1 :
九州王朝大好き(偽:
?
3 :
日本@名無史さん:02/12/08 20:56
九州王朝は、宋に取り入って半島諸国よりチョイ落ちの官職をもらったり、
隋に馬鹿げた手紙を送って国交断絶したり、磐井さんが大和に負けたり、
白村江で馬鹿やって負けたり、なんかこう、パッとしないよね。
4 :
日本@名無史さん:02/12/08 21:18
まあそれは半島の諸国も大して変わらないと思われ。
5 :
日本@名無史さん:02/12/08 21:31
大和王朝のカバーが入って良かった良かった。
半島諸国と乳繰り合って中国の気を引いていたのではその後の発展はなかったろうね。
6 :
日本@名無史さん:02/12/08 21:53
大和側の記録に出てくる神功皇后は何の意味かねえ。
架空とも思えんがあまりにも異様。
7 :
日本@名無史さん:02/12/08 22:13
8 :
九州王朝大好き:02/12/08 22:38
>>5 九州王朝も7世紀にはアホを繰り返している。
最後には唐に占領されたり。
国力低下で近畿王朝にとって変わられたのも当然と言えば当然。
>>6 九州王朝の挫折を立場を変えて表現していると思えるが?
架空物語だねえ
10 :
日本@名無史さん:02/12/08 22:46
>>8 神功皇后は大和の女じゃなくて倭国の女のパクリか?
九州王朝大好きさんに質問。
九州の前方後円墳に畿内より小さいのが多いのは何故でふか?
やはり、九州王朝が貧乏だったからでしゅか?
九州は中国に近いのに中国の紀年鏡や刀剣が発見されないのはなででふか?
やはり、畿内王朝に負けたので戦利品として持っていかれたのでふか?
12 :
日本@名無史さん:02/12/09 00:25
>九州の前方後円墳に畿内より小さいのが多いのは何故でふか?
>やはり、九州王朝が貧乏だったからでしゅか?
九州王朝大好きさんではないが、なんでかね。
貧乏だったのか、大きさを気にしなかったのか、土地が狭かったのか、
各地に古墳ができた時代だが、かなり自由な時代だったのかね。
オレは大和の古墳がデカすぎだと思うのだが。
あれを作るだけの人員を朝鮮半島の戦乱に向けておれば、任那問題ももう少し
なんとかなったんじゃないか?
14 :
九州王朝大好き:02/12/09 03:00
>>11 >九州の前方後円墳に畿内より小さいのが多いのは何故でふか?
>やはり、九州王朝が貧乏だったからでしゅか?
そうです。貧乏だったからです。半島と戦争ばかりしていましたからね。
と、私は考えております。
>九州は中国に近いのに中国の紀年鏡や刀剣が発見されないのはなででふか?
>やはり、畿内王朝に負けたので戦利品として持っていかれたのでふか?
中国風のそのようなものに関心がなかったからでしょう。
又あったとしても、七支刀のように近畿王朝に取られたのではないでしょうか?
紀年鏡には早い時代に関心がなくなったと思います。
九州王朝は近畿王朝に比べて中国風でしたから鏡に関心はなかったでしょう。
九州王朝は戦争ばかりしていたので、
刀剣は実用的なものにしか関心が向かなかったと思います。
中国の紀年鏡?
そんなもの日本のどこから出土しているんだ?
中国の紀年を鋳した日本製鏡ってことかな?
16 :
日本@名無史さん:02/12/09 05:31
この人は画文帯神獣鏡も方格規矩鏡も日本製だと思い込んでるのかな(呆
ああ無知ゆえに九州王朝
18 :
日本@名無史さん:02/12/09 06:59
>>14 >九州王朝は戦争ばかりしていたので、刀剣は実用的なものにしか関心が向かなかったと思います。
それじゃ実用的な刀剣はたくさんあるの?
19 :
日本@名無史さん:02/12/09 07:09
実際に使用していれば、すぐに錆びたり壊れる罠。九州は内乱に半島出兵と、
使用頻度高そうだし。
証拠はカケラも無し。
21 :
日本@名無史さん:02/12/09 16:22
アリランは、九州王朝の国歌だったんでしょ?
脳がタリラン
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/09 16:29
九州にも王朝あったと思うが、
同時期にあった畿内王朝の方が有利な状態にあったと思われ。
ある程度、連合していて、九州が畿内に従属していた形と
思われ。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/09 16:34
当時の経済的構造からいくと、
日本の中心は、やはり畿内のほうが可能性が高いと思う、
というか、畿内に中心がないと日本では主導権がとれない。
九州では、どうしても、畿内に比べて主導権が握れないと思われ。
25 :
日本@名無史さん:02/12/09 22:10
何に対する「主導権」でつか?
「日本では」って・・・・・(藁
26 :
satuma:02/12/09 22:16
屑は
きさまらだ 昔がたりしてないで一刻もはやく景気回復させるすべをかんがえさらせぼけがきどもめ死にさらせ
27 :
日本@名無史さん:02/12/09 22:49
中原の争いから離れ秦が西の端で実力を蓄えやがて中原を抑えたように、
京都から離れたところで実力を貯えた諸大名の中から織田信長一門が尾張から日本を統一したように、
中華文明に浸りながら半島と乳繰り合いながら長らく小国分立していた九州を尻目に
遥か東で実力を蓄えた大和が日本の覇者となった。
この場合、もともとの中心はどこか?
中原、京都、九州だわな。その後、中心地は変わっているけどね。
28 :
日本@名無史さん:02/12/09 23:02
それが2世紀後半から3世紀はじめにかけておこった。
29 :
日本@名無史さん:02/12/09 23:10
>>28 恐らく実力的にはそんな感じかもしれない。もう少し後かもしれない。
しかし、形式的にはもっとダイブ後まで九州が中心だったんだと思うんだよね。
鎌倉幕府ができても京都が日本の代表だったし、室町殿は落ちぶれても最後まで
将軍だったし、江戸時代でも京都が中心ということもできる。
宋からショボイ官職もらったり、隋にヤバイ国書だしたのは九州だと思う。
思うのは勝手だが理由が無いのは痛い。
31 :
日本@名無史さん:02/12/09 23:16
>>29 >鎌倉幕府ができても京都が日本の代表だったし、室町殿は落ちぶれても最後まで
平原の主がそれだったかもね。
権限全てとりあげられて楽隠居。
32 :
日本@名無史さん:02/12/09 23:31
理由は前スレで色々出てきたけど、宋書や隋書の内容が九州と考えるとあまり無理せず
意味が取れること。王の名前も日本書紀に出てくる大和王朝のとは合わな過ぎ。
かといって、九州王朝の記録があってそれと合致するわけでもない。
だからまあ、そう考えると仮説としては筋が通っているということ。
そもそも日本側の史料と中国側の史料がまるっきり合わないんだ。特に人名。
魏志倭人伝、後漢書倭伝、宋書、梁書、南斉書・・・そして隋書も。
ところが旧唐書の「日本伝」になって突然、日本側の記録に出てくる人名と
合致し出すのはどういうわけなのか。
34 :
日本@名無史さん:02/12/10 00:03
>>32 白紙の答案だから、間違いは一つもないといってるのといっしょ。
白紙の答案には何一つ間違いがないのは確かだけどね・・・・・・・でも0点。
35 :
日本@名無史さん:02/12/10 00:10
>>33 そんなの常識だろ?
倭人のほうも漢字を使い始めたからさ。
>32-33
そこで「筋の通った」ストーリーを創作したから歴史学にならなかったのでは。
日本側と中国側の史料の「矛盾」を、
中国側の史料=九州王朝
日本側の史料=近畿王朝
とすれば、そりゃ「筋の通った」ものになりますよ。
で「矛盾の解消」=「近畿王朝による九州王朝の併呑」となるわけでしょう。
「不可解な記述」を、「知られざる事実」として扱い、それこそ「隠された真実」だった、
という古田氏の歴史推理ドラマは、本当に面白いと思うんですが(ファンです)、
やはり歴史学というより小説の領分という気がします。
「不可解な史料」を「未知の事実」で解釈された日には余人は黙ってるしかないじゃないw。
37 :
日本@名無史さん:02/12/11 00:22
「近畿王朝による九州王朝の併呑」
しかし旧唐書にはそれっぽいことが書かれているわけで。
明らかに「推理」ではなく、レッキとした学問だと思うが。
38 :
日本@名無史さん:02/12/11 00:32
>>32 > 宋書や隋書の内容が九州と考えるとあまり無理せず意味が取れること。
え??反対じゃないの?『宋書』の場合、行路記事が無いので、倭の地理
を特定するのに参考になる情報は、ほとんど武の上表文中の「東征毛人、五
十五國、西服衆夷、六十六國」だけだけど、西の方が東より国数が多いとい
うのは倭国九州説にとって大いに「無理」なんじゃないですか?(それに対
し、その直後の「渡平海北〜」のくだりは「西服衆夷」に続く文であること
に注意。都の西方を攻め、そこから更に海を渡ると解釈可能であり、この一
文が、都が九州にある証拠にはならない)。
それから『隋書』の場合、中国の使者一行の行路記事があり、これは彼ら
の実地検分だから一番信憑性が高いはずなのに、それによると、筑紫を通り
越して東、東と進んで海岸に達して出迎えを受けた、っていうんだからこれ
また九州だと考えるのはすごく「無理」があると思うけどな。
39 :
日本@名無史さん:02/12/11 00:33
>>33 > そもそも日本側の史料と中国側の史料がまるっきり合わないんだ。特に人名。
> 魏志倭人伝、後漢書倭伝、宋書、梁書、南斉書・・・そして隋書も。
> ところが旧唐書の「日本伝」になって突然、日本側の記録に出てくる人名と
> 合致し出すのはどういうわけなのか。
ところが唐代以降になると、『旧唐書』の「日本伝」だけでなく、『通典』
『旧唐書』『唐会要』『新唐書』の「日本」と「倭国」が共に、国内文献の天
皇家と人名、朝貢記事が合致し出すんですよね。これは『旧唐書』の「倭」=
「九州」、「日本」=「近畿」と考えるには著しく不都合な事実だと思います。
そもそも『三国志』『宋書』では国内文献とまるっきり合わないのが『隋書』
では合う記事と合わない記事が半々くらいになり、そして唐代以降の文献では
(倭も日本も共に天皇家に)ほぼ完全に合致し出す、ということは、要するに
日中双方の記事の信憑性(特に文字を持ち始めた日本側の責によるところが大
きい)がだんだん高まってきている、という至極当然の流れを示しているだけ
だと思うんですけどね。
40 :
日本@名無史さん:02/12/11 00:35
>>37 確かに推理ではないわな。でも誤読してるんだから結局同じでは?
41 :
日本@名無史さん:02/12/11 00:43
>>39 隋書が半々? ウソつけよ。まるっきり合わないじゃん
42 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:01
旧唐書、通典、唐会要、新唐書が編纂された時期というのは、いわゆる九州王朝説の
言うところの、「近畿天皇家による九州王朝併呑」の後で、近畿天皇家に王朝が
一本化された後のこと。
したがって、日本側の記録と記述内容が合えば「よし」、むしろ合わないとおかしい。
しかしそんな中で、「旧唐書」のように倭国伝と日本伝が分裂し、倭国と日本国が
別王朝だと記載されているものが出現しているのだ。
そのことが重要だと、古田は言っているのだろう。九州王朝を肯定するにせよ否定するにせよ
これらの書物が編纂された時期の日本の、どこを見ても「倭国」「日本国」が分裂している
ような気配はないのだから。
ちなみに「冊府元亀」でも「倭国」と「日本国」は厳密に使い分けられている。
ただひとり「旧唐書」だけ倭国と日本国が分裂しているわけではないのだ。
>37
だからさ
「どう読んでいいか困る記述」を、
まんま
「きっと未知の事実があったのだ」
と解釈したら、それは史料批判とはいえないの。
わかる?
「謎X」の解釈を「未知Y」で解く、というのは論理の自家撞着。
そんなロジックが通用するのなら学者は誰も苦労しない罠。
いいですよ、ロマンなら。でもそれ以上のものにはならないな。
44 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:12
>>41 確かに王名とか出迎えの使者の名とかは一致してないけど、ハイセイセイ
の名前とか、来日年次とか、行路記事の行き先とか、官位12階とかが一致し
てるじゃない?
>>42 しかしその一本化されたあとで、倭の朝貢記事も日本の朝貢記事も天皇家
の記事と一致してるのは説明つかないんじゃない?
それから「唐会要」も倭と日本が分離してるけど、どっちにも大和の遣使
記事(奈良・平安時代まで!)が載ってるよ。これでも倭=九州、日本=大
和といえるの?
45 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:18
「冊府元亀」外臣部によれば、唐の麟徳2年(665年)に高宗が泰山で封禅の儀をあげるために
洛陽を発った際に夷蛮国のひとつとして「倭国」も加わっている。
唐の麟徳2年といえば、天智4年に当たるのですが・・・日本側の記録にはありませんね(汗)
46 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:20
日本書紀に引用されている「伊吉の連博徳の書」にも、なんか日本の使節団が
「日本人」らしき名前の人物に「讒言」されて、唐朝によって双方が幽閉された旨が
記載されていますが・・・
47 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:21
>>43 しかし、中国側の史料に現れる「倭国」が日本の天皇家だという論証も、
なぜかなされてきていないのだけど。
49 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:24
で、多利思北孤というのは、誰なの?
天皇家にそれに当たる人物がいるのか?
50 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:25
>>48 自明だと思ってるからじゃない?
それに唐代以降は遣使記事の一致で一応証明できるけど、隋より前は記事
が一致しないんだから論証しようがないよね(否定の論証もできないけど)。
>>47 そこのサイトの読んだことあるよ。
都合の悪いところは、「中国側の記事の誤り」「日本書紀の編者の誤り」としているやつね。
52 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:29
>>49 誰なんでしょう?誰も知らないんじゃないかな。そんな名前国内文献に
出てこないんだから。だけど気をつけてほしいのは、これが九州王朝の王
だ、ということだって別に証明されているわけじゃないんだよね。「九州
王朝の文献がない」ことをいいことに、空白の人物に当てて「矛盾がない」
なんてのは論証とは言わない。
それと、推古紀だって書き直されていることは確実だし、多利思北孤とい
う名が記紀にないからといって天皇家の人物でないと結論するのは危ない。
53 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:30
つまり、「唐以前」と「唐以後」でキッチリと別れているわけだな。
54 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:32
>>51 都合の悪いところって、あんた・・・・。古田氏が勝手に誤読して中国史書と
国内文献が矛盾してるって主張しているところを、誤読しなければ矛盾なんか
してないよ、と指摘してるだなんだけど。
別に都合の悪い記事なんてないんだけどね。
55 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:34
>>53 いや、日本側が自らを倭と名乗っていた時期と、日本と名乗ってからとで
キッチリ分かれているように思う。
56 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:36
>>52 隋書には近畿を思わせる地名、国名はひとつも記載されておらず、代わりに
「竹斯国」「阿蘇山有り」などの記述があるのだから、多利思北孤=九州王朝の王者説は
十分有力だと思うが?
少なくとも多利思北孤=近畿天皇家の人物 を論証した説はひとつも見たことがない。
あるのは「九州王朝説」を否定せんがための論証ばかりだ。
57 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:37
>>55 いや、「倭国伝」と「日本伝」ではそこに記載されている地形からして違う。
ハッキリと「別種」とも書いているし。
58 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:41
>>57 ですから、問題はその中国側の認識が正しいかどうかでしょ?例えば逆
のケースとして、『通典』(旧唐書より成立が早い)に「倭一名日本」と
書いてあるから倭と日本は同じ国だ、と主張する人がいたとしても、九州
王朝説の人はその記事の信憑性を疑いますよね。そのくせ旧唐書の記事は
信じる、というのでは史料の単なるいいとこ取りになってしまうでしょ?
これまでいろいろ「九州王朝」について論議されてきてるけど、結局は多利思北孤ってのが
謎なんだよな。
こいつが天皇家の誰か、とマジで考えているヤツが理解出来ないんだ。
マジでそう考えているのか? マジで?
60 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:46
>>56 うーん、贔屓の引き倒しだなあ。行路記事の分析から筑紫は倭の属領な
んだから筑紫は倭ではないよね。それでどうやって倭都を九州だと読むん
だろうか。一番根幹のところだ。それに阿蘇山の記事は風物詩の部分に出
てくるんで、行路記事の中に書かれてるんじゃない。使者は足掛け1年は
倭にいたはずだから、目的地に着いたあとで阿蘇山を実地見分しに行った
かもしれない。
61 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:47
>こいつが天皇家の誰か、とマジで考えているヤツが理解出来ないんだ。
オレは、何の根拠もなく九州王朝の王だ、とマジで考えているヤツが理解出来ないんだ。
なんでなんの根拠もなく信じられるの?まさに宗教なんだけど。
62 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:48
>>59 マジだよ。そりゃ九州王朝説が成立の余地があればそう考えるが、他の
論点によってその線が消えた以上、大和の誰かだと考えるしか残されてな
いじゃないか。いくら不思議だと思っても。
63 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:50
>>58 いやね、「通典」も「旧唐書」も、どっちも成立した時期は、日本は一つだったわけですよね。
九州王朝の存在を信じるにせよ、信じないにせよ。
そこに「日本は一つ」としか理解できない記事があるとすれば、「それでよし」なんですよ。
当時の日本をどこからどう見ても「近畿天皇家」が日本の代表だったわけだし、
日本が唐朝に使わした使節も、そう主張していたはずだろうし。
そんな時代の史料に、「倭国」と「日本国」が「別種」だと記載する記事が現れていることが
重要なんですよ。つまり「通典」を編纂した人たちが「現状」に合うように史料を理解して
記述したか、それとも「旧唐書」の編者の誤解なのか。
これを「いいとこ取り」とはなんぞや、と思うのだ。
64 :
日本@名無史さん:02/12/11 01:55
>>63 > そんな時代の史料に、「倭国」と「日本国」が「別種」だと記載する記事が現れていることが
> 重要なんですよ。
地理描写が違うからでしょ。そしてこの地理描写が違うのは情報のルート
が違うことにより生じた誤解だという可能性もある(上のサイト参照)。可
能性はいろいろあるからね。
それに、倭も日本も朝貢記事が国内文献による天皇家の遣使記事と一致し
てるという事実は倭=日本と考えるしかないように思われるのだが。
>>63 あほか
まったく資料よめてない。所詮九州王朝は素人談義。
66 :
日本@名無史さん:02/12/11 02:01
>>64 日本は倭の別種であり、もと小国、倭の地を併す、とあるんだから、明らかに別国でしょ?
倭国の方は「古の倭奴国なり」とあり、中国と通交してきたことが記されている。
67 :
日本@名無史さん:02/12/11 02:03
>>65 こういうのがいるから、白けるんだよね。
自分じゃまともな反論の一つもできないくせに。
68 :
日本@名無史さん:02/12/11 02:07
つまり九州王朝説支持派は、中国側史料と日本側史料が食い違っている部分を
問題にしているわけ。
というか、「食い違っていても問題ではない」という従来の学者の考察に
疑問を抱いている訳なんだ。
いまだに倭王武=雄略 多利思北孤=聖徳太子で通す神経がわからないんだ。
69 :
考える名無しさん:02/12/11 02:10
>>66 俺もその説は面白いと思うけど
やはり今や妄想の域だと思うよ。
『九州王朝説=騎馬民族渡来説』と同じ系譜。
そうじゃねぇよ。
そもそも「くいちがってない」んだっつの
71 :
日本@名無史さん:02/12/11 02:11
で、一致してる部分は見て見ない振りをするわけだ。
>「食い違っていても問題ではない」という従来の学者の考察に疑問を抱いている訳なんだ。
誰が「問題ではない」といってるのかな〜ぁ?
問題だけど、材料がないからペンディング状態だと思うけど。
>>67 こういうのがいるから、白けるんだよね。
自分じゃまともに漢文の一つも読めてないくせに。
(どうせ間違った口語訳を真に受けてんダロ(w)
>>69 いや、それだけじゃないでしょ? 九州王朝の根拠は。
「太宰府」「紫宸殿」という地名問題しかり。志賀島の金印しかり。
「九州年号」問題しかり。
74 :
日本@名無史さん:02/12/11 02:16
>>73 おやおや。「九州は天子の直轄領」が落ちてますよ。
>>73 どれひとつとして「根拠(w)」にはみえませんが???
九州王朝、これ以上わらかすのはやめれ
腹の皮よじれる。
漏れはお笑いのネタは他の板で調達してる。
この板に来る時にネタ探ししてるわけではない
>>70 多利思北孤って日本書紀に出てくる誰? 隋書に登場する人物を比定できるか?
隋書にある開皇20年の倭国最初の遺使は日本書紀のどれにあたる?
小野妹子、蘇因高という名前は隋書に出てるのか?
食い違いはまだまだあるが、合致する部分はほとんどないではないか。
>>75 根拠無くしてそのような地名が付けられたりしないことは、平城京の「大極の垣」
長岡京の「字太極殿」という地名でも論証されている。
すくなくとも「根拠がない」とは到底言えない。
79 :
日本@名無史さん:02/12/11 02:28
反論できなくなると煽り、罵倒し、嘲笑する。
これがこのスレの「反・九州王朝派」の特徴。
そもそも前スレで話題になった「後漢書」と「宋書」の記す「倭」が同じ国を指している
という鋭い指摘に対する有効な反論がほとんどなかったんじゃないか?
あれも九州王朝の有力な根拠だな。
>68
疑問を抱くのはもちろん結構なんだよ。
従来の学者の中国史料に対する「解釈」も、ちょっと苦しいかもw、と思いますよ。
ただ、やはり学者達は、手持ちのカードでゲームをするのがルール。
その都度「最適なカード」=「未知の事実」を切ってたらゲームにならないんです。
そりゃ、最適化された「未知の事実」で構築された仮説のほうが、
専門家の苦しいw仮説より、「蓋然性」は高いですよ。
でもそれは「当たり前」じゃないですか。わかりますか? 「当たり前」なんです。
「蓋然性が高い」から「優れている」ものでもないし「真実」なわけでもないんです。
隋書に「竹斯国」「阿蘇山」というのが書かれている。
一方、近畿を思わせる地名がひとつとして存在しない。
このことは「九州王朝反対派」の人はどう考えてるんだ?
82 :
考える名無しさん:02/12/11 02:33
それじゃ貴様らに訊くが
大和王権の祖はいったいどこで発生したんだ?
九州以外のどこだよ?
え?
まさか内陸で育ったとか言うつもりじゃねえだろうな?
貴様らは所詮ゴロツキだよ。
いずれ九州説の天下が絶対来る。
そのときのお前らの吠え面が見物だな。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 02:35
そもそも邪馬台国が当時、日本最大の王朝だったのかよ?
と疑問提議。
84 :
日本@名無史さん:02/12/11 02:36
>>80 うーむ、言わんとすることはわかるんだけどね。
たしかに従来説と九州王朝説はまるっきり土俵が違うわけだ。
ただ、僕としてはやはり従来説=近畿天皇家一元王朝説には到底納得できないわけで。
「九州に王朝あり」とする古田説に、より魅力を感じるんだ。
85 :
日本@名無史さん:02/12/11 02:40
>>83 少なくとも「魏」が倭国の代表と認めたのが邪馬台国。
最大かどうかはこの際、問題ではないと思うのだ。
むろん邪馬台国=九州と仮定して、同時期に近畿にもっと大きな王朝があったと考えても、
特に否定する根拠はないですが。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 02:41
地政学的にみて、当時、畿内と九州、
どっちに拠点をおくと圧倒的に有利なの?
そういう経済的、地理的優位さから考えて、どうよ?
87 :
日本@名無史さん:02/12/11 02:48
九州王朝を否定する人は、僕はそれでその主張を尊重したい。
ただ、否定派が「九州王朝に根拠なし」と大上段に言うことが許せないんだ。
これまでさんざん論議になったとおり、到底「根拠なし」とは言えないはずだ。
ただ、「九州王朝の存在は状況証拠しかない」というのは、全くその通りだろう。
九州王朝側の残した直接資料は、たしかに存在しないのだから。
しかしそれでも、「根拠なし」とは到底言えないはずだ。
88 :
日本@名無史さん:02/12/11 02:48
九州に王朝があっても良いし、吉備や出雲に独立勢力があってもいい、
それらが大和(奈良)においで連邦国家を造ったとは考えられないかな?
大和に元々勢力があったとしても、それが即新国家の中核となったと言う事ではなく、
共立の王を立てたのだと。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 02:49
最近、縄文時代に対する考え方は違ってきてるわけで...
つまり、日本における農耕の発達は、もっと早く、
突然、起こったのではなく、長い数百年、、数千年のスパーンをかけて
発達したんじゃないかと。
だいたい、農業革命というのは、産業革命の発達よりは、かなりユックリ
したものだと思うし、その後の飛鳥時代の畿内政権の九州に
対する有利さを考えると、邪馬台国の時代、すでに
日本列島における、畿内の地理的優位あ、おこっていいるほうが自然
ではないのかと...
90 :
日本@名無史さん:02/12/11 03:19
91 :
日本@名無史さん:02/12/11 03:21
>>87 >これまでさんざん論議になったとおり、到底「根拠なし」とは言えないはずだ。
何が根拠だと言うんですか?
従来説=近畿天皇家一元王朝説に納得できなという心情論があるだけでは?
中国史書の記述を根拠にしているわけでしょ。
昨日の新聞記事を読むように、史書を読むと、古田史観になる。
それは誤読というか何というか、もうコネーヨ的におやしみ。
94 :
日本@名無史さん:02/12/11 03:37
ヤパーリ根拠ナイよね。
95 :
日本@名無史さん:02/12/11 03:44
根拠はあるよ
96 :
日本@名無史さん:02/12/11 03:45
隋書をフツーに読めば多利思北孤の国=九州としかならない。
97 :
日本@名無史さん:02/12/11 03:50
不通に?
98 :
日本@名無史さん:02/12/11 03:50
旧唐書の「倭国伝」「日本伝」をどう読めば、「倭国」と「日本国」が同一の国と
理解できるんだ?
そのフツーが普通じゃないところが九州王朝説の弱点なんだよな。
100 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:01
101 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:03
>>98 そんな混乱した後代史料引っ張り出してもダメ。
103 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:05
反・九州王朝派必死だな(w
104 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:07
>>101 どこをどう混乱したら旧唐書のようになるんだ?
それに「冊府元亀」も倭国と日本は別国として書き分けられているぞ?
105 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:09
>>102 多利思北孤の国=九州王朝というのを否定したら、多利思北孤の国=近畿天皇家というのが
自動的に証明されると思っているヤツがいるのがイタイ。
当然、多利思北孤の国=近畿天皇家 というのを別に証明しなければならないのに、それはされていない。
106 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:12
多利思北孤の国=近畿天皇家 というのは、多利思北孤の国=九州王朝を否定することよりも
難しいと思うのだが。
107 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:13
多利思北孤の国=近畿天皇家というのを否定したら、多利思北孤の国=九州王朝というのが
自動的に証明されると思っているヤツがいるのがイタイ。
当然、多利思北孤の国=九州王朝 というのを別に証明しなければならないのに、それはされていない。
>>104 あら、もっと後代史料を持ち出してきたよ(藁
109 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:17
>>104 唐会要には明らかに日本からの使者が倭国の使者って書いてありますけど?
110 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:19
>>106 「多利思比孤の国=近畿天皇家」は両国の史料がだいぶ一致するけれど
「多利思北孤の国=九州王朝」は両国の史料が全く一致しない。
旧唐書なんて編集めちゃめちゃでしょ?
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 04:23
倭国、日本国の違いというのは、
当時の中国も、こんがらがって、いたんじゃないだろうか。
113 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:30
>旧唐書の「倭国伝」「日本伝」をどう読めば、「倭国」と「日本国」が同一の国と
理解できるんだ?
っていうのは旧唐書読んでない証拠。
だって旧唐書は別の国説と同じ国説と両方載せてるんだもの。
114 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:32
>>112 旧唐書よりずっと前に書かれた通典はちゃんと同じ国だと書いてまつ
混乱し始めたのは唐が亡んだ後くらいでは?
115 :
日本@名無史さん:02/12/11 04:33
王維も日本の話に卑弥呼なんたらって書いてたよね。
やっぱり九州王朝って根拠なし
もうコネーヨ的におやしみ
118 :
日本@名無史さん:02/12/11 07:00
>80
そんなこといってるから、理系の分野から馬鹿にされるわけよ。
あんたの考え方なら、本当の史実であっても、文献と考古学的発掘がないと
「うそ」になる罠。妄想でも何でも、とにかく史料があればOKなら、もっ
と古代のことは、どうするわけ?
それに、九州説が状況証拠だけなんて?
ろくに古田の文献すら読まずに人を罵倒する神経がわからない。理系なら海外流出
もあるが、古代史学者のやりくちなんぞ、外国のだれも拾ってくれん罠。
119 :
日本@名無史さん:02/12/11 11:03
>>118 何寝ぼけてんだ、ボケェ!
文系だろうか理系だろうが、資料がなければないも言えないっていうのが当たり前。
>もっと古代のことは、どうするわけ?
何も資料がなければ何もいえない。
たとえば、日本列島の前期旧石器時代は資料が灰燼に帰したから、
今となっては、そのころのことは何もわからない。
あたり前だろ。
それから、
>>80は「蓋然性」の意味を辞書で引いて、正しい使い方をするように。
『真実とは、最も蓋然性の高い仮説』という“真実”という言葉の“定義”もあったりするくらいなのだよ。
120 :
日本@名無史さん:02/12/11 17:54
>119
藁。だから、手元にある史料だけで真実を捏造してもいいのでつか?
「 と り あ え ず、 結 論 を だ そ う ! 」
121 :
どっちでもいいじゃん:02/12/11 18:24
そろそろ纏めに入るか。喧嘩両成敗と。
∧_∧
( ´_ゝ`) カタタタカタ
/ \
/ / ̄ ̄ ̄ ̄/ 流石だよな俺ら。
_(__ニつ/ FMV / ∧_∧
.|\ \/____/\ (´<_` )
/\.\ \ ___ノ ⌒i
/ \| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| \ |. |
\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ \ と ̄ )
\ /. \ >  ̄ ̄
.ノ___________ノ
122 :
日本@名無史さん:02/12/11 23:43
>>66 > 日本は倭の別種であり、もと小国、倭の地を併す、とあるんだから、明らかに別国でしょ?
それって旧唐書の著者が「〜と言ってるヤツがいるけど信用できない」って否定している文章の中にあるんだよね。
>>68 > 中国側史料と日本側史料が食い違っている部分を問題にしているわけ。
でも一致している部分もあるんだよね。それも「別王朝だと仮定すると解釈の仕様がない」ような部分で。これには目をつぶるのかい?
123 :
日本@名無史さん:02/12/11 23:44
おいおい、「旧唐書」は倭国と日本国は別国と書いてあるだろ。
「日本は倭国の別種なり」ってある。
これでどう考えたら同じ国だと解釈できるんだ?
124 :
日本@名無史さん:02/12/11 23:46
>>123 『旧唐書』より早い『唐暦』には「日本国は倭国の別名なり」ってあるん
だが、これでどう考えたら別の国だと解釈できるんだ。
125 :
日本@名無史さん:02/12/11 23:49
>>73 > いや、それだけじゃないでしょ? 九州王朝の根拠は。
>「太宰府」「紫宸殿」という地名問題しかり。志賀島の金印しかり。
>「九州年号」問題しかり。
全部ダメだね。大宰府は首都の意味じゃない。吉備にも大宰って出てくる
し。志賀島の金印は1世紀の話だし、「九州年号」の分布は九州だけじゃな
くて全国に散らばっており、「九州年号」という命名者は江戸時代の一学者
であって、この「年号群」を九州に結びつける根拠は何もない。
>>77 > 多利思北孤って日本書紀に出てくる誰? 隋書に登場する人物を比定できるか?
> 隋書にある開皇20年の倭国最初の遺使は日本書紀のどれにあたる?
> 小野妹子、蘇因高という名前は隋書に出てるのか?
>
> 食い違いはまだまだあるが、合致する部分はほとんどないではないか。
使者ハイセイセイの名前は?彼の来日年次は?倭国の冠位は?それから行
路記事が東に行って大和をめざしているのは?これらは重要な点だけど、全
部一致してるじゃん。「ほとんどない」などといって無視できるものではな
い。
126 :
日本@名無史さん:02/12/11 23:51
>>81 > 隋書に「竹斯国」「阿蘇山」というのが書かれている。
> 一方、近畿を思わせる地名がひとつとして存在しない。
> このことは「九州王朝反対派」の人はどう考えてるんだ?
