乃木を語れ!

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1日本@名無史さん
乃木希典。彼を語る者来たれ。
2日本@名無史さん:02/06/19 00:10
ここにいたるまでの死闘の記録

二百三高地ってどうなの?
http://yasai.2ch.net/army/kako/1008/10080/1008063435.html
二百三高地パート2
http://yasai.2ch.net/army/kako/1011/10116/1011605091.html
乃木さんて、どういうひと?
(前のが大きすぎて読めません。倉庫をさがせ)
続・乃木さんて、どういうひと?
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1000326922/l50
奉天大会戦について語りましょう
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/army/1015942799.html
日清戦争を味わうスレッド
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/army/1022040733.html

YAHOO掲示板をこえた日本有数の論議は2chが誇っていいものだ
3日本@名無史さん:02/06/19 00:59
>2
下の2つ、過去ログ倉庫にもありませんでした、って出る…
あと、ここは必要でしょうか?

二○三高地PART3
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/army/1022340773/

ともかく、乃木(と第三軍)語りを引き続き楽しみにしております。
4嶽原:02/06/19 07:53
『続・乃木さんて、どういうひと?』
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1000326922/l50

 上記スレは09月13日(乃木の命日)のスレ立てから九ヶ月後の
06月19日0750、目出度く1000オーバーとなりました。
5嶽原:02/06/19 08:02
 前スレの958にて、第一師団長が辞めさせられた理由は何だろうか、
というのを、958氏が疑問提示されておりました。
 それに答え960氏は
 『その原因を追求したら面白くなるだろ・・<w 
  今までの嶽原のデムパが水の泡』
 と答えられておりますが、はっきり言って960氏のこの言は意味不明です。

 第一師団長は、戦病死ではなかったでしょうか?
 当方の記憶では、「日露戦争実記」にて、第一師団長死亡を伝える記事を
見たような覚えがあります。

 詳細をご存じの方は居られませんか?
 前スレ960氏は、『原因を追求したら面白くなる』と述べております。
どのように面白くなるといわれるのか、960氏にお聞かせ願いたいものです。
6日本@名無史さん:02/06/19 08:17
>>1を嫁にもらう前に
言っておきたい事がある
かなりきびしい話もするが
俺の本音を聴いておけ
俺より先にレスをしてはいけない
俺より後にレスもしてはいけない
AAは上手く作れ いつもきれいでいろ
出来る範囲で構わないから
忘れてくれるな 煽りも出来ない男に
板を守れるはずなどないってことを
お前にはお前にしか できない煽りもあるから
それ以外は口出しせず
黙って俺についてこい
7日本@名無史さん:02/06/19 08:18
お前のレスと他人のレスとどちらも
同じだ大切にしろ
ジサクジエーンかしこくこなせ たやすいはずだ
煽ればいい
他人の煽り言うな聞くな それからつまらぬ
レスはするな
俺はレスはしない たぶんしないと思う
しないんじゃないかな
ま、ちょっと覚悟はしておけ
板はみんなで育てるもので
どちらかが苦労して
つくろうものではないはず
お前はこの板へ 己を捨てて来るのだから
帰る場所は無いと思え
これからこの板がお前の家
8日本@名無史さん:02/06/19 08:18
板が育ってキリ番をとったら
俺より先に逝ってはいけない
例えばわずか一行でもいい
俺より早く逝ってはいけない
何もいらない 俺の煽りを握り
涙の煽り ふたつ以上記せ
お前のお陰で いい板だったと
俺が言うから 必ず言うから
忘れてくれるな 俺の煽る奴は
煽る奴は生涯お前ひとり
忘れてくれるな 俺の煽る奴は
煽る奴は生涯お前 ただ一人
9日本@名無史さん:02/06/19 11:35
自作自演はもう秋田
10嶽原:02/06/20 05:32
以下、前スレの議論の続きです。
11嶽原:02/06/20 05:33
>「続乃木スレNo.978」
●夜間ではなかったのですが……
 11/26の白襷隊夜襲の失敗が、地理不案内に原因するものであることはわか
ります。夜間の前線への移動は困難を極めたわけです。
 11/28の夜の攻撃時に馬場少将が増加を止めたのも、夜間では整理すら難し
いということに依るのでしょう。

 第七師団兵力の夜間使用は不可、それはわかります。
 しかし第七師団兵力が爾霊山近辺に投入されたのは1600頃です。この、夕刻
の頃の戦闘においては、第七師団兵力が地理不案内で失態を犯した、というこ
とはなかったと思いますが、そのようなことを示す資料でもお持ちですか?
12嶽原:02/06/20 05:34
>「続乃木スレNo.979」
●曹家屯の部隊は、休憩・食事込みで、七時間半で二百三高地に達する
『>第7師団を前戦まで行程約一日というのは曹家屯から碾盤溝まで4時間以上。
そこから休憩、食事を含めて5時間半。碾盤溝乃至大目にみて164高地から二百三高
地へは正午頃発令、発進して増援が2時半に到着しているところから2時間程度かか
ることがわかる。合計7時間程の行程です』

 曹家屯から二百三高地まで七時間半。食事・休憩込みで、ですね。

 総司令部所見の『一日行程の距離』という言葉からは、前線(爾霊山)到達まで
一日掛かりという遠距離にいた、というように読めます。24時間経たなければ部隊
が到着しない、そういう認識が伺えます。
 しかし貴方が述べられた説に従えば、食事・休憩込みで七時間半です。総司令部
所見の言葉は、大袈裟であると思います。
13嶽原:02/06/20 05:36
>「続乃木スレNo.981」その1
●成功・不成功の評価
>>0810(西南)他隊、突撃。一部成功。
 >第2散兵壕を奪取、山頂には進撃できず。を一部成功?』
 「成功」・「不成功」(またその説明「一部成功のち撃退」など)の評価は、
当方が下したものではありませんよ。「戦史講義録」(大正14年陸軍大学校将校集
会所)での評価です。

●足手まといと判断すべし
『>功績が第7師団だけであれば増援を出している意味があるが、第9師団長の見
解や白襷隊の失敗要因、また後ほど大迫師団長が述べている地理不案内を解消でき
る時間が無いところから、足手まといになったと判断すべし』

 文意が全く判りません。
 第七師団増加兵力はあくまで予備隊兵力、従来の部隊への増加兵力なのです。
従来の部隊を差し置いて、増加兵力だけで功績を挙げられるわけがありません。
 28日の第七師団増加兵力を、足手まといとする考えは、いったい何の資料を読ま
れての認識でしょうか。上記の貴方の言は、まったくの暴言と感じました。
14嶽原:02/06/20 05:38
>「続乃木スレNo.981」その2

●第26連隊第一・第二大隊の位置
『1430 第一大隊03.04中隊、爾霊山東北部へ増援投入下令。←師団司令部発進
 1500 第二大隊05.06中隊、爾霊山西南部へ増援投入下令。←師団司令部発進』

 あなたは上記のように『師団司令部(164高地)発進』としていますが、この二個
大隊は、27日夜には既に、予備隊の詰め位置である大頂子山に進出済みです。

●『>また1刻を争う争奪戦に2時間以上もの距離に予備部隊を置いている第一師団
も非難を免れない。』

 上に示しましたが、26連隊二個大隊は、27日夜の時点で既に164高地ではなくて
大頂子山に進出しています。2時間以上もの距離というわけではありません。
 ……どうも予備隊位置を実際よりも遠方であるとする認識は、かなり根強いもの
のようですね。

●『また満遍なく老虎溝山、東北、西南を攻めた方法もまずい』
 まずかったとは思いますが、これは結果論だと思います。
 露軍が散々痛撃された12/05日の状態ですら、西南のみの確保では弾着観測がまま
ならず結局東北も陥とさねばならなかったのですから。
 まだまだ頑健だった26日の頃に一箇所だけを攻めていたら……むしろ散々だった
かもしれません。
15嶽原:02/06/20 05:40
>「続乃木スレNo.982」その1
●泥縄
『>作戦発令と同時に5分の1が出発したわけで泥縄的といえます』
 「必要な事態が生じてから手段を講ずること」を「泥縄」と言うと思うのですが。
 まだ爾霊山攻撃も始まっていない時点での曹家屯部隊移動命令が、なぜに泥縄的
といえるのか判りません。

●直ちに攻撃開始という点は、第一師団も同意で決定したことです
『>もし前もって打ち合わせできていたら、1日以上を時間をあけ第1師団参謀の案
の通り、第7師団の到着を待ち地理不案内を解消し、全力をもって二百三高地を攻撃
できる態勢を作っているでしょう』

 前もって打ち合わせしていますよ。
 まず軍参謀が、電話で第一師団参謀に相談して、それから打ち合わせが行われて
います。その打ち合わせの中で、第一師団参謀長星野大佐は『攻撃するなら牽制効
果が焼失しないうちにできるだけ早く実行したほうがよい』と述べたそうです
(「日露戦争」児島襄)。
 あなたが言われている、「一日以上を時間をあけ第一師団参謀の案の通り」とい
うのは、私は初耳です。どの資料にそのような事が書かれているのでしょうか。
 星野大佐の言葉で判るように、東北方面攻撃が牽制として作用しているうちに…
というのは、第一師団も同意のうえでの決定です。
16嶽原:02/06/20 05:44
>「続乃木スレNo.982」その2
●27日攻撃を開始するにあたっては、時間的制限があった
『>大迫師団長が1日の余裕を見たのと対照的です。』
 27日の二百三高地攻撃の際には、同日未明まで継続していた東北方面攻撃が牽制
として作用しているうちに開始する、という事が考慮されています。これは軍司令
部のみならず、第一師団司令部も共通の見解です。

 攻撃開始に関しては、切実な時間的制限があったのです。
 29日に大迫師団長が一日の余裕を見たときは、既に27日未明までの東北方面攻撃
の牽制としての作用は失せておりますから、余裕も生まれたでしょう。
 27日と29日では情況が全く異なります。27日の情況では、一日以上時間を空ける
なんてことは出来ません。

●どこからの批判?
『>作戦発動前と述べていますが、兵力の到着を待って攻撃せよ等の命令を出せる
立場の軍司令部がそれを行わず、結果的に泥縄になったのは批判(訓令)を受けて
ますね。』

 27日に、牽制効果を重視して二百三高地攻撃を直ちに開始したことについて、
いったいどこが批判しているというのですか?

 総司令部所見の前段は、第三軍が西方に主攻を転換したこと自体は、総司令部の
同意するところである、という意味の文章ですのに。

 上記のように、牽制効果を重視して直ちに攻撃することが選択され、兵力の到着
を待って攻撃ということは選択させませんでした。これは、軍司令部のみの独断に
よるものではなく、第一師団司令部と前もって協議した結果の選択です。

 そしてこの選択は、総司令部参謀福島少将の同意も得たものなのですが?
 「……福島少将は、だんだん状況を聴かれて、『それではご許可は後でもよい、
自分が責任を負うて同意するから一刻も早くするがよい』と言われ、それで軍司令
官もご決心になって……(白井軍参謀の講義録より)」
17嶽原:02/06/20 05:47
>「続乃木スレNo.982」その3
●津野田の言は、予備隊投入のことを言っているのですか?
『>津野田大尉は11/30に兵力の逐次投入は不得策だから第7師団全力で攻撃をさ
せるべきである。とこの時点で見解を述べています。第3軍がそのとき泥縄と認め
ていることに対し後世の貴方が言い分けするのはとても愚かだと思います。』

 津野田のこの言は、第一師団長の例の言葉「師団現下の兵力にては到底攻撃を再
興することを能わず」いわばギブアップ宣言を受けてのものです。これによって、
疲弊した第一師団に代わり、第七師団が二百三高地攻略の指揮を執ることになりま
した。

 つまり津野田の言は、これまでの主(攻略の指揮権)が第一師団、従(予備隊の
抽出元)が第七師団という関係を逆転させ、疲弊した第一師団ではなく元気な第七
師団に攻略の指揮権を与えることについての言葉です。
 泥縄的かどうかで論点となっている予備隊のことについての言ではありません。

 また津野田大尉の進言は、「日露戦争(児島)」によれば29日となっています。
18嶽原:02/06/20 05:51
>「続乃木スレNo.983」
●29日の移動は二個大隊?
『> 11/29 明朝 更に2個大隊移動?
 第7師団主力6個大隊は周家屯付近にあるな・・。泥縄に2個大隊ずつ投入している
現実が見えてきますね。』

 御自分で「二個大隊移動?」と疑問視しておきながら、その直後にその疑問点を
「二個大隊ずつ投入している現実」などと現実として認識を変えてしまっている点
は、理解に苦しみます。

 そもそも、29日は、五個大隊が移動しております。
 二個大隊ずつ投入している現実……?そう書かれている資料をお知らせ下さい。
ちなみに五個大隊移動とする当方は「公刊日露戦史」を資料としております。
19嶽原:02/06/20 06:25
>「続乃木スレNo.990」
『>今村大将も旅順攻略は乃木しかできないといっているけど』

 今村大将は、それを聴いた側です。述べたのは上原元帥。
20嶽原:02/06/20 07:22
>「続乃木スレNo.977・978・993・995」
 ●不案内
 公刊戦史には、「道を誤り」など地理不案内による部隊の混乱振りを示す記述が
沢山あります。しかしその時間帯は、そのほとんど全てが夜間なのです。昼間
の行
動においてそのような混乱振りを示す記述は非常に稀です。

 そして、論点の28日の夕刻の攻撃のところには、全くそのような記述はありません。
21嶽原:02/06/20 07:24
>「続乃木スレNo.996」
 ●総司令部所見の批判点は?
 総司令部所見の批判点を確認して下さい。地理不案内が問題となる夜間の
戦闘が非難されているわけではありません。
 「一度奪還した山頂を再奪還されていること」を批判しているのです。
「再奪還された原因は、予備隊の位置が遠かったからだ」と。
 山頂が露軍に再奪還された戦闘の時刻は、西南部では1030、東北部では
1700。この時刻の戦闘で再奪還されたことを、総司令部所見では批判してい
るのです。

 あたかも、曹家屯という遠方に軍総予備隊が置かれていたために予備隊が
二百三高地周辺に充分なかったかのように書かれていますが、実際はその時、
周囲に予備隊は充分置かれています。
 西南部での1030時の戦闘の際には、第七師団抽出兵力予備隊はおろか、
第一師団の予備隊すらも残存していた状況なのですから。
22鉗狂人:02/06/20 07:45
あなたの周りには
あなたの言うことを
聞いてくれる人が
いないのね
そりゃ そうだ 身勝手なガイキチさんだもん
23日本@名無史さん:02/06/20 08:00
>>22
涙目で煽り(笑)
24日本@名無史さん:02/06/20 08:06
>>11 >>13

>しかし第七師団兵力が爾霊山近辺に投入されたのは1600頃です。この、夕刻
>の頃の戦闘においては、第七師団兵力が地理不案内で失態を犯した例

失態を犯さなかったら成功か? 愚能でなかったら有能か?
デジタルな思考ですね。

私の推測の域を出ません。でも11/29に主力が地理不案内の解消を
している以上、彼らも地理不案内であったと言えるでしょう。
そもそも地理不案内という状況はどういうことか?を認識していない
貴方に(軍の1日の行程が24時間と述べた位)は理解できないと思います。

地形が読み取れない(昼間ならアソコに突撃せよと命令されればできますね)
という事は相手陣地のことがしっかり伝わっていないということ。
相手や地形を知らずして勝てるとあなたは述べているに等しい。
これらの事実は大隊指揮官や中隊指揮官にしてみればただ 突撃せよと言われるまま
という彼らの戦後の感情からも伺えます。

こういう事をしているから軍や師団は批判を受けているの。

あ、そうか大山訓令を否定しているんだよね。あんたは。
25日本@名無史さん:02/06/20 08:07
>>12
>総司令部所見の『一日行程の距離』という言葉からは、前線(爾霊山)到達まで
>一日掛かりという遠距離にいた、というように読めます。24時間経たなければ部隊
>が到着しない、そういう認識が伺えます。
>しかし貴方が述べられた説に従えば、食事・休憩込みで七時間半です。総司令部
>所見の言葉は、大袈裟であると思います。



 >776において、1430 第一大隊03.04中隊、爾霊山東北部へ増援投入
         1500 第二大隊05.06中隊、爾霊山西南部へ増援投入
 というのは松本師団長が下令した時刻ですよね。

つまり前戦に到着したのは1500以降と認識すべきで、前日の11/27の15:30に
出発して前線(二百三高地付近)に投入されるのが11/28の1500、
戦闘参加が同日1530というのが>776で書いているにも関わらず実際一日程度
かかっている時間を一日行程でないとも述べています。
これはおかしいですね。

また嶽原氏はなぜか師団司令部付近に到着=前戦=主戦場と解しています。
何ゆえ師団司令部付近=前戦=203高地付近となるのかがわかりません。
 
 二百三高地付近=前戦=師団司令部と置き換えることによって、大山訓令に
対する屁理屈だということが解りますね。
26日本@名無史さん:02/06/20 08:08
>>15-16
>まだ爾霊山攻撃も始まっていない時点での曹家屯部隊移動命令が、
>なぜに泥縄的といえるのか判りません。

作戦発動前と述べていますが、兵力の到着を待って攻撃せよ等の命令を出せる立場の
軍司令部がそれを行わかったのは怠慢ですね。

>第一師団参謀長星野大佐は『攻撃するなら牽制効果が焼失しないうちにできるだけ早
>く実行したほうがよい』と述べたそうです

>29日に大迫師団長が一日の余裕を見たときは、既に27日未明までの東北方面攻撃
>の牽制としての作用は失せておりますから、余裕も生まれたでしょう。

参謀長 星野金悟大佐の解答

『従来の本攻撃は二百三高地攻撃のためにはあたかも強大な牽制を
 行いたる感あり。故にこの際、軍が死力を尽くして攻撃せば、成功の見込みあり』

乃木の決断
『重砲の準備整えば、師団は今27日にでもただちに攻撃を決行すべし』

11/27 
 『他の正面特に従来の攻撃正面に在りては、努めて攻撃を継続し、二百三高地
攻撃に対し当面の敵を牽制すべし』

 

 軍が死力を尽くして攻撃せば・・・、第7師団を手元に大半を置いてるのは
なんででしょ。とても軍が死力を尽くしてとは思えません。
 まず予備隊が全力を発揮できる状況を作り出さなければならないと思うのですが、
そうはなっていませんね。
 準備砲撃を午前中行って、午後突撃って毎回のパターンを繰り返してますが。
 これが死力ですか??これで牽制効果を得られるのですか?

 もともと大本営、満州軍が二百三高地攻略用としておいて置いた第7師団
を活用できる状況にもっていくのが普通でしょ。それを時間がないから
仕方なかったなんて言い訳をするのは腹が立ちますな。
 第三軍の言い訳はそれが多い、時間がないから急いでやった。急いで
やるのだから、ミスは当たり前。なんてのは社会人としては失格ですけどね。
27日本@名無史さん:02/06/20 08:09
>津野田のこの言は、第一師団長の例の言葉「師団現下の兵力にては到底攻撃を再
>興することを能わず」いわばギブアップ宣言を受けてのものです。
>つまり津野田の言は、これまでの主(攻略の指揮権)が第一師団、従(予備隊の
>抽出元)が第七師団という関係を逆転させ、疲弊した第一師団ではなく元気な第七
>師団に攻略の指揮権を与えることについての言葉です。
>泥縄的かどうかで論点となっている予備隊のことについての言ではありません。


津野田の言葉の後に乃木は第7師団長大迫中将に指揮権を渡しますが、決して
津野田は第7師団に交替すべしなどは提案していません。

予備部隊を逐次投入はまずいから第7師団(軍予備)全力で攻撃せよと
言っているとしか思えないが。

津野田大尉の言葉と大山の訓令は一致しますねぇ。乃木は気付いてなかったようだが。
28日本@名無史さん:02/06/20 08:19
>>21
>総司令部所見の批判点を確認して下さい。地理不案内が問題となる夜間の
>戦闘が非難されているわけではありません。
>「一度奪還した山頂を再奪還されていること」を批判しているのです。
>「再奪還された原因は、予備隊の位置が遠かったからだ」と。

『訓令 
 今回二百三高地に対する戦闘の情況不利なるは、指揮統一の宜しきを得ざるもの
多きに帰すると言わざるを得ず。畢竟高等司令部及び予備隊の位置遠きに失し、

【敵の逆襲に対しこれを救済するの時期を誤りたるものなり。】貴官深く此に鑑み、

明朝の攻撃に当たり手は必ずこの弊を除き、各高等司令部適当の位置に進出して自
から地形と時期とを観察し占領の機会を逸せず、かつその占領を確実にすることを
期せらるべし(明治軍事史)』

確認したけど、予備隊が遠いからじゃなくて下記の通りなんだけど・・・。

敵の逆襲に対して之を救済するの時期を誤りたるものなり として
批判しているの。これは増援もさることながら、防御砲火も含まれる。
資料沢山読んでも、読めなかったら同じ。いい加減乃木マンセーな
見かた止めたら。
29日本@名無史さん:02/06/20 08:20
>>22 嶽原の乃木感は乃木マンセーだから仕方ない。

普通は両面を満遍なく書いていくもんだけど・・彼にはそれがほぼない。
30嶽原:02/06/20 12:46
>>24
『>失態を犯さなかったら成功か? 愚能でなかったら有能か?』
 失態を犯さなかったら成功などと、当方がいつ述べましたか。
 第七師団部隊地理不案内として貴方が挙げられた事例の時刻が、全て夜間の
もの
である事に対して、夕刻の事例で地理不案内のため失態を犯したという事
例を
挙げることはできないのでは、と述べているのです。

『>私の推測の域を出ません』
 >>24は当方レス(>>11)への返信のようですが、11にて資料はありますか、
と尋
ねた回答がこれですか。
 夕刻(1600)の戦闘で地理不案内による不都合が生じたことを示す資料は、
やは
りそちらにも無いという事ですね。了解しました。貴方の『推測』を補強
する
資料は、当方にもありませんでした。

『>相手陣地のことがしっかり伝わっていないということ。
 >相手や地形を知らずして勝てるとあなたは述べているに等しい』
 目標は狭小かつ孤立した山頂の奪取。命令内容は突撃して守備兵を追い落とす
という極めて誤解が生じにくい性質のものです。攻略ルートも、露軍側防を避け
るために自ずと限られます。
 白襷隊での第七師団部隊のように、山麓を縫って行軍するわけではありません。
31嶽原:02/06/20 12:47
>>26
『>兵力の到着を待って攻撃せよ等の命令を出せる立場の
 >軍司令部がそれを行わかったのは怠慢ですね』
 「兵力の到着を待つ」を選択するより、「東北方面攻撃の牽制効果が消失
しな
いうちにできるだけ早く実行する」を選択したのです。
 怠慢ではなく、その選択をしなかったということです。第一師団司令部と
の協
議のうえで。総司令部参謀の同意も得て。

『>第7師団を手元に大半を置いてるのはなんででしょ。
 >とても軍が死力を尽くしてとは思えません』
 第一線の攻撃を担当する師団司令部と、軍の戦線全体を管轄する軍司令部
とで
の、認識の相違であると思います。
 第一師団司令部は「死力を尽くして攻撃」して、ボロボロになっても二百
三高
地を落とすことで任務を果たすことができますが、軍司令部は「死力を
尽く
して援助」して、戦線全体に不都合を生じさせるわけにはいきません。

 軍の任務は「要塞の占領」であり、「主防御線より外側の一高地の占領」
では
ないのですから。
 軍総予備隊からの予備隊抽出、28榴砲の集中、東北方面を牽制射撃する事
で露
軍兵力の二百三高地集中を阻むなど、軍の戦線全体を管轄しつつ出来る
だけ
のことをしているのだと思います。
32嶽原:02/06/20 12:49
>>26
『>もともと大本営、満州軍が二百三高地攻略用としておいて置いた
 >第7師団を活用できる状況にもっていくのが普通でしょ。それを
 >時間がないから仕方なかったなんて言い訳をするのは腹が立ちます』

 ?二百三高地攻略用として?
 11月10日発電の、大山満州軍総司令官発・山県参謀総長宛の電報では、大山
総司令官は第七師団が二百三高地攻略用の部隊という認識を持っておりません。

 むしろ、『203高地を攻撃するを得策とする考案もあるが、なれども…』
『…旅順の死命を制するものにあらず…』『…観測点に利用せらるるに過ぎ
ず…』『…高地を占領したる後も猶、今日の如くなるを疑わざるを得ず…』
という認識を持っているに過ぎないようなのですが?
 これら前置きの末に、ようやくに『…しかれどもこの高地に対する顧慮を
放擲せざるは勿論にして、第三項の攻撃(松樹山・二龍山への攻撃)を遂行
するにあたり助攻撃をこの高地に向くる…』とする程度なのですが?

 腹を立てる、その前提の認識(二百三高地攻略用として置いた第七師団)に
問題があるのでは?と思います。
33嶽原:02/06/20 12:52
>>28
『>確認したけど、予備隊が遠いからじゃなくて下記の通りなんだけど・・
 > 敵の逆襲に対して之を救済するの時期を誤りたるものなりとして
 > 批判しているの。これは増援もさることながら、防御砲火も含まれる』

 指摘文章『敵の逆襲に対しこれを救済するの時期を誤りたるものなり』で、
要するに失敗した、と述べています。
 失敗した、と述べるその前に、その理由として認識している事を挙げている
文章があるでしょう?『高等司令部及び予備隊の位置遠きに失し』です。

 二つを元通りに繋げると、こうですね。
『高等司令部及び予備隊の位置遠きに失し、敵の逆襲に対しこれを救済するの
時期を誤りたるものなり』  ……つまり『高等司令部および予備隊の位置が
遠すぎた』ために失敗した(救援の時期を誤った)と批判しているのです。

 『救援の時期を誤ったために失敗した』というのは貴方の言われるとおりですが、
その原因として、訓令は『高等司令部および予備隊の位置が遠すぎた』ことを挙げ
ています。
 だからこそ、各高等司令部を適当の位置に進めよ、と続くのです。
34日本@名無史さん:02/06/20 13:19
広瀬武男のほうが格好井伊。
35日本@名無史さん:02/06/20 13:22
武田軍団(勝頼一人じゃないよ)の長篠特攻と被る愚行。
36日本@名無史さん:02/06/21 07:40

>>30 >目標は狭小かつ孤立した山頂の奪取。

 狭小かつ孤立した山頂の奪取ね。貴方、自分の過去ログ読んでいる?<w
二百三高地付近の連山が孤立しているなんて初めて知ったよ。資料出してくれる?<w
37日本@名無史さん:02/06/21 07:41
>>31 
>第一師団司令部は「死力を尽くして攻撃」して、ボロボロになっても二百
>三高地を落とすことで任務を果たすことができますが
>軍司令部は「死力を尽くして援助」して、戦線全体に不都合を
>生じさせるわけにはいきません。

 第一師団は二百三高地を落したの?軍司令部は二百三高地に
攻撃を集中してなかったんだよね。そして結果的に第一師団はボロボロになり、
第7師団に交替したけど、第一師団は任務を果たせたの?<w

 第一師団に二百三高地攻略を任せたのは誰?
 二百三高地がそんなに堅くなっていることを認識できないままなのはどこ?
 また11/30 第9師団の部隊を抽出して二百三高地方面に突撃しようとした乃木
 は何も考えてなさそうですなぁ・・。貴方の意見では<w
 
 大山訓令の中

『・・明朝の攻撃に当たり手は必ずこの弊を除き、各高等司令部適当の位置に
進出して自から地形と時期とを観察し占領の機会を逸せず、かつその占領を
確実にすることを期せらるべし(明治軍事史)』

 の批判とおりだと思いますが、貴方は違うようですね。
38日本@名無史さん:02/06/21 07:42
>>32 

 そうなんだ。11/21の大山訓令の影響を受けて 第三軍参謀長会合の後、
二百三高地攻略が第3回総攻撃のスケジュールに組み込まれたと思っていた
けど、あんたの意見では第三軍が自らの判断で第7師団を二百三高地攻略
に回したというのですか?その辺りのデソぱを聞きたい。
39日本@名無史さん:02/06/21 07:47
>>33

>指摘文章『敵の逆襲に対しこれを救済するの時期を誤りたるものなり』で、
>要するに失敗した、と述べています。
 
『高等司令部及び予備隊の位置遠きに失し、・・』

遠くにあって失敗し、という意味なんですけど・・。つまり貴方のは
遠くにあって失敗し、失敗した。なんていう意味になるのです。

要するに失敗したとか、二百三高地は要するに前戦とか・・
貴方の意訳は非常に楽しいですね。その癖、他の乃木に批判的な意見には
重箱をつつくのですから、このスレが錆びるのも目に見えてます。

ご自身でHPを作ったらいいのでは?
ここに投降するとか・・。http://www.nogijinja.or.jp/

匿名掲示板たる 2ちゃんねるで布教活動するのはどこかいいのでしょうかね。
40嶽原:02/06/21 08:33
>>39 ?あなたは「……位置遠きに失し、」というのを
「……遠くにあって失敗し、」と読むのですか?

 「遅きに失する」という言い方があるでしょう?これは「遅きに過ぎる」と
言う意味で、「失する」とは「〜であり過ぎる」という意味です。

『遠くにあって失敗し、という意味なんですけど・・。つまり貴方のは
遠くにあって失敗し、失敗した。なんていう意味になるのです(>>39)』

 当方は「遠きに過ぎ、失敗した」という意味で理解しております。
41日本@名無史さん:02/06/21 14:32

遅きに失するというのは 遅くて間に合わない、時期を失うと意味です。
遅きに過ぎるや〜であり過ぎるという意味ではありません。

42嶽原:02/06/21 21:19
>>41
 「失する」という言葉は、まあ「間に合っていない」「〜を失う」と
いうことを意味するわけですからね。

貴方解釈1「遅くて間に合わない」それで「失敗した」
    2「時機を失う」それで「失敗した」
当方解釈・「遅きに過ぎ」それで「失敗した」

 同じように思います。

 少なくとも、39の言われる「遠くにあって失敗し」の解釈のように、
「失敗」という訳語は含まれないわけなのですね。

 ちなみに広辞苑では「〜であり過ぎる」とされておりました。
43日本@名無史さん:02/06/21 21:43
>指摘文章『敵の逆襲に対しこれを救済するの時期を誤りたるものなり』で、
>要するに失敗した

そもそも失敗と要した嶽原がわりいな。なぜ略す?
 
44日本@名無史さん:02/06/21 21:47
すくなくとも嶽原は39の言うように重箱の隅をつつくしか能がない。


スレが廃る……………
45嶽原:02/06/21 22:59

>>36
●一本道
 二百三高地山頂を西北方から撮影した写真があります。
 撮影は西南部山頂へ続く道の脇からなされており、山頂までは攻路が構築
されていて一本道です。距離は250メートル。夕刻ならば全然迷うことはな
いでしょう。実際そのような記述は全然ありません。
●山頂は孤立
 この写真では高地山頂が空を背景にはっきりと孤立し、背景や至近距離に
別の山麓がかぶさるような情景ではありません。

「日露戦争を考える(丸別冊戦争と人物9)12〜13見開きP」
「秘蔵写真日露戦争(別冊歴史読本)132P」
「未公開写真に見る日露戦争(別冊歴史読本)22・23見開きP」
「激闘旅順・奉天(学研)104P」

●狭小
 山頂に達した増援部隊や山砲が、地積狭小のために後退しています。
●兵士のスケッチ絵
 日露戦争実記には兵士がスケッチした二百三高地の絵が載っています。
 これを見ると隣接の老虎溝山、あさっての方向に標高も低く記されて、
しかも二百三高地との間には谷地が刻まれ、全然別の山頂です。
46嶽原:02/06/21 23:00
>>38
●元々は東北方面用の部隊
 26日の攻撃時、第七師団部隊は第九師団に組み込まれていたのですよ?
第七師団は、元々は東北方面攻撃隊の予備隊として参加していたのです。

●総司令部参謀は西方面攻撃転換に、一度反対意見を述べている
 その後27日未明に、軍参謀が第一師団に電話して師団参謀と二百三高地
攻撃について相談をしています。軍参謀は第一師団の意図を確かめたのち
に、軍司令官へと二百三高地攻撃の意見を具申していますが、その時に総
司令部から派遣されて来順していた福島少将が、反対意見を述べています。

『……二百三高地に攻撃を転換するのであったならば、一辺総司令部の許し
を受けねばならぬ。自分はあくまでも現正面(東北)の攻撃を遂行せしむ
る様にせよとの任務だから、二百三高地に同意する権限は持たない……』

 この福島少将の言、『いっぺん総司令部の許しを受けねば』『自分は
あくまでも現正面(東北正面)の攻撃を遂行せしむる様にせよとの任務』
という言葉から、この時の第三軍の攻撃転換は、自らの判断であったこと
が判ります。
47嶽原:02/06/21 23:45
>>43『>そもそも失敗と要した嶽原がわりいな。なぜ略す?』

 なぜ、と言われても。もちろん『敵の逆襲に対しこれを救済するの時期を
誤りたるものなり』が長いから略したのです。

 ところで、そもそも、と前置きされているということは、現在に論じている
『「失する」とは「〜であり過ぎる」の意味である』ということで宜しいので
すね?

 広辞苑では、「〜に失する」という様に「〜に」を受けて「〜であり過ぎる」
との意味である、となっておりました。
 他に「失う」「なくする」という意味が紹介されておりましたが、>>39
言われる「失敗する」という意味は紹介されてなかったですよ。

 ところで貴方は39ですか?どうも匿名氏ばかりでよくわかりません。
48日本@名無史さん:02/06/22 06:17
●一本道
二百三高地山頂を西北方から撮影した写真があります。
撮影は西南部山頂へ続く道の脇からなされており、山頂までは攻路が構築
されていて一本道です。距離は250メートル。夕刻ならば全然迷うことはな
いでしょう。


○1本道に向って機関銃放てばどうなるでしょうな。いいんだよ彼は
 資料を自慢するだけなんだから。


●山頂は孤立
この写真では高地山頂が空を背景にはっきりと孤立し、背景や至近距離に
別の山麓がかぶさるような情景ではありません。


○他山からの側射を避けるために当然、他山の位置関係を把握しておかなければ
ならないと思うが・・・。また、中腹部の敵塹壕、敵陣地、地雷等の妨害設備も
知らなければならないし・・。
道に迷わなければ戦争ができると思っているのが痛いな。

●兵士のスケッチ絵

○いかにも二百三高地は一つの山というような書き方だな。二百三高地は
山頂は二つじゃないのか・・・・。
49日本@名無史さん:02/06/22 06:18
●元々は東北方面用の部隊

○11/21の大山訓令は無視ですか・・・・。
50日本@名無史さん:02/06/22 06:24
日本語講座
『訓令 
 今回二百三高地に対する戦闘の情況不利なるは、指揮統一の宜しき
を得ざるもの多きに帰すると言わざるを得ず。

@【畢竟高等司令部及び予備隊の位置遠きに失し、】
A【敵の逆襲に対しこれを救済するの時期を誤りたるものなり。】

 貴官深く此に鑑み、明朝の攻撃に当たり手は必ずこの弊を除き、
各高等司令部適当の位置に進出して自から@【地形】とA【時期】
とを観察し占領の機会を逸せず、かつその占領を確実にすることを
期せらるべし(明治軍事史)

 普通は全文 吟味するもんだけどね。省略してごまかすのが嶽原なのさ・
 
 布教活動は他でしたら?
51日本@名無史さん:02/06/22 06:44
ここは交換日記スレですか?
52日本@名無史さん:02/06/22 06:59
>>51 そうです。内容は愛に満ちています。
53嶽原:02/06/22 07:29
>>50
 当方も、当初に全文を掲げておりますよ(前スレNo.768)。
 日本語講座は、「〜に失し」を「失敗し」と解している>>39氏に
なさって下さい。

>>51
 言い得て妙。
54嶽原:02/06/22 07:30
>>49『11/21の大山訓令は無視ですか』
 21日の大山訓令は、二百三高地を攻撃に含めよ、というものですね。
そしてそれを取り入れて第三回総攻撃の計画が再提出されている。
 第七師団を軍総予備隊とするその計画を、総司令部は認可している
でしょう?
55嶽原:02/06/22 07:38
>>48
 他山から孤立した、位置が判りやすい山頂であり、そこに到る道も一本道。
夕刻の戦闘で迷うような状況ではない、ということは判るでしょう?

『>1本道に向って機関銃放てばどうなるでしょうな。』
 言うまでもありませんが、道は、もちろん塹壕形態です。
『>資料を自慢するだけ』
 資料を出せと言い、資料説明をすれば自慢と言いますか。
『>他山の位置関係を把握しておかなければならない』
 もちろんです。言うまでもありませんが、前述の一本道は、もちろん老虎溝山
滕家大山からの側射をできるだけ避ける位置に構築されたものです。

『>道に迷わなければ戦争ができると思っている』
 私はそんなこと思っていませんよ。
 夜間の資料を出して、第七師団は地理不案内だと言っている方に、それは夜間
の話で、第七師団は夕刻に投入されているので夜間云々というのはおかしい、と
反論しているだけです。
 再反論もありましたが、『私の推測の域を出ません(>>24)』と言われてい
て資料もないらしいです。

 夕刻に、写真のような情景では迷うことはないと思います。実際にそのような
記述もありませんし。

『>一つの山というような書き方だな。二百三高地は山頂は二つじゃないのか』
 二百三高地は、山頂が二つに分かれている『一つの山』です。
56日本@名無史さん:02/06/22 07:49
>>第七師団は夕刻に投入されているので夜間云々というのはおかしい、と
反論しているだけです。

 あのぉ。第7師団長は昼間攻撃のために1日時間を置いて地理不案内を
解消していますが。それだけ立派な塹壕があったら、なぜ、第一師団は
撃退されたのでしょう????? 
 地理不案内は道のことだけではないのは当然ご存知でしょうに。

 
57日本@名無史さん:02/06/22 07:51
>>夕刻に、写真のような情景では迷うことはないと思います。

 貴方が指揮官でなくてよかったよ。乃木も同じ考えだったんだろ。


58日本@名無史さん:02/06/22 07:51
まだやってるの自作自演、いいかげんに千回
59これのレスがないなぁ。:02/06/22 08:07
>>31 
>第一師団司令部は「死力を尽くして攻撃」して、ボロボロになっても二百
>三高地を落とすことで任務を果たすことができますが
>軍司令部は「死力を尽くして援助」して、戦線全体に不都合を
>生じさせるわけにはいきません。

 第一師団は二百三高地を落したの?軍司令部は二百三高地に
攻撃を集中してなかったんだよね。そして結果的に第一師団はボロボロになり、
第7師団に交替したけど、第一師団は任務を果たせたの?<w

 第一師団に二百三高地攻略を任せたのは誰?
 二百三高地がそんなに堅くなっていることを認識できないままなのはどこ?
 また11/30 第9師団の部隊を抽出して二百三高地方面に突撃しようとした乃木
 は何も考えてなさそうですなぁ・・。貴方の意見では<w
 
 大山訓令の中

『・・明朝の攻撃に当たり手は必ずこの弊を除き、各高等司令部適当の位置に
進出して自から地形と時期とを観察し占領の機会を逸せず、かつその占領を
確実にすることを期せらるべし(明治軍事史)』

 の批判とおりだと思いますが、貴方は違うようですね。
60嶽原:02/06/22 08:33
>>56
●第七師団は一日置いて攻撃している
 第一師団から第七師団に、指揮権が移されたための措置だと思います。
 これまで指揮を受けていた側が、今後は指揮をする側になるのですから、
これは準備期間が必要と判断したのでしょう。

 今まで曹家屯にあった第七師団司令部と五個大隊が、今後は二百三高地攻撃
の指揮および主戦力となるのですから。

『>地理不案内は道のことだけではないのは当然ご存知でしょうに』
 ?文意が全然判りません。
61嶽原:02/06/23 06:33
>>59 『>これのレスがないなぁ』
 『>第一師団は二百三高地を落したの?』
 『>第一師団は任務を果たせたの?』
 『>第一師団に二百三高地攻略を任せたのは誰?』
 『>二百三高地がそんなに堅くなっていることを認識できないままなのはどこ?』
 何度も書いていることと同じです。
 当然のこと、軍司令部と前線師団司令部は、任務を果たせておりません。
何度も書いておりますが、攻撃が失敗した理由の妥当性を論じております。


『>大山訓令の中
 『・・明朝の攻撃に当たり手は必ずこの弊を除き、各高等司令部適当の位置に
 進出して自から地形と時期とを観察し占領の機会を逸せず、かつその占領を
 確実にすることを期せらるべし(明治軍事史)』
 の批判とおりだと思いますが、貴方は違うようですね』

 その訓令を出した際の、総司令部の認識程度に、大きな疑問を持っております。
62嶽原:02/06/23 21:24
●前スレ書き込み・松村第一師団長は辞めさせられた?
 旅順戦後、あたかも第一師団長が辞めさせられたかのような書き込みがあり
ました。事実、陥落後、第一師団長は松村中将から飯田中将に代わっています。
「第一師団師団長
 ・六代目:松村務本(明治37年07月10日〜明治38年02月04日)
 ・七代目:飯田俊助(明治38年02月06日〜明治39年02月03日)」

 この変更を指してのことでしょうが、このような書き込みがありました。
(No.は前スレ(続・乃木さんてどういうひと?)のものです)
『958 :日本@名無史さん :02/06/18 22:28
  > >955 そういえば第一師団長はなんで辞めさせられたのかな?』
『960 :日本@名無史さん :02/06/18 22:32
  > >958その原因を追求したら面白くなるだろ・・<w
  今までの嶽原のデムパが水の泡』

 960氏が、『その原因を追及したら面白くなる』とあたかも辞めさせられた
理由をご存じであるかのような口振りをしているのが気になりました。
 いかにも資料的根拠をお持ちで自信のある口振りで、当方嶽原の論を指して
『デムパ』と揶揄しております。
63嶽原:02/06/23 21:26
●松村師団長は辞めさせられたのではない
 しかし実際は、松村師団長は病死により任を解かれたのであり、辞めさせら
れたという事実はありません。よって、前スレ960氏が言われているように
『その原因を追求したら面白くなる』というような性質の更迭劇が生じていた
わけではありません。
 06/18の書き込みがあったときは、当方には「戦病死じゃなかったか?」と
いう漠然とした記憶しかなく、面と向かって反論はいたしませんでしたが、先
日、資料の確認ができました。

 明治38年04月発行の日露戦争実記に、病死を伝える記事が出ています。
『松村陸軍中将の病死
 ……旅順要塞攻略のため、畢世の精力をつくせし松村陸軍中将の病死を伝え
たりしは最も痛恨に堪えざるところなり。中将が脳充血にて危篤に瀕せる旨聞
こし召され、功三級に叙せられしは、実に02月04日にありき。しかしてその遺
骸の東京に着せしは同13日のことなりき。……』

 これを根拠として、前スレ958氏へ。
『>そういえば第一師団長はなんで辞めさせられたのかな?』
 辞めさせられた、という事では無いようです。松村中将が病死したことに
よって飯田中将に代わったに過ぎないようです。
64嶽原:02/06/23 21:29
 また、同時に前スレ960氏へ。
『>その原因を追求したら面白くなるだろ・・<w今までの嶽原のデムパが水の泡』

 辞めさせられたという事実もないのに、原因追及も何もありません。
 人の事をデムパ扱いすると同時の、この発言、いったいどのような資料を元
にした書き込みなんですか?それとも、元々から根拠がないのですか。
65日本@名無史さん:02/06/23 23:27
>>64 止めさせられたのは二百三高地攻略だろ? 
66日本@名無史さん:02/06/23 23:27
age
67日本@名無史さん:02/06/23 23:30
>>61
>第一師団司令部は「死力を尽くして攻撃」して、ボロボロになっても二百
>三高地を落とすことで任務を果たすことができますが
>軍司令部は「死力を尽くして援助」して、戦線全体に不都合を
>生じさせるわけにはいきません。

 第一師団は二百三高地を落したの?軍司令部は二百三高地に
攻撃を集中してなかったんだよね。そして結果的に第一師団はボロボロになり、
第7師団に交替したけど、第一師団は任務を果たせたの?<w

 第一師団に二百三高地攻略を任せたのは誰?
 二百三高地がそんなに堅くなっていることを認識できないままなのはどこ?
 また11/30 第9師団の部隊を抽出して二百三高地方面に突撃しようとした乃木
 は何も考えてなさそうですなぁ・・。貴方の意見では<w
 
 大山訓令の中

『・・明朝の攻撃に当たり手は必ずこの弊を除き、各高等司令部適当の位置に
進出して自から地形と時期とを観察し占領の機会を逸せず、かつその占領を
確実にすることを期せらるべし(明治軍事史)』

 の批判とおりだと思います。


68日本@名無史さん:02/06/23 23:34
 第7師団を逐次投入という形になったのは軍司令部が
二百三高地という認識が甘かったため。これを認めても
尚、攻撃が失敗した理由の妥当性に疑問を投げかけるのなら、

別の理由を考えろ・・。




 
69嶽原:02/06/24 00:15
>>67
 59と同文ですね。59への返答は61です。>>61へどうぞ。
70嶽原:02/06/24 00:28
>>68
 逐次投入と言われますが、それは何時の戦闘のことでしょうか。

 戦後の陸軍大学校における戦史講義において、二百三高地攻撃については
以下のことが挙げられています。

『突撃部隊の兵力は、その地形に応じその程度にとどむるを可とす。
 過度に一地点、特に明瞭なる高地などに多数の兵を集めるも、それに相当
する威力を発揚すること難く、却って不成功の因をなすものなり。』
『本戦例に於いては……二中隊以上の部隊を以て行える突撃の失敗に帰し……』
71日本@名無史さん:02/06/24 06:53
>>70 貴方は戦史講義をもとに、二百三高地に1個師団以上、集めるのは
良くない。2中隊以下の部隊でなら突撃に成功するといいたいのですか?
72日本@名無史さん:02/06/24 07:45
当時の乃木大将への評価も、今回のワールドカップの
韓国のような感じだったのだろうか。

関係ない話でスマソ

73嶽原:02/06/24 07:53
>>71『>>>70貴方は戦史講義をもとに、〜といいたいのですか?』
 いいえ。貴方が逐次投入と言われている戦闘が、何時の戦闘のことを示して
いるのかを知りたいのです。
 『>>68逐次投入と言われますが、それは何時の戦闘のことでしょうか。(当方質問)』
74日本@名無史さん:02/06/24 21:02
軍の予備隊の話をしていて、突撃隊の話がなぜでるのか?
75嶽原:02/06/24 22:08
>>74
 予備隊の話ですよ。
 予備隊は二個中隊規模に編成されて投入されています。

 地積狭小などの理由で、これより多くの人員を投入することは、むしろ
却って不成功の原因となる、という戦訓が挙げられているのです。

 このような見方に立ってみると、戦線に投入する人員数には、おのずと
限度というものがあると思うのです。
 それで、貴方の言われる「逐次投入」というのが、何時の戦闘を指して
いるのかが、疑問に思い、>>68の質問になったのです。
>>68逐次投入と言われますが、それは何時の戦闘のことでしょうか。(当方質問)』
76日本@名無史さん:02/06/24 22:25
なるほど! 最後の二百三高地攻撃時は2コ中隊以下だけで攻め落とせたのですか?
77嶽原:02/06/24 22:35
>>76
 予備隊の話だそうですよ。
78嶽原:02/06/25 08:15
(再掲)
>>68
 逐次投入と言われますが、それは何時の戦闘のことでしょうか。
791:02/06/26 23:52
>>38
一見しただけで児島襄「日露戦争」のものだとわかったけど、
あの訓令には最後に望台を陥落させよとあって、二〇三高地には何一つふれてなかったぞ。
80嶽原:02/06/27 02:07
 機密日露戦史によると、この21日の大山訓令はこのような内容だった
そうです。
『すなわち敵は死守するものの如し。バ艦隊の東航は事実となる。これが
ため12月上旬我が艦隊は戦備を整えざるべからず。故に速やかに敵艦を
撃沈する要地占領を要す。攻撃を二個に分かつも間隔を短縮すべく、第七
師団をこれに用いること。要するに堅忍不抜の精神と勇猛果敢の動作を
必要とし、帝国陸海軍全体の安危に関するものなるを以て、多大の犠牲は
敢えて問わず。要はただ望台一帯を占領するにあり。(機密日露戦史)』

 文中に「二○三高地」の語句はありませんが、「攻撃を二個に分かつも」
という文面から見て、「北方面」と併せ「西方面」への攻撃にも言及して
いると考えてもいいと思いますが、どうでしょうか。


 ところで38氏が、
『>そうなんだ。11/21の大山訓令の影響を受けて第三軍参謀長会合の後、
二百三高地攻略が第3回総攻撃のスケジュールに組み込まれたと思っていた
けど、あんたの意見では第三軍が自らの判断で第7師団を二百三高地攻略に
回したというのですか?(>>38)』
 と述べている点については、当方は>>46にて反論済みです。ご一読を。
81日本@名無史さん:02/06/27 07:41
>>61

>>61 攻撃が失敗した理由の妥当性というのはどういうこと?

 軍司令部が戦場の地形や進行を把握して尚且つ、予備隊は時期に応じて、
適当な部隊数を派遣していて落ちなかった理由は?何?
 


82嶽原:02/06/27 08:11
>>81『>攻撃が失敗した理由の妥当性』
 攻撃が失敗した理由は、様々な要因が絡んでいると思います。
 総司令部所見にては、失敗の原因に予備隊の位置というものを一つの例と
して挙げていますが、私は、実際の移動状況から見て妥当でないと思います。

>>81『>軍司令部が戦場の地形や進行を把握して尚且つ、予備隊は時期に
    応じて、適当な部隊数を派遣していて落ちなかった理由は?何?』
 相手のある事ですから、こちらの想定通りには行かないのでは?
83日本@名無史さん:02/06/27 08:32
>>82 相手のある事ですから、こちらの想定通りには行かないのでは?


ハァ? だからそれを想定していないというの。 

84日本@名無史さん:02/06/27 08:34
理由の妥当性というから大山訓令のほかにあるのかと思ったけど、
結局、大山訓令とおりじゃない。
85日本@名無史さん:02/06/27 08:40
困ったもんだ、病気だな!
86嶽原:02/06/27 08:50
>>83
 想定以上の状況だったと思います。
>>84
 大山訓令が挙げている予備隊の位置というのは、実際の予備隊の位置と
活用状況から、妥当ではないと思います。
87日本@名無史さん:02/06/27 13:18
>>86 乃木軍はどんな想定をしていたのですか?
予備隊は活用できて無いじゃん。第1師団長がギブアップしたのは
現有兵力ではできないだろ?
88嶽原:02/06/27 13:47
>>87
 『>予備隊は活用できて無いじゃん』
 予備隊は28日午後には戦線に投入され、予備隊が参加した夕刻の戦闘では、
一度山頂を奪取しています。活用できているでしょう?

 どなたかは「続乃木スレNo.981」にて、『足手まといと判断すべし』として
いましたが、これは暴言に類するものと思います。『足手まといと判断』した
その根拠として、地理不案内な部隊の夜間移動の問題を挙げておりましたが、
この戦闘が行われたのは、夕刻です。戦場である二百三高地周囲がどのように
見えていたのかは、写真にて知られる通りです。夜間の地理不安なという状況
はあてはまりません。

 『>第1師団長がギブアップしたのは現有兵力ではできないだろ?』
 ?文章がよくわかりません。なにかの語句が抜け落ちているように思えます。
89日本@名無史さん:02/06/27 13:53
嶽原って一日中パソコンの前に座っているのか?
90嶽原:02/06/27 13:56
>>89 昼休み……
91日本@名無史さん:02/06/27 13:57
>>88
>>45 ●一本道
 二百三高地山頂を西北方から撮影した写真があります。
 撮影は西南部山頂へ続く道の脇からなされており、山頂までは攻路が構築
 されていて一本道です。距離は250メートル。夕刻ならば全然迷うことはな
 いでしょう。実際そのような記述は全然ありません。

 
 これのこと?攻略後出来た道を、11/29の時にあったと述べているんだろ?
いや、まさかとは思うが、攻撃するときは一本道を辿っていけばいいと
思っているのか?
 
92嶽原:02/06/27 14:08
>>91『>攻略後出来た道』
 攻略後できた道?いいえ。27日の戦闘でも使用しています。

 『>攻撃するときは一本道を辿っていけばいいと思っているのか?』
 その道を辿っていくと、敵陣近くに構築した突撃陣地に着きます。
 側射を避けるために塹壕形態を施した道ですから、突撃陣地までの
この道は、皆大いに利用したと思います。
93日本@名無史さん:02/06/27 14:35
>>92
>>45では 山頂までは攻路が構築されていて一本道です。

>>92では その道を辿っていくと、敵陣近くに構築した突撃陣地に着きます。

山頂まで攻路があると述べています。貴方は反論するだけですね。
 
94日本@名無史さん:02/06/27 14:39
>>45でいい加減なこと言ってたら、突っ込まれますな。山頂まで
の攻路は当時はありません。突撃陣地からは一本道ではありません。
92で認めているというか、微妙に言い訳しているとおりです。
95嶽原:02/06/27 14:40
>>93
 要するに、地理不案内で迷う状況ではないということです。

 この写真のような情景で、地理不案内で「足手まといと判断」する
とは、いかなる根拠のゆえでしょうか。
96日本@名無史さん:02/06/27 14:48
>>95 
 その写真が説明なしに二百三高地と解る人は世の中に少ないと思うよ。
あの山とか言われても自分のいる場所、向いている方向も不案内で
どの山かどうかわかるんか?
97日本@名無史さん:02/06/27 14:51
昼間は砲撃や攻撃が加えられているから、まだ解るかもしれないね。
塹壕では負傷兵の後退や雑多なことがあり、新規の部隊が全体を完全
に把握することは絶対できない。交通渋滞がおきるのは当然。

そういったことを無視しているんだから嶽原はイタイ。
98嶽原:02/06/27 15:03
>>96
 写真は、塹壕路の脇から撮影されたものです。二百三高地の山頂方向には、
塹壕路が一筋掘られ、山頂に向かっての一本道が写っています。

 つまり、この塹壕路を経て山頂近くの突撃陣地へ赴く兵士の目線で撮影
されています。「自分の居る場所」も「向いている方向」もわかるでは
ありませんか。
 二百三高地山頂は、周囲の山から抜け出て高い山なのですから。
99嶽原:02/06/28 00:37
>>94
『>山頂までの攻路は当時はありません』
 いいえ、28日の正午から、西南部山頂占領地での防御工事が開始されて
います。いい目印になったことでしょう。迷う状況ではありません。
『>突撃陣地からは一本道ではありません』
 もちろん突撃陣地からは一本道ではありませんが、そこから先は、もう
迷いようがありません。山頂は目の前です。

 山頂間近の突撃陣地までは一本道の攻路で誘導されるので、迷うことは
ありません。

『>92で認めているというか、微妙に言い訳しているとおりです』
 ?>>45の「山頂までは攻路が構築されて一本道」という言葉についての
事でしょうか?45で述べたことは、迷う状況ではないということです。
 『山頂近くの突撃陣地までは攻路が構築されている。そこから先は迷いよう
がない。つまり一本道として誘導されている。』または『ふもとから道なりに
行けば、自然と山頂の敵陣にたどり着く。』という状況です。

 認めているとか言い訳とか言われておりますが、45での主張である『迷う
状況ではない』ということについてはいかがお考えでしょうか。

 逆に28日夕刻の戦闘において、地理不案内のための混乱や壕内での渋滞が、
戦闘に不都合を及ぼしたという事例を示す資料などを提示出来ますか?
100嶽原:02/06/28 00:39
 迷う状況か否か?

 1・塹壕を道なりに行けば、自然に突撃陣地に着く。
 2・28日正午には西南部山頂で防御工事が始められている。
 3・夕刻の写真では周囲の状況ははっきりしている。
 4・夕刻の戦闘に、混雑・混乱が影響したような記述はない。

 これらを理由に、迷う状況ではないと思います。逆に尋ねます。

 1・塹壕を道なりに行って、突撃陣地以外のどこに着くというのですか?
 2・突撃陣地から飛び出して、山頂以外のどこに向かうというのですか?
 3・夕刻の写真で、山頂周囲の状況ははっきり見えませんか?
 4・地理不案内な事が、該戦闘に影響を与えた記述はありますか?
101日本@名無史さん:02/06/28 07:26
 はいはい、迷わない迷わない。あなたの言いたいことはよく判ったから。
道があるから迷わない。迷わないから山頂を攻め落とせたという結論か?


>1・塹壕を道なりに行けば、自然に突撃陣地に着く。
 突撃だけすれば勝てるのですか?敵の逆襲は色々な道から来ている
はずですけど?大山訓令は敵の逆襲に対し・・となっていますが?
日本も12/6の戦いでは山頂まで塹壕を道なりに攻めていません。

また一本道を駆け上がる方法は敵に機関銃だけでなく、砲撃、
手榴弾が投げ込まれるので容易に防げます。機関銃を防げる
塹壕があるので大丈夫なんて色々な資料を検討してないですね。
11/28の段階では中腹の鉄条網を遮断しつつ中腹の散兵壕に到着
していますが、このとき一本道なんかあったか?

 また1本道で迷わないってのなら地図を作る意味がないね。戦術戦闘で
近辺の地形を把握していないで戦争に勝てると思っているのだから。
また地図を作っても自分の居場所がわかりにくければほんとに意味がない。

>2・突撃陣地から飛び出して、山頂以外のどこに向かうというのですか?
 突撃陣地から散開して山頂に行きますが、山頂の状況を把握していないと
敵の退路を遮断したり、敵砲撃を避けるための遮蔽物の位置や既存弾孔など
戦場にある程度いないとわかりません。
 また山頂から撤退するときも、敵に退路を遮断された場合、あなたの
言う一本道の塹壕を通って退却するが、当然ロシア軍もその退路に
砲撃や手榴弾にて集中的に狙いますし、多人数によって交通渋滞が起きます。
 新米の部隊としては混雑している塹壕より山頂から露出して撤退をし、
かなり損害を出すことでしょう。

 ただ、ただ、突撃せよという貴方や第三軍の指揮下の兵隊は大変でしょう。

102日本@名無史さん:02/06/28 07:33
>>94 たしかにあの山頂まで1本道はありません。
 写真は戦後もものですし、資料には中腹の塹壕まで鉄条網
を突破したりなどの記述もあります。
 まず嶽原には山頂までの1本道の根拠を示してもらいましょうか。
103日本@名無史さん:02/06/28 07:34
>>96 なかなか面白いですね。たしかに私達後世の人間は
あの写真をみて二百三高地と解ります。だけど初めていく
外国で地勢もわからずにあの写真だけで二百三高地とは
解りかねますね。

 嶽原の理論はマーケティングリサーチもせずに
店を出して資金をつぎ込み、売上上がらないのは
おかしいと言っているに過ぎないんだから。

 これからも嶽原は結論を出すために原因を探る
論を展開するので非常に楽しいデンパが見れるでしょう。
104日本@名無史さん:02/06/28 07:42
そういえば第7師団の一部の部隊は攻撃開始から11/30
まで携帯の乾パンのみで戦っていたそうで・・。
105嶽原:02/06/28 08:35
>>101
 ……これほど凄まじく、論点のごまかしをされるとは。驚きです。

 『>はいはい、迷わない迷わない。』
 論点については、お認めいただけたようですね。
106嶽原:02/06/28 08:36
>>96
 『>私達後世の人間はあの写真をみて二百三高地と解ります。だけど
  初めていく外国で地勢もわからずにあの写真だけで二百三高地とは
  解りかねますね。』

 私も、貴方の言っていることが解りかねますね。写真の撮影対象を当
てる質問ではないのです。
 これから攻撃する目標物が、よく見えるかどうか。地理不案内な新来
者でも不都合が起きないだろうほどによく見えていることが判る写真だ
と言っているのです。
107嶽原:02/06/28 21:58
>>102
 『>写真は戦後もものです』
 「戦後のもの」と言われていますね。撮影月日は何時なのかご存じと見えます。
 あなたが「戦後のもの」と言われている写真の撮影月日は何時ですか?
108日本@名無史さん:02/06/29 08:32
>>107 二百三高地攻略直前の写真のように貴方は語っていますね。
まさかあれが11/28から29日の直前の写真というのですか?
ならば一本道というのも納得行くけどね・・。

>>98-99
> 写真は、塹壕路の脇から撮影されたものです。二百三高地の山頂方向には、
> 塹壕路が一筋掘られ、山頂に向かっての一本道が写っています。

>45の「山頂までは攻路が構築されて一本道」という言葉についての
>事でしょうか?45で述べたことは、迷う状況ではないということです。
 

 

 
109日本@名無史さん:02/06/29 08:39
>>105 
嶽原は地理不案内を 一本道があるから迷うことは無いし、
実際、昼間は突撃して一回は占領しているから活用したと述べている。
攻撃が失敗したのは相手もいるし、想定以上の出来事だったらしい。

>>101
101は地理不案内によって、敵の妨害施設等の位置も当然把握しておらず
また兵士一人一人がそういった地形を把握してないことにはまともに戦え
ない筈だと述べている。
失敗した原因はこういった地理不案内を解消せずに突撃させていた指揮が
問題だろうと導きたいのか?


   
110日本@名無史さん:02/06/29 08:53
www
111嶽原:02/06/29 19:02
>>108『>二百三高地攻略直前の写真のように貴方は語っていますね』
 私は、二百三高地周辺の夕刻の状況を伝えるものとして提示しました。
夕刻の状況は、新来者でも迷わない状況である、という根拠として。
 撮影期日が戦後かどうかという提示は、当方は致しておりません。

 その後、102氏が『戦後のもの』と言われているので、撮影期日を
お尋ねしているまでです。
 『>写真は戦後もものです(>>102)』
 102氏は、撮影月日は何時なのかご存じと見えます。あなたが「戦後のも
の」と言われている写真の撮影期日はいつなのですか?
1121:02/07/01 00:48
「二百三高地part3」
軍事板のスレがほとんど吹っ飛び、ログだけが残りましたとさ。
http://rkrc5w2q.dyndns.org/army_kaba_crash/1022340773.html
113嶽原:02/07/01 21:47
 「戦後」と書かれると、「旅順戦後」なのか「二百三高地争奪戦後」なのか
よく解りません。
 それでお尋ねしたのですが、102氏からのご回答は結局無いのですね。
114日本@名無史さん:02/07/02 07:41
>>113

 あなたは11/29の203高地戦前と考えているんでしょう。<w

45 :嶽原 :02/06/21 22:59

>>36
●一本道
 二百三高地山頂を西北方から撮影した写真があります。
 撮影は西南部山頂へ続く道の脇からなされており、山頂までは攻路が構築
されていて一本道です。距離は250メートル。夕刻ならば全然迷うことはな
いでしょう。実際そのような記述は全然ありません。
●山頂は孤立
 この写真では高地山頂が空を背景にはっきりと孤立し、背景や至近距離に
別の山麓がかぶさるような情景ではありません。

「日露戦争を考える(丸別冊戦争と人物9)12〜13見開きP」
「秘蔵写真日露戦争(別冊歴史読本)132P」
「未公開写真に見る日露戦争(別冊歴史読本)22・23見開きP」
「激闘旅順・奉天(学研)104P」

115嶽原:02/07/02 09:15
>>114『>あなたは11/29の203高地戦前と考えているんでしょう』

 貴方が撮影時期を把握しているかどうか、それをお尋ねしているのですよ。
ご存じ無いということで宜しいですね。

 27日の攻撃は、第三陣地からなされています。
 第三攻撃陣地までの塹壕構築は成されていたということです。この時期、
既に山頂へと導く道は、迷いようなく伸びていたということです。
1161:02/07/04 01:15
>>80
いや、>>49の内容については、こちらも大体承知済みのことでした。
僕が書きたかったのは
「11月21日の大山訓令では、
本当に第7師団を二〇三高地に投入するよう求めているか」
についてでした。そして嶽原さんが>>80に書いた
機密日露戦史に掲載されている訓令の要約と、
僕が持っている資料の要約とがあまりにも異なっているので不審に思い
陸軍省編「明治軍事史」原書房刊
に掲載されている訓令の原文にあたってみたところ、
やはり第7師団は東北正面に投入するよう命じられていたことがわかりました。
(というか、機密日露戦史の要約がいいかげんすぎるんですが。)
以下、長々と書いてみます。

明治軍事史に掲載されているのは正確に言えば
11月20〜21日にかけての満洲総軍司令部と第3軍司令部とのやり取りを
東京の参謀本部に報告したものです。電文はこのように始まります。
1171:02/07/04 01:16
望台一帯高地攻撃に関し第三軍司令官より本官に報告せし攻撃計画の大要左の如し

一、一般の配備は略現在に同じ第七師団は近く後方に招致して軍の総予備となす。

二、攻撃は松樹山、二竜山及び東鶏冠山北の三砲台に於ける
外壕通過の設備全くなるを待ち左の二期に分ちて之を実地す。
  第一期 三砲台に突撃を実地すると同時に一戸堡塁の前面より二竜山にわたる
旧囲壁を奪取し次いで直ちにQ砲台より望台を経て
松樹山後方高地にわたるの線を占領す。

  第二期 東鶏冠山砲台より毅軍副営北方の高地を経て
松樹山にいたる高地一帯の占領

目下の状況三砲台外壕通過の設備はその完成までに
おおよそ三、四日を要するの見込なるを以って
遅くも来る二十四五日には攻撃を開始得べしと信ず
右の報告に対し本官は左の訓令を第三軍司令官に与えり
1181:02/07/04 01:17
このように、機密日露戦史には書かれていませんでしたが、
21日の訓令はその前に送られた第3軍司令部からの
攻撃案に対する返答という形を取っています。
そしてここから訓令の内容に入るわけです。訓令の原文は五箇条に分かれており、
>すなわち敵は死守するものの如し。・・・第一条
>バ艦隊の東航は事実となる。
>これがため12月上旬我が艦隊は戦備を整えざるべからず。・・・第二条
>故に速やかに敵艦を撃沈する要地占領を要す。・・・第三条
>攻撃を二個に分かつも間隔を短縮すべく、
>第七師団をこれに用いること。・・・第四条
>要するに堅忍不抜の精神と勇猛果敢の動作を必要とし、
帝国陸海軍全体の安危に関するものなるを以て、
>多大の犠牲は敢えて問わず。要はただ望台一帯を占領するにあり。・・・第五条
と機密日露戦史の要約と大体対応するわけですが、
なんと原文では四条の冒頭はこう始まります。

四、来る十一月二十四日五日頃より開始し得られべき
  第一期第二期の攻撃計画は余の熱心に同意するところなり
1191:02/07/04 01:18
おわかりでしょうか?この二つの期に分割するというアイディアは
もともと第三軍が出したものであり、
それは単純に言えば望台占領時期と
その後の占領地拡大の時期に分割されるものでした。
さらに言うと第三条もどうもしっくりこない。
「敵艦を撃沈する要地占領を要す」と要約されていますが、
第三条の原文では

今日の急務は旅順の死命を制するに足るべき要地を攻略し以って
旅順港内に在る敵艦の戦闘力を奪い得るの時期を速やかにするに在り

とあります。「死命を制する」という言葉に注目すると満洲軍司令部は
十一月九日の有名な「二〇三高地は旅順の死命を制するものにあらず」や、
十一月十六日にも望台を「旅順の死命を制する」
という言葉をつけて表現していることからして、
この場合も望台をさしていると考えるべきでしょう。
望台を占領することによって要塞を陥落させ、以ってロシア東洋艦隊を壊滅させる。
これは要塞攻防戦当初からの構想ですから。
こう考えれば五条の最後の部分に

要は唯望台一帯高地攻撃の目的達成を必するに在り

とあるのが自然に見えてきます。如何なものでしょう?
120嶽原:02/07/04 03:24
>>116~119
『>21日の大山訓令では、第七師団を二百三高地に投入するよう求めているか』
 同意です。 私も、大山訓令では二百三高地投入を求めていないと思います。

 引用された電文は、あくまで「総司令官より参謀総長あて」のものです。しか
し、この21日頃に、総司令官が二百三高地について、また第七師団の使用法につ
いて、どのように考えていたのか?という事が、よく伺えるものだと思います。

 「総司令官より参謀総長宛」電文の第四項目の全文。
『四・来る11月24〜25日頃より開始し得らるべき第一期第二期の攻撃計画は、
余の熱心に同意する所なり。唯この計画を二期に区別するの必要ある以上は、
第一期と第二期との間に置ける間隔をなるべく短縮するごとく実施せらるるを
要す。しかしてこの目的を達成するには、総予備隊たる第七師団を最も適当に
使用せざるべからず』

 第一期と第二期との間の“時間”をなるべく短縮するために、第七師団を適
切に使えという指示がなされています。
 つまり『時間の短縮のために第七師団を適切に使用せよ』という指示です。
121嶽原:02/07/04 03:24
 ところで、「日露戦争(児島襄)」では、この点の紹介が異なっています。
『…そこで、三堡塁線と二百三高地攻撃を二つにわけても、その「間隔ヲ短縮」
する必要があるので、第七師団を活用せよ──…(文庫4巻377P)』

 三堡塁線は東北方面、二百三高地は西方面の目標陣地ですから、『東北方面
と西方面と二つに分けても、その間隔を短縮する必要がある』という文章にな
っています。

 何を短縮するというのでしょうか?時間?地域?
 落ち着いて読むと、良く判らない文章です。

 まず、第一期・第二期という攻撃計画があったことを述べてから、「間隔を
短縮」という言葉を使えば、「間隔を短縮」というのは「時間を短縮」せよと
いう意味だな、と問題なくすんなり意味が通りますね。
122嶽原:02/07/04 03:25
 >>80にて当方嶽原が、『文中に「二○三高地」の語句はありませんが、「攻
撃を二個に分かつも」という文面から見て、「北方面」と併せ「西方面」への
攻撃にも言及していると考えてもいいと思いますが、どうでしょうか(>>80)』
と述べたのは、この児島紹介が頭にあったからです。
 しかし116〜119での指摘によって、この解釈は誤りだと思えてきました。

 79の貴稿『あの訓令には最後に望台を陥落させよとあって、二〇三高地には
何一つふれてなかったぞ(>>79)』というのは、今になって納得ゆきました。
 たしかに、「総司令官より参謀総長あて報告」の内容を見ると、西方面への
攻撃を言及しているようには思えません。

 ほぼ同時に出された「総司令官より第三軍あて訓令」の、確実な内容が判れ
ば、もっと突っ込んだ話が出来るように思います。
123嶽原:02/07/04 03:30
追伸(笑)
 軍事板「二百三高地part3」が復活してました。
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/army/1022340773/l50
124日本@名無史さん:02/07/12 13:35
保全age
125嶽原:02/07/13 05:46
あがってますね……

122で、『>ほぼ同時に出された「総司令官より第三軍あて訓令」の、確実な
内容が判れば、もっと突っ込んだ話が出来るように思います。』と書いたこと
について、念のため補足説明。

 11月21日の総司令官発電・総参謀長宛の電文中に、『本官(大山総司令官)
は左の訓令を第三軍司令官に与えり』という文言があり、ついで五項目箇条書
きで訓令内容が示されています。

 この電文中の五項目箇条書きが、訓令そのものを写したものなのか、内容を
変えているのか、気になりまして、『確実な内容が判れば』と書きました。
 私は多分、訓令そのものだと思うのですが……。
126嶽原:02/07/13 05:48
あがってますね……

122で、『>ほぼ同時に出された「総司令官より第三軍あて訓令」の、確実な
内容が判れば、もっと突っ込んだ話が出来るように思います。』と書いたこと
について、念のため補足説明。

 11月21日の総司令官発電・総参謀長宛の電文中に、『本官(大山総司令官)
は左の訓令を第三軍司令官に与えり』という文言があり、ついで五項目箇条書
きで訓令内容が示されています。

 この電文中の五項目箇条書きが、訓令そのものを写したものなのか、内容を
変えているのか、気になりまして、『確実な内容が判れば』と書きました。
 私は多分、訓令そのものだと思うのですが……。
127嶽原:02/07/13 05:50
二重カキコ失礼
1281:02/07/14 13:55
>>126
結局そこら辺りが調べられる限界ですね。
第三軍日誌(「二○三高地攻撃失敗の原因、果たして右のごときか。
軍は必ずしもそのしからざるを信じあり。」と書いてあるやつです。)
のような、本当の一次資料なんてどこで見られるんでしょうね?
僕のような一般人はせいぜい「明治三十七八年日露戦史」ぐらいしかありません。

「日露戦争」のあの部分に関してはもう一つ引っ掛かる部分がありまして
それは4巻377ページから378ページにかけてある
第三軍の攻撃スケジュールです。

(第一期)
@松樹山、二龍山、東鶏冠山北堡塁及びその後方陣地線の攻略。
A二百三高地および白銀山堡塁にたいする強襲。
B特別支隊による旅順口市街突入。

(第二期)
前線に渡る突撃。特に第九、第十一師団による望台付近一帯の高地の占領。
1291:02/07/14 14:02
第一期の@ですでに東北正面に大穴があいているのに、
何故Aで攻略価値がゼロになった二〇三高地に攻撃を仕掛けるのか、
しかも・・・白銀山!?
当初は大いに混乱した次第です。持っている資料にもそんな事書いてないし。
ですが答えはやはり明治軍事史に載っていた
鮫島中将の報告文からでしょうか?
130嶽原:02/07/15 00:07
『……攻撃正面全線の攻撃を同時に開始し、望台一帯の高地を占領するに
決せり……』
……東及び西方面の陽(ママ)攻も、従来牽制的なりしを、為し得れば二百三
および白銀山砲台の如きを占領するの希望を有するが如し……』

 これが鮫島中将の報告文ですね。
 前半で「軍は攻撃計画をかように決定した」と述べている中には二百三高地
や白銀山が含まれていません。
 また、実際に26日の攻撃では二百三高地、白銀山には牽制的な攻撃しか加え
られていません。

 「従来は牽制的攻撃だったが、為し得れば占領も……」との案も出たが、
結局はそれは実際の攻撃計画には反映されることはなかった、という事だと
思います。
131嶽原:02/07/15 00:21
 鮫島中将発・参謀総長宛の報告は、その文面中の「希望を有するが如し」と
いう文言から、第三回総攻撃の計画立案までに出た案や、作戦会議の雰囲気な
どもあわせ報告されたものではないか、と思います。
 つまり決定された攻撃計画内容そのものではないのでは、と思います。

 それと比較して、総司令官発・参謀総長宛の報告は、「第三軍司令官より
本官に報告せし攻撃計画の大要左の如し(二項目箇条書きが続く)」という
文面があります。
 つまり鮫島中将報告よりは、攻撃計画内容に近いものが書かれていると
思います。

 「日露戦争(児島)」は、鮫島報告と大山報告とをチャンポンしたために、
攻撃計画内容により近いものであった大山報告からはかけ離れた内容になって
しまっている、と感じました。
1321:02/07/15 22:08
またまた面白い資料を発見しました。
偕行社砲兵沿革史刊行会 編「砲兵沿革史第5巻 回顧録.其の一」に収録されている
元・攻城砲兵司令部部員だった奈良武次将軍の回顧録にこんな記事があります。
(攻城砲兵の装備火器の大半が旧式で、威力が充分ではなかった事をあげたあと)
此点は大本営及内地当局も、第一回総攻撃の結果に鑑み、軍の要求を待たず
各要塞の二十八糎榴弾砲を一時撤去して之を旅順攻撃に使用すべき意見を立て、
先ず同砲四門を送ることを攻城砲兵司令部に通報して来た。
私達は実に結構とは思うが、砲床の築設が容易に出来ない事を心配した
(海岸砲据付の規定では砲床の固まるまで六ヶ月間射撃する事が出来ない)、
所が、技術審査部で特種急設の方法を研究の結果コンクリートの代りに
多数の木材を重ねて砲正を築設する案を決定した技師及将校を榴弾砲と共に派遣して来た。
仍って砲兵司令部で此れ砲を二門ずつ二ヶ所に据付けることに決定し、
審査部の指導に従い応急砲床の築説及火砲の運搬・据付をなし三週間許り経て試射を行って見た所、
案外結果良好なるを認め、また砲弾の威力も勇壮で敵胆を寒からしむるように感じ一同大いに喜んだ
(後略)
1331:02/07/15 22:11
二十八センチ榴弾砲のマニュアルが見つからない以上、断言はできませんが、
やはりこの二十八センチ榴弾砲持ち込みの件では技術審査部の創意工夫をほめる
ところではあっても、攻城砲司令部の不明を貶す所ではないんではないかと。
134嶽原:02/07/17 23:24
>>132
 偕行社関連記事ですか。これはあまり見ませんね。
 当時の第三軍司令部内の人員の証言、談話というのは、なぜか散逸している
ように思われます。

 奈良大将の回顧談中の『大本営及内地当局も、第一回総攻撃の結果に鑑み』
という文章を見ると、中央が28榴弾砲の送付について色々と画策しだしたの
は、第一回総攻撃が失敗に終わったのち、のようですね。

 以前に『16日と書いてあるから第一回総攻撃前だ』『いや16日は26日の誤
りだから第一回総攻撃後だ』という事で論争をしたものですから、どこかに誰
か書いてないかと気がかりだった所です。
135嶽原:02/07/17 23:39
>>128、129
 「日露戦争(児島)」の第三軍攻撃スケジュールの件でひき続き。130、
131にて書き込んだ内容と重複します。

 機密日露戦史によると、11月16日に軍工兵部長榊原大佐が、意見具申して
います(同時に砲兵部長も意見具申してますが省略)。
『二龍・東鶏巻・松樹の三砲塁本攻は、各連隊共に白銀山を奇襲、又二百三を強襲す。』
 この意見具申は、軍司令部が反対して、計画に採用されませんでした。

 鮫島中将の電報は、実際には計画に採用されなかった具申案なども含めて
報告しているものだと思います。
1361:02/07/18 01:38
>当時の第三軍司令部内の人員の証言、談話というのは、なぜか散逸している
>ように思われます。

本来なら機密日露戦史あたりで、当事者批判者共にバランスよく
両者の言い分が書き分けていればよかったんですが。
(でもあの本が作られた頃には乃木も伊地知も児玉も物故してるからなあ。)
>>128でも書きましたが、そういった一次資料にはどこへ言ったら見られるのやら。

閑話休題。

奈良将軍の回顧録も露軍が側防機関から機関銃を使用して
第1次総攻撃の将兵は大損害を受けたと書いているなど
いくつか事実認定に誤りがあるのではないかという箇所がありました。

それ以上に二百三高地攻防戦のくだりでこれまた興味深い記述が目にとまりました。
1371:02/07/18 01:39
以降回顧録より

此戦闘中私は児玉総参謀長へ呼ばれ其宿舎に往った。大迫第七師団長(尚敏)
が陳情に来て居られた。児玉総参謀長は直ちに、
師団長は二百三高地に攻撃前進中
攻城砲兵の発射する大なる弾丸が近所に落ち、
其破片で我兵の死傷するものがあるから、
我兵が敵塹壕に近くなったら砲撃を止めるか、
射程を延ばして敵の後方を射撃するようにして貰いたいと言われるが
どうかと私に言われた。そこで私は次のように答えた、
師団長の所言は事実で私も知っております、
しかし私が観測所から大眼鏡で見ていると、
我砲弾が塹壕に命中すると塹壕の掩蓋木材が守備兵とともに
空中に投げ飛ばされます。すると直ちに後方に隠れて居る敵歩兵が
銃を提げて其跡に駆け込みます、露兵は実に頑強で勇敢です、
ですから砲撃を止めて突撃したら必ず塹壕に居る敵兵より意外の反撃を受けて
撃退されます。夜間に攻撃しても同様で、
翌朝観ると再び前日の状態になっているのです、
それだから私は昼も夜も同じように砲撃しているのです、
斯様な必死の場合には少々犠牲を払っても塹壕占領を専一として
射撃を続けて居り、突撃隊の我慢を期待しているのです。
そしたら総参謀長は直ちに師団長どうですと言われ、
師団長は可否を言わず黙して居られるから、私は退出し相変わらず射撃を続けた。

・・・児玉と奈良の立場、機密日露戦史とくらべ完全に正反対です。
芥川の「藪の中」じゃありませんが、田中と奈良とでこうも違ってくるとは。
138嶽原:02/07/18 02:08
>>137
 !ううむ!

 1960年代の「坂の上の雲(司馬)」は、まあ・・として、1994年の「日露
戦争(児島)」でも、どうにも分からない所が多いと感じ、それでは、もう
明治期、大正期(人によっては昭和期)の、実際に参加した人の証言などを
手がかりとするしかないのかな、と思いはじめてはいましたが……。

 (>>137)は、驚きました。もしかすると、これは発掘モノなのでは?
伊地知少将の回顧談話などもどこかにあるのかも知れませんね。
139嶽原:02/07/20 21:26
 たしか、福田氏の言葉だったと思います。

『裏の裏を見、更にその裏を見ていけば、事實は崩壞する。善惡K白の別は付
け難くなるのである。歴史に對してはそこまで付合はねばならない。』


 上の奈良回顧録を読み、改めてこの言葉の意味を考えさせられました。
140日本@名無史さん:02/07/22 21:35
・ユダヤと日本の接近はこの時が最大ですか?
・日本はロシア内工作としてレーニンと接触していたのは本当ですか?
1411:02/07/22 22:43
>>140
ちょっとスレ違いですね。まずはこの辺りから質問をはじめては?

「初心者歓迎 スレを立てる前に此処で質問を35 」
http://choco.2ch.net/test/read.cgi/army/1026427445/l50
142嶽原:02/07/22 23:19
 まあ上げてくれてありがとう、ということで(笑)。

 昭和10年代に朝日新聞社の主催で日露戦参戦将軍の座談会が行われ、
それには奈良大将も田中大将も参加しています。
 座談会の内容を記録した本が二種類あるのですが、これら「参戦二十
将星日露大戦を語る」「名将回顧日露大戦秘史」は、田中談話の方が
載せられていて、奈良大将の回顧談の方は全くなかったです。奈良大将が
田中談話にたいして反論するようなところもありませんでした。

 なんとも奇妙、不可思議なことです。
1431:02/07/22 23:31
>>142
まあ、企画上当時の上層部批判なんて出来ないでしょう。
あの志岐守治も機密日露戦史よりだいぶおとなしくなってますからね。
(出来れば井上幾太郎と壮絶なバトルを繰り広げて欲しかったが)
日露戦争の英雄である児玉将軍を賞賛する田中に対して
正面から反論するわけにはいかなかったんでしょうねえ。

陸軍大将・侍従武官長まで勤めた人間が、軍関係者が主に読む出版物の中で
ウソを書くとは信じたくない・・・。
144嶽原:02/07/23 01:14
 この冊子には、「いやそれは違うよ」みたいなところは無かったと思います
し、そもそもそういう趣旨の座談会ではありませんでしたからね。

 そういう趣旨だったら、田中大将のこんな発言は、バトルの開幕ベル以外の
なにものでもありません。
『…とにかく大本営はどうしても二百三高地を肉弾で取れ、弾はこれ以上
やれないという、平たく言えばこういうわけです…』

志岐『その肉弾ちゅうのは、ワシラのことかい?』とか。
井上『そのわりには児玉大将来順の折りにはバカスカ撃ちましたのお』とか。
145日本@名無史さん:02/07/24 09:17
海軍の座談会はそれなりにヒートアップしてましたのにね。
東郷平八郎崇拝者で有名な人に
「(東郷長官を)最初見たときは無能だと思わなかったかね?」
と話を振る人が居たりして・・

陸軍と海軍の体質の違いなのでしょうかね?
陸軍座談会もあの位ヒートアップしていたら面白かったのに・・
案外ヒートアップしすぎて収集つかなくなって削った会話があったりして。

乃木語りではないのでsage。
146日本@名無史さん:02/07/24 13:39
>乃木語りではないのでsage。

このスレはsageが吉だと思ふ。
147日本@名無史さん:02/07/26 06:57
乃木の日記を読む限り、とても乃木が軍学に精通していたとは思えません。

148コピペ:02/07/26 07:53
アンチの奴らの言葉の汚さが、全てを物語ってるような気がする・・・・
149日本@名無史さん:02/07/26 08:10
コピペでしか語れないのか・・
150コピペ:02/07/26 08:12
コピペでじゅうぶん・・
151日本@名無史さん:02/07/26 08:21
乃木が近代戦の本を読んでいたという証拠はないんだが、
どこにあるのですか?日記を読む限りないんですけど。
 兵法書は読んでいるけどね・・・・・

近代戦を知らず、東京で総入れ歯にした際も、馬鹿の一つ
覚えとしかみれないですが?演習で乃木が指揮した行為は
メッケルから怒鳴られるほど怒りを買いましたが?

あんな気分屋を指揮官にしたのを隠すのは大変だったろうと
思われる。
1521:02/07/26 17:17
入れ歯にしたのがどうして馬鹿の一つ覚え?日本語辺だよ。
メッケルから怒鳴られた云々は初めて聞いたねえ。ぜひソース教えて。
1531:02/07/26 17:21
かつての兵八氏の言葉より

稲妻形の塹壕を掘り進め、砲火を避けつつ敵要塞に肉薄し、
突撃時に敵砲火に晒される時間を局限して一気に要塞内に突入する・・・・
という「対壕戦法」つまり正攻法は、17世紀ヨーロッパで既に確立していました。

第一回総攻撃失敗後、乃木が強襲法を諦めて正攻法に移行することを決断した背景には、当然この知識があった――
と考えるのが普通ではありませんか?
全く見たことも聞いた事も無い戦法を、一工兵将校が賛成しただけで、他全員の反対を押し切ってまで採用すると思います?

本当に知らなかったとしたら、乃木は恐るべき柔軟な頭脳の持ち主ですね。
全く知りもしなかった戦法の有用性を、殆ど直感的に見抜いたことになります。
154日本@名無史さん:02/07/27 04:59
>近代戦を知らず、東京で総入れ歯にした際も、馬鹿の一つ
 覚えとしかみれないですが?演習で乃木が指揮した行為は
 メッケルから怒鳴られるほど怒りを買いましたが?

この文章、いったい何が言いたいの?
こんな文章の意味をくみ取るのは大変だったろうと思われる。
特殊能力が必要ってやつですか?
155嶽原:02/07/28 22:45
 別場所で、第三軍が海軍重砲隊を継子扱いしていた、砲撃を止めさせた
という話題が再燃しかかっていましたが、その事で。

 昭和48年12月号の「丸」に、「要塞攻防戦の全貌」なる特集がなされて
いるのですが、その中に、黒井中佐(海軍陸戦重砲隊指揮官)の証言として
このような言葉が紹介されています。

『大本営がはじめ、いかに旅順要塞をみくびっていたか、わが海軍の陸戦隊
を第三軍の隷下にいれることすらこばんだほどであった。きみィ、この吾輩
の言をウソだと思うなら、ただいま即刻、当時の参本作戦部長松川敏胤氏宅
へきみを案内して、決着をつけてもよいです』

 黒井氏は生涯を通じて、旅順で舐めた辛酸を話すたびに上のようなことを
言って、訪問客を辟易させりしたそうです。

 この黒井中佐の証言をそのまま受け取ると、海軍重砲隊の配属について
揉めたことは事実のようです。しかしその時に海軍側と揉めたのは、大本営
のようです。しかも黒井氏は、松川参謀を名指しで非難しています。
156嶽原:02/07/28 23:44
 上の事ですが、松川参謀を名指しで非難しているというのは、言い過ぎでした。

 黒井中佐は、
1:海軍重砲隊の配属について、隊を第三軍隷下とすることが拒まれた事があった
2:拒んだ相手は大本営であった
3:上記の事については、当時の大本営参謀松川氏に証言を貰ってもいい
 と語っているだけですね。

 松川氏を証人として挙げているだけでした。……非難している大本営の
所属部員を証人に挙げているのだから、同じことかも知れませんが……。
157日本@名無史さん:02/07/30 05:50
 >>151 軍神か・・・・・。
158日本@名無史さん:02/07/30 06:01
アル中乃木でーす!
日の丸大好きでーす!
割腹はやっぱしんどいでーす!
159日本@名無史さん:02/07/30 06:06
歯を総入れ歯にした経緯は・・・、
痛んだ歯を抜いてもらったら痛くなくなったので、痛む歯を
すべて抜けと希望した。医者は当然、痛み具合によって歯を
抜くか治療するかを医学にそってやるべきと答えたが、

 戦略ばかり読んで鉄砲撃たないで戦になるか!

と押し切られて全部抜いてしまった。
ただ桂が嫌いで名古屋に戻りたくなかったので全部抜いた
という考えもできますが、いずれにせよ、自分の体をあまり
大切にしようとは思ってないようで・・・。
160日本@名無史さん:02/07/30 06:10
>>159
自分の体を大事にしなかったのと同様、他人の命も大事にしなかった。
161日本@名無史さん:02/07/30 06:14
 名古屋での地震騒動時、桂の行為を非常に嫌った乃木は
桂の悪評を言いまわるが、天皇はその行為を評価し、辞職を
取り下げた。乃木としては気に食わない。

 12/6 桂が帰任した後も乃木は病気と称して休みを取りまくる。
 
ある演習の分列式にて乃木が師団長に敬礼するときに、

 師団長閣下にカシラ、ミ・・・・。

と力のこもった声だったが、急に号令がとぎれてしまった。
入れ歯が飛び出して言葉にならなくなり、しかも馬がその
入れ歯を踏みつけてしまったのである。

 桂師団長は 

乃木旅団長は病中でもこれくらい元気があれば大した物だ

と乃木に聞こえるように言った。乃木は石田に辞意を表明し
そのまま駅に向かった。
162日本@名無史さん:02/07/30 06:20
 乃木が第一連隊長の時代、大山中将が第一連隊をたずねてた時
陸軍卿は人力車で営門を通過しようとしたので衛兵 兵営に
入ることを拒否した。
 俺は陸軍卿だと入ろうとする中将に衛兵は 強いて通るなら
突き殺すぞと銃剣を差し向けた。乃木連隊長になってから、
兵卒も将校も戦友だから通過はすべて徒歩にしようという内規を
つくったのだった。
163日本@名無史さん:02/07/30 06:34
 明治41年11月 陸軍特別大演習が大元帥陛下御降臨の
もとに奈良地方で行われた。このときに乃木将軍は南軍の司令官を
仰せつかった。演習は4日間に亙って行われる予定であった。
将軍は例のごとく、愛馬を駆って颯爽と指揮した。 空砲の中では
将軍の兵士たちは勇敢に前進した。

 最終日の朝、総幹部から南軍は少し後退するようにとの指示
があった。南軍の進撃が早すぎて両軍の白兵戦が御前にならないのである。
 将軍は
 演習は実戦のためである。そんな芝居地味たことができるか!と言った。
総幹部は玉座が・・・。と答えるが、
 将軍は
 聖上はそんなことを仰る筈がない。大体天皇の軍隊がいったん前進攻略
した陣地を故なくすてるのか?
 
 これでは演習の筋書きが全部狂うのである。時間は切迫する。総幹部の
ものではなく、将軍の部下の師団長、参謀長も
 将軍のおっしゃることはいかにも尤もですが・・・。と言う。
 
遂に将軍は怒った
 演習は見世物ではない。兵卒たちに少しでも実戦らしく訓練する
機会である、敵もいないのに後退させるなど、わしにはできぬ。
もしどうしてもと言うなら、この乃木を免じてからにされたい。

 将軍の依怙地は通らなかった。司令官を免ぜられ、井上第4師団長
が後任に任ぜられ、予定通りに終了した。

 戦場において、予定通りに行動しないというのは非常に危険行為
というのを幾多の戦歴からも学ばない姿勢が伺える。
164日本@名無史さん:02/07/30 06:37
 明治11年の児玉との有名な演習のくだりの前、

 メッケルが将校の現地戦術をやったときに、教育を受けていた
乃木中佐が敵に背を向けて前哨戦をはっていて、

 貴官はどの方向の敵軍と戦うつもりですか?っと一喝されたとき、

 敵に尻を食らわすくらいでなきゃいかん。と言い、

 再び怒鳴られたという記録がある。

 
165日本@名無史さん:02/07/30 08:50
とりあえず彼の奥さんが一番哀れなり
166日本@名無史さん:02/07/30 08:57
乃木は旅順で死にました

彼はほんとの漢れす!(などと言ってみる)
167嶽原:02/07/30 09:19
>>159 ソースは?
>>160 159との阿吽の連繋プレーが素晴らしいですね。
>> 161 ソースは?
>> 162 ソースは?
>> 163  児玉が、演習見物人に児玉連隊の目印と見紛うような恰好をさせて
    敵連隊を欺いたという話を思い出しました。
     演習は儀式ですか?予定通りに行動するために後退しろと?
>> 164 ソースは?

 にしても一斉に沢山のことについて書きますね。
 一つのことに絞って語れないのですか。
168日本@名無史さん:02/07/30 19:08
>>167 ソース厨房?
169日本@名無史さん:02/07/30 19:36
>>164
「軍神」に本当にそんな事が書いてあったよ・・・。
クレメンス・メッケルの来日は明治18年3月。その後数年指導にあたったとあるから
乃木はちょうど熊本第十一旅団長だね。
・・・呆れ果てて物も言えん。
1701:02/07/30 19:39
>>169は僕ね。

・・・どこからがフィクションでどこからが小説なのやら。
ルールもへったくりもない。
171嶽原:02/07/30 21:24
>>169
 以前に、乃木批判側が朝に書き込んだことが、その日の晩には全くのウソだ
と判明したことがありましたが、今回もそうなったということでしょうか?
1721:02/07/30 21:27
×どこからがフィクションでどこからが小説
○どこからがフィクションでどこからが真実

こっちも日本語変だ
173日本@名無史さん:02/07/31 13:27
>169
メッケルに怒られる云々について
確かにメッケルが来日した年(1885)の5月に乃木が熊本歩兵第一旅団長に
任命されていますが、その前は東京鎮台参謀長に着任しています。
メッケルが3月に来日しているので、3月から5月までの間にならば東京で
接点があったかもしれません。
その間に演習があってメッケルの怒りを買った・・
と思ってみると信憑性が少しは出てくるかもしれません。

だとしたら、そのときの職は参謀長ですから部隊を指揮したら怒られて当然ですね。
まあ、戦場でならばいざ知らず、演習でそんな越権行為をするとは思えませんが。
あくまで憶測なので聞き流してください。

批判的意見を書くと確実な資料を要求されるみたいですので、
これからは出典を示すと信憑性が少しは増すかもしれませんね>乃木批判者の面々
1741:02/07/31 19:39
>>171
ああ、「戦袍日記」の一件だっけか?
批判派の方もいいかげん小説があてにならん事を学んで欲しいなあ。
せめて大江志乃夫とかから採ればいいのに。

>>173
おお、時期は微妙に重なるんだね。年単位でしか資料に書いてなかったんで、
気付かなんだ。
とはいえ、日本で唯一のメッケルの伝記「メッケル少佐」(宿利重一著)でも
メッケルが軍の演習に参加したという記述は見当たらないんだよね。
山向こうの地形までたちまち当てたというエピソードで有名な参謀旅行にしても
主として陸軍大学卒業予定生徒に対して行われ、
明治18年11月、茨城県取手で行われたものが最初だし。

ただ、メッケルの授業は一般の軍人でも傍聴が可能だったから、
あるいは乃木とメッケルが顔を合わす機会があったかも。
175嶽原:02/08/01 00:34
 後に大将になった……誰だっけ?失念……が、来着早々のメッケルに、
事ある毎に噛みついて大変だったというのは知っておりましたが……。

 乃木は明治18年05月に少将昇進し旅団長となり九州熊本へ、そして
明治20年01月にはドイツ留学に出発しています。帰国は明治21年06月。

 乃木とメッケルとが接点を持つというのは、厳しいように思えます。
1761:02/08/01 00:46
「メッケル少佐」の中に、ある若い工兵将校がメッケルのあまりの酷評に逆ギレした挙句、
軍刀に手をかけてぶった切ってやると騒ぎ、
その演習の統監だった小川又次にとめられると言うエピソードがありました。
将校の名前は榊原昇造。あの第3軍工兵部長です。
177嶽原:02/08/01 00:55
(175補足)
 授業の傍聴とかを言うなら、接点があった可能性はあると思いますが。

 175で「接点を持つのは厳しいと思う」と言ったのは、>>164
『明治11年の児玉との有名な演習のくだりの前、メッケルが将校の
現地戦術をやったときに、教育を受けていた乃木中佐が敵に背を向けて』
ということが厳しいということです。
178嶽原:02/08/01 01:56
>>176
 小川又次が、メッケルにかなり反発していたと記憶していたのですが、
私の記憶違いだったですね。榊原昇造でしたか。
1791:02/08/05 20:20
>>178
いやいや、ただ単に第3軍関係のトピックがあったので書いてみただけです。
榊原昇造の最終階級は中将ですので。

メッケルに反発していた将校は伝記を見るところではやはり嶽原さんの主張されるとおり
小川又次のようです。激しい論争を繰り広げた挙句、
鉛筆を投げつけたなどというエピソードが紹介されていました。

「メッケル少佐」ではこの他にも明治の参謀たちについて述べられるところがあって、
福原和勝大佐を取り上げている箇所で、
秋月の乱終結直後乃木と行った論争も取り上げられていたのですが、
それについて後に参謀総長にもなった河合操(第三軍の参謀副長)がこんな事を述べていました。

「乃木少佐が大阪鎮台に向って援兵を乞いしは、越権でないのみか、
軍事眼の福原大佐に勝るもので、その頃の広島には宇品港がなく、
徒歩に依らねばならなかったが、大阪からは船で輸送し得たからであり、
援軍の遅れしことは、如何に熊本城の人々に苦しきものであったかを想起すれば、
更に了解せられる。」
180嶽原:02/08/08 20:51
>>179
 「メッケル少佐」とは、色々書かれていて面白いですね。

 私が小川又次のエピソードを知ったのは、古書店で小川又次の
伝記だか何かを読んで囓り知った程度です。野砲と山砲と、どちら
が日本の国情に合うか、ということでも激論があったそうで。
181嶽原:02/08/10 00:21
 「秘密日露戦史(参謀本部編/厳南堂書店)」に、田中国重の回想談が載って
います。その一部にこんな記述がありました。

『日露戦役中我軍の装備に就いて
 日露戦役に於て露軍の砲兵は優良にして又其の歩兵は機関銃を有せしも、我軍に
於ては火砲これに劣りかつ機関銃を有せざりしを以て大いに苦戦し、兵の士気を阻
喪せしめたり。
 この事に関してかつて田中が講演せしことありしが、北海道の一在郷軍人より
「我々は旅順攻囲戦に参加せしが我軍にも機関銃を有したり」とて抗議を申込み来
たれり。然るに当時旅順の部隊には機関銃を有したりしも、その他の全軍には之を
有せず、奉天会戦前に漸く配付せられたるものにして、田中が児玉総参謀長に随い
旅順に至りし際、夜間の機関銃射撃困難なるを以て将来之を渡されたる場合はその
訓練を必要とする旨を児玉大将の命に依り田中が第二軍に打電したることあり。
 当時旅順以外の我が軍に機関銃の配付なかりしは右の通りなるが、今日在郷軍人
等より講演に対して講義し来たるが如き熱心は、賞揚するに足るべし。』
182嶽原:02/08/10 00:22
 つまり、田中は
   「・露軍側:砲兵は優良、歩兵は機関銃を有す
    ・我軍側:火砲は劣り、歩兵は機関銃を有しない
    →よって大いに苦戦し、兵の志気は阻喪した」
 と講演で述べたところ旅順攻囲戦経験者に抗議されたということですが、それに
対して「旅順の部隊には機関銃を有したりしも、その他の全軍には之を有せず」
と答えたというのは、問題があると思います。

 実際は、旅順戦前の南山戦で既に40丁以上が参加しており、他軍にも配備されて
いたのですから。
 なぜこんな事を講演で言ったのか……。「日露戦争機関銃伝説」の元祖?
1831:02/08/12 00:35
昔、公刊戦史の中で同じ機関銃という兵器を日本軍側は「機関砲」
ロシア軍側は「機関銃」と表現してある事をして、
日本軍側に機関銃の備えがなかったと思わせるための情報操作であると
断じた本を読んだ事があります。
日露戦史を調べる上で公刊戦史まで手を伸ばすような人間は当然ある程度の軍事知識はあるでしょうから、
はたしてそんなくだらない詐術が通用すると編纂者たちは考えたかどうかいぶかしんだものでしたが、
戦後すでにそんな情報が流されていたんですね。何のためやら・・・。
184日本@名無史さん:02/08/12 07:52
>1 当時の日本における歩兵部隊と砲兵部隊の認識の違いを知らない程度の
軍事知識な。あぁ君のことだよ。
185嶽原:02/08/12 20:30
184氏は、何が言いたくて書き込まれたのか、わかりません。
ああ、また早朝の人でしたか。
186嶽原:02/08/12 21:47
 同じ武器に、別名称を付けていたことについて話をしていたのに、
「歩兵部隊」と「砲兵部隊」との認識の違いという話になってしまうのは
軍事知識云々の前に、日本語読解力の問題があると思います。
187嶽原:02/08/12 21:53
>>183
 機関銃または機関砲という名称のいずれを用いるか、というのは、
「銃」と「砲」との、定義上の問題から生じた違いである、という
説明を、以前にどこかで読みましたが。
188日本@名無史さん:02/08/13 08:06
>>187 ??当時の機関砲が支援火器として砲兵扱いだったのだが、
それを認識できてないのがここに2人いる。
189嶽原:02/08/13 08:26
>>188
 機関砲は砲兵部隊の装備品でしたか?
190日本@名無史さん:02/08/13 09:59
>189 機関銃中隊というのは歩兵部隊か?
191嶽原:02/08/13 10:13
>>190
 機関銃中隊というのは歩兵部隊の一部ではありませんか?
192嶽原:02/08/13 10:47
『(機関銃は)最初は車輪式で馬に引かせ騎兵大隊に配備し、のちに国産品が使え
るように改良されたあとは銃架式にして歩兵連隊の正式装備となった』

 「日露戦争(成美堂)」には、上記のように書かれていました。
193日本@名無史さん:02/08/13 13:08
>>192 君の意見だと歩兵砲中隊は歩兵部隊なんだね。
1941:02/08/13 14:38
しばらくこないうちにどんどんスレ違いの話題が膨れていく。
まあ、半分は僕のせいなんですがね。

>>184
ああ、「銃」と「砲」の違いはそんなところにありましたか。これは盲点でした。
あと、
>当時の日本における歩兵部隊と砲兵部隊の認識の違い
これが日露戦争当初の日本軍には機関銃が
全く配備されていなかったかのような歴史認識にどんな影響を与えたのか、
僕程度の軍事知識の持ち主でもわかるように、
一席ぶっていただきたいものです。

>>191
兵頭二十八著「たんたんたたた〜機関銃と近代日本」によると、
日露戦争当初は東京湾要塞砲兵によって機関銃部隊が編成され
(当時は機関銃はもっぱら要塞の防御兵器とされていたから)、
各師団個別の機関銃隊が編成されたのは末期に入ってからですので、
あながち砲兵部隊と無関係なわけではなさそうです。
ただ、実戦の場で砲兵連隊長の指揮を受けたという記述は見た事がありません。
そもそも騎兵旅団の方には砲兵部隊自体編成に入ってませんし。

>>193
答えはyes。もともと「歩兵砲」という名称自体、砲兵部隊への要請を必要としない、
歩兵部隊の自主裁量に任された大砲という意味をこめてつけられた。
初期の迫撃砲が曲射歩兵砲という名前だったのも同じ理由から。
195嶽原:02/08/13 16:02
>>194
 スレ違い展開の片棒です。

 機関銃と砲兵部隊との関連は多い、と私も思いますよ。
 ホチキス式機関銃の採用を決めたのは、明治29年の砲兵会議における
試射の結果によるもの(陸軍兵器発達史・光人社NF文庫)だそうですし。

 この、「機関銃と砲兵部隊との関連は多い」という認識は、三者ともに
認識が一致していると思います。

 しかし、「>当時の日本における歩兵部隊と砲兵部隊の認識の違い(>>184
という点については、どうも真っ二つのようですね。
196嶽原:02/08/13 16:20
 では、ちょっと元話題に戻します。私が挙げた「田中の講演内容(>>181 >>182)」
の事です。

 南山戦では、ロシア側では10丁の機関銃が参加しているのに較べ、日本側では
48丁が参加しているのは事実ですから、この点は田中の講演内容は、間違いだと
言えると思います。
 講演内容に反論したのは旅順戦経験者でしたが、もしも南山戦の経験者が聴いて
いたら、多分その人も反論したでしょうね。

 さて日本側は、南山戦での日本軍側機関銃の使用結果が芳しくないことから、
野戦での機関銃使用をあきらめて全機関砲隊を旅順攻囲戦に転用しています。なの
で、この点は、田中の言うことも、あながちウソとは言えない……のかな?

 しかし、この旅順に集注された機関砲隊とは別に、騎兵旅団は機関砲を所有して
いますから、北方軍に機関砲が絶無だったか、というと、そんなことは無い……。
 微妙な所ですね。
197嶽原:02/08/13 16:25
>>193
 歩兵砲というような言葉や概念は、昭和に入ってからの頃だと思います。
時代がズレすぎていると思います。
198嶽原:02/08/13 16:49
>>197訂正……
 歩兵砲というような言葉や概念は、×昭和に入ってからの頃だ  と思います。
                 ○昭和に入った頃からのものだと思います。
1991:02/08/20 20:45
98年前の今ごろは南山坡山で第1師団が激戦を繰り広げているところです。
さて、そろそろ話題も出尽くした事ですし、
「想定問答集」みたいなものもセコセコ作っていきませんか?

(例)Q.乃木第三軍司令部は一般に防御が弱いとされた
    旅順要塞西北正面からではなく、
    永久堡塁で固められた東北正面から攻撃を開始した。
    近代要塞をなめていたとしか言いようがないのでは?


A.内地において西北正面からの攻撃を支持する声が第三軍司令部からも
 あったが、以下の理由で東北正面となった。

1、西北正面には要塞攻撃支援用の重砲を展開する余地が少ない。
2、補給戦を形成する旅順〜大連間鉄道が東北正面附近を通過しており、
  西北正面に主力を展開すると
  ロシア軍の鉄道への攻撃を抑えられない可能性があった。
  また攻撃準備や補給にかかる負担も大きくなる。
3、西北正面は南山坡山、老虎構山、二〇三高地の背後に
  さらに椅子山、太陽溝堡塁というように複数の防衛線が存在する。
  東北正面は永久堡塁群を突破すればそのまま市街地へ迫る事が出来る。

当時の乃木第三軍には要塞早期攻略が至上命題として設定されており、
(配下の全部隊が勢揃いしないうちに攻撃開始を促されたというエピソードもあった。)
迂回のような時間のかかる戦術は非常に実現が困難だった。
また肝心の旅順要塞に関する情報もロシア側の厳重な警備の前に
非常に限られたものしかなく、清軍が築いた旧要塞を多少改造したに過ぎないという
程度しか得られなかったものの、
南山陣地攻略戦や剣山・鞍子嶺の激戦などを通じて日本側もこれまでにない激戦を覚悟しており、
要塞攻略戦には1万の損害を予想していた。
200梨華おた ☆:02/08/22 17:32
   ,/^ヽ‐一^\
  /  __´_∀_`_)
 . | //ノ/ ノ ノ \)
  |ハ|( | ∩  ∩|)|    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ヾ从ゝ_▽_从  <  200ばんゲットだぜ♪
   /丶 d V bノ ̄|⊃  \______
   | ハ'\A/ ノ ̄
   (___)_  8   |
  ||^| |_ __ヽ
 「 ̄ ̄ ̄|||_|
 L____」||_ |_
     |___)_)
201嶽原:02/08/22 19:41
>>199「想定問答集」……結構むずかしいですね。
 西方面か東方面かという点についてですが、「世界史としての日露戦争(大江)」
では、「旅順の防備と攻城軍の無為無策」という項を作り、西方面と東方面とで、
どちらがより適切だったか、という論を述べています。
 西方面を主張した大本営参謀次長長岡少将の見解として、こう記しています。
 「地形そのものが天険の要素を備えているから正面攻撃はむづかしい。また
 余計の時日を要する。それよりこの方面は敵の出撃を防ぎ得るを程度として
 少数の兵を備え、全力を西方に移し奇襲的に勝を制するが宜しい。敵の城塞
 設備も能くは分からぬがこの方面は薄弱に相違ない」

 長岡案に同意した井口少将と伊地知少将とで激論が交わされ、結果伊地知の東方
案が選択されるわけですが、大江氏は西方案が不採択についてこのように記し
てい
ます。
 「根拠のない強がりを前提とした伊地知参謀長の我意がまかりとおり……」

 長岡少将の「敵の城塞設備も能くは分からぬがこの方面は薄弱に相違ない」とい
う見解の方こそ、根拠のない希望的観測だと私は思いますが……。
202日本@名無史さん:02/08/24 08:43
長岡(井口)と伊地知、どっちもどっちで我の強い方の意見が通った・・
という感じがしないでもないですが・・
敵の情報がいかに大事かということが窺えますね。


想定問題集はQ:のみでもよろしいですか?
これもよく聞かれると思うのですが・・・

Q:第三軍は最初に203高地に着眼し総攻撃を仕掛けた方が
より早く旅順要塞を落とせたんじゃないの?

ちなみに第三軍作戦参謀の著書・講話によると、
白井参謀は「最初に203高地だけを落としても駄目」
津野田参謀は「最初に203高地を落とせばもっと早く旅順を攻略できた」
と、意見が真っ二つに分かれております。

A:は知識の深い方にお任せしてよろしいでしょうか・・・
203日本@名無史さん:02/08/24 10:12
軍事や仕事においてもそうですが、色々な想定を行っていくのが
普通なんですが、伊知地や乃木は思い込みで東正面に突っ込んで
いったようですね。

>根拠のない希望的観測だと私は思いますが……。
基本的に西側と東側とどちらを重点に防御を置くかといえばどっちでしょ?
204日本@名無史さん:02/08/24 13:02
>203
「基本的に」というのはどの状態を指すのかが不明ですが、
その当時の第三軍司令部の状態から察するに・・・

上層部からの「早く落とせ」という命令、要塞に関する情報の無さと
過去(日清戦争)の経験による旅順要塞攻略の軽視・・・
この状態ならばまず東側を選ぶでしょうね。

だって、1日で落ちた要塞なのに、防御が薄いからといって
わざわざ西側へ遠回りしないでしょう。

ちなみに、東側の恐ろしく堅固な状態が分かっていて、
どれだけ時間をかけても良いならば防御の薄い西側へ迂回。
この時点では西へ行く障害になる203高地地点は
防御が薄い(はず)なので、簡単に落とせるはず。

自分なりの見解を述べてみました。
205日本@名無史さん:02/08/24 15:28
>>204 日清戦争時の旅順要塞は西側の方も防御が堅かったのか?と問いたい。
    東側は砲台や陣地もあったが、西側はがら空きだったが?

    日清戦争の経験でいけば、東側も西側も同じ防御という結論になりません。
206日本@名無史さん:02/08/24 15:31
早急に落とせというのは上からの命令ですが 攻撃から陥落までの日時を
計画したのは第3軍です。だからこそ、陣地戦に切り替える判断ができたんだよね。
207204:02/08/24 21:12
>205
いいえ。西と東が同じ位の防御だとは言ってません。
誤解を与えたのならごめんなさい。
西の防御ががら空きだったとしても、東も大した事無いというのが
第三軍の見解だったと思われます。
それならば、少しくらい固くても東を選ぶのではないだろうか、ということです。
実際は「少し」なんてものではなかったのですが・・・

ちなみに、第一回旅順総攻撃時、第三軍の旅順攻略日数見積りは
たったの4日でした。
今思うと、とんでもないですね・・・
208嶽原:02/08/25 23:30
>>205
 明治27.8年の日清戦争での話は、明治37.8年の日露戦争の時の話をする時には
参考にならないと思います。
 日清戦争当時の旅順要塞は、要塞の構造・堅固さの程度・彼我使用兵器の程度・
士気の程度、ともに歩兵の吶喊で陥落する程度のものでしたから、日露戦争当時の
状況とは全く異なっていると思うからです。
 同じ場所とはいえ、全く異質の戦場であると見るべきです。
209嶽原:02/08/25 23:33
>>202
 『長岡(井口)と伊地知、どっちもどっちで我の強い方の意見が通った・・
 という感じがしないでもないですが・・』
>>203
 『伊知地や乃木は思い込みで東正面に突っ込んでいったようですね。』

 東北方案(伊地知案)では、最も敵陣地設備堅固と思われる箇所を攻撃すること
になり当方の損害大となる可能性が大きい。それに引き替えての利点は以下の通り。
 1・当方砲兵の展開が容易で火力の集中が可能
 2・後方連絡線が安全で補給容易
 3・要塞要点(望台)の直接攻撃が可能
 西方案(長岡案)はこの裏返しで、敵陣地設備薄弱と思われる箇所を攻撃することになり当方の損害が少なくて済む可能性が大きい。それに引き替えての欠点は以下の通り。
 1・当方砲兵の展開が地積狭小のため困難
 2・後方連絡線が敵積極攻勢の際危険に曝される恐れ有、また補給困難が
   予想される
 3・防御線突破後も要塞内部の抵抗拠点が多い
210嶽原:02/08/25 23:34
(209続き)
 西方案の利点は奇襲の利点に通じるものですが、西方面が設備薄弱なのは攻める
に難く守るに易いためであり、これを以て要塞欠点とは言えません。全周に堡塁・
砲台を備えた要塞に対してその利点が有効なのは初戦のみであり、結局はやがて正
面攻撃になります。その状況での本案の利点・欠点を再判断すると、西方面案の採
用は難しいと思います。

 第三軍は「早期の攻略を求められている」という情況を考慮し、また「砲兵火力
の使用を重視」したことから東北方案を選択したわけで、どちらがより妥当性を持
つか?となると、東方案だと思います。
211日本@名無史さん:02/08/26 08:23
>日清戦争当時の旅順要塞は、要塞の構造・堅固さの程度・彼我使用兵器の程度・
>士気の程度、ともに歩兵の吶喊で陥落する程度のものでしたから、日露戦争当時
>状況とは全く異なっていると思うからです。

 をいをい。最初から旅順戦が苦戦するのがわかってたのか?

212嶽原:02/08/26 13:11
>>211
 遼東半島前進中における歪頭山攻略戦などで、露軍の陣地がかなりに
堅固なことは、第三軍の軍司令部、所属高等司令部ともに認識しています。

 露軍相手の明治37.8年戦役における旅順攻略戦が苦戦必至なのは、現地
軍には判っていたようです。
2131:02/08/26 22:30
東北正面突破策について議論が交わされているが、
>>199に何一つ突っ込みがないとは何たる事か。
>>199でだいたい答えられそうなものだが・・・。

>>202
>Q:第三軍は最初に203高地に着眼し総攻撃を仕掛けた方が
>より早く旅順要塞を落とせたんじゃないの?
・・・まさに乃木批判のアルファであり、オメガだ。
ああ、この疑問に答えるにはそれこそ要塞攻防戦全体を書かなきゃいけないな・・・。
とりあえず、要塞攻防戦前夜、長岡が考えた
「西北正面から要塞を攻める案」

第1次攻撃失敗後にわかに出てきた
「西北正面二百三高地を攻め落とし、
ここからの観測で少なくとも敵艦隊だけでも沈めよう」
というのとはまったくの別物であり、
最初から二百三高地を攻めるという計画は限りなく実現不能だと考える。
214日本@名無史さん:02/08/27 06:41
第三軍参謀長、西方正面攻撃案への批判

常識あらば、西方より攻撃するのを可とするも敵もさるものこれを覚り、
堅固に防備するであろう、故に反対に東方よりやるも一理あらん。

馬鹿な意見を言ってるね。
215日本@名無史さん:02/08/27 06:45
大本営が事前準備等の不足で悲観していたのは事実ですが、
乃木大将は、大本営は悲観的杞憂に陥っているだけとして
予定の計画を絶対変更せず。
216日本@名無史さん:02/08/27 06:56
楽観度 第三軍>>>>>>>>>>>>>>>>>大本営>>海軍

じゃないかな。
217日本@名無史さん:02/08/27 07:08
公刊日露戦史を盲信している方へ、

公刊日露戦史は功績簿総集編であって身内の論功行賞特集です。
だから問題提起や原因究明などはされていないのです。

大本営発表を信用するのと同じことです。
218日本@名無史さん:02/08/27 07:18
大本営発表の一例

「大本営発表」(昭和 17 年 6 月 10 日午後三時三十分)

東太平洋全海域に作戦中の帝国海軍部隊は六月四日アリューシャン列島の
敵拠点ダッチハーバー並びに同列島一帯を急襲し 四日、五日、両日に亙り
反復之を攻撃せり、一方同五日洋心の敵根拠地ミッドウェーに対し猛烈な
る強襲を敢行すると共に、同方 面に増援中の米国艦隊を補捉猛攻を加え敵
海上及航空兵力並に重要軍事施設に甚大なる損害を与えたり、更に同七日
以後陸 軍部隊と緊密なる協同の下にアリューシャン列島の諸要点を攻略し
目下尚作戦続行中なり、現在までに判明せる戦果左のごとし


一、 ミッドウェー方面
(イ) 米航空母艦エンタープライズ型一隻及ホーネット型一隻撃沈
(ロ) 彼我上空に於いて撃沈せる飛行機約百二十機
(ハ) 重要軍事施設爆破
二、 ダッチハーバー方面
(イ) 撃沈破せる飛行機十四機
(ロ) 大型輸送船一隻撃沈
(ハ) 重油槽群二ケ所、大格納庫一棟爆破炎上
三、 本作戦における我が方損害
(イ) 航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破
(ロ) 未帰還飛行機三十五機

 やったことは書いてある罠。数字が違うけど。
敗者の場合は勝者の情報が入るが、勝者の中の敗因はもみ消されるからな。
219嶽原:02/08/27 09:33
>>217
 公刊戦史内に、粉飾点が全く無いと思っている人は居ないでしょう。
しかし、ほとんどの記述は信用できると思います。

 盲信している人はいないでしょうね。
 「坂の上の雲」を盲信していた人がいたことは知っています。たしか
主な間違いは二箇所しか無い、とかなんとか……。
220嶽原:02/08/27 13:32
 「明治卅七八年日露戦史戦例索引(参謀本部第四部編纂・大正15年)」なる書物
があります。冒頭に、『本書は主として公刊日露戦史に基づき、大は国軍の統帥、
政戦両略の関係より、小は戦闘単位以下の小部隊の戦闘並びに著名なる個人の動作
に至るまでの例証を蒐集し、一は以て高等兵学研究の資料に、他は以て初級戦術の
研究並びに軍隊教育の資料に供せんが為編纂せられたるものなり』と述べられてい
ます。

 後世に「これはこうすれば良かった」などという考察・研究をするための資料と
いうものは絶対に必要なわけで、「公刊日露戦史」には、考察を伴わない単なる戦
闘経緯の羅列を記述することが、そもそも求められていたのではないか、と私は思
います。

 考察・研究を記した書物が必要なのならば、「公刊戦史」より他の書物に頼るべ
きなのだと思いますし、そのような考察・研究をした書物は資料として公刊戦史を
用いているのですから、結局は「公刊戦史」は基本資料としてやはり重要なものだ
と言わざるを得ないと思います。
221嶽原:02/08/27 22:56
>>217『公刊日露戦史は功績簿総集編であって身内の論功行賞特集です。
    だから問題提起や原因究明などはされていないのです。』

 功績簿という性格は存在します。しかし、それが公刊戦史存在の第一義では
ありません。そこの辺りを勘違いされているのではないでしょうか。

 公刊戦史の意義は、『一は以て高等兵学研究の資料に、他は以て初級戦術の
研究並びに軍隊教育の資料に供せん』というように、後世の研究のための『資
料』というところが第一であると思います。
 だから公刊戦史自体では、問題提起や原因究明は『行わなかった』のでしょう。
222嶽原:02/08/28 00:41
>>215『大本営が事前準備等の不足で悲観していたのは事実ですが、乃木大将
    は、大本営は悲観的杞憂に陥っているだけとして予定の計画を絶対変
    更せず。』
>>216『楽観度 第三軍>>>>>>>>>>>>>>>>>大本営>>海軍 
    じゃないかな。』

 私は、貴方とは全く逆の印象を持っています。根拠として、「旅順攻囲秘話(佐藤
鋼次郎)」より関連部を抜粋します。

1・07月03〜05日まで剣山奪回のため露軍逆襲があった頃の引用です。
『第十一師団はモウこの時から悲観に傾いていて、軍司令部へ種々悲観的の報告ば
かり』
『これら諸報告が初陣の時から参謀長の頭をひどく刺激し、参謀長は前進陣地の攻
撃に着手する前から、よほど悲観的に傾いていたらしかった』

2・07月26日から前進陣地の攻撃が始まります。それ以後の引用です。
『軍司令部では一般に前進陣地の攻略はなかなか容易でないと考えている』
『軍司令部所在地の下の道路を、担架で死傷者を運搬するのが陸続として絶えなか
った。これを見て乃木将軍はじめ、多くの将校は痛くその頭脳を刺激されたらしか
った』
『戦況が進展するなんぞとは、思いも寄らぬと、頗る悲観的(第九師団司令部)』
『この夜は軍司令部殊に幕僚では頗る悲観的であった。参謀長は就中一番悲観論者
で、この模様では旅順の攻城どころか、前進陣地の攻略も難しかろうと頗る悲観し
て居られるらしかった』
223嶽原(222続き):02/08/28 00:44
 >>222で紹介したこれらの記述は、実際の情況は、貴方が>>215-216で書かれた
のとは全く逆に、『第三軍において楽観度が非常に低かった』事実を示しています。

 この事実に対し、第三軍に向けられた外部からの催促は、いかがなものでしたか?
 07月12日の「第三軍は既に歩兵三十六大隊火砲二百七十余門を有するをもって、
第九師団及び野戦砲兵第二旅団全部の到着を待たず攻撃を実行し得る望あり、刻下
の情況、第三軍に少しく無理押しを望は実に已むを得ざるべし」は、あまりにも有
名ですね。
 07月23日頃?には、総攻撃開始繰り上げを求める大本営からの電報が届いていま
す。また、海軍軍令部長並びに連合艦隊司令長官からは「08月10日ころまでに攻略
するように」という要請電報が届いています。

 『大本営が事前準備等の不足で悲観していたのは事実ですが、乃木大将は、
  大本営は悲観的杞憂に陥っているだけとして予定の計画を絶対変更せず
  (>>215)』
 『楽観度 第三軍>>>>>>>>>>>>>>>>>大本営>>海軍
 じゃないかな(>>216)』
 と貴方は言われていますが、私は、全く逆だと思います。
224嶽原:02/08/30 22:35
>>213(1氏)
 09月攻勢において第一師団が二百三高地を攻撃目標とした経緯について、
「旅順攻囲秘話(佐藤鋼次郎)」には、このように書かれています。

1:星野第一師団参謀長の提案
 「軍司令部に任せておいては最早行詰りの極で策を施すべきなし、何とか
  我々が局面の打開を図ってやらねばならないじゃないか、それには二百
  三高地を攻略して局面打開を図るの他なし」
2:星野と佐藤、偵察(09月01日)
 「この方面から見ると、松樹山二龍山の背後を側面から縦射し得るという
  ので、野戦重砲兵隊の観測所へ行って、その方面の偵察を行った」
3:09月02日、軍司令部に報告
 「軍参謀長に報告、参謀長はほぼ同意、軍司令官も丁度帰ってきて話はます
  ます進捗」

 と、このようにして二百三高地攻撃が決定したらしいです。
225嶽原:02/08/30 22:54
 09月攻勢に二百三高地攻撃が含まれたのは、『今後長時間に亘り、活気のな
い歩工兵の攻撃作業にのみ没頭して、しかも絶えず日々少なからざる死傷を出
すに於いては、士気の阻喪が極点に達するであろうから、士気を鼓舞するため
にも、右翼方面に活躍するのが得策(同書)』という心理的な理由と、もう一
点、『こちらから東北面の松樹山二龍山を側面から縦射できる』という東北面
攻撃を有利に進めるため、という理由によるものであった、と言えそうです。

 09月攻勢が計画された頃にはまだ、「港内観測のために二百三高地を攻略」
というような考え方は、されていなかったのではないでしょうか。
226日本@名無史さん:02/08/31 16:53
たしか公刊戦史は資料性よりも政治性の強い物のはずだが?
児玉が電文の念押しに着たと書いて有り、発刊された当時の
現状を語らずに信用するのはどうかと。
 
227嶽原:02/09/01 05:19
>>226
 公刊戦史は幾分割り引いて読まなければならない、という事は勿論承知
しております。その上で、なお非常に参考になる資料である、という事です。
 貴方に逆に問いたいですね。 
 「公刊戦史」は全く参考になりませんか?私は、とても参考になると思います。

参考にした実例1
 「児玉来順は公刊戦史に書かれていない」などという誰かの書き込みが、
公刊戦史実物を読むことで全くの誤りだと確認出来ました。

参考にした実例2
 「間隔をおいて突撃させ、頂上が逆襲に占拠されたら、自軍砲撃後、次の
30人が逆襲を加える」などという誰かの書き込みが、全くの誤りであること
も、公刊戦史実物を読むことで確認できました。
228嶽原:02/09/01 05:28
 そもそもこのスレの流れで、どうして217氏は突然に公刊戦史云々などと
言われ出したのでしょうか……?

 またスレ違いとなりそうなので、話題をQ&Aに戻しましょう。
229日本@名無史さん:02/09/01 06:27
>>228 貴方が当時の状況を考えないで、国策(ある意味洗脳)として発刊された公刊戦史を擁護しているのが痛いからさ。
 公刊戦史で児玉が電文の念押しとして来ただけとことしか書いてないが、
他の資料では児玉が指揮ないし、深く第三軍に関わっていたとなっている。
当時の日本軍に何が足りなくて、何を持って補おうとしていたのかを
考えれば、あれほど信用できない物はないと思いますよ。

 まぁ盲信している貴方に言っても無駄でしょうが。馬に念仏。
230日本@名無史さん:02/09/01 06:41
例えば、日露戦史編纂方針に関する論議で

日本兵は戦争において実は余り精神力が強くない特性をもっている。
しかし、このことを戦史に書き残すことは弊害がある。故に
戦史は奇麗事のみを書き記し、精神力の強かった面を強調し
そのことを将来軍隊教育にあって強く強要することが必要である。

 この意見は内村大将を基軸に参謀本部の強い意見だった言う。
231日本@名無史さん:02/09/01 06:58
機関砲(銃)の話しで日露戦争時、機関銃(6丁)中隊は歩兵連隊に
常に配備されていませんでした。
実際 常設的に配備されたのは大正6年からです。
どうしてもこの辺りの表現はこうしなくてはならなかった背景が見えてきます。
232日本@名無史さん:02/09/01 07:13
>>230
前原氏の論文より 野外要務令改正理由書にも
我が軍戦勝の一大原因は実に我が国国有の武士道の発作に帰せずんば
あるべからず。しかして将来益々武士道の発展を図り大和魂の奮興
を記する必要あり。

 とも書かれていますね。

 軍縮の嵐のなか、日本が公刊戦史を出版し、国策で乃木大将を神聖化
することによって国民に何を求めたかを図る資料として、公刊戦史は
素晴らしい資料というのは認めます。
 しかし上記のことを踏まえないで公刊戦史を盲信する姿勢は
笑えますね。
233日本@名無史さん:02/09/01 07:20
たしか 赤坂の乃木神社は大正十二 年に出来たんですよね。
公刊戦史もこのあたりですよね?昔はこういう時代だったんですね。
234日本@名無史さん:02/09/01 07:30
>>229 嶽原氏はきっと右翼の方で戦前の日本を懐かしんでいる方でしょうね。
235嶽原:02/09/01 13:32
>>234『嶽原氏はきっと右翼の方で戦前の日本を懐かしんでいる方でしょうね』
 2chで右翼左翼という中傷言は茶飯事ですが、この乃木スレでは滅多に見ない言
葉だったですね。
 乃木愚将論を再考する態度を示す者は「右翼」ですか。嘆息……。
236嶽原:02/09/01 13:42
●公刊戦史について早朝に書き込まれた方へ
>>232-233
 貴方は公刊戦史刊行が大正03年であることをご存じ無く、何を根拠としているの
か皆目見当つきませんが、大正10年代の刊行だと勘違いしていることが、はっきり
わかりました。
 想像するに、実物を読まれずに居られるようですね。

>>232『軍縮の嵐のなか、日本が公刊戦史を出版し、国策で乃木大将を神聖化
することによって国民に何を求めたかを図る資料として、公刊戦史は
素晴らしい資料というのは認めます』
>>233『たしか 赤坂の乃木神社は大正十二年に出来たんですよね。
公刊戦史もこのあたりですよね?昔はこういう時代だったんですね』

 公刊戦史を出版した大正03年というと、第一次世界大戦の勃発時期なのですが、
その頃日本は軍縮なんてしてましたか?少なくとも公刊戦史実物を読んでいれば、
かように公刊戦史発刊時期を誤解して書き込むことはなかっただろうと思います。

 刊行時期の誤解が、貴方の勘違いの原因なのでしょう。おそらく元本があるのだ
と思いますが、皆目見当つきません。勘違いが生じた原因の元本は何ですか?

 それとお尋ねしますが、刊行時期を勘違いされていた232-233氏は、229からの一
連の連続書き込みされた方と同一人物ですか?
(229 :02/09/01 06:27)(230 :02/09/01 06:41)(231 :02/09/01 06:58)
(232 :02/09/01 07:13)(233 :02/09/01 07:20)(234 :02/09/01 07:30)
237嶽原:02/09/01 19:56
 補足です。
 先に書いた大正03年というのは旅順戦が記された第六巻の刊行年です。第一巻は
明治45年05月発行、全十巻が揃ったのは大正04年03月のようです。

 まあいずれにしろ、>>233が言われるような大正十二年の頃、というのは何かの
勘違いでしょう。私が想像するに、元ネタとなった本に西暦記述でもされていて、
それで勘違いしたんではないでしょうか?

第一巻:明治45年05月26日 第六巻:大正03年07月30日
第二巻:大正01年07月31日 第七巻:大正02年12月22日
第三巻:大正01年12月10日 第八巻:大正04年01月31日
第四巻:大正02年09月25日 第九巻:大正04年03月31日
第五巻:大正02年07月20日 第十巻:大正03年10月30日

 日独戦争(第一次世界大戦)の勃発が大正03年(西暦1914年)ですね。
238嶽原:02/09/01 21:39
>>229『公刊戦史で児玉が電文の念押しとして来ただけとことしか書いてない』
 以前過去スレ(乃木スレ2・まだhtml化されてないみたいです)で、「公刊戦史
には児玉大将来順の事実が書いてない」と書き込みされた方が居りましたことを思
い返しております。
 その時のその方の発言からは一歩後退し、今度は「念押しとして来ただけとしか
書いてない」ですか……。なんだかもう際限ないですね。

 以前の「児玉来順の事実の記載無し」との書き込みに対し、私が「記載はある」
と反論したところ、『公刊戦史のどこにどういう記述で書いていますか?(乃木2
スレno.709)』と記載実例の提示を求められました。
 提示を断ったところ、『なんだ、結局は紹介はできないんだ。(同715)』とか酷
い言われようでして、結局は記載実例を提示しました。

 今回は、貴方に記載実例の提示をして頂きたいと思います。
 貴方は、実際に読まれたうえで書き込みされているのですよね?『だけとしか書
いてない』などと、非常に細かい断定をされているのですから……。
 お尋ねします。
 「公刊戦史のどこのどういう記述(私もこう聞かれました)」から貴方は『公
刊戦史で児玉が電文の念押しとして来ただけとことしか書いてない(>>229)』と
判断されたのですか?
239日本@名無史さん:02/09/02 08:26
嶽原は佐藤文庫をしらないんだろ。公刊戦史を盲信しなさいってこった。
240嶽原:02/09/02 08:28
>>239
 229氏であれば、記載実例を提示して下さい。
241日本@名無史さん:02/09/02 08:39
駄スレ、いいかげんにしてくんろ!
242日本@名無史さん:02/09/02 08:41
俺の気持ち考えろや。
37で独身なんて、どういうつもりだ。
243日本@名無史さん:02/09/02 08:42
無念じゃ無念じゃ
244嶽原:02/09/02 23:44
>>239『嶽原は佐藤文庫をしらないんだろ』
 中塚明氏の研究の事でしょうか。
 「歴史の偽造をただす」http://www.koubunken.co.jp/0200/0199.html

 過去スレにて話題になった時期がありまして、その時、既に読んでおります。やはり貴方は、以前に議論していた方と同一人物のようですね。
245嶽原:02/09/03 23:21
>>231『機関砲(銃)の話しで日露戦争時、機関銃(6丁)中隊は歩兵連隊に
常に配備されていませんでした。実際 常設的に配備されたのは大正
    6年からです。どうしてもこの辺りの表現はこうしなくてはならなかっ
    た背景が見えてきます。』

 日露戦争当時、配備されていなかったと言われるのですね。

 明治37年01月に、各歩兵連隊に06挺が配られた、と「陸軍兵器発達史(木俣滋郎・
光人社NF文庫)」には書かれています。

 貴方の参考にされた書物は何ですか。
2461:02/09/04 00:00
>>231
だから、その「銃」と「砲」の表現の違いと、
日露戦争当初日本軍に機関銃がまったく配備されていなかったかのような
史観との間にどのような関係があるのかが知りたいんだよ。
煽りじゃなく、真剣に知りたいんだからさ。

>>224-225
おお、佐藤鋼次郎ですか。大江志乃夫の最新兵器だ・・・一応確認しておくけど、
>>213でこちらは「最初から二〇三高地を攻めるという計画は限りなく実現不能である」と
結論付けているけど、これについてはどうですかね?

9月の攻勢では、第1次総攻撃後軍総予備に入っていた
第十五連隊が後備歩兵第一旅団の指揮下に入り二百三高地戦に参加しているのは、
やはり二百三高地重視の現れなのか。
また、>松樹山二龍山の背後を側面から縦射
二百三高地占領後これを行わなかったのはやはり周辺高地からの反撃砲火のすさまじさを
理解していたからか。
247嶽原:02/09/04 00:59
>>246『一応確認しておくけど、>>213でこちらは「最初から二〇三高地を攻
    めるという計画は限りなく実現不能である」と結論付けているけど、
    これについてはどうですかね?』

 全く同意です。実現不可能であると思います。
 佐藤鋼次郎の「旅順攻囲秘話」に、西方面攻撃案の根拠についてこのように書い
てありました。『その本防御線が支那時代のものとほぼ同一のものと見なせば、
無論西方正面から迫るのが有利である』

 これも、また既出の長岡意見もそうですが、西方面論者の挙げる前提条件は希望
的観測に過ぎません。このような前提条件の後に続く意見は、実現不可能なものだ
と思います。
248嶽原:02/09/04 01:31
>>246
 09月攻勢は要塞本防御線に対する攻撃ではなく、前衛陣地を駆逐する為の攻撃な
ので、前衛陣地が多い西方面に戦力が集中されたに過ぎないのでは、と思います。

東方面:前衛陣地は無く、担当の第十一師団は牽制として参加
北方面:本防御線から突出した前衛陣地、龍眼北方堡塁(水源地堡塁)の攻略
西方面:水師営方面の前衛陣地、また南山坡山・二百三高地の攻略

 第一師団に配属になった軍総予備隊はもともと第一師団の部隊ですから、原隊復
帰したことになりますね。軍総予備隊には、代わりに第九師団から部隊が抽出され
てますから、やはり西方面第一師団方面の戦局進捗が期待されていたのだろうと思
います。

 佐藤氏の書に拠ると、二百三高地攻撃には、軍参謀長も前向きだったようですね。
 師団参謀長からもたらされた「北方面の松樹山二龍山を背後から縦射できそうだ」
という情報は、魅力だったのでしょう。その意味に於いて二百三高地は重視されて
いたのではないか、と思います。

 この時点で「港内射撃できる観測点として重視していたか」、と言われると、
そう言うには疑問があります。
249嶽原:02/09/04 01:38
『>松樹山二龍山の背後を側面から縦射
  二百三高地占領後これを行わなかったのはやはり周辺高地からの
  反撃砲火のすさまじさを理解していたからか。』

 そうだと思います。あえて狙われやすい所から松樹山二龍山を縦射する必要性が
認められなかったのではないでしょうか。
 二百三高地は、旅順艦隊の全滅を確認したのちは、あんまり価値がなかったように思えます。

 「旅順攻囲秘話」は、10月始めに28榴弾砲の試射を行った直後辺りで記述が終わ
ってしまうのです。とても残念なことです。
250日本@名無史さん:02/09/06 07:39
>>245
>日露戦争当時、配備されていなかったと言われるのですね。

>明治37年01月に、各歩兵連隊に06挺が配られた、と「陸軍兵器発達史(木俣滋郎・
>光人社NF文庫)」には書かれています。

 
明治37年01月に、各歩兵連隊に06挺が配られたにすぎず、PR不足のために
兵士の中では機関銃の音を全く知らない者もいた、程度です。
また同書P111に日清、日露における機関銃の配備は臨時的なものと
書いてあるじゃないですか? 
 ここから汲み取れることは、応急に配備されたものの用法の研究、訓練
まで行ったと見るのは可笑しいと思います。
 つまりこの機関砲(銃)をどういう風に使えばもっとも効果的か?
という発想まで至らなかったのが見えてきます。
 実際、日露戦争を経て 信頼性、用法を研究した上で配備された時期
は大正6年からです。
251機関銃小話:02/09/06 07:47
ロシア軍は露土戦争において ガトリングガンを用いております。
1877年8月のジブカ峠の戦いにおいて トルコ軍は交通の要衝を
小兵力とガトリングガンで防衛し、ロシア側は小兵力とみて
強行突破を図ろうとしました
 しかし 10分間で800を越す損害を出し、トルコ軍の撤退まで
峠を確保できなかったのす。

ロシア側としてはトルコが守るブレブナ峠の戦いにおいて、
昼間占領した地域の夜間確保のためにガトリングガンを用いています。
敵が反撃を行おうとする地域に 工兵と協力して陣地を築き、
敵の反撃が合った場合、火網を張ることにより、陣地内の兵士達は
安眠できたという。
252機関銃小話:02/09/06 07:56
マキシム機関銃

 この機関銃が効果的に使われたのは1893年のローデシアに
置けるマタべり族の叛乱です。現地警察は4丁の同機関銃
でもって、1時間半で5000ものマタベリ族の戦士を壊滅
させた。
 しかしロシアは1887年にマキシムが売り込みに来たときは
懐疑的であり、実際 配備、運用されたのは日露戦争時であった。
 旅順において機関銃の絶対数は不足しており、ミトライユーズ
式に台車に小銃を並べて斉射という方法で急場をしのいだともいう。

 日本側は1890年にマキシムから導入したものの、自国での生産
技術が追いつかず、結果的にホチキス方式になったのは致し方
ない。しかし機関銃の導入に関しては両者ともほぼ同じ時期で
あったと見て間違いない。
253嶽原:02/09/06 13:07
>>250『明治37年01月に、各歩兵連隊に06挺が配られたにすぎず』
   『日清、日露における機関銃の配備は臨時的なものと
書いてあるじゃないですか?』

 そうです、配備されていたのです。
 要するに『日露戦争時、機関銃(6丁)中隊は歩兵連隊に常に配備されて
いませんでした(>>231)』と言うのはおかしいという事です。
254嶽原:02/09/06 13:23
>>250『ここから汲み取れることは、応急に配備されたものの用法の研究、
    訓練まで行ったと見るのは可笑しいと思います。

 配備は37年01月と、日露戦争ギリギリでしたが、日本陸軍と機関銃の関係
は、それよりはるか以前、日清戦争にまで遡ります。

 日清戦争前に米式馬式機関銃を購入し、日清戦争に続く台湾征討にて実際に
使用しました。その使用実績不良により米国馬式を改め仏国保式とし、国内で
生産可能となった状態で日露戦争になるのです。

 日本陸軍は、日露戦争前に既に機関銃を実用経験済みなのです。その経験に
基づき、採用機種の選定を改め、国内生産可能なまでになっているのです。

 そもそも、『用法の研究、訓練まで行ったと見るのは可笑しい』と言われて
いますが、ここでは誰もそんな見方はしていません。

 ただ、日露戦争当時、序盤から機関銃は実際に配備されていたのに、機関銃
は配備されていなかったかのような伝説があるのは疑問だ、という話なのです。
 加えて、その伝説が生じた原因として、何が考えられるだろうか、という話
になっているのです。
>>231だから、その「銃」と「砲」の表現の違いと、日露戦争当初日本軍に
 機関銃がまったく配備されていなかったかのような史観との間にどのような
 関係があるのかが知りたいんだよ(>>246、1氏質問)』
255日本@名無史さん:02/09/06 20:44
>>254 じゃぁ 機関銃中隊が日露戦争以前に配備されたという根拠を
示してください。部隊名として残っているんでしょうから簡単でしょう。
256嶽原:02/09/06 21:35
>>255
 ……?何を言っているのですか?
257日本@名無史さん:02/09/06 22:04
>>253  要するに『日露戦争時、機関銃(6丁)中隊は歩兵連隊に常に配備されて
いませんでした(>>231)』と言うのはおかしいという事です。

と書いてますね。だから機関銃中隊が日露戦争以前に配備されたという根拠を
示してください。
258日本@名無史さん:02/09/06 22:07
少年時代の昭和天皇がもっとも尊敬したのが乃木である。
乃木を院長閣下と呼び、絶大な信頼を寄せていた。
259嶽原:02/09/06 22:49
>>257『機関銃中隊が日露戦争以前に配備されたという根拠を示してください。』

 明治37年01月に、各歩兵連隊に06挺が配られた、と「陸軍兵器発達史(木俣滋郎・
光人社NF文庫)」には書かれています。

 >>257氏、貴方の参考にされた書物は何ですか。
260日本@名無史さん:02/09/06 23:17
>>259 その本以外に機関銃の本色々読んでおります。

 もし、明治の陸軍に機関銃中隊なるものがあれば、当然
連隊に機関銃中隊が配備されてますね。
 ぜひとも教えていただきたい。あなたの持っている同書にも
P111 3年式重機によって大正6年に歩兵に機関銃が配備
されるようになったと書いてますでしょ?相反する内容を
なぜ書いたのでしょうね??
 試作品の実戦使用なるものを配備とか、急遽買い集めた
ホチキス機銃を配ったというのは運用までは考えられなかったと
考えています。
 まさか配備されたから運用されたなんて妄言は吐かないでく
ださいね。訓練、運用方法の確立していない兵器なんてほとんど
役に立たないのですから。

261嶽原:02/09/06 23:24
>>260『その本以外に機関銃の本色々読んでおります』

 それは判っております。下記の貴方の認識の元になった文章が載っている、
具体的な誌名を挙げて頂きたいのです。
『日露戦争時、機関銃(6丁)中隊は歩兵連隊に常に配備されていませんでした(>>231)』
262日本@名無史さん:02/09/06 23:29
 前原 署 日本陸軍用兵思想史 

ほか、陸軍兵器発達史 機関銃機関砲、日本陸軍総覧 
常に配備されていません。臨時に配備されたにすぎません。そのPRも
不足し、歩兵との協同作戦を想定していたかといえば極めて怪しいでしょう。

 と私は考えています。

でもあなたは色々な想定をもとに機関銃が配備されていたといいたいのですか?
263嶽原:02/09/06 23:35
>>260『あなたの持っている同書にもP111 3年式重機によって大正6年に
    歩兵に機関銃が配備されるようになったと書いてますでしょ?相反す
    る内容をなぜ書いたのでしょうね??』

 同書04ページの「日清戦争における日本軍兵器」という欄を見て下さい。
 これによると、「米国マキシム式機関砲(08ミリ)」が日清戦争において
用い
られたとなっています。該当兵器の「使用者」欄には、「機関砲中隊」と書いてます。
264日本@名無史さん:02/09/06 23:41
はぁ? 同書にこの表にあっても機関砲は名前だけであって
ほとんど使用されていない。十分 部隊に配られなかったからである。

と書いてますが? なにがいいたいの????
265嶽原:02/09/06 23:49
 同書52ページはどうなのですか?
 『講和条約が結ばれ、戦争は終結した。それなら機関銃は実戦にまったく
使われなかったのだろうか。これらは、その後の台湾征伐に用いられたのだ』

 日本陸軍には、日露戦争の10年前に、機関銃の実用経験があるのです。
266日本@名無史さん:02/09/06 23:52
これは近衛師団の臨時機関砲中隊であって常設ではありません。

それで あなたは色々な想定をもとに日露戦争以前に機関銃が配備されていたといいたいのですか?
267日本@名無史さん:02/09/06 23:58
そのマキシム機関砲は黒色火薬の村田実包を使ったので、かなり
問題が発生したと書いてあるね。
また当時、そういった機関銃を不具合を即座に直せるほど、機関銃に
習熟していたとは考えられない(臨時だから)。と思っています。

でもあなたは色々な想定の元に日露戦争以前に機関銃が
配備されており、即座に実戦に活躍できるような体制に
あったような意見をお持ちのように見受けられますね。
268嶽原:02/09/07 00:06
>それであなたは色々な想定をもとに日露戦争以前に機関銃が配備されていた 
 といいたいのですか?
> あなたは色々な想定の元に日露戦争以前に機関銃が配備されており、即座に
 実戦に活躍できるような体制にあったような意見をお持ち

 私の発言を、どんどん拡大しないで下さい。

 私は、日露戦争序盤に、既に日本陸軍の歩兵連隊には機関銃が配備されて
いた、と言っているのです。
 そして、日本陸軍と機関銃の関係は、日露戦争の10年以上前から始まって
いるものだ、と言っているのです。

 私の発言に、『色々な想定をもとに配備されていた』とか『即座に実戦に活
躍できるような体制にあったような』とか、不可解な装飾をしないで下さい。
 書き込み引用については基本的に「そのままの引用」として頂きたい。

 
269日本@名無史さん:02/09/07 00:17
一部の歩兵連隊にね。しかも試験的運用の域です。

だから”常に”配備されていないと書いたでしょ。配備と配られたとの違いです。
あと、自分の主張のために>>263のような著者の意図を変えるような引用は
止めてください。貴方の意見はそういう感じなのですか?




270嶽原:02/09/07 01:23
>>269
 『一部の歩兵連隊』?「各歩兵連隊」に「六挺ずつ」でしょう?
 『試験的運用』?どういう意味ですか?
 『配備と配られたとの違い』?どういう意味ですか?

 『常に配備されていない』
 それは判ります。つまり、機関銃は日露戦争序盤に配備されていたのでしょう?
271ラインハルト:02/09/07 02:40
割り込んでごめんなさい。秋山の騎馬隊が馬をおりて数万の大軍と戦った戦はなんだったかなあ。
あの時には何丁か機関砲持ってました。よ。たしか。
272嶽原:02/09/07 08:20
>>271
 黒溝台ですね。
 37年01月に歩兵連隊への機関銃配備が行われた、と書きましたが、
騎兵部隊への配備も、ほぼ同時期の37年02月とされています。
 その後、歩兵連隊へ配備された機関銃は旅順要塞攻囲軍へと移されてしま
いましたが、騎兵部隊へ配備されたものはそのまま残されていたそうです。
273嶽原:02/09/08 19:44
>>269『自分の主張のために>>263のような著者の意図を変えるような引用は止
    めてください』

 『著者の意図を変えるような引用』など、私がどこでしていますか?本書に「機
関銃中隊はなかった」などと書かれていますか?どこにも書かれていません。
 本書には当方引用の表と共に、本文中で「機関砲はほとんど使用されなかった」
と説明していますね。

 つまり、本書には
1「“機関砲中隊”は日清戦争当時存在した」
2「“機関砲”は日清戦争ではほとんど使用されなかった」
 と書かれているのです。

『もし、明治の陸軍に機関銃中隊なるものがあれば、当然連隊に機関銃中隊が配備
されてますね。ぜひとも教えていただきたい(>>260)』と貴方が聞かれたから、
本書記載の表を引用して、『「米国マキシム式機関砲(08ミリ)」が日清戦争にお
いて用いられたとなっています。該当兵器の「使用者」欄には、「機関砲中隊」
と書いてます(>>263)』と答えたのです。

 あなたは「もし、明治の陸軍に機関銃中隊なるものがあれば」などと言っていま
すが、「明治の陸軍に機関銃中隊はあった」のですよ。「日清戦争時代に」既に。
274嶽原:02/09/09 22:28
>>183(1氏)
 『昔、公刊戦史の中で同じ機関銃という兵器を日本軍側は「機関砲」ロシア
  軍側は「機関銃」と表現してある事をして、日本軍側に機関銃の備えがな
  かったと思わせるための情報操作であると断じた本を読んだ事があります』

 日露戦争当時、日本陸軍には「機関銃」という呼称自体が無かったようですね。
 明治40年に「口径11ミリ以上のものを機関砲、11ミリ以下のものを機関銃とする」
と決められたそうで、それ以前は全て「機関砲」と称していたそうです。

 公式文書に「機関銃」という呼称が用いられていないのは、別に露軍に装備され
ていて日本軍には無かったことを誤魔化す為でも何でもなく、単にそういう呼称が
存在しなかった為だということなのでは、と思います。
275嶽原:02/09/09 22:33
>>274最後部分訂正……

×別に露軍に装備されていて日本軍には無かったことを誤魔化す為でも何でもなく
○別に情報操作でも何でもなく

 『公式文書に「機関銃」という呼称が用いられていないのは、別に情報操作
でも何でもなく、単にそういう呼称が存在しなかった為では、と思います。』
276日本@名無史さん:02/09/10 21:22
(`・ω・´)コダマァッ ! ワシハ ボクセキジャァ ナイゾッ!
277嶽原:02/09/11 02:15
 両将軍は維新以来国事を共にせらるる同郷の僚友、互に君僕の関係ではあるが、
一は知謀の結晶、他は情義の権化、時には激語、時には落涙。

 私は今その会談の光景を、ここで諸君の前に写し出す語を持ちませぬ、どうか御
許し下さい。
278嶽原:02/09/11 02:25
http://page5.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e15335722

 なんか物凄いことに(笑)。
279日本@名無史さん:02/09/11 16:38
>249
『>松樹山二龍山の背後を側面から縦射
  二百三高地占領後これを行わなかったのはやはり周辺高地からの
  反撃砲火のすさまじさを理解していたからか。』

> そうだと思います。あえて狙われやすい所から松樹山二龍山を縦射する必要性が
>認められなかったのではないでしょうか。
> 二百三高地は、旅順艦隊の全滅を確認したのちは、あんまり価値がなかったように>思えます。

私の考えはお二方とはすこし違います。
「剣と恋・レンガート少尉の手記」というロシヤ側の資料がありますが、そこ
からすこし引用します。これは著者の少尉が11月29日にある急造砲台に赴任
して以後のことです。その砲台は203高地と谷を隔てるのみで、左には第5号
堡塁即ち椅子山堡塁があったと言いますから、椅子山の北側に連なる山にあった
のでしょう。さて:

「日本軍はもし何か作業を認めるとすぐ砲撃するから日中公然、作業することは
できない。<中略>暗くなって日本軍が射撃を中止するに及んでまた作業を
始めた」

「<兵卒が203高地の南側斜面で作業中の日本軍を砲撃する許可を求めて
来たので>自分も後に続いて出て見たらなるほど山の下方に壕の掘られてある
のを認めた。<中略>近隣の砲台が沈黙しているのに我砲台のみが日本軍に
対して発射するのは気持ちが悪かった。なぜなれば直ちに日本砲弾が飛んできて
返報をするからである。」

「それから砲弾もまた欠乏した。殊に大口径の砲弾が非常に欠乏した。<中略>
開城近くになった頃は大いに砲弾の経済に努めねばならなかったし、また日本軍
が我が軍を射撃するように無闇に敵を射撃することができなかった。」
280日本@名無史さん:02/09/11 16:40
<続き>
以上のように、203高地陥落のころには火力・物量において、緒戦の頃とは
日露の立場が逆転しており、「周辺高地からの反撃砲火のすさまじさを理解して」
いたのはむしろロシヤ軍側でした。203高地の陥落は兵力と砲弾の消耗戦の
末の、必然の結果であったと思われます。

203高地陥落後、松樹山二龍山を縦射しなかったのは、坑道戦が進捗して
大爆破の予定が見えて来た時期にあって、その必要がなかったからでしょう。
281嶽原:02/09/11 20:44
>>280『203高地陥落後、松樹山二龍山を縦射しなかったのは、坑道戦が進
    捗して大爆破の予定が見えて来た時期にあって、その必要がなかった
    からでしょう』

 私も、そう思います。貴方の言われている意味も含めて『あえて縦射する必
要性を認めなかったのでは』と書いたつもりでしたが、言葉足らずでした。
282日本@名無史さん:02/09/13 01:58
今日は殉死90周年の命日やな
283嶽原:02/09/13 23:53
>>282 おお、そういえば周年の区切りの年だったです……。

 「続・乃木さんて、どういうひと?」が過去ログ入りしてました。
http://academy.2ch.net/history/kako/1000/10003/1000326922.html
284嶽原:02/09/16 01:56
>1氏
 長く(といっても二年ですが)探していた「長岡外史関係文書 回顧録編
(長岡外史文書研究会/吉川弘文館)」を、ようやく読むことができました。
 その中に、意外な記述がありました。

『 旅順の陥落を案外に手間取らせ悪戦苦闘を続けさせたのは、総司令部が
 二○三高地の戦術的価値を正当に判断すること能わざりしと、二十八サン
 チ砲の威力を軽蔑し過ぎたることもあずかっていささか関係もあらんが、
 他の一方第三軍参謀部の能力、如何にひいき目に視るも感服は出来ぬ。
  それかあらぬか旅順開城直後、第三軍の参謀部は参謀長伊地知少将、大
 庭、白井両佐官、参謀打揃って他に栄転した。その消息は井口少将の書簡
 で明瞭である。
  ただし後年伊藤痴遊の講談や、歌舞伎座の芝居において、余り旅順の陥
 落が手間取るから、陸軍の最高権威者が乃木大将取り替えのことを上奏し
 たが、明治大帝陛下は「いや乃木を代へることは出来ぬ」と仰せられたと
 言ったが、
  大本営に於いては第三軍司令部取り替えのことは噂にも無った。』
285嶽原:02/09/16 01:58
 『大本営に於いては第三軍司令部取り替えのことは噂にも無った』
 ??これはどういうことでしょう??
 単純に読めば「取り替えのことは噂にも無かった」という文章です。
 穿ち読みして「取り替えのことは噂にもなった」の誤りかもと思いました
が、以下のように文が続くので、こちらの読みは有り得ないと思います。

『 大本営に於いては第三軍司令部取り替えのことは噂にも無った。
  仮にあったとしても恐れ多いことながら大帝陛下は神様である、決して
 右の如き御言葉を賜ることは夢にも想像の付かぬことである、
  私は絶対に否認する。』

 >1氏(Q&Aの流れをブチ斬ってしまいすみません……)
 >>137で奈良大将回顧談について紹介された時にも思ったのですが、旅順
攻囲戦に関する伝説・誇張は、非常に多いように感じます。
2861:02/09/16 11:34
>>202の方、もうROMってるかどうか知らんけど、
一応僕なりの回答を記させてもらう。

>Q:第三軍は最初に203高地に着眼し総攻撃を仕掛けた方が
>より早く旅順要塞を落とせたんじゃないの?

A:答えはNoであると考える。そもそも
 203高地の価値は結局のところわずかな例外を除き、軍港全体を見渡せる事である。
 したがってここを早期に攻略すればそれだけ早くロシア太平洋艦隊を撃滅する事は出来たろう。
 しかし史実における旅順要塞守備隊が艦隊壊滅後も抗戦を続けたことから分かるように、
 艦隊と要塞とは別物であり、ロシア太平洋艦隊の撃滅が即要塞開城とは行かないのが現実である。
 9月の攻勢においては>>224-225にあるように203高地から要塞内を縦射できる点が
 東北正面攻撃にも有利であると認められていたが、
 周辺高地(北太陽溝堡塁から203高地まではわずか2キロ)
 からの砲火や歩兵の攻撃による破壊・鹵獲の恐れを充分考慮したものとは言えず、
 203高地の価値は東北正面の3大堡塁(二龍山・東鶏冠山北・松樹山)に比べ
 ごく限られたものであると言わざるを得ない。

>>284-285
「今乃木を代えたら、乃木は生きておらぬぞ」
うーむ、いかにもありがちなエピソードだったので信じてた。
こういったことは
地道な検証を続けて選り分けていくしか方法がないんでしょうな・・・。
287日本@名無史さん:02/09/21 12:30
2881:02/09/26 01:42
>>287
写真とか見ると本当に山また山ですね。天然の要害といっていいような。
289日本@名無史さん:02/09/26 07:06
乃木の切腹は介錯はつかなかったのだろうか?
290嶽原:02/09/27 20:37
>>286『うーむ、いかにもありがちなエピソードだったので信じてた』
 長岡回顧録に書かれている事の方を、額面通りに信じることも出来ませんしね。
   『地道な検証を続けて選り分けていくしか方法がないんでしょうな』
 とりあえず、当時に近い史料を吟味していくしかないでしょうな。
 防衛研究所図書館に、第三軍参謀副長だった大庭中佐の当時の日記が寄贈品
として納められていました。37年05月から08年01月まで、貴重な史料である
そうです。鉛筆で殴り書き、とてもじゃないけど読めません。専門の研究家の
誰かが、研究してくれないものでしょうか……。
291嶽原:02/09/27 21:26
>>290 訂正『37年05月から08年01月まで』
     →『37年05月から38年01月まで』

 部分部分では、なんとなく意味がつかめそうな所もありましたが、ほとんど
不思議な模様を眺めている気分でした(泣)。
2921:02/09/28 11:43
>>290
実に残念!日露戦争中の乃木の日記を見ると
第三軍の参謀達は案外前線に出かけているんだよね。
大庭の日記があればさらに詳しい事がわかり、
「第三軍司令部の面々はほとんど司令部にこもりきりで前線を見る事はなかった」
という説を検証できたんだけど・・・。
293嶽原:02/09/29 03:32
>>292『乃木の日記を見ると第三軍の参謀達は案外前線に出かけているんだよね』
 ですね。例えば11月08日なんていうと、「山岡は盤龍山、岩村は二龍山、白井・
磯村は幡龍山?、豊島は陣地偵察、参謀長・齊藤は大狐山へ」なんて書かれてますね。

 しかしまあ、こんな風に紹介できるのも、実物を読解研究してあればこそ。当時
の実際の日記をみてメゲました。研究家という方々は偉いものです。
 大庭日記が寄贈されたのは平成02年だそうで、まだ一般の旅順研究には反映され
ていないものかも知れません。これまで公になっていない第三軍の内部資料が旅順
研究に反映されるようになれば、世間の認識もまた変わってくると思います。
2941:02/10/01 00:08
>>293
確かに。ここまでこの論争を見るに、世間で乃木愚将論がここまで幅を利かせているのは、
やはり旅順戦と、昭和陸軍が太平洋戦争の各戦場で喫した盲目的な精神主義による
敗北とが結び付けられているからだと考えます。
乃木愚将論者である司馬遼太郎にしても時折著作で見かける昭和の日本陸軍への強い憎悪と
乃木第三軍批判とは根っこで繋がっているものがあるように思えてならないのです。
(これは大江志乃夫にもいえますかね?)
そういえば論争中に「ななしのごんべ」というコテハンが
日露戦争後に行われた、歩兵中心主義色が強くした歩兵操典改定と
乃木とを結びつけるような意見を出していました。
(結局そこでは決定的な証拠は出なかったようですが。)
結局のところ旅順戦は後世の陸軍にとって精神主義を鼓舞する重要な出来事とされましたが、
戦闘の内容は白襷隊など例外はあるにしろ、きわめてオーソドックスな要塞攻防戦であった
そこでいたずらな精神主義が横行した事はほとんどなかった。
そしてそれは乃木が参加した多くの戦場についても同様である、
ということを理解しないと、たとえ乃木愚将論の個々の間違いを知っていたとしても
軍人乃木希典に漂うマイナスイメージまでは払拭しがたいのではないのかなどと考えるわけです。
295嶽原:02/10/01 23:44
>>294『>〜〜ということを理解しないと、たとえ乃木愚将論の個々の間違い
    を知っていたとしても軍人乃木希典に漂うマイナスイメージまでは払
    拭しがたいのではないのかなどと考えるわけです。』
 その通りですね。軍旗紛失事件がどうこうの、日清戦争での活躍がどうだの、
正攻法採用会議での決断が何だの、全て空しいものです。

『>昭和の日本陸軍への強い憎悪と乃木第三軍批判とは根っこで繋がっている
ものがあるように思えてならない』
 私も、此処こそが、乃木批判論の根本であると思います。
296日本@名無史さん:02/10/05 10:57
そういえば兵八というコテハンが司馬の本を読まずに司馬批判していたのを思い出しました。
297嶽原:02/10/07 06:39
>>296
 兵八氏は、司馬本を読んだと書いてますよ?
『>司馬遼と桑原嶽と両方読み比べて、桑原氏のほうが正しいと私は判断して
しまったのだから、しょうが無いじゃないですか。 (「坂の上の雲」はナナメ読み
で済ませましたけど。)』(軍事板「乃木大将は軍神か」レスNo.97)

 私は、実物を読まずに「書いてある」「(逆に)書いてない」と記すのは、
乃木批判側の得意技だと思っています。
 それぞれの実例として、以下を挙げておきます。
例1・「戦袍日記」に「植木戦での薩軍戦利品」が「書いてある」
  (日本史板「続・乃木さんて、どういうひと?」レスNo.553)
例2・「公刊戦史」に「児玉来順」は「書いてない」
  (日本史板「続・乃木さんて、どういうひと?」レスNo.705)

 例1は2002年04月03日、例2は同年05月27日の書き込みです。二ヶ月間
で二度の同様手口の虚偽書き込みとは恐れ入りました。
298日本@名無史さん:02/10/07 22:15
>>297 >>263-264のような書き方をなさる貴方も同罪
299嶽原:02/10/08 09:25
>>298『>貴方も同罪』
 実際に、その本に書かれているのですよ。何と同罪なのですか?まさか
「戦袍日記に書いてある」「公刊戦史に書いてない」と同罪と?失礼な。
300嶽原:02/10/08 22:58
>>298
 「陸軍兵器発達史(光人社NF文庫)」に「機関銃中隊はなかった」などと書かれ
ていますか?どこにも書かれていません。その本には当方引用の表と共に、本文中
で「機関砲はほとんど使用されなかった」と説明しています。
 つまり、本書には、以下の点が書かれているのです。
 1「“機関砲中隊”は日清戦争当時存在した」
 2「“機関砲”は日清戦争ではほとんど使用されなかった」

 『もし、明治の陸軍に機関銃中隊なるものがあれば、当然連隊に機関銃中隊が配
備されてますね。ぜひとも教えていただきたい(>>260)』と260氏(貴方ですか?)
が聞かれたから、本書記載の表を引用して、『「米国マキシム式機関砲(08ミリ)」
が日清戦争において用いられたとなっています。該当兵器の「使用者」欄には、
「機関砲中隊」と書いてます(>>263)』と答えたのです。

 この回答が、「戦袍日記に書いてある」「公刊戦史に書いてない」との虚偽書き
込みと同じだと言うのですか?おかしなことを書き込むのは止めなさい。
301嶽原:02/10/10 06:22
>>260『>急遽買い集めたホチキス機銃を配ったというのは運用までは考えら
    れなかったと考えています』

 日露戦争で用いられたホチキス機関砲は、急遽買い集めたものではありません。
以下、年表で記します(参考資料などで数年の差、また異論もあり)。

明29(1896)
 ホチキス式(口径8ミリ)04挺をサンプル購入
明31(1898)
 砲兵会議でホチキス式機関砲の採用試験
 ホチキス社に30年式小銃実包を使用できるモデルを試作させる
 ホチキス社に口径6.5ミリモデルの機関砲を発注
明34(1891)
 国内生産を開始
明35(1892)
 保式機関砲制定(口径6.5ミリ)
明36(1893)
 大量生産が開始される
明37〜38(1904〜05)日露戦争
 ホチキス式(口径6.5ミリ)の実戦投入(→砲架・運搬の問題)

 明治31年に30年式小銃実包が使用できる特製モデルの試作を発注し、35年にその
口径6.5ミリモデルが制定されています。
 国内生産だけでなくホチキス社にも発注したようですが、それも日露戦争の数年
前から発注されているわけで、「急遽買い集めた」などという状況ではありません。
302嶽原:02/10/10 06:24
 わざわざ口径6.5ミリの30年式小銃実包を使用できる独特のモデルを試作させたの
は、日清戦争で口径8ミリ機関砲を使用してみたうえで、その出来合い品をそのまま
日本軍で用いるよりも、日本軍に合うように改良すべきだと感じたからでしょう
(明治31年に騎兵監に提出された、「騎兵に付属すべき騎砲(速射機関砲)に関す
る意見」という日清戦争の体験を元に書いた論文中に、「機関砲の口径は小銃と同
口径(6.5ミリ)とし……」とのくだりがあります「名将秋山好古(光人社NF文庫
P56〜57)」)。

 日露戦争に用いられたホチキス式口径6.5ミリ機関砲は、日清戦争でのマキシム式
口径8ミリ機関砲使用実績の不具合を改良する目的で日本陸軍がホチキス社に特別に
開発させたものであり、日露戦争数年前には国内生産・大量生産が可能になってい
たものなのです。

 日露戦争当時に口径6.5ミリ機関砲が存在していたこと自体に、日清戦・台湾征討
戦で機関砲の使用実績があったことが非常に役立っているのです。
303嶽原:02/10/16 01:17
●早朝の乃木批判書き込み(159-164)の出典について。
>>159(02/07/30 06:06)の出典「軍神(福岡徹)P172-173」
>>161(02/07/30 06:14)の出典「  同著   P179-180」
>>162(02/07/30 06:20)の出典「  同著   P188-189」
>>163(02/07/30 06:34)の出典「  同著   P199-200」
>>164(02/07/30 06:37)の出典「  同著   P200-201」
 159、161はほとんど全て出典記述のまま、約半分に要約している。
 162、163,164はほとんど全てが出典記述のままである。
304嶽原:02/10/16 01:20
 「軍神(福岡徹)」とはいかなる作品だろうか。福田恆存氏はこの作品について
こう評している。
『(前略)福岡氏の「軍神」は論外である。氏は市販に先立ち「『軍神』拝呈に際
して」という小冊子を付し同著を配っているが、その中にこう書いてある。
 (わたくしは幼少のころ、勇将乃木、軍神乃木を尊敬する父親に、いわゆる乃木
  式の教育を受けた〜(中略)〜「乃木式」さえなければ、毎日が愉快にすごせ
  るに違いない、という極めて単純な理由で、子供心の反発心を持ち続けていた)
 自ら言っている様に、これは正に「極めて単純な理由」である。父親に対する怨
み、ファーザー・コンプレックスにほかならない。それが福岡氏をして「軍神」
を書かしめた衝動である。しかもこの作品にはそれが八つ当たり式に出ており、
父親憎しが乃木憎しとなって現れる。例えば〜(例示部省略)〜。
 ここだけではない、万事がこの調子で、全巻、乃木将軍の心事に対する独断的な
曲解に満ち満ちており、一々その例を挙げる暇も無い(後略)(福田異存全集)』

 福田氏は斯様に辛辣に斬って捨てた。これに対し福岡氏の反論は無いらしい。
305嶽原:02/10/16 01:22
 「軍神」は「独断的な曲解に満ち満ちており、一々その例を挙げる暇も無い」と
いう指摘がぴったりの作品であり、>>159-164について一々述べるのは実に虚しい。
一点、>>163で紹介された明治41年秋の陸軍特別大演習がらみのエピソードについ
ては、一言指摘しておく。

 明治41年の陸軍特別大演習については、実は以下のようなエピソードもあるのだ。

 天皇が御野立所に立ち、演習の開始を待つ。……が、南軍が動かないので演習が
始まらない。参謀本部の幕僚が南軍に対して発動をうながしたが、南軍司令官の乃
木は以下の理由で承諾しなかった。
「演習は実戦の訓練で、遊戯ではない。かかる不利な状況を冒して行動を開始する
のは遊戯視するもので、参加将兵に悪影響を与える」
 これを受け、幕僚長は南軍に増援部隊を加える想定を加えた。これでようやく演
習が始まった。上に述べた南軍司令官(乃木)の意見は、南軍参謀長(秋山)も一
致した意見であったという(「名称秋山好古(光人社NF文庫)」より)。
306嶽原:02/10/16 01:26
「演習は実戦の訓練で、遊戯ではない」という乃木・秋山両将軍の考えの方が道理
に適うものであり、「予定通りに行動しないというのは非常に危険(>>163)」
など、遊戯化そのものの考えであると思う。

 ところで、>>163は大部分が「軍神(福岡徹)」からの引用であるが、本書の引
用部(P199-200)には「戦場において、予定通りに行動しないというのは非常に
危険行為(>>163)」などという珍妙な記述は無い。この部分は、書き込み氏独自
の考えによって書き添えられたと思われる。
 福岡氏の名誉に関わる事のように思われたので、この点、書き添えておく。
3071:02/10/16 10:48
考えてみると乃木も結構上層部に振り回されているね。
西南戦争ではせっかく占領した田原坂を三好少将の命令によって捨ててしまい、
十四連隊は薩軍と激戦を繰り広げる羽目になったし、
旅順では攻勢正面を決定する場面や、203高地の一件などがそうだし。
308嶽原:02/10/17 20:17
>>307
 振り回されてますね。そもそも第三軍については、編成の時に所属問題が生じて
ますから、振り回され振りは特に深刻だったと思います。

 後発第三軍を満州軍総司令部(当時はまだ出来ていなかった)に所属させようと
考えていた大山参謀総長・児玉次長に対して、山県元帥の意を受けた寺内陸相・
桂首相が反対し大本営直属の軍とする案を出して揉め、児玉が「これ以上愚かなこ
とを言うなら、俺は坊主になって引退するぞ」って言って直談判し、押し切ったん
ですよね。
 この経緯が、後に山県が参謀総長となった大本営が、第三軍に対しいろいろ干渉
しようとした動きの背景として重要なのでは、と私は思っています。
309嶽原:02/10/20 02:32
●早朝の書き込み氏(262)へ
>>261 (当方嶽原)
『>下記の貴方の認識の元になった文章が載っている、具体的な誌名を挙げて頂き
たいのです。『日露戦争時、機関銃(6丁)中隊は歩兵連隊に常に配備されていませ
んでした』』
>>262 (02/09/06 23:29)
『>前原 署 日本陸軍用兵思想史』

 貴方は上記の様に、当方の質問(261)に対し「日本陸軍用兵思想史(前原透)」を
出典として明示されました。しかし本当は、出典は「乃木「神話」と日清・日露(嶋名
政雄)」なのではありませんか?

 嶋名氏著作には、以下のような部分があります。
『〜〜(前ページから続くヨーロッパ情勢の話題)〜〜になっている(前原同書)。
 大正六年になって、はじめて歩兵に機関銃隊が常設されることになった。歩兵連隊
は三個大隊、十二個中隊の編成だが、これに機関銃六丁の機関銃中隊がつくことにな
った。
 前原同書(22P)には〜〜(次ページに続く旧軍戦略思想の話題)〜〜(嶋名著作
P240)』
310嶽原:02/10/20 02:36
 貴方は、嶋名氏が機関砲中隊について記した部分の前後に前原氏著作を引用して
いる事を以て、機関砲中隊についても前原著「日本陸軍用兵思想史」を引用してい
るのだろうと想像したに過ぎないのではありませんか?

 念のため申しておきますが、嶋名氏著作を参考にされた事をどうこう言うわけで
はありません。しかし、嶋名氏著作内容を元にしていながら、参考資料名として前
原氏著作を挙げられていたのだとしたら、不適切な出典明示であると思わざるを得
ません。
 改めてお尋ねしますが、貴方は本当に「日本陸軍用兵思想史」を参考資料として
用いたのですか?
311嶽原:02/10/20 02:40
 また、根本的な問題として。
 『その本以外に機関銃の本色々読んでおります(>>260)』と述べられ、『具体
的な誌名を挙げて(>>261)』と当方が尋ねた直後に示される参考文献のトップが
『日本陸軍用兵思想史(>>262)』というのが、そもそも納得行きません。
 「日本陸軍用兵思想史」は、260で貴方が述べられている『機関銃の本』には相当
しない資料であると思うからです。例えば、本書に「マキシム機関砲の不良点」
と「ホチキス機関砲への転換理由」について、いかほど触れられているでしょうか。

 「日本陸軍用兵思想史」は、その名の通り旧軍用兵戦略思想に関して著したもの
であり、その方面では最適な資料と思います。しかし、明治30年代における機関砲
使用状況についてどうこういうのには、不適切な資料だと思います。
3121:02/10/22 21:27
>>308-311
うお、すさまじい反撃砲火。おそらく二〇三で何度となく追い落とされた
日本軍突撃部隊もこれくらいすさまじい反撃を周辺のロシア砲台から食らったんだろうな。

まあ、冗談はこれくらいにして、兵頭二十八「たんたんたたた〜機関銃と近代日本」
によると、ロシア陸軍がマキシム製機関砲国産に取り組んだのが1905年とあるから、
旅順要塞にすえつけられていた機関砲は皆イギリス製ということになる。
(やはり弾丸はロシア製7.62ミリ弾にあわせたのか?)
ところで要塞にはどのくらいの数が配備されていたのだろうか?
なぜか手元の資料に数字がないんだ。
3131:02/10/22 23:58
ああ、書き込んだ後気になって調べてみたら
陸戦史研究普及会編「日露戦争〜旅順要塞攻略戦」に
六二丁を海正面五丁、陸正面四七丁、予備一〇丁に分けたとあったよ。
この数字を多いと見るか少ないと見るかわからないけど、
ペトン製堡塁と組み合わせればやはり恐ろしい威力を発揮したんだね。
314嶽原:02/10/23 00:33
>>312『>うお、すさまじい反撃砲火』

 機関砲の話をしていて「参考資料は何か」と聞いた答えが「用兵思想史」ですよ。
びっくりしてしまいました。おそらく鳩が豆鉄砲を食らった時も、これくらい驚くん
だろうな。「日本陸軍用兵思想史」の名前を出せばいいと思ってんでしょうかね?

 冗談はこれくらいにして要塞内の機関銃の数の件。資料によってバラバラですね。
 開戦当時には極東方面には40挺ほどのマキシム機関銃が配備されていたに過ぎなか
ったそうですが、05月にはヴィッカース社に200挺、06月には更に500挺が追加発注さ
れたとそうで。
 07月末に包囲された旅順要塞には、いかほどの数が間に合ったのか?
315嶽原:02/10/23 00:38
>>313
リロードミス、すみません。
陸戦史研究普及会編「日露戦争〜旅順要塞攻略戦」をお持ちですか。
28榴弾砲の表紙しか見たことないです。今も入手できるんですか?
3161:02/10/23 01:09
>>315
いやいや、学校の図書館に置いてあったもので。表紙はそんな風になってたのか。
図書館においてあったやつは良くあるようにカバーが取り外してあり、エンジ色の中身が丸出しだった。
内容は基本的に「明治三十七八年日露戦史」+「機密日露戦史」といったところで、
第二軍による南山攻防戦から話は始まる。徒歩第一砲兵連隊所属の小隊長の日記や
第三軍司令部が作成した正攻法に関するマニュアル、参加兵士が作成した堡塁の模型写真
など興味を引かれた部分はコピーしたが、
全体的に見るとこの本にしかない情報はなかったように思う。
執筆したのは陸自幹部学校の戦史教官諸氏とある。
この戦いを取り上げてきた多くの論者の態度から見て、
彼らもこの戦いについて述べたい事はおそらく山のようにあったに違いないが、
それを抑え、事実の丹念な記述に徹しているところが好感が持てた。
317嶽原:02/10/23 01:25
 なんともヘビーな図書館ですな(笑)。
 えー……表紙の件、実はうろ覚えです。28榴弾砲の発射シーンだったよう
な記憶があるんですが、違うかも知れません。チラと見ただけなので。
 当方がよく引用していた「血風二百三高地(船坂弘)」が、「旅順要塞攻略
戦」の記述を多用してますので、個人的にとても気になる資料なのです。

> 事実の丹念な記述に徹しているところ
 あー……いいですな。ますます気になってしまいました。
3181:02/10/23 01:42
>>317
>なんともヘビーな図書館ですな(笑)。
そりゃもう。「明治三十七八年日露戦史」や「機密日露戦史」は基本として
「斜陽と鉄血」「日露大戦秘史〜名将回顧 陸戦篇」
「回顧卅年日露大戦を語る〜参戦二十将星 陸軍篇」「乃木希典全集」などなど。

「血風二百三高地」古本屋でちらと見たきりだけど、「旅順要塞攻略戦」
の地図を多用していたように思う。
319嶽原:02/10/25 06:31
>>318
 「機密日露戦史」が基本……ですか。う〜むヘビー。
 まあ私の母校も、原書房の明治100年叢書をコンプするような独特のライン
ナップを誇ってましたが(今となっては惜しい)。場所それぞれですね。
 「血風二百三高地」、言われるとおり、「攻略戦」の地図をふんだんに
使っています。あの地図の雰囲気、簡潔さ、が気に入っております。現物を
みてみたいです。
320嶽原:02/10/28 00:14
●早朝の書き込み氏(262)に対する疑問(309-311の続き)
 そういえば、>>231(02/09/01 06:58)を嶋名氏著作からの引用ではない
のか?と、当方が疑問に思った理由を記していませんでした。
 早朝書き込み氏は、問題の231より前に以下のように書き込まれていますが、
これら四点の全てが嶋名著作記述に非常に似通っているのが、その理由です。

>>217(02/08/27 07:08)
 『公刊日露戦史は功績簿総集編であって身内の論功行賞特集です』
>>229(02/09/01 06:27)
 『公刊戦史で児玉が電文の念押しとして来ただけとことしか書いてない』
>>230(02/09/01 06:41)
 『例えば、日露戦史編纂方針に関する論議で 日本兵は戦争において実は余り
精神力が強くない特性をもっている。しかし、このことを戦史に書き残すことは
弊害がある。故に戦史は奇麗事のみを書き記し、精神力の強かった面を強調しそ
のことを将来軍隊教育にあって強く強要することが必要である。 この意見は内
村大将を基軸に参謀本部の強い意見だった言う』
>>231(02/09/01 06:58)
 『機関砲(銃)の話しで日露戦争時、機関銃(6丁)中隊は歩兵連隊に常に配
備されていませんでした。実際 常設的に配備されたのは大正6年からです』
321嶽原:02/10/28 00:15
 上記四点の書き込みに該当する嶋名著作の部分を以下に示します。
>>217該当部
 『公刊日露戦史は公刊日清戦史同様功績簿総集編なのであって、軍が身内の
ために論功行賞用の記念特集文書として発行されたもの(嶋名著作P182)』
>>229該当部
 『児玉が第三軍司令部に到着したことは528Pに僅かに四行出ているだけで
ある。さりげなく……では何をしに?前出の総司令部の伝聞訓令を口頭で念を
押しにやってきたことになっている(嶋名著作P198)』
>>230該当部
 『前原透「日本陸軍用兵思想史」(20P)には、極めて適切な聞き書きが
引用されている。日露戦後、参謀本部の日露戦史編纂方針に関する論議で、高
級指揮官の少なからぬ部分が、「日本兵は戦争において実は余り精神力が強く
ない〜中略〜そのことを将来軍隊教育にあって強く要求することが肝要である」
と考え、内村小二郎大将は最も強い主張者であったという(嶋名著作P211)』
>>231該当部
 『大正六年になって、はじめて歩兵に機関銃隊が常設されることになった。
歩兵連隊は三個大隊、十二個中隊の編成だが、これに機関銃六丁の機関銃中隊
がつくことになった。(嶋名著作P240)』
322嶽原:02/10/28 00:23
 「功績簿総集編」「論功行賞」「電文の念押し」など、非常に特徴的な言い
回しを使われている事から見て、書き込み氏は嶋名氏著作を参考にしているの
だろう、と思っています。
 前にも述べましたが、別に嶋名氏著作を参考することが問題ではありません。
上記のように嶋名氏著作を引用していながら、>>231において参考資料名として
前原氏著作を挙げられるのは問題であるというのが、ここで私が言いたい事なの
です。誤解無きよう。

 以上を踏まえて、お尋ねしたい点があります。

●質問
 貴方は、なぜ機関銃に関する話題において、用兵思想史である前原氏著作を参
考にされたのですか?嶋名氏著作には、前原氏著作での記述引用はありません。
嶋名氏著作記述ではなく、前原氏著作記述が如何なるものか示して下さい。
●関連質問1
 もしも前原氏著作を参考にされていないのならば、なぜ嶋名氏著作を参考文献
として明示しなかったのですか?
●関連質問2
 当方が以前(>>238)に質問したまま回答されていない点、お答え頂けますか。
 貴方は公刊日露戦史を読まれた上で『公刊戦史で児玉が電文の念押しとして来
ただけとことしか書いてない(>>229)』と判断されたのですか?
 公刊戦史実物は読まず、上記の嶋名氏記述を書いたに過ぎないのでは?
323日本@名無史さん:02/10/28 03:31
保守age
3241:02/10/31 00:21
人が作り出した記録というものには須らく偏見が入っていてしかるべきもの。
公刊戦史といっても当事者達が多数生存している時に編まれたものである以上、
様々な思惑や願望が入っているのでしょうね。
しかし曲がりなりにも公刊戦史がありながら、
旅順戦にまつわる伝説のなんと多い事か。
そして旅順戦を取り上げた後代の人々は「聖将乃木」の伝説を打ち壊しているつもりで、
実際には、それこそ日露戦中からその奥底を流れていた「愚将乃木・伊地知」というもう一つの伝説を
確固たる物にしてしまったわけだから、真に歴史というものは奥が深い。
325日本@名無史さん:02/11/07 22:29
>>324
 歴史、まこと奥深く面白いものであります。
 「正論」の別冊だと思いますが、近頃刊行された明治天皇の本に、旅順戦
に関する文章が載っていました。二百三高地争奪戦の時期は、あまり早期で
あっては日本軍側に不利であったろう、というものが主論として目立ってい
たように思います。旅順戦については、まだまだ色々調べてみたいです。
326日本@名無史さん:02/11/07 22:36
ここのスレッドのレスは漢字がおおいですね。
327嶽原:02/11/08 00:59
●二百三高地の防御時期と程度(01:津野田大尉とフォーク中将)
 旅順陥落後の01月11日朝0800、旅順要塞司令官ステッセル中将は官邸を出発し馬車
にて長嶺子駅に向かった。馬車には第三軍参謀津野田大尉が騎馬にて護衛に就き、要
塞総予備隊司令官フォーク中将も騎馬にて同行した。
 道中、水師営に入る際に左方に二百三高地が見えたときに、フォーク中将は二百三
高地を指し、津野田大尉に対して以下のように話している。
328嶽原:02/11/08 01:00
●二百三高地の防御時期と程度(02:フォーク中将の談話)
『彼の山を露語にてヴィソカヤ・ガラ(高山)と呼ぶ。彼の地の軍事上重要なる事は
貴下の熟知する所なるが余は一昨年の機動演習中、攻撃軍を指揮して、まづ彼地を奪
取して要塞内に進入したことがある。この経験により本役の初め、極力この地に築城
するの必要を力説したが、反対者ありて遂に永久的施設を見るに至らなかったのは、
今なお遺憾とするところである。当時もしこの意見が採用せられたならば、旅順の運
命も今少し長かりしならんと確信する。
 しかし余はこの信念に基づき、南山の戦闘後直ちに歩兵第五連隊を彼地の守防に充
て、半永久工事を施さしめたから、不十分ながらもご承知通りの働きをした云々
(「斜陽と鉄血」)』

 フォーク中将は、第一段落で自己の経験からヴィソカヤ・ガラ(高山)の重要性を
認識していたと遺憾の念を述べ、そして第二段落において防御時期は『南山の戦闘
(05月26日)の後』と述べている。
 フォーク中将の発言は、具体的な日時までは述べていない。具体的日時は、ロシア
小説「旅順口(著/ステパーノフ)」に見られたので、次にその一節を紹介する。
329嶽原:02/11/08 01:05
●二百三高地の防御時期と程度(03:「旅順口」の記述)
 「旅順口」とは、青年時代に旅順戦を体験したステパーノフが著した小説である。
 この中に、二百三高地の防御工事が行われていた具体的な日時を示す一節がある。

『砲台の工事は日に夜を継いで、平日も休日もなくつづけられた。だから今日も、
聖ペテロ祭(旧露暦06月29日)だというのに、ズウォナリョーフは朝早くから西部
戦線に出ていった。そこは竜河畔から鳩湾にいたる線で、東部戦線以上に激しく断
続していた。……なかでもとくに重大な位置を占めているのはヴィソーカヤ山(二
百三高地)で、そこに立てばひと目で旅順の全景が見渡され、湾内にひそんでいる
艦隊のごときも指呼の間にある。したがってこの山の工事は、とりわけ海軍にとっ
て致命的な意味をもつものであった。(続く)
330嶽原:02/11/08 01:06
●二百三高地の防御時期と程度(04:「旅順口」の記述)
(続き)
 優秀な要塞技師のひとりといわれるセルゲイ・アレクサンドロウィチ・ラシェ
ーフスキイ中佐が、この地区の工事総監督に任命された。
 ……現場に着いたときはまだ早朝であったが、仕事はもう高潮に達していた。
山頂のせまいところに兵隊と水兵、それに支那人もまじって、数十名が右往左往し、
ロシア語やら支那語やらがごっちゃになって、その上にひびき、号令や歯ぎれのい
いたんかが聞きわけられた。
 水兵と兵隊の一団が、シワルツ大尉をとりまいて、仕事の指図を受けていた。
胸壁の築きかた、崖径の幅、胸壁と横壁の反対斜面の角度など、問題は多種多様で
あった。大尉は馬を下りて、地面に細目の図面を描きながら、詳しく説明した……(「旅順口」)』

(注:ラシェーフスキイ中佐とは、コンドラチェンコ少将の部下であり12月16日に
コ少将と共に戦死した人物)
331嶽原:02/11/08 01:08
●二百三高地の防御時期と程度(05:「旅順口」の記述)
 本書使用の日付は旧露暦であり、これに13日を加えれば新暦となる。よって06月
29日というのは07月12日である。
 この時、第三軍はまだ大連-旅順間の中間部辺りを西進中である。07月03〜05日
に剣山奪取を目的とする露軍の逆襲を退け、07月15日には満州軍総司令部が大連に
上陸した……という時期に、すでにこのように二百三高地の防御工事は始められて
いたのである。程度としては、期間・資材などの面で制限されたものであったとは
思われるが、幅のある崖径を設け、胸壁・横壁を築き、その反対斜面に角度を付け
るなど、あきらかに堡塁築城としての工事が始められている。
 
 「フォーク中将の言葉(南山後直ちに半永久工事を施した)」と「旅順口の描写
(上記)」と双方ともに、二百三高地では、第三軍が旅順に近づくよりも以前から、
堡塁築城としての工事が開始されていた事について、記述が一致していることを明
確に指摘しておきたい。
 また、「旅順口」の記述からは、フォーク中将が抱いていた認識(彼の地の軍事
上重要なる事)は、中将の個人的なものではなく、露軍全体としてもそのように認
識していたらしいことが窺える点も、指摘しておく。
332嶽原:02/11/08 01:20
●二百三高地の防御時期と程度(06:公刊戦史記述)
 二百三高地初攻までに達成された防御工事の程度については、公刊日露戦史によ
って窺い知ることができる。
 公刊日露戦史中の記述、「攻囲網完成時期(08月初頭)の露軍の備砲状況表」
によれば、この時点で二百三高地は野砲04門・小口径砲04門を備えていたらしい。
 また09月中旬には『守備兵員合計613名、06吋カノン砲03門、10珊半カノン02門、
37密米砲03門、機関銃四挺を以て爾霊山堡塁を(守備)』という情況だったらしい。

 また、二百三初攻時に於ける攻撃側の記述からも、防御陣地の程度が窺い知れる。
 記述は数カ所に飛び、また長いので抜粋するが、以下の内容が記されている。
『19日、砲撃で爾霊山堡塁の06吋カノン砲01門、機関銃二丁および多数の掩蔽部を
破壊し、ついで歩兵突撃が行われ西南角付近の鉄条網の破壊が企てられた。この戦
闘は翌日に持ち越し、翌20日0500に突撃隊は鉄条網の破壊口より爾霊山西南角の第
一線散兵壕に突入し、その一部を奪取している。更に第二線散兵壕の西南角に向か
い突進、その一部を略取し、ついで第三線すなわち山頂の散兵壕に拠れる敵兵約100
と対峙した』

 野砲と機関銃を備え、多数の掩蔽部が設けられ、山腹に第一線・第二線散兵壕、
それを越えても山頂に第三線目の散兵壕が備えられた陣地であったことがわかる。
333嶽原:02/11/08 01:21
●二百三高地の防御時期と程度(07:結論)
 以上のことから、二百三高地(ヴィソカヤ・ガラ)の防御時期と程度について、
私は以下のように考えている。

1:露側は、高地の重要性を開戦前から知っていた
2:開戦当時は、さほどの防御ではなかった
3:南山陥落後に、防御工事が始められた
4:堡塁陣地とする計画で工事が進められた
5:第二回総攻撃の時には、以下に示す程度の陣地となっていた
  1:野砲と機関銃が配備されていた
  2:多数の掩蔽部が設けられていた
  3:山腹に第一線・第二線散兵壕、山頂に第三線目の散兵壕があった
334嶽原:02/11/08 01:28
●二百三高地の防御時期と程度(08:追記)
 結論で示したように、私は「二百三高地には09月の第二回総攻撃までは僅かな散
兵壕がある程度だった」と巷間言われているのは誤りである、09月の時点で既にあ
る程度の防御陣地になっていたと考えている。
 しかし、二百三高地が防御されていた事が、西方面前衛陣地攻略を目的とした09
月攻勢に於いての該地攻略失敗の原因とは考えていない。
 二百三高地が難攻であった原因は、該地の守備状況も重要ではあろうが、やはり
第一に周辺堡塁砲台からの防御砲火、第二に増援部隊を派遣し続け得るだけの露軍
の戦意・余力に求められると考えている。

参考資料:「斜陽と鉄血(津野田是重)」
     「旅順口(著/ステパーノフ 訳/袋一平・正)」
     「公刊日露戦史第六巻(参謀本部)」
3351:02/11/11 15:25
徳間文庫「日露戦争 上巻」にある、
6月上旬の日露両軍の配置が記載されている中で、「大頂子山および爾霊山の工事隊」として、
東狙兵第五連隊本部および第一大隊・同第九中隊・同第二十六連隊の徒歩猟兵隊・同第二十七連隊第二集成中隊
が紹介されていた。
おそらくこれらの部隊が防御施設の建設にあたったものと思う。
(ステパーノフの小説が正しければ、海軍や地元住民も加わったことになる。)

ところで、爾霊山を含む大頂子山地区前進陣地守備隊隊長には東狙兵第五連隊長トレチャコフ大佐が任じられ、
11月の二百三高地攻防戦でもすさまじい戦いぶりを見せているが、
コンドラチェンコは南山の戦いでも守備隊主力を担った
トレチャコフ大佐と彼の部下達に期待してこの地区を任せたのだろうか?
336日本@名無史さん:02/11/18 12:13
定期age
3371:02/11/23 23:41
プレシデント社”ザ・マン”シリーズ「乃木希典」なるムックを近所の古本屋で偶然入手する。
内容は基本的に戦後の乃木希典の伝記+日露戦争といったところだが、
ドイツ留学時に乃木が作成した戦術答解が同行した川上操六の答解とともに引用されていた。
それによると、とある問題において
(乃木の答解)
右側支隊をして森林を通過せしむれば敵よりの展望を掩ふの利あり

(川上の答解)
右側衛支隊は森林を通過す之敵の爰に隠匿するの恐れあればなり

これに対し、教官であるデュフェー大尉の講評は
乃木・・・良し
川上・・・敵眼を掩ふを第一

他にも数問の答解がありデュフェーの講評もあったが
(ちなみに全て日本文だった)判読できず。
338嶽原:02/11/24 00:46
>>337
写真、判読出来ませんねえ(悲)。崩し字ではないから根気あれば読める、かな?
しかし読めても意味が判らないという二重の罠(泣)。

閑話休題。
この本、この留学時答案の例に限らず、非常に資料性の高いものだと
思います。
乃木の軍事的素養についての賛否交々の論を読み、発行当時(昭和56)
は真面目に乃木を論じていたのだなあ、と感慨に耽ることしばし……。

>1氏
>>325で触れましたが、正論12月号臨時増刊号「明治天皇とその時代」に、
旅順戦に関して20ページに渡って書かれています。非常に硬派な文章で、
読み応えがあるものだと思いますが、いかがでしょう?
3391:02/11/26 16:21
>>338
>正論12月号臨時増刊号「明治天皇とその時代]
なかなか見つかりません。機会があったら読んでみたいです。

>発行当時(昭和56)は真面目に乃木を論じていたのだなあ、
>と感慨に耽ることしばし……。
中に入っている広告を見るとβビデオデッキが臆面もなく宣伝されているわ、
FAXが百万円台で売られているわ、極め付けが対談記事に掲載されている
渡辺昇一の写真の若いこと若いこと!
うたた昔の感があります。
340日本@名無史さん:02/11/30 22:22
>>339
>正論12月号臨時増刊号「明治天皇とその時代]
なかなか見つかりません。機会があったら読んでみたいです。

京大生協ルネ店にまだ残部けっこうありました・・・
3411:02/12/01 17:44
>>340
情報サンクス。とはいえ我が家からあまりにも遠ひ・・・。
気長に探してみるとしますわ。

そういえば、あの迷作「旅順」を書いた柘植久慶が近著「世界の会戦〜こう戦えば勝てた」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122041104/qid=1038732068/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-8702721-4553942
で旅順要塞を早く落とす方法を述べているとか。
こちらも別の意味で早く読んでみたい。
342日本@名無史さん:02/12/12 07:14
age
343日本@名無史さん:02/12/14 21:38
非常に興味深く拝読させていただいております。

ところで、激しく既出かと思いますが、乃木の事績
なり、旅順攻撃の経緯なりについて、たとえば、司
馬遼太郎の「坂の上の雲」とか、広く読まれている
本がありますが、専門家ではない者にとって、読み
やすさと正確さと、現時点での入手のしやすさを兼
ね備えた文献というと、どういったラインアップにな
るでしょうか?
344嶽原:02/12/14 23:53
>読みやすさと正確さと、入手のしやすさを兼ね備えた文献というと、
 どういったのラインアップになるでしょうか?


 易しく、正確で、入手し易い、となると、結構限られると思います。

・「旅順攻撃の経緯」については、これが一番でしょうか?
「日本の戦歴 日露戦争上下(平塚征緒・学研M文庫) 」

・「乃木の事績」の本は、軒並み入手しづらいと思います。
「乃木と東郷(戸川幸夫・角川文庫・光人社)」
 読みやすい小説ですが、今ではちょっと入手しづらいかも知れません。


 私としては、やはりこれをお勧めします。
「名将 乃木希典(桑原 嶽・中央乃木会)」
 多分絶版にはならないし、正確だと思います。でも取付き難いのが欠点?
345日本@名無史さん:02/12/15 23:50
>344
 あ さっそく有り難うございます。なるほど。
3461:02/12/18 20:07
一応、「乃木希典〜高貴なる明治」なる本も出ている
http://www.znet.or.jp/~tenden/book/syakai/syakai42.htm
(「名将乃木希典」を参考資料に上げている乃木伝はこれくらいのものではないか?)
が、出版元が展転社からということからもわかるとおり、
引いてしまう場面が多々あり、素人にはお勧めできない。

「名将乃木希典」・・・取り付く以前に入手しがたいのではないかと(苦笑)
347日本@名無史さん:02/12/21 15:24
「名将 乃木希典(桑原 嶽・中央乃木会)」

乃木大将を神とあがめる中央乃木会が書いた本。
プロパガンダに満ちてます。

とりあえず殉死から入られてはいかが?疑問を
思ったら色々な本を読んではいかがと。
348嶽原:02/12/21 18:10
う〜ん、「殉死」は……内容も平易で入手し易いですが、如何せん
誤りに満ち満ちていて、入門書としてはお薦めできませんね。
349嶽原:02/12/21 18:29
まあ「名将 乃木希典」も、入門書としてはお薦めできませんが(笑)。

私も購入後、一年近くほったらかしておきましたからねえ。
350日本@名無史さん:02/12/21 21:07
今村均大将が反論してたな。>殉死
351嶽原:02/12/25 00:48
 「長岡外史回顧録」を元にした、「大本営の長岡参謀次長が陸相を説得した」
という説は、小説「坂の上の雲」などで広く知られています。

 ところが、長岡次長が説得した筈の陸相の日記「寺内正毅日記(山本四郎編・
京都女子大学)」には、そんな記述は無いそうです。以下のように、陸軍省内の人
物である有坂技術審査部長の意見を聞いて採用を決定したことになっています。
『08月25日:午前有坂少将を招き旅順攻撃の形勢を語り、大口径砲送付
      の件に就き意見を叩く』
『08月26日:午前八時半より有坂少将来り28珊榴弾砲の件意見を述ぶ。
      之を採用す』

 「長岡外史回顧録」と「寺内正毅日記」との内容を見比べると、長岡次長の関与
の程度が全然異なります。
 「長岡回顧録」内容の矛盾は、大江志乃夫氏が以前から指摘しています。最近で
は、防衛研究所戦史部調査員である原剛氏も著作「明治期国土防衛史」にて長岡次
長の記憶違いであろうと指摘しています。


 「長岡外史回顧録」を元にした、「大本営の長岡参謀次長が陸相を説得した」
という説は、小説「坂の上の雲」などで広く知られています、が、誤りなのだろう
と思います。
352日本@名無史さん:02/12/26 01:17
>343
遅レスですが・・・

小説・池波正太郎「将軍」はどうでしょうか?
文庫で「賊将」というタイトルの本に収録されている短編です。
今まで私が読んだ本の中では、偏見というか作者の主張が強く
入っていない方なので、そういう意味ではお勧めです。
文章も平易で分かり易く短い上、半端じゃなく容易に入手できます。

文献は学研・歴史群像シリーズ「日露戦争」や「旅順・奉天」が
容易に入手でき、大江志乃夫の「日露戦争と日本軍隊」は
ちょっと大きい本屋に行けば大抵見かけます。

ちょっと入手が容易という条件に傾きすぎる向きがありますが、
このあたりで如何でしょう。

ちなみに、名将乃木希典に手を出す場合は、先に坂の上の雲・殉死を
読まれることをお勧めします。
副題が「司馬遼太郎の誤りを正す」ですしね(w
353嶽原:02/12/26 23:58
そうか!そうだった!

>副題が「司馬遼太郎の誤りを正す」ですし
354日本@名無史さん:02/12/28 08:16
大濱徹也 乃木希典 河出文庫 を手に入れる。

軍神 乃木像への研究が面白い。
乃木”伝”と乃木”論”の展開がされていて読みやすい。

ただ、大濱氏は乃木愚将派ですね。
355日本@名無史さん:02/12/28 12:39
台湾板で乃木が総督の時「悪政」をした、とカキコしたのを見ましたが
本当のところトバサレタんで、何もしなくて中国語それも漢文詩ばかり
よんでたんでしょうが。
356日本@名無史さん:02/12/28 12:47
でも 蒋介石一味より立派なのは、山県有朋みたく汚職しなかった
事です。総督なら長崎奉行、香港総督みたく ひと財産稼げたンです。
357日本@名無史さん:02/12/28 13:00
乃木さんは、旅順虐殺事件で責任あるんでしょうか?
あるって人と無いって人がいるようなんですが
358日本@名無史さん:02/12/28 13:06
(2)旅順口事件当時,旅順攻撃の第1師団歩兵第1旅団長は乃木少将だっ
     たが,旅順では「乃木が来るぞ」と言えば子供が泣きやむほど恐れら
     れていた.事件に乃木関与の可能性はあったのか?

    ●中村粲氏論旨:乃木旅団が旅順市街に入ったのは,11月21日午後
            だが,乃木率いる歩兵第1連隊は旅順市街から6キロ
            も離れた鴨湖嘴にいた.そして翌22日には老鉄山砲
            台を占領している.ゆえに,旅順市街を見てさえもい
            ない.乃木旅団に属していた15連隊は,旅順市街を
            通過したが,旅順市街通過前に第2旅団の指揮下に入
            っている.つまり,15連隊が旅順市街を通った時に
            は乃木の指揮下になかった.ゆえに,乃木の関与の可
            能性はない.

    ○秦郁彦氏論旨:22日の朝に乃木旅団は金州へ向け出発する予定だっ
            たが,その時には15連隊が乃木の指揮下に戻ること
            になっていた.朝に出発するんだから,21日の夜に
            は15連隊は乃木の指揮下に戻るということになる.
            ということは,乃木のところに戻る途中に15連隊が
            虐殺をおこなったということも考えられる.また,乃
            木が宿営したのは旅順駅からわずか2キロの操練場だ
            ったが,少なくとも1個小隊の護衛兵力はついていた
            はずである.これがやったという可能性もある.

http://www2s.biglobe.ne.jp/~fdj/souko/mitironsou.html
359日本@名無史さん:02/12/28 13:08
清き一票を!
【日本の政治評論家不人気投票】
池田大作、現在一位まであと約600票。
ご協力お願いします。
http://www.amiva.com/an/vote001/tvote.cgi?event=001&show=all

 下記は池田大作の発言ですが原爆を投下されたのは創価学会を迫害したから
ということです。このような人物が権力をもっていてよいのでしょうか?

先ほどから話がありましたが、大聖人様御在世に大聖人様を迫害したがゆえに
一国謗法であり、一国が正法を護持しなかったがゆえに他国侵逼の難、二回の
他国侵逼の難がございました。文永の役と弘安の役。その大きい難を通じて、
民衆は大聖人様の予言を少しずつ知ってきたわけでございますが、下って
大東亜戦争の際、日蓮正宗を国家が弾圧し、創価学会を弾圧し、二度の原子爆弾の
投下をされております。一発は九州、一発は広島。日本の国が正法を誹謗した報いです。
 いままた日本の国が、もしか広宣流布ができなかったならば、それ以上に、
日本の国が重大の岐路に立っている。それはなにか。戸田会長はそれをいちばん
心配して、それを青年に、これからの行くべき道をたくさん教えてくださったわけで
ございます。大聖人様御在世のときには二度の他国侵逼の難。大東亜戦争のときには
世界始まっていらいの二つの原子爆弾の投下、今度は日本の国が、ソ連とアメリカと
二つの大国から攻められていくべき宿命にあるということを、真の青年は知らなくては
ならないと思うのでございます。

360嶽原:02/12/28 20:05
>>354
>大濱徹也 乃木希典 河出文庫

これ、いい本ですね。結構入手困難だと思います、つうか羨ましい。
343氏の求められているものに、最も近いのかも知れません。
361日本@名無史さん:02/12/28 21:54
>>355 結果的に悪政となったのは事実です。官僚機構を巧く使うことが
出来ませんでした。ただ、原則論は間違っていないが、人間というものの
理解が足りなかったのでしょう。
362日本@名無史さん:02/12/29 10:22
一般論として軍事学に優れず 行政にもすぐれず、とすれば文学に才能が
あった方なんですねぇ。詩学では夏目漱石以上の才能をお持ちの方と拝見しました。
 上野公園の西郷銅像の階段を下りた処に希典とだけ書いた大きな石碑を見ました。
広場の交番ウラです。隷書?「忠魂の碑」でした。素晴らしい書体でした。
363日本@名無史さん:02/12/29 12:39
国家(軍)によって創られた乃木像を実際の乃木と錯覚してるから大人物に見えるだけ。
江戸時代の教養を身につけた頭の固い漢文好きのオヤジと考えれば、当時はゴロゴロ
いたタイプ。相手の心情を考えない独りよがりな押し付けなんかも亭主関白の時代相を
彷彿とさせる。
364日本@名無史さん:02/12/29 12:50
オバQの神成さんみたいなタイプだな。
3651:02/12/29 19:33
>>357-358
何をもって「責任」「関与」とするのかは人それぞれ異なってくるでしょ。

>>363
そりゃご無体な。過去のすさまじい議論を見れば、
少なくとも大山や児玉、黒木ら日露戦争の名将たちの一人に数えられる資格はありますよ。

>>364
白樺派の人々や芥川の乃木観ってそういうものだったのかな。
366日本@名無史さん:02/12/29 22:15
>>365指揮下の部隊が来る途中で狼藉を果たしたら
   指揮官が責任を負うのだが。
3671:02/12/31 00:56
>>366
結局のところ虐殺があったとされるソースでも
「どこの誰が」
「日本軍のどの部隊に」
「いつ」
「どこで」
「どのような手法で」
「何名殺害された」
ことが解るような精密なものじゃないでしょ。
>>358の秦教授の意見も結局推論だし。
資料不足で判断は不可能、というのが穏当なところじゃないの?
368日本@名無史さん:02/12/31 10:46
>>367

乃木が旅順虐殺に関わったのかどうかは極めてグレーなんです。
完全に潔白でもないのです。潔白を証明する資料もないのですから。
369日本@名無史さん:02/12/31 11:00
うーん。普段の言動を考えると、あの完璧・潔白主義の乃木さんが、
虐殺に関与したとは考えにくいなー。
370嶽原:03/01/04 17:00
謹賀新年
371嶽原:03/01/04 22:09
 秦氏が旅順虐殺事件に興味を持ったのは、1982年からだそうです。
 大連を訪問した時に、「戦前の旅順では子供が泣きやまないときに、乃木が
来るぞ!とおどすと泣きやんだものだ」という話を聞いてから……だそうで。
で、帰国後に調べ始めて、乃木が旅団長として旅順攻略戦に参加していたこと
を確認したのだそうな(「現代史の争点・文春文庫」)。

 そもそもの中国側の言い習わしが、ナマハゲの「泣く子はいねが〜!」とか
「泣く子は山に捨てるよ!」とかと、同レベルのような気が……。


 秦氏は、「私は、乃木を責任者とする中国に対して、犯人は不明だが乃木の
アリバイも成立しないとの立場をとっている」と述べています。
 また、大山第二軍司令官−山地第一師団長−乃木第一旅団長・西第二旅団長
といった指揮系統だった事にも触れ、「乃木旅団長がどの程度の責任を負う
べきかについては……つめることができない」と述べています。

>1
 私も、資料不足で判断は不可能、というのが穏当なところだと思います。
にしても、秦先生の本は読みやすいです。結構笑えるし(笑)、好きだ。
372嶽原:03/01/05 01:34
 乃木の日頃の行いを考えてみると……
・北清事変の馬蹄銀事件で、嫌疑を掛けられた部下に連座したり、
・平時から、軍人15箇条?みたいなものを書いて綱紀粛正に励んだり、
・旅順攻撃時に、第一線に憲兵を配置して取り締まりに気を使ったり、
・奉天戦後に、第三軍が駐屯していた所では地元民に慕われていたり、
      ……虐殺に関与した、というのは考えにくいと思います。

 秦先生が述べている関与の可能性のある第15連隊第三大隊は、翌日に乃木
配下となる前に別の指揮官の指揮下に居た時期があるそうですし、その辺り
監督責任が生じるのは、どの時期からなのか、という微妙な問題になると思
います。責任があったとしても結果責任?
 「虐殺に関与した」などと言うと、「積極的に関与した」、「命令した」
なんていうイメージが浮かんでしまい、適切な言い方ではないと思います。
373兵八:03/01/05 18:03
あけましておめでとうございます……このスレってまだ続いてたんですね、ビクーリ。
ネタも何も持ち合わせていないんで、とりあえずご挨拶をば。
3741:03/01/06 19:16
>>371-372
そもそも中国人は「乃木が来るぞ!」という子供への脅しは
旅順虐殺からきたものであると秦教授に言明したのでしょうか?
僕個人の考えとしては日露戦争時の旅順要塞攻防戦の影響が大きいと思うのです。
8月7日の海軍陸戦重砲隊の砲撃が旅順市街にもたらしたパニックは有名ですが、
M・コスチェンコ提督の「旅順攻防回想録」なんて読むと、港湾施設などしょっちゅう砲撃を食らい、
それによる市街地の被害も馬鹿にならなかったようです。
(もっとも「にもかかわらずロシア軍民は頑張り抜いたぞ!」的な書き方なので
いくらかの誇張はあるかも。)
弾薬庫の爆発など毎日長くて五行程度だった、当時の乃木の日記にまで載っていることからして
よほどの轟音だったのでしょう。
虐殺が始まったとされる時間帯には郊外にあり、すぐに北方へ移動して行った一旅団長
というよりも、4ヵ月半に及ぶ日本戦史上屈指、
もちろん旅順市史でも前代未聞の要塞攻防戦であり砲撃戦を指揮した総司令官
というほうが、地元住民に残すインパクトははるかに大きいと考えるわけです。

>>373
過去ログでのすさまじい戦いぶりを見かけてから
一度は書き込んでもらいたいと思っていました。
何しろ僕が乃木愚将論に最初に疑問を抱いたのは
兵頭二十八氏の著作に触れてからですから。
375嶽原:03/01/07 22:03
 平八さんお久しぶり。懐かし〜。古い話ですが、一戸は乃木を尊敬していたか?
なんていうネタがありましたね。

 先日古書店で古い歴史読本?だかを呼んでいたら、乃木について書いた頁があり
その中に一戸少将は乃木をどう思っていたか?という話がありました。
 某が一戸少将に「尊敬する人物は?」と尋ねたところ、幾人かの名を列挙した後
最後に「乃木希典」と答えた、ということです。
 けして取って付けたような言い方ではなく、「ノギ・マレスケ」という感じに、
改まって述べる様にはっきりと答えた、と。

 正直、私自身、乃木ネタというか旅順ネタがこんなに面白いものとは思いま
せんでした。
376嶽原:03/01/08 00:42
>>374(1氏)
 秦先生の記述ですと、言明したか否か、どっちとも取れる書き方です。
日清当時の虐殺事件の話をしている中での「乃木が来るぞ!」ですから。 
 たしかに、すぐに北方に去った一旅団長に対して恐れるよりも、半年に
渡っての攻略戦を指揮した軍司令官に対して恐れを抱いていたと考えるの
が自然な気がします。言われるまでサッパリ気づきませんでしたが(笑)。
3771:03/01/09 22:49
平成18年に「坂の上の雲」が大河ドラマとして放映されるらしい。
(ソースが出せないが22時のニュースでやっていた。)
どんな乃木が描かれるのやらと心が重い。
このスレもしょせん蟷螂の斧か・・・。
3781:03/01/09 23:28
379嶽原:03/01/10 04:15
 乃木愚将論再燃については、前もって覚悟しておかねばなるまい(笑)。
 最近は、日露戦争の頃の描写ってほとんどテレビで見ないので、その点で
は素直に楽しみです。75分×20話とは、何となく変則的な気が。どういう
ドラマになるのかな?楽しめる娯楽番組となることを願っております。
3801:03/01/11 16:19
NHKも色々な配慮があるので、正面切った乃木批判がされるかどうかは
疑問に思っていますが、そのぶん伊地知なぞぼろぼろにされるでしょうね。
乃木愚将論への批判はそのまま伊地知にも当てはまる事を知る身としては
心苦しいものがあります。
せめて一戸兵衛や津野田是重にはいいキャストを希望。
381山崎渉:03/01/11 17:05
(^^)
3821:03/01/11 18:54
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/army/1040045964/
「二百三高地」
軍事版でまたまた復活。
383兵八:03/01/12 02:43
NHKが映像化?マジですか・・・・・・。
児玉が乃木の指揮権を奪おうが、28センチ砲が203高地に上げられようが別に驚きはしませんが。
どうせあの国やかの国からクレームがつけられるのは判りきってるのに、つっぱねる覚悟があるのかしら。
乃木第三軍が、旅順入城後に支那人虐殺をやらかすシーンとか追加されかねないのでは。
まあ、脚本家は乃木神社に参拝して、「名将乃木希典」を熟読してから仕事せい、と訴えたい。

個人的には、ハリウッドが製作中とかいう西南戦争モノが楽しみです。

>>375
嶽原さんは相変わらずのご活躍ですね。わたしゃ地方に引っ越したおかげで、
古本屋巡りもロクに出来ない状態です…トホホ。
384嶽原:03/01/14 03:17
「第一次総攻撃時の重砲砲種・砲数の、公刊戦史付図による確認と訂正」

 以前に、こういう書き込みをしたことがあります。
『☆12糎カ×30、☆15糎臼×72、☆09糎臼×24、(☆は旧式砲)
 ★10糎半速射カ×04、★15糎榴×16、★12糎榴×28、(★は新式砲)
 そして海軍陸戦重砲隊の★12糎カ×20、戦利砲06、の計200門。』
 上記の砲種・砲数は「血風二百三高地(船坂弘)」の記述に拠るものです。
第一次総攻撃時のものとして紹介していました。

 ところが公刊日露戦付図にて08月24日時点での重砲布陣を確認してみたら、
上記とやや異なり、このようになっていましたので、訂正いたします。

『☆12糎カ×30、☆15糎臼×72、☆09糎臼24、
 ★10.5糎カ×04、★15糎榴×16、★12糎榴×28、
 海軍陸戦重砲隊の★12糎カ海軍砲×06、7.5糎カ海軍砲×18、
 戦利砲×06、の計204門。』
385嶽原:03/01/14 03:29
 上記重砲の所属部隊は、以下の通りです。

●野戦重砲兵連隊
  第一大隊(三個中隊):12糎榴×12(04×03)
  第二大隊(二個中隊):12糎榴×08(04×02)
  第三大隊(二個中隊):12糎榴×08(04×02)
●徒歩砲兵第一連隊
  第一大隊(四個中隊):12糎カ×24(06×04)
  第二大隊(四個中隊):15糎榴×16(04×04)
●徒歩砲兵第二連隊
  第一大隊(四個中隊):15糎臼×24(06×04)
  第二大隊(四個中隊):15糎臼×24(06×04)
●徒歩砲兵第三連隊
  第一大隊(四個中隊):15糎臼×24(06×04)
  第二大隊(四個中隊):12糎カ×06(第五中隊)
             10.5糎カ×04(第六中隊)
             09糎臼×12(第七、八中隊)
●徒歩砲兵第一独立大隊(二個中隊):09糎臼×12(06×02)
●海軍陸戦重砲隊(八個中隊?):12糎カ海軍砲×06(03×02)
                7.5糎カ海軍砲×18(03×02+04×03)

●所属不明:戦利砲(?6.5糎カ?)×06
      (徒歩砲兵連隊ごとに03×02として分配されていたようです)
386嶽原:03/01/14 04:05
 海軍陸戦重砲隊の所、砲数と中隊数とが混乱しているので訂正します。

●海軍陸戦重砲隊(八個中隊?):12糎カ海軍砲×06(砲数02×03個中隊)
                7.5糎カ海軍砲×18(砲数03×02個中隊
                         +砲数04×03個中隊)

 確認に使用した08月24日の付図では、軍司令部は団山子山辺りに置かれて
います。第一線からは至近といってよい場所で、各種砲列のまさにど真ん中
です。徒歩砲兵第一連隊や第三連隊の砲列位置よりも前方に位置してました。

 「司令部が遠くにありすぎた」という批判がよく言われますが、兵站補給・連絡業務などの雑務は、やや離れた柳樹房(この辺りにも敵砲弾が炸裂して
いたようですが)で行っても問題ないと思います。
 総攻撃の際には上記のように前方に進出しているのですから、戦闘指揮
の点でも、特に問題ないのでは?と思います。
387嶽原:03/01/14 04:17
>>383兵八さん
 私も最近は古書店巡りはあんまりしてません。古書は高いし(泣)。

 先日、352氏が薦められていた「将軍(池波正太郎)」を古書購入。
津野田が主人公の、とても読みやすい小説でした。352氏に感謝。
388山崎渉:03/01/16 09:01
(^^)
389mm:03/01/17 19:45
日本軍史上、最大の無能。
5万人もの日本兵を死なせてしまった。
3901:03/01/17 20:55
>>389
だったらナポレオンはロシア遠征で何万死なせましたかねえ?

>将軍
芥川龍之介も同盟の短編書いてたような。
3911:03/01/17 20:58
ていうか、死者数と全体的な損害数の区別もつかねーのかyo!
旅順じゃ死者は約1万8千だ!
3921:03/01/17 21:51
嗚呼、資料を見たら一万五千四百だった!
393日本@名無史さん:03/01/18 00:34
ソ連軍だってかなりドキュソ戦法やったすけどね、、、独軍しかり
あ、日本史板か、、
394日本@名無史さん:03/01/18 00:36
>>390
乃木ってナポレオン程の活躍もしてないだろ。
395mm:03/01/18 08:17
乃木の愚かなのは旅順攻略には203高地を攻めろという
声を無視し続けたことだ。愚かな上、素直でもなく、たくさん
の日本兵を死なせた。それは終戦後、墓参りしてすむ話ではない。
396日本@名無史さん:03/01/18 08:52
日本軍による虐殺は史実と結論付けられたな
397嶽原:03/01/18 19:19
 二百三高地は所詮、旅順要塞の西方主防御線の前衛陣地に過ぎません。

 八月の段階では西方前衛陣地の最外郭しか陥としていないので、二百三高地の
攻略は不可能です。目標としないのは当然です。

 九月の段階で二百三高地が攻略目標とされたのは、東北方面の主防御陣地であ
る松樹山を側射できそうな地点だからです。その目的は果たせませんでしたが、
近隣の南山坡山の占領により、港内の艦艇をかなり目視できるようになっていま
す。白玉山に隠れる死角は極限られたものです。港内を望む観測点の確保という
目的は、完全なものではないにしろ、この時点である程度果たせています。

 十月の段階では、例えば東鶏冠山北堡塁の内部にまで達する孔が開かれていま
す。攻撃築城作業がこれ程に進捗していれば、今更二百三高地などに向かうのは
おかしいです。

 十一月の段階では、既に堡塁の外郭は越えており、内庭での戦闘が生じている
程です。史実では月末に一転、二百三高地に向かっています。

 十二月の段階では、内庭の中央付近にしかけた大量の爆薬を爆破し、東北主防
御陣地を占領しました。おそらく、二百三高地攻防戦での露軍の消耗・疲弊も影
響したでしょうが、二百三高地攻防戦がなくとも、爆破占領は成ったと思います。
398日本@名無史さん:03/01/19 08:41
>>397 11月の段階で攻撃築城が進展しているにも関わらず、
白襷隊を認めた乃木はバカということですな。白襷隊など
なんの意味もなかった。あなたの言うとおりならば、12月に
は203高地もなくても、10月 11月の犠牲を払わなくても
12月には落ちるという論ですね。

 ならば 10月 11月と無意味な攻撃をした乃木はバカですね。
399嶽原:03/01/19 09:50
>>398>「12月には203高地もなくても、10月 11月の犠牲を払わなくても
     12月には落ちるという論ですね。」

 「あなたの論は〜という論ですね」というように、当方の論を勝手に解釈する論
者が以前居られ、辟易しました。
 私が「10月11月の犠牲を払わなくても」と記した場所はどこか指摘せよ。指摘が
出来ずば撤回したものと見なす。

 当方の論を再掲します。
 10月、11月の時点で東北正面への攻撃築城作業の進捗振りを見れば、今更二百三
高地に向かうのはおかしいと思います。
 また、二百三高地争奪戦がなくとも12月の爆破占領は成ったと思いますが、二百
三高地攻防戦での露軍消耗、疲弊の影響も否定しません。
400日本@名無史さん:03/01/19 10:39
それで10月の戦いで旅順が陥落したの?
それで11月の戦いで旅順が陥落したの?
12月まで待てば203高地に向かわずとも
攻撃築城で落とせたというのが貴方の論でしょ?
401日本@名無史さん:03/01/19 10:52
>十二月の段階では、内庭の中央付近にしかけた大量の爆薬を爆破し、東北主防
>御陣地を占領しました。おそらく、二百三高地攻防戦での露軍の消耗・疲弊も影
>響したでしょうが、二百三高地攻防戦がなくとも、爆破占領は成ったと思います。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

12月まで待てば203高地など攻略しなくても爆破占領ができた。
しかし爆破占領=旅順陥落ではない=艦隊撃破でもない。

こんな基本的なことを理解していない御仁がまだいるなんて。
少なくとも203高地攻略=艦隊撃破というのは史実ですね。
402嶽原:03/01/19 10:57
 貴方は398氏ですか?
 398氏ならば、当方嶽原が「10月11月の犠牲を払わなくても」と記した場所
はどこか指摘して下さい。指摘が出来ずば撤回したものと見なします。


 398氏でないならば。

 『>それで10月の戦いで旅順が陥落したの?
   それで11月の戦いで旅順が陥落したの?』
 10月、11月の戦いで陥落していたと、誰が言っているのですか。
 
 『>12月まで待てば203高地に向かわずとも
攻撃築城で落とせたというのが貴方の論でしょ?』
 10月、11月の戦いを経て、内庭地底への爆薬装填となります。外壕の通過
は成った、がしかし陥落しなかったので更に築城作業を進めたのです。
 
 なるべく早急に陥落させねばらないないのですから、10月・11月の戦いが
無駄なものとは全く思いません。
403嶽原:03/01/19 11:02
>>401『少なくとも203高地攻略=艦隊撃破というのは史実』

 09月の攻撃の結果、南山坡山の観測所を確保されて観測隊が常駐
しています。さらに10月に山越え射撃できる28榴弾砲が戦線に参加
しました。

 この結果、二百三高地奪取を待たずして旅順艦隊には大きな被害
を与えることができています。
404日本@名無史さん:03/01/19 11:04
>>403 あれ??10月に旅順艦隊撃破の確認まで出来たの?

珍説がでてきた!参加したから旅順艦隊に大きな被害を
与えるのと203高地攻略後の艦隊撃滅を一緒にしてるよ!
405日本@名無史さん:03/01/19 11:06
内庭というのがどこを指すのですか?
406嶽原:03/01/19 11:12
『旅順艦隊の蟄伏状況 各艦戦闘力の観測(日露戦争実記12月03日号)

 ……09月28日には海軍砲を以て猛撃を加えたる結果、大艦に数発命中火災
を起こし、同30日またペレスウィット、ポペーダの二隻には各六発命中し、
10月02日には攻城海軍砲を以てペレスウィットの砲塔を砕き……10月04日に
はポルタワ、ポペーダ、ペレスウィットに数弾命中……10月07日にはポペーダ
、レトヴィザン、ペレスウィット、ポルタワに……
 ……結局運動力を失うに至り……目撃者は同艦の戦闘力喪失を言明せり……
10月26日以後連日巨弾を放ちたればその効果また甚だ大なりと言わざるべから
ず……』
407日本@名無史さん:03/01/19 11:14
>>403 つまり史実の203高地攻略は艦隊撃破のため
ではなく、無意味な攻略だったわけですか?10月に
大きな被害がでているならば、11月末に203高地攻略
したのは非常に愚かな行為ですね。

10月の段階で旅順艦隊撃破できているのであれば、
203高地に無駄な戦力を振り分けてしまった
乃木はクソです。
408日本@名無史さん:03/01/19 11:27
>>406 何が言いたいの?10月の日本側の砲撃で大損害が
出たという報告書で旅順艦隊が撃滅されたことを述べたいの?

貴方の脳内では、旅順艦隊が海軍の要請どおり10月に撃滅されたのですね。
そうでないならなぜ経過報告書を出すのかがわからん。アホ?
409日本@名無史さん:03/01/19 11:36
>408

>>403は 203高地=艦隊撃破 という史実に対する
反論ですよね。

つまり嶽原氏の考えでは203高地攻略前には既に
旅順艦隊は撃滅していると述べたいんでしょうね。
410嶽原:03/01/19 11:36
 >>408
 撃滅とは言っていません。
 行動力・戦闘力を大いに削がれ、もはや脅威となるものではなかったろう
と言っているのです。
411日本@名無史さん:03/01/19 11:37
>>410 脅威がなければ、なぜ海軍は封鎖を続けたの?
   
412嶽原:03/01/19 11:39
>>409
 二百三高地攻略前に、既に旅順艦隊は戦闘力を喪失していたと思います。
413日本@名無史さん:03/01/19 11:41
嶽原論
203高地攻略前に旅順艦隊は戦闘力を喪失し、
脅威ではなくなっていた。

史実 
203高地を攻略し観測点を設けて旅順艦隊を撃沈破したのを
確認後、艦隊は封鎖を解いた。
   
414嶽原:03/01/19 11:43
>>411
 11月11日の連合艦隊司令長官と第三軍司令長官との交渉で、封鎖に
ついても話が交わされています。
 封鎖を解きたいという要請に対して、軍司令官は封鎖に主力艦を用い
なくてもいい、港口封鎖よりも鳩湾方面からの密輸を阻止してくれ、と
要請しています。

 連合艦隊は封鎖を解きたいと言い、第三軍は封鎖を緩めても良いと言い、
両者の言い分は一致しているんですが、なぜか封鎖は続けられてます。
415日本@名無史さん:03/01/19 11:47
>>414 南山からの観測点では港内全てを俯瞰していたのですか?
416嶽原:03/01/19 11:51
>>413
 当方嶽原の論を改めて述べさせて頂きますと、以下のようになります。

 二百三高地攻略前に旅順艦隊は戦闘力を喪失し、脅威ではなくなって
いた。
 封鎖を解きたいという連合艦隊側に対し、第三軍側は封鎖に主力艦を
用いる必要はないので緩めても良いと述べたが、連合艦隊側は封鎖態勢
を緩めることはなかった。
 二百三高地攻略後、港外に脱出し座礁したセバストポリの沈没状況を
東郷が直視確認したのち、封鎖が解かれた。
417日本@名無史さん:03/01/19 11:52
>>414 信用されてないんだよ・・。
418日本@名無史さん:03/01/19 11:56
>>416はなぜ?セバストポリが港外に脱出できたのかを考えない
んでしょうね。戦闘力は喪失してないじゃん。生き残っている
というのが脅威なのにねぇ。ビーイングフリートを理解してない
乃木と嶽原にそれを求めるのは無理なことか・・・。
419嶽原:03/01/19 11:57
>>415
 白玉山による死角があります。
 死角の大半は龍河の河口部であって泊地に適さず、死角に隠れる
ことが出来た戦艦はペレスヴェートとポルタワの二艦のみです。
 これらもマストが望見されるなど、完全に隠れることは出来ません。
420日本@名無史さん:03/01/19 11:59
>嶽原氏 乃木大将も203高地攻略前11月初旬までには
旅順艦隊の戦闘力は喪失し、脅威ではなくなっていたと
お考えですか?
421嶽原:03/01/19 12:03
>>417、418
 連合艦隊側は、旅順艦隊の存在を誇大視しすぎていて判断を誤ったのだと
思います。
422嶽原:03/01/19 12:09
>>420
 軍司令官は封鎖に主力艦を用いなくてもいい、港口封鎖よりも鳩湾方
面からの密輸を阻止してくれ、と要請しています。

 乃木軍司令官も、脅威ではなくなっていたと認識していたのではないで
しょうか。むしろ、要塞の延命に関わる密輸を憂いているようです。
423日本@名無史さん:03/01/19 12:10
連合艦隊の203高地攻略という意見が信用されてないのと同様に
陸軍の封鎖を緩めるという意見が信用されないのも当然。
424日本@名無史さん:03/01/19 12:12
>>422 艦隊が脅威でなくなったのに、203高地を攻めて
大損害を出したのはアホですね。
12月には攻撃築城で爆破できる予定も立っているのに、203
高地は無駄な戦いですね。しかも乃木が決定したんだよね。

425嶽原:03/01/19 12:16
 二百三高地攻略という意見が認められなかったのには、早期は不可触、後期
は別方面の攻撃築城作業進捗という理由があります。

 封鎖を緩めても可、という意見が認められなかったのは何故でしょうか。
そもそも、封鎖を解きたいと要請したのは連合艦隊側の方なのに。第三軍の
緩めていいよ、という解答は、渡りに船の筈ですが。
426日本@名無史さん:03/01/19 12:18
>>422 203高地攻略後、戦艦数隻が撃沈されたのが
日本軍にも確認されたあと、セバストポリが脱出を
図っています。

 もし11月中旬の時点で日本主力艦(大口径艦)が撤退
して密輸に徹していたとすれば、間違いなく戦艦数隻は
脱出できたことでしょう。そしてウラジオストックからの
通商破壊作戦に出られた場合、日本側の海上兵站線は
大損害を受けます。また、バルチック艦隊と同時に
攻撃に出られてた場合、あの日本海海戦の勝利も
危うくなります。

 
427日本@名無史さん:03/01/19 12:24
>>425 第3軍の旅順艦隊に対する脅威の軽視
と考えれば、作戦の推移に理解ができます。

連合艦隊側は旅順艦隊に対する脅威が妥当だと思います。


>>422
>乃木軍司令官も、脅威ではなくなっていたと認識していたのではないで
>しょうか。むしろ、要塞の延命に関わる密輸を憂いているようです。

そもそも乃木は旅順攻略がなんのためかを理解してなかった
と考えてもいいですね。艦隊よりも要塞に目がいってしまっている。

ロシア軍側の要塞の目的は軍港の維持をすることによって海軍戦力
の保持。



428日本@名無史さん:03/01/19 12:43
>>427 嶽原氏の言うとおりであれば、第3軍は
かなり旅順艦隊の戦闘力を軽視していたと思いますね。

そもそも旅順艦隊の撃破も目的に入っていたのに、
実際11月半ばであの状況で脅威を感じてなかったなんて・・・。

どうしようもないですね。
429日本@名無史さん:03/01/19 12:48
逃げたんですかね。過去ログ見る限りかなり詳しそうな
方ですが。
430嶽原:03/01/19 12:57
>>426『セバストポリが脱出を図っています。もし11月中旬の時点で日本
     主力艦(大口径艦)が撤退して密輸に徹していたとすれば、間違い
     なく戦艦数隻は脱出できたことでしょう』

 セバストポリの脱出を阻んだのは、駆逐艦などの小艦艇です。主力艦が参加
していますか? 
 黄海海戦の損傷も満足に修理できず、度重なる山越え砲撃で、更に損害が加
わった戦艦が相手ですよ。乗組員・備砲・弾薬も陸上転用されています。
 港口通過の際に小艦艇で襲撃するだけで充分のように思います。


>>427『そもそも乃木は旅順攻略がなんのためかを理解してなかったと考えて
    もいいですね。艦隊よりも要塞に目がいってしまっている』

 第三軍に与えられた命令は「要塞占領」と「後方安全確保」ですから、
充分に理解していたと思います。
431嶽原:03/01/19 12:58
>>429
 「開運!何でも鑑定団」見てました。
432日本@名無史さん:03/01/19 13:06
>>430 IFの話で11月中旬にはロシア側の主力艦はかなりありますが


433日本@名無史さん:03/01/19 13:07
後方安全確保というのは何を指しているとお考えで?
434嶽原:03/01/19 13:14
>>427『>第3軍の旅順艦隊に対する脅威の軽視と考えれば、作戦の推移に理
     解ができます。
     連合艦隊側は旅順艦隊に対する脅威が妥当だと思います』

 「封鎖を解きたい」と言い出したのは連合艦隊側です。脅威に思っているな
ら、言い出さないのでは。
435日本@名無史さん:03/01/19 13:14
>>430
戦艦の脱出に際して、連合艦隊の駆逐艦部隊による第一段階で
撃破できたので、封鎖する主力艦は不要なんですか?
436日本@名無史さん:03/01/19 13:16
>>434 アホ バルチック艦隊をしらんのか?
437嶽原:03/01/19 13:19
>>432『IFの話で11月中旬にはロシア側の主力艦はかなりありますが』

 現実の話で、斯様な状況ですが。

『旅順艦隊の蟄伏状況 各艦戦闘力の観測(日露戦争実記12月03日号)
……09月28日には海軍砲を以て猛撃を加えたる結果、大艦に数発命中火災
を起こし、同30日またペレスウィット、ポペーダの二隻には各六発命中し、
10月02日には攻城海軍砲を以てペレスウィットの砲塔を砕き……10月04日に
はポルタワ、ポペーダ、ペレスウィットに数弾命中……10月07日にはポペーダ
、レトヴィザン、ペレスウィット、ポルタワに……
……結局運動力を失うに至り……目撃者は同艦の戦闘力喪失を言明せり……
10月26日以後連日巨弾を放ちたればその効果また甚だ大なりと言わざるべから
ず……』
438嶽原:03/01/19 13:20
>>433
 「第二軍の後方安全絶対確保」です。
439嶽原:03/01/19 13:22
>>436
 「バルチック艦隊来航に対応するため」に「旅順港口封鎖を解きたい」と
連合艦隊側が申し出ているのです。
440日本@名無史さん:03/01/19 13:24
>>437だからその時点で詳細に損害が確認できていたの?

 それで10月末の段階で艦隊を撃滅したにも関わらず、
   11月末に203高地攻略に向かわせた乃木はアホということ
   でよろしいか?
441嶽原:03/01/19 13:26
 私は、連合艦隊側のこの申し出は妥当と思います。
 また、敵艦への山越え攻撃の戦果報告から、申し出に対して封鎖の緩和を
了解した第三軍側の対応も妥当と思います。

 双方の要請が一致したというのに、なぜ連合艦隊は主力艦を引き上げなか
ったのでしょうか。申し出は連合艦隊側からなのに。
442日本@名無史さん:03/01/19 13:27
たとえば11月のあの時点で、旅順封鎖を解いて、ロシア太平洋艦隊が
ウラジオに脱出できたとしましょう。中の艦隊は動けるのです
から・・。(それとも駆逐艦だけで封鎖できるならば、その
方法を教えてください。)

日本海でロシア太平洋艦隊が輸送船を撃破していったと
しましょう・・・。
海軍の責任ですよね。乃木が主張したと言ってもそんな言い訳
は通用しませんね。
443嶽原:03/01/19 13:31
>>442
 海軍の責任でしょうね。封鎖を解きたいと言い出したのは連合艦隊です。
444日本@名無史さん:03/01/19 13:32
ちなみに、日本軍は、戦後ロシア太平洋艦隊の所属する戦艦の
一部は引き上げております。軍港の機能は11月の時点でそこ
なわれておらず、修理をするのも当然可能でした。

封鎖を解くにあたり、沈没ないし着低を確認した東郷は当然の
ことをしたまででしょう。それでも引き上げまでの時間は稼げた
と感じた上でしょうけどね。

もし乃木の主張どおり、あの時点で解囲した場合、突破される
可能性は残っています。
445嶽原:03/01/19 13:36
 まあ、満身創痍の旅順艦隊が、鎮海湾が控える対馬海峡を突破できるとは
思いませんが。

 オールオアナッシングでなければならない訳でなし。気になるならば、一部
を留めて、その他を念願の修理訓練に回せばいいのでは、とも思います。
446日本@名無史さん:03/01/19 13:39
>>443 えぇ 旅順艦隊の撃沈が確認できてないのに封鎖を解けば、
海軍の責任です。だから203高地からの確認を要望したのですが?

だから 第3軍が艦隊の脅威はなくなったからと言っても、
信用しなかったのでしょう。
447嶽原:03/01/19 13:43
>>444
 確認を厳にする辺り、東郷の性格でしょうね。
 自分の目で確かめるというのは、私も当然のことと思います。

 あの時点で解囲したいと言い出したのは、連合艦隊司令長官、すなわち
東郷なのですが。乃木は、それに対して緩めて良いと返答した側です。
448日本@名無史さん:03/01/19 13:44
>>445 満身創痍というのが確認できないんだよね。実際。
太平洋戦争でもそのあたりの敵損害の確認は至難だったのに、
日露戦争で安易にできていると思い込んでいる貴方には
わからんでしょうがね。
後世から見れば色々見えるから言えるこった。

まぁ貴方の意見では203高地攻略は不要だったのは
間違いないんだが、史実では203高地攻略して
敵艦の観測をし、その結果、残存する戦艦のみで
脱出を図るが失敗。完全撃破に成功するんだが・・。

都合の悪いところに目を瞑る人なんですね。
449嶽原:03/01/19 14:05
>>448
『>後世から見れば色々見える』
 抜粋元(日露戦争実記)は、明治37年12月03日に国内で発行された雑誌です。

『> 太平洋戦争でもそのあたりの敵損害の確認は至難だったのに、日露
戦争で安易にできていると思い込んでいる貴方にはわからんでしょうが』
 戦果確認が至難というのは一般論としてはわかります。しかし、この場合の
ケースはどうですか?ほんの4〜5キロしか離れていない南山坡山観測所からの
確認が至難とは思いません。

『>貴方の意見では203高地攻略は不要だったのは間違いない』
 いいえ、二百三高地攻略が不要だったとは言っていません。東北面主要塞
の爆破作業は、二百三高地攻略に関係なく進捗していったと言っています。

 要塞攻撃は、守り手が固い殻に閉じこもっているので攻め手に分が悪い、
だから守り手にも出血を強要できる地点での攻防が出来るのならば、そちら
の方が攻め手側に都合がよいと思います。
 二百三高地での露軍損害は、のちの防御戦継続に影響を与えたと思います。
450日本@名無史さん:03/01/19 14:11
『>貴方の意見では203高地攻略は不要だったのは間違いない』
 いいえ、二百三高地攻略が不要だったとは言っていません。東北面主要塞
の爆破作業は、二百三高地攻略に関係なく進捗していったと言っています。

関係ないんでしょ?


それで、まぁ貴方の意見では203高地攻略は不要だったのは
間違いないんだが、史実では203高地攻略して
敵艦の観測をし、その結果、残存する戦艦のみで
脱出を図るが失敗。完全撃破に成功するんだが・・。

都合の悪いところに目を瞑る人なんですね。

451嶽原:03/01/19 14:29
>>450
 後半はコピペですね。ループへのお誘いですか?御免被ります。

 守備側には、望台占領後も第二防御線に拠って抵抗するという手段を採る
こともできました。攻撃側は、攻囲戦はまだ続くと思っていました。
 守備側にも出血を強要し予備隊を消耗させた二百三高地攻防戦は、意味が
あるものだったと思います。
452mm :03/01/19 15:12
>397
 どうもあなたの話は乃木を弁護したいらしい。
だが事実として愚直な正面攻撃にこだわりつづけ、
児玉が来たとたん旅順は陥落したのだ。大局から見て
愚将の評価は避けられない。軍人の評価は最小限の
犠牲で勝つことだからね。
4531:03/01/19 15:16
児玉が来た後も旅順は陥落しておりませんが何か?
454嶽原:03/01/19 16:04
>>452『>児玉が来たとたん』
 二百三高地陥落の時期と児玉来順の時期が、重なっただけでは。

 損害についてですが、死傷者四万五千(死者一万五千)というのは、そん
なに多いのですか?他の要塞戦での死傷者はいかほどなのでしょうか。
 半年という期間で旅順を陥落させたというのは、大いに評価されています。

『旅順の強堅はセバストポールに六倍し、セバストポールもなお一年の間、
英仏連合軍を悩ましたり。然るに日本軍は僅かに八ヶ月を以てこの大要塞を
陥れたり。しかも直接防御線に迫りしたる時より算すれば、僅かに五ヶ月を
要したるのみ(英国「タイムス」)』
455日本@名無史さん:03/01/19 19:12
MM>>395 乃木の愚かなのは旅順攻略には203高地を攻めろという声を無視し続けたことだ。
    で下記の反論
嶽原>>399 。おそらく、二百三高地攻防戦での露軍の消耗・疲弊も影響した
でしょうが、二百三高地攻防戦がなくとも、爆破占領は成ったと思います。

嶽原>>451 守備側にも出血を強要し予備隊を消耗させた二百三高地攻防戦は、意味が
あるものだったと思います。

 MM氏 彼は乃木擁護派で上のように無茶苦茶の論理で議論を滅茶苦茶
にします。相手にしない方がいいです。

456日本@名無史さん:03/01/19 19:28
嶽原>>445オールオアナッシングでなければならない訳でなし。気になるならば、一部
を留めて、その他を念願の修理訓練に回せばいいのでは、とも思います。

 これも可笑しいよね。乃木を贔屓するのはいいけど、これでは
日本海における制海権は怪しいよ。

嶽原>>422 乃木軍司令官も、脅威ではなくなっていたと認識していたのではないで
しょうか。

 それでは二百三高地を攻める理由は無いですね。いくら要請とはいえ、
ロシア太平洋艦隊は脅威ではなくなっていたと考えていたのに、
二百三高地という外郭防衛陣地 攻略で大損害を食らっています。
8月の第一次総攻撃並におかしいよね。彼は4ヶ月間何も考えてなかったのか。

 やはり乃木はアホです。


457嶽原:03/01/19 19:35
>>455
 当方は以下のように反論したのですが?Q&Aの関係になってるでしょう?

>>395(mm氏)
『乃木の愚かなのは旅順攻略には203高地を攻めろという声を無視し続けたことだ』

で、こちらの反論。
 二百三高地攻略という意見が認められなかったのには、早期は不可触、後期
は別方面の攻撃築城作業進捗という理由がある(08月には攻撃するどころでは
ない。09月には攻撃したが失敗した。しかしその目的は東北方面攻撃を側面か
ら援護するためだった。10月、11月となっては、東北方面の攻撃築城作業進捗
のため、二百三高地への転進はできない)。


 貴方は、当方の反論を以下の二つとしていますが、なんですかこりゃ。
『おそらく、二百三高地攻防戦での露軍の消耗・疲弊も影響したでしょうが、
 二百三高地攻防戦がなくとも、爆破占領は成ったと思います。』
『守備側にも出血を強要し予備隊を消耗させた二百三高地攻防戦は、意味が
 あるものだったと思います。』

 Q&Aの関係になっていない当方の言葉を切り取って提示するのは、何の
意図あってのことでしょうか。理解に苦しみます。
458嶽原:03/01/19 19:44
>>456
『>これでは日本海における制海権は怪しい』
 ならば、なぜ連合艦隊側は、封鎖を解きたいなどと言い出したので?

『>それでは二百三高地を攻める理由は無い』
 旅順要塞を陥落させて速やかに北方戦線に加わるためには、防御側に
も出血を強要させる地点において消耗戦が行われたのは意味があったと
思います。
 それが意図したものだったかどうか、は知りませんが。
459嶽原:03/01/19 19:57
459の『Q&A』というのは変ですね。

 『論点提示(二百三高地を攻めろという声を無視したのは愚か)』への
『反論(理由がある)』という関係に過ぎませんでした。失礼。
460日本@名無史さん:03/01/19 20:05
>>397 冒頭に
>二百三高地は所詮、旅順要塞の西方主防御線の前衛陣地に
>過ぎません。

 と二百三高地攻略の無意味さを説いているのだろ?
その後も、>>406 >>412で二百三高地攻略せずとも艦隊撃破していると
述べているし、少なくとも海軍や長岡少将の要請の通り二百三高地
など攻略しなくてもいいよな。

また>>397 で
 十月の段階では、例えば東鶏冠山北堡塁の内部にまで達する孔が開かれていま
す。攻撃築城作業がこれ程に進捗していれば、今更二百三高地などに向かうのは
おかしいです。

 と述べている以上、11月末の時点で二百三高地なんて攻略する意味はない。
 
 最後に
十二月の段階では、内庭の中央付近にしかけた大量の爆薬を爆破し、東北主防
御陣地を占領しました。おそらく、二百三高地攻防戦での露軍の消耗・疲弊も影
響したでしょうが、二百三高地攻防戦がなくとも、爆破占領は成ったと思います。
 

 と二百三高地を攻防戦が無くても占領できるのであれば、要塞戦後
に満州軍に参戦するために損害を最小限に抑えるのは当然だろ?
 敢えて二百三高地で決戦せずとも、12月では内庭を落とせるはずなんだ
からその後の戦いに備えて兵力を温存するのが当然と考えるが?
461日本@名無史さん:03/01/19 20:08
その後の戦いというのは要塞内線の戦いも含みます。
嶽原の述べる通りであれば11月末にいきなり、二百三高地に
攻撃方向を変えるのはアホですねぇ。

462秋山万歳:03/01/19 20:15
秋山好古【字間違えてる?】最高!枝隊にて最前線の主力敵旅団を防ぎしは、アッパレ!
463日本@名無史さん:03/01/19 20:31
乃木愚将論は、死馬の妄想。
第一次大戦を見れば瞬時に分かることだ。

で、死馬が反論した福田アリツネを出版界に圧力をかけて、
出せなくしたのは有名な話。
464嶽原:03/01/19 20:54
>>460・461
 どうでしょうね。二百三高地での消耗戦が無ければ、もっと遅くまで頑張ら
れてしまったかもしれません。
 温存もいいですが、あんまりのんびりやってもいられないんでは?なにせ軍
に与えられた命令は「速やかに要塞を占領し、北方軍に加わる」なのですから。
465嶽原:03/01/19 20:57
>>463
『>司馬が反論した福田アリツネを出版界に圧力をかけて、出せなくし
たのは有名な話』

 マジですか!
466嶽原:03/01/19 21:02
 ところで、司馬氏の小説「新説・宮本武蔵」というのを読みました。
 この中で、司馬は武蔵をかなりに悪者に描いているのですよ。あら
ゆる事に及んで、敢えて悪意解釈するという姿勢を貫いています。

 まるで「要塞」「腹を切ること」の乃木に対する扱いそのままです。

 「新説・宮本武蔵」を読んで以後、「ああ、小説家というものは、
あえて悪意解釈をすることが許されるものなのだな」と思うように
なりました。
467日本@名無史さん:03/01/19 21:03
>>464 別に203高地でなくて、消耗戦は東正面でよかったのでは?
   二百三高地はあなたの言うとおりですと何の意味もないのですから。
468日本@名無史さん:03/01/19 21:12
ここのスレの>>75で 二百三高地付近は地積狭小などの理由で、これより多くの人員を投入することは、むしろ
却って不成功の原因となる、という戦訓が挙げられているのです。

と述べているし、貴方の論で行くとわざわざ、大兵力を展開できないところで
決戦をしようとしていると思えますな<ww

貴方の論でいくと乃木は11月末の攻撃では満州軍の意図である東正面を
攻略せよという命令を作戦中途で翻し、艦隊の戦闘力が喪失し脅威が
なくなったと乃木も考えているのに、12月には二百三高地攻略とは
関係なく内庭は爆破占領できるにも関わらず、地積狭小の二百三高地までわざわざ
攻撃面をずらし決戦をしようと考えたのですか?

無茶苦茶ですねぇ・・。

469日本@名無史さん:03/01/19 21:21
荒れてますね。
470日本@名無史さん:03/01/19 21:32
児玉源太郎ヶ早く来て、オオずつぶっ放せば終わったのニ九段にこだわったのがいけない。
471>465:03/01/19 22:01
>>463
>『>司馬が反論した福田アリツネを出版界に圧力をかけて、出せなくし
>たのは有名な話』

> マジですか!

マジ。福田は保守論壇の親玉だったわけだが、そんな人間に
大衆作家ごときが圧力をかけるという不埒なことをしたわけだ。
472日本@名無史さん:03/01/19 22:03
大衆作家ごときに圧力を受けて出版できないくらい糞だったわけですね。
473日本@名無史さん:03/01/19 22:04
だいたい、203高地での損害というのはたいしたことはない。
ヴェルダンやソンムを見れば分かる罠。
大衆作家に軍事を語らせるのは間違いってことよ。
474日本@名無史さん:03/01/19 22:07
2ちゃんでは素人がしたり顔に軍事を語っている罠
475日本@名無史さん:03/01/19 22:09
>>473 旅順要塞にベルダンやソンム並に陣地があったのかと小一時間・・。
476嶽原:03/01/19 22:22
>>467-468
 別にどこでも良かったと思いますよ。しかし、相手が硬い殻に守られている
ような場所では困る。東北面に適当な場所がありますか?
 二百三高地は、相手に消耗戦を仕掛けるこの上ない好適地だと思います。

 こっちの大兵力を展開できる場所かどうかではなく、相手を消耗させること
ができる場所かどうかという点が重要だと思います。
477日本@名無史さん:03/01/19 22:22
ほぼ完全に包囲されていた旅順要塞と聖なる道と呼ばれた補給路が
維持できた第一次世界大戦時のベルダン戦を一緒にみるほど愚かしい
ものはない。
478日本@名無史さん:03/01/19 22:25
>>476 その硬い殻は12月に爆破占領できるのです。これは
ほぼ土木工事ですから予定がつきます。
11月末から12月初頭にかけての二百三高地攻略で消耗
せずとも望台が落せるというのは貴方の論ですよね。
479日本@名無史さん:03/01/19 22:26
児玉も翌年1月までに落せればよいと考えておりましたな・・。
480日本@名無史さん:03/01/19 22:28
いや、司馬遼太郎の軍事知識は凄い。
元戦車将校だっただけあって正確なものだ。
アンチは、消えろ。
481嶽原:03/01/19 22:32
>>477
 旅順戦に比較できる要塞戦というのは、どんなものがあるんでしょうか?
482日本@名無史さん:03/01/19 22:35
満州軍は出来る限り損害を減らしつつ、第3軍を野戦軍に合流させることを
望んでましたし、連合艦隊は観測地点を求めていたが、望台を占領できれば
事足りる。12月には爆破占領できるので別に攻撃築城を勧めればよか
ったのにねぇ・・。

しかし嶽原氏の論だと乃木は愚かにも11月末に満州軍への意図とは反対に
二百三高地で決戦を望み、ただの外郭陣地で大損耗したのでしょ。
483日本@名無史さん:03/01/19 22:37
>>481 青島攻略戦
484嶽原:03/01/19 22:37
>>478
 守備隊の戦力が消耗しない状態でいて主防御戦を破ったとして、それで旅順
要塞が降伏する保証がありません。

 第二線の防御戦の硬い殻も、攻撃築城で攻めるのですか。いったい陥落は
いつになるのです?
485嶽原:03/01/19 22:39
>>482
 第二防御線は、どうやって突破するのですか。
486日本@名無史さん:03/01/19 22:40
>>482で突っ込まれていることを>>484で呆けているのは面白い。
487日本@名無史さん:03/01/19 22:42
>>485 あれ??そもそも東正面が一番最短距離というのが
乃木擁護論者の主張じゃなかったけ?
 二百三高地なんて外郭陣地であそこを落しても更に防御線が
出てくると主張してましたが?
488日本@名無史さん:03/01/19 22:45
 そもそも二百三高地前に艦隊が撃破されているとか、
 二百三高地は単なる外郭陣地といって制高点を理解
 せずに、宣伝本を盲信するからオカシクなるんだよな。
489嶽原:03/01/19 22:49
>>488『そもそも二百三高地前に艦隊が撃破されているとか、
    ……宣伝本を盲信するからオカシクなるんだよな』
 貴方の言われる宣伝本って、何て本ですか。
 それに、二百三高地前に艦隊が撃破されていると書かれてます?
490日本@名無史さん:03/01/19 22:53
中央乃木会出版の本
>>416
416 :嶽原 :03/01/19 11:51
>>413
 当方嶽原の論を改めて述べさせて頂きますと、以下のようになります。

 二百三高地攻略前に旅順艦隊は戦闘力を喪失し、脅威ではなくなって
いた。
  

戦闘力を喪失というのは撃破というんだよ。また脅威ではなくなって
いたんだろ?何をいっているの?
491日本@名無史さん:03/01/19 22:59
>>483
第一次世界大戦時の青島要塞攻略戦は参考になるかもね。
あれも補給は苦労したし、しかし旅順戦の教訓をかなり
取り入れた要塞戦でしたが・・損害比率は1:3でしたな。
492嶽原:03/01/19 23:00
>>490『> 中央乃木会出版の本』

 「名将乃木希典」に、二百三高地前に艦隊が撃破されていると書かれてますか?
493日本@名無史さん:03/01/19 23:05
>>492 話をそらそうとしてますが、二百三高地で消耗しなくても
12月に望台を落せば観測点も確保できるので二百三高地での
観測点と同様の結果を望めたでしょうに。

 なぜ?二百三高地なんて攻めたんでしょうね?戦争はここ
だけじゃないんですよ?しかも二百三高地に敵が戦力を
集中するかどうかもわからない。後知恵の解釈ですか?
494日本@名無史さん:03/01/19 23:13
>493 たしか、11月26日の二百三高地を攻める前は11月末の東正面への
攻撃は大いなる牽制になったから、いまなら攻めれば落とせる
かも知れないといって攻めたんだよな。

嶽原氏の論でいくと東正面で兵力を牽制しつつ、
二百三高地で決戦をする?
相手は東正面に兵力を集中しているじゃん?二百三高地方面
で消耗戦を期待なんてしてないわな。

なんか嶽原氏の論はおかしいよね。
495日本@名無史さん:03/01/19 23:22
乃木批判者も乃木擁護論者も論理が破綻するのは面白い
496嶽原:03/01/19 23:24
>>493『>二百三高地で消耗しなくても12月に望台を落せば観測点も確保
     できるので二百三高地での観測点と同様の結果を望めたでしょう』

 しかし二百三高地争奪戦が無いのならば、相手の人員損耗を生じさせること
は出来なかったと思います。
497嶽原:03/01/19 23:25
>>494
 消耗戦を意図したものだったかどうかは知らないと、485で既に述べてますが。

>>485
『『>それでは二百三高地を攻める理由は無い』
 旅順要塞を陥落させて速やかに北方戦線に加わるためには、防御側にも出血を強要させる地点において消耗戦が行われたのは意味があったと思います。それが意図したものだったかどうか、は知りませんが。』
498日本@名無史さん:03/01/19 23:26
>>497 つまり後知恵ないし後知恵の解釈ですね。
499日本@名無史さん:03/01/19 23:30
こ は 重 箱 の 角 を つ つ く ス レ で す ね
500日本@名無史さん:03/01/19 23:30
501嶽原:03/01/19 23:33
>>493『>しかも二百三高地に敵が戦力を集中するかどうかもわからない』

 ですね。相手のあることですから、どうなることやら分かりません。相手側
の首脳にも、さっさと放棄する考えがあったらしいですし。露軍がここで予備
隊を消耗してくれたのは、幸運なことだったと思います。
502嶽原:03/01/19 23:40
 前衛陣地で大規模な消耗が生じていなければ、多数の敵兵が硬い本防御線内
にこもってしまい、攻略は長引いたかも知れません。

 禍福は糾える縄の如し、という印象を受けます。
503嶽原:03/01/19 23:53
>>487『>二百三高地なんて外郭陣地であそこを落しても更に防御線が
    出てくると主張してましたが?』

 二百三高地は前衛陣地であり、二百三高地を含め他の前衛陣地を突破して
ようやくに主防御線(椅子山−北太陽溝−西太陽溝などの永久堡塁)が出て
きます。
 それを越えて、ようやく支那旧囲壁が出てきて、そのラインにまた永久堡塁
である大案子山・南太陽溝第一・第二堡塁などが出てきます。

 こんな道を辿るよりも、既に前衛陣地を突破している東北方面を選択する方
が妥当だと思います。
504嶽原:03/01/19 23:57
>>497訂正。「>>485」と書いてますが、「>>458」の誤りでした。

>>494
 消耗戦を意図したものだったかどうかは知らないと、458で既に述べてますが。
>>458
『『>それでは二百三高地を攻める理由は無い』
旅順要塞を陥落させて速やかに北方戦線に加わるためには、防御側にも出血を
強要させる地点において消耗戦が行われたのは意味があったと思います。それ
が意図したものだったかどうか、は知りませんが。』
505日本@名無史さん:03/01/20 00:02
イタイ・・・・・
506日本@名無史さん:03/01/20 08:13
>>504 後知恵だよな。別に望台(東正面)でもよかったんだろ?
少なくともあそこには攻撃側が大兵力を展開できるから当初から
攻撃してたのだから。

嶽原の論は最後に乃木が203高地に向かったいきさつに付いて、
説明できない。
507嶽原:03/01/20 08:36
>>506『嶽原の論は最後に乃木が203高地に向かったいきさつに付いて、
    説明できない』

 当然です。全部知ってるわけでなし。
 「なぜ二百三高地へ?」というのは、これまで多くの研究者の方々が取り組
んでも、これだ、という結論が出ていない点ですし。
508日本@名無史さん:03/01/20 14:52
あげ
509日本@名無史さん:03/01/20 15:22
>>507嶽原の論で、最後に乃木が203高地に向かったいきさつに付いて、説明してください

510mmm:03/01/20 15:23
http://www6.ocn.ne.jp/~endou/index2.html
      ★こんなサイト見つけました★
511mm:03/01/20 21:38
 嶽原氏の言いたいことは何なんだろう。
乃木は優秀?まさかね。
あるいは凡将。ただあの状況下ではあのもたつきは仕方なかった?

私は軍人としての優秀さは結局、結果だと思う。
東郷は別格としても地上戦においても日本軍の奮闘はさまざまな経緯が
あるとしても賞賛に値すると思う。そうした意味では当時の日本軍の士気、
装備からいっても乃木はもたつきすぎた。
乃木の実績たるや、墓参りと殉死のみ。そして息子の死への同情。
その割には評価が高すぎる。
乃木が後方支援担当であったら、あんなにも日本軍が死んだかどうか。
もっとも嶽原氏は多いと思っていないようだが。
戦場での合理的な思考を薄め、のちのち悪影響もあったのではないだろか。
嶽原氏の言うところを見ていると乃木の「いいわけ」をみる気がする。
512日本@名無史さん:03/01/20 21:41
>>116-119論もおかしいよね。同意している>>120-122は論外でしょうが。

もし満州軍司令部が二百三高地攻撃を示唆してないとすれば、
乃木が予定外に二百三高地へ攻撃方向を変えるのはなんとした
ことでしょうか?

児島氏はその差異を考慮してあのような表現にしたんだと
思われ。
513日本@名無史さん:03/01/20 21:48
要は乃木中央会が出したプロパガンダ本 名将乃木希典が良くないと
思われ。あれは副題にも書いてあるとおり、坂之上の雲がないと
論理として成り立たなくなるのです。

最近の展開でそれがよく判ると思います。

514日本@名無史さん:03/01/20 21:55
>>511 乃木は形式ばかりこだわります。ステッセルに対し、
降伏した後も城の指揮権の移乗を求めています。はっきり言ってバカです。
また服装に関しても乃木自身がカーキ色の軍服にすべきといいながら、
自分は黒の骸骨服にこだわっています。

日ごろのこういった行為をどう捉えるかで色々判断できるかと・・。
515嶽原:03/01/20 22:09
>>511
『> 私は軍人としての優秀さは結局、結果だと思う』
 旅順要塞を陥落させた「結果」は、評価できると思います。
当時の日本軍の装備から言っても、かなり短期間で陥落させたと思います。

『> 嶽原氏は多いと思っていないようだが』
 ええ、多いと思っていません。もっと少なくできたとは思いますよ。
しかし早期陥落という条件つきでは、どうにもならなかったと思います。

『> 戦場での合理的な思考を薄め、のちのち悪影響もあったのでは』
 合理的な判断は、重大な箇所で多々見られると思いますよ。

『>乃木の「いいわけ」』
 そちらは「小説家に乗せられた乃木愚将論者の言い訳」ですか?
516嶽原:03/01/20 22:13
>>512
 具体的に反論して下さい。
>>513
 ほんと「坂の上の雲」さえ無かったら、根拠のない乃木愚将論がこれほど
蔓延することもなかったでしょうね。
 まあ、小説ですからね、なんでもアリでしょう。読者側の問題ですか。
>>514
 服制ネタ、以前ありましたねえ。
 あの時は、小刻みな発言を繰り返していたのを指摘されたら一転消え去った
方がおりまして、苦笑させていただきました。
517嶽原:03/01/20 22:22
>>511
『>嶽原氏の言いたいことは何なんだろう』
 小説「坂の上の雲」に代表されるように、旅順戦の通説には誤りが非常に
多い、と言いたいのですよ。
 そして通説の多くが乃木愚将論に重なっているわけです。

『>乃木は優秀?まさかね。あるいは凡将。ただあの状況下ではあのもたつき
 は仕方なかった?』
 かなりに優秀だったと思います。もちろん、ミスはあると考えてますよ。
あの状況下で、非常に短い期間で陥落させたと思っています。
518日本@名無史さん:03/01/20 22:26
>>507嶽原の論で、最後に乃木が203高地に向かったいきさつに付いて、説明してください
519日本@名無史さん:03/01/20 22:30
 >>116-122の論で
 満州軍司令部が望台一帯を占領せよとし、乃木がそれに対し正攻法で対処し、
12月には(嶽原論でいくと)二百三高地とは関係なく、望台を爆破占領できるとしたら
乃木が二百三高地に攻撃転換したのは全く意味が無い。
520日本@名無史さん:03/01/20 22:34
しかも望台からは旅順港内のロシア艦隊をほぼ観測できるのです。
二百三高地は無意味。しかもロシア艦隊は10月には戦闘力を喪失し
脅威がなくなっていたのであれば、満州軍司令部から>>116-119
に渡る命令も不可解とならざるを得ない。

そりゃ資料を斜め読みしてると説明できんわな<w
521mm:03/01/20 22:46
嶽原氏が乃木を優秀だとすることに驚いてしまった。
旅順攻略時、指揮権はなかったと思うんだが。直前に返されたかもしれないが
いずれにしても彼の実績ではない。
 東郷が元帥になったのに対し、乃木はなれなかった。これは軍閥による政治力
をもってしても、乃木の評価が低かったためで、小説など関係なかった。
当時から乃木の能力は疑われていたと考える。
522日本@名無史さん:03/01/20 22:47
>>521 疑われてました・・。児玉との演習など有名な話しですね。
523嶽原:03/01/20 22:50
>>518
 「なぜ二百三高地へ?」というのは、これまで多くの研究者の方々が取り組
んでも、これだ、という結論が出ていない点ですが、私論で宜しければ。

 東北面の攻撃が頓挫し再興を期していた時に、軍参謀と第一師団参謀との
間で交わされた「今から二百三高地をやったらどうか」という案が具体的に
検討され、実行に移されたのでしょう。
524日本@名無史さん:03/01/20 22:54
あれ??頓挫して二百三高地への攻撃が実行されたの?

ところでなぜ?お得意の資料攻撃でないのですか?
525日本@名無史さん:03/01/20 23:01
>>523

>>31より
軍の任務は「要塞の占領」であり、「主防御線より外側の一高地の占領」
ではないのですから。

しかも>>397より
12月には二百三高地とは関係なく望台を爆破占領して、
望台からは旅順港内のロシア艦隊をほぼ観測できるのです。
そんな満州軍司令部より指導されてない二百三高地
(しかも嶽原によれば艦隊の戦闘力は喪失している)
を攻略するのは無意味ですねぇ・・。なぜでしょ??

そんな曖昧な判断ですか????
しかし、児玉が来るまでは二百三高地攻略も頓挫していますが?

526淀殿真由美:03/01/20 23:12
乃木は不作じゃ
527嶽原:03/01/20 23:19
>>521
 乃木の生前、席次としては陸軍五番手の乃木と、海軍二番手の東郷が、
同時期に元帥府入り確定的、という風評があったそうですよ。
528嶽原:03/01/20 23:23
>>521『旅順攻略時、指揮権はなかったと思うんだが』
 大山の一札というのは知ってます。しかし、それは行使されましたか?
行使されなかったという話しか知りませんが?
 行使されなかった場合、指揮権は第三軍司令官にあるのでしょう。
529日本@名無史さん:03/01/20 23:25
>>527-528 話を逸らしたいのは解るが、二百三高地攻略
に関して、なぜ乃木があんなアフォな判断をしたのか
説明してくれ。あなたの言うとおりならば満州軍司令部の
指導もなし、12月には二百三高地には関係なく、
望台(観測地点)が爆破占領できるのに、なぜあんな
アフォな判断したの?
530日本@名無史さん:03/01/20 23:28
> 東北面の攻撃が頓挫し再興を期していた時に・・・・・・・。

ヲイヲイ、再興を期していたのに二百三高地で無駄な戦いするのかよ。
普通アソコまで攻撃してそして12月には爆破占領ができるという
見込みならそんな判断しないぞ??

531嶽原:03/01/20 23:39
>>529『527-528 話を逸らしたいのは解るが』
 大山の一札の件も、元帥の件も、mm氏宛のものですよ。別に話をそらす
つもりはありません。
 貴方とだけ話しているわけじゃなし。
532日本@名無史さん:03/01/20 23:41
>>527 40年1月の宮廷席次では乃木はいません。
533日本@名無史さん:03/01/20 23:45
当時の書画の価格は大山巌 東郷が10円から15円
乃木、野津が7円から8円で三代高尾の絵が1000円
していたところから当時の人気がうかがいしれる。

40年1月の宮廷席次 伊藤、山県、大山、東郷
で乃木はいません。ありもしない事を前提に元帥候補という
風評を信じるのはどうかと思います。
534日本@名無史さん:03/01/20 23:49
そもそも乃木はその遺書から当時の華族体制を揺るがすほどの
ことをしたのに理解できてなかった。少なくとも天皇に対する
恩寵をないがしろにしてしまったのは非常にまずいかった。
そのため遺書は変造して世の中に出てしまった・・。

535嶽原:03/01/20 23:49
>>529『>アフォな判断』

 満州軍司令部は、東北面攻撃案を支持・認可していました。満州軍司
令部から派遣されていた福島参謀の言がそれを裏付けます。
 二百三高地への攻撃転換意見を聞いたとき、福島参謀は「自分は飽く
までも現正面(東北正面)の攻撃を遂行せしむる様にせよとの任務だか
ら、二百三高地に同意する権限は持たない」と言っていますから。

 そんな福島参謀すらも、説明を受けたのちは、「それでは御裁可は
後でもよい、自分が責任を負って同意するから一刻も早くするがよい」
と賛同しました。

 当時あの場に居た者にとっては、「二百三への主攻転換策」は納得の
いく選択だったのでしょう。
 貴方にとっては『アフォな判断』なのでしょうけどもね。
536日本@名無史さん:03/01/20 23:53
>そんな福島参謀すらも、説明を受けたのちは

どんな説明なのか教えていただけませんか?
537嶽原:03/01/20 23:53
>>532
 大濱徹也氏の著作の巻末年表によれば、明治44年09月頃のようです。
538嶽原:03/01/20 23:55
>>536
 資料攻撃がお嫌いな方がいるようですから、止めときます。
539日本@名無史さん:03/01/20 23:55
いえいえ資料攻撃を期待しております。
540嶽原:03/01/20 23:59
>>536
 資料を出すと資料攻撃と言ってバカにするのは、524氏です。
こんな人が居なければ、喜んで出しますがね。

>>524『>ところでなぜ?お得意の資料攻撃でないのですか?』
541嶽原:03/01/21 00:00
>>539『>いえいえ資料攻撃を期待しております』

 私はバカにされるのは期待してませんので。あしからず。
542日本@名無史さん:03/01/21 00:01
なぜごまかすのかネェ・・。皆が納得する説明をもっているなら
出せばいいのに・・まさか?過去の自分の発言と相反するから
だめなのか?なんてね。
543嶽原:03/01/21 00:04
>>542
 なぜ出さないのかって?揶揄する貴方がいるからですよ。
544日本@名無史さん:03/01/21 00:07
>>543 それで?

貴方の意見を纏めると
>>31より
軍の任務は「要塞の占領」であり、「主防御線より外側の一高地の占領」
ではないのですから。

しかも>>397より
12月には二百三高地とは関係なく望台を爆破占領して、
望台からは旅順港内のロシア艦隊をほぼ観測できるのです。
そんな満州軍司令部より指導されてない二百三高地
(しかも嶽原によれば艦隊の戦闘力は喪失している)
を攻略するのは無意味。

となるのですが??史実と違うことを貴方はひたすら
述べているの?よぉわからん人だ。
545日本@名無史さん:03/01/21 00:13
>>397十一月の段階では、既に堡塁の外郭は越えており、
内庭での戦闘が生じている程です。
>>484 第二線の防御戦の硬い殻も、攻撃築城で攻めるのですか。
いったい陥落はいつになるのです?

なんか無茶苦茶ですねぇ。


546嶽原:03/01/21 00:18
>>544『>それで?』
 それで?って言われてもね。

 当時あの場に居た者にとっては、「二百三への主攻転換策」は納得のいく選
択だったのだろう、ということですよ。
 貴方にとっては『アフォな判断』なのでしょうけどもね。下品な人だね。
547嶽原:03/01/21 00:54
>>532-533『40年1月の宮廷席次 伊藤、山県、大山、東郷で乃木は
       いません。ありもしない事を前提に元帥候補という風評を』

 私は>>527で陸軍・海軍と列記していたのですから、宮廷席次がどうこう
というものではないとお判りいただけるのでは?

 大浜徹也氏の著によると、以下のように記されています。
『明治44年09月頃、海軍大将東郷平八郎とともに元帥府入りほとんど確定的
との風聞ひろまる(当時陸軍大将の列次は桂・佐久間・奥・長谷川・乃木の
順、海軍大将の列次は井上・東郷の順にもかかわらず)。』
548嶽原:03/01/21 01:30
>>512『>>>116-119論もおかしいよね。同意している>>120-122は論外……   
    ……児島氏はその差異を考慮してあのような表現にしたんだと思われ』

 児玉著「日露戦争」は、上述の福島少将が当初反対した(説明を受けたのち
同意した)事について触れていませんね。だからあのような分かり難い表現に
なってしまったんでしょう。

>>120-122の一部再掲)
「総司令官より参謀総長宛」電文
『来る11月24〜25日頃より開始し得らるべき第一期第二期の攻撃計画は、余の
熱心に同意する所なり。唯この計画を二期に区別するの必要ある以上は、第一
期と第二期との間に置ける間隔をなるべく短縮するごとく実施せらるるを要
す。しかしてこの目的を達成するには、総予備隊たる第七師団を最も適当に使
用せざるべからず』

 第一期と第二期との間の“時間”をなるべく短縮するために、第七師団を適
切に使えという指示がなされています。つまり『時間の短縮のために第七師団
を適切に使用せよ』という指示です。
 ところが「日露戦争(児島襄)」では、この点の紹介が異なっています。

『…そこで、三堡塁線と二百三高地攻撃を二つにわけても、その「間隔ヲ短
縮」する必要があるので、第七師団を活用せよ──…(文庫4巻377P)』

 三堡塁線は東北方面、二百三高地は西方面の目標陣地ですから、『東北方面
と西方面と二つに分けても、その間隔を短縮する必要がある』という文章に
なっています。
 何を短縮するというのでしょうか?時間?地域?分かりにくいですね。

 まず、第一期・第二期という攻撃計画があったことを述べてから、「間隔を
短縮」という言葉を使えば、「間隔を短縮」というのは「時間を短縮」せよと
いう意味だな、と問題なくすんなり意味が通ります。
549日本@名無史さん:03/01/21 08:06
>>547 実際は明治44年には奥が元帥になりましたが?

風評がどうかしたのですか?
550日本@名無史さん:03/01/21 08:12
>>548

>>122より >>80にて当方嶽原が、『文中に「二○三高地」の語句はありませんが、「攻
撃を二個に分かつも」という文面から見て、「北方面」と併せ「西方面」への
攻撃にも言及していると考えてもいいと思いますが、どうでしょうか(>>80)』
と述べたのは、この児島紹介が頭にあったからです。
 しかし116〜119での指摘によって、この解釈は誤りだと思えてきました。

79の貴稿『あの訓令には最後に望台を陥落させよとあって、二〇三高地には
何一つふれてなかったぞ(>>79)』というのは、今になって納得ゆきました。
 たしかに、「総司令官より参謀総長あて報告」の内容を見ると、西方面への
攻撃を言及しているようには思えません。



つまり、203高地は満州軍の指導するところではなかったのが
貴方の論ですね。
しかし203高地前には旅順艦隊は戦闘力を喪失し、脅威ではなく、
12月になれば望台が203高地攻略に関係なく爆破占領できる
のでしょ?

なぜ203高地など地積狭小の場所にしかも満州軍の指導を
外れていったのですか?とさんざん言っているのですが?
説明もまともにないのはどういうことか?
551嶽原:03/01/21 08:28
>>550『>なぜ203高地など地積狭小の場所にしかも満州軍の指導を
     外れていったのですか?とさんざん言っているのですが?
     説明もまともにないのはどういうことか?』

 >>535で既に答えていますよ。
 「二百三への主攻転換策」は、福島参謀のような反対者すらも納得できる
選択だったのでしょう。
552嶽原:03/01/21 08:34
>>549
 当時の人にそういう評価がされていた、ということです。
553日本@名無史さん:03/01/21 08:47
説明できないのか・・
554嶽原:03/01/21 08:51
>>553
 当時の反対者すらも納得し翻意させる説明がなされていた、ということで
何の問題があるんですか?

 貴方が納得しようがしまいが、当時の人は、納得したんですよ。
555日本@名無史さん:03/01/21 08:54
それで納得した説明の内容は?

説明できないのー
556嶽原:03/01/21 09:11
 出来ませんねー
557嶽原:03/01/21 09:18
 白井参謀が後に陸軍大学で行った「講義録」なるものがあるそうです
が、もしかしたらそれに詳しく書いてあるかもしれません。

 今のところ分かっているのは、

・軍参謀と第一師団参謀との間で二百三高地へ攻撃を転換することにつ
いて話し合いが行われ、それを軍司令官と福島参謀(満州軍司令部)に
報告した
・福島参謀は当初反対したが、状況の説明を受けて同意した
・転換が決定された

 という流れがあった、という事です。
558日本@名無史さん:03/01/21 10:33
根拠ないのか
559日本@名無史さん:03/01/21 13:49
乃木希典将軍には、明治天皇に殉死しようとしたが死に切れず
一命をとりとめた。しかし、乃木将軍を天皇に殉じた軍神にし
政治利用をもくろむ明治政府は、乃木将軍を死んだことにして、
将軍本人は満州の関東軍のもとへ護送し、奉天の関東軍施設に
監禁した。
 その後、乃木将軍は監禁先で30年以上を生き抜き、49年
12月に中国共産党軍によって監禁生活から解放され、中共幹部
の高崗によって思想改造を受けている最中、老衰で死去した。
との奇談があります。
560日本@名無史さん:03/01/21 14:26
奇談だな
5611:03/01/21 14:45
奇談も何も・・・。当時関東軍なんて組織あったか?
ウソならもっとうまいやつを頼むよ。
562mm:03/01/21 21:43
嶽原氏の言うところはどうにもふに落ちないため、手元の資料をもう
一度見直ししてみた。それによると
9月より始まった第三軍の旅順攻略が手間取り、海軍からの203高地
を先に攻略して旅順艦隊を殲滅したいという再三の要請を第三軍は無視。
大本営もそれを涼としたが無視、第三軍は第三回の総攻撃にも失敗。
そのあと3100名の白襷隊の夜間突撃隊の攻撃に失敗し、殲滅される。
ことここに至って、11月27日203高地を攻撃開始。
12月1日、業を煮やした指令本部より児玉が着任、乃木から司令官
代行の承認を得て、作戦開始。重砲による攻撃が重要と判断し、
高崎山からの重砲攻撃が効果を発揮、5日203高地奪取。続いて
山頂に弾着観測所を設置。6〜10日旅順艦隊を撃滅。児玉は10
日司令部に戻る。以降順次山岳要所を占領。艦隊のいない要塞は
1月1日陥落となる。
乃木の児玉の手際の差は歴然だと思う。
少なくとも、乃木を優秀などというのはどういうことだろうか。
私には嶽原氏が乃木の縁故者か、長州出身者で故郷を愛する
あまり盲目になっているもののような気がする。
いずれにしても、「木を見て森を見ない」ことなどないよう願う。
563晋どん:03/01/21 21:45
乃木は、満州に渡って生きていた!
564嶽原:03/01/21 23:40
>>562『> 私には嶽原氏が乃木の縁故者か、長州出身者で故郷を愛する
      あまり盲目になっているもののような気がする』

 私は乃木とは全然関係ない東海地方出身者です。乃木との接点は、長府の
乃木神社に一度は行った事くらいですね。そこで「名将乃木希典」を購入する
も、当初の感想は「なんだこりゃ」ってなもんです。一年くらい見向きもしま
せんでしたよ。

 貴方にとって、乃木愚将論に異を唱えるものは「乃木の縁故者か郷土愛故の
盲目者」ですか? 新しいタイプのレッテル張りとしか思えません(嘆息)。
565mm:03/01/21 23:55
 長州出身でないことも、乃木の縁故者でないことも信じましょう。
でも上記の児玉の指揮の結果はどうなのでしょうか。
 あきらかであると思いますよ。愚直に正面作戦を取りつづけた
結果責任は免れないと思いますよ。
566嶽原:03/01/22 00:00
>>562
『> 海軍からの…再三の要請を第三軍は無視。大本営もそれを涼としたが無視』

 「大本営−満州軍総司令部−第三軍」という指揮系統は無視ですか。第三軍の直
属の上級司令部である満州軍総司令部は、二百三高地攻撃を支持していますか?

『> 手際の差』
 最後の一手を差すまでの段取りは無視ですか。
567嶽原:03/01/22 00:03
>>565『>信じましょう』
 あなた、あんな物言いをして、相手が不愉快にならないとでも思って
いるんですか?
568日本@名無史さん:03/01/22 00:36
嶽原さんは、単に、事実関係を確認しようと努力しておられるだけ
としか見えないのですが、一部に、乃木愚将論に反する傍証の類
いを挙げると、「おそれおおくも乃木愚将論にたてつくとは」ってな
具合で、ヒステリックに反応を示すのがいるようですね。
事実関係を冷徹に観察しようとせず、自らの決めつけに反する資
料からは目を背けようとする点で、「愚将乃木希典像」の生き写し
ですね。近親憎悪の類いなのかな。
ま、そうであるか否かは、書き込みで語るに落ちるわけなので、
引き続き観察致しましょうか。
569日本@名無史さん:03/01/22 07:30
>嶽原さんは、単に、事実関係を確認しようと努力しておられるだけ
>としか見えないのですが、

いいえ?乃木神社の信者です。聖典が中央乃木会出版の名将乃木希典
ですし、彼の論を独立して考えると史実と相反します。

特に乃木愚将論に対してヒステリックに反応しています。
挙句の果てに史実を曲解してます。10月に旅順艦隊の戦闘力が
喪失なんて11月には乃木大将も思っていません。

>>445 オールオアナッシングでなければならない・・・・。

なんて軽々しく思っているところなど・・当時の第3軍の
擁護を行う姿勢は認めますが、当時の日本、海軍の状況を
理解できてない。(当然第3軍が理解してないことも判明している)




570日本@名無史さん:03/01/22 07:41
>>568 >>407-419

嶽原は203高地攻略は旅順艦隊殲滅のためではないと言い張っています。
史実では203高地からの観測点より修正を踏まえた有効的な砲撃に
よって数十発を主力艦に命中させ撃沈しています。

嶽原氏は>>476
 別にどこでも良かったと思いますよ。しかし、相手が硬い殻に守られている
ような場所では困る。東北面に適当な場所がありますか?
 二百三高地は、相手に消耗戦を仕掛けるこの上ない好適地だと思います

と述べているし、203高地の決戦における消耗戦・・・と述べていますが、
11月末の203高地攻撃に対して星野参謀が述べたのは東正面の攻撃が
牽制になっているので今なら203高地が落ちる述べたのに対して納得
したのであって、決戦を望んだわけではありません。

しかも理由は史実と結果が示すとおりです。とても事実を検証している
態度とは思えません。乃木愚将論に対し脊髄反射で反応しているように
見えますが?

571日本@名無史さん:03/01/22 09:22
司馬の殉死を読んだ。
乃木は糞。
572日本@名無史さん:03/01/22 10:32
藪蛇の応酬だな
573嶽原:03/01/22 13:41
>>569『>いいえ?乃木神社の信者です』
 無関係だと過去から何度も言っているのに……。
 まあ、ここまで思い込まれていては、どうしようもないですね(嘆息)。
574嶽原:03/01/22 13:45
>>570
『>史実では203高地からの観測点より修正を踏まえた有効的な砲撃
 によって数十発を主力艦に命中させ撃沈しています。』

 通説では、蟄伏中の旅順艦隊は重砲弾によって撃沈された、とされて
います。
 しかし、旅順開城直後の調査等によって、キングストン弁開放による
自沈であることが確認されています。
575日本@名無史さん:03/01/22 14:05
>>573 何かボケていますが、28サンチ砲の効果を話をしているのではありません

203高地を攻略した後に行った砲撃の効果に話しているのです
当時は戦艦を撃沈するのは戦艦の砲でも困難なのはご存じでしょうに

砲撃の結果 自沈に追いこんで一時的だが貴重な期間、戦闘力を奪った評価は絶大だと思います

少なくとも10月にはここまでの効果をあげていません
576日本@名無史さん:03/01/22 14:35
射撃の効果を話ししているのに砲弾の効果を話すバカは
誰ですか
577日本@名無史さん:03/01/22 21:57
 あらぁ、乃木擁護派は大変なことになっていますね。
>>565 たしかに満州軍からの指導では二百三高地攻略は
含まれていません。が、乃木は独断で二百三高地攻略した
ことになっています。

少なくとも満州軍の指導に対し、ある程度自由の利く
立場だったようですね。
578嶽原:03/01/22 22:23
 南山坡山観測所が得られる前は、射撃の効果は芳しくありませんでした。
『攻城砲兵射撃より、敵艦錨地を移し隠れ……09月25日より推定所在地(老虎
尾半島端末の西北)に向かい散布射撃を加えしも得る所無く……』

 しかし、南山坡山観測所を得られたのち、射撃の効果は著しく変化します。
『南山坡山我有に帰し西港の一部を展望し得るに至り新たに同山上に観測所を設け、
「ポルタワ」「レトヴィザン」「ペレスヴェート」「セワストポリ」「ポペーダ」「ギリヤーク」「フサドニク」
「バヤン」在るを見、陸戦重砲隊15拇砲射撃開始……
……28日「ポペーダ」爆煙艦上を覆い光景凄惨……29日「セワストポリ」命中爆裂……』

 28、29日の被害の状況は漠然としていますが、以後の記録はかなり詳細です。
579嶽原:03/01/22 22:24
『30日「セワストポリ」東港に移動
   「ペレスヴェート」に05発、「ポペーダ」に06発の命中弾
 01日「ポペーダ」に09発の命中弾
 02日「ポペーダ」に15拇砲弾09発、12拇砲07発の命中弾、火災誘起
    28糎榴弾砲敵艦射撃、「ペレスヴェート」前部砲塔に命中弾01発
    夜、「ペレスヴェート」錨地移動
 03日 南山坡山の観察により「ペレスヴェート」「ポルタワ」「ポペーダ」の錨地確認
 04日 海軍重砲隊、「ペレスヴェート」「ポルタワ」「ポペーダ」に数発の命中弾』
 05日 28榴弾砲(団山子)射撃、「ポルタワ」命中弾01発
 06日「ポルタワ」乗員、5隻の戎船によりて上陸
    28榴弾砲(団山子)射撃、「ポルタワ」01発命中
    28榴弾砲(登家屯)射撃、「レトヴィザン」中央喫水線に01発命中』
580嶽原:03/01/22 22:25
『07日「レトヴィザン」乗員、3隻の戎船により上陸
    28榴弾砲(団山子)射撃、「ポルタワ」01発「ペレスヴェート」02発命中
    28榴弾砲(登家屯)射撃、「レトヴィザン」03発命中
 08日「レトヴィザン」港外へ
   「ペレスヴェート」「ポルタワ」は白玉山下に遮蔽、船尾のみ露出
 09日「レトヴィザン」港内へ
 12日 28榴弾砲(登家屯)射撃、「ペレスヴェート」07発命中、火災発生
 13日 28榴弾砲(団山子)射撃、「ペレスヴェート」03発命中』
581嶽原:03/01/22 22:26
 上記のうち、「数発命中」というようなあやふやな記述を省いても、各艦へ
これだけの命中弾があります。
 「セワストポリ(09)」「ペレスヴェート(05+01+02+07+03)」
 「ポペーダ(06+09+09+07)」「ポルタワ(01+01+01)」
 「レトヴィザン(01+03)」

 この時期の海軍重砲隊や28榴弾砲陣地は、旅順艦隊だけを目標としているわ
けではなく、諸堡塁砲台への砲撃も継続しつつ、なおもこれだけの被害を与え
ています。しかも、これは10月前半のみの記述に過ぎません。

 南山坡山観測所を得た後の射撃の効果は非常に高かったと言えます。
582日本@名無史さん:03/01/22 22:39
>>578-581 でもキングストン弁を開くまでも無かったと。

ロシア側の観点では有効な修正射があれば全滅のおそれあり。
しかし全滅しませんでした。

それで?艦隊は戦闘力を喪失したのですか?

ちなみに二百三高地攻略後 ロシア側の記録では12/8にペレスベートが
沈没となってますが、日本側は9日まで射撃しております。
どれだけ相手の損害を確認するかは難しいという例ですね。

583582:03/01/22 22:40
失礼 ペレスベートは12/7ですね。その後126発ほど打ち込んでおります。
584嶽原:03/01/22 22:41
>>581
 各艦別命中弾数、訂正です。

「ペレスヴェート(05+01+02+07+03)」「ポペーダ(06+09+09+07)」
「ポルタワ(01+01+01)」「レトヴィザン(01+03)」

 でした。「セワストポリ(09)」は間違いです。
585日本@名無史さん:03/01/22 22:45
 
>>582当時日本連合艦隊も戦艦の内、30センチ砲が使えなかったのが
何隻かあったはずですし、お互いボロボロですが、それでも封鎖しな
ければなりませんでしたな・・。

しかし、普通は比較対照として二百三高地攻略後の射撃結果も出すんだが、
これが事実関係を探求する立場のする人間かいな?
586嶽原:03/01/22 22:49
>>582
 隠れるところ無く、打たれっ放しで戦闘力を喪失しないとでも?

 ただでさえ陸上戦のために乗員備砲弾薬を降ろしていて弱体化して
いるのです。おまけに火災発生という事態にもなっている。
 そのような状況下で、さらに小舟による乗員避難まで行った戦艦が、
戦闘力を保持しているとは思えません。
587582:03/01/22 22:55
 >>586 しかし、直ぐに備砲を積んで脱出もできます。少なくとも
巡洋艦クラスでは戦艦を撃沈できません。駆逐艦もしかり。
だからこそ日本戦艦が張り付いているのです。

 あなたは後世の視点で物事を見すぎです。

>>582でも述べた通り、ロシア側が沈没と確認した後も、日本は百発以上もの
弾丸を打ち込んでいるのです。
588嶽原:03/01/22 22:58
>>585
『>普通は比較対照として二百三高地攻略後の射撃結果も出すんだが』

 「日露戦争(児島襄)」のリストは、28榴弾砲のみのリストですから。
 当方の示した記述は28榴弾砲よりも15糎海軍砲などの記述が多いので、併記
するのもどうかと。
589日本@名無史さん:03/01/22 22:58
>582 >嶽原

乃木大将は>>578-581のような報告を受けて、満足したのでしょうか?
しかしもし乃木大将が言ったように封鎖を解いていたら非常に面白い
ことになっていたかもしれません。
590日本@名無史さん:03/01/22 23:03
>>588 それでキングストン弁を開くほどに追い込みましたか?

 ロシア側が沈没と認定したあとも日本側は砲弾を打ち込んでいますが?
どれだけ日本側が苦労しているのかが認識できてないですね?

貴方の意見で乃木、10月末に旅順艦隊は戦闘力を
喪失し、脅威が無いと考えていたと述べていましたが、余りにも
認識不足としか私の目には映りません。
591嶽原:03/01/22 23:06
>>587『>巡洋艦クラスでは戦艦を撃沈できません。駆逐艦もしかり』

 戦艦・巡洋艦の主砲弾では難しいでしょうが、駆逐艦や水雷艇の魚雷では?
 実際、セバストポリは小型艇の魚雷攻撃により沈没しました。
592日本@名無史さん:03/01/22 23:08
>>588 何を言いたいのかがわかりません。

他方で二十八サンチ砲の威力はそうでもなかったというような
論を説きながら、15センチ砲を混ぜたデータを出して、
命中率を述べるというのは何なのでしょうか?

>隠れるところ無く、打たれっ放しで戦闘力を喪失しないとでも?

 前に死角があると述べていましたが?ロシア艦隊はそこに
避難して碇泊していたはずですが?そして戦闘力を維持していますが?
そして日本側はその戦闘力の完全喪失とは認識していませんが?


>>445のような軽い気持ちで乃木がいたのでしょうか?<ww

593日本@名無史さん:03/01/22 23:11
>>591 ・ふぅ・ その駆逐艦や水雷艇を追っ払うために巡洋艦
がいるのだが・・・。もし駆逐艦や水雷艇だけで戦争ができるなら
日本海軍はみな駆逐艦や水雷艇にしますわな。

あんたバカか。
594嶽原:03/01/22 23:11
>>589
 「封鎖を解きたい」と言い出したのは、海軍側です。
 海軍側に「解きたい」といわれ、第三軍側は「緩めて良いよ」と答えたのです。

 なんで『乃木大将が言ったように封鎖を解いていたら』などと乃木の
責任のように言われるのか、理解に苦しみます。
595嶽原:03/01/22 23:16
>>592『命中率を述べるというのは何なのでしょうか? 』

 対論者が『射撃の効果を話ししている(>>576)』と言われてますからね。
 だから南山坡山観測所設置後に射撃効果が上がった事を示したのですよ。
596日本@名無史さん:03/01/22 23:18
>>595 それで?南山坡山観測所設置後に敵艦隊が沈没するほど
の効果があがったか?と散々伺っているのですが?

597嶽原:03/01/22 23:21
>>593
 しかし日本側の戦艦・巡洋艦は、旅順要塞の射程距離より中には
ほとんど入りませんでしたね。

 主力艦での封鎖は緩めてもいい、と回答されたのは、渡りに船じゃな
いですか、言い出しっぺの海軍側には。
598日本@名無史さん:03/01/22 23:22
>>597 主力艦が入ってどうする。水雷艇と戦艦の価値の差も
理解できずに話しをしているのか?

いやしているのか・・。
599日本@名無史さん:03/01/22 23:28
>>598 彼は10月末には旅順艦隊は戦闘力を喪失し、脅威がなくなったとして
乃木はそれに対して正確な見かたをしていたと述べたいのでしょ。
600嶽原:03/01/22 23:55
>>592
『>他方で二十八サンチ砲の威力はそうでもなかったというような
  論を説きながら、15センチ砲を混ぜたデータを出して』
 28榴弾砲と海軍砲とのチャンポン記述になってしまったのは、元々の資料
がそういう記述だったからというのが理由の一つです。
 もう一つ、28榴弾砲の対艦威力というのは結構疑問視されるところでして、
それよりも海軍砲砲撃成果の方が大事なのかな、と思ったのも理由の一つです。

『>前に死角があると述べていましたが?ロシア艦隊は
  そこに避難して碇泊していたはずですが?』
 その前に述べた時に、死角と言っても大半が龍河の河口にあたり、大艦の
泊地として用いられていない事、死角の泊地に入っているのは二隻に過ぎな
い事、死角に入っても艦尾やマストが見える事、も述べていますが?
601嶽原:03/01/23 00:12
>>598『>主力艦が入ってどうする』
 私もどうしようもないと思います。

 「バ艦隊来航に準備するため封鎖を解きたい」と申し出た海軍側に対して、
「主力艦での封鎖は緩めてもいい」と第三軍が回答したのは、申し出側の
海軍側にとって願ったりかなったりという事ですね。
602日本@名無史さん:03/01/23 00:23
>>585
> しかし、普通は比較対照として二百三高地攻略後の射撃結果も出すんだが、
 ここでは単に、「二百三高地攻略攻略以前に、南山坡山観測所
 を得たことによって、既に、砲撃の効果は非常に高くなっていた」
 ということの傍証を挙げられただけでしょう。
 もし、それを否定するなら、そちらが、反証を提示するのが常
 識だと思いますが?

> これが事実関係を探求する立場のする人間かいな?
 資料を何も提示しないあなたに、そういう発言をする資格があ
 りますか?
603嶽原:03/01/23 00:26
>>596『>南山坡山観測所設置後に敵艦隊が沈没するほどの
     効果があがったか?と散々伺っているのですが?』

 南山坡山観測所設置後、旅順艦隊は隠れるところ無く、打たれっ放しの
状態になりました。沈没こそせずとも、戦闘力を喪失しないとでも?

 陸上戦のために乗員備砲弾薬を降ろしていて弱体化していて、火災発生とい
う事態も生じている。なのに整備・修理に精を出すわけでなく、逆に乗員が
小舟で避難していく。

 こういうのはかなり末期的状況に見えるのですが。
604日本@名無史さん:03/01/23 07:19
>>692南山観測所では撃沈はできませんでしたし、
ロシア側1904-1905年の戦史でも有効な修正射があれば、
全滅に瀕すという意を示してますよ。それとも?
10月末には旅順艦隊が撃沈され日本側がロシア艦隊の脅威が
なくなったという証拠でも提示してくれるの?

だから、後知恵であの時の実際の損害はこうだ!と判明しても
当時は損害を確認するのは困難だったの。それは二百三高地
攻略後の砲撃でも示されている。沈没した船に2日に渡って
攻撃なんかするかい。

605日本@名無史さん:03/01/23 07:19
>>603
そしてレトビザンは港内外を移動することによって避けてますし、
他の2艦は隠れてますでしょ?日本側とくに海軍は戦闘力を
喪失していると認識していません。日本側の戦艦も黄海戦時の
損害で主砲4門が使用不能でも封鎖を続けています。


主力艦は隠れていますが・・・。あなた自分で資料を提示して
おいてなぜ歪曲する・・。意味不明。そこにいるから射撃
できるなんて甘い考えしているんだろうね。

>>580
08日「レトヴィザン」港外へ
  「ペレスヴェート」「ポルタワ」は白玉山下に遮蔽、船尾のみ露出
09日「レトヴィザン」港内へ

606日本@名無史さん:03/01/23 07:25
>>600 
>もう一つ、28榴弾砲の対艦威力というのは結構疑問視されるところでして、
>それよりも海軍砲砲撃成果の方が大事なのかな、

なるほど。二十八サンチ榴弾砲より15センチないし
12センチ海軍重砲隊の対艦威力の方があったといいたいのですか?



607604:03/01/23 07:36
>692じゃなくて>>602 あなたは二百三高地攻略後に日本海軍の旅順封鎖
が解かれた歴史を知らないのですか?それまでは旅順艦隊は脅威だったの
ですけどねぇ・・。こんな内容すら知らないのであればどうしようもない。
608日本@名無史さん:03/01/23 07:44
 いや、>>403 >>410 >>413で述べているとおり嶽原は史実よりも
二百三高地攻略戦は旅順艦隊の観測点を得る戦いではない
というのが骨子だもんな。


ふーん。
609嶽原:03/01/23 09:32
>>605
『>レトビザンは港内外を移動することによって避けてます』

 その時点でレトヴィザンは、まともな状態ですか?数発の命中弾を受け、修理補修す
るのならいざしらず、乗員を降ろしている。すでに損害を受け、あとは右往左往し
ているだけでしょう。


『>他の2艦は隠れてますでしょ?・・・主力艦は隠れていますが』

 隠れている艦の「ペレスヴェート」についての記述も既にしています。
『08日「ペレスヴェート」「ポルタワ」は白玉山下に遮蔽、船尾のみ露出
 12日 28榴弾砲(登家屯)射撃、「ペレスヴェート」07発命中、火災発生
 13日 28榴弾砲(団山子)射撃、「ペレスヴェート」03発命中』
 白玉山の死角とは、この程度の遮蔽効果しか無いのです。
610嶽原:03/01/23 09:33
>>606 『>二十八サンチ榴弾砲より15センチないし12センチ
    海軍重砲隊の対艦威力の方があったといいたいのですか?』

 榴弾砲弾と速射加農砲弾と、どちらがより効果があったんでしょうか。
海軍重砲隊の対艦威力についての異論は見たことがありません。
611嶽原:03/01/23 09:44
>>608 :『>嶽原は史実よりも二百三高地攻略戦は旅順艦隊の観測点
      を得る戦いではないというのが骨子だもんな』

 二百三高地攻略後、海軍が全滅を確認して封鎖を解いたという歴史の流れを否定
するものではありません。

 しかし、海軍が封鎖を解く時期は、もっと前でも良かったのでは、と述べている
のです。そしてその時期として、海軍側が「封鎖を解きたい」と要請してきた時期
が適当であったろう、と。

 以後は、旅順封鎖を第一とせず、バ艦隊来航に備える準備を第一としても良かっ
たのでは?
612日本@名無史さん:03/01/23 09:58
海岸要塞砲は榴弾だったのか
613日本@名無史さん:03/01/23 11:46
海軍側が解いていいよという第三軍の意見が、
空手形だというのを知ってるからさ。

望台も一挙攻略の望みはなはだ少なし というのは11月11日の報告だっけかな
614日本@名無史さん:03/01/23 11:53
確か海軍側は解きたいから早く203高地を落としてくれ
という意見じゃなかったか?

でも第三軍はできるかーと前から報告してたわな

歪曲するの好きねー
615日本@名無史さん :03/01/23 12:28
嶽原の考えはすべてのぎにとって都合のいいように解釈するんだな
616日本@名無史さん:03/01/23 19:14
日本海海戦では戦艦の主砲で戦艦を撃沈でいないことも踏まえて
7段の作戦を実行したのだが。

まさか数発の砲弾で戦闘能力がなくなると考えているんだろうな。
617日本@名無史さん:03/01/23 19:29
noginogi
618嶽原:03/01/23 21:25
>>616『>数発の砲弾で戦闘能力がなくなる』
 数発の砲弾?こういうの、タコ殴りというんじゃないんですか?
『「ペレスヴェート(05+01+02+07+03)」「ポペーダ(06+09+09+07)」
 「ポルタワ(01+01+01)」「レトヴィザン(01+03)」
 (数発命中という命中量不確定の弾数は含まず)』
619嶽原:03/01/23 21:38
>>612『>海岸要塞砲は榴弾だったのか』
 榴弾以外の何だったとお思いでしたか?

>>613『>第三軍の意見が、空手形だというのを知ってるからさ』
 ならばなぜ、封鎖を解きたいなどと言い出したのでしょう?
620日本@名無史さん:03/01/23 22:06
>>570
> 史実では203高地からの観測点より修正を踏まえた有効的な砲撃に
> よって数十発を主力艦に命中させ撃沈しています。
 ここには、「命中弾によって主力艦を撃沈した」と書いてあ
 るとしか読めません。

しかし >>574によると
>  しかし、旅順開城直後の調査等によって、キングストン弁開放による
> 自沈であることが確認されています。
 とのことです。どちらが事実ですか?

また >>575 によると
> 砲撃の結果 自沈に追いこんで一時的だが貴重な期間、戦闘力を奪った評価は絶大だと思います
 とのことです。
 ハンドルが書いてないので、>>570がそちらの発言なのかどう
 か分かりませんが、もしそうであるなら、>>570の誤りを、ここで
 訂正しているわけですね? 訂正するなら訂正するで、明確に
 どうぞ(もちろん発言に責任を持つ立場ならの話です)。
621日本@名無史さん:03/01/23 22:20
>>604
> だから、後知恵であの時の実際の損害はこうだ!と判明しても

 興奮しないで冷静になって、ちゃんとした日本語で書いてくれま
 す? 普段からこういう「言語」を書いているなら別ですけど。
 あと、ハンドル署名もなしで、「だから」なんていっても、以前の
 どのメッセージからつながるものか、他人には分からないです
 よ。「ボクの発言がどれなのかはボクが知ってるんだから他の
 人も分かってるんだ」というなら別ですが。

> 当時は損害を確認するのは困難だったの。

 これは「203高地からの観測が確保される以前は」という意味
 ですよね? 「その難易の度合いの違いがどの程度なのか?」
 が問題になっているのでしょう?

> それは二百三高地攻略後の砲撃でも示されている。

 で、「203高地以前」と「203高地以後」で、具体的にどう変わっ
 たわけですか?
 いうまでもなく、>>578-581などで提示されている「203高地
 以前」とは比較にならないほど向上しているわけですよね?
 その数字的な根拠はどうなっていますか? それを明示すれば、
 話は簡単でしょう?
 まさか、数字的な根拠もなしで、「効果が向上した」とかいった
 感覚的な表現をウノミにして、それをひたすら繰り返している
 わけではないですよね? 数字的にどう変わったんですか?
622日本@名無史さん:03/01/23 22:28
>>620-621 203高地攻略後に日本艦隊が封鎖を解いたのを
ご存知ないらしい。
623日本@名無史さん:03/01/23 22:32
当時、日本側の観測では撃沈と認識しているはずですが・・
なにかおかしいことでも?

旅順解放後にキングストン弁が開放されて自沈したのが
わかったのですよね。

>「その難易の度合いの違いがどの程度なのか?」

自沈に追い込んだか否か。が理解できないのは悲しいね。
624日本@名無史さん:03/01/23 22:43
>>618 満州軍はその着弾状況から無駄弾ということで
なくしましたわな。

そのタコ殴りですが・・・・。当時は確認取れてないんだよね。
清国人の情報も当てにならんかったし。実際は確認でなか
ったんでしょうね。

日本海海戦なんか、最初に三笠は20分ほどの間に12発もの
敵弾を受けてますな・・。タコ殴りですが、三笠は戦闘
不能になりましたか?

あぁ貴方の意見は戦闘能力喪失するんでしょうがね。
625日本@名無史さん:03/01/23 22:53
>>623 さらに自沈に追い込んだ後も、弾丸打ち込み続けるところが
悲しすぎますな。そこで撃沈と確認したんでしょうか?
626嶽原:03/01/23 22:56
>>624
『>当時は確認取れてないんだよね』
 当時、命中によって火災発生などの確認が出来ているのです。

『>タコ殴りですが、三笠は戦闘不能になりましたか?』
 既に乗員備砲弾薬を降ろしていて、被害を受けたのちに修理復旧作業を
せずに、逆に乗員を降ろすようなら、戦闘不能になったでしょうね。
 貴方が例に挙げた「三笠」は、そんな状況でしたか?
627日本@名無史さん:03/01/23 23:04
>>626 だから乗員が降りたという情報が欺瞞かもしれないし、
いつでも出撃するかもしれない、確実な情報がなかったと
思いますが?そりゃ一元的な情報を盲信するならそうですがね。

数発命中で戦闘能力が喪失なんておかしいよな。
確実に撃沈するために追い出すことが必要だったのさ。

>被害を受けたのちに修理復旧作業をせずに

おいおい、10数分間の12発の命中のうち、人員に
損害を与えたのは3発だけ。修理復旧作業をするまで
もなかったですが。
628日本@名無史さん:03/01/23 23:08
>>622
 内容のある発言をどうぞ。

>>623
 ということは、「砲撃によって撃沈した」という表現は、「砲弾で
 船体に穴を開けることによって文字通りに沈没させた」という
 意味の他に、「浮いている状態で接収されて、相手に再利用
 されたりするよりはマシなどの理由(?)で自沈に追い込んだ」
 ばあいも含まれる、というだけのことですか?

> 自沈に追い込んだか否か。が理解できないのは悲しいね。
 何がどう悲しいのか知らないですが、悲しんでいるヒマがあ
 ったら、203高地確保以前と以後で、具体的にどう違ったの
 か、命中率の比較数字など、明確なデータを提示したほうが
 建設的ではないですか?
 依然として提示がないですが、もしかして、数字などの明確
 なデータは持っていなくて、「203高地占領後に日本艦隊が
 封鎖を解いた」、とかいった「状況証拠」しか持ち合わせてな
 いわけですか? それならそうと、明確にどうぞ。
629日本@名無史さん:03/01/23 23:09
>>578-581

>>581 
>なおもこれだけの被害を与えています。しかも、
>これは10月前半のみの記述に過ぎません。

10月前半半月かけて、それだけの命中しかなかったのです。
三笠は10数分間に6インチ12インチ 12発の命中を
受けても、戦闘航行に全く支障はありませんでした。

日本海海戦当時 砲術長が命中と判断したのが、
東郷提督のツァイス双眼鏡で否定されてましたわな。
命中確認をし、ましておや相手の損害を確認するのは
難しいのよ。


630日本@名無史さん:03/01/23 23:11
>>628 オマエモナー
631嶽原:03/01/23 23:12
>>627
『>だから乗員が降りたという情報が欺瞞かもしれないし』
 丸見えの状態ですから、何隻の小舟で乗員移動とか、乗組員の乗降も
把握できたと思いますが。

『>いつでも出撃するかもしれない、確実な情報がなかったと思いますが』
 丸見えの状態ですから、出港準備の慌ただしさで把握できると思いますが。

『>数発命中で戦闘能力が喪失なんておかしいよな』
 数発命中でなく、多数の命中です。しかも乗員上陸で修理の気が見えません。

『>おいおい、10数分間の12発の命中のうち、人員に損害を与えたのは3
だけ。修理復旧作業をするまでもなかったですが』
 全然意味不明です。
 『10数分間の12発の命中』って、何ですか?
 また、『人員に損害を与えた』って、何ですか?
632日本@名無史さん:03/01/23 23:18
>>631 

丸見え?白玉山の影に隠れて尾部しか見えないと
述べてますが???

命中しても損害を与えたかどうかは不明なの。
そんなことも知らずに話しをしていたのか?

いや、知らないとしか言いようがないな。

結局確実に戦闘能力を喪失したと認識するためには
傾斜、転覆している、艦橋など構造物の確実な破壊、
浸水している等々が必要だったんでしょ。

ということを解らないで、10月末には戦闘能力
喪失しているなんて良く言える。というか舐めてるね。

633嶽原:03/01/23 23:20
『>おいおい、10数分間の12発の命中のうち、人員に損害を与えたのは3発
 だけ。修理復旧作業をするまでもなかったですが』

 「三笠」の被害の事なのですね。
 準備万端、装備充実、戦意旺盛の「三笠」と、旅順口に押し込められて
数ヶ月、備砲を抜かれ弾薬を取られ、戦意に乏しい「旅順艦隊」とを比較
する事の意味が全く分かりません。
634日本@名無史さん:03/01/23 23:22
 >>633
あれ?戦艦って備砲を抜かれ弾薬を取られたら、装甲が
なくなったり、バイタルパートがなくなるの?

へぇ面白いね。
635日本@名無史さん:03/01/23 23:26
>>632

浮かんでいる当時の戦艦を沈めるのは大変だよな。
もともと旅順攻略をして追い出すことを念頭において
たからな。
636嶽原:03/01/23 23:27
>>632
『>丸見え?白玉山の影に隠れて尾部しか見えないと述べてますが???』
 乗員が小舟で逃げたのは、そこに隠れる前の出来事です。

『> 命中しても損害を与えたかどうかは不明なの』
 火災発生というのは深刻な状況と思います。しかも消火復旧に励む乗員が
居ればこそ、逆に乗員は逃げて行っているのです。
637日本@名無史さん:03/01/23 23:29
>>636 ほぉほぉ。そこに隠れる前に乗員が逃げたと・・。

   では乗員のいない船が勝手に隠れたのですか?
638日本@名無史さん:03/01/23 23:32
嶽原氏の資料の出し方は興味深い。
なぜ矛盾だらけなのだろうか。
639日本@名無史さん:03/01/23 23:33
>>638 ボケと突っ込みだらけ 面白くない。
640嶽原:03/01/23 23:34
>>637『>乗員のいない船が勝手に隠れたのですか』
 曳舟を使用したかも知れませんね。最低限の乗員が残っていたのかも?

>>634『>あれ?戦艦って備砲を抜かれ弾薬を取られたら、装甲が
    なくなったり、バイタルパートがなくなるの?へぇ面白いね』
 誰がそんなことを言っているのですか?
 ちなみに私は、そんなこと言ってませんよ。
641日本@名無史さん:03/01/23 23:37
>>640 かも?

>>636 
>火災発生というのは深刻な状況と思います。
>しかも消火復旧に励む乗員が居ればこそ、
>逆に乗員は逃げて行っているのです。

 ここで乗員なぞいないかのうような発言ですね。
 隠れた後も乗員がいないと思ってたのでしょ。

 それで?乗員がいない船が勝手に隠れたのですか?
 戦艦って航海要員と戦闘要員が分かれているって
 知っている?航海要員がさも降りたような口ぶりですが。
642嶽原:03/01/23 23:38
>>641
 誰が、無人の艦になっているなどと書きましたか。
 勝手に人の書き込みを拡大解釈しないで下さい。
643日本@名無史さん:03/01/24 00:09
>>638
 はて? 具体的には、どのメッセージとどのメッセージが矛盾
 していますか?

ps.ここで、具体的かつ明確な回答があれば、それはそれで、
話になるわけなんですが。
644日本@名無史さん:03/01/24 00:20
>>642
 いやはや何とも。 
 結局のところ、一番肝心の点に関する明確なデータを提示
 できないという致命的な欠陥を覆い隠すために、枝葉末節
 の部分をこね回している、ということなんでしょうか?

 国軍に巣くっていたと伝え聞られる箱頭軍人は、明確な事
 実データから目をそむける習性があったとかいいますが、お
 そらく、こんな調子だったんでしょうね。
645嶽原:03/01/24 00:22
>>644
 私の書き込みに「無人の艦となっていた」という事が書かれていない事は
ご理解頂けたようですね。

 今後は、勝手に人の書き込み内容を拡大解釈しないようご注意下さい。
646日本@名無史さん:03/01/24 06:59
>>642 だったら、>>636の言われるような火災復旧や修理などは
問題ないですが。

>>636 
>火災発生というのは深刻な状況と思います。
>しかも消火復旧に励む乗員が居ればこそ、
>逆に乗員は逃げて行っているのです。

逃げてないじゃん。
647日本@名無史さん:03/01/24 07:18
>>644 そうそう。嶽原氏も対論者も肝心なデータは
出てきません。なら史実の流れから考察するのが
一番ですね。結果が見えているのですから。

そもそも歴史探求というのはそういうもんだ。
だから>>645で噛み付いてます<ww

648日本@名無史さん:03/01/24 07:26
>>414 11月11日って乃木大将が一挙陥落できないという電報を
送ったときだよね。そういう重要ないままでのいきさつを出さずに
連合艦隊の封鎖を解きたいという電報だけを出すのはどうかな・・。

海軍大将は一挙攻略が無理なら観測地点を攻略してくれと
述べいてるのも書いてません。これが事実を探求する立場
ですか。
連合艦隊司令長官も同じ 二百三高地だろうが、望台だろうが
観測地点を切望しているのですが・・・。

乃木は封鎖を解いていいよ、密輸拒止よろしくと述べてますが・・。
とんちんかんな回答をしているのですがね。
649日本@名無史さん:03/01/24 07:36
>>549 >>552 風評

明治44年9月
A:あらぁ今度 乃木さんと東郷さんところ元帥府に入るそうですよ。
B:あらぁ すごいわねぇ。
明治44年10月
A:あらBさん元帥府には奥さんが入るそうですよ。
B:あらすごいわねぇ。乃木さんは?
A:うわさ倒れだったみたいですね。残念だわ。

どこぞの子供が東大を受ける!といってるのを
すごい!というのと同様なのはどうかね・・・・。

きっと嶽原氏は実際の評価よりも風の噂の方が
確かなのでしょうか。

という感じだったのでしょう。
650嶽原:03/01/24 08:31
>>646
『>だったら、>>636の言われるような火災復旧や修理などは問題ない』
 消火や修理復旧に励むべき乗員が逃げていくような状況で、何が問題
ないのでしょうか。

『>逃げてないじゃん』
 逃げてますよ。
 03日 南山坡山の観察により「ポルタワ」の錨地確認
 04日 海軍重砲隊、「ポルタワ」に数発の命中弾
 05日 28榴弾砲(団山子)射撃、「ポルタワ」命中弾01発
 06日「ポルタワ」乗員、5隻の戎船によりて上陸
    28榴弾砲(団山子)射撃、「ポルタワ」01発命中
    28榴弾砲(登家屯)射撃、「レトヴィザン」中央喫水線に01発命中
 07日「レトヴィザン」乗員、3隻の戎船により上陸
651嶽原:03/01/24 08:32
>>647
 当方が書き込んだ内容を勝手に拡大解釈する人がいるのは、困ったものです。
652嶽原:03/01/24 08:33
>>648
『>そういう重要ないままでのいきさつを出さずに』
 そういう経緯により海軍側は、ハナからするつもりのない要望を出したという
ことですね。

『>乃木は……とんちんかんな回答をしているのです』
 海軍側にとって渡りに船の回答をしているのです。
653嶽原:03/01/24 08:33
>>649『>嶽原氏は実際の評価よりも風の噂の方が確かなのでしょうか』
 東郷の元帥府入りは大正02年でしたね。そういう時期だったと思います。
654bloom:03/01/24 08:40
655日本@名無史さん:03/01/24 08:52
実際 脅威に感じていた旅順艦隊を脅威に感じないという
あなたの解釈はどうなんでしょうか

656日本@名無史さん:03/01/24 12:53
615 :日本@名無史さん :03/01/23 12:28
嶽原の考えはすべてのぎにとって都合のいいように解釈するんだな

>>615
伊達遠江守家中とどっちが思い込みチャンプでつか?(w
657日本@名無史さん:03/01/24 18:43
>>645
 おっと、>>644は、書き方が悪かったようで、誤解を招いたよう
 です。>>644の意図は、「嶽原さんのように具体的かつ明確な
 データを提示することによって事実を探求しようとしておられる
 かたのメッセージの一部分だけ抜き出して、実に奇妙な具合
 に曲解している輩の生態観察」の意図だったのです。

> 私の書き込みに「無人の艦となっていた」という事が書かれていない事は
> ご理解頂けたようですね。
 そうですね。そんなことは、書いておられないですね。

 なぜ、「嶽原さんが無人の艦となっていたと書いた」かの如く
 に読み間違えたか?
 おそらく、>>636で、消火復旧に励む乗員は観測されず、そ
 れどころか艦から逃げ出す乗員が観測されている、という事
 実を提示されたのに対して、「逃げて行っている」という字句
 だけに注目して、「嶽原さんは乗員が全部逃げて行っている
 と書いた」という風に受け取った、ということでしょうね。

 そういったタイプは、時々いますね。文章全体の意図をくみ
 取ることができない、「二者択一式設問ボケ文脈読解不能
 人間」。
658日本@名無史さん:03/01/24 18:44
>>647
> >>644 そうそう。嶽原氏も対論者も肝心なデータは出てきません。
 何か変な文章ですが、「嶽原氏も対論者も肝心なデータは
 出しません(提示しません)」もしくは「嶽原氏からも対論者
 からも、肝心なデータは出てきません」のいずれかではな
 いですか?

 いずれにしても、嶽原さんは、たとえば>>578-581などで、
 具体的なデータを提示しておられます。「虚偽」を書かない
 ようにご注意ください。

>なら史実の流れから考察するのが一番ですね。

 え? ここでは史実の流れを再検討しているわけなので、
 史実と呼ばれるものの実態であるところの「事実の具体
 的な記録データ類」は必要不可欠ですよ?

 ところが、そちらは、何らの具体的なデータも提示してい
 ないですよね。それどころか、「具体的なデータ」の提示
 は問題外として度外視し、「史実の流れ」というものを土
 台にして「史実の流れを考察する」わけですか?
 一体全体、「具体的な何」を土台にして考察しようという
 のですか???

659日本@名無史さん:03/01/24 18:52
>>651
 「単語抜き出し矮小曲解」という表現はいかがでしょうか?
660日本@名無史さん:03/01/24 19:15
>>658-659
 
それで貴方は具体的なデータなど出しているのですか?
具体的な意見を述べてますか?
661日本@名無史さん:03/01/24 19:18
>>640 >>637『>乗員のいない船が勝手に隠れたのですか』
 曳舟を使用したかも知れませんね。最低限の乗員が残っていたのかも?

 これっておかしい表現だね。
662日本@名無史さん:03/01/24 20:54
乃木は糞
乃木は名将

どっちでもいい。
663日本@名無史さん:03/01/24 23:58
>>661
>>636
>火災発生というのは深刻な状況と思います。しかも消火復旧に励む乗員が
>居ればこそ、逆に乗員は逃げて行っているのです。

あなたはこの文をみてどう思われますか?
664日本@名無史さん:03/01/25 01:00
>>660
 見れば分かるでしょ。そちらと同じく、無署名の無責任
 な放言ですよ。ま、文責も示そうとしない無責任な放
 言であるという「分際」を弁えているか否かは違うわけ
 ですが。

 といった枝葉末節の話はどうでもいいとして、具体的な
 データの提示に対して、具体的な反証データを提示す
 ることなく、枝葉末節・末端肥大的反論(もどき)を繰り
 返すワンパターンは、早いところ止めたほうがいいで
 すよ。

 具体的な反証データなど全く持ち合わせていなくて、
 どこかに書いてあった結論をそのまま信じ込んで、そ
 れに対する反証に拒絶反応を示して、何となく反論し
 ているだけなら別ですが、まさか、そんなはずはない
 ですよね?
665日本@名無史さん:03/01/25 07:25
>>664 変わったアラシだな。嶽原氏の述べている論に
対して疑問を思ったことを質問しているだけでしょうが?

嶽原氏は十数発の弾丸を半月にタコ殴りにすれば戦闘力が喪失するはずだ
と述べているのに対し、誰かが日本海海戦の三笠の例にて十数分間の間に
12発の敵弾を受けても戦闘力は喪失しなかったと反証している。

何しろ嶽原氏の論は半月間に十数発の命中弾を与えているので
戦闘能力は喪失し、脅威がなくなっているのですから。三笠は
有名なターン直前のタコ殴りで戦闘能力が喪失しましたか?
それと10月末の砲撃で自沈に追い込んだか?と質問しても
全然答えてくれません。


666嶽原:03/01/25 07:48
>>655『>三笠は有名なターン直前のタコ殴りで戦闘能力が喪失しましたか?
     それと10月末の砲撃で自沈に追い込んだか?と質問しても全然答
     えてくれません』

 当方には、三笠が戦闘力を喪失していたという認識はありません。
 そもそも戦闘準備万端の三笠と、陸上戦のために装備人員の融通を強いられ
ていた旅順艦隊とを、比較対照とする意味がわかりません(>>633既述)。

 10月末の砲撃というのが何をさすものなのか分かりませんが、当方も、二百
三高地占領後の砲撃により自沈となったという認識です。
 二百三高地観測所を得る以前に、南山坡山観測所が得られていた事で、敵艦
の戦闘力はかなり奪うことが出来ている……連日命中弾を浴びせ、火災などを
発生させ、乗員に下船せしむるほど……と述べているのです。
667日本@名無史さん:03/01/25 07:50
>>641
  >誰が、無人の艦になっているなどと書きましたか。
  >勝手に人の書き込みを拡大解釈しないで下さい 。
 
嶽原>>626 『>タコ殴りですが、三笠は戦闘不能になりましたか?』
     既に乗員備砲弾薬を降ろしていて、被害を受けたのちに修理復旧作業を
     せずに、逆に乗員を降ろすようなら、戦闘不能になったでしょうね。
嶽原>>631 『>数発命中で戦闘能力が喪失なんておかしいよな』
     数発命中でなく、多数の命中です。しかも乗員上陸で
     修理の気が見えません。
嶽原>>636 『>丸見え?白玉山の影に隠れて尾部しか見えないと述べてますが???』
     乗員が小舟で逃げたのは、そこに隠れる前の出来事です。

     火災発生というのは深刻な状況と思います。しかも消火復旧に励む乗員が居ればこそ、
     逆に乗員は逃げて行っているのです。


突っ込み>>637ほぉほぉ。そこに隠れる前に乗員が逃げたと・・。
      では乗員のいない船が勝手に隠れたのですか

嶽原>>640 >>637『>乗員のいない船が勝手に隠れたのですか』
 曳舟を使用したかも知れませんね。最低限の乗員が残っていたのかも?

突っ込み前には消化復旧作業員どころか誰もいないようなことを述べてますが?
668日本@名無史さん:03/01/25 07:59
>>650
 >逃げてますよ。
 03日 南山坡山の観察により「ホ?ルタワ」の錨地確認
 04日 海軍重砲隊、「ホ?ルタワ」に数発の命中弾
 05日 28榴弾砲(団山子)射撃、「ホ?ルタワ」命中弾01発
 06日「ホ?ルタワ」乗員、5隻の戎船によりて上陸
    28榴弾砲(団山子)射撃、「ホ?ルタワ」01発命中
    28榴弾砲(登家屯)射撃、「レトウ?ィサ?ン」中央喫水線に01発命中
 07日「レトウ?ィサ?ン」乗員、3隻の戎船により上陸

 その後・・・。乗員が筏で逃げているのに港内を逃げたり遮蔽しています。
 嶽原は自分で書いた資料も覆すのか??
>>580
08日「レトウ?ィサ?ン」港外へ
   「ヘ?レスウ?ェート」「ホ?ルタワ」は白玉山下に遮蔽、船尾のみ露出
09日「レトウ?ィサ?ン」港内へ
669嶽原:03/01/25 08:03
>>667『>突っ込み前には消化復旧作業員どころか誰もいないようなことを
     述べてますが?』

 乗員が小舟で逃げていってる、とは書きましたよ。誰もいないなどとどこで
述べていますか。
 当方が述べてもいない事を読みとっているとは、想像もしていませんでした。

 そうそう、以前「戦袍日記」という資料の中から、ありもしない既述(ある
一戦闘で得られた薩軍戦利品リスト)を読みとった、特殊能力保持者と思しき
方がおられました。
 突っ込まれた>>637氏も同様に特殊能力をお持ちなのかも知れませんね。
670日本@名無史さん:03/01/25 08:09
>>669 貴方の神眼では修理復旧すべき乗員は逃げてしまったんでしょ?

   普通は最低限の復旧作業員を残し、戦闘力を保持していると
   考えるのが当たり前だと思いますが・・。当時の日本海軍と
   同じように。

>>637 嶽原>>640 >>637『>乗員のいない船が勝手に隠れたのですか』
 曳舟を使用したかも知れませんね。最低限の乗員が残っていたのかも?

 あなたここで疑問を投げかけていますよね?突っ込まれてオタオタ
しているのがよく判るのですが・・。

   
   
671嶽原:03/01/25 08:12
>>668『>乗員が筏で逃げているのに港内を逃げたり遮蔽しています。
     嶽原は自分で書いた資料も覆すのか?? 』

 移動の方法として、こういう方法もあります。
 『敵戦闘艦は汽船に曳かれ移動し……(日露戦争実記内記述)』
 乗員が下船していても、移動は可能だと思います。

 重ねて述べておきますが、当方は無人の船となったなどとは書いており
ません。
672日本@名無史さん:03/01/25 08:14
>>669 過去にだれかが、ありもしない記述をしたから
嶽原も事実を捻じ曲げて解釈するのですね。

さすが2ちゃんねるのコテハンです。言う事が違う。
673日本@名無史さん:03/01/25 08:17
>>671 それでさぁ火災は起きたが、鎮火しなかったの?
    その後航行不能になったの?

 ねぇねぇ。洋上だったら航行不能で戦闘力喪失だけど
 旅順って軍港じゃなかった?
674日本@名無史さん:03/01/25 08:17
>>673 10月末に旅順艦隊は航行不能になってません。
675嶽原:03/01/25 08:19
>>670
 『>貴方の神眼では修理復旧すべき乗員は逃げてしまったんでしょ?』
 逃げている行動から、修理復旧戦力保持に励んでいないことが窺える、と
述べているのです。

 『>あなたここで疑問を投げかけていますよね?』
 こういう考えは出来ませんか、という問いかけです。当方は別資料(実記)
にて、『汽船に曳かれて』という記述があるのを知っていましたからね。
676日本@名無史さん:03/01/25 08:20
>>675 貴方の神眼では修理復旧すべき乗員は逃げてしまったんでしょ?

   普通は最低限の復旧作業員を残し、戦闘力を保持していると
   考えるのが当たり前だと思いますが・・。当時の日本海軍と
   同じように。
677嶽原:03/01/25 08:23
>>672『>過去にだれかが、ありもしない記述をしたから
     嶽原も事実を捻じ曲げて解釈するのですね』

 文意が意味不明です。

 過去に誰かが、ありもしない記述をでっち上げました。
 当方嶽原は、存在する記述から、こういう見方が出来る、と述べて
います。

 全然別個の行動です。
678日本@名無史さん:03/01/25 08:24
楽観的に考え大胆になるか、悲観的に考え慎重になるか。

 どちらがいいでしょうかねぇ。
679嶽原:03/01/25 08:32
>>673
 東港の港湾施設もかなりの被害を受けていますよ。火災の記述は茶飯事、
大火災、ドックの門扉破壊という記述も見られます。
680嶽原:03/01/25 08:38
 以前「戦袍日記」という資料の中から、ありもしない既述(ある一戦闘で得
られた薩軍戦利品リスト)を読みとった、特殊能力保持者と思しき方とは、
こんな方です。

http://academy.2ch.net/history/kako/1000/10003/1000326922.html
553 名前:日本@名無史さん :02/04/03 07:10
 > >549 貴方はどんな資料を参考にしていますか?当方は佐々友房の戦袍日記の記述から植木戦と述べましたが。

 早朝の無記名者です。
681日本@名無史さん:03/01/25 08:39
彼はビーイングフリートを知らないから何を話しても無駄
682日本@名無史さん:03/01/25 08:45
今の話しの流れでなぜ、そんな話しがでてくるのでしょうか?
683日本@名無史さん:03/01/25 08:58
ヲイヲイ聞いたかよ、早朝に書き込んだらレッテル貼りされるぞ!

684日本@名無史さん:03/01/25 10:09
>679 港も大被害ですね。これだけの被害が出ていれば軍港として機能してなかったかも。
685日本@名無史さん:03/01/25 10:11
こういうスレは自分のPC内のワードで問答して欲しいんだよな。
686日本@名無史さん:03/01/25 10:14
>ビーイングフリート
フリートインビーイングのことでつか?
687日本@名無史さん:03/01/25 10:22
艦隊保全主義ならフリートインビーイングだな。
688日本@名無史さん:03/01/25 11:57
>嶽原 とうとうニッチもサッチも行かなくなって人格攻撃しはじめたか。

糞コテハンになっているな。

689kk:03/01/25 12:50
嶽原氏がどう言おうと、司令部から児玉が派遣され代行とはいえ指揮権を児玉が
とったのは、乃木の能力に疑問がもたれたためだ。
203高地に大きな意味がないとすればなぜ3100名の白襷隊の夜間突撃隊
の失敗のあと、11月27日になって203高地を攻めだしたのか。
大本営と海軍からの203高地攻撃要請を無視しし愚直に正面攻撃を続けた。
満州軍総司令部の方針はわからなかったが、少なくとも、乃木には攻略方法の
権限が与えられていたはずである。
203高地には日本軍だけでなく敵にとっても軍事面だけでなく心理面でも
大きな効果があったはずである。
嶽原氏の資料は細かいが、すべて枝葉に過ぎないような気がする。
優れた軍の司令官とか軍師とかには、大胆な発想とかひらめきが求められる。
そしてそれが成功したとき天才となる。乃木には残念ながらなにも感じられない。
嶽原氏があのときの司令官であっても、乃木と同様の結果ぐらい得られたのでは
ないだろうか。
侍従であったら本人も部下も幸せであったろうに。


690日本@名無史さん:03/01/25 12:54
これから嶽原氏の意見に反論する人はレッテル貼りをされます。
691mm=kk:03/01/25 12:59
恥ずかしながら、坂の上の雲読んでません。これから読んでみます。
あの本あろうとなかろうと乃木の評価はもう固定されてます。
 諸外国の軍事研究家によっても乃木は凡将もしくは愚将です。
嶽原氏のいいわけの資料をいくらみても私自身考えを翻す気持ちにならず
やはり今後も乃木愚将観は続くでしょうね。
692日本@名無史さん:03/01/25 14:04
昔の船は何の損害が無くとも港内では曳船を使います。
曳船を使ったからといって損害があるとは限りません。
693日本@名無史さん:03/01/25 17:35
乃木希典はかなり有能な軍人だと思われます。
乃木は第1次攻撃失敗後、塹壕・坑道を掘り進めて稜堡を破壊する<正攻法>に
切り替えています。さらに第3軍は独自に手榴弾・迫撃砲を製造して塹壕戦を行
なっています。最終的に防御の薄い203高地攻略を決断したのも(よく児玉と
誤解されますが)乃木です。これだけのことを行なった軍人は第一次大戦レベル
から見て相当な名将だったと思います。

また、乃木は第二次攻撃で第1師団長の提言を取り入れ<助攻>という形で多点攻撃を
行なっています。
司馬遼太郎は「一点に全兵力を集中して穿貫突破すべきだ」と主張していますが、
私はソンム戦のヘイグの二の舞だと思います。どちらが正しいのでしょうか?

それと白襷隊の問題です。
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/nogi.htm
上記の軍事マニアのサイトでは「白襷隊は乃木の愚行」としています。
私は、当時の状況では白襷隊の「短期間の砲撃の後の夜襲による奇襲」は
まっとうな作戦だったと思うのですが。

694日本@名無史さん:03/01/25 18:57
>>693 >乃木は第1次攻撃失敗後、塹壕・坑道を掘り進めて稜堡を破壊する

    実際9月の戦いの時は稜堡を破壊するまでできてません。徹底不足です。

   >第3軍は独自に手榴弾・迫撃砲を製造

    ロシア側のまねを工兵部隊がしただけで乃木が作ったわけでは
    ありません。

   >最終的に防御の薄い203高地攻略を決断したのも・・

    9月にもともと防御の薄い二百三高地を攻略してますが、
    攻略できず、海軍からの要望も中途半端な第3軍にとって
    自己満足的な終わり方をしております。

   >白襷隊の「短期間の砲撃の後の夜襲による奇襲

    砲撃で機関銃のあるトーチカを破壊できず、土地勘のない新来師団が
    主力に任せるなど運用に大問題があります。
    それを認可したのは愚かだと思われます。
695日本@名無史さん:03/01/25 19:51
>>676
>    普通は最低限の復旧作業員を残し、戦闘力を保持していると
>    考えるのが当たり前だと思いますが・・。
 そうですね。常識的に考えれば、その通りですね。
 で、現にその火災が発生した時点で、最低限の復旧作業員
 が残っていて、現実として鎮火にあたっていることが確認さ
 れた、とかいった資料があるわけですか? それならば、
 話は全く別なのですが?
 考えてみれば当たり前のことなら、当たり前に行われるに決
 まっているから、事実関係の確認は不要だし、仮に予想に反
 する状況しか観測されなかったとしても、「見なかった」ことに
 して放擲するわけですか?
 そういった姿勢を、世間では、「固定観念にとらわれて、事実
 を直視しようとしない、硬直化した没合理的な姿勢」とか呼ん
 だりします。
 まさに「定説」のいう「愚将・乃木希典像」の生き写しですね。
696日本@名無史さん:03/01/25 20:15
>>695 ではあなたは非常識に物事を考えて、復旧作業員がおりて、
    損害に任せるままの状態ですとしましょう。

    それで日本軍が12月始めまで艦隊を砲撃した理由はなんでしょうか?
    途中で満州軍司令部は効率が悪いということでやめさせているくらいです。
    
    また12月7日に実際沈んだ船をさらに2日間に渡り、砲撃しております。
    
    これらの説明をよろしくお願いします。

    
697日本@名無史さん:03/01/25 20:16
反論はレッテル貼りされます。
698日本@名無史さん:03/01/25 20:23
>>695 非常識的な論と常識的な論の場合、まず非常識、ありえない
方の資料を出すべきだと思うが・・・・・・・・・・・・
699日本@名無史さん:03/01/25 20:28
>>695 
つまり実際は10数発命中したし、筏で乗員も降りているし、
修理復旧要員もいない、タコ殴りで撃たれっぱなしの状態だから、
戦闘能力は喪失している。脅威ではない。
と当時の日本軍は判断すべきだったし、乃木が封鎖を解けばいい
という申し出は正確なものであったといいたいの?
700日本@名無史さん:03/01/25 20:29
>>697

>695そういった姿勢を、世間では、「固定観念にとらわれて、事実
 を直視しようとしない、硬直化した没合理的な姿勢」とか呼ん
 だりします。
 まさに「定説」のいう「愚将・乃木希典像」の生き写しですね。

 レッテル貼りされてますよ!!
701日本@名無史さん:03/01/25 20:55
久しぶりに来てみたが、嶽原氏が押されているのは初めてみた。
702日本@名無史さん:03/01/25 21:39
>>678
> 楽観的に考え大胆になるか、悲観的に考え慎重になるか。
>  どちらがいいでしょうかねぇ。
 無意味な比較ですねぇ。事実を具体的に確認すること
 のほうがはるかに先決でしょ。
 その意味において、203高地確保以前と以後で、どれ
 だけの差が生じたか、具体的な数字データで提示すれ
 ば、203高地確保の効果が一目瞭然になって、果たし
 てそれ以前の判断がどうであったのか、ハッキリする
 わけでしょう。
 仮に、203高地確保が決定的な効果をもたらしたと主
 張するなら、当然のように、たとえば砲弾の命中精度
 が飛躍的に向上したなど、何らかの明確な根拠がある
 わけですよね? その具体的なところを提示すれば、
 異論の生ずる余地なく、一目で分かるはずでしょう。
 何で提示しないんですか? 今捜しているところです
 か? それとも、単に「そういう風に書いてある本が
 多いから、何となくそうに決まっていると思いこんでい
 る」だけかな?
703日本@名無史さん:03/01/25 21:59
>>702 だから二百三高地攻略後の砲撃がたいしたことが無く、
10月末の砲撃がたいしたことがあったのならその資料を
出せば済むこと。

 史実は日本陸海軍は12月初頭まで旅順艦隊を
脅威に感じ、特に海軍は完全に戦闘力を喪失させるまで
封鎖を解きませんでした。
704日本@名無史さん:03/01/25 22:13
>>696
> ではあなたは非常識に物事を考えて、復旧作業員がおりて、
> 損害に任せるままの状態ですとしましょう。
 ちゃんと読んでくださいね。
 こちらは「非常識的に物事を考え」るような奇妙なこ
 とは行っておりません。形式的な知識ではなくて、
 観察された事実関係(この場合にはこの場で提示さ
 れたもの)を重視しているだけです。

>復旧作業員がおりて、損害に任せるままの状態ですとしましょう。
                  ↑             ↑
                が生じる?       だったと?

 で、その時点で観測された事実関係ではどうだった
 んですか? 「火災による損害が広がるに任せるまま
 の状態であった」という資料は提示されていますが、
 そうではなかったという資料がありますか? あるな
 らどうぞ。
 もしないなら、仮定形にする必要はないのではあり
 ませんか?
705日本@名無史さん:03/01/25 22:21
> 「火災による損害が広がるに任せるまま
 の状態であった」という資料は提示されていますが

 ??どこに書いてある?
706日本@名無史さん:03/01/25 22:29
>>703
> だから二百三高地攻略後の砲撃がたいしたことが無く、
> 10月末の砲撃がたいしたことがあったのならその資料を
> 出せば済むこと。
 順序で行くなら逆でしょ? 「203高地確保以前の砲
 撃も効果があった」ということを示す数字資料は、既に
 提示されていますよね。もしそれを否定するなら、当然、
 それを覆すに足りる数字資料を提示するのが筋という
 ものでしょう?

>  史実は日本陸海軍は12月初頭まで旅順艦隊を
> 脅威に感じ、特に海軍は完全に戦闘力を喪失させるまで
> 封鎖を解きませんでした。
 なるほど。で、その根拠となる数字資料は?
 まさか、「封鎖を解くに至ったほど効果があった。だか
 ら封鎖を解いたのだ。だから効果があったのだ」とい
 う循環論法のはずはないですよね?
707日本@名無史さん:03/01/25 22:32
>>706
つまり実際は10数発命中したし、筏で乗員も降りているし、
修理復旧要員もいない、タコ殴りで撃たれっぱなしの状態だから、
戦闘能力は喪失している。脅威ではない。
と当時の日本軍は判断すべきだったし、乃木が封鎖を解けばいい
という申し出は正確なものであったといいたいの?
708日本@名無史さん:03/01/25 22:32
>705
>  ??どこに書いてある?
 ?? 消火にあたるものがいたという資料は
 どこにある?
709日本@名無史さん:03/01/25 22:34
>>708 

> 「火災による損害が広がるに任せるまま
 の状態であった」という資料は提示されていますが

 ??どこに書いてある?
710日本@名無史さん:03/01/25 22:36
>>709 質問に対して質問でかえす厨房など相手にするな。
711日本@名無史さん:03/01/25 22:39
>707
> 乃木が封鎖を解けばいいという申し出

 何か文章が分かりにくいですが、「乃木が封鎖を解けばいいと
 申し出た」という話ですか??? いつの話ですか?
712日本@名無史さん:03/01/25 22:50
嶽原は事象を探求するに当たって、事実を無視する傾向にあります。
嶽原論
10月末には>>406>>578-581報告書の通り、
半月間に十数発のタコ殴りの砲撃を行ったので、
>>416)艦隊の戦闘力は喪失し脅威ではない。海軍は封鎖を解けば良かったのに 
解かなかったのは不思議(>>441参照)

 実際の日本軍は脅威に感じ、二百三高地後の砲撃でも
 ロシア側が沈没と認定した後も2日間に渡って攻撃を
 している。損害の確認というのは難しいと述べてますね。
713日本@名無史さん:03/01/25 22:53
ロシア旅順艦隊 二十八サンチ砲被弾率 (4門使用)
      10月2日から30日

戦艦
レトウィザン  4
ペレスウェート 19
ボヴェータ   1
セワストポリ  4
ポルタワ    2

巡洋艦     
バヤーン    6
パルラータ   2

12月5日から12月11日(8門使用) ( )はロシア側被害記録 

戦艦
レトウィザン  8(14)
ペレスウェート 46(25)
ボヴェータ   15(28)
セワストポリ  0 (0)
ポルタワ    4 (1)

巡洋艦     
バヤーン    41(4)
パルラータ   26(4)

ウンウン 日露双方の記録を見れば確認することの難しさ
が改めて解るね
714日本@名無史さん:03/01/25 23:21
あれ?資料らしきものが出たら急に静かになった御仁がいる。
どこにいったのか?
715日本@名無史さん:03/01/25 23:22
>>705
>>667を見るがよろし。

嶽原>>626 『>タコ殴りですが、三笠は戦闘不能になりましたか?』
     既に乗員備砲弾薬を降ろしていて、被害を受けたのちに修理復旧作業を
     せずに、逆に乗員を降ろすようなら、戦闘不能になったでしょうね。
嶽原>>631 『>数発命中で戦闘能力が喪失なんておかしいよな』
     数発命中でなく、多数の命中です。しかも乗員上陸で
     修理の気が見えません。
嶽原>>636 『>丸見え?白玉山の影に隠れて尾部しか見えないと述べてますが???』
     乗員が小舟で逃げたのは、そこに隠れる前の出来事です。

     火災発生というのは深刻な状況と思います。しかも消火復旧に励む乗員が居ればこそ、
     逆に乗員は逃げて行っているのです。
716日本@名無史さん:03/01/25 23:25
>>715 修理の気が見えません、や最後の行での深刻な状況と思います
というのがどの位史料価値があるのか・・・・。当方には理解しかねます。
717日本@名無史さん:03/01/25 23:27
>>671 移動の方法として、こういう方法もあります。
 『敵戦闘艦は汽船に曳かれ移動し……(日露戦争実記内記述)』
 乗員が下船していても、移動は可能だと思います。

>>692
昔の船は何の損害が無くとも港内では曳船を使います。
曳船を使ったからといって損害があるとは限りません。

これ面白い!!

 
718日本@名無史さん:03/01/25 23:41
乃木は頑張ったんだからそれでいいだろ?
お前らはあの旅順を落せるのか?
719日本@名無史さん:03/01/25 23:48
>>718 彼だから落せたというのは一理ある。
でももうちょっと要領よくできなかったのか?
というのは皆思うところ。
720日本@名無史さん:03/01/26 00:00
瑣末な指摘の裏に、浅薄な自己顕示欲が見え隠れするスレはここですか?
721日本@名無史さん:03/01/26 00:54
日本の 乃木さんが 凱旋す すずめ めじろ ロシヤ 野蛮国 
クロパトキン 金玉 負けて逃げるはチャンチャン坊主
(某地方の手まり歌or子守唄)
722嶽原:03/01/26 07:14
 敵艦の現状(「日露戦争実記42号(37年12月03日発行)」より)

 港内に蟄伏せる敵の軍艦は著大の損傷を受けたり。
 11月上旬までの損傷は過日発表の公報これを示したるが、その後我が攻城砲及び
海軍砲は頻々巨弾を港内に送り、益々その損傷の度を大ならしむ。最も信用すべき
報告によれば、旅順港内に於ける敵艦の状況左の如し。

 12日に港内停泊軍艦の位置は東港北線に二本煙突のもの二隻、白玉山南方に三本
煙突のもの三隻、同山西南方に三本煙突のもの一隻沈没しあり。
 大小の水雷艇は饅頭山砲台南方なる探海燈の西南側に停泊その数13。
  船渠は水門の戸を我が砲弾に破られ、全く使用する能わず。
723嶽原:03/01/26 07:15
 白玉山南方にある三隻の大軍艦は、上甲板の破壊甚だしく内部の損害また非常に
して、目下全力を挙げて排水に勉めつつあり。
 また東港内の二隻は破壊一層甚だしく、乗組員は陸上の各砲台に分属せしめられ、
残留の乗員わずかに十余名のみ。
 敵軍の通訳者その他の言う所に拠れば、港内の軍艦は一も使用に堪えるものなし
との事なり、但し東港内の前記二隻は、僅かに煤煙を揚げつつあり。
724嶽原:03/01/26 07:23
 二百三高地の観測所が出来る以前、11月12日の状態が、こんな感じです。

 タコ殴りの結果、既に惨憺たる有様です。
 修理しようにも、艦によっては乗組員は少数しか残って居らず、また修理施設
自体も、ドックは水門が破壊されているそうです。施設に火災を生じさせたという
報告も頻繁にあります。

 こういう状態では、艦隊保全がなされているとは到底思えません。
725日本@名無史さん:03/01/26 07:31
>>724 艦隊保全主義を読んで字の如く解釈しているバカがいるな・・。
726嶽原:03/01/26 07:41
>>725
 思想として、という事でしょう?

 で、上記のような状態で、戦闘力を保持しているとお思いですか。
727嶽原:03/01/26 07:44
>>692『>船を使ったからといって損害があるとは限りません』
 港内の移動は、無人かどうか如何に関わらず可能という事ですね。
728日本@名無史さん:03/01/26 07:51
>>724 修理施設も壊滅して11月初めには軍港として機能しなく
なっていたとお考えですか?
729日本@名無史さん:03/01/26 08:12
>>727
>港内の移動は、無人かどうか如何に関わらず可能という事ですね。

曳かれる船は無人でも出来るとお考えですか?
730嶽原:03/01/26 08:13
>>728
 かなりのダメージを受けていると考えています。壊滅というのは疑問です。
 具体的には、ドックの扉が破壊されたり被弾による火災が何度も起きています。
731嶽原:03/01/26 08:15
>>729
 質問の意味がさっぱり分かりません。
 曳線に乗員が居なくてどうするとお思いですか?
732日本@名無史さん:03/01/26 08:16
>>721
うちの教えてもらったのは、

日本の 乃木さんが 凱旋す すずめ めじろ ロシヤ 野蛮国 
クロパトキン 金玉 真っ黒褌 締めた タンきり(?) 李鴻章のハゲ頭
負けて逃げるはシナのちゃんちゃん坊 棒で叩けば犬殺し 師範坊(?)の柿の種
猫に小判 ンが出たけりゃ手水行け ケツの穴は十文字 地獄の沙汰も金次第
石の上に三年 ネン(?)が来たら帰ろうか 鍛冶屋の丁稚(?)は熱かろう
論語読みの論語知らず ずいたれ(方言?だらしない人間の事)が子を産んで
デブ の先は腐った

で終わりです。祖母の口伝なので微妙に不明な語句が多いのですが・・・
これって地方限定歌なのですか?
733嶽原:03/01/26 08:17
(731を書き直します)
>>729
 質問の意味がさっぱり分かりません。
 貴方は曳き船が無人だとお思いですか?
734日本@名無史さん:03/01/26 08:20
>曳かれる船

曳かれる船が曳船なのか小一時間小学校の授業を受けられたら
よろしいかと。
735日本@名無史さん:03/01/26 08:22
>>734 曳船を使ったから乗員が降りて無人というのが
貴方の主張でいいですね?

嶽原>>626 『>タコ殴りですが、三笠は戦闘不能になりましたか?』
     既に乗員備砲弾薬を降ろしていて、被害を受けたのちに修理復旧作業を
     せずに、逆に乗員を降ろすようなら、戦闘不能になったでしょうね。
嶽原>>631 『>数発命中で戦闘能力が喪失なんておかしいよな』
     数発命中でなく、多数の命中です。しかも乗員上陸で
     修理の気が見えません。
嶽原>>636 『>丸見え?白玉山の影に隠れて尾部しか見えないと述べてますが???』
     乗員が小舟で逃げたのは、そこに隠れる前の出来事です。

     火災発生というのは深刻な状況と思います。しかも消火復旧に励む乗員が居ればこそ、
     逆に乗員は逃げて行っているのです。

嶽原>>692『>船を使ったからといって損害があるとは限りません』
 港内の移動は、無人かどうか如何に関わらず可能という事ですね。
736嶽原:03/01/26 08:30
>>735『>曳船を使ったから乗員が降りて無人というのが貴方の主張でいいですね?』

 何度目ですか。私は無人だなどと主張していません。

 「三〜五隻の小舟で乗員が下船した」という事が観察されていた、という主張です。
737嶽原:03/01/26 08:33
>>734
 「曳かれる船」にも何人か居たかも、と思います。
 関連する作業とかもあるでしょうから。
738日本@名無史さん:03/01/26 08:34
>>736 何度目ですか。私は無人だなどと主張していません。
>>631 『>数発命中で戦闘能力が喪失なんておかしいよな』
     数発命中でなく、多数の命中です。しかも乗員上陸で
     修理の気が見えません。

     乗員上陸で修理の気が見えませんという貴方の主張は
     間違いでいいですね。
739日本@名無史さん:03/01/26 08:36
>「三〜五隻小舟で乗員が下船した」という事が観察されていた、
>という主張です。

三から五隻の小舟(船でなく)で復旧作業員がいなくなるんでつか。
740日本@名無史さん:03/01/26 08:40
>>736  何度目ですか。私は無人だなどと主張していません。

嶽原>>692『>船を使ったからといって損害があるとは限りません』
 港内の移動は、無人かどうか如何に関わらず可能という事ですね。

 上の文章を読み、無人にこだわっているところが垣間見受け
 られます。
741嶽原:03/01/26 08:41
>>738
 修理復旧させて戦力を維持しようと思ったら、下船という行動はおかしいで
しょう。
 被害が増加しているのに、逆に人員が船から離れて行っているのです。

 その結果、『上甲板の破壊甚だしく内部の損害また非常にして』となって
しまっています。
742日本@名無史さん:03/01/26 08:41
港内の設備もダメージを受けているのは当たり前。
機能しなくなっているのでなければ、修理も可能
743日本@名無史さん:03/01/26 08:44
>>741 ??そういえばさ、港の中にいるときは常に
乗員は船の中にいると思っているの?
744日本@名無史さん:03/01/26 08:46
>>火災発生は深刻な状況だとおもいます。

下瀬火薬ってどんなのか知ってたらこんな発言はしないわな。
745嶽原:03/01/26 08:49
>>742
 修理するそばから砲撃で破壊されていたりして?

 港内設備の修理は可能かもしれません。しかし、実際11月12日の
状況はどうですか?
 港湾設備のある東港の中の二隻が『破壊一層甚だし』い状態では、
艦船修理には全然間に合っていないようですね。
746日本@名無史さん:03/01/26 08:54
嶽原氏の主張

乗員が3-5隻の小舟で下船し、修理復旧する乗員もいないから
戦闘能力が喪失した。

逆の発想でバルチック艦隊が来て大砲さえ積めば、復活する
なんてことは思いもよらないらしい。
いや、艦隊保全主義というのが理解できてないから、無理か。


747嶽原:03/01/26 08:56
>>743
 修理するためには船上に居なくてはならないでしょうね。
 喫水線下の破孔を木材で塞ぐために、かなり苦労したそうです。

>>744
 被弾によって火災が発生しているのは、深刻な事態では無いという
ご意見ですか?
 下瀬火薬は、特に発火しやすいものだと理解しております。
748日本@名無史さん:03/01/26 08:58
>>747 喫水線下の作業で船上にいなくてはならないという主張がよくわからん。
749嶽原:03/01/26 08:59
>>746『>思いもよらない』
 「バ艦隊来航時に再浮揚させるつもりで自沈させた」という件、
ソースを提示したのは当方嶽原ですのに、「思いもよらない」とは
どういう意味でしょうか。
750日本@名無史さん:03/01/26 08:59
火災発生であって炎上じゃないわな。
751嶽原:03/01/26 09:01
>>748
 艦上から木片を水中に垂らし、それをいかに破孔に押しつけるか、
というような作業について書かれていたように記憶しています。
752日本@名無史さん:03/01/26 09:03
>>749 それだけご存知で知識が回ってないのはアホでつか?
    艦隊がそこにいるというのが脅威という主張をようやく
   認めていただいた様で光栄です。

>>445 オールオアナッシングでなければならない訳でなし。

 こんな発言される貴方ですから理解してないかと思ってましたよ。
   
753日本@名無史さん:03/01/26 09:06
>>444 で軍港の機能は損なわれておらずという意見に対し、
>>447 で同意してそうな雰囲気だったが・・・。嶽原氏は変わった方ですね。

754嶽原:03/01/26 09:06
>>750
 火災発生が深刻な状況でないというご意見ですか?
 もちろん、炎上の方がより深刻だとは思いますが。
755日本@名無史さん:03/01/26 09:10
>>754 火災発生、延焼、炎上という主張がないからね・・

ささいな損害を深刻と捉えたりする姿勢はどうかね??
艦隊がそこにいるということが脅威なんですが??


でも戦闘能力が喪失して脅威じゃなくなるのが貴方の
主張でしょうけどね・・。
756嶽原:03/01/26 09:12
>>752
 そこにいるのが、戦闘力を保持している艦隊ならば、分かりますよ。

 37年11月12日に旅順に居たのは、『上甲板の破壊甚だしく内部の損
害また非常にして、目下全力を挙げて排水に勉めつつあり。また東港内
の二隻は破壊一層甚だしく、乗組員は陸上の各砲台に分属せしめられ、
残留の乗員わずかに十余名のみ』

 というように、戦闘力を喪失した艦隊なのです。
757日本@名無史さん:03/01/26 09:14
>>756 ??その資料は日本側の資料ですか?
758嶽原:03/01/26 09:22
>>753『>>>444で軍港の機能は損なわれておらずという意見に対し、
>>447で同意してそうな雰囲気だったが・・・』

 447で同意したのは、東郷の自分の目で確かめる、という行動についてです。ご確認を。
 444の内容のうち、「11月の段階で軍港の機能は損なわれておらずという
意見」については、ここで明確に非同意である事を示しておきます。
 根拠は、11月12日の情況を示した当時の本の記述内容(>>722)等です。
759嶽原:03/01/26 09:25
 こういう場合、非同意でなく「不同意」と言うんでしょうか。
760日本@名無史さん:03/01/26 09:49
>>732
ノーカット版、ありがとうございました。
祖父母に伝えておきたいと思います。fr721
761日本@名無史さん:03/01/26 16:10
>>736
> 何度目ですか。私は無人だなどと主張していません。
 そのとおりですね。

 これは、故意に、「いかにもありそうで、しかし、説明すれ
 ば通じそうな誤解を繰り返して提示する」ことによって、肝
 心の本題から目を逸らさせる、「妨害工作」の1種です。こ
 ういったタイプの妨害工作は、世上でも、時々見受けられ
 ます。いわゆる「あおり」です。
 
 「同じ説明を何度も繰り返すという無駄手間を掛けさせる
 こと自体が目的」なので、何をいっても無意味です。
 逆に、取り合わなければ、元々内実のある論議などする
 意図がない「あおり」は、とっかかりがないので干からび
 て消えます。この類いには取り合わずに、「生態観察モー
 ド」に移行されたほうがよろしいでしょう。
762日本@名無史さん:03/01/26 16:16
>752
> それだけご存知で知識が回ってないのはアホでつか?
 使用する語彙によって、その人の内実が図らずも露呈する、
 いわゆる「語るに落ちている」実例ですね。やれやれ。
763日本@名無史さん:03/01/26 18:56
>>761-762 変わった煽りですね・・。
729 :日本@名無史さん :03/01/26 08:12
>>727
>港内の移動は、無人かどうか如何に関わらず可能という事ですね。

曳かれる船は無人でも出来るとお考えですか?

731 :嶽原 :03/01/26 08:15
>>729
 質問の意味がさっぱり分かりません。
 曳線に乗員が居なくてどうするとお思いですか?

こんな頭悪い人だとは指摘しないのでつね。


764嶽原:03/01/26 19:18
>>763
 質問自体については、既に答え直しております。

 Q>曳かれる船は無人でも出来るとお考えですか?(>>727
 A>「曳かれる船」にも何人か居たかも、と思います。
   関連する作業とかもあるでしょうから。(当方嶽原>>737
765嶽原:03/01/26 19:28
>>『>こんな頭悪い人だとは指摘しないのでつね』

 おそらく、上記の貴方の物言いこそを、指摘しているのだと思いますよ。
766日本@名無史さん:03/01/26 19:32
コルァ 嶽原!
それ以上 乃木閣下をバカにするのは許さんぞ。

11/27二百三高地転換前、乃木閣下は敵艦隊の処成を促がさんとす
と作戦計画の電報を送っておろう。
乃木閣下はなぁ、脅威に感じているんじゃよ。11月以前に
脅威が消滅しておれば、上の電報を送るわけないだろうが!!

乃木閣下はお主の考えておるほど、間抜けなお人ではない。
オールオアナッシングでなくとも良いと思っているわけなかろう。

何故 お主はそこまで乃木閣下を愚弄する。そこまで
乃木閣下が嫌いならここのスレに来んでよい!
767日本@名無史さん:03/01/26 19:38
>>嶽原 >>756 ??その資料は日本側の資料ですか?


768嶽原:03/01/26 19:48
>>767
 ですよ。
769嶽原:03/01/26 19:52
>>766『>乃木閣下はお主の考えておるほど、間抜けなお人ではない。
   オールオアナッシングでなくとも良いと思っているわけなかろう 』

 当方嶽原は、海軍主力艦総出で封鎖に当たらなくともよいのでは、
という意味です。
 乃木の、「封鎖を緩めても良い、密輸の阻止を万全にしてくれ」
という発言を論拠としております。
770日本@名無史さん:03/01/26 20:10
>>769 あぁつまり、迂闊にも最初は脅威じゃなかったが、
後半になれば脅威になったということだろうか?
771嶽原:03/01/26 20:16
>>770
 攻囲当初から山越え射撃をしてますから、最初から脅威だったんでしょう。
 南山坡山観測所を得た後は砲撃の効果も向上し、11月上旬にはかなりの
被害を与えることが出来ている。

 だから、海軍側の申し出「封鎖を解きたい」に、第三軍側は「緩めても良い、
むしろ密輸の阻止を万全にして欲しい」と答えたのだと思います。
772日本@名無史さん:03/01/26 20:17
自問自答もこれほどの粘着になると、呆れるより一種の尊敬ですな〜(w
773日本@名無史さん:03/01/26 20:18
>>771 いや11月末に艦隊の処成を促すために二百三高地
攻略に向う予定と述べてますが?
774嶽原:03/01/26 20:37
>>773
 第三回総攻撃前の、御前会議や満州軍総司令部−大本営間の電報応酬などに
より、『速かに旅順口攻略を全うすること必要なりと雖も、若し否らざるとき
は、先ず同港内を周く瞰制し得べき地点を占領し敵艦を撃破し……』という
ようになりますね。
 これにより、11月末の作戦計画の電報になったのだと思います。
775日本@名無史さん:03/01/26 20:53
>>774『速かに旅順口攻略を全うすること必要なりと雖も、若し否らざるとき
は、先ず同港内を周く瞰制し得べき地点を占領し敵艦を撃破し……』

>>403 >>401『少なくとも203高地攻略=艦隊撃破というのは史実』

 09月の攻撃の結果、南山坡山の観測所を確保されて観測隊が常駐
しています。さらに10月に山越え射撃できる28榴弾砲が戦線に参加
しました。
 この結果、二百三高地奪取を待たずして旅順艦隊には大きな被害
を与えることができています。

 言っていること滅茶苦茶・・。よくわかりません。
776日本@名無史さん:03/01/27 16:06
どうしようもないなアゲ
777嶽原:03/01/28 01:45
>>775『>言っていること滅茶苦茶・・。よくわかりません』

 言っていることは、『二百三高地攻略より以前に、艦隊にかなりのダメージを既
に与えている』という事です。『二百三高地攻略によって、漸く艦隊を撃破できる
ようになったのではない』という事が言いたいわけですよ。『少なくとも203
高地攻略=艦隊撃破というのは史実(>>401)』という書き込みに反論したのは、そう
いう意味です。

 「二百三高地攻略」によって変化した状況の中で最も特筆すべきは、「旅順艦隊
を撃破した」ではなく、「海軍の封鎖が解かれた」という点なのだと思います。
778日本@名無史さん:03/01/28 12:32
いじくりまわしてるな
779日本@名無史さん:03/01/28 14:38
乃木さんは神か?
780まいど:03/01/28 18:36
>777「二百三高地攻略」によって変化した状況の中で最も特筆すべきは、「旅順艦隊
を撃破した」ではなく、「海軍の封鎖が解かれた」という点なのだと思います。
 これだって大きな意義がある。
はやく攻撃しなかった乃木はボンクラだ。
781日本@名無史さん:03/01/28 18:38
>775
>  言っていること滅茶苦茶・・。よくわかりません。
 そちらの文章読解力に問題があるからでしょう。
 論より証拠ということで…

> 『速かに旅順口攻略を全うすること必要なりと雖も、若し否らざるとき
> は、先ず同港内を周く瞰制し得べき地点を占領し敵艦を撃破し……』
 これを、全部ひらがなに直して、その上で、現代の
 普通の日本語に直してみてください。
782日本@名無史さん:03/01/28 18:43
>780
 ちょうど良かった。
> 『速かに旅順口攻略を全うすること必要なりと雖も、若し否らざるとき
> は、先ず同港内を周く瞰制し得べき地点を占領し敵艦を撃破し……』
 具体的にどうせよという意味なのか判読できてますか?
783日本@名無史さん:03/01/28 20:18
>>782 あなたが説明してくれませんか?
784日本@名無史さん:03/01/28 21:53
>>783
 あいにくですが、>>775
> 言っていること滅茶苦茶・・。よくわかりません。
 そうなる原因を確認しているもので。

 あ 回答は誰でもいいですよ。
 
785日本@名無史さん:03/01/28 23:11
>>781 
> 『速かに旅順口攻略を全うすること必要なりと雖も、若し否らざるとき
> は、先ず同港内を周く瞰制し得べき地点を占領し敵艦を撃破し……』
これを、全部ひらがなに直して、その上で、現代の
普通の日本語に直してみてください。

781は現代語の日本語に直せないので質問しているのです。
可愛そうに。
786嶽原:03/01/29 03:00
>>780『>はやく攻撃しなかった乃木はボンクラだ』
 ならば、満州軍総司令部の総司令官(大山)、総参謀長(児玉)は、
どうなのですか?両者は、以下のように言っているのですが。
 私は乃木をボンクラとは思いませんので、同意見の大山も児玉もまた、
ボンクラとは思いません。

・11月06日:大本営長岡参謀次長、総司令部井口参謀宛に意見を開陳電報。
「二百三高地を占領し充分なる観測点となし、港内敵艦を撃破するを有利と
 すべき」
・11月07日:総司令部児玉総参謀長、大本営山県参謀総長宛に返答。
「第三軍司令部もまた種々研究の後、以前従来の方針を保持し、作戦の根本
 計画を変更して二百三高地の攻略を趣旨とするを欲せず」

・11月09日:大本営陸海軍幕僚会議。
「第三軍は速やかに敵艦撃破の目的を達するを要する」を決議。
     :大本営参謀総長、満州軍総司令官に会議の決議の旨を通報。
・11月10日:満州軍総司令官、返答。
「例え二百三高地を占領するも、ただこれを観測点に利用し得るに過ぎず。
 而して二十八サンチ砲の軍艦に対する威力は予想の如く大ならざるを以て
 寧ろ速やかに旅順の死命を制すべき手段を採るを捷径をなすべく……」
787日本@名無史さん:03/01/29 07:25
>>786 どうみても、第三軍をかばっているようにしか見えんが?
自分たちの戦場で手一杯だったという意見あり。
788まいど:03/01/29 08:28
<786
乃木は最前線の指揮官だったのである。大山や児玉のように総司令部にいたわけ
ではない。状況を判断し、司令部に具申する必要があったと思う。
 もっともそう判断する能力がなかったわけだが。
789嶽原:03/01/29 13:12
>>788『>状況を判断し、司令部に具申する必要があったと思う。
     もっともそう判断する能力がなかったわけだが』

 第三軍は、総司令部に作戦主任参謀を派遣していますよ。
 そしてその後も、総司令部は大本営の二百三高地攻撃案を採らずに、従来の
案(第三軍が続行中の東北面主攻案)に賛同しつづけています。

・11月13日:第三軍作戦主任参謀、総司令部に赴き現況と総攻撃計画を説明。
・11月14日:御前会議開催。
 「第三軍は速やかに旅順を攻略するを必要なりとし、已む得ざる場合にも
  先ず同港内を瞰制し得べき地点を占領し、敵艦隊の戦闘力を奪うを要す
  る」旨を決議。大本営は総司令官に御前会議の決議を通報。
11月16日
 ・満州軍総司令官は御前会議の決議に対し返電。
 「以前従来の計画に従い鋭意攻撃を続行すべく」旨を返電。

>>780(まいど氏)『>はやく攻撃しなかった乃木はボンクラだ』
 私は乃木をボンクラとは思いませんので、同意見の大山も児玉もまた、
ボンクラとは思いません。
790嶽原:03/01/29 13:38
 >>789の最後、訂正。

>>780(まいど氏)『>はやく攻撃しなかった乃木はボンクラだ』
 私は、第三軍と同意見の大山・児玉がボンクラとは思いませんので、
乃木もまたボンクラとは思いません。
791日本@名無史さん:03/01/29 18:48
203高地に攻略変更するさいも乃木が主導権を握ってます。
それに対して、満州軍の同意も取り付けてます。
満州軍は第3軍に作戦立案も含め、かなりの裁量を第3軍に
与え、余計な心配をさせない努力をしてるように見受けられますが?

大山を誉めるところであっても、乃木を誉めるところではないかと。
792嶽原:03/01/29 21:31
>>791
 『>余計な心配をさせない努力をしてるように見受けられます』
 ですね。大本営からの度重なる要請にも変じていませんし、やはり現場が
分かるのは現場、という事でしょうか。

 『>大山を誉めるところであっても、乃木を誉めるところではない』
 ですね。私も乃木を誉めているつもりは毛頭ありません。
 >>780『>はやく攻撃しなかった乃木はボンクラだ(まいど氏)』と言われ
ているのに対して、『第三軍と同意見の大山・児玉がボンクラとは思いません
ので、乃木もまたボンクラとは思わない』と言っているまで、です。
793まいど:03/01/30 00:12
旅順攻撃は9月からはじまっているのである。
11月半ばで主任参謀を派遣するのは遅いし、現状の認識がどうあったかで総司令部
への説明も違ってくるだろう。やはり現場を一番知っている乃木の責任は重い。
的確な現状認識ができていたのかどうか。203高地を攻撃しだしてからの旅順
攻略が、それまでの攻撃による効果を引いても早くなったと見られるからだ。
794嶽原:03/01/30 00:28
>>793
 09月18日には総司令部の児玉総参謀長自身が来順し、28日に大山総司令官に
宛てて旅順方面の戦況に関して、以下のように報告をしているのですが。

『我軍の計画としては、二百三に重砲を備え、二十八珊榴弾砲と協力して港内
軍艦を破壊せんとする考案は、二百三を占領し得ざりしを以て漸く薄弱となれ
り。然れども、南山坡山より軍艦の所在を観測し得るを以て、海軍砲と二十八
珊榴弾砲と協力して先づ港内軍艦を掃射し、且つ二十八榴弾砲を以て二龍山、
松樹山の二堡塁を全く破壊して占領し、一面には二百三を攻略し、他の砲兵陣
地も為し得る限り前進せしめて突撃準備を為し、その結果ある一点より大突撃
を行うのほか妙策なしと信ず』

 現場に居た人間は、『的確な現状認識』は出来ていたと思います。
 出来ていなかったのは、現場にいなかった本土の人間だと思います。
795日本@名無史さん:03/01/30 06:45
>>794 ある一点より大突撃せよって第三軍はしてないよな?
796日本@名無史さん:03/01/30 06:48
南山坡山より軍艦の所在を観測し得るを以て、海軍砲と二十八
珊榴弾砲と協力して先づ港内軍艦を掃射し・・・

これの成果が悪かったのは周知のとおり。
だから二百三高地を攻めなおしたんですよね。

現場にいても的確な現状認識は出来てなかったのです。
ましておや、児島はこの頃、他の問題で辞表まで出しかけています。
第3軍の言うがままだったのでしょう。
797日本@名無史さん:03/01/30 06:53
他の砲兵陣地も為し得る限り前進せしめて・・・・

もし児玉来順時に的確な位置に砲兵陣地が前進しておれば、
わざわざ、児玉がチャチャ入れることもなかったろうに。

また、9月の段階で正攻法、つまり攻撃塹壕が一番進んでいた地域は
二百三高地など西北部でしたね。だが10月には一転して東北部
を攻め直しています。

798嶽原:03/01/30 11:10
>>795『>ある一点より大突撃せよって第三軍はしてないよな』
>>797『>他の砲兵陣地も為し得る限り前進せしめて』
 「二十八榴弾砲を以て二龍山、松樹山の二堡塁を全く破壊して占領し……」
という状況の進展後の話なのに、なぜか真っ先に持ってこられる、貴方の意図
がさっぱりわかりません。
799嶽原:03/01/30 11:13
>>797『>9月の段階で正攻法、つまり攻撃塹壕が一番進んでいた
     地域は二百三高地など西北部』

 この時点では既に28榴弾砲戦線参加の目処もあるのですから、『攻撃作業の進展
程度』は、主防御線への攻撃を予定している10月の段階で比較すべきことです。

 予定以前の09月の段階で比較する意味がわかりません。もっとも、「西方面の前
衛陣地向けの攻撃塹壕」と、「東北主防御線上の一大堡塁向けの攻撃塹壕」とを比
較すること自体がよくわかりませんが。
800嶽原:03/01/30 11:18
>>796
『>成果が悪かったのは周知のとおり』
 戦闘力は既にかなり奪っていました。現場の人間は、破壊の程度(>>722-723
を観察し報告しています。それがあまり知られていないだけです。 

『>現場にいても的確な現状認識は出来てなかった』
 現場にいない人間(内地大本営等)の現状認識が、現状とかけ離れていたのです。

『>児玉は……辞表まで出しかけています』
 児玉の辞表問題とは、観戦記者待遇の件ですね。この問題も現場にいない人間
(内地大本営等)が口を出すとどうなるか、という点では同根です。
 児島襄の言葉を借りると、こういう表現ですか。
 『戦地のことは戦地の指揮官にまかせるべきなのに干渉し、しかも総司令官
 を批判するうえにその旨を公表するのは、満州軍総司令部にたいする不信任
 の表明に他ならぬ、というにひとしい。
  児玉電の行間にただよう怒気はあらわであり……(日露戦争第四巻187P)』
801日本@名無史さん:03/01/30 18:12
>>795
> ある一点より大突撃せよって第三軍はしてないよな?

 「ある一点より大突撃せよ」? >>794のどこに、そのよ
 うなことが書いてありますか? そのようなことは書い
 てないですし、書いてあるはずもないですよ。
 ちゃんと読み直して、誤りは訂正する必要があります。
 歴史的事実を正確に検証しようという意志があるなら
 の話ですが。

 解説:>>795は、>>795を書いた者の文章読解力に、根
 本的かつ致命的な欠陥があることを如実に示す、好個
 の資料と申せましょう。資料に書いてあることが正確に
 読み取れないようでは、事実の検証など不可能ですね。
802日本@名無史さん:03/01/30 18:14
>>796
> ましておや、児島はこの頃、他の問題で辞表まで出しかけています。

 この「児島」とは何者ですか? 歴史的事実の検証の場
 で、安易に架空の人物を登場させないように。
 実在の人物であるなら、誰のことなのか明示ください。ま
 た、何かの書き間違いなら、訂正をどうぞ。

 解説:細かい点に関するちょっとした記憶違いとか、ある
 いは単純なミスタイプや誤変換なら、まま、ありがちなこ
 とで、問題視するに足りないといえますが、最重要人物
 の一人の名前を安易に間違えることがあるようでは、正
 確な事実認識に基づいて、事実を正確に追求しようとす
 る意志の存在自体を疑わざるをえません。
 正確な知識に基づいて、事実を正確に追求しようとする
 意志があるなら、当然、明確な訂正があるはずですね。
 果たして、>>796の論者の態度はどうか?
803日本@名無史さん:03/01/30 20:09
>>801-802 嶽原が真っ赤になって匿名で書いているのがよくわかる。
804日本@名無史さん:03/01/30 20:11
>戦地のことは戦地の指揮官にまかせるべきなのに干渉し・・・

そうそうだから、児玉は乃木に干渉せずに自由な裁量を
任せたのでしょう。児玉は乃木を擁護しているようでしたから。
805日本@名無史さん:03/01/30 21:09
>803
 蟹は甲羅に似せて穴を掘る。
806日本@名無史さん:03/01/30 21:19
>>805 類は群(友) を呼ぶ
807日本@名無史さん:03/01/30 21:34
>806
 女房の焼くほど亭主持てはせず
808日本@名無史さん:03/01/30 21:50
>>807:訂正
 武士は食わねど高楊枝
8091:03/01/30 22:03
次スレ考慮せにゃいかんな
810嶽原:03/01/31 03:46
>>803『>嶽原が真っ赤になって匿名で書いているのがよくわかる』
 いえいえ、私じゃありませんよ。
 誤りを指摘した側が何と言われるか分かったもんじゃない。ハナから諦めて
ます。
811嶽原:03/01/31 03:52
>>804
 そう、現場にいない人(本土大本営等)の横やりが入ると、たいがい
がおかしな事になるのです。「観戦記者の扱いに関する横やり」で、児
玉がキレたのは、良い例です。

 だいたい、兵站の責任者しか残っていないような大本営陸軍部が、一
局地における主攻方面についていつまでも横やりを出し続けている事態
が異様なのだと思います。
 もちろん、大本営−満州軍総司令部間で種々議論になるのは一向に構
いませんよ。しかし、その議論で満州軍総司令部を納得させられなかっ
たからと言って、第三軍に横やりを出し続けるのは、どうにも納得でき
ません。
812日本@名無史さん:03/01/31 09:32
>810 必死だな
813嶽原:03/01/31 21:58
>>812 やれやれ……
814日本@名無史さん:03/01/31 22:16
>>801-802 って
誤りを指摘した側が何と言われるか分かったもんじゃない

と認めているとおりですよね。
815嶽原:03/01/31 23:00
>>814
 これまでの「幾つかのスレ」で、既に思い知っておりましたので。今更誤り
を指摘する気にもなりません。
 それに、私も「小泉少将」を「小泉首相」と間違って書き込んで恥をかいた
事がありましたからね。「児玉」と「児島」の間違いには苦笑しただけです。
816日本@名無史さん:03/01/31 23:05
素人が好きならロベルタ。60Kの店だがおそらく45Kくらいでは入れる。
ハズレも多いが当たると可愛い子がいるよ。
120分だしね。
817日本@名無史さん:03/01/31 23:12
>>796
乃木の軍事的評価を過小評価したのも、無意識にそうなったんだろ。
個人的に乃木を憎んでいたわけだはないとおもうが。
818mm:03/02/03 20:44
坂の上の雲読んでます。
司馬先生は東郷平八郎についても思ったより厳しいので驚いた。
これじゃあ、乃木はもっと厳しくなるよな。嶽原氏がいうように
 私には司馬先生が乃木にだけ不公平な評価をしたように思えない。
司馬先生よれば、旅順の第一次攻撃のとき、大きなチャンスがあったのに
撤収する愚を犯したとも書いているよね。
 いずれにしても、私は司馬先生の人物の洞察力を大きく評価している。
確かに乃木に対しては同情の余地は多々ある。ただやはりあの戦いでは
やはり凡将としての動きしか感じられない。残念なことだ。
ほかの戦いがはなばなしすぎたのかもしれない。

819日本@名無史さん:03/02/03 21:03
>>818
 mmさんや嶽原さんと同じレベルまで「読めている」のかどうか
 は分からないですが、基本的に、おっしゃるとおりの傾向があ
 るように思います。
 というか、こちらで嶽原さんを代表とする(?)「非乃木愚将論」
 を拝見して、改めて、根本的に考え直す余地があると感じた
 次第。

 乃木は果たして愚将だったのか? 愚将だったのは乃木なの
 か? 定説ないし司馬遼太郎説は、果たして事実を公平にとら
 えているのか?
 いうまでもなく、人物なり物事となりを単純二値で判定するよう
 な粗雑な観点からの論議や、始めに結論ありきの折伏式論争
 もどきの類いは問題外として、検討の余地があることは間違い
 ないと思います。
820世直し一揆:03/02/03 21:19
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的・ファイト満々(キモイ、自己中心)
●自尊心が異常に強く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●一人では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、「世間体命」)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は
個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をし、ストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。しかも冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
821mm:03/02/03 21:20
考えてみれば私自身、乃木に一番違和感があるとすれば明治天皇への殉死である
気がする。江戸時代までの殉死と違い、明治のあの時点での殉死は後世に否定的
な影響を及ぼしたきがするからだ。
 責任あるものの死であったかどうか。そこから乃木の印象ができてしまった。
よかれ、あしかれ。
822日本@名無史さん:03/02/04 21:11
>>821 殉死はともかく、遺書はまずい。あれは当時の明治国家体制を
揺るがす、とんでもないことをしましたからね。
 少なくとも天皇から頂いた、乃木「家」に対する伯爵号を勝手に
無くしたのですから。天皇に対する忠義とは程遠いところにある。
だからこそ、政府は遺書を隠したのです。
823嶽原:03/02/04 21:56
>>821
『>乃木に一番違和感があるとすれば明治天皇への殉死』
 当方嶽原も、乃木の殉死は不可思議な事、という印象を持っています。


>>822
『> 明治国家体制を揺るがす、とんでもないこと』
 乃木家が絶家となったのは、裁判所の許可を得ての事ですから、当時の明治国家体制の法に則って行われた事だと思うのですが。

『> 伯爵号を勝手に無くした』
 華族令に、三年以内に家督相続の届け出をしない場合は襲爵できない、という取り決めがありますので、「襲爵しない選択」も出来るのだと思います。爵位返上の例は、他にも十名ほどあるそうですから。
 乃木の場合、「養子は天理に背くもの」という考えによるものだったそうです。
824日本@名無史さん:03/02/04 23:06
>>823 乃木が遺書によって、乃木伯爵家を断絶しようと明示したのは、
裁判所の許可を得ていたというのは初めて聴きました。詳しくお伺いしたいのですが?
825日本@名無史さん:03/02/04 23:45
結局第1次大戦で乃木よりひどいことやった将軍が多数いるのに、
乃木が無能だったと判断してよいのかってこと?
826嶽原:03/02/05 08:26
>>824『> 詳しくお伺いしたい』
 私も、まずは発端である822氏のこの書き込みについて詳しくお伺いしたい
と思っています。『> 明治国家体制を揺るがす、とんでもないこと』
827嶽原:03/02/05 08:31
>>822
 遺言状の内容に示された「乃木の絶家の意志」は、その後法に従って処理
され実現していったのですから、『明治国家体制を揺るがすとんでもないこと』
というのが何を示すものなのか、よく分かりません。

 詳しくお伺いしたいのですが?
828日本@名無史さん:03/02/05 20:15
>>嶽原 とりあえず、824の質問に答えてから話を続けては?
質問に質問で返すパターンの厨房がいたな。
829嶽原:03/02/05 21:09
>>828『>とりあえず、824の質問に答えてから話を続けては?』
 私は824氏の言われるような書き込みはしておりません。

 当方書き込み(823)は、「乃木家が絶家となったのは、裁判所の許可を得
ての事」であり、すなわち「当時の明治国家体制の法に則って行われた事」で
ある、と書いてあります。
 つまり(「遺書執筆」→)「裁判所の許可」→「絶家実現」と書いたのです。
 しかし824氏は、「乃木が遺書によって、乃木伯爵家を断絶しようと明示し
たのは、裁判所の許可を得ていた」と理解しておられるようです。
 これでは、「乃木が裁判所の許可を得た」→「遺書執筆」となります。

 当方は824氏の解釈が上記の様に誤っていると認識しておりますので、質問
の意味自体が分かりません。

 さて、今度はこちらの質問を再掲(826-827)。822氏への質問です。
『遺言状の内容に示された「乃木の絶家の意志」は、その後法に従って処理
 され実現していったのですから、『明治国家体制を揺るがすとんでもない
 こと』というのが何を示すものなのか、よく分かりません。
 詳しくお伺いしたいのですが?』
830日本@名無史さん:03/02/05 21:23
>>829 家と個人の差も理解できてないのによく言う。
831嶽原:03/02/05 21:28
>>829『>家と個人の差』
 『明治国家体制を揺るがすとんでもないこと』というのが何を示すものなの
か、よく分かりません。これは、何を意味しているのでしょうか。
832嶽原:03/02/05 21:29
831訂正。
 >>829でなく、>>830でした。
833嶽原:03/02/05 22:54
 乃木遺言条々の内容は、こんな感じです。
『第一:動機の説明(軍旗喪失の件、過分の優遇への考え)
 第二:絶家の要望(養子弊害論から、華族としての絶家を希望)
 第三〜第九:財産の処分
 第十:献体の依頼』

 822氏は『殉死はともかく、遺書はまずい。あれは当時の明治国家体制を揺
るがす、とんでもないことをしましたからね(>>822)』と書いておりますが、
『明治国家体制を揺るがすとんでもないこと』というのは、いったい何を意味
しているのでしょうか。何の意味も無いのでしょうか。
 詳しくお伺いしたいのですが?
834日本@名無史さん:03/02/06 06:33
>>833
華族というのは天皇から恩愛を受け、戴くものであって、
臣下自ら、その恩愛を放棄することは許されてません。
>>823
「襲爵しない選択」も出来るのだと思います

というのは華族としてありえません。臣下自ら絶家する
権利というのはないのです。
当時の明治国家体制(自由民権運動と絡んだ貴族制)
としては非常に脅威だったのです。だからこそ、
3年を待たずして毛利元智が乃木家を再興したのです。
しかし、乃木は当時のこういった体制を批判していた
節もありますし、最後の最後で風刺したのでしょうか。

死後直後、絶家できたのは国民新聞の素っ破抜きによる民衆世論の
影響があったのでしょう。
835日本@名無史さん:03/02/06 06:39
しかし、個人と家の差を理解せずに、日本史をやっている奴
ははじめてみた。単なる乃木マンセーかいな。
836嶽原:03/02/06 11:41
>>834-835
『> 臣下自ら、その恩愛を放棄することは許されてません』
『>「襲爵しない選択」というのは華族としてありえません。臣下自ら絶家す
る権利というのはない』
 貴方がそう思われるのは勝手ですが、「襲爵しない選択」をした例は、乃木
の他にもあります(>>823にて既述)。
 「爵位返上」は、まず有り得ない選択ですが、有り得る事なのです。
 
『>3年を待たずして毛利元智が乃木家を再興したのです』
 三年を待たずして元智氏が再興したとは、一体どういうことですか。
 大正04年09月12日、三年の経過を以て法律に従い爵位は喪失します。
 これによって乃木伯爵家は絶えまして、元智氏が『乃木の家名再興の思召を
もって』爵位を授けられるのは、その翌日13日の事です。
837嶽原:03/02/06 11:43
>>834-835
『>個人と家の差を理解せずに、日本史をやっている奴ははじめてみた』
 私も、元智氏が三年を待たず襲爵したなどと言われる方は、初めてみたよう
な気がします。
『>単なる乃木マンセーかいな』
 貴方が上記の如く誤った知識を持たれたのには、何かの本を読んでの事だと
思いますが、いったいどんな本に、そんな事が書かれていたのですか?非常に
興味があります。
 また、ちゃんと調べれば、「三年待たず襲爵した」など決して書けない事で
す。それを堂々と披露し、かつこの煽り言葉……嘆息するのみです。
838日本@名無史さん:03/02/06 16:00
華族を知らないで話している香具師がいるのはここですか
839日本@名無史さん:03/02/06 16:16
華族令と民法がぶつかった場合、民法を優先させたことに対して
何の疑問もない方がおかしい。
840日本@名無史さん:03/02/06 16:23
今日の24時で終わりだという説が流れている。今日までか・・・。
841嶽原:03/02/06 18:07
 『明治国家体制を揺るがすとんでもないこと』というのが、遺書の中の何を
指しての物言いなのか、そろそろ答えて頂きたいですね。
842日本@名無史さん:03/02/06 18:11
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843日本@名無史さん:03/02/06 18:56
>>嶽原氏

問題ないというのであれば、なぜ政府は養子、その他の相続人を
定めず、乃木伯爵家を断絶するという点と、乃木邸は区か市に
寄付すべしという点を隠したのでしょうか?

説明の程お願いします。
844嶽原:03/02/06 19:14
>>843
 質問に質問で返すのですか。まずは、こちらの質問に答えて頂きたいのです
が。827以来、何度もお尋ねしておりますのでね。

 『明治国家体制を揺るがすとんでもないこと』というのが、遺書の中の何を
指しての物言いなのか、そろそろ答えて頂きたいですね。
845嶽原:03/02/06 19:15
 乃木遺言条々の内容は、こんな感じです。
『第一:動機の説明(軍旗喪失の件、過分の優遇への考え)
 第二:絶家の要望(養子弊害論から、華族としての絶家を希望)
 第三〜第九:財産の処分
 第十:献体の依頼』

 この中の、どれが『明治国家体制を揺るがすとんでもないこと』なの
でしょうか。
846日本@名無史さん:03/02/06 19:24
第2、第3は隠されようとしましたが?
なぜだとお考えで?
847嶽原:03/02/06 19:33
>>846
 質問に質問で返すのですか。
848日本@名無史さん:03/02/06 19:36
>>847 政府が脅威に感じたから第2、第3から9を隠したのですが?

なぜ?第2、第3の点を隠そうとしたとお考えで?
849嶽原:03/02/06 19:45
 結局、どれが『明治国家体制を揺るがすとんでもないこと』なのかは、
書き込みをした本人によって明示される事はないようですね。

 さて、今度は『政府が脅威に感じたから第2、第3を隠した』と言われて
おりますが、そんな好い加減な言い方をしないで下さい。
 葬儀委員の発表した遺言状は、二箇所に紙を貼って隠していました。
 付箋によって文の一部を隠したのを、条項全体を隠したように言われると
は、不思議です。何の資料をお読みでしょうか。
 根本的に「事実関係の把握」を誤っているように思われます。
850日本@名無史さん:03/02/06 19:45
>>848 嶽原は政府が脅威に感じてないというのが主張だから、
説明できないと思われ、可愛そうな質問するなよ。
851日本@名無史さん:03/02/06 19:47
>>849 その二箇所が第二:絶家の要望
(養子弊害論から、華族としての絶家を希望)
 第三〜第九:財産の処分
 
 なの。なぜ政府、軍当局は隠そうとしたと思いますか?
852日本@名無史さん:03/02/06 19:50
>>843
どこをどう読んだら、条項全体を隠したということになるのでしょうか?
853嶽原:03/02/06 19:53
 >>850
 私も、政府は出来るものなら隠したいと考えただろう、と思っていますよ。
 しかし、その理由は、対論者とは違います。
 当方の考えている理由は、こんな感じです(大宅壮一の論のままですが)。
『軍部は、乃木の自決によって乃木が神格化され、その反動として明治天皇を
擁して権力をほしいままにし豪奢な生活をしている軍首脳部に対する批判や
非難の声がわきおこってくることを恐れた。
 そこで、一番都合がよいのは、乃木を狂人として片づけること、それが
不可能であれば、せめて遺書を軍の手に収め、極力その内容を世にもらすまい
とした』
854嶽原:03/02/06 19:57
>>851
 あのですね。
 『第二:絶家の要望』のうち、付箋で隠されたのは、その一部なの
ですよ。全体を隠しているのではありません。
 隠したのは、養子弊害論の実例として近親者の実名を揚げている
部分のみですよ。
855日本@名無史さん:03/02/06 20:02
>>854 新坂邸はその区又は市に寄付すべきというのは付箋されてなかったの?
856嶽原:03/02/06 20:05
>>855
 されてます。しかし、これも「第二」の中でして、対論者の言われるように
「第三」には隠された場所はありません。

 どうも、対論者は「遺書隠蔽事件の事実認識」そのものに問題があると
思われます。
857日本@名無史さん:03/02/06 20:11
華族は家族国家の基となる天皇の藩屏であり、華族家は天皇の
恩愛によってたてられたもので、人臣が勝手に左右出来るもの
ではない。乃木の伯爵家断絶の意思を肯定することは、華族
家が当主の個人的な意思によって断絶できることであった。
このことは華族制度の破綻を意味し、ひいては天皇を中心と
とした国家原理そのものを否定するものに繋がる。

政府としては当主による断絶を認めるのはいまいましい、
前例を出すこととなる。
だからこそ、3年目の日に毛利が乃木家を再興したのだが・・。

大宅壮一の論よりははるかに説得力がありますがね・・。
858日本@名無史さん:03/02/06 20:12
>>854  隠したのは、養子弊害論の実例として近親者の実名を揚げている
部分のみですよ。

>>856 その部分のみではないですね。
859日本@名無史さん:03/02/06 20:14
襲爵しない選択と当主による断絶の意思を同じところに考えているのが
痛いんだけどね・・。いや思い込むのは自由だからいいんだけど。
860日本@名無史さん:03/02/06 20:15
>>859 対象となる人間が違うのにねぇ、法律的なことを全くしらんのだろ。
861嶽原:03/02/06 20:33
 葬儀委員が付箋で隠した箇所は、第二項内の以下の箇所です。
『第二
 両典戦死の後は、先輩諸氏友人諸彦よりも毎々懇諭これあり候ども、養子弊
害は古来の議論これあり。《目前、乃木大見の如き例、他にも少なからず。》
 特に華族の御優遇蒙り居り、実子ならば致し方もこれなき候ども、却って汚
名を残す様の憂えこれなきため、天理に背きたる事は致すまじき事に候。
 祖先の墳墓の守護は血縁のこれあり候限りはその者ども気を付け申すべき事に候。
 《乃ち新坂邸は、そのため区または市に寄付し、しかるべき方法頼みたく候。》』

 遺書の結びの箇所の『呉々も断絶の目的を遂げ候……』の文面はそのままに
明記されたままでした。
862嶽原:03/02/06 21:07
>>860『>法律的なこと』
 絶家当時も、法律的な事が色々議論されていたようです。
 法学博士(原嘉道)は、こう言っています。
『嗣子なかりし乃木大将は、死に臨み一家断絶を遺言せられたる由にして、道
義上は勿論遵ぶべきものならんも、法律上より見れば何ら効力なく、今後親族
又は縁故者にしてその再興を欲せんか、親族会を召集し相続人を定め之を再興
することを得るものなり』

 乃木の遺言に対する道は二つありました。一つは、「遺言を法的に無効とし
て乃木家の存続を図る道」。もう一つは、「遺言通りに絶家とする道」です。
 その上で、乃木家の親族関係者は「乃木の遺志を重んじて絶家する道」を撰
んだわけです。家督相続人を選定して家の継続を図ったり、絶家してもそれを
再興するという法的な可能性を求めなかったのです。
863嶽原:03/02/06 21:08
 明治38年01月に同郷の知人に宛てた手紙の中に、「小生一代にて返上」
としたためられていたそうですから、元々乃木は、一代華族論と同じ考え
だったのでしょう。
 もっとも生前の返上は考えず、華族令第12条第二項(三年以内に家督相続
の届け出をしない時は襲爵の機会を失う)による、死後の爵位喪失を考えて
いたのだろうと思いますが。
864嶽原:03/02/06 21:17
>>857『>説得力』
 結局、遺言状のどこが『明治国家体制を揺るがすとんでもないこと』なの
かを、書き込みをした本人すらも明示できないのですから、全然説得力が感
じられません。

 『断絶の遺志』が『明示国家体制を揺るがすとんでもないこと』なのだと
したら、なぜ、肝心要の最後の部分『呉々も断絶の目的を遂げ候……』が隠
されなかったのでしょうね?
865日本@名無史さん:03/02/06 21:24
>>864
流石「日本史板デムパ三人衆」の一人、思い込み怪電波ゆんゆんですな(w
思い込みだと指摘されたら、まず反省しる。それから自分で調べろ。
それもせずに相手に反証を求めるのは姿勢が間違ってる。
866嶽原:03/02/06 21:28
>>865
 具体的な事も指摘せずに「思い込み」とだけ書かれても、さっぱり意味が
わかりません。
 それに、「デムパ」「怪電波ゆんゆん」などと言われる貴方の書き込みも、
全然意味がわかりません。こういう煽り文句の書き込み、虚しくないですか?
867日本@名無史さん:03/02/06 21:29
>>866
それは全部あなたの思い込みです。
868嶽原:03/02/06 21:30
>>865
 まず手始めに、遺言状のどこが『明治国家体制を揺るがすとんでもな
いこと』なのか、具体的にここだと示して頂きたいものです。
869嶽原:03/02/06 21:33
>>867
 やれやれ……
870日本@名無史さん:03/02/06 21:34
>>868
その前に、まず思い込みをやめて反省してください。
そうでなければ、所詮伊達遠江守家中や東郷平八郎, 888Get 級の思い込み厨
レベルから抜けられませんよ。
871嶽原:03/02/06 21:40
>>870
 具体的な反論も書かずに「それは全部あなたの思い込み」「反省して」では、書き込みに意味が全くありません。

 結局、遺言状のどこが『明治国家体制を揺るがすとんでもないこと』なの
か、具体的にここだと示すことは出来ないという事ですね。
872日本@名無史さん:03/02/06 21:47
>>871
思い込みで語るお方には、何を言っても無駄です。
結局は自分に都合よくフィルタリングしてしまうからです。
まず、思い込みをやめましょう。
873嶽原:03/02/06 21:49
>>872
 まあ、当方の指摘によって、「三年を待たずに乃木家は再興された」
などという貴方の思い込みが雲散霧消した事は、当方にしても喜ばしい
事であります。
874嶽原:03/02/06 21:52
 もしかしたら同様に、『「明治国家体制を揺るがすとんでもない事」
が遺書に書かれていたから政府は隠蔽した』というのも、同様に貴方の
思い込みなのかも知れませんよ。
875嶽原:03/02/06 21:55
 ん?>>872氏は、これまでの対論者では無かったのかな?
876日本@名無史さん:03/02/06 21:56
>>873
思い込みの上に、自己満かよ。おめでてーな(w
あなたが「日本史板デムパ三人衆」の一人に相応しい思い込み厨であること
が明確になった事は、当方にしても喜ばしい事であります。
877嶽原:03/02/06 22:01
>>876『>思い込みの上に、自己満かよ。おめでてーな』
   『>「日本史板デムパ三人衆」の一人に相応しい思い込み厨である』

 この、虚しい煽り文句を多々使用する癖は、どうにかなりませんか?
878嶽原:03/02/06 22:04
 それにしても、仰々しいレッテル張りであることよ。やれやれ。

 『「日本史板デムパ三人衆」の一人に相応しい思い込み厨』
879日本@名無史さん:03/02/06 22:09
>>878
>『「日本史板デムパ三人衆」の一人に相応しい思い込み厨』

はまり過ぎ。思い切りワラタ。
880嶽原:03/02/06 22:11
 こちらが使わなければ、対論者も煽り文句の使用は控えて頂けるだろうと
思っておりましたが、どうやらそんなことは無いようですね。残念な事です。
881879:03/02/06 22:16
>>880
>>『「日本史板デムパ三人衆」の一人に相応しい思い込み厨』

そのうち誰かが書くと思って期待してたんだよ。やっぱり書くヤシが出たか。
本当、ここまで言われたらもう少し気をつけた方がいいかもよ。
882嶽原:03/02/06 22:20
>>881
 世の常識となっている「乃木愚将論」に反論し始めた時から、まあ
色々言われるのは覚悟しておりました。
 しかしまあ、対論者の物言いは品がないなあ、というのが正直な感想
です。
883879:03/02/06 22:25
>>882
つーかあ〜た、

>しかしまあ、対論者の物言いは品がないなあ、というのが正直な感想です。

ここまで書くから余計叩かれるんだわ。自覚してやってるなら加減した方が
いいし、無自覚でやってるならもう少し注意した方がよいんでは?
ある意味自業自得とも思われ。
884嶽原:03/02/06 22:34
>>883
 あんな品のない、意味のない煽り言葉を「数スレ」に渡って投げかけられ
て、こっちも不快なんですよ。 
 自業自得という言葉は、そっくりそのまま、煽り文句を使用する対論者に
お返しいたします。
885嶽原:03/02/06 22:38
>>883
 ご忠告、痛み入ります……。
886日本@名無史さん:03/02/06 23:56
>876
> 思い込みの上に、自己満かよ。
 そちらの見ているつもりになっているのは鏡に写った
 自分の姿ですよ。言い得て妙ですね。

> おめでてーな(w
 特技 へらへらへら。
887嶽原:03/02/07 00:59
>>839『>華族令と民法がぶつかった場合、民法を優先させたこと
     に対して何の疑問もない方がおかしい』

 この乃木の例で、どこで華族令と民法がぶつかっていると言われるのでしょうか。

 乃木伯爵家の絶家には、最初に「乃木家の絶家」があり、ついで「伯爵を喪失」
するという二つの段階があります。
 「乃木家の絶家」の段階については、葬儀後に乃木の遺志を尊重した遺産分配が
行われた事により、乃木家はいわゆる「無財産」となりましたから、ここに於いて
戸籍上、乃木家は絶家となりました(戸主を失いたる家に家督相続人無きために、
絶家となった)。その後、絶家手続きに関する申請書が赤阪区役所に提出され、
大正02年04月29日に東京区裁判所の許可を得て絶家となります。
 「伯爵を喪失」の段階については、華族令の規定(家督相続開始の時より三カ年
以内に家督相続の届出を為さざる場合は襲爵し得ない)により、大正04年09月12日
に、伯爵の栄典を喪失しました。

 つまり、まず大正二年に絶家となり、次いで大正四年に爵位を喪失したのです。
どこで「華族令と民法がぶつかっている」のでしょうか。
888日本@名無史さん:03/02/07 16:50
なんだな、華族というのが天皇の藩屏という言葉が理解できない
嶽原氏は永遠に解らないでしょうな。天皇から頂いた位を自分から
捨てるなんてことはやってはいけないの。

差出人(戸主)と受取人(襲爵)を一緒に考えているのもイタイけどね。
889日本@名無史さん:03/02/07 16:58
>>853 『軍部は、乃木の自決によって乃木が神格化され、その反動として明治天皇を
擁して権力をほしいままにし豪奢な生活をしている軍首脳部に対する批判や
非難の声がわきおこってくることを恐れた。』

?小学校などで軍神化が進みましたが、結果として政府の思惑通り、軍神化に
なっていますが?おそれることはないでしょうに。
 また昭和に入ってから軍部も軍神化を尚一層進めていますが?

890日本@名無史さん:03/02/07 17:00
>>887 『最初に「乃木家の絶家」があり、ついで「伯爵を喪失」』

最初に乃木戸主による伯爵家絶家の意志があり、乃木家の絶家がある
のですが?
891日本@名無史さん:03/02/07 17:16
>>890  

>857 の意見ですね。
857 :日本@名無史さん :03/02/06 20:11
華族は家族国家の基となる天皇の藩屏であり、華族家は天皇の
恩愛によってたてられたもので、人臣が勝手に左右出来るもの
ではない。乃木の伯爵家断絶の意思を肯定することは、華族
家が当主の個人的な意思によって断絶できることであった。
このことは華族制度の破綻を意味し、ひいては天皇を中心と
とした国家原理そのものを否定するものに繋がる。

政府としては当主による断絶を認めるのはいまいましい、
前例を出すこととなる。
だからこそ、3年目の日に毛利が乃木家を再興したのだが・・。

大宅壮一の論よりははるかに説得力がありますがね・・。
892日本@名無史さん:03/02/07 20:10
織田信長が爵位を貰わない事を問題視したのは何故でしょうか。
893嶽原:03/02/07 22:21
>>888『>差出人(戸主)と受取人(襲爵)を一緒に考えているのもイタイ』

 一緒になんて考えていませんよ。どこで一緒にしていますか。
 私は、『乃木家の親族関係者は「乃木の遺志を重んじて絶家する道」を撰
んだ(>>864)』と書いているでしょう。つまり、貴方の言われる差出人
(乃木)の遺志を、受取人(襲爵すべき人)が尊重している、ということです。
894日本@名無史さん:03/02/07 22:33
>822 少なくとも天皇から頂いた、乃木「家」に対する伯爵号を勝手に
無くしたのですから。

返答
>823『> 伯爵号を勝手に無くした』
 華族令に、三年以内に家督相続の届け出をしない場合は襲爵できない、
という取り決めがありますので、「襲爵しない選択」も出来るのだと
思います。爵位返上の例は、他にも十名ほどあるそうですから。
 乃木の場合、「養子は天理に背くもの」という考えによるものだった
そうです。

一緒に考えてますが?

895嶽原:03/02/07 22:50
>>894
 「襲爵しない選択」を遺言として残す、という事です。

 なんで死に行く当事者が、「襲爵する対象者」になってしまうんですか。
896嶽原:03/02/07 22:54
>>888『> 天皇から頂いた位を自分から捨てるなんてことはやってはいけないの』

 乃木以前に、けっこう前例があるようですが。

「爵位返上」の例 (乃木の例以前に限る)
  返上年月日   氏名    爵位   備考
1887年01月13日 長尾 顕慎 公家・男爵
1887年04月05日 石川 重之 諸侯・子爵(のち再授)
1888年05月10日 鷺原 量長 公家・男爵
1894年01月26日 池田 徳潤 諸侯・男爵
1896年10月23日 松崎 万長 公家・男爵
1896年12月21日 松林 為美 公家・男爵
1897年03月31日 河辺 隆次 公家・男爵
1898年12月14日 中御門経明 公家・侯爵(没後継承者を欠く、のち再授)
1899年01月21日 勝  安芳 勲功・伯爵(没後爵位継承権喪失、のち再授)
1899年04月20日 徳川 篤守 諸侯・伯爵(のち再授)
1899年07月01日 酒井 忠勇 諸侯・子爵
1899年08月14日 竹園 康長 公家・男爵
1901年03月01日 北小路俊岳 公家・男爵
1902年07月11日 分部 光謙 諸侯・子爵
1905年06月06日 穂波 経藤 公家・子爵
1906年04月21日 中島 錫胤 勲功・男爵(華族一代論を主張、没後襲爵手続きせず)
1906年04月21日 飛鳥井雅望 公家・伯爵(没後継承者を欠く、のち再授)
1908年10月19日 松平 信安 諸侯・子爵
1912年09月13日 乃木 希典 勲功・伯爵(没後継承者を欠く)
897日本@名無史さん:03/02/07 22:59
>896
http://wolfpac.press.ne.jp/kazoku04.html 引用元を出さないとね。
898日本@名無史さん:03/02/07 23:00
この中で戸主自ら絶家を申し出たのは乃木が最初。
899日本@名無史さん:03/02/07 23:05
>>897
HPを典拠に引用してモノを語るヤシは伊達遠江守級の思い込み厨。
900日本@名無史さん:03/02/07 23:06
>>895 

>823『> 伯爵号を勝手に無くした』
 華族令に、三年以内に家督相続の届け出をしない場合は襲爵できない、
という取り決めがありますので、「襲爵しない選択」も出来るのだと
思います。爵位返上の例は、他にも十名ほどあるそうですから。
 乃木の場合、「養子は天理に背くもの」という考えによるものだった
そうです。

なぜこんな回答になるのですか?乃木による絶家の意思と
述べているのに親族やら色々引っかき回しているのはどなた?
901嶽原:03/02/07 23:14
>>898
 「襲爵しない選択というのは、有り得るし、前例がある」という事です。 
902日本@名無史さん:03/02/07 23:15
>>901 戸主自ら絶家の意思というのは乃木が最初。
903嶽原:03/02/07 23:18
 「華族というのが天皇の藩屏」なんでしょう?
 華族であり続けるかどうか、つまり襲爵するかしないか、です。

 そして「襲爵しない選択というのは前例がある」という事ですよ。
904日本@名無史さん:03/02/07 23:19
>902

893 名前:嶽原 :03/02/07 22:21
>>888『>差出人(戸主)と受取人(襲爵)を一緒に考えているのもイタイ』

 一緒になんて考えていませんよ。どこで一緒にしていますか。
 私は、『乃木家の親族関係者は「乃木の遺志を重んじて絶家する道」を撰
んだ(>>864)』と書いているでしょう。つまり、貴方の言われる差出人
(乃木)の遺志を、受取人(襲爵すべき人)が尊重している、ということです。


 勘違い野郎に言っても無駄だよ。
905日本@名無史さん:03/02/07 23:21
>903 
>「華族というのが天皇の藩屏」なんでしょう?
>そして「襲爵しない選択というのは前例がある」という事ですよ。

藩屏の意味も解らずにそんな答え出すものではないよ。
天皇への忠義とは程遠いところにあるのだから。
906嶽原:03/02/07 23:22
>>897
 どうも。
>>899
 何がしかの資料を元に論ずる事に、しかもトンデモページが典拠なら
ともかく、こういう純粋な資料ページを用いるのに、何か問題でも?
907日本@名無史さん:03/02/07 23:45
>>906
>こういう純粋な資料ページを用いるのに、何か問題でも?

デムパレベルが同程度のヤシは、やっぱり同程度のことしかできないな。
伊達遠江守家中が、HPの記述(出典は明示されていたが)を論拠にして「思い
込みで書くな」と袋叩きになっていたが、あんたも同じ轍を踏むか(w
908嶽原:03/02/08 00:00
 要するに、「乃木が、遺書で爵位返上を申し出たのがとんでもない」という
事はなく、「絶家を申し出たのがとんでもない」ということですか?

 822氏は、「爵位返上」に対して「とんでもない事」と言っておりますが。
>>822 殉死はともかく、遺書はまずい。あれは当時の明治国家体制を揺る
 がす、とんでもないことをしましたからね。少なくとも天皇から頂いた、乃
 木「家」に対する伯爵号を勝手に無くしたのですから』
909嶽原:03/02/08 00:05
>>907『> 伊達遠江守家中が、HPの記述を論拠にして』

 伊達遠江守家中氏が、どのような書き込みをされたかは知りませんが、
参考にしたHPの「記述」を論拠にしていた、という事ですか。
 私が参考にしたのは、「記述」ではなく「リスト」です。HP作者の意図が
入り込む余地のあるものではありません。
910日本@名無史さん:03/02/08 00:51
>>909
ヤシが論拠にしたのは年表だったぞ。リストでも似たようなものだと思われ。
情報の取捨選択などでバイアスをかけるという意味では作者の意図は十分反
映し得る。
911日本@名無史さん:03/02/08 08:02
>>822 は爵位を無くしたと述べ、嶽原は爵位を返上したと言う。

返上というのはどういう意味か?無くすというのはどういう意味か?
理解も出来て無い様ですね。絶家したら無くなるンですけど・・。
しかも養子を取るなというのは爵位を無くせという意味ですが?

返上というのは天皇にお返しするのであって、再興の余地があるのですが?

華族制を理解してない香具師が偉そうに語るなって。
912日本@名無史さん:03/02/08 08:05
>>910 桑原の乃木論もバイアスかなりかけてますよ。

白襷隊は即座に退却の判断をしたと某書に書いてますが、
実際は後追いの命令であり、乃木の判断ではなかったのです。
もっとも、乃木愚将論がなければ存在すら危うい桑原論ですが。
913日本@名無史さん:03/02/08 08:06
>>853 『軍部は、乃木の自決によって乃木が神格化され、その反動として明治天皇を
擁して権力をほしいままにし豪奢な生活をしている軍首脳部に対する批判や
非難の声がわきおこってくることを恐れた。』

?小学校などで軍神化が進みましたが、結果として政府の思惑通り、軍神化に
なっていますが?おそれることはないでしょうに。
 また昭和に入ってから軍部も軍神化を尚一層進めていますが?


914日本@名無史さん:03/02/08 10:29
>>910
まあ、論文(そこまで行かない雑文含む)書くのにHPを参考文献に挙げる
ヴァカも普通いないと思われ。
リアルでそれなりの実績を残している人(もしくは団体)が、それを転載し
たのならともかく、一般レベルの人のHPを「資料的だから」とか「主観が
入る性質の内容でないから」とか言って引用するのは甚だ軽率だと思われ。
だから嶽原氏も伊達遠江守家中と同レベルの思い込み厨だと言われてしまう
のだと思われ。
915日本@名無史さん:03/02/08 11:57
台湾総督の辞職願で仕事が出来なくなるくらい、記憶力が無くなっている
と自分で認めている爺に旅順攻略なぞ所詮無理な話なのさ。
916mm:03/02/08 15:57
 「坂の上の雲」読み終えました。疲れました。
感想は、乃木、クロパトキンに想像以上に厳しい。無能と言い切っている。
 司馬先生の調べた資料はとても多い。嶽原氏の203高地に関しての考えを
すべて認めても無能を疑われる事例は多かった。ちょっとすぐには書き出せないが。
たとえば、
 @乃木軍は旅順総攻撃を決まって26日に行い、その癖をロシア軍に読まれていたこと。
 A大本営の28サンチ砲の支援を当初いらないと返答したこと。
 B参謀がだれひとり前線に行ってないこと。
 など。
 

 

917日本@名無史さん:03/02/08 19:15
>>916
史実としてはともかく「坂の上の雲」の読書感想文に限定した話としては、
あなたの意見は間違っていない。
ただし、司馬氏の明治以降を扱った小説では折節読者の気がつかない微量の
バイアスが情報にかけてある。
同じ資料を読んでも人によって解釈が異なる場合があるのも、同じ資料を読
んでも思い込みが多すぎて叩かれる伊達遠江守家中や嶽原氏のような人物が
現れるのも、それと同様だ。
とにかく、司馬氏の明治以降の記述には思い込みが混じりすぎているので、
これを論拠に語るのは相当難しく、よほどの力量を持っている人でないと司
馬氏の術中にはまってしまうので危険だ。
918日本@名無史さん:03/02/08 19:50
司馬は自らの思想を小説に仮託して語っていただけでしょ。

小説を真実と勘違いするヤシを叩くのは非常に結構だが、

「バイアス」だの「術中」だの書くと、ちょっと違うな。


919日本@名無史さん:03/02/08 20:12
乃木サンより東郷サンのほうがええ。
欧州からやってきたロシア艦隊を対馬沖で叩き沈めた。
920嶽原:03/02/08 23:59
>>910『>作者の意図は十分反映し得る』
 なるほど。では今度の機会に、何かの公刊物にて、当方が揚げたリストの内容に
間違いがないかどうか確認してみましょう。多分間違った点はないのでは、とは
思いますが。
921嶽原:03/02/09 00:00
>>912『>乃木愚将論がなければ存在すら危うい桑原論』
 そりゃそうです。
 そもそも、司馬氏・福岡氏らが出鱈目な内容に満ち満ちた小説を書かなければ、
そもそも愚将論への反論など必要なかったでしょうね。
 「愚将論はこの点が事実と違う」とケースがほとんどですから。
922嶽原:03/02/09 00:01
>>914
『>論文(そこまで行かない雑文含む)書くのにHPを参考文献に挙げる』
 スレの流れの中で、反論根拠として挙げたまでですが。そういう使用法でも、
いけませんか?
『>甚だ軽率』
 結構しっかりしたページだと見たのですが……軽率ですか。なるほど。では、
小説記述内容を以て愚将論を言う行為も軽率なわけですね。
923嶽原:03/02/09 00:07
>>916
 司馬氏の調べた資料はとても多いのでしょう。しかしその扱い方には疑問を
感じざるを得ません。
 最も疑問を感じるのは、『坂の上の雲』以前に出された『要塞』では、「児
玉督戦による移動重砲」が砲種砲数ともに正確に記されているのに、後に書か
れた「坂の上の雲」ではそれが曖昧になってしまっている点です。
 資料を調べていながら、なぜ、以前判っていた点を、あえて曖昧にしたので
しょう。まして、二十八榴弾砲移動命令が有ったかのように、しかもそれを命
令したのが児玉であるように記述している点などは、資料を無視しているとし
か思えませんでした。

 私の感想としては、「面白かったが所詮は小説、これを元に愚将云々など言
えない」という感じです。
924日本@名無史さん:03/02/09 09:00
嶽原氏の調べた資料の扱い方には疑問を感じざるを得ません。

乃木マンセーに偏りすぎています。
925mm:03/02/09 10:26
ま、確かに小説は小説だよね。ただ人物の洞察力はへたな歴史好きより、小説家の
ほうが的確なこともある。
 私は司馬先生にはそうした洞察力もあると思っているし、乃木に悪意をもつ理由
もなかったように思う。乃木の評価は戦争当時から国内外ともに低かったと見られる。
 結局、私が軍人に求めるものがあるとすれば、合理性に裏打ちされた勇敢さと
それによる結果である。その結果に関しては私にとって乃木は甚だ不十分であった。
 そのわりに軍神に祭り上げられてしまい、のちのち日本陸軍に悪しき影響を残した
きがしてならない。
 ただ司令官になったのは本人の責任でないし、愚鈍な参謀をつけられたりと、大山
や児玉の不明もある。軍神に祭り上げたのも軍部や新聞であろう。そのあげくの息子
たちの戦死。そして本人の殉死。1凡人を将とした上官たちも罪深いな。あわれだと思う。
すべてはうたかたの夢。乃木の魂よ、安らかであれ。
926日本@名無史さん:03/02/09 10:58
>>925 当時の日本軍は昇進の遅い部類にいた乃木を使わざるを得ない状況
だったのです。肥大化していく軍隊では無能な人間でも使わなければなら
ないということ。もし、日本軍が第2軍までしか使わないのであれば、
乃木など日の目を見ることも無かった。
927mm:03/02/09 11:31
 あともうひとつ思い出したことがある。
乃木殉死が伝えられたとき、朝日新聞社内では乃木の死に対して非難ごうごう
だったという。それが翌日には忠臣、軍神のオンパレードとなったのである。
大衆に迎合したのだろう。
 乃木にはつねにこうした建前と本音がずれていた。乃木の能力は司馬先生に
よって決められたのではない。当時の資料や聞き歩きは同じ結果にならざる
をえなかったであろう。
 それにしても朝日は昔も今も変わらないな。罪深き新聞。
928日本@名無史さん:03/02/09 11:39
>>922
当然ダメです。伊達が思い込み厨だのデムパだと言われるのは、そういう使
い方をしたからです。
いずれにせよ、所詮は何を書いても責任を問われないマニアが作ったHPを
引用するのは、例え出典が書いてあろうともダメです。
それならばその元資料を直に当たったほうがマシです。
929嶽原:03/02/09 13:02
>>924『>乃木マンセーに偏りすぎ』
 乃木批判の論拠として挙げられる点が、事実と異なる場合が多すぎるのです。
930嶽原:03/02/09 13:03
>>926
『>無能な人間』
 日露戦以前の乃木は、日清戦争での武勲が認められている将軍だったと思います。
ここらへんも、乃木批判の論拠が事実と異なる点です。
『>もし、日本軍が第2軍までしか使わないのであれば』
 多分、日露戦争に負けていたでしょうね。
931嶽原:03/02/09 13:04
>>925
『>人物の洞察力』
 私もそう思ったことがあります。面白い視線で歴史人物を書くなあと。しかし、
同一著者による、同一人物をまるで正反対に書いた小説を二編読むと、そういう気
持ちは失せました。
 今では、所詮小説作家、何でもアリだなあとしか思いません。なので「面白かっ
たが所詮は小説、これを元に愚将云々など言えない」という感想となりました。

『>乃木の評価は戦争当時から国内外ともに低かったと見られる』
 西南戦戦歴や日清戦戦歴、台湾征討戦歴は無視ですか。

『>乃木の魂よ、安らかであれ』
 事実と違う事をあげつらって愚将呼ばわりされている現状では、いかがなもので
しょうか。
932嶽原:03/02/09 13:05
>>927『>朝日新聞社内では乃木の死に対して非難ごうごうだった』
 それは「御大葬記事でクソ忙しい時に、何でまた」という意味の非難でしょう?
別に乃木愚将論に依る非難ではなかったと思いますが。

『……夕刊編集主任が、「本当に馬鹿じゃわい。何も今夜あたり死なないたって、
他の晩にしてくれりゃいいんだ。今夜は記事が十二頁にしても入りきれない程有り
余っとるんじゃ」と如何にも残念そうに言った。 皆の口から乃木大将を非難する
声が盛んに出て来た。ここでは乃木夫妻の死は何の感傷もよばず、ただ紙面の都合
の対象にすぎなかった……』
933嶽原:03/02/09 13:07
>>928
『>例え出典が書いてあろうともダメ……元資料を直に』
 厳密に考えなくてはならない、という事ですね。
 こうなると、『所詮は何を書いても責任を問われない』立場の小説家が書いた
記述など、それこそ何の役にも立つものではありませんね。
934日本@名無史さん:03/02/09 14:14
>>933
とは言え、名無しさんなのをいいことに『信長の野望』ガイドブックレベル
の知識で書き込みしているヤシも相当混じっているのはレス読んでもわかる
のだが(w
伊達叩き祭りに参加していた中にも、その手の厨はいるかもしれないし、い
ないかもしれない。
ただ、コテハンだと名指しで叩きやすいし、ネットで互いの表情は見えない
ためリアルではとても言えない様な悪口雑言を投げつけることに躊躇しない
場合が多い。例えばあの中の連中が直接伊達と会った場合、その中の何人が
あれだけのことを直に言えるかどうかを考えただけでも楽しくなる。
そんなわけで、あなたが必要以上に煽られ叩かれるのも、それ故かと思われ。
みんな名無しさんなら特定の相手を集中攻撃なぞできんからね。

>『所詮は何を書いても責任を問われない』立場の小説家

とは言え、あんまり酷いことを書いていると、読者がいなくなるという罠。
935日本@名無史さん:03/02/09 15:41
『所詮は何を書いても責任を問われない』立場の嶽原が何を書いても
問題ないのだが、そこまで司馬を貶めるのはなぜ?

あと君が言っている事実というのは事実という根拠がどこにあるのですか?
当時の乃木の評価は低いものであったし、実際昇進も遅い部類にいましたが?
これは評価が高いものなのですか?

少なくとも再評価というのは歴史的研究としては意義があるものですが。
信長然り、秀吉然り、三成然り、家康然り。
936mm:03/02/09 17:07
<935に同意
 それに一時的にせよ児玉に指揮権を委ねたことも屈辱であったろうし、そういう
評価をされてしまったのでしょう。
<925
 私の言ってるのは日露のたたかいのことです。嶽原氏は乃木が欧米で評価が高い
と考えてますか。
 司馬先生の「要塞」は読むことにします。ただ司馬先生であってもいろいろ調べて
いるうち考えが変わってきたことも考えられるよね。
 個人的には乃木は本当にかわいそうな人であったとは思います。魂が安らかであれは
私の真意です。ですが責任ある立場の人はやはり責任があるのです。個人を責めるつ
もりはありませんが、軍人は結果に対しては負うべきと考えます。


937日本@名無史さん:03/02/09 17:15
>西南戦戦歴や日清戦戦歴、台湾征討戦歴は無視ですか。

 軍旗をうばわれたこと?あのとき止めずに自決させてやれば
 よかったのにね。
938突っ込みまくり:03/02/09 17:31
>>936 児島譲の日露戦争を読むほうがいいよ。
939日本@名無史さん:03/02/09 18:18
>932 それは「御大葬記事でクソ忙しい時に、何でまた」という意味の非難でしょう?

違いますよ?東京朝日新聞では明治天皇が死んだのち、
殉死の弊風(大正元年 8.10)を掲げて殉死を批判しています。
940日本@名無史さん:03/02/10 00:39
>928
> いずれにせよ、所詮は何を書いても責任を問われないマニアが作ったHPを
> 引用するのは、例え出典が書いてあろうともダメです。

 出典が明記されていても、単純ミスによる写し間違い
 や、故意の書き換えなどが絶対にあり得ないという保
 証など存在しないので、資料であれば、原典から直接
 引用するほうが確実とはいえますね。
 原典で確認したのなら、あえてHPの記述のほうを引
 用してくる積極的な利益はない、ということもあります
 ね。
941日本@名無史さん:03/02/10 00:59
>935
> そこまで司馬を貶めるのはなぜ?

 その理由は明記されていますが、この人物は、他人の
 書き込みをまともに読んでないですね。
 やれやれ。
942嶽原:03/02/10 08:20
>>935
 当方嶽原は、司馬氏を貶めるつもりはありません。
 司馬氏は小説家なのですから、小説内でどのように表現描写しようと自由
だと思っています。
943嶽原:03/02/10 08:22
 確かに以前は、「司馬氏の描写は酷い。ふざけるな」などと書き込んだ事があり
ましたが、その際に「小説家だよ。上手い表現じゃないか」などと返されて、目か
ら鱗の思いをしました。
 それ以来、「『坂の上の雲』や『殉死』は単に小説」としか思っておりません。
こう思う事は、司馬を貶める事ではないと思います。
944嶽原:03/02/10 08:24
>>936
『>児玉に指揮権を委ねた』
 大山の一札は行使されなかったという話しか知りませんが。
『>乃木が欧米で評価が高いと考えてますか』
 高かっただろうと考えてます。欧米ではセバストポリ攻防戦に比べ短期間で陥落
させた事が評価されていますから。
 低かったという根拠は何ですか。
『>司馬先生の「要塞」』
 小説記述は信用に足らないというのが判ると思います。
 「要塞」では、児玉は復命書を事後に読んで感動した、と書いてます。しかし
「腹を切ること」では、復命書奉答の場面に佇立していた、と書いてます。
 まあ小説ですから、感動的であればいいと思います。前者は復命書の突飛さを強
調する場面ですから児玉を感動させた方がよいし、後者は児玉急死説明に繋がる場
面ですから、児玉が既に精魂尽きていたように見せた方がよい。という様に、司馬
氏の小説の書き方には、まあ納得しておりますが、信用には足りません。
945嶽原:03/02/10 08:25
>>937『>軍旗をうばわれたこと?』
 いいえ。勿論、「県境の南関を確保して征討軍の迅速な南下を助けた事」です。
946日本@名無史さん:03/02/10 18:03
田原坂を確保できなかったノギはあほ
947日本@名無史さん:03/02/10 19:09
のぎはトイレでせんずりコイテルときも暗い顔してそう
948mm:03/02/10 19:29
>942
司馬先生の「坂の上の雲」は事実でないなら、名誉毀損が成り立つ内容だと思う。
小説だからといって許される内容ではないと思う。乃木とその参謀長になんど
無能と言ってるだろう。私が遺族なら出版差し止めを求めるだろう。
問題は事実であったかどうかであろう。
 
949日本@名無史さん:03/02/10 19:38
948が刑法を勉強したことがない事は文章からみて明らか
950嶽原:03/02/10 21:05
>>948
『>名誉毀損が成り立つ内容……小説だからといって許される内容ではない』
 記述内容は、確かに名誉毀損ものだと思います。しかしまあ小説ですし。
『>問題は事実であったかどうかであろう』
 「事実であったかどうか」は、小説記述に求めてはならない事だと思います。
 復命書奉答の場に児玉が居たように書こうが居ないように書こうが、どっちも可
だと思います。
951日本@名無史さん:03/02/10 22:29
>949
 事実であっても成立しうるが、死者のばあいは故意の
 でっち上げでなければ云々なんて、知らないのが普通
 でしょう。
952mm:03/02/10 23:08
>確かに刑法はよく知らないな。
事実であっても名誉毀損は成り立つのか。言論と表現の自由はどこにいったんだろう。
そして無能な人によって無駄死にした人はどうすればいいのだろう。
遺族に損害賠償請求かな。
953嶽原:03/02/10 23:15
>>952
 「殉死」読みました?
 一文庫本に収録されている二編短編ですら内容が一致しないのですから、小説の
記述が事実かどうか、なんて意味のない事だというのが良く判ると思います。
954嶽原:03/02/10 23:21
『>損害賠償請求』
 もしも出来るのなら、こちら?と思うのですが。

『…刻下の情況、第三軍に少しく無理押しを望は実に已むを得ざるべし…』
『…とにかく大本営はどうしても二百三高地を肉弾で取れ、弾はこれ以上
やれないという、平たく言えばこういうわけです…』
955嶽原:03/02/10 23:25
……なんか言い出したら際限ないですね……
956日本@名無史さん:03/02/10 23:37
>952
> 事実であっても名誉毀損は成り立つのか。
 全く違います。「成立しうる」です。

> 言論と表現の自由はどこにいったんだろう。
 自由の類いは、元々、無制限の野放図なものではない、
 というだけのことです。
957日本@名無史さん:03/02/11 08:36
全く・・・・。名誉毀損罪が刑法と述べたバカを止めろよ。

民法の話で絶家した人物がそんなことできるのかよ。バカども。
958日本@名無史さん:03/02/11 09:01
>>952 一応戦後 乃木は廃兵院の創立より尽力をつくしています。
逆にいえば、自分の指揮の愚かさによってなくなった人たちへの
慰問ともいます。
959日本@名無史さん:03/02/11 09:02
957が日本語を勉強したことがない事は文章からみて明らか
960日本@名無史さん:03/02/11 09:51
>959 したことがない事 というような使い回しをされている
貴方は日本語を学んだ事がないといえます。
また語学は勉強ではなく、学習するものです。

勉強するしか出来ない人物ほど悲しいものは無い。
961嶽原:03/02/11 20:40
>>958『>廃兵院』
 乃木が一般民衆に支持された理由には、こういう平時の行動も影響している
と思います。
962mm:03/02/12 22:55
「殉死」読みました。
 乃木はやはり軍人として無能な人と書かれており、その点では「坂の上の雲」と
一緒で司馬先生の乃木に関する考えは矛盾なしだった。
 嶽原氏はこまごましたことが一致せず、信憑性ないとしているらしい。
私にはそういったことは正直なところ気にならないが。
 恥ずかしい話だが、乃木と一緒に夫人が自殺(殉死)したことを知った。
息子二人に死なれ、そして夫、うーーんなんとかわいそうな人であったろう。
 乃木は罪深いなと思った。

 
963嶽原:03/02/12 23:14
>>962
『>司馬先生の乃木に関する考えは矛盾なしだった』
 三編とも乃木愚将論を語っているという点については、勿論矛盾なしです。
というか、司馬氏の非乃木愚将論など見たことがありませんし。

『>嶽原氏はこまごましたことが一致せず、信憑性ないとしているらしい』
 信憑性は、小説に求めてはならない、という事ですよ。
 小説特有の、描写の自由さ(強調、切り捨てなど)が出来なくなってしまう
じゃないですか。また、総てを知っていなくては書けなくなってしまいます。
誰も見た者の居ない「乃木児玉会談」や「殉死の光景」などを、判りやすく、
まるで見てきたように書けるのは、小説ならではです。
964日本@名無史さん:03/02/13 08:25
>司馬氏の非乃木愚将論など見たことがありませんし。

乃木擁護論ならあるんじゃない?
乃木名将論は論外ですし。
非乃木愚将論などという言葉ははじめて聞いた。

>「殉死の光景」などを、判りやすく、まるで見てきたように書けるのは、
小説ならではです。

検死報告書を見ているが、殉死の光景をまるで見てきたように
書いてますが?
965mm:03/02/13 19:59
>957
おかしいと思って調べましたが、やはり名誉毀損罪は刑法です。
第230条です。
966嶽原:03/02/14 03:15
>>964
『>非乃木愚将論などという言葉ははじめて聞いた』
 「非乃木愚将論」とは、「乃木愚将論ではない論」という意味です。
 「坂の上の雲」「要塞」「腹を切ること」は、乃木愚将論で描かれていますね。
他に司馬氏が乃木について描いた作品ありましたっけ?

『>検死報告書を見ているが、殉死の光景をまるで見てきたように書いてますが?』
 検死報告書は、「殉死後やや経過した後の、現場ならびに遺体の状況」について
報告しています。殉死後の光景を、見たままに書いたものですね。
 司馬氏の小説は、「殉死が行われた最中の情景」を描写しているのです。誰も
見た者の居ない情景を、小説家の想像力を発揮して。
967嶽原:03/02/14 03:17
>>964
 また、『検死報告書を見ている』との事ですからお判りと思いますが、司馬
氏は「死体検案始末」を参考にしたように前書きしておきながら、その内容と
異なる描写を敢えてしていますね(例:小説「腹を切ること」では、乃木は十
文字腹を行った事になっているが、「死体検案始末」の傷はそうなっていない)。
 まあ小説ですから脚色は許されることだと思いますが、この事からも、小説
の記述は信用に足らない事が判ると思います。
968mm:03/02/14 08:28
結局のところ真実はわからないままいくしかないのかな。
司馬先生も嶽原氏もある事実をどうとらえるかの違いだけのような気がしてきた。

事実だけをあげれば
@西南戦争で敗走し軍旗を奪われたこと。
A西南戦争、日清戦争、台湾征討、日露戦争に参加。
B殉死
  か
夫人とともに殉死が気になる。この人には思いやりなどあったのだろうか。
969日本@名無史さん:03/02/14 09:54
嫁さんは薩摩女だったので、気丈な人だったんだろうね。
殉死も深々と胸を貫いてたんじゃなかったかな。
9701:03/02/14 11:54
乃木の遺言書の相続人には奥さんの名もあったね。
その時には一緒に死のうという考えは無かったんじゃないかな?
971mm :03/02/14 12:39
 息子は二人とも戦死。
余生を過ごすべき夫は殉死。
どうして生きながらえることができるだろう。
乃木は自分の美学のため死を選んだだろうが、夫人は絶望の中の死
であった気がする。
およそ連れ合いを持つ人なら、夫人が絶望の淵にあったことを理解する
だろう。夫人の自殺を知り、乃木のその有能、無能にかかわらず本当
に嫌いになってしまった。


972嶽原:03/02/14 13:41
>>968『>事実だけをあげれば』
 軍旗紛失の件のみ詳説するあたり、「事実だけを挙げ」ているようには思え
ません。
 当方の捉え方で「(戦功に関する)事実を挙げれば」こんな感じでしょうか。

・西南戦争の戦功は大きい
 (南関確保によって征討軍南下を助けた。軍旗紛失のミソつき)
・日清戦争・台湾征討ではかなりの戦功を挙げた
・日露戦争では旅順攻囲戦を指揮、奉天戦に参加
973日本@名無史さん:03/02/14 20:28
>>965 あんたの脳内刑法で損害賠償を請求できるのか?ならいいんだけど・
974日本@名無史さん:03/02/14 21:13
秋月の乱 拙劣愚痴を以って事を誤る失態
西南戦争 連隊旗を奪われる失態
     17昼夜に渡り、激戦になった田原坂を確保できなかった失態
     名誉戦傷賞
旅団長  病気を理由に休職
台湾統治 乃木が辞める前は台湾放棄論などが出るくらいの評価 
     乃木が辞める理由 職務に耐えられないほど記憶亡失に陥る。
第11師団長リュウマチにより起居自由にならないので休職
旅順攻囲 参加賞
奉天会戦 参加賞

評価はあがる筈も無く、最初から高かったのに昇進は極めて遅い部類。
休職理由をまとめると、病気勝ちで職務に絶えられないほどの記憶もなし、
現状はリュウマチによって起居自由にならない状態であったといえる。

こういう状態で第3軍の司令官が勤まるとは思えず、藩閥人事と山県の推挙が
無ければ選ばれなかったと言える。
9751:03/02/14 21:41
ほとんど病気だなこりゃ。
976日本@名無史さん:03/02/14 22:15
底を打ってますね。
977嶽原:03/02/14 23:55
>>974
『>秋月の乱 拙劣愚痴を以って事を誤る失態
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  奉天会戦 参加賞』

 これが本当なら、貴方が言う
 『>評価はあがる筈も無く、最初から高かったのに昇進は極めて遅い部類。
  休職理由をまとめると、病気勝ちで職務に絶えられないほどの記憶もなし、
  現状はリュウマチによって起居自由にならない状態であったといえる。
  こういう状態で第3軍の司令官が勤まるとは思えず、藩閥人事と山県の推挙が
  無ければ選ばれなかったと言える。』
 というのも一理ありますね。

 しかし、実際は違います。
 秋月の乱鎮圧は、火の手が大きくなる前に押さえました。鎮台司令の首を取
られた他所の乱鎮圧の手際との差は歴然です。
 西南戦争は、小倉営所第十四連隊の奮戦がなければ、どうなっていた事か。
貴方は田原坂確保などと言ってますが、そんなこと誰が命じてますか?
 日清戦争、当時の旅団長としての戦功は特に評価されています。
 台湾統治、台湾放棄論は乃木のせいと言いたいようですが、根拠は?辞めた
理由は、それまでの腐敗官僚との軋轢と聞きます。
 師団長は、貴方もご存じのように連座辞職です。
 旅順、奉天が参加賞などとは好い加減にも程があります。
978嶽原:03/02/14 23:56
>>975
 次スレ、どうします?
979日本@名無史さん:03/02/15 01:10
世に妄説がはびこっているかぎり、進むしかないのでは?
980日本@名無史さん:03/02/15 07:39
>>977>実際は違います。

秋月の乱 『拙劣愚痴を以って事を誤る・・』というのは乃木自らが
 明示10年1月の福原知勝への書簡にて書かれている。

西南戦争 連隊旗を奪われる失態
     17昼夜に渡り、激戦になった田原坂を確保できなかった失態

高瀬の会戦時、田原坂まで突進しようと言ったのは乃木(三好旅団長の命に
より中止)、連隊旗を奪われたの失態は乃木自身の待罪書による。

台湾総督 乃木の辞職願の一部
『近来頓に記憶力亡失致し、職務に勝へ難候間・・・・』とは
乃木自ら書いたことによる。

師団長辞任は馬蹄銀事件での杉浦少佐に嫌疑がかけられたことに
対しての痛憤であるが、軍法会議では予審免許であり。
休職になったのは真鍋少将のみ。

乃木のその時の辞任理由『リュウマチに付き起居自由にならず』
と乃木自ら辞職願に書いてます。

乃木自ら書いたり述べたりしたことが事実と違うのはこれや如何に。
981日本@名無史さん:03/02/15 08:09
西南戦争初戦で、植木、木葉で糧食、弾薬、軍旗を取られ、田原坂、
高瀬大橋を確保できず、南関で増援と合流したのがそんなに
功績が大きいのか?
982日本@名無史さん:03/02/15 08:12
秋月の乱で真偽も定かでない情報により、1個連隊の大兵力を分散しまくり、
兵力がなくなったので増援を請うたのがそんなに功績が大きいのか?
9831:03/02/15 10:22
>>978
漏れの使っているホストではスレが立てられんとかケチがついてきました。
代りに立てたいという方のために、関連スレをば。

「二百三高地」
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/army/1040045964/

「乃木を語れ!」
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1024412885/

「二百三高地ってどうなの?」
http://yasai.2ch.net/army/kako/1008/10080/1008063435.html

「二百三高地パート2」
http://yasai.2ch.net/army/kako/1011/10116/1011605091.html

「続・乃木さんて、どういうひと?」
http://academy.2ch.net/history/kako/1000/10003/1000326922.html
984嶽原:03/02/15 20:32
>>980
『>『拙劣愚痴を以って事を誤る・・』というのは乃木自らが』
 福原大佐からの詰責状に、乃木が弁駁状を出しましたね。その後、福原大佐
は『僕の疑団をして一朝釈然、また疑う所なからしむるのみならず……唐突、
無礼の罪を謝すのみ』と返事を寄越しています。
 福原大佐も、乃木の行動は問題が無かったと承知しているのです。秋月の乱
鎮圧の手際に問題はないと言えるでしょう。鎮台司令の首が取られてから鎮圧
に頑張るよりも、火の手が小さい内に鎮めた方が、よほど良い手際です。

『>田原坂まで突進しようと言ったのは乃木(三好旅団長の命により中止)』
 乃木に、何の問題がありますか?それと、乃木は「突進しようと言った」の
ではなく、「田原占領の報せを聞いて、確保を具申した」のですよ。

『>連隊旗を奪われたの失態は乃木自身の待罪書による』
 連隊旗を奪われた事について反論する気は全くありません。その通りです。
そして、その失態に関わらず、南関確保という重責を果たした事も事実です。
征討軍にとって、連隊旗がどうしたよりも、南関確保の方が大切な事は、いう
までもありません。

『>乃木の辞職願……乃木自ら書いたことによる』
 主因の「当時の腐敗官僚との軋轢」は無視ですか。ご存じありません?

『>乃木自ら書いたり述べたりしたことが事実と違うのはこれや如何に』
 乃木が物忘れで執務に事欠いたり、起居自由にならなかった事例がありますか?
985日本@名無史さん:03/02/15 20:55
>福原大佐も、乃木の行動は問題が無かったと承知しているのです。

 @福原大佐からの詰問上、A乃木の返答、B福原大佐の返答、C乃木の返答

B『・・己往の失錯を回復あらんことを・・』
と述べているところから、行動は問題なかったとは述べていません。
また『兵備の事に至っては、陸軍卿の熟知するところなれば、容易に言を
発せられんことを・・』と注意を促しております。
 
C『襄に拙劣愚痴を以って事を誤り、師兄朋友の面目を汚辱し、殆ど死期を惰
るが如き醜悪の希典なるも・・・・』と乃木が自からの行動を反省している
のですが、こういった言動は無視ですか。

またこの文書の中で乃木の思惑が外れたことで嘆いてはいても、
未然に防いだという言葉はない。どこからそんな言葉が出てきたのかは不思議です。
986日本@名無史さん:03/02/15 20:58
>>南関確保という重責

乃木の命令は熊本城の増援でしたね。
また、南関で政府軍と合流したことを以って乃木の重責を果たしたというは
過大評価。三好旅団長による高瀬大橋の確保を誉めるところであって、
乃木の南関までの撤退を誉めるところではないと思います。

>主因の「当時の腐敗官僚との軋轢」は無視ですか。ご存じありません?

つまり、仮病を理由に軍を休職するような人物なのです。
自分の思い通りにならず、いじめられるから腹痛という仮病によって、
学校にいかなないヒキコモリと同じレベルです。
987日本@名無史さん:03/02/15 21:01
>火の手が小さい内に鎮めた方が、よほど良い手際です。

乃木自身、豊津の賊が叛乱を起しそうだという情報を得て、
待機していたのだが、この思惑が外れてしまったのは恥じています。
火の手が小さい内に鎮めたわけではないと思いますが?

福原大佐との詰問上のやり取りでは火の手が小さい内に鎮めたなど
という言葉は互いに出てきません。
988日本@名無史さん:03/02/15 21:07
新スレ 一応立ててみました。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1045303325/l50
よろしければどうぞ。

ps.間違って向こうに書き込んじゃいました。オソマツ。
989日本@名無史さん:03/02/15 21:10
スレッドを使い切ると、しばらくは、有料ソフトを使わなければ
読めなくなる仕様らしいので、その点をよろしく。
990日本@名無史さん:03/02/15 21:11
台湾統治 乃木の感慨は明治31年1.30の吉田庫三氏への手紙の
中で述べている・・。

人民の謀反も無理からぬ御座候
乞食(乃木)が馬をもらいたるが如く、飼うことも出来ず、
乗ることも出来ず、此向きに而参り候得は、噛まれ、蹴られて
腹を立てたる挙句世間の笑いものに相成り、抔は恥入候次第に
御座候。

ここでも自分の非力を嘆いております。
乃木マンセーはこういった乃木本来の悲しさというのを理解してないのが
悲しすぎますね。
9911:03/02/15 21:15
>>988
Good Job!
992嶽原:03/02/15 21:21
>>981
 以前の「植木で弾薬を取られている。ソースは戦袍日記」とかデタラメを
言っていた早朝の人の主張に比べれば、まあそういう厳しい見方もあるか、と
も思いますが、不利な状況であった事を考えれば、やはりなかなかの功績と思
います。

 それと、南関で増援と合流したわけではありません。高瀬の第二陣地で合流
したのです。十四連隊が征討軍の指揮下に入ったのは、南関南方の石貫です。
 十四連隊の戦闘によって南関は完全に確保されていました。

>>982
 各地に派遣した各隊は、それぞれに任務があります。久留米・柳川に対処す
るために半大隊、豊津の旧小倉藩勢に対処するために半大隊……というように。

 これら対処が問題あるかどうかは、福原大佐の返書『……僕の疑団をして一
朝釈然……』を見れば明らかと思います。
993嶽原:03/02/15 21:24
>>989
 おおっと、それは知らなかったです。危ないところだった。
994日本@名無史さん:03/02/16 07:40
>十四連隊が征討軍の指揮下に入ったのは、南関南方の石貫です。
>十四連隊の戦闘によって南関は完全に確保されていました。

南関を確保する目的ではなく、結果的に南関を確保したわけで、
最初から南関を確保するために戦っていたわけではありません。
結果論を言うのであれば、児玉が来順して二百三高地を陥落させたという
結果論も当てはまりますね。

>福原大佐の返書『……僕の疑団をして一朝釈然……』を見れば明らかと
思います。

 だから、その任務が情報の正確性を確かめずに出した命令だったから
ほとんどその任務達成には程遠い状況で尚且つ、一個連隊という大兵力を
持ちながら、尚増援を求めたことは、乃木の最初の返答『其分を超え、
或いは過慮の甚だしきに失し』と自らの行動に対し反省しております。
 その福原大佐の返答は『・・己往の失錯を回復あらんことを・・』
と述べているところから、行動は問題なかったとは述べていません。
さらに乃木の返答は『襄に拙劣愚痴を以って事を誤り、師兄朋友の面目を
汚辱し、殆ど死期を惰るが如き醜悪の希典なるも・・・・』
と乃木が自からの行動を反省している。

福原大佐と乃木の問答を見る限り、福原大佐は『・己往の失錯を回復あらんことを・・』
と述べており、乃木も『拙劣愚痴を以って事を謝り・・』と述べている
以上、乃木自身、福原大佐自身も問題なかったとは考えていたとは
到底思えません
995嶽原:03/02/16 08:29
 南下中の征討軍から、南関確保という命令が伝えられたそうですが?

 また、不穏だから警戒するのに、何の問題がありますか?
 種田司令が斬殺されたのは、それを怠ったからです。
996日本@名無史さん:03/02/16 08:46
 撤退を重ねている乃木連隊に最悪でも南関を確保しろということであって、
最初から南関の確保というわけではありません。

 >不穏だから警戒するのに、何の問題がありますか

 詭弁だね。警戒しなくていいとは誰もいってないよ。
他の部隊はなお少数の兵力にも関わらず、鎮圧しています。
乃木は1個連隊を持ちながら、定かでない情報から部隊を
分散させ、増援を要請し、その行為を福原大佐その他から
責められ、乃木もその行動を恥じています。

 わざわざ、往復書簡で書かれている事を否定してまで
乃木を持ち上げるのはどうかとおもうが?
997mm:03/02/16 09:01
>996に一票。
998日本@名無史さん:03/02/16 09:08
>主因の「当時の腐敗官僚との軋轢」は無視ですか。ご存じありません?

台湾総督 乃木の辞職願の一部
『近来頓に記憶力亡失致し、職務に勝へ難候間・・・・』とは
乃木自ら書いたことによる。

台湾統治 乃木の感慨は明治31年1.30の吉田庫三氏への手紙の
中で述べている・・。

人民の謀反も無理からぬ御座候
乞食(乃木)が馬をもらいたるが如く、飼うことも出来ず、
乗ることも出来ず、此向きに而参り候得は、噛まれ、蹴られて
腹を立てたる挙句世間の笑いものに相成り、抔は恥入候次第に
御座候。

つまり、仮病を理由に軍を休職するような人物なのです。
自分の思い通りにならず、いじめられるから腹痛という仮病によって、
学校にいかなないヒキコモリと同じレベルです。

999日本@名無史さん:03/02/16 09:12
>>984 『>乃木自ら書いたり述べたりしたことが事実と違うのはこれや如何に』
 乃木が物忘れで執務に事欠いたり、起居自由にならなかった事例がありますか?

 と嶽原氏がおっしゃるように、乃木が起居自由にならなかった事例が無い
ならば、『リュウマチに付き起居自由にならず』というのは仮病ですね。
 また軍法会議での判決より自分の主張が通らなかったことに対する痛憤は
部下にとって迷惑としか思えません。

1000日本@名無史さん:03/02/16 09:12
 
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