信長の野望で過大過小されている武将99人目

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1名無し曰く、
関連サイト

全国版から天道までの武将の能力値を羅網したサイト
火間虫入道 -信長の野望 蒐集者の庭-
http://hima.que.ne.jp/index.shtml
DS2の武将能力はここで
信長の野望DS2Wiki
http://www26.atwiki.jp/nobuyabods2/
Wikipedia戦国武将
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86

一応あることにはあるまとめサイト
http://www26.atwiki.jp/sengokujidai
信長の野望天道攻略wiki

天道武将データ一覧
http://www17.atpages.jp/nobuyabo/data.html
武将の統計データ
http://wikiwiki.jp/tendo/?%C9%F0%BE%AD%C5%FD%B7%D7
武将データの変化
http://wikiwiki.jp/tendo/?%C9%F0%BE%AD%CA%D1%B2%BD

信長の野望で過大過小されている武将98人目
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1334227937/
信長の野望で過大過小されている三傑謙信玄佐竹用6
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1287397965/l50
一部の荒らしが皆さんの顰蹙を買っているのでsage進行でお願いします。
2名無し曰く、:2012/05/29(火) 12:30:13.03 ID:MwyH/Qz9
>>1 おちゅ
3名無し曰く、:2012/05/29(火) 12:59:16.31 ID:HoZQFub1
>>1


前スレ>>985
それは前半戦だな。
後半はそれ以上に長宗我部もやられてる
藤堂隊の死者負傷者合わせも役500なのに対し、
長宗我部隊は788人が討ち死に実質壊滅、被害が大きすぎて翌日の最終決戦にも参加できなかった(藤堂隊は参加)
4名無し曰く、:2012/05/29(火) 15:19:33.29 ID:KI1jfhL/
豊臣秀長は秀吉に随分能力吸いとられてるよね
秀吉↓秀長↑でいい
5名無し曰く、:2012/05/29(火) 15:22:54.78 ID:31NzAHY5
いや、秀吉はこれ以上下げなくていいでしょ
三国志11みたく、ある年齢になったら顔グラ変化と能力劣化はいいかもしれん
6名無し曰く、:2012/05/29(火) 16:24:57.37 ID:HoZQFub1
秀吉これ以上下げてどうするの
天下平定したとは思えないくらい統率過小なのに
7名無し曰く、:2012/05/29(火) 16:40:38.72 ID:no2pp7lf
三國志12でも秀吉は統率低いし
そういう路線なのかな

三國志12 織田軍団の統率
織田信長 96
柴田勝家 86
滝川一益 85
明智光秀 84
羽柴秀吉 83
前田利家 77
丹羽長秀 65

それにしても明智や柴田より低いって・・・
8名無し曰く、:2012/05/29(火) 16:50:11.75 ID:oCdqGiH9
秀吉は本多正信強化版みたいな能力だろ。

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる


9名無し曰く、:2012/05/29(火) 16:55:42.75 ID:HoZQFub1
信野暮でもそうだけど
直接対決で勝った光秀勝家より秀吉が低いってのはやっぱり変だよ
10名無し曰く、:2012/05/29(火) 16:57:34.49 ID:oCdqGiH9
秀吉厨死ね

秀吉は日本三大凡将の信雄、氏政、輝元に大敗したゴミカス

現状でもはっきり言って過大すぎるのにムリヤリ事実を歪曲するクズ
11名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:00:31.70 ID:oCdqGiH9
光秀対秀吉
兵力比2.5倍で光秀は山崎を守る不利な布陣を強いられてたにもかかわらず被害秀吉のが大

柴田対秀吉
撤退中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら逆に撃退され
圧倒的兵力差にもかかわらず不破や金森・前田が兵を引くまで均衡状態

柴田、明智>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
12名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:02:05.33 ID:oCdqGiH9
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利

これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110  武田信玄
100 徳川家康
  
  
 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
 93  立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
 92 織田信忠
 91 島津家久 伊達政宗
 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
    酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴


 70 羽柴秀吉
13名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:03:58.33 ID:oCdqGiH9
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄&寝返りばかりで権力ガタガタな22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
14名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:08:22.21 ID:oCdqGiH9
秀吉の三大デタラメ

○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ

○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ

○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
         
15名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:09:01.90 ID:oCdqGiH9
秀吉厨死ね
16名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:10:43.41 ID:oCdqGiH9
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)


圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
17名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:12:00.36 ID:oCdqGiH9
秀吉が天下取ったから統率上げろという結果論思考脳の馬鹿死ね

なら天下すら取れず殺された信長は統率0が妥当
18名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:18:55.21 ID:c4ShjBEY
圧倒的資金力が用意でき、人心を掌握し、
大規模な軍隊を運営し、水攻めや兵糧攻めを使いこなす
戦上手で、事前に街道に兵糧を用意しておく用意周到さ、
完全に統率120だなw
辺境の謙信信玄の統率は80でいいよ
19名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:19:16.64 ID:WmxSOSQi
天下にかする事すらなかった人達は統率がマイナスになりそうな大胆な査定ですね
20名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:27:04.81 ID:oCdqGiH9
>>18
富裕な国力や事前の準備を戦のうまさに含めるとか基地外だな
雑魚でもチート国力や準備さえあれば誰でもできるだろ

結果でいえば信長なんて光秀に奇襲されて殺されただけだから統率0だろ
都合の悪い結果だけ無視して都合いい結果だけ採用してんじゃねぇよ
21名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:27:47.22 ID:oCdqGiH9
秀吉厨死ね
22名無し曰く、:2012/05/29(火) 17:34:14.43 ID:oCdqGiH9
秀吉は織田信雄よりも戦下手

信雄家臣の吉村氏吉や木造親子に大敗した
23名無し曰く、:2012/05/29(火) 18:04:28.14 ID:c4ShjBEY
チート国力と事前の準備ができるとなると
ますます統率120だな秀吉

その戦下手に実績で負ける謙信信玄
24名無し曰く、:2012/05/29(火) 18:12:43.48 ID:oCdqGiH9
チート国力や事前の準備が戦のうまさとかアホですね

秀吉が指揮取るならロボットに任せた方がマシ
25名無し曰く、:2012/05/29(火) 18:14:54.82 ID:oCdqGiH9
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

織田家中でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田
>>>>>>>>>>>秀吉
こんなもん

長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ
長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?
26名無し曰く、:2012/05/29(火) 18:18:04.81 ID:oCdqGiH9

柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる

圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、
木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)、佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、
大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
27名無し曰く、:2012/05/29(火) 18:19:27.42 ID:oCdqGiH9
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
28名無し曰く、:2012/05/29(火) 18:53:26.42 ID:KLnujhaM
これってだが?
29名無し曰く、:2012/05/29(火) 19:12:45.72 ID:gtbMpB4q
いつもの佐竹だと思う
30名無し曰く、:2012/05/29(火) 20:05:54.26 ID:31NzAHY5
SUBでしょ?ゲイらしいよ
31名無し曰く、:2012/05/29(火) 20:32:32.84 ID:mtl9SlaU
どれだろうと「触るな危険」
32名無し曰く、:2012/05/29(火) 21:14:00.91 ID:c4ShjBEY
>>28-30
だが、佐竹、SUBそれぞれどの武将が好きでどの武将のアンチか教えて
33名無し曰く、:2012/05/29(火) 21:22:49.09 ID:bx2g1+yy
ここまで全部コピペ
34名無し曰く、:2012/05/29(火) 22:05:23.01 ID:oCdqGiH9
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
35名無し曰く、:2012/05/29(火) 22:55:19.91 ID:oCdqGiH9
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

36名無し曰く、:2012/05/29(火) 23:17:56.33 ID:cOhV2ttX
とりあえず>>8はだがのコピペだと言っておこう
37名無し曰く、:2012/05/29(火) 23:34:29.40 ID:oCdqGiH9
秀吉厨死ね
38名無し曰く、:2012/05/29(火) 23:57:11.92 ID:oCdqGiH9
>>3
それ木村隊を撃破した東軍緒隊が援軍として駆けつけてきたから盛親が撤退せざるをえなくなって
被害が増えただけだから高虎の功績じゃないだろ
39名無し曰く、:2012/05/30(水) 01:26:12.22 ID:0VNPhWzK
前スレで久々に元親の話題が出てたが、
元親て全てにおいてオールラウンダーな武将だよね。
なんでもソツなくこなせて全能力85みたいな。
ミスらしいミスも少ないし(あえて言うなら秀吉との開戦・家臣粛清くらい)

四国が長宗我部の一人勝ちで、面白みないと言われるのも判る気がする。
40名無し曰く、:2012/05/30(水) 03:35:27.04 ID:mef41cEA
なんつーか減点方式でミスが無い人の方が高評価の傾向が激しいね
それを否定するわけじゃないけど

そういった武将に比べでかい事やってたり凄い成果を上げてたりしたけど
ミスや失敗もちょくちょくやってたりする人なんかはその部分を強く出されて
減点方式でソツが無い武将よりも厳しい目で評価される感じはどうしてもするなぁ
41名無し曰く、:2012/05/30(水) 04:14:12.16 ID:Na8CgEa3
細川たニャおき
42名無し曰く、:2012/05/30(水) 07:11:36.09 ID:0swvaErK
>>40
秀吉は戦闘ででかい事なんて一つもやってない
ただ圧倒的大軍で寡兵の敵に大敗・大苦戦・大損害出しただけ
戦闘においては兵の数が圧倒的に物をいう
戦力は兵力比の2乗に比例する
兵が少ない方が勝つには相手が油断してる隙をついて奇襲したり
地形をうまくいかして奇襲したり特別な方法によらないと無理
普通にやりあえばまず圧倒的に兵の多い方が勝つに決まってる
そんな圧倒的優位な状況や条件で苦戦したら減点するのは当然
43名無し曰く、:2012/05/30(水) 08:21:58.64 ID:nEbHDWPO
武田さんのことか
44名無し曰く、:2012/05/30(水) 09:40:17.72 ID:H3oELAAf
だがさんセンゴクで武田滅亡が信玄のせいってことにされたせいで機嫌悪いなw
45名無し曰く、:2012/05/30(水) 09:59:49.24 ID:S6ev7XVv
武田は実際三国同盟の時点で詰みっぽいよね
拡大方向が飛騨か越後かにほぼ限られるってかなりキツイ
46名無し曰く、:2012/05/30(水) 10:40:34.01 ID:BcpESuqm
秀吉の話題がちょろっと出ただけで即無差別コピペ爆撃とか、相変わらずカーチス・ルメイも真っ青な戦術だわ
47名無し曰く、:2012/05/30(水) 10:55:59.86 ID:F3EmECS3
>>18
秀吉は手取川で主命に逆らってまで謙信から敵前逃亡したからね
48名無し曰く、:2012/05/30(水) 10:58:30.47 ID:F3EmECS3
>>45
謙信と敵対したのが信玄生涯最大のミスだろうね
49名無し曰く、:2012/05/30(水) 12:44:26.80 ID:Bfq2Rm2z
>>42
おいおい、そんなことを言ったら、マイナスの部将しか残らないじゃいかw

50名無し曰く、:2012/05/30(水) 12:44:48.73 ID:HalJD2aq
桶狭間の後、武田が今川食ってりゃ天下とれたかもしれんな
51名無し曰く、:2012/05/30(水) 12:47:53.89 ID:0swvaErK
>>49
秀吉よりマイナスの武将なんていねぇよw

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる

52名無し曰く、:2012/05/30(水) 12:54:16.38 ID:0swvaErK
秀吉厨死ね
53名無し曰く、:2012/05/30(水) 13:10:22.60 ID:v3G9x3hn
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる


圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。

単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
54名無し曰く、:2012/05/30(水) 13:19:15.60 ID:K0MCt6NN
秀吉は、織田四天王の中では一番雑魚。
直接交戦での戦績からそれがよくわかる。
滝川にまけ柴田に負け明智にまけ、それを勝った勝ったと揉み隠し
しまいには輝元、氏政、信雄の日本3大凡将に大敗し天下失ったゴミ武将
55名無し曰く、:2012/05/30(水) 13:21:49.53 ID:fP0Jua9c
箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談
池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。
いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。
信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
56名無し曰く、:2012/05/30(水) 13:24:14.09 ID:9myPebo1
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
57名無し曰く、:2012/05/30(水) 13:26:24.05 ID:yhpk2tBz
秀吉は軍事的才能が致命的に欠如していたんだろうな

この戦いに限らず常に圧倒的大軍で寡兵の敵に敗走、大苦戦、大損害。

織田兄弟で最も無能な信雄ごときに苦戦する雑魚はそうそういないだろう。

信雄がもう少し基盤の強い土地で防戦できたら秀吉は蟹江あたりで戦死してたんじゃないか。
58名無し曰く、:2012/05/30(水) 13:30:46.95 ID:x1ypFVhr
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう

秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。

ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう
59名無し曰く、:2012/05/30(水) 13:33:36.45 ID:Z50PY/Vv
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
>>51
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ

よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
60名無し曰く、:2012/05/30(水) 13:42:58.53 ID:+GT8/3ZY
天下の秀吉軍135000が、わずか20000ほどの戦国屈指の雑魚武将信雄相手に大敗!!!!!

敗走!!!!!

ってまるで漫画だな。

アホすぎる。

さすが戦国最強豊臣軍
61名無し曰く、:2012/05/30(水) 13:45:36.61 ID:WhVVOLWh
単発IDで連レス怖い
62名無し曰く、:2012/05/30(水) 13:48:42.58 ID:NEvukdEa
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚

毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
63名無し曰く、:2012/05/30(水) 14:04:13.65 ID:H4tsG52a
>>17
秀吉、家康、秀忠、家光以外統率0かwww
64名無し曰く、:2012/05/30(水) 14:06:06.26 ID:NEvukdEa
結果論脳で統率決めようとする馬鹿死ね
65名無し曰く、:2012/05/30(水) 14:18:19.81 ID:K0MCt6NN
秀吉厨死ね
66名無し曰く、:2012/05/30(水) 15:51:51.15 ID:iq2OKXr3
>>63
だが理論だと統率0未満になる奴が多い。

織田信長:尾張を領する斯波家の下織田家の下の三家老の弾正忠家出身
    石高は20万石+津島貿易での金銭権益アリ
    最大勢力は本能寺前で800万石 本能寺で光秀が離反し丹波山城近江が消える
    死後は10万石そこそこで子孫が繋ぎお家存続のまま江戸時代へ

これでもだが曰く統率0。ということはこれより条件がよかった大名は確実に下回る

武田信玄とか今川義元は統率−30、守護大名という格別の名家に生まれておきながら信長家康に引っ掻き回されて死んだ凡骨筆頭だものw
67名無し曰く、:2012/05/30(水) 16:00:02.85 ID:dvnELwN4
謙信はー50
68名無し曰く、:2012/05/30(水) 16:30:13.09 ID:K0MCt6NN
>>66
は?
それ状況経過だろうがw

結果でいえば殺されて死んだ信長は0
経過でいえば状況が違いすぎるから領土拡張なんぞで比較できない
都合の悪い結果は無視して都合のいい結果だけ並べて比較するのが織田厨クオリティ
69名無し曰く、:2012/05/30(水) 16:32:49.20 ID:2R+0uHAe
領土拡張で戦のうまさ測ろうとする馬鹿織田厨死ね

信長は殺されて死んだのが結果だと理解できないアホ
70名無し曰く、:2012/05/30(水) 16:36:30.37 ID:Bl4GpD/Z
内容なんて考慮する必要ない。
信長が状況や条件無視で領土広げたから別格というなら
信長は圧倒的国力持ちながら光秀に殺されたから雑魚

ある一部分だけ条件状況経過を考慮して
都合悪い部分は相手を持ち上げ状況条件加味して擁護とか都合いいにも程がある
71名無し曰く、:2012/05/30(水) 16:41:19.12 ID:Bl4GpD/Z
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい

ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。

超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
72名無し曰く、:2012/05/30(水) 16:48:06.90 ID:/17MYrIb
信長をカスだとは思わんけど
状況無視して天下取ったから統率がどうとかいう馬鹿な意見には俺も反対
73名無し曰く、:2012/05/30(水) 17:10:14.63 ID:F3EmECS3
現に信長の野望の統率はあくまで戦の強さを表すもんだしね
信長が1万VS1万で謙信と戦って勝てるわけないのは
そこらへんの小学生でも理解してること
74名無し曰く、:2012/05/30(水) 17:47:08.50 ID:nEbHDWPO
そんな小学生並みの思考力のまま大人になっちゃったんだね…
75名無し曰く、:2012/05/30(水) 17:55:21.30 ID:X8kzyC7U
一万対一万で信長と謙信戦ったら、信長勝つんじゃない?
76名無し曰く、:2012/05/30(水) 18:04:34.96 ID:D28GJVkk
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利

これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110  武田信玄
100 徳川家康
  
  
 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
 93  立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
 92 織田信忠
 91 島津家久 伊達政宗
 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
    酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴


 70 羽柴秀吉
77名無し曰く、:2012/05/30(水) 18:09:57.15 ID:D28GJVkk
桶狭間の戦い・天王寺の戦いは一次資料にないデタラメ
78名無し曰く、:2012/05/30(水) 18:40:23.18 ID:BcpESuqm
たまに基地外が来ると延びる、とレスがあるが、延びるじゃなくて延ばす、だよなあと
79名無し曰く、:2012/05/30(水) 18:58:04.85 ID:7LqDtsUT
信長が最強なのは確実&確定
80名無し曰く、:2012/05/30(水) 19:44:21.42 ID:iq2OKXr3
「都合の悪い結果は無視して都合のいい結果だけ並べて比較する」ってまんま武田厨のことやないかwブーメランひどすぎwww

村上義清みたいな小豪族に2回も負けたことを無視して、若き日の天下人徳川家康に勝ったことを持ち上げ最強とする信玄信者www
81名無し曰く、:2012/05/30(水) 19:49:16.90 ID:iq2OKXr3
各大名29歳の時

織田信長:美濃攻め終了間近、討死覚悟で突撃した結果今川義元を討ち取る
徳川家康:三方が原で信玄に負ける、あわや討死のところを助かる

武田信玄:村上義清にボッコにされあわや討死のところを助かる


信玄www
82名無し曰く、:2012/05/30(水) 20:22:11.48 ID:L6nVNokh
なぜ信長は「○○ならできなかったはずだ」
なのに武田上杉は「○○ならここまでできたはずだ」
なんだろうね
83名無し曰く、:2012/05/30(水) 20:39:01.26 ID:0VNPhWzK
信長の野望で過大過小されている三傑謙信玄佐竹用6
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1287397965/l50

お前ら頼むからこっち移動してくれ

84名無し曰く、:2012/05/30(水) 20:43:45.41 ID:H3oELAAf
>>83
だがは荒らしなんで無駄だよ
NGにしといてくれ
85名無し曰く、:2012/05/30(水) 20:56:03.04 ID:6+Y2gf5F
でもID変えてくるんだよね
織田厨をNGワードにしたらいいの?
86名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:00:24.84 ID:D28GJVkk
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
87名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:05:06.55 ID:fP0Jua9c
信長の捏造合戦集

桶狭間=一次資料にないデタラメ
    尾張チート国力&朝廷献金&交易収入で今川より国力上

長篠=実際には1000程度の戦死者(多聞院日記)
   同時代史料の長篠日記だと織田方も多数戦死

姉川=実際には痛み分け程度 
   信長公記や信長書状で基地外誇大喧伝 



×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
88名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:05:59.39 ID:iq2OKXr3
>>85
織田厨、無知、雑魚、醜 このあたりNGにしておけば大体だがのレスは消えるだろうな
まあわざわざそんなことしなくてもあいつのレスはすぐにわかると思うけど
89名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:08:01.14 ID:fP0Jua9c
>>88
都合の悪いレスだけコテ認定して逃げてんじゃねぇよボォケwwww
90名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:08:46.68 ID:iq2OKXr3
>>89
ん?なんだだが?
上洛スレ60事件の醜態でも発表してほしいのか?w
91名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:10:23.50 ID:DpcVkf4/
なんでも都合悪い事はだがといえば解決すると思うとかアホすぎる
92名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:14:40.69 ID:iq2OKXr3
歴ゲー板で爆撃コピペなんてする人間で真っ先に思いつくのが「アスペルガーだが」の状態だから当然だろ。
もちろん赤の他人によってなりすましはあるだろうが、そんな奴は自分にだがと言われたら否定しないもんだ。
当然だよな、だがと思い込ませる張本人が否定するわけないし。

まあおまえのその苦しい対応が、ID:DpcVkf4/、fP0Jua9c=だがという図式が容易に成立することの証明だよ。自爆なんて悲しいもんだな
93名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:15:07.32 ID:U5rjPD1g
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。

信長は幼君斎藤龍興に苦しめられたが不景気で助かったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城  織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城  と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて 戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
永禄6年の観音寺騒動以来はっきりとニ派に分かれて対立する六角氏。
そこに永禄8年の将軍義輝暗殺と朝倉による義昭救出と言う事態が絡んで
ようやく信長がラッキーな情勢に変化する。
親三好派の六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
94名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:28:06.20 ID:U5rjPD1g
経過や中身を考慮せず結果だけ桶狭間運良く手薄な今川本陣に勘違いして突っ込んだ信長強い論理でいうなら
動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚と言う事

先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ

三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった

これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け

圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
95名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:29:29.79 ID:7LqDtsUT
信長が最強は変わらん
96名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:34:11.86 ID:U5rjPD1g
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。

義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。

義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
公記は例のごとく隠蔽・捏造

むしろ朝廷の覚えめでたい+チート尾張一国+美濃大垣城+三河水野+道三後見+今川との同盟を
信長に遺して死んだ信秀にしてみれば 信長がなんでこんなに負けまくりなのか不思議だったろう。
信長が義昭を奉じて上洛成功したのも すべて六角義秀のシナリオに沿って市を長政へ嫁がせて
西美濃国人衆を仲間に抱き込んで 上洛への道を作ってくれたからだし それですら信長は敗れている。
97名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:39:37.23 ID:WhVVOLWh
ID:iq2OKXr3はだが大好きの北条厨か
98名無し曰く、:2012/05/30(水) 21:41:52.46 ID:iq2OKXr3
北条はあまり好きじゃないから安心しろ
つかこっちにはあんまこない
99名無し曰く、:2012/05/30(水) 22:07:36.46 ID:H3oELAAf
日付を/で書いてるのは100%だがだね
100名無し曰く、:2012/05/30(水) 22:51:57.29 ID:TjWSeM1r
村上義清公にフルボッコにされてる武田信玄(笑)
とりあえず雑魚信玄よりは統率上だな
武田信者は義清の名前を出すだけで発狂するから面白い
101名無し曰く、:2012/05/30(水) 23:45:48.50 ID:RJhJ7CKY
村上って二戦以外負けまくってるし
上田原は兵力比1.4倍程度
それでいいなら信玄が小岩岳城攻略し、飯富が村上勢を撃破。
葛山城を信玄が攻撃して村上は城を捨てて逃亡。
その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
村上は城から叩きだされてついにその後は信濃に戻れませんでしたとさ。
そもそも、信玄が村上に苦戦したのは
小笠原の残党や後ろに長尾上杉とかの影響でしょ
ただ単に、武田vs村上だけでみるとかアホ
砥石崩れも城攻めで苦戦してた所に後ろから援軍で襲撃されただけだからガチンコでやりあって大敗したわけでもないし
信濃なんてキツイ山ランキングトップの立ち並ぶガチガチの防衛土地

幼君龍興&クーデター騒ぎの斉藤相手にチート国力&義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆の援軍
に助けられてたのに例年のように撃退されまくってた信長と比較したら遥かに信玄のが上

信玄なんて長い戦歴の中で負けという負けこの二戦以外全くといっていいほどないし
大国北条+今川や最強徳川・織田相手にも駿河やら遠州・奥三河・東美濃を攻略するなど圧倒的強さを見せている
信長と比較するなら信玄より勝頼だろ
102名無し曰く、:2012/05/30(水) 23:46:46.69 ID:WhVVOLWh
信玄には負けてないだろ
103名無し曰く、:2012/05/31(木) 00:14:42.49 ID:n6PBJZXB
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは武田優位は揺るいでないから
信長は結局、 信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを信長は引きずっているのがわかる。

元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。

連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたしここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった
しかしその状況ですら武田軍は>>86のように敢闘してるから
ガチンコでやりあったら信玄どころか勝頼でも信長よりずっと強いだろう
104名無し曰く、:2012/05/31(木) 00:25:45.01 ID:NvRJ5O84
>>103
チンコだけ読んだ
105名無し曰く、:2012/05/31(木) 00:51:27.05 ID:x+vZ5m2s
うーん
たが?のレス頑張って読もうとしたが
五行くらいで断念しちまう
106名無し曰く、:2012/05/31(木) 00:54:49.85 ID:mfOYVg3e
読む価値ないよ。論理的でもないし、ソースもないし。
107名無し曰く、:2012/05/31(木) 01:25:12.86 ID:n6PBJZXB
>>106
お前は文盲かw

レスよく読め
108名無し曰く、:2012/05/31(木) 01:30:25.56 ID:w6aDEWax
織田厨はソース書かれてるのも見れんアホ
109名無し曰く、:2012/05/31(木) 01:35:41.92 ID:NvRJ5O84
こんな無駄に長いだけの駄文だれが読むというのか
110名無し曰く、:2012/05/31(木) 01:36:57.24 ID:mfOYVg3e
>>107
どこが論理的で、ソースがあるの?
111名無し曰く、:2012/05/31(木) 01:40:20.93 ID:w6aDEWax
>>103とかみればちゃんと書いてるだろ
つか日付レベルで事項をちゃんと書いてるんだから
112名無し曰く、:2012/05/31(木) 01:53:44.29 ID:mfOYVg3e
それソースって言わないから
113名無し曰く、:2012/05/31(木) 01:58:16.55 ID:w6aDEWax
>>112
は?
書状あげられたりとか報告したりとか事実を書かれてるのに何がソースがないんだ?

つか信長が勝った戦なんて嘘長公記くらいにしかかかれてないし
織田厨からソースなんか全く出てこないで妄想垂れ流しだけじゃねぇかw
114名無し曰く、:2012/05/31(木) 02:03:27.79 ID:z5rKoDcO
ソースってのは出典や引用元の文献の事なんですよ、だがさん
あなたが書いた文章の事じゃないんです
115名無し曰く、:2012/05/31(木) 02:06:43.28 ID:SOMwKAUq
自分がソースなんだろ
116名無し曰く、:2012/05/31(木) 02:32:32.92 ID:fzWnbCU4
つかちょっと見るだけでももう嘘まみれだからな。
だがは5月20日に玉薬が到着したから「19日に武田が攻撃すれば勝てた」なんてアホなこと言ってるけど
5月20日の細川幽斎宛て織田信長書状は鉄砲調達よりも長篠戦況報告の話で
「武田が雑魚のくせに粋がってすぐ近くに陣取ってきたから根切りにしてやる」と自信満々に答えている。

ちなみに細川家文書にある鉄砲調達報告は5月15日で、5月16日5月18日には既に前哨戦を開始している。
まあだがじゃなければ少し調べればわかる話なのだが、それくらいだがのソースはアテにならんと言うことだな
117名無し曰く、:2012/05/31(木) 04:30:13.85 ID:WTpTFLjF
いい加減大人になりましー
118名無し曰く、:2012/05/31(木) 08:31:49.02 ID:w6aDEWax
書状や報告がソースじゃないとかアホですか?
119名無し曰く、:2012/05/31(木) 09:02:58.52 ID:kpKvmOeM
ソースではあるが、それが信用できるかどうかはまた別モノだろ。
>>116とかの「細川家文書」とかはちゃんとした実物もある、信用できるから出ている。

お前のその書状とやらはどういう文献のどういう所からの引用か、という説明がないから論破されるんだよ。
くやしいならその書状とやらの画像でもupしてみろよ。
120名無し曰く、:2012/05/31(木) 09:21:31.47 ID:w6aDEWax
>「武田が雑魚のくせに粋がってすぐ近くに陣取ってきたから根切りにしてやる」と自信満々に答えている。
こんな事書いた書状ねぇわアホw
わざわざ四カが要害から出て前に出てきたので包囲殲滅できるならあるけど
121名無し曰く、:2012/05/31(木) 10:12:34.32 ID:8+MStZOX
村上や長野に大名かわってもらってたら
一生涯あんな地域で引きこもりしなくて済んだかもね信玄君
122名無し曰く、:2012/05/31(木) 11:58:06.12 ID:SSN5SClu
>>79>>95
最強なら謙信から逃げ回らないよ
123名無し曰く、:2012/05/31(木) 12:05:10.55 ID:cw7botaH
別に逃げてないでしょ
124名無し曰く、:2012/05/31(木) 13:48:15.62 ID:w6aDEWax
長野(笑)
信玄を講談ネタ武将と罵倒しながら講談大好きだなw
125名無し曰く、:2012/05/31(木) 14:21:59.50 ID:fzWnbCU4
長野や村上の能力の8割は信玄補正
126名無し曰く、:2012/05/31(木) 14:24:10.69 ID:hclW2zSF
逆に長野村上が下がると信玄も下がっちゃうんだよな
「信長と違ってまわりが強敵ばかりだから〜」って言い訳できないし
127名無し曰く、:2012/05/31(木) 14:27:09.40 ID:YR/UO/XM
信玄の周りの強敵
北条氏康
上杉謙信
織田信長
128名無し曰く、:2012/05/31(木) 14:46:18.49 ID:w6aDEWax
長野なんて講談ネタ武将を下げたらなぜ信玄が下がるんだアホw
129名無し曰く、:2012/05/31(木) 15:25:35.93 ID:8+MStZOX
やっぱり長野は強いよな!
信玄君w
130名無し曰く、:2012/05/31(木) 17:07:02.60 ID:iHqjp4gA
その信玄に手も足も出せなかった
北条は過大
氏康氏政氏照氏邦綱成は統率マイナス5
131名無し曰く、:2012/05/31(木) 18:06:45.72 ID:YR/UO/XM
北条って天道でやけに能力あがったくせに
武田にすぐ潰されるよな

多目とか知力97だし

勘助、宇佐美ポジションなんだろうけど
132名無し曰く、:2012/05/31(木) 19:38:08.94 ID:5k0Bb21+
天道システムだと序盤は1−2部隊で戦争するのが基本なんで
信玄さんの前には統率80台が増えようと無力

ついでに他の4人は適正が大事だが武田と比べれば微妙


はっきり言って勝てる要素がない
133名無し曰く、:2012/05/31(木) 19:47:51.74 ID:C88UWg8x
毎年飢饉に見舞われてた甲斐や
だだっ広いだけで山がちな地勢に守られた豪族割拠状態で信濃の国力が異常に高いからな
134名無し曰く、:2012/05/31(木) 23:41:02.18 ID:PrakesTz
北条はいつもごちゃごちゃ言われるけど、そのライバルにして、
武将風雲録から天道まで一貫して過大過少にならずまあまあの能力の太田三楽斎は偉大だと思うw
武将風雲録ではモブなのにすぐ軍師になれてすげーなーと思ってた
135名無し曰く、:2012/06/01(金) 00:27:57.39 ID:RlUkt7w0
前スレでスルーされて悔しかったんで
もう一回張る。
北条家と伊達家これで十分

871 : 名無し曰く、 : 2012/05/24(木) 00:40:15.31 ID:a3Ri/MiF
北条家は氏政・氏照・氏邦・綱成の統率それぞれマイナス3
氏直は統率+18

伊達家は全体的に統率高すぎだから
重長・茂庭綱元・後藤信康は統率マイナス2
政宗・成実・留守政景・鬼庭良直の統率マイナス5
景綱・小田辺勝成・原田宗時は統率マイナス10
これぐらいで丁度良いだろ
136名無し曰く、:2012/06/01(金) 00:49:54.83 ID:PNcRKJkv
>>135
そんなん貼られても相手にしてもらえんよ
どの武将と比較してその数値なのか、数値の根拠は何か、高すぎるからとは実績から言ってるのか…
いろいろ端折りすぎ
137名無し曰く、:2012/06/01(金) 01:22:40.17 ID:RlUkt7w0
北条は対里見・佐竹でのちょくちょく敗戦があって
その北条相手に互角に善戦した里見親子・佐竹義久などがもう少し統率低い気もして

伊達家は実績の割りに全体的に高すぎるわ
138名無し曰く、:2012/06/01(金) 01:42:39.82 ID:lTWUDxfx
氏康の政治がやたらと高いのは信玄や謙信との対比っていう面もありそう。
でも、政治高くされてもねぇ。
139名無し曰く、:2012/06/01(金) 02:51:36.24 ID:DK+vIIIF
戦国一の民政化だったらしいからな
140名無し曰く、:2012/06/01(金) 03:16:28.23 ID:p5DnX4Ey
悪気はないのかもしれんけど、このスレで「伊達と北条」なんて挙げられると
面白半分で地雷原つっついて遊んでるようにしか見えないな・・・

思わずスルーしたくなってしまうのも無理はない
141名無し曰く、:2012/06/01(金) 03:17:05.09 ID:kBEwck9Y
だいたい、家康が関東は北条が良かったから治めにくい、
つっただけで政治トップはおかしい。あと水道もあるけど、氏康がしたというソースはない。
家康なんて東海地方でも一揆起こしまくってるんだから、
おさめにくいのはどこもいっしょのような。
あと、おさめにくいのは関東民の性格もあると思う。
四公六民だっけ?軽税でないとおさめられなかったんだろう。
これって、政治力があると言えるのか?
政治力がないから軽税にせざるをえなかったんじゃないのか?
142名無し曰く、:2012/06/01(金) 04:01:34.27 ID:RlUkt7w0
>家康なんて東海地方でも一揆起こしまくってるんだから、
初耳
一向一揆じゃなくて?
氏康や信玄の政治が評価高いのは家康が手本にしたかてのは聞いたことあるが

>>140
あのきちがい佐竹厨の意見に賛同してるわけじゃないよ。
でもあいつの主張にも一理あると思うだけ
逆に滝川一益を破り義重相手に互角の戦いした氏直はもっと評価すべきだと思うし
143名無し曰く、:2012/06/01(金) 04:06:09.71 ID:RlUkt7w0
悪い打ち間違い

氏康や信玄の政治が評価高いのは家康が手本にしたからってのは聞いたことあるが
144名無し曰く、:2012/06/01(金) 04:51:37.32 ID:4a3JtHjc
信長>謙信>氏康>義清>長野>信玄

レスを纏めたらこんなところか
145名無し曰く、:2012/06/01(金) 05:14:31.83 ID:A68I5f7Z
伊達、長宗我部は有名補正で能力上げてる典型だからな
政宗、成実、元親が統率80越えてりゃ後は低くていい
146名無し曰く、:2012/06/01(金) 07:01:26.16 ID:nAEisfBN
>>145
長宗我部は、国親が過小で元親は過大気味だと思う。
伊達は政宗以前は普通というか、パッとしなさすぎて過大な感じがしない。
147名無し曰く、:2012/06/01(金) 07:15:55.20 ID:shszPxOq
実際、大久保長安と北条氏康が奉行的な仕事をしたら
大久保長安の圧勝だろう。
秀吉と北条氏康が経済や殖産の振興をしても、
秀吉が圧倒的に優っていると思う。
なんで北条氏康が政治トップなのだろうか
148名無し曰く、:2012/06/01(金) 07:59:09.04 ID:DK+vIIIF
訂正 民政家な
政治トップはオレも疑念に抱く
河越夜戦しか目覚ましい活躍はないんだが
149名無し曰く、:2012/06/01(金) 08:15:36.82 ID:wMnp2YVL
戦国時代で民政家って言われても難しいよな
ちょっと甘くすると一揆起こしたり逃散したり
あと太閤検地は要するにきっちり年貢払わせようって政策で、民からすれば極論、増税政策でしかないのに、秀吉の政治プラス要素になってると思うし
150名無し曰く、:2012/06/01(金) 08:34:54.32 ID:A68I5f7Z
本佐録じゃないけど、当時は絞れれば絞れるだけ民から吸い尽くすって政治が至高と思われてた時代だからね。
さすがに島津レベルになると「それはねーわ」とドン引きされてたみたいだが
151名無し曰く、:2012/06/01(金) 09:09:27.78 ID:K2GWc7iD
税収増やすのは政治力だろ
お前ら絞られる側の視点しか無いんだよ
絞る側からすれば多い方がいいだろ?
152名無し曰く、:2012/06/01(金) 09:13:18.81 ID:wMnp2YVL
>>151
そうじゃなくて

氏康 → 民政家だから政治高
秀吉 → それと真逆なのに政治高
153名無し曰く、:2012/06/01(金) 10:52:28.43 ID:G6CbQ/7D
全体的に政治的な意義があるかどうかじゃね?百姓がどうのこうのより
秀吉は先進的な改革をやってのけたから政治力が高いのも妥当
コーエーは政治としか括ってないからどういう評価で政治が高いのかは
コーエーの判断としか言いようが無い
154名無し曰く、:2012/06/01(金) 11:27:17.91 ID:qzIMl3YA
政治なら秀吉トップでいいかもね
それで家康を屈服させたわけだし
155名無し曰く、:2012/06/01(金) 12:18:57.57 ID:K2GWc7iD
>>152
ほら、片方の視点しかない
サル→税収を増やしたから政治高
無理から同じベクトルで見ようとしてるからおかしくなるんだよ
156名無し曰く、:2012/06/01(金) 13:04:51.75 ID:wMnp2YVL
>>155
いや、そんじゃ税を安く設定した人は政治下げるの?って話。
視点関係ない。
157名無し曰く、:2012/06/01(金) 17:24:33.15 ID:j2WwXvYS
>>154
江戸時代をつくった家康より秀吉の政治を上げるなら
統率は差をつけて家康の圧勝にしてもらわないと困る
そもそも田舎大名の謙信玄より天下とったから秀吉の統率が上っていうのは
結果論なわけでそれでいうと家康が全能力トップってなるのに
天下人史観の奴って信長秀吉にその理屈適用して家康のことは無視するんだよな
158名無し曰く、:2012/06/01(金) 18:18:36.00 ID:+MGAgw4w
小牧長久手みれば
戦術は家康
戦略は秀吉

統率
家康>秀吉

知力
秀吉>家康
159名無し曰く、:2012/06/01(金) 18:26:22.29 ID:HBOLut8/
秀吉が負けたのは家康ではなく信雄。

織田家でもっとも無能な信雄軍団が84年の攻防の主力であり、家康はたかだか8000連れてきただけなのは当代記などに書かれてる。

松ヶ島、木造、加賀の井方面で大敗して結局尾張ライン超える事は挫折

夏の攻防の際にもやはり砦間の攻防で苦戦して退却

弱いにも程があると思う
160名無し曰く、:2012/06/01(金) 18:28:21.06 ID:CZQPBthv
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ

わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
161名無し曰く、:2012/06/01(金) 18:29:49.15 ID:MD4nJENn
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
162名無し曰く、:2012/06/01(金) 18:31:41.95 ID:jLto7bo8
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

織田家中でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田
>>>>>>>>>>>秀吉
こんなもん

長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ
長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?

