3 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/16(金) 19:33:35
ふるやん、笑顔が引き攣ってるな。対談大変だったんだろうねえ。気を遣っちゃってさ。
5 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/16(金) 21:09:12
絵まで描かされちゃってね
6 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/17(土) 13:12:22
会田が大人に見えた、
主催者だから当然かもしれないが、
しかし、美術手帳は本格的にダメ状態だ。
美術出版社って、景気わるいのか?
7 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/17(土) 22:51:15
お前らが編集やってくれ
もうあの雑誌見てられん
8 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/19(月) 14:55:20
最近日記が短いな
>(そんなことをしたら一ヶ月でお金がなくなるのだが)。
勤めに出たほうがかえってお絵かきがはかどるんじゃないのか
浅田学長に電話して教師の仕事を下さいとか頼んでみるといい
「古谷?誰?」
組立のブログ・・・
どうでもいいがフルヤンの誕生日が俺と同じで軽くおどろいた 双子座なのね
顔はなんかクンニとか上手そう
12 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/20(火) 21:43:14
そうか?
13 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/20(火) 22:34:45
画集買ったらやばい
会田の絵はデパートの包装紙か何かに使えそうな模様だな
15 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/21(水) 08:28:04
意外と彦坂のも使えそう
古谷はメダカの群れを描いたのか?
ふるさとの小川を思い出すか?
17 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/21(水) 22:43:37
そうか
三万円の画集買えよ。
俺はさっき先物取引で十二万円吹っ飛ばした。
19 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/22(木) 12:00:02
たしかに永瀬はうざいな。
このバカは、日本の中心にでもいるつもりなのか?
20 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/22(木) 16:17:55
日本の美術界は永瀬が仕切ります
99年の2chから引用するところにフルヤンを感じた
22 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/22(木) 22:43:38
>>3 一番左のおっさんが古谷の顔のイメージに近い
23 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/23(金) 02:10:20
そんなイメージ持ってたのか
24 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/24(土) 12:28:23
この写真の古谷ってウランバートルのマンホールにいそうだな。
美術館でファンから話しかけられたフルヤン。すでに顔も結構知られてるのか?
目標を立てないで生きる才能は持ってていいと思うが
27 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/31(土) 09:06:57
惰性で生きていると何が違うんだ?
28 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/05/31(土) 09:30:15
>>26 過大な自己評価はイライラムカムカかあるいは無気力しか生まないのだった
30 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/01(日) 21:49:10
本人乙
自己評価を随意に伸縮させるわけにはいかないのだけどな
そんなことができたら誰も苦労しないわけで
32 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/02(月) 13:20:59
本、3000円だとちょっと高いね
そう売れる本ではないからしょうがないだろう
電脳コイルナイトに行ったらふるやんに会いそうだ
35 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/02(月) 23:18:19
とりあえず買います
36 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/03(火) 01:07:26
『 世界へと滲み出す脳 感覚の論理、イメージのみる夢 』
古谷利裕 定価2,730円
(2008年6月 刊行予定)
デイヴィッド・リンチ、黒沢清、吉田喜重、ダ・ヴィンチ、岡崎乾二郎、横尾忠則、
マティス、『フリクリ』、『少女革命ウテナ』、米澤穂信、大道珠貴、保坂和志・・・・・・
イメージの荒野をさまよう巡礼者のごとく、
ジャンルの境界線を越えて縦横無尽に描きだされる言葉と思考は、
イメージの臨界点を突破する。
画家であり、自身のブログで日々、鋭い批評を展開して、いまもっとも注目される気鋭の著者が、
あたかも丁寧にドローイングするかのように言葉をつかって描く待望の批評集
更新追いかけやすいので、これからもはてなで書いてほしい。
38 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/03(火) 11:19:28
アンテナに入れておけば同じじゃない?
ブログがあるなら本はいらねぇ
つうか書籍になると権威付けされるからツマラン
40 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/03(火) 19:47:31
作家の名前と本の名前で目次が埋まってるような気がする・・・。
もう遅いかも知れないが、批評家フルヤン独自のホニャララ論みたいのはないのかな?
41 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/03(火) 19:51:06
絵に描いたような2chラーの顔してるな
岡崎スレとかによく書き込んでたんだろな
43 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/03(火) 21:16:25
そういえば岡崎スレ消えたな
44 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/04(水) 00:16:31
45 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/04(水) 01:21:25
ずいぶん前
46 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/04(水) 05:35:01
は〜
47 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/05(木) 13:07:21
ラカンとかドゥルーズとかいろいろ言いましたが、
ボクをインテリと呼ぶのはいくらなんでも無理がある。
・・・こうゆう性格を直してちょ。
「絵画がわかる事典」みたいな題でしかも作家があいうえお順に並んでる仕様なら買う。
49 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/06(金) 00:42:25
>>48 そーゆーものを、この人に求めてはいけない。
題に脳とかいう字があるのに2730円は高すぎる
「男脳・女脳が謎を解く」とかいう本なんか105円で買えるぞ
それよりもう六日間も更新がないんだけど、
古谷氏死んだんじゃないのか…
52 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/06(金) 15:06:01
53 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/06(金) 15:07:59
>>50 「脳」とタイトルにつければ少しは売れると思ったんだろうね
54 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/07(土) 01:20:28
1000部くらいは出るのかな?
2730×0.1×1000=273000
55 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/07(土) 13:46:06
10000部くらい売れるといいな
今、始めて
>>3で古谷を見た。
ショックだ。
絵とあいまって脳に障害がある方のように見える。
とりあえずメガネでもかけた方がいい。
2chにサルのように書きまくってるって言ってた
58 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/14(土) 04:28:18
なんか気の抜けるような顔だな・・・・
もっと濃いのかと思っていたけど。
一介のブロガーにしてはがんばった方だろ
60 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/14(土) 11:24:00
岡崎の小品の画集を本屋でみたけど、
インテリア版画なんかと変わらないように見えた。
キャンバスの端に板をつけるのは、
70年代にそういう作品を作ってた作家さんを思い出したけど、
岡崎のは、あんまり効いていないように思えた。
そういえば、妙に長いタイトルとつけたりとか、
木枠の下に台をつけたりとか、今までも、いろいろ小技を使っていたけど、
どれも、効いていないように見えるな、
そういえば、フルヤンも前は、長いタイトルつけてたな。
せめて現物見ろよw
本が利いてないんだろ
63 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/15(日) 10:46:30
岡崎のメンタリチーは、デザイナーのそれに近い。
>岡崎の小品
10万ぐらいで作品買えるから家でゆっくり見れば?
65 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/17(火) 01:09:45
売れ残ってるって事?
ていうか個展しても全部は売れてないんじゃないかな
完売してるならもっと高いはず
岡崎の実家は財閥だから
売れなくてもいいんだろ
そうか、Bゼミの講師だけで食っていけるわけないもんな
さしずめフルヤンの実家は旧華族ってところですな
70 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/19(木) 00:09:31
財閥?
親は建築家って噂を聞いたことあるけど、
岡崎ネタは飽きた
フルヤンの話が聞きたい
72 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/19(木) 00:24:52
壁に掛ければ絵画
床に置けば彫刻
73 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/19(木) 00:27:23
売れなきゃ、画廊が扱ってくれないなんてことないか?
現代美術の画廊は裏で高価な美術品の売買やってるから
75 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/19(木) 00:49:04
南××画廊も、裏で、岡崎の身内が高価な美術品を買っているということ?
76 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/19(木) 00:56:27
なわけないよな。
フルヤンについては、
へんなところで絵が停滞してしまっているね。
岡崎に話をそらそうとしているのもその現れ
矢野さんは罪作りやで
矢野さんて誰?
新潮社の編集矢野優
対談に行かれる方、よければレポをよろしくお願いします。
82 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/19(木) 21:46:02
熱心な偽日記読者だった者としては本を手にするのが楽しみ。
あの先送り文体はさすがに使えないだろうし
本でも先送りして、続刊を期待させる。
そしてプルーストのように書き続ける
展覧会行った人はいる?
会場で本販売します
しかし、電車賃をはらって、わざわざ観にいくような絵でもないような。
88 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/21(土) 23:09:35
今日行こうと思ってたけど雨だった
誰かイソケンとの対談うぷして
90 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/23(月) 23:09:04
検索してみたが、誰も対談のレポ書いてないねえ
それ以前に、作品どうなんだよ。
みた奴、感想かけや、
自分の眼で見に行けよ
ひきこもりだから行けない
入場無料だよ
いってきな
動くオナマイドで遊んでるほうがいいや
96 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/24(火) 16:49:53
6/25が発売日だけれど、
もう売っているの?
大き目の書店ならもう置いてあるかもね
今日発売か
やっぱり浅田彰は長瀬レベルでもちゃんとチェックしてるんだな。
しかもメル友かよ。
同人誌もチェックしてるところが凄い。
フルヤンユリイカに書いてるんだな
102 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/27(金) 23:08:47
土日いずれかで見に行きます
103 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/27(金) 23:29:06
誰か本の感想かいていよ
しかし、浅田っていつのまにか京大をやめてたんだな、
105 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/29(日) 05:36:27
あのドローイングは退屈でしょ。
パクリ元もバレバレで、いまどき美大生でも描けるんだが、
自意識過剰なフルヤンは誰にも理解されてないと思いこんでる。
それを真に受けた素人が自分も画家の孤独に触れているのだと勘違いしている。
以上、画家フルヤン現象終了ということで。
そんな現象は一度たりとも生じたことがない
107 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/29(日) 08:49:26
>>106じゃあ古谷の絵を評価してみ
お前ら独りよがりな趣味振りかざして面影追っかけてるだけだろ
イメージ、とか言っちゃって
誰かにそれとなく似てるのがイイって。。。キモイんだよ
>>107 おいおい……
俺は信者じゃないって
よく読めよ
109 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/29(日) 20:57:18
フルヤンの岡崎論どうだったの?
本売ってないから読んだ人教えて
俺も本見てない
あとユリイカ読んだ人感想よろしく
大きな書店行けば売ってるよ
112 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/30(月) 01:56:15
こっちは片田舎なんだよ
amazonで買え
114 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/30(月) 02:21:18
フルヤンみたいに金がないんだよ
だから評価を聞いた上で買いたいんです
日記を詳しくした感じ
ユリイカのスピルバーグ論も日記っぽかった
117 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/06/30(月) 17:07:53
>>107 マチガエマシタ ゴミンナサイ
本は他人のネタを使い回したポモ本
肝心なところで論証ぬきの印象批評が多くて日記そのまま
正直期待はずれだった
でも内容知りたいのなら買ってあげたら
しかし、ひどい顔してるな・・・
可哀相す
仲俣に褒められると余計に胡散臭く思えてしまうところが哀しい
支持層は若そうだね。
いっそのことラカンだのジなんとかだのの書き写しだけで一冊でっち上げたらどうだ
それでも仲俣に褒められるだろうけどめげないで自分の道を歩んでくれ
フルヤンって、美術意外のフィールドで人気があるということ?
だったら、美術プロパーではどんな人が人気があるの?
ナガセってどんな絵をかいてるの?
イソケン芥川賞候補に
ふるやんのお陰だな
ふるやんのドローイングを理工系のおれらから見れば
乗算知らない子供がいっしょうけんめい足し算してるように見えるんですが
129 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/03(木) 19:25:17
は?
どういう意味ですか?
130 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/06(日) 13:10:45
新橋の本屋においてあったけど、
金を持ち合わせていなくて買えなかったよ。
残念だったけど、ほっとしたのも事実だな。
イメージって夢見るの?
132 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/06(日) 20:01:44
人間自体がイメージ・夢なわけです。
蓮實は文章で言葉の見る夢を描きました。
夢とは排除されたものの回帰に関わります。
書けば書くほどに書き得たが書けなかったもの
へ思いが至ります。
夢を見るように、書くほどに、夢を見るように。
133 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/07(月) 00:41:20
桃畑を通る農道の端とかによく桃が落ちる季節だな
落ちた奴は商品にならないって勝手に決めて拾って食っていいんじゃないか
古谷が歩いていける範囲に桃畑がないかも知れんが
それとも大垂水峠越えて笹子峠越えて汗かき汗かきあそこかき勝沼あたりまで歩いていくか
トマトでいいじゃない
135 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/08(火) 03:29:04
中空の感覚って。。。
もーわけわかんないこと言って分かったような気になるなよバカどもが!
消えろ、消え失せてくれ、頼むから
136 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/08(火) 05:51:52
真面目なんですね
フルヤンの詩的比喩が下手糞なのは残念ながら認めざるを得ない
でも学者じゃないからそういう表現は大目に見ないと
138 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/08(火) 23:02:00
三島由紀夫が(中略)ということがあって以来のこと」ってこれで何回目ですか?
って訊かなかったのか
古谷ってそういうことを思いつかない素直な人間なのか
それともそういうことを言うと仕事が無くなるから言わないことにしているのかどっちだ
139 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/08(火) 23:32:45
上のレス意味がよくわからん。
140 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/09(水) 00:05:05
三島のインタビューを担当した人がまだ組織内にいるのか?
雑誌業界って平均年齢高いの?
社内に伝わってる伝説でしょ
ていうか三島以来ですよなんて言えば許してもらえる
143 :
138:2008/07/09(水) 02:23:19
144 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/09(水) 10:30:54
そんなんがいいわけになるかね・
自サイトの更新が止まってるのな
146 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/09(水) 18:22:18
なんか三島の話があるが、
三島って、英語がやたらと上手で、
戦時中だったら、英語なんて使わないかもしれないから、
戦後なのか、インタヴューが英語、どうしてあれだけ
上手になったのか、どこで学んだんだろ
147 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/09(水) 19:14:04
ふつうに高校で習うのだが・・
148 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/09(水) 19:14:40
あ、今でいうところの高校にあたる課程でね。
戦時中でも英語は必修だよ。
官僚だったエリートに何言ってんだか
150 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/11(金) 01:08:37
その後の小林正人のダメさ加減に自分を重ね合わせて悦に入ってるのか?
151 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/12(土) 04:15:24
俺はフロッピーディスクのケース(半透明のやつ)にカード類をまとめて保管してる。
FDなぞもう使わんからケースだけ再利用って感じ。生活の知恵。
152 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/12(土) 06:22:58
このスレ意味あんのかな?
もお完全に文芸批評の人だよ。
で、ブックフェアってどこが企画してるんだっけか?
じゃあ文学版に立てたら?
まあ、普通にそうだな。
文学版でやった方がいいだろう。
155 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/12(土) 12:25:44
美術は金にならないからしょうがない。
156 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/12(土) 12:40:36
浅田も中沢も行くところがなくて美大の教授。
城戸が言うには、批評の寿命は20年だって、案外当たっているかもしれない。
>>154 ヲチしてると小説家とか文芸批評家とか編集者とかに随分人気あるみたいだからね
文学版でやったほうが盛り上がりそう
ふるやん、文学プロパーが見ると新鮮に見えるのかね
>>157 浅田彰が矢野優に紹介した。
絵は駄目だけど、画家のエッセイとしてはまあまあ。
浅田のお墨付きか
京都造形大に呼んでやればいいのに
古墳公園か。
夕暮れの丘で変な爺さんから異様な物語を聞いたとか
基督が降りたのを見たとか
母親の再婚相手を呼び出して毒を飲ませて殺そうとしたとか
丘の枯れ草に放火したとかいう話じゃないのか。
まともなのは東島毅だけだろ
他のよりはふるやんのほうがいい
駄目でしょ
業界筋で評価する人が皆無だし
学生に舐められまくるよ
166 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/12(土) 23:12:37
古谷がむかつくのは、僕は○○みたいのはバカにしててえ。。とか言うから
そのくせあとで誤りを認めもせずに態度を変える
敵を作らずには何も言えないヤツだよね、自分の論なんてないんだから
だから思いっきり嫌われるんだが。。。
文学板で信者を叩くのが楽しみだー
あと浅田モナ
絵の量産技術を確立する方向へは行かないらしいな
そっちへ行ってもいいと思うけど
売れるようになったら絵を描く楽しみを取り戻せるんじゃないかな
168 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/13(日) 02:28:00
フルヤンのあの絵は量産している絵でしょ。
結構、効率よく描いていると思うよ。
まあ量産してもいいんじゃないの
ピカソが1万点だっけ・・
そこまで続けばすごい
次スレもこの板でいいと思うんだが
現状ですら絵の素人が勝手に褒めてる有様だから、
文学板に移ったら変なファンだらけになるよ
171 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/13(日) 13:37:35
しかし、今時、絵の玄人なんて信用ならんだろ。
みんな、直接、大衆とのコミュニケーションを図るべきなんだよ。
絵に詳しい人も大衆だよ
無知=大衆ってのはかえって馬鹿にしている
それに古谷本人はモダニズムを追求しているんだから、書き物のおかげで売れたら駄目だろう
>>168 在庫を作っちゃったら効率良いとは言えないでしょ
捌かなきゃ
在庫のない画家はかえってヤバイよ
>>176 古谷が好きなモダニズムは、視覚は視覚、文学は文学って感じ
文章の受けで絵を売るのは邪道
>>177 ありがと
でもそれ言ったら岡崎もそうだよ
保坂を嫌いな浅田が、フルやんの文章を評価するのが不思議。
441 :考える名無しさん:2005/12/26(月) 09:01:32
Re: 事実と言論の剥離
保坂和志 2005/12/22(Thu) 00:21 No.862
ていうか、浅田彰は自分の文章に対する批判をいちいちチェックしてるん
だろうか。「ああいうタイプは自分を批判する人間を潰そうとする」と、
ある人が言っていたのを思い出しました。
岡崎乾二郎までそれに参加したのも驚き。
それにしても、浅田彰は有名な人にしか興味がないみたいで、つまり、作
品個々でなく、状況の方に関心があるということなんだろうなと思いました。
442 :考える名無しさん:2005/12/26(月) 09:03:30
Re: 事実と言論の剥離
浅田彰 2005/12/22(Thu) 01:15 No.865
私(浅田彰)は「自分の文章に対する批判をいちいちチェックしている」わけ
ではありません――そもそも物理的に無理ですから。ただ、たまたまぶらっと
立ち寄った「風の旅人」さんのブログで、私の発言が「許せない」と言われて
いたので、さすがに気になっただけです。また、肯定することと否定すること
がひとつであるようなレトリカルな書き方が通用するのか、むしろ余計なニュ
アンスは捨ててダメなものはダメとはっきり書かなければ通じないのか、とい
う問題も、それなりに重要な問題だと思ったので、少し対話を試みました。結
局、通用しようがしまいが、ニュアンスを犠牲にせずに書くしかないという、
私のもともとの態度を変更するにはいたりませんでしたが、意味のない対話だっ
たとは思いませんし、「途中から後悔」することなどあろうはずもありません。
443 :考える名無しさん:2005/12/26(月) 09:04:03
保坂さんの指摘については、主観的にはむしろ逆だと思っていて、たとえば「批
評空間」の編集委員だった頃の私は「自分を批判する人間を伸ばそうとする」こ
とだけを考えていました――いくつかの例をみるかぎり、それはたいてい失敗し
たようで、それならいっそのこと自分ができるだけ書かないようにして若い世代
に場所を空けようと思うようになったのですが。また、私は一貫して人間ではな
く作品に興味をもってきましたし、現在もそうです。たとえば杉本博司のことを
個人的に知らないわけではないにせよ、付き合いと言えるほどのものはない。た
だ、彼が有名になるずっと前、ほとんど無名のアーティストとしてデビューした
頃から、これは不毛な完全主義から生み出された作品だがそれとしてはなかなか
すごいものだと思っていた。たしかに杉本博司論ではそのような彼の作品をいわ
ば真の意味でのポストモダニズムの代表例として扱っていますが、作品なしの状
況論というわけではありません。あるいは、岡崎乾二郎はけっして「有名な人」
とは言えないだろうけれど、先日の南天子画廊の展覧会で発表されたペインティ
ングなどは、題名に「ウーティス(nobody)」が引用されている通り、画家の
署名を必要としないほどの完成度に達した作品だと思ったし、そのようなもの
として評価しています。また他方、保坂さんはとても有名な作家だと思うので
すが、残念ながら作品にまったく興味がもてないということは告白しておくべ
きでしょう。
俺もなんか描いて浅田のところへ持ち込んでみようかな
ジミー大西に似てるって言われますって言って自己紹介して通じるかな
185 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/16(水) 06:23:17
ナガセとウエダとフルヤの間ですら議論になってないじゃん。
ウエダは作品それ自体の価値なんて幻想だー、ぜんぶ言説の効果だーっていってんだからさ、相手してやれよ。
少なくともナガセは相手にすべきだろ、んでフルヤもからめや。
オレはめんどくさいからやんない。
上田って誰よ?
