長生きしたもん勝ちよ、げっへっへっ・・・
漏れコイツ大ッキライ!
ちゅーかTVで観たんだがコヤツの子孫が偉そうで嫌い
有朋以前はオメーんとこなんてちょード下級身分だってことわかってるよね?
といいたい。
だが付き合ってみれば意外にいいヤツだったりなw
皇室は大事にしましょう。
4 :
日本@名無史さん:02/08/13 06:49
たしか、かみさんを略奪したんだよね。
5 :
日本@名無史さん:02/08/13 06:50
今も昔も人気がない。
6 :
日本@名無史さん:02/08/13 06:55
位人臣を極めた奴って、日本ではまず好かれない。
源頼朝然り。
徳川家康然り。
7 :
日本@名無史さん:02/08/13 07:01
秀吉は?
8 :
日本@名無史さん:02/08/13 07:10
もちろん大嫌いニダ!
9 :
日本@名無史さん:02/08/13 07:17
>>8 >日本ではまず好かれない。
日本人じゃないではないか。アンニョン・ハシムニカ。
かみさんは大事にしたそうだ。
11 :
日本@名無史さん:02/08/13 08:01
大山巌>>>>>>>>>>>>>>>>乃木希典>>>>>>>山縣
12 :
日本@名無史さん:02/08/13 08:06
この人が居なければ東アジアに独立した国家は存在しなかったかもしれない。
人気だけの無能政治家より嫌悪を一身に集める有能な軍人の方が遥かにマシ。
加藤高明<<<<<<大隈重信<<<<<<山縣有朋
13 :
日本@名無史さん:02/08/13 08:09
大山なんて何もしてない。軍政では山縣に劣り、
軍略でも日露では児玉に頼りきりだった。
日清でも同じく、優秀な部下に救われただけ。
14 :
日本@名無史さん:02/08/13 08:15
>13
児玉が活躍できたのも、大山巌という親分があったればこそ。
15 :
日本@名無史さん:02/08/13 08:20
児玉が総司令なら一番よかった。
まあ山縣が総司令よりはよかったとは思うが。
彼は何事も自分でしたがる癖がある。
>>13 親ビンが活気に溢れる若者を抑える立場を理解してないか。
大山がなんでもかんでも口出したら、部下はいらない。
大山は必要性がない。
18 :
日本@名無史さん:02/08/13 08:32
「戦争中、どのようなことが最も大変でしたか」
「知っていることも、知らぬ顔をしていなくてはいけなかったこと」
大山は、必要だったと思う。
まあ大山は日本人的なトップだったとは思う。
意見の押し付けではなく、意見の調整役ね。
政治家なら伊藤が近いかな彼に。
20 :
日本@名無史さん:02/08/13 08:40
そもそも児玉源太郎が神の如く無条件に評価されるのは如何なものか?
田村川上両先任参謀の立案した動員計画を忠実に実行できた事は
彼の政治力として評価されるべきだと思うけれど。
個人的には田村参謀長の朝鮮持久策に興味がある。
あちらの方が現実的な作戦ではなかったかと。
それと彼の政治力の裏には山縣の存在が。
派閥も違うが優秀な児玉を責任者にして、
最大限に裏で動員計画上の協力を与える代わりに、
万一の際に敗北の責を負わせるつもりだったと言えば、
言い過ぎであろうか。
21 :
日本@名無史さん:02/08/13 08:44
日露戦争は外債をあてにしてましたから、
自給策では駄目です。外債が集まりません。
国際的には勝ったという宣伝が必要なのです。
児玉はそれがわかってました。
特に最初の戦闘の結果を重視してまして、
これに勝つ為に入念な準備をしています。
22 :
日本@名無史さん:02/08/13 09:04
なるほど、実際言われているように先任参謀の計画を
忠実に実行しただけでは無く児玉は政治屋でもある分、
世界情勢に鑑みて「勝つ」ための作戦を
魂魄を擦り減らして立案していたんですね。
それにしても全責任を背負って戦争指揮に当たった児玉も児玉ですが、
負けた時には他人が立案した作戦失敗の責任を一身に背負って、
政治生命も名誉も絶たれる役目に敢えて就任した大山も大山。
しかも当初は慎重派だったのに。
23 :
日本@名無史さん:02/08/13 09:13
田村は『戦闘』で勝つ事を目的とした。
児玉は『戦争』で勝つ事を目的とした。
似てはいるが同じではない。
24 :
日本@名無史さん:02/08/13 09:51
こういう事言うのもなんだけど
山縣って顔がエグくて好きになれん。
サーベル鳴らして天皇脅迫したりしてるよね。
>>25 会議中に、体調不良(というかかなり重大な病状悪化)のために居眠りした
のを起こしたというものでは? 脅迫?なんのことですか?