163名無し曰く、:2012/06/01(金) 18:32:57.20 ID:jlifMGhS
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄&寝返りばかりで権力ガタガタな22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
164名無し曰く、:2012/06/01(金) 18:34:20.46 ID:pMdVHYH+
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない


165名無し曰く、:2012/06/01(金) 18:38:24.16 ID:Qhum3ZYX
(-.-)Zzz・・・・
166名無し曰く、:2012/06/01(金) 18:47:31.99 ID:pMdVHYH+
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし


黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
167名無し曰く、:2012/06/01(金) 18:49:17.05 ID:vGX8QwHy
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田や金森らが兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
168名無し曰く、:2012/06/01(金) 19:12:06.70 ID:vGX8QwHy
秀吉は軍事的才能が致命的に欠如していたんだろうな

この戦いに限らず常に圧倒的大軍で寡兵の敵に敗走、大苦戦、大損害。

織田兄弟で最も無能な信雄ごときに苦戦する雑魚はそうそういないだろう。

信雄がもう少し基盤の強い土地で防戦できたら秀吉は蟹江あたりで戦死してたんじゃないか。
169名無し曰く、:2012/06/01(金) 19:13:37.42 ID:2dSLhnmK
関東でいえば
佐竹>里見、大田>厩橋北条 後北条>壬生、由良、水谷、結城>佐野、成田、皆川
>深谷上杉>小田>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉


170名無し曰く、:2012/06/01(金) 19:28:26.27 ID:G6CbQ/7D
コピペ終わったら起こしてくれ
171名無し曰く、:2012/06/01(金) 19:42:53.79 ID:2dSLhnmK
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。

172名無し曰く、:2012/06/01(金) 20:41:26.50 ID:wMnp2YVL
だがさんはねぇ…
173名無し曰く、:2012/06/01(金) 21:07:58.87 ID:2dSLhnmK
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
174名無し曰く、:2012/06/01(金) 21:16:29.26 ID:+MGAgw4w
だが、今日はちゃんと病院行ったの?

精神安定剤切らしちゃダメだぞ
175名無し曰く、:2012/06/01(金) 22:40:10.73 ID:RlUkt7w0
>>148

氏康は今のままの能力でいいと思ってんだけど
河越野戦《一戦だけじゃなくて複数回の戦いが混ざってできた説》
第2次国府台《永禄6・永禄7年のそれぞれ別の二つの戦いを一辺にまとめた説》

これらの説が正しかったら氏康の能力て下がる?
176名無し曰く、:2012/06/01(金) 23:26:53.34 ID:K2GWc7iD
>>156
税安くしたなら、民の事を重視する政治で高評価ってだけな話
だから片方しか見てないんだよお前は
AのメリットはBのデメリット
Bのことばかり言い立てるが、Aの視点を忘れてるだろ?
AからもBからも見ればいいんだよ
なぜAに視点を固定する
177名無し曰く、:2012/06/01(金) 23:35:38.46 ID:wMnp2YVL
>>176
それじゃみんな高評価になっちまうじゃねえかw
178名無し曰く、:2012/06/02(土) 01:51:00.93 ID:4v6Zzk2X
税増やしても支配地域の基盤固められれば政治↑
税増やして支配地域の支配力下がれば政治↓

島原の乱の松倉重政(天道)
統率 52
武勇 33
知略 3
政治 15

政治は1でもいいな
大乱の原因作ったんだし
179名無し曰く、:2012/06/02(土) 03:15:03.70 ID:/G/si55z
じゃあーこうなるな
家康>秀吉>信玄
180名無し曰く、:2012/06/02(土) 06:13:51.64 ID:GI49im6Q
信長の金品送りまくり婚姻おべっかの書かれた書状とか信玄に対する
土下座外交は好き。その同盟を破棄する同盟破棄魔の信玄も好きだけど
181名無し曰く、:2012/06/02(土) 08:39:26.75 ID:3BE9VSVo
Civ的に土下座外交は最強の外交法
182名無し曰く、:2012/06/02(土) 12:51:14.34 ID:tuO6dy+P
しかし本当に信玄は裏切るな
武田家の信用は最低レベルだっただろう
勝頼も苦労しただろうに
約束は破るためにあるって言葉が一番似合う武将だ
183名無し曰く、:2012/06/02(土) 13:18:55.95 ID:gvIy1YCA
そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
酒井忠次に至っては2万討ち取りなどと吹聴している始末。
5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦局を逆転するには長宗我部が毛利・宇喜多らに襲われるのを無視して
秀吉の背後を襲ってくれることしか道が見えないことが判明する。
5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して
北条から援軍が来たら秀吉を敗北させるからなどと家康はついに白昼夢の夢物語を語り始める始末。。。
6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
6/3には竹鼻城は降伏していいと言って完全に打つ手なし。この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
184名無し曰く、:2012/06/02(土) 13:33:22.19 ID:u2cmnvS4
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
185名無し曰く、:2012/06/02(土) 13:35:03.22 ID:u2cmnvS4
>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる

●二重掘合戦

細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
186名無し曰く、:2012/06/02(土) 13:40:40.83 ID:PP2gu/Eu
>>183-185
やっぱ秀吉は凄いなw
秀吉のスケールに比べれば信玄なんかゴミ
信玄の統率を下げて秀吉を上げるのを納得する文面
187名無し曰く、:2012/06/02(土) 13:54:05.63 ID:gvIy1YCA
>>116

>>「武田が雑魚のくせに粋がってすぐ近くに陣取ってきたから根切りにしてやる」と自信満々に答えている。
そんなことは書いてない。お前の感情を込めて文章を捏造してるだけだろ。
それに16日に前哨戦などやってない。18日に備えの節所を探るべく織田の物見部隊が視察に出て
武田の物見部隊レベルと散発的な遭遇があっただけだろ。
つうか、織田チョンは細川文書の全文を読んでないだろ。
完全に切り抜いた一部を紹介した誰かの歪曲が入った文を丸パクリしてるから
デタラメを書いて恥を書くハメになるんだよ。

15日細川宛書状→鉄砲玉薬のこと申し付けたこと尤もだ。
明日敵陣の近所まで人数を押し出して相備え候。織田軍は無敗の軍なので
この天与の機会に根切りしてやる。

20日細川宛書状→鉄砲のこと祝着だ!(細川から纏まった数の鉄砲放と玉薬が届いたのだろう)
17日に牛久保から人数を押し出し長篠との距離は3里。
敵の備えの節所に18日に鉄砲を放った。通路も良くない時期だし根切り眼前。

5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃

5/21細川宛書状で長篠で勝利を報じているが、勝利し天下安全の基の理由として
細川に鉄砲放の調達を仍(しきりに)申し付けたからだ。
もしくは細川に調達させた鉄砲を放たせたので仍(それにより)勝ったからだと書いてる。
鉄砲放を砲手のことなのか、鉄砲を放つの意だかよくわからない。
熊本大学の稲葉継陽氏は細川氏が鉄砲手の調達と解釈してるな。
当時の武士は雑兵を射手として使ったので武士に鉄砲は扱えないとも指摘してる。
おそらく雑賀衆などの傭兵鉄砲部隊を雇って派遣したのだろう。

188名無し曰く、:2012/06/02(土) 14:20:15.53 ID:u2cmnvS4
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…というのが顕如日記にあると書いているが嘘
そんな記述はどこを探しても見つからない
189名無し曰く、:2012/06/02(土) 14:34:55.84 ID:u2cmnvS4
>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗


秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
190名無し曰く、:2012/06/02(土) 14:38:23.91 ID:u2cmnvS4
>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
191名無し曰く、:2012/06/02(土) 14:41:52.97 ID:/GKGFGjr
だーがだーがだがアスペの子♪
192名無し曰く、:2012/06/02(土) 16:01:51.35 ID:u2cmnvS4
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
193名無し曰く、:2012/06/02(土) 16:27:41.90 ID:u2cmnvS4
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
194名無し曰く、:2012/06/02(土) 16:44:33.85 ID:2djcPopR
駄文
読む価値無し
195名無し曰く、:2012/06/02(土) 16:59:18.84 ID:u2cmnvS4
5/20 生源寺行正 加賀野井城攻防戦で戦死した沢田三左の事を慰める
5/24 秀吉→滝川雄利 菅生へ砦を申し付ける
5/24 家康→不破 竹鼻を硬固に防戦してる事を賞する
   敵国の内に計策を多くめぐらせており敵方は敗北まで程なくである
5/25 家康→屋代秀正 この表では逐日思うままになっているので安心せられよ
6/7 秀吉→前田利家 尾張河波の敵城は悉く退治するつもりでいる
10のうち9つはもう申しつけている
   
196名無し曰く、:2012/06/02(土) 17:05:27.47 ID:p0uQFcd2
ああ、なるほど。秀吉は最終的に天下統一を成し遂げた
それが言いたいんですね
197名無し曰く、:2012/06/02(土) 17:09:10.49 ID:4v6Zzk2X
明智、柴田、長曾我部、島津、北条を破り
織田、上杉、毛利、徳川、伊達を服従させ天下統一したんだよ
198名無し曰く、:2012/06/02(土) 17:25:23.91 ID:u2cmnvS4
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる


圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。

単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
199名無し曰く、:2012/06/02(土) 17:26:48.83 ID:Ve7PI+nM
秀吉は、織田四天王の中では一番雑魚。
直接交戦での戦績からそれがよくわかる。
滝川にまけ柴田に負け明智にまけ、それを勝った勝ったと揉み隠し
しまいには輝元、氏政、信雄の日本3大凡将に大敗し天下失ったゴミ武将
200名無し曰く、:2012/06/02(土) 17:29:22.80 ID:YhmSlJsa
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田や金森らが兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。

秀吉は軍事的才能が致命的に欠如していたんだろうな

この戦いに限らず常に圧倒的大軍で寡兵の敵に敗走、大苦戦、大損害。

織田兄弟で最も無能な信雄ごときに苦戦する雑魚はそうそういないだろう。

信雄がもう少し基盤の強い土地で防戦できたら秀吉は蟹江あたりで戦死してたんじゃないか。

201名無し曰く、:2012/06/02(土) 17:31:47.81 ID:tuO6dy+P
ID変えんなよ詩ね
202名無し曰く、:2012/06/02(土) 17:32:13.20 ID:x0zrFTdh

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
関東八州諸城人数覚書でも同数
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾嫡男や前田重臣などが戦死し、韮山300や忍城1000に大苦戦し
小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。
203名無し曰く、:2012/06/02(土) 17:34:22.10 ID:m+KI7LOU
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう

秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。

ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう

秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ



箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談
池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。
いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。
信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
204名無し曰く、:2012/06/02(土) 17:35:49.89 ID:7t/ZQj1b
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。

205名無し曰く、:2012/06/02(土) 17:40:22.21 ID:FefXK/KR
>>182
勝頼自身も御館で北条を裏切ってるからな

最初は景虎方優勢だったのに、勝頼が国境にやって来たのに傍観し
挙句に景勝と和睦。和睦後も3ヶ月滞陣して、むしろ景虎方への牽制になってたw
春日に3千ぐらい預けて国境で傍観してるか
最初から「国内統治を優先したいから派兵は無理」とでも断っていた方がマシ
ドタキャン、しかも他の用事を優先ってのは心証が最悪になる
206名無し曰く、:2012/06/02(土) 18:00:44.00 ID:HPi/IyGN
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚

毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦(それ以前の攻防では宇喜多単体でも毛利勢を何回も撃退するなど翻弄しまくっていた)
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
207名無し曰く、:2012/06/02(土) 19:20:01.43 ID:N8aZDdEU
前哨戦の意味も分かっていないだが
208名無し曰く、:2012/06/02(土) 19:29:36.32 ID:LAOs5baP
だがさんの評価ってひょっとして滅ぼされた所ほど評価高くなるの?
209名無し曰く、:2012/06/02(土) 19:41:18.77 ID:HPi/IyGN
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

織田家中でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田
>>>>>>>>>>>秀吉
こんなもん

長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ
長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?


210名無し曰く、:2012/06/02(土) 19:42:54.68 ID:AeAMoUAA
秀吉厨死ね

秀吉は日本三大凡将の信雄、氏政、輝元に大敗したゴミカス

現状でもはっきり言って過大すぎるのにムリヤリ事実を歪曲するクズ
211名無し曰く、:2012/06/02(土) 20:39:06.51 ID:/GKGFGjr
>>208
結局は信玄を持ち上げ、信長を貶したいだけ
212名無し曰く、:2012/06/02(土) 20:40:49.28 ID:j6gHwWsb
いや、だがを追い込んだ俺らにも責任があるよ
俺たちが怪物を生み出したんだよ……
213名無し曰く、:2012/06/02(土) 20:42:21.86 ID:d+eWRV9m
でも信長の力を認めた氏マサとか言ってるし、秀吉を叩くときはあんまり信長の話はしないな
214名無し曰く、:2012/06/02(土) 23:31:20.86 ID:7i6XmpU/
もうすぐ記念すべき100スレ迎えるんで
過去スレ読み返し振りかえってみたけど、話題ループ半端ねぇな。

自分の書き込み見つけて
何回も同じような主張書き込んでて、俺馬鹿みたいで笑ったw
215名無し曰く、:2012/06/02(土) 23:34:49.21 ID:j6gHwWsb
>>214
それが怖くて俺は過去ログ見たくないw
216名無し曰く、:2012/06/02(土) 23:48:02.99 ID:mO8y0pcY
何年か前のこのスレってさ全国的に有名な武将の能力値云々だけではなく
地方の無名武将についても書き込まれる事も多くってさ
自分が書き込みを見なかったら一生知り得なかったであろう渋いエピソードや
目からウロコの能力評価が書き込まれてたりして凄くその武将に興味が出てきて
ゲームプレイする際に大名選択のきっかけになったりして楽しかった

最近はソース出せ出せがきつすぎてソースなんて伝承ぐらいしか残ってないような
地方武将の事なんかとてもじゃないが書き込める雰囲気じゃないのが残念

今みたいにきちんとした資料を基に議論して正確な能力評価をしようという方向性は大賛成だけど
たまには息抜きでみんなの地元の知られざる隠れた名将の評価なんかも書き込んで欲しいわ
217名無し曰く、:2012/06/02(土) 23:50:57.73 ID:7i6XmpU/
ある主張を書き込む→何スレ後かに前の書き込み忘れて同じ主張書く→また数スレ後同じこと書く

前書き込んだこと忘れて同じ書き込みする
俺の記憶力のあやふやがマジ恥ずかしいw
218名無し曰く、:2012/06/03(日) 00:10:48.94 ID:Fk3YViDc
>>216
もうそういう人達いなくなっちゃったから、仮に「昔の空気に戻しましょう」運動してもあの頃の空気は戻らんだろうな

イデオロギーが何かを破壊するっていう典型的な事例だよ
219名無し曰く、:2012/06/03(日) 00:26:54.17 ID:FtaT9SXq
>>216
今はこうだもんな
ソース出せ→出せなかったら捏造扱い
ソースが軍記物や家譜→内容が信用ならん一次資料出せ

昔みたいに緩やかにワイワイ雑談語る場所なんて難しいしょ
220名無し曰く、:2012/06/03(日) 07:56:44.27 ID:A/z2Bh6P
しまいにゃ原文だせだからな
自分で調べろよと
何のためにソース聞いたんだか
221名無し曰く、:2012/06/03(日) 08:16:11.02 ID:4nr1FKNg
昔は史実ではこう、講談・伝説ではこうだねと言って受け入れられてたからな
今は自分の都合の悪いのは全部捏造と言い張って、自分の都合のいいように捏造するアホのせいでスレの雰囲気まで最悪になってる
222名無し曰く、:2012/06/03(日) 09:03:04.34 ID:FCqPZF6w
285:人間七七四年 06/03(日) 08:56 kVlZXyqr
信長の野望で過大過小されている武将スレでも
同じコピペを基地害連投しまくってる
アンチ秀吉の糞チョンでみんな迷惑してる。
>>278
お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞw
いかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
よく知らしめることしか書いてないw
家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、
戦局の打開への道がまったく見えてない。
しかし毛利と宇喜多が背後から攻撃してくるのを無視して長宗我部がやってくるわけもない。
しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
北条を牽制する佐竹には秀吉からの書状で状況を理解してるしwww
上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、
信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
>>279
>>長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
軍記の太閤記に出てくる「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略で
その妄想に対して谷口氏もまったく一次史料によるソースを書いてないアホくさいデタラメ。
秀吉がそんなことを命じた書状も皆無。つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
>>二重掘合戦
これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
>>280
>>堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…
>>というのが顕如日記にあると書いているが嘘そんな記述はどこを探しても見つからない
無知なくせに「どこを探しても見つからない」などとほざくアホぶりを晒してるなw
つか出典元すら明示してあるのに、こいつ最強のアホちゃう?アンチ秀吉過ぎてマトモな思考すらしてないな。
「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
キッチリ書いてあるんだがw
噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
223名無し曰く、:2012/06/03(日) 09:31:38.27 ID:1kQ1vb6C
751 : 名無し曰く、: 2010/09/16(木) 01:07:43 ID:iL6nNQg8 [1/6回発言] 箕浦合戦の秀吉が大軍相手に引きこもってただけとかないわ
『松下文書』によれば鎌刃の砦から打って出て数倍の浅井軍を粉砕、
逃げる敵を更に追撃して小谷城まで追い込んでるんだが
『信長公記』でも同様の記述が見られる

755 : 名無し曰く、: 2010/09/16(木) 08:03:54 ID:iL6nNQg8 [2/6回発言] >>752-753
君どんな『信長公記』読んでるの?
「終に追ひ崩し、数十人討ち取る。又、下坂のさいかちと云ふ所にて、
たまり合ひ、爰にても暫く八幡下坂まで癈軍致し、浅井備前、曲無く人数打ち入り候なり」
秀吉が城から打って出て、敵を追撃したことはちゃんと第四巻に書いてるけど
むしろ「秀吉は単に陣地に引き篭もって上から弓矢や鉄砲で疲弊させた上に浅井軍が油断してたから勝てただけ」
これこそどの史料に書いてるの?
『松下文書』と『信長公記』の記述を否定する大発見だね

つうか戦国時代の一揆って江戸時代の百姓一揆みたいに非戦闘員じゃないよ
大方坊主が念仏唱えながら農民が鍬持って突撃みたいなシーン
想像してるんだろうが、大きな間違い

790 : 名無し曰く、: 2010/09/17(金) 03:48:57 ID:EUslkiIn [1/1回発言] >乱戦に巻き込まれまくって滅茶苦茶に疲弊した軍より整然と整えられた秩序ある軍
>緒戦寄せ集めでバラバラだから
>一揆勢は防戦だけでプロ武士団がなく指揮系統があいまいだから
いつものことだが全くソースがないね
指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、
当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、
秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある

>秀吉が雑魚なのは対別所明智柴田滝川徳川信雄北条などで証明済み
>よって一揆勢が雑魚だったでFA
「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦だけで後は普通に勝利してるし、
対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」
って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて
戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
つうか早く箕浦合戦で秀吉が砦に籠ってただけ、ってソース出してよ
お得意の捏造はもう良いから
『信長公記』とか『浅井文書』とか
それっぽい名前出せば誤魔化せると思ってるのかね
『信長公記』なんてネットで原文と現代語訳読めちゃうのに恥ずかしい
224名無し曰く、:2012/06/03(日) 09:34:14.71 ID:1kQ1vb6C
62:名無し曰く、:2010/08/23(月) 22:54:56 ID:TyVG8GKg
>北条家所蔵の陣立書
毛利家の文書だろ
小田原征伐で北条降伏後、豊臣政権が北条家臣団をまとめた奴
あれ言っとくけど一定の地位以上の人間しか載ってないから
神奈川県史に収録されてる北条氏政のお触書では
領内で体が動く成人男性全員動員するように述べられてるのに、
全部併せて1000人とかどんだけ人口少ないんだよ
関東二百五十万石は砂漠か?

63:名無し曰く、:2010/08/23(月) 22:56:39 ID:TyVG8GKg >>61
『太閤記』では小田原本城に籠った兵数だけで7万以上となってる
石高、北条家の動員命令を鑑みてこっちが妥当なところだろう
つうか小田原征伐について述べられた書物では全部こっちを採用してるだろ
1000とか誰が主張してるんだよ
225名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:17:59.55 ID:+GfuCfxW
>>222
>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる

>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
>キッチリ書いてあるんだがw

書いていない。長久手町史資料編・愛知県史史料編と探してもそんな記述はないし
文中ではなく真横に書く時点で書き足しているのがミエミエ
226名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:23:10.67 ID:+GfuCfxW
あっそう
なら北条34350と書かれてるのを
実際にはもっと多いと見積もる分の割合だけ豊臣方235000も同割合でもっと多いと多く見積もるべきだな

実際下山氏も50万だか60万だか書いてたし
>>729
松田が小田原なんて書いてねーよタコ
>>730
>朝鮮出兵時は動員しなかっただけで50万や60万程度なら動員出来たよ
んな妄想言われても
>動員兵力は15万〜20万だけど、西日本(九州、四国、中国)が中心で東日本の兵は殆どが出兵していない
秀吉書状だったか陣立書で30万近くかそれ以上動因してたはず
>西日本の大名も当然、留守居を置いての出兵だから総動員ではない
ソースよろ
>そもそも兵役とは、最低限出兵すべき義務であってそれが総数ではない
>石高と出征先を照らし合わせて兵担を維持出来る兵数を課している
>だから、地域によって兵役もまちまち
石高あたりの動員力でいえば石高に比して副収入が多い西国>>>>>東国でしょ
実際87年からの動因&戦闘体制構築で貧困な北条領国では会戦2年も前の88欠村が相次いでるし
>その豊臣家の作成した記録を見ても分かる様に敵地に近いほど兵役は多く、遠いほど少ない
朝鮮出兵でもはるか遠い半島までも一万石当たり450人もの動因を課せられてるのが西日本大名
それより遥かに近い北条征伐で大量動員できないはずもない
>遠国は敵地に到着するまでに多くの兵糧を消費し、また、国許からの輸送にも多額のコストがかかるのだから当たり前
防衛側の兵糧確保も無視した暴論だな


>20万人動員と言っても戦闘員は10万人前後であろう
お前の妄想なんてきいてねえわアホ
235000+20万非戦闘員で問題ないだろ
>ただ、後に関東へ入った徳川氏の検地や兵力を照らし合わせるに通説の6〜8万人は妥当な数字だと思う
徳川時代の検地や兵力こそ 状況が全く違うから比較にならん
結城領や宇都宮領、里見領も含まれてるし欠村など会戦2年前でも疲弊が目立ってた
北条領国と徳川時代とでは雲泥の差

北条方戦闘員が34350の半分の17000程度で残りは非戦闘員か、
豊臣方戦闘員が235000で同数の非戦闘員がいるかどちらか。

北条だけ史料の2倍も実数がいて豊臣は陣立書の人数が非戦闘員含みなんて糞アホ論法もいいとこだ
227名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:24:09.58 ID:+GfuCfxW

それ下山氏の誤記だな
小田原市史通史編&資料編
神奈川県史資料編
愛知県史資料編
いずれも松田が小田原にいたとはかかれていない
あと秀吉は天正17年10月10日豊臣秀吉條書案で20万石もの兵糧を船で江尻・清水に運ばせる様に指示
にもかかわらず佐竹史料では豊臣方は兵糧不足に陥ってたと記している事から空前の大動員だったのだろう
また同日豊臣秀吉軍役定書書案で
四国〜尾張、北陸に6人役三河遠州駿河信濃甲斐には7人役
中国4人役を来春の関東陣軍役で課すと書いている
また小田原合戦時の榊原康政書状でも兵力50万と書いている

あと北条家人数覚書は玉縄と下田が開城した4月下旬以降に作成されたとされている
そして末尾には是は氏直分国惣人数積也と記載されているので全軍の人数を記したものと理解できる
また毛利家文書の関東八州諸城覚書にも北条方軍勢数が記録されており
この総人数も北条家人数覚書と同様
そして小田原市史資料編によるとこれと同内容が記載の文書がもう一点あるらしい




738 :人間七七四年:2012/05/23(水) 19:18:02.23 ID:urWWGAKW
>>731
脳みそ腐っているのか?

無理やり話の内容を変えるなよw
先に三増は津久井じゃないけどねと言っているのはオマエだろ
支離滅裂で痛すぎるw

いや補填じゃなくて誤記だって。
小田原市史資料編の原文にも神奈川県史の資料編の原文にも愛知県史の原文にも
松田の在城場所に小田原なんて一言も書かれてないし

小田原市史や神奈川県史資料編に乗ってるのは毛利家文書ですが????

しかも原文をまとめて表にしただけなのが下山の記述なのに

>北条家人数覚書は、他は人数・所在が書かれてるのに松田憲秀の所在だけ空白(人数は1500騎と書かれている
お前が北条家人数覚書を何も読んでないのがよくわかった。
もう一度読み直して出直してくれアホすぎて話にならん

だから誤記だろうがなんだろうが下山が原文無視して勝手に書き足しただけだろうが
勝手に妄想してんじゃねぇよタコ
>>741
>あのね、「騎」と言うのは馬上身分の事だよ
お前豊臣方陣立書みていないだろ
家康軍三万騎信雄軍1万5千騎津の中将3千五千騎
金山待従二千三百騎松坂少将4千騎
金森法印八百騎両遠藤五百騎郡上待従千三百騎大垣少将二千八百騎岐阜待従二千八百騎
以下めんどくさいから略
ほぼすべての武将に騎がついてるけど豊臣方は実際60万くらいいたって事だな
他にもちゃんとソースあるから百回見直せ>>735
そもそも騎なんて言葉何の意味もなく使われたり使われなかったりするのに
馬上身分だけを示すとかアホすぎるだろ
3月28日豊臣秀吉状で5万騎にて山中城攻め崩しとか書いてるけど馬上身分だけで5万もいたのかって話
228名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:29:22.36 ID:+GfuCfxW
>「松下文書」 
そんな事かかれていない
>信長公記
デタラメ軍記

>対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
対斉藤→太閤記のデタラメ
対浅井朝倉→公記のデタラメ
対毛利→太閤記のデタラメ。しかも多くの援軍をえながら別所相手に1年半
かかり何人も戦死するほどの苦戦。毛利が宇喜多や南条に足を取られる雑魚だから助かっただけ
>それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然
一揆なんて非戦闘員だから普通に弱くて当然
一揆なんてどこでも大体すぐ鎮圧されてる
229名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:37:39.00 ID:1kQ1vb6C
92 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2012/04/16(月) 05:24:28.09 ID:wFo99nYu [1/2]
>>14>>23>>26-29
毛利家文書の北条家人数覚書によると
小田原城 北条氏直 700騎 
小田原城 北条氏政 500騎 
小田原城 松田憲秀 1500騎 
とあり小田原城の合計は2700騎になる。1000じゃないぞ。

各城の人数を合計すると確かに34500騎ほどになるが
この覚書は天正18年四月頃に秀吉から命じられて北関東大名が作成したのものと伝えられており
3月中に陥落した山中城などは記載されていない(他にも記載されていない支城有)。
つまり、この覚書は北条側の開戦時の総兵力を示すものではない。
また、すでに廃城になった滝山城が氏照の主城の如く記されるなど北条の実情にも詳しくない。
北条家人数覚書は北関東大名が知る限り(覚えてる限り)の北条軍配備を並べたものだろう。
230名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:39:58.65 ID:1kQ1vb6C
767 : 名無し曰く、: 2010/09/16(木) 20:37:45 ID:iL6nNQg8 [3/6回発言]
>>757
だからこの時代の一揆を農民軍だと思ってる時点で大きな勘違い
浄土真宗を信じる門徒が結託して起こした軍事行動が一向一揆なわけで、
その中には僧侶や民衆だけじゃなくて武士も数多く含まれている
そしていざ戦となればその中核となるのは門徒である武士だった
ここらへんは日本史の常識だから一向一揆について書かれた本で勉強したほうが良いよ
秀吉が撃退した一揆衆の大軍も、総大将は歴とした浅井家臣である浅井井規
非戦闘員とかとんでもない
(そもそも武器持って交戦してる時点で正規非正規問わず戦闘員なわけで、ここでも勘違いしてるようだが)

で、「秀吉は単に陣地に引き篭もって上から弓矢や鉄砲で疲弊させた上に浅井軍が油断してたから勝てただけ」
このソースは?

773 : 名無し曰く、: 2010/09/16(木) 21:12:05 ID:iL6nNQg8 [4/6回発言]
>農兵の直接的動員となれば軍事訓練も
>十分に行われず装備も数段劣るのが当たり前
>総大将は武士でも連れてたのは非戦闘員の農民軍
それは当時の織田軍も同様
つうか戦国大名の軍隊は、支配下の農村に
軍役をかけて集まった百姓が主体
この時期の兵農分離はまだまだ過渡期

>一部の一揆の話だけだ
>加賀の一向宗の場合だけな
江北一向一揆もそうだけど?
つうか「江北一向一揆」自体を知らんのじゃあるまいな
藤本正行氏や谷口克広氏の本を読むといい

>武器もとうが持つまいが関係ない。装備、統率力、訓練おとりゃ戦闘にならない
言葉の使い方が間違ってると言ってるんだが
「非戦闘員」で検索してみれば良い

>信長公記、浅井文書に書かれてるから
『信長公記』には書かれてないね
『浅井文書』のどこにそんな記述あるの?
捏造するならもっと上手くやった方がいい
231名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:45:58.21 ID:+GfuCfxW
史料に1200と書いてある限りは1200
あれこれ理屈つけても妄想にすぎん
北条の動員力なんて天正壬午の若御子陣でも一次資料では20000そこそこなんだから
おおよそ妥当なラインだろ
80000とか60000とか軍記や講談ソース信じ込んでるとか馬鹿かと。

それ下山氏の誤記だな
小田原市史通史編&資料編
神奈川県史資料編
いずれも松田が小田原にいたとはかかれていない
あと秀吉は天正17年10月10日豊臣秀吉條書案で20万石もの兵糧を船で江尻・清水に運ばせる様に指示
にもかかわらず佐竹史料では豊臣方は兵糧不足に陥ってたと記している事から空前の大動員だったのだろう
また同日豊臣秀吉軍役定書書案で
四国〜尾張、北陸に6人役三河遠州駿河信濃甲斐には7人役
中国4人役を来春の関東陣軍役で課すと書いている
また小田原合戦時の榊原康政書状でも兵力50万と書いている

あと北条家人数覚書は玉縄と下田が開城した4月下旬以降に作成されたとされている
そして末尾には是は氏直分国惣人数積也と記載されているので全軍の人数を記したものと理解できる
また毛利家文書の関東八州諸城覚書にも北条方軍勢数が記録されており
この総人数も北条家人数覚書と同様
そして小田原市史資料編によるとこれと同内容が記載の文書がもう一点あるらしい
232名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:46:44.71 ID:+GfuCfxW
あっそう
なら北条34350と書かれてるのを
実際にはもっと多いと見積もる分の割合だけ豊臣方235000も同割合でもっと多いと多く見積もるべきだな

実際下山氏も50万だか60万だか書いてたし
>>729
松田が小田原なんて書いてねーよタコ
>>730
>朝鮮出兵時は動員しなかっただけで50万や60万程度なら動員出来たよ
んな妄想言われても
>動員兵力は15万〜20万だけど、西日本(九州、四国、中国)が中心で東日本の兵は殆どが出兵していない
秀吉書状だったか陣立書で30万近くかそれ以上動因してたはず
>西日本の大名も当然、留守居を置いての出兵だから総動員ではない
ソースよろ
>そもそも兵役とは、最低限出兵すべき義務であってそれが総数ではない
>石高と出征先を照らし合わせて兵担を維持出来る兵数を課している
>だから、地域によって兵役もまちまち
石高あたりの動員力でいえば石高に比して副収入が多い西国>>>>>東国でしょ
実際87年からの動因&戦闘体制構築で貧困な北条領国では会戦2年も前の88欠村が相次いでるし
>その豊臣家の作成した記録を見ても分かる様に敵地に近いほど兵役は多く、遠いほど少ない
朝鮮出兵でもはるか遠い半島までも一万石当たり450人もの動因を課せられてるのが西日本大名
それより遥かに近い北条征伐で大量動員できないはずもない
>遠国は敵地に到着するまでに多くの兵糧を消費し、また、国許からの輸送にも多額のコストがかかるのだから当たり前
防衛側の兵糧確保も無視した暴論だな


>20万人動員と言っても戦闘員は10万人前後であろう
お前の妄想なんてきいてねえわアホ
235000+20万非戦闘員で問題ないだろ
>ただ、後に関東へ入った徳川氏の検地や兵力を照らし合わせるに通説の6〜8万人は妥当な数字だと思う
徳川時代の検地や兵力こそ 状況が全く違うから比較にならん
結城領や宇都宮領、里見領も含まれてるし欠村など会戦2年前でも疲弊が目立ってた
北条領国と徳川時代とでは雲泥の差

北条方戦闘員が34350の半分の17000程度で残りは非戦闘員か、
豊臣方戦闘員が235000で同数の非戦闘員がいるかどちらか。

北条だけ史料の2倍も実数がいて豊臣は陣立書の人数が非戦闘員含みなんて糞アホ論法もいいとこだ

233名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:51:41.34 ID:+GfuCfxW
>指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
>『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、
>当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
>秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
箕浦合戦で堀軍が主力で撃退したのならなおさら秀吉は評価外

そうでないのなら信長に従ってる身分とただ協力関係で指揮系統あいまいな一揆軍じゃ話にならん
>『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
>秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、
>秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある
当代記にそんな記載ありません

>「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
コピペは全てきょっかんてき事実です。
>秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦だけで後は普通に勝利してるし、
滝川戦も柴田戦も信雄も明智も北条も常に圧倒的大軍で大苦戦か大損害です
>対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
斉藤戦ではそもそも大軍を直接蹴散らさなきゃいけない仕事はしていない
浅井朝倉では箕浦のみ
毛利戦は別所に大苦戦してのぶながの援軍呼び寄せて何年もかけて播磨統一
毛利がなかなか出でこない上に南条や宇喜多に足取られてから勝てただけ。

>それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」
>って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
>本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて
>戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
織田政権で同格以上だった諸将を率いてた事実なぞ存在しない
池田も森も丹羽も信長政権下では知行高や立場で秀吉よりずっと下。
むしろ秀吉の戦った相手の方が連合軍の体を成していたり(徳川織田)篭絡されて積極的に戦わなかったり(柴田)
戦意に乏しかったから(北条)そんな状況で圧倒的大軍で苦戦したり大損害受けたり瞬殺できない秀吉がいかに戦下手かわかる
234名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:53:02.88 ID:+GfuCfxW
803 :名無し曰く、[sage]:2010/09/18(土) 04:11:50 ID:0issTrfu >残念ながらこっちは『信長公記』『松下文書』『当代記』に加えて
>残念ながらこっちも浅井文書
>藤本氏や谷口氏の研究も参照してますから
秀吉側に都合いい情報だけ抽出してな
>プロ野球がどうこうとか余人に理解出来ない屁理屈捏ねるだけの君とは違うんだよ
屁理屈ではなく当然の理屈
>正確に言うと樋口の家臣である多羅尾相模守(とその更に家臣)の奮戦ね
そんなら樋口が秀吉の指揮に従ってる事が証明されてるんだから
一揆側のようなまとまりのなさは露呈してないのは明白
軍の形態の違いだな プロ武士団のいる戦闘プロ集団とそれがいないオール素人軍団
>秀吉が箕浦合戦で采配を振るって自軍を勝利に導いたのは『信長公記』に書いてある通り
堀軍の奮戦に助けられただけ
>つうかせめて『信長公記』くらい読めよ
信長公記を読まないよりも曲解したり詐術的に論ずるほうが問題

>少なくとも山崎の戦い(対明智戦)での織田信孝、
>賤ヶ岳の戦い(対柴田戦)での織田信雄は秀吉より格上の存在だったが
>なんでそこで「事実なぞ存在しない」と自信満々で言い切っちゃうのかが分からない
信孝は主君、それも親が殺されたわけだから一致団結して戦意があがるのは当然
身分云々以前の問題だから指揮系統が弱まるどころかさらに強まるだろうね
これで秀吉の指揮聞かず自分勝手じ動くならよほど親が憎いか秀吉の指揮能力が糞なんだろうね

信雄は対柴田戦では織田後継者問題が秀信に落ち着きしかもその後見秀吉が
光秀を討ったという事実から事実上織田家を乗っ取った形だから
完全に秀吉より格下。信雄の領土なぞ尾張伊勢といったごく限られた地方だから
領土も立場も格下。そもそも神戸は分家だから後継者にならないのなら他の家臣と
立場何も変わらん。
235名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:53:47.79 ID:1kQ1vb6C
『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、
秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある

で、「秀吉は単に陣地に引き篭もって上から弓矢や鉄砲で疲弊させた上に浅井軍が油断してたから勝てただけ」
このソースは?

>信長公記、浅井文書に書かれてるから
『信長公記』には書かれてないね
『浅井文書』のどこにそんな記述あるの?
捏造するならもっと上手くやった方がいい
236名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:54:31.77 ID:1kQ1vb6C
62:名無し曰く、:2010/08/23(月) 22:54:56 ID:TyVG8GKg
>北条家所蔵の陣立書
毛利家の文書だろ
小田原征伐で北条降伏後、豊臣政権が北条家臣団をまとめた奴
あれ言っとくけど一定の地位以上の人間しか載ってないから
神奈川県史に収録されてる北条氏政のお触書では
領内で体が動く成人男性全員動員するように述べられてるのに、
全部併せて1000人とかどんだけ人口少ないんだよ
関東二百五十万石は砂漠か?

63:名無し曰く、:2010/08/23(月) 22:56:39 ID:TyVG8GKg >>61
『太閤記』では小田原本城に籠った兵数だけで7万以上となってる
石高、北条家の動員命令を鑑みてこっちが妥当なところだろう
つうか小田原征伐について述べられた書物では全部こっちを採用してるだろ
1000とか誰が主張してるんだよ
237名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:55:21.05 ID:1kQ1vb6C
このソースは?
捏造するならもっと上手くやった方がいい
238名無し曰く、:2012/06/03(日) 10:56:52.90 ID:SiSiqSD9
信長公記の捏造まとめ

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
239名無し曰く、:2012/06/03(日) 11:04:02.16 ID:1kQ1vb6C
>で、「秀吉は単に陣地に引き篭もって上から弓矢や鉄砲で疲弊させた上に浅井軍が油断してたから勝てただけ」
>このソースは?
ここらへんは日本史の常識だから一向一揆について書かれた本で勉強したほうが良いよ
信長公記、浅井文書に書かれてるから



馬鹿
240名無し曰く、:2012/06/03(日) 11:10:31.03 ID:SiSiqSD9
241名無し曰く、:2012/06/03(日) 11:20:38.45 ID:1kQ1vb6C
>>240
>>224>>229

つうか小田原征伐について述べられた書物では全部こっちを採用してるだろ
1000とか誰が主張してるんだよ
242名無し曰く、:2012/06/03(日) 11:33:32.93 ID:SiSiqSD9
>>241
>>231-232>>226-227
関東八州諸城覚書・北条家人数覚書
史料に1200と書いてある限りは1200
あれこれ理屈つけても妄想にすぎん
北条の動員力なんて天正壬午の若御子陣でも一次資料では20000そこそこなんだから
おおよそ妥当なラインだろ
80000とか60000とか軍記や講談ソース信じ込んでるとか馬鹿かと。

それ下山氏の誤記だな
小田原市史通史編&資料編
神奈川県史資料編
いずれも松田が小田原にいたとはかかれていない
あと秀吉は天正17年10月10日豊臣秀吉條書案で20万石もの兵糧を船で江尻・清水に運ばせる様に指示
にもかかわらず佐竹史料では豊臣方は兵糧不足に陥ってたと記している事から空前の大動員だったのだろう
また同日豊臣秀吉軍役定書書案で
四国〜尾張、北陸に6人役三河遠州駿河信濃甲斐には7人役
中国4人役を来春の関東陣軍役で課すと書いている
また小田原合戦時の榊原康政書状でも兵力50万と書いている

あと北条家人数覚書は玉縄と下田が開城した4月下旬以降に作成されたとされている(小田原市史資料編解説)

そしてその末尾には「是は氏直分国惣人数積也」と記載されているので全軍の人数を記したものと理解できる
また毛利家文書の関東八州諸城覚書にも北条方軍勢数が記録されており
この総人数も北条家人数覚書と同様
そして小田原市史資料編によるとこれと同内容が記載の文書がもう一点あるらしい
243名無し曰く、:2012/06/03(日) 12:06:53.42 ID:A/z2Bh6P
早く原文書き出せよ
244名無し曰く、:2012/06/03(日) 12:07:00.08 ID:NZmMHPVL
それじゃ能力値を話し合えません。

>>216
そういう人にはこういうスレがあるんだぜ?

