>>1 乙です。では、お(^o^) や(^O^) す(^^) みぃ(^-^)
と思ったけど、目が覚めてきました。
前スレ終わるまでつきあえるかどうかは、わかりませんが。
>1
乙ですー
つか、前スレは容量オーバーが近いの????
そんなに長文ないから無事に1000逝くと思ってたw
5 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/04/17(月) 02:51:29 ID:sGK2cSh0
前スレ>760
「非モテ」がどんな必要性を感じているのか、俺には分からないし、
示唆するレスも特になかったと記憶してる。
ただ何らかの「モニョリ」はあるらしいことだけは、分かったけどね。
あとは彼らが考えればいいんでないのかな。
>ノンケのジェンダー規範がノンケ間で機能してるかどうかはこのスレの守備範囲外だよね。
>タチとネコのジェンダー論でしょ?
いや、だからさ。
俺が感じた、タチの「女らしさ」(他に言葉がないから「女」と使った)の押しつけは、
それじゃ何なのよ?
>ノンケジェンダー規範を、俺に押し付けていると考えられる。
ノンケのジェンダー規範じゃないとしたら、俺は何を押しつけられてるの???
>で、「俺らしい」の規範は?
何を要求してるの??
俺がどういう性格で何を好むかって話を要求してるわけ?w
デバガメもいいとこだねw そんなもん答えませんよバカバカしいw
それとも?? 答える必要がある??>ALL
「俺は俺らしく生きたい」。これで普通、分かると思うんだけどね。
6 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/04/17(月) 02:59:03 ID:sGK2cSh0
パート1を見れば分かるんだけども、
「ゲイのタチネコも、ノンケのジェンダー規範を内面化してる"のではないだろうか?"」
という表現があったはず。たぶん、モエのレスだね。
もしも、「ノンケジェンダー規範」ではないと前スレ760が解明してくれたら、
改めて考え直さなきゃいけないよね?
そうじゃなくて、俺が使った「ノンケの」という言葉に過剰反応してるだけなのかな?
ゲイが生きてる社会は、ま、ノンケ中心社会で、
男と女がくっつくことになってる。
で、それを奨励し維持するために働くのが「ジェンダー規範」だよね。
そういう中で「ジェンダー」を問題にするとしたら、
「ノンケの」って言葉はいらなかったかも知れない。
ま、俺としては、上述のモエ(多分)のレスが頭にあったから、
それに則ってそういう表現をしたんだけどね。
ほら、容量オーバーになった。
>前スレ757
「一抜けた」は「比喩」ですが、それをやるための条件設定を、
それをある個人ではなく、それを望む者すべてができるようにする、
ということです。これは「社会権」としての「人権」保障の問題で、
「人権」保障を「自己責任」で、ってことになると、これはもはや
「近代法治国家」ではありませんね。
Personal is Political というのは、「ジェンダー」「セクシュアティ」は
「個人的」に「一抜けた」ではすまない問題だ、ということです。
>はくタン
というか、こんなスレができるほど「モニョリ」の強度が大きくなったのは、
男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法ができたから、です。
ノンケのあいだでの「ジェンダー規範の解体」が先に進行し、
それによって「セクシュアリティ」の規範も解体されていくなかで、
ゲイに残存する「ジェンダー規範の再生産」としての「タチらしさ」
「ネコらしさ」への「モニョリ」がこれまでになく強度をもつ。
事態は「入れ子」になっているわけです。
それ以前にも「モニョリ」はあったわけですが、まあ、こうしたメディアが
なかったということだけでなく、それほどの強度ではなかった、
そういうことでしょう。
で、これはすでにビアンの方ではブッチの問題として生じているわけで、
モエタンはこのスレで初めてそれを知ったと言ってましたが、
そこから、バトラーは出てくるわけですね。ビアンというセクシュアリティと
ジェンダー規範が再生産する「男らしさ」との関わりが、そこで問題となるから。
>前スレ760
「規範」というのは「個人」のものではないので、
「自分で自分の『自分らしい』規範を作る」ようなものではない。
誰かとともに、つくりあげるもので、その「規範」によって
「自分らしさ」が可能となる。
そして「規範」は「縛るもの」ではなく、誰かの「自由」を可能と
するものです。何かを「禁止」するだけが「規範」ではありません。
>>5 名無しさんは「規範」=「縛るもの」だ、と思い込んでいるので、
話が噛み合わないんですね、きっと。これも「学校化」といえば
そうでしょう。「規範」が「校則」のイメージにしかならない。
8 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/04/17(月) 03:27:31 ID:sGK2cSh0
それから「俺らしく」だけどね。
「俺(自分)らしい」って何なのか、いったい何が「俺(自分)らしい」のかを
常に探っていたりする。
それは、俺だけじゃなくみんなそうなんじゃない?
けど、「これは俺らしくないな」ってのはハッキリ分かるわけです。
現実に「モニョる」わけだからね、分かる。「なんか違う」と。
だから、
「俺らしくない生き方(あるいは付き合い方)を強いられるのはゴメンだ」だけで、
俺は充分なんですよ、
ジェンダーを考えたり「ジェンダー規範を解体」しようと考えるにあたっては。
>俺は「俺らしく」生きたいと思ってるから、解体の必要があると考えているんだよ
要は、「俺らしさ」の探求を自由にさせてくれってことなんだよね。
あるいは、こうとも言えるのかな。
「お前(タチ)が考える・理想とする・好ましいと思う”らしさ”を押しつけるな」。
「何が”俺らしい”のか、俺に決めさせろ」。
俺が具体的に、タチのどういう言動を「押しつけ」と感じているかは、
悪いけどパート1の頭とか、テンプレにあるガイドラインあたりを読んじゃくれめえか。
ちっと疲れたーw
明日は7時に出なきゃいけないんでちょっと寝たいし。
ほんじゃノシ
>>7 あーー、、、俺の名前が書いてある、、、けど明日よむーー!! ねみーーーw
お休みン☆
たとえば「クィア・ファミリー」を承認する、というパートナーシップ制度を
つくることを可能とする「新たな規範」が、「規範の解体」を通じて
つくりあげられることで可能となる「自分らしさ」というものがある。
そして、既存の「規範」のもとではそういうパートナーシップ制度は
現実につくられていない。なので、「政治経済の要請」によってすでに
起きている「規範の解体」をさらに進める。今年来日したバトラーの
講演をパラフレーズすれば、こんな感じでしょうか。
ちなみに会場から笑いが起こったのは、「なんでパートナーは1人で
なければならないのか、2人でも、3人でも、それ以上でもいいわけです」と
バトラーが言った時でした。
そして、その「承認」は「社会的」になされなければならず、
どの「家族形態」を選択するかによって、その「個人」に対する
社会的権利の付与において「差別」が存在してはならない。
別にノンケで「核家族」だからといって「差別」は無いわけです。
何を恐れているのか、僕にはさっぱりわかりませんね。
>>9 徹夜にはならずにすみましたね。僕も午後から仕事でよかったです。
名無しさんは「これまではくタンがこのスレで行ってきたこと」であるらしい
「ジェンダーフリー」について、それを「否定する」とはどういうことなのか、
なぜ、名無しさんはそれを「否定する」必要があるのか、ということは
まだ答えてくれないようですし。気長に待ちましょう。僕もそろそろ寝ます。
前スレからとりあえずコピペ
585 :quarante-deux ◆42FM9sGQ4o :2006/04/16(日) 00:31:43 ID:0oWU/jj0
前スレ>584
「受け売り」の話が出ているので、ジュディス・バトラーが
「受け売り」をしている論文を2つと、バトラーがその著者に
行ったインタビューをひとつご紹介しておきます。
これはこのスレでこれまで語られてきたことを思い起こすとともに、
さらに別の思考へとつながる、そういう論文とインタビューだと思います。
急がずゆっくり読むことをお勧めします。順序としてはまず、
インタビューを読み、それから論文を1、2の順序で読み、
そしてもう一度インタビューを読む、というのがよいでしょう。
論文1:ゲイル・ルービン「女たちによる交通」雑誌現代思想2000年2月号特集「ジェンダー」
論文2:G・ルービン「性を考える」雑誌現代思想1997年5月臨時増刊号総特集「レズビアン/ゲイ・スタディーズ」
インタビュー:J・バトラー+G・ルービン「性の交易」雑誌現代思想1997年12月号特集「『女』とは誰か」
上の掲載雑誌に所収の他の翻訳論文や日本の研究者による論文もお勧めです。
ルービンにおいては「ジェンダー」と「セクシュアリティ」はばらばらに
問題とされている。僕がこのスレで使った言葉でいえば「身体の資源化」と
「性的差異の構築」が、それぞれは非常に説得力のあるかたちで論文1、
および論文2で論じられながら、その2つのつながりは見えてこない。
バトラーはその2つのつながりを「理論」で創り出そうとして、
『ジェンダー・トラブル』を書いた、とりあえずそう言えると思います。
それ以外にもつながりは創り出せる。自分の「身体」に関わるもの、
そして、ともに生き延びることができなかった誰かの「身体」に
関わっていたもの、だからこそ、ともに生き延びようとする誰かの
「身体」に関わっているものとして、バトラーの本を読むことからはじまって。
ルービンが実証的に挙げる事例は経済人類学の事例を除けば、アメリカの事例に
なるわけですが、では、現在の日本ではどうだろう、ということを考えてみることが
できるでしょう。僕はまだ観てないのですが、『ブロークバック・マウンテン』を
観た方をはじめ、このスレの参加者の方にもお勧めの論文とインタビューです。
コピペ続き
593 :禁断の名無しさん :2006/04/16(日) 15:00:17 ID:4eP/HwED
思考について思考した際の到達点ってのは
思考の外側に出るのか出ないのか・・・
594 :quarante-deux ◆42FM9sGQ4o :2006/04/16(日) 16:26:19 ID:0oWU/jj0
前スレ>593
その問いの「答え」ではありませんが、その「問い」をめぐる書物として
以下をお勧めします。いぬまわりさんのレス(これについては、おそらく、
ですが)も>593さんのレスも「性的差異」と関わっていることがわかる
(はずの)書物でもあります。これもゆっくり読むことがおすすめです。
ジャック・デリダ『触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』(青土社)
原題を Le toucher , Jean-Luc Nancy というこの書物は、le が「定冠詞」なのか
「人称代名詞(彼、それ、そのこと)」なのかは決定可能でなく、さらに
「彼、それ、そのこと」のどれなのかも、「彼」が「ナンシー」なのかも、
「それ」「そのこと」が何なのかも決定可能でなく、日本語に訳すことは
不可能なその書名に、その書物の「内容」(でも、ある書物の「内容」とは
なんでしょう?)が告知されている、ととりあえず言える書物で、
邦題を見ると、訳者の方々のご苦労が偲ばれます。
前夜に必要があって、ドゥルーズ=ガタリの L'ANTI-OEDIPE と
デリダの Glas を読み、「嫡出子」と「非嫡出子」についての
文章を目にした翌朝、このスレを見ると「妾の子」という文字が
飛び込んでくる。
先日、いぬまわりさんとお会いした際に鞄のなかに入っていて、
ゆっくり読み進めている『触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』を
開きながらスレを見ると、いぬまわりさんのレスや>593さんのレスがある。
ひとりでものを考えているわけではないのだな、ということを
改めて感じる幸福な瞬間です。
>593さんの問いについては、「外側」が「空間」「時間」とどうかかわるか、
その「外側」は「見る」「触れる」とどうかかわるか、といったことが、
まず、あると思うのですが、加えて「外側」と「外」との違いということも
あるように思います。上に挙げたデリダの書物とは別に、>593の「問い」に
ついては、ドゥルーズの『差異と反復』もおすすめします。ただ、邦訳は
誤訳も少なくないのが難点なのですが。
ドゥルーズについては先頃、ラウトリッジ社の入門シリーズで出された、
ドゥルーズとフェミニズムとの関連についての著作や論集の編集で
知られるクレア・コールブロックの『ジル・ドゥルーズ』が、
翻訳者としてはその実力に定評のある國分功一郎の訳で青土社から出ました。
同シリーズにはサラ・サリーの『ジュディス・バトラー』もあって、
こちらは先に竹村和子(他)の訳で青土社から出ています。
どちらも入門書の域を超えた研究書で、これらを読んでから、彼/彼女の
著作を読む、というのはまた別のおもしろさや楽しさがあるでしょう。
コピペ続き
595 :quarante-deux ◆42FM9sGQ4o :2006/04/16(日) 16:51:00 ID:0oWU/jj0
あと、このスレでのレスのやりとりを、「教祖と信者」のあいだの
「共依存」という関係を用いて「病理化」し、「政治的なメタファー」とする
「豊かな言説」の「貧しさの暴力」については、以下の名著をご覧ください。
スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い 新版』みすず書房
旧版『隠喩としての病い』と『エイズとその隠喩』の合本。
「あいつらは社会の『ガン』だ」といった隠喩に現れる「共同体」の「暴力」の
古典的分析。『エイズとその隠喩』はゲイというセクシュアリティを
めぐる論考としても必読の文献です。
そもそも タチ/ネコ ってジェンダーなの? 性嗜好の違いでしょ?
性嗜好はジェンダーから規定されないから タチ/ネコという性嗜好の規範にジェンダーの規範を当てはめるのは無意味だ。
っていうのなら分かるよ。
ペニバン着けてオッサンを犯しまくってる女王様に、セックスの最中に「女だから甘えて良いんだよ」と
言うことはとてもナンセンスに感じる。
「女だから甘えて良いんだよ」っていうのも、ジェンダー規範と言うよりも、性生活上の女の規範だと思うし、
http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.html ↑や世間一般で考えられてる解体すべきジェンダー規範とも全然違うんじゃない?
結局、はくのモニョりからジェンダー解体の必要に至るプロセスは全然理解出来ないんだよね。
ムリして理解しようとすれば、
他人の持っている性規範に自己のアイデンティティの危機を感じたはくが、
たまたま拾ったジェンダー理論に夢中になって、
ジェンダー規範が解体すればアイデンティが守られるという思想に支配されている
という風になっちゃうんだよね。
空を見たいと思って窓から外を見た人が、空は窓と同じ形だ、って思いこむみたいにね。
ついでに言えば、「俺らしくない」ことにこだわるのはアイデンティティ形成プロセスの一部だから。
社会学的な問題じゃなくて、発達心理学的な問題だ。
ジェンダー規範の解体よりも、時間の経過が解決してくれるから心配ないよ。
これもコピペしておこう。
>735
「ジェンダーフリー」なんてこのスレで主題になったことありませんよ。
「ジェンダーフリー」というのは、バックラッシュを起こしている側の
「不安の投影の産物」だとしか、少なくとも僕は考えていない。
まず、そんな言葉は英語には無い。あるのは、gender-equal で
「男女共同参画社会基本法」はThe Basic Law for a Gender-Equal Society です。
で、その gender-equality を実現するにあたって、たとえば、
「性別役割分業」や「性別職務分離」といったものを
「ジェンダー規範の解体」を通じて法整備を進め、解消していくことが
含まれる、他の先進国と同様に。それだけのことですね。
日本って「国連常任理事国入り」を目指す「先進国」なので、
これは仕方が無いでしょう。で、「国益」に従ってそれをやると、
バトラーが問題とする、ヘテロセクシュアリティを唯一の「正しい」
規範とする「ジェンダー」も「同時に」解体されてしまう、
そういうことです。「ジェンダー規範」が「ヘテロセクシュアリティ」と
連動しているのは、僕のせいではありません。
前者の政治経済的な問題に対応しながら、後者を維持するというのは
「論理的に」無理がある、しかし、その「無理」を通そうとすると、
GIDやインターセックスをめぐる諸問題が生じる。それが一昨年出て、
おそらくは今年中には竹村和子さんの訳で出るであろう、Undoing Gender 、
「ジェンダーをおりる」の内容ですね。
で、
>>7補足
ビアンの方では、ブッチとフェムの「男性」/「女性」ロールプレイ問題として
とっくに問題となり、問われ続けていること、日本でもそうだったことは、
上に挙げた、雑誌現代思想1997年5月臨時増刊号総特集「レズビアン/
ゲイ・スタディーズ」所収の「日本のレズビアン・ムーブメント」という
座談会での出席者の証言を読めば、わかることですね。僕は「当事者」主義は
取りませんが、これはムーブメントの当事者たちによる貴重な証言です。
それは1970年代からはじまって、現在に至っている。
「ジェンダー」という言葉もなく、「トランス」の存在も
まだはっきりしなかった頃に、ビアンはその「タチ」の
「男らしさ」、座談会の言葉を使えば「おとこ性」に対する、
「モニョリ」に直面し、自分たちで対話をくりひろげ、
そこからいろいろ変化してきた。今、このスレで行われているように。
「ネコ」の「女らしさ」の問題もあったようですが、それよりも
「タチ」の「おとこ性」の方が問題となったということのようです。
日本であれどこであれ、ゲイ・ムーブメントに僕は詳しくありませんから、
同じ展開が日本のゲイでもあったのかどうかは知りません。
しかし、ビアンとゲイとでこの「タチらしさ」「ネコらしさ」を
「ジェンダー規範」の「再生産」として問題とする、という
ことのタイムラグが、長ければ30年、短くても10年くらいはあるということは
どうやら言えるらしい。
その「非対称性」はどこから来るのか。それは要するに「ゲイ」も「男」だった、
ということで、「ジェンダー規範の解体」が、男女雇用機会均等法や
男女共同参画社会基本法ができるほどまでに進まなければ、その問題に
気付くことができないほど、「男」だった、そういうことで、やっと
ビアンに追いついた、そういうことなんじゃないか。さらには
トランス他のセクシュアリティおよび 801 や「非モテ男」が登場したことも、
この「タチ」と「ネコ」のジェンダー論が、ゲイの側でも
問題となったことの背景にはある。
僕が、スレの Part 1でモエタンに、「『タチ』と『ネコ』のジェンダー論は
ビアンの方では、とっくに問題となっている」と言ったことを、
これまでのスレでの対話をもとにパラフレーズすれば、そうなりますね。
フェミニズムもそうですが、理論は実践のあとをいつも追いかけて登場し、
それがさらに実践を変える。「タチ」と「ネコ」をビアンが「ジェンダー」の
問題として考えた、というのはアメリカでも同じで、それがバトラーの
『ジェンダー・トラブル』につながる。ムーブメントの担い手が、
実践によって自分の身体を通して考えたことを、理論は形式化し普遍化し、
さらにそれが理論をつくる者をムーブメントに巻き込みながら、
ムーブメントの実践を変容させていく。
ゲイの側でも「ゲイ・スタディーズ」というかたちで理論化が行われていることが、
日本でも目に見えるものとなった今からおよそ10年前に、
「ゲイ・スタディーズはフェミニズムと出会えるか」という問いが、
東大のシンポジウムで提起された。モエタンがそのシンポジウムに
参加していたかどうかは知りませんが、このスレタイには
その記憶がある。僕が覚えているのは席上にいた上野さんが言った、
「この『ゲイ』を『レズビアン』に換えて同じ『問い』が成立するか、
しないと思います。なぜなら、フェミニズムは最初からレズビアンと
出会っていたからです」(強調は僕によります)、今、すぐ手元に
そのシンポジウムの記録(アカーの出版物として出ています)が
ないので、正確ではありませんが、そういう主旨の発言です。
今、このスレで参加者がそれぞれにそれぞれのやり方で口にしている
「モニョリ」は、参加者の経験を通じて、はくタンの言葉でいえば、
「身体を通して」語られている。僕の一見、「難解」で「抽象的な」
言葉もそうなのだけれど、それは僕のレスを「読む」(「読める」では
ありません)ひとにしかわからない。
「身体の資源化」という「抽象的な」言葉がどう僕の「身体を通して」
出てきているか、「身体の資源化」の「永久化」に横領された
「性的差異の構築」という「難解」で「抽象的な」言葉が
どう僕の「身体を通して」出てきているか、それはたんにこれまでの
僕のレスを「読む」ことでわかります。僕がこの問題に関して「思考する」ことを
「喪に服する」ことだ、と言うことについても同様に。
僕は、このスレは、30年以上にわたるビアンの、ビアン同士の対話、
そしてビアンと他のセクシュアリティとの対話を、ゲイが「反復」している
ものだと考える。
そうみることの妥当性は、スレの参加者が上に挙げたビアンの座談会を読み、
それぞれに判断すればよいことです。
ビアンの30年間に及ぶ対話においても、はくタンみたいなひとはいて、
理論の言葉はそうした「個別の身体」が「モニョリ」を語ることを止められない。
むしろ、その「モニョリ」の強度を大きくすることの方が多い。
いくら理論が実践を形式化し、普遍化しようと、その「理論」の「普遍性」は
「個別の身体」に試される。ビアンの座談会を読むとそのことが
よくわかる。それによって、ビアンは分裂、連帯を繰り返している。
>>15さんのレスは「理論」ですが、それははくタンの「個別の身体」に
試されている。「性嗜好」についての「理論」であれ、「発達心理学」という
「理論」であれ。それらの「理論」が、はくタンが「モニョリ」を語ることを止められないなら、
それらの「理論」はたんに「普遍性」をもたない、それだけのことです。
「身体」に関わる「理論」のパラダイムチェンジは、その「理論」が
「個別の身体」によって試されることで起きる。
この「理論」の「普遍性」については、前スレで挙げた、バトラー、
ラクラウ、ジジェクの『偶発性、ヘゲモニー、普遍性』を参照してください。
737 :はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/04/17(月) 01:36:49 ID:sGK2cSh0
>紛らわしくて迷惑だし、このスレにジェンダーフリー否定論者が入ってくるのはそちらにも迷惑でしょ?
別に迷惑じゃないですよ。
否定するなら否定するで、それ相応のレスならば歓迎するよ。
ただし、俺が要求するのは、「自分の身体を通したレス」ということだね。
誰か著名人が言ってるから(「双子の症例」の話題など)ジェンダーを否定するんだ、
とかじゃ困るんですよ。
そういうものに「立脚」してやりたいならば、相応しい板(男女板か?)とかが
あるわけでしょ? そっちへ行けばいいよね。
てか、俺は、そんな「議論」とか分かんないしね。
そうじゃなくて、タチとネコの「身体的なモニョリ」に立脚したジェンダー論を
やりたいわけでさ。
何度も出して申し訳ないが、
バトラーの「ジェンダーが性を規定する」ってのは、
42さんが、「そういう言質があるんだよー」と紹介してくれたからとか、
バトラーが有名なジェンダー研究者だとか、そういうの、俺は関係ないんですよ。
42さんだろうが有名人だろうが、ピンとこなけりゃピンとこないままなわけ。
身体で分からないわけよ。
だけど、前スレ中盤で書いた通りに、
「恋愛しない女は女じゃない」というブログ管理人の一言で、
ばーーーーっと理解できたんですよ、バトラーの言質をね。
つまり、俺は、俺の身体でバトラーの言質を理解したってことなんだよ。
そういうレスを、否定派の人たちは書いてるの??
書いてないでしょ??
書いてるならアンカー引いて見せてよって、前から言ってるんだけどね。
要するに、そういうレスができるならば、
否定派が来たって構いませんってことなんだけどね。
前スレではくタンが書いたこのレスは、この「理論」の「普遍性」と
「個別の身体」との関係を、言い表している。
ビアンの対話でも、フェミニズム理論の言葉はさまざまな反応を
生んでいる。それが次の実践に、そして次の理論につながる。
それをバトラーは「触発する言葉」という。
このスレの現在の展開をみるとますます「反復」だなあ、と思うわけです。
そして「反復」は「差異」を生む。ゲイの実践に、ゲイの理論に
どうこの「反復」が「差異」をもたらすか、それはまだこれからでしょう。
僕が「第1幕」が終わったばかり、言ったのはそういうことでもあります。
>>20補足
文章でわかるとは思いますが、はくタンのレスの引用は
「前スレでは」の直前までです。
そうですねえ……
俺は「理屈」とか「理論」なんてものはよく分からないし、たいして信じちゃいないのね。
前スレにも書いた通りに、自分の身体を通してピタッとくるものを信じる。
だから、このスレに出てきた、さまざまな「モニョリ」を尊重するし、
無条件で受け入れたいわけよ。
で、そこから何が見えてくるのか・どういう問いや問題を見いだせるのか、ってことを
考えたいんだよね。
リアル女友達と、ジェンダーについて話をした時に。
「あたしは好きな人と結婚して、子供を産んで、
仕事もばりばりこなして、老後は孫に囲まれて暮らしたいの。
それがどうして悪いの?」みたいな事を言われたんだよね。
「悪い」なんて俺は思っていないんですよ。
それが彼女が理想とする「幸せの形」ならば、それに向かっていけばいいと思う。
だけど、その彼女が結婚して子供をもうけた時、
ろくに恋愛もせずに黙々と日々のメシ代を稼ぐ独身女に、
「自分の幸せの形」を押しつけたりしたら、ちょっと待てコール、なわけ。
押しつけってのは、
「なんで結婚しないの?」とか「子供っていいもんだよ」とか言うってことね。
これが更に激しくなると「あの人なにが楽しくて生きてるんだろう」や、
「何か欠陥でもあるんじゃないの?」へエスカレートしたり、ね。
これ、「独身女」を「独身男」に変えても成り立つよね。
独身男の場合は「いい年こいて独り身」ってのはいろんな意味で敬遠されがちじゃないのかな。
オタクだの性犯罪だのについて何かと取りざたされる今は、特に。
彼女が理想とする「幸せの形」は、万人が理想としている唯一絶対の形、ではないんだよね。
だけど、そこを間違えてしまう人というのは、居る。
居るから「モニョリ」なんてものが出てくるわけでさ。
俺がイヤだなあと思うのは、そこなんだよね。
「幸せ」が、彼女が体現する「幸せの形」しかあり得ないんだったら、
子供を産めない女やAセクの人や同性愛者や障害者は、「幸せ」とは縁がないって
事になってしまう。
だけど現実は、そうじゃないっしょ。
そういう人々も自分らしい「幸せ」を感じてるだろうし、
自分らしい「幸せ」を追求するだろうし、また、追求してもいいわけでしょ。
「クィア・ファミリー」だって、ひとつの「幸せな形」じゃん。
それなのに、これが唯一絶対だと、ある「幸せの形」を押しつけられ、
そこからはみ出してると判断されるやいなや差別されたり排除されたりするってのは、
どうかと思うんだよ、俺は。
「ひとの数だけ「幸せの形」はあるわけで、君が理想とする「形」も、その中のひとつだよね」と
彼女に言ったけれど、通じたかどうかはちょっと分かんないw
ジェンダーを規範することで、そういう考え方をできるだけ多くの人が
身につけてもらえれば俺の「モニョリ」はとりあえず解決する、のかな。うん。
まあ、ぬるい意見なんだけどw、今んとこ、そんなふうに思ってマス。
ラストから3行目を訂正。
ジェンダーを規範することで ×
ジェンダー規範を解体することで ○
だったw
無関心でいられる相手、理解してあげられてると思える相手、理解しあえてると思える相手
これらと対峙する場合なんの人ってなんの問題もなく対処できると思うの。
逆に理解できない(><;)って相手の場合でも理解できないという立場がはっきりしていれば
ストレスはあっても対処できないことはないと思うの。
逆に無関心に思われる、理解をしてあげていると思われる、お互い理解しあえていると思われる
そんな立場にたたされたときのほうがあれこれ考えちゃうのだわ、あたしは。
結局どれもこれも勝手な思い込みなんだろうけど、他人の思惑を考えずにはいられないの。
その思惑を探る足がかりみたいなものよね、男だとか女だとか、性志向?嗜好?とか
>>15 > ペニバン着けてオッサンを犯しまくってる女王様に、セックスの最中に「女だから甘えて良いんだよ」と
>言うことはとてもナンセンスに感じる。
>「女だから甘えて良いんだよ」っていうのも、ジェンダー規範と言うよりも、性生活上の女の規範だと思うし、
「女だから〜」というのは、「性行為」の最中や「性生活」のなかでだけ、言われるものではないでしょう。
それにどちらかというと「女なんだから〜」ですね。「女なんだから、掃除くらいちゃんとしろよ」とかね。
「片付けられない女」はニュースでシリーズ特集が組まれても、「片付けられない男」はそうならない。
はくタンにしたって、彼氏との「性行為」の際に「ネコなんだから〜」と言われるんじゃないでしょ。
むしろ、「性行為」の際に「女なんだから〜」とか「ネコなんだから〜」とか、言う方がめずらしい。
>>15さんの挙げた例は、「生活」を「性生活」に限定している点で、はくタンの話と噛み合わない。
>>15さんのパートナーとの「生活」だって「性生活」以外にあるだろうと思う。
同居してるタチから、「おまえさぁ、ネコなんだから〜」と言われる。自分もタチに対して気付くと
「タチなんだから〜」と言っている。その「〜」の部分が既存のジェンダー規範の「女らしさ」
「男らしさ」に相当する。そこで「モニョリ」が発生する。性生活に限ったことじゃない。
ふと言ってしまう何気ない「ネコなんだから〜」「タチなんだから〜」に規範としての
ジェンダーが現れる。逆に「タチ」の方が「タチなのに〜」だとか、「ネコ」の方が
「ネコなのに〜」と自分でそういうことを言ってしまうこともある。「女なんだから甘えても
いいんだよ」というのも、「男なんだからもうちょっとしっかりしてよ」というのも
別に「性生活」だけで言われるわけではない。「生活」全体に影響を与えている
規範としてジェンダーがあり、その規範の効力はゲイにもビアンにも及んでいる。
そして、「窓」と「空」の比喩でいえば、「窓」が「規範としてのジェンダー」、
「空」が「セックス」、「窓枠のかたちになった空」が「セクシュアリティ」。
「ジェンダー」が「セックス」を規定し、それを通じて「セクシュアリティ」を
構築する。そして「窓」は「リフォーム」できる。
で、そこには、「窓」はいくつあるのか、その「窓」は「ひとり」に
「ひとつずつ」なのか、「窓」を「リフォーム」して「窓枠」の大きさ、
かたちをどのように変えられるか、その「リフォーム」を誰かといっしょに
行うことは可能か、できあがった「新しい窓」からその誰かと「空」を
見ることはできるか。
たとえば、はくタンが自分の目の前にある「窓」を「リフォーム」しようとしていて、
>>15さんがそれを止めようとするときに、「だって、『誰々さん』が言ってるように、
そんなことしたら『みんな』が迷惑するじゃない」では、はくタンは納得しない。
はくタンが聞きたいのは、
>>15さんの「だって、あなたがそんなことをしたら、
『私』がこうなる、だからそんなことはしないで欲しい」という言葉、
>>15さんの「私の言葉」で、そこからはじまる「対話」をはくタンは求めている。
はくタンが
>>24のように考え自分らしい「幸せの形」を追求することが、
>>15さんの「私」にどういう影響を及ぼすのか、まずはそこを考え説明する、
giving an account of myself することが必要なんじゃないでしょうか。
はくタンはいつもそれをやっているし、
>>24でもやってるわけですし。
で、それとは別にひとつ質問が。あなたは前スレで、「ジェンダーフリー」とは
「これまでこのスレではくタンがやってきたこと」である、と言っていた名無しさん
なんでしょうか? だとすると、
>>15では、はくタンが言っているのは「ジェンダー」
ではない、ということになり、再び、「ジェンダーフリー」というのが
なんなのか、わからなくなる。はくタンへのレスの応答のつながりとか、文章のくせ、句読点から、
前スレ>752さんかな、と思うわけですが。
>>27で述べたことは、はくタンへの説得の言葉が「だって、『誰々さん』が
言うことによると、『リフォーム』の必要なんてない、ってことなんだから」と
なっている、
>>15についても同じことが言えます。
>>15さんが「窓」という比喩を使ってしまうように、「リフォーム」可能な何かがあり、
そして別のかたちの「空」を見たい。これは「窓」という「リフォーム」可能なものが
つくりだす「欲望」 desire で、これが合法的に満たされるなら、別に問題はない。
たとえば、PACSのようなパートナーシップ制度はそうやってできる。
>>24の
はくタンの言葉でいえば、「幸せの形」がいろいろ増えることで、自分らしい
「幸せの形」を追求することができるひとが増える。
誤解してはならないのは、「窓」が「リフォーム」可能である、という事実、
はくタンが生まれる前から死んだ後まで変わらない事実、がそうした「欲望」を
つくりだすのであって、これは何もはくタンに限ったことではない。
つまり、「リフォーム」して別のかたちの「空」を見たいという「欲望」は、
はくタンの「個人的なわがまま」ではない。見たい、という「欲望」を
抱き続けながら、死んでいったひともいる。はくタンとは別のかたちの「空」を
見たい、と思いながら生きているひともいる。自分らしい「幸せの形」を
追求しながら叶わず、死んでいったひともいる。はくタンとは別の自分らしい
「幸せの形」を追求して生きているひともいる。
そして、「ジェンダー」と「セクシュアリティ」をめぐって自分らしい
「幸せの形」を追求し実現することは、「社会権」に含まれる。
これは「人権保障」の問題であるわけです。 Personal is Poltical ですね。
しかも、それは今やグローバルな「人権保障」である必要があるけれど、
とりあえずはナショナルなレベルでいろいろと制度を整備してもいい。
以上の説明は、
>>15の「窓」と「空」という比喩が可能にしている説明で、
>>15さんはバトラーの言っていることを正しく理解し、それを適切に比喩化している。
「窓」が「リフォーム」不可能だ、というのは無理です。じゃあ、それをどう
そのかたちにつくったんだ、ということになりますから。
>>27-28 分かりやすく書いていただいてありがとうございます。
100%その通りです。
>見たい、という「欲望」を抱き続けながら、死んでいったひともいる。
>はくタンとは別のかたちの「空」を見たい、と思いながら生きているひともいる。
>自分らしい「幸せの形」を追求しながら叶わず、死んでいったひともいる。
>はくタンとは別の自分らしい「幸せの形」を追求して生きているひともいる。
うん。……42さんの「喪に服す」は、まさにそんなイメージです@俺
「ジェンダー」とか「セクシュアリティ」という言葉の定義はとても難しいという話は、
これまでにさんざん既出なんだけど、
>>15と俺の、「ジェンダー」て言葉をめぐる食い違いは、
ひょっとしたらジョン・マネーにあったりして。
「双子の症例」話を出したのが
>>15かどうか分からないけど、
ジョン・マネーが使ってる「ジェンダー」って、
俺が使ってる「男らしさ・女らしさ」とは違うみたいだから……
>>29 これは別にはくタンと
>>15さんのあいだや、どうやらそれとは必ずしも一致しなさそうな
「ジェンダーフリー肯定論者」と「ジェンダーフリー否定論者」とのあいだに
限らずね、たとえば、自分らしい「幸福の形」を求めて、原理的には、セクシュアリティに関わらず、
無際限にパートナー関係を契約することができ、子どもをもち、育てることもできると
いったパートナーシップ制度をつくりたい、というひとがいたとして、
それはつくって欲しくない、というひとがいるとしたら、両者のあいだで
「折衝」 negotiations ,pourparlers としての「対話」が必要だと思うわけ。
その時、こういう制度をつくるとこういう「私」が可能だからこういう制度ををつくりたい、
ということを言われ「モニョる」なら、その「モニョリ」を、そういう制度をつくられると
「私」がこうなる、だからイヤなんだ、と、たぶんその作業はさまざまな理由により大変なんだけど、
その具体的な説明 account なしでは、「対話」にはならない、と思うわけです。
上で例に挙げたパートナーシップ制度は、現在のヘテロのカップルによる
「核家族」も含んでいる。現在のノンケカップルの「幸せの形」は
選択可能なわけでしょう。にもかかわらず、そうしたパートナーシップ制度を
つくって欲しくない、なんか「モニョる」としたらそれはその制度によって、
「私」の何がどうなるからなのか、その「モニョリ」を説明することから、
「折衝」としての「対話」ははじまる。
これはいわば、これまでゲイやビアンがやってきた「カミングアウト」を
ノンケもやる、ってことなんじゃないかな。「カミングアウト」は
「ビカミングアウト」で、さらにそれは一度では終わらず、繰り返される。
誰もができることではないけど、「カミングアウト」によって、なぜ、
自分はこのセクシュアリティを選択しているのか、ということを自分に
問い直し、選び直すわけね。「私は〜だから、このセクシュアリティを
選ぶ」と自分に、そして他者に、説明しながら。
ノンケもまた、自分がなぜノンケなのか、ってことを自分に問い直し、
自分がノンケであることを選び直す、ってことがあってもいいし、
上のような「折衝」としての「対話」は、その「カミングアウト」なしには
はじまらないんじゃないか。
そして、その「なぜ」という「問い」への「応答」の主語は「私は」で、
「私たちは」とか「みんなは」ではない。「私たちはあなたたちと違って
普通だから、異常じゃないから」とか、「みんなが同じように選んでいるから」、
ということではなく、「私は〜だから、このセクシュアリティを選ぶ」ということを、
それぞれが言い合う、って場があって、いいんじゃないか。
ノンケに限らず、他のセクシュアリティも。それぞれのセクシュアリティを
選び直す「機会の平等」が保障されるというかね。
giving an account of oneself ってそういうことでもあると思う。
ちなみに、上のようなパートナーシップ制度に「モニョる」ゲイやビアンも
トランスも、その他のセクシュアリティもいると思うわけね。「シングル」は
どうなるのか、とかね。それもそれぞれに言っていけばいいと思う。
そしてそうやって選び直すなかで、ジェンダー・スタディーズや
クィア・スタディーズが立ててきた「問い」がもう一度、
それぞれの「身体を通して」問われ直し、制度構築が行われる。
「ジェンダー」や「セクシュアリティ」という語の再定義も
そうやって行われていくんじゃないか。
31 :
前スレ757:2006/04/18(火) 03:20:21 ID:h6fjZzkB
>>7 社会権とか人権とか近代法治国家に括弧がついてる意図がいまいち不明だけど,
それが比喩ではないことを前提にレスしてみますね。
ジェンダーに関する諸問題ってそもそもは自由権の問題じゃないの?
近代法治国家では憲法によるプロセスを経た規範以外には縛られないのがデフォルトですから。
事実上の問題として,ジェンダー規範に縛られて生き辛さを感じている人がいるとしても,
それがどこでどうやって社会権の問題に変還されちゃうのかは僕にはよくわかりません。
社会運動とか意識改革とかの必要性という話ではありうるのはわかるけど,
人権,社会権の問題にするのは少々無理があるんじゃないかというのが僕の感想です。
>>7には,規範は個人のものでもないし,縛るだけのものだけじゃないっていう指摘もありますが,
こと人権という文脈では別です。規範が自由を可能にするというのは
あくまで反射的効果でしかありません。(もちろん人権という文脈において,という限定付きですが)
だから上記での「規範」という言葉は縛るものに限定してレスしています。
もっとも,上のレスは,
>>7の「人権」「社会権」が比喩だったとしたら,まったく筋違いになりますが・・・
>>28 >>30 幸せの形に多様性が欲しいっていう要望は僕自身にもあります。
ただ,ナショナルなレベルで制度を整備となると,現在の日本はじめとする諸国家では
やはり最終的には多数決の原理にのっとるしかないでしょ?
で,多数決が正当性をもつのは,僕が前スレでモニョってると言っていた「客観性」なるものが
主観の総体だからじゃないの?
確立された「客観性」が存在するんだったら民主制なんて不合理でしかないんだから。
(民主制なんて不合理だという議論はそれはそれであっていいと思うけどね。
さらに民主制の例外が人権という概念だっていう話もあるけど,それの点はとりあえずパス)
>>30で言われてるような「折衝」とか「対話」が必要なのは激しく同意。
ただ,そこに「客観性」の盾をもちだすと,もうこれは嫌悪感を感じられるだけだと思うんよ。
単に主観の応酬でもいいから,対話の場が継続して確保されるのが一番大切なことだと思うわけ。
それがカミングアウトなしには始まらない,って意見には同意です。
と,よく考えないで文章をつらねてしまったけど,もしかすると
>>23 >俺は「理屈」とか「理論」なんてものはよく分からないし、たいして信じちゃいないのね。
と同じようなことを言いたかったのかもしれない。
自分らしさってのも社会の規範から獲得するもんじゃねーの?反発するにしても迎合するにしても
33 :
578:2006/04/18(火) 07:00:56 ID:6i7FPNTZ
どもです。まえスレ578です。
難しい話は出来ませんがずっと読んでいると
要求させてるのはどうもそれだけじゃないみたいですし
はくさん的に言えば体を使った話?があまり出てこないので
ひとつ自分の話など。
自分は10歳上の人と付き合っていたとき
セックスはタチでしたが甘えるのは大体自分の方でしたね。
自分にはタチだからこうでとか規範があまりなかったんでしょうね。
でもその後同じ年の人とではセックスはウケだったのに自分がなんとなく
リードと言うか以前は相手の胸に顔を埋めだったのが
自分が相手を胸でギュってしてました。(うわっ自分語りってなんだか恥ずかしい)
そのときあれ?以前と逆って気がしたんですが自然とそうなったので
あまり深く考えませんでした。
自分はあまりタチかウケかそれほど気にしてなかったし
相手が聞いてこなければそんな確認はしないまま付き合っていることもあります。
相手があまりジェンダー規範?を押し付けてこなかったので
モニュル(この言葉もいまいち漠然と使ってますが)ことがあまりなかったですね。
だからといってまったくモニュったことがないわけじゃありません。
モエさんがいたころの雑談では禿同なことがたくさんあって爆笑したりしてました
実際言われたことないですが、甘えていいんだよとか言われると
激しく鳥肌立ちますね。言われたことで覚えているのは、もっと声だせよ。
とか一人じゃないんだよ。とかそのときもなんか違和感があったのおぼえてますが。
自分はあまり考えたことないことこんな風に話している人たちが
いたんだーって。つい最近までジェンダーって何じゃらほいでしたから。
そんな自分だから(強制された苦痛があまりない)規範と言うものにあまり嫌悪感がありません。
誤解を恐れずに言うならちょっとした憧れもあるんです。(ジェンダーに限らず
いろんな規範に対して)
と言うのも現存の規範が身についていてそれに違和感がないなら
いろいろ考えて複雑な自我持たなくてすみますよね。
>>24の女性なんか単純にうらやましいなーとか思っちゃいます。
規範を求めてしまうのはなぜなんだろうってちょっとおもっていましたが
42さんの
>>7で
そして「規範」は「縛るもの」ではなく、誰かの「自由」を可能と
するものです。何かを「禁止」するだけが「規範」ではありません。
を読んでなるほどって思いました。
それにしても日曜日の夜は展開が速くて数時間遅れでスレおかけって
翌日頭がぼーでした。普段使ってない頭にはいい薬です。
34 :
578:2006/04/18(火) 07:49:01 ID:6i7FPNTZ
訂正
上 モニョルでしたね。
女性検事正:実年齢「オープンに」 公表拒否受け法相会見
高松地検の川野辺充子検事正(60)が就任会見で年齢の公表を拒む一幕があり、
杉浦正健法相は18日の閣議後会見で「世間では女性に年を聞くのはタブー。気持ちはよく分かる」と述べながら、
「法務・検察幹部の年齢は公益性が高い情報。隠すことはない。オープンでいい」との認識を示した。
12日の就任会見で記者から年齢と生年月日を聞かれた川野辺氏は「プライベートなことなので」
「女性に年齢を聞くんですか。すごいですね」などと述べ、公表を拒んだ。
法務省が発表した人事異動の資料でも、川野辺氏が公表に同意せず、当初は生年月日と出身大学が伏せられていた。
一部記者の指摘後、これらの情報が記載された略歴が改めて配り直された。
川野辺検事正は7日付で最高検検事から同地検検事正に就任した。
過去に秋田地検検事正も務めており、二つの地検で検事正になったのは女性では初めて。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060418k0000e040063000c.html
>>33 どもです(・∀・)
>現存の規範が身についていてそれに違和感がないなら
>いろいろ考えて複雑な自我持たなくてすみますよね。
>
>>24の女性なんか単純にうらやましいなーとか思っちゃいます。
実際のところ、そういう人が多いと思いますよ。
誰かが規定してくれた形をなぞって、それを喜びと思い込む方がラクだろうし、
そうやってた方がモテるしさw
(↑皮肉とか意地悪に聞こえるかも知れないけど変な意味じゃないです)
俺も、
>>24で書いた彼女を羨ましいと思う時があります。
「そういう"幸せ"を無条件に信じることができるなんていいなあ」ってのと、
「その"幸せ"を叶えられる可能性が高くていいなあ」ってのと両方の意味で。
でも、いくら羨ましくても結局俺は、信じることもできないし、
叶えられる可能性も限りなく低いんだよねw
もうなんかさ、、
誰かが望む/規定する「男らしさ」とか「女らしさ」ってのが、
よく分からなくなってんだわ。
こんな俺でも前は適当に把握してて
「タチにベタベタに甘えるネコ」でいられた時もあったんだけどね。
多分、いま、相手から"ネコらしさ"or"女らしさ"を要求されても、
(それ何? なんで?)と思っちゃう、と思う。
>>26じゃないけど、相手の「思惑」について考えてしまう。
これはもう、どうしようもないかなあ……
>>30 ノンケって、「疑うこと」を知らない&慣れていない、と思う。
「みんな」〜〜だから。
それが「当たり前」(「普通」)だから。
で、何となく納得しあってる感じ。
なんで自分は異性を愛するんだろう、とか、自分は本当に「男(女)」なのかとか、
そういう事を考えないんだよね、そもそも。
「窓枠」を少し弄れば、それらが非常に曖昧なものに過ぎないと
気づくんじゃないのかな?って思うんだけど。
俺の経験では、ノンケとのそういう「対話」所はリアルでは難しい気がする。
ネットが一番よさげ。
前スレ1ヵ月持たなかったのね。
ここの参加人数どれぐらいなんだろう。
前スレは4レスぐらいしか書けなかったような。
環境問題がどうとか「萌えるブロークバック・マウンテン」とか。
>>37 >なんで自分は異性を愛するんだろう、とか、自分は本当に「男(女)」なのかとか、
>そういう事を考えないんだよね、そもそも。
ネットでもこういう話をすると「それが生物の本能だから」で思考停止されてしまう
ことに納得いかない。昆虫おたくかつバイセクシュアルの本能としてw
昆虫オタクかるバイの「モニョリ」ですねw
ノンケも、何らかの「モニョリ」を持ってないと、そういう話はできないよね。
過激な「バックラッシュ」な人々ってのは、その最たる例じゃないだろうか。
だからこそ、このスレに来る「否定派」だか「バックラッシュな人」だか知らないけども、
彼らに「そのモニョリを語れ」と俺は迫るのさ☆
40 :
578:2006/04/19(水) 00:36:20 ID:8F0Litww
>>36 どうもです。
僕も楽なほうを選んでいる自分がいいのかなと思うことがあります。
つまり現存の規範に甘んじることですが。
規範を壊してもまた新しい規範を作らなきゃならないから
いつしか悩むのがめんどくさくなったのかもしれません。
それはある意味妥協ですよね。今ある規範も何かが壊れて出来たのだから
壊すことを恐れてはいけないかもしれないですけどね。
まあ、、、何だろ、、つまり
現存の「(ジェンダー)規範」は>24の女友達の自由を可能にしてるが、
俺の自由は可能にしてくれないって事でしょうか。
それで彼女の自由が「約束されている限り」はそれに執着するって気持ちも、
分かるんだけどね。
でもこっちにしたら(冗談じゃねえやヽ(` д ´)ノ)みたいなw
てか、その「連続」は面白いですねー>今ある規範も何かが壊れて出来たのだから
アンチジェンダーフリー派の主張の中に、
物心とかつかない幼児を集めて何かの実験をすると、男女で別れるってのがあるんだよね。
詳細は覚えてないんだけど、確か、
男児は青を選び、女児は赤を選ぶという"傾向がある"、みたいな。そんなの。
当然、それぞれ100%ではないんだけどね。
なんかねえ……だから何??って感じ。
青を選ぶ子供がいて、赤を選ぶ子供がいる。それだけの話じゃん。
それだけの話なのに、変に「男女」で別けたら、
トーゼン、青を選んだ女児と赤を選んだ男児は、どうすりゃいいのヨ?ってなるよねえ。
その、「どうすりゃいいのヨ?」の声を切り捨てるのに、どういう理由を使ったんだろう。
多数決で「富国強兵」めざして一致団結??
玩具業界とかが効率的に玩具を作って売りたいから、だったりしてw
42 :
578:2006/04/19(水) 01:19:25 ID:8F0Litww
>>41 >>41 面白い話ですね。
でもちょっと分からないのは自然発生的に男女に分かれたんですか
それとも意図的に男女という目線が組み込まれていたのか、、
それともそんなことは問題じゃないのか。
すいませんいまいちピンとこないです。
43 :
578:2006/04/19(水) 01:37:53 ID:8F0Litww
連続ですみません。
あーなんとなく分かってきました。
自然に男女に分かれるんだから性差はあって言いという主張ですね。
そしてそれにあふれた自分はどうしてくれるんだーと。
自然発生的に別れたんじゃなかったかなー
ま、科学的な実験なんだから(多分)、
結果に何らかの差異を見い出すのは当然だし、
それが顕著に現れたのが「性別」という差異なんだろうけどさ。
少数派と多数派との差異(個体差?)も忘れたら
ダメじゃないんかなって思った。
>>43 「あって良い」というか、「性差は産まれつきのもの」って事らしくて、
だから「ジェンダーフリー」だの「ジェンダーレス」だのは
産まれつきのものを捻じ曲げるものだって主張だね。
俺がふったネタなのにいい加減でスマソなんだけど、
「あぶれた」のが何%になるのかは分かんないや。
俺的には、1%でも無視はできないだろうって思うけど。
46 :
83:2006/04/19(水) 01:55:07 ID:NFQASLRF
>>40(578タン)
>僕も楽なほうを選んでいる自分がいいのかなと思うことがあります。
>つまり現存の規範に甘んじることですが。
それを楽だと思えたらどんなにいいだろう、とつくづく思います(厭味じゃないですよ)。
もちろん、わたし自身も無自覚に巻き込まれている規範がありますが、
それに気づいたとき、「別にこのままでいいじゃん」とは思えず、
それまで内面化してきたことに気づかなかった自分の鈍感さに嫌気がさします。
身体って、わたしにとってはひじょうに抽象的なものです。
これを説明すると長くなっちゃうけど、
わたしたちが認識している身体って、「体表面」「皮膚」でしかないんですよね。
医者なら腹かっさばくこともあるけど、それは他者の身体でしかありえない。
自分で自分の腹をかっさばけるのはブラックジャックくらいではないかと(笑)。
何が言いたいかというと、モニョリって、まずは身体レベルで起こるということ。
うまく言葉にならないけどなんだか居心地が悪い、なんか納得いかない、
ムシャクシャイライラする、スッキリしない、というような形で。
このモニョリはある意味具体的ではあるけど抽象的でもある。
そこで、モニョリを表現する言葉と出会えると、
そのモニョリは具体化され、別な意味での抽象化に向かう。
「頭」では、既存の規範に従えたら楽だろうな〜とは思う。
けれども、「身体」がそれを拒む。そんな感じ。
「身体」が本質的なものかどうかは分からない。
「頭」とは別の形で構築されたものかもしれない。
>>41(はくタン)
>物心とかつかない幼児を集めて何かの実験をすると、男女で別れるってのがあるんだよね。
物心がつかなくても、保護者によるジェンダーの刷り込みは、
「生まれたとき」から行われてると思うんだよね。
それに教育に関する実験なら「ピグマリオン効果」もたぶんに影響しているだろうし。
(
>>42の「意図的に男女という目線が組み込まれていた」ということ)
極端なこと言えば、狼に育てられたアマラとカマラは、男/女ジェンダー以前に、
人間としてのジェンダー規範自体刷り込まれることがなかったはずだし。
ナイフとフォークを持って食事する、もっと言えば手で食べ物をつかんで口に持っていく、
ということを教え込んでもしなかったはず(うろ覚え〜)。
47 :
83:2006/04/19(水) 01:58:56 ID:NFQASLRF
>>45 >俺的には、1%でも無視はできないだろうって思うけど。
そこを無視するのが「性差は生得的なもの」とする本質主義的な眼差しなんじゃないかな。
例外はスルーする、排除する、見なかったことにする、という。
48 :
578:2006/04/19(水) 02:15:04 ID:8F0Litww
83さんありがとうございます。
勉強不足の僕にも分かりやすく解説してくれてほんとたすかったです。
>>41 それは日本人のケースかな?
詳しい事は忘れちゃったんだけど、外国人が日本の公衆トイレを
利用するときに性別がわかりにくいと言ってたテレビ番組を見たことが
あるんだけど。人の形に見えるマークを黒か青に塗れば男子トイレで
赤に塗れば女子トイレ、というルールが理解できない人が結構いるらしい。
>46
少し脱線するけど、参考に。
ttp://www.kgef.ac.jp/ksjc/kiyo/910170k.htm サルなんかでも人間の赤ちゃんを育てるのは難しいと思う。
(ヒト以外の)サルの仲間は母親に抱かれたりもするんだけど、
ヒトと違って母親が移動するときは体毛にしがみつく習性と握力が備わってるから。
50 :
578:2006/04/19(水) 02:57:50 ID:8F0Litww
正しいか間違いかは僕には分かりませんが
1%を無視出来ないはくさんはすきですよ。
僕には辛すぎて真似出来ません。(嫌味じゃないです念のため。)
51 :
83:2006/04/19(水) 03:41:19 ID:NFQASLRF
>>48(578タン)
どういたしましてv
>>49 ありがとう。参考になりました。
狼に育てられたこと自体が疑わしいわけかぁ。
なんでもっと美人に生まれてこなかったんだろ・・・
って程度の話なのかしら。このスレでいうモニョリって
まぁ人によっては深刻なことなんだろうけど
53 :
83:2006/04/19(水) 07:14:54 ID:NFQASLRF
>>52 >なんでもっと美人に生まれてこなかったんだろ・・・
>って程度の話なのかしら。このスレでいうモニョリって
違うと思う。少なくともわたしはね。
「美人」という言葉を使うとしたら、
「なんで『美人』であることが求められなきゃなんないの?」とか、
「『美人』を賛美する人は、なにをもって『美人』と言ってるのかぜんぜん分かんない」って感じ。
どのレスから「なんでもっと美人に生まれてこなかったんだろ・・・」というモニョリ例を思いついたのか知りたいわ。
54 :
83:2006/04/19(水) 07:22:45 ID:NFQASLRF
>>52 追加。
規範に乗れない、という意味でのモニョリなら、分からなくもないかな。
でも、「美人」だからといって規範に疑問を感じないわけではない。
むしろ「美人」とされていることによる偏見もあると思う。
シャーリーズ・セロンなんかは、そういう規範に基づく偏見と闘ってるんじゃないかな。
でも、「 〜 」だからといって規範に疑問を感じないわけではない。
むしろ「 〜 」とされていることによる偏見もあると思う。
(・∀・)もうお手上げ
56 :
83:2006/04/19(水) 13:43:23 ID:NFQASLRF
>>55 あなたの「お手上げ」の内容は
>>55のレスではぜんぜん分からないので、
勝手に一人でお手上げになっててください。
57 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/04/19(水) 13:59:04 ID:rHsM4gO3
>>49 日本だかどこだか覚えていないなあ。
というか、「色選び」だったのかさえ定かじゃないよ。
俺が無意識に「玩具業界」に関連させたのは何故かな?っていま考えたんだけど、
「玩具選び」だったかも知れないよ。プラモデルとお人形さん、とかね。
いろんなものを使った実験は、多分、そこらで行われてるんじゃないんかな。
で、その地域の文化によって、「男女」を象徴するものが違うんでしょうね。
ところで上の「色選び」における少数派を、俺は、
「青を選んだ女児」「赤を選んだ男児」にまとめちゃってるけど、
「青も赤も選びたい子供」「青も赤も選びたくない子供」も含まれるね当然。
ってのも一応書いておきます。
58 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/04/19(水) 14:21:46 ID:rHsM4gO3
>>46 >保護者によるジェンダーの刷り込みは、
>「生まれたとき」から行われてると思うんだよね。
ちょっと前に、サロン板で飛来と
【人とつながりたい(関わりたい)という欲求は人間の本能か否か】というやり取りを
したんだよね。(俺の主張は「本能ではない」)
で、その時にこんなレスをしたんだけど。
産まれたての赤ん坊を、どっかの部屋にいれて、
老若男女さまざな人間がやって来て、時間通りにミルクをあげたりオムツ変えたりの世話した、とする。
この場合、この赤ん坊は、特定の誰かと「親子関係」を持たずに、
育つことができるんじゃないだろうか、と。
特定の誰かが繰り返しミルクやったりすれば、その人を「保護者」「親」と認識し、
その人と赤ん坊である自分との間で「親子関係」が作られていくと思うんだけど、
これは、親側からすると「自分が親である」ことを、
赤ん坊と自分に「刷り込み」していく作業だと思うんだよね。
赤ん坊にしてみれば、世話してくれる「その人」と良好な関係を築かなければ
食いっぱぐれるから泣いたり笑ったりして「その人」とコミュニケーションを取ろうとする。
自分がちゃんと育つ為には、とりあえず、
「その人」の言い分・考え方なんかを絶対のものにしなきゃならないよね。
でも、隔離された赤ん坊はどうなんだろう。
いろんな人の言い分・考え方にさらされる、わけだから……
全ての人と「親子関係」を作ることもできそうだ。
あるいは、誰とも「親子関係」を作らない、という選択もできるかも。
ごめん。何が言いたいのか分かんなくなってきたw
しかもジェンダーと関係ないしw
59 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/04/19(水) 14:47:37 ID:rHsM4gO3
>>50 >僕には辛すぎて真似出来ません。(嫌味じゃないです念のため。)
何が辛いの???
