***市川の歴史を知る***     

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3名無しの歩き方
2.小林一茶と市川の俳人たち
 前回の松尾芭蕉に引き続き、市川を訪れた俳人を紹介しましょう。それは「我と来て遊べや親のない雀」・「痩がえる負けるな一茶ここにあり」など、家族の愛情に恵まれないなかで、弱いものへの思いやりの句を多く残した小林一茶です。
 一茶は15歳で江戸に奉公に出ました。そして20歳の頃には今の松戸市馬橋の油商を営む俳人大川立砂の許に奉公しながら、専門的に俳諧の道に入りました。
 そして、寛政3年(1791)4月、一茶が行徳から乗船して江戸に入ったという記録が、市川を通過した最初の記録になります。その後、寛政10年(1798)10月、馬橋の大川立砂とともに真間の手児奈霊堂から、弘法寺に紅葉狩りに来ました。このとき二人は次の句を残しています。

 夕暮の頭巾へ拾ふ紅葉哉 (立砂)
 紅葉はや爺はへし折子はひろふ (一茶)

 一茶には、立砂の落葉を拾う様子が、実に印象強く残ったのでしょう。だから後に「真間寺で斯う拾ひしよ落紅葉」の句を残しています。立砂は一茶にとって父のような存在であったのかも知れません。現在その句碑が弘法寺山門前に建てられています。
 文化3年(1806)2月、一茶は行徳河岸の大阪屋に一泊し、佐原・田川(茨城県)方面への俳諧行脚に向かっています。一茶は房総各地に多くの知友をもちましたが、市川市域では高谷の安養寺の住職太乙や、新井の名主鈴木金提などと交友を深めていったようです。即ち、文化11年9月、高谷の安養寺に一泊して翌日、曽我野村(千葉市)から木更津方面へ俳諧行脚に出かけています。
 翌12年10月24日には安養寺で句会が開かれたらしく、一茶は新井の鈴木金提とともに、安養寺に住職太乙を訪問しています。このとき集まった俳人には、成田山主の素廸上人、成田神光寺住職至長、布川(茨城県)の廻船問屋の主人古田月船、守谷(茨城県)の大庄屋斉藤徳右衛門などがおりました。一茶の『随斉筆記』には、その席に集まった俳人たちの句は記録されていますが、一茶自身の句は載せられていません。

(つづく)