2 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:40
そもそも、斉明天皇ってのは、かなりの傍系。
敏達天皇→押坂彦人大兄皇子→茅渟王→宝皇女(皇極天皇,斉明天皇)
もちろん、天武天皇もめちゃくちゃ傍系。
用明天皇→麻呂子皇子→高向王→漢皇子(天武天皇)
このように天皇の3世孫(しかも傍系)が天皇になるのが続出するのは日本史上異様。
これは複数の王朝が存在していたことを示しているのだ。
>1
新スレ乙!
中傷は放置の方向でいきませう。
九州王朝大好きさん、
また、ヨロシコ。
5 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:43
倭に関する情報をまとめてみよう
-10C オッフル(旧プント)人、九州北部に到達、東表国(豊国)を建国。[南倭]<契丹史>
-2C 漢・劉邦、帝位に就く。このころ、遼東郡の西北に倭地あり。
1 紀元前後。「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国、‥‥献じ見ゆ」<前漢書>
14 「倭人、兵船百余隻を出し、海辺の民戸を掠う」<新羅本紀>
49 後漢、南朝鮮の倭韓両族が楽浪郡に朝貢するが、50年、楽浪を放棄。
57 この頃、倭、小国100余国分立、倭奴国が後漢の光武帝より印綬賜る。<後漢書>
107 この年、倭面土国王帥升ら、後漢の安帝に生口160人を献じ請見を願う。<後漢書>
122 11月、「都人訛言、倭兵大いに来る。争って山谷に遁る」<新羅本紀>
170 弁辰「国、鉄を出す。韓・ワイ・倭、皆従ってこれをとる」。<魏志・弁辰>
204 南満州の公孫氏、楽浪郡を得、その南半を帯方郡とし韓人・倭人を統轄す。<魏志>
239 倭、6月、卑弥呼、帯方郡に使を送る。魏の明帝、卑弥呼を親魏倭王となす<魏志>
240 この年、帯方郡大守の使、詔書・印綬を持って倭国に至る<魏志>。
243 倭王、大夫伊声耆・掖邪狗ら8人を魏に遣わし、生口・倭錦等献上<魏志>。
266 倭、この頃、倭国女王壱与、西晋に入貢す<晋書>。
391 倭、渡海して百済・新羅を破る。 [辛卯の乱] <広開土王碑>
392 倭、百済の辰斯王を殺させ、阿花を王とす。<契丹史>
397 倭、百済に軍を送り、枕弥多礼・硯南・支侵・谷那・東韓の地を奪う
6 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:43
>用明天皇→麻呂子皇子→高向王→漢皇子(天武天皇)
これトンデモ系では・・・・
7 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:44
404 倭軍、帯方郡の故地に出兵し、高句麗軍と戦って敗れる<広開土王碑>。
413 倭王、東晋に方物を献じる<晋書>。
413 東晋、「安帝の時、倭王賛あり」。<梁書>
421 倭王讃(仁徳?)、宋に修貢し、武帝より除授の詔を賜る<宋書>。
425 倭王讃、司馬曹達を遣わし、宋の文帝に上表し、方物を献じる<宋書>。
438 倭王讃没し、弟の珍(反正?)立つ<宋書>。
438 倭王珍、宋に使を遣わして貢献し、安東将軍倭国王の称を賜る<宋書>。
443 倭王済(允恭?)、宋に奉献、安東将軍倭国王の称を賜る<宋書>。
451 倭王済、使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加授さる<宋書>
460 倭王済、宋に使を遣わし、方物を献じる<宋書>。
462 倭王済没す。世子興(安康?)宋に貢献して、安東将軍倭国王の称を賜る<宋書>
477 宋、倭国遣使が方物を献ず。<宋書>
478 倭王興没し、弟の武(雄略?)立つ。倭王武、宋に上表貢献す。<宋書>。
478 倭王武、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍を賜る。
479 倭王武、南斉の高帝より鎮東大将軍の称を賜る<南斉書>。
502 倭王武、征東将軍の称を賜る<梁書>。
513 倭、百済に任那の己モン・帯沙を割譲。<百済本紀>
8 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:46
>そういえば、大国主の息子だか孫だかが逃げたところから、縄文遺跡が発掘されたという
ことがありましたよね。
>これなどは偶然とは言えないですよね。
>やっぱり何らかの事実が反映しているということなんでしょうね。
だからって大国主を縄文時代の歴史にゃできないよ。
>2
誤爆?
10 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:47
>>6 天武天皇が、天智天皇の同母同父の弟だとしたら、
なぜ、天武天皇が、天智天皇の娘を4人も嫁にむかえているの?
これは天武天皇と天智天皇は別系統の王朝であることを示しているよね。
九州王朝大好き=中傷マニア
姪と結婚するのはそう珍しくないと思われ
ここにいる人たちって・・・(笑
14 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:52
>>12 同父異母の姪(=同父異母の兄弟の娘)との婚姻は珍しくない。
同父同母の姪(=同父同母の兄弟の娘)4人との婚姻は異例。
>>11 キミがこのスレの放置第一号に認定されますた。
16 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:55
斉明天皇の九州出兵は、半島での異常事態に乗じて、
九州王朝を潰しに入ったとしか思えないのだが‥。
17 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:58
思えないのは思考力不足。
18 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:02
中大兄皇子と大海人皇子の争いは2つの王朝の最後の統合の戦いですな。
つまり、九州王朝の存続した時期には諸説あるが、
壬申の乱において二つの王朝は統合されたと見るべきでしょう。
>>16 いや、それは違うと思う。
斉明は「朝鮮出兵」に力を貸すことを余儀なくされたのだと思う。
白村江の戦いまでは、九州王朝>近畿天皇家という勢力関係だと思われるので。
九州王朝を潰しにかかったのは、天智だと思うよ。
20 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:02
ところで魏志倭人伝に「銅矛」があると書いてあるというウソはどうなりまつたか?
21 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:04
よくわからんのは「防人」だな。
あれはやはり近畿天皇家勢力から守るための、九州王朝側の設置だと思うが・・・
そもそも九州にはすでに劉徳高が2千の部隊を率いて進駐してきているのだから。
>>21 まあ、敵情視察、ということも含めた九州入りということなら、その通りだと思いますが。
24 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:07
その防人に東国人が行くのはなぜ?
25 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:09
九州王朝説って支離滅裂ですね。
九州王朝勢力と尾張東海勢力が組んだのが、天武天皇の勝利だと思うが。
強いて言えば、天武朝は九州王朝が日本を統合したものとも解釈可能。
27 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:10
>>24 東国人と九州王朝は、壬申の乱の例を見ての通り、両者が組んでいるよね?
28 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:13
そんなことよりおまいら、うんこでもたべてみたらどうだ?
ちょっとちょっと、うんこうんこといってばかにしてないかい?
うんこってばまあえいようはたいないにきゅうしゅうされてしまって
いるがしょくもつせんいがほうふなんだぞ!
ふかしたてのさつまいもいっぽんたべるよりあさいちのうんこいっぽん
くってみなさいってこと
あと、天武について日本書紀が「大皇弟」と書いていることだな。
いっけん「皇太子」の弟バージョンみたいな記述だけど、「皇太子」でもない
「皇太弟」でもない中途半端な称号。
そもそも天智紀には大海人の立太子の記述は存在しない。
ひょっとして「大皇弟」というのは九州王朝の特徴である「兄弟政治」の
「弟王」の称号ではあるまいか。つまり倭王→倭帝となったあとの弟王は当然
王ではなくなる。しかし「帝」が同一王朝に二人というのはおかしいので「大皇弟」
と称したのではないか、と。ただの皇帝の弟ではないから「大」が付くわけだ。
30 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:16
妄想爆発
31 :
九州王朝大好き:02/12/24 01:16
>>16 斉明天皇の九州出兵は九州王朝の半島出兵に乗じてしたものであることは明らかです。
戦争の収束方法から判断して他に解釈の方法はありませんから。
>>4>>13 中学生さんは本当に厨房ですか?
僕は労某です。
32 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:17
>>29 なるほど。
天武と持統(=天智の娘)の婚姻ならびにその子孫の皇統維持は、
日本における両王朝の統合と意味合いからいっても堅持されたのではないだろうか。
九州王朝説がメジャーになれない本当のわけが実感できた。
34 :
九州王朝大好き:02/12/24 01:25
>>18〜29
??????なんですけれども!
私には狆分感奮!
>>31 私は斉明の「親征」という点がひっかかるんだ。
対九州王朝戦の出兵ということなら、なにも女性天皇自ら朝倉まで出向く必要は
ないと思われるので。
これは九州王朝側の要求、手っ取り早くいえば「人質」として朝倉入りしたんじゃないかと。
なにしろ近畿天皇家は仲哀、継体と二度にわたって九州へ反乱を企てているからね。
対唐・新羅戦の前に、後顧の憂いを取り除くのが目的ではなかったかと。
36 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:30
日本書紀の記述する「狂心渠」というのを斉明が作ったというのも、
九州王朝との戦いを想定せずして理解不能だろうな。
つまり近畿側は九州王朝軍に攻め込まれることも視野に入れて作戦を立てていたわけだ。
37 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:36
>>32 別系統(=遠い傍系を含む)に皇統が変わった場合、
天智の娘4人を天武が嫁にしたのとよく似た前例がある。
・継体天皇⇒手白香皇女(仁賢天皇の皇女)を皇后とする
・安閑天皇(=継体天皇の第二皇子)⇒春日山田皇女(仁賢天皇の皇女)を皇后とする
・宜化天皇(=継体天皇の第二皇子)⇒橘仲皇女(仁賢天皇の皇女)を皇后とする
さらに欽明天皇(=継体天皇と手白香皇女の間の皇子)は、
石姫皇女(=宜化天皇と橘仲皇女の間の皇女)を皇后として、
その間の皇子である敏達天皇→押坂彦人大兄皇子→舒明天皇と現在の皇統に続く。
理解不能
39 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:43
>>37 ただ、継体は明らかに別系統であることを隠してはいないのに対し、
天武の場合は明らかに天智の弟であると記載されている。
仮説としては面白いのだけれど。もっと追求し、研究してみればいろいろ発見があるかも
知れないですね。
40 :
九州王朝大好き:02/12/24 01:44
>>35 >対九州王朝戦の出兵ということなら、なにも女性天皇自ら朝倉まで出向く必要はないと思われるので。
>これは九州王朝側の要求、手っ取り早くいえば「人質」として朝倉入りしたんじゃないかと。
同意。その一面がないと九州王朝側も近畿王朝軍を九州に受け入れられない。
41 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:46
現在の皇統の祖になる敏達天皇の祖父母を見てみますと、
・父の父=継体天皇
・父の母=手白香皇女(=仁賢天皇の娘)
・母の父=宜化天皇(=継体天皇の息子)
・母の母=橘仲皇女(=仁賢天皇の娘)
みごとに両系統から引き継がれていることが分かります。
母系はすべて前王朝である仁賢天皇から来てるのですよね。
九州王朝と近畿王朝の統合でも同じ構造が見て取れますよ。
42 :
九州王朝大好き:02/12/24 01:53
>>41 >九州王朝と近畿王朝の統合でも同じ構造が見て取れますよ。
???????
九州王朝と近畿王朝の統合は無かったと見ますが?
九州王朝は712〜720年に近畿王朝軍によって最終的には隼人によって殲滅されています。
43 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:56
>>41 つまり天武=九州王朝の一人
という仮説に立ってのことですか?
44 :
九州王朝大好き:02/12/24 01:57
>>41 追伸
九州王朝の最後の王は、最後に罪人として隼人に処刑されています。
45 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:58
>>44 誰? その王っていうのは。(筑紫公か何か?)
46 :
日本@名無史さん:02/12/24 01:59
>>43 そうなりますね。
九州王朝と東海勢力とで壬申の乱に勝利したとみるべきでしょう。
>>46 仮説という話ならよくわかりました(笑)
私は天智&大友皇子=九州王朝からの禅譲派
天武=九州王朝打倒・併呑派
という仮説に立っていますので(19、22、29、35、36、39などが私)
むろん天武は天智の弟という立場ですが。
48 :
日本@名無史さん:02/12/24 02:10
弓削の道鏡の件で、宇佐八幡に神託をもらいにいったという話は、
やはり九州王朝の存在を肯定する材料なのですか?
49 :
日本@名無史さん:02/12/24 02:11
>>41 両王朝の統合の結果生まれた文武天皇(軽皇子=草壁皇子の子)の場合、
・文武天皇の母=阿閉皇女(=天智天皇の娘)
・文武天皇の父の母=鵜野讃良皇女(=天智天皇の娘)
と、母系は前王朝である天智天皇の娘となってますな。
継体天皇の時と全く同じパターン。
50 :
九州王朝大好き:02/12/24 02:11
>>45 筑紫公とは書かれていませんが、九州王朝の残党として、又罪人として処刑されたと読み取れます。
九州王朝の最後について近畿王朝側からは反乱軍として書かれています。
数次にわたる近畿王朝側の勝利として書かれています。
51 :
九州王朝大好き:02/12/24 02:17
53 :
日本@名無史さん:02/12/24 02:24
>>47 もし天武が天智の弟だとすれば、
なぜ継体天皇〜欽明天皇〜敏達天皇のときに母系を常に前王朝系としたように、
天武天皇〜草壁皇子文武天皇も全く同じく母系を常に天智天皇娘としたのですか?
これはどう見ても、天武天皇と天智天皇が別系統であり、
争った両者が統一して両系統の統合を堅持したとしか見れないと思いますよ。
そういや天武の子・高市皇子は、母が九州の宗像君の出自だったなぁ・・・
高市が持統朝においてかなり発言力があったというのも、なにやら九州王朝と関係が
ありそう。
また、持統がすぐに文武に譲位できなかったわけも。
(高市が死ぬのを待っていたっぽい)
55 :
九州王朝大好き:02/12/24 02:27
56 :
日本@名無史さん:02/12/24 02:32
孝謙天皇が皇位を譲った先の淳仁天皇の場合でも、
淳仁天皇の祖母である新田部皇女は、天智天皇の娘ですな。
これほど天武朝が前王朝の娘を母系とし続けたことは、
両者が完全に互いを潰し合うのではなく、
父系と母系として統合するという日本的手法に則ったといえよう。
みなさんおやねずみ〜
58 :
日本@名無史さん:02/12/24 02:37
59 :
日本@名無史さん:02/12/24 02:37
>>53 いや「もし」ではなく天武が天智の弟であることは史料に明記されているので。
だからあなたの主張はあくまで「仮説」です。むろん「仮説」を軽んじるつもりは
毛頭ありませんよ。
私自身の解釈としては、大田皇女も持統も「蘇我系」だということです。
系譜を男系だけ見ればわかりずらいでしょうが、女系をたどれは明らかに
持統→文武→元明→元正は「蘇我倉山田石川麻呂」の系統をたどっています。
天武は天智の娘にこだわったというより、石川麻呂系にこだわったとする方が
理解良いと思いますので。
むろん私の考察も仮説です。
62 :
日本@名無史さん:02/12/24 02:49
>>60 藤原不比等が天智天皇の子供であるという説に基づけば、
聖武天皇の母である藤原宮子も天智天皇の孫娘。
称徳天皇の母である藤原安宿媛も天智天皇の孫娘。
もちろん、藤原不比等が天智天皇の子供であるという噂を無視しても、
母系をたどると天智天皇の娘か藤原鎌足の孫娘であるという事実は変わらず、
天武朝にとっては前王朝の娘たちを常に迎え続けたことは事実である。
そういえば続日本紀には
「正規の軍団」が山沢に拠って反乱することを禁ずる、という摩訶不思議な
詔勅が出ていたような・・・
>>62 聖武が「孝謙の後に」と遺言し、皇太子となった道祖王(ふなどのおう)は天智とは
無関係ですけどね。
必ずしも天智にこだわってはいないのではないか、という例の一つということで。
65 :
日本@名無史さん:02/12/24 03:06
>>64 道祖王の祖母の五百重娘は、藤原鎌足の娘なので、
中大兄&鎌足という前王朝を母系とするのは崩れてないですよ。
>>65 私は同じことを根拠に、文武→元明の後に聖武がすぐに即位しなかったことは、
「蘇我系」が藤原系の天皇の即位に反対した、いわゆる旧勢力の最後の抵抗だと
思っているんですけどね。
道祖王の父、新田部親王(母・五百重娘ですね)は、長屋王の変の際、藤原宇合らの
率いる六衛府に出動を命じた人で、実際に事件の糾問にも当たっています。
当然、新田部親王は藤原系、そしてこの長屋王の妻が、実は母系が「蘇我倉石川麻呂」系
なのです。
長屋王の変は、蘇我系の王族が滅亡してしまった事件ともいえますね。
私自身は天武=天智の弟否定説には疑問があるのですが(別に系譜を偽らなくても、
天武を初代王としても特に差し支えないと思いますので)、女系というのを重要視する
あなたの方法自体には、非常に賛同するものがあって好きですよ。
ありゃ、
>>66の前3行はなんとなく意味不明な駄文となってしまった。
無視してください。
眠くなったのでそろそろ寝ます。
>>63 それは単なる誤訳で意味不明なんでしょう。
面白いスレになってきましたね。こういうの好き。
天武天皇が九州王朝のサチヤマだったというのは
古代史の説を沢山紹介したブックレットに
編集の石田さんの説で見たのが初見です。
青木一参という方もその説だったような。
ただ、遠山さんの本だったか、
天智、天武の嫁取りの話は、別系統だからでなく
純粋なサラブレッド皇統を作ろうとしたから、という説もあります。
70 :
日本@名無史さん:02/12/24 09:37
>「正規の軍団」が山沢に拠って反乱することを禁ずる、という摩訶不思議な
>詔勅が出ていたような・・・
武器を所持して山沢に逃げ隠れして100日以上自首しないでいる者には恩赦を適用しないって詔じゃなかったですか?
そうとう歪曲してませんか?
71 :
日本@名無史さん:02/12/24 10:24
>>48 たしかに、宇佐八幡と九州王権との結び付きが可能性としてはありそう。
ところで、宇佐八幡を重視したのは天武朝だけですか?
72 :
日本@名無史さん:02/12/24 12:26
>>70 九州王朝説がうそつき常習犯だという例証がまたひとつでまつた
73 :
日本@名無史さん:02/12/24 12:36
奈良の法隆寺と薬師寺は、九州王朝が北部九州に建てた寺院を、
大和朝廷が九州王朝を滅ぼした後、九州から奈良に移築したもの
だという説があります。
そういう本を出した人が一名いるのは事実。
75 :
九州王朝大好き:02/12/24 18:44
京都の三十三間堂も九州から京都に移築したものだという説があります。
>>72 >>70は誤読でしょう? うそつき常習ではないと思います。
九州王朝説は常習犯。証拠が山積。
77 :
日本@名無史さん:02/12/24 18:57
>>75 さすがにもう誰もついてこないトンデモの世界じゃないですか?
78 :
九州王朝大好き:02/12/24 19:00
>>46>>47>>54>>60 ちょっと勉強しました。
蘇我氏と九州王朝滅亡の関係はおもしろそうですね。
ちょっと突っ込んでみたい気分です。
今まで考えたことも有りません。
と、話をそらすのだった。
80 :
日本@名無史さん:02/12/24 19:26
公平に見ても、九州王朝説のみなさんはちょっと誤情報を流しすぎだと思いますよ。
せめて指摘されたら訂正するかきちんと反論しないと。
81 :
九州王朝大好き:02/12/24 19:43
大宰府の観世音寺の僧坊を京都に移築したものが三十三間堂であるとの説があるのをご存知ないのですか?
建築の専門家の説で説得力があります。
私は説得されました。
現在、観世音寺の僧坊跡には礎石があるだけですが、みごとに証明しております。
82 :
日本@名無史さん:02/12/24 19:45
根拠は?
83 :
日本@名無史さん:02/12/24 19:53
岩戸山古墳は三世紀に九州王朝によって作られた大王墓だという説があります。
84 :
日本@名無史さん:02/12/24 20:14
>>81 さすがに三十三間堂が九州から移築されたなんて説にはついていけません。
専門家の言うことだから何でも信用できるということではないですし。
あなたが説得されたということですから、どう説得されたのか説明してほしいです。
85 :
九州王朝大好き:02/12/24 20:41
>>83 >岩戸山古墳は三世紀に九州王朝によって作られた大王墓だという説があります。
三世紀ではなく、五世紀の間違いでは?
埋設された者は火葬で仏教徒と聞きましたが。
骨壷の確認までは出来ておりませんが。
86 :
九州王朝大好き:02/12/24 20:55
>>64 内容を理解できるれべるで説明すると、論文一編、本一冊になるので、趣旨を述べると、
寸法が偶然の一致ではなく、一致するということです。
著書を読んでください。
著者は法隆寺の移転説も書いています。
著者名、著書名は忘れました。
知っておられる方、書き込んでくださいませんか?
>>84 >>81は読んでないんだけど(ゴメンね、ngwordになってて表示されないんだ)ネットを漁るとこんな事が書いてあった。
>米田良三氏は、その著書で「今に残る、法隆寺・東大寺・薬師寺・長谷寺・法輪寺・法起寺・興福寺・東福寺はいうにおよばず、
>三十三間堂・桂離宮等々、これらあまたの建物が、九州倭国より移築されたものである。」と述べておられます。
三十三間堂ぐらいで驚いちゃいけない。
桂離宮も九州倭国から移築だってさ。
説明を求めるだけ無駄だと思うよ。
88 :
日本@名無史さん:02/12/24 21:04
なんだ、爆笑系か。
89 :
九州王朝大好き:02/12/24 21:09
>>87 米田良三の説で三十三間堂は支持できますが、法隆寺大伽藍の支持が限界です。
後は移築かどうかわかりません。
90 :
日本@名無史さん:02/12/24 21:12
支持できるって、いったい三十三間堂がいつ移築されたっていうの?
91 :
九州王朝大好き:02/12/24 21:17
92 :
日本@名無史さん:02/12/24 21:23
それで九州王朝は九州に三十三間堂をいつ建設したんですか?
93 :
日本@名無史さん:02/12/24 21:28
ポカポカの九州王朝
悲惨
95 :
日本@名無史さん:02/12/24 22:02
法隆寺についてはなかなか説得力があった。特に、心柱が浮いていることについての
説明は、そうでもなければ考えられない。
九州王朝説は「説得力がある」「考えられない」が口癖。
いつも論理的説明はない。
97 :
日本@名無史さん:02/12/24 22:22
心柱が浮いているのはどこの五重塔でも普通でしょう。
そんなことが九州から移築されたという根拠なんですか?
その人ほんとうに建築の専門家なんですか?
98 :
日本@名無史さん:02/12/24 22:28
>>36 狂心渠と呼ばれてまで、九州王朝との戦いに備えたのですね。
99 :
日本@名無史さん :02/12/24 23:15
歴史は海の中にある
今ある海岸線よりはるか沖まで陸地がつづいていた時代
大陸も列島も半島でさえ今の区別が意味を成さなかった時代がある。
今よりずっと小さかった環黄海地域に倭人がいた
半島のナショナリズムも近畿の天皇家オンリーも視野が狭いぜ
100 :
日本@名無史さん:02/12/24 23:23
100
法隆寺の釈迦三尊像がもともとの法隆寺にはなかったことは、ほぼ間違いないのでは?
銘文が近畿天皇家からは「法興元」「鬼前大后」「干食王后」などがまるで理解不能だし、
台座にされていたものがもともとの建物の扉だったらしいことが明らかになってきている。
そこに書かれた「尻官」という官名は、やはり近畿天皇家には存在しない。
九州王朝から持ってきたかどうかはともかく、よそからのパクリもんであることは
間違いなさそうだ。
部落問題を解決するには天皇家にえたの血を入れよA
天皇・・・ハレ
庶民・・・ケ
部落民・・ケガレ
天皇制をぶっつぶしたたかない限りね同和問題もなくならないの。ワカル?
>>1に5万フラン
藁
古代史の授業聞いててで何でだろって素朴に思ったのが、
>観世音寺、古代において北九州の扱いがやけに高い
>法隆寺釈迦三尊像の「台座」が不自然に注目される
>和気清麻呂がわざわざ宇佐に神託をききに行った
105 :
九州王朝大好き:02/12/25 02:29
近畿王朝説派の頭を混乱させる事実の積み重ね。
>>104の素朴な疑問を近畿王朝説派はどのように説明を試みるのですか?
やはり、だんまりでやり過ごすのですか?
>>101についてもだんまりですか?
>>97 米田良三氏の略歴は忘れましたが、東京工業大学建築学科卒業後建築史関係の仕事をしていたような記憶ですが、知っている方いませんか?
>>92 三十三間堂は観世音寺の一部である僧坊として建設されましたから、
又、観世音寺の建設は、大宰府新都の建設の一環のなかで行われましたから、
7世紀初頭です。
106 :
日本@名無史さん:02/12/25 02:42
>>105 まあ、そういうこと言い出すとまたスレが荒れるから・・・
107 :
九州王朝大好き:02/12/25 02:52
108 :
日本@名無史さん:02/12/25 03:32
神功紀の説話で新羅王子(微叱許智伐旱)を奪回に着た使者の話がある。
これは三国史記・三国遺事にも対応する説話が掲載されているが
あれは北部九州に倭国の都がなければ到底理解できない話だ。
109 :
日本@名無史さん:02/12/25 04:26
>>98 他に「狂心渠」と揶揄されるほどの大工事をする理由が見つからないので。
時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬余矣。費損造垣功夫七萬余矣…
これが誇張なのか事実なのかは論議が別れるところだが、事実とするなら、三万+七万
計十万人も動員しての土木工事など、戦争準備くらいしか考えられないのだ。
たぶれごころのスレ
>>110 おっ、ちゃんと読めるじゃん。
ちっとは勉強しているのね。
112 :
日本@名無史さん:02/12/25 06:52
やれやれ。
大陸や半島への門戸で一大都市なんだから、古代に北部九州の比重が高いのはあたりまえです。
法隆寺は罹災再建が通説なんだから台座が不自然でも当然。
宇佐に神託を取りに行かせたのは宇佐が称徳サイドに迎合する体制だったから。
三国史記の説話はよく読めば「北部九州に倭国の都がなければ」なんて事実がないことが判明する。
狂心渠は戦争準備なんてわかりやすい目的がないからたぶれごころなんて呼ばれる。
113 :
日本@名無史さん:02/12/25 07:03
112
他にもその話題についての本があるが、若草伽藍からの再建について、
詳細をわかっていってんの?罹災再建だったら、なんで台座が不自然なのか
ちゃんとした説明をして欲しい。どっちがやれやれだか。
まったくだ。
>宇佐に神託を取りに行かせたのは宇佐が称徳サイドに迎合する体制だったから
この説明で、何で宇佐八幡の神託などが「皇位」という重大事項を決定するのか
理解できない。
115 :
日本@名無史さん:02/12/25 07:09
>法隆寺は罹災再建が通説なんだから台座が不自然でも当然。
で、「尻官」という近畿天皇家にない官名がその台座に書かれているのも、
罹災再建なら当然なのですか?
116 :
日本@名無史さん:02/12/25 07:15
>三国史記の説話はよく読めば「北部九州に倭国の都がなければ」なんて事実がないことが判明する。
どうして近畿天皇家に人質として来ていた新羅王子が、「対馬」なんかにいたのだろうか。
117 :
日本@名無史さん:02/12/25 07:22
>>115 その「尻官」っていうの、以前から気になっていたんですけど。
尻=シリ・ジリと読むんだと思うのですが。
足=タリ→後代の「太郎」に相当するとしたら、
尻=ジリ→後代の「次郎」「二郎」に相当するのではないですかね?
たとえば神官に「禰宜二郎」っていうのが今でもありますよね? どうなんでしょうか?
称徳天皇の時代の頃までは
天皇家の祖先が九州発祥であることが
伝わっていたのではなかろうか?
そう考えるのが一番自然なんじゃないかな?
だけどそれならどうして天皇家の祖神が
伊勢に祭られているのか?
不思議が多過ぎる…。
119 :
日本@名無史さん:02/12/25 09:02
>>118 なにボケてんの?
既に記紀は成立してるんだから,天皇家は九州から来たことに「決まった」あとでしょ?
120 :
九州王朝大好き:02/12/25 13:14
下記読み直していると間違っていることに気がつきました。
>>83 >岩戸山古墳は三世紀に九州王朝によって作られた大王墓だという説があります。
>三世紀ではなく、五世紀の間違いでは?
>埋設された者は火葬で仏教徒と聞きましたが。
>骨壷の確認までは出来ておりませんが。
上記修正します。
岩戸山古墳は6世紀の古墳です。
アメノタリシホコの墓といわれています。
宮地獄古墳が5世紀の古墳と見られます。
宮地獄神社の宮司さんの話では、古墳内からきれいな骨壷が出てきたそうです。
それで、埋設された者は火葬で仏教徒であると判断しました。
骨壷及び近辺の古墳から出てきた華麗な埋葬品は今何処に保管されているのか確認できませんでしたが、
この古墳群の埋葬者は「倭の5王」朝の一族のものと推定しております。根拠は未だ希薄です。
なお、この古墳は、奈良の石舞台に土をかぶせたような、石室の大きさに比べ全体としては小さな古墳です。
余談ですが、
宮地獄神社東側裏山の名前と大宰府の東側の山の名前が同名(名前は忘れました)なのは何故でしょうか?考えすぎでしょうか?
津屋崎・大宰府の方にお願い。山の名前を教えて下さい。
121 :
日本@名無史さん:02/12/25 13:30
119だけど「宇佐神託」について書き漏らしたので追加。
そもそも和気清麻呂が宇佐に遣わされたのは,「皇位を道鏡に譲るべし」という託宣が先に出ていて,それを確認しに行ったんじゃなかったけ?
