2 :
日本@名無史さん:02/11/27 21:08
2
3 :
日本@名無史さん:02/11/27 21:11
999
4 :
日本@名無史さん:02/11/27 21:14
前スレッドで聞いてなかったこともうひとつ。
秀吉の豊臣姓、羽柴姓の諸大名への下賜ってどうだったの?
家康の松平姓の下賜は有名だけど、明らかに秀吉を倣ったとしか思えないんですけど。
毛利や島津、徳川、伊達は羽柴だったの?
5 :
あらいぐま ◆9klrrr3OOI :02/11/27 21:15
作ろうにも寿命が足りなかったんでない?
6 :
日本@名無史さん:02/11/27 21:24
確か島津は「羽柴維新」と呼ばれていたな。
あぁすまぬ。呼ばれていたのは義弘ね。
島津家、としてでは無かった気がした。
8 :
日本@名無史さん:02/11/27 21:24
伏見城下には井伊とか地名が現在でも残っているし
城下集住といっても陪臣にも直接土地と屋敷を付与した形だね。
ひとたらしの秀吉らしい措置だね。
石川などは豪華絢爛な桃山文化にクラクラして秀吉に靡いていったんだろうけど
9 :
前スレの933・974:02/11/27 21:50
>>4
4さんの考え方で、良いと思います。すべて史料が残っているわけではないけれども、
秀吉配下の諸大名や上層の家臣の場合、
叙任の口宣案や位記には「豊臣朝臣・・」と記されている。
たとえば、家康の嗣子秀忠の場合、天正15年に叙爵したおりの位記には、
「従五位下豊臣朝臣秀忠」と記されている。
その後、秀忠は、「羽柴武蔵守秀忠」と文書に署名しています。
家康はじめ徳川政権が、松平を下賜したのことは、
秀吉を模倣したといっても良いと思います。
10 :
日本@名無史さん:02/11/28 02:05
羽柴秀忠、、、なんか新鮮!
11 :
日本@名無史さん:02/11/28 11:45
ほんと、同じような話題をループし続けるスレだね。
次々新しい参加者が来るんだから語り尽くすわけもなく。
そしてまた、お約束の説が並んでいく素敵なスレ。正に様式美の世界か。
12 :
ヒステリ〜ひすとり:02/11/28 11:55
幕府を開ける征夷大将軍ってもんは、たしか源氏の血族に関係ある者にしか任命されなっかたのじゃのっかたっけ?
豊臣ヒデは、百姓やもんでしょうがね〜から太閤なんでしょ?
13 :
日本@名無史さん:02/11/28 11:59
おー、またすばらしいゲスト登場!!
期待通りの直球勝負がすばらしい!!
14 :
日本@名無史さん:02/11/28 12:03
15 :
【^▽^】刺客兼用心棒ジョーカー:02/11/28 12:06
源氏でなくとも五摂家や宮様ならば征夷大将軍になれました。
16 :
【^▽^】刺客兼用心棒ジョーカー:02/11/28 12:08
私ならば関白と征夷大将軍を兼務し、それを息子に
譲った後は太政大臣になるね(秀吉・家康・秀忠も
太政大臣になったけど)。
17 :
日本@名無史さん:02/11/28 12:12
俺なら明の皇帝から「日本国国王」の金印をもらうね。
そいから三角縁の鏡をもらうのはどうだろう。
19 :
日本@名無史さん:02/11/28 12:50
問題だったら、今度は源氏に変えればいいじゃん。
素人考えだと
関白より征夷大将軍の方がなりやすそうだが。
秀吉、関白になる→公家の地位上がるウマー
だからかな?
21 :
日本@名無史さん:02/11/28 14:56
このすれもあくまでループしつづけるけど
>>20のような公卿の地位があがっていくと義満みたいになってしまう
南都行幸ならぬ将軍御成で公卿衆を叱咤しながら南都まで連れていった義満が
生涯目指したと思われるのが足利将軍家の神格化。
公卿衆の恨みはちゃんと報復された。
一説には義満は毒殺されたと言われている。
こんなことやっているので御料地と直轄軍は多少増えたが
開墾農業技術の進展、博多堺貿易の振興などで外部勢力も同じスパンで強大化して行く。
だから「夷をもって夷を征す」でしか大内氏、鎌倉公方という外部大勢力を討つことは出来なかった。
22 :
日本@名無史さん:02/11/28 14:57
こういう義満タイプの政道の短所を反省して
義持タイプの綱紀粛正、高位遠慮派と
義教タイプの恐怖政治、武断派
日野富子のようなマネー派(貨幣供給量を増大させ幕府の財政を潤わせる)が
これまたループしつづけるのです。
こういうタイプは徳川幕政に繰り返し出現した。
23 :
日本@名無史さん:02/11/28 15:06
家康は豊臣家を討つときに多数の外様藩には陣だけ張らせ見物させた。
先陣は本多や藤堂の譜代につとめさせた。
本多は討死にしたし藤堂勢も手傷を負った。
それでも結果的に豊臣家という大勢力を討つことに成功した。
のちのち大外部勢力に「元和のおり」「摂津のお戦では我が家は」と言わせないため。
ここが「夷をもって夷を征す」の天朝的公卿的発想とは根本に異なる。
家康がふだんから吾妻鏡を読んでいたと言われる。
御舎弟九郎義経や蒲冠者範頼を派遣しそれをのちの政争で討ち取ってしまうという
右近衛府大将の冷酷な措置から学んだのであろう。
信長に悪いから!!
25 :
日本@名無史さん:02/11/28 15:12
関白だったら悪くないの。
26 :
日本@名無史さん:02/11/28 23:34
>>23 「義経を派遣」というほどコントロールできていたようには思えないのだが
>>頼朝
義経が「予想以上の結果」を出す度に、不安になり、信用できなくなった
という感じでは。
27 :
日本@名無史さん:02/12/01 23:58
やっぱり、源氏じゃないとね。
29 :
でこ助野郎 ◆PhgS5i6Xbk :02/12/02 00:34
秀吉にずっと実子がいなかったからじゃないか??
天下統一したけど、後を継ぐ子供がいないから関白にでもなって、自分一代でも
栄華を極めようと思っていた。
で、晩年、秀頼が生まれちゃったから甥の秀次を失脚させて、秀頼を後継者に
して政権を維持しようとしている矢先に死んじゃったのでは??
すまぬが29の言ってる意味がわからない。
>後を継ぐ子供がいないから関白にでもなって、自分一代でも栄華を極めようと思っていた。
のなら、まず第一に「失脚」って変だろ。秀次に「継がせて」るから失脚させられるんだろ?
31 :
日本@名無史さん:02/12/02 01:14
>>28 ここまで見栄三重の釣りにひっかかった振りをしてくれるとは、
あなたも奇特な方ですね。感謝に耐えません。
32 :
日本@名無史さん:02/12/02 01:15
同じ釣られるなら、もうちょっとひねりが欲しいが。
33 :
日本@名無史さん:02/12/02 01:16
秀吉は近衛の養子だろ。
34 :
日本@名無史さん:02/12/02 01:36
だから秀吉は猶子です。
養子などではありません。
んまったく過去ログ読めって
35 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:12
釣られるヤシ多すぎ。
36 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:14
養子と勇士ってどうちがうのー。
37 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:16
だから養子は相続権が発生しうるんだけど
猶子はそんなものないんだよ
君はとにかくだなあ過去ログ読めって
38 :
goo国語辞典:02/12/02 02:16
ゆうし いう― 【猶子】
〔古くは「ゆうじ」とも〕
(1)〔「礼記(檀弓上)」による。自分の子供のようなものの意〕甥(おい)、または姪(めい)。
(2)親族または他人の子を自分の子としたもの。養子。義子。
39 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:20
>>34 過去ログをよく読もう。34が過去ログを読んだ上で
それでも、33のような書き込みをマジでするヤシ
が存在しうると考えるのか、と小一時間樋冷たい。
40 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:22
養子は実子でない子。
勇士は強いヤツのこと。
そんなことも知らんのか。(w
41 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:26
こんだけループしてきたスレだ。もうひとループくらい回しても
大差あるまい。
42 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:30
でさ。秀吉が近衛家の養子なのか、猶子なのかによって、秀吉が将軍に
ならなかったことに、「どのような重大な影響」があるのか誰も説明し
てくれてないのだが、誰か説明してくれるかな?
>>37 君でもいいよ。
43 :
若狭ょわ入れるにしても、近江が問題かな :02/12/02 02:32
また、猶子の話題になってるの
織れもカキコしたけど、前スレで完了したはずだー
何やってんの
44 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:36
>>43 養子でなく猶子だとなんで「将軍にならない」んだよ。説明してくれよ。
お願いだから。
>>43 っつーか、それを言うならスレそのものが終了してただろw
猶子-養子などの細かい論争を除いて、大筋としては
・征夷大将軍でも関白でも権威のある職ならどっちでもよかった
・むしろ関白のほうが天皇の権威を利用できる分、お得
だったと思われ。
46 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:39
そうだよ。終わっちまったスレの「その2」になんか書き込むなよ。
オメーラ。
>>44 近衛の猶子になるだけで関白になれるのだから、
足利の名を継げるなら養子でも猶子でも将軍にもなれます
ただ、秀吉を嫌う義昭より、手っ取り早く姓をくれた近衛を
選んだだけ
>>45の書いているような
> むしろ関白のほうが天皇の権威を利用できる分、お得
っていうのもあったのでしょう
48 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:44
ちっとも答えになってねーよ。
近衛の養子でなく、猶子だとなんで「将軍にならない」んだって
聞ーてるんだよ。関係があるのかって聞ーてんだよ。日本語ワカ
リマスカー?Do you understand me? それとも園児君?
>>48 意味不明だな
もしかして、
「近衛の養子だと将軍になれて、猶子だとなれないのはなぜか?」
と言っているのか?
足利の養子/猶子(--->将軍)と近衛の養子/猶子(--->摂政関白)を
混同していない?
51 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:54
>>49 理解力あるのか。
「関係あるのか」の質問への答えは「関係ありませんでした。
すいません。反省します」だ。ボケ。
52 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:55
>>50 そっちでやってもこっちでやっても同じことだ。ボケ。
53 :
日本@名無史さん:02/12/02 02:58
>>50 結論:
終了させたきゃ、削除依頼出せよ。
>>51 いや、理解力がないのはそっちでは?
>近衛の養子でなく、猶子だとなんで「将軍にならない」んだって
>聞ーてるんだよ。
という問いに対して
>>48や
>>49は正しく反応していると思われ
誰も「秀吉、近衛家の養子・猶子論争」と「将軍になる、ならない」が
関係あるなんて言っているヤシはいないだろ
すでに終了したスレで、すでに終了したネタに対して
おまえだけが「関係あるのか」と独りでイキガッてるように見えるよ
哀れ(T_T) 寂しい奴なんだな、おまえ・・・
55 :
日本@名無史さん:02/12/02 03:03
あんたも付き合いいいね。善人なんだねえ。
>>55 うんw
でも疲れたので寝ます
おやすみ〜
57 :
日本@名無史さん:02/12/02 03:05
では、めでたく打ち止めということで。
58 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:55
源氏じゃないから幕府は開けないだろう。
59 :
日本@名無史さん:02/12/08 20:23
関白・太政大臣・右近衛大将 に就任すれば幕府は開けたろう!
60 :
日本@名無史さん:02/12/08 20:47
織田信長、豊臣秀吉には、幕府を開くメリットが
あまり、無かった様に思うけど?
61 :
日本@名無史さん:02/12/08 20:51
>>60 幕府を開くメリットって具体的にどういうもの?
62 :
日本@名無史さん:02/12/08 21:04
>>61 頼朝の場合だと、臨時軍政による徴税権とか
家康だと、豊臣政権に変わり、武家の棟梁としてアピールなどかなぁ
63 :
日本@名無史さん:02/12/08 21:24
秀吉は関白でも「武門の棟梁」を自負していたけど?
64 :
日本@名無史さん:02/12/08 21:35
なるほど、納得はしてもらえないと思うけど
秀吉は武力で主家を乗っ取ったんだけど
家康は関ヶ原の後も豊臣政権を完全に乗っ取れてはいなかったし
時間も無かった
65 :
日本@名無史さん:02/12/09 16:02
豊臣幕府を開いたら豊臣政権は違ったものになったのかどうか。
幕府を開いても五大老、五奉行制で筆頭五大老の家康が
実権を握る形で決着つきそう
66 :
日本@名無史さん:02/12/13 21:18
あげ
67 :
日本@名無史さん:02/12/13 21:21
あげてどうする?
68 :
日本@名無史さん:02/12/14 23:38
関白でも武家の棟梁の場合、幕府は開けないの?
れす全部読んでないだけど
マジで皆さん言ってるの?
もう一度ちゃんと歴史の勉強尾根がお願いします。
こんな話題に60件以上・・・・
70 :
日本@名無史さん:02/12/15 00:07
源氏か平氏の血筋でないと
征夷大将軍に任命されなかった気が
しないでもない。
>>69 60件以上も何もこのスレ二本目です。
つまり1000件以上……
話はかなりループしてる。
もう終わったスレあげるなよ
74 :
日本@名無史さん:02/12/15 00:23
源氏じゃないからだよ。(w
75 :
日本@名無史さん:02/12/15 00:36
もしも、秀吉が征夷大将軍就任に成功していた場合、
家康は管領・執権といったポストで実権を握り、
豊臣家将軍を形だけは存続させることになるんでしょうかね、
まあ、後々除々に消していくにせよ。
76 :
日本@名無史さん:02/12/16 13:07
豊臣家は公の精神を欠如しております、天下は長続きしません。
農民出の為、武家の精神風土を理解できないし、それに従っても居りません。
かれのアイデンティティは商人止まりであって、本百姓・地侍・武家の
本質的な願望を汲み取れず支持も得られません。
77 :
日本@名無氏さん:02/12/18 21:19
どうして、豊臣政権は崩壊したのですか?
おねがいします。
78 :
日本@名無史さん:02/12/18 21:27
無謀な外征と無意味な大規模土木工事
幕府を作るには征夷大将軍でなければならず、征夷大将軍は源氏の子孫でなければ
ならなかった。しかるに秀吉は百姓の出であることは周知であり、嘘の家計図を
作れなかった。唯一足利義昭の養子になる手があったが、さすがに義昭に拒絶され
なれなかったと言われています。
なお日本の歴史は平家と源氏が交互に支配した形となっています。
>79
一体、何ループ目やら。
>百姓の出であることは周知であり
秀吉は将軍よりもっとなりにくいはずの関白になってますが。
それも、「五家の他になった例はない」という近衛信尹らの反対をあっさり
押しきって。
「源氏でなきゃ将軍になれない」がまず問題ありありだし、仮にそうだとし
ても、必要ならば圧力をかけられる「源氏の子孫」などいくらでもいたろう
に。別に足利義昭の養子でなきゃならんという理由もなし。
関白になれたのは、無論圧力だけど藤原氏の子孫としたからだよ。
朝廷にもルールはあるんだよ。
82 :
日本@名無史さん:02/12/21 16:10
前任者が存命中の将軍getより、相伝争いでスキが生じた関白get
の方が楽だった。
83 :
日本@名無史さん:02/12/21 16:30
形式上は、まだ義昭が現職の将軍だったしね。
84 :
日本@名無史さん:02/12/21 17:18
源頼朝はどうして征夷大将軍を希望したの?
85 :
日本@名無史さん:02/12/21 17:42
1 将軍キボンヌした時期はまだ奥州藤原氏が健在なころ
ライバルを倒す大義名分になる
2 朝廷とは独立した臨時政権を宰領する権限を持てる
と、こんな動機かな。
86 :
日本@名無史さん:02/12/21 18:25
↑臨時政府的機能は、総地頭と総追捕使だよ。
87 :
日本@名無史さん:02/12/21 18:44
総地頭と総追捕使って臨時でも何でもないと思うけど。
88 :
日本@名無史さん:02/12/21 18:55
>84
朝廷が東国の武士政権を認めたという形式にこだわったため。
実質的意味はないから、数年後には征夷大将軍を辞職してるよ。
89 :
日本@名無史さん:02/12/21 19:32
朝廷の公認が必要なら、総追捕使でも右大将でもいいんじゃないか?
なぜあえて征夷大将軍かというのはやっぱり疑問。
90 :
日本@名無史さん:02/12/21 19:48
右大将は朝廷の常置の官なので、公家政権から独立したことにならない。
また、総地頭と総追捕使は新設の官職で重みがない。
やはり坂上田村麻呂以来の歴史のある征夷大将軍がよかったんだろう。
91 :
日本@名無史さん:02/12/21 21:04
令外官の必要があったんだろうね。
92 :
日本@名無史さん:02/12/21 21:09
朝廷に憧れ、真の武士政権創始者になりきれなかった頼朝の貴族趣味。
93 :
日本@名無史さん:02/12/21 21:24
右大将じゃ近衛府長官にすぎないからね。天皇を守るための官僚に過ぎない。
94 :
日本@名無史さん :02/12/21 21:27
豊臣幕府を作らなかったのは 秀吉にSEXの才能がなかっただけだと
思うぞ
95 :
日本@名無史さん:02/12/21 22:25
かなりな好きもんだったらしいから、成人前に赤玉が出てもうたんでないかい?
96 :
日本@名無史さん:02/12/22 00:37
幕府を作らなかったのは実子が
いなかったから、秀頼は大野治長の
子と見破ってたけど天下人が女を
寝取られていては格好悪いので
自分の子供と思い込もうと努力しながら
逝った・・・寂しいですね。
97 :
日本@名無史さん:02/12/22 00:42
実子がないので幕府はつくらないけど関白は継がせるの?
主張がよくわかんないなあ。
征夷大将軍は、京都から遠方の地に
独立した政権をもてるということで、
便利な職。
すでに結論の出たスレで何度同じことを繰り返せば気が済むのやら・・・
100 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:12
>>99 そういうレスもすでに何回も見た。
何度繰り返せば気が済むのやら(w
101 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:15
ループはハウス系の基本でしょ。これが快感なんだな。
102 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:25
>>101 なぜ秀吉は豊臣幕府を作らなかったんですか?
103 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:32
源氏じゃなかったから、将軍になれなかったんだよ。
しらないの。
104 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:35
バカなヤシ発見。過去レスくらい読めよ。
105 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:35
その後の家康は秀吉を見て子供はつくらないかんと思ったんじゃなあい
106 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:35
107 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:36
豊臣が幕府を開設できていたら政権は延命できただろうか?
武家は将軍にしか臣従しない意識が強かったので、関白職だった
豊家が短命だったと言う歴史家もいるが。
108 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:37
と、このように「型(かた)」を守って書き込んでください。
日本は形式美を尊重する文化ですから。
皆さん精進するように。
109 :
日本@名無史さん:02/12/22 01:41
>>107 すぐに足利将軍を持ち出してくるやつがいるかもよ。
110 :
日本@名無史さん:02/12/22 02:11
せっかく関白継がせた秀次をぬっ殺して自分の老いも気にせず
幼い秀頼に期待かけて結局早々に死んだ段階で、
たとえ将軍職だろうがなんだろうが、政権は乗っ取られたと
思われ。
111 :
日本@名無史さん:02/12/22 02:12
>>108 ふつう様式美って言わないかい、別にどうでもいいけど
112 :
日本@名無史さん:02/12/22 03:36
>>98 高氏「そうか。近くにつくっちゃマズイかったのね。それでうちの幕府は
だめだめだったのか。やっと疑問が解けた。サンクスコ」
>81
「仮に」源氏以外は将軍になれないと認めたとしても、別に障害にはならなか
ったと思いますが?
吉良でも今川でも斯波でも、どこかの家の末流を拾ってくればいいだけの話。
>82
>前任者が存命中の将軍get
なんて、室町幕府末期にすでに前例がありそうな気がしますが…。
>>107 豊臣家の直轄領(220万石)自体が、
徳川幕府の直轄領(400万石)に比べて小さかったからだろう。
115 :
日本@名無史さん:02/12/22 09:47
徳川幕府の天領400万石というのは、享保期以降の数値だった筈で、
(16世紀から17世紀にかけて日本の石高自体が倍増している時期ね)
全体に占める直轄領の割合では両者とも差が無いはずですよ。
116 :
日本@名無史さん:02/12/22 09:57
>>113 >>前任者が存命中の将軍get
>なんて、室町幕府末期にすでに前例がありそうな気がしますが…。
あくまでもどっちが楽かの比較の問題だと言ってるんだけど。
足利家以外のものが存命中の足利将軍を差し置いて就任した例があったの
ですか。意外でした。勉強になりました。(w
>116
どちらでも大差はない、と思いますが。
大体、
>足利家以外のものが存命中の足利将軍を差し置いて就任した例
は知らないけど、それがなにか関係あります?
「存命中の将軍を措いて将軍になった例」があれば、十分すぎる
位の話。
信長の三職推任(太政大臣か関白か将軍か御すいにん候て、可然
候よし被申候)の例からしても、「足利家以外のもの」は大した
障害にならんでしょう。
118 :
日本@名無史さん:02/12/22 13:21
なぜ幕府を作らなかったのか?
作る前に死んじゃっただけじゃないのかなー
まずNO2の関白になって、それから将軍として幕府を開くつもりだった
将軍だけじゃ朝廷での位が低いからな
天下人の秀吉らしい発想じゃないか!
119 :
日本@名無史さん:02/12/23 00:33
120 :
日本@名無史さん:02/12/23 00:34
121 :
日本@名無史さん:02/12/23 02:53
本来はたかが軍事司令官の征夷大将軍より関白が上じゃねーか?
122 :
日本@名無史さん:02/12/23 04:51
征夷大将軍は出先で軍政を布く事ができるよ。
現地で幅広い裁量権が認められていて
必ずしも勅命には従わなくてもOKという事になっとる。
まぁ、日本国の首相と満州国を実質支配してた関東軍の司令官とでは
関東軍司令官の方が下位でも権限が強いよ。
>>118 おいおい、まだそんなことを言っているのか?
そもそも『秀吉は将軍にならなくてはいけない・なるべきだという
(前スレの)
>>1の前提自体が間違っている』というのが前スレの結論だろーが!
いい加減に同じことを1122回もループさせるな。
どうしてもやりたきゃ下げ進行にしろ。
・自分の権威が確保できれば、将軍だろーが関白だろーがどっちでもよい
・むしろ将軍も含めて全ての官位の任命権を握っている朝廷(関白)の方が上
・自分の出自が卑しいことを馬鹿にする大名たちがいることを自覚していた
秀吉にとっては、朝廷・関白のバックにいる天皇という権威を利用して
「俺をナイガシロにすれば逆賊だぞ」という心理的圧迫を加えられる。
かつて三法師を抱くことで、旧織田政権下の同僚たちを三法師を抱いている
自分に平伏させたのと同じやり方。
125 :
日本@名無史さん:02/12/23 11:31
>>124 そう言い切れる根拠は何かね? そんなことを言ったら、幕府を開く意味がないじゃない。
確かに、家康が開幕した以上、秀吉も開くべきだったという論調もどうかと思うけど、
それでも武家の棟梁として開幕することが無意味だとは到底思えない。
なぜ将軍ではなく関白なのか? 答えをどちらか一方に決めようとするから、
議論が平行線をたどるのではないかな?
・将軍になる気はなかった
・将軍にはなれなかった
・これからなるつもりだった
・その他
結論はあくまでも前スレの結論であって、それが正しいということではあるまい。
答えは出せないのだから、いつまでもくだらない議論を続けるな ということかい?
126 :
日本@名無史さん:02/12/23 14:20
>>125 何故って、秀吉のような出自の人間からすれば、政権の正当性を主張する
ことは極めて重要だと考えられる。
まだ現職であってかつ地方に滞在中の足利義昭を、本人の意志に関わらず
朝廷に圧力をかけて一方的に解任し後釜に座るのは単なる政権の簒奪で
あって正当性は主張し難い。
形式的にでも一番正当性が主張しやすかったのが関白なんだろ。
127 :
日本@名無史さん:02/12/23 14:56
>>126 意味わからんよ。 じゃあ、関白になる際の手段に正当性があるとでも?(苦笑)
関白、将軍、ともに世襲と決まっているわけではないが、過去の例からすると、
将軍は世襲に持ち込みやすい。確かに関白になることで天下人としての自分を
誇示することが可能だが、政権の維持 という観点から考えると、関白だけでは
実に弱い。皆がなぜ? と思うのはそれがあるからでしょ?
要するに、なぜ将軍にならずに関白になったか? ではなく、関白になった後、
幕府も開かなかったのか? がポイント。出自云々から導かれる君の考えは
別段、おかしいとは思わないが、私の主張と噛み合っていない。関白を選ぶ
ところで話が止まっている。圧力云々なら、関白就任時の方がよっぽどひどい(笑)
開幕に価値が無ければ、家康も開幕したりしない。直系が絶えても将軍なら一門から
選ぶことができる。政権維持という観点から考えると、こんな便利なシステムを
利用しなかったのは、何かわけありでは? と考える方が自然。
128 :
日本@名無史さん:02/12/23 15:06
現代でもカダフィも大佐どまりだし金日成も書記で世襲させた
もし秀吉が征夷大将軍になってれば家康は対抗手段として関白になっただけの話だ
官職なんて権力と軍事力掌握しちまえば名前は何でもいいことに気づけや
頼朝ヲタの家康が征夷大将軍にこだわっただけで、
秀吉にとっては何でも良かったんじゃないの。
まさかとは思うが、念のためにひとこと。
>>127後半における開幕のメリットは一例であり、それがすべてではない。
開幕にもそれなりのメリットがあるということ。
論点は関白になった後のこと。
131 :
日本@名無史さん:02/12/23 15:13
豊国大明神の向こう張って東照大権現つくったしね
ほんと創造性無い
>>128 それは結果論で、しかもこのスレとは関係ないじゃん
天下をとった豊臣秀吉がなんで幕府をひらかなかったのかを
論議してんのがわかんないの?
133 :
日本@名無史さん:02/12/23 15:30
>>132 わかってるから書いてんだよ
幕府が武士にとっての最重要母体だなんて後世からの判断でしかない
秀吉がその時点で権力維持に最適と思ったから関白になっただけだ
秀頼以降も軍事力持っとけば名前はなんであってもかまわない
だから征夷大将軍だけにこだわる必要はまったくない
年号覚えるのが歴史、と変わらないバカが常駐してるな
134 :
日本@名無史さん:02/12/23 15:37
うむ
135 :
日本@名無史さん:02/12/23 15:42
プッ
136 :
日本@名無史さん:02/12/23 16:14
関白になった人間が、わざわざ征夷大将軍を必要とするか?
