>「どマイナー」は「どマイナー」でもエオリアじゃなくロクリア、そしてずっと七度が外されてて、最>後の「今日もいい天気♪」では「どメイジャー」イオニア(フリギア?)になっている。(あってるか>心配・・・)
「どマイナーサザエさん」は、いわゆるメロディックマイナーで、
ロクリアンマイナーは減5度を含むブルージーでファンキー(昔のいみ)なものになるんじゃないかにゃ?
メロディックマイナーは、長調と同様の導音(主音からみて長7度)を導入し、
このとき現れた、第6音と第7音の、
旋律構成上あまり好ましいとはいえない短3度を除くため、上行については第6音を半音あげてできたものにゃ。
つまり上行についていえば、長調からみて変化しているところは短3度だけにゃ。
> で、主要三和音の機能が保存されているのみならず、「今日も〜」が
>メジャースケールなのに「もっとマイナー」に聞こえたんですけど、
>私だけでしょうか?
たぶん、最後のトニックコードをメジャーにして、何度か聴けば、そういう錯覚は消えると思われるにゃ。
「今日もいい天気」の部分の、ドミナント(G)投射内に、ダブルドミナント(D7)が挿入されており、
[G7-D7-G7-Cm]は、[D[T-D-T]-T]と書けるかもしれないにゃ。(知らんけど)
新作『POP君が代』アップしたにゃ。
新スレおめ
音楽板のほうが論客がいるかもにゃー 知らんけどにゃー
http://music3.2ch.net/test/read.cgi/music/1045867834/l50 67 :名も無き音楽論客 :03/03/11 19:05 ID:???
それよか、無調なのがよっぽどおかしい。。
なんかCなんだかDmなんだか。。
最後の部分もとってつけたようだし・・・だれか西洋の音楽理論に基づいて
説明してくれんかなぁ。
68 :名も無き音楽論客 :03/03/11 19:37 ID:???
どうしていきなり無調になっちまうかなあ。
たしかにCでもDmでもないかしらんが
れっきとしたDを核音とする雅楽の律旋なんだから
いくらなんでも無調に聴こえるようでは耳が曲がってる
としか言いようがない。
強引に西洋理論に当てはめればDドリアンに近い
と思えばそれほど間違ってはいないだろう。
虚無しゃんの降臨はあるのかw
すごいスレだ・・・感動。スレタイもイイ!
ところで第2作拝聴しますたにゃ。「君に胸キュソ(はーと」となってしまい、虚無せんせが
もごりこませた政治的を誤解してしまったかもしれないですにゃが・・・
「壱越調(いちこつちょう)」は友人の尺八奏者(世をしのぶ仮の姿はマルクス全集のセールスマン)
にレクチャーを受けたのですにゃが、ちっとも覚えてないですにゃ。でもサイトのエセーで
なんとなく理解できましたにゃ。「終止感は文化相対的」という話、以前も意味論スレでうかがい
ましたにゃ。>4のカオモジせんせのハリコは「君が代」に関するものでしょうかにゃ?
私の耳は曲がってなさそうで、ちょっとほっとしましたにゃ
細く、長く、またーりとゆかれることを。
>>2 >ロクリアンマイナーは減5度を含むブルージーでファンキー(昔のいみ)なもの
ロクリアンは完全五度を含んでませんかにゃ?と思ったら、コードを充てるとCm7-5でつね。
これじゃあSazae-san'd be so nice to come home toになっちゃいますね。失礼。
原曲のサザエさんがIonianに-5と+5を含むちょっとジャジーなスケール
(「みんなが笑ってるー」のところから)が入っていて、一部Mona Lisaのように
なってる(発想が貧困でスマソですにゃ)、この部分は同じく-5と+5を含んでまつよね。
これがblue noteとして機能していて、ラリー・コリエルがたしか「ジャズスケール」と
呼んでいるものに近いものに(部分的に)なっている気がしますたにゃ。でも
>メロディックマイナー
にゃるほどー 3度の音しかかわってないんでつね。それであんなに印象が変わるのはびっくり
ですにゃ。次と関係しますにゃが:
>つまり上行についていえば、長調からみて変化しているところは短3度だけにゃ。
>>で、主要三和音の機能が保存されているのみならず、「今日も〜」が
>>メジャースケールなのに「もっとマイナー」に聞こえたんですけど、
>>私だけでしょうか?
>たぶん、最後のトニックコードをメジャーにして、何度か聴けば、そういう錯覚は消えると思われるにゃ。
まだ錯覚がきえにゃい・・・しかしminimalな置換であれだけかわるものなんですねー
しかし、「悲哀感」とかそういったものはやはり「意味の層」に属さないものなのでしょうか。
(まだつづく)
>「今日もいい天気」の部分の、ドミナント(G)投射内に、ダブルドミナント(D7)が挿入されており、
>[G7-D7-G7-Cm]は、[D[T-D-T]-T]と書けるかもしれないにゃ。(知らんけど)
虚無せんせのアレンジと違いますけど、私は[Dm7-5 - G7 - Cm]のジャズ的なII-Vを含む
...D-T/D-T]が自然かと思って、これも終止感が学習による獲得の傍証?
レス、ありがとうございますたにゃ(ぺこり
>>3 その本、邦訳もでてません?本屋で見かけた気が(勘違いかもしれません)。
認知心理学では音楽の諸側面をいろいろなアプローチでやっていますにゃ。
絶対音感というようなものから、楽曲としての適格性に関するものまで、いろいろあり、
一定のformalizationも行われていますにゃ。というかkyom-labo(wサイトでのessayに
あるように、楽典とは程度の差はあれ数理的基盤をもって書かれるものなのだと思いますにゃ。
ピタゴラスのことや、古代ギリシアにおける修学上の数学と音楽の関係なども参照。
数学板でも楽理のスレがあったと思いますにゃ。見つけ直したら書きますにゃ。
ちょっと書きすぎましたにゃ・・・
9 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/16 11:35
なんだこのスレは?
おにいちゃんハァハァしちゃうよ。
10しゃん、教えていただいたところで草稿を一つダウンロードしますたにゃ。感謝!
(8は撤回しまつ)
なんかMazzolaせんせ、jazz pianistでもある人なんですねー すげーメンにゃ!
落とした論文にはイェルムスレウのプロレゴメナやレルダル&ジャッケンドフのGTTM、
さらにはバルトなどにも言及があり、読んでみたいです(数学の部分はわかんないと思いますにゃが)
>>3の本もかいたいにゃー(お金がないけど)
細く、長く、またーりいきますにゃ。
てゆーか、最近ほんとうに遅筆になっちゃってて、生成スレの速さにはついていけないにゃ…。
>>4わざわざ乙。「降臨」はないにゃ。(たぶん)
>>5「文化相対性」のハナシだけど、これも言ったかもしれないけど、
音声学的にidenticalな母音でも、認知された音は母語によってバイアスでるにゃん。
で、平均律で演奏した雅楽の音階って、けっきょく「人工言語」になるわけにゃん。
そうでなくても、心的にも平均律的に再解釈するしかないわけですかにゃ、「平均律の世界の住人」としては。
さらにその平均律のなかでも相対性が発生してるのかにゃ。わけわからんにゃ…
最近どの調律が快いか、っていう実験に関する記事を読んで、
「訓練された耳」のひとと、「一般人」みたいな比較実験になってたと思うけど、
(平均律にいい結果がでたにゃ。)
これだけ商業音楽にとりかこまれていると、感性にも変化でるにゃ。(たぶん)
あ、今日は「サザエさん」の日?
なんかエンディングも「どマイナー」にしてほしいと首相がおっしゃってたので、録音するにゃ…。
とにかくわたしのレスは遅いので、あまり期待せずに待っててにゃ。ではまたにゃんノシ(つづく)
>15 ドモm(_ _)m
わたしがはじめて和声問題に口出しした「音の心理学」スレ、残ってたにゃ…
(このころと比較して、いまぜんぜん進歩してないにゃ…)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1008107945/l50 ただここいがいに「絶対音感」を問題にしたスレがあって、
そこでたぶん同じ人間が、平均律が完全に人工言語で、なんでもありみたいなことを言っていたように思うにゃ。
>>6 "You'be all that I could desire"の"I"のところが、第5音フラットになってますにゃ。
ただいっぱんに、ダブルドミナントにメジャーコードを用いる場合、
第5音の導音として、フラット第5音は必然的に現れるにゃ。
これは必ずしも、ブルージーというわけではなく、
つまりあるしゅの禁止制約の違反、ってかんじがブルースっぽさの起源かもしれないにゃ。
ちょっとしばらく書き込めないにゃ。紹介してもらった文献、けっこう難しいにゃ…
虚無せんせ、ありがとございます。
>ただいっぱんに、ダブルドミナントにメジャーコードを用いる場合、
>第5音の導音として、フラット第5音は必然的に現れるにゃ。
にゃるほど・・・φ(._.)めもめも
今日、たぶん十年ぶりぐらいにサザエさんを見ますたにゃ(後ろだけ)
もしかすると「今日は楽しい×2」のところ、単純にAじゃなく、Amaj7からDフラpassing diminish、あるいは
Aフラットdom7が繋ぎになってDmaj7へ、そしてE7->Aとかになってんのかにゃ?とか
ちょっとひねってありそうでびっくりしますた(いや、これもちょっと違ってる可能性大でつにゃ)
生成文法総合スレで虚無せんせが言っていた和声のX'構造を私なりに敷衍してみましたにゃ。
ポイントは
・根音が主要部
・minorかmajorかを決定する三度が指定部
・五度は補部(五度抜きはintransitive)
例としてCの構造を表すと(ここでラベル'c'は「コード」を示唆)
[cp SPEC:E [c' HEAD:C COMP:G]]
五度抜き:
[cp SPEC:E [c' HEAD:C]]
三度抜き(投射が閉じていない):
[c' HEAD:C COMP:G]
即座にlinearityは?closed chordとopen chordの違いは?などの問が生まれますが
ペンディングですにゃ。
bare phrase structureでやると、主要部が照合を必要とする素性をもって
計算体系に投入され、表すとすれば
C{0/-3}
でしょうかにゃ。そして三度音程の要素が主要部の未照合素性を照合し、投射を
閉じた時には
[E{03}[C{--}]]
のようになる。Eに着目すると、それ自身のstatusを示す素性がEという範疇との間に余剰性を
持つことになるので、素性の順序列としてもっとうまい表し方はきっとあるでしょうにゃー
20 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/17 17:05
音楽なんてものはフィーリングなんだYO!
論理は全て後付けに過ぎないYO!
21 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/17 17:10
例えばね、漏れなんかメロディーラインと伴奏のコード進行が違ってる曲とか作っちゃうんだけど、ケッコー聞けるもんよ。
演歌ラインに今風の伴奏つけようとするとそうならざるを得ないんだけどね。
あとね、あとね、アニソン。
あれもケッコーメロディーと伴奏が食い違ってるもんよ。
それがまたアニソンチックなんだけれどもね。
22 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/17 17:13
そもそもセブンスだのナインスだのシックススだのちゅーコード自体が
メロディーと伴奏の食い違いから生じてきたものなんだけれどもね。
現代音楽においてコード進行は二重三重に行われてるものなのよ。
まあ、結局は作曲者のフィーリング次第なんだYO!
>>19 こさかな先生が、本格的な言語ギャグびとになってきてうれしいかぎりにゃ。
わたしは、第1転回はrootが完全5度をとびこえて主要部移動して構成されるというのが念頭にあって、
あんまりいみもなくspecに5度をもってきたけど、spec3度のほうがよさげですにゃ。
生成のアナロジーを用いると、C majと解釈される音があって、構造をみるとrootのCと長3度を再確認し
て、
(あるいは空範疇まで導入して)「やっぱりC majでしたー」ということになりがちにゃ。
ここのところが、生成による(言語構造の)説明がほんとうに説明なのか、わかんなくなるところなんだ
けど、
まあ、いまはアナロジーじたいが完成されてない状態なので、とりあえず批判はおいとくにゃ。
和声生成ギャグにおいては、機能和声の構造を扱うのであるから、解釈として、最終的にはT,S,Dを出力するようなかたちをとることになると思うにゃ。
すると、Eの自己言及的な素性についても、機能解釈の表示形に反映されるものかもしれないにゃ。
(ワカランけど)
わたしの予想としては、和声の「組み合わせ」を統合する部門と、
voicing(和声の順列・転回)に関する制約をチェックする部門は自律させ、
前者の情報が後者にうけわたされるとみたほうがいいと思うにゃ。
前者に関する制約としては、和声を「音の組み合わせ」として1オクターブ内に配置したとき、
「半音の連続があってはならない」という、かなり強い制約があるにゃ。(古典和声と、標準的ジャズ共通)
F,GがあるときF#は付加することができないし、すでにB,CがあるときC#は排除されるにゃ。
(具体的には、C7(maj7)やC7-9(9)などが排除されるにゃ。)
このような制約と、古典和声において導音が重複できないとか、
G7(13)は、7th(ファ)より13th(ミ)のほうが高い位置になければならないとかいう制約は、
voicingにかかわるものではないかにゃ。(ひょっとしたら、ドミナントのrootの省略もこの部門)
(つまり楽譜情報としては存在しないかもしれないrootは、基底生成では存在できることになるにゃ。)
まあ、こんなかんじで、なんか語っていくにゃ。言語ギャグマンセー。じゃにゃーノシ
「本格的な言語ギャグびと」と言っていただき、小踊りして
よろこみますたにゃが、はたと、「これで娑婆にもどれるのだろーか」
という不安がよぎりますたにゃ…
和声の「組み合わせ」とvoicingがそれぞれ自律せられるべき、という
考えは完全同意ですにゃ。
というか、音韻論からのアナロジーで、音節構造とか音調構造とかがそれぞれ自律していて、timing slotで結びつけられるようなものかにゃー、とかバクゼンとおもっていますたにゃが、
voicingの性質を考えると、同化のような感じで、例えばfeature geometryにおいて、前接素性がdelinkされ、そこに後続和声のたとえば根音がlinkされるようなイメージを描いていますた。
けど、T,S,Dを定義するような構造を目指すと、これはあまりにも局所的な処理杉ですにゃ。
自律的なより大きめの構造があり、そことの情報の受け渡し、特にこの「情報の受け渡し(あるいは共有)」というのがHPSGとの相性がよさげですにゃ。
前のカキコはちょっと暴走気味で、てきとーだったかにゃ、と反省してますにゃ。
和声生成ギャグがネタとして成立するには、あくまで厳密、正確でなければならない、と褌を締め直す次第ですにゃ。
まず、アナロジーを追求するほうこうでこの若い領域にいくばくかの寄与ができるよう、アイディアを出していきますにゃ。
アナロジー:空範疇
すでに虚無せんせが示唆している基底生成された根音が派生のある段階で知覚に関わる(実際には「あたかも存在するように」処理されるという点では
不正確ないいかたですが、物理的に耳に届かない、という意味で)素性がはぎ取られる、というようなものが「空範疇」と言えますにゃ。
もう一つ考えられる「空範疇」、こちらは考えつきやすいものですにゃが、休符です
にゃ。これはリズムという観点では隙間無いものですにゃが、旋律という観点では空になっているものですにゃ。
メロディが途切れたところでもリズムセクションは音を紡ぎだしてるわけですし、ギターのカッティングではミュートする場所で異なる音色が積極的な意味を持つ、というでもありますし、そう単純ではないでしょうけど、
ある水準の「理想化」においては「空」といえるものです
(このような事情で、生成文法が行う「理想化」を不可能とするのと同様の判断も出てき得ますにゃ)。
ジム・ホールのギターでは、少ない音でヴォイシングを行うとき、この空範疇を積極的に活用している(あ、すでにてきとー。いかん…)
空範疇にはどのようなものがあるか、そしてその過不足無い特徴付けとはいかなるものか、ということの追求が大事になりますにゃが、そこでやはり次を考えたい誘惑にかられるので
ありますにゃ。
空範疇原理
空範疇は統率を受けなければならない
統率→適正統率
ま、糞アナロジーであることを最初に断っておくにゃが、適正統率には主要部統率と先行詞統率の2種類がある、
ってな選言性を回避するために、一時、主要部統率はPF条件、先行詞統率は(たぶん局所束縛と統合されるべき)
LF条件、という見方もあったにゃ。
主要部統率は、いってみればその空範疇の存在が自然に理解されるような主要部の存在を要求するものであり、
先行詞統率は、空範疇の解釈を定める先行詞が近くになければならない、というようなもんにゃ。
音楽の空範疇に2種類あるにゃら、それぞれ上のような条件で出現する、と期待してみるのも面白いかもにゃ、
知らんけどにゃー
親切な方wありがとうございますたm(_ _)m
強引に穴路地を続けると、和声の基本的骨格に関するものについては適正統率のうち主要部統率が比較的ぴったり収まり、教えていただいたPF条件説でいけそうな気もしますにゃ。
休符については主要部統率も先行詞統率もあてはまらない気がしますが、よくわかりませんにゃ。
「空ピック規約」「カスタネット手のひら返し規約」などを個々に規定するという手もありますにゃが、これは「理想化」を経験科学のまっとうなやり方と認めないスタンスでの話になりそうですにゃ。
先行詞統率は?という方から考えると、転回形における根音主要部移動(a la 虚無せんせ)を仮定すると、その規制に関わるかもしれないですにゃ。
ただしvoicingは別立ての自律構造を持つ、とすれば別ですにゃが。
どうも、書き込みを怠って申し訳ないのだが、
混乱した着想がいろいろあって、そのいちぶは原理的なチョムスキー批判とからんでおり、
なかなか適宜なレスとして「作文」することが難しいのにゃ。
まず、このスレは、いきなりトライアドの構成と投射のアナロジーの考察からはじまっており、
ここでは平均律と3度基盤の和声構成を前提とすることから、
(古典和声が、任意の転調を対称的にあつかっているかぎり、平均律を前提としているとみなすにゃ。)
かなり限定的な<音楽>を問題としていることをことわっておくにゃ。
これは、いぜん意味論スレで問題にしたような、ヒトにとっての普遍的な音階成立の議論とは、
ちょっと射程がぜんぜん違うのにゃ。
(どのくらい限定的かというと、
ヨーロッパの離島のとある方言の特異な格表示にかかわる考察、くらいと思ってもらってもさしつかえないにゃ。)
たとえば3度基盤和声については、ヨーロッパで(協和音程として)成立したのが14cごろ、
平均律がいつ一般的になってのかという問題は難しいけど、(一般的なのか?という問題ももちろんあるにゃ)
きわめて近代的(18c以降)なのはたしかにゃ。
だがしかし、ここではしばらく、わたしたちになじみ深い「和声音楽」の記述的な問題にふれようと思うにゃ。
>あくまで厳密、正確でなければならない
そ…そうなのかにゃ(汗
rootを空範疇とするさいに、virtual pitchについてふれておいたほうがいいと思うんだけど、
有名な音叉によるうなりが「聞こえる」問題についてはいいとして、missing fundamentals(実際には存在しない基音)については、
じっさいの編曲やパイプオルガンの設計にも応用される、実用的な「幻聴」だということにゃ。
で、注意しないと、機能上省略される基音と、認知上の錯覚を応用した省略とが混同されることになるが、
ここでは物理的にも認知的にも「存在しない」基音(前者)について、空範疇として扱うということでいいのではないかにゃ。
どうせここでは平均律の問題にしちゃったので、まえに「音の心理」スレに書いたように、
ドミナント機能の源泉は減5度(物理的には、√2音程)を構成する対称的な2音(たとえばファとシ)にあり、
非対称的な3度に進行して(対象性が崩壊して)解決するという見解を検証してみようと思うにゃ。
この見解の根拠として、ドミナントのrootが省略可能であることと、
減5度上(下)の7thがいわゆる代理コードとして使われることがあるにゃ。
トライアドx-bar thoryについては新しい構想もあるけど、またこんどにゃ。じゃにゃんノシ
せっかく、(´∀`)のセンセに発言してもらったので、ひとこと言わせてもらうと
わたしのネタ音楽(プラス、ちょいロックギター)路線の源流は、よく考えると森t(以下ry)…
それはどうでもよくて、古典和声における強力な制約のひとつである(1)平行5度禁止
(声部が「ドレミ」と動いているときに、5度うえでパラレルに「ソラシ」と動いてはいけない)
おなじく強力な制約で、(2)和声がドミナントからサブドミナントに移行してはいけない(ハ長調のときに、G→Fはダメ)、
(3)転調を目的としないのに、やたら長調でトニックやサブドミナントに7thを加えてはいけない、
これらの禁止則を、故意に(特徴的に)すべて違反すると、「ロケンロール」様の曲調になるにゃ。
もうひとつ例をあげれば、初期の和声音楽は、おなじ旋律を5度上で歌う2声部からなるもので、
これは(1)平行5度禁止の違反の実践「そのもの」であるといえるにゃ。
さてここからなにが推論(妄想)できるか、確かなことはいえないのだが、和声規則が生得性とあんまし関係ないとしても、
それはある時期に「平行5度ハ、コレヲ禁止ス」みたいにして制度化される性質のものではないにゃ。
上のほうで、「理論はあとづけ」という「ご批判」をいただいたけど、これははからずも、
理論(規範化)に先立って、心的な和声判断が実在するのではないかという、じつにこのスレに沿った発言でもあるのにゃ。
とはいえ平行5度禁止について、
それについての心的なパラメタを想定して、それがONになったりOFFになったりする説明は、ずいぶん非生産的にみえるにゃ。
ハナシは飛躍するけど、とりあえず文法と音楽理論がアナロジーになるとして、
ある制約の違反そのものから、別の個別文法の特徴が導かれるとしたら、
やっぱし、記述的な制約はただ「いろいろな文法がある」ことのみを示し、
それ以上の(普遍性を推定する)推論は強引な気がするにゃ。(普遍性については冷めた見方も多いのかもしれないけど)
わたしが思いつくUG実在の経験的証拠は、昔どこかででた、語学能力に関するサヴァンが、
特定の人工言語の習得に困難を示したというものだが、チョムスキー理論の現行の方法論は、
この比較的有力なUG実在の根拠をフォローするものには全然なってないというのが、わたしの見方にゃ(あえて)
まえ、そもそも導音のない(半音intervalを含まない)ペンタトニックが古典和声風に解釈されたことが
ひとつの要因となって、cadence(終止へむかう和声の動き)に変化が生じたことは言ったっけにゃ?
ぶっちゃけ導音(゚听)イラネ どころか、終止音(ド)がドミナントコードで先取りされ、
(コード的にはF on G など)
トップノートが「ド-ド-ド」でも一定の終止感がえられているというのが、現在の大衆音楽での現状にゃ。
導音がないばあいは、ドミナントrootの省略はないので、(ドミナントを特徴づけるものが何もなくなってしまうにゃ)
まあこのあたり、無理やりこじつければpro-drop言語の扱いと似たものとなるにゃ。
どっちみちここでのアナロジーってこのていどでいいと思うので、(´∀`)のセンセもまたきて下さいにゃ。
>空範疇の存在が自然に理解されるような主要部の存在を要求する
は、有効な assumptionではないかにゃ。
『言語ギャグサイト』に、いくつかのcadenceの例をあげたにゃ。
ぶにゃー、疲れたにゃ…
juzzy → jazzy
森tのバスターズ・ブルースみたいでいいにゃ
「♪やっぱ出ったぁーん」
虚無好きせんせ、cadenceのサンプルのうp、お疲れさまですた。
「どどど終始」(「どしど」のほうでしたか?)の話は以前意味論スレのほうでもうかがいますたが、改めて納得です。
おまけの"juzzy"な半音進行は、II-Vの連続(II-V=II-V)の真ん中を代理コードで置き換えたもの、と思ってましたにゃが、その逆で半音進行の真ん中を代理コードで、という風にも解釈できるのかにゃーと思いますたにゃ。
私も異常な遅筆でつにゃ。またーりおながいしまつにゃ。特にレスとか気になさらず(こさかな@前座ですにゃ)。
「厳密、正確」はまじめさの装いをしたギャグですたが、私のギャグはいつも寒いのでつにゃ(涙
"juzzy"のほうはですにゃ。
えーと、Dm9-G7(-9)(-13)-D on Cで(ふつうのツーファイブ)、代理とは直接関係なかったのにゃ。
混乱させちゃったかにゃ…
(ギャグわかんなくてスマソ。ギャグ者として反省しますにゃ。)
ところで、わたしもローマ数字使いたいんだけど、昔マカーのひとたちから機種依存とかで評判が悪くてにゃ…
いまはどうなってんのかにゃ??
U-X←ツーファイブ
森tネタでなんかやろうかにゃ…
>39 ローマ数字
Palm搭載機では読めてますにゃ(意味ないですにゃが)
嫁ねえよ、ゴルァ、にゃん
"juzzy"はひょっとして深い意味があったのかにゃ、たいへん失礼しますたにゃ
まとまりのない思いつきパピコでつ。えー、すでに虚無せんせが言ってる(とおもわれる)ことの繰り返しから…
和声の「文法学」というものを、しかもそれはformal scienceとして追求しようというとき、formalizeしようとするfactsは何か。
それを「終止感」という、カデンツの適格性判断に関わるintuitionだ、としましょう。
…と自分の頭を整理してみたところ、「ん?このような話、どっかで聞いたことあるぞ」と思ったら、かつて國語學(今は日本語学と言わないといけないかにゃ)の究極の課題であった「陳述」とのべ方がにてますたにゃ(あくまで表層的な言い回しですけどにゃ)
かつて國語學では、「終止する言語単位が「文」であるが、ではこの「終止する」とはなんぞや?」ということを至上設問としていたのですにゃ。
そこで「終止させる」何かということで「陳述」という仮説構築物が立てられ、その本質論として「陳述論」なるものがあったのですにゃ。
(尾上圭介せんせによると、もともと山田孝夫(もちろん、「笑点」の座布団配りではない)は「陳述」をよく定義されたタームではなく「終止」とおんなじぐらいの意味でしか使ってなかった、ということを指摘してますにゃが)
「陳述論」はまあ不毛な議論で、ここでのアナロジーに使えるような(茶化すに値するような)ものではないのですにゃが、文とは平叙文もあれば疑問文、命令文もあり、さらには一語文や「あ!」のようなものもあるが、かかる多様性においてある構成体を
「等しく」終止せしめる源泉は何か、と問い、それを山田せんせはヴントの心理学の影響化で「統覚作用」という心理的作用に求めたのですにゃ。
平叙、疑問などなど、意味に関わるような内実が多様である中、それとは自律した、まとめあげる精神作用を考えたのですにゃ。
しかしその後の「陳述論」は(陳述論は一応構文論の要とされていたのですにゃが)平叙の職能、疑問の職能、といったものを陳述のほうへ含める方向へ
移行していき、それは主語や目的語を述語とともにまとめ上げる「統叙」と区別される(時枝から渡辺へ)ものと考えられるようになったのですにゃ。(つづく)
ここで改めて山田文法論を非常に乱暴にまとめてしまうと、「漏れが統覚作用によってまとめちゃった、故に文」とさえ言っちゃっていいようなものですにゃ。
これは「終止、ゆえに終止」というトートロジーになってしまう恐れがあるのですにゃが、非常に注意深く循環論を避ければ意味あることかもにゃー、と思う次第ですにゃ。虚無ラボの終止形の多様な例を見ると一層、ですにゃ。
"juzzy"はやぱーりdouble quatation markなしでは使えないものだとおもはれ、ですにゃ。たぶん…
45 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/05/22 00:25
下がりすぎだYO!
もうちょっと誇りもってもいいYO!
ジャズはやっぱりWalking Bassだね!歩く低音!カコイイYO!
>45
だね。で、ブルーズはやっぱりSLハーモニカだね。
作曲活動ははかどってんのかYO!
新ネタうpしたにゃ…
こさかな先生、いつも示唆深いコメントありがとにゃ。
それがないと、ただのへっぽこ音楽理論スレ@言語板になっちゃいにゃ。
またレスするにゃ。ではまたにゃん。
虚無せんせ、うpおつかれさまですた。stepwiseですごく勉強になりますた。(Xsus4->Xは目から鱗ですた、大きな声でいえませんにゃが)素敵…
step by step のザ・〜ってのが森tネタのつもりでつか、そうでつかw
【ザ・レス】(極東バージョン)
楽曲を「陳述」のアナロジーでとらえるさいに、
(このスレではともかく、常識的にいえばかなり突飛な類比なので、
なんらかの「心的統合」として楽曲をとらえるとしてだにゃ。)
ひとつ問題になるのは、音楽の<循環性>であると思うにゃ。
cadence でターゲットになる終止は、おおくのばあい「始発記号」(トニック)と相似であるし、
(いわゆる「循環コード」についてな、必ずしもトニックをターゲットにしない)
いっぽう、リズムに関しては、さらに単純なかたちでの循環性が見込まれるように思われるにゃ。
拍数にかかわらず、小節のgroupingは、4,8,16の数を基本とすることが多く、
このような経験的なデータがあると、バイナリ構造はかなり説得力をもつものになるにゃ。
(それに比較して、自然言語のバイナリ構造については、たんに単純性からの要請による憶測が働いている気がするにゃ。)
で、わたしの予想によれば、自然言語の線形産出について考えてみると、
いかにspell-outが循環的に考えられていようとも、循環そのものが本質ではないにゃ。情報が尽きればそこで終わりにゃ。
で、音楽では事情が違うのではないかにゃと。
(とくに和声進行では)結果的にできあがるものが有限であろうが無限であろうが、全体をSとおいて、
記号変換規則によって生成できることは「説明的」ではあるが、なんとなく本質的ではない気がするにゃ。
自然言語が、連鎖的・階層的に可能的無限なのはわかるが、
音楽の循環的無限は、べつのタイプの<回帰的な>原理を要求しているように思われるにゃ。わからんけどにゃ。
和声進行をT→TST、もしくはT→TDTのような自己回帰的な記号連鎖として形式的にとらえるとき、
自然言語の等位構造に類似してなくもないが(NP→NP and NP)、
まあこれは循環的性格とはかなーり異質のものでしょうにゃ…
あと
>>32で、連続5度のことを、ことごとく「平行5度」と言ってますにゃ…
ぶにゃー…鬱。
【ザ・レス】(極東バージョン)
↑
森tの名曲【ザ・ストレス】(中近東バージョン)のパロディでつ(知らない人に解説)
>52
にゃるほどー
>50
断片的なレスでつが…
虚無せんせの、自然言語と和声進行の再帰特性は本質的に異質なものではにゃいか、という直観について、前に生成文法総合の方ででてきたと思いますにゃが、
自然言語は微分操作を含まないのに対して、和声進行は微分操作をも含む、とはいえないでしょうかにゃ?
T->T D Tという文脈自由書換規則は単一記号を等価な記号列で置き換える操作であるのに対して、X->Xsus4 Xに置き換え、さらにやろうとおもえばXsus4 X->Xsus4 X X6などに展開できるとか、
「たまねぎ」から「肉」に行って終わり、と思いきや、ちょっと「しらたき」とか、またはきっと「たまねぎ」から「肉」とみせかけて「たまねぎ」->「豆腐」とか、このあたり、
編曲者の技量にしたがって、無限に微分可能な気がするのですにゃ。
factの時点で間違っているかもしれませんけどにゃ。
「陳述論」の不毛さは「終止」に関する観察をおろそかにして思弁的な本質論にのみ陥ってしまったことにあると思いますにゃが、和声進行に関しては、欧州一言語の一方言に関する記述とはいえ、
終止感に関する内観のfactが蓄積されている点、前に行った循環論には陥らないと思われ、ですにゃ。
原田信一氏が時枝構文論を批判して、構文論を表現論と同一視している、と
したことがありましたにゃが、もしかすると和声進行に関する「陳述論」はこの原田氏の批判に反して、和声進行の側から統語論へ理論を供給することになるかもしれませんにゃ。
完全な妄想ですにゃが。
>無限に微分可能な気がするのですにゃ
おお、ご明察にゃ。これは和声の側からみた旋律の構成法になると思うにゃ。
もちろん歴史的には「旋律」の起源のほうがはるかに先行して(あるいは普遍性をもって)いるわけだが、
「ゆらぎ」(装飾音みたいなの)、段階的移行、(ひとつとばし以上の)離散的移行、跳躍などが、
モード上に生起するとき、旋律的なものが成立すると思うにゃ。
いぜん、原初的な旋律「ドーシード」が終止の起源か?みたいなハナシもしたような気がするにゃ。
さて、音楽の「内観に関するfact」が言語学に寄与するかどうかは、
けっきょくいかに内観にかんする分裂した立場をどう克服するかにかかっており、もし音楽になんらかのアドバンテジがあるとすれば、
数理的な理論装置によって、たとえば終止の内観のようなものを系統立てて予測することができるか、
というところですにゃ。「内観に関するfact」を記述的に集めてもダメにゃ。
これに関連して、ある制約のもとでの順列問題にはhpsgは強力なツールを提供するでしょうにゃ。
いくら項目(語彙相当)に依存する情報が重くなるといっても、コードネームの数などたかが知れてるし、
実装的な問題としては(脳内実装ではない)、事実上、可能な連結をもうらする完全な「チャート」を構成するにゃ。
(これは、よくいわれている、現代音楽の限界論を裏付けるものとなるにゃ。たぶん)
いっぽう、同じ原理に基づく知識記述で「英語的な」音素連結も同じく包括的に扱えるとしたら、
けっきょく「説明」とは何か?って思っちゃうにゃー。
「説明の彼岸」と言ってみるテスト
意味なくageてみるテスト
58 :
こさかな@ラリ:04/06/02 14:24
'u'がおっきくなってますにゃ!
59 :
こさかな@ラリ:04/06/09 14:30
おそレスすまそですにゃ。
>いぜん、原初的な旋律「ドーシード」が終止の起源か?みたいなハナシもした
>ような気がするにゃ。
うかがいますたにゃ。で、ちょっと思ったのでつが、任意の音からはじまった場合、そこから別の音に移行した後もとに戻れば、移行先の音がなんであれ、終止してしまう旋律を構成するのかにゃ?と思いますたが、これはどうなのでしょう。
逆に終止しないような移行先の音があれば、それは禁忌として制約の一つに挙げられるのかにゃー
60 :
虚無好き@療養中:04/06/20 12:19
サボっててスマソだけど、
じつはMPよりの派生で、和声の基底生成が与えられることが判明してるのにゃ。
Cのトライアド[ドミソ]の、さらに低い位置に3度下の[ラ]が加わると、
[ラ]が、そこより高い3度構造をすべて統御して、新たなrootとなり、
いちばん高い[ソ]は、トライアドの項から付加部(テンション)へと降格するのにゃ。
これを一般化すると、3度連続離散配置にある音列では、もっとも低い(左の)位置にある音が、
rootとしてそれより高い位置にあるすべてをc-commandするというかたちになると思うにゃ。
原初的旋律については、またいずれ
ageてしまった…
まあ、トライアドにみられる中間投射はなくてもかまわないかもしれないということにゃ…
水差すようにゃが、rootは何もc-commandしないのにゃ
てか、そこでわざわざc-comに喩える必要ないんでないかにゃ
単なる穴路地遊びなら面白いけどにゃ
>[ラ]が、そこより高い3度構造をすべて統御して、新たなrootとなり、
>いちばん高い[ソ]は、トライアドの項から付加部(テンション)へと降格するのにゃ。
ラが新しく導入されたprobeだと考えて、ラ [ Spec=ド [ Head=ミ Complement=ソ ]]]
ドやミにはアクセスできてもソにはアク禁、と見れば phase impenetrability condition 、とかにゃ、にゃはは
まあ、どこまでまじめかわからないのが、生成音ギャグ理論なのにゃ…
さて、3度(あるいはひっくり返して6度)の関係にある2音が機能和声の最小単位なので、
けっきょくトライアド(3つの音からなる和音)の内部構造と、さらに複雑なトライアド+テンションの構造も相似的に記述して、
トライアド構造を無用(冗長なもの)にしてしまうのがMP和声ギャグにゃ。
いまのところ必要な規則はMerge α,β→{α{αβ}}のみで、機能を表象する音名が和声全体を表象するとともに、
それはrootとして左方に現れる(LCA)。Cはドミ(ソ)であるとともに、rootのCでもあるにゃ。
たとえばDm11thは、[レ[ファ[ラ[ド[ミ[ソ]]]]]]で、どの構成素をとっても機能和声のかたちをなしているのであり、
(Dm>F>Am>C>Em)
(書き換え規則では、転回していない和声は、必ず右辺の左側に非終端記号をもつC→aCとなることに注意にゃ)
いっぽう新しいrootがくわわるたびに、それが支配する新しい構造(機能和声)となるにゃ。
この関係が、rootによるc-commandなのにゃ。(c stands for chord and constituent)
わかるかにゃ〜。寝よ。
にゃるほどー
へたれな私は音程の高さと構造の高さ、それだけで頭が混乱してしまうのですにゃが、音程が低いものほど、「投射」の範疇を決定するものになる、
そしてダイアドが基本になる、というのがガツーン!ときますたにゃ。
敢えて音程の高さも視覚的に表現しようとすると樹形表記をひっくり返せばいいのですかにゃー
C EP
\ /
A(=root) CP
\ /
AP こんな感じ。
左側に音程の低い音が併合されると、その音をrootとする投射が開かれる、ということは、やはり穴路地としてもroot=headとして、顔文字せんせのいうように、headは構成素を統御しないとするほうがよさそうですにゃ。
また、新たなrootの導入でcomplementとなる投射がにゃろー統語計算において新たな構造的価値が付与されるにゃらPICは課せられない、とすべきだと思えますにゃが、統語計算ではなく解釈において、統語部門からのバイナリ構造の出力を次々に解釈しなおすとすれば、
解釈の単位でもあるダイアドで解釈部門に送らなければならないのをPICに帰すという考えもありうるかもしれませんにゃ。
これを押し進めると機能和声ギャグにおけるX'理論は解釈部門の理論で、統語論は順序対を併合のような二項演算なしでせっせと解釈部門に送り出すという役割しかないことになるかもしれませんにゃが、どうにゃかにゃ
>63
すぐ上で書いたことと矛盾ですにゃが…
Kayneはlinearityと統語構造をすっきり対応させるために、LCAではlinearityの統語的対応物としてasymmetric c-commandを選んだ訳ですにゃが、概念的にはdominationでもいい。
和声構造の場合には経験的にもこれでいいような気がしますし、もう一歩行って、dominationを廃止して、自然言語の場合と違って比較的すんなり統語論の派生のステップと産出・解釈の対応をつけられる鴨
続けましょうかにゃ。
で、rootが低いからといってツリーひっくり返さなくてもいいのににゃ…。わたしのアタマんなかではこうにゃ。
C
/\
a C
/\
a C
/\
a C
/\
a C
/\
a b
ようするに、MP和声ギャグでは、おなじ(非対称)併合操作の循環的適用で和声構造をつくるというところが重要なので、
その非対称性のなかみは、dominationでもpercolationでもなんでもいいにゃ。
最初の姉妹関係がc-comandするならば、以下の操作もc-command関係の再生産になるにゃ。
(わたしのアタマんなかでは、埋め込まれた和声は、ぜんぶrootの倍音に束縛されてるにゃ。)
で、ごらんのとおりドリアドベースの和声理論だと、5度がいわば「テンション」の第1項になるわけだにゃ。このへんホンマかいなと思うにゃ…。
ところで、Am7th=[Am[C]]のような、平行調の関係にあるコードの併合においては、
たとえば省略可能な5度の位置はソからミへと変化するが、avoidであるファは保持される。
このへんの処理を何が行ってるかは、じつに難しいところだにゃ。
とりあえず、ここからどういうふうに最終的に「楽譜(発音)情報」になるか探っていけば、なにがフェイズ相当なのかわかるかもしれないし、そんな概念イラネになるかもしれんにゃ。じゃまたにゃん。
些細なことなんですが。
一つの和音ごとにフェイズがあるとすると、和音の集まりである
和声進行においては時系列にしたがってまた別個のフェイズ必要に
なる気が。あったら面白い、程度の妄想ですにゃが。
大絶賛ホシュ祭り中
69 :
Adamas:04/08/01 11:47
虚無長官、おひさ〜♪
you are the joy 拝聴させていただきやした。
いやぁ〜、エエね〜。
なんかヲトナな雰囲気プンプンだね。
ブラボ〜だね、いや、マジで。
てか、あのヴォーカルやってる女性の方どなた?
声質からすると20代ぐらいかと思うケド。
ま、何はともあれ、
虚無長官の多才ぶりを再発見させていただきやすた。
話は変わるケド、昨日、花火大会に逝ってきますた。
なんか、キティちゃんみたいな花火もありますた。
なんか花火も変わったな〜とちょいと思った今日この頃ですた。はい。
あ”〜、それにしてもお仕事いっぱいで気が狂いそうでつ。ほぉあい。
あ、それまだ聞いてないス(あせあせ
なんか、大雨落雷で、こんな日はジャズの調べを聞きたい気持ち…
神をみてきますた
歌詞がエロイと感じたのは私だけでしょうか・・・
72 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/07 05:17
ソルレソルっていう人工言語があったな。
言葉を「音楽」で表現する奴。
柏ソルレソル
74 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/08 22:06
正直ここまで盛り上がるとは思わなかったYO!
なんかいいYO!
ところで俺、ちょっとミニマルにも手を出してみたんだけど。
言語じゃなくて音の方ね。
シンセとベースが最初から最後までひたすらA音の連打すんの。
でんでででんででんでんででんでで(以下同文)
それだけだとチョトつまらないから裏メロで音階無視したストリング入れてみた。
絶対音感もってる人はきっと気持ち悪くて聞けないNE!
まあ、ようするに音階なんてなくたって立派な音楽だYO!
75 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/08/21 03:56
age
76 :
虚無好き ◆DQNDQN20hs :04/09/25 23:19:53
ぶにゃぶにゃ。
77 :
虚無好き ◆DQNDQN20hs :04/09/25 23:20:40
どうも書き込みサボってて申し訳ないにゃ…
『サザエさんED』は、言語ギャグ的には特筆すべきネタはとくになく、
そのせいで放置ぎみになってしまったにゃ。
『ドレミのうた in Dodecatonic』は、12音階(ぽい)ドレミのうたで、
旋律の進行をむりやりクロマティック(半音階的進行)にした前半部分と、
旋律の短3(6)度進行を禁止して、調性をあいまいにした後半部分とからなり、
それなりに語ることはあるように思うにゃ。
で、ナニを?ということになるのだがにゃ…。うーん。
世の中、原理論ほど話の糸口をみつけるのが難しいものはないにゃ。
とりあえずわたしの「ドレミ」をきくとおおかた変な曲だと感じると思うんだけど、
じつは数学(つーか算数)的にはけっこう「きれい」に構成されてるにゃ。
かんたんにいうと、12の約数である4がきれいに12音階を(3)等分するような和音を
基調にアレンジされていて、まあ、ひょっとしてこちらのほうが美しくてもふしぎではないのにゃ。(ピュタゴラス数秘論みたいになってきたにゃ)
いっぽう「伝統的な」音楽は、完全5度は不可欠といっていい要素で、
これは半音の数でいえば(きりのわるい)7にゃ。
これは3たす4(短調和音)あるいは4たす3(長調和音)などの組み合わせで達成されるにゃ。
ところがドレミのうたは4たす4(増5度和音)が基本になっており、
そのけっか<調性>がよくわからなくなる原因のひとつとなっているにゃ。とりあえずここまでにゃ…
(このあたり、言語構造がひょっとして原理的に数論的なものではないかという問題意識がないと、
さっぱりわけわかんないとは思うけど…)
をー、生きていたのにゃ虚無しゃん!
病気でもしてんのかと心配したにゃん
79 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/09/26 00:02:25
俺もちょっと心配してたYO!
「『伝統的な』音楽」は平均律つかってないから
半音の数を単純に足し算はできないYO!
ってマジレスしちゃったYO! 恥ずかしいYO!
>病気で
いま心療内科いってるにゃ。
>『伝統的な』音楽」は平均律つかってないから
これは良質のつっこみ。そもそも平均律を前提として、「ヨナ抜き」をすればpentatonicができるかといえば、
それでは説明にならないというのが、以前意味論スレかどこかでいっていたわたしの主張にゃ。
ただし、いまはふたたびハナシの糸口の問題になっているので、ちょっとご容赦ねがいたいにゃ。
ちなみに、もう2年もまえに心理板で「平均律を前提とした対称性に関する論議」は、
人工言語についての不毛な辻褄あわせという趣旨の指摘をうけているが、ではなせ人工言語(平均律)はさほど自由ではなく、
制約を受けているようにみえるのか、というのがひとつの問いになってくると思うにゃ。
↑は百万円あれば一生遊んで暮らせると思っている
82 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/09/27 10:42:00
一億円あれば年間500万で生活するなら20年は働かずに生活を維持できるな。
>>82 20年後にカネがなくなって気づいても、20年プータローやってた奴を雇う会社はない。
>>83 そのころには年金が貰える。
でも国民年金だけじゃ生きられないか。
そうなったら生活保護だな。
あ、でも今までの分の厚生年金があるか。
85 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/11/06 22:40:47
>>83 20年のうち、一般人が労働をしている時間が全て余暇として使えるわけだから
その膨大な時間を使って資格を取るなり技術を磨くなり芸術に目覚めるなりすれば
十分に余生を送れる。
…あ、結局働いてるのと同じことだな(笑)
86 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/11/15 00:09:24
年250万なら40年プーでいられるじゃないか
>77
虚無せんせ、お久しぶりですニャ。
虚無せんせの新古今ドレミの歌を聴くと、「言語構造がひょっとして原理的に
数論的なものではないか」という問題意識から言うと、「いややっぱり音楽もついても
数理以外のなにかがmusical endowmentとしてあって(以下略」
という気がして、それが「制約」なのかもしれないですニャが・・・
むう、これって前から虚無せんせが言ってることの繰り返し?話の糸口と関係ないですにゃ
今ホムレスなもんで書き捨てになっちゃいますがすみません。ではまたノシ
ファンクショナルMRIで脳の活動部分を見ると、音楽と言語は脳のほとんど同じ部分を使っている。
>88
これは脳内事象の可視化技術と、ある対象に関する理論の関係についての
話として、fMRIが見せるものと言語理論の関係の話の繰り返しになるのではないか。
活動部位は単にシンボルの組み合わせに働く部分かもしれないし、ならば
数理構造でも楽理構造でも、それに関しては言語構造と共通していても
全くトリビヤルなことと言わざるを得ない。
・・・と偉そうなこと言いましたが本当は詳細キボンですーオナガイマスm(_ _)m
中田力の「脳の方程式 ぷらすあるふぁ」に書いてあります。
他の脳科学関連の本にも書いてあったと思うのですが、あいにく書名を思い出せません。
>90
どもです
92 :
名無し象は鼻がウナギだ!:04/12/16 19:32:46
どうにも啓蒙書臭がプンプンする書名だな。読む気にならない。
啓蒙書臭、って2ちゃんではじめてみた二つ目の「・・・臭」(一つ目は加齢臭)
ま、どうでもいいことでつが。ついでにさらにどうでもいいことでつが、
年上の女性も嫌いじゃないし、専門以外の情報を得るのに啓蒙書を使うのには
否定的でないです、個人的に。ただ日本の啓蒙書って、時に薄すぎて専門書より
わかりにくいので、そんな本だったらやだな
>音楽と言語は脳のほとんど
わたしが聴いた節では、旋律解釈で脳の異なる部位が関与しているというものにゃ。
が、確認がとれない。
失音楽症の患者の話は読んだことがあるけれど、失語相当の記述はなかったように思えるにゃ。
いまの関心からいえば、音韻論でも音楽の拍節構造・和声進行でもやたらツリー表現大杉、
「総合スレ」でも書いたけど、およそ部分と全体をもつものはツリー構造を「もちうる」のにゃ。
で、重要なことは、結節点でどのような操作が行われているのか、にゃ。
和声進行については、作曲技術としては「内部構造」または「構成素」をもちうるが、
<理論/文法>としては事実上、隣接する要素にしか関与しないのではないかというのが、いまのわたしの見かた。
これについて、古典和声では旋法>和声であったのに対し、ジャズでは和声>旋法となり、
ぶっちゃけ和声が進行するたび転調しているような様相を呈していることにも関心が向くにゃ。
どうも「理論」(概念)に対する誤解が多いのであるが、
規則の集合が音楽の可能性を縮小させるというのは、わたしとしては避けたい表現にゃ。
べつにジャズがそういういみで<自由>になったわけでは、まったくないにゃ。
constraint-drivenな自由を獲得した、というべきかもしれない。
このような、(ある公理に準じつつ、豊かな)新しい規約の創発的出現(←ぜい語的表現)と、
それが人類の無視できない(大きな)集団に共通に認可されていくという事実は、
おそらく言語(2ちゃん語含む)にも適用される未知のシステムを予感させるにゃ。なんちて、にゃ。
こさかな先生、今後ともよろしくにゃ。
昨日NHKで(FMで聞いてたのでつが)ドーキンズせんせが、「言語が進化を
加速させる」と言っていたので「えっ?」と一瞬耳を疑ったのでつが、
文化の進化の話ですた・・・
ぼんやりとしか覚えていないのでつが、丸山せんせの本で読んだキマイラの
話をなんとなく思い出しました。背中にキマイラがしがみついている人たちを
見て不自由そうに思ったのに、それがない自分はさびしく思った、とかいう。
それぞれフランス語とエウェ語、韓国語とインドネシア語しか話せ
ない人と会った時、拙いながらフランス語、韓国語で会話をしたことが
ありまつ。外国語でコミュニケートする不便さよりも、それなしではコミュニケート
できない、ということのほうが優先される、という経験を持ったことが
ある方いらっしゃるでしょう。言語という縛りが逆に意思疎通の自由度を
高めているという状況。虚無せんせの話と違って陳腐な例えですが、
ジャズの獲得した自由はひょっとしてこんな感じのものか、と思うのでつ。
ジョン・コルトレーンはジャズを通して神の領域に近づこうとしたという。
それはコルトレーンが新たな制約/契りを通して、それなしでは不可能な
領域への拡大を獲得していったということか。
とまれ、虚無せんせとコミュニケートするために楽典くびっぴきですたw
でもおかげで未知の領域へ少し踏み出せました。
虚無せんせ、ありがとうございました。
こちらこそ今後ともよろしくおながいします。よいお年を・・・
74他氏もよいお年を・・・
98 :
名無し象は鼻がウナギだ!:05/03/18 14:19:10
こさかなです。
ChordPhobiaというソフトでchordphobiaになった・・・
99 :
虚無な人:2005/05/23(月) 00:06:00
ここを雑談の場にしようと思ってきたけど、どうしようかにゃ…
ChordPhobiaは、どうもコードプログレッションを演奏する機能はないようだけど、
(ここんとこスパイウェアにやられっぱなしなので、DLする気になれない。
「ふしづくり」<超簡単な楽譜作成ソフト>みたいな無害っぽいソフトが異常の原因になることもあるにゃ)
和声を単発で認知するのはかなり困難だと思うにゃ。
とりあえず、このスレがまだあってよかったにゃ。
やっぱりこっちに棲むにゃ。
ここんとこ、テレビも見ないにゃ。反日デモのあと、バイアスのかかったJR事故報道で、
つくづくいやになったにゃ。2ちゃんのほうがまだ健全。
だいたい、(古いはなしだが)日本の大企業の企業風土なんて似たよーなもんにゃん。
よくもまあ、以下略にゃ。
こさかな先生は立派な先生だにゃー。やっぱしまじめにやるにゃ。
ちょっと小ネタさがすから待っててちょ、にゃ。
きゃー、虚無せんせ、おかえりなさーい!
あーんど、100げと、おめでとございますー!
>和声を単発で認知するのはかなり困難だと思うにゃ。
やっぱりそうですね...特に、ランダムに和声を出されて特定する、っていう課題では
やればやるほど成績が悪くなって、前の問題がプライミング?っていうんでしたっけ、
なんか先行和音として捉えちゃうのか、デミニッシュのあとにマイナーコード出されると
メジャーに聞こえてしまう、っていうか単におばか?しばらく放置プレイしてたスタインバーガたん
(韓国生まれ)に弦をはってならしてあげようかなー
ではでは、虚無せんせ帰宅ばんざいカキコでしたー
テレビは、私も見なくなりましたにゃ。
反日行動の盛んな時、山で遭難した韓国人が新聞に名前のせられたっつーんで怒って、捜索費ださない、
ってごねたのは久々にほほえましいニュースでしたけどにゃ。違法操業で追っかけられた韓国漁船が
逆切れして保安庁の船に体当たりしたのも、にゃ。どんどん繰り返してもらって、領海侵犯してる船を
ただちに沈没させられるよう法整備が進むようになるといいにゃー
こんな話してるとadamas閣下兄貴こないかにゃー
>>102 巡回怠ってスマソ…
いやあ、コネタ見つけてから来ようなどと思ってたのでにゃ。
こちらこそまたよろしくお願いしますにゃm(_ _)m
ネタというほどではないけど、
ヤマハVXシリーズの、スロットで音色を作るシステムをご存知ですかにゃ。
6個か8個のスロットを並列か直列に組み合わせて、音色を作るやつにゃ。
わたしはあれが、どうも言語構造のモデルになる気がしてにゃ…
あと、GTTMの旋律のグルーピングについてなんだけど、それぞれのグループについて、
バイナリ的に上位構造を推定していくのは、なんとも恣意的な気がするにゃ。
むしろ、現代の商業音楽については、上でも書いたような気がするけど、
小節数については2,4,8,16...が好まれる傾向があるので、こちらのほうにバイナリ構造を推定したほうがいいにゃ。
仇陛下が卒業された?事実を、いまごろになってかみしめておりますにゃ。
わたしはふつうに、文法体系がヒトの思考にバイアスをかけるとは信じていないけれども、
韓国語の<絶対>敬語体系については、なんかあるんちゃうか、とか考えることもあるにゃ。
駄文スマソ 次は、水曜とかになるにゃ…。
VX→DX
orz
105 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2005/05/29(日) 19:57:02
>仇陛下が卒業された?事実を、いまごろになってかみしめておりますにゃ。
仇陛下は現人ネ申になられますた
今思うと最後の2チャン的な御人だったと思います。。。
近隣諸国ネタとギターネタと生成ネタと哲学ネタの4拍子そろっていましたしね。。。
106 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2005/05/29(日) 20:21:43
>6個か8個のスロットを並列か直列に組み合わせて、音色を作るやつにゃ。
>わたしはあれが、どうも言語構造のモデルになる気がしてにゃ…
エエー、それはちょっと発想の飛躍だと思うYO!
虚無せんせ>103
にあ!(じつは雑談)スレなのでコネタなしでも来ててくださいにあ!
ヤマハDX-7はあこがれでしたにあ・・・結局買ったのは一万円しないヤマハの初心者向けの
キーボードで、今は姪の情操教育にラヴェルのボレロをひいたりしてますにあ・・・でも姪は
そのキーボードをふりまわしたり、よだれをたらしたりで、出ない音があるのですにあ・・・
もうしばらくしたらキース・エマーソンを聞かせて立派なプログレ・キーボーディストに
なるよう方向付けて行きたいですにあ。
というわけでDXシリーズの音色の作り方というのは具体的なことはしらないのですにあ・・・
>106しやん
というわけで、詳細キボンですにあ。
>GTTMの旋律のグルーピング
G^3スレで紹介されていた論文ではずーとるび、もといビートルズの曲を扱ってましたにあが、
GTTMでは西洋古典音楽に基づいて記述していたからなんですかにあー
たしかに商業音楽では2の倍数のリズムが多いことからバイナリなリズム構成をしたほうが
いいのかもしれないですにあが、変拍子などを扱うために2と3、あるいはより単純には
2と1の組み合わせができるようにするのがひとまず十分な記述力を持たせるためには
必要なのかにあ、と。Jackendoffがどこかで言ってたと思いますが、音韻論のmetrical gridとの
穴路地で、
(*)(**)
とか
(**)(**)
やってたと思いますにあ。(*=metrical grid)
これでやると、七拍子は
(**)(**)(*)(**)
(*)(**)(**)(**)などなど
となるでしょう。音韻論のmetrical gridはstress assignmentに使われるので
数える時にはじく単位extra-metricityとかもあるが、音楽論ではこれは関係なさそうなのと、
primary stressをあたえるgridを特定していくプロセスが音韻論では必要なのに対し、
音楽論ではそれより
(((*)(**))((**)(**)))
というようなグルーピングの階層性が重要になりそうなこと、この点がちがいますかにあ。
>105しあん
あんまりネ申格化するのもどうかと思いますにあ。もっと食ってかかるのでないと。
でも確かにadamas閣下はバーリ・トゥードの2ちゃんの一つの理想型ファイターだったと
思いますにあ。最後の、とは思わないけど。
リズムの話がでたので、音韻論のmultiple-planeの音楽論穴路地(たぶんずれる):
音韻論
z n 子音平面
| |
x x x x タイミング・スロット
/ /
o u 母音平面
音楽論
c c 調性平面
| |
x x x x タイミング・スロット
/ /
f g 非調性平面
あ、そういえば音楽のリズムにもstressに類するものがありますね(ずれないでくれー)。
普通:
* *
* * * *
裏:
普通:
* *
* * * *
訂正
裏:
普通; → 裏:
「裏」は2,4に*
すみません・・・鬱
113 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2005/06/01(水) 18:55:05
ここはケツ穴が豊富なインターネットですね
114 :
厨:2005/06/02(木) 11:03:09
すげーなおまえら!!
天才の集合体だ!
オレ語学とか本気でさっぱりだから言ってること
理解不能だが、おまえらのカッコよさを
びんびんに感じるぜ!
2ちゃんはちょっとブランクがあったので、いろいろ板をのぞいたんだけど、
変わったのはワロスの氾濫と、クマAAが減ったことくらいかにゃあ。。
>>108 >たしかに商業音楽では2の倍数のリズムが多いことから
ちょっとことばが足りなかったかもしれないけど、わたしが言いたかったのは小節の数についてで、
基本となるmeterが2であれ、3であれ、5であれ、
小節のグルーピングは、2,4,8,16...になりやすいということにゃ。
このばあい、例外となるのは、2+2+3の拍子をもつAll you need is loveではなくて、
7小節で主動機がリピートするyesterdayということになるにゃ。
ちなみに「男と女」は、5拍子でカウントすると8小節で一巡するにゃ。
わたしには、旋律のグルーピングが多義的で柔軟な解釈をゆるすのに対し、
小節の<数>のグルーピングは、楽譜のバーそのままの硬直した構造の連結からなり、
両者(の原理)を統合するのは、ちょっと簡単なことではないように思うにゃ。
いわば、英語のプロソディが単語を横断する形で作用し、
'get Out of here'も'caLamity'も、音楽性としては類似しているいっぽうで、単語の数はカウントされるみたいな、
そんな印象をうけるにゃ。
>f g 非調性平面
これってちょっとよくわからないけど、c-fg-cだと、二重母音っていうことなのかにゃ。
116 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2005/06/02(木) 23:53:23
>変わったのはワロスの氾濫と、クマAAが減ったことくらいかにゃあ。。
ブランク期間がわかりやすいですね。
うーん、
正直、あまりageんでほしいにゃ…(ここは地下の妄言スレなのにゃ)
まあ、書き込めるときに書き込んでおくけど、
DX7のハナシは、ものすごく抽象的なもので、
非対称な連結A->Bと、等位的な連結A=Bがあるにゃん。
前者はモジュレーションの関係、後者はたんなる波形の足し算で、
A(の音)とB(の音)を別個に知覚できるにゃ。
YAMAHAのスロット構造にはじつは入れ子構造はないんだけど、
A->[B=C]みたいなものも含めるにゃ。
以上の操作は、回帰的に行えるものとするにゃ。
これだけの道具立てから、どれだけのことがいえるかとちょっと思ったんだけどにゃ。
人間思考が究極単純な形式に還元されるのなら、このようなかたちになるかもしれないし、
もし原理的に「何か」足りないのなら、それは何かということになるにゃ。
まあ、そんなふうに思ってみただけにゃ。
>115
虚無せんせ、また早とちりしてますた・・・反省しますにあ。
小節のグルーピング、それからプロソディというか抑揚曲線と単語の
話、せんせー!よくわかりますた!
というかもっと反省しないといけないのは、上で挙げてあったJ氏の
論文にストレス付与との並行性のことが載ってたことですにゃ・・・
忙しくてもよく噛んで食べますにあ・・・(たぶん前に見たのは
Languages of the Mindでだったかも)
>>f g 非調性平面
>これってちょっとよくわからないけど、c-fg-cだと、二重母音っていうことなのかにゃ。
これはずれまくりですた。上は/zonu/、下は/f-c-g-c/ですた。
で、ちょっと虚無せんせの解釈からの妄想暴走ですにあが、二重母音に
相当する、つまり英語、日本語で言えば1音節2モーラみたいなのは
音楽でいえば装飾音とか経過音になるんですかにあ?
領海侵犯した韓国漁船をめぐる動きにはちょっとむかむかするものが
ありますにあ。早く法整備して(以下前の繰り返し
スマソにゃ。最近、昔の本、ひっぱりだして読んでたにゃ…
『収容所群島』とか、じつに面白い。っつーか、文学としてよろしい。
たんなるうらみつらみでかかれてないところが、今でも「鑑賞」にたえる理由かもしれない。
>つまり英語、日本語で言えば1音節2モーラみたいなのは
>音楽でいえば装飾音とか経過音になるんですかにあ?