ブログのurl貼るべき
JUNKUDOのフェア行ったやついる?
ウエダって植田まさしかな
まさか上田秋成ってことはないだろう
─── 、 ⌒ヽ
(___ノ( )
(ノ ー | /
[・][・]─-6 / ンモー、そういうこと言う〜
⊂ ソ
(!!!!_,_ /
ヽ、 `/
190 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/18(金) 10:58:14
「組立」っていう展覧会のことだよ。
ナガセとフルヤでやったやつ、ブログがあるんだよ。
先にいえよ
192 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/19(土) 02:22:45
自分の作品がダメなのを時代のせいにしているような奴はダメダメだ。
自覚のない奴はもっとダメだ。
193 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/19(土) 10:21:56
和様化したミニマリズムみたいな絵って、
先行世代にもありがちだったと思うのだけど、
それを、そのままなぞっているような、
レコード溝が磨り減ったかのような転回になっている。
組立の文章はひどい
フランケンサーラーを馬鹿にしてるぜ
どんなふうに?
さすが女ですねーみたいな
日記でフランケンサーラーがうらやましいと言ってたよ
ていうかフルヤンよりよっぽど知性が高いのに感性で褒めるってのはないだろ
古谷本の302ページ星飛雄馬が星飛馬になってるんだが・・
他にも誤字がいくつかあるけど編集者ちゃんと校正したのかよ
ブログだと面白いんだけどね……
活字になるとイマイチなのはなぜだろう
ウェブ向きの文章なんじゃない?
田口ランディみたいな
あーなるほど
ユリイカのスピ論も精彩を欠いてた
>「超寡作の人」の新作を待ちわびている人は、決して少なくはないと思うのだけど。
やっぱり2ちゃんねらー
206 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/21(月) 13:54:22
そういえば、近所の本屋でフルヤンの本をみかけたよ。
人気者なんだなと感心したよ。
持ち合わせがなかったから買えなかったけど、
確かに高いよな
古谷君はこの本を買えるの?って
いけないことをまた思いついてしまった
マイナー出版社から出すからいけないんだよ。
文春から出せば1300円くらいだろ。
柘植義春の漫画を読んでいると貧乏にしか思えないのだけれども、
大きな出版社から沢山マンガ本が出ていて、
それなりに売れるという状態だったのであって、
貧乏を装う人って、意外と多いのです。
209は中学生か?
中高生のファンがいるらしい
ビーバップか。
それで本物のヤンキーにならなかったのはなんで?
作家としての野心ってやつ?
というよりも、漫画版にはまったく興味がなかったのにどうやってビーバップを知ったんだろう
映画版デビルマンを擁護してたのには吹いた
ビーバップ世代なのかな
世代的にはど真ん中(たぶん当時高校か大学生)だけど、リアルタイムで映画を見たとは考えにくいんだよな。
俺は小中学生ぐらいだったが、リアルのヤンキーが見に行くような映画扱いだったよ。
ジュンク堂覗いてみたけど、選書リストがかなり微妙だった。
まず直接ふるやんに関係あるのか?って思うような(演劇とか美術史とか映画とか哲学とかの)入門書、解説本がやたら多い。
いくら入門篇とは言え、わざわざ古谷利裕フェアと銘打っているものに並べる必要性がどこにあるのかわからない本ばっかり。
あと古谷本で挙がってた固有名の関連書籍をただ集めましたって感じの本も多い。
とりあえず選んだ人が古谷本はともかく偽日記は全然読んでないのがよくわかる並びだった。
自分で選んだんだけどw
入門書好きなのかな
220 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/07/25(金) 21:55:41
>>218 古谷自身が選んだのは第二期からだよ
今は第一期
だから入門書を置いてるんじゃないか
中高生から大学生目当てのコーナーだし、
非美大生の美術知識はかなりひどいんだから
二期は本当にガチガチだな
いまでもダイヤルアップなのかよ古やん
ダイヤルアップって余計に金かかりそうだが?
メールと日記のアップぐいらにしか使ってないんじゃないだろうか。
ニコニコ動画はもちろん、youtubeだって家ではみてないんだろうな。
僕はネットカフェ難民じゃなくてここが好きなんですとか言ってはてな左翼芸人による鬱陶しい分析を招いてくれ
ファンから揮毫を求められたら生まれてすみませんじゃなくて中途半端に成功してすみませんって書くといい
辛口だな
228 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/04(月) 23:17:17
テレホなんじゃねぇの
やはり幽霊映画について語るフルやんは生き生きとしているな
新潮9月
誰かについて考えている誰か、のことを誰かが考えている――岡田利規論 古谷利裕
文学界9月
古谷利裕さんとの対談磯崎憲一郎
232 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/07(木) 21:13:25
本の書評も出ていたよね
ただ、福永さんの書評には、この本を買ったら《これでしばらく味噌ご飯がつづくことになる
が》と書かれていて、あっ、と思い、きっと福永さんもぼくとあまりかわらない経済的な状況
で生活しているのだろうなあと思って、一瞬ニヤッと口元が緩んだ、という事実だけを、ここ
に記しておきたいと思います。
何でもいいから「在野の書評家」として巧くやっててくれや
批判とか分析とかはどこからも引き立ててもらえないことが確定してからやっても遅くはない
●夜中に目を覚まして、冷蔵庫のスポーツドリンクをコップに注ぎ、それに口
をつけながら窓を少し開けると、秋を感じさせる虫の声と、隣の部屋でフル稼
働しているらしいエアコンの室外機の唸る音とが、部屋のなかにはいりこんで
くる。
去年。
自動販売機に清涼飲料を買いに行く話を見て思ったんだが、
貧乏なくせに金の使い方を間違えてないかと思う。
スポーツドリンクは自分で粉末とかして作るとか、麦茶わかしたり
するだけでだいぶ違うだろうに。
俺も思った。本当にジリ貧ならコンビニなんて行けないよな。
よくある馬鹿なワープアのテンプレートに嵌った生活をしてるんじゃないかと心配になる。
食事はコンビニ弁当で1食500円から1000円かけるとか。
まあ、納豆が好きならしいから時間さえあればちゃんと自炊してるだろうけど。
コーラくらい飲ませてやれよ
本当に貧乏なら演劇とかこんな頻繁に行けないって
「貧乏人は麦を食え」って総理大臣が言ったって新聞記者が言ったのではなくて
貧乏人が言ったのだった
気持ちとしては貧乏、実生活はそうでもなさそう。
本当の貧乏人は、3把で100円の蕎麦を買って、1ドル/1日で生活をしている。
間違えても、清涼飲料水は買わない。
でも、本を買って数日味噌ご飯みたいな生活してるんだろ。
造形大なんかに通えたんだから貧民のわけないって
お前ら気持ち悪い
多分小中学校のころ学校にやってきて、体育館とかで上演した劇団とかみて嫌いになっただけで、
ちょっとしたきっかけがあれば演劇好きになってたんじゃないの。
不条理劇なんか定番中の定番なんだし。
ベケットなんて好きで好きでたまらないんだろうね
248 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/12(火) 22:11:20
なんだろうね、保坂さんもだけどチェルフィッチュは観るのに
どうして宮沢章夫は観ないんだろう。ナイロンとかも面白いのに
微妙な偏見があるんだろう。絵に関しては完全にマイナス。
250 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/13(水) 23:05:47
批評的立場にいると、文脈上の一貫性がいるからでは?
だからチェルフィッチュは有り、宮沢章夫は無し
在野の批評家だからこそ、そこら辺を無視してアウトサイダー的に
振る舞って欲しい。
>>249が指摘する通り、絵に関しては完全にマイナスなのは頷ける。
251 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/14(木) 10:08:10
>何かを思いつくのは、ぼーっとしている時だ。
>帰って来たら頭真っ白という状態だったらどうしよう、と思う。
矛盾はないのかもしれない。
関係ないけど僕は運動しているあいだが最も頭が休んでるって趣旨の
石原慎太郎の発言があるのだった(その話の相手は三島由紀夫なのだった)
文体模写ならもっとがんばれ
253 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/14(木) 15:23:17
今日は「本人乙」って言わないのだった
でも書き込みの3分の1は本人でしょ。下らない内輪スレ
255 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/14(木) 21:18:53
「下らない内輪スレ」に介入しないでくれ
楽しんでるんだから
本が出てからこのスレなんか微妙だよな。読んだやついるのか?
読んでなんか言いたいような奴ははてなダイアリーをやってるはずだ
2ちゃんに用はない
258 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/14(木) 23:18:50
読んだよ。
ブログというか日記で充分ということが分かった。
はてなでフルヤンをわざわざ腐すやつもいまい
アートプラザ10周年記念展「零のゼロ2008」
◆会期:平成20年8月12日(火)〜8月17日(日)
◆時間:9:00〜19:00(最終日は18時まで)
◆場所:アートプラザ(アートホール・ギャラリーA)
◆内容:
若手美術家集団“零のゼロ”の展示と、出展作家によるワークショップ、
アーティストトークを開催します。
◆主催:「零のゼロ」・アートプラザ
[アーティストトーク](参加自由)
■日時 8月17日(日) 13:00〜15:00
■参加アーティスト
鬼塚・関口・古谷(以上東京)・上田(神奈川)・森迫(北海道)・北本(大阪)各氏
■コーディネーター
菅章氏(大分市美術館美術振興課長)
零のゼロ(三宮一将・廣岡茂樹)
【お問合せ】
アートプラザ Tel:097-538-5000 Fax:097-538-5060
261 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/17(日) 13:52:07
なにゆえ、大分?
263 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/18(月) 06:32:53
というか、名字だけでなくて名前も書けや
阿呆だろ
アートプラザの告知する奴
鬼塚・関口・古谷・上田・森迫・北本
で誰か分かるか
チェルフィッチュ
今回のザルツブルク公演から、去年「ゴーストユース」に出演してくれた
青柳いずみさん(今桜美林大学の四年生)が、新しく参加した。ミッフィーちゃん(という役があるのだけど)をやってもらってるが、堂々たるデビューをしてくれた。
で、今回の本題は、来る札幌公演の宣伝。詳細
チケットの売れ行きが芳しくないらしいのでブログで宣伝します。
売りとしては、今年「三月の5日間」は、日本では札幌でしかやりません!
渡辺さん経由ですと会員価格になるそうなので
チャンスかも!
【作・演出】岡田利規
【出演】山縣太一、山崎ルキノ、下西啓正
松枝耕平、足立智充、武田力、青柳いずみ
【日時】8月24日(日)17:00 ☆アフタートークあり
25日(月)20:00
【会場】生活支援型文化施設コンカリーニョ
【料金】一般前売2,500円 当日3,000円
学生前売1,500円 当日2,000円
コンカリーニョ会員 2,000円
【チケット取扱】4プラPG、大丸PG、パトス、コンカリーニョ
ローソンチケット[Lコード:15051]
最新の七転八起の情報がわかる
作・演出家、渡辺さんのブログはこちら・・・
http://blog.livedoor.jp/watanabee1/
大麻は麻薬ですから。
>>265 また保坂と対談か・・・
椹木野衣まさかの乱入!とか無いよなあ。
帰って来て、まずやったことは、5日間の間に溜まった五百件以上のメールのチェック。とはいっても、ほぼ99パーセントが迷惑メールなのだが
、これが面倒くさくて、帰って早々泣きたくなる。というか、泣いてます。
第三期は古谷こんなの好きなんだってのが結構あるな
今の古谷本の売れ行き次第では来年あたり文学関係だけの批評集出そうだな
『世界へ〜』は売れてんのかね
273 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/24(日) 11:38:47
だからよお
一見まじめだけどそうでない人と、本当にまじめな人っつー対立でっちあげてんだろ
んで、フルヤンはもちろん「良い」側の人ってわけだ
なあにが波風立てるのを好まない性格、だ
あーナルシス、あー大嘘つき
文芸批評も終わりだな
274 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/24(日) 12:34:25
ずうずうしい
275 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/24(日) 13:20:56
随分前から終わりといわれています。
最近は、それが当たり前になったので、終わりとすらいわれなくなりました。
本が出てからスレの勢いが落ちた
つまりそういうことだ
トークセッションの申込みが、本日(22日)朝イチで定員に達しましたので受付を終了させて頂きました。沢山のお申込み、本当にありがとうございました。
なお、当初予定より大幅増の50名受付けました。これは当日来れなくなるだろう方の数も見込んでの最大数です。キャンセル待ちは受付けませんのでご了承ください。
それでは、8月28日当日、皆様のご来場を心よりお待ちしております。
保坂先生、よろしくお願い致します。
トークセッション満員御礼、及び受付終了のお知らせまで。
ジュンク堂書店新宿店
人文書担当 阪根正行
278 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/26(火) 03:05:05
バールのような物を夜中に持ち歩いてくれ
バールのような物が似合う作家だと思う
初期のスレは凄かったな
本人も来てたんだろう
281 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/27(水) 18:04:25
本当にネットカフェが好きらしいな
「全国ネットカフェ泊まりある記」みたいな企画をやってくれ
文・イラスト 古谷利裕
俺はひきこもりだから重宝しないけど
ドリンク飲み放題だからな
典型的なワープアなんだよな
高尾がかなりヤバいらしいが
洪水?
そういえば日記の更新が・・
288 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/29(金) 14:55:48
夏は雷雨
冬は大雪
いいところに住んでるな
はてなに移動してたと昨日知った。「岡田利規」で検索しててたまたま気づいた。
無事だったか古やん
前歯入れたら印税パーだなw
293 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/30(土) 03:39:19
前歯入れるのかな
入れなくていいような気がする
プラスチック製の前歯なら安く済む
壊れたPCを使い続け、ダイヤルアップを使い続け
前歯さえ放っておくのがフルやん節
ワイルドライフ
USBメモリ買えば済む話じゃね?
テキストファイルなんか全部入るだろ
299 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/08/31(日) 02:04:19
USBを挿すところがないのかも
そしたらRS232Cかな
言われてみると「CDドライブ」ってのも心許ないね
DVDも読めない機種なのか?
2日のロンドンタイムはどっちへ動くかな
スレ違いすまん
辞任についてなんか書いてくれ(揶揄)
政治には興味ありません
興味ないってわかってるwからきいてみたのだった
興味ないものがどんなふうに見えるのかってことに興味があるかも
フルヤンのおかげで樫村晴香オタクを脱することが出来たw
>ポロックの多くの作品は、あまり評価の高くない晩年のユング的な絵画まで含めて、
そこから何かがはじまりそうな「予感」を濃厚に感じさせるもので、「そのつづき」を自
分でもやってみたくなってしまうようなものなのだ。
「絵画の準備を」の岡崎発言
USA雇用統計についてなんか書いてくれ
見てません
寝ながらチャート見たら思わず早起きしてしまった
今買っていいかどうか分析してくれ
「友達」を演出される岡田利規さんに、今回の作品を手がかりに演出のこと、
そしてこれからの活動についてお話しいただきます。
「友達」公演の前にぜひご参加ください。
ほかの回に、「偶然の音楽」演出白井晃さん、野村萬斎さんなどのレクチャーもございます。
4講座セット券もぜひご利用ください。
お申込受付中
◆日時 2008年10月24日(金) 19:00〜20:30
◆場所 三軒茶屋 キャロットタワー5F セミナールーム
◆劇場オンラインチケットはこちらから→ PC 携帯
◆受講料 1回1,500円/4回セット券5,000円
一箇所ほめて三箇所けなすテンプレートが続くと心配だ。
古谷君、カルシウム摂れてるか?
煮干食べましょう
ひきこもりなのに風邪引いた
感染源が謎だ
>>315 引きこもってると抵抗力が下がるよ
ふるやんを見習って散歩しろ
日本より20℃も寒いって何ですか>北相木村
どうせトークやるなら一度樫村とやってほしいな
どうせトークやるならわざと下らない雑談をやってほしいな
大阪の知事を批判するとか
ttp://snow.advenbbs.net/bbs/gabugabu.htm 10月は2回 トークがあります 投稿者:保坂和志 投稿日:2008/09/15(Mon) 01:46 No.419
9月末に小説論の完結篇『小説、世界の奏でる音楽』が発売されます。
それの販促イベントとして2回トークをしますので、
みなさん、その日は予定を空けておいてください。
どちらも夕方、都内の書店ですが、会場は主催の書店の告知が出るまで、公表しないことにしておきます。
今回はどちらの会場も満席になっても立ち見を入れてもらえるようにしてあります。
10月17日(金)石川忠司×保坂和志
10月25日(土)樫村晴香×古谷利裕×保坂和志
以上、とりあえずお知らせしておきます。
最近は小説とか全然読んでないのだが
久しぶりに芥川全集を本棚から引き抜いて「お富の貞操」など眺めてしまった
なんでだろw
石川と並んですっかり保坂のお気に入りだなw
俺の場合、頭の中で大きな金属音がギャーンと鳴って目が覚めることが多いな
たぶん、279が言う初期のスレだけど、
そこでさんざんっぱら論じてた俺が来ましたよ。マジ久しぶりに古谷スレログなんか読んだ。
その頃の常駐住人として言うとさ、古谷本人がいるって印象は全然なかったよ。
古谷だったらここいらでムキになるだろ、という言い回し一杯あったと思うし。
古谷自身が2chでよく書くっていうのは、怪談スレなんかを言及してた日記もあったように、
割とたわいもないスレなどであって、あんまり議論系のところは行かないんじゃないかね。
俺自身、議論・情報交換目的でスレで話すのと、
怪談やネタ、フォークロアじみた応酬を覗くのとでは、思い切り乖離してて、
片方がオフになったりオンになったり両方オフになったりを定期的に繰り返してる。
あ、典型的ワープア生活ってのは同意w
326 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/19(金) 22:45:56
天井ひくっ
ものぐさな人間として言わせてもらうと、
最近の古谷の作品読解や議論で、これはと光るものって何かあった?