普通はしないだろ。
137 :
日本@名無史さん:02/12/23 16:22
別に将軍だから世襲してるわけじゃないんだけどな。
139 :
日本@名無史さん:02/12/23 16:37
リアルタイム処理だなー。(w
140 :
日本@名無史さん:02/12/23 16:50
( ´,_ゝ`)プッ
人の区別もつかない馬鹿か
141 :
日本@名無史さん:02/12/23 16:57
やっぱ常駐してんだ ゲラ
馬鹿が言う
二言目には
“常駐”と
アホの行動パターンは分かりやすいねえw
143 :
日本@名無史さん:02/12/23 17:11
でも常駐してるやん ゲラゲラ
おまえもな
145 :
日本@名無史さん:02/12/23 17:40
カダフィ大佐と金正日書記を取り上げて立論した128、努力賞。
146 :
日本@名無史さん:02/12/23 17:54
日本じゃないしね・・・
147 :
日本@名無史さん:02/12/23 18:12
>>124 >そもそも『秀吉は将軍にならなくてはいけない・なるべきだという
>(前スレの)
>>1の前提自体が間違っている』というのが前スレの結論だろーが!
それが認められないからこのスレが続くんだろ。
けっきょく誰もこれはっていう意見を出せてないよ。
148 :
日本@名無史さん:02/12/23 18:19
平清盛はダメで源頼朝ならいいのか
149 :
日本@名無史さん:02/12/23 18:23
>>124 なんで実生活に関係ないことでケンカ腰になるのかねえ。
もっとマターリやろうや。
150 :
日本@名無史さん:02/12/23 18:36
徳川氏を滅ぼさずに武家のふるさと関東に配置した時点で、武力統一は諦めてるよ。
徳川氏を討滅していれば、初代の実力制武家の棟梁になれただろうに、惜しい。
>>124 歴史なんて真実はわからない学問だろ
見てきたようにてきとうかましてんじゃねーよ
勝手に結論出すな!
冬休みになるとすぐこれだ
いやになるな。。。
152 :
日本@名無史さん:02/12/23 18:49
将軍になれなかった理由は簡単です。
将軍になる前に関白になったからです。
新たに将軍宣下を受けるには、関東を実効支配してないといけないんですよ。
世襲するなら問題はありませんけど。
徳川を従わせるために関白になった秀吉は、北条を滅ぼした後も将軍になれないです。
関白を辞して征夷大将軍になるのは格下げですから。
もう少し長生きしてたら秀頼を将軍にしてたかもしれませんね。
豊臣家が極官は摂関家に伍して将軍を世襲する家であっても問題ありませんから。
153 :
日本@名無史さん:02/12/23 18:49
本人にその気がなかったんだろ。
当時「幕府」なんて何の権威もなかったんだし、
そんなもの、つくろうとするほうがおかしい。
頼朝ヲタの家康が非常識だっただけ。
家康の天下になってから、非常識が常識に変わったけどね。
154 :
日本@名無史さん:02/12/23 19:39
>>152 >北条を滅ぼした後も将軍になれないです。
>関白を辞して征夷大将軍になるのは格下げですから
右近衛大将を辞したのち、頼朝は何故格下の征夷大将軍になれたの。教えて。
155 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:11
>>153 まともな歴史家はそろって将軍家の御威光は当時も衰えてなかった
と言ってるぞ。
実際、秀吉は天下人になってからも義昭を大事にしてたしな。
宇喜田秀家あたりを将軍に任命しとけば豊臣政権も延命したかも。
156 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:22
征夷大将軍は臨時職だろ?
格下も格上もないはずだと思うが
157 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:23
153はバカ
158 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:25
そもそも関白と将軍は別系統でしょ。
将軍だって位階で従一位になれば、格の上で遜色ないし。
>宇喜田秀家あたりを将軍に任命しとけば豊臣政権も延命したかも。
ハァ・・・
ついでにまともな歴史家って誰?↑こんなレスをするヤシがまともと思う歴史家を是非聞きたいね。
すぐに歴史研究家とか定説とか言い出すヤシにロクなのはおらん。
160 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:28
位階で従一位って太政大臣しかないぞ。
>>160 官位相当なんてとっくに崩れてるから大丈夫。
官職なくても北政所なんて従一位貰ってるんだから
162 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:38
163 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:47
江戸時代の将軍は全然官位相当じゃないよ。
家光 従一位左大臣
家綱 従一位右大臣
吉宗 従一位右大臣
家重 従一位右大臣
家治 従一位右大臣
家慶 従一位左大臣
家茂 従一位右大臣
164 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:52
165 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:53
家斉の父一橋治済は従一位准大臣
家斉の弟田安斉匡は従一位権大納言
166 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:59
北政所は従一位相当
江戸期は武家官位
167 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:00
>>155 ご威光衰えていなかったのに、戦国の世になったのか?
一体なにやってたんだよ、し・ょ・う・ぐ・ん・さ・まは?
168 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:03
>>166 豊臣秀吉室は最初、従三位で北政所だろう。
別に北政所だから従一位相当というわけではない。
169 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:06
というか、位階と官職ってピタッと一致してるわけじゃないだろ。
あとから位階が上がることもあれば、格下の官職につく場合もある。
170 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:07
171 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:43
生前位階と贈位階をごっちゃで話してない?
172 :
日本@名無史さん:02/12/23 21:59
家康は関ヶ原後に内大臣のまま従一位になってたような……
173 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:00
なってない
174 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:05
175 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:20
>>173 家康は
慶長元年5月に内大臣。
慶長7年1月に従一位。
慶長8年2月に右大臣・征夷大将軍。
176 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:21
177 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:26
元和元年三月十七日に従一位太政大臣宣旨となってるが
178 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:28
179 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:33
>>178 そんな信憑度もわからんサイトを紹介されてもね
とりあえず聞いておく、「公卿補任」を知ってる?
>>177は載ってる
180 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:48
153を最後に脱線しているぞ。
家康の位階・官職は別のスレで存分に小ネタを披露しろ、厨房くん。
181 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:56
仕切り厨登場。ウザイ。
182 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:02
ループ・スレが脱線してるんだったら、いいことじゃん。
なんか、いけないの。(w
183 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:06
足利義昭の養子になろうとして断られた話は信頼できるのですか?
184 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:08
ほら、またループに戻っちまった。(涙
185 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:12
××厨房 夜釣りにかかる 冬休み
186 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:13
将軍でも従一位なら、関白と互角だろって話から脱線したんだろ。
187 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:14
そうさ。冬休みは厨房の熱い季節なのさ。
答えは簡単。禿げが源氏じゃなかったから。学校で習ったよ。
あんたら学校に行ってないバカですか?
189 :
日本@名無史さん:02/12/25 07:46
↑その答えでは物足りないと、バカ、基地外、DQN、ホーケイ、ヲタがお互い
電波を出しているのデス。
190 :
日本@名無史さん:02/12/25 09:13
191 :
日本@名無史さん:02/12/25 10:10
灯台ではないらしいな。
やる気がなかったから
あほかてめえら!
194 :
日本@名無史さん:02/12/25 10:20
で、家康の内大臣で従一位っていうのはガセで決定したの。
195 :
日本@名無史さん:02/12/25 14:49
慶長元年5月11日 正二位内大臣叙任の陣宣下(言経卿記・日光東照宮文書)
慶長7年1月6日 従一位に昇叙(公卿補任)
慶長8年2月12日 右大臣に任ぜられ、征夷大将軍に補せられる(公卿補任等)
10月16日 右大臣を罷める(公卿補任)
慶長10年4月16日 征夷大将軍を罷める(公卿補任)
元和2年3月17日 太政大臣に任ぜられる
27日 勅使、駿府城で口宣を伝える(日光東照宮文書・本光国師日記)
韓国人の4人に1人は刑務所に服役し、2人に1人は近親相姦で姉や妹にセクハラします
韓国のレイプ発生率は世界一で、毎年数千人の日本人女性が被害にあってます
韓国女性が強姦と暴力に耐えかね外国に逃げるため男はレイプするため日本や台湾に行きます
韓国人は軍隊で鍛えた体で一撃必殺。 気を失うまで殴り続けます。
韓国企業は、食品や化粧品にウンチ、鉄クズ、枯葉剤を混入します
韓国の闇組織は、日本人女性を拉致してレイプショーをしています
韓国内では、17000人の若い日本人女性をセックスの道具として売買しています
http://ex.2ch.net/korea/ ハングル板(韓国)
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/asia/1038884514/ ●鄭明析 →韓国人の強姦魔 カルト宗教教祖。日本人1000人、台湾人100人レイプ
●李東逸 →韓国人の強姦魔 日本人女優Nを強姦未遂で逮捕
●金允植 →韓国人の強姦魔 大阪、主婦を連続強姦 。 被害者100人以上
●金 大根 →韓国人の強姦魔 連続児童虐待暴行殺人。6名の女児死亡
●李昇一 →韓国人の強姦魔 東京、テレビ局関係者を名乗り少女140人をレイプ
●沈週 一 →韓国人の強姦魔 鳥取、ベランダから女性の部屋へ侵入し9人レイプ
●張今朝 →韓国人の強姦魔 長野、「一緒に猫を探して」と小学校の女児をレイプ
●ぺ・ソンテ →韓国人の強姦魔 横浜、 刃物で脅し、女子小学生14人をレイプ
●金聖鐘 →韓国人の強姦魔 神奈川、レイプ現場をビデオで撮影、バラバラ殺人
●宋治悦 →韓国人の強姦魔 東京、ナイフで脅し主婦19人をレイプ
●崔智栄 →韓国人の強姦魔 新潟、木刀で傷を負わせ、18歳少女を車の中でレイプ
●麻原彰晃 →オウム真理教教祖 父親が朝鮮籍。 サリンを撒き無差別殺人
●宅間守 →大阪、池田小学校の児童殺傷 8人殺害。朝鮮人部落出身
●東慎一郎 →酒鬼薔薇聖斗。 神戸の首切り小僧。 生首を校門に飾る。元在日
●林真須美 →和歌山、毒入りカレー事件。 4人毒殺。帰化人
,.,..
197 :
日本@名無史さん:02/12/25 14:56
すると公卿補任をまともに見てないのは
>>179の方ってことですか。
198 :
日本@名無史さん:02/12/25 15:24
>>159 それよりお前バカ呼ばわりされたのは無視か?
じゃバカでいいんだな(w
199 :
日本@名無史さん:02/12/25 15:27
159がどこにいるんだ。
200 :
日本@名無史さん:02/12/25 15:31
うんこ
201 :
日本@名無史さん:02/12/25 15:33
あらしはいいからさ。家康は内大臣のまま銃一位に上がってるんだろ。
事実は事実。
202 :
日本@名無史さん:02/12/25 15:37
訂正 銃 >> 従
203 :
日本@名無史さん:02/12/25 18:05
位階があればいい。官職なんて付け足し。
既に官位相当規定の厳密適用が崩れていたのなら、
銃一位内大臣でええやんけ。公卿補任の記述が
すべて事実かどうか不明だが。
204 :
日本@名無史さん:02/12/25 18:15
当時の朝廷の連中の気持ちをおもんぱかると分かる気がするんだけど、
やっぱり小出しにしたかったんだろうな。(w
205 :
日本@名無史さん:02/12/25 20:30
うんこ
206 :
日本@名無史さん:02/12/25 20:31
では、どこまで話し戻せるかな。
>>158ぐらいまで戻せるか。
207 :
日本@名無史さん:02/12/25 20:34
俺もうんこ
208 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:41
秀吉の前の関白って、辞任したの?解任されたの?
209 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:44
聞く前にある程度調べろ
210 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:52
二条昭実は辞任みたいだね
211 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:19
で、どうして豊臣家は将軍になれなかったんだ?
212 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:21
足利義昭から将軍職を辞任してくるのではなく、
朝廷から足利義昭を解任することはできなかったのですか?
あと、(例え形だけでも)辞任の上で引き継ぎというのと、
解任して後釜ってのは、どっちが正当性を主張しやすい?
213 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:34
多分既出でしょうけど
豊臣の勢力基盤は尾張、近江、大阪の西日本
関東を中心とする東日本の征夷大将軍→幕府型ではなく
京都を中心とする西日本の天皇→朝廷型の中で
権勢を極めたということでしょう
214 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:39
尾張は東国
215 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:45
>関東を中心とする東日本の征夷大将軍→幕府型
室町の時代にそんな発想をしていたんでしょうか。
216 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:46
関東管領に好き勝手やられてたもんねえ・・・
それどころか足利義輝だの足利義昭だのなんて、関東なんざ
一坪も平定しちゃいねえわな。
217 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:53
素人考えですが……
秀吉には対立する政権がなかったからではと思います。
頼朝にとっては京の朝廷、尊氏には南朝と、
正当性に限っては自分が負けてるかもと、
思われる対立政権があったが、秀吉にはそれがなく、
既存の朝廷内の最高位で必要十分だったのでは。
218 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:03
秀吉の勝手でしょ!
219 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:11
つーか単純に秀吉が朝廷の権威を使っての統一を考えたけど
将軍職は義昭がなってて、職の辞退を固辞
つーことで近衛に取り入って関白になったってんじゃねーの?
220 :
日本@名無史さん:02/12/26 01:16
大坂城・伏見城・聚楽第の築城及びそれに伴う土木工事、
どこまでも兵站線を伸ばし継続する軍事行動、
そういったことでしか
秀吉は自己の権力を実感できなかったのでは。
秀吉にとっては、関白も将軍職も自分を安心させてくれるも
のではなかったのではなかろうか。
221 :
日本@名無史さん :02/12/26 03:15
秀吉が関白に就任した天正13年の段階では、
秀吉の勢力圏は畿内・中国・北陸・四国に限られていた。
それに対して、信長の場合、本能寺の変直前に
「関東討ち果たされ珍重候の間、将軍になさるべくの由」
との勅使を派遣している(『日々記 天正十年夏記』)。
それは、信長が甲斐の武田氏を滅亡させ、関東の一部である上野国を分国化し、
征夷大将軍固有の任務である東国平定を果たしたことで、
朝廷が信長に対して将軍の補任に踏み切ったからである。
やはり、征夷大将軍に補任されるには、
その固有の任務である東国の平定が必須の前提条件であったと思われる。
222 :
日本@名無史さん:02/12/26 04:00
>>221 足利将軍家なんて関東が戦乱の渦ん中でも世襲できてたわけで
やはり義昭の養子になってたら関係なくなれたのかな?
223 :
日本@名無史さん:02/12/26 10:14
ちみたち、秀頼君のことも考えてあげなよ
禿げねずみは関白でいいけど、秀頼君も関白になれるとは限らんでしょ
幕府を開いておけば、政治が幕府の方に移るから、政権維持がしやすい
禿げねずみは歴史上、百姓から成り上がり、帝ちゃんに次ぐ位を手に入れ、
朝廷での地位を確保し、日本で2番目に偉い人となった
軍事力さえ持っていれば地位など関係ない、という意見もあるけど、
それなら関白にさえなる必要もない
こうだと決め付けないで、敢えていろいろ考えてみようよ
224 :
日本@名無史さん:02/12/26 12:36
225 :
日本@名無史さん:02/12/26 12:40
>>223 >秀頼君も関白になれるとは限らんでしょ
征夷大将軍ならなれると約束されていたの?
226 :
日本@名無史さん:02/12/26 12:48
敢えていろいろ考えよう。
227 :
日本@名無史さん:02/12/26 12:50
そういえば史上最年少の摂関は誰だ。
近衛基通が20歳で関白になってるけど、
これ以下の人っているの?
秀頼が関白になるのに何年かかることか……
天子を補佐し百官を総て、万機の政を行う。
摂政は幼帝の時の職で成人されてからは関白となる。
宇多天皇が藤原基経に「万機子細関(かか)わり白(もう)せ」から職名となる。
藤原氏の職で大方は大臣を兼ねたが、大臣辞職後もあった。
必ず藤氏長者を兼帯する例である。
ガキの秀頼に継がせるのは無理。
229 :
日本@名無史さん:02/12/26 13:27
230 :
日本@名無史さん:02/12/26 13:38
「関白」は漢書の中の宣帝の話から取ったんでないの?
宇多天皇の即位の詔勅の元ネタが、前漢宣帝の
「諸事皆先関白光 然後奏御天子」という言葉だな。
232 :
日本@名無史さん:02/12/26 14:18
>>228 無理なものか!
天子でさえ幼少で即位できるのに。
「幼少の天子」とはいかにも失言!
233 :
日本@名無史さん:02/12/26 14:36
>>232 言いたいことがわからん。
天子は幼少でも補佐してもらえばいいわけだが、
補佐する側が幼少では補佐にならないべ。
234 :
日本@名無史さん:02/12/26 14:47
>>233 補佐する側も補佐してもらえば?
将軍が幼少でもOKで関白が幼少ではダメって理屈がわからない!
235 :
日本@名無史さん:02/12/26 14:49
236 :
日本@名無史さん:02/12/26 14:52
>>235 水飲み百姓のこせがれが関白になった先例もなかったよ。
237 :
日本@名無史さん:02/12/26 14:54
控えい!五摂家筆頭近衛家の猶子様にあらせられるぞ!!!
238 :
日本@名無史さん:02/12/26 14:54
TVかなんかでやってたらしいけど、
本能寺の変ってぁゃιぃよな。
秀吉が光秀に仕向けたもしくは
じつは秀吉自身が信長を討って、さらに光秀を討つ。そして
後世には「光秀が謀反を起こしたので討った」と語り継げばよし。
真相はわかったもんじゃないよな。
結果論厨は三戦板へGO
240 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:11
>>234 天子や将軍と、関白は職の性質が異なるじゃん。
天子や将軍は補佐してもらえばいいが、
天子を補佐するための職が摂政や関白なんだから、
幼少じゃダメじゃん。
後見役が幼少なのと同じ。
幼児が摂政や関白に就任した前例はあるんかいのぅ?
242 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:15
>>240 征夷大将軍も帝から全権を授かって遠方の敵地に赴く職なんだから、
幼少ではまずいのでは?
将軍だって帝を軍事面から補佐するんだから。
243 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:18
足利将軍のこと?
245 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:22
>>243 可能性の話をしているのに結果論ですか?
征夷大将軍は藤原頼経以下何件も前例があるからな。
関白は五摂家で持ち回りだったから、五家のうち
どれかに適齢がいればすむ問題だ。
やっぱり秀次生かしとけばよかったのに。
247 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:23
>>243 あなたは歴史上で行われなかったことは、
すべて「許されなかった」と判断するの?
248 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:26
>>247 お前バカか? 反対だろ。
歴史上で行われたことは前例となり、
行われなかったことは不明に過ぎない。
249 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:33
>>248 >行われなかったことは不明に過ぎない。
なのに
>幼少じゃダメじゃん。
と断言!
多分俺の発言じゃないというんだろうが......
250 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:38
>>249 お前、理解力ゼロだな。気の毒に…。
俺が「よい」って書いたらOKになるのか?
俺の見解と歴史を混同するなよ、バカ。
>幼児が摂政や関白に就任した前例はあるんかいのぅ?
↑ 歴史に基づいて書いたのなら、こんなこと書くわけないだろ。
251 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:40
243 名前:日本@名無史さん :02/12/26 15:18
>>242 歴史がそれを許しているじゃん。
幼少の将軍を許さなかったという根拠を教えてください!
252 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:42
253 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:44
>>252 おまえも理解力0だな。
流れを読めよ!
254 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:45
ま、そろそろ次の話題に行こうや。
255 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:47
>>253 お前は釣り師か?
>>242が、将軍だって軍事的に天子を補佐するのだから幼少ではまずいのでは? と
指摘したのに対し、俺が
>>243で、歴史がそれを許していると書いたわけ
>>244の言う通り、室町時代のことさ
わかったか、バーカ
恥ずかしくて出てこれないだろ!
256 :
255 訂正:02/12/26 15:49
257 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:51
>>255 本来はまずいはずのことが、歴史的に許されているのだから、
関白が幼少ではダメというのも確かではないこいう意味だろ。
読解力のなさを晒しつづけて、恥ずかしくないの?
258 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:57
>>257 わかってるなら書くなよ
将軍については歴史がそれを許している
関白については不明だ。不明というのは歴史的に不明ということではなく、
俺的に不明だということ。そう書いてあるだろ
前例がなければ、歴史的にも不明なのだから、なれる、なれないはわからない
よく読めや、タコ
259 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:59
幼少じゃダメじゃん。
なぜダメ?
不明と書くべきだろ?
260 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:59
夏目漱石と野口英世、どっちが好き?
261 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:02
だから、ダメじゃんというのは俺の見解なんだよ
お前らの書き込みは個々の見解じゃないのか?
読み取れない香具師ばっかりなのか?
262 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:02
僧籍かな。
263 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:04
ダメじゃないというのも俺の見解なんだが..........
政府の公式見解とでも思ったのかなー.............
264 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:06
漱石ってイイ男だよな?
265 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:06
横レスだが、秀吉は臨終間際「秀頼を即時関白にせよ」
とか言ってるもんかい??
266 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:08
>>263 ならいいじゃねーか
>>250を読みなおせよ、そしたら、あくまでも俺の見解だってすぐわかるから
いい に対して、ダメじゃん と書いただけで、それこそ公式見解じゃねーだろ
普通に反論すればいいだけのことじゃん
267 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:09
必死だな(藁
268 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:10
まあな
>>267 よく読まずにレスしてることがバレバレだな
それとも読み取れなかっただけか? あー?
270 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:15
とりあえず、漱石がイケメンだったことに異論はないな。
271 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:16
いや、野口英世もなかなか・・・
272 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:17
可能性の話をしているのに「前例は」とか「実際に」とか
いう厨房が多すぎ!
273 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:19
おまいら、レスをよく読んだ上でソウセキとかヒデヨとか
言ってんのかよ。そういうことはレスをよーく読んでから
言えといいたい。小一時間問い冷たい(w
274 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:26
>>272 お前、学校でこういうこと勉強しなかったか?
この世に10メートルを超すアリがいると思うか? 普通は NO と答えるだろう
証明の分野で言うと、どこかに1匹でもいれば YES となるため、
NO と答えることは不可能となる
要するに、前例のあるものについては「可能性アリ」となり、
前例のないものについては「不明につきわからない」となる
前例のないものについて語っているときに、前例は?、前例は?と書くのと、
前例があるものについて語っているときに、前例あり、と書くのは意味が異なる
275 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:28
>>272 横レスごめん。
「前例があるかどうか」によって実現の「可能性」が変わる。
実現のための「困難さ」が変わるという話だから、おかしい
とはおもわんが。
朝廷、公卿たちの自分たちに都合のいい「先例主義」を相手にして、
どう現実解を求めるかということだろうから、「前例」が重要なの
は当たり前だと思うんだが。何かおかしい?
276 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:29
>>273 で、秀頼の関白就任について「前例は?」と聞くことについてはどうなのよ?
今はその話をしているんだから。
277 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:31
278 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:33
歴史版ておもしろいな。
みんな確証のないネタをもとに「おまえバーカ」とかやりあって
じゅうぶん楽しんでるんだもんな。
279 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:33
若い頃の志賀直哉って平井賢ばりの濃い顔だよな。
280 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:33
>>275 否定されて前例があるならわかるけど、
単に前例がないだけじゃ「不明」でしかありえないでしょ?
白河の関より北で生まれた人物が関白になった前例はない。
だからといって、白河の関より北で生まれた人物が関白になれないとはいえない。
281 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:33
誰ぞが幼少でも関白についた前例があるなら、幼少の秀頼でも
関白を継げる可能性がある
前例がないのなら、可能性は否定しないものの、職責からすると
難しいのではないか と思われる
それだけの話だろ
282 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:34
283 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:36
職責上難しくても名目上の職責についた前例はある!
ただそれだけの話。
284 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:39
ということで、漱石がイケメンで問題ないな。
285 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:40
>>283 関白に前例はあるのか?
今、検索してみたところ、いないようだが?
286 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:40
英世がイケメンだった「前例」がないからOKでしょう。
287 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:43
たとえ前例がなくても、秀吉が生きていたら、秀頼が最初の幼少関白に
なっていたかもね
288 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:47
>>287 相当の強権発動で可能だろうね。抵抗も大きいだろうけど。
だったら、将軍の方が世襲化には楽だろうな、という最初に
もどっちゃうけどね。
289 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:47
>>285 誤解された見たいだから、書き直すね。
職責上難しい官職であっても名目上の職責についた前例はある!
本来征夷大将軍だって幼少で勤まる職責ではないが、幼少で就任している。
290 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:52
>>289 スレ読んでから出なおした方がいいよ
将軍は前例があるけど、関白はどうなの? という話をしているわけ
>>288 だから、政権維持のためには幕府を開いておくべきだったね となるわけ
291 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:54
べき というか、その方が楽だったね くらいが妥当かな
292 :
日本@名無史さん:02/12/26 16:58
>>289 職責上難しいからという理由では、幼少関白が困難という理由
にはなりにくいと思う。
秀頼が将軍に就いたとして、そのあと家康が関白になったらどうなるのだろう?
293 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:04
>>292 生前に関白(自らの職責)の権力をそいで、将軍家(秀頼)に権力が
(名義上でも)集中するよう最大限の画策をする。
294 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:07
それは、家康が秀吉との誓いを破って勝手なことをやりだし、
豊臣家よりも力を持つようになった という結果からくる発想であり、
秀吉が生存していたときに、どうすればよかったか? という
議論とは次元が違うのではないか?
家康が急逝したら、前田利長が力を持ったら…と仮定するのと同じ
歴史的にはそうなったから、秀吉が幕府を開いていても無意味だったかも
しれないというのはその通りだけどね
295 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:07
>>293 >集中するよう最大限の画策をする。
秀吉は既に「最大限」画策したと思うが...........
296 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:08
297 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:11
>>295 秀吉が「太閤の権力」を「豊臣将軍家」に委譲していく画策なんかしたのかあ?
それとも俺はパラレルワールドにすんでるのかなあ?
298 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:14
>>297 人生を最大限働いたって意味だよ。
あれ以上働いてもかえって自分の寿命を縮めて
政権崩壊を早めるだけ。
299 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:16
>>297 その解釈は意地が悪い
幼少の秀頼が天下に号令できるように、朝廷や諸大名に対して
出来る限りの画策をした ということだろう
家康はそれを無視したけどね
しばらく、PCから離れていたら、また随分とレスの書き込みがあったものだ、感心・感心
でもねよく見ると、相変わらず、という感じもしなくもない
>>222 >足利将軍家なんて関東が戦乱の渦ん中でも世襲できてたわけで
>やはり義昭の養子になってたら関係なくなれたのかな?