信長の野望で干されてる史実武将の能力を書くスレ
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1324591969/
245名無し曰く、:2012/06/03(日) 18:25:53.66 ID:pvhPd80Y
スレの8割がだがと佐竹あたりのアホで埋まる始末
もうここ次スレいらんかもな
246名無し曰く、:2012/06/03(日) 21:22:36.07 ID:FtaT9SXq
次で100スレなのに

過去ログの話だけど
その佐竹も昔はそれなりに、ちゃんと議論してて驚いた。
247名無し曰く、:2012/06/03(日) 22:27:58.57 ID:hphF8mW8
キチガイはどんどんキチガイに拍車がかかるんだな
248名無し曰く、:2012/06/03(日) 23:29:52.68 ID:hOkaq7cF
真性基地外はレッテルはりまくって
自演してるアンチ秀吉の織田厨だけどな。
249名無し曰く、:2012/06/04(月) 00:10:55.11 ID:JBK0239V
は?
キチガイは武田厨北条厨佐竹厨じゃないか
250名無し曰く、:2012/06/04(月) 00:24:53.88 ID:RteK1nDm
武田厨佐竹厨→コピペ連張り
北条厨→ID変えながら自演擁護
251名無し曰く、:2012/06/04(月) 00:50:28.62 ID:XsC7rzvN
>>242
つか覚書なんて史学界では
一次史料扱いされてねーぞ。
252名無し曰く、:2012/06/04(月) 02:06:29.65 ID:GZCjfbu8
軍記ソースよりはマシ
253名無し曰く、:2012/06/04(月) 05:40:53.73 ID:o3828nL6
覚書てその当時を生きた当人が書いたものだから、それなりに信憑性高いと思ってた
まぁ本人の記憶違いがあったらそれまでだけど
254名無し曰く、:2012/06/04(月) 07:36:12.08 ID:qR8tws0K
覚書も色々で信憑性の高いものもあるが、関東八州諸城覚書は
矛盾が多いから小田原の役の研究では重視されてない
地方史の資料編に載るだけだったら東日流外三郡誌でも出来る話
255名無し曰く、:2012/06/04(月) 11:20:55.31 ID:GZCjfbu8
重視されてないってか
下山が重視してないだけだもんな
相田氏とかは普通に北条家人数覚書の軍勢数踏襲だったけど
下山の軍記ベース脳のアホを採用するようになっただけ
小田原市史通史編も北条方兵力をただ下山の書籍を引用して具体的な論拠は書いてないし
関東戦国史の筆者なんかもやたら軍記引用ばかりだし
256名無し曰く、:2012/06/04(月) 11:26:01.08 ID:W6jjqZUY
小田原市史通史編資料編で多聞院日記の小田原城内に6万と
原文まで記載されてるのに軍記や講談の話になるんだ
257名無し曰く、:2012/06/04(月) 12:35:14.63 ID:SDiMCNYP
小田原市史の多聞院日記引用は町人なども含めた数ともとれるっていってるし
そもそも公家日記なんて伝聞レベルだからそれこそ信憑性不確かだろ
現に秀吉の書状でも2万といってるし
258名無し曰く、:2012/06/04(月) 12:40:06.66 ID:hDELK8kS
>>242
秀吉は天正17年10月10日豊臣秀吉條書案で20万石もの兵糧を船で江尻・清水に運ばせる様に指示
にもかかわらず佐竹史料では3〜4か月で豊臣方は兵糧不足に陥ってたと記している事から空前の大動員だったのだろう
陣立書の人数よりもかなり多かったと相田氏や下山氏も指摘してる。実際には物資調達約合わせ50〜60万人くらいいたんだろう

また同日豊臣秀吉軍役定書書案で
四国〜尾張、北陸に6人役三河遠州駿河信濃甲斐には7人役
中国4人役を来春の関東陣軍役で課すと書いている
また小田原合戦時の榊原康政書状でも兵力50万と書いている
相田氏も60万人くらいいたと著書で書いている
259名無し曰く、:2012/06/04(月) 13:08:14.53 ID:W6jjqZUY
多聞院日記が軍記や講談より信憑性が劣るって……
英俊は小田原商人とも関わり深く
当時の小田原の状況を知る重要な史料として小田原市史にも出てくるのに
260名無し曰く、:2012/06/04(月) 18:48:29.73 ID:hDELK8kS
まあ多聞院がソースとして優先なら長篠の被害は1000で確定だな
261名無し曰く、:2012/06/04(月) 21:40:08.32 ID:RteK1nDm
伝聞レベルだからな
262名無し曰く、:2012/06/04(月) 22:09:12.70 ID:W6jjqZUY
甲斐国衆千余人討死に武田領全土の雑兵を含むなんて奇抜な発想だな
263名無し曰く、:2012/06/04(月) 22:12:13.95 ID:o3828nL6
雑兵が含まれてるのかは知らないが将兵で1000討ち死になら
大被害だな。
264名無し曰く、:2012/06/04(月) 22:29:27.74 ID:W6jjqZUY
長篠で武田全軍の被害を多聞院の1000程度と超解釈してるのはアレな奴くらい
265名無し曰く、:2012/06/04(月) 22:31:34.02 ID:qR8tws0K
『太閤記』は誇張が多く取り扱いに注意を要する資料だが、
小田原の役に関しては秀吉が20万石の兵糧を手配した等
同時代の一次資料とも一致する記述が多く、信憑性が高いとされてる
小田原本城に7万人が篭ってたというのも、
『多聞院日記』の6万人と近似するし、
また戦前に布告された『北条氏政触書』の、
領内から成人男性をかき集めて動員したという記述と一致する
元亀年間には廃城となったと推測される滝山城が堂々と記載されてる覚書とはわけが違う
だからまともな歴史家には相手にされないんだよ
266名無し曰く、:2012/06/04(月) 22:40:41.66 ID:qR8tws0K
・小田原市史資料編を呪文のように連呼する癖に、そこに収録されてる『多聞院日記』を無視
・過去スレでは、『信長公記』に箕浦合戦で秀吉が砦に篭ってただけと書いてあると捏造
>>238ではその『信長公記』を捏造呼ばわり
・しかも公記捏造の根拠として、小田原の役の記述ではスルーした『多聞院日記』を挙げる

基地外ですわ
267名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:06:08.58 ID:W6jjqZUY
氏政は陣夫の数まで言及し戦力として期待してないから
動員するなと命じる書状が結構あるなかで存亡を賭けた北条家唯一の総動員
防衛目的で動員された陣夫らを含めなけいならまだしも
小田原城下町の規模からして2〜3万は少し考えられないんだけど
268名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:07:52.43 ID:RteK1nDm
ID:qR8tws0Kは誰と戦ってるの?

自分が自演ばっかしてるから
書き込みがみんな同一人物だと思っちゃう人?
269名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:21:51.31 ID:hDELK8kS
秀吉が一次資料で2、3万といってるのに多聞院の兵数採用とかアホすぎね
そもそも北条領国での総動員体制は会戦二年前の1588年から始まってて無理やり篭城体制構築したために村落の欠損が目立ってくらいだ
そんな疲弊した状況で国力を遥かに超えた動因などできるはずもない
北条が6、7万出せるなら秀吉方は>>258にあるように60万くらい出せるな
270名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:24:43.36 ID:M5/PYj7q
>>262>>263>>264
小田原合戦に関しては多聞院と軍記で無理やりこじつけようとしてるのに
長篠の被害では多聞院無視とか手前勝手な論理展開してんじゃねぇよボォケwwwww
271名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:29:53.36 ID:5kV1CFEc
>>258
おいおい、榊原書状や豊臣方兵力は末尾に「騎」とついてるように
馬上身分だけのものをいうから実数はこの4倍くらいいるんだろ
50万騎と榊原書状にあるから実際は200万ぐらい兵力がいたとみていい
実際関が原でも機内方面の西軍だけで20万くらいいた事が陣立書からわかるし
朝鮮征伐でも西国諸大名は450人役を課せられて長期間大軍を海外に貼り付けているしな
272名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:35:57.35 ID:b8M5R9et
実際は秀吉諸城の2,3万や北条家人数覚書関東八州諸城人数覚書の34500よりも少ないだろうな
北条領国での動因は滝川を撃破後、信濃や上野諸将が多く集まった天正壬午の若御子の対陣の時ですら
2万程度
その後北条領国は領内疲弊が進んで欠損が目立ち
小田原合戦時には信濃の真田や依田、諏訪などもこぞって敵方。
実数でいったら全体で1万五千そこそこじゃね
273名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:39:56.15 ID:W6jjqZUY
>>270
多聞院の小田原は城ノ内五里四方ニ人勢六万在で、これは北条が動員した総人数
長篠の甲斐国衆千余人討死は武田の将兵を指すのが日本語として一般的
274名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:43:27.04 ID:BiX8jebQ
北条家人数覚書を無視して軍記ソースのまともな歴史家って下山だけじゃねぇかw
鈴木良一氏なんかは普通に北条家人数覚書の人数採用してるし
そもそも下山なんて軍記引用ばかりのアホ本書いてるだけ
275名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:46:32.73 ID:BiX8jebQ
長篠の戦死は武田軍全体の事を指すものだろ
甲斐国衆って武田軍を指すと見るのが常識
例えば織田軍を上方勢とか京勢とかいうのと同じ事
甲斐にいる武士層だけなんて珍解釈してるのは織田厨だけ
276名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:48:59.56 ID:BiX8jebQ
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してるのであって
公家が日記の記述を他人に見せる目的で
故意に情報を曲げて書いてるなんて一度も書いてないだろwww
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて
5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw
実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い
277名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:50:12.77 ID:qR8tws0K
小和田哲男氏も『多聞院日記』『太閤記』基準で6-8万だよね
つうか鈴木良一氏って誰?
自費出版レベルの郷土史家含められても

>>268
自分が自演ばっかしてるから
書き込みがみんな同一人物だと思っちゃう人?
278名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:52:34.67 ID:lK4O98d/
小和田wwwww
武功夜話は史実ってかwww
279名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:54:07.10 ID:RteK1nDm
>>277
違うけど?

266 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2012/06/04(月) 22:40:41.66 ID:qR8tws0K
・小田原市史資料編を呪文のように連呼する癖に、そこに収録されてる『多聞院日記』を無視
・過去スレでは、『信長公記』に箕浦合戦で秀吉が砦に篭ってただけと書いてあると捏造
>>238ではその『信長公記』を捏造呼ばわり
・しかも公記捏造の根拠として、小田原の役の記述ではスルーした『多聞院日記』を挙げる

基地外ですわ

で書き込んだのが、誰かわからないのに書き込みを関連付けてたから
そう思ったんだけど?

なんで書き込みを関連付けてたの?
書き込みしたやつがバラバラならこんな箇条書きにしないだろ?
280名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:55:12.51 ID:W6jjqZUY
人勢は陣夫など支払いを日当の者も含む
国衆は軍役を課せられた将兵で全軍を指す場合は甲斐国衆でなく武田[勢]や[方]などになる
281名無し曰く、:2012/06/04(月) 23:59:57.75 ID:lK4O98d/
>>280
甲斐国衆は「武田軍」を指すものとして多聞院で書かれている
甲斐国衆が打ちかかってきたとあるけどそれ以外の連中は打ちかかってなかったのかって話
282名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:01:08.01 ID:ZM/0q8Qy
>>279
いつも同じコピペしてる人を同一人物だと類推するのは自然なことだと思うけど
平日昼間から書き込みする人間がそんなに沢山居るとは思えないし
283名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:04:28.02 ID:S28cqReG
>>281
おいおい、甲斐国衆とあったら甲斐だけだろw
京勢は6000討ち死に(長篠日記)だから京だけで6000死んだんだよ
つまり全体でその10倍は死んだって事だろw
284名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:07:48.18 ID:BxvrXBYg
甲斐国は黙って、サリンでも生産してろ
285名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:11:05.99 ID:ZM/0q8Qy
>>278
小田原征伐と武功夜話に何の関係が有るのかねえ
小和田の業績が武功夜話真書認定で傷がついたとしても、
明らかに誤りのある覚書を採用しちゃってる
郷土史家某よりは遥かにマシ
286名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:15:09.52 ID:d6GJdoJn
>>285
まあ小和田が正しいとするなら小田原合戦は北条方の勝利で確定だな
あのまま降伏しなけりゃ豊臣方は兵を引くしかなかったとかテレビで断言してるし
嘘くさい北条の善政とかも断言してるほどの基地外学者だし
覚書の一部の間違いでいちゃもんつけて軍記ソース(しかも年次レベルでデタラメ八丁三昧の太閤記)
メインに語るアホ学者の意見なんぞ全くソースにならん
287名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:22:05.83 ID:ZM/0q8Qy
「降伏しなけりゃ豊臣方は兵を引くしかなかった」けど降伏しちゃったから北条方の敗北でしょ
小和田氏が小田原征伐で北条大勝利みたいな基地外論説を主張したみたいですね
覚書の一部の間違いというか、日記や軍記みたいに
和綴じで何巻もある中多少の齟齬があるならともかく、
後北条の主な城と兵数を簡単に記しただけの文書で
一門の重鎮についての記述で単純ミスがあるから信用出来ないとされてるんだけど
288名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:26:02.92 ID:zxZt4CZk
その程度のミスなら豊臣方陣立書でも普通にあるな
小牧長久手の時とかでも一次資料では宇喜多勢1万を呼び寄せてるのに
陣立書には3000しかかかれてなかったりとか
伊勢方面に転進した軍勢の数も一次資料に比して過小に見積もられてたり
289名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:28:22.55 ID:ZM/0q8Qy
軍役(配下の大名に課せられた動員兵数)と
陣立(実際に動員された兵数)に差異があるのはおかしくない
10年移譲前に廃城となった城が堂々と
本拠地として記載されてるのはちょっと無視できないくらいおかしいですよ
290名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:32:49.83 ID:zxZt4CZk
軍役として課せられたって
秀吉の軍令書としての機能を持つ部下に当てた書条内での数字やら他の史料(当代記・三河物語・年代記やら合戦参加者の家記家譜)
での数字と陣立書の人数が大きく異なるなんて無視できないレベルのおかしさだな
大体北条家人数覚書で諸将の配置にかんしておかしいの氏照の滝山くらいで
他下総上総下野なんか特に正確といっていいだろ
291名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:32:58.82 ID:kEoXRNYa
衆と勢の漢字の意味は義務教育で履修する常用漢字なんだけど
北条全軍はおよそ2万近く、これは氏政の嫌う陣夫は含まれない軍役を担う[衆]
陣夫に70以上の老人を除く百姓、町人、芸者ら15才以上の者[勢]全てが小田原城に徴用された約6万人

288の場合、宇喜多[勢]1万で宇喜多[衆]3000なら間違いにならない
292名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:37:17.08 ID:zDFu+/5L
宇喜多衆1万も早々この方へ相越す候耶(3月23日秀吉書状)
293名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:44:13.43 ID:ZM/0q8Qy
>>290
>大体北条家人数覚書で諸将の配置にかんしておかしいの氏照の滝山くらいで
土塁と空堀の全長9キロにも及ぶ巨大要塞
小田原城をたった1000人で守ってた、なんて特におかしいですね

>>291
『北条氏政触書』等、戦役直前の後北条における内部統制を記す
同時代資料から推測して、実態はそんなもんだろうね
何故かこの触書の存在を無視する人がいるけど
294名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:49:26.30 ID:fI9nL+z6
松平記より抜粋
今朝の卯刻より未刻の半までの合戦に甲州衆〜をせんと防しかども不叶、悉く敗軍す
(中略)甲州衆、大将を始め二千余人枕を双て討ち死に也
味方にも松平主殿助を初、〜(以下略)

一貫して武田軍の事を甲州衆といい、
信濃衆や上野衆の事は全く触れられてないから
武田は甲斐衆だけで戦って事だな
295名無し曰く、:2012/06/05(火) 00:53:35.99 ID:dvvMX64h
>>293
だからこそそんな状態の城を瞬殺できない豊臣方は雑魚といってるわけで。
>>271-272
それはいいすぎにしても両者には圧倒的兵力者があったとみるのが妥当だろうな
なにせ国力比が北条領国200万石以外全て敵
比にしたら7.5倍もあるんだから兵力比もそのくらいとみるのが妥当だろうね
三種類の人数覚書と陣立書の比が実際そのくらいなんだから
296名無し曰く、:2012/06/05(火) 01:01:35.76 ID:ZM/0q8Qy
※常識的判断能力を持った人の思考回路
北条家人数覚書では惣構えの全長9キロの小田原城に北条軍1000人だけ
→本城を落とされたら敗北なのに、支城群と同程度かそれ以下の兵数はおかしい
→滝山城についての誤記を発見、また触書や日記など多数が篭っていたとする同時代資料を参照
→覚書の信憑性を保留する

※馬鹿
北条家人数覚書では惣構えの全長9キロの小田原城に北条軍1000人だけ
→そんな状態の城を瞬殺できない豊臣方は雑魚
→平日昼間からコピペ連投
297名無し曰く、:2012/06/05(火) 01:07:17.09 ID:qwNXITsD
※常識的判断能力を持った人の思考回路
北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書という豊臣方作成の記録や両者の圧倒的国力差や
豊臣方陣立書から圧倒的兵力比があった事を理解

※馬鹿
北条方は天正壬午で信濃・上野衆含め2万だった事や
豊臣方は対凡将信雄・輝元を始め、どこと戦っても圧倒的兵力比で醜態ばかりさらしている事実を無視
軍記や妄想でばかり語り、記録を無視して馬鹿学者の妄想こじ付けでムリヤリ秀吉方兵力を少なく見積もり
北条方兵力を基地外のように誇大に見積もり雑魚秀吉を無理矢理擁護
298名無し曰く、:2012/06/05(火) 01:22:23.32 ID:ZM/0q8Qy
※常識的判断能力を持った人の思考回路
多聞院日記等の第三者による客観的記録を参照
また豊臣方が本拠地を遠く離れた遠征軍であったことから戦闘員については兵力比が少なかった事を理解

※馬鹿
北条方は小田原征伐の時点で200万石を超える大大名で、更に触書で領内の人員を総動員していることや
豊臣方は中国征伐四国征伐九州征伐を始め、どこと戦っても短期間で敵対勢力を無力化している事実を無視
信憑性の低い覚書や妄想でばかり語り、同時代資料を無視して自分の妄想こじ付けでムリヤリ北条方兵力を少なく見積もり
北条方兵力を基地外のように過小に見積もり英雄秀吉を無理矢理非難

訂正しといたよ
「馬鹿学者の妄想こじ付けで」ってとこだけはいじれなかったわ
だってまともな歴史学者で小田原城籠城1000人説を採ってる人居ないから
299名無し曰く、:2012/06/05(火) 01:36:29.47 ID:TvFi6Oml
※馬鹿
多聞院日記等の第三者による客観的記録を参照といいながら長篠は武田勢の事を指して使われた
甲斐国衆という言葉を無理矢理甲斐の衆だけとこじつけて戦死数を歪曲
また秀吉書状に2,3万と書いてる事を無視
50万騎と榊原書状にあるから実際は200万ぐらい兵力がいたとみていい事も無視
関が原でも機内方面の西軍だけで20万くらいいた事が陣立書からわかるし
朝鮮征伐でも西国諸大名は450人役を課せられて長期間大軍を海外に貼り付けている事も無視
信憑性の低い多聞院や軍記や妄想でばかり語り、豊臣記録や陣立書の兵力比と国力比が符号している事実を無視して
自分の妄想こじ付けでムリヤリ北条方兵力を多く見積もり
北条方兵力を基地外のように過大に見積もり秀吉を無理矢理擁護


※正常
北条方は小田原征伐の時点では領内で欠損が目立つなど疲弊状況にあったのを考慮
天正壬午の時の信濃や上野の軍勢がフルで加わった状況で2万だった事を考慮
豊臣方は中国征伐では三木攻略に1年半費やし戦国采弱雑魚毛利に大敗
宇喜多が単独で翻弄しまくっていた毛利軍に美作で駆逐されたことや
2.5倍もの兵力比&敵が山崎を敵に守らざるをえない不利な状況で敵方より多く被害を出し
13万以上もの圧倒的大軍で戦国を代表する織田信雄相手に大苦戦し1万人以上もの損害を出した事をはじめ
燦燦たる戦果を考慮

300名無し曰く、:2012/06/05(火) 01:52:52.43 ID:kEoXRNYa
松平記の甲州衆は甲州[武田]衆[軍]
甲州に信濃や他国衆が含まれても問題ない

多聞院の甲斐国衆も甲斐[武田]に信濃や他国衆が含まれてるんだから
国衆の軍は将兵陣夫雑兵を含めろって主張だったのか
国語以前に常識がないんだな
301名無し曰く、:2012/06/05(火) 03:36:14.41 ID:97kJXFhc
>>149
遅レスだが、秀吉の検地の主なターゲットは地侍層だよ。
つまり地侍による中間詐取を無くして直接大名とか秀吉に年貢が上がるようにした。
で、地侍には城下に集住して俸禄をもらう武士になるか、在郷で農民になるか選択させたんだ。
在郷を選んだ者は江戸時代の庄屋層になり、反発した肥後や東北の地侍は徹底的に潰された。
そして武士と農民を明確化させて農民層は刀刈りで武装解除した、という流れ。
末端の農民にも隠し田はあったが、それは副次的なものさ。土地を持たない小作農も多かったし。
末端にとっては地侍に取られるかもっと上に取られるかの違いで大した違いはない。
だから秀吉のは統治システムの話で民政家云々の話とは全く別。
まあ検地自体は織田政権時代からやってることで、秀吉が統一したから全国的にやることに
なっただけだけど。
302名無し曰く、:2012/06/05(火) 07:08:57.74 ID:TvFi6Oml
つまり松平記では武田軍のことを一貫して甲州衆と書かれてるから
陣夫・雑兵なしに戦ってたってわけか。アホすぎね
303名無し曰く、:2012/06/05(火) 07:36:33.34 ID:ZM/0q8Qy
※馬鹿
後世の客観的第三者である歴史学者が誰一人小田原城1000人籠城説を支持してない事実を指摘され涙目、
小田原市史資料編から都合の良い部分だけを引用し、同書に含まれる多聞院日記を無視するというダブスタ開陳
多聞院の甲斐国衆も甲斐[武田]に信濃や他国衆が含まれてるんだから国衆の軍は将兵陣夫雑兵を含めろって主張
関が原の兵数なんて陣立書や書状、覚書でもそれぞれ数字がまちまちで当てにならないものを信じこみ
朝鮮征伐でも島津など西国大名は秀吉から課せられた軍役を果たすことができなかったことを無視
信憑性の低い覚書や妄想でばかり語り、国力と遠征軍の兵数が常に一致してるはずとトンデモ理論を主張
自分の妄想こじ付けでムリヤリ豊臣方兵力を多く見積もり
北条方兵力を基地外のように過小に見積もり秀吉を無理矢理非難
北条方は小田原征伐の時点では領内で欠損が目立つなど疲弊状況にあったと強弁
また友軍への宣伝のための誇張表現が多いと自身でも認識している秀吉書状をソースにする
遠征軍である天正壬午の乱における動員兵数と、本拠地防衛戦である小田原の役の動員兵数を無理に同一視
豊臣方は中国征伐では自軍の被害を最小限に抑えて三木城を攻略し毛利を滅亡寸前まで追い込み、
宇喜多を巧みな外交で自陣営に引き入れ毛利軍を美作から駆逐したことや
強行軍で疲労した自軍、更に主筋同僚の軍が混在した大軍を見事統率し山崎の戦いで大勝利を収め、
13万以上もの圧倒的大軍を率いて戦国を代表する徳川&織田連合軍相手を戦略的に屈服させた事実を無視
50万騎と榊原書状にあるから実際は200万ぐらい兵力がいたとみていい、などと意味不明な供述をしており
「惨憺たる」を「燦燦たる」と微笑ましい誤記

※正常
誰からも賛同されないのに↑を大真面目で主張し、
何年間もスレに粘着してコピペを貼り続けるニート以外のスレ住民全員
304名無し曰く、:2012/06/05(火) 07:38:12.65 ID:eIYEzH7i
確か秀吉は田畑の単位を変えてただろ。
それも年貢がいままでより多くなるように。
305名無し曰く、:2012/06/05(火) 07:56:56.34 ID:pajb1zI/
ID:ZM/0q8Qy [8/8]も、だがと同レベルだな
306名無し曰く、:2012/06/05(火) 08:01:07.48 ID:4vz6LnFR
ただの煽りになってきた
307名無し曰く、:2012/06/05(火) 08:13:39.36 ID:1VB4VZ0H
>後世の客観的第三者である歴史学者が誰一人小田原城1000人籠城説を支持してない事実を指摘され涙目、
歴史学者が客観的なら小和田氏のいう通り小田原合戦は北条の大勝

>小田原市史資料編から都合の良い部分だけを引用し、同書に含まれる多聞院日記を無視するというダブスタ開陳
多聞院日記に含まれる人数が秀吉書状や北条家人数覚書より正しいなら長篠の損害は1000で確定
>多聞院の甲斐国衆も甲斐[武田]に信濃や他国衆が含まれてるんだから国衆の軍は将兵陣夫雑兵を含めろって主張
つまり松平記で甲州衆と武田軍を指していってるから武田方は雑兵なしに戦ってたと
>関が原の兵数なんて陣立書や書状、覚書でもそれぞれ数字がまちまちで当てにならないものを信じこみ
関が原の兵数は陣立書から石田三成人数書き立てから伊勢口北国口美濃口大阪留守居ぶたいで
西軍が184900である事がわかる
>朝鮮征伐でも島津など西国大名は秀吉から課せられた軍役を果たすことができなかったことを無視
ソースは?
>信憑性の低い覚書や妄想でばかり語り、国力と遠征軍の兵数が常に一致してるはずとトンデモ理論を主張
そら北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書と小田原合戦時の陣立書の人数比と
国力比が一致するんだから天正壬午の時とあわせて考えても両者の比が正しいと考えるのが普通
>北条方は小田原征伐の時点では領内で欠損が目立つなど疲弊状況にあったと強弁
黒田基樹氏が戦国北条一族で書いてたな
>また友軍への宣伝のための誇張表現が多いと自身でも認識している秀吉書状をソースにする
秀吉書状はデタラメばかりだが一応身内にあてたものなんだから他にソースがない以上
単なる伝聞レベルの史料より優先するのは当然
>遠征軍である天正壬午の乱における動員兵数と、本拠地防衛戦である小田原の役の動員兵数を無理に同一視
天正壬午の時は領国疲弊が進まず信濃衆も加わってるから大軍だろ
>豊臣方は中国征伐では自軍の被害を最小限に抑えて三木城を攻略し
谷始め多く死んでいる
>毛利軍を美作から駆逐したことや
いや逆。宇喜多単体で毛利を翻弄しまくってたけど秀吉が加わったあたりから毛利軍が持ち直して美作から駆逐されてる
>強行軍で疲労した自軍、更に主筋同僚の軍が混在した大軍を見事統率し山崎の戦いで大勝利を収め、
んなもんいいわけになるかアホ。疲労するような戦術取るほうが悪いだけ
主筋同僚ってそれが元で味方が多く集まっただけで、むしろ優位に働いてる条件
お前のような無理矢理のこじつけがありなら秀吉軍は主殺しにあって敵打ちのために一致団結したから
予期せず会戦する羽目になって混乱状態の明智軍より遥かに士気が高かったなんて妄想もあり
>13万以上もの圧倒的大軍を率いて戦国を代表する徳川&織田連合軍相手を戦略的に屈服させた事実を無視
秀吉は納馬しようと思ってた所にたまたま偶然信雄が和議にのったから助かっただけ
ガチンコ戦闘だと長久手・蟹江・戸木・松ノ木・長久保・二重堀など敗戦続き
>50万騎と榊原書状にあるから実際は200万ぐらい兵力がいたとみていい
「騎」ってのは馬上身分だけを示すものなんだろ?w
308名無し曰く、:2012/06/05(火) 08:34:52.58 ID:8EyHRFNo
容認してると思われるのも癪だから遅ればせながら書いとくか

秀吉の話題、長くなりすぎた議論等はこっちのスレで
↓   ↓   ↓   ↓   ↓   ↓
信長の野望で過大過小されている三傑謙信玄佐竹用6
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1287397965/
309名無し曰く、:2012/06/05(火) 08:53:35.57 ID:1VB4VZ0H
実際は秀吉諸城の2,3万や北条家人数覚書関東八州諸城人数覚書の34500よりも少ないだろうな
北条領国での動因は滝川を撃破後、信濃や上野諸将が多く集まった天正壬午の若御子の対陣の時ですら
2万程度
その後北条領国は領内疲弊が進んで欠損が目立ち
小田原合戦時には信濃の真田や依田、諏訪などもこぞって敵方。
実数でいったら全体で1万五千そこそこじゃね
310名無し曰く、:2012/06/05(火) 11:48:28.68 ID:EnkNCC+j
>>253
後世の偽文書が横行してるし
そもそも覚書はのちになって書いてるので
自分が所属する大名を有利に歪曲して書いてる。
一次史料の書状のようなリアルタイムさが無いため
結果を知った上で書いてるから信用できない。
311名無し曰く、:2012/06/05(火) 11:54:42.40 ID:1VB4VZ0H
秀吉書状がそのいい例だな
312名無し曰く、:2012/06/05(火) 12:01:47.12 ID:2Q2Kyy3i
三河物語も覚書に近いらしいけど
やっぱり大久保家や徳川家に有利や記述が多いと聞くしな。
313名無し曰く、:2012/06/05(火) 12:57:07.83 ID:eIYEzH7i
>>310
だがさんはいい加減一次史料の定義をおぼえましょうねー
314名無し曰く、:2012/06/05(火) 15:55:01.23 ID:mAJtGiXV
越相同盟の条件の解明なんか覚書が基で定説になってるのにな
315名無し曰く、:2012/06/05(火) 17:05:12.63 ID:c4tkelQJ
>>313
奴にとっての一次史料は自分に都合のいい史料だから言っても無駄
妄想すら一次史料になってるんだから
嘘を何度も言えば本当になると言う精神性の持ち主だからしょうがないけど
316名無し曰く、:2012/06/05(火) 18:11:32.52 ID:EnkNCC+j
そも花押もないし、本当に当事者が書いたかすら
不明なのが覚書。
甲陽軍鑑も口述されたものを筆記した覚書とされてるしな。
317名無し曰く、:2012/06/05(火) 18:12:02.80 ID:tk+zFB5P
自分で書いたレスをソースとか言っちゃう人だからな
318名無し曰く、:2012/06/05(火) 19:56:57.05 ID:P8saugKR
史料の信憑性って誰が決めるんだろ?
まあ軍記がデタラメばかりってのは同意だが
319名無し曰く、:2012/06/05(火) 20:24:20.75 ID:97kJXFhc
>>304
それも副次的なこと。
秦の始皇帝が度量衡の統一をしたように、領土を統一した政権は基準も統一する必要が出てくる。
貫高やら石高やら量る升やらそれぞれ支配地域でバラバラで、都合のいいように変えられてるし、
上層と中層の支配者で升が違ってて差分を中抜きするなんてのも日常茶飯事だし。
全国を同じ基準にして、無駄なく年貢が中間で詐取されずに上がってくるようにするのが主な目的。
つまりは統治システムの話さ。
確かに新しい基準を入れると旧基準との差で増収になることもあるがそれが主な目的ではないよ。
320名無し曰く、:2012/06/05(火) 22:28:38.14 ID:2Q2Kyy3i
>>316 >>318
でも武田家て、他の地域の戦国史と比べても研究が進んでる印象あるな。
甲陽軍鑑を下敷きにしながら、ちゃんと史料批判もして
著作もかなり多いし
321名無し曰く、:2012/06/05(火) 22:45:34.70 ID:c4tkelQJ
甲陽軍鑑を下敷きにするからいかんのだろ…
あれ武田旧臣が自分たちのステマするために作ったような落書きじゃん
322名無し曰く、:2012/06/05(火) 22:50:54.21 ID:ZM/0q8Qy
>>307
「小田原合戦は北条の大勝」って、小和田氏は包囲する豊臣軍の兵站の不備を指摘しただけじゃん
小田原の役を研究する歴史学者から覚書が軽視されてるからって
歴史学者の存在そのものを否定とかさすがやね
あと平日昼間に長文レスとかさすがやね
323名無し曰く、:2012/06/05(火) 22:51:41.44 ID:nomWOZLQ
>>321
後世かかれた資料なんてどれもかわらん。てか同時代ですらバイアスかかってることが殆ど
ある程度の資料がまとまってるだけ他に比べてかなりマシ
数がないと資料批判すらできねえから
324名無し曰く、:2012/06/05(火) 23:01:27.01 ID:2Q2Kyy3i
>>321
でもあれも部分部分では一次資料と合致する所もあるんでしょ

他地方の研究はよく知らんけど
例えば東北だと奥羽永慶軍記・中国地方だと備前軍記や陰徳太平記など
これらが資料として使われ、あまり疑われもせず。そのまんま引用されてる気がするの
325名無し曰く、:2012/06/05(火) 23:15:28.26 ID:02e0b+Hc
>>322
なら兵糧20万石用意したのに3・4ヶ月で兵糧不足に陥ってた豊臣軍は
鈴木良一のいうように50〜60万人いたで確定だな
下山のいうように「騎」が馬上身分だけを指すなら20万騎(天徳寺了伯書状)だから
その他のもの含めて60〜80万人で確定
てか那須記や榊原書状でも50万「騎」と書かれてるからめちゃめちゃ大軍なんだろ、豊臣軍
326名無し曰く、:2012/06/05(火) 23:30:44.73 ID:ZM/0q8Qy
>>325
ファビョった振りして話題ずらし乙
「小和田は小田原の役で後北条が大勝利なんて言ってない、捏造するな」という指摘に対し
那須記の記述持ち出して豊臣軍が士分だけで50万居た!とかまともに会話になってない
いいから明日にでも図書館行って小田原城籠城1000人説採用している研究者見つけてこいよ
327名無し曰く、:2012/06/05(火) 23:54:29.43 ID:02e0b+Hc
は?小和田は豊臣方は兵站維持できるかどうかまで追い込まれてたと主張した
なら>>325であってるだろ
下山も騎の件で一々史料に難癖つけて無理矢理こじつけてるから>>325であってる
学者の都合いいとこだけ引っ張り出して都合悪い部分無視とかないだろ
328名無し曰く、:2012/06/06(水) 00:05:27.29 ID:h4pUSjMK
小田原の役で豊臣軍が兵站で問題を抱えていた、と指摘したら
北条大勝利と主張したと基地外に粘着された小和田先生マジ可哀そう
329名無し曰く、:2012/06/06(水) 00:11:12.58 ID:turbgKpv
いい加減専用スレでやってくれないかなぁ
どうせ、どちらかが書き込み辞めるまで続くんだし
330名無し曰く、:2012/06/06(水) 00:31:53.46 ID:JIoBK0qR
じゃあ話題変えて

明石全登は過大
圧倒的大軍相手に奮戦したとはいえ。
道明寺口・天王寺最終決戦ともに水野勢に敗れてる

功績は関ヶ原で福島勢に局地戦で勝っただけ
331名無し曰く、:2012/06/06(水) 01:19:33.83 ID:h4pUSjMK
宇喜多家中に占める地位及びその年齢を考慮するに、
唐入りに従軍しててもおかしくないんだが、そっち方面での活躍の記録は軍記にもない
関ヶ原の前哨戦である杭瀬川の戦いにおいて
島左近の援軍として中村一栄を破ってるが、生涯で勝ち戦と言えばこれくらい
同時代でも武名は高かったようだけど、実績には乏しい>明石全登
332名無し曰く、:2012/06/06(水) 03:14:22.63 ID:vA1utHTW
史実通り
信長>信玄
確定で決定オメです
333名無し曰く、:2012/06/06(水) 03:18:28.55 ID:JIoBK0qR
確か幸州山城の戦いで明石家家臣が何人か死んでるんで
参加自体はしてるんじゃないかと予想
334名無し曰く、:2012/06/06(水) 04:40:30.67 ID:TgPgttuh
直接やりあってたらもっと分かりやすかったんだけどな信長対信玄
佐久間はやられてるけど。信長は信玄と対決なるべくしないように外交してたから
335名無し曰く、:2012/06/06(水) 05:02:33.67 ID:IxjEjZuM
さすがに1570年のシナリオで武田が織田より国力があって兵力も上杉北条の1.5倍くらいあるのは違和感が
336名無し曰く、:2012/06/06(水) 05:10:15.89 ID:IxjEjZuM
国力は同じくらいか
337名無し曰く、:2012/06/06(水) 05:45:13.35 ID:APY9dXhS
同じくらいなんてない
交通の要所を抑えており、物資や徴税、石高も織田のが圧倒的でしょ
信玄厨の言う言い訳の濃尾平野があるから、信長登場時から倍ぐらい編集で付けときなさいよ
338名無し曰く、:2012/06/06(水) 10:20:25.87 ID:gGYnMJOY
国力ですり潰されたって言ってるのにゲーム内国力は武田の方があるんだもんなw
実際ゆっくりやってると武田に国力ですり潰されるしw
339名無し曰く、:2012/06/06(水) 10:54:20.22 ID:LuKe7hAY
それはあるね
織田は武将の能力より国力を圧倒的に上げるべき
それやってもキャラゲーだから武田有利になっちゃうけどね
あとは国力重視のゲームにでもしてもらうしかないね
340名無し曰く、:2012/06/06(水) 11:04:47.40 ID:turbgKpv
ゲームバランスもあるんだろうけど

安東、河野、西園寺は7万石
津軽は5万石
安東に至っては1万石しかないからな

5万石の津軽が
毎回、三好長慶クラスの能力になってるは納得いかないが
341名無し:2012/06/06(水) 12:44:52.53 ID:yUTu1S7g
河野、西園寺の能力は酷いな
342名無し曰く、:2012/06/06(水) 12:47:14.95 ID:XCpsqnO4
>>330
福島にも勝ててないよ
大軍で一時的に押しただけ
343名無し曰く、:2012/06/06(水) 13:02:19.52 ID:0O7GkRGx
そもそも最近の三好長慶じたいの能力値が過大
344名無し曰く、:2012/06/06(水) 13:16:49.08 ID:OLbie9Or
ハイリスクハイリターン・軍拡系の戦国大名とその末路

