1 :
名無しさん?:
2 :
名無しさん?:2005/08/02(火) 23:59:29 ID:???
おまんこ女学院
3 :
名無しさん?:2005/08/02(火) 23:59:30 ID:???
うひょー まだ続いてるの
んもー! のびたさんの えっち!
5 :
名無しさん?:2005/08/03(水) 00:05:55 ID:???
面白くもねーのによく続くよ
・∀・)
7 :
名無しさん?:2005/08/03(水) 06:42:33 ID:???
彼女は大きく息を吐いた。多分溜息だったのだと思う。しかし彼女の表情と姿勢は変わらなかった。私の目を見な
がら、何かをじっと考えているようでもあった。何ていうか、と急に彼女が言った。とても無機質な声だった。少なく
とも私にはそう聞こえた。これから彼女の喋る内容が、私にとってとても不吉なものであるかのように。
8 :
名無しさん?:2005/08/03(水) 06:56:31 ID:???
あなたは何か勘違いをしている、と彼女は続けてそう言った。無表情のままだった。あなたは私が童話を書かなく
なった理由が、あなた自身の言動によるものだと思っているみたいだけど、あなたの言葉は他人に対してそんなに
影響力を持たないと思う。……私の作った童話と同じようにね、彼女はそう言うと微笑んだ。
9 :
名無しさん?:2005/08/03(水) 06:59:46 ID:???
スレを立てて下さった方、前スレを保守して下さった方々、読んで下さる方々に感謝
10 :
名無しさん?:2005/08/03(水) 07:15:01 ID:???
おk
がんばれー
11 :
名無しさん?:2005/08/03(水) 16:51:01 ID:???
無事に気がついたか。
結構楽しみにしてるよ。
12 :
名無しさん?:2005/08/04(木) 07:08:27 ID:???
私にはその言葉の意味がうまく呑み込めなかった。つまりね、と彼女が言う。私が童話を断念したことと、あなたが
私に言ったことには何の関係もないのよ。そのときは逆に励みになったと言えるかも。反骨精神っていうのかな、お
かげで自分では結構いいかなって思うものもいくつかできたし。
13 :
名無しさん?:2005/08/04(木) 07:21:44 ID:???
でもだめだった。応募作品は全滅。だけど私はそれでよかったと思う。童話を書くってこと自体にもう満足したの。
頭捻ってストーリー考え出したり、いくつかの中から最高の出来のを自分で選び出したり、賞の発表日までドキド
キしたりとか、そういう一連の事柄にもう満足したのよ。
14 :
名無しさん?:2005/08/04(木) 09:24:51 ID:???
15 :
名無しさん?:2005/08/05(金) 07:14:30 ID:???
本当に? と私は聞いた。予想もしていなかった答えが返ってきて、彼女の言うことがすぐには信じられなかった。
彼女は笑みを浮かべながら、もちろん、と言った。本当に素敵な微笑みだった。ずっと気にしていたの、と私が言う
と彼女はまた笑いながら、そんな必要なんてなかったのにね、と言った。
16 :
名無しさん?:2005/08/05(金) 07:26:26 ID:???
それから私達は、また連絡を取り合うようになった。それぞれ仕事があって学生のときみたいに頻繁に会えること
も少なくなったけれど、昔以上に打ち解けて話せる関係になれた。数年もの間、私はとても無駄な時間を浪費して
しまったんだ、と痛感した。それを埋め合わせるかのように、私は彼女との交流に力を注ぎ、そして楽しんだ。
17 :
名無しさん?:2005/08/06(土) 06:30:35 ID:???
18 :
名無しさん?:2005/08/06(土) 07:02:52 ID:???
でも本当は彼女は、私のあの言動を全く気にしていなかったわけじゃないと思う。後になって考えてみると、私は
やはり多少なりとも彼女を傷付けたはずだった。お互いに嫌な気持ちになって、示し合わせたみたいに交友がな
くなった。もし本当に彼女が気にしていなかったのなら、そうはならなかったんじゃないか、って。
19 :
名無しさん?:2005/08/06(土) 07:17:07 ID:???
彼女は私と偶然に出くわしてしまったとき、ちっとも動揺した様子を見せなかった。以前と変わらないような口調で
話しかけてくれた。私の重荷だった過去の出来事を快く打ち消してくれた。彼女はまた笑って否定するかもしれな
いけど、私はあの日ようやく彼女の許しを得たんだと思う。
20 :
名無しさん?:2005/08/07(日) 01:00:06 ID:???
21 :
名無しさん?:2005/08/08(月) 06:58:39 ID:???
彼女はもう一度自分の中に、私を受け入れてくれる部分を開いてくれた。それを見付けたときに私は「許された」と
感じたからそう表現しただけであって、彼女にとってみれば、許す許されるなんていう問題ではなく、何の策略も持
たずにただ私との交友の再開を望んだだけだったのかもしれない。
22 :
名無しさん?:2005/08/08(月) 07:16:54 ID:???
友情のあり方、なんて諸説あるだろうけど、根本的な部分はみんな同じだと思う。つまり、相手を受け入れ、相手も
自分を受け入れてくれれば、それですでに友情というものは完成されていて、そこには許すも許されるもないのだ。
許してもらえたかそうでないか、そんな次元の問題でもない。友情というのはそういうものだと、私は思う。
23 :
名無しさん?:2005/08/09(火) 07:00:05 ID:???
だから、と言葉に一層力を込めて副担任は言う。あなたも亡くなった友達に対して別に負い目を感じる必要なんて
全くないのよ、と。確かに、友達の死によってあなた達の交友が絶たれてしまったのは、悲しむべきことなのかもし
れない。でもあなたの考え方によっては、それは今からもずっと継続させることもできるのよ、と。
24 :
名無しさん?:2005/08/09(火) 07:14:50 ID:???
もし友達に対してやましい部分があったとしても、そんなに気にかける必要はないと思う。あなたが今後その友達
を、その友達との思い出をただ受け入れようとして、そしてあなた自身の取る行動や感情なんかを、友達が受け入
れてくれるようなものにしていけばいいだけだと。必要以上に悔やむことは、逆にこれからのあなた達の友情に対
してマイナス効果を招くだけだと思う。
25 :
名無しさん?:2005/08/09(火) 10:43:34 ID:???
26 :
名無しさん?:2005/08/10(水) 07:07:36 ID:???
これからの友情、なんて言ったら馬鹿馬鹿しいと思うでしょう。けれど、あなたが友達のことを覚えている間、あな
たが友達との思い出を懐かしく振り返ることがある間、あなたがその思い出を必要とする間はずっと、あなたの友
達はあなたの心の中で存在し続けることになるのよ。
27 :
名無しさん?:2005/08/10(水) 07:22:00 ID:???
あなたが年老いて死ぬまで、その関係は続いていくのかもしれない。その間ずーっと悔やみ続けるのも報われな
いし、あなたがいつまでも気に病むことを、友達も望んでいないはずだと思う。綺麗に忘れてしまいなさい、と言っ
ているわけじゃない。少し捉え方を変えた方がいい、と言ってるの。
28 :
名無しさん?:2005/08/11(木) 00:26:28 ID:???
誰だ
誰だ
31 :
名無しさん?:2005/08/12(金) 06:58:05 ID:???
人はどんな風にも変われると思う。親しい友達を亡くしたこと、それは確かにどんな考え方を持ってしても、どんな
に長い年月を悔やみ抜いたとしても、どうしようもない事実なんだから、そんな不変のものごとに捕らわれて自分
を蔑ろにしてしまうのは、とても無意味で悲しいことだわ。
32 :
名無しさん?:2005/08/12(金) 07:09:53 ID:???
前を向きなさい。前を向いて進みなさい。あなたにはまだ将来が残されている。誰も望んでいない後悔をひたす
らに繰り返したって、亡くなった友達を含めて誰も幸せを得ることなんかできないのよ。あなたはもう充分悔い悩
んだ。そろそろ自分のことを優先的に考え始めてもいいはずよ。
33 :
名無しさん?:2005/08/13(土) 07:04:43 ID:???
永遠に続くのかと思われた副担任の話も、そこで一応の結論を見たようだった。彼女はそこまで喋るとまた黙り込
んだ。まるで、自分が喋ったことを反芻する時間を私に与えているつもりのように感じられた。私は見当違いな期
待を持ったことを、安直な機会にすがろうとしたことを悔やんでいた。
34 :
名無しさん?:2005/08/13(土) 07:19:14 ID:???
だが、得るものはあった、と言えるのかもしれない。もちろん、だらだらと続いた彼女の話の中に、何かしらの便利
な教訓の類を見出したわけではない。彼女のを聞く過程において私の中で次第に沸き上がっていった苛立ちと、
どこか遠くへじわじわ流されていくような絶望感がある一点まで達したとき、ようやく私は私の抱える問題の主要部
分を掴み取ったのだった。
35 :
名無しさん?:2005/08/13(土) 18:46:42 ID:???
36 :
名無しさん?:2005/08/15(月) 01:11:12 ID:???
37 :
名無しさん?:2005/08/15(月) 06:54:32 ID:???
副担任はその点において何の疑問も抱かなかった。だからこそあのような逸話を堂々と私に向かって喋ることが
出来たのだ。ライオンと老象、副担任とその友達。どちらも頑なな友情が確固とした前提として存在し、最後まで
揺らぐことはなかった。ライオン達、彼女達が迎えた不幸な出来事は、それを彩るいわば演出のようなものでしか
なかったのだ。
38 :
名無しさん?:2005/08/15(月) 07:10:16 ID:???
しかし、私達の場合はどうだ? 私はSに友情を感じたことが一度でもあっただろうか? 私はSに向かって友情の
証を示して見せたことがあっただろうか? 数多く渦巻く疑念は最終的なものへと形を変えた。私はそれを心の中
で何度か繰り返してみる。私とSとは、本当に友達だったのだろうか? と。
39 :
名無しさん?:2005/08/16(火) 01:26:46 ID:???
40 :
名無しさん?:2005/08/16(火) 06:58:16 ID:???
私とSが出会った頃、私達はまだ幼く、他人との関係の結び方やそれを維持していく方法、人が繋がり合ってそれ
を保とうとする理由、そしてそれらものごとと、自分の感情を正確に表現できる言葉を持たなかった。ただ何か本
能的な、極めて原始的な感覚に従い、理屈も言葉もなく近付き合った、近付き合えたのだと思う。
41 :
名無しさん?:2005/08/16(火) 07:15:18 ID:???
言わば小さな子猫達が相手の身体の温もりを求めてじゃれ合うように、私とSとの最初の接触はなされたのだ。お
互いに近付き合い、恐らく言葉は交わされなかっただろう、本能的な感覚を原始的な伝達方法で伝え合い、幼馴
染になったのだ。どうして自分達なのか、どうして自分とこの相手なのか、その理由も説明も、自分達ですら必要
としないままに。
42 :
名無しさん?:2005/08/16(火) 10:02:08 ID:???
43 :
名無しさん?:2005/08/17(水) 06:59:26 ID:???
楽しければ笑い合い、悲しければ一緒に泣いた。喧嘩もしばしばあっただろうが、次の日には綺麗に忘れていた。
顔を見れば相手が何を伝えたいのか理解できたし、こちらの感情も充分理解してくれた。世界は驚くほど単純で、
誰もが、何もかもが自分達を優しく保護してくれているような、そんな時代だったのかもしれない。
44 :
名無しさん?:2005/08/17(水) 07:20:37 ID:???
それから私達は成長した。人間関係を動かす力とその原理、自分の感覚を正確に近いかたちで言い表せる言葉、
いろいろなものを自然と身に付けていった。例えば笑顔一つにしてみても、心からなされる場合とそうでない場合が
あるように、つまり、私達はより鮮明な情報を必要とするようになった、あるいは必要とせざるを得なくなったのだ。
45 :
名無しさん?:2005/08/18(木) 07:02:09 ID:???
私達は戸惑った。自分達を取り巻く巨大で堅牢な装置の存在を漠然と感じ取ることよりも、自分達がそのルール
を、小さくてささやかだった自分達の周囲に当てはめなくてはならなくなったことに。そうして私達の世界は次第に
拡大していき、原始的伝達方法は彼方に置き去りにされ、私達の距離は遠ざかっていった。
46 :
名無しさん?:2005/08/18(木) 07:18:13 ID:???
久し振りに顔を合わせたとき、私達の間にはすでに共通の言語というものが失われていた。何を伝えればいいの
か分からずに、ただ困ったような作り笑いをお互いに向け合っただけだった。両者ともそのことがよく分かっていた
からこそ、なおさら悲しかった。
47 :
名無しさん?:2005/08/18(木) 23:52:29 ID:???
48 :
名無しさん?:2005/08/20(土) 00:01:11 ID:???
49 :
名無しさん?:2005/08/20(土) 07:02:13 ID:???
双方が二度と近付き合うこともないまま、相手の突然の死によってそれは決定付けられた。もう絶対に、心を通わ
せ合うことは出来ないのだ、と。幼い頃のように非現実的な方法で分かり合おうとすることはもちろん、私達がこれ
まで学んできたあらゆる言語、事象、法則を持ってしても、私達の距離が縮まることなどないのだ、と。
50 :
名無しさん?:2005/08/20(土) 07:18:42 ID:???
私にはよく分からなかった。その事実を突き付けられ、何を悲しめばいいのか分からなかった。その事故でSの存
在は完全に失われてしまったが、私達の絆はずっと前から死に絶えていたのだ。Sが私に望むこと、私がSに望む
こと、それらを言葉もなしに伝え合うには、私達はいくらか成長し過ぎていた。
51 :
名無しさん?:2005/08/21(日) 06:54:15 ID:???
私は混乱した。混乱していたのだろうと思う。根底にある全ての元凶すら明確にしようともしないままに、私はただ
ただ無気力に時をやり過ごしてきただけだった。じっと黙って待ってさえいれば、いつか何かのきっかけで転機が
訪れ、何もかもがもっといい方向に向かい出すだろう……、そんな馬鹿げたことを願いながら。
52 :
名無しさん?:2005/08/21(日) 07:14:32 ID:???
もちろん、そう都合のいい奇跡など起きなかった。私の元にやって来たものは私が漠然と待っていたものではなく、
もっと残酷で悪意に満ちた存在だった。それは私に輝かしい未来を提供してくれる替わりに、私が努めて無視して
きたものを生々しく見せ付けていっただけだった。
53 :
名無しさん?:2005/08/22(月) 00:25:42 ID:???
54 :
名無しさん?:2005/08/22(月) 07:00:02 ID:???
私とSとは、本当に友達だったのですか? 真剣に誰かに問い質してみたかったが、この質問に対して正確な答
えを返してくれる人間はこの世界に一人も存在しないような気がした。例えば目の前の副担任に言ってみても、
一笑に付されるか、全く理解してもらえないかのどちらかだろう。
55 :
名無しさん?:2005/08/22(月) 07:19:41 ID:???
自分の意向とは違った方向に静かに流されているのが分かっていながらも、私にはそれをどうすることもできな
かった。どうしたらいいのか本当に分からなかったのだ。混乱は焦りを呼び、焦りは硬い外殻となって私を閉じ込
め、束縛した。もう私には何の手立ても残されておらず、黙ったまま冷たくなっていくのを待つしかなかった。
56 :
名無しさん?:2005/08/23(火) 07:04:42 ID:???
自分の中から様々なものが流れ出して、どんどん空っぽになっていくような感覚がした。私が属する世界の中で
人々が織り成す様々な音や風景が、私とは関係のない全く違った場所で繰り広げられているようだった。世界と
私が別たれようとしているのを知りながらも、それにすら私の心は関心を示さなかった。
57 :
名無しさん?:2005/08/23(火) 07:19:55 ID:???
もうどうでもいいのだ、などと捨て鉢な気持ちになっていたのではない。私を囲う幾多の現実的出来事、Sの死や、
副担任の勘違いや、私自身の問題。それらのものに対して絶対的に無関心になってしまっただけなのだと思う。
さらに言うなら、全てのものごとに無関心でありたい、と願って意識的にそうしたわけでもなく、自動的にそうなって
しまったのだ。多分そう表現するしかない……。
58 :
名無しさん?:2005/08/24(水) 01:27:24 ID:???
59 :
名無しさん?:2005/08/25(木) 07:12:25 ID:???
その後のことはよく覚えていない。家路につく車中で副担任が発した何気ない台詞、本当は今日は日曜日なんだ
けど、やっぱりあなたは曜日の感覚が狂ってたのね、と冗談混じりに言ったことだけが何故か記憶に残っている。
その前にも後にも彼女は一人で勝手に喋っていたようだったが、私はほとんど聞いていなかった。
60 :
名無しさん?:2005/08/25(木) 07:32:27 ID:???
次の記憶は自室のベッドの上だった。部屋は真っ暗で、私はベッドに横になり、眠るでもなく目を開いたまま天井
を見上げていた。私の思考は、まるで重い泥に満ちた深い沼に沈んでしまったかのように身動きが取れなかった。
何も考えられず、何も思い出せなかった。
61 :
名無しさん?:2005/08/26(金) 06:51:54 ID:???
眠っているのか、覚醒しているのか分からない状態で数日が過ぎた。そこには副担任の話を聞く前と何も変わら
ない日常があるだけだった。結局、私は副担任が与えようとしてくれたものを何一つ掴むことができないまま、再
び自堕落な眠りの中に安易に身を委ねてしまったのだった。
62 :
名無しさん?:2005/08/26(金) 07:11:40 ID:???
もちろんこれは、副担任が悪いというわけではなかった。彼女は彼女が持ち得る力量の限りに私に接しようとし、
正そうとしたのだ。私にはよく分かる。ただ残念なことに、私は彼女の善意を知りながら、自分の状況を自ら把握
し、それを彼女に向かって説明する義務を怠ってしまった。
63 :
名無しさん?:2005/08/27(土) 00:25:59 ID:???
64 :
名無しさん?:2005/08/27(土) 03:06:42 ID:???
65 :
名無しさん?:2005/08/27(土) 06:55:27 ID:???
結局私は、副担任の少々方向性がずれていたとはいえ、私のために振るおうとした熱意を無駄にした。そして彼
女はもちろん私自身も望まないような結果を招き寄せてしまった。私がたった一言、違うのだ、と言えば避けられ
たのかもしれない。私が否定さえできれば。
66 :
名無しさん?:2005/08/27(土) 07:11:31 ID:???
誰かと会談しなければならないとき、あるいは誰かの話を聞かなければならないとき、相手の話と私自身との間に
相違が生じても、それを言葉に出して言えない人間。それが私なのだ、私はそういう種類の存在なのだ。認めまい
とそれまで必死に抗い、目を逸らし続けてきたが、もう自分自身を欺くことさえも不可能なのだろう。
67 :
名無しさん?:2005/08/28(日) 09:59:20 ID:???
68 :
名無しさん?:2005/08/29(月) 06:59:58 ID:???
さらに無為な日々が過ぎていった。私はその間一歩も外に出なかった。何の変化も起こらず、何の発展も望めな
い日々だった。誰も私に向かって何も言おうとはせず、私も誰に向かっても何も言おうとしなかった。それぞれが
抱える幾多の問題を一切放置したまま、ただ時間だけが消耗されていった。
69 :
名無しさん?:2005/08/29(月) 07:15:40 ID:???
私は言わば冬眠の時期を迎えた小動物だった。彼らが長い冬をひたすら眠ってやり過ごすように、私も全ての
問題を冷たい雪原に埋め、穏やかな雪解けを眠りながら待とうとしたのかもしれない。しかし、私と彼らが絶対的
に違う点は、彼らは眠っていればいつか必ず氷解が訪れるのに対し、私にはその保証が全くなかったことだった。
70 :
名無しさん?:2005/08/30(火) 02:28:31 ID:???
71 :
名無しさん?:2005/08/30(火) 07:03:24 ID:???
私は小さな巣穴の中で眠る動物達のことを思った。彼らは長い眠りの中で何を考え、そして私は何を考えればい
いのだろう。柔らかな季節の到来によって、彼らは気持ちよく目を覚ますはずだ。だが、私は新しい季節の訪れを
手放しで喜べるような無邪気さをとっくの昔に失ってしまっていた。
72 :
名無しさん?:2005/08/30(火) 07:20:20 ID:???
どこかで落としてきた、もしくは自ら捨ててしまった私の無邪気さのことを考えた。全ての物事に対して全幅の信
頼を寄せることができた、得体の知れない複雑なシステムに怯えることも、警戒心を抱くこともなかった時代。し
かし、失ったものを悔恨することは簡単だが、それは全く意味のない行為だということくらい私にも分かっていた。
73 :
名無しさん?:2005/08/31(水) 07:23:07 ID:???
私は眠り続ける以外に選択肢がなかった。いまさら行動を起こしても、既に手遅れになってしまっていたからだ。
私と関わった全ての人達に弁解して回れば、あるいは少なくともそのうちの何人かは私を許してくれるかもしれな
いが、例えどれだけの許しを得たとしても、Sはもう死んでしまっていたのだから。
74 :
名無しさん?:2005/08/31(水) 07:41:45 ID:???
日に日に低くなっていく部屋の中の温度が、私の心までも凍り付かせようとしているようだった。無益なまどろみか
ら不意に現実に押し戻されたとき、私は決まって恐怖を覚えた。当てのない春を迎えるまで、一体どれだけ眠り続
ければいいのか、いやむしろ、私には一生訪れることはないだろう、という予感がそうさせたのだろうか。
75 :
名無しさん?:2005/08/31(水) 22:10:33 ID:???
76 :
名無しさん?:2005/09/01(木) 07:05:01 ID:???
私の人生は、もう永遠に好転することはないのかもしれない。そんな考え方が無為な日々と、次第に下がっていく
気温によって決定付けられていくみたいだ。浅い眠りの束の間の覚醒を得たとき、私はいつもそんな感覚を味わっ
た。だから私は、その考えを忘れるために眠り、全ての問題を棚上げするために眠るしかなかった。
77 :
名無しさん?:2005/09/01(木) 07:22:31 ID:???
もう転機は訪れない、これは私が抱いた確信だった。既に充分過ぎるほどのチャンスが私の元に流れてきて、そ
のいずれをも掴み損ねてしまっていたのだから。多分何十年、もしかしたら何百年何千年先にも、私は眠り続ける
しかないのかもしれない。そしてその感覚は、毎日少しずつリアリティを増していったのだ。
78 :
名無しさん?:2005/09/02(金) 07:53:22 ID:???
79 :
名無しさん?:2005/09/03(土) 07:02:30 ID:???
私が当てのない雪解けを待つため冬眠を始めて数日か、あるいは何週間か経過した後、彼らは私に対しての最
後通告をするために使者を一人使わした。ここでいう彼らというのが、学校という比較的小さなグループを意味す
るのか、それとももっと大きな集団の総意を任された存在だったのかは分からなかったが、私にとってはどちらで
もそれほど大した違いはなかった。
80 :
名無しさん?:2005/09/03(土) 07:17:38 ID:???
いずれにしても私にそれを伝えに来た人物は、随分損な役回りを任せられたものだ。しかしそれも彼の担わなけ
ればならない重要な職務だったのだろう。私の元を訪れたのは担任だった。筋違いな寓話で私を説得しようとした
副担任ではなく、いつもシステマティックに物事を処理しようとしてきた担任教師だった。
81 :
名無しさん?:2005/09/04(日) 03:57:03 ID:???
82 :
名無しさん?:2005/09/05(月) 06:58:28 ID:???
担任の来訪は予め報せてあったらしい。私は仕事を休んだ母親と並んで彼を迎えることになった。いつかのよう
に母親は来客用の湯呑に茶を入れて、その間に担任は鞄の中から書類の束を取り出していた。ばさばさと大袈
裟な音を立てながら書類をめくり、茶を運んできた母親が正座するのももどかしいように私達の前にそれを突き
付けた。
83 :
名無しさん?:2005/09/05(月) 07:15:51 ID:???
お子さんの出席日数が絶対的に足りません、と彼は言った。そして彼の言わんとすることが集約された数字を私
達に指で示して見せた。母親は恐る恐るその致命的な数字が書かれた部位を覗き込んで見てみたが、それが具
体的にどういう意味なのかよく分かっていないようで、ただ深刻そうな表情を保っていただけだった。
84 :
名無しさん?:2005/09/06(火) 07:04:50 ID:???
担任は苛立っているみたいだった。この来訪自体が彼の合理的な職務遂行の妨げになっていて、その鬱積を押
し隠すように平静を保っているらしかったが、私達にはそれが容易に理解できた。母親は意味が分からないまま
さらに恐縮し、私はことの成り行きを黙って観察していた。
85 :
名無しさん?:2005/09/06(火) 07:20:02 ID:???
彼は深い溜息をつき、腕組をして私達の頭上に存在する空間を睨み付けた。母親は焦り、示された数字から必
死になって状況を把握しようと躍起になったのだが、そのまま数十分着目し続けたとしても到底理解には到りそ
うもなかった。つまり、と視線を動かさないままで担任が言う。残念ですが、お子さんの留年が確定しました、と。
86 :
名無しさん?:2005/09/07(水) 03:17:21 ID:???
87 :
名無しさん?:2005/09/07(水) 07:11:30 ID:???
そういう風にして彼は、私達に向かって純然たる事実を投げ付けてきたわけだ。母親はうろたえながら担任の顔
を見て、それから手元の数字のどの部分がそれを表しているのか読み取ろうとし、そしてまたすがるような目で
担任の方を見た。母親の視線を度々受けているのを知りながらも、彼は微動だにしなかった。
88 :
名無しさん?:2005/09/07(水) 07:29:01 ID:???
狼狽しているのは母親一人だけだった。特に担任の落ち付きようが、まるで我が子をすでに見放してしまったよう
に映り、それが母親の不安を煽ることになったのかもしれない。母親の動揺が次第に大きくなっていく様が、隣に
座っている私にも手に取るようによく分かった。
89 :
名無しさん?:2005/09/08(木) 07:04:34 ID:???
彼はやおら身を乗り出して母親の前の書類を取り上げ、ざっと一瞥してから再び母親と私の中間に置いた。それ
から問題の箇所、例の致命的な数字が記されている場所を指差した。母親はそれに操られでもしているかのよう
に慌てて顔を近づけ、彼の口が開くのを待った。
90 :
名無しさん?:2005/09/08(木) 07:16:48 ID:???
この列が、進級するために必要な各教科の単位数を現したものです。お子さんの場合この保健体育の欄、進級
するのに必要な単位数は34なのですが、昨日休んだために欠席が8になりまして、今後休まず授業を受け続け
たとしても、合計33単位にしかならない訳です。担任は淡々とそう喋った。
91 :
名無しさん?:2005/09/09(金) 07:23:43 ID:???
今担任が言った通りの数字が並んだ紙面に必死で目を走らせる母親に向かって、担任はとどめを刺すかのよう
にもう一度言った。よってお子さんの留年が確定いたしました、と。母親は担任の顔を見上げた。何の感情も表し
ていない彼の顔をまともに見て、ようやく母親は彼の言ったことが動かしようのない事実だということに気が付いた
ようだった。
92 :
名無しさん?:2005/09/09(金) 07:38:52 ID:???
母親の視線をまともに受けながらも、彼はそれ以上の言葉を発することも表情を変えることもせずに、ただ沈黙
を守っていただけだった。よくは分からないが、担任の目的というのはもしかしたら私達を不安のどん底に叩き落
すことだったのではないだろうか、などという下らない考えが浮かぶほどに、彼の継続する無表情は私にも不可
解だったのだ。
93 :
名無しさん?:2005/09/10(土) 00:50:53 ID:???
94 :
名無しさん?:2005/09/10(土) 07:03:35 ID:???
私が見てそれと分かるくらいに母親の緊張が極限まで達しようとしたとき、担任は図ったように言葉を発する。どう
でしょうか、現時点でのお子さんの出席日数などを考慮しました上で学校側としましては、もう一度一年生をやり
直すよりも、お子さんに自主退学を薦めるべきだと考えますが。
95 :
名無しさん?:2005/09/10(土) 07:19:45 ID:???
もちろん、当校を自主退学した後にいずれかの学校に編入するということも可能ですし、またこちらとしましてもそ
うされるのであれば可能な限り支援いたします。同じ学年を今度は新入生達に混じってやり直すのは、お子さんと
しましてもやっぱりいろいろとやりにくい部分があるんじゃないでしょうか?
97 :
名無しさん?:2005/09/12(月) 06:55:52 ID:???
母親の視線が、担任と私との間を忙しなく往復し始めた。誰も彼女に声をかけなかった。母親の抱く不安はさらに
追い討ちをかけられて増長し、私の目にもいささか哀れに映り始めた。もう少し決定的な説明を与えてあげればい
いのに。そうすればいくらかでも母親の諦めを助長することだってできるだろうに。
98 :
名無しさん?:2005/09/12(月) 07:09:04 ID:???
あるいはその沈黙自体こそが、母親を納得させるための最良の手段だったのかもしれない。そこまで考慮して話
を運んだとするならば、担任は確かに私達よりも数段上手だったと言わざるを得ない。誰かが母親の肩をそっと
押すまでもなく、彼女は落ち付くところへ落ち付いていかざるを得なかったのだった。
99 :
名無しさん?:2005/09/13(火) 07:17:51 ID:???
いや、落ち付くところへ落ち付いたのではなく、沈黙によってじわじわと追い詰められていったと言うべきだろうか。
おろおろと視線をさ迷わせ、激昂して誰彼構わず感情的な言葉をぶつけるようなこともできずに、磨り潰されるみ
たいに徐々に疲弊していった。それでも、私も担任も何も言わなかった。
後の話は特筆するべきでもない。母親の追いすがるような質問に対して、担任がいくつかの学校名を並べ立て、
そして母親は絞り出すような声でやっと一つの台詞を言い放っただけだった。主人と子供ともよく話し合ってみま
す。担任はそれを聞いて頷き、仰々しくもっともらしい台詞を残して早々に帰っていった。
馬鹿馬鹿しい話だった。いずれにしても私達の取れる選択肢というのは、初めから極めて限られたものしか用意
されていなかったのだ。留年、引いては自主退学を突き付ける学校に対して、一体誰が有効な反論を思い付ける
だろうか? 原因は完全にこちらの落ち度だったのだから。
しかし、そのことに関する会議が私の家族間で開かれることはなかった。もっとも、父親と母親との間でのやり取
りはあっただろうと思う。我が子の留年が確定した。自主退学と他校への編入を進められた。どうすればいいと思
う? あの子の意見も聞かなければなるまい、といった具合に。
父親も母親も、私に対して何も言ってこなかった。何も言えなかったと言った方が正しいのかもしれない。私も彼
らに何も言わなかった。学校を辞めることに対する漠然とした不安と、もう束縛されることなく眠れるのだという安
堵の両方が、まるで全く他人の思考が流れ込んできたみたいに私の中に現われ、そしてどこかに流されていった
だけだ。
いずれにしても、冬眠を迎えた私が時折何を考えたとしても、何を感じたとしても、それらは本当に微細なことで
しかなかった。夢すら伴なわないような眠りが全てを洗い流し、私の頭は常に完璧な掃除を施されて清潔さを保
ったままだった。それこそが、私の続ける長い眠りに与えられた唯一の存在価値なのだと思った。
私が眠っている間に退校の手続きは済ませられ、これで本当に私と学校とが決別してしまった。事実が確定して
しまった後にも、やはり私に何かを言おうとする者はいなかった。多分彼らは恐れていたのだ。不気味で暗くて地
の底まで達する程深い洞穴のような私を。そして知っていたのだろう。何を言ったところでその穴が塞がる訳では
ないことを。
私としてはそれでよかったのだ。私は自身の問題を自身で解決することを放棄し、誰かの手によって解決がなさ
れることを拒んだのだから。私が眠りの中で望んでいたのは、問題それ自体の保存であり、平静な日々の維持
であり、然るべきときが来るまでそれを継続することだった。
それに従って私は眠り続け、そして私が望んだように時間はどんどんと流れ去っていった。その間何も考えず、
何の夢も見ず、いや、考えたとしても夢を見たとしても、それらはすぐに凄いスピードで私の関知しないどこかへ
流されていった。ちょうど私がやり過ごしている時間と同じように。
自らが凍り付かせた私の世界において、あらゆる情報も観念も感覚も意味を持たなかった。全てが凍結した情
景の中では、自分自身の姿さえ何の障害も生み出すことなく、また何の慰めにもなりはしなかった。そんな私の
身体はどこへ向かうこともできずに、ただ自室のベッドの上に転がっているだけだった。
言わば道端に生えている名もなき雑草、もしくは生命なき石くれのような存在でしかなかった。自分で行動を取れ
るわけでもなく、恐ろしく力の強い手によって想像もできないような場所へ移動されるのを待つか、それが叶わぬ
なら身体が朽ちるまでその場に存在し続けなければならないのだ。
死ぬまでベッドに横たわっているイメージ、私はそれにもう恐怖を感じなくなっていた。本当にそうなることを希望し
ていた訳ではないが、そうなる前にどうにかなるだろう、という無根拠な展望を未だに持っていた訳でもなかった。
ただ、私の抱える問題の行き先がそれしかないのなら、それを迎えてしまうのも悪くはないのかもしれない、と思っ
ていただけだ。
そう、私は進んで自ら自身の身体を滅ぼそうという発想は一切持たなかった。当時確かに芳しいと言える現状で
はなかったが、事態はさらに悪くなることだってあり得たのだ。本当にどうしようもなくなったそのときまで、その手
段は温存しておいた方がいいような気がしたし、安直に、軽率にそれを行使してしまうのは何かが許せなかった
のだ。
もしかしたら私は、自らを滅ぼすことによってSと同じ場所へ行くのが単に嫌だっただけかもしれない。どんな過酷
な現実がこれから先に控えていようと、こんな自分のままでSに逢わなければならないことよりもずっとましだ。明
確な言葉にはなっていなかったけれど、そんな気持ちが私のどこかに存在したのだろう。
117 :
名無しさん?:2005/09/20(火) 06:53:24 ID:XlbnZ/4R
これ最初から読んでるやついんの?wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
119 :
名無しさん?:2005/09/21(水) 04:29:33 ID:6RLF2SsK
いねーよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
120 :
名無しさん?:2005/09/21(水) 05:24:09 ID:MUN30Ad0
第1章〜3章までを10行くらいにまとめろ!