義昭は、信長に追放されて以来、とにもかくにも、京都への復帰、
なかんずく将軍職として再び政権の奪還を強く望んでいたから、
秀吉を養子にすることなど全くあり得ない、と思う。
もし、秀吉を養子にして、秀吉が将軍職に補任される事態になると、
義昭は、政権の中枢から遠ざけられてしまうわけで、
宿願である政権への復帰が絶たれてしまうことになる。
間違っても、義昭がそのような選択をするとは思えないし、あり得ない。
301 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:18
秀頼が征夷大将軍だってだけで、ひれ伏す家康か!
302 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:21
>>300 どっちみち政権から遠ざけられるなら、
そういう選択もありでしょ!
放逐されるより、冷や飯食いでも都に
住まえるほうがいいじゃん。
303 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:30
>>299 いや努力の量でなく、方向だと思うね。
義昭がゴネルなら、消せばいいだけって気がするよ。秀頼を養子に入れる
源氏の血を引く(あるいは引くという)家は他にもあるし。
304 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:32
305 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:37
なんか自分が天下人だったらもっと上手くやったと言わんばかりの
自身満々のレスがあるね。
>>303とか。
306 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:46
>>304 いや、消す必要がなかったんだろ。
自分が養子になろうとしてときは関白の方がうまくいってそれ以上の
アクションの必要がなくなったわけだから。
その両者の力関係はどんどん差がついていったようだけど、義昭は
朝鮮出兵時、名護屋まで参陣してるくらいだよね。
息子を将軍にといった時期であれば、その選択肢を取ったなら、譲らせ
るか、消すか2つにひとつ。
307 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:08
どんな犠牲を払ってでも徳川は潰しておくべきだった と指摘する人が多いが、
秀吉をもってしてもそれはできなかったと考えるのが普通。ひょっとしたら、
関白になった時点で、大戦をおこしてまで徳川を潰す必要はないと考えたのかも
しれないが・・・。
結局、歴史がそう動いたのには蓋然があり、避けられない事情が
あったものと考えられる。
歴史的には家康が豊臣家より力を持ったため、幕府を開いておけば云々の
議論は意味を持たないのかもしれないが、未来を予測し得ないあの時点で
最善の策はなんだったのかという意味では議論する余地はあると思う。
関白か将軍かではなく、関白の次に将軍も・・・という議論に発展しないのはなぜ?
308 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:12
従一位・関白・太政大臣・右近衛大将・征夷大将軍・左馬寮御監・淳和奨学両院別当・源氏長者
309 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:13
>関白か将軍かではなく、関白の次に将軍も・・・という議論に発展しないのはなぜ?
今日の午後はその話で持ちきりだったわけだが???
310 :
221・300:02/12/26 18:15
秀頼を義昭の養子に、とのレスが続いているが・・・
義昭は、秀頼誕生以前の天正16年には出家しているのだ。
したがって、征夷大将軍の地位には就いてないのだ。
幕府も将軍職も、名実ともに消え去っているのだ。
朝鮮出兵の時にも、出家して昌山と名乗っているほどだ。
秀吉が関白になった時点では秀頼はどころか鶴松も
誕生前で、秀吉の後継者候補は養子の秀勝(信長四男)か
甥の秀次。つまり秀吉は後継者が幼少になる場合は想定していない。
だからこの時点では関白の豊臣家での世襲も十分可能だった。
問題はなぜ秀吉が秀頼が生まれ、秀次を殺したあとに、
強引に秀頼を関白にし、幼少の関白の先例を作るか、
先例があるため幼少の後継者への世襲が容易な将軍位を獲得しなかったのかだ。
312 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:20
>>310 なるほど良いご指摘ですね。
幕府や将軍位が消えていても「将軍家」は存続しているんじゃないですかね。
どうでしょ?
313 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:22
>>311 征夷大将軍の世襲の方が関白と比べて容易ってのは、
あなたの単なる推測ですよね?
314 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:22
>>311 >問題はなぜ秀吉が秀頼が生まれ、秀次を殺したあとに、
>強引に秀頼を関白にし、幼少の関白の先例を作るか、
>先例があるため幼少の後継者への世襲が容易な将軍位を獲得しなかったのかだ。
劇同意。
315 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:23
秀長「殿下、幕府をお開きくださいませ」
秀吉「幕府じゃと? ワシに将軍になれというのか?
ワシは将軍よりずっと偉い関白になるのだ。
将軍など小さい、小さい」
これが真相です
>>311 納得。
>>313 容易ということを歴史が証明しているじゃないですか。
学習能力が欠如してはいませんか?
>>313 まあね。推測だけど。
ただ実際、秀吉は秀次を殺したあと、秀頼を関白にはしていないから、
成長を待っていたのではないかな。
たぶん関白の最年少は近衛基実が14歳でなったことではないかな。
ただし父親の藤原忠通はまだ生きていたはず。
311=317です。
319 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:33
>>316 >容易ということを歴史が証明しているじゃないですか。
どう証明しているの?
関白は藤原北家が代々世襲してきたけど、
将軍家はコロコロ変わっている。
関白の方が世襲は容易じゃん?
320 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:36
321 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:38
>>319 お子様でも継承してる前例はありますか?
スレちゃんと読んでるの?
322 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:39
氏ねよ、低学歴ども。
324 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:42
>>321 前例がない=できない(難しい)
というのを証明してください。
前レスを呼んでいるなら、
前例がない=不明 ってことになってるが?
325 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:44
326 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:44
>>323 そういう言葉を吐き出すと「議論の負け」を認めたことになるよ。
根気を持とう。
327 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:45
>>324 前例がないと、できない(難しい)と誰が主張しているのですか?
前例がある=比較的容易という主張ならしていますが。
前例がない=不明だと私も散々書いていますが何か?
329 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:46
>>325 それをいうと将軍のほとんどは源氏だな。(w
330 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:46
323 ≠ 319 です。
やり方が汚い!
331 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:47
332 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:52
>>323 どこの大学出てんの?
ラーメン大学?
おじさん負けたよ。
333 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:54
>>331 摂政関白の職責は、天皇が見るべき書類の全てに目を通し、判断し、それを天皇に
奏上する(あるいはそれに代って執行する)ことだ。成人男子がでなければ
できない責務である。よって、単独の家が代々受け継ぐことに無理があり、
北家のうちでもいくつかの家がそれを持ちまわるようになった。
ってのは教科書でも載ってるだろ。
334 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:55
335 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:56
>>334 もう元服する年頃じゃねーか。成人だろうが当時の。
336 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:56
確かに14歳なら十分できる。
妊娠に注意せよ。
337 :
日本@名無史さん:02/12/26 18:58
>>336 おいおい、違うって。
と、一応つっこんでおく。
∧_∧
_( ‘∀‘)_<チンチン出してますが、通報は勘弁してください。
⊂) (ニ 。 。 ) (⊃
l }、 ,{ T´
ノ_/. `っ' l_ゝ
(__)(__)
339 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:02
将軍だってガキじゃつとまらない。
補佐すれば勤まるというなら関白も同じ。
補佐に補佐が付いても不自然ではない。
340 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:08
関白職は五摂家に分かれる前からあります。
341 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:10
だからさ、将軍なら、家に適当な成人がいないとき子どもでもいいと
いう前例があるが、
関白は、家に適当な成人がいなければ、他家の成人男子が就任する体制
ができてるんだよ。それを無視して幼少の自分の子を関白位につけるような
ことをすれば、その政権の正当性自体に傷をもつことになる。納得しない
人も当然増えるだろ。
342 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:13
>>340 五摂家成立前だと、藤原氏は万世一系だったとでも思ってんの?
343 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:14
百姓の倅が関白に就くことにはみんな納得してたんだよね!
344 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:16
345 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:18
346 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:19
347 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:21
意味をよく考えてごらんよ。時間を上げるから。 >> 344, 346
348 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:22
349 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:22
関白の世襲が難しいのは摂関家が残ってたからです。
将軍家ならば世襲が認められている上、実力を以って排除されない限り
世襲が続く前提があったわけです。
摂関家を全て殺戮すれば豊臣姓による独占も可能だったかもしれませんね。
350 :
日本@名無史さん:02/12/26 19:24
>>348 反応がいいねえ。君もメジャーに来ないか。
ざっと読んでいくと
>>221の指摘が正鵠を射ているように思う。
元ネタも何となく分かるわけだが…
352 :
日本@名無史さん:02/12/26 20:11
>>351 その頃はまだ天下統一が成るかどうか不明の段階。
一方、秀吉は現実に天下を統一している。
天下人の秀吉なら、はっきりいって何でもアリだろう。
将軍になれなかったんじゃなくて、関白で十分と考えたか、
もともとなる気がなかっただけだろう。
ひ、秀吉様(;´Д`)ハァハァ
天下統一前に関白になるか将軍になるかの選択を迫られたわけです。
具体的には徳川・北条を従わせる方法として、究極の権威を必要としたわけですね。
小牧・長久手で、家康に敗北したのが痛かったですね。
この時勝っていれば武を以って徳川を臣従させることが出来たはず。
武力制圧できれば慌てて権威に頼る必要はなく、将軍になることも出来たかもしれません。
本来的には将軍のほうが関白より独立政権樹立に有利なのは明白ですから
可能なら将軍任官したかったでしょうね。
しかし関白になった以上、将軍任官は無理です。
355 :
日本@名無史さん:02/12/26 21:01
>しかし関白になった以上、将軍任官は無理です。
そこの理屈を教えてえらい人。
356 :
日本@名無史さん:02/12/26 21:08
>>354 関白として位階を極めた後、歴史にならって幕府を開き、
武家の棟梁として武威を示してもいいんじゃないの?
過去の前例から世襲もしやすいし。
関白経験者は将軍にはなれないという決まりでもあるわけ?
357 :
日本@名無史さん:02/12/26 21:20
征夷大将軍っつー役職と関白っつー役職の違いを知ってるとは思えん
358 :
日本@名無史さん:02/12/26 21:25
359 :
日本@名無史さん:02/12/26 21:33
知らない人はいいよ
話にならないから
360 :
日本@名無史さん:02/12/26 21:52
>>357 スレの頭から読んでみ。
みんなわかった上で書いてるのがわかるから。
361 :
日本@名無史さん:02/12/26 21:56
>>360 まあまあ。恥ずかしがり屋さんはそっとしておいてあげましょう。
362 :
日本@名無史さん:02/12/26 21:59
征夷大将軍は関白より下位の官職だから
関白→征夷大将軍(または兼任)は無いだろ。
足利義満だって将軍を辞してから太政大臣になってる。
363 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:02
わかってないね
364 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:03
関白は天皇を補佐して万機をつかさどる最高の官。
一方、征夷大将軍は東北平定のための遠征軍司令官にすぎない。
将軍が武家の棟梁となってからでも、
現役の将軍が従一位となり関白と肩を並べるのは家康以降である。
365 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:03
お願いだ。最低限過去レスくらい読んでくれ。
366 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:04
江戸期でも将軍職は従二位扱いなんだが。
367 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:04
>征夷大将軍は関白より下位の官職だから
>関白→征夷大将軍(または兼任)は無いだろ。
論拠として弱いんじゃない?
徳川将軍は?
368 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:08
おおっと間違い
>>366 江戸期でも将軍職は位階的にははっきりしてなくて
将軍就任と同時に正二位右大臣に任ぜられてる
369 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:09
徳川将軍?
370 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:10
>>366 家康は将軍宣下の前から従一位です。
江戸期の将軍は在職中に従一位に昇叙した者が少なくありません。
>>163を参照のこと。
秀吉本人がならなくても秀頼を将軍にする力ぐらいはあったと思うけどね。
何しろ現役の関白を切腹に追い込めたんだから。
372 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:13
在職中に昇叙していれば、一応関白と同格と考えてよいのでは?
373 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:15
>>370 家康が関白になったのはいつですか?
将軍職の在職中に任ぜられても、従一位から将軍職に任ぜられてませんが?
374 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:16
え???
375 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:16
皆に問いたい。
なぜ徳川家康は関白にならず、幕府を開いて将軍になったのだろう?
ここに何かしらの答えがあるんじゃない?
天下を取った家康なら関白にだってなれたはず。
聡明な家康は、政権維持には関白ではダメだと思ったからじゃないのかな。
軍事力さえ握っておけば、必ずしも位階を極める必要はないということでは?
政権維持には関白より将軍の方が都合がよいと判断したと思われる。
376 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:19
>>373 別に家康が関白になったとは書いていませんが。
また、
>>195のように家康は内大臣のまま従一位に昇叙し、
その上で右大臣と将軍に任命されています。
377 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:19
内大臣は辞任してる
>>375 なぜ徳川家康は関白にならず、幕府を開いて将軍になったのだろう?
ここに何かしらの答えがあるんじゃない?
>>217じゃない。豊臣家への対抗策。
そうでなかったら単なる頼朝ヲタ。
379 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:20
>>375 西基盤の秀吉と東基盤の家康(移封後)の状況を考慮せず、いっしょくたにして考えるのも
何だね。
381 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:24
>>379 それは関白就任時の話でしょ?
みんなはその後の話をしているわけだが?
382 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:28
>>381 いや、家康の判断っていう部分にコメントしてるんだけど。
383 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:37
>>382 家康が将軍になった頃は、事実上、既に徳川の天下では?
将軍→関白という流れも作れたはず。
秀忠に将軍職を譲った後、家康が関白になったという話はないですよね?
既に関白を下に扱っていたわけだから、関白職は必要なかった
わさわざ京で関白になるより、将軍の方がいいという判断では?
384 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:41
ヲイヲイヲイヲイヲイヲイヲイヲイヲイヲイヲイ
385 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:43
>>383 関白にはなっていませんが、死の直前に太政大臣になっています。
秀忠も大御所になってから太政大臣になっています。
386 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:43
関白は藤氏長者だろ!
秀吉も藤原になってからだろ
関白を世襲できるよう豊臣氏を新設しただろ
家康は源氏
秀吉としては、室町末期の足利家の弱体ぶり、
武士に良いようにされるがままの将軍職をみてきたから
将軍の位に食指が沸かなかったのだろ。
388 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:47
>>386 議論についてこいよ。
百姓上がりの秀吉が藤原性を名乗って関白になったんだぞ。
家康だって得川(徳川)の系図を買わずに藤原の系図を買えたはず。
大丈夫か?
389 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:48
家康が源氏になったのは将軍になる為よ。
元は藤原氏を名乗ってたのだから…
あからさまな偽源氏家康
390 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:49
あーバカか?
徳川の系図を買ったのはいつだよ
391 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:49
>>383 382ですが、ま、以下のようなことが言いたいだけっすよ。
LAで成功ねらってるやつB 西海岸トップの映画監督Aについてコメント
「やー、監督のAとはさ、先週、リトル・トーキョーの焼肉屋で仲良く
写真撮ったりしてんだぜ。マブダチ。ほら、このポラロイド見てよ。並んで
写ってだろ。やつハリウッドでトップだよ。あいつがビッグなように、俺も
ビッグってわけよ。」
(あいつの権威を借りて俺は成り上がってやるよ)
NYのアングラ系のプロデューサーC
「監督A。知らねーよ、そんなやつ。映画見たかだって、1本も見てね-よ
そんなの。ハリウッドなんて俺のケツでもなめてろよ、バーカ。」
(ハリウッドの権威なんかと比べられたら即アウチだよ。なるべく
かかわりたくねー)
392 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:50
議論に付いて言ってないのは(ry
393 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:53
>>390 真性か?
百姓上がりの秀吉が藤原氏のわけがないだろ
にも関わらず、天下人の威勢で強引になったわけ
たとえ家康が直前まで平氏を名乗っていても、
いくらでも藤原氏を名乗れたはず
本当に源氏の末裔かどうかなんて関係ないんだよ
中学校の教科書にはそう書いてあるのか?
394 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:53
395 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:55
強引になった訳じゃねーよ
近衛と二条の関白相論ぐらいしっとけバカ
396 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:56
一生懸命、アホの
>>390がレスを書いた模様
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
397 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:58
398 :
日本@名無史さん:02/12/26 22:59
388が我慢できなくなって必死の自演が笑える(プ
399 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:01
>>395 お前なー、マジで中学生か?
自発的に、秀吉を関白にしよう運動を起こしたと思ってるわけ?
おめでたい奴だな、それじゃあ教科書そのままだろ!
400 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:02
401 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:03
自分で書けよ
バカバカしい
402 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:04
知らないんだ(プ
403 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:06
おまえら、酒飲んでんだろ。
404 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:07
>(プ
本当に中学生みたいだな
知らなかったら
>>399を即レスできるわけないだろ
ここを何の板だと思ってるんだ?
いちいち何で説明せにゃならんのだ
アホらしいから無視してるだけだよ
405 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:09
そんなことより夏目漱石をどう思う?
406 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:10
本当に知らないようだ(プ
407 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:10
いいんじゃないの?
408 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:12
ま、漱石もイケメンだが野口英世もいい線いってるよ。
409 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:13
三藐院日記も知らんのだろうな(プ
410 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:15
411 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:16
日記じゃねーな、三藐院記だな
こりゃ悪い
412 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:16
そろそろ帰省シーズンだな。おまえらはどうよ?
413 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:18
いま京都はそれどころじゃないんだが・・・
414 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:26
眠い。疲れた。
すごいな今日一日で200レス以上ついてるよ……
416 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:27
レスの早い厨が大暴れしてたからな
417 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:29
まあ、前久にとっては二条や息子がなるよりはましだったてこったろ。
That's all.
418 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:33
まあ、冬休みってこった。
419 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:37
ちなみに猿は左大臣を望んでいた模様
420 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:40
うんこ
421 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:43
422 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:45
230台以降は、バカと基地外と釣り師の会話。一日で200以上のレスがあるとは、
厨房も参加しやすい低レベルネタということ。250あたりがバカの始まり。
423 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:52
もともと大したスレじゃないんだが・・・・・・
424 :
日本@名無史さん:02/12/26 23:54
>418、423
禿同
425 :
日本@名無史さん:02/12/27 01:07
家康って太政大臣になってたっけ?
426 :
日本@名無史さん:02/12/27 08:54
死の直前になってるよ。
427 :
日本@名無史さん:02/12/27 09:39
>>362 >征夷大将軍は関白より下位の官職だから
>関白→征夷大将軍(または兼任)は無いだろ。
従一位・太政大臣・右近衛大将・征夷大将軍・左馬寮御監・淳和奨学両院別当・源氏長者
428 :
日本@名無史さん:02/12/27 09:41
おっと、ボタンを押しちゃった....
太政大臣・右近衛大将・征夷大将軍が兼任できて、
関白と征夷大将軍が兼任できないという根拠を教えて欲しい!
429 :
日本@名無史さん:02/12/27 09:49
誤導尋問です、質問を変えてください。
430 :
日本@名無史さん:02/12/27 09:55
まず、将軍と関白、太政大臣などは別系統と認識されていた。
家康・秀忠は将軍を辞職してから太政大臣になっているが、
家斉は在職中に太政大臣を兼ねている。
下位の官職のまま、上位の官職を兼ねる例はあるが、
先に上位の官職についたらその必要はないということだろう。
理解の乏しい冬厨相手は大変そうだな
432 :
日本@名無史さん:02/12/27 10:32
>>430 >先に上位の官職についたらその必要はないということだろう。
しかし、関白と征夷大将軍じゃ、自ずと権限の性格が違いますよね?
確かに関白の方が上位だけど、関白の権限は征夷大将軍の権限を兼ねてはいない。
関白は飽くまで、形式的ではあっても帝に上奏し、帝の許しを得て物事を決めなければならないが、
征夷大将軍は軍勢の差配、恩賞の決定は帝への上奏なしで決定できる。
こと武家の支配者としては、征夷大将軍の権限の方が有利なのではないか?
433 :
日本@名無史さん:02/12/27 10:40
関白と征夷大将軍の兼任は可。ただし関白は藤原氏、将軍は源氏という暗黙の
了解があったのじゃ。秀吉は源平藤橘以外に新たに豊臣姓を賜ったのだから、
豊臣氏は関白・将軍どっちもなれると勝手に決めてもよかったと思うがの。
434 :
日本@名無史さん:02/12/27 10:43
>>433 摂家は関白にも征夷大将軍にもなれるっす!
征夷大将軍の意味・権限などは時期により、
頻繁に変化していってるから、何とでもなりそうだが。
436 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:17
足利義満の死後、後を継いだ義持は、義満の武家公家融和路線を変更し、相互不干渉を
主張しました。彼は天皇や摂関家幹部と極秘裏に交渉し、「足利家は天皇や関白を狙わ
ないから、その代わり将軍職は足利家の世襲にしてほしい」と申し入れ、これが認めら
れたのです(応永の鼎談)。
その後、義持の子義勝が早世したときも、皇族や摂関家からの将軍移入はなく、足利家
から後継者を選びました。以後、天皇は天皇家から、関白は摂関家から、将軍は足利家
からとすることに確定し、足利家に入り損ねた秀吉は将軍を諦め、関白になりました。
437 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:23
>>436 >将軍は足利家からとすること
その後、将軍を徳川家から輩出していることを考えれば、
秀吉が足利一門ではなかったとしても将軍になれないって
事はなかったと推測される。
438 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:33
秀吉のときは、まだ義昭が現役の将軍だったから無視できない。
家康のときは、義昭が出家して秀吉に臣従したあとだったから問題なし。
439 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:34
おまいら妙なとこだけ先例に従ってるけど、天下取ったのなら何でもありあり!
豊臣秀吉は関白はもちろんショーグンにもなれたが、ならなかっただけ。
440 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:38
441 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:38
だから、その理由が何だったのかと論じてるのでは?
442 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:40
>>439 >なれたが、ならなかっただけ
それはなぜ?
443 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:40
>>440 名目だけでも将軍は将軍。
出家して昌山道休を名乗るまでは、一応形式上は征夷大将軍。
444 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:44
>>443 天正16年には出家したんだから、その後なら将軍になれたよね?
445 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:50
室町幕府の後半なんてほとんどの時期、将軍が並立している。
それを考えると、義昭がいようがいまいが、将軍に就任するくらいわけもないことじゃないですか?
446 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:51
将軍が並立している?
447 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:53
正式の将軍は並立してないでしょ。
448 :
日本@名無史さん:02/12/27 11:55
冬休み特集2日目。 今日も快調なペースですね。
449 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:01
450 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:01
>>448 何が言いたいのだ?
今のところ、普通に論議してるだけだろ?
451 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:02
452 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:03
では、ご要望に応えて(w
夏目漱石と野口英世、どっちがイケメン?
453 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:04
僧籍
454 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:04
>>451 昨日は昨日に決まってる。
今日が何月何日かもわからんと?
455 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:04
とりあえず志賀直哉と言っておこう。
456 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:04
理解の乏しい冬厨相手は大変
457 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:05
458 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:06
俺は萩原朔太郎を推挙するね。
459 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:06
誰と問うて日付を答える
是如何に
460 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:06
461 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:07
目
462 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:07
463 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:08
理解の乏しい冬厨相手は大変
464 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:09
>>463 マジで三藐院記も知らんのだろ(プププ
465 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:12
(,,´д`)つ
>>463は中卒
(( (⊃ (⌒) ))
(__ノ
466 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:12
将軍になれなかったのは、足利義昭の養子になることを断られたからデス。
467 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:14
理解の乏しい冬厨相手は大変
468 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:14
469 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:14
>>466 んじゃ、家康は義昭の養子になれたから将軍になれたの?
470 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:15
471 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:15
>>466 義昭の出家以降についても説明キボンヌ。
472 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:18
473 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:20
474 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:20
家康は新田流徳川氏を称していました。源義国から枝分かれした足利と新田を比べると、
明らかに足利が嫡流、新田は庶流。新田は足利の一支族という扱いで、家康も足利氏の
一員として認められたのでした。
475 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:22
>足利と新田を比べると、明らかに足利が嫡流
?????
476 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:23
477 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:24
義昭は出家後、秀吉から1万石の捨扶持をもらってます。
朝鮮出兵の際は名護屋まで従軍しています。
秀吉より先に亡くなり、息子は僧になっていたので足利家は絶えました。
478 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:24
関白相論、三藐院記を知らない冬厨必死だな(藁
479 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:25
480 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:26
>>478 関白相論も知らんのだろうな(プププ
481 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:28
コピペでしかやり返せない冬厨は可哀相だな(哀
482 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:28
483 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:30
知らないから煽る
↓
煽って内容を聞き出す
↓
知ったか増長(・∀・)ムハー
484 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:30
485 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:32
やっぱり基地外冬厨はコピペだけだな
>>483 横から失礼
それはないと思いますよ
いまはわからないことがあればググレるから
私には両人ともバカに見えます
487 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:33
足利・新田の嫡流・庶流問題ですが、
新田が兄で足利が弟とする説が通説とされてきましたが、
最近は足利が兄だったという説も有力のようです。
また、義国から与えられた領地の比較で足利の方が嫡子
扱いと考えられるという説もあります。
一般的には鎌倉期を通して、幕府内で足利は新田よりも
重要視され続けてきたことを理由に足利氏の正統性を主張
している例が多いように思います。
新田氏が冷遇された原因としては頼朝への帰参が遅れたこと
が言われてますね。
488 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:35
まあまあ、煽り厨もえらい人も皆楽しく議論しようよ。
ここは2CHなんだから。(w
489 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:36
>>483 ホントにホントにマジで三藐院記を知らんのだろ(プププー
490 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:38
>>486 ググっても天正十四年の秀吉の朝廷に対する記述、朝廷の秀吉に対する記述は出てないよ
491 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:42
わたすもぐぐるの窓に「天正十四年の秀吉の朝廷に対する記述」と入力して
ボタンを押してみましたが0件でした。490さんの言うことにマチガイな
いです。(w
>>491 ゲルググはそんな高度な検索条件には反応せんよ(w
493 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:45
冬厨おもしろーい
494 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:46
そんなことより、漱石と英世はどっちがイケメンなんだ?
495 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:49
496 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:50
お札になってる時点で漱石だな。
497 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:50
>>492 私は標準装備のザクで挑んでみましたが、当然の結果で0件でした。
悲しいです。
念のため赤い彗星の応援依頼出しておきますた。
498 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:50
矢田
499 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:51
冬厨必死でおもしろーい
500 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:51
で、ザクとグフ、どっちが偉いの?