その「書かれている」竹斯国が倭の属領(植民地)だっていうんだから九
州説には致命的なんだよ。近畿を思わせる地名がひとつとして存在しないの
は事実だが、逆に九州の地名が書かれているがためにかえって九州であるこ
とを否定している、というのが史料批判の面白いところだ。
>>87 > 九州王朝を否定する人は、僕はそれでその主張を尊重したい。
> ただ、否定派が「九州王朝に根拠なし」と大上段に言うことが許せないんだ。
> これまでさんざん論議になったとおり、到底「根拠なし」とは言えないはずだ。
これまでさんざん批判してきたとおり、到底「根拠あり」とは言えないはずだ。
127 :
日本@名無史さん:02/12/11 23:51
反・九州王朝派の史料解釈は、「それが書かれた時代」について言及していないのが
片手落ちなんだ。
たとえば「後漢書」が書かれたのは南朝の宋代。つまり「後漢書」が倭について書けば、
その読者は当然、「倭王讃」の使者、「司馬曹達」が朝貢してきたことを思い浮かべるはず。
また後漢書の作者も、そう理解されることを期待して「倭伝」を書いているんだ。
したがって漢委奴国王の国→倭国王帥升の国→邪馬台国の女王卑弥呼→倭王讃の国
であることがわかる。「宋朝」に書かれた後漢書の「倭伝」なのだから、そう理解するしかない。
このことを「反・九州王朝派」の人はどう考えているんだろう。
128 :
日本@名無史さん:02/12/11 23:56
>>127 それは、朝貢者が一貫して倭を名乗っていたから中国側が同一国家だと思
ったからそう書いただけだろう。何度も言うが、中国側がそう思っていたか
らといってそれが事実だとは限らない。
中国側の5〜6世紀の文献の夷蛮の記事を総合比較しても、3世紀の倭と
5世紀の倭が「実際に」連続していたとはどうも思えない節がある。
いずれにせよ「中国史書がそう主張しているから史実もそうであった」な
どという単純な方法論では真相に斬りこめないところまで来ているのだ。
129 :
日本@名無史さん:02/12/11 23:57
>>126 アホちゃうか。
いいかい、多利思北孤は「天子」を称しているんだよ。だから隋書に「倭王」とあっても、
実際には「倭帝」を称していたはずなんだ。
つまり多利思北孤は「王の中の王」なのだよ。当然だろうな。
ということは多利思北孤は竹斯国王(そんなのがいたのか知らんが)でもなければ
「秦王」でもない。
「竹斯国」が「倭」に附庸しているのは当たり前すぎるほど当たり前なのだよ。
130 :
日本@名無史さん:02/12/11 23:59
>>96 > 隋書をフツーに読めば多利思北孤の国=九州としかならない。
普通に読めば東に東に行って海岸について近畿に着くでしょ?どう普通に
読むと九州になるの?
>>98 > 旧唐書の「倭国伝」「日本伝」をどう読めば、「倭国」と「日本国」が同一の国と
> 理解できるんだ?
『唐暦』(日本國者倭國之別名也)や、『唐会要』の「倭国伝」「日本伝」
(どちらにも大和の人名が出てくる)をどう読めば、「倭国」と「日本国」
が別の国と理解できるんだ?
131 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:01
>>104 > どこをどう混乱したら旧唐書のようになるんだ?
異なるルートから地理的情報を収集すればそのくらいの誤解をしてもおか
しくない。
それに倭と日本は別国だという主張は、他ならぬ大和王権自身が吹聴した
可能性がある。自分達の先祖(中国史書の倭の時代)が中国に朝貢したなん
て認めたくない、というイデオロギーからね。つまり大和王権自身が「倭≠
日本」と偽証した可能性だってあるんだよ。しかもこのことは、『新唐書』
『宋史』の書き方からある程度推測できるんだ。
>>118 > 理系の分野から馬鹿にされるわけよ。
私、理系ですけど、周りでは九州王朝説の方がバカにされてますが何か?
> それに、九州説が状況証拠だけなんて?
え?状況証拠も無いんですけど。
> ろくに古田の文献すら読まずに人を罵倒する神経がわからない。
おあいにくさま。古田氏の本は(『東日流』論争で敗北するまでの)全著
書を熟読したよ。あんたの方こそ史書の原典に直接当たって調べたのかと小
一時間(以下略)。
132 :
九州王朝大好き:02/12/12 00:04
>>128 >中国側の5〜6世紀の文献の夷蛮の記事を総合比較しても、3世紀の倭と
>5世紀の倭が「実際に」連続していたとはどうも思えない節がある。
上記「思えない節」とは何ですか?
133 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:04
>>129 うん。だから倭帝は属領じゃない倭の本土である畿内にいたんだよね。
何か問題でも?
134 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:06
>>128 そのあたりが「反・九州王朝派」の限界なんだろうな。
「中国側の認識が間違っている」っていう理論だな。今まで何度も聞かされたよ。
しかし後漢書の著者、范曄は宋朝の官吏であり、実際に宋の都・建康で倭国の使者を
出迎えている可能性が大なんだよ。
ひょっとしたら「司馬曹達」に直接面会しているかも知れないし、そうでなくても、
実際に倭国の使節団を「見た」ことは間違いないだろう。
その范曄が「倭伝」を著しているのだ。
>朝貢者が一貫して倭を名乗っていたから中国側が同一国家だと思
>ったからそう書いただけだろう
程度の軽々しい問題ではないのだ。
135 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:07
136 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:08
>>133 「倭国」などという小国があるわけないだろ。
当然、竹斯国・秦王国などの小国の上に立つ、「王の中の王」だったわけ。
そんなことも理解できないのか?
137 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:11
>>134 > そのあたりが「反・九州王朝派」の限界なんだろうな。
>「中国側の認識が間違っている」っていう理論だな。
九州王朝派だって中国側の認識が間違っていると考えていることになりま
すが何か?
更に悪いのは、九州王朝派は、自説に都合の悪い中国史書の記事の存在に
触れていないで、あたかも中国史書の記事がすべて九州王朝説を示している
と思わせるような議論をしている。これじゃ詐欺だ。
138 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:13
はは、「東日流」を持ち出さないと古田説を批判できないんだね。
ご愁傷様。
139 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:14
>>137 それより134の3行目以下について反論してくだちぃ
140 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:18
旧唐書に「倭国伝」と「日本伝」があるってことは、どう考えても別国と理解しろという
著者の意向としか思えないんだが?
同じ国と理解して欲しいのなら、特に伝を2個立てる必要などないではないか。
「日本伝」に「もとの倭国ですよー」という一文を入れたらいいだけのことだ。
141 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:20
>>136 あなた、何が言いたいの?私も竹斯国・秦王国などの小国の上に立つ、
「王の中の王」だったと思ってますが?
142 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:22
143 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:24
「唐会要」「唐暦」「通典」「旧唐書」「冊府元亀」など、いずれもそれが書かれた時代は
近畿天皇家が日本の代表だとされていた時代のはずだ。九州王朝の存在を肯定するにしろ、
否定するにしろ、そのことは両者変わらないはずだ。
そんな中で「近畿天皇家」の主張に合致する記録があれば、「それでよし」である。著者の
生きている時代の日本は近畿天皇家が代表国として存在しているのだから。
しかし「旧唐書」「冊府元亀」などはそうはなってない。明らかに日本国と倭国は別国として
扱われている。そのことが問題なのだ。
144 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:25
>>139 だって彼らも倭を称してるんだよ。范曄が直接会おうが会うまいが同じ
倭だと思うだろう。何でこれが批判になるのかわからん。5世紀の倭は自
分たちが3世紀の倭の末裔だと偽称したかもしれないんだから彼らに会お
うが会うまいが記事の信憑性は関係ないでしょ?
145 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:26
>>136 > うん。だから倭帝は属領じゃない倭の本土である畿内にいたんだよね。
>何か問題でも?
ならこれの意味をもっと詳しく述べてくれ。よくわからんのだ。
146 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:28
>>140 だから、旧唐書の著者は倭と日本を確かに別の国だと思ったんだよ。問題
は、その旧唐書の著者の認識が正しいかどうかなんだよ。
147 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:29
>137
言いたいことはわかるが、詐欺は言い過ぎ。
ひたすら「とんでも」扱いして、学会から多様な意見を常に排除する体質に対して、どういう立場に
立つのかと言うことが一番大事な物差し。
その意味で、このような言葉はどういう立場だろうと使ってはいけない。
(特にこのトピでは反九州説に多いようだが。)
148 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:31
>>144 「偽称」したという根拠はどこにあるのだい?
149 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:31
>>145 何がわからないのかわからないのだが、私がそこで言いたかったのは、筑
紫が倭都ではないこと、さらに筑紫から東に「海岸に達した」ところまでず
っと倭の植民地だというのだから、その範囲に倭都がない、ということ。
150 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:33
>>144 「宋書」には明確に「世々貢職を修む」とあるんだ。これは宋代に書かれた後漢書を
見て理解するのは、当時の読者としては当然のことだろう。
むろん晋朝の三国志の魏志倭人伝も見ただろうが。
151 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:35
>>144 偽称したと断定しているのではない。もし3世紀と5世紀の倭が(中国史書
の分析結果による状況証拠のとおり)一系のものでなかったとし、なおかつ彼
らが中国に自分たちの由緒を話したんだと仮定した場合、結果として彼らは偽
証したことになりますね、という意味。
私は5世紀の朝貢者が中国で自分たちが卑弥呼の末裔だったと主張したかど
うかもしらないし、もし主張してなかったら偽証もしてなかっただろう。それ
だけの話。
152 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:38
>>149 植民地、という表現は適切でないな。あくまで「附庸」だ。
つまり竹斯・秦王国〜海岸に達するまでの諸国が倭の支配下にある、ということ。
隋書によると使者はそこまでしか行っていない。地名で言うなら「竹斯国」「秦王国」の
二国のどちらかということになる。
多利思北孤は倭王(実際は倭帝)なのだから秦王ではないわな。
すると竹斯国が都と理解するしかないのだ。
153 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:40
>>144 その「世々」というのがクセモノで、ここはいろんな議論があるのだが、
壹與が何度も朝貢したあと暫く朝貢が途絶えている。漢代からこの途絶え
る前の頻繁な朝貢までを指して「世々」といっているかも知れないのだ。
この場合、「途絶えた」あとに何があったのかが問題に成るわけで、その
間に政権交替があった可能性がある(例:讃は倭王ではなかった!)。従
ってこの一句は連続王朝である証拠にならない。
154 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:41
隋書には「竹斯国」を起点とした勢力関係の説明文が、行程文の直後に掲載されているよ。
155 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:44
>>152 > 隋書によると使者はそこまでしか行っていない。
どうしてそう結論するの?十餘国を経て海岸まで行っている、というのが
普通の読み方でしょう?
> 地名で言うなら「竹斯国」「秦王国」の
> 二国のどちらかということになる。
こらこら、十余国はどうなる。それに海岸に達した所で出迎えを受けて
都に入ったんでしょ?都は当然その海岸の近くにあると普通は読むよね。
156 :
九州王朝大好き:02/12/12 00:45
>>149 >さらに筑紫から東に「海岸に達した」ところまでず
>っと倭の植民地だというのだから、
上記のことを述べた文献は何処にもありませが?
でっち上げを根拠にしていると思いますが?
でっちあげでない証拠となる文献を示してください。
157 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:46
附庸
天子に直属せず、大国の勢力下にある弱小国。
中国の名分としては天子は中国の皇帝で、今の場合、大国=倭国。
つまり、
筑紫は、倭国の勢力下にある弱小国。
としか例の文は読めない。これ以外で読んじゃいけない。
158 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:47
>>152 一番重要なこと書き忘れた。筑紫国も秦王国も、倭の属領(配下)なんだか
らそこには都はないってば。何でそんな苦しい(というより明白に記事と矛盾
する)解釈するのかなあ。
159 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:50
>>157 どちらの立場の発言かわからないけど、倭国の勢力下にある「弱」小国に
倭本国の首都があるって思ってるのかな??
160 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:51
>>153 しかしそれは仮定でしかない。しかも「九州王朝説以前の従来説」を守るために
考え出された説だ。
しかし倭が「漢より現在までずーっと」中国に朝貢してきた、というのはなにも宋書だけの
理解ではない。南斉書、梁書はもちろん、隋書も旧唐書の「倭国伝」もそう述べている。
そもそも倭国との通交が「途絶えた」とする中国側史料など存在しない。宋書が「世々…」と
云っているのは「途絶えていない」からだ
ご存じの通り、西晋→東晋は司馬氏が引き継いだと言うだけの別王朝で、記録などは必ずしも
万全に引き継がれたとは言い難い。
晋書に倭国の記録がないのは、「宋書」を見る限り、そのせいだと理解するしかないのだ。
161 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:51
162 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:53
>>155 アンタは「十餘国」の中に倭国の都があると考えているのか?
163 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:57
>>160 > しかしそれは仮定でしかない。しかも「九州王朝説以前の従来説」を守るために
> 考え出された説だ。
それは違うね。中国史書を分析したら、どうも4世紀にも6世紀にも断絶が
あったようだ、という状況証拠が出てきたからそう主張してるんだ。
別に九州王朝説を批判しようとか従来説を守ろうとかいう意図はない。実際
6世紀にも断絶があったなんて主張は従来説にも矛盾するしね。
動機をヘンに勘ぐっちゃいかんよ。
何度も言う。「途絶えていない」というのはあくまで中国史書の著者の考え
だ。事実がどうだったかは、もちろん史書が書いてあることを基本に考えなけ
ればいけないが、書いてあることを鵜呑みにすれば言いというものではない。
きちんと分析することが大切だ。
> ご存じの通り、西晋→東晋は司馬氏が引き継いだと言うだけの別王朝で、記録などは必ずしも
> 万全に引き継がれたとは言い難い。
一般論としてはそのとおりだが、各夷蛮の朝貢記事を個別に調べる必要がある。そうすると
倭の特異性が浮かび上がって来るのだ。
165 :
九州王朝大好き:02/12/12 00:58
>>158 >筑紫国も秦王国も、倭の属領(配下)
上記のことを書いた文献はありませんが?
筑紫国と秦王国は倭の一部であるとは書かれていますが?
166 :
日本@名無史さん:02/12/12 00:59
>>162 思ってるわけないだろ。十余国も当然倭の“勢力下にある弱小国”だ。
倭の都は当然海岸に着いた後の、その奥にある。
167 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:00
>>157 はは、「倭帝」はどの国の国王でもないはずなのだから、その理解でいいと思う。
ただし倭帝=倭に附庸するすべての国を統べる君主 であることは当然。
竹斯国に倭帝がいたとしても、別段不思議ではないな。
東京は日本政府に附庸しているのだ。
168 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:01
>>166 「その奥」など隋書には出てこないのだが。ウソはいかんよ。
169 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:04
>>165 「自竹斯國以東皆庸於イ妥」 と「又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦
王國」から得られる必然的な結果。
170 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:05
>>168 「奥に」とは書いてないが、海岸に達し、使者の出迎えを受け、十日経っ
て都に着いた、とあるから、内陸なのは当然だろう。
171 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:06
「自竹斯國以東皆庸於俀」
ハッキリ言って「竹斯国」を起点とした勢力図ですな。
倭人伝にも似たような表現があったがな。
172 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:08
>>167 > 東京は日本政府に附庸しているのだ。
現代日本に対する風刺ですか?都が附庸しているなんて言ったら天子は
怒るよ。
173 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:09
>>170 ・・・大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸
自竹斯國以東皆附庸於俀
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毘從二百餘騎郊勞既至彼都
其王與清相見大悦曰・・・
で、倭国(俀国)の都はどこって?
174 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:10
>>171 起点ってどう言う意味かな?単に附庸している国の西端が竹斯国だという
だけのことだと思うが。
ところであなたの言ってることって古田さんの主張そのものだな。ご本人
ですか?
175 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:11
>>172 アホ、東京を責任者は東京都知事だろうが。
しかし都知事に外交権をはじめ、国家そのものを統治する権限などありはしない。
つまり「東京」は日本政府に「附庸」しているではないか。
176 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:12
>>173 「既至彼都」
つまり「達於海岸」から十日行った所。
177 :
九州王朝大好き:02/12/12 01:15
>>169 文と合う航路を具体的に示せますか?
唐人浜を秦王國の位置と見ると矛盾なく読めますが?
178 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:16
>>175 でも東京は日本配下の弱小國じゃないでしょ。もし日本に附庸していると
いうなら、戦前の植民地とか、琉球併合直後の琉球とかエゾ地併合直後のエ
ゾ地とかだろうな。(問題発言とすればスマソ)
179 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:18
>>177 普通は秦王国は九州東部とか中国地方西部とか言われてますが。ちなみに
十餘国は瀬戸内海の小島でしょう。
180 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:19
>>176 この文章のどこをどう読めば「達於海岸」から十日行った所で「既至彼都」
になるのだ?
・・大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸
ここまでが行程文。
自竹斯國以東皆附庸於俀。
これが倭国の勢力図。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毘從二百餘騎郊勞既至彼都
其王與清相見大悦曰・・・
これは隋使が多利思北孤と面会する場面の描写だろう。
場面が行程文から変わっているとしか思えないのだが。
181 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:24
>>178 「弱小国」というのはアナタの勝手な表現であって、オーストラリアや独立前のアメリカは
大英帝国の附庸下ではないか。けっして「弱小国」などではない。
「竹斯国」に王か、官などが存在し、それが「倭国」に附庸している、という意味だろ。
182 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:24
>>175 わからない人でつね。
実体はどうあれ、筑紫というのは倭国に支配されている国、
つまり、筑紫國は倭国とは別の国と記録者の目には映ったわけでつ。
そこに倭国王がいるはずはないでつ。
東京は日本国の一部でつ。附庸してないでつ。
日本国における東京に対応するのは、
隋書では倭国に対する“邪靡堆”でつ。
邪靡堆“國”ではない事をちゃんとみるでつ。
183 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:28
>>181 “「竹斯国」に王”がいたら、そこに倭国王がいるはずはないねぇ。
自爆ですな。
184 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:36
>>183 アホ、多利思北孤=倭帝だろ!
んなこともいちいち説明しないといかんのか?
185 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:38
>>182 じゃあ「ヤマタイ」「ヤマダイ」というところが多利思北孤の都なの?
186 :
日本@名無史さん:02/12/12 01:47
やはり多利思北孤の国は九州だっのかな?
なんか畿内説の人は歯切れが悪いなぁ・・・
とまあ、このように、中国史書といっても、いろいろな解釈が可能なんですな。
解釈の妥当性を史書自身から判断することはたいへん困難なわけですな。
他史料と比較検証ができないか場合、ナンデモ言えてしますわけですな。
ましてや史書の俺解釈から新事実ハケーン→他史料の新解釈ハケーンという
九州王朝説の論証過程は、本末転倒もいいところのトンデモ仮説なんですな。
学問としてはサパーリ相手にしてもらえんのですな。
188 :
日本@名無史さん:02/12/12 02:02
>>187 反論できないから相手にしないんだろ?
正直、「阿毎」「多利思北孤」「阿輩鷄彌」「王妻鷄彌」「太子爲利歌彌多弗利」
これらを近畿天皇家の人物とするのは、無理がありすぎ。
189 :
日本@名無史さん:02/12/12 02:06
さすがに近畿天皇家マンセー説の人間も、
邪靡堆=ヤマトということは言い出さないか。
竹斯=筑紫であることは間違いないけど、
邪靡堆をヤマトと読むのはムリムリだもんな。
ここは、日向説(天孫降臨)でた?
191 :
日本@名無史さん:02/12/12 02:10
隋書に キビ→ハリマ→カワチ→ヤマトとあれば多利思北孤の都は近畿に
間違いないだろうが、そうはなってないし、それを思わせるような記述すらない。
なくても近畿に持ってくるように無理矢理読むんだから恐れ入る。
192 :
日本@名無史さん:02/12/12 02:22
ハッキリ言ってここの反・九州王朝説派、だらしない
193 :
日本@名無史さん:02/12/12 02:30
「阿蘇山あり」とまで言っておきながら、近畿の地名が書かれていないって事は
不自然すぎ。
やはり近畿とは関係ないんだろうな。
邪靡堆=ヤマトは当然です。
べつに倭国に筑紫や阿蘇山があってなんの不思議もない。通り道なんだから。
はっきりと筑紫を通り過ぎているように書かれている隋書をわざと誤読して
九州にもっていく九州王朝説はめちゃくちゃですな。
195 :
日本@名無史さん:02/12/12 07:19
>九州にもっていく九州王朝説はめちゃくちゃですな。
すぐ、二言目にはこういう言い方が出てくるのは、決して気分のいいものではないね。
>近畿に持ってくるように無理矢理読むんだから恐れ入る。
これは気分がいいわけね?(苦笑
197 :
九州王朝大好き:02/12/12 20:59
反・九州王朝派は中国古代史書を読みだすと、突然読解力が低下する。
なんでやねん。
198 :
日本@名無史さん:02/12/12 21:02
「弥生人は、縄文人が米を食いだしたため、形質変化したもの。渡来人ではない。」
と、「九州に邪馬台国があった」は考古学を無視した虚言です。
考古学的事実に反した妄言はもう辞めなさい。恥ずかしいよ。
199 :
日本@名無史さん:02/12/12 21:10
>>197 ろくに漢文よめない無教養ものが身の程知らずだな
バカだから古他に騙されるんだよ
哀れな連中
200 :
日本@名無史さん:02/12/12 21:13
200げと
隋書にはっきり筑紫をとおりすぎたと書いてあるのに、
九州王朝さんのいうことはわけがわからん。
202 :
日本@名無史さん:02/12/12 21:42
九州王朝説は状況証拠だらけで仮説の域を出ない。しかし、こんな古い時代のことは
条項証拠でもあれば大したものよ。他に説得力のある仮説があればそれも良し。
残念ながら、他の仮説はこのスレにも前スレにもない。
誰か、あるなら示してほしい。
状況証拠すら無いよ。
あるのは誤読と片意地。
204 :
日本@名無史さん:02/12/12 22:09
地理的条件を考えれば、否定派のほうが意地になってるとしか思えない。
205 :
日本@名無史さん:02/12/12 22:11
他に仮説がないのなら、九州王朝説を有力説と言わざるを得まい。
今後は九州王朝説への疑問を論じながら細部の詰めに入るという訳か。
古田説が正しいとすると古事記は偽書ということになる。
古田説では、書紀編纂者はヒコホホデミの九州一円征討説話をひきちぎって景行紀に配置したという。
いっぽう古田は、古事記を近畿天皇家内伝承というが、書紀とおなじく九州一円征討説話を欠くまちがった伝承の流布を、書紀編纂以前に存在した九州王朝が認めるはずはない。
よって、ヒコホホデミの征討説話を欠く構成の古史古伝のすべては、書紀成立以後に書かれたものということになる。
207 :
日本@名無史さん:02/12/12 23:06
>>206 なんかロジック変だよ。
>九州一円征討説話を欠くまちがった伝承
「古事記を近畿天皇家の伝承」として、
「書紀編纂者はヒコホホデミの九州一円征討説話をひきちぎって景行紀に配置した」
とすると、近畿天皇家は九州一円征討をしていない訳だから、それを欠くことは間違いに
ならないよ。
>流布を、書紀編纂以前に存在した九州王朝が認めるはずはない。
「流布」したのかな? 仮に流布したとしても間違っていないものなら認めないことはなかろうね。
208 :
日本@名無史さん:02/12/12 23:17
>>202 > 他に説得力のある仮説があればそれも良し。
何か勘違いしてませんか?九州王朝説「も」説得力がないんだよ。
あなたの基準で行けば、説得力のある仮説なんてものはこの世に存在しない。
九州王朝説だけは説得力があるなんて思ってるのは史料事実の知らなさ過ぎ。
>>205 > 他に仮説がないのなら、九州王朝説を有力説と言わざるを得まい。
確かに他の説は説得力がないかもしれないが、明確に史料事実に反する
ようなウソの説得力を持つ九州王朝説よりはまし。
,205
209 :
日本@名無史さん:02/12/12 23:29
>>208 どんな「史料事実」ですか?
どんな「他の説」ですか?
210 :
日本@名無史さん:02/12/12 23:31
「阿蘇山あり」で確実。多利思北孤の国は九州だ。
だって、隋書には「たかだか通り道」の山や河や海など、わざわざ特記などしておらんのだ。
中心地でなければ、それを基準にある地を説明する場合(地理的説明)のみにしか
記していない。
隋書倭国伝の阿蘇山の場合は、なんら地理的説明とは関係がない。
しかも、そこで「禱祭を行う」とされているのだ。
誰が? 多利思北孤とその王朝の人間が、だ。そうとしか取れない文章なのだから。
211 :
日本@名無史さん:02/12/12 23:34
近畿天皇家では、「阿蘇山」で祭祀を行っていたという記録はありますかな?
212 :
日本@名無史さん:02/12/12 23:36
ハッキリと筑紫を通り過ぎた?
そんなことどこに書いてあるかな?
213 :
日本@名無史さん:02/12/12 23:49
有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭有如意寶珠其色青大如鷄卵夜則有光云魚眼精也
新羅百濟皆以タイ爲大國多珎物並敬仰之恒通使徃來・・・
「阿蘇山有り」の一文は先の行程文とは別の箇所にありますなぁ。
この文からはとても「通り道」にあった山とは読みとれません。
214 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:04
万が一、誤解されて変な信者が生まれるといやなので、自分的な基本認識を少し。
・九州王朝説という学説は存在していない。
邪馬台国論争のように、近畿説・九州説が並存しているわけではない(重要)。
九州王朝説の否定と、専門家の主張する諸説を支持することとは、関係がない。
(例:宇宙人説の否定と、不可解な事件に関する諸説を支持することとは、無関係)
・古田説とは何か、邪馬台国論から考えるとわかりやすい。
邪馬台国論については諸説あり、専門家の間でも一致した意見はない。
今後史料の大発見でもないかぎり、決定的な結論はでない、という点では一致している。
そうした専門家の立場と比較したとき、古田氏の立場が相対的に把握できる。
古田氏は、史書の読解だけで決定的な結論を得られる、という立場である。
それでは読解の是非は自身の主観(より自然な・より普通な読みete)に頼らざるをえない。
(史料批判の欠如もしくは無理解)
・IF「もしも史料の大発見があって九州王朝が実在するということになったらどうなるか」
残念ながら、それでも、古田説は(学問的には)支持されません。
古田説とは、俺ルールの俺ゲームを俺プレイして俺勝利した俺学だからです。
学問的価値がない、というのはそういうことですね。
(古代史ロマンの語り部としての古田氏を貶める気はないんですが、信者対策ということで、
大人の古田ファンはそのあたりお察しください)
215 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:16
私たち九州王朝説支持派というのは、従来説に対する不信感からそうなった者が多いと思う。
いまだに
倭王武=雄略
獲加多支鹵=雄略
多利思北孤=推古あるいは聖徳太子
で押し通す学者連中の神経を疑うんだよ。
倭王武が最後に中国側から受号を受けたのは梁の天監元年(502)だ。
これがなんで雄略になるのか、ロクな考証がなされていないのだ。
「中国側が間違えたのだろう」
・・・ハッキリ言ってこんな論理などより、古田氏の九州王朝説の方がはるかにマシもマシ。
百倍マシなのだよ。従来の学者は僕ら素人をナメているのか、と問いたい。
216 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:21
獲加多支鹵=雄略
にしてもそうだ。「佐治天下」と銘文にあるのを、
「近畿天皇家で門番などをしていた田舎ふぜいが、地元に帰って『オレは大王を
佐けて政治を行った』と大風呂敷をひろげているんだ」
などと解説をする。
・・・とてもついていけないんだよ、従来のこうした考証には。
それより「関東に大王有り」とする古田説の方がはるかに説得力があるのだ。
217 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:31
>>215 九州王朝説否定派だけど、
> 倭王武=雄略
> 獲加多支鹵=雄略
> 多利思北孤=推古あるいは聖徳太子
という説は私も信用してないよ。「従来説に対する不信感」という点では
貴方と一緒だ。だが、古田説は、論理的には一見もっともらしく見えるが
自説に都合の悪い史料を無視しているから、原典を直接調べると、これま
た信用できない。
つまり信用できる説なんてものは実は存在しないのだよ。上に引用した
説だって、「信用できる説がない」からこそやむを得ず「定説」の名のも
とで妥協の産物として一般に流布しているだけなんじゃないかね。私は定
説なんて段階の説はこわくて信用できないがね。
どうしても信用できる説が欲しい、っていうのは古田説の麻薬(説得力
のある説が存在しているのだという幻想)から覚めてないからじゃないの?
218 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:33
多利思北孤=推古あるいは聖徳太子
これもだ。隋使は実際に多利思北孤に面会しているはずだ。
多利思北孤=推古 というからには、その説をとなえる人は「隋使は男と女を見間違えた」
と考えているのだろう。また
多利思北孤=聖徳太子 説を言う人は、「倭王を太子と間違えたのだろう」
と考えているのだろう。
もはやこんな考察がまかり通る時代でなくなったのは、「反・九州王朝派」の方々でも
気づいているはずだ。
なのになんで従来説の学者は、こんな論証でお茶を濁しているのか?
ハッキリ言って僕はこういう従来説に固執する学者にはついていけないのだ。
219 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:37
鑑真を将来した遣唐使は、もう一人連れてきたかった人物がいました。
蕭穎士という儒教・漢文学に優れた文人です。つまりこの遣唐使は仏教の戒律の師とともに、
儒教・文学の師を招くという指名も帯びていました。
中国側の史料に書かれています。
「東倭の人」がやってきて、招いて師としたいと皇帝に願い出たと。
時は753年。倭が九州王朝をさすのは言うまでもありません。
220 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:37
>>218 > 多利思北孤=推古 というからには、その説をとなえる人は「隋使は男と女を見間違えた」
> と考えているのだろう。また
> 多利思北孤=聖徳太子 説を言う人は、「倭王を太子と間違えたのだろう」
> と考えているのだろう。
いいや。いまどきそんな人ばかりじゃないだろう。『日本書紀』は史実を正
しく伝えてないのだろう、と思っている人のほうが主流ではないかい?
古田氏だって、『日本書紀』を偽書よばわりしてウソが書いてあるなんて言
ってるんだから、このような立場の人を批判できない(つまり同じことをやっ
ている)はずだ。
221 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:43
>>216 私は考古学はようわからんが、こと「関東王朝説」に関する限りは貴方が
ここに書いている事実だけを見ればそのとおりだと思うよ。
ただし、考古学的に見て関東王朝説が成立する余地があるのかどうか私は
保証できないよ。なにせ、3世紀や7世紀はともかく、5世紀は日本列島が
前方後円墳文化一色になってしまっているからね。
222 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:47
>>217 うん、僕も「古田説」というのを鵜呑みにしているわけでも、盲信し追従している
わけでもないんだ。その点は、たぶん「九州王朝大好き」さんや他の肯定派の人たちも
同じだと思う。
僕が九州王朝の存在を信じるのは、確かに古田説がキッカケだし、少年時代から夢中になって
読んだりしたものだけれど、大人になって久しい現在、もはや熱は冷めている(笑)
だけれど、古田説に対する反論などを読むにつれ、やはり「九州王朝」はあったっぽいなぁ
と今でも思うんだ。
古田氏の中国史料に対する読解法が成立しない、というのも多々あることは
認めるものの、肝心の箇所になると、反論する側も強引すぎる部分が目立つので。
「阿蘇山有り」を通り道の解説などとする説は、やはり僕ら素人をナメた考察としか
思えないんだ。
223 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:55
>>222 貴方と少しは共通点があるようだね。「アジと喧嘩は2ちゃんの華」なん
ていう中で貴重だな。少し安心したよ・だが、
> 古田氏の中国史料に対する読解法が成立しない、というのも多々
> あることは認めるものの、肝心の箇所になると、反論する側も強
> 引すぎる部分が目立つので。
そうかなあ、贔屓の引き倒しというか、ここから先は自分の信念に
抵触するから受け入れたくない、という防衛本能でそう感じるんじゃ
ないかって思うよ。自分もかつてはそうだったからね。
ちなみに「阿蘇山有り」を通り道の解説ってのは私もおかしいと思
うが、これは風物の解説記事であって、伝聞記事に過ぎないという可
能性だってある。それを否定できる人はいないだろう。
それにハイセイセイ一行は、1年以上倭に滞在したと思われるから、
結構用が済んでから九州なんかも自分で見に行ったかもしれないよ。
火山は中国では珍しいから特筆したのかもしれないし。
224 :
日本@名無史さん:02/12/13 00:57
一般論だとまあまともなんだけどなぁ
>肝心の箇所になると、反論する側も強引すぎる部分が目立つので。
肝心の箇所ってどこ?
「太宰府」とか「紫宸殿」とか「九州は天子の直轄地」とかかな?