俺が"辛い"のは、自分に嘘をついてる人を見ること、かな。
>>47の
>例外は見なかったことにする
俺がもっともイヤだと、許せないと、ムカつくと、我慢ならないと思うのは、
それなんだよね。
何気なく書かれたレス、そこには多くの「モニョリ」の欠片が
散らばっている。
どうして、それを大事にしないのか、見なかったことにするのか。
俺には分からない。
だって現に、そこにあるじゃないか。
読んだろ? 書いたろ?
それなのに、なんで「なかったこと」にできるんだろう。
俺は自分中心の人だし、いいだけ我侭だからw、自分が一番大事。
自分が「読んだ」レス/「書いた」レスから、身体を通して「感じた」ことまで、
それらを全て「なかったことにする」なんて、俺にはとうていできない。
「読んでしまった」「書いてしまった」「感じてしまった」事実を
なかったものと扱うことはできない。
自分に嘘はつけない。嘘をついてる人々を見てるのが、俺は"辛い"。
>>40(578さん)
「規範」のイメージをどうもつか、というのはひとつのポイントかもです。
「規範」はどうやってできているか、「規範」は「どこ」にあるのか、
「規範」はどうやってその「力」を及ぼしているか、などなど。
どんな「規範」が壊れて、壊されて(でも、「規範」ってどうやって
壊れるのか、壊されるのか?)、現在の「規範」ができたのか、
そこから上のような「問い」をもっと練り上げることも
できるんじゃないかと思います。フーコーの『性の歴史』を
そういうところから読むこともできるでしょう。
>>31 「自由権」か「社会権」か、というのは意見はいろいろあるでしょうね。
僕はかなり図式的に、「近代」のはじまりにもあった「自由権」では
カバーしきれなかった「新しい人権」の問題、つまり、「近代批判」
「自由権批判」として出てきたものとして「社会権」をとらえることが
できるんじゃないか、と思っている。「批判」というのは「否定」ではないから、
それが「自由権」の意味するところ、あるいは「自由」が包摂する領域の拡大として、
考えられてもそれはそれで。
で、「民主主義」の話はひとまず措いて、「客観」の話をすると、
たとえば、「忘れ得ぬあのシーン」なんて言葉がある。
どの「シーン」がどう「忘れ得ぬもの」であるか、はそれぞれ異なる「主観」でしょう。
でも、この「あの」、という言葉でしか表すことができないもの、「小津安二郎の
『麦秋』で原節子が杉村春子の息子との結婚を承諾するシーン」、と
叙述してしまうと、どこかに行ってしまうもの、僕はとりあえず
それを「客観」と「主観的に」呼び、それが多数多様な「主観」を
繰り返しつくりだし続けるのだと考える。
「忘れ得ぬあの日」。「忘れ得ぬあの場所」。「忘れ得ぬあの風景」。
「忘れ得ぬあの歌」。「忘れ得ぬあのひと」。「忘れ得ぬあの……」。
この「あの」は「過去」の「記憶」に関わるだけじゃなく、「未来」にも関わる。
「民主主義」が「民主主義」であり続けるには、おそらく、「理念」idea として
「来たるべき『あの』民主主義」がどこかに無いと、だめなんじゃないか。
「記憶」の「記憶性」、「理念」の「理念性」としての「あの」が
指し示すもの、それを「客観」と、とりあえず僕は「主観的に」呼ぶ。
この「あの」は別にある「主観」の「正義」を保証しはしないけれど、
「多数決」のように「総体」となるのとは異なるかたちで、
多数多様な「主観」がばらばらのまま、つながり、なんらかの関係を
つくっていくことを可能にする、そういう何か、
「共有」するもの何も無しに、「分有」することが
可能な何かじゃないか、と思う。誰のものでもないがゆえに、
「主観」のものですらないがゆえに、「あの」と指し示すしかなく、
誰のものでもありうる、そういう何か。
ある「書物」への、ある「映画」への「感想」を「感想」だけに
終わらせない「あの文章」「あのシーン」という言葉の「あの」。
「主観」の「応酬」を「応酬」だけに終わらせない「あの規範」
という言葉の「あの」。
「ジェンダー」という「あの規範」の「あの」、「過去」の「記憶」の
「記憶性」、「未来」の「理念」の「理念性」は、現在のスレでも存在している。
そして、「客観」はある「主観」に試されるものでもある。
>>31さんとはくタンが「分有」しているであろう「あの認識」、
それがあれば、それでいいと思います。
前スレ>676、いぬまわりさん
フィル・コリンズの『No Way Out 』(『ブラザー・ベア』)歌詞を読みました。
やばい、な、、泣ける……!! すっかり『ブロークバック〜』やんけ……
映画もよさそうですね、”精霊”とか気に入っちゃったw 探して観てみますね。
ところで『アワーミュージック』、余裕で見にいけるとか書いてたのに、
モーニングショーとは知らなんだ……これもDVDになっちゃいますw
情報、dくすです。
63 :
578:2006/04/20(木) 00:25:28 ID:MBi5aezF
>>59どもです
83さんの文章
そこを無視するのが「性差は生得的なもの」とする本質主義的な眼差しなんじゃないかな。
例外はスルーする、排除する、見なかったことにする、という。
で僕が思ったことはじゃないと現実は成り立たないからだろうなって事です。
僕がそれほどこれに憤りを感じなかったのは例外が出来ないように
することよりも出来た例外をどう扱うかの方が重要だと考えてるからだと思います。
実験のデータを参考にして役割を与える。
で規範が出来る。でもそれにあぶれたものに別の規範を与え(あるいはその中から自然発生した
規範を容認してあげる)
不利にならないようしてあげれば例外を汲み上げられる。そうして複数の規範が出来上がり
規範と規範は時にぶつかりあうので調整が必要になる。
でもやはりそれでも汲み上げられない人たちは出来る
そしてまた規範自体を見直してみる。
そういう気の遠くなる作業が必要となるので
僕には辛く感じたってことです。
64 :
578:2006/04/20(木) 00:45:28 ID:MBi5aezF
>>60(42さん)
規範を壊すと何気なく使ってみたんですが
よく考えてみるとあまり適切な表現じゃないのかもしれないなって。
確か前スレで規範には慣習などが含まれるみたいなことが書いてあるところが
あったと思うんですが(ちょっと曖昧な記憶ですが、、)そうすると
出来上がる規範には少なからず引き継がれるものがあるはずですよね
ということは壊れるという言葉より変質するって言葉のほうがふさわしいのかも
しれないですね。長い時間をかけて変質していき原型をとどめなくなって
はじめて壊れるみたいな。
今の僕にはこれくらいのことしか考えられませんが。
>>63 あー 成る程ね。
前に、42さんといぬまわりさんが「リレー」と表現してたけど、
その「気の遠くなる作業」は、俺らが生まれる遥か以前から今日まで、
たくさんの人たちがやってきた事・やってる事なんだよね。
その時空を超えた「共同作業」に俺らも加わる、というだけの話だからさ。
全部を一人で背負い込むこともないし、背負い込めるはずもないんで。
俺は、そういう「作業」を「してもOKなんだ」
(
>>28の比喩で言えば「窓枠はリフォーム可能です」)という事が再確認できれば、
上々じゃないかと思うよ。
そこを再確認できれば、この先どういう規範が出来たとしても、
「あぶれる人」の存在に気づきやすくもなるんじゃないかな。
一つの規範を、みんなで崇め奉って、
ぶつかり合いも調整も有り得ない、ひたすら死守するって状態では、
気づきにくいし、「なかったもの」にされてしまうわけだから。
まあ、そんな辛く感じなくてもいいんじゃないすか?
66 :
83:2006/04/20(木) 01:02:12 ID:LP2UyCvL
>>63(578タン)
>で僕が思ったことはじゃないと現実は成り立たないからだろうなって事です。
わたしもときどきめんどくせぇなぁ〜と思うことはありますよ。
でも、自分が無視されたり排除されたりする側になる場合もあるから、
例外を無視したり排除したりしなければ成り立たない現実ってなんなの? とも思うわけです。
排除されてもしかたがない、と排除される側が思うとしても、それはその人の自由。
ただし、自分以外の排除されるものにも、自分と同じように、
「しかたがないのだ、我慢しろ」と押しつけるわけにはいかないし、
ましてや排除する側が押しつけるのだとしたら、暴力以外の何ものでもないのではないかと。
>そういう気の遠くなる作業が必要となるので
>僕には辛く感じたってことです。
規範の見直し作業は一人でできる(一人でやらなければならない)ものではないし、
>>64の「長い時間をかけて変質していき原型をとどめなくなって」いくというように、
確かに気の長い話ではあります。
そしてそれは、偶然だけでも必然だけでもなく、両者がせめぎあうなかで起こることだと思います。
放っておいても「自然に」変容する(578タンのいう「変質」)ものではないし、
さまざまな人の手が加わりながら「変容していく/させていく」ものじゃないでしょうか。
例外を無視したり排除したりしても成り立つから社会が維持されているんじゃないかしら。
社会って言葉自体があたしにとっては現実味を感じさせないものだから、こんなこと書けるのかもしれないけど。
>>67 それって俺には、
「社会を維持していく為には、無視したり排除される例外が必要だ」という、
非常に傲慢な物言いに聞こえるなあ。
69 :
578:2006/04/20(木) 01:50:05 ID:MBi5aezF
>>66 (83さん)
でも、自分が無視されたり排除されたりする側になる場合もあるから、
例外を無視したり排除したりしなければ成り立たない現実ってなんなの? とも思うわけです。
僕にはちょっと?なんですが
>>63で言いたかったことは
むりやり社会が例外を作って誰かを不幸にしたいわけではなく
例外はどうやっても出来てしまうものだから
その例外を社会がどう扱っているかが大切ということです。
こんなに社会のいろんな場面で規範があるのは社会が
多くの例外を認めたい汲み取りたいという現われのように
僕は感じるので(お気楽なんでしょうか)、排除無視などの言葉には少し違和感があるんです。
共感っていうのは単純でいて奥が深いわよね。
>>69 僕は578さんが「お気楽」だとは思いません。「排除無視」という言葉に
「少し違和感がある」とおっしゃるのも理解できます。
それは、「例外」を「排除」する、という言葉でどのような状況を
イメージしているか、「例外」と「排除」のイメージに関わるものだと思うんです。
578さんは、「例外」を「排除」する、という言葉で、誰が誰を
どうすることを、たとえばイメージされますか。
72 :
578:2006/04/20(木) 12:49:04 ID:+m3xn5qN
>>71(42さん)
ここで話題になっていたことが社会における規範だったですし
自分はゲイのマイノリティ(例外)なので社会がゲイを
排除したり無視したりすることをイメージしていたと思います。
>>72 「社会」というのはその場合「比喩」ですね。ゲイを排除したり
無視するのを「ヘテロセクシュアルの人々」「ヘテロ」あるいは
「ノンケ」と言い換えてもかまいませんか。誰が誰を、というのを
より明確にすると、どうなるのか、ということですね。
そして「排除する」「無視する」というのは、もう少し具体的に
してみると、ゲイである自分がどうされることになりますか。
75 :
578:2006/04/20(木) 13:18:29 ID:+m3xn5qN
>>73 具体的には社会の構成員ということで必ずしもノンケというわけでは
ありません。社会の規範通りに動く人ですからゲイも含まれます。
排除無視とは
たとえば面接でゲイであるかを聞かれるとか、
二丁目に出入りしている人を調査して監視するような
事をしてゲイの人はこういう役職にはつかせないとかいう
積極的な介入がある場合に自分たちの規範を容認
してはくれていないと思うでしょう。
>>75 そういう「排除」は目にみえやすいから、周囲が、
「無視」するとしたら「意図的な無視」になりますね。
でもそうした見えやすい「排除」はいつでもより見えにくい「内なる排除」を
ともなっていると、思うんです。
ゲイの例は少し措いて、「家族内性暴力サバイバー」の例を挙げてみます。
「家族内性暴力」の「加害者」「被害者」が、その事態が明るみに出たときに
「例外」とされ、周囲から「排除」される、ということは見えやすい。
近年では、「女性」が「家族内性暴力サバイバー」であるケースでは
その経験を語ることが可能な場所ができてきて、証言の機会を与えられることも
増えてきました。そうした証言を読んで思うのは、周囲の「社会」から「排除」
されるだけでなく、「家族内性暴力サバイバー」の「女性」たちが、
「家族内性暴力」を受けた自分の「身体」を、自分で「例外」化し、
「排除」しなければならなくなる、という事態、「内なる排除」が
行われている、ということなんです。そして、この「内なる排除」は
見えにくく、周囲には気付かれにくい。これが「無視」されるのは
「意図的」なんじゃなく、「構造的」で「結果的」なものだと思います。
自分で自分の「身体」を「例外」化し、「排除」の対象とせざるを得ない、
そういう周囲からは見えにくい「内なる排除」は、578さんにはありませんか。
77 :
578:2006/04/20(木) 13:54:30 ID:+m3xn5qN
>>76 内なる排除はもちろんありますよ。
以前はかなりそれも多かったように思います。
ただ内なる排除は外から分からないので
「構造的」で「結果的」なもので無視とは僕は認識してません。
ただ気づいてないんだなーって思うだけです。
>でもそうした見えやすい「排除」はいつでもより見えにくい「内なる排除」を
ともなっていると、思うんです。
ぼくもそんな不安に駆られていた時期があったように
思います。ですが、上にあるような見えやすい「排除」は実際にはないですし
見えやすい排除がないんだから内なる「排除」を考えても仕方ないって
いつしか思うようになりました。
>>77 目に見えやすい「排除」とそれにともなう「内なる排除」が、
現在の「社会」で「ゲイ」には少ないのは、「カムアウト」せず、
「クローゼット」にいる限り、「ゲイ」は「男性」だから、ですよね。
もちろん、「カムアウト」してもそうした2つの、二重の「排除」が
起こらない場合もあります。578さんは「カムアウト」はなさってますか。
80 :
578:2006/04/20(木) 14:06:32 ID:+m3xn5qN
親にはしてないし社会の中ではしてないですが
学生時代のノンケ友達にはしてます。
>>78訂正
「ゲイ」は「男性」だから→周囲からは「ゲイ」は「男性」にしか見えないから
>>80 578さんが学生時代のノンケ友達に「カムアウト」しようと思ったのは
何がきっかけでしたか、そして、578さんの「カムアウト」に対する
ノンケ友達の反応はどうでしたか。
ちなみに、僕は周囲にカムアウトしているようなしてないような、
曖昧な状態です。
83 :
578:2006/04/20(木) 14:18:39 ID:+m3xn5qN
>>82 やっぱりすごい大切な友達だったし(肉体関係はないですよ)
その友達には誠実でありたいと言う思いが強かったですね。
向こうは自分を信頼してくれてなんでもしゃべってくれる。
でも自分にはしゃべれないことがあるその申し訳なさ
みたいな気持ちが仲が良くなればなるほど強くなってきたから
しゃべったんだと思います。
84 :
578:2006/04/20(木) 14:23:23 ID:+m3xn5qN
すみません。あと相手の反応ですね
電話で話してた時だったんで、話の流れで
言う事が出来た感じです。向こうはあっそうみたいな
感じでまた続きの話をしていたです。
それからも変わらずにでも何も聞かず付き合ってくれましたけど。
>>83 > でも自分にはしゃべれないことがあるその申し訳なさ
これは「内なる排除」に関わるものですよね。自分が「ゲイ」であるという事実を
「しゃべれない」。
578さんが「内なる排除」を考えずにすむようになったことと、
お友達が578さんの「カミングアウト」を受け入れ、578さんが
「ゲイ」であるということ、を「承認」したことは、関係が
あるんじゃないかと僕は思います。
その経験は、より実現は困難ではあるかもしれないけれど、親や会社を含む「社会」が
578さんが「ゲイ」であることを「承認」する可能性、「例外」とし「排除」することをしない
可能性を、578さんは「カムアウト」がおお友達に受け入れられた経験を通じて
信じることができるようになったのではないでしょうか。
>>85訂正
文章の主述の呼応がヘンですね。
可能性を→可能性を目に見えるものとし
88 :
578:2006/04/20(木) 14:37:03 ID:+m3xn5qN
>>85 それもひとつの大きな理由であることは間違いないと思います。
89 :
578:2006/04/20(木) 15:14:52 ID:+m3xn5qN
じゃ42さんこのへんで。
楽しかったです。(^^)
>>88 「カムアウト」が行われるには、578さんの「決断」が
必要だったことは確かです。
そして、それが受け入れられるには、578さんがお友達に対して
感じたのと同じような「モニョリ」を感じながら、とうとう
「カムアウト」できなかったひとや、「決断」して「カムアウト」
したけれど失敗したひと、578さんのように成功したひと、と
いったひとびとの「カムアウト」という「行為」の積み重ねと、
その「行為」をめぐる「思考」の積み重ねが、「伝統」として
あったからだと僕は思います。
僕も578さんもその「カムアウト」の「伝統」の「恩恵」を被っているんじゃないか。
だとしたら、それをどう「継承」し、誰につなげるか、それが僕が使う「リレー」という
言葉の意味ですね。そして、そのことと「規範の解体」というのはつながっていると
思います。自分よりも前の時代を生きた多くのひとたちの「思考」も含めた「行為」の
積み重ねが、ここまで「規範の解体」を進めてきた。まずはそれをどう「継承」するか、
ということですね。
>>89 いえいえ、こちらこそ(^^)
91 :
83:2006/04/20(木) 18:51:44 ID:LP2UyCvL
>578タン
わたしもちょっと前までは、578タンのように「分かってくれる(分かってくれそうな)人にだけ、
部分的にカムアウトしてきました。
分かってくれそうもない人相手に「排除」を目の当たりにするのが嫌で、
その前に「内なる排除」が働いていたんです。
で、カムアウトしないということは、自分がヘテロセクシュアルとして扱われることに同意するも同然で、
「彼氏はいるんですか?」とか「ご結婚は?」という、その人にしてみれば他意のない問いかけに、
「いません」「してません」とだけ答える自分が苦しかったんです。
あとから、「実はわたしはレズビアンで〜」と説明するのも遠回りな気がして、
いまは初対面の人にも出会い頭にカムアウトするようになりましたが、
「目に見える排除」も特にないんですよね。
自分が気にしているだけで、他人は案外気にしていないんだと、ホッとしたのもつかの間、
たとえば、ヘテロ女性メインの集まりに参加した場合、
そこにいる全員が、わたしがレズビアンであることを知っているはずなのに、
「自分を磨いてイイ男ゲットしなきゃね!」「イエーイ!」なんて盛り上がる。
彼女たちはわたしを排除するために意図的にそう言ったわけではないのだ、と分かってはいても、
わたしは自分の身が凍りつくのを感じてしまう。
ここはわたしが安心していられる場ではない、と感じてしまう。
これではなんのためにカムアウトしたのか分からない。
「無視」も「排除」も、必ずしも目に見える形で起こるわけではないんです。
1対1の個人的関係ではわたしのセクシュアリティを受け入れても、
パブリックな場ではいないことにされてしまう。
もちろん、そこに悪意が働いているわけではない。
悪意なき排除、意図せざる無視。わたしにとってはそれが問題なんです。
>>91 あんたは輪の中で自分が気にされないと納得いかないの?
>これではなんのためにカムアウトしたのか分からない。
なんのためにしたの?弱者利権にすがりたいから?
リストカット女じゃないんだからされる事ばっかり気にしてるんじゃないわよ。
何のためにしたのかって、いみじくもあんた書いてるじゃん。
>>「いません」「してません」とだけ答える自分が苦しかったんです
って。だったら「彼氏はいないけど彼女はいるわよ。」と言える環境を作る事が目的であって
ヘテロセクシャルとしてふるまう事で自分が苦しまなくていい事が目的じゃないの?
安心していられる場はあなたが作る物であって与えられる物じゃないのよ。
「あたしは良い女ゲットするわよー」と言えば良いじゃないの?
問題はその場に自ら参加してるあなた自身の問題よ。
93 :
83:2006/04/20(木) 23:28:58 ID:LP2UyCvL
>>92 もちろん、あなたが書いたことはわたしのなかで思っていることでもある。
身がすくむような思いをしながらも、安心できる場をつくり続ける努力はするわ。
だから、凍りついたすぐ後に、「あんたたち、いまあたしのこと無視したでしょ〜?」
って突っ込んだわけ。
そしたら、「無視したわけじゃないよー」って言うのよね。
無視したことを認めたらわたしが傷つくとでも思ったのかもしれないけど、
自分たちが善意の人だって前提を崩そうとしないところが引っかかる。
「ごめん、無視してた」って言われたほうがなんぼかまし。
「悪意なき排除、意図せざる無視」が問題だっていうのはここなのよ。
そして、わたしのなかにもこれがあるんだってことを忘れない。
でも、どんなに気をつけてたってやっちゃうときはある。善人じゃないし完璧でもないから。
そういうときには「ごめん、無視してた」って認めちゃうの。
>「あたしは良い女ゲットするわよー」
イイ女はもうゲット済みなので、こうは言わないわv
>リストカット女じゃないんだからされる事ばっかり気にしてるんじゃないわよ。
これだけはよく分かんないな。
わたしはリスカにアディクトしないけど、ほかにアディクトしているものはあると思う。
だから、「されることばっかり気にしてる」のは「リスカ」の、しかも「女」とは限らない。
94 :
禁断の名無しさん:2006/04/20(木) 23:40:44 ID:u1ZJ1j/9
>>93 あなたはもっともがいて、もがきまくった方が身のためかもね。
95 :
83:2006/04/20(木) 23:50:19 ID:LP2UyCvL
>>94 あなたに言われるまでもないことです。
あなたがもがかずに済んでいるなら、それはそれでけっこうなこと。
ミクシーで『ブロークバック〜』の話とか、オフ会のこととか書いてるんだけど、
マイミクの人から
「思い切って聞くんですが、あなたは同性愛者なんですか?」メールがきたっけな。
「バイかもしれないけど、よく分かんない」と答えたけど。
そういえば、過去にも何度かそういう質問をされてるんだよね。
俺はノンケの間でも、なんかこう、
謎が多い人・悩ましい人……まあ「トラブルメーカー」なのかもしれないw
>>69 異性愛規範から「あぶれて」しまったセクシャルマイノリティ=「例外」を、
>社会が認めたい汲み取りたいという現われ
として有効に働く(←とりあえず)ものの一つに、「倫理」ってのがあると思う。
『差別するのはやめましょう』とか『ひとそれぞれ(多様性)を認めましょう』とか、
そこらへんは多くの人が持ってるよね多分。
そう考えると、異性愛規範での「例外」の存在も、
個々の倫理感によって「認められ・汲み取られ」ていると、言えるのかも知れない。
でも、それってプライベートな空間では有効に働くってだけで、
ただちに「別の規範によって認められ・汲み取られている」とは言いがたいんじゃないだろうか。
>>91 >1対1の個人的関係ではわたしのセクシュアリティを受け入れても、
>パブリックな場ではいないことにされてしまう。
そういえば、83さんは前に、
「他人の下半身の事情に立ち入らない」という暗黙のルールによって、
ビアンの存在は隠されてしまう、みたいなことを書いてたよね。
その「ルール」も倫理の一つになるんかな。
でもなんだろう、、その物言いって、背中がかいくなるよ。
自分らはあけすけに「下の事情」を語りまくるくせに、
同性愛者に相対すると衣を正して「他人の下の事情には〜〜」って、
何だよそれ、とか思う。
97 :
禁断の名無しさん:2006/04/20(木) 23:56:09 ID:u1ZJ1j/9
いやあなたの場合、ジェンダー以前の問題だから。
98 :
83:2006/04/21(金) 00:06:41 ID:Rjb9C/8t
>>98(はくタン)
>「他人の下半身の事情に立ち入らない」
まぁ、「下半身事情」だけに立ち入られても困るんだけどねw
レズビアンが「下半身的存在」でしかないと思っている人、
性生活以外の生活があるとは思っていない人って、まだまだ多いんだと思う。
>自分らはあけすけに「下の事情」を語りまくるくせに、
男女問わず、語っているようでぜんぜん語れてないんじゃないかな。
自分の性を扱いきれていないから、他人の性も扱えないのよ。
>>97 アンカーがないから「あなた」が誰を指してるのかよくわかんないけど、
タイムスタンプからするとわたしのこと言ってるのかしら。
ジェンダー以前の問題だから、なんなの?
99 :
578:2006/04/21(金) 00:34:36 ID:dHF9+UKS
>>91(83さん)
排除、無視と聞いたとき違和感を覚えたのは
排除も無視も積極的に行われるもの(積極の介入)だと思ってたので
いまいちピントこなかったんです。
内なる排除は想定してなかったですし無視は意識的にするものだと思っていたので
正直83さんの言う悪意なき排除、意図せざる無視というのが僕には正直よく分かりません。
それと僕は43さんとやったような社会で起こっているであろうという抽象論を
想定してて個人に実際起こった排除や無視のことまで考えて違和感があったわけではないんです。
抽象論と個人に起こったことではやはり言い方は変わるんです。
例を挙げるとある人が、社会なんてろくでもないと言ったとして
それが社会で何の経験もない子がテレビやニュースなどで作り上げたイメージで
言っていたら一言疑問をはさみたくなります。
でもそれが社会の中で生きてきていろんな苦痛や裏切りなど経験してきた人がいった事だったら
それでも社会は捨てたもんじゃないなんて白々しいことはいえないんです。
僕は83さんが実際の生活の中でいろんな覚悟や決断をした結果
排除無視を感じてるというのならそれはそれで僕が何も言うことはないし
僕なんかがその感じ方に異議を唱えるつもりはないですし資格などはありませんよ。
僕が感じる排除無視が83さんの排除無視を否定するもんではないって事は理解してください。
>>93 たとえば、「家族内性暴力」の場合、自分で自分の「身体」を「規範」における
「例外」化し、「排除」しているのは、「内なる排除」を行っているのは
「被害者」だけなのか。そうした問いが立てられると思います。
「加害者」もまた「内なる排除」を行っている、でもその事実を「否認」する。
その「否認」が「性暴力」となって「より見えやすい暴力」となって、
ふるわれ、その「暴力」をふるわれた「身体」が「被害者」になる。
「否認」が関与しているから、「暴力」をふるう者にはそれが「暴力」であることが
気付かれにくい。これは「内なる排除」が存在するところには共通する
「構造」なんじゃないでしょうか。
ボーヴォワールの言葉を真似れば、ひとは加害者として生まれるのではない、
ひとは加害者になる、ひとは被害者として生まれるのではない、ひとは被害者になる、
そういうことになる。「内なる排除」とその「否認」が引き起こす「暴力」の連鎖のなかで。
「否認」と「内なる排除」の連鎖を引き起こす「より見えにくい暴力」の存在、
「規範の解体」というのはそこに関わっている。「内なる排除」を「一般化」して
一挙に片付ける方法があると思うひともいるでしょう。たとえば「革命」とかね。
それはそれでやってくれるなら、やればいいと思う。
でも、僕はたとえば「家族内性暴力」だったら、「もしかしたら過去において
加害者になったかもしれず、未来において加害者になるかもしれないもうひとりの自分」と
「もしかしたら過去において被害者になったかもしれず、未来において被害者になるかも
しれないもうひとりの自分」の「代わりに」、「自分たち」の「ために」、この社会のなかで
「家族内性暴力」を引き起こす「より見えにくい暴力」がどうやって再生産され、
そこにどう介入できるか、それを「思考」を含めた「行為」として行う。
僕よりも前の世代に属し、「暴力」の存在に気付いてしまったひとたちが、
これまでずっとやってきたであろうように。そうした「行為」の
積み重ねとどこかでつながる「行為」、それを「パフォーマティヴ」といい、
その「行為」のつながりが、「規範の解体」と「新たな規範の創出」につながる。
一見、「陽気で、たあいのない」言葉に見え、そう聞こえる、
> 「自分を磨いてイイ男ゲットしなきゃね!」「イエーイ!」
のうちにある「内なる排除」に対する「否認」ってあるんじゃないでしょうか。
それって、「あたしは良い女ゲットするわよー」で、なんとかなるのか、
どっちかっていうと「否認」を再生産するんじゃないか、そういう問題であるように思います。
>>96 「トラブルメーカー」じゃなくて、「ジェンダー・トラブルメーカー」でしょう。
ノンケ女のブログで見かけたんだけど、
「自分が女なのかどうか不安であったけれども、
恋愛(セックス)することで"自分は女なんだ"を確認していった」というのがあった。
>>100の、
「内なる排除」に対する「否認」って、そういうこと???
>>93 「内なる排除」に対する「否認」の連鎖の「最後」に置かれた「身体」、
それを「サバルタン」と呼ぶのだと思います。
インドの「寡婦殉死」させられる、する「女」と
>>91の83姐さんの状況は
確かに異なる。でも、その場で、姐さんが「サバルタン」になった、と
いうことはあるんじゃないか。「否認」の連鎖のとりあえずの「最後」に置かれて。
「身が凍りつく」「身がすくむような思いをする」のは、連鎖の「最後」に
置かれた「身体」なんじゃないか。
そして、姐さんが「あんたたち、いまあたしのこと無視したでしょ〜?」 と言う。
その途端に、姐さんの「身体」は「否認」の連鎖の「最後」から数えて n 番目に
置き直される。ここに「モニョリ」が生まれる。
僕はスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)の、
その問いの立て方には今もなお疑問があるけれど、そういう問いを立てる
必要があることはわかる。そして、この「モニョリ」にも規範としての
「ジェンダー」は関わっていることを、スピヴァクの本は教える。
>>101 それも一例ですね。「女」以外の「セクシュアリティ」として自分で自分の
「身体」を「規範」の「例外」化し、「排除」することに対しての「否認」として、
考えることは可能でしょう。そうでない、ヘテロの「恋愛」「セックス」もあると
思います。「ヘテロ」の「カミングアウト」を通じて、選び直されたものならたぶん、
>>101の引用のような「言葉」は出て来ないでしょう。「自分が女なのかどうか不安」と
いうことがないでしょうから。
103 :
83:2006/04/21(金) 01:28:44 ID:Rjb9C/8t
>>99(578タン)
確かに、その人の使った言葉にどういう背景があるか、を知ることは重要だと思う。
どういう立場でもの言ってんのかわかんないことって多いのよね。
(わたしもそう言われることあるし)
>僕が感じる排除無視が83さんの排除無視を否定するもんではないって事は理解してください。
うん、それは分かってます。わたしも578タンに「反論」してるわけではなくて、
578タンのレスを受けて自分のなかにわき起こったことを書いてきたの。
578タンが
>>63で言っているように、
「出来た例外をどう扱うかの方が重要だ」とわたしも思う。
で、
>>91はその例外がどう扱われたかという一例なのね。
でも、この例では例外を例外として扱いきれていない。
それが42タンが
>>100でいう「否認」なのよ。
例外であることすら認められなかったら、扱いようがないもの。
>>100(42タン)
>「あたしは良い女ゲットするわよー」で、なんとかなるのか
「あたしはイイ女ゲット済みよ♪」と言ったところで、
彼女たちの内なる排除が浮かび上がってくるわけではなく、
むしろわたし自身が、「無視された自分」を排除することになると思うのよね。
そのときはすぐにこんなこと考えたわけではないけれど、
やっぱ、わたしを無視したことを指摘せずにはいられなかったわ。
104 :
83:2006/04/21(金) 01:37:18 ID:Rjb9C/8t
>>101(はくタン)
>自分が女なのかどうか不安であったけれども、
>恋愛(セックス)することで"自分は女なんだ"を確認していった」
「規範通りに振る舞うことができて安心した」ってことかしら。
そうやって自分の“おんな性”を確認しなきゃ不安なのかなぁ。
別に女じゃなくてもいいじゃん、と思ったりもするんだけどね、わたしは。
>>102(42タン)
「モニョリ」の身体は、「サバルタン」としての身体から抜け出すためのワンステップってことなのかな。
付け加えれば、スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか』の最後に
「サバルタンは語ることができない」と書いたことを、後になって、
自分で批判していて、上記の論文をもとに書かれた『ポストコロニアル理性批判』に
収められた文章ではその一文が抹消されています。
その抹消の意味を、どう考えるか、スピヴァクが「絶望」から書いてしまった
「サバルタンは語ることができない」という一文の抹消は、「希望」につながるのか。
>>103 バトラーが近年、「暴力」の問題に取り組んでいて、「暴力」に対する
sensitivity 「感じやすさ」と vulnerability 「傷つきやすさ」を問うのは、
ずいぶん前にこのスレで使った言葉でいえば、「差別」の構造が「抑圧」から
「排除」へ転換したことに関わっていると思うんですね。
「差別」しているという事実を「否認」する「差別」が構造化されている。
そこに介入するには、「暴力」に対する「感じやすさ」「傷つきやすさ」が
要請される。
「サバルタンは語ることができない」って言い切っちゃうと、
「感じやすく」「傷つきやすい」がゆえに、「諦める」ひとも出てくると思う。
スピヴァクははくタン並みに「諦めの悪い」ひとなので、そう言っても平気なんでしょうけど。
僕が最初に、スピヴァクの論文バージョンの「サバルタンは語ることができるか」を
読んだ時の、最初の違和感、「モニョリ」はそれですね。
>>102 そういうことだと思います。そして、ある時、ある場所で、
「否認」の連鎖の「最後」に置かれるのは、誰にだって
起きていることのはずだと思う。それを「否認」によって
乗り切るのではなく、別の対応は可能か、「いかにしてともに生きるか」と
いうのは、そういう問いでもあるんじゃないかな。
106 :
83:2006/04/21(金) 01:48:09 ID:Rjb9C/8t
>>100(42タン)
追記。
>>93で、
>無視したことを認めたらわたしが傷つくとでも思ったのかもしれない
と書いたけれど、
彼女たちは、「わたしを傷つける」からではなく、「自分たちが傷つく」から認められなかったのかも。
加害者の「否認」は、加害者自身が傷つかないための自己防衛なのかな。
でも、だとしたら、その自己防衛のために他者を傷つけるのよね。
性暴力の問題はわたしにとってすごく身近な問題で、
考えるたびに加害者の「弱さ」を感じさせられる。
だからといって加害者をかばうつもりは毛頭ないんだけど。
おっと、眠くなってきたんでアンカー間違えた(^-^;
>>105の下の文章のアンカーは
>>104です。
>>106 「否認」ってたぶん「一時しのぎ」だから、「加害者」って「サバルタン」と
「非サバルタン」との「あいだ」を絶えず「往復」することになる。
「暴力」が「反復」され、「加害者」が「暴力」にアディクトするのは、
そこに起因するんじゃないでしょうか。これは「自傷行為」でもそうなんじゃないかと思う。
>>104 >別に女じゃなくてもいいじゃん、と思ったりもするんだけどね、わたしは。
ハゲ同。男についても、同じく思う。
つか、それ読んだとき正直(このひとスゲー……)と思った。。
俺はそこまで、なんつーか、頑張れないなー……
>>91の出来事って。ひょっとして俺も居合わせた場だろうか……?
もしそうなら俺は違和感を持ってたよ……
110 :
83:2006/04/21(金) 02:11:09 ID:Rjb9C/8t
>>108(42タン)
「自傷」と「他傷」は同じ根を持っている、というと、
「安易に混同するな!」と、とある性暴力サバイバーから怒られたことがあるんだけど、
やっぱ両者には「暴力」という同じ根っこがあると思うのよね。
「他人に暴力をふるってはいけない」というのは確かにそうなんだけど、
それでもなお、生きるために最低限必要な「暴力」ってあると思う。
自分のなかにある暴力性を認めることと、
「あるんだからしかたがない」と暴力を推奨することは別物。
サバルタンから抜け出したモニョリの身体から「暴力」が生まれることもある。
あたしの「無視したでしょ〜?」という発言も、
もしかしたら彼女たちにとっては暴力だったのかもしれない。
>>109(はくタン)
あー、あのときもそうだけど、ほぼ同じメンツで別の機会にもあったのよねー。
なーんかねー、あたしはヘテ女のサポートに回ってるのに、
ヘテ女はヘテ女以外のサポートってしないんだなー、
自分のことで精一杯なんだなーと思ったょ。
(つか、サポートされて当然と思ってたら腹立たしいな/汗)
>>110 その通りだと思うんだけれど、あれもこれも「暴力」だ、って
いきなり「一般化」するのはまずいので、映画を撮るように、
その連鎖を考えたうえで、モンタージュを考えていく必要はあると思うんですよね。
なので、「『自傷』と『他傷』を安易に混同するな!」というのはあると思う。
でも、そこに「共通の構造」を見出すのは必ずしも「安易な混同」じゃないんじゃないか。
で、ゴダールのモンタージュは故・淀川長治を激怒させたほどの「つなぎ間違い」だけど、
「つなぎ間違い」って「否認」以外の「内なる排除」への対応のヒント、
なんじゃないか、なんて思ったり。
>83さん
いやごめん。いま書いたことを激しく後悔してました。言い訳くさかったね。
まあでも書いてしまったから正直な感想を述べると、
83さんがビアンだってことを知らないのかな?と何度も考えるくらいの
削除っぷりに戸惑った。
「自己防衛」による「暴力」はエスカレートしがちじゃないかな。
あの時のことを思い出すと、そんな気がしますよ。
そして、その場でそういう「モニョリ」を言わなかった俺自身も
暴力をふるっていたんだろうと思う、83さんと自分に対して。
>>110 それでいくとね、「加害者」が「生き延びる」ためにアディクトし、
必要としているある具体的な「暴力」なしで、「加害者」が
「生き延びる」ことが可能な「社会」をどう構築するか、ってことに
なるのだと思う。その「暴力」が「加害者」にとって、「生き延びる
ために最低限必要な『暴力』」とならない、そういう「社会」を。
姐さんが「加害者」に「弱さ」を感じるのは、そこなんじゃないのかな。
114 :
83:2006/04/21(金) 03:15:47 ID:Rjb9C/8t
>>112(はくタン)
>83さんがビアンだってことを知らないのかな?と何度も考えるくらいの
>削除っぷりに戸惑った。
はくタンもご存知のように、わたしは「レズビアンです」って自己紹介してるんだけど、
聞こえてないのよね。
で、こっちも聞こえてないんだな〜と思って、それとなくまた言うんだけど、
やっぱぜんぜん届いてない。
そんなことが繰り返されたら、脱力して諦めるか爆発せざるを得なくなるよ。
まぁでも、これはフェミニズムからレズビアン・セパレイティストたちが分裂していった歴史を
生き直しているようなものなのよね。
それでもやっぱり、シスターフッドを諦めたくはないな。
ヘテ女に都合のいいシスターフッドに乗せられるのは勘弁だけど、
「あいつらといると居心地が悪いから」ってレズビアンだけで固まりたくないし。
レズビアンだからってだけで連帯できるとも思ってないしね。
>>113(42タン)
わたしは加害者に「弱さ」を感じるとともに、被害者に「強さ」を感じるのよね。
性暴力って一度限りのものもあるだろうけど、継続的なものもかなり多い。
特に、恋人や夫婦という密室関係でDVを継続させるのは、
被害者が暴力に「耐える」という「強さ」を持っていることなんじゃないかな。
で、そこから逃げ出したとしても、加害者が反省して懇願して、
それを許して加害者のもとに「戻る」。
「耐える」「戻る」という「強さ」が、加害者の暴力へのアディクション性を強化するのではないかと。
ジェンダー規範って、共依存関係を築きやすく継続させやすいものなのかもしれない。
継続的なDVは加害者も被害者も弱いとあたしは感じる派
強いとか弱いとか 勝ちとか負けとか。
個人限定の場で語るのは簡単だけど取り巻く環境を含めて話そうとするととたんに難しくなるわね。
117 :
funわか:2006/04/22(土) 11:52:53 ID:6vdtYuXM
人間とは、生まれ落ちた時点から、『 真実とは違うスリコミを植え付けられ育つ
生き物である 』 funwaka語録
女性の方々は、恋人や男性既婚者(亭主)のどれほどの数が「妻に専業主婦をして
いて欲しい」と本音で思っているか、ご存知だろうか? 当然私も含めてだが、9
0%以上の男は、「出来るなら妻には専業主婦として家事を完全にこなして欲しい」
と願っている。それが偽らざる多くの男の本音です。ただ、これは私を含めて、です
が、妻に仕事や稼ぎを手伝ってもらわなくてはならないケースも有ります。その事
例においては、互いが家事育児に協力し合わなければならないのは当然です。しか
し、仕事や家計に妻の協力を得なくとも良いなら、殆どの男の希望は、家事の全て
を妻にしてもらいたいと願っている。何故か?
男は生まれ落ちる前から、仕事に適した体質と性質の遺伝子を強く持ち、そのため
に、子供の頃から機械類に興味を示し、思春期大人になって年老いても、男に必要
な分析能力、世情やシステムや機械にマネジメントまで幅広い知識習得に興味を持
ちそのための情報を欲しがっている。
それに対し、女性は、有名人の情報、ダイエット情報、美容に、食に、子供に占い、
だけ、、、。 常に言われている女性誌の三大テーマが有ります。 それは、ゴシッ
プ、ダイエット、占い、です。決して女性をバカにしているのでは有りません。男
女に知能の差は全くない!と私も断言します!私よりもユートピアの娘達のほうが
、知、においては優秀な事がそれを証明しています。f(^-^;
しかし、女性週刊誌に、働く女性に必要な仕事の世界や世間一般的な知識の習得に
必要な、記事、が有るのでしょうか!? 女性が仕事に必要な知識を求めているの
であれば、それを何故所週刊誌は掲載しないのでしょうか!?仕事に関する情報や
幅広い知識に対し、普段も女性は興味を持っているのでしょうか!?
全く持っていない!!としか言いようが有りません。女性週刊誌の記事がそれを見
事に証明しています!!
専業主婦を欲しているなら相応の評価をするべきじゃないのかな。
介護職は、家事援助と身体介護で賃金に差がついてる。
これはなんでだろうね。
家事援助ってのは、病人とかの健康管理全般をサポートするものだよ。
専業主婦が、家族の健康管理全般をサポートしてるのと同じように。
政府は、男女平等とか「ジェンダーフリー」とか言ってるけど、
実際には労働内容に差をつけて、「専業主婦」の仕事を低く評価してるじゃん?と
思っちゃうんだよね。
そういうやり方を見ると、ますます、
「ジェンダーフリー」って何なんだよ?と言いたくなる。
男も、「知識習得」に必要な記事が掲載されてる雑誌を読む一方で、
漫画や娯楽誌を読む。
女も、娯楽誌だけでなく、
経済誌や「知識の習得」に必要な記事が掲載されている雑誌を読んでる。
>>117が、娯楽中心の女性週刊誌しか読んだことがないだけだろ。
「知において優秀なユートピアの娘達」に他にどんな雑誌を読んでいるか
聞いてごらん。
娯楽中心の女性週刊誌にも「おばあちゃんの知恵袋」的な記事や
資格取得のノウハウみたいな記事は、けっこう掲載されているけどね。
娯楽記事だけ読んでないで、隅々まで真面目に読んでみれば>117
夢や希望ってのは外から与えられる情報しだいよね。
120 :
兄貴:2006/04/22(土) 14:14:15 ID:MFfLeGAH
>119
でも、情報を取りにいく、ってこともあるでしょう?
もちろん、そこでも「格差」が生じてるのは知ってるけどね。
どこに、誰に、どんな情報を求めたらいいのかすらも分からない、という。
それが積み重なると、
「自分から情報を取りにいくこともできるんだ」って事が置き去りにされてしまうよね。
そういう人たちには、まず、
「自分から情報を取りにいくこともできるんだ」って事を言えばいいと思うな。
121 :
禁断の名無しさん:2006/04/22(土) 15:25:09 ID:wkEfCfY8
>>118 家事援助より身体援助のほうがきついから賃金に差があるのではないの?
実際入浴介助と料理を比べたら入浴は濡れるし暑いし体力勝負だし腰痛になるし
大変だからやりたがる人がいなくて賃金に差があるのでは?
もちろんそれとは別のこととして家事労働を賃金労働より格下と見るのは間違ってるよね。
どうして家事が格下ととらえられ、家事をする女性に自己決定権がなく政治にも
興味がないとされるのかについてはけっこうこのスレでも話題になってたような。
>>117 私は女性だけど、「有名人の情報、ダイエット情報、美容に、食に、子供に占い」
に別に興味はないし女性誌は読まない。そういう人はどうとらえてる?
>>121 肉体的な部分での差は、人によってはあるかも知れない。
だけど、手順が決まっているから身体介助の方が楽だと言う人もいるんだよね。
寝たきりの人だったら、より、システマチックにこなしていける。
家事援助の「料理」は、その日に派遣先に入って冷蔵庫あけるまで、
どんな材料があるのか分からない、その制約の中で献立を決めてつくり、
同時に他の家事をやっていくのは、けっこう大変なんですよ。
それに、独居の人だったら、その日のことだけでなく、
全体としての栄養管理能力なんかも要求される。
そういうことを考えると、差をつける理由が、俺には分からないな。
123 :
funわか:2006/04/22(土) 20:03:59 ID:6vdtYuXM
これら男女の週刊誌で明らかに解ったように、男と女、何が違うのか?それは、
【 興味の対象 】
が違うのです!! 興味は何故起こるのか? 人は自己の欲求、自己の求めるコト
や、モノにしか、興味を示しません。 つまり、人が興味を示す事、にこそ、その
人の生き様、特質、特性、が現れるのです。男は、社会全般有りとあらゆる分野へ
の興味が有り、よりり多くの知識をいつまでも習得し続けねば、仕事に生かせず、
仕事をしっかりとこなさねば、妻や子を養えないので、当然の結果として世の中の
あらゆるモノに幅広く興味を持ち結果として知識習得が多くなります。
何故男女にはこれほどの興味を持つ分野、や、特質性質の違いがあるのか?
それこそ!何百万年と続いてきた生活様式の違い、が、遺伝子にまで組み込まれて
の、体質、性質、の違い!になっているのです。 それを無視した、生き方、思考、
で、楽しく充実した人生が送れるはずはない!!と、上記の男女週刊誌の明らかな
違いがそれを証明しています。恋愛マニュアルの女性読者のみなさん。
どれほどクソ左翼が貴女達に不幸な人生を提供するために、アレコレ洗脳しようと
しても、決してそんなマヤカシに乗ってはいけません。
男女は敵対すべきでは無いのです!
男に生まれたなら、男の身体、体質性質を持って生まれたきたからこそ、女に安全
と安心と安定と快感を与え、守り、包むべきだし。
女に生まれたなら、女の身体、特質と性質を持って生まれて来たからこそ、自分を
守り包み快感と安心と安全を与えてくれる男に、従い、尽くし、癒す、事を心がけ
なさい。
そうしあってこそ、男女は相思相愛の幸せな人生が得られるのです。
左翼の洗脳に乗ることなく!
女に生まれたなら、女の身体、特質と性質を持って生まれて来たなら、
自分を、守り、包み、快感と、安心と、安全を、与えてくれる、男、に、従い、
尽くし、癒す、事を心がけなさい。
http://hw001.gate01.com/funわか/
124 :
禁断の名無しさん:2006/04/22(土) 20:23:59 ID:J8ZtS086
>>122 121だけど、言われてみれば禿げしく納得。自分自身が体力がないから家事
のほうが楽というのもあるけど、どこかで家事は価値の低い仕事だと
思ってた自分にちょっとびっくりだ;;
>>123 123は私へのレスだと思っていいのかな。ふんわかさんは「何百万年と続いて
きた生活様式の違い」というけどいつからどのような生活様式が現在まで
続いてると考えているのですか?
また私は「子供の頃から機械類に興味を示し、男に必要な分析能力、
世情やシステムや機械にマネジメントまで幅広い知識習得に興味を物ち
そのための情報を欲しがって」るけどそういう女はふんわかさんのなかでどう
捉えられてるのかしら?
125 :
funわか:2006/04/22(土) 20:26:58 ID:6vdtYuXM
よほどのフェチかホモやレズでない限り、男は、『お、ん、な、』に惹かれ、女は、
『お、と、こ、』に惹かれるのです。
女は女らしく!男は男らしく!これは生物の世界では異性を引きつけるフェロモン
の未来永劫変わらぬ真理、基本です。生物の真理に逆らっている、男っぽい女、優
しき気遣いが出来ない女。女の後からついて行くような男らしさや決断力が無い女っ
ぽい男。そのような男女なら、当然恋人をかっさらわれる事になっても仕方がない
のだ、と私には思えます。
この世に生きる全ての生物は、たとえアメーバでも、全てが雄と雌に分かれ、異な
る性質の下で生きているのです!!!
126 :
funわか:2006/04/22(土) 20:31:47 ID:6vdtYuXM
funわか@hotmail.com←質問、反駁はこちらまで。
127 :
funわか:2006/04/22(土) 20:36:01 ID:6vdtYuXM
戦後は、延々累々と男女の幸せの基本、根本を破壊してきた、大嘘の、男女同一教
育の弊害が今まさにピークを迎えています。その兆候と実証はあらゆる箇所に噴出
しています。
【 男の強さ、体力的余裕こそが!女を守り包み込む事が出来る 】のに!男女同
権を曲解し、【 男女が同じ種類、場で行う体操教育 】で、男の体力を削ぎ取り
、気力と覇気を萎えさせ、【 女の淑やかさ、柔らかさ、が、有ってこそ!男の性
の力が漲る!】のに、同権の曲解と女の増長教育のせいで蔓延る【 男のペニスを
完膚無きまでに萎えさせる!男のようなフテブテしい女達】を育て続けた。
その結果、【 戦いを忘れた日本の男子の精子は限りなく少なくなり 】と、【男
に愛される事永遠に無き、体力も知識も乏しいくせに、口攻撃と太々しい態度で男
を圧倒する・・・から恋人のペニスは限りなくおとなしくインポになる・・・性格
ブスのクズ女達 】ばかりになってしまった。。。
これもこれも全て!国損反日、日教組のジェンダーフリーが象徴するように、『
男女に性差は無いとするキチガイのような間違った教育が蔓延っている 』からで
す。
128 :
禁断の名無しさん:2006/04/22(土) 20:59:29 ID:AaCCXq8W
あのう、
>>125で引き合いに出されてる『アメーバ』って
原生動物のアメーバのことですか? 細胞分裂で増殖する故に
雌雄の区別もないと小学校のとき授業で聞いたんですけど…
それとも、まったく別の『アメーバ』が存在するのでしょうか?
129 :
funわか:2006/04/22(土) 21:04:21 ID:6vdtYuXM
能なしのガキが
>>124 書いた後で気づいたけれど、身体介護は直接に相手の身体に触れるから
危険は伴うと思います。感染症とか、あと事故ね。
入浴中に心臓麻痺おこしたなんて珍しくないし。
家事援助中にも事故は起こりうるけど……んー……その差かもしれないス。。
132 :
禁断の名無しさん:2006/04/23(日) 01:26:56 ID:Xqh7lBfd
いや、身体介護の方が単純にきついって。
身体を壊してやめた女の人、3人知ってる。
133 :
禁断の名無しさん:2006/04/23(日) 02:31:26 ID:ymDw+VXE
評価の問題ってそんなに重要か?
賃金の差は需給で決まってるだけだろ?
需給と評価にタイムラグが生じる場合もあるけど,っていうか常に生じてるけど,
長い目で見れば適正水準にサヤ寄するんじゃない?
そんな長い目でみてられるか!っていう怒りはごもっとも。
高給だからといって評価されているとは限らないしってのが難しいところなんじゃない。
135 :
funわか:2006/04/23(日) 10:30:31 ID:PmJ75gWk
自らの無知に気づかない者、、、。やはり戦後左翼の自虐教育、洗脳は恐ろしい、、、。
男女板厨はここにまで出没か。
おっさんの粘着すさまじい。
137 :
禁断の名無しさん:2006/04/23(日) 14:09:04 ID:P4SrErlL
介護をする人が女性が多いから身体介護のほうが大変ということになるけど、
たとえば体育会系の体力自慢の男が多ければ料理のが賃金高くなるのかな。
138 :
禁断の名無しさん:2006/04/23(日) 14:17:44 ID:P4SrErlL
連投スマソ
>>133 >賃金の差は需給で決まってるだけだろ?
そうでもないみたいですよ。
たとえばリハビリを専門員には理学療法士と作業療法士という2種類があって
仕事の内容はほとんど変わらない職場でもなぜか理学のほうが給料高いです。
主に理学は筋トレ的なことをして作業はより生活に密着した料理やドアの開け閉め
などをどうやって行えるかを考えるので、女性的なイメージがあるから
給料がすこし安いのだと思われます。
139 :
funわか:2006/04/23(日) 16:32:56 ID:cc2hwhs7
恋愛マニュアルスレッドを男性論女性論板に建てました。
140 :
禁断の名無しさん:2006/04/24(月) 02:25:18 ID:pMDTbryQ
さても聞こし召せよ
>>1。すれとかかはりなきことなれど。きのふ男色自衛官の多き発展場にいきたるに、なでふこともなうひとのおほくあらば、えもいられず。
よう見るに、入り口に広告の下がりて、「今週はSG筋肉爆発祭り(筋肉質の方は500円OFF)」となむ書きたる。
あなや、をこかな、しれ者かなと。
わぬしら、よき人は筋肉祭り五百円引きばかりにて、ひごろ来も来ぬ発展場になどかきたらむ。
五百円引きよや、よや。
相方連れあり。自慢の相方引きつれて発展場にきたる、いとむくつけし。
あまつさえ、兄貴は浮いた銭にてコンドーム壱ダースほど頼まふわいの、など言う様こそ、かたはらいたけれ。
五百円給ぶに往ねよかし。
さるは、自衛官多き発展場てふ所、げに殺伐たらむこそつきづきしけれ。
戦の字めく寝台のあなたざまに居たるをのこどものいさかいいつ始まらむとも
しらず、かたみに犯すや犯されるやと案ぜらるるけしきのいとをかしかるべきを、
ジャニーズ系、かわいい系らはいぬべし。
かかるうちに、やうやうゐらるるかと思ひしに、傍らなるしづ山がつ(陸二曹)の、特大サイズのローションを
とかや聞くに、さらにぶち切れたれ。
いで、ローションなるものはこのごろにてはつゆ流行らざるを、げにをこざまなるかな。
したり顔して何のローションをや。
さはまことにローションもちひまほしきものかと問はばや。
問ひ詰めばや。半刻ばかりぞ問ひつめばや。
むげにローションこそもちひまほしきのみにやあらむ。
発展場知りたるまろに言はすれば、月ごろ発展場知りたる人の間につとに流行らむは、
なほローション無きにこそあらめ。
ローション無きコンドーム無き、これなむ才ある人のセックスなる。
ローション無きてふは、ローション一滴たりとももちひざりぬるに、摩擦大めなる。
これこそ。
またコンドーム無きは、いふもおろかなり。
さるに、こを実践せば次よりMなる自衛官に目つけらるるは必定ななれば、
危ふき諸刃の剣にて、つたなき人にはえ薦めぬわざにこそあんなれ。
とまれかうまれ、わぬしらつたなき人はラッシュなどようをが吸えかし、とこそ。
141 :
禁断の名無しさん:2006/04/26(水) 10:35:05 ID:oTIxYo2R
ここは隔離施設か何かですか?