【中部】
:武田→ほぼ滅亡   要因:信玄の策により外部・内部の信用ガタ落ち
【九州】
:島津→生存     要因:飛び地・一応名族で地域に対し変に権威がある・面倒な奴多し
:龍造寺→子孫生存  要因:当主の信用無しだが一族はそうでもなかった?、鍋島により子孫は残る
【四国】
:長宗我部→ほぼ滅亡 要因:外征・内政・要因の両方に元親が絡む
【東北】
:伊達→残った    要因:政宗の暴走如きではビクともしない時代になった・東北の膣閥体制
【関東】
:後北条→子孫生存  要因:そもそも外敵勢力・氏政の中央軽視


他に軍拡系(敵地の内政軽視)の戦国大名いる?
345名無し曰く、:2012/06/06(水) 13:52:00.56 ID:JIoBK0qR
>>340
為信は名将だけど
生涯で最高人数率いたのが1000とか2000の軍勢で、切り取った地域は津軽一帯だからな。
万単位の軍勢率いたこともある武将からすると小競り合いレベル
346名無し曰く、:2012/06/06(水) 14:03:57.21 ID:turbgKpv
>>344
上杉、今川、織田、尼子は軍拡っぽいけど
347名無し曰く、:2012/06/06(水) 14:47:10.08 ID:9TriUx26
基準が曖昧過ぎてよく分からんが
後北条と竜造寺の残り方を一緒くたに子孫生存とするのは無理あるだろ
348名無し曰く、:2012/06/06(水) 14:57:25.13 ID:JIoBK0qR
軍拡て言ったらほとんどの戦国大名はそうじゃねえの?
349名無し曰く、:2012/06/06(水) 15:15:26.96 ID:OLbie9Or
島津・長宗我部・武田辺りは領土広げた事に意味が見いだせない
350名無し曰く、:2012/06/06(水) 19:27:08.45 ID:vBlfM372
それは結果がわかってるからだろ。
無理してでも領土広げなきゃ、自分が食われる
351名無し曰く、:2012/06/06(水) 22:57:16.32 ID:wwEzjewg
>>344
全滅か存続かどうか微妙だが、大友は義鑑で大内に苦しめられながら基盤を築き、
後継問題等すったもんだで荒れたりしたものの宗麟で最大になり、義統で改易。

龍造寺は信周の家系が幕末まで存続してたな。鍋島も一応一門だし。
352名無し曰く、:2012/06/06(水) 23:38:05.33 ID:i2zATY7u
大友と長宗我部は滅び方は地味だよな
武田や北条ぐらい派手に吹き飛んでくれると印象に残りやすいんだけど
353名無し曰く、:2012/06/06(水) 23:44:33.20 ID:OLbie9Or
>>346
尼子は大内(後に毛利)に対抗するためってのが解るんだけど
今川と織田は規模的に見ると自分の領土を守るための凌ぎ合いで
織田に至っては桶狭間以降と以前では考え方変わってるっぽいし

@・自領を守る意識が強い大名もいたと思うし(結果領土が広がるパターン)
A・領土拡大欲が強い大名
B・ただ自領を守るために必死な大名
C・手段はどうあれ生き残ろうとして残った大名

@・毛利・尼子・大内・葦名・最上・後北条・
A・武田・長宗我部・織田・津軽・龍造寺
B・佐竹・南部・相馬・相良・浅井・朝倉・河野・里見・齋藤・
C・徳川・松前・前田・秋月・伊東・大村・有馬・神保・

@+B・三好・宇喜多・
A+C・島津・伊達・織田
A→B 上杉(長尾)
354名無し曰く、:2012/06/06(水) 23:54:25.49 ID:wwEzjewg
>>352
大友義統の改易のされかたは、ある意味凄いと思う。
島津に本拠地の豊後まで攻め込まれて、あの親父の宗麟ですら国崩しを用いて自ら戦っているのに、敵前逃亡するくらいに筋金入りのヘタレ。
改易されたのも、朝鮮出兵で敵前逃亡したのが原因だったくらいw
親の悪いところばかり受け継いだ+αと言っても過言ではないよ。
355名無し曰く、:2012/06/07(木) 00:01:10.12 ID:bMWGEDFT
生涯石高

1.家康
2.秀吉
3.信長
4.元就
5.島津
6.北条
7.謙信
8.政宗
9.信玄
10.尼子
11.前田
12.大友
13.今川
14.三好
15.長宗我部
356名無し曰く、:2012/06/07(木) 00:03:29.00 ID:abOGT1Fm
>>353
龍造寺は沖田畷での隆信の最期がアレすぎたけど、
それまでは、今山の戦い等何回か滅亡寸前になりながら、あらゆる手段を使ってでもしぶとく残ろうと(あはよくば拡大)してた。
それだけに隆信のあの武勇一辺倒な能力でどうやってワンマン大名をしながら、大友らを出し抜いてきたか謎すぎる。
鍋島だけになると、したたかではあるものの大人しくなったし。
357名無し曰く、:2012/06/07(木) 00:56:44.05 ID:eqbv1X69
何回か滅亡危機を乗り切る内にこのままじゃヤバイと思って撃って出たら上手く行った。
龍造寺は奇襲型イケイケの拡大だからポカもありそれが沖田畷で露呈したんだろう。
タイミング良く時流に乗りタイミング悪く死んだイメージがある。
358名無し曰く、:2012/06/07(木) 01:30:47.19 ID:abOGT1Fm
>>357
隆信は嫡流でないのに家督を継いだ為、内部の不満を抑えるために大内に従属したり(大内が滅びるとピンチに)、
今山の戦いで奇襲をしてピンポイントで総大将を討ったものの、直後に大友に降伏、従属したのを利用して
城を攻めあぐねて、酒宴に呼んで騙し討ちにしたりと、せっかちな性格な故にどんな手段でも躊躇なく使ってきた。
本当にイケイケだったのは耳川の合戦後〜沖田畷直前くらい。残りは七転び八起き。
沖田畷は、直前で今までに比べて上手く行きすぎたのと、せっかちな性格が災いしたかと。
そうだとしても武勇が高過ぎ、知謀が低い。
359名無し曰く、:2012/06/07(木) 01:33:42.56 ID:abOGT1Fm
>>358
従属したのを利用して→従属したのを利用して拡大するものの、

文が抜けてた。
360名無し曰く、:2012/06/07(木) 03:15:24.21 ID:IdiNbVQ8
生涯石高

1.家康→400万(実質日本全土)
2.秀吉→250万(実質日本全土)
3.信長→800万
4.元就→120万
5.島津→200万
6.北条→200万
7.謙信→100万
8.政宗→120万
9.信玄→120万
10.尼子→ごめん、よく知らない50万くらい?大内+尼子+αで関が原時120万だし
11.前田→120万
12.大友→100万
13.今川→70万
14.三好→150万
15.長宗我部→75万
361名無し曰く、:2012/06/07(木) 03:16:42.05 ID:IdiNbVQ8
>7.謙信→100万
上杉扱いなら120万
362名無し曰く、:2012/06/07(木) 04:58:22.46 ID:PiEt5+/5
長宗我部元親も言われるほど内政で大きな失敗てのはない気がするけどね。
検地や分国法制定も信親死後の晩年のことでしょ
後継者争いでの家中での粛清のことも、見方によっちゃ一門や反抗的な家臣処罰して宗家に権力集中させる為の物かもしれないし
363名無し曰く、:2012/06/07(木) 05:19:16.07 ID:PiEt5+/5
>>344
外征での要因て秀吉と戦って減法されたことだと思うけど、
戦わず屈したら、それはそれで家臣や配下の豪族達も納得しなかったんじゃないの
それ以外では>>39で言われてる通り
戦歴多い割りに戦場でのミスもミスも少ない
364名無し曰く、:2012/06/07(木) 05:27:16.25 ID:qQtB6rpf
上でも言ってるが三好長慶はたしかに過大評価の能力値だよな
365名無し曰く、:2012/06/07(木) 07:47:29.46 ID:ExptMlu4
>>360
徳川幕府の天領が400万石を突破するのは綱吉の治世の頃
家康時代のそれは豊臣政権の太閤蔵入地以下の200万石に過ぎない
信長の800万石は配下の大名の直轄領も含めたものだから実質はもっと低め
長慶の150万石は被官化されてない畿内の諸侯との緩い従属関係を含めたもので、
他の戦国大名の支配領域と同列には語れない
366名無し曰く、:2012/06/07(木) 09:26:28.29 ID:gB2yoEkp
三好長慶は信玄、氏康、謙信、今川なんかより、
やったことは上なんだけどね。
367名無し曰く、:2012/06/07(木) 10:01:33.20 ID:PiEt5+/5
やったことは上でも
信玄・謙信・氏康が将として長慶に劣ってるとも思えない


368名無し曰く、:2012/06/07(木) 10:09:30.29 ID:gB2yoEkp
それは直接対決してないから、なんともいえない。

競馬ではライバル不在で勝ちまくった馬は能力を低く見られ、
レベルが低くても名勝負を演じた馬達は能力を高くみられがち。

似たような境遇(似てないかな)の尼子経久とか龍造寺家兼が化物能力値なら、
畿内で勢力広げた三好長慶はそれ以上の数値を与えられても良いでしょ。
369名無し曰く、:2012/06/07(木) 10:23:23.27 ID:fQRgEUMj
やたらオペラオー軽視されるもんな
370名無し曰く、:2012/06/07(木) 10:39:58.90 ID:abOGT1Fm
>>368
尼子経久は化け物じみた能力だけど、龍造寺家兼は能力は高いけど普通のレベルの高さなような。
しかもあれだけ波乱な人生なのに、家兼の特技が似合わなさすぎる。(隆信の特技も)
家兼は鬼謀とまでいかなくても、暗殺や同士討ちあたりあってもおかしくなさそうなのに。(隆信は何かしらの備あたり)

三好長慶は戦闘面が少し過大かもしれないが、あの激務をこなしてきただけあって他は高くても良いと思う。
371名無し曰く、:2012/06/07(木) 10:53:37.57 ID:gB2yoEkp
まぁ、統率、武勇は低くてもいいよ。
372名無し曰く、:2012/06/07(木) 11:11:45.09 ID:oT87i98x
>>353
謙信は領土拡大欲や自領を守るために戦ってるんじゃなく
請われて義の為に戦ってただけ
373名無し曰く、:2012/06/07(木) 11:15:30.96 ID:oT87i98x
>>368
三好松永はホームなのに謙信上洛したときビビリまくってたね
謙信に勝てないのは同時代に生きた彼らが一番わかってたみたいだね
374名無し曰く、:2012/06/07(木) 11:23:57.91 ID:rLEelaD+
ビビってたソースは?
375名無し曰く、:2012/06/07(木) 11:51:26.94 ID:ekBvhj39
龍造寺隆信は毛利が打倒大友の一環として
他の反大友国人どもと一緒に後援してたから
ラッキーだった。
376名無し曰く、:2012/06/07(木) 11:54:51.05 ID:gFLtUku4
謙信は義輝に挨拶しただけだし
同時期に信長も挨拶しに上洛してるし
377名無し曰く、:2012/06/07(木) 12:14:48.28 ID:abOGT1Fm
>>375
大友が龍造寺討伐に向かった直後に、毛利が九州侵攻したが、
毛利が九州から手を引いた直後、大友は再度龍造寺討伐に道雪を含む大軍を差し向け、龍造寺を城ひとつまで追い詰めた。
しかし、龍造寺は奇襲で総大将を討ち取って、その直後に大友に降伏・従属(今山の戦い)。
結局大友は龍造寺を潰しきれなかった。
龍造寺は大友への従属を利用して勢力を伸ばしてきた。
龍造寺はラッキーだけでなく大胆でもあり臆病でもあり、武勇一辺倒ではない狡猾さもあると思う。ゲームではあっさり落ちるけどw
大友はなんというか、龍造寺に対する詰めの甘さと、島津に対しては事態が深刻になるまで放っておいたのが致命的すぎる。
378名無し曰く、:2012/06/07(木) 13:17:48.05 ID:rNnk3tge
半端な知識披露見てイラッと来た時がこのスレのやめ時
379名無し曰く、:2012/06/07(木) 13:33:08.50 ID:ekBvhj39
>>龍造寺は奇襲で総大将を討ち取って、その直後に大友に降伏・従属
毛利が来るのが遅すぎた。
おかげで竜造寺は大友に降伏を余儀なくされ
毛利支援をしない約束までさせられたw
そんで毛利はまたまた大友に敗北する。
380名無し曰く、:2012/06/07(木) 14:01:15.11 ID:abOGT1Fm
>>379
大友は隆信をそのままにしたのが駄目だったな。
あんなのを野放しにしないとはいえ、生かしてしまったのが間違いかと。
従属を認めるが、隆信を切腹か隠居を条件にすべきだった。
結局従属すら利用されて、あそこまで付け入れさせた。
島津に対する放置も問題。曲がりなりにも九州探題を名乗っていただけに。
381名無し曰く、:2012/06/07(木) 14:05:44.50 ID:ekBvhj39
大友にしてみりゃ正直、竜造寺より
秋月・長野・高橋兄弟の方がウザかっただろう。
382名無し曰く、:2012/06/07(木) 14:17:07.55 ID:abOGT1Fm
>>381
場所が豊後に近いしね。特に立花山の高橋は。
ただ龍造寺みたいに、何度もはっちゃけたわけではないような。
島津は遠すぎて、大友にとって空気だったのかどうか?
しかし、どうして島津をああなるまで放ってしまったか…
383名無し曰く、:2012/06/07(木) 20:05:12.65 ID:xivK6n1e
OK!OK!みんなが言いたいことは理解できた。
ここの住民のトータル意見は、
織田>上杉>北条>武田
384名無し曰く、:2012/06/07(木) 20:31:55.44 ID:IdiNbVQ8
煽りはいいから

今まで九州の話してるのに
なんで突然違う話?
385名無し曰く、:2012/06/07(木) 21:42:08.60 ID:pm0cfvSi
>>360
尼子の最大は播磨の大半も版図に入ってるな。
伯耆も毛利は豊臣時代は西伯耆までだったが尼子はほぼ全域を押さえてた。
後は美作も押さえてるが関ヶ原の時は宇喜多だっけか?
石高はわからんがそんな感じ。
386名無し曰く、:2012/06/07(木) 23:47:06.04 ID:0BSVWdX4
秋月氏は元は大内寄りで義隆の時代あたりから風見鶏だっけ
種実が何気に戸次鑑連に勝利してるせいか統率高めだけど正直違和感があるんだよなあ

でも同じように善戦繰り返した宗像氏貞は登場すらしていないという・・・
387名無し曰く、:2012/06/08(金) 00:08:13.82 ID:hLkXArR5
甲斐宗運の能力高過ぎw
388名無し曰く、:2012/06/08(金) 01:56:44.34 ID:kaoyjDRf
>>344
膣閥ってなんだよ
389名無し曰く、:2012/06/08(金) 07:32:53.74 ID:ch45sC9t
>>386
休松以外は立花・高橋に負けまくってる気が
390名無し曰く、:2012/06/08(金) 07:33:44.30 ID:k6vSd/Iv
閨閥の間違いなんだろうけど書き込む人間の品性が疑われる誤字だね
391名無し曰く、:2012/06/08(金) 10:00:08.78 ID:+08QlqCo
>>389
戦闘でどちらに優劣があるかなんて
決定的な事象が発生しない限り戦場の霧から出ない

立花の家伝ならそりゃどの戦闘でも勝った事にするだろうけど
実際に大友方へ味方する豪族がどんどん減って孤立無援状態になったのをみると
判定負け、ないし劣勢引き分けの様な小規模戦を各地でダラダラとやっていたんだろう
392名無し曰く、:2012/06/08(金) 11:19:21.32 ID:ch45sC9t
>立花の家伝ならそりゃどの戦闘でも勝った事にするだろうけど
>実際に大友方へ味方する豪族がどんどん減って孤立無援状態になったのをみると
>判定負け、ないし劣勢引き分けの様な小規模戦を各地でダラダラとやっていたんだろう

ネットでチラッと見る限りだと
道雪や立花家の武功を強調する記事が多かったんで
知識もないのにツッコんだりしてスマン
393名無し曰く、:2012/06/08(金) 11:39:44.81 ID:GMhxHnij
>>386
宗像氏貞は雑兵150人しかいない山城「猫城」で、氏貞をおびきだして討とうとした道雪の軍団を追い返したことも。
流石に最終的には道雪に屈することにはなったけど。
道雪は確かに強いけど、天下創世で軍神が付くほどかと言うと疑問。
むしろ、道雪や紹運をはじも文武ともに優れた家臣を抱えた大友が何故か後手後手になるのかと。
ゲームでは何一つ欠点が見当たらないから、尚更疑問に。
394名無し曰く、:2012/06/08(金) 22:42:12.23 ID:PZLNRUhB
>>391
道雪の活躍の記述は、家伝だと戸次軍団だろうけど、
黒田家で貝原益軒が編纂した筑前国続風土記や
藤堂家の杉谷宗重が書いた大友興廃記にも良く見られるね。

>>393
1580年5月の猫城攻めは、道雪が鷹取城主の森鎮実に150人が籠る
猫城を攻めさせて、氏貞が援軍に来たら道雪の軍勢が空になった氏貞の
居城の蔦ヶ岳城を奪取するって作戦だったのが、鎮実が氏貞率いる2千ほどの
援軍にあっさり負けたため、蔦ヶ岳城に向かってた道雪は戦わずに兵を帰したって
話だったと思うんだがなあ・・・
宗像家の記録だと道雪の軍団と直接戦ってるように書かれてるのかな?
395名無し曰く、:2012/06/08(金) 23:12:40.39 ID:GMhxHnij
>>394
道雪の先陣が猫城を落として、氏貞をおびきだして本隊で叩こうとしたものの、猫城を落とせなくて断念した。
その後、道雪の攻勢に屈して、道雪の死後復帰したものの、後継ぎがいなくて宗像氏は改易と記憶してた。
直接は戦ってはいないけど、一時でも追い返したのは大したものだと思う。
396名無し曰く、:2012/06/09(土) 03:12:28.80 ID:dOdYy2t8
大谷もそうだが道雪も輿に乗って采配とかよくできるなと思う。歩けないのに
ほったらかされて戦場に置いてけぼりにされたら終わりだもんな
397名無し曰く、:2012/06/09(土) 09:52:59.68 ID:9bdlEHno
≫ほったらかされて戦場に置いてけぼりにされたら終わりだもんな

生涯戦場に居て、そう言う状況作らせなかったのは見事
熊とか悲惨
398名無し曰く、:2012/06/09(土) 10:29:52.05 ID:aCFugxSI
>>397
熊が討たれた後の龍造寺四天王の動向を見る限り、熊に人望が欠けていた訳でもなかったとフォローしてみる。
終始立ち回り(位置取り)が良かったか、桁外れの人望がないと、輿の人は逃げてしまうかな。
399名無し曰く、:2012/06/09(土) 12:59:12.94 ID:xO1JWREv
熊が輿の担ぎ手に捨てられたって記述は実はない

それらしい事が書いてあるフロイスの記録で
川上某の手勢の槍で担ぎ手が排除される→熊が首取られる→大将が死んだ事を聞いた兵が鎧兜を脱ぎ捨てて逃げ出す
という内容の記述ならある
多分この一連の流れが混同されて『輿の担ぎ手が熊を捨てて逃げ出した』
という話が出来たのだと思う
400名無し曰く、:2012/06/09(土) 13:33:16.41 ID:IyhJzAiD
佐賀って龍造寺や鍋島もっとPRすればいいのに

大分みたいに駅前に大友宗麟像たてるとか
真似しろよ

佐賀って有田焼と吉野ヶ里遺跡くらいしか知らん
401名無し曰く、:2012/06/09(土) 14:00:43.89 ID:FPoNBEgw
昨今の武将ブーム(戦国ブームに非ず)に乗っかるぐらいなら何もしない方がまだマシ
402名無し曰く、:2012/06/09(土) 14:01:21.45 ID:e/eOOxb4
まあ、このスレの住民が信長の野望(笑)を作ったところで
売り上げはコーエーテクモさんには遠く及ばないがな。

ビギナーの中学生が秀吉で始めて、
速攻織田信雄とかいうマイナー武将に討ち取られて
コントローラ叩きつける姿が目に浮かぶぜwww
403名無し曰く、:2012/06/09(土) 14:02:48.02 ID:e/eOOxb4
>>400
銅像立てるくらいならフル規格の新幹線欲しいんだよぉ〜
404名無し曰く、:2012/06/09(土) 14:25:12.69 ID:aCFugxSI
>>399
フロイスは、龍造寺隆信と立花道雪を高く評価してるが、この2人はキリスト教嫌いなんだよね。
隆信は一門衆のキリスト教入信を止めさせて、道雪は大友家が駄目になったのは、宗麟や他の家臣らがこぞってキリスト教に没頭してろくなことをしないからだと批判したくらい。
逆に動機は何であれ、熱心なキリスト教信者の宗麟についてはボロクソに書いてる。
宗麟が洗礼を受けた時、一萬田が謀叛を起こしたこともあったが、
後は道雪みたいな極一部を除いて、家臣のほとんどがイエスマンと化したのかも。
405名無し曰く、:2012/06/09(土) 14:33:00.96 ID:aCFugxSI
>>400
今の佐賀県は幕末〜明治時代押しみたいね。
大隈重信以外の佐賀県出身の人物をアピールしてる。
その中には鍋島もいるけど、直茂ではない。

>>401
バサラで出るとなると、隆信は流れ星銀の赤カブトみたいに、直茂は猫耳だろうなw
無双は島津義弘の見た目が、どちらかというと龍造寺隆信な感じにしか見えないw
あの白髪を黒くしたら、太閤5の隆信みたいに…
406名無し曰く、:2012/06/09(土) 17:00:28.06 ID:eLYScoP7
大友龍造寺は島津より強くするわけいはいかない
つまり今より数値を下げるってことだ
407名無し曰く、:2012/06/09(土) 17:03:22.89 ID:IyhJzAiD
信長の野望onlineにはでてるけどな
http://www.gamecity.ne.jp/nol/souha/
408名無し曰く、:2012/06/09(土) 17:49:21.28 ID:aCFugxSI
>>406
大友は島津並に強いよ。
CPUだと島津の次に天下に近いくらいに。
また、島津は極稀にいきなり相良に滅ぼされることはあるけど、大友はそんなことはないし。
基礎が高いから普通に動けばれ当然と言えば当然だが、実際より強すぎる気がw
龍造寺は、大友どころか有馬単独にもやられるのが普通くらいに弱すぎ。
大友や島津にタメを張れとまでは言わないが、もう少し頑張れよと思うw
正攻法で駄目なら卑怯な手を使うえげつなさや、
利用出来るなら大内だろうが毛利だろうが大友でも利用する図太さとか、軍備を整えるのが上手いとか、そんなのを微塵も感じられないあっさりさが何ともw
409名無し曰く、:2012/06/09(土) 18:11:22.39 ID:8QDaLbwp
宗麟がゲームじゃ全然黒くならないからなあ
410名無し曰く、:2012/06/09(土) 18:13:23.75 ID:cbSUc1dy
ゲームで黒い動きってどんなんよ…
411名無し曰く、:2012/06/09(土) 18:14:31.42 ID:IyhJzAiD
部下を戦闘しだしたら
嫁を寝とるとか
412名無し曰く、:2012/06/09(土) 18:15:49.39 ID:cbSUc1dy
もうエロゲと同じ棚に並べないといかんな
413名無し曰く、:2012/06/09(土) 18:20:47.93 ID:YdAqvSc3
キチガイ秀吉アンチのアホは松下文書どころか
志賀の陣の翌年の元亀2年5/11付けの
徳山宛の秀吉書状すら知らずにデタラメ書いてる愚か者。
5/6に堀秀村の箕浦城を長政が派遣した5000で
攻撃されるのを察知した秀吉が
横山城を出陣して箕浦城に入った後、
下長沢→八幡(長浜)で戦いが続き
秀吉軍が浅井井規と湖北十ヶ寺一揆連合軍を打ち破ったのも
知らん無知ぶりを晒し
箕浦合戦は捏造とか連呼する救いようの無いバカ池沼。
総見記には元亀3年に浅井井規・赤尾清冬らがまた横山城を
攻撃してきたが、横山城から竹中重虎が、
背後から秀吉が攻め懸かり挟撃される恐れから浅井軍が撤退したとも書いてる。
以前として秀吉も苦労していたようで、宮部継潤らを調略して自軍強化してる。
信忠の初陣では、無謀な山本城攻めを秀吉はさせられるなど信長がやってくると散々。
この時期、松永久秀も近江に7/7までに来ないと許さんと
追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。
宮部継潤らが味方になったことから信長は横山城との連結が可能となった虎御前山に7/27に築城開始。
8/28暴風雨を利用して朝倉景盛が柴田の城郭を放火したら
どんどん延焼して織田軍は大混乱になるなど苦戦続きの織田(9/5長政書状)
これにこりた信長は宮部城を修復し佐久間隊を入れ、
虎御前山と宮部城に土塀と堀で囲った軍道を作ることになる。
9月に入り、ついに信玄西上開始。

看羊録
秀吉が信長の買い物の使いに出ると、他の部下が買い物に行く時と違い、
高価な物を安く、かつ迅速に購入してくるから
信長が大変不思議がって重用したとか書いてあって
実は秀吉が自分の金を足して買っていたのを他の部下は知らなかったとか面白いこと書いてる。
秀吉は信長の奴隷だったが、東国へ逃げたが
また戻ってきて自首したので、信長が許したので、
風雨や昼夜を厭わず一心に奉公し、
信長が北の謀反者を討つ時に秀吉は槍を振るって向かうところを討ちなびかせたと書いているが、
これは浅井・朝倉のことだろうから近江平定の過程でかなり秀吉が活躍してるのがわかる。
信長に関しては、晩年にはほしいままに刑罰や死罪を濫発して
人間を嫉み忌み嫌ったので、諸将は不安で安心できずに
皆が城を修理して堀を繕い信長に対して自衛をはかっていたとも書いてる。
秀吉は本能寺の変報をもたらした使者を殺して、何事もなかったように振舞ったとか書いてるが、
これもイエズス会の年報に記載されてる。
看羊録は情報の精度はかなり高いから論文でも引用されてるよ。
秀吉は信長が死んで国に主がなく皆が不安や恐れで包まれている際に
秀吉だけは悠然と落ち着いて物事を処理していき
なんらはばかる様子もなかったので、諸将もあえて異論の声を出す者もなく、
己に付かない者を休む暇もなく次々と攻め落としていったと書いてるね。
本能寺の報にも慌てずに冷静に天下の情勢を処理していく能力は織田家内において
秀吉しか他にいなかったのが窺える。
414名無し曰く、:2012/06/09(土) 18:29:28.90 ID:Ynta20Q7
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。
当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。


看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
415名無し曰く、:2012/06/09(土) 18:31:08.85 ID:WsZ0yVb+
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、

秀綱(花押)

晋叟寺 衣鉢閣下

秀吉厨涙目の驚愕の事実w
416名無し曰く、:2012/06/09(土) 18:33:12.23 ID:k+3Dqd7V
>看羊録にも
>秀吉は敵だったものでも簡単に許して
>親しくするので、諸将もなついたが、

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
417名無し曰く、:2012/06/09(土) 18:38:34.07 ID:OaEeBw72
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
418名無し曰く、:2012/06/09(土) 18:49:59.73 ID:9bdlEHno
>>405
その鍋島直茂も佐賀藩の藩祖てことで
維新後はそれなりに表彰されてたんが、
今空気だわな
419名無し曰く、:2012/06/09(土) 19:08:55.38 ID:VGypscNE
>秀信実権改易
また朝鮮人が変な日本語作ってるね
420名無し曰く、:2012/06/09(土) 19:17:12.92 ID:aCFugxSI
>>409
宗麟は家臣の嫁を取ったり、京都で女漁りしたり、
雷神様がいくら諌言しても改善しないは(他の家臣が言うとただじゃ済まないが)、
キリスト教に入信して洗礼を受けたら謀叛が起きるは、
従属させたはずの龍造寺には豊前まで来られるは、最後は島津を何とかしてくれと秀吉に泣きつく有り様なのに、
ゲームでは南蛮文化を取り入れた第一人者として、聖人名君ぶりだもんな。
確かに南蛮文化の最前線を行ってたのは間違いないけど、
野望というより自分の趣向のために家臣を省みないで内部をグダグタにした、どうしようもない暗部は全く表に出ないのはなぁ。
421名無し曰く、:2012/06/09(土) 19:19:25.00 ID:YdAqvSc3
それ原本すらない誰だかわからんやつが出したやつで
一次史料ですらない。
だからそれ引用する学者なんていねーぞ。

京勢数多討死=織田大敗
という安直な解釈が間違っているのでは?
京勢数多討死では毛利方がどれだけ討死したかは言及していないし
川中島でも武田方がそれこそ数多討死したけど防衛目的は果たしたと言えるし
秀綱って誰のこと?そんなヤツいんの?
つか秀吉が敗走なんてどこにも書いてないじゃん。

なんつーか毛利の場合は捏造文書三昧だからな。
折敷畑合戦を証拠立てる文書
五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。 http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscoverofhistory-thebattleofoshikibata.htm

つか荻藩閥閲禄や毛利家日記なんて原本書状のない捏造文書集じゃんよ。
しかも覚書や家譜や由緒書とか藩士が先祖の功績を捏造して提出しまくりで史料価値ゼロ。
一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
そこには馬場を配下にしてる山本勘助が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
これ毛利家臣の山縣平八が萩藩に提出した先祖の凄さと自家の格式向上のための捏造で、
明らかに甲陽軍鑑を熟読して、それに沿った内容を書いて提出してるwww
こんなもんに書いてある内容なんて、まったく史料として扱われてないわ。

422名無し曰く、:2012/06/09(土) 19:33:13.82 ID:9bdlEHno
このスレにいる秀吉アンチと秀吉信者は
大人しく戦国板帰れって

一人で自演してるみたい見えるぞ
423名無し曰く、:2012/06/09(土) 20:46:19.68 ID:kTudFWG6
>>421
お前の馬鹿な妄想なんぞ知らん
東大資料編纂所HPの綱文などでは毛利家日記やらの史料元で秀吉は熊見川で大敗したと決まっている
424名無し曰く、:2012/06/09(土) 20:48:55.66 ID:kTudFWG6
東京大学史料編纂所HP
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

萩藩閥閲録

晋叟寺文書

毛利家日記

[参考]備前軍記

[参考]浦上宇喜多両家記


[参考]陰徳太平記

[参考]御答書

[参考]總見記


[参考]柏崎物語

【管理番号】
020100216456
【編/冊/頁】

10編911冊179頁
【綱文和暦】

天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】

毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
425名無し曰く、:2012/06/09(土) 21:06:28.53 ID:RkVH/Wl3
>>422
何故か武田攻めのスレでもやってるが、ホント向こうと同じ応酬だしなあw
426名無し曰く、:2012/06/09(土) 21:08:36.73 ID:kTudFWG6
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、

成田五郎衣左衛門尉秀綱(花押)

晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八
 
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、

輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候

天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 

輝元 御判
427名無し曰く、:2012/06/09(土) 21:16:12.32 ID:lCltM0wP
>>414
お前はお前で極端すぎ。
428名無し曰く、:2012/06/09(土) 21:43:52.63 ID:Dllbo56y
このスレは九州大名のパワーバランス議論してるときが一番好き
429名無し曰く、:2012/06/09(土) 23:25:40.23 ID:9bdlEHno
>>425
これがステマってやつか
なんの目的か知らんが
430名無し曰く、:2012/06/10(日) 00:00:27.08 ID:emD1uv1b
ステマの意味わかってる?
431名無し曰く、:2012/06/10(日) 01:26:49.49 ID:4IvT/dU7
>>428
関東民だが羨ましい。
北条ファンはID弄ってるとか変なレッテル貼られないからなあ。
けど昨日まで楽しかった九州談義も何か変なのが出てきて詳しく読まなかった。

猫飼いの俺としては猫城調べただけで楽しかったよ。
432名無し曰く、:2012/06/10(日) 03:52:22.96 ID:j7NUT414
龍造寺家は隆信のワンマンっぷりは出してほしいから、他の武将をやたらと強くしてもって感じかね
ある程度の指揮官レベル何人か置いて四天王と組ませて責められるぐらいになれば少しは違うか
433名無し曰く、:2012/06/10(日) 10:03:58.37 ID:j+uUigoR
まぁ毛利の場合、毛利家文書・吉川文書などに収録されてるのが
一次史料であってそれ以外は誰も引用しない偽文書だらけだからな。
でもその一次史料ですら、
これらの文書の原本は吉川家だけにしかなくて黒田家には伝来せず、
毛利宗家が編纂した『毛利三代実録考証』や『大日本古文書』にも収録されていない。
そのため、これらの手紙は吉川家が偽造した偽文書

こんな酷い状況だからな。

434名無し曰く、:2012/06/10(日) 13:58:54.32 ID:yeMRIAVm
>>400 >>405
銅像も良いが、
知名度一気に上げるには無双かbasaraしかなさそうだな。
小説だと時間かかりそうだし、鍋島龍造寺を多く題材にしてるの滝口康彦ぐらいしかしらない
これが司馬遼あたりだったら、今もっと知名度あったのにと思わざるえない
435名無し曰く、:2012/06/10(日) 14:39:59.12 ID:zTocGc+j
>東大資料編纂所HPの綱文などでは毛利家日記やらの史料元で秀吉は熊見川で大敗したと決まっている

出た、東大ガー、学会ガーw
今の歴史学なんて無知、池沼の集まりじゃんww
池沼が正しいと思ってるなら、むしろ間違ってる証拠だろJK
436名無し曰く、:2012/06/10(日) 16:26:55.81 ID:DNod3hsq
お前の馬鹿な妄想なんぞ知らん
東大資料編纂所HPの綱文などでは毛利家日記やらの史料元で秀吉は熊見川で大敗したと決まっている
史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

萩藩閥閲録

晋叟寺文書

毛利家日記

[参考]備前軍記

[参考]浦上宇喜多両家記


[参考]陰徳太平記

[参考]御答書

[参考]總見記


[参考]柏崎物語

【管理番号】
020100216456
【編/冊/頁】

10編911冊179頁
【綱文和暦】

天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】

毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、

晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、

成田五郎衣左衛門尉秀綱(花押)

晋叟寺 衣鉢閣下

荻藩閥閲禄巻91林平八
 
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、

輝元 御判

巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候

天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 

輝元 御判
437名無し曰く、:2012/06/10(日) 21:03:39.86 ID:zTocGc+j
だからどーしたのw

おまいは東大が嘘言ったらあくまで信じるのか?
日本の学会なんて無知無能の象徴だろ
438名無し曰く、:2012/06/10(日) 22:04:56.11 ID:ZKSEEHUo
ハーバード?とかえらい大学出たやつが学歴は関係ないって言ったらかっこいいけど
馬の骨がいったところで、何言ってんだこいつってレベルだ
439名無し曰く、:2012/06/10(日) 22:16:59.77 ID:6owbxn7/
毛利は勝ったのになんで清水宗治の首あげたのよ?
440名無し曰く、:2012/06/10(日) 22:29:47.27 ID:UJB6dhaf
播磨上月で破った羽柴に備中高松守備の清水の首をあげたのかー
毛利両川は糞だなあ
こいつら死んだ後の関ケ原の輝元の動きはホントに輝いてた
吉川小早川が糞じゃなけりゃ大勝して超巨大の所領を持てたろうに
やっぱ吉川小早川一族は糞
441名無し曰く、:2012/06/10(日) 22:36:17.89 ID:6owbxn7/
ていうか、播磨で勝ったのになんで備中に侵攻されてんのよ?
442名無し曰く、:2012/06/10(日) 23:13:03.24 ID:DNod3hsq
秀吉はヘタレ毛利が上月を攻め落とし織田軍を蹴散らしたのに
安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し
毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し
毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。
その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを
火事場泥棒

この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか
備中・美作でも劣勢だったがこの窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体で翻弄しまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。
443名無し曰く、:2012/06/10(日) 23:16:39.64 ID:1iZt5FkR
東京大学史料編纂所はその名の通り種々の歴史資料を総覧して通史を編集するところで、
一個一個の歴史的事件に対し真贋の最終的な結論を下す決定機関ではないわけで
つうか東大史料編纂所では軍記もソースに入れてるが、
軍記なんぞ史料にならないと主張してた人にとっては都合が悪いんじゃないか
444名無し曰く、:2012/06/10(日) 23:19:10.74 ID:uDB+uP0R
日記やら書状やら一次資料にある事項がソースとしてあがっているので
捏造扱いしてもただの妄想にしかならないわけで。
445名無し曰く、:2012/06/10(日) 23:32:34.21 ID:4LnLNwEW
正直言って城の水攻めを目の前で見てみたい
どんな迫力’なんだろうな
446名無し曰く、:2012/06/11(月) 00:00:42.09 ID:WxudhT3y
城によるんじゃない?