501 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:51
500ゲトズサ
502 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:52
501 名前:日本@名無史さん :02/12/27 12:51
500ゲトズサ
503 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:53
>>495 「ピカール船長、私が今回搭乗の科学仕官ですが、ワープ9は危険過ぎま
す。せめてワープ8にとどめてください。」
∧||∧
( ⌒ ヽ<500getシパーイ…
∪ ノ
∪∪
>>503 突込みどころ満載なわけだが(w
ピカールじゃなくピカード
仕官じゃなく士官
ワープ6以上は許可が無いと駄目
506 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:58
遊んでたら、こんなのが出た。おまいら書き込みはほどほどにすれよ!!
サーバの負荷が高いので書きこめません。
(23.36 : 目標は 5.00 以下)
--------------------------------------------------------------------------------
もちろん、このページをリロードするのも負荷かかります。
507 :
日本@名無史さん:02/12/27 12:59
プ
508 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:00
リ
509 :
bloom:02/12/27 13:00
510 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:00
ン
ス
ト
ン
債
511 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:00
理解の乏しい冬厨相手は大変
512 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:02
>>505 ピカールはフランス人だから「ピカール」でいいのじゃ。
その方が「名は体を表す」
最新の"Star Fleet Codes Book"には「仕官」と記述されておるのだ。(w
船長が許可すればOKだ。私がルールブックだ。
513 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:10
接続障害は「厨房のみを通すスクリーン」のはたらきをすることが
わかった。
↓ここから、議論再開。
514 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:11
(,,´д`)つ
>>513は中卒
(( (⊃ (⌒) ))
(__ノ
515 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:14
仕官はサ変動詞だろ(w
517 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:18
理解の乏しい冬厨相手は大変
518 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:19
519 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:21
弛緩するとき史観せよ。
520 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:24
こーきーくるくるくれ恋は水色
521 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:32
冬厨がいるから諦めろ>513
522 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:35
まあ、これはこれで楽しいかもしれない。(w
523 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:39
で、漱石と英世は・・・
524 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:43
すいません。SF板から来ました。何故このスレにはトレッキーがいるのですか。
教えてください。
525 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:44
若い頃の天本英世はイケメンだったらしい。
526 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:44
ジオン支持派や連邦派もいるという罠。
527 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:50
でさ、現役将軍がいても、豪腕で将軍になれなくはないし、関白将軍兼務も
できなくはないだろうけど。きちんとした段取りなく強行すれば政権の正統
性に弱点を持つ。できたての政権、いつ文句をつけられて「逆賊」として
討たれるかわかったもんではない。そういう危険の種まくのは賢明ではない
ってことでないの。そんなヒマあったら、自分の種まけよってことで。
528 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:56
凄い、まだやってる・・・。暇なの?
現代でも社長がプロジェクトリーダーとして部長や室長を兼務することがあるでしょ?
社長なら社長のままでいいのに。
関白は偉いけど、武家の棟梁という意味合いが弱い。
関白が将軍を兼務することが無意味とは言えないでしょう。
終了。
529 :
日本@名無史さん:02/12/27 13:58
総理大臣が蔵相や外相を兼務したこともあったね。
530 :
日本@名無史さん:02/12/27 14:01
将軍と関白の話ではなかったのか??
スタートレックの話です。
532 :
日本@名無史さん:02/12/27 14:06
豊臣は関白と征夷大将軍を兼務出来たがそうしなかった
徳川は源氏だから征夷大将軍にしかならなかった
で、OK?
533 :
日本@名無史さん:02/12/27 14:07
ピカール船長が船長と科学弛緩を兼務したとする。
エンタープライズ号の任務を遂行可能かね。
連邦の一士官としての君の意見を聞きたいね。
534 :
日本@名無史さん:02/12/27 14:09
535 :
日本@名無史さん:02/12/27 14:10
>>532 松平は家康が源氏工作をする前、藤原を称していた時期があったよね。
>>532 OK
で、その理由だな。
秀吉個人ならともかく秀頼の為には、
将軍職に就くか、秀吉存命中に秀頼を関白にするかを
しておいた方が良かったと思うけど。
537 :
日本@名無史さん:02/12/27 14:12
>>532 >豊臣は関白と征夷大将軍を兼務出来たがそうしなかった
それはなぜ?
>徳川は源氏だから征夷大将軍にしかならなかった
徳川は元々源氏ではないのに後付けで源氏になったわけだが、
なぜ摂家でなく、源氏になることを選んだか?
538 :
日本@名無史さん:02/12/27 14:23
豊臣徳川両者とも後付けで性を名乗ったが
徳川が藤原氏から源氏に鞍替えしたときは
まだ秀頼がいたから関白になるのを見送り
将軍になった。関東も支配しているから
古式的にも都合がいい。将軍のくせに
時の関白に命令している。
539 :
日本@名無史さん:02/12/27 14:43
>時の関白に命令している。
詳細希望。
プ
リ
ン
ストン債
544 :
日本@名無史さん:02/12/27 15:45
プ
リ
546 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:07
ンスホテル
547 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:10
プ
チ
549 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:19
トマト
550 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:20
プ
551 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:23
リ
ン
プ
リ
552 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:27
ン物語は石川ひとみ
フェ
554 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:29
ラチオ
555 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:44
モ
556 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:46
モレンジャー
ブ
558 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:52
ロロロロー
559 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:55
ほー。しばらく見ぬ間に健全なスレになったね。
560 :
日本@名無史さん:02/12/27 16:59
マ
ジ
ェスティック12
562 :
日本@名無史さん:02/12/27 17:06
ョッコメグチャン
563 :
日本@名無史さん:02/12/27 17:06
バ
ロ
564 :
日本@名無史さん:02/12/27 17:07
ムワン
565 :
日本@名無史さん:02/12/27 17:08
ン西
566 :
日本@名無史さん:02/12/27 17:09
ヨ
ウ
567 :
歴史検定試験:02/12/27 17:36
普通は、秀吉は農民の出で源氏の出でなくては
幕府を作れないから、あと最後の室町幕府の足利義昭
の養子にしてくれるように秀吉が頼んだそうだけど、
断られたらしい。
568 :
日本@名無史さん:02/12/27 18:04
>>567 もう永遠ループはやめようぜ。
歴代征夷大将軍に源氏でないのはいくらでもいるぞ。
569 :
日本@名無史さん:02/12/27 18:06
それで納得していいと思うんだがね。
それ以上にムリヤリ理由づけする必要はあるまい。
570 :
日本@名無史さん:02/12/27 18:07
571 :
日本@名無史さん:02/12/27 18:58
>>568 「いくらでもいる」って何人中何人くらいのことを言うの?
572 :
日本@名無史さん:02/12/27 19:05
>>571 多分、摂家将軍と親王将軍のことではないかと?
まさか坂上田村麻呂や文室綿麻呂のことではないよね。
573 :
日本@名無史さん:02/12/27 19:05
>>571 「いくらでも」ってくらいだからな。まず3分の1以下ってことはあるまい。
574 :
日本@名無史さん:02/12/27 19:08
>>572 しかし摂家将軍は源氏の血を継いでるよな。
575 :
日本@名無史さん:02/12/27 19:10
すると、鎌倉以降で、正確に源氏以外の将軍は「親王のみ」。
秀吉は「せめて」天皇の血くらいひてるんだろうな??
源氏でなければ将軍になれないなんて不文律は戦国時代にはありませんでしたよ。
織田信長が将軍任官される直前だったのは明らかになってますし、信長は平氏を名乗ってました。
577 :
日本@名無史さん:02/12/27 19:27
じゃあ、何のために家康は源氏になったんだよ。取り越し苦労ってやつ。
それと関白と征夷大将軍の兼任は難しいですね。
どちらも実質的な官職ですし、性質が極端に違います。
名誉職的な受領職や修理大夫ならば朝廷はいくらでも出すでしょうけど
実質的な権力を伴う官職については慎重に扱ってます。
>>577 家康が源姓になったのは1566年です。
この時点では将来の将軍任官なんて全く計算に入ってなかったはずです。
何しろ信長の上洛が1568年。徳川は三河の国人から大名になりかけの時期ですね。
581 :
日本@名無史さん:02/12/27 19:38
理解の乏しい冬厨相手は大変
582 :
日本@名無史さん:02/12/27 19:48
すいません。上記三河守になった時期の家康の署名は
「藤原朝臣」家康ではないでしょうか。
583 :
日本@名無史さん:02/12/27 19:49
584 :
日本@名無史さん:02/12/27 20:14
>>580 トクガワを自称したことと、源氏を自称したことを混同してるよ。
585 :
日本@名無史さん:02/12/27 20:49
坂上家と文屋家以外のものは前例がないので将軍にはなれません。
586 :
日本@名無史さん:02/12/27 22:48
>>578 太政大臣と征夷大将軍の兼任は多いけど、
関白と征夷大将軍の兼任とは随分違うことなのですか?
587 :
日本@名無史さん:02/12/27 23:24
宇多天皇が詔して曰く「まず藤原基経に関わり白(もう)したのちに天皇へ奏上すべし」
という処から来ている事からして、関白は京都常駐が必須。
征夷大将軍は、関東に何らかの基盤を置く役職だろうな。
秀吉は関西が基盤なのだから、納得できる気がする。
588 :
日本@名無史さん:02/12/27 23:31
>>587 足利将軍は京に常駐していながら征夷大将軍だった。
秀吉は関白に任じられて以降も各地に遠征しました。
589 :
日本@名無史さん:02/12/27 23:36
>>588 >足利将軍は京に常駐していながら征夷大将軍だった。
関東管領を置きましたが何か?
織田信長でさえ滝川一益を関東管領ということにしていたからね。
590 :
日本@名無史さん:02/12/27 23:39
>関東管領を置きましたが何か?
>織田信長でさえ滝川一益を関東管領ということにしていたからね。
それで?
591 :
日本@名無史さん:02/12/27 23:40
>>588 >関東管領を置きましたが
であれば、秀吉も関東探題なり、関東公方なりを置けばいいんじゃないか?
592 :
日本@名無史さん:02/12/28 00:13
迷走のしかたが半端でなく気合入ってるね、おにいさんたち。感心した。
593 :
日本@名無史さん:02/12/28 00:16
征夷大将軍って役職の意味を調べてから発言したほうがいい
でもって関東管領は関係無いと思うけど
594 :
日本@名無史さん:02/12/28 01:32
実子がいなかった秀吉は当初は「世襲」ということにそれ程強い執着がなかった
んではないかな。
で、秀頼を授かったんだが、形式的に幼少の秀頼にいくら権限を与えても
自分が死ねば結局簒奪されるだろうというのは秀吉は実感していたのでは。
秀頼がある程度成長し、ある程度の能力を持つまでは自分は絶対死ぬわけに
いかない。生き続けてやる、秀吉はそう思っていたのではなかろうか。それ
以外に道はないと。
だから、秀頼を無理に幼少関白にしたり、将軍にしたりということをしなかった
のではないだろうか。
595 :
日本@名無史さん:02/12/28 01:38
自分の寿命を過信して秀次を殺したのが馬鹿なんだよ。
だから最期に情けない手紙を書くハメになる。
596 :
日本@名無史さん:02/12/28 03:13
つなぎにすべきヤシを殺しちゃうほど、実子誕生が秀吉を舞いあがらせっちゃった
てことでしょうか。それとも、お茶々がバカだったてこと。
597 :
日本@名無史さん:02/12/28 08:19
確かに秀吉の手紙は悲壮感たっぷりだな。
598 :
日本@名無史さん:02/12/28 09:07
信長・秀吉はまさしく一代の英雄!
599 :
日本@名無史さん:02/12/28 10:23
600 :
日本@名無史さん:02/12/28 11:48
秀吉はうんこ
601 :
日本@名無史さん:02/12/28 13:14
>>598 2人とも本人が一代の英雄を希望したわけじゃないと思うが。
秀吉が晩年にボケたってのは徳川政権による創作だけどな。
改竄を受けずに残った資料には重臣らに死ぬ間際まで
天下の仕置きについてこまごまと指示を与えて毅然と
逝った、と書いているものもある。
それらの多くは死後の家康封じ込めについての指示だった。
家康の妨害工作によって朝鮮出兵中の武将群にこうした遺命が
行き届かなかったのが豊臣政権崩壊の要因のひとつ。
603 :
日本@名無史さん:02/12/28 16:38
いくら書いても届かなかったんじゃ、意味ないじゃん。
604 :
日本@名無史さん:02/12/28 19:56
「改竄を受けずに残った資料」には秀頼については何て書いてあるの?
605 :
芸術は爆発:02/12/28 21:35
606 :
日本@名無史さん:02/12/28 21:49
鎌倉、室町時代までは天皇・公家(旧律令体制)もそれなりの力(「土地支配力)を
有していたから幕府という形で対抗する必要があった。織田・豊臣時代は旧体制
はもう全く力がなかったから、あえて幕府を開く必要もなかった。
だから秀吉は旧律令体制を利用して国家を統治しようとしたんだろう。
徳川はその豊臣に対抗する意味でまた幕府という形式を取らざるを得なかった
ということだと思いますね。
まったく力がないものをどう利用するのやら。
>>604-
>>605 釣られてるよ。
608 :
日本@名無史さん:02/12/28 22:33
殺生関白ってアボーンされた関白って意味?
609 :
日本@名無史さん:02/12/28 22:41
人殺し関白という意味。
生に関わりて白を殺しむ
生き残るために白人を殺すという意味。
大東亜戦争時の旧軍のスローガン。
611 :
日本@名無史さん:02/12/28 22:56
612 :
日本@名無史さん:02/12/28 23:00
勉強になります
613 :
日本@名無史さん:02/12/28 23:20
そんな殺生関白な
614 :
日本@名無史さん:02/12/28 23:55
615 :
日本@名無史さん:02/12/28 23:59
死して屍拾う者なし
616 :
日本@名無史さん:02/12/29 00:00
貴様、隠密だな!!
617 :
日本@名無史さん:02/12/29 00:04
杉良太郎です
618 :
日本@名無史さん:02/12/29 00:33
くだらねえスレだな
前スレ結論出たものをループさせ続けておもしろいか?
せめてsage進行にしてくれ
619 :
日本@名無史さん:02/12/29 00:42
あげ
620 :
日本@名無史さん:02/12/29 00:51
sage進行。
621 :
日本@名無史さん:02/12/29 09:40
スレの主題からは外れるが、豊臣政権の政庁はどこ?
世間のイメージだと大坂城だけど、聚楽第とか伏見城とかもあってよくわからない。
大坂=本拠地、伏見=隠居所でいいの?
622 :
日本@名無史さん:02/12/29 10:06
大坂城ってあんまり活用されてないよね。
関白時代は聚楽第、太閤時代は伏見城が政権所在地でいいのかな。
623 :
日本@名無史さん:02/12/29 10:35
安土桃山
さて桃山とはどこを指すのでせう?
624 :
日本@名無史さん:02/12/29 10:46
なぜ大坂城ばっかりクローズアップされるんだろう?
625 :
日本@名無史さん:02/12/29 12:06
>>624 確かに「安土桃山大坂」時代とは言わんな。
すると後半期の中心地は桃山=伏見で認定かい?
626 :
日本@名無史さん:02/12/29 12:20
秀吉の死後、秀頼が大坂城に移ったのは明らかに政権の喪失だよね。
普通なら、そのまま伏見城を居城兼政庁にするんじゃないの?
627 :
日本@名無史さん:02/12/29 14:07
>秀吉の死後、秀頼が大坂城に移ったのは明らかに政権の喪失だよね。
秀吉の遺言が無かったっけ。
政務は家康が伏見で代行し、秀頼は家康に手篭めにされないよう大阪城にうつして前田利家が守る。
秀吉自体は天下が家康に移ること自体は予想もしていたろうし、それは認めていたと思う。
ただ、理想としては飾り物でもいいから秀頼がトップにいて欲しいと思っていたくらいだろう。
>>624 豊臣滅亡の地となったから印象に残ったんだろう。
629 :
日本@名無史さん:02/12/30 01:58
>>627 結局、大坂城が政治の中心ではないことは認めるわけですよね。
伏見=政庁
大阪=要塞
と見れば、戦時体制突入と見るのが正しいのでは。
631 :
日本@名無史さん:02/12/30 02:07
政庁 対 要塞 の対決ですか?
632 :
日本@名無史さん:02/12/30 02:19
小和田のおっさんが安土桃山時代はおかしいと言ってたな
正確には安土大坂時代と言うべきだとね
実際に秀吉は伏見で政務を行なったのは極僅か
大半は大坂で政務を行なっていたって主張だそうな
633 :
日本@名無史さん:02/12/30 02:32
>>632 小和田のおっさんが安土桃山時代はおかしいと言ったって、迫力ないなー
しかも、他の先生方も、安土大坂時代、と呼ぶべきではと話していたなー
たとえば、織豊期研究をリードされている三鬼・朝尾の大先生ならば、
ずくにでも納得するけれどもねー
小和田のおっさんじゃー、ちょっとなー
まんが日本史なんぞを監修していればよいのですよ、小和田のおっさんは・・
634 :
日本@名無史さん:02/12/30 12:30
>>632 >大半は大坂で政務を行なっていたって主張だそうな
これの根拠はどう説明してるもんなんですか >>大和田氏
635 :
日本@名無史さん:02/12/30 13:18
安土大坂時代って、持ち城と政務場所がごっちゃになってる気がする。
伏見城・・太閤府
聚楽第・・関白府(秀吉/秀次)兼、天皇公家との交流サロン
大坂城・・豊臣家の城
でしょ?
636 :
日本@名無史さん:02/12/30 16:20
ガキの秀頼が大納言なんかになってんだから、武力支配を背景に
官位官職なんて思いのまま。前例がなくても秀吉が命令出せば
関白になれたんじゃねーのか?
ガキは関白になれねーなんて言ってんのはどこのGermanyだ?
637 :
日本@名無史さん:02/12/30 17:12
>>636 >前例がなくても秀吉が命令出せば
>関白になれたんじゃねーのか?
では、秀吉は何故のその命令を出さなかったのか、その理由は?
君はどう思う。
638 :
日本@名無史さん:02/12/30 17:14
>>635 大坂城って、あんまり重要じゃなかったのかな。
639 :
日本@名無史さん:02/12/30 17:16
関ヶ原前夜、西軍の攻撃によって伏見城が陥落したのは
徳川家康が一時的に政権を喪失したという認識でよろしいですか?
640 :
日本@名無史さん:02/12/30 17:24
641 :
(¬_¬)ジトー天皇:02/12/30 22:57
642 :
日本@名無史さん:02/12/30 23:38
>関ヶ原前夜、西軍の攻撃によって伏見城が陥落したのは
徳川家康が一時的に政権を喪失した
家康にとって伏見城はもう、どうでもよかった。
わざと兵を少なくして、西軍をおびきよせるかっこうの「えさ」としたんです。
643 :
日本@名無史さん:02/12/30 23:55
◆毎年約1万人も韓国・朝鮮人が大量に帰化しているというのに、
在日の数がほとんど減っていない。(ニューカマー含む人口)
1998年 1999年 2000年
在日人口 638,828 636,548 635,269 人
その約1万人のうち日韓・日朝結婚が年間約8500組。
混血も相当数産まれており、ハーフだけで既に20万人近くも。
これではいつまでも韓国・朝鮮人の日本人汚染が続く。
1952年から累計約27万人も帰化し、売国奴もどんどん増えていく。
また、不法滞在の韓国人は56000人で外国人で最も多い!
◎外国人帰化数
http://www.moj.go.jp/TOUKEI/t_minj03.html
644 :
日本@名無史さん:03/01/04 01:49
あげ
646 :
日本@名無史さん:03/01/04 01:55
太陽がまぶしかったから。
>>646 「今日ママンが死んだ」は説明になっていない。
648 :
日本@名無史さん:03/01/04 02:05
Aujourd'hui maman est morte.
これでどうだ??
649 :
日本@名無史さん:03/01/04 02:09
久保田さきのせいだ。
650 :
日本@名無史さん:03/01/04 02:10
エマニュエルがさよならした所為だ
651 :
松山三代 ◆NpqLp96rfA :03/01/04 02:12
ハーフ=雑種
652 :
松山三代 ◆NpqLp96rfA :03/01/04 02:13
ハーフ=雑種 純日最高 純日最強
653 :
日本@名無史さん:03/01/04 02:14
ちょっとふりむいてみただけです。
654 :
日本@名無史さん:03/01/04 02:21
まー、いってみれば
存在のはかない証明ってとこだろう。
655 :
日本@名無史さん:03/01/04 02:26
で、彼はサンカだったんですか?
うう・・・
うおおおお
うっ
うんこ
661 :
日本@名無史さん:03/01/04 22:49
あげ
すっかりダメなスレになってしまったが・・・・
まあ前スレの途中からずっとループしてただけだしな・・・・
663 :
日本@名無史さん:03/01/05 02:22
源氏でない秀吉が将軍になれるわけないぜ。おまえらそんなことも
知らんのか。
664 :
日本@名無史さん:03/01/05 02:31
今日の秀吉総集編結構おもしろかった
665 :
日本@名無史さん:03/01/05 02:49
>>663 源氏の血を引いていないからではなく、元は農民の出だからでしょう。
666 :
日本@名無史さん:03/01/05 03:22
その農民の子が平氏を自称して官位を受けているのだが。
まだ、そのネタくりかえしている粘着源氏君がいるのか。
いい加減うんざりだなあ。
伝統と格式を重んずる前例主義の保守的な朝廷としては、将軍職につくには
源氏であることが望ましいが、全く不可ではないことは平氏を名乗った
織田信長の三職推任(関白、太政大臣、将軍)の話でわかるだろ?
秀吉も、当初は足利義昭に足利姓をもらおうと働きかけたりもしたらしいが、
近衛前久のおかげで関白になってからは、将軍になる必要がなくなったから
ならなかったと前スレで結論出ただろ。
豊臣姓を作ってもらうぐらいに権力を持った後なら、本人が望めばいくらでも
将軍になることはできたし、秀次に関白を譲った後に将軍になることは可能だった。
公家たちにとっても、武家貴族たちが関白・x納言などの公家の官職を占有してしまうと
自分たちが昇進できなくなるので、将軍府ができてくれたほうが助かるしね。
でも秀吉は生まれが卑しく譜代の家臣もないので、筋目の大名やかつての同僚に
侮られるのを防ぐためにも、天皇という権威が利用できる(相手に逆賊のレッテルを
貼ることができる)関白・太閤などの朝廷の官位のほうが将軍職より望ましかった。
華やかな貴族文化も秀吉の好みに合ったのだろう。
逆に家康は、本当に源氏であるかどうかに関係なく、将軍になる必然性があった。
例え乞食坊主の子孫であっても、生まれながらにして武家でありれっきとした三河の
国主だったので譜代の家臣も大勢おり、秀吉のように虚勢を張って権威を家臣に
見せる必要性もなかった。年寄制といった三河以来の家臣制度をそのまま使うためにも
朝廷の官職ではなく、自分の幕府を開く必要があった。
徳川(源氏)への改姓を朝廷に申請するほど源氏に憧れていたし、その保守的な性格は
貴族文化の華やかで浮ついたものより、鎌倉以来の質実剛健な武家文化が好みにあっていた。
だから関白になることより将軍職を選んだ。
668 :
日本@名無史さん:03/01/05 16:37
あほ
669 :
日本@名無史さん:03/01/05 17:27
その割に家康は晩年に太政大臣になって喜んでいたな
670 :
日本@名無史さん:03/01/05 17:43
家康の太政大臣は死の直前与えられたもの。
それ以前にも任官の話はあったが、家康は辞退していた。
671 :
日本@名無史さん:03/01/05 23:27
豊臣家を滅ぼしたから受けたのかな。
672 :
日本@名無史さん:03/01/05 23:42
豊臣よりは朝廷好みの感じだしね>徳川政権
673 :
日本@名無史さん:03/01/05 23:45
というよりは、「幕府よりこちらが上なんだ」という意志表示では・・・
674 :
日本@名無史さん:03/01/06 18:19
ほーほけきょ!
675 :
日本@名無史さん:03/01/07 21:11
将軍より関白のほうが偉い。将軍を選んだのは家康のおくゆかしさ。
関白を選んだのは秀吉のあつかましさ。
676 :
日本@名無史さん:03/01/07 21:17
将軍を任命すると政権を奪われるのに
朝廷はなぜ任命するの?
関白と太政大臣はどちらが上?
678 :
日本@名無史さん:03/01/07 21:33
関白権中納言豊臣朝臣秀頼
679 :
日本@名無史さん:03/01/07 21:34
>>677 関白は、令外の官だよ
関白は太政大臣の上。一人(いちのひと)
681 :
日本@名無史さん:03/01/10 09:12
太政大臣 豊臣秀吉(摂津・河内・和泉・山城)
左大臣 徳川家康(武蔵・上野・下野・上総・下総半国)
右大臣 織田信雄(尾張・伊勢・志摩・伊賀)
内大臣 毛利輝元(長門・周防・石見・安芸・備後)
大納言 豊臣秀長(大和・紀伊)
同 織田秀勝(近江)
同 前田利家(能登・加賀・越中)
同 蒲生氏郷(磐木・岩代)
中納言 豊臣秀次(丹波)
同 徳川秀康(三河・遠江・駿河)
同 織田秀信(美濃)
同 宇喜多秀家(備前・美作・備中)
同 小早川隆景(筑前)
同 上杉景勝(越後・佐渡)
同 佐竹義宣(常陸)
同 島津義弘(薩摩・大隈)
少納言 豊臣秀治(因幡・伯耆・但馬)
同 木下家定(越前・若狭)
同 大友義統(豊後)
同 黒田孝高(豊前)
同 竜造寺隆信(肥前)
同 北条氏直(相模・伊豆)
同 伊達政宗(陸前)
同 最上義光(羽前)
同 長宗我部元親(土佐)
同 武田信勝(甲斐)
682 :
日本@名無史さん:03/01/10 09:12
参議 三好吉房(播磨)
同 南部信直(陸奥半国)
同 蠣崎慶廣(蝦夷)
同 津軽為信(陸奥半国)
同 秋田実季(羽後)
同 木村義晴(陸中)
同 結城晴朝(下総半国)
同 里見義康(安房)
同 金森長近(飛騨)
同 細川忠興(丹後)
同 脇坂安治(淡路)
同 生駒親正(讃岐)
同 蜂須賀正勝(阿波)
同 藤堂高虎(伊予半国)
同 加藤嘉明(伊予半国)
同 吉川広家(出雲・隠岐)
同 立花宗茂(筑後)
同 池田輝政(日向半国)
同 浅野幸長(日向半国)
同 福島正則(肥後半国)
同 加藤清正(肥後半国)
なんで信雄が右大臣に……と思ったらなんだよこれは。
家康は内府だよなぁ・・・
なんで藤原の人がいなかったのでしょうか?