どっちかつーと「出店」のような希ガス
>>128 Part12 でこれと同じコピペに同じこと指摘したけど、無視されましたー。
南方熊楠が研究していたことで知られる、粘菌の変形体を「アメーバ」と
呼ぶこともあります。この仲間には有性生殖するものもいます。
>>125がそのことを指しているとは考えにくいですがー。
>>143 粘菌を熊楠は「下等生物」だとは思ってませんね^^
「アメーバ」を「下等生物」の比喩として使うひとではない。
彼には男色研究の文章もあります。セクシュアリティの多様性も
肯定的に考えることができる、ゲイ・サイエンス、悦ばしき知識の
ひとですね。
「Vフォー・ヴェンデッタ」を観てきたわ〜。
映画は、数年後の日本や米国を模した…あ、いえいえ、
ナチス・ドイツを模したファシズム国家となったという設定の英国が舞台。
異性愛中心主義と国家幻想への信奉を核心に置いた支配が行われるその国で
ひとりでレジスタンスを続ける"V"と名乗る謎の人物の活動に、ある女性が巻き込まれていくの。
お話の重要な転換点となるポイントとして、
あるゲイ男性が政府を揶揄した"表現"をしたことからある"秘密"がバレて殺されるエピソードと、
あるビアン女性が収容所に入れられ拷問されて殺されるまでの経緯が置かれているんだけど…。
映画鑑賞後、バカ女たちがしていた会話。
バカ女1「ホモはのおっさんは可哀相だけど、レズがつかまるのはわかるよね」
バカ女2「なんでああなるのわかってて、レズなんかよくやるよね」
バカ女1「頭悪いんじゃない?アハハ」
一般市民が沈黙することの加害性にまで、ちゃんと劇中で触れているこの映画。
それを観た後に、こんな発言って…。何を観ていたんだか。
てか、こいつらにすごい既視観があると思ったら、
前スレで83タンが「ブロークバックマウンテン」の上映劇場で出くわした連中とそっくりの発言ね。
まさか同一人物? それとも、ビアンタンへのこんな滅茶苦茶なバッシングが流行ってんの…?
訂正。(でも訂正しなくても良さそう)
バカ女1「ホモのおっさんは可哀相だけど、レズがつかまるのはわかるよね」
バカ女2「ああなるのわかってて、レズなんかよくやるよね」
147 :
83:2006/04/27(木) 23:58:20 ID:KQKNUZqb
>>145-146(いぬタン)
>「ああなるのわかってて、レズなんかよくやるよね」
「“女のくせに”権力に逆らうなんてバカよね」って聞こえるわ。
彼女たちは「女」の皮をかぶった保守オヤジよ。
「権力には大人しく従ったフリをするのが賢い女の生きかただ」って、内面化してるんじゃないかしら。
国家の暴力(=権力)に立ち向かうのが「男」だったら納得がいくんでしょ。
体制側にしろ対抗勢力にしろ、「暴力依存=権力依存」という共通の病理性(「男」という病理性)を持っているから。
それに対する「『女』という病理性」のなかには、「権力恐怖」「無力さへの依存」があるんじゃないかな。
この二つの病理性を見えなくさせ、正当性を自明のものとさせる働きが、既存のジェンダー規範にあるんだと思う。
Vフォー・ヴェンデッタ
>>145の「あるゲイ男性」。
彼が、ゲイというカテゴリーをあてがわれる自分自身に関して、
「今では自分が何なのか分からなくなった」と言う場面があったわ。
異性愛/同性愛などという性指向の暫定的な区分けの脆弱さが、
身に染みていることから出てくる言葉よね。
たった一言呟くだけなんだけど、その一言だけで、彼が周囲の抑圧の中で
繰り返し問い直しの思考をしてきたことが伺われる、名台詞だと思ったわ。
この映画の脚本を書いたウォシャウスキー姉弟、
監督デビュー作の「バウンド」といい今回のVといい、素敵だわ。
デレク・ジャーマンさんの遺志を引き継いでるみたいという印象があるわ。
注:ウォシャウスキー姉弟
ウォシャウスキー兄弟と呼ばれてますが、「兄」のほう(クマじゃないほうw)の、
リンダさん(ラリーさん)、M趣味女で有名ですので姉弟と書きましたわ。
最近、MtFの手術を受けたらしいです。おめ。
>>83タン
国家の暴力(=権力)に立ち向かうとかいうのも、
「男」であることの権力(=暴力)の発現に過ぎない場合が殆どですよね。
「男」は、徒党を組まなきゃ、世の男どもと繋がっているという確信がなきゃ
決して強がらないわよね。
149 :
禁断の名無しさん:2006/05/02(火) 01:01:19 ID:C+64ye+I
>>62 はくタン
遅レス、ごめん。
『No Way Out 』の詞、胸に沁みるでしょ〜?
映画も是非観てみてくださいな。
>>149 そこに引用されている「ジェンダーフリーチェック」やってみたお。
>5.男の子が車や電車、女の子が人形で遊ぶことは普通である。
あぶないし迷惑だから、車や電車で遊ぶのはおやめなさい。
>15.家事をしない夫の話を聞くと「理解のない人だ」と思う。
ここ意味わかんない。何に理解がないと言ってるの?
何を言いたいか謎なので、唯一○をつけなかった。
てか、こんなチェックで"時代の先駆者"とか呼ばないでよ。悲しいなあ。
全然スタート地点だとオモ。
>私は保育園児のころ周囲の大人によく「・・ちゃん」と呼ばれた。
>それについて私はきっぱりとこう言ったそうです。
>「おばちゃん、・・ちゃん言うたら女の子みたいやろ。
>だからボクのことはこれから・・くんと呼んでね」
>ということは私は4歳児から化石のように頭が古かった
>ということになります。
ここにも○つけたおw
突然スイマセン
2ちゃん見てると男女で扇りに差があるような気がするんですよ
男性って「DQN」や「低学歴」みたいな事を言うのに対し
女性はあまり学歴に行かない気がします
自分の見てるスレが片寄ってるのかもしれないけど
女性ってヲバ(おばさん)って言葉をよく使う。
何か厨な発言した人に「ヲバは帰れ」とか
対して男性は「厨房、ガキ」と言う。
ホモ(笑)たいなのは見てもレズ(笑)は見たことない
これは男性は社会の歯車になりその中で地道に地位を積んで行くべきなのに
それをしない「規範から外れた男」だからでしょうか
…女性が「お洒落をしない女」を叩くのと同じように。
「ヲバとガキ」の差異は女性は早熟(若いのがエライ)、
男性は成熟(年齢を重ねた者がエライ)の社会的コードの現れで
「ホモ」はギャグになるけど「レズ」はギャグにはならないとことでしょうか
自分の考えすぎかもしれませんが
>>151 男は大人であるかどうかに重きを置くのに対し女性は女でいることに価値を見出す
そんなジェンダーを感じた
自分自身の中にね
>>150 うん! この連休中に借りて観ますv
>>149のジェンダーフリーチェック見てみたけど、なんか……設問がスゴすぎw
>>151 まさに昨日、うるさい粘着を「おばさん」呼ばわりしちゃったよ。
>>151 目の付け所は面白いと思ったよ。
簡単に言えば童貞は馬鹿にされるけど処女はありがたられるって事かもね。
男は成熟が求められ女には無垢さが求められるのね。
>「ホモ」はギャグになるけど「レズ」はギャグにはならないとことでしょうか
これは実際どうか分からないけど、もしホモはギャグになりレズはギャグ
にならないんだとしても上の童貞処女の理屈で説明できることだよね。
つまりホモレズはノンケと比べて不完全な存在あるいは未熟なものという
認識が一般的に多少はあるからホモの場合馬鹿にされギャグにもなるが
レズに関しては女性の未熟さってことでは馬鹿にされる理由には
ならないってことじゃないかなあ。
156 :
83:2006/05/03(水) 03:37:40 ID:jjG2LmIH
>>151 >「ホモ」はギャグになるけど「レズ」はギャグにはならないとことでしょうか
あたしはギャグとして笑えるレズネタいくつか知ってるけど、
それが他の人にも笑えるかどうかは分かんないや。
たとえば、「かわいそうな人たち」と思われている人が、
その「かわいそうな」部分をネタにしてギャグをかましたとしても、
見た人が最初からその人を低く見ている場合は笑えないんじゃないかと思う。
笑うのは差別や見下しにつながると感じて。
「かわいそうだ」と思った時点で、もう笑えないというか。
あたしがギャグとしてのレズネタを笑えるのは、
レズを「かわいそうだ」と思ってないからだと思う。
愛すべき人たちの可笑しみが、自分のエンパワーメントになってる感じ。
あと、誰がネタを演じるかによって、笑える/笑えないに分かれることもあるんじゃないかな。
ヘテロが演じるホモネタを見て、密かに心を痛めたり傷ついたりするゲイ当事者もいるだろうし。
157 :
funわか:2006/05/05(金) 07:27:57 ID:19/jIRJJ
【 男の強さ、体力的余裕こそが!女を守り包み込む事が出来る 】のに!男女同権を曲解し、【 男
女が同じ種類、場で行う体操教育 】で、男の体力を削ぎ取り、気力と覇気を萎えさせ、【 女の淑や
かさ、柔らかさ、が、有ってこそ!男の性の力が漲る!】のに、同権の曲解と女の増長教育のせいで蔓
延る【 男のペニスを完膚無きまでに萎えさせる!男のようなフテブテしい女達】を育て続けた。
その結果、【 戦いを忘れた日本の男子の精子は限りなく少なくなり 】と、【男に愛される事永遠に
無き、体力も知識も乏しいくせに、口攻撃と太々しい態度で男を圧倒する・・・から恋人のペニスは限
りなくおとなしくインポになる・・・性格ブスのクズ女達 】ばかりになってしまった。。。
これもこれも全て!国損反日、日教組のジェンダーフリーが象徴するように、『 男女に性差は無いと
するキチガイのような間違った教育が蔓延っている 』からです。もう一つ、現代の日本が抱え、病ん
でいる、【 男女が幸せに成れない病 】の要因は、【 間違った性情報の氾濫!】に有ります。戦後
日本の最大の罪は、政治と役人とマスメディアと教育、いずれの世界にも、【 責任所在の曖昧さ 】
を許す事で、【 誰もが責任を取らずに済む 】のが当たり前!にしてしまった事。にありますが、
(この事について、近々funwaka論で解説したいと思っています)性情報に関しても同じ事が言
えます。 そうした戦後の責任所在の曖昧さに助けられた日本のマスメディアの甘い体質、どれほどマ
ヤカシ情報を垂れ流そうと、偏向報道をしようが誰もその責任を追求しないし責任を取らなくても良い
せいで、実にくだらない、怪しくも間違った性情報が氾濫していて、その間違った情報から多くの人間
が、生物の最も至福の時!のセックスを本来の半分以下にしか楽しめていない、のです。
女として幸せな人生を送りたいなら!【 男の性質、体質、幅広い知識、を敬い、男の精神と覇気を削ぐ
こと無く!男に従いつくしなさい。】
男として満足のゆく人生を送りたいなら!【 精神、幅広い知識、性質、体質、全ての男を磨け!!】
http://hw001.gate01.com/funわか/hitorigoto.htm
タチっていわれる人種はホモレズかかわらずジェンダー主義者よね?
159 :
禁断の名無しさん:2006/05/07(日) 04:30:40 ID:o2vZbxE2
あ、、、、なんか言葉が変だわ。でもいいわね伝わるはず。。。
160 :
83:2006/05/07(日) 13:09:39 ID:ieiqbN4D
>>158 >タチっていわれる人種はホモレズかかわらずジェンダー主義者よね?
そうとも言い切れないような。
タチ=男ジェンダーとは限らないし、タチにもいろいろいると思うよー。
>>158 もしかして。
"タチ"じゃなくて、タチって"いわれる"が
>>158のポイントなのかもと思ったわ。
タチを自認+何を言わずともバリタチと見なされがちな振る舞い ってこと?
162 :
funわか:2006/05/09(火) 10:43:09 ID:SMfLgwuf
今現在、私の元に通っているユートピアの娘や側で暮らしている娘全て、その嬉しさの思い、幸福度が
頂点で沸騰するのか私のフニッシュ前か後には涙を溢れさせる事、常となっています。ユートピアに通
うようになる娘の多くは性に対してトラウマを抱えています。子供の頃受けた性暴力だったり、「女の
子でしょ!」の、親の躾が魔女の呪文になっていたり、生来の性格がおとなし過ぎて思春期は男性に対
し憧れよりも恐れに近い感情で過ごしたりしています。
そうした娘のトラウマを除くために私はあらゆる例えと言葉で、『 この世に有る生物全て、植物もア
メーバーも魚も犬でも猫でも、当然人間も!性があってこそ(セックスをしてこそ)、生まれた価値、
生きる価値が有るのであり、性の営み(セックス)があってこそ、その種族は滅びない、性(セックス
)が無ければ、その種族は全て滅びてしまうのだ! 』と、説きます。
163 :
funわか:2006/05/09(火) 10:49:16 ID:SMfLgwuf
全ての生物は必ずオスとメスに別れており(雌雄同体の下等生物も同体であろうとも性は別です)生殖
機能が一人前になる、成人となれば、100%性(セックス)の営みをするように遺伝子づけられてい
るのです。人間の世界では、様々な宗教や、様々な国が独自に道徳や倫理で人の悪事や行動を厳しく戒
めます。そのせいで、本来生物全てに命令づけられている、性(セックス)に対してまで、おかしなト
ラウマを起こさせたり、歪められた性意識に陥る恐れが常に有ります。悪事や他の者に嫌悪感を感じさ
せる事を戒めるのは当然として、そのような国や人でも、必ず性(セックス)は当たり前の事として行
われています。でないとその国、人種は滅びてしまいます。そうして歪められた『 倫理道徳宗教に縛
られた女性の性意識 』に、私ははっきりと解説、宣言しています。
【 この世に生まれた者全て!健康な身体と健康な精神で育って大人になったならば、男女間ではセッ
クス以上の最高のコミュニケーションはあり得ないし、セックスがあるからこそ、男女間に本当の愛も
湧いてくる 】そして、その【 男女の最高のコミュニケーションの後にこそ、二人が愛で解け合った
ゆえの結晶、絶対の愛の存在、我が命に変えても惜しくない存在、子供が生まれてくる 】のです。
【 男女の間には、強く大きな性と愛の結びつきが有ればこそ、互いへの尊敬や愛情も大きく深く感じ
られるのだ、と、しっかり認識しなければならない 】私はそう思います。
http://hw001.gate01.com/fuんwaか/ fuんwaか@hotmail.com←質問、反駁はこちらまで。。。。
ジェンダーは流動的だと主張する皆さん
ノンケは同性でも○○なら抱かれてもいいとか冗談で言ったりしますが
ホモに女とセックスというと身の毛がよだつ程嫌がる件
>>164 はーい。嫌でーす。
セックスのやり方に、ヘテロのジェンダー規範を参照しまくられて、
嫌な思いをすると予想するからでーす。
ホモフォビアのヘテロ至上の隠れホモとのセックスも同じように嫌でーす。
同じように嫌ですが、そうと予想出来ず、し始めてから
失敗に気付くことがありまーす。
ヘテロのジェンダー規範には、それが唯一の正しいものという思い込みと強要が
たいていセットになって付いてきます。そこにどうしようもなく苛々させられます。
強要を避けようという意思が当事者にあったとしても、
"ヘテロ"自体に、他者への強要の歴史の刻印を見てしまいます。
好みじゃないものの女装してのホモセックスは全然OK。だけど、
たとえば軍服を着てセックスは、ただのフェテシズム以上の刻印がある。
カギ十字、意味を知らなきゃ、ただのデザイン。
だけど、あたしは嫌悪感を感じずにはいられない。
ヘテロセックスをするのは、そんなふうに、嫌。
166 :
禁断の名無しさん:2006/05/10(水) 21:36:28 ID:2hb/qZ3f
じゃあジェンダー規範を押し付けない女と規範バリバリのノンケ男
どっちか選べといったらどっち?
「性行為」としての「セックス」の定義の問題でもありますね。
「挿入」→「射精」だけを「セックス」と考えることの問題点。
次に、「性関係」を「性行為」のみに還元するということの問題点。
これはセクシュアリティの区別に関係のない問題ですね。
近代において「男性」が「セックス」に対してもたされ続けてきた、
イメージが抑圧し、排除したものとしての「性関係」を肯定する、
その限りにおいてセクシュアリティの「流動性」が生じるのであって、
特定の「男」にケツ掘られても平気な「男」である、というくらいで
セクシュアリティの「流動性」というのは言葉の使い方がヘンだということです。
新参者がすいません。
ここってそもそも、戸籍上の、男女ともに発言してOKなのかな?
もしそうなら、上の方の質問に対する回答も、様々だろうね。
>>166 ジェンダー規範を押し付けない女
ってか、選べも何も…。
そもそも規範バリバリのノンケ男はあたしを嫌うでしょうに。
>>166 その選択肢に関する限定可能性にリアリティがありません。
また、仮にリアリティがあったとして、その選択を強制される場面は
かなり特殊なものだと思われます。たとえば、どちらかと「性行為」
しなければ命にかかわる、とかね。
ノンケが社会生活を行うなかで「性行為」を含む「性関係」を構築することができているのに対して、
非ノンケは「究極の選択」として「性関係」の構築を強制されなければならない状況を、
別に今、ここで
>>166さんが立てなくても、近代においては規範としてのジェンダーを
体現し得る者ならばセクシュアリティに関わりなく誰でも立てうるであろう、
紋切り型としての
>>166のような「問い」が、「無邪気かつ無意識に」反映している、
そういうことのようです。
>>165でいぬまわりさんのいう「他者への強要の歴史の刻印」にはそうした
「無邪気な問い」も含まれますね。「意識的な」悪意は無いのは理解していますが、
そこに「暴力の痕跡」が刻まれているのは確かで、ジェンダー・センシティビティと
いうのは、そうした「問い」の立て方をめぐり培われなければならない「感覚」でもあります。
171 :
禁断の名無しさん:2006/05/10(水) 22:24:17 ID:2hb/qZ3f
ここってちょっとした質問でも
理屈のための理屈で帰ってくるんだね
>>169 こうやって「選ばされてきた」わけですね。で、それはノンケに対しても
「倫理的暴力」としてふるわれている。このスレを読むと、それがよくわかります。
>>171 ええ、その「無邪気な問い」の「無邪気さ」としての「ちょっとした」が
問題の核心なので。
>>165 >"ヘテロ"自体に、他者への強要の歴史の刻印を見てしまいます
>こうあるべきと決められてきた家庭はうちもそうだと思います。
>が、自分は将来そういう家庭を築けない。だから、父には勝てないんです。
>それは違うんだよ。って言われるかもしれません。
>だけど、俺だってできるなら父のような家庭を築きたい。それが当然だと思うし。
隠し板で、若いコテハンとジェンダーがらみの話をポツポツしてて、
そこからの抜粋です。(勝手に転載ごめん>Kくん)
これに俺は、
>>24のレスを引き合いに出して、
>幸せの形はたった一つではないよ。
>「できない」ならば、「できる」幸せの形を探してみる・考えてみることが
>大事じゃないかな。
と返したんだけど、いかにも力がないレスに自分で苛立つんですよ。
どうしてKくん(マイノリティ側)ばかりに負荷をかけてしまうんだろう、と。
ヘテロである彼の両親や周囲の人々は、確かに、Kくんに何も強要はしていないと思う。
だけど、ただそこに居て、普通に生きているだけで、Kくんに負荷をかけてるよね?
こういう事を考え出すと、自分の無力さとか、誰にぶつけていいか分からない苛立ちに
苛まれる。
Kくんの周囲の人々も、俺の周囲の人々も、
Kくんがかけられている負荷について何も知らない。
知らないことは罪だと言ってやりたい。だけど「届かない」。
届けられない=問いの立て方を知らない自分が、すごく嫌になる。
>>173 >>164や
>>166のレスの内容にリアリティをひとが感じるのだとすればそれは、
この社会のなかに、ノンケに対してであれ非ノンケに対してであれ「例外状況」においてしか
「性関係」を構築することを許さない規範の「暴力」が存在し、ある選択には
「社会的承認」が与えられ、別の選択には与えられない、といったかたちで
「生き延びの可能性」としての viability を制限している、ということがあるからでしょう。
あらかじめ「暴力」によって制限された「選択肢」をつきつけられているのは、
非ノンケだけじゃありません。ノンケの「カミングアウト」はそうした規範の「暴力」、
「倫理的暴力」に関わるものです。
その場合、現在承認されていない選択の「承認可能性」を高め、
「社会的承認」を得るものとする、ということは、既存の社会制度への
内含ないし包摂 inclusion を意味しない、というのは重要なポイントですね。
「承認してもらう」わけではない。来日した折にバトラーはそこははっきりと
言ってましたね。
それが inclusion となる危険性はあっても、PACSのようなパートナーシップ制度が
できることで、viability が保証される選択の数は増える。「負荷」はなくなりは
しないけれど、軽くはなる。Kくんの周囲のひとたちも「悪意」があって
「負荷」をかけているのではなく、既存の規範の再生産に巻き込まれることでしか
生き延びられない、そうした状況がむしろ「善意」としての「負荷」を生じさせるのであれば、
とりあえず可能な対応はそれですね。別にフランスでもすべてのひとが「知る」ことを
通じてパートナーシップ制度という「存在」ができたわけじゃありません。
「存在」が「知る」ことを可能とすること、「罪」の遅ればせの「贖い」を
可能とすることもある、そういうことでしょう。
誤解の無いように付け加えれば、「存在」のない状態で
「知っている」だけなのも「罪」なわけですね。
ひとつの「存在」によって「贖い」が可能となる「罪」にはいろいろある、
そういうことでしょう。
ただ、僕はあまりそういう宗教的ボキャブラリーでは考えません。
そういうのは、「キリスト教の脱構築」をやっている哲学者の方に
おまかせします。僕がやっていることが「キリスト教の脱構築」であるなら
それはそれでかまいませんし。
はくタンのいう「負荷」を現在の社会のなかでつくりだしていない者は
誰ひとりいない。だから、セクシュアル・マイノリティに「モニョリ」が
生まれる。「負荷」を感じさせ、感じさせられながら、生き延びているから。
「モニョリ」はヘテロにもあるはずなんですね、「否認」し、「他者への暴力」に
転化することが制度的に容易となっているので、それを自覚することが
困難であるとしても。その「モニョリ」が無ければ、セクシュアル・マイノリティの
カミングアウトの承認は有り得ない。
>>176訂正
カミングアウトの承認→カミングアウトに対する承認
178 :
禁断の名無しさん:2006/05/10(水) 23:30:51 ID:e9w8lTLc
女性の乳房の感触がたまらなく気持ち悪いんです(><;)
自分にとっては脆弱な感触の気味悪いものでしかないものを
世の男は血眼になって求めるのが理解できないんです(><;)
でもそれは自分がホモだから(´ω`)
なんの解決にもなっていなけど、それでいいの。
179 :
禁断の名無しさん:2006/05/10(水) 23:50:12 ID:2hb/qZ3f
それって変。
ノンケだって
同性の体がたまらなく気持ち悪いなんて思ったりしない
ホモって女嫌いの人が多いんじゃないの?
後天的か先天的かは知らないけど
差別的だったらごめんね。
>>178 「女性」の身体が「乳房」という器官に還元される、そういうことですね。
ならば、なんらかの病気により乳房を切除した身体は「女性」ではないのか、
「女性」だとしたら、その「女性」たちとは「性関係」を構築することは可能か、
ということは、まだ考える余地が残されていることになります。
僕はある「身体」がさまざまな器官の組み合わせ、カップリングでできあがっているとは
思いますが、何かひとつに還元することはしません。
ただ、こういうことは考えますね。アンディ・ウォーホルのシルク・スクリーンの
イラストのように、オリジナルとコピーの関係が成り立たない、たんに相互には、相補的な、
あるいは、代補的な関係のみがあるのだとしたら、ディルドや男根型のバイブレーターが
ペニスの「代わり」であるだけでなく、ペニスがディルドや男根型のバイブレーターの
「代わり」でもある、と。義肢を肢の「代わり」とみるだけでなく、「代わり」が
可能ならば肢を義肢の「代わり」とみることもできるのと同様に、ペニスを
義ディルド、義バイブとみる。
性同一性障害というものは存在することが社会的にすでに承認されている。
性自認が「女性」であり、ペニスを備える身体が性別再判定手術を望まず、
「女性」と「性関係」をもつ場合、これは外から目に見える限りでは、
ヘテロ男女の「性関係」にしか見えない。ここに義ディルドとしてのペニスと
いうのを持ちこむと、ディルドの「代わり」にペニスで「性行為」をして、
「性関係」を構築している「女性」同士ということになる。
いわゆるヘテロ男女の「性関係」と、この性自認が「女性」であるペニスを
備えた身体がヘテロ「女性」とのあいだに構築する「性関係」とを区別する基準を
見つけるのは困難でしょう。まだ考え始めたばかりですが、このあたりは
ウィティッグが「レズビアン」というセクシュアリティを普遍化しようとすることと
結びついているのかもしれません。
カリフィアのいう「セックス・チェンジズ」はそうした性的な身体の存在を
可能としますね。実は上の例は知人に実際にいたりする。
「彼/女」は外から見れば「モテ」にしか見えない。でも、自らが他者と結んでいる
「性関係」のイメージは上のようなものだったりして、それは既存の
セクシュアリティの問い直しを迫る。セクシュアル・カテゴリーを流動化させ、
同じカテゴリー内にいるように見えるもののなかに差異をつくりだす。
ジェンダー・トラブルを引き起こす。
ノンケの常識のように、「女性」同士で「性関係」を構築することに対して
「レズビアン」という名を与えるのであれば、性同一性障害の存在を認め、
トランスの存在を認めた以上、ノンケ男女の「性関係」のなかにも
「彼/女」が構築しているような「性関係」としての「レズビアン」が存在し得る。
「レズビアン」を「異常」だというならば、ヘテロ男女のカップルは
自らの関係も「異常」とみなさざるを得なくなる、が、そこでは「否認」の
機制が作動する。「正常化」としての非ヘテロへの差別が強迫となる。
これは逆にいえば、非ヘテロを差別するヘテロの「男性」は「彼/女」と
同じであったり、非ヘテロを差別するヘテロの「女性」は「彼/女」の
ようなパートナーをもつ可能性が高いということですね。
あと、義バイブとしてのペニス、というのは、どうしてビアンのなかで
ブッチ批判が起きたのか、ということともどこかつながっているんじゃないでしょうか。
また、「性行為」に「性関係」は還元されないのだけれど、非ヘテロの
「性関係」は「社会的承認」が行われないので「性行為」に還元されやすい。
アナルへのフィストファックって別にセクシュアリティに関係無く可能ですね。
ペニスの挿入を伴わないSMを行うかどうかはセクシュアリティとは関係が無い。
無理に生殖とセクシュアリティをテクノロジーで切り離す必要はないけれど、
だからといって、生殖をセクシュアリティに必須のものとする必要はない。
避妊したことのないヘテロカップルの方が少ないでしょうし。僕は生殖と
セクシュアリティを完全に切り離すのは危険だと思うけれど、すべての
セクシュアリティが生殖と結びついている必要はないと思う。
>>179 「同性の体がたまらなく気持ち悪いなんて思ったり」するかしないか、は
ある個人の身体が「変である」ことを判断する基準にはなりません。
たんにそう思うひともいる、それだけのことです。そう思わない身体を
「ノンケ」と呼び、そうではない身体を別様に呼べばいいだけです。
「ノンケだって」そうなのに、「ノンケ」とある身体に関する感受性が
異なるから、というだけで「変」だということにはならない、ということです。
「差別的」かもしれないという危惧はお持ちのようですが、それは
>>178さんが
「女性」の身体を「乳房」に還元してしまうのと同じくらい「暴力的」でもあるでしょう。
182 :
禁断の名無しさん:2006/05/11(木) 01:42:18 ID:mJRn3lu0
いつ「ある個人の身体」が変って言った?
女性の身体が気持ち悪くて仕方ない
が「ホモだから」に繋がることに対して変だと言ったんだけどね。
>>178さん
ふとったおとこのおなかのぐにぐにした感触を血眼になって求めてた
でぶ専ホモのあたしの欲望をどう思う?
(178さんもでぶ専というオチだったりして)
あたしも、ヘテロの欲望に限らず、ガリ専、ジャニ専、の欲望は
皮膚感覚としては理解できないわ。
>自分にとっては脆弱な感触の気味悪いものでしかないものを
>世の男は血眼になって求めるのが理解できないんです
質問。
乳房、に女性の身体を代表させるのはともかくとして、
ビアンタンが女性の身体を欲望することは、"理解"できる?
ヘテロ男が女を欲望してることよりはまだ、何か自分に近しいものを感じる?
>>182 > それって変。
これは価値判断言明です。
>ノンケだって
>同性の体がたまらなく気持ち悪いなんて思ったりしない
は、上の引用の直後にありますから、その判断の根拠として読まれても
仕方のない文章ですね。
しかもその直後に一般化が、問いのかたちで行われる。
>>178さんの「個人の身体」はその一般化された「ホモ」に
含まれます。「ノンケ」と「ホモ」の対立がここには持ちこまれている。
それは
>>182を言うのに不要な概念対立です。
>ホモって女嫌いの人が多いんじゃないの?
>>182のように書くのと、「ノンケ」のある種の「正常さ」を引き合いに出して
>>179のように書くのとはまったく別のことです。僕の言い方に変えれば、
「ホモ」の本質を「乳房嫌い」とするのは誤りである、ということになりますが、
それだけが
>>179で言われているなら何も問題はありません。しかし、それ以外に
余計なことも言ってしまっている。
意地の悪い言い方をすれば、
>>179では無自覚なままに「本音」が
出ている、ということではないでしょうか。単なる形式的儀礼であるにしても
「差別的だったらごめんね」とエクスキューズもついてますし。
ご自分でも何か「まずいな」と思うところがあった、ということではないかと
推測します。ただ、いわんとしたことが、
>>182である、というのであれば、
それはそれで結構です。
>>179は文章として妥当性を欠いていた、ということで
理解できます。
「女嫌い」についてはこのスレでは何度か話題にも出ていますが、
別に「ホモ」の本質ではないですね。そして、僕が「変」だと
思うのは、
>>178さんとあなたとで共通している
「女性」を「乳房」に還元し、「乳房嫌い」を「女嫌い」に
短絡させる思考のあり方です。
「他者の身体」がひとつの「器官」に還元されること、そして、
その「器官」への「感受性」に代表されることへの違和が僕にはあるわけです。
>>184でいう
>「女性」を「乳房」に還元し、「乳房嫌い」を「女嫌い」に
>短絡させる思考
がなければ、
>>179の
> ホモって女嫌いの人が多いんじゃないの?
という一般的かつ包括的な「問い」は
>>178からの文脈で成立しません。
そして、
>>179でも
>>182でも「思考」を共有していることに対しての
自覚が希薄なのは同じことです。
>>178さんとあなたとで「ホモ」の本質化によりふるわれる「暴力」の
再生産を「分業」していると、僕はそれをみるわけで、だから両者が
体現した「暴力性」を「同じくらい」である、と言っているわけです。
あなただけが「暴力性」を再生産しているのではなく、両者が「分業」して
再生産している「暴力性」ですから。僕は先のレスで、どちらの「暴力性」も
きわめて「平等に」指摘していると思います。
そしてその「暴力性」はあなたという「人格」とは関係がありません。
あなたはその「暴力性」をある時、ある場所で体現するメディアと
なっているにすぎない。僕が問題としているのは、体現された「暴力性」の
痕跡、誰もがコピペ可能な言説としての
>>178であり、
>>179、
>>182です。
>>178さんやあなたを問題としているわけではありません。
「力」にはひとに何事かを口にすることを禁ずるものだけでなく、
何事かを口にすることを奨励するものもある。
僕が問題としているのは、いつでもある言説を口にすることを
奨励する「力」としての「規範」です。だから、この掲示板という
メディアでは、オフで会わない限りは、あるレスの書き手が誰であれ、
書き手の「人格」は僕にとってはどうでもいいことなわけです。
その書き手の「人格」にとって、あるレスやそのレスをここに
書くことにどんな意味があろうと、それは知ったことではありません。
ここは議論スレではない、というのは何度か言ったことではありますが、
言説批判というのが「人格批判」ではない、ということもさまざまな
機会に繰り返して言っていることのひとつです。
そして、このメディアでは書かれた言説としてのレスを相手にするしかないでしょう。
継続的にコテや名無しで登場しているひと、オフで会ったことのあるひとに
対しては、それ以外の情報をもとにレスすることもある程度は可能ですが、
「還元」という言葉を使うなら、ネットの掲示板というメディア・
テクノロジーは、「文字」にある「身体」を還元してしまうわけで
オフで会ったことのある相手でも、また、コミュニケーションの
あり方は異なってくる。
既存の「人格」ではなく、ともに生き延びを図ろうとするなかで、
互いのコミュニケーションのなかで変容する「人格」の「署名」として
僕はコテや名無しという「名」を受け取る。リアルでの既存の「人格」は、
何かを「書く」前にその存在が前提とされている「人格」は、
掲示板上では僕にとってはどうでもいい。というより、掲示板上では
どうでもいいものとして扱うしかない。それがたとえ、オフで
会ったことのあるコテの「人格」であっても。
簡単な話、レスを切り刻み、切断してコピペし、引用することができるのは、
何かを「書く」前に前提とされている書き手の「人格」およびその「人格」の
アイデンティティと、言説としてのレスは関係が無い、からです。
そのように考えることと、ともに生き延びを図ろうとする他者としての
書き手を尊重し、歓待することとは別に矛盾しません。むしろ
そのように考えること、あらかじめ存在するとされる書き手の「人格」を
どうでもよい交換可能なものと考えることで、可能となる「他者の尊重」
「他者の歓待」がある。その他者は読み手にとってだけなく、書き手自身に
とっても「他者」であるはずで、生理学的、物理学的身体が2つだからといって
書き手の数は2人であるとは限らない。
>>173の「今は無力な書き手としてのはくタン」が誰かとのコミュニケーションの
なかで尊重し、歓待することになる「他者」は「より無力ではないはくタン」かも
しれない。それもまた、複数の主体の葛藤に関わる。
>>182の
>いつ「ある個人の身体」が変って言った?
に対するとりあえずの答えは、2006/05/10(水) 23:50:12、です。
ただ、それはいつでも口にしうるし、「分業」無しでも「ホモ」の
「変さ」「異常性」を「本質化」するために、
>>178の言説と合わせてひとりでも
口にしうるものであり、これまでも「無邪気に」口にされてきたし、
批判がなければこれからも「無邪気に」口にされつづけるであろう言説を、
ある者が口にさせられた、日付・時刻に他なりません。
その言説を口にさせられることで、その者の「身体」は取り換え可能な
ものとなっているのですが。
そして、「いつ」ではなく「誰」に関しては、特定の個人ではなく、
「規範」ですね。「規範」というのは人格化、擬人化されやすい。
既存の「規範」にある個人が「同一化」しようとするとき、
その個人は「規範」に「想像的に同一化」しようとしているわけではないでしょう。
つまり、自分と「規範」とを「混同している」わけではない。
「規範」と自分は別であり、完全な「同一化」は不可能であるとわかっている。
わかっているがゆえに、完全な「規範」との「同一化」が強迫反復として希求される。
そこには「規範」に対して「不変性」としての「普遍性」が付与されていて、
その「不変性」が、ある個人の「人格」のアイデンティティの「不変性」としての
「安定性」をもたらしてくれる、ということが期待されている。
以上は、
>>182さんが強迫反復的に「規範」との「同一化」を行っているかどうか、とは
まったく別の問題です。ただ、それが誰であれ、そのような「不可能な同一化」を
強迫反復として行うことは、「規範」が「不変」ではなく、「規範」の「普遍性」が
「変容」や「可塑性」である以上、「苦役としての生」にしかつながらない。
gay life にはならない。その場合「規範の解体」はある個人の「人格」のアイデンティティの
恒常的かつ際限の無い「不安定化」にしかなりませんから。
「解体されつつある規範」の複数の「声」のひとつは繰り返し語る。
「苦役」として以外にも「生」はあるのに。強迫反復としての「規範」との
「同一化」は「苦役」であること、それは「不変」でもなければ「普遍」でもないのに。
「より楽しい同一化」としての gay life は、「ノンケ」でい続けるとしても、あるのに、と。
190 :
funわか:2006/05/11(木) 11:27:38 ID:tCubcK8v
戦後左翼に牛耳られてしまった教育界やマスコミのせいで日本の近代史は暗黒に塗りつぶされ、男も女も誇
りを持てる人生にはほど遠く、男の本質、気概気力は完膚無きまでに貶められてしまった。
女は己の能力の差と違いを認めず性差別にその根本をすり替え、男を敵対視する。日本男児においては精子
の数さえ減少してしまい、この国には妻子を養う事ほど遠く、自分でさえ養うことも危ういプータローや引
き籠もり併せて一千万人近くもいる。『 黙って俺に付いてこい!いやか?イヤなら俺が付いてゆく 』
この言葉は現代川柳の世界だけでは無い、今の時代このままのケースが巷に溢れかえり、その有様を私は何
度も目にしなければならない。戦後の悪しき男の骨抜き教育の弊害をもろに受け、男の気概、男の力、男の
強さ、男の自信、を失いかけている諸君!君は女を惚れさせる事が出来ると思うか!?
女を守り、女に安全と安心を与え、女を従え、女を娶り、女に子を産ませ、死ぬほどの快感を与え、女を心
底惚れさせ、男に尽くさせる!!それが出来てこそ!男の甲斐性!と言えるんだぞ!!現代においては、少
しのイケメンと身長と軽い話術に多少恵まれてさえいれば、大学を卒業するまでには40〜50人の女に股
を開かせる事はたやすい時代である。それほどに、男の性と女の性の基本的違い、開き、を誰も知らず、教
えられずに、思春期青年期へと突入する、ハデさと物質欲だけが突出した、かわいそうなバカ女が多くなっ
ている事の証明であり、そんなオンナに股を開かせ己がモノを突っ込めたからといって、そのオンナが決し
てその男に惚れているわけではない。単なる穴埋め棒だから、直ぐに他の男の棒に代わりが務まる。
191 :
funわか:2006/05/11(木) 11:28:27 ID:tCubcK8v
女に、真にモテル、というコトは、女をとことん惚れさせる事が出来てこそ!なのであって、元々股の蝶番
が緩んだ女の多くにどれほど突っ込もうが、数を増やそうが、それはモテルという事の何の証明にもなりは
しない。『 男が真に女にモテる 』、という事は、「男が幸せな女を作れる 」という事である。
単純にペニスをヴァギナに入れたからといって決して女は男に惚れてはくれない。
女をとことん惚れさせるには、愛で包み安心と安全を与えた上に、死ぬほどの快感を与え何年もかけて性感
のレベル、段階を引き上げ続けられ、頂上まで連れて行く力量が男に有ってこそ女は心底、その男に惚れて
しまう。若い男達よ!一度で良いから、とことん女をオマエに惚れさせて見ろ!!惚れさせて、燃えさせて
、オマエのハートに酔わせ、身体に狂わせて見ろ!!「女とはかくもかわいいものよ・・・」そう実感出来
てこそ、男の愛も力も活力も相乗効果として倍加してくるんだぞ。
192 :
funわか:2006/05/11(木) 11:29:53 ID:tCubcK8v
女をとことん惚れさせる超テク指導、男塾、七月より新規開講する。尚、男塾は誰もが入塾出来るわけでは
無い。 少なくとも恋愛経験を二度以上経験している事。出来れば現在進行中の恋愛をしている者が望まし
い。少々生意気でも男の向こうっけ、覇気が有る男が望ましい。仕事をしている事はもちろん、自立してい
る者だけにしか入塾許可は出ない。女の腐ったようなヤツに、どれほど諭そうが、指導をしようが、所詮女
を惚れさせる力量など生まれるはずもないからだ!女を心底惚れさせる超テクを授けるfunわか男塾!
とことん女を惚れさせることができる男。 そんな男が増えることを望んでいるのは、恋愛(セックス)マ
ニュアルの女性読者だけでは無い!全世界のオンナが望む事なのだ。
男塾詳細
男性のみ女性不可
年齢 20才以上
恋愛経験有る者のみ受付! 住所 氏名 職業 年齢 身長 体重 携帯電話番号 等、明記の上申し
込む事。
期間
一年間とするが、二年目以降
年間二万円で留年継続可能 毎月テキスト配布 現在進行形の恋愛有る者のみ入塾許可。彼女を惚れさせ
る方法、愛とセックス、を塾生の恋愛やデート時、メールで彼女の性レベルに応じた指導や彼女のハートへ
の楔(くさび)の打ち方を指導する。funわかの指導(命令)を実行できない男には出来るようになるま
で次段階の指導を休止。実行できた者にはその上の段階に進級させる。funわか指導を即実行しにくい者
には留年での同レベル指導の復習も可能。
塾費
三万円
(内、チャット指導2時間含む) 行動と言葉で表す愛情の示し方各種。女の性のレベルアップの方法各
種。女の性の解放以前に理解、実現しておかなければならない、男の性の完全解放!様々な女の例を参考に
女を惚れさせる術!塾生の現在進行形の恋愛に即してメールでの実践指導!!
スクリーンやブラウン管、液晶ディスプレイのなかに限らず、
「自分が惚れさせることができない女」を諦める術を「非モテ」男に教えるのは、
「公共の利益」にならなくはないですが、あからさまに「私的利益」を
要求するのは、どうかと思いますし、まず、板としてもスレとしてもここでは
「宣伝効果」はまったく期待できないのではなかろうか、と思います。
規範としてのジェンダーの「自然な不自然さ」「不自然な自然さ」を
第2波フェミニズムは問題としてきたわけですが、それが手に取るように
わかるスレですね、ここは。
弁証法による行為の「意図せざる結果」は生じるわけですが、その過程で
「暴力」や「収奪」は行われてはならない、というのは「倫理」の
問題でしょう。「目的」が「正しい」なら何をやってもよい、
どのような「手段」も許されるという「自爆テロ」を奨励する
「原理主義」はここでも批判される必要があり、それは「ジェンダー
原理主義」に関しても同じことです。
「暴力」の存在を否定するのではなく、「暴力」を批判する、ということを
ジュディス・バトラーは『触発する言葉』 Excitable Speech 以降、
『危うさを生きる』Precarious Life 『ジェンダーをおりる』Undoing Gender、
そして昨年の Giving an account of onself とこの10年ほど継続的に
行っている。「暴力」や「収奪」が存在するからこそ、それを行わないこと、
Undo が重要となる。「暴力」には魅力があり、それをふるわなければならない
場合があるとしても、「暴力」への耽溺、アディクションは批判されなければならない。
そういうことでしょう。
>>195訂正
バトラーの昨年出した著作の書名は、Giving an account of oneself ですね。
e が抜けました。
近代においては「男性」のアイデンティティを保証する手段としてのみ、
「女性」は存在を許される。それもこのスレを読むとよくわかる。
「女性」というのが「去勢された非モテ男」の「ペニス」の「代わり」に
すぎないことがよくわかりますね。ペニスバンド扱いですね。
まあ、もともと「ペニス」は「ペニスバンド」の「代わり」ですし。
そして社会的評価の高い「女性」、他の男性が欲しがる「ペニスバンド」を
獲得することが、至上命令となる。
そのためのテクニックを磨く、というのもさぞかし「苦役」でしょうね。
「自分に惚れさせる」という、他者の「交換可能性」を利用した
自己の「交換不可能性」の「幻想」に囚われている限りは、
「他者に惚れる」という「交換可能でないもの」としての「他者」との
「幸福」とは「彼」は無縁なまま、ですから。そのまま生涯を終えるのも、
それはそれでひとつの選択ですが、数多くあるうちの選択のひとつにすぎない。
それもまた「解体されつつある規範」の「声」が繰り返し語ることのひとつです。
ところで、僕は法律についてはよく知りませんが、「無資格」の個人による
「金銭の授受」を伴う「カウンセリング行為」は、日本では法律的に
問題とならないんでしょうか?
法律に詳しい方がいらっしゃれば教えていただきたいところですね。
括弧が大杉でつ><
200でつ><
201 :
178:2006/05/11(木) 21:59:24 ID:hwynQbpM
女性を差別するような表現で申し訳なかったです・・・
あくまで自分の感覚に正直に書いただけで、
ホモよりも多くいらっしゃるノンケ男さんたちが女性の胸に並々ならぬ関心を寄せる様を見るにつけ
自分はやっぱりそっち側じゃないんだなーって思う。そんな思いを書きたかったんです・・・
乳房を失った女性をどう思うか。。。 実際に会ったこともないし想像で書くのは無責任かなぁと思いつつ
なにか引っかかるものがあります。
男性のふくよかなお腹は大好きです><
>>201 自分の感覚に正直に書かれたことはよくわかります。また、
178さんが意識的に女性を差別しているのではないこともわかります。
「そっち側」じゃない、とことあるたびに思うのもまた。
でもね、
>>178のような言葉は、「女性差別」と「ホモ差別」に
利用されてしまう。僕が問題にしているのはそのことだけで、
あなたという個人を責めているんじゃないことはわかってください。
セクシュアル・マイノリティの歴史はノンケの「無邪気な問い」に
いろいろな「告白」を迫られ、その「告白」をまた差別に利用される
ということの繰り返しなんです。素直に「告白」すると「それは変だ」と言われる。
可能な対応は2つです。ノンケの「無邪気な問い」に答えるが「素直」には
答えない。これはいぬまわりさんがよくやっていることですね。
で、もうひとつは、「無邪気な問い」それ自体が「変である」ことを
指摘する。これが僕がやっていることです。まあ、これも「分業」ですね。
>>198に関して少し調べたところ、問題がある状況であるという
認識がないわけではなく、「資格」に関する法案がつくられたりもするが、
新たな利権をめぐる省庁間の綱引きと既得権益を守ろうとする圧力団体の存在が
障害となって、問題状況が放置され、クライアントの「自己責任」だけが
問われる、といった相変わらずの事態のようですね。
「自称」で「カウンセラー」が営業できる国というのもすごい話です。
>>202 徹底的に違うのがその二つの方法が既に差別に利用されてるってこと。
今の上野とかに対する世間の評価をみれば、分かりやすい差別の餌を与えてるだけだってわかるでしょうに・・・
その二つの方法のドンズマリを感じていない馬鹿でもないだろうなぜいまだに固執するんだろうか。
ある意味、同性愛や女性から自身を切り離してるから本体には逆流しないからOKってことなのかなぁ。
女性とフェミの分断というかさ。
なぜいきなり「ドンズマリ」なんだろう。
その二つの方法すら体験していない人々も存在するだろうに?
他人を見てれば体験しなくても学べる事もあるんじゃないかしら。
俺は肉体派だから、見てるだけじゃ学べないな。
でもあなただって本とか読むはずよね。
肉体派はそれはそれですばらしいけども情報だけで判断せざるえない場合はあるわよね。
>>201タン
フランソワ・オゾン監督の『ぼくを葬(おく)る』を観てきたわ。
そこで描かれる、あるヘテロ?セックス。ちょっと感動モノよ。
あれなら(・∀・)イイ! 憧憬すら感じた。ていうか、ウフン感じたw
ネタバレになるのでどういうものか書かないけど。
興味持ったら是非観てみてください。おすすめ。
映画自体、主人公の生活の描写の端々から立ち上ってくる、
そこらのゲイ映画にはなかなか描かれてこなかった感覚的な部分な
「うん!こういうの、わかる!」が数多くあってお見事だわ。
>>はくタン
この映画、ゲイとしての肉体的感覚をジンジン刺激するわよ。
ブロークバック〜のようなヘテ社会との相克が陰鬱な陰を落とす"過去"の映画もいいけど、
"今現在"を描いた映画はいいわよう。
ttp://www.bokuoku.jp/ 東京、愛知、岐阜で公開中。他地域は順次公開予定。
>>204 「ドンズマリ」だからやるんですよ。打開するには自分でその「ドンズマリ」を
経験し、そこから何かをつくりだす必要がある。ここでの経験をもとに
僕がそのうち何かをつくりだすかもしれませんし、僕の「ドンズマリ」ぶりを
見ている誰かが何かつくりだすかもしれない。これまでもマイノリティは
そうして言説を生産してきたので、「ドンズマリ」が存在すること自体は
何の問題でもありません。「ドンズマリ」ながら何かが具体化され、
マジョリティがある言葉を意識すればそれでとりあえずいいんです。
マイノリティはいつだって「ドンズマリ」から何かを始めることを
余儀なくされている。というか、それが「マイノリティ」というものの
定義です。自らを語る言葉を奪われているというのもそうした「ドンズマリ」です。
「ジェンダー」「家事労働」「セクハラ」なんてのはそういう言葉です。
イリイチの『ジェンダー』『シャドウワーク』が玉野井さんたちに訳された頃に
「ジェンダー」がアカデミズムの外でもこんなに口にされる言葉になるなんて、
たぶん誰も思わなかった。そしてそうした言葉に対する「否定」、「否定」の
「否定」としての「否認」は問題解決のプロセスです。問題が「精神分析」に関わる以上はね。
上野さんも時々口にしますが、予想外に展開が早い。自分の目の黒いうちに
こんなになるとは思わなかった、というのは僕の実感でもある。
それはクィア・スタディーズに関しても同じです。バトラーの『ジェンダー・トラブル』の
原書が出た頃に、まさかこんなになるとは思ってもいなかった。
さまざまな抵抗に合いながら、バトラーの言葉は増殖し、流通する。
いつだったかここに貼られたリンク先に、フェミが国外の権威に頼る、なんてのが
ありましたが、あれは言説の政治における「権威化」のプロセスというものが
わかっていない。逆です。僕らがバトラーの言葉を使うなかで、バトラーの
権威化が行われたんです。バトラーなんて80年代の終わりにはほとんど誰も
知らない存在のはずです。まさか、バトラーの『ジェンダー・トラブル』が
ラウトリッジのクラシックになってラッセルと同列に並べられるなんて、
誰も思わなかったでしょう。そしてその「権威化」に寄与しているのは
バトラーを肯定的に読む者だけではない。バトラーを批判ならぬ否定しようとする
マジョリティも寄与している。
「黙って嵐が通り過ぎるのを見ている」者は別にいてもいい。でもそういう者だけじゃ
何も変わらなかったことは歴史の「教え」のひとつです。マイノリティも
一枚岩である必要はないし、そのなかでの分裂が常態であるというのもね。
言葉での抵抗が「ドンズマリ」だと「頭だけでわかってる聡明で利口な」者も
もちろんいつだっている。
僕もはくタンと同じで言葉に関して「愚鈍な肉体派」だということですね。
>>201タン
>男性のふくよかなお腹は大好きです><
あたしも好き〜。
柔らかいもの、弾力ある脂肪の肉が嫌なんです、っていうなら、豊満な男性の身体も嫌よね?
女の乳房にある脂肪は嫌で、男のお腹にある脂肪はいいというのなら、
脂肪が嫌いなわけではないと思ってておK?
で。何故乳房には拒否反応が、と想像してみたわ。
乳房を求めるノンケ男たちの病理を「乳房」から読み取っているってことはないかしら。
ノンケ男が言う乳房(*´д`*)/lァ/lァで表現されるのは、乳房が好きというより、自分が異性愛であることの表明が暗黙ね第一義としてあるのはないかしら?
同性愛を蔑視の上で、自分たちがそうではないことを示し、自己肯定しているだけ。
そんなふうに利用される女性の「乳房」には、異性愛中心主義が投影され続けているからこそ嫌悪を覚える、というのは?
暗黙ね第一義としてあるのは
↓
暗黙の第一義としてあるのでは
>>211 同性愛を「蔑視」というよりは「否認」ですかね。このスレのレスに
>ノンケは同性でも○○なら抱かれてもいいとか冗談で言ったりしますが
なんてありますが、「同性愛」を「冗談」にしている。「異性愛」って「虚構」は
自らの性衝動と齟齬をきたしている。その性衝動を「抑圧」し「否定」
していること、そのこと自体を「否定」し、意識から「排除」する。
その「否認」のプロセスの産物としての「冗談」ですね。
この「冗談」にもジェンダーバイヤスはあって、言うのはたいてい「男」で
「男同士」の席、関係で言うのであって、ホモソーシャリティの再生産に
必須の「冗談」で、「乳房好き宣言」「オッパイ星人宣言」もそうした
「冗談」とつながっている。
「女性」を「乳房」に還元するのは「女性嫌悪」なんであって、
「同性愛嫌悪」と「女性嫌悪」、「ホモフォビア」と「ミソジニー」とは
「異性愛中心主義」、「ヘテロセクシズム」のうちで結びつけられる。
「乳房好き」と「乳房嫌い」は相補的、双対的で、そこからさらに
その相補性と双対性をつくりだす、「女性」を「乳房」に還元する
思考のありよう、「女性嫌悪」が問われる必要がある。
ゲイの「乳房嫌い」として現象する「女性嫌悪」は、ノンケ男の
「乳房好き」として現象する「女性嫌悪」に「感染」した結果生じている。
「ミソジニー」は「感染」し、セクシュアル・カテゴリーを「本質化」させる。
>僕の「ドンズマリ」ぶりを
見ている誰かが何かつくりだすかもしれない。これまでもマイノリティは
そうして言説を生産してきたので、「ドンズマリ」が存在すること自体は
何の問題でもありません。「ドンズマリ」ながら何かが具体化され、
マジョリティがある言葉を意識すればそれでとりあえずいいんです。
マジョリティがある言葉を意識するとは、たとえばわれわれが結婚とか彼氏
とか聞かれることに対するプレッシャーがあるんですって事を知ってもらうとか
そういうことですよね?
それがある人たちには抑圧になるから別の言葉でって働きかける肉体派だ
って事おっしゃってるのだと思うけど。
でも自分たちにとっては抑圧でもノンケにとっては解放なんじゃないかしら。
自分の話をするコミュニケーション手段のひとつよね。
われわれが抑圧を主張することが彼らの解放を奪うことにはならないかしら。
それが心配なのよね。わたしは変に気を使われるのは嫌だから主張って抵抗があるわね。
一般の価値観はこういうものだから聞かれるのであって
それが分かってるからノンケ振りして受け答えしたりするのも
抵抗はなくなったわね。時には嘘付くことになっても
生きていくための嘘だからって自分の中で肯定さえするわよ。
「黙って嵐が通り過ぎるのを見ている」者は別にいてもいいっておっしゃって
くれてるからあなたがわたしの抑圧にはならないんですけどね。
>>215 「解放」のかたちは「ひとつ」ではなくて、いきなり誰の「抑圧」にもならない
「解放」にはならなくても、今、自分が「抑圧」している誰かの「抑圧」には
ならない別の「解放」を、その自らが「抑圧」している誰かとともに求め、
つくることはできるんじゃないでしょうか。マジョリティの「解放」と
マイノリティの「解放」とは二者択一ではないと思う。
ノンケ男も一枚岩ではないので、僕は
>>215さんのように「嘘」をつかなくてもすむ
環境にあったりしますし、また、「嘘」をつきながらその一方で別の「解放」を
模索するということだってある。そうやって、いろんな場所でいろんなことが行われ、
「生きるための嘘」をつかずにすむようにしていく、そういうこともできると思う。
自分と同じ思いを、これから生まれてくる誰かにさせたいかどうか、と僕は自分に
問うけれど、同じ問いを他のひとに問うように要求はしない。問うことが困難な
場合はある。僕はたまたまそういう困難が少ないだけです。
passing というのがあって、女性なのに男性のふりをして社会進出を果たそうとした
女性たちが過去にはいた。黒人と白人のハーフ女性なのに白人の男性のふりをするとか。
「生きるための嘘」をつかなければならない状況は、歴史において数限りなく存在する。
今、少なくとも先進国で、国籍を有していれば、passing という「嘘」を「生きるため」に
つく必要がある「女性」はいないだろうと思う。 passing が露呈して迫害にあった女性もいる。
passing の生涯の思い、「生きるための嘘」をつき続けた生涯の思いを綴った女性もいる。
その綴られた思いを読み、考えた女性もいる。その結果、不十分ながらも passing しなくても
社会進出することが可能な社会ができあがる。
先のレスでは「同性愛」が「冗談」となることの問題点を指摘しているけれど、
「同性愛」が「冗談」となるにも時間はかかっているし、僕らより前の世代の
いろいろな行為が、試みが、それを可能としている。僕は彼らの「遺産」を
どう「相続」し、次に「継承」するかを考える。
>マジョリティの「解放」と
マイノリティの「解放」とは二者択一ではないと思う。
わたしもそうであると信じたいですけど現実問題として
二者択一の色合いが強いから悩んでるんですよね。
もしかするとあなたが>嘘」をつきながらその一方で別の「解放」を <
というように違う場所で解決するのもひとつの手で現実的なのかも
しれないですね。
>その自らが「抑圧」している誰かとともに求め、
つくることはできるんじゃないでしょうか。
この国にはそんな心優しいマジョリティーにあふれてる気が
しますがそれは彼らに余裕があるから出来ることで
時代が変化し余裕がなくなったとたん迫害に変わりうる
危険もありますよね。そこに表面化させるリスクがあると
思うんですがどうでしょう。
>>216を補足すると、passing という「生きるための嘘」をつかずにすむように
なってわかったことは、「男性」による「女性」の「抑圧」以前に、
「男性」による「男性」の「抑圧」、それはある「男性」に対する他の「男性」の
「抑圧」であると同時にある「男性」が自分自身に行っている「抑圧」なんですが、
そうした「抑圧」が存在するということです。
そしてそれは別に、「社会進出した女性」が、「生きるための嘘」をつかずに
すむようになった「女性」がある「男性」を「抑圧」している、ということではない。
これが「非モテ」が話題となったときに、「非モテ男」の「誤認」としてこのスレで
語られたことに関わります。
>>217 マクロな「迫害」は少ないですが、ミクロな「迫害」ならいつだってあります。
今、ここでも「迫害」はある。
ナチスがやったみたいに同性愛者を「最終解決」工場に集めなくても、
緩慢な時間の経過のなかで「ガス室」にいるのと同じ、そういうことだってある。
マクロな「迫害」か、ミクロな「迫害」か、というのも二者択一ではないでしょう。
「収容」のあり方が「空間」から「時間」に移っている。「迫害」は
「政策」から「個人のストレス解消」になっているから、ホモ狩りが横行する。
ある「社会問題」の原因を「ゲイ」に還元し、すりかえようとするなら、
それはその場でなんとかするしかないでしょうね。はっきりいえば、
今さら、実は「ゲイ」なんていませんでした、ってわけにはいかないんだから。
美輪さんやおすピーがああやってメディアに登場し、カマキャラの芸能人、
文化人が続いて出てくる。新宿2丁目の存在だってアド街なんかで特集され
知られている。「表面化」は僕がするまでもなく、されちゃってるんだから、
それによってリスクが具体的に生じるなら、それに対応するしかないでしょう。
これはパレードに対しても言えることですが。僕はパレードに参加したことはないし、
参加しようとは思わない。でも、参加する者に自分が参加しようと思わないことを
理由に参加を禁止したり、そういうひとびとの行動を非難しようとも思わない。
それ以外に何かないか、と自分で模索することはしても。パレードに参加しないことを
参加している者が非難し、参加を強制するなら、話は別です。抵抗はおまえらの
やり方ひとつではない、で終わりにしておけばいい。
そして、政治において「友」と「敵」は不変ではありません。昨日の敵は今日の友、
今日の友は明日の敵、だったりもします。自分が自分の敵であったりもしますしね。
僕と
>>217さんとでは「現状認識」が異なる。それはどちらが「正しい」か、と
いうことではないでしょう。別に一枚岩で「社会運動」してるわけじゃないんだし。
たとえば、地下鉄サリン事件以来、僕の「現状認識」においては、
ラッシュ時の満員状態の車両は「これから毒ガスの出る寸前の
最終解決工場のガス室」です。
僕らはかろうじて、今日を生き延びている。その生き延びのリアリティが
相互監視の強化による管理社会化を要請するという悪循環が存在する。
他のひとが満員電車をどう考えているかはしりませんが、僕はそう考え、
何事かを行う、それだけのことです。
221 :
禁断の名無しさん:2006/05/12(金) 13:38:27 ID:vc2z6KdT
上野ってだいっきらい!
しょせん暴力的な扇動者に変わりないわ。
あなたの見抜いてる通り「現状認識」が異なってますよね。
>僕らはかろうじて、今日を生き延びている。
こういう認識の下で心穏やかに日常は送れるものなんでしょうか。
そして幸せや解放などはえられるんでしょうか?
もし失礼な質問でしたら答えてくれなくてけっこうですよ。
あと現状認識の話ですが、ホモ狩りの話が出ましたが
現実どのくらいこの国であるのか知らないんですが
ホモ狩りって事実があったとしてもすぐにゲイ差別の闇が
そこにあるって発想はわたしにはないんですよね。
オヤジ狩りもホームレス狩りもありますしそれと同じものくらいにしか
考えてないです。つまりゲイを嫌悪した結果でのホモ狩りでは
なくゲイだと被害届出さないだろとか金持ってるだろとかそんな認識で
やってるだろうと思ってるからゲイとしての憤りはあまりありません。
だからイコールで運動にはならないんですね。
これがアメリカとかだったら話は違ってくるかも知れませんが
少なくてもこの国に住んでてこの国に対する私の印象はこうですね。
>>222 幸いなことにそれなりに「心穏やかに」日々を送れるんですね。
で、「より心穏やかに」日々を送りたい、と思う。
自分は「心穏やか」に日々を送っているかどうか、という漠然とした
不安は持たずにすむのは、「現状認識」によるものです。
ホモ狩りについてはそういう「現状認識」もできますね、と言っておきます。
僕はそうした「現状認識」が存在することは知っているけれど、そのうえで
「ホモ」「オヤジ」「ホームレス」の差異を考えるので、異なった「現状認識」になる。
差異をどこまで還元しうるか、とか、顕在化されたものと潜在的なものとの
関係をどう考えるかで、「現状認識」というのは違ってくる。それだけのことです。
217さんが、
> この国にはそんな心優しいマジョリティーにあふれてる気が
>しますがそれは彼らに余裕があるから出来ることで
>時代が変化し余裕がなくなったとたん迫害に変わりうる危険
を今、感じているのだとすれば、すでに「迫害」は始まっている、
それが僕の「現状認識」ですね。「空間」「時間」の捉え方が
僕と217さんとでは違うんです。比喩を使えば、217さんの
おっしゃることは「報道写真」で、僕のは「ドキュメンタリー映画」でしょうか。
で、このメディアは両方必要ですよね。
> この国にはそんな心優しいマジョリティーにあふれてる気が
>しますがそれは彼らに余裕があるから出来ることで
>時代が変化し余裕がなくなったとたん迫害に変わりうる危険
これは肌で感じてるわけではなく知識で可能性を言ったまでですね。
わたしに、「報道写真」「ドキュメンタリー映画」の比喩はちょっと
分かり辛いですが両方必要ならほめられたんですね。^^
>>209 『ぼくを葬る』見たです。その、「感動もののセックスシーン」良かったよー……
ああいうのは俺も経験してみたいですね、素直にそう思う。
主人公と彼氏のセックスシーンも悪くなかったけど、
ああいう欲望のぶつかり合いとは別の、身を寄せ合うみたいなものも
俺が持ってる「セックス」に対するイメージの一つだったりする。
(ネタバレになっちゃってたらゴメン)
映画みててジンジンきたのがゲイの肉体的感覚かどうかは分からないけどw、
子供時代のエピソードや、姉への反撥、「奥さん」やすれ違った男たちへのまなざし等は、
非常に親近感が沸きますね。等身大ってのかなあ。
彼氏との、お互いしゃべってることのズレとかはさあ……、、
何ともいえない気持ちになった。
でですね。さっき『V FOR VENDETTA』観てきました。
、、、、、、
なんだかんだ言って『ブロークバック〜』は泣けなかったんだけどね、
この映画はマジ泣き。
マイノリティの「カムアウト」が、マジョリティの「カムアウト」を促すシーンで
涙が止まらなかった。(映画館で泣いたのは何年ぶりだろうw)
この映画では、同性愛者は抑圧される者の象徴として出てくるんだけども、
彼らの"声"は女主人公の「カムアウト」を経て、
「無自覚な、善意のマジョリティ」たちがマジョリティを象徴している"仮面"を
剥がすラストへ繋がっている。
そうするように直接的に働きかけるのは、主人公Vだ。
彼は痛みを覚えながらも暴力をふるい、マジョリティである彼らに、
「抑圧してるのは誰なのか考えろ」「罪を自覚せよ」と訴えるんだよね。
俺が泣けてしまったのは、スレの流れをずっと体験してきたからだろうと思う。
「カムアウト」「暴力」「嘘」「真実」「理念」「正義」「革命かテロか」などなど、
このスレに出てきた言葉・起きてきた事柄が「反復」されてて、
不思議を通り越して怖いほどだった。
SFちっくな映画は苦手で、いぬまわりさんの推薦がなかったら
全く引っかからなかったので観れて良かったです。
俺には絶対に必要な映画でした。ありがd……☆
ぶっちゃけ、
>>174-176には、ちょっとモニョってたんだよね。
パートナー制度が作られてノンケが「非ノンケの存在」やらを可視化できたとしても、
関係ない人には、どこまでいっても関係ないんだよね。
善意にしろ悪意にしろ「負荷」は「負荷」だし、その自覚を持ってるノンケは少数だよ、やっぱ。
だから、同性婚制度でもPACSでも、そういうものの制度化は、
現行の結婚制度の撤廃と引き換えにすべきじゃないのかとか、
今日ずっと前のめり気味に考えていた。
そういう暴力を使った方が、ノンケも自覚しやすいし、
結果的にはノンケにとってもイイに違いないって。
(こういうのが、バッシング派に利用される意見・やり方でしょw
ノンケがたった一つと思ってるらしい幸せの形を壊すってんだからさw)
『V FOR VENDETTA』は、まさにその種の暴力でもって
マジョリティの「負荷をかけている自覚」を促し、革命へと繋げる話なんだけど、
実際にこれを観たことで、前のめり気味な態度にブレーキがかかったかも。
やっぱファンタジーの中でしか成功しないだろうなと思ったw
>>227 あ、そうですね。
>>217 「優しいマジョリィティ」だの「善意のマジョリティ」ってタチ悪いと思わない?
「優しい気遣い」って、要はだんまりでしょ?
(こんな事いったら傷つけるんじゃないか)とか(怒らせたらどうしよう)なんてさ、
口を噤んでスルーする=だんまり=「黙って嵐が通り過ぎるのを待つ」だけじゃん?
そんなコンニャクみたいな対応されたら、こっちも気分悪いよ。
その気分悪っってのが相手も分かるから(なんたって「優しい気遣い」の持ち主だからね)
不穏な空気が流れ出すわけさ。
そうやって、マイノリティvsマジョリティの対立構図ができるのはマズイだろって
思うんだよ。
じゃあ最初から黙ってればと言われるかも知れないけど、俺は、
「ノンケの振りに慣れるために、自分の中の”何か”を殺したり”何か”を育てる」ことを、
たとえばK君とかにさせたくないんだよな。
(いや、K君がそうしたいってんなら好きにすればいいんだけどね)
ノンケと波風立てないように「我慢」や「努力」のテクニックを磨くのもいいけど、
それならそれで、ノンケもテクニックを磨いて欲しいんだよね。
まあ、ノンケに対するそういう働きかけ(「磨け」「気づけ」と言うこと)が、
あなたにとっての「抑圧」になるかも知れないって事は、頭には入れとくけどね。
「反復」というのは、オリジナルとコピーの前後関係を壊乱し、
線形で捉えられる時間を非線形化する概念なんですね。
たとえば、デリダが書いた文章を読み、僕が何かを書く。
その時、僕がデリダを「反復」しているだけではなくて、
デリダも僕を「反復」している。「思考」というのは
そうした「反復」のなかの「差異」としてできあがり、
そしてその「差異」としての「思考」もまた「反復」を触発する。
何かを読んだり、観たりして、「あ、これわかる」、というのは、
すでにその何かが「私」を「反復」しているからでしょう。
未生の「私」もいれば、死後の「私」もいる。何かと相互に内包関係を結び、
襞をなしながら、「私」はいろんなところにいる。
Vの映画とVのコミックの関係も「反復」ですね。相互に内包し合い、襞をなす。
アメリカの、昔のテレビシリーズにあった『V』(鼠を食っちゃうやつ)は、
その、コミックの『V』がベースなんですかね???
映画を観てるとき、なんとなく既視感があったょ……
232 :
禁断の名無しさん:2006/05/13(土) 04:32:34 ID:eOyY4ETj
>その時、僕がデリダを「反復」しているだけではなくて、
>デリダも僕を「反復」している。
キモい・・・・・
きもいならなぜきもいのか説明してくれないと議論にならないわよ。
>>226 はくタン
あらま。V観てくれて嬉しいわ。
>「無自覚な、善意のマジョリティ」たちがマジョリティを象徴している"仮面"を
>剥がすラストへ繋がっている。
上手な表現するわねえ。
イヴィーはともかく、"普通"に市民生活を送ってる人々が、
Vのメッセージをそんな真摯に受け止めて"覚醒"するわけがないでしょう。
と思いはしたけど、
あのラストは、現実として描かれてるのかどうかよくわからないわよね。
劇中で死んだかたも混ざってるようだし。
"時を越えて生き続ける理念"を示している、ということしかわからない。
>こういうのが、バッシング派に利用される意見・やり方でしょw
>ノンケがたった一つと思ってるらしい幸せの形を壊すってんだからさw
そういうのが、物理的なテロに向かわせる意見だったりもするわよね。
否定をしても、どうせ反発されるからと…。じゃあ、どうする?
穏健に、温和に、罪を自覚など即さずに、黙り込む?
黙り込むことで、"たった一つと思ってるらしい幸せの形"の押し付けが
際限なくエスカレートしていく例は
歴史上に、歴史に残らない個人の細かな日常の中に、いくらでもある。
A 否定したらそれもバッシングに利用され支配が強化。
B 否定せずいれば暗黙の同意と調子に乗られて支配が強化。
AもBも「ドンズマリ」。どっちの方法も無駄となるほど腐りきってる。
なら残る方法は、テロ。ってね。
>>210で42タンが言っているように(言ってないかしらw)
代替の方法を提示せず、A、Bともに否定しつつ、権力は否定しない
聡明な"諦め"の先には、「自殺かテロか」しか道はないのだと思うわ。
>>233 このスレは議論を放棄した人の雑談スレだって何度言わせればわかるのかと。
ピンチョンの『V.』についてはこちらをどうぞ。
リンクからピンチョンについての項目にも飛べます。
1997年の最新作を除いて、全部日本語になっているはずです。
『V.』は国書刊行会からハードカバー2巻本で出てます。
そういえばピンチョンも今は亡きブランショと並ぶ顔の無い謎の作家ですね。
ピンチョン=サリンジャー説なんてのもあったりする。
「ラッダイトやってもいいかな?」というエッセイもありますが、
ラッダイト、Luddites も頭領とされた Ned Ludd は想定の人物ですね。
しかも、イギリスですし。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/V.
>>229 ノンケと波風立てないように「我慢」や「努力」のテクニックを磨くのもいいけど、
それならそれで、ノンケもテクニックを磨いて欲しいんだよね。
我慢や努力の結果ノンケにはもち得ない思想や世界観を
もてるんだからある意味幸せだと思うわよ。
そこで自分たちと同じように向こうにも要求すると言う対等性の
考えがわたしにはあまりないわね。
それは、聡明な"諦め、だとも思ってないわ。
それはゲイとノンケは役割が違うと思ってるからかしら。
物事には裏と表があってそれぞれ存在意義があるのよね。
こういう言い方誤解されるかも知れませんが。
>不穏な空気が流れ出すわけさ。
そうやって、マイノリティvsマジョリティの対立構図ができるのはマズイだろって
思うんだよ。
そこで感じる対立が友情を成立させているの絆に影響しないなら
対立を抱えながらも友好関係は築いていけるわよね。
むしろすべてにおいて対立のない関係なんて見たことないから
まずいって感覚はすくないのかな。
こういう言い方すると妥協にしか聞こえない人もいるでしょうけど
わたしは納得してるつもりだから自分を悲しく見たりはしてないわよ。
その対立を掘り下げることがよりよい絆につながる
そういう確信があればチャレンジすることは決して悪いとは思いませんが
わたしなら対立によって絆が揺らいだら対立をどうにかするという
直球以外の直接関係ない事柄からでも絆を回復するという目的のために
利用できるものは利用するってやり方をとるわね。
>>234 諦めずにしゃべっていけば、何を言わんとしてるのか少しずつでも伝わるかも知れない。
そういう予感がしてきたよ。
ここのところミクシーでホモフォビアとかK君のこと彼氏のこと、ちょろっと書いていたんだけど
あまりの反応の薄さに暴動おこしかけてたw
彼らは、自分らがマジョリティであるという事も、
マイノリティにいつでも変転するという事も理解不能なんだよね。つか、そういう人が多い。
でも、例えダンマリでも(それは語る言葉を持たないって事でもある)
読んでくれてはいるんだから、まあいいのかなって思った。
ノンケに交じってしゃべる時は、必然的に使う言葉も視点もこのスレとは違うんで、
俺のテクニックが未熟ってのもあるんだよね。
「ジェンダー・トラブル・メーカー」としてうまく立ち回ろうと思いますw
>>236 1605年のガイ・フォークス事件とか、イギリスの歴史についても勉強になりましたw
映画もおもしろいよー
>>238 >ノンケにはもち得ない思想や世界観を
>もてるんだからある意味幸せだと思うわよ。
俺もそう思うよ。非ノンケだからこそ見えること気づくこと、あると思うもの。
それを楽しみと取るか苦しみと取るかは、人それぞれだろうね。
俺は、その思想や世界観をノンケと共有できないだろうかと考えてるんだ。
「ゲイカルチャー」みたく消費される文化としてではなく。
共有できた時に何が生まれるのかを見たい、という欲望がある。
その欲望が、俺に"諦めること"を選ばせないんだよね。
ま、立場とか考え方とか色々だから、やり方も色々あっていいんじゃないすかねー
>非ノンケだからこそ見えること気づくこと、あると思うもの
非モテ絡みの記事で同じ事書いてるやつがいたな
>>240 そうなんだ??
サロン板の固定さんが前にそういう事を書いてて「全くだ!」と共感したんだよね。
というか、たぶんある意味"真理"なんだと思うよ。
だから、あちこちで見かけるんじゃないかな。
まあ、変革だとか革命だとか、変化なんちゅーもんの原動力は
マイノリティのモニョリだから、「ある意味」も何もなかったね。
革命とか変革は制度維持のための揺らぎ。マイノリティー云々は無関係というか、結果の副産物。
生命それ自身が孕む揺らぎや変革によってなしうる危機への対処と同じように、
制度にもそうした保存性を孕んでいる。
だから常に少数派は必要だし。多数派の個も常に多数派でいられる訳ではない。
当然のごとく、少数派も常に少数派ではなく同時に多数派でありつづける。
その連続性の重なりの中で、誰が作ったのかも知らないけど制度というシステムがうまく稼働し
一人の例外もなく誰もが望む望まざるを問わず、「制度」の運び手としての役割を全うする。
vも漫画の方は結末を書けないでいたという事実があるよね。
vの世界を突き詰めてもけっきょくは元に戻っちゃうって世界観だから。
>>239 >俺は、その思想や世界観をノンケと共有できないだろうかと考えてるんだ。
わたしも似たようなこと考えてた頃があった気ががするわ。
わたしはニヒリズムが嫌いだから熱い人は好きだしね。
>>243 「揺らぎ」にもいろいろありますね。社会を生命とのアナロジーでとらえるなら。
散逸構造におけるジャボチンスキー反応のように新たなシステムの誕生に
つながる「揺らぎ」もある。「均衡」と「定常」は別なんですね。後者からは
新たなシステムができる。そして「制度」は必ず複数の「段階」を「内包」していて、
その「展開」があるわけです。「発展」、Entwicklung というのは、種子が発芽し
開花に至るイメージですね。
ハーケンのシナジェティックス、オイゲンのハイパーサイクル、
プリゴジンの散逸構造、ヴァレラのオートポイエーシスなんかを
社会システムに応用する時に問題となるのは、「観測」と「観測のオーダーおよびスパン」です。
まず、どのようにしてあるシステム全体を「観測」するか、という問題があります。
次にシステムをどのくらいマクロで、あるいはミクロで「観測」するか、どのくらいの
スパンで「観測」するか、という問題があります。以上は、「観測」それ自体によって
「観測」結果が変わるから、問題となるわけです。
>>243さんの「観測」がすべてではない。
たとえば、僕が今の社会システムを「観測」するとどうなるか。マクロに「観測」すれば、
非ヘテロのセクシュアリティが社会的に承認されるプロセスの途中です。ヘテロの「制度」が
すでに完成している、とみるのではなく、非ヘテロのセクシュアリティを社会的に
承認する「制度」ができあがりつつある過程で、現在のヘテロの「制度」はそのシステムのひとつの
段階、フェイズである、とみればいい。ヘテロの「制度」が「維持」されるということは、
それが「変容」しないということではない。こうした「制度」の発展の「全体」を
「システム」としてマクロにとらえることができる。まだ、「花」は咲いていない。
現在のヘテロの「制度」は「つぼみ」である、と考えることができる。
「つぼみ」にとっての「揺らぎ」は裂開を引き起こし、開花につながる。
しかし、その「段階」の変化によって「花」の種類が変わるわけでも
「本質」が変わるわけでもない。
ミクロに「観測」すれば、801や非モテの「身体」が出現している。マクロ−ミクロの結節点に
「身体」が構築されている。そのレベル、オーダーでも「花」の比喩を使うなら、
それは近代におけるヘテロの「身体」とは別の「身体」の「萌芽」でしょう。
「制度」 constitution と「システム」 system は別です。
「制度」の転換の全体を「システム」の発展とみれば、人類という「種」の歴史は
「いつ撒かれたかも、いつになれば花が咲くのかもわからない植物」の歴史で、
「観測」次第では、いまだに「発芽」すらしていない、とみることも可能です。
また、「生命」と言いながら「人類」という「種」のことだけ考えるから「保存性」という
話になり、そこでヘテロの「制度」の「絶対化」が行われる。「生命」というなら
「始まりも終わりも無い途中」に、いつでも自分がいると考え、「人類」という
「種」以外の別の「種」への変容途上にあると考えてもいい。「生命」という
システムのゴールを「人類」であるとする必要はない。
>>243はミクロ、マクロを問わず、超マクロに「生命」としての「制度」を
とらえているかのようでありながら、結局は「人類」という「種」のレベルの
「保存性」を、ヘテロセクシュアリティの「正当性」に還元してしまっている。
「生命」は「〜のように」という「比喩」で、「多数派」「少数派」は「〜人」と
数えられる「人類」になっている。
その結果、非ヘテロを社会的に承認する「制度」の「最終的な不可能性」と
いったニヒリズムに陥りながら、そうした「制度」を求めることの「無駄さ」が
「言外における心優しい忠告」として強調されるのだけれど、まあ、これも
「紋切り型」のひとつですね。
>>243さんに「悪意」はないんでしょうが、
「科学性」を装ったかなり「悪辣な」政治的レトリックのひとつです。
こうしたレトリックを「無邪気に」使わせるのも「制度」なんですが。
とりあえず、PACSのようなパートナーシップ制度ができれば「展開」ではあるし、
>>243のように「保存性」という観点から「揺らぎ」を狭くとらえるとしても、
多数多様な性欲動にとってはヘテロセクシュアリティ自体がそうした「揺らぎ」にすぎず、
「近代」という「少数派」の「揺らぎ」が「非近代」の「多数派」の
「制度」の「保存性」を、非ヘテロの社会的承認といったかたちで要請している、ともいえる。
これも「観測」次第ですね。フーコーはたぶんそう「観測」するんでしょうし、
だから古代ギリシアの同性愛の話が出るわけですね。何を「制度」とし、何を「揺らぎ」と
するか、がひとによって異なる。そして、それは「真理」の問題ではなく、
あるとらえかたによって、何が可能となるか、という問題でしょう。
「制度」が何を指しているのか絞り込めないんだけれども
>>243の発言は
>>246で言われているパートナーシップ制度も
踏まえて読むことも出来るかな、と
SFチック過ぎるけど、生殖とセクシャリティを別個に扱う世界が
生まれるかもしれない
この「SFチック」と考える所がニヒリズムといえばそうか…
なんだか頭の中がループしてきた
ごめんなさい
>>247 生殖とセクシュアリティはすでに別個で扱われていますね。
テクノロジーを用いて非ヘテロが子どもをもつこともできる。
非ヘテロに限りませんが、誰かが卵子と子宮を、あるいは精子を
商品やサービスとして提供し、それを誰かが購入するという市場が
できあがりつつある。それもまた新たな問題を生じさせています。
もはやSFではない。人工子宮が開発されればさらに問題が生まれるでしょう。
あとは避妊の問題でしょうか。これは生殖とセクシュアリティを
切り離すテクノロジーのひとつなんですね。他の動物が避妊を
行いうるのかどうか、たとえば霊長類研究なんかではどうなんでしょうね。
さらには非ヘテロというセクシュアリティの存在自体が、
セクシュアリティと生殖は別個である、ということでもある。
テクノロジーというのは身体を資源化し商品化し、その流通の循環を
可能にするという機能を果たすので、それをどう扱うかが問題となる。
ジェンダーというのもそうしたテクノロジーであって、その最たるものだといえる。
その一方で、女性のライフサイクルにおいて、生殖とセクシュアリティが
結びつけられている、ということもあります。生殖可能な期間は
限られていて、その間だけ女性はセクシュアリティとして
承認される。更年期を迎えればセクシュアリティであるとは
ほとんど認められない。これは高齢社会になって次第に変化しつつありますね。
いわゆる「老いらくの恋」への承認は行われるようになってきている。
遺産相続などの法的問題が持ち上がることが多いようですが。
セクシュアリティと年齢という変数との関わりは、ヘテロに限らずありますね。
この「年齢」と「生殖」がどう関係するのか、それがあるセクシュアリティの
ミソジニーとどうつながっているのか、という問いが立てられるかもしれません。
上に述べたようにさまざまに生殖とセクシュアリティを切り離す
テクノロジーが存在することを前提として、どのようにして
生殖とセクシュアリティを切り離さないでおけるか、ということを
考える必要があるかもしれませんね。それは「生殖」をどうとらえるかにも
よるでしょう。卵子と精子の結合現象とみるか、育児や労働力の再生産まで
含めて考えるか、それによっても異なる。
>>248-249 確かに技術的に分離して捉えられ始めているのは判ります
しかし観念的にはまだまだ分離できない層がマジョリティだからこそ
このスレでの話が社会に向けて有効なんじゃないかと感じるんですが
即ち
>それは「生殖」をどうとらえるかにも
>よるでしょう。卵子と精子の結合現象とみるか、育児や労働力の再生産まで
>含めて考えるか、それによっても異なる
この部分だと
>>250 そこは「離接的接合」 disjunction 、つまり「卵子と精子の結合現象とみる」、
「生殖」と「セクシュアリティ」は切り離し得ることを前提としたうえでの、
「育児や労働力の再生産まで含めて考える」、両者の接合、となるんでしょうね。
これはスレのPart1で出た、非ヘテロのヘテロの育児への参加の問題に関わりますね。
「生殖」と「セクシュアリティ」は「近代」以前は切り離されていても、
何の問題でもなかったんでしょう。サドの小説が与えた衝撃は、
すでに「近代」において「生殖」と「セクシュアリティ」があたかも
切り離せないかのように規範化されていたことによる。
一度、両者が接合されてしまったために生じている問題がある、
それはただもう一度切り離すだけでは解決しないということでしょうね。
最近、電車で見かけるポスターに「カレシの元カノの元カレを知っていますか?」と
いうコピーが書かれているんですが、あれなんかは、たぶん、「生殖」と「セクシュアリティ」の
分離可能性に関わるノンケの意識に変化を与えるんじゃないかと思いますね。
その変化それ自体はさして大きくなくても、その変化が何にどうつながるかは
わかりませんし。ちなみにポスターの内容はAIDS予防のコンドーム使用の呼びかけです。
>>252で書いてみて思ったんですが、件のコピー、これ、HIV感染は
女性の「自己責任」ってことになるんですかね。「カノジョの……」
バージョンってあるんでしょうか。風俗産業等で男性が感染しやすいと
いうことで、そうなってるのか。
あと訂正を。ポスターの内容はAIDS検査の呼びかけだったかもしれません。
だとするとさらに「女性」限定はヘンな話なんですが。
「ジェンダー」や「セクシュアリティ」を「生命」というシステムの観点から
考えるのに役立つ本を何冊か。河本英夫と郡司ペギオ‐幸夫の著作です。
河本英夫 『オートポイエーシス』『オートポイエーシスの拡張』
『メタモルフォーゼ』いずれも青土社
郡司ペギオ‐幸夫 『生命理論』 哲学書房
『原生計算と存在論的観測』 東京大学出版会
最後の本は大部で専門的なので、上4冊を読んでなおさらに興味をもった場合に
おすすめします。河本さんの最初の本は、システムとして「生命」をとらえる行為の
系譜学でもあって、最初に読むのに適しているでしょう。
で、
>>245訂正。ハイパーサイクルの提唱者はオイゲンではなく、アイゲンです。
上記に加えて「ジェンダー」と「セクシュアリティ」をシステム論の観点から
考えるにあたっては、河本さんが「翻訳」で関わっているマドリン・ギンズ/荒川修作の
『建築する身体』(春秋社)、副題を「人間を超えていくために」という著作、
書物のかたちで出版されたあと一昨年トイレット・ペーパー型の版型でも
出版されたその著作や、ピエール・クロソフスキー『ニーチェと悪循環』
(ちくま学芸文庫)も入れたいところです。これらの著作と「システム論」との
「翻訳」関係を考えることもできるでしょう。
>>253 それ、エイズ検査の呼びかけですよー
「カレシの〜」というコピーは見るたびに何となくモニョってたんだけど、
訴えかける対象が「女」だから、だったのかな。
間接的な印象ですね、男から見ると。
女を対象とした訴えの方が効果的、つまり、女の方が健康とか自分の身体に敏感だという
思い込みがあるんかなァ……「妊娠」で直接ダメージ受けるのは女だろうと思うし。
でも、言われてみれば、ちょっとおかしいですね。
あれ見て、性感染症の恐怖にピンとくる男はどれだけいるんだろう。
それよりも、女への恐怖が先にピンとくるような……w
>>255 やっぱり検査でしたか。
でも、あのポスターだと検査を受けるのも、陽性であると判明した場合に
治療してそれ以上の感染を防ぐコストを負担するのも、「女性」だけで、
「男性」は検査もしないまま感染させ放題、という印象も受けますね。
ジェンダーバイヤスがどうこう以前に、対策の目的を十分に
果たしているのかどうかが、疑問になります。まあ、あれ見るひとも
限られるような気もしますが。
はくタンのいうような意味で「効果的」である、というのがあるにしても、
たとえば、現在つきあっている男女がいたとして、どちらからどちらに
感染したのか、はわからないはずですよね。「女性」が検査して感染が
先に判明し、「男性」の感染も続いて判明した場合の女性の「心理的負担」って
どんなもんなのか。カップルへの呼びかけでもいいような。
あの広告は、女に訴えるどうの以前に、"元カレ""元カノ"という言葉と
イカニモ系ノンケな写真に、狭いノンケ世界内の"モテ優位"に擦り寄った印象を受けて、
あたしに直接関係ない異世界のものとはいえ、激しく拒絶反応を起こしたわ…。
>>256 ぅーん……そうすねえ……
先に検査を受けると、相手から、どうして「検査を受けようと思ったのか」を
厳しく追求されると思うんだよね。
しかも、それで感染が発覚したら、まっさきに「先に検査を受けた方」が責められそうだ。
性感染症に限らず、感染するタイプの病気に罹ると、
ひとは「誰にうつしたか」よりも、「誰からうつされたか」に拘る傾向があるらしいですよ。
>>257 ああ、分かる気がする。
制作する方が、いかにも「若者風俗」のツボを押さえてみました!的なまなざしがね、
ちょっとね……どうもね……
作った人は、「モテ男女社会」にこそSTD蔓延の元凶があると思っていそうだよね。
そこにターゲットを絞れば効果がある、って。
まあ、現実はそうなのかも知れないけど、でも、
「カレシ」「カノジョ」で括られる関係以外のところで発生してるものは、
どう思ってるんだろう?って、あれ見て思うのね。
だってさ、合コンの勢いでさくっとヤッた相手のことを、
誰も「カレシ」「カノジョ」なんて認識しないっしょ。
……なんて、よく知らないままに言ってみるw
>>258 やっぱり、そういう傾向はありますよね@拘り
で、最後の件については対応が「出会い系」以前、モバイル普及以前、
であるどころか、「合コン」以前ということですね。
だとすると、個人情報保護法とかいわゆるマスコミ関連法案と
まったく同じ状況認識の遅れの問題です。情報化に対応できていないってことです。
>>258 あのコピーの対象先を考えろって。
別に一枚のポスターですべての人をカバーしよう賭する事が愚かじゃない?
あのコピー「合コンの勢いでさくっとヤッた」り出来る人を一次ターゲットにした物だとおもってるの?
なんでも文句言うのはいいけど、的確な批評をしようね。
261 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/16(火) 07:11:49 ID:hXuJIe6j
感染発生率が高いのは、どういう人々の間なのか、
「合コンの勢いでさくっとヤれる人」じゃないのかなと思っただけで、
それは違うとか、そこに訴えても意味はない(効果あがらない)ってんなら
何とも言いようがないですね。
>>260が考える一次ターゲットに訴えるのが最も効果的だってことなら、
ああいうコンセプトでいいんじゃないですかね。
でも、そうだとしても、コピーは42さんが言ってる理由で疑問を感じますね。
>>260が考える一次ターゲットは、きちんと「カレシ」「カノジョ」関係を
作れてる人たちだと思うので、それなら「カップルで検査を」の方がしっくりきます。
>>261 「合コンの勢いでさくっと」何度もセーフセックスじゃないセックスを
やってるようなかたは危険性が高くて当然。
私は特定の彼氏としかしてないから、HIVの危険性はない
って思い込んでるかた対して訴えようとしてるのでは?
その上で、特定の相手としかセックスしないことを奨励されている:女
ってのを前提にして、女性に向けて言ってるんじゃなあい?
「カップルで検査を」
うーん。これ、はくタンがゲイだから出てくる発想じゃない?
ヘテロのカップルでこれは現実的とは思えないわ。
モテヘテロ男女の恋愛関係─"カレシ""カノジョ"と名付け、
権威づけられた性別観に自らも他者も従わせることが関係の大部分を占める。
駆け引き以外の何も見えないと断言するわ。例外の関係はごく僅か。
そんな関係の中で「一緒にHIV検査行かない?」なんて、誰が言えるかしら。
>>262 そっか。HIVを他人事としか考えていない人向けってことかー
で、「賢い女はちゃんとした男を選ぶものですよ」と言ってるんかな、あのポスターw
なんか「男」が不在だなあ。
力を持ってるマジョリティは、いつだって存在を巧みに隠されてると思う。
だけどどうなんだろう。
そういう「努力」や「我慢」を強いられてきた女は、ある種の強さを育ててきたのかも。
男を選別する眼力とか、男を操るテクニックとかさw
その結果、恋愛という場面で非モテ男の問題を浮き彫りにしたように、
STDの啓発という場面ではどういう問題が浮き彫りにされていくんだろう。
>>262 そんなとこですかね。
あと考えたのは、「近親相姦タブー」、incest taboo の「侵犯」の「反復」ですね。
ウィルスの「感染」を遺伝子の「継承」とみなすと、先に感染していた方が「親」、
あとで感染した方が「子」になります。「元カノ」の「元カレ」の「元」というのは
「世代」の問題に転換される。感染経路という「系図」において2世代にわたって
登場する者が「近親相姦タブー」を「侵犯」しながら、ウィルスを媒介している。
そう考えると「カレシ」と「元カノ」は「息子」と「母」の「近親相姦」に
等しい関係を結んでいて、「カレシ」と「カノジョ」は「娘」と「父」との「近親相姦」に
等しい関係を結んでいる。遡れば、「元カノ」と「元カレ」も「娘」と「父」との
「近親相姦」に等しい関係ですね。孫の世代からみると、呪われた祖父=父=夫がいて、
淫蕩な母=娘=妻がいて、悲劇の孫=息子=夫がいる、ということになる。
「カレシ」は「呪われたテーベ王家のオイディプス」ですね。すると、
検査を迫られている「カノジョ」は「オイディプスとイオカステとの
あいだに生まれた娘」、「アンティゴネー」の位置にある。
>>265訂正
「カレシ」と「カノジョ」は、「娘」と「父」じゃなく、「父」と「娘」の
「近親相姦」に等しい関係ですね。対応関係が混乱しました。
267 :
禁断の名無しさん:2006/05/16(火) 10:10:41 ID:/yWOznyu
STD検査の状況話が進んでいるようですが、ご自身はSTDの定期検診をなさられてる方々なのでしょうか。
>>263 それは俺も書いてて、無理があるとは思った。
検査してみっかと思った方が男でも女でも、
「一緒に」は行かない、つか行けないよね多分。
>>253を読んでふと思ったんだけども、
「カノジョの元カレの元カノの…」っていう逆バージョンをキャンペーン最初の頃に
見たような気がするの。電車の中吊りだったような……?
思い違いかな、、、
思い違いじゃなかったら、そのバージョンが消えたのは何故だろう。。
目の前にいる「カノジョの過去を疑う」のはイクナイ!って意味で反発があったのかなあ……
それってつまり「カレシは男だから過去があって当然」みたいな偏りじゃないだろうかと、
思った。
>>265 その「親子」のイメージ、すごいリアルに感じるw
「元カレ」「元カノ」にはどこか絶対に”勝てない”と思ってしまうのは、
祖父・祖母をイメージしてるからなのかな。
>>267 定期的ってほどじゃないんだけどやったことはありますよ。
夕べHIVで検索したら、検査キットがずいぶん出てるんですね。知らなかった。
270 :
83:2006/05/16(火) 10:30:18 ID:wR6W0VwL
>>267 あたしは去年の夏にやった。それ以来セックスパートナーはオンリーなのでしてないけど、
それでも定期的に検査したほうがいいのかしらねぇ。
HIVの検査は保健所で無料でできるけど、その他のSTD検査はなんだかんだで1万円くらいかかるからなぁ。
健康と安心・安全には替えられないけど。
>>267 定期的というほどは検査してないですね。
話変わって。
「近親相姦タブー」って結局のところ、生涯において唯一の「男性」を
「夫」とすることのできない「淫蕩な女性」の存在を問題にしていて、
「モノガミー」の「侵犯」の話なんですね。イオカステが亡き夫ライオスに
終生の愛を誓っていれば、「近親相姦」にはならないという。
これはヘテロの「モテ」イメージにも関わる話でしょう。
「非モテ」問題は「モノガミー」の問題でもある。
でも「近親相姦」の「暴力」の「被害者」って「女性」であることが
決して少なくはない。しかし「罪」はその「女性」にあるかのように
規範が働いている。近親間の「性暴力サバイバー」の「自責の念」って
ジェンダー間に非対称があるんじゃないでしょうか。
>>268 あったんですかね、そのバージョン。
ちょっと調べてみたら、とあるブログでこのキャンペーンとりあげてて、
「カノジョの〜」バージョンの方が男に恐怖感を与えるのにはいいんじゃないか、と
書いてありました。ブログの書き手はどうやら男性、男子学生のようですね。
>>254に追加。ひとつ忘れてました。
河本英夫 『システムの思想』 東京書籍
専門が異なる何人かの研究者やアーティストとの対話です。
最初に読むなら、こちらの方が読みやすいかもしれません。
こんな事でこんなに深い話に発展するんですね。
わたしなんて単純にエイズキャンペーンくらいにしか思ってなかったけど。
どうやら展開を見てると女性にのみ訴えることへのモニョリみたいですね。
単純な自分の意見を言えば、広告は予防の効果を最大限に上げるフレーズを
ただ考えて作られたんだろうということだわね。
コンドームを自発的につけるのは男性のほうでつけるつけないかの
主導権は男性にあるわけですよね。つけてない場合女性はつけるように
男性に要求しなければならない。女性のほうがお願いをしなければ
ならない立場になるのでより強い意識と意志が必要になるから女性に主に
訴えかけているものになったのかな。
あとセックスをするのにゴムをつけようがつけなかろうが
女性の快楽度は変わらないのに男はつけると気持ちよくないから
なまでやりたがる。だから男には女性からつける事を要求され
ないと自発的にはつけにくい現状があるのかもしれない。
まっ単純な意見でスンマソ。
276 :
禁断の名無しさん:2006/05/16(火) 14:29:19 ID:SlyJck3M
はく、ヤらせろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
277 :
83:2006/05/16(火) 18:22:46 ID:wR6W0VwL
>>275 >コンドームを自発的につけるのは男性のほうでつけるつけないかの
>主導権は男性にあるわけですよね。
主導権は男性側にある、とする時点でもうダメでしょう。
なんでも男性にお任せしたほうが楽、と思っている女性はまだまだ多いのかもしれませんが、
「自分のことは自分で決める」「自分の安全は自分で守る」という意識を持たないと、
「ナマのほうが気持ちいいから」という男性に押されて、望まない妊娠やSTD感染が発生する。
まぁ、女性のなかにも妊娠を盾に取って相手の男性を束縛しようとする策士がいますから、
ナマでしたがる男性のイニシアティブが本当に男性自身を守るために働いているのかというと、
そうでもなさそうですけど。
>女性の快楽度は変わらないのに男はつけると気持ちよくないから
>なまでやりたがる。
女性のほうだって快感度は変わりますよ。ゴムの摩擦感とか。
それはローションである程度カバーできる問題ですけどね。
それに、ナマでされると、それこそ妊娠やSTDが心配で快感どころじゃない、
というご意見もあります。
「自発性」って「男らしさ」の本質で、女には欠如しているものであり、
必要でないものだ、というのが規範としてのジェンダーには
ありますが、
>>275さんのお話は現状の描写としてはたぶん妥当であって、
それが示しているのは、その男の「自発性」なるものになんら内実が伴っておらず、
それは別に今に始まったことではない、ってことですね。
「お願い」されて、ゴム装着という行為をするかどうかの「最終決断」をする、
ってことを、ゴム装着という行為の「自発性」と混同している。
決断を迫られている時点ですでに男の「自発性」は失われている。
かつては、「ねぇ、お願いだからつけてよ」「よしわかった、つけてやるよ」だったのが、
「つけなきゃさせないわよ」「わ、わかったよ……つけるよ」になったところで、
「自発性」に関しては、なーんにも変わってない。「自発性」なんてどっちにもないわけですね。
ところが後者を「女性」が強くなったがゆえの「男性」の「自発性」の
「喪失」だと誤認している。最初から「自発性」は無い、わけです。
で、こうなると、女の「お願い」「わがまま」を簡単に聞かないのが
「男らしさ」だとか、わけのわからないことになってくるんじゃないでしょうか。
つけないでやるのが「男らしい」とか。
「カノジョの……」バージョンを、バイヤスがどうこう以前に、
作った方が、STDの感染拡大を防ぐという本来の目的を果たすには、
有効なんじゃないですかね。上のレスで挙げたブログの彼も言うように。
コンドーム装着に関する自発性が、あるのもないのも、男、女の別じゃなく、
個人によるんじゃないの?
女からお願いするという構図がまずジェンダーに囚われた幻想よ。
>>279 その通りで、「お願い」というのは
>>275で出てくる言葉なんですが、
そうした幻想が存在する、という事実を述べているものとして、
考えることができるわけですね。一挙に、それは幻想だ、と
かたづけるんじゃなくて、それがどんな幻想なのか、考えてみたのが、
>>278です。男の「自発性」をめぐる幻想だということですね。
>>277 >主導権は男性側にある、とする時点でもうダメでしょう。
なんでも男性にお任せしたほうが楽、と思っている女性はまだまだ多いのかもしれませんが、
「自分のことは自分で決める」「自分の安全は自分で守る」という意識を持たないと
べつにこうあるべきと言ってる訳じゃなくてただの現状認識よ。
ちんちんは男のものでコンドームはそれにつけるもんなんだから
必然的に男が主導権を握るでしょ?
コンドームが女性器につける物ならばその逆で女性が主導権を握るわよね。
でもそれは挿入のとき黙ってつけてくれれば要求しなくてすむわけだから
あくまで最初につけてくれるかどうか取っ掛かりの主導権があるってだけで
セックス全般でとかお付き合いでの主導権がどっちにあるかってこといってるわけじゃないわよ。
>>278 「お願い」されて、ゴム装着という行為をするかどうかの「最終決断」をする、
ってことを、ゴム装着という行為の「自発性」と混同している。
わたしは「お願い」されてすることを自発性だとはまったく思ってなくて
書いたんだけど何でこんな誤解されたんだろって
>>275読み返してみたわ。
そしたら見つけたわよ。w
>だから男には女性からつける事を要求され
ないと自発的にはつけにくい現状があるのかもしれない。
この文ねよく読むとおかしいものね。要求された事をやっても自発性が失われていないと
思ってるってとられるわね。確かに。
>だから男には女性からつける事を要求され
ないと自分からはつけたがらない現状があるのかもしれない。
って方が誤解されなかったわね。それにしてもよく読んでらっしゃるわ。
282 :
禁断の名無しさん:2006/05/17(水) 10:03:26 ID:2ldlqnRx
>>279 コンドーム装着に関する自発性が、あるのもないのも、男、女の別じゃなく、
個人によるんじゃないの?
女からお願いするという構図がまずジェンダーに囚われた幻想よ。
男男の「コンドーム装着に関する自発性」
男女の「コンドーム装着に関する自発性」
女女の「コンドーム装着に関する自発性」
個人の意識によると思うね、まったく。
283 :
282:2006/05/17(水) 10:07:43 ID:2ldlqnRx
↑
「コンドーム装着」
↓
「ゴム装着」
自発性はモテ派が握ってるのよ。
自発性以前に、ゴムつけようと思ってる奴(男・女)がどれだけいるのかしら?
あなたたちゴムつけてる?
286 :
禁断の名無しさん:2006/05/17(水) 23:27:56 ID:y4sRmnpN
感染している男性が一回の性行為で新たに女性を感染させる割合と
感染している女性が一回の性行為で新たに男性を感染させる割合は
男性から女性の方が多いって言われてるわよね。
287 :
83:2006/05/18(木) 00:33:38 ID:200RQfaj
>>281 >べつにこうあるべきと言ってる訳じゃなくてただの現状認識よ。
>ちんちんは男のものでコンドームはそれにつけるもんなんだから
>必然的に男が主導権を握るでしょ?
それは
>>281さんの現状認識である、ということなんでしょうけど、
だったらなぜ「握るでしょ?」と同意を求められるのか分かりません。
「コンドームをつけるのはちんちんの持ち主がなすべきこと」とは、
わたしは思ってませんので。
別に取り立てて「お願い」しなくても、ちんちんの持ち主じゃなくたって、
「つける」という行為は可能ですよね。
288 :
禁断の名無しさん:2006/05/18(木) 00:49:27 ID:KMPYKihx
加藤鷹がゆってた。
「ゴムをつけん奴は、挨拶出来ん奴よりアカン。」
289 :
禁断の名無しさん:2006/05/18(木) 00:54:30 ID:KMPYKihx
加藤鷹がゆってた。
「ゴムをつけん奴は、挨拶できん奴よりアカン。」やって
83さん
それは
>>281さんの現状認識である、ということなんでしょうけど、
だったらなぜ「握るでしょ?」と同意を求められるのか分かりません。
同意を求めるのはおかしい事なのかしら。押し付けがましく感じられたってこと?
言わんとしてることがいまひとつ分かりません。
「コンドームをつけるのはちんちんの持ち主がなすべきこと」とは、
わたしは思ってませんので。
別に取り立てて「お願い」しなくても、ちんちんの持ち主じゃなくたって、
「つける」という行為は可能ですよね。
そうね可能よね。黙って相手のちんちんに手際よくね。w
でも可能でもセックスの流れの中では自然ではないんじゃないのかしら。
好きな相手に嫌われたくないから不自然になることはしたがらないんじゃないの。
あの広告が女性に向けられたメッセージだったのもそういった
事があるから女性に強い意識を持って貰おうってのがあるんじゃないのかしら
>>287 83さん
>「コンドームをつけるのはちんちんの持ち主がなすべきこと」とは、
>わたしは思ってませんので。
あたしもそう思うわ。
だけどあのう。そんなあたしも83タンもどう考えてもマイノリティよ。
ゲイ向けのHIV予防広告に載ってた漫画では、
お互い相手のペニスのコンドームを付けあう場面を見たことがあるわ。
だけど
>>290さんの言うとおり、それで相手の評価を下げるアホヘテ男が、
うようよいること、83さんが知らないはずないでしょう?
そのへん歩いてるヘテロカップルの、恋人の前で男ぶる男と女ぶる女の
あまりの画一的な仕草や歩き方を見てるだけでも、
彼らの男女間であまりに不均衡すぎる性関係は想像がつくけどねえ…。
292 :
禁断の名無しさん:2006/05/18(木) 02:45:32 ID:481N4uzr
293 :
禁断の名無しさん:2006/05/18(木) 07:09:02 ID:gj4k7xdN
ゴムを誰がつけるべきかなんて、そんな事いちいち考えるか?
自分で自分のものにつけることもあれば、お互いにつけ合うこともある。
単純なことだと思ってたが
別に手際よくしなくても、ゴムの付け合いは結構楽しくてエロいと思うし、
自分も相手も両方をプロテクトすることを思えば
自然につけようという気にならないか?
294 :
83:2006/05/18(木) 13:58:16 ID:200RQfaj
>>290 >同意を求めるのはおかしい事なのかしら。押し付けがましく感じられたってこと?
>言わんとしてることがいまひとつ分かりません。
290さんの現状認識とわたしの現状認識は違う、という前提に立っているので、
あなたの現状認識を「おかしい」と批判するつもりはないんです。
ただ、同意を求められてもわたしはyesとは答えられないので、困ったなぁ、という感じで。
「黙って相手のちんちんに手際よく」装着するのは、確かに不自然ですねw
むしろ、おしゃべりしながら、手際の悪さもエロティックなネタにしながら、
お互いに楽しみながら装着する方法だってありますよ。
>>293さんが言うようにね。
「自然」にまかせようとする態度そのものが、
わたしにしてみれば「不自然」きわまりないなぁと思います。
わたしたちは誰もテレパシストではないので、
黙っていても自分の望む通りのアプローチをしてほしい、と願うこと自体が不自然な気がします。
コンドームをつける/つけないで揉めて関係がギクシャクするようなカップルは、
しょせんその程度の親密さなんだなぁと、他人事ながら残念に思いますわ。
>>291(いぬタン)
>だけど
>>290さんの言うとおり、それで相手の評価を下げるアホヘテ男が、
>うようよいること、83さんが知らないはずないでしょう?
ええ、たっくさーんいますわw
>彼らの男女間であまりに不均衡すぎる性関係は想像がつくけどねえ…。
想像もつくし、290さん個人としての現状認識も分かるのよ。
だけど、統計を取ったわけでもないこういう現状認識が「想像」によって「多数派」とされて、
その多数派に押されてしまうのはどうかと思うわ。
「世の中こんなものなのよ」って諦めさせられたくないし、諦めてもほしくないの。
あたしもいぬタンも当然マイノリティだけど、
マイノリティの知恵はマジョリティにだって有効なはずじゃない?
295 :
禁断の名無しさん:2006/05/18(木) 18:53:09 ID:wIkEUdak
>コンドームをつける/つけないで揉めて関係がギクシャクするようなカップル
だからつけない選択をする人々。
>>294(83タン)
「世の中こんなものなのよ」が諦めに繋がるのがおかしいのよね。
セックスする二者の間にそんなもん持ち込むなっての。
お互いを好きって言い合ってる関係なのに、目の前の相手よりも世の中の見解を参照するのって、
「好き」って気持ちに対する裏切りね。息が詰まりそう。
>>296 「世の中の見解」=「フツー」で、結局「恋愛」は自分が「フツー」かどうかを
絶えず確認するための手段でしかなくなっている、ってことでしょうね。
「ある規則に従って恋愛するのはフツーである」が、「フツーでい続けるには
ある規則に従って恋愛しなければならない」となり、「恋愛」が義務化される。
それは結局、「恋愛」という「一般的なもの」の「例」として相手との関係を
考えているってことで、別に相手は誰でもいい。お互いに相手を「取り替え
可能なもの」として扱っている。で、「婚姻」とりわけ「モノガミー」が、
お互いを「取り替え可能なもの」として扱っているという事実を
隠蔽すべく動員され、「取り替え不可能なもの」になったかのような
「幻想」が生産される。その「幻想」のもとで、相変わらずお互いを
「取り替え可能なもの」として扱うことが継続されて、カタストロフィーが
起きると「離婚」に至る。「誰もがやっていることだから自分もしなければ
フツーではいられない」ということで「試しに」行われる「恋愛」「婚姻」と
いうのが、「世の中」には少なくない。そうでない「恋愛」もあれば、
「婚姻」もあるだろうし、「試し」に始めたものが必ずしも二者関係ではない
関係のうちにお互いの「かけがえのなさ」をつくりだしていくこともないわけでは
ないにしても、今度はそうした互いを「かけがえのないもの」とする関係が
参照され、そうあらねばならない「フツー」として扱われ、それがさらに
互いを「フツー」に縛りつける。そうした「悪循環」が既存の「恋愛」をめぐる
「世の中の見解」にはある。それなら「恋愛」なんてしなくてもいいじゃない、って
声が出るのも、ここから理解できる。でも、それは既存の「恋愛」をめぐる
「世の中の見解」を参照することでしか「恋愛」ができない、と思いこんでいる
ことの裏返しでしょうね。
「ゴムつけようよ」とか(相手や周りに)言うと、
よく、真面目クンだの何だのってうざがられたり嘲笑されがちなんだけど、
俺の感覚じゃ全く逆なんだよね。
欲望の追求が甘いと感じるんだよ。
だって、
>>277後段のように、病気や妊娠に対する不安を抱えてヤったってさ、
粘膜摩擦のカイカンでその時は楽しくても、終って次やるまで不安になるんだったら
意味ないっしょ。
カレシ・カノジョに「嫌われたくない」がために、
不安を我慢しちゃう方が、かなり「真面目なイイコちゃん」と思うんだよね。
自分の欲望に忠実じゃない、と思うよ。
俺は、心底カイカンカイカンしたいからw、
そういう「真面目なイイコちゃん」にはなれないな。
きも
>「ゴムつけようよ」とか(相手や周りに)言うと、
>よく、真面目クンだの何だのってうざがられたり嘲笑されがちなんだけど、
・・・そんな現状認識があるって幻想抱いてるよ。
はくに寄ってくるのなんてしょせんその程度ってかwww
あ、
>ゴムつけようよ。
と「(セックスの)相手」じゃなくて、「(セックスしない)周り」に「言う」事はウザイ奴という認識は確かにありますね。
まじめないいこちゃん。と周りが思ってるって君が思い込む事で納得してる部分があるけど、単にうざい奴という認識じゃないのかな?