戦国の城なんて
ほとんど砦みたいなもんだし

白壁の城が水攻めされてたら
結構見応えありそう
447名無し曰く、:2012/06/11(月) 02:36:22.61 ID:ttFuwjBo
よく居るよな、持論を守るためなら、一次資料ガー、とか、記録ガー、とか
言って逃げるタイプ。
過去の文書なんて9割方捏造だらけだろw
448名無し曰く、:2012/06/11(月) 07:39:33.52 ID:WxudhT3y
そんな事言ってたらこのスレみない方がいい
449名無し曰く、:2012/06/11(月) 07:59:46.14 ID:WxudhT3y
資料もってきて反論し合うのがこのスレなのに
それを放棄すんなよ
450名無し曰く、:2012/06/11(月) 11:52:33.62 ID:Rx5NEvlV
一条兼定さん。かな
家臣からクビ扱いされてもしぶとく
旧領回復を目指すも惨敗。
病死という、戦国の世では天寿をまっとう
といえる死に方。
馬鹿では無いと思うけど、コーエーで馬鹿扱いキャラ。
451名無し曰く、:2012/06/11(月) 13:46:07.66 ID:Cat9pmAp
反論できないとタゲそらしするのはみっともない
452名無し曰く、:2012/06/11(月) 16:31:40.63 ID:6+TnwP2f
>>434
司馬遼太郎が書いてても、世間的一般的にはほとんど知られてない長宗我部て大名もいるわけで
453名無し曰く、:2012/06/11(月) 17:27:21.94 ID:/SWcnQyH
四国民はそういうのにかこつけて浅ましいごり押しPRなんてしなかったからな
454名無し曰く、:2012/06/11(月) 19:10:40.63 ID:6+TnwP2f
高知は龍馬や幕末がメインで戦国が空気て印象がある
佐賀でも多分そうなんだろ
455名無し曰く、:2012/06/11(月) 19:45:19.92 ID:AFOPkZqF
無事に幕末迎えられなかったとこは、どうしても過小評価されちゃうでしょ

最上なんか幕末まで残ってたら、冷酷非道のイメージも変わってたんじゃ無い?
456名無し曰く、:2012/06/11(月) 21:14:38.05 ID:BmHxwBgG
長宗我部は秀吉に全くいいところなくやられたのがなあ
457名無し曰く、:2012/06/11(月) 21:42:33.01 ID:jfEyx8te
>>455
鍋島(と隆信以外の龍造寺一門)は、幕末まで残れたのにこの有り様w
逆に大友は内部がグダグダになった挙げ句、朝鮮出兵での敵前逃亡で改易されたのに、立花と南蛮のお陰なのか欠点が全く見当たらない優秀な大名扱い。
元々の勢力の基盤が大きかったのもあるけど。

>>456
島津みたいに、あの頃の秀吉に一矢でも報いれたところは少ないと思うよ。
余りにも多勢に無勢過ぎて。
458名無し曰く、:2012/06/11(月) 22:33:32.18 ID:6+TnwP2f
大友家つーか宗麟は良くも悪く派手だから
遠藤周作という超メジャー作家の著作もあったり
キリシタン大名と言う分かり易いキーワードもあってPRしやすいってのはあるな。

>>457
仙石が相手で良いなら
長宗我部も一応一矢報いてる。
459名無し曰く、:2012/06/11(月) 22:50:18.78 ID:jfEyx8te
>>458
キリスト教入信は、実際は良いことばかりでも無いのにね。
宗麟が洗礼を受けたのがきっかけで(他にも原因はいくつかあったが)、謀叛が起きたし。
信長は一向衆に対する当て付けの意味もあったけどね。
しかし、ゲームではデメリットがおかしいくらいに無いな。
460名無し曰く、:2012/06/11(月) 23:16:39.83 ID:6+TnwP2f
>>393が指摘してるが
大友家て家臣が優秀な割りに
史実だと実際に鎮圧する・したとしても後手後手になりやすくて
相手が得したりするケースも多い
461名無し曰く、:2012/06/11(月) 23:28:16.91 ID:5cn6YZaW
>>444
そんな毛利家臣団の先祖マンセーで偽造大会やって提出した
原本無しの写しを、マトモに信じてたら
淡河合戦とかも史実になっちまうしwww
しかも毛利側の淡河氏が羽柴秀長に勝っちゃうのに
なぜか淡河の地を手放して撤退する謎行動www
さらに鳥取城が落ちた後にかけつけた元春が背水の陣で
秀吉を威圧してビビらせたから秀吉は逃げたとか
尼子残党の山中鹿介の上月城を救援に来た羽柴秀吉を追撃して勝った話だけでは
飽き足らず、毛利軍は全勝不敗の神の軍になっちまうわけだがwww
毛利の史料は捏造だらけ。
せいぜいマトモなソースを出して語りたいなら最低でも
家わけ文書の毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書に載ってるもんを出せよアホ。
462名無し曰く、:2012/06/11(月) 23:31:25.82 ID:jfEyx8te
>>460
まさにそんな感じでグダグダになったのに、
ゲームの宗麟は野望が高くて、真面目に君主をやる気があるから、普通に激強い。
実際も宗麟がゲームみたいに普通に君主をやれば、少なくとも九州で負ける勢力はいなかっただろうな。
463名無し曰く、:2012/06/12(火) 00:19:29.08 ID:Dfp9tooN
>>459
確かに功罪あるがキリスト教に原因を押し付けるのもどうかと思うぞ
二階崩れや氏姓遺恨でも見て取れるけど大友は元々家中統制に問題を抱えてる
高橋鑑種や小原鑑元の謀反は勢力争いに端を発してるでしょ
打ち壊しやら改宗強要やらの乱行は耳川以降だったはず
田原一族の謀反と前後して道雪の諫言があったんじゃなかったか?
464名無し曰く、:2012/06/12(火) 00:21:20.74 ID:5zHmJFnI
おいおい少しは宗麟について勉強してこいよ。
戦国板ではかなり高い評価を受けてるぞ。

大友氏について語ろう2
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172121280/l50
465名無し曰く、:2012/06/12(火) 00:30:30.97 ID:wyX0pjZH
そりゃ毛利元就を包囲して外交的に優位に立ってるから無能って訳じゃないわな
龍造寺や島津に押され始めたらすぐに信長や秀吉に誼を通じて優位に立ってるし、外交だけはバカにならんだろ
466名無し曰く、:2012/06/12(火) 00:33:48.78 ID:DtgxkQV/
>>464
宗麟は対毛利に関してはちゃんとやってると思うよ。
北九州工作で仕掛けてきた毛利に、長門で大内再興工作でやり返したり、
キリスト教入信した時に、毛利に硝石を売らないようにと頼もうとしたり、
大友の最大の見せ場と言っても良いくらい。
ただ問題は信長シリーズをはじめ、戦国関係のゲームでは約10年にわたる大友と毛利の大規模な戦を取り上げていないのがね…
毛利の経歴にケチがつくからなのかもしれないが、逆に大友の高評価の根拠も薄くなる。
逆に島津や龍造寺に対しては、深刻な事態になるまで放っていたり、詰めが甘過ぎたりして締まりがなさすぎる。
467名無し曰く、:2012/06/12(火) 00:45:13.11 ID:Dfp9tooN
>>466
今山も沖田畷も耳川にすらもロクに焦点当たってないんだ、多々良浜が無くてもしゃーない
そういう意味じゃなくて能力的な意味なら道雪である程度評価されてるんじゃね
468名無し曰く、:2012/06/12(火) 03:47:32.12 ID:1FjksqLH
紹運さんとか田北さんとか義に厚い人もいるしパーペキ
469名無し曰く、:2012/06/12(火) 04:12:43.46 ID:hKMvpVWc
島津にも龍造寺にも介入しようとして攻めこんで大友は敗北してるだろ
手を出そうとして失敗し、それがかえって手に負えなくなるまで成長する要因の一つになった。が正しい
470名無し曰く、:2012/06/12(火) 05:11:48.29 ID:pwSttLuB
道雪ってほんと忠臣だな。あんな自由人を殿様にして
471名無し曰く、:2012/06/12(火) 07:23:32.26 ID:DtgxkQV/
>>470
義鑑が嫡男である宗麟を廃嫡しようとしたのに道雪が反対したのは、嫡男を蔑ろにすべきではないと言う考えかな。
性格はまるで正反対で、ことあるごとに道雪は宗麟に苦言を言い続けても、宗麟は聞く耳を持たないのに、最後まで見限らなかったのは物凄く義理高いよな。
その前に道雪くらいじゃないと、苦言を言った時点で宗麟に粛清されるかw
個人的に宗麟は外付き合いならいいけど、不条理すぎて一番家臣として仕えたくない君主だ。(二番目は細川忠興)
まだ信長のほうが、不条理な厳しさでも天下統一の野望のために邁進している分だけ遥かにマシ。
472名無し曰く、:2012/06/12(火) 11:18:45.30 ID:oYLepEhE
>>457
鍋島家はもっとご先祖様表彰ゴリ押しとけば良かったんだよ。
維新勝ち組で戦前は華族で資産家だったんだし
473名無し曰く、:2012/06/12(火) 12:42:15.02 ID:X2IhlXCi
ご先祖をごり押して正一位を取るなんて
常識的な人間なら恥ずかしくて出来ねーよw
474名無し曰く、:2012/06/12(火) 13:13:57.88 ID:irVJuJKe
有名所で華族(貴族院議員)の先祖は大概追贈されてる
475名無し曰く、:2012/06/12(火) 17:33:18.87 ID:ONnWvnwq
wikiですらご先祖ごり押してる輩がいるのに
476名無し曰く、:2012/06/12(火) 18:33:24.62 ID:oYLepEhE
>>475
誰の話?
小川祐忠?
477名無し曰く、:2012/06/12(火) 19:26:29.36 ID:mMEyJii1
小川祐忠って2年くらい前に

子孫か地元民が
信長に匹敵するとか、秀吉に匹敵するとか
主観入れまくりでWikipedia編集してたな
478名無し曰く、:2012/06/12(火) 19:42:10.11 ID:UbuDm2JN
先祖は先祖であって自分じゃないのになんで底まで必死になれるんだろうな
まあお前らも赤の他人の評価でギャーギャー喚いてるが
479名無し曰く、:2012/06/12(火) 19:53:19.15 ID:hKMvpVWc
華族の場合は先祖の功績で華族になれたんだから顕彰しないと自分が恥かくからかな
有馬記念の人みたいに「うちの先祖は何もしてないのに大領貰ったラッキー大名」と開き直るのも居たけど
480名無し曰く、:2012/06/12(火) 20:06:08.55 ID:Dfp9tooN
有馬豊氏の子孫な有馬頼寧氏か
あの人は色々ぶっ飛んでる人だからなあw

摂津の有馬は渡瀬氏の地盤引き継いだくだりは確かににラッキーかもしれんね
まあそれもそれなりの実績があってのことなんだろうけど
481名無し曰く、:2012/06/12(火) 20:09:13.77 ID:oYLepEhE
有馬さん正直でワラタ
でも戦国期の則頼・豊氏は大した事なくとも
その前の先祖、赤松円心・則祐親子だから凄いよな。
482名無し曰く、:2012/06/12(火) 20:33:07.02 ID:mMEyJii1
摂津有馬は豊氏の功績ってより
パパの則頼が家康と仲よかったからだろ

秀吉死後、利家派が多く孤立してた家康の遊び友達だったし
483名無し曰く、:2012/06/12(火) 22:59:09.49 ID:DtgxkQV/
>>482
それって、戦国時代の後の時代では戦がほとんど起きないだけに、かなり重要なことだと思う。
個人の資質や人間関係もあるけど、懇意にしてきた人が重要な立場になる等の運もある。
484名無し曰く、:2012/06/12(火) 23:41:50.22 ID:oYLepEhE
>>474
有馬豊氏もちゃんと従三位贈られてるんだな。
485名無し曰く、:2012/06/13(水) 10:26:53.96 ID:1W2b1T5O
>>478
それ言い出したら
このスレ成り立たないよw
486名無し曰く、:2012/06/13(水) 10:42:00.21 ID:p+JHfUTD
有馬って21万石もあるのか
すげーな
487名無し曰く、:2012/06/13(水) 15:19:07.13 ID:zRA+J7nu
>>484
ごり押ししまくった毛利元就の正一位って恥ずかしいよなwww
488名無し曰く、:2012/06/13(水) 23:57:28.90 ID:ynhJRKy4
四国の覇者にまでなった長宗我部元親が過小
一地方を統一したのに
489名無し曰く、:2012/06/14(木) 00:12:13.41 ID:TMd0DCQv
四国(80万石)制覇で総合7位だから
過小じゃなくて過大だろ

対戦相手も本山、一条、河野、西園寺、三好残党くらいだし
490名無し曰く、:2012/06/14(木) 04:23:08.99 ID:gQtGo3XQ
伊予を完全に統一してないんだっけ?長宗我部は。河野家潰してない?
491名無し曰く、:2012/06/14(木) 09:04:13.76 ID:vcFeH66I
実は讃岐も完全統一してないのが判明してる。
492名無し曰く、:2012/06/14(木) 09:13:02.23 ID:vcFeH66I
>>461
偽文書を盲信した結果が
元春・隆景の全勝無敗の完全無欠天才マンセーだからなw
そんならなんで秀吉1人にどんどん追い詰められていくのよとw
全勝無敗の圧倒的な知略と武力を持ちながら
本願寺も荒木も別所も波多野も赤井もみんな滅亡。
大友にすらボロ負けしてるのが現実なのに完全隠蔽してるしw
宇喜多や南条や三村や村上水軍に離反されるとか説明不能すぎるだろwww
しまいには関が原の戦いの責任を三成に押し付けてる始末www
ついでに吉川広家が一次史料で偽文書を作成して自己擁護www
493名無し曰く、:2012/06/14(木) 09:31:53.75 ID:vcFeH66I
>>444
学者も論文での一次史料ソースとして利用している
東大が編纂出版してる大日本古文書における
所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の
第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書の
中からはやく毛利が秀吉に勝った書状を出せよ。
494名無し曰く、:2012/06/14(木) 09:54:07.95 ID:vcFeH66I
捕虜なのは初期だけだろ。
俺は看羊録は読んだことないが、
朱子学と朝鮮だったかにも
会ってるとか書いてたぞ。
つかそもそも毛利の国政を牛耳る安国寺は
朝鮮人同胞に囲まれて生活しているって話だし。
藤原が家康や秀秋に会ってきた話を聞いたりしてるから
人物評も信用できるでしょ。
495名無し曰く、:2012/06/14(木) 11:29:10.16 ID:Bu9I9Wvl
>>491
へ〜そうなんだ。
阿波に多少の残党勢力・河野は服属でほぼ四国統一だったと思うけど

しかし長宗我部は敵の印象が薄い
大きな戦いで長宗我部相手に土つけたのて土居ぐらい?
496名無し曰く、:2012/06/14(木) 20:24:04.77 ID:87PdgKwU
歴史の『ほぼ』ほど胡散臭いモノは無いなw
伊達と同レベル→長宗我部の『四国統一』
まだ『四国制圧』の方が統一より解りやすい、治められてないからね
497名無し曰く、:2012/06/14(木) 21:12:40.25 ID:Bu9I9Wvl
制圧か
時間なかったからね。その後すぐに秀吉との開戦があって

少し調べてたけど、
讃岐の虎松城は落城した説もあって、これで讃岐制圧
伊予も河野が服属あとは阿波の土佐泊一城で
形上の統一と言っていいのでは?
498名無し曰く、:2012/06/14(木) 21:42:33.99 ID:+XPxUqgm
>>489
>四国(80万石)制覇で総合7位だから
長宗我部の統率は上から7番目の数字でいいよな
499名無し曰く、:2012/06/14(木) 22:52:14.46 ID:cl2oZ+T1
総合7位だと過大かなと思うけど、
統率7位だと・・・
う〜んやっぱり過大に感じてしまう。
500名無し曰く、:2012/06/14(木) 22:56:00.27 ID:JXMBMgHo
河野は毛利とそれまで繋がりがありながら、四国征伐時には隆景に味方せず籠城してるから、従属だよな。
長宗我部も島津も広義の地方統一でいいと思う。

元親の見せ場は、郡主クラスから土佐を統一していく過程なんじゃないのかな。
本山、一条と格上を喰ってるし。
統一後は岡本以外で大したミスもなく一領具足の数でごり押しした感じ。
スタート時点での領土の少なさを考えると、80万石とは言え過少とは思わないな。
ただ謀略は親父の方が凄みを感じるけど。
501名無し曰く、:2012/06/15(金) 01:53:44.48 ID:lcDaU4Ko
統一に広義も狭義もない
502名無し曰く、:2012/06/15(金) 04:51:35.64 ID:qg5F9PEE
長曾我部元親は有名武将相手には全くいいとこなしだからなぁ
黒田官兵衛の四国攻めにいいとこなしの完封で降伏
九州の島津家久相手の戸次川の戦いも敗戦の主原因は仙石ではあるが惨敗と
一流半なイメージや
503名無し曰く、:2012/06/15(金) 05:15:59.09 ID:D/PZ08uR
家康「信康が生きていれば・・・」
元親「信親がいきていれば・・・」

全部「信」の字が悪いんじゃねーか
504名無し曰く、:2012/06/15(金) 07:28:25.10 ID:F4lVsnck
長慶「義興が生きてれば・・・」

信玄「義信は死んでおk」
505名無し曰く、:2012/06/15(金) 07:29:37.32 ID:F4lVsnck
あ、義は2人とも足利義輝からもらってる
506名無し曰く、:2012/06/15(金) 12:01:02.89 ID:WB9KXK/a
>>502
十河存保じゃ物足りないか
中富川では三好義賢以来の家臣が軒並み討ち死に追い込んでるが
507名無し曰く、:2012/06/15(金) 12:07:15.12 ID:2WU3mcAI
>>502
四国攻め、九州征伐の戦力差を覆したら謙信様もびっくりな統率になる
負けて評価を下げられる戦じゃない
508名無し曰く、:2012/06/15(金) 16:50:18.73 ID:WB9KXK/a
北条攻めでは下田城の戦いで清水康英を下す
朝鮮での晋州城の戦いで首1300討ち取り敵将朴好仁を捕虜にする活躍

なんか昨日から長宗我部調べてるうちに
長宗我部贔屓になってきたぞw
509名無し曰く、:2012/06/15(金) 18:46:23.03 ID:pYb22PXG
主観的な資料見てると、贔屓になって当然だよ
個人的にはある程度の期間、安定経営出来た領土に能力を求めるべきだとは思うけど
510名無し曰く、:2012/06/15(金) 18:56:35.56 ID:J3KqKc5Y
そんな事言ったら、また三傑最強じゃないかって話になるから止めてよ
最強でもいいけど
511名無し曰く、:2012/06/15(金) 19:30:36.84 ID:P7Mn+T5o
信玄が127なゲームだからなあ

もうすこし三傑が突き抜けてたら長宗我部もそんなに言われないだろうけど
昔過大だといわれるときに結構三傑の能力も引き合いに出されてたしね
512名無し曰く、:2012/06/15(金) 19:41:16.50 ID:kHA4FXY6
また三傑厨が暴れだしたな
状況無視で結果を元に能力を決め付ける癖に
結果でいえば信長は殺されて死んだだけなのを無視する馬鹿
513名無し曰く、:2012/06/15(金) 19:53:22.74 ID:G6V7uBe2
三傑はまあ有能だろうけど他の有力大名と比べて突き抜けたほど強いとは全く思わん
運や状況に助けられてる面が大きいしこと戦に関してはさして強くない
514名無し曰く、:2012/06/15(金) 20:15:12.91 ID:vmTzzEBN
×三傑最強じゃないか
○家康最強じゃないか
515名無し曰く、:2012/06/15(金) 20:54:40.13 ID:Fk601vZg
運も実力のうちとよく言うけどね。
516名無し曰く、:2012/06/15(金) 21:10:58.72 ID:G6V7uBe2
つまり信長も光秀に実力で負けて殺されたと
517名無し曰く、:2012/06/15(金) 21:50:55.15 ID:3rx2fD6i
宇喜多秀家の政治は過大、実積からしたら一桁で十分
518名無し曰く、:2012/06/15(金) 22:28:20.18 ID:F4lVsnck
五大老補正です
五大老補正の原因は秀吉の親戚補正です

28歳で表舞台から消えたし
なかなか難しい
519名無し曰く、:2012/06/16(土) 02:28:03.51 ID:7P5Xtx/u
誰からも好かれる武将宇喜多秀家。
520名無し曰く、:2012/06/16(土) 07:01:20.99 ID:Uwk4vDQq
どこが一門重臣に嫌われ離反されてるじゃん
521名無し曰く、:2012/06/16(土) 15:04:29.43 ID:Uk7HS5h1
家中の統制ができなかったのは
やっぱ政治マイナスになるの?
俺は統率にも関係あると思うけど
522名無し曰く、:2012/06/16(土) 15:30:54.31 ID:hx7M7NJv
このゲーム統率が戦の強さにばかり影響するから
政治のがふさわしいんじゃない
523名無し曰く、:2012/06/16(土) 17:26:57.03 ID:33JfxqWv
合戦は弟に任せて悪事陰謀ばかり考えてた
松永みたいな統率の高い奴も要るわけで
悪事で人を引き込めは統率は高くなるw
東大寺焼けば有名になれるんだぜ
平家みたいに
524名無し曰く、:2012/06/16(土) 22:28:24.97 ID:Uk7HS5h1
松永久秀か
梟雄として名高いか
その梟雄にしては最後のツメが甘い気が
(裏切るタイミング二回も外す)
525名無し曰く、:2012/06/16(土) 22:41:43.09 ID:WDn7Z/5p
あれは弟の統率吸ってるだけだろ

三好三人衆に連戦連敗で
信長来なきゃ殺されてたのに
526名無し曰く、:2012/06/16(土) 23:46:01.01 ID:Uk7HS5h1
信長裏切り筒井氏攻めたのはいいが、
逆に辰市城で大敗してるのもな。

三好時代は武将としても活躍してたらしいが
後半生は微妙やな。
527名無し曰く、:2012/06/17(日) 04:50:40.69 ID:WAwF/riM
>>520
どの大名からも好かれたの間違いだった
つーか一門家臣離反は豪姫が連れてきた
前田家の家臣ともともといた家臣が争ったからじゃないの?
528名無し曰く、:2012/06/17(日) 05:53:57.98 ID:C0/2vx6t
いや最近の研究じゃ中村次郎兵衛が前田家から来た家臣という説は疑問視されてるよ
騒動で宇喜多家を出て前田家に仕えるようになった人であって
加賀藩史料の金沢古蹟志に宇喜多家に始め仕えたとあるそうだ
529名無し曰く、:2012/06/17(日) 11:30:57.58 ID:smjfRnJt
本来親父の代で起こるべき国人寄合からの脱却が上手くいってなかったんだよな
で、無理矢理主導しようとして拗れた結果があれ。たらればだが忠家が絡んでれば結果は違ったかもしれないな
少なくとも一般に言われてたような宗派対立は無理があるよね
花房正成の件は正成が義理堅いのか秀家に魅力があったのかいまいちわからんね
530名無し曰く、:2012/06/17(日) 18:21:49.07 ID:T6d+YS5a
宇喜多の話で思い出した。
福島正則は統率も武勇も高すぎで過大気味だったが
天道では下がってちょうど良い位の数値になったな。
531名無し曰く、:2012/06/17(日) 20:46:05.77 ID:zA/c3FeS
市松は革新くらいが好きだけどなー
532名無し曰く、:2012/06/17(日) 22:55:08.59 ID:oi62RoCg
福島統率93ってただのネタだろ

何回も落ちまくってる岐阜城を寝返りばかり&寄せ手が城の弱点まで知悉してる状況で
落としたから名将とかアホかと
533名無し曰く、:2012/06/17(日) 22:56:32.59 ID:2wxVBdys
福島なんて50くらいで十分
雑魚豊臣軍の先鋒やったから高評価とか馬鹿
534名無し曰く、:2012/06/17(日) 23:01:07.25 ID:ZrQwImME
藤堂細川加藤福島蒲生あたりはドラマや漫画の影響で馬鹿みたいに補正がかかってるからな

実際武将の資質の問われない位攻めでの楽な戦いしかしてないし補正なしだと−15くらいに落ち着くと思われ
535名無し曰く、:2012/06/17(日) 23:31:11.04 ID:T6d+YS5a
531
武勇高いの良いとして
統率93は本当にネタだろ
536名無し曰く、:2012/06/17(日) 23:32:06.88 ID:zA/c3FeS
それ言っちゃうと武田上杉とか
537名無し曰く、:2012/06/17(日) 23:44:17.59 ID:WbdS/pZ+
武田上杉は史実で強いもんなあ
最強家康でも信玄に瞬殺され信玄より弱い勝頼相手に苦戦しまくったのが現実だし
織田家最高峰の柴田なんか謙信に蹴散らされたばかりか謙信より弱い景勝を
内乱で自壊した隙をついて9倍もの圧倒的大軍&調略で火事場泥棒したのに越中中部で2年も足止め食らったし
538名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:12:56.56 ID:lKKeWchp
武田はともかく上杉は過大武将が多いと思うわ
長尾政景を筆頭に
539名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:36:07.25 ID:OgN+Hu0Q
武田上杉みたいなネタ武将が史実で強いとかw
最強だったのは信長とその後継者の秀吉
日本史を知ってれば当たり前の事実でそ
540名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:38:24.27 ID:hWFJe+Zj
信長なんて地方制覇もできず光秀に瞬殺され
秀吉は日本三大凡将の信雄・輝元・氏政に負けまくった雑魚じゃん
武田内でいえば保科弾正あたりに瞬殺されるんじゃね
541名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:41:31.35 ID:1AYfXCZi
保科弾正はその織田軍に敵わず逃走したぞ
542名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:45:20.54 ID:XEoU1KwW
信長や秀吉なんて運だけで勢力拡張できたようなもんだからな
信長の場合チート尾張&斉藤幼君でクーデター騒ぎで弱体化&浅井・甲賀衆も参戦
機内方面も浅井は序盤味方&六角は対浅井の敗戦と観音寺騒動で弱体化&謙信信玄元就直正など死去
秀吉の場合も信長に仕えてたから勢力拡張できただけだし派遣された播磨も毛利・荒木の中途半端な介入と派遣などで
ぐちゃぐちゃで味方するものが多くて格調できただけだし
ガチンコで戦うとどこと戦っても勝って当たり前の圧倒的大軍で寡兵の敵に大敗・大苦戦
543名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:47:03.24 ID:OgN+Hu0Q
武田上杉が最強なら
なぜ天下をとれなかったの?
織豊に滅ぼされたくせに
544名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:47:36.57 ID:pNlaoHyf
そんなに優秀な部下を揃えて僅々百二十万石の武田
対してボロ雑巾のような部下を従えて関東から近畿にいたる広大な領域を支配下に組み込んだ織田信長
将として優秀なのは後者だなw
545名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:48:22.51 ID:FpNBVpIN
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
546名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:51:12.15 ID:brZeJFHy
>>543
滅ぼされたってどっちも北条や徳川との対戦や内政失敗自爆や内乱で自壊しきったところを
圧倒的大軍と調略と騙まし討ちと偶然おこった天変地異で滅んだだけじゃん
弱りきった所を騙まし討ちと浅間山噴火で助けられただけで
まともな会戦もろくになかったのに強いも糞もない
547名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:55:24.56 ID:ll6eu4FH
結果がすべてだろ

最貧国甲斐から同等かそれ以上の勢力相手に版図拡張し150万石まで版図拡張した信玄
チート尾張に生まれながら幼君龍興に大敗し続け本願寺・浅井・朝倉・長島一揆にも
負けまくり光秀に殺されて死んだ信長

圧倒的大軍で雑魚毛利や信雄・氏政などに苦戦しつづけ地震や寝返りの連鎖で崩壊状態の徳川を屈服できず
滅ぼされた秀吉
548名無し曰く、:2012/06/18(月) 00:57:50.14 ID:OgN+Hu0Q
後進的な関東の軍隊では織豊には勝てない
549名無し曰く、:2012/06/18(月) 01:02:01.64 ID:OiK5NdM1
後進地関東でガチンコ戦闘で20そこそこの若造にぼこられた滝川や
謙信に瞬殺されたばかりか謙信より弱い景勝を
内乱で自壊した隙をついて9倍もの圧倒的大軍&調略で火事場泥棒したのに越中中部で2年も足止め食らった柴田や
上村合戦や東美濃攻防・三方が原・岩村・高遠でボコボコに大敗or苦戦した織田軍の武将は相当戦下手なんだろうな
550名無し曰く、:2012/06/18(月) 01:05:10.72 ID:wArY8mgf
結果がすべて。

光秀に殺されて死んだ信長。

最貧国甲斐から150万石まで版図広げた信玄
551名無し曰く、:2012/06/18(月) 01:19:11.48 ID:48Sn3dTH
まただがさんがID変更しまくってで妄想を書き連ねてるのか

敵の2.5倍の数で外に誘い出しても家康討ち取れなかった戦下手がどうかした?
552名無し曰く、:2012/06/18(月) 01:25:48.58 ID:UU6VExLT
徹底好戦一枚岩で籠城されるとキツイんでね?
三木の干殺しとか、調略上手な武将でも落とすのにかなり苦労してる
遠征軍には兵站の悩みもあるし、簡単じゅないよ
553名無し曰く、:2012/06/18(月) 01:31:55.77 ID:NgOqDXGf
むしろ籠城側は兵力に劣る事が多く後詰がない場合勝ち目がなく防戦中は収入も望めないため
また勝っても領土が広がらないため士気が下がりやすく脱走兵も出やすいのでキツイ
徹底抗戦だからどうこうとか戦下手な武将を擁護するためのただの言い訳
554名無し曰く、:2012/06/18(月) 01:38:36.70 ID:SvyAZJK1
信玄なんてガチンコで攻略が難しい信濃や上野の山間の城とか落としまくってるもんな
しかもどこも長尾やら山之内上杉やらの介入がある中
555名無し曰く、:2012/06/18(月) 01:46:29.13 ID:UU6VExLT
>>553
基本的に外からの援軍が頼めない籠城は下策だからね
それでも籠城する意味は玉砕以外の何物でもない
556名無し曰く、:2012/06/18(月) 01:52:17.51 ID:SvyAZJK1
玉砕戦でも一致団結とは限らず高遠攻防みたいにボロボロ武将が逃走はかったりするわけで
557名無し曰く、:2012/06/18(月) 08:22:25.57 ID:5MYy+KwE
>>538
逆の気がする
織田に敗れ滅亡した筈の武田家臣団の能力はもっと低くて良い
上杉家臣団は内戦続きで武田よりも脆弱だった筈なのに関ヶ原後も生き残っている
上杉家臣団の能力はもっと高くて良い
558名無し曰く、:2012/06/18(月) 08:30:19.91 ID:fzsUMz/r
関ヶ原後も生き残ってたからもっと高くていいなら
上杉家臣団より能力もっと高くて良い奴らは山ほどいるな
559名無し曰く、:2012/06/18(月) 09:12:23.54 ID:lLzFX6Hx
結果がすべてだろ

最貧国甲斐から同等かそれ以上の勢力相手に版図拡張し150万石まで版図拡張した信玄

チート尾張に生まれながら幼君龍興に大敗し続け本願寺・浅井・朝倉・長島一揆にも
負けまくり光秀に殺されて死んだ信長

圧倒的大軍で雑魚毛利や信雄・氏政などに苦戦しつづけ天正大地震や寝返りの連鎖で崩壊状態の徳川を屈服できず
滅ぼされた秀吉
560名無し曰く、:2012/06/18(月) 10:12:48.43 ID:Mgzl4FwQ
まただがか
561名無し曰く、:2012/06/18(月) 10:17:01.35 ID:ypFOsOm1
やっぱりだが=武田信者=アンチ秀吉

あの秀吉コピペはだがだったのか
562名無し曰く、:2012/06/18(月) 10:55:01.08 ID:Mgzl4FwQ
だがじゃないけどちゃんとチート尾張と最貧国甲斐を表現してくれれば武田が強くてもいいんだけどなあ
信濃の方が尾張より豊かで甲斐と合わせれば越後とならんで億万長者っていう状況ではね
563名無し曰く、:2012/06/18(月) 11:13:29.18 ID:xDg30VRJ
確かに今だと武田上杉が強国だからなあ
放っとくと統一しちゃうし
武田上杉が延々と戦い続けるようなルーチンにするとか、格付けCくらいにして攻め込まないようにするとか、上で言われてるように、飛騨並みの貧国にするとかしないとなあ
あと武田盲って、すぐ実績無視するよね
実生活でも後輩に肩抜かれたりしたら、足引っ張ってんの?
564名無し曰く、:2012/06/18(月) 12:30:14.18 ID:IKFayP6h
だがさんが後輩なんて立場の人間が出来るような生活してると思うかね
565名無し曰く、:2012/06/18(月) 13:21:18.51 ID:razR13d+
弟が自宅警備に付いたら後輩になるんじゃね?
566名無し曰く、:2012/06/18(月) 13:46:55.82 ID:48Sn3dTH
信長は尾張の1/4程度を継いだにすぎんからな
そもそも最初は津島湊しか味方じゃなくて、そこと商売する熱田湊と伊勢湊には距離置かれてたし、結構絶望的だぞ?
津島湊は長島相手に結構借金して火の車だったし
しかも序盤斎藤は仲間と言ってもすぐに敵に回るし、絶望的な状況だったわけだが

逆に信玄は甲斐は一国丸ごと穏便にゲット、優秀な金山もあれば三国同盟があって後方は大丈夫と言う恵まれた状態だったわけだけど

どっちが恵まれてるかってのは一目瞭然だわな
567名無し曰く、:2012/06/18(月) 14:08:52.73 ID:lLzFX6Hx
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。

568名無し曰く、:2012/06/18(月) 14:12:09.07 ID:lLzFX6Hx
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
569名無し曰く、:2012/06/18(月) 14:16:18.53 ID:lLzFX6Hx
>熱田港とは距離
熱田への書状発給を弟がもってた事をいうなら、
そもそも信秀時代からの先例の踏襲でしかないもんで
信長が熱田の主流たる西加藤家への安堵判物発給であり
弟は東加藤家への発給をしてるだけの分掌でしかない。
570名無し曰く、:2012/06/18(月) 14:23:41.56 ID:BZw1zfzh
>>539
信長は謙信から逃げ回り気を使いまくり
秀吉は謙信襲来を知って軍令違反してまで敵前逃亡
571名無し曰く、:2012/06/18(月) 14:25:12.18 ID:BZw1zfzh
>>543
上杉じゃなく謙信が最強
信長は謙信から逃げ回り
秀吉は謙信襲来を知って軍令違反してまで敵前逃亡
572名無し曰く、:2012/06/18(月) 17:03:54.07 ID:pNlaoHyf
コピペに落ち 駄レスと消えにし わがコピペ  議論のことは 夢のまた夢

〜だが〜
573名無し曰く、:2012/06/18(月) 17:16:23.05 ID:xDg30VRJ
>>572
www
574名無し曰く、:2012/06/18(月) 17:35:19.99 ID:fzsUMz/r
そんなに逃げ回るだけだった相手からたいして領土も切り取れないってドンだけ雑魚なの?
575名無し曰く、:2012/06/18(月) 19:12:08.42 ID:1AYfXCZi
黒田孝高
いつの間にか統率大幅に下げられてんな
576名無し曰く、:2012/06/18(月) 19:57:58.66 ID:omh6fLhJ
>>559
それを言ったら一族滅亡寸前の裸一貫から、手段を選ばすあの手この手を駆使して這い上がり、
豊前まで伸ばしてきた龍造寺隆信の評価は、もう少し高く評価して良いと思う。
その割には隆信の知謀は、謀略とはほど遠い立花宗茂より低く、他人を出し抜くけそうにもないアホの子状態w
最期が最期だからと言ってもあの知謀じゃ、今まで利用されてきた相手にも失礼すぎる。
577名無し曰く、:2012/06/18(月) 20:10:59.26 ID:Za6L6z2T
あんたも大概おなじ話題しかしないよね
578名無し曰く、:2012/06/18(月) 21:27:15.67 ID:z9FK5Fo5
>>575
天道で秀吉関係の統率が軒並み下がってるんだよな
他の連中はともかく黒田さんは維持してほしかった

秀吉のエースが大谷さんとか勘弁
579名無し曰く、:2012/06/18(月) 22:40:27.68 ID:1AYfXCZi
福島正則あたりの下げはまぁ良いとして
その福島よりさらに統率下とは納得できないな
580名無し曰く、:2012/06/19(火) 00:26:54.28 ID:pbOveQNI
>>576
知略は過小だけど
武力系は敗死武将の中では高く評価されてる方とフォローしておく
581名無し曰く、:2012/06/19(火) 00:31:35.41 ID:sTQ5A9kI
武力は過大でいいと思う
582名無し曰く、:2012/06/19(火) 01:48:50.17 ID:pbOveQNI
政治以外
鍋島直茂と同じくらい能力あっても良いな

統率90武勇85知略91政治42ぐらいで
583名無し曰く、:2012/06/19(火) 02:15:20.80 ID:htCY/VVD
鍋島自体糞みたいに過大なんだからまとめて−20くらいしたら妥当
584名無し曰く、:2012/06/19(火) 02:30:07.76 ID:HKaZE2vo
外様は徳川によって天下統一後自領を獲得安堵され、改易等を免れて江戸時代まで家を存続させると評価高い感じ
585名無し曰く、:2012/06/19(火) 04:25:29.91 ID:SMMii2qB
革新無印までしかやってなくてよかった
586名無し曰く、:2012/06/19(火) 05:24:40.34 ID:pbOveQNI
鍋島が過大なら
ほんとんどの武将が過大になるやん
587名無し曰く、:2012/06/19(火) 06:14:33.49 ID:oecXapfn
武田上杉家臣群とかね
588名無し曰く、:2012/06/19(火) 06:19:34.80 ID:SMMii2qB
直江と片倉は天井なしやで
589名無し曰く、:2012/06/19(火) 07:15:58.81 ID:8NEi9EpA
>>584
http://wolfpac.press.ne.jp/haizetsu01.html
地方群雄から生き残った外様大藩で転封されず幕末まで存続したのは
南部、鍋島、島津ぐらい?
本領を維持出来なかった(それでも十分でかいが)伊達と毛利は扱いに困るが同じカテゴリーかな
590名無し曰く、:2012/06/19(火) 09:04:19.47 ID:3l3iAWg7
>>589
群雄ではないけど外様の前田も同じカテゴリーでいいと思う
591名無し曰く、:2012/06/19(火) 09:56:38.53 ID:/+25uR73
むしろ鍋島が過大じゃないならほとんど武将は過大じゃないな
雑魚のチョンを蹴散らしたくらいしか実績ねぇし
592名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:02:20.25 ID:fVXgzo0i
武田上杉が過大ならほとんどの武将は過大だわな
593名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:04:30.82 ID:9HEoAnfO
黒田なんてむしろ過大だろ
雑魚豊臣軍の軍師で毛利輝元や織田信雄ごときに大敗した軍のサポートしかできないようじゃ話にならんわ

秀吉ともども−20くらいしたら妥当になるな
594名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:10:44.11 ID:WW+0NyYS
西国なんて統制もろくにできない戦いのたびに寝返りばかりでドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ国だもんなぁ
そんなとこで大友の混乱に付け込んで一時的にチョコっと勢力広げたから高評価とか馬鹿かと。
そもそも結果論脳で語ればって話しの流れから>>576になるのかと。
竜造寺なんて当主が戦死するほどで結果でいえばゴミクズだろ
595名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:15:04.03 ID:B9hrjV6f
>>593
中国方面の美作・備中戦線でも最初は宇喜多単体で大軍毛利を翻弄しまくってたのに
秀吉や黒田が加わりだす頃から戦況悪化して美作から駆逐されるんだよな
いかに秀吉や黒田がゴミクズレベルに雑魚だったかわかる
三木に2年かけ鳥取も物資が少ないから助かっただけ出し熊見川でもボロクズのように負けてるからね
596名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:17:25.43 ID:DVmhXoMJ
藤堂細川加藤福島蒲生あたりはドラマや漫画の影響で馬鹿みたいに補正がかかってるからな

実際武将の資質の問われない位攻めでの楽な戦いしかしてないし補正なしだと−15くらいに落ち着くと思われ
597名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:19:29.71 ID:jFz/ea6+
>>586
はあ?大した活躍してないだろ
今山の戦いも別に鍋島関係ねえし甲斐や相良に負けまくった雑魚島津に蹴散らされただけだろ
598名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:21:28.57 ID:K4cXhkVy
結果がすべて。