そういうふうに考えたことはなかったけど…
いちおう、和歌の標準的な朗読が4/4のかたちにおさまることがまず連想されるにゃ。
(宮中での皇族の歌の朗読はこの限りではなくて、最終音節をやたらのばすみたいなので、
伝統的には、あまり西洋的meterと関連づけるべきではないかもしれない。)
あるいは、80年代くらいから、popsの旋律がモーラよりむしろ音節単位になっていること
(「がんばって」に3音符が対応する)みたいなことも関係あるかもしれない。
(これは、まあ単純に英語の影響だと思うが)
(j rapの話もするべきなんだろうが、じつに聴くにたえないので、まったく事情は知らない)
総体的にいって、日本語の音楽性については、英語に近づいているといえるのかもしれないにゃ。
なにぶん、標準的な2個のピッチアクセントでは、なかなか装飾音が定義しづらいにゃ。
むしろ偶数gridをもつリズムのスィング化(前の8部音符70%、後半30%みたいな)と、
それにもかかわらず旋律の同一性が失われないこと、なんかと関係あるかもしれない。
どうも、いつもめちゃくちゃ書きなぐってすんまそですにゃ。ではまたにゃん。
120 :
魚系:2005/06/23(木) 06:18:20
虚無せんせ、おはようさんにゃ。
こちらこそいつもめちゃくちゃで、しかも話いったりきたりですんまそですにゃ。
文献にもちゃんとあたりますにゃ・・・反省
歌の朗読は、奈良時代、2音節1韻脚だったみたいで、おっしゃる
>最終音節をやたらのばす
をやると、歌の単位5、7が6音節3韻脚、8音節4韻脚になるようですにゃ。
奈良時代までは特殊モーラ「っ」「ん」「ー」および母音連続が
なかったため、上代日本語は音節リズム言語であったと考えられ、
助詞を伴わない一音節語も二音節で発音されていたらしい、ということ、
今に続く歌の単位は上代語音韻構造を反映したもののようですにゃ。
>80年代くらいから、popsの旋律がモーラよりむしろ音節単位になっていること
はもしかすると単に英語の影響だけではなく、先祖がえりなのかも、ですにゃ。
一般に、外来語音の影響といわれる新しい音節の出現は、既存の子音と
既存の母音の新たな組み合わせで、かつ、その音は昔存在していたものが
復活するといえるようなもので、そもそも日本語に存在しない[φ](円唇前舌狭母音)
みたいのは頑張っても借入できないようですにゃ。
私には「空に太陽がある限り」の「あいしてるー」も三音符かなー
(「愛」は二重母音、「して」の「し」は母音無声化でonset c-cluster)
と思え、すでに旋律が音節単位なのは戦後歌謡の早い段階のような気が
しますにゃが、これは完全妄想モード。戦中の歌は完全にモーラ単位っぽ、
ですにゃ。
>なにぶん、標準的な2個のピッチアクセントでは、なかなか装飾音が定義しづらいにゃ。
>むしろ偶数gridをもつリズムのスィング化(前の8部音符70%、後半30%みたいな)と、
>それにもかかわらず旋律の同一性が失われないこと
にゃるほどー
おお、すばらしいレス。
>歌の朗読は、奈良時代、2音節1韻脚だったみたいで
オモスロス...いや、でんでん知りませんでしたにゃ…あれですかにゃ、
日本語(←いちぶの日本国民とメディアにごくごく限って)の数唱で、
(関西の方でないにもかかわらず)一音節語が2音節になり、
「いち、にい、さん、しい、ごお…」ってなかたちになるのと似てるのかにゃ。
(稚拙なレスで申し訳ない)(ところで、関西のかたの数唱はほとんど「歌」なのだが…)
「先祖がえり」のところがちょっとよくわからないのだが、
上代の漢字音の音写を考えてみると、現代の日本語における英語音などの音写と
実質的おなじ操作であるようにみえるにゃ。
語末子音の1音節化や、擬似大和語の発生(「キヌ」とか)は
当時のモーラ環境が大局的に現代と共通しているのだという印象をうけるにゃ。
(nasal velarがしばしば無視されたが、これは「旡」などの音価が/m//n/であったためかもしれない)
1音節語を、2音符で歌うことは、結局母音連結を許容する方向に働くのではないかにゃ。
神武天皇とか、くゎんむ天皇とか、どう発音されてたのかにゃあ。(不勉強でわからない)
「愛してる」に関して言えば、
(なぜか、スターにしきのの歌は、メロをどわすれしてしまった)
スピッツの「愛してるという響きだけで…」みたいな
曲を例にとると、やはり、aish(i)-te-ruと歌っているらしい。(3音符)
(無声化「し」は前のシラブルにくっついているように思われる。)
ところが、1モーラから1音符への写像がくずれたからといって、
じつはモーラ体系が<音楽的に>反映されなくなったかというとそうではなくて、
たとえば「ピンク」にたとえ1音符を与えようとも、「ピンク色」を3音節と数えたうえ、
「ピン・キ・ロ」という譜割りで作曲することはまずありえないように思われるにゃ。
これはたんなるリエゾン禁止則ではなく、モーラ保存則のようであるにゃ。
詳細は省くけど、このてんで英語の影響は限定的なようだにゃ。
123 :
魚系:2005/06/26(日) 18:57:27
きあー、ほめられたー
でもその後に濃いーレスが・・・断片的にレスつけますにゃ。
>日本語(←いちぶの日本国民とメディアにごくごく限って)の数唱で、
>(関西の方でないにもかかわらず)一音節語が2音節になり、
多分そんな感じですにゃ。「ニッポンチャチャチャ」の「ニッポン」(今は音符二個)も前は
「ニ・ー・ポン」の音符三つだったそうです。「ポン」が一つ分、というのがちょっとオモスロス。
実は私も詳しくはしらないのですにゃが、アクセントを直接付した資料として最古の『類聚名義鈔』を
見るとそんな感じらしく、すくなくとも鎌倉時代初頭までは遡れるらすいですにゃ。
アクセントに関しては途中でGreat Shiftがあったようですにゃが、それ以外は現在の京都アクセントと
同じで、音節の伸ばし方についても同じように考えられるのだそうですにゃ。
『万葉集』などでは字余り等から伸ばし方が推定されるようですにゃが、昔犬飼隆せんせの
「にき・たつ・にー ふな・のり・せむ・とー つき・まて・ばー」という吹き込みを
聴いたことがありますにゃが、これはその当時の詠じ方を再現したものなのだそうですにゃ。
124 :
魚系:2005/06/26(日) 18:58:57
>擬似大和語の発生(「キヌ」とか)
は古代朝鮮語の借用(と思われるもの)で、確か音節末子音は[m]でなかったかと
思いますにゃ。その他、「イト」は[sil]からという話もあって、実は単に母音挿入だけでなく
子音の方も変容していて、ちょっと音節毎かわってる感じですし、稲荷山古墳鉄剣銘や
推古朝文書とよばれる一群の資料に現れる、呉音以前の朝鮮古音と呼ばれるものは基本的に
一音節で、音節末子音は落ちているようなのですにゃ。これは中国でおこった-p,-t,-kの
脱落より前のことなので、借用では子音を落とす、ということもあったようなのですにゃ。多分。
一方で仏教伝来以降の漢音の学習は比較的中古漢音に忠実に行なわれたようですし、
また、有史以前の日本語の姿は閉音節をももつものだった、という説もあるようで、
なんか込み入ってそうなのですにゃが・・・
>1音節語を、2音符で歌うことは、結局母音連結を許容する方向に働くのではないかにゃ。
これは、いわれてみればおっしゃるとおりなのですにゃ・・・上代の禁忌を破ることになるので、
歌詠みに限られるのかもですにゃーこのあたり私の詰めのあまいところですにゃー
ハッ!音節構造と音楽の関係という、まっとうな話をしてしまいますた・・・
ギャグ問にもどりまつ・・・
盛り上がってきたところを、話をふりだしにもどすようで申し訳ないんだけど、
「念仏」と「題目」のきれいな対比をすっかり失念していたにゃ。
真宗の正式な念仏は、なんとスローなスィングで、
「なーもあーみだーんぶー(ブレス)なーもあーみだーんぶー(ブレス)」
というのを声調をかえつつ繰り返すにゃ。で、御存知日蓮宗の題目は、
奇数小節にアクセントのある3/4のワルツになっており、
「なん、みょう、ほう、れん、げ、きょう、なん、みょう、…」となるにゃ。
で、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」それぞれのモーラを比較してみると…。
どうもこのコントラストは、ひょっとしたら中世にまでさかのぼれるかもしれないし、
少なくとも「現代的」なものではなさそうだにゃ…。わたしがまちがえたにゃ…。
もし音節構造に関する<現代的な>要因があるとしたら、書記体系の教育の発達が、保守的に働くことだにゃ。
もし上代にcoffeeが伝来していたら、それは「こひ」とよばれ、現在では茶の訓読みが「こい」だったかもしれない。
が、現代以降、このような変化は起こりにくくなっているかもしれない。
(いや、若い人間の「もしもし」を聞いてると、最後の「し」がナゾの二重母音になっているから、
(/ましましぇぁ/みたいな)やはりよくわからないにゃ。)
>有史以前の日本語の姿
stemを推定すると、どうしても閉音節形態素がでてきてしまうってことかにゃ。
ごちゃごちゃしてすまんにゃ。またくるにゃ。
念仏・題目まで出てくるとは、虚無せんせ・・・
まるでギターと津軽三味線と佐渡の太鼓のバトルのよう。
>「なーもあーみだーんぶー(ブレス)なーもあーみだーんぶー(ブレス)」
>というのを声調をかえつつ繰り返すにゃ。で、御存知日蓮宗の題目は、
>奇数小節にアクセントのある3/4のワルツになっており、
>「なん、みょう、ほう、れん、げ、きょう、なん、みょう、…」となるにゃ。
へーへーへー!そういえばこちらの地方では念仏は
「なーむあーみだーんぶーつなーむあーみだーんぶーつ」
で、ブレスないので時々おばあちゃんが倒れて新聞にのりますにゃ。
「仏」の前の「ん」はprenasalかもですにゃ。だとすると、prenasalを上代の
清濁の「濁」とするか、それとも、中世あたりで有声阻害音に寄生するように出現したのか
どの説をとるかで、ある程度いつぐらいに成立した唱え方なのか推定できるかもですにゃ。
関係ないですにゃが、韓国の念仏は
「かん ぜー おん ぼー さる」
でtake five式かもですにゃ。
>もし音節構造に関する<現代的な>要因があるとしたら、書記体系の教育の発達が、保守的に働くことだにゃ。
そうかも、ですにゃ。
>「ピン・キ・ロ」という譜割りで作曲することはまずありえないように思われる
これも書記からの制約でしょうし、ジャンケンで「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」とすすむようなのも
この関係でしょうにゃー これって書記からの制約、とみるとトリビヤルな問題に見えますけど、
視覚情報、というか脳にストックされている視覚関連の単位が音韻構造の出力を規制している、
と考えると面白いことなのかもですにゃー(おもしろくないかもですけど)
>最後の「し」がナゾの二重母音になっているから
なぜだか笑えますたw 私もまたきますにゃ。
なにしろ、書記体系という偶発的な要素がなぜかくまでに単語の直観に影響を及ぼすのかわからないし、
かかる直観をはなれて、<語彙>あるいはその他の言語単位を画定しようとすると、
けっきょくのところ事実上の発話からのデータに依存せざるをえず、またまた言語単位が<確率>の問題になってしまうのか、
とりとめないけれども、いろいろなギモンがいっきょにまきおこるにゃ。
とりあえず、書記体系の脳内<表示>の概念は、認知心理的に妥当なものと思われる。
わかりやすくいえば、発話において、ヒトは脳内に表示された<文字のごときもの>を読んでいる
という想定は、かなりもっともらしいということだにゃ。
考えてほしいのだが、たとえば英仏独の3ヶ国語の撥音をかなりマスターした人間なら、
それぞれのナマリの日本語を即座に話せる能力があるのではないかにゃ。
この能力の発現のためには、心的書記というインタフェイス、
わかりやすくいえば「心的なアルファベット」を読むというプロセスがあるように思われる。
「井上」の英語訛りを撥音するときには、いったん'inoue'という心的表示に変換して<読む>ということなんだけど…
(in Norwayに似たイントネーションになる)
しまった…。こっちが
>>127より先なのにゃorz
>これって書記からの制約、とみるとトリビヤルな問題に見えますけど
いや、これが…
わたしの悪いクセは、重要な問題が提起されると長考に入ってしまうことなんだけど、
書記体系の知識の問題は事実上、(わたしが事実上といえば、経験科学的に、ということなのだが)
たとえば、語彙の同定問題について、非常に重要であるが扱いにくい問題をまきおこすにゃ。
チョムスキー理論において、言語学的直観はほぼ<生物学的直観>なので、
とりわけ教育の問題は問題にすらならない思うのだが、では、いったいナマの<単語>の直観とはいかに構成されるのか。
これは結局のところ、なぜツリーの先端に辞書の見出し通りの「単語」がぶらさがっているのか、
また形態的に分解したところで、たとえば(通常別単語にみえる)「更ける」「老ける」について、
「深し」の語幹fuk+u(become deep)として形式的に同一に扱って、なにかうるところがあるのか、
(このような語源的遡行をやりだしたら、きりがないにゃ。「明ける」はak(赤)+u、「暮れる」はkur(黒)+uとかにゃー。)
もう少しムダ口をかくと、どうも調べてみると、仏などのtをドロップさせるのは、
真宗のうちで「大谷派」とよばれるセクトらしいにゃ。
わたしは、般若心経も、「かんじざいぼーさー」と読むのが通例だろ思っていたから、
tドロップはデフォかと思っていたけど、違ったみたいにゃ。
ちなみに、大谷某は語族協和と仏法の理念の統合をめざした、かなり政治的野心をもっていた人物で、
わたしの中では、池田某と同程度にうさんくさい人物にゃ。
ところで語形成で、母音が連続するときの戦略はふたつあって、ひとつは「ありそ」みたいな縮約、
もうひとつはma+ao->masao(真青)、ma+omo->matomo(真面)、などの子音挿入なのだが、
後者についてはかなり特徴的なので、朝鮮半島にこのような語形成があったかどうか興味があるにゃ。
sil(糸)については、l-t交替は、某将軍様の名前などのおかげで非常によく知られているけど、
(あとmiduの古形milが、半島にあったとか)
ちょっと単発的にそういわれてもにわかには信じがたいにゃ。もっと「構造的」でないと。
でもひょっとしたら、金属技術集団の幡=畠氏と、布の「ハタ」関係とは動語源かもしれない。
某〇山氏も、技術集団の末裔であるがゆえに、エンジニア的発想をもっていたのかもしれないにゃ。
ではまたにゃん。
>でもひょっとしたら、金属技術集団の幡=畠氏と、布の「ハタ」関係とは動語源かもしれない。
>某〇山氏も、技術集団の末裔であるがゆえに、エンジニア的発想をもっていたのかもしれない
>にゃ。
ジグソーパズルのようで面白いですw
ところで虚無な人の中の人はイ九の中の人とリアルでお知り合いで??
うーん、難しい・・・というわけで無駄口から。
>大谷某は語族協和と仏法の理念の統合をめざした、かなり政治的野心をもっていた人物で、
そういえば語族協和をとなえ、それぞれの民族の独立国樹立をめざした石原莞爾も
熱烈な法華経信者でしたにゃー仏教というのは何か、そういう思想と親和性があるのかにゃ・・・
私にとってはあらゆる宗教はうさんくさいですにゃが。
(そういえば韓国でもっともポピュラーな便所の落書きは「神は死んだ」ですにゃが、
これに関しては、韓国人のこういうところ嫌い)
>でもひょっとしたら、金属技術集団の幡=畠氏と、布の「ハタ」関係とは動語源かもしれない。
金達寿せんせの『日本に残る朝鮮文化を求めて』(かなんか、正確な書名失念)の関東篇に
秦氏とゆかりのある土地の話があったやに記憶してますにゃが
>某〇山氏も、技術集団の末裔であるがゆえに、エンジニア的発想をもっていたのかもしれないにゃ。
某〇山氏が泣いて喜びそうな・・・
>ちょっと単発的にそういわれてもにわかには信じがたいにゃ。もっと「構造的」でないと。
うーむ、そうですね。反省。
まず呉音が漢音と異なり移入の時期が複数あり、経路も複数ある重層的正確をもっているような
ところが漢字音での上代日本語の古代朝鮮語からのloanword phonologyをややこしくしてそう
なのと(たぶん「一」などの「-ち」は朝鮮半島経由ではない、と思う)、'sil'対「いと」のような
固有語を含む奈良時代よりだいぶ遡る借用においては「うめ」「うま」のようにはっきりしてそうな
ものまで、ちゃんと立証されているとはいえない状況なので・・・んーこれは単なる逃げですにゃが。
個人的には'pyel'と「ほし(星)」、'pat'と「はた(畑)」は借用だろうと思っているのですにゃが。
(上代文献には「ほし」という語はほとんどあらわれず、「つつ」が用いられていて、中央では「ほし」と
いう語は用いられていなかった。しかし一部地域では用いられていたよう。)
上代、サ行頭子音は[t∫〜∫]、タ行頭子音は[t]と考えると、もし古代朝鮮語の音節末の/l/の
音価が現在のdark 'l'のようなものではなく、口蓋化したalveolar trill[rj]のようなものなら
日本語では[t∫〜∫]で受けたことは十分ありうるし、この場合epenthetic vowelは[i]がもっとも
ふさわしいものであろう。一方、[t]でおわる音節に関しては[a]が挿入されているのは、
動詞否定形において、子音末語幹の場合に挿入される母音が[a]であることと連動しているのかも
しれない。外来語受容において、何らかの母音を挿入する,という点では現代と同じような感じ、
しかし選ばれる母音は違っていた、と言えるかもですにゃ。漢字音受容では[i][u]が使われた
上代あたりが、現代の受容の原型かもしれないですにゃー 眉唾理論ですにゃが。
>もうひとつはma+ao->masao(真青)、ma+omo->matomo(真面)、などの子音挿入なのだが、
>後者についてはかなり特徴的なので、朝鮮半島にこのような語形成があったかどうか興味があるにゃ。
河野六郎せんせの説にしたがうと、上代文献に現在の'sai-sios'(属格的な働きをする's')にあたるものが
「之」で表記されていて、きっと語形成において[+coronal]の子音を挿入する、ということは
すでにあったものと思われますにゃ。「まさお」「まとも」の挿入された子音[t∫][t]がこれと
関連するもの、ということもあり得るかもですにゃ。しかしするとこれは母音連続を避ける手段では
なく、語形成における接中辞挿入が結果として母音をわけているということになるんですかにゃー
しかし一方で、[+coronal]というのはもっとも無標な素性で、ラテン語でも母音連続をさけるのに
rやsがあらわれていること、日本語内部でも受動形態素、使役形態素で母音連続をさけるのに
/r/, /s/が挿入される(削除説に立たないならば)ということを考えると韓国語との関連は
ないかもですにゃ。
書記と発音の関係については・・・うーんやっぱし難しい問題なのですね。
デリダのDe la Grammatologieも挫折してるし、なんか私が言えることってあるんだろうか・・・
何か思いついたら書きますにゃ。
えーと、とりあえず真上の文章に脊髄的にレスしておくと、
『グラマトロジーについて』は、デリダがまずrepresentとre-present(再現)とのあいだで<オヤジギャグ>をやりたかったと、
まずそれを中心にして読むとわかりやすくなるかもしれない。
わたしが書記体系の知識をもちだしたのは、もっとふつうの心理学的な意味合いであり、
フッサールが「自然的態度」にもとづくとして非難したほうの、凡庸な心理学のほうに、
むしろ立たざるをえない、いや立つべきだ、と思ってるにゃ。
(で、ストーリーとしては、フッサールは内省=コギトにもとづく「超越論的心理学」をうちあげ、
のちにその還元不可能な(=最も単純な)自我のコアについて、デリダからデコン何とかをくらうのにゃ。)(デコピンではない)
はっきりいって、現在の認知心理の成果を正当に評価するならば、
あるしゅの観念の(たとえば黄色とかの観念)の根源について、内省のほうから接近するなどとは、
あまりにも不毛にゃ。それよりも、脳が純色の黄色と、赤と緑の混成による黄色を区別できない、
という「自然的態度」にもとづく事実の発見のほうが、よほど人間的英知に貢献するものだと思うにゃ。
人間の脳内に、音声にかかわる計算的機能、というと抽象的すぎるかもしれないが、
上のほうでいった「心的アルファベット」が存在することを実証することは、わりと見込みが立ちやすいと思う。
そしてこれは、いわゆる形而上学批判とはあまり関係がないにゃ。
(現前する「表現者」のいないエクリチュールは、形式意味と一脈通じるかもしれないが)
(エクリチュール=スクリプトで思いついたんだけど、書を最初に「かく」=掻く・欠くと訓読したのは、
どういうわけがあったのかにゃ。書とかいて、「ひく」でもよかったのではないかにゃ。
トンデモ学者がいってそうなことで申し訳ないけど、日本に「引っかく」ような書記体系があったということなのかにゃん。)
(いったん休むにゃ。どうも音楽から離れてきてるにゃ。)
ぶにゃー。昨日メールで外人を激怒させたせいで、調子悪いにゃ。
ほとんどstick to your assの臨界点まできたにゃ(assのところが、「太陽の届かない場所」になっていた)。
毛唐は怒らせるとコワイので、気をつけるにゃ…
>接中辞挿入が結果として母音をわけているということになるんですかにゃ
まず思いつくのは「つ」なんだけど、
>上代文献には「ほし」という語はほとんどあらわれず、「つつ」が用いられていて
こっちが、その「つ」がらみだという話もあるにゃん。「津つ」みたいな。
ところで、「真」「小」のような接頭辞的なものについでt,sの挿入がある例が多いんだけど、
このての接頭辞に「つ」は下接するのかにゃ。ちょっと思いつかない。「霧津雨」とかならまだありそうなのだが。
で、いかにも呉音的な結けち、節せち、七しち、鉢はち、罰ばち、など、
わたしは半島経由の仏教由来かにゃとか思ってましたけどにゃ。一イチについては、違うと…
([t∫]はとりあえず口蓋化したiで終わりやすい傾向はあるらしいが、
どうも呉音というのは一筋縄ではいかないらしい。
ちょっといま当て推量はやめとくにゃ。)
fataについては、なんとなく母音調和の類推で、おなじ母音になってしまったのかもしれないにゃ。
最後に無理やり音楽の話にもっていくと、現代のメディア日本語で、
ほとんどパッチム化している「である」の「る」についてなのだが、(ほとんど消滅しそうなほど弱くなってる)
「ある」に1音符の時代もやってくるかもしれない。
なんとなく「星野姓」を思い出してしまった不謹慎なわたし。ではまたにゃん。
>ところで虚無な人の中の人はイ九の中の人とリアルでお知り合いで??
未然形にゃ。
>ぶにゃー。昨日メールで外人を激怒させたせいで、調子悪いにゃ。
・・・何があったか存知ませんが、お気を安らかに、ですにゃ・・・
さきに
>(たぶん「一」などの「-ち」は朝鮮半島経由ではない、と思う)、
は書き方が不正確でしたにゃ・・・正確には王仁のような音博士が早くから
いたか、百済から流れてきた学僧などが中国南方音を比較的正確に
伝えていたのであり、朝鮮字音を伝えたのではなかった、ということで
>わたしは半島経由の仏教由来かにゃとか思ってましたけどにゃ
は、たぶんそうですにゃ。もっとも日本語の基層にまで達している
「にく」みたいな生臭いものも仏教由来なのかはわかんないですにゃが・・・
私も音楽からあまりにも離れてたことを申し訳なく思いつつカキコしてましたにゃ。
強引に戻していきますと、にゃ・・・
>なにしろ、書記体系という偶発的な要素がなぜかくまでに単語の直観に
>影響を及ぼすのかわからないし、かかる直観をはなれて、<語彙>あるいは
>その他の言語単位を画定しようとすると、 けっきょくのところ事実上の
>発話からのデータに依存せざるをえず、またまた言語単位が<確率>の
>問題になってしまうのか、
ここの最後の部分、<確率>の問題を、電子の位置の確定を確率で求めざるを得ない、というようなことと似たことかにゃー、と漠然と考え出したのですにゃ。
とはいえ、私自身、確率の背後にある数理がちっとも理解できていない有様で、確率を毛嫌いしてしまうところがあるのですにゃが。
ただ、子音と違い、連続的な性質を持つ母音が、一定の変異粋を許して実現されるのは電子の分布とむりやり同質の問題としてしまいたい衝動に
かられますにゃ。ここでさらに、連続的なものを離散化する音階について話をもって行きたい気もしないでもないですにゃ・・・ただこの穴路地は
一度虚無せんせに諌められたような気が。
書記形式が脳内でどのように表示されているのか、よく知りもしないコネクショニスチックな接近法のやりかたは、ニューロンの発火の
ordered pairだったか、たとえば/i/は<1,0,0,1>とか(適当に言ってまつ)、ここで確率が関係するとすると、発火が起こることに関するものなのか・・・
これはちょいと電子の分布とは違った様相を呈しそうに見える。
また迷子になっちゃいました・・・
>デコピンではない
デリダがフッサールにデコピンしてる姿を想像すると笑える・・・
フッサールの師ブレンターノ、ならびに兄弟子マルティはmethodologicalnaturalismをとってたんでしたよね?特にブレンターノの方は心理学に
関して公約してたとか。デリダのフォネー中心主義批判はよく知りもしないことですた・・・でも認知心理学のほうもよくわからないですが、
ない知識をしぼってギャグ問にコミットしていきますにゃ!
>エクリチュール=スクリプトで思いついたんだけど、書を最初に「かく」=掻く・欠くと訓読したのは、
>どういうわけがあったのかにゃ。書とかいて、「ひく」でもよかったのではないかにゃ。
>トンデモ学者がいってそうなことで申し訳ないけど、日本に「引っかく」ような書記体系があったということなのかにゃん
葉っぱに引っ掻いて書く、ってことなかったですかにゃ?連用形「かき」の
「き」が上代特殊仮名遣で、「書く」「掻く」「欠く」ですべて共通だったかにゃ?
いや、一段活用とかは甲か乙かで揃ってるから五段でも違いは出得ないかにゃ・・・
「えがく」が後世の複合によるのではなく早くからあるものだとすると、訓をあてる
段階ですでに「何かを二次元に固着させる」というような語義があったのかもですにゃー
ぎゃー、うっかり書きましたが「え(絵)」はweで、しかも固有語ぢゃないですにゃー
失礼しますた。
ちょっとフッサールがメロディ知覚について論考していたのを思い出して、
ちょっと調べてみたのだが…
これが、超微妙。というか、はっきりいえば、まったく特筆すべきもの何もなし。
おそらく、フッサール周辺の「心理学」は、現在にいたる実証的な心理学の系譜にはいってないにゃ。
まあ、精神分析やら、マルクス主義的・キリスト教的な流れを視野にいれた巨視的な観点からすればべつであるが。
とはいうものの、ついつい読んでしまって、時間を浪費してしまうのがわたしの悪いクセ。にゃ。
なぜフッサールがダメなのか、これについては簡単に述べることができて、
たとえば『内的時間現象のナントカ』での考察で、一つの音符を聴取しているとき、
一つ前の音符もまた<過去把持>によって意識されていると、
(これによって、旋律の知覚が生じる)
ところがこれと同様の認知プロセスが、1コの<音符内部>でもおきるらしいにゃ。
これでは、わざわざ音楽認知を考察した意味はまるでなくなって、犬の遠吠えでもなんでもいいことになってしまう。
ここで働いている<過去把持>は、いっぱんに時間的延長をもった対象について、
(つまり構造的な視点がまるでない)
普遍的な認識の根拠を与えてすまうのにゃ。このような論及は、すくなくとも、
おんがくについてなにか固有な知識を追求している(つもりの)このスレにはふさわしくないにゃ。
とはいえ、なんのかんのいって、読みふけってしまうのにゃ…
あらゆる表象(時間を含む)の構成について、つねに明晰な直観がともなっているという奇妙な確信、
これはじつは、おなじ問題領域をもつ仏教哲学の、逆転した姿かもしれないにゃあ。
わたしは、刹那滅思想(一貫した対象も自我もない)のことを思い出しているのにゃ。
ちょっと休むにゃ。
>葉っぱに
葉書のことかにゃ??
>「書く」「掻く」「欠く」ですべて共通だったかにゃ
えーと、「き」は甲類で共通なのではないかにゃ。しかし、それはこれらが「おなじ」語彙である、
強い根拠にはならないにゃ。
>一段活用とかは甲か乙かで揃ってるから五段でも違いは出得ないかにゃ
ちょっと考え込んじゃったけど、一段二段がそれぞれ甲類、乙類で統一されているとして、
だからといって四段がひとつの動詞について甲乙いずれかに統一しているかどうかという問題と、
(じっさいにはしていない)
四段動詞の連用形に甲型と乙型があって動詞を区別する根拠になる可能性とは、
ちがう問題ではないかにゃ。
「そろう」という語の解釈にかかわることなのだが…
いずれにせよ、「水かき」をストロークといい、漢字の一画もストロークというわけだから、
ことさら「かく」という語に、甲骨・金文みたいな書記体系を読み込むのがおかしかったのにゃ。
毎度、ぬるーい問題提起ですみませんにゃ…
あと、うえのほうで、representationとre-presentationの言葉遊びをデリダがやっていると書いたけど、
どうも、もともとフッサールがこの対比を用いていて、デリダが批判的に借用したみたい。
たぶんそうだと思う。
ぐだぐだでスマソにゃ…またもう少し建設的なことがかけるようになったら、またくるにゃ。
あー、なんかたいしたこと書けね〜(いつもですにゃが)
>あらゆる表象(時間を含む)の構成について、つねに明晰な直観がともなっているという奇妙な確信、
「超越論的コギト」っすか・・・とよくわかりもしないで言ってみるテスト。
先験的な自我ではないですにゃが、音声学で自分のアクセントの書き取りを
させたときのことを思い出しますた。理想化すると日本語のピッチは高か低か
だということを言わずに、世界中の言語の音調はだいたい三段階で、あとはその
組み合わせむにゃむにゃ、とか適当にいって書き取らせたら、音楽やってる人は
音符で、中国語やってるひとは中国語の声調でかきとってましたにゃー
この人たちはあとで日本語は高か低、そして下がったら上がらないから、
服部流のアクセント核があるかないか、ある時にはどこに、で完全にピッチパタンを
決定できる、と言ったときにちょっと抵抗してましたにゃが、拍ごとに
ピッチが決まっている、といって譲らなかった金田一春彦せんせを思い出しますた。
「絶対音感なるもの、ありやなしや?」ということは僕にはよくわかんないん
ですにゃが、こういった人たちが後天的に獲得したものさしをエポケー(?)
して、ある手続きによって超越論自我にたどりつき、そこから日本語のアクセントの
記述ということができるのだろうか、いやできはしまい、と反語を発して
しまうのですにゃ。
余談ですにゃが、中国語をやっていた人の中に、下がってから上がる、という
語がある、と記述していた人がいましたにゃが、これは声調の影響で
雑音を拾ってしまったのだろうかにゃ・・・これに対して、音楽をやっていた
人は呼気の減衰に伴うピッチの下降まで音符で書き取っていたのでびくーり
しますた。なんだか、スティーブヴァイを思い出しますた。
>これはじつは、おなじ問題領域をもつ仏教哲学の、逆転した姿かもしれないにゃあ。
>わたしは、刹那滅思想(一貫した対象も自我もない)のことを思い出しているのにゃ。
診療内科に通っているときに、せんせにそんな話を聞いたかもしれにゃい・・・
そのせんせはいつもナンバで歩いているという方でもある。僕はもう行くの
やめたんですにゃが・・・
>>葉っぱに
>葉書のことかにゃ??
むかし、葉っぱにとがったもので歌を書いてラブレターにしたとか。
「言の葉」の語源じゃなかったかにゃ?このへん適当ですにゃ・・・
どっかで調べてきますにゃ・・・
「書く」については、『古事記』のはじめのほう、日本列島の創造神話の
ところで、神様が天のぬぼこで海を「かき回し」て作ったという、その「かき」に
「書」が宛てられてましたにゃ・・・
意外と
>「水かき」をストロークといい、
このあたりが原義で、結果の方(引っ掻き傷、痕跡など)のほうは
その時点で含まれておらず、つまり「かく」とはmanner of motionの
動詞だったのかも、ですにゃ。
hosyu
hosyu thanx
つまんないことばっか書いてスレストップさせてしまいますた・・・
反省・・・
といって、面白いことも浮かばないのですが、音ギャグと言語ギャグがらみで
関係しそうなことを書いてみますにゃ。
ちょっと前に上代の歌謡の韻律のグルーピングについて書きますたにゃが、
どっかで記紀歌謡から万葉の短歌成立までに関する論文をみつけますたにゃ。
まず記紀歌謡は歌い親しまれている形式として、歌作上の定型のようなものは
はっきりしていなかったのが、やがて片歌形式として五・七・七が生まれ、
その繰り返しの旋頭歌や長歌が生まれ(五・七・七・五・七・七)、
長歌の反歌、あるいは最後の部分の析出として短歌が生まれたとか
(うーん、適当。今度ちゃんと書きます)
基本は偶数で、一音節分を休符として五とか七になっている
(古い形には三とかもある)
万葉集には四とかもあるのだけど、これって休符なしってことだよねー
で、なんで、休符を入れるような形式へと変わって行ったのか、
とちょっと疑問におもいますた。
単に、別になくったっていいじゃん、って思っただけです、失礼・・・
では煎って参ります
無理やりこじつけ。
和歌は七で終わるわけですにゃが、このつくりは意味的な
解消感を必要とする。そこではさまざまな方法で解消感を
つくるのですが、これもまた今度。ケーデンスとセマンチック・ケーデンスの
むりやりな対比。
いやいや、つまんないとかそういうことではなくて、
せっかくフッサールの問題がでてきたのだから、ただやりすごしては申し訳ないが、
こっちのほうでわかりやすく問題を整理する能力がなかったのにゃ。
まず第一に、世俗的な書記体系(識字)に対するあるしゅの畏敬があり、
そのなかに(専門家ですら)民族主義的な<漢字書記体系>をデリダが見直したみたいな思い込みもある。これは問題外。
つぎに、『グラマトロジー』のなかに、世界秩序の<書記体系>による比喩、
「世界は数学的な書物だ」みたいな言い方に対する警戒だあるにゃ。ここまでがデリダの射程。
そして、わたしのいいたいことは、デリダが数学に対して必要な考察を行ったかどうかなのだが、
デリダの結論は、あいまいながらも、<音>に服従していることになっているにゃ。
さて、>つまり「かく」とはmanner of motionの
動詞だったのかも、ですにゃ
のところはじつに面白いところであって、じつはエクリチュールの拡大解釈のひとつの要素となったぶぶん、
つまり単なる書かれたものではなくて、それはあるしゅの空間的・質料的イベントであり、
いっぽうイデアのほうは瞬間的・点的であるとともに永遠でもある、つまり非-時間的なものということで、
これが世界的であるかいなかということで、両者が対立するという構図になるのにゃ。
この対立を媒介するものとして、形式的でありながら<主観>というか直観する誰かを必要としない<数学>が問題となってくる。
これはいわゆる形式意味論ではおなじみの<意味なし>の真理というものの地位にかかわってくるわけですにゃ。
まあ、ほとんどわかりにくいとは思いますが、ちょっとここまで。
うわーん、虚無せんせ、長考妨げて反省なのです・・・
>まず第一に、世俗的な書記体系(識字)に対するあるしゅの畏敬があり、
>そのなかに(専門家ですら)民族主義的な<漢字書記体系>をデリダが
>見直したみたいな思い込みもある。これは問題外。
私はこの思い込みにつられていたかもしれないですにゃー→問題外
とはいえ、(少なくとも昔の)生成音韻論のアプローチをとると、
英語の語の基底表示は限りなく表記に近くなり、それと同時にラテン語などの
ルーツにも近くなる。これによって、見かけ上、私が思い込んだデリダと
似たような、「歴史的綴り字原理主義者」のようになるわけですにゃが、
一応生成音韻論者とかPikeはそんなのとは無関係に、脳内の表示に
表記は自然と近くなる、という(思い込まれた)デリダとは逆の主張を
することになる。
これと関係しそうで、虚無せんせが前に言ってた話に絡みそうなこととして
思いついたのが、日本語話者のモーラ獲得に関する「表記説」。文字を持たない
子供などの観察から否定されているようなのですにゃが、日本語話者が
モーラを様々な音韻現象に駆使するようになったのは、「かな」のせい、
って話。
うーん、敷衍しようと思いましたが、力およばず・・・
>つぎに、『グラマトロジー』のなかに、世界秩序の<書記体系>による比喩、
>「世界は数学的な書物だ」みたいな言い方に対する警戒だあるにゃ。
>ここまでがデリダの射程。
確か『ヨーロッパ諸学の危機と・・・』のフランス語訳の付録に、
「幾何学の起源」の長い解説をデリダは書いてませんでしたか?
内容は覚えてないですにゃが・・・ネオ・カーテシアンとでもいうべき
フッサールを、デリダはどのようにひざかっくんさせ、実証主義を
復権させたのか(させなかったのかにゃ?)
あー、ハイデガーとデリダのオヤジギャグの系譜の印象が強くなりすぎて、
もう頭がまわらない・・・
>そして、わたしのいいたいことは、デリダが数学に対して必要な考察を
>行ったかどうかなのだが
>デリダの結論は、あいまいながらも、<音>に服従していることになっているにゃ。
ガリリアン・スタイルに対し、フッサールは「起源切れ」の実証主義批判を
行った、と思っていて、デリダはエクリチュールについての考察から
「起源切れ」を肯定していたのかと思っていました・・・
うーん、なんだかよくわかんなくなっちゃいました。勉強しますにゃ。
>この対立を媒介するものとして、形式的でありながら<主観>というか
>直観する誰かを必要としない<数学>が問題となってくる。
うーむ、これは、現実に三角形を描いて、それを公理から導出される性質の
集まりとしてみる手続きとして、人間を離れた<数学>が必要、
ってことなのですか?
やっぱりわかりませんでしたが、まったりよろしくおねがいしますにゃん。
いやもう、おつきあいいただいてまことに申し訳ない…
ときにわたしのレスはかみあわないことが多々あるんだけど、
それはじつにわたしの非力のせいであるとご容赦ねがって、すすめようかと思いますにゃ。
>「起源切れ」の実証主義批判を
ここのところは、安直な経済からの比喩を用いさせてもらうけど、
(経済と言語の対比は、安直にもなれば、じつに深遠にもなるにゃ。)
通貨にとって金への交換可能性は必須なものか、それとも、
<交換の場>というアクティブな空間があれば矛盾なく稼動していくものなのかという問いと、
フッサールのいう自然主義的な態度によって流通しているさまざまな諸概念が、
はたして超越的な主観による絶対的な確実性を必要としているかという問いは類比的である。
このてんで、フッサールはデカルトを再評価したとかいうレベルではなくて、それこそ再-現前にゃ。
で、デリダは、そのような直観的確実性はすでに世界的に(質料的に)「汚染されている」といいたいわけで、
このぶぶんで金=イデア(なんちゅー比喩やねん…)からの価値の裏書みたいなものは、
内側からの危機につねにさらされているというようなことを言いたいのにゃ。(実証主義ではないにゃ)
で、ここで、わたしがいいていのは、はたして数学が、このような直観的な確実性を必要としてきたのか、
すくなくとも、カントがユークリッド幾何学を先験的要件としたのはすでの同時代の数学者に否定されかかっていたわけだし、
真理の公理主義的見解がめずらしくもなんともなくなった現代では、
真理の公準を直観的確実性に求めるのはむしろ奇異であるにゃ。
そしてわたしの問いは、そのような(真理を形式的に生産するような)動きは、伝統的論理学のなかにすでにあるのだし、
はたしてそのような真理の集合は、意識=声に照らされる必要があるのか、ということなのだが、
これはちょっとぶっとびすぎな問いかけなので、とりあえずもう少し具体的な問いとなると、
数学的命題を自然言語に<読み下す>とき、意味論的にはなにが起こるのかということかにゃー。
フッサールのあるしゅのプラトニズムっぽさは、じつは幾何学からの考察に由来するものなのだが、
なぜにわたしとのギャップがこれほどひろがったのか、もう少し内省してみるにゃ。
とにかく、これからも雑文のお相手よろしくおねがいしますにゃ。
超越的な主観→超越論的な主観m(_ _)m
超越という語はなかなかてごわいけど、フッサールのばあいは、構成ということでいいと思う。
いちおう、バラバラの印象みたいなものから、イデア的な構成がなされるということで、
われわれが表象するものはほとんど超越的なものばかりであるにゃ。
もう少しついでに書くと、わたしのあてにならない当て推量では、
就学前にすでにモーラの心的グリッドは成立していて、
その後の書記体系の学習はたんにそれを裏書するものではないのかにゃ。
たしかに書記の知識なしで「チョコレート」を「チ・ヨ・コ・レ・ー・ト」というかどうかはギモンだけど、
それと、モーラそのものの心的理解とはべつのような気がするにゃ。
「井上」は、英米人にとって自然な発音が非常に難しいとどこかで書いたかもしれないけど、
たいがいの「井上くん」は、就学前に自分の名前をかなり正確に発音するものと思われる
こちらこそなんか役不足でもうしわけねーっす。いつも虚無せんせのカキコは
insightfulでどきどきするのにゃ。
やっちゃいけない、ぶんみゅあくから切り離しての勝手な引用ですにゃが
>はたしてそのような真理の集合は、意識=声に照らされる必要があるのか、ということなのだが、
なんか、むねキュン・・・いまいち、私の<声>の理解は「自我が真理を話すのを聞きたい」という
程度のお粗末なものなのですにゃが・・・ただよく公理体系のsoundness, completenessを
証明するときに出てくる、「極大無限集合において、ある部分集合の元を「てきとーに」並べると」
というところに人間くささ、というか「てきとー」に塩梅されたX論的自我(Xは超越論的、と
言っていいのかわかんにゃい)への問い合わせがある気がしてならないですにゃ。
多くの数学者の信念、というか信仰とする、神が独り占めしているエレガントな証明を掘り出す
という作業は、<声>に照らし合わせて、というもの以外のなにものでも無い気が。
もっともこのことは数学本来の性質とは一応独立の問題だと思いますにゃが、
この問題を相談するべき数学者はあてになりそうにないし、かといって数学的直観を
離れた哲学者の議論はもっとあてになりそうもない。
ここは虚無せんせの答えを待つしかない(これはお世辞とか、プレッシャーとか、全然
そういう性質のものでなく、たんにそう思うだけですにゃ)
>これはちょっとぶっとびすぎな問いかけなので、とりあえずもう少し具体的な問いとなると、
>数学的命題を自然言語に<読み下す>とき、意味論的にはなにが起こるのかということかにゃー。
ε−δ論法は自然言語に<読み下し>ちゃいかん、とよく言われますが、
これは意味論的に何かが起こるからなのでしょうにゃ。しかし読み下してしか理解できない
私には不可知の問題なのですにゃ・・・
いつもありがとうございますにゃ。明日から数日、出稼ぎに行ってきますので、しばし
失礼しますにゃ。
昔、生成スレの論議の中で、わたしに対しのレスだったような気がするが、
例の言語の無限再帰的性格が、事実上われわれの直観には不可能だと、
そのようなご意見をいただいたが、じつをいうと、これはあんまり考えられたレスではなくて、
まず第一に、無限と「ものすごく大きな数」というものを区別していない。
経験不可能性からいえば、無限はむしろ<ゼロ>に近いのであるにゃ。
だがしかし、無限の「適切な解釈」はたかだか近代に起源するにすぎないということと、
多くの人にとって、無限はやはり「ものすごく大きな数」を「連想させ」、
これらふたつの、学術的には「類似していない」観念がなんらかの同一の起源をもつとするならば、
無限の素朴な解釈も、ただたんに「認識不足」とか、安直にかたづけられるべきではないのだにゃ。
(おそらく無限に類する諸概念が、一般的な量に対して有標であることはまちがいないのだが)
この問題は、いっぱんに自然な観念の、科学的な洗練、多くの場合数理的な再解釈ということになろうが、
「数理的な再解釈」とは何なのか(そのなかには落体現象も含まれる)、それはいっしゅの隠喩なのか、
(たんに指示物のちがい、という解決はいただけない)
この問題もまた、わたしを長考に至らせ、生成スレをしばらくたちのいた原因となったものにゃ。
これではレスになっていないので、またくるにゃ。
158 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2005/08/29(月) 18:40:28
>多くの人にとって、無限はやはり「ものすごく大きな数」を「連想させ」、
心理学用語ですが、そういうのは「素朴概念」ってやつですよ。
ヒトが非論理的な考え方(というより「感じ方」)をすること。
非論理的ではあるが、実際の生活・生存には適している場合が多く
その意味では非常に「合理的」だったりもする。
あたかも「真理」と関係があるかのように思われてしまう場合が多いが
あくまで心理的なシロモノなので、
眉にツバつけてかからないと嵌ってしまいますよ。注意。
159 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2005/08/29(月) 18:44:45
物理とか数学とかには素朴概念と矛盾することがいくつもあるので
そういうのを利用したひっかけクイズとかパラドクスとかが見られますね。
「ヒトはなぜ○○をこのように感じるのか?」と本質的に考えることは確かに興味深いですが
「それは何か真理に関係あるに違いない!」 となってしまうのは短絡的、というか危険。
(それもまさに素朴概念の一種なのですが。)
虚無せんせ、ただいま、ですにゃ!
>この問題は、いっぱんに自然な観念の、科学的な洗練、多くの場合数理的な
>再解釈ということになろうが、「数理的な再解釈」とは何なのか
>(そのなかには落体現象も含まれる)、それはいっしゅの隠喩なのか、
>(たんに指示物のちがい、という解決はいただけない)
以前、生成スレで仇閣下へのレスだったかどうだったか、自然数の数理的
解釈について、0に{0}=1を再帰的に足していくというような定義に対して、
ウィトゲンシュタインは演算子Ωの適用回数=自然数というような話を
虚無せんせ、してませんでしたかにゃ?ウィトゲンシュタインのスタイルは
たしか数学に対する論理主義とは袂をわかっていた、と理解しているのです
にゃが、この点については論理主義的な気がします。ただよく理解してない
だけの気が・・・しかしもしこの理解でそう外れてないとしたら、ペアノ算術は
やはり「単に指示物の違い」というところに落着きそうな気もしないでもないです
にゃが、0に限りなく近い小さな数の存在定理は論理主義的か?
しかし数学に対する論理主義は数学者からの反発も強いようですし、
というか、なぜか生産的な数学者は数学的プラトニストばかりのような気も
する。結局直観主義だなんだといっても数学的プラトニストの中の
一スクールではにゃいのか。
まー私は自称「なんちゃって数学的プラトニスト」ですが、虚無せんせは
真性数学的プラトニストとして、フッサールがまた数学的プラトニストで
ある、というのは、同じ「プラトニスト」でも大きく乖離がありそうですにゃ。
フッサールが数学的プラトニストというのは不勉強で、今まなびますた・・・
しかしそれはなんとも意外な・・・しかしそれが再-現前としての
イデア論なのでしょうか。にゃ。
言語と貨幣のアナロジーについては、前になんという人だったかの
『貨幣論』だかなんだかという本を読んで、へー、と思ったことが
あったのですが、どこにあるか、探し出してもいちど勉強してみますにゃ。
いや、ここでは言語とのアナロジーではなかった・・・イデア=金。
兄弟の子供にinborn error of metabolismの可能性がある、とか今日の午後に
いわれ、頭がぐじゃぐじゃなままあちこち車をはしらせていたのですにゃが、
医療関係の知り合いとかにそれほど大事ではない、と教えてもらい、全身に
血の気が戻ってきますた。やっぱり仏様は毎日おがまないといけないのかにゃ・・・
>158-9氏へ
sage進行でおながいしますにゃ。underground音gag雑談スレ
(including musico-linguistic harmony notes vs. anarchy notes)
なもんで。
ところで、数学者は無限は手玉にとるけど、ものすごく大きい数では
何が起こっているのかわかんない、って恐怖心があるみたいな話、どこかで
みましたにゃ。たぶんそれには素数の分布とかの話も絡んでるんでしょうけど、
言語学者はそういうことはないのかにゃ?以前から、たとえば依存で介するbounding nodeの
数が1だといいけど、それ以上だと+nでnだけ適格性がdegradeされる、という
ことはあるけど、そこに3だとどうだ、5だとどうだ、っていうことは
ありえないだろうなー、と思ってたんですけど、Syntaxって雑誌に
そういうことに認知心理学でいわれる7が記憶という点から関係してくる、
という話があって・・・意味論スレでちょっと書きかけてなげちゃったん
ですにゃが、そういうことがあると、ある操作とかそれに関する制約に
ついて、「数える」ってことは関係ないと一般に言われているわけですにゃが、
すごく大きい数ではなんか起こっている可能性があったりして、とか
おもったりして、ですにゃ。ただ事実上、そんなものは実践上現われない
わけですから取り上げられないか、取り上げる意味が見出せないものな
わけですにゃが、無限については普通に、というか安心してやってるけど
(中には「定義に無限を組み込むのはなぜ?」とかいう人もいますけど)
数理言語学的関心から離散無限ということを考えたとき、それとともに
離散「すげーでけー数」みたいのをやってもいいのではないかと思う。
Chomskyは意味ねー、っていうでしょうけどにゃ。
なんか形式言語gagと哲学の話が同時にすすんでると、それを
やってたJean-Claud Milnerを思い出しますにゃ。確か『不分明な名』という
タイトルで邦訳がでてたとおもいますが、かってにゃい。形式言語学というか
生成文法では手元にde la syntaxe a l'interpretationという本があって、
量化表現をよく扱ってましたにゃ。あとNicholas Ruwet。数年前に
お亡くなりになって・・・Ruwetの古い本で生成意味論の良質の概説みたいのが
あって、そこには統語論でもpurpose clauseに関する重要な観察が
あったり。若い頃はそんな言語学者を憧れのまなざしでみていたにゃー
今は自分の限界を知ってしまったし・・・
いろいろ述語上の混乱がわざわいしてるにゃ…
えーと、ここは哲学のスレではないので、まあ、どうでもいいといえばどうでもいいんだけど、
まずはイデアが質料性を免れているゆえに、非-時間的であり、なにもそこなわれることなく再現前可能であり、
そこのところは観念論者の共通の符丁のようなもので、フッサールはそこのところを幾何学のなんとか、
幾何学の起源かなにかで説き起こしたらしいので、ここのところが一般的な「プラトニスト」っぽさで、
ウィ(ry)かなにかがめのかたきにした「数学的プラトニスト」ではないにゃ。
「なにも損なわれることなく再現前」というご都合主義が、デリダのしゃくにさわったところで、それが<声>。
てなわけで、エクリチュールはイデア性一般の批判になるわけだが、そこに数学の<厳密性>もからんでくるところなのにゃ。
うえのほうに「数学的直観」の語がみえるが、このように「数学的判断」とか俗に言う「数覚」とかと交換可能な文脈で
「直観」の語を用いると、わたしの意図したものとはかなり異なってくる。
直観なき数学が、「判断する主体なき数学」みたいな意味のなって、人間がいなくても円周率は決まっていたか、
みたいな、夏休みの終わりにふさわしいようなひまつぶし哲学談義になっちゃうにゃ。
(このスレは、むしろ人生の終わりにふさわしいようなひまつぶし哲学談義。ややオヤジむけ)
まあ、純粋直観とことわればいいのだけど、一般にある判断はさらに単純な判断に分解され、
最終的には、疑いようもないほど単純で論証の余地すらない真理の層につきあたるが、これが「直観」、
フッサールのよくだす例では、色の表象は必ず延長をもつとか、直線の表象がどうとか、そういうのにゃ。
だから、直観なき数学といっても、必ずしも人間不在の数学ということにはならないのにゃ、わたし的には。
ちょっと理屈っぽくなっちゃったけど、事情により今日はここまで。
音楽と、なにもかかわりがなくなったと思われるむきもあるかもしれないけど、音楽に言語的な位相があるとすれば、
意味なき純粋形式のようなもの。この議論は、それほどスレのテーマからはなれていないと思う。
ほとんど書きなぐりな私は、厳密を期そうとしてもなんか出鱈目になって
しまう・・・とほとんど開き直り的なことをいいつつ、反省。
>だから、直観なき数学といっても、必ずしも人間不在の数学ということには
>ならないのにゃ、わたし的には。
実はこの点についてずっと虚無せんせを理解できないでいると思うのにゃ。
単純な椰には、だから虚無せんせがコギトを復活させようとしているように
見える場合がある一方で、「人間がいなくても円周率はきまってる」という
ような主張をする人、あるいは人間がいなくても言語は存在する、というような
モンタゴヴィアン普遍文法の話をしているように見える。単純な椰=こさかな。
しかし、だからといって虚無せんせにこの点をはっきりしてほしい、とは
思わないのにゃ。この「?」が私をこのスレにいざない、つなぎとめ、
虚無せんせのことばに耳を傾けさせているもののような気がしますにゃ。
>音楽と、なにもかかわりがなくなったと思われるむきもあるかもしれないけど、
>音楽に言語的な位相があるとすれば、 意味なき純粋形式のようなもの。
>この議論は、それほどスレのテーマからはなれていないと思う。
私もそうおもいますにゃ。というか、虚無せんせにデリダの戦略を解説して
いただいているような申し訳なさとともに、実は前に虚無せんせがすすみかけて
口をつぐんでしまった原理論(の一つ、おそらく)にさしかかっているように
うけとってますにゃ。
あぁ、もうレスが…。どうもですにゃ。
>厳密を期そうとしてもなんか出鱈目になってしまう・・・
そりゃわやしですがにゃ。わたしの立場がなくなってしまうにゃ。
で、わたしがコギトを復活させようとしている、というのは、ちょっとちがうんだけども、
まず、あまり気が進まないけど、20世紀にはいわゆる「無意識の発見」と俗にいわれるものがあって、
フロイディズムと連結しているところが非常に不快なんだけど、そのほか構造主義の<季節>みたいなものがあって、
結果的に原理的に意識にのぼらないような(しばしば数学的に記述される)プロセスが、認識に直接・間接的にコミットしていることは、
チョムスキー信者でなくても、かなりひろく理解されていると思われる。(音楽認知も格好の一例)
そして、意識にのぼらないのに、<わたしの認識>の一部として原理的に機能しているナニカが関与せざるをえないということは、
デカルトの正統な後継者としての現象学にトドメをさすにほとんど十分なのじゃないかにゃ。
ここにおいて、パラダイムだか、フーコーによるエピステーメーの断絶だかと同様の、通約不可能性があるにゃ。
事実上、色彩の認識を含むような意識について、
内 省 に よ っ て 見 通 し が き く という考えは、
現代では、相対的にせよ、もはや<異文化>のようになったような気がするにゃ。
だからこそ、いまごろフッサールなんか読んで、いっしゅの感慨をおぼえているにすぎないのにゃ。
それはあるしゅの屈折した感情で、まあ、半分バカにしているのだが、フッサールの救われない生涯のことを考えると、
いわくいいがたしというか、あんまし感情的なコメントをいう気がしなくなるにゃ。
とりあえずコギトの復活も、絶対的明証性みたいな亡霊のような概念も、内省から得られるという意味からは、
あと、「心理学」(現代的ないみでも、通俗的ないみでも)のいちぶとしても、まったくありえないにゃ。またくるにゃ。
いえ、こちらもレスどもです。
>とりあえずコギトの復活も、絶対的明証性みたいな亡霊のような概念も、
>内省から得られるという意味からは、 あと、「心理学」(現代的ないみでも、
>通俗的ないみでも)のいちぶとしても、まったくありえないにゃ。
なっとく、というか復習しますた。
ちょっと私の飲み込みが悪いためにお手を煩わせてしまっている
ような気がしますにゃ。一巡りして、最初の地点に戻らせてしまって
いるような。しかし虚無せんせがフッサールについて言わんとしている
ことははっきり理解したと思いますにゃ。
ではまた。またまたーりとよろしくお願いしますにゃん。
欲しいときにでて来ない拙者の本。大して山となしてない蔵書の
塊のなかから見つけたでやんすよ
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(木田元訳)。
付録二の「幾何学の起源」、暇見てよもーっと。
そういえば関係ないですが、小松英雄せんせの本(一般向け)を立て続けに
二冊よんだのでつが、なんか感銘うけたっす。かつて教えを受けたせんせの
せんせなのでつが、全然スタイルが違う・・・謎
で、詩歌の分析に基づいて古典文法を構築することには慎重に、とのことで、
しばらくその方面に興味を持っていたので欝 このスレとしては詩歌の
分析でいいわけでつが
なんとなく保守。仕事のため期日前投票に行ったら選挙人名簿に名前が
なかた。俺はもしかして在日外国人だったのか・・・躁
幾何学関連では、E・カッシーラー『実体概念と関数概念』(みすず)からひとこと。
(この本はどこをとってもおなじ主張の繰り返しなので、引用箇所には事欠かない)
「この意味で(個別の実体概念から、論理的産出的な関数概念への流れ:虚無好き)近代幾何学は、
『間(あいだ)』という一般的関係のような、最初はそれ以上分解不可能な感性的存立であるかのようにみえた関連を
そのような制約(感性的所与として究極的単純であるから、それ以上に原理的な連関を求めることは不可能だという憶測
からくる制約:虚無好き)から解き放ち、自由な論理的使用にまで高めようと努めている。」
「この拡張によってわれわれは、間(あいだ)の概念を、当初それが理解されていた直観的内容から独り立ちさせ、
それが指している関係がもはや直接的・直観的相関物(この「相関物」は、<指示物>ということでいい:虚無好き)を有さない
ような系列にも適用することができるのである」p.105
以上のことから、「直観を必要としない」数学的概念がいかなるものか、わかっていただければさいわいなのであるが、
この書物は数学の無矛盾性の危機の以前に書かれたものであるし、いくぶん時代がかっていることも認めなければならないだろうにゃー。
おおまかにいえば、引用のなかで言われているような<関数概念>を
自然言語の構造の記述にもってこれるかというところがおもな関心となるにゃ。
昨日、サンプロで櫻井先生を見たにゃ。軍事リアリストのわたしにとって、
ただただ頭のさがる思いでしたにゃ。小泉の季節が終わったら、政界入りしてほしい。
平和ボケ憲法をあぼんして、「砲艦外交」を展開してほしいにゃ。
虚無せんせ、おはよっす&ありがとうございまっす
>最初はそれ以上分解不可能な感性的存立であるかのようにみえた関連を
>そのような制約(感性的所与として究極的単純であるから、それ以上に
>原理的な連関を求めることは不可能だという憶測 からくる制約:虚無好き)
>から解き放ち、自由な論理的使用にまで高めようと努めている。
「直観を必要としない」数学的概念、わかりますた。
でも、これは私にとって、日常的感覚から離れた科学的概念を論理的に
問題なければ創造的につかってもよい、というようなこととの区別が
つかにゃい。写像の理論は、やはり妥当性のほかに審美的観点からも
選ばれるのでしょうから、これは数学者の直観を使う領域が増えただけ、
という気がしてならないですにゃ。ブルバキ流の数学は公理主義
(なんかこの訳はだめ、ってどっかで読んだ希ガス)
を数学全般を覆わせ、数学研究のスタイルを変えたと思うのですにゃが、
やはり直観なしということにはならないと思いますにゃ。
無矛盾性も、数学者が真であると知っていながら証明できない命題が存在する、
ってことじゃなかったでしたっけ?Erdos Paulは不完全性定理を
数学の限界ととらえるのではなく、むしろ数学者の直観をある方法では
汲み尽くせない、と捉えるべきだと言ってたとか。
むぅ、もしかして「直観」の定義の問題?
むにゃむにゃ。観念論とはいえ、かなり穏健なぶぶんを援用しただけに、
理解がえられなくて非常に遺憾。
>日常的感覚から離れた科学的概念を論理的に
>問題なければ創造的につかってもよい、というようなこととの区別が
つかにゃい。
そんな区別は、そもそもいらんにゃ。てゆーか、そのように創造的につかうのがもっぱら数学の操作となるにゃ。
さもなければ、現実世界に照応する実体がないという理由で、4項以上の乗算を拒否したギリシア人と、
実質的にはおなじことになってしまうにゃ。
直観の定義のちがいということはありうるが、わたしはこの語を、あまりに単純で明晰なゆえに、
論証の必要がないような真理の看取という意味で用いており、それは数学史のなかでしばしば裏切られてきたものにゃ。
この「裏切られる」の意味は、自然科学が日常的な自然理解を瓦解させるみたいなコペルニクス的ナントカとはまったくちがい、
わざわざ直観的真理にもとる公理から出発しても、十分ゆたかな体系が導出できるということであり、
まあ、例のおなじみの事実にゃ。(あまり言いたくない)
20世紀におこった数学上の転換といわれるものが、この見解と矛盾するとはとても思えない。
「事象にかえった」フッサールは、負け組にゃ。
不完全性定理は、無矛盾性と完全性のいずれかは犠牲になることを示したのであり、
それが予言している<未決定な>命題について、構成的に示しているわけではないにゃ。
なんらかの「インスピレーション」で、数学者がそれが真であることを「知っている」としても、
ここでの議論とはあまり関係ないにゃ。
>むにゃむにゃ。観念論とはいえ、かなり穏健なぶぶんを援用しただけに、
>理解がえられなくて非常に遺憾。
ガーン!(;д; )
でもこのカキコはよく理解できたとおもいまつ。
>わたしはこの語を、あまりに単純で明晰なゆえに、論証の必要が
>ないような真理の看取という意味で用いており
哲学音痴(スレにかけた・・・)の私としては全くこころもとないのでつが、
私の理解を披露(はずかしー)
このようなものはself evident,あるいはobvious、これに対して
急に言語学にもどりまつが、なんだかわかんないけど、どれが「文」で
どれが「非文」であるか、別の例では何が生物学の対象で、何がそうで
ないかを理論なしで判断できるようなのをintuitionだとおもってますた。
そして簡単な論証で済んでしまうようなものをtrivial。
ついでに自分の中でおこっていることを自分でみつめて理解しようと
するのをintrospection。
たぶん誤解してるこれらの語を、適当に置き換えすると虚無せんせの
話がよく理解できてる、と思いますにゃ。虚無せんせは以前「数覚」の
話をしてたと思いますにゃが、それについても私のほうの頭の按配を
適当に調整して、今理解できたとおもいますにゃ。
>まあ、例のおなじみの事実にゃ。(あまり言いたくない)
いいたくないところをあえて確認すると、ヒルベルトの話ですかにゃ?