どうもこの人は、レヴューアーとして逃げるような振る舞いが多いから、
端的に言うと勉強にならないし、「いいところ探し」で終始し、
作品の限界もつつかず、かといって論者として作品をさらに引き伸ばして模索するわけでもなく、
という中途半端なことになってるから、あんまりチェックしなくなってるんだが。
本が出たそうだが、古谷の日記的文章のために本を買おうという気にはちょっとならないでいるが、
一応買っておいたほうがいいような本なんですかね。
>>327 ウェス・アンダーソンの「ライフ・アクアティック」評はわりと良かった記憶が。
俺も本は買おうか迷ったが、偽日記をよく読むので、「カンパ」というか、
「投げ銭」みたいなつもりで購入したよ。
>>328 俺もそんな感じ。
ネットの日記作家が本を出した記念というか。
330 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/20(土) 13:06:52
逃げ足はえーよw
327のような視点からすると、もう歴史的使命を終えた人なんじゃないか
332 :
327:2008/09/20(土) 14:48:03
カンパ、カンパか。それはありかもしれないね。
でも、日記暦数年の古谷の主要関心論点を結集していて、まとまっている。
そんな本であってもいいのにな、と思った。
岡崎監修の美術手帖8月号を読みながら。
つうかこいつの活字は読めたもんじゃない
文章の生理がブログに特化しすぎているんだ
それはあるね。つらつらと書きながら、かつ、そこに論理や分析、対比的な構成を何となく入れるって感じ。
エッセーのスタイルに頼りすぎてる。
これこれのコンセプトをこうまとめて見せてみる、という企画の立て方から本を書けない人。
いろいろ楽をしすぎなんだよ。つらつらとレヴューして、その中で多少文章の骨組みもたせるだけというか。
絵もそんな感じ
ドローイングをペインティングに高めることができない
俺の見るかぎり、岡崎はそういうつらつらスタイルとは全く逆なんだがなあ。
なんで岡崎好きの古谷はそこにたじろがないんだろう。
言いたいことはわかるけれど、
ドローイングとペインティングは根本的に差などあるのだろうか
デッサンでありながらかつ精髄であることがありうるのではないか
というのは重要な気がした。
古谷の作品が不作だというのは全く同感で、当人も気づいてないっぽいから悲惨なんだが。
>>337 フルヤンのドローイングのことのみを指しているんだよ
別にドローイングそのものを貶める意図はない
彼の場合、作家活動と日々の雑事の区別がなさすぎ
>>336 岡崎について古谷が書いた物をみると、
岡崎のそういう部分を捨象してると思った
だから実際には保坂とか樫村の影響の方が大きいでしょ
脳がなんとかとかいう本の題名もそうだよね。
ラカンなんだけど生理学よりのことをいう樫村の影響っぽい。
だから本当は評論家向きではないんだよな
>>334 保坂はそういうとこが気に入ってるらしい
連載中のカフカ論もそんな感じになってた
保坂のゆるい部分が古谷の関心と一致
そもそも岡崎派だと思っている奴が間違い
どっちが優れてるとは言わんが、
岡崎とは全然資質が違うよね。
ただ興味持っちゃっただけでしょ。
346 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/21(日) 01:22:35
>●一日じゅうずっとパソコンの前にいると、絶対すごく嫌な、怖い夢をみる。
そういや怖い夢って最近見ないなあ。加藤ナントカ君の持ってる刃物を左手でもぎ取って
逆刺しする夢を見たのがいつだったか忘れた。ひきこもりトレーダーだから「一日
じゅうずっとパソコンの前にいる」けど。そのかわり「鬱陶しいおっさん」にイヤ
ガラセするくらいしか愉しみがなかった会社で和やかに談笑しながら仕事してる夢をなぜか頻繁
に見る。ある意味悪夢かもw
スレの空気読めなくてすまんなw
結局、いいところ探しの作品分析スタイルと同じことで、
作品「全体」なるものをどう組織するか、どう方をつけるか、という部分がすっぽ抜けてるんじゃないかな。
その面での岡崎の処理の仕方に関心が向かわないのも、そのためで。
俺には、そのすっぽ抜けは蓮実出自の人らしい悪癖だと思ったが。
>>346 PCと悪夢って何かあるよね。ネットで流行るのも怪談系統の話が多いという傾向もあるし、
実際俺もなんか悪夢見たりする。
古谷的にはリンチを褒めてるから蓮實派じゃないつもり
俺は樫村、保坂には疎いんで、つい蓮実圏域の呪縛から古谷読んじゃうんだ。
もろもろの分析スタイルや扱う作品は違うけど、
非常に隠微なレベルで蓮実の基礎命題みたいなのが延命されていると思う。
これは古谷に限ったことじゃなくて、たとえば平倉圭ですらそこでもがいてると思うんだけどね。
平倉による『シネマ』読解で、気炎をあげるがごとく、
そうだ、ドゥルーズの映画観は言語になってると批判したのは、蓮実的単純さだと思うよ。
訂正
平倉による『シネマ』読解を読んだ古谷が
蓮實はそんな風にドゥルーズを評しちゃいない
その単純さは平倉と古谷を経由することで得られたものだ
まあ蓮實は美術に対する感受性の鈍さを誇りにしているフシすらあるから、
あなたが蓮實嫌いっぽいのを差し引くにしても、古谷が知ったら多少嫌がるだろう
>>351 言葉にしてるってのを批判する古谷のスタイルが蓮実影響下にあるってことだよ。
蓮実だと、不可視たる作品全体のシステムは宙吊りにされるのみで、語ることが出来ないってなるからね。
ある時点で言語の放棄をすべし、ってなる。その放棄スタイルから見ると、
平倉の語る『シネマ』は、まさにドゥルーズは映像を言葉に従属させている、と見えちゃうんだろうと思う。
ただ、ドゥルーズの言語の扱いは、そもそもかなり独特なので、
映像と単に対立にはならないのではないか、平倉はそこを見落としてないか、と思う。
平倉に俺が蓮実派の匂いを感じたのは、インターコミュニケーションに載ってた『アワーミュージック』評ね。
ショットや画面に対して相対的には外在的に映るプロットでは把握が容易だが、
実際は識別困難さを仕掛けられているオルガ/ジュディットのユニットがあり、
ゴダールのクロースショット/回教徒の図像といったイメージのa/b間の類似、移行が仕掛けられている、と。
作動単位の措定とその作動規則まではいくんだけど、その後に論が続かないのは割と兆候的だと思った。
正確に蓮実自身の『シネマ』評について言うと、カイエのコンテクストに沿いすぎだとか、
それゆえコンテクストを無視して作品を輝かしめる映画批評の振る舞いではないとか、
『シネマ』に追随してはならない、といった、それ自体どうでもいい評言ばかりなので、相手にする必要を感じない。
「シネマを徹底的に相手すれば、そんな層と関係なくなるじゃん」の一言で済むし。
>>352 大事な問題について触れてるから、文意を無視して返答させてもらうけど、
>>あなたが蓮實嫌いっぽいのを差し引くにしても、
これはきわめて微妙な問題で、嫌いってよりは好きだし、「厄介に思ってる」って感じなんだよね。
蓮実嫌いだとか言ったり批判してる批評家が、蓮実の基礎命題を共有してることってよくあるんだよ。
細川晋しかり、時には浅田もしかり、ジャンル論を軸にする四方田しかり、加藤しかり。
表面的には距離があったり、別の論点を突付いているようで、基礎的には蓮実と同居しやすい相貌があったりする。
蓮実の厄介さは、巷間思われてるよりも強力で、
一時古谷が親しくしていた大寺にしても、四方田/蓮実対立を語り、
四方田の論点にも配慮したい、というかたちで、蓮実的な読解は延命されてると思ったな。
>蓮實は美術に対する感受性の鈍さを誇りにしているフシ
>[他方で]古谷[は美術作品に対して鋭い・・と理解するとして]
これは古谷の言及する作品やアプローチからすると、ある程度共存するんだよ。
蓮実が暗に嫌ったのは、「前衛」の神話みたいなもので、かつ、要素還元的に抽象化していく美術傾向みたいなものだと思う。
蓮実がこれであるとして、古谷は平面作品や、映画からの延長として空間的な作品をよく取り上げるんだけど、
平面作品だと、筆触の豊かさと多元性=モダニズム みたいな立場でしょう。
これは、画面にこだわる蓮実の基本スタンスと簡単に共存できるんだよ。
蓮実自身は美術について多くを語っていないし、大した読解も見当たらない。
かといって美術と関係ないかというとそうではなく、
古谷においては、古谷の言う「モダニズム」としてつながりを保ちつつ共存しているんだと思う。
ここで同定可能な筆触単位そのものにはこだわらない岡崎、という対比がありえて、
岡崎は蓮実の圏域にかなり距離をとってるようにも思えるんだけど、
こういう感じで岡崎に注目してる人はあまりいないんだよね。平倉が萌芽的にその気配を発してるが。
平倉は古谷と違って岡崎と接触あるからね
「同定可能な筆触単位」ってどういうこと?
もう少しわかりやすく頼む。
うん、たまたま岡崎が監修した美術手帳08年8月号の箇所読んでたんだけど、
岡崎は色彩に関して、色彩というのは別の色彩への移行、運動性=透明性こそがキモであり、
各色彩を同定した見方はつまんない、と言うのね。
これは彼の絵での筆触の扱いや、別の作家の作品の筆触に関する扱いと同じで、
筆触をその輪郭を確定し、同定できるような見方ではなく、
筆触相互の形態的・動感的な関係性から先に見ていく。
(すぐには引用できないけど、『絵画の準備を』なんかでも同主旨の指摘、
あるいはそれを前提に繰り出されるアプローチが出てくると思う)
個々の筆触を、「豊かだ」として見る視線は、それら関係性の作用を受けたあとで、
事後的に見出されたものではないか、とみなしてるんだと思う。
こんな感じで説明してみたけど、かえってわかりにくいかな。
最初に何らかの単位があって、それを組織する、という順序じゃなくて、
たとえば筆触aと筆触bの関係で筆触c,d,e... を見出していくといった運動全体を最初に考えるみたいな感じ。
ああ、古谷の絵は単位から描いてるっぽいっていいたいのね
それはなんとなくわかる
基本的に葉っぱとか描いてるしw
単位を描きだすことことからは逃れられないんだけど、
その運動の操作への観点がなんかつまんないなあ という所感っす。
でも、具体的に指摘するの難しいし、所詮俺の趣味かもしれない・・
>>357 なるほどね。
それで、前のレスの論につなげると蓮実の画面の捉え方は同定的であると言いたいわけね。
でも蓮実でさえ、映画の画面全体を同定的に把握できてるとは思ってないんじゃないのかな?
画面を隅々まで見るというだけあって、ある程度の自負はあるだろうけど。
蓮實は結局のところ「神は細部に宿る」の人
ただ平倉のシネマ論が映画の全体性を形而上学的に担保してるという部分はあると思う
そもそもあれって言うほど凄いか?
2ちゃんで若手批評家を褒めてる人の関心って狭いような気がする
まあ、それは言えてるんだけどね。
そろそろ古谷は終わりだから次は平倉、みたいな関心は確実にあるだろ
悪い意味で編集者的
いや、単に映画と岡崎が絡んでる人があんまりいないってだけっすよ
他にもいるんじゃないの
日本の映画研究の層の薄さをなめてはいけない。
あんまりいないんだよ、美術に絡む人、特に岡崎の議論に絡むような人。
それでなくてもあんまり理論系統の研究者いないし・・
表象系とかみんな岡崎読んでるだろ
読んでる人はいるかもしれないけど、
議論として出してる人はまだいないよ
それ本当なの
つうか370がやればいいのに
田中淳とかは読んでるでしょ
眉に唾つけながら
平倉も入ってる『ディスポジション』って岡崎派じゃね
>>374 平倉は四ッ谷で教えはじめたんじゃない?
『ディスポジション』は面白くなかった。
本人は興奮してるようだが。
自分にとって面白いかどうかだけかいな
関心が狭いだけでは
ていうかあんたそこまで見えてるなら自分で批評やるべき
いやいやいやいや、俺375じゃないよ。
『ディスポジション』については出たとか
岡崎がトークでちょっと言及して後押ししたとかは知ってるけど、
読んでないので中身に関して何ともいえない。
>>374が言う意味で、岡崎の問題設定の継承という線で書いてると予想してなかったので、
完全未確認だった。そういう本であれば読んでみようかな。
>>375 石岡、中井らと同じくコミュニティカレッジ所属の研究員になってるっぽいよね、平倉。
そういや石岡も中井も表象じゃん
>>370 >つうか370がやればいい
>>376 >批評やるべき
批評家になるかどうかはともかく、論として発表するなり出すなりすればいいじゃない、
というのは別にいいんだけど、ある程度真っ当に書くためには
準備・勉強に数年は軽くかかるという予感いっぱい。
だから、「〜〜という論点、対比はありうる」とか予感めいたことは気軽に言えるけど、
即まともな体裁で発表できるってわけじゃないんだよね。
力不足。そりゃ徹底的にすでに俺が書けるもんなら書いてみたいよ!
でもあいつら、表象とはいえ結構異質な人だと思うけどな。
石岡はNAM崩壊前後からすでに批評空間つながりあるし、
中井はカレッジ発足時点の一期生だから。
表象だから→院卒前後に四谷就職 というわけでもなく、「岡崎身近派」とでもいうかw
はじめから満足なものは書けないかもしれないけど、
とりあえず書いてみればいいじゃない?
古谷もそれでやってるんだし。
381は
>>378へのレスね
ちなみに水声通信のケージ特集では中井が、
割と岡崎からの影響を色濃いシャープな論を書いてて、ちょっと面白くはあった。
でも、中井って音楽研究がどっちかというと専攻であって、映画とはあんまりつながりが〜
>>381 平倉も表象じゃないんだぜ
結局あそこの純血は微妙なのかもね
>>381 岡崎は確かに取り巻きが多そうだw
なんなんだろうね、あれ。
>>382 >とりあえず書いて
うん、まあそういう動機もあって、さらさらっと下書き的に放言してるってのもあるんだけどね。
だから批評家になれよと言われるよりは、
「んな単純な論旨じゃ駄目じゃなかろうか」とか言われてる方がいいな。
>>360 >蓮実でさえ、映画の画面全体を同定的に把握できてるとは思ってないんじゃないのかな?
たしかにそうで、例えばショット/切り返しショットなんかでは、
可視的な対象とも言いがたいし、ある程度そっちの関心も蓮実は言うんだけど、
おおむね、「ほら、あれだよ」と指させる、同定可能な画面、ショットに傾きがちなんじゃないかな。
>>362 >平倉のシネマ論が映画の全体性を形而上学的に担保してるという部分
これは俺はアルチュセールにおける重層決定と最終審級による決定の矛盾みたいなものを思い出すね。
全体性をやると、今度は細部(可視)や細部間関係性(不可視)から一気に離脱してしまう。
そこを無理やり「経済的なもの」が最終審級で決定してるんだって! とシェイプアップして、
単にミクロポリティウスの集積にしまいとしたのがアルチュだけど、
こういう対立って解消可能なのかね、とかよく悩む。
>>385 俺、カレッジ一期生に知り合い何人かいたから痛感してるけど、
岡崎信者、って感じの能天気なノリも多分に感じられて、取り巻き連中にはあまり希望持てなかったよ。
石岡とか仲居とかが10年以内に何か出せないかな、とは思うが。
中井とか石岡は批評じゃなくて研究やるんじゃないの
>>390 宗教っぽいって言うか、不勉強。
だから、岡崎理論の各領域での展開してれば許されると思ってたり。
一言で言うとぬるい。
>>392 あらゆる偉い人wの周囲はそんなもんじゃないの
中井とかもぬるい?
不勉強で見切られるなら古谷は全然駄目になっちまうよ
あえて言表する勇気って大事なんじゃないの
>>393 うん、だから相対的に石岡・中井とかに期待、ってならざるをえないって感じ。
まあ彼らはどっちかというと研究で当分身を固めつつ〜 という展開になるだろうから、
即期待はできないだろうし、それもしょうがないか、とは思うが。
ラカンとかを引き合いに出して言えば、いいじゃないの、ラカンは死んで何十年にもなりながら、
片がついてる感がないんだし、ゆっくり何か出れば。
とは思うが、映画批評・理論の側の国内停滞は半端じゃなくて、なんとかならんかしら。
>>393 柄谷の弟子筋のスガみたいにはじけてる奴もいるw
>>395 海外の映画理論って今どうなってんだろ?
批評空間がなくなった影響も大きいかもね。
>>388 平倉はレヴューに興味ないらしい
石岡も研究寄りかな
ユリイカに書いたりしてるけど
平倉だって不勉強だろ
勉強を基準にしたら学者しか駄目って事になる
そういう縛りは発言できない場を生むんだと思う
表象の人が駄目な理由
>>396 スガは割と蓮実から見ると面白くてね。彼がヘーゲル/バタイユにこだわってた頃は、
ある面での蓮実の思想史的言い換えに見えた。
岡崎とはあまりつながらない問題設定の人だけど、スガは留保つきでなら結構好きだな。
ヘーゲル、コジェーヴにあんなにこだわってる人は珍しい。
>>394 まあねえ、でも、あれ「日記」だから持続もしてるし、成長もせずに続いているわけでね。
日記はしちゃいかんと思うよ。
だから俺なんかは友達としゃべったり、2chでたまにふと放言してるときに実質、あの日記みたいになってる。
身辺雑記抜きのエッセイ的放言ってことだけど。
ただ、古谷が停滞したのと近い理由かもしれないけど、
ブログやHPなんかで書き続けると、読ませる層の設定に難航して、
妙に平易なことしか書けなくなったりするんだよ。
つまり、いまこのスレで言ってる雑駁なまとめって、ブログとかで書くのは逆に難しいんだよね。
>>333とか
>>345とか
>>348とか
>>352とか
>>356とか返してもらったから、
なんとなく一貫して説明できてる話になってるだけで、これ、自前でけり付けて書くのって難しいんだ。
かといってテクストに沿って書くと超大変になる。
>>400 平倉は小林康夫派なのかね
そうなら大丈夫じゃない?
そのうちテレビ出たりして
>>402 『ディスポジション』が小林康夫派っぽいね
>>401 微妙にはぐらかしてるけど、すでに何か書いてる人だろ?
>>401 確かにブログの難しさってのはあるね
形式が不確定であるがゆえに
ブロガーは新書なら書ける
>>403 小林は「大地論」とか書いてたよね
平倉の「シネマ論」はそれにたいするリスペクトなのかも
>>403 ああ、そうかもね。
平倉は小林編の『美術史の5つのなんとか』って本でも論文乗っけてたと思うし。
>>399 >平倉はレヴューに興味ないらしい
まあ、映画批評はレヴューという悪癖に嵌りこむ世界になってるから、
そこに踏み入らないというのは賢明。俺がたとえ何か出しても、絶対レヴューなんかしたくないね。
>石岡も研究寄りかな
>ユリイカに書いたりしてるけど
たしか水木しげる論、うめず論なんかは岡崎理論の拡張+田中純的イメージ問題でやってたような。
10+1の田中監修号でたしかドゥルーズのバロック論がらみで建築理論に関して書いてた気もするが、
そんなにチェックしてないな。中谷礼仁の方に近しい感覚もあるのかな。
>>397 批評空間は芸術系統の翻訳・紹介にはそんなに乗り気じゃなくて、
ド・デューヴとかモダニズムのハードコアぐらいしかやってないからね。
美術領域では、ほんと訳する人材いないんだよ。林道郎とか、あと数人いるだけじゃないかな。
クラウス+ボワの『アンフォルム』の訳をアガンベンの高桑が担当してるってのはすでに異常。
映画理論だと…えーと、前田茂が一時『シネマ』受容と英米映画理論の動向について映像学で連載してたぐらいか。
なんかジジェク以後、カント方面の展開が一方にあり、ドゥルーズの受容ってされてないらしいね。
スタンリー・カヴェルとかどんな議論してるんだか興味あるけど、
まだ読んだことないな。彼の映画本の訳もないし。
にわかに盛り上がっているけど、ようはポスト古谷争い?
>>398 >>404 ないない。過大評価すぎ。そんな世界全く関わったことない。
・・・強いて言えば、俺がマシに見えるだけ国内の言説が停滞してる効果だと思うよ。
>>410 ちげーよwwwww
でも、石岡、知人越しに聞いた感じでは超勉強家でそこはマジ尊敬したな。
その面で言ったら、俺よりはるかに真っ当な人だ。
>>400 そこは、単に量ってわけでもなくて、よし、俺はこれで一本書けるぜ、
ってな区切りにまだ達せないままでうろうろしてるという感じでね。
それさえ得れれば、恥ずかしながら〜 とか出せるんだけどなあ。
まああと2,3年かかりそうだ。
>>413 そうか。石岡がユリイカの文章でカヴェルに触れてたからなんかそれっぽかった
ぶっちゃけ古谷自身はどうでもいいという話にw
まあ、浅田とかが古谷に目をかけたくなる気持ちもわからないではないし、
個人的には映画批評がひどく停滞してる中では相対的にはマシな方だとは思うし、
憎めないところもあるんだが、議論水準がどうもなあ。
浅田は作家に劇甘、研究者に冷淡な人だから
>>415 え、そうなの。
石岡のユリイカで書いたガンダム論とかスピルバーグ論とか松本大洋論とかは
読んだことないんだけど、スピルバーグ論で言及してるのかな?
カヴェルって面白いのかなあ。トマス・エラセサーがカヴェルを激賞してて、
どんな理論家なんだろと思ったけども。
>>418 通りすがりに引用してただけなんだけど、
後でなんか書くかもね
そう。スピルバーグ。
古谷目当てに買ったらなんかがっかり
石岡のはちょっと面白かった
あとシネフィル系の人がみんなエラセサー引用してておかしかった
>>420 へー、そんなことになってたのか、スピルバーグ特集。
『ロスト・イン・ハリウッド』みたいな議論つながりか、藤井仁子のような論旨かと思ってたから、
思いっきりスルーしてたよ。岡崎もたまに『マイノリティ・リポート』を引き合いに出してたし、
その議論の継承みたいな感じで石岡も何か書いたのかな。
>>421 >『ロスト・イン・ハリウッド』みたいな議論つながりか、藤井仁子のような論旨かと思ってたから、
基本はそんな
石岡はベタにジュラシックパークのCGとか話題にしてた
シネフィルっぽくない感じ
岡崎の議論の継承は古谷かな
でも調子悪そうだった
浅田流に言うと読んでも元気が出ない文章
>>422 >ベタにジュラシックパークのCGとか シネフィルっぽくない
それはある意味いいことだと思うね。
水木論のときも、ユベルマン〜田中的な図像合成観点から議論していたし、
それにさらに、岡崎的な彫塑論の観点から何か論じたのかな。
とくに岡崎っぽくはなかった
手元になくてすまんがメイキングがどうのみたいな話
なるほど、まあ今度手にしてみるよ。
アンフォルムは月曜社が経営苦しいから止まってるんだと思う
フルヤン留学すればいいのに……
石岡氏の髪の毛はまだ無事ですか?