光秀に殺されて死んだ信長。

最貧国甲斐から150万石まで版図広げた信玄

家を滅ぼしてしまった鍋島

有馬にぶち殺された隆像寺
599名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:23:10.22 ID:9oNJ3nz+
鍋島と龍象寺は統率sage知略ageが妥当
黒田は知らん
600名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:25:34.59 ID:/+25uR73
>>592
織田豊臣武将全般が特にな
大体講談ネタくらいでしか活躍なしで史実ではゴミクズのように雑魚だったのに
滅んだ結果無視で一時的に火事場泥棒で領土広げたとこだけで高評価とかデタラメコーエー評価だわな
601名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:26:13.53 ID:iNE7HCuO
最終的な結果で判断しちゃうと黒田と武田はフリーザ様とナッパ並みの開きがあるからな
602名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:32:40.15 ID:/+25uR73
結果でいえば豊臣なんて能力0だしなあ
主家滅亡なんだから家臣たちも主家守れなかった事に変わりないし
信長も能力0
603名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:33:07.13 ID:9NpuoVgv
朝からご苦労なこったねえ。よく飽きないもんだ
今山に鍋島関係ないとかどこの世界の今山夜襲だよ
604名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:34:41.82 ID:SAdZuzS2
今山で鍋島が奇襲を提案したのか?
ただ従軍してただけかと思ったが
しかも大友が大軍だったとか実に嘘くさいわなあ
605名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:35:53.24 ID:yM7SWXUk
今山で鍋島の功績で夜襲なんて事かいた史料は存在しない
606名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:38:40.22 ID:tFJpC0d4
竜象寺は知略はいいとして統率は過大
大友にまぐれ勝ちしたくらいで有馬に大敗したんだからプラマイ0だろ
607名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:38:41.50 ID:pbOveQNI
>>602
それだと武田家もゼロになるんだけど
鍋島黒田(旧侯爵)
織田(旧子爵)
武田(無爵位)
608名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:50:26.01 ID:oecXapfn
武田なんか0でいいよw
609名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:54:56.52 ID:3l3iAWg7
お前それは0さんに失礼
-110でいいや
610名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:56:07.19 ID:OICg0Xc5
伊達政宗が過小
結果でいっても大領だし
スタートラインは輝宗の外交失敗で奥州で孤立した立場で包囲網張られた状態で南奥州またたくまに平定したから
幼君で分裂斉藤に苦戦しまくった信長なんかより遥かに有能だろ
611名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:59:14.22 ID:sgEZs6B4
最上も過小だな
スタート2万石か1万石そこそこで謀略を駆使して50万石まで領土広げた手腕は
すごいとしかいいようがない
運悪く改易されたけど龍象寺なんかと違って戦に負けて改易されたわけではないしな
612名無し曰く、:2012/06/19(火) 10:59:56.57 ID:Qd9pmR4u
この基地外だけパージ出来ればだいぶマシなスレになるんだがなぁ
613名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:00:16.66 ID:DVmhXoMJ
奥州は過小天国だからな
614名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:00:57.40 ID:9NpuoVgv
別に今山が局地戦だったとかその辺を否定しているわけじゃないからな
既に竜造寺方の有力な武将だった鍋島が関係ないって暴論が気に食わん
今山合戦より少し前だが戸次鑑連勢2000を相手に
先陣鍋島信昌、小川信友。二陣納富信景。殿軍竜造寺隆信。総勢1500で攻めかかった話もある

あと肥陽軍記、北肥戦史、歴代鎮西志の信頼性とか言い出すと何も言えん
一応書状で局地戦があって竜造寺方が勝ち、戦線を押し戻したのは確認できるけどそれだけだ
615名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:07:23.17 ID:DVmhXoMJ
今山で奇襲した地域とナベがいた地域は離れてるし鍋島の献策で夜襲をかけたなんて史料はない
所詮軍記メインソースの戦いだからな
616名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:08:17.50 ID:3l3iAWg7
東北は伊達南部津軽過大の他過少だからな
過大って言っても伊達以外はそこまで過大って言うほどのレベルではないと思うけど
617名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:09:50.46 ID:yM7SWXUk
龍像寺ほど火事場泥棒という言葉が似合う大名はいない
大友が相隣の国政なげやり&宗教問題で混乱してくれたおかげで助かっただけ
618名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:10:52.92 ID:pbOveQNI
>>612
織豊・九州叩き武田アゲ→武田家が叩かれ始めると他の地域(今の場合は東北)の武将持ちだしてケープゴートで批判かわす

このパターン何回繰り返すんだろうな
前に日本史板でも同じ事してたぞ
619名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:12:44.67 ID:RZ81AQ9x
伊達が一番過小だろ
結果でいっても大領だし
スタートラインは輝宗の外交失敗で奥州で孤立した立場で包囲網張られた状態で南奥州またたくまに平定したから
8600丁もの鉄砲&関東最強の佐竹義重相手に会津領切り取るなんて
斉藤に苦戦しまくった信長ごときにできるわけないし
620名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:14:41.33 ID:qPn4t8Gj
片倉景綱あたりは統率92知略103くらいあっていい
原田・後藤・白石・留守あたりももっと強いだろ
621名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:15:50.28 ID:iNE7HCuO
今山が半年以上続いた包囲後の戦闘だって根本的な所を分かってないだろ
配置なんて大友方も竜造寺方も時期によってゴチャゴチャ入り乱れるわ
622名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:22:34.95 ID:qPn4t8Gj
実際半年も篭城が続いたんだから大友は兵站不備や長陣の疲弊で退却しただけじゃないの
もし軍記にみられるように圧倒的大軍を動員したなら豊前からの遠征で疲弊するだろうし
623名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:24:50.52 ID:o8uq0+fP
今山の戦いは龍像寺の捏造合戦だよ
チョコっと小競り合いで優勢だったのを軍記と講談であたかも大勝かのように勘違いさせただけ
624名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:29:25.91 ID:vLDRpdNl
なんにせ夜襲当日鍋島が献策したとか鍋島隊が龍像寺との最前線で直接攻撃したなんて史料はないわけで
そもそも合戦自体の存在が疑わしいがな
625名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:30:07.11 ID:9NpuoVgv
単に今山合戦と称してるけど実際は佐嘉城攻防戦だからな
夜襲も大友八郎親貞が討ち取られたってだけの話。そもそもこの親貞の素性もはっきりしない
とりあえず今山(あるいはそれに相当する局地戦)の後に大友宗麟が本陣を肥前千栗まで移動させているのが確認できる
その一ヶ月くらい後に大友側が竜造寺からの和議という名の降伏を受け入れてるのも起請文で確認できる
長期遠征での疲弊で攻めあぐねてた結果の落としどころじゃないかね

鍋島が夜襲献策したとかそういうのは眉唾。そんなとこばかりみてるからアホな発言になってる
626名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:36:12.78 ID:iNE7HCuO
まずおかしいのは包囲側の兵糧を包囲側盟主が全部負担しているとでも言いたげな所
普通は自弁で足りなくなったら現地徴収
627名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:40:26.37 ID:vLDRpdNl
いつも兵站がどうとか言って攻撃側が攻めあぐねてしょうがないとか擁護するのに
こういうときだけ現地調達がどうとかいって実に自分勝手な論理だな
628名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:51:51.95 ID:nO5S62tg
>>618
武田なんて所詮伊達や長宗我部以下の実績しかないからな。
統率1ケタの今川氏真に村上以外空気武将の信濃豪族衆。

織田信長でいえば斎藤龍興を滅ぼしたあたりで死んだようなもん。
シブサワ・コウに感謝してもしたりないのが武田
629名無し曰く、:2012/06/19(火) 11:52:14.81 ID:iNE7HCuO
長陣の疲れが敗因だというのは否定してないだろ
『撤退しただけ』とか旧軍の戦略的転進みたいな成分を感じたから反論した
630名無し曰く、:2012/06/19(火) 12:05:49.91 ID:vLDRpdNl
伊達政宗・最上義光・北条氏康あたりが過小すぎる
氏康なんて包囲網張られて絶望的な状況から関東に覇を唱える前段階のステップまで築き上げたし
631名無し曰く、:2012/06/19(火) 12:15:47.92 ID:Qd9pmR4u
>>618
↑なんかバレないって思ってそうなのが怖いよねこの人
632名無し曰く、:2012/06/19(火) 13:00:38.10 ID:sTQ5A9kI
長陣の疲れというけども、よく龍造寺方の補給も持ったもんだな
633名無し曰く、:2012/06/19(火) 13:14:33.18 ID:oecXapfn
>>628
それは同意
武田上杉が伊達と長宗我部以上というのには違和感がある
譲って現状の数値のままにするなら、領土欲を皆無にしないとね
634名無し曰く、:2012/06/19(火) 14:22:42.11 ID:BgE9J8dP
信長が0なら龍造寺や今川義元も0.
いや、義元は信長にやられたからマイナスだな。
そんな義元を恐れ、その死後に侵攻した戦国最強の信玄公。
635名無し曰く、:2012/06/19(火) 15:01:04.38 ID:Qd9pmR4u
で言い返せなくなると戦国板でこういうスレを立てるというわけです

龍造寺だけど島津家久弱すぎワロタwwwwwwww
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1340080322/
636名無し曰く、:2012/06/19(火) 15:09:17.20 ID:HtpmsJso
結果で決め付けるんなら龍像寺も今川も信長も同じ戦死で0
んで義元を信玄が恐れたとかは史料にない織田厨の妄想
それこそ信長が氏真を恐れたから西に向かったとかいうのと同レベル
637名無し曰く、:2012/06/19(火) 15:28:37.52 ID:uVcdrF7T
謙信も信玄も病死で統率0だな
638名無し曰く、:2012/06/19(火) 15:51:55.29 ID:nO5S62tg
なぜか病死と戦死を分けて考える奴多いよな
武田厨いわく信玄は生きながらえていたら織田潰して天下取れたんだろ?
なら健康管理を怠って未曽有のチャンスを逃した信玄の能力を低くするのは当然だよなw
639名無し曰く、:2012/06/19(火) 16:10:16.47 ID:HtpmsJso
病死って自然死で戦に負けて死んだわけでもないんだから
殺されて死んだ奴よりも結果でいえば上になるのは当たり前だろ
後そもそも俺ははなから結果論否定派なんで、あしからず
640名無し曰く、:2012/06/19(火) 16:47:16.43 ID:2ooX/OVf
>>633
謙信は40歳手前まで領土欲は殆ど無いよ
40過ぎてから領土欲が出て来て、越中、能登、飛騨、加賀をあっという間に
手中に収めているよ
641名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:25:22.89 ID:nO5S62tg
>>639
結果論否定のくせに信玄を評価するんだなw
信玄なんて結果論で評価されてる典型なのにw

武田信玄の過程なんて村上諏訪高遠みたいな空気信濃豪族と
桶狭間以降弱りっぱなしの今川を潰しただけで
上杉はおろか北条にすらまともに本格介入できずに死んでるじゃんw

後の天下人である徳川家康を「負かした」という結果だけで評価されてる信玄w
642名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:31:19.18 ID:eRDnN22i
別に俺は信玄なんてどうでもいいんだが
結果論でいえば信長より上に来るのは当たり前

過程でいえば自国の2倍もある、山間の攻略の難しい信濃を山之内上杉を大破しや長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&包囲網張られた中で逆転劇で切り取り撤退戦で北条撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップの佐久間を撃破
ちなみに家康は信玄はおろか勝頼にも苦戦

まあアホにいっても無駄だからどうでもいいことだが
643名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:31:26.92 ID:nO5S62tg
過程で評価するなら三傑、特に信長秀吉なんてダントツトップ

なんせ倒した敵が多すぎて数えられないからな。織田信長は全盛800万石で
死ぬ寸前で明智の離反で100万石くらいふっとんでるがそれでも700万石で生涯終えている。
桶狭間の時から数えてもざっと10倍以上の成長増。

豊臣秀吉にいたっては化け物クラスで初期石高は堂々の0万石。大名はおろか家臣ですらなく武士ですら怪しいという底辺階級からの大出世。
最終的には日本全国1700万石+唐入りで得た朝鮮領という大領で生涯を終えるという異常成長。
55歳の小田原征伐まで生涯現役を地でいくから過程で評価するならもう誰もかなわないなw
644名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:33:07.37 ID:nO5S62tg
>>642
隠さなくていいよだがw
おまえのことを知らないとでも思ってんのかw

結果論でいうなら信玄なんてたかだが100万石ちょっとのちょっとデカい大名で
過程で評価しても所詮織田も上杉も北条も、もっと言うなら徳川すら滅ぼせなかった地方大名w

ま、織田の息子にすらなすすべもなく滅ぼされた雑魚武田をマンセーするのは大変なんだろうなw
645名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:34:22.75 ID:/+25uR73
信長や秀吉なんて運だけで勢力拡張できたようなもんだからな
信長の場合チート尾張&斉藤幼君でクーデター騒ぎで弱体化&浅井・甲賀衆も参戦
機内方面も浅井は序盤味方&六角は対浅井の敗戦と観音寺騒動で弱体化&謙信信玄元就直正など死去
秀吉の場合も信長に仕えてたから勢力拡張できただけだし派遣された播磨も毛利・荒木の中途半端な介入と派遣などで
ぐちゃぐちゃで味方するものが多くて格調できただけだし
ガチンコで戦うとどこと戦っても勝って当たり前の圧倒的大軍で寡兵の敵に大敗・大苦戦
646名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:35:18.35 ID:nO5S62tg
信長の野望に運と言うステータスはないからなw
運で得たと言っても運ステータスがないからそれは能力に還元するしかない
結局どうあがいても信長秀吉は高能力で終わるよw
647名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:37:49.05 ID:07/Ay2xY
>>643
それ織田や豊臣にとって都合のいい結果並べただけじゃん
過程ってのは倒した過程も含めてだから
斉藤の弱体化&分裂や三好の分裂状態や謙信信玄元就赤井直正の病死や
尾張のチート国力・機内方面の諸大名の連携の悪さも含めるべきだわな

648名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:41:15.15 ID:GNY7uPZ1
>>646
単にイベントで他勢力の国力下げるなり分裂状態表現すればいいだけだろ
>>644
結果論でいえば信長は殺されて死んだだけだからな
領土広げたとかただの過程だし
>>643
秀吉なんて天正大地震&寝返りの連鎖で領国崩壊状態の徳川も潰せず
死後天下奪われたばかりか滅ぼされたんだから最終結果でいえば雑魚だわな
649名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:41:53.06 ID:nO5S62tg
>>647
それを含めたところで「得た」と言う事実はかわらんからw
つか統率高いから常勝無敗であるべきっていう考えの方がおかしいわなw
過程で採点するんなら基本的に長々と戦争経験、勝利経験ある方が有利
どっちにしろ信長秀吉がガン有利すぎるw
650名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:42:41.96 ID:3l3iAWg7
おいおい、男へのラブレターが現存する信玄の悪口はそこまでだ
651名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:43:31.52 ID:2a40PDY5
>>649
そんなもん戦争においては物量が圧倒的にものをいうんだし
相手が弱ってる所とか分裂してる所を大軍で襲撃すれば雑魚でも勝てるだろ
そんな勝って当たり前の戦闘で負けまくったのが信長や秀吉
652名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:43:56.20 ID:nO5S62tg
>>648
殺されて死んだってのはちゃんとマイナス査定されてるがw
挙句都合が悪くなったら秀吉死後の話を持ち出すとかw
武田信玄の死後に武田が1ヶ月も持たずに崩壊しているけど、これは大幅マイナスでいいんだよな?w
653名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:44:49.46 ID:nO5S62tg
>>651
物量で戦うのは当たり前だろ馬鹿w
まさか武田信玄は一騎打ちで全部潰してきたのか?w
ソースよろしくw
654名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:44:57.15 ID:ICzmDqns
武田上杉は優秀なんだろうけどなんか造り物っぽいんだよなあ
後世の田舎者が自分の言いたいことをこの二人に言わせてるだけで

信長包囲網シナリオのあたりで実際信長に勝てると思ってたんだろうか
手取川で大勝利して信長弱すぎ、天下取れるわ、っていう逸話なんかまんま逸話書いた人の願望を言わされてる感がぷんぷん
655名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:46:07.57 ID:iNE7HCuO
>>646
初代には運のパラメーターあるよ
http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/zenkokudata.shtml
656名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:46:13.34 ID:6E4hbuEF
>>652
は?結果編重査定なら
殺されて死んだのがマイナスどころで済むのはおかしく
>その殺されて死ん武田信玄の死後に武田が1ヶ月も持たずに崩壊しているけど、これは大幅マイナスでいいんだよなだという結果を中心に評価すべき
どこの国の歴史ですか
657名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:46:18.28 ID:nO5S62tg
>>654
本当に信長が雑魚なら手取川の撤退なんて絶好の追撃ポイントだからなw
そのまま信長を攻撃せずに領国帰還した時点でお察し
658名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:47:28.24 ID:6E4hbuEF
>>653
物量が恵まれてれば勝って当たり前
戦力比は兵力比の2乗に比例する
そんな勝って当たり前の戦闘で苦戦したり負けたりしたらマイナスするのは当然
659名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:47:49.29 ID:nO5S62tg
>>655
今はないから革新か天道のパラでしょw

>>656

648 :名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:41:15.15 ID:GNY7uPZ1

>>死後天下奪われたばかりか滅ぼされたんだから最終結果でいえば雑魚だわな

自分の発言忘れちゃった?
それとも他人のレスにピキって勇み足しちゃった?w
660名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:49:20.56 ID:nO5S62tg
>>658
他の大名も全く同じ条件だから査定する必要がないじゃんw
システムで優遇すればいいだけw

それとも信長秀吉以外の武田信玄とか上杉謙信はそんな物量に頼らず
全部一騎打ちで戦争を決めたのかっていうw
661名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:49:27.55 ID:RZc/lnuh
>>658
ならどうころんでも武田は織田に勝てないよね
662名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:50:46.51 ID:0f16RLAl
>>660>>661
意味不明
663名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:51:50.37 ID:RZc/lnuh
>>662
辞書でもひけば?
664名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:52:33.47 ID:nO5S62tg
返しのレスにもつきちゃったのかなw

結果論で語ろうが過程論で語ろうが
軍事力や経済力、個人の能力で語ろうが
どうあがいても信玄は信長に勝てないってことだよw

結局それだけ信玄が劣っていたという事実
せめて家康ならまだいいとこ勝負できたのにねぇ
665名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:52:54.31 ID:0f16RLAl
>>663
は?>>660>>661の言葉ではなく主張が意味不明っていってるんだが
666名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:57:44.94 ID:RZc/lnuh
>>665
なら言葉の意味について説明してみろよ
667名無し曰く、:2012/06/19(火) 17:59:00.50 ID:0f16RLAl
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
668名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:00:19.27 ID:6Fx+7b28
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚

毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
669名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:00:51.41 ID:nO5S62tg
徳川家康の源氏長者と何も違わないのに知識なく妄想にふけられてもw

挙句なぜか敵国の豊臣を徳川がマンセーするという自爆行為推奨w
670名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:01:40.36 ID:eU2XAch1
箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談
池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。
いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。
信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね

671名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:03:42.46 ID:ULR0MLs/
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>648
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
672名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:05:28.01 ID:W901A6w9
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ

673名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:06:38.23 ID:klgHk9ff
壊れたラジカセみたい
674名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:06:49.01 ID:eJzJvhWX
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
675名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:07:54.16 ID:xpr9Fm9N
それどころか毛利輝元にすら大敗してる件
676名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:08:36.49 ID:iNE7HCuO
武田がどうあがいても織田に勝てないなんて事はなかったんだろうが
信玄のやり方だと信長を倒すまでに到らなかった
677名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:08:47.51 ID:nO5S62tg
>>673
むしろ壊れたラジカセの方がまだマシだっただろうなw
ただのコピペ荒らし、で終わっていただろうからw

678名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:09:03.23 ID:VLuqz/Bc
でも鍋島さんってゲームだと大抵使い勝手は微妙だよね
特技とか適正がなんかイマイチで普通に優秀止まり

夢幻以降の西日本だと貴重な人材だが前半から中央にいても
案外微妙な使い勝手だと思う
679名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:09:40.00 ID:RZc/lnuh
見てないけど全部コピペだろ
いやみも通じないし
680名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:09:59.20 ID:nO5S62tg
>>676
信玄当人がそんな力を持っていたところで倒せなければ実績に反映されないからな
むしろ「信長に余裕勝ちできたのにそれをやらなかった」「そのせいで死後にお家を信長に滅ぼされた」と考えると
大幅な減点要素になる
681名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:10:28.39 ID:07/Ay2xY
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
682名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:13:47.31 ID:+5iHUUJJ
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見し
また天正11年からの徳政連発と天正大地震による領国崩壊状態という一条兼定レベルでも勝てそうな状況
これで母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる
683名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:14:41.79 ID:HKaZE2vo
>>674
だから普通に武力、戦闘力は数値高くないじゃん
それより強引にでも丸め込む政治力ってか人垂らしが天下統一には必要だったという事だろう
運は勿論だけど、まず運がなきゃ天下は取れんよw
684名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:15:40.85 ID:9QTmntV4
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう

秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。

ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう

秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
685名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:21:50.89 ID:DXO8KVNC
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が

わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!

ってまるで漫画だな。

アホすぎる

さすが戦国最強豊臣軍
686名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:27:02.99 ID:RZc/lnuh
スレタイも読めないお前よりは賢いぜ?
687名無し曰く、:2012/06/19(火) 18:53:46.25 ID:pbOveQNI
>>631
実際その時の日本板じゃ
だがの巻き添えくらって武田だけじゃなくてケープゴートで伊達最上も叩かれたからな
この武田厨はホントに害悪
688名無し曰く、:2012/06/19(火) 20:56:05.16 ID:mTVvcfTq
組織のトップとしてなら信長や秀吉は評価できるのだけどね
直接部隊を指揮して強いかといわれると弱いとしかいえない
最終的に勝利してはいるけど統率や武力といったデーターでは
評価できない部分だからね
689名無し曰く、:2012/06/19(火) 21:29:19.56 ID:4r8oB0y/
信長はまあ、地形に邪魔されてたりそこまで兵力差なかったりするから擁護の余地もあるけど
秀吉の場合はもう弱いどうこうといったレベルを超えてるからなあ
正直ロボットに指揮取らせた方がマシとしかいえない
690名無し曰く、:2012/06/19(火) 21:32:46.03 ID:gtckj2E8
>>675
毛利は上月を攻め落とし雑魚秀吉軍を蹴散らしたのに
安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し
毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し
毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。

その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを火事場泥棒

この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか備中・美作でも劣勢だった

この窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体に翻弄されまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。
運がよかったな
691名無し曰く、:2012/06/19(火) 21:35:24.97 ID:7RV/Jl9o
   政治 統率 知略  
信長 103 95 98
秀吉 120 25 120

こんなもんじゃね 
692名無し曰く、:2012/06/19(火) 21:40:19.86 ID:CLGlzanA
>>684
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/3柴田勝家書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)
693名無し曰く、:2012/06/19(火) 21:43:57.89 ID:dSaKygt2
毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが
秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山をはじめ美作攻防。
宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって。
694名無し曰く、:2012/06/19(火) 21:46:21.08 ID:mQs27gYF
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
695名無し曰く、:2012/06/19(火) 21:55:09.72 ID:EOmxqWkg
織田家中の実力でいえば
柴田・明智・滝川>佐々・佐久間(信盛)>佐久間盛政・蜂谷・森(父)・稲葉・宮部
池田・丹羽>川尻・前田・蒲生・森(子)>日根野・神戸・関>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
696名無し曰く、:2012/06/19(火) 21:59:13.77 ID:iGjyQydq
秀吉は織田信雄より戦下手。
信雄家臣の木造親子や吉村氏吉に大敗。
二重堀合戦で信雄にも大敗し楽田から敗走した。
697名無し曰く、:2012/06/19(火) 21:59:57.81 ID:TaXN7YI0
だがコピペばっかでつまんない
698名無し曰く、:2012/06/19(火) 22:12:58.27 ID:2zHPsIK+
>>696
3傑以下略隔離スレでやれ
699名無し曰く、:2012/06/19(火) 22:45:10.49 ID:oecXapfn
だがさん馬鹿だからな…
700名無し曰く、:2012/06/19(火) 22:46:07.49 ID:sTQ5A9kI
コピペだけなんでNG楽だからいいです
701名無し曰く、:2012/06/19(火) 23:02:56.15 ID:iGjyQydq
天道で結城や芦名など地味だけど実力ある地方大名の評価下がったのに
相変わらず知名度先行の豊臣雑魚武将が糞みたいな高評価なのが納得いかん
全員マイナス20しろ
702名無し曰く、:2012/06/19(火) 23:04:28.92 ID:ZEe+ZAyq
織田厨より馬鹿な生き物なんてないだろ
鳥でも同じ事すれば学習するのに
何回反論されても同じ妄想繰り返すだけ
703名無し曰く、:2012/06/19(火) 23:06:26.98 ID:7i0P0mjg
織田はまだいいとして豊臣雑魚軍団の武将共があんな糞みたいに過大なのなんでだろうな
ドラマや漫画の影響だろうが
704名無し曰く、:2012/06/19(火) 23:37:50.56 ID:ICzmDqns
まあ革新なんか織田の最盛期なのに一線級が秀吉の家臣ばっかだったよな
705名無し曰く、:2012/06/19(火) 23:51:33.46 ID:JhMu09vH
清水宗治は秀吉陣に二回仕掛けて一回は備前国境まで押しているんだよね。
その後秀吉は水攻めを決定。
そして翌日清水宗治が宇喜多陣に攻め込むけど、宇喜多陣は崩せなかった。
706名無し曰く、:2012/06/20(水) 00:22:25.81 ID:6x7l8sW4
美作でも穂井田元清にボコられてるし
秀吉が前線に立つとろくな事がない
707名無し曰く、:2012/06/20(水) 00:38:01.54 ID:Y9O2fg9c
>>705 706
ソース
プリーズ
708名無し曰く、:2012/06/20(水) 00:46:58.60 ID:6x7l8sW4
荻藩閥閲禄にあったな
709名無し曰く、:2012/06/20(水) 00:50:11.29 ID:Y9O2fg9c
あったなだけじゃ
困る
710名無し曰く、:2012/06/20(水) 01:07:13.59 ID:q+6NfwLQ
>>688
信長の直接指揮は結構強いよ
全部自分で指揮とれる範囲超えるとダメになるけど
信長の指揮の元うまくうごける副将格の人物が居なかったっぽい
711名無し曰く、:2012/06/20(水) 01:10:59.59 ID:Gh2rKBcO
>>709
荻藩閥閲禄巻115の3湯原文左衛門
712名無し曰く、:2012/06/20(水) 01:28:17.59 ID:bF529GqY
>>678
DS2は珍しく鍋島さんが、ただ1人兵科適性オールAな完璧超人だよ。
ちなみに総合能力トップは、お坊さんの本願寺さん。
713名無し曰く、:2012/06/20(水) 03:35:51.29 ID:3iUNKwp6
鍋島さん名将として名高いけど
実際今山以外どんな武功挙げたかしってる?
ネットで調べてもイマイチ解らなくて
714名無し曰く、:2012/06/20(水) 03:54:51.23 ID:ShKQHSCj
>>688
組織として武将をまとめあげるってそれ統率の部分に入るだろ
島津義久とかどうすんの?
715名無し曰く、:2012/06/20(水) 04:34:36.14 ID:Bv7DUN9z
秀吉や信長が負けまくって、その上で領土を広げたなら、
統率武勇は下げたとしても、
秀吉は知略、政治を大幅上げ、
信長は尾張美濃伊勢の国力を大幅上げ、
甲斐は貧国にしなきゃならん。

それとともに、堺や畿内の国力も上げないと駄目だ。
716名無し曰く、:2012/06/20(水) 04:38:17.02 ID:ZiqJS2M5
>>713
加藤清正に「なべやんが補佐してくれた戦が一番戦いやすかったぜ」って言われたぐらいしか知らないなあ
あとは確か清正救出とか九州征伐じゃどっちも鍋島勢が戦法だったかな
717名無し曰く、:2012/06/20(水) 04:48:18.13 ID:VOD7/sDO
>>714
直接的というか単純な部隊の強さで無い部分が大きいのがゲームだと
なんとも表現しがたいというべきか
革新性とか奇抜さは統率とか武力の範疇とは言いがたいからね

あと、組織をまとめる力はどちらかといえば政治力として表されているから
統率が高い理由にはならない気がする
718名無し曰く、:2012/06/20(水) 04:55:22.89 ID:VOD7/sDO
結局信長や秀吉の部隊指揮能力ってあくまで凡庸なんだよね
ゲームのシステム的に表現するなら
行動制限あるなら信長だけ資金分全て一気に兵にできるとか
最近の野望なら季節完全無視で徴兵できるとか
そういった類の能力に長けてたわけだから・・・
719名無し曰く、:2012/06/20(水) 05:57:58.41 ID:ShKQHSCj
信長や秀吉の部隊指揮能力が凡庸なら残りどんな連中が率いても無能集団になるだろ
あれだけ勝って領土を攻め取った連中は他にはいない

>>717
ずっと国元にいるのに島津義久は普通に統率高いけど
720名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:13:09.69 ID:AnQM6hvl
信長はともかく秀吉は凡庸どころか雑魚のレベルだろ
運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
721名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:15:02.55 ID:AnQM6hvl
>>714
統率の中心的意味はあくまで戦闘
組織としてどうこうなんてあくまで相対的な話で信長なんて離反の嵐だったけど
それで統率雑魚数値になるのかって話
722名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:17:47.29 ID:tkx8Wgbg
   政治 統率 知略  
信長 103 95 98
秀吉 120 25 120

こんなもんじゃね 

秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
>>719
義久とかどうみても過大だろ
ろくな戦績もないし
723名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:21:38.14 ID:ZmmtLbWY
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
724名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:44:25.71 ID:fwxacubH
>>711
一次史料である家わけ文書からソースを出せよキチガイ。なんつーか毛利の場合は捏造文書三昧だからな。
折敷畑合戦を証拠立てる文書は五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscoverofhistory-thebattleofoshikibata.htm
つか荻藩閥閲禄や毛利家日記なんて原本書状のない捏造文書集じゃんよ。
しかも覚書や家譜や由緒書とか藩士が先祖の功績を捏造して提出しまくりで史料価値ゼロ。

一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
これ毛利家臣の山縣平八が萩藩に提出した先祖の凄さと自家の格式向上のための捏造で、
明らかに甲陽軍鑑を熟読して、それに沿った内容を書いて提出してるwww
こんなもんに書いてある内容なんて、まったく史料として扱われてないわ。

まぁ毛利の場合、毛利家文書・吉川文書などに収録されてるのが
一次史料であってそれ以外は誰も引用しない偽文書だらけだからな。
でもその一次史料ですら、これらの文書の原本は吉川家だけにしかなくて黒田家には伝来せず、
毛利宗家が編纂した『毛利三代実録考証』や『大日本古文書』にも収録されていない。
そのため、これらの手紙は吉川家が偽造した偽文書・・・こんな酷い状況だからな。

そんな毛利家臣団の先祖マンセーで偽造大会やって提出した
原本無しの写しを、マトモに信じてたら淡河合戦とかも史実になっちまうしwww
しかも毛利側の淡河氏が羽柴秀長に勝っちゃうのになぜか淡河の地を手放して撤退する謎行動www
さらに鳥取城が落ちた後にかけつけた元春が背水の陣で秀吉を威圧してビビらせたから秀吉は逃げたとか
尼子残党の山中鹿介の上月城を救援に来た羽柴秀吉を追撃して勝った話だけでは
飽き足らず、毛利軍は全勝不敗の神の軍になっちまうわけだがwww毛利の史料は捏造だらけ。

せいぜいマトモなソースを出して語りたいなら最低でも
家わけ文書の毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書に載ってるもんを出せよアホ。
アホみたいに豊富に作られた毛利家臣たちの偽文書を盲信した結果が
元春・隆景の全勝無敗の完全無欠天才マンセーだからなw
そんならなんで秀吉1人にどんどん追い詰められていくのよとw
全勝無敗の圧倒的な知略と武力を持ちながら本願寺も荒木も別所も波多野も赤井もみんな滅亡。
大友にすらボロ負けしてるのが現実なのに完全隠蔽してるしw
宇喜多や南条や三村や村上水軍に離反されるとか説明不能すぎるだろwww
しまいには関が原の戦いの責任を三成に押し付けてる始末www
ついでに吉川広家が一次史料で偽文書を作成して自己擁護www
725名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:47:11.64 ID:fwxacubH
学者も論文での一次史料ソースとして利用している東大が編纂出版してる大日本古文書における
所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書の
中からはやく毛利が秀吉に勝った書状を出せよ。

史実の虎倉合戦
宇喜多の攻勢により備中・美作で敗勢著しい毛利軍が巻き返しを図るために
輝元・隆景・元春まで出張ってきての虎倉城攻略作戦で(虎倉合戦)
10万石前後の小勢であった伊賀久隆にまんまと毛利軍が大敗し
粟屋元信など大物が討ち取られる。
萩藩閥閲録・毛利家日記
あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。

ロクな数ない???えっ?いくらなんでも余りに無知すぎるぞ。
各家わけ文書の中でダントツにもっともボリュームがあるのが
吉川家文書・小早川家文書・熊谷家文書・三浦家文書・平賀家文書・益田家文書等が
大量に編纂収録されている毛利なんだが(次点が伊達家)
しかも書状案という後で藩や支藩が公式に捏造した文書まで
収録してあると言う捏造の温床ぶりだけど。
他の大名家は毛利よりはるかに少ない一次史料で戦国板で論争してるわけだがwww

キチガイ織田チョンがやたら毛利家日記を日記だから一次史料とか無知を晒して連呼しててワロタw
それ長州藩が藩史を編纂する時に藩士に提出させた原本存在しない写しを日記形式でまとめただけなのにw
軍記を手本に先祖の功績をデッチあげた捏造文書をわざわざ東大が家わけ文書に関係文書として
未来永劫、編入するわけないだろ面白すぎwwwwwwww
リアルタイムに日記を当時を生きた人間が書いていたと大きな誤解をしてる時点で毛利家日記を読んだことないのバレバレw
726名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:47:39.93 ID:ZmmtLbWY
荻藩閥閲禄が捏造文書なんていってるのお前だけだよ
辛川合戦・加茂崩れなど毛利が負けた話もちゃんと書いてるし
熊見川も荻藩閥閲禄にのってるのと同じ内容の毛利輝元書状がちゃんと確認できる
727名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:49:11.83 ID:ZmmtLbWY
あと史料の編纂作業なんてどこの大名でもやってる
上杉家御年譜とか歴代古案なんかも同じ
728名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:50:48.35 ID:ZmmtLbWY
萩藩閥閲録
>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
>そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
>これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。

こんな事どこにも書いてねーわアホ
729名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:52:18.41 ID:fwxacubH
キチガイ織田チョンの捏造ワロタwww
天正12年の秀吉と家康による伊濃尾の戦いでの家康勝利歪曲。


小牧長久手ののち、秀吉の戦略は尾張西部へ攻撃対象を変更した。
一柳直末に大浦城(羽島市)の普請を命じ、楽田から岐阜へ移動。
5月、秀吉は尾張富田(一宮市)に進出し加賀野井城(羽島市)包囲を開始。
この城は信雄首脳陣たる林・楠・千草・小坂らが篭もっており、
信雄が救援に木曽流域にきたところを捕捉殲滅しようと策した。
しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
その次に竹鼻城攻めが開始された。この城が水攻されたのである。
一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
滝川が清洲(徳川軍策源地)と長島(北畠軍根拠地)の連絡を寸断すべく蟹江城を乗っ取った。
一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
秀吉の行動に対応して伊勢筋からの信雄の注進により10/23に松平家忠が清洲に入っていたが
(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
結論
信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
信雄は北畠家から強制出家させられ小者1人付きだけの秋田流罪にされる。
730名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:53:47.21 ID:fwxacubH
>>家康が来ないからまんまと狙いが外れた
>>木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ
つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
>>鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
秀吉は加賀の井城を攻略後に竹鼻城へ水攻めを開始している。
つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい
秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
>>滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
>>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失
すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
>>和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
>>長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる
羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
しかも吉村に対して11/7・11/8で相次いで信雄が福田の裏切りへ対処するように行ってる状況下で。
まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
城とは書いてないからその地域を一時的に占有できたのかもしれんな。
どっちにしろ家康には何ら功績などない。
>>家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
家康が出陣していたとは書いてないだろ。
秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから
自分も10/20に出陣すると書いているが
10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。
しかも10/18付けで家康は遠山半左衛門尉討死を伝えているし
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。

731名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:55:56.35 ID:fwxacubH
戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど
他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと
書いてあるので事実だと思っている。
そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本山)
一身田高田山専修寺の御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になった。
10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し
信雄の清洲へ退いた。それにより木造・小倭の領地は上野介信兼(織田信包?)へ付けられた。
ちなみに信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが
人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない
しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。
そういうや信包が秀吉方にいたと確認できる資料って見たことないけど
どの史料に出典あるの?木造記から戦争末期には秀吉側にいるのは間違いないだろうけど。
織田有楽斎は信雄方に最後までいたのは間違いないんだが。

10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には
桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り
北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して
美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
>>和睦条件がデタラメ
これは本や史料によって解釈がまちまちで正直わからん。

尾濃葉栗見聞集によると、
木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ
勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には
壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
大半を氏郷とその与力に与えていたりするし
これ取り消したりしないだろうし。
講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。
しかも細部の内容がまったくわからないし。
実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、
別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
尾張北東部では丹羽郡〜葉栗郡東部・春日井郡北部などが奪われたか。
尾張北西部も西加賀野井などが奪われたか。それとも返却されたのか不明。

どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
そして秀吉が信雄に遠慮して、家康を討つと言い換えていたなんて
トンデモ理論を持ち出す織田厨のバカさが突き抜けたキチガイぶりで笑えたw

732名無し曰く、:2012/06/20(水) 06:58:22.46 ID:fwxacubH
講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に
源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、
木造長政の名前がないのは、
この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが
秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるが
のちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
秀康を人質に送って
先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで
戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
信雄は秀吉の先鋒として
家康の味方である紀州雑賀攻めの先鋒までやってる。
家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで
秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、
駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」
「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
情けないことになっちゃったんだがw

>>尾張北西部も西加賀野井も奪われたか
奪われてるね。竹鼻城は水攻め落城後に一柳直末が入っていたが
のち天正13年のことだが
11/3付けで竹鼻における不破広綱の領地を
池田輝政配下の伊木忠次に与えてる秀吉書状がある。
天正14年の木曽川大氾濫で流路変更がおきて
尾張国から美濃国扱いになってしまったが
当時はまだ尾張領。しかもここからすぐ下流の長島城まですぐだから
信雄は完全に頭を抑えられた格好になってる。
まぁ天正13年11月の天正大地震で長島城はぶっ壊れたから
清洲へ移転することが天正14年2月に決まったが
実際は長島の修理をせずに、竹鼻城から遠い清洲へ逃げた格好だろうね。
信雄にしてみれば、おちおち枕を高くして眠れないからね。
なんせ長島城の堅固さは関が原の戦いでも
正則の弟の福島高晴が籠城してる中で
西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して
攻めずに関が原へ急行してるしね。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけど
そもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。

733名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:00:28.86 ID:fwxacubH
あんたは日付とか書かないから
いつのことを指して、誰々がこう言っていると言ってんだかわからんから
それぞれ日付を明示してくれ。まったくわからんよ。
>>秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして
尾張東部へ攻め込んだだけ。
>>家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。
秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
秀吉軍を呼び込めばいいだけ。長島城が危機的になり敗北確定になるまで
なんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
>>鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より
加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
落とされた家康の失策でしかない。
というか家康は完全に追い詰められているよね。
7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
もう絵に描いた餅状態じゃん。
>>この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかり
>>その間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
その後、あらたに大きな軍事行動を秀吉が開始したのが10月下旬で長島直撃作戦だ
城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
>>どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる。

734名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:03:12.99 ID:fwxacubH
さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
ちなみに佐竹への書状でも秀吉は対外宣伝としては、そんなに大法螺は吹いてない。
>>戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
>>お前の主観なんて聞いてない
本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
>>長久保の城が落居
この家康と信雄と家康の対陣中の書状をみるとちゃんと〜城と書いてるじゃん。
長久保にはそれがない。秀長が南下したあとに長久保の陣の守備兵でも蹴散らしただけじゃないかね。
まぁ福田の裏切りへってのが長久保城のことだとする話は聞いたことあるけどソースを俺は知らない。
謀反した城を奪回したのなら別に秀吉軍を撃退したわけじゃねーしなぁ。
>>信雄がへタレて
ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
>>一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定
そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw

735名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:05:52.43 ID:fwxacubH
>>蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
ププッそれ軍記の太閤記に出てくる
「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略だろ・・・
そんなことを秀吉が命じたソースはないし
滝川が自分の意思で調儀しただけで、
(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
当然のように危険極まりない行為をしたために
16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
19日には家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で
7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
当の秀吉は竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だし
>>馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
曲解してるだけだろ。信雄と家康がすでに追い詰められているのを
秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
持っていて、見通しが付いていただけの話。
そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
>>砦を数箇所構築したので納馬する予定である
だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して
長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。
秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で
秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、
自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いてて
まったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
秀吉貶したいチョン君がいくら
家康が圧倒的に有利だったと捏造しても
無駄だよ。家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために
軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
良かったのにねwww
>>楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論
どこが暴論だか意味不明。

736名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:06:43.59 ID:ZmmtLbWY
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから
滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
それはあんたの主観です
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?

秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから自分も10/20に出陣すると書いているが
10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
737名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:07:05.92 ID:fwxacubH
>>石川派遣
それ10/5の書状で木曽谷で放火した話だろ。
で、結局、遠山半左衛門が討死してんじゃんよ。
それに応じて、秀吉が東美濃へ行くって10/19に宣言したけど
10/22付けで坂本まで出陣したけど、俺が向かったら敵は逃げちゃったから
このまま伊勢へ乱入するよって言ってて
結果的に信雄の降伏を早めただけなのが家康の東美濃での攻撃。
11/7には美濃の東駒野でも田中真吉宛て戸田勝隆書状や土倉四郎兵衛に戦功を賞してる秀吉の姿がわかるし
>>木造の軍記を引用してた
軍記じゃないよ。家譜だよ。
それに具体的に奄芸郡一身田の高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になったと書いてるんだから
正当な理由があって木造氏が開城しただけで不利とか関係ないだろ。
>>勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
そりゃあ、あれだけ完全に秀吉に信雄が包囲され王手に至ってんだから
その状況になるまで、なすすべなく傍観していた家康が悪いに決まってるだろ。
そして当初は家康と石川だけが人質を出す条件だったのに、結局酒井まで人質を出す羽目になる。
家康単独で秀吉に敵うわけもなく、家康には従うしか選択はないのが現実。
あとは信雄を間に挟んで条件闘争をするしかない。
>>秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生
伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
完全に周知の事実だよ。
そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。

738名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:07:53.39 ID:ZmmtLbWY
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから
滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
それはあんたの主観です
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?

秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから自分も10/20に出陣すると書いているが
10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
739名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:08:59.23 ID:ShKQHSCj
朝からID変えてまで自作したドッペルゲンガーとコピペの嵐で罵り合いかw
アスペルガーだがさんも大変だねぇw
740名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:09:08.61 ID:fwxacubH
そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
しかも北国勢も合流予定と圧倒的戦力差を秀吉は見せ付けてる。
顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
酒井忠次に至っては2万討ち取りなどと吹聴している始末。
5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦局を逆転するには長宗我部が毛利・宇喜多らに襲われるのを無視して
秀吉の背後を襲ってくれることしか道が見えないことが判明する。
5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して
北条から援軍が来たら秀吉を敗北させるからなどと家康はついに白昼夢の夢物語を語り始める始末。。。
6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
6/3には竹鼻城は降伏していいと言って完全に打つ手なし。この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
741名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:09:24.17 ID:ZmmtLbWY
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう

742名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:10:16.67 ID:fwxacubH
お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞw
いかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
よく知らしめることしか書いてないw
家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、
戦局の打開への道がまったく見えてない。
しかし毛利と宇喜多が背後から攻撃してくるのを無視して長宗我部がやってくるわけもない。
しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
北条を牽制する佐竹には秀吉からの書状で状況を理解してるしwww
上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、
信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
>>279
>>長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
軍記の太閤記に出てくる「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる
清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略で
その妄想に対して谷口氏もまったく一次史料によるソースを書いてないアホくさいデタラメ。
秀吉がそんなことを命じた書状も皆無。つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
>>二重掘合戦
これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
>>280
>>堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…
>>というのが顕如日記にあると書いているが嘘そんな記述はどこを探しても見つからない
無知なくせに「どこを探しても見つからない」などとほざくアホぶりを晒してるなw
つか出典元すら明示してあるのに、こいつ最強のアホちゃう?アンチ秀吉過ぎてマトモな思考すらしてないな。
「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
キッチリ書いてあるんだがw
噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。

743名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:11:03.08 ID:ZmmtLbWY
>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる

●二重掘合戦

細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
744名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:12:12.07 ID:ZmmtLbWY
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…というのが顕如日記にあると書いているが嘘
そんな記述はどこを探しても見つからない
>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
745名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:12:51.85 ID:ZmmtLbWY
>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
746名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:12:58.66 ID:fwxacubH
>>陣立書から名前がみえなくなる
違う場所へ転戦しただけだろw
信純=信張(同じ左兵衛佐だから)なのは有名だから知ってるよな。
んで、信張の名前で花押付きのものを
5/7に香曽我部に書状出してる。
そこには二重堀なんて出てこないぞ。
しかも秀吉は同月朔日にはすでに陣を
払っていることを報じているので
秀吉自体もいない。
(信張は撤退理由として秀吉が敗北の体にてなどと自称してるが)

それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば
秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
無駄な対陣しても仕方ないので
付け城を小牧に三箇所申し付け
軍を移動させ加賀野井城を落とし、
奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
明日から竹鼻城の包囲を開始すると書いていて
秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて
必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。

5/9の家康書状にも二重堀で勝ったなど書いてないし、
5/9の信雄書状も秀吉が小牧から引き払って
濃州の境目に逗留してるから喰い留め置くべく一戦、
是非手合わせ油断べからずと書いてて
二重堀で勝ったなんて書いてない。
むしろ家康が消極的でビビっている反面、
信雄の方が秀吉にビビってない。

だいたい秀吉は体調が悪く
大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
キチガイ織田チョンは「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
しかも秀吉は大坂へ納馬する時もきっちり手を打っていて
上杉の新発田攻め計画を止めさせてて
8/2に上杉景勝が家康与党攻撃で北信濃出兵してるし(6/25の段階では新発田を討つため近日越後下郡出馬予定だったが)
続いて10/26には佐々を攻撃して越中宮崎城を攻略してる(来春には必ず下郡出陣したいと10/10には述べてる)

また中国四国戦線では毛利軍が四国へ上陸開始し
8/21には毛利軍の杉原就良が大筒を使って伊予の新居郡御代島の構を落として
そのまま伊予に駐留開始し、長宗我部は毛利への対応を余儀なくされ讃岐攻略作戦どころではなくなったw
そんな状況も知らない情報諜報能力の皆無な家康・信雄は長宗我部に三カ国を宛がうからと
執拗に執拗に上陸して秀吉の背後を襲ってくれ書状の連投(淡路すら長宗我部のものでないにも関わらず)
家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。

747名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:13:46.79 ID:fwxacubH
>>蟹江合戦の敗戦
この戦いには、秀吉はなんら関わってないし
滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ。
>>二重堀合戦は家忠日記にある
お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり
神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ
細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
5月朔日たる5/1には秀吉が小牧表から移動したと家忠が書いてる。
4/26時点ですでに秀吉は美濃鵜沼へ陣替済なのを家康は知っている。
ちなみに5/2付けで秀吉は犬山に加藤、羽黒に山内、楽田から小牧原は堀、
尾口西南は稲葉に守備を任せていると書いてる。
同じ5/2で秀勝らが竹鼻城攻めを開始いてるのが信雄書状でわかるし、
5/3に信雄も長島へ帰ってるのが家忠日記でわかる。
5/4に羽柴勢が加賀野井城の包囲をしてるのが家忠日記でわかる。
5/5の秀吉書状でも5/3に竹鼻・祖父江を放火しまくり
加賀野井城の外構を乗り崩し5、60討ち取り堀一重に押し寄せ陣取りと書いてる。
それに対して家康や信雄は救援すると口約束をするだけで見殺しにしてるだけ。
家忠日記のどこに二重堀合戦の記述があんだよ?
>>滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事
だからなんなの? 俺が書いた文章がチョンだからちゃんと理解できてないの?
「この戦いには、秀吉はなんら関わってないし
滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ」と書いてるのに
なんで滝川敗戦後の話を持ち出して、蟹江攻略が当初からの
秀吉の戦略の一環だったことの証明できんの?まったくできてないだろ。
秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
そもそも秀吉の出陣先は6/21書状から伊勢であり、蟹江じゃないから滝川の後詰めをしようとしていたわけでもない。
むしろ滝川がアホな敗戦したから7/5付けで秀吉は出陣日まで仕切りなおししただけだろ。
>>秀吉のマンセー太閤記や書状なんて日付どころか内容自体デタラメだからな
その軍記の太閤記にだけ「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてるんだがwww
家康がいる清洲城と信雄のいる長島城を分断すると馬鹿馬鹿しい講談話の妄想戦略だろ・・・
そんなことを秀吉が命じたソースはないし
滝川が自分の意思で調儀しただけで、
(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う
当然のように危険極まりない行為をしたために
滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
748名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:14:47.70 ID:ZmmtLbWY
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる


体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ
最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢一万足らずだったとあるしな(当代記)
体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ?
「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの?
大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと
愛知県史資料編が位置づけている
あと二重堀合戦は家忠日記にある
749名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:18:13.28 ID:fwxacubH
なんでもかんでも秀吉の業績はすべて信長が脳内で構想していたと
バカみたいに主張する織田チョンの歪曲を糾して
秀吉を正当に評価しよう。
NHKのキチガイ史観に洗脳される左翼脳のバカも排除。

兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。

信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
そのため島津に対して豊後の民を返還しろと命じたり、
宣教師に奴隷売買すんなや!と激怒し、宣教師が苦し紛れに
日本人が売るからポルトガル人が買うだけで私たちは苦しく思ってたと釈明していたり
キリシタン禁止理由として「本願寺一向宗のように国を奪い戦を起こすようにする企みがあり
しかも本願寺は百姓を惑わしたが、キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
秀吉の諸政策は、織田狂信者のエセ作家によればすべて信長の脳内にすでにあったと捏造してるのが笑えるw

貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
一次史料をみる限り石山本願寺が降伏する以前の織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。
よって国力の単純比較は成立しない。

信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか
そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし
貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。
それをやったと思われるのは最末期の光秀だけである。

さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように
兵を消耗させる意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

そもそも信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
ちなみに天文16年の甲州法度の最後の条文が、
史学において誉れ高いんだよね。
晴信が法を犯したら、
貴賎の身分を問わず目安に申し立てよ。
晴信が法治国家の魂をちゃんと理解していたのがわかる。

また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
750名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:19:30.40 ID:d3RDqkyA
過疎らすためにわざとやってるやろ
751名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:20:24.81 ID:fwxacubH
興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。

一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。

このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。

秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中えの遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。

また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。

信長が高く評価したと軍記が伝えるが実はアホ池沼だった比叡山焼き討ちした信長が大好き我妄氏郷

高山右近が明石の寺社を破壊しまくっている中で
伊勢を秀吉から与えられた氏郷の動向に恐怖した伊勢神宮が
大政所や北政所の帰依を受けている慶光院周養を運動して
秀吉から伴天連追放令の禁制を貰う。
これにより池沼氏郷が伊勢神宮を破壊する行動が不可能になった。
こんなアホだから伊勢は任せられないと感じた秀吉に
会津へ飛ばされたんだろうな・・・
752名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:21:21.02 ID:ShKQHSCj
アスペルガーだが注意報

【みんなの】だがを見守るスレ【アイドル?】
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1340075105/l50

だがを見つけたらこのスレへ

ここは戦国時代板(仮)、歴史ゲーム板に出没する有名な荒らし、
「だが」の活動について報告したり、愚痴ったり、ネタにして遊んだりスレです。
板全体に注意を促すため、常時ageでお願いします。

「だが」についてのまとめWIKI
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関連スレッド

・有志が立てたお遊びスレ、「だが」のカーチャンネタを思いついたらこちら
だがの母 だがそろそろご飯よ だが うるせーババー
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1323320551/

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歴史ゲーム板・自治新党
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1212332865/l50

753名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:22:46.38 ID:fwxacubH
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。

信長は織田家による領地支配を全く考えていなかった。
完全に内政丸投げ。
織田軍統一の規則自体がまるで無く
しかも一職支配権を与えて丸投げするから、
勝手に在地国人たちと主従を結んでいるにすぎ無い。
そのために大規模謀反が多発。
結果、信長死んだら織田の命を無視する一職支配権者が自立乱立したために
秀信を擁して専横されて
家臣と主従関係が逆転し下克上されて織田は引きずり落とされた。
一職支配権とは簡単な話、
室町幕府における守護設置みたいなもん。

信長の好い加減な統治により、
家臣らが軍閥化していた。
信長の死によって簡単に、
大身家臣が安易に自立できるだけの在地と一職支配家臣の主従関係が成立していた。
信長と在地国人には統治の仕組みは存在せず、
織田政権が脆く崩壊する構造だった。
織田テキトー政権は、そもそも足利幕府に寄生してただけ。
いずれ大身家臣が信長を下克上するのは当然の結果。
なぜなら家臣と在地が主従であり、
在地と織田に内政政策による介在がなく、従って主従関係が無い。
光秀の命令を聞いて信長を殺す軍隊であり
軍隊は信長を主人だと思ってない。
家臣の力量、懐柔、苦楽を共にする戦友家中が戦闘集団である。
754名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:23:44.32 ID:fwxacubH
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。
755名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:25:15.25 ID:fwxacubH
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。

功績泥棒信長信者によって
秀吉は信長の脳内の構想をパクッただけだと
捏造されている現状。
武器を狩り仏像を立てて内乱をなくそうとした秀吉。
アメリカじゃ、いまだに銃器の害に悩んでいる。
家康の幕府に至っては全国支配を諦めた地方分権統治に後退。

兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。

信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
そのため島津に対して豊後の民を返還しろと命じたり、
宣教師に奴隷売買すんなや!と激怒し、宣教師が苦し紛れに
日本人が売るからポルトガル人が買うだけで私たちは苦しく思ってたと釈明していたり
キリシタン禁止理由として「本願寺一向宗のように国を奪い戦を起こすようにする企みがあり
しかも本願寺は百姓を惑わしたが、キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
秀吉の諸政策は、織田狂信者のエセ作家によればすべて信長の脳内にすでにあったと捏造してるのが笑えるw

756名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:25:44.47 ID:ZmmtLbWY
>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる

愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし
蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが
大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが
独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

757名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:26:49.08 ID:ZmmtLbWY
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している


37 :人間七七四年:2012/05/08(火) 20:36:13.43 ID:LbRJcoNr
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め


334 :人間七七四年:2012/06/07(木) 11:32:52.79 ID:4/2IZXLv
>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
758名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:27:33.65 ID:fwxacubH
信長が刀狩しただとwww
織田の先祖という説もある忌部氏が神官を勤める
越前劔神社に対して「刀さらへ」をしないと書いてあるってやつだろw
「刀さらへ」なる謎の言葉を
刀狩のことに違いない!と妄想解釈して
さらにこれは越前全域で柴田勝家が一向宗殲滅した時に
武器没収したもんだよ絶対!
そうだそれに違いない!と
二重妄想をしただけだろw
でさ、いつどこで、どんな刀狩政策を信長や柴田はやったのか
具体的に教えてくれよ。

大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。

敵中孤立で信長から捨て駒にされての横山城で浅井の攻勢を寡兵で圧倒していた秀吉の軍才がなければ信長が近江攻略どころか敗死していた。
だいたい本能寺前夜の秀吉は
宇喜多の属国化や播磨や但馬や因幡や淡路など
自勢力で100万石越えの実力者。
信長も秀吉を警戒して安土に召還したり
宇喜多を独断で許してるのを激怒したりと猜疑で見ていた。
しかも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

信長には分国法すら無く、
単に室町幕府に寄生してたら下克上された
歴史的意義の無い
実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
三好や細川高国政権の方が長命だし、
なにより天正元年の発足と同時に、
安国寺から高転びすると簡単に予測できたほどずさん蒙昧政権。

信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。
759名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:27:52.34 ID:ZmmtLbWY
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
760名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:29:27.57 ID:ZmmtLbWY
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
761名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:30:19.31 ID:fwxacubH
池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。

新領国の早い安定化を達成できた撫民政策や民政力ある大名に信長は該当しません。
むしろ一揆や謀反や反乱平定に追われる暴君や失政、無策な大名です。
信長殺して
宿老4人の合議で当主傀儡とか
あきらかに時代が30年は遅れてることをやる織田・・・
幼君を傀儡として擁立して
実力ある者が専横しようとするのは
古来からよくある事例。
織田は1500年代前半に相次いだ下克上ブームも
とっくに終わったはずなのに
まぬけにも光秀・秀吉とダブルで起こされた稀有な事例

暴君足利義教が油断しまくって
配下の赤松に暗殺された時に
自業自得とか犬死と書かれたが、
信長がまさに瓜二つの生き方だからなあ
豚死にした自業自得な信長
こういう結末になるのは公家や京都五山の僧から情報収集してた
安国寺にすでに予見されていた
当然の末路だった。
足利義教が家臣に暗殺された時に
看聞日記は諸大名同心か・自業自得と書いている。
さらに建内記には義教が殺され、人々恩赦の時分と書かれ
義教暗殺が幕府の大名達にむしろ歓迎されており
義教の恐怖政治と理不尽な処分を受けた者達が恩赦される方向に変更された。
そして義勝9歳を傀儡擁立し専横を開始した。
信長もまた自業自得で家臣団から暗殺を歓迎され
幼君を擁立し家臣団が好きなように振る舞い織田主家は下克上された。
762名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:31:07.29 ID:fwxacubH
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。

秀吉のように実力で押さえつけた全国統一と各地に蔵入り地設置をしなかった家康。
家康は諸大名の支持を取り付ける手法だったので
地方分権による幕藩体制に妥協していたので
秀吉が世界に見せた武威がなければ、植民地化の流れの前に
秀吉と違い、家康では政宗がスペインに内通とかで撃退できなかったかもしれない。
それに朝鮮出兵で陶器技術の向上が無ければ、しょぼい陶器を江戸時代も使っていただろう。
陶磁器技術は日本幕末でも主力輸出製品だったし、
米余り現象で価格大下落していた中で貴重な特産品として現金収入源になっていた。

北条なども検地を通して軍役を賦課してるし
ほぼ武田と同様になってるよね。
すると軍事・統治で言えば、畿内は関東よりもはるかに遅れてるね。
畿内でも浅井や六角などは主君が重臣に議題を諮って合議により決断し
連名書状を出すし、
その大名や重臣権力を支えた惣村や堺などの自治も発達。

尾張の田舎者の信長が旧体制に畿内を力ずくで逆戻りさせたって感じだよな。
関東は進化し、畿内は時計の針を逆戻ししただけ。

信長なんて天正元年からたった10年満たずして
崩壊した政権だぞ。
細川高国や三好などの政権の方が長く続いてるわ。
信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。
吉川家文書610によれば安国寺に義昭嫡男・義尋将軍擁立を表明して
来春の年頭儀礼は義尋に対して行うべきであると言ってる。
信長が義昭の息子を「大樹若君」と呼んで擁立しているし
義昭様が天下を棄てて去ったので信長が上洛してやむなく治めているだけと言っている。
中山孝親が「大樹若君御上洛」と書くなど公家も義尋を大樹と日記に書いてるし
大樹とは足利将軍を指す言葉。
763名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:33:56.04 ID:ZmmtLbWY
お前は時系列を全く理解できていない馬鹿だから長久手町史資料編でも読み直して出直してくれ
あと楽田に留守居兵2万もいたのもしらんとか馬鹿すぎる

蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ

秀吉マンセー側史料の太閤記なんだから秀吉に不都合な話は信用できるだろw
谷口央氏も長久手町史本文編でこの軍事行動は敵地分断戦略の一環だと書いてるし
位置的にも当時秀吉が駐在していた大垣から程近く
滝川が退去したのは折角危険極まりない行動したのに秀吉が見捨てたから単独で抗戦不可と判断したからだろう
>曲解してるだけ
お前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ

楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
764名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:36:11.65 ID:ZmmtLbWY
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
765名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:39:30.23 ID:ZmmtLbWY
>秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗


秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>166
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
766名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:40:25.02 ID:ZmmtLbWY
>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
767名無し曰く、:2012/06/20(水) 07:41:59.09 ID:ZmmtLbWY
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる


圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。

単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
768名無し曰く、:2012/06/20(水) 08:08:43.03 ID:6JQZMRti
また関東厨subチョンが暴れてるのかw
創価信者なんだって?w
769名無し曰く、:2012/06/20(水) 08:08:48.63 ID:F7touCIm
>>687
※スケープゴートな
770名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:08:14.44 ID:cJo7xMgg
>>767
お前の言うとおりだから黙っててくれる?
771名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:08:24.72 ID:fwxacubH

排便などの衛生管理は非常に重大な問題で
北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても
一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
秀吉はそういったシステムを作る天才だから
速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。

東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
幕府要路に多量の金を贈って息子の将軍就任工作をしていた
堀越公方が経営していた伊豆の金山を利用するノウハウがまったく無い高利貸し北条は
ひそかに永楽銭偽造していたために、この関東での良銭の価値増加は領内の荒廃を意味した。
金山を多数所有し東国一の鉄砲を所持していたとされる佐竹も偽造疑惑がある。

信長は義昭追放後に山城守護に細川晴元の子の昭元(信長妹と婚姻)、
細川高国養子で死去した氏綱の弟の藤賢を近江坂本城に配置して管領家の義兄として義昭の子の義尋を擁立してる。
しかも義昭追放後間もなく秀吉経由で義昭の帰京交渉までやってるし。
さらに信長は毛利にこれからは義尋を将軍のごとく扱わねばならないと言ってるし。
ちなみに信長は管領家の畠山高政・昭高(信長妹と婚姻)兄弟とも婚姻し
義兄の立場を得てるなどガチガチに旧権力依存し自立できてない。
ちなみに三管領の斯波氏については義昭を擁立して上洛した時に
京の斯波の邸宅に配置するなど信長は斯波の既得権益を継承をしてる。
そして信長も栄華を極め尽くした畿内支配者の大半が
家臣の裏切りで権力者の座から一瞬で高転びに堕ちていく絶対法則から逃れられなかった。
772名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:11:54.47 ID:fwxacubH
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。

『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。

文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、

山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。

秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。

信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、これを自ら選択したのであれば、恨み腹で秀吉一族に怨念をかけたことになります。
秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。

773名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:14:55.63 ID:cJo7xMgg
>>771
お前のいう事も視点の相違で正しいから黙っててくれる?
774名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:17:18.55 ID:fwxacubH
漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。

南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
775名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:26:58.62 ID:fwxacubH
西国はまだまだシャーマニズム的な呪術的な戦場判断が一般常識として存在してたから畿内や東国の軍勢の機を見るに敏な用兵には敵わないよね。
毛利・大内・尼子・大友・島津あたりはみんな論理的ではなくて戦場や城かた立ち上る気や天文が地上に与える影響やら
呪術やクジ引きおみくじの神託やら悪日や大凶日や易や暦を盲信してるからね。
島津の上井覚兼の日記なんてみたら笑っちゃうw
あと大友側の角隈石宗の占いとかなw
立花道雪が戸次鎮連に忠義を示さないと怨霊になって祟るぞって言ったり、
耳川敗戦後に家中に対して道雪が景林にと言う易者に占わせてから戦ったら勝てたから今後もその習慣を守れと言ったり
大友吉統は関が原での大友復興作戦で豊後上陸の場所を戦略面を考えずに
宗麟が運を開いた縁起のいい場所であった立石に上陸して結果的に黒田如水の派遣した軍に大敗してるしw
元就も山吹城を攻めようとした時にどこぞから家臣が連れてきた呪術者に易をさせたら
「占ったところ食料2年分に水も豊富にあるよ」と言われ見事に騙されて攻めずに安芸に帰ったり
陶の怨霊封じの儀式もやってたな元就w
元就が元春が暗殺した本城常光を暗殺した為に出雲の国衆が尼子側に戻ってしまった時に尼子調伏の呪法やったり、
尼子側も出雲大社や佐久佐社や伯州の大山権現で毛利降伏の祈祷やってたな。
祈祷してる坊主達を眺めた元就が怖くなってきて「ありゃあ絶対に効き目あるわ」とか言ってるしw
もう呪術合戦状態www
西国の戦いってのはこういう素地が背景にあってのアホレベルの戦いばっかだからマトモに考えちゃダメだよ。

呪術的占いが大好きな野人隼人の島津は、鎌倉の昔から相も変わらず占いで豊後侵攻路を決めたあげくに大苦戦したんだよ。
島津が大好きな神様に騙されたよねw
そういや上井覚兼は秀吉が大友に味方するって決まった途端に改めてくじ引きをまた引き直しやがってと激怒してるしね。
西国のくじ引き軍が畿内以東より強いわけがないね。

大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!

776名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:30:04.95 ID:fwxacubH
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
幕府要路に多量の金を贈って息子の将軍就任工作をしていた
堀越公方が経営していた伊豆の金山を利用するノウハウがまったく無い高利貸し北条は
ひそかに永楽銭偽造していたために、この関東での良銭の価値増加は領内の荒廃を意味した。
金山を多数所有し東国一の鉄砲を所持していたとされる佐竹も偽造疑惑がある。

信長は義昭追放後に山城守護に細川晴元の子の昭元(信長妹と婚姻)、
細川高国養子で死去した氏綱の弟の藤賢を近江坂本城に配置して管領家の義兄として義昭の子の義尋を擁立してる。
しかも義昭追放後間もなく秀吉経由で義昭の帰京交渉までやってるし。
さらに信長は毛利にこれからは義尋を将軍のごとく扱わねばならないと言ってるし。
ちなみに信長は管領家の畠山高政・昭高(信長妹と婚姻)兄弟とも婚姻し
義兄の立場を得てるなどガチガチに旧権力依存し自立できてない。
ちなみに三管領の斯波氏については義昭を擁立して上洛した時に
京の斯波の邸宅に配置するなど信長は斯波の既得権益を継承をしてる。
そして信長も栄華を極め尽くした畿内支配者の大半が
家臣の裏切りで権力者の座から一瞬で高転びに堕ちていく絶対法則から逃れられなかった。

いまだに織田は兵農分離とか言ってるバカいるしな。
さらにアホなのは兵農分離と徴兵制を混同してるやつも多い。
安堵を乱発し国人や地侍の解体さえ為されてなかったのに。
身分が固定されたのは強力な権威を背景に全国で不完全ながら
刀狩りと検地を組織的に施行した豊臣政権から始まって身分固定がなされた江戸時代なのに。
論拠にしても織田以外は農繁期は出兵しなかったとか主張するが、
そもそも一番人手が必要な時期に刈田もせずに出兵していくなんて普通にやってたし、
次いで農閑期に出兵するからと主張するが冬季に入るや撤兵して帰国したなんてのも普通にある。
そういう都合の悪いことは黙殺するんだよな。

そもそも農繁期と言っても戦国期の農民は米ばかり作っていたわけではなく、基本
米を刈り取ったらすぐに麦を植え春先にはその麦を刈り取りまた米を植え、という形だったので、
少なくとも春先と秋の2回農繁期があった。(米の二期作も併用している地域は夏も)
ここからも「織田以外は農繁期は出兵しなかった」という変な考えは完全に成り立たないことがわかる。

信玄とか謙信は普通に刈田もやらずに出兵してるよな。
そもそも稲を植える時期、3月とか普通に信濃出兵してること多いし。
織田厨って稲を植える時期を何月で、
刈田をする時期を何月だと思ってるのか本当に謎w
織田だけ兵農分離してると主張する際に客観的なデータやソースを絶対に出さないし。

デタラメばっかり吐く自演基地害の織田厨の言ってることは
もともと完全なウソなんだからデータなんて絶対に出せないでしょ。
777名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:32:38.54 ID:fwxacubH
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。

少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。


3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね
778名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:34:26.25 ID:fwxacubH
なるほど
そういった信玄や秀吉のように内政・軍政改革をして始めて
大軍を一戦場に集中できるようになるのか。
よい勉強になった。

まぁ隣国武田攻め自体が補給の問題から兵数調整してる上に
(人数少なく召し連れることで在陣中の兵糧がつづく様に〜中略〜
但し人数多く候様に剛力粉骨の者を召し連れるように)

たまたま浅間山大噴火で勝頼が後詰めを止めて甲斐に帰ったから
武田に勝てただけで実力じゃねーしな。
隣国ではなく、岡山県まで出張だろw明らかに兵站破綻するでしょ。
つか秀吉だけで毛利と戦ってたら善戦するかも知れんが
負けまくりの信長が来て指揮したら毛利に負けるだろ。
と言うか織田軍って一揆如きに追撃されて半殺しにされたことがたくさんある前歴を持ってるから
兵站破綻したところを追撃されて織田軍自滅するだけだろうし。
そもそも九鬼水軍が連戦連敗でまったく勝てないのを公記は勝ったと歪曲してるだけだしw

信玄すげぇな。6万も動員できるほどの改革と組織化を達成してたのか。
信長がただの暴虐なアホでなんらプランもないバカだったのもわかったが、
天才秀吉のおかげで過大評価されてたのが信長なんだって
改めて分かったわ。

実際信長の知名度上がったのって70年代入ってからだからな
それまでは戦国大名といえば豊臣秀吉>武田信玄≧上杉謙信>徳川家康>その他ご当地大名だったしな

信長公記だと織田って長篠の戦いの時点で
徳川と合わせてやっと3万だよね。
やはり数万単位の動員の場合の排便処理問題って大きいよね。
幕末の会津藩も籠城してたけど、わずか一ヶ月で
ウンコ充満になって開城したしな。
779名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:37:18.80 ID:fwxacubH
秀吉は自身が旧織田領土を支配した後、というか支配する前から
信長がろくにやってなかった畿内の利権や流通の整備や再編成を始め、
それこそ関東から東北、九州、さらには外国にまで10数万の兵力を送り込めるほどの
流通システム再編を行っている
統治システムも体制も信長のものより遥かに進んでいる

島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を
考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
西国の領国統治体制は東国の先進的な有力大名達ほどには進んでいなかったので、島津は自分達を前提にして
畿内政権の兵站を測ったし、それは信長政権に関する限り正しかった
豊臣政権にしても、ここまでしても九州平定までの間、兵糧が持つかは常に危機感としてあったから
島津は決して根拠ない目測をしていたわけじゃなかったわけだ

実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする
780名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:39:49.29 ID:fwxacubH
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨

>>徒手空拳の秀吉や光秀が手柄を挙げて異例の出世ができた。
>>国人連合体の他の大名組織では絶対に有り得ない出世と抜擢。

そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
明智光秀って無名なのに信長から抜擢されたわけじゃねーじゃん。
光秀は足利義昭の姉婿の若狭の武田義統の姉妹を母にしてたし、
信長公記にも光秀は朝廷と強い繋がりがあったと記され
朝廷工作に必要な人材だったわけで
義昭配下の幕臣だった細川幽斎や和田惟政と光秀は同じ立ち位置。
信長の抜擢もクソもねーじゃん。

統治体制と軍制の改革に乗り出した謙信による抜擢と信任を受けた新参者
織田との最前線の鎮将として能登支配の牙城七尾城将だった鯵坂長実
近江出身で古志長尾家を相続した富山城将や沼田城将を歴任した河田長親(のちに北陸方面総司令官)
安田氏の家督を相続した河田長親の弟の堅親
魚津城の戦いで死んだ近江出身の吉江資堅(子は中条の家督を相続した景泰)
河田長親に至っては謙信が署名した白紙の書状を50枚以上持っており、
謙信の名で臨機応変に書状を出して命令をする権限も所持。
他国出の者を抜擢した謙信が反発を覚悟して
無理やり越後国内の有力領主の跡を継がせたりしてるのに連絡役なわけないだろ…。
そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。
白紙委任状でナニができるかを考えれば、どれほどの権限、信頼かわかろう
有力な織田直参の柴田や丹羽や池田の跡に世襲を認めず
秀吉や光秀ら他国者に継がせるようなもんだな。
土着国人領主の影響力を排除し謙信側近官僚による直轄化への動き。
謙信は最初河田堅親に中条の家督を継がせようとしたが
中条家中の反発が激しくて失敗したんだよ。
しかし謙信はあきらめずのちに吉江景泰を中条の家督に入れ込むことに成功したわけだ。
まったくお前の言ってることはデタラメ。
781名無し曰く、:2012/06/20(水) 09:44:47.38 ID:ZmmtLbWY
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、

以上児玉家文書
782名無し曰く、:2012/06/20(水) 11:25:27.55 ID:fwxacubH
寵命録(児玉家文書)
著作者
幕末〜明治の児玉益右衛門定正(1820-1863)と児玉元之助定勝(1851-1936)
の長州藩すら知らなかった・・・つか誰も知らない幕末初登場の謎の捏造文書集。
783名無し曰く、:2012/06/20(水) 11:27:42.34 ID:fwxacubH
訂正 若狭守護武田義統の妹は光秀の妻ではなく母のお牧の方。
光秀の正室は不明。ガラシャを生んだ継室も出自がよくわかってない。
ただ細川家とガラシャは婚姻してるのでいずれにしても身分は高かったと言われてる。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
美濃攻略に不可欠な人材として信長から採用され奉行や調略をやってた。
その背景には川並衆の蜂須賀正勝や前野長康や美濃の竹中重治らを家臣にして
秀吉が独自勢力を作っていったわけで兵力などを信長から貸し与えられていたわけじゃない。
それらの配下を使って調略をして斉藤氏を切り崩した。
そしてその功績をもって姉川の戦いのあとに近江横山城代に任じられて一城の主となった。
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。

>>河田は嫡男が世襲してるんだが。夭折したがな
お前さ、河田には養子がいるのも知らんのかwww
そもそも岩鶴丸以外にも2人の実子と2人の養子がいたとも言われてる。
江戸時代には河田一族で本家分家争いまで起きてる。
ちなみに岩鶴丸の跡を継いだのは従弟で養子の源七郎。
だが世襲してないから古志長尾氏の栖吉衆を引き継ぐことはなかった。

天正5年12月杉家家中名字尽において鯵坂長実は越中国扱いとなっており
能登国には上条政繁・直江景綱・長沢光国・平子房長らが派遣衆として能登国衆と名を連ねている。
そのために鯵坂長実は天正5年には能登国から元々の任地であった越中新庄城へ戻っており七尾城にはいなかったとされる。
(天正6年謙信死去してまもなく鯵坂長実が能登国衆から血判状を取っているのがわかる)
御館の乱では景虎派と思われる越後小千谷の国人だった平子和泉守が城代だった
能登甲山城を景勝側の鯵坂長実が攻撃しているのがわかる。
もちろん鯵坂長実の親類縁者も子孫も地位の世襲などを感じさせるものは何もない。

中条へ養子に入った吉江景泰は祖父・父・兄・祖父の兄弟の息子達と共に越中魚津城で玉砕したが
(祖父はこの時に孫で中条入りした景泰に景勝に貰った領地の一部を譲渡する約束をしてる)
子の中条三盛10歳が残されており、のち景勝の会津入りにも従っているわけだが
これは越中魚津城において一族の大半が景勝のために玉砕したのを哀れんで特例で存続が許されただけ。
そもそも上杉家の家法ではどんな重臣であっても15歳に満たない後継者は領地を没収し、成人された後に継げるかどうか政治的判断される。
しかし特別な功績を挙げた場合のみ恩情が加えられる制度で働かない重臣や国人は衰退するようになっている。

例えば天正三年の「謙信軍役帳」において譜代・旗本の三条城主山吉豊守は序列はかなり低いものの景勝に次ぐ軍役を背負わされている。
35歳で死去した彼には子が無く13歳の弟しかいなかったものの叔父景久の後見を条件に
山吉豊守の多年の軍功と謙信への忠節から特別に先祖伝来の領地半分と三条城を没収されたものの家名存続のご恩を得られた。
ちなみに三条城には神余親綱が城主として治めることになった。

信長にはこんな制度もないだろうが。
それなのに信長が中央集権を目指したとかありえねーから。
784名無し曰く、:2012/06/20(水) 11:32:59.20 ID:fwxacubH
こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。

信長の内政や統治は具体的にどのようなことをしたのかね?
謙信は商売のために京へ行ったり、
戦乱続きで荒廃した越後でインフラ投資をして通行料無料の橋を作ったり、鉱山開発したりと
破綻していた越後経済を立て直した経済政策通だよ。
しかも永禄前期は毎年のように越後や甲斐が天候不順で相次ぐ不作などで大変だったのに。
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
当時の越後はまだ田んぼで稲作が主産業ではなく塩田労働者の方が多かった。
平地の集落より才浜と呼ばれた砂丘地帯の集落の方が圧倒的に人口が多く
管領細川政元の越後下向に従った冷泉為広の越後下向日記にも才浜の説明に
「里、海人多 塩ヤク」と記され塩業地帯が主産業だった。
また海上交易と金山収入もあり、農繁期が出兵の足かせになることはまったくない。
謙信が支配した直江津、柏崎 竹俣の三条 色部の岩舟
謙信は船頭前だけで年間四万貫も稼いでる
信長は恐喝・略奪しかしてないキチガイ
785名無し曰く、:2012/06/20(水) 11:34:43.44 ID:fwxacubH
謙信は在地領民を掌握している国人領主は北条や本庄のように離反の危険性が高い為に
他国者を取り立てて側近官僚としてネジ込んでるんだよ。他国者だから在地領民との代々の繋がりがない官僚だな。
在地領民と領主を切り離し官僚化させて中央集権化していくのは豊臣政権になると激しくなるが、
謙信は安堵権を利用して国人領主割拠の解体を始めてる。
>>家督相続後の世襲
河田も吉江も鯵坂も重臣の地位をまったく世襲してないんだが。

それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて
2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む)
3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた)
4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定)

こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。

それに吉江景泰は中条の家督を継承したが中条の領地には一切赴任してないと言われている。
常に側近官僚としての立場で景勝の代になっても変わらなかった。ちなみにまだ18歳だった吉江景泰は7位ね。

武田はすでに信虎がかなり新人採用しまくってたから抜擢の土壌が成熟してるからね。
だいたい武田五名臣からして他国者ばかりだし。
近江出身で六角に仕えていた横田高松
美濃出身の多田満頼
下総出身の原虎胤
実在は不明だが諸国流浪の山本勘助。
そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。
原虎胤に父を討たれて駿河から流浪してきた北条綱成を採用した北条氏綱なんかも大抜擢されたよな。
786名無し曰く、:2012/06/20(水) 11:39:14.78 ID:fwxacubH
こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。