宇佐の一部に道鏡に取り入ろうとした勢力がいた,としか言えない。
九州王朝には結びつけられないだろうね。
>>120 九州王朝大好きさん,もっと考古学の研究成果を勉強してね。
津屋崎の宮地獄神社古墳は7世紀のものだよ。
122 :
日本@名無史さん:02/12/25 14:25
法隆寺東西伽藍や薬師寺東塔、東大寺三月堂等の現存する飛鳥奈良両
時代を寺院建築ばかり物証にあげて、九州からの移築説をいうのはアンフェア
だと思う。奈良の古代寺院が九州から移築されたと主張するなら、吉備池廃寺、
尼寺廃寺など、すでに廃絶してしまった奈良の古代寺院も九州から移築された
ということを物証を挙げて証明してみるべきだ。
123 :
日本@名無史さん:02/12/25 18:49
122。いみがわかりましぇん。それに、あんたは証明できるのでつか?
124 :
日本@名無史さん:02/12/25 19:39
>>116 >どうして近畿天皇家に人質として来ていた新羅王子が、「対馬」なんかにいたのだろうか。
だから三国史記の説話はよく読めば判明すると書いてあるのにどうして三国史記を読まないんですか?
新羅に侵攻するための道案内役にして海中の山島に来たと明記してあるでしょう。
125 :
日本@名無史さん:02/12/25 20:02
>>115 >で、「尻官」という近畿天皇家にない官名がその台座に書かれているのも、
>罹災再建なら当然なのですか?
当時は移民一世が活躍していた時代。
倭国の官名だという根拠もないしそれが官名だという確証もないので意味なし。
126 :
九州王朝大好き:02/12/25 20:35
>>121 指摘がなければ、後日又再修正するところでした。
宮地獄古墳は7世紀でしたね。
久しぶりに思い出して、「倭の5王」朝と混乱しているようです。
九州王朝も王朝の交代が何回もあったようなので。
宮地獄神社東側裏山の名前と大宰府の東側の山の名前が同名な事に疑問を思ったのは、大宰府の皇帝の出身地だからと思っていたからです。
考えすぎでしょうか?未だ根拠は全くありません。
いつも根拠は全くありません。
128 :
日本@名無史さん:02/12/25 22:12
>>102 >銘文が近畿天皇家からは「法興元」「鬼前大后」「干食王后」などがまるで理解不能だし、
法興元は私年号とするのが通説でべつに理解不能でもなんでもなし。
鬼前大后は「十二月鬼、前大后」と読んで固有名詞にしない説と神前大后と読んで石寸神前宮にいた穴穂部間人の別名とする法王帝説の説明があり、べつに理解不能でもなんでもなし。
干食王后は「かしわで」と読むのが通説で、べつに理解不能でもなんでもなし。
129 :
日本@名無史さん:02/12/25 22:47
>>120 >岩戸山古墳は6世紀の古墳です。
>アメノタリシホコの墓といわれています。
さすがにそれは時代が合わないんでは?
それにしても仏教公伝538年としても、
それから数十年であんなに立派なホンモノの伽藍ができてしまうというのは驚嘆
です。飛鳥の寺建築にしても、仏像や玉虫の厨子など仏教美術にしても高度すぎる。
それ以前の神社建築の技術も高度だったのだろうけど、お雇い外国人数人で指揮
できるんだろうか。蘇我稲目以前から接触があったのかなあ。
>>129 あくまで言い伝え、仮説のたぐいじゃないの?
132 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:28
>>131 いや。須恵器編年上で齟齬をきたしてる。
>>128 そういう風に「無理矢理」こじつけて理解する方法を嫌うのが九州王朝実在説派の
特徴だと思ってくださいな。
干食=かしわで と読むのはあまりに恣意的すぎ。どうやったらそう読めるのか?
法興元=私年号 どうして私年号の類が法隆寺釈迦三尊像の後背銘に刻まれているのか?
法興という私年号が奈良近辺で使用されていた形跡があるのか?
鬼前大后=日本の古代では后の名前に「地名」を冠する習慣あり。したがって「鬼前」は
地名である可能性が高いと思われるが、奈良近辺に「鬼前」という地名はあるのか?
ハッキリ言って疑問山積じゃないの。
134 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:38
>>133 こじつけだ、というのは私も同感だけど、何もかも近畿の文献と矛盾すれ
ば九州王朝と結びつけるのはもっとこじつけだよ。わたしゃそういう論法
「も」虫が好かんね。
>>134 いえいえ、特に「九州王朝」にこだわっているわけではないですよ。
ただ、筑前には「鬼の前」という地名があったようなので。
これがそうだと主張するところまではいってないですが、今はただ
「近畿天皇家一元説」が成り立たないことを証明できればいいだけです。
本当に九州王朝が実在したかどうかはともかく、到底「根拠なし」とはいえない
ような状況だと思いますよ。
137 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:56
「無理矢理こじつけて」というような主観的表現を嫌うのが九州王朝否定の
特徴だと思ってくださいな。
>干食=かしわで と読むのはあまりに恣意的すぎ。どうやったらそう読めるのか?
よめますけど何か?
>法興という私年号が奈良近辺で使用されていた形跡があるのか?
法隆寺釈迦三尊像
>奈良近辺に「鬼前」という地名はあるのか?
長谷部天皇石寸神前宮治天下(帝説)
138 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:57
>「近畿天皇家一元説」が成り立たないことを証明できればいいだけです。
それはムリだろう。記紀の記事が事実を反映していることが証明されなければ
矛盾にならないんだから。「成り立たない」じゃなくて「まだよくわかっていない」
というなら私も賛成だが。
139 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:57
140 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:58
>>136 九州と結びつけるものが何一つ出ない以上、やっぱり「根拠なし」ですね。
根拠は十分すぎますね。
143 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:06
オレもそう思う。九州王朝はあったっぽい。
144 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:08
神前と鬼前じゃ違うじゃん。こういうのをこじつけというのだろう。
干食=かしわで と読めると強弁するのもすごすぎ。
こういうこじつけをして平然としている近畿天皇家一元説もうだめぽ
やはり九州王朝説に対する反論はこじつけしかできないようで・・・
まあ、九州王朝はともかく、「近畿一元説」っていうのはもうあかんでしょう。
ま、近畿マンセーの理論はその程度。
148 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:15
鬼は「カミ」と訓みます。
荒らし、煽りの類はともかく、根拠なしとするのは到底無理でしょうね。
そもそも天孫降臨したのがニニギで、その子孫が初代王だということは、
「傍流」が初代王ということでしょう?
傍流=天皇家ということは、本流が天皇家以外にあったとこを示唆するわけで。
>>148 それはちょっと無理なのでは?(汗)
他に鬼=カミと訓する実例はあるのですか?
こじつけこじつけこじつけと連呼する以外に反論できない旧習王朝説あわれ
九鬼文書
だってホンマにこじつけやん。
干食=かしわで とか。
154 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:23
まあ、近畿マンセーはその程度
155 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:26
>>149 なんか論理が通ってないのでは?
なぜニニギの子孫が初代王だと「傍流」が初代王ということになるのか意味不明。
干食=晩食の意で膳に通じますが何か?
>>155 だって、神武は「ヤマト」に来てはじめて「初代王」となったのでしょう?
ニニギはどう見ても、天孫降臨した時点で初代王ですよ。
続日本紀ではニニギを初代王だと主張しているし。
158 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:33
鬼前太后の崩御年月と天寿国繍帳銘の孔部間人の崩御年月が一致するので
鬼前=間人の通説は揺るがないでしょう。
こうしてみても当時は個人名の漢字表記がまだ揺れていた時代。
厳密に一致しないから別人だという論理には飛躍があります。
159 :
九州王朝大好き:02/12/26 00:33
>>129 3回目の間違い直しです。
指摘されなければ気がつきませんでした。
再々々修正です。
岩戸山古墳 6世紀 イワイ(磐井)の墓と言われています。
宮地獄古墳 7世紀 アメノタリシホコの墓と推定されます。
今、改めて考察。
と言うことは、アメノタリシホコは天武天皇の祖父となりますね。
近畿王朝で宗像(胸形)君徳善と呼ばれる人は、近畿王朝に敗れた九州王朝王家は宗像(胸形)君と呼ばれたことになります。
アメノタリシホコ=徳善は実に似合う名前ですね。
唐の捕虜になったサチヤマは天武と義理の兄弟・おじ・甥・いとこのどれかとなりますね。
今思いついたところですが、これでどうでしょうか?
このあたりは初心者ですのでよろしく。
160 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:37
>>157 時代によって初代の認識が違うのはよくあることです。
現に崇神も「初代」ですし。
しかし傍流という概念はどこからも出てきません。
161 :
九州王朝大好き:02/12/26 00:37
>>159 >宮地獄古墳 7世紀 アメノタリシホコの墓と推定されます。
推定されます・・って、誰が推定してるんだ?
それで
>>116の大馬鹿な間違いは誰も訂正しないのか?
九州王朝説ってこんな露骨な間違いも訂正しないで言い張るのか?
>>160 崇神の初国=初代説は無理でしょう。
「初国」の対語が「本国」で、元々の支配地域だということは佐々木信綱の
古事記の注釈にも出ていることですし。
当然、初国=新しい支配地域ということです。
私も特にニニギ初代を強弁するつもりはないですけどね。
ただ、神武が傍流だとする根拠は多いと思いますよ。
イワレヒコ=磐余という地域を支配する官 という理解は正当だと。
倭人伝が根拠なんですけどね。
165 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:46
>イワレヒコ=磐余という地域を支配する官 という理解は正当だと。
それはもう論破されてるんじゃ?
単なるイワレヒコじゃまくてイワレヒコミコトなんだから。
それより、ただのヒコが官ならヒコミコト、ヒメミコトが国王。
倭人伝が根拠なんですけどね。
>>163 最初からケンカ腰の態度のキミはどうせアイツだろ。
放置されてんだから誰も対応するわけねーの。
スレが荒れるんだよ。
168 :
九州王朝大好き:02/12/26 00:49
169 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:50
群雄割拠の時代は、王がたくさんいた
→淘汰されつつ、一番勢力が大きな王が大王となり→世襲制の正当化のため、天皇となった。 ってことは、ないだろうが、
九州に複数の勢力があったように思われる。
それが、大和勢力と、どう関係があるかが、わからん。
>>166 お、反論できないから居直って逃げるんだね?
全面的な間違いだろ?
恥を知ってるならコソコソ逃げないで潔く認めろよ、間違いを。
171 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:52
>九州王朝さん
やはり王朝というとアレルギーをおこす人が大勢いるから、
王権ていどの言い方のほうが興奮させずにいいのではないですか?
>>170は放置君の方向で
>それより、ただのヒコが官ならヒコミコト、ヒメミコトが国王。
>倭人伝が根拠なんですけどね。
これは卑弥呼=ヒメコ→ヒメミコ説のことですか?
その説の場合、弥弥奴離というのはメメナリと読むことになると思うのですが?
そのあたりはどうなのでしょう。
>>172 で、あなたも地獄古墳 7世紀 アメノタリシホコの墓と推定する?
>>173 うそがバレて恥ずかしいから臭いものにフタをするんだな!
いい根性だ。お前もうそつきの仲間入りだ。
176 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:01
>>173 ヒメコ→ヒメミコのメが脱落と考えれば別に弥弥奴離がミミナリでかまわないのでは?
同母音で囲まれたeの脱落のほうが音韻的に自然でしょう。
>>176 つまり卑弥呼=ヒミコ→ヒメミコというわけですね。
それなら弥弥奴離=ミミナリのままで良いわけですね。
178 :
九州王朝大好き:02/12/26 01:03
>>132 編年法はでたらめ。国際的にも認められない。
C14法、年輪法なら認められる。
179 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:04
>>173 >
>>170は放置君の方向で
事実関係ははっきりさせるべきだと思います。
反論するか、認めるか。
そうでなくても、相手側に「だんまり」と非難を重ねている人がお仲間にいるんですから。
襟は正すべきでしょう。
180 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:05
>>179 いや、最初からケンカ越し(荒らし目的?)のヤツを放置する方が大切。
スレの雰囲気、アイツ一人が悪くしているわけだし(毎度毎度)
まあ、私はその当該レス本人じゃないので反論する義務などないのですが。
過去レスを見ればケンカ腰だろうが丁寧な反論だろうが都合の悪い反論はだんまりで逃げてることは明らかだけどね。
九州王朝説の基本スタンスってやつか。
184 :
九州王朝大好き:02/12/26 01:15
宮地獄古墳及び周辺古墳の出土品は、現在国宝だそうですが、
それらは何処にあって、実物を見ることが出来るのですか?
実物(レプリカでもOK)を見たいのですが、
見る方法を知っている人、教えて下さい。
185 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:19
>>181 それでは私が改めてあなたに質問しましょう。
>どうして近畿天皇家に人質として来ていた新羅王子が、「対馬」なんかにいたのだろうか。
北部九州に倭国の都がなければおかしいではないかという主張に正当性があると思いますか?
186 :
九州王朝大好き:02/12/26 01:27
>>185 特に北部九州に限る理由はないと思いますけどね。
188 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:32
ほかの九州王朝説を主張するかたにも聞きましょう。
三国史記の提上伝は九州王朝説を裏付けると思いますか?
189 :
九州王朝大好き:02/12/26 01:34
>>188 三国史記の提上伝は九州王朝説を裏付けると思います。
しかし神功紀を見ると、疑問が出るんだよな。
提上の説話に関することでは、新羅の婆娑王の記事が混入しているわけだし・・・
近畿の説話じゃないのではないか? という疑問がぬぐいきれないのも事実。
これとて九州説への論拠にはならんと思うけど。
191 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:38
>>186 認識が根本的に違っているようです。
土器編年は相対的な前後関係を判別します。
通常、絶対年代と組み合わせて使用されます。
192 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:39
193 :
九州王朝大好き:02/12/26 01:43
>>191 同仕様であれば場所が異なっても同時間との仮定が間違い。
194 :
九州王朝大好き:02/12/26 01:49
>>192 サーカス読みはやめよう。
シンプルに読もう。
195 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:51
層位と様式で編年していく手法は考古学の一般的な方法論で、世界各地で用いられています。
>編年法はでたらめ。国際的にも認められない。
というようなものではありませんが?
196 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:52
197 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:54
>>194 >サーカス読みはやめよう。
サーカス読みとは具体的には何のことですか?
198 :
九州王朝大好き:02/12/26 02:00
>>195 編年法は日本式のような細かい時間軸には採用されていません。
199 :
日本@名無史さん:02/12/26 02:02
サーカス読みとは具体的には何のことですか?
>>192 婆娑王は朴提上よりもずっと前の新羅王。提上その人が「婆娑尼師今5世の孫」だと
三国史記に明記されています。
つまり神功紀の「波沙寐錦、ただちに微叱己知波珍干岐を人質とし…」という部分と
朴提上説話と対応する記事にある「微叱許智伐旱」は明らかな別人なわけです。
これは何を意味すると思いますか? つまり日本書紀を編纂した近畿天皇家は
「婆娑王」がいずれの時代の新羅王なのか知らなかったことになります。
なにしろ倭国王は「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事…」だったわけですから。
婆娑王を知らなかったというのは、ちょっと考えられないですよ。
201 :
九州王朝大好き:02/12/26 02:08
>>197 漢字の読みに(職人)芸が必要。特に訓読みを指す。
三国史記が「微叱許智伐旱」を古い時代に遡らせて記述しただけじゃないの?
203 :
九州王朝大好き:02/12/26 02:23
>>197 一例
天照大神
サーカス読み
アマテラスオオミカミ
シンプル読み
アマテルオオカミ
古代史学者様をバカにした読み
テンテルダイジン
204 :
日本@名無史さん:02/12/26 02:23
>>201 >>189 >三国史記の提上伝は九州王朝説を裏付けると思います。
>>192 >そういう根拠は?
の答えとして
>サーカス読みはやめよう。
>漢字の読みに(職人)芸が必要。特に訓読みを指す。
はまるで脈絡がなくありませんか?
>>202 いえいえ、理解不能です。
三国史記には「朴提上。或いは云う、毛末」とありますから、神功紀で微叱許智伐旱を
新羅に逃れさせた使者「汙礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智」の毛麻利叱智に当たります。
朴提上は新羅の訥祇王の時代の人で、婆娑尼師今五世の孫だと記述されていますから
明らかに婆娑王の時代とは違うのです。
206 :
日本@名無史さん:02/12/26 02:29
>>205 三国史記の系譜じたい朴、昔、金の3系統を一系に編集した形跡があり、時系列を鵜呑みにすべきではないのではないでしょうか。
>>206 つまりは三国史記は朴提上の実在した時代の配置を間違っているというわけですか?
新羅本紀っていつの時代からなら記事を信頼できるの?
新羅の本当の建国って何年頃なんだろう?
209 :
九州王朝大好き:02/12/26 02:42
>>204 >>202 >三国史記が「微叱許智伐旱」を古い時代に遡らせて記述しただけじゃないの?
上記は解釈上のサーカス読み。
>>200は解釈上のシンプル読み。
210 :
日本@名無史さん:02/12/26 02:42
間違っているのではなく、編集して再構成してあるということです。
同様に神功説話のほうも7世紀に再構成していますから、明らかに世代の違う昔于老も出てきます。
つまり双方とも後世に無理のある編集をしているのであって、世代の齟齬があるから畿内の伝承ではないと疑うという理由は希薄であると思います。
211 :
日本@名無史さん:02/12/26 02:44
>>209 まじめに答える気がないんですね?
あなたは議論に値する人じゃないことがわかりました。おやすみなさい。
212 :
九州王朝大好き:02/12/26 02:45
「訥祇王の時代の人で、婆娑尼師今五世の孫」ということは、儒礼王の頃の人なのかな?
だとしたら、卑弥呼が神功皇后とする解釈と矛盾がなくなるような気がする。
たしかにBC57年に新羅初代王赫居世即位というのは信じがたいですけどね。
AD80年に第六代婆娑王即位ということになります。
AD417年が訥祗王即位ですね。(倭讃の登場はこの四年後ということになります)
しかし朴提上に関しては、明確に「婆娑尼師今五世の孫」だと記していますしね。
時代の当てはめや編年に間違いがあったとしても、そういった人物伝の出自などが
間違って記載される、ということは起こりにくいと思いますよ(絶対とは言わないですが)。
215 :
日本@名無史さん:02/12/26 02:52
いずれにせよ7世紀の大和政権が数百年前の新羅の王統譜を正確に把握していないから倭の五王の後継でないというような推論には欠陥があると言えるでしょう。
自分自身の王統譜にも矛盾があるのですから。
>>212 あなた本当に「九州王朝大好き」さん? 違うんじゃないですか?
217 :
日本@名無史さん:02/12/26 02:53
>>214 間違って記載されているとは主張していません。
218 :
日本@名無史さん:02/12/26 02:55
もう寝ます・・・
よく知らないが、第六代新羅王は阿達羅王で157年即位ではないの?
訥祗王が奈忽王の子ですから、儒礼王よりもちょっと後の時代っぽいですね。
たしかにこのあたりの新羅王は日本の継体天皇なみの断絶がるようで。
あ、ちがった153年即位?
神功皇后=卑弥呼と考えたために、3世紀の記事と4世紀の記事を同時に引用して、
登場人物の年代がむちゃくちゃになっている気が、なんとなくしますが、
くわしくないのでただの当て推量です。
なんとなく面白げではあります。
あ、婆娑王は五代かも(汗)
ただ阿達羅王は逸聖王の子で、八代目(婆娑王五代目として)だったと思いますよ。
赫居世
南解王(赫居世長男)
儒理王(南解王の子)
脱解王(昔姓、多婆那国の人)
婆娑王(儒理王の次男)
祗摩王(婆娑王長男)
逸聖王(儒理王の長男)
阿達羅王(逸聖王長男)
という順番で即位しているようです。
>>222 そうですね。神功皇后=卑弥呼という日本書紀の比定がいちばんの問題なんですけどね。
日本書紀って、信用できるようで、出来ないようで・・・
阿達羅王即位は154年ですね(手元の史料では)
まあ、西暦に直しても意味ないかも知れないですね。
新羅人も倭人と同じく二倍年暦を使用していそうだし。
>>223 なるほど、ありがとうございます。
勘違いしていたようです。
>>226 いえいえ、私も間違いが。
脱解が子の閼智を得る(養子?)、という記述を「脱解の子の閼智が即位」と
勘違いしていました。だから
婆娑王=第五代王
阿達羅王=第八代王
というふうに訂正させていただきます。
新羅は大分地方から分離して朝鮮半島にできた倭人国家。
したがって、新羅の歴史は国東半島にあった国の歴史を接ぎ木しており、沖縄にいた朴氏の歴史及び朝鮮半島から熊本に移動した昔氏(物部氏)の歴史も一緒にしている。
229 :
日本@名無史さん:02/12/26 09:04
>>178,186,193,198
考古学の型式学に則った年代観を支持できないのならば,
宮地嶽古墳=7世紀
という年代観も支持できなくなるね。
年代観が白紙になるのであれば,当然,アメタリシヒコの墓と推定することはできなくなるよ。
自分たちに都合のいいことだけつまみ食いするのはやめようね。
で,「型式学的編年法を細かい時間軸に採用」ってのは誤認。
「研究を進めた結果として,時間軸を細分できるようになった」というべき。
型式学の精緻さは,日本考古学が世界のトップレベル。
230 :
九州王朝大好き:02/12/26 12:34
>>229 当初の話に戻って、特に土器の編年法に問題あり。
>「型式学的編年法を細かい時間軸に採用」ってのは誤認。
>「研究を進めた結果として,時間軸を細分できるようになった」というべき。
> 型式学の精緻さは,日本考古学が世界のトップレベル。
その過剰自信の結果、C14法と一致しないと、絶対年代測定のC14法が測定法がおかしいと言い出す。
土器の編年法については、C14との差がある場合は、その都度地域差修正をすべし。
土器の年代決定根拠に編年法を絶対化すべきではない。
又、形式学は理化学的手法を取り入れて、仕様(仕様学とでも言うか)を判断基準とすべき。
最後に、「型式学の精緻さは,日本考古学が世界のトップレベル。」を全面否定するわけではないことを付け加える。
231 :
九州王朝大好き:02/12/26 12:55
232 :
日本@名無史さん:02/12/26 13:18
>>230 229ですけど
>>その過剰自信の結果、C14法と一致しないと、絶対年代測定のC14法が測定法がおかしいと言い出す。
について具体例を挙げてください。
それと,
>>宮地嶽古墳=7世紀
>>という年代観も支持できなくなるね。
>>年代観が白紙になるのであれば,当然,アメタリシヒコの墓と推定すること
>>はできなくなるよ。
についてのご返答は?
233 :
九州王朝大好き:02/12/26 13:47
>>232 私の姿勢。
@ 特定の個人を指すことになる個人への攻撃になることはしない。
A 編年法を絶対尺度としないで相対尺度とする。
以上で回答になるかと思います。
具体例にはなりませんが、
太宰府の古代ダム遺跡の年代がC14法で以前より古い時代のものと判ったことがありました。
この様なケースでは、いかなる場合にも率直にその絶対年代を受け入れるのであれば問題としません。
それが私の見方です。
ですから、いろいろな状況で編年法年代に疑惑がでてくれば、編年法を捨て疑惑を採用します。
編年法はひとつの仮説として取り扱います。
234 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:32
229,232です
>>233 お答えありがとうございます。
Aについては,全うに考古学をやっているものなら,型式学的編年が相対的なものであるということは分かり切っていることです。
例にあげられた「太宰府の古代ダム遺跡」の件については,これだけではなんともわかりせん。
読んだだけだと,「C14年代測定法によって遺跡の実年代観が修正された」だけにしか見えませんが…。
詳細,もしくはソースを教えてください。
@の指す内容が判然としません。
仮に,私に対する反論が「個人攻撃」となるので遠慮しておく,という意味でしたら遠慮はいりません。
むしろ,宮地嶽神社古墳をどのような根拠で「アメタリシホコ(アマタラシヒコ)の墳墓と位置づけるかに興味がありますので是非ともお聞かせください。
235 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:51
c14っていってもコンタミ拾うこともあるしクロスチェックを経ないといけないのでは?
編年を疑う前に測定値の出所が確かなのかとか、暦年校正が適正かとか確かめるべきです。
とくに20年30年むかしの信頼性の怪しい数字をまだ使ってる可能性がないか確認した方がいいでしょう。
236 :
日本@名無史さん:02/12/26 20:51
235
流石に日本史板。その通りです。
229さんと230さんの語義論、興味深く見ました。@については、私も何人か
炭素測定法がむちゃくちゃと言い放つ人知ってますが、やはり個人名を出すのはちょっと。
まあ、ほとんど誰も知らないと思うけど、やっぱり個人のことは出せませんよね。
まあ、どのような方法も今後更に精緻さを加えていくことでしょうが、放射年代測定は少なくとも
まだまだ技術の進化はあります。ですから、特にこの間、九州地方での従来説との数値の違いは、
更に一層無視できなくなってくると思います。
楊貴妃の墓の謎みたいな小説があって
わりと九州王朝説もまじえながら面白く読みました。
なんと神武天皇は聖徳太子なんですけどね。
30で亡くなった仲哀になんで大きな皇子が二人もいるのかとか
系図作ってみるとヤマトタケルの下の世代に景行がなるとか
やっぱなんかあるなー。
238 :
日本@名無史さん:02/12/28 23:21
日本武尊って、普通に読むと、「にっぽんたけのみこと」だよね。
日本を「やまと」と読むか「にっぽん」と読むかは別にして、
「武」は「たける」じゃなくて「たけし」か「たけ」だろうね。
「たける」じゃ「狂ってる」意味にならないか?
話題ずれてゴメン。
239 :
日本@名無史さん:02/12/28 23:28
厨房度相当高いでつね。
さいきん静かになったのね
241 :
日本@名無史さん:02/12/29 21:39
九州王朝はあったか?
もちろん!
まっとうな批判にはスレの雰囲気を壊すと蹴散らし、仲間うちでぬくぬくと。
寒い冬には、とってもあったかい九州王朝!
アイツはまっとうじゃなかったから放置君なわけだが・・・
243 :
日本@名無史さん:02/12/30 06:56
アイツはまっとうじゃない「都合が悪いと放置」君なわけだが・・・
旅行にでも行ってるのか?
245 :
九州王朝辞典:02/12/30 12:08
【まっとうじゃない】
反論できない批判を形容する言葉。
“まっとうじゃない”批判にであった時は、まともに相手をすると墓穴を掘るから、
スレの雰囲気を壊す、とでも言って放置するのが普通。
246 :
九州王朝大好き:03/01/01 02:01
明けましておめでとうございます。
みなさんお休みのようで。
私も旅先で、ちょっと覗いてみました。
247 :
日本@名無史さん:03/01/01 11:26
別にあってもよいような気がするんだけど
あるとやっぱマズイのかな・・・。皇国史観?
そういう勘ぐりが一番ゲス
249 :
日本@名無史さん:03/01/01 11:35
カングリっていうより中傷でしょう。新春早々困った煽りが入りましたね。
今年はそんなの無視してまともな議論しましょう。
あけましておめでとうございます。
ま、今年もアイツは放置君かな?
あけましておめでとうございます。
ま、今年もキミは「だんまり」君かな?
252 :
日本@名無史さん:03/01/02 21:03
今年も、トムとジェリー、仲良く喧嘩してね。
851 :水樹奈々●? ◆ZuNANANAQI :02/12/28 19:44 ID:2tr4jRLM
ついにこの時が!!!!
天皇死亡のときっがああああああああ!!!!!
まってますた!!!!!!
注 意
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
:Λ_Λ | 皆さん、なぜ2ch内で過激、陰湿、粘着な書き込みがあるのか、
( ´∀`)< 考えたことがありますか?ヒントは↓ここです。
( ΛΛ つ >―
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/asia/1038008897/39-63 ( ゚Д゚) < これだけで決め付ける気はありませんが、このような輩が
/つつ | 小細工している事を、心に留めておいてください。
\__________________
254 :
日本@名無史さん:03/01/08 21:43
お初に。
マジレスで、荒らし不要。
継体から後、安閑・宣化朝と欽明朝との並立についての緒説。詳細を解説できる人
キボンヌ。
漏れの立場としては、記紀が全くのウソ八百をかいているとは信じられない。創作にしても
大概もとネタがあるわけだから。
ただし、戦国時代、いや、戦前でさえ秘されてわからないことは多いわけだから、まして千
数百年も前のことについては、相当の幅を持ってかかる必要。「それもありかな」ぐらいに。
ですから、せいぜい江戸時代に形成されたような常識にはこだわりません。
netomoで、九州王朝説を確定して書き込みしている人がいるんだけどさ、
とりあえず、やめて欲しい。
私説でロマンだとちゃんと言って欲しい、迷惑です。
256 :
日本@名無史さん:03/01/11 10:27
そういうの病気だよ
韓国人相手に、日本は百済から侵略されて出来た国で、
天皇の継続性はない、とか。
倭国は九州王朝のことで、日本とは、全く違うとか。
日本は、朝鮮勢力の侵略によって出来た国だ。
だから、韓国人は謝れとか。
津軽外三郡史を持ち出して、東北地方にいた蝦夷や、九州のクマソこそ、
日本の正当な血筋だとか。本気で言ってるから怖い。
たくさん説があって、そこにおもしろさやロマンを感じるのが古代史なんだけど、
あまり暴走しないで欲しいですね。
(^^)
259 :
日本@名無史さん:03/01/11 20:00
倭国が九州にあったというのは当然仮説だけど、
それと韓国が侵略どうのこうのとか、謝るとか何とか、蝦夷とか熊襲とか
何の関係があるのかな?