225 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:05
>>223 うん、貴方とは共通点があるみたいですね。
「阿蘇山有り」はたしかにそうかも知れない。
でも、「伝聞記事かも知れない」「珍しいから特記したのかも知れない」
という考えよりも、
「多利思北孤の都の近くに阿蘇山有り」という考察の方に僕は傾くんだ。
むろん「絶対」と断定することは出来ないですが。
226 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:10
豊前宇佐八幡宮は宇佐氏、筑前宗形神社は宗像氏、肥後阿蘇神社は阿蘇氏
のものであって、九州王朝のものでも大和のものでもない。
阿蘇社神は健磐龍神にて、恐れ多くも畏くも、人皇第2代綏靖帝の
御兄君神八井耳命の後にて、太朝臣の祖神なるぞ。
掛けまくもかしこき磐余彦天皇が、御位を御子に譲り給ふに臨みて
御弟には新都大和を、御兄には東征以前の旧都を譲り給ひしに
始まりける、由緒正しき神霊なるぞ。
227 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:12
>>224 いろいろあるが、ここでは一つだけのべてみる。
中国側では「漢よりずーっと」倭国は連続している、と史料にあるよね?
どう見ても、「漢委奴国王」の倭奴国→倭国王帥升の倭国→卑弥呼の邪馬台国→
→倭の五王→倭王多利思北孤の倭国・・・
と連続した王朝とみなしている。
ところがこれに対する反論はどうだ? いろいろ反論は出たものの、つきつめて言えば
「中国側が間違えたのだろう」という域を出ていないのだ。
228 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:18
>>225 7世紀の九州は、特に熊本近辺に独自文化が発生している。でもこれが
イ妥国だというには、逆に推古紀との「一致点」を克服しなければならな
いだろう。7世紀は推古朝遺文という日本書紀と独立の情報を持ついくつ
かの文献(天皇家の事跡の中に、隋書にも紀にも出てこないハイセイセイ
の付き人の名が書かれている文献もある)があるから、それとの矛盾も解
消する必要がある。古田氏が提示した論点だけ納得すればいいというもの
ではない。
とにかく結論を早まるのは良くないと思うよ。
229 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:22
>>227 それは正確ではないな。「中国史書同士が内容が矛盾している」んだ。
矛盾した史料の中にはどこかに「間違い」があるのは当たり前だろう。
「大和一元説に都合が悪い」から間違い扱いしているのではない。
それに対し、古田氏は中国史書の記事が相互に矛盾していることを“隠
し”ているだけだ。
230 :
九州王朝大好き:02/12/13 01:26
>>214 >九州王朝説という学説は存在していない。
上記を支持します。
学者先生様は自分が食わんが為九州王朝説を認めないから。
学者先生様が唱える説こそが学説で、在野の説は学説でないから。
学会外の説は学説と言わないから。
>専門家の間でも一致した意見はない。
上記を支持します。
意見が一致すると飯の種がなくなり失職するから。
>古田氏は、史書の読解だけで決定的な結論を得られる、という立場である。
上記を支持出来ません。
古田が史書の読解だけに頼っていたとは?知りませんでした。
彼は従来の考古学的学説をも否定していましたね。
編年による年代特定はでたらめですからね。
>古田説とは、俺ルールの俺ゲームを俺プレイして俺勝利した俺学だからです。
>学問的価値がない、というのはそういうことですね。
上記を支持します。
学説とは、学会ルールの学会ゲームを学会プレイして学会勝利した学会学だからです。
学問的価値がある、というのはそういうことですね。
>古代史ロマンの語り部としての古田氏を貶める気はないんですが、
>信者対策ということで、大人の古田ファンはそのあたりお察しください。
上記を支持出来ません。
古田信者、古田ファンと言われる人は実際にはいるのですか?
古代史ロマンの語り部としての古田氏は知りませんが、
古代史を飯のたねにして、詐欺を続ける、税金を浪費している人は知っています。
231 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:44
>>229 別に古田氏の説を読んでそう思ったのではないよ。
魏志倭人伝に「漢の時朝見する者あり」とあるのは「漢委奴国王」の金印をもらった
倭奴国であることは後漢書を読めばわかる。
その後漢書に倭国王帥升のことが記載され、邪馬台国のことが記載されている。
そしてその後漢書の書かれた時代が「倭王讃」の時代であり、「司馬曹達」が
宋朝に使わされた時であることを考察すれば、後漢書の「倭伝」の「倭」が
「倭王讃」の「倭」であることは明らかだろう。
そしてその宋のことを記した「宋書倭国伝」に「世々貢職を修む」とあれば、
それは「魏志倭人伝」「後漢書倭伝」に書かれている、漢朝や魏晋朝に朝貢してきた
「倭」であることは当然だ。
そして南斉書倭国伝に「漢末以来女王を立つ。土俗すでに前史に見ゆ」とあるからには
この「倭」が卑弥呼の後継王朝であることは明らかだ。
そして隋書にも「魏志の邪馬臺なる者なり」と書き、さらに翰苑でも倭国は
卑弥呼→台与→阿輩鷄彌の王朝が連続していることを記している。
矛盾点など言っても、「漢以来すーっと」というのは旧唐書「倭国伝」まで一致した
記述であって、旧唐書「日本伝」になって、ようやく変化が見られるのだ。
232 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:46
>>227 >中国側では「漢よりずーっと」倭国は連続している、と史料にあるよね?
ないよ。これまでの経緯からして宋書の「世修貢職」をさしてるんだろうけどね、『世』を「漢よりずーっと」と読んでるのはあんた。
史料には『「漢よりずーっと」倭国は連続』しているとは書いてない。書いてないものを書いてあるといったらウソ。
高祖永初二年に讃が朝貢した時の『詔曰』の部分を見ると、
「倭讃萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」
となっている。ここで、『倭王讃』ではなく『倭讃』であることに注意する必要がある。王統が連続していて、高祖永初二年の段階で既に賛が倭王と認められていたなら、
『倭王賛(+役職・称号)』になるはずなのだ。たとえば、高句麗王、百済王に対しては
「使持節、都督營州諸軍事、征東將軍、高句驪王、樂浪公[王連]、使持節、督百濟諸軍事、鎭東將軍、百濟王映、並執義海外、遠修貢職。
惟新告始、宜荷國休、[王連]可征東大將軍、映可鎭東大將軍。持節、都督、王、公如故。」
とはじめから王号で呼びかけられている。
つまり、高祖永初二年の段階では倭人の「オウ」は、中国の序列にいう王号ではなかった可能性が高い。これが何を意味するかといえば、西晋代の倭王と宋代の倭王を中国は断絶させて考えていたということ。
これは、その後、
南齊書:建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事【據南史補】、安東大將軍、倭王武號爲鎮東大將軍。
梁書:齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東將軍。
と王朝が交代しても無条件ではじめから王として扱われていることと対比させれば明らか。
したがって、中国側が間違えたのではなく
>と連続した王朝とみなしている。
と考えてるあんたがおかしい。
233 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:53
>>232 その「南齊書」に倭国は「漢よりずーっと」と書かれているではないか。
あんたの論理は自分自身で破綻させていますねぇ。
234 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:55
>>232 後漢書の著者は南朝劉宋に仕えた人なんだよ。
その人が「倭伝」に書いた「倭」と、その宋朝に使いをよこした「倭」が同一の者であることは
当然でしょう?
少なくとも「後漢書」を読んだ人(むろん宋の人)はそう理解するしかないのだ。
235 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:57
>>233 倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。
と書いてあるだけだね。「漢末から女王が立った」としか書いてない。
卑弥呼と臺與のことだね。そこから先は、土俗已見前史。
王朝が連続してるとはどこにも書いてないね。
236 :
日本@名無史さん:02/12/13 01:59
>>234 >その人が「倭伝」に書いた「倭」と、その宋朝に使いをよこした「倭」が同一の者であることは
当然でしょう?
倭人という意味では同一だけど、王朝が同一かどうかなんてわからない。
当然でしょう。
237 :
九州王朝大好き:02/12/13 02:01
>>228 >7世紀の九州は、特に熊本近辺に独自文化が発生している。
>でもこれがイ妥国だというには、逆に推古紀との「一致点」を克服しなければならないだろう。
私は九州王朝滅亡とのリンクに着目しています。
これが九州王朝滅亡の最大の原因ではないかと?
九州王朝の内部分裂では?
九州王朝最後の主流派は博多北東玄海灘に面した地域出身の一族だと考察しております。
九州王朝滅亡の最終局面は隼人の造反ですが。
238 :
日本@名無史さん:02/12/13 02:10
>>235 ハッキリ言ってそれは「開き直り」の論理としか思えない。
>王朝が連続してるとはどこにも書いてないね。
そんなことどの夷蛮伝を見ても書いていない。
読む側からしたら当然すぎることだからだ。いちいち書き手が説明するまでもないこと。
それに「翰苑」では明らかに王朝(卑弥呼〜阿輩鷄彌)が続いているって書いてあるが?
239 :
日本@名無史さん:02/12/13 02:14
>>238 >読む側からしたら当然すぎることだからだ。いちいち書き手が説明するまでもないこと。
書いてないということを認めたわけね。
で、「当然すぎる」と思っているのは、他ならない、あ・な・た。
>それに「翰苑」では明らかに王朝(卑弥呼〜阿輩鷄彌)が続いているって書いてあるが?
どこに?原文示して。
240 :
日本@名無史さん:02/12/13 02:21
>>235>>236 「断絶した」とか「別王朝」などと書かれていない限り、同一王朝、後継王朝と理解して
読むのがすじだろう。
特に「宋」に仕えた范曄が「後漢書」に書いた「倭国」と、その当の「宋朝」に使いをよこした
「倭国」が同一王朝だと理解するのは、ごく普通に読めばそう理解するしかないのだ。
これについて「連続した王朝と書かれていない」と主張し、「別だ」と主張する方にこそ、
その論証が不可欠だよ。
241 :
日本@名無史さん:02/12/13 02:25
>>239 逆にいちいち「同一でっせ」と書いてある他の夷蛮伝を示して欲しいものだ。
そんなものないだろう。それともあるのかい?
正直言って、君の論理はどっか逆立ちしているのだよ。
242 :
日本@名無史さん:02/12/13 02:26
>>239 反論すればするほど、アンタの論理のイタいことが暴露してきていますな(w
243 :
日本@名無史さん:02/12/13 02:31
>>239 書き手も読み手も、「漢末以来女王を立つ。土俗すでに前史に見ゆ」
で充分すぎると思うけど?
これは卑弥呼の倭=南斉に使者を遣わしてきた倭 という前提で書かれているわけ。
そうとしか読めないし、「後継王朝」の倭でなければ、ここに書く意味がないではないの。
244 :
日本@名無史さん:02/12/13 02:37
「漢末以来女王を立つ。土俗すでに前史に見ゆ」
というのが「同一王朝ですよ」と述べているに等しい。
これは「宋書」の「世々貢職を修む」も、「隋書」の「魏志の邪馬臺なる者なり」
も同じことだ。前史を受けて現在の「倭国」について述べているわけであって、
つまりは「後継王朝」という前提であることは明らか。
逆に「ホレ、別王朝と述べているではないか」という事にこそ、その論証が必要なのだ。
246 :
日本@名無史さん:02/12/13 02:43
で、「別王朝ですよ」と書かれている例を私たちは知っている。
そう、旧唐書日本伝ですね。
ここにはハッキリと「日本国は倭国の別種」と書かれている。
同じ旧唐書でも倭国伝の「倭国は古の倭奴国なり・・・世々中国と通ず」が明らかに
後継王朝扱いなのを見ても、その違いは歴然だ。
>240-246
239はもう寝たと思われw。
横レスすると、とりあえず論点を見失っているかな。
もう一度>239をよんでみる。
あなたのルールであなたが最強なのはわかりましたw。
で、そのルールの是非を論じてると思われ。
互いに判断保留する空白地帯があるはずなんでそこまでガンバレるかな。
そこまで行けると他者と会話ができる鴨。
エラそうでゴメンね。
おやしみ。
俺は
>>240の主張の方に分があると思うよ。特に
>>243>>244が正しい理解だと。
たぶん両者は「倭」とは何か? ということに認識のズレがあるのだと思う。
239は「倭」を漠然と日本列島の国などの総称という認識に立って論じていると思われる。
それに対して、240の考える「倭」はレッキとした王朝である、と考えているのだろう。
俺も古代史ファンとして史料などを読みあさってきたけれど、中国側の史料ではすべて
「倭」は一個の王朝として記している。「倭人」という呼称からなんとなく「漠然とした
日本列島の国の総称」といった印象を受けるけれど、「漢書」にですら倭人は周朝に「朝貢」
したと記されている。あきらかに一個の王朝(少なくとも政治集団)だ。
倭=一個の王朝 と考える俺から見たら、やはり
>中国側では「漢よりずーっと」倭国は連続している…
と理解するのが妥当だと思う。
249 :
日本@名無史さん:02/12/13 04:37
「倭」を一個の王朝と見なしたら、倭=近畿天皇家に比定するのは無理です。
だから倭=漠然とした日本列島の国の総称、という理解に学者達がなびいていくのでしょう。
250 :
日本@名無史さん:02/12/13 04:50
俺はどっちかというと九州王朝否定派なんだけど…。
しかし「南斉書」のその一文については知らなかった。
「漢末以来女王を立つ。土俗すでに前史に見ゆ」というのは、
これが邪馬台国の卑弥呼・台与を指しているなら、南斉に使者を遣わしてきた
倭国はその後継王朝でしょう。わざわざそう書いている以上、そう理解するしか
ないと思う。
というか、どこをどう読めば、「断絶した」と理解できるのだろうか。
というわけで、俺はいちおう「邪馬台国畿内説」で、さらに倭の五王はその後継王朝という
立場を取らせていただく。
少なくとも「漢よりずーっと」という上の人の主張には賛同させていただく。
>>250 その主張なら筋は通ってると思う。(九州王朝説支持派と正反対ではあってもね)
「漢末以来女王を立つ」
漢末に女王が立ったのはどこ? の問いには「倭国」と答えるしかないじゃないか(w
その「倭国」とは? の問いには、やはり「南斉に使者を遣わした倭国」としか答えられない。
南斉書倭国伝の中に「漢末以来女王を立つ」の記述があるんだから、そう理解するしかない。
漢末に女王が立った倭=南斉書に書かれている倭
この等式は「当然すぎる」のではないかい? これ以外の理解は出来ないと思うが?
253 :
日本@名無史さん:02/12/13 06:33
「漢末以来女王を立つ」をまともに信じると珍も武も女ってことになりますよ。
それに「南斉に使者を遣わした倭国」って?
倭国が南斉に使者を遣わしてないことは定説なんだけど。
>>253 建元元年の記事は?
少なくとも誰か倭王武の使者が赴いて、「鎮東大将軍」を武の代わりに受けたと
理解するのが当然だと思うが?
255 :
日本@名無史さん:02/12/13 06:46
>>254 >倭国が南斉に使者を遣わしてないことは定説なんだけど。
そりゃ定説はそうなるわな。
倭王武=雄略 が定説なんだから。
「使者を遣わしていない」ことにしないと、「雄略の死後、それと知らずに授号したのだろう」
という倭の五王=近畿天皇家 説の主張が崩れてしまうのだから。
256 :
日本@名無史さん:02/12/13 06:50
武も女?
>>255 ハッキリ言ってそういう「定説」の論理にはついていけまへん。。。
上で
>>232サンが書いていた、
南齊書:建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事【據南史補】、
安東大將軍、倭王武號爲鎮東大將軍。
梁書:齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、
進武號征東將軍。
これのことでつね。梁の「齊建元中」って、日本の天皇だとどの時代に当たるのでつか?
258 :
日本@名無史さん:02/12/13 06:55
武も女?
>>253 >「漢末以来女王を立つ」をまともに信じると珍も武も女ってことになりますよ。
あなたはこの記事を根拠に、「南斉書」倭国伝は信用できない、とする立場なの?
260 :
日本@名無史さん:02/12/13 06:56
だから武も女?
261 :
日本@名無史さん:02/12/13 06:56
262 :
日本@名無史さん:02/12/13 06:57
都合の悪い記述は無視するのかな?
武も女?
263 :
日本@名無史さん:02/12/13 07:00
突然沈黙する九州王朝説
264 :
日本@名無史さん:02/12/13 07:04
>>262 煽りだと思ったよ。変なあげあし取りだと思うよ、それ。
「漢末以来女王を立つ」は倭国の歴史に関する説明だろ。
つまり「漢末以来、女王が立った倭国がありました。あの倭国ですよ」ということ。
265 :
日本@名無史さん:02/12/13 07:06
厳密に言うなら、卑弥呼と台与の間に「男王」がいるんだから。
「漢末以来、ずーっと女王」と理解するのには無理があると思われ。
というより、「前史に見ゆ」とあるんだから、その「前史」を見れば一目瞭然じゃないか。
>>262 で、アナタはその南斉書の「漢末以来女王を立つ」を根拠に、南斉書は信用できない、
とお考えなのでつか?
267 :
日本@名無史さん:02/12/13 17:54
おっ!
九州王朝、必死だな(プ
ってか〜〜んじ(ワラ
>>それに「翰苑」では明らかに王朝(卑弥呼〜阿輩鷄彌)が続いているって書いてあるが?
>どこに?原文示して。
これ(
>>239)の返事がまだなんだけど。
早く原文示してね。
まあ、すでに『書いてある』から『書いてなくてもわかる』にいつの間にか主張が変わってるんだけどね。
いつものことだけど
268 :
日本@名無史さん:02/12/13 17:54
>>240 >「断絶した」とか「別王朝」などと書かれていない限り、同一王朝、後継王朝と理解して
>読むのがすじだろう。
後継王朝は、「同一」王朝ではないでしょ。
後継ということは、そこで一旦前王朝が断絶したということ!
後継も含めるなら話は分かる。不連続でよい!!!ということだからね。
>「倭国」が同一王朝だと理解するのは、ごく普通に読めばそう理解するしかないのだ。
それがいつの間にか、「同一王朝」に話がすり替えられている。
よくある詭弁の一つだね。これも毎度のことだが。
>「別だ」と主張する方にこそ、その論証が不可欠だよ。
その論証が、
>>232なんだけど。
讚が朝貢した時、王として遇されていないと言うのは、
中国側が断絶していると考えていた証拠なのだよ。
王朝としては断絶しているけれども、
讚の朝貢をもって、宋朝が讚の王朝を後継王朝と認めたということなのだな。
実体はともかくとして、少なくとも史料上はそうなる。
269 :
日本@名無史さん:02/12/13 17:55
“以来”の使い方がわかってないヤシが何人かいるようだ。
“以来”を“ある時から今までず〜っと”と読むのは日本語。
漢文では、“以来”は出発点をあらわす。
文脈上“ず〜っと”になることもあるけどね。
文例として、魏志の烏丸鮮卑伝の序をあげとこう。
秦,漢以來、匈奴久爲邊害。…(略)…是以屡遣衛,霍之將、深入北伐、窮追單于、奪其饒衍之地。後遂保塞稱藩、世以衰弱。建安中、呼廚泉南單于入朝、遂留内侍、使右賢王撫其國、而匈奴折節、過於漢舊。
匈奴の害は秦・漢“から”はじまったけども、衛青や霍去病の働きもあり、その後弱体化して建安中に完全に服属した、というようなことが書いてある。
今(魏晋代)ではもはや害はないということだね。
これは、巻三十の評で『魏世匈奴遂衰、更有烏丸,鮮卑』と匈奴伝を立てなかった理由を説明してるんだから、わかるよね?
だから、この“以来”を“秦・漢から【今までず〜っと】”と訳してはいけない。
同じく、南斉書の“以来”も“から”という意味で、
漢末から【今(南斉代?)まで】女王が続いたと読んではいけない。
もちろん、
>>233 >その「南齊書」に倭国は「漢よりずーっと」と書かれているではないか。
はウソ。
わかるかな?わかんねぇだろ〜なぁ〜
270 :
九州王朝大好き:02/12/13 21:41
>>960 >倭の国は、中国の史書によると、気候が温暖で、水多くして陸少なし、でしょ・・
>おまけに阿蘇山があって、都に入るときは、火山が噴火している狭い海峡を通るらしい・・
>有明海とか、鹿児島湾が史書の記述によくあう・・
>火山は九州に集まってるし・・
上記はどんな文献からの引用ですか?
特に「都に入るときは、火山が噴火している狭い海峡を通るらしい・・」の原文は?
私は知りません。教えて下さい。
271 :
日本@名無史さん:02/12/13 21:51
まず日本人が認識すべきことは九州王朝も大和王朝も
朝鮮起源であるということ。
天皇が朝鮮人であるということ。
公用語が朝鮮語であるということ。
そして対馬、独島が韓国領であるということ
東海が正式名称であるということ。
民間人に対する謝罪と賠償をしめすべきだということ。
もはや反・九州王朝派の主張ってなりふりかまわずだな(w
「漢末以来女王を立つ」ってあるんだから同一王朝に決まってるじゃん。
こんなことまで必死に理屈をこねまわして「別王朝」って強弁するとは・・・
「南齊書」倭国伝に書かれている以上、当然すぎることじゃん。
268あたりの解説が苦しいね。
だいたい「後継王朝」としているのは「禅譲」などを含めた意味なのに。
つまり魏晋朝は漢朝の後継王朝ではあるが決して「同一王朝」ではないのと同じだ。
そのことを意識した言葉なのに。
少なくとも武力でもって征服した場合は「後継王朝」とは言わない。
周が殷(商)の後継王朝ではないのと同じで。
わかってて言ってるんかなあ・・・
たとえば倭人伝を読む限り、卑弥呼は「共立」されて王になったということなので、
これが「禅譲」に当たるかどうかは微妙なところではあるが、少なくとも「後継王朝」
であることは間違いない。
こうしたことも含めた「後継王朝」という意味である。
(って言っても、僕が必死こいて論じていた本人じゃないから知らないが)
つまり「同一王朝」というのは、「後継王朝かも知れないが」という含みを持たせた
広い意味での言葉というわけ。
九州王朝実在は決まったな
277 :
日本@名無史さん:02/12/14 06:28
>>246 > で、「別王朝ですよ」と書かれている例を私たちは知っている。
> そう、旧唐書日本伝ですね。
> ここにはハッキリと「日本国は倭国の別種」と書かれている。
『唐会要』にも「別王朝ですよ」と書いてあり、そこにはハッキリと「日本国は倭国の
別種」と書かれている。
* と こ ろ が *
その『唐会要』の倭条と日本条には
A 開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢。(倭國)
B 長安三年、其大臣朝臣眞人來朝、貢方物。(日本國)
とある。藤原常嗣も粟田眞人も大和の人間だよね。天皇家と天皇家が別の国だったとは知
らなんだ・・・・。
これでも「中国史書に書かれていることは正しい」と言い切れるの?しかも国が一つか
二つかという「重大なこと」についての記事なんだけど。
中国史書だろうが記紀だろうが、ちゃんと史料批判をして正しいかどうか確認してから
じゃなきゃ鵜呑みにできないよ。史料批判の初歩中の初歩だ。
278 :
日本@名無史さん:02/12/14 06:31
>>231,
>>233,
>>238,
>>240,
>>241,
>>243,
>>244,
>>246,
>>248 あなた(方?)は「中国史書に書かれていれば歴史事実」という方法論に立っているよ
うだが、その根拠は?
おそらくそれを「前提」にしているんだと思うが、歴史は数学じゃない。「史料の記事」
は議論の出発点ではなく、それ自体が分析の対象だ。当然彼らの書いた記事のソースは朝
貢者から聞いた話か、自ら遣使して得た情報か、過去の史書の引き写しか、或いは著者の
想像のどれかだ。
最後の2つは今は置くとして、隋より前は中国からの遣使は魏の時代が最後だから、あ
とは倭の使者から得た情報しかない。
倭の使者が中国に行って「真実を述べた」と考える根拠は何だい?
もし宋への使者が、卑弥呼の政権とは切れた新興の政権で、自らの由緒を古く見せるた
めに、中国に行って「自分は卑弥呼の末裔だ」と偽称したらどうなる?
中国はその言の真贋を確かめるすべがないから「漢代からずっと続いている」かのよう
に史書に書くだろう。
これはあくまで可能性に過ぎないが、可能性がある以上、否定はできない。事実、後代
の例だが、『宋史』によると、宋の天子が、日本の僧が献上した『王年代記』という神武
以来の万世一系の歴史書にコロッと騙される下りがあり、その内容を真に受けて新唐書日
本伝も宋史日本伝も書かれている。
だから中国史書の記述がそのまま史実であるかどうかについては、別途分析が必要なの
だ。だから私は
>>232氏が述べているような中国史書の分析を行なって、「5世紀の倭は3
世紀の倭とは繋がってないんじゃなかろうか」という「仮説」を提示したのだ。
(続く)
279 :
日本@名無史さん:02/12/14 06:32
(承前)
それと考古学。邪馬壹國はどこにあったか知らないが、倭奴國が北部九州にあったこと
はほぼ間違いない。ところが考古学的事実によれば、この倭奴國に該当する地域は、2〜
3世紀には明らかに没落しているのだ。つまりここで(少なくとも地域的には)明らかな
断絶がある。
一方5世紀の倭だが、古墳の発展史からみて、4〜5世紀に、特殊器台を特徴に持ち、
その頃台頭した吉備の勢力が巨大古墳を作り、それが河内へ流れて発展しており、倭の五
王はこれらの政権と考えられる(余談ながら、宋書には讃・珍の政権と斉・興・武の政権
の続柄は書いていないから、例えば前者は吉備、後者は河内と、ここでも王統が切れてい
る可能性すらある)。
つまり、漢代と宋代の倭は、考古学的な複数の根拠から見ても、直接の繋がりはない。
「(中国)史書に書いてあるから事実」。そんな楽な話なら歴史学や考古学は要らない。
古田史学も「古田氏が否定しているところの従来説」も、どちらもドグマ先行であって実
証的ではない。「史料の分析」という、肝心のステップを経なければ説として意味がない
のだ。
280 :
日本@名無史さん:02/12/14 06:32
>>254,
>>255 > 建元元年の記事は?
> 少なくとも誰か倭王武の使者が赴いて、「鎮東大将軍」を武の代わりに受けたと
> 理解するのが当然だと思うが?
そんなことは必ずしもいえない。
古田氏も「もちろん死者に授号してしまうことはありうる」と言って、実際に死者に授
号した例(梁は502年に、501年に死んだ百済の牟大王に誤って進号した)を挙げていたの
を忘れたかい?「死者に授号しても、あとで正しい王に授号し直している」例として挙げ
ていたけれど、問題は「死者に授号したことがあった」という事実だ。もし授号時に必ず
当該国の使者が赴くなら、そんなことが起きるはずがないではないか。
しかも、このような「可能性」だけではない。倭王武は南斉代には既に死んでいた可能
性を積極的に仄めかす根拠があるのだ。
宋書、南斉書、梁書のすべての夷蛮の朝貢記事を抜き出して比較調査してみればわかる
が、南斉書と梁書の倭の授号記事以外の授号記事は、すべて当該国と中国の国交を示す記
事が存在し、従って当該国が「確かに存在した」ことがわかる。
ところがこれに対して倭の授号記事“だけ”は、当該中国新王朝の高祖即位記念の進号
記事(本人の存在を確認して授号したという証拠はない)しか存在せず、その進号のとき
に倭の使者が来たという記述もなく、その後の国交記事も一切なく、従って、南斉・梁代
には、当該倭王どころか倭王権自体が存在したことすら保証されないのだ。
この史料事実は重大で、あれだけ朝鮮半島に執着し、中国のお墨付きを貰いたがってい
た倭王権が、志半ばで“存在しているにもかかわらず”突如中国への朝貢をやめてしまう
ということは考え難く、王権断絶の一つの状況証拠になる。
以上のように、史料を分析した上で主張しているのであって、別に「従来説を守る」た
めに「死者に授号したなどと言いつくろっている」わけではないのだ。
281 :
日本@名無史さん:02/12/14 06:36
282 :
日本@名無史さん :02/12/14 07:01
問題は旧・新唐書だな
大和 岩雄に言わせると王朝交代などなく
壬申の乱で勝利した天武が日の昇る方角から
攻めて勝利したのにちなんで「日の本」という国号を採用したが
壬申の乱自体がクーデターのようなものだったため
使者は中国側に国号の変更を上手く説明できなかった
まさかクーデターで国号変えました、と正直に言ったら
その正統性が疑われるとでも思ったんだろう
283 :
日本@名無史さん:02/12/14 07:15
では隋書はどうかと言うと
筑紫国がどうとか言う前に地理に関する記述で
明らかに九州島よりも広い地域を描写しているので
当時の倭国は既に本州から九州までを含んでいたと考えられる
筑紫には外国からの使者をもてなす迎賓館みたいなものはあったかもしれないし
使者もそこに何週間かは滞在したかもしれない
その後大和に行ったということであれば書記の記述ともそう違わない
九州王朝説、声もなし。
285 :
日本@名無史さん:02/12/14 09:29
どっちにしろ
九州にあった倭奴国と
のちの倭国が連続してないことは
よくわかった。
286 :
日本@名無史さん:02/12/14 13:14
>>273 同一王朝ではなくていい、ということは合意されたとみていいね。
さて、
>>274で卑弥呼の共立が後継王朝でよいと言っている。
当然、このときの邪馬臺が畿内の大和であれば、
このときに、王都の位置が畿内に移ったことになるが、
当然これも後継王朝ということになる。
つまり、今まで九州王朝派が言ってきたことは
九州王朝を支持する証拠でもなんでもないことになったわけだ。
つまり、文献上九州王朝としか読めないという主張は水泡に帰したことになる。
文献上に九州王朝の証拠はなかったのだよ。
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/14 13:20
王朝という概念も難しいよ。
別に国連で、決められるわけでもないしね。
考え方によれば、江戸時代なんかでも
実質的には、朝廷、幕府、藩という多数の王朝が存在していたようなものだから。
288 :
日本@名無史さん:02/12/14 13:26
>>273 >だいたい「後継王朝」としているのは「禅譲」などを含めた意味なのに。
オレは放伐を含めてもいいと思ってるけど、これは定義しだいだからね。
ま、それは問わないことにする。
「禅譲」に限るとして、禅譲された先が九州に限定されるという必然性も証明も全くない。
「後継」を認めた時点で、連続だのなんだのという議論は崩壊する。
残念だったね。ちゃん、ちゃん。
みなさん、鳥越憲三郎先生を読みせんか?
長江流域に稲作をする倭族がいて、春秋時代末期に漢族におされて、
日本や、朝鮮南部(後の三韓)、中国奥地、タイなどに四散した。
日本列島に稲作、高床住居をもつ弥生文化が到来する。
大和政権と三韓地域が共通文化というのもしっくりいくと思うんですよね。
僕の友人の中国人留学生がいうことには、
四川省の人は日本人の文化にとてもよく似ているといいます。
お餅、トウフを食べる。高床の家。家に裸足であがる。
あと、前にテレビでやってたけど、四川からタイに通じる山岳地方には
日本の文化に似た民族が住んでいるそうです。
291 :
日本@名無史さん:02/12/14 14:44
これらのことは、
倭と日本が別であった可能性。
新集団が南九州に降臨したという伝説。
という主張を支持するものではないでしょうか?
脈絡もなんもあらへん
「九州王朝大好き」氏はじめ、九州王朝派の方たちは、
そろそろケジメをつけたらどうでしょうか。
失礼ながら、論点がズレまくって(ズラしまくって?)、
奇妙な議論になってましたが、
九州王朝説否定派の方々は、
そのズレつづける論点のすべてwに反論をしており、
それに対して反応がありません。
論点がズレるどころか、スレが(前スレに)ズレたりw、
いまは議題そのものが(>289-291)ズレようとしていますがw。
とりあえず“冷静な”九州王朝派の方だけでもいいので、
知的な誠実さをみせてほしい、というのが傍観者の感想です。
>>293 >失礼ながら、論点がズレまくって(ズラしまくって?)、
多分ね、九州王朝の人たちはズレてると思ってないよ。
馬鹿げた議論だとは思うけどね、彼らにとっては「肝心の箇所」なんだから。
295 :
日本@名無史さん:02/12/14 16:40
>270
唐会要倭国条
貞觀十五年十一月、使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海、數月方至。
自云、路經地獄之門、親見其上気色蓊鬱、又聞呼叫鎚鍛之聲、甚可畏懼也。
表仁無綏遠之才、與王争禮、不宣朝命而還。由是復絶。
295さん295さん。
>293もよろしくですう。
297 :
日本@名無史さん:02/12/14 18:02
唐から高表仁という使者が倭国にやってきたときの記録です。
「表仁浮海」とありますから、船に乗っているときのこと、になります。
「路經地獄之門」と表現されているのは、海峡(門)を抜けているときのこと、とわかります。
「親見其上気色蓊鬱」は訳すと、見上げると煙がもうもうと立ち上ってる、の意です。
煙の立ち上る地獄の門を通過した、と書かれているから、
火山の噴火する狭い海峡を使節の船が通った、ことがわかります。
地図を見ると、鹿児島湾に入るとき、桜島、開聞岳のよこを通ります・・
知的な誠実さがあったら九州王朝派やってないでしょう。
299 :
九州王朝大好き:02/12/14 18:23
「九州王朝はなかった。」とする仮設では、
西暦700年までの日本古代史が科学的に成立しません。
「九州王朝はあった。」とする仮設では、
西暦700年までの日本古代史が科学的に成立するように見えます。
反九州王朝説の人は、
科学を否定する、科学的に根拠のない学説をなぜ支持するのですか?