>>299の書き込みとかを読むと、まじめ云々じゃないと思うよ。
あとさぁ、頭悪いのかも知れないけど、
彼氏に「嫌われるかも・・・」と思いながらセックスしても摩擦快感はあっても心底の快感がない人もいるんじゃない?
自分の不安のプライオリティーを他人に押し付けて、まじめないい子ちゃんってレッテル貼付けるのもかなり下品じゃない?
ま、品性がない事をご自覚なさってるようだし、押し付けてウザがラレているって現状認識もゴム付けの話からも多少はあるようだし
無駄か・・・
>病気や妊娠に対する不安を抱えてヤったってさ、
>粘膜摩擦のカイカンでその時は楽しくても、終って次やるまで不安になるんだったら
>意味ないっしょ。
はくのお母さんも意味のないセックスばかりやってた「真面目なイイコちゃん」だったんだね。
かわいそうに。
聞かれるから「ゴムつければ」って言うんであって、
そんな話が出てもいないのに言い出すウザい奴じゃないよ。
それに、
>粘膜摩擦のカイカンでその時は楽しくても
「も」って書いてるじゃん。快感があるのかないのか、楽しいのか楽しくないのか、
そんなこと俺には分かりませんよ。
聞かれて「ゴムつけなよ」???
ふーん。何を聞かれてんだろうね。
聞かれて「俺はビョゥキ怖いからゴム付けてる。」
83さん
>290さんの現状認識とわたしの現状認識は違う、という前提に立っているので、
あなたの現状認識を「おかしい」と批判するつもりはないんです。
ただ、同意を求められてもわたしはyesとは答えられないので、困ったなぁ、という感じで。
えー?現状認識が違うと思うなら反論してくださいよ。
じゃないと議論にならないんじゃないのかしら。
反論されてももっともな意見なら全然かまわないよ。
あなたとわたしは違うからって一言ですべて相対化されたら
寂しいですよね。主観のぶつけ合いで互いの考えを
修正しあいながら影響しあえるのが楽しいんじゃないのかしら。
議論て本来楽しいものよね。意見が違えばなおさら得るものがあるもの。
意見を押し付けるつもりはないんですけどやっぱりここに書いてるって事は
心の奥底には同意を求める気持ちは少しはあるでしょうね。
でも同意を強要はしないですよ。違う意見を持ったまま相手を理解しあったり
認め合うことは出来ますからね。
>「自然」にまかせようとする態度そのものが、
わたしにしてみれば「不自然」きわまりないなぁと思います。
わたしたちは誰もテレパシストではないので、
黙っていても自分の望む通りのアプローチをしてほしい、と願うこと自体が不自然な気がします。
自分が書いた現状認識は「世の中の見解」=「フツー」を想像して書いたんですね。
ヘテロの規範の影響を少なからず受けてるから書けたわけで
でも自分はフツーじゃないんですよ。w
しかしこの自然だという幻想が生きているのがヘテロの社会でも
あるのではないでしょうか。
>>297の意見のようにマイノリティーから見ればマジョリティーの哀れさってのも
感じることあるんじゃないかしら。
わたしは二つの世界に生きてるんだって思ってれば一つの世界の
縛りに息苦しくて窒息することはないような気がしますね。
>>304 意味なしてないよ。
俺も「も」って書いてるんだけど。w
意味分かってないの?思考停止チュゥ?
309 :
禁断の名無しさん:2006/05/19(金) 01:51:15 ID:hO0PxeNw
はくの(相手や周りに)は素敵なゴム無し妖精候補さん方がたーくさんいるんだね!
感動した!
類はとm(ry
310 :
83:2006/05/19(金) 03:21:21 ID:NlMQsUS/
>>306 >自分が書いた現状認識は「世の中の見解」=「フツー」を想像して書いたんですね。
えー? ちょっと待って。それじゃあなたと話が食い違うはずだわ(汗)。
現状認識って自分の体験をもとになされるものだとわたしは考えていたから。
「想像」と「現状認識」って違うんじゃないかしら。。。
>じゃないと議論にならないんじゃないのかしら。
ええ、したがってあなたとの議論は成立しないんです。
あなただけでなく、こういう場では誰に対しても無理でしょう。
言葉の使い方がそれぞれ違うから、定義についてのコンセンサスをとるだけでも大変ですし。
>あなたとわたしは違うからって一言ですべて相対化されたら
>寂しいですよね。
過去スレを参照されたことがあるならお分かりかもしれませんが、
わたしは「自他の違い」「多様性」を結論にする気はないですよ。
むしろ「違い」を出発点にしたいと思っています。
だからわたしはあなたとの「現状認識」の違いを出発点にしようとしたのだけれど、
あなたとの「違い」はもっと根本的なところにあったようです。
「想像」なら、あなたと同じことを想像することはわたしにもできます。
でも、「現状認識」はそうじゃないのよね。
わたしはてっきりあなたが自分の体験から現状認識を語っていると思ったものだから、
あなたの体験した(している)現状を否定はしないし反論のしようもない、
というスタンスなのでした。
けれども、同じ「想像」なら、「フツー」ではなく「フツーでないもの」を想像し、創造することもできますよね。
「フツー」を想像することはわたしにはちっとも楽しくないし、ワクワクもしないし、
自分のためにならないから、やっぱりあなたとの議論は無理ですw
あなたの用意した土台に乗る気になれないもん。ごめんなさいね。わがままなもので。
ええ分かりました。あなたとの議論は無理ですね。
でもわたしは体験絶対主義じゃないから情報でも
世界観を作ってますしマイノリティーでもマジョリティーの
ある程度は感覚は分かりますよ。
情報化の社会ではそれがあたりまえだとも思ってます。
経験主義って怠惰の免罪符に成り下がっちゃったのかしら
>「フツー」を想像することはわたしにはちっとも楽しくないし、ワクワクもしないし、
>自分のためにならないから、やっぱりあなたとの議論は無理ですw
「フツー」から目を背けて生きていけばいいじゃない。
それがあなたの生きる道なんでしょ。
314 :
83:2006/05/19(金) 13:26:41 ID:NlMQsUS/
>>311 「情報」の見聞も体験の一種だとわたしは考えていますよ。
ただし、情報には一次情報と二次情報がありますよね。
>>311さんの情報源が一次のものか二次のものかは存じませんが、
>>306では「自分はフツーじゃないんですよ。w」とコメントしているあなたが「想像」した、
「世の中の見解」=「フツー」って、二次情報でしかありえませんよね。
もちろん、二次情報のすべてが疑わしいわけではありませんが、
二次的なものである限り、一次情報のある側面がそぎ落とされる可能性に留意する必要があります。
「世の中ってこういうものですよね」と二次情報に対する同意を求められても、
「こういうもの」ではない事例を一次情報として入手しているわたしとしては、
「そうとも限りませんよ」と言うほかないんです。
情報操作にはくれぐれもお気をつけくださいませ。自戒の意味も込めて。
全ての時代、全ての人間の人生を実際に経験しないと
世の中なんて語れないですよねw
情報操作コワイコワイww
フツーを想像したくない人がフツーの人に
働きかけて理解を求めようってんだから。
あきれたね。
興味深いすね、この件。
ネガな現実を並べ立てること自体が、
そのネガ現実の「フツー」を強化しかねない、押しつけになりかねないって事だろうと思う。
それはあるよね、確かに。
83さんは、そうやって並べ立てて嘆き悲しむよりも、
自分の価値観を積極的に表現するってスタンスなんでしょ?
ネガ現実の「フツー」に怒ってカラ回りすることが、俺はよくあるんで、
純粋に、うーむそっか!(・∀・)と思ったよ。
>290さんが言おうとしてることも分かるよ?
どっちか一方のレスオンリーになるのはまずいと思うので、
しょうがないって部分のズレじゃないかな。
オートポイエーシスにおいては、「認知」のシステムと「行為」のシステムは
別であり、両者はカップリングされている、と考える。
その際、問題となるのが「知覚」で、「知覚」は「認知」であると同時に
「行為」でもある。このスレで「現状認識」という言葉が用いられる時は、
たいていこの「知覚」との関わりで用いられているんじゃないか。
そして、それをどう捉えるかで、「認知」も「行為」も組み換えられる。
「知覚」は「認知」であると同時に「行為」だから、どちらの方からそれを
考えるかで捉え方が異なる。「科学者」は「自らの経験を超える超越論的なもの」として
「想像」された「フツー」としての「平均値」を設定し、「経験」としての「実験」を繰り返し、
「議論」を展開しながら「認知」の側から「知覚」と関わろうとするだろうし、
「芸術家」は「触発する言葉」で他者と自己を「触発」する「経験」を通じて、
「行為」としての「知覚」を反復することで、「自らの経験を超える超越論的なもの」を
新たな「触発する言葉」として「制作」しつつ、「行為」の側から「知覚」と関わろうとする。
これはどちらのアプローチが正しいか、ということではなく、
両者は「同じもの」を別の仕方で捉えようとしている、ってことだと思う。
この場合は規範としてのジェンダーの「フツーのフツーでなさ」、
「自然の不自然さ」の捉え方の違い。で、はくタンの言うように
このズレは議論で是正する類のズレではないと思うし、言語観が異なるんで
まず議論が成立しない。
セクシュアリティの「承認」をめぐる言語は、「理解」に至る「議論」の
手段ではない、ということがまずひとつ。ヘテロセクシュアリティを
僕は「承認」しているけれど、その際に、「議論」を通じて「理解」を
求められたりはしていないし、「理解した側」として「理解される側」である
ヘテロに「承認」を与えたり、授けたりはしていない。「承認」というのは
そういう「行為」ではない。
「承認」という「行為」はそれがなされると同時に、必ずしもそのプロセスを
言語化することが可能ではない「理解」が生じるもので、それは「行為」が
なされるたびに、新たな「理解」としてつくりだされる。その場合、言語は
「議論」による「説得」を通じての「理解」の手段ではなく、「行為」としての
「承認」を「触発」する契機となっている。これは「カミングアウト」の
際の言語を考えてみればわかる。
バトラーが、ジェンダーは performative 、「行為」だ、というのは
この「承認」をめぐる言語のありようと関わっていて、それは
>>306さんのいう
>違う意見を持ったまま相手を理解しあったり
>認め合うことは出来ますからね。
につながる話だったりします。
この「認知」と「行為」、そして「知覚」をめぐる本を2冊。
どちらもジョナサン・クレーリーの本です。
『観察者の系譜』以文社
『知覚の宙吊り』平凡社
これがどうジェンダーやセクシュアリティに関係するのかは、
後者のどこにどんなふうにジュディス・バトラーの名前が
現れるかを読んでみてのお楽しみということで。
>>318 自虐ネタ?
素直に、ここでの自身の行為がパフォーマティブな事だと思い込めてるってこと?
なにより議論による承認・理解の話じゃないと思うけど。いまここで話題になっているのはさ。
他人と議論をしてもらえるだけの技能もない烏合の衆が、なに言ってんのかしら?
身の程を知って、手の触る範囲で細々と雑談にいそしんでなさいな。
322 :
禁断の名無しさん:2006/05/22(月) 14:50:54 ID:s0b3L7z3
ソース: 科学 岩波書店 2000年7月号
戦後日本の殺人の動向 とくに、嬰児殺害と男性による殺人について
抜粋:『日本は、殺人率全体では先進国では最低レベルにあるのに、
こと嬰児殺害(母親による実子殺し)に関しては欧米より群を抜いて高い』
『とくに他の殺人率がコンスタントに減少した1970年代に、嬰児殺害は
反対に増加傾向すら示した』『別の角度からみると、日本人が一生のうちで
もっとも殺されやすい時期は、出生直後ということでもあり、1980年までの
その率は現代アメリカの平均殺人率(100万人あたり約100件)にも匹敵していた』
この事実を知っていた人はいますか?逆に、日本男性の殺人率は世界各国の
男性と比べても最も少ない部類に入ります。殺人率だけでなく、日本男性は
性犯罪も暴力事件も他国と比べれば非常に少ない国なのです。日本男性は
他国の男性と比べても凶悪事件を起こすことが非常に少ないことは
よく知られてることです。しかし、日本女性は世界各国の女性と比べて
嬰児殺害という凶悪殺人行為が非常に多いんですね。日本という国は
男女が逆転している国であるとも言えますが、この原因はなんでしょうか?
嬰児殺害=母親による実子殺し=女性による殺人
ていう図式がよくわからない。
嬰児殺しは戦前から口減らしとか女の赤ん坊だからとか
障害者だという理由でいくらでもあったよ。
出産後の中絶みたいなもで、当然父親もふくめて家族は賛同しただろうよ。
共同体内では薄々知られてはいたけど陰で行われたので
実際誰が手を掛けたのかなんて分からないだろ。
川に産み落とした、産婆が処分したり、父親だったりもしたかもしれないが。
そんなの統計上には現れようがないんじゃないかな?
高度成長期に嬰児殺人が増加してたなら
なおさらジェンダーに起因するんじゃなくて
社会状況に関係してるんだろ。
どういうケースが紹介されているんだ?
短絡的に男と女どっちが狂暴かなんて結びつける
意味がわからん。
昔ながらの口減らしが水面下でどのように推移したのか興味深い
プラス>324の視点が重要だよな
何でも性別に還元しようとするなんて脳が膿んでるんじゃないかと
>>322 母親による実子殺しや虐待って、いろんなケースがあるよね。
背景に男(夫とか愛人とか)がいることもあるし。
結婚や再婚する時に(した後も)子供が邪魔だった、とかさ。
九州でそんな事件があったよね。
また、育児ストレスが原因って事件の中にも、
夫の協力不足や周囲のプレッシャーが関係してるケースもあるんじゃないのかな。
『誰も知らない』はネグレストだけど、あれも母性の欠如だけで
済むような話じゃないと思う。
327 :
禁断の名無しさん:2006/05/22(月) 18:59:34 ID:Pr1FEiwK
嬰児殺しを通常の殺人罪とは別の構成要件で規定している立法例もあるって
どっかで読んだことがある。その際の主体客体の定義はテクニカル的に難しいと思うんだけど,
どうなってるか知ってる人いる?歴史的な話だったかもしれんけど・・・
え、「主体客体」てのは、主犯とか従犯ってこと???
>>328 いや,主体:殺す方,客体:殺される方ってこと。
「生物学上の母親」による(主体)「出産直後の子」(客体)殺しならわかりやすいけど
>>323の言っているように,そういうケースだけじゃない訳じゃん?
意図的に流産したケースって事?
嬰児というより胎児殺しみたいな場合?
へえ、そう呼ぶのかー>主体、客体
「間引き」って戦後と呼ばれる時代くらいまでは割とあったんだよね??
当時の主体が女性とは限らないってのは分かるんだけど、
そういうのを「嬰児殺し」件数に含めると、
>他の殺人率がコンスタントに減少した1970年代に、嬰児殺害は
>反対に増加傾向すら示した
とはならないって事???
それって重要な事なの???
増加してようがしてまいが、起因がジェンダーにまるでないとは
言えないと思うんだけどな。
332 :
禁断の名無しさん:2006/05/22(月) 22:12:02 ID:C3oqVGOy
男より女のほうが凶暴とかってことじゃなくて
女性が罪を犯してしまう社会についての考察希望
といいつつ自分ではなにも論じられない甘えん坊なわけですが・・・
仮にそれが事実として、さらにジェンダーに絡めて考えるとすると、
高度成長期に都市部に核家族が初めて「誕生」したわけでしょ?
それまで子育てなんて村ぐるみというか共同体の中で
見守り、あるいは放任的に育てられたんだけど
核家族化によって女親は今まで経験したことの無い「専業主婦」にされ
母子がより逃げれないような関係になった。
こんな感じ?
田嶋陽子がワリーんだろ
つかスレ違いだな
336 :
禁断の名無しさん:2006/05/25(木) 22:09:18 ID:mpbelJus
そうね、母親も父親も働きにでてても面倒見てくれる人がたくさんいたのよね。
わたしの両親の世代は
あ、でも私の両親以外は違うのかも、、、
うちの両親どっちとも7人兄弟の末っ子同士なのよね・・・
非モテ男にとっては女はむしろ欲望される故の性的強者であって
性的弱者性を強調されると納得いかないってのはわかる。
女が強くなった、強くなったと言われるけど、
結局女性の強さ の美徳も
弱者萌え幻想と表裏一体ではないの
誰かの権利が拡大されたとして、それがどうして、
自分の権利の侵害になるのだと勘違いしちゃうんだろうね???w
ここんとこ、はてな内でフェミニストとアンチフェミによる、
ちょっとした論争があって面白く読んでた。
具体例をネタにしてたところもあったので、分かりやすかったよ。
論争自体はいちおう終了をみて、アンチの人がブログで自己批判してる↓
ttp://d.hatena.ne.jp/khideaki/ 難しくて理解できないところもあるけど、つか殆ど理解できないんだけどw、
誤解の元ってのはもしかして感情レベルなんかな??
あ、論争を「フェミとアンチフェミ」と括るのは違ったかな。
ジェンダーフリーとアンチジェンダーフリーの人たちによる論争、かも。
>>338 >性的強者、性的弱者
「非モテ男」は恋愛・セックスにおける「弱者性」からスタートしてるから
しょうがないんだろうけど、
性的に有利だからといって「女の全て」を嫌悪してしまうというのは
行き過ぎな気がする。
で後段。
俺は前に、「モテ女」を「革新保守」と名付けて好ましく思ってると書いたんだけど、
それは、「弱き者(女)」が「したたかさを身につけた」ギャップに萌えてるだけって意味???
ぅーん……そう言われると、、……そうなのかな……
ちとヤだね。なんか昭和のヒヒオヤジくさくて。
性的弱者と言えばさ今気付いたけど
萌えとか、オタク系文化っておそらく世界で例を見ない人間=女っていう文化だよね
そういったものに熱狂的にハマるのが非モテと被っているとしたら
女性強者論を自分で再生産してるといえるよね
>>339 はくタン
>誰かの権利が拡大されたとして、それがどうして、
>自分の権利の侵害になるのだと勘違いしちゃうんだろうね???w
女性蔑視と男性性
ホモフォビアと強制異性愛
非モテ蔑視とモテ
etc....
前者を前提として、自身の優位を信じている後者もある。
後者が自分たちの権利侵害だと主張するとき、勘違いではなく、
彼等が過剰に持っていた"権利"は侵害されているでしょう。
そんな他者の権利を侵害する権利が自分にはあることを妄信する態度から、
彼等がどれだけ甘やかされてきたのか、前足にとるようにわかるわよね。
人間以外の動物への軽蔑と人間性 ってのもあるわね。
"人権"って言葉は、充分に権利が保証されたニンゲンには、
適用することはないと思うわ。
>他者の権利を侵害する権利が自分にはあることを妄信する態度から、
>彼等がどれだけ甘やかされてきたのか、前足にとるようにわかるわよね。
自己批判は良いことです。
現在自縛プレイ中です
皆様ごゆっくりお楽しみ下さい
世の中斜めにしか見れない人たちの
変な使命感って自己批判できない弱さの裏返しでしょ。
>>343 ええ。フェミも含めて批判してるし、自己批判でもあるわ。
>42タン
>>7 >「人権」保障を「自己責任」で、ってことになると、これはもはや
>「近代法治国家」ではありませんね。
>>28 >そして、「ジェンダー」と「セクシュアリティ」をめぐって自分らしい
>「幸せの形」を追求し実現することは、「社会権」に含まれる。
>これは「人権保障」の問題であるわけです。 Personal is Poltical ですね。
>しかも、それは今やグローバルな「人権保障」である必要があるけれど、
>とりあえずはナショナルなレベルでいろいろと制度を整備してもいい。
「人権」保障が全ての成員において「自己責任」になっていなかったという点が
そもそもの問題なのでは?
自己責任をまぬがれていた者と、自己責任を問われた者がいたのは、
今にはじまったことではない。
「人権」保障は、そもそも必要なのでしょうか。
「社会権」「人権」「近代法治国家」に括弧をつけた意図は、
それが暫定的に定義されたに過ぎないものだからでしょうか。
その権利保障は、どんな正当性に依拠しているというのでしょう。
根拠のない権利の剥奪、ならば理解できるわ。
347 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/26(金) 22:57:44 ID:4EHMnnpr
>>342 前者がなければ存在できない、そういう後者もいるってことすかねー
それは既に、前者(女、ホモ、非モテなど)の「権利侵害」になってるのに
本人たちは何も分かっていない。
自分がそうした「権利侵害」によって存在たりえてる自覚がまるでないんだ。
世間知らずというか、おめでたいというかw
>>334にあるブログを読んだ時に、怒りだの憤りだの感じるよりも前に、
思わず(プ……!)ってなっちゃうのは、
ピンと張ったヒゲが、まず、この「おめでたさ」臭にピピッと反応するからだろうなw
「人権」て言葉は、それが侵害されている人々の存在が分かった時に、
あわてて用意された言葉なんでしょ??
板についていない、どこか胡散臭いのは、そのせいじゃないんかな。
>>347 例えば神名龍子さんのジェンダー素描などどう思われます?
神名龍子さんて知らなくて今ググってみたけど、
「ジェンダーフリーは"性差否定"じゃん」ていう主張をどう思うかってこと??
前にも書いたけど
ジェンダーフリーって何なのか俺はよく分からないんだよね。
>>349 >神名龍子さんて知らなくて
ちょっと驚き。
全部読んでみました?とりあえず感想聞かせてください。
やはり「(プ……!)」ってなっちゃったかを。
353 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/27(土) 01:33:38 ID:3Plu6eOb
>>350 いま気づいたが、あなたは=
>>343なんだね。
文脈から、このスレで話している人々(俺とか)が
「他者の権利を侵害している」というふうに読んだけれども、
その後に神名龍子さんの名前を出したという事は、
すなわち「TGの権利を侵害している」と言いたいわけなんだろうか?
それは具体的に、どういう事なのか、あなたの言葉で書いてくれると有難いんですが。
354 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/27(土) 02:32:21 ID:3Plu6eOb
「TGの権利」云々はひとまず置くとして、
>>351に貼ったURLの中から【96.「ミスコン」ジェンダフリー化の無残】を
とりあえず読みました。
この方は、非常に現実主義の人なんだね?
「現実の男女一般大衆の価値観に合わせるべき」というのが論旨かと。
このエントリーに関しては、
>女性が「美」を基準としたによる審査で評価されるということが、
>多くの男女にとって「価値あること」と考えられている現実がある。
そういう現実内で生きてる人・生きようとする人々が、楽しみにしている
「女性の美を競う場(ミスコン)」を、
フェミニストやジェンダーフリー論者たちの横槍によって奪われている、という主張らしい。
何を楽しみにするのかは自由だけれども、
その価値観が多くの男女にとって支持されればされるほど、
「女性は美しくなければならない」という考え方が広まるし、より強くなっていく。
その弊害が、いろんなところで出てしまってるんじゃないのかな?
女性が過激なダイエットしたり、収入以上のブランド品を欲しがったり、さ。
「ミスコン」で「美しい女性たちが美を競いあう姿」を楽しむ中年男が、
「○子より可愛いと見られたいから整形する」とか
「×男に綺麗と言われたいから高価な服を買う。その為に¥する」とかいうイマドキ娘を
非難したり憂えたりするほど面妖なことはないと俺は思うけどね。
そういうイマドキ娘を苦々しく思うというのも、ひとつの「現実」であろうかと思う。
一方の「現実」だけを尊重し、もう片方の「現実」を考慮しないのは、
どうかと思うよ。
まあ、(プ……!)まではいかないが、(ふっ……)くらいかな。
これまで「多くの男女」が「女性が「美」を基準とした審査で評価される価値観」を
支持してきたわけだけども、
それによる弊害を感じてるのならば、その価値観を一度なくしてしまうという試みは、
しても良いんじゃないのかな。
全ての人々が、そんな弊害など感じていない・そんな弊害は物の数ではないと
言うのならば別だがねw
少なくとも俺は、上に書いた「イマドキ娘」はアホちゃうかと思うしw、
ダイエットとかでマジ死んだりする話を聞けば、
捨て置けない→そんな価値観なくしちまえ、と考えるよ。
弊害が嫌ならどんな価値観ももてないね。
一度壊して見たらって簡単に言うわね。作ることがどれほど大変かわかってるの。
それこそ有史以来受け継がれて来たものを
一時の流行の考えで壊してやり直せるって随分な思い上がりなのよ。その価値観が良いなら働きかけなくても向こうからそうするでしょうしそうなってくんじゃないの。
>>354 「とりあえず96」というのが非常に興味深いです。
なぜ?
ついでに「番外4」の感想もお聞きしたい。
357 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/27(土) 03:47:00 ID:3Plu6eOb
>>355 あっははh
「簡単に壊せると思ってるあなた」も随分なw
つか、突っ込みどころがたくさんあるけど、まあいいや。
何も働きかけることなく黙って向こうからやってくるものを待ってればいいんじゃない?
俺はそうしないけど。
>>356 96を選んだ理由は「ジェンダーフリー」って言葉が入ってる中で、
もっとも新しい日付のエントリーだったから。
番外4ね。
>私は自分が、「自分らしい生き方」をしているかどうかなんて判りませんけど、
>「真剣」に楽しんでます
これはまったく同意ですね。
俺もワクワクしながら生きてますよ。
358 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/27(土) 05:15:28 ID:3Plu6eOb
ていうか
>>355 黙って待ってたら、やってきたのが、
「女性ばかりではなく男性も「美」を基準とした審査で評価されるのが
価値あることだ」って風潮だよね。
ずばり非モテ男問題てのは、それなわけでしょ。
評価されるのは吝かではないが、きわめて偏った「美の基準」に疑問を持つ男女、
そもそも評価されたくもしたくもない男女、
頼んでもいないのに勝手に評価されちゃって迷惑してる男女、
そういう人々は、意外に多いんじゃねーの?w
そうでなきゃ「恋愛資本主義」だの「非モテ」だの問題にはならんでしょ。
>女性が「美」を基準としたによる審査で評価されるということが、
>多くの男女にとって「価値あること」と考えられている現実がある。
本当に「多くの」なのかねー
ごく一部の男女の熱心な「働きかけ」によって、
かろうじて維持されてる「現実」じゃねーの?って
俺は思うけどね。
>>358 >多くの男女にとって「価値あること」と考えられている現実がある。
多いかもしれない。多くないかもしれない。そんなこと知らない。
ただ、"多い"と信じさせようとしている、"多い"と信じようとしていることだけが確か。
そして、"多い"意見を優先することが正当だとでも暗黙に言っていない限り、
この発言は意味をなさない。
"多い"と流布される意見を優先することが正当だという主張は、
全体主義と名付けられているけど、
全体主義を善悪で判断する術を、少なくともあたしは知らない。善か悪かは知らないけど、
AはBではない/BはAではない/よってAはBである のような単純なタイプの
論理的破綻を起こしていることから、真理でないことだけは明らかにわかる。
>>354 >その価値観を一度なくしてしまうという試みは、
しても良いんじゃないのかな。
その結果が159人から6人じゃん。www
>そういうイマドキ娘を苦々しく思うというのも、ひとつの「現実」であろうかと思う。
一方の「現実」だけを尊重し、もう片方の「現実」を考慮しないのは、
どうかと思うよ。
あくまで弱者目線でしかないのね。ww
片方の現実の6人に配慮できたんです。よかったですねって仙台商工会議所に言うのかよ。www
>"多い"と流布される意見を優先することが正当だという主張は、
>全体主義と名付けられているけど、
そうなんでしょうか?
362 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/27(土) 15:34:48 ID:3Plu6eOb
>>360 >片方の現実の6人に配慮できたんです。よかったですねって仙台商工会議所に言うのかよ。www
配慮?? あんたバカ?w
それが2005年(だっけ?)の「現実」なんだから、仙台商工会議所は
粛々とその現実を受け止めるべきじゃん。
「親善大使」の意義および選考基準が明確ではなく、県民の関心を魅かなかった。
それが応募人数が減った理由だろ。
>>359 >ただ、
363 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/27(土) 15:39:09 ID:3Plu6eOb
あれ??? 文章がきれちゃった……
>>359 >ただ、"多い"と信じさせようとしている、"多い"と信じようとしていることだけが確か。
>そして、"多い"意見を優先することが正当だとでも暗黙に言っていない限り、
>この発言は意味をなさない。
俺もそう思うよ。
この発言者に悪気はないんだろうが、
「自分が認識している現実」が全て、なんだろうね。
その認識を疑うということを知らない。その怠惰さがどういう影響を及ぼすのかも
考えようとしない。
そういう部分に「超絶現実肯定派」のおめでたさを感じる。
自分の認識を疑うって事をやってみれば、この人は今よりももっと
「ワクワクしながら生きていける」と思うんだけどねw
365 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/27(土) 15:52:23 ID:3Plu6eOb
>>364 いつまで続けるの???
アンケートやってるわけじゃないし、意見が聞きたいのなら
あなたが自分の意見をまとめて書いて、それについて考える方が早いと思うんだけど。
このサイト管理者への俺の感想は、
>>363のレスに集約されるよ。
それとも一つ一つやっていかなきゃ、俺が言ってることを理解できない??
366 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/27(土) 15:58:56 ID:3Plu6eOb
106に関しては、この人が何を一番言いたいのかが分かりません。
これは演説?
俺はTG、TVの理解も知識も欠けているので、よけい分からないのかも知れない。
あなた
>>364が106の文章のどの部分を、あるいはどういう論旨を
問題にしたいのか書いてくれれば、俺も何か書けるかも知れませんよ。
それと昨日から俺に神名氏の記述に関しての感想を求めている方ですか?
あなたの意見は書いてくれないわけでしょうか?
367 :
禁断の名無しさん:2006/05/27(土) 16:07:05 ID:cRBvy9ch
俺は自分の容姿を評価されるのが嬉しいが
それは自分の容姿が優れているからだろうといえば何も言い返せない。
でもどんな要素だって、比較があれば優劣は存在するわけで
美醜だけが顕在化したタレントだから槍玉に挙げられるのもおかしいと思う。
>>365 >いつまで続けるの???
当分。
>早いと思うんだけど。
別に急いでないので結構です。
だめだこいつら。w
よっぽどねじ曲がって育ったんだな。
>>367 そうですね。どんな「要素」でもいいわけですよ。
>>368 >>366にも答えてくださいね。
>>339に貼った「論争」を読んでて思ったのは、
やはり具体例に沿って一つずつ誤解を解いていかなきゃダメなのかなと思うけれども、
それをやるには、相手も同じ真摯さを持っていただかなければダメではないのかとも
思う。
俺がぐぐって貼った神名氏のサイトをざっと読んだ限り、
「セックスがジェンダーを規定する」が具体的にどう「TG」に関わってくるのかが、
ポイントになるような気がする。
それには「TG」側の身体を通したレスが欲しい。
そういうレスなしには、俺はちょっと何もレスできません。対話ができません、ということ。
論旨をまとめて頂くか、神名氏の主張をあなた
>>368がどう受け止めて、
何を問うのかを明らかにしてもらわなくては、俺はレスしませんので
その要求に答えられないのであれば、俺にアンカーつけるのはやめて下さい。
で、他にできる方がいたら、お願いします。
そんじゃちと出かけるので、さいならー☆ノシ
>真に必要なことは、まずマジョリティとマイノリティの共通点を探し出し、
>それを議論の出発点とすること。
>そのためには自分達の特殊性を強調するのではなく、
>自己の在りようを深く内省して掘り下げる必要がある。
そうね。マイノリティ当事者の特権性は放棄すべきだと思うわ。
ただし、議論の出発点がマジョリティとマイノリティの共通点を探し出すことにあるべきというのが、
それぞれの立場の差異を語られる内容に結び付けている点で、その後に書かれている特権拒否の主張と矛盾してしまっている。
マイノリティがマイノリティへの帰属を備えたまま歩み寄ろうとすることは、
マジョリティ当事者の特権性の維持にしかならない。
成員が当事者として語り行動し続ける限りは、成員の要件を何度でも成立し直していってしまい、
規範を維持させる構造の、多少見た目を変えての再生産にしかならないでしょう。
弱者擁護に最優先の関心を寄せる方には受け容れがたいと思いますが。
>>371 御期待に沿ったものかはわかりませんが
一応ご回答を。
>>348の通りです。
フェミのホモが女装の「バックラッシュ」による文章をどのように思うか?
充分興味深いテーマでしょ?
「関心の対象」自体も含めて。
ですから具体的な問題点も挙げませんでした。
今のところの印象としては「興味なし、もしくは深く考えたくない」
というところでしょうか?
>>362 お前のが馬鹿じゃw
あんたの言う通りにもう片方の現実に配慮して
仙台商工会議所はやり方を変えた。あんたの言葉で言えば
>その価値観を一度なくしてしまうという試み<をしたんでしょうが。
それなのに粛々とその現実を受け止めるべきじゃんってww
自己批判さえ出来てないし。
>>358 ブスのルサンチマン。
小さな彼氏がいてくれてよかったね。
>>346 いぬまわりさんは「人権」をどう定義します?
>>373 一応ご回答を。
↑「ご」はいらないですね。
非モテ当事者・・・かどうか怪しいおれが来ましたよ。
>>372 http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign106.html これね。
当事者性をタテにするのはマズい、という点はその通りですよね。
それは非当事者の口をふさぐことにもなるわけで。
当事者性を強調すること自体、保守的な身振りになりかねない。
だけどその後の展開がダメダメ。
>そのために、被差別者と差別者との共犯構造に気がつかない。
>差別される側が、自分の内面にかかえる劣等感に気付き、
>克服してゆく努力も必要。
はいはいはい。構造を批判するべき、というのはゴモットモですよ。
で、なんでその直後に「内面」「劣等感」「努力」って
話になっちゃうわけ?
オカマって言われてバカにされても平然としてりゃいいのか?
たしかに、「差別的言動」は「構造」の中で位置づけられる。
だけど、その「構造」は「差別的言動」によってそのつど遂行的に
構成されるわけでしょ。
「劣等感」は現に存在している差別の結果であって条件ではない。
変えるべきなのは、被差別者の「内面」に「劣等感」を生み出す
唯物的条件じゃないの?
構造批判に耽って、言葉の遂行的な次元を見落とすのは愚かだ。
現実を変える原動力になるのならば、
ルサンチマンもがんがん高めていって良いんじゃないかな。
上の自分の発言は、どうもツッコミどころ満載なきがする。
>>376 ここはアラン・バディウあたりを引用して、「人権」にまつわる
リベラリズムの欺瞞を暴くとかっこいいと思います!
何がなんでも自分の内面を批判したくないのよねここの人達。
すぐ感情的になるんだから。ホモだってノンケと同じ価値観共有してるんだからノンケ批判したらそれは自分への批判でもあるのに
特権化して悦に入るんじゃ付き合ってらんないわ。
>>379 バディウで「人権」というとこれがありますね。
ttp://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0,36-710389,0.html かいつまんで説明すると、バディウには16歳になる黒人の養子の
ジェラール君というのがいまして、この息子が冤罪で警察に逮捕、
拘留されたというお話。
ジェラール君が女子校の前でナンパしてたら、折も折の昨年の外国人
労働者の暴動がらみの集団暴行事件の容疑者とされてしまったという。
もちろん、そんな事実はないので警察はバディウに「謝罪」したわけですが、
バディウの怒りはそんなことではおさまるはずもなく。「謝罪って何?」
「そんなもんで誰が納得するっちゅーねんっ!」とご立腹。
数学を駆使した『存在と出来事』『世界の論理』の著者バディウは、
警察が電話で彼に「お宅の息子さんがどうやら集団暴行に加わってた
みたいなんですけど」と言った際に、probabilite 「蓋然性」「確率」と
いう言葉を使ったことに対して、「いやここであいつらが使った
『確率』ってのは見事な言葉だよね」という皮肉もしっかり言っている。
30年ほど昔、『リゾーム』を「ジャガイモのファシズム」と批判し、
ドゥルーズ=ガタリをあろうことか「右翼のファシスト」呼ばわりした
極左のマルクス主義者にも見事な「父性」がある、というお話w、ではなく、
パリの特に郊外では、こうした「人権」侵害が日常化している、というお話。
>>380 言いたいことはわからんでもない、ような気がするが
こんな場所こんな場面で内面とか言ってる時点でプゲラヒョーw
384 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2006/05/27(土) 22:34:22 ID:3Plu6eOb
>>373 >フェミのホモが女装の「バックラッシュ」による文章をどのように思うか?
俺が「フェミのホモ」かどうかは別にして、
「女装の"バックラッシュ"」については興味も関心もありますよ。
興味も関心も無いなどと言ったことはないです。
そのうえでの
>>371ですね。
>>380 ノンケなのにこんなところにいてごめんなさい。
>>381 へー。そんなことがあったんですか。
でもその事例だと、ふつうに「人権侵害」ですよね。
>>383 「26.T's はなぜ、うしろめたいのか」ってテキスト?
やっぱり、「現実はこうなっているから、
その現実とこうやって折り合いをつけましょう」
って言っているようにしか見えないですねえ。
なんで「現実を変えましょう」って話にはならないのか。
いや、もちろん、TGにとって「現実に適応すること」
が非常に重大で火急の問題であることは分かりますが。
クィアとかトランスジェンダリズムとかは、シカトですか。
kusamisusaさん、このスレはノンケの参加者も少なくないので
そんな、気をつかわなくていいんですよ。
>>385 ノンケなのにあんなマイノリティーよりの発言するんだ。びっくりだね。
世の中広いね。w
それとなんで謝られてんのかわかんないけど
とりあえずこちらこそごめんなさいと言っとく。w
>>387 読んだ。
相対主義批判には同意できる。
確かに多様性を称揚するサヨクは、暗黙に「普遍」を前提して
しまっている。
ゲイとトランスの異質性の指摘にも同意できる。というかこれは重要。
トランスって一般に革新的「サヨク的」な存在と見られがちだけれども、
ある意味では究極の保守反動でもありうる。
なにしろ、体もジェンダーも超えて、
「男(女)なるものの本質」を要求するのだから。
と、かなり鋭い批判を展開しながら、
神名さんという人は、「内面」を自明視しちゃうんですね。
そこを批判しないとダメでしょ、と思うんですが。
>>384 このひと、なんで、自分に「神名龍子」なんて「名」をつけ、
それを「名乗り」続けてるんでしょうね? どうやら講師を
するときにもそう名乗っているようだけれど。これ「筆名」ですよね?
リンク先の「父性」について書かれた文章を読むと、2つの異なる原理の「混合比」というのは
「多くの男女が価値あるものと認める」ものの考え方であるということになりそうなので、
その言葉をとりあえず横領すると、「男性性」「女性性」というものの「混合比」によって
セクシュアリティというものがつくられるのだとして、その「混合比」は
0と1のあいだに存在する実数と同じ数だけ、つまり、「無限個」ある。
既存のジェンダー規範というのは、その「無限個」あるセクシュアリティおよび
それぞれのあいだの還元不可能な差異を、「混合比」において「男性性」と
「女性性」のどちらが大きいかで、「男性」「女性」の「たった2つ」および
「その2つのあいだのたったひとつ」に還元するという「無理」を行っている。
観念的に想定された「混合比」はあるひとつの「身体」に「受肉」される。
規範は「受肉」の際に、ある「身体」が「受肉」すべき「混合比」を、「無限個」から
「たった2つ」、「無限個のあいだ」を「たったひとつ」に還元したまま、生物学的身体が
「オス」か「メス」かに応じて機械的にあてがいながら、その「身体」がとるべき社会的
「行為」を決定していく。「おいっ、ダメだダメだ、オチンチンついてるのにスカート
はいちゃヘンだろ」ってね。それがひいては、「家事労働」負担の偏りに
つながっていく。「おいっ、ダメだダメだ、オチンチンついてるのに
うちで家事労働なんかしちゃ、外でちゃんと働け」。「女装」が「承認」されないのと、
「家事労働」負担にジェンダーバイヤスがあるのは、こうしてつながっている。
ジェンダー・スタディーズとクィア・スタディーズが問題にしているのは、
この「無限個」のセクシュアリティが「2つ」、「無限個のあいだ」が「ひとつ」にされるところの
「無理」なんであって、それはたとえば、カリフィアの『セックス・チェンジズ』を
読めばわかるわけね。あれは要するに、「ノンケ」も「ゲイ」「ビアン」etc.も存在しない、
みんなトランスだ、って話なわけで、「混合比」を「無限個」の「移行状態」、
「トランジション」だと考えましょう、ってことでしょ。セクシュアリティの
数もそれぞれのセクシュアリティのあいだも「無限個」で、それは「移行」し、
「チェンジ」する。なので、バトラーの翻訳者である竹村和子が「盲点だった」と
言いながら「解題」を書く、という次第になる。
「オス」として生まれ「男性」として「名」を与えられることに「モニョリ」を
覚えたある「身体」に発生した「強度」、「男性性」と「女性性」の「無限個」あるうちの
「他ならぬひとつ」の「混合比」の、「移行状態」の「新たな名」が「神名龍子」なんであって、
それは「他の誰の名」でもない「名」、「取り替えのきかない」ある「身体」が
「受肉した強度」の「名」であるはずなんだけど、はくタンの言葉でいえば「疑う」、
僕の言葉でいえば「自らの身体に問いたずねる」ってことがないから、なんで自分が
「改名」したのか、自分に「新たな名」をつけ、それを「名乗り」続けているのかを、
このひとは考えてないし、わかってないということが、文章を読むとよくわかる。
そしてその結果、的外れな「フェミ」批判、「クィア」批判を展開している。
バトラーやカリフィアを読み、デリダを読めばすむ話ですね。
ざっとしか読んでないけど、ところどころにあるデリダへの批判的言及を読むと、
このひとデリダの著作を読まずに言っているんだろうな、と思う。
アルジェリア生まれのユダヤ人「ジャッキー・エリー・デリダ」が、
パリ在住のフランス人「ジャック・デリダ」になる。この「名」の
問題をデリダは生涯考え続けていた。「神名龍子」という「名付け」は
デリダが「名」について語っていることを、「性的差異」においてやっているのに等しい。
「神名龍子」という「名」の存在自体が、デリダの述べたことを「例証」
してしまっている。デリダなら、「存在論的差異」に還元されなかった
「残余」としての「性的差異」、「ヘーゲル」の「残余」としての
「ジュネ」というかもしれない。
ちなみに上の「名」の話において、デリダなら「受肉」「強度」という
言葉を使わないだろうと思うけれど、それはまた別の話。フッサールの
現象学の枠組をとれば、「混合比」「強度」が個別の「身体」に「受肉」する
ということなしに、「混合比」を有意味な言葉として用いるのは無理でしょう。
自分の立場を説明するのって難しいな。
私は「本来多様である性が、二つの性に押し込められている」とは
考えていません。
「根源的なのは二項対立であり、そこから多様性が派生した」
と考えています。
なぜなら、象徴化の失敗の仕方には厳密に二種類しか無いからです。
例外ありの普遍性か、例外なしの非普遍性か。
もちろん、この例外は、「父」と呼ばれます。
はい、なまかじりラカン理論でしたー。
私自身の「欲望・興味・関心」に基づいて、あんまり関係のないところに絡んでみた。
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign86.html >しかし、同じ魚屋同士なら、それも同じ地方で店を開いていて扱う商品が似通っていたら、
>魚の分節の仕方はかなり共通したものになるはずだ。
http://www.mammo.tv/interview/123_IkedaK/ >例えば、ニューギニアにはたくさんの鳥が棲息していて、現地の狩猟採集民は当然名前をつけている。
>これがイギリスの自然史博物館の人間が西洋流の生物分類学で名前をつけたのとほとんど一致する。
>鳥を認識して分類する認知パターンには、人類としての共通性があるのかもしれない。
池田センセも近著で「ポストモダンの悪いところは全て社会的に構築されたことにしてしまうところだ」
なんて言っておりますが、そういう文脈だけで「ジェンダーがセックスを規定する」と言ってる人が
どこかにいるのならば、ちと問題でしょうね。神名氏の危惧されるところもなんとなく理解できます。
>世界分節の根拠は、「言語」ではなく人間自身の「欲望・興味・関心」にある。簡単に言えば「必要」ということだ。
でも、これはどうだろう。
神名氏のおっしゃる通りで、その分野に興味がない人は「鳥」とか「魚」とか「虫」とかで十派一からげにしてしまいがち
なのですが(ちなみに私は虫オタク)、実は興味がある人同士ならば認知パターンが一致するはずだ! という見込みにも
根拠はなんてなかったりします。
少なくとも「言語」には生物としての根拠が人間にあるはずなんですよ。
だって、ハムスターは言葉を使えませんから。
えー? 神名氏って有名人なの?????>391
って関係ないんだけどーw
>>390 「男(女)なるものの本質」てのをどう考えてるのかな?って
思うんだよね@神名si
>>395 そこは、私としては、
「欲望・興味・関心」こそが「言語」によって分節されているのである
って切り替えしたいところ。
これが効果的な切り替えしなのかどうかは、謎。
>>396 神名氏に言わせれば、
『「本質」とか「真理」なんて脇においといて、
話し合って妥協点を探しましょう』ってことになるんじゃないですか?
え、難しくてわかんネす。。
とりあえずお休みン……☆
>>390 今の話題とは関係があるようなないような本を1冊。
荒川修作+マドリン・ギンズ 『建築する身体』 河本英夫訳 春秋社
河本さんの訳は労訳だと思うんだけど、のっけからたとえば、
原書の Not this time round .を「機はいまだ熟していない」と
訳してるとこが不満。これはやっぱり「回帰していない」と
してくれないと。ニーチェの「永劫回帰」を思わせるわけだし。
あとは原書の裏表紙では、この書物のバックグラウンドになっている人物が
挙げられているんだけど、これも邦訳にはない。これはかなりの大問題。
というのは、「独身者の機械」の話が抜け落ちるから。
挙がっている名前を列挙すると、道元、ライプニッツ、ポープ、メアリー・シェリー、
ランボー、デュシャン。
この書物をめぐっては、今年の雑誌「情況」の1・2月合併号と3・4月合併号で
荒川修作、宇野邦一、河本英夫というメンバーでの座談会が2回に分けて掲載されてます。
荒川さん相変わらず飛ばしてますw
>>396 サイトのプロフィールによると筑波大学の講師なんかもしてるみたいですね。
あと、竹田青嗣の現象学研究会のメンバーでもあるようです。僕は
今回のリンクで初めて知ったんですが。
帰化した経験のある竹田を初めとして、「名」を「捨てた」、「名」を
「変えた」ひとたちが、異口同音に「フッサール」という「名」を口にする。
デリダが1953年に最初に出版した書物は、Le probleme de la genese
dans la philosophie de Husserl 『フッサールの哲学における発生の問題』です。
そしてこの文章でとりあげた論点をデリダは、今年出た L'animal que donc je suis や
今年邦訳の出た『触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』に至るまで
何度もさまざまな著作でとりあげ直すわけで、これは鬼気迫るものがある。
masculinity と femininity 、masculine と feminine 、
male と female 、man と woman そして men と women 、
「男性性」と「女性性」、「男性」と「女性」、
「オス」と「メス」、「男」と「女」、そして「男たち」と「女たち」、
これらをちゃんと「分節」して思考する「必要」があるわけです。
ジェンダーとセクシュアリティの関係について考えるときには。
>>395 おひさしぶりです。池田さんと河本さんの対談をこのあいだ読み返したんですが、
池田さん、「創発」について最近何か構造主義生物学の観点から書いたりはしてないんでしょうか。
何かあるようなら、ご教示願えるとうれしいです。
>>392 >そしてその結果、的外れな「フェミ」批判、「クィア」批判を展開している。
具体的に。
>>401 「フェミ」については「父性」についての文章、「クィア」については
「クィア」について書いた文章でいいんじゃないでしょうか。
あとは自分でお考えください。上記の文章に関しては、
ヒントは、僕が「混合比」という言葉を何にどう使ったか、というところに
あります。
>>402 「具体的に。」と書きましたが。
>>403 クイズをするつもりはないのでヒントは不要です。
正解を。
>>404 リンク先にある具体的な文章を指示しましたが。
あと、あなたがご自分で「問い」を立てどう
「的外れ」なのかを思考し、判断するための
「ヒント」です。「正解」も「誤解」も
あなた次第です。
あとはお好きにどうぞ。
>>376 42タン
>>347ではくタンの言う通り「あわてて用意された言葉」に同意なの。
侵害されなければ成立しない概念。
侵害されたことを訴えるために造られたものの、それが定着してきたら今度は、
他者の権利を侵害することによって成り立ってきた優位性を信じる言葉として
利用─濫用されるようになったのだと判断してるわ。
>>405 42タン
ねえ。
>>400って、ヒント、なの?
ヒントどころかズバリ「的外れ」を指摘してるような…。
>>406 そういう問題はあるんですが、あまりそれを性急にいいつのると、
もう「人権」は十分だ、というおめでたい話になるんじゃないかという
危惧があるわけですね。
国際人権規約なんてものがありまして、それにもとづいて日本政府は2つばかり
勧告を受けている。ひとつは、高等教育の漸次的無償化です。要するに
大学の授業料をタダにして教育機会の平等を実現しろ、と。
もうひとつは、公務員のストライキ権の承認ですね。これ認めてない国連
加盟国はあとはマダガスカルとどこだっけ?、ってな感じです。
ことほどさように、まだ認められてない「人権」はあるんで、とりあえず
それを保障しながら、おっしゃるような問題に対応していく、ということが
必要かな、と思うわけです。
>>400については、まあ、「抽象的」に指摘し、
それに先立つ
>>391-392では「具体的」に指摘している。
ご指摘の通りです。
その>391-392に関わると思うんだけど、性同一性障害の7歳児のニュースね、
男でなければ女、女でなければ男って決めるのは誰なんだろうね、みたいな話を、
ちょっと83さんとしゃべってたんだけどさ。
いや、性同一性障害に苦しんでる人がどうこうじゃなくてね、
何が何でもどちらかの性別を選んで生きなきゃいけない事になってるってのは
どうなんですかね??
このスレにも、X性ってのが最もしっくりするなんて人もいるし
(ひょっとして
>>395さんかな??)俺も軽くそういう立場だったりする。
で、前から思ってたんだけども、トランスの人たちは、
世間に流通している「女性性(女らしさ)」「男性性(男らしさ)」を
獲得したいわけなんだろうか??
もしそうだとすると、
「性差を否定するジェンダーフリー」に反撥するのは分かる気がするのね。
神名氏の的外れってのはそこにあるのかな??って思うんだよね。
「ジェンダーフリー」が「性差否定」なのか、さらに、
その否定というのが「ジェンダーレス(なくす)」なのか、
そこらへんがはっきりしないから、誤解を産みやすくなってるのかなと思うんだけど。
俺は、前も書いたけれど、
いま男女2つにグループ分けされている種々の「らしさ」をごちゃ混ぜにする、
くらいにしか考えていないので、
どうもね、「バックラッシュな人たち」の反発が
いささか過剰に見えてしょうがないんだよね。何をそんなにビビッているのか?と。
409 :
禁断の名無しさん:2006/05/28(日) 21:18:42 ID:QQ4gd1qn
性欲についての解釈が有耶無耶なのだわ
410 :
禁断の名無しさん:2006/05/29(月) 01:10:39 ID:cswSC9a5
>>407 もう「人権」は十分だ,実は僕もそう思ってたりします。
ここでの括弧の意味は,教育を受ける権利とかストライキ権とか,
個別具体的な権利の上位の概念としての「人権」ってことね。
誰がいつどこで何をすることを,禁止できるか否か,もしくはそれができることを国家が保障すべきか否か,
といった具合に,具体的な人権の話を個別に話せばいいんじゃないかな。
もちろん上位概念としての「人権」という考え方が必要だった時代もあるという事実は否定しないし,
そういう時代があったことを覚えていることの重要性は変わらないけど。
>>410 「そういう時代」をひとは覚えているんでしょうか。
その前に、「そういう時代があったことを覚えている」というのは
どういうことなんでしょうか。僕にはまだそれがよくわかりません。
僕が
>>410さんのいう「人権」を考える時に、思い浮かべるのは
3つないし4つのイメージです。
ひとつはカフカの『審判』のラスト。Kが「犬のようだ」と言いながら
刑を執行され殺されていく光景。
もうひとつは、ありふれた日常を送っていたら「犬のように」拘束され
輸送され収容されて殺されたひとびとの姿。
最後は、ドイツ30年戦争の時に、農家で飼われていた犬が、
飼い主が傭兵たちに蹂躙され殺されるのを見て、吠え、飛びかかり、
襲いかかったものの返り討ちに遭い、撲殺される光景。声もなく。
そして同じ犬が野良仕事をする飼い主の周りを走り回り、時々じゃれつく光景。
比喩化される「犬」。3つないし4つのイメージは今の僕たちから「遠い」ところに
あるんでしょうか。デリダが L'animal que donc je suis 、Geschlecht を
初めとして、およそ50年に渡って「動物」「動物性」を思考し続けたこと。
そして、ドゥルーズが『差異と反復』でいう「人間」に固有の「動物性」としての
betise 「愚かさ」「愚鈍さ」。
アフォーダンスが見出した「マイクロスリップ」やベケットの小説、戯曲、TV作品。
ドゥルーズのいう「消尽したもの」。ギンズ+荒川の養老天命反転住宅と「建築する身体」etc.
誰か「あの犬」を覚えているんでしょうか。それともそれはもう
「忘却」してもいい、もしそれができるなら、「他者」なんでしょうか。
それとも、いつの日か、もしそれができるなら、「発明」しなきゃならない「他者」なのか。
l'invention de l'autre 。「他者」の「発明」、「他者」を「発明」すること、
「他者」によって「発明」されること。
「原剥奪」という「出来事」のなかで、「剥奪」の「原光景」で吠え続ける
「あの犬」。2つの「あの吠え声」。
「他者が自らの他者を享受し、歓待し、愛し生き延びる権利」。
「剥奪」の「残余」としての「生き延び」、「剥奪不可能なもの」ではなく、
「反復」される「剥奪」の経験において生まれる「差異」としての
「剥奪可能でないもの」としての「生き延び」。 Precarious Life 、
危うさを生きる。パフォーマティヴとしての「人権」。
国家の夢はひとつになることだが、個人の夢は2人でいることだ。
定言命令。
― Viens.
― Encore une fois.
― Viens.
― おいで。
― もう一度言って。
― おいで。
412 :
禁断の名無しさん:2006/05/29(月) 05:25:12 ID:dQ11kYRl
こないで
もう言わないで
こないで
人権とか言われると抽象的すぎてわかんないな
だけど直感的に胡散臭さを感じるのは
人権を口にしてきた人たちの多くにいやらしさを感じるからかな。
理論的に素晴らしいのと実際どんな風に社会の中で使われてるのかは
ちょっと別なのよね。マルクス主義もそこらへんで失敗したんじゃないかしら。
あまり詳しくないけど。理念が素晴らしいってだけじゃ惹かれないわね。
>>411 42タン
人権を疎外しているものは、いつだって「人権」でしょう?
自然災害に偶然にあって死んだことに対して、゙人権が保障されていない゙とは言われない。
(災害に対する救護体制の整備ではなく、災害にあうこと自体に関してね)
人権が保障されるべきと言われているのは、人による他者の人権侵害に関して。
「人権」が既に、他者の人権侵害を含んでいるということ。
破綻した自称"共産主義"がやってしまったのが「人権」の保障なわけでしょ?
「人権」の撤廃なしに、人権の保障は有り得ないわ。
「人権」にしがみつく「人間」たちの、人権を過剰に享受しているでしょ。
人権の過剰搾取の罪によって、彼らの人権なんか奪われてしまえばいいのよ。
>飼い主が傭兵たちに蹂躙され殺されるのを見て、吠え、飛びかかり、
>襲いかかったものの返り討ちに遭い、撲殺される光景。声もなく。
なんてことを。・゚・(ノÅ`)・゚・。
傭兵たち、仕方ないとくだらない言い訳して傭兵になる者たち、
くだらない言い訳を人間らしさと言い換え肯定する傲慢な者たち、
彼らの存在を前に、生き延びなんて悠長なことを言ってられる?
