1 :
日本@名無しさん:
いつのまにか無くなってしまったので、スレ立てます。
平安後期の源義光以来、何かと歴史の端境期に顔を出し、
歴史の話題に事欠かない、佐竹一族。
源頼朝の佐竹征伐。
足利高氏との協力。
上杉と協力した関東戦国三国志の戦い。
芦名・伊達との戦闘と和解。
出羽転封と、その後の「秋田の四倒れ」。
戊辰の役における官軍への対応。
知っている人はよく知っているけれど、知らない人は全然知らない不思議さ。
シンパもアンチも書きこんでみそ。
2 :
日本@名無史さん:02/01/17 11:43
佐竹氏は武田の末流。
3 :
日本@名無史さん:02/01/17 11:52
御家人達に弾劾されて鎌倉を追われた梶原景時は、甲斐源氏の武田有義を擁立した。
一方、北条時政は後妻の牧の方と謀って将軍実朝を殺害して、平賀朝雅を将軍にしようとした。
でも、羽柴・・・・じゃなかった、佐竹秀義を擁立しようとした勢力など皆無だった。つまり、佐竹はその程度でしたないということ。
4 :
konskon:02/01/17 12:42
加藤、福島らの襲撃に手を焼いた石田三成を家康の屋敷まで送り届けた
佐竹義宣のエピソードは知っているが先代義重、先先代義昭がなにをし
たのかまったく知らない日本@名無史さんくわしそうだから解説してくれ
5 :
日本@名無史さん:02/01/17 13:13
佐竹義昭
北条氏にメタメタにやられた上杉憲政が、関東管領職と上杉姓を義昭に授けようとしたが、辞退した。
佐竹義重
常陸国内の有力国人大掾・小田・江戸各氏との戦いに明け暮れる。
さらに生意気にも南奥州にも進出して、白河・葦名各氏とも戦う。
6 :
日本@名無史さん:02/01/17 13:14
あと、佐竹義重は北条氏から「板東英二」と呼ばれ、恐れられた。
>>6何つまんねーボケかましてんだよ!
正しくは「板東妻三郎」
略して「バンツマ」だる!
8 :
日本@名無史さん:02/01/17 16:05
平安末期
上総権介>千葉>>>>>>>>佐竹
戦国期
武田>北条>上杉>>>>>>>佐竹
9 :
日本@名無史さん:02/01/17 16:29
佐竹は、水戸をブスの産地にした張本人!
10 :
日本@名無史さん:02/01/17 20:54
11 :
日本@名無史さん:02/01/17 21:30
やっはり、アホが語ると腐るなぁ。
というわけで消毒散布!
12 :
日本@名無史さん:02/01/17 21:32
爵位は「侯」
露払いに情報を一つ提供。
秋田魁新聞に良い記事ありますなぁ。
14 :
日本@名無史さん:02/01/17 21:41
★佐竹氏秋田転封の図★
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( 人____)
|ミ/ ー・∀・-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(6 (_ _) ) < オラと一緒に秋田さ来るだべし! __
_| ∴ ノ 3 ノ \________ / ⌒ヽ
(__/\_____ノ ' ノノ)ノレノノ
/ ( || || イ イ > <.|' / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
[]__| |佐竹義宣!ヽ 'ヘレゝ A/ < クサイ、キショイ、イッテヨシ〜!
|[] |__|______) l'\V> \________
\_(__)三三三[□]三) L_《○
/(_)\:::::::::::::::::::::| //_|_|.>
|ミトナットウ|::::::::/:::::::/ − − /フ二イ |
(_____):::::/::::::/ − − じ' |-|
(___)__) − − L__~)
ああ、もう終わったなぁ!
14のせいで、逝って死ね14。
16 :
日本@名無しさん:02/01/18 12:45
>>14水戸納豆って、徳川光圀の時にメジャーになったんじゃ・・・。
うむ、14は厨房及び、デブ及び、チビ及び、引きこもり及び、オタ及び、口が臭いことが判明致しました。
18 :
日本@名無史さん:02/01/22 16:16
駄佐竹あげ
19 :
日本@名無史さん:02/01/22 18:59
佐武伊賀守も一族?
20 :
日本@名無史さん:02/01/23 19:21
土佐佐竹って一体どこで、常陸本家と繋がってるんだらう?
でた、土佐佐竹。これは鬼門だ。前にも話題に上がったが、
誰も興味が無い上に、レスがつかない。
このまま駄スレになる兆候。
1よ、どうにかしろよなぁ。
22 :
日本@名無しさん:02/01/24 12:41
>>21 ラジャー。では・・・。
>>20 土佐側の伝承では、鎌倉時代末に常陸から庶子の一族が渡ってきたらしい。
現土佐山田の久礼城に居住。
尤も、それ以降本家とは交流なかったみたい。
室町時代は中村の土佐一条氏の家臣だったが、戦国時代は長曽我部氏に臣従。
大阪夏の陣には長曽我部盛親に従い豊臣側として参戦、滅亡す。
>>19 不明。美濃佐竹氏の末かと。
承久の変で、佐竹秀義が美濃国地頭職を得たことから、分家庶子がそこに居住したのが美濃佐竹氏かな?
おそらく、後の土岐氏のルーツかも?
あと、鎌倉時代には伊勢国にも赴任したらしい。そこに残った庶子家が「佐武」のルーツかな
伊勢と伊賀は結構近いから。
「さたけ」という名前自体、常陸国佐竹郷という場所以外にはどうも見受けられないし。
23 :
日本@名無史さん:02/01/24 16:46
>22
あれ?佐武伊賀守って紀伊出身では?
それに美濃佐竹氏は土岐氏と系譜上関係ないと思うけど。
22よじゃあ、じゃぁどんな関係だよっ?
話替わって、
真壁も出羽に分家したが、佐竹が出羽に転俸した際、出羽真壁が
地元農民と六郷安東各残党と攣るんで、転俸間も無い佐竹に盾突き
六郷城を強襲しやがったと記録にあるなぁ。
しかし、大曲付近に赴任にていた梶原美濃らの加勢でこれを払いのけたとな。
>>22よじゃあ、じゃぁどんな関係だよっ?
22失礼。
23よじゃあ、じゃぁどんな関係だよっ?
26 :
日本@名無史さん:02/01/25 11:57
あまりにも無茶言い過ぎだろ・・・。
土岐氏はライコウの子孫。
佐竹はライコウの弟頼信の子孫。
>>27 うむ。言いすぎました。
ところで佐竹と綱川の関係とは?
綱川家の由来等、出羽佐竹家と亀田岩城家の見解に違い有り。
何故に?
29 :
日本@名無史さん:02/01/25 20:45
秋田侯 松平右京大夫と肥後侯 松平越中守
佐竹ヲタ、、、最近急激にアホになってきてるよーな・・・。
>>31 佐竹汚他、、、近頃急激に馬鹿になってきてるよーな・・・。
33 :
日本@名無史さん:02/01/25 22:42
>>31 憑かれてないかい?
疲かれてないかい?
軌道修正してる 1 に陳謝しろよ、引きこもり、デブ、禿げ厨房がよぉ。
>>1 1 よ、もっと塩(ネタ)まいて。
話替わって、芦名渇食丸は何で義宣から家督を受け継げなかったんだと思う?
34 :
日本@名無史さん:02/01/25 22:52
35 :
日本@名無史さん:02/01/25 23:23
>>34 あ、おまえ訴えられてもしらないぞ。
ここの南家当主はHIROYU○I氏と知り合いなのしらないね?
36 :
日本@名無しさん:02/01/26 11:21
では、ちょっとオカルト的に・・・。
佐竹氏開祖の昌義の父、義業は賀茂次郎義綱の跡目を継いだと言われている。
ここで気になるのは義綱の「賀茂」。賀茂神社で元服してから名乗ったのだが、
「賀茂氏」というと、陰陽道安倍清明の師匠筋。
当時の京都は陰陽道ばやりで、義綱自身も元服の際、陰陽道による霊的守護をつけてもらったと思われる。
その後の歴史を見るにつけ、義綱自身は悲惨な最期を遂げたが、跡目を継いだ義業の子孫佐竹氏が、
頼朝討伐時の金砂城事件、
義舜への山入氏による迫害、
北条・伊達氏の挟撃作戦、
関が原での取り潰し回避、
幕末での官軍への参戦、等
土壇場の窮地で危機を脱する事に関しては「強運すぎる」としか言いようがない。
>>32 >>土壇場の窮地で危機を脱する事に関しては「強運すぎる」としか言いようがない。
それは、あるかもしれないねぇ。
一族方針主義だと思われる政策だけでは、長年の困難を回避するのは難しい。
やはり、この家には陰陽道てきな何かがあるのかも。
それにタブーを侵すと一族でも悲運になる。
まあ関ヶ原後の戦後処理で島津はお構いなしで、佐竹は減俸となったが、
結果、秋田で独自の新化を遂げお家も続いています。
お構いなしで関東在住であったならば、外様の立場でお家の存続は危うかったかも。
佐竹が去った後の水戸では家康庶子が武田家を継いだが、10年ともたなかった等、
陰陽道の力が生きているのかもしれませんなぁ。
隣の宇都宮など浅野の陰謀でとりつぶされたしねぇ。
佐竹と武田というのもある意味、因縁めいたものがある。
武田の先祖(佐竹の実の先祖でもあるが)の義光は非道なことをして、
ときの法皇にさえ「おっかないやつだ」といわれたほど。
しかも兄の義綱を貶めて、佐渡に流し、暗殺するなど、かなり凶悪。
義光は長男である義業には愛情をかけず、自分と同じ三男の義清を最も愛したという。
さて時代は下り、「義光によってブチ殺された義綱」の跡目を継いだ(と言はれている)
義業の子孫の佐竹は、関が原、戊辰戦争を経て生き残った。
一方、義光が目をかけた義清の子孫武田は、尾張からでてきた
武田佐竹にくらぶればかなりテキトーな家系の織田にぼろぼろにされて滅亡した。
歴史の神がバランスをとったのかどうかは知らないが、
怨みはらせて良かったなァ、義綱よ。
40 :
日本@名無しさん:02/01/29 17:07
>>39 「謀殺された」の方がふさわしいと思われ。
ところで、長男義業、三男義清・・・、次男は誰?
>>39 佐竹の血は幕末、戊辰直前にタネがプッツリ途絶えて
首が相馬にすげ変わってるよ。。
42 :
日本@名無しさん:02/01/30 15:35
>>41 宗家はネー。
ただ、分家筋の東西南北家は佐竹の血筋として残っているから。
>>39 何かひっかかるなあ・・・。
常陸国は風土記が現存し、延喜式にも書かれる金銀の富める山。
義綱謀殺してでも手に入れたい土地であるのは納得できたけれど、
なぜにそれが義光最愛の義清が継がなかったのかわからん。
義綱が佐渡配流となって、厥所(名義者不在の土地)となった常陸を、なぜに義清でなく義業が継いだのか?
一晩風呂に入って考えてみた。これから先は妄想。
思うに、義光は義清に義綱から分捕った常陸所領を与えようと考えていた。
義清は当時吉田郡武田荘(今の水戸市付近)に居住し、武田冠者を名乗っていた。
義清の妻は義光が甲斐国赴任時に出会った逸見氏の娘。
ところがそこに待ったをかけたのが、常陸大掾職平吉田二郎清幹。
清幹娘婿の義業ならまだしも、縁もゆかりもない義清が常陸の義綱所領を相続するなど認められない。
義光とはいえ、地元有力者の吉田清幹への義理を欠いては常陸に住んではいられない。
よって、義光、義清、清光三代は常陸国から追放となった。
入れ違いに義業、昌義親子が常陸に入って、義綱所領を継ぐことになる。
追放された義光は、近江国三井寺に寄宿。
義清、清光は妻の実家甲斐国の逸見氏を頼り、「武田」から「逸見」へと改姓する。
そして清光の次男信義が改めて「武田」を名乗ることになる。
「勝田市史」においては、武田氏は甲斐ではなく常陸の土地の名前で、そこから武田を名乗ったとか。
かような経緯なら、佐竹一族が数百年間、義光の墓の場所を知らなかったことも納得できる。
義光=アダム、義業=カイン、義清=アベル、か。
聖書では追放されたのはカインの方。
だが、こっちのほうはカインの嫁の実家の圧力で、
追放されたのはアダムとアベルといった逆転シチュエーション。
>>39、こんなんでどないだ?
43 :
佐竹(実は相馬)義堯:02/01/30 16:07
44 :
日本@名無史さん:02/01/30 17:13
佐竹義処―相馬叙胤―相馬徳胤―相馬恕胤―相馬祥胤―相馬益胤―佐竹義堯
問題ないよ。
45 :
日本@名無史さん:02/01/30 17:28
1/64の佐竹の血・・・。
>>43 相馬氏の六代相馬叙胤は佐竹義処の子供なんだから
血はつながってるとも言えなくはないね。
47 :
日本@名無しさん:02/01/30 18:02
>>44 ふうむ、そうだったのか・・・。
ところで、今宗家はどうなっているんでしょうか?
「佐竹本36歌仙」なる本では、宗家は1987年に当主がなくなってしまったと書いてあったらしいのですが・・・。
48 :
日本@名無史さん:02/01/30 22:23
>42
佐竹東家の末裔です。といっても既に佐竹姓ではありません。
私の三代前に九州の松浦家の人間(佐竹義準)が養子に入りました。
その息子夫妻(私の祖父祖母)まで佐竹姓、娘が2人なので、佐竹姓も消え
ました。長女の長男が私なのですが、なんらかの方法で佐竹の名字は
残した方がいいでしょうか?
49 :
日本@名無史さん:02/01/30 22:30
大名で養子のこと言ってたらきりがない。
50 :
日本@名無史さん:02/01/31 05:14
>>49 大名に限らず、名家というものは血を継ぐ事より家を継ぐが
大事ぞ。
おしい!
>>42 ていうかそもそも常陸は、
「義業」が直接義家からもらったものだと思われ・・・。
あるいは、義光が自力で開拓したらしい。
どっちかは知らないけど、義綱のものではなかったのだ。
www.intacc.ne.jp/HP/oma/kaigenji-2.htm
くわしくは、ここをみていただきたい。
52 :
日本@名無しさん:02/01/31 12:13
>>51 ふうむ、義綱所領ではなく、義光自力開拓か義家所領のどっちかだったのか・・・。
義家所領と言われても納得する。
当時の朝廷にとっても親王領扱いという、極めて重要な土地だったし。
だが、継承巡って吉田清幹とトラブルが会ったことは?
当初は自分の妄想と考えたけれど、武田と佐竹、更に当時の常陸大掾職でもあった常陸平氏との関係を考えると、ありえないとも言い切れなくなってきた。
常陸大掾でもあった吉田清幹としては、義家弟義光の嫡流にして自分の娘婿でもあった義業が常陸所領を継ぐものと考えていた。
吉田清幹としては、義業が義家から直接賜ったものであれ、義光自力開拓であれ、結果として自分の姻族が所領を継ぐのだから。
ところが、所領を吉田氏とは縁の薄い義清に継がせると義光が言い出したことから、清幹の怒りが爆発することになる。
当然周辺親族の常陸平氏連中からも異議が飛び交った。
義業は常陸平氏とのコネを生かすための重要なキーマンだったのに、それを差し置いて親バカになったことが義光の失態だった。
当時の常陸において、桓武平氏本流である常陸平氏をないがしろにすることはとんでもないことだった。
常陸平氏のメンツを潰すことになって、義光・義清・清光らは常陸から出て行かざるを得なくなった。
入れ違いに義業が、清幹の孫でもある昌義と共に入国。
結果として、常陸平氏了解のもと、義業・昌義親子が所領を継ぐことになる。
どないだ、これで。
53 :
日本@名無しさん:02/01/31 12:21
後に昌義いわく、
「人己に加えて与えるべき心無くば、運を得ることなし。
男児たるもの、己の運を知るべし。要中の要なり。」
人の運とは結局、人と人とのつながりにあることを、この体験でいやというほど知らされたのだろう。
おしい!
>>52 ていうか原因は義清の子の悪源太清光の御乱行で
その末、朝廷によって甲斐に配流されたらしい・・・。
www.asahi-net.or.jp/~wh6t-ootn/takeda/story3.html
くわしくは、ここをみていただきたい。
>50
なるほど。子どもが2人生れたら一人につがそうかな。
56 :
日本@名無史さん:02/02/01 02:48
>>48 現在の名字が佐竹より名家ならしょうがないけど、そうでないなら
改姓したほうがいいかもしんない。筋的には、佐竹東家当主でしょ?
・・・無責任な意見ですけど。
市長になったのは北家だっけ?
57 :
日本@名無史さん:02/02/01 05:02
東西南北などは、佐竹家内の身内話で日本史への
影響は無に等しいのでは。
佐竹会って無かったっけ?
>>48 宗家とか、別の家系とのつながりはほとんど無いの?
59 :
日本@名無しさん:02/02/01 16:55
>>48 佐竹宗家では何例もあるからなあ・・・。
有名なのは上杉家から養子に入った佐竹義人の例。
初代藩主義宣も子がないので、義宣の弟が養子に入っていた岩城氏から養子をもらって二代目藩主にしたと言うし。
幕末では相馬氏から壱岐守家の養子となり、それから宗家を継いだ佐竹義尭の例もあるし。
北家も、京都高倉家に嫁に入った義重公妹から義隣を養子にもらった例があるし。
60 :
日本@名無しさん:02/02/01 17:50
>>54 武田氏祖先のDQNぶりがどんどん暴露されてるような・・・。
>58
祖父がなくなり(佐竹東家当主ね)、祖母が個人的に佐竹家関係の人を知っている
ぐらいかな。娘の代になるともう普通のどこにでもある家庭という感じだね。
つきあいはないなあ。
祖父は晩年、よく霞会館に通っていたようだし、祖母も学習院の出身なので、
旧華族系の人脈はあるみたい。そういう意味では、旧大名家(佐竹家含む)との
つながり、つきあいはあると思う。
佐竹家の末裔…2chに入り浸りwww
62 :
日本@名無しさん:02/02/02 14:23
オカルトネタ第2弾!
佐竹氏は関が原戦後出羽転封になったけれど、なぜ「出羽」だったのか?
東京魔人学園外法帖なるゲームやってて、あの「天海僧正」が実は葦名の人間だったことが記述されていた。
天海僧正は、江戸の町を風水的に設計した人物で、徳川三代のブレーンでもあった。
明智光秀が天王山の戦いで逃げ延びて天海になったという話もあるが・・・。
彼は実家の葦名家が摺上原で滅亡するのを聞いて、どう感じただろうか?
関が原戦後、佐竹の転封先に出羽を推挙したのは、おそらく天海僧正だったのでは?
家康からの正式通達以前に、「転封先は出羽」という噂が流れたと言うけれど、流したのはおそらく天海僧正自身だったのだろう。
葦名つながりで、佐竹氏と天海僧正の間にも何かしらの接触があったのかも。
そこで、天海は、上洛していた義重や義宣に「風水」を説明したのかも。
その内容は、この日本国全体についての風水結界に関すること。
佐竹氏は国の中心である京都からみて、丑寅・鬼門の方位の出羽地方に転封し、国の守護の要となってもらいたいということ。
時代は、秀吉の頃から切支丹問題を抱えていた。
キリスト教を口実にローマ教会が日本を自己の所領とする野望に反発してのことだとも言われるが・・・。
もっとも、日本に布教していたイエズス会自体、ヨーロッパでは「偽善者」の典型よばわりされていた。
鎖国政策に至る経緯を考えると、風水的に京都のある関西から鬼門の出羽に、平安の頃から続くダイハードな名家佐竹氏を配置させて、外国に対する風水防御を固める算段だったのだろう。
天海にかく説得され、転封正式通知の後、さしたる反乱も起こさず粛々と移動に従ったのだろう。
知らされなかった残留家臣団は反抗をしたけれど、それに対する義宣のそっけなさもそう考えれば納得がいく。
63 :
日本@名無しさん:02/02/02 14:32
ちなみに、未申・裏鬼門の方位には、同様に島津氏がそのまま割り当てられたのだろうな。
64 :
日本@名無史さん:02/02/02 18:08
>61
佐竹南家のHPに佐竹会のことが書いてあるよ
呼ばれてないのなら何かの勘違いという事は?
65 :
日本@名無史さん:02/02/02 18:19
天海が少年だった頃の芦名は、ことあるごとに領土侵入を繰り返す
佐竹と敵対してたから、芦名家を滅亡に導いた佐竹はすごく
キライじゃないのかなー。
66 :
日本@名無史さん:02/02/02 18:33
>>48 佐竹義準さんの曾孫さんということは、
48さんのお祖父さんは佐竹義利さんですね?
何故私が知っているかというと、
1つは三菱財閥の創業者一族・岩崎家について調べていたから、
もう1つは私が子供のころ天文青年だったからなのです。
48さんのお祖母さんって、
戦前の天文学者・平山信先生の三女・厚さんですね。
それから48さんのお祖父さんの妹さん(操子さん)は
戦前三菱本社の副社長を務め、戦後三菱地所の取締役になった
岩崎彦弥太氏(弥太郎の嫡孫、久弥の長男)に嫁いでいますね。
彦弥太氏の奥さんの実家として、
また平山先生のお嬢さんの嫁ぎ先として佐竹東家に関心を持っています。
岩崎彦弥太氏はもし財閥解体がなければ三菱の5代目当主になっていたでしょう。
それから、平山信先生の4人のお嬢さんは全員名門家系に嫁いでいます。
長女は地質学者・坪井誠太郎氏に嫁いでいますが、
坪井氏は人類学者・坪井正五郎の長男であり、
坪井氏の母・直は日本最大の学者一族・箕作家の始祖・箕作阮甫の孫娘です。
次女は数学者・正田建次郎氏に嫁いでいますが、
正田氏は皇后陛下の伯父にあたります(美智子さまの父は正田氏の弟)。
三女が48さんのお祖母さんで、
四女が川上家に嫁いでいます。
川上家は中曾根家(勿論バーコード中曾根元首相の一族)姻戚関係にあたります。
68 :
日本@名無史さん:02/02/02 19:02
そににしても、東家の家格は相当高かったのがわかりますなぁ。
宗家の男児の方は戦中ひっそりと、病気で亡くなられたと天徳寺の資料にかかれてましたが。
>66
佐竹義利はおれのじいちゃんです。
厚がおれのばあちゃん。
ばあちゃんは今も元気。
祖母の交友範囲は学習院ということで元武家、公家が多いですが、
その次以降の世代は本当に普通の家ですね。
やはり、今70〜80歳の世代の人が若い頃まで華族制度が残っていたので
交友範囲、姻族なども特殊なものだったのでしょう。
70 :
日本@名無史さん:02/02/02 19:20
>48
ほんと閑そうだね(w アンタ
日本も平和なり
48の家柄は佐竹家じゃなくて48の父親の家系だと思うが
佐竹家が嫁ぐと逝ったら結構なモンなの?
>70
土曜日だからね。暇してるよ。wwwあんまりいるとスレが毒男板みたいになるから
もうやめるわ。
72 :
日本@名無史さん:02/02/02 20:43
>48
疑問ですがあなたがあなたの子供に佐竹姓を名乗らせたとしても
それは「佐竹東家」に非ずではないでしょうか?
おばあさんご存命中にあなたかあなたの子が養子にならない限り
佐竹東家再興はならないのでは?
しかし他の佐竹家は何も思ってないのかね
嫡流を武田に(ある意味)持っていかれた哀れ佐竹
74 :
日本@名無史さん:02/02/02 21:22
75 :
日本@名無しさん:02/02/03 12:44
>>73 ・・・で、現在の武田本家はどうなってます?
勝頼が滅亡させられてから、武田庶流が必死に家名存続するべく、「武田姓」の叩き売りしていたと聞いたけど。
あと、一部家臣が南部家につてを辿っていったとか。
・・・・武田の後継は南部氏かね?
76 :
日本@名無史さん:02/02/03 12:49
>>75 信玄の二男・竜芳の子孫が江戸時代に高家として残った。
その子孫が確か現在も残ってるはず。
77 :
日本@名無しさん:02/02/03 12:50
>>65 その後、佐竹は一応葦名の家名存続させようとしたけれど、伊達政宗は滅亡させて、自分の領地にしちゃったからなあ・・・。
元・葦名である天海としては、佐竹を恨むのはまあわかるけど、それ以上に伊達政宗の方が憎らしかったんじゃないかな?
伊達政宗は、事あらば徳川にすら牙をむく油断できない男と、家康にも吹き込んでいたかも。
伊達政宗が反徳川として挙兵したら、南北から挟撃させるつもりだったのかも・・・。
78 :
日本@名無しさん:02/02/03 13:19
>>77 実は政宗は朝廷と婚姻関係を持っていたりする。
自称奥州藤原氏の後継者として「鎮守府将軍」の官位を要請してるし。
話の流れと余り関係ない書き込みを、お許し下さい。この板の方々は、大変
博識な方ばかりですので、以下の点について、ご教授頂ければと思い、書き
込みさせていただきます。
東京は東中野に、堀辺正史なる人物が「骨法」と言う武術を教授しています。
堀辺氏によれば、骨法は古代の大伴古麻呂(歌人の大伴家持の甥)が創始し
た武術(正確に言えば古代の相撲の原形である手乞を集大成した民族武術)で
あり、堀辺家に伝わったとしています。
「源義光から、その孫、常陸国守護職・室町幕府侍所別当、佐竹義篤の第四子・
乙王丸を始祖として堀辺家が興り、一子相伝で骨法が伝授されてきた」
と称しています。実際の所、この堀辺と言うオッサンが言う堀辺家の系統は
本当なのでしょうか? ちなみに、この堀辺と言うオッサンの父親は、元は
特別高等警察の人間で、東条英機の護衛をしていたと言っております。ちな
みに堀辺家は、茨城県の水戸市にあるようです。
堀辺と言うオッサンは、骨法の由来自体は、幕末の国粋的な水戸学派の人間
が、ねつ造したものであろうと自著の中で言っていますが、自分の堀辺家の
系統・出自に関しての正否は言及しておりません。
自分は浅学のため、よくわかりませんので、詳しい方がいらしたら、ぜひ
お教えくださいませ。なお、この堀辺のオッサンの道場は、門下生に多額の
金銭的出費を強いるとして、一部から指弾されています。
80 :
日本@名無史さん:02/02/03 18:08
佐藤朝泰著「門閥」の岩崎家のページに載っていたのですが、
48さんのお祖父さん・佐竹義利氏は
1930(昭和5)年東大工学部航空科を卒業して三菱航空機名古屋製作所に入社し、
三菱重工、東洋機器製作所を経て東洋製作所(三菱系)の社長、会長を務めた方です。
だから佐竹東家は三菱と密接な関係にある家のようですね。
ちなみに岩崎彦弥太氏と操子さん(義利氏の妹)夫妻の長男が
岩崎家現当主・岩崎寛弥氏(東山農事社長、元三菱銀行取締役)なので、
48さんのお母さんは寛弥氏の従妹(確か寛弥氏のほうが年上のはず)にあたりますね。
ちなみに岩崎寛弥氏は財閥解体がなければ三菱7代目当主になっていた人でした。
なお岩崎家・弥太郎系の本家当主夫人をみてみると、
2代目の久弥氏(三菱財閥3代目当主)夫人の寧子さんが保科正益氏の長女だから
久弥・彦弥太両氏と2代続いて清和源氏の娘を娶っていることになりますね。
保科氏・佐竹氏ともに清和源氏なので。
81 :
日本@名無史さん:02/02/03 18:34
82 :
日本@名無史さん:02/02/03 19:15
>>76 海野龍宝系は途中に柳沢義保の孫が養子に入ってたな。
柳沢もまあ武田一族だが
>>79 すごい、すごすぎる…。
めちゃくちゃマイナーっていうか、もはやそんなレボーじゃ無いな。
まあ一応、わかる限り教えると、
義光から数えて、佐竹十一代義篤には確かに乙王丸という子がいます。
その兄弟にはのちに大山、石塚家を興す人たちもいます。
しかし佐竹氏系図には乙王丸は早死にと書かれており、
堀辺なる家を興したとは書いていないですな。
しかも佐竹家臣で堀辺なる名前の人が記されている本も無い。
もちろん、書いていないからといって、まるっきり嘘と断定は出来ないけど。
しかしはっきりいって、古くても江戸時代近辺で捏造した類の家系じゃないかな。
少なくとも佐竹の公式の家系図には乗っていない。
そもそもコッポウが室町時代に存在していたとか、
大伴家持の甥が創始者とか、めちゃくちゃ怪しいこといっているな。
やっぱじじいの言うことだし話半分で聞いとけ。
84 :
日本@名無しさん:02/02/04 12:42
>>54 義清は常陸平氏と姻族関係結ばなかったのか?惜しいな・・・。
それにしても・・・・。
というわけで、オカルトネタ第3弾(番外編)!
常陸から甲斐へ来た義清の孫信義は現地で武田を再び名乗ることになるが・・、
時下って戦国時代、信虎の時代には、甲斐国を束ね合わせ、戦国大名の基礎を築く。
さて、そこから他領地へ攻め込もうとしたら・・・信虎豹変、暴君と化す。
思うに、常陸から追い出された祖霊悪源太清光が、「ウラミハラサデオクベキカ!」と未練晴らしとばかりに
信虎に憑り付いたんじゃなかろうか?
家臣団の窮訴から、子の晴信はドキュ祖霊清光の憑り付いた信虎を今川領へ追放する。
晴信はその後、家臣団の統率や産業開発等、内政や強兵策に尽力を揮い、
上杉謙信相手に一歩も譲らぬ戦闘を繰り広げ、小田原北条氏相手に同盟を結んだり、
三方が原で徳川家康を敗走させ、対織田信長の最大勢力となるなど、
武田氏最高の名君、戦国最強の武将の一人として時代に君臨する。
ああ、それなのに・・・・。
晴信こと信玄死去の後、子の勝頼は流浪の身となっていた信虎を国に迎えるが、
信虎のドキュソぶりは相変わらず。
思い余った家臣が信虎を殺めるが、その後しばらくして勝頼は無謀な戦略・戦術を使うようになる。
どうもドキュ祖霊清光が、信虎から勝頼に乗り移ったみたいだ。
その後、勝頼は長篠の戦で織田・徳川連合軍に負け、武田本家は滅亡する。
なんか、信玄公が可哀想になってきたわ。
親の信虎も子の勝頼もドキュソになっちゃって。
せっかく強国に成長させた甲斐国なのに・・・・。
85 :
日本@名無史さん:02/02/04 23:28
佐竹は頼朝に討伐されて、
いかにして生き残ったのですか?
86 :
日本@名無史さん:02/02/04 23:33
>>85 こんな感じです。
§,; ________§; ,
|| §; / § ヽ ||
|~~~§~ §'~~~~~~~| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ____§/"""ヽ,§_____ | < 家臣領民はどうなっても構いません。
|__|///(§ §)ノ////|__|///\____ ですが、どうか我が血統だけはお守りください
⊆___)///ゝ___§ノ/////(____⊇////
///////////////ジュ〜////////////
/////////////////////////////
【 源頼朝に敗れ、頼朝に命乞いする佐竹(ニセ)ひでよし 】
87 :
日本@名無史さん:02/02/05 08:31
乙王丸または乙玉丸
母妾梅局
これしかわからん
88 :
日本@名無しさん:02/02/05 10:24
>>85 佐竹が臣従したのは弟義経とそのバックの奥州藤原氏への遠征途中の宇都宮。
頼朝としては、身内でも反抗する者は討伐するのは当然としても、
臣従してくるものまで斬ったら、寄り合い所帯である幕府の屋台骨はがたがたになる。
佐竹の臣従について寛大に扱ったのは、ムチだけでなくアメもあることを表明させたかった。
周辺の豪族にはいまだ日和見が多かったし。
89 :
日本@名無しさん:02/02/05 10:32
>>84の訂正
「ワハハハハ!わが世の春がきたァァァァ!!!」の方がふさわしいかな?
さて、勝頼滅亡後、ドキュ祖霊清光は依り代を失ってしまい、
「よくも武田を滅ぼしたな、ゴルァ! 信長逝ってヨシ!」
数ヵ月後、清光がとりついたのか、
「敵は本能寺だゴルァ!」
とばかりに明智光秀が本能寺の変で信長を殺してしまう。
まあ、それ以前にも結構信長は、天下布武のためとはいえ無体な事積み重ねてきたからなあ。
ドキュ祖霊清光も、それゆえ生じた様々な怨念と融合してしまったのだろうか?
90 :
日本@名無史さん:02/02/06 22:40
南酒出、北酒出に詳しい系図知らない?
91 :
小場家のQ太郎:02/02/07 20:32
源姓佐竹の嫡流は山入庶家の高柿氏でいい?
>>91 異議なし。
義人流は、上杉系のニセ源氏。
常陸源氏の嫡流が松平(高柿)ってのもなんか面白いな
94 :
日本@名無史さん:02/02/07 21:32
水戸藩士は佐竹結城の遺臣が多いの?
95 :
日本@名無しさん:02/02/11 13:45
>>94 関が原以後、結城は頭首が松平に帰姓したからなあ・・・。それに伴って、結城の家臣は頭首の移転先の富山か福井に何人か移ったと思われ。
佐竹リストラ組は帰農したり、出羽へ移ったりしたのもいると。
上杉頼って会津や米沢行ったのもいると。
まあ、やはり、多いほうでしょう。
ところで、今月号のムーであすかあきおが興味深いネタをだしていた。真贋はともかく・・・。
というわけでオカルトネタ第4弾!(第2弾とかぶるけれど)
あすかあきおが出したネタとは
「○」は「阿」にして「A(アルファ)」を表し、
「+」は「吽」にして「Ω(オメガ)」を表すというもの。
佐竹の家紋は「月丸扇(日の丸扇とも言われるが)」。
一方島津の家紋は、今でこそ「丸十字」だが、これは切支丹のクルスと紛らわしいため、
江戸時代以降の家紋で、それ以前は「十字」。
天海僧正ほどの知恵者が「裏神道」と接触していた可能性は十分ある。
そして佐竹と島津の家紋を見て、「言霊」以外に「紋章」呪法も使える事に着眼する。
丸に扇は「アルファで始まり」、十字は「オメガで終わり」
これらを京都を対称点に鬼門に「アルファ」裏鬼門に「オメガ」の家紋を持つ古き名家を当てはめて、
徳川体制にとって磐石な結界を日本全土に施す事ができると見たのだろうか?
時代は下って幕末。まず「オメガ」の紋を持った島津が朝廷側になった。
ここで、明治政府の裏で裏神道は「アルファ」の紋を持った佐竹も朝廷側に引き入れることを画策、
そこで、佐竹を諜略によって奥州列藩同盟から寝返らせる策をとった。
皮肉にも諜略は成功し、奥州一精強な軍勢である庄内藩は、激戦続く会津側ではなく出羽側に出兵するはめになった。
結果は朝廷側の勝利となる。
だが、その後佐竹を、一応華族入りさせたものの、島津に比べやや冷遇したせいなのか、
日本の呪術結界は徳川時代に比べヤワになり、やがて太平洋戦争で大敗北を帰してしまう。
呪法に国家の安定を任せるのもどうかと思うが、
呪術が統治者の心理を左右し、それが国家浮沈の決定に重大な要素となる事は確かかもね。
さて、裏神道ではやがて神が降臨する事を考えた布陣をとり始めているとか。
その場所はなんと京都「賀茂神社」。義綱が元服した神社でもある。
裏神道では「賀茂神社」をカバラ生命の木の中央に見立てているとか。
その際、「アルファ」たる鬼門の佐竹と「オメガ」たる裏鬼門の島津にどうアプローチしてくるのか・・・?
島津は裏鬼門かも知れないが、出羽国は江戸の真北だよ。
江戸の北東は常陸国方面だから水戸徳川家が鬼門でしょ。
83のともチャンさん、87さん、ありがとうございました。おかげさまで、
私の骨法研究が大きく前進いたしました。貴重な情報を教えて頂き、重ねて
御礼申し上げます。場違いな質問でしたが、丁寧にお教え頂きうれしかった
です。お礼が遅くなりましたが、三度ありがとうございます。
98 :
日本@名無しさん:02/02/12 13:12
>>96 出羽が鬼門方位になるのは「江戸」からではなく「京都」から見た時です。
当時はやはり朝廷を名目上は中心に置くのが通例でしたし。
まあ、水戸徳川家が江戸の鬼門を司るのは、身内で関東を固める徳川家の方針でしたから。
ただし、そのためか将軍職を水戸徳川家から出してはならないという通例も出来てしまいました。
慶喜は水戸徳川家だったため、14代将軍職を家茂に持っていかれましたし。
99 :
日本@名無しさん:02/02/13 13:31
徳川が東の江戸に本拠を置いたのは「青龍」の座を取るよう天海に進言されたからじゃないかな?
京都朝廷が中央の「麒麟」。
小田原征伐時、秀吉から関東を譲り受けたが、その後の秀吉死後の豊臣に対する家康のやり方はえげつない。
関が原以降は反故にして、三河か京都に幕府を移してもよかったはず。
しかし、五行論から言うと、青龍:木は麒麟:土に対し「木剋土」で優位。
よって徳川は実質権力を朝廷から獲ることになった。
反面青龍徳川にとって苦手なのは西の白虎。長州毛利家がそれになる。
青龍:木は白虎:金に対し「金剋木」で劣位。
そのため、関が原以後は長州毛利家の勢力を削減するような処置をした。
皮肉にも幕末になって、長州はまさしく白虎:金となって徳川幕府の青龍:木の敵と化した。
更に、朝廷・麒麟の「尊皇攘夷派」が長州・白虎に加担し、「土生金」となって長州を増強させてしまった。
長州は更に薩摩・裏鬼門の守り手オメガの家紋持つ島津家を取り込み、倒幕勢力を増強する。
薩長同盟は坂本竜馬の働きと言うが、真実は「一桑会」なる公家集団が働きかけたそうな。
この「一桑会」の影に、もしや裏神道が・・・・。
そして、戊辰戦争で出羽・鬼門の守り手アルファの家紋持つ佐竹をも取り込み、結局佐幕勢力は滅亡する。
100 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:17
100GET!
101 :
日本@名無史さん:02/02/21 22:02
agetokou
102 :
日本@名無しさん:02/02/22 14:32
ageもの。
103 :
日本@名無史さん:02/02/22 14:33
飯島愛とオマンコしたい
104 :
日本@名無しさん:02/02/25 10:23
ageレス
105 :
日本@名無しさん:02/02/25 10:40
この謎が解けるかな?
艮
|
北→+→東
↑ | ↓
乾 | 巽
↑ ↓ ↓
西←央←南
↓
礎
↓
坤
ヒント:
>>95、
>>98、
>>99と関連しているぞ。
106 :
日本@名無しさん:02/02/25 11:27
107 :
日本@名無しさん:02/02/26 18:08
電波で荒れ狂ったスレをもう一度まともに・・・。
天海僧正について、一般の説では
芦名氏として生まれ、天台宗僧侶として修行
↓
信長が比叡山焼いたときに脱出し、武田信玄を頼る
↓
信玄没後、故郷の芦名氏を頼る
↓
摺上原の戦で芦名氏滅亡
↓
小田原攻めで秀吉・家康と出会う
以後、徳川のブレーンとなっていくらしいけれど、ここで問題なのは摺上原から小田原攻めまでの間。
ふつーに考えると、芦名義勝とともに常陸へ行き、佐竹北家に天海僧正は居候していたと考えられるけれど、どうなんでしょう?
そして、小田原攻めのとき、宗家の義宣と共に参内へ。
これらから天海僧正ルートで徳川と佐竹の間にも何かしらの縁が出来たと思われるのだけど。
108 :
日本@名無しさん:02/03/05 17:25
age
109 :
日本@名無しさん:02/03/14 10:52
保守age
110 :
日本@名無史さん:02/03/16 01:29
佐竹一族大山氏について知りたいです。実は大山氏の末裔なのです。
「ヒー爺ちゃんが子供の頃に姥と北海道に逃れてきた」と聞かされてるんだけど・・・。
111 :
日本@名無史さん:02/03/16 01:41
佐竹先生は広島大学の教授からフェリス女学院の学長になりました。
112 :
日本@名無史さん:02/03/16 09:15
佐竹義篤−大山義孝−義俊−義兼−義長−義成−義保−義在−義景−義則−義林
>>110です。
>>112、うちにある家系図と同じですね〜。
実は今から30年前に(まだ5歳ぐらい)一度行った事が有るんだよね、下院内に。
114 :
日本@名無しさん:02/03/21 13:25
佐竹一族と関係あるのかわからないけれど・・・。
真田幸村の息子が出羽本荘亀田藩に落ち延びたって本当かね?
その後岩城氏の元で庇護してもらったという俗説が。
由利郡という名前も元は真田十勇士の一人由利鎌之介からとったのかな?
115 :
日本@名無史さん:02/03/21 22:08
戦国時代に由利12?党ってのがいたからそれはないでしょ
116 :
日本@名無史さん:02/03/22 01:21
117 :
日本@名無しさん:02/03/28 13:21
幸村の息子ではなく娘、それも5女だったのか。
あっと、確かその後、初代藩主義宣公死去後、子がなかったので岩城氏から養子を取って2代目藩主にしたと聞くけれど、
それって、この娘の子か?
だとすると、真田の血も入ったことになるのか?
118 :
日本@名無史さん:02/03/28 14:36
2代秋田藩主は岩城貞隆嗣子・岩城吉隆(佐竹義隆)
5女が嫁いだのは佐竹義宣の弟・岩城宣隆
5女が産んだ岩城重隆が家督を継いだが、孫にあたる
3代藩主岩城秀隆に子が産まれず岩城宗家は事実上断絶、
4代、5代藩主は伊達家から2度養子を迎えている。
119 :
日本@名無史さん:02/03/28 14:40
120 :
ともチャン:02/04/09 06:34
ちょっと前に来ていた、東家の子孫の方いらっしゃいますか?
ひとつ聴きたいことがあるのですが。
義重、義宣と同時代を生き、
徳川との折衝に尽力した佐竹東義久のお墓はどこにあるんでしょうか?
水戸の藤沢山神応寺ですか?
続き
因みに二人の母は豊臣秀次娘(長女)です。
秀次の子は皆殺害されたというが,この娘が一人密かに
助け出されて,かくまわれた。かくまったのは
恐らくは真田昌幸、石田三成、佐竹義宣のいずれか
だろう、とのことです。
佐竹雅昭の着ていたtシャツは扇に日の丸だった
けどなんか関係あんの・・・?
124 :
日本@名無史さん:02/04/15 20:58
あいつヲタだから信長の野望で知ったんだろ。
大坂だしな
126 :
日本@名無しさん:02/04/16 11:25
佐竹氏は、天下人のような大勝はしないけれど、滅亡を首の皮一枚で何度もしのいできた一族(宗家は)。
同姓として宗家のスーパー悪運にあやかっているんでしょう。
128 :
日本@名無史さん:02/04/16 17:25
ああ
やっぱ佐竹だな・・・・?
高柿が山入流なら有力でしょ
半国守護だった山入氏の傍流なんだし
義有は子孫居なかったとも思うんで、除外するとして。
血筋的には大山、石塚かなぁ。
小場も義宗、石塚も義辰が入嗣するまでは義人系ではないね。
血筋的には劣るけど、長倉、高久、岡部なんかは義人系は入ってない。
山入系では小田野も義仲系で残ってるはず。
高柿(高垣)祖の義郷は出自も諸説あるし、高柿が得に有力という気は
しないのです。
山入が残ってれば家格的に山入でしょうけど、高柿は立場的には山入傍流
なわけで、家格はいくつか残ってる佐竹庶流とどっこいだと思うのですよ。
家格、血筋どちらも得に有力ではないでしょう?
佐竹スレはsage進行でおねがいします。
だめです。。。あげあげ〜〜〜〜
age潮じゃ〜!age潮じゃ〜!
坂東太郎萌え〜〜
佐竹義重は、馬に乗るまで武者振るい
とまらなかったんだって!!!!
もっと評価高くてもよくね??
>120
すみません。わかりません。但し、秋田転封の前になくなっているので、
常陸のどこかでしょうね。
秋田の東家の墓はだいぶひなびているとききます。一度いかねばと思いますが・・・
俺は佐竹の末裔だよ
139 :
日本@名無史さん:02/04/18 22:32
140 :
日本@名無史さん:02/04/18 23:02
>138
それはすごい!宗家の方ですか?それとも分家?爵位などは戦前は何をもらってました?
141 :
ともチャン:02/04/19 00:55
>>137 あ、うれしいな。
たまに見ていてくれると助かります。
いや、義久の墓があるといわれている場所は知っているんです。
水戸の藤沢山神応寺なんですが、新編佐竹氏系図に、そう載っています。
で、去年その神応寺へ行ってみたんですよ。でも住持の家の方に無いといわれました。
そこは間違いなく藤沢山神応寺なんですけどね。
それで、ひょっとしたら秋田のほうにお墓を移したのかなー、と思ったんです。
142 :
日本@名無しさん:02/04/19 10:41
「鉄砲と日本人」によると、信長軍の長篠の戦での鉄砲三段撃ちは後世のフィクションだったとか。
そう考えないと、その後の石山戦での雑賀鉄砲衆による信長軍の苦戦が説明できないとか。
すると、沼尻での戦いの佐竹軍の8千丁の鉄砲による北条軍迎撃はどうなるんだろう?
もしかして、沼尻戦が、後世での信長軍長篠戦鉄砲三段撃ちのモデルになったのか?
なにしろ当事関東最強を鳴らした北条騎馬軍団が8万騎だからな。
8千丁という数はフィクションにせよ、数千丁の鉄砲工面しなければ、到底伍する事は不可能だったろうし。
>>142 いいなそういう考え。。
ロマン広がるし・・・。
>>104 そんなんないけど、義重とかより筋目はいいよ。。
戦国期は家臣だったがね。
朝鮮の役には行ったんだよ。。
間違えたよ。104じゃなくて140
数千丁も鉄砲保有して、七千の兵しか無かった伊達に手こずったのかよ(w
いkrはじゃんけ
強いんだよさた
147 :
日本@名無史さん:02/04/19 23:50
去年、吉川弘文館から出た『戦国史研究』42号に
佐々木倫朗氏が以下の論文を書いています。
「佐竹氏の小田進出と越相同盟」
148 :
ともチャン:02/04/20 06:26
>>147 それのダイジェスト版が、2001年四月号の「歴史読本」に載っています。
149 :
日本@名無しさん:02/04/20 14:18
>>145 大半の鉄砲は、北条牽制のために関東に張り付かせておかねばならんかったし。
まあ、人取橋の戦で、伊達政宗の鎧にかなりの鉄砲傷を残したし。
摺上原は「天運味方せず」だったな・・・・。午後から向かい風の豪雨だもの。
そうだyo!!
>149のいうとうりだね
ひたすらあげたいんだよ
またまたあげ
153 :
日本@名無史さん:02/04/23 22:50
今の宗家ってどうなったの?
またまたあげます
またあげたりしたりして
156 :
日本@名無史さん:02/04/26 16:40
ぶっちゃけ直系ですが何か?
まぢで??
佐竹さん?
158 :
日本@名無しさん:02/04/27 10:43
>>156 今の政治状況を見るに、乱世は近いです。
日本は危ないです。
一方で、佐竹一族、特に宗家は、いかな滅亡をも回避する「地獄の悪運」のスキルを持っています。
これから先の社会でどう動きます?
さたけまんせ〜〜
さが〜る さが〜る ほ〜らだんだん さがりたくなってきた。
あげまん
あげます
163 :
日本@名無史さん:02/04/29 21:19
しょせん、何をやっても冴えない東北人
甘いな君・・・>>
佐竹スレはあげ進行で
また〜りな。また〜りだぞ
なんだかんだ源氏の名門!!!
関東の佐竹ったらつよくて有名。。
佐竹まんせ〜ですが何か?
171 :
日本@名無史さん:02/04/30 14:29
所詮佐竹は関東では亜流だよ。
歴史上一度も本流にはなれなかった。
いいじゃんけ
佐竹まんせーーナスレなんだから
佐竹はまだ新興勢力だった頃の信長にすでに通じていた
という事実を言ってみるテスト。
てことは先見性が優れていたということを言ってみるテスト。
佐竹まんせ〜〜だな。
漏れに言わせればな。
漏れに言わせればだぞ。。。
やっぱすごいぞ坂東太郎。。
源氏の名門。。」」」」」」
小一時間問い詰めたいわ。。
176 :
ともチャン:02/05/01 10:45
ていうかむしろ、先に信長から佐竹とコンタクトをとって恩を売り、
のちに関東進出の際に先働きさせた挙句、
最後にブチ殺してテメエの領土にしようと考えていたといってみるコスト。
まぢでともちゃん。。??
そうなんかな??
義昭を信長が上洛したときに
義重ついてったらしいよ。
いやまぢだよ
178 :
日本@名無史さん:02/05/01 14:49
>>177 ついていったかは真贋分かれるが、その際鉄砲の火薬の調合法を記した秘伝書を将軍から拝領したとか。
義宣公は鉄砲に使う火薬についても研究を重ねていたそうな。
義重が信長と交流し始めたのって長篠の合戦の後じゃなかった?
へ〜そうだったんだ!!
勉強になります。。
そういう佐竹関連ネタはどこで仕入れてるんですか??
教えて君ですみません。。。
181 :
日本@名無史さん:02/05/01 15:41
長篠の合戦以降ってなんでわかんの?
182 :
日本@名無史さん:02/05/01 17:50
鉄砲たくさん持ってたから北条に勝てた。。
という史実を述べてみるテスト。。
ながしのの六年後?かな。。
だから先見の明
やっぱすごいね佐竹。
中央に近かったら天下取ったよ
絶対に!!!
184 :
ともチャン:02/05/01 17:58
>>177 ソースは、ひょっとして、とある個人のホームページかな?
とあるホムペトハ?
186 :
ともチャン:02/05/01 18:17
www.remus.dti.ne.jp/~ddt-miz/satake/satake-6.html#satake-6
あんまだしたくないけど、仕方ないので、ここ。
>>186 なんだよwここの管理人
伊達家が北陸奥を領有してたって・・・
南部ヲタが聴いたら騎馬Sの南部軍が
常陸まで襲って来るぞ(w
>>187 じゃなくて常陸南部だろ??
南ってこと!
おまえが藁
>>187
騎馬sとか言ってるのがオモロ(プッ
モロ野望ヲタ
あげんなよ
まじであげます
------------------------終了-----------------------------
(´∀`;)・・・・・。読めないのか?日本語。
あげましょう
195 :
日本@名無史さん:02/05/02 00:41
(・∀・) イイ!!ここまで佐竹マンセーだと逆に清々しい。
しかしチョト誤字がありますな、(×人取川→○人取橋)ですな。
佐竹マンせーなのは当たり前。
だって義重いいべ??
かっこいいべ??
北条軍にひとりで突っ込む。んで七人斬っちゃうなんて・・。
かっこいいべ?
かっこよくない?
かっこいいよね〜?
ていうかむしろかわいくない?
かわいいよね〜?
またあげます
つねにあがっているスレ
200ゲット!!
連休中にどんどんカキコしよ。
また〜〜り上げ進行な。
また〜りだぞ。
多賀谷も信長と誼を通じていたとか
別に珍しくもないんじゃない
あげますがなにか??
出羽の安東愛季も白鳥長久も信長と誼を通じていたとか
別に珍しくもないんじゃない
204 :
ともチャン:02/05/06 06:45
そのとおりで、別に珍しくとも何ともない。
だいたい、佐竹は元亀および天正の改元があったことも知らなかったくらいで、
信長が佐竹に書状を送ってくる1570年代の半ばまで、中央の情報に疎かった。
多分、信長から連絡をとるまでは、西のことは伝聞で知っていたに過ぎない。
しかし、信長とそういう関係ができてからは積極的に情報を集めたみたいだ。
八十年代になると、家臣の東義久をなんどか上方に使いさせて、
豊臣と仲良くした。
あと下野の対北条鯉尻の陣で佐竹が鉄砲を八千挺くらい持ってたというのは、
かなりあやしい説。確かこれは国典類抄だけに載っている話で、しかもその中で
合戦の日付を間違えているとか、はっきりいってかなり信用性に乏しい。
関八州古戦録、奥州永慶軍記、あるいは他の資料にも、この戦いにおいて
そんなに大量の鉄砲が用意されたとは一言も書いていない。
国典るいしょうとはどのような書物なんですか?
教えて訓ですみません。。
てか、ともちゃんに仕官したいでござる。
206 :
ともチャン:02/05/06 08:49
ともちゃんありがとうございます
208 :
ともチャン:02/05/06 13:18
あー、ちなみに国典類抄になんて書いてあるかというと、ちょっと略して
鉄砲一千挺 下妻(多賀谷修理大夫)
鉄砲三百挺 結城(晴朝)
鉄砲三百挺 下館(正村)
鉄砲三百挺 宮(宇都宮)旗本
鉄砲三百挺 皆川(広照)
鉄砲三百挺 壬生(綱雄)
鉄砲二百挺 芳賀(高武)
鉄砲千百挺 東(佐竹義久)
鉄砲五百挺 江戸(但馬)
鉄砲八百十挺 府内(大掾と南方三十三館主全部で)
鉄砲百挺 竜子山(車丹波)
鉄砲五百挺 幸沢(たぶん義重叔父の小野崎山城)
鉄砲五十挺 塩松(おそらく芦名の家臣だと思われる)
209 :
ともチャン:02/05/06 13:18
鉄砲千挺 旗本(佐竹の旗本)
鉄砲三百挺 会津(盛隆)
鉄砲百挺 岩瀬(たぶん義宣の妻の実家、二階堂の親戚)
鉄砲百挺 白川(義親)
鉄砲百挺 田村(清顕)
鉄砲百二十挺 須賀川(二階堂)
鉄砲三百挺 北(恵悟)
鉄砲二百挺 小田北(たぶん梶原源太のこと)
鉄砲三百挺 片野(三楽斎)
鉄砲二百挺 額田(下野守)
鉄砲百挺 茂木(筑後守良治)
鉄砲二百挺 真壁(安芸)
210 :
ともチャン:02/05/06 13:18
計8780挺。
他にも、ムモとか、大関、益子、笠間、宍倉、宍戸、芦名四天の富田等、
たくさんの国人が参加しているけど、鉄砲持ってきたものだけ書き写す。
国人の名前が領地の地名で書いてあるので、解りづらいので
()内でわたしが誰だか邪推した。多分あってると思う。
幸沢とか、塩松とか調べるのに苦労した。
こうしてみると、やっぱり佐竹が八千挺の鉄砲を用意したんじゃなくて、
それぞれの国人が持ち寄ったものあわせてということだな。
もし佐竹だけで八千持ってたら、奥州を統一できるからな(和良
それでも佐竹だけで2400挺あるが、実際これでも多いほうだと思う。
多賀谷も1000持っているが、あの程度の大名にしちゃ多すぎる。
でも、多賀谷が北条の攻勢に耐えられたのもこの鉄砲のお陰かもな。
またまたトモちゃんありがとう。
すごいですね。。
もしかして佐竹にゆかりある方ですか??
212 :
ともチャン:02/05/06 15:49
いや、ゼンゼン。
213 :
日本@名無史さん:02/05/06 17:20
江戸崎の土岐氏が鉄砲を烟田氏に一貫で売っていたなんて話もあるようですよ
みなさんすごいよ
どうしてみなさんくわしいの???
215 :
日本@名無史さん:02/05/06 21:54
田村清顕って芦名と敵対してるんじゃ・・・?
>下妻・古沢氏が仕えた主君の多賀谷家は、
>戦国大名として最強の千丁規模の鉄砲隊を組織していた。
>他の戦国大名が三百丁規模の鉄砲隊しか持なかったことを考えると
>多賀谷鉄砲隊の規模が想像できる。
>兵力の不足を飛び道具で補って戦う軍略だが、
>下妻を中心として急速に勢力を拡張した多賀谷軍団の強さの謎が解けてくる。
と古沢氏について調べたっていう人の小説に書いてあったなぁ。
ちなみにここね↓
www.azaban.com/kajika/furusawa/001105_3.htm
217 :
日本@名無史さん:02/05/07 14:20
>>214 漏れは図書館行って調べた。
関東の戦国関係調べれば、コラム扱いだけど乗っている。
20歳以上で東京在住なら、国会図書館行ってみれば?
>216国会図書館とは??
いづこですか。。。
田舎門っです。
教えてください
219 :
ともチャン:02/05/08 21:38
220 :
日本@名無史さん:02/05/09 13:17
>>218 東京駅で、丸の内側地下道行くと「丸の内線東京駅」に着く。
切符は「国会議事堂前」まで買う。¥160だと思われ。
そこから「四ツ谷・新宿・荻窪方面」の電車に乗る。
「国会議事堂前」で降りたら、駅に地図が載っている。
外に出て、国会議事堂を右手に見て、大通りに出ると、対面が国会図書館。
221 :
日本@名無史さん:02/05/09 14:39
>>76 現当主は確か世田谷に住んでいて長男が山梨県庁勤務(!)
222 :
ともチャン:02/05/09 15:33
>>215 田村は、1560あたりからの佐竹の侵攻に対しては、
芦名と共同戦線を張って対抗してきた。
七十年代には田村と芦名が一時仲間割れして、田村は佐竹に応援を頼んだが、
合戦の最中に田村が芦名に寝返るというわけのわからん飛び道具を放ったりしている。
しかし、北条氏の北上に対しては佐竹とともに下野付近まで出てくるなど、
決して佐竹とも芦名とも敵対関係だったわけではない。
というか、関東、仙道の小大名はその時々の情勢によって右にでも左にでもつくという
厄介な性格なため、佐竹も芦名も北条も上杉もみんな苦労した。
真田が「表裏ひきょう」などと秀吉にいはれたというが、関東仙道の小大名に比べれば
首尾一貫しているといっていい。
223 :
日本@名無史さん:02/05/10 14:16
>>222 「小大名」って、佐竹や葦名・上杉・北条の各大名ルートから仕入れた情報を吟味して、全体状況把握することせなんだ?
・・・まあ、伊達や北条すら秀吉の勢力を見誤っていたからなあ・・・。
いいぞさたけスレ
みんな大好き
さたけ
226 :
伊達遠江守家中:02/05/12 00:47
佐竹三郎?(@特撮板 爆)
茨城義重
228 :
日本@名無史さん:02/05/13 01:32
≫221
佐竹家って長い事、当主不在のはずですよ。奥さんと娘さん(といってももうおばさん)
の二人だけで、長男いないはずなんだけど・・・。養子を取ったのかな?
井の頭沿線の池の上に住んでるね。
229 :
日本@名無史さん:02/05/16 20:43
230 :
日本@名無史さん:02/05/18 11:55
231 :
日本@名無史さん:02/05/21 01:50
茨城の人間は訛りがつよい
秋田の人間も訛りがつよい
233 :
日本@名無史さん:02/05/21 11:54
>>231-232 茨城・秋田って、どんな訛りだ?
宿敵伊達政宗の仙台弁「だっちゃ」は、聞くたびに某鬼娘連想してトラウマ爆発。
234 :
伊達遠江守家中:02/05/21 14:41
>233
大学時代の友人(茨城出身)は「だっぺ」だったよ?
秋田は知らないなぁ。
秋田は「だべじゃ」とかかな?
秋田の田舎を車で走った時に、地元の老人に道
を尋ねたのだが、返答が方言で通じなかった。
236 :
日本@名無史さん:02/05/21 16:20
自分は秋田美人の特徴を知りたいっす!
「好きだべじゃ」とか言われたいーーーーーーーーん
237 :
日本@名無史さん:02/05/26 11:13
>>236 コーカソイド系の血が入っているのか、瞳に青が入っているとか。
238 :
日本@名無史さん:02/05/27 11:18
色素が薄いので色が白い。尿に中に含まれるウイルスにコ−カソイド
と同じものを持つ人が東北の日本海側に多い。ということじゃなかっ
たべか?
239 :
日本@名無史さん:02/05/27 11:47
ハーフでさえ5人産んでやっと1人、青い瞳が生まれるかどうかなのに・・・
240 :
日本@名無史さん:02/05/27 12:21
初代佐竹昌義は、奥州藤原氏開祖の藤原清衡から嫁もらっていたからね。
そこから秋田美人の血が入ったと妄想。
241 :
日本@名無史さん:02/05/27 16:38
またーり
242 :
日本@名無史さん:02/05/27 21:43
現佐竹当主の佐竹申伍は真田幸村の小説を書いた
243 :
ともチャン:02/05/27 22:59
え、佐竹申吾って佐竹の当主だったの。
知らなかた。
244 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:18
安泰に逃れた佐竹が幸村の小説を書くなんて・・・
(((( ;゚Д゚)))ガクガクガクブルブルブル
元祖デムパ系の佐竹君はここのところレスがないね。
247 :
ともチャン:02/05/28 05:16
248 :
ナナシンガー:02/05/28 12:39
>>247 「武田惣角:大東流合気柔術始祖」は、自分の拳法を源義光からの伝来だと言っていたが、佐竹には伝わっておらんのか?
骨法の堀部正史は、自分の拳法のルーツが佐竹乙王丸(南北朝時代の佐竹貞義か義篤の子)からと言うのは、どうもフィクションらしいが。
249 :
日本@名無史さん:02/06/02 11:57
ななしage
250 :
日本@名無史さん:02/06/02 13:31
あげ
251 :
日本@名無史さん:02/06/06 14:49
再放送中の水戸黄門第9部10話で「風雲 久保田城」で、牧れい出演萌え。
これって出羽佐竹氏の久保田城か?
252 :
日本@名無史さん:02/06/09 13:34
広島県の佐竹氏は、元は紀州雑賀衆の「佐武伊賀守」がルーツらしい。
元々は佐竹で、佐武に変えたのは伊賀守の時らしい。
今でも関西では「佐武姓」が残っているらしいけれど。
広島に移った方は「佐武」から「佐竹」に戻したとか。
253 :
日本@名無史さん:02/06/09 16:46
佐竹氏に詳しい皆さん、俺、福岡北九州の佐竹だけどルーツ教えて。
家紋は扇に丸だったと思ふ。
254 :
日本@名無史さん:02/06/09 17:04
>253
まず御両親の出身地を教えてくださいな
255 :
日本@名無史さん:02/06/09 17:44
モシカシテ佐竹ノ家紋テ扇ダケ?
>>254 俺の知っている範囲では祖父の代から北九州です。
壇の浦での平家の落人説もあるみたいだけど。
258 :
日本@名無史さん:02/06/11 14:06
>>257 四国土佐の久礼からの流れか、それとも山陽安芸の佐武伊賀守の流れか・・・・。
あ、戊辰戦争の後、官軍側だったにもかかわらず、政府(というより赴任してきた土佐系の知事)の冷遇に嫌気が指して、出羽秋田を後にしたのも多いらしいからなあ・・・。
259 :
日本@名無史さん:02/06/14 15:44
「赤松一族」のスレがあったので、お礼状出しておきました。
結城合戦後、赤松氏が足利義教を暗殺しなかったら、宗家は滅亡していましたから。
・・・・山入氏マンセーはいないだろうな・・・。
260 :
日本@名無史さん:02/06/19 01:14
山入氏マンセー
誰ぞある。
出羽窪田、東家の表門の保存と保守をたのもう。
レス48の東家子孫です。個人的に保守を頼むとやはり費用も馬鹿になりません。
難しいところです。
漏れの先祖は佐竹氏の陪臣だったが、直属の主人をハメテ領地をゴチになった。
因果応報天罰覿面。
現在プー。
金くれ。
265 :
日本@名無史さん:02/06/20 12:49
266 :
伊達遠江守家中:02/06/20 16:21
>263
地方公共団体(県・市町村)の指定文化財になっていないのですか?
県指定なら、県50%、市町村&所有者25%ずつ負担。
市町村指定なら、市町村&所有者折半になりますよ。
全額自腹よりは、大分よろしいかと思うのですが。
267 :
日本@名無史さん:02/06/21 13:53
D.I.Y.だとどの程度で補修できるかな・・・。
最近業者に頼らず自前で家を建てる人がいるって言うけれど・・・。
268 :
日本@名無史さん:02/06/21 14:48
>267
激しくレベルが違うと思うんだが…
269 :
日本@名無史さん:02/06/24 12:36
秋田の戊辰戦争・・・もののあはれの秋田口と京の童にも詠われたけれど、あえてそれを全国に発表したい気分になってきた。
それは、戦後日本の安易な反戦思想の行く末をトレースしたものであるから。
佐竹を嘲るほどに、今の日本は立派なのか?
270 :
日本@名無史さん:02/06/27 11:31
age
>>269の補填
小田原評定を繰り返したあげく、官軍側になったけれど、緒戦は庄内藩に押され撤退戦ばかり。
兵の士気は最低。
秋田城下ぎりぎりまで押され、ついに義尭公が督戦で発破かけ、ついでに官軍側から新兵器や兵士が到着。
ようやく盛り返すが・・・。
その後廃藩置県で土佐出身の知事がくるが、「東国蔑視」な冷遇政策に、一揆がおこるもそれを弾圧。
安易な反戦思想は「乱を忘れず」を右翼的といって非難してきた結果、日本を、有事においてかつての秋田藩のようなおっとり刀な対応にさせてきている。
米国がさながら「官軍」か。
「もののあはれの秋田口、明日はわが身か」と反省している気配、いまだ見えず。
271 :
伊達遠江守家中:02/06/27 16:31
>270
ほう、結構結論が出るまで時間がかかっていたのか。
総督府の秋田移動の直後に、仙台の使節団皆殺しという思い切った行動で新政府
側に加わったので、三春や相馬とは違って自律的に行動した結果かと思っていた
よ。正直参考になった。
もしよろしければ、そのあたりをもう少し詳しく聞きたいのですが。
子孫は秋田県知事選挙で落選・・・
>272
まじでつか…
274 :
日本@名無史さん:02/06/27 19:25
うちの先祖が昔、殿様と一緒に戦に行ったまま、とうとう
戻ってこなかった。ということがあったらしい。
それがどうやら佐竹の殿様と関が原の戦いに行ってたらしく
「言い伝えが本当かどうか・・」と秋田からたずねてきた生き別れの
親戚?の証言で判明。
つい30年位前のはなし、14代目の真実。(茨城にて)
>274
新しい歴史の幕開けだな…
276 :
日本@名無史さん:02/06/27 23:30
>274です
遠い親戚とはそれっきり
いつか秋田行く機会があったら
行方不明のご先祖のお墓参りしてこようと思う
(殿様を守るようにと隣に立てられたらしい・・死んでもなお・・)
277 :
日本@名無史さん:02/06/28 11:54
>>274 「関が原」というより、その直前の「上杉討伐」じゃないかな?
家康の命で会津の上杉景勝を討伐に往ったものの、突然引き返したという・・・。
そのすぐ後に、関が原合戦。
家康は、背後から佐竹と上杉が組んで江戸を襲うのではと戦々恐々だったとか。
278 :
日本@名無史さん:02/06/28 11:56
上杉討伐は家康の陽動作戦という説が有力では?
279 :
ともチャン:02/06/28 15:41
>>278 陽動作戦ではないですよ。無理があるし。証拠もない。
最近では、家康は石田がマジ蜂起するとは思ってなかった説、が有力。
>>274-277 ひょっとしたら東義久についていったのかもしれない。
義久は三百騎ほどで秀忠に従い、真田攻めをしている。
上杉討伐に参加した佐竹の武将はいないからなぁ。
唯一車斯忠が下士官として上杉に属したが、兵はすべて上杉の兵。
しかも兼続に「命令をきけないならもう帰ってくれ」といわれて佐竹に帰参した。
280 :
日本@名無史さん:02/06/28 22:51
>274です
うーん 詳しい事はじい様でもわからないと思うが・・
ちゃんと聞いておくべきだったかな〜
はっきりしていることは
佐竹の殿様に付き従ったということ(お墓が隣)
一度も戻ることなく秋田に行ってしまったこと
(これを知らない残った一族は代を改め一代目からやりなおした)
その後、その土地では二度とひょうたんを作らなくなった(謎な親父談)
もともとは岐阜の出とも聞いてるし、豊臣方で関が原で負けて主人と一緒
に飛ばされてしまったんでしょう
しかし、当時は戻ってこなかったんでそうとうショックだったんでしょう
今でも正月にお餅食べれない風習が残ってますよ 祝っちゃ駄目だって
とりあえずご先祖は戦にでたまま一度も帰ることなく
秋田に行ってしまったということで
瓢箪=秀吉=西軍?
282 :
日本@名無史さん:02/06/29 00:11
瓢箪ってそういう意味もあるんだ
その近辺では昔からつくってる農家はないって
キウイはたわわなのにね
かなり昔のことなのになんて律儀な・・・
>>274 関ヶ原じゃなく伏見について行ったんじゃないかな。
伏見で国替えを聞いてから義宣は常陸に戻らず秋田に直接行ったともいわれてるし。
あと、秋田への国替えは関ヶ原から2年後だし。
284 :
ともチャン:02/06/29 01:43
>>280 なるほど。
あなたのご先祖が誰だかわかりました。わたしの想像が正しければですが。
佐竹は関が原の戦いには参加していません。
>>283氏のいうとおり、そのあとに伏見城に詰めていたのでしょう。
国替えが決まったのち、常陸では来間の一揆がおこり、
また、義宣を常陸へ戻せば決戦の覚悟になるかもしれなかったので、
家康は義宣を一度でも常陸に立ち寄ることを警戒したためです。
あなたのご先祖は、義宣の側近として重要な位置にいましたので、
義宣のもとを離れることができなかったのでしょう。
お墓が隣にあるというのも彼の重要さがわかります。
もともと彼は飛騨の出身で、仕えていた大名が金森長近によって
滅亡させられたので牢人していたところ、義宣に拾われたようです。
秋田への国替えのときは、佐竹のさむらいはそうとう苦労したようで、
かなり悲痛な話も伝わっています。
大谷光照氏に習って、ご苦労様でした、と言わせていただきましょう。
本当にご苦労様でした。
285 :
日本@名無史さん:02/06/29 20:04
俺もわかった
Mさんでいいのかな?
御先祖様は改名前が義重の宿敵と同名だったりしますか?
287 :
日本@名無史さん:02/06/30 21:50
↑関係ないがなんで緑色なんだろう・・・
M??
苗字はここ15代はNのままと思います
かなり悲痛な出来事って、ご先祖様殺されちゃったのか・・・
288 :
ともチャン:02/07/01 07:07
Nだと?
向宣政小高利政宗じゃないのか。
これはかなり間抜けなことを書いてしまったな。
佐竹家臣で秋田へ行ったNなんて、
長倉、額田、中井川、根本、南宮、浪井、中根、根岸くらいしか知らんな。
常陸には滑川、生田目、野内、長山、中村、中田、奈良なんてのもいるが
この中で岐阜出身のやつなんてマイナーすぎて知らん。
289 :
伊達遠江守家中:02/07/01 13:54
>287
佐竹関係には仙台の『伊達世臣家譜』や萩の『萩藩閥閲録』みたいな編纂物は
ないの? 題名は忘れたけど米沢・南部にも同様の編纂物があった記憶が。
あれば図書館などで探してみればそのあたりの事情が多分載っていると思う。
大抵どこの家の編纂物も藩政成立期の当主の記述は押さえているはず。
290 :
日本@名無史さん:02/07/01 19:15
あれ、やっぱり常陸に残った方が本流なのね
岐阜ってのは、元は岐阜にいた一族がいつの頃からか茨城に
住みついたことと思われる
まぁいろいろ調べてみるのも面白いかも
興味がわいてきました ご先祖様も 佐竹一族も
291 :
日本@名無史さん:02/07/02 12:02
>>290 「吾妻鏡」によると、「承久の乱」の後、功績認められて「美濃国」に地頭職を持ったという記述が。
その頃に、分家の一部が地元に根付いたんじゃないかな?
292 :
日本@名無史さん:02/07/02 12:06
その後、「北酒出」氏か「南酒出」氏として、室町中期に京都か近畿から再び常陸に戻ったとか。
295 :
日本@名無史さん:02/07/06 08:23
>294
当事者の子孫にとっては生々しい記憶なんだろうか…
「ワシのひいじいさんは秋田に行って殺されたんじゃ」と孫に語る風景が目に浮かんじゃったよ。
芦名家が滅んでいてよかったね。
ていうか今回も刺殺したらおもろかったのに。
297 :
伊達遠江守家中:02/07/06 10:06
>295
伊達篤郎さんは、岩出山系のご子孫で元仙台市博物館長だったと思った。
現代でも本家の当主の名代をさせられているご一門衆・・・と思ったらお出
迎えも本家ではなく一門の佐竹北家だったり。(藁
>296
これこれ、現在の人間の生き死にを面白がってはマズかろう。(藁
会津・長州の話も、ラッシャー木村のマイクパフォーマンスみたいだから
ネタにできるんだ。
アメリカでのエジプト人乱射事件みたいに本当に死者がでるようでは、ネ
タにすること自体がヤバかろうて。
>297
まあ、知っている人は知っていると思うが、
ともチャソは知識はあるが、人間性型よってますから。
なんとかとなんとかは紙ひとえってたとえがあります。
芦名家断絶の影には、窪田2代目藩主義隆の計りごとありきだね。
岩城、相馬の血を引く義隆には一族筆頭の芦名家はお家騒動の元にみえたのかもね。
まあも名君として内政につくしたし。残念だが致し方なしか。
もっとも、義宣存命だったらば、ことはちがっていたろうが。
ついでに、角館にある芦名家菩提寺の天寧寺は会津にもあり。
角館天寧寺の窓には扇に月丸のすりガラスでした。
301 :
日本@名無史さん:02/07/06 14:09
こないだ天徳寺にいった。
さすがに廟所の中は入れてくんないのね(w
302 :
日本@名無史さん:02/07/07 10:55
漏れも佐竹だけど、何でも戦国末期に葦名との協約で会津に入った流れだと聞いた。
当時から、会津で「佐竹」を名乗れるのかぎもんぬ。
江戸時代に、久保田の宗家から「むやみに佐竹の姓を名乗ることなかれ」という命が流れたと言うけれど・・・・。
義光流のもう一方の武田が、家名存続のために武田姓を結構頻繁に受け継がせたのとは対称的に。
>302
山入マンセーみたいな人物が出て、宗家と間違われて守護とかになるのを恐れたカモ。
304 :
伊達遠江守家中:02/07/07 11:36
ところで、佐竹に亡命したイッセー尾形こと国分盛重(伊達政重)の子孫は
いたのですか?
仙台関係の資料では亡命後は常陸経由秋田へ、くらいしか書かれていなかっ
たので。
同じ立場(組下領主に養子に出た叔父)でありながら、留守政景とは全く逆
に政宗の信用が薄かった彼の行く末が気になっていました。
佐竹スレなら、誰かご存知かと思いましたのでよろしくお願いします。
>>304 伊達は秀吉がくる前から近世的大名への脱皮を図っていたから
周囲のの黒人勢力等を家臣化しようとして非常に苦労した。
人取橋合戦で仙道の諸黒人が反伊達に走ったり、
伊達盛重や伊達成実なんか一門が出奔するのは
そういったことの反動なんだろう。
伊達盛重1600常陸柿丘城主1602出羽横手城代1614大坂冬の陣佐竹隊一番隊
1615卒嗣無し東義久三男宣宗を養子トスその後いろいろあったものの
おそらく明治まで続き代々宗の字を受け継いでゐる。
306 :
日本@名無史さん:02/07/07 18:35
どうも、趣味で系図を調べてる輩です。
どなたか、紀伊佐竹、土佐佐竹の情報があるかた教えてもらいたいっす。
できたら、参考文献も・・・
教えて君もなんなんで、美濃佐竹でも書いておきます。
美濃佐竹氏系図
(1)
佐竹昌義−隆義−秀義−北酒出季義(助義)−定義−貞頼−度義−佐竹義基
−義尚(宣尚)−基尚−基永−光家−馬場篤親(基親)−政直−政忠
義基に美濃国山口郷。東西上有知庄。とある。
鎌倉室町人名辞典には宣直は係累不詳とあるが、義尚であると思われ。
季義〜義基は諸説あるんで、養子関係か庶嫡争いがあったと思われ。
(2)
佐竹昌義−隆義−秀義−北酒出季義(助義)−上有智公清−佐竹藤義−種義
藤義に住美濃国。号佐竹とある。こっち後裔不明
307 :
日本@名無史さん:02/07/07 19:17
308 :
ともチャン:02/07/07 19:56
>>289 秋田県公文書館に「諸士系図」というのがあります。
元禄時代に家臣に提出させた資料を元に藩が編纂したもの。
秋田及び大館・横手外の直臣が収められている。
18世紀初頭の成立のもの。
今は複写されたものが自由に見られるよ。
外には明治期に編纂された「陪臣系図」というのも見られます。
>309
両方ともアプキボンヌ
311 :
伊達遠江守家中:02/07/07 20:56
>306
「樅の木は残った」の柴田外記朝意は、土佐佐竹だよん。
父が旧主盛親に従って大坂入城して八尾で戦死。落城に伴い脱出中に伊達勢
に捕らえられるがそのまま伊達家に仕え、柴田家の養子となった。
ソースは、
ttp://www2.inforyoma.or.jp/~ota/KtosaS.html 系図にすると、
義之−−−義直(〜1581)−−−親辰(〜1600)
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|−親直(〜1615)−−−柴田朝意(1603〜1671)
って感じ。始祖からここまでどうつながるかは正直わからん。
おお2CHで久々にレスがついた。
最近は相手してもらえなくって..
系図関係の解題は秋田県立公文書館の研究紀要に
詳述されています。いま手元にある第7号55ページの一部を
引用。
「諸士系図」は、1181名の藩士の系図を、イロハ順に並べて
25冊に編纂したものである。偽系図を排除し藩士の嫡庶を詮議するために
文書の内容や真偽を厳しく検討した上で、改めて系図として再編してあるため
家蔵文書と同じく史料としての信頼性は高い。
常陸太田市史編纂史料として「佐竹家臣系図」という形で一部が
紹介されているほか、活字本は知らないなあ。あれば買うんだが。
18世紀(1727年成立)のものながら、草書体でないので
普通に読めますよ。
「慶長7年天英公羽州遷封のとき常州よりきたり
子孫世々**に住す」(原文漢字カナ)が基本フォーマット。
>308、311
参考文献は「佐竹系譜」と「群書系図部集」の美乃佐竹系図と
「系図纂要」とかです
「佐竹系譜」は312さんがあげてる常陸太田市史編纂史料のやつで9です。
「佐竹家臣系図」も見たことは一応ありますが、その時必要なかったので、
深く見てなかったや・・・、また見てみよう
柴田外記朝意は知りませんでした。系図を参考にさせて頂きまっす
土佐佐竹は、「土佐乃佐竹モ義隆ノ末葉也」の一文しか情報なかった
ので助かります。(義隆は隆義であると思われ)
伊達氏や長宗部氏の方でなにか史料がありそうね・・・
あと、佐竹末流の革島氏で、「革島安則」も伊達氏に仕えているのですが、
伊達氏側でなにか情報はないでしょうか?
314 :
バロン曽志崎:02/07/07 22:19
義光―義業―昌義―隆義―秀義
秀義より義通まで不詳
義通――義辰――義之―+―義直――親辰
|
+―義秀―+―親直――朝意(柴田)
| |
| +―義信
|
+―越中守――木工(右?)衛門
朝意―宗意―宗澄=宗理―朝隆―成義―頼恭―親友―意利―意広―意成―
―倫之助―昌弘
315 :
ともチャン:02/07/07 22:44
紀州佐武については「佐武伊賀働書」を読めばわかるかもしれない。
ただしこれがどこで読めるのかは定かではない。
この佐武伊賀守義昌は紀州雑賀党の一人で、
のちに浅野長晟にしたがって広島にいったらしい。
だから広島にも佐竹の苗字が結構があるときいた。
ちなみに紀州に残った連中もいたみたいだ。
これ以上はよく知らない。
ともチャソ、見直したよ。
悪口は撤回します。
317 :
日本@名無史さん:02/07/16 16:12
>216
鉄砲1000丁萌え。
318 :
日本@名無史さん:02/07/18 11:02
定期age
【北酒出】
那珂郡北酒出村より起る、秀義三子助義、北酒出八郎と称す、
嘉禎暦仁間、鎌倉に給事す(東鑑)、後美濃に移り、上有智を食む、
京師を警護し、播磨守に任ず(部垂寺佐竹系図、酒出系図)、三男義資、資清、定氏、
義資二子あり、貞頼、顕義(戸村本系図)、貞頼美濃守、子慶義相模守、
二子義基、義晶、義基和泉守(系図)、元弘中の人(静社奉納書)、
美濃山口、江東、西上有智、弾正荘、を食む、子義直和泉守、子義直二子基永、
詮秀、基永和泉守、子光家常陸介、薙髪宗三と称す(系図)、平生武家古例を譜し、
宗三聞書一編を著す、二子隆常基親、基親嗣ぐ、太田馬場に居り、馬場新介と称す、
和泉守子政直、慶長七年車義照と倶に水戸城を復せんと謀り、事覺れて誅に伏す、
政忠秋田に勝ち徙り、父の罪に罹るを以て、隠居身を終ふ(戸村本系図)
【上有智】
北酒出助義の二子希公清八郎三郎、上有智を食む、因て氏とす、子綱義(系図)
新編常陸国誌より、北酒出氏(後美濃佐竹氏)系図。
お久しぶりです。皆様ご教授ありがとです。
>>319 北酒出ですが、慶義と度義は同一人物ではないかと思ってます。
季義(助義)−義資(義実)−顕義(貞義)−慶義−義基−以下略
の系図があり、
季義(助義)−定義−貞頼−度義−義基−以下略
の系図もあります。
素人考えなんですが、「度」が「慶」の誤字なんてことはないでしょうか?
これまた、素人考えなんですが、慶義は本家顕義の養子になったのでは
ないかと思ってたりします。義基、義尚のあたりで、力を持っていたよう
なので、本家を凌駕、滅ぼして、系図の作為を行ったなんてことも考えら
れないでしょうか?義基以降はどの系図も大体同じですね・・・
素人考えで申し訳ないです・・・、北酒出は系図によって全然違うんで、
自分で納得のいく、系図なんか考えてるんですが、なかなか整理ができません・・・
しかし、紀伊佐武はさっぱりです・・・
なにやら佐武義昌?の小説があるようなので、買ってみたいと思います。
なにかヒントでもあるといいのですが。
321 :
ともチャン:02/07/21 08:56
はっきりいってしまえば、常陸以外の佐竹氏にはあまり興味ないのだが、
ていうか、秋田の佐竹にも興味ないし。
たまたま買った新編常陸国誌に載っていたので書いてみますた。
まぁ、慶義と度義が字の間違えだというのはほぼ間違いないと思うりゅん。
写本、あるいは史料として使った際に写し間違える例は少なくないはずりゅん。
ただ、度か、慶か、あるいは別のもうひとつの字なのかはわからないりゅん。
そして、実はわたしは佐武義昌の小説はすでに持っている竜ン。
津本陽という、イカレポンチ野郎(おっと、ファンの野郎どもの
抗議は聞かないぜ、このイカレポンチ野郎どもめ!)の短編だ竜ン。
しかも全然ていうかほとんど読んでないじゅん。サウージサウダージ
322 :
ともチャン:02/07/21 09:04
323 :
日本@名無史さん:02/07/21 09:10
ともチャンはセンチメンタルグラフィティが好きなんですか?
センチメンタルグラフィティって何や年。しばくぞ!
語尾に「りゅん」をつけるヤシはギャルゲーマー
326 :
日本@名無史さん:02/07/22 11:11
えみりゅんは仙台の人間だりゅん。
だから佐竹ではなく伊達マンセーだりゅん。
・・・・なら「だっちゃ弁」しゃべるべきだな。
327 :
日本@名無史さん:02/07/22 11:32
りゅんりゅん
なんか異様な雰囲気になってるな。
だいたいここは日本史板の中でもまじめなほうのスレッドだぞ。
夏休みに入るとこれだからな。
始 め に り ゅ ん り ゅ ん 言 い 出 し た 奴 は 死 ね 。
クソが。
329 :
日本@名無史さん:02/07/22 12:52
>321
漏れ、佐竹の陪臣の子孫だけど。
このざまはなんだ?結構まじめで好きなスレだったのに。
331 :
伊達遠江守家中:02/07/22 23:55
一泊二日で横手・花山・岩出山と回ってきた。
横手でご当地本探したら、伊達盛重も紹介している本があった。
>出羽横手城代
と言いつつも、実態は須賀川二階堂旧臣須田家に実権を奪われ、養子宣宗は渋江・
須田の陰謀で失脚したまま没するなど、佐竹に鞍替えしても一向に運が良くなら
ないところには笑いを通り越して可哀想になってしまった。
盛重=宣宗(東家より)−隆宗−一十郎=処宗(東家より)−峰宗−敦宗
この跡は今回購入した本には掲載がないのだが、どうも一字拝領しているような
ので、多分「和」「厚」「睦」「尭」を貰った当主が続くのだと思うがご存知の
方教えてくだされ。
あと、宣宗が失脚する直接の口実にされた「大眼宗事件」についてもご存知の方
がおられたら、よろしくおながいします。
その他佐竹麻雀軍団と本家との関係や、本家にすら見捨てられて消滅した佐竹系
芦名家の悲劇など、色々勉強になったっす。
332 :
日本@名無史さん:02/07/24 12:00
age
333 :
日本@名無史さん:02/07/26 11:08
333getずさー。
334 :
日本@名無史さん:02/07/29 23:29
ユーモア時代小説「どっちにつこう物語」泥江龍彦 作を読みましょう。
佐竹一族の謎がわかります。
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337 :
日本@名無史さん:02/08/03 23:49
源平
関ヶ原
頼朝を攻める、江戸(徳川)を攻める等してれば
散ってもファンが増えていた。
歴史の変わり目でいつも中途半端な佐竹家
日本人の趣味にいまいち合わない。
338 :
日本@名無史さん:02/08/04 13:38
339 :
日本@名無史さん:02/08/05 23:03
佐竹が秀吉に安堵された21万貫は石高に換算するとナンボ?
それと54万石の内、江戸、太田、真壁、梶原、大掾はどのぐらい貰ったのか
芦名、島崎の4万5千石以外を教えて
340 :
日本@名無史さん:02/08/05 23:26
貫と石の交換レートがわからん
341 :
日本@名無史さん:02/08/05 23:34
地域によるけど2倍〜5倍ぐらいらしい、京に近いと安く、遠くなると高い
でも米所だとまた別だろうし
342 :
ともチャン:02/08/05 23:42
一、拾五万石 (此内五万石御加増) 義宣
一、拾万石無役 (此れ内九万石御加増) 義宣蔵入
一、五万石無役 (此内四万石御加増) 義重
一、六万石 (此内一万石無役)(此れ内五万石御加増) 佐竹中務大輔
一、拾六万八千八百石 (此内四万石御加増) 与力家来
一、壱万石 (太閤様) 御蔵入
一、千石佐竹中務代官徳分に被下
一、参千石 石田治部少輔
一、三千石 増田右衛門尉
都合五十四万五千八百石
右今度以検地之上被成御支配候也
文禄四年六月十九日(御朱印)
羽柴常陸侍従とのへ
343 :
日本@名無史さん:02/08/05 23:50
ともチャンありがとー
与力16万石が江戸、太田他ってことね
344 :
ともチャン:02/08/05 23:54
江戸崎芦名は五十四万石とは別口や正味のはなしが
江戸と大掾は義宣にブチ殺されたッちゅうねん
怒るでシカシ
家臣の細かな石高の数値は知らんちゅうねん
どこに配置されたかはわかるけどな、賞味のはなし
345 :
日本@名無史さん:02/08/05 23:58
>>342には江戸と大掾含まれてない?
江戸は退去命令=佐竹傘下を良とせず討伐されたんじゃなくて
秀吉から元々所領を認められてなかったの?
太田、梶原、山尾・石神・額田小野崎、真壁、島崎他で16万?
347 :
ともチャン:02/08/06 00:21
額田と島崎はおらんがな。義宣にブチ殺されたッちゅうねん正味のはなし
佐竹の城持ち家臣全部いくでぇ。
348 :
ともチャン:02/08/06 00:21
和田昭為及びかわいい背>赤館
今宮光義>寺山
前沢筑後>滑津
茂木治長>茂木
太田景資(三楽三男)>ムモ
松野資通>松野
南義ひさ>石岡
石塚義辰>片野
長倉義興>柿岡
飯岡ひょうぶ>戸崎
梶原政景>小田
真壁重幹>大島
宍戸義長>海老が島
真壁房幹>真壁
川井だいぜん>玉造
小貫頼久>堀の内
大山義則>小高
東義久>鹿島、宍倉など
河勾何某>保護田
船尾何某>下吉影
茂木治良>小川
野口四天王>長倉
真崎宣広>那珂湊
小貫伊賀>戸村
小野崎千代房>石神
小場義宗>小場
江戸舜通>鳥子
北義憲>久米
野内広忠>袋田
小野崎宣政>山直
大塚隆通>たkっこやま
来間斯忠>来間
マンガ夜話見るんで落ちます
>>342の日付みてませんでした、スマソ
350 :
日本@名無史さん:02/08/06 15:50
今の、秋田市長って誰?
()内の加増分27万石が江戸・額田・大掾・三十三館・多賀谷の旧領になる?
353 :
日本@名無史さん:02/08/07 18:32
>>350 北家の佐竹敬久氏だと。
秋田市も独自にカジノ経営模索しているらしい。職員何人かラスベガス?へ研修に行かせたとか・・・。
354 :
日本@名無史さん:02/08/07 21:43
梢は俺の一生の思い出になったから
>>345 レス見逃してた。スマーソー。
秀吉が所領を認めたやつは小田原に参陣した連中だけ。
江戸も大掾も小田も龍ヶ崎も江戸崎も鹿島行方も下野の何某も奥州の石川も
みんな小田原に行かなかったので秀吉から認められていない。
どうもありがとうございました。
うーん、佐竹さんって、大河ドラマにならないかな?
357 :
日本@名無史さん:02/08/08 18:07
358 :
日本@名無史さん:02/08/08 18:10
ただ、ちょっと気になることが・・・。
来年の大河は「宮本武蔵」だけど、再来年の大河は「ザ・新撰組」。
普通は再来年の作品名は来年に発表するはずなんだが、発表が早すぎる。
再来年で大河は終了なのか、それとも・・・いや、やめよう。下手な希望はたちが悪いから・・・。
>356
昔の東北モノのように、三期にわければどうだろう。
第一期:鎌倉初期
頼朝との確執を描く
第二期:南北朝
常陸守護家としての成立と山入マンセー
第三期:戦国時代の義重・義宣
秀吉・三成・家康と絡めて、最終回(国替以後)のみテレ東で12時間スペサル。
どうよ道誉
361 :
日本@名無史さん:02/08/08 23:37
>>355 あれっそうなの?
この頃、列伝系サイトで見かける島崎4万5千石安堵のソースってなんだろ?
この間は烟田にも所領安堵されたって列伝サイトあったけど
>>352 多賀谷って小田原陣前には谷田部・小張城まで南下してたのに
秀吉政権下では文禄の役以前から下総にしか領地なかったの?
362 :
ともチャン:02/08/09 08:32
>>361 島崎や鹿又に所領安堵があったという話は聞いたことがないな。
ま、あったというのならあったのかもしれない。
できればソース鬼煩濡。
1590−05−27。佐竹とその親族連中(東、芦名、宇都宮、結城など)と
常陸下野下総国人衆(太田、真壁、茂木、額田、多胡、塩野谷など)が小田原参陣。
1590−08−01。佐竹所領安堵二十一万余貫(約八十万石か?)。
おそらくこのなかに芦名の龍ヶ崎、江戸崎四万五千石の所領もある
(島崎四万云々というのはたぶんこれと混同していると思う)。
また多賀谷は結城秀康の被官を命じられる。
重経は嫡長子三経に下総の所領を与え秀康に仕えさせ、
養子の宣家には下妻ほか常陸所領を与えて独立させた。
1590−12ー19から翌年三月下旬まで。佐竹、常陸他家所領へ侵攻開始。
江戸、大掾、額田、土岐、33韓などを次々と滅ぼす。
1595−06−19。文禄検地。改めて、佐竹に
>>342の朱印状が渡される。
前の貫高よりも下がっているが、おそらく天正十八年のは、
正味のはなし、結構いいかげんな数字だったんじゃなかろうかと。
だって小田原攻めの直後だし。あるいは動員力や軍役から逆算したものかと。
363 :
日本@名無史さん:02/08/11 23:01
ともチャンなら衆道の兄貴になってもらっても良いと思う。
>>363 ありがとう。
なんか戦国人名事典がネタッぽそうだなーと思ってそれ見たら、載ってた。
確かに島崎四万五千石所領安堵と書いてあった。鹿又も。
小田原の陣へいく義宣についっていったやつに島崎というのがいるんだけど、
33巻の島崎だったのか。それだったら所領安堵もありうるな。
>>364 貴様、安らかに死ねると思うなよ。ていうか女だコノヤロー。
366 :
日本@名無史さん:02/08/17 22:31
西村黄門時代に、うっかり八兵衛が佐竹義隆か義処にそっくりなので、殿様と入れ替わった話しがあるそうなのですが、佐竹家の方々と旧藩士のみなさんはどう思われますか?
367 :
日本@名無史さん:02/08/17 23:03
うっかり八兵衛ってば、岩城貞隆のご落胤で、
水戸武田、徳川かく乱要員かしらという設定だったんだよね。
368 :
日本@名無史さん:02/08/18 00:45
>366-367
ワロタ
っつーか漏れの先祖は義重様から一字貰ってるんだが…
>367
マジ?
水戸黄門といえば、初代東野黄門の比較的初期の期作品で、
(さきの副将軍ではなく、さきの中納言のころ。)
出羽角館経由窪田の場面にて、黄門様が芦名家断絶をいとおしがっていたね。
初期黄門は時代考証が良かったね。
たしか、去年の一月か二月頃東京〜仙台〜秋田〜岩手とへ出張にいって、
たまたま仕事が早く終わって秋田のホテルでこれを見れました。
和田駅〜秋田駅の地吹雪の寒さは凄かった。
秋田駅から町中のパール○○○ホテルが遠くて寒くて、これまたしんどかった。
残念ながら千秋公園もパスっだったよ。
370 :
伊達遠江守家中:02/08/18 03:06
>369
芦名・宇都宮・国分伊達は、ある意味佐竹家家臣団の転落三人衆だな。
芦名家は、天海に大名復帰へのとりなしを依頼していたが、天海の死亡で果
たせなかったとのことだ。
そうしてみると、やはり天海は芦名一族だったのかなぁ。
今年の横手に続いて、今度は角館に行ってみたいな。
でも、冬はとてもじゃないが他の地方から行ける気候じゃなさそうですね。
>>370 宇都宮も、豊臣政権の被害者だね。
まあ、東義久も親類代表で宇都宮の地に赴いてもその後の歴史はおもしろかったろうに。
角館は早春の季節がいいね。それと、亀田岩城町もよってみるといいね。
372 :
日本@名無史さん:02/08/19 14:27
・・・今の秋田市である。
373 :
日本@名無史さん:02/08/19 23:07
>>365 教えてもらってばかりで、礼を言うのこっちのような
362の多賀谷についてもありがと
多賀谷の勢力伸張が佐竹の後援ありきだとしても
常陸の所領丸儲けってかんじ?
1590年以前の直轄領27万石以下で北条・伊達を相手に
立ち回ってたんだから義重はやっぱすげー
アシナトシラカワヲワスレテルヨ・・・
375 :
日本@名無史さん:02/08/20 17:52
>>373 あんまり知られていないけれど・・・西の下野の那須氏とも結構ぶつかり合っていたらしい。
そっちは宇都宮氏が大半を受け持っていてくれたけど。
で、那須氏と講和して、嫁にもらったのが義宣公の側室正洞院。
多賀谷氏からもらった嫁が、義宣公正室の大寿院。
他に京娘5人衆なんてのもいたらしい。・・・これは小田原参陣後、京都上洛後か・・・。
>375
My先祖は佐竹と那須に分かれて殺し合ってたよ。
東氏が那須方面を受け持ってたようだったので、その下についてた。
秋田の屋敷修復に寄付した方がいいのかしらん?
377 :
ともチャン:02/08/21 08:25
「掃部、むざむざ弓矢に及んであたら兵を死さすこともねえべ」
義堅は諭すようにして隆重に言った。
「味方が多勢なれば、烏山も無理に戦を仕掛けはしね。
あとで議して和ァ図れば、それでいい」
確かに、義堅の言ったことに間違いはない。二倍以上の兵を持つといえど、
わざわざ槍を合わせれば兵の損失は免れない。であれば、攻めずに数の違いを
見せることで勝ちを拾えるならば、そちらのほうがいいに決まっている。
だがこれはややもすると驕りになる。和議になるとみて備えを何もせずにいた
義堅はたしかに驕っていた。そしてそれを聞いた将兵も気が緩まぬはずはないの
である。この時点ですでに勝敗は決していたといっていい。
一方の資胤はそのようなことは全く考えていない。というより、この那須資胤と
いう男、平素から頭を使うことをしない。思考よりも手足が先に動く人間である。
資胤は馬鹿正直なことに、全軍を一塊にしてただただ突っ込むという戦術も糞も
ない方法で東の陣に躍りこんで来た。だが東の先陣もまさか本気で那須が切り込んで
くるとは思っておらず、意表をつく敵の襲来に左右させられた。東先陣の国安兵庫
堅行は(以下略)
小説『夏草の逃げろ佐竹奔るなだ物語』より。
連載待ってま〜す
379 :
日本@名無史さん:02/08/25 13:23
里美村の十殿坂って、上深萩、折橋、広畑、水戸(永戸?)、黒川、どこに近い?
380 :
日本@名無史さん:02/08/29 22:28
山入の乱あげ
381 :
日本@名無史さん:02/08/29 22:29
元正道会館のへたれ佐竹も一族なん?
382 :
日本@名無史さん:02/08/30 14:03
>>381 大阪の佐竹は「革島系(源頼朝の佐竹攻めの際身内裏切った佐竹義季が、後に頼朝
に疎まれ、京都革島荘の地頭に流された子孫)」か、あるいは土佐佐竹の分流か。
源平で頼朝に逆らって
南北朝では勝ち馬に乗るも結城に負けっぱなし
戦国期には北条・伊達にぼろ負けで上杉に尻尾振るし
関が原では日和見
幕末は列藩同盟を颯爽と裏切る。
なんて景気の悪い家なんだ。
黒川じゃなくて里川
十殿坂館の館跡地知りませんか?
385 :
日本@名無史さん:02/09/01 17:22
佐竹は、武蔵に負けたヘタレ武道家。
386 :
日本@名無史さん:02/09/01 17:24
ま、いちおう明治では侯爵サマだけど(w
>>387 元々そこのサイトで知ったんです
ゲーム(戦国史)に出したいから場所教えて下さいってのは恥ずかしいし
もうUPしちゃったんでやめときます
389 :
日本@名無史さん:02/09/10 00:00
あげとくか
390 :
日本@名無史さん:02/09/17 17:31
空age、唐揚げ。
391 :
日本@名無史さん:02/09/27 23:55
392 :
日本@名無史さん:02/09/28 08:13
佐竹曙山について教えて。
393 :
日本@名無史さん:02/09/28 11:33
佐竹か・・・
岩明均が久保田移封をテーマにマンガ描いてたね。
先ほど岩城さんが、佐竹さんと本荘さんを天秤に掛けていましたが
ホントの所、岩城さんと佐竹さんの仲はどんなもんなんですか?
395 :
日本@名無史さん:02/10/02 20:13
>>394 義舜の時、岩城家の協力で山入一揆を滅亡させた。
その時は岩城の旗下だったが、義重公の時になると、岩城家当主が狂乱の病とやらで、満足に家の方針を取れなくなってしまった。
そして、ちょうど岩城家に嫁入りしていた義重の妹のとりなしで、逆に岩城家を佐竹の同族(というより宗家の配下)にしちゃった。
396 :
日本@名無史さん:02/10/13 09:26
保守age
397 :
伊達遠江守家中:02/10/17 16:10
>>394 出羽入封時は佐竹系だったけど、江戸時代に岩谷堂伊達家(岩城別家)から養子取ってる
からねぇ・・・・・。
かなり佐竹色は薄くなっているような気もするが。
薄いと言えば秋田伊達家は二代目からもう佐竹東家出身なので、仙台系伊達家とは最早
親族とも言えないが。
398 :
日本@名無史さん:02/11/02 16:57
保守age
399 :
日本@名無史さん:02/11/03 18:38
ふむ
400get
401 :
日本@名無史さん:02/11/03 23:06
どこでも手に入る佐竹関係の本ってご存知ないです〜?
402 :
日本@名無史さん:02/11/03 23:14
403 :
日本@名無史さん:02/11/03 23:37
とりあえず2ちゃんねらーの力で再来年の大河ドラマに進出しようぜ。
タイトルは勿論…
坂東太郎
404 :
日本@名無史さん:02/11/07 17:35
>>403 再来年は「ザ・新撰組」と、もう決まっています。
405 :
日本@名無史さん:02/11/09 00:57
うちは出羽移封でリストラされた関東者の子孫ですが、恨んでた様子はありません。
406 :
日本@名無史さん:02/11/11 21:52
佐竹義重をドラマ化するときは煽り抜きで反町にやって欲しい。
407 :
日本@名無史さん:02/11/11 22:43
ネタ無いな
1595年まで1万石しか領してなかった佐竹東家
>>342が
火縄銃1100丁
>>208とは凄まじい軍役課せられてるな(笑
佐竹東家はケタ一つ減らしても謀叛必死な軍役だけど
全体的にはケタ一つで有り得そうな数字かね?
多賀谷100丁・・・江戸50丁・・・佐竹全体240丁・・・計878丁
にしても遠征軍になる常陸国人が551丁(5510)で主戦場下野の国人が
120丁(1200)とは情けない。
>407
俺の先祖は佐竹東家配下の下野衆だったんだがケンカ売ってんのかゴルァ
と言ってみるテスト
民度低いっす。。。
410 :
日本@名無史さん:02/11/24 11:02
武士の命と言われている日本刀だけど、おおっぴらに言われるようになったのはいつからだろう。
↑
義重公は家臣の刀剣を抜き打ち検査よろしく厳しくチェックしていたとか。
411 :
日本@名無史さん:02/11/25 22:44
>>408スマソ
多賀谷1000 大掾一派810 江戸500 宇都宮以下各300
一領主ごとに数字だけ見ればそうでもないんだけど
遠征ってのは同程度の兵を留守居に残すのに
地元宇都宮でさえ300てのは如何にも少なくないかい
412 :
日本@名無史さん:02/11/25 22:50
413 :
日本@名無史さん:02/11/25 23:40
415 :
日本@名無史さん:02/11/26 07:07
416 :
日本@名無史さん:02/11/26 17:08
>>415 転封以後の話も書いてもらいたかったと思う。
大坂冬の陣での後藤又兵衛と戸村十太夫の激闘とか。
転封推進者の本多正純の末路とか。
芦名家復興と佐竹宗家との確執とか。
秋田に来てから出てきた各分家や親類筋の権力争い。
江戸中期の銀札騒動&秋田蘭画&義和公の改革。
一応その後の話として「秋田庄内戊辰戦争」なる本が同じ出版社から発行。
尤も、庄内藩視点だけど。
417 :
日本@名無史さん:02/11/26 22:57
トモちゃんへ
秋田の真崎って、佐竹と関係ある?
茨城にもいるんかな?あと真崎ってどんぐらいえらいんですかね?
信長のやぼうにはでてこないですよね?教えて君ですが御教授くだせえ。
418 :
日本@名無史さん:02/11/26 23:19
>>416 気持ちは解るが、それやると一冊にはならないだろう……。
個人的には佐竹氏のルーツが一通り読めて面白かった。
419 :
日本@名無史さん:02/11/30 02:38
age
420 :
日本@名無史さん:02/11/30 20:43
茨城県原発村付近の領主>真崎氏
421 :
秋田市在住 ◆zroWOhjJpc :02/11/30 22:20
スレの流れ無視で申し訳ないですが、
佐竹氏の始祖、
新羅三郎源義光公の御戒名はネット上で調べたところ
2種類あるようです。
秋田市の佐竹宗家菩提寺万固(ばんこ)山天徳寺では
崇源院殿義光尊了大居士とお称えしているようですが、
武田氏の陽谷山正覚寺では
http://www.intacc.ne.jp/HP/oma/kaigenji-2.htm 先光院殿峻徳尊了大居士とかいています。
ご覧のように法諱の二字以外は全く別です。
秋田の佐竹氏の方は、始祖の墓所、法号、忌日等が
一時期不明であったため、文政四(1821)年までに三井寺に
探しに行っていて、秋田では多くの苦労話が伝わっています。
当時の人々にとってはかなり重要な事柄であったと思うのですが、
大事な法号にこんなにも違いがあるとはどう言うことなのでしょう?
江戸時代にはだれも気付かなかったのでしょうか?
このスレには子孫の方もいらっしゃるようですが、
どのように伝わっていますか?
>421
漏れも地元だが、厨房だったころは「マンコ!マンコ!」と言ってた記憶がある。
423 :
421 ◆zroWOhjJpc :02/12/01 12:30
つまり義業系と義清系が別々に贈ったということなんじゃねーの?
425 :
421 ◆zroWOhjJpc :02/12/01 22:40
>424
やはりそうでしょうか。たとえば、佐竹側で探索したときに、
三井寺ではなく正覚寺で先に発見していれば、今の秋田の戒名と違うもので
供養されていたのだろうかと思ったものですから。
リンクがうまくいってなくてごめんなさい。
なんか自分が書き込むとどのスレッドも沈みっぱなしになるのはなんでだろ?
お詫びage
大居士って位的にはどうなの?
428 :
大禪定門(427):02/12/11 20:14
ちょっとお勉強してきました
>>421の義光の場合
崇源院殿 義光 尊了 大居士
↑ ↑ ↑ ↑
院 道 戒 位
号 号 名 号
↓ ↓ ↓ ↓
先光院殿 峻徳 尊了 大居士
戒名は尊了で同一、道号(謙信・信玄のような物)が義光と峻徳
形式的には武田家の方が正しく見える
ただ、院殿号は足利尊氏(等持院殿)以降らしい
大禪定門の内の先祖とその同族
信士・信女の下で禅定門・禅定尼が再下位なんだそうな
ちと悲しい
429 :
日本@名無史さん:02/12/11 22:47
そうですか?
最近は真面目な仏教徒で、わざと菩提寺に頼んで
居士ではない号(禅定門とか)を付けてもらう人も多いみたいですが。
真面目な人ほど嫌いなんでしょうか、そういうの。
それから、私の親戚が秋田にすんでて、423の寺の檀家です。
今の住職はまじめでイイ人だそうです。(笑)
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/11 22:50
戦国、佐竹氏は、たしか、藤原系上杉氏から
養子を迎えて、系統が変わったんじゃないのか?
431 :
日本@名無史さん:02/12/14 19:41
>>430 義人公のことね。これが元で、純粋源氏を標榜する山入一揆と宗家との間で佐竹百年の乱となった。
百年後、義舜公が岩城家の協力を借りて、宗家に背く山入一揆を打ち殺すまで続いたそうな。
432 :
日本@名無史さん:02/12/23 23:20
自分の数代前も上杉家からの養子。
それでも義昭は上杉姓の譲渡を拒むのであった。
血統より姓(この場合厳密には氏)のほうが大事だったんだろう。
源姓で上杉を称すのは無理だったのか?
433 :
日本@名無史さん:02/12/24 00:06
数代前に入ったって言っても、もう150年ほど前の事なんだよね。
さすがにそれだけ経ってると上杉の血筋だという意識も無くなってたんじゃないのかな。
それにそれが原因で山入一揆が起きて家がかなり弱体化してしまったから
あまりいいイメージもないだろうし。
434 :
日本@名無史さん:02/12/25 19:52
茨城観光マップ(企画制作:茨城放送 協力:日本道路公団)では佐竹のことに全く触れておりません。
いまでは存在しなかったことになってる模様です。
435 :
日本@名無史さん:03/01/07 19:00
このスレもなかったことになりそうなくらい下がったのでage
436 :
日本@名無史さん:03/01/09 22:25
本日発売のムーで葦名氏の財宝の話が載っていた。
仮に引き上げたとしたら、所有は佐竹北家になるんだろうか?
(^^)
(^^)
439 :
日本@名無史さん:03/01/17 15:01
age
>>436 伊達の家臣の葦名家(元:針生?)もいるから微妙ではないかな?
441 :
日本@名無史さん:03/01/17 17:19
その手の財宝は発見者にすべて行きます。
>>441 そうなの?
消防の頃、ズッコケ三人組の財宝発掘モノを読んだ感じでは
子孫にも請求権ありそうな感じだったけど……まぁ、児童文学だから現実と違う可能性も大きいけど。
443 :
日本@名無史さん:03/01/17 18:38
法律上遺失物扱いのはず
佐竹家っていろいろあるんですね、、
母方は「佐竹の殿様に刀を拝領した」、秋田でそこそこの家臣だったらしいですが、
当然家臣は茨城からひきつれたことになりますよね?
ルーツは茨城なのかな。
445 :
日本@名無史さん:03/02/04 21:56
age
からあげかよ
武士成立から大政奉還まで生き延びた佐竹は、偉い。
大政奉還じゃねーや。版籍奉還と廃藩置県か。
447 名前:秋田在住 投稿日:2003/02/12(水) 22:33
武士成立から大政奉還まで生き延びた佐竹は、偉い。
448 名前:秋田在住 投稿日:2003/02/12(水) 22:35
大政奉還じゃねーや。版籍奉還と廃藩置県か。
国元での認識はこんなものなのかと・・・
>>449 いやいやそんなものw
こんなコト分からない人漏れの周りにイパーイいるw
451 :
日本@名無史さん:03/02/17 22:11
宇都宮国綱(1568〜)の元々の正室って誰?
佐竹義久娘の小少将(1580〜)じゃ年齢差ありすぎでしょ
452 :
日本@名無史さん:03/02/28 10:21
金砂田楽観にいく人いる?
453 :
日本@名無史さん:03/02/28 11:30
454 :
日本@名無史さん:03/02/28 21:51
>>452 いくよ。
ていうか仕事が休めればいくつもり。
>>453 なんだかもの凄いものを見てしまったような気がする
midiもあるし、これは校歌を歌えってことなんか?
>>453 なんじゃこりゃ・・・・・・・・・・・・ショック・・・
457 :
日本@名無史さん:03/03/02 11:30
大阪には「佐竹台」という住宅地があるとか。
どういういきさつで命名されたのか、知ってる人おらん?
458 :
日本@名無史さん:03/03/04 00:36
三戦板の佐竹スレが・・・
459 :
日本@名無史さん:03/03/04 05:43
>>457 そりゃあれだろ、
大阪の陣のときに秋田方が布陣した場所なんじゃねーの?
今福とか鴫野っつー場所だぞ。
460 :
(´-ω-`):03/03/04 05:47
462 :
日本@名無史さん:03/03/05 11:55
武田氏はいろんな所に武田のまま居るけど、佐竹はなんか少なそうね
苗字変えてる場合が多いや
463 :
日本@名無史さん:03/03/05 19:02
>>462 武田に関しては、勝頼の滅亡以後、親類が名を残そうと骨折ったからね。
一方佐竹は秋田藩主が「むやみに佐竹の名を名乗るべからず」とお達しをだしたそうな。
そのため、武田姓の人間は佐竹姓の四倍ほどだとか。
ブラクラ
466 :
日本@名無史さん:03/03/07 22:01
佐竹高校はバイク通学OKなのか・・・
珍は多いのかな・・・
珍の旗にはやっぱり扇が刺繍されてたりして
467 :
日本@名無史さん:03/03/07 22:14
佐竹一族でスイスに住んでた人いない?理系の人で。てか、いたと思うんだけど
468 :
Reichsprotektor ◆z4Op9cXCnM :03/03/07 22:35
祖父と祖母の家がそれぞれ佐竹の殿様に仕えていました。
>>312氏
その資料は、
>>289で示された名前と思いますが、国会図書館にもありそう
ですかね...?正確なタイトル(タイトル、編者、発行年など)を御教示くだ
さいませんか?
祖父の家は渡邊(ナベの字、あっているかなぁ)、家族に伝わっているハナ
シではお殿さまに覚えが良かったのか、それまでは禄高も低かったのが、役
職手当てが沢山できたとか。他家に養子に出た人が、藩札を維新後?に発行
したために、切腹(毒殺というハナシもあるらしい)したということを聞い
ています。
どんな人だったのか、家のなかに伝わる逸話ではなく、客観的な事実を知り
たいと思っています。
469 :
日本@名無史さん:03/03/10 15:41
>>468 おいおい、
>>289を書いたヤシをよく見てみろよ。
伊達遠江守家中と言えば、この板でも一、二を争う思い込み厨のデムパ野郎じゃん。
そんなヤシのカキコ引用してると、
>>468が人間性を疑われるから注意した方が良
いと思われ。
ごめんなさい、
勘違いをしていました<289ではなくて、309と書くべきでした。
309さんの投稿にある
>>289を、レス番号と勘違いした結果であり
ます。。
471 :
日本@名無史さん:03/03/10 20:10
何がどう捏造か無知なオレに教えてぇぇ〜
473 :
日本@名無史さん:03/03/11 10:13
>>472 多くのスレで、多くの識者に思い込み認定された伊達の書き込みの捏造を「何がど
う捏造か教えて」、などと今ごろ言っているのは伊達本人(w
474 :
日本@名無史さん:03/03/11 11:41
佐竹義宏氏のHPを見て。
佐竹南家のおじいちゃん、亡くなったんですね。
孫の敦子のその後がわかり感激。懐かしいなー。
(彼女らしい)
俺的には良スレでした。
475 :
日本@名無史さん:03/03/11 20:11
>>473 >多くのスレで、多くの識者に思い込み認定された
おまえも思い込みかよ(藁
476 :
日本@名無史さん:03/03/11 20:34
>>475 既に、思い込みを指摘するレスがたくさんついているのは否定できない。
これほど多くの人間が全部思い込みというのは解せないのでは?
解せないのは伊達遠江守家中本人だけ(w
伊達→政宗→謙→桜田淳子→統一教会→半島
↓
ゴクミ→アレジ
478 :
日本@名無史さん:03/03/15 20:30
三戦板のも落ちたし限界か?
479 :
日本@名無史さん:03/03/15 21:11
>>470 ガイシュツかもしれないが、『茨城県史料』を読んでみたら?
たぶん秋田藩家蔵文書が収録されていると思いますよ。
480 :
日本@名無史さん:03/03/20 21:26
別スレからの情報。
2005年大河が北条早雲になったとか。
義昭公は出られるのか?・・・・ちょい役程度か・・・。
最近の大河はトレンディ狙いで狂っているというのが2chねらの声だから、「佐竹一族」が大河に採用されないのはむしろいいのかも・・・
481 :
日本@名無史さん:03/03/20 21:51
>>480 >2005年大河が北条早雲になったとか。
>義昭公は出られるのか?
この二人はコンテンポラリーじゃねぇ!
このボヘミアンラプソディアス!
義舜公か義篤公の時代ダターカ。
鬱氏
小学生の頃「若き日の北條早雲」とかいうドラマがあった
北条早雲は義舜+義篤よりも長生きだよな。
義舜・義篤・義昭の誰か1人でもこれぐらい生きれてたらなぁ。
485 :
日本@名無史さん:03/03/22 02:11
ムフー北条早雲か・・・
ツマラン・・・
佐竹義重の活躍がみたい・・・
486 :
日本@名無史さん:03/03/22 02:44
>>485 そんなゲロクソ野郎の活躍なんぞどうでもいい。
佐竹なんぞ箸にも棒にもかからねぇんだよ。カス。
487 :
日本@名無史さん:03/03/22 20:27
なにも知らないカスに煽られてもイタくもカユくも無いけど、無知は怖いね。
どーせ三戦板の住人だろうね。
489 :
日本@名無史さん:03/03/22 20:55
むしろ
>>488のほうが無知だな。
佐竹義重の活躍なんて見たいと思っているやつがどれほどいるんだ。
ていうか佐竹自体知っているやつがどれほどいるんだ(w
北条早雲なら、戦国時代の始まりといわれることもあるからわかる。
でも佐竹だと?佐竹雅昭のほうが有名じゃねーか。
そして活躍も佐竹雅昭並み(ププ。何にもしてない。
>>488はどーせ三戦板の住人だろうね(アヒャ
ネタがないのも分かるけどこんなもんに釣られちゃだめだろ
491 :
日本@名無史さん:03/03/22 21:09
そそ。
佐竹なんて釣りぐらいしか話題がねーんだって
492 :
日本@名無史さん:03/03/22 22:03
松平氏について教えて!
493 :
日本@名無史さん :03/03/22 22:15
確かに言うまでもなく
佐竹みたいなマイナーでヘボイ一族が大河ドラマに
抜擢されるなんてありえない
あまりにも知名度がなさすぎ(中身も含めて)
494 :
日本@名無史さん:03/03/22 22:24
>>492 誰が教えるか!このポケモンダービー!
>>493 ふざけるな!おまえに言われる筋合いはねぇ!この歯舞諸島!
495 :
日本@名無史さん:03/03/23 09:07
知名度なさすぎ・・・・なるほど。
「宮本武蔵」論争で、有名か無名かの違いは喧伝されたか否かであると、誰かが言ってたな。
宮本武蔵以上に腕も立ちかつ当時は有名だった剣豪も、今現在名前を出しても「ハァ?」な反応が返ってくるのが多い。
後世に於いて喧伝されないと、マイナーでヘボ扱いされるものらしい。
当時ですらマイナーでヘボ扱い
ともだちは嫌われ者の三成クンひとり
498 :
日本@名無史さん:03/03/23 10:27
ていうか,ヤラレ役が小田とか結城じゃドラマにならんだろう
南方三十三館のだまし討ちなど、佐竹のやり口は嫌いです。
500 :
日本@名無史さん:03/03/23 22:00
500
源氏系の一族って武家の中でも特に血の臭いがします。戦国期の武士のおぞましさを平安期に既に備えていた感有ります。陽成帝DNA?
502 :
日本@名無史さん:03/03/25 04:18
みのもんたは佐竹家の家老の子孫
前述の南方三十三館の領主とその跡取りを常陸太田に招いてだまし討ちにした惨い話しは佐竹側に立ったドラマにすると。
「大掾氏との凄惨な戦いを終えた後にこれ以上血を流したくないとの願いから止む無く・・・」
となるのでしょうか。
やはり佐竹の大河ドラマなど作るべきではありません。
Vシネマで十分です。
504 :
日本@名無史さん:03/03/25 11:34
「葵・徳川三代」はジェームス三木が、それまで一方的に善役な大河の主役を、あえて悪役部分も描写することで成功したといわれているが・・・。
戦後民主主義って(あ、家康が持ち込んだ朱子学以来か)物事を単純に善悪二元論に分けているからなあ・・・。
まあ、「恥と罪」の部分も描写してこその大河だと思う。
佐竹には「恥と罪」しか(ry
いやいや茨城から美人・魚(ハタハタ?)と金鉱の拉致疑惑も有ります。
507 :
日本@名無史さん:03/03/26 02:33
うーん佐竹のVシネが見たい。
508 :
日本@名無史さん:03/03/26 12:11
>>507 竹内力が義重を演ずる「ヒタチの帝王」は来月リリースです
509 :
日本@名無史さん:03/03/26 15:31
Vシネになる方が大河になるより難しい気が…
510 :
日本@名無史さん:03/03/26 19:26
「恥」
義宣公の性病疑惑もあるからなあ・・・。
そんなのあるんですか? 全く知りませんでした。結城君の『鼻もげ病』と同じ?
室町後期から江戸期の人骨で病変骨が結構出てますから不思議ではないのですが。
ところで新参者で知識も浅いため過去の掲示に気が付いて無くて重複してたら申し訳ないのですが、
佐竹の家紋は何かいわれがあるのでしょうか。
変な因縁ですが母方は鹿島大掾系で佐竹に滅ぼされているのですが、父方の菩提寺は浅草の聞成寺という寺です。
浄土真宗のため住職は世襲。佐竹姓で、寺の紋も佐竹本家の家紋です。
こんな訳で佐竹に興味をもちました。
512 :
日本@名無史さん:03/03/27 19:35
>>511 では改めて・・・
平安時代末期、源頼朝が坂東平氏に担ぎ上げられ、伊勢平氏討伐の旗を上げた。
その中で、佐竹は源氏であるのに伊勢平氏側についた。
そこで、坂東平氏の代表格である千葉氏や上総介らは、富士川の戦の後、上洛しようとした頼朝を押しとどめ、佐竹征伐を上申した。
間一髪窮地を逃れた佐竹は、奥州の藤原秀衡を頼った。
それでも、外交を通じ頼朝と接触しようとした。
その後、伊勢平氏は滅亡、功のあった義経も頼朝と不仲となり、奥州へ逃れた。
頼朝は義経及び奥州藤原討伐のため、奥州へ向かうが、途中の下野国宇都宮で佐竹が恭順してくる。
その際、佐竹が源氏の白旗を掲げていたのに対し、頼朝は五本扇に月の丸を欠いて「これを掲げよ」と命じた。
源頼朝から直々拝領の家紋でおま。
勉強になりました。有り難う御ざいます。
>>503 佐竹と大掾は争いらしい争いはしてない気が。
天正16年 2月 佐竹義重、江戸重道と大掾清幹を攻める。大掾方決定的な敗北を喫する。
天正18年12月 佐竹義宣、江戸重道の水戸城を攻め、落とす。江戸重道、結城晴朝の元に落ちる。
天正18年12月22日 佐竹義宣、大掾清幹の府中城を攻め、落とす。大掾清幹、自害。大掾本家滅亡。
天正19年 2月 9日 佐竹義宣、鹿島大掾一族を常陸太田に偽って誘い、1名を逃すものの残りすべてをだまし討ち。
大掾一族滅亡
弱い者イヂメはヤダヤダ・・
結果をつないで行くと、非常に効率を重視したむなくそが悪くなる様な
非人道的軌跡を感じます。
強者は争わせ、共倒れさせてから喰らう。
効率のためなら嘘なんて平気。
でもこの義宣公、家臣や領民に人気が有った様です。
物事は一面では判断出来ません。
518 :
日本@名無史さん:03/03/29 08:53
蘆名盛重(佐竹義広)萌え。
519 :
日本@名無史さん:03/03/29 15:46
相川翔主演の佐竹のVシネはまだでつか?
主題歌はやはりバーブ・・・?
521 :
日本@名無史さん:03/03/29 17:36
>>517 国際社会のえげつない面を目の当たりにしていると、日本はこういったやり方をもっととるべきと感じる。
国民感情は烈しくイヤだろうけれど・・・。
敵(仮想含む)に対して極悪非道なことをやって、臣下臣民にたっぷりと
食わしてくれる君主と、敵に対して優しく接して食わせてくれない君主だ
ったら前者の方が喜ばれるだろう。
>>515 いやだからさ、1590年までは争いらしい争いしていでしょ。
>「大掾氏との凄惨な戦いを終えた後にこれ以上血を流したくないとの願いから止む無く・・・」
これは当らないんじゃないかと。
けど、おれが誤読してた。止む無くってのは三十三館のことだったのね。
説明が足らなくてすみません。
小生南方三十三館の内、中居城ゆかりの者故つい主語を略してしまいました。
せめて戦って破れていたならばあきらめもつくのですが・・・
以前、秋田版の地方新聞で見たんだけど、
佐竹氏の医者を勤めてた人物の子孫は、
昔はTVのCMで宣伝されてた「龍角散」で有名な会社を経営。
分家は秋田で薬屋をしているらしい。
後は本当かどうかは知らないけど、
佐竹氏とは元々、親戚関係だったそうです。
殿様の弟か何かの家系だと言う説があるらしい。
以上、地方紙(さきがけ新聞)からの情報でした。
age
『佐竹』もついにネタ切れ?
528 :
日本@名無史さん:03/04/03 09:47
529 :
日本@名無史さん:03/04/03 12:47
佐竹?歯舞領主ですか?
530 :
日本@名無史さん:03/04/03 22:59
531 :
日本@名無史さん:03/04/04 17:41
佐竹義重である!
532 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:03/04/04 17:44
出羽移封直後(久保田藩藩政初期)の佐竹氏及び常陸以来の
佐竹家臣団と出羽の土豪・地侍層との対立について知りたい。
533 :
bloom:03/04/04 17:46
多賀谷宣家sage
535 :
日本@名無史さん:03/04/05 10:55
佐竹ショック
>>525 リュウカクサンのサイトで確認してみては?
これにて佐竹スレは目出度く滅亡という事で。
滅亡する前に頼む
>>451 宇都宮国綱の正室って誰の娘?
則綱を生んだ興野隆広(誰?)の娘じゃ格が違いすぎるし
佐竹義久娘の小少将じゃ年齢差がありすぎる
540 :
日本@名無史さん:03/04/14 23:36
歴史ヲタクがいる限り、佐竹は滅びんさ。
541 :
日本@名無史さん:03/04/15 18:07
現在の佐竹宗家はどうなっているんですか?
後継者の子が若死にして、いま40過ぎの独身の娘さんが切り盛りしていると、以前スレで出ていたけど。
(^^)
543 :
日本@名無史さん:03/04/19 14:31
あげ
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
545 :
日本@名無史さん:03/04/24 01:24
雪の峠age
ヘッポコ!弱小!佐竹一族!
547 :
日本@名無史さん:03/04/24 23:29
「雪の峠」の話は事実なんですか?
マジレス希望ですか?
549 :
日本@名無史さん:03/04/27 01:15
雪の峠の話が本当かどうかわからんけど、
東軍についても西軍についても結局、秋田転封だったでしょう。
江戸の隣に、佐竹をおいておける訳がない。
550 :
日本@名無史さん:03/04/27 13:47
転封先は何故秋田だったんだろうか?
後に秋田へ蟄居処分された本多直純が、転封先を秋田に推挙したらしいんだが・・・。
西国は毛利や島津がひしめいているから、なかなか見当たらないのは分かるとして・・・。
551 :
日本@名無史さん:03/04/27 15:46
やはり、関東での佐竹の影響力が厄介だったと思う。
佐竹は家柄が、古いので関東大名との婚姻関係などが幾重にもあったと思う。
できるだけ、関東から遠い僻地へと転封させる必要があったかと思う。
>551
関東大名に戦国以前からの家あったっけ?
佐竹→秋田 結城→越前 宇都宮→改易 千葉→滅亡
多賀谷→改易 小田→滅亡 江戸→滅亡 水谷→備前
那須→安堵 皆川→信濃 壬生→滅亡
>>552 実際問題、徳川家康と佐竹義重は仲が良かったわけだが・・・
554 :
日本@名無史さん:03/05/06 21:23
>>553 徳川家康は、関東進出の際、東国の参考文献として「吾妻鏡」を熟読したとか。
その中で、佐竹に関する記述を目にしていたと思われる。
三成に対する義理立てから、家康から東軍への参戦の手紙をもらっても義宣は返答しなかった。
目先を変えて、家康は義重宛てに書状を送り、せめて西軍への協力はしないよう取り計らってもらった。
転封後の佐竹は、大坂冬の陣の今福鴫野の戦いで、上杉景勝と協力し、後藤又兵衛や木村重成相手に奮戦。
夏の陣では到着前に大阪城陥落。
義宣は皮肉にも「小田原城」と「大坂城」という天下無双とまで言われた大城が陥落するさまを、2度も目の当たりにしたわけだ。
555 :
日本@名無史さん:03/05/07 13:51
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
558 :
日本@名無史さん:03/05/29 18:03
今月の歴史読本で、佐竹の秋田転封後の嫁についてレポートが出ていたぞ。
見た人いる?
江戸屋敷で母国出身の女中を雇い、江戸弁禁止して地元弁話させたり、けっこう初耳なおもしろいエピソード満載。
559 :
日本@名無史さん:03/06/10 13:50
秋田美人
色白、足長、巨乳、控え目な一方で好奇心旺盛、家庭重視
・・・・できすぎ
佐竹は秋田人をどう教育したのやら・・・。
560 :
日本@名無史さん:03/06/10 14:01
好奇心旺盛で浮気に走ったり
561 :
無料動画直リン:03/06/10 14:21
曽我さんのようなデブが多い
563 :
日本@名無史さん:03/06/15 01:24
蘇我って誰?
秋田出身?
564 :
日本@名無史さん:03/06/30 19:25
565 :
日本@名無史さん:03/07/02 05:25
今77まで、ざっと見ていたんだけど、、、
うちの母親が、佐竹。
おじいちゃん・ひぃーじーちゃんの写真には「五本骨扇に月丸(清和源氏義光流)」そのまんまの
家紋の入った着物が写ってる。。。
でも、それ以外わかんない(´・ω・`)ショボーン
ひー&おじいちゃん共々、若くして亡くなっているから、佐竹の名前に歴史があるなんて思わなかった。
>>48さんみたいに、詳しい情報があればいいのに、、、
秋田にいる、佐竹さんのHPを以前見たとき、、、その人の顔が、おじさんにそっくりで、びっくりしたなぁ。
もう一人のおじさんは、三菱勤務・・・
おいらが、結婚しないと、、、血が消えちゃうのね。゚(゚´Д`゚)゚。
心配ないって、どーせ明治になって「佐竹さん」になったクチだから
秋田で明治後に庶民で佐竹と名乗る不届き者は、いないがね
俺が生まれた所は近所に佐竹さん家が何軒かあったなぁ。
俺自身の家も佐竹だし。
岐阜だがな。
569 :
日本@名無史さん:03/07/05 14:52
>>568 鎌倉幕府に帰依の後、承久の変で活躍したことから、美濃あたりの地頭職をやったという話。
570 :
日本@名無史さん:03/07/06 09:35
承久の乱に際し、佐竹秀義と嫡子義重が北条方に参陣し、論功行賞として、美濃国山田郷、上有智荘、弾正荘の地頭職を与えられた。その地に、庶子家が美濃佐竹氏となって分立したという話。
家の田舎は、山形なんで「明治後の佐竹さん」と思ったんですが、
お墓を見てもらったら、なんか明治以前の方の名前もちらほら。
名家とは思わないけど、ちと先祖に興味あり。
家系図作ってみます、、、
先祖探しって、以外に面白いですね。。。どこまで遡るか、わくわくです。
572 :
日本@名無史さん:03/07/10 02:06
もしだよ、もし、佐竹義政(大掾昌幹・小野崎義昌)の代わりに佐竹義久(東義久)が大掾氏に入嗣していたら
東幹久になっていたんではなかろうか
573 :
日本@名無史さん:03/07/10 10:48
東幹久って輪姦に加わってたとか言われてたがどうなったん?
そういや、最近見ないな?
漏れがTVを見る頻度が減っただけかもしれんけど。w
575 :
日本@名無史さん:03/07/10 23:36
ケーブルTVでトップガンのパクリ映画やってんだけど、東幹久がでてる。
スーパーフリーの元祖みたいなもんか?
つーか今日の笑っていいとも出たし
ザッツ・タイムリー!(・∀・)
でも、漏れ、見てないの...
578 :
日本@名無史さん:03/07/11 20:39
佐竹? ただの無能な関東戦国大名ですか?
戦国大名かあ?
分国法とかあったんすかね?
近隣だと、伊達や結城のは有名だね
581 :
日本@名無史さん:03/07/12 08:12
佐竹といえば「ててご橋」が名曲ですね。
582 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:18
バーブ最高!!
低音の魅力!!
583 :
日本@名無史さん:03/07/13 00:07
子連れ狼というと橋の歌が一般的に有名だけど、折れはバーブのててご橋の方が好き。
家も佐竹氏の一族の末裔です。
一族の歴史が新聞に載った事もあるので嘘ではなさそう。
直ぐに個人を特定されてしまうのでくわしくは書けませんが。
秋田
てか秋田
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
588 :
日本@名無史さん:03/07/17 20:40
佐竹最強
(^^)
591 :
日本@名無史さん:03/08/10 07:09
佐竹ガンバレ。長州を追いつめろ
あの〜佐竹は官軍なんですが・・・
593 :
日本@名無史さん:03/08/10 11:47
じゃ、佐竹ガンバレ。ドン五里仙台人を皆殺しにしろ
あの〜佐竹と戦ったのは南部なんですが・・・
アホはスルー
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
久保田藩佐竹家の一門や家老が
詳しく載っている本はありますか?
北家・南家・東家・戸村家・長倉家・早川家
等の歴代当主にも興味があります。
598 :
自称常陸平氏残党:03/09/01 23:19
ともチャンの引用してた国典類抄から
佐竹3100挺
多賀谷1000
結城500(水谷他含む)
宇都宮1000(皆川他含む) +茂木で1110
江戸700(額田含む)
大掾810(三十三館含む) +真壁で1010
芦名620(田村他含む)
太田・梶原500
リーダシップは大事だ
大掾と三十三館を合わせれば江戸を超えるし、真壁も合わせれば
結城の倍で宇都宮に次ぐ
ほんとリーダシップは大事だ
599 :
日本@名無史さん:03/09/01 23:25
それを治めた当主・家臣が出たこと前提にしてだけど
幕府の権力がいくらか及ぶ内に庶家が反乱した佐竹は運が良かった
山入一揆が半世紀ずれてたらやばかったんじゃない?
ついでに600
601 :
日本@名無史さん:03/09/02 04:29
>599
?
幕府が介入したから山入一揆は起こったんじゃないの?
602 :
日本@名無史さん:03/09/04 21:14
>>601 そうだっけ?
最初は他姓他氏の家督に庶家が反対
反対していた庶家が禅秀に与して鎌倉公方に反乱
ここで幕府が関東の政治に介入して、山入氏を後援
幕府としては鎌倉の持氏を抑えるのが目的で
佐竹氏の家督自体には介入していない
太田城を奪った山入氏が、10年以上義舜を放置していたのも
そのせいでは?
岩城氏が、婿とはいえ佐竹領を押領しなかったのは何故か
山入氏が惣領家を追ったあと、命までは奪えなかったのも
幕府(公)権力がいくらか作用してたんでしょ
伊勢宗瑞の伊豆平定も、今では幕府の意向と言われてないっけ?
603 :
日本@名無史さん:03/09/05 02:33
>>602 上杉禅秀の乱で負けて大人しくなった山入氏が再び宗家に刃向かったのは
幕府が後援して常陸守護まで与えたからだし、
宗家の討伐をも山入氏に命じてるぐらいなのに?
幕府が佐竹宗家を助ける理由が分からない。
>>603 >幕府が関東の政治に介入して、山入氏を後援
他に甲斐の守護補任も幕府が介入
守護就任=家督か?
では視点をかえて
山入氏による太田城奪取が天文末期に起こっていたら
山入氏は追い詰めた宗家当主を10年以上放置したか?
岩城氏は行動を佐竹当主の復帰後援に留めたか?
(まぁ史実でも里美村近辺を押領したけど)
606 :
日本@名無史さん:03/09/06 09:14
>>603 「半国守護」だな。
尤も、山入氏が太田城奪取したのは、むしろ応仁の乱で幕府権力が衰退したせいでは?と見てみる。
有力バックなはずの幕府が衰退し、関東公方に敵対することになって、心もとなくなって防御に専念。
尤も公方の方も小田原北条氏台頭で衰退していくんだが・・・。
607 :
日本@名無史さん:03/09/06 11:59
>>606 半国守護じゃないよ。
常陸一国の守護だよ。
>>606 それは、幕府が衰退し、背中の寒くなってきた山入氏が
挽回を図って太田城を奪うが、古河公方とも対立することになり
その後は防御に専念して義舜を討てなかったってこと?
幕府と古河公方、どちらが弱体化していたかといえば
堀越公方と並立し、長尾景春と関連して上杉氏とも争っていた
古河公方のほうが、より厳しいんでは?
山入氏が佐竹家家督として幕府に後援されていたのなら
太田城奪取の時期は、翌年には伊勢宗瑞が幕府の後押しで伊豆侵攻を
成し遂げたこともあり、それこそ攻勢に出る好機でしょう
>>604 >幕府が佐竹宗家を助ける理由が分からない。
599の「幕府の権力がいくらか及ぶ内に」は
幕府を頂点とした武家の社会秩序が、山入氏に義舜へのとどめ
を刺させなかったのではないか、てことね
それが605後段3行の疑問に繋がるわけです
佐竹昌義が殺されたのって、康和・康治どっち?
610 :
日本@名無史さん:03/09/21 14:51
>>609 殺されたのか?
・・・東鏡では、上総介に殺されたのは別人だとあったが・・・。
611 :
日本@名無史さん:03/09/22 03:25
この前栃木の茂木城跡行ってきました。
保存状態が良くて良い雰囲気でした。
ところで茂木家は宇都宮でなく佐竹に属していたの?
永禄年間に佐竹傘下の大山氏に城が攻め落とされて佐竹に従属し、
天正何年に北条に再度攻め落とされたと記録にあるらしいが・・・
佐竹の本では読んだことないな。
612 :
日本@名無史さん:03/09/22 03:37
攻め落とされた時に茂木氏は退去してるんじゃないの?
613 :
日本@名無史さん:03/10/03 02:21
614 :
日本@名無史さん:03/10/03 05:20
国会議員の茂木氏とかんけいあるのかな
615 :
日本@名無史さん:
2005年大河は義経らしいが、そこで佐竹討伐は描写されるんか?
頼朝の上洛中止に関わる重要事件なんだが・・・。