>「事象にかえった」フッサールは、負け組にゃ。
どうように、最近のチョムスキーは負け組かにゃ・・・
あんまし乗り気でない書き込みを、長すぎるといわれると、ほんとうになえる…
============================
えーと、(古典的)幾何学というものが感性と論理のあまりにも美しい調和を実現したために、
全体として数学の正体がわからなくなった事情があると思うのにゃ。
わたしも言語学の比喩を用いるが、文法的正しさというものは現実から自律的であるゆえに、
「うさぎがライオンを食って」もいっこうにかまわない、そういう常識のほうから文法の自律性に文句をいわれてはかなわない、
という、まあ、似たような事情があるわけなのにゃん。
それをいくぶんこむずかしくしたのが、数学が、じつは直観から自律しているという問題で、
このことは20世紀の<(現代的)直観主義vs形式主義>の対立とは直接は結びつかず、じつは伝統的とさえいえるような問題にゃ。
(わたしが言いたくなかったのは、おなじみ平行線公理の問題で、じつはわたしは、けっこう古典的な見解をいってるのにゃ。)
さて、ある任意の曲線のうえにふたつの点をできるだけ近くにおいてみよう。
その間の距離は無限か有限かと問われたら、おそらく誰もが有限だと答えるだろう。
そのふたつの点は、好きなだけ近くにおくことができるのだから、無限の距離をへだてているというのは、
明らかに「ばかげている」。もし望むならば、われわれはそのことを、「ア・プリオリに判断できる」といってもいい。
だがしかし、自己相似的な曲線上では、2点間の距離はつねに無限になる。
さらにいえば、このような曲線はたんなる<思考の産物>ではなくて、自然界の形状を非常によく説明することも知られているにゃ。
まあ、俗っぽくいえば、アームチェアにふんぞりかえって「これぞア・プリオリだ」などといわれている「真理」は、
たいがいその後憂き目をみているのではないかにゃ。以上のことは、人間知性にまつわっておこった事件の、ほんのいちぶにすぎない。
intuitionの意義も、無意識をからめるかいなかで、大きく変わることになるのではないかにゃ。
(そのてんで、チョムスキーは勝ち組、というか「勝ち逃げ」)
数学の正体の解明は、わたしからみれば、まだ自然科学の正体の解明よりまだ簡単な問題にゃ。
だがしかし、直観不在が、あまりにも内観の否定、主観全般の不在、(「数覚」すら不必要)思わせてしまうことがわかったので、
これから言葉遣いに注意することにするにゃ。
(以上、かきなぐりなので、あんまりするどくつっこまないでちょ、にゃ。)
ちょっと補足だけど、フッサールの意図は、ボトムアップ式に確実なものから、
<超越的な>認識にたどりつこうというもの。
その底辺にあるものは、「色の表象は<ひろがり>をもつ」みたいな疑いようのない純粋直観にゃ。
かかる発想は、ある判断が単純な判断の集合からなるというデカルトに由来するもので、
このように完全に疑いようのない純粋直観にあらゆる判断が還元されうるという文脈のなかにあればこそ、
(しかもその純粋直感は、意識にとって近づきうるものでなければならない)
「直観」という語が単純性の<含み>をもつのであって、
やはりいっぱんに直観といえば論証ぬきの判断であっても、必ずしも「単純」であるとは限らず、
日常会話でいう直感とかインスピレーションを排除するものではないにゃ。このてんでわたすは強引であってかもしれないと、
ちょっと反省してるにゃ。またくるにゃ。どうでもいいけどのまねこって何?
虚無せんせ、遅レスすみませーん
なんか「reference情報が変です」とかいうのがでて、書き込めませんでした
「もすかう」もなんですか?
「ブラウザ情報がヘンです」とかはいわれるにゃ。
「乗り気でない」と書いたことがちょっと気になってたんだけど、
自分の文章が雑文で、書き込みにやや躊躇するくらいのいみで、
このスレに消極的になっているわけではないので、注意してちょうだいにゃ。
「もすかう」も空耳系フラッシュのもよう。body talkの「バリ島」とか思い出す。
あ、やっと書き込めた・・・
「乗り気でない」というのは、正直言って、「虚無せんせ、やっぱし・・・
もうあきれちゃったかにゃ」と思って不安でしたが、そうでなくて
よかった!
>まあ、俗っぽくいえば、アームチェアにふんぞりかえって
>「これぞア・プリオリだ」などといわれている「真理」は、
>たいがいその後憂き目をみているのではないかにゃ。
ユークリッド幾何学における世界と公理系の(擬似的)結びつきから、
生成文法における容認性判断を説明されたの、よくわかりましたにゃ。
で、勝ち逃げ・・・勝ち逃げなのかにゃ・・・虚無せんせは最近、
といってももう何年も経ってるけど、容認性判断から文法にrelevantな
情報を特定する、ということをめぐる北川せんせとかの話はどう思われる
のでしょう?ちょっと興味がありました。
「純粋直観」の原始性というか基本性もわかりますた。虚無せんせが
「直観」という言葉を使うときはこの意味で解釈しまつ。
なんか、「のまネコ」問題は収束したのですかにゃ?ここで知ってから
気になりましたにゃー
それより、言語はどこまで音楽か?
むにゃむにゃ、たとえば倫理的判断を考えるとき、
「ひとを殺すべからず」みたいな判断も、いっしゅ論証抜きの直観判断とされることもあるわけで、
このような<制度的>にはたらく判断と、「自らと交わらない直線が1本ある」みたいな直観とは、
なんとか区別しつつ議論するのが望ましいと思うにゃ。
>生成文法における容認性判断を説明されたの、
うーん、たしかに生成学者をアームチェアにふんぞり返って…、みたいにたとえたことはあったんだけど、
じつはここでは、「思い込みの激しいひとたち」全般についての所感だったのですにゃ…
まあ、ついでだから容認性の問題にたちいると、わたしはアクシデンタルな文法的制約が数多く存在し、
要するにそれらは偶発的なもので言語デザインの本質にはかかわらないとみているので、
(つまりここでは、偶発的な文法現象が<secondaryな>文法知識として定着する可能性のことをいっている)
原則、容認性判断と文法性判断は直結しないという考えには、賛成というか、
これはいぜんどこかで<非文>と<超-非文>を区別する議論と同質のもの。
この見解からいえば、
ひとつの個別言語の研究で原則UGに到達できるというのははなはだばかげた妄想ということになるにゃ。
長すぎるといわれそうなので、ひとまず終了。
なぜことさら「音楽」をとりあげたかという原点にかえると、
ひとつには自然物か制度か?という硬直した2元論を脱却したいというのがあるにゃ。
つまり、いわゆる楽典というものは、ヒトの認知的傾向
(認知言語と関係なくて、オトの情報処理のシステムのこと)
というか傾性を巧妙に利用しながら、あるいみで恣意的に発明された知識の体系である、
にもかかわらず、制度的というには、あまりにも個々人の直観に直結している、そのような認知体系ということにゃ。
Cmaj7thというのは、非常に20世紀的な和声で、古典和声の原則を導音機能の破壊というかたちで、
端的に否定しているのだが、これは制度的なものとはあきらかに異なるかたちで、社会的に定着したものであるにゃ。
ぶっちゃけ、あるとき突然「これはいけてる」と容認されたということになるにゃ。
(実際には、クリシェの一部として経過的にあらわれたものが次第に独立したとみられる)(サティの曲も忘れているわけではないが)
もうひとつの問題として、音楽のように指示物を欠きつつ文法相当の規則をもつ知識体系と、
<同等物>として言語を比較考証するために、言語から内観される意味を取り除き、
どこまで純粋形式的にできるかという問題群があるにゃ。
(この面から、意味なしの記号操作と純粋直観の関係が問題になってくる)
もうひとつは、その知識の獲得可能性の問題。これもまた容易に語りつくせない問題にゃ…
またくるにゃ。
流れぶったぎりスマソ。
音楽的感覚の原因が知りたくてこのスレを見つけたんだが、
根源的には何が原因なんだろう?
そこで俺は音程の倍音成分同士の重なりが、聴覚のフーリエ変換機的な
機構によって認知される。あるいは他の基音の存在を予感させる。
ってとこが原点だと思った。そこからいろいろ学習していって
音楽に対する認知スキーマが形成されていくもんだという風に。
でも音楽をそういう風に扱う本って探してもないんだな。
そこで道案内が欲しいのだ。
工学畑の俺におすすめの本を教えてくれ。
184 :
183:2005/10/17(月) 13:02:21
とりあえずクロマチック12音階から整数比に近いものを
探すプログラムを書いてみた。下がその結果
CROM-31 = 0.16685 = 1 / 6 +2.0cent
CROM-28 = 0.19843 = 1 / 5 -13.7cent
CROM-24 = 0.25000 = 1 / 4 +0.0cent
CROM-19 = 0.33371 = 1 / 3 +2.0cent
CROM-16 = 0.39685 = 2 / 5 -13.7cent
CROM-12 = 0.50000 = 1 / 2 +0.0cent
CROM -9 = 0.59460 = 3 / 5 -15.6cent
CROM -7 = 0.66742 = 2 / 3 +2.0cent
CROM -5 = 0.74915 = 3 / 4 -2.0cent
CROM -4 = 0.79370 = 4 / 5 -13.7cent
CROM -3 = 0.84090 = 5 / 6 +15.6cent
CROM +0 = 1.00000 = 1 / 1 +0.0cent
CROM +3 = 1.18921 = 6 / 5 -15.6cent
CROM +4 = 1.25992 = 5 / 4 +13.7cent
CROM +5 = 1.33484 = 4 / 3 +2.0cent
CROM +7 = 1.49831 = 3 / 2 -2.0cent
CROM +9 = 1.68179 = 5 / 3 +15.6cent
CROM+12 = 2.00000 = 2 / 1 +0.0cent
CROM+16 = 2.51984 = 5 / 2 +13.7cent
CROM+19 = 2.99661 = 3 / 1 -2.0cent
CROM+24 = 4.00000 = 4 / 1 +0.0cent
CROM+28 = 5.03968 = 5 / 1 +13.7cent
CROM+31 = 5.99323 = 6 / 1 -2.0cent
185 :
183:2005/10/17(月) 13:03:17
純正律からのズレは20セントまで容認するようにした。
俺自身のズレに対する限界を測定したところ、
ドとソでは25セントまで容認できることがわかったためだ。
また俺自身がn:n+1では6:7まで調和を感じることから、分母分子の
最大値は7までとした。
周波数比がn:mなら、前者のm倍音と後者のn倍音が重なるわけだ。
んなことわかってんだよ、ってんだったらスマソ。
これ以上考えるのが面倒なので、このつづきが書かれた本を探しています。
まったく見当外れなアプローチだったとしても、それを確認したい。
『音楽の心理学』という本がある。たぶん関係することが書いてあるのかも
知れないが、蔵の中にあってさがしにいくのマンドクセ
欧文のものだったらきっといくつかあるのではないか。
おとといアマゾンから届いた『日本語からみた生成文法』所収の
「促音及び撥音」に、音楽ではないけれど、関係しそうな話がのってた。
「ん」と「っ」はかつての音韻論の基本単位である音素とされてきたが、
生成音韻論という文法体系内での弁別性は否定される。しかし言語を広く
とって、その文法外の言語では知覚方略などで一定の地位が与えられることが
示唆される。
「音素」は離散的だが、音声は連続的。鼻音に関しても
一応vocal tractにおけるgestureでは離散的な要因から構成されるけど、
音響的には連続的だと思うし、鼻腔を通過する気流を測定する装置を
使えば非鼻音でも気流、およびそれに伴う鼻腔での共鳴が観察される。
純正律についても似たような事情が想像されるので、きっとそういうことを
書いた本はあると思う。勝手な推測だけど。
ここからは雑談。純正律の「ネイティブ」と自然律の「ネイティブ」に
対して統一の純正律の課題、統一の自然律の課題を実行させたら面白そう。
このあたりは虚無せんせの言説に繰り返し現れるモチーフと直接関わるわけにゃが。
>>186 あんがトン
確かにそれっぽいので読んでみます
>>184 うーん、あんまし洗練されてないかもにゃ…。
ふつう(特殊な調律でもしないかぎり)純正律は1オクターヴごとに循環しているから、
内観的判断による分母分子の制限よりも、比が2を越えたらリストとして冗長だと思うのだけど、ちゃう?
1/6って、ようするに基音と2オクターブ上の完全5度の比ってことにゃん。
で、5度のところ(2/3)をみると、セント値のずれも一致してるにゃ。
いっぽう、長2度は9/8になるけど、これは上述の制限によりリストからもれるにゃん。
(ついでに5/12も排除されるから、同オクターヴの短3度5/6はあるのに、オクターヴ上の短3度が抜ける結果になって、
ほんとうに整合性がない)
とはいうものの、こういうアプローチは好きなので、
ぜひ2の12乗根のほかに、2/3に近似できるn乗根があるかどうか調べてほしいにゃ。
つまりこれは、1オクターヴの12分割がどれほど必然的かという問いの、
ひとつの手がかりになるかもしれない。
あと、平均律での完全5度(2の7/12乗)の数値知ってたら教えてちょ、にゃ。
虚無せんせ、おはよー
>なぜことさら「音楽」をとりあげたかという原点にかえると、
原点をすっかり忘れてますたにゃ(背汗
>つまり、いわゆる楽典というものは、ヒトの認知的傾向
>(認知言語と関係なくて、オトの情報処理のシステムのこと)
>というか傾性を巧妙に利用しながら、あるいみで恣意的に発明された知識の
>体系である、にもかかわらず、制度的というには、あまりにも個々人の
>直観に直結している、そのような認知体系ということにゃ。
ここであっさり外されちゃいましたが、認知言語学はある意味、
「自然物」(客観的に存在する音楽としても、人間に内在する自律した
コンポーネント)か「制度」か、という問題を「認知」、特に身体に
基盤を置いた外界認知一般から言語を捉えようとすることで、ある意味
レイコフ的にいえば古代ギリシャから連綿と続く「客観主義のパラダイム」の
素朴なdichotomyを中和するにゃー 以前からなんでかわからないでいるんです
にゃが、制約とユニフィケーションを用いるmonostratalな形式文法を
やる人にはうけがよかったにゃ。また、もう十年ぐらい前だとおもいますにゃが、
認知言語学の人の間でPontyの現象学がもてはやされた時期がありましたにゃー
あのころ、ちゃんとした現象学者に語ってほすいと願ったものですた。
虚無せんせのフッサールをみるとすげーかわいそうな古物、って感じが
するのですにゃが、ポンティはどうなんだろうにゃー
虚無せんせが数学について語られたこと、現象学との関係、などまだ消化しきれて
ないですにゃが、発作的かきこ
>183しゃん
私がmathematically sophisticatedでないので申し訳ないのですにゃが、
面白そう、というかこのスレのテーマと関係する話っぽいので
まだ見てたらなんかかいてにゃ
「純正律」と「平均律」の用語、混乱してますたにゃ・・・お恥ずかしい
ちょっと使ってないと忘れるくらいの定着度。あ、ギタひかなきゃ
ちょっとある人との談話で、ドミソの和音をa.純正律、b.平均律、c.平均律の三度を
若干下げたものを二つずつ音楽科の学生に聞かせ、20回ほど試行したところ、
声楽をやってる人、ピアノをやってる人、古典音楽をやっている人の間に
「正しい和声」に関する異なる判断が見られたそうですにゃ。ピアノの人は平均律を
正しいと判断し、古典音楽をやっている人は純正律を正しいと判断する傾向が
あったとか。前に虚無せんせは「平均律の世界の人間には云々」という話を
されてませんでしたかにゃ?
ちょっと留守しててスマソ
>つまり、いわゆる楽典というものは、ヒトの認知的傾向
>(認知言語と関係なくて、オトの情報処理のシステムのこと)
ここんとこは、脳内に物理的イベントとして存在する計算機構をさすものにゃ。
これはむかし仇博士の発言にあったような情報処理のことで、
もしも自然物/制度の問題を、内在と外在の問題に対比させて、
内観される<内部>と、内観される<外部>の問題におきかえて、
(現象学の意図としては、いずれにせよ絶対的な<外在>は否定したいところだろう)
メルロ-ポンティ的な文脈で論じても、興味はわくが、議論は紛糾するものと思われる。
あえていうけど、このような脳内イベントを情報処理・計算とみなす調査研究は、
とりあえず「素朴実在論」でもその意図は達成できるものと思われる。
(つまり研究者を示申の立場におくもの)
このばあい、身体概念も情報処理のシステムからいえば、センサの束くらいの意味合いしかないとみていいにゃ。
つまり内観される<身体>も、なんらかの計算の結果であるという見解にこのばあい甘んじるというわけにゃ。
議論の射程というのは、いろいろ柔軟であるべきで、うーん、このばあい、
ドラムの音は、
ドラムの表面に<在る>のか、それともわれわれの(肉体か何かの)うちに<在る>のかという文系的な問いかけはさけたいところ。
保守を兼ねて。
>議論の射程というのは、いろいろ柔軟であるべきで、うーん、このばあい、
>ドラムの音は、
>ドラムの表面に<在る>のか、それともわれわれの(肉体か何かの)うちに<在る>のかという文系的な問いかけはさけたいところ。
そうでつねー こういう文系的な問いかけ(擬似問題?)に縛られない
工学系の研究が、着実に少しずつでも何かを獲得している、って感じですにゃー
>つまり内観される<身体>も、なんらかの計算の結果であるという見解にこのばあい甘んじるというわけにゃ。
テクノロジーにおける問題設定の仕方って、「これを機械にさせるには、どうしたらいいか?」とか
「同じ事を機械にさせるとき、より単純な方法はなにか?」とか、取り組むべき
課題が明確でつね。
認知言語学はこのような流れに逆行しそうな、文系的発想のような気がするのでつが、
工学系の人も興味をもっている感じを受ける。これって、「課題」が豊富だから
なのかにゃ?意外に目指しているものが全然食い違っていても、同じ学会で
発表しあう、ということは可能なのかもしれないですにゃ。
工学系の人が「素朴実在論」を持ってたら、認知言語系の人はくってかかるんでしょうけどにゃ・・・
軽くあしらわれそうにゃ。
どうも適切なレスさんくつでつにゃm(_ _)m
内観される内部/外部についても、<外部観測者>からすれば脳内イベントのいちぶであり、
たとえば臨死体験で報告される「幽体離脱」とか、離人的体験とか、脳内独語が外部から幻聴として
きこえるとかいうたぐいの現象も、脳内処理の問題としてかたづけることができるし、
そもそも脳の問題としてこれらを考える科学者にとって、そういう実証的立場のほかにいったい科学的立場なんかあるのか、
というのが実直なところだと思うにゃ。
で、このような「外在する世界を当然とする立場」が、フッサールによれば、自然的態度とかよばれて、
確実でないものを確実としているとして批判された見解とちょうど一致しているというわけにゃ。
わたしの当面の論点はつぎのようなもの。
1)言語学の究極目標は、説明可能性とおおっぴらにいっていいものか。
2)数学とは、世界のうちにある数的な対象を研究する領域科学ではなく、
原理的な概念の生産手続きではないのか。「スキーマ」のようなものが数学の上位概念になりうるのか。
3)自然科学は、あまりにも成功したために、逆にその本質が見にくくなってしまった。誰しも、
「ロケットがつきに行った」みたいな世俗的な成功を例にだすのは気がひけるのだが、だがしかしこのような
自然界の制御と予測を無視することはできないにゃ。なぜかかる制御が原理的に可能なのか、
そしてそれが数学的な手続きであるのはなぜなのか。
顔文字の大先生(からだの大きさのこと)が理解しないのはこのあたりで、どう説明しても、
結局は「命名の問題」とか定義の水準にされてしまうが、だって悪名高いIDだって、「自然科学とよんでなにがわるい」とか
開き直られたら、「どうぞご自由に」としかいうしかないにゃん。またくるにゃん。
>どうも適切なレス
虚無せんせにこういうこと言われると、ついついはしゃいでしまう
単純な私・・・
>3)自然科学は、あまりにも成功したために、逆にその本質が見にくくなってしまった。誰しも、
「ロケットがつきに行った」みたいな世俗的な成功を例にだすのは気がひけるのだが、だがしかしこのような
自然界の制御と予測を無視することはできないにゃ。なぜかかる制御が原理的に可能なのか、
そしてそれが数学的な手続きであるのはなぜなのか。
これがこのスレにおける虚無せんせのbasic tenetでもあると思うのですにゃが、さらにこれに
「あえて数学的に単純な形に制御した音楽が、それほどcounter-intuitiveでないのは
なぜか?」
というのを付け加えても大丈夫ですかにゃ?
あんまよくわかんないですけど、「世界は数学のことばで書かれている」っているのは
正しいのかもしれない。
仮に今、すべての現象を数学でかけなくても、そういった現象に与えられる記述で
論理的で、簡潔であるというだけで、それだけでも数学で書けるという証拠なのではないか。
別に数学の論理主義にコミットするわけでもないんだけど・・・
論理性、簡潔性という二点がすべてを律しているのかも。
言語におけるモンタギューのUGと同じようなものが、数学にもあるのかもしれない。
チョムスキーなら、火星人の話す「言語」は言語ではないのかもしれないけれど、
モンタギューなら言語だというと思う。同じように、火星人の「音楽」は
モンタギューに言わせれば普遍音楽の一つかもしれない。sunbstantiveな
ところはどうかわからないけど、formalな部分はそうなのかもしれない。
保守
どうも留守がちですまん。
>というのを付け加えても大丈夫ですかにゃ?
毎度、脱線しがちなスレを正常化してもらって申し訳ないにゃm(_ _)m
まことにその通りで、順をおって整理すると(必ずしも通時的ということではない)、
第1のステージとして、
周波数比1:2に注目しなければならない。これはもっとも単純な整数倍音であるとともに、
音階が1オクターヴで循環するという根源的な規定にかかわるため。
人間音楽が、和声の面ではもっぱらオクターヴ関係を楽しむためであった可能性(っつーか夢想)も否定できない。
で、第2のステージとして、数比2:3(5度)あるいはその逆数(4度)の段階で、
これを循環的に適用すれば、おおよそ音階らしきものが発生することはこれまでもふれたと思う。
で、特殊ヨーロッパ的事情で、あまり数比的には単純ではない3度重ねを基盤とする和声が発達し、(第3ステージ)
さまざまな制約のもとで非常に豊かな古典和声の体系ができた。で、それは、
たとえば2つのモード、長調単調が圧倒的に<感性に訴える>といういみで、おおくの直観に一致すると。
なんだか知らないけど、恣意的に数的体系を作ったにしてはできすぎた話であるということだにゃ。
これを「制度」と呼びたければよんでもいいが、機能的に調整されうる社会制度(たとえば税制度)とは大きく異なる
ことに注意しなければならない。
さらに最終ステージとして、古典和声における転調の可能性と、(微調整された)数比的音階の矛盾を解決すべく、
完全に自由な転調を実現するために平均律が導入されるにゃ。これはあたかも、国民一人ひとりの所得税率を几帳面に
計算していたところ、
どうにも辻褄があわなくなり、いっきょに頭数で割ってしまえというほど、乱暴で「人工的」な改革であったかもしれ
ない。
ところが、これは史上まれにみる成功した人工言語であり、ジャズ理論のようにさらに豊かともいえるもうひとつの「
小宇宙」が誕生して、たんに恣意的で人工的であるとかたづけられるものではないことが明らかになっているにゃ。し
ばしな言っていることであるが、わたしは倍音的な完全5度はうけいれられず、
「わたしの5度」とは、平均律のそれであるにゃ。
長くなったけど、ここでほとんどアクシダンタルといってもいい恣意的な体系の変革が(複数)あったこと、
普遍的とはいえない、つまり身体を条件とはしているがヒト固有の生物学的特徴とはいえない、数理的な体系が、
あたかも音楽の普遍的知識のようにふるまい、
学習することなくして獲得され、教育もないのに一群の人々に<数理的に説明されうる=rational合理的な・数比的な
>知識が共有されるということに注目しなければならない。
わたしが、古典的なチョムスキーの生得的言語知識の議論に納得しない理由のひとつは、
以上のような<音楽の知識>との比較によるもの。
遅くなりましたが、改めて頭が整理されますたm(_ _)m
すると、ガイシュツだったかもしれませんにゃが、「知識の生得性」を支持する
poverty-of-stimulus argumentについて、少なくとも音楽に関しては、数理および偶発的身体条件の
範囲に収まっている、ということになるのですね。
Jackendoffのこれに関する話で、'Happy Birthday'を逆から採譜した'Yadhtirb Yppah'
(なんかヘブライ語かイディッシュ語っぽい)を演奏して聴くとcounter-intuitiveだ、
っていうんですけど、繰り返して聴くといいのかもしれませんね
(というか、Jackendoffの議論は古典調性音楽に限られる、としているし。
虚無せんせ、容認性について以前どっかで「くりかえすのにゃー」とか
言ってませんでしたかにゃ?)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1132645948/363 の
1)普遍文法と個別文法 ←→ 普遍音楽と個別音楽
の続き。はっきりいって音楽能力から言語能力が進化したとか、
いちぶモジュールを分有しているという証拠はないし、失語と失音楽のあいだに
相関があるということはきいたことがないので、そういう意味での親近性にはわたしは否定的。
わたしが自スレでやろうとした興味のひとつは、言語学で働いている論理を音楽について適用してみたら
どうなるかっちゅーことで、まあ、いまのところあんまり理解をえられてないにゃむ。
興味のないひとには申し訳ないが、モノの音には、パーカッションにしかなりえないものと、
(まあ、そのへんの身のまわりのものをたたいて出る音)
なんとかドレミファ…(楽音)を演奏できそうなものの区別があり、この区別は物理的な根拠があるにゃ。
で、後者、楽音を鳴らせるものというのは、整数倍音を多く含むもので、弦とか管とかが代表的なもの。
(整数)倍音というのは、「ド」をひくとそのうえのド、そのまたうえのソ、レ、ミなんかが同時に鳴るっつーことで、
この倍音の成分が音色を決定してるのにゃ。音色は、たとえ意識にのぼらなくても倍音構成についての情報処理であり、
なおかつ、整数倍音は自然音階の構成原理ということになるにゃ。
ようするに、なんというか音色は本質的には和音の分布のさせかたとおなじであり、和音進行は音色の変遷と本質的な違いはないということにゃ。
するとだにゃ、おなじみこういうばあい火星人に登場してもらうと、もしもその聴覚が、音色に対して指向性があり、
つまり倍音構成にたいして情報処理を行い、なおかつ整数倍音に対して有徴の評価をくだすならば、ヒトとかなり同じタイプの音楽を理解できるかもしれない。
火星人がペンタトニック(日本音階と同一視されることもある(´・ω・`))を理解しても、とんでもなく根拠のないハナシでなないにゃ。
個別音楽は、倍音から音階をどう組織するかのちがいになる。とても見通しのきくはなし。
以上の話が、言語に都合よく横滑りしてくれるという安直な考えはないけど、
できたらそれに近い話ができたらにゃーという野望はあるにゃん。
(言語学の物理的アプローチというのとはちゃうにゃ。情報処理的、というのなら近いか…)
まだ続くにゃむ。
>>199 毎度雑文読んでもらって申し訳ないにゃ。
>すると、ガイシュツだったかもしれませんにゃが、「知識の生得性」を支持する
>poverty-of-stimulus argumentについて、少なくとも音楽に関しては、数理および偶発的身体条件の
>範囲に収まっている、ということになるのですね。
m(_ _)mすまにゃい、よく意味がとれない…
「刺激貧困議論」は、わたしはおもに数的指標がないことで批判してきたにゃ。
さらに、文法知識について刺激貧困がことさら成立するような根拠は何もないし、
またこの議論が、単純な模倣的学習を素朴に前提していることなどが、さらに根拠を脆弱にしているのにゃ。
たとえば、英語のnoにあたる2つの語「いや」と「だめ」の語用論的相違を会得するために、
どれほどの刺激が必要なのか。言語学的バックグラウンドがないと、「いや」「だめ」の違いはなかなか記述しがたいし、
一様な教育的刺激があることはほとんど考えられない。
(かんたんにいえば、義理的なnoが「ダメ」で、人情的noが「いや」なわけで、
尋常な親子関係であれば、圧倒的に親がダメだしをする立場にあるが、子供はそれを模倣しない。
性行為の強要のばあい、「いや」なのか「だめ」なのかは、微妙だが重要な差異を反映するにゃ。)
要するに、このような知識の獲得は刺激貧困を満たしているのかどうなのか、
まったく見通しがたたないということなのだにゃー。
ちょっと脱線してしもうたにゃ。音符情報の時間軸に沿った逆転については、面白い論点なので、
いずれまた…
おはよーございます!
>>poverty-of-stimulus argumentについて、少なくとも音楽に関しては、数理および偶発的身体条件の
>>範囲に収まっている、ということになるのですね。
>m(_ _)mすまにゃい、よく意味がとれない…
こちらこそすみません・・・えーっと、しきりなおし。
「刺激貧困問題」として取り上げられる言語の特質としては、大人の発話から
直接観察されなかったり、誤って行われた発話が観察されたりするのに
子供が獲得しているようなもの、例えば、演算子の抜き出しに関わる「島」の
制約などが上げられると思いますにゃ。
もっともLambek(Syntax2002)が最近の研究で、範疇文法と、前から処理していくオンラインでの
短期記憶に範疇結合によるチャンクの数をマジカルナンバー7ぷらまい1との
関係で論じていましたにゃ。
「島」制約がまず推定「刺激貧困議論」支持として、それが
combinatrics+短期記憶の制約で説明されると、これは「島」制約は結局
数理と身体の範囲に収まるもので、だれが教えるとかそうでないとかいう
問題ではなく、ヒトの体をもち、数理に従った言語計算を行えば問題自体が
存在しない。
「島」、「下接条件」はかつて「刺激貧困仮説」の花形だったと思いますにゃが、
(数理にも学習にも還元されない)よくしらないけど、ミニマリストでは
combinatrics内部の論証の問題に還元されてるようですにゃ。
>たとえば、英語のnoにあたる2つの語「いや」と「だめ」の語用論的相違を会得するために、
>どれほどの刺激が必要なのか。言語学的バックグラウンドがないと、「いや」「だめ」の違いはなかなか記述しがたいし、
>一様な教育的刺激があることはほとんど考えられない。
これについては、noの言語間の差異は関わらない問題で、むしろ「いや」「だめ」の
問題は語用論に関わるものだと思いますにゃが、performanceは一般に
種において一様だと考えられると思いますにゃ。
>要するに、このような知識の獲得は刺激貧困を満たしているのかどうなのか、
>まったく見通しがたたないということなのだにゃー。
虚無せんせのおっしゃるとおり、まったく見通しが立たない問題、
あるいは「不可知」に属するものなのかもしれませんにゃー
たぶん一般にはcompetenceのほうの普遍性、生得性が注目されると思うの
ですにゃが、こちらのほうが大変なのですにゃー手のつけようがない、というか・・・
Chomskyは放棄している分野ですにゃ。
虚無せんせが言っていることに関してはBrown and LevinsonのFace Threatening Actsという
取り扱いが記述的なものですが、私には眉唾ですにゃ・・・
というわけで、説明だけでおわてしまいますた。
音楽について、conbinatricsに関する学習しえない知識があるか、という
ことがいいたいことですた。それぞれの民族音楽におけるクリシェ、かけあい
(お約束?)は語用論に属することかもしれませんが、これも考えてみれば
「刺激貧困議論」に関わる部分があるんでしょうにゃー多くは文化的な
違いに還元されるかもしれないですにゃが、「文化的な違い」ということを
もう一度精錬しなおす必要があるかもですにゃ。また、その中に「不可知論」的な
事項が意外と含まれているとすればどうなるか興味深いですにゃ。
>「刺激貧困議論」は、わたしはおもに数的指標がないことで批判してきたにゃ。
これはむしろcountingが言語にない、というところと関係しそうですにゃ
ところで、統語論は火星人からみたら全部一緒、ってことにして、
臨界期を越えると獲得できないものとして目に(耳に)つくのは音の弁別素性ですにゃ。
しかし、「文化」も臨界期を越えると獲得できないと思いますにゃ。
「真似」はできる。しかしそれはあくまで近似値でしかにゃい。
たとえば日本人が[f]を発音しようとしても、[Φ]からずらした音しかできず、
[+strident]というような特徴は表せない。(むしろ歯唇破裂音のように
聞こえるのは私だけ?)似たようなことがありますた。
韓国舞踊を踊っているときに、「うまいけど、肩の動きが日本人だ」と
言われますた。
音楽にもどると、昔、日本音階しかできない軍人たちが「軍艦マーチ」を
歌わされて、ある音が歌えなくて別の音を上げて近似音を出そうとするのだけど、
上がりきれてなかった、というのを聞いたことがあります。
「軍艦マーチ」も、もしかしたらブルースになってたかもですね。
どうも遅れてすいませんにゃ。「いや」「だめ」の例はその場の思いつきで、
あまりいい例ではありませんでした。数的指標がないということは、
たとえば日本語と仏語がどちらが「難しい」言語かとゆー問題があたとして、なんらかの定量化がないと、
手も足も出ないし、たとえ「直感」による判断があったとしても(どうも簡単に学習されているようだから、
日本語のほうが簡単らしいみたいな)、
そこからなにも推論できないというていどの話なのですにゃ。
数理と肉体というのは、じつは生成の合理主義vs認知言語の背景にあるものともいえるので、
ちょっと考えてみたけそ、じつにややこしい問題にゃ。(昨日は挫折)
音楽認知のばあい、情報処理の最下部、
ヒエラルキー的に非常に下位の段階で基本的な処理はもうなされるので、
これはもう「解剖学的条件」といってもいい。
音刺激の認知は、刺激の強度はその物理的量の対数に比例するというフェヒナーの法則をよくみたすものであるとされていて、
たしかに鍵盤の配列のように、オクターヴ間の配列も等差的なもののように「内観」されるけれども、
音高刺激は蝸牛の螺旋構造と関係ありそうだし、物理的要素がかなりからんでくるもよう。
いっぽうで、「下接条件」を構成してるものがたとえ肉体基盤だとしても、
うーん、なんとなくものすごくレベルのちがう問題のような気がするにゃ。
(どうも言語学的マジックナンバーは2とか3とかの小さいところにありそうだにゃ。)(動詞の項が最大4)
今日は冷えるにゃ…
とりあえず、今年もよろしく。毎度雑文ですいませんにゃ。
すみません、遅くなりましたが今年もよろしくおにゃにゃいします、わん。
なんか、ずーっと「reference情報がどうたら」ってやっぱり出てしまって書けませんでした。
>数的指標がないということは、たとえば日本語と仏語がどちらが
>「難しい」言語かとゆー問題があたとして、なんらかの定量化がないと、手も足も出ないし
そうゆうことでしたか。語彙に関しては一語の守備範囲がどれぐらいか、というか
1000語で膨大なデータの延べ語数の何割をカバーできるか、とかは言えるんでしょうけど、
統語論についてはどうなんでしょうにゃーなんでもいいからパーザに通してみて、
そのパーザから適当に解析の負荷とか読み取れるようにしとくとなんかでてこないかにゃー
とまたもや無責任にいってみまつ。
>いっぽうで、「下接条件」を構成してるものがたとえ肉体基盤だとしても、
>うーん、なんとなくものすごくレベルのちがう問題のような気がするにゃ。
>(どうも言語学的マジックナンバーは2とか3とかの小さいところにありそうだにゃ。)(動詞の項が最大4)
たぶん、下接条件のうち、wh-island、subject-islandなんかはもう局所性と
計算の順序で片付けられてしまうのでしょうから、そうすると特別なものは
何も想定しなくてもいいのでしょうけど・・・やっぱわかんないです。
言語学的マジックナンバーについては、以前かかりしゃんから4項動詞'bet'を
教えていただきましたにゃが、0〜4っていうのはなんか語彙にしてしまうところと
関係しそうですね。4以上はserial verbsでやれ、みたいな。これを結合価文法から
安易に原子の結合価と結び付けてしまいたくなる衝動あり。
生成文法スレの方で仇閣下がいってた「自然音楽」と「人工音楽」の区別に
まだ魅かれてしまうのは、受けた教育によるものかもしれませぬ。
初カキコとして、あいかわらずしょぼいですが、どうぞよろしくおながいします。わん。
仇へーかには、倍音列のハナシはむずーということで、一蹴されてしまった…
言語学には、そのような物理的相関物をみいだしにくいというところから、
どうも人工/自然の対立があまりにも観念的にとらえられてしまう気がするにゃ。
(顔の字のセンセイの、「なんでもinvention」の考えも、同じような土壌から由来するのかもしれない。)
ただし、オクターブに恣意性をみいだしたというのは正確で、整数倍音列に、
周波数比1:2の「音」には、おなじ音名を与える、という規則にはまったく必然性がない。か、あるいは、
解剖学的な構造特性に由来するか、ということになると思う。<恣意性>あるいは人工的性格にはグラデーションがあるのにゃ。
ここで、音階はチューニング調整を含むような音列構成、モードは終止感を含むような
(すなわち各音が、主音とか属音とかの機能をもち、和声をも生成させるような)音列の構造的知識ととらえると、
音階よりモードのほうが心的性質が高いと言えると思うにゃ。
音階における旋律の同一性は、たんに周波数に一定の数を乗することによってえられる。
たとえば、ある旋律の全体を周波数2倍にしてやれば、1オクターブ高い「同じ旋律」が認知される。
いっぽう、モードにおける構造的な同一性、というか<変換>は、むかし『マイナーさざえさん』で実験したものにゃ。
じっさいのはなし、民俗音楽の多様性は、スケール、モードの両面からさぐらねばならないと思う。
そこでまた、Xバー理論とかがでてくるかもしれない。ちょっといろんなことを一度に言おうとしすぎたかにゃ。またにゃむ。
やはりわかりにくいか…
音階についての同一性とは、たとえば塩化ビニルのレコードの時代に、
早く回転させても、おそく回転させても、旋律の同一性は失われないが、
これは各音がその他の音に対する関係が、数比的なものであることに由来するにゃ。
これは、平均律においては、転調によって旋律の同一性が失われないことと同じ現象、というか情報処理だにゃ。
いっぽう、モードについて、変換しようとすると、主音の移動とかも含むため、けっこうむずいし、
現在主流なのは長短モード(ふつうはスケールとよばれるのでややこしい)のみなので、あまり鮮やかに証明できないけど、
いつかいったように、非常に形式的にコンポーズされたバッハの曲は、
cマイナーの曲の調性記号をうっかり見落として、cメジャーで演奏したとしても、和声間・旋律間の
構造・機能は保存されるのにゃ。
これはいっしゅの幾何学的変換に似ていると思うにゃ。
つまり、モードはより<心的>で、より<恣意的>だけれども、幾何学的性質を失っていないというところかにゃ。
んで、文法にも、そのような幾何学的性質がみつかったらいいにゃー、というハナシをしているところ、
顔のじのセンセイ(半身の激痛は、たぶん早めに発症した帯状疱疹によるものだと思われる。)が、
わたしがあたかも数学を神格化しているようにみなして、認知言語のような反合理主義で反論してくるという、
妙な構図になってしまったというわけにゃん。
210 :
顔:2006/01/15(日) 03:42:24
ヘルペスなら経験済みにゃがそれとは全然違うにゃ
たとえていうと四十肩が脚に転移したような感じで
数年前から続いとるのがここ最近激化してきたのにゃ
すみません、間あきあきで・・・
>たとえば、ある旋律の全体を周波数2倍にしてやれば、1オクターブ高い「同じ旋律」が認知される。
一青拗を遅くすると平井堅になる、っていうようなやつでつね。たぶんこのような
性質の保存は<変換>じゃないんですね。マイナーとメジャーの間のトポロジカルな関係は
厳密にはわかってないですけど、なんとなく・・・ただこのような射影が
「意味」のようなもの、「感情の揺れ」に影響を与えるということどうしましょう。
以前は形式的な取り扱いだけはやった気がしますけど。
>顔せんせ、お大事に。
なんだ誤診か…ってか、なにか、青臭い相対主義でもかいていけばいいのに>彦頁
わたしは体調不良のため、先日ガン検診をうけたにゃ。
>一青拗を遅くすると平井堅になる
言わんとすること了解。ただ、人声の認知には<音色>いがい多様なファクタが関与しているため、
「モノマネ芸人」が活躍できるという罠ゃ。
(声の物理的音色は人為的に変えられないというのが、いちおう定説)
>「意味」のようなもの、「感情の揺れ」
で、思ったんだけど、モードについては、<終止感>とか、テンションみたいな<内観>と無縁ではなくなるので、
(たとえばミからはじまるフリジアンで終止感がえられるか?壱越調「君が代」に終止感があるのか、といった問題)
その理論は現在のチョム理論のように、たいへんな苦難をしいられるにちがいにゃーということですにゃあ。
まあ、ほとんどのチョム信者は、自分たちの理論がクォーク理論(←なんだかしらないけど、
たいがいハードコアな理論物理学あたりと比較したがるところが物悲しい)にはばかるところ一切なしと信じているので、
まあ、パロディ学問としてはわざわざ「苦難」を感じる必然性はないんだけど…
仇へーかのハナシのなかで、「ドレミファ…」を関数にするというのは、このモード変換に相当するもので、
まあ、仇へーかはほとんど直感にまかせてレスを書いてるわけだけど、
このあたりツボをはずしていないところは、さすが。
今日から向精神薬の弾薬(自己判断)。もうヤクやっててもいいんだか悪いんだか
わかんなくなってきちゃいますた。なぜかこんな時に限って「referer情報が・・・」
とかでないんで、あわててかきこみまつ。
>ただ、人声の認知には<音色>いがい多様なファクタが関与しているため、
>「モノマネ芸人」が活躍できるという罠ゃ。
にゃるほどー。ではやはりインターバルの知覚が保持される、という点に
絞られますね。しかし改めて人間って、雑音から必要なものだけ取り出している、
というより、正確には雑音込みで音程を知覚できるのが不思議。
むかし、ホースとか箒とかで楽器つくる人みてびっくりしました。
原理的には、管楽器は材質を問わないんでしょうけど・・・
うた、というのも改めてすごいものですにゃー
>まあ、パロディ学問としてはわざわざ「苦難」を感じる必然性はないんだけど…
そうです、です。話の流れの中で、面白くなりそうでしたらとりあげませう。
GGGスレでの「しりとり」という譬え方が私としては腑に落ちた(イディオムとして変ですが)
のですが、ふと、ボサノバの「ワンノート・サンバ」なんてのはわざと
<終止感>をはずしているところに、ボサノバとしての定型を感じさせるような
(自分で言っててよくわかんにゃいですが)
>仇へーかはほとんど直感にまかせてレスを書いてるわけだけど、
>このあたりツボをはずしていないところは、さすが。
あのおっさん、もとい、あにいは殴り書きで筋が通っているというのが
すごいです(だからこそドトーが可能なんですにゃー)
結構、ここでのカキコとか、一時間ぐらいうなってたりするんです、
私の場合。それでも意味なしなので、ちょっと欝。
長官もへーかも、数学が血肉化してるからなんでしょうにゃー
私は数学なんて2ちゃんはじめてからですもん、まともにやったの
>>213 数学の血肉化についてはよくわからんけど、ただしチョムスキーの非常に評判の悪い
「数能力」については、なぜかわたしだけがじゃっかんの理解を示している、っつーか、
自然言語になにか基礎数学的な構造が寄与している、というideaは、チョムスキーの観察の中では、
比較的まともなほう。っつーか、どこかで書いたような気もするが、自然数を2進表記すると
ツリー構造(バイナリ)への写像への十分な情報を与えるので、この部分では少なくとも一致しているとみなさねばならない。
たとえばある数110001は、ケタ数6が目に見える最大投射を1と数えて6番目の層にあることを示し、
その経路は、0を右、1を左とすると、右右左左左右であり、直接の親は2で割った11000、
すべての「親」の系列は次々と2で割り算した商の集合(いちばん下の値をつぎつぎに切り捨てた数の集合)
s={11000,1100,110,11,1}、このうちc-command位置の候補は、
右枝(最後が0で終わるもの)の姉妹である左枝(前者に1を加えたもので)s'={11001,1101,111}となる(だぶん)
以上の議論は、バイナリ構造じたいは自然数と同じ程度の「複雑さ」しかもっていないということを直接に証明するので、
(正確に言えば、バイナリ構造にはパリティ情報があるので、左右一対で「ひとつ」ということになると思う。
つまり、0と1を逆転させた構造もいっしょにできあがるということ。これは光学異性体を思わせる)
どこかの入門書かなにかにあるように、とてもじゃないが自然言語に固有の構造ということにはならない。
このばあい、おのおののノードは順列を決定するという機能のみしか与えられておらず、
ぶっちゃけアルファベット順列でも、同様の構造をもつということになりかねない。
で、あまりここでggggスレ(gg総合ギャグ)みたいなネタもどうかと思うけど、
merge一元論が非常に貧相にみえるのは、そのためにゃ。「くっつく」という皮相な現象だけをみて、
多様な操作を、たいした意味もなく「一元化」したものとみられるにゃ。
なんとなく脱線しているようなので、ちょっとここまで。
ワンノート・サンバノハナシにすればよかった…「レ」というのは、非常にavoidされにくい音名のですにゃ。またこんどにゃむ。
数の二進法表記とバイナリ分岐について、すごく興味ぶかいです。
たいしたこと書けないですけど、派生における終端が右端であろうと
左端であろうと、「2で割る」という演算の対象にとっては局所的に
意味があるかもしれないけれども、樹全体としてはあまり意味がない。
むしろその演算結果が、演算をさかのぼるように派生を見るように見えて、
実は演算自体にはなんにも意味がない、うまく言えないんですけど
ある任意の数を何進法で表そうとも、その数の構造自体には(たとえば
どの素数であるか、ということは数論にとって意味はあるが、どのような手続きで
ペアノ算術的に定義されるかは数学的帰納法が適用されている、ということ
以上の意味はない、というようなかんじで)意味を持たない。
同様に、任意の統語構造についてその局所的な演算を問題にしたとしても
その統語構造がもつ「意味」あるいは他の部門、他の計算に対する重要性を
明らかにしたことにはならない。
ちょっととっちらかってます。
214は、いかにバイナリ構造がいかに興味に欠き、ありがち commonplaceかをいったものにすぎないのもので、
たしかにペアノ公理によると自然数列は階層性をもって表象されるが、これは一義的な順列をもった構成素ならば、
すべてもちうるような弱階層性にすぎない。とは思うのだが、
じつは、思いのほか、バイナリ構造の<番地づけ>は面白い効果があるのかもしれない…
というのも、真理値をべつにすれば、なんらかの言語学単位が<値>をもつことは非常に珍しい。
すなわち、番地付けをほどこせば、ある語がある領域の中でとりうる位置を数値化できるわけであるにゃ。
で、214の欠点は、てっぺんのノードに1を割り振ることで、領域全体が右枝(あるいは左枝)であることを
不必要に仮定してしまう(ここがパリティ情報といったぶぶん)ので、ここは不定的な数値Mをおいたほうが、
一般性は高まるし、ノード番地が相対的な指示となることは、句構造の相対性と一致するということで望ましいのだにゃ。
あるいは別の可能性として、mergeのつくる最小領域である三角形に番地付けをするということも考えられる。
いずれにしても、2進で行えば論理計算がめちゃめちゃラクなので、「なにかでてくる」かもしれない。
ためしにwh移動を数値化してみると、「移動されていない」ほうの語句の「番地」が一段ずれて(2倍になって、)
たとえばm101は、m0101になる。まあ、たいしたことではないが、移動現象の相対的な面が明確に表象されるにゃ。
樹形図はどうしても<感性的>なので、やはりどうしてもみためで「左上位」の推論におちいりやすいが、
これは直接誤りではないが、じつは左右は等価であり、時間との関係も任意であると思われる。
以上のことは、まあ、知的遊戯としては、ちょっと面白いかもしれない。
で、あと付け加えるべきことは、バイナリ構造自体は、非常に簡単な自己相似関数のいっしゅであるが、
「部分が意味を持つ」というさらに自然言語に固有の特徴づけを行うためには、もっと強力な自己相似関数が必要と思われる。
それがなにかはわからないにゃむ。
>「部分が意味を持つ」というさらに自然言語に固有の
まちがえた…。「部分が意味を持つ」のは、自然言語に固有でもなんでもない。
っつーか、昨日なおそうとしたんだけど、サーバが異常で来れなかったにゃむ。
<番地づけ>という表現を与えていただいて、二進法の話がよくわかった気がしますにゃ。
(でも、始発節点を1でなくmにする、という話は頭がついていきませんでした。結局、
右枝分れだろうと、左枝分れだろうと関係ないので、話を1を始発節点とするもので
考えていいんですよね?)
二進法表記として定めておき、始発節点1があり、任意の終端記号列があれば、
<番地づけ>がいつでも必要なときに復元可能。ただし、反対側に枝分かれが出る場合、
というのは捉えられないんですよね、たぶん。そうすると、数理的に、反対側に枝分かれが
出る、ということはあり得ず、音声として置き換えられた言語にそのようなものが
あった場合には、基本的なP-markerを産出する数理的基盤とは別のものによる、
とかって話になったらおもしろいかにゃー(どうかにゃ?)
一方、「2で割る」ということから分るのに、敢えて<番地づけ>を書き込んでおくような
統語理論は余剰的。HPSGのような、節点間での情報の受け渡しを必要とするような
理論では、必要な節点にラベルを貼って、情報共有のための操作に見えるように
しておかないといけない。すると、余剰的バージョンの表し方をしなければ
ならなくなるのではにゃいでしょうか。数理的にエレガントな理論を目指している
はずの理論にとっては問題?
派生型の理論にとっては1と終端列とが同時に問題になるようなことはないから、
どのような関係になるんですかにゃーうーん・・・
219 :
仇鱒:2006/03/07(火) 20:31:20
生成スレカキコミしようと思ったらできなかったのでコッチにカキコミしまつ。
誰かあっちにコピペしといてちょ。
***
ありゃ、誰からもレスねぇーじゃん。つまんねぇーじゃん。しゃーねぇーなー、
電源落とす前にちょいと書いてやっか。
えっと、上でソクラテスがマージの発生についてチョムが何か言ってないのか
顔餅に聞いていて、それに対して顔餅はチョムはとくに何らゆってないとレス
してるわけだが、スリー・ファクターにはちょいとチョムも書いている罠。
たまたま、どーゆーわけか、今引き出し引っかき回したらスリー・ファクターの
ゲラ刷りが出てきたからちょいと見たのだが、次↓のようなクダリがある罠:
...: the Great Leap Forward yields Merge.
で、Mergeの生みの母親がthe Great Leap Forwardだと分かるわけだが、
じゃ、the Great Forwardとはなんぞや、となるわけだ。で、次↓のところを見
ると、
the "great leap forward" as Jared Diamond called it, the result of some genetic event
that rewired the brain, allowing for the origin of modern language with the rich syntax ...
ま、どうも脳の配線を変えちゃう遺伝子レベルの脳内イベントだと。で、その
脳内イベントを引き起こす原因はなんじゃらほい♪と思うわけだ。で、次↓を見
ると、
The simplest account of the "Great Leap Forward" in the evolution of humans would be
that the brain was rewired, perhaps by some slight mutation, to provide the operation Merge, ...
ちょっとした突然変異だと。で、ハナシはココでストップだ。結局突然変異で
ハナシを落とすところはダーウイニズム的な進化をそのまま引き継
いでいるとも言える罠。てか、何にも言ってないに等しいわ。ははははは。
ま、そんなところだが、電源ぷっちゅ〜ん♪
スレ汚ししまそん。
わたしのほうが脱線してるのかにゃ…
まず、この番地付けバイナリ構造は、まえに言ったように非常に汎用性の高いもので、
いってみれば離散的な座標、将棋の(よくしらないけど)2,3、歩みたなものと同質。
で、たしかに始発点を1としても一般性は失われないんだけど、句構造が上に向かっても
下に向かっても無限に開かれているということと、部分がその上位部分と相似であることを
数的に表示するためには、数1は、とりあえず見えていない親からの左枝(または右枝)であることを強く指示してしまう
ように思われる。いま始発点Oを1としてみると、その右枝はとりあえず10(この点をAとする)、
そして左枝は11(この点をBとする)
そしてAの双子の姉妹は100と101であるが、かりに視点をAに移して、Aまでしか視界になかったとする、
つまりAが始発点として考えられたとき、数字列が<道順>を写像するという考えにこだわるとすると、
左端の1が削除され、始発点0から、00と01が分岐する構造になる。これは相似としてはあまりぐあいはよくないのでは、とおもったのだにゃ。
そこで、Oに番地Mをふっておき、かりに視点を移動してAが始発点となったとき、
数Mのほうは、Mにさらに0を追加したM'というのを作っておき
1)M'=M0(数字列の等式であることに注意。)
としておけば、Aの姉妹はM'0とM'1となり、いっぽうOをやはり始発と考えたいときには、
1)よりAの姉妹はM00,M01となるが、Oの姉妹はM0とM1となり、相似がカンペキになるのにゃ。
本文長すぎと言われたので、生成批判のところは割愛。
とりあえず、商業音楽に頻出する2,4,8,16という数字
(音符のレゾルーションとして、または小節数のグルーピングについて)
にからめていけば、ややこのスレの趣旨にあったのになると思うにゃむ。
民謡ではどうなのか…よく知らんけど。「黒田節」は、4かけ4のきれいな構造がみられる。
「五木の子守唄」は、変拍子があってよくわからない。いっぱんに、ダメなような気がする。
それではまたにゃん。
「五木の子守唄」は、なんか語りとかいろいろ挿入されているからでしょうか・・・
先日、九州のほうの盲目のシンガーがデビューしたとかで、そのシンガーが歌って
いたこのうた、よかったです。弾いてみたいけど、二つあったアンプを
うっぱらっちゃいました・・・
ここのことですかぬあ、マエストロ虚無好き?なんだか難しー話みたいで、
ワシみたいな音痴ボンクラ頭にはとても着いていけそうもないぬあが、また、
まったり拝読してみますぬあ。しかし、ここではマエストロはほとんどネ申の
ごとく崇められておられるのですぬあ。いやいや、失礼いたしましたぬ。
>>216 > 「部分が意味を持つ」というさらに自然言語に固有の特徴づけを行うためには、もっと強力な自己相似関数が必要と思われる。
これは、どうしても自己相似関数であることが前提なのだろうか?
二つの(というかな?ちょいと表現に苦しむが)自己相似関数があり、相互に
特定部分だけ(あるレベル)クロスし、相手にとっての変数になるような、
相互再帰関数とでもいうべきものは、言語構造理解には無駄だろうか?
連立微分方程式が生物現象の数理論化においてなかなか便利だったように。
ただの全くoff-contextな雑談じゃがぬぁ。
一人称・・・さん、はじめまして。
>ネ申のごとく崇められて
まあ、この点が鼻につくとしても、それは私の責任でして。
申し訳ないですね。
>相互に 特定部分だけ(あるレベル)クロスし、相手にとっての変数になるような、
>相互再帰関数とでもいうべきものは、言語構造理解には無駄だろうか?
言語構造自体は、このようなものは無限遡及を生み出して、そのために
解析器がいつになってもとまらない、みたいなことから無い、って考えられている
みたいですね。でも、理解、というかパーザ自体が元来そういう性質を備えている、
という可能性はあるのかもしれませんね。ただ連立微分法的式が
果たすのと同じようなことを期待するということは、工学での試みも
ひっくるめて現代言語学の前提を否定しちゃうと思うんですけど。
これはこれでこのスレの趣旨と大いに関わりそうなので面白そうです。
どうぞよろしく(^-~)
はじめまして?
むにゃ無にゃ。日光ジャンボのパーサーです・・・いや、ネ申のようでつよ、真。
鼻についてなんぞいませんな、鼻がないですから。何を言ってるんだか・・・
無限<遡及>だと思うわけではないのであるが、停止条件をどこかに落としてきた
らしくて見つからにゃイのかも。停止条件を与えるのは言語の外ではないかいな?
とか。ところで、
> ただ連立微分法的式が
> 果たすのと同じようなことを期待するということは、工学での試みも
> ひっくるめて現代言語学の前提を否定しちゃうと思うんですけど。
その「前提」について、それが何か是非お教えを賜りたい。
現代言語学というのはソシュール以降ということ?ではないだろう。とか。
>前提
「無限遡及がない」ということを意図してました。一見ありそうに見える構造とか(antecedent-contained deletionがそうらしい)、
談話とか(相互知識に関すること)については、そう見えるだけで実際はそうではない、
ということになってるみたいです。
自己相似関数、だと、構造を嵌め込んでいるのは頻繁に見られるので私には理解しやすいんですけど、
ある部分の出力が互いに別の部分の入力になってループをなすようなのだと
どんな感じのを想像したらいいんでしょうか?
むにゃ?私にacdの話か〜。。無図というか無理だな、きっと。
Bが踏んだ、その石を、Aが踏んだ
Bが踏んだ石どれもを、Aが踏んだ なるほど、これもAとBですな。
数も入ってることだし。
これを続く一本と見ないで、寄り添う二本と見たらいけないのでござるかな?
ところで、談話とか(相互知識に関すること)とは?
> ある部分の出力が互いに別の部分の入力になってループをなすようなのだと
むにゃ、いい加減なことを言っているだけですがぬぁ。上の2本とか、
誰かが誰かの口真似オウムしてるとき、そのオウムの方が言っていることと
真似されてる誰かの言っていることとか・・相手の意図を汲んで相手の話を聞く、とか。
見合って見合っての相撲とりの内心での戦略構想とか。蛙と蝿とか。。とか。
安定化したループをまわる香雄が、もう一つの次元に飛び出すのに何が必要か、とか。
こりゃ、ちょい違うかな。。
それこそ、マエストロ虚無好きの即興を掛け合いでやる場合とか。。
音楽についてはゼロだから無茶糞言うとおもうぬぁが、二人の演奏者A,Bが、それぞれ、
異なったスケールa,bでお互いに即興しておって、たまたま、Aの1フレーズあるいは
そのまた一部をBが耳にして、それを使って膨らまし、今度は、Bの膨らんだ数フレーズの
最後か、その部分をAが聞いて、、、、というようなアフォなことをイメージして
たので、こさかな先生やマエストロのイワンとしたこととはズレとると思ったぬ。
バラバラ書いてすまんせんぬ。で、そのときの1フレーズが全曲に占める
意味とは何か、というよーなことだった気がするのだが、ちょい昔で、
ある図は今のワシだから、まともな話ではないと思ってもらえばいいぬ。雑談で。
あんまり足しげく来れんようになったよーぬぁ気がするので少しずつ読み直しとったら、
こんな例もあったげぬぁ:
> ここからは雑談。純正律の「ネイティブ」と自然律の「ネイティブ」に
> 対して統一の純正律の課題、統一の自然律の課題を実行させたら面白そう。
> このあたりは虚無せんせの言説に繰り返し現れるモチーフと直接関わるわけにゃが。
ついでついでに書くと、マエストロがメルロポンティについて言及されてるのが
あったぬ。昔、どこかで見たよな気がするぬぁが、
「私が知覚する、と言うべきではない、人が私において知覚する、と言うべきだ」
とかの名言もポンしゃんだったと持ったぬ。ほな。
ほなと言っておきながらまた読み直したらDeutschの『音楽の心理学』(Deutschので
よかったぬぁ?)が出とったので思い出したが、右耳左耳でdichoticに別の数フレーズ
聞かせたらというのがあったと思うぬぁが、ありゃ両方に錯視ならぬ錯聴?が起きる
というのがあったぬぁ。ディアナは最初は聴覚的錯覚と読んでいたのが、
音楽的錯覚になり、最後ぬぁ音階の錯覚と言うようになったのだったように
覚えていたぬぁが、また、「ある図は今」かもしれぬぁあが。無関係雑談すまぬぬ。
あっ!!!!また行動主義者(っぽい)人だ!!!!!!
でも時間がない。ので、とりあえずきかなくて後悔していた事を聞くと、
mand/tact言語獲得「理論」というのは、まだ健在なのかにゃ。
わたしはあれをみると、
キチガイ鮮人の「ナンデモ韓国起源説」を読むくらいにおぞましく感じるにゃ。(悪意はない)
ではまたにゃむ。
おぞましく感じる理由にもよるだろう。mand/tactのどのような側面について「おぞましく」感じておられるのか?