何でもかんでも一緒にしても訳分からんよ。
260 :
日本@名無史さん:03/01/11 21:14
>>257 意図的にごっちゃにするのはやめれ。漏れはあんたの方が怖い。
261 :
九州王朝大好き:03/01/12 00:49
>>257 >>259 このスレッドは「九州王朝はあった」ことが前提で成立している。
それでも、「九州王朝はあったか?」と疑問を持つ人達の為のスレッドである事を認識しよう。
橿原一派も「九州王朝はあった」ことを暗黙に認めた上での反論なのだから。
今や、九州王朝完全否定派は、自分が食わんが為の反論を発しているに過ぎないのだから。
262 :
九州王朝大好き:03/01/12 00:58
>>257 >>259 このスレッドは「九州王朝があった」ことが前提で成立している。
それでも、「九州王朝はあったか?」と疑問を持つ人達の為のスレッドである事を認識しよう。
橿原一派も「九州王朝があった」ことを暗黙に認めた上での反論なのだから。
今や、九州王朝完全否定派は、自分の立場人生を守らんが為にしかたなく反論を発しているに過ぎないのだから。
>>九州王朝大好き
では、このスレタイやめて、次スレ作れ。
紛らわしい。
264 :
日本@名無史さん:03/01/12 09:18
そうだな。明らかに荒らしを呼び込むスレタイになってる罠。
265 :
九州王朝大好き:03/01/12 10:47
>>263 >>264 私のドメインは XXXX.ne.jp でないのでスレッドが立てられません。
このスレッドも私に代わって「九州王朝大好き(偽」さんに立てていただいております。
適切な名称のスレタイで立てていただけたら、とお願いいたします。
266 :
日本@名無史さん:03/01/12 11:54
>橿原一派も「九州王朝があった」ことを暗黙に認めた上での反論なのだから。
事実まで捏造。
267 :
日本@名無史さん:03/01/12 13:04
↑ こんなのが来ないスレにしたいですな。
268 :
日本@名無史さん:03/01/12 13:49
こなけりゃ捏造し放題だもんね。
269 :
日本@名無史さん:03/01/12 15:45
270 :
日本@名無史さん:03/01/12 16:25
>橿原一派も「九州王朝があった」ことを暗黙に認めた上での反論なのだから。
それが自分だけに都合のいい妄想でないというなら根拠を挙げるべきだね。
271 :
日本@名無史さん:03/01/12 19:35
このスレは「あったかどうか」を語るスレとし、「あったことを前提とする議論」は
>>269の専用スレでしていただくことを希望します
272 :
日本@名無史さん:03/01/12 19:39
こっちが本スレか。
とりあえず「日出ずる処の天子・・・」を書いた
姓は阿毎、字は多利思北孤が誰かと言う事を教えていただきたい。
これが聖徳太子で無い事は明らかであり、それに対して大和政権の誰か
なんて曖昧な事しか言えないのが従来派の最大の弱点なんじゃない。
273 :
日本@名無史さん:03/01/12 19:45
こっちは不確定スレです。
確定スレに移行してください。
274 :
日本@名無史さん:03/01/12 20:00
>>273 不確定でも構わんから教えてくれ。
俺は聖徳太子=多利思北孤に納得出来ないから従来説を信じられなくなった。
古田説以上に納得できる説が有れば、いつでもそっちに乗り換えるがな。
275 :
日本@名無史さん:03/01/12 20:55
>聖徳太子で無い事は明らかであり
ほんと?
276 :
日本@名無史さん:03/01/12 21:06
>>275 >ほんと?
つうか、多利思北孤=聖徳太子の証明が先なんじゃない。
あの国書から何故聖徳太子を導き出せるのか?教えて頂戴。
277 :
日本@名無史さん:03/01/12 21:34
だれも多利思北孤=聖徳太子なんて言ってないじゃん。
でも「聖徳太子で無い事は明らかであり」と明言した人はいる。
だから理由を聞かれるのはあたりまえ。
答えられなけりゃ「明らかであり」は撤回するように。
278 :
日本@名無史さん:03/01/12 21:46
>>277 そりゃおかしいだろ。
国書には多利思北孤としか書いてないんだから、
多利思北孤=聖徳太子が証明出来ないなら
「聖徳太子で無い事は明らか」なんじゃないの。
279 :
日本@名無史さん:03/01/12 21:51
多利思北孤=聖徳太子が証明出来ないなら
「聖徳太子であるか無いか不明」が正解。
多利思北孤<>聖徳太子が証明出来ないなら
「聖徳太子で無い事は明らか」にはならない。
280 :
日本@名無史さん:03/01/12 21:58
>>279 おかしな理屈だな。
国書の主は多利思北孤なのであって聖徳太子では無いが自明だろ。
「聖徳太子で無い事は明らか」じゃないのかな。
それでもし国書の主が聖徳太子と言うなら
多利思北孤=聖徳太子
を証明する以外無いだろ。
281 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:02
空を飛んでるのはスーパーマンであってクラークケントじゃないのが自明かい?
282 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:02
>それでもし国書の主が聖徳太子と言うなら
誰か言った?
283 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:07
多利思北孤は倭国の王ということ。隋書に記事があるだけでその他は不明。
聖徳太子であるのかないのか、誰にも分からない。
聖徳太子かどうかを証明することはできない。
できるのは状況証拠を並べて、説得力のある仮説を唱えること。
すでに議論のあったテーマではあるが、仮説のある者は状況証拠を添えて
唱えてみるもいとおかし。
284 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:07
>>281 アホか、スーパーマン=クラークケントは証明できるだろ。
何度も書くが国書の主は多利思北孤なの。
それでもし国書の主が聖徳太子だと言うのなら
多利思北孤=聖徳太子の証明が必要になる。
それが出来ない以上「聖徳太子で無い事は明らか」となる。
↑知的水準低し
286 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:32
>>284 いま洋式トイレの個室で用をたしてるのが筑紫哲也だと証明できないと
ウンコしてるのが筑紫哲也でないことは明らかなのか?
287 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:35
仮に、多利思北孤=聖徳太子であったとしても、証明は不可能。
なんせ、多利思北孤というのは隋書に書いてあるだけで、その他の史料はないのだから。
多利思北孤=聖徳太子の証明ができないことを理由に、聖徳太子で無い事は明らか、
というのは理論的ではない。
284の叫ぶ「証明」とは例えばどのようなものを指すのかな?
289 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:40
流石にクズの橿原一派は、文献学が得意だけに、屁理屈だけは一人前だな。
だが、それで何を言ったことになってもないし、納税者の我々素人にすれば、
カスどもにそんな屁理屈こね回すために研究費や給料払ってると思うと、鬱w
そもそも、聖徳太子かどうかは二次的な事項であって、まずアメタリシホコ(ヒコ?)が誰なのかを
証明することが一義。ただし、そのような不確定な事項に平気であぐらをかいて
おいて、そんな俗説を否定もせずに九州説が出てきたときだけごちゃごちゃ騒ぐ。
ば か で つ か ?
290 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:51
歴史とは、@史料と遺跡自体の研究と、Aそれらを説明する仮説の2つからなる。
この2つは異質のもの。人文学としての歴史はAを語ることこそ真骨頂。
しかし、Aの仮説は自然科学のような証明は不可能である。
Aの世界は、@を援用して説得力ある仮説を唱えることが筋。
日本の学校教育ではこれを教えないので世間の@とAの混同が激しい。
とかく、Aの真偽論が絶えない。もともと証明不可能なものに証明を求める者が絶えない。
文献学は@だが、多利思北孤が聖徳太子かどうかの仮説はAだね。
291 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:52
【今週の九州王朝説】
論理的におかしな理屈をゴリ押しし、最後はキレて罵倒モードでした。
292 :
日本@名無史さん:03/01/12 22:59
↑ 馬鹿
293 :
九州王朝大好き:03/01/12 23:19
>>274 >不確定でも構わんから教えてくれ。
>俺は聖徳太子=多利思北孤に納得出来ないから従来説を信じられなくなった。
天武天皇の妻の尼子娘の父親である宗像君徳善が阿毎多利思北孤でしょう。
294 :
日本@名無史さん:03/01/12 23:24
多利思北孤については、有名な「九州王朝説批判」ページ
http://village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu.htm の中で、
「隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名自多利思比孤、其國號阿輩雞彌、華言天兒也、遣使詣闕。(通典 第一百八十五 邊防第一 倭)」
を引いて、
「隋の文帝の開皇20年に、倭王が、─ 姓は「阿毎」であり、名は、「多利思比孤」以来その国では「阿輩雞彌」と号しているのだが
(そしてこれは中国語で「天児」という意味なのだが)─ 使を遣わして中国に朝貢してきた。」
としている。オレはこの説が説得力あると感じている。
この説の場合、多利思北孤は聖徳太子より相当古い世代の人ということになる。
結局この説では、聖徳太子が隋の煬帝に手紙を書いたかどうかは不明ということになる。
295 :
日本@名無史さん:03/01/12 23:40
>>294 オレ、あんまり賛成できないんだよね。
ほぼ同時代史といっていい隋書の“倭國伝の著者の認識”が間違っていて、
後代史書のほうが正しい認識っていうのはどうもね。
素直に衍字じゃダメなのかなァ。
296 :
九州王朝大好き:03/01/12 23:52
>>294 聖徳太子云々は無関係。
多利思北孤は6世紀末から7世紀初頭の人物。
660年の対唐戦に負けたサツヤマは多利思北孤の子か孫となる。
サツヤマは660年当時にはまだ少年又は青年であったから、
天武天皇の妻の尼子娘とは同世代人であり、
二人は兄妹又は叔母甥の関係である。
297 :
日本@名無史さん:03/01/13 00:00
>>296 その仮説を説得力あるものとする状況証拠は?
298 :
九州王朝大好き:03/01/13 00:29
299 :
日本@名無史さん:03/01/13 01:15
普通に考えても天子を名乗る多利子北孤=聖徳太子は無いだろ、
つまり大和王朝以外に日本を代表する政権が有ったと考えるのがスジ。
それを大和王朝以外日本を代表する政権は無しとするから無理がある、
素直に大和王朝に先行する倭の国を認めた方が良いので無いかい。
本スレの方、電波ばりばりだね(w
失笑に耐えないけど、皆あっちで前提(w)を否定するような異論を唱えちゃだめだぞ。
あっちはもっともっと電波を育成するスレだからね。
301 :
日本@名無史さん:03/01/13 03:05
>>300 失笑に耐えないと言いつつ、必死な形相が目に浮かぶ(ぷっ。
そお? 漏れには失笑と爆笑の声が聞こえそうだが(w
303 :
日本@名無史さん:03/01/13 03:13
失笑の表情を取り繕う従来説論者イタイ。
九州王朝はあいかわらずオナニーに必死だな
九州王朝がオナニー?
・・・九州王朝説論者のことかな?
307 :
日本@名無史さん:03/01/13 06:41
九州王朝説がいかに非論理的かがよくわかりました。
308 :
日本@名無史さん :03/01/13 07:39
>九州王朝説がいかに非論理的かがよくわかりました。
九州説にけちだけつけにきてる人はこなくていいのにね。
否定するならそれなりの根拠のあるものをみたいのに
309 :
日本@名無史さん:03/01/13 08:26
九州王朝説が非論理的である根拠:
多利思比孤=聖徳太子が証明できないと多利思比孤が「聖徳太子で無い事は明らか」になってしまうという思考は非論理的である。
310 :
日本@名無史さん :03/01/13 09:16
多利思比孤=聖徳太子が証明できないと・・・・
聖徳太子であるとはいえないんでしょう。
何か不都合でも
311 :
日本@名無史さん:03/01/13 09:38
だれも聖徳太子であるなんて言ってないでしょう。
しかし「聖徳太子で無い事は明らか」と言っている人はいる。
で、理由を聞くと支離滅裂。
だから九州王朝説は非論理的ということで結論。
312 :
九州王朝大好き:03/01/13 10:36
>>311 多利思北孤と聖徳太子は本来無関係。
多利思北孤が聖徳太子でないことをあえて証明しようとすれば、
支離滅裂になるのは当然。
実在(現実)と非実在(空想)の人物比較なのだから。
聖徳は、徳善(多利思北孤)に対抗して且つ上回る名前として、
ウマヤ皇子に修飾した想像上の人物だから。
名前に「聖」をつける事自体が、後世の人間の神格化を計ろうとする意図を感じさせる。
ウマヤ皇子は天皇でなかったから「聖」は神格化の為の精一杯の名前である。
ウマヤ皇子は嘱望され、徳善(多利思北孤)の再来と言われるほどの人物だったのであろう。
それ故、早死にした為に、美化された人物になりえたのであろう。
313 :
日本@名無史さん:03/01/13 10:40
根拠皆無
314 :
日本@名無史さん:03/01/13 10:44
>>312 >多利思北孤が聖徳太子でないことをあえて証明しようとすれば、
>支離滅裂になるのは当然。
つまり「聖徳太子で無い事は明らか」という九州王朝説側の主張は支離滅裂ということ?
九州王朝説が支離滅裂であることが証明されました。
316 :
九州王朝大好き:03/01/13 10:59
>>314 「多利思北孤が聖徳太子で無い事は明らか」なのでは無く、
「多利思北孤と聖徳太子は無関係」と言う事。
317 :
日本@名無史さん:03/01/13 11:04
つまり
>>272 :日本@名無史さん :03/01/12 19:39
>姓は阿毎、字は多利思北孤が誰かと言う事を教えていただきたい。
>これが聖徳太子で無い事は明らかであり、それに対して大和政権の誰か
>なんて曖昧な事しか言えないのが従来派の最大の弱点なんじゃない。
>>278 :日本@名無史さん :03/01/12 21:46
>多利思北孤=聖徳太子が証明出来ないなら
>「聖徳太子で無い事は明らか」なんじゃないの。
以上の九州王朝説は支離滅裂ということで決着。
318 :
日本@名無史さん:03/01/13 11:06
>>316 「多利思北孤と聖徳太子は無関係」の証拠は?
319 :
九州王朝大好き:03/01/13 11:37
>>318 無関係であるものを無関係であるとの証明はできません。
例えば、「1+1=2 を証明せよ」といっているようなものだからです。
320 :
日本@名無史さん:03/01/13 12:01
関係あるとも無関係だと証明できなければ「関係あるかないか不明」なはず。
無関係だと断言するには無関係である証明が必要。
結局「聖徳太子で無い事は明らか」を「無関係である」に言い換えただけ。
やっぱり九州王朝説は支離滅裂ですね。
321 :
日本@名無史さん:03/01/13 12:12
>>320は九州王朝説とやらを一致団結した説と仮定してガンバているようだが、その根拠は?
オレには、「聖徳太子で無い事は明らか」説と「無関係である」説は別の説に思えてならない。
気のせい
323 :
日本@名無史さん:03/01/13 12:42
「九州王朝説とやらを一致団結した説と仮定」しているとみなす根拠は?
324 :
日本@名無史さん:03/01/13 12:54
よく読め。
「九州王朝説とやらを一致団結した説と仮定してガンバているようだが、」
と言っている。「ようだが」が重要。「みなし」てはいない。
仮定していないのならそれも良し。
325 :
日本@名無史さん:03/01/13 12:54
多利思北孤は男帝だよな、で同時代の大和政権は推古天皇で女帝。
だから聖徳太子が出てきたのだろうが、天子を名乗っているのが聖徳太子はおかしいだろ。
天皇である推古天皇が天子を名乗るならともかく、その部下である聖徳太子が名乗る事はありえない。
倭の王であり天子を名乗った多利思北孤は大和以外にいたと考えるのが無理が無い。
九州王朝説のひとに共通する特徴は”主張に根拠がない”。
327 :
日本@名無史さん:03/01/13 12:58
>>326 俺は従来説が支離滅裂で納得出来ないから九州説に乗ったの。
主張に根拠が無いのは従来説だろ。
九州王朝説がいかに支離滅裂で根拠がないかはこのスレで明らかになったと思うが?
反論があるなら、「聖徳太子で無い事は明らか」説と「無関係である」説
どっちでもいいから根拠を述べること。
329 :
日本@名無史さん:03/01/13 13:04
根拠のないものに説得力はない。
断っておくが、証拠はいらない。仮説の根拠で充分。
330 :
日本@名無史さん:03/01/13 13:06
>>324 キミはバカのようなので理解できないかもしれないが
キミをバカとはみなしてはいないと言われて納得できるかね?
バカでないならそれも良し。
331 :
日本@名無史さん:03/01/13 13:15
>>328 >反論があるなら、「聖徳太子で無い事は明らか」説と「無関係である」説
>どっちでもいいから根拠を述べること。
>>325に書いといたよ。
どう考えても「聖徳太子で無い事は明らか」だよな。
332 :
日本@名無史さん:03/01/13 13:59
333 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:01
>多利思北孤は男帝だよな
これ根拠なし。
334 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:07
天子と言ってるなら男だろう?
335 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:08
その証拠は?
336 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:17
要するに九州王朝説って、日本書紀に書いてあることがそのまま史実で
隋書に書いてあることもそのまま史実だとして
両者が合わないから大和じゃないという単純な論法だね。
ところが別の局面では日本書紀にはうそが書いてあるとも言う。
つまり主張そのものが矛盾してるわけ。
なんで天子というなら男なの?
338 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:24
九州王朝説の考え方はいつも
きちんと大前提、小前提をたてて論証しないで
「ありえない」とか「おかしい」を繰り返す。
それでは説得力などない。
339 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:25
>>337 >なんで天子というなら男なの?
天子だから男って訳じゃない。
多利思北孤の妻を「鶏弥」という、と隋書に書かれている。
さらに後宮に女6、700人ありともある。
これでも男という根拠無しと言えるのかね?
340 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:31
>>338 >九州王朝説の考え方はいつも
>きちんと大前提、小前提をたてて論証しないで
>「ありえない」とか「おかしい」を繰り返す。
>それでは説得力などない。
逆だろ、従来派が九州王朝説の揚げ足を取って喜んでいるだけのような。
枝葉末節の違いがあるにしろ、九州王朝説以上に説得力があるものが無いから
俺のような素人が九州王朝説に乗ってるのだが。
341 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:34
「多利思北孤の妻を「鶏弥」という、と隋書に書かれている。」
これウソ。王妻の称号は「鶏弥」というというのがホント。
女帝の後宮に女6、700人いていけない理由もなし。
よってぜんぜん根拠なし。
>>340 素人ゆえにヘタな嘘に騙されるんですね。
343 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:36
>王妻の称号は「鶏弥」というというのがホント。
根拠は?と従来派の常套句で返してみたりする。
344 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:38
>>342 >素人ゆえにヘタな嘘に騙されるんですね。
素人に対して明確な説明が出来ない従来派って(プッ。
345 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:45
脊髄反射で
>>343を書いたが、
王妻の記述が有る以上男帝なんじゃないの。
あと「後宮の女達」はやっぱ有るよ、って事は男帝って事だろ。
女帝という結論が先ず有りなんて従来派の説は奇妙だね。
346 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:45
>なんで天子というなら男なの?
愚問だよ。天子を自称した女帝を示せ。
タリシヒコは男とする方に説得力を感じる。
太子=大王=蘇我氏=タリシヒコの説はだめでつか?
348 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:48
>>346 >愚問だよ。天子を自称した女帝を示せ。
則天武后は女帝であり天子のはずだが。
349 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:50
350 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:54
>>347 >太子=大王=蘇我氏=タリシヒコの説はだめでつか?
駄目でしょ。
倭国の王であり天子を名乗っている多利思北孤が一豪族の蘇我氏はありえない。
中国の使者を欺いて、天皇では無い蘇我氏を天子と勘違いしたなんて理屈ありえるかな?
っていうか、こんな理屈が通るなら何でも有りになりそうな気がするが。
351 :
日本@名無史さん:03/01/13 15:56
352 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:00
>>349 >隋書原文をお読みください。
俺は素人だから読めないの。
でも「鶏弥」が名であれ称号であれこの際同じなのでは?
妻がいる事に変わりないんだろ。
353 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:00
>>351 続日本紀で元正天皇の代に天子の用例がありますが何か?
354 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:01
355 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:05
>>354 「後宮の女達」は書いてあるだろ。
つうか女帝だって強弁する方が無理あるんじゃないの。
356 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:10
357 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:11
女帝の後宮に女達がいていけない理由は?
サルタンのハーレムとかと誤解してんじゃないの?
清少納言や紫式部が仕事してたところも後宮なんだよ。
358 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:15
>>357 何言っても良いけど説得力0なんですけど。
詭弁としか取れない。
360 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:16
361 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:17
>>358 後宮の意味をよくわかってないから誤解するんですよ。
362 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:21
>>359 知らない、何処にも書いてないから。
っていうか読み下しでそんなに差が出来るもんなのか?
女帝の時代には後宮が存在しないとか、なんか根拠めいたこと言ってもらわないとねえ。
しょせん倭国の都を大和にしたくないための詭弁でしょ。
364 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:23
>>362 どっかにタリシヒコの妻だとか書いてあるの?
365 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:24
タラシヒコって男の名前でしょ?
女の場合はタラシヒメ
神功皇后=オキナガタラシヒメ
366 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:26
>>363 >女帝の時代には後宮が存在しないとか、なんか根拠めいたこと言ってもらわないとねえ。
>しょせん倭国の都を大和にしたくないための詭弁でしょ。
俺は別に九州王朝説の固執して無いいんだが。
ただ多利思北孤が大和王朝の人間であるという事に説得力が無いから従来説を信じなくなった。
もし従来説が九州王朝説以上に説得力を持てばいつでも乗り換えるのだがな。
367 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:31
>>364 王の妻、號は彌。後宮に女六、七百人有り。太子は名を利歌彌多弗利と爲す。
って書いてあるよな。
素直に読めば妻がいる事になるんだが、従来派は何か特殊な読み方してるのか?
>>350蘇我は天皇だったかも知れないです。
国記・天皇記が蘇我邸で焼失してます。
タリシヒコ=女帝説よりは……
369 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:46
これまで何度も繰り返されてると思うんだけどね、
必ずしも間違ってるといいきれる(誤りが証明されている)わけではないが、
人名など推古紀の一部と隋書が一致しないというのは、誰もが認めてる話。
それはそれで、今後の解決にゆだねなければいけないのは確か。
推古紀がβ群に属していることなどを勘案して、考えていかなきゃならないだろうね。
ところが、その一部を除けば、ほとんどの部分が中国側、日本側資料で一致している。
“多利思北孤”という名前にこだわって全体を見失うのは、まさに、木を見て森を見ず。
問題はそれ以上に、
>従来説が九州王朝説以上に説得力
というところにあって、力強い言い回しとは裏腹に(根拠がないのでひらきなおるしかないということか)
九州王朝説には説得力のある根拠が全くない。
何度も根拠を尋ねてるはずだけど、“九州である根拠”は全く出てこない。
繰り返すけど、【九州である】根拠を出してね。
370 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:52
>>368 >蘇我は天皇だったかも知れないです。
>国記・天皇記が蘇我邸で焼失してます。
蘇我氏が記紀で貶められてるとは思うが天皇とは考えられないにでは、
もし天皇なら武烈ー継体の時のように断裂を示す説話があっても良いのでは。
やっぱり九州王朝説を代表する、大和以外に日本を代表する倭の国が有った
とする方が、俺の主観としてすっきりするんだよね。
主観じゃあ議論してもしょうがないね。
ドグマとは議論するだけ無駄。
372 :
日本@名無史さん:03/01/13 17:07
>>371 >主観じゃあ議論してもしょうがないね。
>ドグマとは議論するだけ無駄。
まあそう返ってくる事を予想して主観と書いたわけだ。
多利思北孤が大和の人間であると言う根拠を示せ無い以上
それも主観であると言わざるえない、結局主観と主観のぶつかり合いだろ。
多利思北孤の倭が大和以外に有る可能性を示した九州王朝説にも一理有ると思うがな。
今日は従来派もあまり根拠が無い事が素人の俺にも解ったよ。
>>370男帝なのに女帝として記しているとすれば、なぜなのだろう?と思う訳なのですよ。その時の真の天皇を記紀は隠してる、というのは九州説と同じなのですが……。それについて説得力のある説があれば、と思います
374 :
日本@名無史さん:03/01/13 18:46
真の天皇を隠してるとは限らないよ。
「天皇」制の起源を実際より古く書き改めた際に、古典的なヒメヒコ共同統治の記述を消したのかもしれない。
どのみちαβの状態からみて推古紀が書き直されていることは事実だろう。
記紀と隋書との相違を取りざたして九州王朝云々と言い出す方法論そのものが崩れてるのだ。
375 :
日本@名無史さん:03/01/13 18:54
>>367 「多利思北孤の妻を「鶏弥」という、と隋書に書かれている。」
というのがウソだとよくわかりましたか?
376 :
日本@名無史さん:03/01/13 19:22
>>372 だからァ、それ以外のところのほとんとが一致してることが根拠なのだよ。
一ヶ所の食い違いで全体を否定することの愚かさがわからんかね。
まあ、わからんだろうね。ドグマだから。
タリシヒコが九州の人間じゃないことははっきり隋書に見えるだろう!
378 :
九州王朝大好き:03/01/13 20:12
>>376 九州王朝説では全部一致します。
一ヶ所違うことにより全体は成立しないのです。
一ヶ所違うことを無視し全体を成立させる事こそ愚かというのです。
一ヶ所の間違いを積み重ねて出来たのが橿原一派の信条とする近畿王朝の歴史ではないでしょうか?
それゆえ多利思北孤は九州の王者なのです。
379 :
九州王朝大好き:03/01/13 20:20
>>377 >タリシヒコが九州の人間じゃないことははっきり隋書に見えるだろう!
隋書の何処に見えるのですか?
原文で示して下さい。
380 :
日本@名無史さん:03/01/13 20:42
上遣文林郎裴清使於倭国
度百済
行至竹島、
南望たむ羅国、
経都斯麻国、
迥在大海中。
又東至一支国、
又至竹斯国、(九州は素通り)
又東至秦王国…
又経十餘国
達於海岸
…
既至彼都
382 :
日本@名無史さん:03/01/13 21:36
なるほど、裴清さんは九州の海岸へ到着したようだ。
前スレでさんざん出たようにも思うが・・・・
否定されたけどね
384 :
日本@名無史さん:03/01/13 21:47
これで九州王朝説は終わりですね。
385 :
日本@名無史さん:03/01/13 21:49
ん?
前スレで、九州王朝大好きさんの書いた説が最も説得力があったよ。
九州王朝説が強化されたと思う。
386 :
日本@名無史さん:03/01/13 21:51
ほらでた!
何があっても「説得力」のひとことで終わり。
なにも証明できないからそう言って誤魔化すしかない。
387 :
日本@名無史さん:03/01/13 21:52
でたでた。
もともと証明なんてできないでしょ。
388 :
日本@名無史さん:03/01/13 21:52
裴世清の行き先が筑紫でないことは確定ですね。
>>385 どんな非論理的なことでも説得力があった説得力があったと連呼すればすむと思ってるの?
390 :
日本@名無史さん:03/01/13 21:55
歴史とは、@史料と遺跡自体の研究と、Aそれらを説明する仮説の2つからなる。
この2つは異質のもの。人文学としての歴史はAを語ることこそ真骨頂。
しかし、Aの仮説は自然科学のような証明は不可能である。
Aの世界は、@を援用して説得力ある仮説を唱えることが筋。
日本の学校教育ではこれを教えないので世間の@とAの混同が激しい。
とかく、Aの真偽論が絶えない。もともと証明不可能なものに証明を求める者が絶えない。
391 :
日本@名無史さん:03/01/13 21:56
>>385 ナンセンスな説だと証明されたんじゃなかった?
392 :
日本@名無史さん:03/01/13 21:58
>>384 >これで九州王朝説は終わりですね。
まーだ言ってら、終わってないちゅねん。
近畿に倭の国があったとする根拠は何処に有るのか解らん。
旧唐書で倭の国と日本とを分けており、基本的に別の国としている説明がつかない。
挙げりゃ切り無いけど従来説では説明つかない事かなりあるよね。
九州王朝説は自分たちの説を証明する努力を最初から放棄しています。
終わってますね。
394 :
日本@名無史さん:03/01/13 22:01
従来説vs九州説
イデオロギー闘争見てるみたいだな。
両者とも学問とは呼べない姿勢が笑える。
学問というなら@をセッセとやればよい。しかし、Aがあるから@もやる気になるというもの。
仮説を仮説と理解して、議論を楽しめばよいと思うのだが、どうも議論の中に感情が入るヤツが
多いようで、、、、
396 :
機種依存文字は止めよ。常識じゃ。:03/01/13 22:10
>>395 (1)に属する根拠が全くない(2)っていうのはただのほら話。
ただの空想は議論する価値がない。自分でホームページでも作って自涜しておればよい。
九州王朝説には(1)に分類される根拠が全くない。
397 :
日本@名無史さん:03/01/13 22:13
>>378 >九州王朝説では全部一致します。
>一ヶ所違うことにより全体は成立しないのです。
>一ヶ所違うことを無視し全体を成立させる事こそ愚かというのです。
>一ヶ所の間違いを積み重ねて出来たのが橿原一派の信条とする近畿王朝の歴史ではないでしょうか?
>それゆえ多利思北孤は九州の王者なのです。
で、全部一致するって、何と何が一致するの?