27 :
日本@名無史さん:02/08/13 10:47
事故を装って海上で脅迫された事。
せめて原より先に死んでくれていれば…
29 :
日本@名無史さん:02/08/14 16:59
彼不在で第一次世界大戦がすんなり遂行できたか?
あるいはシベリア出兵の顛末は本当に無茶だった?
ソヴィエトに対して強硬策は必要ではなかったか。
30 :
日本@名無史さん:02/08/14 17:11
西郷さんが生きていれば山県なんていらんかったのに
31 :
日本@名無史さん:02/08/14 17:15
西郷っていうより大村じゃなかろうかと。
32 :
日本@名無史さん:02/08/14 17:58
どっちにしろ山県はイランということで。
33 :
日本@名無史さん:02/08/14 20:52
>>28 山縣が原より先に死んでいたら原内閣は成立しなかったと思うぞ。
山縣は司令官としての能力は並以下で、軍政家として能力は大村に次ぐ。
大山は軍政家としての能力は並以下で、司令官としての能力は「日本」屈指。
児玉は司令官・軍政家としての才能は並で、参謀としての能力はそこそこ。
34 :
日本@名無史さん:02/08/14 21:00
宝蔵院流槍の遣い手
35 :
日本@名無史さん:02/08/14 21:04
一介の武弁
36 :
日本@名無史さん:02/08/14 21:51
なんで児玉がそこそこなんだよ。
37 :
日本@名無史さん:02/08/14 22:09
国力と釣り合わない25個師団整備を主張した山縣・寺内に比べてみると
児玉は軍政家としてもナカナカの人物だと思うけどねぇ。
38 :
日本@名無史さん:02/08/14 22:11
児玉の台湾行政は抜群だと思われ。
まあ、正しくは児玉じゃないけどな。
軽率者が立身するとこうなるって典型的な小者だ
賄賂づけ
40 :
日本@名無史さん:02/08/14 22:26
だから国の方針を山縣『自身』は謝らなかったという解釈もある。
小物ゆえに冒険が出来なかった。
41 :
日本@名無史さん:02/08/14 22:31
>>33 いい得て妙でありますな。
むしろ山縣公は政治家として優秀。
大正時代を振返ると特に外交に於いて政党側の支離滅裂ぶりが目立つ。
山縣死して椿山荘を残す。
43 :
日本@名無史さん:02/08/14 22:36
>>39 典型的な小物に近代陸軍の創設は無理と思われ。
ただし保身の為には手段を選ばなかった面はあったかなあ。
44 :
日本@名無史さん:02/08/15 00:20
>>36 児玉の参謀ぶりはどう考えてもそこそこ。
総合的な能力では一流だと思うが。
>>37 児玉は編成に関しては山縣に勝るが、「軍政」と範囲を広げた場合はやはり山縣が
はるかに上手だと思う。
>>38 後藤新平だね。
台湾統治については、児玉は後藤をうまく使った点で評価されるべきだろうね。
>>39 >賄賂づけ
その通り。
しかし、山縣は賄賂のみで片付けられるほど小さくはない。
>>40 山縣の外交認識、国際状況認識はなかなか興味深い。
「アジアでは強国だが、欧米に比べれば小国」という認識を持っていたようで
必要以上に欧州を恐れていた。
特にロシア(ソ連)に対する警戒心は異常。
その点、自分と全く異なる原の外交方針に反対しながらも大きな興味を示していた。
>>41 国会開設・憲法公布後の自由党系と改進党系の対立は凄い。
この対立がのちのち軍部に利用されようとは。
45 :
日本@名無史さん:02/08/15 00:56
山縣を語る上で外せないのは対露思想と皇室保護を名目とした社会主義への憎悪。
特に後者のせいで、若い頃かぶれた西園寺とは最後までしっくりいかず。
いいがかりをつけて内閣を「毒殺」したことが鮮烈であろう。
もっとも西園寺は生まれついての身分に無意識のうちにこだわり山縣を卑見してたのだろうが。
46 :
日本@名無史さん:02/08/15 02:51
山縣は天皇・公家を人形としか見てなかったからね。
西園寺は現実世界で起きていることを「紙芝居」としか感じなかったような人だ。