そう聞く理由は、「まだ健在なのか」という問いへの答えもまたmand/tactの、ソノ側面によるだろうからだが。
ところで、他国の文化や性向を批判するときには、同じことが自分の側にないか、つい考えるのだが。
>二つの(というかな?ちょいと表現に苦しむが)自己相似関数があり
やはり一人称の先生は、コミュニケーションの「現場」から出発したがってるみたいだにゃ…
それはアプローチ自体がまったく違うわけで、
あくまで話者なき言語の、とりわけ論理的な、固有な特性を見出そうというアプローチとは、
平行線をたどるか、もっと悪い場合には、コミュニケーション的アプローチは
言語固有の知識と信じられるものを解体しさえするのにゃ。
かかる論理主義は、たしかに統語分析に限られるものではなく、あるていど「脈絡のある談話」を
論理的に構成することも可能であるし、その実装可能性ももちろんあるけど、
けっきょくのところ、それはフッサールが存命ならば、「自然的(科学的)態度」の
悪あがきていどにしか映らないであろうところのものである。
もし一人称の先生が、現象学に親和的であり、「かけがえのないこのわたし」みたいな、
あまっちょろい直観から出発するならば、わたしとは決定的に対立するだろう。
けど、現象学に親和的な行動科学者って、そりゃちょっと想像がつかんにゃむ。
最近、半世紀くらい前の「プロレタリアート言語学」とでもよぶべき論考を読んだけど、
やっぱし、「文系に真理なし」の確信を強くしたにゃー。
要するに、話者なき言語の意味(を対象とする言語学)とは、あるしゅの人間の疎外であり、「表現する」という
人間固有の「労働」を隠蔽する物象化的倒錯だとみなすとかいうことだった。
ものすごいショボーンにゃ…
>同じことが自分の側にないか
自分がキムチ臭くないかは、ときどき考える。
っつーか、2ちゃんでみかける「正論」ほどくだらないものはないにゃー。
もっと面白く書かなきゃ。
mand/tactのばかばかしさは、ちょっとスレ違いだったかもしれないにゃむ。
まちがえたにゃむ…
「2つの自己相似関数」から、acdの相互参照性のハナシにつながってるのか…。
異本的に、わたしは慌て者なので、ちょっとそのへんをよろしく。にゃむ。
さあて、マエストロとお話させていただくには、ソレなり覚悟して花さんと、
葉隠れした細身の刃にスッパリ斬られかねんからぬぁ。ま、そこで、私としては
正直素直が一番と考えて書くことにするか(ま、私のことゆえ、保証はできぬぁが)。
> もし一人称が、現象学に親和的であり、「かけがえのないこのわたし」みたいな、
> あまっちょろい直観から出発するならば、わたしとは決定的に対立するだろう。
「かけがえのないこのわたし」という言葉でマエストロ虚無が何をニュアンスしているか
まだ私には読みきれないが、
私は恋物語は好きだが(自身ロマンティックでないもんで憧れるだけだが)、
「かけがえのないこのわたし」は、さすがに歯が浮くな。そりゃあ、世の中、そういう
言い方が持て囃され穏当だと見なされているかもしれないが、そして、私も世渡りの
必要から、そんなことも時には聞きよく美しくやらねばならないかもいしれないが、
ここではまぁ無用だろう。
私はそもそも「私」というものを認めたくないのだ。
一人称の行動主義者というoxymoronは、言ってみれば、一人称解体への表象とでも。
一度解体して、し切れぬところがありやなしやで行こうかと。
> やはり一人称の先生は、コミュニケーションの「現場」から出発したがってるみたいだにゃ…
というか、内なる精神だかを知らず、それ以外の出発点を持ち得ない狭隘なる者に
過ぎぬ。ただ、マエストロの「コミュニケーション的アプローチ」が私の立場なのかは
すぐには同意できないな。「私」と誰かがそれぞれ主体として話合うという意味合い
なら、それは私の立場ではないと自分では思うのだが。
それほど、マエストロとの対話(?)には、細かな調整・確認が必要だと思うぬぁ。
> あくまで話者なき言語の、とりわけ論理的な、固有な特性を見出そうというアプローチとは、
徹底的行動主義者は「私」を認めたか?否。ならば、話者と聴者のスキナーの言語行動論は
一種の矛盾と言わねばならぬ。それこそ一人称の行動主義者なみのoxymoronとなることに。
そういう安易な擬人化はスキナーにはすべての最初からあったのだろう。だが、もし
片方の手に、「私」を認めないというテーゼを持つならば、左手に「私」こみの
コミュニケーションを持つことは許されぬはず。私は、それはスキナーがまだ片言で
言い残した問題であり、言い切れなかった点を(いや、言わなかった点を)探して
みたいというだけでな。それもこれもまた浪漫主義かもしれないがぬぁ。
> 平行線をたどるか、もっと悪い場合には、コミュニケーション的アプローチは
さて、上に書いたことをマエストロが理解された上でそうなるとすれば、それはそれで
止むを得ない、というか、マエストロの行き方であると思うので、私には何も言うことは
ない。が、
> 言語固有の知識と信じられるものを解体しさえするのにゃ。
というものが何であるのか私にはまだよく見えていない。分からないのだ、単純に。
多くの「知識」と言うものが私には、行動と言語の中にあると(いや、この言い方は
マエストロ相手では禁物か)・・いや、ある行動と言語の(この十把一絡げは必要なら
少しく分解せねばなるまいが、今は許されよ)<粗なシステム>同士の交絡にあるとしか
思えない。粗い言い方であることは覚悟の上で言うなら、cogitoの上に知識は
求めないとでも言うべきか。そも知識の本質は単なる記述や表示ではなく、
それ(知識)が何らかの形で、生を形成するものでモあると思うからだが。と言っても
私は自己ポイエーシスそのままに論を展開するつもりではない。
> かかる論理主義は、たしかに統語分析に限られるものではなく、あるていど「脈絡のある談話」を
> 論理的に構成することも可能であるし、その実装可能性ももちろんあるけど、
それさえ今はまだ不十分にしかできていない現状とすれば、凡百盆栽の一である
私に他の何ができようか?
> けっきょくのところ、それはフッサールが存命ならば、「自然的(科学的)態度」の
> 悪あがきていどにしか映らないであろうところのものである。
どう悪足掻きなのか知りたいのだが、フッサールもまた解釈サレル仕方が多様な人の
一人(ええい、対格がないのは面倒だ!)であって、科学主義への道にもなっている。
いわば、どのフッサールが存命ならばなのか、と問いたくもなる。そもそも、もはや
(というか元からだが)フッサールなる「私」は存在しないので、人名ほど希薄な指標は
ないな。
> けど、現象学に親和的な行動科学者って、そりゃちょっと想像がつかんにゃむ。
確かに。oxymoronとして存在するか、それとも成立し得るかも分からんぬぁ。
> 要するに、話者なき言語の意味(を対象とする言語学)とは、あるしゅの人間の疎外であり、「表現する」という
> 人間固有の「労働」を隠蔽する物象化的倒錯だとみなすとかいうことだった。
私は穴あきストであってもプロレタリアートではないと思っているし、上のような
何でも階級闘争的表現に持っていこうという態度にはついていけないぬぁ。
なぜなら上はまだ、「人間固有」とか人間というものを中心にすえているという点では
唯物主義にも達していないと思うのでな。
> ものすごいショボーンにゃ…
それはそうだろう。言うまでもないことだ。
> 自分がキムチ臭くないかは、ときどき考える。
> っつーか、2ちゃんでみかける「正論」ほどくだらないものはないにゃー。
> もっと面白く書かなきゃ。
それはすまんな。私は余裕綽綽に生きてはいないので、すぐマジになる。
もっとも何を「面白い」と思うかは(表層的意味では)人それぞれで
私が面白くて遊んでも、人には詰まらんどころか意味もなく、叱られてばかりでな。
ま、不徳の致すところなり〜だが。
> mand/tactのばかばかしさは、ちょっとスレ違いだったかもしれないにゃむ。
いや、もしまた言葉を交換する機会があるのなら、上の話の延長戦上で再度、この
問題に触れないわけにはいかないだろう。
> まちがえたにゃむ…
何をかな?
> 「2つの自己相似関数」から、acdの相互参照性のハナシにつながってるのか…。
> 異本的に、わたしは慌て者なので、ちょっとそのへんをよろしく。にゃむ。
いや、特に深い意味あって言ったことではない。おそらくマエストロの自己相似と
私の自己相似はどこかに大きなズレがあるかと思っている。ま、レスを「まとめる」
上で、ついくっ付けたくらいと思ってくだされ。
というのでは、わざわざ御下問あったのに拍子抜けショボーンかもしれないぬぁ。
agentが2つある場合、なぜそれが文として1つになっている、あるいはせねばならぬ
のだろうか。というか、なぜ、それを1文としてその構造を考察せねばならぬのか
と言ってもいいだろうか。いや、もう少し言うなら、なぜ、2つを1つにし、なおかつ
その1つを理解するに当たって、その二重化した「部分」から始めるのだろうか、と。
むしろ大雑把な意味は、例えば2者が同じことをしたという場合なら、VPがどうのでは
なく、なぜ2文が1文になるのか、何ゆえ、1文として表出せねばならなかったのか
というところから始めるべきではないのか。そうすれば、もしかすると、自己相似は
見かけ、そうであっても、実は違うということにならないのか。それこそ、ゼロ人称を
考えねばならぬのかもしれん。
ははは、私にもわからなくなってきたかな。というか、対格なしの日常言語で語ると
混乱してくるのかもしれない。この問題は逃げるつもりはないが、光速で話を
進めることもできないと思うので、今日はこのくらいでお赦しいただければ有難い。
突っ込まれれば、それなり何か言うことも出てくるかもしれんのだがぬぁ。
や、花曇に今日は雨か。
花を愛で、花と生きたし、つかの間の浮き瀬の水際、今日もまたかな
こういう話になると
∧∧
( ・ω・) と思ったがやはり頑張るにゃん!
_| ⊃/(___
/ └-(____/
師が通りすがるのをついつい期待してしまうのだが、ま、それも世界の成り行きではあるか。。
人が、もう一人の言いたいことを理解する上で間違いを犯すということは、決してただの間違いで
あるということはないと思うでな。間違いがあるから、その背景が知れ、その背景が知れるなら、
あるいは知るために、言い募り言い改め言い加える。その部分だけを読めば、すれ違いは増していき、
その部分がなにゆえ言われたかをたどれば、世界が見えるということもあるのだろう。
私もネズミを踏んで、飴玉を拾うほど粗忽者であるから、
ちょっとそのへんをよろしく as マエストロ です(or DOES)
ですな。
ただの思いつきだが、
マエストロが「ちょっとそのへんをよろしく」と言い、私もそう言った。
マエストロが「ちょっとそのへんをよろしく」と言い、私もそうした。
マエストロが「ちょっとそのへんをよろしく」と言い、私もマエストロが「ちょっとそのへんをよろしく」と言い、・・・
マエストロがちょっとそのへんをよろしくというようなことを言い、私もそう言った。
マエストロがちょっとそのへんをよろしくというようなことを言い、私もそうした。
マエストロがちょっとそのへんをよろしくというようなことを言い、私もマエストロがちょっとそのへんをよろしくというようなことを言ったように、・・・
[2文→1文]→「そう」ないし「そのような」のネスト→1文化された文内の解釈による無限遡及
たしかに、その一つのアプローチには仇鱒氏ではないが、スコープの大小がある
のかもしれないが、大小でなく、高低であるかもしれず、また、そもそもスコープ
など、あってもなくても良かったということかもしれぬ。つまり、文の部分の参照なのか
文の参照なのか、というようなことだが。
どうしても、私はそこで、
「私が知覚する、と言うべきではない、人が私において知覚する、と言うべきだ」
というのを思い出さざるを得ない気がするのであるが。ま、妄想であろうな。
さてさて・・・・
s> 「2つの自己相似関数」から、acdの相互参照性のハナシにつながってるのか…。
そのつもりであったのだと思うのだが、あるいは、
S> まちがえたにゃむ…
間違えるような雰囲気が含まれていたということかもしれない。同じことでは在り得ぬが
そこにも、sとSの相似があるのだろう。どちらがどちらより、大きい・高いかはわからないが。
さて、くどくなってきたので暫くお茶でも飲んでくるかな、1000リッタくらい。
散る桜でもカップに受けて。
250 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/04/23(日) 17:21:59
一人称はHPSGについての概略というか発想を元から知っていたのか?
251 :
LCSMS語で:2006/04/23(日) 17:37:35
>>1後スレの題名に対して
音楽は無文化の先見語です。
多分音楽も一種の言語です。
252 :
LCSMS語で:2006/04/23(日) 17:38:43
訂正
先見語ではなく先験語
仝∠∫∋
254 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/04/23(日) 17:48:34
>>250 というか、signifie signifiant は、ある意味連合主義だし、それを
状況的に捉え返すという辺りが気に行ったのだろう。ほかにも、
行動主義に親和的な要素があるのかもしれない。
→ × ∂≠∂ ∩∧?¶
256 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/04/23(日) 18:05:05
仝∝∫ → < += ∨∠⌒・∝√?¶
≠⊆∂∋ → × ∨∠⌒・∝√ 仝∝∫ ←¶
+Mt
≠⊆∂∋ ←〉+Mt ¶
(^^)
262 :
LCSMS語で:2006/04/23(日) 18:31:07
(^^)/
II±±¶
II±±
微笑ましいことだな。
片言でも通じたかと思うと何だか幸せな気分になるではないか。
もっとも、「人工言語」というのはどこまでが人工なのか考え始めるとendless loopに陥るのだが。
あげんにゃヴォケエエエエ!!!!(プンスカ
といいつつ¶は終了記号なのはまちがいないだろう。∨∠⌒・∝√と≠⊆∂は単語っぽい。
→はコプラ相当で、×はNegか?
一人称の先生が悩んでるのは、Sが便宜上の区別に過ぎないということと、
(それなのに、一人称の先生には、<文法>はSを絶対的区分にしているようにみえる。)
記録された談話(たとえばこのスレ)から、絶対的な(「実在する」)話者を特定できない、
と、この2点なのにゃ。
もう少し考え抜いて、整理してから書き込んでもらえると助かるにゃ。
上記2点(別に1てんでもいい)の問題についてはまたいずれ。
では、また、いずれ。
ここは貴重な過疎スレなんじゃから、アゲてはいかんにゃw
>>268 誰?
一人称の先生の言っていることは、用語上の混乱もあって、ほとんどよくわからにゃい。じつは。
たぶんインタラクティブな意味空間のようなものがあり、それが若干「コミュニケーションのリアルな現場」
から理想化・抽象化されたものであろうということだが、
それはそれで研究されるべきで、なぜシンタクスが「部分」に注目するのがあるしゅの視野狭窄なのか、
わたしにはわかりまへん。
わたしはチョムスキーが語用論・言語運用上の知識を、行動主義系ポンコツ言語学者といっしょに
言語学の「コア」から駆逐したことは、たいへん賢明なことだと思ってるにゃ。
まず、なぜSばかりが注目されるように「見える」かという退屈な質問については、生成文法が興味を抱いている
量化スコープ、束縛、移動もろもろの統語現象が、Sを超えてあらわれることがまずないから。
もう少し正確に言えば、Sという単位はかなり前に消滅しており、She adores herselfが、実際<文>であるか、
あるいは巨大な句構造のほんの一部でるかにかかわらず、この時制句はひとつの<構成素>をrepresentしているにすぎず、
すでにここに無限句構造を予測した上での抽象化が働いているわけである。
まあ、むりやり楽曲構造にたとえれば、ひとつのケーデンス(終末の和声進行)についての分析は、
それだけで1曲を構成するものであろうと、長大な楽曲の一部であろうと、常に保存されるような性質を分析しようとする
わけであり、このような還元主義的手法は、学問の王道であるにゃ。
そのほかにも、かなり問題のある発言があちこちにあるけど、ちょっと一度には扱いきれない。
だけれども、一人称先生のご批判というのは、よくある「ないものねだり」系に属するという可能性が濃厚。
生成文法は、個々の発話場面で、なぜreferential expressionではなく代名詞を「使わざるをえなかったのか」、
みたいな問題には、関心がおまへんのにゃん。
では、ためしに<脈絡のある談話>を構成するルールを簡単に作ってみると、
(もちろん、非常に簡素なぶぶんしかカバーしにゃい)
1)ある陳述は、先行する疑問文を持つ。陳述は、新情報を提供する。
2)旧情報から、特定の規則によって、疑問文を作ることができる。
とりあえず、既出のイベントまたは語彙から、疑問文を作ることができる。
3)疑問文は、実際に発話される必要が無い。
(とくに、「ひとりがたり」のばあい。)
4)ある人物が、Pという発言をしたということも、情報である。
5)初期設定を、どうするか?とりあえず、いきなり始まってもいいことにする。
ま、次のような会話らしきもができる<かも>しれない。
A「ラメーンうまかったよー」
B「どこで食べたの?」
A「『〇〇亭』。安かったよ。駅からも近いし。」
B「駅って?新宿?」
A「ちがうよ。馬場。新宿といえば、『××屋』もうまかった。」
当然ながら、自問自答のようなかたちで、「ひとり語り」にすることもできるが、
それはあまり興味を引く言語学的事実ではないのである。
こりゃ、やっぱり独り言にゃろ。
ねずみ、ねずみ、ねずみ・・・・困ったにゃん、狭い部屋だし、ベッドの傍に飼うしかないかしら。
なんで、猫がネズミを飼わなきゃいけないんだろ?にゃん、にゃん、・・・・・ けっこう可愛い顔してた
ちょっとたれ目なんだけど。ぼーっとしているころがかわいいいー。なこと言ってる場合ではないわ。
そういえば、ネズミがキーキー泣くのにも言語的名要素がとかあったけど、なんでチュウキチ、
チュッタロがしゃべるのよねー!こまったこまった。。。。
あー。あわててて誤爆です。すみませーん!
あ、レタス猫のおじさん…今晩は(ぺこり
レタス=一人称の誤爆
スレ汚すにゃ!!!
そうだな。誤爆は板すぎだ。
また306条項該当犯か。頭悪すぎ。
静かでいいスレをお続けくださいね。記述できる限り美しく。 (^^)
オラオラw
Cognition近刊
The biology and evolution of music: A comparative perspective
W.Tecumseh Fitch
A comparison of the "design features" of music with those of language reveals substantial overlap,
along with some important differences.
Most of these differences appear to stem from semantic,rather than structural, factors,
suggesting a shared formal core of music and language.
>biomusicology
とはイケてるにゃお
ま、音楽は甘い毒。toxicologyに重なるのもecologyに重なるのもいいかもにゃ。
おぉ。こんなとこ巡回してるひともいるのか…
皆様乙。とくに彦頁。
いまsonar5という音楽ソフトをやっと買って、内蔵シンセとかいじっているところ。
古い話題だけど、一時期悪名高かったps法のせいで、
ハード中心のシステムから、ソフト中心に移行せざるをえなくなったにゃ。
じつのところmidi環境自体はここ十数年かわってないのに、パソコンだけが加速的に
進化していて、要するにムダにシステム変更させられてる感じだにゃー。
<脳>だけは異常に進化スピードが速い状況とにているかもしれない
(と、ちょっとバイオミュージコロジーに話をあわせておく。)
顔文字せんせ、ありがとうございます。
>Most of these differences appear to stem from semantic
ぅおー、虚無せんせの考えと鋭く対立しそうだにゃー
ps法であせってfenderのでっかいアンプ売っちゃいました(もしかしたら
もう売れなくなるかと思って)でもその直後に引っ越したところが広くて
音も気にしなくていいとこだったので後悔中です。
cakewalkっていう名前がいいよね。
cakewalkのロゴも好き。
>ぅおー、虚無せんせの考えと鋭く対立しそうだにゃー
マジレスしておくと、あんまり音楽と言語の実質的な類似というのは、
わたしの主張ではない。(仇へーかは、実質的に類似しているとみているらすぃ。)
このスレでは、統語論内部で働いているロジックが、他の隣接領域でどう機能するか
であり、たとえばmergeは、非常に本質的には非順列集合{α,β}から順列集合をつくる操作なので、
αとβに音素やら音符やら、親族単位・数字。書記体系と、いろいろぶちこんでみて、
いったい何ができあがるのか、この操作の射程というのは何なのかを探りたい、というのが、
わたしのほんとうの目論見なのだにゃ。(MPが文法の解体、というかさらに一般的な原理からの「説明」を
めざすなら、ぜひとも必要とされる仕事)
だけど、わたし的にはもうだいたい先が読めていて、はっきりいって、mergeは弱い、
すごい取るに足らない構造をガシガシ作り出す操作であることは明らかなのだにゃ。
(けっきょく語彙情報をあてにしないと、なんていうか、常識的にいって<宛名連鎖>のようなものしか作らない。
宛名連鎖というのは、集合が空集合でない要素をもち、ラベルがあり、自然数との対応があり、
ひとつの集合のラベルが、自然数の対応からみて1個上位にある集合の要素との関連付けがなされるとき定義されるもので、
「日本(国)東京都杉並区井草(字)〇丁目〇番地〇号」というような階層表現として現れる。
これがmergeのの定義をみるかぎり、せいぜいそれがもつとみられる射程で、
原理的には自然数の「読み下し文」である「4万3千5百2拾7」と同等の構造である。
非文の条件としては、集合と自然数の対応の誤り「千代田区東京都」とか、
おなじクラスから二つ要素を引き抜く「東京都練馬区江東区」とかあり、後者からは、
必然的にheadの概念が生まれる。「東京都練馬区」は、<都>をheadとする<PP=prefectual phrase>ということになる。
)このスレのタイトルは、『あて先は、どこまで言語か?』でもよかったのだにゃむ…
ちょっと待った。こんなことしているばあいではないのだが、
都がspec、東京がhead、練馬区がcomplementのほうがいいにゃ…。
>>285 > cakewalkのロゴも好き。
randomwalkのドビーッシーもいいにゃん。でも、下のはrandomではないだろねん。
> であり、たとえばmergeは、非常に本質的には非順列集合{α,β}から順列集合をつくる操作なので、
いやー、えーはなしやなー。語彙!、じゃないや、御意!。問題は、それが一段か二段か三段か・・・
> αとβに音素やら音符やら、親族単位・数字。書記体系と、いろいろぶちこんでみて、
そこで、もう一段、世界のほうに根を伸ばすかどうかが違うのかな・・・ 世界なんてワケわからんしなー。
> わたしのほんとうの目論見なのだにゃ。(MPが文法の解体、というかさらに一般的な原理からの「説明」を
> めざすなら、ぜひとも必要とされる仕事)
そう思うよなー。しかし、私は最近ふとそう思っただけなのだが、昔からとはサスガ凄いにゃ。
> すごい取るに足らない構造をガシガシ作り出す操作であることは明らかなのだにゃ。
条件付けみたいかな?おそらく、、、、、
> 非文の条件としては、集合と自然数の対応の誤り「千代田区東京都」とか、
> おなじクラスから二つ要素を引き抜く「東京都練馬区江東区」とかあり、後者からは、
> 必然的にheadの概念が生まれる。
にゃーるほど。いい例みっけ。
「東京都練馬区」は、<都>をheadとする<PP=prefectual phrase>ということになる。
> )このスレのタイトルは、『あて先は、どこまで言語か?』でもよかったのだにゃむ…
こういうウィット好きだ。シオマネキの手はどうして片方だけ大きくなったのだろ?
思いつきに過ぎないけど、生成の目標はもともと<宛名連鎖>の体系を作ることだったのじゃないのかな?
宛名のところまで行ってみたら、そこに誰かいるだろうというような。そういう意味ではmergeはいかにも生成
らしい営みかもしれない。でも、そこで、<宛名>が動詞というダイナミックさを持った代物だったらモシカシテ
と考えるのもわかる気がするにゃん。もっとも、これは、宛名から差出人を推定するような綱渡りなのかも・・
わたしも思いつきで書くけど…
<宛名連鎖>は、チョムスキー文法からすれば、少なくとも<文>になりうるような
構造をプレゼントしなくてはならない。mergeは、はっきりいって、たんに「くっつく」という
感性的な連想によって語の連鎖を形成しているものであるが、
上で示したような集合の要素間の結合の再帰的操作の上位構造に、突如動詞とか外項(主語)とか、
テンスがくっつくというのはあまりにも後付けなのであるにゃ。
「ボトムアップ」方式をまじめにとるかぎり、これらが同一の操作であるとはとても思えない…
それは、東京が動詞で、練馬区が主語で、なんとか上井草が目的語だ、ということと同じレベルなのだにゃん。
まず、真偽が決定できる限りで<命題>の最小条件が何かを見なくてはならないにゃ。
ウィ(略がいうような、命題写像観では、このことは解決できない。なぜならば、
<宛名連鎖>は、紛れもなく階層構造の写像だからである。命題は、まさにそれ以上のものである。
鏡像じたいには、真も偽もない、鏡像は「命題ではない」ということだにゃ。
で、どうも命題の必要条件として、古典的な理論ではあるが、命題における存在動詞beをいかにかんがえるかということになるが、
わたしとしては命題は、その内部に「自問自答」を含んでいると、
あるいは、put A then Bのような関数的な形式を内蔵しているというのがとりあえずの解決法。
そして、この関数形式は、mergeだけでは、まさに射程におさまらないというのが、ひとつの結論。
関係ないが To be or not to be. それが問題だ。という名台詞を思い出していた。
A is B.がput A then Bであるというのは、Aが数多ある存在A〜Zの中から、ないしは
Aと非Aとの中からAを選択して取り出す、つまり、世界からAを選んで取り出す、
世界構成要素からsamplingする作業が含まれるということなのだろうか。
それは、思うに、世界を論理式に写像(一次対応物を構成?)するのではなく、もっと別の
<取り出し>を含む、というか、取り出して成立するということであり、それなら何らかの
<関わり>がそこに必要だということになるようにも思える。ついでに言えば、<関わり>は
取り出すだけではなく、世界構成要素を作り出す(というか変える)操作も含むだろう。
Aが、そもそもput Aであるのだろうか。あるいは、Aについてだけでなく、Bについてもput Bを
考えることができ、A is Bとはput B when put Aみたいなものが実体だったりしないのか。
そうだとすると、その場合、例えば、
私は生きている。ダカラ、世界は美しい。
世界は美しい。ダカラ、私は生きている。
のようなダカラは、もともと独立の「私は生きている」(A is B)と「世界は美しい」(C is D)の
間の関連付けではなく、AとC、BとDの間にもともと関係があるのはもちろんだが、AとDや
CとBの間にも関係があって、そういう一種錯綜した関連の束を含んでしまうことになるのかも
しれない。
mergeが極めて表層的な単一操作であったとしても、それがつなぐA・・・が上のようなものだ
となれば、mergeに幾つものversionがあるだけでなく、merge操作自体が世界の中において
持つ機能が変質することになるのではないだろうか。mergeは一見、単純な「対」構成操作として
始まっているように見えるが、実はそうではなく、こうした変質版すべての総称関数であると。。
「可能世界」という言葉はいろいろな意味合いで使われるようなのだが、それは世界が幾つも
可能だということであるよりは、<取り出し>(欲を言えば、<変える>も)によって、現世界と
ズレテ構成されるものが多くあるというだけにも見えてくる。しかし、<変える>が実働すれば
構成されたものではなく、新しい現世界と考えることもできるのかもしれない。摩訶不思議。
291 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/06/10(土) 14:35:35
良スレですね。
えーと…。とりあえず289できわめて愚直な書き方をしてしまったことをお詫び。
わかりやす」書くことはムズカシイのだにゃorZ
次は否定について扱うけど、もし否定が、否定される対象の階層構造の一部であり、
mergeが単一操作であるならば、それは階層上どこにでもあらわれるのでなければならない
(どこにあらわれても不思議ではない)。
ちょっとややこしいハナシになりそうなのでまたあとでだにゃー。
直観からいえば、東京都千代田区...3丁目の「ひとつの否定」である
東京都千代田区...10丁目は、全体の否定、¬[東京都千代田区...3丁目]
の一部でありうるか、ありうるとすればどういう論理構造が適切か、みたいな話になるのかにゃ。
ここに可能世界がからむかどうかわからんけど、少なくとも、ある「世界」で東京都に「西区」や「南区」が
実在するか(指示される「地点」が実在するか)という問題といっしょにしてはならないにゃ。
えーと、この問題は、「命題以前」の問題であると思われる。ではおやすみにゃむ…
あと、このスレあげないでほすぃ。
誰かが善意(?)で上げたから、相対的に15〜6段下げておいたにゃん。
分かりやすかったと思ったけど・・・ どうせまた、私が誤解しているかにゃん・・・
(どこにあらわれても不思議ではない)話とは違うけど、
かの世界ではother behaviorという奇妙な概念があって、それは例えば、
行動がA〜Zあるとき、行動Aのother behaviorとは非Aと単純に考えていいのか
(というか非Aってなんじゃいなと)いつも悩むので、お話期待するものでありまうす♪
だからと優しくなって、わざわざ関連付ける必要はありませ〜ぬ川。
あ、また、頭がバラけとって書き忘れてた・・・
> 東京都に「西区」や「南区」が実在するか(指示される「地点」が実在するか)という問題といっしょにしてはならないにゃ。
はは、そうだったにゃん。ただ、こういう言い方は
>>287 前半みたいな想いと関係があって、
そもそも何かの実在を把握することと命題作成作業とはレベルが違うが同じではないのか、
と思っているような、この頭からは、すぐそういう跳躍すってんころりんが出てくるのかも。
要するに、新宿区のない東京都なんて現実としてはイメージできない硬い頭にとって、それが
唯一可能なのは新宿区を廃止するような政治的アクションで<変える>か、でなければ、
幻覚に浸るかくらいに考えてしまうにゃん、実感のあるものとしてはだけどね。
蛇足にょろにょろニョロ。
ま、そ、それでも「命題」とはち、違うんだな、うん。
>>293 >誰かが善意(?)で上げたから、相対的に15〜6段下げておいたにゃん。
これですか?乱ageはよろしくないですね。
379 :名無し象は鼻がウナギだ! :2006/06/11(日) 03:27:51
>>377 >>377 >>377 >>377 308 :(´∀`) :2006/06/11(日) 04:29:26
都内某所から、「こら」
日本が農村地域が男性が寿命が短いこと←パーフェクトにゃろ
明日つーか今日は、関西言語学会@甲南大で霊長研の松沢センセの講演が
あるので、関西方面の連中はそっちに全員集合!
まったく、こっちと二元中継でつないでもらいたいくらいにゃ
俺のほうは昨日からどうも体調悪いのにゃが、ともかく
I see you @ICU(座布団10枚!)
>>296 > これですか?乱ageはよろしくないですね。
どれだか知らないけど、中身アリでしか上げてないにゃん。(^^;
>>296 >>297 そういうウダ情報カキコもいらないにゃ。彦頁ちゃんはシンポ・モードでsage忘れたのにゃろ。
こういうウダ情報も要らなかったにゃ。過疎スレに客人あるのはいいような悪いようなだにゃww
むにゃむにゃ、宛名連鎖問題には「東京県練馬市」が正しい宛名かどうか
という瑣末な問題がつねにつきまとうにゃ…
うえでも書いたように、宛名連鎖は、数の「読み下し」表記とほぼ同じ構造をもつので、
数のほうで考えようかにゃ。つまり
「東京都港区六本木」は「六百三拾伍」と同じ階層構造をもち、「非文」になる条件、
クラスの順列の誤りと、クラスからの二重引き出しが不可というてんで共通。
ただし数表記連鎖は、「六千二拾」のような空所をうむのだが、これはゼロ百というのが音形
をもたないとかなんとかで説明がつくにゃ。
そして問題は、この構造産出システムが、命題を構成しうるのか、そのいみで、
「六百三拾伍」の『否定』はどうなるのか、という議論になると思う。とにかく従来、
言語学はその対象を「意味」の解釈の側から構成するか、それとも観測される物理現象から構成するかのどちらかしか
なかったのだが、このスレでは、意味抜き構造の自律的な産出を記述しようとこころみている。
それは、指示対象をもたない『音楽の文法』の記述と、同じ策略であると思うにゃ。
(このスレの成立直前に、おさかなの先生と和声進行が否定をなしえるかという議論があった。それとおなじ。)
自然数635は、十進(あるいはその他)であるのだが、その表現
「六百三拾伍」は、バイナリであることに注意。
headつき内心構造であるということにゃむ。
ちょっと分からないので聞いちゃうのだけど、
六本木が10個集まると港区になり、港区が何個でもいいけど集まると東京都になったり
するのでないと、数に置き換えるのはむずかしいような気がするのだが、それを
捨て置ける理由とは何かな? それを言っちゃあオシメェよ?
桁のある程度の独立性は不要なんだろうか?
ゼロ百という空所はにゃんか面白そうだにゃん。空白の階層なんてものが物理現象にも
あるのかどうか気になるものでね。
> 言語学はその対象を「意味」の解釈の側から構成するか、それとも観測される物理現象から構成するかのどちらかしか
> なかったのだが、このスレでは、意味抜き構造の自律的な産出を記述しようとこころみている。
趣旨はなんとなくわかったような・・・ 「意味抜き構造の自律的な産出」のイメージがまだ今ひとつ・・・
もっとも「headつき内心構造」とか言われても、この素人頭にはわかりっこないのであるが、
どーぞ話をお続けくだされたし。やぶにらみしながら勉強してみるのでにゃん。
うーん、最初から話さないとダメか…
まず、恣意的なアルファベット文字の順列とか、「神武、すいぜい、あんねい、いとく…」とか、
それぞれの項が素性としてひとつの自然数(正確に言えば序数)と対応していて、
aは1、bは2、cは3...というプロパティを備えているとすれば、いっきょに一般化できるのにゃ。
この考えをすすめて、集合のクラスA,B,C...にもやはり序数との対応があり、それぞれの要素が、
クラスAの集合={a1,a2,a3...}
クラスBの集合={b1,b2,b3...}
クラスCの集合={c1,c2,c3...}
というようなぐあいになっていて、序数の順番の通りに集合から1コずつ要素をとりだしていくと、
an,bn,cn...というような連鎖ができる。で、要素と同時に「クラス名」を添えても一般性は失われないので、
宛名連鎖の一般式は、A(an),B(bn),C(cn)...ということになるのだにゃん。
このとき、一つの集合のラベルたとえばクラスCの集合の一つが、その1個うえの階層の集合のひとつたとえばb3と<関連づけられて>いれば、
階層構造としては十分なのにゃ。イメージとしては、集合Bの要素のどれかをダブルクリックすれば、
その下の階層Cの集合の一つが決定されて、その要素{c1,c2,c3...}があらわれ、そのひとつをまたクリックすると、
またまた入れ子になっているクラスDのひとつの集合があらわれる、というようなディレクトリ構造がわかりやすいかもしれない。
だからその、<関連づける>というところを、
あまりにも算術的に考える(10個集まってケタがあがるみたいな)ということは、
けっきょく宛名連鎖において、指示対象にとらわれすぎるのと同じことなのだにゃん…
たとえば、郵便番号の大きさで、港区の地名に順列をあたえることができるにゃん。六本木はたとえばナンバー7とか。
そのとき、三百六十七が、「東京都港区六本木」を表現していてもおかしくない、
あるいはこのさい指示対象はどうでもよろしい(純粋表象形式だけが問題になる)
と、これが基本的な考え方になると思うにゃ。
たぶんレスとまるにゃ…
○ディレクトリ構造みたいに言われると分かりやすいにゃん。そういう参照関係
はよく分かるほうだと思うけど。hypertextの世界もそうだが、プログラミングで
構造体とそれへのポインタやハンドル(間接ポインタ)なんかに似ている話だよね。
○自然数でなくて序数、順序数だというのでやっと少しはピンときた。
統計なんかで出てくる話でいうと、変数には、乗除ができる変数、加減ができる
変数、加減乗除もできない変数があって、それも順序のある変数と順序もない
変数に分けられる。第4のはカテゴリー変数と呼んだりしているのだが、
あなたは何処で生まれましたか?
東京都 神奈川県 埼玉県 ・・・
むろん、これにもラベルとして1,2,3を振ることはできるにゃ。ただし、それが
ただの名前であるのか、順序であるのかは区別され、順序のあるものは
カテゴリー変数ではない。とかいうのがあるのだが、虚無好き大師の数は
その順序のある数でいいのかにゃ?そうなら、少しは話が通じたかも。ふむ。
ついつい、ゲーデルじゃないが、計算できることを前提にしてしまう・・
○一つ素人質問というか方針確認質問すると、こちらの理解力が足りないのだと思うが、
> 集合Bの要素のどれかをダブルクリックすれば、
> その下の階層Cの集合の一つが決定されて、その要素{c1,c2,c3...}があらわれ、
というときの要素c1は クラスCの集合={c1,c2,c3...} というときのc1と
同じものを言っているということでいいだろうか。今、そのリンクを→で書くと
b3 → C であって b3 → cn ではない
という理解でいいかな。
○あ、もう一つあった。
> 序数の順番の通りに集合から1コずつ要素をとりだしていくと、
> an,bn,cn...というような連鎖ができる。
というのは、aj, ak, al (j≠k≠l)ではなくて、j=k=l=nとするのだろうか。
マトリックスの行か列みたいに。
○さて、上の半理解に基づいて勝手なこと書くと(疎通形成確認用質問)、
b3 → cn というreferenceが生じたとき、{c1,c2,c3...}が表われる
というような場合は空想領域なんだろうか? こりゃ、折角のご教示とは
関係ない話だけれどもね。 たぶんレスとまるにゃ… (^^)
意味抜き構造って面白そうですね。
でも、「構造」ということ自体が意味があるような気もしないではない。
いや、余分なことを言ってしまった、気にせずに続けてください。
こんなところに時枝を語る人がいたのか・・意味と構造、再帰・・・なるほど。
いわゆるモンタギュ文法とか、その依拠してきたカテゴリー文法に関する出版は日本では
そう多くないのでしょうか?白井(賢)らの翻訳・解説以外で、良書があればご教示願えませんか。
日本語原著、英文原著、翻訳、などの別を問いません。Formal Philosophy(1974)は所有。
309 :
仇鱒:2006/07/01(土) 18:36:20
仇ちゃんでつ(^ ^)
>白井(賢)らの翻訳・解説以外で、良書があればご教示願えませんか。
白井氏なら『言語加虐の百科痔典』でたっぷり書いてもらっていまつが、何か?
で、ちょいと宣伝になっちゃうけど、形式意味論絡みでは上の痔典
おすすめでつ。
よかったら本屋で立ち読みしてみてちょ。あと2週間ほどで店頭に並ぶと思
ふから。
てなことで、仇ちゃんですた〜。
あ、総入れ歯、モンタギューといえば白水社から出ている翻訳を昔読んだけど
半分ぐらい読んで挫折しますた。50歳ぐらいになったら本腰入れて形式意味論
をやろうかと思っていますでつ。
てか、虚無ちょーかんお元気?あと、こさかなの弟分、また意味なしちょー
だいね。
そう何度も言われると奈・・・
ちょっと新しいほうのパソにかかりきりになってた…
あまり元気ではない>へーか
三流科学読み物さんくつ>彦頁
わたしとしてはここを意味論スレではなく無意味論スレにしたいのだが、
どうも言語の世界への適用の問題、表象や思惟の一致とかの問題のほうが受けがいいような気がするが、
このような<外延的>な問題群が、もっぱら言語学の中心的課題だという考えは誤りであろう。
とくに、コミュニケーション効果から言語対象を構成する方法では、
当該関与する事象が、(あめを予感させる雨雲を含めて)すべて記号とよばれるものの恣意的な体系となり、
言語固有の構造が見失われるのであるにゃ。スーパーかなにかで閉店間際に3拍子にアレンジされた
「蛍の光」が流れることがあるが、あれは「早くレジをすませろ」と<意味している>のだろうかにゃん。
だとしたら、「早くレジをすませろ」という陳述自体は、異なる音声実質を持った同一意味の「別種の記号」にすぎないのか、
以上のような考えは、たとえ<意味>という語を無批判に用いていようとも、じつは
言語の行動主義的見解に異様に近いものなのだ。
まずはコミュニケーション、指示物、<話者>などを、ことごとく抹殺しなければならない。
(なんとなくこういう言い回しは、昔臭いニューアカとかを思い起こさせる)
そうすれば、構造のほうが前景にでてくるであろう。それは世界に無関心な層であり、
音楽(構造)と数学に通じるものなのにゃ。
機材から出る熱で、部屋が異様に暑い。それではまたにゃむ。
へーかといえば…。
しばしば生成スレのほうで、オンライン/オフラインの話題が出るけど、
それに対してリアクションがうすい。あれはわたしの「計算実体(実働計算)の議論」とおなじものなのにゃ。
あまりにも当然過ぎてスルーされているのならいいのだが、そもそもよくわかんなくてスルーされているのだったら、
かなり問題があるにゃ…。
当然ながら、チョムスキーじしんがインスパイアされたといっている視覚計算のほうには、
計算実体があるのである。もしも心的計算について、存在性格がよくわかんなくなったら、
色彩計算の理論とかをみるとすっきりすると思われる。
音楽の秋、カキコ。
ミズンとかは読んどんのかにゃ?
315 :
仇鱒:2006/11/09(木) 19:24:46
こんばんわ。ちょいとお邪魔しまつ。えっと、とくに書くことないんだけど
(ワラ)、最近ちょっと思ったことでも書くかなー。ま、生成スレでも前
にちょいと書いたと思うけど、わし的にはヒトつのーはサルの言語サヴァン
だと思うわけだ。ようするに、サルの言語サヴァン、それがヒトだと。で、
サヴァン症候群の人達を見ていても分かるように、彼らはあるものを
失ってその代わりにサヴァンの能力をゲトーしているわけだ。で、わしは思
うのだが、昆虫なんかももちろん人間にしかないある能力を欠
いているわけだが、その代わりに何か人間にはないものをゲトーしていると思
うのだよ。で、それは何かとゆーと、楽器だ。つまり、昆虫はある意味、楽器
サヴァンであるわけだ。ま、今ここで念頭に置いているのはスズムシとかセミ
とかああいった音を出す虫なんだけど、昆虫つーのは美しい音色を奏でる楽器を
先天的にもった特殊な生き物だと最近思ったりするわけだ。ようするに、ヒトは
言語をもったかわりに楽器を失い、逆に昆虫は楽器をもった代わりに言語を
失ったと。
316 :
仇鱒:2006/11/09(木) 19:25:28
でだ、あれだなー、なんか生成スレネタになってしまうが、言語の系統発生の
研究つーとォカノャをはじめみんなトリとかに走るわけだが、なんで昆虫
をやらんのかと思ったりするわけだ。で、前にも書いたが、わし的にはヒトの
言語の系統発生を研究しようと思ったらやぱ音楽の系統発生をやる必要があると
思っている。そうなると、やぱトリばっかじゃなく昆虫も射程に入
れるべきだと思うのだよ。と、まあ、そんなこと思ったりするのだが、実はココ
だけのハナシ、わし最近voxのアンプ買いますたー。ははははは。いやー、スゲー
でつよ。60年代の真空管の音がしまつ。音楽スレだからまたギターヲタ的な
ハナシをさせてもらうが、ストラト@シングルコイルがレスポール@
ハンバッキングのような不思議な音がしまつ。ちょいと設定をゆーと、アンプの
ゲインはフル。一方マスターボリュームはほんと1スレスレぐらい。あと、
トレブルとベースは6−7ぐらい。ギターの方はボリュームはフル。トーンは2
つとも5−6あたり。ピックアップはもちろんフロントのみ(リアで
ギャンギャン弾くのはガキのやること)。これでほんとスゲー音がする。
もうちょいヲタなハナシをすると、5−6弦の12フレットから15フレット
あたりの音が何とも言えないゾクゾク♪した音がする。サスティーン
もすごくあり、なんかネ申に一歩近づいた音がする。と、まあ、ちょいと
リアルに音楽のハナシをさせてもらいますたでつー。やぱこっちでもわしは荒し
認定てか?(ワラ)
317 :
仇鱒:2006/11/09(木) 19:39:30
それで銭儲けしてるとなると問題なんだろにゃ
すると学園祭なんかでアマバンドがチケット売ってライブハウスごっこ
したりしてんのもヤバイことになるにゃ
本の章の頭なんかにロックの歌詞を引用したりするんはどうなんだろにゃ
実は山羊本でそーゆー遊びを入れようかと考えてたとこにゃ
319 :
仇鱒:2006/11/09(木) 20:27:25
>すると学園祭なんかでアマバンドがチケット売ってライブハウスごっこ
>したりしてんのもヤバイことになるにゃ
しかも下手っぴーで詐欺罪も適用されたりしてな。ははははは。
>実は山羊本でそーゆー遊びを入れようかと考えてたとこにゃ
ま、そーゆーのは原則じぇんぶ出版社がやってくれるわ。ま、でもあんまり小
さいところだと「そーゆーのは自分で処理して栗」とゆってくる鴨
しれねぇけどな。
320 :
仇鱒:2006/11/09(木) 20:34:31
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
とするならまず
・音楽と言語は知能の量として同等なのか
・ヒトの音楽もサヴァンによって獲得したものなのか、またサヴァンで獲得したものとそうでないものは見分けがつくのか
・サヴァンは遺伝するのか
が疑問だよな。
>320
ぎやあーっ いややーーーーーーーー
(・∀・)人(・∀・)ナカーマ
ナカーマ、わーい!
326 :
虚無:2006/11/10(金) 03:10:41
いきなり体調崩して申し訳にゃい…
わたしもエフェクタ関係のハナシをすると、たいがいマルチ・エフェクタのなかには
リバーブひとつとっても、room, plate, cave, cathedralとかいろいろそろってて、
それぞれにいろいろパラメタ設定がついているんだけど、正直言うと、
わたしの耳は、<音そのもの>に関してはほとんどニブチン(死語)で、
たいていデフォルトの値で使ってまつにゃ。
room1, room2とかあっても区別がつかないし、
(ソース音じゃない)残響音のハイパス/ローパスフィルターとかいじってみても、どこが変わってるんだか
でんでんわかりましぇん><
そのてんへーかの感性には感服するにゃ。
>>322は…えー、まず「知能の量」というところで挫折。
つぎはかかりちゃんの悪口でも書くにゃ。
(ここは雑談スレだから、嵐の定義なし)
みずんてなに>彦頁
327 :
仇鱒:2006/11/10(金) 05:58:04
おはよ。
>>322 >・音楽と言語は知能の量として同等なのか
どー考えても等価ではない罠。音楽には意味がないが言語には意味
があるからな。で、この意味の有無という量的な変化が質的な変化を引き起
こしている罠、たぶん。まあ、個人的には次のような等式が成り立つと
思っているから、
(1)自然言語ー意味=自然音楽
明らかに知能の量は同じではないと思う。てか、「知能の量」の「知能」の意味
がいまいちよく分からないところがあるが、、、。
>・ヒトの音楽もサヴァンによって獲得したものなのか、
その可能性もなきにしもあらずだと思う。「漏れは音楽が嫌いだ」っていう人
はおそらくいないだろうし。そう考えると人には音楽を愛する先天的な素養
というか素質がある鴨しれないと思ったりする。で、そのような特殊な能力
もある種サヴァン的なものかな〜とちょっと思ったりする。
328 :
仇鱒:2006/11/10(金) 05:58:49
>またサヴァンで獲得したものとそうでないものは見分けがつくのか
まあ、粘着性とか執着性とかで見分けがつくんじゃないかな。すくなくとも
人間は文字に執着する生き物であると思うし(←いい例がココ@
ツーチャンネル)、わしのように音楽というか音にかなり執着する香具師
もめずらしくもなんともないからな。walkmanやiPodなんかがいつの時代でも
ヒットするのはやはり人は音楽に対する執着が高く、それだけ人は一種の音楽
サヴァンだとも思えよう。
>・サヴァンは遺伝するのか
遺伝はしないんじゃないかな、、、。どうだろう。その辺りよく分からないが、
でも、親のあることに対する粘着性が子供にも見られるのであれば
「サヴァン」は遺伝するとも言える罠。少なくともうちのガキの場合音楽には何
かこだわりがあるようではあるが。
329 :
仇鱒:2006/11/10(金) 05:59:42
>虚無ちょーかん
>エフェクタ関係
実は今エフェクタ1つも持ってないんだよね、わし。工房のころはボスの
エフェクタをかなり集めていたけど、ハタチになる頃じぇんぶ友人にタダ
であげちゃったけどね。正直バンド組んでないとエフェクタ
持っててもしょうがないんだよね。で、逆にエフェクタないとギター
そのものに対する関心が高まってくるんだな。で、まあ、今に至ると。で、
あれだ、スレ的な発言をすると、わし的にはエフェクタつーのは語用論的
なものなんだな。つまり音楽つーか楽器の機能性を高めるだけだと。だから、
わし的な言い方をすると、ギターそのものがシンタクス。まさに弦だけで
必要最小限の音をつくる。そしてギターとアンプの間に挟まれたエフェクタが
語用論。そして、アンプがまさに広い意味での認知システムの出力系。
そんなところかな。ま、こんなところから音楽と言語つーか楽器と言語の類似性
も見ることができるかなーと思ったりする。
>つぎはかかりちゃんの悪口でも書くにゃ。
をぉぉおおおおー(←大歓声)(ワラ)
てなことで、失禁@出稼ぎしてきまつ。はい。
>みずんてなに
( ゜д゜)
(つд⊂)ゴシゴシ
(;゜д゜)
(つд⊂)ゴシゴシ
_, ._
(;゜ Д゜)
つSteven Mithen: The Singing Neanderthals.
『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』
331 :
仇鱒:2006/11/10(金) 18:53:43
こんばんわ。
まあ、あれだなー、どーでもええこと書くが、上でわしはエフェクターは
語用論に相当するかもしれないと書いたわけだ。まあ、語用論とシンタクスの
定義にもよるが、ま、普通語用論つーたら2つ以上の文のやりとりを意味
する罠。でだ、ちょいと顔餅とわしは見解を異にするのだが、わし的には動物
には語用論はないと思う。香具師らはことばは言ったら言い放しか、かりに
コミュニケーションがあるにしてもまさにsーrの関係でしかないと思う。
つまり、あるチンプがある刺激文(=s)を与えたらもう一匹のチンプがその
刺激文に対して別の文(=r)を発する程度じゃないかと思う。いや、詳
しいことはワカランが。そんで、それでまたそのrである文をsとして相手の
サルにレスするというのはないのではないかと思うのだが、、、。いや、わしは
サルのケンキュウシャじゃねぇから詳しいことはワカランが。まあ、この辺りは
妄想というか憶測でしかものを言えないのだが、おそらくいわゆる談話
というのはチンプなんかにはないと思う。いわんやジュウシマツをや、である。
そうなると、やぱ動物のゲンゴには語用論はないのかな〜と思うわけだ。
そうなると、上のわしのギターネタで書くと、動物のゲンゴはギターを
ダイレクトにアンプにつないだ状態になるわけだ。ただ、あれだなー、エレキ
はそれなりにメカニカルになってるからエレキをダイレクトにアンプ
につないだのはボノボのゲンゴレベルかな。チンプあたりだとセミアコかな。
ははははは。で、ジュウシマツあたりはアコースティックギターだ。この段階
になるともうアンプはない。ギターのサウンドホールからダイレクトに音が
出る。ようするに、ゲンゴ=音楽みたいなレベルかな。よくワカランが
(ワラ)。で、ハチのダンスあたりになるとウクレレかな。ははははは。弦は4
本だ。ま、くだらんこと書いたがこんなところかなー。てか、不思議にわしは
ベースとかウクレレはやりたいとも欲しいとも思わないんだな。ま、
そんなこんなの6弦オンリーの仇ちゃんだったりしまつ。はい。
332 :
虚無:2006/11/11(土) 06:21:25
あー満身相違のようになって寝てた…
いやー、語用論のハナシが、生音とエフェクタ音の比喩になってるのはぶっとびましたにゃ。
だがしかし、ずっと前に、ここで書いたと思うんだけど、
わたしの<文法>の原イメージは、ヤマハシンセのスロット(波形の発生器)の直列/並列関係で、
並列の場合、ABのサウンドが同時に分離した音としてきこえ、
直列だと非対称的にどちらかが片方をモジュレートするため、ABはもはや聞き分けのできない
一体化したものとなるにゃ。
昔はこのシステムで、弦楽器の摩擦音と、弦自体の響きを別々に作って、
[A->B](弦の音)+[C->D](弦と弓の摩擦音)みたいなアクロバティックなことをしていたけど、
いまはもうそういう元気はないにゃ…。それにもうこの文法観はほとんど放棄したし。
だがしかし、意味なし文法の抽象的な表現は、大体こんな感じになると思う。
ところで「sはp」型の命題(表現)というのは、非常に純粋で、もっともシンプルな形態をなしていると思う。
えーと、わたしはしばしば書き込もうとして書いた文章をボツにするので、
結局書き込んだか書き込まなかったか、あとからわかんなくなるんだけど、
ひとつの考え方として、これは「put A, then B」として表現するのが望ましいと思う。
これは、要するに<関数>であるにゃ。で、左辺は入力、右辺は出力という非対称性が持ち込まれることになる。
まあ、いろいろなご批判を覚悟して書けば、少なくとも何らかの非対称性を持ち込まないと、守護の問題は解けにゃい、
そのひとつのオルタナティブが「put A then B」で、これは物質の結晶のように平板な構造しか産出しない
チョムスキー理論とは完全に矛盾するものなのだにゃ。たぶんこれだけではわけわかめ酒なので、また追補しますにゃ…
333 :
虚無:2006/11/11(土) 06:28:33
>『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』
いまググる気力もないので解説よろ。
関係ないけど、踊るポンポコリン?の替え歌を思い出した。
「いつだって忘れない。中国はえらい国、そんなの常識」
「ピーヒャラ……パッパパラパー。踊る三国人」みたいなの。
『朝日のキチガイ投稿』(鱒板)あたりで見た。
334 :
仇鱒:2006/11/11(土) 08:28:06
おはよ。
今日はオープソキャソパスでまた工房生を案内しないといけないわけだが、
失禁前にちょいと書くかなー。
>虚無ちょーかん
>弦楽器の摩擦音と、弦自体の響きを別々に作って、
そんなことできんの?すげーじゃん♪てか、なんとなく、
ポイント・オブ・アーティキュレーションと
マナー・オブ・アーティキュレーションに分けて音を表記するのに似ている。
ようするに、音をいくつかの側面に分けてそして音づくりの解明
をしているとゆーかなんとゆーか。ちゅーか、あれなんだなー、虚無ちょー
かんはキーボーディストであるわけだ。で、わしにゆわせると、モノホンの
キーボードつーのはまさにシンセみたいなもんじゃないかと思うのだよ。どー
ゆーことかとゆーと、いわゆる鍵盤楽器の王道であるピアノはわしに言
わせたら、あれは弦楽器。ぶっちゃけギターの一種にすぎん。とゆーのも、
ピアノといえども鍵盤の後には針金があって、それを木槌で叩いているだけの
ハナシだから。まさにギターの弦を弾いているのと何も変わらん。いっぽう、
いわゆるシンセのようなものだと、ピアノの「弦」のようなものはないと思
うのだが、それゆえ、シンセのようなものことそがモノホンの鍵盤楽器
だとわしは思っている。でだ、わし的には音楽つーのは原則「波動」をどう解釈
するかにすぎんと思っている。
335 :
仇鱒:2006/11/11(土) 08:28:45
で、言語もしょせん「波動」なんだな。つまり、デフォでは両方とも空間を漂う
「波動」の解釈にすぎないと思っている。そして、ある「波動」を恣意的に
音楽と解釈し、また別の「波動」を恣意的に言語と解釈しているのにすぎないと
思ったりしている。で、その解釈の恣意性の要になっているのが意味
であるわけだ。つまり、意味のない「波動」が音楽と恣意的に解釈され、意味
のある「波動」が言語と恣意的に解釈されているのにすぎない。で、人
によっては、音楽に意味を介在させて解釈することも可能だったりする。
そうすると、その人は音楽を言語に昇華させていると言える。ぶっちゃけ、
クラッシクに限らず、わしなんかギター弾いている時、ときどきギター
そのものと会話している瞬間がある。ちょっと韻文的なハナシになるが、
わしはその時ギターを擬人化しているのではなく、アンプから出ている音に
意味を付与しているわけだ。つまり、歌詞というリアルな意味なんかなくても人
によっては音そのものに意味を付与することができると思うのだよ。実は、
言語の系統発生とゆーか音楽から言語への相変化とゆーのはこーやって起
きたのでは、とときどき寝不足の時思ったりする。はい。
で、ちょいと「sはpである」についてレスしたいが今晩にでも時間があれば書
きたいと思ふ。てなことで、失禁してきまつ。
おまけ:
>関係ないけど、踊るポンポコリン?の替え歌を思い出した。
ちなみに「踊るポンポコリン♪」を演奏しているバンドはbbクイーンズ。で、
実は、そこで歌っているヴォーカルは近藤房之助。実は彼はチョーイケてる
ブルースギターリストかつブルースヴォーカリストである。マジで日本を代表
するブルースマンだと思う。近藤房之助についてはこちら↓へどぞー。
ttp://www.guitar-workshop.net/ai/fusanosuke/
>近藤房之助
歌番の生放送中にヨダレ垂らして居眠りしてるのをアップでとられてた香具師だにゃw
>近藤房之助
昔もってたCDで歌ったMe and Mrs.John(だったか?)という歌がいけてますた
Bluesといえば、9/4-5版のHerald Tribuneに私の尊敬する韓国のBluesman,
Shin Joong-Hyunの記事がありますたにゃん。彼は、朴正煕に彼を讃える歌を作れ、
と依頼されて断ったら、麻薬で投獄されたというキャリアの持ち主ですにゃん。
もしよかったら見てくださいにゃん。
ちなみに、私は踊るち○ぽこりんの持ち主です。
>朴正煕に彼を讃える歌を作れ
この「彼」は誰を指すのか、と日本語の代名詞束縛について小一時間
>小一時間
責められたい〜ですにゃん。
341 :
虚無:2006/11/12(日) 03:21:18
昨日整形外科に行ったら、「ダイコートー神経痛」ということだった…
たぶんIn his room John was found dead.の直訳の
「彼iの部屋でジョンiは死んで見つかった」とかがふつうに通用するせいで、
日本語の代名詞逆行束縛はごく自然にみられてると思うけど、生成からかなり距離をおいていたいま、
わたしには、ぜんぜんジョンが自分の部屋で死んでいるという解釈はできんにゃ。
ここで彼=ジョンの解釈をするのは、生成学者と、あと一部の変な顔だけということではないかにゃ。
ふつうの日本人にもどれてよかった…ちょっと寝るにゃ。
そろそろ隔離は終りですか?
虚無せんせ、おだいじに、ですにゃ。
「だいこーとー」ってなんにゃろ?「大後頭」?
344 :
虚無:2006/11/14(火) 16:08:22
しばらく悪金くらってたにゃ。
>「だいこーとー」ってなんにゃろ?「大後頭」?
たぶんそう。
数詞問題でよくわからないのが、純然たる「序数」の使用、
たとえば『5番目の駅で降りた』では、「少なくとも4番目」という含意はないのである。
「少なくとも」は、言うまでもないけど、命題の真理値に影響を及ぼすので、
「少なくとも4」を「含意する」とは何かを慎重に考えなければならない。
以前わたしが、「4つであるもののすべての集合」みたいなのを嫌ったのは、旨く説明できないけど、
「4つの集合」「7つの集合」「13個の集合」…と寄せ集めて自然数の集合を構成してもうまく行かないことと
関係がある。なぜなら、それらは無順序集合で雑然たる集合体であり、それらを系列的な集合にするためには、
再び自然数の概念に立ち返らなければならないにゃ…。
「n個であるものの集合の集合」は、おそらく系列的に、かつ、同時に与えられるものであり、
存在するというよりはむしろ産出されるのである。
(っつーか、厳密な集合概念というのはこのような産出系列をいうのであって、
「ゾウの集合」「赤いものの集合」のような「モノの集まり」は<素朴集合概念>として一括される
)
「音楽から言語への相転移」は、古風な表現であるが、いわゆる言語の恣意性のことも
考慮しなければならない。波動というのは、自然界に存在する離散的な現象の典型的な例であり、
リズム・音階、ともにその自然界の離散性を模写的に(恣意的でなく)反映しているとみられる。
(整数)倍音系列が、すでにドミナント・メジャー7thを予感させるというのは、そういうことであるにゃ。
>こさかな先生は神でつか?(のどと鼻をやられた)
からして大喉頭ではないのかと小一時間
>大喉頭ではないのかと小一時間
にゃるほどー「大喉頭」があるなら「小喉頭」があるのかにゃ?「大殷賑」(以下自粛
昔、uvularが「のどひこ」なので、glottisは「のどひめ」にした方がいい、とか
話してたことがありますにゃ。元ネタは、ある大学者がuvularが「のどち○こ」なら、glottis(以下自粛
>「少なくとも」は、言うまでもないけど、命題の真理値に影響を及ぼすので、
「少なくとも4」を「含意する」とは何かを慎重に考えなければならない。
うーん、虚無せんせの問いの立て方はいつもすごいにゃ。でもむずー
たしかに、例えば、「五番目の駅を通過したときにはミラーマンはすでに捕まっていていなかった」なら
「少なくとも四番目の駅を・・・」は必ずしも真ではない。しかし「少なくとも」を含意するような
例、つまり序数に関する虚無先生の観察に関する反例がない、と言い切れない、というのが
今の私の気持ちですにゃ。果たして、基数と異なり、序数に関わる論理表現にそのような
特徴が見られるのか。単にexactly Nの問題と同質ではないか、という気が今のところ
してるんですにゃ。とはいえ、序数表現がfloatしないのは確実だと思われるし、
一方、非序数表現は、uncountableな名詞でも、数詞が離散的ならfloatする(豚バラを100g買った)
というのとはっきりした対比をしめしそうですにゃん。
ちょっと話を蒸し返すと、「sはp」の型は、(Ax)[Px→Qx]にあたるものに制限すれば、命題にこの
型が存在するのはごくごく普通でつにゃ。これは虚無せんせの入力→出力と考えてもいいのかもしれ
ないですにゃ。
また、瑣末な問題ではなくなりますにゃが、BrentanoからMartyへの流れに代表されるドイツ判断論に
おいて、syncategorimatisch(複合判断)がSubjPredの形式、categorimatisch(単純判断)がPredの
形式になりますにゃ。命題と判断を強引に結びつけると、「判断には『sはp』のものと『p』のものが
ある」、そしてその系として「すべての判断が『sはp』というわけではない」となりますにゃ。
349 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/15(水) 19:17:49
仇鱒はいつ帰ってくるの?