398 :
日本@名無史さん:03/01/13 22:23
>>396 古田氏の本を読む限り(1)に属する部分でも裏づけ取れてるようだけど。
このスレ見る限り九州説は頭ごなしに否定して「電波」のラベリングで終わってんだろうな。
従来説派には専門家もいるみたいだけど、自信あるならもう少し余裕見せてもいいんじゃない、
必死さがかえってイタク見える。
399 :
常識なくてゴメン:03/01/13 22:26
古代史の仮説は全部(2)でしょ。従来説とやらも九州説とやらも。
古墳から発見される埴輪の意味にしても、復元遺跡に建ててある竪穴住居にしても
みんな(2)でしょ。
自然科学にしても仮説が大切。仮説を立てること自体は科学的ではないが、自然科学の
場合は実験で証明され得るし、他人が追実験して確認できる。社会科学では証明はできない。
特に古代史では無理。
仮説でよいではないですか。
400 :
日本@名無史さん:03/01/13 22:43
401 :
日本@名無史さん:03/01/13 22:52
>>398 >古田氏の本を読む限り(1)に属する部分でも裏づけ取れてるようだけど。
本当ならそれを書いてみれば?
間違いだってわかるから怖くて書けない?
402 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:07
>>401 とりあえず弥生鉄器出土分布状況では博多湾岸地区が最も多い、
また錦(飾り絹)の発掘状況も同じく博多湾岸と周辺が多いようですが。
以上「失われた日本」より引用。
403 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:12
時代が違うね。
隋書にはヤマトの記述は皆無なのだが。
405 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:16
>>403 邪馬台国の章に書いてある記述だからね。
古田氏はこの出土状況から邪馬台国は博多湾岸にあったとしているようだけど。
406 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:16
1世紀ごろの資料をいくら持ってこられても3世紀の邪馬台国の位置の裏づけにはならないよね。
407 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:19
っつーか、俀王との会見場面にある「既至彼都」を行程文として読むのには
カナーリ無理があると思うが・・・
>>404 それは九州王朝説でみるとそうなるってだけ
409 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:20
410 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:23
>>406 いやこれは邪馬台国と同時代発掘物だろ、時代が違う事は無いはずだが。
411 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:25
412 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:28
>>408 ヤマト周辺の地名がひとつもナイ。
天皇家側の史料に合致する人名がひとつもナイ。
413 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:31
九州王朝側の史料に合致する人名がひとつもナイ。
414 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:33
>>411 なんか腹立ってきた、
>>402の内容だけで違うと言う根拠なり証拠を示せるのか?
古田氏の「失われた日本」をよんだ上での批判ならいざ知らず、
俺の舌足らずな書き込みのみですべて解った様な書き込みは失礼と思うが。
君は揚げ足を取りたくて、書いてみろと言うならこの場で打ち切るぞ。
415 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:33
ま、新羅の「婆娑王」がいづれの時代の新羅王かわからんかった近畿天皇家が
倭国王だったはずはないか・・・
416 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:36
>>415 新羅王だけじゃないぜ。
卑弥呼と壱与が同一人物なんだぜ。
417 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:38
418 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:45
>>417 まずは否定できる根拠を示してくれ、
揚げ足ばかり取ってないでさ。
419 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:47
そういや奴国王クンも金印の話の時、三段読みの実例を上げることが出来ず、
「あのひとの本に書いてある」「この本でも読め」の一点張りだったなぁ・・・。
いや、ここに奴国王クンがいるのか知らないが。
420 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:48
弥生時代の鉄って・・・・・
古墳時代に逆転してんじゃん。なんで九州王朝に持ってくるかね。
ましてや、七世紀をや。
あいた口がふさがらん。
421 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:48
ほほー!いつもの手口だね。
根拠があるのかと聞かれて、いつの時代のことだかもわからないことを答える。
卑弥呼の時代のことだといい切る根拠があるのかと聞かれると
違うという根拠があるのかと反問する。
結局ちゃんと根拠を答えられないのを誤魔化すわけだ。
422 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:51
九州王朝説は史料と遺跡自体の研究からの裏づけがないという結論でいいですね?
423 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:52
>>413 えーっと、合致するしない以前に、九州王朝側の史料って、一つとしてないんですけどぉ・・・・
>>419 九州王朝説側にまた露骨なウソを書く人が出てしまいました。
三段読みの実例はちゃんと示されています。
425 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:55
>>378 >九州王朝説では全部一致します。
>一ヶ所違うことにより全体は成立しないのです。
>一ヶ所違うことを無視し全体を成立させる事こそ愚かというのです。
>一ヶ所の間違いを積み重ねて出来たのが橿原一派の信条とする近畿王朝の歴史ではないでしょうか?
>それゆえ多利思北孤は九州の王者なのです。
で、全部一致するって、何と何が一致するの?
426 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:57
考古学オタと必死な専門家が織り成す従来派諸君の図でした。
知識だけは豊富だから揚げ足取りは上手いな、さすがに。
427 :
日本@名無史さん:03/01/13 23:57
>>424 うそこけ。あの時の奴国王クンの相手はオレだったけど、上げろと言ったが
ちーとも上げなかったぞ。
オレは三段読みに見えてそうでない例をたくさん上げたが。
>>426 知識がなくてフィーリングでわめいてることを自白しますた。
やぱーり、論とか説じゃなくて、宗教ですた。
429 :
九州王朝好き=朝鮮人の恥ずかしい告白:03/01/14 00:02
古代朝鮮語の文献はなにもないそうです
>ぐだぐだ言ってないで、早く「古代朝鮮語」の文献を示せよ。
ケンカうってんのか?質問してんのか?
この世にほぼ存在してないんだよ!シラネエノカ?
430 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:09
考古学オタに質問。
筑前から「三種の神器」セットが多く出土しているのは何故?
近畿では「二種」は多いが「三種」揃っているのは稀だが・・・
これはつまり、九州には「近畿天皇」級の地位の人物が多かったことを示すと
思うのだが?
431 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:09
>>427 お!あのときいくら実例を挙げられても、それは認めない認めないと駄々をこねてた人でしたか。
432 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:10
やっぱイデオロギー闘争だ、
従来説信仰vs九州説信仰
単なる煽り合いスレなんだねここ。
433 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:14
>>431 ? そんなこと言ってないが?
というか奴国王クンは実例をひとつも上げておらんのだがな?
うーむ、なんか話が食い違うな・・・
434 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:14
ごまかしはいいから
>>378 >九州王朝説では全部一致します。
>一ヶ所違うことにより全体は成立しないのです。
>一ヶ所違うことを無視し全体を成立させる事こそ愚かというのです。
>一ヶ所の間違いを積み重ねて出来たのが橿原一派の信条とする近畿王朝の歴史ではないでしょうか?
>それゆえ多利思北孤は九州の王者なのです。
で、全部一致するって、何と何が一致するの?
>>433 都合の悪いものは見えなくなる九州王朝目
436 :
九州王朝好き=朝鮮人の恥ずかしい告白:03/01/14 00:16
古代朝鮮語の文献はなにもないそうです
>ぐだぐだ言ってないで、早く「古代朝鮮語」の文献を示せよ。
ケンカうってんのか?質問してんのか?
この世にほぼ存在してないんだよ!シラネエノカ?
437 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:17
>>432 そのたとえは、ちょっと変じゃないか?
従来説にイデオロギーはあるかも知れないが、
九州王朝説ってイデオロギーなんかないのでは?
そもそも、それがないから九州王朝説に傾くわけで。
438 :
九州王朝大好き:03/01/14 00:17
>>381 隋書のこの部分では倭国が九州外にあると書いてはいませんが?
読み方によっては、都は有明海沿岸とも、九州東岸とも、博多とも、越の国とも、浪速とも、
如何様にも取れますが?
439 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:18
>>435 ごまかしはいいから。
なら、その「実例」を上げたというスレの番号、ここで示してくれない?
今探しているんだけど、見つからないんだよね。
440 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:21
>>438 九州以外の地名がひとつもないんだから、俀王の王都は九州だよ。
442 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:25
443 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:25
ごまかしはいいから
>>378 >九州王朝説では全部一致します。
>一ヶ所違うことにより全体は成立しないのです。
>一ヶ所違うことを無視し全体を成立させる事こそ愚かというのです。
>一ヶ所の間違いを積み重ねて出来たのが橿原一派の信条とする近畿王朝の歴史ではないでしょうか?
>それゆえ多利思北孤は九州の王者なのです。
で、全部一致するって、何と何が一致するの?
444 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:26
>>437 俺は保守派だけど九州王朝派かな。
今日の昼、多利思北孤で従来派とやりあったけど従来説は無理あるよね。
近代史におけるサヨの自虐史観はイデオロギーのフィルターが入ってるから支持できないのと同様、
古代史における従来派の説は支那の歴史書と整合性が取れない部分が多いから支持できない。
九州王朝派にはこういう奴もいます。
445 :
九州王朝大好き:03/01/14 00:29
>>434 一致するとは矛盾がないことです。
全部一致するとは全部矛盾しないと言うことです。
446 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:29
>>441 ???
で、その441に上げられたスレ番付近に、
>お!あのときいくら実例を挙げられても、それは認めない認めないと駄々をこねてた人でしたか。
に該当する箇所は見あたらないのだが・・・
そもそも「もう一度実例上げてみなはれ」というのが当時の私の主張だったのだが・・・
「過去に上げた」というのみで、そこでは上げませんでしたね。
447 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:29
>従来説は無理あるよね。
理由をあげずに結論ごし押しするのが九州王朝説の常套手段だね。
448 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:30
>>446 あなた自分で言ってるんだから再掲する必要はないじゃん。
449 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:31
>>447 無理がありすぎんだよ。
ごり押ししてんのは従来説の方だろ。阿蘇山問題とか・・・
450 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:32
>>445 >一致するとは矛盾がないことです。
じゃ「腹が減った」と「尻がかゆい」は一致するのか?
451 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:33
452 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:33
>>447 昼に散々やったからもう一回するつもりは無いのだが。
倭の王で天子を名乗った多利思北孤は大和王朝では誰に当たるんでっか?
俺が従来説を信用しなくなった理由はここなんだが。
453 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:34
ごまかしはいいから
>>378 >九州王朝説では全部一致します。
>一ヶ所違うことにより全体は成立しないのです。
>一ヶ所違うことを無視し全体を成立させる事こそ愚かというのです。
>一ヶ所の間違いを積み重ねて出来たのが橿原一派の信条とする近畿王朝の歴史ではないでしょうか?
>それゆえ多利思北孤は九州の王者なのです。
だから全部一致するって、何と何が一致するの?
454 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:36
>>448=431=あの時の奴国王クン なら、
>九州王朝説側にまた露骨なウソを書く人が出てしまいました。
>三段読みの実例はちゃんと示されています。
>都合の悪いものは見えなくなる九州王朝目
>お!あのときいくら実例を挙げられても、それは認めない認めないと駄々をこねてた人でしたか。
上記の3つのレスは「真っ赤なウソ」だったと自ら認めたということだな。
455 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:37
考古学オタに再度質問。
筑前から「三種の神器」セットが多く出土しているのは何故?
近畿では「二種」は多いが「三種」揃っているのは稀だが・・・
これはつまり、九州には「近畿天皇」級の地位の人物が多かったことを示すと
思うのだが?
456 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:38
1でちゃんと示されてるじゃん。
457 :
九州王朝大好き:03/01/14 00:39
近畿王朝従来説はみごと敗北しました。
と思うのは私だけでしょうか?
458 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:40
>>456 じゃあ少なくとも
>お!あのときいくら実例を挙げられても、それは認めない認めないと駄々をこねてた人でしたか。
に関してはウソだったと認めるんだな? 今なら「私の勘違いでした」で済むぞ?
459 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:41
>>457 旧唐書を素直に読めない時点で近畿天皇家一元主義は敗北だよ。
460 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:42
>>455 非論理的。
近畿で「二種」が多かったら、九州には「近畿天皇」級の地位の人物が多かったことにどうしてなるの?
461 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:43
>>458 1であげられてるじゃん。1を見よといわれた時点で「いくら実例を挙げられても」が成立。
462 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:48
>>459 旧唐書に関する従来説派の意見って聞きたいね。
何で倭国伝と日本国伝が分けられており、基本的に違う国としているのか。
多利思北孤の倭の国と、大和の日本が別国である証明だと思うが。
463 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:50
>>459 旧唐書を素直に読むと
倭国と日本が同一だという説がちゃんと書いてありますが何か?
464 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:50
>>461 ふーん、あくまで自分のウソを認めないんだな?
>それは認めない認めないと駄々をこねてた人でしたか。
リアルタイムで例も上げていないものに、「『それ』は認めない」、などと言うバカがどこにおるのか。
(だいいちスレのパート1の時はオレはおらん)
他をウソツキ呼ばわりするわりには、往生際の悪い奴だ。
それとも、それ=スレのパート1 のことで、「1に上げた実例など(ここでは)認めない」と
いう論議だったってことにしておいてやろうか? ん?
465 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:51
>>463 はい、この時点で従来説は破綻していると自ら言っているようなもの。
鉄の分布が卑弥呼の時代だとかいうヨタ話は放棄したのね。
もう寝るぞ。
467 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:51
>>455 あんた何がしたいの?
三種の神器云々は置いといて、
後1世紀ぐらいまで、後漢書などに言う倭人の王が
九州(福岡県北部)にいたことは誰も否定してないんだけど。
でも、いわゆる九州王朝と弥生時代後期前半じゃ時期が違いするぎるから、
九州王朝がどうのこうのって言う証拠には全くならないでしょ。
468 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:53
>>465 ありゃ?とち狂った?
九州王朝説の根拠がなくなったので・・・
469 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:54
>>460 つまり近畿では
二種=豪族
三種=天皇家
ということだ。
しかし筑前から「三種」がゴッソリ出土しているってことは、「三種の神器」を
奉ずる勢力が筑前には多数あったことを示しているってこと。
470 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:58
>>463 日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
これを素直に読めば日本国は倭国の別種であり、小国であったが
倭国を併合したと読めるんですが何か?
471 :
日本@名無史さん:03/01/14 00:59
往生際の悪いうそつきだな。
>それとも、それ=スレのパート1 のことで、「1に上げた実例など(ここでは)認めない」と
いう論議だったってことにしておいてやろうか? ん?
自分自身でその例を再掲してるんだから
1に上げられた(その)実例など認めない認めないと
駄々をこねてたんじゃないか。
何を三段読みの例としてあげられてるか承知してるんだろ?
472 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:00
>>463 岩波ですらこの旧唐書の「倭国伝」「日本伝」に関してはあれこれ解説を
入れておるというのに、
>旧唐書を素直に読むと
>倭国と日本が同一だという説がちゃんと書いてありますが何か?
とは怖れいった(笑)
473 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:00
>>470 これを素直に読めば倭国はその名前が雅じゃないので日本と改めたと読めるんですが何か?
475 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:03
ところで
>>378 >九州王朝説では全部一致します。
>一ヶ所違うことにより全体は成立しないのです。
>一ヶ所違うことを無視し全体を成立させる事こそ愚かというのです。
>一ヶ所の間違いを積み重ねて出来たのが橿原一派の信条とする近畿王朝の歴史ではないでしょうか?
>それゆえ多利思北孤は九州の王者なのです。
全部一致するって、何と何が一致するの?
476 :
九州王朝大好き:03/01/14 01:07
>>452 >倭の王で天子を名乗った多利思北孤は大和王朝では誰に当たるんでっか?
九州王朝説支持の私と致しましては、
多利思北孤は胸形君徳善です。
近畿王朝従来説の方々にとっては、
多利思北孤は誰なんでしょうか?
答えてください。
477 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:07
>>469 >三種=天皇家ということだ。
>しかし筑前から「三種」がゴッソリ出土しているってことは
筑前に天皇家がゴッソリいたの? (大笑)
478 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:07
>>471 >自分自身でその例を再掲してるんだから
ふーん、オレがリアルタイムで史料めくって上げた例が、偶然、アンタが過去に1で上げていた
実例だったってわけか・・・
まあいい、なら、とりあえず私自身で過去ログから「1」を探して、本当に私の上げたものが
再掲だったのか調べてみるぜよ。
というわけでこの話はいったん終わりだ。
479 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:07
>>476 >多利思北孤は胸形君徳善です。
そういう根拠は?
480 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:10
>>473 日本国者倭国之別種也。
これを素直に読むと日本国は倭国の別種であると読めるし、
倭国自悪其名不雅、改為日本。
これを素直に読むと倭国は雅じゃないから自ら倭国を改め日本としたと読める。
日本舊小国、併倭国之地。
これを素直に読めばもともと小国だった日本が倭国を併合したと読める。
通して読むと日本国は倭国の別種であり小国だったが、かつての宗主国である倭国を併合した。
日本と言う国名は倭から受け継いだと読めるのですが
これが何故倭国と日本国が同一であると読めるのか不思議ですね。
481 :
九州王朝大好き:03/01/14 01:14
>>475 君同じ事ばかりくりかえして。
最終回答を再掲。
「一致するとは矛盾がないことです。
全部一致するとは全部矛盾しないと言うことです。」
これで回答はおしまい。
482 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:17
>>477 はは、やっぱりその話されるとマズイわけね?(笑)
日本書紀、「景行紀」および「仲哀紀」には神夏磯姫、岡県主、伊覩県主が
「三種の神器」をたずさえてやってくる場面が記述されている。
三種の神器=天皇家の象徴ってことなら、天皇家の地位=九州の県主レベルってことに
ならないかい?
483 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:20
>>480 「或曰」と並列に書いてあるのを無視して時系列的に直列に読むような文法無視はだめだよ。
484 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:24
>>483 なるほど、そうでもして読まないと倭国=日本国は成り立たないと・・・
やはり近畿天皇家一元説は破綻してますな(爆笑)
485 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:24
>>482 非論理ここに極まれり!!!!!
>「一致するとは矛盾がないことです。
> 全部一致するとは全部矛盾しないと言うことです。」
「尻が痒い」と「腹が減った」は矛盾しない。同時に発生しうるからね。
ならば「尻が痒い」と「腹が減った」は一致するか?
当然一致しない。べつべつの事柄だ。
まったくナンセンスだね。
486 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:25
>>483 それが「文法無視」だとする根拠を上げてくれ。
こちとら、古典の中国語には疎いんだ。
487 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:26
>>484 つまり文法を無視しないと九州王朝説は成り立たないと・・・
やはり九州王朝説は破綻してますな(憫笑)
488 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:27
489 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:27
>>485 なんか安本某の論法に似てるなぁ・・・
ご本人でつか?
490 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:29
>>482 >日本書紀、「景行紀」および「仲哀紀」には神夏磯姫、岡県主、伊覩県主が
「三種の神器」をたずさえてやってくる場面が記述されている。
九州にごろごろある三種の神器は県主レベルのものって証拠ですね。
491 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:29
じゃあ九州王朝否定派の人は、
日本国者倭国之別種也。
とあるのはどう読んでいるの?
日本舊小国、併倭国之地。
これの理解は?
492 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:35
或曰、或云で並説されてるんだから、年月が経って実態がわからなくて諸説紛々だってだけでしょ。
旧唐書はしょせん日本と公式国交がない時代の後代資料だから仕方ないけどね。
493 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:36
>>490 私の考察では
伊覩県主=伊都国王
だろうと思う。倭人伝を読む限り、権力は伊都国王<倭王だ。
つまり三種の神器を持つ勢力の位取りは、「倭王」より格下って公式がここで
成り立つと思う。
三種の神器を奉ずる近畿天皇家、その地位は、倭諸国の一王にすぎないのではないか?
494 :
九州王朝大好き:03/01/14 01:38
反九州王朝派は、
旧唐書ではコテンパンなので、
そろそろ新唐書で巻き返しでも?
なんせ10世紀の本だもんね。
なんたって六国史の日本三代実録より新しい。日本じゃ平安時代もあとのほうだよ。
>>494 旧唐書よんだことないの?
九州王朝説がコテンパンになってるのが判らない?
497 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:43
>>493 低レベルな憶測だね。
征服者はあらたに支配下においた国のレガリアを次々に召し上げるもんなんだ。
タイトケイとか知らないだろうなあ。
498 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:43
>>496 はい、はい、近畿天皇家一元主義の苦しい立場は理解します(苦笑)
だけどウソはいかんよ、ウソは。あなたは
日本国者倭国之別種也。
とあるのはどう読んでいるの?
日本舊小国、併倭国之地。
これの理解は?
499 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:47
>>497 >征服者はあらたに支配下においた国のレガリアを次々に召し上げるもんなんだ。
神武がヤマト征服したとたん、銅鐸がヤマト近辺から消滅していますが?
そして天皇家の支配域が広がるにつれ、次々と銅鐸文明も消えていきます。
召し上げてなどおらん。これは実証ですが?
500 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:51
はい、はい、九州王朝説の苦しい立場は理解します(憫笑)
だけどウソはいかんよ、ウソは。
日本国者倭国之別種也。(別国説)
或曰
倭国自悪其名不雅、改爲日本。(同一国説)
或云
日本舊小国、併倭国之地。(別国説)
これの理解は??
故意に都合の悪い部分をカットするのは悪質よ!
501 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:53
>>499 >神武がヤマト征服したとたん、銅鐸がヤマト近辺から消滅していますが?
そんな歴史的事実があるの?
それが九州王朝説の実証?
502 :
九州王朝大好き:03/01/14 01:53
近畿天皇家一元主義ますます窮地に。
新唐書で反論はいかが?
503 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:55
ありゃ?九州王朝説がコテンパンにされてる目の前の事実も見えないとは・・・絶句
なぜ九州王朝説のひとは
或曰、 倭国自悪其名不雅、改爲日本。(同一国説)
みたいな目の前の事実を見ようとしないんでしょうね。
505 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:58
おら、もう寝るだ。九州王朝説にひと。
旧唐書くらい自分で読むだよ。
506 :
九州王朝大好き:03/01/14 02:00
別スレより引用
E旧唐書に見られる倭と日本の関係が2説ある。
倭=九州王朝、日本=天智朝の場合は倭≠日本
倭(九州王朝)→日本(多利思北孤宗像朝)→日本(天武朝)
507 :
日本@名無史さん:03/01/14 02:01
>>500 しかし旧唐書では「倭国伝」「日本伝」が別に立てられているわけで。
>或曰
> 倭国自悪其名不雅、改爲日本。(同一国説)
これは「倭国が日本と名乗った」と読めても、別々に立てられた「倭国」「日本国」が
同一国だとまで発展するのは、論理の飛躍のしすぎではあるまいか。
倭国と日本が「別国」という前提なのは明らかなのだし。
508 :
日本@名無史さん:03/01/14 02:02
509 :
日本@名無史さん:03/01/14 02:05
旧唐書は編集が杜撰ボロボロだから同一人物に伝がふたつくらいあるの珍しくないよ。
510 :
日本@名無史さん:03/01/14 02:06
漏れはこのスレ好きな中立派。というか九州王朝には少し否定的なんだが。
多利思北孤=宗像君なんとかって説など、いかがなものかと思っているんだけど、
しかし
>>503のようなのもどうかと・・・
511 :
日本@名無史さん:03/01/14 02:07
わしも寝る。
九さん!だれも反論しなくなったからって勝手に勝利宣言しないでね。
512 :
日本@名無史さん:03/01/14 02:08
九州王朝説コテンパン。
明日はすこしは頑張ってね。
513 :
日本@名無史さん:03/01/14 02:10
>>509 同一国に伝がふたつなんてのは、いくらなんでもボロボロすぎないか?
しかも倭人伝以来のおなじみの夷蛮国だよ。
514 :
日本@名無史さん:03/01/14 02:10
>>511 いや、そっちは反論の体を為しておらんから、勝利宣言など出すまでもないのだが?
515 :
日本@名無史さん:03/01/14 02:13
いやー、やはり旧唐書の論議となると、近畿天皇家一元説は論理だった反論は
出来ませんでしたな。まあいつものことだが。
しかし岩波でさえ苦慮しているこの「倭国伝」「日本伝」の別国扱いについて、
「まともに読めば同一国」と強弁するのには恐れ入った。
歴史は全く門外漢なのですが、興味深くスレを通読させてもらいました。九州説と畿内説
はまだまだ決着していない大問題のようですね。証明方法のひとつとしては、
1.まず九州説が正しいと仮定する(畿内説でもよい)。
2.その場合、現存する複数の文献資料(日本・中国・朝鮮)での矛盾点を洗い出す。
3.その矛盾点が解釈次第で回避できるか、回避不能の絶対的矛盾点か精査する。
4.絶対的矛盾点がひとつでもあれば1.の仮定は誤りである。
という考え方もあると思われます。知識がないのでどちらの説が尤もらしいのか不明ですが
今のままの議論ではなかなか収束しそうもありません。要するに九州説が正しいとした場合、
絶対おかしいと思われる矛盾点(その逆も)がまだ見つかっていないのが現状なのでしょうか?
今後も時々覗かせていただきます。ではでは。
517 :
日本@名無史さん:03/01/14 06:38
>>513 >同一国に伝がふたつなんてのは、いくらなんでもボロボロすぎないか?
そういうボロボロ文献を根拠にしているんですよ。九州王朝説は。
同一人物に伝がふたつというのもいくつかあるんですから。
518 :
日本@名無史さん:03/01/14 06:41
>>516 その通りだと思いますよ。九州に王朝があったのは確実として、問題は、それが、
・どの程度の規模だったのか(吉武高木、三雲、岡本、平原・・・それに吉野ケ里遺跡等)
→ これらは十分に王のいる国といえる。特に三種の神器の出土は、どのような意味が
あるにせよ、重要であることは間違いない。
・それらは、どの時期まで続いたのか。
→ 弥生中〜末は、遺跡が貧弱になるとの定説もあるが、それ自体もまだ仮説に近く、
近年の放射年代測定や土器編年の修正仮説もあり、まだまだ不確定。
・メガトレンドとして人口動態を見ると、縄文時代から弥生時代の人口爆発は、西→東の
ルートで何度も東漸が会ったという事実を示しており、文化、稲作、そして軍事的中枢
としての‘覇者’の中枢があったと考えても全く不自然ではない。
まあ、王朝という言葉をどこまでのものと解釈するかということもありますが、北部九州
に高い文化を有し、地方政権としての統一王が存在したこと自体は何ら問題は無いと思わ
れます。問題は、そのような王権のエリアが、それほどの広がりを持っていたかですが、
少なくとも大和一元説であってもいきなり九州から関東までの統一王朝が同時多発的に出
現するはずはなく、徐々に周辺国の征服譚があったのは間違いないので、大和王権が北九
州、あるいはその他の地域と雌雄を決するまでは、それぞれの地域で地方王権が存在した
ことは、断定してもいい事実です。
さて、問題ですが、私の見たところでは、近畿説の場合、いつ頃、そのような統合があった
のかについての論証が弱いと感じます。特に北九州との角逐は、あまりお目にかかれません。
まあ、天皇陵発掘が出来ない近畿と江戸時代から脈々と発掘され続けている北九州とでは考
古学的なハンデは大きいわけですが。
少なくとも捏造の部分はあるかもしれませんが、あれだけ記録と系譜が残されている割には、
どの代でどの地方を傘下におさめたのかが不明瞭すぎるので、その点の論証は是非とも欲し
いところ。こんなところで厨房同士乳くりあっている暇があったら、やることはたくさんあ
りますよ。両説とも。
519 :
日本@名無史さん:03/01/14 06:46
>>515 或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。
たのみの旧唐書が同一国説を載せている事実に苦慮しているようですね。
ようするに10世紀の中国人の知識が混乱していただけだということがはっきりしたんです。
九州王朝説の拠り所が消えてしまいましたね。
そんな後世の文献に頼らざるをえない九州王朝説も困ったものだが
522 :
九州王朝大好き:03/01/14 13:05
旧唐書に見られる倭と日本の関係が2説ある。
これは唐においてもややこしくて断言できなかったから、2説を併記したのではないでしょうか?
@日本と倭が別国 (倭=九州王朝、日本=天智朝)の場合は倭と日本は系統が切れて別国と判断できる。
A倭が日本に変名 倭(九州王朝)→日本(多利思北孤宗像朝)→日本(天武朝) と系統が続いている。
B判断し難い原因 天智と天武は兄弟
Cその他説明 *多利思北孤胸形君徳善の子である尼子娘は天武の妻であるので、
九州王朝は薩夜磨から義理の兄弟又は伯父である天武に王位を譲った。
*天智は天皇であったことを天武以降世代で消されていた。
これは王位が多利思北孤朝から天武朝に譲られたからと説明できる。
*王のいる場所が九州から近畿になった。
以上状況から倭から日本への移行を唐では判断し難かったのが3文並記の理由。
何もないのに国の名前が変わるとは思えない。何か大きな出来事があったのでは?支配者の変更とか、領土の変更とか…そこらへんを上手く説明してくれると助かります
>>523 同感。新王朝が前王朝の国号を引き継ぐことはあっても、王朝の内実に変化がないのに国号を変えるということは考えにくい。
>>521 文章ちゃんと読めよ。
煽りにしても、もうすこしまともなこと言ってください。
>>525 >・どの程度の規模だったのか(吉武高木、三雲、岡本、平原・・・それに吉野ケ里遺跡等)
> → 弥生中〜末は、遺跡が貧弱になるとの定説もあるが、それ自体もまだ仮説に近く、
>・メガトレンドとして人口動態を見ると、縄文時代から弥生時代の人口爆発は、西→東の
どう見ても、邪馬台国論争をやるとしか見えんが。
>さて、問題ですが、私の見たところでは、近畿説の場合、いつ頃、そのような統合があった
>のかについての論証が弱いと感じます。
畿内説派、邪馬台国の時期に統合があり、王権は東に移ったと考えてるのは知ってるだろ。
つまり、これは結局邪馬台国論争になる。
ここの九州王朝支持者は邪馬台国の後継だと主張している以上邪馬台国論争は
九州王朝説とは無縁ではないが、ただでこそわからんちんが多くてややこしい時に
ここで邪馬台まで話を広げてさらにぐちゃぐちゃにすることはなかろう。
邪馬台スレへいけ。
TPOに応じて問題を切り分けてスレを使い分けるのが賢いやり方だ。
ほら、「九州王朝大好き」すら旧唐書に同一国説が書いてある事実を認めてる。
当然だけど。
528 :
九州王朝大好き:03/01/14 21:50
>>527 >「九州王朝大好き」すら旧唐書に同一国説が書いてある事実を認めてる。
上記に異論はありますせんが、内容の把握状態は同じでしょうか?