第一次関ヶ原合戦後
太政大臣 豊臣秀頼(摂津・河内・和泉・山城・大和・丹波・近江)
左大臣 徳川秀康(武蔵・上野・下野・上総)
右大臣 織田信雄(尾張・伊勢・志摩・伊賀・美濃)
内大臣 毛利輝元(長門・周防・石見・安芸)
大納言 豊臣秀保(紀伊・淡路・讃岐・阿波・伊予)
同 宇喜多秀家(備前・美作・備中・播磨・備後)
同 織田秀信(磐木・岩代)
同 徳川秀忠(三河)
中納言 豊臣秀次(上総・安房)
同 小早川隆景(筑前・筑後)
同 前田利政(能登・越中)
同 木下勝俊(越前・若狭・加賀)
同 上杉景勝(越後・佐渡)
同 佐竹義宣(常陸)
同 島津義弘(薩摩・大隈)
同 伊達政宗(陸前)
少納言 豊臣秀治(因幡・伯耆・但馬・丹後・出雲・隠岐)
同 立花宗茂(豊前・豊後)
同 三好吉房(駿河・遠江・伊豆)
同 鍋島直茂(肥前)
同 最上義光(羽前)
同 武田信勝(甲斐)
同 長宗我部元親(土佐)
同 北条氏直(相模)
参議 真田昌幸(信濃・飛騨)
同 福島正則(日向)
同 加藤清正(肥後)
同 結城晴朝(下総)
同 南部信直(陸奥半国)
同 松前慶広(蝦夷)
同 津軽為信(陸奥半国)
同 秋田実季(羽後)
同 木村義晴(陸中)
同 宗義智(対馬・壱岐)
689 :
日本@名無史さん:03/01/10 22:34
妄想晒しあげ
690 :
日本@名無史さん:03/01/11 08:29
中納言の下は参議です。少納言はいわゆる秘書職であり行政官ではありません。
691 :
日本@名無史さん:03/01/11 09:21
いい猛挿ですね 続きキボンヌ
織田家の秀勝と秀次・秀保の兄弟の秀勝っていつごろ死んだの?
(^^)
第一「前のスレ」ってやつがもう見られねえんだよ!
695 :
日本@名無史さん:03/01/12 11:28
秀長、秀保、秀勝、秀次、鶴松、と豊臣家のメンバーが朝鮮の役前後に次々と死亡しています。
これは朝鮮人民の呪いによるものなのでしょうか?
696 :
日本@名無史さん:03/01/12 11:38
当然だろ。
朝鮮と関われば確実に不幸が訪れる。
先の高円宮もそれ。
698 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:28
源氏じゃないんだから、将軍はムリだろ。
699 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:32
その話題はもういいよ。
700 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:33
律令に基づいた官職、有名無実化したものを各地の戦国大名が礼金を積んで求めた
延長線上に秀吉が関白になった理由があるのではないのでしょうか。
今川、織田、松平の三者が三河守の任官を望んだのは三河領有化の正当性を求めたから。
(書くまでも無いが、三河守になっても徴税できるわけでもない。あくまでも名誉的なもの)
それが拡大していけば、日本全土の領有の正当性を確保するのに関白、太政大臣になったのは
自然な流れのような気がします。
んで、室町鎌倉の両幕府も結局、他の武士の台頭によってひっくり返ってしまったことを秀吉も
意識していたはずで、ひっくりかえらないためにどうしたらいいかということを考えた末に、
朝廷の権威に乗っかることにしたのではないかと。
令外官は律令の外にあるので(見たまんまですな)単純に比較しがたいですが、
官職とは別に位階というものがありますから、それで比較できるのではないかと思います。
江戸期に入ってから武士の官位と公家の官位の二分化して、その序列に引きづられて考えてしまいがちなので、
注意が必要です。
701 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:34
700ゲト
まだまだ、結論は出ていないぞ。
702 :
日本@名無史さん:03/01/14 02:04
「源氏じゃないんだから、将軍はムリだろ。」=ただの「あげ」
703 :
日本@名無史さん:03/01/14 03:26
秀吉は源氏じゃないから将軍はムリだろ
704 :
日本@名無史さん:03/01/14 08:28
まさか、坂上田村麻呂は源氏だったのですか?
705 :
日本@名無史さん:03/01/14 08:58
706 :
日本@名無史さん:03/01/14 11:00
【 将軍より偉い関白を選んだ 】
それだけのことだろ。
707 :
日本@名無史さん:03/01/14 11:41
「将軍より偉い関白を選んだ」=ただの「あげ」
708 :
日本@名無史さん:03/01/14 22:50
【足利義昭は1588年まで将軍です】
709 :
日本@名無史さん:03/01/14 22:51
第二次関ヶ原合戦後
太政大臣 豊臣秀頼(摂津・河内・和泉・山城・大和・丹波・近江・紀伊・淡路)
左大臣 徳川秀康(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・安房)
右大臣 織田秀信(尾張・伊勢・志摩・伊賀・美濃)
内大臣 宇喜多秀家(備前・美作・備中・備後・安芸・石見・出雲)
大納言 小早川秀秋(筑前・筑後)
同 毛利輝元(長門・周防
同 伊達政宗(陸前・磐木・岩代・陸中)
同 上杉景勝(越後・佐渡・越中)
中納言 木下勝俊(越前・若狭・加賀・丹後)
同 島津忠恒(薩摩・大隈・日向・肥後)
同 最上義光(羽前・羽後)
同 立花宗茂(豊前・豊後)
同 佐竹義重(常陸)
同 前田利政(能登)
少納言 豊臣秀治(因幡・伯耆・但馬・隠岐)
同 加藤清正(土佐・讃岐・阿波・伊予)
同 福島正則(三河・駿河・遠江・伊豆)
同 鍋島直茂(肥前)
参議 真田信幸(信濃・飛騨・甲斐)
同 南部信直(陸奥)
同 松前慶広(蝦夷)
同 宗義智(対馬・壱岐)
710 :
日本@名無史さん:03/01/14 23:04
関白相論って何か言ってみろ
711 :
日本@名無史さん:03/01/14 23:11
関白と征夷大将軍を兼務出来たがそうしなかった秀吉はうんこ
712 :
日本@名無史さん:03/01/14 23:22
713 :
日本@名無史さん:03/01/14 23:27
夏目漱石と野口英世、どっちが好き?
714 :
日本@名無史さん:03/01/14 23:36
要するに、なぜ将軍にならずに関白になったか?
715 :
日本@名無史さん:03/01/14 23:39
【足利義昭は1588年まで将軍です】
信長も義昭の将軍位を剥奪できずに毛利・本願寺・荒木村重などに
変な口実を与えてしまっている。
将軍位の剥奪ってできないのかな?
三好三人衆みたいに将軍殺す以外には。
716 :
日本@名無史さん:03/01/15 00:07
関白になった以上、将軍任官は無理
717 :
日本@名無史さん:03/01/15 00:42
>>709 備後・安芸・石見を没収された毛利輝元が大納言に昇進しているのはこれいかに。
(五大老時代の極官が権中納言なのにね)
あと、前田家は利政が相続した能登のみの安堵で、加賀は没収されてるのね。
真田家も甲斐信濃はいいとして飛騨はいらないだろうに。信濃から飛騨に行くのは結構しんどいよ。
718 :
日本@名無史さん:03/01/15 00:45
源氏じゃないから幕府は開けないだろう。
719 :
日本@名無史さん:03/01/15 00:48
>信濃から飛騨に行くのは結構しんどいよ。
(・∀・)ニヤニヤ
>>719 そんなにおかしいことを書いたとは思ってないのだが。
今だって、長野から岐阜(飛騨方面)に行くのには、
高山松本間の国道361号線と、高山伊那間の国道158号線しかないのに。
(県道もあるにはあるが)
ましてや、昔はもっと大変だろうに(信濃と飛騨の交流を示す史料を提示できないのは恥ずかしいけど・・・)
721 :
日本@名無史さん:03/01/15 06:47
>719
姉小路がなぜび生き残れたのかを考えろよ。
てゆーか、羽州探題である最上家が伊達家に後れを取ってることが許せないな。
723 :
日本@名無史さん:03/01/15 12:28
夏目漱石。
724 :
日本@名無史さん:03/01/15 13:34
結城中納言秀康は、言われているほどに親豊臣派ではなかったのだが。
725 :
日本@名無史さん:03/01/15 16:30
>>721 織田・武田・上杉などの間で上手く立ち回ったから。
上杉謙信が第五次川中島合戦を仕掛けなければ、1564年の段階で
山県昌景に滅ぼされていたんじゃない?
726 :
日本@名無史さん:03/01/15 18:54
おまえ、調べてから発言したほうがいい。認識がごっちゃになってる気がする。
>>715 出来るって。
信長が将軍に任官する寸前だったのを知らんのか?
728 :
日本@名無史さん:03/01/15 19:18
源氏の子孫でなければ征夷大将軍に任命されなかった。
何度繰り返せばいいのやらw
729 :
日本@名無史さん:03/01/15 19:24
任官する寸前じゃなくて
朝廷側が、望むなら征夷大将軍にして欲しいと考えを述べただけだと思うが
730 :
日本@名無史さん:03/01/15 19:34
インポ、ホーケイ、短小、ソーローが不細工なチン説を披露しています。
732 :
日本@名無史さん:03/01/15 23:14
小牧・長久手では
733 :
日本@名無史さん:03/01/16 00:09
734 :
日本@名無史さん:03/01/16 00:10
>>729 朝廷から征夷大将軍任官の話が来たのにねえ?
就任できないけど任官の話を持ちかけたのかなあ?
735 :
日本@名無史さん:03/01/16 00:18
>>734 729が何のことを言ってるのかわかんないの?
736 :
日本@名無史さん:03/01/16 00:49
>朝廷側が、望むなら征夷大将軍にして欲しいと考えを述べただけだと思うが
日本語として文脈が変だというのは確かだ。
737 :
日本@名無史さん:03/01/16 00:54
一人理解出来ない、低脳が現れると一気に萎えるな
豊臣秀治って誰よ?
739 :
日本@名無史さん:03/01/16 02:46
740 :
日本@名無史さん:03/01/16 03:57
>>736 736=734がものを知らんだけだよ。
741 :
日本@名無史さん:03/01/16 07:44
>>734>>736 この辺はややこしくてね。勧修寺晴豊の日記にあるけど、
太政大臣か関白か将軍のいずれかに推挙するという意向を信長の家臣 京都所司代の村井貞勝に伝えたと言う
史料があってね。
(ただ、貞勝の方からこのいずれかに推挙するという意向を朝廷が示して欲しい、という解釈もできるという説も10年くらい前に出ている)
今谷明の本なら読みやすいから是非読んでください。
>738
豊臣秀治(とよとみひではる)(1582〜1615)
豊臣一門。豊臣秀吉の同父母妹天秀姫の孫として近江長浜城に生まれる。
母を出産時に、父を賤ヶ岳の合戦で喪ったために既に出家して珠玉門院を名乗っていた祖母のもとで育てられる。
慶長の役で小早川秀秋指揮下にあって功なしたため、また秀勝、秀次、秀保らの死去によって弱体化していた豊臣一門を補強するために因幡・伯耆・但馬30万石を与えられる。
関ヶ原の合戦では西軍に参加し、丹後攻め、加賀攻めを行ったため改易される。
石田三成らと異なり命を保てたのは、朝廷に働きかけて豊臣の姓を捨てることを条件(の一つ)としたものと思われる。
羽柴姓に復した後は京都に留まり詩歌を吟じながら歴史書を書いた。
その文書は散失しているが、わずかに残ったものは豊臣政権の崩壊を記録した貴重な資料となっている。
1614年に始まる大坂の役では大坂方に参陣したが、力及ばず落城時に豊臣秀頼らとともに自殺した。
民間の伝承では旧領に戻り農民として余生を送ったとも、親交のあった公家にかくまわれたともいう。
また朝鮮併合時には、秀治が身代わりを立てて脱出した秀頼の遺児国松と豊臣の馬印「千成瓢箪」を奉じて李氏朝鮮に渡ったという伝承が創られた。
(^^)
744 :
日本@名無史さん:03/01/16 10:19
救助あげ。
745 :
日本@名無史さん:03/01/16 11:11
>>738・742
>豊臣秀治
↑ 架空の捏造の人物だ
秀吉一門で30万石は少なすぎ。
三成ごときと同レベルかよ。
747 :
日本@名無史さん:03/01/19 02:30
>>709 少納言の方が参議より上だと思っているの?
参議は公卿だが、少納言は殿上人にすぎない。格が違う。
748 :
日本@名無史さん:03/01/19 03:01
参議が公卿に入るんですか。ほんと??
749 :
日本@名無史さん:03/01/19 03:25
まあ、参議は公卿見習って位置づけやね。
入れていいでしょ。
750 :
日本@名無史さん:03/01/19 03:41
上級貴族を言い、位階が三位以上の人、または参議以上の要職(=大臣・大中納言・参議)に就いている人(人々)を言います。
つまり、位階が四位でも参議職に就いているなら、その人は公卿です。
ただし大臣は、時によって一般の公卿と区別され、これに含まれていないこともあります。
751 :
日本@名無史さん:03/01/19 15:25
ちなみに参議の唐名は「宰相」だよ。
征夷大将軍以外に将軍がいた場合、幕府は2つ開けるの?
実際はありえないかもしれないけど
鎮東将軍とかがいた場合・・・
753 :
日本@名無史さん:03/01/19 21:10
幕府って右近衛大将か征夷大将軍かの居館だべ。
754 :
日本@名無史さん:03/01/19 21:26
鎮守府将軍……そのご「鎮守府」が海軍の根拠地を表すようになったのはなぜ?
755 :
日本@名無史さん:03/01/19 21:32
織田信雄が除封されたのは、家康の旧領の駿遠三信甲の五国への転封を断ったからだと言うのは本当ですか?
本当だったら、伊勢半国と志摩か伊賀からすごい加増だったのに何故断ったのですか?
>>755 「尾張を手放したくなかったから」でいいんじゃない。
757 :
日本@名無史さん:03/01/20 16:29
信雄の力量なら、いずれ改易されてた。
よって無問題。
759 :
日本@名無史さん:03/01/20 19:25
>758
前田慶次にボコボコにされますた。
760 :
日本@名無史さん:03/01/21 00:22
信雄というのは、馬鹿なようでいて行動のタイミングだけは絶妙だな。
だがやはり父祖以来の土地への執着は捨てられなかったか・・・
まあ本来なら自分こそ秀吉の主家筋であるはずなのに、なぜ秀吉ごときの
命令で先祖伝来の尾張を捨てねばならんのだ、ということだな。
761 :
日本@名無史さん:03/01/21 21:39
木下文書って
高いの
762 :
日本@名無史さん:03/01/21 21:54
>>760 信雄が三河への移転を拒絶した理由としては、
@三河には本願寺系寺社勢力がまだ強大な権益を握っていた
A三河の住民は織田家に対して反感を持っていた
という事情を知っていたからという説(神田千里氏、煎本増夫氏など)あり。
関白でも将軍でもなく太政大臣になった場合
天下人となれるの?
764 :
ありうすえと:03/01/21 22:13
征夷大将軍になるには源氏の子孫じゃなくてはいけなかったはず・・・
だから明らかに農民出身である秀吉は幕府を開けなかった・・・
765 :
日本@名無史さん:03/01/21 22:35
家康が「源氏、いや、松平氏の一族ですらなくて貧乏僧の子供だった」とか言うやつは炒ってよし。
766 :
日本@名無史さん:03/01/22 02:02
>>762 三河一向一揆の時に本願寺の坊主は国外追放になって残った連中は
浄土宗に改宗したんじゃなかったっけ?
つーか伊勢より本願寺が強いところって少なそう・・・
767 :
日本@名無史さん:03/01/22 02:04
>>763 京都を制すれば「天下人」と呼んでもらえますよ。
太政大臣でも権力的には何ら問題はないでしょうし。
>>764 んなこたーない
768 :
日本@名無史さん:03/01/22 02:37
>>765 僧ですらない、ごくつぶしの流れ者。
とか井ってる俺を存分に炒ってください。
769 :
日本@名無史さん:03/01/22 11:44
770 :
日本@名無史さん:03/01/22 11:58
772 :
日本@名無史さん:03/01/22 15:41
秀吉は農民の出身で、これまでの幕府の創設者はいずれも源氏。
だから確か足利義昭の養子になることで=源氏の血を引いているってことに
したかったんじゃないだろうか。だけど、義昭に断られて仕方なく近衛前久の養子になって
関白に就任した、という経緯だったはず
773 :
日本@名無史さん:03/01/22 15:46
>>771 >このスレのお約束
ヴァカかおまえは。
774 :
日本@名無史さん:03/01/22 16:59
>>772 そんなこと書くとまた「猶子厨」がわいてくるぞ。
775 :
日本@名無史さん:03/01/22 17:58
776 :
日本@名無史さん:03/01/22 18:06
>>775は「空あげ」の同義語リストに追加されますた。(w
777 :
日本@名無史さん:03/01/22 18:11
>>776は「空あげ」の同義語リストに追加されますた。(w
778 :
日本@名無史さん:03/01/22 22:31
秀吉は、実子がなければ秀勝や秀次を本気で後継者にするつもりだったのかな?
個人的には鶴松も秀頼も存在せず、他の人たちも病死したりして秀康に出番がきたらいいなと思う。
779 :
日本@名無史さん:03/01/23 00:53
780 :
日本@名無史さん:03/01/23 03:51
常盤御前は添寝人でした。
781 :
日本@名無史さん:03/01/25 09:32
淀殿は淫乱女でした。鶴松と秀頼の父は大野治長でした。
782 :
日本@名無史さん:03/01/25 16:11
淀さん、キモイ。ヤリマン。
783 :
日本@名無史さん:03/01/25 16:43
源氏じゃなかったからだ。
784 :
日本@名無史さん:03/01/25 18:05
それは違う。そもそも幕府と言うのは近衛大将の(略
785 :
日本@名無史さん:03/01/27 15:29
猿だから。
786 :
日本@名無史さん:03/01/27 20:22
関白になっちまったから征夷大将軍にはならなかったまでだ。
むしろ、関白にカンタンになった、なれたことのほうが不思議だ。
というか、破天荒だ。みんなどう思ってんだよ。
787 :
日本@名無史さん:03/01/27 22:01
自分が存命中に秀頼を関白にしておくほどの厚かましさはなかったのかな?
788 :
日本@名無史さん:03/01/27 22:18
秀頼が幼少だったから関白にしなかったの!
789 :
日本@名無史さん:03/01/29 12:50
幕府を開くということは世の中を安定させようとの狙いがある。
秀吉はまだまだ野心があった。
790 :
日本@名無史さん:03/01/29 13:01
鎌倉幕府以来、幕府は源氏がって慣習みたいなのができちゃって秀吉は
源氏じゃないのが周知の事実だったから無理だったってどこかで聞いたような・・・
家康もどっかの家系図を買って、源氏だってことにしたらしいし。
あいまいな記憶なのでソースは無いけど
>>790 ソースは、このスレの過去ログを見てください。(w
792 :
日本@名無史さん:03/01/30 21:49
関白になったから征夷大将軍にはなる理由がなくなったてことで
いいじゃないか。
793 :
日本@名無史さん:03/01/31 05:00
源氏でなかったからだと公家の日記にある
794 :
日本@名無史さん:03/01/31 06:17
795 :
日本@名無史さん:03/01/31 09:37
>>793 摂関家の出じゃなくて藤原氏ですらなくて関白になるほうが
ずっと破天荒だよ。足利将軍家の養子だか猶子だかにならなくても
源氏になる道も将軍になる道もあったけど、それを考え出す間も無い
うちに関白になる話を持ちかけられたのでそれに跳び付いたって
いうのが真相だろ。
796 :
日本@名無史さん:03/01/31 09:46
このスレはわき道に逸れてくれた方がおもしろいわけだが。
797 :
日本@名無史さん:03/01/31 10:31
徳川幕府を知ってるから、なんで秀吉が幕府を開かなかったのか?
なんて思うんじゃないの?
足利将軍より関白の方がいいって。
798 :
日本@名無史さん:03/02/01 21:30
源氏じゃなかったからだ。
799 :
日本@名無史さん:03/02/01 22:18
関白の方が収入が多いから。
家康も源氏の血筋かどうかあやしいもんだぞ。
みんなもしかして知らないの?
征夷大将軍はね源氏の血筋しかなれないのさ
だから百姓あがりの秀吉には無理だったというわけ(プ
802 :
日本@名無史さん:03/02/01 22:42
248,252,255は、大バカ
803 :
日本@名無史さん:03/02/01 23:24
家康は系図を捏造した
804 :
日本@名無史さん:03/02/02 00:05
>>801 答えてみろ
鎌倉幕府には摂家将軍、宮将軍の例があり、建武新政期には護良親王が
征夷大将軍に任じられてる。また、信長を征夷大将軍か関白か太政大臣に
しようという話もあった。源氏でなければ将軍になれないのなら、
摂関家の出ではなく藤原氏ですらない百姓あがりが関白になるほうが
もっと無理だろう。
805 :
日本@名無史さん:03/02/02 00:11
とりあえず1585年の段階では将軍足利義昭は自分の地位を
譲る気はなかったし、朝廷もこれを罷免してまで秀吉に与える
つもりはなかったわけで。
(信長には義昭を罷免してでも与えるつもりだったようだが)
秀吉の方で工作して秀吉以外関白はありえない状況に
持って行ってやっとなれたと。
806 :
日本@名無史さん:03/02/02 00:11
関白になったこと、なれたことをこそ不思議に思わなければ
ならないよ。
807 :
日本@名無史さん:03/02/02 01:24
801が正解。異見をほざいているバカは早く寝ろ。ついでに死ね、能無し!!
808 :
日本@名無史さん:03/02/02 20:54
↑そ〜ゆ〜事だ。
無駄に長い理由なんて無くて、
>>801の言っている一言ですむ理由だったんだ
809 :
?a`?a`?A¨???[:03/02/02 20:56
自作自演ごくろう
810 :
日本@名無史さん:03/02/02 21:58
・秀吉は源氏じゃなかったから征夷大将軍になれなかったので、仕方なく関白になった。
これって、
「○○は大卒じゃなかったから部長になれなかったので、仕方なく社長になった」ってくらい間抜けな説。
811 :
日本@名無史さん:03/02/02 23:01
812 :
日本@名無史さん:03/02/03 01:58
>810
えー、このスレ相当ながきに渡って続いてるようですが、
全体的にここはネタスレなんですか?
秀吉が幕府を開かなかった(開けなかった)理由は、
源氏にしか征夷大将軍なることは出来ません。が原則。
但し、朝廷の権威がやばいとなると、時の権力者にやってもらうこともあります。
そして、元々素性も知れない秀吉が官吏に命令して(というか相談して、というか買収して)
平氏の流れを汲むことにしたんです。
家康もこの手で徳川と改名し、源氏の流れを汲む者、と称したのです。
よって、秀吉は関白を、家康は征夷大将軍になったに過ぎません。
信長がいい例で、関白だろうが征夷大将軍だろうが、何でも良いから
あげます!!と朝廷に言われて断ってます。(信長は平氏)
信長は自分こそがこの国を治める唯一であり、天皇家は消したがったようですが、
この時代、天皇がいるからこの国がある、という教えが広く深く浸透しており、
いきなり天皇家をつぶすと新たな敵(又は庶民がついて来ない)と判断して、
天皇家乗っ取りを考えています。
信長が本能寺で死なずにあと10年〜15年生きていれば、信長自身が
天皇家を名乗るはずでした。正親町天皇の嫡子で次の天皇予定者である誠仁親王を、
信長は自分の猶子(親子関係とする)とし、正親町天皇に退位を要求。
誠仁親王が信長に反抗的と見るや、その退位要求を却下してます。
813 :
日本@名無史さん:03/02/03 01:59
>812
というのが、マジレスなんですが、まずかった?
814 :
日本@名無史さん:03/02/03 02:11
何度ループすれば気が済むんだ、おまえら?
物覚えが悪いのか?
それとも自説に固執して他人の言うことに聞く耳を持たない粘着引きこもりなのか?
815 :
日本@名無史さん:03/02/03 02:25
源氏でなかったからというのが通説で正解です。
それ以外の説は間違いです。
試験に書くと零点なので気をつけよう、暗記バカの受験厨房クン。
テクノスレ
817 :
日本@名無史さん:03/02/03 03:26
征夷大将軍になったから諸大名が従うというわけでもないからね.
諸大名との封建的主従関係を領知朱印状の交付の有無で判定するなら
西国の諸大名が名実ともに徳川氏の家臣になったのは大坂の陣の後だからな.
818 :
日本@名無史さん:03/02/03 04:53
もうなんか、どうでもよくなってきた。(遅すぎるかな)
>>812 何か判ってるような判ってないような文章だな。判りやすくしようとして、逆にわかりにくい。
補足するなら、織田信秀の三河守の叙任、その他様々な例があるが、
官位を得て支配の正当性を得ようという流れがだいたい16世紀以降から始まって、
その流れの延長線上で、秀吉は極官である関白、太政大臣の任官を望んだ。
(秀吉が意識したかは別にして)「源平以来の名門」などと称して、各地に確固とした支配をしていた勢力に
(それは国人であったり、守護大名から戦国大名へと変貌した勢力であったりする)
新しい政権である秀吉政権は対抗する必要があった。
彼らの拠って立ってきた権威は、源平の流れをくむということであり、それはつきつめれば、
親王が臣籍になり天皇から「源」「平」という姓を戴くということにあった。
そこで秀吉は天皇から「豊臣」という姓を戴くことで「源平藤橘」という、旧勢力(中世的権威)に対抗しようとした。
秀吉は配下においた各地の大名に豊臣姓を配りまくって、これまでの「源平藤橘」にかわって、
豊臣「姓」による新しい支配を考えたのではないだろうか。
将軍就任に秀吉がこだわらなかったのは、武家の権威だけでは新しい武家の台頭によって政権が崩れ去ることを
知っていたこともあるし、上にあげた構想があったのではないかと思う。
819 :
日本@名無史さん:03/02/03 15:31
820 :
日本@名無史さん:03/02/07 19:12
源じゃな農ムリ。
821 :
日本@名無史さん:03/02/07 20:07
>>818 >>秀吉は天皇から「豊臣」という姓を戴くことで「源平藤橘」という、旧勢力(中世的権威)に対抗しようとした
違うよ。この時点で「源平藤橘」と対抗する意味はないでしょ?
秀吉は大名たちの頂点という意味付けが欲しかったんでしょ?
全国誰もが知っている朝廷最高の官職を賜れば、大名たちも秀吉の部下として納得がいく。
「源平」は朝廷においては下級の名前だからほっといて、
「藤橘」一族に目をつけ、接待交渉をした。
苦労の末、ようやく「藤原秀吉」になったんだけど、
藤原一族の猛反発を食らった。
そこで朝廷は秀吉と談合の上、
仕方なしに新たな姓「豊臣」を秀吉に下賜したんでしょ?
ちなみに秀吉自身、豊臣姓をもらった時「げっ!?」て思っただろうね。
せっかく藤原貴族気取りでいたのに。
まあ、あとは大筋同意見だが。
822 :
日本@名無史さん:03/02/08 01:39
いただいたというよりも、認めさせたのだろう・・・
へー。朝鮮出兵に忙しくて立てられなかったんじゃないんだ〜。
>>821 こんなスレにレスを頂いてうれしいです。
私が豊臣姓「新設」にこだわっているのは、姓とはその人物の由来であり全て天皇に結びついている、
という「仮説」にこだわっているからです。
源平は確かに朝廷でも下位の役人が多いですけど、鎌倉室町依頼の各地の守護大名、国人などの領主には、
源平を由来とする場合が多いですから、源平も考慮に入れるべきだと思います。
んで、頼朝公以来というだけでも十分、由緒があるのですが、そこをさかのぼれば、
親王からつまり天皇から枝分かれした子孫であるということが、根源的な由緒になっていると思うのです。
(断わっておきますが、血縁として繋がっている例はまれで、実際は家系を偽造している場合が多かったのは事実だと思っています。
重要なのは由緒にこだわらなければならなかった社会構造にあるということです)
秀吉が藤原姓で満足しているのなら、豊臣姓を各地の大名に配るという発想が生まれてこなかったと、思います。
これまでの実力者が「源平藤橘」を名乗っていたのなら、これからの実力者はみな豊臣を名乗らせよう、
という発想に至ったのではないかと思うのです。
一応、通説をもう一度掲載しておくと、
小牧長久手で家康に負けて(判定負けでもなんでも、ともかく勝っていない)
武家を統べる将軍になるのを断念して、朝廷権力に擦り寄った、というものが、
一応の通説のようです。
関白就任時には上杉島津北条などの有力大名は秀吉に降伏しておらず、
この段階での将軍任官はおそらく無理。それなら、手っ取り早く上に昇れそうな、
朝廷権威を選択したということです。
826 :
日本@名無史さん:03/02/08 08:15
>>825 小牧長久手については、
家康が秀吉に対し臣下の礼を取った時点で秀吉の勝ちになると思うが・・・
秀吉が家康を滅ぼさなかったのは、織田信雄が秀吉に屈服したことにより
家康と対決する理由が無くなったからであり、その気になれば家康を滅ぼす事など
たやすいことであっただろう。(だからこそ家康は臣下の礼を取った)
もしかしたら秀吉は家康に対し何らかの利用価値を認めており、
(たとえば北条氏亡き後の東国支配)
それが家康を滅ぼさなかった理由なのかもしれない。
827 :
日本@名無史さん:03/02/08 12:40
>>801 >>大将軍はね源氏の血筋しかなれないのさ
朝廷は「先例」を重んずる保守的な伝統がある。現在の宮内庁もね。
源氏の血筋しかなれない?
まあ、為朝公以降、征夷大将軍は源氏しかなっていないわけだが、
それはあくまで結果論。
坂上田村麻呂は?
護良親王は?
秀吉が征夷大将軍になりたかったのならば、先例をでっち上げて、上記二人の共通項「朝廷の平和」という大義名分を立てれば、
いともたやすいこと。
まあ百歩譲って
>>801の意見に賛同するとしても、秀吉が足利に養子に入ればいともたやすく征夷大将軍が手に入る。
それをしなかったのは、秀吉が更に上を目指していたということ。
>>826 歴史の裏がわかってないな。
織田家なんて双方、すでに眼中にないよ。
家康を滅ぼす事は「たやすくない」から
家康に臣下の礼を取らせたんでしょ?
後にその見返りとして、秀吉は狂信的なほど家康を接待したでしょ?
家康を滅ぼす事がたやすかったら、北条みたいに家康をぶっ潰して、関東勢で唯一秀吉に牙を向けなかった
伊達氏に関東を任せるよ。
めんどくせーから具体的には略すけど、
こんなこと、ネットでちょっと調べればすぐわかる。
828 :
日本@名無史さん:03/02/08 12:44
為朝公以降,護良親王が源氏以外の将軍です。失礼。
829 :
日本@名無史さん:03/02/08 12:49
藤原頼経も藤原頼嗣も知らん素人。
831 :
日本@名無史さん:03/02/08 13:54
>>827 >こんなこと、ネットでちょっと調べればすぐわかる。
ネットに書かれているようなことをまともに議論の材料にしてくるお前さん
は、思い込み厨の伊達遠江守家中タンでつか?(プ
もっとまともな材料を調べて来い。
832 :
日本@名無史さん:03/02/08 14:09
論点が絞られて来たと思ったら
必ず厨がしゃしゃり出て来て話を
後ろの方に戻しちゃう。
まあ、
>>831 >>832 みたいに、チャチャ入れて荒らすだけで去っていく弱者よりましだろ?
俺のような馬鹿が後ろのほうに戻しちゃうんなら、
他人様に突っかかる権利をお持ちの天才的なおまえらが論文でもどせばいいだろ?
できないか?
>>830 なぜ鎌倉時代が出てくるんだ?
あくまで朝廷側の利便に沿った将軍を上げてるんだけど?
「源氏以外の将軍を全部上げないといけない」なんて書いてないんだけど(w
834 :
日本@名無史さん:03/02/08 14:52
どっかのスレに書いてあった豊臣秀治って何者?
835 :
日本@名無史さん:03/02/08 14:56
まあ、為朝公以降、征夷大将軍は源氏しかなっていないわけだが、
それはあくまで結果論。
836 :
日本@名無史さん:03/02/08 14:58
家康を滅ぼす事がたやすかったら、北条みたいに家康をぶっ潰して、関東勢で唯一秀吉に牙を向けなかった
伊達氏に関東を任せるよ。
837 :
日本@名無史さん:03/02/08 15:07
>>835 徳川は源氏ではないし、鎌倉時代の将軍は源氏ではなく皇族だろう。
838 :
日本@名無史さん:03/02/08 15:13
秀吉が征夷大将軍になりたかったのならば、先例をでっち上げて、
上記二人の共通項「朝廷の平和」という大義名分を立てれば、いともたやすいこと。
839 :
日本@名無史さん:03/02/08 15:54
まあ色々あって、関白が一番成りやすかったんだろ。
尚且つ、朝廷を取り込んだ方が運営しやすかったと。
別に新進的な考え方じゃ無いけどね。
>>837 征夷大将軍・徳川家は源氏です。事実はともかく、名目上。
家康は征夷大将軍を必要とし始めたころから、
息子たちに頼朝の「頼」の字を付けて、「自分は源氏の一族だ」ってアピールし始めたの、知らないの?
>>時代の将軍は源氏ではなく皇族だろう。
>>833を見ろ。
841 :
日本@名無史さん:03/02/08 17:05
息子たちの「頼」は秀頼の一字じゃなかったのか。
842 :
日本@名無史さん:03/02/08 17:10
843 :
日本@名無史さん:03/02/08 17:15
まあ、為朝公以降、征夷大将軍は源氏しかなっていないわけだが、
それはあくまで結果論。
845 :
日本@名無史さん:03/02/08 19:36
841
それだったら「頼」じゃなくて「秀」をとるだろ。
秀康・秀忠しかり。
>>845 それはどちらにも取れるよ。
頼宣が1602年、頼房が1603年生まれ。少し年は離れるが、秀頼と同世代になる。
また、家康は秀頼政権の家老という役割があったわけで、主筋から一字をもらって息子の名前につける
ということは非常に自然なこと。「秀」ではないのは、秀忠、秀康とは名前の由来が違うから。
(秀康秀忠は秀吉の「秀」、頼宣頼房は秀頼の「頼」。名前をもらう時の時期が違う)
しかし、頼朝を意識しているとも取れる。この辺の感覚は家康がすごいところだと思う。
>>846 >家康は秀頼政権の家老という役割があったわけで、主筋から一字をもらって
>息子の名前につけるということは非常に自然なこと
頼宣・頼房の元服時期から考えて、時期的に無理がないかい?
もっと近い徳川義直や忠輝はどう説明つける訳?
848 :
日本@名無史さん:03/02/09 01:04
御三家祖の義・頼は清和源氏を意識してだろうね。
>>847 そうでもないよ、頼宣は1607年に常陸介頼将と名乗ることになる。(頼宣五歳の時)
でも、頼房はちょっと時期的に問題があるかもしれない。うーん。
確かに義直と忠輝の説明はつかないけど。ただ、忠輝は「鬼っ子様」だから(隆慶曰く)、
これらの流れの中では括れないかもしれない(笑)
>>848 847にも関連するけど、清和源氏というよりは、家系上主要な位置にある新田氏を意識していると思う。
新田義重は新田の嫡流として新田を継ぎ、異母弟の義康が足利家を起こす。
新しい源氏の棟梁としては足利より本来は格が上になる新田を称した方が都合が良かった。
(これは徳川氏改姓と同じことで、その時は吉良や今川に対抗する必要上だったのだが)
義直は多分、そういう流れでの命名なのかもしれない。
さっきは、頼朝を意識していると書いたけど、八幡太郎義家の父頼義、祖父頼信にまで、
遡るのかもしれない。
>>849 時期的にというのが拙かったかな?
1607年(慶長十二年)常陸介叙任されたのは、家康が将軍職を慶長十年に秀忠に譲って
頼宣と頼房を伴って駿府に移った時の話なんだよ。
関ヶ原後も家康は秀頼に臣下の礼を取ってたけど、九条兼孝を関白に据え
慶長八年に将軍職に就くと、立場は逆転して諸大名も年始の挨拶を豊臣家から徳川家という順番ではなく
徳川家だけに年始の挨拶をするようになり、慶長八年には秀忠の将軍職就任の祝賀の為に
伏見へ上洛要請までしてるわけで。慶長十一年には大坂方の片桐へ、伴天連禁止令の禁制を
大坂で出すように命令までしてる。
これからすると、慶長十二年には豊臣と徳川の立場は逆転してると思われ、
また、家康もどちらが主か従かを明確に打ちだしてる訳で。
それらから言うと、今までの積み重ねを無に帰して、秀頼から一字貰うというような行為をするのかな?
と長々書いたけど、少なくなったとは言え、親豊臣派等の為に
対外的な意味合いを持たせるのも必要だったのかも知れないね。
豊臣家を大事にしてますよーっていう意思表示かもしれん。
つーことで
>>846に納得しますた(笑
>>850 関が原以降の五大老五奉行制の瓦解の時期と、大阪の陣までの体制はどのようなものであったかは、
判断が難しいと思うのですよ。
結局は豊臣家の滅亡で徳川と豊臣の主従関係は崩壊していたという考えに、引きづられてしまいがちです。
というようなことを850氏に説いても、釈迦に説法になりそうなので(笑)
徳川氏についてはここまでにしますか?スレ違いになりそうだし。
852 :
日本@名無史さん:03/02/09 10:42
>>849 隆慶・峰慶・風太郎・・・・
これらを出すと、信用されなくなるよ。
853 :
日本@名無史さん:03/02/09 12:24
>>849 >新田義重は新田の嫡流として新田を継ぎ、異母弟の義康が足利家を起こす。
嫡流は弟の足利系の方では?
相続した領地自体義康の方が大きかったと思ったし、庶流の苗字の地を見ても足利系の方が広がりが大きいし。
854 :
日本@名無史さん:03/02/09 16:20
水戸学の南朝正統論も、徳川は、南朝側の新田の子孫との家系の格付け(信義は別にして)と関係する。
855 :
日本@名無史さん:03/02/20 19:07
このスレ、ざっと読んだけど、マジボケしているのがいっぱいいるね。
特に
>>667と
>>812は真剣に書いているだけに痛さが目立つね。
本当に馬鹿な連中だな…
いくら現代人のセンスで分析したところで
当時の人たちの思考・習慣を理解しなければ
正確にこの問題を把握できるはずねえだろうが…
いいか?
後世の我々は家康が将軍になったのを知ってるから
信長・秀吉が将軍にならなかったことを「愚」だとして嗤う
だが、当時としては信長・秀吉のほうが常識人だったのだ、という説がある
つまり将軍になった家康のほうが非常識だった、という説だ
戦国時代は下剋上の時代と言われているが
文化的には基本的に室町時代の格式感覚をそのまま継承している
室町期における征夷大将軍家とはそのまま室町将軍家を指し
すなわち足利氏のみを指していた
つまり現代でも天皇は天皇家に生まれた人物でなければなれないと
思われているのと同じで、当時の人たちも征夷大将軍への
世襲には足利氏の血統が不可欠だと考えていたのだ
だから守護代のまして連枝出身の織田信長が
室町体制のままで征夷大将軍になれるとは誰も思っていなかったのだ
秀吉が将軍にならなかった理由もまったく同じだ
秀吉は自分が天皇になれると思わなかったのとまったく同じく
血統的な理由で、すなわち、自分が足利氏に生まれなかったという理由で
自分が将軍になれるとは思っていなかったのだ
だから将軍になろうとしなかったに過ぎない
よく「関白になれたのだから将軍にもなれたはずだ」などと
主張する馬鹿がいるがそれは違う
何度も言うように当時、将軍家といえば具体的に室町将軍家を
指すのであり、それは信長の追放により滅んだと考えられていたのだ
つまり将軍家(足利氏限定)はすでに滅んでいた、というのが当時の感覚
秀吉が関白になることを思いついたのはもちろん摂家内部の
権力闘争につけ込む余地があったことも事実だが
その当時、まだ関白職が朝廷で存続した制度であったということが
大きいのだ
整理して結論をまとめておく
秀吉が権力を握った当時、
将軍家は京を追放されており
すでに権力者の称号としては権威を失っているとみなされてしまった
(当時の権力者は、正直、自身地位相当の役職の不在に戸惑ったはず)
そこで階位の高い位として存続していた関白に就任していた
というのがわたくしの見解だ
『関白にはなれたのにどうして将軍にはなれなかったのか?』
という問いは、当時の社会背景への洞察を欠いている
信長が義昭を追放したのが1572(元亀3)年で
秀吉が関白の叙任を受けたのが1585(天正13)年。
つまりそこには13年のタイムラグがあり、
その間の空位期間に将軍が権威者としての権威を失ってしまったと
みるのが妥当だろう
862 :
日本@名無史さん:03/02/21 11:35
でも、今の時代ならいざしらず13年で250年続いた将軍の権威がなくなるの?それに鎌倉、室町と2回幕府が開かれており、秀吉が「武士」として天下統一事業をしていく課程で幕府を開きたいと思うのでは
本当にいい加減な作家ですね。
いくらトンデモな頭脳で分析したところで
当時の人たちの思考・習慣を理解しなければ
正確にこの問題を把握できるはずはないのですが…
いいですか?
現代の我々は関白がただの名誉職のように思っています。
秀吉が将軍にならなかったことを「愚」だとして笑ふ
だが、関白とは天下をあずかり申すという意味だという説があります
つまり将軍よりも関白の方が上だという説です。
865 :
日本@名無史さん:03/02/21 12:21
戦国時代は朝廷の権威が下落したといわれていますが
表面的には基本的に平安時代の格式感覚をそのまま継承しています
室町期における関白とはそのまま五摂家を指し
すなわち藤原氏のみを指していました
つまり現代でも天皇は天皇家に生まれた人物でなければなれないと
思われているのと同じで、当時の人たちも関白への
世襲には藤原氏の血統が不可欠だと考えていたのです
だから庶民のまして下層階級出身の豊臣秀吉が
室町体制のままで関白になれるとは誰も思っていなかったのです
秀吉は血統的な理由で、すなわち、
自分が藤原氏に生まれなかったという理由で
自分が関白になれるとは思っていませんでした
だから左大臣になろうとしたに過ぎないし、
それで充分なのです
近衛信伊と二条昭実の関白相論に遭遇したことで
さらに上の関白になる野望を抱いたのです
よく「将軍になれなかったから関白になった」などと
主張するアホがいますがそれは違います
何度も言うように当時、関白といえば具体的に天皇を
補佐するものであり、それは百官を総べて、万機の政を行う職です。
つまり将軍家より上である、というのが当時の感覚
秀吉が関白になることを思いついたのはもちろん摂家内部の
権力闘争につけ込む余地があったことも事実ですが
その時代、近衛前久の活動により関白の権威が復活していた
ということも大きいのです
整理して結論をまとめておきます
秀吉が権力を握った当時、
将軍家はしばしば京を離れており
関白の権力者としての地位が上昇しているとみなされていました
(当時、関白は実質をともなうべきであるという考え方が一部にありました)
そこで近衛家の猶子となるという裏技を使い関白に就任した
というのがわたくしの見解です
『将軍になれなかったので関白になった』
という答えは、当時の社会背景への洞察を欠いています
前久が関白に就任したのが1554(天文23)年
秀吉が関白の叙任を受けたのが1585(天正13)年。
つまりそこには31年のタイムラグがあり、
その間に関白の権威者としての地位が復活したと
みるのが妥当であると思います
秀吉が藤氏の長者になれなかったとかいっている
アホ作家はおとなしくしていてください
870 :
sexyQ:03/02/21 13:37
しかし、400年幕府が続いていたのだから関白が名目化して権力がなくなってるのでは?確かに秀吉の出自が武家ではないのは知れ渡っていたのだから将軍にはなれず、出自の卑しさを飾るため、関白になり権力より権威を求めたのならわかるが
871 :
日本@名無史さん:03/02/21 14:57
>>870 必ずしも秀吉の出自が武家ではないと言うより、武家の名門ではない
と言ったほうが正しいかも。
とはいえ、せいぜい足軽程度の秀吉には無理か。
しかし関白の位が、そこまで低いとも思えない。
たしかに征夷大将軍なら武家の頭領といえるけど、何がしかの政治が
行える職であれば良かったのでは?
また、足利義昭の養子になろうとしたが断られたため、征夷大将軍に
なるのは諦めたという説をどう読むか。
事実かは知らんけど。
872 :
日本@名無史さん:03/02/21 15:30
実際問題として、真実としての血筋はそれほど重視されていなかった。
あくまでも名目上整っていれば事足りていた。
だからこそ、秀吉が平とか藤原とか、家康が藤原とか源とかいうように氏を代えている事実がある。
かと言って、筋目が重視されなかったという訳ではない。
家康が吉良の系図を借用したとか、秀吉が義昭の猶子になろうとした、等という話は血統が重視されたのではなく「筋目」が重視されたとも言える。
873 :
日本@名無史さん:03/02/21 15:58
>>870 >400年幕府が続いていたのだから関白が名目化して権力がなくなってるのでは
そんなことないって、幕府と朝廷で裁断事項とか違うんだから
874 :
日本@名無史さん:03/02/21 16:20
なんか860前後を読むと秀吉は第十六代足利将軍になろうとしてるように読めるんだけど。
仮に義昭の養子になって将軍になれたとしても室町幕府の将軍じゃないと思うんだが。
875 :
日本@名無史さん:03/02/21 17:48
>>860 ちょっと遅レスかもしれんが、
>将軍家は京を追放されており
追放というより、義昭本人がトンズラこいたんだと思うが。
また幕府と朝廷とよく言われるが、征夷大将軍はあくまでも朝廷の職位であり、
実際は将軍とは呼ばず公方と呼ばれていたのは御存知と思う。
朝廷から見ると征夷大将軍に政治を任せているだけであり、その征夷大将軍が
単に武家出身であっただけの事。
だから関白が武家であっても、単にそれだけの事だと思うよ。
なぜ将軍になれなかったかと言えば、まあ
>>872の言うような系統主義の前例主義
によって、その系統が得られなかったからとしか。
876 :
日本@名無史さん:03/02/21 17:53
>>875 >追放というより、義昭本人がトンズラこいたんだと思うが。
義昭は勝手に逃げたのではなく、信長に放逐されました。
その際は着の身着のまましか許されませんでした。
別に>トンズラこいた 訳ではありません
877 :
日本@名無史さん:03/02/21 18:29
>>876 は? あんたは世間に流布されている俗説、信じてるね。
義昭が自分の意志で去ったんだよ。
ちなみに信長はむしろ止めたんだけど。
878 :
日本@名無史さん:03/02/21 18:33
>>877 俗説ではありません。
信長が止めたという根拠はなんですか?
879 :
日本@名無史さん:03/02/21 20:24
>>875です。
う〜ん、トンズラと言ったのは変だったか?
じゃあ追放でいいや。
信長は義昭が真木島で敗れた後は、彼を政治から遠ざけるため枇杷庄に幽閉
するが、義昭はまたも若江城で挙兵しこれに失敗、再び興国寺へ幽閉される。
しかしながら、義昭は征夷大将軍の職に就いたままであり、信長は弾正忠の
ままで政治を執り行う地位に無い。
義昭は再び京に戻る為、いったん鞆に逃れる。
この時、信長は焦った。自分の官位が低すぎて、政治を行う大義名分が無い!
焦った信長は、天正五年にようやく正二位右大臣を受け、なんとか政治を
行う大義名分を得た。
ウソじゃないよホントだよ。
880 :
日本@名無史さん:03/02/21 22:46
ttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/teiki18.html ↑
ずらずら書くのも面倒なのでググってみたら、ここのページに書いてあった。
ぜんぜん知らない方のページだけど。(スミマセン
この方は室町幕府が滅んでいたと解釈しているが、漏れは鎌倉やそれまでの
室町の将軍を考えれば、十分幕府は存続していたと考える。
それに征夷大将軍だって臨時の職だし、関白でも大して変わらないだろう。
太政大臣だと別かもしれんけど。
ここで明智も・・・と書いたらスレ違いだな。(藁
>>879 朝廷から高位の官位を戴くか、将軍位につかなければ政治を行う大義名分がないというのは、
どうでしょうか。
秀吉の場合と違って、信長の場合は美濃伊勢進出は朝廷の意向でも将軍家の意向でも何でもない。
比叡山浅井朝倉、本願寺に対しても朝廷の官位を後ろ盾にして対決したわけではない。
信長は官位も将軍家の後ろ盾も無しに実質的な政治を司っていた(自らの支配領域に関してだけど)
天正五年までの信長のあらゆる政治活動の後ろ盾になったものはなんだったんでしょう。
882 :
日本@名無史さん:03/02/22 00:56
治罰宣旨もらうまでは実力かな
>>信長は官位も将軍家の後ろ盾も無しに実質的な政治を司っていた
>>(自らの支配領域に関してだけど)天正五年までの
>>信長のあらゆる政治活動の後ろ盾になったものはなんだったんでしょう。
信長の『血統・官位に頼らない政治姿勢』を正統化したのは
当時大流行していた下剋上の論理でしょう。
つまり軍事力の実態が血統やタテマエ上の組織論を上回ることを
肯定するという当時の雰囲気が信長の実力政治を支えた論拠だったと思います。
この下剋上の思想抜きにしては、守護代の分家に過ぎなかった信長の
家がいかに実力があるとはいえ領内支配を正統化することは難しかったでしょう。
新設された豊臣摂関家というのは
藤原摂関家のような公家とは違うよ
そこを勘違いすんなよ
豊臣摂関家は武家の統率者として
いわばイメージとしては征夷大将軍を兼ねるような感触で
創設されたんだということを忘れるなよ
むしろ家康の将軍就任はその武家版摂関家だった
豊臣家から権力を横領するために家康が必死に画策した
苦肉の策とみたほうが合理性があるよ
足利将軍家と徳川将軍家の間に
一貫性を主張するのはただの構造主義者だよ
実際の室町幕府は義昭の出家剃髪で名実ともに正式に断絶してる
家康の将軍就任は室町幕府の再興として起きたムーブメントではなく
官位と武力を併せ持った強力な豊臣摂関家から武家部門を
切り離すために人為的に作られた策略なんだよ
そこにきづけよ 虫ケラどもが
つまりこういうことだ
豊臣秀吉が将軍にならなかった理由は
『武家版摂関家として将軍を兼ねているのと同じとされたから』
つまり天下最大の大名となった秀吉が関白になると
新時代の関白は事実上将軍大将軍も兼ねていると見なされるようになり
改めて将軍になる必要がなかった
つまり豊臣摂関家は藤原摂関家とは異なり
征夷大将軍兼務の武家版関白という側面があったから
関白は公家の棟梁で武家の棟梁は将軍、という図式は
家康が豊臣氏から権力を横領するときに用いた図式そのままである。
そのような後世になって作られた構造で前の時代を計ろうとするから
当時の時代が正しく把握できなくなってしまうのである。
豊臣秀吉の時代、新たに創設された豊臣摂関家は
文武統合の存在と見做されたのである。
つまりこの時代の関白の権能はまさに天皇の代理として
文武全般に渡って及ぶとされたのである。
欧米の歴史でいえば総統が大統領と首相を兼ねるようなものである。
関白が文官の領域に留まるとするのは
家康が用いた詐略のロジックであり
豊臣時代の関白は文武統合なのである
自分で言うのもなんだが
わたくしはほとんど日本史上が
これまで生み出したことのない天才である
このわたくしの存在なくして
この日本史板は一日として成り立たぬであろう
いいか?この問題を捉える際に
足利将軍家と徳川将軍家の間に一貫性があるなどと考えるな。
室町将軍家と江戸将軍家は別物である。
だから秀吉が将軍を志向する必要などない。
そのことを前提に据えろ。
そこをきちんと踏まえて考えるなら問題は単純になる。
当時の状況としては将軍義昭は実態を失いながらも
形式的には存在しており、将軍を必要としない制度が模索されていた。
その要求に応える状況にあったのが当時摂関家内で内紛を
起していた関白位だったのだろう。
889 :
日本@名無史さん:03/02/22 06:52
>>879 トンズラの方が正しい表現だよ。
しかも将来的には知らんがこの時点では
信長はまだ義昭を必要としてたし。
890 :
日本@名無史さん:03/02/22 10:10
>>881 正確には、それまで拒んでいた官位を天正二年から受け始めている。
しかし天正五年までは、まだ義昭の方が重みがあった。
(義昭は大納言だから、正三位か従三位くらいか。しかも征夷大将軍。)
また彼の場合「天下布武」の考えがあるし、また朝廷の保護及び財政を安定さ
せていたのも重要だと思う。
叡山や石山合戦においても、朝廷の仲介があるのは後者の影響が強いんじゃな
いかな。
しかし天正六年、官職を辞している。
これは朝廷に縛られるのを嫌ったからといわれているが、他の方法を思いつい
たんだと思う。
それが、信忠の官位と五之宮だ。
891 :
日本@名無史さん:03/02/22 12:52
だからどうして秀吉は将軍にならなかったんだよ
その結論を言えよ
892 :
日本@名無史さん:03/02/22 13:24
答えはもう出ているだろう。
893 :
日本@名無史さん:03/02/22 14:27
NHKの論調では、将軍にならなかったのではなく
なれなかったと言う論調だったが。
894 :
日本@名無史さん:03/02/22 17:01
NHKか・・・メディアとはいいかげんなもので、いまだに鉄砲三段撃ち
とかの説明があったりするから、情報も読み分ける必要があるかも。
なれなかったと言うのは、「室町幕府が存続している状態において、自ら
が征夷大将軍になると言う事は、あからさまな政権簒奪行為になってしま
うため、猶子となり禅譲という形を求めたが果たせなかった。」という事
でしょうか。
織田統治下における大名の秀吉は、どうしても他の大名に比べ基盤が弱い
ため、何かの口実になる行為は避けたかったのでしょう。
武家の頭領という言葉に拘らなければ、鎌倉における執権などの権力者は
存在していたので、別に関白でも良かったのでは?
それに幕府というのは、「陣幕の政府」というような仮政権の意味合いが
あり、だからこそ江戸では大政奉還があったわけだし。
また秀吉の目指したものは、やはり信長の目指したものと似たようなもの
だと思いますよ。
だからこその「太閤」なわけで。
895 :
日本@名無史さん:03/02/22 17:21
秀吉の勢力基盤が西日本にあるのだから
東日本のシンボルである幕府、征夷大将軍には着きません
なぜ、このことを語る人が居ないのか
不思議なくらい無視されている
896 :
日本@名無史さん:03/02/23 00:31
秀吉の場合,関白就任も豊臣の姓も彼ではなく信長の政権構想じゃなかったか?
と思う。
当初、平家出とされる信長が将軍就任を考えてたとか平姓将軍の幕府とかいう
意見もあるが、俺的には信長は室町幕府に変わるまったく新しい織田政権を意図
した際,戦乱の世で武門と公門と寺門に分立した権威を完全に武門の統率下に
纏める必要性もあり人臣第一位の関白太政大臣に任官したのではないか?
武家関白制を必要としたのは信長の天下布武路線では?
それと豊臣の姓。源平藤橘に変わる第五の姓ヲ創出し将軍も関白も源平の因習に
拘らず自在になれ日本の新たな支配層たる姓。これは信長が関白就任とあわせ天皇
から賜るように意図していたんじゃ?
対明征伐すら信長の意図じゃといわれてる。信長が当時の中華世界・明を打倒し
中華皇帝・モンゴルの大ハーン・満州国王・朝鮮の宗主等を兼任し日本限定の権威で
しかない天皇を超克しようとしたんじゃ。
国内的には武家関白が対外的には中華皇帝とかモンゴル帝国大ハーンとして天皇家
より上の立場に立つテ具合に。
897 :
日本@名無史さん:03/02/23 01:15
>>895 そんなアフォはあんただけ
室町幕府はどこにあったんだ?w
征夷大将軍なんざ名前の由来はとっくの昔になくなっている
すでに自治権を与えられた幕府を開けるという意味しかもたない
898 :
日本@名無史さん:03/02/23 01:24
>>秀吉の勢力基盤が西日本にあるのだから
>>東日本のシンボルである幕府、征夷大将軍には着きません
>>なぜ、このことを語る人が居ないのか
>>不思議なくらい無視されている
おまえ本物の馬鹿か?
室町幕府は京都に置かれてその勢力基盤は
ことごとく近畿西日本だろうが。
関東は鎌倉府を置いて関東公方が半独立的に自治してただろ?
室町幕府の実態は京都幕府であり西日本政権だろうが。
それでも征夷大将軍になれただろ?
だったら大阪を拠点とする秀吉が将軍になっても
おかしくないだろ、というのが今回の問題だろうが。
どうして地盤が西日本だと将軍になれないんだ?
しっかりしろよ。在日朝鮮人が…。
地下鉄放火障害者が…。
899 :
日本@名無史さん:03/02/23 01:27
おまえら、言葉づかいがきたないぞ(俺もだけどw)
900 :
日本@名無史さん:03/02/23 01:28
うんこ
901 :
日本@名無史さん:03/02/23 01:30
>>武門と公門と寺門に分立した権威を完全に武門の統率下に
>>纏める必要性もあり人臣第一位の関白太政大臣に任官したのでは?
実際に秀吉が関白を選択したのは
当時の摂家内に内紛がありつけ込む隙があったからに過ぎないが
確かに建前的に関白は天皇の代理人なのだから
実力さえあれば将軍になる必要はなくなるというのは
それなりに説得力があるよな
天皇の代理人なら公武寺の三部門全部の頂点なんだから
902 :
日本@名無史さん:03/02/23 01:55
日本の長い歴史の中で武家で関白になったのは
豊臣秀吉とその甥の秀次の2人だけ。
つまり武家の頂点と公家の頂点が合体するという現象が起きたのは
豊臣政権のみなのだ。
秀吉が権威の失墜した将軍などではなく
天皇の代理人として無限の権限への可能性を秘めた関白を
選択したのはむしろ当然過ぎるほど当然。
後世の我々が秀吉が将軍にならなかったのを不思議がるのは
豊臣政権滅亡の原因に誤解があるからに過ぎない。
豊臣政権が滅んだのは何も将軍にならなかったからではない。
たとえば豊臣家が関白ではなく征夷大将軍家であったとしても
家康は秀吉の死後にやはり豊臣政権を転覆させたことは間違いない。
つまり家康が天下人になれたのはその軍事的実力のためであり
決して征夷大将軍の位のためではない。
そこをきちんと理解できれば秀吉が将軍にならなかったのも
特に不思議なことではあるまい。
もし将軍にならなければ自分の権力が危ういと思えば
義昭を暗殺してでも将軍になれただろうよ。
903 :
日本@名無史さん:03/02/23 02:37
それにしても、未来は約束されていただろうが
当時幼少ということで秀頼が関白ではなかったのが
家康の台頭を押さえられなかった一つの要因だよね
関白は天皇を補佐したり上奏したりする役目だから
当然秀吉の死ぬ時には、秀頼は関白就任は不可能だったわけだろうけど
そういう秀頼の地位が確立しない状態で秀吉が逝ってよかったのだろうか?
つまり家康とかに泣いて後を頼むより、秀吉自身の権力で残された秀頼の地位をなんとか出来なかったのだろうか?という意味で
たぶんこのスレが立ってるのではないかとw
つまり征夷大将軍のポストも取っておけば、秀吉死亡当時、(関白は無理な)秀頼は征夷大将軍を継いでいたのではないかと
そうなると歴史が少しは変わっただろうし(家康はそれでもなんとか奪取しようとするだろうけど)
家康の寿命を考えると豊臣家にとっては微妙なところもある
まずそこで命題
秀吉は秀頼のために征夷大将軍のタイトルを取り、秀頼に継ぐことができたのだろうか?
904 :
日本@名無史さん:03/02/23 02:47
つうのは、秀吉自身の一代の問題なら
「征夷大将軍にならんでも関白になれれば、そっちの方が良かったからさ」で済まされることだが
豊臣家の問題になると、関白という役職の性質と嫡子の年齢から、
すぐに秀頼が関白を世襲することができないのは判っていたはず
秀頼が無事に成長して関白に就けると、秀吉は思っていたのだろうか
危機感はものすごくあったみたいだが
そこまでエゲツないことせなんでも大丈夫とタカをくくっていたのだろうか
つまり結論としては、ある意味、家康をなめていたということだろうか
関白を豊臣家がずっと世襲してたら、五摂家はどうなるのかな……。
906 :
日本@名無史さん:03/02/23 05:54
>>関白を豊臣家がずっと世襲してたら、五摂家はどうなるのかな……。
五摂家は関白を除いた太政左右以下各大臣を
担当ということになったんだろうね。
それでも天下人が自分の仲間であることのメリットは
十分計算できたんじゃないかと思われ…
907 :
日本@名無史さん:03/02/23 06:02
>>そこまでエゲツないことせなんでも大丈夫とタカをくくっていたのだろうか
>>つまり結論としては、ある意味、家康をなめていたということだろうか
正直、家康を侮る気持ちは秀吉にあったと思うよ。
家康は秀吉が全国平定してから完全に
家臣になったというポーズを採っていた。
秀吉が生きている間はひたすら秀吉を恐れるふりをしていたし
常に律儀な性格をウリにして世間の目を欺いていた。
それに何より家康の本拠地は箱根の山を越えた関東だからね(笑)
移動手段の発達していない当時、あの天嶮を越えた向こうに
追いやられていた徳川氏は、大阪・京都を拠点にしていた豊臣氏から見れば
それこそ自分たちの敵には見えなかっただろう。
だって本当の地方政権じゃん。
908 :
日本@名無史さん:03/02/23 06:11
結局、家康の権力簒奪の過程を検証して見ると
最後の段階になるまで
「豊臣政権の守護者」というポーズを崩さなかった
徳川家康の老獪な政治センスの勝利としか言い様がないと思う。
後世の我々は家康が豊臣氏を滅ぼすのを知っているので
豊臣恩顧の大名たちがそれを家康のその意図を知ってて
徳川氏についたかのような錯覚を感じるがそれは違うんだよな。
関が原合戦の恩賞が豊臣氏の領地から提供されているのを
みても分かるように家康はあくまで、そして最後まで
豊臣家の立場の人間、豊臣家の守護者、といった
ポーズを崩さないんだよな。
つまり福島正則や加藤清正は家康が征夷大将軍となった
かなり後の段階まで家康が豊臣家を守るはずだという
観測を持たされていたんだよな。
909 :
日本@名無史さん:03/02/23 06:24
最近『北政所』という中公新書からでてるのを読んだのだが
家康は秀吉が死んだ後、随分秀吉の妻のねねをいびってたんだよな。
たとえば秀吉の遺体は豊国大明神の神号を受けて
洛中の豊国神社に祭られた。
秀吉の死後もその人気は凄まじく、たくさんの参拝者が後をたたなかった。
ねねはそのことを大変誇りにしていたという。
しかし天下人になった家康は自分を関東に追放した秀吉を
許そうとはせず、その遺体の遺棄を命じるんだよな。
しかも豊国神社の敷地内になんと
秀吉が滅ぼした紀州根来寺の敷地を与えてしまう。
根来一派は秀吉の大弾圧を受けた宗派だけに
ねねに対して大変な嫌がらせをする。
ねねは頼りにしていた加藤清正や福島正則の
相次ぐ改易(取り潰し)を見ながら病気になり寂しい晩年を送った...。
これまで家康に優遇されたとされたねね=北政所だったが
実際には家康の陰険ないじめを受けていたんだよな。
まぁ、家康の人気がないのはざまあみろというか
仕方のないところだよな。
いくら天下人でもこの陰気さじゃなぁ・…。
910 :
日本@名無史さん:03/02/23 06:31
武家関白であった豊臣氏に対して
武権の分離(将軍就任)を主張した家康の着想は
まさに天才的だと思うよ。
将軍家とは足利氏のことだとされていた当時に
古例を持ち出して将軍交替を唱えるというのも
当時の常識からすると一種の飛躍なんだよな。
911 :
日本@名無史さん:03/02/23 06:43
鎌倉と室町の将軍交替の例をあげて
将軍の交代を常識とする人がいるがちょっと待って欲しい。
たとえば現在日本の総理大臣って国会で選出するよね?
だけど明治時代の総理大臣って国会の承認必要としなかったよね?
だからといってたとえば何かの独裁者が
「明治時代の総理選出には国会の承認がいらなかった。
だから昔の例にのっとり、今後の総理選出には
国会の承認を必要ないものとする」と宣言したとしたら
俺たちはそれを不当なものと感じるよね?
どうして不当と感じるかというといくらそのような先例があっても
優先されるのは現代の習慣の方であるべきだ、と感じるからだよね?
当時の将軍に関する観念も同様のものだったはずだと考える。
確かに鎌倉では源家・摂家・宮家が将軍を交代していたし
鎌倉と室町では将軍の血統が交代した。
しかし室町200年の間に室町将軍家とは足利氏のことであるという
観念が定着し、当時の人は古例を持ち出して
将軍家を交代して良いものだとは考えていなかったのではなかろうか?
今の我々が総理選出制度を明治初期のように扱ってはいけないと
感じるように、つまり、今の総理選出と当時の総理選出は違うという
判断がきちんとつくのと同じように、
当時の人達も室町将軍が鎌倉将軍とは違うという理解は
あったのではなかろうか?
つまり、鎌倉のように将軍の血統を交代させてはいけないという、
将軍は足利氏以外には務まらない、という観念は
持っていたのではなかろうか。
そしてそのような常識こそ、秀吉が将軍就任を志向しなかった
心理的理由の核心にあるように思えてならない。
912 :
日本@名無史さん:03/02/23 07:32
>>織田統治下における大名出身の秀吉は、
>>どうしても他の大名に比べ基盤が弱いため、
ふむ…。
確かに1585年当時の秀吉には
まだ征夷大将軍といった貫禄はなかった可能性はあるな…。
案外、関白は京都の行政長官程度に考えられていて
それて京都を抑えた秀吉にお似合い、といった感じだったのかも…(笑)。
新井白石は天皇を山城守護と言ってるから
関白もその程度だった可能性はある。
だが果たして天正期の天皇の権威がそこまで下落していたのかどうか…。
913 :
日本@名無史さん:03/02/23 10:04
血統という考えもあるでしょうが、下克上という考えも生まれているので、
そこまで強い考えではないでしょう。
しかし、武士としては名門の細川などが存在するのも事実。
細川にその気が無くとも、秀吉が周りから「なんでお前が!」と思われる
可能性も、否定できません。
また天正期の朝廷には、それなりに権威があったと思います。
江戸だといわゆる幕藩体制が整っていますから、天正期と比べるのは無理
な気もしますが、それこそが徳川の目指したものでしょう。
914 :
日本@名無史さん:03/02/23 10:29
秀吉に日本に武家による安定政権を築き上げる意思があったのかどうか
大いに疑問。(豊臣政権は安定政権を目指した組織作りをとは思えない)
明の領有すら考えていた秀吉は関白であろうと何であろうと
秀吉自身が大名に号令をかけられる立場でさえあれば何でも良かったんだと思う。
現に現在秀吉はそういう立場にいるため征夷大将軍なんて必要なかったんでしょ。
さらに秀頼が生まれる前までは自分の死後の政権の盛衰に
あまり興味もなかったのかもしれない。
秀頼が生まれて初めて自分の死後の政権に執着心が沸いてきたが、
時代は朝鮮出兵の真っ只中。
征夷大将軍に任命され開幕して秀頼を中心とした武家政権の土台を
築く余裕がなかった。
とまあ俺みたいな学問的に日本史を研究していないような輩は
気軽にこう思うんだけどね。
915 :
日本@名無史さん:03/02/23 20:15
age
916 :
日本@名無史さん:03/02/24 03:40
AGE
917 :
日本@名無史さん:03/02/24 04:28
秀吉が権力を握る過程の時系列をみれば理由は明らか。
秀吉が柴田勝家を滅ぼしたのが1583年。
小牧・長久手の敗戦が1584年。
関白叙任はその翌年の1585年。
家康に臣従の上洛を即すのは更にその翌年1586年。
つまり秀吉が関白になったのは小牧・長久手敗戦の翌年なんだよな。
もちろん、この時点では四国・九州・関東・東北は手付かず。。。
(まして家康とも休戦状態)
この時点での秀吉政権の実態は完全に畿内政権なんだよな。
この状況の中で秀吉は自分を将軍になれる存在とは思えなかっただろう。
それに対して当時の関白は土地の実行支配権を伴わないとはいえ
位階が高く、また摂家筆頭近衛前久が買収を受けれたので
むしろ偶然的といっていい形で関白になれたのではなかろうか。
つまり秀吉は関白を自主的に選択したというよりは、多分に
なりゆき的に選択したというのが実態ではなかろうか。
918 :
日本@名無史さん:03/02/24 09:40
あげ
>>917 全国の支配権を確立していないから将軍になれないというのなら
足利尊氏も将軍にはなれなかったのでは?
920 :
818 ◆PfMKsrtLeI :03/02/24 13:54
>>919 足利尊氏と羽柴秀吉では朝廷との関わりあいが全く違う。
尊氏は後醍醐帝と対立するためにお手盛りの朝廷を擁立したわけで、
北朝としても尊氏が、今現在は各地に反対勢力が散在し、全国の武家を統べる立場に無いが、
近い将来にそういう立場に立ってもらわなければ未来がないわけでね。
秀吉に関しては、望めば将軍になれたかもしれないが、将軍よりは関白の方がいいと、
判断したということではないかと思う。
921 :
818 ◆PfMKsrtLeI :03/02/24 13:54
>>911 「室町」将軍家は足利氏が世襲するという考えは一般的に浸透していたと思うが、
それと同時に「室町」将軍家が有名無実化した存在であったこともまた事実だったからね。
あなたが例として引き合いに出された「独裁者による、国会承認無しの総理誕生」というのも、
国会という機関が全く有効に機能していないのなら、そういう事態になっても不思議に思うことはない。
(そもそも独裁者が出るという事態はそういうこと)
室町将軍家が滅んで、何らかの別の政体ができるということに疑問を持つ者はいなかったと思う。
それが、新将軍家の創出ということであったかもしれないし、武家関白ということでもあったかもしれない。
第一、将軍は足利氏以外に務まらないという常識があったのならば、徳川将軍がどうして誕生できたのか、
という問題もある。(家康の方が厚かましかったということではあるまい)
>>912 新井白石は幕府が朝廷をがっちりと縛り上げた体制が完成した以後の政治家。
しかも、ばりばりの儒学者。多分、白石は朝廷を中国の春秋時代の周朝のようなものだと、
考えていたと思われる。
応仁の乱以降、室町将軍の縛りから解き放たれて地方でがちゃがちゃといろんな有力者が、
勃興してきた時代に、権力の正当性を補完するために叙位任官を受けることが流行した、
最終地点に秀吉の関白就任があったと思うのだが。
ただ単に関白というだけでは、「京都市長」程度の実力もあったかどうか疑わしいが、
軍事力を持ち、徴税権を持ち、実質的な政府を構成できるだけの実力を備えた者が、
関白の身分を帯びることには大きな意味があったと思います。
922 :
日本@名無史さん:03/02/25 01:43
秀吉は単に織田家から横領した権力を
正統化する必要があったんだろ。
信長の最終官位って右大臣だろ?
もしそれより上位の官位を得ることができれば
自分が織田軍団を相続することの大きな倫理的支柱と
なり得たのではないだろうか?
だって例えば柴田勝家が信長の三男・信孝をしたりしたというのは
やはり信長の残した遺産を相続するのに相応しいのは
信長の成人遺子である、という観念があったからでしょ。
秀吉が信長の遺産を信長の遺子に渡さず、自分の後見する三法師に渡すと
宣言したとき、ほとんどの連中は秀吉の織田家簒奪の意図を
見抜いたはずで、秀吉はできれば
右大臣以上の官位による立場の補強を図りたかったのでは?
923 :
日本@名無史さん:03/02/25 01:44
>>911 なんとなく思うけど あなたの考えはあまりにも合理的すぎるような気がする 確かに今の総理が国会無視で決まるのは考えられないけど でも当時の社会情勢と今じゃ全然比べれないと思う
当時はそれこそ室町将軍ていうものにまず疑問があった時代だと思うし・・・
924 :
日本@名無史さん:03/02/25 05:44
>>当時はそれこそ室町将軍ていうものにまず疑問があった時代だと思うし・・・
それって後世の誤解だと思うよ。
将軍は実力で決まるものではなく血筋で決まるもの。
たとえば天皇がいくら無力でも天皇位が
天皇氏のみで世襲されてゆくことにまったく何の不満も無かった。
それと同じでいくら無力になっても室町将軍家が
足利氏のみで世襲されてゆくことに世間は何の不満も持たなかったに違いない。
思うに、あなたは下剋上の定義を誤解していると思う。
下剋上とは中国の易姓革命のように秩序の主催者そのものを
交替させてしまおうといったものではない。
日本の下剋上というのはあくまで体制内の、もっと極論すれば
足利将軍の主宰する室町体制の"内部"に限定された
秩序内再編運動なのだと思います。
つまり例えば守護代は下剋上をかけて守護を追い出したとしても
自分はその新守護の地位を将軍や朝廷に承認してもらわなければならない。
そうしないとせっかく得た自分の地位も無期限の下剋上にさらされてしまう。
たとえば家康も三河を統一するとすぐに三河守の官位をすぐにもらっているし、
意外かもしれないが信長だって尾張守護の幕府役職を13代義輝にもらっている。
つまり、下剋上で成り上がった出来星大名たちは自分たちを新しく
大名に登録してくれる室町体制を全否定するつもりなどさらさらなかったんだ。
925 :
日本@名無史さん:03/02/25 05:58
信長が15代義昭を追放したことをもって
彼が室町体制の否定者であるかのように喧伝されているが
それは恐らく誤解だろうと思う。
彼は途中で横死してしまったために将軍を追放したままで
終わってしまっただけで、結局は人質にとっていた義昭の息子・
義尋(よしひろ)を時期将軍に擁立するつもりだったのだと思う。
たとえば信長以前だってたとえば12代義晴と13代義輝の間には
5年の将軍職の空位期間があった。
これなども細川管領家の守護代であった三好氏が
12代義晴の従兄弟・義維(よしつな)を立てて堺に進出して
現役将軍を近江においやったために起きた空白期間だ。
つまり信長以前にも将軍擁立者同士の争いにより
将軍は追放されたり返り咲いたりしていた。
そしてそうした権力闘争の結果、将軍の空位も生じていた。
だから信長の義昭追放劇をとりあげて
下剋上が室町将軍体制の全否定と捉えるのは飛躍が過ぎるよ。
信長が妹のお犬を細川管領家の昭元に嫁がせたり
安土城の敷地内に朝廷の御殿を整えていたりしているところをみれば
信長がそれなりに室町体制の受容者であったことは間違いないはず。
926 :
日本@名無史さん:03/02/25 06:07
だから秀吉も同時代人である以上
足利将軍家を廃絶したりして
その立場を全否定するつもりなどなかったに違いない。
事実、足利将軍家の断絶は義昭の剃髪出家によるものであり
秀吉の意向などによるものでは全然ない。
ただその後に朝廷が足利氏に将軍宣下を与えなくなっただけの話。
(そして朝廷が足利氏を将軍に任命しなくなった理由は他でもない
(それより遥かに強力な豊臣摂関家が誕生したからに他ならない
秀吉は決して自分が将軍になれるとは思っていなかった。
それよりも生前信長が右大臣になっていたことから
朝廷の官位を手軽身近と考えたことが少なくとも精神的には主因だと思う。
だから後に豊臣摂関家から武権を奪うために
非常識的に新将軍家を創設してしまった家康の例をもって
秀吉の関白叙任を軽率だと笑うことはできないと思う。
なぜなら豊臣摂関家は武家関白であり、さらには正一位であり
足利将軍でいえば太政大臣になった三代義満を凌駕するものであり
今さら将軍になる必要など秀吉はまったく感じていなかっただろう。
927 :
日本@名無史さん:03/02/25 06:17
秀吉が将軍にならなかったことに我々が不思議を感じてしまうのは
豊臣政権の実態への理解に対する誤解があると思う。
豊臣政権は短命であったためにどうしても後の徳川幕府と比べると
劣弱な印象をどうしても受けてしまう。
しかし、これは大変な誤解である。
たとえば検地ひとつとってみても、南九州の果てから
東北津軽半島まで役人を派遣して検地を行ったのは豊臣政権だけである。
(これが有名な『太閤検地』です
意外かも知れないが、徳川幕府は15代265年続いたが、
実は一度も検地を行っていないのである(笑)
つまり徳川時代の加賀100万石などという呼称は
すべて秀吉の太閤検地に準拠して呼ばれているのである。
(家康が検地を望まなかった理由は諸大名の反発を嫌ったためという
ともかく豊臣政権は敵対大名の土地に役人を派遣して
土地・石高を測量したり、朝鮮に大軍を派兵して
世界史規模の大戦争を起こしたりと、日本史上空前絶後の強力政権だった。
このことを忘れるから秀吉にも将軍位が必要だったなどという
滑稽な論になるのである。
秀吉存命中、恐らくどのような危険も豊臣政権にはなかったに違いない。
だから秀吉は将軍になる必要性など微塵も感じはしなかったのである。
だから「秀吉はどうして将軍にならなかったのだろう?」などという
疑問は、当時の状況に即して考えれば愚問の類ですらあろう。
928 :
818 ◆PfMKsrtLeI :03/02/25 06:27
>>922 秀吉が官位の階段を駆け足で昇り始めたのは信雄との和解後(従四位下参議)
その一ヵ月後には権大納言になるのだが。
また、織田家からの権力簒奪を後ろめたいものと思っていたか微妙。
>>925 安土城の敷地内に朝廷の御殿を整えるというのは当然帝の行幸を想定したものでしょ。
これは安土城を室町第と同格に並べる意図があったと思います。
この一点でもって信長が室町体制の受容者であっとは言い切れなくなると思うのですが。
929 :
日本@名無史さん:03/02/25 06:32
征夷大将軍というのは元々は朝廷の官僚職だったものを
源頼朝が軍事力を背景に京都以外の行政権を奪取するために
変則的に朝廷内に持ち込まれてきたものだ。
もし圧倒的な軍事力を持つ武家の統率者・天下人が
天皇の代理人たる関白に就任してくれるなら
もはや将軍は必要ないわけである。
930 :
日本@名無史さん:03/02/25 06:34
とりあえずここまで仮説を読んだうえで
秀吉が将軍になる必要があったという説を唱える人は
その動機と意味を書いて欲しい。
確かに彼の死後、家康は将軍になり武権を関白から奪った。
しかし仮に豊臣家が将軍家であっても
何らかの手段で家康は豊臣家転覆を図ったと思うが?
931 :
818 ◆PfMKsrtLeI :03/02/25 06:49
>>929 日本史上で画期的なのは頼朝の征夷大将軍就任よりは、全国に地頭や守護を置くことで、
後に武士と呼ばれることになる在地領主の土地所有を保障し、警察権を確保したことだと思う。
将軍職は家政機関にすぎない政所を一歩進めて、朝廷と独立した政府としての機関の正当性を得たというだけのことで、
将軍就任と京都以外の行政権を奪取するというのはイコールではないと思う。
932 :
日本@名無史さん:03/02/25 10:16
933 :
日本@名無史さん:03/02/25 14:50
スレ違いになるけどもっと本質的な所なんだけど最初の武家政権である鎌倉幕府。
頼朝はというか武士はなんで貴族・天皇家を滅ぼさなかったのだろうか??
朝廷から政治の権限を奪い取るというなんとも面倒な方法でしょ?
その辺すごく不思議なんだが・・・
934 :
日本@名無史さん:03/02/25 15:09
>>933 やっぱ朝廷は特別で滅ぼしちゃいかんだろ?
みたいなところがあったんじゃないのかぁ。
935 :
日本@名無史さん:03/02/25 16:42
>>933 良い所に目をつけましたな。
これをきちんと説明できるかできないかで日本史をホントに理解できてるか
できてないかが解る。
歴史学者でもちゃんと答えられる奴は少なそうだけどね。
936 :
日本@名無史さん:03/02/25 18:10
>>933 つうか
鎌倉幕府を朝廷やその周辺の貴族との政治権力争いの存在と見ることが誤解なんだけど。
頼朝がその気があったとしてもそれを前面に出しすぎたら平家と同じ運命になるよ
937 :
bloom:03/02/25 18:11
938 :
日本@名無史さん:03/02/25 18:15
秀吉は先祖が源氏じゃないから。これだね。
939 :
1 日本@名無史さん:03/02/26 00:10
>>頼朝はというか武士はなんで貴族・天皇家を滅ぼさなかったのだろうか??
>>朝廷から政治の権限を奪い取るというなんとも面倒な方法でしょ?
この問題にもそれなりに整合性のある答えはみつかると思うよ。
この主題には2つの方面からの考察が可能だと思われる。
1つは政治的構造的な観点からの考察と、
もう1つは武士たちの観念、心の中の問題という観点からの考察である。
まず構造的な観点から考察してみると、やはり何と言っても
『初期の武士たちは京都朝廷の威光(承認)無しに
土地の所有を維持することが不可能であった』
という実利的理由が最も大きいものだろう。
古代の関東あたりにおける武士たちは軍事力により勝手に
地元の土地を横領したりしたわけだが、たとえば平将門に代表されるように
その土地の私有を公式に宣言してしまうと、
朝廷はその私有者を許さず必ず討伐してきた。
しかもその討伐方法は、朝廷が直接京都から自前の軍隊を送り込むといった
朝廷が自らリスクを背負う方式ではなく、討伐を命じた武士に
非討伐対象私有者の土地を奪う権利を与えてしまうという方式で、
いわば果てしなく武士同士を争わせてゆくという方式だった。
この方法によれば朝廷は全国の武士を自在に操ることができ、
自身の資本を用いることなく大軍を扶養することができた。
何しろ武士という軍事力は、自発的に志願して発生してくるのだから。
朝廷は日本全国に無尽蔵の軍事力を保有するのと同じだ。
この理論でいくと現地の武士たちが朝廷の許可無しに土地を私有しようと
するなら、朝廷の命令を奉じる全武士団を滅ぼさなければ
自分たちの土地を私有できないことになってしまう。
940 :
2 日本@名無史さん:03/02/26 00:10
つまり、発生期の武士団は
「朝廷を介在させない土地支配・行政権行使のシステム」を
開発できなかった。
このことが武士たちが自分たちの政治から朝廷を排除できなかった
大きな理由だと考えられる。
これが中国だと、時の王朝を凌駕するほどの巨大な軍閥が地方で誕生して
その軍閥が現王朝を倒して新王朝となる、という展開になるのだが
日本ではそのように巨大な軍閥は戦国期まで誕生したことがなかった。
日本の場合、中国のように地方軍閥は統一されることがなく
常に各武士団ごとに自分の領地で対立割拠したため
その対立する武士団を巧みに争わせる朝廷の技術に対し
武士階級はほとんど為す術をしらなかった。
このことがまず武士が朝廷を取り除くことができなかった原因の第1である。
941 :
3 日本@名無史さん:03/02/26 00:11
そして第2のポイントは、武士団が時間の経過の中で
自分たちの立場を王朝権力に組み入れてしまったことだ。
武士階級は、平将門の起こした承平の乱が鎮圧されてしまった後、
朝廷に反抗することの愚を悟り、
「反乱を起こしての力づくの土地所有」という方針から、
「中央貴族の私兵としての存在の公認させる」という方針に転向してしまったのだ。
つまり武士たちは自分たちの立場を単なる「地方の在位領主」から
「国家の軍事官僚」へと変化させてしまったことのだ。
武士というものがある時期から「地方の無秩序な反乱者」という立場を捨て、
中央貴族(源平藤橘)出身者を棟梁にして京都に接近し
「摂関家の私兵」、そしてさらには「国家の軍事・警察力」へと
自身の立場を変遷させていったことが構造的な要因では主因だと思える。
そして数百年にわたる主従関係は公武の間に
後世抜きがたい階級的観念を植え付けてしまい
朝廷の威光を抜きに土地を所有することが可能な実力を持った時期には
すでに名義上の主従関係は武士たちの発想から抜き難い
固定観念となってしまったのではないだろうか?
つまり戦国期になって実利的には朝廷不用の状況が整っても
『天皇に仕える征夷大将軍(武家の棟梁)』という観念は
拭えないものとして血肉化してしまっていたのではなかろうか。
また、朝廷は政治に介入しないという習慣が確立していた以上、
力づくで朝廷を廃する必要性もさほど高くなかったということもあろうが…。
942 :
4 日本@名無史さん:03/02/26 00:11
今、武士の軍事政権下で権力を失った朝廷が存続し得たことの
政治的構造上の理由として
1…『武士階級に全体を統一するほど大きな勢力が誕生せず、
朝廷の分断支配に対抗することができなかったこと』
2…『武士が自分の立場を単なる地方の在地領主から
中央貴族を通じて国家の軍事・警察官僚に変化させて
自分たちを王権内に組み込んでいったこと』
以上の2つを挙げたが、次に心理的要因を挙げてみたい。
この心理的要因も大きなものは2つほどであると思われる。即ち、
1…『天皇氏の家系の神聖を受けれたこと』
2…『神社・仏閣を通じた信仰面からの支配』
以上の2つである。
時間がなくなってきたので細かくは論じないが、
日本史板の訪問者ならおおよその概略は理解していただけると思う。
1については天皇氏が特別な家系で武家が侵してはいけない家系だとの
観念を武士側が受けれたことを指し、
2については日本全国に点在する神社、特に仏閣は
天皇氏の事業として発達したものなので、古代中世における武士たちは
それらの事業を推進した天皇氏に対し政治を超越した家系との印象を持ったこと。
つまり天皇家が自身を政治権力で動座させてよい対象だと
思わせないよう仕向けることに成功したこと。
いくら天皇氏が歴史の古い王家だといっても
単なる政治権力の家系だと思われていれば
やはり長い武家政権のどこかで断絶は間逃れなかったはずだと思う。
天皇家の場合、やはりイギリス国教会のように
信仰を主宰するという立場・ポーズが心理的にはかなり
武家に対するアピールになったものだと思えてならない。
943 :
5 日本@名無史さん:03/02/26 00:12
>>安土城の敷地内に朝廷の御殿を整えるというのは
>>当然帝の行幸を想定したものでしょ。
>>この一点でもって信長が室町体制の受容者であっとは
>>言い切れなくなると思うのですが。
確かに朝廷と幕府体制への支持を別個のものと捉えることは可能です。
しかし私はもう一点挙げていますよ。
もう一つの点、信長が自分の妹を
実権を失った細川管領家の嫡子に与えていることについては
818さんはどのような意味があるとお考えでしょうか?
たとえ当時の簡単な実力者同士の習慣に従っただけであっても
それはイコールその習慣の発信源である室町体制の
受容だったと考えて良いのではないかと思うのですが。
944 :
818 ◆PfMKsrtLeI :03/02/26 01:31
>>943 室町体制とはどのようなものであるか、という認識の交換はひとまず脇に置くとして、
細川昭元とお犬との婚儀は1576年。義昭追放は73年(通説に従って「追放」としておく)
細川管領家と言っても済之澄元高国のお家騒動で実権が無かったのはあなたのおっしゃる通り。
でも、機内の地盤を固めるという目的なら細川氏にもまだ利用価値があったと考えられるのではないでしょうか。
945 :
日本@名無史さん:03/02/26 07:53
>>939-942 君は日本史を理解してないねぇ(w
整合性が全くないよ。ぶっちゃけ武士はバカだったというものではないか(w
中国史や西洋史の常識でなら天皇家は古代の初期において既に滅んでいて
当然なんだよ。が滅んでいない。
天皇家が神聖だったからなんてのはただの都合のイイ皇国史観だろうが(w
室町幕府はなんで朝廷を滅ぼさない?秀吉は?徳川幕府は?
日本史と類似する歴史を持つ国は世界広しと言えどまずないよ。
天皇家の御稜威を根拠にするのはアホだぜ(w
946 :
日本@名無史さん:03/02/26 11:38
947 :
日本@名無史さん:03/02/26 11:45
>>945は批判だけしてちゃんと答えられるんだろうか?チョトシンパーイ
948 :
939〜942:03/02/26 14:17
>>945 >>整合性が全くないよ。
どうしてだよ(笑)
武士が天皇家に不可侵の意識を持つに至った理由を
それなりに合理的に説明したつもりだが?
武士はある時期から自分たちの立場を「地方の身勝手な地主」から
「国家の軍事・警察官僚」というものへ変化させ、
自分たちを王権に組み込んで行った。
この数百年の上下関係が朝廷に対する不可侵の念を生んだ。
これが上記の仮説だ。
949 :
939〜942:03/02/26 14:32
>>室町幕府はなんで朝廷を滅ぼさない?秀吉は?徳川幕府は?
こんな質問を平気でしてくる君の不見識も相当なものだな。
征夷大将軍というものが朝廷抜きで存立し得ると思ってるの?
将軍を任命するのって誰よ?天皇だろうが。
社会というのは物理的な要因だけで成り立っているわけじゃない。
むしろ社会秩序の維持の中心にあるものは『カルチャー』だろ。
つまり精神文化。
武士が朝廷に抱いていた憧憬・尊敬の念を理解しないというのは
人間が固定観念から逃れられないという原理を無視するものだ。
日本は革命志向の国じゃないんだよ。
日本文化は予定調和の文化なんだ。
政権の力学を軍事力のみに求めるのは
唯物主義の最大の欠陥だよな。
950 :
939〜942:03/02/26 14:49
たとえば我々は親や恋人を大事にしたいと思う。
尊重して守ってやりたいと思う。
しかし、その近親者を守ってやりたいという理由が
果たして唯物的な理由によるものだろうか?
たとえば子供が親の言うことをきいたり
いとおしく感じたりすることについて
「子供は親の遺産をもらうのだから
親に尽くさねばならない。
だから親を大事にするに過ぎない。」
とこのような説明をする者がいたらそれは妥当な説明だろうか?
もしくは恋人を大事にする理由について
「そのうち結婚して家庭を持って遺産を相続させるための
子孫を作らねばならないのだから、そのために
配偶者として女性を大事にしているに過ぎない」
と説明するのは果たして妥当だろうか?
人間はこのような政治的理由以前に
習慣や感情で動く動物だ。
親や恋人を守りたいという理由はもっと感情的なものであるはずだ。
当時の武士はマルクス主義者でない以上、
945のような構造主義者でも唯物主義者でもなかっただろう。
951 :
939〜942:03/02/26 14:50
945さん。あんた自分がマルクス史観に毒されてると
気づいたほうが良いよ。
軍事的優位の者が劣位の者を無条件に倒すはずだという思い込みは
かえって子供っぽい教条主義だと思うよ。
閉鎖的な封建社会においては古代的観念が脈々と永続して
その社会の行動原理となり得ることは世界史の中にいくらでも
確認できるよ。
人間の行為がすべて物理的要因にのみ支配されているという
945さんの方が単純で物知らずだと思うよ。
952 :
日本@名無史さん:03/02/26 14:52
武家が天皇を神聖視したのは武家側に都合の良い利点もあったからだろ。
武家支配者でも武家が荘園の武装地主のような立場から派生した以上団栗の背比べ。
たて割した組織でも「同等意識がきっちりした組織化,安定政権を邪魔する」
高貴な武家が天皇の末として源氏や平家を自称するのは、それら武家(田舎者)を
強固に組織化するのにすのブランドこそが唯一の根拠になるから。
徳川や室町が天皇を排除できんのは,基本的に天皇が自分達の宗家であり、日本の
正当主権者たる天皇の代行統治という理由で他を納得させたから。
多分に名文だけだが、単純な実力だけだと終わりのない下克上と戦国乱世(ちょうど
中国の二の舞)に陥るからこそ、天皇は武家に取って、玉を取ったら戦国というゲーム
をオーバーする”あがり”てとこか。
953 :
日本@名無史さん:03/02/26 15:03
>>948 名前:939〜942
仮説は自由だが、武士はもっとリアリストでは?
天皇制の魔力にかかわって、身を滅ぼすほど暇ではない。
天皇が使えれば使うし、使えなきゃ閉じ込めとく。それだけ。
鎌倉時代から、即位の順序や改元は、幕府の助言と指示に基づいて
朝廷が行ってたし、
朝廷が幕府に依存してたってのが的を得てるんじゃないかい。
例えば、京都公家は天皇後醍醐を、一番、迷惑がってた。
幕府が復活して、安心したのは京都天皇と公家だよ。
954 :
日本@名無史さん:03/02/26 15:36
義満の時代、公家はみんな義満邸参りに来て、天皇までやってきた。
その後戦国時代、京都の大名にとって、天皇は金食い虫以外の何者でもなく、
葬儀の費用や即位の費用や御所の壁崩壊修理の費用も、
なんだかんだ理由をつけて、出さなかった。
地方の大名は、足利の権威が落ちたので、天皇から冠位を買った。
天皇の商売としての「権威」だった。
これが、戦国期に天皇が滅びなかった理由。
権威も尊敬もちっとも理由でない。
足利の権威が落ちたので相対的に地方で天皇の権威が上がっただけ。
955 :
日本@名無史さん :03/02/26 17:32
>>954 あなたの書き込み、論程と結論がいつも矛盾してるよ(笑)
>>地方の大名は、足利の権威が落ちたので、天皇から冠位を買った。
>>天皇の商売としての「権威」だった。
>>これが、戦国期に天皇が滅びなかった理由。
>>権威も尊敬もちっとも理由でない。
それじゃ訊くけど権威が無いならどうして大名たちが
官位を買うわけですか?
みんな官位に権威を認めるから買うんでしょ?
官位に権威が皆無だというなら、それを売って商売が
成り立つというあなたの主張は大きな矛盾になると思うが?
もし天皇家や官位に権威が無かったとするなら
大名どもが官位に群がった理由は何だということになるのでしょう?
私は武家が官位を欲したのは朝廷に一定の権威を認めていたからだとしか
考えることができない。
そしてその朝廷の権威の根底にあるのは、やはり
長期間の主従関係の記憶が大きいというのが私の主張です。
もし武家が朝廷にある主の追慕・畏敬の念を持っていなかったとしたら
武家が朝廷に感じた権威とは一体何によって発生したのでしょうか?
武家が力を無くした朝廷に尊敬を失ったと断じるからこそ
天皇家存続の理由が不可解になってしまうだけ。
力関係が逆転しても尊崇の念が残るというのはあり得ることだ。
その人間の生理が理解できないと天皇家存続の理由も理解できなくなる。
>1
幕府は源氏の子孫しか作れません
農民出の秀吉はもちろん源氏の流れをくんだわけではないため
関白と言う職をえて独裁体制をたてたというわけ
957 :
日本@名無史さん:03/02/26 18:29
>>956 あえていうが将軍は源氏で無ければ駄目?秀吉が将軍にならなかったのは源氏
じゃないからではないぞ。それは俗説でしょ。
源氏以外の将軍だって鎌倉時代にあるぞ(北条執権の傀儡だが)むしろ将軍より
関白になるほうが大変だろ?家柄的に。
さもなきゃここまで長大なスレなんぞで討論されとらん。
↑
釣られてやんの
すんません。追加で一言
信長だって将軍に推薦されとる。あんな自称平家の、尾張守護代の織田家の
成りあがり家老(元神官の家系というが・・・)の家の子が実力だけで
三職推任されてる。それはどう説明していただけるのか?
>>956
960 :
818 ◆PfMKsrtLeI :03/02/26 18:54
>>948 初期武士の定義が少し偏ってる気もするのですが。
「地方の身勝手な地主」というのでは武士が浮かばれない。
土地の所有は原則、公家寺社に認められ、在地の武士は自らで開墾した土地を
一旦寄進して、そこの管理を行うという形を取ることで生活していた。
ただ、この管理者という立場が非常にあやふやなもので、自分の甥とか従兄弟とかに
管理者を勝手にすげ替えられるということが多々あったわけ。
武士としてみれば自分たちの開拓した土地は自分たちのものにしたいという自然な願望が
起きたことは当然のこと。そういう願望を実現させることで実力をつけたのが西の平氏と、
東の源氏だったわけでね。
朝廷から見れば経済効率の良い軍事警察役人だったが、武士から見れば
自らの権利を少しづつ勝ち取っていった現実主義者だったと思うのだが。武士には生活がかかっている。
(何だかマルクス史観の代弁をしているようだけどね)
そんな、現実主義者の武士が朝廷に刃を向けることがあっても、根絶やしにしなかったのは大きな問題。
私は全ての人間の由来は天皇に通じるという意識があったからではないかと思うのだが。
先にも挙げたが「姓」についての意識に通じていくと思うのですが。
>>952 高貴な武家というのは頼朝とか清盛に至る者のことを言うのだろうけど、
当時は天皇の末になるという精神的なものよりは、在地の武士と京都との間のパイプ役であったことの方が大きいと思う。
今でいう代書屋とか司法書士の役割を担っていたことが、在地の武士たちに歓迎されて、
組織化に繋がったと思うのだが。
また、「天皇が日本の正当主権者」という言葉は議論を正しくしないんじゃないかと思う。
誰が主権者であるを認定するスポーツの審判みたいなものではないかと。
>>960 確かに天皇は「日本の主権者」というよりは「天下の審判」といった方が似合う。
さっきも書いたが武家の争いは何か大陸のような残虐な殺し合いじゃなくゲーム
というか儀礼的な要素が加味されてるとおもうし。
やっぱり四周が海の島国ゆえとことんまでの殺戮を回避する知恵というか暗黙の
合意かも。天皇も「天下の審判」として有用ゆえに暗黙の合意で権威を認められ
てきた。彼が天下人を認定して初めて武家の陣地争いゲームは終盤になるように。
962 :
日本@名無史さん:03/02/26 19:46
>>960 >誰が主権者であるを認定するスポーツの審判みたいなものではないかと。
スポーツにでもまず見ない自律性のない審判だな。
963 :
日本@名無史さん:03/02/26 20:00
>>955 954さんと言ってること、そんな違わないのでは?
簡単にいうと、当時は実力と権威が分離した時代。
天皇(朝廷)は、官位を与えることで実力者の力に乗っかり、
実力者は、官位を貰うことで大儀名分を得たということ。
この仕組みは、実力者がそれぞれ対抗勢力を持っている間は機能するが、
すべての実力者を凌駕する天下人が誕生した時に瓦解する可能性がある。
それまで、朝廷はそういう天下人を既存の組織に組み込むことで権威を保ってきた。
しかし、戦国末期に信長登場。彼は、海外の情勢に通じ、
天皇の権威のもと政権が交代する日本の特殊性に疑問をもち、
天皇制の廃止、そこまでいかなくても朝廷の廃止くらいは考えかねない人物。
仮に彼にその意思がなくとも、比叡山焼き討ちや三職推任拒否など
彼の人生末期、朝廷としては彼を危険人物と考えて当然。
そんな彼が天下人に一番近い存在なり、両者は相当ガチャガチャした形跡がある。
で、秀吉。
信長の死後のゴタゴタに乗じて、天下統一を急ぐ彼は、
信長のような無理はせず、関白職叙任。
この関白職叙任は、小牧・長久手敗戦後、
権力維持のために織田家抜きの大儀名分をとにかく欲しい急ぐ秀吉と
変人信長との政争に懲り、朝廷の維持のため、
最大実力者をなりふりかまわず
組織に取り込もうとした朝廷の利害が一致したことによるのでは?
最後に家康。
彼は、関白職を秀頼ではなく公家に就かすことで、
豊臣家の政権としての大儀名分を削ぐ一方、
公家の支持、あるいは静観を勝ち取ることができた。
また、武家を束ねる大儀名分は、鎌倉、室町の慣例どおり
将軍職で充分であり、朝廷をどうこうしないという公家へのメッセージ。
そのメッセージを守ったかどうか、歴史が・・・。
だいたいこんなところじゃないすか?
>939〜942
>日本は革命志向の国じゃないんだよ。
↑ほう。答えに近いけど答えになってないですな。
なんで革命志向の国じゃないの?
天皇の御稜威によってだとか武士がバカだったからじゃないよ。
なんで予定調和の文化なのか説明して欲しいなぁ。
日本はそうなのだからしかたないじゃ日本史理解してるとは言えない。
>人間の行為がすべて物理的要因にのみ支配されているという
>945さんの方が単純で物知らずだと思うよ。
↑俺は武士が物理的に優位なのになんで天皇を滅ぼさなかったのか?
という武士の行動原理を問うてる。
俺はそれがず〜っと不思議だったんだよ。
皇国史観でなら天皇は権威があったからとか神聖だからだとかで説明は簡単なんだけどね(w
でもなんでその権威や神聖さに政治的軍事的優位が下にならないといけないのか?
という新たな疑問が出てくる。(皇国史観に毒されてるとこの疑問は沸かないが)
どう?答えられます?
明智光秀って将軍になったの?
967 :
日本@名無史さん:03/02/26 21:05
>>965 横レス
物理的に優位のみが政治的優劣を決するわけではあるまい
物理的な優位さが大きな影響を与えるのは確かだが
968 :
日本@名無史さん:03/02/26 21:10
>>963 954が
>天皇の商売としての「権威」だった。
これが天皇家が滅びなかった理由としておきながら
すぐ次の行で権威は理由ではない
と否定するのはやはり矛盾している。
954と955の争いは
天皇の権威が認められていたかに争点があるから
実力のあるなしで共通性を探るのは認識違いだと思う
969 :
日本@名無史さん:03/02/26 21:15
>>965 武士の軍事的優位といっても行動原理のベクトルとしてある方向に統一されていたことなどほとんどないんだが。
明智光秀=天海
ってホントだろうか?
971 :
日本@名無史さん:03/02/26 22:24
>>俺は武士が物理的に優位なのになんで天皇を滅ぼさなかったのか?
>>という武士の行動原理を問うてる。
>>なんでその権威や神聖さに政治的軍事的優位が下にならないといけないのか?
やはり日本人固有の血統信仰がその核心にあるのでは?
源平にしたところで自身の血液の尊貴が
皇室との血縁にあることは自明自覚であったろうし。
彼ら武家貴族にとって皇室の尊貴を否定することは
自らの血統の尊貴を否定することに繋がってしまう。
972 :
日本@名無史さん:03/02/26 22:33
>>明智光秀=天海ってホントだろうか?
天海が明智氏ゆかりの人物だったことは間違いなかろう。
明智桔梗の家紋を日光東照宮の伽藍の屋根の内側とかに
入れさせたり、同じく日光の峠に明智ゆかりの名を
つけたりしてるらしいからね…。
というより、個人的にそれより気になってるのは
3代将軍・家光が家康と春日局の子供だったという説。
父・秀忠が嫡子の家光を差し置いて弟の忠長を世継にする素振りをみせたり
家光が神社に奉納した文に「2代将軍・家光」と署名して
秀忠を認めようとしなかったり…。
詳しい人教えて。
973 :
日本@名無史さん:03/02/26 23:11
もはや誰がどのレス番かわからんが、別に当時はそこまでドライじゃないと思うぞ。
マルクス・レーニン主義なんて当時は無いんだし、あくまでも当時の考え方で考察されい。
とりあえず、天皇が神社教の教祖であった事は否めない。
大名達も、寺社は大切にしていたしね。
そもそも、それを否定しては起請文なんてありえない話だろ?
>>966 >>970 >>972 スレ違いだ。
ちなみに、坂本の西教寺では征夷大将軍、丹波の玉雲寺では太政大臣を受けたとの伝承がある。
変の後に、光秀公が天皇より巻子を送られた事は事実としてある。
ちなみに、桔梗は根に毒があるため虫除けとして使われる事があり、害を避ける意味から武家の家紋などに使用された。
門の天井にあるあれも、そんな理由だと思われる。(ちなみに、人物像の桔梗紋ってのは木瓜だったよ。)
天海と光秀は筆跡鑑定の結果、同一人物ではないが親子などの近い関係ともいうけど、どうだろう?
明智ほ仏教用語なので、あまり関係が無い。
家光関係は・・・どう突っ込めばいいのか・・・
974 :
日本@名無史さん:03/02/27 03:29
>>973 あなた、ご自身で「スレ違いだ」と指摘なさっておきながら
またそのスレ違いのレスに返事してるし(笑)
でもその矛盾に満ちた行動はまるで金正日首領だ。
我々は今後あなたに「首領」、もしくは「金正日」というハンドルを与える。
975 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:31
もし秀吉が幕府設立を考えていたのなら、
朝廷から征夷大将軍を叙任されるために
家康が自分の血統を清和源氏の嫡流と改変したように、
何らかのこじつけをしたのだろうか?
976 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:33
チンポ
977 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:34
コーマン
978 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:35
979 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:36
意味ないですよ。
980 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:36
語るのはやめなさい
981 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:37
熟読してください。
◆スレッドを立てるときの注意◆
982 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:38
練習 テスト じ
983 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:39
984 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:41
985 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:41
986 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:41
987 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:42
988 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:42
989 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:43
なぜ秀吉は豊臣幕府を作らなかったのか・その2
990 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:44
991 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:45
きにお勧め
992 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:45
993 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:46
豊臣政権
994 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:46
誘導
995 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:46
996 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:47
997 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:47
接続試験
998 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:48
荒らし氏ね
999 :
日本@名無史さん:03/02/27 04:48
接続試験
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