一昔前の法曹界の人も科学を否定していた。
未だに日本古代史分野の学会の人は科学を否定している。
反九州王朝説の人は科学を否定する学説をどのように思うのでしょうか?
300 :
日本@名無史さん:02/12/14 18:41
九州王朝はもうただご神託を礼賛するしかないのか・・・
301 :
九州王朝大好き:02/12/14 19:00
>>297 火山とは島原半島の火山ことではないでしょうか?
船は有明海に入ったのです。
火山の活動暦で確定できます。
シナからの直行便は筑紫平野に上陸したのでしょう。
古来シナからの直行ルートでしょう。
筑紫平野にはシナ系と思われる現代人が多いのもうなずけます。
297氏のレスありがとうございます。
私は見落としておりました。
自説古代史へのひとつの重要なうらずけ資料となるでしょう。
九州王朝の存在説にもひとつの資料となります。
302 :
日本@名無史さん:02/12/14 19:13
高表仁がどこから上陸しようと九州王朝説となんの関係もないじゃん?
やはり九州王朝説って何も根拠がなかったんですね。
304 :
日本@名無史さん:02/12/14 19:30
これからは九州王朝説は放置の方向で・・・
305 :
日本@名無史さん:02/12/14 19:32
>>304 放置すると九州王朝派は「これで勝手言い放題だ!」と喜ぶと思われ
306 :
日本@名無史さん:02/12/14 19:35
古田の言ってることっていうのは
史書はこういう風に読んだらこういう解釈もできますよ
という資料解釈の可能性の話じゃないの?
九州王朝があった「可能性」はある
というのならいくらでも議論できるだろうけど
309 :
日本@名無史さん:02/12/14 19:44
中国の史書に一つでも良いから、九州以外の地名があれば、ぐっと違うんだけどなあ。
310 :
日本@名無史さん:02/12/14 19:51
可能性はないんだよ
>217>222-225あたりはいい雰囲気だったんだけどねぇ。
九州王朝派は「同一王朝」問題ですらこのテイラクだもんなー。
論破される→違う論点→論破される→違う論点の繰り返し。
結局最後はなにも言えなくなって、どうするかと思えば、
何事もなかったのように「九州王朝説は科学」だもん。
じゃあ今までのやりとりはいったい何だったのかと小一時間・・・・・・。
312 :
日本@名無史さん:02/12/14 20:26
唐の使者が火山の噴火を見た。
火山は九州に集中している。
海峡のそばの火山となると、雲仙岳・桜島・開聞岳にしぼられる。
使者を乗せた船は、雲仙岳の噴火を見ながら、有明海に入った・・
有明海なら、「水多陸少」「有阿蘇山」 隋書倭国伝の記述とも重なります。
使者の目指した都は、きっとその近くにあったんでしょう・・
隋書には火山のそばを通ったと書いてないんだよ。
314 :
日本@名無史さん:02/12/14 21:29
隋書には海峡のそばの火山が書いてなくて阿蘇山が書いてある。
ということは裴世清の来たコースと高表仁の来たコースが別だということだ。
帰りはたぶん一緒だろうけれど。
315 :
日本@名無史さん:02/12/14 21:55
九州王朝説の論点は、中国の史料に出てくる7世紀以前の倭がどこにあったか、であり、
それを九州とする説と見た。これと違う具体的な説として出て来たのは
>>278のみ。
>邪馬壹國はどこにあったか知らないが、倭奴國が北部九州にあったこと
>はほぼ間違いない。ところが考古学的事実によれば、この倭奴國に該当する地域は、2〜
>3世紀には明らかに没落しているのだ。つまりここで(少なくとも地域的には)明らかな
>断絶がある。
> 一方5世紀の倭だが、古墳の発展史からみて、4〜5世紀に、特殊器台を特徴に持ち、
>その頃台頭した吉備の勢力が巨大古墳を作り、それが河内へ流れて発展しており、倭の五
>王はこれらの政権と考えられる(余談ながら、宋書には讃・珍の政権と斉・興・武の政権
>の続柄は書いていないから、例えば前者は吉備、後者は河内と、ここでも王統が切れてい
>る可能性すらある)。
> つまり、漢代と宋代の倭は、考古学的な複数の根拠から見ても、直接の繋がりはない。
これも説としては興味深い。ただし、古墳の大きさから吉備や大和の勢力の大きさは推測できるが、
しかし、そのことと中国の史書に現れる倭が関係あるとすることにはロジックの飛躍がある。
九州王朝説以外にもっと説得力のある説はないものか。
316 :
日本@名無史さん:02/12/14 22:09
九州王朝説に説得力は無いのだが?
317 :
日本@名無史さん:02/12/14 22:15
>>316 ということは、「中国の史料に出てくる7世紀以前の倭がどこにあったか」
についてのキミの主張は、「不明」ということか?
>315
新論点やっぱりキタ━━━━━━━━!!!
都合の悪い過去ログ脳内あぼーんもほがらかにキタ━━━━━━━━!!!
先生! 「説得力」ってどーゆー意味ですか!?
それよりも「以来」問題(>269)にキチンと反論していただけませんか。
それをしていただかないと、
(1)九州王朝派の読解は恣意的で「説得力が炸裂」なんですが。
また「史書≠史実」、かりに史書の主張を正確に理解できたとしても、
それと史実は別で、そこから史実を引き出すにはもう一段階分析が必要(>278-279)、
というのにも、ちゃんと応えてもらえませんか? それを理解していただかないと、
(2)九州王朝派は史料批判ができないということで「説得力が炸裂」なんですが。
319 :
日本@名無史さん:02/12/14 22:40
320 :
日本@名無史さん:02/12/14 22:46
いくら聞いても聞いても根拠が出てこないんだよね、九州王朝説。
出てくるのは史書の曲芸読みばかり。
321 :
日本@名無史さん:02/12/14 23:08
うざいのう、畿内説。それほど近畿以外に王様がいたら都合が悪いか?
近 畿 説 は、 ウ ヨ で つ か ?
>299
それは間違っている。九州王朝説は仮説ではない。
変な事件にたいして、「宇宙人」をもちだせば、一見あれもこれも説明がつく。
なにせ「宇宙人」という要素は自由自在に設定できるから、まさに万能の仮説だ。
もちろん一般論として「宇宙人がいない」ことは証明できない。
史料の少ない時代は、わからないことが多い。
そこに「アトランティス」とか何とかを持ち出せば、一見あれもこれも説明がつく。
なにせ「アトランティス」という要素は(以下略)
互いに矛盾した史料から史実を推定することはたいへん困難なことだ。
そこに(史料に根拠のない)「九州王朝」を持ち出せば、一見あれもこれも説明がつく。
なにせ「九州王朝」という要素は(以下略)
こうした万能の仮説に説得力を感じている人間は、根本的な勘違いをしている。
万能の仮説は仮説のうちに数えないのだ。
九州王朝説・・・・落ちたな・・
324 :
日本@名無史さん:02/12/14 23:22
近畿説という仮説は、7世紀以前の中国の史料は間違いだらけという説でつか?
325 :
日本@名無史さん:02/12/14 23:26
終わったようですね、九州王朝説。
326 :
日本@名無史さん:02/12/14 23:41
>>322 >万能の仮説は仮説のうちに数えないのだ。
九州王朝大好き氏はちゃんと「仮設」と書いてるなり。(大藁)
>>311 >>217>222-225あたりはいい雰囲気だったんだけどねぇ。
これまで何度も経験してるんだけどね、やつら、一般論ではいいこというんだよ。
実にまともなんだね。
ところが各論に入った途端、それまで(一般論で)自分が
力説していたことと正反対のことをやりはじめるんだ。
この点について、原田実は次のように書いて嘆じている。
『実際、読者としては、自分で宣言した心構えを守ろうとしない人物がいるとは普通思わないし、
他者に対して厳しい警句を発するものが自分も同じ過ちを犯すとは考えにくい。
しかし、世の中には堂々と言行不一致を行いながら恥じ入ろうともしない
(あるいは自分ではそれに気づかない)者も確かにいるのである。』
これは古田某の言動に対してかかれているが、
ここにいる九州王朝支持者にも全くあてはまる。
つまり、(本人の自覚は別として、)彼らは忠実なる古田史学の継承者というわけ。
329 :
日本@名無史さん:02/12/15 00:48
正直言って、反・九州王朝派の論理は成り立たないことばかり。
南斉書倭国伝に「漢末以来女王を立つ」とある以上、南斉書の「倭国」と卑弥呼の倭国が
同一王朝(後継王朝含む)であることは当然じゃないか。
いろいろ反論のカキコは読んだが、反論の体を為していないように思う。
「武(の王朝)が偽りを述べて卑弥呼の後継を主張したらどうなるのか」式の反論を読むに
いたって、この南斉書の記述が「反・九州王朝派」のアキレス腱であることがよくわかったよ。
そんな論理がまかり通るのなら、「古代史」という学問じたいが崩壊せざるを得ない。
素直に「南斉書」を読む限り、ここには倭王武は卑弥呼・台与と同じ倭国だ、と書いてある
としか読めないのだ。著者はそう読者(梁の人)に理解されるように、この一文を挿入して
いることは当然なのだから。
330 :
日本@名無史さん:02/12/15 00:58
また、後漢書の著者の范曄は何朝劉宋に仕えた人だ。
そしてその「後漢書」が執筆されたのは、倭讃が「司馬曹達」を遣わしてきた
すぐ後のこと。
つまり范曄は倭国からの使者を知っていてこの後漢書を書いている。それどころか、
「司馬曹達」その人と面会した可能性すら否定出来ないだろう。よしんば、司馬曹達との
直接合わないまでも、その使節団を目の当たりにし、直接にしろ間接にしろ、その話を
訊いたことは間違いない。
そんな時代に編纂された「後漢書」の「倭伝」に書かれている「倭」が、倭讃の王朝の
「倭」と同一であることは当然だ。少なくとも「後漢書」の読者(宋の人)はそう理解する。
このことに関することも、いまだ有効な反論を見ない。
こんなんで「九州王朝に根拠がない」など、ちゃんちゃらおかしいのだよ。
331 :
日本@名無史さん:02/12/15 01:00
つーか、反九州説の人、まともに論証なんてないじゃん。煽ってばっか。
>329
だーかーらー。
そんなヘタレなことでどーすんだYO>九州王朝!
ギャラリーはもっと熱い新展開!熱いバトルを期待してんだYO!
九州王朝はあれか>286>288をどーしたんだ。
(1)脳内あぼーん
(2)マデで論理が理解できませんでした
どっちだ。怒らないから正直に言いなさい。
>>329-331 論破されたので、これまでの議論をナシにして振り出しに戻そうってか。
見苦しいねぇ。
334 :
日本@名無史さん:02/12/15 01:20
>>278のカキコの
> もし宋への使者が、卑弥呼の政権とは切れた新興の政権で、自らの由緒を古く見せるた
>めに、中国に行って「自分は卑弥呼の末裔だ」と偽称したらどうなる?
> 中国はその言の真贋を確かめるすべがないから「漢代からずっと続いている」かのよう
>に史書に書くだろう。
このあたりに「反・九州王朝派」の苦悩が見て取れるな。
こんなことを言い出したら、「古代史」など学問として成り立ちはしない。
むろん「可能性」の否定は私もしはしない。
しかしそれを根拠に「卑弥呼と倭讃は別の王朝だ」と主張するのは、それはもはや
現代の学問としては通用しないように思う。
もはやコピペしか出来ない九州王朝、哀れ。
336 :
日本@名無史さん:02/12/15 01:45
>>332 正直、わざわざ反論するまでもないと思っし、むしろ>286>288の内容を読んで、
反・九州王朝派の苦しい立場を実感したんだけど。
>>286の
>当然、このときの邪馬臺が畿内の大和であれば、
>このときに、王都の位置が畿内に移ったことになるが、
>当然これも後継王朝ということになる。
「倭国乱」によって「主無し」という状態となり、新たに卑弥呼が「共立」されたという
のであるから、卑弥呼を「共立」したのは当然、その当の国か、支配下にあった小国の
有力者たちということになる。
したがって「倭国乱」以前の倭国王が九州内部に比定されるのなら、共立された卑弥呼も当然
九州と考えざるを得ない。
337 :
九州王朝大好き:02/12/15 01:50
>>326 7世紀以前の近畿王朝は仮説。
同様に、7世紀以前の九州王朝も仮説。
矛盾の多い説が間違っている仮説。
近畿王朝説と九州王朝説では文献的・考古学的・科学的資料に照らし合わせてどちらの説に矛盾が多いか?
近畿王朝説では、C14年代測定法、地質学的資料、金属学的資料もその他多くの科学的資料を否定している。
近畿王朝説は文献的資料の曲解と妄想(推測の積み重ねのみ)で成り立っているように見えるが、いかがかな?
今や7世紀以前の近畿王朝説は過去の遺物とみなせる。
近畿王朝説の人は今日のH2ロケットの打ち上げも認められないのだろうね。
338 :
日本@名無史さん:02/12/15 02:03
>>288 さらに「放伐」を後継王朝に加えてもいい、とするなら、「神武」は「ナガスネビコ」の
後継王朝と理解してもいいことになるし、「周」は「殷(商)」の後継としてもいいことになる。
まだまだ例はあるが、これらを「後継」とするには無理があると思う。
なぜならこれらは「革命」によって前王朝を倒したのであって、決して後を引き継ぐ「後継」
などではないからだ。
ここで使う「後継王朝」というのはあくまで「同一王朝」というのに「禅譲」などのケースも
あるかも知れないと幅を持たせたもので、実態は「同一王朝」である。
339 :
日本@名無史さん:02/12/15 02:20
そもそも「九州王朝否定派」の人たちは、中国側の史料を扱う際、「それが執筆された時代」
というのをまるで考慮に入れておらんと思うのだ。そのあたりが
>>330に類する過去のカキコに
対する反論の貧弱さ、脆弱さにも伺えるのだ。
「通典」「唐会要」などを根拠に「倭国」と「日本国」の分裂を否定しようとする人が
いるけど、その誰もが、それらが執筆された時代について論じていない。
そもそも「通典」「唐会要」をはじめ「旧唐書」「冊府元亀」などが執筆された時代は、
中国側が日本の代表と見なしているのは「近畿天皇家」である。
これは九州王朝説を支持するにせよ、否定するにせよ、共通する認識のはずだ。実際に日本側の
史料を見ても、中国側の史料を見ても、そうとしか読めない。
したがって、「倭国」「日本国」が同一だとする史料がこの時代に執筆されたとしても、
「それでよし」ということしか論証できない。当時の執筆者にとっては、どう見ても
「日本国はひとつ」としか見えなかったのであろうから。
しかし、同じくそんな時代に執筆された「旧唐書」「冊府元亀」が、倭国と日本国が別の国だった
主張しておるのだ。
つまり「唐会要」「通典」の著者が現在(執筆時点)に合うように理解して編纂したのか、
それとも「旧唐書」「冊府元亀」の著者が、史料の誤読、誤解のオンパレードで倭国と日本国を
別国扱いしてしまったのか。
後者よりも前者の方が起こり得る事であること、当然のことだろう。
340 :
日本@名無史さん:02/12/15 02:22
私年号を使ってた連中を
九州王朝などと呼ぶなよ、ナンセンスだ。
仮に事実がそうであったとしても
これからの日本に相応しい過去ではない。
『日本には中国と交易した単一の巨大な王権があり
これが天皇氏の祖である』
このような理解が最も望ましいものである。
341 :
九州王朝大好き:02/12/15 02:28
>>302 >高表仁がどこから上陸しようと九州王朝説となんの関係もないじゃん?
これが関係あるんですね。
シナからの直接のメインルートがどのルートであったかは重要なんですね。
近畿王朝の遣唐使も薩摩回りなのですね。
東シナ海での海上ルートが同じでは?
陸上民の近畿王朝は航海技術も低く、遣唐使では失敗が多いですが、
海洋民にとってはこのルートは比較的にやさしいのでは?
大宰府の水城は、大宰府の南北にあり、
シナから直接来る唐軍と半島から来る新羅連合軍との両面作戦では?
半島出兵中、唐からの直接進入を恐れた作戦では?
水城の古さもこれで理解できます。
342 :
日本@名無史さん:02/12/15 02:32
>>336 >したがって「倭国乱」以前の倭国王が九州内部に比定されるのなら、共立された卑弥呼も当然
九州と考えざるを得ない。
かくて議論は循環してることが実証されたのでした。終わり。
343 :
日本@名無史さん:02/12/15 02:33
いくら国号を「倭国」から「日本国」に変えたからといって、それらが同一の王朝だったのを
「別国」と間違えて史書に執筆するなど、およそあり得るべき事ではないからだ。
(むろん、執筆された年代に日本国と倭国が分裂していた、という状況だったのであれば
また別であろうが)
倭国=古の倭奴国…世々中国と通ず
日本=倭国の別種なり…日本はもと小国、倭国の地を併す
この記述ほど、倭国と日本国が別の王朝であり、別個の歴史をたどってきた国であることを
物語っている記事はないであろう。
当然、これが執筆された時代は、「日本の代表は近畿天皇家」だったはずだ。そしてそれら
天皇家からの使者が述べる「日本国の歴史」は、おそらく「日本書紀」にあるような事で
あったことだろう。
そんな中で、敢然と「別種なり」と書かれていることの意味は、大きいのだ。
344 :
日本@名無史さん:02/12/15 02:35
>336氏
それは>332氏のいう
>マデで論理が理解できませんでした です。
これ、マジなんですよねー。
これじゃ古田ロジックの愉快さも気にならないわけだ。
バトルどころのレベルではなかった・・・・・・せっかく観戦を楽しみにしてたのに。
>333氏
そもそも論破された、ということが理解できてなかった模様。
まいったねー。
せっかくマジメに論じてくれる方がいて面白くなってきたのに。
相手がこのレベルだと、どーにもならないよ。どーしましょ。
346 :
日本@名無史さん:02/12/15 02:56
>>344 ここでそういう「言葉遊び」をするつもりはない。
私の主張する「後継王朝」が中国語の「禅譲」のそれと寸分違わず同じではないかも知れないから
>「禅譲」など
と「など」を入れたに過ぎない。
そもそも当時の中国と倭国では政治形態も王の存在に関する有り様も異なるのは当然であるから
中国語の「禅譲」「同一王朝」などをそのままキッチリ当てはめて論じるのは無理だし
無意味であろう。
というか、こんな「あげ足取り」をしなければ、九州王朝説に反論できないのか?
こんなことを事細かく反論したところで、大局に影響などないのだが・・・
もともとは否定派が
>>127に有効な反論を加えていないことが問題だと思う。
それの復刻が
>>330になるのだろうけど、オレはこれらの論に対する否定派の
有効な反論はいまだに見ない。
これに比べたら「禅譲」だの「同一王朝」だのの枝葉末節の反論などどうでもよい。
そんなのは後まわしにしてください。
348 :
日本@名無史さん:02/12/15 03:06
>>347 反・九州王朝派の論ってのが、なんか煽りが多くてな。
349 :
日本@名無史さん:02/12/15 03:08
>>346 定義もろくに知らなかったのを「言葉遊び」で逃げますか。
恥知らずにも程がある。
>中国語の「禅譲」「同一王朝」などをそのままキッチリ当てはめて論じるのは無理だし
「禅譲」も「同一王朝」も、あんたが使いはじめたんだけどね。
無責任なこといわないでね。
350 :
日本@名無史さん:02/12/15 03:25
>>349 それ以外に近い言葉ってのが日本語にはないんでな。
なあ、言っておきたいんだが、「恥知らず」などという言葉を他に投げかけたりして、
それで自己の論の正当性を主張できると思うか?
当時の、三世紀〜五世紀頃の倭国のことに、「禅譲」という言葉をそのまま完全に
当てはめて理解する人を想定していなかったのは私の思慮不足だったのは認める。
しかしそういう「言葉」の上でのことは、資料上の文字に関することならいざ知らず、
そうではない、私の考察に関する「説明」で使ったことへの反論としては、いささか
当失ではないか?
具体例をあげて言うなら、出雲神話における「国譲り」の説話があるが、あのケースを
「禅譲」と例えたとして、中国の例での「禅譲」の概念でもって反論するのは無意味では
ないだろうか。日本史や古事記に、「禅譲」と記述されているわけではないのであるから。
ただ日本説話に「禅譲」とおぼしき例がある、ということを禅譲という言葉を使って
説明しているにすぎないのだ。
つまりはそういうことなのだ。
351 :
日本@名無史さん:02/12/15 03:45
つまりは「禅譲」という言葉は使ったが、それはその文字自体が重要なのではなく、
「それに類するケースもあっかもしれないと仮定して」ということなのだ。
むろん私とて、漢と魏・晋・宋が「同一王朝」だったとなど思ってはいない。
ただ、その王朝自体が前王朝の「後継王朝」だと主張していたことは疑いがない。
そしてその王朝が後継だと主張している根拠が「禅譲」だったこと、言うまでもない。
352 :
日本@名無史さん:02/12/15 03:46
353 :
日本@名無史さん:02/12/15 03:51
っつーか、350がいちいちそこまで説明せんとわからんのかと思うが?
ワテは九州王朝否定の立場やけど、その主張はよくわかるデ。
万系一世に毒された論者にはちと説明すんの難しいかナ?
354 :
日本@名無史さん:02/12/15 03:59
西都バカ
代々続いてきた「店」を息子やない、番頭や友人・親類に経営権を譲ることを考えたらエエ。
つまり「屋号」もそのままで経営を続けたら「同一店」であり「後継」であろう。
しかし倒産などで店が潰れ、別途に経営権が譲り渡され、別人が屋号を一新して
経営をしたなら、これは別の店であって「後継」やないわな。たとえ「屋号」が
同じでも、やっぱり別の店やデ。
こういった類のことを中国の文字「禅譲」という意義や定義そのままで説明するのも
どうかと思うが、読む方もその真意くらいはわかるやろに・・・
356 :
日本@名無史さん:02/12/15 04:07
>>355 すんませんな・・・(汗)
しかし他に適当な言葉がなかったもんで。
>>347 有効な反論という言葉づかいはどうでしょうか。そうした言葉づかいをなさると、
「オレにとっては有効な反論ではない」と言いがちです。
子供の喧嘩で「痛くねーやバーカ」というのとかわりません。それでは議論になりません。
有効かどうかは、論理がおのずと明かしてくれます。誰かの主観で決まるものではありません。
たとえばあなたが「枝葉末節」という「同一王朝」問題も、九州王朝派の方にとっては重要である、と言えます。
逆に否定派にとってはそれこそどうでもいい問題です。これは論理を考えていけばおのずと判ります。
「同一王朝」問題では、九州王朝派の方は、ご自分で自説の根拠を否定していました。
ところがそれをご自分で理解してなかったようで、主観的にはまったく「痛くねーやバーカ」状態です。
しかし論理の当然の帰結として、主観はどうあれ、かれの主張は、九州王朝の根拠のひとつを否定してしまいました。
そもそも九州王朝の根拠はないと考える人にとっては、それこそあたりまえのことでどうでもいい問題ですが。
どうでしょうか、有効な反論、という言葉づかいが、いかにあやういものかご理解いただけたでしょうか。
それをご理解していただいたなら、あなたが引用なさった問題に対しても反論がなされているかどうか今一度ご確認ください。
>>349 同志のキミを非難するつもりはないけど、しかしあまりに枝葉末節な論理に走りすぎ。
「言葉遊び」っていうのは、ある意味では正解だと思うな。「木を見て森を見ず」に
ならないように。
359 :
日本@名無史さん:02/12/15 04:34
ご理解いただけなかったようで残念です(笑)。もう少し時間が必要かもしれませんね。
魏志倭人伝に「漢の時朝見する者あり」とあるのは「漢委奴国王」の金印をもらった
倭奴国であることは後漢書を読めばわかる。
その後漢書に倭国王帥升のことが記載され、邪馬台国のことが記載されている。
そしてその後漢書の書かれた時代が「倭王讃」の時代であり、「司馬曹達」が
宋朝に使わされた時であることを考察すれば、後漢書の「倭伝」の「倭」が
「倭王讃」の「倭」であることは明らかだろう。
そしてその宋のことを記した「宋書倭国伝」に「世々貢職を修む」とあれば、
それは「魏志倭人伝」「後漢書倭伝」に書かれている、漢朝や魏晋朝に朝貢してきた
「倭」であることは当然だ。
そして南斉書倭国伝に「漢末以来女王を立つ。土俗すでに前史に見ゆ」とあるからには
この「倭」が卑弥呼の後継王朝であることは明らかだ。
そして隋書にも「魏志の邪馬臺なる者なり」と書き、さらに旧唐書の倭国伝でも
「古の倭奴国」と記述している。
362 :
日本@名無史さん:02/12/15 04:59
>>360 まあ細かい言葉のことはともかく、350氏の主張している「真意」は
もうちゃんと理解しているんでしょう?
363 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:08
>>360 あ、いや、359は僕が書き込んだんだけど、
>>347さんとは別人でつ。
ややこしいことしてゴメン。
僕の立場は九州王朝肯定派ではあるんだけど、正直迷っている。
ただ、「中国側が間違えたんだろう」とか「中国の歴史認識が絶対か?」という
ような論理には少々反発を覚えるんだ。
倭国側の「偽称」や「ウソを述べた」なども同じく。そういった反論が目立つので
「ロクな反論が・・・」と言ったまででして。
こんな主張がまかり通れば、「古代史」という学問は崩壊してしまう、という
主張に深く同意するんだ。
正直、九州王朝が実際にどうだったか、という論証となると僕の手には負えないでつ(笑)
364 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:17
>>357 何度もレス読み返したんだが、どこが
>「同一王朝」問題では、九州王朝派の方は、ご自分で自説の根拠を否定していました。
なのかサッパリわからんのだ。
スマンが判りやすく説明してくれんか?
365 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:24
366 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:27
ようするに継体が武烈朝の後継王朝、という感じのも含めた同一王朝って
ことだろ。
少なくとも「九州王朝」に根拠がないとは到底言えないと思われ・・・
368 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:28
漢末以来同一王朝だといい始めたから、倭奴国と関係ないと認めて自説の根拠を否定んでしょ?
369 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:44
「九州王朝」には根拠がない。
そもそもなんで中国の使者が日本に来るときや、日本からの使者が中国に行く際、
わざわざ九州を経由していくんだ?
劉徳高や百済禰軍、郭務悰が筑紫にとどまったまま「表函」をたてまつっているのには
納得がいかん。とうぜんヤマトまで持って来るべきだろう。
372 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:51
>>368 否定派にはそういうあげあし取り論が多い。
373 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:51
>わざわざ九州を経由していくんだ?
通り道だからに決まってるでしょ。
>>372 根拠ゼロの九州王朝説の足は上がりっぱなしだから
375 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:55
邪馬台国=九州説 に立つ奴で倭の五王=畿内説 を展開する奴の思考回路を疑う。
376 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:56
普通の九州説はみんな倭の五王=畿内説です。
377 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:56
揚げ足とらなけりゃ反論できないのが否定派の泣き所
378 :
日本@名無史さん:02/12/15 05:58
>>373 なんで四国の伊予じゃアカンの? 長門の国でもまだしもだ。
それより
>>371の後半分に反論してみて。
あんまりとりやすいもんで、ついとっちゃうんだよ。
380 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:00
>>376 それで例の「南斉書」倭国伝の記述を躍起になって否定してかかるわけね。
ご愁傷様でした。
邪馬台国=畿内説 倭の五王=畿内説 なら筋が通った話なんだけどね。
381 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:01
>劉徳高や百済禰軍、郭務悰が筑紫にとどまったまま「表函」をたてまつっているのには
納得がいかん。とうぜんヤマトまで持って来るべきだろう。
敵国の使者をやうやすと都まで通すほうが納得がいかん。
江戸幕府が戦争相手ですらない欧米人をどう扱った?
邪馬台国九州説で倭の五王畿内説ってのは、つまりはどっかで倭国内の王朝が交代し、
あるいは畿内へ東遷したって立論なんでしょ?
それが僕には到底ついていけないところなんだ。
讃〜武=応神〜雄略の各天皇に否定するやり方とともに。
383 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:09
同じ倭国であることには違いない。
でも漢末以来女王が立ってるはずの倭国の讃〜武が女じゃないなら
漢末以来同じ王朝だってのも自己矛盾だろう。
384 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:09
>>381 そういうことなら「上表文」を受け取ること自体、納得がいかん。
しかもなんで「筑紫」なんだ?
385 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:15
>「上表文」を受け取ること自体、納得がいかん。
筑紫で「上表文」を受け取ったと主張する根拠は?
386 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:15
>>383 うーん、その立論も納得しかねる。
「〜以来」っていうのは、「〜以来、今に至るまで」って概念はないからね。
「漢末以来女王が立っていたという倭国、あの倭国ですよ」って説明でしょう。
387 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:17
>>385 筑紫に至る、の2日後に「表函」を進む、とある以上、そう受け取るしかない。
388 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:22
>>386 だから同じ倭国でも同じ王朝とは書いてないでしょ?
同じ王朝だと言いたい人は「〜以来、今に至るまで」と解釈するから連続性を主張する。
「漢末以来女王が立っていたという倭国、あの倭国ですよ」なら、どっちも倭国には違いないけど、九州とも吉備とも四国ともわからない。
389 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:33
>>387 それは日本側の文飾でしょう。唐側に「上表」の記録がない以上は前線将軍レベルの私信と解するしかない。
よって大宰府で取り扱うのが順当。
390 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:43
>>388 うーむ、そのあたりが見解の相違なんだろうな。
私は中国側は「日本列島の国々」などの総称として「倭」と呼んでなどいない、
という立場なので。
後漢書、三国志、宋書などを見ても、「倭」をあくまで一つの王朝として
扱っているとしか思えない。
名称の違いはあれど、倭奴国=倭国=女王国→倭の五王の倭国、ということ。
そもそも「国」というのはそういう概念のものだと思うが?
わざわざ「漢末以来〜」という一文を入れているのは、同じ王朝だということを
簡素に示したものだと思うが。そもそも別ならまったく無意味な一文となってしまう。
391 :
日本@名無史さん:02/12/15 06:50
>>389 うーむ、「文飾」と主張されると反論のしようがないなぁ。
むろん「文飾」っつーか、唐が日本に「上表」ということはたしかに「文飾」だろうけれど、
「前線将軍レベルの私信」を「表函」に入れるというのはどうも・・・
「唐国」が使わした将軍が持ってきた「表函」なのだから、「唐帝の国書」が入っているものと
理解するのが筋だと思うのだ。
つまり馬韓が滅んだ後、百済が馬韓にとってかわっても決して百済王は「馬韓王」と
名乗っておらん。これは辰韓→新羅でも、弁辰→任那・加羅でも同じこと。
もし倭国の配下の小国が邪馬台国に取って代わったとしても、決して「倭王」の類の称号は
名乗らないだろうし、また中国側も認めはしないだろう。
いい例が旧唐書日本伝の、倭国→日本国なんじゃないかい?
393 :
日本@名無史さん:02/12/15 08:18
「表函」に入っているから上表だという解釈なんでしょ?
だけど唐が日本に「上表」するということはない。
だからその「表函」に入ってるというのが文飾なんじゃないか!
394 :
日本@名無史さん:02/12/15 08:58
>わざわざ「漢末以来〜」という一文を入れているのは、同じ王朝だということを
簡素に示したものだと思うが。
その「漢末以来〜」が東晋や宋の時代は指さないんだから、女王のいたころの倭国と五王の倭国は別の王朝だってことだ。
395 :
日本@名無史さん:02/12/15 09:38
>>390 >名称の違いはあれど、倭奴国=倭国=女王国→倭の五王の倭国、ということ。
後漢書にはっきり倭奴国のことが倭国の極南界と書いてあるんだから間違いでしょう。
インドの学者が言ってたが、この時代は、日本の場合、
15世紀の戦国時代に似ていると思われるので、
それに考慮して、推測できると言っていた。
やっぱり九州王朝説に根拠はなにもなかった。
398 :
日本@名無史さん:02/12/15 16:07
漢委奴国王の委は倭ということで問題はないんですか?
