***市川の歴史を知る***     

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1名無しの歩き方
1.松尾芭蕉と市川
  松尾芭蕉が門弟の曽良と宗波の3人で、行徳を通って鹿島に月見に出かけたのは、貞享4年(1687)8月のことでした。芭蕉はこのことを『鹿島紀行』として残していますが、市川市域では行徳から八幡の里を過ぎ、鎌ヶ谷の原に出たということしか書かれていません。 当時、松尾芭蕉が住んでいた深川の芭蕉庵は、現在の小名木川に架かる万年橋の北側付近にありました。『鹿島紀行』にも「門よりふねにのりて行徳というところにいたる」とあり、芭蕉庵の門前からすぐに船に乗ることができたのです。
 小名木川は徳川家康が、行徳で生産された塩を江戸城内に運ぶため、小名木四郎兵衛に命じて造らせたものと言われ、隅田川から中川まで東西一直線に通じています。そして中川から江戸川までは、新川という名称で東南方向に向かい、浦安の妙見島に通じています。行徳へ着くには江戸川を遡らなければなりません。
 さて、芭蕉の一行は行徳の何処に上陸したのでしょうか。行徳の船着場というと現在常夜灯のある場所が連想されますが、実は貞享4年にはまだあの場所には船着場はできていなかったのです。 『葛飾誌略』に「一、新河岸。川場也。元禄3年庚午(1690)此処へ移る。故に新河岸といふ」とある所から見ると、芭蕉の一行は新河岸ができる3年前に行徳に来たことになります。船を降りたのは旧河岸であったということになりますが、その旧河岸の所在については、はっきりしたことが分かりません。
 行徳から八幡を経て鎌ヶ谷に至るコースは、時代が下がりますが文政8年(1825)渡辺崋山が『四洲真景図』を描くのに通ったコースと似ています。鹿島からの帰路も『鹿島紀行』からではどのようなコースを通ったのか分かりませんが、とにかく貞享4年という年に、芭蕉が行徳を通ったということだけは確かです。
(つづく)
2名無しの歩き方:2001/06/04(月) 03:49
>>1のつづき)

 元禄年間のことですが、伊勢宿村の南梢は芭蕉の門弟となって、行徳に俳諧を広めました。その後、享保・宝暦の頃からは、暮色・門雪・旧花などが現れ、続いて不光・土岐・楠谷などが、行徳に俳諧を広めたことが記録に残されています。
 芭蕉は行徳を素通りしました。しかし、俳諧を通して行徳は芭蕉と切り放すことのできない存在になっていきました。そのひとつに、本塩の法善寺にある『潮塚』と呼ばれる句碑があります。 これは寛政9年(1797)に地元の俳人戸田麦丈、堀木以閑などが中心になって建てたものです。おそらく、芭蕉百回忌の寛政6年に、句碑建立の話が持ち上がったのでしょうが、芭蕉は行徳での句を残していません。それにも関わらず、芭蕉の句碑を建てたい一心から、やっと選び出されたのが、『潮塚』に彫られている「うたがうな潮の華も浦の春」の句です。芭蕉が元禄2年(1689)2月、伊勢の二見浦の絵図を見て詠んだ句といわれており、芭蕉の作品の中で、行徳の浦にもふさわしい句として選んだものでしょう。
 なお、芭蕉に因なんだものとしては、国府台の松戸市境にある泉養寺の境内に、芭蕉の門弟千梅が芭蕉の五十回忌に当たる寛保3年(1743)10月に建てた記念碑が一部破損されてはいますが残されています。
3名無しの歩き方:2001/06/04(月) 03:50
2.小林一茶と市川の俳人たち
 前回の松尾芭蕉に引き続き、市川を訪れた俳人を紹介しましょう。それは「我と来て遊べや親のない雀」・「痩がえる負けるな一茶ここにあり」など、家族の愛情に恵まれないなかで、弱いものへの思いやりの句を多く残した小林一茶です。
 一茶は15歳で江戸に奉公に出ました。そして20歳の頃には今の松戸市馬橋の油商を営む俳人大川立砂の許に奉公しながら、専門的に俳諧の道に入りました。
 そして、寛政3年(1791)4月、一茶が行徳から乗船して江戸に入ったという記録が、市川を通過した最初の記録になります。その後、寛政10年(1798)10月、馬橋の大川立砂とともに真間の手児奈霊堂から、弘法寺に紅葉狩りに来ました。このとき二人は次の句を残しています。

 夕暮の頭巾へ拾ふ紅葉哉 (立砂)
 紅葉はや爺はへし折子はひろふ (一茶)

 一茶には、立砂の落葉を拾う様子が、実に印象強く残ったのでしょう。だから後に「真間寺で斯う拾ひしよ落紅葉」の句を残しています。立砂は一茶にとって父のような存在であったのかも知れません。現在その句碑が弘法寺山門前に建てられています。
 文化3年(1806)2月、一茶は行徳河岸の大阪屋に一泊し、佐原・田川(茨城県)方面への俳諧行脚に向かっています。一茶は房総各地に多くの知友をもちましたが、市川市域では高谷の安養寺の住職太乙や、新井の名主鈴木金提などと交友を深めていったようです。即ち、文化11年9月、高谷の安養寺に一泊して翌日、曽我野村(千葉市)から木更津方面へ俳諧行脚に出かけています。
 翌12年10月24日には安養寺で句会が開かれたらしく、一茶は新井の鈴木金提とともに、安養寺に住職太乙を訪問しています。このとき集まった俳人には、成田山主の素廸上人、成田神光寺住職至長、布川(茨城県)の廻船問屋の主人古田月船、守谷(茨城県)の大庄屋斉藤徳右衛門などがおりました。一茶の『随斉筆記』には、その席に集まった俳人たちの句は記録されていますが、一茶自身の句は載せられていません。

(つづく)
4名無しの歩き方:2001/06/04(月) 03:51
>>3のつづき)
 翌25日、一茶は中山法華経寺を訪れ、そしてその日、布川の古田月船宅に宿泊したことを見ると、月船は勿論のこと句会に同席した俳人たちも或いは揃って法華経寺に参詣したのかも知れません。
 同年11月、一茶はまた安養寺に泊まっています。そして、文化14年5月にも泊まっている記録を見ると、都合4回高谷の安養寺に宿泊したことになります。
 文化13年12月、一茶は、新井の鈴木金提の許に一泊し、翌日高谷から布川(茨城県)へと俳諧行脚に赴きました。翌14年の5・6月頃、一茶が金提の家を訪れたとき、金提は金一片を一茶に餞別として贈っています。一茶にとって、太乙住職・俳人金提はよほど気の休まる人物だったのでしょう。
 鈴木金提は文化10年、郷土を紹介する資料として「葛飾図志手繰舟」を刊行しました。その別冊には磯や浜に関係した句を集め、その中に一茶の句「片浦の汐よけ椿咲にけり」が載せられています。

5名無しの歩き方:2001/06/04(月) 03:52
3.国府台に陣を敷いた源頼朝
 源頼朝が伊豆で兵を挙げたのは、治承4年(1180)8月のことでした。しかし、石橋山の合戦で平氏方の大庭景親らの軍に敗れ、土肥実平らと主従7騎で真鶴浜から海路安房国猟島に逃れました。8月29日のことです。
 頼朝は早速、上総・下総をはじめ関東各地の武士たちに、頼朝の許に集まるよう書状を送り、特に下総の千葉常胤、上総の平広常らには使者を送って、即刻参上するように告げました。
 9月13日、頼朝は安房で集めた200の兵を率いて上総に入りました。
この時常胤は上総の目代を襲ってこれを殺し、翌14日には千田判官代親政と戦ってこれを虜にしました。そして17日兵300余騎を率いて下総国府に入り、頼朝と初めてここで対面したのです。鎌倉幕府が編纂した歴史書の『吾妻鏡』には、残念なことに頼朝が上総から下総へ、どういう経路をたどったかが記録されていません。
 常胤の居城は千葉の猪之鼻城です、頼朝が上総から下総国府に向かうには、その経路にあります。なぜ猪之鼻城で対面しなかったのでしょうか。それは上総の目代や千田判官の討伐で千葉一族は精一杯だったからではないでしょうか。
 そこで考えられるのは、危険な陸路よりも海路の方が安全だということです。200余騎の軍勢ならば、数10艘の漁船を用意すれば容易なことだったでしょう。

(つづく)
6名無しの歩き方:2001/06/04(月) 03:52
>>5のつづき)
 吾妻鏡は「9月19日上総権介広常、2万騎を率い隅田河辺に参上す。」とあります。頼朝が下総国府に入った2日後のことで、頼朝は本陣を隅田河辺に移したのでしょうか。そうでは無いと思います。それは吾妻鏡の10月2日の条に「頼朝が、常胤・広常等の船に乗り、太井・隅田の両河を渡る、精兵3万余騎に及び、武蔵国に赴く」とある所を見ると、太井河は現在の江戸川です。
 このことからも頼朝は自ら葛西方面の状況視察に走り回ることはあっても、9月17日から10月2日までの半月間、下総国府即ち国府台に本陣を置いていたことは間違いないことでしょう。
 市域に残る頼朝伝説として、下総国府に入った頼朝は白布を集め竹竿に結びつけて国府台の崖上に立て並べ、いかにも大軍が陣を敷いたように見せ掛けたり。鬼越辺りで日が暮れて辺りが判らず、同行の東胤頼が「小夜深く鬼のしこ草踏み越えて行方言問う真間の浦人」の歌を作ったり、葛飾八幡宮に参詣のおり、乗馬が足を掛けた石に蹄の跡が残り駒留め石といったり、さらには、安房に逃れるとき行徳に来て、仁兵衛の差し出した饂飩を賞味し笹屋の屋号を与えたなどの話が伝えられています。
 頼朝は葛西・豊島・江戸の各氏をはじめ石橋山の合戦で敵に回った大庭・熊谷・畠山などの軍勢を味方に加え、武蔵国の総社で態勢を整えて鎌倉に入ったときにはその数10万余騎になっていたといいます。
 頼朝は平氏を追討し、征夷大将軍として鎌倉に幕府を開き、武家政権の基を築くことが出来ました。その頼朝が下総国府の置かれた国府台に陣を敷いたことは、中世の幕開けに国府台が大きな役割を果たしたことになり、市川の歴史上での特色の一つといえます。

7名無しの歩き方:2001/06/04(月) 10:18
市川=偉智華和
船橋=腐奴罵死
8名無しの歩き方:2001/06/06(水) 22:00

        , -=-‐〜--へ__,,- 、
      <        ヽ   ゝ
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      |    ┤  ===、 , ==|  | <  ドキュソ船橋の論理は、
     ノ   彳  ―ェ 〈‐ェ〈  ゝ  \ 小泉内閣には通用しない!
    ゝ、  イ6|ゝ    / \ |‐"     \_________
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9名無しの歩き方:2001/06/07(木) 12:17

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10名無しの歩き方:2001/06/07(木) 16:58
真間の手児奈についても語れよ
11名無しの歩き方:2001/06/07(木) 17:04
>>10
面倒だから、誰かリンク張れ!
12名無しの歩き方
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ    / 市川市民教団を設立しました。
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|  < 市川はお屋敷町のホームラン王です。
..iiiiiiiiiiiii》|             :::      |iiiii|    \ ナボナはお菓子のホームラン王です。
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