眠り続ける間、私には儚げだとしても一応の安息が与えられ、その代償に取り返ることのできない未来が固めら
れていくようだった。具体的に何を形作ろうとしているのかは分からなかったが、ひとつの抜かりもなく続けられる
施工作業の存在だけは漠然と気が付いていた。
だが、着々と進むその何かを組み上げていく作業に、私は全く関心を払わなかった。それがどんな効果を将来に
及ぼそうと、今眠り続ける私にとってはそれが善であれ悪であれ、ただ無益な存在でしかなかったのだ。私は今を、
今現在を眠りながらやり過ごし、生き抜くことに必死だったのだから。
外気は低下し続け、季節がまたひとつ通り過ぎたようだった。膨大な時間が流れたようでもあり、時計は止まった
ままのようでもあった。火の気がまるでない自分の部屋で、私は雪の下の動物達と同じように丸まって眠り続けた。
ときどき何かを考え、思い出し、そしてすぐに忘れた。それらは多分、毎回同じことだった。
毛布を一枚被っていただけだったが、寒さで目覚めるようなことはなかった。私が眠りに暖かさも心地良さも求め
ていなかったからだろうか。一日に何度か訪れる眠りから追放される瞬間、いつも私は部屋の寒さに気付いて一
層身を縮ませ、強く目を瞑って新しい眠りを渇望した。
最初から読んでるよ
眠りは極めて不規則で気紛れだった。覚醒した自覚がないうちにすぐ次の眠りがやって来ることもあったし、私の
頭が勝手に作り出す様々な思考やイメージを、何時間も味わっていてもなお全く訪れないこともあった。しかし眠
りのそのような特性は、別に私を苦しめたりはしなかった。
訪れる気配が感じられなくても、じっと目を瞑って横になってさえいれば、眠りは必ずいつかは私を捕らえるのだ。
それは長いのか短いのかよく分からなかったが、眠り続けてきた私が自らの経験で知った事実だった。いずれに
しても、深い眠りに落ちていようと、あるいは眠れずにじっと目を閉じていようと、表層的には何の違いもないのだ。
薄暗い部屋のベッドの上で、私が眠れずに何度も寝返りを打っていたとしても、一体誰がそんなことを気に留める
だろう。私がそうしている間にも、外の世界の人々は目まぐるしく変化する日常を、各々が持てる力量の限り一生
懸命に何とかやり過ごしていっているのだ。
目が覚めて寒さを感じる度、私は外の世界のことを考えてしまう。そして改めて、自分とその世界との広がってし
まった距離の大きさを思い知らされる。私の身体が震えたのは、きっと寒さだけのせいではない。そんな私ができ
ることは、横になったまま身を縮め、じっと目を瞑っていることだけだった。
あるとき、私は喉の渇きを覚えて目が覚めた。真っ暗だったので多分夜、あるいは深夜だったのかもしれない。
辺りは恐ろしく静かで、恐ろしく寒かった。私は何度か瞼を開いたり閉じたりしてその暗闇の濃密さを確かめた
後、起き上がって手探りで部屋を出た。
廊下に出た途端、私は目に痛みを感じた。居間に通じる扉が少し開いていて、そこから明かりが僅かに漏れてい
たのだ。僅かに漏れた光は廊下の全体に飛散し、跳ね返り、一斉に私の目を射抜いてきた。眩暈にも似た感覚を
覚え、私は光に目が慣れるまで目を瞑り、その場に立ち竦んでいた。
微かに声が聞こえてきた。嗚咽のような声だった。私は目を開けて声の聞こえた方向に目をやった。僅かに開い
た扉の向こうで私の母親が泣いているのだ、という事実に気付くまでさほど時間はかからなかった。何故こんな
夜中に、声を押し殺すようにして母親が泣いているのか、その理由も特に苦もなく思い当たった。
嗚咽に重なるようにして、低く押し殺した声が聞こえた。父親だ。泣いている母親を慰めるか励ますかしているの
だろう。どちらの声も不明瞭で何を言っているのか聞き取れはしなかったが、話の内容は聞かなくても分かった。
彼らは私についての話をしているのだ。
私は立ち竦んだまま嫌な気持ちになった。私は、私としては、何もかもを凍結させて眠り続けたつもりだったのだ
が、私が昏々と眠り続けている間にも、彼らはそうやってずっと悩み、傷付きながら日々を送っていたのだろう。
泣く母と慰める父。私の知らなかったところで、いや、知ろうとしなかったところで、すでに二人も私の迷惑を被る
人間が存在していたのだ。
私は苛立ちながら、細く聞こえてくる母の嗚咽を聞いていた。どうしていつもこうなるんだろう? 私は誰も傷付け
たり、憎んだりしたくなかったのに。そうやってきたつもりだったのに。低くくぐもった声がまた聞こえてきた。やは
り何を言っているのかは分からなかった。私は足音を忍ばせて、自分のベッドへと引き返した。
全てにおいて私は遅過ぎた、恐らくこれに尽きるのだ。自分が間違った対応をしていたこと、そしてそれに気付く
こと。ことが済んでしまった後、ようやく事態を把握したときには、何もかもがすでに手遅れになってしまっていた
し、何度も同じような場面を迎えたにも関わらず、経験も教訓も全く活かされていなかった。
何度も迎えた結末であり、何度も迎えた嫌悪感だった。私という存在は結局その程度でしかなく、それ以上の何
かに発展することは未来永劫あり得ないのだ。誰か確固たる権威を持った人物が私をそう断じてくれるのなら、
私は甘んじてそれを受け入れただろうと思う。
両親の嘆く姿を見た後、私は全く眠れなくなった。眠りが私に訪れるその前に、必ず自己嫌悪にも近い何かが私
を責め立てるようになった。お前は何一つ解決していない。いや、何一つ解決しようとすらしなかった。お前のせい
で迷惑を被った人々全てに、お前は一人一人謝罪して回る用意があるのだろうな? と。
責め立てるその何かを無視して眠り込もうとしたが、眠りは私を見限ったようだった。私はベッドに横になり、目を
閉じたまま様々な観念に責め立てられていた。黙っていれば必ず訪れた眠りは、もはや私にその恩恵を授ける
つもりはないのかもしれない。
これまで眠った分、私は起き続けなければならないのかもしれない。起きて今までの堕落に対価を支払わなけ
ればならないのかもしれない。私の前に現われて、いくつかの言葉を私に授けて消えていった彼女達のように。
……眠りのない暗闇の中では、実に馬鹿なことを考えてしまうものだ。
自己保存の手段として機能していた眠りがなくなってしまった後、日を追うごとに自分が磨耗していくのが分かっ
た。まるで冷凍室から取り出された氷が徐々に解け出して流れていくように、酷いときは私の体のあちこちから骨
が削られる音や、筋肉が寸断される音が聞こえてくるような気がしたものだ。
太陽が昇り、沈んで一日が終わる。申し訳なさそうに暗闇を割き、部屋の窓から弱々しい冬の日の光がカーテン
越しに射し込む。長い時間をかけて床の上を這いずりながらほんの少しだけ部屋の中の温度を上げ、ある地点
まで到達すると、夏の逃げ水のように消えていった。あとにはまた暗闇と寒さが残るだけだ。
私はベッドの中からその繰り返しを17回まで数えたが、果てしなく繰り返されるであろう営みを、数値などで把握
しようという試みの無意味さに気が付いて、途中で数えるのを止めた。その数字が増え続けることと、私の抱えた
現状との間には、何の関連性もなかったからだ。
事態は悪くなるだけだった。私自身の抱える問題が発する止むことのない糾弾と、太陽の回転と室温の僅かな
変化のみで知ることのできる時間の流れ、そして訪れる気配のなくなった眠りの存在が一丸となって、私の心身
を少しずつ少しずつ削り取っていった。痛みすら伴なわず、血の一滴さえ流さずに。
昼間は目を閉じていることが多かった。無遠慮に私の部屋に侵入してきて、一方的に時間の経過を伝えようとす
る日の光など見たくなかったからだ。夜は目を開けていることの方が多かった。本当の暗闇の中では、自分が目
を開けているのか閉じているのか、その判断さえ正確に出来なかったからだ。
もはや私の体が限界を迎えるそのときまで、この状態が続くのかもしれない。それがいいことなのか悪いことなの
か、その判断も出来なかった。ただ、体感はないけれど、眠れなくなったことで肉体的な消耗が早まり、少なくとも
その期間が若干短くなる可能性がある。それは救いといえば、救いなのかもしれない。
いつかテレビで見たことのある、アフリカ辺りで飢餓に苦しむ子供達みたいだ。自分を客観的に観察してみてそう
思った。彼らと私に共通する部分は、全く動かず何を見ているのか分からないその目だったが、彼らと私が絶対
的に違う部分は、何故そういった状況に陥ってしまったのか、その責任の所在だった。
何度も同じ言葉を繰り返し、何度も同じ場面を思い出した。時折恐ろしく嫌な気分に襲われて顔を強張らせ、とき
どきそんな自分を他人事のように嘲笑した。信じられない話だが、こんな状況にあっても私は本当に笑えたのだ。
自分が僅かな笑い声を上げていることに気が付くと、私はまたさらに嫌な気分になった。
同じことを何度も繰り返している間にも、冬はなお厳しさを増していき、私の中の何かが確実に摩り減っていった。
……摩り減っていった? もともと私の中に、そんな「摩り減る」ようなものが存在したのだろうか? 分からない。
私が健全だった頃、いや、そんなもの果たしてあったのだろうか? 全てが繰り返しであり、それだけだった。
その夜はとても静かだった。私は例のごとく目を見開いたままベッドの上に存在していて、例の繰り返しを行ってい
る最中だった。耳鳴りがして我に返ったのだ。何かいつもと違うような気がする。何故そう感じるのか、私は一時そ
れに集中して原因を把握しようとしたが、突き止められるはずはなかった。
私は起き上がり、何気なくずっと閉じられたままだったカーテンを引き開けた。窓の向こうは一見何の変哲もない
みたいに見えたが、よく目を凝らしてみると、どこからともなく流れてくる淡い光に照らされて、闇の中に小さな何
かがふわふわと舞っていた。雪だった。
私は呆然としたまま、しばらくその意外な存在に見入っていた。雪? 雪だ。確かに雪だ。無音の暗闇の中ではら
はらと舞い落ちる白い無数の結晶達。窓を開けると、室内とは比べ物にならないくらいの冷たい空気が私の皮膚
を突き刺してきた。音もなく落ちる雪に向かって手を伸ばしてみたが、私の手は雪には届かなかった。
もっとよく見たいと思った。雪に触れてみたいと思った。クローゼットの中から、薄いウインドブレーカーを引っ張り
出してきて羽織った。まだ私が運動をしていた頃の物だ。開けっぱなしの窓の外にまだ雪が舞っているのを確認し
た後、私は何かに急かされるようにして部屋を出た。
廊下は外よりも真っ暗で、壁に手をつきながら玄関まで進むしかなかった。はやる気持ちを抑制しながら、極力
音を立てないようにして進んだ。両親に見付かりたくなかったからだ。もし見付かった場合、私は何と言えばいい
のだろうか? 雪を見たい? 雪に触れたい? 自分でも分かっていた。馬鹿げていると。
玄関までは上手くいった。しゃがみ込んで手探りで履くものを探した。隅の方に母親のサンダルがあった。それを
突っかけて、玄関の鍵を開ける作業にかかった。両手で包み込むように鍵の部分を覆い、可能な限りゆっくりと回
した。金属の擦れ合う感触が手から伝わってきて、間もなくかちり、と確信に満ちた小さな音が私の耳に聞こえた。
ノブを回す。扉を押す。隙間から冷たい空気が流れ込む。それを私が辛うじて通れるくらいになるまで、辛抱強く
押す。外気に影響され、玄関内の空気が緊張していく。隙間に体を入れる。摺り抜けるようにして素早く外に出る。
私の全身を冷気が手荒く迎える。ドアノブを回したままで、ゆっくりとドアを元の位置まで戻していく。
極力音がしないようにドアノブを戻し、私は手を離して振り返った。無数の結晶達は一見それなりの密度で降り注
いでいるみたいだったが、いかにも年間を通して滅多に降雪しない地域に降る雪そのもので、地面まで到達した
雪達は気温か、あるいは地熱だかに耐えられず、消えてしまうように解け失せ、ぶ厚く積もることも出来ずにいた。
彼らはそんな自分達を恥じているというよりもむしろ、脆い存在である自分達に対していじけてしまっているように
見えた。彼らが儚いながらも辛うじて保っている白い領域に足を踏み入れると、私の足は大して抵抗も感じず、容
易に彼らを踏み砕いてしまった。跡にはサンダルの形をした黒い穴が残っただけだ。
黒い穴を点々と残しながら、私は家の前の道に出た。家の前を走る道の所々に灯る街灯が、球状の光のエリア
を形作りながら、儚い雪達を薄く照らし出していた。路上に薄く積もった雪も、私の家の玄関先のそれと同じよう
に、踏みしめれば脆く崩れ去ってしまった。
私は空を見上げた。白い結晶は暗黒の空から途切れることなく降り注いだ。馬鹿みたいだ、とまた思った。珍しい
雪に部屋を飛び出してくるという、子供のようなことをする自分自身に対して。つま先がかじかむ。一体私は、何が
したいのだろう? 私は何がしたかったのだろう?
無音の闇の中に横たわる道路を、私はあてもなくゆっくりと歩き出した。特に目的地があったわけではないし、漠
然とどこか遠くへ行きたいと思っていたわけでもなかった。私がどこへも行けないのは、すでに証明済みだったの
だ。あえて言えば、寒さに耐えかねた私の体が運動による発熱を求めて、本能的に足を動かしただけなのかもし
れない。
希薄な地上の雪を踏みながら、そしてときどき後ろを振り返って地面に残った自らの足跡を確認しながら、私は
ある方向に向かってゆっくりと歩き続けた。街灯に照らし出された私の足跡は、すぐさま雪に産め尽くされるよう
なこともなく、その存在を誇示しているみたいに、私が歩いた道筋にずっと残ったままだった。
私は導かれていたのかもしれない。あるいは、もう少し理性的な分析をするならば、心の奥底ではそれを知って
いながらも、あえて表層意識に表さないようにしていただけなのかもしれない。私が何気なく(多分何気なく、だ)
選んだ方向は、奇しくもある夏の日に漠然と街を歩き回った、その方向と同じだったのだ。
それは私の本質的な傾向に問題があるのかもしれないし、私の幼年期の体験がそうさせるのかもしれなかった。
深夜とはいえ、よく知っている道だ。街灯の届かないところの風景だって簡単に思い出せるような気がした。つまり
私は、どうしてか自分でも分からないが、Sの家のある方向へと歩いていたのだ。
私は本当に、全く何も考えずにそうしたのかもしれないし、心の深いところで漠然とした何かを渇望していたのか
もしれない。いずれの可能性をいくら検証してみても、それが過去の出来事となった今現在にもう一度反芻を試
みてみても、可能性はあくまで可能性でしかなかった。果たして一体誰が、「かもしれない」という推測の域を解脱
して、本当に正しいものごとを掴むことが出来るというのだろう。
私が雪の降る中を歩く理由は、私自身にも分からなかった。私がもう少し主義主張の出来るタイプの人間だったな
ら、無理矢理正しそうな理屈を見付けて世間一般に向かって声高にそれを宣言できただろうか。いや、この場合は
主義主張というよりも、正しそうな理屈を見つけられることの方が、案外重要なのかもしれない。
幾多も存在する可能性の中から、比較的正しいと思われる事柄を見付け出す能力。一種の才能といってもいいと
思う。それが私に備わっていればあるいは……。馬鹿げた考えを渦巻かせながら歩く私は、危うくそれを見逃して
しまうところだった。目の前まで歩き進んでようやく気が付いた。Sの家がなかったのだ。
反対方向に歩いてきたわけでもなく、いつのまにか見落として素通りしてしまったわけでもなかった。隣接する家
々は確かに私の持つ記憶と一致したが、Sの家だけがぽっかりとなくなってしまっていたのだ。Sの家がなくなって
いる事実を目の当たりにしながら、私は呆然とその場に立ち尽くしていた。
Sの家が存在しなくなっていること、その事実を飲み込むまで随分時間がかかったような気がする。理由が分から
なかった。意味が分からなかった。様々な概念が頭の中を巡ったような気もするし、全く何も考えていなかったよ
うな気もする。とにかく私は長いことそこに立ち止まって、Sの家の存在した場所を眺めていた。
Sの家が消えてしまった理由は、雪の中呆然と立ちすくんでいる私が、どんなに長いこと考え込んでも分かる訳が
なかった。それでも何かしらの確証のようなものを求めたのだろうか、私は恐る恐るSの家の跡地に近付いていっ
た。道の端からSの家の門前まで一直線に、私の歩いた足跡だけが残った。
以前門柱に据え付けられていた表札と呼び鈴がなくなっていたが、ところどころペンキの剥げた鉄製の門扉はそ
のまま残っていた。手をかけてみると、少し軋んだ音を立てながらも意外と滑らかに動いた。私はゆっくりと、極力
軋む音を立てないように心掛けながら門を開き、足音を忍ばせるようにして敷地内に入り込んだ。
記憶の中にあるSの家と庭、それと今目の当たりにしているただの空き地、その二つが複雑に交じり合い、とても
奇妙な、居心地の悪い雰囲気を織り成していた。それほど広くないこの空間に、瓦礫や廃材などは全く存在しな
かった。ただ家の土台となるコンクリートの基礎だけが、辛うじて以前ここに建っていた建物の輪郭を残していた。
コンクリートはとても乱雑に切り取られていた。痕跡を残さず綺麗に撤去しようとしたのではなく、とにかく一秒で
も早く家と地面を切り離したかった、というような気配が感じられた。そんなに急いでいたのだろうか? そんなに
急ぐ必要があったのだろうか? しかしコンクリートの形状に含まれた細かい事情など、もちろん私に分かるわけ
はなかった。
Sは確か一人っ子だったはずだ。Sが死んだ後、この家がなくなってしまったということは、Sの両親は早急にこの
地を去ってしまったということなのだろうか。Sの死後、私の耳にさえ届いてきたあらぬ噂が思い出された。だとす
ると、Sの両親はSの骨をこの街に埋めることなく、立ち去っていったのかもしれない。
Sの両親の顔が、私の持つ記憶の中から呼び起こされようとしたが、それはうまく実像を結ぶには到らなかった。
Sの両親がどんな顔をしていたか、かつてどんな顔で私を受け入れてくれたのか、私にはもう思い出せなかった。
ただ、彼らが私に優しくしてくれたという記憶だけが、必要以上に思い起こされただけだった。
私はいたたまれない気持ちになって、跡地に力なくしゃがみ込む。何故皆そう身勝手なのだ? 何故皆そう他人
に対して、理解する猶予さえ与えずに行動してしまうのだ? うずくまる私を一切無視して、自己に与えられた役
目だけをただ全うしようとするかのように、雪は以前として不恰好に切り取られたコンクリートの上に薄く降り積も
っていた。
結局は皆自己中心的で、皆己のことしか考えていないのだ。急いで取り壊したであろうSの家の跡地の中で、私は
何かに反発するようにそう思った。もちろん、それが仕方のないことだということは理解しているつもりではいた。だ
が、そんな理屈を受け入れられる程、私は何もかもを悟り切っているわけでもなかったのだ。
では、お前は何なのだ? 内なる声が言う。皆必死になってそれぞれの生活を辛うじて営んでいるというのに、皆
己の生活を維持するために、多少なりとも自己をすり減らして生きているというのに、お前はそれに対して一体何
をしてきたというのだ? ただただ文句をつけて一切を拒んできただけではないか。
内なる声の言うことは全く正しかった。私は何もしていない。様々な問題を目の前にしていながらも、それらに対し
て何ら解決策を出そうとはしてこなかった。その無為な行動を「冬眠」などという大層な名前で呼びながら、実際
は現状から逃れようとする行為でしかなかったのだから。
ごまかし切れてさえいなかった。本当に自分を騙せていられるのなら、もっと表向きの負担は軽くて済んだはずだ。
自分さえも納得させられないような「冬眠」などに、ひたすら邁進しようとすることもなかったはずだ。知っていなが
ら、敢えて知らない振りをしようとする。それが本当の愚かさなのかもしれない。
結局、ご大層な理屈や理論をいくら頭の中で並べてみても、私の取ってきた行動は決して誉められるようなもの
ではなかった、それだけのことなのだ。自分自身さえ騙し通せてはいなかったのだ。はっきりいって、誰にでもそ
んな浅はかなことくらいできる。そしてSは、自分自身のそれを貫いていく過程で死んでいったのだ。
ノノl∂_∂'ル
⊂二二二( ^ω^)二⊃
残された者から見れば、Sが決して賢い方法を取ったとは到底思えない。だが、Sが取った方法と、私がやっている
方法は、根本的には恐らく同じベクトル上に存在するものでしかないのだろう。Sはそうし始めて、比較的早い段階
で死んだ。私はまだ死なずに、死ねずにかもしれないが、無為に日々を送っている。それだけのことなのだ。
少なくとも今の私には、私自身ととうに死に絶えてしまったSとの間には、如何ほどの差異も見出すことができな
かった。ただ気紛れな何らかの作用によって、死に絶える者と生き残る者とが隔てられただけのような気がした。
これまでの功績や、頑なに持つ考え方や、そんなもの一切が全く無関係の領域で、ただ生と死とを隔てられただ
けなのだ。
Sは死に、私は生き長らえた。だが、両者の間には幾ばくの差も見出せなかった。結局は同じなのだ。Sは死んで
眠りについたが、私は生きながらにして眠っていただけなのだから。無為という意味の上においては、私もSも全く
同じだった。何の意味も持つことなく、また何も生み出してこなかったのだから。
私は寒さに身を縮ませた。両腕で膝を抱えて積もり切れない雪を眺めた。この無様でみすぼらしい雪は、まるで
私達そのものだ。人々が寝静まった頃に音もなく降り、そして明日の朝には、誰かの目に触れる前に解け去って
いるのだろう。明日の朝に庭先で少しぬかるんだ土を見たとしても、誰も昨夜雪が降ったのだとは考えないかもし
れない。
そんな人目をはばかるように降る雪の中に、私は誘い出されるようにしてのこのこと出てきた。偶然や、本能的な
何かや、幼年期の体験などが、私をこの跡地まで連れて来たと、それまではそう思っていたが、こうしてここにしゃ
がみ込んでいると、何かもっと不吉でどす黒いものが深いところに関わっているような気がした。
多分Sだ、と私は思った。Sの体は既に細かく分解され、今やありとあらゆる場所に存在していた。満たされていた、
といってもいい。私の部屋、私の家、学校の教室、Sの家の跡地、私を取り巻いてきた全ての空間の中に。そのS
の残骸が、何らかの形で私に少なからず影響を与えてきたのかもしれない。今までずっと私を見続けてきて、そし
てこれからもずっと私にまとわり付いていく気なのだろう。
しかし、今までの私の身に起こった全ての出来事、あまり幸福だったとは言えない私の全ての身の上の原因が、
全部Sのせいだとは思えなかった。いや、Sのせいにはしたくなかった。全てを分かり易いところへ帰結させてしま
えば、あるいは私の負荷はもう少し少なくて済んだだろうが、そんなことをして一体何になったというのだ。
恐らくSは、私にそうして欲しかったのだ。何もかもを自分のせいだと考えさせたかったのだ。そうすれば私がいつ
までも自分を忘れることができないと思ったのだ。私が何かでつまづけば、その度に自分のことが思い出され、そ
して自分にまつわる苦い記憶も同時に引き出されるだろうと、Sはそう考えたのだ。
非現実的な言葉でいうなら、呪いだ。もちろん、現実のSは死ぬ間際に私のことなど考えもしなかったかもしれな
い。すでに遠縁になってしまっていた私のことを臨終になってから思い出す、というのもいささか不自然ではある。
しかし、実際のSが死に際に何を考えたのかは、私にとって大した問題ではなかった。
要は私の中に存在するSの残像だ。私の、Sについて知る限りのあらゆる情報の末に存在するSだ。私の中のSは、
私の心に巣食うSの残像は、未だ私を許してはいなかった。そのことを伝えるために、またこれから未来永劫、私
の記憶の中に生き続けることを表明するために、私の中のSは私をこの跡地まで誘い出したのだ。私にはそう思
われた。
私は立ち上がる。サンダル履きのつま先に痛みを感じる。私がどんなに言葉を並べようとも、もはやSには届かな
い。和解の機会は永遠に訪れない。私はSの影を胸に抱えたまま、永久に生き続けなければならない。そんな事
実がいまさらのように顕わになる。雪意外に何も存在しない空間を見つめながら、私はあるひとつの決心に到達
した。
いいだろう、と私は思った。もしSが本当にそうしたいのなら、存分に続けるがいい。可哀想なことだが、Sにはもう
分からないのだ。生きている者と死んでしまった者との違いが。これからも生きて、どのようにも変化できる可能
性のある私にとって、そのような呪いの類はさほど意味がないのだということが。
物心つく前からか、あるいはその後から始まったのかはもう知る由もなかったが、私とSとの関わりはこれで終わ
りだ。遺恨しか見えなくなってしまった関係など、もはや何にもなりはしない。何かを生み出しもしない。これから
行く先々にSの残像を見るのは嫌だったし、何より私にそんな風にして思い出されることになるSが哀れだった。
私は跡地を見回した。当たり前だが、そこには雪と私以外誰もいなかった。冷たい大気を深く吸い込んで、気持
ちを落ち付かせようとした。ありありと思い起こされる幾多の記憶、幾多の思い出達。誰もいない空間のはずだっ
たが、私が弔辞を述べる必要のある相手は、確かにここに存在するような気がした。
私は諭すように語りかける。それは私の心の奥底に抱えたSの欠片に向かって通達すると同時に、私自身に対し
て言い聞かせる言葉でもあった。今後一切、貴方のことは考えない。私達の幼年期を飾った明るい思い出も、私
達が不本意にも遠ざかることになってしまったときに感じた寂寥感も、今まで貴方に対して密かに抱いてきた罪
悪感も、全部この貴方の家の跡地に置いていく。それでもう終わらせよう。
私は貴方のことを思い出して、その度貴方を陵辱することをやめようと思う。それでも貴方が私を呪い続けたいと
いうのなら、勝手にいつまでも続ければいい。もう私は貴方の残した影に思い悩むことはないし、貴方の残影をず
っと私の中に閉じ込めておくつもりもない。私は貴方を記憶から追い出すことによって、貴方を解き放とうと思う。そ
して生きている私は生きる者の世界へ、死んでしまった貴方は死者の国へ、それぞれ相応しい場所に戻ろう、と。
誰も何も応えなかった。それでも私は構わなかった。私はSを説得したかったわけではなく、ただ私の決心を伝え
ただけに過ぎなかったのだから。私とSとの間には、もう随分前からお互いの意見や主張をぶつけ合うような機会
がなかった。Sは自らの死を人づてに伝えただけだった。だから私も、この場はただSに伝えるだけでいい。
もしSが死んでしまったりせずに、今まだこの地で生活を営んでいたとしたら、和解の可能性も決してゼロではな
かったかもしれない。私は少し感傷的な気持ちになって思った。Sはどう考えていたのかもう知るすべもないが、
私は確かに、できることならSとの関わりを取り戻したいと思っていたのだ。
そう、取り戻したいと思っていた。まぎれもなく思っていた。そうでなかったらどうして、いつまでもSに対して罪悪
感を抱いていたり、一方的に伝えられたSの死に苛立ちを覚えたりするだろうか。勝手な都合で完全に姿を消し
てしまったSに対するささやかな報復。そうでもしなければ、私はきっとその事実を受け入れられなかっただろう。
だから私はSを憎んだ。憎もうとした、というべきか。しかし、どちらにしてもその試みはうまくいかなかった。という
のも、これは元々フェアな事柄ではなかったのだ。そんな事実を唐突に突き付けられれば誰だって動揺するし、
その事実をどう受け止めたらいいのか迷う。私は迷った。途方に暮れた。しかし、私がうろたえ始めるよりも前に、
強制的に与えられた情報に戸惑っているよりもずっと以前に、すでに事実は事実として固まってしまっていたのだ。
私の儚い望みは、すでに確定してしまった運命にかき消された。Sの死によって、それは完全に捻り潰されたのだ。
私はその事実を突き付けられ、自分の取ってきた行動を振り返ってみるよりもまず、死んでしまったSにその原因
を背負わせようとした。他にどうしようもなかったのだ。
私の取った、というより取らざるを得なかったその方法は、やむを得なかったとか、間違っていたとか、正誤を議
論する前にまず意味を持たなかった。正しかろうが間違いだろうが、死人は生き返りなどしないのだ。あるいはS
が死んでしまうよりも遥か以前に、私が辿ることになる間違った道が、最初から用意されていたのかもしれない。
今更どんなに悔やもうとも、すでに可能性はなくなっていた。今まで以上に鮮明に、過去の思い出達が私の胸の
内に展開されたが、やはりSの顔が思い出せなかった。思えば私達は、随分と哀れな別れ方をしてしまったものだ。
もっと物事がうまく回ってくれてさえいれば、些細な理由で疎遠になってしまわなければ、私達は素晴らしい間柄
になれていたかもしれないのだ。Sが死んでから、初めて私はSの死を悲しめたような気がした。
再三いうように、もはや何もかもが事実として固まってしまっていて、それに改編を加えることはおよそ人間の成
せる業ではなかった。全て遅過ぎた。遠ざかり始めたのに気付くことから、Sの死を純粋に悲しむことまで。だが、
これで終わりだ。もう双方とも意味もなく苦しんだり、悩んだりする必要もなくなる。さようなら、私の初めての友人。
私は降る雪に向かって、声に出さずにそう言った。もちろん雪は応えなかった。
私は自分の部屋に帰ってベッドに倒れ込んだ。毛布を被ってもしばらくは震えが止まらなかった。頭からつま先
まで冷気に侵された私の体は、熱を生成しようと懸命に全身の筋肉を痙攣させた。震えに身を任せながら、凍え
てしまったのは体だけではなかったのかもしれない、そう思った。具体的に何が凍えたのか、答えを見出す前に
私は眠ってしまっていた。良くも悪くも、久し振りの眠りだった。
その間夢は見なかった。いや、見たかもしれないが、記憶には残らなかった。それでよかった。余計なものは全
て捨てたのだ。見たとしても、覚えていたとしても、それほど重要なことではない。私は過渡期だった。風雪を長
く耐えて今まさに羽化しようとする蛹そのものだった。蛹は多分夢を見ない。やがて来る新しい世界を羽ばたくた
めに、じっと力を蓄えるだけだ。
目が覚めたのは昼間だった。私が眠ってしまって何時間経ったのか、あるいは何日経ったのか、ただベッドの上
に身を起こして呆然とする私には判断ができなかった。終わった。終わったのだ。何度かそう言い聞かせ、蘇ろう
とする記憶達を打ち消すことに成功した。大丈夫だ。私は彼女がいなくても生きていける。
私の中には、説明するのも困難な充足感が満ちていた。それは根拠も後ろ楯もなかったが、奇妙な程に私を力
付けた。大丈夫、私はどのようにも生きられるし、何にだってなれる。これまで私を包んできた悪意さえ糧にして、
私はどこまでも飛んでいける。カーテン越しに差し込む淡い日差しを見ながら、私は本気でそう思った。
さあ、と私は私に問うた。私はまず何をすればいい? 忌まわしいものから開放されて、真に自由になった私が最
初に取るべき行動は何だ? 答は身体が教えてくれた。私は酷く空腹だった。最近これほどまで空腹を感じたこと
があっただろうか? まあそんなことはどうでもいい。まず食事を摂ろう。その後ゆっくり考えればいい。
私はベッドから起き上がり、部屋を出て廊下を歩き、居間に通じるドアを開けた。そこにいた父と母が驚いたような
顔で私を見詰めた。父は新聞をめくる手を止めて固まり、母は父にお茶を運んできたまま硬直していた。私達は
数秒間固まったままだった。しばらくして母が、私におはよう、と言った。私もおはよう、と応えた。朝だったのだ。
何か食べる? と母が言った。私は頷いた。母は父の前に急須と湯呑を置いて台所に戻っていった。慌しく母が
動き回る音が、朝食の匂いと一緒に台所から私のところまで届いてくる。私が父の向かいの椅子に座ると、父は
黙ったまま新聞をめくる作業を再開した。
こういった光景は随分久し振りだったが、かつては当たり前のように毎朝ここで繰り返されていたのだ。そして私
が朝食のテーブルに着かなくなってしまってからも、私の両親は二人だけでこれを続けてきたのだ。私は改めて、
自分がどれ程遠い場所に行ってしまっていたのかを痛感した。
私が朝食を食べている間、父も母も、何も私に尋ねようとはしなかったし、私も両親に何かを説明しようとはしなか
った。多分、二人とも私に何を聞いたらいいのか分からなかったのだ。私も、彼らに向かって何を説明すればいい
のか分からず、ただ無言で食べ続けた。
やがて両親は仕事に出掛けていった。そういえば私は、すでに学校を辞めていたのだ。家にただ一人残された私
はひとまず自分の部屋に戻り、これから何をすればいいのかじっくり考えてみることにした。私が持っているものは
少なかったが、時間だけは豊富に与えられていた。
ベッドに横になるのはやめた。安易に寝転がる姿勢をとってしまったら、自分は簡単に怠惰な方向へと流されて
安々と眠ってしまうだろう。いくら余りあるとはいえ、時間を無駄に消耗してしまいたくはなかった。延々と眠り続け
たり、極端に長い時間起き続けていたり、そんな生活はもう終わったのだから。
私は自分の学習机に座った。久し振りだった。机の上にはかつて使っていた教科書やノートが乱雑に置かれたま
まになっており、それらの上に一面まんべんなくうっすらと埃が堆積していた。私は教科書とノートを一通り手で叩
いてから本棚に戻し、ティッシュペーパーで机の上の埃を拭った。
教科書やノートは後でまとめておいたらいいだろう、と思った。もう必要になることもないだろうし、いつまでも部屋
に置いておきたくはなかった。目にするたびに何かを思い出してしまうこともあるかもしれない。そしてそれは、私
にとってあまり愉快な思い出ではなかった。
教科書類の処分。ひとまず私のすべきことをひとつ思い付いた後、本当に私にとって教科書の類は、果たして完
全に不必要になるのだろうか、とふと考えた。例えば寝入る前に、軽い読み物代わりに目を通すことだってあるか
もしれない。私が考える教科書というものは、何も考えずに読む分には比較的無害な書物だった。
まあ、そうかもしれない。思い出されることになる過去の出来事にさえ目を瞑れば、とっておいても損失は被らない
かもしれない。いや、本当にそうだろうか? 教科書自体は無害かもしれないが、思い出されることは私にとってよ
くない影響を及ぼしはしないか? 私は頭の中でその両方を天秤にかけてみたが、どちらも決定的な理由が見付
からなかった。
例えば私がもう一度学校に通おうと思う場合、それらは必然的に必要なものになるだろう。私は自分の思い付き
に驚いた。私が復学する可能性、自分でも一度も考えたことはなかった。これから自分自身がどうするか、それ
をじっくり考えようとしている間際にも、私がもう一度学校に通う可能性というのは全く考慮していなかったのだ。
悪くないかもしれない。新しい環境でもう一度、自ら放棄してしまったものをやり直すこと。16という年齢の人間が
通常になすべきことを学業以外に思い付けなかった。ただそれだけなのだろうが、私は突拍子もなく浮かんだ自
分の思い付きを気に入り始めていた。
ならば、ひとまず教科書を処分してしまうことはよそう。本当に復学するのかどうかはまだ分からないけれど、必
要になる可能性があるのならそのままにしておいてもいい。最終的にどちらかの決断をして不必要になったとき、
そのときに完全に処分してしまったらいい。
教科書の問題はそれでいいだろう。そのことよりこの部屋自体、随分長いこと掃除をしていなかった。さっきの机
の上のように、部屋中に埃が積もっているかもしれない。私は立ち上がり、居間にある押入れから掃除機を引っ
張り出してきた。ついでだ、と思った。この際、この部屋から完全にいらないものを排除しよう、と。
あまり広くもない床の隅々まで徹底して掃除機をかけ、それから布団を運び出してカバーを外し、カバーは多量
の洗剤と一緒に洗濯機に放り込んで、布団は庭の物干し竿に引っ掛けた。冬の弱い日だったのは残念だったが、
やらないよりはましだ。念のため吊るした布団を執拗に叩いて埃を払った後、部屋に戻って今度は机の引出しや
箪笥の整理に取りかかった。
机の引出しや箪笥の中には、見ただけで過去を思い出してしまうような品物は少なかった。特に箪笥などは、ほ
とんど出し入れさえしていなかったので、当初入れた衣類がそのまま綺麗に収納されているだけだった。机の引
出しにも、細々とした無害な雑貨が詰められているだけで、処分する必要のあるものはなかった。
私は少し拍子抜けしつつ、私の部屋の整頓を終了した。物足りない気持ちだったが、ないものは処分しようがな
い。台所でインスタントコーヒーを作り、それを部屋まで持ってきて、椅子に腰掛けて飲んだ。私は過去にまつわ
る様々なものをもう少し所有していたような気がする。それらは一体どこにいってしまったのだろう?