430 :
石岡:2008/09/21(日) 18:39:03
ハゲでサーセンwwwwwwwwwww
>>429 それ言うの、せっかく俺自重したのに!!!
可哀相だからやめようよwww
432 :
石岡:2008/09/21(日) 18:45:41
まあ別にいいんですけどね
石岡さん、あんたトークさせてもそこいらの人より(俺より)絶対鋭く面白いこと言えるでしょ。
批評家になれとは言わないが、そういう場で何かしゃべってみるのもやってくださいよ。
434 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/21(日) 19:16:30
あの容姿で腰が低く
それなりに描ける
引き立てざるを得ない
ニーチェは怒るかもしらんがな
435 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/21(日) 19:23:16
生きていること
それ自体が芸術
晩年のJLGみたいな
域に勝手に突入したわりには
たいした本じゃなかったな
まぁ 画家として認知もされ
文筆家として生計をたて
単著まで出したのだから
ワープアだの戦争だのと
わめいているゼロ論壇からも距離がひけてるし
大勝利なんじゃないですか
ゼロアカ論壇は福嶋がなんとかするんじゃないの
>晩年のJLGみたいな域に勝手に突入
そのフレーズは異様に笑えるwwww
石岡さんは髪型が良くないわ
後ろから伸ばして隠そうとしないで堂々と額出しちゃったほうがカッコいいと思うよ
なぜこうも石岡さんの容貌知られてるのかとふと思ったら、
もう画像検索に引っかかるわ、はてなキーワードに書誌紹介までされてるのか。
意外にファンがいるのかなあ。
批評家とは思われてないんじゃないの
あまりそういう論点を作っていない
うーんうーんうーん・・・・
いやどうかなあ、こういうのは美術批評家のスタイルとしてもありじゃないのかな。
労働論や政治言及、マルクス主義的な議論、レヴューをしなかったら批評じゃないってわけでもないし。
VOLで翻訳してたから政治にも興味はあるはず
今はふるやんより生樫村晴香
そういえば、ドゥルシラ・コーネルの訳もやってるしね。意外にいろいろやってるんだ。
いつのまにか石岡スレになってて吹いた
なぜ井上亮につながってるのか不可思議でたまらん
同姓同名の別人がいる
ああ、東大の工学系の人だっけ。たしかset.envはじめたり、
こっそりキットラー訳してたりしてたね。
うろ覚えでクリックしたら俳優プロフィールが出て呆然としたんだ。
いや、同姓同名井上亮がいるんだけどね。
石岡良治(りょうじ)もいる
デザイナーの方か。ああ、それで俳優井上とかぶると。
超まぎわらしいな・・
スレの食いつき方見ても、石岡のポテンシャルの高さがうかがえる
岡崎・四谷ファミリー・石岡・『artitoc』・module・古谷
もろもろを扱う総合スレとしてやっていけば需要ありそうだよな。
もうみんな古谷について喋るのに飽きてきてるんじゃないか
457 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/21(日) 21:00:42
味のぬけたガムを
いつまでも噛んでんだ
おまえら
樫村には微妙に飽きつつある
フルヤン的には岡崎派全員が終わった存在
イメージがイメージを〜する、みたいな発想を古谷が最近やってるけど、
これも樫村なのかな。今ひとつ系譜がわからん。
もちろん樫村
おそらく「所有する君を所有する、 頭の後ろの自動人形の死について」あたり
フルヤンが影響受けやすいからな
いっそReview Houseも混ぜよう
今日は最近にない異例の盛り上がりだった
>>463 そんな雑誌が出始めているとは知らなかった。
まだ創刊号みたいだし、執筆陣もちょっとつながりが弱いけれど、
ダンス、演劇、映画にまたがるというのは面白そうだね。
ただ、言及するかどうかはこれからの紙面や論次第じゃないかな。
否定的なことしか言えない作品について何か書くというのは、気が重いことなのだった。
467 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/22(月) 14:08:20
肯定は派生的否定性も伴う
褒めたほうが気分はいいだろうな
469 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/22(月) 14:31:59
せっかく本もでたんだし
内容について何かないの?
良かった章はコレ
みたいのでも
470 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/22(月) 14:56:09
一般的な美術の界隈では古谷って人無名に等しいよ。
現代作家を論じることができず、いつまでも岡崎がどうの内輪でいってる時点で
実際的な需要はない。
470的には岡崎は現代作家だと思われていないんだろう
それと昨日明らかになったのは、古谷は別に内輪じゃない
内輪は今澤だけ
というか現代作家の大半が内輪的なんじゃない?
作る人はいても見る人が全然いないんだから結局知り合いの作家同士であれこれ言い合うしかない
「一般的な美術の界隈」が何を指すかによるけど、
そんなものを前提にすることもないだろうという気もするがね。
古谷の名前と市場価値を高めるための工夫も必要だ、というのは意見としてありうるけど、
何のために必要なのかという問題もある。
内輪を「狭い関係」で言ってるのかもしれないけど、
じゃあどこに広い関係があるんだって感じになるよね。
まさかBTに載ればいいとかそんなわけでもないだろう。
むしろ文芸関係者(保坂とか、仲俣とか、最近では残雪の訳者とか。個々人の評価はさておき)と交流したり、
若手作家たちと組立やったりとか、してる分、
見ようによっては「珍しいフットワークの利かせ方をしている、今の美術業界では相対的に、
閉鎖性に抵抗している人」とも言えるかもしれないんだし。言い過ぎかもしれないけど。
美大出て実作を続けて、美術教師やって、友達とギャラリストらとの交流で止まるのが大半だとしたら、
相対的には動いてる方なんじゃないの? とも言えるだろう。
日記の印象が強いから、活動範囲を狭く見すぎてるんじゃないか、とか思う。
むしろ、日本の象徴資本や議論の場所の配置に即して、それなりに機敏な人かもしれない。
別にキュレイター的に活動してるわけじゃないから、「華々しい」って思われにくいだろうけどね。
もちろん、昨日での古谷評価で言われるように、そこには一定の論点や作品の限界があるのでは、
という視点はありうるけど、そんな指摘はどんなに多彩にやってようがつきまとうものだからね。
>>469 俺もなんか読んでみようかなあ。樫村・保坂ラインの古谷のスタンスがよく見えるかもしれないし。
479 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/22(月) 17:30:30
だったら国内外の文献なり作家なりを
積極的に紹介してほしいなぁ
勉強をしないですむ範囲でアクティブになられてもねぇw
自分なりに勉強はしてるんじゃないの?
『フリータイム』
作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 山崎ルキノ 足立智充 安藤真理
伊東沙保 南波圭
日程:9月27日(土)〜28日(日)/会場:横浜赤レンガ1号館3階ホール
お問い合わせ:横浜トリエンナーレ組織委員会
03-5777-8600/050-5541-8600
(ハローダイアル/受付時間8:00-22:00)
【チェルフィッチュ公演<フリータイム> ご入場について】
『フリータイム』横浜トリエンナーレ公演をご覧頂くためには、横浜トリエンナーレのチケットの他に、
各回開演の【2時間前】より、
【赤レンガ倉庫1号館3階ホール受付】にて配布される、整理番号付き入場券が必要となります。
483 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/22(月) 18:13:44
この人って英独仏語の文献読めないんでしょ?
それで批評家なんていわれても、さわらぎあたりと同列だよ
ちょっとアテネフランセ行ってきます
485 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/22(月) 18:29:25
中原昌也のことを
単なる仲間誉めの産物
として散々貶しておきながら
彼のやっていることは
身の回りを仲間で固めることでしょう
限界露呈してますよね
むしろ英独仏読める批評家のほうが少ないと思う、いい悪いは別として。
浅田っていいたいんじゃないの、483は。
488 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/22(月) 19:03:21
経済基盤の問題じゃないの
東大生は金持ち多いしね
英独仏読める奴はそもそも批評家じゃなくて学者になるのが多いしなあw
批評家なんてヤクザな商売なんだからいいんじゃないの
いろんな人がいて
492 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/22(月) 20:03:12
どのあたりが
ワイルドライフなんですか
思い切り飼い慣らされてるようにしか
見えないのですが
ちょっと前に理由書いてなかったっけ
>>479 なんで日本の批評言説編成に対して応答してると、
国内外のものを「紹介」しなきゃいけないんだろう。それは全く別個の、あんたの願望じゃないの。
古谷が不勉強でぬるいというのは同感だけど。
495 :
ニーチェじゃないけどね:2008/09/22(月) 23:58:21
>>434 「あの容姿で腰が低く 」って。容姿は関係ないと思うけど、腰は低くないでしょ、文章読む限りは。
ところで、なんでニーチェが怒るの?
>>494 紹介が必要かどうかはともかく、
古谷のモダニズムとポストモダニズムの捉え方は問題ありすぎると思った。
もちろん日本語文献の勉強だけでもある程度直せるけど、
英語の美術論を全然読んでいないのはまずいんじゃなかろうか。
「馬鹿なワープア」にさせられたり外国語の勉強させられたり中の人も大変だな
しょうがないでしょ
少し前に持ち上げられすぎていたから
そして段々評価も落ち着く
古谷ってワープアだけど貧乏じゃないでしょ
親がそこそこ金ないとそもそも造型大なんか行かない
なんか両極端だよね
古谷が趣味性に拠りすぎてるのは確かだとしても、それで古谷を全部チャラに出来る(してもいい)みたいな流れもどうかと思う
一昨日の人みたいに自分の批評的な位置をある程度はっきりさせとかないと全否定なんて出来ないと思うけど
>>496 煽りじゃなくて後学のために英語圏の文献教えて下さい><
>古谷が趣味性に拠りすぎてるのは確かだとしても、それで古谷を全部チャラに出来る(してもいい)
これはたしかにヤバいよね・・・
英独仏全部読めるのは国内の美術以外の批評家でもそんなにいないし、
批評家に全能性を期待するような気配がするからちょっと待って言いたくなるから、
どれか一つでもできれば違うだろうに、という意味で理解するとして、同感なんだけど、
つまるところ、
英語・外語文献の紹介、読み合いの場所があれば、古谷への関心度も相対的に減るよね。
結局、古谷が少々持ち上げられることもまた日本の乏しい言説配置の反映であって、
この基礎自体何とかならないのかな、と砂をかむような思いがする。
Art in Theory 1900-2000
みたいなお手軽アンソロジーでもいいんじゃないの
英仏独みたいな極端な理想を出して擁護するのは、単に英語をやらないための口実
>>503 英語圏はいいなあ。1100ページ超でこんな本が容易に出るんだから。
>>505 抜粋が多いけどね
しかも学部生の常備本
日本でもみんな読んでるんじゃないの
>>506 これはアンソロなのか、編者による見取図ガイド本みたいなものなのか、どっちなんだろ?
日本でもみんな読んでるかというと、
そんな講義をする教官、そんなにいるかなあ、という気になるが・・・
3,4人はいるんだろうけど。
>>479=
>>485=
>>492=
>>498=
>>503=
>>506だったのかな。
>>496は・・違う人か。文意を近づけて読めるけど。
こうしてつなげて立場を見ると、割と同意できるな。
不勉強で仲間褒め内言説をやり(仲間褒め批判をするかたちであれ、議論範囲がすでに仲間圏域というか)、
限界が露呈し、そのまま国内言説配置に追従して飼い慣らされてるだけだと。
英語圏での議論に即する/抵抗する、というかたちであれ、なんかやれよ(勉強しろよ)と言わざるを得ない。
その流れで読むと、
>>479の言う紹介にしても
紹介をするために勉強をするとか、紹介を目的にするというより、
勉強して言及しながら論じていたら、紹介しているのと同じような結果になるという
意味でなら全く同意。俺は
>>494なんだけど、あんたの願望なんじゃないの云々は撤回するよ。
勉強してると、外語での議論文脈の関与性が出てきて、
邦訳する立場になるかは別にしても、ある程度派生的に紹介みたいな感じになるよね。
ああ、なるほど、アンソロだけど、論文全体や書籍全体は入ってないという意味での抜粋ね。了解した。
アメリカの大学だとこういうアンソロみたいのいっぱい読まされるな。
それも良し悪しなんだけど。まあ読まないよりマシか。
日本でも哲学系のアンソロみたいなのは結構あるけど美術系はないな
だいたい美術批評の本が少ない
結局、ブログで批評やってて目立ち始めた人と、院までいって学術的に切磋琢磨した人とでは、
同じ批評活動をしていても次元が違うんじゃないかな。(優劣関係なしで)
視点や基準という意味では、後者のほうがやっぱ精度が高い。語学がそこに伴うこともあるだろうけど
批評の本が少ないのは、後者の人が書くものがいかんせん専門的だからだよ。
今の悲惨な出版状況では、どうしても話題性みたいのと平明さが必要だから、ブロガーみたいのの方が好まれる。
でも、言論者としての持続力の点では多いに疑問が残るな。まあ、批評の投げ売りがはじまったということか。
専門的なのは結構だけど院まで行った人の論って外人の受け売りが多いしなあ
英仏独読める石岡さんしかいないな
美術っていう制度じたいが「外人の受け売り」なんだけどね。
日本美術にオリジナリティーは無いと
そういう、サワラギみたいな議論の進み方はどうかと。
>今の悲惨な出版状況では、どうしても話題性みたいのと平明さが必要だから、ブロガーみたいのの方が好まれる。
>でも、言論者としての持続力の点では多いに疑問が残るな。まあ、批評の投げ売りがはじまったということか。
俺は、それは70-80年代以来ずっとあると思うけどね。美術以外の批評層で言うと、
丹生谷や小林の時点で、批評家になる=持続的研究成果出なくなる になってるから。
90年代に入りどんどん加速化し、批評家になる=メディアへの身売りがより顕著になり、
ポスト不安問題も重なって悪化したという気がするよ。かなり長い間悲惨。
批評家は食えないし使い捨てみたいな状況になってるのかな
そりゃ研究者のほうが寿命は長いのかもしれんが
大学に飼い殺されなきゃね
大学に飼い殺されるって言うか、専門領域を同じくする連中とのやり取り、
大学雑務(まあこれは批評家になろうと大学勤務者なら同じだが)、
後進の育成のための一定の保守的な伝達の身振りにとりあえずとはいえ傾きすぎになったり
(研究領域レベルで言うと実証主義化するとか)、
そんなことを続けているうちに研究としても持続性が難しくなるって感じ。
その上、日本の大学の労働条件は欧米より悲惨だとかいう指摘もあるし、
根本的に象徴資本の蓄積と継承、批評的展開がジリ貧になりやすいんだろう。
美術、映画、演劇などなどとなると、学部環境の少なさ、母集団の少なさも反映されて、
基本テキストの翻訳の下地もやたら悲惨になっていたりして、もういろいろズタボロ。
思うに、眼前の国内における批評/研究の酷い乖離状況が、すでにある程度日本特有なんだと思うよ。
ユベルマンやクラウスにしても、彼彼女らは批評家でしょう。
だが、日本でああいう批評スタイルはかなり難しくなっちゃってる。
これは属人的に誰々の資質がというレベルどころではない悪循環なんじゃないかな。
でもまあ、大学教授になると年収1000万くらいあるんでしょ
本人次第ではやっていけそうだが
批評やってると美大の理論系の教員への足がかりになるところがあって、
完全それ狙いで名前を売ろうとしてるのがいるな。BTあたりで書いてるのはそんな感じだろう。
ふるやんもそのうち教員になるんだろうか
ジャナ専あたりで
内容はどうあれ、地道に続けてるのはさわらぎくらいなんだろうか
530 :
どいつもこいつも:2008/09/23(火) 13:48:03
>>392 >「宗教っぽいって言うか、不勉強。
だから、岡崎理論の各領域での展開してれば許されると思ってたり。
一言で言うとぬるい。 」
すいませんねえ。なんのことだかさっぱりわからないけど。
Review House2号の寄稿者陣が、すごいことになってるらしい
>批評やってると美大の理論系の教員への足がかりになるところがあって、
え、そんなルートあんの。よく知らないけど、アカポス争奪が厳しくなってて、
そういうのは無理なのかと思ってた。ミシェル・テヴォー『不実なる鏡』や
セルジュ・ティスロン『明るい部屋の謎』の訳をやってた青山勝ですら
NTTのマルチメディアセンターの研究員になってるぐらいだし。
大学勤務にこぎつけてる連中ってかなり少ないんじゃないかなあ。
最近、GEISAIの初期に村上のアシスタンスやってたドミニク・チェン
(経歴見るとカリフォルニア大学部卒、情報学環で院卒と、ある意味すげえ)が
ICCの研究運になったりGLOCOMのメンバーになったりふらふらした挙句、
東大の博士課程在籍中で学振研究員ってなってて、割と辛そうになってる。
俺は学芸員のポスト並みにきっつい状況になってると思ってた。
学芸員もまあ労働条件が悲惨で有名だけどさ。
それは、
>>392の自分の受講生知人についての印象批評だから、あんまり気にしなくていいんじゃないの。
石岡は表象だけど極貧
たぶんみんなそうなんだと思うよ
表象が優雅なボンボンの集まりってのは、蓮實が貴族とかその類のイメージだと思う
たしかに名家の人もいるけど
あと、このスレで言われてないけど、表象って
研究者に進む人もいるけど、それ以外の就職率も高いしね
ボンボンってイメージだけだといろいろ違うと思う
フルヤンにはそう見えたってことでは
古谷ってそんなこといってたっけ。
>>535-537が言ってるのは、スレに「表象=ボンボン」って空気あんのかな、と思ってのことかと。
蓮實のイメージが大きいだろうね。
渡辺とか松浦はどうなんだろう。
守章は文部官僚みたいな人
寿輝は江戸っ子秀才
寿夫は?
渡邊・松浦・蓮実となると、表象出身というより立ち上げ人だから、やっぱ別問題なんじゃない?
あと、新歴史主義のスティーヴン・グリーンブラットを訳してる
河合祥一郎みたいな人だって表象なんだし、いろいろなんじゃないかね
まあ、表象とそこの出身層がどうなるかというと、SITE ZEROや表象学会の
今後次第だから、正直イメージつかめん。
松浦寿夫が学生の頃は表象まだないでしょ。
勤務してるのも外語大だし、たしか語学教師じゃなかったかな。
教授だけど、まあ外語大だから語学教師で教授もありなんだろうね。
小林らとのつながりは、仏文つながりみたいなもの。
雑誌や批評的には割と表象立ち上げ世代とつながるし、
『モデルニテ 3×3』で小林・寿輝と対談してるけど、直接はあんまり関係ないんじゃないかしら。
仏文-仏美術の人って印象あるな。
>>544 岡崎とはどんな繋がりなのかな?
付き合い長そうだけど。
>>543 最近は田中純のイメージが強い
他はよく知らない
東浩紀も表象出身だっけ
>>545 それは、『絵画の準備を』あとがきなんかでも少し触れられてて、
松浦によると、出会ったのは1980年ごろとされている。昔から友達みたいね。
紙面で確認できる岡崎・松浦対談が出てくるのは、
モダニズムのハードコアに入ってるものと、
『絵画の準備を』第1章の対談の、1994年が最初で、
1984年の時点で松浦が岡崎個展評をBTに書いてるけれど、
付き合いそのものはもっと前からみたいだね。
>>547 Bゼミのサークルとか宇佐美圭司とかの繋がりなのかね
岡崎は宇佐美の秘蔵っ子だったとセゾンのカタログに書いてあった
>>546 最近はSITE ZEROもあるし、ユリイカなどで田中が書き散らかしてるのもあるしね。
田中は60年生まれだから、小林(50年生)、寿輝(1954年生)よりさらにちょっと後の世代。
田中が商業批評媒体で書いたのは、『建築雑誌』の1994年ごろが最初で、
その後、建築系→美術・美学→ユリイカ等 ってなっていく流れだから、
20歳代後半にしてすでに現代詩手帖あたりに訳やってた小林とかとは違って、
ゆっくり出てきた人。その意味でも90年代後半以降、田中の印象が強いんじゃない?