ないだろ
委と書かれている箇所は他にも見られるんですか?
401 :
日本@名無史さん:02/12/15 17:23
>355
>代々続いてきた「店」を息子やない、番頭や友人・親類に経営権を譲ることを考えたらエエ。
>つまり「屋号」もそのままで経営を続けたら「同一店」であり「後継」であろう。
で、その後継者が経営権の委譲とともに本社を大阪から東京に移したり、
場合によっては、重役連中が結束して創業社長を追い出して、本拠地を移動したりとか、
歴史があり格式のは高いが傾き書けた店を、新興だけど全国展開していて資本力も
雲泥に違う企業が株の過半数を取得して屋号と経営権を奪取するとか
屋号が同じでも中身が全く違うってのはいくらでもあるんだけどね。
この「後継」問題の本質は、こういう可能性をすべてアプリオリに否定してる所にあるんだけど、
わからんかな?
402 :
九州王朝大好き:02/12/15 18:07
根拠の全くない禁忌王朝説には、もう秋田。
403 :
日本@名無史さん:02/12/15 18:19
禁忌説不利のようだな。
404 :
日本@名無史さん:02/12/15 18:34
近畿説では、倭国を日本列島の真の代表と考えて必死で近畿へ持って行こうとしてるようだが、
その必要はないのでは?
倭国は九州で生まれ7世紀末頃九州で滅び、
近畿王朝は近畿で万世一系(?)で日本列島最強で良いのでは?
405 :
日本@名無史さん:02/12/15 19:19
そうはいかないよ。
これから皇国史観を復活させ
天皇崇拝・武士道などの価値観を復活させて
いく必要があるんだから…。
明治のような強い日本にするんだ…!
406 :
日本@名無史さん:02/12/15 19:53
九州に倭国があったとしても、皇国史観には影響ないよ。
日本列島の各地の勢力を征服して統一したのが近畿王朝だから、九州もそのなかの一つに
過ぎない。たまたま中国に近いから中国と出入りがあって記録に残ったに過ぎない。
日本列島で最大最強は大和さ。
407 :
日本@名無史さん:02/12/15 20:17
皇国史観なら、中国に朝貢したのは九州王朝の方が都合がいいのでは?
江戸時代の邪馬台国九州説というのも、そういうことでしょ。
まあ、ともかく
>>405はなりすまし。
九州王朝、手段を選ばず。
最近、日本で農耕が始まったのは、弥生期ではなく、縄文期なのが定説。
となると、当時、日本で最も米の生産量が多く、
人口が多くて、兵力が多く動員できた地域は、どこよ?
410 :
日本@名無史さん:02/12/15 20:36
縄文遺跡の稲と弥生遺跡の稲の種類、dnaは同じなんですか?
縄文から稲作は伝えられていたけど、弥生のころ別の稲作集団が大挙入ってきた
ということは考えられないでしょうか?
411 :
日本@名無史さん:02/12/15 20:56
どうせ平安の頃までは朝貢してた事実があるんだ。
九州王朝があれば
さらに大和王権が弱化するだけ。
よく縄文、弥生と、ひとまとめに考えられるが
実際は、もっと複雑というのが定説。
413 :
九州王朝大好き:02/12/15 21:16
>>410 縄文の米は陸稲。赤米黒米等。
弥生の米は水稲。白米が主力。
>>409 縄文期の米は陸稲なので生産力が高くありません。
陸稲では経済力も上がらず、人口も増えません。
縄文期は海水面も高く、水稲に適した低湿地海岸平野はまだありません。
低湿地海岸平野ができ、水稲導入の条件が整う為には紀元前10世紀まで待たねばならなかったのです。
紀元前6世紀頃に日本最初といわれる水稲田が見つかっているのは、この自然条件にかないます。
もっと古い水稲田遺跡が今後発見されても紀元前10世紀以内のものと予想されます。
弥生時代が、今まで言われていたよりも
古いかもね。
戦国時代、明の皇帝は、
九州の大友、中国の大内、毛利に対して、
日本国王の勘合府を出していた。
古代も、それと似てるんじゃないの?
416 :
日本@名無史さん:02/12/15 21:42
俺も皇国史観には九州王朝説が有利と思う。中国に朝貢して妙な官職をもらった王朝なんて
大和以外の方が都合が良いね。それに、中国が認める王なんて、日本国王が
>>415の例のように
ズレている可能性があることは明らかだから、そんなもん何でも良いじゃないか。
九州の倭王で充分だよ。
417 :
日本@名無史さん:02/12/15 21:53
>>415 古代も何も、外交ってそういうもんでしょ。
が、それでわかる相手ならはじめからこの問題は起きてない。
古田の朝鮮観ってそうとう右翼っぽくない?
419 :
日本@名無史さん:02/12/15 21:56
>>416 >中国が認める王なんて、日本国王が
>>415の例のように
>ズレている可能性があることは明らかだから、そんなもん何でも良いじゃないか。
と
>九州の倭王で充分だよ。
が飛躍してるんだけど。
何でもいいなら畿内でも何でもいいわけで、結局、九州王朝の根拠じゃないってことでしょ。
>>418 双方とも、イデオロギーを持ち込むのはやめよう。
421 :
日本@名無史さん:02/12/15 21:58
もちろん、
>中国が認める王なんて、日本国王が
>>415の例のように
>ズレている可能性があることは明らかだから、そんなもん何でも良いじゃないか。
は、
>九州の倭王で充分だよ。
の根拠ではないよ。感想さ。
>そんなもん何でも良いじゃないか。
の意味は、どう見ても九州説が有力な訳で、わざわざ倭国を畿内へもって来なくても
良いじゃないか、かえってその方が大和が偉大だよ、と言う意味も含んでいるよ。
古代の歴史というのは、結局、当時の農耕社会を
研究することが重要。
現在、産業革命を研究するようにね。
>>423 同意。
中国の史料に現れる倭国は九州説が有力だと思うが、それは文献解釈の問題であって、
当時の日本列島の実態の解明にどれほど有益かは疑問と思っている。
古田説に関する俺の感想としては、伝統的な王朝=中国公認の王朝=偉い、⇒大和王朝はずるい、
という価値感が見え隠れするところが受容れ難い。
425 :
日本@名無史さん:02/12/15 22:32
>>424 >中国の史料に現れる倭国は九州説が有力だと思うが、
どうして?
426 :
日本@名無史さん:02/12/15 22:42
>>425 このスレや前スレの議論で九州王朝説が説いているところです。
こう言うと、また振り出しに戻って同じ議論の繰り返しになるか、
「思うのは勝手だが、・・・」ということになるのかな?
まあ、俺がそう思っているということで勘弁してくれ。
427 :
日本@名無史さん:02/12/15 22:51
>>426 >このスレや前スレの議論で九州王朝説が説いているところです。
何説いてたっけ?
「同一王朝」はあんた違うようだし、
あとは、太宰府や紫寝殿しか記憶にないが?
しかしこれは史料でも文献解釈でもないしなぁ・・・・
428 :
日本@名無史さん:02/12/15 23:18
九州王朝否定派ってもはや真実はどうでもいいって感じだね。
南斉書の「漢末以来〜」の一文を、なんで著者がわざわざ入れているか、ということに
まるで考えが及んでおらんようだ。
当然、卑弥呼、台与の国だったからでしょう。それを簡潔に説明しているんだよ。
「別の国」なら、わざわざこんな一文を入れる意味がまったくないではないか。
この一文で「同じ国です」と説明している以外、著者の意図がないのである。
429 :
日本@名無史さん:02/12/15 23:18
今どうかなー、と思っていることがあるよ。推古朝の遣唐(隋)使。
それ以前の大和王朝は中華帝国と交渉を持った記録はないので、これが初発。
一方は隋書。議論し尽くされたこととは思うけど、矛盾がある(ように見える)ことは有名。
これをどう位置付けるか?
@大和王朝が九州王朝の事績をパクッタが少し間違えた。
A隋がいい加減な記録を残した。
B九州王朝の使節に大和王朝の使者が2回目から随行した。
伝統的な九州説では@、近畿説ではAかな? 最近、B説の本を読んだんだが、
どう思う。これなら日本書紀も隋書もウソを書いていないことになるね。
俺が知らなかっただけで以前からあった説かな。
430 :
日本@名無史さん:02/12/15 23:41
>>429 Bはありうる話ですね。
唐朝には「蝦夷国」が倭国の使者に伴って朝貢しています。
このことは冊府元亀、伊吉連博徳の書(日本書紀引用)がともに記しています。
431 :
九州王朝大好き:02/12/15 23:50
>>429 >B九州王朝の使節に大和王朝の使者が2回目から随行した。
そこで九州王朝の人と近畿王朝の人が喧嘩してシナ側も困ったのですね。
又、近畿王朝の人はシナ側に自分達の歴史をしゃべったものだから、
シナ人は近畿王朝の人をうそつきだと思ったのですね。
という事は、遣隋使は正式には九州王朝の使節で、近畿王朝の人が伴行しただけですね。
後の近畿王朝単独の遣唐使は、北部九州を通らないで、南海経由で派遣されていますね。
彼らは航海技術が低く渡航の成功率が低く、9世紀には派遣を打ち切りましたね。
これは俺の思いついた説ではなく、本で読んだもの。
著者の名誉のために紹介しておきます。
森田憲幸さんです。自費出版されているようです。
433 :
日本@名無史さん:02/12/16 00:06
不名誉のためになったようだ。
九州王朝説の人って中国や韓国に民族的偏見のある人が多いね。いわゆる右翼。
435 :
日本@名無史さん:02/12/16 00:15
右翼が近畿天皇家よりも九州王朝の方が古くて由緒正しいなどと主張するかぼけ
437 :
日本@名無史さん:02/12/16 00:39
>>429 これは
>>426氏かな?だったらありがとう。
以下、不特定多数に向けてのレス。
気が向いたら、
>>426氏もなんか書いて。
推古紀に食い違いがあるのは確かだが、
日本側史料と中国側史料を比較して見れば、
通交記事のほとんどは一致する。
どのくらい一致するかは、既に何度も出ているが、
village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu_text3.htm
に詳細に論じられているので参照のこと。
ほとんどが一致しているのに一部の差異で全部を否定するのは方法として間違っている。
たとえば、100本の木が植えられた林があって99本が檜、1本が杉だったとする。
これを、1本だけなぜ杉なのか説明せよ、説明できなければこれは杉林だ、
と主張することがどれだけアホらしいかを考えればすぐわかる。
438 :
日本@名無史さん:02/12/16 00:52
>>437 で、なんで「通典」「唐会要」「旧唐書」「冊府元亀」など、明らかに日本側が
「近畿天皇家」が日本の代表として中国と通交している時代の書物に、明らかに
倭国と日本国が別国扱いされている「旧唐書」「冊府元亀」が編纂されているかが
問題になっているのですが?
当時の日本について、どこからどう見ても、「近畿ヤマト政権」が代表国なんですが?
「通典」「唐会要」はその時代状況、そして日本の使者の主張にも合うように編纂され、
「旧唐書」「冊府元亀」は合わなくても手元の史料に基づいて編纂された、
とする主張の方が理が通っていると思うのですが?
439 :
日本@名無史さん:02/12/16 01:21
そういや遣唐使で長安に行った日本の代表が、武則天の時代に国号が「周」になっていて
おどろいて相手に質問しているような記事を、どこかで読んだ記憶があるなぁ。
これなど天皇家が中国と通交することに慣れておらんことの現れな気がする。日本=倭国なら、
漢→魏→晋→宋→南斉→梁と禅譲によって国号が変わっていたことを知っているはずなのに・・・
441 :
日本@名無史さん:02/12/16 01:47
結局、九州王朝説にろくな反論できない否定派ということで
442 :
日本@名無史さん:02/12/16 01:47
>>439 唐のつもりで行ったら周に変わってれば誰だって驚くわな。
443 :
日本@名無史さん:02/12/16 01:50
振り返って読めば九州王朝説って何の根拠もなくて憶測とか感覚論ばかりでしょ?
ひとつ残らず完璧に反論されてるのに
>>441みたいな事実捏造で気勢を揚げないとモたないんじゃないの?
444 :
日本@名無史さん:02/12/16 01:54
>>438 ま、とりあえず、紹介したリンク先を熟読されて、
何と何が一致しているかを把握されたうえでもう一度ご返事ください。
唐会要も読んでくださいね。面白いですから。
445 :
日本@名無史さん:02/12/16 02:03
「旧唐書」って日本側が「近畿天皇家」が日本の代表として中国と通交している時代の書物?
正確にいうとぜんぜん通交してない時代の書物じゃないのか?
446 :
日本@名無史さん:02/12/16 02:32
>>444 いくらそのリンク先に書いてある事を読んでも、九州王朝の存在は疑えない罠。
447 :
日本@名無史さん:02/12/16 02:33
万葉集に筑紫のことを「遠の朝廷」と言っていることはどう解釈したらいいの?
448 :
日本@名無史さん:02/12/16 02:42
朝廷から遠くにある出先機関はみんな「遠の朝廷」ですが何か?
450 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:07
451 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:28
ああいえばこういう否定派。
しかし九州王朝の実在は疑えない。
やはり後漢書の作者が宋朝に仕えた人ってのは決定的だな。
452 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:29
っつーか、太宰府、紫宸殿という名称問題に反論してないんじゃないか?
「阿蘇山有り」に対する否定派の論理もムチャクチャで。
454 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:39
日本書紀に宋朝との通交記事がないのが否定派にとっては致命的。
455 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:45
>>451はまるで意味不明。なんの主張にもなってない。
>>452の大宰府については過去レス
>>125で決着ずみ。
紫宸殿なんていつからあったかわからない地名は根拠にならないので無視。
456 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:51
後漢書の作者=宋朝の官人
ってことは後漢書の「倭伝」にある「倭」=倭讃の「倭」であることは当然だわな。
なにしろ後漢書の読者は宋の人が対象であるのは当然なのだから
457 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:52
>>454も意味なし。百済高句麗より格下の称号をもらったなどと書けないのは当然。
>>453は「阿蘇山有り」ごときで九州王朝の理由にするのが非論理的。
458 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:52
今だに倭王武=雄略で押し通すのかな? 否定派の諸君は。(プ
根拠が薄弱じゃないかね? それは。
459 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:55
>>456 だから何?九州王朝と関係なし。
>>458 違うという証拠でもなければ九州王朝説にとって意味なし。
460 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:55
かくして九州王朝説に根拠なし。
461 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:56
>>457はまるで反論の体をなしていない非論理的主張ということで。
なにしろ隋書には近畿らしき地名はひとつもないのだから。
あ、邪馬堆=ヤマトってのは成立しないからね。この音はあくまでヤマタイ。
むろん邪馬臺=ヤマダイであってヤマトと読む根拠&例はまるでナシ!
462 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:57
じゃ、俺ねるから、まだなんか使えそうな根拠があると思い込んでいるなら箇条書きにして書いておきたまえ。
あしたゆっくり料理してあげるからね。
463 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:58
無理な読み方をしないと近畿に持って来れない多利思北孤
464 :
日本@名無史さん:02/12/16 03:59
都合が悪くなると寝てしまう否定論者。
・・・・っつーか、起きている俺の方がどうかしているか(汗)
465 :
日本@名無史さん:02/12/16 04:01
それから万葉仮名「台」はトだからね。
466 :
日本@名無史さん:02/12/16 04:04
だいたい「金印」が九州から出土して
「太宰府」「紫宸殿」「内裏跡」という地名が九州に存在し
中国側の史料に「阿蘇山」「竹斯国」という地名が書かれており、
近畿の地名などまるで中国側の史料に登場しないのに、
なんやかやと理屈をこね回して「これは九州ではない」ということにしてしまう
否定論者はイタイ。
467 :
日本@名無史さん:02/12/16 04:06
>>465 「台」と「臺」は別字。
そもそも「万葉仮名」などを持ち出さないと正当化できない論なわけね。
むろん正当化に見事に失敗しているわけだが
468 :
日本@名無史さん:02/12/16 04:12
臺→台にすり替えた上に、万葉仮名まで持ち出さなければ多利思北孤を近畿に持って
来れないのですね。
よくわかりましたよ九州王朝否定論者サン。
469 :
日本@名無史さん:02/12/16 04:43
なんか冷静に考えたら九州王朝って存在したような気がしてきた。
いや、まだまだ、まだまだ半信半疑どころか、3信7疑くらいなんだけどさ。
隋書の「阿蘇山有り」問題や、南斉書の「漢末以来女王を立つ」など、
どうみても否定論には不利だよ。
「漢末以来女王を立つ」でなんでか「武」までが女王なのかって論をふっかけ、
そうでなければ別の国だとかいう論になってるな・・・
しかし別の国ならなにもわざわざそんなこと書かなくてもいいわけで。
同じ国だからそう書いた、とする主張の方がはるかに説得力があるわけで。
471 :
日本@名無史さん:02/12/16 04:56
否定論もはや風前の灯!
472 :
日本@名無史さん:02/12/16 04:58
そうか、隋書に近畿の地名がまったく出てこないってのが、否定論者にとっては
頭の痛いところなんだ。
そうかそうか、なら多利思北孤=九州は、少なくとも「近畿」よりは有利なんだな。
473 :
日本@名無史さん:02/12/16 05:31
>>437 そのリンク先の多利思北孤以降についての考察はいかにも苦しいぞ。
それに天=兄 日=弟 についての古田説の否定も強引すぎるぞ。
どう読んでも多利思北孤=近畿天皇家の誰かということは無理だ。
474 :
日本@名無史さん:02/12/16 05:45
>>473 そのリンク先は多利思北孤=近畿ではないよ。よく嫁
476 :
日本@名無史さん:02/12/16 06:43
臺と台は別字でも同音だよね。
臺もくさかんむりをつければ「ふきのとう」の「とう」だし。
やっぱり邪馬台はヤマトでいいんじゃないのかな。
477 :
日本@名無史さん:02/12/16 06:58
臺は上古音之部でdog(oは半狭中舌)です。
ヤマトのトは円唇性中舌の乙と考えられているので、マのあとの子音が鼻濁する傾向を勘案すると邪馬臺はヤマトの音訳である可能性が最も高いと言えるでしょう。
>>479は捏造。別の国だと言っている人間は存在しない。
479 :
日本@名無史さん:02/12/16 07:11
ところで南斉書に「漢末以来女王を立つ」と書かれていることが、九州王朝説とどう関係があるんですか?
なんだか論理が飛躍していてよくわかりません。
480 :
日本@名無史さん:02/12/16 15:45
九州王朝説のひとの語尾だけ拾ってみた。
「九州王朝って存在したような気がしてきた」←最初からそういう気がしてる人が書いたと思われ
「否定論には不利だ」←結論のみで思考過程が不明。
「説得力がある」←脈絡なし。個人的感想か?
「有利なんだ」←有利な理由が不透明。
「苦しいぞ」←どう苦しいか説明なし。たんなる感想。
「強引すぎるぞ」←どう強引なのか説明なし。たんなる感想。
「どう読んでも」←理由説明がないときの常套句。
なるほど九州王朝説が感覚、印象ばかりで論理に欠けている実態がよく判る。
481 :
日本@名無史さん:02/12/16 19:51
九州王朝説の人は筋道立てて説明することができないようだ。
なんとなくわかった気になっているだけだから他人に説明できないのだろう。
もともとイメージの刷り込みだけで作られた説だから当然ともいえる。
482 :
日本@名無史さん:02/12/16 21:20
>473
そのリンク先の人物は、YAHOOの九州王朝トピで、他の人の投稿をバカにしている
人物と思われ。学者が素人相手にすることかね、と大人げなく思う。(違う人物かもしれないが。)
483 :
日本@名無史さん:02/12/16 21:27
と、九州王朝説擁護者は未確認情報で他人を大人気なく罵倒するのだった。
いつも未確認情報を確かなもののように粉飾してる。
なんとなくイメージ誘導で煽動するのね。
484 :
日本@名無史さん:02/12/16 21:32
もしかして、お前がその本人か?関係ないことまでうじうじと、ご苦労さんな事だな。
う じ む し で つ か ?
485 :
日本@名無史さん:02/12/16 21:36
>>842に好例が出た
吸収王朝説さんの特徴
いつも具体的情報を盛り込まず適当にボカすところがミソだ
情報出所を特定すれば捏造や歪曲がばれるから・・・
九州王朝はファビョーンになりますた。
ついに人格攻撃に走り出したです。
善悪の見境がつかなくなったようでつ。
488 :
日本@名無史さん:02/12/16 21:41
>>484 >関係ないことまでうじうじと
どれが「関係ないこと」だろうか?
具体的に指摘できないところはいつものファビョーン
490 :
日本@名無史さん:02/12/16 21:50
諸君!作戦に乗ってはだめだ。
質問に答えられなくて罵倒で誤魔化してるのだから。
まやかし九州王朝説を理詰めで問い詰めよう。
また、釣れた釣れたとかいうのかな?
492 :
日本@名無史さん:02/12/16 21:53
九州王朝説の馬鹿者が一匹しか釣れておりません。
もっと大物がほすい。
493 :
日本@名無史さん:02/12/16 21:57
それじゃ無断再掲。
>ところで南斉書に「漢末以来女王を立つ」と書かれていることが、九州王朝説とどう関係があるんですか?
九さん答えてね♪
沈黙・逃亡・話題ずらしが吸収王朝説のお家芸。
4時すぎに一人五役で帰ってくるよ。
496 :
日本@名無史さん:02/12/16 22:52
>>437の
village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu_text3.htm が、正直に謎としている
推古朝の遣唐(隋)使のことを
>>429の
B九州王朝の使節に大和王朝の使者が2回目から随行した。
の仮説は見事に埋めている。
何の裏づけもないまま謎のほうにあわせて解答作れば穴が埋まるのは当たり前で
見事でもなんでもない。
498 :
日本@名無史さん:02/12/16 23:13
>>496 言ってること、わけわかんね。
「village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu_text3.htm が、正直に謎としている
推古朝の遣唐(隋)使のことと」は具体的には
village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu_text3.htmのどの箇所のことで、それを
それが
B九州王朝の使節に大和王朝の使者が2回目から随行した。
とすると何故解決するのか?
九州王朝論者のいうことはいつも結論ばかり書き捨て書き逃げなんで、わけわかんねーよ。
自分でも意味わからないで書きなぐってるんじゃないの?
500 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:34
「漢委奴国王」の金印が出たのが九州。
したがって後漢書に言う「倭奴国」が九州であることは当然。
その後漢書には、漢朝に倭国が朝貢してきていることを記述している。
魏志倭人伝・後漢書ともに漢末・魏・晋朝時の倭国に女王が立って統治していることを記載。
で、南斉倭国伝に「漢末以来女王を立つ。土俗すでに前史に見ゆ」とある。
漢末以来女王が立ったのは当然、卑弥呼らの国であるし、「前史」が三国志倭人伝・後漢書
であることは明らか。
つまり倭王武=九州 としか考えられない。
501 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:35
大切なことは、
「漢末以来女王を立つ」で卑弥呼の国の後身であることを著者が示していること。
別の国なら、わざわざこんなこと記述する必要がない。
502 :
Stromdorf:02/12/17 00:36
503 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:40
>>339(
>>438,
>>500も同じ)
>「通典」「唐会要」などを根拠に「倭国」と「日本国」の分裂を否定しようとする人が
> いるけど、その誰もが、それらが執筆された時代について論じていない。
論じてるよ。
> そもそも「通典」「唐会要」をはじめ「旧唐書」「冊府元亀」などが執筆された時代は、
> 中国側が日本の代表と見なしているのは「近畿天皇家」である。
(中略)
> しかし、同じくそんな時代に執筆された「旧唐書」「冊府元亀」が、倭国と日本国が別
> の国だった主張しておるのだ。
『旧唐書』が書かれたのは五代晋の時代、すなわち日本が遣唐使を廃止し、中国が直接日本からの使者を受け入れなくなった後の、しかもその唐が滅んだ後の時代だ。
だから五代晋の史官にとって日本列島が(五代晋の時代に)一つの王朝なのかどうかなんてわかっていたとは限らない。なにせ当の中国自体、統一国家唐の滅亡後に分裂したんだから。だから
(続く)
504 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:41
(承前)
> したがって、「倭国」「日本国」が同一だとする史料がこの時代に執筆されたとしても、
>「それでよし」ということしか論証できない。当時の執筆者にとっては、どう見ても
>「日本国はひとつ」としか見えなかったのであろうから。
なんて断言できないよ。それに、日本からの使者自身が(過去の中国に朝貢した倭なんて自分達の祖先じゃないと主張するために)倭と現「日本」政権は別国だと主張して中国の史官はそれを真に受けただけなのかもしれないから、
> それとも「旧唐書」「冊府元亀」の著者が、史料の誤読、誤解のオンパレードで倭国と
> 日本国を別国扱いしてしまった
とも限らない。九州王朝説の人は、史書の記述を特定の可能性に限定して解釈し、しかもそのことに無自覚なのがイタイ。
いずれにせよ、九州王朝説の人には、
*** 自分の説に都合の悪い中国史書の記事を無理な解釈で逃げるな! ***
といいたい。
505 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:41
>>451 > やはり後漢書の作者が宋朝に仕えた人ってのは決定的だな。
>>456 > 漢書の作者=宋朝の官人
> ってことは後漢書の「倭伝」にある「倭」=倭讃の「倭」であることは当然だわな。
相変わらず意味不明な書き込みを続けているが、どうもこの九州王朝説論者は「自分
の生きてる時代に朝貢した倭を見た史官が史書に倭と書いたら、それは同じ国である」
ということが自動的に判明するとでも思っているようだ。
もちろん史書の著者はそういうつもりで書いているだろう。だが、それが「事実であ
る」という保証はないだろう、と言っているのだ。つまり朝貢して来る倭の使者が、本
当は新興王権であるにもかかわらず、自分達を由緒あるように思わせるために「我々は
昔朝貢した倭ですよ」とウソを付く(というより、黙っていれば相手が勝手にそう思っ
てくれるから、あえてウソを付く必要もない)動機は十分ある。
それとも使者がウソをつくことはないとでも思っているんだろうか。「日本書紀の著
者は九州王朝の歴史を消し去るためにウソを書いた」とする古田説は鵜呑みにしてるく
せに・・・・・。
506 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:43
>>458 > 今だに倭王武=雄略で押し通すのかな? 否定派の諸君は。
勝手に相手の説を捏造しないこと。武=雄略は証明も反証もできてないよ。
確かに、宋書と記紀では王の「名前」「続柄」「在位期間」がどれも一致していない。
これらは史料事実だ。だからこれが「同一王朝である証拠にならない」のは当然だが、
問題は、「別王朝の証拠になるか」だ。
まず名前の不一致だが、当時の朝鮮半島のことを考えてごらん。例えば百済王だって、
「末多王」という民族名、「東城王」という漢風名、中国史書の「餘大(又は牟大)」
が出てくるが、これらはすべて同一人物だし、その次代の「斯麻王」「武寧王」「餘隆」
も同一人物だ。民族名と中国史書に登場する名に何の関連もない。「オオハツセノワカ
タケ」と「雄略」と「武」だってそのようなものでないという保証があるかね。
(続く)
507 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:43
508 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:44
(承前)
いずれにせよ記紀と中国史書の記事については
卑弥呼の時代(3世紀) : 全然一致しない(というより対応する記事がない)。
倭の五王の時代(5世紀): 全然一致しない。
隋書の時代(7世紀) : 一部一致(行路記事、隋の使者の名と遣使年次、官位等)
一部不一致(王名、王の性、出迎えの使者の名等)
唐代に関する文献 : 少なくとも遣唐使の年次は完全に一致。内容も矛盾なし
と時代が新しくなるにつれて不一致から一致に近づく。これが史書の記録の確実性(特
に日本側)の進歩の反映でなくて何であろう。
509 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:50
で、「漢末以来女王を立つ」の一文を卑弥呼の国と別国だと主張する
ことは無理な解釈ではないと。
アホが・・・
510 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:52
>>505 やはりその説は否定派にとって痛いようだね。
たしかに「絶対にウソはつかない」という根拠はないが、しかし「ウソついた」という
根拠も当然ない。
そもそも、そういうことを言い出したら、古代史という学問は崩壊しかねないのでは?
511 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:56
>>510 > そもそも、そういうことを言い出したら、古代史という学問は崩壊しかねないのでは?
何を言ってるの?「記事が正しいかどうかを確かめる」それが史料批判でしょ。
あなたは史料批判もせずに中国史書の記述を鵜呑みにするのが正しい文献史学
だと思ってるの?
それに私はこの記事だけを見て「ウソである」と断定したのではなく、3〜5
世紀の中国史書を分析して「どうやら倭人は断絶しているらしい」という分析結
果を得たの。これが「史料批判」でしょ?
512 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:57
使者がウソついたのだろう的な論はもはや学問じゃないと
513 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:59
>>511 その「断絶したらしい」ということの根拠がないではないか。
いったい何をもって「断絶したらしい」と判断しているのか
514 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:59
>>507 わき道にそれて申し分けないんだが、
>考古学的に弥生時代から古墳時代への大和地方の王
>権の断絶がわかって記紀の系譜の改竄が明らかになった例については、
掲示板見てもようわからん。
なんで考古学で系譜の改竄が明らかになるの?
理解できない。
515 :
日本@名無史さん:02/12/17 00:59
>>512 だからぁ、「使者がウソをついた」というのは分析の結果なの。
あなたは文献史学における論証の意義を全面否定していることにな
るんだよ。
516 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:01
>>514 畿内の勢力が、弥生時代のまま連続せず、吉備の勢力に取って代わられて
いること。記紀にはそんなことは書かれておらず、王権は連続している。
517 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:02
518 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:04
>>515 なんでやねん。
どこを分析して「使者がウソをついた」という論証結果になったんだ?
文献史学ってのは、そんなに文献というものをアッサリ否定し去れるものなのか?
ちがうだろ。それは自説の都合によって「否定」しているに過ぎないだろ。
519 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:05
>>516 >弥生時代のまま連続せず、
>吉備の勢力に取って代わられていること。
だから、それはどうやって証明したの?
まさか、特殊器台だけじゃないよね?
520 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:06
>>517 どのあたりかサッパリわからん。今問題となっている話題の主要箇所が
右側なのか左側なのか、記事のどのあたりなのか言ってくれ。
521 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:09
>>516 それは、つまりは遺跡の出土品が、単に「吉備」の影響が色濃くなった、というに
過ぎないのではないのか?
522 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:11
そもそも「神武天皇」は吉備に立ち寄っているから、吉備がスポンサーということだ。
断絶というのは、ひょっとして神武がナガスネヒコを倒したことか?
たしかそのあたりからヤマト周辺から銅鐸文化が消え失せたはずだが。
523 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:12
>>518 あのね、まず「王統が連続している」と書いてあったとしても、これは
実際に王統が連続している証拠にならない、というのが一般論としていえ
るでしょ。これは、論理学でいう「ウソつきのパズル」だ。その人が正直
者でもウソつきでも「私の言ってることは正しい」と言うから、この言明
は当人が正直者であることを意味しない。
だからこの人の言が事実であるかどうかは別途証拠が必要だ。ここまで
はわかるかい?
で、私が貼りつけたHPは、別の根拠により「王統は断絶しているので
はないか」という論証をしたものだ。もしこの論証が不充分ということに
なれば、「倭が連続しているかどうか」は「不明」ということになるだけ
のことだ。これが史料の限界というものじゃないかい?
524 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:19
>>519 #96に「諸特性」とあるとおり一つじゃないよ。もっと詳しい情報が知り
たければ考古学板に行くか、それともそのBBSに直接質問してみたら?
525 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:20
526 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:21
>>524 あんたが書いたんだから、ここで責任持って説明して。
でなければ撤回するか、どちらか。
527 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:22
>>523 > あのね、まず「王統が連続している」と書いてあったとしても、これは
>実際に王統が連続している証拠にならない、というのが一般論としていえ
だから、それを言い出すと「古代史」という学問は崩壊するんだって。
誰にも「絶対」ということは言えないのは確かだが、だからといって
自説に合わせて「あいつはウソツキだ」などと言い出したら、とても
古代史料など扱っていられない。
むしろ俺にはあんたの論理は逆立ちしているように思う。
「事実かどうか」についてはもちろんのこと、どんな史料を扱うにしても
論証・史料批判は必要だろう。
しかしそこに書いてあることを「事実」として扱うことに「証拠」など
いらない(史料批判とはまた別だ)。「ウソだ」と主張する方にこそ、
その証明が必要になるのだ。
ちがうかい?
528 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:30
>>527 > しかしそこに書いてあることを「事実」として扱うことに「証拠」など
> いらない(史料批判とはまた別だ)。「ウソだ」と主張する方にこそ、
> その証明が必要になるのだ。
そうはいかないよ。古田氏だって「神武実在」を主張するのに「そこに
書いてあるから」なんていうので済ませずにちゃんと「正しいことの論証」
をしてただろ?(その論証は成り立ってないけどね)。
そういうドグマ的手法だから九州王朝説は批判されるのだ。それに、ウ
ソだと主張する方に「も」もちろん証明は必要さ。だから私は証明を試み
たのさ。
529 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:31
>>526 私が撤回しようがしまいが考古学的事実が消えるわけではない。
私も放置はしないが、貴方も自分で確かめに書きこみに言ったら
どうだい?
530 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:35
>>521,
>>522 中山千夏さんの本によると第7代孝霊記のころだ、と書いてあるよ。(今手元に
ないので私に確認を要求されても困るが)
>527さん
ちょっとあなたのスタンスがわかりません。
「どっちともとれるよね」とお認めになられたわけですか?
それなら、そういうレベルの記述が「根拠になりえない」ことはお分かりですよね。
それとも「記述≠事実の可能性」自体否定なさるわけですか?
だとしたら、史書の「矛盾」から出発する古田説自体、成立しませんよ。
どちらにせよ、あなたの仰ることが何かの根拠になるとは思えないのですが、どうでしょうか。
逆転の発想でこう考えたらどうでしょうか。全ての史料は嘘をついている。間違っていると。
そのなかで嘘aが多くの史料で共通している場合、その嘘aは特別な意味をもってくる、ということです。
一方嘘bと嘘cには共通して登場する史料がありません。これは嘘aとは同じには扱えません。
ところで嘘cと嘘aには共通する史料があり、嘘bと嘘aにはない場合どうなるでしょうか。
嘘a>>嘘c>嘘bになるのではないでしょうか。嘘にも等級がある、というところまではご理解いただけますか。
「僕は嘘bを信じる、正しく理解した、だから嘘bを基準にして嘘aもcも判断する」とは参らないわけです。
532 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:37
>>529 あんた無責任な人だね。言いっぱなしの九州王朝と同レベルじゃん。
だいたい推測はついてる。
近藤センセがそういう意見を書いた本が、出版されただけでしょ?
ちがう?前から確かそんなこと言ってたからね。
でもね、一人の意見を「考古学的事実」とか言ったらいけないんでないかい?
推測が違ってたら、ゴメンね。
533 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:40
>>528 > そうはいかないよ。古田氏だって「神武実在」を主張するのに「そこに
>書いてあるから」なんていうので済ませずにちゃんと「正しいことの論証」
>をしてただろ?(その論証は成り立ってないけどね)。
それは「神武以降架空説」が学会の定説であったから、その定説の論拠を
崩すべく行ったことだ。
しかし「漢末以来〜」の一文に関する「ウソツキ」説は、その「論拠」が
ないじゃないか。つまり「使者ウソツキ」説はちゃんとした史料批判を
行っていないのに「ここに書かれていることはウソ」だと主張しているんだ。
なんでこれを批判するのに、「本当だという証明」が必要なのだ?
534 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:43
>>528 つまり「神武架空説」にはレッキとした「論拠」が主張されていたのだ。
535 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:48
>>531 どっちともとれる? 誰がそんな主張をしたかい。
誰も「可能性」について否定などしておらん。
しかし「漢末以来〜」という一文を「ウソ」だと主張するには、何らかの「根拠」が
あるわけなのだろう?
それとも根拠もなく「ウソ」だと言っておるのかい?
536 :
日本@名無史さん:02/12/17 01:50
>>530 「人が言うんだから間違いない、信じなさい」って? それは無理。
ただ史料を紹介する目的のレスだったのならサンクスだけど。
537 :
日本@名無史さん:02/12/17 02:14
>>523は九州王朝否定派から見ても痛いんじゃないか?
もし同じように「卑弥呼男性論」を主張し、「使者がウソついているんだ」式の
論理を展開した場合、
『もしこの論証が不充分ということになれば、「卑弥呼が男かどうかは」は「不明」と
いうことになるだけ』ってことになるのですか?
アホ臭い。
大和王権の発祥を前方後円墳の出現に見るなら、
吉備の影響と言われているものは、王権の交代など意味していない。
王権が成立する前の事だから、改竄もなにもないじゃん。
考古学的に見れば九州王朝なんかありえないでしょう。
むしろ文献の恣意的読解によってのみ、九州王朝を主張しているだけ。
>535
九州王朝説からいったん離れてお考えになられたらどうですか?
どうもエキサイトなさっているようなんですが。
仮説の「根拠」が、確固として論証されたものではない、という指摘があったとします。
この場合、仮説提唱者が、確固として論証されていること証明するべきでしょうか。
それとも、指摘者が、確固として論証されていないことを証明すべきでしょうか。
一般論におきかえて、冷静に考え直してみてください。
九州王朝の人ってまだ「倭国」=「倭奴国」って論理なの?
542 :
日本@名無史さん:02/12/17 02:38
>>541 それは後漢書じたいが明白に否定しているのに。
543 :
日本@名無史さん:02/12/17 02:47
九州における族長のお話なん?
544 :
日本@名無史さん:02/12/17 02:48
それも一地方
545 :
日本@名無史さん:02/12/17 02:52
>したがって後漢書に言う「倭奴国」が九州であることは当然。
>その後漢書には、漢朝に倭国が朝貢してきていることを記述している。
>魏志倭人伝・後漢書ともに漢末・魏・晋朝時の倭国に女王が立って統治していることを記載。
>で、南斉倭国伝に「漢末以来女王を立つ。土俗すでに前史に見ゆ」とある。
>漢末以来女王が立ったのは当然、卑弥呼らの国であるし、「前史」が三国志倭人伝・後漢書
>であることは明らか。
>つまり倭王武=九州 としか考えられない。
倭奴国が九州にあるから邪馬台国は九州だなんて言い出すの?
546 :
日本@名無史さん:02/12/17 02:57
>>540 あのなぁ、このことに関しては俺はとっくに「九州王朝」など頭の外なんだよ。
ある文献の記述内容を否定するには、とうぜん何らかの「根拠」があるわけでしょう?
それがたとえ執筆者の「ウソ」「誤り」とするにせよ、使者の「ウソ」にするにせよ。
「私はそう思う」というだけの仮説なら、それなりの重要性しかないのだ。
それを根拠に他者に「ウソでない証明」を求めることなど到底できはしない。
だから
>>540サンの場合は「私はそう思う」という主張にとどめるべきだ。
そして出来るなら「根拠はこの程度だが」という断りを入れれば、なお良い。
むろん批判はされるだろうが、「こう思う」程度の仮説だからやむを得まい。
というかその程度の仮説なのだから批判は計算済みだろう。
つまり論拠を示せない説を持ち込んで、他者を批判するのは間違いだ、ということ。
ことわっておくが、俺も「漢末以来〜」について、南斉書の著者、蕭子顕の倭国に関する
認識、という以上の論証はできない。これは誰でも同じだと思う。
しかしだからといって、そこから「倭国の使者がウソを言ったのだ」というのは
想像でしかないし、その想像を根拠に「真実であることの証明」を求めるのは無茶なのだ。
547 :
日本@名無史さん:02/12/17 02:59
>>542 否定している、ということの根拠は?
私は明確に「同じ国」として扱っているとしか読めないので。
九州王朝説は集合論がわかりません。
わたしが代わりにあやまります。
ご め ん な さ い。
549 :
日本@名無史さん:02/12/17 03:07
否定派の論ってひらきなおりの論ばっか。
吉備云々言ってた九州王朝説はどこに消えた?
551 :
日本@名無史さん:02/12/17 03:13
>>550 スレ嫁。吉備云々ヤローは九州王朝否定派だがや。
552 :
日本@名無史さん:02/12/17 03:19
>>547 >私は明確に「同じ国」として扱っているとしか読めないので。
なんで読めないの?
>建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也。
倭国の極南界にある国が倭国と同じ国なわけないでしょう。
515 :日本@名無史さん :02/12/17 00:59
>>512 だからぁ、「使者がウソをついた」というのは分析の結果なの。
あなたは文献史学における論証の意義を全面否定していることにな
るんだよ。
分析の結果? その分析とやらの方法論を聞かせてくれ。
どういう論証がなされていることやら
554 :
日本@名無史さん:02/12/17 03:29
>>522 倭国の極南界ってのは倭国の中である。「倭国之極南界」って、「倭国の南」ではない。
「倭国」の領域の「南界」というんだから倭国の南部と解するのが妥当だ。
というか「倭伝」で倭奴国、倭国王帥升の朝貢記事などとともに邪馬台国のことが
記載されているんだから、著者が「同じ国」という認識で書いていたのは当然でしょう。
>金印が九州で出てきたから倭奴国は九州にあったはずだ
志賀島に王の住居跡が出てくればそうかもしれないけど、金印は持ち出された
ものかもしれないし盗まれて全然関係ない所に眠っていたのかもしれない。
当然にあそこが倭奴国というのは性急だろうと思う。
556 :
日本@名無史さん:02/12/17 03:32
>>552 「倭国内」としないと「極南界」の「極」という字が意味不明の文字になってしまうよ。
金印の倭奴国ってどう読み下すんだっけ?
559 :
日本@名無史さん:02/12/17 03:42
>>554 あんたねえ!
熊本県は日本であるって言ったら日本は熊本なのかい?
「倭の奴国は倭国の極南界」
つまり「倭の奴国 ⊂ 倭国」じゃないの?
561 :
日本@名無史さん:02/12/17 03:43
>>555 「志賀島」から出てきたことに関しては、たしかにそこに倭奴国の王都があったとは
私も思わない。
しかしまったく離れた場所に王都があったとも、考えにくいと思う。
本来、「印」というものは中国で王朝が変わるときは回収し、新王朝が新たな
印を配るらしいことが、前漢→新に変わった際の匈奴とのエピソードで知られる。
倭国は漢末魏初には「倭国乱」の状態だったから、そういう印の交換等は行えなかったと
みるむきもあるが、いずれにせよ、金印出土の場所から「倭の都」からまったく離れたところ
というのは無理があると思う。
九州王朝説は集合論がわかりません。
563 :
日本@名無史さん:02/12/17 03:45
なんで倭奴国のハンコがあると倭の都なんだ?
「漢末以来女王を立つ」が九州王朝説にとって致命傷になったな。
沈黙する九州王朝説‥‥‥。
567 :
日本@名無史さん:02/12/17 03:54
劉宋代の人々は「ほら、漢末に女王が統一したアノ国ですよ」と認識している。
「ほら、光武帝に金印をもらったアノ国ですよ」とは認識していない。
結論出してヨカですか?
みんな寝静まったら元気に分身する九州王朝説‥‥‥。
私は邪馬台国大和説、東遷否定派ですがなにか?
571 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 04:07
うーん、やっぱり九州王朝は否定しきれない・・・
倭奴国が倭国の極南界って、やっぱり倭国内って理解が妥当だと思う。
倭国って小国があったわけでなく、「大倭王」だと後漢書も言っているのだから。
つまり三十国をひっくるめて「倭国」って、宋代は言っていたんでしょう。
それを宋代の読者に説明している箇所だと思う。
572 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 04:11
「〜也」というのは地の文だから、宋代の読者への説明文だと思いますよ。
つまり前の記事を受けて、現在の「倭国」の極南界に当たる、と説明しているわけです。
もっともこの「極南界」というのは著者の誤解でしょうが。
>>571 「倭の奴国 ⊂ 倭国」
つまり倭の奴国≠倭国だと思いますが。
金印をもらった奴国と女王を立てた倭国は別だと考えるのが自然ではないんですか?
九州王朝説は集合論がわかりません。
ナサケナイ・・
576 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 04:21
>>573 私自身は九州王朝説には半信半疑(3信7疑くらい)なんですけどね。
ただ、公平に史料を検討してみると、やはり倭奴国=倭国としか思えないんで。
というのも、後漢書の「執筆時点」の認識という視点、というのを、このスレの
九州王朝実在派さん達から学んだもので。
「倭国之極南界也」というのが著者の地の文であることは確実でしょう。
なら、ここの「倭国」とは「執筆時点」の倭国を基準に読者に説明している文だと
した方が理解しやすいので。
むろんこの場合の「倭国」とは大倭王の諸国をひっくるめた「倭国」です。
577 :
日本@名無史さん:02/12/17 04:23
「倭奴国」が「倭国」の外側にあるなんて誰も言っていないことにひたすら反論する九州王朝説。
これって論点ずらしのゴマカシ?
>>576 >公平に史料を検討してみると、やはり倭奴国=倭国としか思えないんで。
その史料を提示して下さい。
致命傷だったようだ。
毎度のNARISUMA氏も出てきたようだし。今夜もおひらきですな。
581 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 04:30
あ、いや、私は別人ですよ。ややこしいこと書き込んでゴメンナサイ。
しかし前にもこのスレに書いたんだけどね。
ただ私の立場は邪馬台国畿内説、倭の五王畿内説ですが。
ただ、なんか否定派の人たちの雰囲気が悪いので。
582 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 04:32
>>580 いえ、私は反対します。
>>576を主張します。つまり「〜也」地の文で、
その一文にある倭国=宋代の倭国 という認識です。
オシバイヤメレ
584 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 04:35
・・・お芝居する理由なんてないんだけど。
なんか、こういう類の否定派のカキコが気に入らないんですよね。
それをいうなら、「金印をもらった2世紀の倭奴国≠3世紀の倭国=5世紀の倭国」でしょ?
時代をずらして問題をずらしていますね。
586 :
日本@名無史さん:02/12/17 04:36
>>583 たとえ「オシバイ」だったとしても、それが何か影響があるのか?
金印をもらった2世紀の倭奴国と女王を立てた3世紀の倭国は別ですよね?認めて下さい。
588 :
日本@名無史さん:02/12/17 04:38
バレタライナオッタ
倭奴国の直接の後裔を倭国と考える九州王朝説は成立しないのではないですか?
590 :
九州王朝はあったかも :02/12/17 04:41
>>585 >2世紀の倭奴国≠3世紀の倭国
これの根拠は?
私はやはり同じ倭伝に記載されているからには、同じ倭国のことだという認識で
書かれていると思いますが。
ただ私自身、後漢書の著者の認識というのが、それほど正確でないと思ってますので。
魏志倭人伝と後漢書倭伝の違いなど、誤認が多い。
592 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 04:44
>>587 いえ、私自身の認識としては、
「金印をもらった2世紀の倭奴国と女王を立てた3世紀の倭国」
は別だと思います。しかし後漢書倭伝は「同じ国」という認識で書いていると
思うのです。
だから私の主張は「著者の認識」が間違っている、ということです。
同じ倭伝ではなく倭人伝と倭国伝では違うと思いませんか?
594 :
日本@名無史さん:02/12/17 04:47
>>592 >しかし後漢書倭伝は「同じ国」という認識で書いていると思うのです。
思う理由は?
ちょっと意味不明の書き込みをしてしまいました。
>>593は無視して下さい。
596 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 04:49
>>591 いえ、倭奴国は後の倭国と同じく諸国を従える大国だと思います。
そういう国に与えられるのが金印だと思うので。
卑弥呼がもらった金印が「親魏邪馬台国王」の類でなかったのと同じです。
それにしても本当は586=588じゃないのか? こういうのは腹立つ。(オチツコウ)
寝ます。
598 :
日本@名無史さん:02/12/17 04:52
>倭奴国は後の倭国と同じく諸国を従える大国だと思います。
>そういう国に与えられるのが金印だと思うので。
国王はみな金印。
599 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 04:56
>>595 あ、その
>>593については私も考えたことあります。
ようするに「倭王」(と魏が認めた)卑弥呼に属しない「狗奴国」についても
記述しているから「倭人伝」なのではないかと。
また後漢書が「倭伝」なのは、やはり「倭奴国」と名乗っていた時代があったことを
意識してのことじゃないかと。
>>594 それはやはり同じ「倭伝」に収録されていること。そしてその冒頭に倭国の歴史や風俗などが
記載されているけど、どう読んでも「大倭王」の国に関する記述としか思えないからです。
600 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 05:02
まあ、どちらにせよ、私自身は後漢書倭伝について、著者の認識がそうであると
理解しているだけで、その認識が間違っている、という立場なんですけどね。
なにしろ後漢書は宋代の編纂でしょ? はるか前の時代の後漢の、しかも光武帝の頃の
「倭奴国」についての記事がそんなに正確だという保証はない。
西晋滅亡→東晋の記録の保存が完全でない、というだけでなく、後漢朝の末期ですら
長安へ行ったり洛陽に戻ったり、混乱してますからね。
ただ、「史料批判」という点で述べるなら、著者は倭奴国=倭国という認識だっただろう、
と思うだけです。
601 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 05:07
>>598 それより、なんで匈奴は「匈奴国」とは記されていなかったんでしょうか。
そのあたりがすごくひっかかるんですよ。
中国における「国」の概念とは違うかったんですかね。
目が覚めました。
>>600 >ただ、「史料批判」という点で述べるなら、著者は倭奴国=倭国という認識だっただろう、
>と思うだけです。
著者自身が「倭奴国=倭国」と明確に示している部分を提示して下さい。
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/17 05:14
地政学、経済学、地理学の観点から
この時代を考察すれば、どういう結果が得られるの?
604 :
日本@名無史さん:02/12/17 05:14
>著者は倭奴国=倭国という認識だっただろう
それが極南界という記述と矛盾してるのがわからんかね?
そんな箇所はないと思うのですが。
「倭伝」ということは「倭国伝」ではないわけですから、その中に書かれる「倭奴国」と「倭国」が別の国でもおかしくないですよね?
まあ九州王朝説の致命的欠陥がまたひとつ明らかになったわけだ。
608 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 05:27
倭は韓の東南大海の中に在り。山島に依りて居を為す。凡そ百余国。武帝、朝鮮を滅ぼして
より使訳漢に通ずる者三十許国なり。
国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺国に居る。楽浪郡徼はその国を去る
万二千里、その西北界拘邪韓国を去ること七千余里。その地、大較会稽の東冶の東にあり、
朱崖・タン耳と相近し。故にその法俗多く同じ。(略)
国には女子多く、大人は皆四、五妻あり、その余もあるいは両、あるいは三。(略)
建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに
印綬を以てす。
安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う。
桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名を卑弥呼という。
年長じて嫁せず、鬼神の道に事え、能く妖を以て衆を惑はす。ここにおいて共立して
王と為す。(略)
今ちょっと書き下し文のこれしかコピペないけど、これを読む限り、冒頭にある
「その大倭王は邪馬臺国に居る」の国の歴史を述べているとしか思えないので。
609 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 05:42
後漢書倭伝に記載されている「倭」とは、「その大倭王は邪馬臺国に居る」の
大倭王の国のことでしょう。
そこに書かれている歴史が、「大倭王」の国の歴史であることは当然だと思います。
・・・しかし魏志倭人伝と比較して、笑えるような誤解記事が多いと思いません?
私は後漢書の著者の認識は認識として、やはり実際には「倭奴国」は別の国だと
思いますよ。
>>608 >建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
倭国の極南界ということは、現在の倭国の支配領域の極南界にかつての「倭奴国」があったと言う事ですよね。
「倭国」≠「倭奴国」だと思うのですが。
ということをこれまで何度も繰り返し指摘されているわけですよね。
>前漢や後漢、魏晋の皇帝が国内の王や周辺の異民族に与えた印綬には、その鈕に
>亀、馬、羊、駱駝などいろいろな動物図形のものがあり、それぞれの民族集団の
>特色を捉えた物と見られる。氐族には、「晋帰義氐侯」(甘粛省西和県出土)の
>羊鈕の金印、「魏率善氐仟長」の駝鈕の銅印、烏丸や鮮卑には内蒙古自治区凉城
>県出土の「晋烏丸帰義侯」や「晋鮮卑帰義侯」の駝鈕の金印、趙には「帰趙侯印」
>の馬鈕の銅印が与えられている。
>「漢委奴国王」の金印は蛇鈕であるが、同じ蛇鈕の金印「滇王之印」が雲南省晋寧県
>で出土した。雲南省晋寧県にある石寨山古墳群は1955年から59年に4次に渡って発掘
>が行われ、王墓をふくむ約50基の墓があったが、この6号墓から1956年「滇王之印」
>が発見された。この金印は紀元前109年(元封2年)に前漢の武帝が滇王に下賜した
>もの(『史記・西南夷列伝』に記載)と推定されている。滇国に動向が知られるのは、
>前漢武帝の時代からであるが、当時雲南省東部の昆明盆地に勢威を張っていた滇国以下
>の西南夷は、ビルマ・インドルートの打通を求める武帝のもと、元封2年漢朝に降り、
>漢朝の支配下に編入されている。
612 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 06:00
>>610 すみません、いちじるしく眠いので寝まふ。
まあ、朝鮮半島南部も支配下に収めた宋代の倭国の版図全体から「極南界」だと
著者が判断したんでしょう。(誤断だと思いますが)
ともかく、後漢書の著者は倭奴国=倭国だということです。
しかし実際には「それは誤解だろう」、というのが私の考えです(ややこしいですが)。
>漢委奴国王
ワのナ国なのか、イト国なのかまだ決定できないのではないですか
614 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 06:08
うーむ、眠くて冷静に考えられなくなってきたが・・・
こうして
>>610さんの主張を見ていたら、倭奴国ってのは小国名で倭国の一部だった
こともありうるなぁ・・。(つまり倭奴国=邪馬台国)
まあ、それでも大倭王の先祖=倭奴国王というのが、後漢書の著者の認識だったろうという
私の推測には変わりがないですが。
>612
半島南部から九州北部に倭国があって、その極南界に(九州北部の)奴国があった
という(中国の)認識ですね
極南界の奴国の南に南九州の勢力圏が存在していたということですね
617 :
九州王朝はあったかも:02/12/17 06:25
>>615 私は「奴国」ではなく「倭奴国」だという主張ですが、まあ、どちらにせよ中国側の認識が
そういうことだったろうと思っています。
眠すぎるので寝ますね。みなさんおやすみなさい・・・
おやすみ。なりすまし君。
620 :
日本@名無史さん:02/12/17 06:35
九州王朝はあったかも=素人
だったらすごいな。
621 :
日本@名無史さん:02/12/17 06:37
九州王朝はあったかも=九州王朝大好き
622 :
日本@名無史さん:02/12/17 06:37
ここで確認事項。
九州王朝論者がその根拠だという
>後漢書に言う「倭奴国」が九州であることは当然。
>その後漢書には、漢朝に倭国が朝貢してきていることを記述している。
中略
>つまり倭王武=九州 としか考えられない。
という思考がナンセンスだということは明らかになりましたね?
623 :
日本@名無史さん:02/12/17 06:37
>>612 >ともかく、後漢書の著者は倭奴国=倭国だということです。
史料の提示は?
>>614 >こうして
>>610さんの主張を見ていたら、倭奴国ってのは小国名で倭国の一部だった
>こともありうるなぁ・・。(つまり倭奴国=邪馬台国)
魏志倭人伝では奴国≠邪馬台国ではなかったですか?
>まあ、それでも大倭王の先祖=倭奴国王というのが、後漢書の著者の認識だったろうという
>私の推測には変わりがないですが。
何度も批判されていますが?
どの部分に書いてありますか?
>>617 朝鮮半島を持ち出さなくても、魏志倭人伝の国名の最南端に奴国が見えますよね。
これこそ「中国側の認識」でしょう。
625 :
日本@名無史さん:02/12/17 06:40
以上は
どんなに完璧な否定の証拠を突きつけられても
理由を言わずに結論を連呼し続けるのが九州王朝説の特徴だという例証1でした。
おわり
628 :
日本@名無史さん:02/12/17 07:09
初めてこのスレに書き込む者ですが、所謂「近畿王朝」論者も「九州王朝」論者も、
「物部氏とその祖先(物部を名乗る前)」や「旧事本紀」についてはどういう認識なのでしょうか?
・物部氏は銅鐸祭祀文化を持っており、銅鐸文化は半島にも見られます。
・物部氏は所謂「海の民」的な伝承・事跡があり、北九州・出雲・畿内・東海・越・出羽・甲斐・信濃・常陸などに痕跡があります。
・物部氏は大和に天皇の系統が来る前に畿内に進出していた伝承・記述があります。
・物部氏は初期の畿内に於ける天皇家の政権に於いて重要な地位(軍事・祭祀)にあり、
解釈によっては天皇家と同格か上(天皇家が物部氏に入り婿していた)だったとも考えられる位に権力がありました。
(実際、物部の姫を娶った者が天皇になれたなどという話もあるくらいです。)
まだまだありますが、軍事力と航海術を持っていて天皇家の政権樹立に大きく関わっており、しかも九州北部に痕跡がある「物部氏」が、案外「九州王朝」どころか日本の「古代史」の鍵を握ってるような気もするんですが…
ま、所詮は素人考えかも知れませんが皆さんの見解をお聞かせ頂きたいです。
また、私が挙げた事柄について「時代が違うだろゴルァ!」などありましたら、
御指摘頂いた上で、平に御容赦下さい。(何せ素人なもんで…)
うむ。古代史にも物部氏にも詳しいオレだが・・・・蘇我氏と混同している
ような気がしないでもない。物部は鉄器系の氏族であり、重装歩兵メインの
古代では有力氏族というのは正しい。蘇我系は同じ金属器系でも渡来系であり
銅、鋳造及び仏教の伝来に関与し、精神面での支配力があったと考えられる。
物部は祭祀系で出雲とのつながりが推測されるので畿内の銅鐸と銅矛文化との
接点があるのではないかという説もある。
630 :
日本@名無史さん:02/12/17 23:12
>>628 物部氏は「クシ」っつーキーワードもあった罠。
しかも「クシ」=「チクシ(筑紫)」らしいしな。
ちなみに「トヨ」が「豊」だしな。
もっと書くと
豊御食炊屋天皇(トヨミケカシキ:推古)
豊聡耳(トヨサトミミ:聖徳太子)
天豊財重日足天皇(アメノトヨタカラカシヒ:皇極、斉明)
天万豊日天皇(アメノヨロズトヨヒ:孝徳)
天之真宗豊祖父天皇(ヤマトネコトヨオオジ:文武)
日本根子天津御代豊国成媛天皇(ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ:元明)
天国押開豊桜天皇(アマクニオシハラキトヨサクラ:聖武)
これら蘇我氏全盛期の天皇などには「トヨ」が入っとる。
そして「トヨ」が入った天皇が登場するようになった頃に「物部守屋」が失脚してる。
その失脚の原因が「仏教」であるとされているが、実質「トヨVSクシ」だろうよ。
仕掛人の1人である用明天皇(タチバナノ「トヨ」ヒ)にアドバイスを求められた蘇我馬子が連れて来たのも「豊」国法師だし、用明天皇の炭焼き伝承とやらが豊前にあるらしいしな。
あれ?そういえばヒミコの後の混乱を押さえる為に擁立されたのは「トヨ」だったっけ?(w
そん時の混乱の相手は…わからんけど隣は「クシ」だな(w
あ、そうそう、継体天皇が「越」からやって来た時に20年大和に入れなかったってね。何でだろう?(w
ちなみに「越」は物部の事跡があるんだよな〜(w
「九州王朝」・「大和王朝」説のみなさん、どーなんよ?
古代史は「トヨVSクシ」が幅きかせてんじゃねーのか?
九州王朝説は全面降伏のようだ。
>>631 そんな糞みてーな茶々入れてねーで、お前の見解を述べろ。
お前は「畿内王朝説」か?
と言って630の糞さを証明してしまいましたとさ。 ちゃんちゃん
>>633 漏れはただの「茶々入れ」に過ぎないから「糞」だと言ってる。
おめーが「630が糞」だとする根拠は?
漏れの人間性について「糞」とお前が思うのは一向に構わんが、
内 容 に つ い て は ど う な ん だ ?(w
糞
>>635 どこがだよ?(w
ち ゃ ん と 指 摘 で き ん 限 り お 前 が 糞(w
早 く し て み ろ よ(w
臭気が糞
恣意的解釈、ゆえに糞。
639 :
628です。:02/12/18 00:55
>>630氏
「クシ&トヨ」ですか。
確かに古代の対立構図としては分かりやすいかも知れませんね。
それにしても急にレスが少なくなってしまったようですが、
どうか「九州王朝」・「大和王朝」それぞれのみなさんの見解をお聞かせ下さい。
640 :
628です。:02/12/18 01:08
641 :
日本@名無史さん:02/12/18 01:17
638じゃないけど
トヨは美称、普通名詞みたいなもんだからねえ
それに恣意的な意味づけされても‥‥
642 :
九州王朝大好き:02/12/18 01:30
一言
私≠九州王朝あったかも
私≠622
私≠日本@名無史さん
以上よろしく。
初期の倭国の範囲
北西の端:拘邪韓国の地(半島南岸・海峡北岸)
南の端:委奴国(九州北岸・海峡南岸)
海峡の両岸にまたがる海洋国家。
最も古い中心地:対馬(2つの島:海面が現在より高かった時代凡そ2.5千年前に始まる)
次の中心地:壱岐島(壱国の島)[海壱国]
その次の中心地:北九州沿岸(委奴国[壱奴国]・邪馬壱国[山壱国・山一国])
最も繁栄した時代の中心地:博多(経済的中心地は筑紫平野)
最後の中心地:大宰府(対唐避難新都)
以上、気象的・地勢的・考古学的・文献的資料よりの推定。
643 :
628です。:02/12/18 02:18
∧∧
/⌒ヽ) 九州王朝なんか・・・
i三 ∪
〜三 |
(/~∪
三三
三三
三三
三三
三三
>豊国 宇佐神社についてはどうでしょう
646 :
日本@名無史さん:02/12/18 05:51
>>630 あのー、炭焼き小五郎伝説は大分の三重・臼杵(石仏が有名)で
豊後のほうになるんです。
でも、婿になった池辺王子と
宇佐神宮がからむので、そこは豊前ですが。
一般には真名野長者伝説といって
確かに用明天皇がでてきます。
実は朝鮮にも似たような伝説があるらしいんです。
用明天皇伝説ってのも結構各地にいろいろあるんですよね。
さらに南の宮崎には「百済王伝説」ってのもあるんです。
熊本には久多良木がありますね。
ここらへん考えると、「王朝」って言ったときには
朝鮮3国まで可能性を開けておくことも
面白いかもしれません。
音韻変化
Kusi+Toyo
↓
Kus__soyo
↓
Kus__so_o
↓
Kuso
銅鐸…近畿中心
平形銅剣…瀬戸内中心
銅矛銅戈…北九州中心
九州北部…甕棺墓、箱式石棺墓、支石墓
その他地域…木棺墓、壷棺墓
近畿中心…方形周溝墓
漢書地理志
それ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという。
後漢書東夷伝
建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
光武賜うに印綬をもってす。
安帝の永初元年、倭国王帥升ら、生口百六十人を献じ、請見を願う。
桓霊の間、倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐して歴年主なし。
倭奴国=邪馬台国
狗邪韓国
対馬国 千余戸
一支国 三千戸
末盧国 四千余戸
伊都国 千余戸
奴国 二万余戸
不弥国 千余戸
投馬国 五万余戸
邪馬台国 七万戸
狗奴国
倭奴国=倭の奴国野郎よりマシ。
今どき「倭」の「奴」国? 金印の三段読みは無理でつよ
弁護士の久保田穣さんは「邪馬台国はどこにあったか」で
法律家の証拠採用感覚として
戸数(人口)の記事はあてにできないと言ってます。
この人は大分南部にあった邪馬台国の官僚が
近畿に移ったという説なのですが。
ちなみに久保田さんは最初古田さんの本を読んで
古代史にのめりこんだらしいのですが
どうも違うのではないかと疑問を抱き
九州王朝説から離れた方です。
659 :
日本@名無史さん:02/12/19 06:37
完璧に論破されて反論できなくなると音もなく消える九州王朝説。
しばらく身を隠したらこっそり帰ってきて、また理由もなく結論ばかり連呼する。
投馬国は吉備氏か?
論破したと思いこんでいるヤツもいるんだなぁ・・・
反論しているヤツでも所詮は「漢」の「倭」の「奴」国王レベルだもんなー。
教科書レベルというわけか(プ
>>662 ゴメンねぇ。君にはレベルが高すぎたね。
>>663 をいをい、ハッキリ言ってマジレスするべきかどうか迷うようなレベルだよ。
漢の倭の奴国王っていうのは、もはや現代の古代史では通用しないぞ?
もし「国名三段読み」を主張したいのなら、その例を出さなければ。
むろん金印においては一例も無し。銅印にわずかに疑わしいものが数例あるのみ。
それらの例ですら「三段読み」と取れなくもないかも知れない、といったもので、
確実な「三段読み」は一例も無し。
それを主張したけりゃ「例」を出しなさいね。
委奴=イト=伊都も無理っぽいが、奴国説よりはこっちの方がまだマシだね。
・・・っつーか、いまどき三宅米吉説かよ。時代は21世紀なんだが…。
665 :
日本@名無史さん:02/12/20 01:57
今だ! 666ゲットオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ (´´ (´⌒;;(´´ (´⌒;;
∧∧ ) (´⌒ (´⌒;;
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;; (´⌒;;(´⌒;;(´´ (´⌒;;
ズザーー゙ーーーーー゙ーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ
666 :
日本@名無史さん:02/12/20 01:58
666!
667 :
日本@名無史さん:02/12/20 01:59
∧_∧
( ) <666getフライング・・・
(⊃ ⊂)
| | |
(__)_)
∧_∧
( ・∀・ )彡 <しちまったニダー!
⊂ つ
人 Y
し (_)
668 :
日本@名無史さん:02/12/20 02:06
分かっていない
21世紀とかそういう問題ではない
三段読みについてはすでに解決済み
銅印でもそれは「印制」の中での類例
マジレスするのもバカバカしいが
いいかげんマトモな勉強汁!!
>>669 マジレスするなよ。
正しいものが時代で変わるわけないだろ。
屈折の法則はスネルが1621年に発見したものだから、
そんな古い法則が21世紀の今ごろ成り立つかよ、ボケぇ!!
というヤツがまともに相手にされる訳ないだろ。
そうね、たしかに解決済みだ。
むろん三段読みは「無理」ということで。
しかもこれが唯一例外的な「三段読み」だったとしても、倭人伝の「奴国」に当てるには
更に論証が必要なんだけどねー。その論証はないようだし。
というわけで勝手にオナニーしてな。ハハ・・・
っつーか、「倭」の「奴国」王説の論者がこのスレだけで複数いたら笑えるからな。
>>669=
>>671=
>>673 てっ言うか、「倭」の「奴国」の「王」説が多数説で、より根拠のある説。
このスレに「委奴」説が複数いたら笑えるな(W)
「解決済み」で逃げる奴国王信奉者イタすぎ。
別に倭の奴国王でもいいやん。ただ実証はできないがその仮説に立つということで。
他の三段国名読みに立つ学者も、実例がないことは認めているんだし。
「倭人伝」という署名が示すとおり、「倭」というのが特殊・特例が多いと言うこと。
>>675 はぁ・・・
そのカキコでアンタがたいした論者でないことが良くわかったよ。
つまり「煽り・荒らし」レベルだということ。
もう二度とアンタを相手するつもりはないけど、頑張って実証も出来ない
自説の正当性を、せいぜい訴えていきなはれ。
ばいばい、奴国王クン
>>674 669ですが、670ではありません。ハズレ〜イタイヤシ>>674
>>675 >>669=
>>671は
>>664=
>>671=
>>673の誤りでいいですね?
>>676 イタイヤシですな。三段読みの実例はこのスレで(その1でしたっけ)すでに出ていますが。
忘れた頃に故意に知らんふりをするのもまさにトンデモですな。サイトクンと同じですね。
まあ、岡崎敬なんかは読んだこともないだろうけどね。
やはり奴国王クンは煽りじゃったか・・・・
>漢の倭の奴国
倭のなかの奴国以外にも印綬もらった国はあったんでしょうか?
親魏倭王
奴国に王などおらん
683 :
日本@名無史さん:02/12/20 02:44
>倭人伝
この言い方は普遍的なんですか?倭伝とか倭国伝とかしなかった理由なんてありましょうか?
「漢奴国王」なら奴国だろうが。
漢が他の集団に与えているものでも、漢○国王とか漢○侯とかですが、
漢AB国王という形のもの(漢のAのB国王)はあるんでしょうか?
>>683 倭人伝の場合、魏が正式に認めた「倭国王」は卑弥呼。それ以外の「倭」の国や王として
狗奴国とその王の卑弥弓呼の存在なども記されているから「倭人伝」だと思われ。
後漢書が「倭伝」なのは、「倭奴国」というのがあるからでしょう。
これを現代において文字通り「倭奴国」と理解するにせよ、「倭の奴国」と理解するにせよ、
著者の手元には「倭国」以外の表記があったからだと思う。
>>686 金印・銀印では例ナシ。
銅印も完全に「漢のAのB国王」だといえるような例はない。
>>685 考古学的な出土例から「倭の奴国」だと主張する学者は多いですね。
須玖岡本遺跡を奴国の領域とするなら、「奴国王」の存在は疑えないですからね。
>>686 匈奴の例はガイシュツですが何か?
>>685に誰も答えられんのはこのスレの悲しさよ
文献アゲとく
高倉洋彰『金印国家群の時代』青木書店
後藤直「<漢委奴国王>金印研究論」『論争学説 日本の考古学』
>>688 漢の「印制」の例としては銅印でも十分。匈奴の例は三段読みが定説。
中国の皇帝が倭の部下(陪臣)に印をくれるほどフレンドリーだとも思われない
>>690 「匈奴国」という資料的表記はないようだねぇ。
そもそも匈奴の印で「漢○○」という例はありましたかな?
匈奴国どころか、「匈奴○○国王」という例もないのでは?
匈奴への印は「国」と書かれていないんだよ
魏志に奴国のくだりで「むかし後漢が印をくれた」と触れないのは自然なんですか?
っつーか、中国→蛮夷への印綬で「三段読み国名」の例がないというのは、
昭和30年代に解決済みだったと思うのだが?
>>696 まあ、書いてないのは不自然だけど、絶対にオカシイというほどでもない。
しかし三国志に注釈を付けたハイショウシが何も触れていないのは、やはり倭奴国と
奴国は無関係だとハイショウシは(少なくとも)思ったんだろうな。
委奴国は印綬をもらった時点では、倭国の中で最大最強だったのだろうか
>>690 須玖岡本遺跡=奴国という定説が論証、実証によって導き出されたものではないだろうに…
したがって須玖岡本遺跡の出土例をもって奴国王の存在が証明されたなんて言えない。
このあたり奴国王クンの考察力が知れるな。
>>699 「金印」をもらった以上そうでしょう。少なくとも中国側がそう認めていたのが委奴国だったと
いうことですね。
伊都国には王の存在が明記され、それも代々続いていることが書かれています。この点、奴国とは
違いますね。
>伊都国
それでは金印をもらって以降倭国内での勢力地図が変わって
一番国が伊都国から邪馬台国に交代したといえるかもしれない?
>>702 そのことを倭人伝が記していないのは、さっきのレス(698)同様に不自然だけど、
絶対にオカシイというほどのものでもないです。
ただなんで邪馬台国が伊都国のみ王の存在を許していたか、ということを考えたら、
充分にありうる話だと思う。
委奴=イト=伊都説で一番の難関は音韻問題ですね。委奴=イトという読みはありえんという。
ただしそれ以外の難関は比較的クリアできてしまう説でもあるわけです。
>>693 あるよ。それとも知らないふりかい?
あと匈奴自体が匈奴国と言わないだけ。匈奴(民族名)+○○(部族名)+王は「倭の奴国王」と同じですが。
>>700 無知にもほどがある。吉川弘文館『奴国の首都 須玖岡本遺跡』でも読んでから言ってね。
須玖岡本の出土品の内容は王の存在を示し、那の津、那珂という古くからの地名と遺跡の濃密さは「2万戸」の奴国にふさわしい。
弥生後期の青銅器生産やより高度な技術の鍛冶工房の集中度から見れば、倭国の中で1世紀には
最強であった可能性は高い。
699と701は自作自演でしょうが。
あと志賀島は古くは那珂郡であったので奴国としたほうがいいでしょう。
まあ九州王朝クン?(委奴クン)の話ははじめに結論(古田某説)ありきだからね
>>697はあたらないのは何度もガイシュツと思われ
伊都国のくだりでも触れていませんがね
後漢の光武帝の時代、「漢廉斯邑君」という称号(印ではない)を、この「邑君」である
蘇馬ィという人物に与えた、と後漢書にある(韓伝)。
韓の中の一邑(むら・さと)でしかない代表の廉斯邑君のことですら、中国側は
「漢の韓の廉斯の邑君」という三段切れ表記をしておらん。
つまり「韓の委の奴国王」という読みはもともと無理だったんだな。
>>703 なぜ伊都国「王」が許されたかと言うことに関しては、西嶋定生説が妥当と思われます。
つまり107年の「倭国王」が伊都国の王だったということです。
この「倭国王」は「倭の奴国王」より格が上と考えられます。
>>706 何度もガイシュツの匈奴の印の例は無視かい?史書よりも実際の印の現物がいくつもあるのですが。
706の韓伝の話は、そう言う例もあると言うに過ぎず、三段読みがありえないとかいうことにはならないですよ。
699と701は別人で、699は素人です。夜更かしスマン。
クロウトのみなさんは素人の尊敬を損なわないていどの悪口で応酬してください。
>>704 須玖岡本=奴国という比定自体、論証も実証もないでしょうに・・・(コイツアホか?)
つまり定説がそうだというだけ。
まず奴国=那の津というのを論証してみそ。
それから奴=ナという音韻上の問題も論証が必要。
どっちにしろ奴国王クンは、オハナシにならんから寝るか・・・
三段読みの例はないということで。結論でました。
後漢書の范曄は信頼できるのでしょうか
匈奴を「国」といわないのは、その実態が中国の概念で言う「国」とは異なる
民族だからですよ。
三段読みとおぼしき印綬があるのはそのせい。
>>704サンはもっとよく勉強してください。
>>711 三段読み例は匈奴例を何度もガイシュツされていますが何か?
音韻の問題は森博通の著作でも読みなさい。
なぜ「定説」なのか?根拠なく定説になっているわけがないのではないですか?
お話にならないおめでたいのは ア ナ タ !
ワ カ ル ???
(トンデモを相手にするのはホント疲れます)
>>712 倭人伝に関する記事の誤解、誤読が多いですからね。
私も後漢書については少し懐疑的です。
ただし、それが書かれた時代の知識だったのかも知れませんね。
>>715 范曄はなんか自信満々って感じだけど。
漢書など、けっこう果敢に訂正されていますが・・・
>>713 「国」の概念が違っても、一応そう言う用例があるということは、三段読みがありえないと言うことにはならん罠
>>714 匈奴(民族名)+○○(部族名)+王
これは「漢匈奴悪適尸逐王」「匈奴薁鞬日逐王」「匈奴右賢王」などのことだと
思われるが、これは国名ではなく王号名だろうに。
「悪適尸逐」「薁鞬日逐」という国名ではないよ。
夫餘、邑婁、高句驪、東沃沮、ワイ、韓、倭
は現在の国のように一地域を一面的に支配していたのでしょうか?それとも中世荘園のように
ボスニアのようにモザイクように雑居していたところもあったのでしょうか?
そもそも「匈奴」という中国としてもいささか例外的な国のことを持ち出さないと
三段国名を論証出来ないところがイタイわな。
漢や魏の与える王の称号ってけっこう小規模集団なのではないですか?
金銀銅、王、侯、長などの規模の順番などは分かっているんでしょうか?
>>720 どうでしょうね。確実なところはわかりませんが。
ただ、中国で「国」という概念は当然「面」でしょうね。
>>722 これくらいの規模ならこの種類の印、というような等式があるわけではないようで。
ただ中国と通交する国は必ず「国書」(上表文など)を持参するでしょうから、
それに捺印するための「印」を渡すわけですね。
印とは今も現在もそのような目的のものですから。国書に押された印は当然、
金も銅もないわけですから(笑)
ただ金印は希有な例ですから、重要な国に渡されたんでしょう。
異民族の王というのは、
荊州牧(劉表)や呉郡太守(孫)なんかと比べればだいぶ小さいでしょう
お、重かった・・・ 何だったのだろう・・・
>>725 小さいですね。特に西域。オアシス国家といわれるシルクロード沿いの国などは
みな倭国や韓諸国とは比較にならないくらいの規模ですね。
でもそれ以上に文化の成熟度などが低いと思います。
倭綿・倭絹などの存在が倭人伝に明記してあるように(遺跡からも出土)
「漢委奴国王」や「親魏倭王」が金印なのは、文化的成熟度も含めた中国側の
倭国に対する評価なのかも知れないですね。
727 :
日本@名無史さん:02/12/20 06:03
九州王朝説はまだ倭奴国が倭国だと悪あがきをしてるの?
あと、倭の五王は宋朝から印をもらわなかったのか? という疑問もありますね。
特に倭王武は宋書に上表文が掲載されていますけど、いったいこれに捺印されていたのは
どんな印だったのか、という・・・・
私自身は当然、中国から渡された印でもって捺印し、朝貢したはずだと思うんですがね。
つまり「親魏倭王」の金印は晋朝によって回収され、あらたに晋朝の印が渡されたと思います。
「漢委奴国王」の金印が日本側に残っていたのは、やはり後漢末、「倭国大乱」によって
「歴年主なし」状態になったからではないでしょうか。
むろんこれらは私の想像ですが。
>>727 私は九州王朝説とは違いますが?
ただ「倭」の「奴国王」説は完全に撃破されて沈没しました。
>>718氏のカキコが
すべてでしょう。
匈奴の例しか出せないのが致命傷だったようで。
国名の三段読みの例はないということで、結論でました。
730 :
日本@名無史さん:02/12/20 06:13
匈奴=匈の奴国説をかかげて登場したりして(w
675 :日本@名無史さん :02/12/20 02:21
>>669=
>>671=
>>673 てっ言うか、「倭」の「奴国」の「王」説が多数説で、より根拠のある説。
このスレに「委奴」説が複数いたら笑えるな(W)
こいつ「倭」の「奴国」の「王」説が多数説と主張しているところがイタい。
732 :
日本@名無史さん:02/12/20 06:47
多数説ですが何か?
昭和40年代あたりまではな
しかし、天孫降臨などの話はこのころは全然出てこないのね。
735 :
日本@名無史さん:02/12/20 06:55
匈奴の複数例で(民族名)+(部族名)+(官爵)の印制が確認されたので
「漢委奴國王」は(倭)の(奴)の(国王)であるというのが定説です。
「国王」というのが官爵であることを理解していないからかんちがいするんでしょう。
韓の邑君の例は郡県支配下なので民族名が付かないのです。
>>732 何も中国にとって特殊だった匈奴の例など持ち出さなくてもいいと思うけどね。
「奴国」は昔は「倭奴国」(委奴国)と称していたと。
で、邪馬台国に取って代わられたから「倭」の冠がなくなったんだ、と。
こういう主張の方がまだいいんじゃないか? これなら奴国が2個あることも解決しそうだし。
そもそも「奴」の付く国名が異様に多すぎるからね。
少なくとも匈奴の例で「三段読み」というのは無理がありすぎるんだ。
>>733 あ、そう。
じゃ、昭和40年代以降に非「三段読み」説を主張してる学者の名前を列挙してね。
できなければ貴方の主張はウソということだな。
>韓
韓の地域は印綬をもらっていないのですか?
倭と同じく諸国に分かれていたから参考になるのではないですか?
無理無理という根拠が薄弱
だよな。なんで匈奴の例が倭国の場合の参考になるのか、ようわからん。
倭を委と置きかえている文書って多いんですか?
というわけでやはり三段国名読みは否定されました。
>>742 少ない。まったくないわけではないが。
私の知っている例で3例かな? 中国の史書では「委面土墨」だけだと思う。
>>735 >匈奴の複数例で(民族名)+(部族名)+(官爵)の印制が確認されたので
ともかくその印の刻銘をここに列挙してみなよ。
でないと反論の体を為していないじゃん。
というか
>「国王」というのが官爵であることを理解していないからかんちがいするんでしょう
っていうのがね。
印や称号などでは、「漢」の字以下はすべて官爵じゃないのかね? 親魏倭王というのは
ちょっと特殊なようだけど、部族名であろうが邑名であろうが印に刻まれたのはすべて
官爵・号のはず。つまり「倭奴国王」を官爵とみなさなければつじつまがあわない。
「倭の」でいったん切って、以下「奴国王」のみ官爵というのは変だよ。
なんだかなぁ・・・
オレは三段読みが絶対正しいと思っているわけではないが・・・・
といって、二段読みが正しいとも思ってないんだが・・・・
少なくとも、三段読みが定説であるのは動かせない事実でしょ。
この事実を認められないようでは、まあ相手にされなくてもしかたないわな。
一般論として定説と言えども往々にして間違っていることもあるわけで、
「三段読みは定説」だが間違っている、というなら耳を貸す人間も出てくるだろうけどねぇ・・・・
今のままだと、まともな人間は二の足を踏むだろうねぇ。
仲間だと思われたくないから・・・・
>「奴国王」のみ官爵というのは変だよ。
「奴国王」が官爵だなんてそんな変なこと言ってるのはあなただけですが何か?
正しい引用をしないのは吸収王朝さんの宿痾
751 :
日本@名無史さん:02/12/20 22:26
三段読みは教科書に載っているくらいだから定説ということだろう。
しかし馬鹿げた説である。こんなとんでも説を教科書に載せていることは、
まともな人間は首をかしげるだろうねえ。
三段読みは教科書に載っているくらいだから定説ということだろう。
こんなまともな説を教科書に載せていることは、
とんでも人間は首をかしげるだろうねえ。
753 :
日本@名無史さん:02/12/20 22:33
三段読みは、浦島太郎を「ウラシ・マタロウ」と呼ぶのと同じ。
一概には否定できない。
>>753 浦の島太郎と読む説はかなり有力なんだがね。
すれ違いsage
私は中国側の史料を調べてみたのだが、金印以前に、三段読みが可能な王名自体が少なく、
ことに「倭の奴国王」スタイルの王名は皆無であることを確認した。
三段読みが可能だった例を2個下にあげる。
武都氐王
これは三国志の文帝紀に出てくる王名で、楊僕という人物の称号だ。その称号の示すことから、
おそらく氐族の王だと思われる。言うまでもないことだが、氐というのが民族名、そして
武都は地名である。楊僕は武都に拠って王を称しているのだ。
これを魏では「氐武都王」ではなく、「武都氐王」の称号で呼んでいることになる。
不耐濊候・不耐濊王
これについては論じるまでもないだろう。濊伝に登場する王名である。この王についても
中国側では「濊の不耐王」などという称号で呼んではいないのだ。
ことに東夷の例である点、これは重要だ。
756 :
日本@名無史さん:02/12/21 01:36
「(魏の)曹操は袁氏の打倒のために、遠征し烏桓を壊滅させた。さらに、烏桓の
北方に居住していた鮮卑に対しては、離間政策をとった。有力な部族長に個別に
王号を授け、鮮卑族全体の統一を防ごうとしたのである。」(渡邉義浩)
中国皇帝が異民族の王ではなくその下の部族長に印を与えることはあったんですね
>>756 烏丸伝を見ても、王名は蘇僕延が自称した峭王と、烏延が自称した汗魯王
くらいしか出てきませんが?
また鮮卑伝を見ても、鮮卑の故王という形で檀石槐が出てくるのみですね。
>>757 ありました。
「魏烏丸率善佰長」「魏鮮卑率善仟長」「晋匈奴率善佰長」「漢帰義胡長」などは
明らかに王ではなく部族の長ですね。
760 :
日本@名無史さん:02/12/21 02:35
>759 それはそのまま「漢の倭の奴国王」型ではないですか!
なしめ君、うり君他、その他大勢ももらってるね。部族長かどうか知らんけど。
陪臣であれ、印綬が渡されることはあるってことでしょうね。
印は、魏倭率善中郎將、魏倭率善校尉とかかな?
日本国王臣源も、もしかして(中国-A-B)か?
>>760 「率善佰長」などの称号は「国」じゃないですよ。
大国に属する小国王ってケースとは異なります。
>>761 陪臣がそのまま中国の組織に組み込まれているから、「倭」という文字はなかったのでは
ないかな?
狗奴国との争いの際、魏の朝廷は卑弥呼を通さず難升米に直接詔書を渡して
命令していますからね。「倭」とあれば当然、卑弥呼を通すのがすじだと思うので。
今、倭人伝を読み返しました。
卑弥呼の場合、「親魏倭王」という称号で詔書内に記載されているので親魏倭王という
金印だと思われています。
で、難升米や牛利の場合は同じ詔書内にそれぞれ「率善中郎將」「率善校尉」となっているので
やはりそのまま「率善中郎將」「率善校尉」という銀印だったものと思われます。
倭って、ほかの東夷や北狄と比べて大きい勢力だったんでしょうか?
匈奴、烏桓、鮮卑のほうがずっと強大ですよね?
>>764 >やはりそのまま「率善中郎將」「率善校尉」という銀印だったものと思われます。
それはないんじゃない?
だって、率善中郎將、率善校尉って一人じゃないでしょ。
匈奴は強大ですね。前漢〜後漢の前半あたりまでは漢に匹敵する勢力だったようです。
でも烏桓、鮮卑はどうでしょうね。
倭の場合、邪馬台国=7万戸、奴国2万戸、投馬国=5万戸というのは当時の夷蛮国の
中でも最大級の勢力だと思いますよ。
特に三国志の場合、戸=魏制の行政単位である点、かなり信憑性がある数値です。
この点、烏丸が「落」、鮮卑や韓伝が「家」という単位で表されているのとは違うのです。
>>766 いや、率善中郎將、率善校尉というのは他にない称号だと。
というか「中郎將」「校尉」などでダブる称号はなかったはず。
もいっぺんよく調べてはみますが。
769 :
日本@名無史さん:02/12/21 03:30
「率善」という称は夷蛮国の将などによく見られる称号だけど、
中郎将や校尉といった高い階級&銀印は倭人伝に出てくるこの2人だけだよ。
>767 洛陽は何万戸だったんだろ?建業、成都は?
オイオイ・・・・・
>掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
韓が「家」単位というのは、半島南部にも倭人が住んでいたという説に不利な証拠ですね
773 :
日本@名無史さん:02/12/21 03:46
>>770 うーん、洛陽などは調べてないですね。三国志に載ってるのかな?
今度までに調べてみます。
ちなみに高句麗3万戸、扶余8万戸、濊は2万戸。馬韓が1余万戸ですね。
倭は卑弥呼の支配下だけで14万6千戸+4千家ということです。
774 :
日本@名無史さん:02/12/21 03:49
>>771 それは台与が晋朝に使者を遣わした時のものですよ。
難升米が魏朝からもらった時からは年数がかなり(二十年以上)へだたっています。
>晋帰義氐侯、魏率善氐仟長、晋烏丸帰義侯、晋鮮卑帰義侯、帰趙侯印
率善とか帰義ってどういう意味なんだろ
>>774 掖邪狗等(等=複数人)、壹(みな)、率善中郎將印綬を拝す。
777 :
日本@名無史さん:02/12/21 03:52
ああ、
>>769で「倭人伝に2人だけ」ってあるから、それのレスなんですね。
それは私のレスじゃなかったもので。
ただ、同時期に「率善中郎將」「率善校尉」といった称号がダブることはないはずです。
漢末などで各人いろいろ「○○校尉」などと自称していた時代とは違うので。
778 :
日本@名無史さん:02/12/21 03:55
>>776 あ、スンマセン、本当だ。
失敬失敬! これは確かにその通りで。
うーむ、「掖邪狗等(等=複数人)、壹(みな)、率善中郎將印綬を拝す」
これは正始四年のことだなァ・・・
魏制で将軍・中郎将などがダブることはなかったと思うのだけど・・・。
ちょとしばし考えてみる
>千余戸、三千戸、四千余戸、千余戸、二万余戸、千余戸、五万余戸、七万戸
陳寿が公孫を滅ぼした司馬イの功績を大きく見せるために倭国を大国に描いた
という主張がありますよね。数は誇張かもしれなくても、せめて比率は実際を
反映しているといいんですが。でもそうすると、奴国の二万戸は3番目になって
しまいますね。また伊都国の千余戸はだいぶ小さい勢力になってしまいますね。
>>772 ただし辰韓・弁韓伝では大国四五千家、小国六七百家、総四五万戸、というふうに
合計の所だけ「戸」だったりしていますね。これなどまだ解明されていない部分で、
三国志の著者が混用したのか、わざと書き分けたのか大いに議論の分かれるところです。
半島南部が倭人というは、韓伝に「南倭と接す」とあるのが根拠でしょうけどね。
45万戸はでかいな。
韓と倭は同じくらいの勢力じゃないかと思うんだけど…
でも15万戸が九州地域だけと考えればちょうどいいのかな。
>>780 倭人伝には「塞曹掾史・張政」という人が、狗奴国との争いの際に魏(帯方?)から
卑弥呼の所へ来て、それから二十年くらい滞在しているらしいことが書かれています。
だから実際の倭国からの報告が間違っているということはなかったと思います。
しかし陳寿か、彼の手元にあった史料が司馬懿の功績云々ともなると、もはや
現在では確かめようがないですからね(笑)
伊都国の千余戸など、他の夷蛮の国ならそこそこの勢力なんでしょうけどね。
ましてや奴国などはじゅうぶん大国ですからね。そんなところからも奴国=委奴国説が
言われる根拠なんですが。実際の所はわかりませんけどね。
>>782 あ、
>>781の総四五万戸っていうのは「しごまん戸」つまり4〜5万戸ということです。
「大国は四〜五千家(が上限)、小国なら六〜七百家程度」という意味だそうです。
ややこしい書き方してすみません。
ただこれには「馬韓」が含まれていませんからね。
倭と韓が同じくらいの勢力っていうのは、私も何となくそんな気がします。
この時代は半島内に楽浪郡、帯方郡というのが中国の直轄領になっていて、
馬韓が滅ぼされてなんとなく韓諸国全体が振るわない感じの時代ですね。
半島南部最大の勢力だった馬韓が、勢力が1万余戸ですからね。
>784 無知ですみません
馬韓は最大でしょうから倭国に匹敵する規模になるんでしょうか
えっ、馬韓がたったの1万戸?
そんなに小さいんですか?それじゃますます魏志の倭の戸数は誇張ですかね?
>>786 手元に「漢書」がないので詳しいことはわかりませんが。
武帝が韓王を滅ぼした際、漢軍が相当苦戦しているところを見ると、かなりの勢力だったと
思われますね。この時の漢将2人は、馬韓を降伏させているのに処罰されてしまいましたから。
その後、韓領に楽浪郡が設置され、また後漢代に帯方郡が新たに増設されたため、馬韓の領土は
小さくなり、勢力も衰えたものと思われます。
魏代の馬韓は倭国と比べると相当見劣りしていますが、武帝が滅ぼす以前の馬韓はまぎれもなく
倭国よりも勢力が大きい国だったと思われます。
私が
>>785で「倭と韓が同じくらいの勢力っていうのは、私も何となくそんな気がします」
と言ったのは、馬韓と辰韓・弁韓、それに楽浪郡や帯方郡などを合わせたら、という
あくまで私の持つ地理的なイメージなので。
>>787 あ、馬韓1万余じゃないな・・・十余万だ。
ゴメンナサイ、完全な誤読だった(汗)
手元の本が「1余万戸」などと紛らわしい書き方しているので。クソー(w
「大国万余家、小国数千家。総1余万戸」とあるから、たぶん十余万って意味だと・・・
うーん、ちょっと調べてみるか・・・
そういや、「大国万余家、小国数千家」について、全部小国だったとしても十万を超えるから
魏志の戸数は信用できない、という説があって、かなり有力だといわれていますね。
大小国が何ヶ国あったのか分かれば、家が何戸に相当するかが分かりますね
馬韓では五十五の国が列挙されているのですが、
「大国万余家、小国数千家。総十余万戸」について、全部を小国として計算しても
十万どころではない数値になってしまうからです。
この五十五国について、どれが大国でどれが小国かは記載されていないんですよ。
倭人伝のように、○○国=○戸という風に丁寧な記載ではないので。
馬韓は楽浪郡や帯方郡など、魏の直轄領のお膝元なので、逆に詳しい記載がされて
いないのかもしれないですけどね。
三国志を読む晋朝の人にとっては、それほど目新しいニュースでもないかも知れないので。
>金印 中国国内はどういう扱いなんでしょうか?
州牧、州刺史、郡太守、県令県長などは皆金印だったのでしょうか?銀銅はどういうクラスですか?
なんかマトモなスレになってきましたね
九州王朝と関係ない話だからマトモ
798 :
日本@名無史さん:02/12/21 16:42
中国の古文書の話をしているだけだからマトモ。
日本列島の具体的な出来事に結びつけた話題になれば一気に興奮状態間違いなし。
799 :
日本@名無史さん:02/12/21 16:44
では、以後日本に関する話題はやめましょう。
800 :
日本@名無史さん:02/12/21 16:45
プッ
796=797丸出し。
801 :
日本@名無史さん:02/12/21 16:56
>>799 そんなことでは2チャンネルファンをがっかりさせるよ。
××と●●は2チャンネルの華。
802 :
日本@名無史さん:02/12/21 20:51
803 :
九州王朝大好き:02/12/21 21:08
九州王朝はなかったのか?
上記話題を戻しましょう。
なかった
805 :
日本@名無史さん:02/12/21 22:48
なにが?
806 :
日本@名無史さん:02/12/21 22:49
あれが
倭人伝に銅矛の記述があって銅鐸の記述がないのは、邪馬台国九州説を支持するなあ
銅矛の記述なかった
九州王朝なかった
809 :
日本@名無史さん:02/12/21 23:00
捏造は九州王朝のお家芸。
>九州王朝
王朝と書くと嫌がられるのかもしれないけど、北九州、南九州、吉備、大和、毛野、越
なんかに自立勢力のかたちで存在していたのはほぼ確実とみてよいでしょ?
811 :
日本@名無史さん:02/12/21 23:13
おまいら既出の物部氏についてはど〜なん?
銅鐸祭祀については物部氏との関連性がある罠。
その痕跡が出雲や畿内に見られる事実…
記紀の神話の舞台は筑紫地方が一番多く、次が出雲地方である
813 :
日本@名無史さん:02/12/21 23:31
>>812 記紀と旧事本紀を比較すると面白い罠。
記紀ではニギハヤヒ他、旧事本紀で登場する神様が登場しなかったり扱いが小さい。
さらに紀ではスサノヲの役回りがツクヨミになってる。
ちなみにスサノヲは出雲関連の神であり、ニギハヤヒは物部の祖神である。
814 :
日本@名無史さん:02/12/21 23:48
結局、近畿説は神話における出雲や筑紫の存在にだれも言及しないわけだが。
815 :
日本@名無史さん:02/12/21 23:50
神話なんか言及してどうする?
816 :
日本@名無史さん:02/12/21 23:56
神話って何だ?
吸収王朝説
>817 うまいですね、それが真実かも
819 :
九州王朝大好き:02/12/22 00:20
>>818 そうです。
九州王朝説=吸収王朝説 です。
九州王朝説は何でも吸収できるフレシキビリティのある許容度の高い説です。
近畿王朝説の様に料簡の狭い、飯のタネにする説ではありません。
>>810 問題はそんなことじゃないでしょ。
九州に劉宋や隋・唐と通交した王がいたかどうかって話なんだから。
急襲王朝
822 :
日本@名無史さん:02/12/22 00:31
>>820 いや、だからさ、大和勢力とは全く別の勢力が九州または出雲やら吉備やらに存在したか、
そもそも大和勢力そのものが九州にいて、そこから大和へ移住(侵略?)したというのを、
歴代中国の歴史書やら国内の神話・伝承・歴史書・祭祀などから言ってるわけだ罠。
823 :
九州王朝大好き:02/12/22 00:33
>>820 810氏の言う
>九州王朝王朝と書くと嫌がられるのかもしれないけど、
>北九州、南九州、吉備、大和、毛野、越なんかに、
>自立勢力のかたちで存在していたのはほぼ確実とみてよいでしょ?
と言う前提があって、
>九州に劉宋や隋・唐と通交した王がいたかどうかって話なんだから。
が成り立っていくのだと思います。
倭王武が「開府」を「自称」し、中国側にその権限を求めていたわけで。
九州には太宰府が存在し、筑紫君磐井の墓には「衙頭」という部分があったという罠。
825 :
九州王朝大好き:02/12/22 00:46
>>822 >そもそも大和勢力そのものが九州にいて、
>そこから大和へ移住(侵略?)した・・・
ことも近畿王朝神話から読み取れますが、
これも、九州王朝説の一部を構成するものです。
826 :
九州王朝大好き:02/12/22 00:50
>>824 かってながら修正します。意義はないと思いますので。
>九州には太宰府が存在し、筑紫君磐井の墓には「衙頭」という部分があったという罠。
誤:太宰府、 正:大宰府
柿本人麻呂の歌を分析すれば、は天孫降臨を「神分」と考え、そして神武東侵を
「第二の神分」と考えていたらしいことがわかる。
つまり元の地域に「神」は残っていたと。
828 :
九州王朝大好き:02/12/22 00:55
>>824 追伸:
太宰府 →→→ 近畿王朝派の言葉
大宰府 →→→ 九州王朝説を支持なら使うべき言葉
(´-`).。oO(太宰府市はなんで点をつけたんだろう)
830 :
九州王朝大好き:02/12/22 01:05
今日は、橿原一派の荒らしが少ないですね?
九州勢力が東征して近畿勢力を支配したのか、
九州勢力が近畿に行くも近畿勢力に吸収されたのか?
物部氏は東進して天皇家に仕えるようになったのか?
もともとの太宰府町(旧太宰府町)にすでに点が付いていたからでしょ
オレは橿原一派=奴国王クン(国名三段読みクン)だと思うがな。
論破されてここに来るのがイヤになったとか。
834 :
九州王朝大好き:02/12/22 01:17
>>831 物部氏はこのスレとの関係はほとんどないと思いますが、
>九州勢力が東征して近畿勢力を支配したのか、
九州勢力の一部が近畿に侵略し、在地勢力の物部氏を支配した。(神武神話等)
>九州勢力が近畿に行くも近畿勢力に吸収されたのか?
神話の中には、近畿勢力に吸収された九州勢力を「裏切り者」として取り扱っている部分もありますね。
>物部氏は東進して天皇家に仕えるようになったのか?
支配された物部氏は、後世、自分も九州出身と作文しないと都合の悪い政治状況になっただけでしょう。
物部氏は銅鐸文化の担い手ですから近畿の在地勢力の末裔です。
835 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:20
>>831 少なくともニギハヤヒ(物部の祖神)は神武よりも前に河内に降臨したとされていますね。
そしてナガスネヒコと政略結婚したとされてます。
重要なのは旧事本紀によると「筑紫から」降臨したとされている点です。
畿内と北九州のみ物部系の神と天皇系の神を同時に祭ってるところからして、
天皇と物部の連合政権もしくは物部が実権(軍事・祭祀)を握った形での傀儡政権だったとも考えられます。
>神話の中には、近畿勢力に吸収された九州勢力を「裏切り者」として取り扱っている部分もありますね。
すまんが神話のどの説話? だいたいの登場人物とあらましキボンヌ(簡単でいいです)
837 :
九州王朝大好き:02/12/22 01:24
>>829 >>831 太宰府は近畿王朝がつけた名前です。
大宰府では都合が悪いから、太宰府に変えたのです。
他に「筑紫」の読みは、九州では「チクシ」近畿王朝側では「つくし」と言っている例もあります。
質問なんですけど、
金印の三段読みと二段読みの違いで、九州王朝説に影響があるんですか?
二段読みだと近畿説は否定されるんでしょうか。でも志賀島が都とはされないんですよね。
三段読みとしても、倭(本国)が九州にあった可能性と近畿にあった可能性が生きますよね。
>>838 「漢委奴国王」が倭人伝の「奴国」に比定できるかどうかの問題。
ただ後漢書の執筆者の認識が以前このスレで論争がありました。
倭奴国=倭国(大倭王)→卑弥呼の国なら、邪馬台国は九州でほぼ決まるので。
万葉集に「志賀の皇神(しかのすめろき)」と歌っている部分があるので、
なんか宗教的な意味合いが関係しているかも知れないですね。
840 :
九州王朝大好き:02/12/22 01:37
>>838 きちんとした説明は忘れましたが、
二段読みなので九州と特定されるのです。
古田氏が二段読みしか出来ないことを彼の著書の中で説明しています。
志賀島は単に発見された場所と言うだけで、都の近くの重要な政治的場所と推定されます。
都の博多が対岸で「君が代」の元歌を持つ神社もありますから。
香椎宮はかんけいあんのかな
842 :
九州王朝大好き:02/12/22 01:47
>>836 >神話の中には、近畿勢力に吸収された九州勢力を「裏切り者」として取り扱っている部分もありますね。
>すまんが神話のどの説話? だいたいの登場人物とあらましキボンヌ(簡単でいいです)
どこか場所を忘れました。十年位前に読んだ時に、神話の頭から読んでいくと発見したが、探します。
香椎宮は仲哀記にも出てくる古い地名ですからね。
直接証拠はないですが、地理的な位置からして関係ありそうですね。
844 :
日本@名無史さん:02/12/22 02:17
>>836,842
とりあえず思い付くのは「アメノワカヒコ」の話だな。
アマテラスとタカミムスヒは蘆原中国(あしはらのなかつくに=日本?)を平定すべく
参謀格のオモヒカネの推挙に応じてアメノホヒを派遣したが、オオクニヌシに丸め込まれてしまった。
そこで推挙されたのがアメノワカヒコで、天之真鹿児弓(あめのまかこゆみ)と天之羽羽矢(あめのははや)というアイテムを持って下界へと降りて行った。
この国を手に入れようと野心を抱いたのかオオクニヌシの娘を嫁にして8年が経過して、
天上界からナキメという雉(きじ)が督促の使者として遣わされた。
アメノワカヒコはこのナキメを持って来た弓矢で射殺し、その矢は天空へと舞い上がり、
アマテラスとタカミムスヒの足元へ。
その矢をタカミムスヒが「悪しき神を射ぬいた矢ならアメノワカヒコに当たるな。
もし彼に邪心あればこの矢に当たって死ぬが良い」
と言って天空へ飛来した穴から差し戻した。
この「返り矢」がアメノワカヒコの胸に突き刺さったという話。
大事なのはオオクニヌシは出雲の神(因幡の白ウサギとかスサノヲの話参照)であり、
ここから天皇家勢力と出雲(物部?)の間に争いがあったということが読み取れる事。
ちなみに物部が出雲勢力であったとか北九州勢力であった痕跡は存在する(ただし北九州についてはアラカヒの時の痕跡の可能性もあって一概には言えない)が、
大和の在地勢力だった痕跡はあるのか?
河内に降臨したニギハヤヒ(物部の祖神)の伝承の通り河内には物部氏の痕跡(降臨の地など)があるものの、
三輪山の向こう側、即ち大和には天皇家の政権樹立前の物部氏の痕跡は無いはずである。
あったら教えて欲しい。
それに物部が畿内の在地勢力ならばナガスネヒコについてはどう説明するのか?
つまり漏れが言いたいのは、物部氏もまた畿内の在地勢力ではなく移住(侵略?)して河内に来たという事。
847 :
九州王朝大好き:02/12/22 02:46
848 :
日本@名無史さん:02/12/22 05:51
神話の話だけしてれば畿内説はやってこないと思われ
849 :
日本@名無史さん:02/12/22 08:36
古事記も日本書紀も神代とされる部分はあるけど、全体としては歴史書でしょ。
神話という言葉には何か別のニュアンスが含まれている感じがするよ。
850 :
日本@名無史さん:02/12/22 08:52
物部は、九州が本貫と、九州では言われますね。もし九州からの移住なら、
@ 神武以前に畿内に侵入していた。
A 神武と同道した。
B 後に合流した。
C 神武系に取って代わった。(例:応神系など)
D 新しく来た。(継体以後)
もし畿内に土着である、という痕跡がなければ、このうちのどれかになる
わけですが、このことを明らかにするための手がかりは何でしょうか。
ちなみに、私は八尾在住で、一応物部の本貫の地と言われています。何故
奈良盆地ではないのか?というのがかねてからの疑問で、近隣の巨大古墳
と何か関係があるのでしょうか。(無関係というのも考えにくいが。)
物部のプロ、キボンヌ。
851 :
日本@名無史さん:02/12/22 09:16
しかし結局どこからも九州王朝説の根拠は出てきませんでしたね。
852 :
九州王朝大好き:02/12/22 16:01
>>850 ここは物部スレでないけれど。
@ 神武以前に畿内に侵入していた。と思われる。
神武は河内湾の奥の日下に侵入したが、
日下の北部域のナガスネヒコと南部域の物部の反撃にを受け敗走。
神武は進入拠点を日下に選んだのは物部の援護を期待してしか考えられない。
物部の援護なしには、攻撃拠点を日下に選ぶことは軍事作戦上全くの不合理。
物部氏の援護があれば北面に陸戦主体のナガスネヒコ軍を地形的に有利戦え、
又、近畿在地信仰の中心地である生駒山を簡単に征服出来て、
ナガスネヒコ側に精神的有効な打撃を与えられる事をねらったのでしょう。
神武船団が鳴門を通り、泉州沖を北上出来たのも、進入時点で物部の了解があったと推定されます。
又、敗走時に陸戦軍のナガスネヒコに敗れたのも、実質は物部船団に敗れたものと推定できます。
853 :
九州王朝大好き:02/12/22 16:12
>>850 852の説明を端折っていますが、大阪八尾の方でしたら理解していただけると思います。
>物部氏は東進して天皇家に仕えるようになったのか?
天皇家が東征して近畿の物部を下した?
え〜と、では854の言うとおりなのですか?
以下に疑問点を。
@ 神武の戦った相手が物部であるという根拠は?
A 長脛彦が陸戦部隊であるという証拠は?
八尾付近から書紀にある「南方」までは、ずっと湿地帯ですから、水上戦闘だった可能性も
あると思うのですが。
それと、それほど強力な物部が、少数勢力の神武一派に敗れたのは何故でしょうか?
奇襲上陸後の展開もご説明いただければ。
奇襲>紀州
857 :
九州王朝大好き:02/12/22 21:32
>>855 @ 物部は神武に勝ちこそすれ、負けてはいません。
神武が進入に成功したのは奈良の平野部の南の隅っこですから。
物部は当時の河内湾に流れ込む大和川以南にいましたから、
日下の戦い以降戦闘はしていないし、出来ません。
神武は海戦ができない長脛彦とは戦えません。
海戦ができる勢力が河内湾にいたのでしょう。
それをあえて推定すれば、九州より神武以前に来た勢力となります。
その勢力は大阪湾を泉南沖まで追いかけることの出来る海戦戦闘能力持っていたのです。
なお、河内湾は完全な海です。
潟や低湿地帯は、現在の枚方や、東大阪の水走(河内湾の湾中央部東岸沿いと推定)より
はるか以南の八尾のあたりです。
参考:大阪の海で西に面した海岸沿いでは、冬には北西の季節風で海水が高速で移動するので、
浪速とか水走の様な地名がついたのでは?
A 長脛彦が海上戦を得意とすれば、南方と大阪台地の間の狭い水路を通って神武は広い河内湾に進入出来ません。
又、神武が南方水路を通って日下から大阪湾に逃げ出すことも出来ません。
長脛彦の本拠地が南方のすぐ北東側の地域ですから、
本拠地の前の水路で神武の河内湾からの脱出を阻止できないことは海戦能力がなっかたと推定できます。
日下からの脱出時には、神武は後方より追いかけてくる物部と思われる船団から逃げるだけで良いわけです。
又、後世の戦闘甲冑が、九州が皮製に対し近畿は鉄製ですから、前者は海戦用、後者は陸戦用と言えます。
神武が進入した2〜3世紀頃にも、神武は皮甲冑、長脛彦は鉄甲冑又はそれに変わる重装甲冑と推定されます。
重装甲冑部隊では海戦する為の舟も持っていないと推定できます。
六甲山中腹に点々と並ぶ遺跡は西方よりの進入者に対する監視警報設備でしょう。
進入者が上陸してから戦ったと見られます。
明石から西宮まで、西方からの進入者に対して、防衛船団が待ち受けられる地形はありません。
妄想爆発
859 :
日本@名無史さん:02/12/22 22:29
九州王朝大好きさんって、2チャンネルなんかで遊んでないで本書けば?
あったよ。現大分県北部だろうな。それだと魏志倭人伝と符合する。
861 :
日本@名無史さん:02/12/22 22:52
857番、面白いです・・
日下雅義氏の作成した弥生時代の地図を見ながら読んでます。
大阪の古代の地形(海だった!)については、市原・梶山両氏の研究で、すでに定説ですが、
それを舞台に、戦闘の様子をここまで想像できるとは・・
小説だけどな
863 :
日本@名無史さん:02/12/22 23:56
漏れも八尾市民だす。 神武が上陸した?のは、今の東大阪の日下ですね。
最終目的地が大和と決まっていたのですか?
とすれば、大和に大勢力が存在したことになりませんか?
また、日下から大和へは生駒越えですわ。
河内湾から、そのまま、今の大和川沿いに大和に突入できなかった理由って、物部勢力を避けたように思われるのですが。
864 :
九州王朝大好き:02/12/23 00:01
>>857は仮説であって小説ではありません。
気候気象・風土地勢・地質学・化学的生物学的物理的分析データ・物理的絶対年代決定法を資料としましょう。
865 :
九州王朝大好き:02/12/23 00:46
>>863 神武が日下に上陸しようとしたのは、
長脛彦の本拠地今の茨木市近辺が最終目的地ではなかったのではないかと思います。
神武は物部とタッグを組み吉備の応援も得て、
長脛彦を倒し摂津の地域の制圧をもくろんだとも思われます(小説かも?)。
しかし策謀(日下上陸信仰の聖地生駒山制圧)による計画は物部によって挫折し、
南紀回りでやっと大和平野の南端で土蜘蛛をだまし討ちにして、
かろうじて潜り込めたのが実態ではないでしょうか?
現在でもそうである様に大和平野はあまり重要でない地域だったと思われます。
大和平野では神武朝(土豪)も大きい勢力になれなかったでしょう。
近畿王朝の本格的な近畿制圧は応神以降と考えられます。
神武の東征から(壬申の尾張?)坂上田村麻呂の東北遠征までって
何百年かかった1つのプロセスとみれるんでしょうか?
867 :
日本@名無史さん:02/12/23 01:04
>>865レスサンクス。
なるほど。大和より河内と摂津制圧が目的だっだと。南紀周りには、疑念ありますが、スレ違いなので、おいといて、
大和には王朝なし説になりますね。
橿原制圧にて、王朝になるのが疑問なのと、その時、物部の動きはどうだったのですか?
868 :
九州王朝大好き:02/12/23 01:08
>>865 神武の時代のもっと前には、奈良盆地の中央部はまだ湖や沼沢池があり、
その辺で大和三山の神話残す勢力がいましたが、
その勢力は湖の消滅と共に衰え、その地の南の端に神武の入り込める余地ができたと思えます。
>>865 「近畿一帯」という地域を制圧する場合、どうしても淀川を抑えないと話になりまへん。
私の考えでは、本格的な近畿制圧は近江に遷都した景行ではないかと思いますが?
○○タラシでない、ズバリ「大タラシ」という名が示すとおり。
その点、仲哀の「タラシ中ッヒコ」というのは、どう見ても格下ですよね。
「中ッヒコ」、つまり「ヒコ」ではないと・・・。倭人伝に書かれているように「ヒコ」と
いうのは官名でしょう。仲哀はその「ヒコ」ではなく、「中ッヒコ」だと。
これはやはり「次官」クラスという感じでしょう。
仲哀が反乱を起こしたのは、やはり「ヒコ」が認められなかったことじゃないですか?
870 :
日本@名無史さん:02/12/23 01:36
結局、近畿にいた勢力のうち、物部だけが、残るんですか?
いつごろでしょう?
やはり、九州勢力と関係があった?
871 :
九州王朝大好き:02/12/23 02:11
>>869 物部は河内の勢力ですから、山向こうの大和の神武に何の関心もなかったと思いますが?
河内で神武と組めば摂津の長脛彦に睨まれますからね。
神武の実態は土豪程度でしょう。
それも権力の継承も順当に出来ない弱小土豪でしたからね。
そういや倭人伝では、卑狗=官ということだったな。
卑狗=ヒコと考えられているから、○○ヒコという天皇は官というわけだ。
いったい誰から○○ヒコという称号をもらったのだろうか・・・
873 :
日本@名無史さん:02/12/23 09:44
こうやって空想で遊んでいる分には九州王朝説は無害と思われ。
なるほど。まあ、仮説なんで実相は不明ですが、どのような形にせよそのような複雑な
狙いや条件があり、それはまたあまりに突飛なことではなく、当然ながら後世の言葉でも
さもありなんという内容でもあるわけで。そのような作業仮説としての‘小説’は必要です。
で、長脛彦の本拠が北摂であることの根拠はなんでしょうか。以前提示した疑問(神武説話の
どの部分が物部にあたるのか、等)にもお答えいただければ。私も‘湿地帯・・・云々’は、
東大阪の日下をイメージしていましたので。
まあ、神武天皇顕彰碑がたっているのはどうせ明治以後のものでしょうが、石切神社の方は、
主神が饒速日尊、可美真手命であるのも有名な話。これも後世宗旨替えはあったかもしれない
が、いずれにせよ相当に古い神社であることは事実のようで。
875 :
九州王朝大好き:02/12/23 15:44
>>874 長脛彦の本拠は消去法です。
当時の経済基盤が出来る地形風土が重要です。
食料が得られる水稲作のできる低湿地があること。
たんぱく質の供給ができる海湖水河川があること。
生活用水が十分に得ることができる河川があること。
社会的刺激のある交通(水運)の要衝であること。
周辺地域に比べて生活気候条件が劣らないこと。
大きな勢力になる為の人口を支える地域を探すには、
大きな勢力になる為の人口を支えられない地域を消去することです。
太宰府・平城京は所詮人口都市で上記条件を満足できない地域となります。
当時の地形気候を考慮して条件的に残る地域は、京都市の南側地域(湖水があった)と茨木市周辺地域となります。
茨木市周辺が最有力候補となります。
又、茨木市周辺地域では東奈良遺跡等の遺跡の集中地帯でもあります。
長脛彦が最大の権力者であれば、この地域以外に存在できないと確定できます。
同様に九州王朝の存在場所が確定できるわけです。
876 :
九州王朝大好き:02/12/23 16:06
>>874 河内にいた勢力が航海術に優れた九州系の移住者であることはわかるのですが、
彼らが物部であるとの確証はありません。
条件的に物部である可能性は限りなく高いと思います。
石切神社の祭神については、まだ調査しておりません。
このような古い神社では、主神は後世の支配者によって持ち込まれた神ですから、
その他の神々について調査する必要があります。
縄文時代からの霊山の生駒山の麓の海岸に面した神社ですから、
大阪の天神、住吉神社、えびす神社より古い時代の九州系の神が祭られてと思われます。
877 :
九州王朝大好き:02/12/23 16:27
>>874 >875
>当時の地形気候を考慮して条件的に残る地域は、京都市の南側地域(湖水があった)と茨木市周辺地域となります。
重ねて書くことになりますが、物部が居たと推定される、河内湾南岸大和川河口近辺及びその南側も、条件的に残る地域となることを付け加えます。
神様の話はホント面白い。
天皇陛下は全部真相をご存知なのだろうか。
879 :
日本@名無史さん:02/12/23 17:51
石切さんは、デンボ=でき物の神さんで、地元では有名なんです。
あと神馬です。
子供の時、見に行きました。 何か関係あるんですか?
880 :
九州王朝大好き:02/12/23 19:36
>>873 >こうやって空想で遊んでいる分には九州王朝説は無害と思われ。
という事は、九州王朝説は一般的には有害だと言うことになる。
なるほど、妄想世界で飯を食って税金を詐欺している近畿王朝説にとって、
真実を暴く九州王朝説は近畿王朝説にとっては有害ということか。
近畿王朝説派がヒステリックに騒ぐのは、彼らにとって生活権の侵害と受け取るからか。
ここでヒステリックに騒いでいるのは橿原一派では無いと思いたいが?
881 :
日本@名無史さん:02/12/23 19:40
露骨なうそを書いて他人を惑わす九州王朝説は有害。
空想してる分には無害。
883 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:01
「思いたい」というご希望通り
ここでいちばんヒステリックに騒いでいるのは九州王朝大好き君ですが
何か?
884 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:41
漏れは中立の立場から物部の話を持ち出した者だが、
>>880に対して
>>881-883のようなレスが付くようではどちらがヒステリックかと問われたら九州王朝否定派であるとなってしまう罠。
石切さんは、病気全般もお祈りに行きますね。私も、父の入院の時に、母に連れられて何度もお参りに行ったのを
思い出します。今でも沢山の人でごった返しており、神武に破れた、あるいは殺されたとも言われる長脛彦という
敗者を祀っている割には、大阪ではメジャーな神社としてしっかりと存在しているのは何故でしょうか。
今、ネットで見たら、正式名称が石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)、つまり剣と矢がご神体だそうな。
これは知りませんでした。馬というのも軍事に関係するものなので、軍事的なも
のが由来でしょうか。
ところで、九州王朝が有害という言い方は、常識がある人の言い方とは思えない
ですが、どうしてこのスレにはそんな人が多いのでしょうか?
まあ、2ちゃんだからといってしまえばそこまでだけど、少々つまらないですね。
886 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:02
うそをつくから有害
>>886 貴方の言う「うそ」がどのレスのどの部分なのかを指摘しないとフェアじゃないですよ。
てか、こういう人に建設的な議論を求める方が間違ってるのかな。
888 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:07
>妄想世界で飯を食って税金を詐欺している近畿王朝説
なんていうのは明らかに中傷じゃないの?
やっぱ九州王朝説ってヒステリックだよ。
889 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:22
>>887 >
>>731 >こいつ「倭」の「奴国」の「王」説が多数説と主張しているところがイタい。
>
>>732 :日本@名無史さん :02/12/20 06:47
>多数説ですが何か?
>
>>733 :日本@名無史さん :02/12/20 06:49
>昭和40年代あたりまではな
>
>>738 :日本@名無史さん :02/12/20 06:59
>あ、そう。
>じゃ、昭和40年代以降に非「三段読み」説を主張してる学者の名前を列挙してね。
できなければ貴方の主張はウソということだな。
「うそ」確定。
890 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:29
>>807 :日本@名無史さん :02/12/21 22:50
>倭人伝に銅矛の記述があって銅鐸の記述がないのは、邪馬台国九州説を支持するなあ
↑うそ
891 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:39
これもだ。
|
>>463 :日本@名無史さん :02/11/29 07:20
| いずれにしろ、絶対年代の測定は世界的にも特異な遺物による編年、相当な
| ほころびが出てきているので、だんだん説得力をうしなっているのも事実。
892 :
日本@名無史さん :02/12/23 21:50
↑ あら探し必死だなw
で、お前の言うことは全部正しいのか?
いってることが正しいのと嘘をいうのとは質が違うよ。
こうやって見ると九州王朝説のひとってよく嘘をつくね。
894 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:01
「倭」の「奴国」の「王」説が昭和40年代以降は多数説じゃないとか言い出したら
やっぱり庇いようのないウソでしょうね。
895 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:10
>889、890、891
で、結局、お前はウソをついたことは無いと?
もち、「○○だろうと思われる」とかはなしね。
896 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:12
897 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:15
ふつうの人は嘘をつきません。
>>885 イシキリツルギヤって馬が、中央競馬で走ってたんですよ。
馬主は、石切神社。
引退後、競馬好きの父と神社に行くと、いました。
イシキリツルギヤ号が。
大阪は負けの文化って言われますね。
またも負けたか、八連隊。
軍隊から帰った人が、如何に逃げたかを話すのは大阪だけだと、小松左京さんも言ってますね。
スレと関係ないので、さげ。
まぁ、現状では、九州、近畿とも、決定的ではないはずので、冷静に対応してほしいめのです。
899 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:26
うおおおお
900 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:26
うっ、うんこ
901 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:27
これでクールダウンしろよ。
903 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:31
>>898 九州王朝説がウソついてる事実から話そらしたいものと思われ
904 :
九州王朝大好き:02/12/23 22:45
>>885 石切神社には数柱の神が祭られていると思いますが、その神々の名前が必要です。
又神社にはそれらの神々の由来を書いた簡単なパンフレットがあると思います。
その神々の名前が重要です。又どのような場所に祭られているのかも重要です。
905 :
九州王朝大好き:02/12/23 22:55
>>807 >>890 >倭人伝に銅矛の記述があって銅鐸の記述がないのは、邪馬台国九州説を支持するなあ
>↑うそ
それじゃ、銅矛の記述があるのは何だったんでしょう?
何かに倭人の矛の記述がありましたよ。
906 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:07
>銅矛の記述があるのは何だったんでしょう?
どこにあるの?
九州王朝説ウソまみれ
908 :
九州王朝大好き:02/12/23 23:16
>>898 >まぁ、現状では、九州、近畿とも、決定的ではないはずので、冷静に対応してほしいめのです。
現状では九州王朝説が決定的ですよ。
ただ、肝心重要なポイントになると、近畿王朝説はだんまりを決め込み、
九州王朝説の枝葉で揚げ足をとる。
そして税金で飯を食らっている専門の研究者の数で多数派と言う。
在野の研究しているものを含めると多数派は九州王朝説です。
九州王朝説を唱えると給料がもらえなくなる専門家では近畿王朝説が100%多数派。
古代史の重鎮と言われる人も「だんまり」を決め込んでいるもんね。
こんどは中傷。
910 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:25
>>908 >ただ、肝心重要なポイントになると、近畿王朝説はだんまりを決め込み
肝心重要なポイントって何かな?
近畿王朝説はだんまりを決め込んだという具体的な事実のレス番号は?
911 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:37
>在野の研究しているものを含めると多数派は九州王朝説です。
そう断言する根拠は?
912 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:37
で、天皇は誰に「ヒコ」「ミミ」「スクネ」に任命されたのか、という疑問に
答えていないんだが・・・
いつも追求されるとだんまりを決め込むのは誰でしょうか?
914 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:43
>>912 任命されたものか自称したものか不明なものに
「誰に任命されたのか」などという質問はナンセンスだな。
そんなものが肝心重要なポイント?
915 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:43
朝日新聞
916 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:45
日本書紀に記載されている朝鮮関係の資料が、古事記には記載されていない摩訶不思議さ・・・
917 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:46
自称したとしてもヒコ=官名は動かせないな。
つまり天皇は一地方の「官」だったわけだ。
漏れは中立(というよりもただ「真実」が知りたいだけ)だが、「近畿王朝派」は神話や物部を基にした検証という流れになると論理的なレスが返って来なかったな。
これを「だんまり」と見れないこともない。
そのクセ「神話」を検証材料にする事そのものを否定するレスが付いたりした。(
>>814-815)
一方、「九州王朝派」の中には特定の学者を敵視するレスが付たりしていて、これもどうかとは思う。(先に古田云々などと持ち出されたにしても)
要は双方とも「真実を探究する姿勢」とか「学問的な好奇心」『以外』の何かが入ってる香具師が居るからいかんのだ罠。
相手が居なければ議論も成り立たん。
双方とも相手を尊重する姿勢を持つべし。
919 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:50
>>918 中傷は否定派が先にはじめたものなのは明らか。
ここ数日、否定派はこのスレに来なかったが、非常に平和だったのだから。
920 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:52
ヒコ・ミミ=官 ということで天皇=一地方官人
ということに決まりました。みなさんよかですか?
921 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:56
>>919 はい、これ露骨な嘘ね。
九州王朝派は繰り返し「飯を食って税金を詐欺している近畿王朝説」パターンの中傷を繰り返してる。
九州王朝説は嘘をついてるのは事実だから中傷ではない。
九州王朝大好きさんの主張をおもしろいと思って読んでいたけど
>妄想世界で飯を食って税金を詐欺している近畿王朝説
こういう発言は少々いただけないと思う。近畿説の研究者も(九州さん同様)
真剣に研究しているだろうに。ギャクギレを呼んでスレを汚くするだけだ。
読んでるおれたちファンの期待も裏切らないでほしい。
>>920 天皇にただのヒコもただのミミも一人もいませんが何か?
924 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:05
>>918 神話伝説を証拠として採用しないというのはひとつの見識でしょう?
925 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:08
>>921 これが中傷と言わずしてなんというか?
つまり相手の主張を、自分の基準でもって「嘘」と決めつけ、さらに論理は
飛躍し、「嘘ツキだから何言っても中傷ではない」という、およそ万人には
受け入れがたい理論でもって自己を正当化しているのだ。
ハッキリ言ってこんなガキ的理論を堂々と展開する奴を、大の大人が相手にする必要など
ないだろう。
今後、この手のカキコは無視することにする。
もっとマシなことを言えよな・・・
926 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:10
>>922 まあ、その手のカキコは「売り言葉に買い言葉」というやつであって、
九州王朝大好きさんは普通のカキコではそういうことは言ってないよ。
927 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:12
>>925 921はウヨ。マジで相手にしている方がDQN。
総じて畿内派は中国史書と考古学に依拠していて、記紀神話の話題には乗ってこない。
後代資料を重視しないというスタンスを否定はできない。
これを「だんまり」というのはアンフェアだと思う。
とうとうウヨ呼ばわりまで出てきたな。追い詰められてきたようだ。
過去レス読めば九州王朝説の中傷好きは丸みえ。
しかも「嘘ツキだから何言っても中傷ではない」なんて捏造まではじめた。
嘘ツキを嘘ツキというのは中傷ではない。ただの事実だ。
九州大好きさんは、いろいろの話楽しい。
だだ、怖い時があんの。
とりあえず、ここ数日の平和な雰囲気に戻ろうよ
932 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:17
(狂信者特有の)
嘘ツキの事実は認めるだろ?
>>924 そのままでは「証拠能力」がないというなら「見識」かも知れんが、だからと言って各地の「神話・伝説」を比較したり他の分野の成果に照らし合わせたりして「神話・伝説」から事実を引き出す作業を完全に放棄叉は否定すべきでは無いでしょう。
いずれにしても
○○というような中傷はどっちが先に…いや向こうから…
あいつはうそつきだ!
などという事をくり返していけば議論が不毛なものになり、先へ進まない罠。
相手の誤りはちゃんと指摘するべきだし、引用箇所や根拠の明示を求めるべき時にはきっちりと要求すべきだろう。
でも、最も忌むべきは中傷合戦になってしまうことなのでは?
929は以後放置の方向で。
万葉集などを読む限り、ヤマトにも大和三山の争いなどの神話があるらしいことが
見て取れるんだけど、古事記はどうして出雲神話は取り入れておいて、
ヤマト神話に言及しなかったのだろうか。
神話といういうのは、歴史事実が元になっているのでしょうか?
天国や高天原というのは、現実に実在する地名なのですか?
937 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:27
>>934 じゃ、はっきりさせよう。
>>807 >>890 >倭人伝に銅矛の記述があって銅鐸の記述がないのは、邪馬台国九州説を支持するなあ
>↑うそ
それじゃ、銅矛の記述があるのは何だったんでしょう?
何かに倭人の矛の記述がありましたよ。
906 :日本@名無史さん :02/12/23 23:07
>銅矛の記述があるのは何だったんでしょう?
どこにあるの?
答えは??????????????
おまえら、話そらして逃げるなよ!
939 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:31
>>934 >相手の誤りはちゃんと指摘するべきだし、引用箇所や根拠の明示を求めるべき時にはきっちりと要求すべきだろう。
明示を求められて毎度答えを返さないから「うそつき」「うそつき」と非難されてるんじゃないですか?
940 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:33
>>936 そんなのわからん。
わからん話に終始しても先に進まん。心証論に陥るだけでしょ?
>>936 神話の中には現存する地名(筑紫・出雲・紀伊など)も出て来ますし、現存しない地名も出て来ます。
「神話はフィクションか?」と聞かれたら答えは「否」です。
「神話は史実か?」と聞かれても答えは「否」です。
だから「どの部分が史実でどの部分がフィクションか」という検証が必要なわけです。
もう940だ。
ま、そろそろ気分を入れ替えて新スレ立てよう。
943 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:38
>>935 出雲の神話はアマテラスに関係があるからでしょう。
国譲り神話などもあることだし。
ヤマトは関連性が全然なかったんじゃないかな?
銅矛文化圏と銅鐸文化圏の違いという問題もあることだし。
そういえば、大国主の息子だか孫だかが逃げたところから、縄文遺跡が発掘されたという
ことがありましたよね。
これなどは偶然とは言えないですよね。
やっぱり何らかの事実が反映しているということなんでしょうね。
>>939 漏れは前レスでも述べた通り「中立」ですし、無責任に自分の詳しく無い事を安易に答えるつもりはありません。
これについても漏れ自身はわからんので直接解答を示す事はできませんが…
もし貴方が言う通り
>明示を求められて毎度答えを返さないから「うそつき」「うそつきと非難されてる
のなら、「誤り」なのか「恣意的解釈」なのか「引用元に明記されている」のかはっきりさせて議論を進めるべきですね。
ただそこで「うそつき」とか言って「追い詰める」ことは議論を進める上で得策ではないとは思いますが。
気持ち悪い人たちがいっぱいいる(笑
>>948 まあ、そういうのは読み飛ばした方がいいよ。
950 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:53
>「誤り」なのか「恣意的解釈」なのか「引用元に明記されている」のかはっきりさせて議論を進めるべきですね。
回答しなくなってだんまりを決め込まれちゃうんだから他に方法ないんだよ。
951 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:56
誤読でしたとか一言返ってくれば終わるのに、黙って無視して
ほとぼりがさめるとまた同じこと言い出すから・・
うそつきは死ぬまでうそつき。根性に染み付くんだよ。
(^^)
(^^)
957 :
日本@名無史さん: