浅井長政・朝倉義景近辺について語ってくだされ。
ガイシュツ御免。
ハクダミ・・
前もあったな こんなスレ
戦国板の方がよろしかろう。
浅井は「あさい」?「あざい」?
96年「秀吉」ではお市が「あざい」っていってた
5 :
日本@名無史さん:02/01/15 18:03
浅井ファンには申し訳ないが長政って醜男やな。
お市とじゃ、美女と野獣だな。
6 :
日本@名無史さん:02/01/15 18:34
長政は勇猛な武将だったってのは本当?
義景って無能だったの?そこんところ教えてよ!
あざいです
8 :
日本@名無史さん:02/01/15 19:51
金ヶ崎城を落としていれば日本史は変わっていた。
杉浦善住坊が信長を仕留めていれば日本史は変わっていた。
9 :
日本@名無史さん:02/01/15 22:58
戦国板ですら、ロクにレスがつかなかったスレを
日本史板に持ってくるなよ。
10 :
日本@名無史さん:02/01/16 01:43
朝倉義景と織田信長ってはとこ同士だっけ。姻戚関係にあるんだよね。
織田氏は越前出身で越前守護斯波氏と尾張守護斯波氏の、、、
細かいところは忘れたけどとにかく変なはなしだけど二人は顔も似ている。
11 :
日本@名無史さん:02/01/16 02:42
フニャ珍
12 :
日本@名無史さん:02/01/16 03:45
>>8 杉「谷」善住坊じゃなかったっけ?
埋められて、首をのこぎりで切れらた奴だよね?
14 :
日本@名無史さん:02/01/16 09:38
浅井・浅倉って信長と戦った頃、それぞれ何万石だったの?
15 :
日本@名無史さん:02/01/16 17:45
>>10 確か義景の曽祖父である氏景の妻が尾張織田氏の一族だったとか。
斯波氏繋がりは聞いたことないので是非詳細を教えてください。
16 :
日本@名無史さん:02/01/16 19:43
>13
「杉谷善住房」だった。謝罪して訂正します。
17 :
日本@名無史さん:02/01/16 19:55
>>14 朝倉 57万7256石
浅井 17万3056石
18 :
日本@名無史さん:02/01/16 19:58
19 :
日本@名無史さん:02/01/16 20:08
朝倉は、加賀南部も領土化してたのでは?
20 :
日本@名無史さん:02/01/16 20:14
若狭にも親朝倉勢力がいた筈。
親朝倉というだけで領土と言えはしませんが…
21 :
日本@名無史さん:02/01/16 20:23
>>17 姉川の合戦の時、浅井軍って1万人じゃなかった?
17万石じゃそんなに動員出来ないよねぇ!?
22 :
日本@名無史さん:02/01/16 20:28
>>21 五千人だよ。
それと、世間で良く言われる一万石につき250〜300動員の公式は間違いで、
実際は一万石につき600人は動員できた。
23 :
リットン調査団:02/01/16 21:21
浅井の石高ってそんなもんだったっけ?
25万〜30万石ぐらいと何かで読んだような記憶があるのだが?
最近の研究では、浅井は独立勢力として朝倉と同盟していたのではなく、
朝倉にほとんど臣従していたような状況だったということになってる
らしいね。
>>23 ちなみに近江の太閣検地での石高は七十七万石で、
陸奥を除けば最高。
25 :
日本@名無史さん:02/01/16 22:55
>>23 朝倉景建や景鏡、景紀(この場合、子の景恒というべき?)と
同レベルという話ですね。
とすると、志賀陣で景建・長政が並んで進んだのは、義景の先手と
いうことですかねえ。
ところで、景紀って「かげのり」「かげとし」どちらの読み方が
正しいの?誰か知ってます?
26 :
日本@名無史さん:02/01/16 22:56
>>23 朝倉景建や景鏡、景紀(この場合、子の景恒というべき?)と
同レベルという話ですね。
とすると、志賀陣で景建・長政が並んで進んだのは、義景の先手と
いうことですかねえ。
ところで、景紀って「かげのり」「かげとし」どちらの読み方が
正しいの?誰か知ってます?
二重書きすいません。鬱。逝ってきます。
28 :
日本@名無史さん:02/01/17 07:12
>>24それを考えると、やはり17万石というのは少なすぎ!
近江半国を治めていたはずだし・・・
29 :
日本@名無史さん:02/01/17 07:36
骸骨を茶碗にされたってほんと?
30 :
日本@名無史さん:02/01/17 07:44
みなさん!どこの国が何万石とかって
どうやって調べてるんですか?
私も興味があるのですが、調べ方がわかりません・・・
31 :
日本@名無史さん:02/01/17 08:51
>>28近江半国ではなく、多分1/4ぐらいではないかと…
近江は湖西、湖東、湖南には比叡山の所領が多く、交易の拠点は
一向宗が勢力を持っていましたので、浅井氏の国力はそれぐらい
だと思います
32 :
日本@名無史さん:02/01/17 09:58
33 :
日本@名無史さん:02/01/18 18:16
豊臣に仕えた武将で、浅井井頼(いより?)というのがいるそうですが、
浅井長政の息子という説があるそうです。
大坂夏の陣で討ち死にしたらしいのですが、本当に長政の子なんでしょうか?
あと、名前は知らないのですが、有名な俳優が長政の子孫だそうですけど、
誰かご存知ですか?
34 :
リットン調査団:02/01/18 18:39
>有名な俳優が長政の子孫だそうですけど、
へえ、知らないなあ。誰だろう?というか徳川家の子孫(お江与を
通しての長政の子孫)ではなく、長政自身の子孫を名乗るからには
男系子孫ということになりそうだが、万福丸が処刑されていることを
考えると、次男万寿丸かその浅井井頼(名前は聞いたことあるなあ)
の子孫?その俳優は。
歌手の島倉千代子が、浅井ではなく「朝倉」の子孫を自称しているのは
知っているけれど・・・。
35 :
日本@名無史さん:02/01/18 19:40
2・26事件で大臣の身代わりになって死んだ松尾伝蔵も朝倉氏の末裔と
聞いたことがあるけど。
島倉千代子って朝倉なの?…
36 :
日本@名無史さん:02/01/18 20:18
>>33浅井井便って根津甚八の別名で知られてる。
真田十勇士の一人で架空の人物ですよ。
浅井長政の子というのも物語の設定です。
>>36浅井井便=浅井井頼=根津甚八?
何か長政の一族に「井○」という名前が多いようなので、てっきり実在の人物かと…
勉強になりました。
38 :
リットン調査団:02/01/18 22:40
浅井井頼は実在の人物。
浅井長政に「長春」という男児があり、これが浅井周防守井頼と
同一人物であるということを近年、小和田哲男が考証しているらしい。
>>38ありゃりゃ、そうなんですか。
参考文献わかったら教えていただけません?
気長に待ちます。
浅井井便は変換ミスです。
浅井井頼が正解。
>>38さんの長政の男子説は少し信じがたいですね。
信長の手からどうやって逃れたかなど。
41 :
リットン調査団:02/01/18 23:16
さあ。真実はどうだかわからないけど。
小和田哲男著「戦国三姉妹物語」(怪しげなタイトルだが・・・
角川書店刊)に小和田説の詳細は記されているらしい。
42 :
日本@名無史さん:02/01/18 23:34
でも、次男の万寿丸(だっけ?)は坊主になって助かったんだよね。
嫡男以外は助かった可能性もあるのでは……
43 :
日本@名無史さん:02/01/18 23:48
とにかく織田氏は越前の神官の家柄。朝倉氏とは縁続き。
44 :
日本@名無史さん:02/01/18 23:51
越前における織田氏と朝倉氏の関係は
三河における松平氏と酒井氏が親戚であった関係に近い。
ともに守護は斯波氏、吉良氏という足利武家貴族。
それに対して国人としての地位を足がかりにのし上っていった。
吉良氏って三河守護だったの?
46 :
日本@名無史さん:02/01/19 10:48
>>8>金ヶ崎城を落としていれば日本史は変わっていた。
落ちてたんじゃねーか?
47 :
日本@名無史さん:02/01/19 20:05
>>44>ともに守護は斯波氏、吉良氏という足利武家貴族。
三河守護は一色か細川では?
守護が不明な時期もあるから守護だった可能性はあるかもしれないけど。
ような関係といえるかどうか。
48 :
日本@名無史さん:02/01/19 21:35
よく浅井氏が織田氏に敵対した理由として、朝倉氏に旧恩があったためとかいわれますが、
具体的にどういう恩があったのかよくわからないので誰か教えてください。
六角氏等と戦っているときに援軍を遣したとか、そういう事実あるんですか。
49 :
日本@名無史さん:02/01/20 05:14
>48
49の参考HPの1個目を見てください。
従属大名というよりほとんど家臣です。小谷城内には朝倉教景が作った砦まで
ありました。
51 :
日本@名無史さん:02/01/20 11:07
一向一揆というと加賀が本場のようだが、越前と加賀の一向一揆はほぼ同時期に始まっている。
加賀の富樫は一揆に打倒されたが、朝倉は九頭竜河原の戦いで一揆を加賀に追い払った。
しかし、加賀に避難した越前の一揆勢はしぶとく、
もともと朝倉とは事を構えたくなかった加賀一向一揆の主導権を力ずくで奪い取り、
加賀から越前へ何度も進攻を試みた。
京に近い一乗谷にいながら朝倉が動けなかったのは、
加賀で朝倉に対して一向一揆という形で敵意を燃やす、亡命越前勢力があったから。
加賀一向一揆自体は、もともとの加賀勢力は富樫さえ倒せればよかったらしい。
朝倉にとっては、越前の一向一揆武闘派を加賀に逃がしたのは、
悔やんでも悔やみきれない失敗だっただろうね。
52 :
日本@名無史さん:02/01/20 11:15
ちなみに、福井には「朝倉」「織田」という苗字は今でもけっこうある。
織田は「おた」と発音する場合も多い。
というか、織田一族発祥の地である丹生郡織田町織田は、昔から「おた」と読むのが正式。
現地に行くと、ローマ字表記も「OTA TOWN」と書いてある。
また、「朝倉」という苗字の浄土真宗のお寺がけっこうあるのも不思議。
一族滅亡後、関係者が浄土真宗に帰依したのだろうか。
49さん、ありがとうございます。
なるほど、ほとんど家臣状態ですか。
朝倉は、越前のみならず近江・若狭辺りの勢力の元締めってところですかね。
となると、気になるんですが、長政とお市の縁組を朝倉ではどう考えていたんでしょうか?
54 :
日本@名無史さん:02/01/20 19:49
ハクダミage
55 :
日本@名無史さん:02/01/22 20:56
>>53 信長と浅井を通じて同盟に近い関係を得た?マジ?
56 :
日本@名無史さん:02/01/23 11:37
浅井田宮丸とかの尾張浅井は、近江の浅井と関係あり?
57 :
日本@名無史さん:02/01/23 14:29
三戦板に戻って来い
58 :
日本@名無史さん:02/01/23 14:46
>>56 どこかのスレに書いてあったが、血縁関係は無い模様。
浅井田宮丸は浅井長時と同一人物。信長の赤母衣衆だった浅井新八の息子とか。
59 :
日本@名無史さん:02/01/23 18:05
>58
あれ?
田宮丸の家ってたしか浅井亮政の婿だが次男だかの系統では?
60 :
日本@名無史さん:02/01/23 19:20
>59
? 関係無しだったと思うが…
近江浅井出自説の根拠文献キボンヌ。
61 :
日本@名無史さん:02/01/24 16:27
姉川の合戦の後、浅井氏が滅ぶまで3年かかってる
朝倉氏が滅ぶのは、それからさらに数年後のこと
まあ、信長は信長で忙しかったつーことです
そうだったっけ?
そりゃスマンかったです
64 :
日本@名無史さん:02/01/25 12:01
朝倉といえば他のスレに有ったけど、
鞍谷氏っていうのは足利義嗣の子孫か?斯波氏の子孫か?
どちらか知っている人いますか?
66 :
日本@名無史さん:02/01/25 12:34
>64
地元福井県でも意見が分かれているみたい。
Googleで「鞍谷」検索したら足利説・斯波説、見事に分かれてた。
自治体の観光案内なんかのページを見たんだけど。
67 :
日本@名無史さん:02/01/26 11:31
朝倉景鏡は親父が宗家に刃向かって没落したのに何故ナンバー2の座を占める
ことができたのでしょう?
68 :
日本@名無史さん:02/01/26 22:32
>67
景鏡の親父って誰?厨房で御免。
69 :
日本@名無史さん:02/01/27 01:25
>68
朝倉景高という人です。
70 :
日本@名無史さん:02/01/27 11:21
朝倉景高(生没年不詳)
貞景の次男。景鏡の父。孫八郎。右衛門大夫。大野郡司。
朝倉軍大将として、美濃に出兵。天文5(1536)年頃から
兄孝景と仲違いし、大野郡司を罷免される。その後上洛し、
宗家転覆の陰謀を企むが、孝景側に立った幕府により京都から
追放される(天文9年=1540年9月)。
京都追放後は、当時朝倉氏と対立していた若狭武田氏に身を寄せ、
武田氏や本願寺、尾張斯波氏と連携を図り、越前に攻め込もうと
したが、本願寺に拒絶される。
天文12(1543)年4月、朝倉との更なる関係悪化を望まない
武田氏の意向により、若狭から和泉に移り、更に西国に没落した。
景鏡のほかに在重という子があり、中村一氏、徳川家康に仕えた。
その子である宣政は、徳川忠長付きとなり掛川城主となるが、忠長
没落の際、郡山に流された。
景高と孝景の対立は父貞景の遺領をめぐるものであったらしい。
景鏡が何故ナンバー2になり得たか詳しいことはわかっていないが、
一説に生母が公家(烏丸冬光の娘)であり、母方の実家から取成しが
あったためといわれている。
(以上、ソースは松原信之「越前朝倉一族」)
71 :
日本@名無史さん:02/01/27 14:09
一般的な資料の解説(小和田氏などが書いてる)などでは
姉川の戦いで、信長が浅井を滅ぼさなかったのは妹婿で優れた才能を持つ浅井長政を、もう一度取り込みたかったからで、
最後に骸骨に金箔を張られたのも、執ように信長の誘降を拒んだ長政に対する、
信長のかわいさ余って憎さ百倍の怒りだそうです。
この解説は正しいのですか?
72 :
日本@名無史さん:02/01/27 14:11
>>62 タッチの差くらいだよ。
ほとんど間はない。
73 :
日本@名無史さん:02/01/27 14:16
信長包囲網で信玄の死を確認したあと、
信長は速攻で包囲網に対して電光石火の反撃、
まず、震源の死も知らずに挙兵した足利義昭の二条城を降し、
ついで長島の一向一揆衆をそして、浅井・朝倉を一気に滅ぼした。
74 :
日本@名無史さん:02/01/27 14:18
>73
長島の一向一揆は浅井・朝倉の後
>>72 髑髏を盃にされたのも、長政と義景は一緒にされてなかったかな?
76 :
日本@名無史さん:02/01/27 14:28
>62
1573年の朝倉軍の動き(1)
3月21日 義景、敦賀出陣、若狭佐柿城攻め
5月10日 一乗谷帰陣
7月上旬 義景の部将、近江高島郡出兵
浅井長政より救援要請
7月17日 義景、一乗谷出陣(景鏡ら出兵拒否)
7月19日 敦賀着陣
77 :
日本@名無史さん:02/01/27 14:28
義景・久政・長政
78 :
日本@名無史さん:02/01/27 14:40
1573年の朝倉軍の動き(2)
8月6日 近江出陣
8月8日 浅井方部将 阿閉貞征寝返り(小谷城西方の守り崩れる)
8月10日 信長、小谷城北の山田山に着陣(浅井・朝倉の連絡を断ち切る)
8月12日 朝倉の前線基地、丁野城・大嶽山城陥落
79 :
日本@名無史さん:02/01/27 14:49
1573年の朝倉軍の動き(3)
8月13日 深夜、朝倉軍退却開始 織田軍、直ちに追撃
朝倉方、本隊と雑兵の二手に分かれ退却するが、織田方は本隊を追撃
8月14日 近江越前国境の刀禰坂付近で追撃戦 朝倉方精鋭壊滅
8月15日 夕刻、義景、一乗谷帰陣 従う者5、6騎
80 :
日本@名無史さん:02/01/27 14:57
1573年の朝倉軍の動き(4)
8月16日 景鏡を頼り大野へ移動
8月18日 織田軍の放火により一乗谷炎上
8月20日 景鏡の裏切りにより自害
8月26日 小谷城総攻撃開始
8月28日 浅井久政自害
9月1日 浅井長政自害、小谷城落城
※資料により日時はずれる場合があります
81 :
日本@名無史さん:02/01/27 15:19
>>71 >信長のかわいさ余って憎さ百倍の怒りだそうです。
これは合ってるんじゃないかと思います。
>姉川の戦いで、信長が浅井を滅ぼさなかったのは妹婿で優れた才能を持つ浅井長政を、もう一度取り込みたかったからで
よくわかりません。
姉川の戦いは、このスレの前の方にも書いてありましたが、
織田・徳川の圧倒的勝利とはいえなかったようです。この戦いの
時点では「滅ぼさなかった」ではなく「滅ぼせなかった」という
方が合っていると思います。敗れたとはいえ、浅井・朝倉軍は、
わずか3ヵ月後に大軍を編成して京都に迫る動きを見せたくらいですから。
長政が「優れた才能を持つ」武将かどうかはよくわかりません。
作家等はそのように描写していますが、実のところはどうだったか。
合戦では確かに六角氏相手に戦い勝利はおさめてますね。
仮に信長にもう一度取り込まれたとしても、その先どうなったかは
何ともいえないのではないでしょうか。
ただ、妹婿としてある程度信頼したということは、ある時期には
あったと思います。そのため、はくだみにされたんじゃないかと考えてます。
他にもいろんな考え方があると思いますのでどーぞ。
82 :
日本@名無史さん:02/01/27 16:44
>敗れたとはいえ、浅井・朝倉軍は、わずか3ヵ月後に
>大軍を編成して京都に迫る動きを見せた
比叡山に立て籠ったのは、この時だったけ?
あの時は山門や一向宗、六角氏と連携して信長を倒す絶好の
チャンスだったのにね
83 :
日本@名無史さん:02/01/27 16:48
通称「志賀陣」
六角の野郎が単独講和したために…
84 :
日本@名無史さん:02/01/29 20:42
景鏡の甥で徳川忠長付きになった朝倉宣政って上田の合戦の朝倉宣政?
85 :
日本@名無史さん:02/01/29 20:47
>>84 そうです。
六兵衛、筑後守と称した朝倉宣政さんです。
スマソ!
「六兵衛」じゃなく「藤十郎」
逝ってくる…
87 :
日本@名無史さん:02/01/29 23:17
浅井井頼=浅井作庵?
幕府のお尋ね者になったという…
88 :
日本@名無史さん:02/01/30 00:09
>>87 浅井井頼=浅井作庵=浅井周防守=浅井政信=浅井政賢 らしい
89 :
日本@名無史さん:02/01/30 21:43
>>64 朝倉は斯波義廉の息子を文明13(1481)年に越前に迎えて守護として
奉っていたそうです。
足利義尚・義材の近江六角氏討伐の際、参陣した斯波義寛は幕府に対し、
越前回復を訴えますが、朝倉方は、越前守護は義敏−義寛系ではなく、
義廉系の斯波氏と主張し、幕府もこれを認めざるを得なかったといわれています。
このような経緯から、斯波義廉の息子(義俊?)の子孫が鞍谷に住み鞍谷氏を
名乗った、朝倉は越前支配を正当化するため、代々守護末裔の鞍谷氏と
縁組をかわした、ということがあったんじゃないでしょうか。
(「越前朝倉一族」著者 松原信之氏の説)
尤も足利義嗣系の鞍谷氏が先にいて、これが断絶したため斯波氏が後を継ぎ
足利流・斯波流というようにいわれるようになったのかもしれませんが。
90 :
日本@名無史さん:02/02/01 12:38
浅井・朝倉の子孫ってあまり聞かないですね。
浅井・朝倉本姓名乗っている人物がわかるのせいぜい江戸初期までですか。
後年にもいるのかな?
91 :
日本@名無史さん:02/02/01 12:40
旗本にごろごろいるけど。
92 :
日本@名無史さん:02/02/01 12:41
どんなの?
苗字変わってちゃいやよ
93 :
日本@名無史さん:02/02/01 13:05
朝倉氏の子孫の人、ここに来てたよ。
94 :
日本@名無史さん:02/02/01 17:10
95 :
日本@名無史さん:02/02/01 17:43
>>94 90に「せいぜい江戸初期までですか」とある
朝倉宣正(政)は70辺りで既出じゃ
92氏はそれ以降を求めておると思われる
何ぞ他に名を挙げる家は無いか(浅井でもよろし)
96 :
日本@名無史さん:02/02/01 23:39
朝倉宣政の弟、教重の系統が幕臣として続いているみたい
大日本野史がソースだけど
97 :
日本@名無史さん:02/02/04 04:13
七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空
98 :
日本@名無史さん:02/02/04 12:43
>>33 >あと、名前は知らないのですが、有名な俳優が長政の子孫だそうですけど、誰かご存知ですか?
たしか歌舞伎系の俳優だと思った
親子で俳優だったと記憶している
ずいぶん昔に読んだ本にそう書かれていた
99 :
日本@名無史さん:02/02/04 14:07
>>94 その宣正の兄弟、子孫そのた朝倉氏は多数幕臣になっています。
100 :
日本@名無史さん:02/02/04 20:39
>98
北大路欣也さんが浅井家の子孫だと聞いたことがあります。
正しくは、浅井一族の子孫だとおもいますけど。
本名が浅井というそうです。
お父さんは、市川うたえもんさんでしたよね、確か。
101 :
日本@名無史さん:02/02/04 20:47
>>100 では、別スレで北大路欣也主演「浅井長政」を希望せねば(w)
102 :
日本@名無史さん:02/02/04 20:58
北大路欣也が浅井長政に見えてきてコワイ
103 :
日本@名無史さん:02/02/04 21:28
父親を邪険にしたんだよね?
104 :
日本@名無史さん:02/02/04 21:40
長政は親孝行だよ(藁)
斎藤義龍か武田信玄あたりが適役か?
106 :
日本@名無史さん:02/02/04 21:47
じゃ、朝倉義景役は誰が適任?
107 :
日本@名無史さん:02/02/04 22:40
108 :
日本@名無史さん:02/02/04 22:44
109 :
日本@名無史さん:02/02/05 21:32
「浅井井頼」
この変な名前の由来を知ってる人いませんか?
110 :
日本@名無史さん:02/02/05 21:34
浅井長房って何者?
111 :
日本@名無史さん:02/02/05 22:38
朝倉はたかが越前一国、浅井にいたっては近江半国だろ?
同程度のは全国にあるだろうに、なんでこんなのが注目されるんだ?
112 :
日本@名無史さん:02/02/06 11:16
>111
京に近く、影響力を持っていたから。
113 :
日本@名無史さん:02/02/06 14:04
>>112 だったら浅井より六角のほうがすごいじゃん。
114 :
日本@名無史さん:02/02/06 16:48
>>110 人物が何者か知りたいのであれば、
>>33-41,87-88をまずご覧あれ。
豊臣秀頼に仕えたのが本当であるとすれば、一字書き出しで「頼」の字を
もらったとも考えられます。
浅井氏には他にも浅井井伴とか井規とか井演など「井」の字を使った名乗りが
庶系に見られます。
自分は浅井井頼は、名乗りから考えて庶系と考えていますが、史料をよく確認して
いないので断定はできません。
115 :
日本@名無史さん:02/02/06 16:55
浅井は朝倉の家臣で、北近江を任されていたに過ぎないって説があったな。
そうすると浅井家が織田家より朝倉家を取った理由もよくわかるってもんだ。
116 :
日本@名無史さん:02/02/06 17:14
>>111 >>49で紹介されているように、最近では朝倉氏の勢力範囲は越前一国に
とどまらないという説があります。更に同サイトの研究者の方は、浅井氏は
朝倉氏の家臣同然の存在であったとも言われています。
(私個人はそこまで言い切れないと思いますが)
浅井氏に関する点では、全面的に首肯しかねる点もあるのですが、朝倉氏は
一種の守護大名連合という考えで畿内・北陸周辺の安定を図っていたのでは
ないかという考え方は惹かれるものがあります。
守護大名連合といいましたが、これは厳密に言えば正しくないかもしれません。
朝倉・浅井はともに守護である斯波・京極を打倒しているのですから。
ただし、両氏とも旧守護家を完全に滅ぼしているのではなく、
それぞれ自家と縁組を結ぶなどして存続させています。「一種の守護大名連合」といった
のはそのためです。
こういう見方ができるから、注目されていると言えるのでは?
>>112氏はこの辺のことを言われたかったのでは?
>>113 まあ、どっちがすごいというのは、見方によって変わりますんで…
鎌倉から戦国まで内紛はあったにしても近江支配を貫徹したというのは
確かに「すごい」ですね。
>>110 どの史料に出てくる人ですか?
スマソ、、、114は109に対するレスです、、、逝ってきます、、、
119 :
日本@名無史さん:02/02/07 00:15
>>101 ぜひお願いしたい>NHK
しかしさすがに年をとりすぎているような気も・・・
120 :
日本@名無史さん:02/02/07 00:22
>>119 じゃあ、ちょっと若いところで渡辺徹とか(藁)
単に体型が似ているなと…
121 :
日本@名無史さん:02/02/08 19:29
前の方で浅井氏の勢力範囲はどれほどかっていう話題があったけど、
戦国時代の延暦寺ってどれくらいの領地をもってたの?
122 :
日本@名無史さん:02/02/09 07:37
六角に蚕食されわずかだったと思われ
123 :
日本@名無史さん:02/02/11 03:00
浅井久政は愚将だったのですか?
124 :
日本@名無史さん:02/02/11 11:45
何をもって愚将というんですか?
125 :
日本@名無史さん:02/02/11 12:02
箔濃の作り方を教えてください
126 :
日本@名無史さん:02/02/11 12:47
>>124 家臣達に「当主は長政のほうがイイ!」と言われた段階で
やっぱり・・・
127 :
日本@名無史さん:02/02/11 13:44
久政が隠居させられた理由は、家臣から親六角の姿勢を拒否されたからというけど
久政の方針に賛成する家臣も当然いたはず
その人たち粛清されっちゃたんでしょか?
128 :
日本@名無史さん:02/02/11 14:30
>>127 自分の政策に反抗的な家臣達をやり込む事が出来ない段階で
やっぱり・・・
130 :
日本@名無史さん:02/02/11 14:56
131 :
日本@名無史さん:02/02/11 14:58
>>128 この時代の戦国大名では家臣と言うより同盟者といったほうが実状に近い。
それぞれ所領と兵力を個人として持っているから「殿」と呼ばれていても、
専制君主のように振舞えたわけではない。武田信虎や上杉謙信をみれば分る
。
132 :
日本@名無史さん:02/02/12 00:35
>>131 謙信はたまに背かれるけど概ね好き勝手やってたような……
まあ浅井氏なんてのは地元豪族との連合体だね。
133 :
日本@名無史さん:02/02/12 19:14
>>131 どっちかっつーと武田・上杉といった連中より浅井の方がより新興勢力だったので
権力基盤は脆弱だったんじゃないかなって気がする
なんか日本語変だな(鬱)
134 :
日本@名無史さん:02/02/12 21:20
信長の正確が残虐性を帯びるようになったのは長政に裏切られた時のショックが原因という説があるがどうなの?
とすると奴が信長を裏切らなければ、信長が後に比叡山や一向宗相手にやった虐殺もなく、結果的に日本は政教分離が未成熟なまま近代を迎えていたことになるのか?
135 :
日本@名無史さん:02/02/12 22:28
>>134 二条城造営の時の首チョンパは長政に裏切られる前じゃなかった?
元々そういう資質のお方だったのだと思われ
136 :
日本@名無史さん:02/02/13 09:34
長政が国友の鉄砲鍛冶を重用していれば、歴史は変わっていた
137 :
日本@名無史さん:02/02/13 12:31
>>136 国友では大体いつ頃から鉄砲作ってたの?
138 :
日本@名無史さん:02/02/13 12:38
>>134 血もつながってない長政が裏切ったぐらいで
人間不信になる信長たんじゃないと思われ。
>139
リンク先の話は・・・・・特に最後の方はいわゆる民間伝承ってことで。よろしく
141 :
日本@名無史さん:02/02/16 11:33
朝倉義景滅亡後(厳密に言うと景鏡・景健滅亡後)の朝倉家再興運動に詳しい方、
情報キボンヌ
私の両親が結婚した時の仲人が、朝倉の子孫と聞きました。家に刀剣や鎧兜、火縄銃
などあったそうですが、泥棒に入られ盗まれたとか・・・。あと、京都府の北部に朝倉
姓がチラホラありますが、逃げ延びた一族なんですかね・・・?
143 :
日本@名無史さん:02/02/19 11:23
>142
京都の北部っていうと丹後のこと?
朝倉一族はもともと但馬出身だから、はやくに分かれた家では?
上スマソ。
そうなんですか?知りませんでした。私が知っているのは福知山とか綾部の付近
です。
146 :
日本@名無史さん:02/02/19 16:30
>145
いずれにしても、但馬の近隣だから、越前から逃れたというより、
もとから居たということでしょう。
147 :
日本@名無史さん:02/02/19 16:39
>>138 三年以上織田軍を拘束された恨みは深いと思うぞ。
朝倉宗摘はなにおした
149 :
日本@名無史さん:02/02/19 22:55
>>148 大野郡司家(景鏡の家)と反目し朝倉滅亡の遠因を作った(酷な見方かな?)
しかし宿老を作ってはいかんといっておきながら自分は宿老(みたいなもん)に
なってしまったのは、本人にその気がなかったのなら可哀想な事だと思う。
152 :
日本@名無史さん:02/02/20 00:37
なんで前波とかって改名そたの?
153 :
日本@名無史さん:02/02/20 00:39
>>152 朝倉の根本被官筆頭だった過去を捨て去りたかったとか
浅井は織田に敗れて祝杯の時自分の頭蓋骨を入れ物に酒を回し飲みされたと
聞きます。
155 :
日本@名無史さん:02/02/20 00:57
なにをいまさら…外人?
156 :
日本@名無史さん:02/02/21 01:01
朝倉宗滴は本家から養子(景紀)を迎えた訳ですが、実は実子がいたそうです。
この宗滴の実子はその後どうなったか知っている方教えてください。
あと義景は六角氏から朝倉に養子に入ったという説があるそうです。
殆どの学者がこれを否定しているようですが、こんな話が出たのは何故だったんでしょうか?
157 :
日本@名無史さん:02/02/21 01:58
>>156 あと義景は六角氏から朝倉に養子に入ったという説があるそうです。
殆どの学者がこれを否定しているようですが、こんな話が出たのは何故だったんでしょうか?
『江源武鑑』にのってる話だったかな? うろおぼえですが…
158 :
日本@名無史さん:02/02/21 02:16
司馬遼太郎の小説で、信長の越前進攻時に金ヶ崎を守ってたのは宗滴だということになってるんだが、これって作者の間違いだよね。もう死んでるし。(しかもかなり情けない人物になってる…)
それとも二代目宗滴を名乗った人物がいたの?
159 :
日本@名無史さん:02/02/21 02:23
なに〜っ!!
どの小説ですか!
マジに腹が立つ!
二代目宗滴なんて聞いた事無いです(敦賀朝倉では)
景紀は確か伊冊とか名乗っていたし、
信長侵攻時は次男の景恒が守っていたと思いますよ
160 :
日本@名無史さん:02/02/21 12:22
>>157 江源武鑑を信用してはいけない。
あれは2ちゃんねるの厨房と同レベルの沢田源内が、
自分の血筋を脚色するための偽書。
なんてったて豊臣秀吉の「秀」は佐々木義秀から貰ったとかいうんだから。
161 :
日本@名無史さん:02/02/21 12:31
義景の娘と六角氏の結婚話が出たことがあるらしい。
それと混同したものか?
162 :
日本@名無史さん:02/02/21 22:03
何故一番下にあったのだ?age
163 :
日本@名無史さん:02/02/22 22:33
山崎長徳は山崎吉家の子孫なんですか?
164 :
日本@名無史さん:02/02/22 22:39
>>163 違うみたいね。多分同族だろうけど。
近江の山崎片家なんてのもいてまぎらわしい…
165 :
日本@名無史さん:02/02/22 22:41
>>164 おうっ!速レスありがとうございます。
同族ってことはやはり親父あたりが朝倉家臣だったわけですか?
166 :
日本@名無史さん:02/02/23 00:44
167 :
日本@名無史さん:02/02/23 21:24
新人物往来社の戦国人名辞典の山崎吉家の項では、70年近く
戦場を馳駆したかのような記述がされている
168 :
日本@名無史さん:02/02/24 00:52
朝倉権守って誰のこと?戦国時代にこういう官名名乗ってる人珍しいね。
朝倉一門だから僭称じゃなくて正式な役なのかもしれないけど。
169 :
日本@名無史さん:02/02/24 01:24
>>168 権守って官名じゃなくて童名なんだそうです。
敦賀郡司家の景恒の子という系図があるけれど
朝倉一族で波多野家を継いだ道郷(義景のおじ)の
孫という方が信憑性が高いんだそうです。
(ソース 越前朝倉一族 松原信之氏 著)
そういや美濃の斎藤氏には斎藤大納言というのがいましたな。
170 :
日本@名無史さん:02/02/24 01:40
>>169 あ、そうなんですか!名前なのか。
昔の人はたまに変な名前つけますな。本多山県とか。
171 :
日本@名無史さん:02/02/26 01:29
>>168 名は道景、刀禰坂で戦死した時、まだ16歳(涙
172 :
正確な史料は残っていないそうですが、:02/02/26 08:58
>>121 近江に点在する荘園のうち、その全部もしくは一部が山門領であった
荘園は、4割以上に相当するそうです
(高橋昌明『湖の国の中世史』参照)
近江以外の荘園も含めると、そこいらの大名よりも強力な経済力と
軍事力を有していたことは間違いありません
173 :
日本@名無史さん:02/02/26 10:53
>>172 そこからのあがりが全部延暦寺に着けばね。
横領されてるのも多かったはず。宮部家なんかはそうやって成りあがったし。
174 :
日本@名無史さん:02/02/26 12:28
延暦寺が坂本で商業活動を営んでいたということはないんでしょうか?
175 :
日本@名無史さん:02/02/27 02:14
朝倉と延暦寺の関係はどんなものだったんだ?
173がいうように延暦寺の所領が横領されていたものが多かったのならば
浅井との関係はどんなものだったのか?
176 :
日本@名無史さん:02/02/27 08:55
>>173 延暦寺が大した力を持っていなかったんだとしたら、わざわざ
信長が焼き討ちにしていたと思いますか?
敵対勢力としては十分な力があったから、そこまでしなければ
ならなかったんではないですか?
>>175 天台宗は日本海側にも荘園を多く持っていたようですが、教線を
伸ばしてきた一向宗との対立があったようです
それに対して、朝倉氏はどのように態度で臨んだんでしょうか?
177 :
日本@名無史さん:02/02/27 23:45
>>176 「そこいらの大名」のクラスによるな。朽木元綱あたりと比べれば大勢力だけど(w
山門の経済力や僧兵の強さといった現実的な強さが脅威というより、宗教的権威の特権は認めないという信長のみせしめ作戦だったような気がするが>焼き討ち
本願寺(信玄でもいいけど)が信長に勝ってたら日本はまた違う国になってただろうね。
178 :
日本@名無史さん:02/02/28 00:44
>>176 下手すりゃ再度朝倉の前線基地化する恐れがあったんじゃないすか。
179 :
日本@名無史さん:02/03/01 00:13
義景の長男って毒殺されたんですか?
母方が朝倉子孫です。代々大地主です。
181 :
日本@名無史さん:02/03/01 12:40
182 :
日本@名無史さん:02/03/02 19:51
前波吉継の一族(というか前波氏)は族滅ですか?
加賀藩に仕えたとか旗本になったとかいうのはいませんか?
183 :
日本@名無史さん:02/03/02 20:13
むすかしいもんだいだね
184 :
日本@名無史さん:02/03/03 20:20
浅井の武将の雨森某という人とバカボンパパの声優さん(故人?)の
関係を教えてください。
185 :
日本@名無史さん:02/03/09 23:26
もう終りか?
186 :
日本@名無史さん:02/03/10 00:02
187 :
日本@名無史さん:02/03/10 01:58
>>186 そうだと思う。丹羽長秀から貰ったのではないでしょう。
188 :
日本@名無史さん:02/03/10 07:27
>>176 延略寺の焼き討ちが実はたいしたものではなかったというのは
最近の定説ですが?
189 :
日本@名無史さん:02/03/10 09:47
>>188 建物はさほど被害を受けてなかったようですが、人的被害はどのくらいだったんでしょう?
190 :
日本@名無史さん:02/03/11 11:28
191 :
日本@名無史さん:02/03/11 12:38
>>190 137は187の誤り?
六角義秀って誰?
御免、佐々木スレで義秀見つけた。
でも
>>157で出てくる『江源武鑑』の人なんでしょ?
信憑性あるの?
ネタだったらすねるぞ。
193 :
日本@名無史さん:02/03/11 20:18
朽木氏って浅井長政に臣従した時期があったの?
194 :
日本@名無史さん:02/03/11 20:23
>>189 違うでしょ。当時延暦寺の建物は既にほとんどが坂本に移築されて
いて、それが焼かれたということ。だから山には被害が少なかったと。
人的被害は数千人らしいな。『信長公記』曰く。
ところで叡山焼くのが凄ければ町衆ごときが山科本願寺を
焼いたのはとてつもなく凄いということになりそうだが。
なんつったって当時隆盛を極めた一向宗の総本山だぜ?
195 :
日本@名無史さん:02/03/11 21:11
>>194 でも信長は近江のどこかに新比叡山というのを建てているはず…
196 :
日本@名無史さん:02/03/11 21:12
197 :
日本@名無史さん:02/03/12 14:26
199 :
日本@名無史さん:02/03/12 18:31
>198
ご免ね。でも秀吉は誰からも「秀」を貰っていないというのが通説だよ。
200 :
日本@名無史さん:02/03/12 18:31
GET
201 :
日本@名無史さん:02/03/12 20:19
秀吉の秀は信秀の秀だろ
202 :
日本@名無史さん:02/03/13 00:14
203 :
日本@名無史さん :02/03/13 00:17
儂もそう聞いた。
204 :
日本@名無史さん:02/03/13 00:24
浅井長政の長は信長の長か?
205 :
日本@名無史さん:02/03/13 00:28
>>204 ,一-、
/ ̄ l | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■■-っ < んなーこたーない
´∀`/ \__________
__/|Y/\.
Ё|__ | / |
| У.. |
206 :
日本@名無史さん:02/03/13 00:33
207 :
日本@名無史さん:02/03/13 00:33
>>205 いや、たぶん信長の「長」でいいと思うよ。
長政と名乗る前は、「賢政」と名乗っててこれは明らかに
六角義賢の「賢」で六角と断絶後、長政に変えたのだから
時期的に信長の影響だろう。
208 :
日本@名無史さん:02/03/13 00:34
205どうなんだ?
209 :
日本@名無史さん:02/03/13 00:35
じゃあ市との結婚も改名と同じ時期と考えていいのかい?
>>209 改名は永禄4年(1560年)のことのようで、結婚は諸説あるものの
その数年後になるだろうから時期はずれると思う。
むしろ桶狭間の勝利にあやかったのではないかな。
他に同時期に「長」がつく人というと三好長慶がいるけど……
浅井と三好に接点あったけ?
211 :
日本@名無史さん:02/03/13 00:56
浅井長政はもともと信長オタなんだよ
自分と同じで大した家柄でもない信長がどんどん勢力拡大しているのを
心強く思っていたらしいよ
212 :
日本@名無史さん:02/03/13 01:01
美濃の斎藤と浅井がその頃対立していたということはないの?
遠交近攻策の一環として歓心を買うために一字もらったとか
213 :
日本@名無史さん:02/03/13 01:03
>>210 まだ同盟してもいない相手から一字取るなんて……しかも
相手の二文字目を自分の一文字目に持ってくるなんてほとんど家臣の
やること。
そりゃちょっと卑屈すぎないか?
214 :
日本@名無史さん:02/03/13 01:18
景政とはしなかったんだな…
まず間違いの訂正。永禄4年は1561年でした。
長政とお市の婚礼は1561年、1562年、1567年、1568年説があるようです。
1561年説なら改名と結婚が重なってすんなりいくのですが、
216 :
日本@名無史さん:02/03/13 01:28
二人とも三好長慶から。なんてね。
217 :
215のつづき:02/03/13 01:29
1561年説なら改名と結婚が重なってすんなりいくのだけど、
私としては67年説を支持してるので、難しい所だ。
ただ浅井・織田が接近し始めてた可能性はあると思う。
前年の1560年に六角・斎藤の接近があるので、それへの対抗として。
ところで斎藤竜興の生母が浅井久政の娘らしいのだけど、
この人はどうなったのだろう。
218 :
日本@名無史さん:02/03/13 01:43
>>217 浅井久政の娘が永禄初年に没? 後妻一条氏来る
↓
浅井と斎藤の姻戚関係無し 浅井は平井氏を離縁
↓
斎藤の方針転換 六角と手を組む
↓
斎藤 近江へ出兵
こんな感じかな?
219 :
日本@名無史さん:02/03/13 10:30
>>201>>202>>203 おいおい、いつのまに信秀が秀吉に名前を与えたことになっているんだ?
そもそも信秀が生きているときに名前を与えられるほど、
秀吉は重臣だったのか?
そもそも信秀に仕えてないぞ。
220 :
日本@名無史さん:02/03/13 18:08
ここは学問版だよね?
惜しい、学問版ではなくて、学問板ですよ
222 :
日本@名無史さん:02/03/13 21:59
223 :
日本@名無史さん:02/03/14 10:42
>222
いや、秀吉の弟の秀長は、
最初は「長秀」だったことからもわかるように、だれかから貰ったものではない。
現在のところはね。
224 :
日本@名無史さん:02/03/14 20:21
>>223 秀長の長の字は長秀から貰ったものの筈
だから始めは長の字が上にきて長秀って名乗ってたんじゃなかったっけ?
225 :
日本@名無史さん:02/03/14 20:23
>>222 最初は長秀に取り入ってたから>秀吉
考えられなくもない
226 :
日本@名無史さん:02/03/14 20:47
>219
たしかに信秀が生きているときに秀吉は織田家に仕えていないが
先代の当主から名前をもらうということがそんなにおかしなことか?
秀吉の秀は信秀の秀だよ
んで
秀長の秀は秀吉の秀で
長は長秀の長だ
で最初は通常どおり上位者からもらった長を上にして
長秀だったんだけど同じ名前というのも恐れ多いということで
ひっくり返したんだ
227 :
日本@名無史さん:02/03/14 21:33
>>226 まずその当時の秀吉の身分で当主の名前貰えたとは思えない
名前貰うには貰う方にもそれなりの格や身分が必要なのよ
直属の上司筋から貰ったとみるのが妥当だろう
228 :
日本@名無史さん:02/03/14 21:35
ふむ。
秀吉という名を名乗ったのは正確にはいつなんです?
229 :
日本@名無史さん:02/03/15 11:20
>>226 ふむ。君には常識がないらしい。
自分の妄想を語るのはやめよう。
230 :
日本@名無史さん:02/03/15 18:10
で、長政の長は信長の長ってことでいいんだよね(三好長慶から貰ったんじゃないよね)。
桶狭間の勝利にあやかったか、市との結婚を期に改名したんだよね。
じゃあ、朝倉は浅井と織田が縁組することについてどう思っていたの?
浅井が朝倉の家臣同然の立場だとするとこの時期は織田・朝倉は同盟に近い
関係にあった訳?
231 :
日本@名無史さん:02/03/15 19:42
>>230 織田・朝倉は仇敵関係
浅井は朝倉に気を使って織田が朝倉を攻める場合は浅井の了解を取って
からにしてくれって条件出したという話がある。
232 :
日本@名無史さん:02/03/15 20:17
>>226 堺屋太一の秀長にはそんなかんじのことが書いてあったな
233 :
日本@名無史さん:02/03/15 20:38
>>231 確か朝倉教景は、織田家の縁戚だったよね。(織田大和守家)
桶狭間以前の信長を高く評価した数少ない一人だったとも聞いたことがある。
元は同じ斯波氏の家臣だし、(信長の家は陪臣だけど)
朝倉家の中にも、親織田勢力はあったような気がする。
(まあ義景は、バカのくせに名門意識だけは強いから、陪臣の信長をバカにしただろうけど)
234 :
日本@名無史さん:02/03/15 22:10
織田(おた)は、織田信長一族の祖先のふるさとです。
織田氏の祖は越前織田の荘の荘官として、また、越前二の宮劒神社の神官として代々仕えてきた由緒ある家柄です。
室町時代の応永年間に、神官の子に「常昌(つねまさ)」という立派な人物がいましたが、時の越前の守護斯波(しば)氏にその才能を見いだされ、家臣として取り立てられ、尾張の国に派遣されました。
苗字は故郷の名を取って「織田氏」を名のるようになりました。
http://www.fmfukui.co.jp/fgnet/ota/meisho.html
235 :
日本@名無史さん:02/03/15 22:53
美濃攻めの頃、美濃の豪族を通じて信長から義景に連絡をとっていたという
記録が残っているから、当初は必ずしも敵対関係にあったとは思えない。
仇敵同士というのは「朝倉始末記」その他軍記物で言ってる事であり、
永禄初年の両家の関係にあてはめることは出来ないと思う。
236 :
日本@名無史さん:02/03/16 10:03
朝倉始末記の内容を鵜呑みにしたレスが多いね。寂しいことだ。
237 :
日本@名無史さん:02/03/16 12:45
238 :
日本@名無史さん:02/03/16 13:26
>>237 あんたも何か語りなさいよ(藁
朝倉始末記は、義景の嫡男暗殺事件とか、義景の妻妾の履歴など誤りが
多くみられますが、一番の問題はなんでも義景のせいにしてしまうところ
だと思います。軍記物はみんなそうだと言ってしまえばお終いですけれど。
ゲーム作る時は参考にすると楽でいいでしょうね。
239 :
日本@名無史さん:02/03/20 19:20
誰か小谷城一番上(朝倉が陣したところ)まで登った人いる?
今度登ってみようと思うんだけど。
誰も答えてくれない…もういいや
週末行ってくるようっ!シクシク…
241 :
日本@名無史さん:02/03/28 12:43
陽気も良いので浅井・朝倉ツアーを敢行しようと思うのだが、
>>195氏のいう新比叡山にも行ってみたい。何処にあるの?
242 :
日本@名無史さん:02/04/06 01:41
一乗谷行ってきたが北陸まだ寒い。
243 :
日本@名無史さん:02/04/06 02:14
似たようなスレを見た事があるような…
デジャヴーってやつか?
244 :
日本@名無史さん:02/04/06 04:42
245 :
日本@名無史さん:02/04/06 12:00
尾張朝倉氏について教えてください。
246 :
日本@名無史さん:02/04/06 12:12
>>245 私も知らないんですが、越前朝倉氏と関係があるんですか?
247 :
日本@名無史さん:02/04/20 15:56
そんなのあるの?
248 :
日本@名無史さん:02/04/21 07:57
249 :
日本@名無史さん:02/04/22 22:58
ちょっと気になったので教えてください。
浅井長政に離縁された平井氏(でしたっけ?)は、
その後どんな人生を歩んだのでしょうか?
その実家は六角とともに没落したんですか?
250 :
日本@名無史さん:02/04/30 18:06
なあ、俺「利家とまつ」見ていないんだけど、
浅井・朝倉ってどんな扱いだった?
この前が髑髏を盃にされる話だったんではないの?
新聞のテレビ欄で見ただけだけど
どうせ金ヶ崎も姉川も言葉だけで終わったんだろうな
251さん、ありがとね
253 :
日本@名無史さん:02/05/02 11:49
足軽大将の浅井七郎の元服名が分かる人いますか?
254 :
日本@名無史さん:02/05/07 12:44
連休使って「酷」道157号線、温見峠越えで岐阜から福井まで行ってきた。
何かの本で朝倉軍が土岐氏救援のため、根尾谷を通って美濃に出陣したと
書いてあったと思うが、今でもあんな悪路なのにどうやって行ったんだと
つっこみたくなる。
255 :
日本@名無史さん:02/05/07 18:34
>>254 武田軍が通ったと言われる信州の「青崩峠」なんて今じゃ通行止めに
なってるほどの超悪路。
ま、500年前のことはなんとも言えんよ。
256 :
日本@名無史さん:02/05/07 22:03
昔の人は体力あったんだねえ、といってみるテスト
朝倉義景は公家にでも生まれりゃよかったんだよな。
そしたら貧乏でも一生歌でも詠んでられたのに。
大名になったばかりに、身内に裏切られ、自刃する破目
になってしまった。
今川氏真は一生鞠でも蹴っていられたかも…
260 :
日本@名無史さん:02/05/08 22:55
まあ、あと30年早く生まれてれば名君として死ぬことが出来たかもしらんが、義景
261 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:03
小谷城址登ってきたけどすげえところだね
筋肉痛でかなわん
262 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:17
>>261 昔の連中は何十キロの甲冑身に付けて一日戦場で戦える連中だから(w
>>259 氏真は一生蹴鞠してたんじゃなかったですか?
信長の前で蹴鞠を披露したらしいですし。
264 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:24
>>263 文学史に残る歌集もたくさん出すぐらい、歌にも熱心だったんだぞ。
蹴鞠ばかりやってたわけじゃあない(w
265 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:27
ハクダミにもならずに人生終えること出来たんだからよかったよ
267 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:37
なんだかんだ言って領地貰って平穏に過ごせたね。
>>267 何処に所領を貰ってたのですか?
あと誰が与えたのですか?
信長ですか?
269 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:44
浅井・朝倉主役で大河ドラマでやらんかな
滅亡までの十年くらいにしぼってドラマ化すれば
そこそこ面白いものができんか?
270 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:46
お市・・・絶世の美女 これを誰が演じるかがモンダーイ
>>269
271 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:47
272 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:47
273 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:48
>>268 家康が品川に領地を与えた・・・んだっけか?
>>273 品川って武蔵国の品川ですか?
ということは、天下統一後に氏真に領地を与えたというわけ
ですね。
275 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:51
市の方は、黒木瞳か小西真奈美
黒木は前にも市を演じた事があった。
テレビ東京の12時間超ワイドドラマ「豊臣秀吉天下を獲る」
で演じてた。
(ちなみに、12時間ぶっ続けで見ました。当時中2)
277 :
日本@名無史さん:02/05/11 01:59
>>276 長政に嫁いだ時はかなり若かったはずで、黒木はダメぽ。
でもあややとかだったら萎えるかな。
278 :
日本@名無史さん:02/05/11 02:00
小西真奈美 知らない 何に出てる人?
10年前の黒木瞳ならい〜けど、今の容姿だと普通の40より若いけど
浅井すっとばして柴田勝家からの話しになっちゃうよ〜?W
>>276
279 :
日本@名無史さん:02/05/11 02:01
義景は西村雅彦がいいな、なんとなく
>>277 たしか、14歳の時に嫁いだんでしたっけ?
だとしたら、年齢的には上戸彩(金八に出てたオナベ)がいいでしょうが、
幼すぎですね。(上戸が)
だったら、小西真奈美(ドラマ「整形美人」に出ているお嬢様役)ですかね。
>>279 容姿では結構ピッタリかもしれないですね。
あとは、彼の演技力次第ですねw
で、長政は誰がいいですかね?
肖像画では小太りですけど。
282 :
日本@名無史さん:02/05/11 02:06
283 :
日本@名無史さん:02/05/11 02:07
またもやポイズソ
284 :
日本@名無史さん:02/05/13 05:58
285 :
日本@名無史さん:02/05/16 01:07
>>281 舞の海あたりに俳優デビュ―させよう。
浅井長政の肖像画は二種類見たことがあるけど
どっちも太ってたね。有名じゃないほうは目つきが悪い。
286 :
日本@名無史さん:02/06/01 11:08
287 :
日本@名無史さん:02/06/03 20:08
あれ?復活してたの?
288 :
日本@名無史さん:02/06/04 20:05
>>285 舞の海とはいいとこついてるなあ(感心)
289 :
日本@名無史さん:02/06/05 01:03
何で浅井・朝倉で、朝倉・浅井ではないのだろう。
新興勢力が先に来たのか、単なる偶然か。
290 :
日本@名無史さん:02/06/05 03:47
291 :
日本@名無史さん:02/06/05 06:28
浅井・浅倉という表記をいまだにしとる本もあるな
292 :
日本@名無史さん:02/06/06 00:26
信玄が義景の撤兵を怒り「お前は阿呆か」と言わんばかりの文面で義景に送った
書状がありますが、あれはどういう経緯で後世に残ったんでしょ?
信玄が腹立ちまぎれに後世に残るよう寺なんかに厳重に保管するよう命じたの?
293 :
日本@名無史さん:02/06/21 01:19
浅井長政及び浅井氏に関する研究書を紹介してください
294 :
日本@名無史さん:02/06/21 11:14
小和田哲男タンの『戦国三姉妹物語』は面白い&独自の考証でグー
295 :
日本@名無史さん:02/06/22 07:00
>>294 題名見てなんだこりゃって感じで敬遠してましたが面白いのですか?
図書館行って借りてこよう
296 :
日本@名無史さん:02/07/02 04:50
なんか語りたいので保守あげしておきます
297 :
日本@名無史さん:02/07/08 01:44
ageとこう
298 :
日本@名無史さん:02/07/15 02:35
浅井氏についてまとまった内容の最近の本は無い?
294さん紹介の以外で
299 :
日本@名無史さん:02/07/15 03:44
>>298 最近じゃないけど
吉川弘文館『中部大名の研究』<戦国大名論集4>と論言う本があるよ
色んな方の論文集なので六角・斎藤・朝倉の事も書いてあり、巻末に文献一覧もあるので
必読かと思われ
ただし、昭和57年出版なので絶版の可能性あり
300get?
301 :
日本@名無史さん:02/07/15 21:42
301get!
>>299 昔夢中になって読んだよ、懐かし〜
>>274 一度伊豆かどっかの城主(城代か?)にしてるよ。
303 :
日本@名無史さん:02/07/20 20:51
うわん
305 :
日本@名無史さん:02/07/20 21:28
この時代長政って多くない?
306 :
日本@名無史さん:02/07/20 21:31
浅井、黒田、浅野、あと他誰だっけ?
307 :
日本@名無史さん:02/07/20 21:37
木沢は時代が違うかな
308 :
日本@名無史さん:02/07/20 21:42
適当に苗字つければかなりの確率で当たるかもしれない、長政
309 :
日本@名無史さん:02/07/20 21:48
浅井って信長に髑髏の杯にされたかわいそうな人でしょ?
310 :
日本@名無史さん:02/07/20 21:54
そうです
311 :
日本@名無史さん:02/07/20 22:00
>>309 かわいそうねえ・・・信長はとんでもないが
何だって朝倉なんかに義理立てしたのか・・・
しかも朝倉は・・・家臣も家臣だよなあ・・・
312 :
日本@名無史さん:02/07/20 22:01
ていうか、浅井は朝倉の準家臣みたいなものじゃなかったの?
浅井は朝倉の準家臣?朝倉が勝手にそう思ってただけでしょ!!
314 :
日本@名無史さん:02/07/21 02:51
マジレスすると、家臣同然!
315 :
日本@名無史さん:02/07/21 02:54
久政、長政、義景の髑髏ですが何か?
316 :
日本@名無史さん:02/07/21 03:21
シュールだ…
317 :
日本@名無史さん:02/07/21 03:47
浅井は独立の際、朝倉のバックアップをうけてるから
ほぼ家臣に近い形だったのかも
でもなんで落ち目の朝倉とったんだろね
信長についてりゃーそこそこの地位もらえたのに
319 :
日本@名無史さん:02/07/21 10:18
そう見なかったからこそ朝倉についたんでしょうね
そこそこの地位、果たして貰えたんかな?
320 :
日本@名無史さん:02/07/21 10:23
>>319 親戚だし、悪いようにはしないと思うけどなあ。
でもあの信長のことだから何とも言えないが。
321 :
日本@名無史さん:02/07/21 12:17
その通り
あの信長君のやることです
家康の倅と同じ目に合わされていたと思われ
322 :
で、おじゃる:02/07/21 23:47
長政、松永、荒木、光秀。みんな、仲間、仲間、な、か、ま。やらなきゃ、やられちゃうよ。相手はだって、信長くんだもん! で、あるの
323 :
日本@名無史さん:02/07/23 23:09
しかし金ヶ崎でもうちょい追い詰めておれば
324 :
日本@名無史さん:02/07/23 23:11
馬鹿だよなー長政。親父はもっと馬鹿だけど。
325 :
日本@名無史さん:02/07/23 23:21
久政が朝倉につくことを強硬に主張したため、やむなく長政がそれに従った
って本当かいな?
どうも江戸時代に造られた話のようで納得がいかん
事実は逆じゃなかったのかと…
326 :
日本@名無史さん:02/07/23 23:25
>>325 強硬に主張下かどうかは定かではないけど逆じゃないと思うよ。
久政は朝倉とのしがらみが強かったのに対して長政は信長の妹を娶っていたので。
327 :
日本@名無史さん:02/07/23 23:28
しかし長政の代になって朝倉とのつながりが深くなったともいうぞ
それまで朝倉は六角シフトだったのを路線変更したらしい
328 :
日本@名無史さん:02/08/01 23:54
六角氏の一族が朝倉に養子に入ったというのはトンデモ説なのですね
329 :
日本@名無史さん:02/08/15 00:32
330 :
日本@名無史さん:02/08/15 01:32
>>329 言いたいことがあったら言ってもいいんだよ
331 :
日本@名無史さん:02/08/18 02:32
司馬遼太郎版の『太閤記』(だったと思う)で、明智光秀が朝倉を訪れる場面
があって、たしかその章の題が「北陸王」なんですね。怜悧な光秀が「北陸王」
こと朝倉義景と接する場面というのは、司馬『太閤記』で好きな場面のひとつ
だなあ。
でも「信長の野望」を朝倉義景でプレイして、家臣のプロフィールを見ると、
ほとんどの家臣に裏切りの事実が。勢力が大きくなっても、生え抜きの家臣を
信用できないのはつらい。
332 :
日本@名無史さん:02/08/18 14:53
司馬の書いた義景像は、呆れた馬鹿殿まんまだったが、実際はかなーり
異なると思うよ。わしもあれで長いこと義景に偏見を持ってしまったんだが。
333 :
日本@名無史さん:02/08/18 15:08
334 :
日本@名無史さん:02/08/18 19:42
朝倉義景は
なかなか人物だったんですよ
あまり知られていないけど
だから長政も朝倉についたんです
335 :
日本@名無史さん:02/08/18 22:12
336 :
日本@名無史さん:02/08/20 01:48
朝倉義景は美男子だったという話を聞いた
(もちろん、当時の価値観です)
これは本当でしょうか?
337 :
日本@名無史さん:02/08/20 11:22
福井・心月寺所蔵朝倉義景像を見られたし。朝倉孝景像もあり。
両人とも額狭く鷲鼻で濃い顔なり。
当時美男と見られたるかは少々疑問これあり。
338 :
日本@名無史さん:02/08/22 08:52
じゃあ、信長は美男子だったのか?
よく織田家は美男美女の家系と言われてるけど
(司馬氏小説に踊らされている?)
339 :
日本@名無史さん:02/08/24 02:50
美男子だったのは
浅井長政でしょ?
340 :
日本@名無史さん:02/08/24 16:05
>>339 ・・・・・・・・・・
まぁ、当時と今とでは美男子の基準が違うかもしれんが
341 :
日本@名無史さん:02/08/24 16:12
オレもけっこう美男子だぜ?
342 :
日本@名無史さん:02/08/24 18:22
色白ぽっちゃりが戦国の美男子?
343 :
日本@名無史さん:02/08/25 17:05
一乗谷、戦国まつり今年もやってる?
344 :
日本@名無史さん:02/08/26 22:46
景鏡の兄弟(異腹?)がどういう経緯で徳川に仕えるように
なったのか誰か教えれ
345 :
日本@名無史さん:02/08/26 22:51
--------------------------------------------------------------------
戦国史研究 第48号
戦国史研究会編集 A5判 並製 48頁
本体780円 4-642-08920-9
--------------------------------------------------------------------
本誌は、戦国史研究の進化を着実に進めていくことを目的にした機関誌です。
内容は、論文のほか、新発見の史料や新事実の確認など、
個々の成果を発表する場として「羅針盤」と名付けた研究余録等、
毎号充実した編集を図っているユニークな雑誌です。年2回発行。
品切=1〜9・12・14・16・17号。
〈主な目次〉
雑兵物語が戦国時代の史料としてもっとも参考になる…山田康弘/
織田信長に対する武田信玄の偉大さ…神田裕理/
遠江は武田家のものである…新行紀一/
上野沼田衆小川可遊斎は信玄を崇拝している…栗原 修/
上杉家に対して武田家は手加減してやった…山田邦明/
武田信玄の統一的税制確立の背景…黒田基樹/
武田信玄と公家社会…大嶌聖子/
武田信玄は誰か…佐脇栄智/
戦国史関係論文目録
目次の題が何か頭悪そうに思えてしまう、、、
347 :
日本@名無史さん:02/08/26 23:33
そういえば朝倉って、なんで日下部なんて氏をなのったんでしょうかねえ?
マイナーゆえに嘘はいってないとおもうのですが、系図買いが横行していた
時代なのに何でもっと名族をなのらなかったんでしょうか?
どなたかご教示頂ければ。
348 :
日本@名無史さん:02/08/26 23:46
最初っから越前一国をキープできればいいやと考えていたから
正直に名乗ったのでは?(傍系を直系らしく騙ってはいますが)
349 :
日本@名無史さん:02/08/27 12:20
やはり信じてしまう奴がいたな
ネタかよ!一瞬信じてしまった自分が憎い、、、鬱だ
352 :
日本@名無史さん:02/09/08 18:09
353 :
日本@名無史さん:02/09/08 18:30
保全?
上杉家に対して武田家は手加減してやった…山田邦明/
355 :
日本@名無史さん:02/09/10 19:03
学者の方って、常人では考えてかないことを考えるから(偏見)
356 :
日本@名無史さん:02/09/12 03:37
『日本の名族』という本(数巻あります)では、
浅井長政の遺児に浅井喜八郎という人物がいて、
大阪城に仕えていたが、豊臣が滅亡した後は、
京極家に仕えて丸亀藩士として現在も家系が続いているそうです。
京極に仕えているというのはありそうですけど、
本当に長政の息子だったならば、淀にもっと(少なくとも名がもっと知られているほど)
優遇されているはずなので、
浅井の血筋とは違うのではと思うのです。
357 :
世界@名無史さん:02/09/14 06:25
基本的な質問でスマン。
朝倉・浅井のご先祖はそもそも誰?
朝倉は日下部氏、遡れば狭穂彦。
浅井は古代の浅井直、浅井宿祢。
359 :
世界@名無史さん:02/09/14 07:36
>>358 ありがとうございます。
当時の守護クラスって、みんな源平の末裔かと思ってた……
360 :
日本@名無史さん:02/09/14 07:47
浅井は三条(藤原)を仮冒してるけどね
361 :
日本@名無史さん:02/09/14 08:19
朝倉景綱の最期、知ってる人いる?
362 :
日本@名無史さん:02/10/01 20:30
age
363 :
日本@名無史さん:02/10/18 22:59
もう少しのびてもいいスレだと思ったのにな…
364 :
日本@名無史さん:02/10/18 23:05
朝倉義景のビビリ野郎。
お前のせいで、武田晴信信玄入道とその一族が天下を獲れなかったんだよ。
世が世なら、山梨が日本の中心だったんだぞ
365 :
日本@名無史さん:02/10/18 23:16
久々にレスがあったと思ったら電波かいな
366 :
日本@名無史さん:02/10/23 03:27
朝倉宗滴って知ってる?朝倉氏の中でも最強。
70才くらいまで戦場に立ち、指揮中に病死。
信長の野望で選択したシナリオによってはすぐ死ぬ。
367 :
日本@名無史さん:02/10/23 11:35
浅井長政の庶兄に綱政というのがいて、
その子孫は、水戸徳川の重臣岡崎氏になったというのは本当ですか?
368 :
日本@名無史さん:02/10/23 18:14
多分嘘でしょう
369 :
日本@名無史さん:02/10/23 19:24
日本史初心者降臨age
370 :
日本@名無史さん:02/10/23 19:31
371 :
日本@名無史さん:02/10/25 02:30
朝倉氏の子孫だっていう人知ってるよ
本当は滅亡してるはずなので
鳥山という名前に変えていたとか
372 :
日本@名無史さん:02/10/26 15:08
直系じゃなきゃやだ
373 :
日本@名無史さん:02/10/29 14:30
朝倉の直系なら、忠長の付家老だった朝倉宣正の子孫とたくさんかいるよ。
それに、別に滅亡したからといって、名を変える必要は無い。
374 :
日本@名無史さん:02/10/30 20:36
直系は義景系しか認めん! と言っておきます
375 :
日本@名無史さん:02/10/30 20:55
376 :
日本@名無史さん:02/10/30 21:23
帰宅して書いているのですが何か?
と書いてみよう
377 :
日本@名無史さん:02/11/05 20:21
越前大野は雪降ってる?
378 :
日本@名無史さん:02/11/05 20:46
一乗録読んだやついる?
379 :
日本@名無史さん:02/11/05 20:48
一乗録 何それ?教えれ
380 :
日本@名無史さん:02/11/05 21:10
381 :
日本@名無史さん:02/11/05 21:11
愛知の東邦高校出身で現在中日の朝倉も朝倉氏の末裔らしいね。彼の実家は岐阜
らしいけど直系かどうかは知らん。
382 :
日本@名無史さん:02/11/05 21:18
一乗録、研究論文は出てないのですか?
383 :
日本@名無史さん:02/11/05 21:31
愛王丸の子孫いますか?
384 :
日本@名無史さん:02/11/05 21:32
いたら怖い…
385 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:15
「小谷録」は発見されませんか?
386 :
日本@名無史さん:02/11/06 12:07
>381
>朝倉氏の末裔らしいね。彼の実家は岐阜
>らしいけど直系かどうかは知らん。
しっかりしろよ。文章おかしいぞ。
387 :
日本@名無史さん:02/11/06 12:17
朝倉の直系は愛王丸です。
388 :
日本@名無史さん:02/11/06 20:09
愛王丸があの年齢にして子をなしていたら本当におそろしい
389 :
日本@名無史さん:02/11/06 21:22
浅井って朝倉の家臣なの?
390 :
日本@名無史さん:02/11/06 21:28
391 :
日本@名無史さん:02/11/07 02:16
392 :
日本@名無史さん:02/11/07 07:30
>>389 今川と松平のように、衛星国という扱いではどうよ?
393 :
日本@名無史さん:02/11/07 11:27
どうよって・・・。
明かに違うよ。
394 :
日本@名無史さん:02/11/07 18:19
信玄が義景を罵倒した手紙は本物なの?
395 :
日本@名無史さん:02/11/07 22:00
ou
396 :
日本@名無史さん:02/11/08 20:47
あの書状は何処に残されていたんだろう?
397 :
日本@名無史さん:02/11/23 02:51
前「笑っていいとも」の「ご先祖様は誰?」で
浅井長政の子孫が出ていた。家系図も出たけど一瞬でよく分からなかった。
次男の子孫か、側室の子の子孫か?何にせよ滅亡ではなかったのだね、
398 :
日本@名無史さん:02/11/23 03:04
>>1こと子豚よ・・・いい加減にしたらどうだ(WWWW
お前は今までずっとそうやって生きてきたな(WWW自分にとって都合のいい話しか聞かない豚野郎(WW
不快になる、反論される話は全く聞く耳を持たないんだろ(WW豚きわめりだな(WW
なぜ自分の卑小さを省みず、常にそんな傲慢な態度をふるえるんだ(WW
お前のような豚は、常に自分の精神状態を気持ちよくする事しか考えてないからだろ(WW
この世を自分中心…豚中心(WW豚世界(WWお前が人間と会話する時は、論議するとか、
意味のある話をしようとか、そういうのがまったくない。ただアフォ豚が気持ちよくなれればそれでいい
自己豚満足しか頭に無い、典型的オナニー豚(WWW
まさに幼児豚がする会話。幼稚豚の典型(Wお前の話は、ゴミだよ豚ちゃん(WWW
イカレ豚のオナニーその最もたるは、お前が書いてきたレスだよ。そして自演ことバレ豚芝居(WWW
なぜあんなレスをしかできない?あんなサトラレ豚芝居をする?自分ではわからないだろうな(W
それは、ただ自分が気持ち良くなりたいという豚望の結果ですよ(WWW
真正面から否定する文は、オナニー豚には通用しまい(Wお前は誰にも論破できない(WW
論破できないというよりは、議論自体できない訳ですが(WWW
豚は豚を不快にする文を受け入れられるような理論的人間じゃないからだ。
つまりオマエが豚だからだよ豚野郎(WWW話の通じない狂豚。狂気豚見参(WWW
ハナから戯言と決めつけることによって、どんなことをいわれても豚の精神状態を
安定させようとする。豚に都合の悪い事は見えません、豚目、豚耳、豚口(WWW
豚のお前にしてみれば、豚が不快になる文は、「バカじゃん」「ただのキチガイ」「で?」で済まされてしまうだろう(WWWそんな事をしていては、他人と論ずる事などできる訳がない(WWW論ずる事など元からアフォ豚にはできませんが(WWできる事はコピペと豚芝居(WWW
とどのつまり、豚ちゃんはハナから他人と論ずるだけの脳味噌を持っていないってこと。
そして、そのレスはすべて何の価値も持たないゴミだということだ。
オマエには何にもできないよ豚ちゃん。ネタ職人などと都合の良い冠が欲しいのか?(WWW
399 :
日本@名無史さん:02/11/23 03:27
徳川幕府四代将軍、徳川家綱の母って朝倉氏の出身という話は本当なのかな?
400 :
日本@名無史さん:02/11/23 03:49
前田猿千代の母、千代保も朝倉家の家老、山崎氏の出身だったな。
401 :
日本@名無史さん:02/11/25 22:15
山崎氏って家老って程の家か?
402 :
日本@名無史さん:02/11/29 13:14
浅井長政が天下とったらやはり家康と同様にたぬきと呼ばれるのだろうか
まあ妄想でしかないが
403 :
日本@名無史さん:02/11/29 18:51
肖像画からすると白豚と言われるのかなと
404 :
日本@名無史さん:02/11/29 18:55
>>397 浅井長政の次男の万菊丸の子孫。。。だそうな。
しかし、長男万福丸は関ヶ原で秀吉にくしざしにして殺されたんだよな。
(まさかその妹と結婚するとは思わなかっただろうな)
で、次男を生かすか? あるいは生き延びることが出来るか??
まゆつばじゃねーの??
405 :
日本@名無史さん:02/11/29 19:00
次男はいないだろ。
406 :
日本@名無史さん:02/11/29 19:04
いや、俺もいないと思ってたけど、いいともには堂々と出てたよ。
系図まで出して…
史実やうわさなんかもないの? 次男の万菊丸
明治の漢方医(元・尾張藩医)の浅井何某はたしか
浅井長政の子孫と名乗っていたような・・
いいじゃん、誰に迷惑がかかるでもなし(w
408 :
日本@名無史さん:02/11/29 19:35
傍系の子孫じゃろ
浅井姓で織田に下ったのもいたと思うが
409 :
日本@名無史さん:02/11/29 19:40
偽造系図って見たことあるけど… っていうか僕んちもそうだが
限られた地区で適当なこと言うのはいいが、国民1000万人を前に
正当な子孫って言うのはまずいだろ
坪井正五郎の家も岐阜中納言秀信の子孫という家伝がある
むきになって主張したり、否定する時代じゃないし
いいじゃないの
正直こちらの板に朝倉のスレあるとは思わなんだ!
>>371 朝倉の一族なら土佐豊永に土着して豪商になった「朝倉友景」の一派と、
北条家臣→水戸頼房に行った「朝倉政元」の一派くらいしか思い当たらないなぁ。
413 :
日本@名無史さん:02/11/30 13:19
>>411 朝倉宣政もいるよ
家康に仕えて上田の七本槍になった人
勉強不足で教えて欲しいのですが 一乗谷は朝倉氏滅亡のあとずーと廃墟のままになってたんですか? お寺はあったみたいですけどあれだけの町は結局たんぼになったまま だったんでしょうか? 幽霊でたろうなあ
415 :
日本@名無史さん:02/11/30 20:55
>>414 前波が一時いたかな?すぐに滅んだけれど
(タイミングよく眼病を患ったもんだ、一服盛られたか?ガクガクブルブル)
416 :
日本@名無史さん:02/12/01 04:03
姉川だか大嶽だかで戦死した、小林瑞周軒、魚住龍文寺、前波新八郎の下の名前わかる人います?
まあ元ネタがひとつしかなかったらどうしようもないが
417 :
日本@名無史さん:02/12/01 04:12
だまれ
418 :
日本@名無史さん:02/12/01 15:50
>>416 図書館で「戦国大名家臣団事典」を読んでみては如何か?
あるいは「越前朝倉一族」かな?「朝倉義景」なんてのもあった
いやむしろ福井市史?大野市史?
419 :
日本@名無史さん:02/12/04 19:32
>>411 朝倉宣政。カゲアキラの弟「在重」男。
徳川秀忠に仕えたのち、駿河大納言忠長の元で掛川城主。
主家改易後は古河土井氏預かり。
420 :
日本@名無史さん:02/12/04 19:45
それでその後どうなったん?
421 :
日本@名無史さん:02/12/04 19:54
>>420 子孫は古河藩の家老になったみたい。
安永年間には朝倉頼母が出て藩政改革を行ったらしいね。
その後は資料ないからよく解んないケド、家は続いたんじゃない?
422 :
日本@名無史さん:02/12/04 20:11
家老までなったのか、偉いもんだな
しかし、在重っていつどこで生まれたんだ?
親父が追放になってから?
それにしてもよく景鏡の弟ですって言えたものだな、いじめられなかったのかね
423 :
日本@名無史さん:02/12/04 20:41
>>422 ちょっと興味深いでしょ?
でも残念ながら在重および宣政の前半生については、
資料がないのでよく知らない。
宣政(1573〜1637)駿河国安部郡柿島出身。
とあり、朝倉滅亡の年に、しかも駿河で生まれてるから、
系図詐称の可能性もあるが、わざわざ亡国の氏姓を、しかも仇敵に対して語るとも思えないし、
朝倉の出身である可能性は高い。(ただしどこの分家かは謎)
ちなみに宣政は、1590年小田原征伐の徳川秀忠に出仕したところから歴史に登場してる。
小田原当時北条方には朝倉秀景の末朝倉政元がいて敵味方に分かれてたってのも面白いね。
424 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:41
425 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:48
427 :
日本@名無史さん:02/12/05 11:11
朝倉在重って二代続いて「在重」だよね。
幕臣に子孫が数家あったと思ったけど。
>>426 伊能文書は、岐阜県史史料編中世4、あるいは福井県史史料編中世の県外文書に
所収されています。また、『大日本史料』10編にも載っています。
429 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:32
>>427 ─貞景┬─孝景──義景──愛王丸
│
└─景高┬─景鏡
└─在重──宣政
牧野成儀に嫁した者に在重女とあるが、在重は2人いるってこと?
宣政自身は駿河大納言忠長に連座して掛川2万6000石を改易後、
古河藩土井氏の家老になってるね。宣政以降の系図ってあるんだろうか。
>>428 さんくすこ!!
430 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:41
在重−在重−宣正
じゃなかったっけ?
431 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:39
>>430 ホント??オレの見たのには「在重―宣正」となってた。
宣正の生年が1573年ちと伝わってるから、間に一人挟むとちょっと変になるよね。
小田原の秀忠陣中に出仕したのが初見だからこれでいいと思う。
既出かもしれんが、浅井のマイナー一族も載せときます。
浅井政澄(????〜????)玄蕃允。父大和守政信。子政重。
姉川では弟2陣をつとめる。主家滅亡後は信長に仕える。
浅井政高(????〜1615)茂右衛門。父田屋新三郎明政。子三好左馬助直政。
浅井一族。羽柴秀吉に仕え、死後秀頼に出仕。大坂冬の陣に敗死。
お市関係は、秀忠夫人だったり京極だったり、淀君だったりします。
433 :
日本@名無史さん:02/12/06 11:43
三戦板の朝倉スレ荒れまくりだな。
全部コサック(939)が荒らしてるんだろうが・・・
避難してきたら暖かく迎えてあげてね
434 :
日本@名無史さん:02/12/06 19:23
漏れは939氏が来るのを楽しみにしているのだが
435 :
日本@名無史さん:02/12/06 20:46
>>433-434 ありがとう。こちらのスレに迷惑がかかるといけないから、
ここではずっと匿名にしています。
>>433 つーか、決してオレは荒らしてません!!
437 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:02
あなた、939?
438 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:07
勉強不足でスマンがそもそも何故信長は長政を朝倉攻めに参加させなかったんだ?
要請はしたが断られたのか?
439 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:20
要請して断られてあの様だとしたら、信長は甘ちゃんの極致
440 :
日本@名無史さん:02/12/06 21:54
939だか、コサックだか知らねーが、興味ないって
うざいんだよ、お前
(゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ?
(゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ?
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(゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ? (゚Д゚)ハァ?
442 :
日本@名無史さん:02/12/07 11:48
443 :
日本@名無史さん:02/12/07 11:57
も〜
三戦板から出てくるなよ
444 :
日本@名無史さん:02/12/08 06:32
姉川の戦いで勝っていれば朝倉氏は幕府を開けていたでしょうか?
三好松永では織田軍団にぜんぜん敵わなかったんでしょうか
1573年以降になると信長を挫くのは難しくなってきますよね
細川一色が織豊の臣下というのは情けないというか…
445 :
日本@名無史さん:02/12/08 07:34
朝倉は斯波氏の家臣だった。
浅井なんて、素性さえ定かではない。
北条氏なんかも伊勢氏の末流で、とても名門ではなかった。
けど、一世紀ぐらい勢力が続くと知らないうちに名門になってしまうんだな。
で、少し後から出てきた大名を見下す。おかしな話と思わないか?
446 :
日本@名無史さん:02/12/08 07:51
少なくとも信長は、織田氏でも傍流じゃん
斯波の陪臣だべ
浅井が誰かを見下したか?
447 :
日本@名無史さん:02/12/08 08:09
傍流かどうかなんて、目くそ鼻くそ。
偏見を捨てて正確に情勢分析できていれば、織田に従うはず。
浅井にとって、朝倉は怖いから、直接的な行動は起こせないだろうが
気持ちは遠のいていくはず。
でも実際は不利な朝倉に積極的に付いた。
448 :
日本@名無史さん:02/12/08 08:13
>>445 強い者が弱い者を見下すというのは自然の摂理でしょう
少しもおかしくはないと思いまする
449 :
日本@名無史さん:02/12/08 13:20
>名門
今川の上洛が成功して戦国が終わっていれば満足なんだけどな。
武田、上杉、毛利でもいいんだけど。
義昭の信長包囲網が勝利すれば美しい。
あと、幕末も慶喜主催の列侯会議が成功してれば…
450 :
日本@名無史さん:02/12/08 13:52
>>429 景高―在重―┬―宣正(付家老)
└―在重(町奉行)
451 :
日本@名無史さん:02/12/08 13:53
452 :
日本@名無史さん:02/12/08 14:52
町奉行もやってたんだ
景鏡も草葉の陰で喜んで いるわけないよなあ、多分兄弟の存在すら知らんかったろうから
453 :
日本@名無史さん:02/12/08 15:11
>>447 んなの後知恵に過ぎんよ。
それまでに上洛まで果たした連中はいても、みんな最後に
失敗してるんだから。
454 :
日本@名無史さん:02/12/08 19:39
446:×
447:○
448:○
453:×
455 :
日本@名無史さん:02/12/08 19:42
>自作自演ご苦労さん。
散歩してたら、間違われてしまった。
446,453は、論理性に欠け、趣旨不明の電波発信。
447,448は、内容はともかく、分かりやすい自己主張。
以上、ディベート能力の観点から採点してみただけ。気にするな。
457 :
日本@名無史さん:02/12/08 20:51
採点されたくないな(ぼそっ)
守護斯波は信長のところに居たりうろうろしてたんでしょ、嘆かわしい
459 :
日本@名無史さん:02/12/09 14:12
>>458 斯波義敏 甲斐氏と対立、子義寛に相続→周防にうろつく→伊勢貞親によって復帰。
山名持豊によって失脚→近江にうろつく→朝倉氏内応で越前復帰。
朝倉氏と対立、越前を失う→尾張にうろつく
織田家の内紛→出家。
斯波義廉 将軍義政によって解任→うろつく→山名持豊によって復帰。
再び罷免。守護代相次いで離反→尾張にうろつく
織田の内紛→行方不明。
斯波義寛 甲斐・朝倉に追われる→京にうろつく→オヤジと再起。越前に拠る。
朝倉と対立→尾張にうろつく。
今川と争っている間に行方不明。
斯波義達 今川氏に敗れ、駿河失う→うろついてたら捕まる→出家。
斯波義統 うろつく間もなく織田信友にやられる。
斯波義銀 川でうろうろしていたら父親殺される→那古野にうろつく→信長が保護
造反の疑いで追放→京都でうろうろ→秀吉に捕まる。
緊急!!佐々木義秀は、六角定頼の兄氏綱の子孫ってえことらしいが、
おそらく嘘だとおもわれ。それどころか、氏綱の系統自体架空らしい。
つまり、氏綱の子孫はいない!
それに、朝倉義景がその佐々木義秀の系統とは厨房以下。
あと、浅井長政の版図は北近江三郡12万石。これは、一万石あたり
五百人動員として考えると、姉川合戦時の浅井氏の兵力6000とほぼ同じ。
462 :
日本@名無史さん :02/12/09 16:49
>>461 義秀は、架空の人物だったんですか
東大の院生で、佐々木某というひとが、盛んに義秀のこと書いてた時期がありますが
463 :
日本@名無史さん:02/12/09 18:42
458−462
厨房。
もっと日本語勉強しろ。
464 :
日本@名無史さん:02/12/09 19:18
>>461 秀吉が与えられた所領は浅井の全てといいたい訳か?
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/12/09 19:28
朝倉、浅井って、最盛期、どれくらの
国力だったの?
石高とか、動員兵力とか、官位とか?
467 :
日本@名無史さん:02/12/09 19:28
>>464 秀吉が、信長から与えられた江北の所領は、浅井氏の旧領全てなのかどうか、
意見の分かれるところだと思いますが。
468 :
日本@名無史さん:02/12/09 21:32
>466
質問の内容は、既出では
469 :
日本@名無史さん:02/12/10 21:31
すででであるか
姉川の戦い直前には、浅井朝倉と織田の勢力って五分五分くらいに
(近畿の各勢力には)見られていたんでしょうか?
朝倉が未来を制するとオッズを立てていた勢力もいたでしょ
472 :
日本@名無史さん:02/12/11 18:14
義景に3000点
>>461 >おそらく嘘だとおもわれ。それどころか、氏綱の系統自体架空らしい。
思われだけじゃ…
あと、一万石につき500人動員ってのの根拠がわからん
474 :
日本@名無史さん:02/12/12 12:46
一万石につき250人動員の根拠はしっかりしたもの?
475 :
日本@名無史さん:02/12/12 13:03
一万石につき250人の動員は秀吉が課した軍役だろ
476 :
日本@名無史さん:02/12/12 14:13
250人説は、旧参謀本部編の大日本戦史の見解
秀吉の朝鮮出兵時の軍役は、万石に付き500人だったはず
当時の史料に明記してあったと思うけど
477 :
日本@名無史さん:02/12/12 14:16
つか地域によって軍役にも差があるだろ。
あくまでも、本役の500人を述べたにすぎない
500人の例を、述べたにすぎない
479 :
日本@名無史さん:02/12/12 15:10
>秀吉の朝鮮出兵時の軍役は、万石に付き500人だったはず
九州、中四国は600〜750人
畿内、中部は300〜500人
中部以降は100〜200人
本役とは?
480 :
日本@名無史さん:02/12/12 16:12
>>479 それは知行高のうち軍役高において課されるものだから、
浅井氏が何万石というだけで計算できるものではないよね。
481 :
日本@名無史さん:02/12/12 18:02
元亀天正の頃に○万石ぐらいの勢力だなんて言えるの?
482 :
日本@名無史さん:02/12/12 18:13
↑
言えますよ
483 :
日本@名無史さん:02/12/12 18:14
↑
言えませんよ
484 :
日本@名無史さん:02/12/12 18:26
>>480 秀吉の時代のように、権力者から軍役を課せられる場合には、
豊臣政権に奉仕するために軍役高と、無役高があって、
戦時には、無役高分の石高を除いて、軍役が課せられるけていた。
しかし、浅井氏には、豊臣政権の場合のような例は当てはまらない、と思われ
485 :
日本@名無史さん:02/12/12 18:48
北近江三郡はそもそも12万石なのですか?
秀吉に与えられた分が12万石?
旧浅井家臣で織田家に従った連中の分を含む?含まない?
486 :
476・484:02/12/12 19:05
『信長公記』には、「江北浅井跡一職進退に羽柴筑前守御朱印をもって下され」とあるが、
郡名と石高の記載はない。
浅井氏の旧領がすべて、秀吉に与えられたと考えて良いのでは。
『浅井三代記』は、浅井・犬上両郡と坂田郡の半分と記し、
『武徳編年集成』が十二万石と記している。
487 :
日本@名無史さん:02/12/12 19:11
>>486 浅井の旧領という言い方だと、浅井家といっても有力な国人領主の
連合体ですから、浅井家を除く有力領主たちの土地は別という
考え方でいいということですか?
>>487 「浅井跡一職」が、果たしてどこまで含むのか、含まないのか、
判断出来ないので、あしからず
489 :
日本@名無史さん:02/12/12 19:43
>>488 「一職」だから、有力領主たちをまとめる広域領主としての
政治的権限が付与されて、浅井家の代わりに北近江の君主的
立場に収まったんだろうね。
領地としてどこまで含むかは……郡ごとの検地結果のデータが
あれば一目瞭然なんだけどね……
高島郡はまた別だろ?
491 :
日本@名無史さん:02/12/13 03:09
>>490 高島郡を含めて語ってるヤシはいないと思うがね。そもそも。
492 :
日本@名無史さん:02/12/13 03:15
記憶が定かじゃないが、何かの史料に
信長の指示で北近江の指出検地を行なって、貫高から石高表記に変えたら
12万何千石になったってのがあったと思うが・・・
何の史料か思い出せないので、信憑性とかいつの時代かはかなり曖昧
どっかのサイトに書いてないかな?
493 :
日本@名無史さん:02/12/13 05:48
確かに信長は、新たに手に入れた土地では指出をやるんだけど、
旧浅井家臣に安堵した土地の指出までやったかどうかが
問題でしょうな。
494 :
日本@名無史さん:02/12/13 06:12
495 :
日本@名無史さん:02/12/13 06:12
糞スレたてた
>>1 ワッショイ !!
゚ \\ 糞スレたてた
>>1ワ ッ シ ョ イ !! //
。 + + \\ 糞スレたてた
>>1ワ ッ シ ョ イ !! /+
* + . \\ + 。. . / + *
,,,,, * 。 o
o m (っll)\ ,,,,,____
)| | \\ (mn)__ ヽ *
+ ( _l ∧_∧ nm 〉 .〉 ∧_∧ / / 。 ゚
\ \_(´∀` ) / ノ ∧_∧ / ./ (´∀` )/ / 。
。 * \_ ̄_ ̄ )/ / (´∀` )/ ./ (~⌒\ ト/ ) *
/ ̄ \ /\  ̄ ̄ ~ / \\ \_/ / ・
,⊂二二/〉 /  ̄ ̄| イ./ \\__/| + *
/ / ヽ | ,) ノ
。゚ ( <./ \ \/⌒\ ノ、 * 。
\ \ 〉 /\ \ γヽ 。 +
* / \ \ / (U) ~ / \ V _ノ
/ / > / / /^ / | \__)| + ゚ 。
* 。゚ / / | / \ \ / / \ \ 。 +
/ / | / \ \ / / \ \ 。 o
< 〈 / /__ __> _><_ <_ _> _>
* + \_) 〈_ ___) (__/ \__) (__/ +
498 :
日本@名無史さん:02/12/22 19:50
来年の大河「宮本武蔵」で佐々木小次郎が実は朝倉義景の子供だった
設定で展開して欲しい(義景、実は佐々木氏からの養子という前提で)
500 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:01
500
501 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:25
-― ̄ ̄ ` ―-- _
, ´ ......... . . , ~  ̄" ー _
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今川義元、朝倉義景、天下を独占する才を持ったが故に歴史の手によって消された
502 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:25
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才能がある為に滅ぶ。織田信長・朝倉義景も同じであった。
503 :
日本@名無史さん:02/12/28 20:37
俺は義景の親父・孝景ファンで、最近の「信長の野望」シリーズでは段々とシナリオ1の開始時の年が古くなっているので、そのバランスのよい能力と淡白な顔に萌えて、プレイさせてもらってます。
この孝景、生まれた年も死んだ年もいまいち中途半端な時期なので、彼の事績が詳細に書かれている書物って少ないのですが、どうやら加賀・越前間の一向一揆との闘争が中心だったようですが、実際そうなのでしょうか?
また彼の生年が1493年、嫡子・義景の生年が1533年ということでなんと40歳も離れていることになりますが(現在で言えば55歳前後で初子を産む計算になる)
これには、何か理由があるのでしょうか? 義景がもうちょっと早く(1520年頃)生まれていたんら、朝倉氏の運命もまた多少は変わったものになったと思いますが・・。
504 :
日本@名無史さん:02/12/29 13:13
>>503 本人では一度も出陣しなかったから「風流太守」の呼び名がぴったり。
宗滴爺も元気だったから幸せな一生を送ったと思われ。
(弟とは喧嘩したが)
505 :
日本@名無史さん:02/12/31 12:34
三戦板は朝倉厨跋扈して大変…
506 :
日本@名無史さん:02/12/31 13:25
こっちへ誘導…しなくていい
507 :
日本@名無史さん:02/12/31 13:26
こっちへ誘導…しなくていい
508 :
日本@名無史さん:03/01/03 14:51
髑髏杯でお屠蘇を所望する
509 :
日本@名無史さん:03/01/06 14:53
かちなぐっぞぉ
510 :
日本@名無史さん:03/01/06 18:41
(^^)
512 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:14
停滞気味だね
513 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:38
朝倉義景の子に土橋光景ってのがいた。
514 :
日本@名無史さん:03/01/13 20:14
誰ですか、それ?
光景は豊臣秀頼の家臣で5千石たまわってたヒト。
息子の広景は大坂の陣で負けたけど後に親戚の溝口家に仕えた。
516 :
日本@名無史さん:03/01/14 01:37
土橋って名乗ってるところをみると、景鏡の子とか?!
517 :
日本@名無史さん:03/01/14 03:22
子孫の人によれば義景の実子らしく、景鏡の子ではない。
518 :
日本@名無史さん:03/01/14 17:54
光景こそ阿君丸が成長した姿
さすがは義景 可愛い我が子に苦労をさせまいと
毒殺されたように見せかけていたんだね!
んなこたぁない
義景の実子なんて電波ナ事言ってる子孫の顔が見たい
519 :
日本@名無史さん:03/01/14 17:59
>>513 >豊臣秀頼の家臣で5千石たまわってたヒト
それは事実ですか?
どんな記録によるものですか?
520 :
日本@名無史さん:03/01/14 18:11
>>519 そうだね、まず出典を明らかにせねば
調べたら、案外、紀伊の土橋氏出身ということになったりして
521 :
日本@名無史さん:03/01/15 20:21
光景が義景の実子ならば、何故お家再興の動きがあった時に
担がれなかったのか?
新潟県新発田市の瑞雲寺過去帳に
「元和 年 月 日/土橋吉六日下部光景公/十一代義景公御嫡男子/太祖国景君御父君」
とあるぞい。
523 :
日本@名無史さん:03/01/15 21:47
越後なら、朝倉修理亮景嘉の関係じゃないのか?
豊臣に仕えたのは溝江景家(改名して長氏)ぐらいだし
>>523 朝倉修理亮景嘉って誰?朝倉はあんまし詳しくないんだよね。
光景の領地は近江だったらしいよ。
525 :
日本@名無史さん:03/01/15 22:14
>>524 朝倉親族衆の人で、席次は六番目っつー人
越後に下って、上杉謙信を頼って朝倉再興しようとしてたんです
526 :
日本@名無史さん:03/01/15 23:37
しかし何故「土橋」を名乗った?
>>526 書くの忘れてた・・・スマソ
領地が近江の土橋っていう所だったそうな。
528 :
日本@名無史さん:03/01/15 23:56
朝倉姓を捨てたのか
お家再興の意志はなかったのかいな
土橋姓を名乗ったのは光景だけで、息子の広景から溝口姓になった。
でも隠居した当主は朝倉を名乗っていたし、分家したヒトも朝倉姓だったとのこと。
お家再興は微妙に意識してたんじゃないですか?
少なくとも朝倉一族としての誇りは持ってるみたい。
(^^)
531 :
日本@名無史さん:03/01/16 15:25
age
532 :
日本@名無史さん:03/01/16 15:51
隣が浅井さん。
向かいが朝倉さん。
うちの性は織田。
でも、明智、羽柴という知り合いはいない。
533 :
日本@名無史さん:03/01/16 20:02
534 :
日本@名無史さん:03/01/16 20:14
535 :
日本@名無史さん:03/01/16 20:24
536 :
日本@名無史さん:03/01/16 20:31
537 :
日本@名無史さん:03/01/16 20:51
>>536 資料は一つだけ読んで真実だと思ったらいけないよ。
たぶんソースはここだと思うが、
http://okhome.hp.infoseek.co.jp/data/onari.html @職制において修理は長官が修理大夫、次官が修理亮、佐官が進。
これだと修理進と修理亮が逆転してるでしょ。これが一つの間違い。
A朝倉始末記には、
筆頭;式部大夫景鏡
次席:孫三郎景健
三番:次郎左衛門(景尚)
四番:孫六郎
四番:修理亮(景嘉)
四番:掃部助
四番:出雲守
四か五かこの辺は同じ「四番」の中にも上下があるが、六ではないね。
538 :
日本@名無史さん:03/01/16 21:09
>>537 あのね、朝倉始末記ってのは色々あってね
越前軍記・加越和睦記・越州軍記・賀越闘諦記って題が異なる軍記物が存在するのは知ってる?
朝倉家伝記と全く逆の記述があったり、信憑性がかなり疑われてる物なんだが
それをもって朝倉義景亭御成記の記述が間違いって指摘してんの?
つーか自称の官位の職制で席次が決まるんじゃないんだよ
トホホ
ついでに式部大夫って官位を調べてごらん
朝倉義景亭御成記は式部大輔だから
ソースはここだと思うとか…
>資料は一つだけ読んで真実だと思ったらいけないよ。
そっくり返すよ…ハァ
540 :
日本@名無史さん:03/01/16 21:45
>越前軍記・加越和睦記・越州軍記・賀越闘諦記
これ各巻独立で朝倉始末記ってのは総称なんだけど知ってるよね?
たしかに朝倉家伝記が一番信憑性が高いと言われてるよね
朝倉義景亭御成記の記述を間違いだと指摘するところは、「修理進」の記述だよ
@御成記には出てくるのになんで他の資料には「修理進」がでてこないのか、
A自称の職制で、しかも将軍(内定)の御前で「修理亮」と逆転してるのか、
じゃあ「修理進」は誰なのかということだけれども
2ちゃんで言ってても答えは出ないだろうな
>>539 ちなみに朝倉始末記にも式部大輔、誤爆すまん
542 :
日本@名無史さん:03/01/16 22:23
>これ各巻独立で朝倉始末記ってのは総称なんだけど知ってるよね?
…あのね、総称じゃないよ…
ちなみに聞くけど、朝倉始末記には朝倉家の祖は誰と書いてあるの?
朝倉始末記で義昭御成の際に同名衆の次が、鳥羽氏になって、溝江が後になってるよね?
その他、表記がかなり他の資料と違ってるが?
修理進が誰かはわからないが、佐藤圭氏の「朝倉義景の花押について」という本で
義景書状に修理助が出てくる
で、自称の職制にやけに拘るなら、朝倉始末記で向駿府守が席次が後なのはどういう理由か?
>>542の書き方が悪かった
各巻独立の総称じゃないって事ね
ホントに朝倉始末記読んだのかな?
読んだ?じゃあ順番に…
朝倉の祖:朝倉始末記は図書館で読んだから記憶だけど朝倉姓初代は「礒主」となってるよね
鳥羽:同名衆の次になんで鳥羽なのか謎
向:向・三段崎・松尾などは古くからの分家だから席次が後ろなのは解かるが…駿河守
山崎長門守…逝ってきます。
ただ修理「進」は実在性が低いというか、席次が上位にあったにも関わらず実名もなし、
これ以外出典もなく、類推も出来ないので資料の誤爆というほか考えられないと思う
「大夫」「大輔」、「亮」「助」の違いでもないしね
545 :
日本@名無史さん:03/01/16 23:06
下げてしまった見える?
546 :
日本@名無史さん:03/01/16 23:54
で、景嘉は朝倉のどの系統の出なんだと
547 :
日本@名無史さん:03/01/17 00:13
>>544 佐藤圭氏の戦国大名朝倉氏と一乗谷を読むよろし
修理助の事がちろっと書いてある、確か出家した記述も書いて実在を証明してた
548 :
日本@名無史さん:03/01/17 00:15
始末記はうそが多い
特に義景の女性関係は出鱈目ばかり書いてある
作者は義景に恨みがあるのか?
549 :
日本@名無史さん:03/01/17 00:28
佐藤圭って義景公こきおろしの元凶だよな。一乗谷遺跡資料館?普通の本屋に売ってる?
550 :
日本@名無しさん:03/01/18 16:01
ボブサップは朝倉義景の子孫
551 :
日本@名無史さん:03/01/18 17:32
>>550 浅井長政の子孫と言うのならばわかるが・・・
552 :
日本@名無史さん:03/01/26 18:26
一乗録の研究論文、出た?
553 :
日本@名無史さん:03/01/26 23:09
>>548 負け組なんてそんなもんだよ・・・
>>552 とりあえず活字に起こして出版してくれればいいのにね。
554 :
日本@名無史さん:03/01/27 12:38
浅井三代記は活字となってますか?
555 :
日本@名無史さん:03/01/27 18:32
ぬvばわだ
556 :
日本@名無史さん:03/01/27 18:34
557 :
日本@名無史さん:03/02/07 13:46
うん
558 :
日本@名無史さん:03/02/08 09:46
この前、近江→越前で北陸道を北上してきたけど、虎御前山を
過ぎる頃から雪積もってて、敦賀のあたりは既に雪が降ってた。
長浜では晴天だったのに・・・
更に北上すると、雪が降るわ降るわ降るわ降るわ
信玄が激怒した義景の撤兵もやむを得ないかな、と思った次第
559 :
日本@名無史さん:03/02/09 13:29
560 :
日本@名無史さん:03/02/09 18:12
「まだ」と言いたいらしい
561 :
日本@名無史さん:03/02/24 17:04
大岡忠光さんでつか?
562 :
日本@名無史さん:03/02/26 20:15
光景って、宣正の弟在重の系譜じゃないのかな?
564 :
日本@名無史さん:03/03/11 02:14
光景って何者だ?
565 :
日本@名無史さん:03/03/11 08:25
566 :
日本@名無史さん:03/03/11 10:34
567 :
日本@名無史さん:03/03/15 18:22
消滅してないじゃん!
568 :
日本@名無史さん:03/03/24 18:37
朝倉義景の若狭侵攻って何が目的だったんですか?
信長の上洛に合わせた形で行っているのが気になるんですが
569 :
日本@名無史さん:03/03/25 10:58
568
あの時点で、朝倉側重臣に内応者がいたんじゃないのか。
(誰とは特定できんが)
570 :
日本@名無史さん:03/03/27 00:25
>>569 意味がよくわからないので、噛み砕いて説明してください。
僕、頭悪いの・・・
>>568 武田義統から家督を継いだばかりの幼少の武田元信の保護と同時に、
若狭国内の反武田勢力の鎮圧が名目上の目的
朝倉家と関係が深く、友好的だった武田家が弱体化が著しくなったので
・武田家が越前の前衛的存在にもならなくなった為、自勢力で抑えたかった
・単純に自勢力の拡大を図った
・浅井家が織田家と通じた為、京から又は京へのルートを敦賀だけではなく
若狭からのルートを確保したかった
等の理由があろうかと思います
572 :
日本@名無史さん:03/03/27 22:03
武田元信って元明のことすか?
>>572 そーです
元明の方が正しいです
スマソ
574 :
日本@名無史さん:03/03/28 12:51
誰かが朝倉の若狭侵攻は、織田の上洛作戦と歩調を合わせたものだとか
書いていたような気がする。
てことは、織田と一時的に協力体制にあったということ?
浅井の従軍も義景の代理ということがいえるのか?
例によって、義景は一乗谷で浅井を含めた朝倉軍全体の指揮を
とっていた(つもり)と。
妄想ですかねえ?
575 :
日本@名無史さん:03/04/01 13:45
立派な仮説です。
576 :
日本@名無史さん:03/04/01 23:02
577 :
日本@名無史さん:03/04/06 20:08
新史料発見の話はないですか?
578 :
日本@名無史さん:03/04/06 20:38
今頃になっては、なかなか出てこないでしょう。
579 :
日本@名無史さん:03/04/07 00:34
朝倉120万石ですね
580 :
日本@名無史さん:03/04/08 11:30
朝倉世界一?
一乗録の複写本見てきた。成立が江戸中期つーのと、冒頭に書いてある朝倉家の出自に関する記述なんか見ると
一連の始末記系の異本なんだろーね。
582 :
日本@名無史さん:03/04/11 22:52
どこで複写本見てきたの?
583 :
日本@名無史さん:03/04/11 23:24
>>581 史料としての価値はどのくらいなもんでしょうか。
>>582 福井県立図書館
>>583 資料の価値的なものは内容の検証が必要だろーから研究発表を待たなきゃだめでしょうね。
現段階で捉えられるのは、成立時期とおおまかな流れ
個人的にはこんなところじゃないのかなと思いますた。
朝倉家記>>>>>>>始末記系(朝倉軍談・越州軍記など)=一乗録??
585 :
日本@名無史さん:03/04/14 01:28
一乗録=軍記物ですか?
586 :
日本@名無史さん:03/04/14 10:19
今までどうして発見されなかったんだろう?
まさか、「武功夜話」のような捏造本じゃないだろうな・・
587 :
日本@名無史さん:03/04/14 15:48
どこで発見されたんです?
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
>>585 だそうです。
確か冒頭に「景行天皇〜」と書いてあったような。。。
591 :
日本@名無史さん:03/04/26 17:35
592 :
日本@名無史さん:03/04/29 12:36
連休後半に姉川古戦場・小谷城・刀根坂・一乗谷・大野ツアー
(温泉付き)を計画してます。
>>592 姉川古戦場って畑と姉川しかないよ
ついでに長浜逝っとけ、鉄砲博物館があるからさ
賤ヶ岳も上っとけ
594 :
日本@名無史さん:03/04/29 12:46
>>593 長浜この前行きました。
小谷登って賤ヶ岳もというのはきついのでまた今度。
>>594 小谷は途中まで車で登れるよ
賤ヶ岳はちっこいロープウェーで上までいけるから楽だよ
あ、でも一乗谷まで行くと余呉コースは遠回りになって苦痛だね
596 :
日本@名無史さん:03/04/29 13:45
>>595 あ、山麓から自分の足で登りたいんですぅ。
一乗谷も山城まで行こうと思ってますので、
賤ヶ岳まではちょっときついかなと思いまして。
レスありがとうございます。
いいな。福井県の歴史散策。
一乗谷は行ったケド、英林塚で引き返したっけ。
ところで一乗谷に浅井屋敷跡があると聞いたんですが、どの辺りかご存知ですか?
598 :
日本@名無史さん:03/05/07 22:53
599 :
日本@名無史さん:03/05/09 18:26
>>597 上城戸の外に「浅井殿」という地名がありますよ(盛源寺の辺り)。
>>599 さんくす。ちなみに宗滴屋敷跡は下城戸外「東新町」らしいですね。
つーか重要人物の屋敷が共に城戸の外というのは、
城郭の整備が惰性的に行われていたということだろうか。
601 :
日本@名無史さん:03/05/15 12:19
浅井長政って、当時美人の誉れ高いお市が、最後まで連れ添おうとしたくらいだから
けっこうハンサムだったのかな。少なくとも朝倉義景よりは数段上に思える。
603 :
日本@名無史さん:03/05/16 23:49
白ぽちゃなり
自分の親に「うちの曾婆が京都の浅井家からきた」と聞いてから
浅井長政の子孫だって思ってるんですが
違いますかね???
605 :
日本@名無史さん:03/05/18 18:15
「朝倉義景のすべて」発売ですね
606 :
日本@名無史さん:03/05/18 18:24
朝倉氏って滅亡した割には系図とか家臣団とか結構詳細にわかってるよね
607 :
日本@名無史さん:03/05/18 19:02
滅亡してないし、京との繋がりが深かったので、記録が大量に残ってるらしい。
609 :
日本@名無史さん:03/05/19 19:17
普通あれは滅亡というと思うが
610 :
日本@名無史さん:03/05/19 19:42
あれで滅亡でないなら武田家も北条家も今川家も存続したと言える。
611 :
日本@名無史さん:03/05/19 20:18
楠木もね
1.血脈的な滅亡。 (頼朝・豊臣など)
2.「家」としての機能を果たさなくなるという意味での滅亡。 (朝倉・武田など)
ということなのでしょうか。普通は後者だ罠。
613 :
日本@名無史さん:03/05/19 23:33
朝倉に較べると浅井は系図もはっきりしないようだ
新興勢力だったから?
614 :
日本@名無史さん:03/05/20 02:00
だからでしょう。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
616 :
日本@名無史さん:03/05/22 22:40
>612
要するに社会的な意味での滅亡ね
決して生物学的な意味での滅亡ではないと。
618 :
日本@名無史さん:03/05/23 16:20
朝倉教景(初名義氏)は朝倉義景の次男。
619 :
日本@名無史さん:03/05/24 10:26
斎藤刑部小輔って外戚として勢威があったのに出自や人物についてあまり知らない
実名すらわかってないの?
620 :
日本@名無史さん:03/05/24 12:30
美濃からの人質と言うが
朝倉は、優柔不断でなければ、天下取れたかも
622 :
日本@名無史さん:03/05/24 18:11
天下を取る=日本統一
北は南部から南は島津まで全てを服属させえたとはとても思えない
623 :
日本@名無史さん:03/05/24 18:50
そもそも天下統一の意思がない
>>619 朝倉家に伝わってる斎藤氏といえば貞景時代の一乗谷奉行斎藤民部丞隆家、
その子とされる民部丞吉用、その子か弟弥三郎吉唯、吉用の子と見られ「始末記」に見える
民部丞(実名不詳)
同時期に見える他の斎藤氏は、大永3(1523)年、宗厚孝景の奏者「斎藤兵部少輔」と、
少将局(諏訪殿)の父で愛王丸と共に大野へ落ちた「斎藤兵部少輔」
上記2系統は恐らく同族だと思われます。(ちなみに堀江は斎藤石見守家)
で、その根本の出自についてですが、
鎮守府将軍斎藤利仁の母が越前敦賀の豪族泰豊国の娘、
孫の吉信が加賀介及び越前押領使となって尊卑分脈では「吉信―伊伝―為延」
と歴代越前押領使を勤めてますからその一族でしょうね。
ちなみに吉信の子とされる伊伝は民部少輔っす。
>>624 詳しいレスさんくすです
斎藤民部少輔じゃなくて兵部少輔のことでした
小少将の父の・・・
実名はわかんないんですね。
信長の野望等にも出てこないのは実名が不明だから?
それとも元々朝倉家臣としては大した重臣じゃなかったのか・・・
>>625 ん〜どうでしょうね。朝倉家は重臣を置かないことを家訓にしてたから、
外戚が権力を持たないようにしてたのかな?実際に斎藤兵部少輔家の事跡も少ないしね。
「家録」の系図に歴代当主の母は記載されてたかな?
載ってれば何か解るかも。見てみます。
(ちなみに義景公の母は若狭武田ですね)
>>626 多分、何かの小説に影響されて小少将の父である斎藤兵部が外戚として勢威を
振るったというふうに思い込んだんだと思います。
そういえばそういう家訓ありましたね
実力本位で登用するんでしたっけ
小説等では古色然とした門閥朝倉家というイメージがありますが
628 :
日本@名無史さん:03/05/24 23:34
あの家訓は教景が語ったのをまとめたものという説があるが
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
630 :
日本@名無史さん:03/05/28 12:14
浅井四翼について教えて。
磯野員昌以外よくわかりません。
631 :
bloom:03/05/28 12:21
632 :
日本@名無史さん:03/05/31 16:11
>浅井四翼
誰がいつ言い始めたんだろ?
634 :
困っています:03/05/31 18:16
635 :
日本@名無史さん:03/06/06 21:14
「朝倉義景のすべて」いつ発売ですか?
636 :
日本@名無史さん:03/06/18 21:37
企画自体存在しません
おいおい、情報仕入れるの怠ってはいかんよ
近日発売だよ
638 :
日本@名無史さん:03/06/21 03:11
朝倉宣正って本当に越前朝倉の一族?
すくなくとも系図みたいに、義景の従妹なんてことは無いよね。
639 :
日本@名無史さん:03/06/21 08:53
>>638 宣正の曾祖父景高が追放の憂き目にあったとき、
本願寺側史料には和泉から西国へ落ちたとされてるけど
宣正の由緒書きには、祖父の初代在重(景鏡弟)と曾祖父景高がともに
駿河国安部郡柿嶋に移住したとあるみたいすね。
姓氏大辞典には二代目在重(初代在重の子、宣正の父)の生没年を
天文23(1554)〜元和元(1615)として、
年代をみる限り明らかな時代錯誤はないようだし、否定に足る史料もないから
宣正を越前朝倉一派と捉えてもいいんでしょうね。
641 :
日本@名無史さん:03/06/21 12:38
>>630 聞いたことないが、
多分、磯野+海赤雨の三将だろ。
海北綱親、赤尾清綱、雨森弥兵衛の三人。
赤と雨は確かにマイナーだが、
海は高名な画家の海北友末の父親だったり、
巧みな兵法で秀吉の軍を破りに秀吉に「我が兵法の師」と呼ばれてたりで割と有名。
642 :
日本@名無史さん:03/06/21 12:39
海北友松だった。
644 :
日本@名無史さん:03/06/22 03:44
>>640 ありがとう。
でもその在重と越前朝倉との関係を示すものって、その由緒書みたいのしかないんですよね?
なぜ駿河に移ったかも今一つ不明確だし、もとは同族としても在重がそんなに越前朝倉と近いという根拠は他にないと思うんですが。
武士として移住したのならば、ある程度屋敷?(住まい)も家人も必要だし、
現在みたいにただ引越しすればいいというものでもないし。
そもそも在重って二人いるし、作為的な感じがするんで。
朝倉景高は当時大野郡司として威勢を誇っていたから、
当然一族郎党を挙げての駿河移住ともなれば、
それにかかる準備とかなりの人数を従える大規模なものになったでしょう。
ただ彼の追放劇に関しては、景高は京都滞在中の出来事であり(郡司罷免後の上洛とも伝えられる)
いずれにせよ本国にいるなら可能な動員や財力が得られないのは当然だろーから
ほとんど着のみ着のままのいでたちで移住したという見方の方が自然でしょう。
個人的には景高ー在重の駿河移住という話は不自然だと思っています。
646 :
日本@名無史さん:03/06/26 22:53
なんで景鏡がナンバー2になれるんだ????
複雑なお家事情なのね
647 :
日本@名無史さん:03/06/27 00:37
ところで、朝倉氏って尾張や陸奥にはいないのかな。
逆に織田氏って越前にはいそうだけど。
648 :
日本@名無史さん:03/06/27 20:14
電話帳で調べてみよう!
649 :
日本@名無史さん:03/06/28 04:40
650 :
日本@名無史さん:03/06/28 11:11
>649
なんで?
651 :
日本@名無史さん:03/06/28 13:22
652 :
日本@名無史さん:03/06/29 17:33
朝倉義景のすべて 7月刊!!!
>>650 宗滴じぃの兄貴で、景豊の乱のとき呼応した景総(細川政元に降って元景)が織田家督を継いでます。
尾張守護代の織田家とは関係ないっすね。
654 :
日本@名無史さん:03/07/02 22:00
景綱も織田を名乗ったんじゃなかったっけ?
>>654 そーすね。織田の名乗りを挙げていると思われる人物は・・・
兵庫助景亮ー兵庫助景良ー兵庫助景綱
文献に見える同一通称から上のような血縁が想定できますが、景亮がどこの分家なのか不明。
他に孫七郎時景、孫九郎左衛門尉景儀もありますが一応宗家からの系譜は確認できますから、
この内の誰かが「景亮」の血縁者でしょうか。あくまで憶測ですけどね。
656 :
日本@名無史さん:03/07/03 18:05
「朝倉義景のすべて」出ました?
当方、地方のど田舎に住んでいるので本を買うのも一苦労・・・
657 :
日本@名無史さん:03/07/03 22:00
「藤原紀香のすべて」もう出てますか?
658 :
日本@名無史さん:03/07/03 22:03
>>656 福井県丸岡町の図書館長の書いた本な。今月中旬らしいよ。
659 :
日本@名無史さん:03/07/05 00:06
早く読みたい
新人物往来社、松原信之著で。
661 :
日本@名無史さん:03/07/05 14:24
そういえば10年ほど前に甦る戦国城下町・一乗谷朝倉氏遺跡という本が
朝日新聞社から出たがその後、遺跡の発掘になにか成果があったのだろうか?
662 :
日本@名無史さん:03/07/05 14:27
司馬遼太郎さんは「越前に1世紀もの平和をもたらした
のは朝倉氏の功績」と書いておられたが、
朝倉文化という面から、なにか功績はあったのかな
663 :
日本@名無史さん:03/07/06 20:24
>>662 「戦国大名朝倉氏と一乗谷」(高志書院)読むべし
●●●マスコミの 「盗聴/盗撮」 は許されるの?その6●●●
http://natto.2ch.net/mass/kako/1000/10003/1000393251.html 783 名前: 郵便屋 投稿日: 01/10/12 07:22 ID:eqc3p.xc
>だからさー、ドラマや小説のネタにして誰にどういうメリットがあるの?
メリットがあるかないか、というより、嫌がらせや脅しが目的だろ。
嫉妬や妬みのようなくだらない理由で嫌がらせする人っていっぱいいるよ。
普通はありえないと思うだろうけど。
変な不祥事が連発しておこることが事件に取り上げられてるけど。
世の中くだらない個人的感情で仕事をする馬鹿な人がいっぱい、いるんだろうと思う。
909 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 01/10/31 15:07 ID:Ap3rYjWx
>906
言いたいことがよくわかります。
私も同様にやられています。
「人間さがせば、ひとつ位悪いことあるのになあ」とは彼らの言葉。
さがしまわって、相手の悪い所が何一つ見つけられずに焦っているかのよう。
盗聴とは相手を激怒させるだけ(=何も得る所はない)というのは名言。
912 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 01/10/31 16:08 ID:gd316hG0
盗聴ネタって蛆テレビが主だね。
665 :
日本@名無史さん:03/07/06 23:39
666 :
日本@名無史さん:03/07/09 05:10
某大学に浅井家を研究?している所があって
家系図があるらしいんだけど見てみたい。
そこの学生じゃないのに行っちゃマズイですよね・・・。
667 :
日本@名無史さん:03/07/09 22:09
>>666 予め了解を取っておけば見せてくれるよ、たぶん
668 :
日本@名無史さん:03/07/10 03:09
>>667 そうなんですか?是非見てみたいんです。
それ以外で家系図を見れるって何か方法はあるのでしょうか?
669 :
日本@名無史さん:03/07/12 16:25
「朝倉義景のすべて」ってどういう内容なんでしょう??
670 :
日本@名無史さん:03/07/13 05:15
朝倉義景のすべてが記述されていまつ。
671 :
日本@名無史さん:03/07/13 10:32
もう店頭に並びましたか?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
673 :
日本@名無史さん:03/07/18 20:08
674 :
日本@名無史さん:03/07/19 03:16
>671
『越前朝倉一族』面白かったので
『朝倉義景のすべて』売ってたので思わず買いました。
675 :
日本@名無史さん:03/07/19 14:22
676 :
日本@名無史さん:03/07/19 14:40
というか、朝倉の何が興味あるのかな?
朝倉文化について?それとも一乗谷遺跡について?
オレは福井人ゆえに多少関心があるけど・・・
677 :
日本@名無史さん:03/07/20 01:48
>674
おもしろいよ
あとがきによると同じ著者の『越前朝倉一族』絶版らしいので
すきなら読もう。
678 :
日本@名無史さん:03/07/20 11:56
「朝倉義景のすべて」
名古屋では大きな書店でも置いてありませんでしたあ
連休使って読もうと思ったのに
福井県では売ってるかな?
679 :
日本@名無史さん:03/07/20 12:25
>>677 >同じ著者の『越前朝倉一族』絶版らしいので
嘘っ!?
681 :
日本@名無史さん:03/07/20 14:11
あとがきによれば絶版らしいので
おそらく出版社に在庫がなく、書店等にある在庫分しかないのでは?
682 :
日本@名無史さん:03/07/20 14:15
発売されてからそれほど長期間経過しているわけじゃないと思うのだが・・・
683 :
日本@名無史さん:03/07/20 14:19
でも5年以上前の本だよ
684 :
日本@名無史さん:03/07/20 15:29
改訂版を出すとか?
5年あれば義景だけじゃなく朝倉一族全般の研究も
進んでるんじゃないかな?
685 :
日本@名無史さん:03/07/20 15:34
土井たか子(李高順=イ・コジュン)は西宮の朝鮮人部落の出身(両親共に朝鮮人)で、後に朝鮮国籍から
日本へ帰化しました。戸籍に今も記載されている事実です。社民党関係者は全員
がもちろん知っており、地元の兵庫7区でも多くの有権者が知っているよう
です。『祖国のために政治家になりたい』と言って日本に帰化したそうです。
土井たか子の親族(甥、姪)が平城に住んでおり朝鮮労働党の幹部となって
いることもあって、北朝鮮の信任が最も厚い政治家です。
686 :
日本@名無史さん:03/07/20 16:46
『朝倉義景のすべて』に書いてある
687 :
日本@名無史さん:03/07/20 16:54
あとがきによると一回再版されただけだそうです。
688 :
日本@名無史さん:03/07/20 19:15
読む人少ないのか・・・
689 :
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朝倉義景は信長とかに比べると知名度低いからしょうがないね
取り寄せできなかったら図書館には越前朝倉一族の方は
わりと置いてあるところも多いから調べてみるといいかも
691 :
日本@名無史さん:03/07/21 08:50
知名度低い割りに本は一定の間隔でよく出てるね。
やはり専門の研究施設があると違うね。
692 :
日本@名無史さん:03/07/21 20:11
今日も「朝倉義景のすべて」探したけどなかった・・・・
東京では書店に並んでるのですか?うらやまひい。
明日から忙しい。買えても読んでる暇無い・・・・
693 :
日本@名無史さん:03/07/21 20:43
『朝倉義景のすべて』
朝倉義景の家臣団について
「同名衆・内衆・国衆」
とわけてあります。
694 :
日本@名無史さん:03/07/21 21:07
695 :
日本@名無史さん:03/07/22 01:43
朝倉再興運動があったようです。
1.修理亮景嘉が上杉謙信を頼ったり
2.鳥羽氏の与三景忠を足利義昭経由で家督にしようとしたり
同名衆の溝江氏が大名となり子孫は彦根藩士だとか。
696 :
日本@名無史さん:03/07/22 23:28
>>695 それは「朝倉義景のすべて」の内容ですか?
朝倉再興運動は佐藤圭さんが雑誌で紹介されてましたね。
「すべて」の内容ならば佐藤さんが執筆陣に加わってみえるのですか?
697 :
日本@名無史さん:03/07/23 02:36
そうです
前半部は大体、佐藤圭氏が書いてます。
後半部は大体『越前朝倉一族』の松原信之氏です。
698 :
日本@名無史さん:03/07/23 02:39
溝江氏といえば歴史館の主催者溝江氏の御先祖だそうですね。
ちなみに津軽溝江氏は義景の弟の景勝が金津城を預けられて溝江を名乗ったとか…
ほんとかな。
織田勢に追われて、中国の田舎に逃れた朝倉の一族では
餅を搗く余裕もなかった先祖の故事にならって、
お団子の雑煮で正月を祝うとか。
内田百閧フ随筆にたしかこんな一節があった。
700 :
日本@名無史さん:03/07/23 22:49
>>699 ∧_∧
ガン( ゜O゜ ;) へぇへぇ
ガンO┌―┐)へぇへぇへぇへぇへぇ
[⌒] ̄ ̄ ̄|
| [ 18 ] |
|_____|
701 :
日本@名無史さん:03/07/24 00:04
おまいら!浅井も語れ!
702 :
日本@名無史さん:03/07/26 00:35
浅井も本が出たらなあ
703 :
日本@名無史さん:03/07/27 01:20
長政の子ともいわれる浅井井頼って
大坂に篭城した浅井長房と同一人物?
704 :
日本@名無史さん:03/07/30 01:42
らしいよ
朝倉は浅井滅亡時に援軍を送り合戦をしていますが、その援軍の
規模はどのくらいだったのでしょうか?
706 :
日本@名無史さん:03/07/31 03:49
age
707 :
日本@名無史さん:03/07/31 20:23
(^^)
成り上がりでも200年も君臨すれば名門扱いでしょう。
出自を問われればその限りではないですケドね。
711 :
日本@名無史さん:03/08/05 22:45
君臨すれども統治せず?
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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715 :
日本@名無史さん:03/08/07 21:42
716 :
日本@名無史さん:03/08/12 01:49
はい
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
718 :
日本@名無史さん:03/08/16 01:17
斉藤義龍の母が浅井久政の娘になってるけど
亮政の間違いなんじゃないかな
龍興の母が久政の娘ではなかったっけ?
>>720 ごめん間違えた龍興だった
久政の娘となると 久政の年齢が跳ね上がるんじゃないかと思う
正確な年齢が出ればわかることだと思うけど
722 :
日本@名無史さん:03/08/17 22:11
私は浅井長政の最初の奥さんのその後を知りたい
723 :
日本@名無史さん:03/08/18 00:19
>>720 龍興の嫁が亮政の娘。この縁で浅井は美濃の日根野兄弟の求めで
美濃に出兵した。
>>723 40年代頃から、斎藤・浅倉・浅井は三者同盟のような形だったんでしょうか。
斎藤が六角と盟約を結んでいたため、信長は浅井と手を組んだ、という話を聞いたことがあるのですが。
725 :
日本@名無史さん:03/08/19 00:03
>>724 浅井・朝倉は同盟と言うより一方的に浅井が援助してもらっていた。
浅井・斎藤は初代亮政時代から姻戚関係にあったので同盟国とも言えるが、
長政の時代には斎藤家に嫁いだ娘は死んでいたので無関係。
斎藤龍興は稲葉山を追われた後、伊賀に逃げ六角と共に反信長勢力として
立ち向かったが特に盟約は無かったと。
六角は、長政が美濃攻めの隙をついて佐和山城を攻めたりはしていたが
両軍呼応して動いたことは無いので同盟国とは言えないでしょう。
726 :
日本@名無史さん:03/08/19 22:44
>>725 >斎藤龍興は稲葉山を追われた後、伊賀に逃げ六角と共に反信長勢力として
>立ち向かったが特に盟約は無かったと。
三好の許に行く前に伊賀にいたの?
てっきり伊勢長島→三好氏→朝倉氏→刀根坂で戦死 と思ってた
727 :
日本@名無史さん:03/08/26 20:34
六角義賢に偏諱を押し付けられて賢政にされたのを
長政に改名したわけだけど俗説では信長の偏諱をもらったことになってるけど
もし信長から偏諱をもらっていたとしたら信政になると思うのだが
上の字を貰うのと下の字を貰うのとでは格段にちがったはず
729 :
日本@名無史さん:03/09/03 22:46
730 :
日本@名無史さん:03/09/07 20:12
>>728 記録に残ってはいないのだが、金ヶ崎以降改名して
最後の名乗りは景政だったりしてw
>>730 8月29日付けの片桐且元の父宛ての文書は長政のはずだったと思うけど
732 :
日本@名無史さん:03/09/08 00:37
ネタですよ、ネタ
ネタなのはわかってるが誰か建設的な意見を言ってくれんものか
734 :
日本@名無史さん:03/09/12 19:32
建設的な意見とはどういう意見を言えばいいのでしょう?
義景の弟、景弘の生涯を語ればよろしいでしょうか?
735 :
日本@名無史さん:03/09/13 03:37
>734
誰それ?
本当なら語ってくれ。
>>735 「日下部系図」に見られる治部大輔景弘のこと。義景公の弟とされるが、
他の史料にまったく見られないため「日下部系図」の創作じゃないかと言われてる人物す。
もちろん彼の生涯は知る由もありません。
「日下部系図」にも名前だけなん?
738 :
日本@名無史さん:03/09/14 00:10
>>737 天正元年の若狭出陣に出陣したようなしないような
実在したんだかどうだか創作なんだかどうだか
弟でなく血縁関係の近い一族としてなら実在したかも知れぬ
739 :
日本@名無史さん:03/09/25 23:38
朝倉義景と浅井久政とが異母兄弟説があるらしいのだがどうよ
741 :
日本@名無史さん:03/10/01 07:23
珍説大好き
742 :
日本@名無史さん:03/10/01 14:51
斎藤龍興は朝倉義景の次男説がある。
743 :
日本@名無史さん :03/10/01 16:48
744 :
日本@名無史さん:03/10/02 01:09
説じゃなくて偽系図があるだけだろ
745 :
日本@名無史さん:03/10/03 23:32
戦国の近江と水戸という本によると
長政は長男ではないそうなんですがどう思う?
747 :
日本@名無史さん:03/10/04 13:59
>>746 久政の長男ではないということ?
それとも義景の長男では(略w
マジレスすると信長と同じくらいですから
久政の長男でなく上に一人兄がいるということ
749 :
日本@名無史さん:03/10/12 23:39
751 :
日本@名無史さん:03/10/13 20:12
真偽のほどは如何なもんでしょう?
752 :
日本@名無史さん:03/11/06 23:07
753 :
日本@名無史さん:03/11/08 13:54
>>751 持ってないから知らん
久保田暁一氏にきいて
754 :
日本@名無史さん:03/11/17 00:23
久保田暁一さん、教えて!
755 :
日本@名無史さん:03/12/01 06:04
朝倉南って今みると漫画の絵ねブスだとおもう
756 :
日本@名無史さん:03/12/01 19:29
>>755 何となく意味わかるんだが、やっぱり誰か解説してくれ
「浅倉」南だろ
タッチのヒロイン
主人公は上杉達也のあだち充の野球漫画
758 :
日本@名無史さん:03/12/05 17:56
景健は姉川の合戦に敗れても、その後も坂本合戦で総大将として活躍
している。一方、景鏡は同時期、ナンバー2の座は変わらないものの、
それまでの権限が弱められたという説があるけど、何故?
759 :
日本@名無史さん:03/12/16 18:38
ねえ・・・誰か教えてやって
759は何に対してのレスなのか
761 :
日本@名無史さん:03/12/17 17:58
762 :
日本@名無史さん:03/12/17 20:22
元朝倉家臣で他家に仕えて出世した武将をあげよう
山崎長徳
朝倉家没落後、明智光秀、佐久間安政に仕え、最後には前田利家に仕えて家老格。
大坂の陣にも従軍している。激動の戦国時代を生き抜いた老将。
763 :
日本@名無史さん:03/12/18 19:18
>>762 山崎長徳と山崎吉家の系譜関係はわかる?
764 :
日本@名無史さん:04/01/04 01:53
駿河大納言徳川忠長の附け家老朝倉宣親って人がいるみたいですが、
この人は越前朝倉家と関係のある人なんでしょうか。
知っている人いたら教えてください
765 :
日本@名無史さん:04/01/04 02:56
>>764 朝倉宣正だろ?
一応朝倉の一族、しかも系図では義景に近い親類ということになっている。
でも実際は遠江朝倉氏と思われる。
766 :
日本@名無史さん:04/01/04 11:27
遠江朝倉氏って何だ?
あぼーん
なんか気になるな
769 :
日本@名無史さん:04/01/15 20:00
一乗谷は一面銀世界かな
770 :
日本@名無史さん:04/01/16 09:32
∩( ・ω・)∩
771 :
日本@名無史さん:04/01/16 16:44
772 :
日本@名無史さん:04/01/16 19:45
越前って、朝倉氏時代が全盛期だったね。
今は日本有数のど田舎
773 :
日本@名無史さん:04/01/17 12:35
今日のような雪の日には、義景が大事な局面で撤兵せざるを
得なかった理由がわかるような気がします。
774 :
日本@名無史さん:04/01/19 21:58
忠景と重景は義景公の息子と孫ですか?
775 :
日本@名無史さん:04/01/19 22:03
阿君丸と愛王丸は同一人物ですか?
丹羽の野郎に殺された方。
776 :
日本@名無史さん:04/01/19 22:33
777 :
日本@名無史さん:04/01/19 23:06
おお!どうもどうも。
忠景と重景ってのはどういう血筋なんですか?
系図で義景公の直系のように書いてあったのを
みたもので。
あと、義景公の実子だか猶子だか養子だかが戦死してる
ようなんですが、誰だか分かりますか?そんな人は
居ないんでしょうか。
778 :
日本@名無史さん:04/01/20 00:49
あ、知景です。この人は義景公の嫡子で
刀禰坂合戦で死亡したって聞いたんですけれど
本当ですかね。
779 :
日本@名無史さん:04/01/20 01:22
うそです
780 :
日本@名無史さん:04/01/20 03:13
うそですか。
浅井長政の支配地域は浅井、坂田、伊香、犬上、高島、神崎
の六郡。高島を除く五郡を領有していた石田三成が、およそ
二十万石だったので朽木一万石を除く高島郡七万石を足して、
約二十七万石。三人役で計算すると姉川の合戦の頃の浅井の
動員力はおよそ八千百人。
782 :
日本@名無史さん:04/01/21 17:49
朽木は浅井に屈服してた時期があったのかな?
遠江朝倉氏ってどういう家系ですか?
784 :
日本@名無史さん:04/01/21 20:25
関ヶ原合戦時の越前の大名の石高(単位万石)
青木20
大谷17
堀尾5
織田5
伊東1
溝江1
服部1
青山4.6
丹羽5
赤座2
戸田2
上田1
木下2.5
奥山1.1
三人役で二万四百人ほど
786 :
日本@名無史さん:04/01/22 19:31
なんで浅井は信長を裏切った?
自 爆 し て ど う す る
787 :
日本@名無史さん:04/01/22 19:33
なぜ比叡山は朝倉に加担した?
朝倉がなんぼのもんじゃい
788 :
日本@名無史さん:04/01/23 05:06
朝倉の檀那寺じゃなかったか>延暦寺
789 :
日本@名無史さん:04/01/23 05:13
>>787 信長が横領した寺領を返してくれないから、かな。
まあ延暦寺と言っても平安時代ならいざ知らず、この時代に単独で
大名と戦う力は持ち合わせていないから、信長の敵対勢力を使って
有利に交渉しようと思ったんでしょう。
実際、将軍を仲立ちにして結ばれた和議では、寺領の返還などが
盛り込まれた。
まあ直後に焼き討ちしに来るとは予想外だっただろうけどw
信長は熱田神宮の氏子?
だったら比叡山焼いたらまずいよな。
791 :
日本@名無史さん:04/01/24 15:36
一乗谷城(一乗山城と言うの?)って篭城に適していたのかな?
今みたいな豪雪期には難攻不落だろうな
攻撃側は寒さで指がかじかんで、弓を引くこともできない。
794 :
日本@名無史さん:04/01/24 21:44
味方もじゃろ?
矢倉のそばに、暖がとれる場所があれば、大丈夫だろ?順次交替すれば良い。
攻撃側は野営なのでつらいだろ、マジで。雪を避ける屋根もないし。
796 :
日本@名無史さん:04/01/24 22:33
麓の館を占領すりゃいいじゃん
797 :
日本@名無史さん:04/01/24 23:01
今の時期、近づくのも大変だって
798 :
日本@名無史さん:04/01/24 23:02
一乗谷は銀世界?
雪に閉ざされたら、何もしなくても兵糧攻めしたことになるなw
お市の孫
豊臣秀頼
徳川家光
徳川忠長
801 :
日本@名無史さん:04/01/25 17:29
孫もあまり幸せな人生を歩んどらんなあ・・・
初の子供ではないはず
804 :
日本@名無史さん:04/01/28 12:40
「近江浅井一族」みたいな本を誰か作ってくれぬものか?
駄目なら「浅井長政のすべて」でもいいんだが。
>>804 三姉妹の本なら小和田哲男しゃんが書いてたぞ。
806 :
日本@名無史さん:04/01/29 18:15
小和田哲男先生、「近江浅井一族」書いてください
遠江朝倉。。。
甲斐も堀江も下ったから朝倉からも誰か行った可能性はありますね。
808 :
日本@名無史さん:04/02/08 19:15
809 :
日本@名無史さん:04/02/08 22:40
>>804 新説 浅井三代記というのがあるぞ。
東浅井郡教育会発行だ。
京都の古本屋で発見したので探せばあるかも。
小和田先生の書いてくれた本でなきゃヤ・ダ!
811 :
日本@名無史さん:04/03/05 01:28
浅井方寝返りうって背中で泣いている
あ、ああー
浅井・朝倉に織田信長を討ち取る機会は有ったのだろうか?
金ヶ崎の退き口でさえ殿の有力武将に戦死者がいなかったことを考えると
全く無謀な反抗だった事になるのか。
813 :
日本@名無史さん:04/03/06 16:35
金ヶ崎から姉川までの間に六角とうまく連携していれば
戦局は大きく変わったと思うのであります。
814 :
日本@名無史さん:04/03/09 18:32
あとは志賀の陣かな
仮に志賀の陣の時、比叡山に浅井長政・朝倉景健を籠らして
朝倉義景・景鏡の本隊が横山城を落とし、佐和山城を救出、
美濃に雪崩れ込んでいたら面白かったんだが
815 :
日本@名無史さん:04/03/14 17:22
武田元明のことを調べたいんですが、若狭武田氏に関する
まとまった本ってないですか?小浜あたりで出版されてますか?
817 :
日本@名無史さん:04/03/16 02:16
それって何十年前の話?
818 :
日本@名無史さん:04/04/03 18:12
819 :
日本@名無史さん:04/04/05 21:41
空揚げすんなよ
小和田先生の本はまだ入手可能なのか?
820 :
日本@名無史さん:04/04/23 22:13
話題ない?
>>812 >殿の有力武将に戦死者がいなかったことを考えると
だから、実際には大した戦闘にならないうちに秀吉も引き上げたんだよ。
さももの凄い激戦になったかのように信長には報告したけどね。
いつもながら浅井・朝倉の動きは緩慢というほかないね
(まぁ、家臣団の構造から言えば無理も無いんだろうが)
822 :
日本@名無史さん:04/04/26 22:13
姉川の戦いで朝倉軍は果たして善戦したのでしょうか?
徳川軍と睨み合ってるだけで浅井軍の攻勢が頓挫したら
そのまま退却して、その時戦死者が多数出たんでしょうか?
823 :
日本@名無史さん:04/04/27 20:56
誰か答えてやれよ
824 :
日本@名無史さん:04/04/28 11:28
>>822 姉川合戦の舞台である野村、三田村の距離はそれ程離れていないので、浅井軍が
織田軍と激戦を繰り広げている隣で5時間以上(通説では朝5時戦闘開始で午前
11時頃終結)傍観しているというのは考えにくいと思います。
825 :
日本@名無史さん:04/04/28 18:12
ごめん間違えた。姉川合戦終了は午後2時だった。
サクラサクミライコイユメ・・・・・
空が青いよね 君が微笑んだ
何気ない一言は 心つないでく
履きかけの靴で 開けた扉の向こう
君に重なる景色 僕はときめいた
サクラサクミライコイユメ 高まる鼓動抑えずに
二人で 感じる季節を越えてゆく
かけがえのない瞬間と 出会いが作る物語(ストーリー)
舞い散る桜に 願いを込めて
歩んでいく
花は開く
夕暮れの街を 君と歩いてた
オレンジ色の景色 今日が終わってく
切ない心は 君を想う力に
毎日強くなるよ きっとこれからも
サクラサクアイノミライへ 出会いのあの時のままに
二人で 感じる明日へ進みたい
繰り返す季節の中で 何かが変わる瞬間に
舞い散る桜の 魔法はきっと
かなうはずさ
信じていて
いくつもの道を 選び進むこれから
君の旅立ちの日も そっと微笑んで・・・・
サクラサクミライコイユメ 高まる鼓動抑えずに
二人で 感じる季節を越えていく
かけがえのない瞬間と 出会いが作る物語(ストーリー)
舞い散る桜に 願いを込めて
歩んでいく
花は開く
浅井長政とお市の方を詠んだ名作です
828 :
日本@名無史さん:04/05/03 15:43
金ヶ崎で長政が離反して織田軍は撤退したけど、もし長政の離反がなければ
越前平定戦はどういう展開になってただろう?まだまだ朝倉は弱体化してない
時だから滅亡時みたいな惨めな戦い方はしないと思うんだが。
敦賀を抜かれたあと、決戦するならどこかな?
829 :
日本@名無史さん:04/05/03 20:43
木の芽峠の戦いとなるんじゃないかな?
830 :
日本@名無史さん:04/05/03 20:58
実際朝倉氏遺跡を見ても篭城に適した作りではない。国内反乱対策程度。
金ヶ崎落城したら要害に布陣して決戦しかない。
831 :
日本@名無史さん:04/05/04 12:20
越前の地形を見てると、敦賀を抜いたあと一乗谷までの行程で、最初の平野部
というと武生になるようだ。大軍による決戦を考えるなら山間を抜けてくる
織田軍を、武生への入口で布陣して待ちかまえることになるのかな?
福井の方どう思います?
832 :
日本@名無史さん:04/05/04 16:08
>>830 確か朝倉の本城って一乗谷遺跡の裏手にある山にあったはずだが。
標高200メートル以上の山城だからそれほど手薄でもないと思うが。
もっとも朝倉の後に越前半国を治めた前波吉継は反乱に遭った際に
城に登らず屋敷(一乗谷遺構)で防ごうとしたようだから、何らか
の理由で籠城には向かないのかもしれん。
833 :
日本@名無史さん:04/05/04 16:24
834 :
日本@名無史さん:04/05/04 18:21
今庄〜武生あたり、それより前に木の芽峠で防ぐのがベスト、その後は足羽川
で防ぐしか方法ない。
835 :
日本@名無史さん:04/05/04 18:51
実際、対織田戦用に木の芽峠に砦を急遽構えたんだろ、義景
836 :
日本@名無史さん:04/05/04 18:58
武生は越前の国府があったところだから、それなりに栄えているし、
現在も現存する寺社が多い。だから武生周辺で戦になれば、民衆も
動揺し、動員兵力が減ってしう。だから武生なんかで戦う理由がない。
837 :
日本@名無史さん:04/05/04 19:09
でもそれじゃあ敦賀も似たようなものだと思うが
838 :
日本@名無史さん:04/05/04 19:33
2万を超える軍勢同士が木の芽峠で決戦できるのかな?
ある程度の平野部じゃないと苦しいのでは?
武生の町中で決戦するのは無理としても、山間を通るため縦隊になって
いる敵軍を待ち受けて殲滅するには武生の入口が適しているように思う
けどなあ。木の芽峠を抜けた今庄の入口に軍勢を展開できる程度の平野
があればその方がいいけど。
839 :
日本@名無史さん:04/05/04 22:26
決戦と言うか防御線をどこにするかということではないかね?
木の芽峠は生命線だと思うが
840 :
日本@名無史さん:04/05/04 23:06
>>839 なるほど。確かに木の芽峠を防衛線とするもの一つの策だ。しかしその線で防衛
して、その後は?越前から追っ払うにはどのみち一度、決戦するしかないのでは?
冬を待つには時間がありすぎる。木の芽峠はそんなに長く防衛できる場所でもないし。
841 :
日本@名無史さん:04/05/05 12:49
後の義景の行動から考えて一乗谷山城に篭城が可能性高いと。
で、三好三人衆が京都に押し寄せるのを待つと。
六角が南近江の山中から出撃するのを待つと。
そして浅井の敦賀進出を待つと。
842 :
日本@名無史さん:04/05/05 13:04
>>841 だとすると朝倉の滅亡は早そうだな。なんとか逆転の目はないかと思った
んだけど・・・。
843 :
日本@名無史さん:04/05/05 13:19
>>842 足利義昭の周旋で、本願寺、長尾、毛利、武田(甲斐)とも組めば逆転の目も
でも織田滅亡後またもめる。
844 :
日本@名無史さん:04/05/05 13:41
浅井の行動が早過ぎたんではないかい?
845 :
日本@名無史さん:04/05/05 13:52
宗滴が生きてたら断固決戦だろうな。
846 :
日本@名無史さん:04/05/05 13:56
>>844 オレも最初はそう思った。木の芽峠にかかる位まで待ってから退路を
絶てばまさに袋のネズミなんじゃないかと。
しかし、その後の朝倉軍編成の遅さを考えると、奥深く入り込まれたら
手遅れの可能性もある・・・。
847 :
日本@名無史さん:04/05/05 14:10
一概にそうとも言えないでしょう
848 :
日本@名無史さん:04/05/05 15:14
849 :
日本@名無史さん:04/05/06 23:03
どうしても浅井の裏切り(という言い方は正しくないかもしれぬが)を
考慮に入れて考えてしまうなあ。
木の芽峠でちょっと防戦して一乗谷辺りまで退却、織田軍が越前中央部に
入った頃、背後で浅井が裏切り、挟み撃ちと言うわけにはいかんかなあ?
850 :
日本@名無史さん:04/05/07 16:23
>>849 そんな戦略的撤退が朝倉に可能かどうか?
>846も言ってるけど、事態の急速な悪化をまのあたりにした越前の国人たちが
「朝倉もう駄目ポ」と続々朝倉から離反し、下手すりゃそこで義景あぼーんじゃないかな?
851 :
日本@名無史さん:04/05/07 18:25
では、初めから九頭竜川河畔から動かず、迎撃するというのはどうかな
無論、織田方の背後で浅井・六角・三好が動くと吹聴して
852 :
日本@名無史さん:04/05/07 21:37
最初から上洛すればよかったんだよ。
853 :
日本@名無史さん:04/05/07 22:49
いつ和睦を破るかわからない一向一揆
謀反を起こす外様
いがみ合う一族
義昭が来た事によって倍化された派閥抗争
挙句の果てに世継ぎの暗殺
こんな状況で上洛しろってか?
854 :
日本@名無史さん:04/05/07 23:23
精鋭3000もあれば上洛できますよ。
朝倉家は当主は軍事指揮とらないから十分可能です。
長尾景虎は上洛できましたよ。
855 :
日本@名無史さん:04/05/08 00:28
856 :
日本@名無史さん:04/05/08 08:33
長尾景虎は兵3000で三好追い払ってますよ。
857 :
日本@名無史さん:04/05/08 09:19
あの、追い払ったと言うのはどの文献に書かれてあるのでしょうか?
858 :
日本@名無史さん:04/05/08 10:18
流れ。
859 :
日本@名無史さん:04/05/08 16:31
>>853 その状況、何だかもう末期的ですね。
上洛どころか対外戦争することじたいが自殺行為。
いっそ初めから、浅井の後にくっついて信長と和睦していれば良かった気がする。
860 :
日本@名無史さん:04/05/08 18:33
しかし、何だな。朝倉家は信長が攻めてくるとは思ってなかったのかな?
もし想定してたとしたら、対応おそまつすぎる。
861 :
日本@名無史さん:04/05/08 21:04
織田の来襲にかこつけて、まず敦賀朝倉家の精力を殺いでと・・・
どうせ浅井が背後で立ち上がるから越前中央部にまでは織田軍来ねーし
(珍説:義景の深謀遠慮説,でもマジでこう唱えている方もいるとか)
862 :
日本@名無史さん:04/05/15 13:46
しかしまあ何だな。長政もついてく人間を間違えてるよな。
義景がヘボいことなんかすぐ判りそうなのにな。もしかしてそれまで一回も
会ったことなかったのかな?
863 :
日本@名無史さん:04/05/15 17:11
信長と直に会ったからこそ、朝倉についたんじゃないかな?
864 :
日本@名無史さん:04/05/15 21:46
>>862 >義景がヘボいことなんかすぐ判りそうなのにな。
見るからに馬鹿殿だったならともかく、会っただけでそんなこと判るかよw
866 :
日本@名無史さん:04/05/16 17:56
後世から見りゃ馬鹿殿でもあの当時はあれが普通ということもあろう。
みだりに他者を馬鹿・無能と言うもんじゃあないと思うよ。
書き込んでるのは若年層ですか?
それならまだ許せるが、中年以降が馬鹿だの無能だの書き込んでいるようだと・・・
867 :
日本@名無史さん:04/05/17 03:54
>>866 みんな司馬遼太郎の真似してるんだよ。
好きだったからね、あの人。愚者だの無能だのと決めつける言い方が。
義景、義昭、小早川秀秋、信長の子供たち‥‥みんな司馬によれば「愚物」。
868 :
日本@名無史さん:04/05/17 06:19
>>867 あとゲーム厨な。
たかがゲームで自分が信長クラスの戦国武将にでもなったような錯覚を抱いている馬鹿どもが
すぐに誰それは使えないだの無能だのと言い始める。
だいたい鎧兜も着用したことなけりゃ馬にも乗れねーへたればかりだろ。
本物の合戦にでもなろうものなら小便チビってふるえてる癖によw
おまけに足利義昭や朝倉義景の1/1000の教養も無いのは明白。
無能や愚者だのと聞いて呆れるわ。
なんで、そんなことで必死になってるんだ?
870 :
日本@名無史さん:04/05/18 22:11
あまりにもDQNな厨房が多いから
あまりにも図星だったからって、そんな言葉で自分を誤摩化してはいけないよ。
自分の弱さやくだらなさを正直に認め、反省するのも大切なことだからね、へたれのゲーム厨くん(w
このレスは誰へのレス?
874 :
日本@名無史さん:04/05/19 22:24
何とか言いなされ
875 :
日本@名無史さん:04/05/19 22:30
>868
俺にとっては、朝倉宗滴という猛将を紹介していただいたものなので、
一概にゲームを悪くは言えない。
しょせんは道具。
DQNが使えば、どんな便利なツールだって凶器にはやがわりすること、ハサミの如し。
876 :
日本@名無史さん:04/05/19 22:38
朝倉宗滴は何か猛将と言う感じがしない。
確かに自分で刀に血をつけたし、あの歳で陣頭指揮とってたということは
わかっていても、猛将というカテゴリーに入らんような気がする。
877 :
日本@名無史さん:04/05/19 22:56
朝倉宗滴はジジイ萌えの俺からみたらめちゃくちゃ萌える
けど北条早雲は萌えない。
やっぱり強いジジイっていうのが好きなんだなぁと思った。
878 :
日本@名無史さん:04/05/19 23:01
朝倉宗滴の実子ってどうなったの?
879 :
日本@名無史さん:04/05/20 02:31
レイテ逃走などで有名な栗田健男は今では愚将ということがはっきりしているが、
面構え、雰囲気などが只者ではない威厳があっていかにも名将然とした風貌だったので
皆だまされたらしい。
880 :
日本@名無史さん:04/05/20 13:09
>>866-868 言わんとすることは判るが、そこまで必死になるのは大人げない。
「そら豆をかじりながら英雄豪傑をこきおろす、これ天下第一の楽しみ」って
昔から言うわけだし、別にそこまで目くじら立てることもない。
それに、義景や義昭を無能といってる連中は、戦国大名や将軍として無能だと
言ってるんだろうから、現代の一般人と比較してどうする?あくまで当時の群雄
の中でどうだったかを考えないと。
もっとも無能だの馬鹿だのという連中は、感情論じゃなく根拠、考察を示して
ほしいけどね。
881 :
日本@名無史さん:04/05/20 21:50
>>880 >「そら豆をかじりながら英雄豪傑をこきおろす、これ天下第一の楽しみ」
野球中継見て「このヘボが!おまえなんかいらん!!」とか言いながらビール飲んでるオヤジと同じってことですね。
882 :
日本@名無史さん:04/05/20 22:19
寂しいことよのう・・・
>>881 そのとおりだとおもうが?
それのどこが悪いのか全くわからん
884 :
日本@名無史さん:04/05/22 11:12
その後の歴史を見ていると、北近江は人材が揃ってるから、浅井家が存続
していてそれらの人材を召抱えていたら、なかなか豪華な布陣になっていた
だろうな。
古参の海赤雨の3将、礒野丹波、遠藤直経に加え、
武官で宮部経潤、藤堂高虎、片桐且元、渡辺了
文官で増田長盛、石田三成
面白い家臣団になりそう。
885 :
日本@名無史さん:04/05/22 19:59
秀吉の領地となったからこそ世に出た人材では?
886 :
日本@名無史さん:04/05/23 18:30
増田長盛あたりは確かにそうかもな。
他のメンツは実際に家臣だったり、父親が家臣だったりするので、
浅井家が存続してれば家臣になった可能性は高い。(三成は兄がいるので
微妙だが)
887 :
日本@名無史さん:04/05/24 00:58
浅井家の雰囲気ってどうだったんだろうね?
能力があっても下級はずっと下級のまんまってイメージがあるんだが。
秀吉の下だからこそ能力相応に評価されたり奉行にまで抜擢されたんでは?
888 :
日本@名無史さん:04/05/26 18:56
浅井氏の詳細な系図ってないですかね?
889 :
日本@名無史さん:04/05/29 13:09
ググってみたら?
890 :
日本@名無史さん:04/05/29 17:25
891 :
日本@名無史さん:04/05/29 18:59
>>891 ありがとう
やはり滅亡した大名にはこの程度の系図しか
残っていないのですかねえ
朝倉氏はそれでも新史料が見つかってかなり
詳細なところまでわかるようになったようだけど
若狭武田氏の本ってありますか?教えて地元の人
894 :
日本@名無史さん:04/05/31 22:28
この間「一乗谷」に行ってきました。土曜なのに「人が少ない」。。。
復元された町を歩いていると屋敷から別の観光客が出てきて驚いたぐらいです。
もう少し注目されてもよいと思うのですが。
895 :
日本@名無史さん:04/06/01 01:40
>>894 俺が昔行った時なんてバスで乗り付けた農協のオヤジらしき連中がゾロゾロやってきて、
しかもタバコの吸い殻を一乗谷館の濠に投げ捨てる馬鹿までいやがった。
ああいうのだったら来ない方がナンボかマシ。
896 :
日本@名無史さん:04/06/03 18:00
>>894 冬場のカニ解禁の時ならそこそこ観光客いるんじゃない?
史跡マニアには面白いけど、いくら状態が良くても一般の観光客は史跡だけでは
食いつかん。
897 :
日本@名無史さん:04/06/03 21:24
義景館あたりを復元すると客足は伸びる?
898 :
日本@名無史さん:04/06/05 09:31
>>897 無理だろうな。地味すぎる。信長の安土城ですら平日は観光客なんて殆どいない。
899 :
日本@名無史さん:04/06/05 09:50
愛知県旭町で浅谷(あざかい)と
いう地区があるけど、朝倉姓がほとんど
逃げてきた末裔なんだろうな。
900 :
日本@名無史さん:04/06/05 09:51
言葉が変だった
>朝倉姓がほとんど
→住人のほとんどが朝倉姓
901 :
日本@名無史さん:04/06/05 09:54
お市は信長の実妹ではなかった!?
902 :
日本@名無史さん:04/06/05 18:31
>>899 織田の勢力圏の真ん中じゃないか。
ほんまに末裔か?
>>901 いろんな説があるようだね。
朝倉って何度もチャンスつぶしたヘタレで間違いないの?信玄の時も、姉川も、
つうかそもそも自分が上洛出来たし。
904 :
日本@名無史さん:04/06/05 23:31
ヘタレとかそういう問題ではないと思う
905 :
日本@名無史さん:04/06/06 00:13
有間皇子の子孫なのね。
906 :
日本@名無史さん:04/06/06 23:19
誰が?
907 :
日本@名無史さん:04/06/14 19:37
小谷城はサイフォン仕掛けで大吉寺から山頂の城郭まで水を運んだそうだが、
そんなことほんとに可能なんだろうか?地図上の直線でも5キロくらいあって
途中で2箇所の山越えが必要なんだが・・・・。
地元に残る逸話では、小谷攻城戦で、このサイフォン仕掛けを破壊された浅井
側は、水の手が枯れたことを悟られないよう城壁から白米を流して水が有る様に
見せかけたらしいが。
908 :
日本@名無史さん:04/06/21 08:20
>>907 白米伝説は、全国でいくつも見かけられる。おそらく昔の史書か何かに元ネタが
あって、その話を籠城した城のある地方で我が事として語り継いでいるんじゃない?
不勉強で元ネタが何かはわからないけど。
そういえば、他の全国の山城は飲料水どうしてたんだろ?
909 :
日本@名無史さん:04/06/21 09:42
思うに朝倉攻めに長政を同行させていれば何も問題なかったんじゃ?
何で連れていかなっかたんだ?
信長はどうもこういうポカが多いな。
本能寺も光秀を秀吉支援に先行させないで、京都で合流して直接、明智軍団の指揮取っていたら反乱を未然に防げたろうに。
910 :
日本@名無史さん:04/06/21 09:54
連れて行くと反対されて交渉が大変だからだろ>浅井
だからあんな奇襲的な攻め込み方したんだしさ。
だいたい後から見てえらそうに
ああすればこうすればなんていうのは後世の人間だから言えることよ。
911 :
日本@名無史さん:04/06/21 16:49
>>909 浅井を同行させることで情報が朝倉に漏れたら奇襲の意味が無くなるだろ。
まさか「長政、おまえも来いよ!」「うん、行くよ!」てな感じで、
ものの3分もあれば同行出来たとでも思っているんじゃないだろうな?
同行を要請されても準備だけで2、3日はかかるだろうし、その間に親朝倉派が朝倉に通報しちゃうよ。
912 :
日本@名無史さん:04/06/21 16:55
>>911 つうか織田は浅井が反乱予備軍だという事には気付いていたんだよな?
じゃ何で何も対策打って置かなかったんだ?
913 :
日本@名無史さん:04/06/21 16:58
朝倉攻めの味方はしないかもしれないが
完全に敵に廻るとは予想してなかったようだよ。
914 :
日本@名無史さん:04/06/22 08:26
>>913 横から失礼。浅井軍が3万を超える織田軍の退路を塞げなかったことから、
織田軍の撤退決定は、かなり早い時点で行われたと思われる。(木の芽峠で
浅井挙兵を聞いて、浅井軍が国境付近に到着するまでに朽木に抜けている)
つまり、浅井の動向把握のためかなりの数の細作を浅井領内に放っていたと
考えられるわけで、「予想もしてなかった」というのはどうかな?
915 :
日本@名無史さん:04/06/23 20:10
>>914 退却戦では織田軍にどのくらい被害が出たのかな?
もし少ないなら、或いはそうかもね。
916 :
日本@名無史さん:04/06/26 18:19
実際のところ、どれくらい被害が出たんだろう>金ヶ崎の退き口
917 :
日本@名無史さん:04/06/28 18:46
>>916 有力武将は誰も死んでないし、嶋家文書などの浅井家側の記録にも金ヶ崎退き陣の
論功などが全く載っていないので、果たして殿を務めた木下軍と浅井軍の間に戦闘
があったかどうかすら疑わしい。
もしあったとしても、若狭や朽木の山中では軍を展開するわけにもいかず、
隠れて奇襲→ひるんだ隙に逃げる→また隠れる
の繰り返し程度で負傷者含め100人規模くらいの損害ではなかったかな。
918 :
日本@名無史さん:04/06/29 17:37
むしろ朝倉軍との間に戦闘があったと考えるのが妥当ではなかろうか?
義景とか景鏡の感状が残っていないかなあ?
919 :
日本@名無史さん:04/06/29 18:29
小和田哲男に聞いてみよう
920 :
日本@名無史さん:04/06/30 01:09
921 :
日本@名無史さん:04/06/30 05:38
>>920 では誰?
まさか明智光秀とか徳川家康とか言うんじゃないだろうな‥‥
922 :
日本@名無史さん:04/06/30 14:49
家康は論外だが、木下隊だけで殿務めた訳ではない。
何の本に書かれていたか忘れたが、織田軍のうち
3隊ぐらいで殿務めたと書いてあったが。
秀吉と池田とあと誰だっけか。
924 :
日本@名無史さん:04/07/01 18:23
明智
925 :
日本@名無史さん:04/07/04 10:09
>>916 敦賀に到着した朝倉本隊との戦闘でおよそ千三百くらいの被害らしい。
>>917 浅井軍は北国街道の海津あたりを固めていたはずで、信長は朽木越えしてる
から気付いた時には通り抜けられていたと思う。もし浅井軍との間で戦闘が
あったとすれば、そのくらいの被害だろうな。
926 :
日本@名無史さん:04/07/05 01:01
金ヶ崎の退き口の後、六角との共同作戦がうまくいけば勝算はあったと
思うな。堀・樋口の寝返りも起こらなかったんじゃないかな。
927 :
日本@名無史さん:04/07/05 05:48
>>925 1300ってそれ全部戦死者?だとしたら惨敗じゃないか。
928 :
日本@名無史さん:04/07/05 11:56
城攻めの時の戦死者を含めて1300か?
929 :
日本@名無史さん:04/07/05 23:08
>>927-929 「朝倉始末記」の記述だから正確かどうかは疑わしいが、追撃戦における
戦果らしいよ。あと感状は残ってないと思うが。
931 :
日本@名無史さん:04/07/08 18:50
ふーん、朝倉軍の勝利じゃん
932 :
日本@名無史さん:04/07/10 00:27
その戦果は誇張じゃないか?
自軍の大勝利を世間に喧伝するのはよくあるし、始末記が朝倉軍の喧伝を鵜のみにしたんじゃないかと。
だいたい1300も死んでいる中に名のある武将が一人も含まれていないなんてこと普通あり得んだろ。
933 :
日本@名無史さん:04/07/10 01:10
じゃあ、姉川の合戦も似たようなものか
934 :
日本@名無史さん:04/07/14 20:22
在重とか宣政って他の朝倉一族と明らかに異質な名前だけど、系譜的にほんとに近いの?
935 :
日本@名無史さん:04/07/14 23:02
>在重・宣政
景高の系統となってるけど、景高の子の景鏡が
越前に残ってナンバー2となっていることと矛盾
しないのか?
936 :
日本@名無史さん:04/07/17 12:13
系図上は朝倉本家に近いが、彼らの経歴をみるともともと遠江にいた一族のようだ。
守護斯波氏にしたがって早くから分かれた家ではないか。
937 :
日本@名無史さん:04/07/17 13:43
反孝景派の朝倉氏ということかな。
所領はどこにあったのだろう?
今川家に臣従していたのだろうか?
938 :
日本@名無史さん:04/07/18 23:35
守護(斯波氏)に随従してきたのならば遠江内に住んでいたんだろうな。
誰か専門に調査している人いないのかな。興味あるなあ。
939 :
駿河大納言忠長:04/07/19 18:17
ていうか、浅井井頼ってホントに長政の子供なの?
井頼ってネーミングセンスが理解出来ない
941 :
駿河大納言忠長:04/07/19 18:22
本名はなんでしたっけ?一応、本名もこれなんですけどね
浅井の生き残りって他にいないんですか?
942 :
日本@名無史さん:04/07/20 01:00
浅井氏の「井○」というのは庶流に多いんじゃないか?
それより遠江朝倉氏のことが気になる。
943 :
日本@名無史さん:04/07/23 00:12
一乗谷遺跡、豪雨被害が心配です。
944 :
日本@名無史さん:04/07/23 00:20
一乗谷山城が崩れてたり・・・
浅井勝利さんは生き残りです
946 :
日本@名無史さん:04/07/30 21:35
(初歩の初歩の話で失礼)
越前守護朝倉氏は、もともとは、守護代だったんですが、
この守護代という職は、幕府の任命だったんでしょうか(幕府の正式役職)。
あるいは、守護が自分の家来の中から任命したんでしょうか。
947 :
日本@名無史さん:04/07/30 22:09
あさいと読むんでしょうか、あざいと読むんでしょうか。
地元の浅井郡はアザイと読むようなんですが。
どういう訳でしょう。
さてと、実は京極氏は、浅井三代のときも以前として守護(半国守護)ですが、
浅井は形式上は、守護代だったんでしょうか。
これって、鎌倉幕府が将軍が名目化して、
実権が執権に移ったような、そんな感じなんでしょうか。
948 :
日本@名無史さん:04/07/31 08:37
>>946 守護代は守護が任命する。
というかもともと幕府の公的な役職ではない。
あくまでも守護の個人的な役職。
949 :
日本@名無史さん:04/07/31 15:27
信長の野望だと浅井も朝倉もすぐ滅びるよ!
950 :
日本@名無史さん:04/07/31 19:50
次スレ立てますか?
951 :
日本@名無史さん:04/08/01 10:26
もう、いいんじゃない。
952 :
日本@名無史さん:04/08/01 11:51
浅井長政は人気者♪
953 :
日本@名無史さん:04/08/10 23:46
旗本に朝倉氏って結構いるようだけど
詳しいことわかる人います?
954 :
日本@名無史さん:04/08/13 22:33
955 :
日本@名無史さん:04/08/31 00:50
一乗谷は台風の影響は無いだろうか、心配だ
956 :
日本@名無史さん:04/09/15 19:39:32
朝倉義景のおっかさんは若狭武田の出身だと思うけど
若狭武田直系の出なの?
957 :
日本@名無史さん:04/09/15 20:23:57
旗本人名辞典でも読んでみて、図書館にあるから。
朝倉氏の子孫も傍系ながら旗本になってます。
958 :
日本@名無史さん:04/09/15 23:17:40
傍系ってどんな系図なんだろ
959 :
日本@名無史さん:04/09/17 19:42:59
浅井氏の傍系は旗本にならなかったの?
960 :
日本@名無史さん:04/09/19 00:30:20
前田や豊臣に仕えたのならいるけど、旗本っていたっけ?
一番有名どころは浅井高政ー政高ー長時(田宮丸)ーあぼーんの家系か?
961 :
日本@名無史さん:04/09/19 00:48:09
淀殿の従兄弟にあたる浅井長房は大坂の陣に参加したね。
962 :
日本@名無史さん:04/09/19 20:05:23
浅井長房ってどういう系譜の人ですか?
>>946 有力守護家の場合将軍の口入れなんかもあったです。
武衛家も他聞に漏れず将軍による守護代人事介入があったわけでして、
筆頭の甲斐家などは将軍家の介入を大いに利用して主家斯波を凌ぐ勢力にのし上がっていくわけです。
将軍を私邸に招くなども示威行為の一環すね。
ちなみに朝倉家は甲斐のやり方をさらに発展させて、
「 朝 倉 は 斯 波 の 家 臣 で は な か っ た ! 」
と言い出すわけです(笑
>>958 朝倉政景かな。
964 :
日本@名無史さん:04/09/29 03:07:06
結局、斯波氏の息子を名目上の国主にしてことは収まったんでしょ
その子、その後、どーしたんだろうねえ?
965 :
日本@名無史さん:04/10/09 11:25:59
俺、浅井って苗字だから浅井家縁の血筋なんだろーな、読み方は「あざい」。
966 :
日本@名無史さん:04/10/10 00:01:51
>>964 その子孫が鞍谷御所とか大野三河とかじゃないの?
967 :
日本@名無史さん:04/10/11 23:02:50
鞍谷は東北から来た斯波氏の一門じゃないの?
大野三河はよくわからない
968 :
日本@名無史さん:04/10/11 23:15:21
アタクシ本籍滋賀県東浅井郡浅井町大字○○なんでつが
川渡ってちょと逝ったら小谷城。 思たよりショボイ(´・ω・`)
国盗り物語だっけか、ちょと大げさかなと思た。
住んだことナイからよく知らんが。。
>>965 おいらもアザイって読む。
浅井方ーー、寝返りうって、背中で泣いている....
あーあーあー、あーあーあー、ああーあーあー
970 :
日本@名無史さん:04/10/12 18:42:01
>>968 いや、実際凄いよ。オレは何度も登ったが、U字型の尾根にびっしりと城塞
を並べた堂々たる山城(小規模の土塁やバンカーを含めると凄い数)で、
五大山城に数えられるだけの事はあると思った。
ちなみに読みは「アザイ」だね。史書の中にはカタカナで記載してるものも
あるし。
971 :
日本@名無史さん:04/10/12 21:22:35
遠江朝倉もそうだけど
小田原北条ンちにいる朝倉は一体・・・
一乗谷かぁ。
あの武家屋敷ができる前は、よく犬を放って遊んだもんだ。
できててからは、よく夜中に進入したなぁ。
酒も飲んだし、当時の彼女やナンパした(ry
ちゃんと散らかさずに帰ったからね!
972 :
日本@名無史さん:04/10/18 10:03:25
>>959 亀レスだが、浅井政高−政澄−政重−政候の家系は旗本になったはず。
政重の時に豊臣秀保(秀長の子)に仕えて、主家断絶一時浪人後に徳川
家に出仕した。大阪の陣にも参陣してたんじゃなかったか?
973 :
日本@名無史さん:04/10/19 15:51:57
>浅井政高−政澄−政重−政候の家系
本当に近江浅井氏の傍系なんでしょうか?
974 :
日本@名無史さん:04/10/19 16:49:24
>>973 ごめん間違えた。政高じゃなくて「政信」ね。大和守を名乗る歴とした
江北浅井一族。(本家との関係は不明。)
子の政澄は姉川の合戦で磯野員昌に続く第二陣を受け持っている重臣で、
長政が平井の娘との離縁をまず相談したのも遠藤喜右衛門と浅井玄蕃こと
政澄と言われている。
975 :
日本@名無史さん:04/10/21 22:43:30
結局、織田氏に寝返って存続したのか?>政澄
教えて、偉い人
976 :
日本@名無史さん:04/10/24 17:32:41
>>975 正直、よく分かんない。
・永禄年中、赤母衣衆の一人に選ばれた(高木文書)
・永禄11年、上洛の途上、木下秀吉らとともに箕作城を攻め陥す(公記)
という記載がある一方、
>>972のような系図(重修譜)や姉川合戦の第二
陣を務めたという説もあるわけで・・・。
永禄年間に赤母衣衆になっていたら浅井家の第二陣を務めるはずもなく、
同名の武将が2人いた可能性もあるな。(赤母衣衆の政澄には、他にも
「政貞」「正高」「賢政」などの名が残っており、同盟を結んだ浅井家
の重臣に同名の政澄がいたので、遠慮して改名したとも考えられる。)
977 :
日本@名無史さん:04/10/24 22:16:00
尾張の浅井氏じゃないの?
979 :
日本@名無史さん:04/10/28 16:29:27
次スレ立てましょうか?
980 :
日本@名無史さん:04/10/28 16:37:10
旗本の浅井氏は何家かあって近江が本国の家もあるけれど家紋が違ってたり
するから子孫の人にきかなければわからないじゃないかな?
>>962 亀レスすまそ。浅井長房は従兄弟説と3男説があって不明です。陣後の消息
も不明です。
982 :
日本@名無史さん:04/10/29 22:39:54
こっちも埋めときますか。
984 :
さわだけんじ:04/10/30 13:21:52
あさいがたねがえりうぅって
あんたそればっか
あざい
987 :
日本@名無史さん:04/10/31 16:04:17
うざい
988 :
日本@名無史さん:04/10/31 23:12:27
うだい
989 :
日本@名無史さん:04/10/31 23:32:20
にかう
990 :
984:04/11/01 21:14:44
>>985 だって梅モードだしねぇ
ところで、次スレの方が下にいるよ。
このままじゃ即死するよ。
991 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:36:04
埋め立て開始〜っ!
992 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:40:31
992
993 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:42:36
993
994 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:44:25
994
995 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:47:02
次スレでは朝倉家再興計画について語って欲しい
996 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:48:25
996
997 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:49:35
997
1000?
999 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:50:10
998
1000 :
日本@名無史さん:04/11/01 21:50:36
1000!
1001 :
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