そして机の下から書類の束を二つ取り出し、一つを私の前に、もう一つを母親の前に置いた。生徒
さん用と、親御さん用に別々に作った資料です。学校生活において持たれる疑問などについて、一
通り書いてあります。どうぞ手に取ってご覧ください。
母親は言われるままにそれを取り上げて、一頁目から読み始めたが、私は手を触れず、机の上に
置かれたままのその資料に目を落とした。新しい担任は、私達にそれに眼を通す時間を与えたつ
もりなのか、じっと黙り込んでしまった。私はもう読む気も失せてしまって、とりあえず最初のペー
ジを熱心に眺めている振りをしていた。
「学校生活のしおり」とタイトルがつけられたその紙の束は、学校内で発行されるいわゆる「プリン
ト」そのままの、わら半紙にワープロで打った文章と、控えめで安直なイラストのカットが少数貼り
付けてあり、右上をホッチキスで留められただけの「資料」だった。
時おり母親が立てる紙をめくる音が聞こえるだけで、それ以外の音らしい音は何もなかった。新しい
担任は母親が読み終わるまでじっと待ち(もしかしたら私が机の上の資料に手を伸ばすことを待って
いたのかもしれないが)、私は彼女が次の行動に出るのを待った。
部屋の中はとても静かで、さらに暖房が適度に効いていて、状況が状況なら、平和でのどかな気
分にもなれそうだった。しかしながら、私を含めたここにいる三人が三人とも、目を瞑ってしまうこと
のできない様々な問題を内包していたのだ。
その様々な問題の中枢に存在するのが私だった。彼女達はいわば、問題の中枢たる私に否応なしに巻
き込まれてしまった犠牲者だった。いや、新しい担任。彼女はまだ拒絶することができたのではなかった
のか? ……また同じような思考が始まる予兆を感じて、私はうんざりした気分になる。
読んで頂いたように、当校における学校生活についての「物質的」な憂慮は解消されたと思いま
す。しかし、それだけで生徒さんも新しい環境に順応できるわけではない。親御さんも同様です。
「物質的」な面だけ満たされたとしても、「精神的」な分野が疎かなら、不安というものは拭えない
ものだと思います
私達がそれぞれ全力を尽くし、協力して共通の目的を目指すためには、お互いの「精神的」な部
分を補っていくべきです。私は生徒さんと親御さん、生徒さんと親御さんは私。互いに支え合い、
「精神的」な不安を私達の周りからなくしていく。そして目的に向かう。そうですね?
資料を読み終えた母親が顔を上げ、そして従順な子犬のようにして、彼女の方をじっと見つめた
後、彼女は母親の視線を受けていることを知りながらも、じっくりと間を置いてから上記の台詞
を熱っぽく喋った。母親は彼女のその言葉にいちいち相槌を打つようにして小さく頷いていたが、
私には彼女が何を言っているのかが分からなかった。
つまり私には、親御さんと娘さんの「精神的」な不安を取り除く義務があります。現時点で、何
か心配なことや、私に言っておきたいことなどありませんか? はっきり言葉にならないような
不安でも、私も一緒に考えて一緒に解決を目指したいと思いますので。
また部屋の中が静かになる。母親と私、沈黙の理由は全然違っていた。私はいつものことながら、
何も喋る予定ではなかった。母親は多分、急にそんなことを言われて戸惑っていたのだ。言葉に
なり難い悩み、それがどんなものなのか私に把握できなくとも、確かにそれが母親の中に存在す
ることを私は知っていたのだから。
……いや、それはそうだろうが、冷静に考えると、まずもってこの新しい担任の話の進め方がお
かしいのだ。「柔軟に対応できる可能性が大きい」のではなかったのか? それがこのやり方だ
というのか。プリントを配布して、さあ何か悩みを言え、と言うのが彼女の経験に基づいたやり方
なのだろうか?
あの……、と母親が声を出した。蚊の鳴くような小さな声だったので、母親が発した声だというこ
とに気付くのに少し時間がかかった。新しい担任は、はい? 何でしょう、と母親に顔を向けて言
った。相手を安心させるために湛えた微笑は、逆に相手を萎縮させてしまったのか、母親は机の
上に重ねて置かれた彼女の両手をじっと見つめたまま固まってしまった。
母親が続く言葉を発するまで、彼女はそれ以上喋らなかったし、視線も動かさず、表情を変える
こともしなかった。必要以上に追求せず、相手が喋るのをじっと待つ。これが彼女の経験から得
られたやり方だというのならば、私はそれを認めるしかない。その間に母親は力を取り戻したの
か、覚悟を決めたのか、やがておずおずと口を開く。あの、うちの子は大丈夫なんでしょうか?