私の理解では
基本認識は
「日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名」
基本的には日本と倭は別の国である。
「或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本」
しかし、或る説では、倭が日本になった言う。
「或云 日本舊小國 併倭國之地」
又、或る説では、小国だった日本が倭を併合した。
唐は倭と日本は別であるとしている。・・・・・倭≠日本
しかし、@倭が日本に改名したとも聞く。・・・倭=日本
A日本が倭を併合したとも聞く。・・・倭≠日本
しかし唐が近畿王朝日本を日本の代表と認めたのは、
天武が王位に就いた壬申の乱の28年後の西暦700年まで時間がかかりました。
それまでは九州王朝が日本の代表であったのです。
原文は素直にスレートに読みました。
529 :
九州王朝大好き:03/01/14 22:06
>>528 追伸
「或曰」と「或云」の違いもキチンとして理解してくださいね。
530 :
日本@名無史さん:03/01/14 22:11
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。
これって大和も昔は倭を名乗っていたが、日本と国名を改めたとも読めるよね。
日本國者倭國之別種也
が有る事を考えると倭と名乗っていても不思議じゃない、
本国の倭は国名を変えず、大和のみ倭から日本に国名を改めたと考えても良いのでは。
531 :
九州王朝大好き:03/01/14 22:27
>>530 その考え方については否定は出来ません。
私の仮説では多利思北孤が倭を日本に改名したと思えるのですが、
状況証拠にもうひとつ必然性がありません。
まだ未整理事項で温めております。
532 :
日本@名無史さん:03/01/14 23:24
倭国伝と日本伝が別に立てられているわけだから、
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。
これを「同一国」説とするのは相当無理があるのではないの?
>>530さんの言うように、「大和も昔は倭を名乗っていたが、日本と国名を改めた」
との解釈の方が、まだ筋の通った理解だと思う。
533 :
日本@名無史さん:03/01/15 00:30
>>532 いや、或る人の曰く、「倭国自悪其名不雅、改為日本」、だから同一国説を主張
する人達がいた、ということを旧唐書ではのべているだけ。旧唐書の立場は、同一
国説を「これを疑う」すなわち誤りだと考え、別国説に立っているわけ。だから、
「同一国説を誤った説として紹介している」というだけのことであって無理ではな
い。
534 :
九州王朝大好き:03/01/15 00:33
>>532 文の構成上は532氏の言われることが筋が通っているとおもいます。
しかし、続く文として、
「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。」
では、其人は近畿王朝の人間となり、良く知っている九州の倭国人と比べると、
「多自矜大、不以實對」であると中国人は思い、「故中国疑焉」と以前の倭国人ではないと疑ったのです。
よって、中国は「倭国自悪其名不雅、改為日本」の倭を近畿王朝と認識しなかったと結論します。
535 :
日本@名無史さん:03/01/15 00:33
つまり旧唐書が別国説に立っている、というだけのことで、別国だったと
いうのが事実だったかどうかは別途検証が必要、というわけだな。
536 :
九州王朝大好き:03/01/15 00:44
>>535 これで旧唐書は倭と日本は別国であると主張していること認めたのですね。
間違いはありませんね。
>>535 まあ、どんな史料でも検証は不可欠ですけどね。
538 :
日本@名無史さん:03/01/15 01:09
>>536 私は認めたよ。ただしそれが事実であるかどうかは不明だ。
だがね、唐会要も倭と日本を別国と主張している。ところが唐会要では
倭も日本も大和の使者が朝貢しているんだ。
これは「国が一つか二つかという大きなことですら中国史書の記述が正
しいとは限らない」という具体例になっている。
539 :
九州王朝大好き:03/01/15 02:13
>>538 新唐書を担いで来るかと思ったら、
引っさげてきたのは唐会要ですかい。
中国史書は新唐書と唐会要しか無いのですか?
>>539 まあまあ、反九州王朝派をすべて敵視するのはどうかと。
みんながみんな奴国王クンみたいなのではないわけだし。
私は
>>538氏は、話し合える人だと思いましたが。
>>539 はっきり倭国=日本と述べている通典があります。
542 :
日本@名無史さん:03/01/15 05:43
>>533 >旧唐書の立場は、同一国説を「これを疑う」すなわち誤りだと考え、別国説に立っているわけ。
その解釈は出来ません。
「これを疑う」は「又、或る説では、小国だった日本が倭を併合した(「別国→併合」説)」のあとに書かれているんです。
だから、「同一国→改名」説だけを否定しているような読み方はできません。
また旧唐書は倭国をひとつの国として扱っているのですから
>>530のように倭の一部だけ改名したと読むのも無理です。
つまり別国説も同一国説も確信をもっていないが国号が違うから別章をたてたとするのが正しいと思います。
旧唐書は編集が杜撰で同じ人の伝記がふたつあったりするそうですから、倭国伝と日本伝がべつべつにあることも無条件に別国説を支持しているとは言えませんね。
544 :
日本@名無史さん:03/01/15 05:52
どっちにせよ旧唐書は日本が成立してから300年ほども後に書かれた書物です。
彼らには事実関係が良くわかっていなかったことは間違いありません。
>>542 それは違うだろ。
「倭国」の方は古の倭奴国とし、昔から中国が通交してきた国だとしている。
「日本国」の方に、上に引用したようなことが書かれているが、それでも倭国と
同一だとは書いていない。
むしろ、そこに書かれた地理などは、まったく異なる国だとしか読めない。
つまり旧唐書では、倭国と日本国は「別国」というのが大前提。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。
これについては、「日本」という国名の由来について、「或曰」という形で
一説をあげていると解釈するべきだ。
546 :
日本@名無史さん:03/01/15 06:31
倭国自悪其名不雅、改為日本
つまり昔から中国が通交してきた倭国が日本と名を改めたという説を載せてる。
倭国と日本国は「別国」というのは大前提ではないね。
どっちかといえば別国かな程度だろう。
>そこに書かれた地理などは、まったく異なる国だとしか読めない。
その日本の地理についても「これを疑う」対象なので不確かな情報だ。
同一国説を退けるなら同じ理由で「地理などは、まったく異なる国」も却下しないといけない。
547 :
日本@名無史さん:03/01/15 06:36
旧唐書の倭国は南北より東西に長いので九州じゃないね。
>>546 別々に伝が立てられているんだから別国は大前提でしょう?
それに、「地理」についても「これを疑う」対象だというのは、これは初耳の説。
出来ればもう少し詳しく書いて欲しいです。
549 :
日本@名無史さん:03/01/15 06:52
>>546 「或曰」という語句が抜けてまっせ。
つまり日本という国名の由来の一説として、倭国が名乗った、としている説を
紹介しているんだよ。(「これを疑う」というのが、この一説まで含まれるとする
上記の誰かの論とは、私は異なる)
地理に関しては、私は「これを疑う」の対象外だと思うし(中国側が疑っているのはあくまで
歴史的な事柄や、日本国の地位など)、また「或曰…」という形の記述ではないので
不確かな情報とする説は、間違いだと思う。
550 :
日本@名無史さん:03/01/15 06:55
551 :
日本@名無史さん:03/01/15 06:56
旧唐書で同一人物の伝が別々に立てられている事実がある以上
「別々に伝が立てられているんだから別国は大前提」にはなりません。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
又云、其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山…
「又云」の内容が日本人からの聞き書きである以上は地理も疑いの対象ですね。
552 :
日本@名無史さん:03/01/15 07:01
>つまり日本という国名の由来の一説として、倭国が名乗った、としている説を
紹介しているんだよ。
倭国が日本と名を変えたと言っているのだから、あくまでも倭国=日本だという一説であって、名前の由来だけというに矮小化することはできない。
553 :
日本@名無史さん:03/01/15 07:19
>>539 それって反論?
『唐会要』って『会要』と『続会要』をもとに『旧唐書』の35年後に編纂された
が、当然『会要』と『続会要』をベースにしている。ところが『唐会要』と『旧唐書』
の記述の類似性から見て『旧唐書』も『会要』や『続会要』をベースにしていること
は間違いない。『旧唐書』が正史だからといって重視して『唐会要』が正史でないか
ら無視するというのは根拠がない。
要は「中国史書の主張=史実」なのではなくて「中国史書の主張=当時の中国人が
そう思っていた証拠」でしかない。
最も信用できる記述は中国使者の実地見聞録とか朝貢記事であって、彼らが直接確
かめたのでない伝聞の可能性がある記事は、それを伝えた人が真実を述べたという保
証がない限り、即史実であるなどと考えてはいけない。いわんや伝聞であるかどうか
さえ不明な記事をや。
554 :
日本@名無史さん:03/01/15 12:07
最近カキコが多過ぎて夜中の分は読み切れない。
で、読まずにカキコ。
唐会要は、巻九十九に「倭国」、巻百に「日本」があり、「日本」の冒頭に、
日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。
と書いてある。これは、旧唐書と全く同じ。
ところが、「倭国」の方にも、
則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不雅而改之。
と書いてあって、別伝が立てられており、『別種』と記されているにもかかわらず、
「倭国」と「日本」は、実は同じ国であり、国号が違うだけだとわかる。
つまり、旧唐書に倭と日本と別伝が立てられており、『倭國之別種也』と書かれていても、
それがただちに『別の国だ』という結論にはならないということを、
唐会要は示している。
555 :
九州王朝大好き:03/01/15 18:27
>>554 554氏と見方が似ているようですが、結論は違うようですね。
「唐会要」は引用しなかったのですが、引用すれば私の論はより理解しやすくなります。
私が「唐会要」を引用すると荒れると思ったものですから。
私の論は下記の通りです。ご参照下さい。
>>522 >>528 >>530 >>534
556 :
日本@名無史さん:03/01/15 19:53
唐代に書かれた通典が明快に倭=日本を記しているのだから旧唐書での事実誤認は問題にならないでしょう。
557 :
九州王朝大好き:03/01/15 20:52
>>556 出てきた出てきた「通典」が出てきた。次は「新唐書」かな?
558 :
日本@名無史さん:03/01/15 21:05
公平な立場から見ると、旧唐書の書いていることは誤解のようですね。
559 :
日本@名無史さん:03/01/15 21:45
もし旧唐書が間違いだとして、
記紀に国名が倭から日本に変わったのが、何時どのような理由でと書いてあるの?
国名を変える事はかなり大きな事だから、記載が有ると思うんだけど。
記載が有り、時代的な整合性が取れれば旧唐書の間違いだと言えるんじゃないかな。
560 :
日本@名無史さん:03/01/15 22:06
続日本紀の慶雲元年七月条にある楚州塩城県での記事と、正義括地志の「又倭國武皇后改曰日本國」で時代的な整合性がとれますね。
しかし、唐会要を持ち出さないと、旧唐書の「倭国」「日本国」の別伝について
同一国説を主張できないのは、正直いって痛いところだと思います。
唐会要と旧唐書、これは別人が書いた別の史料ですから。
あっと、別に九州王朝の存在を認めたわけではないからね。
563 :
日本@名無史さん:03/01/16 06:41
旧唐書は正史といってもたった10年で滅んだ弱小国の官撰ですからね。
通典や史記正義をみれば唐代の認識はやはり倭=日本の同一国でしょう。
564 :
日本@名無史さん:03/01/16 07:16
>>561 ものは言いようだなあ(w
『唐会要』を持ち出されると困るのが九州王朝説だ
と素直に言えばいいんじゃないの?それに『唐会要』の倭にも日本にも
大和の遣使名が出てくることに対しては何の釈明もないんだけど・・・・。
(^^)
566 :
日本@名無史さん:03/01/16 09:39
age
567 :
日本@名無史さん:03/01/16 15:14
>>557 なんのなんの、「日本国は倭国の別名なり」と記した『唐暦』という史書もあ
るよ〜ん。
唐の柳芳が著した『唐暦』(760以降の成立)には
「此歳、日本國遣其大臣朝臣眞人貢方者、日本國者、倭國之別名也。
朝臣眞人者、猶中國地官尚書也。頗讀經史、容止温雅、朝廷異之、
拝司膳員外郎」
とある。内容的に『通典』と共通するし、『旧唐書』などで「別種」とある
ところが「別名」となっていて、中国側の認識が揺れ動いている様がわかっ
て面白い。
568 :
九州王朝大好き:03/01/16 15:36
中国が近畿王朝を日本の代表と認めた700年、
700年以降の、近畿王朝=日本を前提とし認識して書いた史書を、
いくら挙げても、倭=日本に決りきっている。
類書をいくら挙げても、意味が無い。
大宝元年をもって九州王朝から近畿王朝に完全に王権が移った。なぜなら大宝以後は途切れなく年号が続いているから。
>>569年号が連続していることは、その体制が安泰に続いた証明にはなり得ても、九州王朝の証明とはならないと思われ。それより、近畿説の方で、
>>523の国号を変えたことに対するレスを再度希望いたしまふ
571 :
日本@名無史さん:03/01/16 19:23
>>568 >中国が近畿王朝を日本の代表と認めた700年、
>700年以降の、近畿王朝=日本を前提とし認識して書いた史書を、いくら挙げても
じゃ、900年以降の史書なんかはもちろん論外だね。
572 :
九州王朝大好き:03/01/16 19:51
>>571 必ずしも論外とは言えませんが、
その意味で「旧唐書」は必ずしも決定打にはなりません。
同時代史書は間違いなく決定打になりますが、
僅か1世紀前のことの記述であれば、利害関係のある現実に振り回され易い為客観性が殆ど損なわれでしょう。
また、
「旧唐書」が「新唐書」を修正する為に書かれたとも考えられますからね。
「旧唐書」が7世紀の同時代史書に基づいて書かれたと判れば、決定打でしょう。
国号って観念が日本にあったの?
574 :
日本@名無史さん:03/01/16 20:08
>僅か1世紀前のことの記述であれば、利害関係のある現実に振り回され易い為客観性が殆ど損なわれでしょう。
そういう理屈なら同時代史書のほうがさらに利害関係のある現実に振り回され易くて客観性がゼロってことになっちゃうね。
575 :
日本@名無史さん:03/01/16 20:50
>>572 >「旧唐書」が「新唐書」を修正する為に書かれたとも考えられますからね。
へー!知らなかった!!!
「旧唐書」って「新唐書」より後に書かれたんだ!! へー!
むちゃくちゃですな
577 :
九州王朝大好き:03/01/16 21:21
>>575 「旧唐書」って「新唐書」より100年前に書かれたんだ!
578 :
九州王朝大好き:03/01/16 21:27
>>575 新唐書は同時代史書に基づいて書かれてることは間違いありませんから。
579 :
九州王朝大好き:03/01/16 21:36
>>572は変な文ですね。
このように修正すればどうでしょうか?
「旧唐書」が「新唐書」(の資料となった同時代史書)を修正する為に書かれたとも考えられますからね。
「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。」
ひょっとして旧唐書の「疑う」の内容というのが、唐会要や通典が書いてある倭国・日本国の
関係なんじゃない?
たぶん唐会要・通典の述べた倭国・日本国の歴史とは、近畿天皇家側の主張した事項だと
思えるので。
581 :
日本@名無史さん:03/01/17 01:00
ここらでageてみたり
582 :
日本@名無史さん:03/01/17 01:57
>>578 それは違うでしょう。宋代に日本の僧チョウネンが持参した『王年代記』に
基づいて書かれています。
>>580 やっぱり素直に読めば旧唐書の「疑う」の内容というのは旧唐書が自分で書いたことの中ですね。
584 :
日本@名無史さん:03/01/17 08:44
netomoで、また九州論者が、暴れています!
僕は、どっちでも良い方ですが、誰からも聞かれていないのに、
何も知らない韓国人の高校生相手に、
説を説いている姿は、松井やよりの様な異様な空気が漂っています。
586 :
日本@名無史さん:03/01/17 09:02
>>523,570
573のいうとおり,国号という概念がなかったとおもわれ。
つまり,国号を「変更」したのではなく,「創出」したんだよ。
国家の体制が変わったわけではない。
九州王朝説側から「国号創出の記事が『書紀』にのっていないじゃないか」という指摘がでるだろうけれども,それは当たり前。
なぜなら,『書紀』は「最初から「日本」を名乗っていた」という立場で書かれているから。
うそだと思うなら『書紀』を読んでみな。
『古事記』で「倭」と表記されていたものがことごとく「日本」になってるから(一部例外あり)。
九州王朝説、終わりましたね。
>>586,
>>573レスありがとうです。
なるほど、創出ですか。倭の五王の署名に「倭王 倭武」などとありますから、姓との混同というか、王の姓と国号の概念が未分の状態だったのかも、ですね。
そんなことないだろ。「使持節都督倭・百済・新羅・加羅・辰韓・慕韓六国諸軍事〜」
という将軍号を創作して自称するほど中国ナイズされてんだよ?
それで国号の概念がないなんて、信じられないよ。
590 :
九州王朝大好き:03/01/18 02:27
>>589氏に激しく同意。
国号の概念がないなんて、ありえない。
よって、近畿王朝説は粉砕された。
591 :
九州王朝大好き:03/01/18 02:36
※九州王朝はなかったか?※
591レスより上記表題に変更されました。
近畿王朝説あ跡形ももなく消え去りましたので。
592 :
九州王朝大好き:03/01/18 02:37
※九州王朝はなかったか?※
591レスより上記表題に変更されました。
近畿王朝説は跡形ももなく消え去りましたので。
593 :
九州王朝大好き:03/01/18 02:39
※九州王朝はなかったか?※
591レスよりこのスレは上記表題に変更されました。
近畿王朝説は跡形ももなく消え去りましたので。
594 :
日本@名無史さん:03/01/18 06:33
>>590 国号の概念はあったでしょう。近畿の王権は自国を倭とよんでいたはず。それは
古事記のとおり。
で、粟田真人が中国(当時の国号は則天武后の“周”)に逝って自国の新国号で
ある“日本”を紹介したことが『続日本紀』慶雲年間の記事と『通典』『唐暦』
『唐会要』などからわかる。
つまり大和の国号である「倭」から「日本」への変遷に関する中国側の情報収集
のプロセスは明快で、何の問題もない。
595 :
日本@名無史さん:03/01/18 07:57
倭という言葉について地名と国号の区別がついていたか疑わしいですね。
もともと倭人という民族名なのだし。しかも他称ですよね。
ましてや自分たちの名前や地名にどういう漢字を当てるかも未確立だった。
律令時代に入ってやっと中国人の言う「国号」の意味がわかってきた程度ではないかな。
596 :
日本@名無史さん:03/01/18 14:55
586の発言の真意はむしろ後半部分にあるのでは?
>>『書紀』は「最初から「日本」を名乗っていた」という立場で書かれている
のが重要だと思うよ。
597 :
日本@名無史さん:03/01/18 15:06
だね。
日本書紀に国号創出の記事がのっていないことのだれでも納得できる理由だと思う。
598 :
九州王朝大好き:03/01/18 15:17
>>697 そうですね。
国号を創設したのは九州王朝ですから、
日本書紀に国号創出の記事がのっていないことをだれでもが納得できる理由だと思う。
両説の方へ。敢えて倭の記事を日本と書き替えた言うことは、日本は倭の勢力とは別の勢力との理解でよろしい?で、九州説は倭が九州で、九州なかった説は倭も近畿、との立場ですね。
600 :
日本@名無史さん:03/01/18 15:32
>日本は倭の勢力とは別の勢力との理解でよろしい?
は? なんで?
>国号を創設したのは九州王朝ですから
これまで読んできたんですけど、九州王朝否定の人は何かいうとき必ず理由を言いますね。
九州王朝説の人はいつでも理由もなく最初から決め付けてる感じです。
やっぱり九州王朝はなかった方に賛成します。
>>600 何でかというと、
>>523を補足してくれた
>>527に同意見だからです。
書紀の編者は、中国の史書を知っていたと思います。権力の正統性を表わすには、倭の五王と同じ「倭」で良かったと思います。
しかし、だからと言って九州王朝の証明にはならないと思われ。
「なかった説」からの説得力ある説明を希望しています。
百済を併合したから。
604 :
日本@名無史さん:03/01/18 16:13
>>602 わけわからん。
>>527って >ほら、「九州王朝大好き」すら旧唐書に同一国説が書いてある事実を認めてる。
当然だけど。
訂正
X補足してくれた>>527
○補足してくれた
>>524 お詫びして訂正します
606 :
日本@名無史さん:03/01/18 16:17
>王朝の内実に変化がないのに国号を変えるということは考えにくい。
なんで考えにくいの?
漏れは虫かいっ
608 :
日本@名無史さん:03/01/18 16:24
>>607 百済、高句麗の亡命政権を国内にでっちあげて東洋の新帝国を自称するってのは新たな国号制定の理由としちゃ上出来だと思わう。
609 :
日本@名無史さん:03/01/18 16:27
「王朝の内実に変化がないのに国号を変えるということは考えにくい」というのは
当時の中国人の感覚としてはイイ線だと思う。
しかし日本人としてどうかは別。
だから旧唐書のような誤解が生まれたのでは?
高句麗の亡命政権てなに?
百済再興の望みが絶たれた後、倭国が百済亡命貴族を
とりこんで、唐へ対抗しようと政権を刷新した時に、
国号も変えたのではないかとおもふ。
>>603レス遅れてスマソ倭→日本に国号変更の時期と、百済併合の時期が一致してるのですか?興味あります。詳しくキボンヌ
>>606当然にそう思い込んでました。他国の例をあげて論破して下さい(笑)
612 :
日本@名無史さん:03/01/18 16:33
>>610 >高句麗の亡命政権てなに?
高麗王若光
詳しく考えているわけではないす。
663年から702年のどこかで倭国から日本に変わったとすれば、
白村江が、やはり、インパクトあったのかな、と。
>当然にそう思い込んでました
つまり根拠がない? ならば論破完了。
668年に高句麗も滅びて倭国に逃げてたんすね。
勉強にナリマスタ。
あーつまり、私の主張は九州王朝を考えなくても、
畿内倭国だけで日本への国号変更は説明できるのではないでしょーか?
つーことです。
618 :
日本@名無史さん:03/01/18 16:52
決着したようです。
619 :
日本@名無史さん:03/01/18 17:34
何が?
九州王朝はありませんでした
621 :
日本@名無史さん:03/01/18 17:39
九州王朝説に根拠がないこと。
622 :
日本@名無史さん:03/01/18 17:39
不明ということでは?
主張する人の不明。
624 :
日本@名無史さん:03/01/18 17:41
九州王朝は復活しますた。
こういう不明を恥ずべし。
626 :
日本@名無史さん:03/01/18 19:16
>あーつまり、私の主張は九州王朝を考えなくても、
>畿内倭国だけで日本への国号変更は説明できるのではないでしょーか?
九州王朝説でも畿内倭国説でも、どちらでも説明できるということが
決着したのかな?
627 :
日本@名無史さん:03/01/18 19:19
天動説でも地動説でも、どちらでも星の動きは説明できる。
要はどちらがシンプルでエレガントか。
628 :
日本@名無史さん:03/01/18 19:26
そもそも倭というのが国号かどうかも疑問じゃないか?
629 :
日本@名無史さん:03/01/18 19:49
>>628 またそれやるのか?
両説とも、倭が国号だったことは認めたように読めたが。
ただ、他称だろうけどね。
630 :
日本@名無史さん:03/01/18 19:54
具体的にはどの部分のこと?
631 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:01
>630
代表的にはこんなところかな。
≪九州派≫
589 :日本@名無史さん :03/01/18 01:11
そんなことないだろ。「使持節都督倭・百済・新羅・加羅・辰韓・慕韓六国諸軍事〜」
という将軍号を創作して自称するほど中国ナイズされてんだよ?
それで国号の概念がないなんて、信じられないよ。
590 :九州王朝大好き :03/01/18 02:27
>>589氏に激しく同意。
国号の概念がないなんて、ありえない。
よって、近畿王朝説は粉砕された。
≪大和派≫
594 :日本@名無史さん :03/01/18 06:33
>>590 国号の概念はあったでしょう。近畿の王権は自国を倭とよんでいたはず。それは
古事記のとおり。
で、粟田真人が中国(当時の国号は則天武后の“周”)に逝って自国の新国号で
ある“日本”を紹介したことが『続日本紀』慶雲年間の記事と『通典』『唐暦』
『唐会要』などからわかる。
つまり大和の国号である「倭」から「日本」への変遷に関する中国側の情報収集
のプロセスは明快で、何の問題もない。
633 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:09
634 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:13
>>589は国名と国号の区別がついてないだけでしょう。
635 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:13
わかった 日本列島は7世紀にはパラレル宇宙になっていたんだ。
だから片方では九州王朝(倭国)があって近畿王朝(日本国)に
九州されたんだ。 それで筑紫島は九州と呼ばれるようになったと。
そしてもう一方では九州王朝なんて無くて 近畿の政権が倭国から
日本へと名前を変えただけなんだ。 大宝になって一つの宇宙に
縮退したんだな。 うんうん。
636 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:17
韓国にとって公式には北朝鮮は存在しない。しかし、現実には北朝鮮は存在する。
そんな感じじゃねーの。
637 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:33
九州王朝は脳内にしかありまへんが
638 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:36
九州王朝って昭和になってからできたんだよ。
639 :
日本@名無史さん:03/01/18 20:40
九州人だけど、九州王朝なんて与太話信じてないぞ。
九州王朝って結局なにも根拠がないんだね。
641 :
日本@名無史さん:03/01/18 21:03
626のいうとおりでしょ。
まとめれば
・「倭」から「日本」への変更
・中国史書における「倭」と「日本」の扱い
→九州王朝説の存在証明とはなりえない。
もちろん,九州王朝の存在が別に証明されれば補強材料になりうる
>>390の言うように古代史の仮説を「証明」することはできないでしょう。
状況証拠を並べて説得力を高めることしかないと思う。
>>641で、
>もちろん,九州王朝の存在が別に証明されれば補強材料になりうる
ということは、九州王朝説の状況証拠としては有力ということ?
状況証拠にもならないということ。
644 :
日本@名無史さん:03/01/18 21:31
九州王朝説でも畿内倭国説でもどちらでも説明できるということは
何の状況証拠にもならないことを意味しますね。
645 :
日本@名無史さん:03/01/18 21:36
倭=日本という唐人の証言があるというのは九州王朝不存在の直接証拠だ。
しかしなぁ、隋書にある倭=近畿王朝という証明がまったく出来ないんだよ。
その直後の唐の歴史を記述した旧唐書で、倭と日本が分裂している状況を考えれば、
近畿天皇家以外の日本列島内政権の存在を考えるのは当然だろうと思う。
それが九州王朝かどうかはさらに証明が必要だが、「阿蘇山あり」と書かれているからには
九州は有力だと思う。
647 :
日本@名無史さん:03/01/18 23:36
だいじょうぶでつか?
648 :
日本@名無史さん:03/01/18 23:38
>>646 しかし、倭国、日本国両方の朝貢記事がすべて、六国史における日本側の天皇家
の遣使記事と一致してるので、ここに大和以外の王権が出てくる余地はないんです
けど・・・・。
日本が倭国の歴史を取り込んだ(歴代の朝貢も)可能性はあります。しかし、倭が九州とは限りません。
>>610あたりに説得力を感じます。近畿一元の否定すなわち九州でなく、近畿二元も検討余地ありでは?
>>651 あ、もちろん唐及びそれ以降の話です。倭の五王どころか隋代ですら遣使記事は一
致してないですからね。
653 :
日本@名無史さん:03/01/19 00:26
>近畿二元
隋書の時代(多利思北孤と推古)なんか、もろにそういう可能性があるな。
まあ、近畿天皇家一元説は受け入れがたいけれど、近畿二元というなら、
まだ話はわかるな。
655 :
日本@名無史さん:03/01/19 14:10
>>652 >隋代ですら遣使記事は一致してないからね
はぁ? 隋代の遣使記事はよく一致しているぞ。
>倭の五王どころか
だから,『書紀』編纂の意図を考えなきゃダメだよ。
そもそも『書紀』は,
天皇は神の子孫であり,日本国の正統な支配者である
その天皇の支配する日本国は神聖な国である
といったスタンスで記述されている。
『魏志』や『宋書』などに見える遣使については,天皇が中国王朝に頭を下げたことになるから無視。もちろん,失敗に終わった第1回遣隋使もね。
やや板違いだけれども,
『書紀』に卑弥呼の遣使に相当する記事がないから,邪馬台国畿内説はおかしい
という主張も上記理由からナンセンス。
>>655 おっと、私は九州王朝否定派です。唐代は完全に一致。隋代は600年のが紀に記
されいない、という意味で不一致、倭の五王の時代は全く不一致、という意味で
書いただけです。しかし、古代になるほど紀の絶対年代は信用できないですから、
これは矛盾でも何でもない、と考えているわけです。
それどころか時代が経つに従って両国の記事が一致してくるんですから、逆に
両者別王朝であるという説(九州王朝説)の方が苦しいと思います。
657 :
日本@名無史さん:03/01/19 17:18
≪両説の共通点≫
都合悪いことは捏造・無視。
どうしてもだめなら、
書かれた当時の人はそう思っていたことは分かるが、真実かどうかは別。
658 :
日本@名無史さん:03/01/19 18:10
↑おまえ最低。ただの中傷屋。
たしかに歴代最低級のカキコだな。具体性もないし文章もヘタだし。
>>657みたいな中身のない投稿はやめてほしいですね。
661 :
日本@名無史さん:03/01/19 19:16
客観的に見ると、どっちもありえるよな、
両方仮説なんだから相手を玉砕する事は出来なさそう。
従来派も九州派も決定打に欠けますな。
あり得るある得ないっていう前に、
【九州である】根拠って何もないから、
九州王朝説は土俵にすら登っていない
というのが認識として正しい。
あいかわらず、
大和朝廷とすると矛盾がある−>だから九州王朝は正しい
と言ってるだけ。
大和朝廷とすると矛盾がある−>聖徳太子は宇宙人だ
という主張と同レベル。
663 :
日本@名無史さん:03/01/19 20:05
>>662に禿同
「九州に王朝があった」と書いてある文献でも示してみろよ。
おっと,『隋書』の記事をアクロバット読みするのは当然ダメ。
本気で「又」でつながる文を途中で区切って読むと主張するのであれば,同じ『隋書』の中から類例を示すべき。
結論だけわめいても聞く耳もたないよ。
665 :
日本@名無史さん:03/01/19 22:39
畿内説の根拠ってあるのか?
>>665 ない。中国側の史料とズレまくりのすけの記紀のみ。
しかしやっぱ客観的に考えたら、九州王朝説に一票かなぁ?
>>667 そうかな? まあ近畿天皇家一元説は無理としても、九州かどうかは・・・
670 :
日本@名無史さん:03/01/20 01:27
>>665 >>666 畿内王権存在の証拠
>文献(日本側)『日本書紀』『古事記』
文献(中国側)『隋書』ほか
考古資料 前方後円墳の分布状況
古墳副葬品の分布状況
奈良県東大寺山古墳出土鉄刀
奈良県石上神宮七支刀
埼玉県埼玉稲荷山古墳出土鉄剣
熊本県江田船山古墳出土鉄刀
和歌山県隅田八幡宮画像鏡もはいるか?
埼玉県埼玉稲荷山古墳出土鉄剣
熊本県江田船山古墳出土鉄刀
和歌山県隅田八幡宮画像鏡
この3つは、どう考えても近畿天皇家と無関係だろ。
特に稲荷山の獲加多支鹵=雄略は噴飯モノ。
お得意の「どう考えても」がまた出たね。
しかし「どう考えても」獲加多支鹵大王は近畿天皇家とは無関係。
いまどき獲加多支鹵大王=雄略なんて言ってるヤツおんの?
おらんだろ、それはさすがに
676 :
日本@名無史さん:03/01/20 07:01
通説だが何か?
>>676 そりゃ獲加多支鹵大王=雄略でないと困る学者が多いだけでな。
実際に獲加多支鹵=雄略説は完全に古田武彦によって論破されとるよ。
そもそも、なんで雄略を佐治天下した人物が武蔵の国におるんだ?
ハッキリ言ってバカまるだし論じゃん。
678 :
日本@名無史さん:03/01/20 08:28
>>677 >実際に獲加多支鹵=雄略説は完全に古田武彦によって論破されとるよ。
はじめてききましたよ。詳細キボンヌ。
>そもそも、なんで雄略を佐治天下した人物が武蔵の国におるんだ?
ハッキリ言ってバカまるだし論じゃん。いておかしいか?
じゃ,江田船山はどうなんだ?
そもそも九州王朝説の最大の弱点は,王陵の比定や宮都の所在地をはじめ,考古資料によって体系的に説明できないところ。
アクロバット読みができる文献資料と違って,考古資料からは妄想しにくいのだろうな。
くやしかったら,考古資料に基づいて九州王朝論を構築してみな。
>>670九州王朝説も近畿王権の存在を否定はしていないと思います。近畿王権が九州にまで及んでいたかどうかが論点なのでは?また、
>>678の言われる説得力のある「考古資料による九州説」を私も希望します。
680 :
九州王朝大好き:03/01/20 11:31
>>676 >考古資料からは妄想しにくいのだろうな。
>くやしかったら,考古資料に基づいて九州王朝論を構築してみな。
大宰府は九州王朝の新都跡としての考古学的資料。無視は出来ても否定は不可能。
博多の千代のあたりを堀りかえすと、宮跡が出てくるであろうが、都心で事実上不可能。
九州装飾古墳及びその出土品。再考察すれば近畿王朝は壊滅。
体系化するにはまだまだ資料及び考証不足。
九州遺跡のC14法による時代確定。殆どの遺跡の時代が現在の認識より古くなる。無視をすれば近畿王朝はとりあえずは安泰。
九州王朝の考古学的資料の体系化はまだ無理。
一世紀に及ぶ国家的税金浪費嘘研究に比べて、
高々30年の在野九州王朝研究は、資金的にも人材的にも近畿王朝研究にまだまだ対抗できない。
上記は発言は崩れつつある近畿王朝説の最後の悪あがき。
文献的には、中国文献と日本文献の食い違いを整合できる論証ができれば、
今すぐにでも、私は近畿王朝派になりましょう。
無理でしょうね。
681 :
日本@名無史さん:03/01/20 12:35
>>680 求められているのは,このような希望的観測や妄想の羅列ではないのでは?
>大宰府は九州王朝の新都跡としての考古学的資料。無視は出来ても否定は不可能。
具体的に今ある資料を用いて,「いつから都になった」とかを主張するべき。
>博多の千代のあたりを堀りかえすと、宮跡が出てくるであろうが、都心で事実上不可能。
福岡市埋蔵文化財センターが発行してる『博多』の報告書シリーズ開いてみな。福岡市中心部で地道に調査活動してるよ。
>九州装飾古墳及びその出土品。再考察すれば近畿王朝は壊滅。
体系化するにはまだまだ資料及び考証不足。
不十分かもしれないが,今でも資料はかなり蓄積されているよ。
たとえば,去年の秋に行われた埋蔵文化財研究集会のテーマってなんだったか知ってる?
どう「再考察すれば近畿王朝は壊滅」なのかを問われてるんだよ。
>九州遺跡のC14法による時代確定。殆どの遺跡の時代が現在の認識より古くなる。無視をすれば近畿王朝はとりあえずは安泰。
この話題以前にもあったけどウヤムヤで終わったやつだね。
どの遺跡のどのような遺物がどのくらい古く出たのか,を提示してみてよ。
>一世紀に及ぶ国家的税金浪費嘘研究に比べて、
高々30年の在野九州王朝研究は、資金的にも人材的にも近畿王朝研究にまだまだ対抗できない。
考古学や埋蔵文化財調査のあゆみに関して無知を露呈。
福岡県は全国有数の埋蔵文化財行政充実地域だよ。県教委はじめ,福岡市,太宰府市が発行してる報告書みてみな。
結局,上記は崩れようにも実態がないため崩れることもできない九州王朝説の妄想ぶりを露呈した最後の悪あがき。
考古学的に九州王朝説を実証できるような仮説を体系づけることができれば,
そこではじめて検討に値するようになる。
まあ無理でしょうね。
682 :
日本@名無史さん:03/01/20 13:05
>674 名前:日本@名無史さん :03/01/20 03:43
>いまどき獲加多支鹵大王=雄略なんて言ってるヤツおんの?
>675 名前:日本@名無史さん :03/01/20 06:40
>おらんだろ、それはさすがに
獲加多支鹵大王=雄略じゃないって説を言うのはこれは自由。
説得力があればそれでよし。
だけど、獲加多支鹵大王=雄略なんて言ってるヤツがいないと言ったら
これはウソ。
九州王朝説っていうのはこういう捏造をするから普通の人から相手にされなくなる。
自覚がないのが恐ろしい。
683 :
九州王朝大好き:03/01/20 13:09
>>681 >福岡県は全国有数の埋蔵文化財行政充実地域だよ。県教委はじめ,福岡市,太宰府市が発行してる報告書みてみな。
ここまで知っていて、確信禁忌王朝説を唱え、九州王朝否定に走るのか?
思考回路の構成を疑う。
>>683 >ここまで知っていて、確信禁忌王朝説を唱え、九州王朝否定に走るのか?
思考回路の構成を疑う。
1.こちらこそ結論のみを垂れ流すことに終始しているあなたの思考回路が正常なものかどうか疑いますね。
2.>一世紀に及ぶ国家的税金浪費嘘研究に比べて、高々30年の在野九州王朝研究は、資金的にも人材的にも近畿王朝研究にまだまだ対抗できない。
といった発言が妄想であったことはお認めになられたようで。
九州王朝説の人は具体的事実は何も言わないんですね。
686 :
日本@名無史さん:03/01/20 13:30
スローガンばっかりだ。
688 :
日本@名無史さん:03/01/20 18:02
>>679 >近畿王権が九州にまで及んでいたかどうかが論点なのでは?
>>670が提示している考古学的な資料
>>前方後円墳の分布状況
古墳副葬品の分布状況
奈良県東大寺山古墳出土鉄刀
奈良県石上神宮七支刀
埼玉県埼玉稲荷山古墳出土鉄剣
熊本県江田船山古墳出土鉄刀
和歌山県隅田八幡宮画像鏡
は,畿内王権の影響力が九州に及んでいたことを充分示す資料だと思われ。
689 :
日本@名無史さん:03/01/20 18:06
4,5世紀(倭の五王の活動時期と重なる)の韓国南部や沖ノ島に豊富に見られる畿内系遺物ってのも大ありと思われ
690 :
九州王朝大好き:03/01/20 18:46
>>688 >古墳副葬品の分布状況
>奈良県東大寺山古墳出土鉄刀
>奈良県石上神宮七支刀
>埼玉県埼玉稲荷山古墳出土鉄剣
>熊本県江田船山古墳出土鉄刀
>和歌山県隅田八幡宮画像鏡
は,畿内王権の影響力が九州に及んでいたことを充分示す資料だと思われませんが、
思われるのであれば、その根拠は?
>>689 >4,5世紀(倭の五王の活動時期と重なる)の韓国南部や沖ノ島に豊富に見られる畿内系遺物ってのも大ありと思われ
畿内系遺物とみなせる根拠は?
691 :
日本@名無史さん:03/01/20 19:14
>畿内系遺物とみなせる根拠は?
畿内を中心に分布している事実。
692 :
日本@名無史さん:03/01/20 19:33
>>690 ひとに聞き返す前に「思われません」という根拠は?
693 :
日本@名無史さん:03/01/20 19:37
>>690 >688
文献史学,考古学では通説。
学問の常識として,通説に異論を唱える側,つまり,「思われない」と思う方がその根拠を述べるべきだろう。
ただし七支刀と隅田八幡宮人物画像鏡は直接的に
>畿内王権の影響力が九州に及んでいたことを充分示す資料
ではないね。
畿内王権と百済が密接な交渉していた事実を示してはいるが。
まあ,間接的に九州王朝介在の可能性を否定するともいえるけど。
沖の島祭祀遺跡出土遺物も含めるべきだろう。
>689
すくなくとも九州を中心に分布しているものではないな。
こんな話題そらしよりも
>>663や
>>681でつっこまれた内容への返答はどうした?
楽しみにしてるクチなんだけど。
694 :
日本@名無史さん:03/01/20 20:20
進歩ないなぁ。
定説側、根拠を書く−>九州王朝、そんなもの駄目だとけちをつける−>九州王朝、勝手に勝利宣言
結局この輪廻から抜け出してないじゃん。
九州王朝側も
>>670みたいに、ちゃんと根拠書かなきゃだめだよ。
答えに詰まればいちでも嵐
697 :
日本@名無史さん:03/01/20 21:17
>>690 への回答は?
通説というのが一つ出てきたが、中身がない。
常識の中身を知らないのはあなたの恥
699 :
日本@名無史さん:03/01/20 21:41
熊本県江田船山古墳出土鉄刀が唯一それらしい位置の出土だが、
それには、
「治天下獲○○○鹵大王世奉事典曹人名无(利?)弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀
八十練(九or六?)十(振or据?)三寸上好(刊?)服此刀者長寿子孫(洋or注?)々得○恩也不失
其所統作刀者名伊太(和or加?)書者張安也」
と書いてあるらしい。
これがどうして畿内王権の影響力が九州に及んでいたことを示すのかな?
教えてほしい。
700 :
日本@名無史さん:03/01/20 21:50
獲○○○鹵大王を大泊瀬幼武とするのが定説ですが何か?
定説側、根拠を書く−>九州王朝、そんなもの駄目だとけちをつける−>九州王朝、勝手に勝利宣言
702 :
日本@名無史さん:03/01/20 21:58
オレは別に九州王朝の勝利宣言をしようと思っている訳ではなく、
分からないから尋ねているだけだが、
「獲○○○鹵大王」3文字も見えないが、「大泊瀬幼武」とするのは大胆だね。
おおむね同時代で「治天下」の用字等が共通する稲荷山の「獲加多支鹵大王」から補遺が定説。
704 :
日本@名無史さん:03/01/20 22:08
そういうことね。
状況証拠のレベルとしては一応矛盾はないような感じがするが、
畿内王権の影響力が九州に及んでいたことの根拠というには弱そうだね。
九州王朝、そんなもの駄目だとけちをつける−>九州王朝、勝手に勝利宣言
706 :
日本@名無史さん:03/01/20 22:13
「治天下」という語彙が地域単位で使われた類例がないので全国的な政権の大王とみるのが妥当ですね。
そして熊本と埼玉という出土地は宋書の「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」に対応している。
これらから磐石の定説として通用しています。
>>704 「九州王朝大好き」曰く「一致するとは矛盾がないことです。」
708 :
日本@名無史さん:03/01/20 22:19
この出土品は「獲加多支鹵大王」が熊本から埼玉まで主導権を握っていた直接証拠だね。
709 :
九州王朝大好き:03/01/20 22:23
近畿王朝側、定説を根拠だとして書く−>九州王朝側、近畿王朝説を批判する−>近畿王朝側、九州王朝に根拠無しと勝利宣言
定説・通説・常識・大方の見方・多数派の見方・天動説・人類の祖先は猿でない:的現象。
近畿王朝説は21世紀にはその命脈を絶つのか?
710 :
日本@名無史さん:03/01/20 22:25
定説は地動説なんですが、九州王朝説大好きさんの認識は逆では?
711 :
九州王朝大好き:03/01/20 22:30
712 :
日本@名無史さん:03/01/20 22:30
>>709 認識がおかしいですよ。
「定説を根拠だとして書く」ではなく「根拠は定説が述べるとおりである」です。
>>709 こんなのが『批判』なら
「九州王朝側、近畿王朝説を批判する−>近畿王朝側、九州王朝に根拠無しと勝利宣言 」
はじつに正統だなあ。
714 :
日本@名無史さん:03/01/20 22:33
近畿王朝説いうな
715 :
九州王朝大好き:03/01/20 22:39
716 :
日本@名無史さん:03/01/20 22:43
批判批判といっても「信じられないよ」とか「弱そうだね」とか個人的感想どまりじゃん。
批判といえるほどの内容はない。
717 :
九州王朝大好き:03/01/20 22:43
>>714 九州王朝には近畿王朝でバランスが良いのでは?
畿内王朝ではチョッとバランスが悪いのでは?
718 :
日本@名無史さん:03/01/20 22:45
それでは九州王朝説=天動説ということで、おあともよろしいようで。
719 :
日本@名無史さん:03/01/20 22:49
>>717 今の定説側はべつに「王朝」があるなんて主張してないので近畿王朝と呼ぶのはよろしくないのでは?
720 :
九州王朝大好き:03/01/20 22:50
>>718 >709の文意も理解できていないようですね。
>>709の文が稚拙すぎて成人は理解しようがなかったりして。
>>720 毎度毎度の中身のない勝利宣言をからかわれてるのがわからんかね
723 :
九州王朝大好き:03/01/20 23:00
>>719 近畿王権ならいいのですか?
勿論、倭≠近畿王権ですよね?
724 :
日本@名無史さん:03/01/20 23:10
倭は民族名だから倭≠近畿王権です。
倭国王=近畿王権です。
725 :
日本@名無史さん:03/01/20 23:11
ヤマト政権がいいのでは?
726 :
日本@名無史さん:03/01/20 23:58
>>709 >定説・通説・常識・大方の見方・多数派の見方・天動説・人類の祖先は猿でない:的現象。
近畿王朝説は21世紀にはその命脈を絶つのか?
だから,そう考える根拠を示せっていわれてるんだろ!
天動説も進化論も根拠を示したから定説になりえたんだよ。
こんな書き込みを続けることが「九州王朝説には根拠がない」という主張を正当化するということにも気付くことができないのだろうか?
727 :
日本@名無史さん:03/01/21 00:03
>>725 古墳時代は各地域政権の連合体と考えるのが主流だから,
その頂点にたつのは「ヤマト王権」が最適。
九州各地にも地域政権が存在していたことは比定できないよ。
あ,誤解されたらこまるけど「ヤマト王権」万歳派だからね。
728 :
日本@名無史さん:03/01/21 00:11
>>727 そうなんだけど、
中華帝国と交渉があったのがどこの香具師かというので、みんな興奮しているのでは?
729 :
日本@名無史さん:03/01/21 00:15
稲荷山鉄剣のように、銘文の解釈によって通説を裏付ける、というのは九州王朝
説批判者である私でもおおいに疑問を感じます。
なぜなら、銘文の解釈というのは純粋に考古学的考察というよりは、一種の文献
解読(しかもいわゆる通説にもいろいろ問題点が多い)だからです。
実は、もっと純粋に考古学的な観点から、九州王朝説に疑問を持たざるを得ない
幾多の証拠が存在しているのです。それをいくつか紹介しましょう。
730 :
日本@名無史さん:03/01/21 00:22
まず1〜2世紀の倭奴国と、5世紀の倭の連続性について。
これについて古田氏は中国史書で王朝交代が書かれていないから同一王朝
だとしています。しかし考古学的にはどうでしょうか。
弥生末期の吉備には首長墓にある特殊器台が登場し、これが古墳の円筒埴
輪の起源となりました。いわゆる弥生墳丘墓ですね。そして箸墓の特殊器台
の土器の胎土には吉備の土が使われています。
さらに土器の動きですが、古墳時代を通じて吉備をはじめ、東海、北陸、
山陰の土器が激しく動いているのに対し、なぜか九州の土器は動いておらず、
逆に九州には畿内古墳と類似の古墳が多く、九州独自の動きは見られません。
すなわち九州の古墳文化は東方から伝播した、吉備起源の古墳文化に組み込
まれてしまっているのです。
3世紀の倭が九州であるとするか、畿内とするかによって、3世紀の倭と
5世紀の倭が繋がっているかどうかは諸説ありますが、以上のように、漢代
の九州北部にある文化と古墳時代の中心をなす吉備・畿内の文化は明かに断
絶しているのです。
732 :
日本@名無史さん:03/01/21 00:29
>>727 >九州各地にも地域政権が存在していたことは比定できないよ。
否定できないっていうより、古墳ていうのは首長墓だから
ドメステッティクな権力構造が存在していたのは自明でしょ。
しかしそれは、古墳祭祀が畿内の首長祭祀にのっとったものだから
大和朝廷という枠組みを逸脱するものではなく、ただの地域政権。
当然、勝手に倭王を名乗って中国と通交するなんてことはない。
733 :
日本@名無史さん:03/01/21 00:40
稲荷山鉄剣の通説の解釈は確かにおかしいんだよ。
毎日新聞が岸俊夫を有楽町のホテルに缶詰にして解読させたんだろ。
実物も見てないしレントゲン写真を印画したものだけで。
それも一晩でやらせたわけだからね。
次に、倭の五王の5世紀について、この倭がどこであるか、という問題
ですが、朝鮮半島、特に伽耶地域から、九州起源に限定されない古墳文化
圏全般の馬具、武具が出土しています。
また、慶州の月城路古墳群からは、畿内で普遍的に見られ、かつ九州か
らはほとんど出土しない石釧が出土しています。
更に、韓国西南海岸の竹幕洞祭祀遺跡から、畿内などでよく出土し、九
州では稀な石製模造品が出土しています。
そして決定的なのは、鉄の延べ棒ともいうべき鉄[金廷]の出土です。鉄
[金廷]は、朝鮮半島南岸部から二千数百枚出土しており、日本列島では千
百枚ほど出土していますが、そのほとんどの千枚ほどが畿内から出土して
おり、九州からはわずか27枚しか出土していません(しかも大宰府から
はわずか1枚で、残り26枚はすべて大分の下山古墳)。
しかもこの畿内の鉄[金廷]は、朝鮮半島南岸部出土のものと類似してお
り、伽耶土器を伴ったものまであり、朝鮮半島から運ばれたものであるこ
とは明らかです。
さて、古田氏はこの状況に付いて「倭は朝鮮と戦争しているのだから、
武器として消費したから埋めなかった。」などと釈明していますが、鉄を
必要としていた当事者である九州ですら鉄が枯渇しているのに、なんで九
州王朝には畿内に鉄[金廷]をまわす余裕があったんでしょう、と言わざる
を得ません。いずれにせよ、この鉄[金廷]問題は、「考古学的事実が九州
説を裏付けていない」ことは確かです。
いや、岸先生はまあ、自分の解釈をしただけのこと。
他の学者連中が、それにワッと飛びついたところが問題なんだ。
自分の頭で解釈しろって(笑)
ともかく、獲加多支鹵大王を「佐治天下」したという人物やその鉄剣が武蔵の国の古墳から
出土していることも疑問だし、それに獲加多支鹵大王が磯城宮にいた、というのもおかしい。
だいいち「杖刀人」を「タチハキ」と訓み、それについて
「東国の田舎ふぜいがヤマトに門番として仕えたことを、地元に帰って『おれは佐治天下した』
とホラを吹いているんだ」
などと従来説は主張しているんだ。
これにはオレは到底ついていけない。我々素人研究家をナメとんのか、と。
正直、オレは古田武彦に賛成するわけじゃないけど、中国史の中から「杖刀」などの
語句を見つけだし、従来説を批判しているのは、正当な史料批判だと思う。
従来説の敗北は明らかだろう。
なのに従来説は自らの説の非を認めず、また古田武彦説(関東の大王の存在説)に対する
批判も行わないまま、従来説をそのまま提唱しつづけている。
いったい従来説って、なんやねん。。。。
>>734 九州王朝が近畿に作らせて、朝鮮半島に持って行かせたのだろう。
だから近畿と朝鮮半島が一致するのは当然だし、九州から出土しなくてもまったく
不思議じゃないな。
・・・とまあ、三角縁神獣鏡についての邪馬台国畿内説派の言葉を借りれば、
そういうことになるな(笑)
次は沖ノ島です。
古田氏は、『ここに古代王朝ありき』で、沖ノ島の金属器が縄文時代から
綿々と続いていたのに七世紀末を下限に途絶えている。これは(九州王朝の)
権力が失墜し、その財宝が遺棄された場合に初めて生じうる現象ではないか、
という趣旨のことを述べています。
ところが、これは事実に反しています。実際、沖ノ島からは、奈良三彩、
八稜鏡、金銅製雛型器具、冨寿神宝皇朝銭など、8世紀以降の金属器を含む
名品が多数発見されています。
しかも、沖ノ島の遺跡は岩上の4〜5世紀、岩陰の6〜七世紀、半岩陰半
露天の7〜8世紀、露天の8〜10世紀というように、場所によって時代が
異なっており、権力滅亡によって遺棄されたなどという想定が無理であるこ
とを物語っています。
また古田氏は、沖ノ島の土器がいずれも九州のものだと述べていますが、
これも事実と異なり、上述の奈良三彩などは岡山、香川、三重の遺跡からも
同じものが出土しています。
また、氏は龍のデザインを天子のシンボルとみなし、宮地嶽古墳から龍の
デザインが出ているのに藤ノ木古墳では象のデザインだから九州と関連が有
るなどと主張していますが、龍のデザインは全国の古墳で普通に見られるも
ので、事実藤ノ木古墳でも龍文飾金具が出土しており、氏の主張は事実誤認
です。
獲加多支鹵大王=雄略説を支持する人、ここにいるのか?
いるのなら、まずその根拠を論じてみなよ、簡単でもイイから。
オレはどうしても、従来説を盲信するヤツの論理をここで聴きたいんだ。
次は神籠石の問題です。
古田氏は、太宰府を九州王朝の都城とし、水城をその要害、神籠石を太宰
府を守る山城群であると主張しました。
ところが、氏がその説を建てたのち、次々に九州以外の鬼ノ城(岡山)、
永納山(愛媛)、大廻・小廻(岡山)、城山(兵庫)といった神籠石山式山
城が相次いで見つかり、最早神籠石が太宰府を取り巻いているという主張そ
のものが崩壊してしまいました。
また、太宰府の年代ですが、8世紀前葉とされる第II期以前の第I期遺構
は発掘されているものの、特に古い土器も発見されておらず、古田氏がいう
ような古い時代に遡るとする根拠は特にありません。
それどころか、神籠石式や他の山城の築造順序については、城郭の構造、
構築法・水門構造・石塁の技術などから、大廻小廻・永納山→鬼ノ城・城山
→石城山・雷山・御所ヶ谷→高良山・女山・杷木・帯隅山→鹿毛馬→おつぼ
山→大野城・基肄城→金田城の順であると考えられています。
そして岡山県の鬼の城と大廻小廻が、出土する須恵器から、7世紀第4四
半期を中心とするものであることがわかっています。
ということは、神籠石の年代は7世紀第4四半期以降に作られたというこ
とになり、九州王朝の物証にはなりえないことになります。
最後に、これは考古史料ではありませんが、「九州年号」の問題。
まず、この「年号」を「九州年号」と呼んだのは「倭の五王=熊襲」説を
たてた鶴峯戊申であり、そう呼んだ根拠は、そう書いた古写本があった、と
いう本人の主張のみで、そのような古写本が本当にあったかどうかも不明で
あり、その根拠はかなり脆弱なものです。
しかも、これらの年号の実際の実用例は、九州近辺に限ったことではなく、
北陸・関東・東北まで広範囲に広がっており、「九州」年号と呼ぶべき正当
な理由がありません。
そして、これらの年号は同時代に使われていたことを示す形跡が全くなく、
逆にこれらの年号が表わしている年代に属す金石文や木簡には干支しか記さ
れていないのです。また、那須国造碑には年号が記されていますが、その年
号は、「九州年号」ではなく、唐の年号です。
以上の情況のもとでは、「九州年号」が九州の公権力によって公布されて
いたものだという想定は無理です。
そして金石文に記されている(善化〜大長の系列でない)逸年号が見つか
っているのは畿内(法隆寺)や伊予であって、これも九州ではないのです。
つまり、これらの「年号」を九州と結びつける根拠は何もないのです。
>>735 「理論的には」貴方の意見に全面的に賛成です。
ですが、考古学的に考察するには、銘文解読のような文献的議論の前に、
土器をはじめとする遺跡、出土物の(鬱陶しく煩わしい(w))偏年作業が必
要です。
そのあたりのことは、例の稲荷山鉄剣の解読をした側も古田氏もどちらも
きちんと解説していません。
ですから、稲荷山については、どちらの主張が正しいかどうか判断する以
前の段階だと思いますがいかがでしょうか?
>>741 あ、レスありがとう。
まあ、考古学的なことはオレもよくわからん(笑)
ただ、史料批判という点では、三国志の中から「杖刀」の例を探し出した上、剣の銘文とは
少し違うが、と断りながら解説した古田氏の方が丁寧だったので。
(三国志では「杖刀」として出ているが「杖刀人」としては出ない)
獲加多支鹵大王=雄略説が否定されたとしても、九州王朝説に屈する訳じゃないのだから、
従来説の学者もハッキリとした態度を出せばよいのに、と腹が立っているんですわ。
もちろん、729さんの仰るとおり、銘文解読だけでなく、考古学的な考察も充分に尽くして
もらわないと。
私の立場は九州王朝説どちらかというと否定派(以前ここで叩かれたけど)
九州王朝には否定的だけど、「根拠なし」とする論には従えません、という立場です。
743 :
日本@名無史さん:03/01/21 03:30
>>735 >ともかく、獲加多支鹵大王を「佐治天下」したという人物やその鉄剣が武蔵の国の古墳から
出土していることも疑問だし、
どうして?
>それに獲加多支鹵大王が磯城宮にいた
雄略の宮のあった朝倉は磯城の地にあるので問題なし。
>「東国の田舎ふぜいがヤマトに門番として仕えたことを
誤読。杖刀人じゃなくて、杖刀人の首。門番のはずがない。
>地元に帰って『おれは佐治天下した』とホラを吹いているんだ」
自分の業績は多少色をつけるのは当然だろ。そもそも、杖刀人の首がどういう役職なのか正確にはわからないんだから、ホラかどうかもわからないんだけどね。
以上は、とりあえず話に乗ったわけだが、それ以前に、乎獲居臣が地方豪族かどうかという点に問題がある。
最近では、乎獲居臣は中央豪族で、さきたまの首長はその部下。ボスからもらった刀を大事にしていて、死んだ時に墓に持っていったと考えるのが有力。
これは、ただの推測だから異論はもちろんあるけどね。
辛亥年七月中、記す。
乎獲居臣、上祖の名は、意富比危、其児は、多加利足尼、其児の名は、弖巳加利獲居、其児の名は、多加披次獲居、
其児の名は、多沙鬼獲居、其児の名は、半弖比、其児の名は、加差披余、其児の名は、乎獲居臣。
世々、杖刀人の首と為り、奉事して来り、今に至る。(*)
獲加多支歯大王の寺、斯鬼宮に在る時、吾、天下を左治し(**)、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す。
(*) 『奉事して来り、今の獲加多支歯大王に至る。寺(はべ)りて斯鬼宮に在る時・・・』という説もある。
(**) 『治天下を左(たす)け』と読む説もあり。
>>688私の不勉強もあり、その例だけでは近畿王権による九州支配を感じ取ることができませんでした。
ただし、
>>729さんの説には強い説得力を感じました。
特に、九州からあまり出土せず、近畿に多いものが朝鮮半島からも出土、というところです。
近畿と朝鮮半島は、但馬ルートで結ばれてたかも知れず、九州説の方々の認識する近畿王朝とはかけはなれている可能性があるのでは?
745 :
日本@名無史さん:03/01/21 04:02
>>742 >九州王朝には否定的だけど、「根拠なし」とする論には従えません、という立場です。
だったら根拠出してね。
九州王朝側から一切の根拠の提示がないという事実を受けて、『根拠なし』といってるんだから。
746 :
日本@名無史さん:03/01/21 04:30
九州王朝といっていいのかわからんしそれがあった年号も忘れたが
現在の福岡県八女市に当時邪馬台国とほぼ同勢力の国があったらしい。
小さいものではあるが古墳も健在で調べればわかると思う。
>>745 たとえば大宰府問題とかね。
オオミコトモチ=大宰と表記、という説には従いきれない。
近畿天皇家が、そんな官職名を創作し、「大宰」の字を当てたとなると、近畿天皇家は
中国における「太宰」の用例を知らなかったことになる。これは「〜六国諸軍事・・・倭国王」
という称号を創作し、自称していた倭国王の後継とは、到底考えられない。そもそもこの称号の
元となった称号を最初に称した宋の劉義恭は、最終位が「太宰」だったのだから。
その中国の用例に倣うなら、「太宰」は天子の近くに存在する。そうでなければ
太宰の職を勤めることは出来ないのだから、当然だ。
とすれば当然、「太宰府」も、天子の宮殿から、かけ離れた場所にあるはずがないではないか。
日本の大宰府は、近畿天皇の住む場所からあまりに遠すぎるのだ。
これで「根拠なし」と言うのは、もはや詭弁。少なくとも「根拠」はあると認める、充分な証拠だろう。
ただし、これが「九州王朝説」の証明になりうるか、というのは、また別である。
748 :
日本@名無史さん:03/01/21 05:07
太宰と大宰は違うので根拠なし。
>>748 アンタなど相手にするつもりはないが、他の人への説明の意味で・・・
たとえ「太」と「大」、字は違えども「太宰」という役職の重要性を知っていながら
「大宰」というものを新たに創設するとは、ちょっと考えられない。他に例もない。
「ミコトモチ」などの和語を当てたとしても、特に「宰」という字句にこだわらなければ
ならない理由も存在しない。
したがって「根拠あり」だ。
746ですが。ここIDないのね。トリップつけたほうがいいのかな。
751 :
日本@名無史さん:03/01/21 06:05
>>749 常識として知っておいてほしいのですが「宰」というのは県令のことですよ。
筑紫大宰のような複数国を監督する地方長官を大宰と称してなんの疑問もありません。
やはり「大宰」を恣意的に「太宰」と読み替えて大王の近くに居るとみなすのは詭弁です。
「根拠なし」の好例でしょう。
752 :
日本@名無史さん:03/01/21 06:14
>>749 >ちょっと考えられない。他に例もない。
吉備大宰
>>751 >常識として知っておいてほしいのですが「宰」というのは県令のことですよ
そんなこと言われるまでもなく知っている。改名マニアの王莽など、わざわざ県令を
「県宰」と改めたりしているわけだし。
しかし「太宰」となればこれは「太宰」「太保」「太傅」の「太宰」しかない。
そして、その「太宰」の官職の重要性を知っていて、「大宰」という官職名を創作するとは、
ちょっと考えられない、と言っているのだ。
実際問題として、「太宰」の用例を知っている者が「大宰府」という地名を聞けば、誰もが
「太宰が政務を執っている所」だと理解するだろう。
それほど「大宰府」「大宰」という文字の持つ意味は大きい。また、中国における「太宰」の
官職の重要性は大きい。
だから、わざわざそのような官職名を創作したとするなら、近畿天皇家はよほど
中国の官職名や漢字そのものに関する教養が不足していた、と言わざるをえないのだ。
やはり「根拠あり」だ。
754 :
日本@名無史さん:03/01/21 06:34
「根拠なし」の好例として・・・
>近畿天皇家が、そんな官職名を創作し、「大宰」の字を当てたとなると、近畿天皇家は
>中国における「太宰」の用例を知らなかったことになる。これは「〜六国諸軍事・・・倭国王」
>という称号を創作し、自称していた倭国王の後継とは、到底考えられない。
目の前に高句麗の「都督営平二州諸軍事」や「使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」がいるから「〜六国諸軍事・・・倭国王」くらい創作できて当然だが、劉義恭の即位前の官位を当然知っていたというような主張に根拠はない。
ましてやそれは「太宰」なんだから「大宰」になんの根拠もない。
756 :
日本@名無史さん:03/01/21 06:37
757 :
日本@名無史さん:03/01/21 06:42
>「大宰府」という地名を聞けば、誰もが
>「太宰が政務を執っている所」だと理解するだろう。
中国人には「太宰が筑紫にきてるんだからココで用件がすむな」と思われて好都合か。
758 :
日本@名無史さん:03/01/21 06:45
>>756 王族に劉義○はごろごろいるんだから咄嗟の勘違いもあるさ。
>>755 オレはなにも「九州王朝」実在派じゃないんだ。ただ、「太宰」という中国における役職の
重要性を知ってしまった以上、大宰=オオミコトモチ 説は到底肯首できないんだよ。
まして、「大宰府」という地名が示すとおり、「開府」出来るほどの権限を持たされて
いたわけだろ?
日本側の史料を調べる限り、筑紫大宰に開府の権限など与えられていなかった。
前にも言ったが、これが「九州王朝」実在の証明になるかどうかは、別。
ただ、「根拠」を云々するなら、やはり「根拠あり」と言わざるを得ないのだ。
760 :
日本@名無史さん:03/01/21 06:50
若干名前負けというだけで、なんの根拠にもならないでしょう。
>>757 そんないいかげんなものではないだろ(笑)
762 :
日本@名無史さん:03/01/21 06:52
大宰といわれれば太宰を思い出すだろうなんて云われても根拠というには程遠いのでは?
>>762 そんなことはない。中国における「太宰」という役職の重要性をもっと認識するべき。
太宰を知っていて、新たに「大宰」を創作するわけない。
オオミコトモチという和語を漢字に当てるなら、他に適当な字もあるわけだし。
少なくとも「大宰」という二字は適切性を欠く。
「九州王朝」実在派じゃないんだ「九州王朝」実在派じゃないんだといいながら
「重要性は大きい」とか「到底肯首できない」とかひたすら感覚に訴える論法は古田説そのものだな(ワラ
765 :
日本@名無史さん:03/01/21 07:00
766 :
日本@名無史さん:03/01/21 07:01
結局いかに九州王朝説が「根拠なし」かが浮き彫りになったやりとりでしたね。
>>764 オレは「太宰」の重要性から目をそむけることが出来ないだけだ。
それはともかく、アンタはそういう煽りまがいのレスをしなければ、自己の正当性を
主張できない類の人間のようだな。
しかしそれでも「根拠あり」のオレの主張を崩すことは出来なかったようだ。
768 :
日本@名無史さん:03/01/21 07:40
まあ、ここの反九州派は、はけ口だからな。畿内が有力だという論証もなしに
煽ってるだけだよ。放置しる。
769 :
日本@名無史さん:03/01/21 07:43
周の時代ならともかく後漢や三国時代に「太宰」がそんなに重要だった
と思えないけど。 時代錯誤もはなはだしいのでは?
千年前の平安時代「左大臣」はたいしたものだったけど、千年後の
今の「副大臣」はカスだよな。 「左≒副」(「太≒大」も常識)
それで周から隋・唐なら千年(三国で八百くらい)のちも、学者の
あいだはともかく、実際の政府の役人などが「太宰」をそんな風に
意識するわけがない。 儀同三司なんて当世風の称号を倭武も使っ
てたくらいだし。
770 :
日本@名無史さん:03/01/21 11:13
日本の文献上の“大宰”の初出は推古17年(609年)で、
筑紫大宰が推古に上奏するという内容で出てくる。
つまり、仮にはじめは“大宰”が九州王朝の天子補佐役であったとしても
推古朝には既に九州王朝は亡んで、筑紫大宰は大和朝廷の
出先機関になってしまっている訳だ。
残念だったね。
それとも、またぞろ、都合の悪い文献は見ないふり?
>>759に全く同意します。それは、
>>729さんの一連のレスと一見矛盾する感じですので、両説に矛盾しない説が出れば、と。
>>770記紀の記述は、それを編纂した王権の正統性を延べるためのもの、という側面もあると思います。
よって770氏の説が直ちに正しいとは限りません。
ただし、770氏の言われる通りの可能性も大いにあると思われ。
従来の九州王朝説や、「なかった説」のどちらでもないところに真実がある気もします。
いつも、批評家みたいなレスでごめんなさいです
772 :
日本@名無史さん:03/01/21 12:54
どうも思いこみが激しい人がお一人いらっしゃるようで。
>>747 >>749 >>753 >>759 (
>>763)
オオミコトモチと称される職の成立と,「大宰」の字を用いるようになったのを
無批判に「同時」と考えてませんか?
先にオオミコトモチが成立し,それに「大いなる宰(みこともち)」という字が充てられたという可能性もおおいにあると思われ。
その可能性が排除されてはじめてあなたの主張に真実みが出てくるのでは?
773 :
日本@名無史さん:03/01/21 13:02
>>759 >「大宰府」という地名が示すとおり、「開府」出来るほどの権限を持たされて
いたわけだろ?
「大宰府」という地名の初出はいつでしょうか?
それが確定しないと上記の書き込みは空論になります。
774 :
日本@名無史さん:03/01/21 13:16
考古学的に考察するには、銘文解読のような文献的議論の前に、
>>741 >土器をはじめとする遺跡、出土物の(鬱陶しく煩わしい(w))偏年作業が必
要です。
そのあたりのことは、例の稲荷山鉄剣の解読をした側も古田氏もどちらも
きちんと解説していません。
ですから、稲荷山については、どちらの主張が正しいかどうか判断する以
前の段階だと思いますがいかがでしょうか?
ちょっと遅いレスだけど。
稲荷山の鉄剣に銘文が発見されたのは,出土してからだいぶ時間がたったあとだってのはご存じかな?
銘文発見以前に,出土遺物に対する考古学的な見地から稲荷山は5世紀後半代のものだって認識だったんだ。
「辛亥年」を471年にあてる説が有力になったのには「獲加多支鹵」が「ワカタケル」と訓ずることができ,雄略に比定できるからということが大きいが,考古学者の見解も大きく影響を与えてるんだよ。
書き込みがおかしくなったので再トライです。
>>741 >考古学的に考察するには、銘文解読のような文献的議論の前に、
土器をはじめとする遺跡、出土物の(鬱陶しく煩わしい(w))
偏年作業が必要です。
そのあたりのことは、例の稲荷山鉄剣の解読をした側も古田氏もどちらも
きちんと解説していません。
ですから、稲荷山については、どちらの主張が正しいかどうか判断する以
前の段階だと思いますがいかがでしょうか?
ちょっと遅いレスだけど。
稲荷山の鉄剣に銘文が発見されたのは,出土してからだいぶ時間がたったあとだってのはご存じかな?
銘文発見以前に,出土遺物に対する考古学的な見地から稲荷山は5世紀後半代のものだって認識だったんだ。
「辛亥年」を471年にあてる説が有力になったのには,「獲加多支鹵」が「ワカタケル」と訓ずることができ,
雄略に比定できるからということが大きいが,考古学者の見解も大きく影響を与えてるんだよ。
776 :
日本@名無史さん:03/01/21 13:34
>>771 >ただし、770氏の言われる通りの可能性も大いにあると思われ。
冗談じゃない。これは確固たる史料上の事実だ。
史料上の事実を覆すには、それ相応の根拠を提示してもらわないと。
たとえば、多数の資料・史料が存在してこれらから
描かれる全体像と問題の箇所が矛盾するとかね。
そうでなければ、都合の悪い史料は好きなように捨てることができてどんな歴史だって構築できてしまう。
777 :
日本@名無史さん:03/01/21 14:00
777!!!!!!!!!!!
778 :
日本@名無史さん:03/01/21 16:22
↑おめでとう。ご褒美に熊襲あげる。
779 :
日本@名無史さん:03/01/21 18:27
ちょっとびっくりしました。
九州王朝説というのは思い込みばかりというか、根拠のないことを言い張るしかないんですかね。
言い張って言い張って理由もないのに勝利宣言という感じをうけました。
780 :
日本@名無史さん:03/01/21 21:25
ワカタケルと読むのも仮説だろ。そんなんで年代決定するなよ。
781 :
日本@名無史さん:03/01/21 22:11
782 :
日本@名無史さん:03/01/21 22:35
考古学上の発見も、ひとたび解釈の世界に入ると何と色々と仮説を立て得るものですね。
736 :皮肉 :03/01/21 01:02
>>734 九州王朝が近畿に作らせて、朝鮮半島に持って行かせたのだろう。
だから近畿と朝鮮半島が一致するのは当然だし、九州から出土しなくてもまったく
不思議じゃないな。
・・・とまあ、三角縁神獣鏡についての邪馬台国畿内説派の言葉を借りれば、
そういうことになるな(笑)
744 :近畿応援 :03/01/21 03:56
>>688私の不勉強もあり、その例だけでは近畿王権による九州支配を感じ取ることができませんでした。
ただし、
>>729さんの説には強い説得力を感じました。
特に、九州からあまり出土せず、近畿に多いものが朝鮮半島からも出土、というところです。
近畿と朝鮮半島は、但馬ルートで結ばれてたかも知れず、九州説の方々の認識する近畿王朝とはかけはなれている可能性があるのでは?
783 :
日本@名無史さん:03/01/22 00:50
大宰府って大宝令からだよね。
九州王朝、関係ないじゃん。
784 :
日本@名無史さん:03/01/22 01:18
>>780 ニュートン力学も仮説だから、ピッチャーの投げたボールが
ニュートン力学に従わなくても全然オーケー!!!
ってか〜んじ。
785 :
九州王朝大好き:03/01/22 01:32
>>784 >ニュートン力学も仮説だから、ピッチャーの投げたボールが
>ニュートン力学に従わなくても全然オーケー
ピッチャーの投げたボールはニュートン力学に殆ど従いませんから、
>780と同意見と言うことですね。
九州王朝、根拠はあるとの印象を受けますた
787 :
日本@名無史さん:03/01/22 02:04
太宰府問題、やはり否定説は分が悪そうですな。
無理もないか。太宰府町には紫宸殿という地名も存在するからな。
紫宸殿に天子が在し、太宰府に太宰がいて政務を執る。
不思議でも何でもない。やはり九州王朝は存在したのだ。
788 :
日本@名無史さん:03/01/22 03:22
中国の太宰という官職とは字が違うんですよね。
それと似ているから大宰という名前は使うわけがないという理屈も思い込みとしかいえません。
やはり大宰府どうこうは牽強付会ですね。
九州王朝説になんの根拠もないことがわかりました。
太宰府問題、やはり否定説は分が悪そうですな。
九州王朝説に根拠があることがよくわかりました。
791 :
日本@名無史さん:03/01/22 03:36
文字が違うということで決定的な打撃が決まったようだ。
九州王朝説は結論の連呼しかできなくなった。
792 :
日本@名無史さん:03/01/22 03:37
宗像、天孫、隼人、熊襲は崇神の傘下に従っています。
九州単独の王権は存在しません。
793 :
日本@名無史さん:03/01/22 03:39
九州王朝説は過去に、いつから紫宸殿という地名があるかとか
太宰府の中に紫宸殿があるのは矛盾だという指摘に耐えられなかった。
太宰府の中に紫宸殿はないですよ?
現在「太宰府政庁跡」といわれている所の地名に、「紫宸殿」という地名があるのです。
しかし「太宰府政庁跡」は、じつは旧太宰府町ではないのです。
旧太宰府町にあるのは「太宰府天満宮」です。
つまり「紫宸殿」という地名のある場所が天子のいる所で、
「旧太宰府町」の方に、太宰府政庁があったのです。
>>793 旧太宰府町から「政庁跡」が外れていることは、ずいぶん話題になったのに。
知らなかったの?
796 :
日本@名無史さん:03/01/22 03:57
大宰府政庁跡が大宰府政庁跡でないと想像だけで言い逃れようとしていまつ
末期症状でつね
>>796 はっはっは・・・
知らなかったみたいですね(w
でもこの話、ずいぶん話題になったんだけどな。
「旧太宰府町でないのに、太宰府政庁跡っておかしい」って声がけっこうあったんだ。
で、アンタはどう思う? 九州王朝の話は別として。
「旧太宰府町」から外れた場所にある「太宰府政庁跡」ってのはどうよ?
そういう地名の付けられ方よ。
太宰府政庁(跡)からズレた地域に、「太宰府」という地名が付くと思うか?
九州王朝説のめんめんは太宰府の地理も知らないで根拠だ根拠だと言い張っていたのか!
驚きだな。
>>798 なんか違ってないか?(w
しかしまあ、そういうことだ。九州王朝云々はともかくとして、旧太宰府町から
政庁跡が外れているのは事実なんだ。
今後、「政庁跡」と呼ばれているものが、本当に「太宰府政庁」だったのか、
慎重に論議した方がいい。
この点でも、プロの学者はわざと目をそらしているのか、この問題に触れようと
しないな。
普通に考えて、「太宰府政庁」から外れた場所に、太宰府という地名がつけられるとは
思えないからな。そもそも「政庁」あっての太宰府という地名なのだから。
800 :
日本@名無史さん:03/01/22 04:25
ここでもまた九州王朝説はトンデモ説でしか切り抜けられなくなりましたね。
旧太宰府町の地名も太宰府駅の位置も天満宮に引き寄せられたもので、史跡としての政庁とは関係ないのは常識なのに。
こんなところにも近現代の地名で古代の歴史を語ろうとする人の陥る落とし穴があるのね。
トンデモ王朝説はそのうち天満宮の地下を掘れれば大宰府の遺跡が出るんだとか言い出すぞ。(藁
>>800 なんか勘違いしてない?
「太宰府天満宮」ってのは、「太宰府」にある「天満宮」ってわけだ。つまり
「太宰府」って地名が先にあって、まあ、後で天満宮が出来たのかどうかは知らないが、
少なくとも「太宰府天満宮」というのは、その地が「太宰府」と呼ばれるようになった
後ってわけ。
別に天満宮などなくても、もともとその地は「太宰府」という地名だったんだ。
しかし「政庁跡」と呼ばれているところは、旧太宰府町からも少し離れているし、
過去にそこが「太宰府」と呼ばれた痕跡もない。
つまり太宰府政庁跡周辺が「太宰府」と呼ばれるようになり→さらにその領域が広がり→
→天満宮が「太宰府天満宮」と呼ばれるようになり→太宰府の領域が縮小し→
→政庁跡周辺は太宰府でなくなった
という経過をたどった可能性は限りなく低い。
>>801 言い負かされて悔しがっているようにしか見えないよ(w
まあ、極力煽りまがいのレスは入れるなよ。な?
804 :
日本@名無史さん:03/01/22 06:01
大宰府政庁跡には中世まで大宰府があったんですよ。これは確定なんです。
大宰府から少し離れたところにあった菅原道真の墓に祠廟を建てたのが903年。のちの天満宮です。
政治都市としての大宰府が滅んだ後に天満宮の門前町としての太宰府町だけが残ったんです。
太宰府という地名は中世以前には見られないよ。
806 :
日本@名無史さん:03/01/22 06:32
結局、太宰府どうこうで九州王朝説の根拠は一切なかったという結論でよろしいですね?
>>804 それなら「天満」「天満宮」「天神」といった町名になるのが普通だと思います。
現地人は誰も「太宰府」などと呼ばないでしょう。「天神さん」「天満宮」というだけで
「太宰府天満宮」を指すのですから。
その地域が「太宰府町」なのは、そこが「太宰府」という地名だったからです。
じゃ? 政庁跡の方は?
近畿天皇家が派遣した「筑紫大宰」はたしかにそこにいたかもしれませんが、
それはけっして「太宰府」という地名の由来ではない、ということです。
そもそも「太宰府天満宮」というのは、先に「太宰府」という地名があって、その地に
天満宮が出来たから「太宰府天満宮」なのです。
太宰府天満宮があるから「太宰府」というのでは、本末転倒でしょう。
809 :
日本@名無史さん:03/01/22 06:40
つまり太宰府問題一つ取っても、九州王朝の実在は証明される、ということで。
810 :
日本@名無史さん:03/01/22 06:45
太宰府という地名が中世以前にあった証拠が無いんだから根拠なしで決定だろう。
まぁ、オレは九州王朝に固執するわけじゃないけどね。
例の稲荷山鉄剣の 獲加多支鹵大王=雄略 に対する従来説への疑念と
同じくらい、この太宰府って地名には疑問をもっているわけだ。
別に証明というほど大層なものじゃないよ。
ただ、「根拠」はあるだろ、というだけの話。
812 :
日本@名無史さん:03/01/22 06:51
なにも「根拠」はないよ。
いつからあったかもわからない地名だし太宰と大宰の字も違う。
813 :
日本@名無史さん:03/01/22 06:53
紫宸殿という字はいまの何町何丁目何番にあるのでつか?
>>811 >ただ、「根拠」はあるだろ、というだけの話。
どんな根拠があるの?
>>810 809はオレじゃないけどね。
そういう「地名」ってのは、史料に無いのが普通。「有る」ということは証明に使えても、
「無い」ことは証拠、証明として使えないんだよ。
「地名が無いから根拠なし」というのは、残念だが論理としては成り立たないんだ。
むろん、「無い」ことは、九州王朝の証明には使えんよ。
ただし「根拠」にはなるな。まして、「太宰府」など、元来「地名」ではありえない
地名なのであるから。
「太宰」がそこに存在したから「太宰府」。それが地名としてそのまま残った。
そこに「太宰府」という地名が現存しているわけだから、少なくとも「根拠」にはなる。
816 :
日本@名無史さん:03/01/22 06:58
結論。やはり「太宰府」は九州王朝説の屈強の証明。
否定派は煽る以外、手も足も出ませんでした、ということで。
817 :
日本@名無史さん:03/01/22 07:00
>>815 ほら、論理としておかしい。
>「無い」ことは証拠、証明として使えないんだよ。
「地名が無いから」証拠、証明として使えないので「根拠なし」です。
「太宰」がそこに存在したから「太宰府」。それが地名としてそのまま残ったとかいうのは解釈であって、解釈は根拠にはならない。
結論
「太宰府」といういつから有るか不明な地名が頼りな九州王朝説。
ただ言い張る以外、手も足も出ませんでした、ということで。
鎮守府は東北王朝の証拠です
>>817 だから、「太宰府」という地名が現存している、それで「根拠」としては充分なんだって。
それが「証拠」「証明」にはならないだけで。
「根拠」とは「証拠」や「証明」とは違うでしょうに。
そもそも「太宰」という人物がいなければ「太宰府」などというものは存在するわけないのだし、
「太宰府」という地名がある以上、何らかの公的機関としての「太宰府」の存在が過去に
なければ、そんな地名が定着するはずないんだよ。
明白になったであろう。
九州王朝説というのは
「太宰」がそこに存在したから「太宰府」だというような
単なる思い込みの上に構築されておるのだよ。
>>821 なあ、煽り目的でオレにからんでるのか? だからそういうカキコはやめろって。
というか、「太宰」の存在無くして「太宰府」などありえんのだよ。
こんなことは中国史をやってれば、常識なんだけどな。
それとも
>>821は、太宰府の「府」を、大阪府や京都府などの「府」だと
解釈しているのか?
ちなみに全国に数ある「別府」という地名。「べっぷ」「べふ」と読みは数例有るが、
これなど、近畿王朝一元説で、どうやって解釈するのだ?
もちろん「別府」という地名が、自然発生的な地名でなく、そこに何らかの「府」と
呼ばれる機関などがあったから、そういう地名として残っていると思うのだが。
明白になったことは、
>>821がイマイチ「〜府」というものに詳しくないらしい、という
ことだな。
まず九州の太宰府を調べる前に、中国史に出てくる「〜府」の用例を調べた方がよい。
「大司馬府」「大将軍府」といった字句が出てくるから。
「京都府」が実在する以上、これは関西王朝の証拠。
826 :
九州王朝大好き:03/01/22 08:44
大宰府に条里制の都跡とみられる地名が数多く見られます。
また、また大宰府政庁跡と見られる場所は、都跡の御所跡と見られる位置関係にあり、
紫宸殿の地名は政庁跡とみられる場所の北側になります。
この地名と地名位置関係は大宰府と呼ばれる地域が平城京のような都跡と見なせます。
これについての反論は?
ニュートン力学でしょうか?
827 :
日本@名無史さん:03/01/22 08:59
中国史を調べると「太宰」はあるけれども,「大宰」はでてこないよ。
「太宰府」という地名を確認できるのは中世が上限。
いったい何年間のブランクがあるんだい?
したがって,
>>815 >>817 >>820のように
「太宰」なくして「太宰府」なしという趣旨を発言するためには,
日本の古代に「太宰」が存在していたことを証明する必要がある。
「政庁」が旧太宰府町内になくてもまったく不思議ではない。
平城京(ならきょう)と奈良町の関係をみても容易に想像が付く。
だいたい「太宰府町」や「太宰府天満宮」の呼び方がいつまでさかのぼるのか
検証してるのか?
大宰の役所設置(狭義の意味での「大宰府」の起源)
→規模が拡大され街区が建設される(街としての「大宰府」もしくは「太宰府」成立,地名として拡大)
→街区をさけ,そのはずれに太宰府天満宮前身寺院が建立される
→大宰府主要地区が焼亡,大宰府の機能が低下していたことから政庁建物や街区は再建されず
→太宰府天満宮が道真信仰のメッカとなり,門前町形成
→結果として旧町域と政庁跡がずれる
といったプロセスでしょ。
828 :
九州王朝大好き:03/01/22 10:42
大宰府と太宰府について
大宰府:大きい宰の府 (九州王朝倭語:大宰府市等に引き継がれている。)
太宰府:太宰の府 (近畿王朝語:8世紀当時の中国語よりの引用語。近畿王朝では何故現地語「大宰府」を「太宰府」と言わなければならなかったのか?太宰でないと九州王朝の存在を認めたことになり都合が悪い。)
同様例
筑紫=チクシ:九州王朝倭語、現在でも現地語
筑紫=ツクシ:近畿王朝用語(近畿王朝では何故現地語「チクシ」を「ツクシ」と言わなければならなかったのか?書紀の表現例からは「ツクシ」=「尽くし」のは九州王朝側、とか?)
829 :
日本@名無史さん:03/01/22 10:59
>>826 >大宰府に条里制の都跡とみられる地名が数多く見られます。
条里制に基づく地割り,地名は全国いたるところにあるよ。
よってこれは「大宰府=九州王朝の都説」の証拠にはなり得ません。
>また、また大宰府政庁跡と見られる場所は、都跡の御所跡と見られる位置関係にあり、
昔から,政庁だけでなく,政庁を北辺中央におく都城的な街区が想定されていたよ。
近年の考古学的調査によってやっと街区の存在が明らかになってきたんだ。
おっと,喜ぶのは早いよ。
こうした想定をしているのも,発掘調査を行っているのも,
以前に「九州王朝大好き」が,妄想的発想でこきおろした,
従来説(=九州王朝存在否定派)側にあたるんだから。
>紫宸殿の地名は政庁跡とみられる場所の北側になります。
この地名と地名位置関係は大宰府と呼ばれる地域が平城京のような都跡と見なせます。
後半は上に書いたとおり,従来説の学者が既に想定済み。
前半は九州王朝容認派(?)の「太宰なくして太宰府なし」説と大きく矛盾。
なんたって,「王」が,その臣下である「太宰」が開いた「府」にいることはありえない。
それから「紫宸殿」地名を根拠にする説も全くダメ。
内裏における「紫宸殿」の称号は平安初期までしか遡りえない。
>>776私は、記紀が「事実を後世に正しく伝えるため」に書かれたとは思ってません。
自らの正統性を主張して、支配しやすくするための意図があると思っています。
よって特に「反乱扱い」されている磐井、「王朝乗っ取り工作」の蘇我などは、正統だった可能性もある、と感じています。
そういう意味で「史料事実」=「事実」とは限らない、という見解です。
しかし、「記紀に意図あり」の根拠は「支配側の感情の推理」です。
根拠なし、と言えます。
また、御指摘のように、「どんな歴史でも構築できてしまう」危険性、おおありです。
落とし穴にはまらぬ様、注意したいと思います
御指摘ありがとうございました
831 :
九州王朝大好き:03/01/22 13:54
>>829 事実認識が同じくする所が多くても解釈の仕方で、結果が異なる。
認識が違うのは、「大宰府」と「大宰府」重大な違いを無視して違う結論にもっていっている。
832 :
日本@名無史さん:03/01/22 13:56
>>828 >大宰府:大きい宰の府 (九州王朝倭語:大宰府市等に引き継がれている。)
太宰府:太宰の府 (近畿王朝語:8世紀当時の中国語よりの引用語。近畿王 朝 では何故現地語「大宰府」を「太宰府」と言わなければならなかったの か?太 宰でないと九州王朝の存在を認めたことになり都合が悪い。)
過去レスちゃんと読んで理解できてます?大藁)
>>828チクシとツクシについて。方言による単なる音韻変化をまず考察すべきと思われ。
834 :
九州王朝大好き:03/01/22 14:27
>>832 「大宰府」と「太宰府」は現に存在しています。
中国古典には「大宰」と言う言葉がなかったから、
「大宰府」は「太宰府」の「、」を付け忘れたのだろう、
では説明にはなりませんよ。
835 :
九州王朝大好き:03/01/22 14:37
>>833 >チクシとツクシについて。方言による単なる音韻変化をまず考察すべきと思われ。
「チクシ」と「ツクシ」の違いはを音韻変化で片付けられません。
たとえば「竹林」は北部九州では「チクリン」近畿では「ツクリン」となっていません。
「チク」音が近畿では「ツク」に変化した例はありません。
836 :
にゃんちゅー:03/01/22 17:34
質問。
なんで「大夫」と「太夫」は同じなのに
「大宰」と「太宰」は違うんですか?