>>548 80年となると、それぞれ24,5歳の頃だから、大学にいた頃かBゼミにいるあたりだろうね。
まあ、美大連中が大学またいで友達作るのは割とあるだろうし。
宇佐美秘蔵っ子ってのはBゼミ終了前後なんじゃないかと勝手に思ってる。
南天子画廊は宇佐美経由で紹介されたのが、南天子で出すきっかけじゃないかと思う。
うろ覚えだけど、たしか宇佐美も南天子で個展やってたはずだし。
と、こんなにログを人脈話で使って言うのもなんだけど、
人脈話しててもしょうがないよね。
世代差、研究領域差を形成していく、大学&学部編成のアルケオロジーみたいな意味では興味あるけど。
でも、宇佐美の絵って地と図の反転やらシルエットで交換単位を作りまくるタイプの絵だから、
何だかんだ言って、岡崎は宇佐美の絵から学び、自分の道を作ったって気がするけどね。
だから、俺はあんまり喧嘩してるって印象はない。
宇佐美自身、岡崎に対しては友情みたいなの持ってるっぽい噂は聞いたことあるしさ。
553 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/23(火) 16:52:39
>>503 遅くなったけどありがとう
てか今日もスレ伸びるなあ
>>552 確かに絵の作り方は似てるかも
影響受けたがゆえに批判的になるみたいなのもあるんだろうね
影響の不安
>>554 そうそう。ある意味でもっと徹底化した、みたいな側面も感じるよね。
だから俺は、そんなに批判的関係、師弟対立って捉え方はしてない。
友情をもちながらも、俺はこれやるぞ、みたいな感じなんだろうと勝手に思ってるね。
>>516 外人と日本人って区別するからあやしくなる
クラウスだってフランス人の受け売りとか言って叩かれているんだよ
だから今のアメリカではかなりマイナー
それに理論系の人は引用がどうしても多くなる
>>556 >クラウスだってフランス人の受け売りとか言って叩かれている
だろうねえ、彼女は仏思想導入派みたいなもんだろうし。
あと、どうしても理論系はそもそもマイナーなもんだし、
理論だと社会学やフェミやポスコロみたいなのも人気になりやすいし、
ドクメンタだってそういう気配がすごく強くなってるんだし、
(近年のクラウスがこういった傾向につながってるのかは知らないが)
彼女みたいなタイプはさらにマイナーってのもあるんじゃないかな。
結局古谷さんが見ているのは泰西名画と身近なペインターだから、
本当は現代美術にも理論にも関心が薄いんだと思いますよ
そんな人にしてはよく頑張ったと褒めてやりたい
前田英樹が絵画や彫刻について書いた物を読むと、
20世紀美術に対する偏見に驚かされる
ちょっと古谷の趣味はそんなところがある
この流れでこんなこと言うと集中砲火浴びそうで恐いが
美術・映画批評はともかく古谷の文芸批評はそんなだめか?
青木淳吾論や岡田利規論はあんなけったいな作品を中々丁寧に読み解いてて、
他の批評家に比べても勉強不足の一言で切り捨てられるようなものではないと思うんだが。
例えばもし青木淳吾が将来「国文学」とかの枠組みで研究されるようになったとして(そんな日が来るかどうか怪しいが)、
その際古谷の論考は十分基礎文献足りうる質はあると思う。
それ位の意義のある仕事はしてるんじゃないか?
(ただ単に文芸批評、文学研究が「バカばかりの世界」なのかも知れないが)
そんな感じにやっぱりなるので、前向きに考えると、
>>456の言う総合スレ化とか、
英仏の映画・芸術・文学の理論・批評・動向に関する総合スレ化みたいな方向に
やんわ〜り持っていくのが、一番じゃないかしら。
話を切り出すときに
>>456の挙げた国内の人の論点から引っ張って、
全然別な方向にもっていったりとか(いきなり英仏の理論を、じゃあしゃべれって言われても難しいだろうし)。
古谷について話すと暗澹としてきているよ。
ただ、古谷には80年代以後の国内批評が露骨に反映されているので、
彼を叩き台にしながら、対比的に論点を移行させると、メリハリがつきそう。
>>560 あー、すまん。古谷の国内文学の言及はあんまりチェックしてないからわからん。
でもさ、作品評って実は、割と理論的なこと言わんでいい世界なんやけどね・・・。
相対的にマシっていう言い方がログに出てるけれど、
やっぱ相対的にいいとは言える古谷の分析もやっぱあると思うよ。
ウテナに関する分析とか、アニメ評とか見てると、オタク論壇みたいな世界よりはるかに読める内容を古谷は書くもの。
論点の掘り下げの持続力は弱いけど。
そもそも古谷は文芸批評に移行すべき
美術に関しては悪い意味で実作者寄りだから、
素人批評の素晴らしさが帳消しになってる
美術以外の方が向いていると思うのは、上手な批判が苦手な人だからなんだよね
画家という肩書きで異分野の評論を色々書く人になった方がいい
なるほどな、そういう見方もありなのか。
俺なんかは、映画・文学における蓮実、浅田の一定の覇権の後、
批評言説がかなり停滞して、グルメ的になってきていて
理論的視野やその切り開きが無くなってきているとみなしていて、
むしろ文芸批評をマジでやるとなると、古谷みたいな視角じゃ
国内言説の中でゆったりのんびりになるんじゃないかと思っちゃうから、そういう発想はなかった。
>>558 それでいいんじゃないですかね
美術の最新動向に詳しすぎるペインターってのもちょっとね・・
>>565 柄谷が文学は終わったと宣言しちゃった後で
コツコツやってる人って感じだよね
>>562 理論的なこと言わんでいいからあれだけ書けるんでしょ
理論を100枚書こうと思ったら大変だし、読者もいないでしょうな
>>566 でも無知すぎるから
中村一美とかああいう圏域の呪縛を逃れられないで終わりそう
高橋悠治じゃないけど「ことばをもって色をたちきれ」といいたい
あまり言われないけど、東のゲーム的リアリズムなんてのは、
柄谷と浅田の、あまりにも容易なメタ/オブジェクトの移行をそのまま、
あるいは露骨に容易さを高めたかたちで引き継いだものになってて、
そういう事態になってるからこそ、
蓮実派由来の古谷みたいな人は、メタ/オブジェクト間の往復にこだわる理論的かつ作品読解的な
ことをやってほしいんだけどな。
そういう関心からすると、エッセイ的にちょぼちょぼ作品評やってるだけでしょうもなく見える。
>>569 中村一美はあんまり好きじゃなさそうだけどね
>>569 いいこというなあ。高橋みたいな・・・なんていうんだろう、スパっと切る感じほしいなあ。
古谷には中村みたいな絵の呪縛はかなりあると思うよ。
>>570 >蓮実派由来の古谷みたいな人
古谷は蓮實派シネフィルが嫌いなんじゃないの
趣味の体系が真逆だし、蓮實が嫌いな「映像の作家」が好きじゃん
文学が終わっても文芸誌があって小説が書かれる限り、文芸評論ってどうしても必要なんだよね
そんな状況に適した人材では?
美術はBTくらいしか媒体がない
青土社の現代思想とユリイカが、
ある時期から原則として翻訳を載せなくなった
その悪弊はあるんじゃないかな
特に古谷みたいに外国語が苦手な人にとっては
そういや昔は松浦寿夫がBTで孤軍奮闘してたかな
翻訳にかんして
>>571 でもあの世代のペインターの重力圏を逃れていない
組立派がみんなそう
永瀬恭一とかも
>>577 それ圏外のペインターってどんなのがいる?
面白い人がいれば教えて欲しい
小山登美夫系とかになっちゃうのかな
>>578 なっちゃうかもね
ローゼン美沙子とかあの周辺は動きがありそう
結局単行本になった岡崎論って古谷のが最初じゃないの?
>>579 ローゼンと小山も似てるよね
同じ作家で展覧会してるし
582 :
570:2008/09/23(火) 18:36:33
>>573 うーん、ホークスやヒッチコックを中心にあるとは思えないって意味では
蓮実の趣味とはかなり違うんだけど、
細部読解のなまなましさでもってメタに対して保留とする、といった
読解手法、経験の構成の大筋では蓮実以降の中にあると思うよ。
かつて『アイデンティティー』って映画をめぐって
大寺眞輔と古谷が対立して議論になったことがあったけど、
あれだって要するにメタな視線が確保できるかできないかという対立で、
青山が、ええとなんだっけな『ロゼッタ』か何だったかを指して統覚の喪失だとか言ってたのに、
古谷がこれはまた違うんじゃないか、とか首突っ込んだりしてた。
青山-安井の言う統覚って、大形式としてのジャンルやその説話的ルールみたいなもので、
それが作品を生成させていた話なんで(後期ラカンのアプリオリな超越論的論理学を素朴にした感じ)、
作品や作品を見る経験を成立させるメタレベルをどう処理するかという問題設定をもってる意味では、
かなり青山、大寺らと近い圏域に属してる人だと思ってたんだけどね。
浅田、柄谷にすぐには見出せない蓮実派特有問題って、このへんなんだよ。
どうやってメタレベルを置くかっていう。
>>576 あったね。仏語のマチス論とか、英語のセザンヌ論とか訳してた。
>>582 対比がザックリしすぎているから、
浅田や柄谷と比べれば蓮實っぽいのは間違いないんじゃないかな
586 :
582:2008/09/23(火) 18:40:57
>対比がザックリしすぎている
それを言われるとつらい
古谷は『リュミエール』あたりの影響はかなりあると思うけど
蓮實じゃなくてロスト・イン・アメリカ一派か
あの人たちドグマティストすぎるんだよな
黒沢清とか高橋洋の、
シネアストだから許される大言壮語を真に受けると危ないと思うんだよね
正しい映画とか言っちゃうし
>>589 Bゼミ時代の学生でしょ
ちなみに岡崎はBゼミで彦坂に習ってたらしい
>>582 >細部読解のなまなましさでもってメタに対して保留とする、といった
>読解手法、経験の構成の大筋では蓮実以降の中にあると思うよ。
作品に平伏するとそうなるのでは
柄谷や浅田が作品をぶった切るやり方は乱暴だけどさ
593 :
582:2008/09/23(火) 18:46:15
>>588 でも、ジャンルのルールがあって、それが作品を生成させる、
ゆえにジャンルは映画に不可避、ってテーゼは蓮実が強調したものだから、
その議論の継続みたいな面もある。
ただし、蓮実のジャンル論はかなりへんてこで、ほぼ全部サスペンス=宙吊りになる。
ジャンル的説話論的持続/に対する剰余としての画面 とか、
持続を支えるのは宙吊りされた対象だとか。
たまに、あ、これ蓮実発想だよな、って思ったりするんだけどね、古谷の映画評見てると。
南川はうまく流行圏域に移行したね
>>593 ヒッチコックの再評価なんてそんな感じでしょ
昔はB級のサスペンス作家だったんだから
南川って誰だろう。南川史門のこと?
598 :
582:2008/09/23(火) 18:50:20
>>595 いや、これはヒッチコック論じゃないんだって。
蓮実にとってはアクション映画もメロドラマもこのサスペンスとしての読解形式にされちゃうから。
>南川史門
イギリスに似たような感じの作家がいたような、とか思っちゃった・・・
600 :
582:2008/09/23(火) 18:54:21
乱暴に言うと、蓮実特有のジャンル論のもとで 被覆蔵性/開示
の論法の変形版を蓮実は暗に使っててさ、
ロスト・イン・アメリカ一派の軸だった安井の議論って、
その開示を可能にする基底の話をしてるような感じだよ。
その意味ではいかにも蓮実派の展開だと思うんだけどな・・・
>>599 オサレ好きかつ勉強好きなんじゃないかな
YBAの取り入れ方とか
フルヤンはブラッケージとか向いてそうなんだけどな
>>600 「被覆蔵性/開示の論法」てのがわからん
解説求む
>>601 いや、リュック・タイマンス。って、ベルギーだねこいつ。
よく見ると全然違うかもしれないし、的外れかもしれないが。
>>605 ああ、複製画像をふわふわっと描く感じが似てるかもね
>タイマンス、南川
リヒター以後のみなさんたち、とつい呼んでしまいたくなる
現代画家よりはウテナの方が好きというわけで、
実は正しくポストモダンの人なのだった
>>608 日本人は右に習えだから、流行りだしたらみんなそっち行っちゃう
>>611 小山登美夫系の現代美術って、アカデミー趣味に抵触しないというか、
「現代美術は頭脳偏重で行き詰まった」みたいな粗雑な直観と良く馴染む
>>612 ふるやんの文芸批評みたいなもんかな
文学畑の人が読むと新鮮なんだろうね
ふるやんも現代美術は頭脳偏重とか思ってそうだ
だからあまり大差ない
ごく普通の美術作家
いまの現代美術って頭脳使ってないよな
感覚だけ
>>557 の人が言ってた状況は90年代に終わって、今は理論系総崩れ
そしてキュレーターの顔色を窺う時代
感覚に頼った結果アカデミー化している
ゴールドスミスとか
617 :
582:2008/09/23(火) 19:34:51
>>604 被覆蔵性/開示というよりは、
覆蔵性/非覆蔵性(開示) といった方が訳語に即してるな。
要するに、蓮実は隠れハイデゲリアン(しかし素朴)ではないかっていう話なんだけど、
経験不可能性・思考不可能性である、隠れなき・覆われなきアレーテイア(真理・真実)があることによって、
現れが可能になる、という。
これが、
>>353の「不可視たる作品全体」といった、不可視性として蓮実では翻案されてるように思う。
で、大寺なんかも当時指摘していたように、安井の言う統覚、シネマの理念、というのは
ラカンの「父の名」みたいになってるんだけど、これは、
ハイデガー→ラカンで引き継がれた不可能性、全体論的手続きを、
安井がおそらく漠然と、それとは知らずに追った結果なんだろうと思う。
顕彰される画面 = 全体としてのシニフィエの諸効果を指示するファロス
ジャンルの掟 = シニフィアンの総体を成立可能にする法である父の名
って感じで。
で、その流れで、しかし後期ラカンの議論だと
経験性と理論との絡み合いがあらかじめ抹消されちゃう危険を感じて、
生理学や身体論と、古谷はつなげようとしている・・という感じなんじゃないかなと。
俺は樫村をほとんど読んでないから明確にはわからないが、
>>341の言うように生理学とつながってるのなら、
古谷が岡崎の言説のなかでも生理学的なトレーニングめいた話に
よく言及するっていう偏りがあるのもすんなり理解できる。
>>616 マジかー、それしんどいねえ・・
キュレーターの力が増してるっていうのは、どういう局面になってるんだろ?
>>618 理論で押さえつける人がいないからキュレーターのやりたい放題になってるってことでは・・
現場で企画通すのはあいつらだし
>>618 米仏独だと理論系の人が睨みを利かせてるからまだマシなんだけど、
英国がやりたい放題になった
>>617 そのへんの連中無視すればいいじゃん
岡崎とか古谷とかだって
映画の趣味はたぶん奴らにフルボッコされるだろうけど、
どうでもいいんじゃないか
キューブリックを褒めてはいけないとか、
変なルールがウザイ
>>620-621 よく知らないので馬鹿なこと聞くけど、日本でBTみたいな馬鹿雑誌が力持ってる不幸
のアナロジーで想像すると、見当違いになっちゃうのかな?
624 :
582:2008/09/23(火) 19:56:41
いや、俺はロスト・イン・アメリカ派はあんまり興味ないんだけど、
全体性とメタ/オブジェクトみたいな議論で考えると、
一見かつ実質全く馬鹿な蓮実以降問題にも見える世界は、それなりに思想史的な反映物なんだってことね。
俺の乱暴な発想だと、そこでハイデガー〜デリダの領域を
コンパクトに持ち込んでるのが岡崎で、ゆえに蓮実的経験理論からの切断が利いてる、って思ってる。
しかもかなり独特なデリダ消化法なので、岡崎をさらに切り込んで、
岡崎が手を出せてない議論領域にまで踏み込めば面白いじゃないかと思うんだけどね。
>>623 BTは力持ってないよ
でもそういう現在の状況を反映している
正確に対応しているのはむしろエスクワイアとかブルータスの新富裕層路線じゃないかな
この板の趨勢的には芸術新潮みたいなコンサバが対抗馬になるのが泣ける
>>623 小山系が力持ってるのもそれに関係してる
BTは単なるカタログ誌だもん
ビジュアルで目立ってなんぼだから
>>625 あー、そうだね。例えとしてはその2誌の方がぴったりか。
たしかに泣ける構図だ。
米仏での理論側の苦境ってのは、英ほどじゃないってことで、
多少未来がある感じなのかな・・?
階層社会の現実が剥き出しになったこと自体は悪くない
でも最近コレクターが出しゃばりすぎ
>>627 フランスはポンピドゥーのカタログが頑張っている
英語アレルギーは完全に克服されています
>>629 世襲の連中が多いからそうは言えない
別にああいう人たちはいていいけど、
問題なのは彼らが美術を骨董に帰着させていること
昔は岡崎も「FRAME」って雑誌やってたらしいけど
今はreview houseって言ったってレビュー誌だしな
>>631 でもまあ売れるだけマシだとも言える
コレクターのセンスは悪いけど
>>620-621 >>625 >>628 >>631 俺は美術の市場、投機性、その支配力の強さや動向についてはよく知らないけど、
なんだか読んでると、上流階級に憧れる中高年女性が白州正子や須賀敦子やら、
美文的な作品が大好き、っていうのを連想しちゃうな。
支配力や影響力のもつ甚大な被害ということでいうと、文芸の比じゃないんだろうけど。
ふるやんも岡崎もあまり作品売れないんだろうね
まだ数十万の世界でしょ
>>632 >今はreview houseって言ったってレビュー誌だしな
よく知らないけど、レヴュー雑誌、ジャーナルをしなければ、っていう傾向すごく強いよね。
シネフィル側もまったくそう。興行的支え、市場上支援をしなきゃ、みたいなベクトルが強い。
で、理論は停滞するという。
>>636-637 ぶっちゃけ、そんなに林さんって面白い?
トゥオンブリのセミナー冊子読んで、今ひとつだったんだけど。
>>634 >白州正子
全くその通りで、でも実際の上層階層もそんなもんだ
ようするに批評家がウダウダ言うよりコレクターが買う方が作家を支配できる
キュレーターも作家とコラボレーションするから敵対関係は生まれない
批評がなぜか敵を作る行為に見えているのが、日本の貧しさ
>>639 林って現状ではリファレンスが完璧に近い人だと思う
そこにエネルギー割きすぎているけど
うん、真面目ってのはわかるから、決して軽蔑はしないんだけどね。
>>642 他のエントリー見ればわかるけど、
こういう陰湿なファンばかりなんだよな
岡崎叩きってテンプレ化してるから刺激がない。近年では古谷の叩き方がちょっと目に付くぐらいで。
>>640 力のあるコレクターの趣味が、下部構造になってるような感じか。
でも、コレクター側の趣味を変化させる運動って、至難じゃない?
日本だとミュージアムの機能が相対的に低く、コレクターの力が強すぎるみたいな意味もあるのかな。
林さんはオーガナイザーになっているから、
あの周辺が面白い
たぶんReview Houseもその成果ではないか
>>642のブログって、他の記事読むと、
>>559と
>>614の言うような層を
さらに馬鹿にして感覚も悲惨にしたようなもんじゃないの。話にならん。
俺は岡崎作品が好きなんだけどな・・・
>>649 岡崎には彫刻と絵画でフォルムの扱いの差がどこにあるのかわからないから、答えにくいな。
どっちも大好きだけど、どうしても選べっていうなら絵画の方かな。
彫刻の方は絵画よりその場で経験もないし。
夕食どきになてぴたっと書き込みが止まったね。
意外とここにいる人たち齢いってるとみるんだけど、どうよ?
654 :
652:2008/09/23(火) 20:38:59
20代後半〜30代前半ってところじゃない?
>>647 ミュージアムの人は批評じゃなくてコレクション形成が肝
かつての批評空間熟読系
批評空間にしても、雑誌は熟読するもんじゃないでしょ
『レフト・アローン』での花咲が言ったその用語は、
むしろ「熟読するものを雑誌しか知らない馬鹿」という意味で、
発言者当人の意図を超えて、別の皮肉で読めたが。
批評空間が続いてたらふるやんの文体も変わったんだろうな
浅田が赤入れまくってさ
663 :
647:2008/09/23(火) 20:49:18
>>657 そうなんだけど、売り買いになるって意味で、
ミュージアムのコレクションもまた市場の一要素であり、
かつ、批評言説によって見出される価値形成の影響下にありうるのかな、と。
したがって、ミュージアムの持てる力が弱いと、個人コレクターがもつ影響力がより強まるんだ、
という筋立てを想像してた。 ・・・・・思いっきり見当違いかもしれないが。
古谷が英語をやっていない弊害は、
モダニズムのハードコア熟読系になっていること
>>663 それはその通り
近現代の美術史はミュージアムが頑張らないと無惨なことになる
とくに永瀬あたりにとっては、いまだに藤枝が重要なのではないか
地頭はメチャクチャいいでしょ
>>670 駒場高校から芸術高校ってのが独立してるらしいから
美術に力入れてる学校だったのかもね
気がつけば、美術動向は市場とコレクターとキュレイターによる支配が強く、
ろくなことになってないという暗澹たる話になってるな。事実だけども。
このスレには英仏の美術理論・批評を読んでる人が
ちらほらいるみたいだけど
こいつはなかなか面白いってのある?
後学のために聞かせてもらえるとうれしい
偏っているけどいまだにオクトーバー派が強いです
なんなら彼らが書いた20世紀美術史があるので、
それを買うのもいいでしょう
Art since 1900
>>674 あ、その太目の本は知ってた。いい本なんだね。今度買って読んでみよう。ありがとー
ハル・フォスター編集か
フォスター編の本は邦訳もあったな
オクトーバー派と英仏的映画批評がクロスオーバーしてる人とかいないのかな。
Senses of cinemaとか読んでてもさっぱりつながらなくて困る
ああ、DIAが出してたやつね。訳されてないものとかもあったな。
フォスター個人はどうなんだろ。
『リアルなものへの回帰』とかいう単著もあったっぽいけど。
タイトルから見て、ラカン派なんかしら。
そういえば、クレーリーの本から視覚論が割と流行って、
マーティン・ジェイみたいな人まで視覚論やってたとか聞いたが、
ジェイも広く言えばオクトーバー近辺扱いになるのかな。本来、美術の人じゃないけど。
>>677 オクトーバーはもともと実験映画系だから、
物語映画とは一定の距離がある
雑誌名がエイゼンシュテインの中で一番観念的といわれる『十月』だから
蓮實と一番食い合わせが悪い
よって日本の映画理論にその文脈は誰もいない
ジェイは観念史・知性史の人
『観察者の系譜』も最初十月社刊だったよなw
682 :
677:2008/09/23(火) 21:29:16
>>679 たしかにそうだけど、かつてはオクトーバーにも
ミハイル・ヤンポリンスキー、ピーター・ウォレン、クリスチャン・メッツ、
ジジェクなんかも載ったことあるし、
オクトーバー編集委員にはゴダール論もやってるカジャ・シルヴァーマンもいたし、
全く無縁ってことでもないのでは。
クラウスにも時間的なものに関する議論があって、
『視覚論』所収論文では、一種映画っぽい議論やってなかったっけ。
まあ、物語映画というよりはアニメ、パラパラ漫画のコマみたいな話だけど。
>>680 たしかにそうだな。美術批評っていうのとはかなり違うか。
フォスターの「視覚論」は文庫になってるな
>>682 逆にsenses of cinemaで何読めばいいのか教えてよ
雑駁な質問なので文脈がわかりにくい
私見ではメアリー・アン・ドーンとかがそれっぽい
>>682 パラパラ漫画みたいな議論って岡崎派がよく使うね
>>686 誰が?
具体化しないと宗教っぽいとかそういう曖昧な叩きにもなりかねない
>>685 >逆にsenses of cinemaで何読めばいいのか教えてよ
俺もよくわかんなくてね、読んでも読んでも当たりだと思ったことがない。
そんで仕方なく作家主義的に関連情報集めてるだけだな。
ストローブについてとか、ゴダールについての情報集めみたいな。とても理論的とは言いがたい。
じゃあTraficやRougeがどうかっていうと、そんなに読んでないけど、
根本的に理論的じゃない体質で・・・・。
映画理論と映画批評って英仏語圏内でもどうなってんだ感が、不勉強な俺でもある。
>>690 オクトーバーの創設者アネット・マイケルソンは、
日本だとアンダーグラウンド映画の文脈で知られていて、
ジガ・ヴェルトフ英訳の編者。
その流れにあなたが興味薄いのなら、
オクトーバー派のコアメンバーの関心とは交わりにくいのではないかな
>>691 「フェルメール、マンガとしての」って題でブログに書いてる
>>686>>688 まあ岡崎自身、クラウスのあの論文を『絵画の準備を』で取り上げたり、
パラパラ漫画云々の言い方をよくするしね。
ちなみに岡崎監修美術手帖2008.08の写真論コーナーは、
フリードの写真論を下敷きにしてたんだっけな。しっかり対照してないから自信ないが。
>>687 前田さんのところで訳されたやつか。こんなのが訳されてたとは知らなかった、読んでみよう。
教えてくれてありがとう。
クラウスのビデオ論は石岡もやってた
>>685 ドーンって、『アンチ・スペクタクル』にマレーに関する論文が一本訳されてるあいつか。
たしかにこれなら直接つながりそうだね。
俺の個人的な関心とも妙に呼応するし。
一旦、このへんとオクトーバー派の)映像論をじっくり読んで考えてみようかな。
俺は正確には物語映画そのものよりも、物語ともつかない方向でコンパクトになっていく方向が好きだから、
オクトーバー派の映像論を経由した方が、映画批評を無理矢理翻案してるよりは
近道なのかもしれないな。自分の勉強路線を改めようかなw
とりあえずボードウェルは反動だから距離置くべきw
あっさり読んで叩き台に使って捨てる、みたいなことになってるよねw
ボードウェルが認知科学系と接近してたって昔聞いたけど、あれは一体どんな成果だったんだろ
ポスト構造主義は外来思想だから我々はアメリカ本来の実証路線で行くべきって発想
そりゃ反動きわまりないねぇ
例えばドゥルーズはヘーゲリアン的観念論だから読む価値なしとかそんな感じで
驚異的にレスが増えてるけど、どうやらスレ違いのようだけど?w
>>700 とはいえ微妙に板違いなので、美術の話をしてくださいよ
オクトーバー派はインスタレーションの映像を考えようとしているんだから
蓮實とかその弟子ってあのへん全否定でしょ
>>705 そりゃひどいわw
あーでも、蓮実をグロテスクにすると似たようなもんかもしれんな。
>>697 バーチかぁ。そういえば気がつけば読まずに済ましていた論者の一人だな。
Theory of Film Practiceか、代表的な論文でも読んでみよう。
>>706 古谷の批評は映画が多いからこうなるのかも
>>707 そうだね。言うべきことももう無いので、自重する。
でもどうなんだろう、ジャンル映画の議論の枠が嫌いな俺なんかは、
再現前や朗読の形式として映画を見てるって感じなんで、
その骨格で捨象するとインスタレーション美術とそんなに差が無いという気もするんだけど。
ただ、うまくここでインスタレーション映像との類比、接続を語れれば
面白いんだろうけど、それをできるだけの引き出しがいま無いな。
・・・というわけでROMります。すんませんでした。
>>693 >フェルメール、マンガとしての
読んだ。
この人はめずらしく知的コンプが薄いね。
作品がどうなのかはわからないけれども。
>>710 ROMらなくてもいいと思いますよ
インスタレーションを理論的に考えている人って日本には皆無ですから
全否定の人が多いし
スレ違いついでに聞くが、写真論でいい人ってだれかいる?
やっぱり清水穣とか?
だめでしょ
Photographer's Gallery関連から出てくるかどうかという感じ
前川周辺ですな
ここにも平倉が
>>715 その前の号だっけ
フリードの写真論が載ってたの
平倉はphotographers' gallery でプロジェクター使いながら
セミナーみたいなことやってたり、こことつながりあるから。
ふるやん、横浜行かないのか?
>>717 うん、6号でフリード「ロラン・バルトのプンクトゥム」邦訳が載った。
>>720 面白かった?
読んでみなきゃとは思ってるんだが。
「ビートたけしと相米慎二」を尊敬する中学生ってのもすごいなw
>>723 いや、なんとなく。行ってもどうせ文句しか出ないだろうが。
>>725 そう、横トリ。前回とか行ってたっけ?
マイケル・フリードがジェフ・ウォール好きと聞いて
全く関係ないんだが、破綻したリーマンを野村ホールディングスが2000億で買収したとな。
これ聞いて思ったんだが、やっぱ山形浩生って年収3000万くらいなんだろうか...凹む
彼は唯一の勝ち組だ
あんな差別主義者どうでもいいよ
バロウズのことわかっちゃいない
アキレスと亀を画家が褒めるわけないよな
>>734 自分と重ね合わせて嫌になっちゃったのかな
たけしの偏見もありふれているけどね
例によって現代美術を腐すあたりとか
まあ、誰でもピカソでもロクな作品見てないからな
HANA-BIは嫌いじゃないが、DOLLSなんて見られたもんじゃなかったしなあ。
それ以降は見てない。見てないが「『HANA-BI』がはてしなく弛緩した結果」というのは分かる気がする。
たけしはゴダール見ても分からなかったらしいしね。ゴダール夫妻はHANA-BIを褒めてたらしいが。
ただ、フルヤンの批評が生理的好悪を超えていかないこともよくわかる
本買ってきた
序文で引きこもり宣言しているのに吹いた
742 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/25(木) 00:01:48
フルヤンは別にレビューナンタラに
寄稿してるわけではないんだよね?
興味持てるのは、石岡が寄稿するってことだけだな・・
マジ?
746 :
744:2008/09/25(木) 00:49:08
俺の関心が狭いだけかもしれんけど
モリスってロバート?
ウィリアムの方じゃない?
石岡ならどっちもありそうで困るw
まあ、ロバートだろう
黒瀬はウィリアムには興味無さそうだ
じゃあレビューというより論文になるか
つながりがわからず、一瞬混乱してしまったが、
>>750 黒瀬は「ゴジラ」ですよ。あのリストでは。
石岡記事はウィリアム に俺は一票
その場合は装飾論ね
柄谷がアーツ&クラフト運動に興味もってるし、
岡崎は昔から民芸論や実用性/美 とかで取り上げていたから、そっち経由かと思った。
装飾論もありうるね。そういえば、moduleにも転載されていたが、
石岡にはアドルフ・モース論を書いたことがあるのだった。
アドルフ・ロースか。途中からマルセル・モースと混ざったw
黒瀬とリンクしてるんだ
世の中狭いな
あ、そうか、黒瀬はReview Houseの編集に関わってるのか。
>>750の言ってたのはそういうことね。
浅田を通して磯崎につながりもあるみたいだし、本当に世の中狭いな。
この期に及んで結局浅田と浅田が押す磯崎がクローズアップされるのかよ、、、
という感想はある
中谷も雑誌で磯崎特集編集したらしいしね
Review Houseってなんかポリシーが感じられない
磯崎は晩年だからじゃないの
でもどうせビッグネームがいない創刊号には興味なかったんじゃないの?
ネットでの話題性っていつもそんなじゃん
中ザワヒデキインタビューは読みたい
結局個人的に興味持つか持たないかってことだけであって、別に誰が書いていようがいいんじゃね
だな
そういえば、reviewhouseはともかく、黒瀬の名が何度か出てるけれど、みんな黒瀬のことはどう思ってるの?
この人って、紙面で読める批評文は『思想地図』にしかないんだっけ。
ふつうに美術好きでは。村上隆論とかやるとよさそう。
逆遠近法の話は岡崎を彷彿とさせると思った
実際、サワラギのやり残したフォルムの問題とPC、政治的主題の再検討と、
そこで岡崎とサワラギの間にいて奮闘してる・・・という紹介のされ方をしているしね。
俺は思想地図掲載論文は読んでないし、チキによるインタヴューぐらいしか見てないので、
美術批評・理論のアプローチで、断片化したアニメ作品における描線の運動性や
フォルム、空間の問題を扱いたい、と言ってるぐらいしか印象がなかったんだけど。
ただ、アニメの下絵の運動感とかいうのは、割と岡崎の漫画への感覚と似てると思ったな。
というか、俺ははじめて岡崎の文章読んだとき、漫画みたいだなとか思ってたんだが。
で、インタヴューではなぜかキャラという言葉が出てなかったんで、
東のような扱いとは異なる方向でキャラ論を暗に突付いている古谷、岡崎をどう見てるのかわかんなかったけど、
浅田による磯崎・黒瀬会談の記述では、建築意匠のファサードや装飾のキャラ性・・・記号性みたいなものを
グローバル経済におけるコ^ルハースの中国電子台のイコン性の機能みたいな面で言及していたみたいで、
一体、どういうことやりたがってるのかな、とね。
石岡がモリス論を書くっていうのもそこが絡んでるのかな。
>>772 >サワラギのやり残したフォルムの問題
って何?
>>773 インタヴューによると、なるほど「日本ゼロ年」展なとで成田亨や高山良策らの造形が注目された、
しかし、サワラギではそれらを"日本近代における美術の「怪物性」・いびつさ"として語るのみで、
どういう造形であり、どういう意味で面白いのか、どういう歴史性がそこにあるのか、といった分析が無い。
テーマを設定し、それを説明するためのケーススタディではその分析ができない。
そこはやられないままに残されているんじゃないか、って話。
そういや古谷って東の圏域について頑なに言及しないよな
というかインタビューで言っているだけで論考という形にしていないかぎり、まだ仕事の中身とはいえんな。
これからだろう。俺的には、黒瀬の発言にはなーんか奇異なエゴを感じるので、用心してみているが
>>774 たしかに思想地図や福嶋などについては全く語らないでいるけど、
偽日記を「キャラ」あるいは「キャラクター」で検索すると、
東の言う スペック・設定から出力されるキャラ に抵抗するようにして、
キャラが作品内で固有性を獲得していって動きだすプロセス について記述しようとしていたり、
動物化〜ゲーム的あたりのキャラ論には、批判的に応答してる気が。
>>776 >これからだろう
まったくだね。その意味では言及対象に選んでもしょうがないかも。話振っておいて何だけど。
平倉弟子筋系?
うーん、平倉とつながりがあるのがむしろ驚きだったけどね。
学部:京都造形→院:芸大なんで、平倉が院を駒場の情報学環から出てるのとでは、関係ないんじゃない?
黒瀬は福嶋にメール送って付き合いができたって言ってるから、似たような感じかと。
黒瀬に関してはいろんなアイデアの萌芽はあるみたいだけど
まだ自分でも頭の中が整理されてない感じ
年齢的なものだろうけどな
>>782 平倉も一応創作系だから、学校を超えたつながりってあるんじゃないの
平倉の作品って見たこと無いけどどうなんだろうね
デザインの真似事みたいなこともやってるみたいだが
黒瀬話題について触れてても妙に話が縮小しそうなので、
思いっきり関係ないことを言うけどさ、PCとか政治的主題にも関わるけど、
アトミック・サンシャインの巡回展が8月に日本にも来てたんだね。
俺、このキュレイターの渡辺がなんとなく好きで、たまーにブログとか読んでたんだけど、
美術批評側からのコミットってあったのかな。
古谷も黒瀬も触れるような感じのテーマじゃないんだろうけど。
>>785 平倉はドローイング書いてる人ってイメージより、
VJ的にゴダールなどをいじって、作品を再提示するのを議論と絡ませる作家っぽい批評スタンスの人って印象が。
福島とか黒瀬が、ニコニコ動画でのネタ系やアニメばかりの一極集中を背景に、
「現状をかんがみてニコニコのコメント機能とかタグ機能に触れようか」とか言うよりも、
どう考えてもニコニコ動画では回転しそうにない映画・ドロイーングの平倉が、
「誰もやってないけど、こういうのもできるのに」とか言いながら無理やり触れた方が面白そうなのにな。
現状の話なんて、誰でも知ってるし、ぶっちゃけ読まなくても予想できる話ばかりだろうよと。
>>787 そうだね。
若い世代はニコニコニコニコうるさい。
東以降の流れで現状分析に力いれすぎなんだよ。
誰かも言ってたが芸術が社会学の分析対象になったらおしまいなわけで。
俺はドーンのマレー論やはたしかに面白いかも、とか(ガニングの初期映画論とか、クラウスのとか)、
固有性を剥ぎ取って短く映画のいくつかの達成を動画で置き換えたら
インスタレーション映像ともある程度接続できるだろうし、面白いんじゃないかな、とか書いたけど、
こういうのこそニコニコを逆手にとってやってみると、こんな案もある、
っていうか、やってみた、みたいな論が出てもいいのにね。
黒瀬も別に萌えアニメを語る必要もなかろうに、とか。
平倉が蓮実派みたいな層と比べて相対的に面白いのは、
そうやって手を動かしてなんかでっちあげるスタイルだし。
しかし世代論に還元してはいかんだろう
東の悪癖を繰り返してどうするの
また言われたw
>>786 >アトミック・サンシャイン
岡崎なら触れそう
>>794 キュレーターの渡部ってNYに住んでる人でね。ブログ見てると、
日本人キュレーターには珍しいタイプで面白いんだよ。
法と宗教の関係で、アメリカと日本の差について下書き的に書いたり、
酒井直樹に訪問したり、ボリス・グロイスと親交までもってるし。
オクトーバー派の美術批評とは親しくないみたいだけど、いろいろ才気を感じさせる人だった。
ふと、何となく話しているイスラムと井筒の論について外人と話してたとか、
大川周明のドキュメンタリー案練ってる在米日本人のエピソードとか出てきて、
えー何、このフットワーク、って感じでびっくりする。
>>795 日本だとKY扱いで黙殺されそうだな
もったいない
>>793 ガニングとクラウスだからちょっとそう思った
しかし最近アーティストはみんな9条を支持しなくちゃいけないような変な空気があるな
結局岡崎もPCから逃れられない
そういえば、たしかにイラク派兵当時、module分離サイトみたいなランダムなんとかで、
派兵反対デモやったり、何か書いたりしてて、9条支持になってたね・・
阿呆な開き直りでもなく、いかにも左派的な9条擁護でもなく、
面白い議論が美術・映画近辺ででてきてもいいのにね。
最近はその領域も宮台とかに持ってかれちゃってるような。
>>801 そうかな
岡崎の戦争反対の論理って循環論法じゃね?
いや、政治的話題に絡むだけでPCとみなすのは短絡だろう
まあそんなわけでその件の渡辺さんも嫌われるとみたね
>>802 論壇人にならないとそういうのは無理でしょう
でもこのスレはそういうの嫌いな人が多いはず
その筆頭が古谷
たしかにそうかも。そこは俺も短絡的だったね。
>>805 そうでもないと思うよ。
国防問題、軍備肯定の普通の共和制、といった政治体制の議論じゃなくても、
岡崎みたいに表象の問題として扱ってもいいじゃない。
『9.11-8.15日本心中』パンフに載せた岡崎の文章がどんなものかは見てないから知らないけど、
どうせ岡崎のことだから、一捻りしてあるように思うし。
俺も戦争は嫌だけどさ
問答無用で戦争反対!って馬鹿騒ぎするのには付き合いきれんところがある
『世界へと滲み出す脳』十六ページ
つまり、そもそも「感覚の質」などという統一され、確定された何ものかが確実に存在するわけではなく、それは《確率的━熱力学的》にしか作動しない不安定なものであり、
そこに辛うじて安定を与えているのは、たんに、それが大方の専門家や目利きの意見であるから(つまり常識であるから)とか、実際にマティスの手によるものであることが科学的に証明されたからとか、そのような外的、社会的な状況証拠でしかなく、
それを支える権威への依存の感情でしかないということだ(私の意識の統一さえも、実はそのような他者への依存の感情によって可能になっている)。
810 :
809:2008/09/25(木) 21:21:08
こう書いちゃうフルヤンにとって、
社会的な次元はぶっちゃけ否定的もののように思える
樫村は資本主義について考えているからこんな文脈ではなかった
フルヤンの創造的誤読ですね
引きこもり宣言に読めるんだぜ
>>809 まあ、そのへんは蓮実派やシネフィルの大方と似てて、外在的なコードであるテーマ批評なんて、
作品の内在性を生きてないから駄目、ってノリだろうね。
でも、『太陽』とかになると、不安定で不確定などっちつかずの存在として昭和天皇が出てくるから
(そのため、太田出版の公式ガイド本では宮台ですら「奇跡」のごとき不確定な空間になってて、
わけわかんないすごさがあるとか言い出してて異彩を放ってるのだが)、
そういう外在的な安定的コードからの読解、って感じじゃないよ。
大浦にしても「自画像」とか変なこといってるわけでしょう。
こういう変さ加減の危うさ、面白さは、古谷みたいな人間こそ悩みながら楽しめると思うんだけどね。
このあとグリーンバーグとフリードを引用しているところも創造的誤読ですね
>>815 いや、リシャール〜蓮実のテマティスムのことじゃなくて、
いわゆる作品のテーマ、って意味でのテーマ批評ね。
>>816 表層批評って、内在分析より荒唐無稽な仕掛けなんだぜ
外的なコードを用いるし
まあいわんとすることはわかる
>>817 あ、そうか。蓮実の場合だと妙に往復して変な錯綜してたか。
乱暴にまとめすぎたかもしれないな。
内在批評は勉強しなくてもできるからね
>>809これは素朴すぎる
俗流小林秀雄じゃないか
>>820 古谷の素朴さはもう、言っても詮無いこと・・・
とか言いたくなるシニカルさに達してきた。
結局、すぐ素朴なところに逃げ込むような。
>>777で東と対比的に語ってはみたけれど、これにしたって批判というよりも
「好一対」とでも言うべき相補的な関係になって、揺るがすことなく容易に収まる構図になりかねんし。
古谷は目標設定の目線が低すぎるように思う。
あまり無茶しないで分をわきまえる人なんだろうな
24日のエントリーも809のような発想につなげて考えるのではないか
>>820 構造に躓いた<私>の特権化ですか?
古谷さんはそういう下品な批評を
嫌うはずだけど。
多少下品なほうが面白いですがね
>>824 樫村だって電波の引きこもりだが、原信憑としての社会という話が台無しに
社会だって脳の働きなのにそっちは都合よく無視しちゃう
樫村はミクロとマクロの二つのセリーの関係を考えている
どっちも脳で生じている
828 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/25(木) 22:42:06
他者に依存している
ていう言い方がややキツいかなと思います
依存もなにも
構造的な問題であって
他者依存という構造を批判するなら
もっと明解な文体が望ましいのでは
829 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/25(木) 22:44:53
恋愛や結婚は他者への
依存だ
こうなると完全にオウム脳
最近愛についてよく語るようになったね
演劇やってる人と付き合ってるのか?
この人はUFOについてもっと書くべきだ。
イメージの荒野を
さまよう巡礼者のごとく
ジャンルの境界線を
超えて思考する。
世界へと滲み出す脳 投稿者:保坂和志 投稿日:2008/07/07(Mon) 18:46 No.236
「偽日記」の古谷利裕さんの最初の本が出ました。
わたしがたいていの批評を嫌いなのは、高みから見下ろすタイプか、
自己卑下しつつずるく立ち回るタイプかのどちらかの文章か、
(あるいは、そのどちらとも同じ意味なのかもしれないけど、
仲間意識に訴えかけるみたいな文章)が多いからなんだけど、
この本はひとりできっちり作品と向き合ってて、すごく爽やかで、
「自分もこういう態度で、いい作品を読んだり見たりしたい。
だから、まず、いい作品に出合いに行こう。」という気持ちになります。
今後、この本が批評の基準というか、そういうものになるんじゃないかと思う。
岡崎に対してはあんまり爽やかじゃないだろう
保坂って『言葉の外へ』(だったかな)ぐらいしか読んだことないけど、
言及するほどの人かって思う。80年代以降の小説観・美学みたいなものに、
なんとなーく寄り添う+古典・教養も気にしてますよアピール+センスで後はしのぐ
ってだけの人じゃない? 頭も大してよくないし。
838 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/26(金) 20:00:19
センスでしのぐっていうより力技で強引にねじ伏せるって感じだな
確かに批評家からみたら頭悪っ!って感じなんだろうけど
実作者からしたらああいう風に芸術を肯定してくれるのって心強い部分があるんでしょう
実際保坂に影響受けてる若い書き手って(いそけんとか岡田利規以外にも)多いらしいし
まあ合わないと思ったんなら読まなくていいと思う
現在つくられている多くの作品は、「作品」というものが、
「未だ、ここに居ない者」をひっそりと「待っている」ものだという、
作品の最も貴重な側面を、あまりにもないがしろにしているように、ぼくには思われる。
現代作家の作品が、ただ「現代」を表現するだけのものであるのならば、そんなものは観るに値しない。
書籍のp.228のとこか。
もう少し前の方も引用するかな
ちょっとこれは……
作品は、内的関係を維持し、「待つ」という性質によって、
生きている我々が必然的に捕らわれている「同時代」や「現代」を逃れる力をもつ。
現在が我々「生きるもの」に強要する「同調」という強力な圧力から逃れる力をもつ。
生きている者は、生きつづけたいのであれば、現在が突きつけて来る外的環境に対応するしかない。
しかし作品は、現在とはまったく別種の時間をもつことが出来る。
これが「作品」というもののもつ、もっともうつくしくて貴重な側面だと思う。
作品は、やはりなにかしらの表現であり、コミュニケーションの手段ではあるのだろうが、
しかしそれは、「現在」という時制の縛りから、あるいは時間そのものから逃れるコミュニケーションなのだ。
自律性を求める気持ちは非常によくわかるんだけど、
その二分法だけだと、アクチュアリティを自律性とどう絡めて考えるかというのが無くなっちゃうな。
内にこもれば勝ち、みたいな感じ。あと社会的な次元が外部になってる。
バフチン読むべき
前に誰かが言ってたが、70歳超えてから勝負するつもりっぽい
熊谷守一路線
>>844 そうそう。
>>809と同じ二分法、逃避の仕方になってるよね。
で、作品内部=作品素材の固有性みたいになってて、
それをいじれば、即自律できるというふうにもなりかねない。
むしろ重要なのは、そのような固有性や内外の境界画定が書き直されるような契機に満ちていることではないか。
岡崎じゃなくて保坂なんだな
>>847 映画論ではもう少しちゃんとしているような気がした
岡崎は、作品の、芸術の自律性がまずありき、とはできない、
それは出来事として到来することしかできない、したがって、
いかにして出来事が到来しうるのか、と考えるからね。
こうすれば自律的になる、という発想をかなり意識的に拒否してる。
>>849 そこは、"読む際には"、世俗的なことと映像固有性をどっちも混ぜるからだよ。
映画批評っておおむねそういう風習だったから。
自分が書く際、作る際になると、自律性の領域を確定できるかのように逃げ込んでるんだろうと思う。
この人、自分の制作のときと読むときが意外に違ってて、
自分の制作、あるいは自分の制作手法に直接近いものとなると、いきなり素朴になり、
読むときには別のスタンスに切り替わるところがあるんだよ。
グリーンバーギアンってことなんだろう
>>851 岡崎論に言えるけど、理論の否認があるんじゃないかね
>>851 その意味では横尾を叩くかに見えて褒めている文章は、
いい意味で古谷理論を裏切ってる気がした
でも横尾はしょせん他人事だからか……
>>854 そっか、それは楽しみだ。
本を注文したから、届いたらいずれじっくり読んでみるよ。
>>855 あー、たしかにスタイルっていうか、使ってる手法の範囲、全然違うかもね・・
ポストモダンに触れるときには憎しみすらこもってるから、てっきり横尾フルボッコかと思ったんだが
>>846 やっぱりロバート・モリスだったかw
石岡の原稿
あ、ウィリアム説外れたw
「自己のスキャニング」って岡崎っぽいな
>>853 でも、こうすれば自律的たりうる、という暗黙の前提らしきものが垣間見えるのは、
すでに理論的なものと同じじゃないかな。
制作に関して、一見経験を重視してるように見えるけど実は理論的ということかな
>>862 岡崎論で、やたらと「岡崎理論」を忌み嫌ってて不自然きわまりないと思ったんだ
そこで樫村を「創造的誤読」することによって社会から切り離された自律性を確保している
>>863 いや、そこはカントなんかが数学の概念すらも、主体は構成能力を発揮して理解するのだ、と
いうような意味で、経験がすでに主体からの構成とある程度関わりながら成立していると思うのね。
その意味では、理論、、つまり対象を構成し、把握する技法、と
経験というのはそう簡単に切れないと思うよ。
俺は蓮実の基礎命題が云々とずっと言ってるんだけど、それは、
いかにも反理論的な経験論にも見える蓮実にあっても、経験の構成能力の組織化があるって意味合いでね。
趣味的なものはかなりそぎ落としたレベルの話で、なお、そこで見出されている・形成されている経験は
同時に理論的、構成的なものなんだと。
同じように、経験の話をしている古谷にしても、構成能力、そしてそこに潜む前提的な対立構造はあるんだってことね。
必ずしも体系的でもなく、演繹的に行使されるわけでもないけれど、一種の理論性は不可避だって話。
>>865 >「ロバート・モリスと制作の現象学」
なんか、すげえ面白そうだねこれ。
はすみは思考の動体視力でいいんじゃね
>>864 まあ、そこは、別様の言い方で、
岡崎の実作と理論は、全部対応するわけじゃないよ、と言ってるようにも読めるけどね。
ただ、岡崎の理論言説を、ほとんど読めてねーな、こいつ、とはしばしば思う。
理解したうえで、さらに別の立場って感じしないもの。
>>869 二枚組が嫌いみたいだしな
自作に引きつけているのだろう
>>853=
>>864 ああ、つなげて読んで、意味をとりちがえていたのに気づいた。
岡崎理論を、理論への忌避からも、拒否してるって意味合いね。
でも、うーん、樫村だって理論だろう・・・
古谷の好みって意味ならわかるけど。
>>871 岡崎が自作を理論的に解説したことなんかないと思うんだがな
そういうの慎重に避けているように見えるし
それはもう、露骨に避けてるよ。
たしか多摩美でおこなわれた2003年ぐらいかな?シンポイベントがあって、
石岡も出席して、ほかに多摩美の院生たち(たしかコミュニティカレッジ一期生の主導陣)が企画したやつで、
古谷も見に行って日記に残してるのがあるけど、
岡崎がゲストで来ていてね。プロジェクターに岡崎の作品を上映したり、
院生たちがそれについて話していたりしたんだが、岡崎が意見を求められても、
「ぼくは作品を解説しないけどね〜」みたいに露骨に断ってて。
えーと、まあ、「岡崎の実作と理論は、全部対応するわけじゃないよ、と」いう、理論といったのは、
岡崎がおこなう絵画・彫刻への論及、その理論のことなんだけどね。
ある程度岡崎自身の作品にも対応するかのようだから、ってのが前提の古谷の言い分ではないかと。
p167-168がまったく意味不明だった
ここには古谷の欲望がみられるんでないの
>>866 なるほど、そこらへんの最低限の倫理水準はクリアしていると。
>>867 モリス自身が現象学を参照してたんだね。
>>873 >自作の解説
自分はやらないけど学生にはやらせるという感じかな。
カリスマになりたいんだろうな。
作品に剰余の部分があると思ってるんだ。
>>875 >自分はやらないけど学生にはやらせる
学生企画だったから、岡崎は招かれただけっぽかった。
ロスコや抽象表現主義と比較されて語られて、あまり表面的にはわからなかったが、超嫌がってた気配だったな。
いま抽象表現主義を漠然と賞賛するのやめようよ、みたいな感じだったが。
>>877 そういえば「こういうことでいいですか?」みたいに、
相手の言論を無理やり整理してたと古谷の日記に書いてあった気がする。
たぶん嫌だったんだね。
多摩美の岡崎展の時か。
>>878 ぐだついてる相手の論旨を一挙にまとめあげながら、別の視角から話題・論点を切り上げ、
自作解説からスムーズに話題移行させ、かつ面白いこと言うという展開に、
岡崎の地頭の良さを痛感したね。
>>879 やっぱり寿夫くらいの熟練の御者がいないと暴走しそうだなw
回転が速いのは確か
>>880 まー、実際、院生たちの言ってたことも面白くなかったから、
俺は、いいぞやれやれ、みたいに見てた。企画コンセプトがぶれてるんだから、まあいいかなと。
暴れ馬というイメージはないなあ。飄々たるドラ猫って感じでさ。
いきなりスパスパ面白いこと言うから面食らう。
>>881 まあ、岡崎でさえ高橋悠治のドラ猫ぶりには面食らうわけだけどね
↓最後の推測のところ、ちょっと変
終盤に向かって、シンポジウムの纏めとしての暫定的な「結論」のようなものとして、
作品とはカントの「アンチノミー」のようなもので、それは「世界にははじまりがある」と
「世界にははじまりもおわりもない」というような互いに両立し得ない命題が共に説得力
をもって成立してしまっているような状態としてあり、だからこそ、「芸術作品」はその
両立し得ない状態を両立し得ないままに同時に成り立たせることが出来る空間(装置)
として、(「亀裂」として存在するような)近代的「人間」という形態を要請するのだ、
という結論に落ち着こうとする。ここで面白かったのは、話がそこに収斂しつつある時、
岡崎氏から、では、ここにいる方々は皆、近代的な人間こそ素晴らしいのだ、
ウォーホルみたいな機械的反復で「人間」が成り立たないのは駄目なのだという意見
で一致している訳ですか、という発言があったことだ。これはぼくの勝手な推測だが、
ここで岡崎氏が想起していたのはウォーホルなどではなく、実は現在のまったく
「白痴」化した美術の状況のことだったのではないか。
>>882 たしか多摩美院生同人誌みたいな、ちょっと大判冊子で
座談会はのちに掲載されたはずだから、本当はそれを入手して参照した方がいいんだけども、
正確に覚えてないが、アンチノミーを唱えてたのが院生。
石岡はカントの純理の二律背反する命題が左右ページに対照的に展開されてる原著を
プロジェクターで上映しながら何か言ってた気がする。
院生・石岡らのメンバーで見ても石岡がその中でも目だって
頭がいい&勉強してる印象があって、俺はその頃から石岡を意識するようになったな。
で、「終盤に向かって、シンポジウムの纏めとしての暫定的な「結論」のようなものとして」
ってのは院生側のまとめだったと思う。
岡崎のその切り返しは、柄谷のネオネオカント主義が、カントの人間学的な微妙さを
思いっきり無視・隠蔽して、一種リヴィジョニスティクなものというか、都合よく編集されてる面について、
フーコーを迂回しつつ岡崎なりの問題設定から、でもそんなに人間学的な問題の立て方でいいのかしら?
とズバっと切ったように見えるね。
古谷はたしかその引用箇所のあとで、「こんなシンポはいまの美術業界の悲惨さとかけ離れていて」とか
業界愚痴に流されてて、何業界論で話まとめてるのこいつ、とか、当時苛付きながら読んだよ。
古谷はフーコーをろくに読んでなさそうだから、上記論点の関心は持ててないのではないかと思う。
岡崎の意図がどこにあったにせよ、あんまり俺は古谷のその推測には興味もてないな。
まー、でも、四谷のアンチノミー展とこの多摩美企画はどっちが先だったかな。
俺はアンチノミーで攻める方針はあまり評価できず、これってデリダのアポリアを言い換えただけちゃうんか、とか思ったが。
>>883 詳しい状況解説ありがとう。
当時はアンチノミーで攻めすぎてた。
そういえば、北川が「早く人間になりたーい」とどこかで書いてたっけ。
岡崎は「人間」以前の知覚が分裂した状態に興味があるみたいだね。
偽日記のソースから読み直してた。02/12/14(土)の箇所なんだね。
というわけで、ちょっと補足 兼 気になったところ。
うまく噛み砕いた説明も聴衆に向けて心がけて欲しい、とか
こうしたあり方ではいかにも院生的な世界であって美術の状況にもっと関与的になって欲しい、
といった主旨には、そうだね、と思うと同時に、お前がゆーなと。
それこそ、企画レポを書けば関与的になるのかっていうことでもあるよ。
第一段落の後半で岡崎の教育者性について言ってて、その内容には同意はできるんだけど、
同時に、それを傍観者のように言いおおせてしまう古谷もどうかと思った。
そう語ることで「お前はどうなんだ」というのが抜ける感じになってる。
>>851で言ったような「切り替え」みたいなのが、こういうときに古谷には露骨に出るんだよな。
批評家・批評のことじゃなくて、ちょうど世間で言われるヒョーロンカの悪いところみたいな意味で。
自分のことを棚上げしてる気がする。
そういう指摘で冴えてるときは、それはそれで必要なんだけど、
古谷の制作、レヴュー的な弛緩を見ると、彼の「切り替え」はむしろ危険ですらあるんじゃないかと思うね。
>>884 比喩的に言うと、「その手前」みたいなところ、
事後的に見ればそうなるんだろうが、いや、確定的には指差せないが手前に作用の場がある、
みたいなところを、人の言説に簡単に乗らないで、見出すのが岡崎は実にうまいね。
ああいうところを見ると、いい意味で、作家というものはこういう鋭さがあるんだな、
語りおおせてしまう局面になる手前を、こういうかたちで言説対象にすらできるんだな、と思ったりする。
別に批評家と作家と対立させたり、どちらかを原初的なものとするわけじゃないけど、
岡崎の場合、両者が同じところから発生しているような感じがあって、なんていうか芯がしっかりしてるように見える。
まあでも、
>>885みたいなこというと、お前もそうじゃないか、と言われそうではあって、危険牌かw
そういう自分をかっこに括ったことを言ってるつもりはないんだけど、難しいなこういうことを示すのは。
一貫した姿勢を取ることの難しさ
語彙の系統ごとに別々のスタンスがある程度出ちゃうっていうのは、
岡崎だってそういうことを認めてて、ゆえに複数の俗語を統合することなくその語法間の齟齬を衝突させるか、
とか切り込むんだけど、古谷の場合、それぞれがそれぞれに対してもたれてるっていうか、
それぞれのなかで何となくたゆたってるって感じがするよ。
無関係な論点を言うようだけど、たとえば、
何かの演劇だったか舞台だったかのレヴューで古谷は、
何々の映画だったか小説のこれこれのシーンを想起した、という書き方をしていたけれど、
ここだって、「なぜ私はそういう連想をしてしまうのか。そのときに起きているのは何か」と考えることもできるはずだし、
その演劇のワンシーンと想起した別メディウムの品のワンシーンの狭間で悩むことだってできるはずだよ。
しかし、古谷は「連想した」で文章が終わってしまう。
アナロジカルに言うならば、こういうケースにおける構図のような不徹底がすごくあると思う。
何のための切り替えなのか、別メディウムなのかというのが無い。
折角不慣れな舞台を見ているんだからこそ、そういうところでいろいろ考えたらいいのに。
古谷のイメージ論は罠だな
みんな岡崎が好きなんだなあと思った
彼がシンポジウムに出ると残り全員が引き立て役になるよ
岡崎の成果を咀嚼した上で、別の立ち位置をどうとるかが難しい。
引き立て役になってもしょうがなく、その意味では褒めるのも危ういんだよね。
だから多摩美のネタで引っ張ってもしょうがないと思う
フルヤン自分がしゃべるようになってからああいう叩きはやめてるだろw
そのとおりですね。古谷叩きを私が逃げ道にしてしまっていると言われてもしょうがないことを言ってしまった。
いや、あの頃の古谷のしょうもなさは間違いないと思う
たぶん岡崎周辺の人たちへの嫉妬とコンプレックスだろう
いや、そこまでしょうもないとも思ってないよ。
あの頃の方が緊張してるような印象もあるし・・。
ただ、言われるように、「自分がしゃべるようになってから」古谷は
どこか変わった、というのは言われてみて、たしかにそうだなと思ったよ。
自分のスタンスを見つけようともがきだしてるのかな、とか。
その一環で保坂・樫村路線にもっと近づいたのかもしれないし。
「日本の抽象画」のドメスティックな特殊性に居直りつつあるんじゃないかなあ
昔は攻撃性があったろ
スーパーフラットを批評的に捉え直すみたいなこと言ってたのに、
今だとポモ史ねで済ましちゃいそう
藤枝っぽくなってるような気がする
藤枝の読者だよね
岡崎を藤枝化して読んでるって気がする。
好きなんだけど岡崎をどうしても理解できない部分があるんだろうね
そこが岡崎理論のコアなんだが・・・
超有名な画家ってピカソかな?
藤枝の現代美術の不満を誉めてていいんだろうか
もとの文脈のフロイトは罵倒じゃなくて内在的な批判なのに
今度ピカソ展があるしそうだろうな
ユリイカは予告に執筆者出るから見るといいよ
ただ美術関係はあまり面白くない
そういや岡崎理論のコアを扱ってる文章ってあるの?
岡崎以外で
フルヤンは最初から実態のないものを相手にしている気がしてならない
>>906 ちょっと文意がよくわからない。古谷に、
岡崎作品を論じているんじゃなくて、岡崎理論核心部分を相手取って論じている文章があるのか、ってこと?
それはあんまりないように思う。
ただ、いま映画・美術方面の章から順に読み進めてるけど、
たとえるなら水に溶ける氷のように、古谷に溶け込んでる岡崎的思考 は結構感じた。
水の中に溶解率60%の岡崎がところどころ見つかる感じ。
あとがきに「この本に書かれているすべての言葉の裏側に、
樫村晴香によって書かれた文章を目眩と興奮のなかで読んだという記憶が貼り付いている」とあるが、
直接に多く言及した岡崎だけじゃなくて樫村も大きい、というぐらいの意味に読めて、
岡崎の影響はあちこちにあると思ったよ。
あと、日記での文章を組み込んだ箇所より、序文や章冒頭部分といった
新たに書き下ろされたらしい文章の方が少々硬質になっていたり、
そんなに酷い本でもないんだなと。
そうじゃなくて、
>>901に対応するテーゼというか、そういうのを岡崎と古谷以外で書いている人
そうかなあ
リアルで病気とおぼしき樫村から、
資本主義への洞察を抜いたものになってるのではないか
だから同調圧力に抵抗することが内部への撤退になる
>
>>901に対応するテーゼというか、そういうのを岡崎と古谷以外で書いている人
うーん、永瀬からはそんなには感じないよね、そういう踏み込み。
池田は池田なりに対峙してるのかもしれないが、そういうのが表に出たという記憶はない
(ブログあんまり読んでないから、あるのかもしれないが)。
元一期生だったかカレッジのスタッフだった有賀文昭が
ブログでクラウスやら何やら読みながら地味に持続的に書いてるものは、
彼なりのそういう迂回なのかもしれないが、まだ読んでる途中なのでそうとも言い切れない。勉強しつつあるな、と感心はしたが。
岡崎・古谷以外にはまだ明確には現れていないかも。
その結果、岡崎理解者として古谷が見られがちだから、いや、消化できてなくない?
ということをつい言いたくなってしまって、ああした古谷叩きみたいになってしまったんだけどね。
でも短すぎるか
そのテキストについて言うと、同期/非同期は、古谷が対応できておらず、複数性にしちゃっているので
その石岡文には一定の価値はあると思う。
また、
>作品が単一のメディア、メディウムに帰することは決してありえないだろう。
>つまり作品は既存の時空には位置づけられないような場所に確保される
この箇所は古谷だと、相対的に自覚が弱いかも。割といい本だと思うけどねこれ。
2004-5年ぐらいでも出せる内容じゃないか、とは思ったが。
>それゆえ、岡崎の批評を作品の例証に用いる試みにも限界があるだろう。あくまでも重要なのは作品なのだ。
かつて石岡が2002年軽井沢岡崎展のパンフで、岡崎自身の主張から作品解説を書いて、
当時浅田から「こうした作品と岡崎理論の関係だとつまんない」とかリダンダントだとかつっこまれたけど、
実際は人から聞いた話だと、岡崎自身がそうしろという指示で石岡は書いていたらしい。
そのときのを挽回して、釘刺しておく、みたいなことをやってるね。
「左手性」に関してはいまいち俺の方でも扱いきれてないんだけど、
要するにこれはA、Aと対照的/非対称的なB
その二項間のもとで両者に対応がつかない不在のC そしてCこそがA/Bの運動を確保する
ということだろうね。昔岡崎が言ってたじゃんけんで構造主義を一気にまとめた言い回しの言いかえみたいだな。
構造(A/B)とそれを確保するゼロ記号(C) みたいな。
柄谷だと、ゼロ記号は超越論的統覚になるけど、岡崎はそう言うことには慎重になってると思う。
古谷の映画/絵画のそれぞれのメディウム・スペシフィックを、対照的に規定しすぎていて、
ショットという継起的・外形的な制約をリテラルに扱いすぎ、
他方絵画ではフェノミナルなものが強くならざるをえない というふうになってて
(まあ映画に撮られた絵画/実際に見るとき という場合の話だからそうなりやすいんだが)、
それぞれのメディウム内に相対的にさらに見出せるものが弱くなってるとは思った。
あと、p.162にユニークネスを固有性と言い換えてる箇所があるが、
この観点からやってるかぎり、固有化、脱固有化、再固有化といった動きが当初から見えなくなるというふうに見えた。
まあ、このへんはデリダ迂回しないと見出せないから、古谷にはわからないんだろうな。
訂正 対称的/非対称的なB
訂正2
古谷の映画/絵画のそれぞれのメディウム・スペシフィックを、
↓
本をちょっと読んだかぎり、古谷は映画/絵画のそれぞれのメディウム・スペシフィックを、
>>912 >そのときのを挽回して、釘刺しておく、みたいなことをやってるね。
これ軽井沢のテクストそのまんまなんだぜ
石岡カワイソス
>>915 マジすか。見比べなかったから勘違いした。
まーでも、作品別解説の欄を復活させたんじゃなくて、総論欄だけ復活させたから、
結果的に挽回っぽくなってるんじゃない?
2002年段階でスパっとまとめれている石岡もやっぱり優秀だね。
>>916 絵画とか彫刻とかも復活してるみたいだよ
あらまー・・ 確認もせずに言ってしまってすまん。
まあでも、あのパンフ手に入りにくくなってるから、復活しないよりはいいんじゃない? とか言ってみる
石岡のは文章量から言っても、よくまとまってるとは思うけど、
岡崎自身の言説から語りすぎてるから、
そんなに叩き台にしなきゃいけないものとも思えないよ。
解題ってそんなもんじゃん
彫刻は岡崎自身の言説から語りすぎてると思う
ほかはそうでもない
このままだと少々古いので、
芸術の設計の序文を誰かまとめればいいのでは
だから、
>>901の意味で石岡のその昔の解題テキストをもってくる必要はない。
石岡ウゼー
>>923 なら皆無ってこと?
斉藤環とか林道郎とか、岡崎作品について書いている人はいるけど、
あのへんは使えないのかね?
もし使えないならこの解説を改良すりゃいいと思うんだが
>>925 あんまりないんじゃない?
斉藤が書いたのって、境界線上でなんとかって本に入ってるやつ?
斉藤と林のは読んでないからわかんないな。
>>926 でもフルヤンの極端な還元が気になってならない
石岡の解題を使うと何かに取り込まれるとか、そんなことはないだろ
駄目なところを叩けばいいよ
斉藤環と岡崎の対談では、脳を持ち出す議論のあやうさが批判されていて、
古谷はその点でちょっと無防備すぎると感じる。
「樫村晴香はなぜ間違っているのか?」という論文を誰かが書くといいのかもしれない。
>>927 >還元
うーん、たしかに。ただ、石岡のテキストをたたき台にするところからだと、
個々の作品にねちっこくいかないから、妙に総論的な解説になりはしないかと心配だったんだけどね
>>929 作品論じゃなくて「岡崎理論」をざっくり取り出した人がいないって話じゃないの?
古谷の場合、二枚組を早々に片付けすぎているのが不満かな
>>930 ああ、そっか。パンフ文章から「岡崎の作家活動」に関する総記的なのが持ってこられていたから、
理論方面へのざっくりとは違うことを言ってるのかと勘違いした。
理論活動だけで切り取ると、うーん、石岡テキストからだと、
「「グラッソ物語」の、トリックによって 〜
より上の箇所や、4段落目は捨てた方がクリアになるだろうね。
>>931 あれは、浅田や古谷みたいなツッコミを予期してたんだなあと思って。
もちろんそれでも循環性の印象は残るけれども。
正直、岡崎の理論的言説って、基本的な軸は一貫してるしシンプルだけど、
ある程度論点が多岐に展開してもいて、それを押さえるとなると、結構大変になるよ・・・
石岡テキストは、基本軸にうまく食い込んでるし、たしかに古谷よりは下敷きになるけど、
基本軸そのものももう少し足さないといけないかも。
左手と右手ってのが二枚の絵じゃね
>>933 技術についての問題が抜けていると思った
>>933 対称的に一旦並べ、その非対称性をどう見出すかって話だろうね。
古谷が言う二枚組みである必要はないのでは、という指摘は、
一枚絵の中に二枚組と同じ仕掛けを持ち込めるからであり、
実際岡崎は一枚絵のなかでフォルムの操作をあちこちに張り巡らしてて、
フレームA/フレームB(という二枚組)ではなくとも、筆触A/筆触B(あるいはむき出しになった地のフォルムB)
が縦横無尽に展開されている。ゆえに、二枚組という外的な仕掛け、
コンセプトをリテラルに入り口としてみせてもいるような仕掛けは必然的でなく、
それによって絵の中の複雑性が犠牲になるんじゃないか、といった懸念が古谷にあったのだろう。
その指摘点自体はなるほど、とは思うが、犠牲になる複雑さをどう語るかと、うまくいってない、
あるいは、単に複雑さだけが自己目的化されているような主張に、古谷のはなっている気がした。
岡崎的には二枚のキャンバスを物理的に見て欲しくないんだと思う
そこが核心だと思うぜ
あとはタイトルを無視しちゃだめなはず
>>936 >二枚組という外的な仕掛け、
ここは逆で、おそらくこの仕掛けこそが内的必然を持ってるのではないかな
>>938 そうだと思うけど、古谷の懸念は、そこに引っ張られて逆に損するんじゃないかなあ、とかかもしれないね。
>>940 そこがね、俺も正直どう見極めればいいか見当がつかないでいる。
古谷の懸念と浜逆に、ものすごく可能性がある方向の読み(試みの見込み)もできるのでは? と。
しかし、どういう感じで見ていけばいいのか、ちょっとまだつかめていない。
懸念と浜逆に→懸念とは真逆に
>>941 タイトルを本当に解読することが必要では
古谷はグリーンバーグっぽい形で文学性を排除しているから
流れ豚切るけど次スレどうする?
映画芸術文芸の理論批評研究の総合スレって感じでいいの?
古谷作品は、やはり日記の延長にあって、そこを拠り所にしていると思う。
同調圧力に屈しないのはいいんだが、世間から撤退しすぎているというか。
そういう姿勢が絵画論の限界にもなってる。
タイトルは、そこで語られていることそのもの、意味が、作品に対応していると言うより、
構文的な錯綜が、ある意味で作品の組成と同期する、といった関係だと思う。
そうみなしているので、文面そのものの読解は俺はあまりしてないね。
軽井沢のセゾン美術館での岡崎もそういう感じのこと言ってて、
80年代だっけ? ユーロパリアの頃なんかは、フランス語勉強用の適当なテキストから
慣用句を引っ張り出して合成してタイトル作ってたとか言ってた。
なんか妙に腑に落ちたな。
あと、えーと、キャンバスサイズと文字数がある程度比例してるとか、冗談みたいなこと言ってたか。
>>944 名目的には古谷スレでもいいと思うよ。スレタイトルを総合スレにしちゃうと、
やっぱどんづまると思う。俺も書けっていわれてすぐに書けないし。
1か2あたりで総合スレ的主旨をそれとなく書いておけばいいんじゃないかね。
あとは、スレタイを総合スレにしちゃうと、古谷スレ住人以外に
新しく来すぎてトラブルの元になる可能性も高いと思う。
なんだかんだ言っても、このスレ、そのへんのバランスはあんまり悪くないだろうし、
おそらくそれは古谷スレっていう名目が利いてるんだよ。
俺は美術鑑賞板の他スレなんてほとんど見ないから、美術鑑賞板の住人傾向はよく知らない。
そりゃ、クラウスなども含めてとんでもなく勉強してる人とか来たら刺激になることは間違いないけれど、
その見込みはかなり薄いでしょう。それなら、古谷スレというゲートは維持した方がいいのかなと。
まあ、それはここの板の傾向に詳しい人の方の意見を聞きたいところだけど、
俺からすると、このスレは、文芸板の批評関係スレより、哲学板の近しいスレより、
映画関係の板の監督スレよりはるかにバランスいいよ。
>>946 でも画面をしつこく分析するようなことをしたいなら、
絶対に細かい解析をやらねばいかんだろう
>>949 たしかにね。古谷の思惑としては、外的装置であるタイトルには触れない、
ってことなんだろうけれど、そのような外的/内的の分け方、固有性の領域の見出し方自体、
古谷の姿勢なのであって、それを踏襲する必要は無い。
>>910の石岡テキストで言うところの
「イメージ形成の原理において、作品が単一のメディア、メディウムに帰することは決してありえない」
局面を、タイトルなどを媒介しながら、岡崎はやろうとしていたのかもしれない。
そう考えると、タイトルの分析は不可避になるし、
何らかの分析のアプローチは必要かもね。
>>950 これじゃね
>単一名詞によるタイトルや無題は、しばしば画面を一つの表象に収斂させる傾向を持つが、岡崎のセンテンスによるタイトルは、絵画と言語という二つの表象系列をいったん切り離す。
>だが画面とタイトルという相異なるパラディグムは不意に遭遇する。この出会いはまさにタイトルの複雑な構造によって可能になるのであり、画面及びタイトルに生起する出来事を名指しているのである。
フルヤンは「画面を一つの表象に収斂」させないと駄目だと思っているのでは
>>952 いや、いくらなんでもそれは無い。
古谷の本でも、執拗に、いかにして複数化するか、それが並列するか、がキモになってるし。
俺が古谷に感じてる不足点は、その後の展開の手詰まり感であって、
そこまでは大筋において別に苛立ってはいない。ちょっと素朴だとは思う程度。
「単一名詞によるタイトルや無題」特有の偏見ってのはあると思うよ
>>954 そう?
「画面を」だぜ
ニューマンにおける知覚と想起の関係とか、
標準的な抽象表現主義読解に則っていると思ったよ
>>956 それは、ニューマンを扱うとそっからはじめないと論じようが無いって感じかも。
あー、でもあんまり自信ないな・・・・。古谷自身も揺れてるって言うか、
収斂の方向に傾くことが多いというのもあると思う。割と不徹底だったりするからね。
ただ、少なくとも、古谷の中でのいいところ探しをすると、
「いかにして複数化するか、それが並列するか」の線はあると思ったんだよ。
>>957 俺は彼の絵画を基準にしているんだよね
そうすると収斂志向は疑うべくもない。
これとか、「俺は画家だ」って言い聞かせているような気がして窮屈に感じる。
あきらかにエスキスを実証的に考えたいと思っているはずなのに
>少なくとも、画家であるぼくにとっては、詳しい画集や資料があるよりも、たった一点でも作品が実際に目の前にあることの方が、ずっと「動かされる」ものがあるはずなのだが。
うろうろしてるよ よりは 試行錯誤
かなあ
あとは、
>美術作家・批評家の古谷利裕について語りましょう。
>古谷の単著が出ました。
>『世界へと滲み出す脳――感覚の論理、イメージのみる夢』(青土社、2008.7)
も足してみるか。
石岡よりは平倉圭の方が人気高いと思うんだが
>>955 >「単一名詞によるタイトルや無題」
これは、タイトルに回収されるのを防ぐがための、タイトルの意味性の極小化って狙いもあると思う。
抽象やってる人って、タイトルつけたくないけど仕方なくつけてる感がバリバリあるからね。
番号とかシリーズ名しかつけない人も多いし。
他方で岡崎だと、極小化しても表象効果は払拭できないのだから、いっそ
その別メディウムの側面を生かして、別々の意味を持たせて平行させながら、ある種の同型性を持たせよう、
画面を多元的にやっておいて、タイトルが単純だとかえってやばい、という発想からだろうと思う。
>>958 メディウムを横断し、かつ、それを複合化させつつも、そのどれにも帰着しない、という
ところへの感度が鈍く、そこへの志向性が古谷に無いというのは痛感する。
>>962 じゃあ、こんな感じで。
>岡崎乾二郎、四谷コミュニティカレッジ、平倉圭、石岡良治、『artitoc』、module、
もうコミュニティカレッジじゃないし、
>岡崎乾二郎、平倉圭、四谷アートステュディウム、石岡良治、『artitoc』、module、
ぐらいにしたほうがいいかな。
moduleは休眠ぎみだと思うよ
うん、そのため仕方なく行の末尾に。削った方がいいのかな。
岡崎の小さい作品はタイトルも短いよ
やっぱり、キャンバスサイズと文字数の比例説は事実だったのか。
筆触数に比例させてるのかな
なんにせよ論じないのはもったいないよ
じゃあ、
>>2に関連リンクをまとめておくか。平倉HPもたしておこうか?
あと、1のリンクははてなに変えるべきだね
上下逆ってことね
so-netの方が放置と書かないと誤解が起こるのではないか
ホームページの方は昔の作品画像が載ってるよね
いまのところ名前も出てないし、リンク対象もないけど、人名羅列の段階で
藤枝晃雄、尾崎信一郎は特に書かなくてもいよね?
どっちも思考停止の元凶っぽいんだよな
でも書いておくとファンが来るかも
触れることはあるかもしれないけど、
>>1の時点で名前出しておくこともないかなと
同じ理由で上田高弘の名も出さなくていい
宮川淳もか
宮川は読んだことないけど、この場合、グリンバーギアンつながりあるの?
人名羅列の時点で松浦寿夫があってもいいけど、なくてもいいような、微妙なポジションだな彼。
984 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/29(月) 00:29:00
古谷利裕と不愉快な仲間たち
でいいんじゃね?
不愉快ゆーなw
宮川と松浦はおフランス繋がり
両方微妙かな
ド・デューヴとかグリンバーグを批判的に受け継いだフレンチには繋がりそうだけど
そういうのは松岡新一郎かな
翻訳以外なにもしてないっぽいけど
じゃあ、林さんの後の箇所に、寿夫と松岡も入れて、こうしよう。
>林道郎、松浦寿夫、宮川淳、松岡新一郎、
>『Review House』、photographer's galleryおよび『photographer's gallery press』、
総合スレらしくなってきたな
古谷が靭帯というところがミソ
巨大すぎる範囲のあまり、次スレ初期から話題が止まりそうで怖いぐらいだ
残り3,4レス内に肝心のタイトルだけ確認しておこう。
【樫村保坂と岡崎の間で】古谷利裕の偽日記4【試行錯誤】
これで行く?
いいんじゃね
今気づくと、保坂HP、樫村テキストコーナーの、人名羅列&関連リンク投入を
思いっきりスルーしてたwwww どうするよ、無くてもいいとか思ってる俺はまずいのか
まずいだろうw
996 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/29(月) 00:47:08
仕方ないから、一応それぞれ対応しておくか・・って、入れる場所難しいよ!
>『Review House』、photographer's galleryおよび『photographer's gallery press』、
>保坂和志、樫村晴香。
>『October』派やロザリンド・クラウスなど諸論者から、
>英米仏の映画・芸術・文学の理論・研究・批評・動向まで。
超無理矢理感漂いまくり。リンクの方も入れておこう。
即死判定防止のため、20レスぐらいつけておけば大丈夫じゃないですかね?
次スレ話の前までの議題は
・岡崎作品の作品とタイトルの関係
・岡崎絵画作品の二枚組について
・古谷は絵画メディウムへの収斂、さらにはその画面の単一表象への収斂の傾向があるのでは
・石岡をたたき台にしつつ、技術や身体などに関する岡崎理論の基本軸を追加し、
古谷の岡崎理論の還元的な特徴を回避しつつ、ちょっとまとめてみようじゃないか
・林や斉藤の岡崎論についても考えてみようじゃないか
こんな感じだね