350 :
仇鱒:2006/11/15(水) 21:10:49
こんばんわ。
ちょいとおひさ。てか、マジでシャバでバタバタしていてな、正直ツーチャン
でまったりする気力もなかったのだよ。ま、ちょいとまたシャバがバタバタし出
したらまたシャバに戻るけどなー。ま、せっかくだからちょいと書くかなー。
>「sはp」の型は、(Ax)[Px→Qx]
わしに的には「sはpである」の意味つーのは、結局、sのセットとpの
セットのインターセクションの部分である。つまり、sのセットとpのセット
の交わりの部分がまさに「sはpである」の意味になるわけだ。だから、
具体的にゆーと、「餃子はうまい」つーのは、「餃子」の集合と「うまい」の
集合があった場合、その集合の交わりの部分に相当する。で、問題は、その意味
がtなりfとゆーのはどーゆーことなんだ、つーのがちょっとあったりする。
つまり、ある命題の意味がいくつかのセットのインターセクションで表
すことができるとして、それがtなりfであるのを、はたして、
セット・セオリチカルに立証とゆーか証明することができるのかなーとちょいと
思ったりしている。あれかなー、普通に考えたら、インターセクションに
エレメントがひとつでもあればそれはtということになるのかな。よく
ワカランが。てか、違うかな。つーのも、「餃子がうまい」つーのが「餃子」
という集合と「うまい」という集合のインターセクションだとして、その
エレメントっていったいなんじゃらほい♪とゆーのがあるからな。
てか、あれだなー、マジなことゆーと、まともな議論ができる香具師って今じゃ
ツーチャンにしかいないかモナー。朝ナマとかは一方的に自論展開
するだけだしな。ぶっちゃけ、顔合わした話し合いは議論にならん。やぱ、
きょうび、議論つーのはこうやってbbsなりの文字媒体じゃないと不可能
なような気がするわ。で、上でも書いたが、まともな論客つーのはマジで
ツーチャンぐらいにしかいねぇな。ま、国際政治絡みだとツーチャン以外の某
スレにはわしの論敵がいるけどなー。ま、わしがツーチャン以外どこに出入
りしているかは教えてやらんけどなー。ははははは。
議論が成立しないパターン(片方をA,もう片方をBとする。)
・AとBがけんか腰でお互い揚げ足取りを狙っている場合。(誹謗)
・Aが先輩、上司、教授、Bが後輩、部下、学生のように社会的な地位に差があり、
BがAを露骨に論破するとAから有形無形の圧力・報復を受ける場合。(脅迫)
・Aが専門家、Bが素人でAが解説抜きで術語を乱発する場合。(無視)
・AがしゃべっているときにBが強引に口を挟んだり、Bが意見をいったときにAが大声で「ああ、ダメダメ」と言ったりする。(粗暴)
・Aが詭弁を用いBが強弁をとる。(不正直)
よい議論は和やかであるのが条件である。
・相手の意見に理解を示す
・無私の態度で
・声は荒げず
・用語を丁寧に説明して
・正直に語る
ことが肝要である。
352 :
虚無:2006/11/16(木) 06:24:16
わたしこそ、むずーorZ
>ちょっと話を蒸し返すと、「sはp」の型は、(Ax)[Px→Qx]にあたるものに制限すれば、命題にこの
>型が存在するのはごくごく普通でつにゃ。これは虚無せんせの入力→出力と考えてもいいのかもしれ
>ないですにゃ。
この部分は私の意図と全然違ってて、えーと、私の用語の使用が非常にまずかったと思うにゃ。
「sはpだ」は、(「だ」のところにさまざまな述語関数を許容するような)非常に一般的な関数を表象しており、
たとえば、「sはpだ」が非常に複雑な推論を表した命題表現であるとしても、
「sはpだ」そのものを入力とし、{1,0}を出力とするような命題関数が定義できるのであり、
そのさいやはり形式的に「S(s→p)は1だ」と言えるわけであるにゃ。
で、これを述語論理として「だ'(s,p)」としてしまうと、完全にs,pの非対称性が消滅し、
(じつは、この問題は、命題に主語はあるか?の問題の続きなのであるが、
へーかのお言葉のように単純に衆道のまぐわい,じゃなくて集合の交わりの議論にしてしまうと、
少なくとも述語論理的には「命題に主語はない」が結論になって、面白くもなんともないにゃ。)
文としての「sはpだ」は、生成によれば話題化によって産出された副次的な代物であるが、それは別として、
わたしには、どうもこれが思考の様式として還元不可能な単純性をもっているように思われる。
数学よりにいえば、もしpが一義的にきまるのであれば、これは<関数>そのものであり、
語用論よりにいえば、s→pは旧情報から新情報への動きである(必ずしも推論ではないことに注意)。
「太郎は土星だ」について、太郎と土星が同一物だといっているのか、いま太郎が土星在住だといっているのか、
細木数子占星術か何かで、太郎が土星人だといっているのかは、あきらかに周辺的な問題であるにゃ。
これについて形式的な意味を問えば、それはやはりごくごく一般的な関数か写像の問題になるのであり、
それがput s, then pのところで意図した意味である。そしてここに非対称性が見出されれば、
「主語」の問題(文法上の主語を要請するような、思考形式としてのサブジェクトの問題)が亡霊のように
姿を現すかもしれない、そして、あの古きよき「は/がの問題」の最終決着かもしれないのにゃ…
353 :
虚無:2006/11/16(木) 06:28:56
議論が成立しないパターン(片方をA,もう片方をBとする。)
・AとBがけんか腰でお互い日本の揚げ足取りを狙っている場合。(誹謗)
・日本が宗主国、A,Bが属国のように社会的な地位に差があり、
日本がA,Bを露骨に論破するとA,Bから有形無形の圧力・報復を受ける場合。(脅迫)
・Aが専門家、Bが素人で、ABとも解説抜きで謝罪を要請汁場合。(無視)
・日本の内政にBが強引に口を挟んだり、日本が意見をいったときにAが大声で「ファッビョーン」と言ったりする。(粗暴)
・Aが詭弁を用いBが強弁をとる。(不正直)
354 :
虚無:2006/11/16(木) 08:06:39
>これを述語論理として「だ'(s,p)」としてしまうと、完全にs,pの非対称性が消滅し
二項動詞のような書き方はまちがいた…
kiss(John, Mary)、kiss(Mary,John)は非対称であるが、本題に直接関係ない。
355 :
仇鱒:2006/11/16(木) 19:14:07
こんばんわ。ちょいと書くな。
>「sはpだ」そのものを入力とし、{1,0}を出力とするような
>命題関数が定義できるのであり、
うむ。命題@「sはpだ」をインプットしてその結果t/fがアウトプット
として出てくるファンクションつーのは、わしが生成スレで書いているよーに、
おそらく可能世界だと思う。通常の定義がどうであれ、やぱわし的には
可能世界以外考えられない。で、ポイントは、次↓のところだ。
>そのさいやはり形式的に「S(s→p)は1だ」と言えるわけであるにゃ。
なんとなく言わんとしていることが分かるのだが(←正確にはよく分からない
(ワラ))、つまり、「sはpだ」という命題をより大きな命題の主語とし、
そして、そのより大きな命題のpの部分に真偽値を当てると。ようするに、
おそらくだが、「sはpだ」という命題の真偽値は、その「sはpだ」という
命題自身を含むより大きな命題の中にいれて、はじめて真偽値が求められると。
つまり、従来の定義だと命題というのはあくまでも関数であり、関数の入力
にはなりえなかったが、その命題が別の命題の項として機能
することによってはじめて真偽値が述部として決定されるというゆーことかな?
で、そうだとすると、これはある意味わしの考えに似ている。つーのも、虚無
ちょーかんも「sはpだ」という命題を関数ではなくあくまでも変数に入れる項
のような解釈をしているから。で、そうだとして、こっから何
かおもしろことが言えるのかな?てか、上のわしの解釈が正しければの話
なのだが。
あと、あれだ、議論が成立しないウンヌンだが、ぶっちゃけたハナシ、
インコメンシュラビリティ@翻訳不可能生を持ち出すまでもなく、思考回路と
ゆーかパラダイムが違うとハナシができんとゆーのがある。てか、ほんと議論
するには相手の土俵を念頭に置きながら自分の土俵でもちゃんと言
うべきことは言わなければならないわけで、頭のゆるい香具師の場合、どっちの
土俵で今ハナシをしているのかワカランくなってくるのだろうな。ま、そー
ゆった意味では、ぶっちゃけたハナシ、iqが同じもの同士じゃないと議論
はできないつーのはあると思う。
356 :
虚無:2006/11/17(金) 05:00:54
行幸感謝にゃ。
>ファンクションつーのは、わしが生成スレで書いているよーに、
>おそらく可能世界だと思う
生成すれよんでないせいか、よくわからない…orZ命題が、可能世界を構成するという意味かにゃ??
私てきには、命題の表現そのものは内包的であり、その世界への適用の問題は外延であり、それ以外考えられない。
「1足す1は2とは限らない」という通俗的な陳述は、内包的な問題なのか(加算とはべつの演算を行っている)
外延的な問題なのか(水1gにアルコール1gを加えても2gにはならないが、これは適用の誤り)、たいがいの場合
区別されていないとみられる。
>はじめて真偽値が求められると
わたしは、自然言語の形式意味論的アプローチが有意義でないとは思わないけど、真理値にこだわらないような
<数学的>アプローチがあるのではないかと思う。で、「sはp」というのは、具体的な述語が明示されておらず、
写像関係のみで構成されており、いわば非述語論理なのにゃん。
そしてそれは、とりあえずこういう言い方しか出来ないけど、真理値を出力するような意味論を飲み込むのにゃ…。
357 :
虚無:2006/11/17(金) 05:03:15
それはともかく、へーかの
>>350のような述語論理よりの観点からすると、
「ギョーザであること」と「うまいこと」が、ある個体の属性という意味ではまったく同じ資格で集合を形成し、
いわば両者に選ぶところがなくなるので、結果的に「主語」の可能性がなくなるのであるにゃ。
(正確に言えば、主部/述部に相当するような、非対称性の可能性がなくなる)
「ギョーザはうまい」というのか、「旨いものの一部がギョーザである」のか、
「ギョーザであり、かつ旨いような、ある個体が存在する」のか、ものはいいようというのか、
どう自然言語で表現するのか、完全に恣意的な問題となるにゃ。
で、面白いかどうかはともかく、もう少し人間の<心的直観>を裏切らないかたちで、
なおかつ論理主義を貫くみたいな意味論ができないものかと思うのだにゃー。
で、じつは生成文法も、親亀の背中に小亀をのせて〜、みたいに<ぶん>を記述しちゃってるので、
(要するに、文も句構造も同型なので)
主部/述部の、あるしゅの非対称性というか、「断絶」が抹消されていると思うのだにゃ。
「sはp」あるいは、put s, then pというのは、その非対称性を端的に表現するものなのにゃ。
(たぶんへーかの思想とは一致しない)
359 :
虚無:2006/11/18(土) 06:11:50
えーと、あまりにも電波が強力すぎて、受像機がないというおそれもある。
ので、ハナシを日常的なものにうつすと、(えー、その前に入力/出力というと、
言語刺激を介在させたコミュニケーション場面を思い浮かべる人がいるかもしれないけど、
ここでは、脳内会話というか自問自答みたいなものを含めた言語産出システムのことをいっている)
setAとして日付の集合、setBとして「お天気」の集合があって、日付から天気への写像が成立するとする。
日付を言えば、それに対応する天気が出力されるというしくみである。これが「sはp」モデルの簡単な一例となるにゃ。
で、「11月3日は、晴だ」という陳述について、まずへーかのいうように、ある個体の共通属性から説明できるのか、
つまり2つの集合のインタセクションという説明は一般性をもっているのか?ということなのにゃ。
わたしはたんに、ある日付を入力すれば、一義的に「雨」「雪」「晴れのち曇り」とかが出力されるという言い方で十分であると思う。
(これはじつは濃さかな先生の言うように、pが真であれば、qも真ということを言い換えたに過ぎないのだが…私は当初、
この部分を論理的推理・論証のようなものと、あまりにもかんぐりすぎたのかもしれないにゃ。反省orZ)
で、じっさいには、個魚先生の語明察の通り「入力なき陳述」は存在するとみなさなければならない。
「雷だ」「テポドンだ」「あ、仇鱒だ!!」などであるが、これらは<新情報>であり、
もっとも考えやすいのは、事実上の知覚的刺激があって、それを新情報として提示するという場合であるが、
もちろん何らかの心的過程が先行しているかもしれないが、そんなことはどうでもよくて、
ここでは「言語学的には入力ゼロの自発的なブン産出」として、<新しいイベント情報の提示>を機能とする
一つの言語産出のカテゴリが考えられるということである。
(言語の<産出プロセス>を言い出すことが、いかに哲学的ナンモンを引き出すのかについて、わたしはよく承知しているが、
まあ、なんというか安全圏でしゃべってても面白くないにゃん。ではまたにゃー。)
360 :
仇鱒:2006/11/18(土) 09:38:47
おはよ。てか、こんにちわ。
いやー、毎日懐疑懐疑でおまけに懐疑だけで一日つぶれたりで正直ツーチャン
どころじゃなかったりする。が、ちょいとだけ書くかなー。せっかく虚無
ちょうかんが老体ムチうってがんがってくれているからなー。で、ほんと適当
に殴り書きしていくから直接のレスにはなっていないかもしれないが、その点
ひとつよろしゅうございまつ。でだ、まず、命題が可能世界を構成するかだが、
これは十分ありうるし、わしの可能世界@関数モデルとも両立する。まず、
可能世界には何があるかとゆーと、任意の世界と両立可能な命題だと言える。
つまり、逆にゆーと、ある任意の世界と両立不可能な命題とゆーものは、
そもそもその当該世界では存在しえず、その意味ではそのような命題はないも
同然。だから、虚無ちょーかんのゆーよーに、可能世界は命題から構成
されていると言える。で、わしの可能世界観だと、可能世界そのものが命題を
入力とする関数であるから、そもそも関数に入力できない命題はt/fの出力を出
すこともできず、その意味でもそのような命題は当該の可能世界@関数
にとってないも同然。だから、虚無ちょうかんの言うことはその通りだと思
うし、わしの可能世界観とも十分コンパチブルだと思う。
361 :
仇鱒:2006/11/18(土) 09:39:31
で、次に命題と内包ならびに外延の関係だが、正直、このあたり、わしの考えは
一般的な定説(←ちょーかんの考えも含む)とちょっと考えが違
うかもしれない。まず、たとえば、奇数の外延つーたら(1)
のようになるわけだ。
(1)奇数の外延={1,3,5,7,9、・・・}
一方、奇数の内包つーたら(2)のようになるわけだ。
(2)奇数の内包={2x+1}
で、ぶっちゃけ、ひじょーに平たくゆーと、わしに言わせると、外延つーのは
トークンにすぎない。そして、内包つーのはタイプにすぎない。だから、奇数の
トークンつーたら、それは1や3や5や7のことであり、それはすなわち、
奇数の外延になるわけだ。で、今度は奇数のタイプつーたら、それは「2x+
1」で書き表される数となり、それはすなわち、奇数の内包になるわけだ。で、
虚無ちょーかんは、「命題の表現そのものは内包的であり、その世界への適用は
外延であり、それ以外考えられない」とゆーが、わしは逆だと思う。命題の<
表現そのもの>はまさにトークンとしての外延でしかありえないし、「世界への
適用」とゆーのを言語表現の世界への写像ないし解釈とするならば、世界への
適用は内包しかありえない。つーのも、生成スレでもわしは書いたが、わしら
人間はモノやコトといったものをタイプとしてしか認識できないし、トークン
のまま認識できるのはサヴァンのような特殊な人たちに限られると思うから。
362 :
仇鱒:2006/11/18(土) 09:40:51
で、次に「水1+アルコール2は3にならない」ウンヌンだが、まさにその通
りなのである。実はこのあたりのことを昨晩ムスコに熱く
語ってしまったのだ。実は今、わしはある算数とゆーか数学の本を読
んでいるのだが、まさに「水1+アルコール2は3にならない」
のようなことが書いてあったのだ。つまり、足し算にせよ引き算にせよ、実は
同じタイプのもの同士じゃないと適用できないわけだ。だから、リンゴ3ヶと車
4台を足し算することはできないわけだ。これは非常に面白いことだと思う。
つまり、算数なり数学とゆーのは、トークンを見て計算しているのではなく
タイプを見て計算しているわけだ。で、言語計算の場合、これと同じことが言
えるのか、とゆーのがあるのだが、以下ry
てなことで、また時間できたら顔だすなー。あ、そうだ、虚無ちょーかんの
日付と天気の対応関係の話、あれはよく分かりますたー。
あー、それにしてもアレやコレやで腹立つぜ。ったく、、、。仇ちゃん
プンスカ♪
てなことで、ちょいとプンスカもーどだからワケもなくageてみる(w)
あ・・・虚無せんせ、レスしなくてすみません・・・
ここの書き込みは集中力がないとだめなので、休みじゃないと読めません。
明日から休みなんでじっくりたのしませていただきまつ。
植字工だった三浦つとむ、すげー・・・神。私は疲れてだめでつ(私は現代の植字工でつ)
兄じゃとの議論を休日の楽しみにさせていただきます。
364 :
虚無:2006/11/19(日) 06:44:59
えーと、レスするまえに補足しなければならないと思ってたけど、
わたしは「s→pもしくはput s then p」というようなかきかたもしているわけであり、
なにも「入力にあたる部分」が「主語」であるといおうとしているわけではないのだにゃ。
ただし、sかつpは、pかつsと等価であり、このような表現から、
sもしくはpのいずれかを主語(あるいは非対称的な部分)として選び出すことは不可能である。
わたしはながらく生成文法の(機能主義に対する)形式主義については賛同しており、
今回の私の話は、「主語が何らかの心的な要請により生じた」みたいなかきかたをしていて、
機能主義的な見解を思わせるところがあるが、なにも形式主義に見切りをつけたわけではないのにゃ。
なんというか、あるしゅの着想が現れたとき、自分の主義主張にかかわらずいろいろ表現を与えて、
ひとつのviewpointを形成してみるのもいいかと思っているにゃ。で、当面いろいろ矛盾するところがあってもsかたがない…
で、もうひとつことわっておきたいのであるが、わたしは「sはp」について語っているのであって、
「sがp」について語っているのではないのである。これは最初からいうべきであった…
いうまでもなく形式意味論的に両者が区別されることはありえず、えーと、ミスリーディングがあったかもしれない。
「sがp」という陳述は、はっきりいってそれじたい<出力側>であり、少なくともsが新情報である可能性が高い。
「雷だ」は、「雷が…!!」という発話に近いというよな意味合いである。
うーん、まあ、ちょっと今日は行き詰ったので寝るにゃ。
虚無ちょーかん
>352
「関数」というところ、非常に叫喚、もとい、共感というか納得してますもえ(ちう変なしゃべり方を
あるアナウンサーがしてた)ちょっとすぐおもいだせないのですもえが、ある言語現象で、「は」を使うか、あるいは御用論的に
写像関係が保証されると適格になる、というのがありますたもえ。当面の関心としては、「は」が関数を成立させる、というところなので、ある言語現象からも「は」が
関数的性質(であって、関係的性質ではない)ということがうらづけられますもえ。
とすると、
だ(α)=β ...(1)
とでもいうような書き方ができるもえ。これが、ちょーかんの言っていた非対称性を表現するものともいえるかもですもえ。
そして(1)は
αはβだ ...(2)
と等価な表現で、関数「だ」はさまざまな具体的な関数の代表として、(2)の「だ」を「食べる」で置換して
αはβ食べる
とも言える。実はこれはある時私に「すみません、先生はうなぎでいらっしゃいますか」と訪ねられ
「俺はうなぎじゃねえ!」と答えた奥津氏の主張でもあるのですもえ。
このあたり
>「sはpだ」が非常に複雑な推論を表した命題表現であるとしても、 「sはpだ」そのものを入力とし、{1,0}を出力とするような命題関数が定義できるのであり、
そのさいやはり形式的に「S(s→p)は1だ」と言えるわけ
について、(1)から
だ'(だ(α)=β )=1OR0
ともいえるのですもえね。
なんか単にちゃうくゎんの話を復唱しているだけなのですもえが・・・
sがpだ、という「だ」が入るガ文でいうと、「pはsだ」の転位と考えられるので、一見、ちゃうくゎんは主語に関してproper subsetしか話しておらず、そしてそのことを
誤解するかもしれない、と注意されてますもえが、心配ないと思いますもえ。
「sはp」形式のprimitiveさについては、関数的特性があって、そしてそれが論理にとって書くべからざる
ものだ、ということでは激しく同意ですにゃ。そしてそれはもちろん、自然言語の対応物が
どうか、ということとは一応別問題ですにゃ。たぶん、ちゃうくゎんは自然言語のことまで
primitiveというのではない、とおもうのですにゃが・・・ちなみに、ちゃうくゎんが触れた
話題化について、国語学者は「陳述」という観点からちゃうくゎんと似たようなスタンスをとると
おもわれですにゃ。形式化を押し進めると、直観的言明で国語をとらえようとして来た国語学者と
ちかづく、というのはちょっと感銘をうける出来事ですにゃ。
仇兄閣下のしうがふ論的解釈をめぐる拒夢ちゃうくゎんとの議論は、あんまり理解してないけど、
拒夢ちゃうくゎんの側に同意しますにゃ。
どちらかというと、「sはp」というのは
s∩p
というエレガントなものではなくて(ここでエレガント、といったのは、知識の組織の仕方と、
引き出し方が完全な同一formatに設計されている、くらいの意図)、たとえば知識はいちおう
あるformatにしたがっているけど適当、表示するときには制限がかけられる、という感じで、
コンピュータをたとえにつかうと、csv形式で情報が蓄積されていて、必要に応じてexelでよみこむ、
みたいな。
「sはp」形式は、このたとえでは、
s;p
みたいな感じでラベル付けされているものを「sを検索せよ」とすると唯一のpが出てくる、
というようなイメージでないかにゃ、とおもうのであります。
拒夢ちゃうくゎんの話、電波とも、強すぎるともおもいませんでしたにゃが、一応受信しましたにゃ。
で、ここでとってつけたようにこのスレの題(拒夢ちゃうくゎんの精神を反映して、趣旨、ではにゃい)
にこじつけると、音楽において「sはp」形式の「命題」は存在するのか。
私のカキコの最後のたとえを使うと、ある楽曲の繰り返されるmotifは、一定のラベルのように
機能して、文脈でspecificな感情を喚起する/歓喜する、ということで、私は「する」と
ゴウベンしたいですにゃ。そして音楽の構造にも、関数的な表現が原始的である(これはミクロの
レベルのmodalな話ではなく、その組み合わせからなるかなり大きい構成単位を想定してますにゃが・・・
この点についても、言語と音楽の強引なアナロジをしようかと思えばできる)
369 :
仇鱒:2006/11/19(日) 11:30:35
こんにちわ。昼飯前にちょっとだけカキコ。
てか、こさかなの弟分もがんがって書いて栗ているからそろそろ自分の巣に戻
るとすっかなー。ちゅーか、このスレ的なカキコミをちょっとだけすると、
ギターにはオープンチューニングなんつーのがあるわけで、そんな変則的な
チューニングがあるから、小難しい曲も簡単に弾けたりする罠。で、ふと
思ったのだが、こーゆったオープンチューニングのようなものってギター
だけにしかないのかな?まさか鍵盤楽器にはないと思うのだが、、、。
これってなんじゃろね。ある意味、あれかなー、ギターのオープンチューニン
グって自然言語のパラメータをラディカルにガラッ♪と変
えちゃうぐらいのものなのかな?オープンチューニングのようなものが
自然言語の何に相当するのかちょいと想像できないのだが、ギターにしか
(おそらく)ないオープンチューニングってなんかスゲーなーと最近ちょっと
思ったりしている日曜の昼下がりだったりしまつ。はい。
370 :
逃走派:2006/11/19(日) 20:12:42
条件の「〜ならば」の「ば」は、話題の「は」と関係があると国語学者が言っていたりしちるらすい。
>逃走派せんせ
お久しぶりです!
関係するかもしれない話、ふたつでつ。
・条件の「ば」は、attachment transformationの基底表示
[s... X ...]-は
の「は」の位置でそのままかたまってしまったものらすい。
・prenasalを持つ方言で調べたところ、東京方言で濁音のものは、そのまえにprenasalを伴うのに、
条件の「ば」の前には現れない。これは/pa/の/p/が母音に挟まれてVOTが早まったものと考えられる。
日本語のハ行が
p -> φ -> h
と推移してきたと考えられる(「唇音退化」)ことを考えあわせると、サモハンキンポー、もとい
さもありなんでつ。
372 :
虚無:2006/11/20(月) 20:42:12
どうも広域バンドのチューナーの電波レシーバ所持者の方々かたじけないにゃ。
わたしはバッファ容量が小さいために、同時に複数テーマにレスできなくて申し訳にゃい。
で、ちょっと置き去りにされているかんじの数詞を含むブンについての話につなげると、
1)3人は当選だ
2)3人が当選だ
の1)について、特定の3人組について当選したといっているのか、(このばあいは通常の話題化であると思われる)
<少なくとも>3人が当選したといっているのか、両義的であることは容易にわかる。
で、後者の読みについて、もし「3つ(個体が)ある」が、「2つある」や「1つある」を実質含意し、
「n番目の個体の存在」が、つねに「n個以上の個体の存在」の真部分集合となるような、
求心構造をなすような集合構造をなしているならば、
<少なくとも>のほうの読みは、当然ながら部分集合についての解釈であり、直観的にわかりやすい。
で、なぜこれが「話題化」読みと両義性をなすのか、
「少なくとも」と「既知である」こととの共通する因子は何か、そして両義性を可能にするような<変数>
は何かということであるが、
わたしは、虚無キャラとしては理系ヲタなので、
<既知である>ことを心的印象の記述ではなくて、数理論理的に構成すべしだと思うのだにゃ。
ちょっと端折るけど、2)「3人が当選だ」はexactly Nの読みではないかと思う。
(3人組解釈ができないわけではないけど)
数詞のはいったブンの関数解釈は、変数の部分に特定の数を入れて真偽を出力するわけだから、
F(x)=0またはF(x)=1の、非常に扱いやすい超凡庸な関数ナ訳だが、ヴァカなせいかなぜかすっきりしない。
またくるにゃむ。半端ですみゃむ…
373 :
虚無:2006/11/20(月) 21:03:58
ちょっと追加で、「は/が」の問題を新情報/旧情報の差異ととらえて、
英語の定冠詞/不定冠詞のふるまいと並行的に論じる主張をみかけるけど、わたしは、
定冠詞/不定冠詞における新旧情報は、いわば(内包的)概念構造における新旧、
「は/が」における新旧情報は、談話における新旧というのが真相に近いと思う。
まえに似たようなことは書いたのであるが、
家をイメージして、たいがい内包情報として出てくる「屋根」とか「玄関」とかについて考えると、
個体である未知の家があるとして、当然ながら、その家の部分である「屋根」とかも、
常識的には未知であるはずなのであるが、文法的には「未知の個体」としては「表現されない」(the entrance of a house)
英語における不定冠詞は、個体マーカ(新トークンマーカ)ではないかと思ったりする。
オープンチューニンゲについてはまたこんど。
374 :
虚無:2006/11/20(月) 21:06:28
念のためにいうけど、an entrance of...が、誤りとかいってるわけではにゃい。
375 :
虚無:2006/11/20(月) 21:25:57
またまちがいた…
「3人が当選した」ばあいにも、序数2をつけられる当選者が<存在する>
わけであるから、関数全体として、F(2)=真となるから、if and only if 3ではないにゃ。
これから、思案しながら書き込むのはよすにゃorZ
>>370 さっき「ボーン・コレクター」というDVDを観たのにゃが、逃走派しゃんの
好きなアンジョリジョリが出てたにゃ
なかなか面白かったにゃ
377 :
仇鱒:2006/11/21(火) 18:24:12
>>372 >(3人組解釈ができないわけではないけど)
総入れ歯、さっき犬hk見てたら、「2人組」を「ににんぐみ」
とゆっていたなー。「ふたりぐみ」じゃなく「ににんぐみ」つーのがなんとも犬
の糞を踏んだような何とも言えない気分であった。いや、どーでもええハナシ
だが。スレ汚ししまそ。
>>373 >オープンチューニンゲについてはまたこんど。
わく・わく♪
378 :
逃走派:2006/11/21(火) 23:56:24
>>371 お久しぶりです。いつぞやは(ry
>>376 「トモローワールド」ってのを見てきたんだけど、唐突に「クリムゾンキングの宮殿」が流れてのけぞった。
70年代の香りがぷんぷん。と、書くとネタ映画っぽく聞こえるかもしれないが、本作は超良作。
379 :
虚無:2006/11/22(水) 04:07:32
>オープンチューニンゲについてはまたこんど。
うーん、たまには音楽の話もしたほうがいいのかもしれない…。
ギターと「鍵盤楽器」でなにがいちばんちがうかというと、やっぱし入力ツールだと思う。
で、ケンバンは完全に離散的な音程しか入力できないので、いきなりレとミのあいだの
中間的な音とか弾こうと思ってもムリなのにたいして、ギターは
連続性と離散性(グラジュアルな音程表現と、複数の弦による離散音程の発生)を同時に実現してるのにゃ。
で、オープンチューニングにあたるものがあるかというと、ギターの解放弦に相当するものがないため、
(ペダルをふんで、弦を鳴りっぱなしにするという意味で、「開放」ということはあるけど、
これはギターでいえばミュートしないということで、あんまり関係がない)
やっぱし、ありましぇーーーーーん。
ただまあ、調律法というのは無限の自由度があるわけで、(ホンキートンクみたいなのもいれて)
一般的な調整の自由度という意味では、あるいみピアノも同等かもしれない。
自然言語のパラメータ云々というのは、協和音程とはそもそも何か?という問題になってくるけど、
えーと、どのあたりのハナシがへーかのツボになってくるのかいまいちわからない。
でんでん関係ないけど、MIDI音源でアコギの音とフレットノイズの音がそれぞれあって、
2つのチャンネルを使って、コードが変化するたびに「キュッ」という音を挿入して、
しかもコードポジションの変化が大きいときにはその「キュッ」も長めに入れて、それらしい楽曲を作ったら、
「おまえはアホか」といわれた。ときどき無意味に凝り性になる「虚無しゃん」ですた…
380 :
仇鱒:2006/11/22(水) 07:39:29
おはよ。
あっちこっち忙しくなってきちゃったので、ちょっとだけレス(^ ^)
>ケンバンは完全に離散的な音程しか入力できない
>ギターは 連続性と離散性(グラジュアルな音程表現と、
>複数の弦による離散音程の発生)を同時に実現してるのにゃ。
だよねー。前にも生成スレかどっかで書いたと思うけど、ぶっちゃけ鍵盤では
ブルースとロックは演奏できない。それは、虚無ちょーかんには釈迦に説法
だけど、ブルースやロックにはクオーターが入るから。で、このクオーター
はぶっちゃけギターじゃないと出ない音。ま、ようするにチョーキングして4分
の1音上げて演奏するわけだが、これは鍵盤じゃ不可能。だから、なんつーか、
正直キーボードの入るブルースとかロックとゆーのは違和感がある(ただし、
デープ・パープルとレインボーは除く(←わし的にはこれらはネ申バンド
だから例外))。で、あれだなー、正直、ギターの魅力はまさにちょーかんが書
いているように、音の連続性にあると思う。アームをつかった演奏も、音の
連続性を一気に音の離散生の世界にもっていくもので、あれは一種の音のワープ
現象だと思う。フロイド・ローズを使った演奏で、弦をブヨブヨにした演奏
なんかはまさに連続と離散のアートである。あと、ボトルネックを使った
スライド演奏もまさにギターの連続性を最大限に生かした演奏だと思う。で、
これらの人の感性をグイグイひっぱるような演奏というのはやはり鍵盤には無理
だと思う。と、まあ、ギターヲタの仇ちゃんだけあってこういったハナシ
だといくらでもしちゃったりするのである。はい。
381 :
仇鱒:2006/11/22(水) 07:40:12
で、あれだ、そんなこんなで、このスレ的な発言をすると、鍵盤の方
がどっちかとゆーとシンタクス的であると思う。とゆーのも、シンタクスも
鍵盤も離散的つーかデジタルだから。一方、ギターとゆーのはなんつーか、言語
そのものだと思う。まさに言語の形式面@デジタル性と機能面@アナログ性を
両方とも兼ね備えているから。だからかどーか分からないけど、わしはギター
の方がなんか歌と合うような気がする。正直、ピアノの弾き語りとゆーのは
どーも違和感とゆーか無理をしているような気がする。表面的には声とマッチ
していて自然に見えるのが、実はかなり人工的な音楽の世界
をつくっているような気がする。その一方、ギターの弾き語りとゆーのは非常に
自然なような気がする。まあ、たぶんギター贔屓のバイアス
がかなりかかっていると思うが、正直、なんとなくだが、ギターの方が人間の
声とゆーか自然言語にいろんな面で近いような希ガス。他にもいろいろ書
きたいけど時間ないのでこんなところでつ。はい。
おまけ:
>ときどき無意味に凝り性になる「虚無しゃん」ですた…
てか、あのキュッてゆー音はうちではメチャクチャ評判悪いでつ。黒板
をひっかく音とか発泡スチロールをこする音に似ていると言われまつ。
でもなんだねー、今じゃ音を合成してああいったものまで作
ることができるから、cd聞いただけじゃどれが生音でどれが非生音か分
からないときある罠。ちゅーか、ギター以外じぇんぶシンセでつくってると
ゆー曲なんか今じゃザラだからな。てか、それだけギターの音だけはギター
でしか出せないとゆーのがやぱギターヲタのわしには萌えでもある。はい。
そんなこんなで「ギターが必需品であるロックはギターがある限り永遠に不滅
でつ!」とわしは長嶋茂雄のよーに声高にゆってみたいと思いまつ。はい。
ろ〜んぐ・りぃ〜う゛・ろっくん・ろ〜♪
>ケンバンは完全に離散的な音程しか入力できない
>クオーターはぶっちゃけギターじゃないと出ない
つ モーグ・シンセ by K. Emerson & R. Wakeman(古
ジミー・ペイジのレスポールはスイッチ一つでいろんな変則チューニングに
一瞬で切り替わる優れものであるにゃ
あるコードをジャーンと弾いて、それが鳴っている途中で別のコードに変化
させるという必殺技をライブでも多用しとるにゃ
383 :
仇鱒:2006/11/23(木) 06:55:20
おはよ。
>ジミー・ペイジのレスポールはスイッチ一つでいろんな変則チューニングに
>一瞬で切り替わる優れものであるにゃ
ま、最近だと、エディ@ヴァン・ヘイレンが同じようなギターをデフォで
使っている罠。ブリッジあたりのネジをちょいといじるといきなり
オープン・チューニングに早変わりとゆーやつな。ま、でも、あれだ、こー
ゆースイッチ一つでチューニングが変わってしまうツールを見てると、ほんと同
じようなものが脳内にもあればええと思うわ。アメリカに行ってちょっと脳
みそいじったらたちまち英語モードになって英語がペラペラしゃべれたり聞
けたりするようなスイッチな。ま、ドラえもんの翻訳
こんにゃくみたいなもんだ。ははははは。
てか、msg見させてもらったが、やぱマイクルいいな。てか、コージーの
ドラムはやぱ最高だ。あのズシン♪とくるバスドラにスネア、しかも安定した
リズムでありながら実に軽妙なバチさばき。なんつーか一発一発をほんと根性入
れて叩いているって感じがわしはシュキだ。てか、あの時代のmsgはリズム隊
としてはいちばんええわな。名前忘れたがベースの香具師も安定したいい
ベース奏でているし。
あ、そうだ、わしにもccでメールくれてどーもあんがとさん。
384 :
虚無:2006/11/24(金) 00:31:16
>>382なぜにモーグ??
鍵盤による入力情報と、楽器(メカニズム全体)としての表現可能性を混同しているとみられる。
連続量のピッチを入力するには、ピッチは単純に電圧に正比例しているため、
ミキサーのようなフェーダーを用いればよいのだぴょん。
で、そういうフェーダーをくっつけたシンセというのは、どっちかというとギターに似た楽器に
なると思われる。
>今じゃ音を合成してああいったものまで作ることができるから
いや、たぶんサンプリング音がもとになってるんじゃないかにゃ。
いまソフトを用いた波形編集が一般的になってるから、ナマギターといっても、
どれだけエディットされてるかはよくわからない。コピペ、コピペの世界かもしれない。
そういう意味では、映像媒体とおなじだにゃー。
ちょっとかぜがうつってるようなので、またあした。
奏者から鍵盤への入力か、鍵盤から他への入力か、であるにゃ
>ギターじゃないと出ない
と言っとる以上、鍵盤楽器からの出力の意と思ったまでにゃん
フォーダーのモジュラリティとチョムのモジュラリティの違いにも似て蝶
386 :
仇鱒:2006/11/24(金) 05:56:19
おはよ。
出稼ぎ前にちょいとだけカキコ。んでもってちょいとだけ虚無ちょーかんの
レスへレス。えっと、ちょーかんのレス読んでいて、「これってもしかして
「言語獲得」とパラレルの可能性もある鴨」と思ってしまいますた。えっと、
どーゆーことかかいつまんでゆおう。えっと、サンプリング音をエディット
して、そんであたかもモノホンのものを作り出している可能性があると。で、
モノホンのものと思われているものでも、実はそれはコピペコピペの集大成
である可能性があると。そんでもって、これはある意味映像メディアと同
じことだと。でだ、わしらの言語獲得ももしかしたら、これと同じなのかな〜
とちょいと思った希ガスる。つまり、入力がないにもかかわらず出力としての
知識があたかも脳内にあるかのように見えるわけだ。ま、いわゆるプラトンの
問題だ。でも、実は、それは、あるサンプルをもとに脳内エディットしていて、
入力ゼロのように見えるが実は入力はちゃんとあると。つまり、実は何
もないところからつくりだしているんじゃなく、実はサンプリング知識
みたいなのがまずあったと。そんで、わしらの脳とゆーのは、実はこういった
サンプリングデータうまーくエディットして、コピペコピペつまり学習学習
をうまくしながら膨大な知識を脳内に格納した可能性があると。と、まあ、
あえて反合理主義つーか反生成主義つーかトマセロマンセー的な発言をしてみる
(ワラ)。てか、ちょいと誤解のある書き方したかな、わし、、、。
387 :
仇鱒:2006/11/24(金) 05:57:05
あと、あれだ、ギターでもっていろんな楽器の音は今じゃフツーに出せる罠。
ま、ちょいと前だと、ブライアン・メイ@クィーンのギターなんかギターなのか
シンセなのかワカラン音だったりしたしな。今でも、ちょいとうまく
ギターシンセとかエフェクター使ったら、ギターの音なのかサックスの音なのか
鍵盤の音なのかワカラン時もある。けど、その逆はないよーな希ガス。つまり、
サックスなり鍵盤をどーいじくってもギターのあの生々しい音だけは出ない。
つまり、楽器の音作りに関してゆーと明らかに非可逆性があると思うんだが、
これって何だろな。それだけ弦楽器の音とゆーのはナチュラルでマネ
ができねぇつーことかな?てか、あれかな、ちょいと喩えが悪
いかもしれねぇが、わしら人間がネコやイヌの鳴き声をマネるのは可能だが、
ネコやイヌが人間の声をマネるのは不可能なのと同じような関係なのかな?
いや、よくワカランが、ちょいと思ったので書いてみますたよ、はい。
てか、今嘔吐下痢症の風邪が流行っているよーだな。わしの周りもこれで
バッタバッタ倒れているわ。わしもちょいと嘔吐気味だ。先日バスに
乗っていたときゲップしてしまい、そん時、口んなかに液体が溜
まってしまったわけだ。そんで、それをどーすることもできずまた飲み込
みますたよ。てか、これってソフト・スカトロ?(ワラ)
ちゅーことで、さっさとメシくって失禁してきまつ。はい。
388 :
虚無:2006/11/25(土) 03:25:23
ビジターの皆様のほうがスレタイの趣旨に近い発言をしてるにゃむ…
>実は何もないところからつくりだしているんじゃなく
アナログ・シンセのばあい、オシレータ(発振器)にプリセットとしてつうじょう、
正弦波(基本中の基本)、くけい波、三角波、ノコギリ波、ノイズなどが用意されており、
実際に音色を作る過程としては、その周波数成分にフィルタをかけて一部分を強調したり
カットオフしたり、あとLFOというオシレータとはべつの波形の発生があって、それをピッチやボリュームを
ターゲットにしてモジュレートしたり、最終的にエンベロープ情報で、音の立ち上がりや減衰の様子を決定するのであるにゃ。
(エンベロープは、その他のプロセスの時間軸に対する強度の変化にも用いられる)
えーと、今では事実上放棄しているけど、ブン産出システムのシンセ・モデルというのは、
けっこう捨てがたいものがある。(前に言ったのは、デジタルシンセだったけど…)
>明らかに非可逆性があると思うんだが
このあたりの問題はパラメタ数のちがいではないかと思う。フォルマント情報に自由度があれば、
ネコでもにゃににゅにぇにょくらい言えるにょねはにゃいかにゃむ。
わたしの経験上は、もっともシミュレートしがたい楽器群は、なぜかギター関係ではなく
ブラスなのにゃ。まあ、ギターにせよブラスにせよ、ピッチ、強度およびデュレイション(音長)情報のほかに、
無数の変数が関与していると見られる。なかには、プレイヤーにとって無関心なものや無意識的なものもあると思う。が、
じっさいには音のナマっぽさに関与しているような因子である。
フォーダーのモジュラリティてなに。
私の風は、嘔吐系であった。ではまたにゃん。
389 :
虚無:2006/11/25(土) 05:44:34
LFOのところでミスしてる…(LFOのOはオシレータのOでつ)
まあ、それはいいとして、機能和声の音楽は音楽全体からみればごくいちぶの
領域を占めていると思うのだにゃ。で、それにしても、和声学は非常に豊かな論理構造をもっており、
うーん、わたしの感触としては、2度相転移がおこったというかんじだにゃー。
2度目の相転移については、制度的なものなのか、なにか生物学的な因子がアクティヴェイトされたものなのかは、
よくわからない。
20世紀になって、いろいろ機能和声についての新展開がおこり、代表的なものは導音<シ>の失脚にも近い
機能の喪失だ…と、たぶん、上のほうで似たようなことを書いているだろう…
メジャー・7thもその影響で生まれたものの一つで、なぜかギタリストで最初に
Cmaj7thをジャーンと鳴らして、陶酔経験をもった人間が多い。これもまた、
制度的なものと、生得的な心理学的要因との中間的な性質をもった<間主観的経験>と思われる。
このたぐいの現象は、当然ながら、少なくとも力学系の自然科学の対象からは程遠いものであるが、
(若干強引な議論展開ではあるが)
単純な規則に還元できないような文法規則は、おそらくこのカテゴリに属するのであり、
生物学的アプローチとは直接関係ないものである。なぜにメジャー7thが突如多くのヒトに受容されたのか、
それはナゾではあるが、だからといって「最初から知っていた」とかいうタイプの生得節(ぶし)は
あまりにもバカバカしすぎるというのが、わたしの一貫した立場である(一貫といっても、最近はけっこうどっちでもいい)
関係ないけど、
「2ちゃんねる7年の歴史」とかいうフレーズをみると、少なくとも2001年からいる私は、けっこう凹むのであった…
390 :
仇鱒:2006/11/25(土) 08:15:53
おはよ。
今日はちょいと出張したりせんといかんかったりでバタバタした一日
になりそうでつ。てか、嘔吐がまだありちょいと電車乗ったりするのが恐い。
ガクブル。てか、体だりぃ〜よ。orz...
ま、そんなところだがちょいとカキコすっかなー。
>わたしの経験上は、もっともシミュレートしがたい楽器群は、
>なぜかギター関係ではなくブラスなのにゃ。
ふむ。なんか分かるよーな希ガス。つーのも、よく言われているよーに、ブラス
てかサックスは人間の声に極めて近いとか言われているから。で、おそらく人間
の声に近い音はなかなかシンセでも複製できないのではないかと、、、。で、
あれなんだなー、ギターヲタには有名な話であるが、ワウペダルとゆー
のがあるわけだ。で、あのワウペダルを最初につくったのがvoxとゆー会社で(←
ちなみにわしのアンプはvox)、なんでワウベダルをつくったかとゆーと、
まさに、トランペットのミュート&アンミュートをギターで再現
しようとしたわけだ。だから、あのワウペダルはまさに聞きようによっては
トランペットのミュート奏法のように聞こえるわけだ。で、わしなんかは、
サックスの音色にせよ、トランペットのミューと奏法にせよワウペダルを使った
ギターの音色を聞くと、まさに人の声のように聞こえるときがあるんだな。で、
おそらく、デジタル的にはあの手のナマナマしい音はかなり出
しにくいのではないかと思っている。で、もうちょいヲタクなハナシ
をさせてもらうと、空間系のエフェクターを使うとワウぽいつーか人の声ぽい音
が出るのだがやはり違うんだな、これが。
391 :
仇鱒:2006/11/25(土) 08:16:59
でだ、実は昨日仕事の帰りにちょいとギターショップに逝ってマルチの
エフェクターをいじらせてもらってきた。まあ、わしは今じゃギターの歪みは
ギターとアンプだけでするのが当たり前と思っているからエフェクターは買
うつもりはない。でもちょいとおもしろ半分にマルチエフェクター
をいじらせてもらったのだが、いやー、ぶったまげたよ。1万円
ぐらいのものでも70通りぐらいの音が出せるんだな。昔わしがボスの
エフェクターを7つも8つもつなげていたのは何だったんだ、、、とゆー感
じだ。でだ、正直、その手のひらサイズのマルチエフェクターを見てマジ
でわしは「ブラインド・ヲッチメーカー」ならぬ
「ブラインド・エフェクターメーカー」とゆーことばを考え付いてしまったわ。
ほんと、あんなもんを60年代に手にしたら「こんなもんがこの地球上
にあるつーのは、まさにネ申がいて、そのネ申がつくってれたに違いない!」と
思ったと思うわ。で、まさに、その手のひらサイズのエフェクターは
ブラックボックスで、そのどこからあれだけの音色が出てくるのかと
思ってしまう罠。で、なんつーか、ぶっちゃけわしら人間が脳(ないし
脳内文法)についてああでもないこうでもないとゆっているのは、まさにサル
がその手のひらサイズのマルチエフェクターを見
てああでもないこうでもないとゆっているのと同じではないかと
思ったりしたわ。ま、とりあえずそんなところかなー。cメジャーセブン
についてはまた今度。ふんじゃ〜ねぇ〜♪
体調最悪だけど天気最高にいいからわけもなくageちゃう(ワラ)
虚無ちょーかんに叱られるかな。冷や冷や♪藁々♪(w)
392 :
虚無:2006/11/26(日) 06:58:47
禿げたものは、じゃなくてageたものはしかたがない…
旧来のエフェクタっていうのは、波形の位相を反転して加える、みたいな
いわばかんたんなアナログ演算を行ってるわけで、
そのいみでアナログ・コンピュータのいっしゅなのではないかと思う。
のだが、アナログ・コンピュータというのは、けっこうムズーな概念なのにゃ。
だれも計算尺が<計算している>とは思わないだろうが、
微分方程式を解くようなアナログ・コンピュータが<計算していない>と言い切ることはむずかしい。
どちらかというと、2値論理のデジタル演算の(概念の)ほうがわかりやすく、また脳・神経系も、
全体としては2値論理メカなのだにゃ。
ところで、アナログ/デジタルの語がひろまったのがたぶん時計に関してで、
本来ならばアナログ時計というのは、日時計とか砂時計のことであり、
長針と短針をもつコンベンショナルな時計は、状態の数が決まっている以上は、アナログとはいいがたい。
いわば、知覚上のアナログ時計なのだが、知覚そのものは脳によって論理的に処理・再構成されているので、
じつのところ、この議論はいよいよ複雑なものとなる。
このことは、むろん聴覚についてもいえるわけで、アナログ音源とデジタル音源についても、
シンセは結局<非人間的でツメタイ>と感じる人間がいたり
アナログシンセ(ビンテージものとか)が<暖かい>とかんじる人間がけっこういるいっぽう、
けっきょくたんなる倍音スペクトルの分布の問題とかたづけることもできるわけで、
まーけっきょくのところ、わけわかんなくなったら、とにかく定量的分析へ、
というのがわたしのおとしどころなのであった…
393 :
仇鱒:2006/11/26(日) 08:16:49
>ちょーかん
ごめそ。まちがっていつものところにカキコんでしまいますた。
もうしわけないが、そっち見てちょ。
あ、また禿/ageちまった(w)
394 :
虚無:2006/11/30(木) 04:09:59
連続/離散は、まず第一に数学的概念であるから、数学的思考自体がバーチャルであるという考えを
おしすすめると、連続/離散の区別そのものもバーチャルなものとなり、
けっきょく自然と自然言語の関係を、連続と離散のカンケイでみることが難しくなるのだにゃ。
客観的な量として、離散量と連続量があるとしても、もし心脳論の見地からみて、
あらゆる直観が<脳>による2値的な演算によつものだとすると、このてんでも
アナログ/デジタルの区別が究極的には意味を成さなくなるのにゃ。
議論を成立させるには、あえて自分はアフォだから哲学的センスはぜんぜんないっすよー、
くらいのスタンスに立たないと、一歩も前進できなくなってしまうにゃ。
身わけ/事わけってゆーのは、論理主義にたいするものとして身体性をもちだしてくるのが
ちょっと流行になったころの影響を受けていて、その図式が理論言語学vs認知言語にもうけつがれているのだが、
ほんとうに身体性がアナログかというと、事実問題としてそれは誤っていると思う。
<色の知覚>なんかは、連続的な知覚をうみだすための、2値論理的な演算で、
(アカの知覚は、純色の赤に反応する錐体細胞からの刺激ばかりでなく、緑刺激の不在によっても生じる、
つまりアカ知覚は[+red or -green]、このあたりは、周知なので書かない)
自然界の量、つまり色の量にたいして、相似的でも何でもないのにゃ。恣意的といってさえいい。
このあたりで、身わけ/事わけ、の議論も破綻してくるのではないかと思う。
音楽については、上のほうでも書いたように、すくなくとも音階については自然界の量に、かなり相似的である。
離散的であるが、相似的であるから、1オクターブ13分割とか17分割は考えにくい。
色の知覚については、連続的であるが、相似的ではない。これは生物学的デザインが偶然そうなったと思われる。
母音の分布については、離散的ではあるが、自然界に相当するものがない。母音の物理的性質については、
生物学的形質・構造に依存している。
文法的知識については、離散的であり、生物学的に心的に依存していると見られる
(さしあたってここでは、チョムスキーの見解をとるにゃ)
わかりにくいかと思うので、また来るのにゃ…
395 :
虚無:2006/11/30(木) 04:16:35
いや、違うにゃ!!
チョムスキーにとっては、口腔の物理的構造も、心的計算構造も区別しないのであった…
チョムスキー信者もたいだいそうである。私は違う見解をとるにゃ。
>もし心脳論の見地からみて、あらゆる直観が<脳>による2値的な演算によるものだとすると
正否自体は別として、なぜ直観を2値の演算と仮定するのだろうか?
それは先端の知識がコンピューターであるからである。
古代ギリシアの哲学者ピューロプスューケース(Pyropsyches)は火を眺めていて
煙が上に昇ることから「火にはものを動かす力があるのだ」と考えた。
そしてそれを思考に適用して意識は霊魂の火炎「霊火」によって頭の中を循環している煙や気体のようなものであると考えた。
現代のアメリカの哲学者コント・ナンバー(Compt Number)はコンピューターを考えていて
数値が二項的に計算されることから「コンピューターにはものを計算する力があるのだ」と考えた。
そしてそれを思考に適用して意識は脳の二項演算によって生じるものであると考えた。
両者は意識・思考という言ってみれば得体の知れないものを
既存のもののメタファー(気流か計算か)としてとらえようとする点で同じである。
内容が合理的であってもなぜその図式で理解しようとするのかという枠組みの選択は恣意的である。
397 :
虚無:2006/12/01(金) 22:51:14
>>396 ??成否自体は別として、Pyropsychesって、Fire-spiritそのまんまにゃん。
で、Fire-spiritという人物がいて、しかもその名のごとく「思考霊火説」を唱えたというのは、
なんだかにゃーなハナシ。
まーとにかく<流体>は複雑系科学を代表するような対象で、思考のソウハツ性を
記述するためにはひょっとしたら便利なモデルになりうるかもしれない。
けど、理系が用いるメタファーは、モデルとしての資格がなくてはならず、
ポンコツ文系人間がテキトーにカミクズを生産するために用いる文学的メタファーとは違うのだにゃん。
直観を2値論理にたとえたのは、ニューロンが2値素子と考えられるためで、
(ニューロンの中の人を考えると、ちょっと2値的といえないところもあるけど)
<脳>が2値的な情報処理を行うことは、観察可能な経験的事実といっていい。
(あと、わたしは思考全般についてまでは踏み込んでいない。s→pのところで、ごく控えめに触れている…)
前回、物理的な音としての母音の知覚と、心的に構造化された母音の認知をごたまぜにしたかんじがあって、
ちょっと整理しようかなと思ったけど、どれも教科書に書いてあるようなことなので、やめたにゃ。
ただし、母音が3個あるか18個あるかという問題はほとんど文化相対的で制度的な問題であるが、
それとピッチの分節あるいは離散化(スケールの発生)の問題はちょっと性格が違うように思われるんだにゃ。
まずは音色というのは、非常にラフにいうと、正弦波の和音のボイシングの問題のようになってくるんだにゃー。
で、単音か和音かの物理的な区別はなく、和声の変化は、物理的には音色の変化と区別がつかにゃい。
まず音階というものありきで、それを<奏でる>ために楽器が工夫されているわけではなく、
まずは、こーゆー言い方はあまりよくないとは思うが、物体のなかにそもそも<音階>の母体みたいなものが宿っていると、
そのせいで、音楽の認知というのは、自然界に<相似的だ>、と繰り返し言ってるんだにゃ。
とりあえず、また来るのにゃ。
398 :
虚無:2006/12/01(金) 22:59:16
>コント・ナンバー(Compt Number
こっちも釣りか!!くそー。
こんばんみー
>ただし、母音が3個あるか18個あるかという問題はほとんど文化相対的で制度的な問題
しかし最初に現れる母音が[a]で、次が[i]〜[e]、そして[u]〜[o]である、という普遍性は
Jacobsonの弁別素性では音響音声学的に一定の基盤が、ってこれが教科書的か。
口の中の構造と、音響エネルギーの分散/集約という特徴には相関があって、
vocal tractという「楽器」のなかに母音という<音階>のひな形が、って虚無せんせが
言っていることとおなじかもしれにゃい・・・
Sound Pattern of EnglishにおけるChomsky-Halleは比較的Jacobsonの精神を継いでいて
音響音声学的な弁別的素性の立て方をしていたのですにゃが、近年のfeature geometryに
至りHalleはarticulatorに即した立て方に完全に移っていくのですにゃ。
それは、母音に限って言うと、人間には「舌根を口蓋垂に接近させよ」というような
運動器官への指令としての素性の普遍集合が生まれながらに備わっている、と
いう言い方がされるのですにゃ。
これっていまいちどういうことか、変にゃ。でも、これについては、tabula rasaとは
いわないけど、「楽器」の構造が決まり、それから響きにもとづいて音色の分割が
行われるような気がしないでもない(乳児は日本語にない中舌母音とか平気でだしますにゃ)。
虚無せんせが認めておられるように、母音は離散的。しかし生成理論よりでない
音韻論の本では連続的と書いてますにゃ。この点、ちょっと虚無せんせのとられた観点に
驚嘆しましたにゃ。で、音声学もそうですけど、連続であるがゆえに、物差しとして「人工的に」
Jonesが母音空間の分割方法を提案したと。そしてSaussureが音声学を「言語学ではない」と
したことが、あんまりシリアスでない言語扱い人に安易な言語音声の扱いのひな形を作ってしまった。
でも音声学はその端緒より「音韻論的」であり、そのあたりは服部四郎音韻論の十分自覚的なところで、
離散的なのですにゃ。服部音韻論は 独立に展開したとはいえ、その後、Jacobsonと共感関係に
入る。母音に関していろいろ思いを馳せると、意外と音階との平行性がぴったりしてくるような
希ガス。虚無せんせを誤読してるだけかもしれないですけどにゃ・・・
虚無せんせをつる、とはなかなかの御仁ですにゃー
402 :
仇鱒:2006/12/06(水) 05:45:56
おはよ。
ちょいとコッチ@音楽スレでまったりするかなー。
>>401 それに似たヤツなら半年ほど前にかなり音楽ギョウカイつーかギターヲタの間で
話題になったけどな。それはギターだけで2万円切る安さのもので、シールドの
ジャックの代わりにusbのジャックがあるヤツ。そんで、フツーにpcにつないで
アンナことやコンナことをしてしまうとゆーヤツ。(たしかアンプ
につなぐことはできなくて、ヘッドフォンを使って音を聞
くだけだったような、、、)でもあれだなー、そーやって、いわゆるエレキで
アコースチック・ギターの音を出したり6弦だけど12弦の音を出したり、
はたまたギターだけどシンセのような音出したりして何か面白いのかなー
というのはある罠。正直わしのようにギターの音にこだわる人間としてはやはり
ギターの魅力はギターの音であり、ギターが別の楽器の音がしたらギターの
魅力が半減してしまうんだな。同じく、6弦は6弦の音で十分だし、12弦は
12弦の音がしてもらわないと困る。
403 :
仇鱒:2006/12/06(水) 05:46:37
んでもって、実は今イエスのdvdを見ているのであるが、いやー、
あそこはみんな超一流のプレイヤーということもあり、ライブ
もはんぱじゃない。まさに実験的な音楽をやっているわけだが、なんつーか、
トトとクイーンとイーグルスを足して3で割ったようなカンジである。イエスの
ギターリストもテクないし音作りはちょーピカイチなのだが、あのぐらいの腕
があればギターシンセ使ってもそれなりに意味があるのだが、やぱヘタッピーな
香具師がギターシンセのようなもんつかってもしゃーないとゆーのがある。
それなら鍵盤担当者にそこのフレーズ弾いてもらえ、
といいたくもなったりする。
と、まあ、くだらんこと書いてしまったが、楽器も進化しつつある罠。個人的
にはベースが6弦とかになって、ベースだけどギターのようなプレイが可能
になってきて、なんかもう各楽器の担当というのが薄
れてきたというかなくなってきたなーというのがある。しょうじき個人的には
楽器だけはオリジナルの<生さ>をいつまでも残
してもらいたいというのがある。そうなると最後の砦はクラシックやジャズ
なのかなーというのがある。んでもって、最近の音楽の電子化に嫌気がさして
時々クラシックやジャズなんかも聞く仇ちゃんだったりする。ま、でも、
あれだ、うまい具合に音楽の荒さとテクノロジーが融合しているロックが
一番現代音楽として優れているとマジでわしは思っている。ま、
そんなところだなー。
さて、ジュギョーの準備すっかなー。朝飯前の一仕事だ。
つーか
>Fender、Marshall、Ampegなど、欲しかった名アンプを全てMacの中にインストール
てのがウハウハであるにゃ
たとえば年代ごとのリッチーの音をプリセットしておけるんでないかにゃ
ま、音楽版P&Pアプローチであるにゃ
イエスはやはり「こわれもの」〜「危機」のころがベストであったにゃ(遠い目
405 :
仇鱒:2006/12/06(水) 06:22:37
レスはやっ♪てか、朝はやっ♪てか、夜更かし乙っ!