そう、例えば卒業アルバム。中学校の卒業アルバムだ。あれこそ最も処分する必要のある品物ではないか。し
かし私は一連の作業の中で、それを見付け出すことが出来なかった。確か私の部屋の教科書を並べた隣の本
棚に入れておいたはずだったが、どこにも見当たらなかった。
まあ、それでいいのかもしれない。部屋中整頓しても見付からなかったのなら、今後も私が目にすることは滅多
にあるまい。そうならばそれは処分されたも同じことではないか。私はそう思うことにした。安心感というか、しっく
りできないところも幾らかは残りはしたが、存在しないものはどうしようもなかった。
仮に首尾よく卒業アルバムを発見できたとしても、私はそれを躊躇なく処分することができるだろうか。確かに今
の私にとって、それは忌まわしい過去を連想させるものでしかない。もし私がその忌まわしいものを完全に克服
できたとするならば、それが持つ意味は全く変わってしまって、それを所有していないことを、処分してしまったこ
とを、私はそのとき後悔するのではないだろうか?
思いを巡らせてはみたが、今の私に境遇の変わった未来の私を想像することなど出来なかった。今現在、それは
処分の対象という認識で私に捕らえられてはいるが、将来、私の想像も及ばない程遠い未来において、それがど
うしても必要なものになることだってあり得るかもしれない。
私はそれ以上考察することをやめた。見付かろうが見付かるまいが、処分しようがしまいが、ないものについて考
えること自体が不毛なのだ。今それは見付からない。処分されたも同じだ。遠い将来にそれが必要になったとき、
本当に私にとって必要だというのなら、それは自ずと私の手元に戻ってくるだろう。
それでいい、と思った。私が未来においてそれを必要としたとしても、私の手元に戻ってこないのなら、それは本
当は私に必要ではなかったということなのだ、と。この場合の「本当」とは、例えば極端な話、生命の危機とか、
もしくは私が私であり続けるためにどうしても避けられない事情とか、つまりはそういうことだ。
とにかくそんなことを考えてもしようがない。今は目の当たりにしている問題のことだけを考えればいい。要する
に私の今後の身の振り方だ。振り方、などとはいうが、選択肢は実質二つしかなかった。他の道を思い付かなか
った、いや、知らなかっただけかもしれないが。
復学するか、しないか。当面の問題はまずここだった。別に私は学校に通い直すこと自体に特別な思い入れが
あったわけでもない、と思う。一応の学歴に拘っていたわけでもないし、新しい環境で楽しい学園生活をやり直し
たい、と未だに考えていたわけでもなかった。無駄に沢山抱えた幾多の問題の中でも、単純に一番取り付き易
そうに見えただけなのだ。
私が復学を決めた場合、まず両親にその旨を伝えなければならないだろう。それからどこか適当な学校を調べる
必要がある。一度学校を中退した人間が再び別の学校に通い直す場合、再度入学試験からやり直さなければな
らないのか、それとも他に易しい方法が存在するのか、私は全く知らなかった。
しかしどこで調べればいいのだ? 最初に思い付いたのは図書館だった。多大に保有された蔵書の中に、一冊く
らいはそのことに関連した本があるかもしれない。膨大な数の本の中から目的の本を見付け出す作業を想像して、
私は軽く眩暈を覚えた。
非常に手間隙のかかる作業だ。けれど、私が本気で復学を考えるのならば、それは多分大した作業ではないの
だ。何かの確固たる目的がある場合、そのために強いられる手段は決して苦痛ではない。むしろ目的を達する過
程、達することに確実に近付いていると実感させられるという意味において、手間隙はある種の喜びになり得るの
かもしれない。
ただ残念なことに、私には手段を目的に到るための確実な経過として、純粋にその作業を喜べるような感覚がま
だ存在しなかった。苦痛は苦痛でしかなかったのだ。本気で望めば、望むことが出来れば、本当に感覚が変化
するのかもしれないが、今の私にはその過程を想像するだけで気力が削がれるような気がした。恐らく私はまだ、
復学という可能性を本気で推進しようとは思っていないからなのだろう。
そういえば今までも、ずっとそうだったのかもしれない。本心から、心の底から何かを渇望した、という経験が私に
はまだなかった。ものごとが自分の思うように展開してくれたら有難い、と考えたことはあったが、その展開を自分
の労力を使って己の望む方向に持っていこうと努力したことは一度もなかったのだった。
これまで私の周りで起こってきたこと全ては、そうやって本気で自分の意志をもって流れを導こうとしたわけでは
なく、全てを私の意志による決定を放棄したところに一度棚上げして、自分以外の他の力がそれを流れるままに
してくれることを待っていただけなのだった。私は私の意思の及ばないところで下される決定を、そのまま鵜呑み
にしていたに過ぎないのだ。
でも、それももう終わりだ。私はそう強く思った。これからは違う。私は自分の意思でものごとを見極め、選別し、決
定しなければならない。確固とした物的根拠も、過去の実績も一切持ってはいなかったにも関わらず、私は自分が
それを大した苦もなくやってしまえるような気がしてならなかった。
気が急いた。どこかへ行かなければ、何かをしなければならないような気持ちが強くなっていった。この気持ちの
高揚に乗せてひとたび行動を起こしてしまえば、私のこれからも少しはいい方向に向かい始めるかもしれない。
そんな結果を得られるのならば、ここで用いる労力も大した負担にはならないだろう。
私は立ち上がって出掛ける支度をし始めた。例え図書館の蔵書の中に私の求める文献がなかったとしても、それ
は別に無駄骨ではないのだ。最低でも、この街の図書館には私の欲しい情報は存在しない、ということは分かる。
それに私は、まだ復学を心に決めてしまったわけではなかった。
判断材料になり得る情報はいくらあっても困らなかった。なければないでもいい。別の口を見付けるまでだ。私は
情報を探しに行くというよりも、何かをしなければならない、という焦燥感のような感覚をなだめるために、図書館
に向かおうとしているのかもしれない。
けれど、今の私にとってはどちらでもよかった。とにかく行動すること、行動してみることこそが今の私には重要
で意義のあることのような気がした。何も根拠はなかったが、焦りのような感覚を私が今抱いていることと、それ
に従って行動しようとしている私そのものは、とても自然で正しいことなのだ、と漠然とそう感じていた。
外へ出ると、冬の弱い日の光が私の全身を包み込んだ。室内に比べれば恐ろしく寒かったが、気分はよかった。
久方ぶりに浴びる昼間の太陽光に、私の焦燥感は加速され、自分の思い込みが間違いでないことを強調されて
いるような気がした。私は玄関のドアに鍵を掛け、ゆっくりと歩き出した。
路面が湿っているのは雨か雪が降ったからなのだろうか。もしかすると何日か前の、あるいは何時間か前の夜に
外で見た雪の残骸なのかもしれない。外出する際、自分が日付を確認しなかったことを思い出した。今日が何日
なのか分からないのだ。一旦家に戻って確かめようかとも思ったが、私はそのまま歩き続けた。
それが夜に見たあの雪の残骸だったとしても、それが何だというのだ。雪の残骸など、もはや私に何かしらの影響
を与えるような存在ではなくなっていた。それにまず第一、私は雪が降りしきったその夜が一体何日だったのか知
らないのだ。いつ降ったものかも分からない雪か雨の残骸、私はそれを踏み締めて歩いた。
特に変わり映えのしない、晴れた冬の一日だった。昨日と今日が知らない間に入れ代わってしまっていても、誰も
困らないような平凡な日だ。すれ違う人々と通りかかる車の吐く白い息だけが緩慢に大気に消えてゆき、それ以外
の動くものは皆せかせかと己の目的に向かって進み続けていた。
私もその一人なのだ、と思う。寒さに身を縮ませながら、図書館という目的地に向かって歩き続ける。一通りの目
標を持って動く存在なのだ、と。そう考えると、私と世界との距離が幾分近付いたような気がした。いい傾向だ。私
の気分の高揚は、頬を撫でる張り詰めた空気が及ぼす苦痛よりも強かった。
それでいいのだ、と思った。誰しもがそうやって早急な目的を持って動き回り、それが解決したと同時にまた新し
いささやかな目的を見出すか与えられるかして、繰り返し繰り返しやっていくものなのだ。私も人の姿形をしてい
る以上、その規則に従ったとしても特に害は生じないはずだ。
一時的な気分の高揚というのは充分に理解していた。だからこそそれを強力に推進しようとしたのだ。私は不毛
ではない存在になりたかった。同じところをぐるぐる回り続けるままでいたくなかった。私が本気で考えてはいな
かった復学にここまでこだわったのも、多分そんなところなのだろう。
いや、あるいは私はものごとを複雑に考え過ぎるのだろうか。ふと浮かんだ思い付きを実行するにも、ここまで周
到な言い訳を用意しなければいけないのだろうか。自分がふと何か思い付いたのなら、深く考えずにやってみれ
ばいいのではないのか。私自身がある種の姿勢を保とうとし続ける限り、どんな結果が私に訪れようと、決して何
も学ぶところがないわけではないはずなのだから。
まあとにかく、と私は自身の中の葛藤を押さえ付けるために無理矢理現状を総括した。今はこれでいいのだ。今
最も自分に適したものごとを実行しようとしているのだ。難しいことは、今やろうとしていることが不運にも暗礁に
乗り上げてしまったときに、新たなる壁にぶつかってしまったときにでも、改めて考えてみればいいのだ、と。
別に急いでいたわけではなかったが、私は比較的早足で図書館までの道のりを歩き続けた。とくにそう決めてい
たわけでもなかったが、私は私の足だけで図書館を目指した。つまり、電車やバスなどの公共機関を利用せず、
……というよりも、私はお金を一切持たずに出てきてしまったのだ。
私の財布、特別な事情がない限り、多分今も私の部屋のどこかにあるのだろう。しかし私はそれを見つけ出そうと
する以前に、その存在そのものをすっかり忘れていたのだった。その中に一体いくら残っていたのかももう思い出
せなかったが、私にとってそんなことは本当に些細な問題だった。
凛とした空気の中を歩くのは清々しかった。少なくとも、夏の猛暑に焼かれながら当てもなく歩き回るよりは遥か
にいい気分だった。あのときは夕立のおまけまでついていた。今回なら雪が降ってくるのだろうか? 空を見る限
り、雪が降ってきそうな気配はまるで見受けられなかったが。
大きな通り沿いに歩き、歩道橋を渡り、いくつかの信号と横断歩道を通過してようやく図書館前の公園に着いた。
冷たく弱い風に諦め悪く残った葉を揺らす樹木が点々と並び、真ん中を通る細い小道に両断されるように植えら
れた芝生が日の光に輝いているだけで、誰も公園内にはいなかった。
私はその小道を図書館に向かって歩いた。公園の中に誰もいないことは、かえって私の清々しさを肥大させた。
弱く吹く風、太陽の光、公園の緑、人ではないそれらが私を肯定的に迎えてくれているような気がした。祝福とで
もいうのだろうか、私の起こしている行動に対して、あらゆるものが私を見守っているような、そんな感じがしたの
だ。
ドアを押し開けて中に入る。かなり静かだったと思える外に比べても、図書館の中は更に静かだった。私の他に利
用者がいないのかと思ったが、中では数人の人が控えめに己の目的に応じた文献を探索していた。効き過ぎてい
るような空調の暖かい空気に包まれ、私の冷え切った頬が紅くなるのが自分でも分かった。
貸し出しカウンターの前を通りながら、改めてここに来た目的を自分に言い聞かせた。さあ、ここまで来るには来
た。といっても、劇的な過程を経て辛うじて辿りついたわけじゃない。気負わなくていいのだ。目的に合ったものが
運良く見付かればそれでいいし、見付からなかったとしても別に大した損失ではないのだ、と。
一定の規則によって分類された本達は、0番から9番までの番号の付いた書架に整然と並べられており、私の必
要とする復学についての情報が、一体どの分野に属することがらなのか分からなかった。私は小さく溜息をつい
た。仕方ない、面倒だが一つ一つの書架を当ってみるしかないようだ。
私は手近な書架の一つに向かい、並べられた本の背表紙に書かれたタイトルをざっと眺めてみた。学校とか、教
育とか、そんなものに全く縁のないような題のつけられた本ばかり並んでいるようだったら、次の書架に取りかか
ることにした。そんな作業を何度か繰り返すうち、ようやくそれらしい本の並んだ書架に辿りついた。
とはいっても、その書架に収められている本は、私が求めている「教育」という内容を背表紙に与えられたものだ
けに限定しても、私の持っている雑多な書籍数を軽く越えてしまう量があった。私はその数に圧倒され、軽い眩暈
を覚え、また溜息を一つついた。
まるで全方位陸の見えない大海原にでも放り出されたような気分だった。各々に書かれたタイトルのうち、これは
と思うような言葉を含んだ本を手にとって目次を見てみても、メンタル的な受験に望む方法とか、実際にそれを克
服した体験談だとか、私の望むものとは違ったサブタイトルのついた内容ばかりだった。
どうしてまたこんな雑な分類の仕方をするのだろう。ひとえに受験といっても、実に様々な方向性を孕んでいるの
ではないのか。正当な道を無難に進む者達の力添えをする役割のものがあると同時に、私のような外れた者に
道を提示するような書物があってもおかしくないのではないか。
それは私が望み過ぎなのかもしれない。私のようなケースは、高校を中退してもう一度通い直そうと考えるのは、
恐らく極少数派なのだろう。そうしようとする私がどうすればいいのか分からないのと同じように、そんな指南書
を書く人達も私のような存在がいるということが分からないのだ、多分。
しかし、そんな書物の著者達を単純に責めることは出来なかった。ただ単にこの図書館が、そのような本を所蔵
していないだけかもしれないし、本当にそんな類の本がこの世に存在していないのかもしれない。ある日唐突に
思い立って、漠然と図書館を訪れただけの私にとっては、真理がどうであろうと同じだった。私の望むものはここ
には存在しなかった。
それでもなお、私は諦め悪く書架の間をうろつき回った。何かとんでもない手違いか間違いかで、私の望むような
情報を持った本が、全く関係のない書架に奇跡的に紛れ込んでいるのではないか、と。機械工学の書の並ぶ書
架から、子供向けの絵本の並んだ書架まで見て回った。だが、ここの司書の仕事は完璧だった。
少し落胆はしたが、ないのもはどうしようもなかった。司書の人に聞いてみるとか、端末から蔵書目録みたいなも
のを検索してみるとか、後で考えれば他にも方法があったのだろうが、そのときの私はそんな柔軟性が欠如して
いたようだ。私は書架の間に呆然と立ち尽くしていた。
絵本の並んだ棚に、一際目を引くタイトルの絵本があった。ひとりぼっちのライオンと年老いた象、そんな題名だ
ったと思う。即座に副担任の語ったあの話が思い出された。副担任の友達が作った童話は絵本になっていたの
か。私は少し驚いて、思わずその絵本を手にとっていた。
絵本の作者は私の知らない名前だった。元々副担任の友達の名前を知らないのだから、それが本人なのかどう
かは私には知るすべはなかったのだが。絵本を開いた私の目に飛び込んできたのは、やけに可愛らしい挿絵と、
平仮名のみで書かれた分かり易いストーリーだった。
むかしむかし あふりかの とあるそうげんに いっぴきの おくびょうな らいおんが すんでいました。物語はそ
う始まっていた。最初のページに描かれたライオンの姿が、実に孤独感を漂わせていた。何だってこんなものが、
今更私の前に現われて来るのだろう。私は例のわざとらしさを感じながらも、読み進めようとする手を止めること
が出来なかった。
絵本の内容と、副担任が話したストーリーは大体同じだったが、結末だけが全く違っていた。老象はライオン達に
無残に殺されるのではなく、ハイエナ達に絡まれて、それを若いライオンが追い払い、老象が若いライオンに感謝
し、若いライオンは照れながらもその友情にまんざらでもない、という終わり方だった。
誰も死なずにエンディングを迎えられる、その進め方はそれでいいのかもしれない。しかし、最後のページに描か
れた若いライオンと老象の幸せそうな姿が、私にはとても異質なものに見えた。もちろん、最初に聞かされた副担
任の方の結末、ライオンの目の前で老象が惨殺されるという結末、それを先に知ってしまっていたからなのかもし
れないが。
絵本の方の大団円、若いライオンと老象の向かえた比較的平和な結末に対して、副担任の語った方の結末は実
に悲惨なものだった。私は絵本のページを閉じながら思う。元々は副担任の友達が作ったストーリーだった。何故
それを聞いた副担任は、わざわざ悲惨な結末に改編しなければならなかったのだろうか、と。
いや、そもそも副担任は、友達が絵本作家になれたとは言っていなかった。では、ここまであの逸話に酷似した
この絵本は一体何だ? 誰が一番最初にこの物語を作って、どちらのエンディングを正規のものと定めたのだろ
うか? 私はもう一度絵本の表紙を子細に眺めて思いをめぐらせてみたが、どれも推測の域を出なかった。
私は絵本を書架に戻した。沢山並んだ背表紙のうち、そのライオンと象の絵本だけが、他のものと比べてとても異
質なものに見えた。たかが一冊の絵本が、こうも人の行き先に影響を与え得るということに、私は少し驚き、そして
少しうんざりした。
当初の目的も果たせない以上、ここに長居する理由はなかった。家を出るときに抱いていた期待や、自らの行動
を好ましく思う気持ちや、ささやかながらも少しずつ上向きに軌道を変えつつあった私の行く末や、そんなものが、
幾らか手厳しい現実によって頭打ちされ、私はいささか肩を落として図書館を出た。
もっと大きいところにならあるのかもしれない、例の公園の中の小道を歩きながら考えた。が、私はここ以外に、
この街の外にある図書館を全く知らなかった。他の図書館の所在地は言うに及ばず、隣接する街々に図書館が
建てられているのかどうかさえ知らなかったのだった。
では、どうすればいいのだろうか。どこに行けば、望む情報を得ることが出来るのだろう。私が生まれ育ったこの
街には、一見何でも揃っているように見え、少し力を入れて探せば何でも容易に見付かると考えていたが、実際
にはそう便利なわけではないみたいだ。
しかし、簡単にいかなかったからといって、早々に諦めてしまうのは嫌だった。この機を逃したくはない、そう思っ
ていた。ここで私が動くのを止めてしまったら、次に自分から動き出そうとするのが一体いつになるのか、自分の
ことながら私にも分からなかったからだ。
短い睡眠を一日中繰り返す生活は、確かに楽だった。だが、そんなことを続けていてももう何にもならないし、ま
たこうした稀なる転機が、都合よく私の元に訪れてくるという次の機会の保証も全くなかった。それは私にもよく分
かっていた。乗り遅れて逃がしてしまうわけにはいかないのだ。
とりあえず、私は初めの乗車券を取り逃がしたようだ。歩きながら他の方法を考えてみはしたが、具体的な策は
一向に浮かんでこなかった。私は自分を、どちらかというと世間知らずだ、と自評していたのだが、ここまであか
らさまに事実を突き付けられては、悲しいだの悔しいだのという主観的感情が出てくる隙さえなかった。
いや、全く手詰まりというわけではない。私はそれを知っていた。が、どうにかして、その手段を取らざるを得ない
状況に陥ってしまうのを、必死で回避しようとしていた。思考の範疇からそれを意識的に追い出して、その存在そ
のものを考えないようにしていた。その方法を思い付いたのは図書館に来てからで、そういう意味では図書館を
訪れたことも全く得るものがなかったわけではなかったのだ。
私の地位や名誉とか、そんなものの為に意固地になっていたわけではない。そんなものはすでに大した影響力
を持たなかったのだから。単純に会いたくなかっただけだ。図書館でライオンと老象の絵本を目にしたときから、
その手段もあるということ、もしかしたらもうそれしか方法がないのかもしれない、ということに気付いていた。副
担任を当てにすることだった。
私が全てを正直に話せば、副担任は全身全霊をかけて私を助けてくれるに違いなかった。でも、私はそうしたくは
なかった。別に彼女を嫌ったり憎んだりしているわけではなかったが、とにかく私は副担任に会いたくはなかった。
副担任は本気で私のことを心配していてくれたようだったが、致命的なことに彼女は私のことを未だ誤解したまま
でいるのだ。
親しい友人を亡くしたショックで歯車が狂い始めてしまったのだ、と副担任は私のことを捉えている。彼女を当て
にするにはまず、その誤解を解かなくてはならない。私はその途方もない誤解を打ち崩せる自信も、そのために
必要になる饒舌さも持ち合わせてはいなかった。
冬という季節の只中にある太陽は、日没の準備のためかその光量を幾分抑え気味にして、私と私を取り巻く街を
照らしていた。心なしか、来るときよりも風が冷たくなっているような気がする。私の足は自然とその速度を上げる。
新しく抱えた憂鬱のせいだろうか。
いや、それは決して真新しい種類の憂鬱ではないのだ。何度も直面してきて、その都度何とか誤魔化してきた。
誤魔化してきたつもりだったが、事態は悪化しただけだった。そう、だからここでこんな風に歩いている今の私が
いる。もうやめよう、と思う。下らないことをいちいち過剰思考してしまうことも、状況の悪化の一途を辿ってしまう
ことも。
故に、私はそう遠くない未来のうちに、副担任と再び対面する必要がある。私が現状の打開を本気で望むのなら
ば、それは絶対に避けられない事柄なのだ。もう少しまともな行き先を得られるならば、ほんの少しの間続く苦痛
など、それが何だというのだ。私はそう思っていた。
自宅に向かって歩きながら、もし本当に副担任の力を借りようとする場合、どうやって彼女に接近すればいいのか
考えてみた。私と副担任を結んでいた接点は学校という場所だけであって、そこを辞めてしまった今となっては、
奇跡でも起きない限り再会するのは難しそうだった。私は副担任の自宅も電話番号も知らなかったのだ。
つまり、私がどれだけ必要に迫られたとしても、副担任と他動的な条件で再会できる可能性というのは、万に一
つもあり得ない、ということだ。これが巷に溢れるありがちなドラマの類だったら、私が黙々と歩くその行く先で、
何の前触れもなく彼女と遭遇したりして、私自身が信じられないというような展開を見せるのだろうが、いや、い
くら何でもそこまで地に落ちたような展開はしないだろうか。
散々馬鹿なことを考えはしたが、私がしなければならないことは薄々気付いていた。それしかないのだ、というこ
とを認めたくなかっただけなのだろうか。私はまだ、ものごとが自分の意志とは無関係な場所で他動的に展開し
てくれたらいい、と思っている。それではだめだと、自分では考えているつもりだったのだが。
私にはどちらが自分の本心なのか分からなかった。怠惰に身を任せてしまう己を善しとしない自分が存在する半
面、それで一向に構わないとする自分もいるような気がした。長期的な目で見れば、私が自ら副担任を尋ねてい
くという行動は、私にとって恐らく不可欠なことなのだ。
だが、これまでやってきたように、沈黙の底で静かに身を横たえてさえいれば、私があれこれと考える間もなく自
ずと道が用意され、若干の諦めを必要とするにも関わらず、私は大した苦もなくそれに従うことができるだろう、
という安易な選択肢もまた確かに現存したのだった。
安易な選択肢、それを打破するための復学ではなかったのか? もちろんそんなことは分かっていた。私もそう
考え、捉えていたからだ。そうしたい、そうすべきだと自分でも思っていた。私が現状をひとまず打開する一番手
ごろな方法はこれしかないのだ、とも理解していたつもりだ。
しかし実際に、私が自分から副担任の元を訪れることを考えると、どうしても憂鬱にならざるを得なかった。なぜ
なら、一番確実に私が副担任と会える場所というのが、すでに私とは無関係になってしまっていた学校しかない
のだ、ということをよく知っていたからだ。
学校に行けば、副担任が正門で私を待ってくれているわけではない。まず事務室だか、あるいは可能ならばだ
が、いきなり職員室を尋ねたりして誰かを捕まえ、副担任に取り次いでもらわなければならない。一体誰をまず
捕まえればいいのか。いや、そもそも私はその場にどんな服装で行けばいいのか。
多分やらなければならないことなのだが、そのプロセスを想像するだけで気勢を削がれる気がした。気が滅入る
ような内容だからこそ、やり遂げなければならないのだ。そう思う気持ちはありはすれど、そんな前向きな気持ち
よりも、憂鬱の方が何十倍も勝っていた。
理性と本能は相反する、のだろうか。私は確かに、これから私が成さなければならないことを疎ましく思っていた。
歩きながらそのことを考え、自分でも分かるくらいに顔をしかめていた、はずだ。しかしながら、私の歩みは段々と
その「疎ましいこと」が成されるべき場所に向かおうとしていたのだ。
自分でも比較的早い段階で気付いていた。本気でそれを成就できると考えていたのか、ただの行き当たりばった
りなのか、もう判別すら出来なかった。私がこのまま進み続けてかつて通っていた学校の前にに辿りついたとき、
私が取ることになるいくつかの選択肢が、まるで他人事のように頭に浮かんだだけだった。
そのうちの一つなど、まさに奇跡的というか、子供向けの童話のエンディングにでもすれば相応しいようなものだ
った。私は歩きながら頭を振る。馬鹿じゃなかろうか。この期に及んでまだそんなことを……。未だに楽天的な発
想が出てくるということは、きっと私は過去の時点から成長しきれていないのだろう。
まあいい、と私は思った。現実というものが実際にどう転がるのか、どういう展開しか迎えられないのか、その身を
もって知ってみるのもいいかもしれない。現実というものを目の当たりにすれば、少しは幻想趣味から遠ざかるこ
とも出来るだろう。そう考えて、私は口元を緩めた。……あまり良い傾向ではない。
まあとにかく、と私は自体の収拾を図るためにわざとらしく強い調子で思った。何を求めるにしても、学校まで歩
き続けることは、恐らく間違いではないのだろう。勇んで飛び込んでいけば現実的な何かを掴めるかもしれない
し、あるいは門の前で怖じ気付いても、少なくとも自分はその程度なのだと知ることは出来る。
いつのまにか、かつて私が通っていた通学路を歩いていた。とても昔のことのような気がしたが、冷静に考えて
みると、あれからさほど時間は経っていないのだ。しかし私は強い違和感を覚える。何か違う、と。そしてすぐに
思い当たった。今私は歩いているが、以前は自転車に乗ってこの道を通っていたのだった。
何度か住宅地の中の狭路を曲がると、不意に裏門に行き当たった。生徒の通用口であったその門は、もちろん
私がかつて昼過ぎに登校していたときと同じようにしっかりと閉じられていた。門から続くように緑色のフェンスが
公道と敷地内を分断し、それらはまるで今と昔の隔てなく私を排除しようとするような意志を持っているかのよう
に見えた。
私はいつもやっていたように、正門に廻ることにした。敷地をぐるりと取り巻くように続くその道を、正門の方に辿っ
て歩いた。金網の向こうからは何の音も声も聞こえてこなかった。運動場で体育をしているクラスはないようだ。
フェンス越しに見える校舎の窓の中にも動き回る人影は見当たらなかった。今は授業中なのだろうか。
閉じられていた裏門から400メートルほど歩き、私は正門を前にして立ち止まった。学校の外観は全く変わって
いなかった。まあ当たり前かもしれない。そんなに時間は経っていないのだ。ただ、その短い時間の内に、この中
から一人の退学者が出て、全校生徒の数が確実に減少しただけだ。
私は校舎を見詰めたまま、職員室までの順路を思い出していた。生徒通用口から入り、靴を脱ぎ……。ああそう
だ、同学年の教室の前を通るのはよくないかもしれない。それならすぐ左手の階段を登って2年生の教室の前を
通ればいいか。いや、私は私服でここに来てしまっている。いくら他学年の前を通るにしても目立ち過ぎだ。
そうだ。生徒通用口ではなく、あれは何と言うのだろうか、教師達や来訪者が使う正面の玄関から入ればいいで
はないか。そこを使ってすぐ近くの階段を上がれば、もうそこが職員室だった。誰にも会わずにそこまで辿り着け
るだろう。別に何も問題はない。
いや、仮に無事そこまで行けたとして、私はそこから一体どうするつもりなんだろう。私服のままずかずかと職員
室に入り込み、好奇の眼差しの中を副担任の元まで歩くというのか。ああ、私は何も変わっていない。この無計
画さ。職員室までの順路を考え始めるまで、その後のことを全く考えてもいなかったのだ。
結局あれだろうか、私は副担任の助けを求めようとしたが、求めようとしてここまで来たはずだったが、本当に心
からそれを望んでいたわけではないのだろうか。確かに私は、最初から猪突猛進的に、自分がそこまで達する
ことができるとは自分でも思っていなかった。
では、私は何をしにここに来たのだ。ただの「ごっこ」か。退学し、部屋に閉じ篭り、何かを悟ったような気になって
一方的に過去との決別を果たしたつもりになり、一連の幻想を完成させるために悲劇のヒロイン気取りで再び学
校に戻ってきた。それだけなのか。私が今ここにいる理由というのは、本当にそれだけなのだろうか。
全く違う、と否定してしまうことは出来なかった。およそ物事というのは、一辺倒な見方で捉えられるものではな
いのだ。確かにそんな側面もある。誰かに私を見てもらい、正直な裁定を下される以前に、もう自分自身で気が
付いていた。ずっと前から私のどこかが細々と主張していたように思う。馬鹿げている、と。
今、私は正門の前に立っている。正面玄関、あるいは職員室の入口。どこまで進めたとしても、その各々に辿り
付く度、私はまた立ち止まって同じ疑念を繰り返すだろう。行動が正しいのか否かではなく、その理由だった。
私の本心が何を望んで、何の為にこのかつての学び舎に飛び込み、進まなければならないのか、だ。
復学の為だ、という見方もあった。というより、当初はそれが正当な理由だと思うことが出来た。だが今では、そ
れがとても白々しく、いかにも取って付けたような理由に思えて仕方なかった。第一私は、復学を本気で望んで
はいない。事前の懸念通りに正門前で怖じ気付き、足を止めてしまっているからだ。
正確な言葉では表現できないネガティブな感情に心を満たされ、私は目を伏せて溜息を吐いた。本当に馬鹿げ
ている、そう思った。一体何度同じようなことを繰り返してきたのだ? 懸念し、回避したがっているような状況に
実際陥ったからといって、今更何を失うというのだ? もう手元には何も残ってはいないのに?
もういい、もううんざりだ。私は目を開いて校舎を見据えた。同じことの繰り返し、それにもうんざりしていたが、毎
度毎度繰り返される頭の中でのこのやり取りにも辟易していた。相反する考え方、どちらかがいい加減に死ぬべ
きなのだ。今後も起こり得る「繰り返し」を未然に防ぐためにも。
私は校舎に向かって歩き始めた。私の中に新しい考え方が生まれたのをはっきりと感じた。現時点で、私にはど
ちらが正しいのかという裁定を下すことは出来ない。が、こうやって現実に存在する障害や困難に向かって行っ
たとき、本当に強く、必要とされるものが自ずと生き残るだろう、と。
下手をすれば、力を持たないが故にそのまま無残に絶えてしまうことだってあるかもしれない。そうだ、以前樹に
掴まったまま生き絶え、その屍を私に晒したあの蝉のように。生きるための力のない存在、または誰からも必要
とされないような存在は、自然と淘汰されるのだ、恐らくは。
蝉は生きる力を持たなかった。内と外を遮断する硬い皮革を破ることができなかった。だからそのまま死んだの
だ。私達だって同じように、時折気紛れのように我が身に訪れる自己の存在を揺るがすような出来事を向かえる
ことがある。それを乗り越えられたものだけが認められ、羽ばたくことを許されるのだ。
いや、理屈はもういい。本当にもういい。私は校舎に向かって歩き始める。校舎の内部やその経路など、もう考え
なかった。頭の中で演じるべきシナリオを描くのも辞めた。受難は時折気紛れにやって来るのではない。多分逆
だ。数え切れぬ無数の受難の連続の中に、私達が存在する。
正面玄関の両開きのガラス張りのドアの片側を押し開けた。ドアからも、建物の中からも何の音も聞こえなかっ
た。靴を脱いで廊下に上がった。靴下だけの足では、足音すら生じない。すぐ左手にある階段に足をかける。誰
もいないし、音もしない。登り始める。一段、二段、三段……。静か過ぎるのが気になる。
自分の鼓動、息遣いも聞こえない。私は落ち付いているのか、それとも緊張しているのか。まるで分からなかっ
た。だが、私の歩みは止まらなかった。不思議な感覚だ。かつて学生だった頃の一時期、半ば自動書記のよう
にしてノートを綴ったときとはまた違う感覚だった。
踊り場に差しかかる。私の足はペースを崩す気配なく進み、次の階段を踏んだ。さらに登る。不思議だったが、
理由を求めようとはしなかった。何故考えなかったのか、考えようとしなかったのか、それすらも分からなかった。
呼吸をするように、という例えでいいのだろうか、私は登り続けた。
踊り場を通過し、残りの十数段を登り切った。やはり二階も静かだった。廊下の窓から見える中庭の木々が
裸になった枝を風に揺らしている風景が、まるで今私のいる世界とは違った場所で営まれているみたいに感
じられた。私のすぐ右手側に、私がここまで来ることになった目的が存在した。
私はそのドアの前に立ち、特に意味もなくひとつ息を吐いた。溜息なのか深呼吸なのか判明する前に、私の
右手が持ち上げられて軽く拳を握り、小さく二回ドアを叩いた。校門をくぐって初めて聞いた音らしい音だ
った。音は静か過ぎて非現実的な学校の廊下という空間を大きく揺さぶり、揺れで生じた空間の隙間に吸い
取られるようにしてすぐに消えた。あとには私と、静か過ぎる廊下が残っただけだ。
407 :
名無しさん?:2006/02/15(水) 21:14:59 ID:5SMbmptJ
ドアの向こうからは何の応答もなかった。私はそれでも注意深く時間が経過するのを待った。一定の時が
流れた後、私の右手は今度はおもむろにドアノブを掴み、捻り、押した。承諾なしに闖入しようとする自分
に対して何かを考えてしまう前に、そうだった、と私は思い出す。ノックしてドアを開ければ、誰にも叱られ
たりしなかった。時々ノックを省略していきなりドアを開いても、特に咎められることはなかったのだった。
染み付いた、とはいってもそれほど長い期間そうであったわけではないのだが、旧い慣例に倣って、ノック
の後返ってくるべき反応を待たずしてドアを開けた私の目に飛び込んできたのは、ただ無人の職員室だった。
素早く視線を巡らせてみても、私は視界の中に誰の姿も捉えることが出来なかった。
目の当たりにした事実の理由を求めようとする前に、私の身体を身震いするような悪寒が走った。傾きかけ
た気の早い冬の陽が差し込む無人の職員室で、私は言いようのない程の絶対的な孤独を感じた。元々本当に
自分で求めたかどうかすらはっきりしない目的の為に赴いたこの場所で、私を出迎えてくれたのは無人の空
間だけだったのだ。
私は入口から半歩進んだ所で呆然と立ち尽くした。言いようのなかった不明瞭なイメージが、次第に鮮明に
像を結び始めるのが分かった。どんどん膨らんでいって、最終的に唐突に、大音量の声となって私の頭に響
く。お前が必要として頼ることを承諾してくれる人間など、もはや存在すらしないのだ、と。
そうか、別にそれならそれでもいい。というより、仕方がない。元々そうだった。私はこれまで他人と
上手に打ち解け合ってきたわけではなかった。副担任とのやり取りも例に違わず、そのくせ彼女の
努力を無碍にしておきながら、自分の都合だけで今回彼女を当てにしようとしていたのだ。
いい加減に学習したらどうだ? 嘲笑うように誰かが言ったような気がした。何度同じ場面を繰り返し
てきた? もう分かりそうなものだろう? 自分の思った、期待した通りになった例が一度だってあっ
たか? 馬鹿な奴だ。本当に馬鹿な奴だ。過去の事例から何も学ばなかったのだから。
確かに、と私は思う。確かに言う通りではある。私は過去の事例から何も学んではいないようだ。いた
ずらに一人だけで力んで 全く的外れな行動を取っている。ここには副担任どころか誰もいなかった。
予想もしていなかった事態だった。確かにお前の言う通りではある。
しかし、私が同じような失敗を繰り返してきたとき、お前は一体何を学んだ? 私が失敗する度、
お前のやることといったら、誰にでも分かるような理由を旗印にして一方的に私を責め立てただけ
ではないか。今まではお前に責められるままになっていたが、今度は私の方から責めよう。お前の
方こそ進歩がない、と。
私は違う。今お前からいつも通りの批判を受けてはっきりと分かった。私はもう今までの私とは違うのだ。もは
や、ほんの少し躓いただけですごすごと尻尾を巻き、自室のベッドに逃げ込むような、そんな弱くてずる賢い存
在ではないのだ。どこででも生きていけるし、何からでも学べる。私はその予感を強く感じている。
過去から何も学べずに同じことを繰り返すのも決していいことではないが、安全な場所からただ批判を繰り返
すことも、不毛という意味上においては差異がないと思う。私達は何も悔恨や、そこから始まる自己嫌悪のた
めだけに存在しているわけではないはずだ。だから、だからこそこうやって、都合よく他人を利用しようという図
式ながらも、私は私なりの決心を持ってここまで来たのだから。
確かに今回も失敗だった。不器用の極みかもしれない。これまでのことが全く活かされていないというのもよく
分かる。だが、いまさらそんなことを得意顔で否定してみせたところで、状況も、私自身もどうにもなりはしない
のだ。私と同じように、過去の事例からそれを学ぼうとしなかった。そこが不毛という点で変わりがないと言って
いる。
それでも、いつも私に向かって雑言を吐く存在だって、本当は現状の回復を望んでいることを、私はよく知っ
ているつもりだ。何故ならそれは私の一部だからだ。だから当然、それも知っているのだ。後悔と自己批判だ
けでいたずらに時間を消耗するのは、無駄どころか害悪ですらあることを。
私達は多分、いがみ合っていた。どうして、いつからこんな一人遊びを始めたのか、私にはもう分からないほ
ど普通で日常的なものになっていた。日常的なものであるにも関わらず、恐ろしく不毛だった。まるで私の今
までの生活そのもののように。
私は変わりたかった。変わろうとした。儚いながら、変われるという予感もあった。実際にどこまで本気で挑ん
でいたかは私自身にも正確に分からないが、最低でも変わろうとする振りだけはしてきたつもりだ。だから今
ここ、退学した高校の職員室などという非現実的な場所にいるのだ。
ここまでの道すがら、それは何の反論もしなかった。いつもそうだ。過程では口を挟まないが、結果を目の当
たりにして初めて意気揚々と現れてくるのだった。無意味なのだ。ものごとが終わった後に自分を責め、追い
込んだつもりになって、負の安定軌道に甘んじようとするその態度を、いい加減に改めなければならないのだ。
ベッドに潜り込んで、じっと天井を眺めてさえいれば状況が勝手に進行している、などという安直な解決方法
は、多分もう通用しない。お前ももちろん分かっていて、それでもそれしかなすすべを知らないから、この場
においてもそんな捻くれた発言しかできなかったのだろう。
それは仕方がなかったと思う。私は、そんな方法しか取れなかった過去の私の一部を否定しない。いや、否定
とか肯定とか、そういうことではないのかもしれない。私はただ、これまでの不毛な繰り返しを断ち切って、私が
欲しがっているものが存在する場所に、お前も連れて行きたいだけだ。
思うに、そこに辿り着いたとき、私が何を得てどういう風に変革するのか、など、多分大した問題ではないのだ。
重要なのは結果ではなく、そこに行こうとするまでに私が辿ることになる過程だ。悩み、迷いながら手探りで方
法を見出そうとする過程を経ることにより、多分私達は少なからず成長できるだろう。
とりあえずこれくらいでいい、と私は思った。まだ理由や説明を必要とするのなら、この後でいくらでも与えら
れる。とにかく、今は自分を相手に議論ごっこをしている場合ではない。まず、ここへ来た目的を全うさせるこ
とだ。それ以外のことは後からどうにでもできる。
私は無人の職員室に進入した。本当に無人かどうか確かめるためだ。入ってすぐ右手にある、大きなコピー
機の置かれた小部屋にも目をやった。ある規則に従って並べられた教師達の机の間を通って、一番奥にあ
る会議室へと続くドアの前で立ち止まった。中には誰の気配も感じられなかった。
会議室のドアをノックした。想像以上に大きな音がして、私は少し動揺したが、部屋の中から誰かが返事を
するようなことはなかった。おもむろにドアを開けると、例の折り畳み式の机と椅子がきれいに並べられてい
るだけで、その空間の保っていた静寂を不意に乱した私の存在を、まるで部屋全体が疎んでいるかのよう
に思われた。
ここ一週間ほど使用されていないか、それともこの部屋の掃除担当の生徒が恐ろしく真面目で綺麗好きか、
恐らくそのどちらかだ。いや、そんなことはどうでもいい。この部屋で教師からの通達を受けた、という記憶も
今は必要ではない。私は会議室に足を踏み入れぬまま、静かに扉を閉めた。
ここでないとすると、彼女は一体どこにいるのだろう? 私は記憶を辿り、校舎の造形を思い起こそうとした。
それははっきりとした形を結べず、既におぼろげな記憶になってしまっているようだった。私はその建物の中
にいながらにして、全体の構成を掴めずにいることに不思議な感覚を覚えた。
気持ち悪く、不愉快な感覚だった。現実味を奪うようなその感覚を、部分的なリアルさが助長した。職員室の
入り口。会議室の静寂。そういったものは確かに記憶の中のそれと一致するのだが、それ以外は本当に私
がこの目で見たことがあるのか、いや、見たとしたらそれは本当にこの建物の中に存在する風景だったのか、
私には判断が下せなかった。
私は再び無人の職員室を通過して廊下まで出た。そうだ、何故無人なのだ? いくら授業時間中だとしても、
職員室が全くの無人になることなどあり得るのだろうか? 校門も開いていた。職員室の入り口にも鍵はか
かっていなかった。今回は、今日が休日だった、などということはないはずだ。
では、この静けさは一体何だ? 誰も彼もが息を潜めて姿を消してしまったかのような、まるで私の孤立さを
極限まで強調して突き付けるために、皆で示し合わせでもしたかのようなこの静かさは何だ? ふと感じた。
職員室が無人なのではなく、校舎全体が無人なのだ。
廊下に漂う無人の気配、つまり静けさのようなものは、単純に空間が広大だからなのか、職員室のそれに比
べてとてつもなく大きく、どうしようもないほど深く、そして冷たかった。何故来るときに気付かなかったのだろ
う? 気負い込み過ぎていたからだろうか。
私は歩いてきた廊下を戻り、手近な教室の前に立ち、中の様子を伺おうとした。耳をすませてみたが、小さ
くて無機質な一定の音が聞こえるような気がするだけで、生きている人間が発する何かしらの音を拾うこと
はできなかった。耳鳴りがしているようだ。
思い切って教室のドアを開けた。がらがらと意外に大きな音がして、周囲の沈黙は破られた。私の感じていた
耳鳴りはあっさりと消えてしまい、破られた沈黙の隙間に純粋な無音がするりと入り込み、一帯の空間を新し
く支配した。この世界に私一人だけが取り残されたような感覚。もちろん教室も無人だった。
呆然と教室の中を見渡してみた。教室の前に掲げられた黒板。今日の日付が律儀に書き記されているだけ
で、この状況を把握するためのヒントは見付からなかった。縦6列に並べられた机の群。どの机の上にも何
も乗せられていなかったが、横に生徒達の鞄が掛けられていた。少なくとも、彼らは校舎の何処かには存在
するのだ。
私は教室の扉を元の通りに閉め、しばしその前に立ち尽くした後、目的も当てもないまま闇雲に歩き始めた。
はっきりとした意思ではなかったが、校舎全体を歩き回って生きている人間を見つけ出してやる、という意気
込みがあったのかもしれない。取り残されたような気がして、確かに私は焦っていたと思う。
職員室の前を通り過ぎ、右に曲がって二つの校舎間を渡す通路を通り、各学年の6組から9組までと各特別
教室が多々ある西側校舎へと足を進めた。各々の教室を点検してみるまでもなく、こちら側の校舎も無人だ
ということはすぐに分かった。空気が同じだったからだ。
ただでさえ、というか、在籍していたときでさえ入ったことのないような特別教室の並んだこちら側の校舎に、果
たして全校生徒を収容できるような規模を持ったものが存在するのかどうか、私には分からなかった。いや落
ち着け、冷静に考えろ。そんなものが、この大きさの建物の中に存在する訳などないのだ。
全校生徒? その言葉が出てきたとき、私はようやく生徒達、ひいては教師達の収容先の検討がついた。最
も難解な謎の答というものは、多分一般的に、最も単純なものなのだろう。私は踵を返して最寄の階段に向
かった。消えた全校生徒が存在するべき場所。大方、体育館で集会でも開かれているのだ。
階段を下りかけた足がふと止まる。いや待て、行ってどうしようというのだ? 集会の最中の体育館へ飛び
込むつもりなのか? 静まり返った全校生徒の前で、誰かが壇上から説教をしているところに、あの重い鉄
の扉を派手な音を立てて開け、闖入しようというつもりなのか?
私の足は止まったままだった。実質、向かったところでどうしようもないのはその通りだったが、他に手立て
を思い付かなかった。もちろん、不意の闖入を平然とやってのけられるような度量は持っていなかった。私
の中で相反する二つの見識がせめぎ合う。それを強く感じながらも、私は泥沼の中から引き抜くように、自
分の足を持ち上げ、前に進んだ。
そもそも私は何故、体育館などに向かおうとするのだろう? 向かわなければいけないのか? いや、それほ
ど熱心に以後のことを考えているわけでもないのに何故、むきになってこんな芝居じみたことを続けようとす
るのだろう? 私の足取りは重々しかったが、それでも着実に目的地に向かいつつあった。
体育館の扉の前まで辿り着いたとしても、私は決してそれを開こうとはせず、さも正当そうな理由を急いで見
つけ出して自分を無理やり納得させ、そそくさとその場を離れるに決まっているのだ。ならば、今ここで足を
止めてしまうのと、体育館の前まで進んで結局立ち去ってしまうのとは、本質的に何ら違いなどないではな
いか。
それなのに、この私の足を進めるものは一体何なのか? 絶対的にこれをしなければならない、という義務
感でも、これを成し遂げさえすれば一切がうまくいくんだ、という希望的観測でもなく、ただ不条理に近い無
根拠さと、理不尽に近い力強さとで、時間をかけながらも私の歩みは進められていった。
私にはよく分からなかった。進み続ける自分の足と、私がそうし続ける正当な理由と、それがもたらすことに
なる最終的な結論と、その一切をもっと高くて大きな場所から導こうとしているある存在との因果関係。少な
くとも、私が歩き続けるのは、私だけの純粋な意志を持ってしてそれが行われているわけではない。私に理
解できるのはそれだけだった。
他の人々は、つまり私以外の純朴な人々は、自身がある行動を起こしているとき、その行動理由、己の目指
すところ、何故それをしなければいけないのか、自分のきちんと血の通った意思、まで把握しているものなの
だろうか? 例えば、私の前にさまざまな形態で現れた彼女達。思い出そうとして、私は途方に暮れる。もっ
と彼女達と話しておけばよかった。
何なのだろう? 自分の行動を決定的なものとして認め、実際に起こす際に強力に後押しする存在とは、一
体何なのだろう? とある彼女にとても長い話をさせ、とある彼女に私を連れ回すことを決定させたもの。私
にはそれが欠如しているのか? それとも、誰だって最初からそんなもの持ち合わせていないのだろうか?
誰だって場当たり的に生きているというのか? ふむ、確かにそうやって死んでいった者もいた。だが、そう
やって、死さえ引き当ててしまうかもしれないような重要な決断を、そんな自分の意思と離れたようなところ
に任せてしまえるものなのだろうか? いや、通常そうしなければいけないのだろうか?
私がおかしいのだろうか? つまらない、細かい事柄に気をとられて、何かを見失うような傾向は確かに私に
はあると思う。しかし皆そうではないのだろうか? 分からない。私には分からない。自分がやっていること、
やろうとしていることさえ、正しいのかどうか分からないのだ。
いやしかし、誰だってそんなものなのかもしれない。一体誰が、明確で鮮明なビジョンを見据えた上で行動
できているというのだ。未来は常に漠然とした像でしかなく、誰にもその実態を掴むことなど出来はしない。
うん、一般的には確かにそうなのだろう。だからといって、私達の日常が、不毛を繰り返してしまうような日常
が、正当化されるわけではないのだが。
私達の行動の、一般常識的な面から見た整合性を見出そうとしたが、到底無理だった。理想はどこまでも高
く、実態はどこまでも低俗だったのだから。そうだ、諦めてしまうことこそ、私達には必要なのかもしれない。
私達は、自分達で把握しているほど、高尚な理論に沿うて歩んでいるわけではないようだから。
私の不毛で下らない思考は、不意に背後からかけられた言葉によって中断された。不意に声をかけられたこ
とよりも、自分でもそれと気付かないほど熱心に考え込んでいた、という事実に驚きを覚えた。考えても仕方
のない種類の事柄だったとしても、私にはそれが、いわば私達の根幹に関わるような重要な項目に思えてい
たのだ。
それは唐突だった。少なくとも私にはそう思えた。私は最初、想定もしていなかった物音に対して反応しただ
けだった。私が振り返るとその人物は少し苛立たしげに、多分同じ台詞を繰り返したのだろう、あなたどこの
生徒? と言った。書類を抱えた事務員だった。私には、その問いかけに答えることは出来なかった。
私達は硬直した。相手が何を考えて固まっていたのかは分からない。そんなことを考える余裕も、私にはな
かったのだと思う。私の頭は目まぐるしく回転した。問いかけに対する正しい答え、私の目的、そんなものが
一気にあふれ出した。あふれ出しはしたが、私にはその中から、最も適当な言葉を選び出すことなど出来な
かった。
事務員は露骨に不審そうな目で私を見据えていた。だが、それは当然だった。生徒達が体育館に収容されて
いる最中に、事務員が校舎の中を動き回る必要性を私が理解できないのと同じように、いや、多分それ以上に、
私服を着てここにいる私の存在理由は、事務員には把握できなかったに違いないのだから。
私の頭は、この場を収めるためのさまざまな種類の台詞を出力しようとしたが、どれもこれもがことごとく白々
しく、うそ臭い言い訳でしかないように思えた。私は嫌な気分になった。変革するための訪問であるはずなの
に、結局私はこんなところで躓き、破れてしまう存在でしかないのだろうか。
どうすればいいのか? 事務員に向かって何と言えば、私がここに存在することを彼女に許してもらえるの
だろう? 全部話せばいいのか? いやそもそも、全部とは、一体どこからどこまでのことを指すのだろう?
私にも分からない。ただ、こうして悶々としている間にも、事務員の抱く不信は確実に大きくなっていく。
私は何の脈絡もなく副担任の名前を出した。――先生はいらっしゃいますか? 事務員は虚を突かれたよう
な顔をした。自分の質問とは全く関係のない返答が返ってきたからなのか、それとも、私が言葉を喋ったこと
に純粋に驚いていたのか。分からなかったが、どちらでもよかった。結果的に、状況を変化させることができ
たような気がしたからだ。
そうだ、それでいいのだ、と私は私の発した言葉を吟味して思った。私は副担任と話をしにきたのだから、副
担任以外の人間にまで、自分から全てを説明して回る必要はない。何故私が副担任と会う必要があるのか。
私が副担任と接触するために、どうしてもその説明が事務員に必要なときのみ、私の口から話せばいいの
だ、と。
渦巻いていた様々な思考を飛び越えて、何故副担任の名前を出したのかは、私には今でも分からない。
ただ、間違いなく言えることは、当時そのときの私が一方的にいい対応をしたと思っていたのと同じように、
今現在の私がそのときのことを振り返ってみても、何度もその場面を繰り返し思い出してみても、これに勝
る応対の言葉などなかった、ということだった。
――先生? と事務員は聞き返す。――先生に用事なの? 私は彼女の態度が急に変化したことに戸惑
いつつも、無言で頷く。事務員は私の顔をじっと見詰め、溜息を吐くように言った。ついて来て。そして踵を
返して歩き始めた。私がきちんとついて来ているかどうか、それにすら関心がないみたいに、事務員はとて
も無機質に歩いていった。
私は慌てて彼女の後に続いた。よく分からないが、事務員は私を副担任のところまで連れて行ってくれるらし
い。彼女が何を思い、どういった意図で私の目的の手助けをしてくれる気になったのかまるで見当がつかず、
少々猜疑心が残りはした。しかしそれはお互い様だった。私も彼女に何も説明していなかったのだ。
連れて行かれた先は、やはり体育館だった。事務員は振り返って私に言う。ここで待ってて。そしてあの重い
鉄の扉を、極力音がしないように50センチばかり開け、その隙間にするりと入っていった。事務員が開け、滑
り込んでいった隙間からは、マイクを通した聞き覚えのあるような熟年男性の声が溢れてきた。
演説の内容は耳に入らなかった。私はそれどころではなかったのだ。まず、現実味が湧かなかった。どうし
て私がこんなところまで来る必要があったのか、それさえしばらく忘れてしまうほど、あまりにも実感がなか
った。副担任の顔さえ思い出せない。そんな人物に私はこれから会おうとしているのだろうか。
演説の内容は耳に入らなかった。私はそれどころではなかったのだ。まず、現実味が湧かなかった。どうし
て私がこんなところまで来る必要があったのか、それさえしばらく忘れてしまうほど、あまりにも実感がなか
った。副担任の顔さえ思い出せない。そんな人物に私はこれから会おうとしているのだろうか。
ああ、多分それは仕方がない。私は副担任の顔を、真正面からまともに見たことがないのだから。いや、そ
うだっただろうか? 何度か、うん、多分一度きりではないようだが、何度かまともに見たような気がする。し
かし、記憶には副担任の顔かたちが存在しない。思い出せない? 私は何を見ていたのだろう?
私の頭は、先ほどからこの場を収めるためのさまざまな種類の台詞を出力しようとしていたが、どれもこれ
もが例によってことごとく白々しいものでしかないような気がした。どれだけ言葉をかき集めてみても、失わ
れた現実味というか、リアルさは補えなかった。
状況を鑑みるに、副担任は確実に私の前に現れるだろう。そこまでは理解できる。しかし、誰がその相手をす
るのか? 私? もちろんここには私しかいない。行きがかり上、私が副担任と話すしかないのだ。いや、何
を言っている? 自分で望んでここまで来たのではないのか?
そうだ、確かに明確で立派な理由があったはずだ。何だった? ……ああ、復学だ。復学について私は何か
思うところがあったのだ。復学の……、支援だ。そう、支援してもらうために副担任に会いに来たのだ。ただ
それだけだ。何故難しく考える必要がある?
開けられたままの扉の隙間からまず出てきたのは、私と副担任を結び付けようとしてくれた事務員だった。
すぐに来られるから、とだけ言い残し、彼女は自分の仕事の続きをするために、もと来た道を帰っていった。
私は彼女に向かってまともな返事も出来なかったし、去って行く彼女の後姿を振り返ることも出来なかった。
本当に来るのだ、と思う。私には自覚がなかった。今自分が、副担任と相対しようとしていること。気まぐれな
事務員に、当初の願望通りここまで連れてこられたこと。いや、その願望自体だって、私には無関係な事柄
のような気がした。私の思考の内を満たすのは、もはやあの白々しさだけだった。
私の、恐らく自分の意思でやってきた行動は言うに及ばず、私の存在、私の生まれてきた理由、これまで私
が生きながらえてきた意義にまで、その白々しさは侵食していった。私が今、体育館の前で副担任を待って
いるという事実以前の問題が、私が生き残ってきたこと、私が生まれ出でてきたことそのものが、とても不自
然なことのように思えてならなかった。
私の生誕や存続については、私自身もそれほど確固たる信頼を抱いていたわけではなく、むしろ否定的とい
うか、自ら手放しで認められるような根拠を見出せないでいたからこそ、いつも落ち着かず、不自然な感覚を
持っていたのかもしれない。事実、私は不自然で不安定だった。
復学はその不安定さをどうにかするための手段の一つに過ぎず、そう、私は正確には本気で復学を考えて
はおらず、というか、復学をきっかけにして、私自身を安定軌道に乗せたかっただけだったのだ。不毛なサ
イクルから逃れられるのなら、方法は何でもよかった。そう思ったとき、最も手近に存在して行動を起こし安
そうに見えたのが、復学という手段だっただけなのだ。
多分、そうだ。そういうことなのだ。私は、私には、何一つとして本気になって真面目に取り組んだ事実など
持ってはいない。何一つとして、だ。だから頑なに誓ったはずの決心を安々と破り、直接関係もないのに今
でもありありと思い起こされるのだ。意固地というよりも、むきになって思い出すまいとしてきた、Sのことを。
何故今になって? ……いや、もうそんなことをわざとらしく考える必要はないのかもしれない。そうやって私
は、頑なに否定し続けてきたのだろう。それはSのことから全力で逃亡を図ることではなく、わざわざ悲劇的
な脚色をしたりしながら、既に変化のしようがないSの死という安全な現実すら、私は私自身のために巧みに
利用しようとしていたことだった。
私はそれを知っていたのかもしれない。心のどこかでそれに気付いていたのかもしれない。それが私とSと
の隔たりを、大きく推進させてしまったのかもしれない。溝は広がり、私は苛立ち、再び安易な解決を図ろう
としてSを一方的に敵と見なし、遠ざけようとした。そんなことをしてもどうにもならない、という現実がまた、
不毛な連鎖を加速させて、私は苛立ちを募らせ、何度も同じことを繰り返した。
多分自分でも気付いていた。だからこそなおさら嫌悪感を増した。やることなすこと全てが破滅の方向へ向か
っていることを知りながらも、結局何もしてこなかった。そんな絶望的な状況を、私はSの家の跡地でSに別れ
を告げたときに、Sの記憶と一緒にそこへ捨ててきたつもりになっていたのだ。
そのとき私は、綺麗で、いかにももっともらしい口上を並べはしたが、つまるところ、私はそのSとの決別さえ
も自分に都合のいいように利用しようとしただけなのだ。よく考えれば、あんな茶番で決着がつく訳がないこ
となど分かりそうなものだ。意思に反して思い出されてきた、私が躍起になって押え付けてきたSに関する記
憶の数々は、そのことを表明しているのだろう。
そして今また、同じような舞台が設えられつつあった。そこでも私は、このままいけばまた同じことを繰り返し
てしまうのだ。改善を目指して行動したつもりだったし、過去の繰り返しから何かしら学び取ろうとしてきたつ
もりなのだが……。いや、本当にそうなのかどうか私には分からない。そう言明できるだけの根拠を、私は持
っていなかった。
不意に副担任が私の前に現れた。あまりにも急で、しかもとても自然に姿を見せたものだから、私は目を逸ら
すタイミングを逃してしまい、彼女の仕草のひとつひとつを真正面からじっくり観察することになった。私は心を
乱したりすることなく、というより、乱す余裕すらなく、副担任との再会を果たしたのだ。
彼女は、人一人通れるほど開けられた体育館の扉をするりと出てきて、自分を呼び出した相手の姿を目で探
した。すぐ私に気が付き、自分を訪ねてきてくれたことを、用件の内容に関わらず喜んでいるような表情で私に
優しく微笑みかけ、そして言った。久しぶりね、どうしたの? と。
私はまた、分からなくなって立ち竦んだ。現に私と副担任とが向き合っているのだという事実から、副担任の
発した何気ない再開の挨拶の、その裏側に存在するかもしれない彼女の本当の心理に至るまで。白々しさ
は侵食を深める。私を取り囲む全ての事象から、リアリティだけが何処かへと吸い取られていくような感じが
した。
現実味を欠いていく世界は色彩を失い、真っ黒になっていくのではなくむしろ真っ白になって私を包んでいた。
その世界の中にあって、私は見ながらにして何も見えず、聞きながらにして何も聞けなかった。五感を通して
伝わってくる情報が、私の中でぐちゃぐちゃに掻き乱され、その各々の情報の指すものの意味が全く分からな
くなっていたのだ。
自分の体が静止しているのか、ゆっくりと回転しているのか、何処かに向かって高速に移動しているのか、
その全てが当てはまるような気がしたし、どれにも該当しないような気もした。信頼できるよりどころ、私に初
めからそんなものがあったのかどうかはもはや分からないが、そのような概念が完全に、完膚なきまでに破
壊され、私は本当に途方に暮れていた。
元々私は一番原初から、そう、産まれ出でてきたときから既に、そこで味わったような混沌の範疇に存在した
のかもしれない。それまでは何とか自分で気付かないようにやってこれたのだ、多分。今回はたまたまその許
容量を越え、本来私の属している世界が表面化されただけではないのだろうか。
517 :
ななしっぺ◇♯fhaifhaio:2006/05/02(火) 17:08:15 ID:fBDA1JRN
私はただ、自分がその空間に存在しているのだ、ということだけを感じていた。私自身がその白い空間であり、
空間を満たす白さこそが私だった。世界が白くあり続ける限り、私はそこに存在することを認められている。
いや、私が世界であり続けるためには、私は……。
白さは均一に広がっていた。死んだように沈殿し、流動することもなかった。しかし、認識できぬような速度で
それは確実に薄まっていった。何故それが私に分かったかというと、同じ速度で徐々に私の意識が私の身体
の中に還り始めていたからだった。じっくりと時間をかけて状況が推移し、声が空気を振動させるのを認識で
きるまでになった。
どうしたの? と、再び副担任が言った。最初の同じ台詞とは若干ニュアンスの違う「どうしたの?」だった。恐
らく、どれくらいの時間か定かではないが、硬直していた私の身を案ずる種類の言葉だったのだと思う。聴覚
は十分鮮明に彼女の声を聞き分けられたし、頭でもその意味を把握することが出来た。
副担任が私の沈黙を訝しがる気持ちは把握しているつもりだったが、相も変わらず、私は何と答えればいいの
かが分からなかった。全身の筋肉が緊張状態から弛緩していくのを感じはしたけれど、発声を司る部位だけは
そうではなかったようだった。私はまた喋れなかった。
彼女の心配そうな顔が見える。ああ、とまた私は思う。そんなつもりじゃなかったんです。私は極力事務的に、
貴方の持っている私に関する誤解を解いて、極力事務的に、復学するための協力を貴方にお願いしようと思っ
ていただけなんです。だから、だからそれ以上、私のことで不必要に心配しないで下さい。
そんなことを考えても無駄だった。気持ちというものは、伝えなければ考えていないのと同じだ。私の思いをよ
そに、副担任は私の手を引き、校舎のどこかへと導いていく。彼女がどこへ行くつもりなのか、私にはどうでも
いいことのようにしか感じなかった。また私は醜態を晒したのだ。
自分がまた同じような繰り返しをしてしまったことが引き金になったのだろう、私は次第に腹が立ってきた。もち
ろん、不甲斐ない自分自身に対する腹立ちもあっただろうが、私の怒りはそれだけを責めて充足できるもので
はなかった。私自身をはじめとする人間全体の、救いようのない程の身勝手さや、それに全く気付かなかった
り、全く気付こうとしなかったり、あるいは白々しく気付かない振りをしたりとか、多分そんなことについてだ。
それらの対象に暴力を打ち振るったり、汚い罵声を思い切り浴びせたりしたかったのだが、誰を殴ればいいの
か、何に向かって叫べばいいのか、皆目見当も付かなかった。不意に私は副担任の手を大きく振り払った。何
かに対しての精一杯の抵抗のつもりだったのか、ただの八つ当たりでしかないのか。いずれにしても、私はま
た対応を誤ったらしい。
私はうろたえた。振り向いた彼女の目を見ることが出来なかった。どうしてこうも、私の取る全ての行動は悪い
方へとしか流れていかないのだろう? 私達の間に横たわる居心地の悪い雰囲気を目の当たりにして、副担
任は、どうしたものか、と考えあぐねているようだ。
彼女は私の顔を覗き込むみたいにして顔を近づけ、それから静かに笑顔を作った。私は思わず彼女の表情に
見入る。それは例えるなら、怯えて木陰に隠れている小動物の警戒心を解きほぐすための、自身に敵意も悪
意もないことを表明して見せるための笑顔だった。
そのまま彼女は、何も言わずに再び手を差し出した。何故この人は、こんなことができるのだろう?まだ尋ね
て来た理由も説明していないのに。誤解だってそのままだった。いや、そんなことよりも、私はかつて一度、
彼女の好意を無駄にしたのだ。その私に手を差し伸べるというのか。
しかし、私とて今さらこの差し出された手を掴むのか、拒絶するのかという決断に迷っていたわけではなかっ
た。結局私は、彼女の手を掴むしかないのだ。そうしなければならない理由は極めて不明瞭だったが、掴む
しかないことは十分に理解できた。多分、副担任もそのことは承知なのだろう。私はおずおずと手を差し出し、
彼女の手を握ったのだ。
副担任は、私を半ば引きずるようにして当面の目的へと向かって歩いた。もちろん彼女の目的など、私に知る
由もなかった。私はただ彼女に引きずられながら、まだ機会はある、と考えていただけだった。彼女は私がそ
の手を握らざるを得ないことを知っていた。知っていたが、それだけだ。ともすれば、私達が彼女の目的地に
到達した途端、ものすごい剣幕で私が喋り出す、という可能性を、彼女は考慮してはいないはずだ。
私だって初めからそうするつもりだったわけではないが、必要にかられればそれも厭わないつもりだった。が
しかし、そんなことなどできるわけがないのは自分がよく分かっていた。だからこそ余計に腹が立った。取り
澄まして私を引っ張る副担任に。そして、分かっていながら手を差し出した自分自身に。
彼女の足は特に速くもなく、別段遅過ぎもせず、彼女の意図した目的地に私を連れて行く。お互いの表情は
見えず、繋いでいる手からも、相手が何を考えているのか、そのヒントらしきものさえ伝わらなかった。私達は
手を引き、手を引かれ、ただただ黙って歩いた。
彼女は何をする気なのだろう。私が何をしに来たと思っているのだろう。彼女の奇抜な行動には少しは慣れ
ているつもりでいたのだが、毎度のことながら、というより、今回は余計に不安を感じた。もしかしたら、と私
は全然関係のないことを考える。私自身もこの副担任のように、自分の気持ちや感情を伝えなかったことで、
様々な相手を不安がらせてきたのではないだろうか。
私達の歩みは、とある特別教室の手前で止まった。彼女は私の手を握ったまま、もう一方の手でポケットか
ら鍵を取り出し、その教室の施錠を開けた。扉を開き、そのまま私を引っ張り込む。中は雑然としていて、一
体何の部屋なのか分からないほどだった。ただ言えるのは、そこが何かしらの特別教室に属する、何らかの
準備室のような部屋だということだけだった。
分からないのも無理はない。在学中も一度だって、こんなところに来る機会がなかったのだから。沢山の書
物を詰めた本棚が整然と並べられた部屋の真ん中まで来ると、ようやく彼女は私の手を離した。と思うとすぐ
に書架の影に姿を消した。座って、と本棚の向こうから声が聞こえた。見ると踏み台替わりなのだろうか、折
りたたみ椅子がひとつ、たたまれた状態で書架に立てかけられていた。私はそれに手を触れず、立ったまま
だった。
私が立ち尽くしている間、部屋の中は静かだった。全く動かない、その何もかもが死に絶えたような空気に纏
われ、私は軽く眩暈がした。もはや私の抱いていた目的や計画の類は完全に私の手から離れて遠ざかり、
今さらどうにかできる、などとは微塵も思っていなかった。
何が災いの元なのだろう? 何故私は毎度毎度に渡って、いざそのときに直面したときに、やれもしないよう
なことを計画したり、その無茶な計画を中途半端な段階まで進めたりするのか。誰にも信じてもらえないかも
しれないが、私自身もあまり信じられないが、今までに何か計画を立ち上げたその瞬間は、私は本気でそれ
を成し遂げるつもりでいたのだ。
そして多分、途中までも本気だった。しかし、あるところまで進んでしまったとき、何かに絡め取られるように、
そう、ちょうど重い足枷を付けられたみたいに、私の意思は躓いてしまうのだ。それは私自身が感じた不安や
恐れだったり、ときには誰かから突き付けられる現実だったり、とにかくそんなものが出てきてしまうと、もう私
にはなす術がなかった。
そんな状況に臨む度、これが最後なのだと言い聞かせた。これを期に立ち返るのだ、と思って自らを奮い立た
せようとした。だが、実際はそううまくはいかなかった。同じ過ちを繰り返し、古傷を掘り下げただけだ。すでに
私は、繰り返される現実と私自身との葛藤の間で外部的にも内部的にもずたずただったのだ。
そうして今、私は自らが出向いたかつての学び舎の中にいて、再度副担任に全ての主導権を投げやったま
まで、ことの進行状況を傍観する立場に身を置いている。当初の建前的来訪理由である復学について、多分
それほど苦もなく話が流れていくだろう、ということを考えながら。
本棚の向こうから彼女が戻ってきた。彼女の持つ黒いトレイの上に、二つのマグカップと砂糖の入った瓶が
乗っていた。座って、ともう一度彼女が言った。そして自分は窓の近くの机から事務用椅子を引っ張ってき
てそれに腰掛け、近くの本棚の中に半分ほどはみ出す形でトレイを置いた。私は仕方なく、折りたたみ椅子
に手を掛けた。
沈黙に支配された得体の知れない部屋の中で、私と彼女は何度目かの対面を果たした。彼女は本棚に置い
たトレイからマグカップをひとつ取り、私に手渡す。私は黙ってそれを受け取り、両手で包み込むようにして握
る。彼女はもうひとつの自分用のカップを持ち上げ、一口啜った。手のひらから伝わるコーヒーの熱が、私の
抱える何かを刺激しているように思えた。
こうやって、と副担任は言った。こうやって私を訪ねてくる生徒は、これまでにも何人かいたの。その度に
こうしてこの場所、もちろん赴任しているところが違うときは、それぞれの学校のここと似たような場所だっ
たけど……、と彼女は真正面から私を見た。大体みんな話に来たのは同じ内容だった。つまり、もう一度
学業に復帰するにはどうしたらいいのか、って。
みんな学校を辞めた理由は様々だったけど、もう一度通い直したいっていう決意の訳も様々だった。私は彼ら
といろんなことを話して、いろんなことを彼らから聞いた。話を聞くたび、世間には私の想像もつかないような出
来事があって、それらに遭遇して苦しんだり、悲しんだりしている生徒達がいるんだ、って思った。
彼らは本気だった。本気でまた学校に通いたいと思っていた。だからこそ、以前通っていた学校に何かを期待
して誰かを訪ねて来た。その誰かが、たまたま私だったということが嬉しかった。嬉しかったし、彼らの本気に
対して私も本気で応えなければならないと思った。応えなければならないし、どうしても応えてあげたかった。
つまり、何が言いたいのかというと、私はあなたが本気でここまで来たのだ、と認める。それに対して、私も本
気を出してそれに応えようと思う。あなたの抱える問題が、復学についてだけじゃないことはなんとなく分かっ
てる。遠慮も怯える必要もないから、あなたなりに本気でそれを話してみてもいいと思う。私は私なりに本気を
出して、それに応えようと思うから。
彼女は大まかにそんな趣旨の言葉を述べ、私を安心させるためなのか、私に静かな笑みをたたえた顔を向
けていた。厄介なことになった、と私は思った。彼女は幾多の生徒の抱える氷を解かした、という実績がある
のだろうが、私にだって、幾度も提供された機会を全て無駄にした、という実歴があるのだ。
その私の実歴を踏まえて考えてみると、私は前回のように彼女の気迫や情熱に打たれて、自ら前進しようと
いう意欲を再び持つことになるかもしれない。がしかし、今回もその第一歩を踏み出すところで躊躇して、結
局一歩も踏み出せなくなるだろうことは想像に難くなかった。
それは、私はそうなるしかないのだ、という諦めの境地というよりも、例えば空は青いとか、夜は暗いとか、
そんな一般的で普遍的な自然現象に属する一事象、といった方が、私の持っていた感覚に近いような気が
する。どんなに足掻いてもそうなるし、そうなることが一番自然なのだ、と自らの置かれた状況とは無関係に、
そして無責任にそう考えていたのかもしれない。
あなたがもう一度学校に通えるようにするための手続きは、はっきり言うとそんなに大変な内容じゃない、と
彼女は再び話し始めた。復学なんて何かいろいろと制限がありそうだけど、意外と選択肢はあるのよ。あな
たはその中から自分に一番合ったものを選べるの。もちろん、場合によっては入学試験みたいなものをもう
一度受ける必要も出てくるけど。
でもね、もう一度学校に勉強しに行くことだけをただの義務みたいに考えてるんなら、学校なんか行かない方
がいいと思う。そんな気持ちで復学しても、多分同じことを繰り返すだけだから。確かに学業も重要なことだと
は思うけど、学校っていうのは、何もそれだけを学ぶところじゃないはずだからね。
こうやって私を訪ねてきた生徒達は、多かれ少なかれ、みんな何かしら抱えているものがあった。あなたにも
何かそんなものがあるんだろうと思う。そして、みんなそれが自分の妨げになっていることに何となく気付いて
いた。あなたもそうだと思う。違う? 別にあなただけがこんなトラブルを抱えているわけじゃない。どちらかと
いうと割とありがちな問題で、自分だけが異常とか、特異な存在だとか、そう思い込まなくてもいいのよ。
私は俯いたまま彼女の言葉を聞いていた。彼女の主張は前回からあまり変わってはいないようだ。とにかく
私を落ち着かせ、安心させようとしているのだろう。多分そうすれば、私が彼女に向かって心のうちを開く、い
や、そこまでいかなくとも開き易くはなる、とでも考えているのだ。
つまり一人で考え込むから、自分が異常だとか思ってしまうわけで、抱えているものの片鱗だけでも他人に
聞いてもらったりすれば、みんな大体同じようなことを抱えているんだから、共感できたりとか共感されたりと
か……。要するに、と彼女は支離滅裂になった話を強引に次の言葉で締め括った。要するに、あなたに絶対
的に欠けているものは、他人とのあらゆる意味での共有なのよ。
感情、感覚、主義、思想、ものの見方や捉え方、そんなもの一切を他人と共有すること。それを持っていな
いことがあなたの欠点であり、あなたの抱える問題の根源だと思う。この前だってあなた、私に何も話そうと
しなかったでしょう? 他人に意見を聞いてもらわないで、他人の話も聞かないで、自分一人だけで何でも
できる、なんてこと絶対にあり得ないんだから。
彼女の主張は正しいと思った。正しいとは思ったが、まるで現実味のない理想論的な意見だった。そんなこと
ができるのなら、私だってこんな問題を抱えずに済んだのだ。そんなことができるのなら、世界は今よりもず
っとよくなり、いがみ合う者も減り、死ななくていい人々も幾らかは死なずに済むに違いない。
彼女は今からそれをしようというのか。彼女はそれを共有と言った。不可能だ、と私は思った。彼女の言葉
にあった「自分一人だけで何でもできる」と同じくらい不可能だ。彼女もまた、過去の経験からあまり学ぼう
としなかったのだろうか。前回もそうやって私と何かしらの共有を求めた結果、他愛もなく失敗したのではな
いのか。
前回は私が話したから、というか、私しか話さなかったから、今度はあなたが話をする番よ。共有というのは
分かってると思うけど、片方が一方的に話したとしても成り立つものじゃないから。話すべき内容は何でもい
いの。話したいことがあって、それをここに持ってきてるのならそれを。なければ、そうね……。まあとにかく、
どんな話でも私は真面目に聞くから。
彼女が言いたいことを言ってしまったあと、私は余程あの誤解について話してみようかと思ったが、相変わら
ず何をどう説明したらいいのか見当が付かなかった。先生は私のことを誤解しています、まずそう言ってみる。
その後は? 私とSの幼少時代の話から始めるのか? 私の辿ってきた経路を滔々と説明すればいいのだろ
うか? そんな方法で私の感じたことを、本当に彼女に伝えられるのだろうか?
・・・・・・・
いや、伝えてどうするのだ。同情は得られるかもしれないが、それだけだ。彼女はさも理解した風に何度
も頷くだろうが、そのすぐ後に、そうかもしれない、でもね……、とまた新しい教訓を私に押し付けようとす
るだろう。私が求めるのは、私の問題の原因がSの死に起因する、という彼女の思い込みを正すことだけ
なのに。
私が彼女の誤解を是正しなければならない理由、確か正当な理由が存在したはずで、私自身の決意を迫
るためにそれを必死で思い出そうとしていると、私よりも先に副担任がまた喋り出した。話し難いのなら、私
がいろいろ質問するね。あなた、それに正直に答えてくれない? 簡単な質問だから。……奇妙な提案だ
った。
一体何を始めるつもりなんだろう。私の関心は少なからずとも彼女の発言に惹かれた。果たして、私の根幹
を左右するような的確な指摘が、誤解を抱えたままの彼女にできるというのだろうか。到底できるわけがない。
しかし、こうして誰かにそれをやってもらうことこそ、私が長い間夢想していたことでもあったのだ。
猜疑心と期待感が入り混じっていた。的外れな指摘をするかもしれない相手に対しての軽蔑と、自らの全て
を暴かれるかもしれない恐怖とがせめぎ合っていた。どれが正しく、また私がどれを純粋に支持し、身を任せ
て質問に望めばいいのか、どうするのが一番自然で真っ当なかたちなのか、分かるわけはなかった。
さて、と彼女は言った。じゃあいいかな? 心理テストとか、そんなのじゃないから。変に勘ぐったりしない
で、思っている通り率直に答えてね。いい? 私は返事をしなかった。彼女は私の無言を了承の合図と捉
え、私の顔を注視したまま質問を開始した。……あなた、私のことが嫌い?
全く想像もしていなかった質問で、私は思わず彼女の顔を見てしまった。この人は私のことをどこまで誤解
すれば気が済むのだろう。しかし彼女は、私の表情からは何も読み取れなかったようで、答えを促すように
じっと私を見詰めていただけだった。仕方なく私は小さく首を振る。何故最初の質問がこれなのだろうか。
580 :
名無しさん?:2006/06/18(日) 14:49:40 ID:hOgGvGHh
それを見た彼女は、いかにもほっとしたというような表情を作って私に言った。そう、よかった。私、あなたに
嫌われてるんじゃないかと思って、私が取ってきた行動とか話した内容とか、あなたにとっては迷惑でしか
なかったんじゃないかって心配してたの。本当に私のこと嫌いじゃないのよね?
私は小さく頷く。確かに時折、こちら側が辟易する程困るような応対をされることもあったが、私は特に彼女
を嫌っていたわけではなかった。というか、私にとって彼女は好きだの嫌いだのという査定の対象ではなかっ
た。ただ、私にいろいろと気を回そうとして、その所々が少しずれていて、何故彼女がそうするのか理解に苦
しむ、それだけの存在だった。
嫌悪していたわけでもないが、好意を持っていたわけでもない。彼女の質問は「嫌いか、否か」であって、「好
きか、嫌いか」ではなかった。別に間違った受け答えではないのだ。それとも他に何か適切な答えでもあった
のだろうか? いや、そもそもこの質問の意図は何なのか?
私には、彼女が私自身の何かを試しているように思えてならなかった。これに続く質問がどんなものになるの
かまでは想像できなかったが、いずれにしてもそれらは、彼女の意図した結論なり終着点なりに私を誘導する
ための布石に過ぎないのだ。そして、彼女の計画したその結末は、恐らく前回と同じだろう。彼女は私のことを
誤解したまま、再び私に忠告を授けるつもりに違いない。
そうなることは私自身にも分かっていたのではないのか? いや、むしろ私はそれを望んで来たのではないの
か? 誰かが強い力で私を捕まえ、引き戻してくれるのを期待していたのではないのか? 遠ざかる人工衛星。
深遠の闇と鉄の塊。孵化できずに力尽きた死骸。様々なイメージが頭をよぎる。
蝉の声とアスファルトの熱気。生温い水道水と雨で変色していくグラウンド……。本当にそれを望んだのか?
と仮に誰かに聞かれたとしても、はっきり「イエス」と答えることは私にはできなかっただろう。何故なら、それ
を一番知りたがっているのが他ならぬ私自身であるからだ。
では次の質問、と私の思考を叩き切るように彼女が言う。私の意識は再び彼女の前に引き戻される。次は
何だ? いわゆる傾向と対策。全ての可能性を十分に吟味するだけの時間的余裕もないまま、私はただ彼
女が次に発する言葉を待つことしかできない。私を安心させるためか、あるいは自分の平静を保つためな
のか、彼女は力ない笑みをひとつ浮かべて、それからおもむろに口を開く。
私はあなたのことが嫌いだと思う? ……一問目に比べれば、比較的簡単な質問だった。私の心情の表明
という極主観的なテーマでなく、私が見た彼女の心情という、いわば客観的な内容だったからだ。ご丁寧に
判断材料まで揃っていた。私は首を横に振る。彼女が私を嫌っているならば、前回のように私を連れ回した
りしないし、今回だってこんなややこしい関わり方をしようとは思わないだろう。
どうしてそう思う? と彼女は続けた。状況判断だ、と私は考えたが、それをそのまま口にしたとしても、彼女
に理解してもらえるとは思えなかった。さりとて、判断に至るまでの経緯を事細かに説明するだけの表現力
も持ち合わせていなかった。私はいつものようにして押し黙り、彼女が諦めるか、あるいは次の質問に進ん
でくれるのを待つしかなかった。
不意にチャイムが鳴った。久しぶりに聞くそれは、何だか随分と間延びして私の耳に入ってきた。今が何時
だか少し気になったが、私は意識して時計を探そうとはしなかった。私の目の前にいる副担任も、私の方を
じっと見据えたままで、表情どころか視線さえ動かしていないようだった。
ゆっくりとチャイムが鳴り止み、その余韻も消えた。あとには一層極まった静けさの中に、私と彼女とが残さ
れていた。両者とも口を閉ざしていたが、分が悪いのは明らかに私だった。彼女は質問の答えを待っている
だけで、私は多分、その彼女に向かって何かを喋らなければならないのだ。
何かを? 何を? 何を話せばいいのだ? 私の生い立ちから順を追って喋ればいいのだろうか? そうで
もしないと、私という人間を、彼女に完璧に理解してもらうことはできないのではないのか? そうだ、事細か
に話すことによって、私も私自身のことをもっと深く理解できるかもしれない。そうすれば恐らくは……。いや
待て、どうも話がおかしな方向へ流されている。
そもそも彼女の質問は何だった? 私が嫌いか? いや、それは一問目だ。お前のことが嫌いだと思うか?
それに私はノーと答えて、ではどうしてそう思うのだ? ああ、そうだった。質問の答えも、すでに私の頭の
中にあったのだ。ただ、どう言えば伝わるのか分からなくて、というかそれもひとつの理由なのだが、多分
彼女も私の答えをとっくに把握しているのだ。それを私がわざわざ口にしなければならないのだろうか?
そう考えると、彼女がこの質問で私に期待しているのは、適切な模範解答やそれを引き立たせるための表
現力ではない。極端な話、私が「分かりません」とだけ言ったとしても、それは彼女が私に求めた答えにな
り得る。質問が重要な意味を持っていたわけではない。彼女は私に喋らせたい、何でもいいから言葉を話
させたいのだ。
私は、彼女が定めている、あるいは定めているであろう目的をそう推察した。他に適切な回答が見付からな
い。これもまた、いわゆる状況判断によるものだった。私が何か喋ったところで別に世界が変革するわけで
もなしに、何故彼女はこんなことに拘るのだろうか。
結局、と私は思った。何でもいいのだ。何でもいいから、彼女が私に喋って欲しいというのならば、何を考え
ているのかは知らないが、彼女の淡い期待を打ち砕くような、至極詰まらない返答を返してやればいい。私
は呼吸を整え、彼女の目を見ないようにして、ぼそぼそと言葉を発した。私のことが嫌いなら、こんな風に私
と向き合おうとは思わない筈ですから。
実に子供じみたような私の言葉が彼女に浸透するまで時間が掛かったのか、もしくは私が本当に返答すると
は思っていなかったのか、私の発した言葉が空間から完全に消えてしまった後も、彼女はしばらく同じ姿勢、
同じ視線を保ったまま動かなかった。私は自分が発した言葉を反芻していた。
あらゆる状況判断や、それに基づいて重ねた推測からしてみても、私は最も適切な受け答えができた、と自
負していた。彼女の次の言葉を聞くまでは。彼女は沈黙の間に方針を改めたのだろうか、それとも予め想定
していた通りの展開で計画には影響しなかったのだろうか、私には知る由もなかった。
彼女はこう言ったのだ。嫌いなら、って言うけど、物事は好き嫌いの両極端で動いてるわけじゃないわよ。例
えば、あなたを復学させることが私の教師としての査定内容に影響するとか、私が単に損得勘定むき出しで
嫌々ながらこうして向き合っている、っていう可能性はあるはと思わない?
こう言われて私は戸惑った。といっても、彼女が本気で己の保身のために行動しているとか、そんなことを真
に受けたわけではなく、ただ単にこの発言における彼女の意図が正確に掴めなかったからだった。いや、私
に心理的な揺さぶりをかけようとしているのは分かる。しかしその目的が分からなかった。
もの凄く巧妙で狡猾な罠を用意して待っているのかもしれないし、何か偶発的なきっかけで感情の命ずるま
まに喋ってしまったのかもしれない。そのどちらかと思わせておきながら、実はその反対の手段を用いるつも
りだったのかもしれない。あるいは、全く違う発想が彼女を喋らせたのかもしれない。
どんなに考えを巡らせてみても、所詮推測は推測でしかなかった。ただ、彼女のその言葉は前回と違って、
私をダイレクトに斬り付けることも辞さない、という彼女なりの覚悟や決意の表明でもあるのだ、ということは
何となくではあるが私にも感じられた。
私も本気で彼女に立ち向かわなければいけないのではないのか。本音を激しくぶつけるような受け答えをし
なければならないのではないか。私の中で、そんな気持ちが大きく膨らみつつあるのが分かった。この期に
及んでもまだ私にも残されていたらしい奇特な感覚が、その希望的推測を後押ししたようだ。
ただ黙っているよりも、儚いというより起こり得ないと表現する方がしっくりくる私の希望、それが現実に起き
る可能性は、多分飛躍的に上昇するだろう。元々0だったものが、限りなく0に近い小数点以下無限に続く
ような数になるだけかもしれないが。いや、そんなことはともかく、何より彼女が、私が話し始めることを望ん
でいるのだ。
話すのが礼儀ではないのか。いや、礼儀というか何というか、私も彼女に頼ろうと訪ねて来たからには、彼女
が要求するものを与えるのが当然ではないのか。私の脈拍が速まり、身体全体に鈍い熱が蓄積されていくよ
うだった。緊張だろうか、動揺だろうか。あるいは私の身体は既にやる気になっていて、その演説のための準
備に余念がなかったのだろうか。
ある種の興奮状態だった私は、確かにこのまま「喋りたい」という気持ちだけを純粋に高めていくことに専念
し、都合よく誰かがその堰を切ってくれれば、何だって流暢に、饒舌に話せるような予感を持っていた。何に
ついて語ればいいのか、そんなことにすら一切気を回さずに、ただその感情だけを高揚させることができる
なら、私は誰に向かっても何でも話すことができるだろう。
そうなんですか? と私は彼女に問うた。私は饒舌に話せるのだろうか? やってみたことがないから分か
らなかった。仮にやったことがあったとしても、もう覚えてもいないから理解できないのと同じことだ。私の言
葉に、小さくて少し意地の悪そうな笑みをひとつ返し、彼女は言った。もちろん、と。
もちろん可能性は大いにある、そう考えてもおかしくないと思う。だって確証が得られたわけじゃ全然ないでし
ょう? 私が善意のみであなたに接しているっていう確証が。彼女の話していることが理解できず、私は少し
考え込んだ。……ああそうだ、彼女の質問の続きだった。彼女は私の問いに答えたわけではなかったのだ。
何故、自分の頭の中だけで考えた問いの答えを、彼女に求めたりしたのだろう。彼女が直前に喋ったことを
完全に忘れてしまったわけではないはずなのに。いや、まあいいのだ。今のはそれほど突飛な発言にはな
らなかったのだから。いやしかし、これが後々面倒な事態を招いてしまうことだってあるかもしれないのだ。
思考の整合性が失われつつあるような気がする。焦りが、そう、多分焦りが、私の内側で静かに波打ちなが
らゆっくりと大きく膨らみ、あらゆるものを何処かに向かって押し流そうとしていた。喋れるか、という疑問など、
そもそも考察しても意味がなかったのだ。
彼女は話す。相手が善意をもって接しているか、それとも悪意をもって近寄ってきてるかは、その相手とよく
話をしてみなければ正確には掴めない。分かる? 相手が何を考えているのか、ただ相手の話すことだけを
聞いていても正確には分からないのよ。そうでしょう? ……確かに、私には彼女の考えていることが分から
なかった。
話をする、っていうのは、相手の話を聞くだけじゃない。つまり、会話ね。お互いに言葉をやり取りしないと駄
目なの。相手が言ったことに疑問をぶつけたり、いやそれはおかしい、って否定したり、そんなことを繰り返し
て、なかなか簡単にはいかないかもしれないけど、そうやってようやく私もあなたも結論に辿りつける。そんな
ものだと思うし、むしろそうするべきじゃないの?
私は自分に関するいろんな話をしたつもりだけど、それに対してあなたはいつも黙りこくっているだけだった。
あなたは私について幾らか知り得たかもしれないけど、私はあなたのことがさっぱり分からないまま。そう、
今こうして向かい合っているけれど、今までも何度か向かい合ったこともあったけれど、私は今まで一度も
あなたの内面を知るようなチャンスに遭遇したことがないのよ。
何故あなたは私に、自分の思うところを何でも言おうとしないのかしら? 何も考えていない? そんなことは
ないはずよね? だってあなたはこれまでに、ほんの数回だけ発言してる。本当に追い込まれたときだけ喋る
のか、言いたいことはあるんだけど、胸の奥深くにあるためらいみたいなものがそれを邪魔しているのか。そ
れがあなたの数少ない発言から受けた私の印象だった。
どっちにしても、今まであなたは喋らなかった。時々ぼそっと一言だけ喋ることはあっても、会話が成立するこ
とはなかった。喋れないのか、喋りたくないのか、それすら私には分からない。それとも信用がない? あなた
は私のことを、何でも相談できる相手とは認めていないのかな?
そうでもないのかしら。今日あなた、自分から私を訪ねてきたよね? まさか私に会ったあと、ずーっと黙っ
ていても、私があなたの意思を汲み取ってあなたの目的を達成してくれる、なんて考えてたわけじゃないで
しょう?当然喋る必要が出てくることくらい、あなたも分かってたんじゃない?
つまり、言い換えれば、あなただって多少なりとも、私と会話することへの覚悟みたいなものを持ってきたん
じゃないの? 実際に私を前にして、決心が揺らいだ? それとも、最初からそんなもの持ってこなかったの?
いくら私でも、目的も気力もないような生徒の助けにはなってあげられないわよ。
彼女は一旦話すのを止めた。ああこの人も、私という人間に対して抱えていたものがたくさんあったのだな、
と私は思った。まあそれは当たり前かもしれない。しかし、私と向かい合ってきた人間は、とみによく喋る傾
向にあるようだ。様々なイメージ。そして、断片的な記憶。私自身は喋れないというのに。
部屋は沈黙に満たされた。私は喋れなかっただけだったが、彼女は意図的に黙っていた。これ以上矢継ぎ
早に言葉を投げつけるよりも、ここは沈黙を守っていた方が、より効果的だと踏んだのだろう。彼女は私をじ
っと見る。私は視線を合わせないようにしながら、状況が改善されるのを待つ。
もう動かないのだ、と彼女が無言で語りかけてくるような気がする。黙って待っていれば、じっとしゃがみ込
んでしっかり目を閉じてさえいれば、厄介なことはいつの間にか通り過ぎている、そんなことはもう起きない
のだ。お前自身が引き起こし、お前自身が複雑にした、お前自身の問題だからだ、と。
本当は何を望んで、わざわざここまで出向いて来たのか知らないが、私も、そして他の人達も、黙っている
お前に、こちらから一方的に何かを提供してやるようなことはもうないし、もはやそんな気もないのだ。泣い
てさえいれば誰かが助けてくれた幼年期は、とっくに過ぎ去ってしまっている。過去に退行することはおろか、
現状のままで居続けることすら許されないのだ。
他人に対して本当に何か望むものがあるのなら、自分の口からそれを言うがいい。そして達成のために考
え、そのための行動をし、その結果を受け入れればいい。何の代償も支払わずに、なされることだけを期待
するのはもう止めろ。……あるいは、私と彼女との間を埋める静けさが、私に向かってそう言ったのかもし
れなかった。
分かってはいた。話さなければならないことは分かってはいたが、何を話せばいいのかが分からなかった。
私と彼女が黙っている時間、その時間そのものが私にのしかかり、徐々にその重さを増していく。焦りと共
に体温が少しずつ上昇し、私の背中を嫌な汗がひとつつたって流れた。
私は……、私は……。その先が思い浮かばなかった。言いたいこと、言うべきことはあるような気がした。彼
女は私のことを誤解している。今まで私の中に積もってきたいろいろな出来事が断片的に浮かんで消える。
言葉は私の手に決して捕まることはなく、何もかもがふわふわと流れ去っていくようだ。
私は……、私は……。ただひたすらそれだけが繰り返される。時間は過ぎ、焦りも増して、次第に私は私で
なくなっていくような感覚が強くなる。本当にそれを望んだのか? 耳鳴りがする。そして動悸。私はじわじわ
とへと黒い領域に向かって押し流され、世界がより遠ざかっていく。
Sとの邂逅。突然の別れ。自堕落とクラスメイトの忠告。一体何の意味があった? 私に深く関わろうとした副
担任。目の前の彼女。一体何を望んでいた? 不確定要素に満ちた毎日。全てを、いや、全てから目を逸ら
そうとしてきた日々。何のために今まで生き、何のために今ここに来たというのか。
繰り返し、繰り返す。答えがないことは初めから分かっていたような気もする。いや、沈黙の中では到底答え
に辿り着けないこと、それは分かっていたつもりだった。その状況を打破するための談判だったのではないの
か? もちろんその通りだった。……私が流暢に喋れさえすれば、の話だが。
さあ、と私の一部分がけしかけるようにして言う。どっちがいい? 潔く全てを吐露して楽になってしまうのと、
今までみたいに終始沈黙を通し続けてどこにも辿り着けないのと。溺れ沈もうとしている人が、波の合間に辛
うじて顔を出し必死に呼吸するように、私はそれに反撃を試みる。いや待て、それは適切な設問ではない、と。
そもそも、私は喋ること自体を躊躇っているわけではなく、喋るべき内容、テーマ、それらを的確に表す言
葉を持たないからこそ、喋れずにいるだけなのだ。もし誰かが、私が喋るべき内容の書かれたメモを渡し
てくれるとか、あるいは空から降りてくる天啓のように、突然何かしらのヒントでも思い付けるのならば、話
はまた別なのだが。
あり得ないことはよく知っている。ああ、わざわざお前の口から聞くまでもない。得意気な顔をしてまた言うつ
もりなのだろう? それがあり得るのなら、もっとましな、比較的早い段階でどうにかなっていたはずだ、と。
分かっている。今更自分の外側の事象に期待することも、間違いだということは私もよく分かっている。
では何故、副担任を訪ねてきたのだ? 間違いだということも知っていた。満足に喋れないことも把握してい
たはずだ。それなのに何故、お前は今ここにいるのだ? もう下手な言い訳などしなくてもいい。望んでいた
のだろう? 副担任に無償で助けてもらうことを。
そうかもしれない。少なくとも否定はできない。だが、私だって終始そのつもりだったわけではない。喋らな
ければならないことも自覚していた。いや、喋れるとすら思っていた。何でも喋れるだけの力の存在も感じ
た。今は全部綺麗に消えてしまったが。……しかしお前、お前は一体どうしたいのだ?
ああ、いつものことだ。お前はにやにや笑うだけで何も解決策を提示しようとしない。知っているのにわざと
答えようとしないのか、それとも私を責め立てることしかできないのか。多分後者だろうが、まあどちらでも
いい。今更誰をどれだけ責めてみたとしても、それは何にもなりはしないのだから。
お前こそ、悠長に私の相手をしている場合ではないのではないか? 副担任を見ろ。彼女が黙ってから一
体どれだけ時間が経ったと思う? さあ、この事態をどうにかしたいと思うのなら、彼女が諦めてお前の前
から立ち去ってしまう前に、気の利いた演説の草稿でも考えるがいい。
私は、夢の中から強引に引きずり出されるようにして我に返る。声はもう聞こえず、余韻もあやふやだった。
本当に自分の中で、かの下らない問答が繰り広げられていたのか、正確にはもう分からなかった。目の前
にいるべき副担任の存在は確認できたが、彼女の顔を見ることはできなかった。
部屋の中は相変わらず静けさに満たされていた。私も彼女も黙りこくってはいたが、それは全く異なる理由
によるものだった。私は状況をはぐらかすような一人遊びに耽り、そして副担任は……、恐らく待っていたの
だ。私が何かを話し出すのを。
何を喋ればいい? 私が話すべき演説の草稿は? ああ、また堂々巡りだ。私が何か話すことに関して、
多分もう彼女は手を貸してはくれない。というより、貸したくても貸せない。さっきの幾つかの質問、あれが
彼女なりの精一杯だったのだ。精一杯の救済策だったのだ。
相当時間が経っているはずだった。船がゆっくりと水平線に消えていくように、時間は機会を何処か遠くに
押し流していく。まだ間に合うかもしれない。まだそれは、完全に消えてしまったわけではないのかもしれな
い。だが、私はその船を呼び戻す手段を持っていなかった。
ここに取り残されたら、もう私は終わりなのだ。危機感を無理矢理にでも高めようとしてみたが、うまくいか
なかった。似たようなことを数多く経験してきて感覚が麻痺してしまっていたのか。いや、そうではない。多
分私の経験などたいした意味を持たず、ただ単に私が「本当に取り残されること」についてよく知らないだ
けなのだろう。
このままいけば自ずとそうなるだろうが、この会談が失敗した場合、私が置かれることになる立場というか、
境遇というか、そんなものについて私が分かり得ることは、ただ私を取り巻く面倒くさくて面白くもない事象
が爆発的に増えるだろう、ということだけで、具体的にどんな不利益が発生して自分がどう追い詰められて
しまうのか、そんなことは想像すらできなかった。
それはそうだ、と思う。だって私は「本当に取り残された」という経験を持たないからだ。いろいろな人にいろ
いろなことを言われてきた気もするのだが、その誰もが私を「本当に取り残す」ことになる領域までは踏み
込もうとしなかった。……踏み込めなかっただけかもしれないし、あるいは敢えて踏み込もうとせず、私を生
殺しにしたかっただけかもしれないが。
どちらにしてももうじき、私がどんなに望んでも、誰の手も届かないようなところまで流されることになるし、
誰がどんなに望んでも、私を拾い上げることなどできなくなってしまうのだ。そう、こうして何もなりはしな
い思考を重ねている間にも、陽は傾き、人々はそれぞれの場所に向かって歩き、そして私は確実に遠ざ
かっていくのだ。
そんな状況に追い込まれて尚、理性では不可能だと知りながらも、私は自分がまだいろいろなものに無責
任な期待を寄せていたと思う。それは今からほんの数秒後に起死回生の台詞を思い付くことになる自分自
身であったり、長かった沈黙を破って彼女が私に無償で提供する、確実に私を捕まえてくれる彼女の言葉
だったりした。未だに奇跡を信じ、夢見ていたのだろうか。
もちろん、全面的にそんな甘いことを考えていたわけではなく、頭の隅にほんの少しだけ残っていたというか、
完全に消してしまうまでに至らなかったというか……。そしてそれが私の意識の裏側から、何かしらの影響を
及ぼしていたのではないか、と思うのだ。だから私は必死になれなかったのだ、と。
難しい? と不意に副担任が言った。一瞬、彼女が何を喋ったのか分からなかった。ぼんやりと彼女を見上
げると、静かな、そしてほんの少し優しささえ滲ませたような笑みを湛えて、彼女は真っ直ぐに私を見ていた。
確かに、難しい。が、私はやはり話せなかった。じゃあ、と彼女がまた口を開き、少し黙り、しばらくの後、そ
の言葉を言った。もう終わりです、と。
耳から入ってきたその言葉を、頭の中でよく吟味した。「終わり」。何の「終わり」? 私との会見を彼女側か
ら破棄するという宣言なのだろうか? それとも……、と次の可能性を考えかけたとき、私のこめかみの部
分を多量の血液が流れ、体全体に嫌な熱が広がっていった。それとも、私という人間が「終わり」なのか?
体は著しい動揺を表していた。私自身の「終わり」が信じられなかったし、信じるわけにはいかなかったから
だろうか。体温の上昇を感じながらも、私は彼女が言った「終わり」が、私の将来的な終焉を意味するもので
はないという根拠を、これまでの私や彼女の言動から何とか見つけ出そうとしていた。
また彼女は黙り込んだ。その意図は、さすがに今度は私にも容易に理解できた。「終わり」という言葉が、私
の内部を蝕んでいくのをじっくりと待ってたのだ。実際、それは彼女の望むとおりに私を侵食していった。体
温が上昇し続け、思考はいつものように空回りを始める。うまい説明のできる理屈を見付けられないでいる。
刻々と時間が流れ、私も彼女も口をきかず、ただ彼女の言葉だけが大きく膨らんでいき、私に圧し掛かって
いた。私は抗うようにして、彼女の目を見詰めたまま視線を逸らさなかった。逸らせなかった? いや、多分
そうかもしれない。認めるわけにはいかなかったからだ。
ふと、これは彼女が私の口を割らせるための少々強引な方法のひとつではないのだろうか、といういささか
楽観的な可能性が思い浮かぶ。だが、私は即座にそれを否定した。「終わり」と言われて取り乱すことを期
待したのだろうが、彼女は今まで私のことを見てきたくせに、私がそんなタイプの人間だと考えると思うか?
いいや、そんなことは絶対にない。
じゃあ、彼女の意図は何だ? 「終わり」とはどういう意味で、そしてこの作為的な沈黙は? 脅して喋らせる
だけが目的? 考えられない。私を脅すならばもっと効果的で、しかももっと安全な方法があったのではない
のか? 何故「終わり」なんていう危険な言葉をわざわざ使ったのだろう?
では、私を脅すための効果的で安全な方法とは? 一体どうすれば私の口から言葉を引きずり出すことが
できただろう? ……いや待て、そんなことは問題ではない。どうでもいいことだ。何故、彼女があえて「終わ
り」という言葉を使ったのか、重要なのはそれだけだ。
彼女の顔には、およそ表情というものがなかった。自分を散々振り回した元生徒に対して憤りを感じている
ようでもなく、窮地から救えなかった自分の無能さを嘆いているようでもなかった。増してや私に対する同情
など皆無で、勤めて無表情に、あるいは事務的に機械的に、私を見詰めているだけだった。
さあ、どうする? と彼女は無言で問いかけた。いや、少なくとも問いかけているように見えた。私は何も言え
ないままに、ただ彼女の視線を浴び続ける。……決着。ああ、確かに決着を望んでここまで来たが、まさか
こんなかたちで提示されるとは。一体私はどうすればいいのだ。
編入手続きの前に、あなたの抱えているものを少しでも少なくしてあげようと思っていたんだけど、と彼女は
言い、また少し黙った。沈黙に耳が慣れ過ぎて、彼女が言葉を発してそれが破られる度に違和感を覚える。
むしろ無音の状況の方が、この場に最も適しているかのように。
残念ながら、私ができることじゃなくなってしまったみたい。続きを喋った彼女の顔が少し寂しそうに見えた。
私は嫌な気持ちになる。またこうやって、そんなつもりもなかったのに、私に関わった人間を落胆させてしま
った。またこうやって、世界から確実に遠ざかってしまったのだ……。
でも、と副担任はさらに言葉を繋げる。私はあなたを見捨てたいんじゃない。今はまだ私が何を言って聞か
せてもどうにもならない時期だから、あまりしつこく追求しないようにするだけ。あなたがこのことについて話
せるようになるには、かなり時間がかかりそうだからね。
あなたが話せるようになって、また私が必要になったら、そのときに改めて続きをやりましょう。あなたが私
のことを必要になったら、ね。私もこのまま永遠にお別れ、なんてことは嫌だし、もしかしたらその頃にはも
うすっかり解決していて、私が出しゃばらなくても済むかもしれないし。
もちろん、編入先は私がいくつか探し出して、ある程度あなたにも選べるようにします。ここと比べたらいろ
いろ将来的な不都合があるかもしれないけど、やっぱり学校は辞めるべきじゃないと思うから。できる限り、
「もう学校に行かない」っていう選択肢は選ばないようにして欲しいから。
もう一度学校に通いなさい。あなたが一人でずっと考え込んでいるよりも、もっと多くのものを学べるはずだ
から。こういっては何だけど、やっぱりこんなことに気を取られていてはいけないと思う。親友の死、確かに
とても大きなことだけど、いつまでもそれに囚われていてはいけないのよ。
私は彼女の正気を疑った。何を言っているのだ? これが彼女の答えなのか? 改めて続きをやる? ど
うしてそんなことが言えるのだ? あり得ないことくらい簡単に分かりそうなものだろう。どうして曖昧なまま
に物事を処理してしまって、問題の本質を突こうとしないのだ。どうしてもっと奥深いところを考えてみようと
もしないのだ。
そしてまた、幾度も繰り返されたような当たり障りのない忠告で終わる。それが何になるというのだ。少しでも
何かの役に立つとでも思うのか。綺麗だが、毒にも薬にもならないような言葉を、セオリーに従って並べ立て
ただけでしかない。それで何かを変革させたつもりなのだろうか。
私は苛立っていた。用途のない「忠告」を大真面目に授けようとする彼女に。心の中で膨張していく感情を
上手く表現できない自分に。私に近づこうともしなかった世界と、それを望んでいる振りをしてた自分に。幾
つもの苛立ちが互いに相乗してその勢いを増す。心の赴くままに大声を発したとしても、多分意味を成した
言葉にはならなかっただろう。
今までで最大の危機だった。屈辱に近くもあった。誤解されたまま終わる。そうしたら私は、一生このことを
抱えて生きていかなければならなくなる。予感ではなく、確信だった。間違いなくそうなる。日頃私が夢想し
ていた結末が、現実のものとなる。あらゆる意味での「終わり」だった。
舫いが解かれる。差し伸べられた手が遠くなる。軌道が少しずつずれていく。決着、和解。そして前進。それ
ら全てはもはや私の背後で遠く小さくなっていき、私の目前には、辿るべき道も、それを照らし出す光さえも
なく、吸い寄せられているのか、あるいは落ちていっているのか、私をより深く暗いところまで飲み込んでや
ろうと大きな口を開けた闇があるだけだった。
今度はきちんと話をしよう、いい? 彼女はそう言ってゆっくりと席を立った。今度などあるわけがないでは
ないか。学校は私の職務に懸けて、いい所を見つけます。追って連絡するから、いいわね? 私は頷きも
しなかったが、彼女は私が了承したと信じ込んでいるようだった。
副担任は部屋の入り口を開けて私を促した。つまり、これで「終わり」なのだと。私は席を立たなかった。立
ち上がってあのドアをくぐってしまえば、私は本当に「終わり」なのだ。それを自ら認めるようなことが、一体
誰に出来るというのだろう? 私は席を立てなかった。
彼女は怪訝な目で私を見る。まだ何か、とその目は言う。まだ何か、この私に用事があるというのか? 私
が自意識過剰だった為だろうか、彼女の目は早くここから私を追い出してしまいたいような感情がこもって
いるような気がした。まあ、無理もないかもしれないが。
彼女の目に促されて、私はとうとう席を離れる。私がゆっくりと歩き出すのを、彼女は部屋の入り口に立って
じっと見ていた。自分の心音が気持ち悪いくらいよく聞こえた。まるで棺の蓋に釘を打ち込む音のようだ。体
の熱と眩暈。「私」は不意に立ち止まり、「彼女」に向かって叫ぶ。私という人間の根幹を司る、極めて重要な
テーマだった。
私とSとは、本当に友達だったのですか?
「彼女」は驚いた目で私を見る。「私」は真っ直ぐに相手の目を見返す。「彼女」がその質問に答えられなく
ても、「私」には「彼女」に説明すべきことが山のように存在した。「私」の説明によって、「彼女」に「私」とSと
の関係を正確に判断してもらわなければならないからだ。だが、「私」の言葉は私の頭の中で響いただけ
で、私と彼女がいるこの部屋の空気を振動させたりはしなかったのだった。
3周年こえてるね。おめでとうございます
私がゆっくりと部屋の入り口に向かう間も、「私」と「彼女」はお互いの目を見詰めたままだった。「私」は記
憶を辿り、私とSとのことをできるだけ正確に、公平に「彼女」に向かって話し出す。Sと私の曖昧な出会い
のこと。幼年期の殆どを共に過ごしてきたこと。彼女は私を促すようにして部屋を出る。私は黙ってそのあ
とに続く。
廊下に出た。私達は歩き出す。私達は黙っていたが、私の頭の中ではまだ「私」と「彼女」とのやり取りが続
いていた。幼稚園のとき、いつもどちらかの母親に連れられて登園していたこと。思い出せもしないような下
らないことで、お互い泣きじゃくるほどの厳しい言い争いをしたこと。私達は廊下を右に折れ、階段を下りる。
小学校のとき、どちらが決めたわけでもなく、待ち合わせでもしたかのようにいつも一緒に登校していたこと。
その際私とSはどんな会話をしていたのか、もう随分前から何一つ思い出せなくなってしまったこと。そして…
…。「私」は少し言葉に詰まるものの、気を奮い立たせて話を続ける。
階段を半分下りた。踊り場を通過する。彼女は振り向こうとしなかった。私達は無言だった。「私」は話を続
ける。中学校に上がった頃から、もしかするとあるいはもっと早い段階から、私とSとの距離が開きかけてい
たこと。その変化に戸惑うばかりで、お互いに状況を改善しようとはしなかったこと。できなかったと言うべき
かも知れない。
階段を下り切って、渡り廊下を進み、そこから右に折れてまた階段を下りる。私とSの仲は、もはや険悪とも
言えるような状況まで達してしまったこと。あのクラスメイトから聞き、後になって知ったことだったが、SはS
なりに何とかしようと足掻いていたらしいこと。ところが私は、そんなSにさえ気付こうともしなかったこと。
「私」はそのクラスメイトのことも話そうかと思ったが、まずは順を追って私とSとのことを説明するのが先だ
と考え直した。中学校の卒業式、その後の卒業パーティ。何も考えずに行動した私は、Sを含めた何人か
を確実に傷付けてしまったということ。……それからあの、同窓会だ。
私はSを誘った。事務的な会話だけしかもう交わせなかった。遅れて来たSに気付かない振りをした。孤立
していたSに声をかけられなかった。俯いたSのシルエットは鮮明に脳裏に焼きついていたが、その顔はも
はや思い出せなかった。そうだ、随分前から私は、Sの顔をまともに見たことがなかったのだ。
私が入って来た通用口が近付く。終焉が、実にリアルに確実に近付いているのだ、と思う。あそこを出た
ら、私と副担任、いや、元副担任との繋がりは完全に切れてしまうことになる。しかしまだ説明は終わっ
ていない。彼女の歩みは緩むこともなく、一定の速度で進む。まだ何も終わっていないというのに。
「私」は話の先を急いだ。そういう別れ方をした後、私の元にその知らせが届いた。唐突に、極めて無遠慮
に。特に取り乱したりはしなかった、と言っていいと思う。確かに衝撃はあったが、それをどう受け止めたら
いいのか分からなかったのだ。知らせを聞いた瞬間、取り乱したり泣き崩れたりすることが私にもできれば、
あるいはよかったのかも知れない。
とにかくそうやって、私はSと永久に別れることになった。葬儀の日時の連絡はそのクラスメイトが知らせ
てくれた。でも私は行かなかった。私は行くべきなのか、行く資格もないのか、Sは私が参列することを望
んでいるのか、私なんかに来てほしくないのか、いろいろなことが分からなかったからだ。
葬儀の後、そのクラスメイトが私を訪ねてきた。中学校時代の彼女達にまつわるかなり長い話を聞いて、
初めて私はそれらのことを知った。クラスメイトは私を暗に非難しに来たようだった。しかし、まあそれは仕
方がない。実際に私が悪いのだから。
急に元副担任は立ち止まり、昇降口にある私の靴をちらりと見て、私の方を振り向いた。が、すぐにまた
歩き出して職員用の下駄箱へ近付いていき、そのひとつから自分の靴を取り出し、また私の方に向き直
った。さあ、と彼女は言う。どうやら校門まで見送るつもりらしい。
私達は靴を履いた。彼女が先に立ち上がり、私を見下ろすかたちで待った。私が履き終わって立ち上がる
と、彼女はまた先に歩き、ガラスの扉を一気に押し開けた。夕闇の訪れるほんの少し前の外気が流れ込み、
私の焦燥感を煽った。先程とは違い、グラウンドの遠くから運動部員のものらしき声が聞こえてきていた。
Sのことについて考えた日々。退学。それから、Sの家の跡地で行った一方的な別れの儀式。ここまで「説
明」するのに随分かかったような気がした。「彼女」を前にして「私」は一旦呼吸を整える。これから言うこと
が、一番重要な問題なのだ、と思う。そして、おもむろに、口を開く。
これでも尚、私とSは友達だったと言えるのですか?
「彼女」は答えなかった。「彼女」と「私」はそのままの状態で睨み合い、元副担任と私は正門に向かって
歩き続ける。心なしか、彼女の歩調が先程よりもゆっくりになっているように感じた。哀しげな空や、冷た
い空気や、遠くから小さく聞こえる声が、私にそう思わせただけなのかもしれない。
私達は黙って歩き続け、「私達」は黙って見詰め合っていた。どちらの場面でも両者の間には何も起こらず、
ただただ沈黙だけが重く垂れ込めていただけだ。私は、校庭の様々な些細なこと、例えば立ち並ぶ樹木の
かたちだとか、緑色のフェンス越しに見える近隣の家屋だとか、特に記憶に刻もうというつもりはなかったの
だが、そんなものにいちいち目を奪われていた。
門が近付く。私と世界とを遠ざけ遮断する絶対の門。「彼女」は答えない。睨み合う目と目。私も元副担任
も何も言わない。校庭の木々。世界が遠のく。私達は歩き続ける。冷たい空気。元副担任の後姿。あと少
しで土と同化するまでに朽ちた足元の落ち葉。架空の部屋の空気に溶けた私の命題。
近付き、遠ざかる。歩き続ける。終焉。「彼女」は背を向け、黙って部屋を出る。残される「私」と無音の部
屋。差し込む弱い陽の光。遠い声。終焉。門が近付く。私は外に放り出される。今後どんなことが起ころ
うとも、私のためにあの門が開かれることはもうないのだ。
元副担任は正門まで辿り着くと、私の方を振り返ってそのまましばらく私を凝視した。「私」は誰もいない、
沈黙以外は何もない空間に向かって、もう一度己の命題を口にしてみる。私とSは本当に友達だったの
ですか? もちろん、何か気の利いた返答でもあるわけもなく、目の前の元副担任も何も言わなかった。
正門の所に佇む元副担任と私。その目の前の相手の表情は、わずかにそれと読み取れるような細かさ
で、まるで夜空の星の瞬きのように複雑に変化しているみたいだった。彼女にも、と私は思う。言いたい
ことが沢山あったのだろう、と。そして彼女がそうできなかったのは、私の責任なのだ、と。
それからまるで儀式めいたような調子で、元副担任は私に向かって「門出の言葉」を贈る。いい? 復学
の件は私が責任を持って必ず何とかするから、あなたはがんばってそれを選んで、立ち直る力をつけよ
うとしなきゃ駄目よ? このままじゃ何も解決しないんだから。
もうひとつ。もしあなたが今抱えている問題について、誰かに何かを話したくなったとき、周りに話せるような
人がいないときは、いつでも私を訪ねて来て。的確なアドバイスはできなくても、話を聞いて一緒に考えるこ
とくらいはできると思うから。一人で何でも背負おうとしないでね。
沈黙。私は元副担任に何と言えばよかったのだろう? ありきたりで、しかも的外れな「門出の言葉」を贈
る彼女に、一体私は何と言い返せばよかったのだろう? 元副担任と向かい合ったまま、私は彼女の後
ろに見える校庭の樹木にじっと視線を注いでいた。彼女は真っ直ぐに私を見据えていたようだが、私には
彼女の視線を真っ向から見詰め返すことなどできるわけがなかった。
弱く吹く冷たい風が木々の枝を僅かに鳴らし、遠い声と私達の髪を不安定に揺らめかせた。それと最後に
もうひとつだけ、と彼女は更に言った。あなたのお友達のお墓を訪ねなさい。葬儀には参加してないんでし
ょう? 冥福を祈って来い、なんて言わないけど、少なくともあなたは友達のお墓に行って、あなた自身の
けじめをつけてくる必要があると思うわ。
再びの沈黙。元副担任は黙ったままじっと私を見ていて、私は彼女の後ろに広がる風景に漠然と目を向け
ていた。随分長いことそうしていたような気がする。が、ついに彼女は緊張から免れるようにして大きく溜息
をつき、私に別れを告げた。それじゃあ、またね……。
思えば、この最後の沈黙は、元副担任が私のために設けた最後の弁解のチャンスだったのかもしれない。
いや、弁解ではなくて、もっと別な何か、言ってみれば、私の主義や主張をスマートに的確に表す強い言
葉……? とにかく、彼女はそれを聞きたがった。しかし、私は何も言えなかったのだ。
彼女は私の横をすり抜けて、校舎の方へと歩き出す。彼女の足音が次第に遠くなっていくのを背中で聞き
ながら、私はただ立ちすくんでいた。まだ呼び戻せるかもしれない。突飛で脈絡もないそんな考えが何度
も浮かんでは消えた。呼び戻せるかもしれないが、私はそうできなかった。
足音が周囲の空気の振動、つまり風の音や遠い声、門から少し離れた道路の雑踏にかき消されてしまった
後も、私はその場を離れることはもちろん、後ろを振り返って彼女の姿を確認することもできず、先程からの
風景をただただ眺めていた。だから、彼女が真っ直ぐに校舎へ入っていったのか、一度でも私の方を振り向
いてみたのかは分からないままだ。彼女のことだ。恐らく振り向かなかったに違いない。何となくそう思った。
しばらくして私は、泥沼の中に沈んだ己の足を無理矢理引き抜くような気分で歩き始め、正門を出た。多分
元副担任もそうしたように、一度も背後を振り向かなかった。私の場合、振り向けなかった、が相応しい表現
なのかもしれない。とにかく門は閉じられ、私と彼女は永遠に隔たることになる。
こうして最後の機会は失われた。省みてみれば、元副担任に全く落ち度はなかったと思う。いやむしろ、情熱
的に私を正そうとした、といえるかもしれない。もっとしつこく深く関わろうとしなかったのは、きっとそれを私が
求めていないだろうことを、きっと知っていたのだ。彼女の采配は的確だった。
結果的に私は、的確だった彼女のやり方を無下にしてしまったのだ。その事実が私を深く傷付けた。また私
のせいで、必要のない負担を負う人間が出てしまったのだ。悔しさ? 情けなさ? そう呼んでも差し支えの
ない感情が私の胸を圧迫していた。もはや涙さえ出ない。本当に終わってしまったのだ……。
寒々とした街並み越しに見える太陽さえ、私と関わりを持ちたくないとでも言うように、急いで地平に沈もうと
していた。喧騒は既に私を置き去りにしたまま展開し続け、時折吹き抜ける風は私の心身に意図的に痛手
を与えようとしてきた。……私と世界は確実に遠ざかり始めている。
目に付く全てのものに私がどことなく違和感を覚えたように、私を見る人々もまた物珍しいものでも見るよ
うな目で私を見ている気がした。かつての通学路だったその道を、私は足早に通り過ぎようと必死で足を動
かした。一秒でも早く家に帰りたかった。人々の送る好奇の視線の底に、私を頭ごなしに非難する意図が
あるように思えたからだ。
人に見られる度に、もう既に分かり切っていたこと、つまり、全部私のせいである、ということを繰り返ししつ
こく告げられている気分だった。急いでいるのに、やけに長い道のりだった。足を動かし、前に進み、新たな
人々に見られ、その都度何かを磨り減らされながら、私は足早に歩き続けたのだ。
そういうわけで、家の前を通る道まで辿り着いたときには、既に私の全身は疲れきっていた。幸いなことに、
私以外はその道を歩いている者はいなかった。少し気が楽になったものの、私は歩みを緩めはしなかった。
もう少しだ、と思う。早く帰りたい、それだけだった。
ふとあることを思い出した。Sの家のことだった。いや、正確にはSの家の跡地だが、私の家まで辿り着くに
は、どうしてもその前を通らなければならなかったのだ。……しかし、それがどうだというのだ? あの前を
通るのは、確かに何となく嫌な気持ちがするだろうが、今は一刻も早く家に帰らなければならないのだ。
私はそのことを考えないようにしながら、家に向かって黙々と歩き続けた。少しでも気を抜くと、すぐにでも
飛びかかって私を捕らえてしまうようなその感覚を、懸命に無視しながら歩いた。理屈や論理で対抗しよう
とすらしなかった。そのことに関する一切のものに息を潜めて、気付かれないように進んでいった。
近付く。差し掛かる。通り過ぎる。一連の出来事はわずか数十秒のうちに済んだ。私はその場所を見なか
った。通り過ぎた後も振り向かなかった。誰もいなかったし、誰からも見られなかった。通り過ぎて数歩ほ
ど進んだときに、元副担任が言ったある台詞が思い出されようとしたが、急いで頭の中からそれを振り払
った。
それからすぐに、私は自分の家へと辿り着いた。多少てこずりながらも何とか玄関の鍵を開け、転がり
込むようにして中に入った。急いでまたドアを閉め、一直線に自分の部屋へと向かう。終わったのだ、と
強い口調の声が頭の中で響いた。私はそのままベッドに倒れ込んだ。
その事実は少しずつ私の中でリアリティを増していく。夏の終わりに感じた、もう夏ではない空気が肌に触
れたときのような、もう後戻りもできない、取り返すこともできない、そんな絶望にも似た感情が私の心を蝕
んだ。それに寒さが、現実の寒さがそれに同調し、何もできなかった私を苦しめた。
外殻を破れなかった。再び周回軌道に乗せることができなかった。総じて、力が足りなかったのだ。少しの
気紛れで起こした行動が全てを解決するかもしれないなどと、本気でそんな空想を信じ込もうとしていた私
には、この冷たい部屋のベッドに死ぬまで転がっていることこそ相応しいのだろう。
やがて窓の外で陽が沈み、恥辱に満ちた今日という日が終わろうとしていた。私は転がったまま、記憶の
プレイバックを呆然と眺めていた。辛辣な場面を繰り返し見せられても、私にはもうどうすることもできなか
った。滔々と時間が流れ、部屋を闇が包んでいく。もちろん、私は眠れなかった。
そのように私は、また以前と変わらない時間を送ることになった。以前と変わらない? 厳密にいえばそう
いうわけではなかった。寒い部屋、窓から差す陽の光、繰り返される責任追及。それらは確かに以前から
のものと同じだったかもしれないが、私を取り巻く外部的状況は全く違っていた。
基本的に、私を悩ます根源というものは変化していなかったが、もはや私がどんな結論に達しようとも、
それを裏付けてくれる現実、後押ししてくれるというか、そう、足掻く私に無条件で手を差し伸べてくれる
ような存在とでもいうか、いわゆる天啓や奇跡の類は、本当に、本当になくなってしまったのだ、とそう
強く思ったのだった。
無為な時間が過ぎていった。太陽と月は、私に対して何ら関知することなくその運動を続けていた。私は家
に帰ってきてからずっとベッドの上に転がったままだった。転がったまま、起きているのか、寝ているのか、
自分でも分からない朦朧とした意識の世界の中にいた。
私と世界とがうまく折り合って共存している夢を見たり、過去の痛々しい場面を極度に誇張して見せられた
りした。時々私の意思とは関係なく、涙が流れることもあった。私は夢うつつの状態で、その度に仮初の幸
福感に浸ったり、地獄のような気分を味わったり、頬を伝うものの意味が分からなくてうろたえたりした。
人間の幸福と不幸を隔てるものって、一体何なんだろうか? 我ながら馬鹿げた疑問も浮かんだ。実際私
は苦しんでいる。多分、苦しんでいる、……と言っていいと思う。それなのに、まだ夢を見て仮想の幸福感に
浸ることができている。何なのだ? と思う。一体私は何なのだ? と。
真面目に苦しみだけを味わえないのは、私がこの問題に対して真剣に取り組む姿勢がまだ足りないから
なのだろうか? 「まだ夢を見ていられる」ことについて、私はこんな仮説を立てた。まだ何とか、誰かが何
とかしてくれるかもしれない。もう完全に終わってしまったのに、私はまだそんな期待を持っているのだろう
か?
どうだろう? 私は自分を省みてみるが、ことごとく間違った道を選んできたらしいこと以外は分からなか
った。それはそうだろう。窮地にいつも怖気付いて、尻ごみした挙句に一番最悪な道を選ばざるを得ない、
というか、選ばされるような私が、どうしてこれからの自分の選択に期待を持てるだろうか。
他人は、私以外の世の人々はこのようなとき、どうやって問題に臨むのだろうか? 遠い昔に忠告をくれた
あのクラスメイトは? ぎりぎりまで私に手を伸ばそうとしてくれたが、結局私から拒んでしまったかたちに
なった元副担任は? 彼女達はどうやって様々な問題に対処するのだろう?
彼女達が出した答え、彼女達が私に対して取った行動の全ては、きちんと正当なプロセスを経た後に決定
されたものなのだろうか? ……多分そうなのだろう、と私は思う。それができないからこそ、私はここでこ
うしているのだ。私だけがここでこうしているのだ、と。
そういう意味で、私には力が足りなかったのだ。伝えるべきことを(曖昧な表現だとしても)伝えること。苦
渋の選択だとしても潔く自ら手を引くこと。それらを決定し、実行に移すまでの決断力。そしてその決断が
招き寄せる結果を拒まないこと。多分これが彼女達にあって、私が持っていない力なのだ。
彼女達の本心は私に分かるはずもない。が、恐らく私には一番しっくりくる考え方だった。人間の幸不幸を
隔てるものも、その辺にあるような気がした。私には到底できそうもないことが、彼女達には苦もなくとまで
はいわないまでも、実行に移すことができるのだ、多分。
がしかし、と私は思う。彼女達の力を冷静に見極めたつもりになっているが、それが一体なんだというのだ?
そんなことをして少しでも、自分自身の力として取り込むことができるとでも思っているのだろうか? 冷静
な分析? そんなことをして一体何になるというのだ? 取り込むつもりもないくせに?
取り込む、というか、学ぶつもりがあったのなら、これまで繰り返されてきた無数の出来事から、最低でも一
つや二つは経験則を身につけられるものだろう。だが、全部拒んだ。古いしがらみも新しい可能性も、例外
なく全部拒んだ。こんな結末になることくらい、分かっていたにもかかわらず、だ。
私は何を望んでいるのだ? 私だけが血を流さずになされる革命か? そんな都合のいい話があるもの
か。多分みんな、何かいろいろなことを代償にしながら、辛うじて生きながらえているというのに、自分だけ
は支払いたくないというのか? そんな馬鹿げた話があるものか。
……時間は妄想を伴いながら、私をすり減らしながら、確実に流れていった。何日経っていたのか正確に
は分からなかったが、その果てしない無益の繰り返しの後、不意に元副担任が再び私の家を訪ねてきた。
以前あったように、私は母親に叩き起こされ、ふらふらする頭を抱えて彼女との対面に向かったのだった。
明るかったので恐らく昼間だ。母親が家にいたことから、予め電話でもして在宅を確認したか、数日前
から予約を取り付けたかしたのだろう。まあ、そんなことはどうでもいい。叩き起こされて事情を聞いた
ときから、実際に彼女と顔を合わせる前から、私には彼女の目的が分かっていた。
こんにちは、と彼女は言った。私も同じ言葉をぼそぼそと復唱し、母親に促されて彼女の対面に座った。
それから彼女は自分の鞄から数枚の書類を取り出し、テーブルの上にそれらを広げてみせた。私が編入
することになるかもしれない、それぞれの学校に関する資料だった。
義理堅いことだ、と私は思った。やはり彼女はそのために訪ねてきたのだ。編入を受け付けてくれる学校
をピックアップしました、と彼女は言った。といっても、いろいろと難しい条件があったりして、自由に選択
できるというわけではなくて、3校しか見付からなかったわけですが……。
元副担任は、私と母親の顔を交互に見ながら、具体的な説明を始めた。母親は熱心に耳を傾けていたよ
うだったが、私はほとんど聞いていなかった。彼女の向こう側の空間をぼうっと眺めながら、ここまでして
くれる彼女の行動理由について考えていた。
関わってしまった以上、途中放棄できないタイプなのだろうか? 私の副担任にならなければ、こんな余
計な災厄の後処理に奔走することもなかったろうに。書類は私がその学校の方に提出いたします、と脈
絡もなく彼女の台詞が私の耳に入る。ああ、どうしてそこまでやろうとするのだ。
彼女が何かを喋る度、私は私自身の無能さを付き付けられているようで、というよりもむしろ、そうやって遠
まわしに私をなじることこそが、彼女の本当の目的なのではないのだろうか、と勘ぐってしまう。しかし一体
何のために? 逆説的な進路指導とは考え難い。
本人が選ぶのが一番いいと思います、と彼女が言った。そう言ってしまった後、彼女は喋らなくなったので、
部屋の中が静かになった。元副担任は私の方を真剣な眼差しで見ているようだった。母親は最初からあま
り喋らず、元副担任の前に置かれた湯飲みのある辺りを凝視していたようだ。私はすぐに状況を掴んだ。
私に選べ、ということらしい。
念のために状況が動くのをしばらく待ってみたが、誰も何も言わず、まして私達の前にいきなり素晴らしい
妙案が外部から提示されるような気配もなかった。私は嫌な気分を募らせた。何故、中途半端に私に選択
権を与えようとするのだ。彼女が全部決めればいいじゃないか。
これも報復の一環なのかもしれない。逆に、私に選ばせることこそが純粋な解決の糸口だ、と本気でそ
う考えているのかもしれない。どちらにしても迷惑な話だった。私は冷静に選択できる状態ではなかった
し、参考になるかもしれない彼女達の話を全く聞いていなかったのだから。
しかし彼女達は私の決断を望み、それがなされない限りはいつまでもこの状況が続きそうだった。全くも
って不毛だった。よしんば今の私が何かしらの決断を下せたとして、それが一体何の意味を持つというの
だろう。彼女達はひとときだけでも安心できるかもしれない。だが安直な決断は、結局同じ事態を永劫に
繰り返すだけでしかないのだ。
私にはそれがよく分かっていた。目に見えるようでさえあった。なぜならそれは、今までの私が辿ってき
た道そのものだったからだ。かといって、黙っていれば誰かが何かを与えてくれる、と今さら考えている
わけでもなかった。彼女達が欲しいのは事態の転換で、私が欲していたのは事態の収束だった。
そうなると答えはひとつしかない。彼女達には私が「決断した」と思わせながら、私はその仮初の決断につ
いて責任を負っていくしかない。しかし負っていくとはいっても、要はせいぜい在学中の三年間だけだ。幾
度も間違いを犯してきた私にとって、今さらたかだか三年間など何であろう。
大層な理屈だったが、そのときの私は何も考えていなかった。それは後になって付けた理屈に過ぎなかっ
た。自分のこのときの決断を後から振り返って、まるで自身に言い聞かせるようにして設えた理屈だった。
彼女達と対峙していた私は、ただただ何もかもが面倒になっていただけだったのだ。
従って私はその場を早急に締めくくるために、身動きひとつしない元副担任と母親の視線を一方的に受け
ながら、テーブルの上の資料をさも吟味しているように眺め回す振りをして、もったいぶった挙句にその中
の一枚を取り上げてみせた。繰り返すが、私はただ面倒だっただけで、結局何でもよかったのだ。
判断材料も持っていないくせに一通り選ぶ振りをしてみせたのは、そうでもしないと彼女達を納得させるに
は至らないと思ったからだった。もちろん、私はその場で狡猾な策略を組み立て、その命令に従って動い
たわけではなく、……多分これも後で取って付けた説明に過ぎないのだと思う。
場当たり的な採決だったにもかかわらず、私のそれはそれ程的外れなものではなかったはずだ。元副
担任が選択肢をピックアップした段階で、つまり私の前に置かれたいくつかの資料が彼女の手によって
選別された段階で、すでに望みの少ない可能性は排除してあったのかもしれない。
その証拠に、私の決断に対して誰も異議を唱えなかった。気味の悪い間があった後、元副担任が口を開
き、そこでいいのね? と最後通牒のように念を押しただけだった。私は彼女に向かって黙って頷いてみ
せた。その間母親は事の成り行きを見守ることしかできなかったようだ。それはまあ仕方がないのだ。
そのようにして、私ができる範囲での編入の手続きは終わった。元副担任は、今度は母親に向かって以
後の説明を始めた。提出する書類の書き方とか、要するにそういう話だった。彼女はまるで泣いている子
供をなだめるみたいに、同じ説明を母親に向かって何度も丁寧に繰り返した。
その間私は、これから起こることになるいくつかの面倒な事態について考えていた。憂鬱が増していく私
とは逆に、母親は元副担任の話で次第に元気を取り戻していくようだった。気楽なものだ、と思ったが、
母親にとってはそれが一番いいことなのかもしれなかった。
書類は私が学校の方に提出いたしますから、と元副担任は何度目かの同じ台詞を残して帰っていった。私
は少し拍子抜けしたような気持ちで彼女を見送った。彼女は純粋に、その目的のためだけに私の家に来た
らしい。この前の続きを少しなりとも企てているのかもしれない、と踏んだ私の読みは外れていたようだ。
彼女を見送った後の玄関先で、私と母親はしばらく放心したように立ちすくんでいた。もっとも、私と母親
と、立ちすくんでいた理由は大きく違っていたわけだが。しばらくして母親が言った。先生がここまでして
くれているんだから、今度はちゃんと行くよね? 私は答えることができなかった。
私達はのそのそと玄関先から引き揚げた。母親は居間に残された三つの湯飲みを片付けにいき、私はま
っすぐ自分の部屋に戻った。そしてまたベッドに横たわり、先程の出来事を反芻し始めた。考慮すべきこと
が多過ぎて、全体を正確に把握することはできなかったが、いくつかはっきりしていることがあった。私は本
当に「復学に成功した」ということ。元副担任は忠実に自分の約束を守った、ということだ。
そう、彼女は約束を守ったのだ。復学に関わる手続きだけに集中して、この前の続きをしようとはしなかっ
た。母親もいたからだろうか? いや、そんなことはまた強引に私を連れ出せば済む話だ。私の内部を探
ろうとするのを諦めた? だったら何故「復学」だけを成就させに来たのだ?
つまりは、私をよく知ろうとして内部から改革を施すことよりも、学校という場に私を引き戻すことを優先
したのだろう。もしかしたら、彼女は私に恩を着せることによって、次に行くことになる学校に私をきちん
と通わせようとしたのだろうか? だから私のために奔走した? 結果的に退学者を出してしまった自
分の非力の後始末のために? これから毎朝の寝覚めを少しでもましにするために?
……彼女が完全に、己の保身のために動いたということが明確なら、私もこんなに負荷を感じることはな
かったはずだった。彼女は違った。曖昧だったが、少なくとも純粋に保身を目標としているようには私には
見えなかった。だから尚更、それが私を苦しめたのだ。
本当のところ、元副担任が何を考えているのか、私には掴めなかった。彼女のことは彼女にしか分からな
いのだ。いや、彼女だって自分でも正確に把握できているとは言えないのかもしれない。まさに私がそうで
あるように。もし私が彼女だったとしても、多分一連の行動を上手に説明できはしないだろう。
元々人間の行動など、最初から大した理由や動機が用意されているわけでもないのだ。ぱっと見は分か
りやすい、しかしそれでいて言葉では説明し辛いような漠然とした意思のようなもの、確かにそういうもの
の類は存在するのかもしれない。統一性、一貫性のある一連の行動の支柱のようなものだが、それらは
その行動を正確に表す理由や動機にはなり得ないのだ。
何故ここまでするのですか? 私が彼女にこう質問したら、彼女は何と答えただろう? 何でって……。彼
女は思いがけない質問に言葉を詰まらせる。何を馬鹿なことを聞いているんだ、と彼女は思うだろうか?
あるいは、下らない質問をするな、などとと怒ってみせるだろうか?
もしくは、安直で安全でありがちで平凡な答えを返すのかもしれない。私はあなたの元副担任だから、と。
そんな返答が返ってきたなら、私は露骨に怪訝な顔をしてみせる。それが一体何なのだ? それがわざ
わざ次の学校の世話をしてやらなければならないほどの理由になるのか? と。
彼女はそれには答えられはしない。例え教師という職業に対して自分の持っている崇高なる理想を掲げて
みせたって無駄なことだ。私にはそんなものの価値など分からない。本当のことを言えばいいのに、といさ
さか気色ばんで思うだろう。自分の教師としての資質が問われるとか、何らかの査定に悪影響だとか、もっ
と現実的で生々しい理由を挙げればいいではないか。
その方がずっと分かりやすかったし、私もあれこれ考えなくて済んだのだ。恐らく彼女の本懐にも生々しい
ものもあったのだろうが、理想とか使命感とか、そんなものに促されて意図的に理由や動機をずらしたのだ。
しかも自分ではそのことを考えないようにしている、というよりむしろ意図的に無視しているのだ。
仮に、本当に彼女がそうだったならば、私はどれほど気が楽になっただろう? そうであったとするならば、
私にも正当そうに見える理由ができる。彼女の評価を失墜させた償いとして、今後の三年間をきちんと修
める、という、薄っぺらくも一応それらしく見える理由が。
いや。それは違う。モラーゼは言った。まず一番最初にあなたがしなくてはならないことは、ここの部屋の
中にいる蚊を、一匹残らず消滅させることだ。もう11月だというのにこの蚊のしぶとさはなんであろう。
季節を無視して這い上がるこの図々しさ。これこそがモーゼに与えし試練となる。
多分そういう題目なら、私はそれほど苦もなく達成することができると思った。容易に想像できる。それが私
の意思が介入する余地のない、単なる決定事項の繰り返しに過ぎないのならば。要は、また機械のように
三年間反復すればいいだけの話だ。正当そうな理由が与えられさえすれば、それはそんなに難しい問題で
もなさそうだったし、そういった必要に駆られれば、私はまた機械のように振舞うこともできる気がした。
だが、中途半端な自由意志だけ与えられたような格好で選ばされた選択を、私はこの後どうやってクリアし
ていけばいいというのだろう。彼女達は私に選ばせた。少なくとも、私自身が選んだようなかたちで終わらせ
ようとした。自分達の本意を表に出すことなく、私が突飛な行動に出るのを状況的に封じておきながら。
……いや。元々私が何も主張しなかったことに、最大の非があるということは分かっていた。彼女達は彼女
達のルールに基づいて行動し、私は私の脆弱な価値観によって行動した。私と彼女達とは、多分目的も存
在意義も違う者同士なのだろう。行動理由の違う人間同士が共存を図るのなら、互いの意思を伝え合って
妥協点を探す努力をするべきだったのだ、多分。
もう私の目の前に用意された道が変わることはなかった。例えどんなに過去を悔いて、どんなにかつての
最良の選択肢に今更気付いてみたとしても、今からわが身に降りかかってくるだろう幾多の災難を逃れる
ことはできそうもなかった。今まで以上に退屈な日々が続くだろうか? いや、退屈くらいで済めばいいの
だが。
きっと想像もつかないような、厄介で面倒くさい事象が私を待ち構えているのだろう。私は途方に暮れる。
どうしたらいいのだ? 次の学校生活を無事にやり過ごす方法は? もし次もまた途中放棄したら、彼
女達は私にもう一度同じことをやり直させようとするのだろうか?
自分の意思で選ばせたように繕うよりも、いっそ頭ごなしに命令を下してくれた方が楽だった。お前は一
人では何も判断できないから、私達が最適な道を示してやる。反抗を企てることも、疑念を抱くこともせ
ず、従順にただ従えばいい。それが私達のためでもあり、お前自身のためでもあるのだ、と。
いずれにしても、と私は思う。その面倒な事象というのはすでに始まっているのだろう。こうやって私が遠
くない未来のことについて、いろいろと考えを巡らせているということ事態がもう、逃れられない事象に足
を踏み入れてしまっている証であるような気がする。
今日の結果に彼女達はひとまず満足したのかもしれない。しかし、四、五日後には、あるいは明後日、も
しかしたら明日には、また私のところに出向いて改めて檄を飛ばすのかもしれない。編入が完了するまで、
ともすれば完了した後も、彼女達は定期的に私に向かっての叱咤を続けるのかもしれない。
再度また道を見失ったりしたら、それこそ今回以上の剣幕で怒鳴ったり、大袈裟になだめてみたり、神妙
な顔で諭してみたり、気がふれたかのように号泣したりするのかもしれない。そんなとき私は一体どうした
らいいのだ? 想像するだけで気が滅入る。
……私の懸念をよそに、実際には以後三日間の静かな日々が訪れた。ただ単純に静かだったというだけ
であって、決して平穏や安らぎというようなものが私を包んでくれていたわけではなかった。とにかくあの
日から四日後の朝に、元副担任はまた私の家を訪ねてきたのだ。
いつものように私と母親が並んで座り、彼女が対面に座った。おもむろに彼女はまた何枚かの書類を私達
の前に置いた。一枚目の右上の隅に、見覚えのある学校の名前が印刷されていた。そこでようやく私にも
分かったのだ。すでに決定された私の受け入れ先が、中学三年の高校受験のときに、あまり同級生達にも
人気のなかった私立高校だったということが。
元副担任は私達に向かって、編入の手続きが全部終わったということを話し始めた。これでもう一度お子
さんは学業に復帰することができますよ、そんな彼女自身の気持ちがそこかしこに汲み取れるような、そ
れとも厄介な問題がようやく片付いたからなのだろうか、つまり、結果を報告している元副担任は、何とな
く嬉しそうだった。
母親もそうだった。彼女が尽力してくれていることは知りながらも、やはり決定的な結果を知るまでは不安
は拭えなかったらしい。元副担任が言葉を繋ぎ、繋ぐ度に確定し安定していく未来の約束事に正比例する
かのように、母親の心配は払拭されていったみたいだった。
私は元副担任の言葉の半分以上を右から左に流しながら、彼女と母親の気持ちについて考えていた。
学業に戻ることが決められただけだというのに、どうしてそれだけで全てがうまくいったような錯覚を覚え
られるのだろう? 私が再び道から転げ落ちるという可能性を考えられないのだろうか? 決定事項の
その後ろに控えている現実を、何故彼女達は見ようとしないのだろう?
彼女達の無邪気な期待は、現状からの脱却を約束し、綺麗な夢を見せ、彼女達自身を勇気付け、その
つけを求めるために私の両肩に重く圧し掛かった。ああ、私にどうしろというのだ。私は約束できない。責
任も持てない。もし何もなければうまくいくこともあるかもしれないが、私はそれを確約することはできない。
元副担任があらかた自分の説明を終えると、今度は母親が彼女に向かって質問を繰り返し始めた。始
業の時間だとか、昼食のシステムだとか、学費だとか、卒業後の進学率だとか、要するに極めて事務
的なことだった。最初に取り出した資料に全て書いてあったにも関わらず、元副担任は逐一該当のペ
ージを開いて母親に見せ、丁寧にその質問に答えていった。
もはや母親の不安は完全に払拭されたようだった。そんなことが本来の問題ではないのに、と私は居
間に置いてある何も映っていないテレビの画面を見ながら思った。今から無邪気に未来の明るい展望
など持っていては、次に破局を迎えたときには計り知れない程のダメージを受けることになるだろうに。
いちいち丁重に答えてやる彼女も彼女だ。完了したことだけを告げて、資料を突き付けて帰れば済む話
なのに、何故ここまで良心的なアフターサービスを徹底しようとするのか。私には分からない。そして彼
女にも分かっていない。彼女の行いが、私に少なからず苦痛を与えていることが。
どうして私は彼女を頼ろうとしたのだろう? 他に適当な人物がいなかった、それは確かにその通りだ。
どうしてその彼女を頼って復学などを真面目に考えたりしたのだろう? ……真面目に? 果たして私
は真面目に復学を考えたのか? あれはただの一時的な錯乱だったのだろうか?
そうかもしれない。復学すれば必然的に要求されるものを、私はわざと考えないようにしていた。今はと
にかく再び道を確保する方が先決だ、難しいことは確保した後に考えればいい。そうやってそのときの
私は、今現在の私に対して弁済の見込みのない負債を残したのだろう。
ふと気が付くと、母親の質問攻めは終わっていた。我に返った私の視界の隅で、元副担任が居住まいを
正した。然るべき間の後、最初に言うべきことだったのですが、と彼女は言う。私は彼女を見た。母親も思
わず資料から彼女に目をやり、凝視した。母親と私の前で、彼女は深々と頭を下げ、そして言った。申し
訳ありませんでした……。
今更言うことではないのかも知れませんが、私の力が至らなかったばかりに、お子さんの将来に関わる
ようなことになってしまいました。本当に申し訳なく思っています。こんなことで償い切れるとは思ってい
ません。謝って許してもらえるとも考えていません。でも、私はただ、本当に、少しでも……。本当に申し
訳ありませんでした……。母親と私は呆気にとられて彼女を注視したままだった。
母親はおろおろしながら慌てて彼女を取り成し始めた。先生が悪いんじゃありませんよ、とか、先生は
十分してくださったじゃないですか、とか、そういう内容を動揺した口調でまくし立てた。母親がうろたえ
たのと同じように、彼女が急に謝罪を始めたことに私も内心驚いていた。
母親が取り繕うように言う全ての言葉は、彼女の一方的な罪悪感を晴らすことはできなかった。まるで
子供をなだめすかすような母親の声を遮るように、元副担任はふと顔を上げて私達を見た。しかし、と
彼女は言った。彼女が目に涙を沢山溜めているのを見て母親は更にぎょっとし、私は慌てて目を逸ら
した。
私は嫌な気分になった。彼女は、しかし、の後を次げずに黙っていた。母親は泣きそうな顔をしていた。
誰も喋れぬまま、部屋の空気が重苦しさを増していった。元副担任はハンカチを取り出し、それで目頭
を押さえた。やり方が汚い、私は重苦しさに抗うようにして強くそう思った。
どんなに軽い綿毛でも、長い時間をかけていつかは地面へ落ちてしまう。その純然たる事実のように、
私の気持ちは確実に暗い方向へと落ちていった。頭の中でどれだけ彼女のことや、彼女のやり口を口
汚く罵ってみても無駄だった。それでも私は、彼女を罵られずにはいられなかったのだ。
私は顔をしかめてみせただろうか? 彼女のように目尻に涙を浮かべてみせただろうか? 精一杯に彼
女を睨み付けてやれただろうか? いや、多分私は無力だった。こんな行動に出る彼女に対して、一体
私がどれほどのささやかな反撃を企てることができたというのだろう?
ただ落ちていく以外になす術のない私に向かって、元副担任は尚も止めを刺すかのように言った。全て
私の責任です。本当に申し訳ありませんでした。そしてまた、深々と頭を下げた。母親でさえ、もう彼女
に向かって安直な慰めなどかけられずに固まっていたのだった。
自分の手を煩わせた元生徒に対してする腹いせとしては、少々念入り過ぎるようだ。私個人に対してや
るのならまだよかった。私も甘んじて受け入れたかもしれない。しかし母親まで巻き込むというのはどう
いうつもりなのだろう? そういうことをするタイプには見えなかったのだが……。
もしくは、本当に責任を感じている、のだろうか。しかし、彼女は「全て私の責任です」と言った。誰がどう
見ても、一切の責任が元副担任の元にあるとは考えないだろう。それなのに、くどいほどに自分の不徳
を全面的に主張するのは一体どういう訳なのだ。
場は硬直したままだった。その中で、元副担任は静かに顔を上げた。そしてテーブルの上の資料の束に
じっと目を注いでいた。私と母親は、やはり何も言えなかった。母親はただ混乱していただけだったのか
もしれないが、私は懐疑的な目で様子を伺っていたのだ。もとより、初めから何も喋るつもりはなかった
のだが。
それからしばらくして、元副担任は真っ直ぐ母親を見ながら言った。お子さんが新しい学校へ通い出さ
れた後も、力になりたいと思っています。お子さんやお母さんが、私を必要とされる限りは、いつまでだ
って協力を惜しまないつもりです。
これからのことで何か分からないことや、心配なことがあったら、いつでも相談して下さい。……これが
私の連絡先です。と、言って彼女はバッグの中から名刺のようなものを取り出して母親に渡した。母親
はおずおずと受け取り、無意識にその紙切れと彼女の顔とを見比べた。
彼女はまた書類に目を落とした。彼女の言いたかったことは、恐らくそれで終わりだった。またもや継続
された沈黙の空気の中で、私達は皆巧みに視線を逸らしあっていた。やがて自らが引き起こした沈黙を
無理矢理払い退けるようにして彼女は立ち上がり、それでは、と言った。
母親が慌てて立ち上がりかけた。その母親に向かって元副担任は、分からないことや心配なことはい
つでも相談してください、ともう一度言った。母親は弾かれるようにして立ち上がった。そして彼女に頭を
下げ、震える声でお礼を言った。本当にここまでして下さって……。母親は泣いていたのだろうか?
先に元副担任が出て、母親がその後に続き、私は母親に引っ張られて玄関先に進んだ。元副担任は
靴を履いて私達に向き直る。それでは失礼します。母親がそれに応えてまた頭を下げる。本当にありが
とうございます。彼女は振り返って歩き出す直前に私を見据え、分かるか分からないかくらいに小さく頷
いて見せた。そして私がそれに反応してみせる前に、そのまますぐに玄関から出ていったのだ。
母親と私は長いこと玄関先に佇んでいた。最初に母親が動き、私はその後に続いた。母親はさっきまで私
達がいた居間に戻り、湯飲みの片付けを始めた。私は居間の入り口に立ってそれを眺めていた。しかしい
つまで経っても母親が一向に何も言おうとしないので、私は諦めて自分の部屋に戻った。
ベッドに倒れ込み、今しがたの出来事を回想してみる。腑に落ちないところが何箇所もあった。それらに
対して私が見聞きした範囲内での整合性を強引につけるとするならば、私の思考はどうしてもネガティ
ブな方向に向かってしまうのだ。つまり、これは分かり難い復讐だっただけなのではないか、と。
今回の彼女は完全に、私の内側を探ろうとする意図がなかった。最後にうっすらと頷いてみせたのだっ
て、誰かが明確に見間違いなのだと断言してしまえば、私もそれに追従するしかなかっただろう。それ
くらい曖昧なものだった。彼女は何故、最後まで私に向かって何も言わなかったのだろうか。
諦めていた。見捨てていた。復学させる、という約束を果たすことだけが彼女の目的だった。可能性は
いくらでもあった。がしかし、彼女が復讐のみで行動していたわけではない、という可能性も僅かなが
ら残っていた。彼女が私に向かって明言しなかったからこそ、どちらとも取れない、というよりどちらに
も取れる曖昧さの中で、私は落ち着くことができないでいたのだ。
彼女が報復を企てて来ていた場合、何も言わずに僅かながら頷いてみせたのは、恐らく彼女なりの最後
の一撃だったのだ。何を狙って放ったのかは分からないが、効果があったのは確かだった。反して彼女
が復讐など考えてもいなかった場合、それは、そうしてみせた理由は……。一体何なのだろう?
寝返りを打った。それから思う。起こったことを省みても意味がないのだ、と。彼女の心は決まっていた。
私の家に来る前から、事実を伝え、謝罪をし、それから私に向かって小さく頷いてみせる、そんな計画を
最初から決めていたのだ。そしてその通りにやり遂げた。彼女の一連の行動を分析してみるのはもう無
駄なことだ。何故なら彼女は、すでにそれをやり遂げてしまっているのだから。
彼女の行動理由が報復だとしても、純粋な善意によるものだったとしても、彼女の真意はそのどちらに
傾いていたのか、ということを私が考えあぐねる、それ自体が無意味だったのだ。だってそんなことをし
て何になる? 彼女の真意如何で、私の気が楽になるとでもいうのか?
彼女は思い付く限りの口汚い言葉で思い切り私を罵るか、もしくは気持ち悪いくらいの優しい言葉で無理
矢理に私を擁護するべきだったと思う。彼女の取った行動がそんな両極端なものだったならば、私にもそ
れを利用することだってできたかもしれないのだ。
いや、そうだろうか? 彼女の主張が両極端でも、今回なされたように中途半端であったとしても、結局私
の抱える問題を解決するための足掛かりにはならなかったのではないのか? ……ちょっと待て、私の
抱える問題? 私の抱える問題とは、一体何のことだったか?
思い出すのに時間がかかった。思い出すというよりもむしろ、今まで「私の抱える問題」と銘打っただけ
で、深く考えようとはしなかったことを改めて省みることになった、と言うべきかも知れない。つまるところ、
それは妙に神格化され、不可侵扱いされたようなものであり、私自身もその中身を把握できてはいなか
ったのだった。
漠然と「問題」と呼んでいただけだ。自分の成すことのことごとくが上手くいかない原因を、正体の分から
ないそれに全部押し付けていただけに過ぎなかったのか。そうかもしれなかった。少なくとも、そうではな
い、と言い切ってしまうことができなかった。この期に及んで何ということだ……。
「私の抱える問題」というものが頭の中に存在するようになってから、私はわざと見込みのないことを試み
て失敗を繰り返すように、自分を仕向けていたのではないだろうか? 復学への一時的な情熱。図書館。
元副担任を訪ねたこと……。一番最初は何だったろう? 元クラスメイトの長い話を黙ったままただ聞い
たこと? Sの葬儀をボイコットしたこと? 同窓会での一幕? まだ遡るのか?
もうそれ以前のことは思い出せない。とにかく、随分前からそんな兆候があったことは確かだ。随分前か
ら私がこうなることは決められていたのかもしれない。しかし、と私は強く否定する。しかし、それが表立
って動き始めた直接の原因は、決してSの死によるものではないのだ、と。
Sの死。そうだ。直接的な原因ではない。むしろ直接的な原因だと認めることができない、と言うべきか。
認めたくない。認めるわけにはいかない。だから私とSは別たれた。お互いの真意を知ることなく、恨みと
も呪いともつかないような感情だけを共有したまま、永久に離れ離れになった。
だから? いや違う、逆だ。そんな風に分かれてしまったからこそ、認めるわけにはいかないのだ。こと
ごとく繰り返された私の迷走、その原因をSに結び付けてしまうわけにはいかなかったのだ。……そこで
私は我に返る。Sのことを考えない、私はそう誓ったはずではなかったのか?
Sがこのことを知ったら得意気に勝ち誇ってみせるだろうか? 自分で立てた誓いも守れない私を嘲る
だろうか? どっちでも好きなようにしたらいい。Sに罵られるのだけは一番腹立たしいことだったが、今
の私はたかが死人からの嘲笑も、甘んじて受けなければならないのだ。
誓いひとつも守れない。気紛れで状況をかき乱しておいて、都合が悪くなると「私の問題」の後ろに隠
れる。Sでなくとも、誰だってそんな私を軽蔑するだろう。でも誰も何も言わなかった。私の中のSの残
像が、唯一侮蔑の視線を投げつけてくる存在だった。
思えば、そんな状況の中でSの記憶だけが私を苛むのは、多分私がそう望んだからだ。生前のS、忠告
のクラスメイト、元副担任、そして私の母親。彼女達は何も言わなかった。私も何も伝えようとはしない
まま、彼女達に難題を要求した。何も伝えなかったのだ。もちろん誰にも分かってもらえなかった。
そして私は、死んでしまったSにそういった反動を負わせるというか、押し付けるというか、とにかくSの
残像に私を罵らせることによって、なんとかバランスを保とうとしたのだ、多分。そうかもしれない。「私
の抱える問題」というのは、こういうことだったのかもしれない。
ふと気が付くと、部屋中が真っ暗になっていた。私は上半身を起こして溜息をついた。そして私の部屋
の中に存在する暗闇を眺めた。今まで眠っていたみたいに頭がぼうっとしていたが、眠っていなかった
のは知っていた。ふと突拍子もない考えが浮かんだ。Sの家だった場所にもう一度行ってみようか。
しかしすぐに打ち消した。あそこにはもう何もないのだ。枯草と不器用に切り取られたコンクリート痕以
外、何もない。行ってどうなるものではない。もうSもそこにはいない。Sに会って何かをするつもりなら、
それに相応しい場所が他にあるのだ。私は思い出した。元副担任も言っていたのだ。お友達のお墓を
訪ねなさい、と。
とはいえ、私はSの墓がどこにあるのかを知らない。仮に訪ねたとして、何がどうなるのだ、といういつ
ものマイナス思考が作用して、敢えてSの墓を訪ねるという意義を見失わせかけた。少なくとも、Sの家
の跡地を訪ねるよりは、多分ずっと建設的なのだろうが。
訪ねなさい、と元副担任は確かに言った。けれど、訪ねてどうすればいいのかまでは言わなかった。訪ね
てどうしたらいいのだろう? Sの墓前で私に何をさせたかったのだろう? そのくらい自分で考えろ、と?
それとも墓の前に立ったら、私のやるべきことが自ずと知らされるのだろうか?
馬鹿馬鹿しいことだ。Sの墓の前で、自然を卓越した神秘的な出来事とか、私の内部から劇的な変化が
生じるとか、そんな迷信染みたようなことなど何も起こるわけがない。それどころか、一般的に繰り広げ
られている光景なのか知らないが、まるであたかも生前の墓の主に向かって話しかけるように、墓石に
対して一方的に言葉をかけることすら、私は躊躇うだろう。
誰が言葉を発したところで、Sはもう言葉を受け取り考慮するための物理的器官を失ってしまっていた。
墓の中にあるのは、小さな壷に収められた彼女の骨片だけであり、空気の振動がその骨まで伝わった
としても、その振動の中に謝罪の気持ちや、和解を求める意味が含まれていたとしても、実際にはもう
どうにもならないのだった。
翌朝、私は母親に起こされた。そのまま朝食を摂るように促されて食卓に着いた。すでに食べ終えてい
た父親が、お茶を啜りながら新聞を読んでいた。私の前に朝食を並べると、母親は私の向かい側の椅
子に腰掛けて私に言った。明日、新しい学校に一緒に行くから。
少し考え込んで、すぐにその意味が分かった。母親はじっと私を見ながら、いい? と、念を押すよう
に言う。私が微かに小さく頷いてみせても席を立とうとはせず、母親は私の前に座ったまま私が朝食
を食べるところをじっと眺めていた。元来あまり朝食を摂らない習慣と母親の仔細な観察のせいで、
私は食が進まなかった。
やがて父親が出掛け、母親も仕事に出ていった。残された私は何もすることがなく、自室に戻って机に
向かい、これからのことをぼんやりと考えていた。新しい環境に対して何かしら期待を抱いていたわけ
ではなくて、これから多々起こることになるだろうただただ面倒くさい事例について思いを巡らし、憂鬱
な気分に浸っていっただけだ。
しかしそれもそれほど長くは続かないだろう、と私は、むしろそうであって欲しい、というような気持ちで
考える。多分、私が新しい環境に順応するために生じる面倒なことは、最低3年間で終わるのだ。順応
できれば途中の荷物が少し軽くなり、できなければまた規定の年数だけ耐えなければならない。再び
途中放棄しなければの話だが。
憂鬱の相手をしているといつのまにか夕方になっていた。私はまた無駄に時間を過ごしてしまったらしい。
どこからともなく物音がして、母親が帰ってきたことが分かった。私は母親と顔を合わせたくなかった。明
日、新しい学校に一緒に行かなければならないことはもう仕方がない。だが、それまで母親に会いたくは
なかったのだ。
母親が夕飯だと呼びに来ても私は部屋を出なかった。部屋の扉越しに声をかけられたのは一度だけで、
母親も私の気持ちを察しているのか、あるいは彼女も私と顔を合わせ辛いのか、それ以上執拗に呼びか
けようとはしなかった。部屋が完全に暗闇に覆われてからしばらくして、私はまたベッドに横になった。
明日のことを想像した。母親と連れ立って新しい学校へ行き、私の新しい担任だかに初めて会う。母
親達がぎこちなく語らうその横で、私はやはり何も喋らないだろう。新しい担任は私に話題を振るかも
しれない。私は頑なに拒み、母親が場を取り繕おうとする。そして、厄介なものを抱えてしまった、と彼
なり彼女なりは思うのだ。
そうなったら仕方がない。また私にあの、機械的にものごとを処理していける感覚が戻ってきてくれ
るのを祈るしかない。三年の間それが持ちさえすれば、とりあえずの外的な厄介ごとはなくなるだろ
う。いやしかし、そのあとはどうなる? また新しい面倒なことがやってくるだけではないのか?
闇の中で私は、再び私の抱えた憂鬱さと向き合い、答えの出ない設問を繰り返す。そしてふと思う。結
局は、難題を今抱えていたとしても、それを上手く解決できたとしても、私達はまたすぐ新しい困難に直
面するのだ。そうだとするのなら、私達のこの人生というのは、結局そんな小さな困難を繰り返し繰り返
し解決、また背負い、処理していく、それに過ぎないのではないのか?
問題が大きくなり過ぎて、完全に私の手の及ぶところではなくなってしまった。従って私はまたそれ
を有耶無耶なところに置き去りにして、頭の中から追い出そうとする。しかし、比較的近い将来にま
たそれは現れて私を捕らえるだろう。これまでもそうだったように。
902 :
名無しさん?:2007/01/01(月) 00:31:16 ID:N+k5buDc
私は母親に起こされる前からすでに起きていた。眠らずに悶々と考えていたのか、浅いまどろみの
中で幻のような夢を垣間見ていたのか、正確な区別もつけようがなかったし、多分どっちでもいいこ
とだった。私は母親の呼びかけに応じて部屋から出て、顔を洗って居間に行き、並べられた朝食の
半分に満たない量を無理矢理胃に詰め込んだ。
私が朝食を摂っている間、母親は家の中をあちこち動き回って身支度を整えていた。私が諦めて食べ
残しの乗った食器を流し台のところまで運んでいくのと、身支度を整えた母親が次の指示を与えるため
に私の背中に声をかけたのとがほとんど同時だった。制服を着て行きなさい、そう母親は言った。
ああそうだった、と私は思う。新しい学校の制服についてはまだ何も聞かされていなかった。だからと
いって私服のまま行くのもおかしな話だった。私は素直に指示に従い、部屋に戻って以前通っていた
学校の制服を身に着けた。
居間に戻るとすでに母親は玄関先におり、靴箱から外出用の靴を取り出して手入れをしていた。も
う出かけるということらしかった。母親は特に何も言うわけでもなく、しかし私もその無言の圧力に逆
らえるはずもなく、というか、最初から逆らおうなどとは思ってもいなかったのだが、とにかく私も玄
関先に進み、急いで靴を履いたのだ。
私が立ち上がると、母親は玄関の扉を開けて外に出た。私もその後に続く。空は快晴で、柔らかな
日の光があたりを心地よく照らしていた。もう極端に寒くない外気をその身に受け、私は季節が移り
変わりつつあることに気がついた。玄関に鍵をかけて、私達は歩き出した。
母親は家の前の道を、Sの家の跡地とは反対方向に進んでいった。私は内心ほっとする。もし
新しい通学路の道程にその跡地が定められていたならば、これから毎日その前を通らなけれ
ばならなくなる。いや、そんなことはともかく、今、こうして母親と一緒にそこを通りたくはなかっ
たのだ。
しばらく歩き、程なくしてバス停に辿り着く。ここからバスに乗るらしい。私と母親はそこに立ち止ま
り、会話も交わすことなくそのままいつ来るか分からないバスを待つ。もちろん時刻表がどこかに
掲示されていたはずだったが、母親も私もそれを見ようとはしなかった。
バスはすぐにやってきた。私と母親が立ち止まり、それぞれの方向に視線を定めて待つ姿勢を固
めようとしていた矢先に、滑り込むようにして走ってきて、あっさりと所定の位置で停車し、音を立て
て乗降口を開いた。母親がまず動いて乗り込み、私はその後に続いた。
バスの中の乗客は少なかった。私と母親は乗降口の近くの座席に並んで座り、それぞれ思い思い
の場所を、母親は窓の外の風景を、私は車内に掲げられたどこかの動物病院の広告を、ぼんやり
と眺めた。乗降口のドアが閉まり、バスが走り出す。
バスはいくつかの停留所に停車し、少ない乗客の何人かが降りていった。いずれも何を生業として
いるのか、見ただけではよく分からない人達ばかりだった。彼らからしてみれば、私達の方こそよく
分からない親子連れだったのかもしれない。停車した各々の停留所から、このバスに新しく乗って
くる客は一人もいなかった。
やがて車内アナウンスでそのバス停の名前が告げられる。○○高校前。初めての私でも、次で
降りるのだということがよく分かった。多分通学することになっても、眠りこけたりしていない限り
は、うっかり乗り過ごしてしまう心配もなさそうだった。
バスの窓から校舎の一部が見えた。建物や木々の陰ですぐに見えなくなり、バスが減速し始めると
遮蔽物がなくなって再び見えるようになった。バスが止まったところ、つまりバス停は、ご丁寧にも正
門のすぐそばに設けてあったのだ。
数人の所在不明の乗客と共にバスは去っていった。少しの間私達は佇んだ。私は校舎の全景を眺
めた。これが私の学ぶ新しい学校なのだ、と無理に感情を刺激してみようとするも、私の心は何の
起伏も見せなかった。出てきたのは、ついたかつかなかったか分からないくらいの弱い溜息だけだ
った。
母親が先に歩き出した。私もその後を追った。バスから降りた後、私達がしばし立ち止まってみた
のは、もしかするとそこから見える風景を、母親が私に眺めさせたかったのかもしれない。そして
決心なり諦めなりを促そうと? 母親はそんな気の使い方をする人間だっただろうか? 例えそう
だったとしてもそれは失敗だった。私は何も感じなかったのだから。
校舎に向かって歩き出す。左右を生垣で縁取られた、綺麗で真っ直ぐな道だった。やがて母親の
手が玄関の扉を開く。入ってすぐのところに事務室と受付窓口のようなものがあった。母親はその
窓口に近寄っていって、事務員の女性に話しかけた。快活な口調で事務員が言葉を返す。だが、
母親の声は小さくて、何を言っているのか私の立っているところからは聞こえなかった。
しばらくお待ちください、事務員はそう言って席を立ち、どこかへ消えた。そのすぐ後に校内放送が
流れる。○○先生、お客様です。事務室前までお越しください。そんな文句が二度流されるのを、
私は何だか落ち着かない気持ちで聞いていた。
age
事務員は元の場所まで戻ってきて、すぐに参ると思いますので、と母親に向かって言った。私達が
再び待つ姿勢に入ろうとしたそのとき、事務室の隣の扉が開いて一人の女性が姿を現した。何の弾
みか、運悪く一瞬だけ彼女と目がしっかり合ってしまい、私はうろたえて急いで視線を外したのだ。
どうもこんにちは、と彼女は私達に言った。お呼び立てして申し訳ありません。頭を下げたその人
につられて母親も慌てて頭を下げた。ここでは何ですから……、と彼女は私達を促す。その光景
を母親の三歩ほど後ろで眺めていた私に向かって、彼女は歩きかけた足を止めて振り返り、ゆっ
くり微笑みを作ってみせた。私はおずおずと彼女達の後にならう。
それは極一般的解釈をすれば、緊張しているように見える私を安心させようという心遣いなのだろ
うが、そのときの私に対してはあまり効果を成さなかった。というかむしろこの場合、知らない場所
に連れて来られて、知らない人間から微笑みを受けたからといって、すっかり警戒心を解いてしま
うことの方が、一般的にもいろいろと問題なのではないのか。
彼女は、かつての私の元副担任よりも十以上は歳をとっているようだった。歩く後姿にもどこか
余裕が伺えるような気がする。まるでいかにも、こういったことはもう何度も経験してきたのだ、
と言わんばかりの落ち着き様に見えた。……私は勘ぐり過ぎるのだろうか?
私達は、彼女の出てきたドアの前を通り過ぎ、しばらく歩いて「進路指導室」というプレートの取り付
けられたドアの奥に入った。部屋の中央には折りたたみテーブルが二つ平行に並べられていて、
そこに折りたたみ椅子が四脚と、何かの資料を収めた棚が二面の壁に沿って据えられていた。
こういうところはどこもそんなに変わらないのだな、と私は思った。彼女は私達に席に座るように手
で合図して、窓に近い棚から数編の書類を取り出してきた。そしてそれを手にしたまま、自らも私達
の向かい側の折りたたみ椅子に腰掛けた。
ここまで結構時間がかかったんじゃありませんか? と彼女は言った。はあ、そうですね、三十分
くらいでしょうか? 母親が応える。実に当たり障りのないやり取りだった。私はそれに加わるつも
りもなく、意図的に彼女から視線を逸らしたまま黙っていた。
所要時間から天気気候の話に移り、そこで世間話は一応の結びを迎えた。改めまして、と彼女は
居住まいを正す。思わず母親もそれにつられる。私、今回娘さんの担任をすることになりました、
○○と申します。一年三組の受け持ちで、一、二年生の国語を担当しています。
ふと疑問が頭に浮かんで、私は視線だけを動かして新しい担任の方を一瞬見た。彼女は私を見つ
めながら喋っていたのだ。ここに私を連れてきてこの担任を呼び出したくらいだから、母親は彼女
が今喋ったことなど、もうすでに把握しているのだろう。つまりこれは、私だけに向けられた彼女の
自己紹介だったのだ。
頭が熱くなった。応えなければならないのか? 何を言えばいい? 今、新しい副担任が言ったよう
な、簡単な経歴を言えばいいのだろうか? 出席日数が足りなくて、留年よりも退学を選び、いや、
選ばされ? とにかくそういうわけで、この学校で一年生からやり直すことになりました。……馬鹿
げている。
これから起こることに対してどれだけ熟考を重ねたとしても、ものごとというのは流れるようにしか流
れないのだ。こうなるかもしれない、ああなるかもしれない、と事前に想定してその対策を万全に準
備したとしても、全く違う方向に向かって流れてしまうことも珍しくない。というより私の場合、そうやっ
てことごとく空回りし続けてきたわけなのだが。
新しい担任は、私に自己紹介を迫らなかった。きっと元副担任やら、母親やらが私についての情報
を彼女に逐一伝えたのだろう。お前のことは全部知っている、今さら聞くまでもない。いや、実際はそ
んな雰囲気ではなかったのだが、私にはそれがありがたくもあり、期待外れのような気もしたのだっ
た。
初めに申し上げておきたいのですが、と新しい担任は言った。我が校には毎年四、五人ほど、娘さん
のようにして転校してこられる生徒さんがいらっしゃいます。特にそういった生徒さん達を積極的に受
け入れている、というわけではないのですが。
つまるところ、我が校は比較的そういったケースに慣れているといいますか、私自身ももう何人か
のそんな生徒さんを受け持ってきたことがありまして、……何が言いたいのかといいますと、つま
り、新しい学校に通うようになったことで、生徒さんも、親御さんも、幾分緊張されるわけです。しか
し、生徒さん親御さん共々、過度に気負われる必要はないのだ、ということなんです。
慣れている、ということを鼻にかけるわけではありません。また当校が、そういう生徒さんのために
特別なカリキュラムなどを用意しているわけでもありません。ただ私共は、生徒さん親御さんとの
共通の目的である高校卒業、そしてさらにそのあとの進路など、極一般的な事柄に対してきちん
と対応していきたいと、そう思い、励んでいるわけです。
つまり、慣れている、というのは、その極一般的な事柄を遂行するに当たって、他所の学校よりも
柔軟に対処できる可能性が大きい、ということでありまして、確かにそれだけでは無根拠だし、不
安を拭えないのも無理はないかもしれませんが……。ここで彼女は言葉を溜めた。
少なくとも私は、全力で娘さんの担任を務めさせていただくつもりです。いささか力んだ口調で彼
女はそう言った。そしてまた語気を溜めるためなのか、再びしばらく間を置いた。私と母親は黙っ
たまま様子を見守るしかできず、彼女の台詞が余韻を引きながら場に消えていくのを、その場の
全員で見送るかたちになってしまった。
完全に余韻が消えてしまう前に、続けて新しい担任が発言する。私も全力を尽くしますが、生徒さ
んにも親御さんにも力を出して頂きたい。教師である私がどれだけ心血を注いだとしても、生徒さ
ん親御さんの協力がなければ、私達の共通の目的は達成できないのですから。
母親も私も、彼女に対して何も言い返せなかった。母親がどうだったのかは知らないが、私はこの
一方的に成された彼女の宣言の真意を掴み取ろうと躍起になっていて、とても何か言葉を返すよう
な余裕は……、とはいっても、結局どっちにしても私が喋ることはなかったのかもしれないが。
今度は完全に余韻が消えてしまうのをじっくり待ち、新しい担任は口調を穏やかなものに変えて喋
り出す。これからの三年間、実りあるものにしていくために、私達でお互いに努力していきましょ
う。そして深々と頭を下げる。どうかよろしくお願いします。
とても強い力に動かされるような感じで、母親と私は彼女に倣って頭を下げた。こちらこそ、と言
いながら母親はそうしたのだが、私は精一杯の抵抗を試みて、会釈程度のお辞儀に留めてお
いたつもりだった。が、それで抵抗したことになったのかどうかは、私自身にも分からなかった。
新しい担任は私達よりも遅く顔を上げた。それから私と母親の背後に存在する空間にちらりと視線
を走らせて一瞬目を伏せ、すぐさま私と母親との間にある物凄く狭い空間を往復させ、ようやく迷走
した自分の眼差しを母親の顔の上に落ち着かせてから、それでは、と言った。
そして机の下から書類の束を二つ取り出し、一つを私の前に、もう一つを母親の前に置いた。生徒
さん用と、親御さん用に別々に作った資料です。学校生活において持たれる疑問などについて、一
通り書いてあります。どうぞ手に取ってご覧ください。
母親は言われるままにそれを取り上げて、一頁目から読み始めたが、私は手を触れず、机の上に
置かれたままのその資料に目を落とした。新しい担任は、私達にそれに眼を通す時間を与えたつ
もりなのか、じっと黙り込んでしまった。私はもう読む気も失せてしまって、とりあえず最初のペー
ジを熱心に眺めている振りをしていた。
「学校生活のしおり」とタイトルがつけられたその紙の束は、学校内で発行されるいわゆる「プリン
ト」そのままの、わら半紙にワープロで打った文章と、控えめで安直なイラストのカットが少数貼り
付けてあり、右上をホッチキスで留められただけの「資料」だった。
時おり母親が立てる紙をめくる音が聞こえるだけで、それ以外の音らしい音は何もなかった。新しい
担任は母親が読み終わるまでじっと待ち(もしかしたら私が机の上の資料に手を伸ばすことを待って
いたのかもしれないが)、私は彼女が次の行動に出るのを待った。
部屋の中はとても静かで、さらに暖房が適度に効いていて、状況が状況なら、平和でのどかな気
分にもなれそうだった。しかしながら、私を含めたここにいる三人が三人とも、目を瞑ってしまうこと
のできない様々な問題を内包していたのだ。
その様々な問題の中枢に存在するのが私だった。彼女達はいわば、問題の中枢たる私に否応なしに巻
き込まれてしまった犠牲者だった。いや、新しい担任。彼女はまだ拒絶することができたのではなかった
のか? ……また同じような思考が始まる予兆を感じて、私はうんざりした気分になる。
読んで頂いたように、当校における学校生活についての「物質的」な憂慮は解消されたと思いま
す。しかし、それだけで生徒さんも新しい環境に順応できるわけではない。親御さんも同様です。
「物質的」な面だけ満たされたとしても、「精神的」な分野が疎かなら、不安というものは拭えない
ものだと思います
私達がそれぞれ全力を尽くし、協力して共通の目的を目指すためには、お互いの「精神的」な部
分を補っていくべきです。私は生徒さんと親御さん、生徒さんと親御さんは私。互いに支え合い、
「精神的」な不安を私達の周りからなくしていく。そして目的に向かう。そうですね?
資料を読み終えた母親が顔を上げ、そして従順な子犬のようにして、彼女の方をじっと見つめた
後、彼女は母親の視線を受けていることを知りながらも、じっくりと間を置いてから上記の台詞
を熱っぽく喋った。母親は彼女のその言葉にいちいち相槌を打つようにして小さく頷いていたが、
私には彼女が何を言っているのかが分からなかった。
つまり私には、親御さんと娘さんの「精神的」な不安を取り除く義務があります。現時点で、何
か心配なことや、私に言っておきたいことなどありませんか? はっきり言葉にならないような
不安でも、私も一緒に考えて一緒に解決を目指したいと思いますので。
また部屋の中が静かになる。母親と私、沈黙の理由は全然違っていた。私はいつものことながら、
何も喋る予定ではなかった。母親は多分、急にそんなことを言われて戸惑っていたのだ。言葉に
なり難い悩み、それがどんなものなのか私に把握できなくとも、確かにそれが母親の中に存在す
ることを私は知っていたのだから。
……いや、それはそうだろうが、冷静に考えると、まずもってこの新しい担任の話の進め方がお
かしいのだ。「柔軟に対応できる可能性が大きい」のではなかったのか? それがこのやり方だ
というのか。プリントを配布して、さあ何か悩みを言え、と言うのが彼女の経験に基づいたやり方
なのだろうか?
あの……、と母親が声を出した。蚊の鳴くような小さな声だったので、母親が発した声だというこ
とに気付くのに少し時間がかかった。新しい担任は、はい? 何でしょう、と母親に顔を向けて言
った。相手を安心させるために湛えた微笑は、逆に相手を萎縮させてしまったのか、母親は机の
上に重ねて置かれた彼女の両手をじっと見つめたまま固まってしまった。
母親が続く言葉を発するまで、彼女はそれ以上喋らなかったし、視線も動かさず、表情を変える
こともしなかった。必要以上に追求せず、相手が喋るのをじっと待つ。これが彼女の経験から得
られたやり方だというのならば、私はそれを認めるしかない。その間に母親は力を取り戻したの
か、覚悟を決めたのか、やがておずおずと口を開く。あの、うちの子は大丈夫なんでしょうか?
奇妙な間があった。といってもわずか数秒のことだったが、その間も彼女の表情は全く変化しな
かった。むしろ質問をぶつけた母親の方が、発言が失敗だったと思ったのか、それとも発言した
ことを後悔したのか、おどおどと落ち着きない様子だった。
大丈夫、といいますと? と新しい担任が言った。具体的にどういった心配をされているんでし
ょうか? 彼女は穏やかな顔と声を持って母親に話しかけたが、母親にとってはそのどちらも
がやはり逆効果だったようで、おろおろと私の方を見たり、また彼女に目を転じたりした。
あの、と言ってまた母親は言葉を捜す。彼女は辛抱強く待つ。黙って待つことは、また逆に母親
の焦りを増長させるのではないのか、と私は思ったのだが、例のごとく口に出しはしなかった。
喋るつもりがなかったのはいつものことだったが、初対面の人間に対する警戒心がそれに拍車
をかけたのかもしれない。
うちの子の将来に影響しないのでしょうか? こうやって、もう一度一年生をやり直さなければ
ならない、というのは。母親がそう言ったあと、新しい担任は少しずつ表情を引き締めていき、
それが真剣な顔になってから、同じく真剣な声をして言った。はっきり申し上げますと、間違い
なく影響を受けます。それもいい方ではなく、むしろ悪いことの方が多いと思います。
母親の表情がさっと翳る。聞かなければよかったと思ったのか、それとも無根拠でも影響はない
と彼女の口から言って欲しかったのか。いずれにしても、と私は思う。その質問をしておいて、こ
の期に及んでも尚、まだ奇跡を期待しているのか、と。
じゃあ私は人のことを批評できるのか? 新しい担任が「一緒に解決を目指したい」と言ったと
き、彼女に件の命題をぶつけてみたらどうなるだろう、と私は確かに考えた。頭の中の霧が全
て掃われるような明確な答えを、万に一つでも今度こそ彼女の口から聞けるかもしれない。そ
んな期待を微塵でも持った私は、私の母親のことを笑えはしないのだ。
しかしながら、と彼女は言う。私達は、その良くない状況を少しでも改善していかなければなら
ないわけです、互いに協力し合って。私達の場合、スタートは確かに他の生徒さんよりも後ろ
側です。でも、それはもう今更どんなに悔やんでも仕方がない。そこで前進することを諦めて
しまったら、今より酷い状態にしかならないんです。
ねえ、○○さん。彼女は私の名を呼んだ。そしてまっすぐ私を見た。私達、私とあなたのご両親
は、あなたにプレッシャーを与えるつもりなんてなくて、私達の期待に応えるようにあなたを追
い詰めるつもりもなくて、ただあなたも目的に向かって私達と協力してほしいだけなんです。分
かりますか?
分からない。もしそう言えたのなら、何か変わっただろうか? 彼女達はとても真剣な表情で私
を凝視し、私はさっきからずっと新しい担任の顔の後方にある窓の外の空を見つめていた。彼
女達が至って大真面目なのは分かった。しかし、それだけだった。
どうしてそれが新しい担任の言う理屈に繋がるのか、どうして「協力」というかたちを取らなけれ
ばならないのか。……彼女が目一杯の饒舌な言葉を駆使して、その結論に至るまでの過程を
詳細に説明したとしても、やはり私は同じ言葉を繰り返すだろう。「分からない」と。
私達の気持ちが、あなたにとって重荷になるときもあると思うけど、ただこれだけは理解してい
てほしい。私達は、本心からあなたに協力したいと思っている、ってことを。けれど、今日会った
ばかりの私のことは、まだ信じられなくても仕方ないかもしれない。
でも、あなたのお母さんは、お父さんもだけど、あなたの力になりたいと誰よりも思っているはず
だから。私を信じられなくても、あなたのご両親だけは信じるようにしてね。その気持ちに応えろ
と言っているんじゃなくて、そうやって力を貸したいと思っている人間があなたの後ろに確かに存
在しているんだ、ってことを忘れないでほしいの。
そろそろ次スレ?
彼女がそう言ってから、少しの間があった。その中で三人のそれぞれの思惑が複雑に絡み合
い、居心地の悪い雰囲気を織り成している、私にはそう思われた。それからその空気を払拭し
ようとするかのように、先程とは全く違った、柔らかい、努めておどけたような口調でまた彼女が
喋った。しかしですねお母さん……。
娘さんの目の前で、「うちの子は大丈夫か?」なんて言うものじゃありませんよ。親御さんはどっ
しりと構えていないと、娘さんが不安がります。例えそんな不安があっても、娘さんの前では毅
然としていなければいけません。ね? そうでしょう? ……そうなのだろうか?
次スレは990辺りで
今度からその手の話をされるときは、娘さんに気付かれないように私を訪ねてきてくださいね。
そして彼女は母親に向かって笑いかけた。母親は、少し引きつった愛想笑いを浮かべるのが精
一杯だったようだ。彼女の口調は冗談を語るときのそれだったが、内容のどこまでが冗談なの
か分からなかったのだ。
もちろんあなたも、お母さんに知られたくないようなことを相談しにきてもいいのよ? と彼女は
私の方を向いて言った。不意だったせいもある。彼女と私の目が一瞬だけ合ってしまい、私は
母親のようにぎこちない笑顔を作ることもできずに、急いで目を逸らしたのだ。
今はまだ無理でも、いずれね。これは冗談なんかじゃなくて、本心からそう思っているんだけど
……。それは私にも分かるような気がした。しかし、彼女のその希望が如何に実現し難い事柄
であるかは、おそらく彼女も理解していたのではないだろうか。
では、新学期からよろしくお願いしますね。新しい担任は、私と母親の顔を等分に見ながらそ
う言った。母親も、よろしくお願いします、と彼女に頭を下げ、私も倣ってそうした方がいいのだ
ろうか、と考えている間に両者が席を立ち、それでこの会合はお開きになってしまった。
新しい担任は、わざわざ校舎の外まで出向いて私達を見送るつもりのようだった。先程母親と
歩いた真っ直ぐな道を、彼女と母親、二人が並んで歩きながら何事かを話している様を、私は
彼女達の数メートル後方に続きながら漠然と眺めていた。何を話しているのか聞こえなかった
が、特に気にもならなかった。
校門に到着して、彼女と母親はもう一度大仰な挨拶を交わし、それから二言三言私にも先程と
同じような言葉を投げつけてから、彼女は校舎に戻っていった。私達はそれから校門のすぐそ
ばにあるバス停へ移動し、母親はバスの運行表を確認しに行き、私はバス停に設えてあるベン
チに腰を下ろし、周辺の風景を眺める振りをしていた。
程なくしてやって来たバスに私達は乗り込んだ。来たときと同様、所在のよく分からない人が数
人乗っているだけだった。再び乗降口近くの座席に並んで座り、今度は私が窓際の席に座って
窓の外を眺め、母親は……、母親の方は見なかった。
しばらくバスが走ったあと、母親がぽつりと言った。ねえ、よさそうな先生じゃない? 私は何と
答えればいいのか分からずに、母親の方に目もやらず黙っていた。よさそうかどうか、さっきの
やり取りだけで判断できるわけがないではないか。
母親はそれ以上何かを言おうとせず、私も母親に対して何か言うつもりもなく、ただそれぞれの
場所に視線を固定して、それぞれの思惑を胸に抱えたまま、バスの振動に身を委ねていた。よ
さそうかどうか。確かに新しい担任は私達に協調を求めるだけあって、自身もそれを惜しまない
様子ではあった。
だが、彼女の希望が成就することは難しいだろう。例えどんなに彼女が情熱を注ごうとも、目
的の手段が協調である以上、その構成員に私が含まれている以上、おそらく可能性はゼロに
等しい。私だって彼女達に全く協力したくないわけではない。しかし、私は協調の方法を知らな
いのだ。
例えば今日の会合、いや、それだけではない。これまであらゆるかたちで私に何かを働きかけ
ようとしてきた人々に、私ができたのは彼らに対して何も喋らないことだけだった。彼女は協調
を要求した。それが如何に難しい話であるか、彼女には分からなかったのだろうか?
もしかしたら彼女は、かつての副担任からあまり込み入った話を伝えられていないのかもしれ
ない。副担任だって、どこまで私のことを知っていたのか疑問だし、それほど深く関わり合った
わけでもなく、そもそも元副担任と新しい担任との間に、そういった情報のやり取りがあったの
かどうかすら私に分かるわけもなく、新しい担任はそういったことを何も考慮せずに「協調しろ」
と言った可能性だってあるのだ。