信長の内政や統治は具体的にどのようなことをしたのかね?
謙信は商売のために京へ行ったり、
戦乱続きで荒廃した越後でインフラ投資をして通行料無料の橋を作ったり、鉱山開発したりと
破綻していた越後経済を立て直した経済政策通だよ。
しかも永禄前期は毎年のように越後や甲斐が天候不順で相次ぐ不作などで大変だったのに。
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
当時の越後はまだ田んぼで稲作が主産業ではなく塩田労働者の方が多かった。
平地の集落より才浜と呼ばれた砂丘地帯の集落の方が圧倒的に人口が多く
管領細川政元の越後下向に従った冷泉為広の越後下向日記にも才浜の説明に
「里、海人多 塩ヤク」と記され塩業地帯が主産業だった。
また海上交易と金山収入もあり、農繁期が出兵の足かせになることはまったくない。
謙信が支配した直江津、柏崎 竹俣の三条 色部の岩舟
謙信は船頭前だけで年間四万貫も稼いでる。
部下の謀反が相次ぎ最後は謀反で親子ともども殺され織田家を簒奪された信長と違い、
謙信の晩年の謀反防止の家中改革の違いを見れば明らか。
787名無し曰く、:2012/06/20(水) 11:47:57.18 ID:fwxacubH
さらに其々の荷には青苧役などの税をかけてるから莫大な収入
二度の上洛で藤原北家の支配だった青苧座を越後青苧座に独立させたのが一番大きい
しこたま儲けた謙信は斉藤に命じて五年間の租税免除・夫役御免を行ってる
越後豪族が持つ港も交易が盛んになり、色部の正月なんて鰊だアワビだ数の子だ山海の珍味が山盛り
彼らが操る北国船は牛馬で行う交易の数百倍の荷を扱えた
陸路では塩、蝋、木材、紙を売らせ、春日山府中には商家が建ち並んだ
為景時代に越後から逃げた商人を呼び戻し、
彼ら商人への優遇措置、治安維持を謙信自身が制札を下し、蔵田に施行させている
この蔵田という大商人を謙信は春日山城代に命じるなど重用している
>>北陸遠征で領土を拡大し家臣に分け与えたとか
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。

本庄の乱が勃発するまで在地国人家臣らを信用し人質すら取らずにいたが
本庄の乱をきっかけに親しい者達からも人質を取り在地国人豪族を完全に統制下においたから
それ以降は家臣の謀反が無くなり版図の支配も安定している。
晩年まで謀反だらけの信長では勝ち目は無いだろうね。

ちなみに秀吉の九州征伐の時に、
九州兵があまりに貧困な装備だったので
畿内兵が大爆笑して
バカにしまくったから、
九州側からバカにされて恥じ入り意気消沈してて士気に影響あると
秀吉に泣き付いて
馬鹿にするの禁止令が出てる。
でも小田原城ではそーいう記述は無い。
788名無し曰く、:2012/06/20(水) 11:49:22.11 ID:fwxacubH
兵科別の編成がなされていたから
北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明。
公記には超長槍隊を信長が編成してた記述があるが
実際にそんな長槍がまったく出土してないし、代々に伝えらてすらいない。
天と地との映画に出てくる超長槍隊とか公記のパクリだが
あんな超長槍は一切、発見されてないからね。
織田はただのチンピラ集団だから組織と言うより
単なる烏合の衆の集団。

信長は細川高国と敵対した細川晴元の嫡子の信良に自分の姉妹を嫁がせて京兆家の義兄になってるし
細川高国後継者の氏綱を擁立し京兆家の政治的な力を奪った三好長慶とやってることは何ら変わらないと言うより二番煎じ。
信長は京兆家の義兄の立場を利用してる分だけ旧時代の権威への依存度が高いだろ。
義尋を手元に置いておけば歴代の有力者みたいにいつでも義昭を廃して義尋を将軍に擁立できるだろ。
実際は関白になった秀吉の時期に義昭の将軍位は廃されたようだけど。
三法師の件だって別問題じゃないだろ。家臣によって織田後継者が左右されてる時点で信長がシステムを作ってないことに起因してる。
義尋を手元においている信長と三法師を手元に置く秀吉ってのも同じ性格を有するものだ。

長尾為景みたいに越後守護や関東管領をぶっ殺して旧勢力の権威を排除した方がよっぽど凄いわ。
信長は細川政元から始まる畿内有力者達がやってきたことのコピーでしかない。
元々、上洛した際に将軍の力で円滑に帰属させた国人達もいたし。
はっきりわかるのは信長が細川高国と同じように畿内で殺され
高国後継者の氏綱を傀儡にした長慶と秀吉のが同じだと言ってる。
しかし北条や徳川は大丈夫だろうね。
なんせ親子揃って謀反で殺されるようなマヌケな状況を作らないから。
信長と他の畿内有力者の違いなんて信長だけが他と違ってより粗暴・乱暴・性急・威圧的なだけでマイナス評価なだけ。
結局、敵を糾合する権威義昭を殺せない旧勢力の権威を利用してる者はその栄華は一代限りの方程式通りで、
信長の死の場合も別に不思議な事では無く、
細川高国や足利義輝のような京洛有力者の突発的死亡パターンによる家の自壊の類例に見事にハマってる。
例え信忠が生きていても松永久秀や三好三人衆のように織田有力重臣によって瓦解し、
義昭を奉じた毛利によって京洛から追い出されるのは間違いない。
789名無し曰く、:2012/06/20(水) 11:58:43.36 ID:fwxacubH
畿内での肥大化が信長1人の力だと思い込む傲慢さが信長厨が重度盲目たる所以だよ。
簡単に言うと細川政元や細川高国や大内義興や細川晴元や三好長慶や浦上宗景や松永久秀らが
長い時間をかけ内紛と下克上の闘争を通じて努力し
京洛の権威の弱体化による更地化をしてやってきた成果の果実を信長は拾ったに過ぎない。
その成果の果実が信長をして彼らより大幅に時間短縮できて肥大化できた主たる理由。
むしろ信長は彼らに比べ、より何もやらずに果実だけを手に入れたと言える。
後発の利益が各地域での巨大勢力を生み出しているに過ぎない。
もちろん中国地方でも大内より肥大化した毛利が生まれているのが信長だけが例外・特別でない証拠。
地域の脅威に対して規模の経済や規模の軍事力による利益分配を国人達がより必要としたからに他ならない。
そういう時代の気運が反映したから信長が歴代畿内有力者より多少肥大化しただけのことで、
だからこそ信長だけを特別視するほどの差違も理由も無い。
果実を得た代償として信長は京洛において地盤やシステムを築かずに
ひたすら軍役をかけまくり乱暴性急に事を運び過ぎて親子揃って反発を買い謀反死を招いた愚者で死亡パターンは細川高国タイプ
まあ長慶や高国が暗殺されて、後継者がその仇討ちをして天下統一していたら
彼らは信長を超える評価をされていたのは間違いない。
将軍の式典などでの華美で派手な無駄遣いに反対して、
将軍から不興を買ってまで徳を以て天下に臨む態度こそ人心を得ると推奨していたし、
まさに岐山に発した周王朝の創始者武王の父の文王の如き仁君と称されたな。
信長はただの暴君だから暗殺された。

天下布武は別に天下統一を目指していたと言う解釈にはならんし
単に地勢的な理由から将軍が頼ってきただけ。
天下布武が天下統一と解釈するのも無理矢理。
しかも上洛してわずか14年で信長死亡。
細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように
京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
そしてだいたい20年近くは持つのが当たり前。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった。
790名無し曰く、:2012/06/20(水) 12:12:23.26 ID:fwxacubH
毛利は国人合議の一揆連合から脱皮出来なかったから、
織田旧体制のままの柴田に圧勝した秀吉に対して、
天正11年12/15に安国寺が、
毛利の一方的譲歩で和睦決断するように、
輝元、元春、隆景に問題を先送りして正月に休んだりしようとしてる場合じゃないと、
強く決断を促す時に、
秀吉軍は10日か15日で罷り出れるが、
輝元、元春、隆景らは中途までうち出すのすらも50日や30日はかかると書いて動員の遅さを挙げてる。
ドン臭い動員ではもはや秀吉には勝てないし、
これでは秀吉に一方的に押し込まれるはずだと安国寺は喝破していた。

秀吉軍はその経済政策により、信長のように現地調達・恐喝・虐殺略奪による
一国亡国と言われる略奪型軍隊で常に金がない状態ではないので
秀吉の九州征伐ではその財力を生かした畿内軍の軍備に対して、
あまりにも九州の武士たちの装備が貧弱すぎて
笑いものにされていた。そのため畿内の者たちにバカにされて萎縮してしまっていて
士気に影響していると聞いた秀吉が九州人の武装嘲笑禁止令を出している。
それくらい遅れているのが九州。案の定、さしたる抵抗もなく楽勝で島津を鎧袖一触した。

これら中国や九州のマヌケな状態は徳川・上杉・武田・北条では見られない。
秀吉も関東甲信越の先進システムを模倣したゆえに
小牧長久手の戦いで徳川と互角に戦えたと言える。

まぁ、信玄西上の頃の織田の石高なんて
美濃ですら各地が信玄に内応してるし、伊勢一向衆が岐阜の近くに砦を構築してるし
かなり削りとられているし
近江だって街道の維持すら不可能で、柴田らが琵琶湖を渡海して大津へ移動してるし
蒲生まで朝倉に内応してるし
石高ですらも武田以下だろう。
バカな織田厨は最低でも300万石以上とか言ってて池沼ぶりを発揮してるがw
信玄死んでないなら、吉川軍が丹波へ突入して丹波の赤鬼の赤井と合流しちゃうし
三好軍は京の西端の桂川以西に駐留しちゃってるし
六角義堯の書状から四国から大規模な三好軍の上陸が開始される寸前だろうし
完全に織田が終わってるのは明らか。
791名無し曰く、:2012/06/20(水) 12:25:55.85 ID:fwxacubH

利家が超ケチで兵を雇わず蓄財ばっかやってて、
いざと言う時に兵が足らずに
まつに、キレられたり
佐久間信盛が信長に弾劾状を送られた時に
以前からの家臣に知行を加増してやったり、
与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、
これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、
けちくさく溜め込むことばかり考えるから・・・
自身で家臣を召抱えず・・・などと書いてあり
明らかに織田軍って石高に応じた軍役を賦課したり、
武器比率や兵科別の編成なんてやってないよな。
完全にテキトーな寄せ集めの烏合の衆。

金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
792名無し曰く、:2012/06/20(水) 12:32:35.22 ID:fwxacubH
秀吉は全国に蔵入地を設定することで
遠隔地も監視できる体制を造り
取次と指南によって大名家の内政にまで介入しているなど
まさに中央集権による絶対君主制を目指していた。
しかし体制維持の事なかれ主義に後退した家康は内政不干渉&地方分権で妥協してしまった。
看羊録によれば朝鮮出兵は国内で変事を起こさせないように
外征させ兵を消耗させる意図があったと書いてある。
絶対権力で不穏分子を海外へ出しているわけだ。
伊達も朝鮮出兵に行ってる間に豊臣政権によって伊達領国の検地を強制的に施行されてる。
家康は明攻めに使う予定で温存してただけだし。
中央集権化のために朝鮮出兵を利用していたわけだ。

看羊録によれば小西と加藤があまりに仲が悪く秀吉も意を尽くして仲直りさせようとしてたが無理だったほどなのに、
なんでわが国は彼らに離間策を用いて分断させるような辺将がいなかったんだとか嘆いてて笑える。
また秀吉は権謀術数で隙あらば上を侵そうと乱を企てる
大名を統御していて、朝鮮へ諸大名を送り込むのも
こうしてやることで彼らが上を犯そうとしたり
乱起こそうとしたりする考えをなくさせようとしてるからと書いてる。
朝鮮出兵の最中でも国内に兵を半分置いているのは
武器を持たない農民ですら仲間を集めて州県を攻め落すほど
民衆の団結力がスゴイから思いがけない変乱に備えてると書いてるが一向宗とかを指してるのかな。
家康が清正を恐れてる記述がけっこうあるんだよね。
あと前田利長謀反の弾劾の時に毛利が動いてれば家康はあっさり敗れていたとか書いてる。
また秀吉在世の時の家康は皆の心を得ていたが、
秀吉死後に豹変して、皆の望みに沿わなくなったとも書かれてる。
他にも家康は口数少なくどっしりとした体つきとか書いてる。
逆に秀吉のことを農民や領土をぜんぜん侵略しないどころか
逆に敵だったものに加増してやりさえしたと書いてる。
輝元を朝鮮人みたいな性格で、朝鮮人鼻を削ぐのに哀れみを感じてたとか書いてる。
面白いのは景勝が家康の背後を襲えば必ず成功するだろうが、
彼は愚鈍なので自分からは動かないと書いていて
関が原ではまさにその通りになってしまったことかな。
ちなみに政宗は日本一凶暴って書いてて笑えるw
秀秋のことを性格が軽薄で感情に起伏が激しい兄弟で一番バカとか書いてる。
秀家に反逆した部下たちを、これ幸いと家康が取調べしないで放置してるのを見て諸将はますます家康を小人だと言っているとか書いてる。
793名無し曰く、:2012/06/20(水) 12:33:47.56 ID:fwxacubH

また島津での伊集院謀反でも、背いた者たちが家康へ賄賂していて
義弘らが彼らを討伐するのに一年を要してしまい、
義弘の明軍に大勝利した時の精鋭部隊がほとんど壊滅したのを家康は密かに喜んでるとか書いてる。
利家の話した内容や宣教師の書いた内容同様に
秀吉の指が6本だった話も書いてあって、当時けっこう有名だったのがわかる。
秀吉が信長の買い物の使いに出ると、他の部下が買い物に行く時と違い、
高価な物を安く、かつ迅速に購入してくるから
信長が大変不思議がって重用したとか書いてあって
実は秀吉が自分の金を足して買っていたのを他の部下は知らなかったとか面白いこと書いてる。
秀吉は信長の奴隷だったが、東国へ逃げたが
また戻ってきて自首したので、信長が許したので、
風雨や昼夜を厭わず一心に奉公し、
信長が北の謀反者を討つ時に秀吉は槍を振るって向かうところを討ちなびかせたと書いているが、これは浅井・朝倉のことだろうから
秀吉はかなり活躍してるのがわかる。
信長に関しては、晩年にはほしいままに刑罰や死罪を濫発して
人間を嫉み忌み嫌ったので、諸将は不安で安心できずに
皆が城を修理して堀を繕い信長に対して自衛をはかっていたとも書いてる。
秀吉は本能寺の変報をもたらした使者を殺して、何事もなかったように振舞ったとか書いてるが、これもイエズス会の年報に記載されてる。
看羊録は情報の精度はかなり高いから論文でも引用されてるよ。
秀吉は信長が死んで国に主がなく皆が不安や恐れで包まれている際に
秀吉だけは悠然と落ち着いて物事を処理していき
なんらはばかる様子もなかったので、諸将もあえて異論の声を出す者もなく、
己に付かない者を休む暇もなく次々と攻め落としていったと書いてるね。
秀吉が天下統一してなかったら信長なんて義昭を追放して10年経たずに
下克上で滅亡した愚かなやつで終わってたな
しかも義昭に帰ってきてくださいって頼んでるしw
794名無し曰く、:2012/06/20(水) 12:37:15.35 ID:fwxacubH
三好の内紛は信玄死去で義昭追放と信長が反攻を開始してから
織田との和睦派と抗戦派の間で勃発しただけ。篠原長房もこの政変で死んだ(讃州燎乱)
義昭の外交を担う義堯が信長から離反したのが元亀3年。
10/2六角義堯が三好甚五郎(三好神五郎政長の子か?)に四国衆渡海を命じてると義禎親子に伝えてる。
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、
桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる(義昭が淀城を信長の金で修繕していたwww)
京の西側は三好による平定が完了し、すでに三好勢力圏になってるわけですがw
天正元年2/20の義堯が東(武田)北(上杉)此通候間と書いて同盟の存在を示している。
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成?堂古文書)
4/21一向衆の懇望による和議が成立し謙信が春日山へ帰城。
8月再び、謙信は越中出陣し加賀朝日まで侵攻したのち信玄死んだ武田攻めするどころか8/下に帰国し年内は完全休養宣言。
10月に謙信が神保弥次郎の相続を認め、神保が日宮城に復帰完了し謙信の越中平定完了。
謙信が信長を無視して武田を一切、攻めようとしないのは甲越和与によるもの。
ちなみに天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて堺に上陸している。
信玄が死んだ軍事的バランス崩壊後に
浅井朝倉が滅び義昭が追放され義継が滅ぼされ松永が降伏した
一連の大変革による三好内の政変で反織田の篠原長房が失脚し死んだとみるべき。
1572年12月に篠原自遁は大和守と大山崎に禁制を出しており
大和守はおそらく長房の嫡男である以上この時点では自遁と長房は対立してないとされてる。
なんせ長房&息子は四国で自遁に殺されたことになってるから
だからできるだけ早く死んだと見積もっても1573年7/16以降だとされてる。
(もっとも1574年讃州繚乱まで事件らしいものの証拠はないが)

武田征伐で諏訪の陣において織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて
在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。
3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタw
しかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ
織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。
795名無し曰く、:2012/06/20(水) 12:40:00.08 ID:fwxacubH
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。

本願寺が朝廷の和議に応じた後に
信長が天正8年8月に出された佐久間親子弾劾状には
明智が丹波、柴田が加賀をそれぞれ一カ国平定したことを挙げているが
秀吉の場合は数カ国比類ないと信長が述べていて
天才秀吉が別格扱いの実績を叩きだしてる。
その攻略スピードの速さと言い異常すぎる。
さすがその神速で明智と柴田を速攻で滅ぼして天下統一しただけある。
神が与えた大略を持つ秀吉がいなければ信長は朝倉軍にぶっ殺されて終わってた。

信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
796名無し曰く、:2012/06/20(水) 12:46:46.26 ID:fwxacubH
長篠後の6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。

信玄と氏康の両軍と対陣して
挑発しまくってる謙信の強心臓ぶりは
長篠の戦い後の天正4年10/15の教雅の書状の中で
謙信を日本無双之大将と言ってることでもわかる。

謙信を恐れた信長は勝頼に土下座した。
しかし天正5年12月に信長からの同盟願いを却下して
勝頼が鞆公儀政権の上杉・毛利・本願寺との
同盟に参加してしまったことで
信長は完全に追い詰められてしまった。

しかし謙信や丹波の赤鬼が死去するラッキーがあり
さらに天才秀吉が宇喜多を調略してしまったことで
毛利は大幅に戦線を後退させざるを得ず、
播磨兵庫・摂津尼崎・淡路岩屋に軍を駐留させていた毛利軍が
撤退した為に荒木や別所が降伏することになった。

愚かな信長は宇喜多の調略成功を報告にきた秀吉に激怒して
追い返してしまった。
やはり信長は戦略眼が無いが
毎回、危機的な状況での秀吉の天才ぶりが光る。
797名無し曰く、:2012/06/20(水) 12:48:14.41 ID:fwxacubH
本能寺の変勃発で千載一遇の大チャンス到来。
しかし機を見るに敏な天才秀吉の口からのデマカセ詐術に
見事にひっかかる古今東西最強のバカ兄弟隆景&元春
織田厨は相変わらず無知だな。
不利どころか毛利にとってむちゃくちゃおいしい条件だった。
なんせ備後、備中、出雲、伯耆、美作の五カ国が毛利へ割譲されると言う
話で決着が図られていたと言うスーパーいい加減なデタラメ口約束だったんだから。
だから本能寺の変直後の秀吉と毛利側の和睦起請文にはこの条件はまったく明記されてない。
これがのちのち大問題に発展する。
つうか小早川と吉川が毎回バカな方針対立するから毛利の騙しやすさは異常w
当然この時の約束なんて交渉の切欠でも何でもない。早く退却したい秀吉の口からでたデマカセ。
当初の秀吉側へ因幡・美作・伯耆半国・備中半国割譲で手打ちなんてのは途中で話が摺り変えられていたわけだ。
しかも起請文には明記していないと言う詐欺的手法で秀吉の手玉に乗せられ見事に毛利は騙された。

光秀を討ち落ち着いたときに秀吉側が美作などの早期譲渡を要求するが驚いた毛利は話が違うと拒絶。
このため境目の領主は宇喜多と毛利に半分づつ年貢を納める半収で対応するしかなかった。
美作の草苅や中村、備前の伊賀などが毛利方の先兵として宇喜多に攻撃をかける始末。
柴田への対応に手一杯の秀吉は秀家に「西国の表裏」への対応を指示してる。
(毛利は隆景が秀吉、元春が柴田とつながりを持ち、双方への戦勝祝いの書状まで事前に用意していた)
柴田を片付けると宇喜多の重臣の岡家利をバックアップする形で蜂須賀と黒田が毛利へ圧力を加え
美作・備前は宇喜多で毛利は備後・出雲・伯耆三郡と領域が妥協するも備中では平行線。
最終譲歩ラインである備中の西半分と備前児島だけは何とか確保したい毛利側と交渉が続いた。
家康と信雄との対決が迫る中で、和睦が正式決定して
宇喜多側が児島を含む備前・美作・備中東部を領地として最終決着。
その後の秀吉は宇喜多勢を小牧長久手・紀州征伐や四国遠征などに投入できるようになった。
(ちなみに小牧長久手では小早川秀包も秀吉への援軍で従軍していた)
798名無し曰く、:2012/06/20(水) 12:50:36.32 ID:fwxacubH

>>序盤は大ピンチ
それは義昭上洛した時の永禄12年の織田軍の播磨・但馬侵攻の時は
2万の軍勢だったが、天正5年10月に秀吉が京都から播磨へ出発した際は
織田軍与力がなく、ほぼ長浜衆独力で中国へやってきていたから。
そこで秀吉は但馬銀山を早期制圧して資金面の貧弱さを補うべく
播磨から一気に奇襲北上しているが、その際の兵力はたった3000。
永禄12年の時は10日で養父・朝来郡18城を陥落させたが、
天正5年の秀吉軍は18日で両郡を平定して、前野長康に銀山支配を委任してる。
このあまりの強さと速さに出石有子山城の山名祐豊も毛利軍もどうすることもできなかった。
さすが天才秀吉である。完全にビビった山名に出石・城崎・美含・ニ方の4郡を
信長には黙って独断で安堵の条件を出してる裏で、北但馬各地の国人達へ夜も休まず
使者を派遣しまくって秀吉方に付くように説得しまくった結果、
天正6年春には山名氏政が土産をもって秀長の但馬竹田城へ訪問し但馬全域平定。
>>信忠勢らの大軍での援軍
これ上月城に籠城する尼子を見捨てろ命令とセットで
信長が毛利との決戦を避けただけで
秀吉はメンツ丸つぶれになったんだが。尼子を見捨てることに秀吉は落涙したと言うしな。
せっかく尼子軍と秀吉が共同して毛利の先陣でやってきた宇喜多軍を撃破して
上月城を落城させ播磨但馬両国を平定成功し士気があがってたにも関わらず。
そもそも三木別所が離反したのは赤松家臣として同列だった別所と浦上の関係を無視して
浦上の配下に別所を繰り入れた信長の失策が原因で、
のちの荒木の謀反もそれまで荒木が指揮していた地位が奪われていき摂津戦線を
佐久間に、播磨戦線を秀吉に取られて、ゆくゆくはリストラされるのではと考えたから。

さらに秀吉同様にほとんど兵力も、調略の下準備もなく信長の気分で丹波へ派遣された光秀が案の定大敗して
秀吉は畿内との連絡も断たれる中で独立勢力同然に孤軍奮闘していた。
絶望的なのは信忠の軍も東播磨の神吉・志方郡でチョコっと軍事行動したらさっさと帰り
(6/16に秀吉が上洛して報告→三木城の支城で神吉城は7/20落城し、それをみた志方城は人質を出して8/10開城)
三木城攻めは実質、秀吉軍独力でやっていた。毛利水軍の兵糧運び込みも阻止するために
秀吉は各地に砦を造り毛利軍の排除を行っている。
しかも同時に光秀の苦境を救うために秀長の但馬衆4000を三木城包囲から抽出して西丹波へ侵攻させ
無茶な夜久野高原迂回奇襲で波多野氏が何ら手立てを及ぶ前に天田・何鹿郡をわずか7日で平定し、
波多野氏の本拠地の氷上郡へ乱入。これに光秀軍も合流してきて落城に追い込む。
天正7年に入り、吉川元春が但馬攻略を目指し「八木・竹田をまず抱えて」と竹田城に付随する銀山再奪取を目指し
毛利方に呼応した但馬衆と合流すべく8月に但馬へ大軍で侵攻してくるが、ここでも天才秀吉の尋常ない辣腕ぶりを発揮。
元春の背後の南条元続と宇喜多直家を見事に調略して元春の背後を見事に封鎖し、
元春に味方した因幡の山名豊国の動向すら怪しくなってくるし、丹波派遣中の秀長軍も来援との風聞を流す。
元春が逃げ帰る中で、毛利に呼応した西播磨の国人達を制圧するや、
毛利方に呼応した但馬衆は秀長6000でフルボッコ、秀吉は因幡へ侵攻開始。
>>熊見川で蹴散らされてたし
熊見川は一次史料にはない。長州藩が先祖の功績を書き出させた時に
原本無しの自己申告捏造文書を造りまくり&毛利講談軍記の捏造。
完全に天才秀吉が独力で中国地方を平定していってる。
信長はむしろ秀吉の足を引っ張ってるだけ。
799名無し曰く、:2012/06/20(水) 12:54:39.89 ID:fwxacubH
『惟任退治記』には信長には3000人の妾がいたと書いてます
秀吉の女好きってのは実は根拠ない。
秀吉の場合よく勘違いされているのが側室や妾と思われている点で実は人質なので子供が生まれてないのは当たり前
それを根拠に子種がない秀吉のイメージを捏造し秀頼の父は別人説で中傷するのがチョン。

>>上月尼子は捨て殺し、別所裏切り、荒木謀反とほぼ侵攻できていない
秀吉が播磨・但馬などを制圧したのに、信長が政治レベルで失敗して
秀吉の足を引っ張っただけだろ。
その状況から秀吉兄弟は摂津・丹波・丹後戦線まで崩壊してたのに
援軍まで派遣して大活躍している。
別所の赤松家内での地位に配慮をしなかった信長が浦上を別所の上につけたのは致命的。
これで播磨は再び分裂してしまった。
というのも別所や東播磨の上月などは赤松御一門家に属しており、赤松内で同格だった浦上と敵対していた経緯も無視。
上月は散在領所と言われるほど、所領がアチコチに分散してるために
浦上や別所のような地域権力化→一円支配が成立せずに赤松政権権力を背景に統治することを余儀なくされ
結果、信長の赤松否定の政策に反発して、上月氏なども赤松氏にさらに接近してしまう。
赤松氏の被官である御着納所を勤めていた小寺氏なども同様で、せっかく微妙な空気を読んで
秀吉が播磨を纏め上げていたのに、信長が完全にブチ壊して、播磨・美作・備前の支配権を浦上に
やってしまったために浦上が播磨・備前方面で活動開始し秀吉の立場がなくなったのが原因。

>>第2次木津川で大阪湾の制海権を織田が握りその後石山本願寺降伏
信長は第2次木津川でも敗戦してるが捏造してるだけ。
本願寺顕如も天正8年9/23付けで宇喜多が敵についた為に
播磨兵庫や摂津尼崎や淡路岩屋へ渡海していた中国衆がことごとく帰国してしまったと書いている。
そして叡慮(天皇の意)で勅使がやってきたが、大坂退出は艱難至極と再三申し上げた〜などと書いていて
第二次木津川の戦いでの毛利敗戦が原因で制海権など織田は奪ってないし、
制海権喪失の原因は秀吉が宇喜多を味方にして信長の相次ぐ失敗を挽回すべく大逆転させたため。
>>毛利家中は揉めに揉めて結局宇喜多を選んだ
いやいや、毛利側では宇喜多が味方になっても三村氏は離反しないと踏んだ上でのこと。
その証拠に宇喜多が味方に参加しても三村はしばらく毛利に敵対してない。
つか毛利が一方的に三村氏へ内通を理由に攻め込んできたことから
毛利が備中の領国化をするために三村氏に汚名を着せたって説もあるからな。
>>村上3水軍の中で来島村上が羽柴についた
君は村上水軍の性格をまったく理解してないね。
天正3年3/6大友が五条氏へ
毛利を叩くために浦上宗景と能島村上水軍村上元吉を支援するため
田原親賢を赤間関に出陣させたので合力するように伝えているなど
村上氏は利害を重視していて、毛利に無二の味方と言うわけじゃない。
秀吉の宇喜多調略後には来島が秀吉側について、能島も秀吉寄りになるなど
秀吉の調略で村上水軍なんざ、軽く毛利を裏切ってる。
800名無し曰く、:2012/06/20(水) 13:10:56.38 ID:NKJ+JkjE
1576年 波多野秀治 丹波国で裏切り
1577年 松永久秀 大和国で裏切り
1578年 別所長治 播磨国で裏切り
1578年 荒木村重 摂津国で裏切り
1582年 明智光秀 山城国で裏切り

ワロタ
801名無し曰く、:2012/06/20(水) 13:32:09.10 ID:wxGcivQy
なにこの連投
802名無し曰く、:2012/06/20(水) 13:39:23.71 ID:Wk9pZnNr
触るな危険
803名無し曰く、:2012/06/20(水) 13:51:40.49 ID:j822Ruwh
daga
804名無し曰く、:2012/06/20(水) 13:56:41.58 ID:wxGcivQy
6時45分から13時までえんえん一人で
50回も書き込んでるんだもん

怖すぎるわ
805名無し曰く、:2012/06/20(水) 13:57:44.89 ID:6AnQu2rj
>>640
そのとおりだね
謙信は義の為に戦ってた
806名無し曰く、:2012/06/20(水) 13:59:37.72 ID:6AnQu2rj
>>646
まあ信長の野望というゲーム自体が謙信最強と
言ってるんだからそれでいいんだけどねw
807名無し曰く、:2012/06/20(水) 14:29:29.95 ID:ShKQHSCj
>>804
しかも内容はガセばかりだからなw
ネットで煽られた恨みがよほど大きいんだろw
808名無し曰く、:2012/06/20(水) 15:12:26.79 ID:cJo7xMgg
狂気だな
809名無し曰く、:2012/06/20(水) 15:16:51.27 ID:q+6NfwLQ
狂気じゃなくてこれは既に狂信
宗教狂いは無視して放置するしかねえわ
810名無し曰く、:2012/06/20(水) 15:58:37.21 ID:fwxacubH
箕浦合戦の秀吉が大軍相手に引きこもってただけとかないわ
『松下文書』によれば鎌刃の砦から打って出て数倍の浅井軍を粉砕、
逃げる敵を更に追撃して小谷城まで追い込んでるんだが
『信長公記』でも同様の記述が見られる
君どんな『信長公記』読んでるの?
「終に追ひ崩し、数十人討ち取る。又、下坂のさいかちと云ふ所にて、
たまり合ひ、爰にても暫く八幡下坂まで癈軍致し、浅井備前、曲無く人数打ち入り候なり」
秀吉が城から打って出て、敵を追撃したことはちゃんと第四巻に書いてるけど
むしろ「秀吉は単に陣地に引き篭もって上から弓矢や鉄砲で疲弊させた上に浅井軍が油断してたから勝てただけ」
これこそどの史料に書いてるの?『松下文書』と『信長公記』の記述を否定する大発見だねw
つうか戦国時代の一揆って江戸時代の百姓一揆みたいに非戦闘員じゃないよ
大方坊主が念仏唱えながら農民が鍬持って突撃みたいなシーン
想像してるんだろうが、大きな間違い
>緒戦寄せ集めでバラバラだから
>一揆勢は防戦だけでプロ武士団がなく指揮系統があいまいだから
いつものことだが全くソースがないね
指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、
当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、
秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある
>秀吉が雑魚なのは対別所明智柴田滝川徳川信雄北条などで証明済み
>よって一揆勢が雑魚だったでFA
「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦だけで後は普通に勝利してるし、
対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」
って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて
戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
つうか早く箕浦合戦で秀吉が砦に籠ってただけ、ってソース出してよ
お得意の捏造はもう良いから
『信長公記』とか『浅井文書』とか
それっぽい名前出せば誤魔化せると思ってるのかね
『信長公記』なんてネットで原文と現代語訳読めちゃうのに恥ずかしい
811名無し曰く、:2012/06/20(水) 16:01:23.30 ID:fwxacubH

キチガイ秀吉アンチのアホは松下文書どころか志賀の陣の翌年の元亀2年5/11付けの
徳山宛の秀吉書状すら知らずにデタラメ書いてる愚か者。
5/6に堀秀村の箕浦城を長政が派遣した5000で攻撃されるのを察知した秀吉が
横山城を出陣して箕浦城に入った後、下長沢→八幡(長浜)で戦いが続き
秀吉軍が浅井井規と湖北十ヶ寺一揆連合軍を打ち破ったのも知らん無知ぶりを晒し
箕浦合戦は捏造とか連呼する救いようの無いバカ池沼。
総見記には元亀3年に浅井井規・赤尾清冬らがまた横山城を
攻撃してきたが、横山城から竹中重虎が、
背後から秀吉が攻め懸かり挟撃される恐れから浅井軍が撤退したとも書いてる。
以前として秀吉も苦労していたようで、宮部継潤らを調略して自軍強化してる。
信忠の初陣では、無謀な山本城攻めを秀吉はさせられるなど信長がやってくると散々。
この時期、松永久秀も近江に7/7までに来ないと許さんと
追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。
宮部継潤らが味方になったことから信長は横山城との連結が可能となった虎御前山に7/27に築城開始。
8/28暴風雨を利用して朝倉景盛が柴田の城郭を放火したら
どんどん延焼して織田軍は大混乱になるなど苦戦続きの織田(9/5長政書状)
これにこりた信長は宮部城を修復し佐久間隊を入れ、
虎御前山と宮部城に土塀と堀で囲った軍道を作ることになる。
9月に入り、ついに信玄西上開始。

朝鮮出兵では伊達などが秀吉への忠誠心を見せるため秀吉に課された軍役数を遥かに越える兵力を出してる。
軍装や武具などを一定水準以上に揃えさせたり
上京生活費用など、むちゃくちゃ金がかかる時代である
秀吉政権時代と違い、それ以前はバカみたいに兵力を動員してる
ケースもあるから軍功を稼いで領地もらいたいヤツや
お家再興させるために郎党を連れて参加してる非正規な客人扱い武将とかいて
しかも食料の現地調達の狼藉やってるから
一概に動員基準はわからないだろう。
武田・北条は上に書いてるようにわかるが、
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
812名無し曰く、:2012/06/20(水) 16:03:56.69 ID:XqymwLIF
今日はいつにもましてファビョってるな
813名無し曰く、:2012/06/20(水) 16:11:42.18 ID:ZmmtLbWY
箕浦合戦なんて後世の捏造だしなあ

松下文書なんて元本も存在しない捏造文書だし
はっきりいって中国戦線でも寡兵どころか織田の援軍&与力もらいまくってそれですら
三木で2年も費やしたんだから相当な弱さだろ
熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死にと触れられてるのに
無視する秀吉厨はただのアホ
814名無し曰く、:2012/06/20(水) 16:14:09.24 ID:n6Q6hlRj
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる


815名無し曰く、:2012/06/20(水) 16:17:19.32 ID:MUQaqa6h
>指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
>『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、
>当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
>秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
箕浦合戦で堀軍が主力で撃退したのならなおさら秀吉は評価外

そうでないのなら信長に従ってる身分とただ協力関係で指揮系統あいまいな一揆軍じゃ話にならん
>『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
>秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、
>秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある
当代記にそんな記載ありません

>「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
コピペは全てきょっかんてき事実です。
>秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦だけで後は普通に勝利してるし、
滝川戦も柴田戦も信雄も明智も北条も常に圧倒的大軍で大苦戦か大損害です
>対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
斉藤戦ではそもそも大軍を直接蹴散らさなきゃいけない仕事はしていない
浅井朝倉では箕浦のみ
毛利戦は別所に大苦戦してのぶながの援軍呼び寄せて何年もかけて播磨統一
毛利がなかなか出でこない上に南条や宇喜多に足取られてから勝てただけ。

>それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」
>って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
>本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて
>戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
織田政権で同格以上だった諸将を率いてた事実なぞ存在しない
池田も森も丹羽も信長政権下では知行高や立場で秀吉よりずっと下。
むしろ秀吉の戦った相手の方が連合軍の体を成していたり(徳川織田)篭絡されて積極的に戦わなかったり(柴田)
戦意に乏しかったから(北条)そんな状況で圧倒的大軍で苦戦したり大損害受けたり瞬殺できない秀吉がいかに戦下手かわかる

>残念ながらこっちは『信長公記』『松下文書』『当代記』に加えて
>残念ながらこっちも浅井文書
>藤本氏や谷口氏の研究も参照してますから
秀吉側に都合いい情報だけ抽出してな
>プロ野球がどうこうとか余人に理解出来ない屁理屈捏ねるだけの君とは違うんだよ
屁理屈ではなく当然の理屈
>正確に言うと樋口の家臣である多羅尾相模守(とその更に家臣)の奮戦ね
そんなら樋口が秀吉の指揮に従ってる事が証明されてるんだから
一揆側のようなまとまりのなさは露呈してないのは明白
軍の形態の違いだな プロ武士団のいる戦闘プロ集団とそれがいないオール素人軍団
>秀吉が箕浦合戦で采配を振るって自軍を勝利に導いたのは『信長公記』に書いてある通り
堀軍の奮戦に助けられただけ
>つうかせめて『信長公記』くらい読めよ
信長公記を読まないよりも曲解したり詐術的に論ずるほうが問題

>少なくとも山崎の戦い(対明智戦)での織田信孝、
>賤ヶ岳の戦い(対柴田戦)での織田信雄は秀吉より格上の存在だったが
>なんでそこで「事実なぞ存在しない」と自信満々で言い切っちゃうのかが分からない
信孝は主君、それも親が殺されたわけだから一致団結して戦意があがるのは当然
身分云々以前の問題だから指揮系統が弱まるどころかさらに強まるだろうね
これで秀吉の指揮聞かず自分勝手じ動くならよほど親が憎いか秀吉の指揮能力が糞なんだろうね

信雄は対柴田戦では織田後継者問題が秀信に落ち着きしかもその後見秀吉が
光秀を討ったという事実から事実上織田家を乗っ取った形だから
完全に秀吉より格下。信雄の領土なぞ尾張伊勢といったごく限られた地方だから
領土も立場も格下。そもそも神戸は分家だから後継者にならないのなら他の家臣と
立場何も変わらん。
816名無し曰く、:2012/06/20(水) 16:18:30.15 ID:D7wZl/Vw
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)


圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
817名無し曰く、:2012/06/20(水) 16:22:00.26 ID:+3DtubCV
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

織田家中でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田
>>>>>>>>>>>秀吉
こんなもん

長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ
長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?

818名無し曰く、:2012/06/20(水) 16:23:32.47 ID:FDbbh2H6
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
819名無し曰く、:2012/06/20(水) 16:25:59.72 ID:2KhkVdIf
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
820名無し曰く、:2012/06/20(水) 16:27:50.60 ID:R8+vi87P
>>818
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
>>51
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ

よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
821名無し曰く、
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし


黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる