裏切りも当たり前だった戦国時代、
今の僕らには「対岸の火事」ぐらいにしか思えないのですが……。
秀吉の「惣無事令」も、今は失効したでしょうから、
ぜひちも真実を追究していただきたいと思います。
387しったかぶり:02/03/16 19:55
為信が浪岡御所を滅ぼしたのは天正6年とのことですが、
南部氏は何年としているのでしょうか?

また津軽制圧には20年間くらいかかっております。それは天正年間まで
かかっていると思いますが。
388歴史の勉強:02/03/16 23:16
え〜と、昨日読んだ「奥羽・津軽一族」によると、
南部氏は浪岡御所の滅亡を、1523年にしてたんだったかな?
とにかく、とっくの昔に御所は亡んで、
浪岡には南部庶家を入れ、ずーっと統治してた、と主張。
もちろん、これは大ウソです。
この辺の年代に関しては津軽のほうがずっと信用できるようです。
389日本@名無史さん:02/03/16 23:55
ほんとにそうならば、嘘ですね。
いつ誰に、そう主張したんですか?
文書は残ってるんですか?
390日本@名無史さん:02/03/17 01:27
浪岡御所の滅亡年に関して。

南部家としては、浪岡城の落城は天正18年にしております。
為信めが秀吉の所領安堵以降に強奪したという見解です。

秀吉自身もその比を認めて南部の領地を加増してます。

391日本@名無史さん:02/03/17 01:34
>390
秀吉が陸奥の国情を知らずに安易に為信に所領安堵
してしまった。
392日本@名無史さん:02/03/17 04:00
>古い地名が尊重されてないように思えて嫌ですね。

ひらがなで書いたら尊重してないのかよ。
漢字なんかどうでもいいんだよ。昔は人名も地名も
表記なんてどうでも良かったんだよ。それを律令国家が
美字二字にしろなんて命令出すから、武蔵とか紀伊とか
へんなことになったんだよ。むさし・き、って書いたほうが
よほど尊重してるよ。北海道の地名だってそう。
無理矢理漢字当てはめてるのは一目瞭然。
上野・下野・遠江・近江・摂津・和泉などなど、
無理に二字にしたため、もともとの読みと表記が一致しない。
漢字で表せ、万葉仮名はやめろなんていうほうこそ、
支配者側の押しつけであって、非尊重も甚だしい。
古い地名が残るのなら平仮名大いに結構。
393しったかぶり:02/03/19 22:32
 この話をし始めればきりがなくなりますが、私は南部側ですので南部よりの
見方になるのでここはひとつ、「青森県の歴史」(山川出版社)に書かれてる説を
紹介します。
 天正6年為信、浪岡御所を攻めて北畠氏を滅ぼす。それに怒った安東愛季
勢が津軽に侵入して天正7年六羽川の合戦で為信、大敗する。その後天正11年頃ま
で南部、津軽双方とも口を噤で、歴史の空白が生まれる。(津軽側には殆ど記録がない)
 その間、為信は南津軽を安東勢にに占領され、南部氏には降伏する。南部氏が浪岡城に
南部政信(信直弟)を津軽郡代として入れ、大光寺光愛、為信を後見とした。
 とまあ大胆な見方です。そして
天正16年、政信が死亡。(毒殺)
天正18年再度為信、浪岡城を占拠する。
 こういうことです。いかがでしょうか。
天正17年、秀吉の安堵状が同じ本に載っています。、その最後に
 南部右京亮江 と載っています。(大浦、津軽とは読めない)為信は秀吉に
南部氏を名乗ったと思われます。

394歴史の勉強:02/03/19 23:25
出自改竄があまりに多いのも、日ノ本大名の特色か?
蠣崎氏って、あれは南部や安藤の庶流じゃないんだろうか?
もしくは両氏いずれかの被官とか。
若狭の武田氏が出てくるのが唐突すぎて。
南部氏も武田氏庶流だが、もし若狭武田氏出身が事実でないとしたら、
なぜ蠣崎氏はそう主張したのだろうか?
395日本@名無史さん:02/03/20 11:24
そこらにごろごろしている南部「庶流」よりも
若狭武田「流」の方が箔がつくから。
396歴史の勉強:02/03/20 13:33
戦国末期の日ノ本ローカルは想像以上に殺伐としてたのかな?
大浦氏は奥州藤原氏の末裔とまで詐称しだすし、
蠣崎氏は南部とも安藤とも遠い一族を遠祖に仰いだ。
大浦氏のばあい、ヘタすると南部氏に併呑される可能性もあったから。
蠣崎氏も、南部氏庶流を称するのは危険すぎたか?

蠣崎氏の出自はあんまり関心持たれないようだけど(少なくとも大浦為信よりね)
松前藩の蝦夷地支配の原点をたづねる上でもかなり重要だと思う。
若狭武田氏がやって来たという伝説も魅力的だが、
実態はやっぱ南部か安藤の庶流なんじゃないだろうか?
397日本@名無史さん:02/03/21 21:22
父方で南部工藤氏総本家
母方で三戸南部氏に繋がりました!
398日本@名無史さん:02/03/21 22:03
>>397
現在の名字はナーニと聞いてみる。
399397:02/03/22 16:33
>398
今の名字は工藤です!!
400しったかぶり:02/03/22 21:34
 若狭武田氏の話は兎も角、北海道にいた蠣崎氏は安東氏の一族と考えるのが
よろしいかとおもいます。
 >399
 本名は、慎んだ方がよろしいかと....。
幸い、工藤氏は南部にも津軽にも多く、青森県では5つの指に入る名字ですが。
 さて、岩手県の方ではいかがなものでしょうか?
 
401信者@東北:02/03/22 22:54
遠野に多いと聞いたが。
あすこは八戸南部が転封されたんだっけか?
402日本@名無史さん:02/03/22 23:06
子供の頃は、「佐藤、佐々木は馬の糞」と囃子唄があったね。
○籐の名字は多いよ、あと高橋も多い。知り合いで南部は一人だけ(w

何故にsage進行なの?ということで上げる。
403日本@名無史さん:02/03/22 23:08
南部は気位だけは高いですから。
404歴史の勉強:02/03/23 00:12
僕もまだ「新羅記録」読んだわけじゃないのですが、
蠣崎氏の来歴は「書き方」そのものからして面白い。
「若狭武田の御曹司、蠣崎蔵人 気に入って、安藤娘を嫁にした
さてうち破れアイヌ衆、日ノ本武者の活躍を
ここに継いだが武田の信広 遠祖よ彼を護るべし」
(五七文で読んでくだされ。もちろん、原典はないオリジナル)
武田氏はともかく、あの辺の有力豪族を全部先祖にしてるわけじゃん。
これは何なんでしょね?
どれか一つでも、十分「正当化」の根拠にはなると思うんだけど。
非常に脆弱だった北海道の支配権を無理矢理認めさせるためだったのか?
わざわざ若狭の武田氏の持ち出した(捏造ならば)理由は
南部氏が甲斐源氏だから、より嫡流に近いことを主張したかったのか?
405日本@名無史さん:02/03/23 00:45
400と404はなんとしても一国を建てるのは武家でなくてはと
思ってるのでしょうか。
松前の古地図を見てください。
406日本@名無史さん:02/03/23 04:03
松前の話なら津軽板の方がいいかも、
407日本@名無史さん:02/03/23 09:26
南部の圧政と搾取は超有名。
上意下達の構造はここに極まれり。
が、金・馬・紫紺で裕福の絶頂を極めたので
江戸屋敷ではド派手な衣装で「諸侯に冠たり」と言われたそうだ。
商人も近江や山城から特産物を目当てに一斉に盛岡へ集ったので
流通は思いの外進んでいた模様。

南部を頂点に局地的に富裕層が住む街・・・盛岡。
408歴史の勉強:02/03/23 10:45
一国建てるのは武家とは如何なる謂いぞ?
僕は武士なんか嫌いです。圧政を美化する連中だ。

いや、松前の話は南部版のほうがいいと思う。
それとも、地方版の話ですか?
もちろん、安藤氏版のほうが好いかも知れないが。

南部氏だけが圧政を敷いたわけではあるまい。
極端な言い方をすれば、御家人の系譜を引く連中は全部そうだろう。
もともと東北の有力氏族(鎌倉〜戦国)は御家人の子孫が多かった。
彼らは征服者であり、東北で得た所領から
いかに多くの利益を上げるかが至上命題であった。
東北を植民地支配することによって、関東は公家政権を圧倒する経済力を確保した。
もし、ある殿は名君、ある殿は暗君、みたいな書き方がされていたら、
それはどっかの「プロパガンダ」と考えるべきだろう。
おおいに考えられるのは、支配層が現地住民を差別待遇してた可能性。
何しろ征服者だったのだから。
409しったかぶり:02/03/23 22:04
>407 
一応ここは南部氏となっておりますが、
 南部の殿様だけを論ずるところではないと思えば、いかがでしょうか?
 例えば江戸時代の南部は日本一,一揆の多発したところだし、三閉伊一揆の規模は
日本最大といっていいんでないでしょうか?そっちの方から見た南部氏というのも
論じたら面白いかとと思います。
 また、南部の生んだ人々を論ずるのも楽しいかと思っております。武士だけでなく。

 局地的に住んでるのは、一部の高級武士と商人だけでは?

>405 前にも同じことを述べられた方かと思いますが、見たいんですが、
 どうしたら見れますか?

 蠣崎氏は松前スレでも作った方が好いと思いますが?
 
410日本@名無史さん:02/03/23 23:43
地図が見たいのだったら、とりあえずここでも見ましょう。
ttp://libserv2.lib.hokudai.ac.jp/125/map.html
411歴史の勉強:02/03/24 01:16
いや、蠣崎氏は南部氏といっしょに語ったほうが好いと思います。
と言うより、結局、安藤も大浦氏蠣崎も浪岡御所も、
単独で語っても仕方なく、南部氏で包括しちゃったほうが、
日ノ本の歴史を考える上で合理的だと思うからです。
南部が一番強大で、なおかつ日ノ本の全域に影響力を持ってましたから、
ほかのどの豪族より、日ノ本を語る上で代表たるにふさわしいのではないか、と。
津軽氏ですと、為信以前が「闇の中」状態ですし。

もし松前スレを作るなら、対象年代を近世に限るべきでしょう。
あるいは、アイヌとの関係で語るとか。
412信者@東北:02/03/24 21:18
東北の武家の格付けしようよ。
相馬は怪しい、伊達は……、浪岡は南部よりマシか……武家じゃねーや。
最上、津軽、安藤、大崎、斯波、葛西、……上げてったらキリ無いな。
南部はどのくらいに位置付けられると思いますか、みなさん。
413歴史の勉強:02/03/24 21:37
とりあえず、大崎・葛西・伊達・芦名は偉そう(と言うより、勢力範囲がでかかった)。
あとは同レベル。
浪岡御所だけが別格か?(大崎庶家はそれほどじゃないだろう)
南部は奥羽の他大名とあまりに距離的に離れ過ぎていたので、
家格は意識されにくかったのでは?
ただし、大崎よりは格下だったらしい。
414信者@東北:02/03/24 22:17
俺の知る限り、葛西は鎌倉以来の名門御家人。
南部は武田庶流のそのまた庶流だからねえ。
和賀や稗貫は葛西に近いから、南部並だったかも。

やはり安藤で荒れるんだろうなあ。
415歴史の勉強:02/03/25 01:01
葛西は、もともと「奥州総奉行」だったからね。
北条氏に実権剥奪されてゆくわけだが(その経緯は未詳)。
何で太閤が亡ぼしちゃったかが、よくわかんないけど……
実質、伊達氏に従属しつつあったから仕方ないか。

ただまあ、伊達だって元は常陸のどってことない武士が、
伊達郡の地頭に任じられたってだけで、
南北朝の動乱で成長した実力主義の家だって面もなきにしも非ず。
それ言うと、南部も大差ないと思う。
ただ、伊達氏は奥州藤原氏末裔を詐称してた家だから、
出自がハッキリしてる分、南部のほうがマシな気も。
ただ「太平記」第10巻『北条泰家の奥州落ち』の段で、
この両家が北条残党として奥州下りを命じられるのは興味深い。

大崎は官途推挙ができる家だったらしいし、足利庶家だから、
家格としてはかなり高い気がする。
南部氏も大崎氏に推挙を依頼している。
416日本@名無史さん:02/03/25 02:15
オレ盛岡だけど消防の頃葛西と言う名字の友達がいて、親があの子はいい家の
子なのよ、と言っていました。

流れに添ってないけど、ナンデー葛西君がいい家なのと疑問というのがわかった。
417日本@名無史さん:02/03/25 02:28
南部一族は日蓮宗中興の祖である。
418日本@名無史さん:02/03/25 03:25
単にいい家の子だったんじゃないのw?
419日本@名無史さん:02/03/25 16:12
>>415
葛西と大崎は小田原の秀吉に行かなかったからだろう。

つーか、お前ウザイ。
浅い知識(これは別にいいんだが)でえらそうに語るな。
420しったkぶり:02/03/25 22:41
大変勉強になって感謝してるんですが、工藤氏の総本家というのは
どこなのでしょうか?プライベートな情報はあきらかにしないほうが好いので
市くらいでよろしく。
 どうしてかというと、南部氏が入部した頃工藤氏も相当な勢力を持っていたらしいの
がいつの間にか南部氏の家臣というか支配下におかれたように思われます。
 津軽に入った曽我氏は全滅して現在青森県にも曽我さんは殆どいないと思われるのに
工藤氏は沢山います。繁栄して現在に至るわけでしょ。どうしてでしょ。
 つまんないかもしれませんが。
ちなみに青森県七戸に自分の先祖はあの敵討ちされた、工藤祐経の子の子孫だといって
いる工藤さんがいます。
 
私は415さんは時々躁ですが、なかなか勉強家だと思います。

  
421信者@東北:02/03/25 23:04
葛西・大崎が取り潰されたのは確かに謎だな。
そもそも伊達の属国に近かったんだから、取り潰す必要は無かったん
じゃないのか?
その後一揆軍は伊達に扇動されてるし、伊達と大崎地域との繋がりは
そんなに疎遠なものではなかったはずだ。
葛西・大崎の残党には明らかに豊臣政権(成り上がり者)の横暴に映っ
たと思う。
伊達に騙されたのなら、伊達の援助受けるなんてそんな情けないこと
できないだろ、奥州の名門がさ。
和賀・稗貫の場合は南部に騙されたー!という悔しさが彼方此方の文書
から伝わってくる。
実際は時勢を見極めれなかった和賀衆たちの方に問題があったのに。
つまり彼らは南部とは従属関係が弱かったと考えられる。
葛西・大崎とは逆のパターン、だから南部に喧嘩を売った。
無論伊達の扇動もあったのだろうが、これには寧ろ南部内部紛争の方が
絡んでいると思う。

こうしてみると、やっぱり葛西・大崎への仕打ちは謎だ
花巻城にいた上方の目付け(浅野家縁故の部将)はかなりびびったそう
だぞ、秀吉(当時は和賀一帯が葛西系や伊達との境界線)。
葛西・大崎と和賀・稗貫は頭の中でごっちゃになる。

歴史の勉強さんはそんなに煩いかな?
色々な大名スレに顔出してるみたいだし、結構頑張ってる方じゃないの?
結構ためになる話も聞けるし。
俺は駄文ばかりで申し訳ない気分だよ。
422日本@名無史さん:02/03/25 23:50
>>408
これなんて思い込みのみで書かれてるよ。
423日本@名無史さん:02/03/25 23:53
いいじゃん いいじゃん
すくなくとも1行だけのレスして悦に入ってるキミより
100倍為になるよ歴史の勉強さんは。
424日本@名無史さん:02/03/25 23:53
大崎氏、葛西氏は木村親子の支配下に置かれたのが運の尽き。
良心的な領主なら田村氏や石川氏、岩城氏のように
伊達や佐竹の下でちゃっかり生き残れたのにね。
425日本@名無史さん:02/03/26 03:17
南部の人間は、信者さん・しったかさん・歴史のさんを(順不動)応援します。
426信者@東北:02/03/26 15:30
九戸・大浦VS北・田子・八戸?
高橋克彦御大は九戸を大変贔屓にしておられましたが、やはり俺は北
松斎を応援したいです。
正規兵十三名+αで和賀・稗貫一揆勢を見事撃退した手腕には只管頭
が下がる思いです。

コラ!県北衆!
北尾張守に負んぶしっ放しじゃねーか、もうちょっと頑張れ。
この人いなかったら和賀は伊達のものになってたかもしんねーんだぞ!
(一揆が成功してたら伊達の方が危険だったんじゃないのか、と思うけど)
鹿角郡を謀略で寝返らせたのもこの人(制圧したのは石川や九戸だけど)
兎に角、南武家の部将は最高です。
津軽・伊達など物の数ではないわ!

すいません、調子に乗りすぎました。
岩手人は北さんのことあんまり知らない人が多いと思って。
伊達の片倉景綱は有名なのに……。
427日本@名無史さん:02/03/26 17:37
小田原いかねーから取り立てられなかったんだろ?
葛西と大崎はじめその他の豪族は。
小田原行った大名や、秀吉子飼いの大名にその領地を適当に分配されただけじゃないの?
不思議がることでもないと思うんだが。
428日本@名無史さん:02/03/27 17:50
だから、小田原行かなくても本領安堵された大名もいるわけでしょ。
そこに何がしかの秀吉の思惑が合ったんだけど、それがなにか?
 と考えてるわけでしょ。>427さんみたいなものかもしれないけど、
外に何か理由があったかもしれないと。
429日本@名無史さん:02/03/27 20:56
葛西と大崎はすくなくともあの段階では伊達の属国=家臣。だから
葛西も大崎も伊達も、小田原参陣は政宗ひとりがいけばすむと考えていた。
秀吉がそれを却下して「葛西も大崎も独立大名であって伊達の家来じゃない」と言い出し、
あわてたけど遅かった。
秀吉はなにか考えがあったのかも知れないが、
はたして“格下同盟”下にある独立大名なのか、属国=家臣なのか、の判断は微妙で
なんとでもいえるところもないではない。
秀吉にももしかしたら別に深い考えはなかったのかも知れないなあ。
430日本@名無史さん:02/03/27 21:03
葛西は奥州藤原氏の本拠地だった地域を領地にしていたし
大崎は陸奥国府の国衙領だった地域を領地にしていた。
つまり葛西、大崎の両家は、地理的にも伝統的にも奥羽全域の支配の要の地。
秀吉は最初からとりつぶして自分の子飼いを置くつもりだった。
しかしその子飼いが木村というのが人材不足を表している。
結局、政宗を置いたが、政宗もいずれ伊予にとばすつもりだった(ちがってたらごめん)から、
いずれは別の子飼いに与えられたんじゃないでしょうか?
431信者@東北:02/03/27 22:59
伊達ってホント、愛すべきDQN大名だよなあ。
どこか憎めないよ。

大崎・葛西が小田原に行かなきゃいけなかったのなら、九戸も行かなきゃ
だめだろうな。
殆ど対立状態でしょ、九戸と田子は。
こういうところでも北松斎の働きが光る。
432日本@名無史さん:02/03/27 23:49
発想を逆にすべきじゃ?
小田原に行かないのになぜか安堵された大名がいた、とかんがえたほうがいいんじゃ?
(ところで安堵されたその大名って誰なんだ?)
他に領地召し上げられたというと、遠野の阿曽沼とかもいるね。
それに、葛西、大崎は伊達の影響下にあっても、独立大名には変わりないでしょ。

ただ、何で代わりに木村なのかは分からないんだよな。
木村が失敗するのを見越して、何かやろうとしたのか。
それにしては、秀吉の貴重な子飼いだよな、木村は。
明らかに荷が重過ぎるという気がするんだが。
433日本@名無史さん:02/03/28 00:38
>それに、葛西、大崎は伊達の影響下にあっても、独立大名には変わりないでしょ。

だから、それは微妙なところなんだよ。
そもそも簡単に独立大名だと言い切ってしまえるような情況だったのなら、
小田原参陣しなかった理由がない。
伊達の家臣だから、というのは確か三家の間の書簡が残っていて当時の三氏の共通認識だったはず。
434黒川晴氏:02/03/28 02:47
あの〜、大崎は伊達と敵対してたんだけど・・・。
その〜、葛西は大崎と敵対してたんだけど・・・。
葛西は大崎の抑えのために伊達と軽く同盟を組んでただけなんだけど・・・。
435黒川晴氏:02/03/28 03:47
大崎5郡35万石、葛西7郡30万石、合わせて65万石
大崎・葛西領を含む伊達藩は62万石

(  ^▽^)<あ〜あ。愛しい石高、余剰分はどこいったんだろう?
436日本@名無史さん:02/03/28 04:03
だって北東北では毎年米とれないもん。
凶作年入れれば平均で三分の一以下の収穫しかないもん。

私の家は、江戸末期の時代に南部の豪商兼大地主でした
ので、南部のインチキ石高には地主さえも苦労しました。
437日本@名無史さん:02/03/28 14:48
>>435
検地しなおして、低く見積もったのだろうか。

見栄で石高評価だけを上げて負担増やしたバカ南部とは大違いだ。
飢饉でも餓死者の数が格段に違うのもうなずける。
438日本@名無史さん:02/03/29 01:39
 高橋克彦の「天を衝く」下巻ようやく読み終わりました。
内容はともかく九戸氏に興味を覚えます。
439日本@名無史さん:02/03/29 01:46
>>434
だから「あの段階では」って断ってるでしょうが。
440黒川晴氏:02/03/29 03:05
大崎葛西両家が『伊達の属国=家臣』だったのは
伊達稙宗時代のごく数年だけなのですが、
もしや「あの段階」とは天文の乱の時代のことですかw
441黒川晴氏:02/03/29 03:13
あっ、、、↑の葛西は要らないっす。。。
『葛西両』を脳内で削除してくだせぇませ。。。
442日本@名無史さん:02/03/30 01:39
歴史の勉強氏を非難しておきながら、他スレで自分の間違いを訂正されてしまった。
面目ない、そしてすまなかった。
ただな、南部だけが圧制しいたわけじゃないとか、極端な話全部そうだとかの
論調に引っかかったんだ。
俺は南部の圧政下に置かれた地域の出身だからな。
443日本@名無史さん:02/03/30 02:08
俺の家は南部で塩の専売件を持っていた。
先祖はだいぶ悪いことしたみたい。
444日本@名無史さん:02/03/30 02:24
>>443
身体障害者が生まれてこなかった?
445日本@名無史さん:02/03/30 02:58
>>444
親戚関係にはいないよ。
446日本@名無史さん:02/03/30 03:01
>>445
じゃあそろそろ危ないな。
因果応報だ。
447日本@名無史さん:02/03/30 03:22
>>446
貴方はいやな奴だね。
448日本@名無史さん:02/03/30 03:39
>>447
443の先祖ほどじゃない。
449しったかぶり:02/03/30 08:22
>446 448
 その考えは間違っています。
因果応報で身体障害者が生まれるなんてことはありません。

 
450歴史の勉強:02/03/30 13:02
南部の圧制下と言いますと、鹿角郡か下北半島あたりでしょうか……?
南部藩領で生活が一番きびしかったのはその辺だと聞いたもので。
ただ、南部藩を考える時は、特に津軽藩からの情報に注意すべきです。
これは津軽藩を考える際、南部側の情報を一番警戒しなければならないのと同じ。
実情以上にイメージ悪く語ってる可能性も高いから。

徳川時代の石高は「家格表示の基準」でもありましたから、
実際の経済力とは分けて考える必要があります。
たとえば防長の毛利藩は初代藩主のころ既に50万石ぐらい実収があったそうで、
幕末には90万石の経済力があったそうです。
(そう考えると、山口県の近代史は停滞してるなあ。)
でも、石高はずーっと29万石のままなの。
南部藩20万石、津軽藩10万石は、さほど異常な数値ではないでしょう。
もちろん実態と懸け離れていたのは、こちらの皆さんが指摘するとおりです。
451日本@名無史さん:02/03/30 13:56
圧政下に置かれたのは沿岸だよ。
鹿角や下北なんて知らないよ。
どうして津軽と南部のいがみ合いで結論付けようとするんだ?
http://member.nifty.ne.jp/samasama/bengyuj.htm
これでも読んでくれ。

石高についてだが、当初は十万石で、それを自分で申請して二十万石に直った。
普通自分で石高上げる申請するか?
それにいくら新田開発したといっても、山がほとんどの南部領で水田が
倍にはならんだろう。
長州藩のように特産物で増収図ったのかというと、
それについて南部は積極的な姿勢は見られない。

>南部藩20万石、津軽藩10万石は、さほど異常な数値ではないでしょう。

数値が異常なのではなく、藩政が異常なんです。
452日本@名無史さん:02/03/31 02:40
NHK教育で三閉伊一揆を解説した先生は、領主の変更を訴える民主主義の
萌芽がありますと言ってました。
でも南部の代わりに伊達にしろって言うんじゃ、バックアップがみえみえ
じゃん。
453日本@名無史さん:02/03/31 02:53
>>452
普通は天領にしてくれというもんですが、天領が東北にはないに等しいと思うので、
隣藩の伊達の名前を出したんでしょう。
手近な善政が伊達だったんでしょう。
伊達が糸を引いていたかどうかは、もともとの伊達の領土でもなし、
江戸時代にそこまでしますかねえ。
救いを求めてきたので、結果的に乗っかったという気がします。

民主主義の萌芽は言いすぎだぁね。
単にこれ以上こらえ切れなかったというだけの話でしょう。
454歴史の勉強:02/03/31 21:26
今451の「南部飢饉」のページを見たが、

「飢えが270年にわたって続きました」

あ、いくら何でも大げさだろう?
それにしても、藩政期の南部藩はそんなに悪政しいとったのか??
じゃあ、浅田次郎の「やたらりっぱな南部のお殿様」はウソなわけ?
そういう南部氏を今だに市長に仰ぐ南部領民て……。

つーか、そんな悪政ヤリ放題の殿さまならば改易されそう。
455日本@名無史さん:02/03/31 22:32
>>454
南部氏の子孫で市長っているの?
456日本@名無史さん:02/04/01 00:11
>>454
一部だけに突っかかられても。
確かにその表現は大げさでしょうし、豊作の年もあっただろう。
しかし、絞れるだけ絞ろうという南部藩政の元では、
慢性的に飢えた状態であったことは想像できます。

>じゃあ、浅田次郎の「やたらりっぱな南部のお殿様」はウソなわけ?

元ネタを知りませんが、浅田氏は歴史小説家じゃないでしょう。

>そういう南部氏を今だに市長に仰ぐ南部領民て……。

市長?知らんな。
ただ、盛岡はお膝元だし、いろいろ事業もしてもらって、それなりに南部マンセーじゃないですか?
俺が言ってるのは搾取が激しかった沿岸の話ね。

>つーか、そんな悪政ヤリ放題の殿さまならば改易されそう。

蓑踊りや妊婦の腹裂きなんて愚劣なとこはしなかったですからね。
ただ、搾取と取立てが他藩よりきつかった。
気候と土地が稲作に適していないというのも、それに追い討ちをかけましたね。。
457日本@名無史さん:02/04/01 01:16
さげてた。
あげ。
458歴史の勉強:02/04/02 01:22
いや、市長さんやってるのは、久慈市だそうです。今もやってるのかな?
苗字は南部? それとも久慈?

南部藩のばあい、特に殿さまが悪かった、と言うより、
あの気候の悪条件にやられて飢饉が続出したんでしょう。
沿岸部が貧しかったのも、一概に政治のせいにはできないのでは?
島津藩だって、気候条件は南部藩よりずっと良かったはずですが、
大隅半島の開発は困難だったわけでしょう。

津軽も南部も、政治家は非常に努力したと思えますけどね。
459日本@名無史さん:02/04/02 01:51
どうしてそこまで擁護するんだ?
じゃあ政治家の非常な努力を説明してくれ。
俺はいくら考えても分からないので、分かるように説明してくれないか?

全国一、一揆が発生したというのは知っているか?
なにも「気候が困る」なんて立ち上がったんじゃないんだぞ。
460歴史の勉強:02/04/02 02:01
擁護する気なんか、さらさらないよ。
おれは武士が嫌いなんだから。

ただ、南部や津軽以外の大名が政治やっても、結果は同じだった気がする。
藩政後期、南部・津軽両藩が経済的に苦しくなったのは、構造的問題だろう。

でも、その風土がおもしろい現象も生んだ。
南部藩下北半島の領民は北海道に出稼ぎに行く人が多く、
かれらがアイヌ人と摩擦を起こしたことがアイヌ蜂起に直結している。
もちろん、津軽の領民も同じことをしてた。
悪は支配者にのみ存するわけではない。
戦国大名は泥棒集団だったが、農民も略奪をしていた。
461日本@名無史さん:02/04/02 03:55
>>458
久慈さんは岩手放送にいたんだけど、父の久慈市長の急逝の後を継いで
市長になりました。久慈さんは市長に立候補する気もなかったんだけど、
選挙民に押されて当選しました。でも久慈氏直系の人でもないし、久慈市
にとっては良かったんじゃないかな。

462日本@名無史さん:02/04/02 04:58
>津軽も南部も、政治家は非常に努力したと思えますけどね

答えてくれよ。
どう努力したのか説明してくれ。

>南部や津軽以外の大名が政治やっても、結果は同じだった気がする。
>藩政後期、南部・津軽両藩が経済的に苦しくなったのは、構造的問題だろう。

同じか。
じゃあ陸中を領土にしたら、どこの大名家でも、自分から石高倍増を申請していたというのか?

俺は意地悪で書き込んでるんじゃないんだ。
南部というと、津軽との格付け競争で翻弄されたとかの、南部藩に好意的で
同情的な小説・解説を見かけるから、もっと違う面を見て欲しいと思って
書いてるんだ。
どこの大名でも同じなんてことはない。

井上ひさし氏は岩手に住んでいたこともあるからか、小説中で農民への搾取について
ちらりと語ってるね。


463信者@東北:02/04/02 10:26
南部が悲惨悲惨とか言われてますが、あの時期(18世紀半ば〜)は
世界規模での凶作でしたが、何か?
鉄と馬の南部民族?に農業やれって方が無茶ですよ(嘘

ここらへんで南部家以外の面から南部の文化を紹介したいと思います
南部藩の御留武術諸賞流の紹介でも
別に門外不出ってわけでもなかったみたいですし、他の藩でも盛んだった
ようですし、何を今更って感じですが

えーと、何が凄いかって言うと甲冑を着た相手を制すという意識でやって
いる武術だったらしく、古武術らしからぬ当身(打撃技)を使う所です
俺は空手やってますが、まさか柔術に蹴りがあるとはっていうので意外
でしたね(他の柔術では極め技で制すのが普通で、当身は間合い取り)
しかも、腹守るプロテクターを内側から打ち破る達人がいたそうで、その
人は肘でだったかな?
今でも蹴りでプロテクター(通称『荷鞍』)割れる人がいるとか
そんな武術だったらしく、19世紀に入って諸賞流の人間の脱藩は藩の
機密に関わったらしく厳禁されたそうです

今でも盛岡に継承者がいるそうです、今度見学しに行ってみてはいかが
でしょうか?
464信者@東北:02/04/02 12:40
歴史の勉強さん、岩手県民じゃないでしょ?
沿岸の搾取知らないみたいだからそう思ったけど、違かったらご免。
465松尾芭蕉:02/04/02 13:44
盛岡は平泉より遙か北ですか・・・
梅雨の南部は老体には辛かろう。。。
では、戻りましょうか曾良さん・・・ゲホッゲホ。
466歴史の勉強:02/04/02 18:49
えーと、かなり前にも書き込んだはずですが……僕、関東人です。
東北地方には一度も行ったことありません。
栃木県:行ったこと無し。
茨城県:銚子のついでに波崎町に寄っただけ。
群馬県:高崎+前橋に1泊したことある(ナンパもした)。
箱根を越えたこと人生で3回。

芭蕉が平泉までしか行かなかったことは、太宰治も「恨み交じり」に書いてる。
そんだけ遠かったってことか。
それだけ歴史好きの芭蕉も知らなかった土地ってことか。

沿岸地域搾取は知りません。すいません。
でも、そういう暗いことは他地域ではあまり知られないんですよ。
どっちかっていうと、郷土を顕彰したい史学者の気持ちも与ってでしょうけど、
開発の歴史みたいなほうがよく知られてると思いますね。
「娘の身売り」も、関東じゃあ抽象概念の域を出ません。

薩摩藩の琉球王国大搾取は例外的だと思います。あれはひどかったから。
東北に入植した関東御家人は「搾取者集団」に思えますね。
467日本@名無史さん:02/04/02 23:53
沿岸の搾取なんて、他県の人は知らなくて当然でしょう。
ただ、そういう歴史があったということを言いたかったんです。
釜石辺りは遠野の阿曽沼氏の領地で、分家の大鎚氏がその後支配します。
阿曽沼氏についてはこれどうぞ。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_asonu.html

大槌氏は奥州仕置きの際、南部の配下に置かれます。
それまでは独立していて、大槌城に南部の大軍を引き寄せて、篭城戦を闘ったことも。
最後の当主の孫八郎がとあることで咎められ、奥瀬家に預かりになり、そこで謀殺されます。
その後大槌には城代、後に代官所が置かれることになりました。
468日本@名無史さん:02/04/03 00:03
何で沿岸が搾取が激しいかというと、植民地感覚だったんでしょうか。
地元での逸話をあげて見ます。
南部の軍が攻め寄せてきたとき、流れ矢に当り当時の南部当主が戦死、
という言い伝えがあります。
たしか公的には病死だったかと思いますが、真実はともかくそういう話が
残っているということ、つまり沿岸は面憎い敵対勢力の土地だったわけです。
たしか、津軽領の補填として、沿岸や遠野を与えたのではなかったかな。

今は実家ではないので、詳しい資料は手元になく、戦死とされる南部当主の
名前も書けませんでした。

>>466
いや、謝んなくていいですよ。
俺も自分の地元の話だったんでつい熱く書いてきました。
では、お邪魔しました。
469日本@名無史さん:02/04/03 00:32
南部の「稗飯食い」と馬鹿にされた貧乏藩で、
しかも藩政もよろしくなかったようね。
江戸時代後期の旅行者が「南部虐政の地」
と厳しく非難している。
470歴史の勉強:02/04/03 00:49
沿岸地区のばあい、南部藩成立前史も考える必要あるかな?
ほら、九戸一党の問題があったでしょ。
もしかしたら、沿岸地区の武士が三戸南部氏に敵対的だったかも知れないから。
大浦氏が浪岡御所を亡ぼしたけど、沿岸部には北畠氏がいたでしょ。
船岡御所でしたっけ?(あれはいつ亡んだんですか?)
あれが南部藩成立前後にどんなだったかを調べれば、
沿岸部虐政史ももっと踏み込んだ追求が可能かも知れない。

東北は「植民地感覚」が濃厚ですね。
東北の支配層はもともと余所から来た人が多かったから、
鎌倉時代からあったかもね、植民地支配って感覚。
植民地だからこそ、どんどん開発。
植民地だからこそ、ずさんな経営。
江戸時代にはさすがに薄れてたと思いますが……。

植民地って、とかく帝国主義を連想しがちですが、
日本のばあい、北海道ってまさにそれでしょ?
土地の人のために開発されたわけじゃなく、明らかに「本国」のための開発。
でもって、植民地(的な地域、というべきか?)のほうが大規模に経済が回転。
だから儲かる時はすごく儲かるけど、不景気になると「本国」より経済が悪化。
藩政後期の東北は、そういう経済だったのかも知れませんね。
471しったかぶり:02/04/04 21:59
 奥州藤原氏を滅ぼして北東北が日本国に入ってから、鎌倉時代に
御家人たちが入ってきますよね。曽我氏、工藤氏、そして南部氏
鎌倉時代は完全に植民地感覚でしょう。でも室町時代に入り
その武士たちも在地の大名になるとどうなんでしょうか?
 自分の一族の繁栄の為にしのぎを削りはじめると、植民地感覚は
なくなったと思うんですが。
 江戸時代の南部藩はひどい「虐政」をしますが、それは南部氏一族だけが
贅沢したいが為でなく江戸幕府の対大名政策のひどさもその一因にあると
思います。室町時代のような、ゆるい統治形態にあったら南部氏もこんなにもひどい
ひどい圧政をしなかったとおもうんですが。
 松前藩は完全にアイヌ民族を収奪してますが、南部藩が自藩の農民たちを同じように
扱ったでしょうか?(それにちかいかな.....)
 ただ江戸時代に農業を主経済におくには、南部の自然は過酷すぎたでしょうね。
 
青森県の南部地方(上北、下北方面)では、一揆は殆どありませんね。
ゼロではないのですが。
472歴史の勉強:02/04/05 01:03
僕が言う「植民地」ってのは、経済構造がその土地のためではなく、
その土地が従属してる地域へ商品輸出を主体に成立している地域……。
あまりにわかりにくいので、現代日本の北海道と沖縄を連想してください。

東北の経済と言うと、必ず日本海水運や関東とのつながりで説明されます。
藩政期は江戸への回米が有名ですね。
東北のばあい、最初っから「輸出主体」な経済やってるでしょう?
少なくとも鎌倉殿の征服以来。
御家人は東北に土地を得て、そこを開発し、そこで利益を上げるために
頼朝に従って(尻押しした、が正確じゃない?)東北を征服しました。
でもって、やっぱ関東御家人が潤うことを第一義的に開発するわけじゃない?
もちろん、経済が発達すりゃあ庶民も潤うわけで、適当に妥協してたんだと思います。
鎌倉時代の経済が関東のために形成されたのなら、
足利氏の時代になってもその形態を引きずっていたでしょう。
何か関東御家人て、アメリカ大陸のクリオーリョみたいに思えるよ。

まあ、そんな悪いご領主ばっかじゃなかったと願いましょう。
経済ってえのは、支配階級だけが潤うんもんじゃないから。
でも、東北のばあい、面積に比して非常に人口が少ない。
だから、広大な所領を獲得した領主が経済をよりいっそう発展させるためには、
どうしても近畿や関東といった人口が多く豊かな土地に商品を輸出せざるを得ない。
だから、徳川時代の藩主たちはものすごい努力で開発した。
でもその結果、ますます関東に従属するようになっていった……
と僕は踏んでるんですが。
473しったかぶり:02/04/05 23:02
 踏んでるとうりでしょう。
平安時代から江戸時代まで、ひょっとしたら今もそうかもしれませんよ。
 最初は金、馬、鉄、そして銅、俵物、鰯かす、等々最悪なのは米本位制
の幕藩体制で米まで商品として持っていかれた訳だから、もう上方衆には
頭が上がらない。
 一生懸命開発してもその富がみんなもっていかれて、地元には何も
還元されない。
 さらに昭和時代は労働力まで関東に持っていきました。(出稼ぎ)
なんだか暗くなってきましたのでこの辺で。
 (どうしてこうなったんでしょうかね?)
474歴史の勉強:02/04/05 23:10
今日は終日寝っ転がって中公新書「奥羽越列藩同盟」を読んでたんですが、
同盟が負けた最大の理由は東北地方の経済力にあると思われ。
これを人材不足とか言っちゃうのも、どーも「不公平」な気がするんですが。
当時、親徳川方は関東を取られちゃってるわけだし。
明治時代の人じゃあ、「経済力」の感覚が乏しかったろうから仕方ないけど、
どんな優秀な政治家も、経済力には勝てません。
玉虫左太夫や楢山佐渡が悪かったとは思わないよ、僕。

東北のばあい、ヤマト政権が進出していく以前は不明ですが、
少なくとも鎌倉時代には完全に「従属」関係が造られちゃってますよね。
一番露骨にやったのが鎌倉幕府としても、
奥州藤原氏だって、あれは京都との経済的な結びつきで勢力伸ばした感じでしょ?
奥州藤原氏が東北独立王国を作って理想郷を作ろうとした……
と主張されてた大学教授がいましたが、僕にはどうも疑問。
津軽安藤氏も全く同じだと思うんだけど、
奥州藤原氏ってのはむしろ京都との関係を利用して東北に君臨したんじゃないかな?
藤原氏が「鎮守府将軍」、安藤氏が「日ノ本将軍」でしょ?
どーも、彼らは独立志向なんて感じられず、中央政府をうまく利用した連中に思える。
475日本@名無史さん:02/04/05 23:17
南部の地よ、はるか北の地よ 寒いだろうな・・・しかし原敬は南部藩士
家老の家柄とか、平民宰相ではなかったのだな。しかし優秀な人材が多いな
南部は 賢治さんは好きだな
476歴史の勉強:02/04/05 23:21
「鎌倉時代は植民地の領主感覚でも、足利時代には在地領主になったのでは?」
って言われて、はたと思いました。
鎌倉・足利・徳川と、幕府と言われた政権は3つありました。
これはヨーロッパの王朝交代と違って、それなりに性質を異にします。
簡単に言っちゃうと、政権がどんどん成長していってますよね。

んで、この3幕府の時代を見ると、
足利幕府時代が一番「地方の独立性が強かった」と思えます。
足利幕府はとかく弱かった弱かったと批評されますが、
これは地方と中央のバランスの差だと思います。
足利時代は中央政府の力が一番弱かった時代なんでしょう。
でも、鎌倉と徳川では、その背景が全然違うことは留意すべきでしょうね。
鎌倉幕府はものすごくシンプルな政権でした。
今思えば、「あんな簡単な政治機構で平気だったの?」と思えるほど。
でも、地方の御家人は単独で権力を維持することなど不可能でした。
彼ら単独の権力は、鎌倉の権力なくしては機能できないほど微弱でした。
「鎌倉幕府は関東武士が地方侵略のために作った政権だ、」
という主張も言い得て妙です。
それに対して徳川時代の諸藩はかなりの経済力を持ってました。
薩摩藩などは並の独立国以上の実力があったでしょう。
でも、それに呼応するかのように中央政府も非常に強かった。
その違いは把握しておかないと。

これはモロに経済構造にも反映されました。
地方の独立性が最も強かった……従属の関係が最も弱かった時代は足利時代でしょうね。
477日本@名無史さん:02/04/06 00:17
江戸時代も南部は国内鎖国的だったと思うよ、薩摩藩のようにね。
江戸時代の旅行記にも南部には行かない方がいいとか書いてあって
入りづらい土地だったみたいだし。

南部内でも農民の盛岡府内立ち入り禁止とかあるし、江戸時代に植民地
主義が強化されたのかなと、参勤制度の影響で殿様は幕府のある江戸中心
になったからだと思うけど。
478日本@名無史さん:02/04/06 01:29
>>475
東条英樹も南部出身・・・
479日本@名無史さん:02/04/06 01:38
>ヨーロッパの王朝交代と違って、

ヨーロッパも異にしてるよ
480信者@東北:02/04/06 01:40
賢治さんねえ、あんまり郷土の偉人を悪く言うのも何だが
あの人本当に羨ましいよ、おいらも実家が金持ちだったら好き勝手して
野垂れ死にしたいな
あの人の実家が花巻市の陰の支配者です
いやあね、花巻市の停滞と関係あるかどうかは知らないけど
新幹線の駅と東北本線の駅別々にするのはどうかと
仙台や北上のように無理やり曲げろっつーの

グチスマソ
南部はやっぱり人材が一風変わってて面白い!
481日本@名無史さん:02/04/06 02:26
>>480
あれは駅の選定に漏れたから仕方なかろうかと。
その代わり、後に新幹線駅作れるようなルートにしたそうです。
沿岸への利便性もあり、水沢のプライドだけで出来た、水沢江刺よりも
存在価値はあるでしょう。
482八幡馬:02/04/06 02:49
スレ違い承知で、質問デス
奥州藤原氏と義経北方伝説って、どんな関係なんでしょうか?
漏れの地元はやたら、義経北方の足跡(観光名所?)の
記録があるもんで・・・
483日本@名無史さん:02/04/06 03:08
>>482
やたら漠然としてる質問だな。
沿岸の俺の田舎にも伝説があるよ。

義経一行が逃れてきて、民家で食物を所望した。
ちょうどその家では丸い大きな餅が出来ていたのだが、丸ごとくれてやるのを
惜しみ、半分だけ切って渡した。
それに弁慶が怒った(怒る筋でもないと思うが、、、)ので、すかさずその家の
女房が「雲に隠れていた半月が、雲が消えて満月になった」というような
歌を即興で詠んで、もう片方の餅を差し出して、先に差し出した餅とあわせ
一つにした。
それに感じた義経一行は、餅を貰い静かに立ち去ったという。
484日本@名無史さん:02/04/06 03:39
歴史を今の価値観で判断するのは良くないってのはわかってるんだけど...
どーも義経一行がDQN丸出しって気がするんですが>>483
485日本@名無史さん:02/04/06 06:52
>484さんの仰るとおりだと思います。歴史と現在はつながっては
いますが、そのものでもないと。

義経さんに関しては北行伝説とかありますが、平泉に義経が居た事
は事実だと思われるので、平泉滅亡以前に義経は藤原氏の領土を回った
と思います、藤原氏にとっては源氏の貴種ですから北東北中をつれて
回ったのが今の北行伝説になってるのでしょう。
486信者@東北:02/04/06 10:40
>>485
入間田のおじいちゃんは、安倍宗任が大陸まで渡航したという伝説が
下敷きになっているかもと仰ってました
昔井沢スレで滅茶苦茶熱かった話題です

義経が戦争のプロだから匿ってたのでは?
487歴史の勉強:02/04/06 11:02
義経伝説って東北は多いんですねー。
太宰治が「津軽」の中で義経主従のことを書いてた。場所は竜飛(たっぴ)岬。
石川さゆりの「ご覧あれが竜飛岬、北の外れで〜」のあれ。

直接関係ないけど、江戸時代、シャクシャインを義経の末裔と考えた人も多かったそうだ。
昔の日本人は「北方」をどう思ってたんだろうか?

ヨーロッパの王朝交代って、単に嫡系が絶えたから親戚が嗣ぐって感じじゃない?
幕府のばあい、血統の問題じゃあなく、政治的変動で交代してるでしょ?
だから、幕府ごとにかなり職制なんかが違うわけで。
う〜ん、うまく言えないなあ。
足利氏だって、最初は鎌倉幕府の再興を意図してたはずだし。
488しったかぶり:02/04/07 00:22
安倍宗任が伊予に流されたけど松浦氏の娘婿となり、松浦水軍を率いた
と言うことからでしょうが、義経伝説と同じかそれ以上に安倍伝説が東北
一帯に広くあります。それだけ人気があった訳ですがどうしてでしょううかね?
 青森県小川原湖にも水軍が出入りしてたという伝説があるのですが、最初安東
水軍かと思ってましたが、どうもそうでないらしく、松浦水軍かなとおもっております。
 遠い長崎から来ましたかね?
とにかく、安倍舘と呼ばれる遺跡が沢山あります。
 宗任と義経伝説ですか....。

 
489歴史の勉強:02/04/07 00:41
あの安倍晋太郎(スマソ、息子の名は忘れた)が奥州安倍氏の子孫てホント?
そう言えば、安倍宗任を演じていた川野太郎が「時宗」で少弐景資でしたね。
不思議な因縁を感じる。しかも彼、源義経でしたっけ?
再放送で「武蔵坊弁慶」見たとき、たしかそうだった。

安倍氏伝説はおもしろいですよねー。
津軽安藤氏(秋田氏)が一貫して安倍末裔と主張していたし。
津軽は奥州藤原氏と近衛氏双方の末裔だって主張してましたね。
奥州藤原氏は安倍の後裔って面もあったから(藤原清衡の母が安倍氏)、
東北での安倍氏人気はすごいものを感じますね。
490しったかぶり:02/04/07 01:03
青森県五所川原市に石塔山という山ががあってそこに安倍頼時を祀ってるといわれる
神社があって、一度安倍晋太郎がお参りに来たという話がありますよ。
宗任の子孫だと代々伝えられてきたらしい。
 
義経が一ノ谷の鵯越したとき乗ってた馬、「青海波」はもちろん南部七戸産!
です。
491日本@名無史さん:02/04/07 01:40
和田系のネタを堂々と言う奴がまだ居るんだな・・・
492しったかぶり:02/04/07 08:39
石塔山の神社も和田氏のでっち上げでしたか?
安倍晋太郎氏は和田氏にだまされたのですね。
 五所川原の話は捏造でした。
失礼しました。

 「東日流外三郡誌」は馬鹿馬鹿しくて読んでないものですから。
でも、恐ろしい物ですね。こうして又聞きで広がるのですね。
 強く、自戒いたします。
493483:02/04/08 00:37
>>485
確かに、奥州藤原氏に世話になっていた時期に領内巡察に同行したのが、北行伝説の
元と考えれば、
>>483
の逸話というのも理解できる。
もし藤原氏に討たれたあとの逃避行なら、いくら貴種といえど敵領土内でそのような
態度は取れまい。
494しったかぶり:02/04/08 22:27
 頼義、が鎌倉八幡宮を作りますが、鎌倉の由比ガ浜は砂鉄の産地で当時鉄を
鎌倉で生産してたらしいとのことですが、そうだとすれば源氏と鉄の関係ガ
面白くなるんですがどうなんでしょうか?
 南部伝説によれば南部光行が七〇名ばかりで船に乗って南部に向かって船出
したのも由比ガ浜だし、これもやっぱり鉄が直接の目的だったりして...
 義家が、前九年のあと、南部から鉄職人を鎌倉へ連れていったのかもね。
頼朝がやたら陸奥の国にこだわってるのも、(と言うよりも恨んでる)
鉄、かな?
 いやあ、由比ガ浜で砂鉄をとってたと聞いた物でこんな妄想を浮かべました。
495歴史の勉強:02/04/08 22:52
鉄を追求すると面白いですよ。
平将門も、鉄の産地と製鉄炉のある地点を重点的に攻略したと言われますから。
由比ヶ浜の西隣にある(地図参照)は真っ黒な浜辺なんです。
鎌倉の砂浜はもともと鉄分が多いらしく、刀匠・正宗もその辺に住んでたとか。
でも、そのせいか鎌倉は海に近いのに「塩」の確保が困難だったようで、
そのせいで六浦が塩田となっていました。
「塩なめ地蔵」は有名ですね。
496歴史の勉強:02/04/08 22:53
書き忘れ。
由比ヶ浜の西隣は「七里ヶ浜」です。
こっちは由比ヶ浜や江ノ島ほど有名じゃないんで、一応附記。
497日本@名無史さん:02/04/09 01:25
>>496
唱歌「鎌倉」あるいは、真白き富士の峰の歌いだしの「七里ヶ浜の哀歌」等
鎌倉といえば七里ヶ浜が普通の感覚だと思うのだが。

まぁ歴史にも南部にも関係ない事なんで。
498日本@名無史さん:02/04/09 01:47
盛岡市街の北、北上川沿いの高台に安部舘町があります。隣りは
前九年町。

安部舘には厨川の柵跡といわれる古い空堀が巡っています。1950年代の発掘調査
記録が残ってますが、当時の堀の底から鉄製のギザギザ障害物と思われる物が
発掘され、東北奥地の鉄製品の潤沢さが伺われるみたいな記述がありました。
安部舘の堀自体は同時発掘物から室町期の城跡らしいですが。

室町期においても貴重な鉄製品を堀の底に沈める例はないとありました。
499日本@名無史さん:02/04/09 02:10
前九年て、そんな北でおこったんだっけ?
500日本@名無史さん:02/04/09 02:37
500get!!!!!!!
501日本@名無史さん:02/04/09 03:04
>>499
他の板でそんな発言したら袋叩きかもしれん。
調べてわかる事は自分で調べてね。
前九年の役関東説とかなら、楽しく聞いて見たい。
502信者@東北:02/04/09 16:48
おい、皆さん!新沼スレができてますよ。
既出ですか?

鉄で思い出したが北京が中国の首都になったのは鉄と石炭の産地が
近かったかららしいね。
そうでなけりゃあんな寒いところには住まないよな。
古代から蚩尤なんていう鍛冶の神様住んでたみたいだから古くからの
産地だったんだろうな。
南部と本当に関係ないな。
503歴史の勉強:02/04/09 23:12
北京のばあい、軍事が大きかったと思えるけど。
あっちじゃ、「皇帝=軍の長」って考えが強かったから。
でもまあ、春秋時代には燕の都だったしね。
古くから開けてたんでしょう。

鎌倉で七里ヶ浜って言いますとねえ、「腰越の海」って感じだと思うよ?
稲村ヶ崎で鎌倉と腰越は分かれるんですが、
この二つ、もともと別個の町だったんです(昭和初年に合併)。
しかも、由比ヶ浜から稲村ヶ崎までは今みたいに直結してたんじゃなく崖だった。
その崖だったとこを、1923年の関東大地震で崖が崩落したもんで、
埋め立てたんです。今プールになってます。
だから、鎌倉の「西の果て」をどこと考えるかの問題でしょうね。
狭く考えると稲村ヶ崎、広く考えると江ノ島がそれでしょうが。

浪岡御所も、御所内に製鉄炉を造ってたそうですね。
近年の発掘で判明したんだとかで。
何とか南部関係に収束。イェス。
504しったかぶり:02/04/12 22:21
鎌倉近辺が鉄の産地だったとは知りませんでした。
 (世界は知らないことばかりだ。)
 それで昔読んだ本に鉄の生産地特有の地名があるというのを思い出して
探してたんですが、みつかりません。
 淋代(さびしろ)さめ(わに) 
 金矢(かなや)金沢 かぬか かなぎ 
 黒坂 矢作坂
このくらいしかおもいだせません。漢字はそれぞれあるみたいです。
青森県南部地方、(八戸近辺ですが)では圧倒的に、サビシロが多いですね。
 さびは砂鉄のことだそうです。
南部地方全域に、あるのではないでしょうか?
 

505歴史の勉強:02/04/13 00:26
脱線がつづきますが、鎌倉の近郊「金沢」について。
今の横浜市金沢区のことです。昔は六浦の港がありました。
あの金沢も、もともと鋳物師が集住してた所を意味するそうです。
鎌倉はけっして「いい水」に恵まれた土地ではないんですね。
で、いい水ってのは金属を鍛錬するのに使うことが多いんです。
時代劇で、刀鍛冶が刀を水に漬けるとジュッとなるシーンがあるでしょ?
あんな感じで、昔の金属加工と良水は不可分の関係にありました。
日本中にある金沢の地名も、だいたいそんな由来のようです。

翻って、糠部地区に「金沢」って地名ありますか?(何とか南部だ)
安倍氏の「柵」に「金沢」ってのがありましたね。
あれもやっぱ鋳物師が住んでたんでしょうね。
506しったかぶり:02/04/13 22:06
糠部地区(岩手県北部から青森県南部地方)ですが、市町村レベルでは
みあたらないのですが、小さい地区にはそこそこあるみたいです。
 矢っ張り八戸まわりと、田名部方面に金のつき地名が多いと思います。
(金沢は「砂鉄のある沢」)
 一寸ならべてみますか
金井沢、金神、金糞、金引沢 金矢、白銀、等々ですが意外なところで
ホド、ホト、フド、フト、これが
程、保土ヶ谷、不動、と当てるみたいですが、火処(ほと)=タタラのあるところ
らしいです。
 三陸沿岸にたくさんあると思われますガいかがでしょうか?
「延喜式.録物価法」に出雲の鉄は四束、近江の鉄は五束..」なのに
陸奥の国は鉄に十四束」と圧倒的に高かったらしいのはそれだけ高品質
だったみたいです。(うけうり)
 南部氏が勢力を伸ばしていく基盤に、この鉄の生産があったのは間違いないと思われます。

 

507歴史の勉強:02/04/13 23:28
古代の糠部地域(適当な呼称がないが、便宜的に)の鉄は人気あったんですねえ。
まあ、糠部産の鉄はどうしても遠隔地に送られるモノだったでしょうから、
逆にそれだけ高品質のものを選んだのでしょう。

でも、なぜ南部氏が特に勢力を拡大したかは、まだまだ謎ですね。
工藤だって曽我だって(曽我は糠部にいなかったかな?)、
糠部の鉄の重要性は重々承知していただろうに。
甲斐も金鉱がありましたが、糠部の南部氏も
こういうとこで武田一族とのつながりを保持していた証拠なのでしょうか?

「ほと」というと、古典の講義で老先生が笑いながら話したのを憶えてる。
「ほてってるからホト」はギャグとして、古代人のユーモアは楽しい。
508信者@東北:02/04/15 08:16
内藤湖南御大って南部藩出身って本当ですか?
509内藤コナン:02/04/15 08:17
>508
本当だよ!
(声・高山みなみ)
510日本@名無史さん:02/04/15 14:01
北信愛ってなんで信景なんか養子にしたの?
他にも子供いるじゃん
511信者@東北:02/04/15 14:14
>>509
・・・ネタレス?
誰か本当のトコ教えてください。
512日本@名無史さん:02/04/15 22:54
513歴史の勉強:02/04/15 23:54
東北はすごいですね……。持ち上げてるわけじゃなく。
人口の割に非常に学者が多いような気がする。
僕は仙台藩と南部藩の学者ぐらいしか知らない(+津軽の乳井貢)けど、
何か学究的な人が多い土地なのでしょうかね?

今、日本で一番頭ボケボケのダメ人間が多いのは東京都だと思います。
あの程度の人物が知事になれるんですから、青少年犯罪は減らないでしょうな。
514日本@名無史さん:02/04/16 07:19
仙台といえば、『大言海』の大槻文彦がいますね。
515信者@東北:02/04/16 08:46
>>512
サンクス
昔の東洋史学者は頭の中に四書五経が入ってるから、研究や論文の
深みが違う
俺にはとても無理だ
516日本@名無しさん:02/04/16 11:21
南部藩は恐山の大金鉱脈を開発しようとしなかったのか?
あそこはまさしく「黄金湧き出す泉」。
そうしていれば、超ド級貧困藩なんかにはならなかったのに・・・。

南部氏って、本当に源氏の子孫か?
多田源氏の多田銀山といい、源氏には鉱山開発の手腕もあったとおもうが・・・・。
いい例が出羽の佐竹氏の秋田藩。
院内だの阿仁だのといった銀山や銅山を発見、開発していき、東北でありながら裕福な藩となった。
517日本@名無史さん:02/04/16 12:12
あそこは霊場ですから手ェ出すわけにはいかんでしょう。確か現在でも
「おやまに手をいれてはいけない」と反対があったし。
あと、あそこら辺は金の他に硫黄や砒素が多いから未処理だとかなり危険
と聞いたが。
518日本@名無史さん:02/04/16 12:19
>>516
南部藩も鉱山開発は盛んにやってたよ。
↓参考資料
ttp://4d.hops.co.jp/komon/report/index8.html
519歴史の勉強:02/04/16 20:41
そうそう、早稲田の大槻教授も宮城県出身だ。
520歴史の勉強:02/04/16 20:56
南部氏は甲斐武田氏の庶流。細かく言うと、加賀美氏の一流。
正確な年代は不明だが、北条貞時の時代には得宗被官になってたらしい。
糠部に入部した時期も未詳。

開発の方法で大名の出身地を判定するのは不適当。
だって、技術者はどこの出身だっていいわけじゃん?
むしろ、武田氏(特に信玄時代)に甲斐で盛んに鉱山開発がなされていたことを重視し、
意外と奥州南部氏と甲斐のつながりは後世まで残っていたと考えるべきでは?
521戸栗六之進:02/04/16 22:11
私、南巨摩郡南部町南部の者です。
南部氏についてこんなにも盛り上がっているとは!
私も自分なりにいろいろ調べているのですが。
ところで今度の合併で地方自治体としての「南部」の名は2004年で消える事になりそうです。
合併相手の富沢町は「福士氏発祥の地」です。福士氏は南部氏入部の際同行した一族ですね。
これって少し寂しいですよね…
522歴史の勉強:02/04/16 23:02
「南部町」内に南部という番地はないのでしょうか……?
いつぞや首都に次ぐ日本の恥・神奈川県民を罵倒した時に
「伊勢原市内に『粕屋』があるのは、せめてもの救いか?」
と書いたことがあります。
神奈川県でも、旧い地名は滅びつつあります。河村は足柄郡でも亡ぼされました。
武士の魂はいつも勝手にいじくられるモノなんだと痛感する次第です。

甲斐にもずーっと南部氏はいたそうですね。武田信虎の時代に没落したとか。
南部氏と一口に言っても、全国に繁衍したその一家なんでしょうね。
南部は去年の暮れに行ってきました。と言っても通過しただけ。
身延山に行ったのですが、南巨摩郡の「枯れた」風景は味がありました。
523日本@名無史さん:02/04/16 23:32
波切井南部が甲斐に結構残ってたんでなかったかな
524戸栗六之進:02/04/16 23:41
あります。旧南部村一帯が南部○○番地表記です。
余談ですがこの間身延山で脱税事件ってありましたが、あれは鏡円坊の住職で南部氏の子孫です(波木井系の中里氏)。
525日本@名無史さん:02/04/17 00:20
>>520
>意外と奥州南部氏と甲斐のつながりは後世まで残っていたと
>考えるべきでは?
身延山と繋がりが強いようなんですが資料がみつからないんです。
伝承はあるようなんだけど。

>>521
盛岡で子供時代の先生が福士先生でした(笑
バリバリ伝説も甲斐南部の伝説なのでしょうか(w
526歴史の勉強:02/04/17 22:28
身延山の実態そのものが十分解明されていませんからねえ。
当時の「寺内町」ってのは、職人が集住する地帯だったから、
かなりの実力を有していたと想像するのですが。
身延山は武田氏と今川氏、どちらに味方していたのでしょうか?
南部の末裔です(幕末の庶流の末)が、津軽はやはり好きでは無いですよ。
私も色々調べているのですが、室町頃?(江戸時代ではないと思うけど)に
一族の中で、北陸(富山あたり)に所領をもらって移り住んだ人々がいるようです。
その辺のことを知ってる人いませんか?
528しったかぶり:02/04/18 22:30
 私事で恐縮ですが、甲府に居たことがありますよ。
仕事で南部町へもいったことがあります。その時、ここが南部氏の出た
ところか、くらいにしか感じませんでした。失礼ながらずいぶん狭いところ
ですね。身延山も見てくればよかったなー。
 金ですが、下北の金は殆どが砂金で鉱山の記録はないみたいです。
 蠣崎蔵人の城が金だらけだったとの伝説があります。このころは相当でてたみたいですね。
南部藩の金の産出はあのバカ殿様の重直の時までで、(だから重直が贅沢三昧
を江戸で出来たのですが、)ぴたっと産出がやんだみたい。それまで年貢が
二公八民くらいだったとのことで十分やってけたわけだけど、丁度八戸藩と分かれた
あたりから、貧乏になってくわけですね。「南部虐政」の時代。
 製鉄集団は同時に金の精錬もやったたみたいですので、鉄と金とは不可分の関係ガあったとおもわれます。
製鉄集団は今でいえばトップクラスの技術者たちで引っ張りだこでもあったし、同時に閉鎖的な集団でもあった
ようです。
 福士氏の話もはじめて知りました。南部史にはけっこうでてきます。不来方城の城主にもなってますね。
北陸の話は、一寸今わからないなー。
信直の時、前田家と盛んに行き来したみたいだから、それと関係あるのかな?
前田氏の家来が南部氏の家来になったことはあるらしいけど。



 
529歴史の勉強:02/04/18 23:08
山梨県南巨摩郡南部町は不思議な町ですね……。
ホントに狭い山間部に開けた町……
しかしここが天下に名だたる南部藩の遠祖の地とは。
あの富士川流域は独特な魅力を感じますね。

いきなり学術会議みたいな話になるけど、
「〜公〜民」は精緻を極めた研究でもしな限り「危険な」詞ですね。
たとえば年貢を米オンリーにしていた藩のばあい。
ある農家の収入の10分の1が米の売買によるとします。
それに5公5民にしても、税の比率は収入の20分の1……5%になります。
これじゃあ、消費税しか払ってない人と同じになるじゃないですか?
基本的に昔に行くほど税金は安かったと考えるべきです。
それでも生活が苦しかったのは、悪政によると考えるより、
それだけ貧しい時代だったと考えるべきでしょう。
この「5公5民」は明治政府のプロパガンダだと考えるべきじゃないでしょうか?
実際には税収が減らないような税制を実施したのだから。
530戸栗六之進:02/04/20 00:45
>>525-528
身延山の資料が少ないのは、おそらく明治の初めに火災があって、その関係かも知れません。
身延山内(門内)には清正公堂があるのですが、法事の際に納骨堂に入る機会がありまして、そこで石田三成の骨壷を見ましたね。びっくり。

前田利家は利直の烏帽子親で「利」の字ももらってるくらいですからね。あったと思います。

南部の印象について同じ様な感想を江戸時代にも遠野藩士が訪れて記録に残しています。
昭和の始めに中心部の殆どを焼く大火があったんですが町割自体は江戸時代とそれほど変わらないですね。
館跡は南部警察署の裏という記述が多く見られますが、
警察署は70年代に移転しまして、現在は公民館と甲府地方法務局出張所の裏にあたります。空井戸と説明書きがあります。

福士氏については地元ではほとんど語られる事はないです。福士の地名も大まかすぎて生活の上ではなじみが少ないです。普通、町屋・御堂・徳間など細分されています。

南部氏関係とは別に
南部町成島の成島氏(武田氏流)
富沢町万沢の万沢氏(武田氏流)も文献にみられます。

余談ですけど「南」巨摩郡「南」部町「南」部ほど「南」が繰り返される地名はここぐらいです。


531日本@名無史さん:02/04/20 01:17
利家とまつに九戸政実の乱でるかな〜?
532戸栗六之進:02/04/20 02:44
あっても説明程度
533信者@東北:02/04/20 11:01
南部と言ったら前田家だからねー。
是非やって欲しい。
小田原よりもショボクていいから。
534日本@名無史さん:02/04/20 20:39
南部氏と日蓮の縁で、
岩手県では日蓮宗は多いのですか?
535日本@名無史さん:02/04/20 21:54
>>529
このスレでやるかどうかは別にして、興味深いテーマではあるね。
カムイ伝みたいなバリバリのマルクス主義史観はもう通用しないだろうし、
江戸時代暗黒説は明治政府のプロパガンダってのも確かにあるよね。
それはいいんだけど、

>ある農家の収入の10分の1が米の売買によるとします。
この前提はどっからきてるの?
ちょっと唐突な印象。
536日本@名無史さん:02/04/21 00:33
>>535
>>ある農家の収入の10分の1が米の売買によるとします。
>この前提はどっからきてるの?
>ちょっと唐突な印象。


俺もそう思った。
○公○民というのは、農民の全ての取れ高の割合であって、農民が売買した分の
割合ではないというのは誰でも分かる話。
彼の理屈はこじ付けでしかない。
537しったかぶり:02/04/21 12:04
あのですね
2公8民と言ったのは、そのくらい年貢を当てにしなくてもよかったらしいと
いうことで、深い意味が合ったわけではなかったんですよ。
 失礼しました。 (で私の意図も536さんですが。)
 
538名無し大名:02/04/21 14:46
>>534
遠野に北身延山ってありますね。
539歴史の勉強:02/04/22 03:47
今でもそうなんだが、税金というのはかなり細かく設定してあって、
一概に税が高いとは断言できない。
昔の農民だと、単純に農産物だけが経済財だったとも考えられない。
生活に不可欠で且つ重要だった物資にも非課税だった可能性が高いし。

たとえば徳川御三卿の一家・田安藩はもともと畑には税を賦課していなかった。
それを畑にも課税しようとしたために、住民が目安箱に投書した。
田安藩はその投書を捜査して、反対者の弾圧をおこなった。
有名な事件である。

僕の仮定は「これだったら税が高いとは言えない」という例に過ぎず、
実際にどうだったかは精緻を極めた研究をしない限り即断できない。
ちゃんと「税を米オンリーにした藩のばあい」と断ってるじゃないですか?
徳川時代ですと、これに交通税もあったでしょうし、もっと複雑な税体系だったでしょう。
ただ、いくら何でも収入の4〜50%も税金で差し出すと生活が成り立たなかったでしょう。
それこそ「奴隷」じゃないですか?
そんなバカげた政治がおこなわれた時代はなかったろうと僕は思います。
だいたい昔は天皇だって武家だって、ゴミのように殺してよかったんだからさ。

とかく封建時代の庶民は搾取されていたと考えがちなのは
明治政府のプロパガンダが残存しているのでしょう。
540 :02/04/22 22:05
岩手県になった明治以降も一揆は何度もあったし、一揆の代表者が
腹を切って直訴なんてのもあったな。
政権が変わっても内実には大して変化なかったじゃないの。

で、なんでsage進行してるの?
541しったかぶり:02/04/22 23:00
そう言えば、明治以降の方が重税感あったような気がしますね。
七戸でも江戸時代なかった一揆が明治2年?頃あって七戸城を
囲んだそうだけど、それも明治政府の新しい税制の為だったとか。
どうも、南部衆はお上にいっつも泣かされるなあ。(南部衆だけでないか)

遠野(八戸)南部氏は波木井氏と関係が一番深いから遠野に
移ってから名づけたものなんでしょうか?北身延山。
542歴史の勉強:02/04/23 02:07
「〜さん、好きです!」と冒頭からボケかましまくり(大学生だなあ)。
すいません、某女の子にやられました。

閑話休題(実はこれが使ってみたくて……)。
日本はけっこうバラエティーに富んだ地域性と歴史を持ってると思うのですが、
南部藩領域って「本土」の中では最も植民地的様相が濃厚な気がします。
何て言うんだろ? 一番悲惨な土地というか。盛岡あたりは知りませんが。

明治政府の新税制が南部藩を窮迫に追い込んだとしたら、
全国一律の税制の問題だったと言えるでしょうね。
封建時代は税金なんて恣意的なものでした。
地域によって事情が違うことをみんなが知っていて、地域ごとの裁量権が大きかった。
だから、名君暗君も殿さまが税を安くするか否かで決まった。
逆に言えば、それだけの裁量権が昔の政治家にはあったわけです。
近代以降はそういう税制への感覚がすたれて、金銭で統一されたずいぶん大雑把なものになった。

一概に近代方式が善く、旧時代方式が悪いとは言えないのです。
「長男」の意識が非常に強い韓国で、財産の頭割りはかえって不公平ではないか、
というのと同じでしょう。
543日本@名無史さん:02/04/23 11:53
あのー、水差すようで悪いんですが・・・・殿様の専断による政治が実現
したことなんて一度も聞いたことないんですが?
それと岩手を植民地、植民地なんて連呼しないで欲しいです。
どちらかと言うとブリテン島な感覚なのですが。
・・・・これは人それぞれか。
544日本@名無史さん:02/04/23 19:28
西村寿光?の『蒼茫の大地滅ぶ』?には共感します
東北が貧しいのは農民から共有林を
国有林として取り上げたからだそうです
545しったかぶり:02/04/23 23:43
 植民地論は彼のオリジナルな歴史観とでも言う物でそれはそれで新しい歴史の
見方で面白いのではないかと思いますが、宗主国はそれでは奈辺ににあるや?
そして南部の富を一帯誰が浪費したのでしょう?

 入会地(いりあいち)の問題ですね。たしかに共有地ガいつのまにか明治政府の国有地に
されてしまってたわけです。(多分藩の所有地ということでそのまま)これは東北地方だ
けでないかと思われますが。
 でもこれだけで東北が貧しいというものでもないでしょう。

546日本@名無史さん:02/04/23 23:44
>>541
明治2年頃に新政府の政策ってネタ?
ここは、あくまで版籍奉還で4年の廃藩置県までは江戸時代と
変わらないだろ。盛岡藩はこの段階で大藩(10万石以上)
では唯一廃藩を申し出ているけど。
547 :02/04/24 02:01
謎の明治維新が今・・・!
廃仏稀釈等、明治新政府が行った失策はなにか!てな感じ。
548 :02/04/24 02:20
>>538
遠野の北身延山はどこのお寺さんなのでしょうか?
検索したけど見付かりません。教えてください。

盛岡には日蓮宗のお寺は少ないです。僕が知ってるのは
一つだけだ、今度ちゃんと調べます。
549日本@名無史さん:02/04/24 20:34
桜庭の血を引く者なんですけど、白人の血を引いてるっていうレスのソースを教えて
欲しいのですが。気になって当分考え込んじゃいます。
津軽スレでうっかり質問してしまった…。
550しったかぶり:02/04/24 21:28
>546さんへ
 そのとおりでした。私の感違いでした(またやっちまった。)恥。
七戸藩は藩として認められたのは一年と3ヶ月の短い期間でしたが、
維新の混乱の中で藩として体裁を整えるため急遽課税したため、のようです。
 そのほか、南部地方(青森県)が、津軽藩の統治に決まったのに対して南部衆が
反対して暴動ガ起きそうになったらしい。(それで政府が下野の黒羽藩に変更した)
 まあ、以後少し謹慎します。
551日本@名無史さん:02/04/25 12:35
誘導あげ
552南部下野守:02/04/25 22:24
≫549
桜庭氏は南部氏と共に同行した甲斐の一族らしいです(三上氏もそうらしい)
553金田一氏も南部氏よ:02/04/25 22:37
>>549こんなスレがありましたよ。参考になりますかね?
>>http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/993112068/l50
554549:02/04/26 03:05
>>552-553
ありがとうございます。う〜ん、ウチは割と白系だから先代の後にどっかで混ざった
のかも。
555戸栗六之進:02/04/26 23:22
>>北身延山
遠野の鍋倉城址北側に鍋倉神社(師行から五代を祀った)と日蓮宗智恩院があるらしいのですが、この智恩院が俗に北身延山と呼ばれていた様です。創建は維新後みたいですね。
556戸栗六之進:02/04/26 23:49
「ふるさと南部のあゆみ」(平成5年南部町公民館南部分館発行)という本を借りてきました。
中世・南部氏の項で『一戸町史』『三戸町通史』から南部の宗家筋(ここでは一戸系)は南北朝後期まで本拠を南部郷に置いていたことがうかがわれる、と記しています。
また南部諏訪神社(郷社)神官・若林家に伝わる南部氏系図によれば
三郎光行-行朝(長男)〜「B庄司太郎義元(三戸B時実五男)-C伊予守義行-D甲斐守義重-E甲斐守為重-F山城守重時-G遠江守則時-H遠江守元時-I右馬頭元秀-J下野守定秀-K下野守宗秀-L肥後守満秀-M孫左衛門尉慶秀」
H元時は嘉吉三年(1443)7月28日諏訪神社を再建して、その時の棟札が現存します。
ただ系図には同じH元時の時代「永正時八代郡ニ移ル」と書かれていますが、嘉吉から永正までは60年以上あり、同一人物の業績にしてはやや無理があります。
しかし武田・穴山氏勢力に圧迫されて南部を離れたの事は間違いないですね。
永正二年(1505)(穴山)信懸南部領主、国主(武田信縄)の伯父云々と『甲斐国志』にあります。
1443〜1505年の間に武田(穴山)氏が南部氏を八代郡へ追った事になります。
その後の甲州南部氏は
大永三年(1523)南部某なる者が鳥坂峠を越え穴山(分家)信永の小山城(八代町)を攻めて敗れ自害します。(この某が南部下野守と『甲斐国史』はしている)
大永七年(1527)波木井義実、福島正成の甲斐乱入に協力した罪で武田信虎により峯の城(波木井の本拠)で討ち取られる。(甲斐に残っていた波木井南部の最後)
小山城の戦いで敗れた南部某の従者は奥州へ落ちていった様です。
557日本@名無史さん:02/04/28 23:20
身延山と石田三成との関係がなんなのかも面白いね。
身延山と関係が深いのは、遠野南部(八戸氏)でしょ?。

波木井南部氏の敗退以降も、南部氏と身延山との関係は
続いてるようだから興味はあるのだが、それでは何故
奥州南部には日蓮宗の寺が少ないのか?
558日本@名無史さん:02/04/28 23:59
身延山久遠寺には、南部家の墓はありますか・
559日本@名無史さん:02/04/29 10:04
>>556
『甲斐国志』って江戸時代のものですよね?
560戸栗六之進:02/04/29 19:48
>>559
ご指摘通りです。実際、南部下野守を追放したのが「天文年間武田信玄によって」とあり、全てを信用しづらいですが…
561南部晴政:02/04/29 19:59
南部の歴史に謎が多いのは赤沼備中めが城に火を放ったからだ!とんだ野郎だ!
562日本@名無史さん:02/04/30 01:24
「甲斐国志」が江戸時代の史書であっても南部氏を認める
資料であるから好き。
563日本@名無史さん:02/04/30 01:28
南部氏という殿様の歴史より、盛岡をつくった近江商人の歴史のほうが
盛岡の歴史的にはくわしいかも。
564歴史知りたい:02/04/30 13:29
南部師行は糠部郡奉行で閉伊氏の閉伊郡、阿曽沼氏の遠野保までも所管していたそうですが、この辺りは南部師行家臣団の誰が管轄していたなんてことが分かりますか?
565日本@名無史さん:02/04/30 14:26
南部領って津軽が独立した後でも広大だよね。
岩手県一県で四国と同じぐらいの大きさなんだし。
それで石高は10万石か。。。
566 :02/04/30 20:18
>>565
前レス読んできてね、同じ話を繰り返す気はない。
567赤沼備中:02/05/01 21:07
>>561
とんだ野郎はあんたの方だ
568歴史の勉強:02/05/02 00:04
城の炎上とは関係なく、南部藩ローカルは中世が謎に満ちてるんだが。
地理的特性による、とおしか言いようがない気がしますね。
鹿児島はそれほどじゃないでしょ?
でもまあ、アイヌ史は輪を掛けて謎に満ちてますからね。
先進地域と遠いってことは損な気がしますね。
569しったかぶり:02/05/02 21:53
内史畧前九より
一、早速甲州より供奉の侍 東 北 南 西 是を四人の客と云
三上 桜庭 安芸 福士 是を四人の老と云
奥瀬  沢田 切田 前田 伝法寺 吉田 下田 是を幕後と云
岩間 中里 一条 下山 小笠原 足沢 木田 細越 等也

この人たちが、甲斐からついてきた家臣らしいんですが、「四人の老」
が後の南部四天王?
 面白いのは「是を幕後」と云う人々ですが、今、南部にいる人たちは吃驚ですね。
これの殆どが地名として今もあります。もちろん名前もですが。
 この人たちが住んだので、この地名になったのでしょうか?

>564
 師行は直接、統治しなかったんでないでしょうか?
閉伊氏も阿曽沼氏も後々まで続いていますし阿曽沼氏が
攻撃されたとき南部氏が救援にいったりしてますから。
 ただ、師行が石州で戦死したとき、根城南部まで逃げ延びた
小垣内八兵衛、西下小兵がそれを報告したと記録にあるそうです。
 
570戸栗六之進:02/05/04 07:14
>>569
小笠原もそうですが、岩間(六郷町)・下山(身延町)は甲州の地名ですね。
571日本@名無史さん:02/05/04 18:41
何気に伊達スレできてますね。
ここも負けないで頑張って下さい。
572日本@名無史さん:02/05/04 23:55
戸栗六之進殿のレスが付くようになって、南部氏スレに歴史の
深みに加へ地域の広がりも感じられて楽しく拝見しております。

さしつかえなければ、戸栗六之進のHNの由来を教えて下さい。
573しったかぶり:02/05/04 23:58
小笠原君も、岩間君も、中学高校時代にクラスにいました。
下山さんも仕事してからおあいしました。(津軽のひとですけどね。)

奥瀬  沢田 切田 前田 伝法寺 吉田 下田 是を幕後と云

の続きですが、奥入瀬川を西から東に並んでるんですよ、それも順番に。(青森県
十和田から六戸、下田にかけて)
 不思議だなー
途中に、赤沼というところがありまして(十和田市)なんとそこに赤沼備中館跡
というのもありました。厩役人赤沼備中とありますから馬の生産地にいたんですね。
(あらーこんなとこにいたの、という感じでした。 晴政も、悪いなあれは)
574日本@名無史さん:02/05/05 00:06
>>573
あらーこんなとこにいたの、という感じでした。 晴政も、悪いなあれは

現地を見てどういう意味で悪かったの?
575しったかぶり:02/05/05 00:28
 赤沼の地名は前から知ってたのですが、赤沼備中に
由来してる(たぶん)とは知りませんでしたので。

赤沼備中がなぜ火をつけたかは、手元にある本には次のようにかかれてます。
 赤沼備中と隣の奥瀬安芸とは所領争いがしばしばあったが、晴政はいつも奥瀬よりの
判定ばかりしていた。そんなところへ、美人として評判の高い備中の妻を呼び寄せ酒宴
に侍らしたもんだから、頭にきた備中は弟七郎と共に城に忍び込み、放火におよんだ。
というものです。

 現地を見てではありません。文章が下手でした。
576日本@名無史さん:02/05/05 00:46
>>575
レスありがとうございます。
南部氏の研究を続けていただける事をお願いします。
577戸栗六之進:02/05/05 03:27
ハンドルネームはご先祖から拝借しました。
文政年間、甲駿国境にあった十島口留番所(舟の関所)の役人でした。
戸栗姓は南部の南を流れる戸栗川に由来してます。
578歴史知りたい:02/05/05 10:03
>569さん、ありがとうございます。
直接統治ではないのですが、国司代理として領地あらそい等の裁定をしていたなら、閉伊郡は家臣の誰が監視のような事をしていたのだろうと思いまして・・・。
甲斐から来た者がしていたんですかね。
579日本@名無史さん:02/05/06 23:15
http://4d.hops.co.jp/4DACTION/WebH_q_a/18
まぁいいや直リンでも、いまや2chに残った唯一マジスレが南部氏かもな。
580579:02/05/06 23:17
>>578
参考までにということでね。
581戸栗六之進:02/05/07 02:13
>>558
円実寺(実長開基)等の菩提寺はありますが、久遠寺に南部氏の墓はあるのかといえばはっきりとしたことは言えないですね。

実長(日円)は熱心な法華信者でしたが激情家でもあったようです。
信仰について以前から日興に反発していた大檀越・実長は、日蓮上人七回忌にあたり久遠寺住持を決める際日興を推挙する声を抑えて日向を据えます(身延門流)。
日興は身延を下山して富士南麓の上野に大石寺を建てます。(富士門流→日蓮正宗)
実長と日興は対立の関係でしたが彼の息子たちは日興に深い敬慕を抱いていたそうです。
582戸栗六之進:02/05/07 02:21
ところで実長には息子が三人いたそうです(四人とも)。

長男実継は根城南部氏へつながっていきます。
南朝方として戦い、遠野移封など激動の変遷を経て昭和2年36代日実は身延に帰った、とあります。

次男実氏は実長が地頭を務めていた常陸加倉井に母・妙徳と共に移り加倉井氏の祖になります。
この地にあった「常陸の湯」に日蓮が晩年湯治したといわれ、その場所には日蓮の御由緒寺「隠井山妙徳寺」があります。
加倉井氏を称したのは孫の通久の代からで江戸氏の有力武将となり滅亡後は帰農した、とあります。

三男祐光がいたと言われ西谷六郎四郎と呼ばれ、身延山御廟所の付近が西谷であることからこの付近に居を構えたと思われます。

末弟@長義(日教)は波木井地内・原に住んだので「原殿」と呼ばれていました。兄弟の中でも特に信仰熱心で久遠寺大檀越を継承します。
A長氏(日長)は子孫に対し「大檀越として身延外護につとめるべし」の置文を遺しています。
その次男でB実氏(日遠)の実弟にあたる日台が12歳で推されて久遠寺五世日台上人です。
以後C行氏(日理)D春行(日事)E春氏(日要)F氏実(日法)G長春(日眼)で最後のH義実(日浄)に至ります。(>>556)

>>557
これがどうしてなのか、正直わからないですね。岩手県への本格的な布教は明治18年でした。
北身延山の由来は千葉茂原の藻原寺貫首・荒居養寿が遠野を訪れた際、智恩寺(千葉・大多喜町)を移転再興しようと提案、34代行義が城の一角を寄進して「波木井(ハキリ)山智恩寺」となったようです。
北身延は俗称の形で呼ばれてましたが、実長公650回忌にあたる昭和21年久遠寺より正式認下されたというから案外最近の話ですね。(『日蓮宗大辞典』)
583しったかぶり:02/05/07 21:42
>579
さんのリンク先の、

『祐清私記』という記録があります。
 これによりますと、根城南部氏は南朝滅亡の後甲州に帰国、
戦国末期に武田信玄に攻め亡ぼされて糠部に来行、当時八戸
の城主であった工藤氏の女婿となり、のち三戸の南部氏と通じ、
南部家の客分になった、或いは、工藤氏の城を乗っ取り八戸領主
になったと伝えています。
 
 この「祐清私記」は南部関係の本を読むと必ず出てきますが、
さて
 1,根城南部氏は南朝滅亡のあと、八戸を捨てて甲州へ帰った。
 2,その後、信玄(信虎)に追い出されて八戸にもどってきた。
ということですが、
 1、はどうでしょう?
 2、の件は、戸栗さんが書いていますが信虎に滅ぼされて甲州のの南部氏は
いなくなった。とつながるような気もしますが。
 なかなか、面白い見方かと思いますが?

 根城南部氏と三戸南部氏の関係は一寸不思議な関係なような気もします。

 南部の歴史はいろいろ想像できるのが楽しいんですけどね。
 
南部師行が日蓮からもらった自筆の「南無妙法蓮華経」の旗を立てて、戦った
そうですが、その旗も摂津でなくなったんでしょうか?
 その割には地元の人にも日蓮と南部氏の関係があんまり知られていませんね。
歴史好きな人じゃないと気がつかないと思いますよ。

 


584日本@名無史さん:02/05/08 10:26
そろそろあげとこう。
585伊達遠江守家中:02/05/08 11:04
>432
遅レスですまんが、木村は秀吉の子飼いじゃないらしい。
明智光秀傘下だったそうだ。
そう考えると、前身の実力差こそあれ肥後の佐々成政とダブって見えない?
「成功すれば良し、失敗すればそれはそれで反対勢力を根絶やしにできるから
それでも良し」
召還後に命を奪われなかったのは、元々が小身(大名未満)だったので秀吉も
気が咎めたのではないかな。
586戸栗六之進:02/05/09 13:42
>>521
えー住民投票の結果、合併後も町名は「南部町」と決まりました!
やっぱり歴史的な地名ということで残そうという意識が強かったか投票した8割が「南部町」でした。
投票率自体は44%で関心は低かったですけどね。まあ一安心。
587しったかぶり:02/05/09 22:55
 よかったですね。
地名変更とか造語は、歴史に詳しい人たちが慎重にやるべきですね。
住民投票がよかったんではないでしょうか。
 地名は歴史と密接につながっていますから、古くからの地名は
残すべきですね。
 (むつ市なんてのはちょっといただけない。)

 ただいま、先の「祐清私記」の件について調べ中。

 

588歴史知りたい:02/05/10 20:41
579さんありがとうございました
589日本@名無史さん:02/05/10 23:14
南部町は裕福な町らしいですね。
町民がとても行政に協力的、とか。
ところで「身延町」の地名はどうなるんでしょうか。
590戸栗六之進:02/05/11 19:27
身延町は中富町・下部町の間に協議会を設けた段階ですね。
実現すると身延山に下部温泉と本栖湖を抱える観光地域になります。
「身延町」でいくんじゃないかと思います。日蓮宗の寺が多いですし。
591九戸人:02/05/11 20:40
「天を衝く」読み終えた(今さら)
やはり、彼の書いたものは偏っちゃうね。
割り込み失礼しました。
592しったかぶり:02/05/11 22:15
南部氏の公式記録では、光行入部は1191年頃で、2代目実光が、一門を率いて
糠部に入ったのが1219年でその際諸兄弟に領地を分けたとされてます。(三男、実継は
甲斐に残ります。)一戸、三戸、四戸、九戸、等です。実光は1254年鎌倉で没したとされてます。
三代目時実は鎌倉で育ち、父の死後、糠部にきたけれどすぐに鎌倉に帰って鎌倉にずーっといたみたいです。
 さて、次の文書があります。

1246年−寛元4年、東京大学祖両編纂所写本
宇都宮文書(五戸町史による)
北条時頼知行状
下 陸奥国糠部五戸
   補任地頭代職事
     左衛門尉平盛時
右人為彼声守先例可令知行之状如件以下
寛元四年十二月五日
 
 つまり五戸はこのとき北条氏の所領となってます。
平盛時は三浦盛時で翌年の「宝治合戦」で身内を裏切って
北条方についたとされているそうです。
 このとき南部氏記録が正しければ、周りに南部一族がいたはずですが
その気配がないです。
 13世紀のこのあたりは記録があまりないみたいです。
師行まではまだまだ先ですが順番にカキコしていくつもりですので。よかったら
読んで下さい。また、間違えてたらごめんなさいです。

「天を衝く」はまだ上です。
 
 

 

593歴史の勉強:02/05/11 23:05
ハハハハ、最近あまり歴史に書き込んでなかったので、他のHNが残ってた。
好きな女の子の名前を元にしたもの。若いな〜。

南巨摩郡では、南部町は「中心地的な町」なようです。
警察署は南部町にあるみたいですね。ほら、警察署って複数の市町村に跨るもんですから。
身延は、ほんと久遠寺の門前町って感じだったなあ。
たしかに南部の方が都会でしょうね。
もし統合しても、やっぱ南部町じゃないでしょうかね?
身延の人も怒らないと思うけどなあ。

南部氏の糠部入植時期は五里霧中のまんまですね。
ただ、得宗専制の初期にはもう北条氏の被官だったみたいですから、
得宗専制との関係を解明すればわかるんでしょうね。
頼朝の奥州征服で入植した可能性もゼロではないですが、
昔の人は、とかくそういう権威を持ち出したがったものですから、
鵜呑みは「危険」でしょうね。
南部さん不倶戴天のライバル津軽さんも、
正当性のためにインチキ系図をでっち上げましたから……。
594七四三:02/05/12 00:17
俺は岩手生まれ岩手育ちだけど、南部家知ってる人は周りにいる人の1割にも満たない。
さすがに岩手県民くらいは知っておくべきでは。
595589:02/05/12 06:56
>>590 戸栗さん、ありがとうございました。
 
>>593 の歴史の勉強さんの話に関連して
あまり歴史と関係のない話を引っ張って恐縮なのですが、身延に住む
叔父から聞いた話だと、身延の町議会議員の人とかは「身延町」の名
が消滅することに猛反発しているとの事でした。
「南部」の地名は全国にわりと多くあるが、「身延」はここ南巨摩郡に
しかない、とかなんとかいうのをたてにしているようであります・・・。
で、南部と合併すると南部に負けて名前を失ってしまうので、身延町は
名を失わぬようそれを避けた、とか。
596歴史の勉強:02/05/12 19:35
僕はあまり馴染みのない地域なんで恐縮ですが、
やっぱ南部町のほうが力の強い町なんですね。
南部氏がそこに頭角を現したのも偶然ではないんでしょうね。

う〜ん、市町村の合併問題は難しいですよね〜。
たとえば皆さん、横須賀市をご存じない人はいないでしょう。
でも、三浦市や逗子市なんてご存じですか?
神奈川県では三浦市と横須賀市の合併がよく俎上に上ります。
でも、結局、人口・経済力で圧倒的な横須賀市が三浦市を
「吸収」しちゃう感じになっちゃうんです。
横須賀市の人口は三浦半島の約80%にも達するので。
横須賀市は横浜・川崎の「ひも」みたいな貧乏地方都市でしかありませんが、
こういう力のピラミッドはどの地方にもあるんです。
静岡市と清水市が「統合」しますが(この語は欺瞞に満ちてる気が……)、
結局は清水市が静岡市の一部になるという実態は否定しようがないでしょう。
ご自身の町村に誇りを持ってる方には言いづらいことですが、
それも避け得ない現実なのでしょうね。
597しったかぶり:02/05/12 23:50
13世紀、つまり鎌倉時代の南部氏の記録を「吾妻鏡」から拾っていった
本がありました。(七宮A三著「陸奥南部一族」)
 それによると、治承4年(1180年)から弘長3年(1263年)
まで11回くらいでてくるそうです。
 その中でも文書として糠部との関連を記してるものはないようです。
光行入部は、どうも伝説のようですね。
 それじゃ、糠部と南部氏は鎌倉時代は全く関係がなかったかというと
そうだと言い切れないものもあってむつかしい。
 工藤氏が岩手郡を頼朝から拝領して鎌倉末期まで一戸から八戸、七戸まで
一族が支配してるんですが、(五戸は三浦氏)元弘3年の土地争いの目安状
に師行弟の政長が鎌倉攻めの時 「...奥州より最前馳せ参じ...」と書いてあり
鎌倉末期に糠部に所領を持ってたのは間違いないとおもわれます。
 
 名久井(四戸)の工藤氏に南部時実の次男政行が婿になったとの伝承もあり、
これが本当だとすれば、この人が糠部に来た最初の南部氏かもしれない。
 工藤氏と南部氏の関係が鍵のような気も...。両者に共通しているのは
馬産です。
   それではまた。
598しったかぶり:02/05/13 23:00
きのう書き忘れました。
「吾妻鏡」は次のHPを参考にしました。興味のある方はのぞいてみて下さい。
かってに、リンク張ってすいませんですが、すごく便利ですので感謝してます。
 http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html

  

599日本@名無史さん:02/05/15 11:34
遠野の清心尼公について教えてください。
600日本@名無史さん:02/05/15 13:53
>>599
人に聞く前に、まず検索。これ常識。
601歴史の勉強:02/05/15 22:33
600取り損ないはちと痛い……

う〜ん、南部氏があれだけ強大化したのに、(陸奥最北部でね)
どうして元々は南部氏より強かったはずの工藤・曽我両氏が南部氏に圧倒されたか、
これだって五里霧中なわけですから。
曽我氏は「没落」したことになってますが、どうなったのかな?
まさか一族皆殺しとも考えがたいし……。
工藤氏と南部氏の関係もいまいち判然としませんわね。

町村合併問題に、もちょっと言及。
町村合併はいかにも最近の問題って気がしますが、
明治以来、もう何度もそういう時期があったんですよ。
神奈川県ですと、川崎・横浜・横須賀の3市は昭和初年に急激に拡大したいます。
戦後も、ある市が周辺町村を合併してることがけっこうあったし。
甲府や静岡は異様に広い市ですね。
今の行政区画が絶対ではないわけですから、
避け得ない運命だとしたら、それを甘受するのも歴史ではないでしょうか?
固有の領土なんか地上に存在しないのですから。
602 :02/05/16 01:55
切り板とりなんて遊びはほっといて。
町村合併にとんでもないネームを付けるのは、融和策なんだと
思うけど、せめてそれぞれの地域に歴史的な地名は残してもらいたい。

青森県に南部の地名が残る事が、今の時代なんとめでたき事と思います。
603しったかぶり:02/05/16 21:15
吾妻鏡に出てくる南部氏です。(「陸奥南部一族」から)
よかったら、以下を参考にして<598をのぞいてみて下さい。
治承4年 1180年 10月19日 加々美の次郎長清
文治元年 1185年 8月29日 遠光(信濃の守)
文治4年 1188年 7月4日  遠光の娘 (大弐の局)
文治5年 1189年 6月9日  信濃の三郎光行  ( 奥州遠征 )
      7月19日 信濃の守遠光
                 加々美の次郎長清
                 南部の次郎光行
建久元年 1190年 11月7日 29番 信濃の三郎
                 15番 加々美の次郎
           11月11日 加々美の次郎長清
                  信濃の三郎光行
建久3年 1192年 8月9日  女房大弐の局
           11月5日 女房大弐の局 信濃の三郎
           11月25日 信濃の三郎光行 信濃の守遠光
           12月5日  信濃の守 女房大弐の局
建久六年 1195年 5月20日  南部の三郎光行 加々美の次郎長清
           
嘉禎4年 1238年 2月17日 51番 南部の次郎 同三郎
建長4年 1252年 4月14日南部の又次郎時実
文応2年 1261年 1月9日 南部の次郎
弘長3年 1263年 11月20日 南部の次郎  (時頼、最後)

604歴史の勉強:02/05/16 22:47
極論は百も承知であえて言うなら、
南部町が身延町に「吸収」「併合」されることなんて、あり得るでしょうか?
この辺は仕方ないですよ。
もちろん、旧地名は可能な限り残してほしいと思いますが。
郷土を愛する気持ちの希薄なことで全人類に恥をさらしている神奈川県民としては。
でも、こういう考えも成立すると思いますよ。
「身延山」は非常に有名な山なわけでして、身延町が消滅しても、身延は残る。
でも、南部町は無くなってしまったら、もう南部の痕跡は無くなる。
特例中の特例だけど、これはまだ許容範囲じゃないかな?

神奈川県でもアホの集団が特に多い足柄の山猿群棲地では、
「河村」という名を地名から抹殺しました。
小学校に冠されただけか。さびし!
これによって山北町の子供は歴史から永遠に遠ざかってしまいました。
西湘は廃れる一方の末期地帯ですから、これでいいのでしょう。
「松田」は東名のインターとして全国に知られているのに。むなしい。

しかし、「吾妻鑑」の南部氏は初期に多い印象を受けますね。
中途で一回没落しちゃったんだっけ?(安達泰盛が亡んだ時に)
605日本@名無史さん:02/05/16 23:12
鎌倉の南部宗家は、幕府滅亡の時に北条高時とともに
自刃した南部茂時がいて、その弟の信長が三戸氏に
なったのかな?
根城南部は鎌倉攻め側で八戸氏になったの?

私の頭の中は南部の殿様の伝承歴史状態なので、史実
に近いと思われる歴史になると、コンガラガチャウ。
606しったかぶり:02/05/17 07:51
河村氏は奥州征伐の時吾妻鏡にみられるとうり、河村先鶴丸が活躍して
四郎秀清と名乗り、北上側東岸一体をもらっています。
(工藤氏所領の東側らしい。)
その後いろいろあって、斯波氏が滅んだ時一緒に滅んだ模様ですが
川村、河村、大菅尾氏等として南部一帯に散らばります。
 残念ですね。足柄の役人は何考えてるんじゃ。

安達泰盛の「霜月騒動」の時、南部孫次郎,政連が安達方として
斬られた502人のご家人の中にでてくるそうです。
 で、この孫次郎が、政光ではないかといわれてますが、はっきり
しないようです。
 その後、南部氏も鎌倉方と反鎌倉方に分かれたり、所領争いを一族
ですることになる模様ですが、南部氏本家筋は反北条へ転換していきます。

607599:02/05/17 12:33
信直の孫娘にあたる人物で根城の21代を継承したんですが、女性領主は日本じゃこの人が最後なんでしょうか?
608歴史の勉強:02/05/17 22:31
天運は時と共に推移し、とどまることがない。
あれだけ栄えた六浦も明治初年には「六浦荘村」になっており、
栄えある横浜市の区名は「金沢」がもらい受けた。

以前、「何で伊勢原市の市名を『糟屋』にせんのじゃー!」(男塾塾頭の口調で)
とブーたれたら、伊勢原の方が宗教的謂われのある名なんだそうだ。
江戸時代に伊勢から来た人が開発したんだったかな?
最近、実際に伊勢原に行ったら粕屋(今はこっちで書く)は本当に田舎だった。
扇ガ谷上杉氏の没落までは重要拠点だった(太田道灌がここで死んだのも偶然ではない)
糟屋も、後北条氏以降は衰微し、
江戸時代には「大山」参詣の町になってしまった(厚木の発展はここに由来する)。
時と共にかつて栄えた地域が衰微するのは、奈良を考えれば察するに余りある。

しかし、山北の由来って何だ?
歴史的に有名な地名が今なお残る西湘で、由緒不明の町名は山北だけじゃないか?
ま、いいよ。あの辺の住民はアホが多いから。
609歴史の勉強:02/05/17 22:39
どこまでも推測の域を出ないのが残念ですが、
南部氏が南北両朝のどっちに味方していたかなんて不明でしょう。
北畠氏が浪岡に入部してるとこを見ると南朝だったようにも思えるが、
浪岡北畠氏自体が一貫して南朝党だったかも疑わしい。

武士は「中ぐらい」の階級が一番広く拡張してますからね。
最上級の武士ですと数も限られるし、最下層だったら庶民と大差ない。
でも、上杉氏と比較しても長尾氏なんか一族が多く活躍してるから、
南部氏みたいな典型的な中流武士だと、非常に多く分家してる可能性も高い。
つい最近まで、甲斐の南部氏が亡んだことだってあまり知られてなかったんだから。
安達泰盛と共に自害した南部氏だけを情報源にそれ以後得宗被官になったと即断してはいけない。
南部氏内でも分派対立していた可能性が非常に高いから。

南部氏とも重なる武家だと、曽我氏も面白い。
太田道灌を暗殺した武士は「曽我兵庫」と伝えられるし、
武田信虎に殺された武士に「工藤」「河村」なんてのもいる。
今までとかく大名ばかり注目されてきた傾向があったが、
これからはそういう地方に散った小さな武家の研究が重要になると思う。
江戸時代だって、武士の大多数は「大名」ではなかったのだから。
また、江戸時代だって、殿さまよりそういう中下級の武士が政治をやってた。
610しったかぶり:02/05/18 22:17
 南部氏の糠部入部を探っていったら、闇の中に入ってゆく気がします。
今まで学者が何人も研究しても、定説がないのですから、素人がわずかな
本を読んでもわかるわけがありませんね。
 で、そこは素人考えですが、私なりの仮説を考えてみました。
糠部には三代時実の息子、おそらく義元が四戸付近に入ってきた。そして
鎌倉末期、南部氏には4っつのおおきな流れがあった。
甲斐に、南部郷の政行、その子の時長、師行、政長兄弟
    この本家筋と所領争いをしていた、武行一族
    さらに波木井郷の長継一族のち師行を養子にします。(後の根城南部氏)
そして、糠部に、義元、義行、のち信長、政行、守行を出す一族。(三戸南部氏)
 歴史の勉強さんの指摘とおり、分家がたくさんあって最終的に三戸南部を宗家
に系図をまとめた風にみえます。  
 いかがでしょうか。

 鎌倉滅亡から南北朝争乱時の南部氏は面白いですよ。
曽我、工藤、斯波、阿曽沼、浅利、石塔、吉良、畠山、等栄華興亡の物語です。

 
611日本@名無史さん:02/05/18 22:33
鎌倉末期には南部氏にも各種の流れがあってそれぞれに
本流というか本家があったという理解でいいですか。
612しったかぶり:02/05/19 08:25
<610 訂正 四戸→六戸です。

あんまり、真剣にならないで下さいね。半分はなんとなくですから。

>611 
その方が鎌倉末期にでてくるいろいろな南部氏の説明がつくと思いますよ。


613日本@名無史さん:02/05/20 03:09
八戸南部の末裔の友人がいます。
根城から八戸そして遠野への説明をしても、うちが本家だと譲りません。
再興八戸氏に南部本流の血筋があるのでしょうか?

それとも島津系のなせる血か、でも本人は島津系だったこと知らなかった(w

614日本@名無史さん:02/05/21 09:32
先代は「陸軍大臣と海軍大臣の間に立てるのは天皇陛下と私くらい」と言ったらしいよ
615日本@名無史さん:02/05/21 14:52
>>614
当人の妄想でしょう。
616日本@名無史さん:02/05/21 15:47
>>615
事実だよ。東京での岩手県人会の集まりで、海軍大臣米内光政と
陸軍大臣板垣征四郎の間で記念写真写す時にそう言ったの。

もちろんシャレで言ったんだけどね。
617日本@名無史さん:02/05/23 18:49
>>614
総理大臣もじゃない?
618日本@名無史さん:02/05/24 00:00
>>617
陸軍大臣板垣征四郎と海軍大臣米内光政は、同郷で
学校も先輩後輩だが、主義身上が違うので首相に両隣り
に立てと言われても拒否したでしょうね。

当時の軍部(陸軍)には首相の首を挿げ替える事なんて容易い
事だったから。

戦争に負けた後に、昭和天皇が「この戦争は岩手の者が初めて
(東条・板垣)岩手の者が治めたか(米内)。」と言ったとさ。
619源太が産衣:02/05/24 20:24
南部氏のことだけ考えると、鎌倉時代の動向は分かりにくい。同系統の
武田氏を見ると、鎌倉初期、頼朝の甲斐源氏縮小策のせいで独立の気概
を奪われてしまい、北条時政のとりなしで滅亡を免れたらしい。三代将
軍の後は北条氏の軍事的傭兵的な仕事をしているのが吾妻鏡などで見受
けられる。軍事的な能力に劣る北条氏の被官的存在として辺境の守護に
任じられ日本各地に散ったようだ。(若狭、安芸、土佐、)
鎌倉時代に八戸南部氏の配された地域は、工藤、曽我などの得宗被官と
して鎌倉時代陸奥を支配したものたちに囲まれている。南部氏の鎌倉期
がはっきりしないのはこのあたりに理由があると思われる。また工藤、
曽我、横溝、高橋などの得宗被官勢力が南北朝以降衰えてゆくのは主を
失った存在として当たり前のことであろう。
南部氏がいまの輝きを得るのはやはり南朝の北畠顕家によって権力を与
えられてからであろう。その証拠に南朝が凋落しても、勢力を与えてく
れた南朝に忠誠をつくし、南朝勢力を保ち続けたことから推測される。
本格的な南部氏支配は南北朝期からと考えると分かりやすいと思う。

余談ですが武田氏の苗字の地は常陸国にあるとのこと。先祖の義綱が常陸
と甲斐に拠点を置いたため、関係がふかいとのこと。岩間という地名も、
常陸(茨城)にあります。甲斐の岩間とどちらが起源かは不明です。
 
620源太が産衣:02/05/24 20:38
>>619
訂正
先祖の義綱→× 義光→○
621歴史の勉強:02/05/24 21:48
昨日たまたま「歴史と旅」昭和56年8月号を買いまして、
中に遠野の特集があったんですよ。
遠野は河童が有名だとか(初めて知った)。

なるほど、足利時代に武田氏が全国で活躍した背景には北条氏があったのですか。
でもそう考えると、得宗専制の意味がハッキリしてくるような気もするね。
たぶん、御家人としては優遇されなかった武家が
北条氏によって全国に拡散した、と。
南部氏もその一環なんでしょうね。
「太平記」第10巻に南部氏が登場するのも、
そういうことをほのめかしているんでしょうね。


ところで皆さん、女性の最大のチャームポイントって何だと思います?
僕は「目」だと思うんだけどなあ。目。
622しったかぶり:02/05/24 21:54
死に近い日蓮を関東の池上氏に送っていった(1282年)実長の子、実継ですがそのあと
突如という感じで歴史に登場します。およそ50年後の元弘元年(1331年)
後醍醐の二度目の倒幕計画が失敗に終わった「元弘の変」で捕まった武士のなかに
実継がおります。たぶん60才を超えてると思います。
 その彼は翌年12月に六条河原で斬首されます。
日静書状 (千葉県茂原市藻原寺)
 「...略...中に南部次郎どの最初に切られ候こそ、都目もあてられず、...
略..はら(原)殿ご心中察し申し候」
 少年実継は五十年後どうして京都にいたのでしょうか?原殿は末弟に当たる
原弥九郎とおもわれます。彼も京都にいて兄が切られるのをみていたのでしょうか?
>>582参照
 このあたりから南部氏は「太平記」にはいっていきますが、この鎌倉滅亡時に
出没する南部氏は面白く、謎にみちています。

 甲斐武田氏の南北朝の争乱ははどうなってるのかな?
623源太が産衣:02/05/25 19:38
武田の本宗家は南北朝期に安芸に守護となって移っていったらしく甲斐の
武田はその庶流だと網野さまがおっしゃっていたような…。その本宗家は
毛利と大内にやられてしんじゃって升ね。その子孫は福岡に移りすんでい
って子孫を残したらしいね。武田鉄也のお母さんはその血筋なので、嫁に
行かず婿養子をもらって、武田の名前を途切れさせないようにしたのだと
お母さんに聞かされたことがあったと本に書いてた。ほんとかどうか分か
らないけど。武田って苗字結構全国に広く分布してますね。ホント。
624日本@名無史さん:02/05/25 22:03
凄い事になってる。パンドラの箱を開けた?
625日本@名無史さん:02/05/25 22:15
パンドラの函の最後にこのスレが残ってました。
626源太が産衣:02/05/25 22:49
このスレホント真面目にやってますね。ほかのスレ見ると
目も当てられない状況ですけど。県民性が出てるんですか
ね。温泉めぐりで山梨にいったときに風景を見ていたら、
似てるんですよ、盛岡あたりの盆地の風景に。岩手の内陸
と私が育った沿岸とはまったく気風が違いますけどね。
沿岸のほうはもともと佐々木氏(閉伊氏)が釜石あたりから
北上しながら版図を広げてきたようですが、南北朝を境に、
北から南部の支配に服して行ったようです。
そうですよ、パンドラの箱はもうひっくり返ってしまって
ます。
627しったかぶり:02/05/25 23:25
 太平記に出てくる南部氏の前に実継のことですが、その子、長継
が実継の死の五年前に遙か津軽にいます。「津軽大乱」と呼ばれる安東氏の
内紛に鎌倉幕府が、動員した奥州ゆかりの武士団のなかにしっかりとでてる
そうです。(北条九代記、八戸家伝記)   「陸奥南部一族」より
 やっぱり、この時期には糠部に所領がありますね。それも波木井南部の方にも。
そうすると、後に出てくる、「政長、奥州より駆けつける」という話が本当かな
と思われてきます。
 >619に出てくる、曽我、工藤氏等との戦いは師行が奥州に行ってから本格化します。
長々とおつきあい下さいまして、恐縮です。

 

628日本@名無史さん:02/05/25 23:50
検証が出来なくなってしまう事だから言ってもしょうがないけど、

南部氏族の中で同姓同名があったとも思えるし・・・。
629田舎:02/05/27 22:31
>>618
それ間違い。折れ下に貼り付けたところで紹介している本見たけど
座って写っていたぞ。

ttp://4d.hops.co.jp/4DACTION/WebH_Topic/12

南部藩家臣団の団結力が昭和になっても保ち得た証拠ともいえるな。
630日本@名無史さん:02/05/27 22:50
>>629
>618のレスは>>614->>617からの流れでのレスで、
南部の殿様の両隣りになら座れるが、首相の両隣り
には座らないだろう、とつながるんじゃない。

政治的な意味を持つ場ではないから出来た事です。
631田舎:02/05/27 23:11
>>630
すまない。こっちの勘違いだった。

ただ、完全に政治的意味合いが無い訳ではないと思うのだけど。
賊軍の汚名を着た南部藩のデモンストレーション的意味合いも
有る様な気がする。
632しったかぶり:02/05/27 23:20
南部氏が繁栄するきっかけとなる鎌倉幕府の滅亡です。
以下、太平記からですが。4人の南部氏が出てきますので家系図でも
用意して(w)みて下さい。
元弘元年 赤坂攻めの鎌倉軍20万の中に、南部三郎次郎(太平記3巻)
元弘二年 再度の東上軍の中に、南部次郎(南部甲斐入道)(太平記6巻)
元弘三年 新田義貞との分倍河原の合戦の時、鎌倉方に動員された軍のなかに
     南部孫次郎。(太平記10巻)
     北条泰時が奥州に落ちる時に共をする、南部太郎
     北条高時と共に切腹する、南部右馬頭茂時
 全部フルネームででていれば、助かるんですが。
さてこの時、波木井南部の時長、師行、政長(奥州から)三兄弟は新田軍の中に
にいました。南部一族は敵味方に分かれて戦ったわけです。
 茂時だけは確からしいですがあとの太郎、次郎、孫次郎は系図ではどなたに
なるのでしょう?
 これからおよそ60年後 南部守行と南部政光の会談があって信長の名が
でてきます。 長くなりますのでそれはまた。
633日本@名無史さん:02/05/28 00:55
>>631
南部藩のデモ的な意味は合ったでしょうね、薩長閥すでに終れりみたいな。
板垣、東条、米内等南部の出身者達が日本国の屋台骨を支えて
いるんだと。

この写真は戦後というか戦中は知らないけれど、表面には出なかっ
たんだよ、戦犯の東条、板垣が写っているからなんだけどね。
634日本@名無史さん:02/05/28 21:09
でもさ、ここまでのカキコ見てると南部氏という言葉が日本史に出てこないという現状は少し寂しいな(それとも避けてる?)。
635日本@名無史さん:02/05/28 22:04
安東昌益は八戸の医者。
636しったかぶり:02/05/28 23:14
1392年南北朝合一がなり、南朝がなくなりました。天下は足利氏のものに
なりました。このころまで北奥で一人南朝の旗を掲げ戦っていた根城南部氏は
政光の代でした。
 そのとき、三戸南部氏の守行は北朝方になり、かなりの勢力になっています。
でこのころ、守行は政光に次のように語ったといわれます。
「昔、我が祖父信長は鎌倉滅亡の際難を避けて糠部に逃れてきた。そのとき貴下の曾祖父
師行殿、祖父の政長殿が心を尽くして信長をかばってくれた。又、父政行が兵を募った時
は軍資金まで贈ってくれたので家運を再び開くことができた。だから貴家の滅びるのを
見逃すわけにはいかない。」
 政光はそれでも足利には降伏したくないというと
「貴下が甲州を去って八戸に逼塞するならば将軍には私から貴家の安泰を懇願しよう。」
で政光は甲州を捨てて八戸に移って来た、とゆうものです。

 これが事実ならば、信長は孫次郎か太郎?どっちかでしょうが、やっぱり藪のなかです。
ま、この後この守行の代に南部氏は糠部全域を支配する大勢力になります。 

637日本@名無史さん:02/05/31 01:45
>>636
引用のソースはなんでしょうか。

638しったかぶり:02/05/31 23:48
>637
「陸奥南部一族」からです。
この話は、政光の忠節をたたえる美談としてその他の本の中にもでてきます。
そのソースはこれらの中に残念ながら書いておりません。さがしてみます。

 たぶん、信長のことについての疑問だと思いますが、この人については諸種
話がありますので、どれが本当かはやはり歴史の闇の中です。
 
639しったかぶり:02/06/02 15:27
>637
続きです。
 「三戸町史」上巻 第一編
にのっておりました。「八戸家系」だそうです。
640日本@名無史さん:02/06/02 15:55
俺、南部の末裔。直系じゃないけどね。
南部氏は江戸以降、有名大名の姫と婚姻とかしてる?
何かあったら教えて。
641日本@名無史さん:02/06/03 00:34
>>640
蒲生氏郷の娘(養女)から加賀前田家の娘(養女)、
広島浅野家の娘とかたくさんいるはず。
盛岡に帰るとわかるんだけど、ごめんねです。
642日本@名無史さん:02/06/05 15:03
自分の姓はあんま無い姓ですが…
(弱小っぽいので元は三家しかございませんが…本家は舘もあったらしい。)
史実だと宗朝を祖にもつ南部士族。
もひとつ史実は、光行に同行して来た。
一族の言い伝えだと、京都からの落ち武者(武田系三兄弟)。
わざわざ負け犬っぷり伝えています。

信直公あたりが、近所のよしみで歴史も改ざんして
くれたんかな?
それとも南部家と適当なとこで結婚して混じったか?

史実と言い伝えの、クイ違いな話ですた。
643日本@名無史さん:02/06/05 15:11
東国人がこの国を腐らせました。これは事実であります。
644日本@名無史さん:02/06/05 15:22
太平洋戦争の見事なまけっぷりは東国人によって演出されました。あっぱれ!
645日本@名無史さん:02/06/05 19:22
南部という姓は東北以外にも分布してるみたい
646日本@名無史さん:02/06/06 14:11
両津勘吉の先輩、南部刑事。
647日本@名無史さん:02/06/06 14:12
南部博士。
648しったかぶり:02/06/07 21:43
>642
宗朝が祖だとすれば、、金田一、櫛引、足沢氏のどちらかさんでしょうが、
ご指摘のとうりこのあたりは伝説の世界でしょうね。
 むしろ、京都からの落ち武者説のほうが真実味がある気がします。
ひょっとしたら、師行戦死の時の生き残り?武田一族も同じ甲斐源氏だから
一緒に行動してたのかもしれませんね。
 いつ頃落ちてきたものと言われてるんでしょうか?
649日本@名無史さん:02/06/07 22:46
金田一耕助?
650高丸:02/06/07 23:37
南部家は源氏の流れ?
651日本@名無史さん:02/06/08 00:20
清和源氏支流源義光の玄孫の光行が南部氏を称した。
652日本@名無史さん:02/06/08 15:14
>>632

>北条泰時が奥州に落ちる時に共をする、南部太郎
北条高時の弟「 泰家 」では?
653しったかぶり:02/06/08 23:33
>652
 そのとうりです。間違えました。すみません。
 もう一つ、4人ではなく、5人ですね。

「太平記」をちょこちょこと読んで、南部氏の名がないか斜め読むしてるんですが
又、出てきたので、ちょっと知ったかぶり。
 巻17 義貞北国落事 
後醍醐が都に帰るときの供奉の侍の中に、南部甲斐守為重 とあります。
系図見ても名がありません。だれでしょう?この為重さん。  
 
654日本@名無史さん:02/06/09 00:04
南部氏の家系自慢は昔から有名だから、もし北条の血がいたら
自慢家系図に入れるのでは。
655高丸:02/06/09 00:25
おれ三浦泰村(関東平氏)の子孫だよ。て、ことは南部氏は敵?
656日本@名無史さん:02/06/09 00:32
>>655
過去スレ読んでくださいませ。
南部家系の多彩さがご理解いただけるかと思います。

基本的にsage進行してるのでよろしくお願いします。
657日本@名無史さん:02/06/09 00:37
東北の南部氏は甲斐源氏の南部氏が祖
小笠原諸島は甲斐源氏の小笠原氏の子孫が発見
658日本@名無史さん:02/06/09 12:16
小説の文庫本を探しています。タイトルや著者など全く分かりません。
内容だけでいつか見つける事ができればと思っています。
本自体、南部等のタイトルではなく、各地方の色々な話が載っているものでしたが、隠密やら商人の闇仕事のようなものが載っている内容でした。
南部関連の話は、お家騒動の事で八戸藩・盛岡藩に別れた頃の話でした。
初代八戸藩主暗殺の事等が書いてありまして、誰が指図をしてどうこうと云ったような小説だったのですが、
何しろ十年以上前に読んだものと思いますので、全く手がかりがありません。
このような本をご存知な方がいましたら情報をください。お願いします。
659日本@名無史さん:02/06/10 12:31
>657
>小笠原諸島は甲斐源氏の小笠原氏の子孫が発見
それはあくまでも伝承
660日本@名無史さん:02/06/10 20:11
山梨には小笠原署と南部暑があるんだなー。へえー。
661日本@名無史さん:02/06/11 00:05
>>658
私もその本を昔読んだ記憶があるんだけど、誰の本だったかおもいだせない(W
忍びの者というか、最初に受けた命令を遂行する人達の連作でしょ。
そういうこと書きそうな作者的でいえば柴錬かなとは・・・。
662日本@名無史さん:02/06/11 23:21
「南部の殿様粟飯小飯 喉にひっからまった菜っ葉汁」
663日本@名無史さん:02/06/11 23:41
>>662
この戯れ歌は南部地方のものですか?
解説をお願いします。
664日本@名無史さん:02/06/12 11:24
>>661
返答ありがとうございます。
知っている人がいて嬉しいです。
柴錬という人があやしいのですね。
その小説の南部の話で覚えている事があれば教えてください。
665日本@名無史さん:02/06/13 15:00
本の内容が少し違いました。
各地方の色々な話ではなく、南部が主体の本で国許、江戸の上、中、下屋敷の状況や人物。
跡継ぎ騒動等が出てくる内容です。
661さんのおっしゃるのは、「生きざま」という本ですかね。
これだとしたら違うようです。
666666:02/06/15 02:32
南部 盛岡生まれの小笠原 満男
http://www.imasy.or.jp/~antlers/cgi/prof/prof.cgi?player=ogasawara
667しったかぶり:02/06/16 10:08
サッカー観戦でお忙しい事と思います。

「太平記」にでてくる南部氏の続きです。
巻14に南部遠江守、備前の守、駿河の守
巻17  同
巻24  同 宗継
巻26  同 同 次郎左衛門尉
 と出てきて又混乱したのですがこれらは、南氏の誤りで高階氏の一族
とのことでした。(注意書き)
 33巻 南部六郎 というものが出てきて討ち死にします。この人は
 どうなんでしょうか?(南朝方だとおもわれますが?)

「太平記」は物語書で歴史書ではないので注意が必要ですが。
>653で書きました、為重ですがこの後すぐ足利方に斬られたようです。
 時長、師行、政長三兄弟の時長説と、信長の兄の義重説の二つあるみたいです。
 この両者は文書に殆ど載ってないみたいですね。
668642:02/06/22 19:00
>>648
超遅レスですんません。
ありがとございます。勉強になります。

なんかすかさず荒らしがはいったので
あげていいものやら悩んじまって。
669しったかぶり:02/06/24 06:55
おかげさまでこの半年楽しませていただいておりますが、調べれば調べるほど
謎が深まるばかりです。系図も各種あるみたいですし、古い南部氏は伝説と伝承
がないまぜになってるかにみえます。

 このごろ不思議に思ってるのは、一戸から九戸までのなかで六戸が殆ど出て
こないんです。(四戸も割とそうなんですが。) どうしてでしょうか?
 この二つの戸が、なんかありそうな気がしてきてるんですけども。
まあ、のんびりと調べていきたいとおもっています。
670670:02/06/24 21:50
昨日行方不明になったヘリはどうやら南部町に墜落したみたい。
671しったかぶり:02/06/28 21:01
 サッカーもそろそろ終わりになってきましたので、又始めようかなー
と思っています。鎌倉末期から南北朝のあたりになりますが。よかったら
おつきあい下さい。

 五戸地区検注注進状 1297年 永仁5年 岩手大学図書館蔵
五戸かうのとち
五戸郷々のけんちうのこと
一つ、へらいのかう (戸来)
  五ちやう八たん二かうのうち
  くてん三ちやう四たん四かう
一つ、またしけのかう  (又重)
   十ちやう三たんのうち
   くてん五ちやう一かう

と 中市 石沢、兎内、豊間内野、北楢崎、堰袋、新井田、大崎
 大森、市川、小市、轟とつづきまして

右こみやまのけんちう仍如件
永仁五年十一月廿一日

 で終わります。五戸川、浅水川沿いが「五戸」郷だったことがわかります。

そうだとすると、そのすぐ北で、五戸川より大きい奥入瀬川沿いは「六戸」郷
と言ってもいいと思います。
 そこで、前に書きました、「幕後の人々」を思い出して下さい。
奥瀬からはじまって下田あたりまで奥入瀬川ぞいに知行しております。
 このことからみても六戸郷はかなり重要な地域だったかと思います。
 続く(笑) 
672日本@名無史さん:02/07/01 21:44
甲州にアイデンティティを持つ旧家というのは
まだ居るのでしょうか?」
673日本@名無史さん:02/07/02 10:51
>>672
うちの御先祖様初代は三戸南部の庶子です。
子供の頃、祖母が「御先祖様は甲斐の国から来たんだよ」という事話してくれました。
674日本@名無史さん:02/07/03 18:52
一戸奈未。
675日本@名無史さん:02/07/03 21:50
>>674
一戸奈美って神奈川出身になってるけど、親か先祖が南部なのかな?

J-WAVEやFM世田谷に出てるフリーアナの南部広美は殿様家系の人
なのだろうか?ニックネームもHIMEだし。
676日本@名無史さん:02/07/04 12:14
友達に花巻の南部君ってのがいた。支流だって。
名前も南部氏の通字つかってた。
677名無しの歩き方@お腹いっぱい:02/07/05 20:41
HIMEね。あり得るかも。
678河村隆一(河村城主):02/07/09 00:03
僕がいるから大丈夫 安心して・・・>>604
679日本@名無史さん:02/07/09 00:04
南部梅林
680日本@名無史さん:02/07/09 00:29
桑原食品
681日本@名無史さん:02/07/09 01:15
>>678->>680
荒らすな!内容のある事を書き込め。
682日本@名無史さん:02/07/09 11:28
>>679で収穫された梅が>>680工場で加工され全国に出荷される。
南部には関係ある話題だけど南部「氏」スレだからね。アウトですよ。
683日本@名無史さん:02/07/10 21:39
イーハトーブってなんですか?
684下ノ畑ニ居リマス:02/07/10 23:17
>>683
宮沢賢治の造語です。

岩手をエスペラント語風にアレンジしたらしいです。
宮沢賢治の童話集「注文の多い料理店」の初版本
の表紙に”イーハトヴ童話”とあるのが初出です。
685日本@名無史さん:02/07/10 23:47
そ〜ば 天ぷら ウナギの〜南部屋敷〜♪
686日本@名無史さん:02/07/11 02:04
これはボリュームある内容だからいいでしょw
687しったかぶり:02/07/11 22:19
先に、鎌倉陥落の時「南部右馬頭茂時」が切腹したと「太平記」にありましたが
この茂時は同名の、「連署」の北条茂時でないかとの説があります。同じ場所で死んでますし、
両名とも「右馬頭」、「右馬権頭」と似た役職名がついいております。

で、下記の文

元弘三年 (1333)十二月十八日
  北畠顕家国宣案 (白川結城文書)
(上書)
糠部郡内九戸事国宣案
   下 糠部郡
可早令結城参河前司親朝領知当郡内九戸右馬権頭茂時跡事
右件人令領知後戸 於貢馬以下者無懈怠可致沙汰之条所仰如件
元弘三年十二月十八日

上記は北畠顕家が国府について早々に結城親朝に茂時の跡に九戸を
与え、これまでと同様、馬を納めよと命じているものです。(多分)
 「右馬権頭」とつくのは北条茂時らしいのですが、「右馬権頭」、と「右馬頭」...

  これを、顕家が間違えたとしたら、南部氏は九戸にいたことになる!

でもそうだったらとっくの昔に定説になっていたでしょうからそれはないでしょうね。
でも、連署になるほどの人が奥州の九戸郷みたいな田舎を知行してたのでしょうか。
 いろいろ想像できて楽しいですが、奥州、馬、と南部氏におなじみの符帳がでて
きますね。
 でも結城氏は九戸に来てないかと思われますが、どうなんでしょうか?
ちなみにこの時期、八戸には師行が入っております。
688日本@名無史さん:02/07/11 23:49
>>687
”しったかぶり”さんと”知ったかぶりさん”は違う人?
689巨人の三沢が三沢市出身らしい:02/07/13 00:45
>>681
南部に関係ないネタ書いたのは悪かったけど
河村隆一は本当に足柄出身なんだよ、どうでもいいけど
標記から消えても、なんかで残るよ>地名
小字・大字、消えた地名を補完してる自治体史もあるし
690源太が産衣:02/07/13 04:33
>>867 しったかぶりさんにしったかぶり補足。

鎌倉時代において「右(左)馬(権)頭」という役名は源氏の名家として
名高い足利氏でも漸く上り詰める名誉職。それも、北条との血縁で漸く手
に入れるものでした。
それが甲斐源氏の一支流に過ぎない南部氏が称すことは不可能です。ここ
は、北条茂時とみて間違いないでしょう。陸奥の国は、得宗被官の勢力地。
その主人筋に当たるのが北条一族になりますから、茂時の所領で間違いな
いです。また、当時連署を勤めるほどの知行主ですから本人の下向は、ほ
とんどありえなかったのではないでしょうか?

なお、○○跡という意味は(右馬権頭茂時跡)○○の所有していた所領と
言う意味です。まあ念のため。
691日本@名無史さん:02/07/13 08:21
○○門跡みたいなものかな?
692源太が産衣:02/07/13 10:20
>>691
???????
693しったかぶり:02/07/13 22:11
>690 ありがとうございます。
そうですかー
そんなに「高い職」なのですか。
 で太平記読み直してみましたが、周りがそうそうたるメンバーで
南部氏は残念ながら出る幕なさそうな気が...
 どうなんでしょ?

>688 多分同じです。
 
694日本@名無史さん:02/07/14 01:29
遠野物語には馬と娘がまぐわう、おぞましい話があるよね
695sage:02/07/14 14:18
おぞましいっていう感じはあまりしなかったなー
そういう民話が出来上がるぐらい、馬をたいせつに
思ってたっていうか、と人間の絆が強かったって
ことなんだと思ってた。
696日本@名無史さん:02/07/14 14:33
697日本@名無史さん:02/07/15 02:01
>>695
みんなやってたことだからおぞましくない
698691:02/07/15 13:27
門跡寺院の事です。皇室が「所有していた所領」というか寺。
699源太が産衣:02/07/15 22:42
「もんぜき」でいいんですよね。読み方。
この場合、所領ではなくて寺院を代表する皇女や皇族自身をさすので
はないでしょうか?
700南部三郎光行:02/07/15 23:46
700。
701源太が産衣:02/07/16 00:46
なお「○○(御家人名)跡」と言う場合は「あと」と読み
「せき、ぜき」とは読みません。
702日本@名無史さん:02/07/20 00:40
仕事で青森に行ったが、三八上北地方は南部氏の遺跡や伝承が多くあるようだ。
俺はちなみに岩手沿岸の出身なのだが、沿岸にはまったくといって良いほど
南部の遺跡なんぞない。
南部に愛着あるのは、盛岡市民と岩手県北、青森の三八上北地方の人々なのだろうな。
703日本@名無史さん:02/07/20 01:08
>>702
三閉伊郡一揆が大好きな日教組教育を受けたせいなんでないの。
704日本@名無史さん:02/07/20 01:46
>>702
せっかく干しあわびなどの『俵物』で儲けてた『前川善兵衛』
を取り潰したり、幕末日本で初めて、民間で洋式高炉での製鉄
を始めた者たちから高炉を取り上げ、結局はうまく経営する事
ができずに産業の遅れをもたらしただけの領主。

三陸の切れ者からすればとんだ邪魔者でしかなかった。後に、
三閉伊一揆を起こされてもしょうがないな。

岩手県民は、内陸と三陸沿岸では、気質が全く違うからね。
三陸は気が荒く飽きっぽいが新しい物好き。内陸は、大人しく
粘り強いが強固に保守的。
705日本@名無史さん:02/07/20 02:36
>>704
洋式高炉は大島高任ですか?
とんでもかん違いがあるよ。
706日本@名無史さん:02/07/20 03:24
>>703
そんなの関係ない。
南部は実際に沿岸になにももたらさなかったんだから、遺跡なんぞあるわけがない。
ヤフートピで、東北の歴史トピを立てた人に沿岸からいくつかアンチ南部の
レスが入ったが、トピ主は「盛岡の護岸工事とかも南部氏は行いまして」
とか弁明していた。
でもそれって盛岡だけじゃん。
沿岸には何もしてくれなかった。

青森の南部遺跡の紹介見るたびに、腹が立って遺跡ぶち壊してやりたい気になった。
707日本@名無史さん:02/07/20 04:04
>>704
702.706ですが、三陸が気が荒いというのは同感ですね。
沿岸出身なので沿岸の立場で話をしてるんですが、盲目的に沿岸を
支持する気はないです。

気性が荒い沿岸地区には住みたくないです。
はっきり言えばあそこはドキュンです。
708日本@名無史さん:02/07/20 04:21
http://www.iwate-np.co.jp/isan/isan88.html
>>705
読んでみぃ。
南部の殿様が金を出さなかったから、三陸沿岸の有力者が出資。
しかし成功すると藩営として無理やり召し上げたということを
言っているのだがなにか????
709日本@名無史さん:02/07/20 10:51
大橋高炉
大島高任は、安政4年、オランダ人ヒューゲニンの著した
「鉄煩鋳鑑」(訳名)などをもとに、大橋に鉄鉱石を原料とする
洋式高炉を造り、安政4年12月1日(1858.1.15)に初出銑に
成功しました。鉄鉱石を用い安定した銑鉄を生産する国内初の
高炉でした。
貫洞瀬左衛門の個人経営で運営されてきましたが、出資者は
中野作右衛門に代わり、高任が高炉の築造、操業に当たりました。
その後、南部藩直営となりましたが1年余りで廃止され、
再び個人経営に移ったのちも高任は築造、操業を指導し、
文久元年(1861)更に高炉2座を増設しました。
従業員は約800人で、年間17〜18万貫(約660トン)の銑鉄を生産し、
水戸藩那珂湊の反射炉用として用いました。また江戸城普請用としても
上納しました

710日本@名無史さん:02/07/20 10:53
橋野高炉
大橋高炉の成功により、南部藩も事業として乗り出し、安政5年(1858)、
橋野に仮高炉を築造しました。操業は順調に行われ、万延元年
(1860)にかけて1番、2番高炉を築き、仮高炉を大改良して3
番高炉としました。のちに個人経営となりこの3番高炉のみ明治27年まで稼
動しました。
盛業の時は年間約25万貫(約938トン)の銑鉄を生産しました。各高炉は
30〜40日ごとに改修され、年間実働250日の操業能力を持っていました。
従業員は鉱石採掘・駄送・製品搬送に500人、製炭300人、高炉場では銭
座を含み200人の計1,000人が作業に当たりました。
橋野高炉場跡は、釜石から北へ約36km、標高560mの山地にあります。
昭和32年6月に国の文化財史跡指定を受けています。
711日本@名無史さん:02/07/20 10:55
鉄の史跡
大島高任が大橋高炉(3座)の操業に成功して以来、
南部藩内では橋野3座、佐比内(遠野)2座、砂子
渡1座、栗林1座の総数10座の高炉場や銭座をも
って盛業を呈しました。現在は、大橋には大島高任
顕彰碑、橋野には高炉跡があります。また当時、
仙台藩の領地であった文久鉄山にも高炉が築かれま
した。高炉跡は岩手県東磐井郡大東町にあります
712日本@名無史さん:02/07/20 21:52
>704
「三閉伊一揆」の「三」とは三陸のことですか
713日本@名無史さん:02/07/20 21:56
岩手競馬に「南部杯」というGTレースがあり、表彰式には南部藩当主が来るのだが
去年はとんでもない恰好して来たぞ
714日本@名無史さん:02/07/20 21:56
藩による専売化というのは、いずれにおいても
産業発展を阻害する結果にしかならなかったのでしょうか?
産業保護という歴史的意義があった事例は
全く無かったのでしょうか?
715日本@名無史さん:02/07/20 22:12
南部鉄器を普及させたのは南部さんだが明治以降の事だな。
716日本@名無史さん:02/07/20 22:48
水沢の鉄器も南部鉄器な罠
717日本@名無史さん:02/07/20 23:24
>>713
今の南部の殿様は中野のスーパーで見かけた事があります。
あの人は婿様だと聞いたけど、奥方や若様は東京に居るようだし。
718しったかぶり:02/07/21 00:12
 聞いた話ですが 
江戸時代、銅を「長崎物」として野辺地から太平洋回りで
長崎の「出島」まで運んでいましたよね。ところがその船が時々
沈んだそうです(三陸沿岸は今も昔も難所)。その銅のなかに
大量の金が含まれていたからオランダ人が喜んで買ったらしい。
 で、昭和の初め頃、ある金持ちが青森県沖で沈んだ船を引き揚げた
らしいんです。
その人は南部氏のどちらかさんの家に江戸時代の報告書と沈んだ
船の場所を記した地図があるのを知ってそれを買ったらしい...
  まあ、話半分ということで。

>717さん
今度、南部の殿様を見かけたら、その地図、もらってくださいませんか?
719日本@名無史さん:02/07/24 23:04

司馬遼太郎の「街道をゆく」では
”久慈氏はもともと糠部土着の豪族だったけど、
南部氏との縁組によって分家の様になってしまった”
と言っていたようです。
武士が、入部した後に分家を広げて勢力拡大すると言うのは、
もともと居た豪族に婿養子を押し付けるということなのでようか?
720戸栗六之進:02/07/25 18:13
>>719
南部氏の祖先である加賀美遠光も清光の三男ではなく女婿っていわれていますね。
721しったかぶり:02/07/25 22:49

婿入りしたという伝承、伝説が必ず出てきます。

『祐清私記』
 根城南部氏は南朝滅亡の後甲州に帰国戦国末期に武田信玄に攻め亡ぼされて糠部に来行、
当時八戸の城主であった工藤氏の女婿となり、のち三戸の南部氏と通じ、
南部家の客分になった、或いは、工藤氏の城を乗っ取り八戸領主になった

 これが代表的な見方かもしれません。(もっとひどいのもあります。)
見たところ、根城南部氏を貶めてるものばかりで三戸南部氏に関しては
ありません。(ここに何らかの作為を感じますが。)
 相手は、八戸にいた工藤氏であり、黒石にいた工藤氏であり、名久井にいた
工藤氏であり、すべて工藤氏です。
 時期は、師行が来たころであり、この時、工藤一族が大部分の糠部地方を
支配していました。で工藤一族が一丸となって南部方と合戦したかというと
そうでなく、工藤一族はそれぞれバラバラでした。生き延びた工藤氏もあり
滅んだ一族もあります。南部氏が婿入りした相手として確かなのは黒石にいた
工藤貞行の娘であり、加伊寿御前として名が残っています。(信光、政光母)
 工藤氏との関係がこの時期南部氏にとっては最重要課題で、政略結婚も
戦略上必要だったかとおもいます。
 長くなりましてすみません。久慈氏に関しては後ほど。

 
 
 


722歴史の勉強:02/07/25 23:35
この前、横浜駅で「南部物産販売」みたいな出店があった。
そこで「根城」という文字が……。
それを「ねじろ」と読まず「ねじょう」と読んだとは俺だけか、
と思うと少し嬉しくなった。
723日本@名無史さん:02/07/29 13:49
保全
724しったかぶり:02/07/30 20:53
>719
司馬遼太郎は「南部伝説」が好きだ、といってます。(実は私も)
 食い詰めもの、もしくは次男三男で甲斐にいても先の見通しがないもの同士が
糠部とやらへ行って一旗揚げよう!と船に乗って八戸に上陸し、まわりを切り取って
南部氏となったというものですが、こういう伝承が代々伝わってきているということは
この話が全くの嘘でないということになるのではないでしょうか。
  あの手この手で勢力を拡大していく過程で久慈氏のような事があったかと思われます。

司馬遼太郎はなんの資料をもとにしたのでしょうか?
 「今」という名字は青森県では津軽に多いと思いますが大浦氏の家臣なんですね。
のちにこの久慈氏から為信がでるのを考えると興味深いものがあります。
 金澤氏から大浦に入部して大浦氏を名乗りますが、「下久慈」の領主とあります。
「上久慈」もあったと思いますが、ここにはどちらさんがいたのでしょうか?


725日本@名無史さん:02/08/03 20:16
今の千円札の丹頂鶴って絶対南部鶴を意識したデザインだよね?だよね?
726日本@名無史さん:02/08/08 01:58
南部の誇れるものの一つに酒造りがあります。
江戸期から現在に至るまで日本各地で酒造りをしている
「南部杜氏」は偉い人達です。
南部杜氏は出稼ぎ技術者集団として江戸時代から活躍していました。

江戸時代から出稼ぎってあったのですね、酒造り以外にも何か仕事は
あったのだろうか。
727日本@名無史さん:02/08/08 13:54
映画「日蓮」で南部実長役を務めた御木本伸介さん亡くなりました。
謹んでご冥福をお祈り致します。
728日本@名無史さん:02/08/13 19:22
わかりづらいところもありますが
中世甲州南部地方の主な国人をまとめてみました。

【富士川左岸(巨摩郡)】
下山氏  (身延町下山一帯)
波木井氏(身延町波木井一帯)
南部氏  (南部町南部一帯)
福士氏  (富沢町福士、楮根)
万沢氏  (富沢町万沢)

【富士川右岸(八代郡)】
帯金氏  (身延町帯金一帯)
四條氏  (南部町内船)
佐野氏  (南部町井出一帯)

四條氏も熱心な法華信者として知られてます。
佐野氏から後世、里見浩太朗さんが輩出されている事も余談として書いておきます。
729日本@名無史さん:02/08/13 20:06
やっぱり日本酒界を制覇した南部杜氏が最強だな
730日本@名無史さん:02/08/14 02:25
>>729
南部杜氏の歴史的な意味ってあるのかな?
731しったかぶり:02/08/16 22:25
 糠部と甲斐の南部一族との関係がすっきりしませんが想像以上に
密接だったのは間違いないようですね。
 たとえば、今国宝指定の櫛引八幡宮の白糸おどし鎧は、根城南部の信光が
甲斐の南部郷に攻めてきた「神」氏を撃退した褒美に、後村上天皇からもらったものと
いわれています。
 ちなみに信光は1367年に八戸から甲斐に帰ってそこで没したといわれています。(1376)
(なぜ信光は甲斐に帰ったのでしょううか?)この鎧は誰が運んできたものでしょううか? 
 さて、「神」という名字はそうそうあるものとは思われませんが、青森県では津軽地方
に多いんですが甲斐の「神」氏何か関係があるものでしょうか?
 もう一つ、三戸南部の守行は甲斐で生まれいつ頃かわかりませんが糠部に来たことに
なってますが、そのとき一緒に来た家臣の中に福士氏の名前がみえます。
 信長、政行、守行と三戸南部は続きますが守行が甲斐から来たというのも、よく事情が
わかりません。
 
どうも、謎だらけだなー


 
732@岩手:02/08/17 13:07
>>732
>そのとき一緒に来た家臣の中に福士氏の名前がみえます。

うちの近所には「福士くん」がたくさんいて、
地名にも福士っていうとこがあるよん。
733日本@名無史さん:02/08/19 15:42
>>731
甲斐と陸奥を混同した記述かもしれないです。
神氏。伝承では甲斐から糠部にわたった従臣とあります。
参考までに他の氏を挙げておきます。

◎伝甲斐より従臣の族【吉田義昭氏・編】
三上(佐々木)・桜庭(佐々木)・奥瀬(小笠原・小原・火口・奥山・亘・福田・沢田)
織笠(板垣・福士・片野)・滝沢(津島・目時・久慈・瀬田石・野沢・小泉・小平)
神・津村(伝法寺)・岩間(秋山・下山・武田)・岩間(鬼柳)・戸来(木村・又重・小山)
一条(坂本・茂山)・石井・佐藤(帷子・石沢)・沢田(海老名・洞内・立崎・木村)
川守田(田森田)・夏井(佐々木)・中市(小笠原・櫛引・鳥谷部)・小向(千葉・三浦・石沢)
馬場(佐々木)・閉伊口(福士)・佐々木・佐々木(板垣)・欠端(板垣・馬場・上野)
赤石・玉懸・乳井・千葉(二本松・似鳥)・吉田(武田・石橋)・下参郷(佐藤)・唐(斎藤)
沼畑・田島・雇地(工藤・佐々木)


>>732
岩手県内にも福士の地名は存在するのですか。
良ければ場所の詳細を教えていただきたいです。
734日本@名無史さん:02/08/19 22:12
ここです。
http://map.msn.co.jp/here.asp?map=E141.54.19.0&map=N39.31.56.2&zm=7&jp=%8A%E2%8E%E8%8C%A7%89%BA%95%C2%88%C9%8CS%8ER%93c%92%AC%8Dr%90%EC
おそらく、馬の放牧地として最適の地と思われるので、馬の管理に長けた
甲斐源氏の支配地になったのでしょう。(南北朝以降と思われる。)
この近辺は、安倍氏の子孫と言われる、豊間根(トヨマネ)氏の本拠地。

また東側には、十二神山(ジュウニジンサン)という熊野信仰の山がそびえ
地図左下中ほどには熊野の地名、「那智」畑がある。
十二神山の南側の麓には、熊野神社(多分若宮)の神主の名字をもらった
と考えられる、「鈴木」「鳥居」などの名字が多い。

同級生には「織笠」くんがいる。元は福士を名乗っていた甲州侍という
いつたえが彼の家には伝わってるよ。ちなみに福士は甲州にいたときは
板垣とも名乗ってたらしい。
735734:02/08/19 23:15
いつたえが彼の家には→「いい伝え」ね。
736しったかぶり:02/08/20 22:35
1297年ー永仁5年、岩手大学図書館蔵
五戸地区の検注
五戸かうのとち
五戸郷々のけんちうの事
一、へらいのかう (戸来の郷)
     五ちやう八たん二かうのうち
     くてん三ちやう四たん四かう
一、またしけのかう (又重の郷)
     十ちやう三たんのうち     このうちちやうは
     くてん五ちやう一かう     くうしなし
一、なかいちのかう (中市の郷)
     八ちやう五たん四かうのうち
     くてん六ちやう五たん七かう
一、いしさはのかう (石沢の郷)
     五ちやう六たん八かうのうち
     くてん三ちやう三たん六かう
一、うさきない (兎内)
     七ちやう五たん二かうのうち
     くてん三ちやう四たん二かう
一、といまないの (豊間内野)
     四ちやう二たん六かうのうち
     くてん一ちやう七たん六かう
一、きたならさき (北楢崎)
     四ちやう六たん四かうの内
     くてん一ちやう八たん四かう
一、せきふくろのかう (堰袋の郷)
     十一ちやう五たん九かうのうち
     くてん六ちやう八たんのうち
     四たんきつねさき 
一、にいた (新井田)
     一ちやう二たん七かう
一、おほさき (大崎)
     四たん
一、おほもり (大森)
     六たん二かう
一、いち河 (市川)
一寸長いですが、1297年の五戸です。
>732に出てくる、戸来等が五戸川沿いにでています。
 名がそのまま地名にはならないのでしょうが、師行が根城に来る前にある、と
いうのはいろいろ考えさせられます。
 >732に出てくる地名が五戸川、奥入瀬川沿いに多いのは時系列的に厳密に
考えなければならないでしょうが楽しい想像をいろいろとさせてくれますね。
737しったかぶり:02/08/21 23:36
>733 甲斐と陸奥を混同した記述かもしれないです。
うーん、そう思えばすっきりする事が多々ありますね。
それと何となく「箔」付けのために甲斐生まれなどと言ってるような気もします。 

 さてうかつでしたが、奥入瀬川は江戸時代までは六戸川と呼ばれてたらしいです。
明治になってから(たぶん)、相坂川と呼ばれてまして奥入瀬渓流あたりが奥入瀬川でその下流
が相坂川でした。10年くらい前から全河川が奥入瀬川になりました。(たしか...)
 でその流域には>733に出てくる地名(人名)がならんでるわけです。
五戸川、六戸川あたりを5万分の一くらいの地図でみていくと面白いですよ。
 
738確信犯:02/08/22 15:20
>>725
調べてみると岩手に因んだものが多いです。
10000円=雉(県鳥)5000円=新渡戸さん(県人)500円=桐(県花)
こじつけにしてはきれいに揃いました。
鈴木元首相の「遊び心」ですね。わかる人にだけわかれって言う。
739名無しの歩き方@お腹イパーイ。:02/08/28 07:50
保全
740しったかぶり:02/09/01 00:11
 浄法寺町の瀬戸内寂聴で有名になった天台寺ですが、東北で一番古い
寺かもしれないと言われてます。それも興味津々ですが今回はその寺にある
「鰐口」に刻まれた銘です。
      奉 大旦那源信行聖頼尊
       正平十八年大才癸卯五月四日  (1363年)

 この「源信行」は南部氏には間違いがないと思われます。
で、その三年後ですが次の文

「四戸八幡宮毎年御放生会役支配注文案」
番列
四戸 八戸 一戸 二戸 三戸 五戸 六戸 七戸 九戸 東門
西門 南門 四戸 八戸
正平廿一年八月十八日  大膳権太夫 (1366年)  

 神事の順番を決めたものですが、四戸、八戸から始まって四戸、八戸
で終わってます。
1,初めて全部の「戸」がそろって記録されてる。
2,南部氏がこの時期糠部全域の祭祀権を握っている。
 等重要な資料です。

 さて「信行」は「信長」の弟のなかに見えますがその人でしょうか?
さらに「大膳権太夫」とは誰でしょう?(根城南部氏は信光の代)
通常、南部守行といわれてるのですが、何となく年があわないような気がします。

  




741名無しさん@お腹いっぱい。:02/09/01 07:13
南部信行の生没年が分かる資料ってないですか?
仮に信長の弟としてどれだけの年の差があったのか、
その辺が明確になればこの疑問も晴れてくると思うんですが…
742しったかぶり:02/09/01 22:08
詳しい系図は持ってません。
1363年頃だと、生きていたとしてもおかしくないと思いますが、
南部氏関係の、このころの話には全然出てこないものですから
(系図に名がのってるだけの人)が
いきなりこんなところで名を残してる事にびっくり。
 それと「信長」が命からがら、鎌倉から逃げてきた模様ですので
この「信行」さんはそのときどうしてたんだろう?
 とまあ、いろいろ想像をたくましくしているわけです。

743名無しさん@お腹いっぱい。:02/09/01 23:10
「信長」の弟が「信行」ってのはまるでアレですね
744しったかぶり:02/09/06 23:00
天台寺の続き
 先の銅鰐口のほかにもう一つの鰐口があって、其の銘に
貞治六年十月三日、の年号と「六郎太郎源重盛」の名が刻まれてます。
 貞治六年(1367年)は北朝の年号で正平二十二年(1363年)にあたります。

 さらにお寺ですので、銅鐘も勿論あります。作成は明暦三年(1657年)ですが、
銘文には元中9年(1392年)南部守行が施主となって鋳造したとあります。
 「大壇那左馬権頭源朝臣守行」  (元中は南朝の年号)

さて、この二人、重盛と守行ですが、守行はわかりますが重盛はよくわかりません。
 守行はすでに北朝方についてたのに南朝の年号をつかってますし、「六郎太郎」
は守行が使ってた名、との説もあります。

 さてさて、謎は深まるばかりです。
 


745名無しの歩き方@お腹いっぱい。:02/09/07 08:28
「重盛」ったらまず浮かぶのは小松の大臣なんですけどねー
746名無しさん@お腹たらふく。:02/09/07 08:53
しかし「重盛」は
これまでの南部の系譜を考えたら少し突飛に感じる名です。

銅鐘の方は江戸時代に造り直した際に
銘文の年号を誤って刻んだとは考えられないでしょうか。

747日本@名無史さん:02/09/07 13:23
江戸時代、無嗣の為に南部家(藩)は一旦改易になったらしい...
でもすぐに弟2人に立藩させ南部家は復活しました。
これが、盛岡南部家と八戸南部家だって。
盛岡南部家は本家だけど、八戸南部家は分家では無く別家らしい...
本家から分封されたんじゃなく、別に一家を構えたから。
でも八戸南部家は明治時代に、盛岡南部(本)家から養子を貰って家督を相続させたから実際は分家だよね。
うる憶えだから間違ってたらゴメン(>_<)
748日本@名無史さん:02/09/07 13:34
盛岡南部家の御当主は盛岡市在住。
八戸南部家の御当主は東京都在住。
749日本@名無史さん:02/09/07 15:22
あ、東京在住なんだ。
750しったかぶり:02/09/07 22:07
>527室町頃?(江戸時代ではないと思うけど)に
一族の中で、北陸(富山あたり)に所領をもらって移り住んだ人々がいるようです。
その辺のことを知ってる人いませんか?

というごレスがあったんですが、HP見てたら偶然でてきました。
「四戸氏」でした。
 以下のHP参考にして下さい。
ttp://www.shokokai.com/ninohe/kinsyoko/mukashi/index.html
 の四戸城の欄


751日本@名無史さん:02/09/07 22:27
750Get ズサーーーーーーーーーーーーーーー
752日本@名無史さん:02/09/07 23:26
>>750
書いてある?見つけられん。
753四戸城のこと:02/09/08 18:48
金田一字舘の長寿寺と八坂神社裏方の高台に四戸城趾あり。
その真ん中あたりと思われる場所に大きな石が城跡の象徴のように残っている。
この石を通称「ベゴ石」と呼んでいる。

四戸氏は、南部初代藩主、南部三郎光行公の四男、四戸孫四郎宗朝(南部)が、二戸郡四戸の郷を賜ったことにはじまるという。

四戸城は、南部二十二代政康が、現在の青森県五戸町浅水を本拠としていた四戸氏の何代目かは不明であるが、南部領南方の守りや、九戸氏の勢力の拡大などに対処する為に四戸城をこの地に築城させたとされており、九戸城跡とは直線距離で約五十キロしか離れていない。

「いつから四戸氏が、当地に移住したのかは確かでないが、築城は、南部二十二代政康公の代とすると一五〇〇年代頃より少し前ごろと見られます。」今から五二〇年前頃か?

四戸城としての落城は、九戸城の落城(一五九一年)とやや時を同じくするが、四戸城の場合は十六代宗春の代に弟の金次郎が、南部史に「宗春は謀反に同調している」と流言を流したため、宗春が一族郎徒僅か十二人を従えて秋田へ遁れ秋田にて病死、
子の十七代宗長は城主を継がず、八戸氏に寄食し、後、田名部に移り、転じて竹内藤右衛門の船に乗り、越前の新保に住し、武田氏と改め五十七歳で亡くなった。

南部支族四戸氏の分流には武田、金田一、中野、糠塚、櫛引などの各氏があったという。

九戸合戦後、南部二十六代信直公の治世中に武田彦三郎が二戸郡金田一村(現・二戸市金田一)を賜って後、武田氏を金田一氏と改む。
又、城名も金田一城と変えることになります。

多くの金田一氏は、この彦三郎の祖であるという。
又、四戸氏支族の金田一氏もあって、金田一下館主の金田一弾正左門は、元四戸弾正左門が分流したものであるという。(現在の秋葉墓地)。
因みに中館には切田小太郎(三百石)が居住。

こうして四戸氏は、初代四戸孫四郎宗朝から十七代の宗長まで、約四百年間余り続いた四戸氏の歴史はここで終わった。
今振り返ってみると、あれから又四百年余り経過して、現在に至っている。


754日本@名無史さん:02/09/08 18:53
∋oノハヽo∈
   ( ´D`∩ノンノノン♪
 (( (⌒) ⊃ノ  ))
     (_)

 ∋oノハヽo∈
   ( ´D`)ののたん れす♪
 ((  ノ ⊃⊃ ))
   (__ノヽ_)

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   ( ´D`)つみんなのアイドル♪ ののたんれす♪
 (( (⊃  (⌒) ))
    (__ノ

  ∋oノハヽo∈
    (´D` )__ てへてへてへてへてへ♪ ヨイショ♪
 (( ⊂⊂   _)
     (__ノ ̄ 彡

  ∋oノハヽo∈
   (´D` ∩ ))ののなのれす♪
 ((  (⊃ 丿
    し(_)
755日本@名無史さん:02/09/08 22:12
九戸政実の「乱」(慟哭)ゆかりの地は何町にあるのですか?
慰霊祭のようなものはあるのでしゅか?
756752:02/09/08 22:32
>>753
ありがとう
>>755
岩手県二戸市
757日本@名無史さん:02/09/09 01:39
>>747
南部家に興味があるのなら、このスレを>>1から読んでね。
それと「うる憶え」ではなく「うろ覚え」だよ。
>>748
東京の八戸南部の人達、気位だけは高くて・・・。
盛岡の南部さんはいい人。
758日本@名無史さん:02/09/09 14:33
>>748
山の手気風に染まったか
759日本@名無史さん:02/09/09 17:46
f
760日本@名無史さん:02/09/10 00:05
>>757
失礼、日本語間違えちゃったね。日本語再履修します。
因みに俺、南部家に興味あるかって言うより、旧南部藩領在住です。
761日本@名無史さん:02/09/10 00:17
>>754
モー娘。逝ってよし
やつらは日本の恥の集合体だ。
762日本@名無史さん:02/09/10 00:20
津軽氏とは仲悪いってか
763日本@名無史さん:02/09/10 00:53
たしか、江戸城内での席順でも、南部、津軽の両家がかち合わないように幕府が気をつかっていたそうだ。
参勤交代も同じ。
764日本@名無史さん:02/09/10 00:53
でもよ、チャーミーが石川高信の子孫だったらって事があったらよ、どうするね?
765日本@名無史さん:02/09/10 00:57
>>764
悪い頭で一人で妄想してね。
766日本@名無史さん:02/09/10 20:20
津軽美人秋田美人は聞いたことあっても南部美人は聴いたこと無い
美人は日本海側だけですか
767日本@名無史さん:02/09/10 21:05
>>763
八戸の人たちは岩手日報購読者が多いんだってさ。
すごい話だよ、まったく。
768しったかぶり:02/09/10 21:39
>746さん
それもあると思いますが、三戸南部、根城南部以外の南部氏が、(たとえば三戸氏
とか久慈氏とか)このようなとき「源」の名前を使ったのではないかと思うんですが、
いかがなものでしょうか?

 話はずれますが、銅鐘に刻まれた銘の中に「規伯無方」の名がでてます。
この人が あの対馬藩の「国書偽造事件」で流されてきた、対馬藩の学僧
「方長老」だそうです。思わないところで思わない人が顔をだすもんですね。
 
769日本@名無史さん:02/09/11 01:59
>>768
天台寺の鐘に方長老か、南部衆は人間の格を知ってるね。
770日本@名無史さん:02/09/11 09:02
>>769
いい仕事してる
771日本@名無史さん:02/09/13 15:59
関係ないけど「南アルプス市」はいい仕事してない。
772日本@名無史さん:02/09/13 16:02
これからは
「若草町加賀美」は「南アルプス市加賀美」
「甲西町秋山」は「南アルプス市秋山」
「櫛形町小笠原」は「南アルプス市小笠原」になっちゃうんだよ。わかってんのかなあ?
773日本@名無史さん:02/09/13 16:15
>>766
南部美人はお酒の銘柄にはある。岩手は「めんこいテレビ」があるのだが、
「めんこい」という言葉が全国区になっていないから、南部美人も地域
限定では通じるのかもしれない。

ずっと前のレスに、鹿角(かづの、花輪などを含む)の話がでていて、
現在の鹿角は歴史・文化的には間違いなく岩手県と考えるべきなのだが、
行政区分上は、秋田県。鹿角の女性は自らを「秋田美人」と称する。
歴史を知っている者からすれば、プププもんなんだが、鹿角出身者に
「鹿角は、本当は岩手県だ」と主張すると、激怒するんだよな。
特に、自称「秋田美人」さんにね。

しかし、驚いたよ。地元民の方が、地域の歴史知らないことってあるんだね。
南部藩という言葉さえ知らない。普通、学校で地域の歴史習わないのかな。
秋田出身の女性だというだけで、すぐ「秋田美人」というけど、
鹿角地域出身者は断じて違うからね。これだけは言っておきたい。
774日本@名無史さん:02/09/13 19:42
「めんこい」という言葉は伊達正宗の正室「めご」と同じでしょうか?
775日本@名無史さん:02/09/13 19:55
秋田美人、新潟美人って言っても、イメージ先行だからなあ..
岩手も含めて、この3県に旅行したことあるけど、
俺は南部めんこいさんの方が好きだなあ。秋田美人は顔立ちが
はっきりしすぎているというか、岩手の女性は、のっぺり顔で、
純和風な感じがして好感もてる。
776日本@名無史さん:02/09/13 21:55
>>774
そのとおり!
777日本@名無史さん:02/09/13 22:41
ヤフーで検索しても「南部美人」というのは、
酒の銘柄しかないよね
南部藩領だった鹿角の人が、岩手といっしょにされるのをいやがるのは、
岩手県は日本海側よりも貧しいというイメージがあるせいか(無念)?
秋田美人の場合の「秋田」というのは、秋田城下か?かつての南北秋田郡か?
秋田藩領か?
ということは、由利と鹿角の女性は秋田美人と違う?
778日本@名無史さん:02/09/13 22:49
津軽って旧国でも旧郡でもないのに、
歴史的地理的文化的にはっきりしたまとまりがあって、
アイデンティティがあっていいよね。
下北から三戸から鹿角から閉伊から和賀まで、
南部衆としてのアイデンティティが
パッとするのかな?

779日本@名無史さん:02/09/13 22:58
津軽は旧国でも旧郡でもないのに、
歴史的地理的文化的なまとまりがはっきり有って、
アイデンティティがあっていいよね。
南部衆は広すぎてアイデンティティはしっかりできるのかな?
津軽は地方の名(古代の部族名?)が殿様の苗字になり、
南部は殿様の苗字が、地方の名になった。


780日本@名無史さん:02/09/13 23:00
爾薩体の地名を残してほしかった
781日本@名無史さん:02/09/13 23:30
南部衆が完全支配していたのは、北上盆地から八戸までか?
江戸期末でも山間・沿岸は南部意識が無いような気がする。
782日本@名無史さん:02/09/14 08:08
>>781
確かに、そんな感じはする。
ただ鹿角で言えば、地場のお土産品として「南部せんべい」を地場生産、販売
しているし、鹿角地域の経済圏は盛岡と密接に結びついている(大きな買物、
商用では、鹿角住民は秋田市内より盛岡市内を使う)
といって、岩手ではほとんど無視されている秋田きりたんぽは、郷土料理として
鹿角でも重要な料理なので、端境地域として両文化のいいところを取って
いるのかもね。
783日本@名無史さん:02/09/14 22:32
>>767
折れ八戸出身者だけど、市内で岩手日報なんて取ってる家なんか視たこと無いよ。
八戸市内の部数は、デーリー東北>東奥日報>読売新聞の順かな。
784783:02/09/14 22:38
>八戸の酒

八鶴、稲川、男山、花開に菊駒。
ズラリ揃った八戸クインテットだっつーの。
幼少の頃からサブリミナルの如くCMで聞かされていたから間違いない。

………↑八戸の酒でないのも混じってるけどな。
785日本@名無史さん:02/09/15 03:54
下北半島には津軽衆も居住しているそうだ(昔の安東氏とは別の話)。
786日本@名無史さん:02/09/15 04:39
名産は南部鉄
787日本@名無史さん:02/09/15 04:48
歴史上の話しをマターリするスレなんだよ。
現在の北東北の話しは違うところでヨロシク。
788日本@名無史さん:02/09/15 04:59

おめはんど南部氏スレ見つけだのはえれじゃ。
んだどもな。
悪さするヤンドイッペいるこの板で、もうすぐ800いぐ良スレだで。
なすてこの板がこごまで続いて来たがを、さがのぼって読めじゃ。

むやみにあげるなヨ。
789日本@名無史さん:02/09/15 09:37
南部藩から蘭学者無い?みな伊達領みたい
790日本@名無史さん:02/09/15 12:17
>>789
大島高任がいるじゃん。
791日本@名無史さん:02/09/16 05:39
新渡戸稲造の先祖は新田開発したの?
南部藩の開発事業の実績に対する歴史的評価は
いかなるものですか?
南部藩は飢饉がひどかったけど、国土開発しなかったの?
792日本@名無史さん:02/09/16 11:07
先取り800get
793790:02/09/16 23:35
反応ねぇな。仕方ないから本から詳細引っ張って書くか。

大島高任(1826〜1901)
南部藩の侍医の子で江戸で蘭学と医学を学び、
後に日本発の洋式溶鉱炉を作り、維新後には新政府に出仕し、
日本近代製鉄業の父とまで呼ばれた人物。
そういや、何かの本かwebの記事かで楢山佐渡と親しかったって見た覚えが。

>>789
仙台藩の蘭学者一族大槻家に知名度は敵わないかも知れんが
この通り、優秀で著名な蘭学者は南部にもちゃんといたよ。
794日本@名無史さん:02/09/17 08:11
幕末に洋式溶鉱炉を作ったけど、
岩手県は明治期に工業化したの?
795 :02/09/18 17:34
>>750
この南部弥五右衛門は全然奥州南部氏とは関係無い人でしょうか?

ttp://www.fitweb.or.jp/~jyoukaku/list/jyoukakulist1978.htm
796795:02/09/18 17:41
書き忘れ

下の方にも
隠尾城    東砺波郡庄川町隠尾  渡辺源左衛門    南部氏一族の城か、土塁、濠残る
八伏山城   東砺波郡庄川町八伏山 南部宗冶      永禄元年、上杉謙信が攻略

っていう記述有り。
どういう出自なんでしょう?
>>527にも関係あるのか?
797しったかぶり:02/09/19 23:17
いやー又謎がふえましたね。
これだけ、南部氏の名が残っているんですからそこそこ國人みたいに
越中にはいたんでしょうね。
 いろいろ想像されますけどよくわからないですね。
四戸氏が越中に行ったのも何か縁があって行ったものでしょうか?
地元の方にもう少し情報がないのでしょうか?
798日本@名無史さん:02/09/20 00:08
溶鉱炉ラッシュってあったね。
799しったかぶり:02/09/20 22:52
>791
新渡戸稲造の祖父に当たります。新渡戸伝(つとう)で検索してしてみてください。
 新田開発はあっちこっちでやってると思いますが、いかんせんヤマセがきつすぎて
米作は今でもきついですね。
800日本@名無史さん:02/09/20 23:21
800か?
801しったかぶり:02/09/21 18:13
元弘三年南部時長,師行、政長重陳状  (1333年) @

目安
 甲斐國南部郷以下所領の事
 訴人南部三郎次郎 今 者刑部丞 武行
 論人南部五郎次郎時長
 同又二郎師行 但し宮供奉の為奥州下向
 同六郎政長

(いやーこのメンバー見るとわくわくします。)
これは「有名」な文書と思いますが、1333年12月付
で、建武の新政府に三兄弟から出されたものです。(この年の5月に鎌倉が陥落)

1,従兄弟「武行」が不当に土地を占有している。
2,異母弟「資行」其の母も不法行為をしている。
3,武行のこの年の奇妙な行動 (反新政府)
4,鎌倉攻めの時の兄弟の働きぶり
 等が書かれています。

鎌倉攻めに実際参戦した者の文書はそうある物ではないと思いますので大変貴重なもの
だと思います。
 少しずつ紹介してゆきたいと思いますのでよろしく。  
  
師行の下に、2行に分けて「但為宮供奉 奥州下向」とかかれています。
師行はこの年の12月頃根城に入ったことになってます。
武行の下にこれまた、「今 者 刑部丞」は「今ハ刑部丞」と読むのでしょうか。



南部家に亡命したいのですが!
803声の出演:名無しさん:02/09/21 22:13
リー将軍、南部違いですぞ
804日本@名無史さん:02/09/21 23:13
来るのはいいけど、北 信愛の同僚になれますか?
805日本@名無史さん:02/09/22 01:12
土佐藩から男爵になった、南部甕男あり、飛行機の南部少尉もあり、拳銃の南部少佐もあり。
南部の血はいつもどこにでもいます。
806日本@名無史さん:02/09/22 01:15
日本全国おいしい日本酒の杜氏は南部杜氏です。
807日本@名無史さん:02/09/22 02:29
南部氏が甲斐源氏であることを念頭に、鎌倉、室町時代軍事的傭兵として若狭や
安芸、土佐に武田氏が守護として広がったことを考えると、その家子、郎党とし
て武田氏に付き従った、南部の庶子も多かったことでしょう。大体その近所に、
史料に出てくる南部さんは出てくるんではないでしょうかね。
(たま−に、みなべさんという方もいますが。)

明治には土佐から、『板垣退助』さんも出てくることですし。
808日本@名無史さん:02/09/22 02:51
>>807
板垣さんは南部の人なの?
809日本@名無史さん:02/09/22 10:06
北 一輝も南部氏の流れでございましたな。
岩手の汚点ではありますが。
810日本@名無史さん:02/09/22 10:36
どうしてそんな理解になる????????おまえ?
>>808
名字の分布はその土地を治めた領主(武士)の版図が大きく影響するんだよ。
甲斐武田氏の一庶流である南部、板垣の両家はともに、甲斐(今の山梨県)に
名字の地を持つが、甲斐で有力だった武田氏が全国に広がるにしたがってその
家臣となって、諸国へ向かう家も多かったってこと。武士は名を重んじるから、
支配地に行っても、生国である甲斐の地名がついた名字を使い続ける。自分は
鎌倉時代からの名族であるという自負とを持って領民たちに強い態度で臨むた
めに。それで甲斐の山奥の一地名を背負った家が日本全国にひろまっていった
のさ。わかるかな?わかんねーだろ-なぁ〜。

本家が武田で、羽振りが良かったもんだから、そこについてきゃ、食いっぱぐ
れがないからついていった、南部とか板垣とか逸見とか福士とかの分家が多か
ったってこと。もう分かってよ
811しったかぶり:02/09/22 12:05
元弘三年南部時長,師行、政長重陳状  (1333年)続き A

 文書は五つの項目に分けて書いてありますが先の三項目は以下のとおりです。
全文をのせると長いので項目だけにします。

一、武行先日奇破状、閣自信所帯後日配分状、掠申子細、罪科難題事、
一、延慶三年五月十八日御下文不可有御不審事、
一、武行不可遁告言咎事、

以上を簡単に要約。・
三代南部時実がなくなった後、三兄弟の父政行が相続するところを宗実(武行の父)が奪った。
で政行が鎌倉に訴えて宗実の不正を糺し延慶三年(1310年)に幕府からお墨付きをもらった。
 ところが、政行死後、武行と三兄弟の異母弟資行がこのお墨付きを隠して幕府(鎌倉)に訴状を出して
この土地を横領しようとしている。実にけしからん!
と、建武の新政府に訴えています。
                  参考文書「八戸根城と南部家文書」小井田幸哉著
            
812日本@名無史さん:02/09/22 20:36
土佐藩死・板垣退助は本当は乾姓で、甲州人の人気を取るために板垣と改姓したと
聞いたことがありますけど、本当ですか?
813日本@名無史さん:02/09/23 14:21
もとは乾(いぬい)
8142チャンネルで超有名:02/09/23 14:22
http://tigers-fan.com/~pppnn

女子中高生とHな出会い
  ロリロリ児童とHな?
  2チャンネルで超有名
815日本@名無史さん:02/09/23 15:08
退助の指揮のもと土佐藩兵が東山道を追撃することになった。
目標は甲斐の甲府城だ。出陣に当たって容堂は藩兵に「天なお寒い、
自愛せよ」と激励、退助に「そちの先祖は甲斐の出身だという。この際、
姓を武田家の勇将だった板垣の名を貰い板垣と改姓しろ」と奨め、
退助もそれに従って乾の姓を板垣に改めた
816日本@名無史さん:02/09/23 16:46
青森には八戸とか九戸とか七戸とか
そういう地名(人名も)が多いですが
これは何か起源があるのですか?
817日本@名無史さん:02/09/23 20:26
816ですが過去スレ読みますた。
馬の生産地だったんですね。
818日本@名無史さん:02/09/23 20:49
>>809
北一輝と岩手はどこで結びつくのですか?
819日本@名無史さん:02/09/24 17:36
吉田戦車は南部の人?伊達の人?
820日本@名無史さん:02/09/24 19:11
>>819
吉田戦車氏は岩手県水沢市生まれなので、伊達の人と思われます。
821声の出演:名無しさん:02/09/25 16:24
桑島法子さんも「自分は伊達藩」とおっしゃっとりました。
「藩」って言葉が息づいているんですねー
822日本@名無史さん:02/09/26 00:03
>>743
織田信行は信勝が本名で、本人は信行と名乗ってない。
>>775
津軽美人「新山千春」
南部というとスパカのmikiちゃん(三戸市だったか)しか知らない。
823日本@名無史さん:02/09/26 17:36
文永二(1275)年の「日蓮聖人遺文」に蝦夷管領安藤五郎の名前が見えるらしいんですけど、
南部氏を介してこの名前が出てきたんですかね?
824日本@名無史さん:02/09/26 18:33
>>809
北 一輝は佐渡の生まれだよ。
ひよっとして南部氏支族の北家との関係が有るとでも?
825日本@名無史さん:02/09/26 18:40
>>819-820
ぷりぷり県人が被っている「県ずきん」なるものは、
岩手の年寄りが冬場によくやっている「ほっかむり」と似ている
と思っていたら、やはりそうか・・・
826日本@名無史さん:02/09/26 19:56
>>824
北氏の由来が由来だけに
異流はたくさんあると思われ
同姓即同族とはいかない罠
827しったかぶり:02/09/26 22:06
 割り込んでごめん。
元弘三年南部時長,師行、政長重陳状  (1333年)続きB
一、武行不可遁朝敵重科事
武行は長崎思元入道の婿となり、長崎四郎佐衛門尉高貞に属し茅屋城(千早城?)に発行し合戦した。
ところが四月に関東へ落ちるとき、五月十日、三河の矢作宿で仁木、細川、武田十郎たちと共に捕らえられた。
 武行は五宮(守良親王)の令資を持っていると主張している。真っ赤な嘘である。本当ならば京都で合戦するか、
伊勢、美濃、尾張で宮方として合戦していなければならない。 (略)
  等々 武行は北条方であると非難しております。
で太平記を参照しますと
この年(1333年)幕府軍は千早城攻めでさんざんな目に遭っています。
四月頃、京都では六波羅軍と赤松軍、さらに千種軍とが合戦しています。
太平記巻3 「笠置軍事付陶山小見山夜討事」 に鎌倉軍のなかに、南部三郎次郎の名がみえます。(元弘元年)
 太平記巻6 「関東大勢上洛事」 南部次郎の名がみえます。(元弘2年暮れ)この軍勢が千早攻めで苦戦しています。
 太平記巻8 「(略)千種殿京合戦事 」 京都での合戦の中に南部がでてきます。
     これが四月の話ですので、此の後すぐ武行は関東へ向け落ちてゆくということになったのでしょうか?
        この南部が武行だとすればですが。
いかがでしょうか?太平記に詳しいともっと面白いかと思いますがにわか勉強ですので間違いがありましたらご勘弁。
  次はいよいよ鎌倉攻めの段です(笑) 
828日本@名無史さん:02/09/26 22:43
>>827
いつもありがとうございます。しったかぶり氏のレスは勉強になります。

歴史の勉強氏のカキコが最近ないのも残念です。
829日本@名無史さん:02/09/29 21:40
キリストが死んだという戸来村は隠れキリシタンと関係有るのだろうか?
830日本@名無史さん:02/09/29 22:05
>>829
なも関係ねじぇ。
831しったかぶり:02/09/29 23:41
元弘三年南部時長,師行、政長重陳状  (1333年) C 前篇
一、時長政長等、於御方抽軍忠子細事、 (抽=ぬきんでる)
時長、真っ先に味方に馳せ参じ関東に於いて合戦する忠義、および親類の
中村三郎二郎常光が五月二十日討ち死にのことは、新田三河弥次郎が
確認している。
五月二十一日、霊山大将軍武田孫五郎と共に、愚息行長が先駆けしたが、若党
数名が負傷した。
 二十二日、北条高時禅門館で、海道弥三郎を生け捕り、高時一族の、伊具土佐孫六
の首を討ち取った。
 さらに、七月十二日は三浦山口に押し寄せ、三浦若狭判官と共に悪党を退治した。

えー5月18日早朝から鎌倉攻めが始まっています。倒幕軍は三手に分かれて鎌倉突入
しましたが、この文章だけではどの方面軍に時長親子が属していたかわかりません。
稲村ヶ崎の、剣の話は21日夜半から早朝の話ですから、新田軍ではないような気がしますが。
霊山大将軍武田孫五郎とはどちら様でしょうかね? (続く)

>828さんありがとうございます。
832日本@名無史さん:02/09/29 23:57
将来、福島⇔相馬間に高速出来るらしいけど・・・霊山城址はどうなっちゃうざんしょ?
833日本@名無史さん:02/10/01 19:56
青森県議会では津軽・南部の対立は今もあるのだろうか?
議席の比率は、津軽:南部=7:3くらいだろうか?
834日本@名無史さん:02/10/01 20:06
>>833
青森県での南部と津軽の対立なんてものは現在はありません。何十年も前の話でしょ。
835しったかぶり:02/10/01 20:47
元弘三年南部時長,師行、政長重陳状  (1333年) C 後篇
次に政長は奥州より真っ先に 馳せ参じ、5月15日より22日までの間
所々で合戦をし、若党の守家が討ち死にしてしまった。
その仔細は注進状に記載している。
 以上、仔細は多いといえども評決されるときには武行の間違った奸計に
乗らないでほしい。
  元弘三年十二月
 読み下し分を私なりに解釈してみました。間違いがあるかもしれませんが
そのときはご容赦のほどを。
 新田義貞が兵を挙げたのは5月8日で9日には20万の大軍になり11日には
小手差原で幕府軍と合戦します。12日には久米川あたりで合戦し幕府軍は分倍河原へ
後退しそこで宿陣します。14日夜半に幕府の援軍が到着します。それを知らずに新田
軍が15日に攻撃しますが、破れて堀金(狭山市)に後退します。16日早朝裏をかいて
新田軍が攻撃します。ここで幕府軍は大敗して鎌倉まで敗走します。
14日の幕府援軍の中に「南部孫二郎」の名がみえます。(是が南部茂時?)
この時時長親子は参陣してたのでしょうか?この後18日から鎌倉攻めが始まります。
836しったかぶり:02/10/02 20:40
これがですね「八戸家系」では
政長は新田義貞の密使を受け奥州より馳せ参じ5月15日武蔵国
堀金の陣に加わり、16日北条左近入道恵性を分倍河原の決戦で敗走させ
大勢を決したとされてるそうです。
  恵性は四郎左近大夫入道で鎌倉で南部太郎と伊達六郎を呼んで奥州へ逃げる人ですけどね。
師行が出てこないのが不思議です。どうしてたんでしょう?(甲斐で留守番?)
15日に堀金というのは、「太平記」と一致してますが。一番の疑問は「太平記」では新田は
計画的に兵を挙げてないように読めますが、政長が奥州からいくら急いで駆けつけても20日
くらいはかかるとおもいます。そんなに前に準備してたのでしょうか?時長から使いが行ったものでしょうか?
この重鎮状はいろいろ考えさせられますが、
 この時、1,南部三郎四郎  武行
     2,南部孫二郎    茂時 ? 南部太郎
3,南部時長三兄弟
同じ南部一族がそれぞれ、それなりに生きてたって事がわかるかと思います。
837しったかぶり:02/10/05 22:51
さてその後ですが、ちゃんと文書がのこております。
南部又次郎師行代民綱謹言上
 欲早任 勅載旨、被成下安堵 倫旨、當知
 行知甲斐國南部郷内村田地八丁二反三百歩
 并畠山野等事、
右彼所々者、亡父南部二郎入道々行重代所領也、
而未分死去之刻、後家尼了心(師行継母)舎弟同子息
次郎資行構謀書、押領所領等之間、於関東番
訴陳之処、高時禅門滅亡了、仍被経決断所御沙汰
之後、於記録所被召決、任面々當知行可令安堵
由被仰下了、然未被成下安堵 綸旨、全當知
行、弥為致奉公之忠、恐々言上如件、
 建武三年四月 日
師行の代人民綱とゆう人が建武の新政府に対して早く倫旨を出してくれといっております。
裁判は時長が勝ったようです。
 日付が建武三年四月...もう建武の新政府はガタガタなんですよね。
  
838日本@名無史さん:02/10/05 23:33
>>837
私以前に南部資料のスレを貼った者なのですが、しったかぶり氏はあちらの会に参加なさったのでしょうか?
839日本@名無史さん:02/10/06 01:47
盛岡市・北上市で、朝・昼・夕方の三回、街中に軍歌が響き渡り、
就職初任地だった私は鬱になって会社を辞めてしまいますた。
840日本@名無史さん:02/10/06 01:54
>>839
嘘はいけませんよ。
841839:02/10/06 02:10
>>840
本当なのれす!!
軍歌(だと私は思います)が市役所の屋上のスピーカーから
大音量で毎日定刻に流されるのれす!!
一度盛岡にいってみてくらさい!!
842日本@名無史さん:02/10/06 02:16
>>841
軍歌ではない石川啄木の歌だよ。
843名無しさん@お腹いっぱい。:02/10/06 02:16
>>841
県歌か市歌が軍歌調ってだけの話なんじゃない?
定刻って夕方5時くらいでしょ?
844日本@名無史さん:02/10/06 02:20
>>843
一日三回流れてたのれす!
朝、軍歌を聞きながら会社にいき、軍歌を聞きながら昼食を取り、
軍歌を聞くと退社なのれした!!
845日本@名無史さん:02/10/06 02:24
もりおかで軍歌なんて流れてないよ。
つーか岩手県は日教組の最強県だし。
846839:02/10/06 02:30
そうれすか?
軍歌ではなかったのれすか?
私はてっきり軍歌だとばかり・・・。
では、>>842さんの言うとおり、石川啄木の歌らったのれすか?

847日本@名無史さん:02/10/06 15:11
♪まだ春浅く 月若き!♪
848日本@名無史さん:02/10/06 16:15
増田寛也たん!萌え!
849日本@名無史さん:02/10/06 16:51
>>848
本人に伝えておきます(w
850日本@名無史さん:02/10/06 17:17
草加のかたですか?
851日本@名無史さん:02/10/06 20:51
>>850
厨房が寝惚けんじゃないぞ。
852しったかぶり:02/10/06 21:33
>838さんへ
 残念ながら拝見してません。よろしかったら教えて下さい。
853日本@名無史さん:02/10/06 21:50
>>852
「近世こもんじょ館」なんですが、南部家の資料を専門に調べていらっしゃる盛岡の方のサイトです。
854しったかぶり:02/10/06 22:19
>853さん
それでしたら、時々見さしてもらってます。
いろんな資料が豊富で感心しております。
でもどうしても抜粋になりますよね。それで自分で資料を当たってみたくなりまして
まあ、ゆっくりやってるわけです。
間違い等ありましたら、ご指摘してください。


855日本@名無史さん:02/10/06 22:45
>>854
そうでしたか、失礼いたしました。

あのサイトにも質問意見等入れてみて下さい。
856日本@名無史さん:02/10/06 23:42
何故皆さん天下とは縁も無い南部家を熱く語れるのですか?
857日本@名無史さん:02/10/07 12:58
>>853
初めて知りました。有難うございます。
早速行ってみることにします。
858金田一一:02/10/09 04:38
>>856
僕には縁があるから。
859日本@名無史さん:02/10/09 09:00
質問!
何で皆さん一地方大名をココまで熱く語れるのですか?東北なら伊達政宗・最上義光・上杉景勝等猛将、知将が他にもいると思いますが…
860日本@名無史さん:02/10/09 18:21
イチ大名を語ってるんじゃなくて、南部家全体を語ってるわけさ。
過去ログ見れば解ると思うが、戦国時代なんてほとんど語ってないわけで。
861日本@名無史さん:02/10/09 21:24
岩手のお城の公園は、桜がきれいだね!
862日本@名無史さん:02/10/09 21:59
>>859
私の場合は、南部家のマキだからです。
863日本@名無史さん:02/10/09 22:40
>>859
猛将知将を追っかけているうちはまだまだ戦国ビギナーですよ
864日本@名無史さん:02/10/09 22:46

南部マキさんでつか。
865859です:02/10/09 23:10
戦国では無いにしろ鎌倉御家人あがりの大名で明治まで生き残ったのは他にもいると思います。南部氏に悪意がある訳ではありませんが…特に有名な主君がいるとは思えず不思議です。
866日本@名無史さん:02/10/09 23:12
859がそこまで不思議がる(南部を語る事に納得がいかない)事の方が不思議なんだが…。
867日本@名無史さん:02/10/09 23:12
>>865
有名ではないから専門家もいないし、アマチュアが研究するにはいいかもな。
868859です:02/10/09 23:45
有名じゃない大名なら他にもいます。私は2ch日本史を知って日が浅いので南部氏の魅力がまだ解らずにいます。素人から見れば全国の武家から南部氏がここまで注目されてるのが不思議です。
869859です:02/10/10 00:04
後醍醐天皇が足利尊氏を懲らしめる為奥州から北畠顕家を呼んで戦いましたが南部氏は南朝派だったのでしょうか?北畠顕家軍は青森から京都まで一戦も交えず上洛したんでしょうか?
870日本@名無史さん:02/10/10 00:17
>>869
まずはこのスレのレスを>1から読んでから。
それとなるべくsage進行でよろしこ。
871しったかぶり:02/10/10 21:21
時長、行長のその後
鎌倉陥落の後、「建武年間記」に武者所のメンバーの中に南部甲斐守時長、
さらに「金勝院太平記」には後醍醐が京に比叡山から戻るとき、(延元元年(1336年)十月十日)
名和長年の嫡子義高等と共に奈良に下向した諸将のなかにでてるそうです。(小井田幸哉氏)
この後醍醐が京都に戻った時というのは足利軍にいわば降伏して戻った時なのですが、
「太平記巻17 義貞北国落」の中に出てくる南部甲斐守為重とは時長かと思います。
でこの時後醍醐にお供して京都へ下った武将たちは、その後殆どが斬られた模様。
だから時長はこの時死んでると思われます。
さて行長はどうなったのでしょうか? 一緒に行動していて親子共々斬られたのでしょうか?
 まあこの延元元年(建武三年)は激動の年です。
872日本@名無史さん:02/10/11 19:17
>>859
機会があったら山梨の南部町を訪ねてみて下さい。
何がこれだけの人を惹きつけるのか、それが解るかも知れない。
873歴史の勉強:02/10/11 22:22
僕が南部氏の歴史に惹かれるのは、謎に満ちた地域の大名だから。
南部氏が支配していた地域の歴史は、中世まではほとんど未解明で、
言ってみれば当時の日本の最辺境地帯に当たる。
最近、講談社「日本の歴史」第14巻でもわざわざ特集されたほどの地域。
でも、逆に言うと、そういう地域の歴史はとても大切だと思う。
関東や関西のことしか書いてない歴史の本では見えなかった新たな水平線が見えてくるかも。

また個人的な興味としては、なぜあんな広大な地域に数百年にわたって支配力を持ち得たかと言う点。
南部氏は一時は現・青森県下の過半を支配していた(ことになる)。
南部氏が北条氏被官(みうちびと)だった可能性がきわめて高いこととも合わせて、
南部氏には非常に興味がある。
南部氏の歴史は、ただ単に一大名の歴史ではない。
874しったかぶり:02/10/12 21:21
歴史の勉強さん
時頼の死
( 弘長三年11月  1263年)
11月20日 丁酉
  早旦北殿に渡御す。偏に御終焉の一念に及ぶ。昨日厳命を含むの両人、固くその旨を
 守り人々の群参を制禁するの間、頗る寂寞たり。御看病の為六七許輩祇候するの外人
 無し。所謂、武田の五郎三郎・南部の次郎・長崎次郎左衛門の尉・工藤三郎左衛門の
 尉・尾籐太・宿谷左衛門の尉・安東左衛門の尉等なり。

早速ですが、以上は時頼が臨終の時、呼ばれた7名ですが、南部の次郎とあります。
南部時実といわれてるのですが、身内人でないかと思うんですが、いかがでしょうか?
南部、工藤、安東とくれば糠部、津軽と連想されるのですが、ご存じのとうりこのあたり
には時頼廻國伝説があり、得宗領ですが。

875歴史の勉強:02/10/13 23:47
南部氏が得宗被官(御内人)だった可能性は非常に高いと思います。
太平記にも、北条泰家の奥州落ちの時、「伊達」「南部」両名を連れて行くという件がありますが、
あれも両氏が得宗被官だった可能性を示唆するものだと思います。
南部氏がいかなる経緯で得宗被官になったかは皆目わかりませんが、
南部氏が工藤氏や曽我氏の蟠踞した地方で台頭していく背景には、
鎌倉時代における北条氏支配との関連性があったと思います。
後醍醐天皇の時代、南部師行が糠部の行政を委せられた事実も、
ある程度、鎌倉時代の業績と関係してのことではないでしょうか?

甲斐の武田氏は鎌倉時代は比較的冷遇されていて(甲斐守護は二階堂氏だったらしい)、
北条氏とつながりがあった(被官?)可能性はよく指摘されますね。
足利時代、ずっと得宗家が守護だった若狭の守護に任じられたのも興味深い。
南部氏は甲斐武田氏の一族ですから(もっと細かく言うと小笠原氏の一族か)、
もしかすると、その辺から推測できるかも知れませんね。
876日本@名無史さん:02/10/15 23:16
得宗被官というのは、得宗家の家人(奴隷)で、将軍の直臣である?御家人とちがって、
いわば陪臣の身分ですね・
877しったかぶり:02/10/16 22:00
<876
奴隷ではないでしょうが、大きく云えば御家人だし、陪臣とまでいくのかなー?

時実と時頼の関係を考えれば、御内人に限りなく近いかと思うんですが、時頼の死後
22年後霜月騒動が起こって(1285年)南部孫次郎が斬られてます。
「合戦の時非分に誅せらるる輩、刑部卿相範、三浦対馬の前司、懐島隠岐の入道、
伴野出羽の入道、太宰の少貳、大曽禰上総の前司、足利上総の三郎、南部の孫次郎等と云々。」
                                  「鎌倉年代記」
この孫次郎が誰なのかよくわからないけど(時実の子、6代宗行らしい)安達側だとすれば
どっちかというと御家人側(?)だったと思うんですけどこの辺もよくわかりません。
 この霜月騒動が起こった時にも、甲斐の国では時長三兄弟の父二郎政行と武行の父孫三郎宗実が所領争い
をしているわけです。
 三兄弟は自分の叔父(多分)が鎌倉で斬られたと聞いてどう思ってたものでしょうか?
878日本@名無史さん:02/10/16 22:32
来年春から青森県で働く予定の者です(現在盛岡在住)。
以下のような噂を耳にしたのですが。本当でしょうか。

@職場では南部出身者と津軽出身者で派閥ができている。
A青森の南部地方では岩手日報がよく読まれている。
B東北自動車道は安代で二俣に分かれているが、
 それは南部と津軽のひとが両方譲らなかったから。
C県庁所在地が南部と津軽のちょうど中間の青森市になった。
 以前はなにもないところだった。
ちなみに就職試験で盛岡−青森の高速バスを使ったら、
秋田の小坂で降りた人がとても多かった。小坂ってひょっとしたら南部領ですか?
このほかにも南部と津軽の今に続く因縁ってあるんですかね。
879日本@名無史さん:02/10/16 22:56
分割相続が進んで御家人の経済状況が悪化すると、御家人の一番のライバルは、
同じ所領を争う同族というか一族。特に血縁が近いほど、全体の所領が増えな
い中での相続に関しては頻繁に起こっていた模様。兄弟、叔父甥での相続の争
い、後家と先妻の子が争う姿が所領争論の記録を残す古文書で紹介されていま
す。
「一族=一致団結」と解釈するのは人間の実像をはかるうえで幻想に過ぎるで
しょう。だから南部一族の中で安達派だったり、得宗派だったりするものがい
て当然といえば当然。自派に有利な派閥につくのは人の世の常。
南條や安保、高橋などの北条氏が弱小だった頃からの得宗被官と、騒乱で所領
を幕府に奪われ、生きるために得宗被官となった御家人(渋谷、諏訪、武田、
小笠原など)とは微妙に違う。北条氏滅亡時には得宗被官の中でも代だいの
被官は北条と死を共にしたが、いわば「なんちゃって被官」はすぐに寝返っ
て足利(朝廷側)についたりしてるし。方程式は人間の生きる行動には当て
はめられないものではないでしょうか。

武田氏に関しては、源頼朝等の源氏将軍が、同じ清和源氏のライバルとして
武田氏の強力な軍事力と不遜な態度を警戒し、常に掣肘の対象としていた。
武田氏全滅の危機をとりなしたのが北条時政。それ以来北条に臣従し、息を
潜めて生き延びた。鎌倉時代の騒乱で武田氏は常に北条氏側の軍事的先鋒と
して行動している。
880歴史の勉強:02/10/17 00:06
>878さん
そのことは、過去にさんざん議論されました。
こことワンペアの「津軽氏」ってスレッドでも展開されてた話題なんで、
そっちと比べても面白いかも知れない。(まだあるのか?)
一言。
青森市の母体は津軽藩が開発した港に由来しますから(太宰治「津軽」にもある)、
「何もなかった」は不適当な言い方って気がしますが。
でも、青森市に県庁が置かれたってのは、いろんな意味でベストだったと思うけど。
ホントはもっと発展しててもいいと思うんだけど、北海道開発のせいかなあ?

得宗被官て難しいですよね〜。
尾藤なんかは御家人でもあり、得宗被官でもあったわけで。
足利譜代の「高」も御家人だったと言われてまして、
御家人制度は非常に複雑だったようです。
そういう矛盾を、一番利用し、また懸命に対処したのが北条氏だったのかも知れない。
北条氏の配下で、大名として生き残った最大のものが南部氏だとしたら、
佐渡の本間氏のようにおそらく商人として生き残った一族もいる。
北条氏の影響って大きかったんでしょうね。

僕は「しったかぶり」さんのように資料を探して探求する能力はないけど、
南部氏の歴史が明らかになることを望む気持ちは負けない自信がありますよ。
881しったかぶり:02/10/17 22:29
>877 訂正です。
1285年の時には、まだ師行兄弟は生まれてないと思います。

 重陳状によれば、時実が死んでから(1264年)「十八ヶ度の沙汰」があり
最終的に決着がついたのはその死から46年後の延慶三年(1310年)
です。「最勝園寺禅門(北条貞時)の成敗也」とあります。さらに「8人の
得分親」(相続人)に配分したとあります。
 で、是は私の想像ですが時実は急死したのではないでしょうか?
それでこれだけ混乱したのじゃないかと思っているんですが。

 相続等については>879さんの言うとうりだと思います。

 
882日本@名無史さん:02/10/23 16:08
保全
883日本@名無史さん:02/10/23 16:10
http://www.hamq.jp/i.cfm?i=dehio
このサイト面白いよ
884日本@名無史さん:02/10/24 04:03
安東昌益はどんな人?
885日本@名無史さん:02/10/24 04:17
>>882
sage進行でもカキコがあればスレは保持されます、無意味なageは悪意としか取れませんよ。

883-884のような意味不明なレスを付ける隙を与えてはいけないのです。
886日本@名無史さん:02/10/24 06:27
こないだ高橋克彦の「天を衝く」読んだが、いやすげー電波だった。
親父が津軽でお袋が南部の俺でさえひいた。
887日本@名無史さん:02/10/24 11:06
>>886
「天を衝く」を読んだくらいで高橋克彦氏をデムパ呼ばわりとは笑止。
「1999年高橋克彦対談集」のデムパの強力さからすれば・・・。
888日本@名無史さん:02/10/24 20:22
幕末に南部藩にいた家老・田鎖典膳は悪者なの?
889日本@名無史さん:02/10/24 20:46
田鎖君や目時君は元気にしているかな、楢山さんはまだアメリカなのかな。
890日本@名無史さん:02/10/25 00:12
>>878
そんなことより今でもビーバップな青森県においては野辺工電車には乗らないように
とかのほうが重要。
新聞は東奥日報が一番人気で八戸周辺ではデイリー八戸派も結構いた。
891日本@名無史さん:02/10/25 16:14
          /■\
         ( ´∀`) < ここに来れば中野さんに
       (|_______|)     会えるってきいたんだけど。
        |\__/|
        U   U


892日本@名無史さん:02/10/25 18:15
フジの中野アナ可愛いよね♥
893日本@名無史さん:02/10/25 21:57
合併前を控えて南部・富沢町誌相次いで刊行!
(ただし富沢町は住民にのみ無料配布らしい)
詳しくはHPへ。南部氏の郷のページも更新されてました。
http://www.town.nanbu.yamanashi.jp/
894しったかぶり:02/10/25 22:24
北畠顕信挙状 (1346年)

南部とのへ  (顕信花押)
可被挙申 達智門女院也
   (顕信花押)
申 右近蔵人
源 信政
興国六年三月廿七日

「信政」が「顕信」の推挙により右近蔵人に任ぜられ、さらに吉野の朝廷へ
上って、「達智門女院」(後醍醐の皇后)へ仕えろという書状です。
「時長」、「行長」さらに1338年「師行」が「顕家」と共に討ち死にしたあと、
波木井南部家は「政長」が継ぎ、この時期、根城にいたと思います。
そこへ長男「信政」へ吉野朝へ上れと云う命令がきたわけです。この時「信政」には
「信光」、「政光」という二人の(多分十歳になっていないと思いますが)子があり
ましたが結局「信政」は戻って来ませんでした。(1349年、高師直が吉野を攻め
たとき戦死した模様) でこの「信政」の婦人が津軽にいた「工藤貞行」の娘、
加伊寿御前です。
 工藤氏と婚姻関係がはっきりしているのはこの「信政」だけだと思います。この婚
姻は南部氏にとっては大変重要な事だったと思われます。「貞行」には男子はなく、
後にこの地域は「信光」?が後を引き継ぐ事になるわけですから。

(でもなんか、「信政くん」が可哀想だなー。吉野まで死にに行ったようなもんだ。)
895歴史の勉強:02/10/26 22:01
南部氏の歴史上、絶対に欠かせないのが工藤氏との関係だと思いますが、
工藤氏って南部氏ほどクローズアップされてない感じですねえ。
東北っていうと工藤氏なのにね。
もともと、工藤氏のほうが偉かったんですよね。
北条高時の蝦夷征伐の時も大将だし、鎌倉時代はけっこう工藤って出てくるから。
石川啄木のお母さんが工藤氏の末裔だと聞いたことあるけど。

工藤もそうですが、曽我氏と南部氏の関係ってどんなだったんでしょうね?
896日本@名無史さん:02/10/27 07:32
山梨でも岩手青森でもなく埼玉の話で恐縮っすが
さいたま市緑区南部領辻は、このスレで話題に上がっている南部氏の領土でしょうか??
897日本@名無史さん:02/10/27 10:56
>>896
ここのサイトに詳しい。

ttp://4d.hops.co.jp/4DACTION/WebH_q_a/51
898日本@名無史さん:02/10/27 20:51
曽我、工藤は祖先を同じくする一族(藤原南家を祖とする狩野氏の一族)
富士の牧狩りで曽我兄弟が同族の工藤祐経を討ったことで有名な曽我物語
で一時敵対するが、北条氏の下で得宗被官となり陸奥北部に播拠。

尚、工藤氏には二系統あり、伊豆が本拠の祐を通字とする工藤氏と、甲斐
の国を本拠とする、景の字を名前の通字とする系統。(横溝氏も同祖)二
系統とも藤原南家の藤原為憲を祖先にもつ。(事務官僚的武士の二階堂氏
も同祖)

奥州には二系統ともに下向したので、どちらが優勢かは分かりません。でも
名前に「祐」とか「景」の字を持つ工藤君は、子孫の可能性が高いですね。
899日本@名無史さん:02/10/27 21:01
田鎖さんはどんな事したの?
900日本@名無史さん:02/10/27 21:16
901日本@名無史さん:02/10/27 21:30
今回の大河に出ると思ってたのにナー
902日本@名無史さん:02/10/27 21:31
一番出そうも無いじゃん。
903歴史の勉強:02/10/27 22:03
南部利直が所領安堵される際に前田利家は尽力したらしい。
でも、伊達政宗ですら「こわっぱ」扱いなのだから、
今年は登場しなくて良かったのでは?
一回ぐらい、東北の「太閤の仕置き」をドラマ化してもいいかもね。
旧葛西被官や九戸一揆を潰していく過程を描いてほしい。
今年のドラマのように「ヒューマニスティック」には描けないでしょうがね。
904日本@名無史さん:02/10/27 22:27
「秀吉の奥州仕置き」については
東北ではいろんな記録や言い伝えがたくさん残っていて
エピソードには事欠かない
大河でなくてもドラマのネタには悪くないんだけどな
905日本@名無史さん:02/10/27 22:40
テレビは視聴率が第一だから南部なんてマイナーは出てこないよ。
IBCでもTVIでも南部氏の扱いには現代でも困るくらいだし。
906しったかぶり:02/10/27 22:47
曽我氏は1219年健保7年)平広忠(曽我小次郎)が平賀郡岩楯村に
北条義時から地頭代に任じられてから、代々一族が津軽にやってきた模様。
大光寺系と岩楯系 二流があり、鎌倉時代を過ごします。
 で、幕府が滅びます。顕家は津軽に平賀景貞、鹿角に成田頼時、糠部に南部師行
を国代 として派遣します。
 そこへ、名越時如、安達高景が曽我氏を頼って落ちてきました。大光寺曽我氏(道性)
は反顕家の旗を揚げます。ところが岩楯曽我氏(光高)は顕家側につきます。
翌年正月大光寺城が落ちます。持寄城へ逃げますが1334年11月そこも落ちます。
この前後曽我道性が滅び、曽我光高(貞光)が曽我氏の惣領となります。
 しかし、1335年顕家が京へ上ったとき斯波家長が奥州に来ると、安藤家季、浅利
清連等と共に足利方に走ります。1336年南部政長がいた藤崎城等を攻めてます。
その後何回かの合戦があり、1341年根城を包囲します。以後一年半にわたって合戦しますが攻めきれず、
津軽へ敗走します。(この時根城南部氏は政長で南部氏最大の危機)
その後いろいろありますが1361年頃ぷっつりと歴史から姿を消します。
どうやら安藤氏と南部氏両方から攻められてこの頃滅んだ模様です。(安藤氏も分裂しています)
 曽我氏の文書が「遠野南部文書」として数通残ってるようです。南部家に曽我氏の文書があるの
は南部氏が滅ぼしたと言うことです。

<898さん、参考になりました。横溝氏も二階堂氏も糠部におりました。
907日本@名無史さん:02/10/28 00:03
横溝正史の金田一探偵も南部氏繋がりだったりして。
908日本@名無史さん:02/10/28 00:39
途方の放送局独自で『奥羽戦国』というような、
時代劇を作っているとことは無いのだろうか?
909日本@名無史さん:02/10/28 00:50
>>908
きっぱり、あるわけ無いだろ!
910日本@名無史さん:02/10/28 01:54
↑金が無いから作れぬのか・・・・
911日本@名無史さん:02/10/28 02:37
> 4d.hops.co.jp/4DACTION/WebH_q_a/51

そこに挙がってる南部領28か村は旧大宮市域ですな
しかし南部領辻は旧浦和市域

???
912日本@名無史さん:02/10/28 10:09
>>911
利直の時に賜り
重直の時に召し上げですか
影が薄いわけだ
913日本@名無史さん:02/10/28 12:37
>>896
大御所拝領、というと土地だけでなく虎も2頭賜ってます。

大阪夏の陣の戦後処理(茨木城接収)を終え帰路の途上駿府で家康に謁した。
たまたまカンボジア使節が来日し虎を献上したばかりの時で
家康は「よいところに来られた」とばかりに下げ渡した。
直々とあっては断るわけにもいかず盛岡に連れ帰った。
盛岡城・朝日谷に頑丈な檻を設け餌料に地方70石をあてがい番人を付けて飼育した。

2頭は寛永2年、寛永20年までそれぞれ生きた。
どちらの時か檻から脱走し城内が騒ぎになったが、重直自ら種子島で射殺したと伝わる。
大御所拝領の虎という事で2度とも公儀に届け
皮は参勤交代の時の曳き馬の鞍覆いにして行装の目玉にした。
914しったかぶり:02/10/29 20:57
 >898さん
1,工藤小次郎行光が恩賞として岩手郡(吾妻鏡)を貰いますが(南部氏に滅ぼされるまで岩手殿と呼ばれた)
どちらの工藤氏でしょうか?
 
2,甲斐にいた工藤氏はどのあたりにいたのでしょうか?

 すみませんが教えて下さい。
 
915898:02/10/30 08:15
お答えします(⌒O⌒)/
1
甲斐の工藤のようです。詳しくはこちらを
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/o_kudo_k.html

2
竹内理三  『武士の登場』  中公文庫

の巻末の武士勢力地図をご確認ください。詳細な勢力地図は、史料を
あたるか、山梨県史を当たるしかないかもしれません。
916しったかぶり:02/10/30 21:56
>915さん ありがとうございました。

まず中公文庫のほうをさがしてみます。
917日本@名無史さん:02/11/01 02:34
今朝このスレを発見して
さっき会社帰りに寄った焼き鳥屋が偶然、南部地鶏を扱う店でした。

918日本@名無史さん:02/11/01 03:18
江戸期における悪い大名の典型的な殿様。
919日本@名無史さん:02/11/01 07:02
南部藩は漁業・海運は盛んだったのでしょうか?
920日本@名無史さん:02/11/01 12:13
南部虎弾@電撃ネットワークは南部家の子孫でしょうか?
921日本@名無史さん:02/11/02 00:55
>>920
個人的希望として、あってほしいね
世界で活躍する南部の一族w
922日本@名無史さん:02/11/02 01:10
>>921
ヤダッー!盛岡南部にはいらない、虎弾。」
923日本@名無史さん:02/11/02 20:00
924日本@名無史さん:02/11/02 20:04
いわて銀河鉄道 開業時資本金の目標に届かず

 IGRいわて銀河鉄道は1日、盛岡市で取締役会を開き、
盛岡―目時(青森県三戸町)間の鉄道資産を、JR東日本から
帳簿価格の約90億円で購入する方針を決めた。12月中旬まで
に9275万円に上る第三者割当増資を行うことも決めた。この結果、
同社の資本金(寄付金含む)は目標の20億円に届かないまま、開業
することが確実になった。

 取得する鉄道資産は、線路用地などの土地、駅建物、
諸設備、電車8両など。7月末現在の帳簿価格は90億
2770万円となっているが、最終的な価格はその後の減価償却を行い、
11月末現在の帳簿価格となる。25日の株主総会で正式決定する。

資産購入費は全額、岩手県の補助金で賄われる。県は本年度、
45億円を同社に補助し、残る金額は来年度予算に計上する予定。

 第三者割当増資の割当先は県出資法人、電機メーカー、信号通信メーカー、
林業団体など十数団体で、同社の資本金と寄付金は合計で19億6270
万円となる。

 これにより同社の開業時資本金(寄付金含む)は、目標より
3730万円不足した状態で開業することになった。ただ、同社は
「向こう3年間の運転資金が一部足りないが、引き続いて増資に努め
ることにしており、会社経営に問題はない」としている。

[河北新報 2002年11月02日](河北新報)
[11月2日7時3分更新]


925日本@名無史さん:02/11/06 07:25
保全
926日本@名無史さん:02/11/06 07:28
電撃ネットワークの南部って元右翼なの?
927日本@名無史さん:02/11/06 22:25
なんでまたそんな話が?
928日本@名無史さん:02/11/07 02:51
>>926
元ダチョウ倶楽部です。(かつては4人組)
929しったかぶり:02/11/09 13:27
根城南部氏と工藤氏との関係を考えるとき必ず出てくる次の話があります。
南部は八戸の工藤氏の未亡人を脅して無理矢理 婿になり工藤家を乗っ取った。
これが進んで「八戸氏、本姓工藤氏」とまでいくのですがさてどうなのでしょうか?
 婿になったのは、政長だとも、信光だとも、政行だとも言われますし加伊寿御前の名も出てきます。
で 以下の文書
 建武元年(1334年)四月晦日
          多田貞綱書状 (南部家文書)
糠部郡闕所事
一戸  工藤四郎左衛門入道跡
    同子息左衛門次郎跡 八戸上尻内
八戸  工藤三郎兵衛尉跡
三戸  横溝新五郎入道跡
南部又二郎殿 戸貫出羽前司殿 河村又二郎入道殿
両三人預由候 能々郡内可有御警固候 諸事御談合
候者可宣候 恐々謹言
 建武元年四月晦日  源貞綱(花押)
南部又次郎殿
 是は師行が国代として糠部に入ったときに糠部郡内の闕所地について
顕家が師行に沙汰している書状です。
八戸には工藤三郎兵衛尉、上尻内には工藤左衛門次郎が知行していたことがわかります。
顕家は南部、戸貫、河村の三人に預けろと師行に命じております。
 注 預けてるのであって与えておりません。    続く(よろしく...)
930日本@名無史さん:02/11/10 00:05
>>多田貞綱

摂津源氏の生き残りですかね?(源 頼光流)鹿ケ谷事件の密告者
多田行綱の子孫?でしょうかね?
931しったかぶり:02/11/11 21:16
 先の書状の二ヶ月後の書状(六月一二日 北畠顕家御教書)
これは非常に長く又興味深い事が沢山書いていますが、必要な所だけを抜き書きします。
一、工藤三郎兵衛間事、河村依聞出之、捜取之条神妙候、 
 (工藤三郎兵衛を河村が聞き出して是を師行が捕まえたのは神妙なことだ。)
一,當郡給主等中参御方輩、注進同披露畢、一戸
  新給人横溝孫次郎(浅野太/郎跡)三戸新給人 工藤三郎(會田四郎/三郎跡)
八戸給主工藤孫四郎 同孫次郎等名字不見、何様振舞候歟、可被注進候
(新給人横溝、工藤三郎、および八戸給主工藤孫四郎、孫次郎らは国府まで注進してきてない、どういう事か注進しろ)
これは 横溝、工藤氏らが味方するという一札をまだ顕家に出していないから様子を見ろ、ということだと思います。
さて「新給人」はわかりますが「八戸給主」は新がついていません。是はどういうことでしょうか? 八戸には 「工藤三郎兵衛」
の他に「孫四郎、孫次郎」も知行してたのでしょうか?それとも工藤三郎兵衛にかわって八戸をあたえられたものでしょうか?
どっちにしても八戸が工藤氏だらけだったことは間違いなく、しかもこの工藤一族は割れております。
 もう一つ注目すべき文が見えます。
 且御邊も可被差申便宜之地、何村も當郡内有所望者可申歟
(おまえも、欲しいところがあれば郡内の何村でも云ってこい。あげるから)
つまり、師行はこの時期相当な権力をもっていた。欲しいといえばどこでも手にいれられた。
といえるのではないでしょうか?
 工藤氏を脅して婿入りして工藤家を乗っ取る必要なぞなかったとおもわれますが
いかがでしょうか?(この時期には政長も糠部にいた模様)

>930さん 残念ながらわかりません。
932しったかぶり:02/11/12 22:35
続き(次は工藤氏のこと)譲り状1

元亨三年工藤貞行譲状 (1322年)(大部分がひらがなです)
 ゆづりわたす、常陸の國田村、陸奥国伊具の庄金原の保のうち、
片山の村の御代官職、ならびに鎌倉西御門の地事、右所々、娘かいず御前に、
譲り渡す所也、他の妨げあるべからず、もし自然(万一)の事あらば、母の
計らいたるべし、子なくば、妹どもの中に譲るべし、仍状如件
             元亨三年十一月三日右衛門尉貞行(花押))

こちらは確実に南部氏と婚姻した工藤貞行の譲り状です。
この年1322年は「津軽大乱」の年ですが、この時貞行は黒石政所職として、
田舎郡・山邊郡あたりを 支配していたらしい。(小井田幸哉)
娘しかなくて嫡女かいず御前に譲り状をしたためたらしい。この加伊寿御前が信政
の妻となるわけです。この時十歳未満だと思われますがこんなに早く譲り状を書いた
物でしょうか? 一寸不思議です。又津軽の地が出てこないのも不思議です。
(でも鎌倉にも土地を持っている。)  
933しったかぶり:02/11/13 19:43
続き(工藤貞行譲り状2)1334年
建武元年工藤貞行譲状
(端裏書)「かいす御せんか分ゆつり状」
譲渡  女子加伊寿御前分
 一所 津軽山邊郡二想志郷内 下方為大光寺合戦勲功
                 所々拝領貞行也
一所 田舎郡上冬居郷拾分参
右所譲与同加伊寿御前也、御下知并置文等者、預置于女房 数子
 母
許、自然有違目之時者、任彼證文等、可明申子継、但向後右
出来男子者、改此譲、可配分之状如件、
建武元年八月廿一日     貞行(花押)
二通目の貞行の譲り状です。前の物から12年後です。
工藤貞行が顕家方として活躍したことがわかります。この内容からは
加伊寿御前(数子)が結婚しているかどうか分かりません。又男子がこの後できたら
改めると書いています。
934しったかぶり:02/11/14 21:25
  すみませんが 続き5
建武二年正月二十六日北畠顕家下文 1337年

(端裏書)めやの郷御下文案
        御判
可令早工藤中務右衛門尉
  貞行領知、津軽鼻和郡目
谷郷(工藤右衛門尉/貞祐法師跡)外濱野尻郷
  等事、
右為勲功賞所被宛行也、早守
先例、可被其沙汰之状、所仰如件、
       建武二年正月二十六日 
目谷(現在の東、西目屋村)野尻郷(青森市大字野尻)を持寄城合戦
の功として貰っております。この後数年で貞行は亡くなったかと思われます。
(師行と共に石津で戦死との説もあり。だとすれば1338年)
この後、しれん尼(貞行夫人)の譲り状が4年後でてきます。
 一人で占有して申し訳ないです。今しばらくおつきあい下さい。
935日本@名無史さん:02/11/15 15:25
鎌倉期から明治維新時まで同じ地域を領していたのは、島津家と南部家だけらしいね。
領地が南端と北端だからかな?
でも南部家は重直公卒去のおりは無嗣の為、所領没収になっている。
でもすぐに重信公が家督を継承し、所領を直房公と分割して立藩しているよね。
間違ってたらゴメン!!
936しったかぶり:02/11/15 20:35
すみませんが 続き6
訂正 先の建武二年は1335年の間違いです。

興国四年尼しれん譲状 1342年

(包み紙)  信光 あましれんより娘加伊寿御前への譲状
   時に興国四年六月廿日、加伊寿御前ハ信光の母也
譲り渡す
 黒石の所領の事
貞行の譲りに、いづれの所領も後家一期の程はしりて
後には女子共に相計らいて譲るべしと候、黒石はいづれの女子共の中にも
もちぬべからんに譲るべしと候、同じ子供と申しながら、志あるによて
嫡女南部殿の女房加伊寿御前に、永代を限りて譲る、子々孫々に至るまで、
他の妨げあるべからず、但し石名坂(黒石市)をば福寿御前に永代を限りて
譲る、心ざしあるによって、妹福寿御前に譲るなり,見放ち給うべからず、
いづれの妹御前をも、計らいとして、みさはつり給うべし、これは後家しれんが
自筆なり、余の譲りありと言うとも、もちいべからず、依って譲り状件の如し、
興国四年六月廿日    尼しれん  (花押)

 原文は大半がひらがな。貞行の後家しれん尼から加伊寿御前に黒石に所領を譲り渡す、
といっております。この年は根城が曽我氏に囲まれていた年ですが、黒石は無事だったの
でしょうか?南部殿は信政です。
     申し訳ありません。もう少しおつきあい下さい。
                 
937しったかぶり:02/11/16 20:48
すみませんが 続き7
又訂正、興国4年は1343年でした。
翌年、又譲り状を書いています。
興国五年尼しれん譲状 1344年
(包紙)
「信光 幼名力寿丸
    興国五年二月十三日 あましれんより譲状」
(端裏書)「力寿丸」
譲渡す力寿丸
   津軽田舎の郡黒石の郷、同じき政所職の事
右所は、故工藤右衛門尉貞行重代の所領たる間、しれん彼後家として、
相伝知行今に相違なし、其の子細譲り状に見えたり、しれん一期の後は、
嫡孫力寿丸に、この所を譲り与うる也、余の子孫等違乱あるべからず、
但し此の所のうち、女子五人に少しずつ一期の間譲る也、譲り証文にあり、
これを違うべからず、いずれも自筆也、自筆にてなからんをば、用いべからず
依って譲り状件の如し、
     興国五年二月十三日    しれん(花押)
*一期=一生  全文は殆どはひらがなです。
この半年の間に、男子が誕生したか、加伊寿御前が母にお願いした
ものでしょうか?政光はまだ産まれてないのでしょうか?
この翌年、信政は吉野へ発って帰ってきませんでした。
 どうでしょうか?工藤氏との婚姻がはっきりしている文書類を揚げてきましたが
一番先の話は八戸の工藤氏と黒石の工藤氏がごっっちゃになってるのが分かるかと
思いますが   長い間、おつきあい下さいましてありがとうございました。
 

938日本@名無史さん:02/11/20 19:14
優良スレにつき保全です!
939日本@名無史さん:02/11/22 02:35
で、南部氏の糠部定着の過程というのは、
総括すれば、非常に暴力的なものであったと言えるのでしょうか?
940日本@名無史さん:02/11/22 11:26
>939
意味不明ですね。
941しったかぶり:02/11/22 21:07
>939さんへ
工藤氏がその気になったら、反「南部」で結束して南部氏を
倒せるチャンスはあったと思うんです。、たとえば、工藤氏の
誰かが足利氏と渡りをつけて 北朝側になって曽我氏らと共に南部氏を
攻めるとか、又どこかで裏切って南部を討つとかですが、工藤氏がその
ような動きをした記録は今のところ私は知りません。
 1341年の曽我氏の根城包囲の時などは工藤氏が反南部で動いたら
根城は落城してたと思います。
 このことは次の二つの内どちらかだと思います。
1,工藤氏をはじめとする反南部一族を徹底的に滅ぼした。
2,割と緩やかに対応したため、それほど恨みを買わなかった。
1のケースだと非常に暴力的だったといえるかもしれません。
 どっちだったんでしょうか?
手前味噌ですが私は2の方だと思います。そうでなければその後工藤氏の誰かが
いつかどこかで裏切ったと思いますし、武力で君臨しても長続きしなかったんじゃな
いでしょうか?
 


942日本@名無史さん:02/11/29 21:52
西部のカウボーイ暴力団のように南部氏は移住してきたのかも?
943日本@名無史さん:02/11/30 19:22
三日月が丸くなるまでだったのが
東京から2時間56分よ。あっという間だね
944日本@名無史さん:02/12/01 19:50
今日のご長寿早押しクイズは南部より
945日本@名無史さん:02/12/04 19:02
南部入部以前、うら寂しい下北半島を誰が支配していたの?
946日本@名無史さん:02/12/04 22:03
>>945
イダッコ。
947しったかぶり:02/12/04 22:43
>945さん
 安藤氏でしょう。
安藤氏も其の出自が未だにはっきりしませんが鎌倉時代の中頃には津軽半島、
外が濱、下北半島の北半分を支配してたようです。
 でも詳しいことは、闇の中です。
1456年蛎崎蔵人の乱を八戸南部氏が制圧してから南部氏支配下に入った模様
です。(それまでは、南部氏も完全支配出来なかったようです。)
 うらさびしいのはその後の歴史ですが、鎌倉、室町時代は金、馬、海産物、
北方との貿易などで、豊かな土地だったと思われます。
948日本@名無史さん:02/12/04 23:14
いだっこ検索したら面白かったよ、わらた。
949日本@名無史さん:02/12/05 00:10
>>947
「風雲児たち」にも載ってますね。その辺り
950日本@名無史さん:02/12/05 00:16
>>949
「風雲児たち」って漫画ですか、どんなふうに描いてあったの?
951日本@名無史さん:02/12/05 17:14
『風雲児たち』では、蛎崎氏が、下北半島の蛎崎を支配していた安東氏の被官ということになっている。
952日本@名無史さん:02/12/05 17:19
『風雲児たち』では、北陸の武田氏だった蔵人が、
はじめ南部氏の家臣になったけど、後から安東氏に寝返って、
安東氏といっしょに蝦夷地に逃げたことになっている。
で、コシャマイン鎮圧後、権力を握って蛎崎氏を継いだことになっている。
953日本@名無史さん:02/12/08 01:51
北部王家の子孫が残っていたら観光になったのに・・・
順法寺の跡は現在どこにあるのか?
954日本@名無史さん:02/12/09 14:48
観光なんて言葉は良いが・・・見世物かよ
955日本@名無史さん:02/12/09 14:51
956日本@名無史さん:02/12/09 14:53
957日本@名無史さん:02/12/10 17:29
日テレまた年末「時空警察」やるみたい。
家康は二度死ぬってテレビ冊子の項目にある。
よ〜し、張り切って見る。
958日本@名無史さん:02/12/12 15:11
南部には隠れキリシタンいたのですか?
959日本@名無史さん:02/12/13 16:34
>>958いたみたいですね

元和年間に長崎五郎右衛門(=カルバリヨ神父)が福原(後藤寿庵の領地・水沢市)を拠点に
数回盛岡宣教をしたと伝わる。

南部利直は幕命により寛永元(1624)年からキリシタン弾圧を始めた。
11月5日 ヂェゴ巳右衛門 斬首。トマ弁左衛門 毘沙門渕水牢で凍死。
12月18日 マチアス某他1名 毘沙門渕水牢で凍死。マグダレナ 斬首。

マグダレナという50代の女性は腹這いに4回斬られたが転宗を拒んだため
斬首のうえ首を>>913で出た虎の檻に投げ込んだとあります。
しかし虎はマグダレナの死骸に後ずさりして食べようとはしませんでした。(パジェス「日本切支丹宗門史」)

関西や関東で弾圧が厳しくなると多くは奥州へ逃れ、鉱山に潜み信仰を守り続けたようです。
(「山法」という不文律があって罪人も山にいる限りは見逃された)
しかし隠れキリシタンに「山法」は認められず大ヶ生金山(都南村)・大葛金山(盛岡市)
に藩の探索が何度か及んでます。
960しったかぶり:02/12/14 20:02
金の発掘の関係の本読んでると隠れキリシタンがでてくるんですよ。
隠れキリシタンと鉱山の関係がよく分からなかったんですが、(キリシタンは
どうしてそういう技術をもっていたのかな?とかですが)
「山法」というものがあったんですね。何となく納得しました。
961しったかぶり:02/12/17 21:12
さて、又少しおつきあい願います。

北畠顕家下
     花押(顕家)
下糠部郡
可分早 南部六郎政長領知 当郡七戸結城七郎左衛衛門尉跡事
右人為勲功賞所宛行也 早守先例可被其沙汰之状所仰如件
 建武二年三月十日 (1335年)

政長に、勲功の賞として結城七郎左衛門尉跡の七戸を与える、との
顕家からの下文です。
 それからいろいろあって、1350年政長死亡の一週間前くらいといわれて
いる、「政長譲り状」です。二通あって一通は八戸、もう一通は七戸です。

(端裏書き)三郎譲状
     譲  渡
          陸奥国糠部郡内
八戸
右彼ところハ、くんこうのしやうたるあひた 政長知行せしむるを 
信光に譲あたふる物なり 彼譲状をまほりてはいりょうすへし
  正平五年  八月十五日
前遠江守源政長  花押
  
 孫の信光にゆずっています。



962子孫ですが:02/12/18 11:57
>>148
多分、ご先祖のことと思われ。でも、あんなことしてた覚えはない。
ものの本によると「慶長5年に滅亡した」とあるけど、平成の世でもちゃっかり
多産系で生き残ってるYO!
963しったかぶり:02/12/19 00:00
七戸です。

 譲渡
陸奥国糠部郡内
七戸
右彼ところハ くんこうのしやうたるによりて政長知行せしむるあいた
後家に譲所也
但 政光せいしんせは半分はたふへし いま半分をハ一期のち 
二人のことものなかに 心さしあらんにたふへし
   正平五年   八月十五日
 前遠江守源政長  花押

 後家は加伊寿御前、せいしんせは=成人せば たふへし=給べし
 一期のち=死んだあと 二人のこどものなかに 心さしあらんにたふへし=
 志あらんに給べし
 
微妙に、表現が違いますが、両方とも勲功の賞として貰ったと言っております。
二人の(信光、政光)孫は正確には幾つぐらいだったのでしょうか?
 七戸、八戸は御存じのとうりその後も南部氏の(根城南部)領地ですが、
黒石の工藤貞行の知行地はその後どうなったものでしょうか?(信光のものに
なったはずですが)この時、曽我氏に占拠されてたのでしょうか?
 でもこの時期幼い孫を残して政長はどんな思いでしたでしょうか?(南部氏が
その後650年もの間続くと思った?)

>962さん
 私の同級生に浅沼くんがおりましたが。
 
964源太が産衣:02/12/19 23:16
浅沼=阿曾沼(アソヌマ)氏の分家筋
阿曾氏は下野の小野寺氏(秀郷流藤原氏)の後裔です。
秀吉の小田原攻めに参考できず(伊達政宗の策略)
奥州仕置で取り潰された。
965 :02/12/20 00:33
>>964
阿曾沼って毛利の配下にもいるけど同族なんだよね。
966しったかぶり:02/12/20 22:14
糠部郡闕所事
一戸  工藤四郎左衛門入道跡
    同子息左衛門次郎跡 八戸上尻内
八戸  工藤三郎兵衛尉跡
三戸  横溝新五郎入道跡
>>929 )とありますが,
この一戸、八戸の給人工藤氏のその後ですが、三郎兵衛は捕まり(>>931)

八戸給主工藤孫四郎 同孫次郎等名字不見、何様振舞候歟、可被注進候(>>931)

 と顕家が不審に思っている孫四郎、孫次郎と

 同子息左衛門次郎跡 八戸上尻内 

の工藤左衛門次郎が持寄城陥落の時の「津軽降人交名注進状」(建武元年12月14日付け)
の中にあります。師行勢に追われて津軽方面に逃げて行き曽我氏と共に戦った事がわかります。
(小井田幸哉氏、「八戸根城と南部家文書」)
 で、その後八戸はどうなったのでしょうか?有力な工藤氏が八戸から逐われてその後南部氏が
貰ったと言っていいと思いますが。

 






967962です:02/12/21 16:25
小さいころ母に「ここがご先祖のお城だよん」と、遠野の古城跡に連れて行かれましたなぁ・・・
「南部さんの前は、ここに私たちがいたんだよ〜」って。
>>965 さん
そうなんですか?
知らなかった〜 なんか、楽しいなぁ・・・
結構あちこちに雑草のごとく残ってるもんなんですねぇ
968日本@名無史さん:02/12/21 22:51
>>527
>>796
隠尾城主、南部源左衛門尚吉ですな。
渡辺とも名乗ったそうですが詳細不明。
神保氏に属して、上杉謙信と戦って討死。
祖は南部遠江守宗継の舎弟次郎左衛門宗治で、
足利直義に仕えていたが、直義滅亡後、同地に
住み着いたとのことです。
969しったかぶり:02/12/22 08:29
>962さん 文字どうり しったかぶりです。
以下の文書が遠野保が公式記録に出てくる初出だそうです。

遠野保 建武元年八月三日 北畠顕家国宣 (1334年)

   (花押)北畠顕家
阿曽沼下野権守朝綱代朝兼申、
遠野保事、申状如此、子細見状、
所詮下日追却面懸左衛門尉以下輩、
可沙汰付朝兼、使節遅引者可有
其咎也者、依 國宣執達如件、
 建武元年八月三日 大蔵権少輔清高奉
南部又二郎殿

 阿曽沼朝綱と朝兼は親子
面懸左衛門が不法を行ってるので又二郎に
何とかしろ、と顕家が言っております。
970 :02/12/24 12:33
クリスマス保守
971しったかぶり:02/12/24 22:33
>968さん
足利直義の頃、遠江守と言えば、南部政長ですが、
「南部遠江守宗継の舎弟次郎左衛門宗治」は謎の兄弟
といわざる得ないです。根城南部も三戸南部も系図の中には
発見できないのではないでしょうか?
 甲斐の南部氏とは関係があるかもしれませんが、根城、三戸
とは別の南部氏のような気がしますが。
>930さん
 おっしゃるとうりかもしれません。「多田貞綱」は摂津の出身らしいです。
 小井田幸哉氏、「八戸根城と南部家文書」
972日本@名無史さん:02/12/24 22:49
>>971
舎弟って弟分のことか?ヤクザの世界とは違うか。
973968:02/12/25 20:06
>>971
『日本城郭大系7』 
隠尾城の項に書いてあるのをそのまま書いたんですが、それによればかの家
の子孫の方が所持していた家譜によるそうです。ですから信憑性はあまりないかと。
974日本@名無史さん:02/12/25 22:05
「多田 貞綱」の「貞」の字は、北条 貞時の偏諱(へんき=目上の者
の名前を一字名前に取り入れて、主従関係をあらわすこと。)かと
思われますね。清和源氏の発祥の地、多田荘は得宗領だったと思われ
るので、多田氏は得宗被官だったと推測されます。どうでしょう?し
ったかぶりさん。
975しったかぶり:02/12/25 23:45
>974さん  多田 貞綱ですがフルネームは
「多田木工助貞綱」(もくのすけ)です。、建武元年四月十三日に顕家が糠部、
特に津軽方面が不穏なので國府から師行の元に送っています。その後津軽に
移動したいるようですが、安藤氏、平賀氏と不和なので國府に呼び戻した
、とあります。
 
(略)平賀ハ多田ニも不和、結句又安藤五
郎二郎とも不和事出来歟之由、其聞候之間、費召返
候也、(略)

 >939の書状にあるように源氏ですね。
詳しくは分かりませんが、顕家が連れて行った幕僚の一人かと思われますが。
共に多賀城に下ってきて、共に石津で戦死したものでしょうか?
 得宗被官だったかどうかは、何ともわかりません。
976日本@名無史さん:02/12/28 16:04
実況版にて

【新撰組で】壬生義士伝@1【一番強かった男】
http://live.2ch.net/test/read.cgi/endless/1041054799/l50
12月28日(土)18:30〜21:54
第1部「遥かなる故郷」/第2部「京都雫石恋唄」

見るべし!
977日本@名無史さん:02/12/29 07:24
再放送か、いい小説だけど歴史とはあまり関係ないな。
南部の土地は描かれているよりも、当時はもっと貧しかったと思う。

原作者の浅田次郎氏の娘さんが盛岡市在住で、その縁で盛岡に
度々来るうちに、盛岡が好きになり、彼なりの盛岡賛美小説を書い
たらしいです。


浅田氏が盛岡賛美の小説を

978977:02/12/29 08:35
>>977
最終行は改行ミスです。
979日本@名無史さん:02/12/30 10:36
NHKで九戸政実クル━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!
http://www.nhk.or.jp/aomori/tokuban.htm
980日本@名無史さん:02/12/30 23:34
>>979
電波作家、何故かNHKには好かれているんだよな。
981しったかぶり
在地の國人から師行への書状が三通残っています。そのうちの一通。
              「八戸根城と南部家文書」から
二月廿六日 沙弥道覚書状 (建武元年)

先度預御状候之条、恐悦存候之處、
又加様承候、悦入候、如仰軍勢入
事なんと候者、可蒙仰候、去年愚孫
彦五郎冠者令参京都候之間、若党
等相付之候畢、雖然承候者かへかへしからす
候とも、少々可令至候、又小鳥二預候処
含寄候御志之至悦存候、勞身にて
候之間、行歩不合期候程ニ、眼前ニこれ
をおき候て自愛備候間、 勞もなをり候
と存候、恐々謹言、
  二月廿六日      沙弥道覚   
謹上  南部殿
  御返事

師行からの書状への返事です。
 「さきに受け取った書状でさへ恐悦でしたが、又このような書状
をいただき喜んでおります。軍勢が必要な事があったら仰せのとうり
に致します。
 去年、愚孫、彦五郎冠者を京都に送った時に若党をつけてやったので、
人数は少ないですが、緊急の際には八戸へ軍勢を送ります。
 小鳥二羽を送ってくださり、喜んでおります。
歩くことも、ままならない身なので眼前におき、楽しんでおります。」 

 「沙弥道覚」は不明です。鎌倉時代以来の在地の給人だと思われます。
 よかったら、正月なのでごゆっくり読んでみて下さい。(W)