>>412 こいつ、ふざけて面白いことを書いたつもりなんでしょう。
あたしの判断では、この外道のこの発言は、
これまで1から続くこのスレ全てのレスの中でかつてない、最悪の差別発言ですね。
この外道が徹底的に苦しみぬいて死ぬことを願ってやみません。
どうか早急に願いが叶いますように。
>>413 「理論」というのは「大工用具箱」です。使って何をつくるか。
いつどこで誰と何をどのように。たとえば、
>>413の「人権」への
「感想」も、「人権」という理念の制作に参加している。
問題は、そのようにして制作された理念としての「人権」が、
あなたとあなたの「他者」との「生き延び」にどうつながるか、です。
たとえば、あなたはここに自分の「感想」を書き込むことができる。
これも「人権」が可能にした「生き延び」のひとつでしょう。
僕は、「人権」をパフォーマティヴ、「反復」される「行為」だと考えます。
それは、「剥奪の暴力」がふるわれるところでそれと同時に
「反復」され「差異」を生じさせ、さらに「反復」を引き起こしながら、
「剥奪」の「残余」として生まれ、そしてそれによりある「剥奪の暴力」への
「抵抗」「対抗」による「生き延び」の可能性を実現してきたパフォーマティヴだと、思う。
その恩恵を僕も
>>413さんも受けて、「他者が自らの他者を享受し、歓待し、愛し
生き延びる権利」を不十分ながらも保障されて、生きている。そう思う。
もし、そうなのだとすれば、不十分ながらも僕や
>>413さんがここでこうやって
言葉をやりとりできる程度には「人権」を保障されて生きているのだとすれば、
それは、ともすれば「剥奪の暴力」としてしか機能しない「主権国家」の「暴力」を
「人権」の保障の力につくりかえるパフォーマティヴを、僕らが誰かから
泳ぎを教わるように、自転車の乗り方を教わるようにして教わり、
繰り返しているからで、そこには、僕らよりも前に存在した誰かが
「剥奪の暴力」を受けて耐え、そこでかろうじて「生き延び」た経験があり、
それが「人権」には刻まれている。「人権」にはいつだって誰かの「傷跡」がある。
僕らがある「人権」の保障に関して、「深手」を負わずにすんでいるとしたら、
それは誰かがいつかどこかで負った「深手」のおかげなんだと思う。
その「人権」を誰からどうやって「継承」したのか。
誰にどうやって「継承」するか。それを自分で考え、行う。
それだけでいいんじゃないでしょうか。
>>414 「人権」を「たった一度」の何かで「保障」しようとしたことが
自称"共産主義"の間違いなんですよ。それが「反復」される
「行為」の生み出す「差異」、あるいは、「行為」の「差延」の
問題だとは思わなかったことが。「失敗」するかもしれない
パフォーマティヴだとは思わなかったことが。
「人権」の「撤廃」ということで、何がなされるのか、それが
いぬまわりさんや僕に何をもたらすのか、僕にはよくわかりません。
僕にわかるのは、その『「人権」の「撤廃」』もまたパフォーマティヴであり、
「反復」され続けなければならないだろうということだけです。
>>412は放っておけばいいです。「望みの時に」誰も来ないだけですから。
>>414 「生き延び」は「悠長」でしょうか。たとえば、
>>412にいぬまわりさんは
怒りを覚える。それは、ある「人権侵害」が「切迫的なもの」として
そこにある、からで、僕はそれを「生き延び」、
>>416、
>>417を書いた、
tele-technology 遠隔テクノロジーが可能にしたあるメディアのおかげで。
僕が考える「人権」は、それを含みます。
419 :
395:2006/05/29(月) 18:20:20 ID:Wb+U2AOU
>>408 あ、それは私ではないです。
私も何で bi(=double)セクシュアルしかないのー? と思うバイですが。
>>400 『生命の形式』以後、池田さんはまとまった理論書を出ていないので、
「創発」という言葉自体、近著にはほとんど(全くかな?)
出てきていないんですよ。最新刊は子育てについての本らしいです。
それから、レスが遅れたのは、日曜日に友達と秋葉原で遊んでいたからです。スミマセン。
なんか、女装コスプレ(「野菜サラダ」みたいな用法だ)やHGコスプレしてる人たちが
普通に歩いていたんですが。
420 :
395:2006/05/29(月) 18:21:18 ID:Wb+U2AOU
>>420(395さん)
ありがとうございます^^
レスの遅れはお気になさらず^^ 非同期的なメディアでは
それは生じて当然のことですから。
しかし、『生命の形式』以来ということだとそろそろ4年くらいですね。
郡司ペギオ‐幸夫の本は同じシリーズで分冊で出ていたのが合本になりましたが、
あの叢書もあとが続きませんね。395さんはアフォーダンスや認知科学には
興味おありなんでしょうか? あの領域は別々にやってることがいろいろ
つながってきておもしろいですね。「内部観察」とか。
「飢餓」「外部からの暴力的な布置変更」をデリダならたぶん、
Un coup de don 贈与の一撃、と言うでしょう。オートポイエーシスは
「性的差異の構築」を扱いうるのか、それがまだ僕にはよくわからない。
「カップリング」「浸透」「隠蔽」「相即」etc.まだまだ概念的に
検討すべきことはあるんじゃないかと思います。「円環」を滑らかに
循環するというときに、僕はむしろその「円環」の循環を「切断」し、
「延滞」させるものの方に興味がある。
423 :
395:2006/05/29(月) 19:32:30 ID:Wb+U2AOU
>>422 郡司さんの本は難しいですね。
私は「生成する生命」をチビチビ読んでいた最中に「私の意識とは何か」が
版切れになって、結局合本を買いなおして、まだ全然読めてないという有様です。
単細胞生物ににも「円環」、ライフサイクルのようなものはあるには
あるんですが、ああいう生き物たちは基本的に死なないんですよね。
世界中の研究所で培養されている「ヒーラー細胞」は、
もともとヘンリエッタ・ラクスさんという黒人女性の子宮ガンだったもの
なんですが、これは培養容器の中でなら際限なく分裂できます
(正常な体細胞では、分裂回数に限界がある)。
でも、果たしてこれを「人間」を呼んでいいものか。どうなんだろう。
>>423 ガンって「悪性新生物」なんて呼ばれ方もしますよね。
「超人」かもしれません。
お話をうかがっていると、やっぱり「死」と「進化」って
関係がある、ってことですね。フロイトが「タナトス」
「死の衝動」というのを、「反復」する「行為」のうちに
みるのだけれど、それもたぶん「進化」とつながっているんでしょうね。
郡司さんの本はあの東大出版会から出た「原生計算」があるわけですが、
あれってあんまり書評見ないとこみると、みんなよくわかんないんでしょうねw
ガタリの本と似た感じがします。わかんないんだけど刺激的。こちらの
思考を触発する。荒川修作さんの言葉も同じですね。河本さんには
それがないんですよね。ふむふむ、そうか、で終わっちゃう。
河本さんは「人間」だけど、他の3人はそうじゃない気がしますね。
>>408 たとえばね、「『クィア』の難問(アポリア)」ってリンク先の文章で
「署名者」はこんなことを書いている。
>私の場合には、T's がどんなに特殊に見えようと、掘り下げて行けば必ず、
>いわゆる「ノーマル」な人との間に共通する普遍性があるはずだと考えています。
いわゆる「ノーマル」な人と「クィア」を分けて、「ノーマル」とT's とのあいだには
「共通する普遍性」があるはずだ、と考えている。しかし、どういうわけか、
「クィア」と T's とのあいだには「共通する普遍性」はない、とあらかじめ
わかるらしく、「掘り下げて行く」必要はない、ということらしい。
僕は「抽象的」に考えるのは苦手なので、たとえば、「ノーマル」と「ゲイ」とに
「共通しているもの」を「具体的」にとりあげてみると、「SM」というのが思い浮かぶ。
あるいは「野外露出」とか。カリフィアなら「パブリック・セックス」というかも
しれない。で、T's についてはよく知らないけど、「SM」ってまったくない、と
いうことはないんじゃないかと思う。
で、この「SM」って「共通する普遍性」ではない、と言えるとしたら、
それは何によるのか? 「共通しているもの」は必ずしも「普遍性」ではない、と
いうことなら、「ノーマル」と T's のあいだに何らかの「共通しているもの」が
存在したとしても、それが「普遍性」であるかどうかは、また別の問題となる。
しかし、僕はそれには関心がない。
「普遍性」が「特殊」において「分有」されているとしたら、それは「特殊」が
「普遍性」を「内含」implicate しているからで、「特殊」はその「普遍性」を
「展開」explicate し続ける。畳み込まれた pli 「襞」を押しひろげるように。
僕は「SM」が「ノーマル」と「ゲイ」と T's に「共通する普遍性」である、と
いうことの「真偽」には関心がない。それを「共通する普遍性」であると
したときに、何が起こるか、何が可能か、僕はそれを考える。
「『SM』が『ノーマル』と『ゲイ』と『T's』に『共通する普遍性』である」という
フィクションを構築したときに、何が起こるか、何が可能か。
同じことは「アナルセックス」にも言える。クィア・スタディーズが
言っているのは、「変態」を「共通する普遍性」とすればいいじゃないか、と
いうことで、たぶん、「署名者」の考え方だと、「SMする T's 」は
T's ではない、と「排除」せざるを得なくなり、あるいは、「SMするノーマル」は
「ノーマル」ではない、と「排除」せざるを得なくなるのに対して、
T's であり『セックス・チェンジズ』の著者であると同時に『パブリック・
セックス』の著者でもあるカリフィア、「SMする T's 」であるカリフィアは、
「ノーマル」と「クィア」に「共通する普遍性」を「トランス」である、として、
「クィアはノーマルだ」というかたちで、「ノーマル」と「クィア」の
ニ項対立をあっさりと解消してしまう。
このカリフィアの「トランス」概念は、「署名者」が「性的マイノリティと
メディア」で言う
>差別される側が、自分の内面にかかえる劣等感に気付き、克服してゆく努力
をカリフィアが行った結果である、と僕は考える。そして、この「努力」は
すべての「被差別者」に「普遍的に」妥当するものと考えなければならない。
それをとりあえず認めてみる。しかし、「署名者」は「『クィア』の難問」でこう述べる。
>ところが、T's の場合には、そこは事情が異なっていて、特に TS の場合には、
>基本的には既存の「男」とか「女」の枠組みの中で生きたいと願っているわけです。
>ただ、例えば MTF の場合であれば、その既存の枠組みの中で「男」から「女」へと
>乗り換えたいだけで、新たなカテゴリーを作る動機も持っていなければ、
>まして「クィア」として見られたいなどと考えてもいません。少なくとも、
>『Queer JAPAN』を見る限りでは、クィア理論においてその点はまったく
>考慮されていないようです。しかし、そもそも「おかま」「変態」「奇妙な」と
>見られたくない TS に対して、「あなたもクィアです」と宣告する事ほど残酷な
>仕打ちはあるまいと思うのは、私だけでしょうか。
どういうわけか、「変態」という言葉で差別された T's とりわけ TS に
関してのみ、「署名者」の権限で「努力」は「免除」されるらしい。
その結果、他の性的マイノリティに「共通する普遍性」である「努力」から、
T's とりわけ TS は「排除」される「特殊」となる。それだけでなく、
「差別」を解消しようとしている「ノーマル」の「努力」からも
T's とりわけ TS は「排除」され「特殊」となる。「ノーマル」にも
「性的マイノリティ」に対する「差別」を解消しようと「努力」する者はいる。
そのひとたちの「努力」は、「劣等感」をつくりだす既存の社会の
「価値基準」の再検討を通じて、「性的マイノリティ」の「努力」、
僕ならそれを「パフォーマティヴ」という、ともつながっている。
「署名者」の文章が露呈させた事実は、「T's とりわけ TS は『変態』という
言葉での『差別』に反応する『劣等感』をもっている」ということで、
これはその「劣等感」を刺激することを「快楽」とする「暴力」を誘発する。
なんで「被差別者」が「劣等感」を克服しなければならないのか、
それはその「劣等感」が「差別者」の「差別の暴力」を誘発するから、
だと思うのだけれど、T's とりわけ TS は「努力」しないことを「許可」
されているので、その「差別の暴力」を誘発させ続けることになる。
「情が仇になる」といえばいいかもしれない。
カリフィアがやったように T's が「クィア」とのあいだにも、
「ノーマル」とのあいだでそうしようとしているのと同じように
「共通する普遍性」を見出そうとすることは、「劣等感」を克服する
「努力」なんじゃないだろうか。T's と「ノーマル」と
「クィア」に「共通する普遍性」ってあるんじゃないだろうか。
たとえば、それが「SM」である、ということになったとして、
別にすべての「ノーマル」、「クィア」、T's が「SM」しなきゃならなく
なるわけではない。ただ、それを「承認」し、「変態」として「排除」
しなければいいだけのこと。 T's を「承認」する者が、「女装」したり、
性別再判定手術を受けたりetc. しなくてもいいように。
「共通する普遍性」が何かを「排除」してしまうなら、それは「普遍性」として
まだ不十分である、と考える必要がある。既存の規範としての「ジェンダー」が
「共通する普遍性」として不十分で「排除」を伴うものであるから、「性的
マイノリティ差別」が「問題」となるんじゃなかったんだろうか。
「オチンチンついてるんだから、スカートなんかはいちゃダメだ」という
「禁止」が「共通する普遍性」を構築するパフォーマティヴ足り得なかったから、
今、「普遍性」の再構築が行われてるんじゃないんだろうか。
「オチンチンとるから、スカートはいていい?」で、「普遍性」は
「性的マイノリティ」を「排除」しない十分なものになるんだろうか?
その時、T's である「署名者」は「性的マイノリティ」を「代表」して
「差別の解消」を語ることが可能なんだろうか。
428 :
395:2006/05/29(月) 20:44:29 ID:Wb+U2AOU
池田さんだと、人の性行動は全人類共通の構造があって、
各々のセクシュアリティはその布置である、という言い方をしますね。
昆虫なんかは種の内部で布置がかっちり安定して拘束されているから
行動はほぼ一律になるし、布置が変転すれば種そのものも変わってしまう、
みたいな。
>>408 あとね、「『父性』について」って文章は、どうやら「ジェンダーフリー批判」を
目的として書かれているようなんだけど、これがどうして「ジェンダーフリー批判」
たりえるのかが、何度読んでもわかんないわけね。
「父親が『時と場合、必要に応じて「混合比」を変えて「母性」で』家事労働を行う」こと、
「母親が『時と場合、必要に応じて「混合比」を変えて「父性」で』社会進出する」こと、
あの文章だと何の問題もない、と思うわけね。で、あの文章では語られなければ
ならないはずなのに、語られていないことが2つほどあって、それは
1)2つの異なる「混合比」の変化を確認するのに必要な「ロゴス」「エロス」の
量の測定はどんな単位で、どんな測定方法で行うのか
2)「混合比」の変化は何によって可能となるのか
なんだけど、これに対するジェンダー・スタディーズの答えはすでにあって、
1)測定する必要がない、2)規範としての「ジェンダー」の解体によって
「混合比」は可変的なものとなる、以上、ってことだと思うわけ。
だから、僕はあのサイトで最初に読んだ文章があれだったんで、
途中までふむふむ、と思いながら読んでて、え?、となったわけで。
このひと「無意識のジェンダーフリー推進者」で「協力者」だとしか
思えない。田嶋陽子なんかよりずっと「協力者」だと思う。
いったいあの文章では何が問題になっているんだろう?
「価値基準の相対化」「価値感覚の喪失」っていっても、
「比」なんて「相対的なもの」を持ちこんで「無限個」の
「混合比」つくりだしてちゃ、誰が「相対化」「喪失」させてるのか、
って話にしかなんないし。僕が
>>391-392の「性的差異」でやって
みせたようにね。
なので、あの文章に関しては「署名者」が、どういうわけか
「ジェンダーフリー批判」をしたい、と切望している、ということしか
僕にはわからず、あとは「精神分析」的に読むしかないんだけど、
それをする気は起こらない。なので、これ以降はどうでもいい、って
感じなんだよね。他のひとにおまかせします、って感じ。
>>428 それ自体は全然問題じゃないんですけどね、ひとつの「布置」である
はずのものが、あたかもその「全人類共通の構造」であるかのように
扱われていることが、社会科学においては問題となるんですね。
で、池田さんの説は、その「問題」はスルーしちゃう(まあ、社会科学
じゃないから当然ですが)んで、「全人類共通の構造」がある、って
とこだけとりあげて、ほら見ろ、って話で、既存の規範としての
「ジェンダー」が猛威をふるう、ってことになっちゃうんです。
そこを、バトラーは「ジェンダーがセックスを構築する」って言うんですね。
生物学的な言説が身体に意味を付与し、ひとつの「布置」にすぎないものを
「全人類共通の構造」にしてしまう、そこが問題なんです。
431 :
kusamisusa:2006/05/29(月) 21:22:03 ID:B5562ckH
>>426 >クィア・スタディーズが言っているのは、
>「変態」を「共通する普遍性」とすればいいじゃないか、ということで、
これでは何を言ったことにもならない。「皆それぞれ違いがありますよね」
ってだけじゃないですか。まさに悪しきポストモダンの相対主義!
これこそ神名氏が批判しているものなのでは?
>どういうわけか、「変態」という言葉で差別された
>T's とりわけ TS に関してのみ、
>「署名者」の権限で「努力」は「免除」されるらしい。
神名氏の論点は、「TS本人がクィアとしてではなく〈本来の性別〉で
既存のジェンダー秩序の中で〈普通の人〉として暮らしたいと
望んでいるのなら、その望みはかなえられるべきだ」というもの。
要するに「人の生き方は人の勝手なんだから、特定の生き方
(たとえば「クィアたること」)を強いることは悪である」ということ。
これを単に否定することはできないでしょう。
おそらく真の問題は、「個人」や「自由」といった概念の定義が
揺さぶられるような次元にある。
たとえば、「性別の自己決定権」とか言って無邪気に「自由」を
称揚するのは、考えが浅すぎる。
『セックス・チェンジズ』の翻訳者である石倉由さんによる
トランスをめぐる思索はすばらしいですよ。
カリフィアよりすごい。
eternal transitionというブログで、かなりの量のテキストを読めます。
>>431 それは「署名者」にはねかえる言葉ですね。
僕が言っているのは何かを命じない「共通する普遍性」が
あるのか、ということです。「ノーマル」と T's とに
「共通する普遍性」は何も命じない、んでしょうか。
それから、「違い」を「承認」するには、まず「違い」があることを
知る必要はあるでしょ? その「みんなそれぞれ違いがあるよね」ってことを
理解する、とはどういうことか、それが難しい、とセジウィックは
『クローゼットの認識論』の最初で言う。そんなことはわかってるはずなのに、
なぜ「性的マイノリティ差別」があるのか。それって「わかってる」の?、と
クィア・スタディーズは問いかける。
433 :
395:2006/05/29(月) 21:34:43 ID:Wb+U2AOU
>>430 うーん。
たとえば、「クィアになる遺伝子」なんてのを流行の遺伝子還元論で
想定してしまうと、全てのセクシュアリティが全ての人類に内在している
という認識には至らないんですよ。
「自分はヘテロ(ゲイ)であるから、自分の中にゲイ(ヘテロ)の因子は
存在していないのだ」というところで納得されかねません。
遺伝子レベルで見れば、人類一人一人はごくわずかに違っているのは
事実なのだから、それが根拠となり、クィアもまた全人類に共通して
内在するのだという了解を得られない。そこが問題だと思うんですね。
>>429 俺も精神分析はやだw
俺なんかが考える「努力」と、神名氏がいう「努力」って
全く逆だと思うんだよね。
>T's を「承認」する者が、「女装」したり、
>性別再判定手術を受けたりetc. しなくてもいいように。
ウン。しなくてもいいって方が、楽じゃないかと思うんだ。
でも神名氏は、そういう「努力」を推奨して、
>既存の規範としての「ジェンダー」が
>「共通する普遍性」として不十分で「排除」を伴うものであるから、
>「性的マイノリティ差別」が「問題」となるんじゃなかったんだろうか。
「誰か(ここではT'sを)排除する為に働くジェンダー規範」を考えるという「努力」はするなと
言ってるようにしか読めない。
俺の考えとは間逆だ。
まあ、間逆でも、それが差別解消だと信じてるなら別にいいけど、
>>427の冒頭にあるように、無駄な「暴力」(パッシングとバッシングとか?)を
誘発するとしたら……ちょっと怖いと思った。
>>431 >神名氏の論点は、「TS本人がクィアとしてではなく〈本来の性別〉で
>既存のジェンダー秩序の中で〈普通の人〉として暮らしたいと
>望んでいるのなら、その望みはかなえられるべきだ」というもの。
>要するに「人の生き方は人の勝手なんだから、特定の生き方
>(たとえば「クィアたること」)を強いることは悪である」ということ。
>これを単に否定することはできないでしょう。
僕、これ、否定してますか? 「人の生き方は人の勝手なんだから、
特定の生き方を強いることは悪である」というのは、「差別」の
問題にすべて妥当する普遍的なものだと思うけれど、
その「差別」の解消のプロセスで、「被差別者」の「劣等感」を
どうするか、ということについて、あなたが前に引用した、
>そのために、被差別者と差別者との共犯構造に気がつかない。
>差別される側が、自分の内面にかかえる劣等感に気付き、
>克服してゆく努力も必要。
がどうして、「変態」という言葉に対する T's とりわけ TS からは
「免除」されるのか、ということを疑問に思ってるだけですよ。
「署名者」にとってはこれ「普遍」でしょう?
>>433 僕は「クィアになる遺伝子」は見つかって欲しくないですw
「全人類共通の構造」はひとつの「布置」ではないのだから、
「クィア」もひとつの「布置」である以上、「全人類共通の構造」
たりえません。「布置」って「階層」はあるでしょ?
>>434 なんで「弱者」に「エンパワーメント」が必要か、ってことですよね。
「弱さ」(姐さんに言わせると「強さ」でもあるんですが)が
「加害者」「差別者」の「暴力」へのアディクションを生む。
サディズムを誘発する、ってとこはあるでしょ。
というものの、それは「被害者」「被差別者」の「責任」ではない
ということに注意しないと、これだけ言うと、「イジメられる方にも
問題がある」っておめでたい話になる。「差別」の解消の「責任」が
「被差別者」だけに要求されるという事態になってしまう。
これではどうしようもない。
437 :
395:2006/05/29(月) 21:52:23 ID:Wb+U2AOU
>>435 ああ、なるほど。
布置変換の可能性をスルーされてしまうわけですね。
>>434 >>436は「共犯構造」に関する話ですね。これ、DVでも同じだと思う。
DVの場合はだからとりあえずのアドバイスは「逃げなさい」になるんでしょ。
2つの「身体」を物理的に切り離す。
439 :
禁断の名無しさん:2006/05/29(月) 21:59:19 ID:cW3uCS40
生殖にありつけない個体の割合ってのは
様々な生物比べたとき有意差があるのかしらね・・・
なんか同じような気がするわ。
……切り離し、、
>>437 ええ、そういうことです。
>>439 それもヘタに言うと、「非モテ」はいて当然、って話になっちゃいますね(^-^;
>>440 つまりね、「共犯」ってのは、「2つでひとつ」になっちゃってるってこと。
「共依存」ってそれでしょ。だから、もう一度「2つ」にしないと。
442 :
395:2006/05/29(月) 22:15:54 ID:Wb+U2AOU
>>439 ゾウアザラシなんかは極端な一夫多妻ですね。
あと、働き蜂にはそもそも生殖能力がなかったり(全てメス)。
「劣等感」を持たされている自分を見つめない限りは、
「劣等感」が存在することと、「劣等感」を与えられている相手のことを、
認めちゃっているというか肯定しちゃってるんだ?
、、、日本語なんか変だ……orz
スイマセン、、寝るす……☆
ていうか弱者に劣等感があるから差別者は攻撃できるんじゃないの。
本人に劣等感がなければたとえばゲイであることを攻撃されても
全然平気じゃないの。
もちろん肉体的な暴力は別ですけど。
>>442 モノガミーというのは、どんなに「モテ」でもひとりしか
「所有」できないという「無理」をつくることで、
「非モテ」のコンプレックスを最小限にとどめ、ある「共同体」の
秩序が崩壊するのを防いでいる規範なんでしょうね。
前提としては、「モテ」が「数」の問題に還元されている。
より大きな「交換価値」をもつ「資源」としての「身体」を
どれだけ「数」多く「所有」するか。「他者」の「身体」を
「交換可能な資源」とし続けるのにも、このモノガミーという
規範は一役買っている。「数」多くの「所有」を「禁止」する、
というかたちで。
>>443 「被差別者」の「劣等感」って「被差別者」だけに「内面」化されてるわけじゃないでしょう。
これは「差別者」と「被差別者」の双方にある。問題は「差別者」が
もってる「被差別者」の「劣等感」の方です。これも「努力」して
克服してもらわないと。つまり、これ、「自分が被差別者になることへの
不安」ですね。それを「差別者」が克服する必要があるんです。
>>445 「劣等感」とその「攻撃」とは必ずしも関係ないですね。
別にある個人に「劣等感」があろうとなかろうと、
同性のパートナーを認めるパートナーシップ制度の成立に
反対するという「攻撃」もありますし。「攻撃」の内容によります。
あと、「劣等感」というとなんか「主観的」に思われるわけですが、
「劣等感」というのは「社会的な諸条件」によって「再生産」されるもの、
「劣等意識」ですね。なので、
>本人に劣等感がなければ
というのは、その「社会的諸条件」が変化することによって可能となる
状態で、そのときにはもはや、
>たとえばゲイであることを攻撃されても
がない、んですね。「攻撃」が「攻撃対象」がなくなることで
「不可能」になっているから。
448 :
395:2006/05/29(月) 22:59:37 ID:Wb+U2AOU
>>446 ゾウアザラシのハーレムは、喧嘩の強いオスがコロニー内の
他のオスを強制排除することで成立しているわけですが、
これをモテていると言っていいのだろうかという疑問がw
クジャクの羽は、(俗流)社会生物学とか好きな人が喜んで
非モテ淘汰説に援用しそうだけど、羽が貧相なクジャクでも
それなりに生殖にありつけていたりするわけで、数の問題に
還元されるのは、この辺からなのかな。
ゲーム理論で非モテクジャクは淘汰されてることにしましょう、と。
>>448 それは確かに疑問ですねw
社会生物学に限らず、生物学や生命研究ってどうしてもテクノロジーを
用いてのコントロールによる「優生学」的発想、というか「生物工学」化
しちゃいますよね。で、「生命倫理」なんて話にもなる。
>>435 「これを単に否定」のくだりは、神名氏が敵視してる
「行き過ぎた悪しきクィア・スタディーズ」の人に対して、
であって42さんに対してではないです。失礼。
そんなクィア・スタディーズの人いるんかいな?という疑問は
あるでしょうけれど。よく知りません。
別に神名氏を擁護したいわけぢゃないんですが。
「差別解消のプロセス」について。
>>そのために、被差別者と差別者との共犯構造に気がつかない。
>>差別される側が、自分の内面にかかえる劣等感に気付き、
>>克服してゆく努力も必要。
・・・という箇所と、「TSにクィアたることを強いるな」
という箇所と、ぜんぜん別問題じゃないですか?
TSが「普通の人」として生きていく、というのは
内面の問題などではなく、きわめて具体的なことです。
永久脱毛したり薬飲んだり名前を変えたり慣れない化粧したり、、
などなどの「努力」によって初めてTSは「普通の人」になれる。
(ヒゲのOLは「普通の人」とは認められず、
「変態」として「排除」される。
私は「排除されないようになるべき」と思うが、神名氏は
「認められないから仕方が無い」と考えてるっぽい。)
こうした「既製の枠組みに順応しようとする行為」は、
「本人の望むこと」なので、妨害されてはならない。
(と、神名氏も私も思う。)
そういうこととはまた別に、
たとえばTSが「オカマ」「変態」よばわりされてしまったときに、
神名氏は「劣等感を克服する努力」を推奨するわけでしょう?
私は推奨しませんが。
構造を批判するのであれば、
たんに「内面なんて存在しない」って言い切ればいいのになあ。
非モテは淘汰されるであろう
と
非モテは淘汰されるべきだ
は
何の関係もないのに、ごっちゃにするからイクナイ
453 :
395:2006/05/29(月) 23:20:37 ID:3RwHTYoS
>>447 うーんよくわからないですね。
>同性のパートナーを認めるパートナーシップ制度の成立に
反対するという「攻撃」もありますし
攻撃はできますけどゲイであることの劣等感をなくすとまでいかなくても
少なくできればダメージは少なくて済みますよね。劣等感を減らせれば
ダメージを減らし防御することができるので攻撃が攻撃でなくなるんじゃないかと思ったんですね。
客観的には攻撃に見えても個人的には効いてないから本人には攻撃ではないってことです。
個人的に効いてないと言う状態を被差別者の内面に作れれば差別者は何も出来なくて
>>443であるように相手を認めて肯定することもないのかなっと思いまして。
「劣等感」というのは「社会的な諸条件」によって「再生産」されるもの、
「劣等意識」ですね。なので、
>本人に劣等感がなければ
というのは、その「社会的諸条件」が変化することによって可能となる
状態で、
劣等意識が社会的諸条件によって再生産されるってのはわかりますが
社会的諸条件が変化しないと劣等感を取り除くことは無理なんですか?
455 :
禁断の名無しさん:2006/05/29(月) 23:24:50 ID:cW3uCS40
めぐり合うめぐり合わないってのは偶然だと思うのよね〜
ただその偏りに理由を求めるのは人の性よね。
Σ(゚д゚)この場合は巡り会いって書くのかしら
それはそうと、劣等感を抱くことによって現状を納得する気持ちってのもあるようなないような・・・
457 :
83:2006/05/29(月) 23:31:18 ID:Y3IOoUdM
>>419(395さん)
>私も何で bi(=double)セクシュアルしかないのー? と思うバイですが。
パンセクシュアル、という言い方がありますね。
最近『トランスジェンダー・フェミニズム』を出版した田中玲さんは、
ご自身をパンセクシュアルだと言っています。
>>451 僕もそう思いますね。「内面」なんてないんだから、
「劣等意識」を再生産する構造の方をなんとかしましょう、と。
というか、「劣等意識」と「内面」って「同時に」つくられるんですよね。
>>453 池田さんはそうなるでしょうねw
昨夜、
>>411を書いたんですが、なんかそれと重なる講演ですね。
デリダは亡くなる前年の2003年に闘牛廃絶委員会の会長に就任してるんですね。
「人間の人間への暴力」と「人間の動物への暴力」との関係に
彼はこだわってます。
意識と社会の弁証法的関係がむにゃむにゃ・・・
ところで、「ゲイであることの劣等感」は
消えてなくなることがありうるけれど、
「トランスであることの劣等感」はちょっと難しい。
なぜなら、トランスの定義上、
トランスはみずからがトランスであることを望みはしないから。
FtMならば「男であること」を、
MtFならば「女であること」を望んでいるわけで、
トランスという状態はその過渡期なわけで。
たいして詳しくも無いのに語ってますが。
ものすごく気になる問題なのです。
>>451 で、「署名者」はだったら、
>そもそも「おかま」「変態」「奇妙な」と
>見られたくない TS に対して
と書いたのが「不用意」だ、ということなのか、それともやはり
「内面」の問題でもあるのか。「見られたくない」んでしょ?
>>460 署名者ご本人が「劣等感」持ってるじゃん、ってことですか?
どーなんでしょうねえ。
>>454 諸条件の変化が「ローカル」か、「グローバル」か、ってのは
ありますね。いろんなレベルで起こるでしょうから。
その諸条件に共通性はあるけれど、その条件の成立を「反復」させる
困難度によって、その変化の及ぶ「時間」と「空間」は変わりますね。
>>461 いや、「署名者」本人はどうあれ、TS の「内面」「意識」の問題に
しちゃってるから、「見られたくない」って話になるんでしょ。
これは、kusamisusaさんがいうような「具体的な」ことではない。
>>457 全方位外交みたいなもんなんでしょうかw?
たんに、フーコーが批判するような「告悔」「告白」とは違うやり方で
「ライフヒストリー」を語り、書いてみれば、自分の「セクシュアル・
アイデンティティ」がそう単純ではない、ってことに気付くはずなんですがね。
465 :
395:2006/05/29(月) 23:58:52 ID:3RwHTYoS
>>457 やっぱり、こういうひといるんですよね。例の7歳のGIDと
診断された子どものこと、こういうの読むと考えちゃいますね。
なんで、二者択一なわけ?、って。
>>465 それでいくと僕はマルチガミーのパンセクシュアルですから、
「マルパン」ですかね。
467 :
83:2006/05/30(火) 02:53:44 ID:o4sDemre
名前は失念しましたが、アメリカのショウビズ界で人気のFtMさんがいます。
語弊はあるけど、分かりやすく表現すると「ヒゲ女」なんです。
ホル注しなくてもヒゲが生えているナチュラルトランス(と呼んでいいのかな?)。
そのヒゲのある風貌からどう見ても「男性」なんですが、
この人は「自分のことはsheと呼べ」と言ってるんですね。
玲さんにしてもそうですが、境界線上に立ち続けるジェンダーベンダーぶりが素晴らしいなと思います。
>>465(395タン)
>>466(42タン)
わたしはマッチョポリw
>>466(42タン)
GID診断された7歳児に関しては、はくタンと別なところで話してて、
スカートやぬいぐるみが好きで野球が嫌い、という志向で「女児」扱いするのはどうなんだろう、と。
この記事にモニョモニョしていたところ、とあるトランス“ホモ”セクシュアルのかたが、
「本人の自覚がまだ定まっていないのに(今後定まるかどうかも不明)、
勝手にGIDと診断するのは大人の先走りじゃない?」みたいなことを言っていて、
ああ、これってISの強制外性器手術と似ているなーと思ったのでした。
468 :
禁断の名無しさん:2006/05/30(火) 12:49:28 ID:ZfV34cHX
肉体は精神の入れ物なんていうけど、移し変えはできないのよね
>>467 子どもの「自己決定」という難しい問題はあるわけだけど、
印象としては姐さんといっしょ。ISの場合と問題は似ていると思う。
>>443 僕はこのスレで前に、「ミソジニー」は「近代」において
存在するすべてのセクシュアリティに共通する何か、セクシュアル・
カテゴリーのカテゴリー性をつくっている何かなんじゃないか、
と書いたことがある。
ドゥルーズ=ガタリが devinir femme 「女性になる」「女性に生成変化する」と
いうことを言っていて、この他にも「子どもになる」「動物になる」「マイノリティになる」
「識別しえぬものになる」「知覚しえぬものになる」etc. とあるんだけど、
この「女性になる」というのは、「女性」にすら必要なことであるとされる。
これ、たぶん、「ミソジニー」を「女になることへの怖れ、恐怖」と
とらえるということで、ドゥルーズ=ガタリがそれを言う背景には、
ラカンの「女は存在しない」があって、ドゥルーズ=ガタリは
それを「近代」においてもっとも論理的に表現された「ミソジニー」、
「女になることへの怖れ、恐怖」ととらえたんじゃないか。
僕は一見単純に見えることを複雑にしてみるのが好きなので、
上のようなことを考えてみると、たとえば、MtF で「女の身体」を
「フィジカルに」要求するひとは一見「女になることへの恐れ、恐怖」が
ないように見える。でも、それは逆でむしろそれは「ミソジニー」
「女になることへの怖れ、恐怖」の「強度」が強いからなんじゃないか。
昔、大江健三郎が若い頃、同級生の不良に手のひらにナイフを突きつけられて
脅されたときに、怖かったので、その恐怖をどうしたらいいかと考えて、
自分から突き刺せばもう怖くないことに気がつき、実行した、という
エピソードを話していて、なるほど、と思ったことがあるんだけど、
それとたぶん MtF の自らの「ミソジニー」「女になることへの恐れ、
恐怖」への対応は似ている。MtF ってどうなんだろう、家庭も含めて
社会的に「男である」ことを他のセクシュアリティよりもより
パフォーマティヴとして「反復」させられた経験があって、
既存の二項対立的な「ジェンダー」のなかで、「男でなくなることへの
怖れ、恐怖」の「強度」が高くなったひとが多いんじゃないのかな。
つまり、「なってしまえば、もう怖くない」と思っているから、
そう思わなければならないほど、「ミソジニー」の「強度」が高いから、
その選択をする。でも「フィジカルに女の身体にする」ということと
「女になる」ということはまったく異なるから、おそらく、
MtF の「ミソジニー」って現在の規範としての「ジェンダー」のもとでは、
さらに「強度」を増す条件が揃っていて、往々にしてそれが
「フェミ嫌い」として出る、という「倒錯」を生むんじゃないか。
「こんなはずじゃなかった」ということで。これは「キャリア女性」の
「フェミ嫌い」にもあると思う。「こんなはずじゃなかった」。
「たんに企業社会でキャリアを形成する」ということは、「女」を
「他者」として「承認」される、「女になる」ということとは別だから。
「他者が自らの望む他者を享受し、歓待し、愛し生き延びる権利」「人権」における
「他者」としての「女」を「承認」する、ということ、「女になる」ということ。
その「承認」の「パフォーマティヴ」としての「女になる」は、たとえば、
「小説」や「映画」というメディアのなかで「発明」されている。だから、
クィア・スタディーズは「小説」や「映画」についてあれほど語る。
このスレのコテが「小説」好き、「映画」好きだったりするのも、
そこから、なんとなくうなずける気がする。「他者」との自らの望む
「生き延び」につながる「パフォーマティヴ」を求めて、それを
「習得」することをめざして、「小説」を読み、「映画」を観る。
それはただストーリーを追いかけるんじゃなくて、語りと会話と描写のモンタージュや、
映像と音声のモンタージュを「習得」する、ということでもある。だからひとは、
「ストーリー」がわけわからなくても、「ゴダール」の映画を観る。
「〜になる」にはそれが必要だから、ドゥルーズは『映画』という書物を書く。
新たな「運動」と新たな「知覚」をどう「行為」において「発明」するか。
『運動-イメージ』、『時間-イメージ』の2冊からなる『映画』。あるいは、
ドゥルーズは『批評と臨床』といった「文学」をめぐる書物を書く。
その第1章にあるのは「文学と生」と題された文章だったりする。
これは邦訳があるので日本語でも読める。『映画』も長らく近刊予定なんだけど、
どうやら「気鋭の若手研究者」による新雑誌 VOL の次に出る第2号で
「『映画』」特集が組まれるらしいから、この夏か秋くらいにはとうとう出るのかな。
>>443 「 『劣等感』を持たされている自分を見つめる」っていう「行為」は、
はくタンが読む「小説」や観る「映画」のなかにある、ああ、いいなあ、
コレ、と思う「パフォーマティヴ」なんだと思うよ。難しいけど
「不可能」じゃない。それを「小説」や「映画」は僕らに教える。
>>467 田中玲さんの本はまだ読んでないんだけど、ああ、いいなあ、コレ、って
「パフォーマティヴ」がそこにもあるんでしょうね、きっと。
その「パフォーマティヴ」を「反復」するというのは、「田中玲さんの
ようにする」ということではない。「田中玲さんになる」ということ。
難しいけど「不可能」じゃない。自転車に乗れるようになるよりは、
難しい、それだけのこと。
「人権」はすでに保障がシステム化され「差別者」が享受している「権利」、
「被差別者」への「排除の暴力」という「パフォーマティヴ」によって
維持される「権利」を含むし、「マイノリティ」の「人権」保障を目的と
しながら、有効な「パフォーマティヴ」を「発明」できず、「運動」を
「ビジネス」にし、それで一生食う者もいる。それがたぶん、
いぬまわりさんの「人権」に対する「性急さ」、あるいは
>>413さんが
感じる「いやらしさ」につながっている。
でも、それと新たな「パフォーマティヴ」が必要だ、ということとは
切り離して考える必要があるんじゃないか。395さんが教えてくれた
リンク先の中村圭子さんの「虫愛ずる姫君」、の「愛ずる」身振りは、
「パフォーマティヴ」は、「人権」につながるのかつながらないのか、
「犬のように」という比喩を僕らはいつか別の仕方で使えるようになるのか。
「犬」の「喪」は明ける時が来るのか。
>>467 >>399で挙げたギンズ+荒川の本は姐さんにもお勧めです。
原書では著者名は、Gins and Arakawa と背表紙に書いてあるんだけど、
邦訳ではそれが、荒川修作+マドリン・ギンズ、となっている。
これまでの日本でのこのカップルの著作の「慣例」に従ったといえば
それまでだけど、訳者と編集者の「使命」に関わる問題、
ベンヤミンのいう「翻訳者の使命」の問題ではあると思う。
474 :
83:2006/05/30(火) 17:49:27 ID:o4sDemre
>>473(42タン)
>荒川修作
気にはなっていたのよね。でも、あたしまだカイエ・ソバージュ5巻目で止まってます(汗)。
そのうえ昨日、理論社の「よりみちパン!セ」シリーズを5冊注文してしまったわ…。
475 :
kusamisusa:2006/05/30(火) 19:59:59 ID:wrYkhsE+
>>463 >いや、「署名者」本人はどうあれ、TS の「内面」「意識」の問題に
>しちゃってるから、「見られたくない」って話になるんでしょ。
ここに「から」という順接が入るのが不思議。
私は内面の問題にしちゃうのは良くないと思いますが、
やっぱり「多くのTSは変態と見られたくないと思っているだろう」
と当然のように推測しますが。
>>474 おすすめなので、順番はお好きに^^ いつ読んでもOK。
田中玲さんの本が出ている出版社って知り合いが編集とかライターとか
やってる雑誌のとこだったりするw さっそく密林で注文しました(^^)v
ついでにまだ買ってなかったエレーヌ・シクスーの『狼の愛 付 ジャック・
デリダ 蟻』も。「虫けらのように」の「虫」も、「犬のように」の
「犬」と同じく、「問題」ですからね。「虫オタク」の 395 さんに
教わらないと^^
で、話変わって。
リンク先の「署名者」はたとえば「セックスは否定できるか・2」でこう書く。
>江原=バトラーや、その信奉者達は、自分達の主張を
>最先端の知だと思っているのかもしれないが、私から見れば、
>これは18世紀のヒュームからほとんど進んでいない。
>近代を越えるどころか、近代思想の発展途上(カント以前!)の
>レベルに位置しているのである。
この文章全体を読む限り、「署名者」が「バトラー」のテクストを
読んだ形跡はない。引用されているのは「江原由美子」のテクストで、
それが「江原=バトラー」そして「その信奉者」と「宗教的」な「敵」
扱いされている。つまり、これは「署名者」の「信仰告白」の文章でもある。
そして、単線的で俗流進化論的な「近代哲学史」が「規範」化され、
自らが「翻訳」した「他者の言説」をそこに位置付け、「誰々程度」と
「嘲笑」することが、「批判」とみなされている。
これが「共通する普遍性」を見出すのにふさわしい「態度」かどうか。
「宗教戦争」を誘発する「知」。「知」は異なる「信仰」のあいだの
「共通する普遍性」ではなかったんだろうか。「信仰と知」。
「宗教戦争」を「不可能」にするもの、いまだ「可能性」の領域にある
「不可能なもの」じゃなくて、「宗教戦争」の peril 「危うさ」を
ex-perri 「超える」 experience 「経験」のなかで「宗教戦争」を
「可能でないもの」とし続ける「反復」、それが「知」だったんじゃ
ないんだろうか。
「哲学」では同じテクストが何度も読み直される。それは「哲学」という
「概念を創造する」営みもまた、「パフォーマティヴ」だから。
だから、今でも「カント」も「ヒューム」も読まれる。単線的で
俗流進化論的な「哲学史」を「規範」化する者は、おそらく、
「カント」のテクストも、「ヒューム」のテクストも読まない。
おそらく、「テクストを読む」ということを知らない。
僕のここで書いていることは、つねにすでに、誰かがもっと周到かつ
厳密な仕方で述べているかもしれないことだと、思いながら書くことと、
「テクストを読む」というのは結びついている。それは「カント」
「ヒューム」といった「規範」化された「哲学史」の「権威」だけじゃなく、
そこに「登録」されてはいない数多くの書き手、「思考者」に、
つねにすでに、「僕」は、「書き手」は批判されている、そのはずだ、
と思いながら、そのサスペンスに促されながら書くこと、そして読むこと。
それを、「哲学史」を「規範」化する者は知らない。それは「署名者」に
限ったことではない。
それは「署名者」のような者の人生の問題で僕の問題ではない。
ただ、僕はそれを、「知」における「羞らい」が欠けた、
arrogant 「はしたない」ふるまいだと思う。そして、たった1分の違いで
電車に乗り遅れた結果、次々乗り換えの電車に乗り遅れ、
結果的に数時間の取り返しのつかない遅れになってしまうように、
その「無邪気」で「羞らい」もなく、「はしたない信仰告白」が
いつか「共通する普遍性」としての「知」を欠いた「宗教戦争」にならないで
すむようにするには、いったいどんな「パフォーマティヴ」が必要なのか、
それを考える。それだけのこと。
>>475 僕もそう推測しますよ。だからこそ、「精神分析」の領域の話なんでしょ。
kusamisusa さんがいう「具体的な」問題とは違った。
「見られたくない」という「視線」の問題って、「意識」と「無意識」の
問題なんじゃないのかな? 僕は最終的にはラカンを批判するけれど、
「視線」と「意識」「無意識」の「問題」についてはいろいろ学べる。
>>475 僕、たぶん、考えてることは kusamisusa さんと同じなんですよ。
>>450で kusamisusa さんが言うように、
>TSが「普通の人」として生きていく、というのは
>内面の問題などではなく、きわめて具体的なことです。
>永久脱毛したり薬飲んだり名前を変えたり慣れない化粧したり、、
>などなどの「努力」によって初めてTSは「普通の人」になれる。
>(ヒゲのOLは「普通の人」とは認められず、
>「変態」として「排除」される。
ということだと思う。でもそこに「署名者」が言うように、
>そもそも「おかま」「変態」「奇妙な」と
>見られたくない TS に対して
と「視線」を持ちこむから、「ラカン」が顔を出す。「内面」というのは
僕も言葉としては不適切だと思うし、敢えて使うなら「位相」でしょうが、
それはさておき、「見られたくない」って言っちゃうことで、
「余計」というか「過剰」が生じて、それが「精神分析」の問題を
引き寄せちゃってるんじゃないか、と言っているだけで。
どうなんでしょうね、「努力」して「普通の人」になって、
それで「問題」はその当人において「解決」してるんでしょうか。
「視線」はもう関係なくなるんでしょうか? たえず自分が
「普通の人」かどうかを再確認し、そのために「普通でない人」を
「排除」し続けるしかなくなり、そのために「資源化」された
「普通でない人」を必要とし続けている、ってことはないんでしょうか?
カントは最高。第一第二批判しか読んでないけど最高。
>>478 >どうなんでしょうね、「努力」して「普通の人」になって、
>それで「問題」はその当人において「解決」してるんでしょうか。
ここにトランスの二律背反があるわけで、
つまり、「パス」できているTSってのは、
<間違った性別で暮らしていた時の自分>を隠しながら暮してる。
望みが叶ったときには、<過去の自分>は封印される。
「多様な性のあり方が認められる社会になるといいですね」
というだけでは汲み尽くせない問題があるんじゃないかなあ、と、
漠然と考えてます。
>>469 なんだかよく分かりませんが、FtMはみさんどりー?
病気なら原因を取り除く治療ってのもありだと思うんだけどね
>>469 なんというか、、
「男でなくなる事への恐れ」が「もう、女になるしかない」という、
ギリギリな所までいく感じも分かる。
女が
ありゃ・・・なんで切れるんだッ
続き。
女が"好き"とか羨ましいとか憧れてるとか、そういう話じゃないんだろうな。
ただ俺は身体に手を加える発想を持ったことないので
そっから先の、ミソジニーの強度がさらに増す、ってのは
分かるようで分からないや。
ぅーん……
革新保守のモテ女に似てるのかな。とか言ったら怒られるんかなァ……
てめぇえら、ブラウザ使えよ
>>479 たとえば、これは「ゲイ」にも言えるけれど、規範としての
「ジェンダー」の undoing が行われた時に、MtF の「欲望」が
なおも再生産されるか、って「問題」だと思います、それは。
今の「セクシュアル・カテゴリー」がそのまま維持はされない、ということ。
今回のことで思ったのは、「価値の相対化」ってすごく具体性を欠いた
ものとしてとらえられているな、ということ。たとえば、「同性婚」が
「承認」されても「ペドフィリア」がそれと同時に「承認」されるわけではない。
何もかもが同列に置かれて等しく「正しい」なんて、そんなことあるわけがない。
395 さんとのレスのやりとりでもあった「階層」の問題が抜け落ちる。
そうした「絶対的な価値の相対化」を必要としているのは、「相対主義批判」をする側で、
今、現在自分が信じているものが「絶対的なもの」であり、他の者はそれに
平伏すべきだと考えている者でしかなく、それはたんに「絶対的な価値」を
自らが「表象」したい、ってことなんじゃないでしょうか。で、それは
もちろん「無理」だから、強迫反復する。
「階層」を有する有限個の「カテゴリー」にカテゴライズされる程度にしか、
「相対化」されていない、セジウィックが「公理風に」言う「ひとびとは
互いに異なっている」というレベルにはまだ及んではいない「相対化」
「多様化」を、都合よく「激化」させ、「相対主義」を「絶対化」しているから、
「相対主義」を批判しながら「比」を語るという、論理矛盾に陥るんじゃないか。
で、
>>480に関してはそうはならないと思います。非対称性がありますから。
「女は存在しない」なわけでしょ。「男になることへの怖れ、恐怖」って
原理的に存在しようがない、ラカンの枠組では。そして、それは「近代」を
分析した言説としては妥当だと思う。「男=存在になることへの怖れ、
恐怖」は「存在しない」。それはバルトが『テクストの快楽』のエピグラフで
ホッブズの「私の生涯の唯一の情熱 passion は怖れ、恐怖だった」という言葉を
引用することにつながっている。あれは、ラカンに対する「優雅な挑戦」です。
kusamisusa さんってジジェクお好きですか? 僕には彼が、
「円環」の「循環」を円滑にする「論理」を立てる一方で、
その「悪循環」の切断を「レーニン」「革命」というのに託しているように、
見えるんですね。彼のようにやると「レーニン」「革命」を待ち望みながら、
円滑化された「悪循環」のなかで「生き延び」が困難になるばかり、のような
そんな気がする。まあ、バトラーと「分業」してる、というか、ジジェクが
「ボケ」て、バトラーが「ツッこむ」という漫才=ダイアローグやってると
言えなくもないんですが。
>>481 フロイトは結局、「近代」におけるすべての「セクシュアリティ」を
「社会病理」化する道を開いたわけで、それならそれでいいんじゃないかと
思うんですね。ただ、それが「個人」の「臨床」「治療」でなく、
「社会」の「臨床」「治療」になるのであれば、という条件のもとで。
でも、そのときに「病気」でない「個人」はひとりもいなくなります。
まず、これに耐えられないひとがいるでしょう。「健康」であると
信じたいひとはいるでしょうから。そして、それがまた厄介な「病気」になる。
「個人」が罹っている「病気」には、いくつかの「カテゴリー」化が
可能です。「個人」の罹っている「病気」の「カテゴリー」が異なれば、
「社会」の「臨床」「治療」も異なる。「社会」の「病気」が「個人」に
「感染」するんだから、「感染源」としての「社会」をなんとかしないと、
ってことです。「個人」を「臨床」「治療」するだけじゃだめなんです。
>>484 あ、、、月末に何かあるんだったっけ???
プツプツ切れるのはその影響???
>>465にあるブログを読むと、
「男か女か」からこぼれる人がたくさんいるんだー?と分かって
ちょっと安心したかも。
自分はこれでいくと何だろう……ポリガミーのパンセクシャルかな。
「ポリパン」て、なんかファンキー♪ww
>>485訂正
「絶対的な価値の相対化」は「価値の相対化の絶対化」です。
>>485 >何もかもが同列に置かれて等しく「正しい」なんて、
>そんなことあるわけがない。
だから、相対化をうたうサヨクは弱い。
「何もかも同列なんてありえないんだから、伝統を守ってればいいんだよ」
というバックラッシュに対抗するのは、とても難しい、ですよ。
誰もがいくらかは強迫神経症ですし。
>「女は存在しない」なわけでしょ。「男になることへの怖れ、恐怖」って
>原理的に存在しようがない、ラカンの枠組では。
>そして、それは「近代」を分析した言説としては妥当だと思う。
ラカン派っぽく反論すると、
「<女は存在しない>という命題は、近代のみならず、あらゆる時代に
普遍的にあてはまる。なぜなら、<女の不在>は論理的=存在論的な
要請だからだ。」・・・って感じですか。
ジジェクは好きですが、たいして知らないので、
ご指摘の点については、ナントモ分かりません。。。
ジジェク/ラカンに言わせれば、
もちろん、精神分析は「個人を治療すること」ではありえませんわね。
>>479 「カミングアウト」、「ビカミングアウト」なしに「承認」されたい、
そういうことですかね。
そうすると、かつての passing と同じことが起きる可能性はありますね。
事実が露呈したときに、「排除の暴力」にさらされる。その不安を
一生抱えながら生きていくんでしょうか。
「知識」として「セクシュアル・マイノリティ」がいる、ということを
「認識」することと、自分の周囲にいるそういうひとを「承認」することとは、
つながってはいるけど、同じことではないですよね。『ハッシュ!』を観て、
インタビューに答えて、自分の息子があの映画のような関係をつくってもいい、と
という母親が、実際に息子がそうした時に「承認」できるか、というのはある。
事実が露呈した瞬間に、具体的に「承認」を要求され「パニック」になる。
その際にふるわれる「暴力」に対してアメリカでは、「加害者」を
弁護する論理が組み立てられている。セジウィックがいう「ホモセクシュアル・
パニック」というやつですね。日本の場合、たぶん「瞬間的でフィジカルな
暴力」はほとんどないでしょうが、代わりに「持続するメンタルな暴力」が
ふるわれるでしょう。だから、裁判にもなりにくい。じわじわと追い詰められて行く。
それが当事者以外の目の届かない閉鎖的な空間で日常的に反復、展開する。
別に TS の側が「騙している」わけではないのだけれど、周囲のひとびとは
「騙された」と思うこと、「信頼されていなかった」と思うことは、
避けられない。そうでない場合もあるでしょうが、そこはどこまでいっても
確率の問題で、事前に計算は不可能で、だから TS の「不安」は構造的に消えない。
薄々気付きながら周囲が「承認」する、そうした場合ももちろんあるでしょうが、
「最悪のケース」への対処はどうするのか、それを考える必要はありますよね。
でも、既存の規範としての「ジェンダー」のもとでは、その対処は DV と同じく
「対症療法」的なものになりそうな気がします。
>>476補足
そういえば、カフカにはグレゴール・ザムザがいましたね。
『変身』、メタモルフォーゼ。「虫」なら「変態」ですかね。
セクシュアリティでいう「変態」とは日本語以外では別になりますが、
日本語というか漢語では両者の表記は同じですね。「犬」と「虫」。
ドゥルーズ=ガタリの『カフカ』を読み返すのにいい機会なのかもしれません。
>>479 アラン・バディウは『聖パウロ』で「普遍」を2つに分けますね。
あらゆる差異を超越的高みから包囲する運動は「抽象的普遍」と呼ばれ、
バディウは「資本主義」をこの運動を体現するものとみる。
それに対し、中心を逸れていく運動を「特異的普遍」と呼び、
「パウロの布教活動」がこの運動を体現するものとみる。
これは市野川容孝が2つのリベラリズムを分けるのに対応する区分でもあります。
差異と多様性の尊重だけを奉ずる「消極的で弱々しいリベラリズム」と、
ローザ・ルクセンブルクが提示したような、異なる考えをもつひとびとの
自由を認めつつ、その他者に反射させながら、自らを正し、また他者を
正しながら、ひとつの共有されるべき正義を希求し続ける、「積極的で
力強いリベラリズム」。
疑問は2つ。
1)この2つの「運動」「リベラリズム」は「2つでひとつの行為」として
ひとつの「身体」に担われうるのではないか。
2)ある「運動」を語るときに、それを「行為」として「体現」するものを
必要とするとはいえ、そのとりあえずの「担い手」の「形象」を「範例」化する
必要はないのではないか。われわれはみな「聖パウロ」の「反復」に
ならなければならない、という「倫理」は「倫理」たりうるのか。
「クィア」はジジェクやバディウからみればおそらく「抽象的普遍」ということになる。
T's が「クィア」に苛立つのも同じ理由によると思われます。それは間違いではない。
「みなクィアだ」といえば、それは「抽象的普遍」となる。そうしたひとつの
「フィクション」、それは確かに「抽象的普遍」です。
でも、「クィア」には「カミングアウト」という「承認」のプロセスも存在する。
シェイン・フェランが「(ビ)カミングアウト」でいうように、「カミングアウト」は
「ビカミングアウト」であり、「反復」する「パフォーマティヴ」なんであって、
これを「聖パウロ」という「範例」とは切り離し、「世俗化」された「特異的普遍」
であると考えることはできるはずだと思う。
一見相容れず矛盾するように見える「2つの運動」を「行為」はすんなりと
受け入れる。「行為」の結果は「行為」にうちに折り畳まれた
「相互に矛盾する2つの運動」のどちらかがもたらすものとなるとしても、
「行為」にはその「相互に矛盾する2つの運動」の両方が「折り畳まれる」。
「フィクション」なしに「行為」は可能か。
「ノーマル」と T's とりわけ TS とのあいだの「共通する普遍性」が、
>>479で kusamisusa さんがいうような「二律背反」を抱えており、
「カミングアウト」という「承認」のプロセスを欠くのだとしたら、
それはすでに存在し、「ノーマル」が「包摂」されている「普遍」に
T's を「包摂」する、ということでしかなく、そこから「クィア」は
「普遍」たりえない「特殊」として「排除」される、ということにしか
ならないんじゃないか。
「抽象的普遍」を欠きながら、自らは「特異的普遍」である、と
主張すること、そして/あるいは、「特異的普遍」として「抽象的普遍」の
「(不)必要」を言い募ること、それが「普遍」たりえない
「特殊」の「排除」、「収容所」における「最終解決」を結果とする
「行為」になる、そういうことなんじゃないか。
前者が「ネグリ=ハート」に体現され、後者が「ジジェク」に体現される。
「範例」については「ホモ・サケル」のアガンベンもいれれば、バディウ本人も含めて、
やっぱりこれは「カトリシズム」における「メシアニズム」の「病」なんだと思う。
「メシアは『女』である」「メシアは『クィア』である」「メシアは『犬』である」、
あるいは、「メシアは『虫』である」。それを彼らは「承認」するんだろうか。
「メシアは『男』でなければならない」、なぜなら、「『女』は存在しない」から。
ドゥルーズは亡くなる数年前に出した、自分の対談やインタビュー等を集めた著作の
タイトルを pourparlers 『折衝』とした。邦訳では『記号と事件』になっているけれど、
この「折衝」って、「クィア」という「フィクション」をたてながら、
さまざまな「パフォーマティヴ」を「反復」する「(ビ)カミングアウト」を通じての
「承認」のプロセスとしての「相互に矛盾する2つの運動を折り畳むひとつの行為」
しかもそのうちに複数の異なる「行為」を「入れ子」状に折り畳んでいる「行為」
なんじゃないか。僕はそう考えます。「フィクションの力」ってあると思う。
ギンズ+荒川も「建築する身体」という「フィクション」を必要とする。
「われわれはみな『建築する身体』だ」。カリフィアは「われわれはみな
『クィアかつトランス』だ」と「フィクション」を構築する。それが
「強制的」であり「対抗言説」的である、ということで「不必要」である、
ということにはならないんじゃないか。僕はそう思うんですよね。
バディウみたいな「サヨ」も、その「マルクス主義」呼ばわりして否定する
「ウヨ」も、どちらも「範例」好きですよね。バディウたちは「聖パウロ」だの、
「ヨブ」だの「ホモ・サケル」だの「ムーゼルマン」だの、と「範例」をもちだし、
「ウヨ」は「マルクス主義者」という「範例」をもちだす。
デリダは何かを「範例」化することを絶えず「問題」としていたし、
ドゥルーズ=ガタリが「われわれには『ピープル』が欠けている、
『ピープル』は『発明』されなければならない」と言うときに、
「範例」化は回避されているんじゃないでしょうか。
>>492訂正
最後から2つめのパラグラフの1行目の「その」は「それを」です。
494 :
禁断の名無しさん:2006/06/01(木) 16:50:42 ID:LQPS7/tz
>>322 根拠無いんだが。
日本が欧米より高いかは、欧米の1才未満の殺人の統計が無ければ多かったのか少なかったのか判断出来ない。
記事が書かれた年は1才未満の殺人も被害者が被疑者の子な事件も米の半分。
>>1980年までの率は現代米の平均殺人率100万人あたり約100件に匹敵
1980年まで100万人あたり約100件あったのは確かだが
1980年代の欧米の同じ事件の統計が無ければ多かったのか少なかったのか判断出来ない。
その後は下がってて記事が書かれた年は100万人当たり028人。
20年も前の率は2000年に1才未満の殺人が多いという根拠にはならない。
記事とは別に、日本女性は1才未満の殺人非常に多いとあるが、
日本以外の1才未満の殺人の統計が無ければ日本が他より多いか少ないか判断出来ない。
日本は男女が逆転している男は犯罪が少ないが女は多い、なら逆転しているが
1才未満の殺人で逆転しているとするには
日本以外の1才未満の殺人の統計がなければ判断出来ない。
495 :
禁断の名無しさん:2006/06/01(木) 16:51:43 ID:LQPS7/tz
496 :
funわか ◆bbZx8P7qp2 :2006/06/01(木) 23:29:08 ID:1fw1gncn
私はあらゆる例えと言葉で、『 この世に有る生物全て、植物もア
メーバーも魚も犬でも猫でも、当然人間も!性があってこそ(セックスをしてこそ)、生まれた価値、
生きる価値が有るのであり、性の営み(セックス)があってこそ、その種族は滅びない、性(セックス
)が無ければ、その種族は全て滅びてしまうのだ! 』と、説きます。
全ての生物は必ずオスとメスに別れており(雌雄同体の下等生物も同体であろうとも性は別です)生殖
機能が一人前になる、成人となれば、100%性(セックス)の営みをするように遺伝子づけられてい
るのです。人間の世界では、様々な宗教や、様々な国が独自に道徳や倫理で人の悪事や行動を厳しく戒
めます。そのせいで、本来生物全てに命令づけられている、性(セックス)に対してまで、おかしなト
ラウマを起こさせたり、歪められた性意識に陥る恐れが常に有ります。悪事や他の者に嫌悪感を感じさ
せる事を戒めるのは当然として、そのような国や人でも、必ず性(セックス)は当たり前の事として行
われています。でないとその国、人種は滅びてしまいます。そうして歪められた『 倫理道徳宗教に縛
られた女性の性意識 』に、私ははっきりと解説、宣言しています。
【 この世に生まれた者全て!健康な身体と健康な精神で育って大人になったならば、男女間ではセッ
クス以上の最高のコミュニケーションはあり得ないし、セックスがあるからこそ、男女間に本当の愛も
湧いてくる 】そして、その【 男女の最高のコミュニケーションの後にこそ、二人が愛で解け合った
ゆえの結晶、絶対の愛の存在、我が命に変えても惜しくない存在、子供が生まれてくる 】のです。
【 男女の間には、強く大きな性と愛の結びつきが有ればこそ、互いへの尊敬や愛情も大きく深く感じ
られるのだ、と、しっかり認識しなければならない 】私はそう思います。
http://hw001.gate01.com/funわか/ funわか@hotmail.com←質問、反駁はこちらまで。。。。
497 :
395:2006/06/02(金) 00:00:06 ID:ndTTd1rj
↑
だから、全ての生物に性別があるわけではなくて(ry
池田清彦編著『遺伝子「不平等」社会』をひとまず読了。
うーん。
小川眞理子さんとの性アイデンティティを巡る対談は正直、消化不良気味。
立石信也さんとの対談が一番面白かったなぁ。前から交流があるみたいで、こなれた感じ。
---
男と女の違いについて結論めいたことを書けば、@男と女の本性といったものはなく、男と女は
連続的につながってしまうこと。Aしたがって性差は、個々人の性パターンの差であること。
B性パターンには、(ア)性染色体をはじめとする組成の違い、(イ)身体的なみてくれの違い、
(ウ)心的な性アイデンティティ(ジェンダー)の違いの三つがあり、この三つにはそれぞれ二者択一
ではなく、いくつものバージョンがあること。Cこのうち(ア)だけは先天的と言えるが、(イ)と(ウ)は
(ア)と後天的な環境との相互作用の結果決まること。D性パターンは基本的に出生時までに決まり、
そのあとの環境的要因によっては変えるのが難しいこと。文化的なバイアスは、男女の差についての
さまざまな装飾を付けるだけで、性パターンそのものを決定することはできないのだと思う。
---
Dが誤解を招きそうな上にわかりにくいので、どうにかしたいですね。
最近の池田さんは母胎内の環境を重視しているようで、受精時とオギャーと
生れ落ちたときを状態をはっきり区別するんだけど、普通「生まれつき」と
言うとき両者の区別なんて考えないでしょうから。
498 :
禁断の名無しさん:2006/06/02(金) 00:02:02 ID:YL6v6OQy
あげ
「ジェンダーがセックスを構築する」「言語が身体を構築する」と
いうことも、まだ理解されてない、ということが今回の T's の件で
再認識させられたことのひとつ。
人間は「首を切られたら死ぬ」という「知識」があるから、首を切られたら死ぬ、
わけではない。それはその通り。でも、それは「言語が身体を構築する」ということとは、
何の関係もない話。
問題は「欲求」と「欲望」と「要求」の区別に関わる。
「首を切られたら死ぬ身体」は「欲求」する。「食べたい」。
「欲望」は、「欲求」と違って「リンゴを食べたい」と
「リンゴ」という言葉と関係をもち、「バナナ」でなくて「リンゴ」、
というふうに対象の「選択可能性」と「排除」をともなう。
「(バナナではなく)リンゴを食べたい」という「欲望」は、「再生産」される。
「欲望」が「再生産」されると、「(バナナではなく)リンゴが食べたい」という
「要求」が、分節化の度合いにはいろいろあれ、「音声」としての言葉でなされる。
「欲望」が「再生産」される、ということは、そこに「再生産」の条件が必ずある。
「再生産」の条件は複数あるけれど、そのなかのひとつに「バナナ」「リンゴ」という言葉、
「バナナ」「リンゴ」という名詞の存在が挙げられる。ところで、「再生産」から振り返って
「最初」の「欲望」、「起源」の「欲望」、「バナナ」「リンゴ」という言葉、名詞が
なかったときに、生産された「最初」の「欲望」は、ではどうやって生産されたのか。
デリダはそこで、「欲望」が生産されたということは、「表記」可能な「音声」として
「バナナ」「リンゴ」という言葉がなかったとしても、そこには「欲望を生産、再生産
するもの」としての「バナナ」「リンゴ」という言葉はあった、と考える。そう考えないと
「再生産」される「欲望」にとって不可欠の、「最初」の「欲望」が「生産」されるという
「出来事」が起こらない。ある「欲望」の「再生産」の条件は、「最初」の「欲望」の
「生産」の条件でもある。この「欲望を生産、再生産するもの」としての言葉を
「エクリチュール」という。「表記」可能な「音声」およびその「表記」が
「抹消」されたときに残る、「残余」「痕跡」としての「バナナ」「リンゴ」という言葉、
「エクリチュール」としての「バナナ」「リンゴ」。声を出さずに、
声帯を震わせずに「バナナ」「リンゴ」と言った時の「口腔」のかたちの変化と
「歯」の存在、「舌」と「唇」の動きが指し示すもの。フランス語の langue や
英語の tongue が「舌」という意味と「言語」という意味をもつのを、
ここで想起することもできるし、ゴダールの『勝手にしやがれ』のラストで
「声」無しにジーン・セバーグの「唇」が動く、あのシーンを想起することもできる。
「エクリチュール」の「イマージュ」としてのジーン・セバーグのあの「唇」の動き。
「(バナナではなく)リンゴが食べたいと欲望する身体」は、そうした
「エクリチュール」としての「バナナ」「リンゴ」なしに「構築」されない。
そしてこの「エクリチュール」としての「バナナ」「リンゴ」は、なんらかの
テクノロジーによる「反復可能性」「複製可能性」をもつ。このように
「エクリチュール」としての「言語」によって「欲望する身体」が
「構築」されるのでなければ、「宗教」における「食」の「タブー」も
「汝、姦淫するなかれ」「我に触れるな」も意味がない。「禁止」「規範」は
この「言語」によって「身体」が「構築」される、ということを利用して、
成立する。
「首を切られたら死ぬ」という例はこの「欲望」の次元とは関係がない。
「再生産」される「欲望」とは関係がない。
500 :
395:2006/06/02(金) 00:13:35 ID:ndTTd1rj
Aしたがって性差は、実は個々人の性パターンの差であること。
---
脱字みつけたので訂正。
ただし、発生プロセスにおいて男女・雌雄いずれかにバイアスがかかると
していて(キャナリゼーション)、このあたりはジェンダーバイアスフリーと
いう言葉と折り合いがよくないかもしれない。
「セックス」という「生物学」「医学」の対象となる「首を切られたら死ぬ身体」は、
「欲求」の次元だけでなく、「欲望」まで含めたものとして考えられている。
「なぜ男は(男でなく)女と性交するのか」という問いの答えを、「生物学」「医学」は、
「首を切られたら死ぬ身体」に求める。つまり、そこで「男」の「首を切られたら死ぬ身体」は、
「欲望する身体」、「(男とではなく)女と性交したいと欲望する男の身体」としてとらえられ、
「生物学」「医学」の対象とされている。
「欲望」があるならばそれは「再生産」される。「再生産」の条件として、
なんらかのテクノロジーによって「反復可能」で「複製可能」な
「エクリチュール」としての「男」「女」および「(男ではなく)女」が、
「男」「女」「(男ではなく)女」という「表記」可能な「音声」が「抹消」された
「残余」「痕跡」として存在する。「男は(男ではなく)女と性交するべきである」という
誰かの声の「反復」するエコー、残響、「残余」「痕跡」なしに、
「男とではなく女と性交したいと欲望する男の身体」は「構築」されない。
もちろん、「女とではなく男と性交したいと欲望する男の身体」も
その誰かの声との関わりで「構築」される。
「男は女らしい服ではなく男らしい服を着るべきである」という誰かの声なしに、
「男らしい服を着たいと欲望する男の身体」「女らしい服を着たいと欲望する男の身体」は
「構築」されない。
これが、その誰かの「〜ではなく……するべきだ」という「規範」を命じる声としての
「ジェンダー」が、「生物学」「医学」の対象としての「セックス」を構築する、
「エクリチュール」としての「言語」が「身体」を構築する、ということ。
「言語」によって命じられる「規範」と関わっているから、「同性愛者」や
「女装者」の「セックス」「身体」は、時に「病理」化され、「異常」を
もつものとして扱われてきたのだし、今でも扱いうるし、扱われてもいる。
GID なんて「病名」がつくのも、それによる。
「規範」の「声」なき「声」がつくりだす数々の「セリフ」、「おいおい、
男の子なのに女の子の服着たいなんてヘンだろ」、数々の「視線」「まなざし」、
その「反復」が「欲望する身体」を「構築」する。「変態だと見られたくないと
欲望する身体」もまた、そうやって「構築」されている。
>>500(395さん)
「文化」ってたとえば「日本文化」のように「国民国家」の「名」が
つきますよね。
で、「日本人」という「国籍」をもち「日本文化」を「共有」すると
考えられる複数の個体のなかに、「ノンケ」と「ゲイ」がいる。
これを池田清彦のやり方で説明するとどうなるんでしょう?
503 :
395:2006/06/02(金) 00:25:36 ID:ndTTd1rj
>502
以前の本でセクシュアリティは生得的(受精時ではなく発生プロセス)に
決まることもあれば、文化的に決まることもあると書いていたような。
あとで探してみます。
その文化的に決まる例として戦国大名が稚児を連れていたことを挙げていましたね。
その当時は「日本文化」だったということでしょうか。
このあたりは私も消化しきれていません。
河本英夫のやり方だと、たとえば、「首を切られたら死ぬ身体」という
オートポイエーシス・システムとそれと位相の異なる「欲望する身体」とが
デカップリング可能なかたちでカップリングされている、ということに
なるんじゃないですかね、そこは。つまり、無理に「染色体」レベルと
「セクシュアリティ」とを「一対一」対応させなくてもいい、という。
この「カップリング」というのもまだまだ概念としては厳密さ、
明確さに欠けるんですが、たとえば、スピノザが「心身平行」
「精神と身体との平行」を考えるときに似たものはあると思うんですね。
要するに、「言語」って「生命」とは別のオートポイエティックな
システムである、と。両者のどちらかにどちらかを「還元」しようと
するところに「無理」がある、と。
「言語」の発生を「脳」の機能を初めとした「生命」の方に「還元」するのも、
「生命」の方を「遺伝子情報パターン」という「言語」の方に「還元」するのも、
「無理」があるんじゃないでしょうか。
「身体と精神」ってその両方が「入れ子」状にさまざまな「階層」を
なしながら、カップリングしてできあがってるんじゃないですかね。
506 :
395:2006/06/02(金) 00:40:13 ID:ndTTd1rj
>504
ええ、それはその通りで、だから>497で(ア)(イ)(ウ)と別々のフェーズを
用意したのだと思います。
(ア)は必ずしも(イ)や(ウ)と対応してしていない。
性はとりあえずこれらの組み合わせ上「たくさん」あるとしか言いようがない。
ただ、発生時にキャナリゼーション、谷に物が転がり落ちるような
バイアスのかかり方があって、数の上でのマジョリティとマイノリティが
生じてしまう。うーん。やっぱり難しいですね。
>>506 「数」の上でのマジョリティとマイノリティは別にいいんです。
「マイノリティ」って社会問題においては「数」の問題ではないので。
「女性」って「マイノリティ」ですが「男性」と「数」において
そんなめちゃくちゃな「差」はないわけで。
「ゲイ」の場合には、その「数」の「差」を生む何かが根拠となって、
「質」に関わる社会的「差別」につながることが問題なんですね。
まあ、サイモン・ル・ベイの『クィア・サイエンス』みたいな戦略も
ありますけど。先天的な障害なんだから「差別」するな、ってやつ。
池田清彦はその「数」の上でのマジョリティとマイノリティが出ることを
必然化する自らの議論が、社会的な「マイノリティ」差別を必然化するとは
思わないでしょ?
508 :
395:2006/06/02(金) 01:10:55 ID:ndTTd1rj
>507
その点はこの本でも消化不良でした。考えていないことはないんでしょうが、
この話題の後にマウスの子育ての巧拙は遺伝ではなく学習だという話になって、
小川さんもマウス話に乗っちゃったw
以前から同性愛や性同一性障については障害ではなく「エピジェネティックに
決まるいくつもある性パターンのひとつに過ぎない」と主張してもいるんですけどね。
---
社会は、男か女かって分けちゃって、真ん中っていうのは余り許さない。
真ん中をつくるのがめんどうくさいから、男と女にしちゃったんだろうとは
思うけど。感性が中性という人も時々いますよね。
男と女の二分法で、どこの社会もやっているというのは、その二つが一番
メジャーなので、社会制度もそれに合わせたんだろうね。ただそれがうんと
強くなると、全部それに当てはめようとするから、そこからはみ出したやつは
ちょっと辛い事になるっていうのは当然あって、現代はだんだん社会的な箍が
はずれてきたから、はずれてきたやつが文句をいいやすくなってきたっていう
のはある。
---
制度がゆるくなったからじゃなくて、きつくなりすぎたから、
文句言う人が増えたんだと思うんですけどね。「非モテ」のみなさんとか
そうかもしれない。
「近代」において、「生命」と「言語」は、「生命=身体の資源化」と
「言語=規範としてのジェンダーの構築」といった、両方のオートポイエーシス・
システムの機能を「縮減」「制限」するという「無理」を通して、
カップリングされた。
それに対する「生命」の側からの「抵抗」「反撃」が理念としての「人権」、
「言語」の側からの「抵抗」「反撃」が、芸術ジャンルとしての「小説」「映画」で、
だから、フーコーは「アートとしての生」を、「生存の美学」を考える。
それは「機能」の「縮減」「制限」をはずしましょう、ってことだと思う。
「政治経済学」と「ジェンダー・スタディーズ」「クィア・スタディーズ」の
両方から、「機能」の「縮減」「制限」をゆるめる、 undoing する、と
いうことは可能だということ。
510 :
funわか ◆bbZx8P7qp2 :2006/06/02(金) 01:14:22 ID:MMpzR9w+
395さんは勉強が必要ですね。
511 :
395:2006/06/02(金) 01:17:01 ID:ndTTd1rj
>510
勉強するでありますよ。
>>508 ええ、そういうことですね、「無理」を通すための条件設定が
困難になり、「無理」がそのまま露呈してるから、「制度」が
きつくならざるを得なくなっている。
その結果のひとつが「少子化」ですし、801や「非モテ」の「身体」なんでしょう。
「生命」の側では「少子化」が起こり、「言語」の側では 801 や
「非モテ」の「身体」が「(再)生産」される。
市川浩さんが「身の構造」という言葉で表そうとしていた「身体」と
「精神」との関係は、両者のカップリングを問題としていたのだと、
今からさかのぼって考えられますね。
514 :
395:2006/06/02(金) 01:34:15 ID:ndTTd1rj
上手い説明かどうかはわからないけど、
(ア)性染色体をはじめとする組成の違い
(イ)身体的なみてくれの違い、
(ウ)心的な性アイデンティティ(ジェンダー)の違い
それぞれフェーズについて
アルファベットの「W」みたいな形を想像してみました。
「W」は一本の線で連続しています。
それで、真ん中に行く人はあんまりいなくて、大抵の人は左右
どちらかの谷底へ転がって行くんだけど、社会のタガがキツく
なるにつれて谷の中腹あたりにいた人たちまでもが辛くなって
きたのかなと。
大雑把にしすぎた気もする。
515 :
395:2006/06/02(金) 01:40:18 ID:ndTTd1rj
ひとまず男女の谷底近くにいる人にとって、社会は快適なんだろうけど
男女の谷底はそれぞれ違っていて…という話も今回は(恐らく時間の都合で)
触れられていませんでしたね。リターンマッチ希望w
で、その2つのオートポイエーシス・システムのカップリングに
関わる「行為」のことを、バトラーは「パフォーマティヴ」と
呼んで、「言語」の側から論じているんだと思う。カップリングって
「反復」する「行為」ですよね。だから、デカップリングも考えられる。
>>515 池田さんのこれからに期待ですね^^
517 :
395:2006/06/02(金) 01:46:59 ID:ndTTd1rj
なんとなく、一区切りついたような。
>516
今夜はここで、お先に失礼いたしますー。
あ、funわ閣下もおやすみなさいまし。
519 :
395:2006/06/02(金) 02:03:58 ID:ndTTd1rj
あ、まだ起きてる自分。
>518
構造主義生物学では分子間のコミュニケーションなんかにも
ソシュールの言語学を援用していますし、ゲーテについては池田さんも
言及していて、いつかは分子間のルール(物理法則)も恣意的に
変わるんじゃないかなんて面白いというか不気味なことを言ったりも
していますね。
ただ、恐らく日常的な「言語」の使い方で「言語が身体を構築する」
と言ったとき、単純相対主義的な誤解を招きやすいとも思うんですよね。
こういうのって言い換えが難しいだろうなとは承知しているのですが。
>>519 ラカンが「言語」と「欲望」との関わりを考えるときにこだわるのは、
「開口部」とそこからの「排泄物」なんですね。
「開口部」が問題となるのは、ひとつには「口腔」がないと「言語」ってない、
ってことですね。ただ、ひとつだけラカンは意図的に排除してる
「開口部」と「排泄物」があって、それが「尿道口」と「精液」なんです。
521 :
395:2006/06/02(金) 02:22:20 ID:ndTTd1rj
>>521 昔、生物の授業で習った記憶が。原口が「口」になるか「肛門」になるか、
ってやつでしたっけ。
オートポイエーシスが「境界設定」に注目するのと同じで、
「口腔」って「生物組織」と「環境」との「境界」なんですね。
「耳」の「穴」もそうですし、「生物組織」「細胞」と無関係ではないけど、
それからできている、というわけではない。ギンズ+荒川のいう「切り閉じ」、
cleave ってそうした「穴」をつくるそういう「行為」なんです。
ドゥルーズだったら「襞」を「折り畳む」とか「押し広げる」とか、そう言う。
>>520補足
「尿道口」は「ヒトのオス」の「尿道口」ですね。「開口部」としての
「女性器」「ヴァギナ」と「尿」「経血」、「ヒトのオス」の「尿」は
とりあげられるけど、いわゆる「鈴口」と「精液」が意図的に排除される。
この「穴」については、河本さんも引用する「荘子」の「混沌」の話が
ありますね。
南海の帝と北海の帝が中央の渾沌の住む土地で出会った。主人役の渾沌は
この二人を歓待し、南海の帝と北海の帝の二人は渾沌の好意に報いようと
相談した。「人の身体には七つの穴があって、その穴で見たり、聞いたり、
食ったり、息をしたりしている。ところが渾沌にはその穴がない。
ひとつ穴を開けてあげよう。」
そこで、二人は毎日一つずつ渾沌の身体に穴を開けていったが、
七日目になると渾沌は死んでしまった。
これ、最後に開けた「穴」、なんなんでしょうね。
目、耳、鼻は「対」だから、やっぱり「口」なんでしょうか。
この話では「肛門」と「尿道口」は「穴」じゃないんですよね。
>>523、帝たちの言葉の順だと左右どちらかの「鼻」なのかもしれませんね。
今、思い出しましたが、大澤真幸も『身体の比較社会学』で「混沌」の
話に言及してましたね、「排泄」と「性」が排除されているところに
注目していたような。
オートポイエーシスは「創発」を考えようとしているわけですが、
バトラーのいう Undoing Gender はその「創発」にも関わってると
思うんですね。別のオートポイエーシス・システムへの「進化」かも
しれません。
>>502 海洋文化、欧米文化、ゲイカルチャー(文化?)など、文化は国家を必須とする言葉じゃないですよ。
地域や、時代性、国家、など一つのバイアスをもって表装された●●が文化です。
また、日本文化の中に国籍は関係ないよ。
日本文化と言われる物の中に、在日文化も含まれて海外は見てるから。
526 :
禁断の名無しさん:2006/06/02(金) 08:24:50 ID:KQcQ4Wkv
>>525 性規範を作って押しつけているのは国家だと思っているし、
逆に国家の圧力で既存の性規範をなぎ払おうと思っているから
ごく自然にそういうレスが溢れるのでしょう。
>>525 「たとえば」と言ってるんで「国家」が「文化」に、「必須」とは
>>502では言っていませんね。また、「日本文化」のなかに「国籍」が
「関係ない」のではなく、「在日」文化が含まれている、と表現される
ところに、「日本国籍」は関与してますね。「海外」からそう見られている、
という「意識」があるということなら。
>>526 「性規範」を作って押してつけているのがあるひとつの「国家」、たとえば、
「日本」だとはまったく思ってません。まず、「規範」はどこかで「つくられて
押しつけられるもの」ではありませんし。それはスレの1からのレスを読めば
わかることです。
>>502は395さんの池田清彦についてのレスに対する問いです。
池田さんの「文化」観が
>>526のような「単純な」もの、「性規範を
「作って押しつけているのは国家あるいは民族である」ということを
「前提」にしてはいないか、と395さんにおうかがいしているのであって、
僕が
>>502のように考えている、ということとは違います。
既存の「ナショナリスト」が持ちがちな「文化」観が池田構造主義生物学の
「性差」理論では「前提」とされていないかどうか、を問うために、
「ナショナリスト」の「文化」観を、「引き合い」に出しているにすぎません。
>>502はフランス語でかけば、「条件法」、いわゆる「日本文化」と
呼ばれもしようものがあるとして、それを「共有」し、「国籍」を
同じくする「日本人」なるものがあるとして、それと池田清彦の
「性差」理論における「文化」は、どういう「論理的な関係」に
置かれているのか、を問うているわけです。
「〜と呼ばれもしようものがあるとして」という言葉を、日本語では
>>502のように省略できます。そこを、「書き手」本人の「意見」「見解」である、
と読むのは「単純な読み間違い」です。
僕の
>>502での問いを「文法的に正しく」395さんは理解し、
>>503のように答えてくださっている、それだけのことです。
池田清彦は僕が立てた「問い」に関しては「ナイーブ」だ、と
お答えになっていて、そこはまだ詰める余地がある、そういうことですね。
「在日文化も含まれて」と「も」という助詞を使ってしまうところ、
「が」という助詞ではないところに、「国籍」による「排除の可能性」を
「意識」しているのが表現されている、んですね。「包摂」と「排除」に
関わる助詞ですから、「も」は。
僕は「文化」を「固定的」「不変的」なものであるとは考えません。
「コード化」「脱コード化」「超コード化」、「領域=領土化」
「脱領域=領土化」「再領域=領土化」といった「運動」との
関わりで「流動的」「可変的」なものであると考えます。
池田さんがこうした「文化」観と自らの「性差」理論を、これから
どう結びつけるか、そこに注目しているわけです。
別にそんな何レスにわたって必死にお書きにならなくてもねぇ。
そのあたりに貴方の必死さが伝わってきますよ。
>「文化」ってたとえば「日本文化」のように「国民国家」の「名」が つきますよね。
例えばが「日本文化」だけでなく【「国民国家」の「名」が つきますよね。】
までかかるとするならば「文化って・・・」に続く言葉って何ですか?
「文化って例えば●●ように、××がつきがちですよね。(もしくは結びつきやすいですよね)
と書ける日本語力があなたにあれば良かったんだけどね。
もしくはフラ語の嫦時性(あ、出身大学ばれそうw)を理解出来るだけの知識かのどちらかだけでもね。
「そうみられている意識」があるから「書く」のではないのですよ。
そう「分化」できるからそう「分析」し「書ける」のですよ。
可能性を試し色々分析する。だからこそ、「書ける」のですよ。
私がどう意識するから「書ける」のではなく、
書き手が様々な可能性を試し、そのなかで反例を探す。
そして指摘し「書く」事で事象はより深さを持ち意味が多重化する。
しかし、そのあなたは、ここでその物事の本質を語る事をやめ、
「書き手の問題」に話をすりかえています。
貴方とディベートする際、ディベートでチームAがラスコーリニコフを肯定する側に立ったら、
チームAのメンバーは殺人を犯しかねない。そんな奴と会話は出来ないと言われるのでしょうか?
>>528 >「書き手」本人の「意見」「見解」
は反映されませんよね?笑
>>531 たぶん、そういうレスが帰ってくるだろうと思ってました。
レスの数を「書き手の必死さ」と受け取り、レスの内容と
「すりかえる」というのも、「出身大学」で教わったんでしょうね。
日本語で「たとえば〜つきますね」と言えば、「つくことがありますよね」と
受け取ることは可能ですね。僕と395さんは「口語」でおしゃべりしていたわけです。
で、395さんは僕の「たとえば〜つきますね」を「つくことがありますよね」と
「素直に」受け取り、
>>503を書いた。誤用論レベルの話ですね。
僕の「文化」に対する「意識」が問題ではないのだとしたら、
たんに
>>502に対しては
>>525は「不要なレス」である、と
いうだけのことです。「書き手の意識」の問題でないとすれば、
なぜ、
>>525は
>>502への「レス」として書かれているんでしょう。
「問いかけ」として。「あなたはそのように考えているんですか?、
それは間違いですよ」ということでしょ? で、「そんなふうには
考えてません」と言っているだけのことです。
僕がこれまで「近代における規範としてのジェンダー」について
何をどう書いてきたかをみれば、
>>525のような「問いかけ」も
それに対する
>>526のような「解答」も出るはずがないんですが。
「ジェンダー」の解体を考えるにあたっては、
>>530のように
「文化」を考えるということが前提となっているわけでして。
僕はあなたと違って「書く」という「行為」が「書き手」、
ネットの外で生活している「書き手」とは異なる「書き手」を
つくる、と考えるわけです。だから、「筆名」なんてのもある。
>>531に対しては、そんなことは言いませんし、まず、ディベート
しません。ドゥルーズが言うようにそれは「無意味」ですから。
だから、このスレも「議論」スレではない、と考えている。
「ラスコーリニコフは肯定できるか?」なんてどうでもいい問いは
立てません。立てたいひとは立てればよろしいが、僕にとっては
どうでもよい問いです。そういったレベルで「肯定する」側、
「否定する」側の「どちらが正しいのか」なんてどうでもいい。
その「正しさ」に支えられた「脆弱なアイデンティティ」には
まったく「興味」がないんです。
>>525が「「あなたはそのように考えているんですか?、
それは間違いですよ」という「問い」であるなら、
それはそのように「問う」者である「あなた」の「意識」と
関係がありますよね。
「も」については、別に「が」との選択可能性を「意識」して
「分化」したわけではないでしょうから、正確には「無意識」が
現れている、そういうことなんでしょう。それが「日本文化の
なかに国籍は関係ないよ」という主張を「裏切っている」。
そのことをネットの外の「書き手」が「意識」してない、
それだけのことですね。
>>531であなたが書いているのは、「私は
>>525を書く際に、
その『書く』という『行為』を『意識』していたわけではない」と
いうことで、それはそうだと思います。
それと、ネットの外の「書き手」と異なる「書き手」が、
「も」で「文化」と「国籍」との関係を「選択」と「排除」として
「意識」しているかどうかは別のことです。
ネットの外の「書き手」が、自分と完全に一致すると思っているがゆえに、
「書く」という「行為」の「反復」で生まれる「書き手」の「意識」を
「意識」していない、そういうことはよくありますし、それを完全に
「意識」することはできないでしょうし、必要でもありません。
>また、日本文化の中に国籍は関係ないよ。
>日本文化と言われる物の中に、在日文化も含まれて海外は見てるから。
の「も」以外のところは、ネットの外の「書き手」の言葉で、
「も」は「書く」という「行為」の「反復」で生まれる「書き手」の
言葉だということですね。それをネットの外の「書き手」が
「意識」していない。
で、僕は
>>530を書くことで、その「も」の「書き手」、「言表」の「主体」を
問題としていますが、ネットの外の「書き手」、「言表行為」の「主体」は
まったく「問題」にしてません。なので、
>>531はその意味で「レス」として
「的外れ」ですし、
>>532は「書く」という「行為」と無関係なので
「的外れ」です。これは、ネットの外の「書き手」である「あなた」を
「問題」としているのですが、それと
>>530は別です。
僕の
>>502は「ナショナリスト」としての「書き手」が書いた部分と
ネットの外の「書き手」が書いた部分とがありますが、「つきますよね」には、
「がつきがちですよね。(もしくは結びつきやすいですよね) 」という
「指摘」および「訂正」が必要な「無意識」はたぶんないので、
395さんが
>>503のようにレスしてくださるんでしょう。
>>531の
>そう「分化」できるからそう「分析」し「書ける」のですよ。
>可能性を試し色々分析する。だからこそ、「書ける」のですよ。
>私がどう意識するから「書ける」のではなく、
>書き手が様々な可能性を試し、
にはまったく異論ありません。「私」が「言表行為」の「主体」で、
「書き手」が「言表」の「主体」ですから。
「言表」の「主体」である「書き手」が「様々な可能性を試し」た
結果、「が」ではなく「も」を選んでしまった。それを
>>535の
> それと、ネットの外の「書き手」と異なる「書き手」が、
>「も」で「文化」と「国籍」との関係を「選択」と「排除」として
>「意識」している
というのは妥当でしょう。「試し」てるんだから「意識」がある。
ただその「意識」は「言表行為」の「主体」である「私」には
「意識」可能ではあるが、意識されていない「無意識」だ、というだけです。
>レスの数を「書き手の必死さ」と受け取り、レスの内容と
「すりかえる」というのも、「出身大学」で教わったんでしょうね。
笑った。W あなたいいわー。
>>525が、
>>526さんが「解釈」なさったように、
>>502では、
「書く」という「行為」によって生まれる「書き手」が
「ナショナリスト」であることを、ネットの外の
「おまえ」は「意識」していない。なので、「おまえがナショナリストで
あることを自覚せよ」という「要求」でしたら、別にそれを飲むことは
なんでもないんですが、それに何の意味があるのか、それはわかりません。
「だからどうした」、という感じですよね。
僕は、
>>525の「も」の「書き手」が「ナショナリスト」である、という
「指摘」はしたかもしれませんが、そのことで、それ以外の部分の
「書き手」であるネットの外の「書き手」に「ナショナリストであることを
自覚せよ」とは、言ってません。そう聞こえるとしたら、それは
そのネットの外の「書き手」の問題です。また、仮に僕がそう「要求」したとして、
僕と同様に「だからどうした」と言っていればいいんじゃないでしょうか。
なぜ、そうできないのか。それは「僕の問題」じゃない、「あなたの問題」です。
>>526さんのレスは「曖昧」なんですね。
>性規範を作って押しつけているのは国家だと思っているし、
>逆に国家の圧力で既存の性規範をなぎ払おうと思っているから
>ごく自然にそういうレスが溢れるのでしょう。
「思っている」のが「誰」なのかが「曖昧」で、おそらく、
ネットの外の「書き手」と「書く」という「行為」の「反復」によって
生まれる「書き手」を完全に一致したものととらえるという「常識」に
のっかったうえで、ネットの外の「書き手」が「思っている」と
考えているので、
>>525の「問い」への「レス」として
書かれているんだろう、と僕は「読んだ」ので、「違いますよ」と
レスしたわけですね。 これは「否定」です。
>>525さんが僕のレスに対して行っているのは「否認」ですね。
「否定」しているという事実を「否定」している。僕のレスに
対して
>>525のように「わかってないですね、違いますよ」と
「否定」するのは別にいいんです。また僕がそれを「否定」すれば
いいだけのことですから。ただ、このスレをこれまで読んでくれば
「いう必要のない
>>525のレス」を「あなたが僕に問いたくなったのは
どうしてですか?」と僕が問いかけた時に、「私は否定なんかしてません」、と
>>502に対して「『わかってないですね、違いますよ』なんて私は言っていません」と
「否認」されると、話がズレるんです。
なんで
>>525さん、これはネットの外の「書き手」、「言表行為」の「主体」です、が
>>525のレスを書きたくなったのか、僕にはそれが「不思議」「謎」なんですよ。
このスレを最初から全部読まなくても、今スレに「ジェンダー」をめぐって
書いていることだけを読んでも、僕が「文化」について、
>>525のような
「指摘」や「訂正」を受ける必要はないと、僕は思うんですが。
要するに
>>532で「ディベート」の例が出てくるということは、
ネットの外の「書き手」としての
>>525さんは勝手に僕を
「ディベート」の「対戦相手」にして、「ディベート」して
「勝ちたい」、とそういうことなんでしょうか。
なら、話はとても簡単です。僕は「不戦敗」で結構です。
「不戦勝」をお譲りします。次の方と「対戦」なさってください。
あ、「決勝戦」には呼んでいただければ「応援」くらいには
かけつけます。よかったら、好きなお花教えてください。
もっていきます。
もういいんじゃない?ww
あなた意外に性悪ね。
>>542 意外、ですか? 結構「意地悪」で「性悪」だという自覚はあるんですが(^-^;
自覚しないとさらに大変なことに……
意外なのはわたしの思い込みがあるからね。
インテリジェンスな人に対しての。
わたしの中での好感度は確実にアップしたわよ。W
すっげ伸びてる?!?!?!と思ったら……w
ちゃんとしゃべろうと思ったら、最低でもこんくらいレス使っちゃうよね。
>>545 すいませんね(^-^;
前から言っているように、ここで「ディベート」だのなんだの、
「コンテスト」をやっているつもりは、まったくないんで、
「俺の方がすごい、私の方がすごい、と認めろ」、と
要求するのであれば、「ディベート能力」だろうと、
>>531で
僕を「嘲笑」するべく「動員」されるというかわいそうな使われ方を
している「フランス語に関する知識」だろうと、「日本語力」だろうと、
認めることはなんら難しくないわけです。
「はい、あなたの方が上です、で?」で、すむ。
あとは、その「僕よりもすごい能力」を使って
このスレの
>>1にそくしたことを書いてくれれば
それでいいだけなんですが、それだけはしてくれない。
なので、何がしたいのか、僕には「不思議」だし「謎」なんです。
似たようなことがあるたびに前から。
547 :
禁断の名無しさん:2006/06/02(金) 18:59:57 ID:emsWgxmn
追い込まれたら、喋ってる本人にもよくわからん横文字でけむにまけ!
それでもだめなら相手の質問に答えず、質問に質問を返して疲弊を待て!
それ以上の中身などない。そんな学問、フェミニズム。
代表:上野何某(職業・基地害)
548 :
禁断の名無しさん:2006/06/02(金) 19:14:25 ID:veYD+sc8
42には無敵の御札があるからなぁ。
「誤読の自由」
549 :
禁断の名無しさん:2006/06/02(金) 19:23:17 ID:veYD+sc8
「誤読の自由」の御札で色々な局面をすり抜けてきた
(本当は呆れられて放置されてきた)から、
本当の読解力はもう衰えちゃってヨボヨボの爺さん並なのよ。
多分もう、何を指摘されてるのかすら理解できてないんじゃないかなぁ。
反射的に詭弁と妄想と本の受け売りを垂れ流してるだけのボケ老人…
この程度のお味噌だから社会学やってるのか、社会学やってるとこの程度のお味噌になるのか、
タマゴが先か、ニワトリが先か。
悩ましいなぁ…
>>549 「言表行為の主体」が「誰」あるいは「何」をどう「差別」しているのかが、
よくわかる「素直」な「告白」の「レス」ですね。
前から言っているように僕は「社会学」ってやったことないんですね。
なので、まず「問い」が間違っています。僕の「お味噌の程度」を
なぜ、あなたか「気にする」のか、その「不思議」「謎」は僕にはわかりませんが、
僕の「お味噌の程度」が「あなたより低い」というのを認めるとして、
それは「社会学」とは何の関係もないです。
で、「お味噌の程度があなたより低い」ことは認めますが、
それで何がどうしたのか、というのが
>>546で僕が書いたことで、
「ボケ老人」ではない
>>549さんには「何を指摘されているのか」は
十分に「理解」されていることと思います。
>>549 あと、
> 本当の読解力はもう衰えちゃってヨボヨボの爺さん並なのよ。
という「言表」による、「『本当の読解力』は私の方が
すぐれていることを認めろ」という「言表行為の主体」の
「要求」にも応じますが、「は」という助詞の使用が示す、
「僕の方があなたよりすぐれている」らしい
「『本当の読解力』ではない『読解力』」って何なのか、
教えていただけると助かりますね。
>>545 ことほどさように、一部の名無しさんたちの「レス」は
「不思議」「謎」なんですね。
まず、これ、
>>1に合ってるんでしょうか。「俺、私の方がおまえよりすごい」スレとか
立てて、そこでやった方が妥当なのではないかと、思いますね。
あるいは「本当の読解力がヨボヨボの爺さん並みのやつを探せ」
「本当の読解力と加齢との関係」スレか、「お味噌の程度と社会学との関係」スレとか。
いずれにしても「同性愛板」に立てる必要はないスレばかりですし、
とてもこのスレの
>>1に合うとは思えないものばかりですね。
いやー。ディベートを未だに勝ち負けで考えている方がいるんですね
ってディベート教育をちゃんと受けてきてない世代の方にありがちな良くある誤解ですね。
でもそーいった方でも、国外(第六大学とかw)でも高等教育をうけてきていた方々は
しっかりなさってたんだけどなぁ。
素朴な疑問なんですが、国外の大学とかには行かなかったんですか?
>>546.533
を読むと本当にディベートを分かってないような。
でも
>>536を読むとちゃんと分かってるような。
ほんと不思議ですね。
ディベートは正しさを競う物じゃないんだよ。
だって相手が必要なんだからさ。一緒に相手と何を掴むためなんですよ。
正しさを競うためって誤解してるから「脆弱なアイデンティティ」だなんて
脆弱な言葉が出てくるのかな。
本を読む事は悪い事じゃないけど、その書かれた(つくられた)環境でその環境を学ぶ事も大切だよ。
あ、あとね、レスの量を言ってるんじゃなくてレスの数ね。
どっかの誰かが「これだけ書かなきゃ伝わらないよねー」って誤読してたからね。
できるだけ、気持ちのママを即時性をもって伝えたいから書き込みボタンを押して
読み直して書き足りなくなるのかな。
段落を分ける事に意味があるように、レスを分けるのにも同じだけの神経を使ってほしいな。
>>553 「ディベート」一般がそうであることを認めるに吝かではありませんが、
>>525ののあなたのレスを読む限りでは、「ディベート」はそうしたものには
なってない、ってことです。
>>525って「競う必要のない」はずの「正しさ」を
「競う」レスになっているでしょう?
で、僕がいつあなたと別の組で「ディベート」することに、誰が決めたのか、
まったくわからないんですね。
>>502を受けて、「そうですね、文化って
ナショナリストが考えるのだけじゃないですよね、
>>530みたいなものですよね」と
書いてもいいわけで。
「正しさを競うため」って「誤解」しているのは、
>>525の「言表の主体」ですよ。
それを「言表行為の主体」であるあなたは「意識」していない。あなたは
「ディベート」一般がどういうものか「理解」しているけれど、
>>525の
「言表の主体」はそれを「誤解」している。で、その両者がどんな関係に
あるのかは、「僕の問題」ではなく、「あなたの問題」です。
うーーーーーん・・・・・・残念。
>>555 ああ、あと「ディベート」一般が、
>ディベートは正しさを競う物じゃないんだよ。
>だって相手が必要なんだからさ。一緒に相手と何を掴むため
であり、そのことを認めるに吝かではないとして、
ある「ディベート」がそうした「理想的」なものにはならない、と
いうこともまたよくあることですね。中世のスコラ哲学が
衰退していく時と同じように、「重箱の隅」のつつき合いになったりね。
つついて、新たな展開のある「重箱の隅」ならいいんですが、
>>502に対する
>>525ってそうではないですよね。いわゆる「揚げ足取り」や
「法廷戦術」、「
>>555でおっしゃる『理想的』なディベートとは
異なる技術と化したディベート」に属するものでしょう?
>>525で僕といっしょに「何かを掴もうとしている」というのは
「無理」がありませんか?
>>557 「『ディベート』は
>>555でいうようなことを「目的」「理念」「理想」としている、
ところで私のやっていることは『ディベート』である、したがって、私は『ディベート』の
「目的」「理念」「理想」を『実現』している」とはなりませんよね?
また、「ディベート」以外にも「一緒に相手と何を掴むため」の
言語の使用法ってありますよね? まさか、すべての「一緒に相手と
何かを掴む」ことを「目的」とした「言語運用行為」に「ディベート」が
含まれる、とはおっしゃらないでしょうし。
「ディベート」が「お得意」なら「ディベート」をなさりたい他の方と
>>1にそくしてやってくださると助かります。僕は「ディベート」以外の
やり方で「一緒に相手と何かを掴」みますので。
ID:BTfYRBFmは優しい人間だな。
>>556で感じている「残念」は
これからの人生の重要な糧になるよ。
議論・ディベートどころか、対話・雑談でさえ困難な人間は
この世の中にごく当たり前な顔をして、至る所に生息している。
何が優しいんだかW
好きで書き込んでるだけでしょ。
もしかしたらここのコテの目を覚まさしてやるとかの使命感でやってる?WW
>>560 >もしかしたらここのコテの目を覚まさしてやるとかの使命感でやってる?WW
昔はね、少しはそう思ってた。少なくとも同じ日本語なら何かしら通じるはずって。
でも現実に目覚めさせられたのは自分だったよwww
今は趣味で電波浴してます。
電波浴してるだけでは飽き足らないってわけか。
↑
電波キタワァ
どうして
>>562が電波なのか、説明しても無駄でしょうから
スルーさせてくださいね。
ワタシ、電波浴が出来ればそれで良いので
電波の人とは絡みたくないんです。ごめんなさい。
「ディベート」って先に言い出したのはID:BTfYRBFmのようだね。
今日は久しぶりのオフだったんだろうか、充実した時間を過ごせたんなら良かったね。
>>546 >あとは、その「僕よりもすごい能力」を使って
>このスレの
>>1にそくしたことを書いてくれれば
>それでいいだけなんですが、それだけはしてくれない。
何回も要求してるんだけど、そこだけ綺麗にシカトしてんだよねw
頭が悪かろうと、「学歴」がなかろうと、
「ディベート」のやり方を知らなかろうと、そんなの関係ないのにね。
そういう事をまず云々しなきゃ気が済まないんでしょうネww
余裕がたくさんあって羨ましいよww
>>545 で、
>>525さんとの「やりとり」でわかったことがあって、
それは僕の「喜び」だったりする。
「ディベート」って「正気」でないとできないけど、
「書く」って「狂ってても」いい。
これが
>>525で「言表行為の主体」が僕を「ディベートの相手」として
「一緒に掴もうとした」ことなのかどうかは、わかりませんが。
ニーチェの断章を読むと、「ニーチェ」がひとりで「ディベート」してる
みたいなところがあって、ああいうひととはきっと「ディベート」できない。
「自己矛盾」どーんとこい、というか、「へ、そんなこといいましたっけ?」って
端から自分が言った「内容」を「忘却」してしまう。これは「自分があることを言った」という
「事実」を「そんなことは言ってない」と「相手」に対して「否認」するのとは違う。
その「否認」はあまりに「正気」すぎる。何か言ったのだけれど何を言ったのか、
その内容を「忘却」してしまう。「そんなこと」が「どんなこと」なのかわからなくなる。
だから「ニーチェ」は「狂っている」と言われる。「歴史上のすべての名、
それは『私』である」とか言っちゃう。
でも、「ニーチェ」って文章を「書く」。「書く」からさらに「狂う」。
「書く」という「行為」の「反復」が「書き手」をつくりだすというのは、
その「狂い」とひとは「書く」ことを通じてつきあわざるをえない、
そういうことです。ネットの外の「私」には「統御不可能」
「コントロール不可能」な「他者としての私」とね。「自分で自分を
完全に意識し完全に統御している」ということが「正気」の定義なら、
それは「無理」「不可能」であるがゆえに、ひとはどこかいつも「狂っている」。
その「狂い」のひとつが、「自分は『自分で自分を完全に意識し
完全に統御できている』はずだ」という「信念」としての「正気」、
「他者としての私」を「私」から「排除」する「信念」としての「正気」です。
その「狂い」である「信念」としての「正気」が、他者を「狂人」として
「排除」することを要請する。
その「他者としての私」「狂い」を「効果」としてつくる「運動」のことを、
デリダは「差延」 differance と呼んだんですね。フランス語の
differer に「違う、相異なる」という自動詞の意味と、「延期する、
延ばす」という他動詞の意味とがあることを利用して、この言葉をつくった。
今では仏和辞典にも載っている言葉です。
この言葉はデリダが「創造」「発明」したものですが、その言葉によって
示されていることについては、たとえば、カリフィアの本の
翻訳者の方のサイトの文章でも、知人のエピソードとして似たような話が
ありましたが、すでにスターンの『トリストラム・シャンディ』に
あるんですね。18世紀に書かれた小説にすでにある。
あれはあの物語の「書き手」が自分が現在の自分になるまでを、
先祖の話から順に書いていく、という小説なわけですが、その途中で、
「ここまで書くのに100日かかってしまった、書かなきゃいけない
ことが100日分増えた、私のペンはいつまでたっても私に追いつかない!」
なんて「書き手」が悲鳴をあげるところがある。
別に100日書かなくても、いつだって「私のペンは私に追いつかない」。
「ディベート」は、その「差延」の「効果」を「利用」して成り立っている
「ゲーム」「遊戯」なんです。「どこまで私のペンは私に追いつけるか」
「『言表行為の主体』である『私』は『言表の主体』である
『書き手=他者としての私』をどこまで『統御』『コントロール』でき、
両者を『一致』させることができるか」を、たとえば、「ラスコーリニコフは
肯定できるか?」といった「言表行為の主体」の「実存」にとっては
「どうでもいい問い」である場合も往々にしてある「問い」をとりあげ、「競う」。
先に「やっぱり追いつかない!」と「悲鳴」を挙げた方が「負け」です。
どこまで「正気」でいられるかを「競う」、そういう「ゲーム」。
>>555でいう「理想」はフーコーのいう「言表」からみると、つねにすでに、
潰えているんですね。なので、ドゥルーズは「私は議論が嫌いだ」と言う。
「自らが『正気』であることを再確認し、それを『脆弱なアイデンティティ』に
するために、他者と『正気』を競い合うなんてそんな『無駄』で『つまらない』ことは
したくない」と、ドゥルーズに言わせればそういうことなんでしょう。
「相手といっしょに何かを掴む」契機であるはずの「狂い」がなるべく
出ないように「努力」する、なんてご免だ、と。「狂気」「狂い」の「生産性」、
「書く」こと、「読む」ことの「生産性」が「排除」されていることが、
ドゥルーズには我慢ならない。
僕も
>>555さんほどではないでしょうが、たとえば、ネットの外でもやってきましたし、
ネットでは「同性婚」スレや「大統領」スレでやったように「議論」「ディベート」って
それなりにしてきて、後者では名無しの方に「ディベーターの鑑」と
言われたこともあるんですが、ドゥルーズのいうことが、なるほど、と
思えることの方がやってみて多いんですね。
それにネットの「掲示板」って「書くメディア」ですし。「ディベート」に
向いている「情報メディア」ではないんじゃないでしょうか。まあ、
「ニーチェ」ほど「狂う」必要があるかとか、「狂う」ことが可能かは別にして、
「書く」という「行為」の「反復」が生み出す「狂い」とつきあう「楽しみ」を
分有すればいい「空間」なんじゃないですかね。みなさん、「意識」せず
「断章」をお書きですし。かなり無防備に「無意識」を「表現」「露呈」していらっしゃる。
「狂う」ことが前提で「書く」から、「無意識」が関わるから、
「責任」を取れるほどに「正気」でいるには、「名無し」ではなく
「署名」する必要がある。モエタンはこのことがわかっているんで、
僕がスレの1で「42」という「コテ」をつけた時に「42タンは
責任を取ろうとしている」と「責任」という言葉を使ったんですね。
「責任」は「署名」の「効果」である、デリダが言うのは、
「署名」が「差延」の「効果」として「責任」と「責任を負うべき者」とを
つくりだす、ということですね。これは、「信念」としての「正気」、
再確認に「自らの他者」を「狂人」として「排除」することが不可欠の
「脆弱なアイデンティティ」としての「正気」とは別の、
「反復」する「行為」としての「正気」です。
>>562 >>561さんは「信念」としての「正気」をお持ちの方のようで、
「電波浴」が「必要」なんですね。でも、この程度の「電波」
「狂い」で支えられる「信念」ってたいしたことはないですね。
ヘルダーリンとかビュヒナーとかもっと「強力な電波」を
浴びてみられるとよいでしょう。「信念」の「強度」が試され、
「脆弱」ではなくなります。
へえ、ニーチェに親近感がわいてきましたw>「へ、そんなこといいましたっけ?」
俺もよくやるんでw
ていうか、過去に何を言ったか・どう考えていたかを「覚えていること」に
どんな意味があるのか分かんない。
そこから紆余曲折を経て(その間に色んな人と"出会って")現在に至ってる、わけでしょ?
むしろ、同じことを前にも言ったような……?って思う時が一番イヤかも。
ループしてる恐怖があるんだよね。なにも前へ進んでいない、みたいな。
>>564 はくタンを初め、「コテ」や「電波浴」にこのスレに来ているのではない
他の名無しさんたちには言うまでもないことなのですが、
規範としての「ジェンダー」というのは、上で述べた
「信念」としての「正気」のひとつです。必ず「狂気」「狂人」の
「排除」を必要とする「信念」です。
それを「反復」する「行為」としての「正気」にしましょう、
というのが、「パフォーマティヴ」という言葉を用いながら、
Undoing Gender を試みる、バトラーが言っていることですね。
>>568 その「ループ」を「悪循環」と名付け、『ニーチェと悪循環』という本を
書いたのがピエール・クロソフスキーというひとです。
今、日本で画家バルテュスのパートナーの節子さんの展覧会が
開催されていますが、そのバルテュスの兄としても知られています。
まあ、ニーチェは何かを書いた次の行ですでに「忘却」しているので、
はくタンはまだまだ、ということではないかと。
1行で?!?! さすがにそれは無いなーw
>>569 ところで俺は
>>526に仰天したんだけど。
「ジェンダーフリー」とかに関わる話になると(このスレに限らずね)
しばしば、右翼だの左翼だのリベラルだの保守だの
すごく政治的なコトバ(@俺の感覚でねw)が出てくるんだけど、
>>526みたく『国が規範を押し付けてるのだ』と思っている人が
多いんかな???
それは、確かにそういう所もあるんだろうけど、なんか違うと思うんだよね。
ぜんぜん関係ない話なんだけど。
>>563のような書き方って、なかなか面白いと思う。ちょっと俺には書けないレスだ。
>どうして
>>562が電波なのか、説明しても無駄でしょうから
>スルーさせてくださいね。
とは、>562である俺と本人以外の人々に向かって言ってる、と考えるのがふさわしいよね。
そうすると、
>説明しても無駄でしょうから
ってのは、俺を除いた人々に対してずいぶん失礼な物言いだと思うんだよな。
で、電波の人である俺にアンカーつけてみずから「絡んでいる」のを、
俺と本人以外の人々に「見せて」いるのに、この言い草↓
>ワタシ、電波浴が出来ればそれで良いので
>電波の人とは絡みたくないんです。ごめんなさい。
客の前で、こういう漫才を俺と一緒に演じてる「
>>563」は、
>563本人の目にはどんなふうに映っているんだろう??
独りで舞台上で気分良くしゃべってたら、
下手から俺がぬっと出てきてベラベラッと
>>562をしゃべった。
それを見て、改めて観客に向かって
>>563の科白なのかな??
これだと辻褄はあうけれども、
>説明しても無駄でしょうから
の観客に対する無礼さは消えないね。
それともこの方は外国人かしら???
外国のコメディアンとかだと、こういう言い方をしそうな気がする。
>>572 言われるまで気がつかなかったけど
>>563って確かに
丁寧な口調でみんなを敵にまわしてるわよね。W
ホントコメディよね。
>>572 >>563さんに限らず「趣味で電波浴が必要」となる方、
「電波」に「アディクト」「嗜癖」されてる方は、
ネットの外の「環境」をお変えになるのがよろしいのではないかと、
「他人事」ながら思うんですね。
「転職」なさるとか。「海外」での「研究経験」があり、
「高い語学能力」と「幅広い知識」それに加えて
「高いディベート能力」があるなら、引く手あまたでしょうし。
ヘッドハンティングだってありそうですよね、それなら。
学生なら「留学」するとか、「転学」するとか。
「信念」としての「正気」を揺るがす「ストレス」の
より蓄積されない場所に、「趣味としての電波浴」なんて必要ではない場所に
「自分の高い能力」を用いて「移動」すればいいんじゃないかと。
>>566で書いたように、
>その「狂い」のひとつが、「自分は『自分で自分を完全に意識し
>完全に統御できている』はずだ」という「信念」としての「正気」、
>「他者としての私」を「私」から「排除」する「信念」としての「正気」です。
>その「狂い」である「信念」としての「正気」が、他者を「狂人」として
>「排除」することを要請する。
ので、
>>563さんがそうであるかどうかは別にして、これが、
「クローゼットにいるゲイ」の方が、現在生きている「環境」において、
「『正気』であらねばならない、『信念』としての『正気』を
保たなければならない」という「厳命」に「ノンケ」よりもより強く
さらされているがゆえに、「ゲイ」に対して、とくにカムアウト
している「ゲイ」あるいは、何らかのきっかけで「ゲイ」であることが
判明した「ゲイ」に対する「差別」「バッシング」が「ノンケ」よりも
往々にしてより強くなる原因、「ホモフォビア」が「ノンケ」よりも
より強くなり「他者としての自分嫌い」につながる原因としての
「狂気」であり、敢えていえばそれもまたひとつの「電波」なんですね。
>>563さんに限らず「趣味で電波浴」が必要な者は自分が「電波」出していることを
「否認」しなければならない「環境」にあるんでしょう。なので、他人の「電波」に
「アディクト」してそれをかろうじて「否認」することを「反復」するよりは、
「ストレス」を溜めずにすみ、「電波」を出さずにすむ「環境」に「自分の高い能力」を用いて
「移動」する方が長期的にみてよいと、「他人事」ですが、思います。
「電波」を出していない「人間」はいない、というのは、
「無意識」をもたない「人間」はいない、という
「精神分析」の命題に言い換えられます。
これはこれで、「じゃあ、動物は?」って話になるので、
また「問題」ではあるのですが、それはとりあえず措いておくとして、
「人間」は「電波」を出すものである、ということならば、
その事実を「否認」するよりは、どんな「電波」を出すかとか、
自分がどんな「電波」を出しているのかとか、相手が出した
「電波」の「周波数」「周期」「出力」等をどう「変化」「変調」させるかとか、
そういうことをお互いに「楽しむ」方がいいんじゃないでしょうか。
とくに「書くメディア」では。
で、できれば、
>相手が出した「電波」の「周波数」「周期」「出力」等を
>どう「変化」「変調」させるか
をスレの
>>1にそってやってくださるといいですね、というのが
もう何度目なのかわかりませんが
>>546なんですね。
>>574 「クィア」に苛立つT'sと同じだ??
そういう人たちは、「正気」「狂気」「変態」なんかのイメージが
貧困ってのもあるんでしょうね。
>>573 うんコメディだね。本人もコメディを演じようと努力はしてるみたいだけど、
電波(俺)の登場なんかで、あんな風にハシャいじゃったらダメだよなあ。
イメージが貧困だから、
こういう場所でいろんな人の「現実認識」に触れるのだ。
>>577 >>578のコテ、「は」が抜けてますね(^-^;
そういうこと。なので、どこの板になるのかわかりませんが、
「私には無意識などない」スレとか、「私は『電波』など出してはいない」スレとか、
「私はおまえらより『正気』だ」スレとか、どっかに立てて、そこでやれば
すむことなんじゃないかと思うんですね。
>>563さんおよび同じような名無しさんに関しては。
このスレの
>>1に今のところ何の関係もないので。
でも、「私には無意識がない」って主張するひとってたぶんいないと
思うんですよね。私は眠らない、眠っていて夢を見たことが一度もない、と
いうならともかく。「無意識」というのも「抽象的普遍」なんですね、
で、それを相互に分析し合うことで、「具体的普遍」を「構築」するはずが、
それがさらに「オイディプス・コンプレックス」という「物語」
「ファミリー・ロマンス」として「抽象的普遍」を「構築」し、
さらなる「具体的普遍」の「構築」を妨げているのではないか、
というのが、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』なんです。
この「無意識」の「度合い」で「正気」か「狂気」か、って競っても、
歴史上で「狂気」と「認定」されているひとびとを前にすると、
僕らみんな似たりよったりの「正気」、同じことだけど「狂気」だと
思うんですね。「狂ってても」たいしたことはない。なので、
そんな「正気」あるいは「狂気」を、ネットの「掲示板」という
「書くメディア」で競う必要はない。どんぐりの背比べだと思います。
「具体的」に自らのそして相手の「狂気」とつきあう方がいいと思うわけです。
「抽象的普遍」ってことでいうと、リンク先の「署名者」が援用する竹田青嗣についてはね、
彼固有の「問題」には確かにこの「クィア」が使ったやり方は使えないし、
使えなかったんです。「みんなクィアだ」というように、「みんな在日だ」と
言うのは難しい。彼が「クィア」のようなやり方に「反発」するのは理解できます。
でも、それは「クィア」のやり方が「本質的に無効である」ということとは、
また別の問題だと思うんですね。竹田青嗣の「経験」を理由に、T's は「クィア」や
「フェミニズム」のやり方を一切採用すべきではない、と判断するのは「性急」だと思う。
別にやり方を「ひとつ」に限定しなければならないわけではありませんし。
実際、カリフィアもいれば、「トランスジェンダー・フェミニズム」と
おっしゃる方もいるんですから。
数年前に一度会ったひとで、SMに興味があって、女相手では
Sがやりたいが、男相手ではMがやりたい、ということでゲイの
SMオフ会に参加してた20代の「ノンケ」の「男性」がいたんですけど、
「セクシュアリティ」に関しては、そういうのもう少なくないんじゃ
ないでしょうか。上野千鶴子がかつて「なしくずし崩壊」と
いったように「規範」の解体より前に、個別の「身体」の方が
耐え切れなくなってきている。いろんな「アディクション」や
「自傷」「過食・拒食」あるいは「うつ」なんてのもそうでしょう。
とりあえず、僕が出会った彼を「トランス」と呼んで、「みな、トランスだ」と
いうことにして、「折衝」していく、ってのは可能だし、ありだと思うんですよね、
カリフィアみたいに。「反発」もあるでしょうが、それでもいい。
「相対化」「ひとそれぞれ」ってどれだけ大変か、それを実際にやってみる、
「トランスジェンダー・フェミニズム」ってそれなのかな、と
まだ本届いてないんですが、想像してみたり。
580 :
83:2006/06/03(土) 04:52:56 ID:Hr5AQ8Yr
>>579(42タン)
本日、田中玲さんの出版記念パーティがありますよ。
http://www.pafnight.com/index.html 件の書籍読みましたが、ごくまっとうなことが書かれていると思いました。
あとがきには、
「トランスジェンダーが自らの境界線上の視点から、
フェミニズムにもたらすものがあると信じている」とあるので、
「トランスジェンダー・フェミニズム」は始まったばかりなのでしょうね。
玲さん曰くパンセクシュアルのポリアモリーですが、バリタチだそうなので、
境界線はないようであるんだなという印象です。
以前、42タンが書いていた、「タチとネコの往還としてのトランス」についてはどうなんでしょうかね。
今日のパーティで、そこらへんのお話が聞けたら面白いなと思っています。
関係ないなら、レスをしない事。
する出来ない方が悪い。(ぴろゆき)
>>580 なるほど。今日はその時間先約があって行けないので
また今日の話、スレでも報告してくださいまし。
僕の抱えてる例の仕事で、もしかすると彼女呼んで、なんかイベントできるかも
しれないんですね。その時に、田中玲さんもお呼びできるといいな、と
漠然と思ったりしてます。なんか出版に知り合いも関わってそうな感じなんですが。
このスレでオートポイエーシスに触れながら、「生命」と「言語」の
2つのオートポイエーシス・システムのカップリングの話をしたりしてるわけですが、
ギンズ+荒川のいう「建築する身体」ってその2つの「インターフェイス」であると
考えられるけれど、たとえばそれを「インター」ではなく、「トランスフェイス」であると
考えるとどうなるか、たんなる「界面」じゃなくて、それ自体が「トランス」し、
幾重にも折り畳まれたり、広げられたり、入れ子状になったりする「襞」を
形成する「界面」。「セクシュアリティ」を「トランス」という言葉で
とらえるのは、そうした「身体」のとらえ方の方に向かってるんじゃないですかね。
「生命」の側に向けても、「言語」の側に向けても、「身体」の「行為」として
「新しさ」「豊かさ」をつくりだすことは可能である、と。
Undoing Gender でバトラーがとりあげるように、ISの子どもってその「トランス」が
許されず手術を「施され」、「言語」によって「身体」が「構築」される。
例の 7歳の GID の子どもも似たような状況ですよね。周知のように
「構築主義」にはデリダの思考の影響があるけれど、彼にとって「言語」に
よって「身体」が「構築」される、というのは、「割礼」の「経験」と
関わっている。フェミニズムでも「女子割礼」のことが問題になりますが、
デリダには自伝的な著作である『割礼告白』 circonfession があり、
animal autobiographique 「自伝を書き記す動物」なんて言葉もあって、
これ、たぶん、autobio と graphique で切ってつなげる、「切り閉じ」ると、
「生命」と「言語」のカップリングになるんですね。
graphique って「刻み込む」ってことで、デリダはこの「割礼」という
「言語」の側からの「生命」への「刻み込む」なしには「痕跡」としての
「傷跡」「トランスフェイス」はないし、「傷跡」「トランスフェイス」なしに
「セクシュアリティ」はない、と考える。そこがたぶんドゥルーズとの決定的な違い、
おそらく、双方が歩み寄りようの無い違い、なんですね。第1次世界大戦で負傷し、
下半身不随となったジョー・ブスケの「私の傷は、私以前に存在していた」を引用し、
「刻み込む」なしの「痕跡」ではない「傷跡」「トランスフェイス」があり、
それこそが多数多様な「セクシュアリティ」の展開につながる、と考えるドゥルーズとの、
決定的な違いがそこにある。河本さんにしても郡司さんにしても、ドゥルーズを
引用するんだけれど、たんなる「界面」ではない、それ自体「トランス」し、
2つのオートポイエーシス・システムを別のものにしてしまう「界面」としての
「建築する身体」と「傷跡」との関わり、デリダとドゥルーズとの「折衝」は
開始されたばかりで、「トランスジェンダー・フェミニズム」は
その「折衝」に「介入」しているのかもしれません。
583 :
禁断の名無しさん:2006/06/04(日) 04:35:38 ID:FoHwAagU
モノに名を与えるのが人間という生き物の必然ならもう話はおわりじゃない?
>>583 >>583が「問い」であるなら、「話はおわるかどうか」を「問う」ものであるなら、
とりあえずの「答え」をレスとしてここに記すことができるでしょう。
でも、それが
>>583さんの「信念の表明」であるなら、「『もう』話は
おわるはず、おわらなければならないはずなのに、『まだ』おわってないのは
ヘンだ、おかしい、愚かだ、等々」、あるいは、「話は『もう』おわるはずなのだから、
話を終わらせろ」という「要求」「命令」であるなら、どうして
「話はおわるはず」なのか、その「道筋」「プロセス」をもう少し丁寧に、
僕も含めたスレの参加者のみなさんに、説明なさる方がよろしいかと思います。
で、どちらなのでしょう?
>>580 田中さんの本読み始めました。前にこのスレで挙げたことのある、
ライリーの本のタイトル、「私ってそんな名前なの?」を
思い出しましたね。 Am I that name? 副題は FEMINISM
and the Category of Women in History ですしね。
>>580 とりあえず、一読しました。
たとえば、昨年邦訳あいなったトニー・フィッツパトリックの
『自由と保障 ベーシック・インカム論争』(勁草書房)や、
今年出たばかりの REDESIGNING DISTRIBUTION : BASIC INCOME
AND STAKEHOLDER GRANTS AS CORNERSTONES FOR AN EGALITARIAN CAPITALISM ( Verso )に
田中さんが出会ったら、どうなるか、おもしろい出来事が起こるのではないか、
そういう感想を持ちました。たぶん、そのうち出会うとは思うのですが、
姐さんが田中さんとお知り合い、あるいは、おすすめできるルートがあるなら、
上記の2冊をおすすめするのもありかもしれません。
この本といっしょに届いた本のなかにサスキア・サッセンの新刊があります。
TERRITORY ・ AUTHORITY ・ RIGHTS : From Medieval to Global Assemblages
( Princeton Univ. Press )がそれです。これは Denationalization という
タイトルで近刊がここ数年予告されていたものですが、この本もまた、
田中さんの本と結びついているんじゃないでしょうか。
quarante-deux ◆42FM9sGQ4oさんってお仕事で執筆活動してる?
このスレで草稿してたりするのかしら?なんて思ってしまったわ。
とりあえず、一冊の本としてquarante-deux ◆42FM9sGQ4oさんの意見を
読んでみたいわ。
「引用」というのが「コピペ可能な」言葉を別の場所に置き直す、
ということであるとすると、
>>589の
> 引用と文献紹介ばっかじゃん。
というレスもまた「引用」であることは明らかですね。
「コピペ」可能で置き直せる。
ただ、それがどこからの「引用」であるか「引用者」が知らず、
「文献紹介」のようにどこから「引用」したのか明示できず、
その言葉が「引用」である、という「意識」が
限りなく0に近いだけです。
僕のレスだけでなく、ここに書かれているすべてのレスは、
それが「引用」であることに対する「意識」の「強度」の異なる「引用」、
0〜100%のあいだで無限のグラデーションをもつ「意識」の「強度」の
異なる「引用」です。「強度」が単調な文章は読みやすい。複数の「強度」が
「共存」し相互作用する文章は読みにくい。デリダの文章が読みにくいのは、
単語の綴り、発音のレベルにまで「引用」を「半ば意識的に半ば無意識に」
持ちこむからです。fourmi 蟻、を、four と mi に分けたりする。
テクストは「引用の織物」である、というのは「引用」を
言語のあり方の基本とすることで導き出される命題です。
「引用」は「起源」としての「オリジナル」をもちません。
「固有名詞」ですらそうです。
だからこそ、「商品名」「社名」に関しては「商標登録」、「名前」には
「戸籍」といった「登録」の制度や「著作権」といった制度が
設けられることにもなる。
父系制の「戸籍」ないし「登録」制度の下では基本的に「苗字」が
「引用不可能なもの」とされ、その「父の名」を「継承」する
「男性」の「名」もまた別の「戸籍」に「引用不可能なもの」とされつつ、
「女性」の「名」は別の「戸籍」に「引用可能なもの」として扱われる。
規範としての「ジェンダー」と「名前」の「引用」の問題は
結びついているし、「名前」の「引用」に対する「意識」の「強度」に
無限のバリエーションをもたせることは、「セクシュアリティ」の
多数多様化と関係がある。「強度」の異なる複数の「強度」を「共存」させることは、
多数多様な「セクシュアリティ」の「共存」とつながってもいる。
だから、PACSのようなパートナーシップ制度が問題となるわけですね。
「解約」可能な「市民契約」というかたちで、「名前」をつねに
「引用可能な」状態に置く。そのうえで、相手との関係のなかで
その「引用可能性」に対する「意識」の「強度」、他者とその「大きさ」を
相対比較しても意味のない「強度」を無限に変化させることが、
「モノガミー」と「ポリガミー」を二者択一にしない「マルチガミー」を可能とする。
僕はそう考える。
「マルチ」のもとでは「数」として「ポリ」であることは「モノ」であることを排さない。
「数」の問題ではなく「強度」の問題だからです。「モテ」は「引用可能性」をもつ
「身体」の「数」の問題ではない。全面的な「引用可能性」にさらされた状態で、
何らかの条件の変化によって「引用可能なもの」となる「とりあえず引用不可能なもの」と
してではなく、パートナーを「もはや引用可能でないもの」として遇することができるか、
というのが「モノガミー」と呼ばれ得るにたる「強度」であって、これは「規範」や「義務」として
課せられるものではなく、「選択」として「楽しむ」ものです。
現在はすべてが「さかさま」になっている。「規範」として課された「モノガミー」が
「ポリガミー」によって「不自由」として排されつつ、その「ポリガミー」が
「自由」であると「誤認」されている。「モノガミー」か「ポリガミー」か、
という二者択一の「不自由」、「引用不可能か」「引用可能か」といった二者択一の
「不自由」がそこにあるわけです。その「不自由」を田中玲さんにも僕は感じる。
「モノ」は「重い」し相手に対する「束縛」であり相手から課せられる「苦役」である、と
考えるなら、それは結局、既存の規範としての「ジェンダー」となんら変わらない。
「モノ」のその「束縛」性、「苦役」性をどう軽減するか、それが
Undoing Gender ということでもあるはずだと思う。とりあえず、
「モノ」よりも「ポリ」とする場合、というその「とりあえず」を
いつはずし、現在の「モノ」ではない新たな「モノ」を創出するか、を
「同時に」考える必要があるんじゃないか。それでこそ、「ポリガミー」を
可能とする制度、さまざまに異なり無限のグラデーションをもつ「引用可能性」に
すべての「名前」をさらす制度を構築する意味が生まれるんじゃないか。
そして、 Basic Income 、Civil Income のような制度は、この「名前」の
「引用可能性」に、そして、それに対する「意識」の「強度」に
影響をもたらすと考えられる。とりあえずそんなところですね。
補足すると「モノガミー」という「強度」は「交換可能性」の「意識」の
「強度」のような変化する「持続」「状態」、「数」の上での「モノ」「ポリ」ではなく、
それを断ち切る「出来事」、「もはや交換可能でないもの」として
「身体」をつくりだす「出来事」で、それが「反復」される時にはじめて、
たとえば、ノンケカップルの「女性」がパートナー「男性」を別の「男性」に
取られる「引用可能性」として恐れたり、「男性」がパートナー「女性」と
別の「男性」に誘惑される「引用可能性」として恐れたり、といったかたちで
ホモフォビアの対象となりうる「ゲイ」といった「セクシュアリティ」が
「承認可能なもの」となる、と考えられる。
いれ忘れた「は」をいれて。
俺と彼氏はぜんぜん浮気オッケーだったりするんだけど、
いまだかつて2人とも浮気したことないんですよ。
うちら実際はモノガミーでも基本はポリだよ、なんて人に言っても
笑われるだけだろうなあ。
>>593 わたしたちは二雙の舟 ひとつずつの そしてひとつの
たぶん、こういうことですね。
>>592訂正
「交換可能性」は「引用可能性」に訂正します。
>594
あの方のっ……
そんなカコイイふたりだろうか……
597 :
395:2006/06/05(月) 22:44:34 ID:UddlL3Nu
以前、好きな男をバイの女の子と取り合ったことがあるよ。
ていうか、既にカップルだった彼らに俺が割り込んだ(デキてるって知らなかった)んだけど、
女の子はビアンだと言ってたから「話ちがうじゃん!!」とムカついたよ、その時は。
まあ、2人とも俺の存在を特に「恐れ」なかったと思うけどw
んー?? 俺は恐れたのかな、彼女のことを。
でもねー
酒に潰されて寝てたら「可愛いね犯しちゃおか」って相談してるのが聞こえて
(あー それもアリだなー イイなあ)と夢うつつで思ったの。
ちょっと幸せなひと時だったよ。
>>593 「出来事」としての「モノガミー」はね、完全に起こさないでいることは
原理的に不可能なので、起きるところでは起きちゃってるんです。今の制度でも。
で、それを利用して、既存の規範としての、維持すべき「状態」としての
「モノガミー」が再生産され、ついでに「ジェンダー」も再生産される。
「状態」としての「モノガミー」は限りなくセキュリティが低いから、
「ミソジニー」と「ホモフォビア」も再生産される。「男性」の
「ミソジニー」というのは、この場合、自分を「引用可能なもの」と
パートナー「女性」が扱えるようになることへの恐れ、でしょう。
経済的に自立可能で自分が「捨てられる」可能性とか。あくまで自らが
「引用不可能なもの」として「女性」を「引用可能なもの」として扱いたい、と。
「女性」の「ミソジニー」はパートナー「男性」が自らを「引用可能なもの」として
扱う可能性に対する恐れ、他の「女性」の存在に対する恐れであると考えられる。
でもまずは、「自分嫌い」、「引用可能なもの」である自らを肯定することが難しい、
それがあるんじゃないでしょうか。
はくタンは僕がこのスレの1に最初に書き込んだときに、「モノガミー」といった
規範の方が根深いんじゃないか、と書いたのを覚えてるんじゃないか、と
思うんだけど、スレの展開とか、「セクシュアル・マイノリティ」の
書いた本を読んだりすると、その思いは強くなる一方なわけね。
セクシュアリティに関係無く、「状態」としての「モノ」という「規範」に
雁字搦めになっている。
なので、来日したバトラーの「ポリ」肯定はとってもうれしかったりしたわけ、
ああ、やっぱりね、って感じで。「ジェンダー」を解体する、というなら
そこははずせないし、多数多様な「セクシュアリティ」の「承認」と
いうなら、セジウィックのいう「ミソジニー」と「ホモフォビア」からなる
「ホモソーシャリティ」をなんとかしないと、というのはあるわけで。
逆に言えば、「セクシュアル・マイノリティ」を「承認」する、と
いうことは、「ポリ」が可能な「市民契約」制度を認める、ということに
等しい、ってことね。それがないなら、「承認」は十分になされていない。
「セクシュアリティ」の選択が「人権」であるなら、「国家」による
「人権侵害」として考えることもできる。
>>597(395さん)
ビュヒナー全集はひさびさに再刊されましたね。買おうかどうか思案中。
ヘルダーリン全集は前からもっていて、落丁本なのですが、なんか、
ヘルダーリンにはふさわしい気がして、そのまま交換せずにいます。
あ、これって「もはや交換可能でないもの」を「反復」しているのでは、
とかわけのわからないことを考えたりして。
リンク先もヘルダーリンから80キロカロリーアイスに話が
転換するところがとても素敵ですね。
>>597 ビュヒナーじゃなくてビューヒナーでした。ゲオルク・ビューヒナー。
601 :
395:2006/06/05(月) 23:19:07 ID:UddlL3Nu
>>601 ビューヒナー全集となっているが、ビュヒナーでもいいみたい。
ドイツ語だと後者の方がしっくりきますね。
23歳の短い生涯のなかで、ストラスブール大学で動物学の研究したり
してるんですよね、確か。
>>598 それは「生きた貨幣」になる「幸福」なのかもね。
自分も含めて、ある3つ以上の「身体」を「もはや
引用可能でないもの」としてつくりだす「出来事」の「幸福」。
「子どもの誕生」によって「子ども」というカテゴリーを
つくりだしたことは、この「幸福」を「子どもの幸福」に限定し、
その「幸福」の断念を「大人」に課しているわけね。
>>601 ttp://www.kawade.co.jp/np/isbn/4309204635 1万円ほどするんですよね、全1巻で。まあ、古本屋だと
3倍とかもあるから、この機会に買っておく方がよいのかな、と。
604 :
395:2006/06/05(月) 23:52:50 ID:UddlL3Nu
>>603 値段みて二の足踏んでますw
歌のいいところは、音を聴いてるだけで
なんとなくわかった「気分」になれるとこですね。
それで気に入ったとこだけ適当にあたりをつけてリブレットを読むと。
だから詩集ってまともに読んだことなかったり。
>>604 そういう付き合い方をする方がいいものなのかもしれませんね。
断片化するというか。
ドイツ・ロマン派って断章が好きなわけですが、僕みたいに
ただ長い文章を適度に切って断章にしてるのもあればw、
勝手に読むときに断章化しちゃうものもあるような気がします。
ゴダールが『軽蔑』でヘルダーリン引用して、フリッツ・ラングか
なんかにセリフで言わせてたんじゃないかと思うけど、あんな感じの
断片化と引用がふさわしい、いろんな「狂い」が絶えず沸き起こっては
消えている、コアセルベートみたいなものなんでしょうかね。
>>588 レス遅れました<(_ _)>
仕事として執筆活動はしてませんでした。過去形なのは
周囲の各方面が実力行使に及びはじめ、ぼちぼちやらないと
いけない雰囲気が漂い始めたということがあり、
雑誌に書評書いたりし始めた、ということがあります。
「タチとネコのジェンダー論」については、モエタンが
前にスレで提案した「マジックミラー」モデルを中心に、
『魔法の鏡』と題して、まとまったものを書いてみたいと
思っていたりもするのですが、まずは今かかえている
仕事をかたづけてから、ですね。
>>606 おや、書いているあいだに。ご忠告痛み入ります。
609 :
588:2006/06/06(火) 00:38:27 ID:NXGkWHIt
お返事どもです^^
このすれROMしながら気長に待ちます
>>609 ご期待に添えるように、努力いたします(^^)
611 :
83:2006/06/06(火) 00:52:40 ID:6T7+rQoA
>>591 なるほど。わたしが玲さんの発言にカチンときた理由がわかりました。
確かに、いまのわたしは選択的モノガミストですが、それは規範の押しつけや義務感からではなく、
「自分がそうしたいから」そうしているんです。
612 :
禁断の名無しさん:2006/06/06(火) 00:55:12 ID:CL1WWJsC
613 :
395:2006/06/06(火) 01:08:05 ID:Kekg5N7j
あ、『遺伝子「不平等」社会』で一番気なった部分を書き忘れてた。
池田さんは、個人がどのジェンダーを「選ぶ」のかということは、
生まれた時点で大体決まっているというのね。
胎児のときの発生プロセスでその人の「感性」みたいなものの
おおよそが決まるから、というのがその根拠なんだけど、ここも
もうちょっと掘り下げてほしいところだったなぁ。
>>611 これは「非モテ」問題にも関わってる話なんですね。
>>591に1箇所ある「モテ」は「モノ」の誤記ではない。
「ポリガミー」を「自由」として考える者に、「モノガミー」を
選択する者が「なんでそんな不自由なことしてるの?」って
言われるようなら、まだダメ、ってことです。そんなこと言われる
筋合いはまったくない。ただ、現在、「モノガミー」に「囚われること」と、
それを「選択」することとの差は非常に見え難く、わかりにくい。
それをわかりやすくしましょう、ってことですね、まずは。
「ポリガミー」できないから「非モテ」ってことではないし。
>>613 そこはもうちょっとちゃんと掘り下げて欲しいですね。
でも、半生の途中までは「彼女」がいて、それから「彼氏」が
できた、なんてのは珍しくもないと思うんですが、そこはどう
池田さん説明するんでしょうね。
あと、池田さん、ジェンダーとセクシュアリティの区別ついてるんでしょうか?
615 :
395:2006/06/06(火) 01:36:43 ID:Kekg5N7j
>>614 >でも、半生の途中までは「彼女」がいて、それから「彼氏」が
>できた、なんてのは珍しくもないと思うんですが、そこはどう
>池田さん説明するんでしょうね。
以前は遺伝子決定論への反論として、池田さん自身がそういう
人たちの例を挙げていたんですよ。私もノンケだったころの記憶あるしw
でも、今回の対談ではそういうお話は出てきませんでした。
>あと、池田さん、ジェンダーとセクシュアリティの区別ついてるんでしょうか?
これ、小川さんにも突っ込まれてましたね。
それで、対談の前半が認識の共有に費やされてしまったきらいが。
以下は、私の解釈。
たとえば、インターセックスの人たちの多くが、
男女どちらかのジェンダーを望むのは、
現代の社会的規範を内面化してしまったからだ、
とは言い切れない部分も恐らくはあるはずで。
池田さんはよくポル・ポトを批判するんだけど、
これって「全ては社会的に構築されたものだ」という言説を
批判するのとたぶん同じで、極端な普遍主義を批判して
いるんだと思うんですよ。
全てが社会の構築物なら、生まれたばかりの人間には自分の
思うところの「正義」を信じさせることができるはずだ、と。
でも、実際に子どもを両親から引き離してイデオロギーを注入しても
面従腹背になってしまった子どもは大勢いただろう、と。
「規範」が要請する「状態」としての「モノガミー」は、
「非モテ」男の「モテ」男に対するコンプレックスを「自殺」「秩序破壊」
「革命」の衝動が生じない程度に「縮減」する機能があるんですね。
金や容姿でどんなに「モテ」ても「正式に所有できる」のは自分たちと
同じ「数」である、という。規範としての「ジェンダー」が加わり、
「女性」は必ず「選ばれるもの」ということになれば、
なお「秩序」は安定する。もちろん、底ではマグマが煮えたぎっているのですが。
まず、ここから「ジェンダー」がはずれ、「非モテ」男のパニックが起きる。
「自殺か、テロか」あるいは「女は金で買える」とか。
「ポリ」可能のパートナーシップ制度、市民契約、民事契約制度が
できたときになおも「非モテ」男が自分をパートナーとして
求める相手の「数」にこだわると、まあ、これは大変でしょうね。
>>615 バトラーが Gender Trouble の次に Bodies That Matter を出したのは、
彼女のいう「構築」「脱構築」は、「構築可能でないもの」「脱構築可能でないもの」を
必ずそこに生み出すんで、完全に「構築」されないがゆえに「自由」がある、と
いうことなんですね。「言語」によって「身体」がすべて「構築」される
わけではない、ということを「自由」につなげるために「構築」を語る。
「生命」と「言語」って入れ子になっていて、遺伝子決定論って
これ、「言語」が完全に「生命」を「構築」する、ってことにもなりますね。
まあ、「言語」の「定義」にもよるけれど。むしろ、その遺伝子決定論に
対して、「構築可能でないもの」「脱構築可能でないもの」をつくりだす、
「生き延び」をつくりだす「パフォーマティヴ」と彼女は言うんで、
これ、河本さんの「行為」にとても似てくる。違うところは、河本さんが
「存在論的差異」にしか目が行かないとこで、バトラーはそれと
「性的差異」の関係を考えるわけですね。ただ、ここはどうなのか、
「行為」というと西田幾多郎も思い出すし、あるいは、「存在論的差異」と
「性的差異」といえばハイデガーがいるわけで、あんまり深入りしたくないなあ、と
思いながら、いろいろ読むわけです。
>>615 IS に関しては、二者択一ではなくなった場合に、なおも
そのどちらかを選ぶなら、その場合、その個別の「身体」は
「言語」により「構築」されるところが少ない、ということでしょうし、
それで現在の二者択一と別の選択をするなら、その個別の「身体」は
「言語」により「構築」されるところが多い、ということに
なるんでしょうかね、そこは。カップリングしてる、どっちが
「決定」において大きく働いて「身体」ができるか、はあらかじめ
決まってはいないのだから、「言語」の側からの「選択」可能性を
ひろげておく、そういうことかな、と。
618 :
395:2006/06/06(火) 02:11:42 ID:Kekg5N7j
男と女の違いについて結論めいたことを書けば、
@男と女の本性といったものはなく、男と女は 連続的につながってしまうこと。
Aしたがって性差は、個々人の性パターンの差であること。
B性パターンには、
(ア)性染色体をはじめとする組成の違い、
(イ)身体的なみてくれの違い、
(ウ)心的な性アイデンティティ(ジェンダー)の違いの三つがあり、この三つにはそれぞれ二者択一
ではなく、いくつものバージョンがあること。
Cこのうち(ア)だけは先天的と言えるが、(イ)と(ウ)は
(ア)と後天的な環境との相互作用の結果決まること。
D性パターンは基本的に出生時までに決まり、
そのあとの環境的要因によっては変えるのが難しいこと。文化的なバイアスは、男女の差についての
さまざまな装飾を付けるだけで、性パターンそのものを決定することはできないのだと思う。
--
ひとまず再掲。
>>467を読んでちょっと考えちゃったんですよね。
たとえば、こういう人がいたとして
ア=性染色体XY
イ=顔にはヒゲが生えている
ウ=自分は「女性」だと思っている
彼女が(イ)のままの姿で(ウ)を主張できるかどうか。
池田さんは性同一性障害特例法を批判しているんですね。
(ア)と(イ)と(ウ)が一致するのは多数派に過ぎない、
一致しない人は生物学的に存在しうるとして。
でもどうなんだろう。
TSの人たちのように(イ)と(ウ)を外科的な方法で一致させることは
彼女が多数派の社会通念を内面化したからである、と言ってしまって
いいものか。
>>618 「内面化」というのはよくわからない用語なんですが、
とりあえず使うとして、「内面化していない」と
言うには、まず現在と別の規範、別の選択肢を用意する、
ということが前提となる、ということではないでしょうか。
「内面化してない」なら「してない」でいいんですが、
395さんが慎重に「インターセックスの人たちの多くが」と
お書きになっているように「すべて」ではない、のだとしたら、
別の選択肢はある、ってことですよね。その場合、どちらか
一方を「選択」するということに既存の規範の「内面化」が
「全くない」とは言い切れなくなる、ということではないかと。
池田さんが特例法を批判するのはわかりますね。
田中さんも批判していますが。
>>618 ということでそろそろ今夜は。またです^^
621 :
395:2006/06/06(火) 02:25:51 ID:Kekg5N7j
>>617 (イ)は誕生時に他人が見てもわかるけれど、(ウ)は少なくとも本人が
会話できるようになるまでは、誰にもわからないんですよね。
仮に男でも女でもない第三ジェンダーを設定して、
IS の赤ちゃんをそういう性として育てたとしても、将来その子が
「自分は男だと思う」と主張する可能性はあるわけで。
不一致それ自体の可能性は排除できないから、子どもが生まれたときは
ひとまず、親の判断したジェンダーで育てて、将来、子どもが不一致を
主張したならば、「あ、そうだったの。ゴメンゴメン」で済む社会だといいのにw
622 :
395:2006/06/06(火) 02:26:56 ID:Kekg5N7j
あ、入れ違いになってるけど、おやすみなさーい。
623 :
funわか ◆bbZx8P7qp2 :2006/06/06(火) 09:59:07 ID:LsVYYaDS
よほどのフェチかホモやレズでない限り、男は、『お、ん、な、』に惹かれ、女は、『お、と、こ、』に惹
かれるのです。女は女らしく!男は男らしく!これは生物の世界では異性を引きつけるフェロモンの未来永
劫変わらぬ真理、基本です。生物の真理に逆らっている、男っぽい女、優しき気遣いが出来ない女。女の後
からついて行くような男らしさや決断力が無い女っぽい男。
男には男の特質が有り、女には女の特質が有る。何も、互いに無理して『自分に持つこと少ない特質面で
しんどい努力をすること無しに、自分の持つ特質を生かし自分の得意分野で自分の能力を存分に発揮する
』ほうが、楽しく幸せに満足できて生きられると思う。そのほうがよっぽど理にかなっていると、私は思
うがねえ、、ジェンダーフリー運動をされている皆さん?( 笑 )
性差を無くしたら、結果的に貴女達女性陣も、私達男も、お互いがしんどくなるだけですよ。そんな無理
を自分や私達に押しつけるよりも、互いの得意分野で得意な事を発揮し、互いの不得手な分野を補って助
け合って生きる方がよっぽど幸せに楽しく満足のゆける人生になると思いませんか?もういいかげんに、
自分達、女性自身を不幸にするヒステリー運動はおやめになったほうが、貴女達も幸せで満足した人生が
送れると思いますよ。果たして貴女達の運動をしている女性の何%が「女に生まれて良かった」と思えて
いるのでしょうか? 生まれながら持っている自分の性をなくそうなどと運動する方達が自分の性を謳歌
できているとはとても思えません。今現在の性を謳歌できているなら、性差をなくそうなどとアホな運動
をするはずが無いでしょうからねえ。
そんな「自分の性を謳歌できているはずもないヒト達」に、「だから性差を無くしちまえ〜!」と、声高
に叫ぶヒステリー運動を起こされたものなら、普通に幸せな女性の人生を生きている人達にはたまったも
のじゃ有りません。「我が不幸で寂しい人生をどう生きようと貴女の勝手だが、若い女性を惑わして不幸
な人生を歩む事になる女性を増やすのはやめなさい!」と田島女史やジェンダーの連中には忠告したいと
思います。
より詳しくは↓を参照してください。
http://hw001.gate01.com/funwaか/utopia.htm
>>621(395さん)
>仮に男でも女でもない第三ジェンダーを設定して、
>IS の赤ちゃんをそういう性として育てたとしても、将来その子が
>「自分は男だと思う」と主張する可能性はあるわけで。
うん、この可能性はある。で、それを考えると生まれてすぐに手術はしない方が
いいんじゃないかと思うんです。PESFISは生まれてすぐの手術に反対してますよね。
この場合、「ジェンダー」「セクシュアリティ」「セックス」を分けて
考える必要がある。ジョーン・スコットが「身体に意味を付与する知」という
「ジェンダー」が「セックス」を「構築」する、という、バトラーの
主張に関連するものとして考えてみる。
ここにね、actual アクチュアルと virtual バーチャルという軸を
持ちこんでみる。そうすると、いわゆる「インターセックス」の「身体」における
「セックス」は「アクチュアルなインターセックス」、それ以外の「身体」における
「セックス」は「バーチャルなインターセックス」ととらえることができる。
生まれたばかりのいわゆる「男児」「女児」の「身体」の「セックス」が
「アクチュアルなオス」あるいは「アクチュアルなメス」としてだけではなく、
「バーチャルなインターセックス」にもなる、これが、「生命」と「言語」の
「インターフェイス」「トランスフェイス」として「位相」として存在する
「身体」だということですね。
これがね、「言語」による「パフォーマティヴ」を通じて「構築」される「身体」、
「生命」が「言語」(=「遺伝子」)によって「構築」する「身体」の
「残余」としての「身体」、「構築可能でないもの」「脱構築可能でないもの」としての
「身体」ということではないかと。「首の切れない身体」「不死の、死なない身体」ね。
これを「器官なき身体」、といってもアルトーは怒らないかもしれない。
さらにここに real リアルと possible ポッシブルの軸を持ちこむと、
「アクチュアルなオス」の「リアルな身体」が「バーチャルなインターセックス」の
「ポッシブルな身体」と重ね合わせられる、この2つの「身体」の「あいだ」を
絶えず「振動」し「往還」してるものとして、「ヒトのオス」の「身体」をとらえる。
「言語」を用いる「人間」の「身体」の成り立ちは「見た目」以上に「複雑」である、というか、
「複雑」にする、ことができて、これが IS の「選択」の幅を広げるし、その「身体」を
「承認」可能なものとするんだと思うんです。
はっきり「男性器」あるいは「女性器」がついてることはある個別の「身体」が
「インターセックス」であることを排さない。「バーチャルなインターセックス」と
考えれば。ギンズ+荒川のように「建築する身体」を考えると、「ヒト」の「オス」は
一瞬、一瞬ある「場所」に「男性器」を「建築」してる「身体」なんです。
それと「同時」に「建築不可能なもの」としてではなく「建築可能でないもの」として
「インターセックス」を「男性器のあるその場所」に「建築」しつつ。
「言語」はつねにすでにその「建築」に関わっている。
で、この場合、ある個別の「身体」が「アクチュアルなインターセックス」として
「生き延びる」権利を保障しつつ、その「身体」がその後望むなら
「バーチャルなインターセックス」となる権利を保障する、という
395さんの考えるやり方って、あり、なのではなかろうか、
と思うんだけどどうなんでしょうね。Undoing Gender ってそこにもつながる。
他者の「身体」にある「テクノロジー」による「刻印」が刻まれる場合に
それを他者が「拒む自由」を残す、というか。ユダヤ教における
「男児」の「割礼」ってこの「拒む自由」はないわけですよね。
また、ここから、かつてフーコーがエルキュリーヌ・バルバンという
実在したインターセックス、「アクチュアルなインターセックス」に関する
著作を出したことをふりかえってみると、あれって、「精神分析」批判、
ラカン批判であるといえる。ラカンはあれにかなり怒ったらしいけど
なるほど、という感じ。
「去勢恐怖」って「ヒト」の「アクチュアルなオス」の「リアルな身体」が
「ヒト」の「アクチュアルなメス」の「リアルな身体」にされることの「恐怖」、
「アクチュアルなオス」の「リアルな身体」が「バーチャルなメス」の「ポッシブルな身体」と
重ね合わされていることに対する「恐怖」ではないんじゃないか。
「アクチュアルなオス」の「リアルな身体」が「バーチャルなインターセックス」の
「ポッシブルな身体」に重ね合わされていることに対する「恐怖」で、それを
「バーチャルなメス」の「ポッシブルな身体」への「恐怖」に「置換」するというのは、
「アクチュアルなインターセックス」の「リアルな身体」になることへの「恐怖」、
自らの「リアルな身体」が「バーチャルなインターセックス」の「ポッシブルな身体」と
重ね合わされていることへの「恐怖」の「否認」じゃないか(ここから「男性」の
二次元創作における「シーメイル」の氾濫を考えるとどうなるでしょう)。
「アクチュアルなオス」の「リアルな身体」にとってもっとも「恐怖」で
もっとも「考えたくもないこと」というのは、ペニバン(バトラーのいう
「レズビアン・ファルス」)をつけた「女性」にカマ掘られること、
だったりするんじゃないか、と考えると、「精神分析」を今とは別の仕方で
考えることができるかもしれない。これは「快感原則の彼岸」でフロイトが
見出していた道であり、ジョルジュ=ディディ・ユーベルマンが援用する
ピエール・フェディダの『不在』 L'absence が突き進んだ道であって、
そのフェディダの学位論文の審査員であったドゥルーズが論文を激賞する、
という次第となっている。 Fort-Da いないいない、ばあ、という
フロイトの孫の遊びが、フロイトに告げた「死の欲動」の存在と、
「リアルな身体」を別の「リアルな身体」の「不在」および
その「あいだ」の「振動」の「結果」産出されるものとして「身体」を
とらえることにつながっている。
「アクチュアルなオス」(もはやヒトに限らなくても)の「リアルな身体」を
「アクチュアルなインターセックス」の「リアルな身体」の「不在」として
とらえたらどうなるか、バトラーが The Psychic Life of Power で
フランシス・バーカーの名著『振動する身体』をエピグラフに引用するのも、
ここから考えると、ああ、そうか、と。
オス猫の去勢って、あれ、「インターセックス」化だと
いってよいんでしょうかね? あるいは、宦官とか。
武田泰淳の「司馬遷は生き恥さらした男である」という文章を
思い出しますね。「男」にとって「インターセックス」化は
「生き恥」である、と。もちろん、武田泰淳はこの「生き恥」を
「文学」として肯定するわけですが。
「料理」は「男の特質」を発揮した「男の役割」なんでしょうね。
パリの三ツ星レストランのシェフはたいてい「男」ですし、
「料理の鉄人」もたいてい「男」でしたね。
あれは「男の特質」を発揮してるんでしょう。
ということなら、これまでのように、「家庭」における「料理」に
「女」がしゃしゃり出る必要、「社会進出」する必要はない。
ああ、そういえば SMAP もスマスマで「料理」してましたね。
これからの「男」は、「家庭」の「料理」担当ということで
よろしくお願いしましょう。「男」の「社会進出」歓迎します。
>>621(395さん)
そういえば、『建築する身体』でギンズ+荒川はフランシス・ポンジュの
「カタツムリ」という詩を改作して「人間カタツムリ」という詩を
つくっているんですね。ただ、そこに「性的差異」の話はとくに
出てこない。
「カタツムリ」って「インターセックス」って生物学的に
呼んでもいいんでしょうか? よく「雌雄同体」という言葉は聞くけれど。
前にもなんか「カタツムリ」の性決定についておうかがいしたような
気もしますが、今一度、ご説明願えるとうれしいです。
>>624訂正
最後から2行目の「他者」は「当人」の方がいいですね。
このスレもそろそろ容量オーバーですかね。
630 :
禁断の名無しさん:2006/06/06(火) 12:08:06 ID:bms0aso1
>>627 あんたはちゃんと料理してんのか?
趣味、気晴らしじゃなく。
>>630 >>627は
>>623から「素直に」導き出される「結論」です。
文学ではこういうのを「ユーモア」と呼ぶんですが、
僕の場合どうしても「オチ」が「アイロニー」になってしまいます。
僕が「料理」してるかどうかに関わらず、
>>623が「正しい」なら
言えることを
>>627は言ったものだということです。
もうひとつ付け加えると、「育児」にも「介護」にも
「力仕事」、「男の特質」が必要なところはありますね。
「保育士」の職業病は子どもを抱きかかえることによる「腰痛」ですし、
「介護」で自力で身体を動かせないひとの身体を動かすのには
「力」が必要です。
そこは「男」が「分担して」やる、ということでよいわけですね。
「家計簿をつける」なんてのも「女の役割」でしたが、あれは
「細かい計算と金のやりくりが得意である」という「女の本質」を
生かしたものなんでしょう。
ということで、各大学の経済学部・商学部は「男子禁制」にし、
企業・省庁の「予算運営」部門はすべて「女性職員」にし、
財務省をはじめとする「経済」関連の省庁も「女性」だけにして、
国会の「予算委員会」も「女性議員」だけにまかせる、
といった「社会的な役割分業」を推進する、というのは
おもしろいかもしれませんね。「男」もそれには反対しないでしょうし。
「経済学」や「商学」を学ぶ「男」など「男の風上」にも
置けない、というのは、「正しい」。
634 :
83:2006/06/06(火) 16:08:33 ID:6T7+rQoA
>>625(42タン)
>「アクチュアルなオス」の「リアルな身体」にとってもっとも「恐怖」で
>もっとも「考えたくもないこと」というのは、ペニバン(バトラーのいう
>「レズビアン・ファルス」)をつけた「女性」にカマ掘られること、
>だったりするんじゃないか
英語圏には、まさしく「ペニバン」をつけた「女性」にカマを掘られる「男性」
という設定に特化したポルノサイトがあります。
いまもたぶん、なくなってないと思いますが。
こういうシチュエーションに萌えるM男性やヘテロのネコ男性は、
この「恐怖」を「快楽」につくりかえている、ということなんでしょうかね。
635 :
83:2006/06/06(火) 16:13:46 ID:6T7+rQoA
なんかやな事あったの?
637 :
395:2006/06/06(火) 18:49:49 ID:CjCXhuJW
>>634 前、姐さんが、姐さんがビアンだとわかっていて、「ねえ、一度俺と
やってみない?」って、言う男に対して「いいわよ、でも、あたし
タチだからペニバンでケツ掘ってもいい?」っていうと
相手が引く、って話があったでしょ、あれ、思い出したわけです。
たぶん、一番「思いも寄らない」「考えたくもない」ことなんでしょう。
で、たぶん、そういうことですね。このスレで紹介した大江健三郎が
不良にナイフで脅かされたときのエピソードと同じで、「刺されちゃえば
もう怖くない」ってことなんでしょう。もちろん、「反復」しないと
「恐怖」は「幽霊」「亡霊」のように取り憑きますけどね。
こっちまだ書けるのかな??
秋田の事件、母親失格をやたら強調する報道にうんざりだな。
母親とか母性とか神聖視するのって何なんだあれ。
処女を有難がるのと一緒???
母親の役割を誰かに与えなかった事に問題があるんだけど。
641 :
395:2006/06/08(木) 07:03:25 ID:U/INDQo8
よかった二日酔いしていない。
書き込めなかったら次スレに書こう。
>>626 >>628 インターセックスの定義は第一次性徴では男女どちらか判断できない、
だったような。
オスネコは生まれたときから家の中だけで飼って、外界を知らないままだと
マーキング(霧状のおしっこをあちこちにかける)を覚えないんですよね。
ネコの行動パターンにマーキングはあらかじめ備わっているんでしょうけど、
環境によって顕在化したりしなかったりするわけで、人間の性パターンにも
もしかしたらこういうのがあるのかもしんない。
去勢すると大体マーキングしなくなるんですけど、それでもやめないオスネコ
が何パーセントかいるところを見ると、ホルモンだけで行動が決定しているの
でもないんでしょう。それから、メスネコでもたまにマーキングするのがいる
そうなので、性別、あるいはホルモン以外にもマーキングを顕在化させる何か
があるのかもしんない。
642 :
395:2006/06/08(木) 07:19:18 ID:U/INDQo8
貝類の性は何か色々あるんですよ。
陸生の貝類にも雌雄同体の種類もあれば雌雄別体の種類もあったりで。
雌雄同体でもそれぞれの器官は雌雄どちらか判断できるので、これも
インターセックスとは言わないような。
海に棲んでいるアワブネガイの第一次性徴(って貝の場合も言うんだろうか?)は
全てメスで、成長する途中の段階で他のメスの体にくっつくとオスに変わって
しまうという不思議な性決定をします。
なんか、枝葉のとこばかりレスしてるような。
643 :
395:2006/06/08(木) 07:37:39 ID:U/INDQo8
>>639 保護者失格には違いないんでしょうけれど。
生まれつきの母性本能っていうのは、たぶん誰にも無いんでしょうね。
>>508にちょっと書いたけど、マウスにも子育ての上手な家系と下手な
家系があって、下手な家系の子どもを上手な家に里子に出すと、
その里子のマウスが成長して自分の子どもを生んだときには、
自分がそうされたように面倒見よく上手に子どもを育てられるように
なっていたのだそうです。
マウスの世界には哺乳瓶なんかないので、子どもの世話はメスが
するほか無いのですが。
>>642>>642 ご説明ありがとうございます。
なるほど「見分け」の問題、「識別ないし弁別可能性」の問題なんですね。
ドゥルーズ=ガタリは devenir-indiscernable 「識別可能でないものに
なること」(従来は indiscernable は「識別不可能なもの」と訳されてます)
なんてことも言うんですが、それを思い出しました。「インターセックス」、
「トランス」、「識別、弁別可能でないもの」。
あと、その「マーキング」をめぐる「非決定性」の扱い、「決定性」の
不十分さは、アフォーダンスやそれを意識しながら展開されている
オートポイエーシスが考えようとしているところではないかと。
障害者のリハビリをめぐるアフォーダンスの記述なんて、まるで、
ベケットの小説みたいなんですね。「ペンを取る」というひとつの動作が
数百の動きとして記述される。ドゥルーズのいう l'epuise 消尽したもの、
「もはや何も可能にすることがないもの(だって、すべてを actualiser
実現し、そのたびに「もはや可能でないもの」を生むわけですから)が
そこにはある。ギンズ+荒川は、「人間」を「消尽したもの」、
「人間カタツムリ」にしようとしてるんです。
ところで、395さんはモーリス・メーテルリンクの『蟻の生活』
『白蟻の生活』『蜜蜂の生活』、ジュール・ミシュレの『博物誌 虫』を
お読みになったことありますか?
>>639 「母」という「親族呼称」と「母親」という「役割」を1対1対応させ、
「あるひとつのメスの身体」にその「役割」を「規範」として課す、
というのは、いつの時代でもどの場所でも行われていることじゃありません。
むしろ、そんなことしてることの方が少ない。「近代」に限定される現象ですね。
「役割」は「委任代行」できれば「共同参画遂行」もできます。
文化人類学研究、経済人類学研究にはそうした事例は多数ある。
日本の安定成長期までだって、「農業中心の産業構造」
「地域共同体」「大家族」が「母親」の「委任代行」「共同参画遂行」を
可能にしてきた。「地方」のみならず「大都市」でも「子ども会」の
ような組織が、年少の女性の子育ての悩みを年長の女性が解消する、と
いった機能を不十分ながらも果たしていた。
この社会がかつてもっていた、「農作業」という苛酷な「労働」と
「育児」「介護」や「調理」「洗濯」「掃除」といった「家事労働」の
「二重負担」を「ひとつの身体」に負わせる「無理」を避けるという
「知恵」を、戦後生まれの「団塊」からその直後あたりのとくに「男性」が、
自らはその「知恵」の「恩恵」を受けておきながら、「知恵」の
「継承」ができないままきたこと、そのため「知恵」の「継承」が
断ち切られ、それを「近代」批判というかたちで「フェミニズム」の
「輸入」、導入によって補わなければならなくなったこと、
そこにいわゆる「ジェンダーフリー」をめぐる「問題」の淵源があるんです。
「知恵」の「継承」を断ち切る「近代」に対する「批判」ができず、
「知恵」を「継承」して「懐かしい未来」をつくることができない、
「何もかもが新しい、だけどこれは見たことがある、知っている」という
光景をつくることが「団塊およびその直後の男たち」にはできない。
自分たちが「恩恵」を受け、そのおかげで「今、ここにある」、
そうした「知恵」の「懐かしさ」が「男女共同参画社会」にあることが、
理解できない。産業構造の転換、高度化によってその「知恵」を
必要とする「場所」が変わっただけのことなのに。
「母親」という「役割」を「委任代行可能」で「共同遂行可能」なものに
「再び」すること、それが「男女共同参画社会」の実現なんです。