奇妙な間があった。といってもわずか数秒のことだったが、その間も彼女の表情は全く変化しな
かった。むしろ質問をぶつけた母親の方が、発言が失敗だったと思ったのか、それとも発言した
ことを後悔したのか、おどおどと落ち着きない様子だった。
大丈夫、といいますと? と新しい担任が言った。具体的にどういった心配をされているんでし
ょうか? 彼女は穏やかな顔と声を持って母親に話しかけたが、母親にとってはそのどちらも
がやはり逆効果だったようで、おろおろと私の方を見たり、また彼女に目を転じたりした。
あの、と言ってまた母親は言葉を捜す。彼女は辛抱強く待つ。黙って待つことは、また逆に母親
の焦りを増長させるのではないのか、と私は思ったのだが、例のごとく口に出しはしなかった。
喋るつもりがなかったのはいつものことだったが、初対面の人間に対する警戒心がそれに拍車
をかけたのかもしれない。
うちの子の将来に影響しないのでしょうか? こうやって、もう一度一年生をやり直さなければ
ならない、というのは。母親がそう言ったあと、新しい担任は少しずつ表情を引き締めていき、
それが真剣な顔になってから、同じく真剣な声をして言った。はっきり申し上げますと、間違い
なく影響を受けます。それもいい方ではなく、むしろ悪いことの方が多いと思います。
母親の表情がさっと翳る。聞かなければよかったと思ったのか、それとも無根拠でも影響はない
と彼女の口から言って欲しかったのか。いずれにしても、と私は思う。その質問をしておいて、こ
の期に及んでも尚、まだ奇跡を期待しているのか、と。
じゃあ私は人のことを批評できるのか? 新しい担任が「一緒に解決を目指したい」と言ったと
き、彼女に件の命題をぶつけてみたらどうなるだろう、と私は確かに考えた。頭の中の霧が全
て掃われるような明確な答えを、万に一つでも今度こそ彼女の口から聞けるかもしれない。そ
んな期待を微塵でも持った私は、私の母親のことを笑えはしないのだ。
しかしながら、と彼女は言う。私達は、その良くない状況を少しでも改善していかなければなら
ないわけです、互いに協力し合って。私達の場合、スタートは確かに他の生徒さんよりも後ろ
側です。でも、それはもう今更どんなに悔やんでも仕方がない。そこで前進することを諦めて
しまったら、今より酷い状態にしかならないんです。
ねえ、○○さん。彼女は私の名を呼んだ。そしてまっすぐ私を見た。私達、私とあなたのご両親
は、あなたにプレッシャーを与えるつもりなんてなくて、私達の期待に応えるようにあなたを追
い詰めるつもりもなくて、ただあなたも目的に向かって私達と協力してほしいだけなんです。分
かりますか?
分からない。もしそう言えたのなら、何か変わっただろうか? 彼女達はとても真剣な表情で私
を凝視し、私はさっきからずっと新しい担任の顔の後方にある窓の外の空を見つめていた。彼
女達が至って大真面目なのは分かった。しかし、それだけだった。
どうしてそれが新しい担任の言う理屈に繋がるのか、どうして「協力」というかたちを取らなけれ
ばならないのか。……彼女が目一杯の饒舌な言葉を駆使して、その結論に至るまでの過程を
詳細に説明したとしても、やはり私は同じ言葉を繰り返すだろう。「分からない」と。
私達の気持ちが、あなたにとって重荷になるときもあると思うけど、ただこれだけは理解してい
てほしい。私達は、本心からあなたに協力したいと思っている、ってことを。けれど、今日会った
ばかりの私のことは、まだ信じられなくても仕方ないかもしれない。
でも、あなたのお母さんは、お父さんもだけど、あなたの力になりたいと誰よりも思っているはず
だから。私を信じられなくても、あなたのご両親だけは信じるようにしてね。その気持ちに応えろ
と言っているんじゃなくて、そうやって力を貸したいと思っている人間があなたの後ろに確かに存
在しているんだ、ってことを忘れないでほしいの。
そろそろ次スレ?
彼女がそう言ってから、少しの間があった。その中で三人のそれぞれの思惑が複雑に絡み合
い、居心地の悪い雰囲気を織り成している、私にはそう思われた。それからその空気を払拭し
ようとするかのように、先程とは全く違った、柔らかい、努めておどけたような口調でまた彼女が
喋った。しかしですねお母さん……。
娘さんの目の前で、「うちの子は大丈夫か?」なんて言うものじゃありませんよ。親御さんはどっ
しりと構えていないと、娘さんが不安がります。例えそんな不安があっても、娘さんの前では毅
然としていなければいけません。ね? そうでしょう? ……そうなのだろうか?
次スレは990辺りで
今度からその手の話をされるときは、娘さんに気付かれないように私を訪ねてきてくださいね。
そして彼女は母親に向かって笑いかけた。母親は、少し引きつった愛想笑いを浮かべるのが精
一杯だったようだ。彼女の口調は冗談を語るときのそれだったが、内容のどこまでが冗談なの
か分からなかったのだ。
もちろんあなたも、お母さんに知られたくないようなことを相談しにきてもいいのよ? と彼女は
私の方を向いて言った。不意だったせいもある。彼女と私の目が一瞬だけ合ってしまい、私は
母親のようにぎこちない笑顔を作ることもできずに、急いで目を逸らしたのだ。
今はまだ無理でも、いずれね。これは冗談なんかじゃなくて、本心からそう思っているんだけど
……。それは私にも分かるような気がした。しかし、彼女のその希望が如何に実現し難い事柄
であるかは、おそらく彼女も理解していたのではないだろうか。
では、新学期からよろしくお願いしますね。新しい担任は、私と母親の顔を等分に見ながらそ
う言った。母親も、よろしくお願いします、と彼女に頭を下げ、私も倣ってそうした方がいいのだ
ろうか、と考えている間に両者が席を立ち、それでこの会合はお開きになってしまった。
新しい担任は、わざわざ校舎の外まで出向いて私達を見送るつもりのようだった。先程母親と
歩いた真っ直ぐな道を、彼女と母親、二人が並んで歩きながら何事かを話している様を、私は
彼女達の数メートル後方に続きながら漠然と眺めていた。何を話しているのか聞こえなかった
が、特に気にもならなかった。
校門に到着して、彼女と母親はもう一度大仰な挨拶を交わし、それから二言三言私にも先程と
同じような言葉を投げつけてから、彼女は校舎に戻っていった。私達はそれから校門のすぐそ
ばにあるバス停へ移動し、母親はバスの運行表を確認しに行き、私はバス停に設えてあるベン
チに腰を下ろし、周辺の風景を眺める振りをしていた。
程なくしてやって来たバスに私達は乗り込んだ。来たときと同様、所在のよく分からない人が数
人乗っているだけだった。再び乗降口近くの座席に並んで座り、今度は私が窓際の席に座って
窓の外を眺め、母親は……、母親の方は見なかった。
しばらくバスが走ったあと、母親がぽつりと言った。ねえ、よさそうな先生じゃない? 私は何と
答えればいいのか分からずに、母親の方に目もやらず黙っていた。よさそうかどうか、さっきの
やり取りだけで判断できるわけがないではないか。
母親はそれ以上何かを言おうとせず、私も母親に対して何か言うつもりもなく、ただそれぞれの
場所に視線を固定して、それぞれの思惑を胸に抱えたまま、バスの振動に身を委ねていた。よ
さそうかどうか。確かに新しい担任は私達に協調を求めるだけあって、自身もそれを惜しまない
様子ではあった。
だが、彼女の希望が成就することは難しいだろう。例えどんなに彼女が情熱を注ごうとも、目
的の手段が協調である以上、その構成員に私が含まれている以上、おそらく可能性はゼロに
等しい。私だって彼女達に全く協力したくないわけではない。しかし、私は協調の方法を知らな
いのだ。
例えば今日の会合、いや、それだけではない。これまであらゆるかたちで私に何かを働きかけ
ようとしてきた人々に、私ができたのは彼らに対して何も喋らないことだけだった。彼女は協調
を要求した。それが如何に難しい話であるか、彼女には分からなかったのだろうか?
もしかしたら彼女は、かつての副担任からあまり込み入った話を伝えられていないのかもしれ
ない。副担任だって、どこまで私のことを知っていたのか疑問だし、それほど深く関わり合った
わけでもなく、そもそも元副担任と新しい担任との間に、そういった情報のやり取りがあったの
かどうかすら私に分かるわけもなく、新しい担任はそういったことを何も考慮せずに「協調しろ」
と言った可能性だってあるのだ。