この二人が歩み寄ることは不可能。
原は現実の選択肢の中からその時に一番良いものを選ぶ判断力と、
敵対する人・勢力とも妥協点を見出せるしつこさを持っていた。
戦前の首相クラスの人物にランクをつけるなら、
第一に大久保
第二に原
かなりあいて
第三に桂
第四に伊藤
かなりあいて第五に山縣。
前も単独スレありましたね
どなたか前スレへの誘導お願いします。
48 :
日本@名無史さん:02/08/16 14:29
49 :
日本@名無史さん:02/08/16 15:10
賄賂大好き有朋くん。
50 :
日本@名無史さん:02/08/16 15:19
山県ってば「和歌」や「漢詩」に長けていたことを聞くけど
(現代でも一部の作家や文学者のなかでは受けがよい)実際どうなん?
51 :
日本@名無史さん:02/08/16 17:53
ここに書き込んでる夏厨はほとんどシヴァ遼太郎の受け売りだな。
それも『坂の上の雲』に出てくるエピソードばかり。
シヴァが山縣を大嫌いだった雰囲気が伝わりすぎ。
ちなみに昭和期ならば平沼騏一郎と気質が似ているなんて言っていたな。
それも微妙だが。
52 :
日本@名無史さん:02/08/16 17:56
>>52
だから何か新しい情報ソースを期待していたのだが。
ちょっと近代史かじれば掬える事象ばかりなもので。
食傷気味sage。
54 :
日本@名無史さん:02/08/16 18:05
『おおづつのー 音遥かにも聞こゆなりー 手綱とる手の左ななめにー』
↑
天 然 的 無 趣 味 の ど へ た 。
55 :
日本@名無史さん:02/08/16 18:08
無理矢理歌会に招待された森鴎外が唖然としてたらしい。
下手にもほどがあると。
そして凄い勢いで桂太郎が太鼓持ちで囃し立ててたらしい。ニコポンは人間ができているw
56 :
日本@名無史さん:02/08/16 19:17
57 :
日本@名無史さん:02/08/16 19:20
58 :
日本@名無史さん:02/08/16 19:24
山縣は性格では家康に似ているし、中々好かれないだろうな。
59 :
日本@名無史さん:02/08/16 19:58
素人で恐縮ですが、わたしは、今の日本人が考える戦前の日本的なるものを作ったのは山形有朋ではないかと考えています。
光格天皇以来の正名運動、王政復古をばねに明治維新ができたと思いますが、維新の志士から明治の元勲になった方々は、天皇をある種の機能として、言葉は悪いですが、利用していたと思うのです。
その過程で山形有朋の時に、教育勅語や軍人勅諭を作り、この明治大正期の統治システムを固めるわけですが、彼自身は宮中某重大事件を引き起こしたように、必ずしも無条件に天皇に仕えていたわけではない。
昭和の不幸は元勲亡き後、彼らが構築した天皇制のシステムを、その後継者が使いこなせなかった、ことにあるのではないでしょうか。
新しく改装された遊就館に、光格天皇と山形有朋に関する展示がないのを残念に思います。
60 :
日本@名無史さん:02/08/16 20:16
司馬は具体的な結果で人物を評価するのではなく、
印象で評価するからねえ。
まあ小説という手法を用いるのだから仕方ないけど、
犠牲者は救われないね。
好きではないが、功績は良くも悪くも大変評価できるものだろう。
>>59と大体同じ理由で。
62 :
日本@名無史さん:02/08/16 20:26
>>59 天皇の利用ということでは仰る通り山縣に限らず、
元勲達のほとんどに共通している。
幕末の京都での政争では天皇がどれほど利用されたか。
63 :
日本@名無史さん:02/08/16 20:33
>>60 司馬の功罪ね。
小説の内容を歴史的事実と思わせてしまい、
多くの勘違い歴史好きを生んだのは大きな罪だ。
司馬が意図したわけではないだろうけど。
64 :
日本@名無史さん:02/08/24 22:18
山県閥の末裔、文藝春秋の害悪を考えても山県の害悪ははっきりしているだろ
65 :
日本@名無史さん:02/08/24 22:20
>>64 なぬ?山県と文藝春秋ってなんか関係あんの?
66 :
日本@名無史さん:02/08/24 22:43
きくちかんと関係あんの?
67 :
日本@名無史さん:02/08/25 11:55
>>65 総理の条件とか言う福田和也の電波本で
岸信介、佐藤栄作、山県有朋の評価が高かった
68 :
日本@名無史さん:02/08/25 13:37
安重根が伊藤ではなく山縣を頃していたら・・・・。
日本でも義士と呼ばれていたかもしれん。(藁
69 :
日本@名無史さん:02/08/25 18:45
>>67 福田も庭師や芸術の話でしか山県を褒められなかったからな
山県評価の(+面での)まともな歴史家の登場を待つところだ
70 :
日本@名無史さん :02/08/25 20:47
決して表に出ない業績というのもあるぞ。
帝国主義時代華やかなりし頃に軍事防諜を一手に司っていた彼は、
少なくとも日本をミャンマーやカンボジアにしなかっただけでも、
十分な評価が与えられるべきだと思う。
71 :
日本@名無史さん:02/08/25 20:54
正直に言えば伊藤の理想的過ぎる政策では乗り切れたかどうか。
あの時代のトレンドでは内も外もバリバリの帝国主義的統制手法が、
生き残る為の唯一の施策だったともいえる。
山縣公没後も引続き大幅な改良が行われる事も無く、
と言うよりも政策を再検討するだけの余裕も能力もある政治家は、
いなかったし、アメリカからの日英離間策に対抗できるだけの、
優秀なヴィジョンを持った政治家や官僚や外交官が出て来なかった。
72 :
日本@名無史さん:02/08/25 20:57
或る程度貧富の差を拡大してエリートはエリートとして教育する事が、
国としての安全上も日本にとっては必要なのだろう。
皆が皆日本人としての義務を日常から果すとは絶対に限らないし、
子供だから純粋無垢だと言う事は絶対に無いのだから。
本当に優秀な政治家というものは事に当たって酷薄とまで見られ、
裏切者だと悪魔だと罵られるような人間でなければ勤まらない。
74 :
日本@名無史さん:02/08/25 22:45
天皇は国民の幸せのためにあるのだからいくら利用してもいいんじゃない
75 :
日本@名無史さん:02/08/25 23:43
>>67 高いのは当然と思うのだが。
良くも悪くも、日本を作った一人だゾ彼は。
そして彼自身は大した失策はない。
76 :
日本@名無史さん:02/08/26 01:30
>>75 >良くも悪くも、日本を作った一人だゾ彼は。
その通りだ。
俺は小・中学生の間は山縣の名前を知らなかった。
高校の日本史で初めて知った。
伊藤より山縣の方が戦前の日本に置ける存在は遥かに大きいことを知った。
山縣は軍人的発想で物事を処理していたが、
各時局での判断・処置には大きな失敗をしなかった。
対米開戦、敗戦の原因を山縣に押し付ける者が少なからずいるが
それは筋違いも甚だしい。
本当に問題なのは山縣死後、
国際情勢・国内の状態を認識しそれに適合した政策・対策ができなかった者どもの責任だ。
そして彼自身は大した失策はない。
強力な官僚機構の構築は日本の生存という面から見れば褒められたモンだったのではないかと。毒も強かったが。
78 :
日本@名無史さん:02/08/26 18:54
元老は伊藤と山縣だけでよい。
後は数合わせに過ぎん。
>>77 明治の日本は毒を打ち消すだけの強い野党がいなかったからね
いたとしても西郷みたいにクーデータ起こして勝手に自滅していたし
3傑かそれに次ぐクラスの元勲で、政権奪取する気はゼロで、軍隊とは全く縁の無いポジションにいて
しかも薩長どっちにも口出しする人がいれば明治の歴史もずいぶん変わっていたと思われ
80 :
日本@名無史さん:02/08/27 00:09
>>79 いちおー、西園寺にそのポジションが期待されただろ。
伊藤も岩倉もその気で修行させてたし。政友会譲ったし。
でも気力に欠ける。肝心なところでヘタれて逃げる。責任転嫁は公卿の常か。
元老の数合わせも末期は山縣・松方・西園寺でそこそこの見識はあっても
もう時代が、諸勢力が敬してこれを遠ざける状態。松方なんぞ元老にいれずともよかった。無用。
大隈と山本権兵衛が元老に追加されなかったことがその後の日本の進路を決めたであろう。
山縣を以って、最後の元老としたほうがよいのであろう。
西園寺は軍にも官僚にも押さえがあまりにも効かなかった。原のような人物にかつがれて
なんぼの柔弱政治家。原田熊雄に情報収集させてのほほんと聞いてる場合ではなかった昭和初期。
あまりにもふがいなかった。
結局明治政府は元老の存在を前提にしていたのが失敗の原因だったのな。
もっと言えば元勲達並みの政治感覚を持った後継の育成の失敗が。
元勲がいればこそ議会が必要なかったし内閣が必要なかったし官僚機構が生きた。
欠陥を抱えた民主制より有能な貴族達の独裁の方が上手くいっていた。
それが「良かった」とは言いたくはないけどね。。。 スレ違いスマソ。
82 :
日本@名無史さん:02/08/27 23:49
>>81 主旨は御尤も。わかります。
憲法起草の中心であった伊藤からして自分たち元老が運営、もしくは後見してないと
成り立たない政体であったことは自覚していたはず。憲法を掲げながら法治主義手前の元老人治主義。
大正もすぎて昭和にはいれば、もう金科玉条の憲法として誰も憲法改正なんぞできない状況。
特に軍部に関する統帥権をはじめとする条文。
これらは山縣ら元老が不動の信念を持たねば改正なぞ無理。
西園寺も松方も老いて、そのような難事業に取り組むのは不可能だったし。
プラス「明治大帝の御世において日清・日露戦役これで乗り切った」という付加価値までついた。
もはや元老の手を離れた憲法だったといえよう。
84 :
日本@名無史さん:02/08/28 19:32
85 :
日本@名無史さん:02/08/30 14:55
彼が西園寺ほど生きていれば、亡国はなかった。
せめて軍閥闘争が始まるまで生きていればなあ。
(山縣が死んだ事によりおきたのだから無理だろうけどね)
山縣公が死んだ事により起きたと言うよりも、
彼が利用したシステムに彼自身が裏切られたというのが真実でしょう。
参謀制度を取り入れたのは彼だったかな。
軍政と参謀二本立てシステムを取り入れたのまでは見事だったけど、
どちらが主で、どちらが従か、もっと言えば、
そもそも政府の中で軍というものがどんな地位を占めるのか、
彼自身が終生現役元帥軍人であったために、
国家にとって一番致命的な問題に客観的に取り組めなかったのだと思う。
彼を利用して自己の勢力拡張を図った奴らが一番悪いけど。
組織としての分限が明確でなければ、
果てしの無い責任感は永久に前進しつづける。
中共は日本を徹底的に研究してるんだろうな。
だから真正エリート部隊の口から、
ああいう言葉が出るんだろう。
88 :
日本@名無史さん:02/08/30 19:10
>>86 参謀府の地位を確保したのは児玉だったような記憶があるが。
山縣自身は陸軍内での権力を握り国政にも影響力を保つためにその頭に納まったように思う。
大本営という仕組みも伊藤・山縣・明治天皇というエレメンスによって支えられていた微妙なバランスが
彼らの死後崩壊した。
89 :
日本@名無史さん:02/08/30 20:38
足軽のことなんか話題にして何が面白いの?
90 :
日本@名無史さん:02/08/30 21:02
水呑み百姓の89がひがんでます。
91 :
日本@名無史さん:02/08/30 21:55
>>89 足軽?
本当にそう思ってるの?
小説しか読んでないお話好きな
>>89に乾杯
92 :
日本@名無史さん:02/08/30 21:56
93 :
日本@名無史さん:02/09/05 21:08
ここは山縣スレだよな、なのに山縣あまり出てこんなあ
やはり山縣は人気ないということか。
94 :
日本@名無史さん:02/09/05 22:56
山縣と組織がメインテーマです
組織と言えば現在の官僚制度を創ったのは山県だときいたけど、(政治首脳が替わっても
官僚首脳は替わらない制度。山県は台頭してくる政党政治に対抗して創ったという。)
誰か、この辺ご存知の方いませんか?
96 :
日本@名無史さん:02/09/06 00:49
>>95 たしかに山縣は官僚制度を強固にして(むろん自分の息のかかったことを前提)
政党の進出に備えていたといえよう。
でも、時代が下るに連れて、一応二大政党制(政友会・民政党<憲政>)が確立しつつ
あるときには、政権が変る度に地方の首長・警察関連の大幅な人事異動は当たり前。
当然文官制度になった際の台湾総督もどっちかの色がついた官僚あがりにすげかえ。
けっこう今のアメリカの政権交代の際における大規模な模様替えと似ていた。
特に国内政治の要であり、山縣が重視した内務省は振幅が激しかった。
昭和に入るとまた模様が変りますが。
97 :
日本@名無史さん:02/09/06 01:12
山縣家は長州では何石取りの武士だったの?
98 :
日本@名無史さん:02/09/06 19:19
山縣や伊藤は運が良かったよね
上司が勝手に死んでくれたから
文字どおり美味しいとこ取りだね。
99 :
日本@名無史さん:02/09/06 20:10
アポ―ですか?
普通は上司と共に失脚します。
権力を握れたのは、彼らの実力に他ならない。
人気ないのでこのスレ終了
以後、「山縣有朋・伊藤博文・井上馨の明治の三元老について語るスレ」に改組
102 :
日本@名無史さん:02/09/06 23:50
>>99に同意。
山田顕義なぞは大村益次郎の死とともに陸軍での後ろ盾なく司法の世界に移転。
長州閥で数少ない軍事的センスがあったのに、である。
山縣はもちろん、児玉源太郎もあやういところであったが、抜群の功労で
陸相・文相・内相・台湾総督を歴任。日露戦争のプランニングも手がけるにいたる。
乃木希典が入隊当初から「少佐」という毛並みの良さに比べ児玉は「軍曹」だった。
藩閥の影響は大きいが、個人の力量を矮小化してはならない。
103 :
日本@名無史さん:02/09/06 23:53
>>101 確かに明治日本はその三人に率いられたと言える。
105 :
日本@名無史さん:02/09/07 00:00
下っ端だったと思う。
106 :
日本@名無史さん:02/09/07 12:04
>>102 児玉はその後神風連の乱を鎮圧すると言う大手柄を立てたからねえ
107 :
日本@名無史さん:02/09/11 05:39
山縣と山田顕義の確執は山縣が勝利したといえるんですよね?
長州閥の、陸軍制度をめぐる内ゲバで。
武士時代の格や、戊辰戦争での功績は山田のほうが上ですよね?
更に大村益次郎が後継として目をかけていたのも山田。そのライン上に児玉源太郎。
陸軍組織と内務系官僚の操縦で山縣が勝っていて追い出したということでしょうか。
その後も山田は司法大臣などで山縣内閣の閣僚なんかをしてますが、
結局のところこの辺の顛末はどうなっているのでしょうか?教えてください。
この辺を解説してあるいい本がありましたらそれも教えていただきたいです。
伊藤博文・山本権兵衛・原敬と並み居るライバルがいますが、
山縣にとって最初の政敵は山田顕義と思えるのですが。
伊藤博文 山県有朋 井上馨 西園寺公望 桂太郎 西郷従道 大山巌
松方正義 黒田清隆
109 :
日本@名無史さん:02/09/11 08:50
山田は平時には自分は必要無いからと言って、飛び出したと言う逸話がある。
平時なら、山縣大山でも勤まると言ってね。
本当の所どうかはしらないけど、4境戦争では井上なども最初は参謀していた、
畑を移った人も多いし、不思議じゃないよ。
それに司法ってのは決して権力が弱いところではないからね、
実際一時期ここのせいで長州閥が壊滅の危機に追い込まれたしね。
抑える意味でも、彼が行ったんじゃないの?
その結果、陸軍、外務、財務、内務、司法といった有力な省を全て、
長州閥の傘下におけたんだし、実は計算つくかもよ。
110 :
日本@名無史さん:02/09/12 01:06
全ては大久保の死から始まった
111 :
日本@名無史さん:02/09/15 09:21
もと山県の副官だった渡辺錠太郎大将は、山県を「軍人として唯一尊敬できる方」
と言われていたけれど、なぜ渡辺大将は山県をそんなに尊敬していたのかが
よくわかりません。渡辺大将は、派閥もつくらず、学者軍人として過ごした方で
教育総監にはなったものの、ものごとをはっきりいう人のためかよく思われて
おらず、「どさまわり」が多かったひとだと思います。そのひとがなぜ、「腹黒く、
派閥をつくり、生涯権力に固執しつづけた」と後世評価されている山県を尊敬していた
のでしょうか?
112 :
日本@名無史さん:02/09/15 23:17
彼は部下の面倒見はよかったからじゃないの?
ただ何事も自分でしないと気がすまない性格なので、
多干渉を嫌う人からは、嫌われていたようだね。
野心家にとっては、なにも干渉しないお飾りのトップがよかったのだろう。
元勲が消えたあと・・・昭和に暴走した青年将校を御せる人材はもう存在しなかった・・・。
age
115 :
日本@名無史さん:02/09/23 12:34
アゲアゲアゲアゲアゲ阿賀絵アゲ阿賀絵あげあがえがげがえあげあがえががえがげあ
116 :
日本@名無史さん:02/09/23 12:35
>113
日本の政体って未熟だったんだね。
むしろ成熟期だっただろうな。一部のトップダウンから複数の派閥による
談合、根回しの移行形成がみられる。未熟だったのはマスコミなどの批判勢力
だろう。今も一部残っているようだが権力者に密着し番記者と呼ばれる事実を
報道せずに伝聞で権力者の意思伝達機関と化している状況がみられる。
皆、知ってはいたが・・報じようとするものはいなかった状態。
118 :
日本@名無史さん:02/09/24 18:15
官僚が政治家への転身を始めてから
意見をまとめる役割を果たせる人が政党内で少なくなったことも
軍部の政治介入を容易にしたかも知れない
119 :
日本@名無史さん:02/09/26 04:50
age
120 :
日本@名無史さん:
>>117 >皆、知ってはいたが・・報じようとするものはいなかった状態
田中角栄の悪事が新聞以外から明るみに出たことについても、
政治部記者は「そんな事は俺たちはとっくに知っていた。」とうそぶいたらしい。