>ま、音楽版P&Pアプローチであるにゃ
まあ、パラメータひとつでアンナ音やコンナ音も出せたりできる罠。でも、
なんだなー、ぶっちゃけ、自宅用の10wや20wのアンプと大ステージの
総数量ウン千wの音ではじぇんじぇん音が違ったりするんだな。自宅で使う10
wのマーシャルの音とステージで使うウン千wのマーシャルの音では音の厚
みと歪みがじぇんじぇん違ったりするんだな。だから、なんつーか、同じタイプ
の音でも聞こえ方がじぇんじぇん違うとゆーかなんとゆーか、ま、このあたり
言語にもちょいと似ているよーな希ガス。
>イエスはやはり「こわれもの」〜「危機」のころがベストであったにゃ(遠い目
今イエスのギターリストがなんかシタールの音を出しながら幻想的な曲を弾
いておりまつ、でつ。はい。
てなことで、朝飯くってくるわ。てか、ジュギョーの準備できてねぇよ。や
ばっ、、、orz...さっさとメシくってはよジュギョーの準備しよっと♪
406 :
虚無:2006/12/07(木) 07:56:29
結局新しいほうのパソにネット接続してしまった…処女喪失(感染症の危険あり)
>最初に現れる母音が[a]で、次が[i]〜[e]、そして[u]〜[o]である、という普遍性
これをみてどうしても思い出すのが、色の弁別(順位)で、黒/赤→黒/赤/白みたいに、
色彩のバリエーションの増え方に規則性があるという話だけど、それはちょっとおいといて、
まず物理量の一定の集まりがあるとき、それらが互いに純粋に数理的連鎖をなしていて、
第1項を与えられれば形式的にすべての項が産出されるようになっているのか、
それとも、それぞれの項が生物学的な認知上の<偶然性>に依存しており、
純粋に数理的には予想や構成ができなくなっているか、
という問題に注目してほしいのだにゃむ。
黒赤問題は、ヤマト語の明くak-u/暮るkur-uとかの対照でつとに有名であるが、
いわゆる3原色に依拠して、スクリプト言語風に」3つの変数で表すと
黒は、rgb(0,0,0)、赤はrgb(ff,0,0)、白はrgb(ff,ff,ff)などとなる(ffが最大値として)
つまり、1辺の長さがffである立方体の空間内の位置に写像され分布する。
が、このような写像は、そもそも自然界にとってまったく余分のものであり、
このばあい恣意的で予測不可能である、つまりまったく未知のどっかの生物は、
<オト>と同じように物理量を処理して、(よくあるたとえ話だが)
複合色を単色の<オーバーラップ>、つまりハーモニーのように感知する可能性が否定できない。
さらにいえば、母音の音価は、
(あくびをする動物、つまり気道と食道が未分化な動物は、まずは「ア」の母音は発音可能なようにおもわれるにゃあーーーーお)
音価の同一性は、他の項との差異にあるという構造主義的見解により、さらに物理量との
直接的連関はうすくなるとゆーよーに思われる…
ちょっと安易に流れたような気もするが…
エフェクタについてはまたあとで…
>という問題に注目してほしいのだにゃむ
はいっ!(気をつけ、の姿勢で)
_Basic Color Terms_にだったか、視神経には一定の色に反応して興奮するものがある、と
読んだことがあるのですにゃが、にも関わらず、それを無視して(?)一定の普遍的順序に
従う、ということは虚無せんせの言うように、光の波長の再帰的処理という数理/計算の問題に
帰せられる、という理解であってますかにゃ?
そういえば、鳴き声をonomatopoeaであらわすという、一種の'loan-word phonology'の
問題で、猫は「ねんねん」、犬は「もんもん」と泣くんですにゃ。日本語や英語は/a/が
多いようですにゃが・・・誰か猫の鳴き声のformantをとった人はいないものかにゃ?
(フリーウェアでやろうと思えばすぐできるのか?)
新聞の広告で『哲学的な何か、あと科学とか』という本の広告をみかけたのですにゃが、
題の言葉遣いのセンスが虚無せんせとちょとだぶる・・・
イヌは「びょーびょー」(by 和泉元彌)
409 :
虚無:2006/12/08(金) 05:15:43
>光の波長の再帰的処理という数理/計算の問題に帰せられる、という理解であってますかにゃ?
うんにゃ…生理的な色の弁別プログラムはヒト普遍であるが、それとほとんど独立して、
色の「ことわけ」の秩序があり、そっちのほうの「普遍性」はナゾーというところかにゃ…
>猫は「ねんねん」、
うーむ、わたしはまず、前舌であくびするドーブツっているのかな、
と思ったわけでしてねん。ちなみにブタのブーブーはいちばん<原音>に不忠実だとおもわれる。
(ブタは気道独立で、鳴き声は吸着音のいっしゅ…かにゃ。しらんにゃ)
あ、そーだ、エフェクタのはなしだけど、とりあえずある楽曲を
<楽譜情報>と<非-楽譜情報>にわけたうえで、後者をパフォーマンスにおいて
はじめて表現できるような音楽情報とすれば、奏法やエフェクタなんかの話がパフォーマンスに
関するものだろうと言ういちおうの見通しがつくのだにゃ。
で、おそらくシンタクスは楽譜情報を扱うと。
大急ぎで書くけど、スケールとモードについては、混同して用いてもそれほど矛盾するということはないのだが、
スケールというのは、物理的記述可能な音列、モードは<終止感>などつまり音の役割情報を含む
もっと心的に記述された音列ということでどうかにゃ…
むりやりだけど、こうすると音響学・音声学・音韻論との比較ができる…かにゃ?
ところで、
>>406なんか連想のおもむくままに書かれたとんでもない悪文だけど、
おさかなの先生とか読んでもらってもうしわけない。ではまたにゃむ。
410 :
虚無:2006/12/08(金) 05:48:20
せーせーすれで、変な流れになってるにゃ…
「かかりちゃん攻撃」のかわりに顔攻撃をしたために、「ニセモノ」とか
いわれてるのかにゃ。かかりちゃん攻撃をやめたのは、たんにないようとしてさして面白くないから。
まあ、つまりかかりちゃんは、印象としては、プトレマイオス体系のなかで仕事していれば、
いかにも「エカントの値が一致しないにょろねー」とかいいながらepicycleの数を減らすことに
いそいそ従事していそーだにゃんと思いつつ、あまりにも紋切り型の
中世=暗黒=インチキ=魔女狩りみたいなマンガみたいな図式を言い出すのはいかがなものかと思ったのだにゃ。
わたしのいってることもデタラメだし、まあ、いいにゃ…
中世ヨーロッパの形而上学的思考パタンと、可能世界意味論との関連については、またいずれ
しょぼい攻撃だ尿
413 :
仇鱒:2006/12/09(土) 17:28:43
こんばんわ。今日は雨の土曜。ちょいとさぶいでつね。
んで、ちょっといろいろ書きたいのだが、いまいち乗り気じゃないのでかる〜く
スレの流れにのって書かせてもらうなー。えっと、上でオノマトペについて書
かれているわけだが、まあ、おそらくオノマトペつーのはかなり文化的な
ファクターが絡んでいる罠。イヌの鳴き声が「ワンワン」であるのは日本という
文化のせいであると思うし、同じくイヌの鳴き声が「ヴァウワウ」であるのは
アメリカの文化のせいであると思う。で、わしは生成スレでもちょいと書
いたが、未だにピアノの「A」の音なら「A」の音とギターの「A」の音が同
じだとは思えないのだよ。これって、なんだろな、と今でも思う。たとえば、
言語に即して考えると、まさに「ワンワン」と「ヴァウワウ」の違
いみたいなもんかな、とちょいと思ってしまう。もうちょい分
かりやすくゆうと、「りんご」と「apple」の違いみたいなもんかなとちょっと
思ったりする。つまり、リファレントは同じだけどたんに「表記」が違
うだけなのかなと、、、。あと、これまた生成スレで書いたように、わしには未
だにオクターブ関係の音が同じ音だとは思えない。で、これってもしかしたら
「りんご」と「リンゴ」と「林檎」を同じものとして見
なすことができないのと同じなのかな、とちょっと思ったりしている。なん
つーか、ほんと音楽というか音についてあれやこれや考えているとマジで頭
がどうにかなりそうだ。てか、毎度のことだが、「音が同
じとはどいうことか?」という問いを自分に問いかけたら最後、わしはギターの
チューニングができなくなってしまう。てか、またギターのチューニング
できなくなっちゃったよ、、、ったく、、、。どて、どて。
414 :
虚無:2006/12/09(土) 17:28:56
さ、さぶい…
物理量の心的変換、というか脳内コンバートのことだが、わたしもしょっちゅうこのことを
考えているわけではないので、たまにここにくると、何でこんなことしてんだっけ?
と、原点を見失ったりするにゃ…
ようは、ピッチの離散性が恣意的なのかどうか、オクターブがなにか絶対的な意味を持ってるのか、
なにか想像を絶するようなピッチ関係を持つ音楽がありうるのかどうかが興味の中心なんだにゃ。
で、オクターブを否定して、3倍音をもっとも基本的な音程とし、
それを平均律的に(等比的に)分割して、中央にルート3音程、その前後に1/4乗、3/4乗音程、
というような分割を行ったスケールで、音楽が成立するのか、という問題で、
わたしはまあ、否定的な見解を取っているのである。
スケールの歴史的成立は、やっぱしいろんな偶発的要素が絡んでいて、たんに物理的な倍音関係から
できたというものじゃないと思うけど、<音色>の物理的正体が倍音スペクトルであり、
音色の認知がラフなフーリエ解析で、倍音の構造解析も含むとなると、このあたりどうも
<簡単な整数比>によるピッチ分割が原理的な働きをしてるように思えるのだにゃー。
弦楽器にハーモニクス奏法というのがあって、指で軽く触れて基音と第1倍音あたりを消して、
第2か第3倍音あたりのピッチを出すというものがあるけど、(あるというか、いちぶでは超有名な話)
これなんか、スケールがモノに内蔵されているという印象をつよくするにゃ。印象だけど。
で、音韻の同一性は、対応する物理量があるにせよ、他の音素を侵害しない限りかなり自由度があるわけで、
ちょっと性格が違うという気がする。だがしかし、脳内物理量コンバートはさまざまなタイプがあり、
少数のカテゴリに分類しちゃうのはあんまり良い考えではなかったかもしれない。まあ、またくるのにゃ。
お子様はホログラム脳(by カール・プリブラム)のことでも考えてろ(古…)>彦頁
415 :
仇鱒:2006/12/09(土) 17:30:48
あ、ありゃ、ちょーかんと同時に逝ってしまいますた。。。ぽっ♪(ワラ)
あと、どうでもええことだけど、仕事の合間にクリームのドキュメンタリーd
vdを見ているのだが、いやはや、やはりジミヘンが一目置いていただけの理由
がいろいろ分かってきたわ。ま、わし的には、ヤードバーズからソロに移行する
一番変わりつつあるクラプトンをクリーム期に見ることができ、いろんな意味で
クリームは勉強になる。だが、やぱあれだなー、正直、クリームに関しては
クラプトンは陰が薄い。わしのようなギターヲタでもぶっちゃけジャックと
ジンジャーの方がいろんな意味で上だと思っている。やぱ、ジャックのベースは
当時では頭2つぐらい飛び抜けているし、ジンジャーのドラムもハンパ
じゃない。わしは個人的にはドラマーとしては伝統派というか正統派である
イアンペイスのような叩きがシュキだが、ジンジャーのあのドラムもいい。ま、
ほんと、60年代はジミヘンのいたイクスペアリアンスとクラプトンのいた
クリーム、これでほとんど決まりだな。ただし、トリオのバンドに限っての
ハナシだが。ディープ・パープルはわし的には論外。わし的にはネ申。
ディープ・パープルを聴くことによってわしのいろんな感性が180度ひっくり
返ってしまったくらいだからな。ちゅーか、マジで「イン・ロック」や
「ファイヤーボール」それに「マシンヘッド」は聴いた方がええって。
416 :
虚無:2006/12/09(土) 17:33:08
あ、へーかどうも…
>「A」の音なら「A」の音とギターの「A」の音が同じだとは思えないのだよ
シェーンベルク(無調音楽の人)が<音色>で作曲しているとか言ってたにゃ。
それと似たよーなことかもしれない。
あ、そーだ。Cメジャー7thについて何か書いてちょ、にゃ。
417 :
仇鱒:2006/12/09(土) 17:46:29
あ、ちょーかん、ども
>シェーンベルク(無調音楽の人)が<音色>で作曲しているとか
>言ってたにゃ。
なんか共感覚者みたい、、、。実はわしは共感覚者じゃないが、音に形
のようなものが実は感じたりする。ただ、昔イコライザーヲタ
だったこともあり、その影響てかすり込みがある可能性もあるが。
>あ、そーだ。Cメジャー7thについて何か書いてちょ、にゃ。
あ、忘れとった。え〜っと、なんでギターリストにcメジャー7thがシュキ
な人が多いかってハナシだった罠。で、わし的には、やぱギターの場合、6弦
からジャラ〜ン♪とやるのが大きな理由だと思う。つまり、ピアノのように
和音の構成音をユニゾンで弾くのではなく上から1本1本弾くことにc
メジャー7thの響きの良さがあるのではないかと思う。マジで6弦から
ジャラ〜ン♪とやると絶妙なバランスで音がきれいに混ざる。ちなみに手元
にあるストラトで1弦から6弦に向かって弾いてもcメジャー7thって感
じがしないし、6本の弦を同時につま弾いてもあのcメジャー7th独特の広
がりは感じられない。ま、そんなこんなで、ギターリストにcメジャー7th
シュキが多いのは、ギターという楽器の特性でもあると思う。と、まあ、
こんなところでつ。はい。
てなことで、ちょーかんカキコ@
>>414はこれからじっくり読
ませていただきまつ、でつ。はい。
>「音が同じとはどういうことか?」
>未だにピアノの「A」の音なら「A」の音とギターの「A」の音が同じだとは思えないのだよ
音が同じとは
・音高が同じあるいは周波数が整数倍の関係にある(同じ種類の音)
・音量、音高、音色、反響の具合などの要素が全く同じ(完全なコピーの音)
の二つがある。
後者の意味ならば楽器が異なるから音が異なる。前者の意味ならば音高が同じAであるから音は同じである。
面白い定義だな。
ある音と、周波数がその3倍(整数倍)である音が同じだと
主張されたら、AとEの区別は無くなるな。
420 :
虚無:2006/12/10(日) 07:36:06
>>417のへーか
の、あまりに意外なセンシティビティに、ちょっと、マジで考え込むにゃ。
ストロークのアップとダウンでそんなに響きが違うものなのか…マジビクーリにゃ。
黄色の絵の具をだしたあとに、青色を混ぜたときと、
青色の絵の具のあとに、黄色を混ぜたときで違う混合色ができる、みたいな驚きだにゃ。
お茶を濁すみたいだけど、ピアノでのCmaj7thのスタンダードなボイシングは、
左手でC(ルート)、右手でGBEをおさえるというもの。だが、きまじめにほかのテンションをいれない、
というのは、あんまり楽しみ方のわかっていないプレーヤーで、たいがい4度重ねの音程をまぜて、
右手はEADとか押さえたりする。ばあいによっては左手でこのEADを押さえつつ(あえて左手からルートをはずして)
右手はGBEとやってもよく、それがどうしたかというと、このボイシングはギターの標準的なチューニング
EADGBEと一致するのであった。まあ、標準チューニングも、オープンチューニングと
いえないこともないというおはなしだけど、あんまりおもしろくなかったにゃ…
Cmaj7thの面白さはわたしなりに理解してるんだけど、あまりにもへーかの感性がぶっとんでて、
ちょっと考えさせられるのであった…
421 :
虚無:2006/12/10(日) 07:41:03
>整数倍の関係にある
オクターブの周波数関係は、2倍、4倍、8倍、16倍となるから、
ここは2の指数関数とでもすべきところ。なんちゅー法則かどわすれしたけど、物理量の心的な大きさは、
実際の物理量の対数に比例するといわれているけど、
これは観念としてとらえられた「オクターブ関係」が、そのなんとかの法則に影響を受けてしまった例ともいえる。
422 :
虚無:2006/12/10(日) 07:56:08
ちょっと考えたんだけど、どっかでかいたように<音色>というのは物理的には
正弦波の倍音(およそ、和音)の、それぞれの強度が異なることから生じるのだにゃ。
で、へーかのばあい、ダウンストロークと、アップストロークで、
各弦の発音強度が特徴的に異なり、そのために<音色>としては異なったもの
ときこえるという可能性がある。
わたしは、和声をあまりにも機能の側面からしかみないために、このような<音色の側面>
がみえないのかもしれない。のだにゃむ。またくるにゃむ。
423 :
虚無:2006/12/10(日) 08:19:21
【天声人語】 (朝日新聞)
彦頁は科学的真理はしょせん内観の問題にゃと主張している。しかしちょっと待って欲しい。
科学的真理はしょせん内観の問題にゃと主張するには早計に過ぎないか。
彦頁の真摯な姿勢が、今ひとつ伝わってこない。
例えば虚無好きセンセイからは科学的真理は客観現象の、
定量的・数理的な連関で、世界の制御と予測を可能にするものにゃと主張するような声もある。
このような声に彦頁は謙虚に耳を傾けるべきではないか▲
思い出してほしい、過去にも何度も彦頁は虚無好きセンセイの叫びを無視している。
彦頁は虚無好きセンセイの科学的真理は客観現象の、
定量的・数理的な連関で、世界の制御と予測を可能にするものにゃという主張を間違いであるかのような発言をして、
批判を浴びた。
確かに虚無好きセンセイには理系ヲタという問題もある。だが、心配のしすぎではないか▲
彦頁の主張は一見一理あるように聞こえる。
しかし、だからといって本当に彦頁は科学的真理はしょせん内観の問題にゃと主張できるのであろうか?
それはいかがなものか。的はずれというほかない▲
424 :
虚無:2006/12/10(日) 08:19:53
事の本質はそうではではない。その前にすべきことがあるのではないか。
彦頁は、未来を担う一員として責任があることを忘れてはならない。
彦頁の主張には危険なにおいがする。各方面の声に耳を傾けてほしい。▲
彦頁に疑問を抱くのは私達だけだろうか。
科学的真理はしょせん内観の問題にゃと主張したことに対しては虚無好きセンセイの反発が予想される。
科学的真理は客観現象の、定量的・数理的な連関で、世界の制御と予測を可能にするものにゃという主張を支持する声も聞かれなくもない▲
彦頁もそれは望んでいないはず。しかし彦頁はアタマがわるいである。
科学的真理はしょせん内観の問題にゃと主張する事はあまりに乱暴だ。彦頁は再考すべきだろう。
繰り返すが彦頁はアタマがわるいである▲
彦頁の科学的真理はしょせん内観の問題にゃと主張したことは波紋を広げそうだ。
今こそ冷静な議論が求められる。
天声人語メーカー
http://taisa.tm.land.to/tensei.html
425 :
虚無:2006/12/10(日) 08:58:48
アサヒでなんとなく思い出したのだが、(ドトーですまないのだが)
ちょっと古い話で、せーせーすれのほうで、政治的・経済的<右>と<左>について整理してレスがあったけど、
そこで、保守中流=右=権力に好意的=親自民、というかかれ方がしてあったと思うが、
ちょっとなんだかにゃーと思ったことを思い出した。この図式は中立的に見えて、
じつはアサヒ的バイアスがかかっているような気がするのである。
(読売は親米的で親自民だが、だからといって読売をウヨク新聞と考えるのはかなり極端な見方だにゃ)
文化人類学に「縮減」とか「縮退」とかいう概念があって、二項対立の片方が有標であるとき、
そちらの項に同型の二項対立が自己再帰的に生じることをさす。
自然/人間の対立では、人間の側が有標であり、それゆえ、人間の項の中に
自然/人間の対立が再び生じ、これはおおまかに「自然」=女、「人間らしい人間」=男となるにゃ。
ここで、自然と女の関係については、ちょっとおざなりというか、あるしゅの無関心が生じるにゃ。
どうようの現象が、右/左のあいだに生じていることはたやすくみてとれる。どういうことかというと、
保守中流が、あまりにたやすく<右>と結びついたことで、これは<左>を有標としているのではないかと疑わせるということだにゃ。
昔、新左翼にKK連合という語があって、片方のKは革マル、もう片方は、警察かあるいは公安なのだが、
この語の意味するところは警察と革マルが密通していて、<真の>サヨクである中核派に対する反動勢力になっている、
というものである。まあ、ここにもおなじ<縮退現象>が機能しているものと思われる。
このへんでやめとくにゃ。
426 :
仇鱒:2006/12/10(日) 09:03:04
おはよ。
>ちょーかん
いやはや、天声人語パロわろーた、わろーた。いやー、よくできてるわ。特徴
うまくつかんでるし。たんなるパロじゃなく、天声人語がどういったものか知
る人には実はちょーかんのカキコがメタ・パロであることが分かると思う。
てか、そこまでヒネってなかったりして(ワラ)。んで、これ↓だけど、
>マジビクーリにゃ。
そんなにびっくりされることかな?マジでわし今まで誰にも話
してこなかったけど、みんなダウンとアップでは音が違うと認識
しているものだと思っていたけど、、、。そうでもなかったのか、、、。てか、
ぶっちゃけ、わし的には、アップとダウンではマジで文を頭から読むかお尻
から読むかの違いぐらいある。まあ、コードにもよるけど、わし的にはアップと
ダウンは原則違う音としてとらえている。とくにアコースチックギターの場合、
ぶっちゃけアップとダウンでは違うコードぐらい別の音だとわしは思っている。
もっとゆーと、わしは独特な弾き方をしていて(←ちなみに最近ではほとんど
ピックを使わない)、ストロークをするにしても、ダウンの時は人差し指を
メインに、アップの時は親指をベースにして弾いている。だから見た目
フラメンコギターを弾いているように見える鴨しれない(←フラメンコなんか弾
けねぇけど(ワラ))。そーゆーこともあってアップとダウンの音はわしの
場合物理的にも違っている鴨しれない。あと、わしの場合、アップとダウンを
連続して弾くことはない。アップとダウンの相手にゼロコンマ何秒かの微妙な
ミュートのようなものを入れることがあり、アップとダウンの音は物理的に断絶
している。そういうこともあり、アップとダウンは別の音のように聞
こえているの鴨しれない。あと、あれなんだなー、実はココだけのハナシ、
どんなに歪んだ音でもわしにはクリアーな音が<音>ではなく何となく形
のようなものとして<見>えたりする。こんなことゆーとアヤシイ
おやじのように思われるかもしれないが、マジでどんなにディストーションが効
き過ぎている音でも原音が<見>えたりする。
てなところでつが、もうちょいマジなハナシはまた夕方にでも。糞じゃっ!
某所に逝ってきまつ、でつ。
427 :
虚無:2006/12/10(日) 09:05:09
保守中流→保守本流orz
>さ、さぶい…
虚無のカキコが……w
ま、朝日新聞なみの与太バナシ垂れ流しであるという自覚を持っただけでも
多少は成長したと褒めといてやるかにゃ
定量化すれば客観性が持たせられるという幼児じみた信奉の妥当性は、
その定量化の方法を理解し同意する者の中でしか通用しないようなものを
客観的と考えるほどの素朴さ、純真さを持ち合わせているかどうか次第であり、
そのこと自体が、客観性自体の主観性を示しておるにゃ
俺はそこまで純真=ヴァカになりきれなくて困っておるにゃん
429 :
虚無:2006/12/10(日) 14:47:13
うーん…マジレスカコワルス...>彦頁
ちゃんとリンク先みたのかにゃ。ほとんどコピペにレスするよーなものだと思うのだが。
2ちゃん歴長いんだから、もう少し「ひねり」のあるレス書かないと、相手にしてやらんにゃ。
とりあえず、またくるにゃむ。
大人っぽい喧嘩なんかせずにもと子供らしく仲良くするべきだよ。
虚無は十分子供らしいでつが、何か?
>>429 あのにゃあ(ドテ
リンク先見たからこーゆー駄レスわざわざつけてやっとんのにゃ
ついでにあのリンクに送信した時点でウィルスに感染するのも
アホ虚無は承知の上なんだろうにゃあー
ウソ
ま、都合が悪くなるとネタにマジレスカコワルスとかいうのも
厨の常套手段であるにゃ
433 :
仇鱒:2006/12/10(日) 17:49:19
てなことで、こんばんわ。仇ちゃんでつ(^ ^)
>「縮減」とか「縮退」
これ↑わし知らんかったわ。んで、あれだ、言語には人工言語と自然言語の2
タイプがあるわけだ。で、自然言語は、チョム式のクラス分けを仮定すると、i
言語とe言語にクラシファイできるわけだ。で、おそらくi言語が無標でe言語が
有標であるわけだ。んで、人工言語の方はとゆーと、このようなクラシファイ
はできない罠、たぶん。となると、ちょーかんが教えてくれた「縮減」やら
「縮退」に基づくと、自然言語の方が有標ということになる罠。でも、わしらの
直観からすると自然言語が有標つーのはちょいとしっくりこない罠。てか、実は
自然言語が有標で人工言語が無標なのかな?もしそうならいろいろ面白い
コンシクエンスが出てきそうだ罠。いや、ワカランが。てか、人工言語にも「i
言語」と「e言語」ってあんのかな?
と、とりあえずこのヘンで。てなことでまる子ちゃんタ〜イム♪
>てか、実は自然言語が有標で人工言語が無標なのかな?
自然言語は考えうる言語の体系からすれば非常に少ない。現存/潜在的の点で有標だろう。
こんばんみ。工場直送で兄じゃにちょっとレス。
>みんなダウンとアップでは音が違うと認識 しているものだと思っていたけど、、、
ある種のスケール=コードはこれが顕著で、そのためにアップとダウンで構成が違うものが
あるような気がする、といいつつ声が小さくなりますにゃ・・・(誰でもイング兵衛になれた
はーもにっくまいなーはそうじゃなかったでしたかにゃ?)わたしも兄じゃの感覚に一票。
JackendoffがHappy BirthdayをひっくりかえしたYadhtrib Yppahは
人間音楽としてはill-formedだー、みたいな話と関係あるのですにゃ?
しかし虚無せんせの機能にしか着目しない、というのもわかる気がしますにゃ。
私には直観がないのですにゃが、こちらのほうがより高次、というか、
トップダウン処理をしている?ってあってるのかにゃ・・・
概して、ギタリストは細部のフレーズにみみっちくこだわって、
楽曲としては「木をみて森を観ず」みたいなことになるのかにゃー
これを考えると、ジミーページはすごいにゃ!
Hotei vs. CharのStereocasterはほてーに引っ張られてCharがつまんなくなっちゃってたにゃ。
「木を見て森を観ず」の布袋のせいにゃ。
2ちゃんの細かい動向はわかんないですにゃが、天声人語パロはおもしろかったですにゃ!
反応遅すぎですまそ。
そういえば、天声人語の英語版にあるVox Populi, Vox Dei、って「民の声は神の声」の
意のラテン語らすいけど、「天声人語」という構成でこの意味になるのかにゃあ・・・
ラテン語と同じく「人語天声」の方が「人語、すなはち天声也」となる気が(上の訳と同じ)。
「天声人語」とすると、「これは天声を人語を借りて表したものぞ、心してきけい」という
ちょー高慢ちきな感じで、これはこれで朝日新聞らしいのだけど。
437 :
仇鱒:2006/12/11(月) 07:36:25
おはよ。てなことで生成スレから出張でつ。はい。
もうわしアルコール完全禁止だな。アルコール摂取すると鼻血出
るようになったわ。だめだな、わし、、、。orz...
>自然言語は考えうる言語の体系からすれば非常に少ない。
>現存/潜在的の点で有標だろう。
そーゆー↑ツッコミつーかレスがくると思っていた。だとすると、自然言語は
自家撞着したタームで、実は内実、人工言語である可能性がある罠。まあ、数の
論理を展開するわけじゃないが、いわゆる人工言語が大多数だとしたら、
そっちが言語としてはデフォで無標になるしな。まあ、個別言語はそりゃ30
00とも5000ともあるとは言われているが、でも結局自然言語には1種類
しかないのだし(←普遍ぶんぽーのこと)、そー考えると可能な言語体系
からゆったら自然言語はチョー有標になる罠。なんか哲学的なハナシ
になってきたが、マジでわしらは生物の特性の中でもかなり有標な言語とゆー
「心的器官」を扱い、且つ、可能な言語の中でも極めて有標な自然言語を
扱っている可能性がある罠。なんかワケワカンナクなってきたけど、自然言語の
無標性というか有標性つーのを考えるのは非常に大事なことであるような希
ガス。
438 :
仇鱒:2006/12/11(月) 07:37:00
>こさかなの弟分
>Hotei vs. Char
playersで読みますたがまだ新譜聴いてないでつ。布袋はブライアンセッツアーと
共演したりでスゴイと思いまつ。前にも書いたけど、布袋はテクもピカイチだが
音楽センスは天性のものがある。あのリフはやぱ日本人離れしていると思うし。
チャーももちろんシュキだけどトータルでは実は布袋の方がシュキ
だってりする鴨、と思ったりしまつでつ。はい。
てか、どーでもええことだけど、昨日「さんまのからくりテレビ」とかゆー番組
たまたま見たのだが、ギター少年めちゃくちゃええなー。おじさん感動
しちゃったよ。てか、替え歌コーナーのおやじたちとか、いやー、笑
わせてもらったわ。ゲラ・ゲラ♪だ。わしのツボにどんぴしゃりだ。あの番組
おもしろいな。基本的にわしはテレビを見ない人間なのだが久しぶりに「テレ
ビって面白いな〜」と感じますたよ。はい。
てなことだけど、失禁してきます、でつ。はい。
おはよーございまふ!
>あのリフはやぱ日本人離れ
利府づくりは天才だと思うんですけど・・・布袋の曲を好きになったことがないです。
すみません・・・日本人離れなのは、日本人ではないからでしょうか。
440 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/12/11(月) 13:07:16
上のような、アップ/ダウンストローク問題を検証するためにこそ
>>1にはってあるサイトがあるんだけどにゃ。
いま、MP3エンコーダのある波形編集ソフトのシリアル番号を紛失して、
新しいパソに引越しできなかったのと、あそこのサイトのユーザ名とかPWとかもたぶんなくて、
FFFTPの設定ができないという、かなり間抜けな状況になっておるのだにゃ…
コードの、なんというか感じ方というか同一性のとらえかたなんだけど。
ビギナーのころは、Cメジャーといえば、一組の音名の組み合わせ、
つまり{ド、ミ、ソ}、Cメジャー7thといえば、{ド、ミ、ソ、シ}デアルトイウ、
融通性のない考え方をしていたんだけど、いまはもっと抽象的に
「可能なモードの集合」というか、「可能なフレーズのばくぜんとした集合」のような
捕らえ方をしてるのにゃ。いま、cメジャーが何かと問われたら、
ひとつの表現として、ソ(8下)→[レミソ]→シ(8下)→ド→ミ→シ→ラみたいなフレーズの
なかから、漠然と浮かび上がってくる背景のようなもの、というかんじだにゃ。
([]は、和音をあらわす)
「天声人語」は…「馬耳東風」みたいな妙ちくりんな略形もあるから、
「天声在人語」とかのいみではないの。知らんけど…。また夕方あたり。
玉体に注意してちょ>へーか
441 :
虚無:2006/12/11(月) 13:09:10
うーん、最近コテハン読み込むのに時間がかかるんだにゃ。
なんでかにゃ。Cookieの設定のせいかにゃ。自分であげてしまった…
442 :
仇鱒:2006/12/11(月) 18:43:20
こんばんみ。
>日本人離れなのは、日本人ではないからでしょうか。
ん?
>「可能なフレーズのばくぜんとした集合」
この場合、純粋に集合つーことでオーダーはなしってことかな?実は、
わしはこのあたりちょいと思うところがあったりしまふ。楽典のようなムズー
なことはよく分からないけど、コードの構成音を出すのにもある程度の順番
があるのではないかと思っている。もちろんアルペジオのように和音を分散
させていろいろ弾くことは可能なのだが、やはりそのコードの<音色>
というものを出すにはそれなりの順番があるような希ガス。で、わし的
にはそのあたりが何となく自然言語に近いような希ガス。ようするに、順不同
ではなくある程度の語順が決まっているようなところが自然言語チックだなと
思ったりする。ようするにシンタクスぽいものがあるような希ガスでありまつ。
で、ぶっちゃけたハナシ、和音の構成音を同時に出すつーのは、なんつーか、
「太郎がリンゴを食べた」で「太郎」と「が」と「リンゴ」と「を」と
「食べ」と「た」を同時にしゃべるのと同じようなもんかなと。んでもって、
構成音で比較的自由に順番の入れ替えが可能なものは言語における
スクランブリングに近いのではないかなと。んなわけねぇーかな(ワラ)
>玉体に注意してちょ>へーか
こりゃどーも、でつ、ちょーかん。てか、玉も体もボロボロっす。orz...
さて、ちょいとメシ喰ってまだ元気あったら生成スレでなんか書くかなー。
>コードの構成音を出すのにもある程度の順番があるのではないかと思っている
では例えばド・ミ・ソの三つの和音を
・ドミソ同時
・ド、ミソ
・ドミ、ソ
・ドソ、ミ
・ド、ミ、ソ
のように鳴らす順番を変えると和音の印象が違うのだろうか?違うとするとその印象とはどのようなものだろうか?
444 :
仇鱒:2006/12/11(月) 19:22:14
を、はやっ、もうレスついてんのか。
>>443 ま、わし的にはこんな↓感じだな。
(1)ド→ミ→ソ 普通
(2)ド→ソ→ミ ちょっと変
(3)ミ→ド→ソ なんか変
(4)ミ→ソ→ド 普通
(5)ソ→ド→ミ なんか変
(6)ソ→ミ→ド 普通
だからなんとなくだが、普遍音楽みたいなのがあり、(3)と(5)
あたりはちょいと逸脱しているような希ガス。
445 :
虚無:2006/12/11(月) 21:50:14
>(3)と(5)あたりはちょいと逸脱しているような希ガス
おぉへーかマジっすか!!??(二発目)
というほどでもないが、たぶんアルペジオ音列ではルート(ド)が、
すくなくともこのばあい、最初と最後にあったほうが安定した感じになると思うのにゃ。
私の予想としては、ルートと5度を中心とした配列が安定しやすく、
(2)や(5)も、ドソミソ、とか、ソドミド、にしると「普通」になると思われる。
で、わたしはへーかのふだんひいているCmaj7thが、
第6弦Eで開放でなってる可能性が高いと思うのにゃ。
つまりCmaj7th on Eで、じつは和音としては若干変種(第1転回)。
もしこの一番低いEが<不可欠>ということになると、わたしとしては、
マ、マ、マ、マジっすかー(3発目)となるにゃ。
プリズム入りの眼鏡を買うために愛用のsteinburgerを手放してしまい、ならせる物が手元に
ないんですにゃが、
>つまりCmaj7th on Eで、じつは和音としては若干変種(第1転回
ガクリの本もなくて第一転回型もなんだったかわすれちゃったですにゃが、
Em7の7thの音を一音引っ込めた物にFmmaj7-5を乗っけた、テンションコードに
なる感じでしょうか?
わたしにとっては気持ちよかー
人差し指をカポタスとがわりにしてFmaj7 on CをつくってCmaj7 on Eと交互にひくと
一晩中繰り返していられる・・・(古井戸時代の仲井戸麗市の曲にそんなのがある)
447 :
虚無:2006/12/12(火) 03:05:57
>Em7の7thの音を一音引っ込めた物にFmmaj7-5を乗っけた
どうしてここでFmM7th(b5)がでてくるのかわからないけど、
これは全体としてはおおむねEマイナーの上に(アッパストラクチャとして)Eメジャーが
のっかっているかたちになっていて、非常に珍しいもの、ってか、
わたしがかつて「斬新な」コードとしてアプローチしていたものに近いにゃ。
というのも、(擬似的な)ブルースコードがだいたいCマイナー・オン・Cメジャー
のかたちをしており、わたしはこれをひっくり返せないかと思ったのにゃ。
つまり、メジャー・オン・マイナー。なんというか、イズラミックな響きがして、
非常に<使いづらい>。まあ、いつかはこのコードが普通に使われる日も来るのかもしれない。
で…。なんのハナシだったっけ。
転回というのは、A移動に関連させつつなんだかんだいった記憶があるので、
このスレの上のほうにあるのだにゃ。かならずしもおすすめしにゃい…
いったん中断するのにゃ。
448 :
虚無:2006/12/12(火) 03:11:26
ちなみに、わたしが推測したへーかのCmaj7thはこう。
第6開放ミ
第5ラ→ド
第4レ→ミ
第3開放ソ
第2開放シ
第1開放ミ
全体として、3度ミの重複の多いボイシングになってるにゃ。
(ので、6弦のミは必要ないのではないかと思えてくる)
違ってたら訂正してちょ。
449 :
仇鱒:2006/12/12(火) 07:37:29
おはよ。またまたコチラに出張(^ ^)
>(2)や(5)も、ドソミソ、とか、ソドミド、にしると「普通」になると思われる。
しょのとーり、でつ。
>>448 え〜っと、そーゆったローコードでもええんだけど、cmaj7はやぱ音の響きを
重視して、わしは次のポジションを使っておりまつ。
6弦:3フレ(G)
5弦:3フレ(C)
4弦:5フレ(G)
3弦:4フレ(B)
2弦:5フレ(E)
1弦:3フレ(G)
とゆーことで、わしの場合G@ソがベースになったヴォイシング
になっておりまつ。んで、このスケールの場合、6弦のGの音は正直絶対
にはずせない。不可欠。とゆーのも、この6弦の音をはずすと音が痩せてしまっ
てcmaj7のもつ独特な広がりがなくなってしまうから。やぱ、なんつーか、6弦
と1弦がオクターブ違う音の関係になっているのだが、この2つの音がセット
にならないとcmaj7本来の音ではない。もっとゆーと、6弦をならしたその余韻
を追いかけるような形で1弦の音が鳴り響かないとダメ。で、もっといいのは、
6弦の音を鳴らしたときに鈴なりがして、その倍音とまさに1弦の音がシンクロ
すること。この状態で音が出せるギターつーのがわし的にはまさに「鳴る」
ギターとなる。で、わし的には、cmaj7を上のポジションつーかスケールで弾
いたときに、だいたいそのギターの性能が分かったりする。と、まあ、また
ヲタなハナシになってすまそん、でつ。
てなことで失禁してきまつ。ほいじゃ〜ねぇ〜♪
450 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/12/12(火) 08:15:41
おもしろいスレだと思う。
しかしなんで皆(ジャズ→ポピュラー音楽派生の)
コード理論にそった論理展開してるんだ?
まあ雑談スレといわれてしまえばそれまでだけどね。
本来のスレ名にそって考えると、もっと根源的なことをテーマにすべき
なのでは?
ダストガーやらマカームやらで語られてもみなさん困るでしょ。
西洋音楽語法も結局、ごく局地的な文化現象なんだから
虚無せんせ、
>>Em7の7thの音を一音引っ込めた物にFmmaj7-5を乗っけた
>どうしてここでFmM7th(b5)がでてくるのかわからないけど、
きゃー、またやってしまいました!中途半端な知識・・・猛省!
>これは全体としてはおおむねEマイナーの上に(アッパストラクチャとして)Eメジャーが
>のっかっているかたちになっていて、非常に珍しいもの、
アッパストラクチャ・トライアドって多分機能的には難しいものかもしれませんけど、
虚無せんせがいうイズラミック、あるいはスパニッシュギターなどでよく聞かれるものですね。
ギターの構造上、解放弦を使ってやりやすいのかも、ですね。
あ、また生半可な知識・・・
452 :
虚無:2006/12/13(水) 13:44:00
あ、やっぱしもうちょっとハイポジションですたか…スンマソ>へーか
(ま、いちおう、単純なところから推測するのがセオリーなのにゃむ)
>6弦と1弦がオクターブ違う音の関係になっているのだが
このあたりのハナシはよくわかるんだけど、なにぶんメジャー7thに固有のハナシ
ではないのにゃ。そのポジションでシをbシにすれば、やっぱしおなじ現象が起こるのかニャー。
>もっと根源的なことをテーマにすべき
そりゃどーもご親切に。
>みなさん困るでしょ
べつに困んにゃい。
>ギターの構造上、解放弦を使ってやりやすいのかも
うーん、ピアノのばやい、右手でG7thを発想しながらひいて、右手では
A7thとかBb7thとかの発想でひいて簡易にアッパストラクチャを表現できるけどにゃ。
ギターはどうしてるかさっぱりわかんない。
じつをいうと、Cmaj7thの話をふったのは、この「二階建て」コードのハナシをしたかったからで、
Cmaj7thというのは、かるく二階建てになっていると思う。じつは作曲板にメジャー7thだけでスレがたっていて、
もうそこで何年か前に話したハナシであるが、コードがCmaj7thのとき、
メロディは、ルートであるCをアボイド(禁止音)扱いにしたほうが、このコードの特長がよく出るのである。
古典和声では、ルートがアボイドというのはありえないはなしで、むしろ安定感のために推奨である。
えーと、とりあえずここでいったん切り上げるにゃ。また夕方以降…
453 :
虚無:2006/12/13(水) 13:52:37
わたしゃ、右手が2本生えてるのか…orz
えー、左手でlowerのほうを発想するのですにゃ。
通常こういう書き方はしなくて、もっとモーダルな表現にして、右手コンディミ、
とか。またいずれ。
よろぶん!せーへー福まにぱどぅせよ!
『言語くゎはげ百科さじょ』ぬる読ごいんぬんでよ、いスレえ関連いんぬん項目いっこ、
のむのむ大ん興味るる持じょっすにか、何ぉんが書りょごよ。
vocative chant(VC)らぬんげ、初うめ見ぁんぬんで、韓国語えVC同っつん現象ぎ
省覚なそ書るけよ。
『おの科学〜』え出おぬん例以外え(ソウル方言):
Odi kaa-ge? Namja manna-lo!
G -A -G A -A -A
(どこいくのかな?かれし会いにね!:出かける女の子をからかって
SBS drama_Nay Mos-day-lo Hay-la_)
VCって、ちょっとオモシロス・・・it rains cats and dogsみたいのもそうなのかにゃー
韓国語に
tanguni-ji, malbabi-ji
(にんじんじゃん、馬のえさじゃん:
「当然」と発音が似ている「にんじん」を持ってきて、後ろに同じリズムのなんかをつけたもの)
ってのもあってですにゃん。ではまた!ですにゃん。
455 :
虚無:2007/01/06(土) 00:14:19
おんや。test
456 :
虚無:2007/01/06(土) 00:20:02
おぉ。書き込みできるにゃむ。
といって、あまり内容もないのだが…。
VCとかぜんぜん知らんけど、テキ屋の口上とかにありそうだにゃむ。
「天しゃんポックリテキ屋もビックリ」みたいな。
はっきしいって、日本語クソラップよりも、テキ屋の口上のほうが音楽性で勝る、
とゆーか。テキ屋をモデルにして日本語ラップを作れという感じだにゃー。
米国製ラプーも斜陽の一途だから、このさい香具師流ラップといおうことで。
正月用ネタですた。半島の正月って旧暦じゃなかったけ。ではまたにゃむ。
虚無せんせ、恐れ入谷の鬼子母神、てぇしたもんだよ蛙のしょんべん、にゃ!
VCはメロディ・リズムをもった呼びかけで、
こさ・かな・さー・ん♪ あっ・そ・ぼー
みたいなのです。すべての言語にみられるものだそうですにゃ。
でも、もっと一般に、日常のかけあいやあいの手、啖呵バイなんかも考えていいと思いますニャ。
>香具師流ラップ
ふぉーーーー!
458 :
仇鱒:2007/01/06(土) 13:09:06
あけおめー。
てなことで、こさかなの弟分、またもや代理カキコミ乙でつ。どーも、
すんまそん、でつm(_ _)m
で、vc@ヴォカチブ・チャントに関しては、『言語加虐の百科痔典』の
「音楽と言語」のところにいろいろ書かれてある、でつ。
もしよかったらそっちの方をお読み下さい、でつ。個人的にはp760−76
1の日韓比較のところが「ふ〜ん♪にゃる〜♪」と思いますた、でつ。てか、
まさかこさかなの弟分が執筆者のヤン・ミー・ユゥ・チョじゃねぇだろな
(ワラ)
んで、「言語加虐の百科痔典」の改訂版が出ることになったら、ぜひ虚無ちょー
かんに「音ギャグと言言吾」の項目でいろいろ書いてもらいたいと
思っています、でつ。てか、あの事典つくるときぜひ虚無ちょーかんにも参加
してもらいたかったのだがいかんせん連絡のとりようがなかったよ、、、
てなことで、虚無ちょーかん、今年もひとつまた音楽についてアレやコレ
やいろんなことをご教授下さいでつ。
459 :
虚無:2007/01/08(月) 02:48:14
>G -A -G A -A -A
って、ラソラララだたのか…。ってゆーか、音楽的ピッチを意識した時点で、
やはりそれは楽曲になってしまっていると思う。
「かくれんぼするものよっといで」と「かごめかごめ」は、どちらも4つのピッチをもつ(私の脳内では)が、
やはり「かごめ」は、あまりにも楽曲として完成されすぎで、歌われるものだにゃーと思う。
で、突然だが、サンポールのCM「ひとかけ、三こすりサンポール」は、たぶん歌のつもりでいってないと思うが、
もしピッチを意識したとするなら、やはり楽曲になってしまうのだ。
もし、VCが普遍的でなおかつ、ピッチの分布がほぼ整数比、つまりだいたいピタゴラス音階に一致するとなると、
がぜんVCに類するものが音階成立などに先行する可能性がある。
それどころか、有理数音階がビルトインされている可能性さえ出てくるのだが…
それはさすがにあるまい…
>今年もひとつまた音楽について
へーか、とりあえず、おめでとさんですM(_ _)M。捨てアド一個さらしとくか。
さらすのはいいんだけど、スレがあがるのがいやだにゃむ。
460 :
虚無:2007/01/08(月) 04:20:49
まちがいた…
「サンポール」はたぶん歌で、わたしの脳内にあったのは、
「バンサンカン」か「マロニーちゃん」か…
とにかくあんましメロになってないフレーズなのですた。
どこまでも言語
462 :
仇鱒:2007/01/08(月) 09:49:58
おはよ。てか、今日は祝日だがところで何の日だ?あん?
>ちょーかん
>捨てアド一個さらしとくか。
あー、無理せんでもええでつよ。ほんと。
>がぜんVCに類するものが音階成立などに先行する可能性がある。
わしもそう思う。てか、あれだなー、言葉遊びみたいなのが音階成立に影響を及
ぼしているようにも思えるし、またその逆もありそうな希ガス。たとえば、沖縄
だとvcとかどーなっているんだろう?沖縄ネイチブのシトどーよ?
>どこまでも言語
ま、それもアリだとは思うが、個人的にはこのスレのタイトルである「音楽
はどこまで「言語」か」とゆーのもそもそもスタンドしうるqなのかと時々思
うときがある。わし的には、前からココでも表明しているように、やぱ、音楽が
言語に似ているとゆーよりは、むしろ言語が音楽に似ているのだと思っている。
そんな強い確信があってゆっているわけではないが、やぱ順序では音楽→言語
だと思う。言語獲得にしても、たぶんだが、赤子は言語を音楽のように聞
いていて、それからその音楽に意味を付与し、それで言語を言語とリコグナイズ
するようになっているのだと思う。つまり、赤子にとって最初に聞く言語とゆー
のは、まさに、<意味抜き>された文字通り言語<形式>であるのだよ。
ま、そんなところだけどもうちょいしたら失禁してくるわ。じゃーな。
463 :
虚無:2007/01/17(水) 07:17:04
>そもそもスタンドしうるqなのかと
これについては、前に触れたような気がするけど、もともとこのスレは、
和声進行(規則)がある陳述の<否定>を構成するのに十分なのか、
みたいな半分冗談の論議から始まったのであるにゃ。で、
言語についてなされる<説明>とか<推論>を音楽に施したらどういうことになるかという、
いくぶんメタレベルの議論の場であって、直接言語と音楽の共通性をギロンする場ではないのだにゃ。
直接的類似性ということについては、わたしは否定的見解を持っており、
言語と音楽が、共通の先行的能力をもっているという積極的な理由は何もないし、
失音楽症が失語と関係あるというデータもきいたことないにゃ。
それでも、言語学がはたして健全な問いを発しているのかチェックするといういみでも、
このスレはちょっと有意義なのだ。だぶん。
で、VCが音階成立の基盤になっている、ということにもわたしは否定的で、
なにしろVCはピッチの離散性とピッチが有理数比であることの両方をクリアしている可能性が高い。
(そうでなければ、VCのピッチはヒトの平均的声のピッチを反映する(連続的)正規分布になるだろう)
ということは、VCを持ち出してきても何も前進していないということなのにゃ。
このことは、かりにものすごく<文法>が簡単な言語が発見されたとしても、
もし自然言語に必須の要件を満たしているのであれば、そのカンタン言語は
実質上、一般にフクザツだといわれるsanskritなんかと比較して<本質的にはまったく同じ>
という議論とちょっと似ているのにゃ。そいではまた。
464 :
虚無:2007/01/24(水) 06:04:11
前書いたような気もするが。アラビア風「音階」の、平均律からのずれ
(セント単位)
A 0
Bb -10
B -49
C -6
C# +45
D -2
Eb -12
E -51
F -8
F# +43
G# +47
4度上行していくと、なかなか面白い。とゆーか、あきらかに、
CシャープとDフラットがおそらく別の音にしかなりえないことは、
数値のばらつきでわかると思うのだが、それよりも注目してほしいのは、
オクターブで循環するヨーロッパ的スケール概念が、正確な意味では存在しないこの
「音階」でも、やはり4度音程については、かなりの一致を見せるということである。
これは、鼻歌みたいにして音階がなんとなく成立したのではないことの、かなり強力な示唆のような気がするのだが。
もちろん<ヨーロッパ旋法>について、かなり相対化してみないといけないのはたしか。
465 :
虚無:2007/02/15(木) 05:46:05
最近ちょっと古典和声のクイズやってみてるんだが、
いやー、いろんな意味で面白い。
たとえば連続5度禁止ってのは、ほんとうに基本的な制約のひとつなんだけど、
けっこうアドホックな例外が多いんだにゃ。Am->Dmのときは許されるとか。しかも説明いっさいなし。
連続5度禁止、連続8度禁止というのは、和音ABCが、和音A’B’C’に移行したとき、
任意の音程たとえばBCが、完全5度だったとき、次のB’C’はその5度を保持してはならない、
という規則なのにゃ。
で、これはけっこうかんたんにオートマトンの受理問題に置き換えることができる。
AB間が5度、BC間が3度、という関係をaaaaabbbcみたいに置き換えて、
連続5度をなしている記号列というのは、たとえばaaaaabbbcaaaaabbbbcみたいになる。
(aの5個連続が、連続して現れる)
これを受理しなければいいのである。
AC間の完全8度はaaaaabbbcであらわされる。
連続8度はaaaaabbbcaaabbbbbcで、aとbの合計であらわされることに注意。
まあ、ちょっとどうかなというぶぶんもあるけど、形式化を推し進めていくと、
とにかくヒトの直観からどんどんはなれていくのにゃ。ギャグについてもそれは同じ。
466 :
虚無:2007/02/28(水) 21:39:32
じつはたまに漫然とバッハのピアノ曲弾いてるんだけど、
最近ショッキングな発見をしてしまったにゃ。っつーか、説明は難しいのだが…
まあ、ふつう和声的な曲というのは、楽譜をタテにみたとき、
つまりAパート、Bパート、Cパート、とあったとき、ある同時的な拍節をみたとき、
和声的には一致しているのだにゃ。
つまりボーカルはCメジャースケールの旋律を、ギターがGセブンスを、ベースが
全然関係ないBフラットをおさえているということは、それはようするにメチャクチャということで、
それはそれなりに計算されていればある種の<作品>にはなると思うのだが、原則ありえない。
これを、かりに<和声的シンクロの原理>ということで、直感的にも、
すべてのパートが調和しているのは、各パートがあらゆる瞬間に、
和声的に同じ解釈を受けるような<動き方>をしているということなんだにゃ。
そして、わたしはこれはリスナーについても、ある瞬間にひとつの和声しか
解釈できないという制約があるものだと思っていたにゃ。同時に二つの楽曲が楽しめないのは、
ひとつにはリズムの問題もあるが、たとえリズムを同期させても、和声進行が一致していないと、
原則アンサンブルは不可能にゃ。で、バッハの曲も、ていねいにやれば、
以上のような和声解釈ができるものだと思っていたのだにゃ。
ところが、たいへんな間違いであることがわかった…
バッハは、ふたつの矛盾する和声進行を前提とするような旋律を、組み合わせていたのである。
これは、ちょっと言語ではそれに比較できるような現象というのはないのだが、
たとえば右耳と左耳に同時に別々のブンを聞かせて、脳内でひとつの適格なブンとして
解釈された、みたいなもんかにゃあ。
もう少し、わかりやすい例を思いついたらまた書くにゃ。なんとなく繰り上げ。
体位、いや対位法?
468 :
虚無:2007/03/03(土) 11:16:29
469 :
虚無:2007/03/11(日) 16:45:13
回転不良のレコードプレーヤー乙
虚無せんせ、どっかで速い回線みつけてききますにゃ
(会社のはやばそう)
明日は鶴橋いこかにゃー
昨日博多から帰ってきて、明日から一週間また博多です。
ガスガンみにいきたいガスガンみにいきたいガスガンみにいきたい
・・・というとうちのピアノがすねるから、ちょっとひいてみる。
ホテルでLANケーブル借りて、虚無せんせの新作をみるにゃ!
473 :
虚無:2007/06/09(土) 13:23:01 0
新作は、スケール構成音が増えていく曲のほう?
(あれにはeScalationという曲名がついている)
また古魚先生と<直観>と<真理>について語りたいのだにゃ。
このばあいの直観とは、疑うことのできないほどの直接的な認識で、
しばしば、「還元不可能」という言い方がなされる。たとえば時間の直観などがいい例だけど、
まあわたしはあいかわらず、直観は真理の条件ではないという立場。(むしろ、
歴史的には、かんちがいした直観が数多くあるにゃ。)
私も虚無せんせの議論に混ぜてもらいたいですニャ。
でも今の仕事はちょとキツーでつ・・・今週は五時起きで隣の県に出張、日帰りで、
来週もでつ。ピアノ弾きたい・・・
しばらく前まで電気回路の勉強していたのですが、いかに私が何も知らなかったか、という
ことだけわかりますた。
ところで「還元不可能」は、何か、宗教的な禁忌のような感じもする。
自明な「直観」とされたのも実はある宗教文化圏での刷り込みであって、
そこから抜け出す人って、正直すごいにゃ。
ただ、一部科学者に見られる、素朴な還元論者はいただけない、という気が
するときがありますにゃ。というか、なんでも還元しちゃえば「科学」みたいな。
エンジニアの立場から自己批判的に言わせてもらうと(実は今の肩書きはエンジニア)、
三次元測定器でバーチュアルな平面をつくり、そこの数点の距離を計測することが
ある部品の実測値であるとする。しかし、それはあくまで品質保証のための、
理想値からのずれを測るのであって、「部品」を構成するものではない。
でもきっと工学系の研究者には、定量分析の総合が、在る実体を構成する、といって
何が悪い、そのデータを基にいろんなことができるんだから、内在論者のように
引っ込み思案なより何千倍もいい、というにちがいにゃい。
でも、これには納得できないにゃん。
直観、還元、数理。これらについて、すべてinsightfulななにかが無ければ価値なし、
という暴論をあえてくりかえしますにゃ。
しかしピアノはギターとはぜんぜんちがうにゃ!当たり前にゃけど・・・
475 :
虚無:2007/06/13(水) 02:37:07 0
えーと、まず用語の点でおおきなへだたりがあるにゃ…
どこから手をつけていいかもわからにゃい。
とにかく、物理主義・心理主義・論理主義という三すくみの状況があり、
いずれかを完全な基礎構造とみなしてしまうとたいがいうまくいかなくなるのだが、
それでも古魚先生と、彦頁については「心理主義者」とみなしていいかと思う。
わたしは新カント主義者の末裔で、観念主義者であるが、
さしあたって心理主義者をたたきつぶししておかなければと思ってるにゃ。
>定量分析の総合が、在る実体を構成する、といって
何が悪い
そのとーり!!まったく悪くない。さすが工学系のあんちゃん。
さて、古魚先生とのあいだに戦争勃発にゃ!!
476 :
虚無:2007/06/16(土) 09:17:26 0
戦争勃発してないみたいだにゃ…
そのようなわけで、もう少し補足すると、物理主義における還元が
皆様ご存知、とゆーかなぜかチョムスキー信者に認知度が高い「素粒子」や
いくつかの宇宙定数に関すること。
論理主義における還元は、公理と推論規則。
心理主義における還元は、<直観>と、先験的なカテゴリーとかに着せられることになると思われる。
心理主義は固有の自我<かけがえのないこのわたし>の存在論の問題を一手にしょっており、
<わたし>の存在は、物理的にもとんち的にも導出したり証拠とみなすことができない、
いっぽうで、わたしの存在はわたしの直観にいちばん近いところにあるため、絶対的に確実である、
ともみなされる。
直観は、哲学的文脈では<原子的認識>であって、それ以上の根拠づけができない。がしかし、
「宗教的思い込み」とはまったく次元の違う問題でなのにゃ。
ちょっか古魚先生は。たとえば(これもなぜかポピュラーな話題)<地球は動かない>みたいな判断を、
直観とみなしているのかにゃ。それは、どのような文脈にせよ誤りだにゃん。
なんにせよ、心理主義は哲学的には非常に強い力を持っているため、簡単な論駁はできない。
いっぽうで、現代の標準的な心理学者は心理主義をとっていないこともお忘れなくにゃ。
477 :
虚無:2007/06/16(土) 09:21:59 0
>物理的にもとんち的にも
(正)物理的にも論理的にも
tとrが交替してたにょ…
ああ、すみません!虚無せんせ!三週間ほど出向してますた!
(某海外工場から着いた部品の測定)
では、戦争なのです!
といっても、時間たっちゃったにゃ・・・
今日はDELLのパソコンが届いて、ちょっとハッピー。これにのせられる
CADを物色中。虚無せんせ、そっち方面は詳しいですかにゃ・・・
というか、最近、「公差」の問題でアメリカのある方と日米開戦の準備を進めてるのですにゃ。
むこうは、寸法上の最大公差0.8mmを「設計上の指定」と勘違いして、しかもそこは非機能部位にゃのに
ぜんぶNGとはじいてしまっていて、「損害賠償汁!」とほざいてるのですにゃ。
私にとって、アメリカ人はみんな生成文法家のように賢いもの、という前提で話をしちゃうのですにゃが、
ときどきうすらばかがいるんだにゃーと感心している今日この頃。
寸法公差の問題を考える時、いつも、前に虚無せんせが例にだした、山の頂きを頂点とした
でっかい三角形の内角を測って180度になるか、というのをおもいだしますにゃ。
そのころの人って、常識としてどんな考えをもってたんでしょう?「180度なんてあるわけ
にゃーにゃん」と思っていたんでしょうか。拙者を含め、部品は「寸法通りの部品なんてあるわけ
ねーじゃん」と思ってますにゃが、でもイデア主義者からは離れられない、分裂状態ですにゃ。
479 :
虚無:2007/06/24(日) 09:41:49 0
おぉ、古魚先生ナイスレスサンクス。
まず数学は感性に直接真理として「うったえる」幾何学(証明)を絶対確実な真理として
「最高法廷」として考える時代が近世まで続き、それまでは代数は算術上の便宜的方法でしかなかった。
のだが、デカルトが見事に代数と幾何学をケコーンさせる。
とはいうものの、数学が、われわれの現実的世界をなんらかのかたちで反映しているのではないかという
つまり、数学を単なる記号操作にしたくないという思いが、18世紀まで続き、
非ユークリッド幾何学の<発見>にともなって、<ホンモノの幾何学>はどれか、
ということで、大三角形の計測が行われたのであるにゃ。
>常識としてどんな考えをもってたんでしょう
物質的現実世界に純粋な三角形は存在せず、観念的にしか存在しない、というところまでは、
べつに近代を待たなくても、あるしゅのプラトニズムとしてつねに存在していたのにゃ。
わたしが、心理主義的直観を捨てろ、というほんとうの理由は、このイデア的三角形すら不要だから。
それは、記号列に対する、心的解釈のひとつにすぎない。
まあ、ひとつの例として、三角形のひとつの頂点が<新宿駅>、もうひとつの頂点が<秋葉原>であるとして、
残るもうひとつの頂点が<5時35分>であったら、われわれはふつうのいみで三角形の直観像ももちえない。
だがしかし、これは可能な記号列の心的解釈がたまたま三角形の直観像を形成しないだけであって、
記号列としては、3つの点が定義されれば三角形は構成されるのであり、もっとぶっちゃけていえば、
「三角形」そのものがかかる記号列の、不 必 要 な心的解釈のひとつなのであるにゃ。
ちょっといったん中断。
虚無せんせ、おはようございます、にゃん。
>もっとぶっちゃけていえば、
>「三角形」そのものがかかる記号列の、不 必 要 な心的解釈のひとつなのであるにゃ。
な、なんと!まあ、たしかに非ユークリッド幾何学のことを考えれば納得できる部分は
あるにせよ、曲率を変えた三角形は数学的プラトニック・ラバーには、ほすぃ・・・
と思っていましたが。駅と時点からなる三角形、というか図形は、さいしょビクーリしましたが、
デカルトがはじめて、今や中学生だってやっている座標幾何で考えれば納得です。
にゃるほろ・・・
>>常識としてどんな考えをもってたんでしょう
>物質的現実世界に純粋な三角形は存在せず、観念的にしか存在しない、というところまでは、
>べつに近代を待たなくても、あるしゅのプラトニズムとしてつねに存在していたのにゃ。
そだったでつか!つーか、古代ギリシャから、「本当の平面」をこの世界に作ろうとしている
人間ってぶぁか?もしかするといまでも「これこれの精度で削れます」とか言ってるのって、
字義通りとるとあふぉだけど、実際には嵌合の相手との兼ね合いで、精密な世界が要求されるので、
それに対応できる、って町工場のおさーんは言ってるだけなのだろうにゃ。
でもアナウンサーは「これで設計図通りの正確なものがつくれるんですね」とかいっちゃってるけど、
よく考えると変なのかも・・・
虚無せんせの続きをまったり待ち。
481 :
仇鱒:2007/06/24(日) 20:29:09 0
>こさかなの弟分
おひさですー(^^)元気そうで何よりです。えっと、例の件だけど、ひとつフンドシ
ぎゅっと締めてよろしゅうおながいいたいまつm(_ _)m
>虚無ちょーかん
(^^)ニコニコ
482 :
虚無:2007/06/24(日) 21:37:59 0
いやじつをいうと、わたしは、数学を<算術的実践>とみなすヴィトからみれば
立派で健全で愛国的なプラトニストですからにゃー。ハナシややこしくなってきたにゃ。
曲率が0でない曲面上の三角形については落とし穴がもうひとつあって、
「球面上の三角形」が何を指示するかについて、多くの人が親しみのあるほうの
「狭く囲まれた領域」をさすという、あるしゅのバイアスだにゃ。新宿、秋葉原、品川を頂点とする三角形は、
おそらく直観的には東京都内におさまる三角の領域を思い浮かべると思うけど、
論理的には図と地は有限の領域で反転させても矛盾は起こらない。球面上では、三角形の外側も三角形であり、
両者は数学的対象として等価とはいわないまでも、<外側三角形>は三角形としての要件をすべて満たすのにゃ。
このへん、なんとなく言葉を濁してしまうんだけど、それというのも
2005年くらいに<ジョルダン閉曲線定理>の完全証明がなされて、あらゆる閉曲線が<内部>と<外部>
をわけることが<証明された!!>。これなどが、いかに数学が直観を当てにしてないかという好例だけど、
わたしにはさっぱり証明の内容がわかんないので、(現実世界への)その適用可能性についてなにもコメントできないにゃむ。
483 :
虚無:2007/06/24(日) 21:40:03 0
数学が現実世界を表象するというのはまだわかりやすいんだけど、
なぜに世界のほうが数学を表象しているように見えるのか、のほうはたいへん難しい。一般的に。
自然は、「アナログコンピュータ」として機能できるというのが最大のナゾである。
じつは、おおくの「知的な」人間が相対主義にとびついて満足しているが、
なぜに「素朴実在論」でもけっこううまくいっているのかのほうが、よほどナゾーなのにゃ。
認知心理学者は、ある観測された脳内イベントを「自分の脳内」でも生起していると考えることに、
なんの疑問を抱かないが、これはあるいみ健全な志向であって、「認識論的に敏感さが欠如していること」は、
必ずしも批判するに値しないのにゃ。
最近「鈍感力」みたいな本なかったっけ??。それはともかく、わたしは認識論的鈍感力を支持するにゃ。
それは、真理に<わたし>という立会人が絶対に必要だという思い込みに、頑強に抵抗することなのだにゃん。
484 :
虚無:2007/06/24(日) 21:53:29 0
ちょっと「哲学より」になったので、言語学よりにするにゃ。
まず心的解釈について、これはわたしが従来「意味抜き」といてきたときの「意味」
に相当するのでわかりにくい。整理すると。
1)2++35-=
これは、文法に違反する不適格な文字列なので何もコメントできない。相対的に無意味だとするしかない。
2)2+3=6
これは適格な文字列。であるが、公理から演繹できないので、定理ではない。
3)2+3=5
これは適格な文字列であり、定理である。心的解釈も持ちうるが、それが唯一の解釈ではない。
これが<偽>となるような心的解釈が存在し、それによって、「数学ですべて解明できるわけではない」
といった、あまり適切ではない一般論に発展することがある。
まあ、そんなところ。へーかはニコニコ動画のキャンペーンにいらっしゃったのかにゃ。
陸上】大阪世界陸上、経済効果試算は471億円にとどまる チケットの売れ行きはまだ3割
1 :鯔のへそφ ★:2007/07/06(金) 11:23:49 ID:???0
スターがおらな、もうかりまへん? 今日6日で大阪世界選手権の開幕(8月25日)まで50日となった。
関大大学院会計研究科の宮本勝浩教授(62)のグループは、大会の経済効果を471億円と試算。
盛り上がりには「日本人スターの存在が不可欠」と分析した。
471億円。庶民には途方もない金額だが、02年サッカーW杯日韓共催大会は約10倍の4759億円
(電通調べ)、03年プロ野球阪神優勝は約3倍の1481億円(同教授ら調べ)だった。宮本教授は
「陸上はファンの絶対数が少ない」と説明した。
カギを握るのは日本人スターの登場だ。「為末選手や室伏選手はいるが、もうひと皮むけたスターが
いれば効果は何倍にもなる」。例えば競走馬ディープインパクトは1頭で262億円もの経済効果をもたらした。
大会関係者によるとチケットの売れ行きは「まだ3割程度」と伸び悩む現状だが、走り幅跳びの池田久美子や
1万メートルの女子高生代表絹川愛らスター候補の成績には、経済界も熱い視線を注いでいる…はずだ。
http://osaka.nikkansports.com/news/p-on-tp2-20070706-222914.html 依頼
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1183670279/14
486 :
虚無:2007/07/25(水) 16:14:28 0
ここって、てこいれしなきゃいけないんだけど、ちょっと時間の問題、
時間がないということじゃなくて、時間の直観の問題がからんで非常に難しい。
デカルトの功績のひとつは、意識の対象が、いわゆる延長実体であり、
すべての心的性質と思われるもの、匂いとか色とかを剥奪したことにある。
いまでこそ、色や匂いの物質的相当物がある程度明らかになっているので、
そのドラスティックさがよくわからなくなっているのだが、
要するに、ふつうに数学で用いる<座標>に写像可能なものだけを実体として認めようということで、
このことが英国の無神論的実証主義と習合して、近代科学の理念となるのにゃ。
これだけでは、ただの「というハナシだったとさ」の話になってしまうので、
デカルトが感性にたよりすぎるガリレオの実験的手法に文句を言ったり、
デカルト派の人間がニュートン『プリンキピア』のgravitasをただの「数学的構築物」と
みなして、まったく歯牙にもかけなかったりすること、これらのことが、「仮説」とは何かということに
非常に重要な示唆を与えるのである。
今でこそ、保存則が確認されれば、運動量も、それを微分した運動エネルギーも、
そちらかが実在してどちらかはfigment of imaginationなんてことは問題にならない。
保存されないエントロピーという<量>もあるし、これは客観量とは完全にはいいがたいのである。
が、デカルトにとっての仮説は、思惟の目に見えること、すなわち何らかの心的解釈が
必要であったことを示すものであろう。その後、自然科学は、非神学化とともにますます形式化、
数学化してくことになるのにゃ。プリンキピアを認める限りそうならざるを得ないが、
ニュートン本人もまた、力をなんらかの、なんというかわかりやくすいえば
「意志のようなもの」とみていたふしがある。当時は、そもそも出版の自由と言う概念さえない時代なので、
公刊された物からその真意をくみとることはむずかしい。プリンキピアも形式的には機械論主義にオマージュ
されたことになってるし。
ニュートンのホンネは、個人的な書簡でもみるほかはない。続きはまた今度。
487 :
虚無:2007/08/11(土) 07:03:27 0
「仮説のない物理学」のアイディアは、わたしのものではないので、参考のために
このテーマにジャストにあった部分を紹介しておくけど、あんまし引用するとゴルァとなりそうなので、
ちょっとだけにしておく。
…宇宙の質量の相互的な引力の根拠(グルント)をめぐる問いには、
物理学者としての物理学者は煩わされなくてもよいし、思弁的な仮説に迷い込まなくてもよい。
というのも、物理学者にとって引力とは、物体がその軌道のあらゆる点で得る加速度の大きさを制御する
ある一定の数値以外の何物でもないからである。それにのっとってこの数値が点から点へと変化するところの法則が、
重力の「本性」(ナトゥール)に関して権利づけられるすべての設問にたいする回答を含んでいる。
この説明を一般化し自然科学の全領域にまで押し広げたのは、ニュートンの最初の信奉者と弟子たちであった。
<仮説のない物理学>という要請をはじめて原理的に厳格に提唱したのは彼らであった。
『実体概念と関数概念』(E・カッシーラー)p.159
488 :
虚無:2007/09/08(土) 07:56:30 0
489 :
仇鱒:2007/09/08(土) 18:47:00 0
虚無ちょーかん。おひさでつ。でもなかったりして(ワラ)で、エスカレーション
拝聴させていただきますた。いやはや、なんとなく「たらこ」ぽくて、そんでもっ
てジャパニーズていすとがあって「ほほ〜♪」と思いますた。なんとなく癒し系な
んだけどビミョーに心を不安にさせる感じがしてこれまた「ほほ〜♪」と思います
た。で、人間インストメンタルしている女性の方はサザエさんを歌っている人と同
じ人かな?なんとなく声質が同じような、、、。てか、ヴォーカルの女性の人はち
ゃんと音程とれてるし楽譜通りに歌っているし、もしかしてどっかで「歌姫」やっ
てるとか?ま、何はともあれ、音楽はええなー。わしは最近もっぱらアコースティ
ックギターばかり弾いているが、やぱ最後はアコースティックかな〜と思う。やぱ
、なんとゆうか、エレキのような電気楽器はシンセのような電気楽器でほぼ再現で
きるが、やぱアコースティックギターのような非電気楽器の音はシンセでは再現す
るのはムズーだからな。このあたりがやぱアコースティックな楽器のオリジナルさ
があると思うんだな。うむ(←山下清風
みなさま、おひさです。
最近、体験した現象:
ある条件下で、すべての音が、半音ほど下がって聞こえる(これが二日ほどつづいた)
どんな条件かは、まねされるとヤなので、伏せときます。
虚無せんせ、この現象ってよく知られている物ですか?
(条件、については仇兄にメールしときます)
ではノシ
491 :
虚無:2007/09/22(土) 06:15:03 0
最近ブログはじめてから、あまり2ちゃんには来なくなってしまった…
が、また来るようにしますにゃ。
>シンセでは再現
このばあい、入力装置が「ケンバン」であることがいちばんネックになっていると思う。
あとMIDI規格にそっちゃうと、再現できるイベントが極端に制限されてしまうのにゃ。
ふつうに電子デバイスでも、アナログな入力は、スライダーとかチューナーのツマミとか、
いろいろなところで現役なわけで、それらを演奏の入力にすれば、デジタル性みたいなのは
回避できる。シンセ=ケンバン入力、というのは、べつに必然でも何でもないのにゃ。
こさかな先生おひさでつにゃ。
>すべての音が、
となると、自分の声も、ということになるので、ドップラー現象の類ではないですにゃー。
物理的に言えば、気圧の変化が有力な候補になるけど、
心的な時間が速くなれば、相対的に周波数が遅く感じられる、ということもありえる。
いずれにしても、そのような現象はよく知らないのにゃ。
虚無せんせ、おひさでつ。
>心的な時間が速くなれば、相対的に周波数が遅く感じられる、ということもありえる
これはちょっと納得です。可能性ありかもでつ。
弁増寺亜系のものを他用したので、一次的にそんな状態になったかもでつ。
しかし、そうすると、心の中に音叉みたいなのがあって、それに照らし合わせて
音の処理結果はxHzちがう、みたいになってるのかにゃあ
最近、たくさんではないでつが、ピアノを引く日本の女性シンガーに
ひかれています。特にあんげら安芸、萌え。でもピアノの練習はさぼっているのです。
493 :
虚無:2007/11/13(火) 06:20:15 0
どーもおひさでございますにゃ。
>あんげら安芸
わたしは、ひねくれた性格なので、久しぶりだというのにいきなり毒舌なのであるが、
たぶんこのひとの『サクラ』がどうしたとかいうビデオクリップをみて、
邦楽やっぱしダメポ…と思ったのでした。
いや、言い方を換えれば、商業音楽と言うのは総合技芸であるので、アンゲラのあるしゅの人間的価値、
というか「アーティスト」という名の下でのあるしゅの(音楽と無関係な)
(美貌とかライフスタイルとか巨乳とかカリスマ性のような)商品価値と、
そして楽曲を、音声的マテリアルとしてきわめてエンジニア的に洗練して商品化する技術、このへんで
日本はそんなに引けを取ってないと思うのだが、
『サクラ』がどうのという「うた」に関しては、これはもうほとんど芸術的価値のないものだにゃ。
作曲家は、寝ぼけて書いたのか?というくらいだにゃ。
まえに書いたかも知らんが小室が全盛期の頃、「カラオケで歌われること」をマーケティングの対象にしたために、
あえてピッチの変移の少ない、「歌いやすい」メロが流行し、かよー曲が腐敗したけれども、
あんげらにも、同様のものを感じているのでした。毒舌でスマン尿。
またこりずにお越しくださいにゃ。
495 :
仇鱒:2007/11/14(水) 22:41:45 0
それ↑ならわし知っとるぞ。
てか、前に生成スレで『メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー』とゆう
ビデオを紹介したかと思うが、その中でもスゲェデス声のヲンナが出て
いたけどな。うむ。
んじゃ次回はArch EmenyのライヴDVD送るにゃむ
497 :
仇鱒:2007/11/15(木) 07:03:50 0
を、さんくす(ぺこり)今時間がないから直ぐに見るとゆうわけにはいかな
いが、見たら直ぐにバックすっから。てか、日本のヲンナでダミ声つーたら
、やぱ、藤圭子だ罠。あと、葛城ユキあたりかな。てか、わしはダミ声ちゅ
ーか空気の含有率が高い声ってシュキだったりするんだな。まあ、ようする
に、ハスキーな声の女性ってちょいと萌えたりする。てか、ハスキーな声の
ヲンナに出会うと無性にいじめてもらいたくなってくる(ワラ)ま、あと、
あれだなー、ダミ声つーと、昔@工房の頃、マイクにディストーションかけ
てエフェクターでダミ声つくったりしてたけどな。てか、ダミ声の人の声帯
には天然のディストーションがあったりすんのかな?音声学てか音響学に詳
しい人、ちょいと教えて栗。うむ。
499 :
仇鱒:2007/11/15(木) 19:18:37 0
>いかにも喉に悪そうな歌い方にゃが、
てか、わしがあんな歌い方したら痰吐きまくりだな(ワラ)あと、あれだな、
やぱ、地声がフツーだとゆうことは、喉のあたりにディストーションがあって、
そのディストーションをスイッチオンすることにより、あんなダミ声とゆうか
歪んだ声を出してんじゃねぇのかな。うむ。あと、あれだ、ホーミーなんかは
絶対に喉のあたりにオクターバーとワウペダルがついてると思うわ(ワラ)
まあ、人間も訓練次第では喉にエフェクターを実装できるとゆうことじゃねぇ
かな。ははははは。ちなみに江戸屋猫八は喉にネコと犬を飼っているわけだが。
うむ。あ、鼻の穴にはスズムシも飼ってる罠。
ちゅーか、アンジェラのねぇちゃん、あんな声が出るつーのは喉ティムポつて
んじゃね?
なんか、あんげら安芸が虚無首相に色々いわれてるし・・・
たしかに手が小さくて、あんまりピアノの技巧として面白いことないし、
歌詞も、なんて人だったか、はじめての横書き小説とか書いてた人の、
アメリカの視点からほれた和風、みたいな。
でも首相のいう、巨乳とかメガネとかそういうのに惹かれているに違いない
(しょぼーん
そのあとのdeepな議論にはついていけないので、とりあえず
『のだめカンタービレ』19巻刊行マンセー!
502 :
虚無:2007/11/17(土) 01:44:38 0
むにゃなんだかひとが多い…
アンゲラアキ問題については、まず某所で書いたメロディー類型について書いたものを
コピペするのにゃ。
1)ひとつは、スケール上隣接する音に移行するもので、ドレミファミレミファソラソファ…
のようなかんじで、賛美歌がこの「順進行」だけで成立しているばあいがあります。
歌いやすいですが、退屈なメロディーになりがちです。
2)ふたつめは、和声の構成音の中でいったりきたりする、多少跳躍を含むものです。
ミソドソミドミソ…のようになります。
アルペジオに近いですね。流れるようなメロディーとは半極のものですが、
ちょっと原色に近い力強さがあります。
3)3つ目は、5度以上の、完全な跳躍です。大ジャンプです。1オクターブはなれることもあります。
昔のハリウッド映画のテーマ曲の出だしが、このような跳躍進行からなるものが多いです。
Some--WWWheeeeeeeeere over the rainbow...とか、
『風とともに去りぬ』の、テーレーーーーーレレーーーーとか、
『スターヲーズ』の、ちゃーーーっちゃーーーーーー…とか。。
503 :
虚無:2007/11/17(土) 01:53:09 0
さて、まずこの類型について、結局のところ音程差を大中小に分類しただけにすぎず、
「いかなる恣意的な音列をもってきても、必然的にどこかのクラスに分類される。
ゆえに空虚な分類だ」
と考えた人は、思想化、というか科学者として優秀ではないかと思う。
そのとおりで、わたしはこの類型化が動組織化されるかについてまったく述べていにゃい。
ドーブツをかりに、大型、中型、小型に分類したとしても、それだけにすぎないなら、
かかる分類は、<ウンコ>にも当てはまるのである。
けっきょく、類型論と言うのは、ある種の起源、または組織化や、構成の手順などに具体的に踏み込んで、
その対象の構成法(このばあいは作曲)にまで説明が及ばないと、空虚である。
<対象の構成>をなすものが、価値のある説明、<後付け>のそしりを免れえるような
科学的な説明となるにゃ。このことは、ややこしいのでまた後に。いまはアンゲラ問題だったにゃ。
504 :
虚無:2007/11/17(土) 02:02:42 0
えーと、『サクラ色』については、旋律は記憶によると、
♪ソソソソソラシシ〜ドド〜、
ドドドシラソソ〜ファミ、(ともかくこんなかんじ)
しばらくすると、ミドド、ミドド、ミドド〜というので終止される。
(記憶もされやすく、(というかアタマにこびりつきやすく)しかも歌い安すぎ)
ほとんどが順進行、つまり隣り合った音程への移行であり、
どうじに誓われているコード進行は作曲する人間なら誰でもご存知の、
超のつくウレセン進行、ベースがドシラソファミレ、と、これまた
1個ずつ下がっていく進行で、無数のヒット曲を生み出している(『渡らせ橋』とか)
(間抜けな邦題のついているHave You Never Been Mellowというのもあった)
このようなわけで、これは純粋な商業的産物である、と断じたしだいであるにゃ。
505 :
虚無:2007/11/17(土) 02:17:04 0
もう1個のアンゲラデスボイスについては、わたしも一瞬オクターバか?とおもったのであるが、
本人がピッチシフト系のエフェクタは一切使用していないといってるにゃ。
完全な生音、ということはないと思うが
電気的な変換で倍音を多くしたもの、ということではないもよう。
ちょっと思い出したけど、最近ヌー速などで何かとおさわがせの「初音ミク」なんだけど、
「ミックミックしてあげる」とかなんとかいってるデモ聞いたんだけど、
なにぶん、ビブラートがまるで正弦波の波形が目に見えるような人工的なもので、
はっきりいって、イロモノとして使ういがい、使い道がにゃい。
この人工ビブラートを、若い人間はナチュラルなものとしてとらえてるんだろうか、それとも
あるしゅのバーチャル性とか、インダストリアルな雰囲気を楽しんでいるのかはわからない。
たんに鈍感なだけと言う可能性もある。
こういう正弦並ビブラートは、管楽器に使っても非常に気味の悪いものになるが、
聞きやすくするためには、ちょっと時代がかってるけどなんらかの「ゆらぎ」みたいなものがいるのかもしれないが、
これまたそれほど複雑でないアルゴリズムで実現できるので、
人工的だからダメ、というふうには単純に結論できないのである。にゃ。
ちょっと論点がよくわからなくなってきたので、またこんど。
506 :
仇鱒:2007/11/17(土) 07:29:05 0
>まず某所で書いたメロディー類型について書いたものを
>コピペするのにゃ。
某所♪某所♪(^^)
てか、どーでもええことだけど、ほんと、ギターとゆう楽器はあたりはずれ
がある。金出せばええものがゲトできるわけでもなく、高くても自分に弾き
にくかったら正直ゴミ同然。わしにとってギターは道具でしかすぎないが、
でも、その道具が時に工芸品にまでなることがある。で、、、ちょいとスレ
違いだな。スマソン。
てか、今日はちょいと仕事でお茶の水に出かけるのだが、お茶の水のギター
通りでテレキャスをちょいといじくってこようかと思っている。で、ジミー
がやっていたように、テレキャスでレスポールぽい音を出す実験をしてこよ
うかと思っている。ちなみにヲタなら分かっていることだが、「天階」のギ
ターソロはレスポールじゃなくテレキャスで弾いている。テレキャスとレス
ポールは音的にはじぇんじぇん違うように聞こえるのだが、実は音響物理学
的に見るとかなり音の質が似ているんだな、これが。そんでもって、ゲイン
を上げてわざと音を割らせ(つまり歪ませ)、ちょいとサスティーンを効か
すとレスポールをちょいと繊細にしたような音になったりするんだな、これ
が。ただしこの時のポイントとなるのがトーン。マジでトーンが命である。
うむ。
ま、どーでもええことだけど、この時期ギターのメンテとかほんと大変だよ
、、、。てか、あんまりメンテしてねぇけど(ワラ)
てなことで、虚無ちょーかんおひさでつw
そういえば、The Smiths時代のjonny marrのカッティンは、多くの人が
テレキャスだと思っていたところ、本人から「ちがうよーん」との発言があり、
ちょっと前まで(今はなくなった)YouTubeで確かに立憲でthis charming manを
弾いているのが確認されたのだ、でつ。
アンゲラアキは確かにクラシックのような順進行・・・バークリに留学していたことも
関係しているのか。でも、一定の音程をうねうねさせず、最後に軽くビブラートを書ける
歌唱法は好きなんでちゅ・・・
ピアノ、埃かぶってた(わら)
508 :
虚無:2007/11/22(木) 06:49:40 0
わたしは古いタイプのDTM人間なので(つまりパソコンから外部音源をMIDIケーブルで
コントロールするタイプ。最近は内蔵音源やソフトシンセ・ソフトミキサーが主流で、パソコン周りはとてもすっきりしているのだが、
わたしはすっかり時流に乗り損ねたのであるにゃ。いまでもケーブルだらけ。)
ちょっと昔までは。MIDIスタンダードでどこまでナマ楽器に迫れるかと言うむなしい試みを良くやってたのであるにゃ。
MIDIは、あるていどエフェクタチックな演奏情報を扱えるものの、基本的には<楽譜情報>を扱うもので、
鍵盤楽器はある程度、ハードディスク録音のように(つまり通常のレコーディングのように)扱えるものの、
その他の楽器については、特徴的なサウンドフィーチャーがほとんど再現不可能なわけである。
前にも書いたような気がするけど、ギターの<フレットノイズ>みたいなのが独立した音源としてプリセットされており、
わたしなんかはわざわざ2チャンネル(普通の意味)私用して、コードバッキングと、
それに伴うフレットノイズを加えてみたりして、バンド仲間からは「バカ」とこきおろされる始末である。
それはともかく、ナマ楽器というのは、わたしのようにデジタル(それもけっこうしょぼいレベル)で再現しようとすると、
かえって、ナマ楽器の固有のリアリティみたいなものに対する洞察が生まれるのである。
しばしばそれは、演奏者がさして重要だと思ってなかったり、フレットノイズのように、
じつにくだらない要素だったりするのだが、そういうものに対する畏敬のようなものが、
わたしのようなMIDI人間に固有のコンプレクスを形成しているのである。のだにゃ。
509 :
虚無:2007/11/22(木) 07:08:49 0
むにゃーそれはともかく、このスレは音楽を言語学の対象として扱ってみようかにゃー、
というような趣旨のものだったわけだが…
いまさらいうのもなんだけど、<音楽>というのは非常に扱いにくいタームで、
音楽を趣味としているといっても、わたしのようにジャズの楽譜を解析してるようなヲタっぽい人間と、
音楽を主要な目的としたイベント(要するにライブとか)に参加してある種の共感を得るという行動の間に、
いくばくか共通点があるのか、にわかにはわからない。
ひとつのキータームは<楽譜情報>で、これは演奏情報とは区別されるというものである。
一般に通用している楽曲の同一性は、たとえば同じ『ホワイトクリスマス』にしても、
ジャズ風にアレンジすれば、楽譜情報としての同一性は完全に消失するということもありえる。
また、演奏者や歌手が異なれば、こんなの『渡らせ橋』じゃねー(怒ということも十分ありえる。
そのようなわけで、理系ヲタのわたしは、記号操作として扱えるという<客観性>において、
まずは楽譜情報としての同一性のほうに立脚したいと考えており、これが形式的音楽論の原理となると思うのだにゃ。
そして、事実上の演奏は、楽譜の一定の解釈によって成立する二次的なもの、
とまあ、解釈したいわけである。ってゆーか、たとえ一度も演奏されたことのない楽譜情報も、音楽の本質を
いささかでも失っているということはないということであり、ここに最近ちょっと名前を忘れたけど、
「チョ」から始まる言語学者の言語の<理想化>の効果と平行して考えることもできる。
そのようなわけで、このスレでは、結局、事実上人々を魅了しているパフォーマンス情報は無視されるわけで、
これは、いわば、形式言語学が、文学の解釈をしないことと同様のリクツであるというわけだにゃむ。
まだいろいろ話題はあるけど、またいずれ。
510 :
虚無:2007/11/22(木) 07:20:43 0
>たしかに手が小さくて、あんまりピアノの技巧として面白いことないし、
ここのところ、なぜ日本人はちょっとだけ幅の狭いピアノとか作らないのかと
ちょっと不満である。標準的な手の大きさのひとでも、左手で10度を弾くのはとてもつらい。
10度と言うと、ドと、1オクターブ上のミが同時におさえられるということで、
Cメジャーコード、というカテゴリーをひょうげんするためには、この2音で十分。
(5度のソは省略可)
すなわち、右手は、テンションのみに集中してボイシングができるわけで、その自由度はまるで違ってくるのにゃ。
あんまし関係ないけど、昔サバン症候群を扱った番組で天才音楽少年が出てきたんだけど、
なにげに左手に注目していたら、わたしの見た限りでは、オクターブ奏法であったにゃ。
この少年はジャズ志向なんだけど、じつは、かなり一般的なのは左手でルートとセブンスをおさえるもの、
そして、さらに音程が小さいものとしては、ルートを省略してセブンスとそのうえの3度をおさえて(減5度)
(さらに13度ラをくわえることもよくある。それでも1オクターブ以下である)
Cセブンスを表現するものとか、音程が小さくてもっとジャズっぽいボイシングがあるのににゃーと思ったことがある。
まあ、一瞬しか見てないのでなんともいえないけど、左手についてはまだ発展途上だにゃーと思ったのでした。
それではまたにゃむ。
511 :
仇鱒:2007/11/23(金) 17:25:34 0
ちょいと出張(^^)すぐ帰るけど(ワラ)
>かえって、ナマ楽器の固有のリアリティみたいなものに対する洞察が生
>まれるのである。
この↑あたりなんとなく分かる希ガス。学生が計算機に言語システムを構築し
ようと格闘しながら自然言語の特性を知るようになるのと似ている。うむ。
>ここのところ、なぜ日本人はちょっとだけ幅の狭いピアノとか作らないのかと
えっ?キーボードには手の小さい人用のヤツってないの?ギターだと、女の子
用(てか、手が小さい人用)のものってあるけど。てか、3/4サイズのギタ
ーなんかがまさに女の子用のギターだったりする。
また生成でちょいと音楽的なことでも書いて気分転換すっかなー。うむ。てか、
ここ最近、アコースチック・ギターにまた改めて萌えはじめている自分がいる。
30ウン年ギターやってきて、はじめてアコースチック・ギターの神髄に触れ
つつあるような希ガス。うむ。
てか、最近学生から「音楽のハナシしれ」とゆう声が多く、ジュギョーの終わ
るちょいと前にコアな音楽談義(←ギター談義含む)しちゃってるわしはダメ
でつか?(ワラ)
512 :
虚無:2007/12/01(土) 05:01:32 0
>計算機に言語システムを構築し
いろいろなアプローチがあるだろうけど、左端(どっちでもいいけど、あるいは右端)
から組みあがって、2手先3手先についてはいきあたりばったり、
なんちゅーアホなプログラムを考える人間はいないだろうにゃ。アップダウンが基本。
ところで、チョム学派はこのような実装性、自然時間で生起可能な再現性をまったく省みないことから、
ガリレオではなくて、スコラ的形而上学あるいはプラトニズムの真の継承者であることがわかる。
>キーボードには手の小さい人用のヤツってないの
じつはミニ鍵とよばれる、おもちゃみたいなのがあるけど、これはギターにたとえれば、
あのピンクの、「象さん」の形をモデルにしたやつに相当するのではないかと思う。
右手左手の話はわかりにくいかもしれないけど、低い音域でいちばん狭い音程で「ドミソ」をおさえると、
ちょっと音が重たくなりすぎて、ふつうはやらにゃい。このばあい、ミを1オクターブ上に移動させるにゃ。
すると、この高いミと、バスのドが10度まで離れてしまい、同時に抑えるのはほぼ不可能。
このドミソ(トライアド)は、あまり正確でないたとえを使えば、SVOみたいなものに相当し、
左手でSVOがカバーできれば、右手は、装飾的なテンションである付加詞に割り当てられる、
っつー話である。のにゃ。
しばしば、ヘーカはこのスレは「高度な音楽理論」を論じているゆえにムズーというリアクションをとられてしまうのであるが、
じつは、原理的なことばかりで、いわゆる「楽典」みたいなものについてはほとんど触れていない。
興味の対象は、音階の生成だったりするわけで、そのばあい唯一頼りになる前提は、物理的オトの心的解釈しかないわけである。
そこのところで、倍音がどうのこうのという話になるのだが、これは楽典とはあまり関係がにゃい。
(ヨーロッパ音楽理論が恣意的なものでなく、音の物理的属性をいくらか反映している可能性はあるけど。)
これからは、もっとわかりやすくひょうげんしようかと思ってるにゃ。
513 :
虚無:2007/12/01(土) 07:33:22 0
アップダウン->トップダウン
ごぶさたいたしてまつ。また、いっちょもんで下さい!
ところで、今、オうンダ人2名に日本距教えてます。
例文テェ彡クは今が千ャンスですよっおくさん!
ととまずあいさつのみたて。
文が変なのは~:(c。m(自分とこの名前くらいちやんと汁!)
のpdaの手書入カのせいづっ。すみません゛・
がんがれ4バイト字形認講の无生方のおさーん!
ごぬさたですにゃあ。(あまへーかにメールかいたとこ)
とにかく原点に返って、音楽で否定を表現、もしくは表象できるかという問題で、
ダブルドミナントが入れ子構造ではないか(だから、できそうだ)
みたいな議論がこの流浪のスレの契機だったのにゃ。(記憶が正しければ)
このような問題群をかたづけるには、論理的な同型性をいかに摘出するかにかかっている…
さて、ジャンケンの論理的モデルは、
V(a)(b)が真のとき、V(b)(a)は偽
V(b)(c)が真のとき、V(c)(b)は偽
V(a)(c)が真のとき、V(c)(a)は偽(V(a)(a)などは、真理値を持たない)
これを満たすものは、ジャンケンを形式的に構成することができる。
そのようなとき、生成された各種のジャンケンどうしは、論理的に同型となるにゃ。
これが論理的同型のてっとりばやい説明。
だが、心的解釈が入り込むと、簡単に言えば論理の問題に世界的な判断が介入してくる。
「太郎が花子を殺した」のならば、殺人事件と見れば「花子が太郎を殺した」のはありえなく見えるが、
互いに死に至らしめるということはでんでん不可能ではない。
だが実はそんなことはどーでもいいのにゃ。
このような<常識>からはなれたところに論理的じゃんけんが成立するみゃ。
かくして、否定の問題も、テッテ的に形式的に扱わねばならない。
516 :
虚無:2008/04/21(月) 20:25:30 0
あ、あまりに低レベルすぎてレスついてない…
ほぼ1年ぶりくらいに音楽資料作ったにゃ。説明はしてあるけど、
たぶんほとんど理解されないと思う。
現在流通している和声音楽は、たとえば和声進行がABC…とあると、
すべてのパートがその流れと整合して構成(編曲)されている。
その和声進行を牛耳っているのが多くのばあいベースの音で、
おおむね低い音が優位に立つ構造になっている。
で、わたしはバッハのフーガも、細かく分析すれば、このような単一の和声進行に
帰するものだとばかり思っていたが、一昨年あたり?そうではないらしいことがわかった。
恥ずかしながら…
題材にあげた2声のフーガは、それぞれが異なる和声解釈をもち、
同時に演奏された場合、和声的には両義的なものになるか、かなりのテンションを含むものになるが、
対位法による調和は、どうも機能的和声とは異なる原理が働いているようにも見える。
具体的にいえば、左手パートがG7thの<機能>を果たしているとき、右手はf->Bb->fと動いているが、
これはG7th(-10th)、あるいはBb on G7thというきわめてジャズっぽいドミナントコードになるが、
もちろんその部分がジャズっぽくきこえるわけでもないし、和声的に破綻している(業界では音がぶつかっているとかいう)
ということでもない。
まあこれが、近代以前の<旋律優位>の作曲法が垣間見えた瞬間であるにゃ。
フーガは、2声にしろ3声にしろ、等位的関係を持っている、と推測される。
(わたしは対位法の原理については、何も知らない)
(ついでに、あまりわかりやすくなかった)
あー、虚無せんせ、すみません!別のスレに寄り道してしまいました!
というか、ピアノ弾きながら考えようと思っていたのですが、
雑事に追われ・・・弁明ばかりですね。
まずは否定の問題からテッテイ的に考えますにゃ。
腕から血管だしながら、テッテ的にやりますにゃ。
以前、マイナーに変換するような演算子を定義したのはこのスレだったと
思ったら、勘違いのようですた・・・多分、意味論スレ
で、果たしてそれがhomomorphicであるのか、今、疑問に思ってますにゃ。
というのも、基本的な話で恐縮ですにゃが、マイナーは、メージャースケールと
同じ音階(これは誤解を招く表現にゃ・・・要はピアノの鍵盤)で別のところから
始める、ということで、「言語」の否定と、「音楽」のマイナーを
比べるとどちらが複雑か、といえば、マイナーの方、という気がしますにゃ。
もちろん、否定もいろんな現象があるのにゃけど・・・
マイナーはむしろ、局所的な関係(3度フラットでルートから見て
ホールトーンスケールになる)を、定義された(例えば「ハ」)スケールの
ある位置におくことで効果がでる(weight by position)。これがなぜ、
「悲しい」とかいう「心的解釈」と結びつくのか・・・否定は、形式意味論的には
補集合で、「心的解釈」とはなんら結びつかにゃい・・・
うー、議論を前に進められませんですたにゃ。
関係ないですにゃが、このスレが始まったころに発作を抑えるために
常用していたスリクを、ようやく飲まないですむようになりますたにゃ。
このスレの歴史と、私の病歴を考えると、なんだかちょっと涙が・・・
実験、聴きますたにゃ。
ちょっと理解に時間を下さいにゃ。
「小フーガト短調」はギターで弾けますたにゃが、
いまピアノで弾きなおしてみようとすると、弾けにゃい・・・
エデー・ヴァン・ホーテンとか、アラヌ・ホーコーニキンタマガとか、
(つまんにゃい、失礼)
ピアノから入った人は、口を揃えてギターやりやすかった(香津美も)、と
いっているにゃが、逆は真ならず、か?
520 :
虚無:2008/04/23(水) 23:36:45 0
わたしは、2004年の3月に発作起こしてるがにゃ。
わたしの記憶では、ダブルドミナントD7th->G7th->C を、入れ子上のドミナント進行と解釈し、
DP[d->t]->TPみたいに表記して、和声進行は少なくとも入れ子を可能にする程度には強力であり、
それゆえ、(よく記憶してないけど)ある陳述に対してメタレベルの価値付けが行える、あるいは演算が行える
みたいなハナシじゃなかったかにゃ。昔なので、よくわからない。
で、ちょっと否定に対して配慮が足らなかったところは、
「¬¬Pから、¬¬を排除することができる」を公理のひとつとすることがまあ一般的で、
メジャーをマイナーにする操作を2度繰り返してもとのメジャーになるかというと…
すつうに考えるとそれは、あまりありそうにないことにみえるにゃ。
たとえメジャーを+、マイナーを-で表象させても、−−<サザエさん>=<サザエさん>というのは形式的には
合理的ではあるが、およそ2者択一的なものはこの記法で表現できるわけで
あまりにも空しいといわざるを得ない。
2かい繰り返して「元通り」になる操作といえば、こと音楽に関することとなると、
発揮地位ってあまり思いつかない。「反転操作」はそのひとつであろうが…
これにはバッハがやったような垂直方向での反転(楽譜を上下反転して読む)と、
水平方向での反転(ドレミファソラシドの反転がドシラソファミレド)というわけであるが、
いまいちぱっとしない議論ですにゃあ。
もうちっとかんがえてみる尿。
521 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2008/04/24(木) 00:40:59 0
>>512 >低い音域でいちばん狭い音程で「ドミソ」をおさえると、
>ちょっと音が重たくなりすぎて
いいところに気が付いたね。
低い音域の「ドミソ」各音の周波数の差が低周波公害として問題になる
生理的に不愉快な周波数になるので昔の作曲家は低い音域で、
片手で鍵盤を押さえられるような「ドミソ」の和音を
演奏するように支持しなかった。
わお、いきなり浮上っすか!
>わたしの記憶では、ダブルドミナントD7th->G7th->C を、入れ子上のドミナント進行と解釈し、
>DP[d->t]->TPみたいに表記して、和声進行は少なくとも入れ子を可能にする程度には強力であり、
>それゆえ、(よく記憶してないけど)ある陳述に対してメタレベルの価値付けが行える、あるいは演算が行える
>みたいなハナシじゃなかったかにゃ。昔なので、よくわからない。
だったかも、です。というか、一気にあらすじ、みたいです・・・
とりあえず、再度、取り付く島を見つけたら、辿り付いてみます。
音楽って何ですか?音の遷移、和音の遷移、休止の遷移、、、、
ある音が目立ってふくらんで聞こえるのはなぜだんだろう?
ある和音が目立って広がって聞こえるのはなぜなんだろう?
調があるのはなぜなだろう?それはどこに在るの?
といったことを話し合うスレですか、ここ?
524 :
虚無:2008/04/25(金) 16:35:02 0
正直、全く新しいアイディアがうかばない。
調子の悪いときは、音楽情報の素材を用いて、つまり楽譜上の記号を用いて、
自然言語と等価な<暗号>をつくる問題、とごっちゃになってしまう。
それは陳腐な問題で、それじゃないはずなのだが…
>低い音域の「ドミソ」
の問題では、チェンバロでは2オクターブめのドミソがあったと思う(大バッハ)
不思議なことに右手は<ファ>で、思い切りアボイド(禁止音)なのであるが、
バッハ先生はどうしてもここでトニックでファを鳴らしたかったと見える。
左手で和音をひいているのはその部分だけで、なんらかの理由でサブドミナントっぽい
響きを避けたかったんじゃないかと思うけど、それにしてももっと自然な解決法があったはず。
これぞ<暗号>で、fがなにかの単語の一部なのかもしれない。
>といったことを話し合うスレですか、ここ?
そうにゃ。ついでに、なぜオッパイは目立ってふくらんでくるのか、
について話し合ってもいいにゃ。
虚無だにゃーー。
> なぜオッパイは
IMHO、それは、Himann説では?
E,♯F,♯G,A,H,♯C,♯D,E
E, F,♯G,A,H,♯C,♯D,E
「なぜオッパイは」より面白くない、どーでもいい話をひとつ。
生後五ヶ月のこどもをアヤシテ板のですにゃが、喜ぶ(泣き止む、
声を出して笑う、など)分節音に次のような傾向が見られましたにゃ。
唇吸着音(クリック)>舌尖吸着音>唇放出音>舌尖放出音
>唇震え音(トリル)>舌尖震え音>軟口蓋放出音
軟口蓋音は概して「評判」が悪く、口蓋垂震え音に至っては
見向きもされませんでしたにゃ。
ヤコブソンのスケール(だったかにゃ?)とは合致しているような
していないような、ただ、破裂音よりもsonorityの高い震え音は
自分の予想に反して「評判」が悪かったですにゃ。
自分で発音しやすい音を何らかの方法で知覚し、それが赤さまの
琴線に触れたのかにゃ・・・
心音に近い音は好まれるとかいう。
528 :
虚無:2008/04/27(日) 17:12:38 0
>>526 乳児にAVを見せたら、どんな反応をするのかと考える崇高なわたし。
ともかく、新しいギャグがないので、ヤケクソ企画として
全く歌詞になりそうにないブンに曲をつけるという企画をやるにゃ。
(ここのところ、専属の歌手がいないので、仕方ないのでわたしが歌うにゃ。
わたしの声を聴きたいという人がいれば、聞くのにゃ。)
http://www.geocities.jp/kyomsky2ch/ さかな先生のレスに作曲しようともしたけど、ちょっと長さが適当でなかった。5行くらいがいい。
次は
>>523あたりに作曲するか…。
じつは超忙しいので、このていどの作業をするだけで、ぶったおれそうである。
曲をつけてほしい奇特な人がいたら、5行程度を目安に書き込んでちょ、にゃ。
(歌になりそうにない文章というのが、条件)
あと、歌手募集中。メルらん参照。またくるにゃむ。
529 :
523:2008/04/27(日) 17:50:57 0
曲付け、希望します。
530 :
523:2008/04/27(日) 18:32:46 0
5行目を以下のように変えると選にもれますか?
音楽って何ですか?音の遷移、和音の遷移、休止の遷移、、、、
ある音が目立ってふくらんで聞こえるのはなぜだんだろう?
ある和音が目立って広がって聞こえるのはなぜなんだろう?
調があるのはなぜなんだろう?それはどこに在るの?
伝わらなくても音は音だけど、でも伝われば聞こえた音なの?
531 :
虚無:2008/05/02(金) 05:14:43 0
>選にもれますか?
もれますにゃ。もともと
>>523はリフっぽいとこがあって、
歌詞になりやすいフレーズになってるにゃ。
>>530はちょっと「歌詞っぽ」すぎ。
でもまあ、いま作曲と打ち込みが大体終わったとこで、
わたしの部屋は防音設備があるとはいえ、やはり思い切って放吟するのは
ムリなので、録音がいつになるかはわからない。
自分の歌唱能力を超えた和声があるので、
どうしようか迷っている。(歌手は、精神病歴のある女性の連絡町という状態。
わたしの印象では、歌手志望の若い女性(関東都市部)の多くは若干メンヘラぎみ
それは残念。。。
533 :
虚無:2008/05/02(金) 18:38:13 0
虚無せんせ・・・なんか、「にほんごであそぼ」みたいです、みぁ・・・
535 :
523:2008/05/04(日) 16:15:37 0
Dear Composer Kyomsky:
さきほど新曲拝聴いたしました。自ら「ひどい」「ヤケクソ企画」だと言われ、また
「にほんごであそぼ」との評もあるようですが、私は曲に合わせて小踊りしました。
自分の言葉に曲がつき、しかも素敵な声で唱っていただけるなんて、なんて素晴らしい
ことでしょう。私には、実はこれは2回め、ずっとずっと昔に一回だけこういうことが
ありましたが、今回は言語板での書き込みに曲がつくという思いがけない出来事であった
だけでなく、私の狭い了見で感じる「音楽って何だ」だったので、ほんとうに嬉しい。
音の遷移ぃぃぃのところが特に好きです。作詞著作権を主張したくなるほどです。
ついでに、他の曲の中で気に入ったのでDLして目覚まし時計かわりに使わせて頂こうと
思ったのがescalation。ぽっぽっぽで始まり終わるからというわけではなくて、
現在のページに載っている中で一番好きな曲です。私には現代版「越天楽」みたいにも
聞こえるし、多分まだ、うら若い歌い手の声がとってもうまく合っていると思います。
微かな低音から舞い上がるときがすばらしい。遠く甘くヨナのない時代の記憶のよう。
Ehren Starksっていう作曲家・ぴあにすとをご存知でしょうか?最近、よく聴きます。
どこかIrish。あまりにも軽く商業的であると言われてしまいそうですが。私にとって
Kyomsky作品の何かに似ているところがあるのですが、それが何だと言葉では言えません。
私の印象だけからいえば、翔けていく不安とでも言いたくなるものなのかもしれません。
一言、お礼が言いたくて、つまらないことばかり書いてしまいました。お赦しください。
私の言葉だと聞いて、机をひっくり返して紙袋を蹴り作品を破棄されませんように。。。。
今朝、故郷に戻ってきて、ひっくり返した宝石箱のような五月の光のなかで幸せな
真昼のチシャ猫 こと 昼間千紗 音の粒だちLOVE
c/o
[email protected] (not always active)
Ehren Starks
A big best-seller on Magnatune, the second album from pianist Ehren Starks is both strikingly modern
and completely evocative. Cleanly elegant piano compositions show great attention to both structure
and melody, and Starks demonstrates deep fluency and depth of feeling for his instrument throughout.
There's an internal logic to this music that calls to mind contemporary architectural forms, yet it's
incredibly lyrical too―the streamlined poetics of a young master. Highly recommended.
an internal logic to this music that calls to mind contemporary architectural formsって何なのかしら?
「音の遷移」で旋律のやや自由な移行があり・・・ めるし・ぼく♪
こういう美しいオチがつくのなら、「にほんごであそぼ」にゃんて
言わなかったのにー
今日の未明レスしたと思ったのだが…ゴバクかソノタノアクシデントがあったらしい。
「虚無」は、自分用のスレでおまんちょの話をしている下卑たオサーンであることを、
一言付け加えておきたい。
だから?
とにかくこのあいだかいたことは、音楽活動によってなんらかのキャパをこえてしまい、
その後2日間ほど非常に不活性な日々を過ごしてしまったという子とにゃ。
>contemporary architectural forms
こりゃべつにひねった解釈じゃなくて、現代建築の無機的・幾何学的な空間の切断とか、
そういうものを思わせるということなんじゃないのかにゃ。
(starksは、visual artのために復学したとある)
もし、そのような(幾何学構成を持つような)曲を和声で表現するとしたら、やはり
『何ですか』でやったような、非常にストイックな音の使い方をするだろう。
ようつべで「にほんごであそぼ」の何曲か聴いたけど、何が似てるのかわかんなかった。
こっちのすれでも<心的解釈>を解説する必要があるにゃ。
次の曲は
>>531の、自分自身のコメント。
>>540 > その後2日間ほど非常に不活性な日々を過ごしてしまったという子とにゃ。
お疲れさまでした。
> (starksは、visual artのために復学したとある)
へぇ。
> もし、そのような(幾何学構成を持つような)曲を和声で表現するとしたら、やはり
> 『何ですか』でやったような、非常にストイックな音の使い方をするだろう。
ふむふむ。
> ようつべで「にほんごであそぼ」の何曲か聴いたけど、何が似てるのかわかんなかった。
私もわかんないが、多分テンポが上がるように聞こえる部分だろう。
> こっちのすれでも<心的解釈>を解説する必要があるにゃ。
ははは。
> 次の曲は
>>531の、自分自身のコメント。
え、まるごと?そりゃあ、今度は完成後に1ヶ月りふらくとりーになるよ。
実は今のにほんごであそぼ、はあんまり見たことがないですにゃ。uh-aが出てたころのに、文章に曲をつける、というのがよくあったのですにゃ。けしてテクノではないけど。
そういえば、最近テクノ再復活なのですかにゃ?CMで鄭東和が使われてたり。妙にasid jazzがききたくなる今日このごろ。
asidって?
あ、acidだった。欝。
ところで今日、バンドに参加!メンバーの年齢をたすと150近く!リーダーは歌声サークルでならしたフォークシンガー!ちょろちょろペン他トニックでブルースのフレーズをひいてる私よりずっとうまいし、人にきかせられる。ちょうど
仇兄=(あるいは>)リーダー+こさかな。
オサーン二人でyou've got a friendからwhile my guiter gently weeps、酒とナミダと男と女、さなえちゃん、thank youを弾きまくっていました。ひさしぶりにカポみたーイムジン河を日本人が歌っているの、はじめて見たー
合うようになったら介護福祉施設の慰問演奏に周る予定。自分が入る前にはまわりたい、と思った日曜の昼下がり。
「時には母のない子のように」を知ってて驚かれた
よかったね。
ありがと
ご童貞、じゃなくてご同慶の至り。わたしも「人為的風葬」(環境に有害)になるまえに、
いちどギグっておきたいと思う今日この頃。
じつはもうちょっと作曲に見通しが立ってから書き込もうと思ったんだけど、
やはりわたしの書く文章は超散文で、どうにもならん尿酸値。
ブルースペンタトニックというと、まあ前にも書いたかもしれないけど、
コードG7thなのに、ピアノはCmペンタトニックであがっていくという、音楽理論をふみにじる
フィナーレが好きだにゃ。誰が最初にやったんだろう…
通常フレーズでもドミナント無視はめずらしくないし、そうだ、コードG7で、
5度を半音下げたf#を使うCmスケールで弾くのがツボなんだにゃ。
ブルースで「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌を弾くと超クールにゃ。だけど、
フレーズの引き出しがあまりもってないために、自分の曲にとりいれるのはなかなか難しいのが玄奘三蔵法師。
またくるにゃむ。
>最近テクノ再復活
最近何がテクノなんだかよくわからない。わたしは、ワンノートベース、
ドッドッドッドドドド、ドッドッドッドドドド、っつーのが目安かなと思っている。
次の曲で使うにゃ。
恐悦の至りと存じます、みゃお。machine without mindになるまえにギグりたいですにゃん。
550 :
仇鱒:2008/05/14(水) 22:16:02 0
ちょっと横レス(^^)
>「時には母のない子のように」を知ってて驚かれた
厨房の時、「時には娼婦のように」を音楽の時間に弾いたら音楽のセンセに叱ら
れますた。はい。30年ぐらい前のハナシでつ。うみゅ。
工房の時、the style councilのdown in the saineをテストで歌って、市民音楽祭で桶をバックにソロさせられるハメになりますた
nhkでツチヤ教授の演奏を見てライバル心を燃やすわたし。
>ドドドってこんなの?
これはオクターブベースにゃ。
>「時には娼婦のように」
仇へーかちょっとご無沙汰しております。「時には」シブー。
なんで昭和的歌謡曲って、むだにラテンっぽいのだろうにゃ。どっかで書いたかもしれないけど、
「宇宙戦艦大和」のBGMも、バックでチャカポコやってるにゃ。宇宙は、ラテンのノリでいくにはキケンすぎる、
と一言申し上げたい。
こさかな先生、ジャスト、歌ってーー。にゃ。
the style councilも、たまにチャカポコやってるんだけど、こちらはふつうにかっこいいにゃ。
虚無せんせ
>こさかな先生、ジャスト、歌ってーー。にゃ。
今では、スナックで音外して韓国曲を歌っては嫌がられているのですにゃ。
虚無せんせの歌を聴いてしまってからは・・・(割と美声ですね)
こさなか先生の声も公開してください
もし私がヨウツベへの投稿の仕方を覚えたら、香津美氏の曲を弾きましょう。あ、声は入らないか・・・じゃあBaho、あ、これもインスト・・・
557 :
仇鱒:2008/05/19(月) 20:10:41 0
>criss-cross road
チェックしますた(^^)
>へーか(虚無せんせ風
チェックしていただき、ありがとうございまつ!
下手でしょ、ぶっちゃけ。
じゃ、消しますか・・・
ちょっと待ってケロ
561 :
仇鱒:2008/05/20(火) 19:40:29 0
>>560 今チェックしますた(^^)縦て読みならぬ横見しますた。
グゥ〜グゥ〜グゥグゥグゥ〜♪でつ(←エドはるみ風 (^^)
>>560 ロルカの詩を思い浮かべマスタ−♪夕闇にまぎれて私はたたずむ〜
歌は?
>>506 うは、今見たにゃ
thank you 〜♪
>>562 if the sun refused to shine, I would still be loving you 〜♪
even ifとかwhileとかthoughとかのほうがいいな
美声にゃお♪ というかあ、ビール瓶てアンプになるのね
>>druziya 566
声をお褒めいただき、ありがとございまつ(ぺこり
じゃあ消しますか
消さないで蓄積
ゴメン 消しちゃった
蓄積できるぐらい上手くなったら、うpするみゃお
570 :
仇鱒:2008/05/21(水) 22:54:06 0
>ゴメン 消しちゃった
消される前に職場でチェックしますた(^^)
DLしてしまいますた(^^)
>>572 >
>>564は元歌を知らにゃい、にメロンパン一口
え、元歌知らない人にメロンパン一口?知りませーん。
メロンパン、食べそこねちゃった・・・
さっき朝飯に食いますた
てか元歌は上出のとーり
Thank You by Led Zeppelin
一緒でした。
>>グリーンスリーブス
うはっ、超かっこいい!
バカ沈没はここかな?
e-Scalationの続編希望しまーす!Uploadしたら教えてね。
はやくもバンド、欝。選挙区がほとんどフォーク。
でもCCRがあったのでちょっとソウテン。
「少年時代」にブルースのアドリブをやれって言われて
また欝。明日練習。綾香の「三日月」を強要汁ぞ!(誤用)
こさかな先生はパフォーマンスの場があっていいにゃ。
わたしは死ぬまでにもういちどLIVEがしてみたいといったところ。
若いころ新しい和声の可能性を追求していて、わたしには「美しい」コンビネーションと思われるものが、
結局は「ホラームービーの音楽とか好きでしょ?」とかいわれる始末。
ききなれないものは、一般には「陰鬱な」印象を与えるもので、
これがマイナーの「悲哀」、ブルースのブルー、の原点なのかにゃ。
> e-Scalationの続編
続編はにゃい。続編って、さらに「シ」と「ファ」をたしてドレミファ列(イオニアン)にするってことかにゃ?
たぶんちがうとおもう。どうしてこの「曲」は、まったく理解されないのだろう…
へーかも、理解度はナッシング、ゼロっだったにゃ。
わたしのレスに対する「親和度」のようなものがあって、だいたい
グレートこさかな先生、および消滅した「誹謗すれ」のMB先生が最高位クラス、
わたしのいってる「構成概念」や、「私」の回帰的同一性などを理解してもらってるので75%くらい。
彦頁は25、へーかとは、バックグラウンドがちがいすぎて5%
「かかりちゃん」にいたっては、もう異次元の人間という漢字で、ω矛盾100%にゃ。(意味なし)
そのようなわけで、次回は、e-Scalationの「読解」から。ほんにゃまた。
では、e-Scalationの回帰的同一編などいかがか?
虚無せんせ、ごぬさたですにゃ。高い評価をいただき、恐れ入ります(ぶっちゃけ、すげーうれしい)
というわけで(意味論スレをご参照ください)、言語学はもうマンドクサクなったので、
音楽の修練に励みます。
しかし、理論を体で覚えて、実験できる虚無せんせの域までには
あと何年かかるやら・・・
ワラエル
> ワラエル
なんで?
> 虚無せんせの域まで
かりにそういう領域があったとして、あまり推奨しないけどにゃ…。
というか、音楽を制作する側になると、「見えなくなる」ものもたくさんあるのにゃ。音楽を愛しているにもかかわらず、
ベースとか、ギターの音だけ抜き出して聴くことのできない人がいるけど、こういう例は、まるで、
小説を深く鑑賞しながら、しかも登場人物は全然区別できていない、という読者のように
(わたしには)奇妙なものに思われる。だがそれは、じっさいありうるのだ。音素概念の知識がなくても言語が理解できるように。
そしてわたしは、そういうメタ理解能力を失っただけかもしれないのだにゃ。
だから、e-Scalationも、わたしの理解できない領域で「けっこういい曲」になっている可能性はあるのにゃ。
あるいは、ただのサカモトっぽい曲、というのが平均的な理解であろう…
わたしがちょっといいにゃと、自分で思ってる部分は、最後にドミソのトライアドで終了するところに、
冒頭の時報音「ピ・ピ・プーーーー」が重なっているところ。そのようなわけで、
> e-Scalationの回帰的
なところというのは、あるいみ形式的にもう織り込まれているのにゃ。
(やっぱし、ごたいそうに「解説」するのはやみた(´・ω・`))
現在、わたしのピアノの鍵盤の上は、「本棚」と化している。ちょっと「肉体的研修」もやらねば、
と思っているお、なのにゃ。
どうでもいいけど、これでIP晒されるんだっけ?
koreha
これは。
dameda
>>591 > そしてわたしは、そういうメタ理解能力を失っただけかもしれないのだにゃ。
てか、音痴が音楽理論武装して無駄な抵抗しているという印象だよ。
> だから、e-Scalationも、わたしの理解できない領域で「けっこういい曲」になっている可能性はあるのにゃ。
いいよ、なかなか。
> あるいは、ただのサカモトっぽい曲、というのが平均的な理解であろう…
それはない。 ある意味、もっと新しい。
言語の定義は知らないが、言語=コミュニケーションをとる手段だと考えると
楽譜の音符や曲調に意味を持たせて、相手もそれを示す意味を理解できなら、
音楽も1つの言語になる可能性はあると思う
> 音楽も1つの言語になる可能性はあると思う
そうなんだが、うえのほうにも書いたけど、それでは「楽譜記号」を利用した
暗号作成の可能性の問題になっちゃうんだにゃ。
どんな現象であれ、2つの状態があれば、コミュニケーション手段として十分なのにゃ。
まあ、たとえば味噌汁がインスタントの日が続けば、女房の機嫌が悪いとか…(これは暗号じゃない(´・ω・`))
わたしも集中力を持って音楽に内在する論理に集中しないと、
ついつい暗号ツールとしてのオンガクの問題におちいっちゃうんだにゃー。
> ある意味、もっと新しい。
あえていえば、曲の楽節の最初に、「その楽節で用いる音のタイプの集合を提示する」、
というのは珍しい構成だとはいえる。
つまり、(理解されてない場合を考慮して、いいわけをすると)、
ひとつの楽節は、A.ピアノ、正弦波などにより、使用される音の集合を提示する部分
B,提示された音を、音名でうたう部分
からなっているにゃ。
さらにいいわけをすると、わたしのもくろみは、けっきょくあるしゅの心理学的「音刺激」をつくることだったといえる。
それが、へーかから「はじめてオリジナルをきいた」というような御言葉を頂戴して、
違和感を感じたというしだいであるが、たしかに、「音刺激」にしては、あまりにも通常の編曲をしすぎて、
ひとつの楽曲になってしまった、というところは否定できないのにゃ。
だがしかし作曲(というか音列構成)についていえば、たとえば最初の<ド>だけの部分、は
<低低高低><低低高高><高高低低><高低高低>……<高高高高高>
などのようになっていて、けっこう配列のコントラストには配慮していて、
はたして<ド>の音だけで終止感がえられるか、といういっしゅの認知心理学的な問題提起になっているのにゃ。
ちょっと「ご大層」になってきたので、このへんでやめるのにゃ。
この間ふっと「どーどどど」と口ずさみ、あれ何だったかな、この曲は?
映画「風の又三郎」の風のテーマだったかな?などとあれこれ考えて結論出ず。
今になって、あ、あれはe-Scalationじゃないか!と気づいた。それだけ印象に残っていた。
>>602 ミリオン確定。
>>601 > それだけ印象に残っていた。
旋律は簡単なほうが耳に残存しやすい(サカナサカナの法則)。
くどいのも良好(リンダリンダの法則)
意味不明の語も良好(ポニョポニョの法則)
あとは、メディアと背後の皇国代理店の力。
かくして、偉大な三法則が打ち立てられた!
ところで、ロン・ウッドがアル中のリハビリ施設に入ったそうにゃ・・・
しかもその施設はクラプトンが作ったところ、というのかどうかは不明。
まだ居たのか
もう来ないよ。うわーん。
これで満足か。じゃあな。
コケオドシに私のところ使うな
はい、わかった。
では、さよなら。
何、一人芝居してるん?
ちゃんと理解してないかも・・・と先に弁明をして。
>> ある意味、もっと新しい。
>あえていえば、曲の楽節の最初に、「その楽節で用いる音のタイプの集合を提示する」、
>というのは珍しい構成だとはいえる。
ジャズで、スケール・アウトしてもテンション・ノートの一種としか受け取られない
というのは、脳裏でコードが鳴っているからだと思うのですにゃが、
これを極端な形にしたのかにゃ?と思いますた。
超・調性音楽でありながら無調性音楽と聴いてしまった私は単なる音痴でつが・・・
無調性、と聴いてしまったのは、そこに転調が意図されていたからであって、
私は音痴ではない、と一人なぐさめ、ても無駄にゃん・・・
当時はネット環境が良くなくて、リアルタイムに聞けなかったのですにゃが、
リアルタイムで聴いてたらピアノで遊んでたかもですにゃ。
へーかに、バッハのブーレ風にアレンジして保水ですにゃ(むちゃぶり
研究やーめた
キツー ちしゃしゃん
> スケール・アウトしてもテンション・ノートの一種としか受け取られない
普通の意味では、テンションはスケール音にゃ。
コードG7thで、たとえばalterd 7th scaleをもちいると、bD(-11),bE(-13),bA(-9),#A(+9)が含まれ、
これらがテンションとよばれる、またはalteredはテンションを多く含むスケールといわれるにゃ。
> 脳裏でコードが鳴っている
というのがよくわかんないけど、ほかの声部がミュートしているということ?
ベースと旋律があれば、テンション性は十分に出る(ジャズっぽくきこえる)ので、
物理的な不協和音の持続そのものが、テンションの条件ではないということがわかる。
というわけで、「脳裏でコードが鳴っている」というのは、まあ、そのとおりだと思うにゃ。
が、e-Scalationで、使用される音を最初に提示したのは、
そのようなプライム刺激っぽいものを意図したものではないのにゃ。
なんというか、たんなる「ラベル」かにゃ。
えーと、またくるのにゃ。
「アル中」のひとについては、cnnでみたにゃ。
虚無せんせ
>そのようなプライム刺激っぽいものを意図したものではないのにゃ。
>なんというか、たんなる「ラベル」かにゃ。
そうでしたか・・・でもその「ラベル」というのが難しいですね。
いや、あんまり考えずに聴くべきか。don't think, feel.
「スケールアウトした音」と「テンションノート」は私の無知ですた。
ひとつ覚えた私。
>>620 伝統的な曲では、あるスケールが先行して、たとえば{ドレミファソラシ}のばあい、
それらの要素の組み合わせで{ドミソ}{ドファラ}{レファソシ}などの和声が構成される、というかんじ。
(スケール>コード)
(簡単のため、借用和音は省略してハナシをすすめる)
ジャズでは、コード>スケールなので、コードがかわるたびにスケール変更しているかんじ。
あらっぽくいえば、コードが変更しているたびに転調しているようなもの。
(あらっぽすぎて、まちがってるけど、あくまで印象の問題)
さて、ひとつのコードについて、available scale がいくつか定義できるけど、あえてそれを無視するのが、
「アウトな音」。前にも「ブルース」に関連していったことがあるけど、コードG7thで、あいかわらず
Cmブルース・スケールで演奏すると、cやf#,など、きわめて<アウト>な音が発生するが、
じっさいには特有の泥臭い味わいが出て、カイカンであるにゃ。それが理論無視の
アウトローな音の存在理由かにゃ。
ギターソロで、途中でコードがわかんなくなっても、勢いがあればいい演奏になったりするにゃ。
まあ、それもひとつのアウトであり、また作為的なアウトもある。
(作曲板に「アウト」専門のすれがあったけど、理論的に複雑すぎて、わたしにはついていけなかった。
たとえば、どの音がいちばんアウトなのか、理論的に説明できたりするにゃ)
ラベルについては、あまり深い意味はにゃい。この板に、使用できる文字を順次制限して、
小説を作っていくみたいなスレがあったけど、たとえば、「かきく」しか使用できない場合、
チャプターのはじめに『かきく』と、メモ書きのように表示してあるようなもの。
それだけのものにすぎない。ので、考えないで正解にゃ。
最近カキモノの仕事が多くて、あんまり来れない。が、またくるのにゃ。
joe satrianiのmidnight、途中から速くて
耳こぴ出来ないよう
へーか、教えてくださいm(__)m
626 :
仇鱒:2008/08/29(金) 20:32:25 0
こさかなの弟分、おひさでつ(でもないかなw
で、禿頭のサトリアニが弾く真夜中だけど、あれは耳コピ無理じゃないかな。
ライトハンドってそんなに難しくないけどアノ真夜中はちょっとやそっとじゃ
耳コピはともかく弾くのもムズいんじゃないかな。てか、耳コピわしチョー苦
手だし。
てか、誰か「悲壮感」の曲 耳コピしてココにコードうpして栗。学生が「仇せ
んせっ!悲壮感のギター演奏キボン♪」とゆってきてるんだな。うむ。で、最
初はなんとなくAm-F-G-C-E7ぽいのは分かるんだけど、できればイントロから
全部コード教えて栗。てなことで、耳コピプロの虚無ちょーかん、もしココ見
ていたらヨロでつ。はい。
てなことで、まだシャバがいろいろ忙しいからちょいとまたリアルライフにゴー
バック。うむ。
ひさしぶりにきたのだ尿。
どれが書き込みボタンなのか忘れてしまってた…(Janeで)
えーと、耳コピについては、この曲はざっと聴いたけれど、
それほど難しいようには思えないにゃ。
たぶん難しくなってくるのは、dm-a7-gm-a7??のように展開していくとこか、
と思うんだけど、まず、トップの和声が3度で繰り返され、そのウラハクで
低音部がはさまっているわけだから、それぞれ異なる「郡化grouping」をなして聞き取ればいいのにゃ。
つまり、2声としてききとれば、それほどフクザツな構造ではないと思うのだにゃ。
ところで耳コピってなに。わたしは「完コピ」と区別して使っているだけだけど…
だいたいの和声進行が捕らえられれば耳コピで、完全にボイシングまで特定して
スコアに書き下ろせる状態になるのが完コピ、という解釈。どういうわけか、それで意思疎通できてた。
わたしはギターができないので、そもそも完コピは不可能で、ピッチの同じギターの音に対して、
何弦を使っているのかまで特定できる人たちはすごいと思うにゃ。
さて何の話をしてたかと振り返ると、「泥臭いサウンド」の話か…
わたしは、基本的に演奏もできないのに音楽評論化が「知的だ」とか「洗練された」だとか、
テキトウにレッテルばりをするのが不快であったが、考えてみると、
もしあるていど多数の人間に同様の印象を与えるのであれば、演奏できるかどうかにはかかわらず、
それはやはり心理学的な事実ではなかろうかと、いまは考えているにゃ。
で、70年代頃楽器を始めて、メジャーセブンスをはじめて弾いて感動した人間は、
(前にも書いたような気がするが)
なぜか、同一の体験をしているように思われる。それは、「泥臭い」のハンタイであった…
あえていえば、「都会的」みたいな響きなのだが…
要するにこのあたりで、音楽評論家とけっきょくのところ同じ心的体験をしているらしい、
といわざるを得ない。そんなとこ。
何か、書き込みをするときに、同意を求められたので、
もう一度読んでみよう…
こんどは、同意画面出てこなかった。
2ちゃんも、日々システムが変化しているのか…
わたしは、微弱な風邪がなかなか直りきらなくて、
日々老化を感じているにゃ。
いつかこのスレのどこかで
アンジェラ・アキの歌が商業主義すぎる、というようなことを書いたが、
それはまちがいだったにゃ。
先日、「拝啓」、ナントカという曲を聴いたけど、ケーデンスのところが、
つまり曲を終止させるところが、基本ミド、ミド…なのである。
これは、ちょっと前の曲の、ミッドドー、ミッドドー、ミドー>『サクラ色』
とおんなじで、これはたぶん、訓練された作曲家はあえて繰り返さない。
ケーデンスのところのコード進行も、基本ツーファイブで何の工夫もない。
これは、商業主義ではなくて…なんというか、
アンゲラの悪口を書くとまたこさかなの先生が気を悪くすると思うんだけど、
この曲はおそらくアンゲラの手作りで、彼女にレパートリーがないのである。
まだまだ旋律の可能性というものがわかってにゃい。中2レベル。
いや、中2くらいのリスナーをターゲットにしているのだから、それでいいのかもという気もするが。
ちょっとゴーマンかました気がするけど、ではまた明日。
(はやくもネタがない予感)
631 :
仇鱒:2008/11/08(土) 20:25:31 0
を、虚無ちょーかん、おひさでつ。で、えっと、わし、今度は「スタンド・
バイ・ミー」をコピってまつ。それはそうと、わしギターをちょいとブツけ
ちゃってちょいと凹んでいまつ(←ギターもちょいと凹んだけど)。なんつ
ーか、ギターをまだ道具と見なすことができていない自分が情けなく感じた
りしていまつ。楽器を単なる道具と見なせるようになってはじめてなんちゃ
ってムージシャンになれるのではないかと思う今日この頃でつ。はい。それ
はともかく、耳コピしていると外国語のヒアリングのテストを受けている気
分になるのはわしだけ?
ギターを意図的に破壊する偉大なムージシャンもいるようなので、
その境地に向かっていくのにゃ。
パフォーマンスという語には、「演奏」という語にはおさまりきれないものがあり、
いわば楽器が肉体の一部に変性していく過程があるのかもしれない。
で、きょうココに来たのは、
【音楽】ビートルズの名曲”A Hard Day's Night”冒頭の音の謎を数学者が解明[11/07]
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1226068917/ をみたから、画像を見ると、若干不可解であるが、
まとめていうと、Eをベースとする4度重ねの系列と、
Dマイナー系のコードが同時に発音されているようだにゃ。
低音部で音がぶつかっており、とくにピアノのボイシングが非常に不自然。
左手の標準的なオクターブで、画像の楽譜にあるように3度音程(レ、ファ)
で引くことはほとんどありえない。
が、4度重ね(フォースビルド)というのは、その後の時代でポップスでも非常に多用されるわけであり、
80年代ごろはカシオペアが得意になってこれからは3度じゃなくて4度の時代だ、みたいな、
ちょっと恥ずかしい発言を招くような流れになっているのであり、
そのようないみで、凡庸ではあるが、ビートルズはやはり「時代を先駆けた」といえるかもしれない
(安っぽ…)
ギターのことはわからないが、ピアノの右手が9度音程を弾きつつ、
左手が3度というのはきわめてすわりが悪いのであり、まずこの通りではありえないといえる。
このような非常に密集した和声では、倍音なのか実際に発音された音なかの判別は
やはり困難だと思われる。あ、32行だ。ではまた…
密集するの使い方まちがいてた…
とにかくあるていど低音部でレ、ミ、ファすべてがなっているというのは、
通常ないことであり、「避けるべきである」(楽典の翻訳書にあるような言い方)
和声の密集配置とは、たとえばドミソの和音が、1オクターブ内に順番におさまっていること。
4度重ねがぴんと来ない人は、弦楽器の開放弦が基本的に4度ずつずれていて、
低いほうからミラレソ…のようになっているのをイメージするといい。が、ギターのばあい、
1弦と2弦が半音ずつ低くなっている。つまりそこを半音あげれば、完全な4度重ねになるにゃ。
わたしの予想だと、上のビートルズ和音のいちばん簡略な構成の仕方は、
一人がギターの6弦完全開放音をかき鳴らす。(ミラレソシミ)
もう一人は、完全4度重ねをひく。(ミラレソドファ)
ベースがD(レ)をひく。近似的には、これでおしまい。
じっさいにはトップノートはソであるらしいし、低音部にファがあるらしいし、
さらに12弦ギターがからんでいるようなので、わたしにはわからにゃい。
まちがっているといえば、たしかこっちで「ポニョポニョ」ソングミリオン確定とかいったけれども、
最近のCD不況のせいで、上位ランキングを維持していても、売り上げ総計がミリオンということはまれ。
たしかわたしが最後に見たときには、類型38万枚で、たぶん最近の大ヒットというのはこのくらいかと思われる。
小室のさいきんのCD が2万枚ということで、いかにも落ちぶれ果てた、という書き方をしていた記事を見たけれども、
実際には最近では5,6万枚でスマッシュヒットといわれるのであり、かなり健闘したほうだと思えるにゃ。
さて90年代には100万枚程度では、大ヒットというにはちょっと気が引けたものであったが、
現在では売り上げのケタが2つくらい減っているにゃ。通常の業界であれば、業界ごと消滅しているが、
音楽配信などでよほどサポートされているのか、イベント関連の収益が好調なのか、
なんにしても、いざリアルCD店が消滅したら、ちょっとさびしい気がする。
(バイト的にオーバーしたらしい…続き)
関係ないけど、リアル書店も消滅しないでほしいものである。パソコンでの本探しというのは、
そうしても最初から目的ありきであるから、偶然見かけた本を手にする、というのと似たような
疑似体験をするのはなかなか難しいにゃ。
まるで回顧調の3流新聞のコラムのような内容になた。ほんにゃまた。
>>630 あのミド、ミドから、The Brothers Four の 'Try to Remember' を思い出した。
>>635 あ、はるみシステムのオサーンか…
こっちに来てるのだったら、やっぱブログはこっちだにゃ。
わたしは長年、2ちゃならが特殊集団であるとか、犯罪予備軍であるとかいう見方には反対であったが、
なんだか、最近やっぱし日本人としてはかなり特異な部類ではないかと思っているのにゃ。
きっかけは、単純に筑紫テツヤの死去で小規模ながら祭りが起こったから。
といっても売国ジャーナリストを弁護するわけでもなく、または伝統的日本人の美徳として、
「死者をむち打たない」という理由からでもない。一般的(現代)日本人は、ふつうに死に関する話題で
「ヒク」のである。
たとえ、非常に現実的な池田犬作についても、「池田大作が死んだときには…」と話を切り出したら
まず、まともな返答はかえってこにゃい。とにかく、誰の市に関してでもある。
(「死」というのは、何度使用しても、絶対に変換候補の上位に上がってこないが、これぞまさに日本人的だにゃ。)
とにかく、人が死ぬ話というのは尋常な日本人にとってはドンビキであり、それは、
「今日のウンコはさー…」で話を切り出すにも等しい(らしい)
「死ね」などは、もう言語道断である。「死んだらいいのに」にも、ドンビキ。
その死アレルギーは、たとえ匿名掲示板があろうと、開放されるものではない。
まあ、そのようなわけで、やはりわたしはチャねらであることをこれからは慎重に隠匿しようかと思っているにゃ。
われわれは、ひょっとしたら非国民にゃ。
ちなみに、地区私鉄やの死は、まことに喜ばしい。では、今朝の多事騒音はここまでにゃん。
また来てしまった…もう長いあいだ新聞を取っていないので、チラシがない。
ので、やはりこのスペースしかない。
レーガン死去のとき、アメリカメディアが冷戦を終結させた偉大な大統領というあつかいで
報道しているのを見て、おおげさにいえば、みずからの不明を恥じたにゃ。
わたしは冷戦当時、すでに反共路線のハシリであったものの、なんとなく
朝日新聞は購読しており、ナイーブにも冷戦というのはゴルバチョフ手動で行われたものと、
ばくぜんとした印象報道におかされていたらしい。。アメリカメディアといっても、FOXニュースではないのにゃ。
朝日とCNNのどちらが偏向してるかといえば、そんなの比較するほうがばかばかしいだろう…
ロンヤス関係の当時、共産党系青年組織のアジビラで、
レーガンと中曽根が仲良く戦車に乗って、「さあ戦争おっぱじめようぜ」みたいなばかばかしい戯画をよく見たものだが、
さすがにそれは信じなかったものの、やはりメディアに対して現在ほどには警戒心がなかったというか、
いまでもやはり旧ソ連崩壊までのプロセスというのはばくぜんとしたかたちでしかできないけれども、
そういう無知に付け込んで、メディアは洗脳を遂行できるものらしい。いや、基本的には、不勉強が原因だが、
とにかく自分が不明な点については、安直なメデァの印象操作がないかどうか自戒しなければならない、と思った。
ところで、わたしはいまや共産党シンパなのであった。「大恐慌」のときは、資本主義崩壊のマルクスの予言が的中しつつあると、
共産党シンパは歓喜したものであったが、現在いうまでもなくそのような素朴なかたちで共産主義を再評価しようとするバカは
さすがにいないものと思われる。(昨今まじめに世間のことを知らないのでよくわからないが)
だがしかし、マルクス主義のテキストは、現在読むと興味深いものがある。
じっさい、日本人コミュニティに見られる伝統的な道徳観念、日々食事にありつけるだけでありがたい、(これはべつに日本特有ではないが)
労働ができるそのことだけで「ありがたい」みたいな、
そのような奴隷根性を見るにつけ、やはり「道徳」は破壊せねばならない、という結論しないわけにはいかない。(もしあなたが中2なら)
しまった。たいしたないようでもないのに、オーバーしたにゃむ。
まあ、サヨクというのはこのようなぐあいで危険思想であり、「革命勢力」だったわけであるが、
昨今では、この語はすっかりくたびれてしまい、たんに特定アジア諸国にフレンドリー、
だという意味に置き換えられ、朝日新聞ごときがキョクサなどと称されるに至った。
キョクサというのは、左巻きの人たちにとっては、じつに名誉な称号であるにゃ。
ときどきは、バールのようなもの、でなくバールそのものででアタマかちわられ、
脳みそぶちまけて戦死していったシンサヨクのことを思い出してあげてほしいにゃむ。
わたしもちょっと、バールかなにかでアタマを殴られる必要があるかもしれない、と思う、
今日のチラシのうらであった。次回はサルトルについて。
639 :
仇鱒:2008/11/15(土) 21:02:45 0
>弦楽器の開放弦が基本的に4度ずつずれていて、
>低いほうからミラレソ…のようになっているのをイメージするといい。
>が、ギターのばあい、1弦と2弦が半音ずつ低くなっている。
な、なるほど、、、。うかつにもわし気づかなかった、、、。ちなみに今、
ドロップdチューニングでスタンドバイミーをコピってまつ。レギュラーチュ
ーニングだと弾くのがムズイ。うむ。
>わたしもちょっと、バールかなにかでアタマを殴られる必要があるかもしれ
>ない、と思う
わしは豆腐の角に頭ぶつける必要があるかもしれない。てか、どっちかとゆうと、
納豆に頭つっこんでそのまま3日ぐらい放置しておいた方がええような。うむ。
そうゆえば、ツクシ氏が亡くなったが、ジミヘンのバンドでドラマーだった人も
先日亡くなった。なんとなくぽっかり心に穴の開いた気分。うみゅ。
あ、へーかレスどーもmm(_ _)←ズレタ
明らかに劣化したムージシャンをみるのもしのびないにゃ。
忘れないうちに書いておこうかと思うけど、『言語学大事典』のなかに日本の伝統的 民族歌謡(民謡)のなかに
弱起で始まるものがないという記述があったけど、それは事実とちゃうにゃ。
(弱起というのは、メロディーの先頭が小節のアタマより先行して、弱いアクセント位置から始まるもの。
あまりにも例が多すぎて、なにが好例なのかわからない。
運命「じゃじゃじゃじゃーん」は、ジャーンが小節のアタマで、「ジャジャジャ」はヨワイアクセントの位置。)
あまつさえそれを冠詞の有無と関連付けるのはデタラメもいいところだにゃ。
さて、弱起の民謡のほうは、逆によく知らないために好例が見つからないけれども、
(北海ボン歌とかの)歌いだしの「ハア〜〜」が、「ア」のところに小節先頭がくるところから、まず
楽曲としての日本民謡が、弱起をさけているということはまずありえそうにない。
たぶんハトヤCMに使用されている「まつっしぃまぁ〜のぉぉ」が、「ま」が小節先頭で弱起のひとつの例。
「おどまぼんぎりぼんぎり」も、「ぼん」が小節アタマ。
りんご追分の「りんごーーーの花びらがーーー」は、「ご」がアタマの完全な弱起。(民謡かどうか知らんけど)
弱起なのか、第1小節の非アクセント位置から始まっているのかは、時々判別は難しいけれども、
サイタロウ節のばあいは、「エンヤァトットエンヤトット」と合いの手を歌って、エンヤトットの繰り返し偶数番目で
「まつっし」と歌いだしたほうが自然と感じるのならば、それは弱起と考えてもいいだろうと思う。
で、そもそも冠詞がないゆえにアクセント位置から旋律が始まりやすいという議論がしたいのであれば、
じつは、「第1小節の非アクセント位置」(ウラハク)から始まるのか、「弱起」なのかは論旨に影響しない。
そういういみでは、ユーメイなソーラン節でさえウラハクから歌詞が始まるのである。
まあ、そのようなわけで、さしあたって日本語の音韻体系が、「歌いだしの位置」に影響を与えているという根拠はにゃい。
ちなみに、「8時だよ」で絶大な知名度をもつ「北海盆歌」は、それいぜんは、
とんでもない「ワイカ」として絶大な知名度を持っていたにゃ。
前回の講釈は、文字数制限のために中途半端になってしまった。
『北海盆歌』は、もともと「オマンチョ音頭」みたいな歌詞であったと記憶している。
このようなワイカは、ほとんどすたれてしまったが…いや、いまだにゲイシャ遊びをしている
一部反動ブルジョア分子のあいだには、連綿とうけつがれているのかもしれない。
だいたい「オマンチョ数え歌」とかで、「二つ、風呂場でいたすオソソは…」とか、
「マンコマンコと威張るなマンコ、マンコチンコの植木鉢」といった調子である。どうでもいい。
さて、サルトルといえば有名なことで有名な哲学者であるが、
哲学の一般的理解は、当たり前のことをことさらに分かりにくく言う、である。
が、じつは古典的存在論はほとんど自然科学に問題意義を移し変えられ、
さらに認識論の大きな部分は、ドイツ観念論で大いにはやったが、わたしは基本的には認知科学に置き換わったと思う。
つまり、おおざっぱにいえば、われわれがガクモンだと思っている学問は、もともと哲学的問題意識から出発したものであるといえよう。
現状で「影響力があり」、というか、いまなお読みつがれている「現代的な」存在論という一分野があって、
これは古い世代の人には「實存哲學」、まああたらしめのひとには「実存主義」として知られているにゃ。
このひとたち(哲学者たち)のこまったところは、内省しか方法論がないこと、
言語が思考を媒介している可能性にまったく関心を示さないことと、
いちおう方法論的に確立している脳科学・認知心理学的手法を、
「確実でないものを確実であるとナイーブに信奉している」として、ウイルス感染したファイルみたいに、
その成果を信用ならぬものとして完全隔離してしまうこと(伝統的には「カッコいれ」などといわれている)、などである。
サルトルといえば…わたしはまず思い出すのは「etreを他動詞として用いる」という対自pour-soi存在の規定である。
だがしかし、「無に存在を与える」のは、サルトルは不条理であるとはっきりと述べている。
だとすると、etreの目的(=目的語)は何なのか。
『存在と無』はこのうえなくタイクツな本であるが、言語学的ツッコミを入れると少しは面白いかもしれない。
ツッコミだすときりがないのであるが、ここで、生成批判にも用いた、「心的解釈から対象の同一性をソテイするにゃ」
というテーゼをここでも用いたいとチンは思うにゃ。
またもや文字数オーバーであるが、まあ、一日分はこれくらいにしておくにゃ。
ちょっとムズカシメになったが、心的解釈から対象を同定する、とは、赤いという直観のあるしゅの蓄積から、
けっきょく赤というイデア性を獲得するプロセスのことをいう。
ふつうは、これを<超越>transcendという。用語を日本語にすればわかりやすくなるかというと、
そうでもないという一例がこれである。ではまたにゃむ。
ご無沙汰してますにゃん。
>アンゲラの悪口を書くとまたこさかなの先生が気を悪くすると思うんだけど、
いんや、あの曲はくそみたいな曲だと思うので、あれを評価する人の
気がしれない。
べつのところでひっかかってイルノデスにゃが、「〜のです」
を多用しているのが韻を踏む、ということをサボっているとしか
思えにゃい。大人による日本語獲得過程で「のです」を多用して、
丁寧vs非丁寧を簡略化するということが非常に多く見られるノデスにゃが、
それよりひどいさぼりかたをエンジェル・安芸はしているノデス。
文脈無視スミマセン 続きをおながいします
こさかなの師匠、このような体たらくのチラ裏に書き込んでいただいてかたじけなすにゃ。
わたしはどこかにもかいたけれども、すでに楽曲を有機的な全体として解釈する能力を失い、
メロディーラインだけをもって凡作として評価していいものか、じつにギモンだにゃ。
通常のリスナーにとっては、現代の楽曲は、まず記銘つき
(誰によって作られ、誰によって演奏されたかが、楽曲の同一性に影響を及ぼす)
で、タイトルつき
(たとえインストであっても、作曲家または演奏者のなんらかの「言語的な」メッセージを宿している。
それを読み解くのが評論家のひとつの仕事)
で解釈されるのが普通なので、わたしのように、楽譜情報のみに注目するのは、あまり正しいとはいえない。
楽譜情報的に凡庸であるということは、あるいみではパフォーマンス情報に重点が置かれている、
と見ることもできるにゃ。ほとんどのロックの採譜を見ると、その「凡庸さ」に愕然とする。
ギターをつまびきながらの作曲は、同音連打がはげしく連続することが多く、有線などで「ボーカルもの」を
インストに編曲したものを聞くと、あまりに主旋律が単調なので、やっぱしあぜんとすることがある。
が、とくにメッセージ性の強い歌詞の場合、主旋律はあまり動かさないほうがいいかもしれない、
と思うこともある。同時にそれは、ヒットしやすい要因ともなるのであるが。
「作り手」になると、一般的にふつうのリスナーとしての素養を失ってしまうのかというと、そんなことはないと思う。
あんまり関係ないけど、ポニョポニョの歌を「歌える」ように英訳したもの。
Ponyo ponyo ponyo ponyo baby fish
She came a long way from the sea
Ponyo ponyo ponyo baby girl
With a rounded belly full of glee
そいではまたにゃむ。流浪のスレはまだ続く。
さて、このスレは音楽による<否定可能性>に端を発している。
原理的な意味で、このような否定可能性は、サルトルの思考様式にも深く陰を落としている。
が、底は浅い。
なにぶん、当時の「ゲシュタルト心理学」の影響により、存在と無の関係を「図と地」みたいに考えたがる傾向があり、
(このような傾向は、メルロポンチにもあった)
けっきょくのところ、もし否定が存在しうるとすれば、そもそものはじめから「図と地」のような<形式>が意識に備わっており、
われわれの意識は<無>にとりつかれており、けっきょくわれわれの存在がすでにはじめから<無>によってあらかじめ
あるいみ<呪われている>というようなところが、『存在と無』のひとつの結論である。
そのような存在様式が、<完全充実>した即自存在と対立する対自存在の唯一の可能性となり、ついには評判の悪い
「あるところのものであらぬ、あらぬところのものである」というよーな自家撞着している意識の様式となる、とされるに至る。
以上のような議論は、存在者と存在の区別がわからないと意味を成さないので…きがすすまないけど、
まあ、このさきそこまで踏み込むかもしれない。とにかく、何か書こうとすると、思ったより行数をくうものである。
そこで、結論から先に言うと、このような<無>の起源は、意識が根源的に情報を対象にして言うところから生まれるものなのだにゃ。
<情報>とは、ヌルを入力とすることができるゆえに、原理的には世界における2値的な現象は、
おしなべて論理的回路にすることができるのにゃ。たとえば、わたしがこの部屋にいるか、いないのか、みたいな。
なおかつ、われわれが意識できる対象というのはかかる情報しかありえない。
言語デザインが、あらかじめこのような否定可能性を予測してうまれたのか、あるいはその言語自体が情報処理の産物であるため、
原理的に否定可能性を除去されえないのか、そこのところは非常に難しい問題である。
後者の見解によれば、言語は「コミュニケーションの道具」であるという実体性はまぬかれるが、
そのかわり「生物学的産物」という、生成特有の実体性を帯びることになってしまうにゃ。
まあ、いずれにせよ、音楽の否定可能性を考えたのは、かかる根源的な理由のためであり、(ここでオワリ)
ちょっと前々回あたりいい加減なことを書いたのだけど、
サルトルがetreを<他動詞>として用いる件について、もしも無に存在を与えることが不条理であるとすれば、
この「動使用法」は、ひょっとして成立しないのではないか、というような匂わせ方をしてしまったのであるが、
それはあやまりで、
まずサルトルは受動/能動の関係を<存在者>どうしの関係とみなしているので、存在と無の関係ではありえないわけである。
存在者というのは、文字通り存在するものであり、現象としてより直観的に把握できるものである。
<存在>については、いっしゅ存在者の理解という形で、遠回りに了解されるもの、といったかんじである。
つまり、こういうところで、わかりにくい<超越>というかんがえかたがでてくるのであるが、
まあ、超越というのは、個々の印象を与えられるだけでは、なにも心象も意味も生成されないので、
ちょっとインチキで意識のほうに<本質を求める>ような機能が最初からそなわっていることにして、その結果、
到達できるような、より根源的な存在現象の本性である。
このあたりは、まったくインチキなので、せつめいしていても、じつにむなしい。
ハナシはそれるけれども、70年代にシニフィエ/シニフィアンの訳語が、「意味されるもの」「意味するもの」で確定したけれども、
ふだん日本語の乱れとかナントカに寛容なわたしですら、この訳語はちょっとムカツク。
意味するもの(意味者)と、意味するところ(所意味)、というのがすっきりするのではあるまいか、と、30ねんおくれくらいで言ってみる。
にゃ。
ま、ちょっとアルコールがはいっているので、乱筆ご容赦なのにゃ。シラフでもランピツではあるが。
そいではまた次回も意味不敬路線とばしていくにゃ。
もうみなおしもしないまま、書き込むのにゃ。
ながらくヨーロッパでは、世界の解読と、世界表象(知覚)の解読、そしてくわえるに、
世界表象の表象(言語)の解読、とが混同されてきたにゃ。
言語が学問の対象として自存し始めたのは、じつに最近のこと、現代言語学の誕生を待ってからということになると思う。
そのような中世的な思考の残留物が、じつのところ、サルトルにも現れている、
少なくとも言語が完全に透明であり、思考の「メディアとしてまったく表舞台に現れない、
という消極的な意味であれ、それはじゅうぶん<中世的>であると思うのにゃ。
サルトルの言語への無関心はいたるところにあらわれる。
じつをいうと、前回のレス(落書き)で、存在と存在者の区別についてヘタな議論をしたが、
これにはもっとわかりやすい説明の仕方があって、それというのも、ひっきょうそれは
「存在者は存在する」、という、じつにプレーンな陳述の敷衍であるのにゃ。
ここにおいて、わたしはまったく、「わかりやすいことをことさらわかりにくくする」というご批判について、
まったく返す言葉はない。形而上学のひとつの動機は、主語にはなれるが述語にはなれない究極のもの
とは何かみたいな、究極の述語、究極の主語を求める、といったような問題設定であり
それが「わたし」であったり、「世界-内-存在」であったりするわけなのだにゃ。
そのようなわけで、形而上学のカテゴリである主観/客観が、言語学のカテゴリである主語/客語と
かぶっているわけである。
逆に現代言語学から、伝統的な形而上学にあるしゅのアプローチというか、本当のなぞは何なのか、
解明するためのアプローチが与えられている、かもしれない、少なくとも十分な理由がある
というお話をしたかったのだにゃ。
そしてもし、「存在者は存在する」について、そこにあるのは、「ネコがあくびした」と同程度の
ただたんに言語学的な非対称性しか認められないとなれば、それはそれでりっぱな哲学的回答であり、
われわれは、かかる2500年もやっている形而上学に、最終的な決着をつける勝機があるということになるにゃ。
おおげさにいえば。
言語学的には、「わたし」は<第一人称>であることいがい、ことさら興味を引く問題ではない。
この言語学的判断は、すぐれて哲学的判断と見るオワタ。
虚無せんせ、こんばんにゃ。
昨晩、農家学者と博物学者がれおなるどの新しく発見された絵がうんぬん、という番組を常磐線沿線の宿で見ていたのですにゃが、レオナルドは自然を読み解こうとした、とかなんとかって言ってて、思わず虚無せんせをおもいだしましたにゃん。
私には単に絵が好きだった、としか思えないにゃが・・・
(レオナルドは自然哲学者ではないと思うにゃ)
画家崩れの私としては、画家にはバクハツしちゃうひとと、
執着するひとの二分にかんぜんに分かれると思いますにゃ(パラノとスキゾ?)前者はピカソとか太郎とか、公社はワイエスとか。精神疾患でいったりきたりするひともいるけど・・・
虚無せんせはバクハツ型ですかな?以前の作品とか、楽曲とか・・・ce n'est pas une pipe.とかいわれそうですにゃが・・・
駄文しつれいですた。chomskyは執着型?バクハツ型?
あ。奇遇ですにゃーー。わたしも画家崩れ。
透視画法の話をしようと思ったんだけど、タイクツそうなので、やめ。
簡単に言うと、一般に3点透視といわれてるものは、重力方向で規定される上下と、
身体の必然的でない体勢に左右される左右の概念がごっちゃになっていて、
わたしにいわせればあまり洗練されていにゃい。つまり、たまたま絵を描く人は直立しており、
視線の中心が<地平線>のうえにあるという理想的な状況にちょっと強く依存しすぎていると思うのにゃ。
いわゆる「アイライン」は、消失点の集合と考えなければならないし、もっと「3点透視論」を一般化するためには、
一般に視界のなかの1本の直線はひとつの平面を決定し、同時にその平面状のあらゆる直線の消失点の集合であり、
さらにその平面状の直線を軸にして回転させた平面状の直線の消失点でもあるにゃ。
まあ、もっと一般性を求めなければいけないというお話。結局書いてしまった。
キュビズムというのはけっこう計算されたものではないかにゃ。いわゆるヘタクソな絵というのは、
「見えた」ものではなく理解されたものを描くので、たとえば線路を走る電車が
[ ][ ][ ]
###########
のようになってしまうのだが、少しでも写実的に書くことを訓練すると、このような、
理解したものを描く、といういみでのヘタな絵は、描けなくなってしまう。
これは自明なことではなくて、たんに「絵が上達した」という一言では言い尽くせないように思えるにゃ。
たとえば、英語の発音を本格的にやっても、日本語の発音が英語鉛になるとか、日本人的アクセントが意図的に「できなくなる」
というわけでもない。能力というのは、ある分野では、獲得するというより変容するのではなかろうかにゃ。
そのようないみで、ピカソは、ふたたび「理解するもの」を書くという能力を再獲得したと思うのだにゃ。
再獲得というか、もっと方法論的なものだと思うにゃー。だから、かなり当時の前衛性というのは計算されたものだったのだろうにゃ。
わたしの、いま現在での理解はそんなところ。
また日付が変わったらくるかもしれない。ちょうど行数も限界に来たにゃ。遂行なしで書き込みsにゃ。
虚無せんせ
駄文を広がりのある方向にもっていっていただき、
恐縮でつ。
とくに
>能力というのは、ある分野では、獲得するというより変容するのではなかろうかにゃ。
に感銘ですた。「青の時代」にピカソはキュビズムをsuppressした、と思っていたのですにゃが、
「能力の変容」の方がしっくりくる。
「理解」で思い出したのですにゃが、『ハチクロ』に
「はぐちゃんの目にはどのように見えているのか」
という一節があるのですにゃが、メルポンの
俗化された有名な「見え方は眼の構造に依存する」が
あてはまり、はぐちゃんにも同じように見えてるんでしょうにゃ。しかし、関連性理論で使われるcognitive deviceの状態の変容は常人とは異なり
誤解かもしれないけどこれが虚無せんせのいう「理解」
かと。もちろん、他者問題に対するusual disclaimerは適用されるのですにゃが。
とまれ、虚無せんせが画家であったとはうれしい驚き
で、今日、工房のころの美術部の仲間がきゅれーたー
をやったり八面六ぴの活躍をしているのを知り、
ちょっとタクボクっちゃってへこんでたんですにゃが、
ちょっと上向き。
蛇足:あっしは球体にあらゆる方向から光をあててデッサンしててスタック、受験に間に合わなくなり、勉強しなくても入れる英文科を受験したのですにゃ。だから英語に夢中になれず、いまでも英語は高校生レベル・・・ああまた駄文・・・
てs
アク禁で書き込めなかた…
まずちょっと、いい加減にかいたパース理論を書き直さなければならないのだが、
視界にあるひとつの直線は、それを軸にして回転できるひとつの平面を決定できる、
そして、その平面におけるあらゆる平行線は、最初の直線上に消失点を持つことになるにゃ。
さて、つぎにどの直線を軸に回転したときに、なにが保存され、なにが保存されないかを見る、
というのが洗練したパース理論だ、というようなことが書きたかた。
能力が、獲得なのか、変容なのか、
獲得されるとすれば、なかった能力が、あるとき「有する」ことになるのだが、
つまりかけていた部分に、あるしゅの充実が起こるということであるが、
このような変容vs無の穴埋め、という図式は、ユダヤ人宗教の<無からの創造>と古典ギリシア存在論の
<流出論>が習合して形而上学になったときから始まる問題であって、
じつは自然が真空を嫌う、という問題も、なかば弁神論的問題がかかわってくるあるしゅカルト的な問題だったのにゃ。
もちろん、自然科学はそれに一定の回答を与えるが、そもそもの問題の起源からはかなりずれているにゃ。
そのようなわけで、また存在と無の問題にからめながら、次回とりとめのない話をするのにゃ。
もしも月がつるっつるの表面を持っていたとしたら、月の見えというのは、漆黒のなかに
太陽のハイライトを持つだけのものになったであろう…。
だがしかし表面がざらついているために乱反射が起こり、いまのような「三日月」とかの様相を呈するようになったのだが、
さて、もし月の回りに、地上と同じように雑多な物体があったのなら、乱反射が乱反射を呼び起こし、
さらにその見えは、ちじょうてきなものになっていただろう…。そしたら、月が実は満ち欠けをするのではなくて、
太陽光を反映しているだけという観察はもっと早くなされただろう、とか思うのであった。
ではまたこんど。つぎはスザンヌ(テレビにでてるほう)のおはなし。
ちょっと誰にもついて来れない暴走気味のスピードですれ描いているので、
もうちょっと常人、というか世の中に一人ぐらい理解者があってもいいレベルの日本語で書くと、
>太陽のハイライトを持つだけのものになったであろう…
というのは、闇に浮かんだパチンコ球が太陽を鏡像的にポツンと反映している状態、のこと。
滑らかなテクスチュアを持つ物体は、滑らかといっても分子単位の滑らかさであるのだが、
それは(光を透過しないならば)、鏡像的に反射して「つや」の効果を持つかするにゃ。
表面がざらついていれば、乱反射して、まわりに物体がないならば単純に照らされているブイが確率的に明るく見える。
地上における球体というのは、周囲の物体による照り返しがないので、単純に照らされた側が明るいわけではなく、
いちばん暗い部位はしばしばいちばん明るい部分の周囲にくる。これは、マッハバンドのことではなくて、
写真の移りで確認してもやはり暗いのである。なぜだかはよくわからない。が、光源がひとつしかない場合、
光源についで明るい部分は光を直接反射する面であり、まあかりにこれを「第二光源」とすれば、
球体の光源とハンタイの部位が比較的明るくなる理由も見当がつく。で、「灯台下暗し」の原理?で、
光源と微妙に距離をおいた部分というのは暗くなることが多く、結局これを「反映」して、
球体表面における明暗がきまるのかもすいれない。ちょっとこれについては、絵画の技術的記述した見たことないので、
よくわからないにゃ…
スザンヌはなんとなく日本語がヘンなので、「じつはわたし日本人なんですよ」というチン発言についても、
いっしゅん「そうなのか…?」と、まにうけるところであった。なんとなく聞いた印象だと、たぶんエの母音は若干せまい。
のと、二重母音「ない」の1もーらしかないのか、みたいな「なぃですか」みたいな発音が多い。
よく考えると、カ行もヘンで、kが公害摩擦になってるか、アスピレーションが多いのか、という気がする。
以上のようなことを総合して、「…じゃなぃですか」、といてみると、スザンヌの「微妙なモノマネ」で、
トンネルズの番組にでれるかもしれない。
いぜん、さいきんの「もしもし」の「し」のおとが、ガムをかみながら「え?」といったような(容量制限でオワリ)
ハナシをはしょることは難しいが、じつをいうとわたしも『存在と無』のような問題を
引き合いに出すことをあまり好ましくないと思うし、出したとすれば、早いところ決着をつけたいと思うにゃ。
そのようなわけで、どんどん結論を早回しに書いておくと、メタフィジクスの「メタ」の部分、
これは現代数学での「メタ」におきかえて、2500年間少なくとも一部の人間が悩んできた超越の問題を、
論理的なメタ性で解読することが可能になってきていると思う。
わたしはこの問題を解消することができると思っているし、そのような意味では、なんとか哲学と呼ばれる
奇妙な知性の混濁をなんとか廃除できれば言いと思っているにゃ。
哲学にまとわりつく人間の知性の中心主義は、あるいみ、理系的な作業で解消できるわけであり、
そのこころは、「情報」というさして新しくない概念の濫觴をもって、哲学系テキストを解読し、
このばあい解読というのは、読みつつ、同時にテキストが提出する問題を無に帰す、みたいな意味であるが、
要するに'70のデコンストラクションに近いものがある。これは「ポストモダン」として、いくぶんさげすまれて見られていることは承知であるが、
んー、このばあい、いま語っていることをナントカ「世間に出回るレベル」に理解してもらえるために致し方ないことであるにゃ。
形而上学の脱-人間化みたいな作業は、デリダによって、おそらく新鮮味も何もないであろうが、
わたしはもっと愚直にやるのにゃ。いっぽで、情報概念もまた、おそろしくくたびれた概念なので、
もういちど、アナログコンピュータと、デジタルコンピュータについて、何が異なるのか、計算的手法とは何か、
「計算する」とは何かについて考えなければならない。そしてこのさいに、「ゼロ」概念またはゼロの入力、
なぜに世界の2値的現象が一般に論理素子と考えうるのか、その条件とは何か、
もしかして2値的現象と宣言すること自体が、いわば還元不可能な(それ以上簡単な理由をもたない)自体であり、
原初的な「デジタル現象」ではないかと思うのだにゃ。
これらの問題はシステム論であり、じゅうぶんに「人間性」「人間の意識に特有の現象」を十分に排除してる、
それは原始的な有機物の負の走光性のみならず、簡単なフィードバックを備えたデバイスにさえ(容量により強制終了)
虚無せんせ>652
>月
おととい、車からとてもきれいな月、金星、木星の配置をみますた。
あんまり綺麗だったので写真に撮ろうとおもいますたが、luneは狂気にも通じるので
もしかして縁起が悪いの?とおもってやめますた。
むずかしすぎて、こんなレスで申し訳ないです・・・
追伸:スザンヌの/e/が狭いのは方言のせい([je]、博多弁とかの「しぇ」とか)、「ない」が短く聞こえるのは
やっぱり方言で、「な」と「い」のピッチが違わないようなアクセントだから、だと思いますにゃん
へーかを見習ってアドリブ路線でやってたら、ただ難しいだけになったのかも知らんにゃ。
社会言語学みたいな文脈になってしまうけど、(わたしはバカサヨクだからいいのにゃ)
かな教育の制度化は日本語の言語的多様性に一定の犠牲を強いたと思うにゃ。
「おみゃー」(お前)というのは、そうカナ表記した時点で、いっしゅの体制側への取り込みであり、本来、表記を持たない複合母音あった
「おみゃー」は存続することは難しくなるし、語り継がれるとしても、表記された「おみゃー」を標準的に読んだものに過ぎなくなるわけである。
そんなことをいってみてもしゃーにゃい。吸着音の表記であった「ちぇっ」は、小説などで使用されるうちに
「ちぇっ」と読まれるようになり、日常生活でもついつい「ちぇっ」といってしまったりするにゃ。
まあ、このように<体制的>表記システムにも生産的な側面があったりする。
あ、そうだ。上のほうで「ガムをかみながらエと発音したような」奇妙な中絶母音の「イェ」が、
若い人間の電話の「もしぇもしぇ…」に現れている、というようなことを依然かこうとして容量いっぱいになってやめたのであった。
で、その「いぇ」が、アンゲラの歌の「拝啓、このでがみゅぇー♪」にも観察されるのであった。
こうしてみると、カナ表記という制度の中でも、けっこう発音というのは(二重母音かも含めて)バリエーションを持ちうるのかとも思うのであった。
(アンゲラがなにじんか知らないけど。)
そうすると、最初のほうの社会言語学的な、体制による言語学的多様性の統一化、要するに「日本語教育」
という大義名分を持った、植民地主義的<同一政策>というのも、ちょっと空論に見えるのだにゃ。
このへんは、もっと量化して考えないと、ただのイデオロギーになってどうにもたちゆかなくなるにゃ。
月の話は、同じような方角で見えたってこと?まあ、ひとつのじゅうにきゅうのなかに惑星が集中すると
なんだか知らないけど、何か起こるみたいだにゃ。
そのようなわけで、次回は「半月」のお話。こ魚先生は今後とも宜しく。
今夜は、ネットアクセスが不調なので、書き込めるかどうかわからにゃい。<蝕>のせいか…
「平和」や「戦争」を象徴する曲というのは書けるけど
平和を象徴する曲から、反-平和を象徴する曲が構成しうるのか、というのがこのすれの、ひとつの意義。
一組の相補的で排他的な状態、要するに2つの状態の集合{0,1}は…簡単に言えば、「計算する」ということの、
非常に原理的な取り決めになるにゃ。
これがただちに存在と無の問題になるのではなくて、むしろこの「相補的で排他的」という論理的な枠組み、
ふへんてきにわれわれの思考や「現象」のなかにあらわれており、少なくともそのように見え、
考えれば考えるほどいっしゅの極限的な境地、to be or not to beに追い込まれていくのである。
だが、ヨーロッパ的な存在動詞の使用が、彼らの思考をそのように強いた、と考える余地はまだあるのであり、
さらにサルトルにいたっては、受動/能動のような言語学的にはローカルだと考えられる見地を、
容易にみずからの「原理的な」思考作業の中に無批判に許容してしまう。
サルトルが無は存在するのではなく「存在される」のだ、というとき、このような思考を許すのは、
あるていどは仏語ローカルの条件によるものである。
サルトルを持ち出して、一瞬しまったと思ったが、世の中的には言語学というのは超のつくドマイナーガクモンであり、
どちらかといえば戯画化されて登場する哲学は、その認知がどのようなものであれ、
「チョムスキー誹謗」よりはましな作業ではないかと思えてくる。
というわけで、サルトルの敗因は、かれは存在者どうしの関係に満足する俗流自然科学・心理学を退け、
また、存在現象の背後に<本質>のようなものの実在を認める伝統的な形而上学も排斥し、
<無>にふさわしい思慮を払わない自称デカルト継承者フッサール(古くはフッセル)も批判し、
みずからは、デカルトが実在の源泉として考える私(コギト)を発見しようとしたように、
無の源泉として、自己意識を<対自>として発見した、と思い込んだところにある。
無の源泉というのは、そんなにムズカシイものなのか?これは…
へーかのお言葉を拝借すれば、エンジニアリングの問題ではなかろうか??
ところで、「自然が真空を嫌う」というのは、もちろん自然科学的な問いかけではなく、
もしも自然に真空があるとすれば、神による創(ここでオワリ)
あぁ何も手につかない…というわけで、「真空問題」というのは、
もし真空が存在するとすれば、この宇宙の完全性に重大な疑義が生じ、
もしその<隙間>に質料が存在したならば、宇宙は何らかの意味で「より多く」なるわけであり、
そのようなあいまいさが残る宇宙を神が創造したとは到底信じられないわけである。
これは神学的な問題であると友に、連続に関する論理的問題でもあったのであるが、このように数学が近代化される以前に
<連続>や<無限>の問題に取り組んでいたことが、後に数学の発展に寄与したのではないかと思えるにゃ。
まえのほうでちょっとふれたけれども、ギリシアの流出説というのは、宇宙の創生が
無からの創造ではなく、第一物質がある相転移を起こし、徐々に劣化しながら流出して世界を形成したというもので、
この教義は錬金術師に<オカルト>として伝承され、第一物質の復元はふつう貴金属の合成という形で象徴されるが、
ここでいう金とは、オリンピックにおける金と同様の象徴的意味しか持たず、重要なことは歴史を遡行することで、
純粋な第一物質にアプローチしようとしたことである。つまりフィルムを巻き戻すように物質の変化を逆にたどっていけば、
イベンチャリーには、原初の状態が復元できるというわけである。
(これはマンガかの諸星大二郎の『孔子暗黒伝』でモチフになっている、5行を反行して過去を再生させる思想と似ているのにゃ。)
それはともかく、中世神学、とくに10世紀以降のプレルネサンス以降、<哲学>はキリスト教とギリシア的世界観の習合となっているわけで、
そのようないみで、なぜ天動説が教会の反感を買ったのか、聖書では、天体というのは植物の後に創造されるほど
興味のない対象であったし、なんでそんなに天体の運行にこだわるの?というしばしばおめにかかるギモンのjこたえである。
このようなバックグラウンドのなかで17世紀にトリチェリの実験が行われるわけであるが、
(実際には真空と思われていたもののなかには水銀ガスが充満していた、それはいいとして)
これは単純に「中世の誤りを正した」というには単純すぎる問題である。それは自然科学者の側から見てそうであるだけ。
そもそも、中世神学が経験的でありであり、中世神学の仮説を覆した、ということになれば、
逆説的な(ココデイッパイ)
> 天動説が教会
こりゃ逆にゃむ。誰も突っ込まない。ほんとうにここは独語スレになってしまた…
ま、それはいいとして、ニラはアブラを多量に吸い込むため、どうもダイエットにはむかないだろう。
アブラといえば、わたしは幼少の頃、サラダ油の成分表示?カナにかで
「アブラが水分を一切含んでいない」ということを知って、ショックをうけたにゃ。
その当時、わたしにとって「水」というのは、物質であると友に、液体の流動性の表現でもあったのだにゃ。
だから、液体には必ず水分が含まれていると思い込んでいた…
このような思考は、おそらく物質の組成と素性の区別がなかった中世においては当然であった。
中世どころか、たいがい「おばか疑似科学」のいっしゅの道化的な存在である燃素も、
けっきょくぶっしつであるというより燃えるという性質の表現であったのである。
ある基礎的な物質量が、じっさいにマテリアルといての実体を持つのか、属性に過ぎないのかは…
そこにほんとうに排他的な論理が働いているのか、「どっちかでしかありえない」という偏狭な二者択一は
20世紀になって消滅してしまった。19世紀末に物理学がエネルギー一元論とでも言うべき境地に達し、
その後物質とエネルギーが置換可能だということになって、狭義の実体論は廃れたように見える。
このはなしはいささかだっせんしているのでこれまで。
なぜに神学的真理を反証すると逆説的になるかというと、それは相手を、自然科学の内部での
「可能な仮説のひとつ」とみなすことになり、ゆえに、神学が真正な自然科学であることを認める結果になるから。
これが通約不可能性と呼ばれるもので、俗にパラダイムのちがいとよばれるもの。
ここでは、単純に自然科学が神学的宇宙観を次々と論破していったみたいな、
単純な、あまりにもコンビニエントな科学史はお勧めしないというにとどめるにゃ。
「生物学が存在しなかったのは、当時生物が存在しなかったから」、にゃ。それではまた。
『every breath you take』パロディできたにょーん。もう音楽に対する愛情がないって漢字。
作詞に時間がかかって、
深夜に歌収録したので、ほぼ一発どり。Cメロはわけわかんなくなった…
http://www.geocities.jp/kyomsky2ch/ 『照合したいEvery move you make』
どういうたぐいのパロディかはおおよそ見当がつくと思う。そいじゃまた。
しまったこっち巡回してなかった。
>>661 ミスマッチなんとか(MME)は、非常に広範囲の知覚に現れるので、
早い話「イナイイナイバー」でもでるかもなので、ものすごく歴史が浅くしかもローカルな
2ビートをもちいるところにセンスのなさを感じるにゃ(´・ω・`)
はってもろうてなんだが。
一般的にいって、研究者本人のもつ一般常識に、研究デザインは限定されるのである。
(「ハトがモーツァルトとバッハを区別した」という結果は、研究者のクラシック理解に全面的に依存するにゃ。
だからこのばあい、研究者個人固有の何らかの弁別に、被験者が順応したとみなすべきで、
文字通り受け取れるものではない。)
だがもし、チョムスキー大先生のように開き直って、自分の直観が及ぶ範囲でまず
研究を始めるということであれば、ひとつのアイディアとして、拍節構造と、音階生成構造は、2と3のばいすうを「好む」
という点で、奇妙な類似点がある、といえる。
つまり、2と3を足すことより、かけるほうをえらぶのである。(そのため、5拍子は、比較的認知しにくい。
Take Five (5分休憩)をトイレで聴いていたら、即興部分になって、小節のアタマがわからなくなった…)
ピタゴラス音階生成の一般式みたいなのは、このスレのどこかに書いたと思うが、
めんどくさいので繰り返さないけど、とにかく基本的には2と3をかけるか割るかである。
へーかの音階認識はいまだに「等差数列」(足し算の世界)である。これは、心的ピッチが、
物理的周波数の対数に比例しており、対数というのはもともと、乗算を加算で代用できるために
天文学者に重宝されたものであるが、それはどうでもいいとして、へーかはいつもこのあたりで挫折するにゃ。
ここをクリアしないと、さらにムズーな音楽認知成立の歴史にせまれないので、
正直もう少し数字に強くなってほしいにゃむ。
暑ーーー。
存在動詞はヨーロッパ的知ではたいへん重要なもので、文法というより思考の分析に近かった
一般文法(PR文法)でも中心的な役割を担った。現在でも論理学的真を定義するものであり、
また神学的にも神の業績を象徴するものである。そのようないみで、
「真空の存在」は、神のみ業の不完全性を意味するものとして忌み嫌われたのであった。
現代哲学者でさえ、「存在は存在し無は存在しない」とか、じつにどうでもいい循環から
抜け出せなかったりする。それはいいとして、このような話を再びしたのは、
最近『ハムレット』の、to be or not to be, that is the question について書いたから。
この前半、引用部分というかCP部分というのは、論理学的にいえば真か偽か、に相当し、
ひょっとしたら、このブンは、<問い>というものの、一般的定義としても解釈できるのではないかと
考えたからである。もちろんこの解釈をフォローする翻訳は全然ない。
もしこれが問いの一般的属性をのべているものだとしたら、もっと簡単に言えば、
「イエスかノーか、それが質問というものである」、という解釈になる。あるいはもっと文学的にすれば
「然りや、否や、それが問ひである」みたいな。
ある問いを究極的に考え抜いていけば、いっしゅの究極的なイエスか、究極的なノーか、
に行き着かざるを得ない、そういう心理的場面を想定したのかも知れない。
そしてそのような「一般的な」含みを持たせつつ、具体的な自分自身の問いについて独白する、
わたしだったら、そのように解釈するにゃーと思ったりする。
それにしても暑ーーー。これからこのすれでは、「絶対に歌になりそうにない」レスに、
あえて作曲してしまうという不毛の試みをしたいと思うにゃ。ま、前からやりたかったんだけど。ほんにゃまた。
わたしは遅筆なので、またしてもサルトルの『存在と無』の話になってしまうのだにゃ。
とにかく、たまたまハムレットのセリフをとりあげただけなのであるが、<ネ>がバカブンケーであるわたしには、
かってに思想のほうが湧き上がってきて、非常に苦痛である。だがしかし、『存在と無』で、
<問いの可能性>が原理的に云々されており、わたしはその部分は、サルトルが<情報>という概念に行き着かなかったことによって、
非常に煩雑になっていると思うのである。それはともかく、あまり話題が拡散しないように…
やっぱり引用しておくのがいいかなと思う(´・ω・`)。
「…あらゆる問いは、本質上、否定的な答えの可能性を立てている、ということをわれわれは見た。…
いいかえれば、それがひとつ『無』として自らを開示する可能性はつねに開かれたままになっている。けれどもひとつの存在者が
<無いもの>として自らを開示する可能性がつねにあることをわれわれが予期しているという事実からして、
あらゆる問いの前提には、われわれが所与に対して一つの無化的後退をおこない、その結果、この所与は存在と『無』とのあいだを動揺する
一つの呈示となる、ということがふくまれている。それゆえ、かんじんなことは、問いを立てる者が、
存在を構成し存在をしか生み出しえない因果系列から、はずれる可能性をいつももっているということである」
サルトル全集『存在と無』106p(尋問書院)
で、じつのところ、ここで「無」といわれていることは、ある<問い>に対して、「そんなものはない」と、
ネガティブな判断に行きつく可能性のことで、そういう可能性が無ければ、そもそも<問い>などは発生しないのである。
ここでいう「問い」というのは、事実上われわれが発する「質問」にとどまらず、
われわれが日常生活の中でとっている態度が、つねにあるしゅの問題解決のタスク処理、というような形式をとっており、
それゆえに、たとえば、もっとも初歩的な問題として、あるタスクが成功したかどうか、というような<問い>には、
われわれはつねにさらされている、ということができる。と、サルトルはいいたいのである。
そしてこれが、つねに<無>に付きまとわれているような人間の意識、というイメージを作り上げる。
To be or not to be, that is the...
> 存在を構成し存在をしか生み出しえない因果系列から、はずれる可能性
ここのところは重要である。わたしは、これは人間固有の問題ではないと思うにゃ。
ここでいわれている問題は、外世界を持つ一つのシステムの問題として解釈できると思うのだのにゃ。つづく。
日曜日から、4拍子の『荒城の月』を3拍子に無理やり
アレンジしなおしたものを作ったが、いやはや…
何かのアクシデントで曲のデータが壊れてしまうことがあるが、ちょうどそれを
再生したようなかんじ。
楽曲構造をいわば破壊したのだから、そうなるのは当然だと思われるかもしれないが、
いやじつは、何か新しいことが起きるのではないかと期待してもいたので、がっかりあるにゃ。
ちなみに3拍子に変えるといっても、あの閉店のお知らせで流れる「ほたるのひかり」のように、
音符の長さを変えて、小節の頭の位置を変えないようなアレンジではなく、
4/4 はるこー|ろーのー|なはのえ|んーーー
を、
4/3 はるこ|−ろー|のーは|なのえ|んーー
というように分割したのである。
まあ、えられた結論は、旋律の記憶は拍節構造を伴って形成されるもので、
その構造をぶち壊すと、旋律の認識事態が極めて困難になる、という、さほど目新しくもないもの。
あるいみ、理論的にはかろうじて容認されるものの、きわめて不安定な曲というものも
「実在するのだ」、というようなことを再認識した。生成のアクブンのようなものかにゃ。
でも、完成したら、またageるのにゃ。
667 :
虚無ソキー:2009/03/10(火) 02:14:37 0
『荒城の月』@3拍子できた
http://www.geocities.jp/kyomsky2ch/kojo.mp3 何を意図したのかというと…
それは、楽曲の心的構造が、いつのまにか楽譜の視覚情報における「群化の構造」にすりかわってしまっている
ような気がしたから。じっさい、まとまった旋律の構造は、まとまった楽譜の音符の視覚上の群化と区別するのは非常にムズカシイ。
まあそういうわけで、『荒城の月』の旋律の、ピッチと音の長さの情報を変えないまま、拍節構造だけ変えて、
旋律が同一であることを知覚できるか、また、階層構造が保存されるのか、といった趣旨で作った。
結果的にはたいへん不安定な曲。わたしの内観では、別の旋律に聞こえる。
(ふつうの曲を聴いて3拍子か4拍子かわからないひとには、ただのかわったアレンジにしかきこえない)
ききますた。主旋律のリズムと演奏のリズムが違って聞こえたのみならず、主旋律と演奏のメロディが独立して
進んでいるようにきこえますた。
よかった…dat落ちしてなかった。
> 主旋律と演奏のメロディが独立して
バックグラウンドの演奏?まあともかく、主旋律が浮いて聞こえたとゆーことだと思う。
で、わたしのアタマのなかでも、この曲の伴奏と旋律を「ドッキング」(死語か)させることができず、
この曲は、打ち込みながら、その場でアレンジしていくというかたちになったのであった。
通常、打ち込みの前に、あるていどアレンジのアイディアができあがるのだが、この曲の場合、
旋律と伴奏を、<同時に>脳内イメージすることが出来ないため、
打ち込み内容からフィードバックさせつつ、場当たり的になった、ということである。
これは、けっこうめずらしい。
だから何かというと、旋律の記憶は、アナログレコーディングのように無構造で暗記されるわけではなく、
小節のアタマのようなものがマーキングされながら、構造的に解釈され記録されるのであろう、といういちおうの
推定が出来るのである。で、この推定は、<視覚イメージ>を経由せずに、聴覚イメージのみから
推定されたのである、このばあい。
どうでもいいけど、保全のためageておくのにゃ。
あれ…ageてなかった○┼< (ドテッ まあいいにゃ。
いくつかブログやtwitterなどを試してみたが、どうせ独り言を書くのなら、
この、もはや10年経とうとしている「2ちゃんねる」で十分なのではないか、と思うのであった。
(わたしが始めたのは2001年なので、10周年にはまだしばらく間がある)
greeという携帯コミュニティサイトにも誘われたけど、これはもはや全然世代的に違うのにゃ。
しかしこう、この「音楽はどこまでなんとやら」というスレほど見事に役割が終わってしまったスレというのは
なかなかにゃい。
もし何事かが不可能であるならば、その不可能であることを証明すれば、
あながちムダなことをしたともいえないだろう…。
ひとつのクルーは、<データ>とその<解釈関数>を中立的に分離して記述し、
音楽であるという基準がどこで発生するのか、を予断なく分析することである。つまり、
早い話、あるデータを「音楽のデータ」としてみなした瞬間に音楽が発生してしまうので、
もっと視点を根源的なところに置かないといけない、という話である。
そして、さらに重要なことには、言語の発生論においても似たような事情がみられるということである。
このようなナイーブな起源論が、無限後退をうむのみ、というのはすでに指摘されている。
(解釈されたという事実から遡行して、解釈されたものを逆生成してしまうから。ほんらいこれが「後付け」と呼ばれるものの正体である。)