837 :
日本@名無史さん:03/01/22 17:41
九州王朝さんって,今までに指摘された事実誤認や妄想のうち,
自説に都合の悪いものについては全く無視ですね。
838 :
日本@名無史さん:03/01/22 18:53
>>836 「大夫」と「太夫」は同じではないよ。
歴史用語として正しいのは,あくまでも「大夫」。
「太夫」は後世になって混用されたもの。
九州の「大宰府」が「太宰府」になったのも同じ。
日本史用語として正しいのは,あくまでも「大宰府」。
839 :
日本@名無史さん:03/01/22 18:59
>>834 「九州王朝大好き」は
>>832で笑われた理由が全く理解できてないらしい。
考古学への誤解といい,「大宰府」に対する無知といい,まったくあきれる。
妄想ばっかり垂れ流している暇があったら,少しは勉強汁!
840 :
日本@名無史さん:03/01/22 20:20
筑紫大宰の初出は7世紀初頭。律令下で大宰府という機関が定められますが、これが「大宰」府であることは文献的にも考古学的にも証明されています。
大宰府という役所は鎌倉時代まで存続していますが、中世に入ると大宰府と「太宰」府とする表記とが混在しはじめます。近世はもっぱら太宰府です。
中世に「大宰府」と「太宰府」がふたつの別々なものである可能性はないので、時代とともに表記が変化したということになります。
よって現「太宰府」は当初「大宰府」であるので「大宰」はいるが「太宰」はいない。
以上が日本に「太宰」がいなかった証明です。
841 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:31
7世紀初頭に大宰府が大和によって定められたと証明されたとしても、それが
「当初」であると証明されたこととにはならないのでは?
「それ以前は不明」とするのが論理的と思います。
>これが「大宰」府であることは文献的にも考古学的にも証明されています。
考古学的な証明とは、どんな証明ですか?知らないので教えて下さい。
で、「太宰」という言葉の重要性を認識していたら、「大宰」という役職を新たに
創作することの不自然性が問われているわけだが・・・
ましてや「府」付きなのだからね。
そもそも、近畿天皇家が「筑紫大宰」なるものに「開府」の権限を与えたという
確固たる証明ができるのか?
それどころか、「筑紫大宰」が近畿天皇家による設置かどうかも不明。
限りなくアヤシイと思う。
>>843 それは「任那日本府」にも言えることだな。
近畿天皇家が置いた機関とは、どうしても思えないものな。
845 :
日本@名無史さん:03/01/23 00:04
>>842 それは中国史への無知からくる錯覚だな。
「開府」の権限がご大層なのは昔の話。
府兵制下の隋唐には「府」なんか腐るほどある。
846 :
日本@名無史さん:03/01/23 00:11
>>842 >「太宰」という言葉の重要性を認識していたら
7世紀の中国にそんな官職はありませんから別に重要性もないと思いますが?
ましてや字が違うし。
847 :
日本@名無史さん:03/01/23 00:47
みなさんおやねずみ〜
>>846 ことは「7世紀の中国」だけの問題じゃないんだな。「漢字」の教養の問題でもある。
いくら唐朝に「太宰」がないとはいえ、唐朝が「太宰」を知らなかったはずはない。
まして、南朝に使者を送り続けていた倭国においておや。
「太宰」を知っていて「大宰」の創設はありえないな。
849 :
日本@名無史さん:03/01/23 00:53
おやすみ。
まあ、「証明」はともかく、少なくとも九州王朝について、太宰府問題は
「根拠」にはなると思う。
これが直ちに「証明」にならないことは、否定派の仰るとおりだが。
852 :
日本@名無史さん:03/01/23 01:08
>>851 そんな感じだね。
「根拠」になるとは、議論する対象になる、という意味だよね。
現に、このスレの参加者はみんな議論しているじゃないか。
853 :
日本@名無史さん:03/01/23 01:14
ここか(藁
歴史ヲタ気持ち悪い
>>852 うん、そうなんだ。だから「根拠なし」と言い切っているヤツを見ると、
「オイオイ」と思うんだ。
ムキになって九州王朝派に加担した形になったけれど、オレは別に実在派じゃない。
ただ、稲荷山鉄剣の銘文について、従来説の無理に納得がいかない。ここから
始まって、近畿王朝一元説に疑いを持つに至ったんだ。
それに、日本書紀ってのが、どうも信用がおけないし(笑)
まあ、疑いだしたらキリないんだけどね。
だから、いつも「根拠なし」と言いまくっている人よ。
もう、そういう言い方はやめようぜ。
議論、反論、大いに結構。オレだって九州王朝には大いに疑問だ。
ただそれ以上に、近畿天皇家一元主義に対する疑問の方が、少し大きいだけだ。
しかし煽りまがいのレスとともに「根拠なし」を連呼するのは、もはやまっとうな
議論ではないよ。
856 :
日本@名無史さん:03/01/23 06:44
根拠なし。
>>856 もう意地になるのはやめなよ。
なんだかんだいって、みんないい人じゃないか。
858 :
日本@名無しさん:03/01/23 08:06
根拠なしとかいいだしたら、近・現代ですら不確定なこと山ほどあるのに、
きりがない。ほんの少しでいいから科学的精神を学んで欲しい。
859 :
日本@名無史さん:03/01/23 08:42
根拠は絶対必要だよ。
「私は,これこれこういう理由であるから,こう考える」
というのが,科学的な学問の基本姿勢だ。
一般には,「こう考える」という部分だけが重要だ
と勘違いしている人があまりにも多い。
しかし,一番重要なのは,「これこれこういう理由であるから」という部分。
これが明示されていなければ,本人以外に検証のしようがないからだ。
たとえ,「こう考える」という部分が真実を言い当てているとしても,
検証のできないものに同意することはできない。
だから,「疑問に思う」とか「あやしい」とかだけでなく,
「これこれこういう理由で」と書き込んで欲しい。
ひょっとすると,ほかの誰かがあなたの疑問を氷解させるような
書き込みをしてくれるかも知れない。
また,「根拠なし」と書かれている場合は,「これこれこういう理由で」
が明示されていない場合か,明らかにされていても,その「理由」が
まったくの誤解や認識不足であることの方が多い。
もちろん,「根拠なし」と書き込む側も「理由」を明示しなければいけない。
これこそ「科学的精神」だと思うよ。
860 :
日本@名無史さん:03/01/23 11:26
九州王朝に大宰がいたということを示すものが何もないから、
大宰は九州王朝の根拠たりえず。
これでいい?
861 :
日本@名無史さん:03/01/23 13:12
いいんじゃない?
>>859はなかなかいいこといってるね。
これを受けて九州王朝説のみなさんはどのように反論されるのでしょうか。
これからの盛り上がりに期待大!
862 :
九州王朝大好き:03/01/23 17:13
質問です。
「大宰府」と「太宰府」についてですが、
7〜8世紀の日本では「大宰府」はあったが「太宰府」はなかった。
一方、7〜8世紀の中国の認識では「太宰府」はあったが「大宰府」はなかった。
以上が皆さんの認識であると見なして良いのでしょうか?
そのような認識ではない方は意見を下さい。
九州王朝に対する認識又は姿勢も含めて書いて下されば理解しやすくなりありがたいです。
今晩又は明日明後日に意見を見に来ます。
863 :
日本@名無史さん:03/01/23 17:49
>>862 質問の後半部分の意味について判断が付きかねてます。
>一方、7〜8世紀の中国の認識では「太宰府」はあったが「大宰府」はなかった。
と書かれてますが,
1.7〜8世紀の中国には「太宰府」はあったが「大宰府」はなかった。
(現在の我々からみた当時の中国に対する認識)
2.7〜8世紀の中国からみて「太宰府」はあったが「大宰府」はなかった。
(当時の中国からみた倭or日本に対する認識)
これまでのレスの流れでは1を取りたくなるところですが,
読みようによっては,2である可能性もありそうなので。
九州王朝大好きさんはご覧になりましたら,解説をお願いします。
864 :
日本@名無史さん:03/01/23 18:46
天武朝段階でも、まだ筑紫大宰と並んで吉備大宰の存在が確認できる。
文武四年(七〇〇)には、筑紫総領・周防総領・吉備総領なるものが確認できる。
865 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:10
>一方、7〜8世紀の中国の認識では「太宰府」はあったが「大宰府」はなかった。
誰かそんなこと言った?
>>865 僕の知る限り,過去レスではどなたも発言しておりません。
ですから,
>>863で
>これまでのレスの流れでは1を取りたくなるところですが,
と,書き込みました。
ところが,
>7〜8世紀の中国の認識では
というところがどうも引っかかるのです。特に2回目の「の」が。
解釈によっては,2の意味になってしまうことに気付きました。
皆さんの「認識」が求められているので,
内容についての取り違えが起こらないように,と
あえてひねくれた読みを振ってみたわけです。
ほんと言葉だけで人に意思を伝えるのってむづかしいなぁ。
867 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:28
「根拠なし」という批判のし方は正しいと思います。
>「太宰」を知っていて「大宰」の創設はありえない
というような典型的な「根拠なし」の断定じゃないでしょうか。
たとえば中国で高官の名称と似ているから止めたとか変えたとかいう実例があれば、それを「根拠」としてあげればいいんです。
そういう共通に確認できる事実を出してはじめて「根拠あり」といえるんじゃないでしょうか。
868 :
日本@名無史さん:03/01/23 23:54
どんな偉大な仮説も先ずは、「思い付き」や「疑問」だよね。
「思い付き」や「疑問」を持つようになるには、それなりの理由がある。
しかし、他人を説得するには、もう少しマシな「根拠」を揃えた方がキレイ。
結局、マシな「根拠」を揃えることは説得力を増す力な訳だけど、
「根拠」が充分でないからといって言ってはいけない訳ではない。
とりあえず言ってみれば、誰かが「根拠」を与えてくれるかもしれない。
科学的な法則や定理にしても、はじめは「思い付き」だろうよ。
ただ、「思い付き」は、独り言で留めておくか、親しい人にだけ話す人が多い。
なぜなら、それを拝借して、「根拠」をいっぱいくっつけて自分の発見のように
公言するズルイ人がいるかもしれないから。
だから、「思い付き」や「疑問」の段階で公表してしまう人には、良い人が多い
のだろうと思うよ。
アメノタリシホコはやはり聖徳太子で即位していたのだが
何らかの理由で失脚し一族もろとも抹殺された。
それで推古が天皇だったことにした。
今でも祟りが怖くて広隆寺の聖徳太子像に現天皇の即位服を送る……
ってよくある考えですか?
まず、私は「大宰」を「大いなる宰」とする解釈に反論する。
なぜなら大宰=を「宰」の大きなもの、というのであれば、他に日本国内に「宰」という
官職名が多く存在することが必須のはずだ。大臣、大連など、それぞれ「臣」「連」
が大臣や大連以上の数で存在するのと同じ理屈である。
では、日本に「宰」という役職はそんなに多く存在したのか?
今日一日、日本書紀をひっくり返して調べてみたが、「宰」の例はただひとつ、
神功紀の「一云」の注のみだ(新羅宰)。これは神功の新羅征伐の際、新羅に置いた
日本側の役所のように解釈出来るが、しかしこれは別史料を引用した注釈の上、神功紀
であるのに天皇が出現するなど、不審な点が多い。
つまり「宰」という官職が近畿天皇家配下に多く存在した形跡は、ないといって良い。
たとえ神功紀の例がそうだとしても、到底、「天皇家の配下に宰あり」という証明には
なりはしない。
「宰」がないのに「大いなる宰」の官職のみ存在するのは、不審かつ不自然だ。
871 :
日本@名無しさん:03/01/23 23:58
そうそう。それ、漏れも疑問だったよ。多分、天皇家には色々と真相が正しく伝承されているんじゃないかな。
やはり、日本書紀を作ったヤシの子孫だから、それなりにいろいろと伝わっていそう。
まあ、全部が表に出ることがあるかどうかはわからないが。
872 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:07
天皇家の伝承が正しい歴史的事実を反映しているかどうかは分からないが、
何かありそうな気はするよね。
さらに私は、持統紀で「大傅」という記述例を発見した。(持統十一年二月の条)
ここに「東宮大傅」という役職名で登場するが、「大傅」という記述は中国をはじめ
例がない(と思う)。
これは「太傅」のことではないか? つまり日本書紀では中国の役職「太傅」を「大傅」
と記していることになる。
太傅→大傅と記している日本書紀が、太宰→大宰と記していることは大いにありうることである。
これがただちに証明になるかどうかはわからないし、それにはさらに論証が必要である。
しかし、「根拠」ということであれば、充分すぎるであろう。
>>868 >ただ、「思い付き」は、独り言で留めておくか、親しい人にだけ話す人が多い。
思いつきだと自覚してくれれば、オレは、それはそれでいいと思うよ。公表しても。
『おれは絶対正しい、根拠もある、定説を信じるヤツはバカだ、云々云々』
と言ってるから反発食ってるだけ。
『根拠はないけど、オレは信じてる。』
なら、
『あ、そう。頑張ってね。』
で終わってるところ。
875 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:13
なんの根拠?
>>875 太宰府=太宰が政治を執る役所 という解釈。
そして、「筑紫大宰」の「大宰」が「大いなる宰」ではない、という根拠。
877 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:15
そうだな。
>>873の発見は魅力的な感じがするんだけど、命題は何?
「日本書紀が、太宰→大宰と記していることは大いにありうることである。」
の意味は?
>>877 つまり、
>>876の通り。
太宰府=太宰が政治を執る役所 という解釈。
「太宰府」は中国史料の用例通り、「太宰」が存在し、ここたで執政していたから
「太宰府」というのだ、ということ。
ただ、これが古田武彦のいうような「九州王朝」の存在の証明には、まだまだこれだけでは
使えそうにないと思う。
邪馬台国及び倭の五王の倭国が、後に勢力が衰えて、「戦国期の周王朝」みたいな
存在になったという解釈も出来そうだから。この場合、「太宰」は近畿天皇家側の
人間ということになろう。
むろんこれは一つの仮想(妄想)であって、こうだと言う訳ではないけど、しかし
「太宰府」問題が、九州王朝を論じる上でのひとつの根拠には、やはり成りうる
ことだと思う。
879 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:28
「大宰」とする木簡は多数出土しているので、日本書紀の24ヶ所の「大宰」がみんな実は「太宰」であるという可能性は著しく低いでしょう。
これに対して「大傅」が一ヶ所であれば、こちらの誤写の可能性のほうが大ということで
「太宰→大宰と記していることは大いにありうることである」という「大いに」は「根拠なし」ですね。
あっと、
>>878は最後の方、変な日本語になってしまったかな?
つまり、少なくとも九州王朝の「根拠」はある、ということを、太宰府の用例で
主張したわけです。
「根拠なし」とあくまで主張する人がいるので、ちょっとマジになって調べて
反論しただけです。
881 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:38
そういう屋上屋を重ねた推定は根拠っていわないんじゃないの、普通。
882 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:42
ちょっとこだわるようだけど、
「根拠なし」じゃなくて、「その根拠は弱い」とか、
「その主張を否定するもっと強い根拠がある」という言い方の方がスジが通った
言い方だよね。
>>879 まあ、日本書紀の誤記というだけでなく、近畿天皇家側が「太宰」「太傅」という中国での
用例に詳しくなく、「大宰」「大傅」と記していた可能性も含めてのことなんだけどね。
「大宰率」「大宰帥」という役職は現実にあったわけだから、近畿天皇家による「大宰」の
使用例を否定するわけではないです。
ただ、近畿天皇家が太宰→大宰 という 記述の変更をしたのではないか、ということを
太傅→大傅によって述べたわけです。
ようは「根拠なし」とは言えんだろ、という主張。
884 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:45
あの・・・太宰府市の大宰府天満宮の人はなんて言ってるんでしょうね。
雑誌でたまにこう言った話見ますけど、行って聞いてきたって話、まだ
見たことないんです。九州で、しかも隣の筑紫野市に住んでながら。
個人で聞きにいこうにも聞きにくいですし。。。
885 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:52
ひとつの事実から正反対の2つの推論ができてしまうような場合、さいしょの「ひとつの事実」は2つの結論両方ともの「根拠」ではありえませんよね。
この場合2つの説とも「根拠なし」になるんじゃないですか?
この東宮大傅の例でいうと、もうひとつ逆の説もできる。
「大傅」は1例しかないから写本の誤写で「太傅」が正しい。これは唐王朝の三公である「太傅」の名称が唐でも日本でも三公しか使えないということはないという例である。
つまり南北朝の三公である「太宰」によく似た「大宰」という名前の地方官が日本にあってもなんら不自然ではない。
このように九州王朝説を否定する「根拠」になりました。
この場合アイコで「東宮大傅」はどっちの根拠にもならないとすべきでしょう。
>>884 それはうらやましい環境ですな。関東に住む私としては非常にうらやましい。
菅原道真公の話はたまに読むけど、どうなんでしょうか。私も知りたいです。
「翰苑」の倭国伝が伝えられていたってことだけど、それについても、何も
聞かないしねぇ。
日本では大宰・大師・大傅・大保・大尉・司徒・司空と書く
888 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:58
>>883 >近畿天皇家側が「太宰」「太傅」という中国での用例に詳しくなく、「大宰」「大傅」と記していた可能性
をみとめれば、近畿天皇家が
>「太宰」を知っていて「大宰」の創設はありえない
が「根拠なし」になるよね?
>>880 >つまり、少なくとも九州王朝の「根拠」はある、ということを、太宰府の用例で
主張したわけです。
どうしてそれが九州王朝の「根拠」になるの?
>>885 まあ、「誤写」を前提とした推論は根拠としては弱いと思うけど、まあ、それはそうだと
言えますね。
しかし私は
>>870でも述べたように、「大宰」は「大いなる宰」ではないだろう、という
ことにも言及しました。それは近畿天皇家における「宰」の例がはなはだ薄弱であるのに、
「大いなる宰」が存在するのは不自然じゃないか、とするものです。
その上で、「東宮大傅」の例に言及したに過ぎません。
つまり大宰=大いなる宰 でないとする、さらなる可能性をこれによって見いだそう
としたわけです。
この役職は「皇太子の教育係り」というものらしいので、唐の三公の用例ではなく、
南北朝以前の太傅(皇帝の教育係)という意味合いが強いと思います。
(太宰、太傅、太保など南北朝時代以前から使用)
891 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:16
なるほど。
犯行現場に落ちていた凶器がAさんかBさんどちらかのものだという事実が
Aさんが犯人だという根拠にはならないってことだな。
>>888 もしそうなら、邪馬台国以降、倭の五王や、多利思北孤の倭国は、近畿天皇家では
ありえないことになるねぇ。
「太宰」を知らない倭国なんて・・・
893 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:20
南北朝以前から太傅は三公です。
894 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:25
>>890 >近畿天皇家における「宰」の例がはなはだ薄弱であるのに、「大いなる宰」が存在するのは不自然じゃないか
過去レスを見れば「大宰」はオオキミコトモチの訳語として作られたという考えが示されています。
さきに「宰」が存在してその大なるものという順序で主張している人はいないので、反論にも従来説の否定にもなっていないと思います。
>>892 これは典型的な「根拠なし」だな。
倭国ならば「太宰」を知っているはずだというための根拠となる事実が何もない。
>>893 いや、というか、大司馬・大司空・大司徒、あるいは太尉・司空・司徒が三公だった
時代もあるわけで。
その時、「太傅」は三公ではなく「皇帝の教育係」という役職だった。
「東宮大傅」が皇太子の教育係ということなら、この「大傅」はその「皇帝の教育係」
の「太傅」の例に倣ったものだとするのが妥当なわけです。
897 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:32
『三代實録』元慶八年五月廿九日
式部少輔兼文章博士菅原朝臣道眞奏議曰(中略)謹案漢書表云、
相國掌承天子、助理萬機。丞相同之。大尉・大師・大保、皆在其下。
後漢書志云。大傅上公一人、掌以善導、無掌職。大尉・司徒・司空、並在其下。
晋書志云。丞相非常人之職。相國同之。大宰・大傅・大尉・司徒・司空、並在其下。
宋書志云。大宰所以訓導人主、以徳義也。大傅・大保、同之。
就此等文案之、相國・大傅・丞相・大宰等、位冠百寮、掌殊常職(中略)
博士善淵朝臣永貞等奏議曰。一、職掌有否事。尚書周官曰、大師・大傅・大保、茲惟三公、
(中略)唐令云。大師・大傅・大保、右三師、師範一人、儀形四海。大尉・司徒・司空、右三公、
(中略)大内記菅野朝臣惟肖奏議曰。(中略)唐開元令云。
大師・大傅・大保・大尉・司徒・司空、大保以上三師者、師範一人、儀形四海(中略)
五經異義云。周禮説、天子立三公、曰大師・大傅・大保。無官屬、與王同職。(中略)
少外記大藏善行奏議曰(中略)唐開元令云。大師・大傅・大保、右三師、師範一人、儀形四海。
大尉・司徒・司空、右三公、經邦論道(中略)此即尚書周官云。
立大師・大傅・大保。茲惟三公、論道經邦(中略)五經異義云。
周禮説、天子立三公。曰大師・大傅・大保、無官屬、與王同職(後略)
>>894 いや、「オオミコトモチ」だったとしても、「ミコトモチ」の存在があってはじめて
「オオ」付きの役職が出来るわけです。
大宰=オオミコトモチ だったとしたら、宰=ミコトモチ の存在は不可欠。
しかし「宰」という官職は存在しないようですね。
つまり、大宰=オオミコトモチ とする論じたい、根拠がないことになりませんか?
大宰=オオミコトモチ
の解釈の根拠もお願いします。
899 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:38
>>897 その史料からだと、太宰=大宰 という解釈は根拠があることになりますね。
900 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:48
901 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:50
902 :
日本@名無史さん:03/01/24 02:00
>>898 律令以前の段階では(もちろん施行後相当後世まで)地方の行政は在地首長を取り込むかたちで形成されています。
流官というもの自体が珍しいのですから「宰」という地方官はほとんど存在しないと考えるのが自然と思います。
ただ相当の要衝数ヶ所にだけ大宰・総領が配されている状況が律令以前として相応と思います。
903 :
日本@名無史さん:03/01/24 02:05
>>896 南北朝期には三公の太傅と太子太傅の両方があります。
904 :
日本@名無史さん:03/01/24 02:07
じゃ、私は寝ますが、なんでそれが九州王朝の根拠になると考えるのか理路を示しておいてください。
よろしく。
905 :
日本@名無史さん:03/01/24 09:04
>>898 >大宰=オオミコトモチ だったとしたら、宰=ミコトモチ の存在は不可欠。
しかし「宰」という官職は存在しないようですね。
ちょっとまってよ。以前にも似たような書き込みがあったと思うけど、
この考えでいくと、
・オオミコトモチ、もしくはミコトモチという職の存在
と
・その職に「大宰」「宰」という漢字を充てること
を、無意識のうちに同じことだと考えることになるよ。
『紀』では
「国司」をクニノミコトモチ、
「任那日本府」をミマナノヤマトノミコトモチ
と訓じている例がある。
したがって、ミコトモチは倭語であって、後に「宰」という字を当てたという
可能性が高いのではなかろうか。
それと、以前に
・『紀』での「大宰」は推古紀以降から見られる
って話がありましたけど、これも要注意でしょ。
『紀』にみえる官職名は、後世(『紀』編纂時)の官職名に
置き換えられている可能性が指摘されているよ。
(岩波日本古典文学大系本『紀』の註)
これらのことから、九州における「大宰」の存在は、
律令制定時の8世紀初頭を遡らないのではないかと思うんだが。
スマソ。
誤解を与える部分があった>したがって、ミコトモチは倭語であって、後に「宰」という字を当てたという
の部分は
>>したがって、ミコトモチは倭語であって、後に「宰」「府」「司」という字を当てたという
に変更ね。
よろしく。
「根拠」というから問題を起こしているので
「あったかもしれないと考えてみたくなる要素」
とか言い換えてみればよいのでは?
908 :
にゃんちゅー:03/01/24 12:43
「宰」という職は無いけど「国宰」という職はあるみたいです。
官制大観のページには国宰(くにのみこともち)は、国司と書く
事もあり大宝令以降の国司とは職掌が異なると書いてあります。
「針間宰」とは「針間国宰」の略なのではないでしょうか。
909 :
九州王朝大好き:03/01/24 13:32
>>862の質問に絡む論議ありがとうございます。
>>862の質問に
>>863氏の疑問が直後に出てきて、862氏にお礼申しあげます。
流れとして1.の意味を問うつもりでしたが、私の気持ちには、2.の意味も少しは含んでいたので、
あいまいな質問になったと思います。
「大宰府」は倭語である可能性についての関連ある議論を皆さんがどの様にされるのかを個人的に知りたかったのです。
「大」はオオイナルとし、「宰」はミコトモチを当てたとする可能性の有無です。
可能性があれば、「大宰府」は倭語と考えられる可能性があります。
「県」九州→「郡」近畿→「郡(グン)」後世 の例も、
「大宰府」九州→「大宰府」近畿→「太宰府」後世 と考えられる参考となると思います。
九州・近畿・後世の後書きは趣旨を理解しやすくする為のものですから、気にしないで下さい。
910 :
世直し一揆:03/01/24 13:45
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉する(しかも好戦的・ファイト満々でキモイ、自己中心)
●自尊心が異常に強く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとす
る(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際には
たいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者に弱く
、弱い者には強い)
●あら探しだけは名人級(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●一人では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「世間体命」、「〜みたい
」とよく言う)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は
個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をし、ストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。しかも冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あいつの足を引っ張ってやる!!)」)
911 :
日本@名無史さん:03/01/24 13:47
きくち城ってどうですか?
大宰府の後方の城として行政を担ったそうですが。
あとあの周辺古墳多すぎ。
912 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:12
>>909 九州・近畿・後世の後書きは趣旨を理解しやすくする為のものですから、気にしないで下さい。
て,この部分以外を見ただけでも,「九州王朝は存在した」ってのが前提になってるのがミエミエ。
どうせ「九州王朝大好き」にマジレスつけても無視されるだけだしな。
自分が質問を振るより前に,過去の質問に「根拠」を添えて回答したらどうなんだい?
『日本書紀』敏達天皇六年(五七七)五月五日条
遣大別王與小黒吉士、宰於百濟國〈王人奉命爲使三韓、自稱爲宰。
言宰於韓、盖古之典乎、如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。〉
要するに天皇によって使わされて、ある地域や団体(「海人之宰」など)を
統轄してるってこったね、宰ってのは。
どうでもいいけど、評→郡だね。
915 :
九州王朝大好き:03/01/25 03:52
どちらかと言えば九州シンパだけど
↑のページはひどすぎるね。
東福寺・三十三間堂・源氏物語‥‥
いったいどんな人生送ればこうなるんだろう‥
917 :
日本@名無しさん:03/01/25 08:13
前二者についてはそこまでいうのもどうかとおもうが。流石に源氏物語はどうかと思うが。
918 :
日本@名無史さん:03/01/25 08:30
三十三間堂だってひどいよ。九州説を辱める悪質ジョークじゃないのか?
919 :
九州王朝大好き:03/01/25 10:54
類友
921 :
日本@名無史さん:03/01/25 12:17
それよりも桂離宮にびっくらこきました。
江戸時代初期の建築であることは はっきりしてるのに。
922 :
日本@名無史さん:03/01/25 12:42
>>917 東福寺と三十三間堂は、九州倭国の建物の移築の可能性がある。
>>918 東福寺は、九州倭国の建物の移築の可能性がある。
これが九州王朝の現状をものがたる。
ちなみに、
三十三間堂 1164年に後白河院の勅により平清盛が建立。火災により消失し1266年に再建。
東福寺 1236〜1255の19年をかけて完成するが、14世紀にほとんどを消失。
現存するものの大半は室町後半〜江戸初期にかけての建物。
http://www.tofukuji.jp/kenzo.html
923 :
日本@名無史さん:03/01/25 12:52
鞠智城(であっていると思う)ってぜんぜん話題に上らないね。
あんまり知名度ないのかな?
924 :
日本@名無史さん:03/01/25 13:06
つーか
みんなが話してる九州王朝が存在した年代はいつなのよ?
西暦100年から500年 とかで示してくれよ。
925 :
日本@名無史さん:03/01/25 13:11
白村江で大打撃くらって、遠からず亡んだんじゃないの?
他にあるのか?
926 :
日本@名無史さん:03/01/25 13:12
また立てるのか・・・
Part1〜Part3をぐるぐると繰り返し読んでても同じことだと小一時間(以下略