【日明戦争】文禄・慶長の役【万暦役】

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1名無しさん@お腹いっぱい。
日本側、明側、朝鮮側、いろんなところからの視線を取り混ぜつつ、
広い視野から語りましょう。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 10:49:44 ID:UljiD5yq0
朝鮮征伐
ドキュン李舜臣の無様な死
3名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 15:56:51 ID:9lXftl5o0
まあ、実質的には日本と明の戦争だったからね。

明の側から見れば、冊封体制への挑戦であり、
日本の側は、秀吉の意図がいまいち分かりにくいところがあるけど、
東アジアの支配者、明の立場に取って変わろうとしたわけだし。

4名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/19(火) 15:39:18 ID:+/xh5wLh0
文禄の役の方で、明軍を率いた李如松は、遼東の大軍閥李成梁の息子で、
その李成梁は前年に弾劾されて失脚しているけど、
息子が軍勢を率いて寧夏のボバイの乱鎮圧に従事し、そのまま朝鮮半島にも派遣されたってことは、
一族関係者が咎められることはなかったのか。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/19(火) 23:36:06 ID:XZd57zT30
弟の李如柏は、サルフの戦いにも参加しているしね。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/20(水) 11:52:41 ID:B9ATigu+0
16世紀の世界で最大級の武力衝突。
だけれども双方ともぐだぐだになってしまった感があるな。

明側から派遣された軍勢は、文禄の役で李如松が赴いた時で4〜5万人?
後の慶長の役ではもっと増やされたのかな?
7名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/21(木) 15:37:27 ID:h+kNeEkO0
明側は多くても10万人ぐらいじゃないかな。
これに朝鮮軍も数万人加わる。

日本は最大で16万人ぐらい渡海させたと思うけど、
実際の戦闘員の数はもっと限定されると思われ。

全般的に兵数では双方ともそんなに差はなかったと思う。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/22(金) 01:55:35 ID:sK2XTSfe0
朝鮮征伐とか朝鮮侵略とか言いたがってるけど本質は明との戦争なんだよな
朝鮮はたまたまその中韓にあったから戦場になっただけで
9名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/22(金) 11:29:21 ID:geudxQxy0
構図的には、ちょっと朝鮮戦争と似ている部分もあるかもね。
日本側で働いていた朝鮮人もそこそこはいたようだし。
10名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/22(金) 16:46:40 ID:vsM4qJKH0
>8>9
それこそ白村江の戦いから日清・日露も。
元寇も半島自体は直接な戦場になってないけど似たような視点で語れなくもない。
日本側から大陸方面へ勢力を浸透しようとすれば(もしくは元・ロシアのように大陸側から海にでる)
朝鮮半島が権益の奪い合いや戦場になるのは必然なんだよな。

近世以降のポーランドなんかもそうだけど半島・回廊国家の悲哀だな。
11名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/22(金) 23:39:40 ID:DO8T9hPV0
対馬と朝鮮半島の間って、実際に見に行ったらすごく近いからねえ。
12名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 11:08:34 ID:6W68FWps0
日本から大軍を渡航させることができるのって、
ぶっちゃけ朝鮮半島しかないから。

13名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/25(月) 23:59:09 ID:XKpKLUL30
ヨーロッパの外洋船技術を導入して、大量建造とかは、
やっぱ無理かな。

14名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 03:13:57 ID:3I1JmcWb0
需要が高まればできるだろうけど
もし日本が秀吉死んでもそのまま明を攻め続けようという方針になったら技術向上してたかもしれない
15名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 11:56:32 ID:WYmIS1B+0
仮に外洋艦隊を作っても、
鄭和の大艦隊でも2万人ぐらいだったし、
中国の本土、江南付近に侵攻するにしても、
数万人規模の大軍を送り込むのはかなり難しいと思う。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 22:10:45 ID:kUh6hsY90
元寇の時、江南から日本へ向けて発せられた軍勢は10万人規模。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 15:21:58 ID:VgP4iqZ70
台風とか、不意の事故で全滅なんて可能性がかなりありそうだし。
やはり安定した状態で、大軍を送り込めるのは朝鮮半島だけ。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 23:46:16 ID:B+R3jKUe0
朝鮮の国王の宣祖ってさ、漢城か、あるいは江華島にでも籠城する気はなかったんだろうか?

数十年後に北から清軍が侵攻した時には、江華島へ避難しようとして、
間に合わなくなると漢城近くの山城に籠城したよね。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/29(金) 23:52:00 ID:1lYcG/oc0
最初、今までの倭寇と同じように、南の沿岸でちょっと騒いでいるだけぐらいに思っていて、
対応が遅れたんじゃないかな?

気がついた時には、忠州も突破され、ただ逃げるしかなかった。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/01(日) 23:33:38 ID:3s1z8KUa0
朝鮮軍は斥候を出すこともやっていなかったそうだからね
21名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 19:38:53 ID:kr6aF5uF0
朝鮮では日本は侵略するよ派と日本なんかファンタジーだよ派にわかれてファンタジー派のほうが王の耳障りがよかったので侵略するよ派は左遷されたんじゃなかたっけ
22名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 06:48:12 ID:a82izyRX0
そもそも朝鮮の朝廷では、政治的に二つの派閥があって対立していて、
日本へ送った使節も、正使と副使がそれぞれの派閥から出されていた。
それで、正使が警戒するべきだと主張したので、
対立する側にいた副使はそれへの対抗上、心配はいらないと主張した。
国王は、後者の方を信じた。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 15:23:21 ID:Bdtke26y0
宣祖って万暦帝と通じるものがあったように思う。
24名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 23:15:41 ID:+0AdvdyM0
両班層で日本側に寝返った者、降伏して仕えた者って結構いるのかな?
25名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 01:03:11 ID:hlYEtCk60
どうだろうね
俺の田舎の高知には城の近くに唐人町っていう朝鮮戦争で連れてこられた朝鮮人の町だったとこがある
城下町の一等地に家もらって差別されたニダだもんな・・・・
騒いでるのはここ数十年で日本にきたチョンだけど
26名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 05:38:10 ID:oi28Y2Xk0
>>24
結構いそうな気もするけど、
日本側の受け入れ態勢の問題もあったと思う。
27名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 23:31:19 ID:HMpGfbo00
朝鮮って北の方、平安道とかは米の収穫はできたのかな?
28名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 14:25:00 ID:Aoxrqusa0
今でも北朝鮮で稲作は行われているけど、
昔はどうだろうね?

品種的に難しかったかも知れない。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 18:27:23 ID:W2nLmJCD0
北の方は麦類や雑穀類が無難だろうね。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 23:48:03 ID:HDKH3lPs0
16世紀の世界で最大規模の武力衝突と聞いたけど、
16世紀の世界って他にどんな戦争があったかな。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 01:11:27 ID:ReUN5OXp0
イギリスとスペインの海戦
アルマダ海戦だっけか
西洋史はうとくて
17世紀だと女真がでてくるけどな
32名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 19:39:02 ID:5Uws1vy20
アルマダ戦争のスペイン軍は、陸兵海兵合わせても約二万五千人程度。
多く見積もっても三万人以下。
(ちなみに欧州各地のスペイン領の全軍の合計は、十七世紀初め頃で約三十万人といわれている。)

一箇所に十万人規模の軍隊を投入、運用可能だったのは、オスマン、ムガル、明、そして日本の四カ国だけ。
33名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 23:38:04 ID:leP3WCmX0
やっぱりオスマン朝絡みの戦争とか。
サファビー朝との間のチャルディランの戦いとか、第一次ウィーン包囲とか。

でも双方合わせた兵力規模、戦闘の激しさとか総合的に見たら、
日本と明の戦いが最大になるかも。
34名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 11:37:52 ID:nrGYCyxI0
最大の戦いとなるとやっぱり碧蹄館の戦いか。

あんまり明確な決戦はないな。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 23:51:59 ID:ZVzJR5Ot0
加藤清正は朝鮮の王子を二人捕まえたんだよね。
36名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/07(火) 20:03:32 ID:9vF274d+0
朝鮮の土民たちが王子二人を捕まえて清正に差し出したっていう話も聞いたが、本当なんだろかw
37名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 02:18:07 ID:FzwBxFMG0
現代でもちょっと日本が軍国化して半島脅せばへこへこノムヒョンと金豚差し出すんじゃないかな
38名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 23:36:46 ID:fYnczpGv0
>>36
二人の王子、臨海君と順和君は咸鏡道に勤王の兵を募りに派遣された。
ただ、この咸鏡道は、北東の辺境部で、比較的新しい時代に朝鮮に編入された地域。
流刑地とされて犯罪者が集められていた上に、女真族も侵入するなど、
元からかなり治安の悪い地域で、住民の李氏朝鮮への忠誠度も低かった。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 10:50:38 ID:3p1HrUPL0
臨海君は長男なのに後継者に選ばれなかったんだよね。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 23:29:59 ID:hvv4ifTc0
光海君の軍才、功績の方が李舜臣なんかよりもずっと上なんだけど、基本DQNだからなぁw
41名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 23:34:36 ID:y5m1SPsu0
現実主義的な光海君を王の座から追放して、わざわざ清の侵略を招いてしまったあたり、
当時の朝鮮の病み具合がよく分かる。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 23:28:07 ID:+G2+kOeU0
>>32
スペインは、フィリピンの総督だかが、
秀吉から威嚇の手紙を受け取って、
軍事力でとても敵わないからと、
やたらと低姿勢で接していたね。
43名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 09:28:30 ID:1RDM1LcU0
そりゃ本国の何万という兵をすぐにつれてこれるわけじゃないしな
火縄銃を大量に所持する日本と石の武器を使ってる原住民じゃ違う
44名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 21:16:36 ID:pnNQEch8O

愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。

半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝勝負服ないでたちで。

脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。

私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。

あれには本当にびっくりした。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 23:30:07 ID:NMKvQpH/0
明を征服し、植民地化するには、何万人という兵力が必要だけど、
現実に、東洋にそれだけの兵力を派遣するのは無理という問題に突き当たった時、
ポルトガルだったかスペインだったかの、総督か宣教師かも忘れたけど、
本国に、日本のキリシタン大名の兵を借りればいいと提案していたそうな。
秀吉との協議次第では、日本・南蛮連合軍による明侵攻が実現したかも。
46名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 23:30:57 ID:NMKvQpH/0
秀吉頑張れば中国に王朝立てれたって
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1164125822/
47名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 22:45:47 ID:m6oL+4+k0
>>45
それでも長期に渡って占領を続けるのは難しかったと思う。

考えられるのは、両国からの技術導入によって、外洋航海能力を得、
江南に陽動攻撃を仕掛けて明軍を引きつける。
その間に朝鮮を占領するという作戦かな。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 10:47:33 ID:8T3PfqpW0
明朝万暦朝鮮之役之所以戦勝的原因
http://zhidao.baidu.com/question/18028420.html
49名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 11:40:08 ID:mnPK5OHf0
>>45
ポルトガルがマカオ利権を棒にふるリスクを犯すかな?

魯迷(鳥)銃の性能ってどうだったのか、後旧式のものとの交換はスムーズにいったのかとか
50名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/29(水) 23:46:01 ID:uBre+WsQ0
>>49
そのへんは、日本側の交渉姿勢も含めて、
どれぐらいの勝算が見込めるかだろうな。

ポルトガルとスペインが手を組むのが前提になるだろうし。
51名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 10:02:42 ID:WX5fSzKY0
全羅道のあたりは海岸地形が複雑だから、
上陸侵攻がしにくかったのかな?
52名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 23:16:10 ID:1W/BLGO50
首都漢城への進路から外れていたのが一番大きい。
おかげで本格侵攻は免れ、義兵の拠点と化したようだけど。
53名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 23:30:27 ID:/zeWZZPi0
小早川隆景も全羅道の制圧はかなり手間取ったからね。
54名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 23:55:02 ID:RLhptOrN0
半島に上陸した全軍を強力に統率する指揮官が必要だったと思う。
本来なら秀吉自身が出陣するつもりだったんだろうけど。

小早川隆景がある程度はその役割を担ったかも知れないけど、
外様の立場では、いろいろと制約が大きかっただろう。
55名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 11:19:57 ID:vkaR7JB50
毛利輝元もいるけど、やはり外様な上に、とても指導力を発揮する人物じゃないよな。

宇喜多秀家は若すぎる。

豊臣秀長が生きていたら一番いいんだけど。
56名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 22:06:53 ID:JG3fIDTo0
豊臣秀長が生きていたら、外征を諌めて止めると思う。
57名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 23:54:52 ID:YqdqxnTI0
徳川家康が総大将にさせられていたらどうなっていただろう?
58名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 09:33:45 ID:8jCv0d7s0
徳川家康なら、朝鮮への渡海を命じられるぐらいなら、
豊臣政権に不満を持つ諸侯を焚きつけて、反乱を起こすかも。
59名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 23:53:24 ID:uB/C9Avz0
関ヶ原の戦いの時、徳川家康は豊臣家家臣団内部の対立を煽り、
武功派を味方に取り込むことで、天下を手に入れた。
つまり、関東255万石の勢力を以てしても、それのみでの政権奪取は難しかった。

豊臣秀吉生存下では、豊臣家家臣団の分裂は期待できないので、
反抗するのは無謀。
60名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 00:13:44 ID:hToQX1tX0
逆に、朝鮮へ渡った諸大名の束ね役となることで、人望を得ることができ、
その繋がりを背景に、豊臣政権に反逆することはできるかも
61名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 01:19:02 ID:afdy7JEx0
経験豊富な徳川家康でも、異国の国内とは環境が違いすぎる戦場で、
そんなに指導力を発揮できたかな?

まだ西国大名の方が適応する柔軟性を持っていた気がする。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 22:14:45 ID:b6UyTGzO0
鉄砲の運用では、東国大名より西国大名の方が進んでいた。
63名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 18:02:12 ID:jZI+Cte+0
関ヶ原合戦当時では、
朝鮮の役を経験した西国大名の多くは、鉄砲の必要性を痛感して、
鉄砲の装備数が大幅に増えている。

それに対して、徳川家康らの朝鮮に渡らなかった東国大名は、
そのようなことがなかったから、
軍事技術的な面では遅れが生じていたかも。
64名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 23:40:26 ID:7MdQbf8F0
島津義弘が、関ヶ原の戦いで、東軍の陣地を突破して落ち延びることができたのも、
鉄砲装備率の高さだろうね。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 22:11:06 ID:JzpYspNA0
この戦いって、言葉の壁はどのように作用していただろう。
後期になると、日本軍の下働きにかなりの朝鮮人がいたようだけど。
66名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 05:52:27 ID:CrQupeOS0
別に言葉の壁なんて近世以前の戦争には大して必要ないんじゃないの
交渉できる程度の人数のバイリンガルはいただろうし
67名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 17:27:03 ID:hEwml+OZ0
>34
碧蹄館の戦い  明李如松4000VS小早川、黒田30000
最大の戦いとは思わない
68名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 19:23:38 ID:U0MHERwH0
>>67
碧蹄館の戦いにおける李如松が率いた明軍は4万人ぐらいと聞いたけどね。
明白に両軍が正面からぶつかった戦いとしては、最大規模じゃないかな。

蔚山城の戦いも大規模だったようだけど。
69名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 23:36:29 ID:6QZRHWyi0
結局は、戦線が膠着状態になった期間が長かったから
70名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/11(木) 10:57:42 ID:7i9Mp+kO0
>>60の言う危険があったから秀吉は束ね役を設けなかった。
71名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/12(金) 20:15:31 ID:r/wwWMVb0
実際、徳川家康は渡航軍の総大将となっても、積極的に戦おうとはしなかっただろうな。
72名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 13:46:06 ID:vEJgx6cH0
泗川の戦いは、実際はどれぐらいの規模だったんだろう。
島津義弘が大勝したことは事実でも、
明軍20万人とかはありえない数字だし。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 13:31:16 ID:Kh26sWAv0
朝鮮軍を加えても十万人以上は多分無理
74名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 07:30:04 ID:QQje4r400
この戦役では、とにかく鉄砲の有用性が認識されたようだね。
参戦した各大名家で、鉄砲の装備率が飛躍的に伸びたようだし。
75名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 23:16:35 ID:UoddO5vo0
明軍は20万か?冗談だな。
ただ4万だなぁ。
ただし、日本のほうは20万だ。
76名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 23:52:04 ID:RFm0K+SE0
日本側か最大時で16万人ぐらい渡海したようだけど、
日本の戦国時代の兵力って、全員が戦闘員じゃないからね。

明軍は、最大時でも10万人は超えていないと言われているね。

戦闘員同士の数だと、両軍互角ぐらいになったんじゃないかな。
77名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 14:13:37 ID:LCwtF19e0
日本軍では、下働きをしていた朝鮮人も相当数いたらしい。
78名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 23:28:37 ID:ODsL07ig0
盛大に人身売買もしていて、奴隷にした朝鮮人を売り飛ばしているからね。

実は戦国期最大の産業は、人身売買。
79名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 23:44:06 ID:m9BVC6hV0
【ソウル22日聯合】
慶尚南道が、玄界灘をはさんで向かい合う韓日の自治体交流会議で、
「李舜臣プロジェクト」の推進に必要な史料を双方の自治体に要請し、
来年に慶尚南道で開かれるラムサール総会への積極的な参与を求めた。

慶尚南道が22日に明らかにしたところによると、
韓日海峡沿岸情報ネットワーク第16回知事会議が同日から24日までの日程で
佐賀県唐津市で開かれる。
会議には慶尚南道、釜山広域市、全羅南道、済州特別自治道、
福岡県、佐賀県、長崎県、山口県の8自治体の知事をはじめ関係者らが出席する。

初日の会議では、開催地である佐賀県からの経過報告と歓迎あいさつの後、
各自治体の代表が国際交流増進と今後の知事会議発展に向けた意見発表などを行った。

この席で慶尚南道の金台鎬(キム・テホ)知事は、
「南海岸を第2の地中海として造成することにし、南海岸時代プロジェクトの主要拠点になる都市を、
世界的観光レジャー都市、海洋物流ビジネス都市、臨海先端産業都市として育成するため、
産業・観光・インフラ・環境の4部門別に具体化していく」との計画を明らかにした。

金知事はまた、「李舜臣プロジェクト」のうち亀甲船復元事業をスタートさせたとし、
事業の成功的な遂行のため各自治体から有用な史料を送ってほしいと要請した。
プロジェクトは李舜臣(イ・スンシン)将軍と
壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を有・無形資産に発展させることを目的に、
資料館や亀甲船の復元など8大戦略事業を進めるもの。

金知事はこのほか、来年10月に慶尚南道昌原市で開かれる
ラムサール条約締約国総会への関心と参与にも期待を示した。

ソース 聯合ニュース
http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2007/10/22/0400000000AJP20071022001200882.HTML
80名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 10:54:04 ID:Jv/DcJZR0
age
81名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 12:38:04 ID:pRPBdCvP0
>>78
国内の合戦でも実は人狩りのようなことが横行していたようだしね。
82名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 16:46:18 ID:F1Om/9A6O
清正はヌルハチとやり合った際、女真の
技術などを入手していたらしいな。
83名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 22:43:38 ID:smnEOU500
>>82
具体的にどういう技術なの?
84名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/18(日) 00:46:04 ID:ht3627rZO
さぁ、清正が最強って事なんじゃねぇの?
まぁ明の精鋭が集結したのは清正の
蔚山だし、強ち間違いではないな。
85名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/27(火) 21:33:38 ID:PK/cEv3I0
李舜臣が倭将加藤清正に送る降参勧告文書
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfree&page=2&nid=347225

本当かよ?
86名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/27(火) 22:16:53 ID:FQNn28lr0
>>78
つか奴隷は普通に売買されるものだろ。
朝鮮人同士だって、普通に売買されてる。
奴隷にしたではなく、もともと奴隷じゃないかな?

>>81
そんなに奴隷狩りなんてものはないよ。
普通に売っているからw
親に売られたり、食うに困った人間が奴隷になるのは、当時では当たり前。
飢え過ぎ謙信みたいに。関東に略奪、人狩りが目的で出兵するのは少数派だろう。
87名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/27(火) 23:50:37 ID:c01X5WUZ0
戦国時代の合戦に伴う乱取りで、人をさらって、
身代金を取るようなことはかなり横行していたと聞くが
88名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 11:48:33 ID:bLs3f6130
既出だと思うけど、資料。

「文禄・慶長の役」
六反田豊
http://www.jkcf.or.jp/history/2/1_1_2roku_j.pdf
89名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/21(金) 14:23:20 ID:oPEJOKCD0
>>82
女真の技術って……騎兵?
90名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/21(金) 20:52:29 ID:4LlzTRMo0
>>88
この人の文の内容は一件客観的中立的に見えて、
実は朝鮮人や左翼女学者の偏狭な説を最後に支持しているように、
既成左翼歴史学会の流れを組む人だね。
91名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/22(土) 12:35:22 ID:mXW+2UVQ0
>>90
文章の冒頭を見ただけでも、
左寄りな人の可能性が高いな、とは予想がつくね。
92名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 00:29:06 ID:mF/GSUjM0
雑賀衆の一団は朝鮮側へ寝返ったそうだが……
93名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/25(火) 02:34:15 ID:yrM6iGGR0
日本軍からの寝返り部隊沙也可なるものが、
発音からして雑賀なんじゃないかという説だな。

朝鮮軍に鉄砲の使い方も教えたようなので、
実際可能性は高い。
94名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/26(水) 14:41:07 ID:s3Gr24WY0
沙也可は戦争が終わって半島に残った後が大変だっただろうな。
あの国のことだから、差別酷かっただろうし。
95名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/29(土) 11:31:27 ID:RRANy7mo0
賎民みたいな扱いになったらしいよ。
96名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 17:31:30 ID:RmYkMLRJ0
今でも子孫を名乗るものがいるって聞いたけど
400年前に日本人だったってだけで差別されたりするのかな
97名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 22:17:02 ID:mqW2U/k/0
モチのロンです。
98名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 15:57:10 ID:rlB7Vm8I0
【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ5 【壬辰倭乱】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195992731/
99名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 23:24:43 ID:brIBX6kU0
>>96
旧百済だった地域の住民でさえ差別されるらしいからな。
元日本人だったら、相当な酷い差別があるんだろう。
100名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/03(木) 15:34:40 ID:cgMbRejy0
現地で、日本軍の協力者になったのは、差別されていた賤民や奴隷が中心だったらしいからね。
101名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 09:40:15 ID:uk6Pi+wk0
済州島は攻めようと思わなかったのかな?

割譲させるとしたら、ちょうどいい土地に思えるけど。
102名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 14:10:36 ID:N0klV5h00
済州島はちょっと西に寄りすぎた孤島。

占領自体は難しくなくても、
全羅道の完全制圧もできていなかったようだし、
そこまで手を出す余裕がなかったのでは?
103名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 13:55:08 ID:RiU72uz70
最初、攻め込んだ時、あっという間に国都漢城まで陥落して、
平安道や咸鏡道まで進軍したこと自体が予想外。

細かな面を制圧する余裕までなくなったと言える。
104名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/11(金) 09:05:53 ID:2M5GR5c90
倭寇経験者が案内役になったりしたのかな?
105名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/27(日) 14:32:36 ID:uRzvPDWr0
『壬辰の乱-東アジア三国戦争』:チョン・ドフィ・イ・ギョンスン編、ヒューマニスト、460ページ、2万8000ウォン

[新東亜]壬辰の乱(文禄・慶長の役、1592〜1598)と言う国際戦争に責任のある一人をあげれば、豊臣
秀吉を真っ先に指折るだろう。しかし、壬辰の乱以後、実際に東アジア秩序の主導権を握ったのは清
朝を建設したヌルハチだった。この二人は16世紀末、東アジア世界の既存秩序を転覆しようと野心を
燃やす挑戦者という点で同じだが、このように結果は大いに異なった。どうして豊臣秀吉は失敗し、
ヌルハチは成功したのだろうか。キョ・スンボムの文はその差をとてもおもしろく説明する。

筆者はヌルハチや秀吉が自分たちの野望を実現するためにまず明の分身のように思われていた朝鮮に
向い合わなければならなかったが、その対応方法が対照的だ。ヌルハチは外交を通じて朝鮮と明との
結束を遮断した後、中原を狙う慎重な歩みを見せた一方、秀吉は朝鮮を侵攻してむしろ朝鮮と明の軍
事同盟を強化させ、結局それによって失敗してしまったというのだ。

それでも秀吉の誤判断が個人的問題に起因したとは思わない。WJボートもこの本の他の論文で秀吉は
決して戦争狂ではなかったし、合理的で理性的な人物だったと指摘した。キョ・スンボムは秀吉の選
択が東アジア世界で日本が持つ歴史的位置と関連することを想起する。秀吉の日本は、明が主導する
東アジア世界の中に入った経験がないから、冊封-朝貢制度の明確な意味が分からず、ただ自分が得意
な戦争のやり方によっただけ、というのだ。一方システムの内部でその長短所を正確に理解したヌル
ハチは、新しい世界を建設することができた。
106名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/27(日) 14:33:08 ID:uRzvPDWr0
東アジア史に対する無理解

ヌルハチと秀吉の比較は朝鮮と日本の関係の中で侵略とレジスタンスの話として壬辰の乱を理解して
来た私たちに新しい視点を開いてくれる。先に東アジア史の観点で壬辰の乱を理解する必要性を提案
する。東アジア史の観点とは朝鮮と日本、中国と遼東などを含む他者との関係分析と同時に冊封-朝貢
関係に基礎を置いた東アジア秩序の性格に対する細心な理解を要求する。その上で壬辰の乱が論議さ
れる時、私たちは秀吉の軍事的冒険に対する歴史的評価が初めて可能であることを理解できる。

次に壬辰の乱がどのように記憶されるかについて。この本に載せられたタカギヒロシの文は明治維新
以後、日本が秀吉を顕彰して記念する過程とその現実的背景を詳しく紹介している。特に韓日強制合
邦以後、朝鮮侵略の先駆者として、ひいては大東亜建設の雄志を抱いた先覚者として秀吉のイメージ
が拡大再生産されていることをよく見せてくれる。このような操作された記憶が通用する土壌は一次
的に東アジア歴史に対する集団的な忘却と無理解にあるだろう。

西欧史学の流入で歴史の理解が国家単位に割れることで東アジア史に対する総合的理解は不可能にな
った。このような状況で東アジア史研究を推進することは現在の国家記憶が抱えている問題点を理性
的に示すことで、この地域に和解と共存の礎石を押し堅める作業になるだろう。

以上の議論は「壬辰の乱-東アジア三国戦争」における問題意識のキーポイントと言える。この本は1、
2日の努力で書かれたのではない。西江大チョン・ドヒ教授主導の下、2003年から基礎研究と資料の
調査、そして国際学術会議を経て本が出るまで5年の時間が必要となった。その結果、韓国と日本、ア
メリカ、オランダなど多様な地域の専門家が著者として参加して十分な時間を持って論文を作成した。
にわか造りの研究成果が珍しくない現実で、このような努力は高く評価を受けなければならない。

豊臣秀吉の欠陥を指摘することは韓国人の民族的情緒に符合する面があって読者に別に拒否感を起こ
さないだろう。しかし、実際この本は不都合な真実にもっと多くの章を割いている。戦争記憶の操作
は韓国人にも親しいことだったからだ。この本の前半部に載っているいくつかの文はそういう問題を
正面から扱う。
107名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/27(日) 14:33:34 ID:uRzvPDWr0
暗い過去を直視する勇気

チョン・ジヨンは驚くべきことに論介(ノンゲ)が倭将を抱えて死んだという話は立証できない、と主
張する。にもかかわらず今日、ノンゲが歴史中の人物と記憶されているのは、6・25戦争(朝鮮戦争)
以後、国家的危機を突破するイデオロギー装置としてノンゲの忠節が活用された結果だ。この話の中
でノンゲは芸者として本来堕落した存在だが、国家に忠誠を捧げれば純潔になることができると設定
された。ノンゲを民族の名前で顕彰するが、実は女性と疏外階層性を排除する位階論理が民族談の中
に働いていることを鋭く指摘する。

ヨネタニの文は壬辰の乱の時の日本で捕らえられていった人々の運命を追跡した。その数およそ数万
に達し、終戦後六千人以上が帰還したと推定されるが、意外にも帰還捕虜らが大部分罪人の烙印を押
される不幸な運命を受け入れなければならなかったことを淡々と叙述する。これまで日本の大規模な
人身掠奪を責める声が高かったが、実際に帰還捕虜たちを朝鮮でどのようにもてなしたのかについて
は関心がなかったことは事実だ。

ハ・ヤンヒの文は、紅衣将軍、郭再祐(クァク・チェウ)が丁酉災乱(慶長の役)の時、昌寧の火旺
山城で日本軍を打ち破った、という話が後代に操作されたことを実証する。英祖(ヨンジョ)代の老
論(訳注:李氏朝鮮の党派の一つ)の精神的支えである趙憲と七百の銃を顕彰すると、彼に対抗して
南人(訳注:同じく党派の一つ)集団が「同苦禄」を出版して火旺山城の話を作り出したというのだ。

以上の文等は壬辰の乱に対する韓国人の民族的記憶が実際には信頼できない、という戸惑う事実を悟
らせてくれる。

一方ジョン・B・ドンコンは歴史では、記憶が国家や特定の集団によって操作されるだけではないこと
を幅広い視点で見せてくれる。彼は壬辰の乱以後民間に流布した「壬辰録」に現われた日本と中国に
対する敵対感を指摘した後、開港以前にすでに朝鮮の非エリート層の間に自分たちが住む郷村社会を
飛び越えた一体感が存在したと評価する。壬辰の乱という戦争経験は漸進的に韓国社会に‘民族’が
形成される基盤を提供したわけだ。

李舜臣の記憶に対する系譜を追跡したチョン・ドヒは、さらに記憶研究の当為性を強調する。彼は李
舜臣に対する近代的記憶を検討した結果、シン・チェホを除けば、みな李舜臣が当面した朝鮮の現実
を話さなかったと指摘する。李舜臣は恐ろしい現実をしばらく忘れるための逃避先(229ページ)だった
わけだ。チョン・ドヒは韓国でも日本でも自分たちの暗い過去を直視する勇気がなければならないし、
そうするためには李舜臣と壬辰の乱に対する記憶の歴史を歴史的に暴く努力が必要だと力説する。

キム・ソグ郡山大講師・史学
naver/新東亜(韓国語)‘壬辰の乱-東アジア三国戦争’ 新東亜
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=262&aid=0000000958
108名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 15:15:47 ID:gW21nSE20
>>105
東アジア三国って、日本と明と女真?
109名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/30(水) 14:12:19 ID:hpNtBwZW0
豊臣秀吉とヌルハチでは、条件が違いすぎるだろう。
110名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 22:52:41 ID:vTIAVCYs0
明を滅ぼしたのは、直接的には清じゃないしね。
自壊のようなものだし。
111名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 08:14:56 ID:ZFZcuCdj0
明を滅ぼしたのは李自成だよ。
112名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 14:02:09 ID:IfpujNz40
李自成の勢力範囲を地図上に描くと、華北一帯をぐるっと囲ったようになるけど、
実際にはどれぐらい統治できていたんだろう?

基本は、流賊集団だしね。
113名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 21:50:52 ID:64T3VOmd0
崇礼門、この戦役でも残ったのに……
114名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 22:55:53 ID:gBZ+ei7K0
>>113
百年後とかに、普通に、その戦役で焼失させられた事に成ってそう…
115名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 23:08:17 ID:93LCYIzD0
超時空太閤ヒデヨシの仕業ですなw

ま、焼け落ちるところをテレビで見た時は、さすがに心が痛んだけど。
116名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/15(金) 00:04:43 ID:47ZMcoA00
当時日本の軍隊はまるで農民武装のようで、明の軍隊と比較にならなかった。
明が文禄・慶長の役のために払った白銀は明の皇太子の結婚式に払った白銀より安かった。

つまり、日本の戦国時代の戦争は農民の喧嘩のようだった。
117名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/18(月) 05:16:38 ID:wv0gPSUA0
戦国時代っと、農民の喧嘩がエスカレートしたようなものだろう。
118名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 21:26:13 ID:iJYxAmtn0
>>116
さすが萬暦帝、大馬鹿だな。
119名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 20:46:51 ID:OSGvNlfz0
万歴帝な
120名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 21:16:39 ID:bg6weumA0
>>119
プッ やっちゃったね。
121名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/03(月) 13:47:21 ID:E1AwDB770
明は朝鮮の役で900万両使ったらしい。
皇太子の結婚式では30万両使ったらしい


万暦帝からみて、秀吉が結婚式30回分の戦争だったと思うと泣けてくる
122名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/08(土) 11:35:38 ID:RudAAO+M0
 世界的なオンライン百科事典や有名ウェブサイト、米国の教科書などが李舜臣(イ・スンシン)
将軍を卑下するなど歪曲していることが明らかになった。

 サイバー外交使節団バンクは7日「慶尚南道(キョンサンナムド)と共同で推進中の2008年
‘李舜臣世界化事業’の一環でオンライン百科事典と海外の教科書、有名ウェブサイト上で紹
介された李舜臣と壬辰の乱の内容を分析した結果、李舜臣将軍の業績を卑下して壬辰の乱
の期間と亀船の開発時期を間違って表記するなど歪曲が深刻だった」と明らかにした。

 エンサイクロペディアン(encyclopedian.com)と豪州の百科事典(encyclopedia.kids.net.au)、
知識百科事典(knowledgerush.com)、エンサイクロペディアフォーユー(encyclopedia4u.com)を
含んだ百科事典たち(fact- index.com,allyouneedtoknow.org,websters-online-dictionary.org)
は「李舜臣将軍が日本との休戦協定を破って露梁海戦で撤収する日本軍を攻撃した」と記載
している。

 これは李舜臣将軍が正当な戦争で勝利したのではなく、まるで卑怯で卑しく戦争に臨み結局
戦死したように描く説明のため、これを放置した場合全世界の外国人に李舜臣将軍に関して
間違った印象を与えるようになる余地が大きいというのがバンク側の主張だ。

 米国ヤフーのサイト(travel.yahoo.com)、旅行チャンネル(guides.travelchannel.com)などの
サイトは壬辰の乱時に12隻の亀船だけで133隻の日本艦隊を炎で焼いたと手短に紹介した。
李舜臣将軍のリーダーシップと板屋船、火薬武器、朝鮮水軍の勇猛さなどは勝利の要因から
除かれたのだ。
123名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/08(土) 11:36:00 ID:RudAAO+M0
 またバイオクローラー(biocrawler.com)、ファクトブック(factbook.org)などは「1592年4月壬辰
の乱が起きて、1592年12月李舜臣が率いる抵抗勢力に押され(日本が)撤兵した」と表記して
いる。日本の撤兵は1598年11月だ。

 さらには知識検索サイトであるアンサードットコム(answers.com)は李舜臣将軍の名前を
‘ビ・スンシン将軍’に、ファレックスドットコムは李舜臣将軍が古文島で戦死したと間違い
は少ない。

 米国の教科書32種類の中で李舜臣将軍に対しての内容がある教科書は3種類しかなく、そ
れさえも内容は3列位で短かった。また壬辰の乱を載せた教科書は7種類で、大部分は韓国史
ではなく日本史の豊臣秀吉を説明しながら扱っている。

 世界4大海戦と関連、海外ウェブサイトでネルソンのトラファルガー海戦を検索すれば39万7
千件余りが出て、カレー海戦は29万6千件、サラミス海戦は8万3400件が検索されるが、李舜臣
将軍の閑山大捷は1370件に過ぎない。

 パク団長は「全世界にキチンと知らせるため3月中旬に‘李舜臣世界化’英文、ハングルサイ
トを開設する予定」と明らかにした。

▲聯合ニュース(韓国語) 2008/03/07 15:32
<이순신 장군의 이름이 '비순신'이라고?>
<李舜臣将軍の名前が 'ビ・スンシン'であると?>
http://www.yonhapnews.co.kr/society/2008/03/07/0706000000AKR20080307131800069.HTML
124名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/03(木) 20:14:16 ID:ajbEVHjA0
あげ
朝鮮に兵を入れるなら、いつどの国でも酷い目に遭う。
125名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/03(木) 22:53:12 ID:7jgRVHmY0
明の武官の最大関心事は、いかに多くの戦費をせしめるかだろうな。

負けるのは困るけど、簡単に勝って戦争が終わるのも困りもの。
ほどほどに長引くのがいい。
126名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/13(日) 21:02:11 ID:Kcwub7Lz0
李舜臣の書いた乱中日記の欠落部分が新発見されたらしいな。
忠武公全書に纏める時に相応しくないので省かれたらしい。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2008/04/02/0200000000AJP20080402002200882.HTML
127名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/13(日) 23:44:54 ID:jXsvNtZt0
>>126
判読・翻訳って……今までは漢字をきっちり読めていなかったってこと?
128駄目だな朝鮮:2008/04/14(月) 09:27:02 ID:HVEQjO59O
>>126
902 名無し三等兵 sage 2008/04/13(日) 21:12:35 ID:???
大勝だとか違う負けだとか言われている鳴梁海戦の後に朝鮮の前線の押し出しは停滞していたの?

http://plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/diary/200804110000/
それより注目すべきところは、海戦のあった海域です。
折爾島が居金島だとすれば、古今島のすぐ東方、日本軍最左翼である順天倭城からはかなり西方であり、前述の「乱中雑録」記述とも重ね合わせれば、海岸沿いの明鮮水軍の前線が1597年末から全然前進していないことになります。
129名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 00:41:42 ID:4Wzck+Rw0
ようつべで動画ハケーン
ニコ動にも一部がうpされてる『不滅の李舜臣』
全編有るみたい? 英語字幕付きで分かりやすいかも。

The Immortal YSS Ep. 1 Part 1
ttp://www.youtube.com/watch?v=tKKp0tguDYY&feature=related
130名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/17(木) 14:10:44 ID:+uwV0rRS0
http://mywiki.jp/yuto/%8Eh%8C%83%93I%82%C8%90%E0/%92%A9%91N%8Fo%95%BA%8E%9E%81A%93%87%92%C3%8E%81%82%C6%96%BE%82%AA%92%CA%92%AB%82%B5%82%C4%82%A2%82%BD/
戦争が長引いたら、明軍の大船団が南から日本に上陸したそうだ。
島津もこの陰謀に加わっている。
131名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/17(木) 23:51:50 ID:CUEQjnSl0
島津と言えば、かなり後だけど、
明が滅びた後の南京の亡命政権とも接触していなかったっけ?
132名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/19(土) 08:09:51 ID:deBF8pZt0
国性爺?
133名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/19(土) 23:17:43 ID:jtTgGs+X0
>>132
国姓爺鄭成功が担いだのは福建の政権だけど、
その前に、一応は正当な政権として南京で擁立された皇帝がいた。
すぐに滅ぼされたけど。
134名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/22(火) 01:11:32 ID:ysNojJJz0
乱中日記:「消えた32日分」の内容が明らかに
http://www.chosunonline.com/article/20080415000057
>現在までその実態が明らかになっていなかった1598年7月の「折爾島(現在の全羅南道居金島)海戦」に関する記録もあった。
135名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/15(日) 22:47:48 ID:KjYLI9/O0
関連スレ
秀吉の朝鮮征伐を明の観点からの考察
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1204276024/
136名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/16(月) 08:56:53 ID:s2i3bOw7O
この戦争は誰が中華英雄だったの?
137名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/18(水) 23:59:00 ID:WYwUbJIz0
文禄の役では、直前にボバイの乱を鎮圧した李如松が、
ちょっとした時の英雄って感じだったけど、
碧蹄館の戦いで負けてしまったしね。

泗川の戦いで明軍を指揮した董一元も、あんまり重要人物とも言えないしな。
経理の楊鎬も、負け戦を勝ったと偽って報告して解任、
二十年余り後のサルフの戦いでもボロ負けしたし。

138名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/19(木) 05:41:56 ID:wrDGn0s/0
2ちゃんねるは統一協会が運営(3:20から)
2ちゃんねるは朝鮮カルト、ユダヤ権力にとって不都合な発言をする人間のIPアドレスを取ったり、個人情報を集めるための道具
http://jp.youtube.com/watch?v=D9_KTEk2ukE

【社会】「言いたいことは言えたので、スッキリ」 ベンジャミン・フルフォードさん、山口組総本部前で拡声器で抗議活動★2
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1213784588/
山口組の本部に行ってきました・・ベンジャミンさんのブログ
http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/2008/06/
レポ・・ベンジャミンの山口組本部「道場破り」見に行ってきますた。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/20
92/1213458949/50-51   ←↑接続

在日なのに同和幹部(?)で元ヤクザで創
価の金さん 妻に射殺される  
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1213694629/ 

830 : カー・コローグ・ヨメ(コネチカット州):2008/06/18(水) 09:10:12.30 ID:LfOctBI0O
ニュースで流れた金さんの自宅の表札が日本名だった件

ヤクザの9割は「在日と同和」、彼らは恐喝のために右翼団体を名乗る
http://www.youtube.com/watch?v=2uTFIS1RDJg

偉人渡辺昇一が何十年も考え続けて得た結論。
「反日思想の源泉」 渡部昇一
http://www.youtube.com/watch?v=BzfpilmxgBU

勝谷誠彦 【在日特権】三重県伊賀市 住民税減免問題
http://jp.youtube.com/watch?v=ChfpqdwyBTA
139名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/21(土) 23:41:13 ID:otwRgv9W0
>>136
俺的には沈惟敬かな。
有る意味、口先だけで日明朝の三国を、手玉に取ったし、
何だか、春秋戦国時代に活躍した、縦横家を彷彿させる。
まぁでも、結局口先だけのペテンなので、最後は処刑されちゃったけど…

キャラ的には凄い面白いと思う。
こんなにキャラが立ってるのに、立伝されて無いのが惜しいな、と思う。
140名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/23(月) 20:08:10 ID:LGa7f69E0
島津義弘、加藤清正って
現在の中国ではどう思われてるのかな?
141名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/08(火) 01:33:59 ID:Tw7gQzCA0
>>140
日本から輸入された、戦国時代を題材としたゲームによって、
若い世代を中心に知られているw

ゲームから入って、(日本の)戦国オタになった人が結構いたりするんだわw
142名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/10(木) 10:36:09 ID:xWHk50+V0
明軍は大軍を擁して総攻撃をしたのに蔚山を落せず、少数でやってきた日本の援軍に野戦で大敗している。
なにやってんの、明?

143名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/30(水) 23:30:47 ID:TSI7iQUd0
「対馬は、遠い昔から韓国に朝貢を行ってきた韓国の領土だった。
壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を起こした日本が対馬を武力で占領した
が、決死の抵抗を行った(対馬の)義兵がこれを撃退し、義兵の戦蹟
碑は対馬の至るところにある。1870年代に対馬を不法占拠した日本
は、不法に所有した領土をポツダム宣言によって返還することになっ
たのだから、韓国に返すべきだ」 

 1949年1月7日、大韓民国の初代大統領・李承晩(イ・スンマン)が
初の年頭記者会見で語った発言だ。


朝鮮日報
「対馬は韓国領」説に歴史的根拠あり(上)
http://www.chosunonline.com/article/20080727000010
144名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/04(月) 01:27:00 ID:zZcjMiDC0
>>142
援軍に来たのは、小早川秀秋、黒田長政、毛利秀元らだから、
少数と言うほど少なくもないだろう

ま、明軍もだらしないけど
指揮官の楊鎬は、サルフの戦いでもしくじっているから、人選ミスだろう
145名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/05(火) 17:18:04 ID:b5uf6xIR0




http://love6.2ch.net/test/read.cgi/male/1207390699/
(↑424を見てください↑)
(((( ;゜Д゜)))(((( ;゜Д゜)))(((( ;゜Д゜)))うわああああ

中国のマジ本物の拷問レイプ画像動画っ!!!
146名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/29(金) 12:16:48 ID:hvH8Gqgq0
>68
やはり日本と中国の歴史記録が違う。
中国明実録に載ってあるのは最初2000人の明軍が小早川に囲まれ、李如松は1000人を連れ救出しようと思って
囲まれ、残る楊元はあと1000人の騎馬鉄砲隊(三連発の火銃、射撃終了、銃口を握り、ハンマーとして使える装備)
を連れて突撃、李如松と合流後撤退成功。
147名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/01(月) 23:48:29 ID:q+z81bbT0
兵数は数え方によって違ってくるからね
兵站要員まで数える場合と、騎兵中心の戦闘員だけ数えたのでは、
当然数字が大きく違ってくる
148tiger:2008/12/04(木) 14:45:34 ID:Hs1Lq0a20
平壤之战“斩获倭级一千五百有余,烧死六千有余,出城外落水淹死五千有余”。李如松凭此一战,威名大振,
碧蹄馆一战据日本《立花家传》、《武将列传》记载,日军阵亡将领包括:
  小野成幸 十时连久 池边永晟 安东幸贞
  小川成重 安东常久 久野重胜 横山景义
  桂五左卫门 内海鬼之丞 伽罗间弥兵卫 手岛狼之助
  汤浅新右卫门 吉田太左卫门 波罗间乡左卫门
  一昼夜交战阵亡日军将领高达十五员之多,可见当日战况之惨烈。
149名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/24(水) 14:14:47 ID:94eJh0gA0
>>146
騎兵の数だから歩兵入れたらもっと兵数多いんじゃない?
150名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/24(水) 15:40:04 ID:p0lHVfdR0
中国人に聞いた文禄・慶長の役
悪い豊臣秀吉が明に侵攻してきた戦争。朝鮮空気。
加藤清正は秀吉の部下。島津しらね。
日本軍と戦った李将軍が明時代を代表する名将との評価。どの李将軍かは忘れた。
徳川家康が秀吉を倒して終わった戦争。

撃退したけど、勝ったとは…と、言うのが評価らしい。
勘違いもあるが家康の評価が高く、秀吉は悪い。
151名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/24(水) 20:54:05 ID:wLG2Uwxy0
>>150
そこで名将と評価されているのは李如松な。
152名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/24(水) 22:27:12 ID:aH3t2sJUO
楊鎬に劉大刀こと劉挺、そして李如松。
だらしない面子勢揃いだな。
李如松を李如柏に入れ替えたらサルフの負け組のできあがり。
日本側は意外にも吉川広家が尉山の戦いで軍才を披露していたりするのに。
袁崇換とか呉三桂はまだ子供だったっけ?
153名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/25(木) 00:08:03 ID:UnORshPo0
尉山の戦いってどんなの?
154名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/25(木) 00:15:14 ID:yYz4AGo+O
蔚山だね。失礼。
155名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/25(木) 02:40:49 ID:zVrIgLC30
>>152
呉三桂は、父親がこの戦いに参戦してるよ。
156名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/25(木) 08:19:05 ID:UnORshPo0
父親は活躍したのか?
157名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/25(木) 15:00:41 ID:yYz4AGo+O
日本側も有名なだけで実力は?な面子が多い。
加藤清正は頭もよくて度胸もあったみたいだけど、小西行長、福島正則、
黒田長政らも含めて秀吉子飼いの連中は実戦でそこまでの結果出したわけ
でもないし。
島津義弘は家久に較べれば小物。彼が島津代表とは言い難い。

評価できるのは小早川隆景と隆景に撤退を説いた大谷義継、蔚山の戦いで
の吉川広家ぐらいか。
活躍はしていないが伊達政宗は一流の戦国大名。
立花宗茂はちと危ないかな。実力はあったのだろうが。
158名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 15:05:31 ID:edF0KUHT0
チョンの武将だけど
権慄はかなりの名将
幸州山城の戦いで3万ちかい日本軍撃退してる。

159名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 19:31:54 ID:6qXHnZ+H0
其实在那个年代,无论上面说的加藤、岛津、吉川、立花道雪、等等再
加上K田官兵卫、竹中半兵卫、上杉谦信、武田信玄、北条氏康、毛利
元就、本愿寺、织田信长等人,都是不朽的英雄,堵上自己的性命,参
与到日本的时代变革中去的就是英雄。
160名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 21:59:25 ID:KUAFFpPeO
>>158
城を守り抜くというだけではそれほど評価もできないな。

李舜臣も閑山大捷よりも漆川梁の海戦を避けた点が、戦機を見極めること
ができた、「将、外に在りては君命といえどもうけざるところあり」に
かなった判断ができたという二点で評価できる。
161名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/27(土) 14:13:59 ID:jXNYWux50
>>160
それを言うなら元均も李舜臣と同じ戦術眼を持っていたことになるよね?
政権からの圧力で嫌々出撃して予想通り大敗したが。
162名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/27(土) 14:28:08 ID:DDj0IJ94O
>>160
漆川梁においてはね。
元均には抗命する勇気がなかった。
163名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/27(土) 15:49:51 ID:KryH1RHJ0
>>160
ただ守りに抜いただけでなく
大将の宇喜多や有力武将の吉川や三成が負傷するくらい健闘したんだし
チョンは嫌いだけどもっと評価してやってもいいんじゃないか?
164名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/27(土) 19:02:54 ID:DDj0IJ94O
それでも日本でいえば吉川経家や清水宗治ぐらい、中の上くらいだとは思うんだがな。
宇喜多秀家や吉川広家もキレやすい人物だったから戦場では必死に働いたんだろうなぁ。
165名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/28(日) 11:39:28 ID:w6UHkSKN0
1976年の大河ドラマは、加藤剛主演で平将門だったけど、これは最初は加藤清正の予定だったらしい。
NHKの偉い人が加藤清正では1年もたないといって反対したそうだ。

来年が直江兼続で、2010年が坂本龍馬だが、そのあとにでも、「文禄慶長の役」でもしてくれないかな?
今だったら、中国・韓国側の登場人物は、相手国のスターを使うこともできる。

日本は、秀吉を始めとする戦国時代オールスターが登場する時代だし、
韓国だって、光海君なんかなかなか面白そうな人物がいた。
中国は、あの万暦帝がいて、満州にヌルハチが台頭した時代。

東アジア全体を視野に入れた面白そうな作品になりそうな気がする。
166名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/28(日) 11:41:03 ID:w6UHkSKN0
光海君なんかなかなか面白そうな人物がいた。→光海君なんかなかなか面白そうな人物。
167名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/29(月) 11:04:14 ID:UhTtnjwL0
>>165
面白そうだと思うが、予算が・・・
168名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/30(火) 10:53:04 ID:OqOnW/cM0
風林火山の合戦シーンもショボかったな。
169名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/31(水) 09:37:17 ID:aYqsoefX0
韓国ドラマの「宮廷女官キム参宮」(主演・イ・ヨンエ)
では、光海君は、臣下のイ・イチョムや寵妃のキムj参宮に押し切られて
心ならずも反対派や兄弟を粛清する悲劇の王様だったが、
史実ではどうなんだろうね?自分の意思でしたんだろうか?

韓国の留学生に光海君の事を聞いたら、
「あの人は頭は良かったんだけど、心は冷たかったんだよね」
なんていっていたが。
170名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/31(水) 09:38:57 ID:aYqsoefX0
ついでに、そのイチョム役の役者が、また、意地悪爺さん振りを発揮してw
おそらく、韓国では名のある名わき役なんだろうが、
見ていたら、その人に吉良上野介の役をして欲しくなったほどだったw
171名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/31(水) 09:43:49 ID:aYqsoefX0
参宮じゃなくて、尚宮だった
172名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/02(金) 20:10:23 ID:Ayg3yfPn0
>>165
半島がファビョるので無理です
173名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 13:10:23 ID:svmkn5VI0
拉致被害者の蓮池さんの翻訳で、李舜臣を描いた「孤将」(原題・刀の歌)読了

李舜臣の一人称なんで、歴史戦争小説としての面白さはないが、李舜臣の複雑な立場がわかって面白かった。
権力の個人に対する無慈悲に繋がる無関心さ、その中での個人の卑小さ、無力さとともに
人間とはそれでも個人としてのプライドを持ち続けることのできる存在であることが描かれていて感動した。

中国は、明は万暦に滅ぶ、と言われた万暦帝の時代、朝鮮も、土台が揺るぎ始め、満州では女真族が力を蓄えだした中、
秀吉によって統一された日本は明を目当てに朝鮮に出兵、
李舜臣は、日本だけでなく、無能な王、派閥争いだけを繰り返す政府高官、朝鮮の民衆に暴行略奪をする明軍、
日本への内通者・反乱者・火事場泥棒達と戦わねばならなかった。
その中で、王への反逆を疑われた彼に与えられたものは、一時的に死刑を伸ばすという「免死」の二字・・・

この時代の話をもっと読みたくなった・・・
日韓合作で大河にしてくれんかな。主人公は加藤清正、副主人公は光海君か李舜臣。
そしたら、韓国側のセットや衣装は韓国のものが使えるからあ、少しは予算が浮く・・・?
そのときは、是非とも宣祖をヨンさまでお願いしたい。
いくら無能で猜疑心が強くとも、一国の王なんだから、高貴な印象を与える人でないとw
174名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 15:32:12 ID:xuDkOTdU0
むしろ万暦帝の大河キボウ
175名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/19(火) 11:51:18 ID:nFAxwXVi0
文禄・慶長の役が海外で誤解されまくってる件
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1224042272/
176名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/02(日) 13:59:18 ID:3hPxCQw40
軍板 秀吉による朝鮮征伐の軍事分析PartX
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1247907984/
日本史板 【文禄】 秀吉の朝鮮征伐 【慶長】パート2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1246664853/
世界史板
世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察その8
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1243771115/
李舜臣vs日本水軍
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1237814841/
戦国板
【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ5 【壬辰倭乱】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195992731/
朝鮮出兵のタブーでメジャーになれない武将
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1228738050/
文禄・慶長の役が海外で誤解されまくってる件
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1224042272/
【朝鮮出兵】日本人は朝鮮人に未来永久謝罪すべき
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153627160/
戦争・国防板 秀吉による朝鮮征伐に関する考察
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/war/1220349972/
中国英雄板
秀吉の朝鮮征伐を明の観点からの考察
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1204276024/
【日明戦争】文禄・慶長の役【万暦役】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1182128954/
ハングル板 秀吉の朝鮮出兵には義がなかった
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/korea/1248847887/
177名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/03(月) 09:27:52 ID:OsJ8h5pH0
「朝鮮王朝実録」
 「日本兵との接近戦を禁じた」
 「日本兵捕虜に熱心に剣術を習った」

「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」

「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。

「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
178名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/27(日) 09:33:39 ID:tICfXLP/0
董一元に新寨進攻を命令した「経略のケイカイ」って誰よ?
詳しく知ってる人情報キボンヌw 漢名すらわからんよorz
179名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/27(日) 13:27:29 ID:LvIxPDGG0
>>178
漢字が難しいんだよ。
180名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/28(月) 05:38:27 ID:8ggMoKw90
いま某やる夫スレで扱ってるな
181名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/06(火) 20:42:01 ID:/AapwRbo0
>ケイカイ
おおよその字形で言えば
「刑の左」+「隆の左」、、で1字、「王」+「介」、、で1字(王は「土が坂」になる変形)

182名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/06(火) 20:53:07 ID:eS5A3YFu0
あ、「郎の右」といえばよかった。

中国語では探せます。
http://baike.baidu.com/view/675206.htm
兵部尚書

経略は役職名、ほかに経理、提督、都元帥、、など
183名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/06(火) 22:24:22 ID:SXtATrUg0
なんか、左とか右とか、まるで日本語が不自由な人みたいだな。
最近の国語教育は偏とか旁とか教えとらんの?
184名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/11(日) 13:29:08 ID:3e2K8b7UO
そんなもん忘れちまったよぉー!
そんなもん知らなくても大学にはいれるしよぉー
185名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/11(日) 17:07:13 ID:n5vqA8lK0
明史では総兵のうち(4人いた)陳リン、劉テイ、麻貴が評価される。あと1人は董一元。

漢字はGoogle検索で見つかる
186名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/12(月) 16:09:26 ID:fvLvWjUqO
劉大刀はどこが評価に値するんだ?
サルフでも壮絶に負けてるし。

戦線膠着、苦戦の連続の割には細かく見ると日本の戦術的勝利ばかりで
意外とつまらないんだよな。
呉三桂か袁崇カンがいれば名勝負が見れたのに、というのは不謹慎か。
187名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/15(月) 10:53:54 ID:mdpWPl7WP
>>181
だからこそ核武装を急ぐ必要があるんだよ
核保有国である中華人民共和国(含朝鮮半島)の動きを封じる為だけではなく
日本自身が不戦の決意を示すという重大な意味があるんだ
イギリスで日本が何て言われているか知らないのか
合州国ではヒロシマ、ナガサキをもう一度という声まで上がっている
日本への不信感がいま世界中に広まりつつあるのを知らないのか
もはや9条では駄目なんだ
核の平和利用という形ある行動で示さなければ日本は信頼を失う一方だよ
188名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/21(日) 16:55:06 ID:njV4DkrI0
「朝鮮王朝実録」
 「日本兵との接近戦を禁じた」
 「日本兵捕虜に熱心に剣術を習った」

「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして馳テイする能はず。
賊(日本軍)長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」

「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。

「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった

189名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/27(木) 11:43:00 ID:JXbjILak0
柳成竜『懲録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)

・日が暮れ、賊は、(白)光彦らの緊張がやや緩んだのを見て、白刃をきらめかせて
大声をあげて突進して来た。光彦らは、あわてて馬を探して逃げようとしたが、間に合わず、
みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。

・翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら
突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。
打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。

・まだ川に身を投じていなかった者には、賊が後ろから長刀を奮って切りかかったが、
みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。
 (金)命元と(韓)応寅とは、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった。

・わが軍は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、
四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵であったので、
仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、
ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように
斬り倒し、死者は数しれなかった。

・水際を行ったり来たりしている者は、あるいは一、二名、あるいは三、四名ずつ、
大剣を肩にしていて、それに日光が反射してきらきらと電のように閃いていた。

・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。

・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。
190名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/10(木) 14:07:40 ID:I6x45c290
ルソン提督がスペイン王フェリペ2世に宛てた手紙
「コーチシナ、ここは1000人で征服できます。
カンボジア王国、ここは我ら(スペイン)の生活の面倒をみてくれています。
シャム、ここは1500人で征服できます。
いずれも偉大なスペインの旗を立てるのは容易ですが・・・・・
日本が攻めて来れば、ルソンは壊滅します。」

パステルス「日本スペイン交渉史」
191名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/13(日) 18:57:23 ID:igQae7nf0
碧蹄館は結局日本の勝ち戦で明の提督は碧蹄館で戦意を失った

柳成龍は明軍が日本刀にやられたと書いている。
フロイスも朝鮮は日本刀に対抗出来ず征服された(日本史第三十七章)と書いている
三十八章でも鉄砲に加え太刀の威力で散々襲撃したので朝鮮軍が遁走
鉄砲では朝鮮軍は後退するも完全に崩れておらず、太刀の突撃で戦場を放棄したとしている。
その後、明が日本の武具を入手して対抗策を講じた事が書かれている (第四十一章)

フロイスは四十三章冒頭に祖承訓との合戦で小西行長は明兵に対する認識を改めたと書いている。
朝鮮よりは強い明兵を小西は評価したようだ。
が、碧蹄館後の記事でフロイスは日本人は支那人より勇敢で、武器ならびに戦術の点で優れており、
種々の面で支那軍の劣勢は掩うべくもないと分析した(第四十三章)


結局の所、明軍も弱くはないが日本軍の方が戦上手で強いという評価に落ち着く。
192名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/23(金) 19:08:57 ID:QUC7S8ct0
ただ肝心の日本軍に戦意がなかったという歴史的事実
193名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 16:59:36 ID:lUl3zbwj0
この頃の日本兵なんて、「祖父が生まれる前から戦やってました」な戦闘エリートだろうしなあ。
兵士個人の戦闘力なら、世界史上最強の一角じゃないのか。
194名無しさん:2010/11/04(木) 12:05:37 ID:O8pjbWH50
》》朝鮮の民衆に暴行略奪をする明軍
そうじゃないでしょ
自費で朝鮮に支援するなのに
195名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 18:51:44 ID:IjeSzwfD0
>>193
でも、惣無事令とかでてたし、若い世代には実戦を経験していなかった兵が多かったり、
経験していても5,6年はブランクのある兵とかも多かったんじゃないかな。
196名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 00:14:47 ID:5BFfEQZC0
邦訳の中国の中学教科書を最近読んだんだが豊臣秀吉が倭寇より扱いが下だったとは・・・
197名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 15:01:50 ID:hPY7XNGyO
>>196
そりゃ秀吉はあの時だけだが、倭寇は長かったし仕方無かろう
198名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 17:50:30 ID:IESCihuH0
>>196
先日、ブクオフでHAMMONDの世界史地図帳を見つけたので、歴史英単語の勉強がてら
ぺらぺら見てるけど、明代の中国の地図は沿岸が倭寇の侵攻域として真っ赤に染まってて
倭寇スゴス!というカンジ。

で、その図では、朝鮮出兵は後期倭寇の一部的な扱いになってる(笑)。まぁ、欧米人からしても
その程度のモノ、と。
199名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 00:36:48 ID:KfU1uPDd0
そりゃ明朝からすりゃ総被害で言えば女真>>>>倭寇>>>>秀吉(笑)だろうからなww
200名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 01:22:55 ID:D5yEsVvZ0
   ニヤニヤ
|∀・).。oO( 女真は棚ボタだろw

201名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 21:50:45.61 ID:KNfxUVvx0
大陸の勝字銃って日本側が火縄銃を余裕で命中させる距離で命中しないのか。
すごい性能差だな。

柳成竜『懲録』

・城の上にいたわが軍が、勝字小砲でこれに応戦したが、倭の本陣は遠くにあり、
遊撃兵を出してきて交戦し、ばらばらに進み、代わる代わる出てくるので、
〔勝字小〕砲を発射しても命中しなかった。それに対し城を守るわが兵卒は
しばしば賊(日本軍)の弾丸に当たって斃れた。
202名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/29(金) 00:28:31.98 ID:EwqVvBuH0
小早川隆景率いる第6軍1万5千人って、立花宗茂の3千人や小早川秀包の
1千5百人を擁してる当時の日本でも最精鋭の一つだろ。
その第6軍でも実戦経験もない武装農民である義兵に勝てなかったんだから
120年の戦乱に揉まれた史上最強の武士たちもたいしたことねえな。
203名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/03(月) 01:39:23.45 ID:ZHN7c7PX0
この時代の日本人って正に戦闘民族だな、
それがどうしてこーなった・・・。
204名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/05(水) 15:50:26.61 ID:qszYCaMG0
今の日本も軍事力は最高レベルだし
国民は死を恐れず国家の為に戦うぞ
明治大正昭和の戦争でも日本人は勇敢だった
205名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/06(木) 10:51:09.40 ID:zYwuU/BKO
>>204

その日本人の驕りが数百万将兵をむざむざと大東亜で朽ち果てさせたのだ
206名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/19(水) 21:07:14.79 ID:KuOfiON6O
イゼルローンか(笑)
207名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/22(土) 00:18:05.66 ID:e5GRl+480
ヤミ金地獄物語 @9;28 A9:50 B8:05
http://www.youtube.com/watch?v=_gw-DVCxU2I&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=-YF1U9Guo3k&feature=relmfu
http://www.youtube.com/watch?v=cuY6GhYt_1o&feature=relmfu

中国報道:インドが日本の90式戦車を買うかも 1:54
http://www.youtube.com/watch?v=pijG1XJzYnA&feature=related
90式戦車 自衛隊の実力と実情 最新情報(AM-6th-Jun-2010) 9;58
http://www.youtube.com/watch?v=uZ6KgiZSKLQ&feature=related

中国軍事力の真実[桜H24/2/25]  3本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=YeMo1JaOm0U&feature=list_other&playnext=1&list=SP742E374F1A55EBAD

尖閣諸島・日中もし戦わば[桜H24/6/9] 3本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=Itu8VN7UrSo&feature=list_other&playnext=1&list=SPE6A5B81B8A7DB63E

!】日本が核武装したら世界はどうなる[桜H24/6/23] 3本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=C8lGIqJV_k8&feature=list_other&playnext=1&list=SPF6E7CF849E89964C
208名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/28(金) 10:15:09.34 ID:/Yp2tTLd0
>>203
アホかおまえ
その頃の日本人人口の9割以上は農民だよ
武士=日本人なんてのは昭和軍国時代のステマ
209名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/02(火) 08:35:29.59 ID:DxcwdrTG0
農民も戦闘していたわけだが…
210名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/27(土) 00:10:52.92 ID:OpyFJ+zD0
>>202
勝てないも何も、義兵なんて戦闘になったらほとんど惨敗してんじゃんw
高敬命も趙憲も霊圭もみんな戦死wうえw
しかも第六軍て碧蹄館で明の主力軍を大破した部隊だしw
その第六軍より強い農民とかサイヤ人かっつーのw
211名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/27(土) 23:01:23.89 ID:eukjWdN90
ていうか、当時の全羅道って義兵活動が盛んだっただけでなく
竜仁の戦いで崩壊した数万の官軍が流れ込んだりして抵抗勢力の温床になってたからね
その全羅道を六番隊単独で、しかも一ヶ月程度で征服しろというのも酷な気がする
212名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/02(金) 01:13:50.95 ID:w8JK/0xR0
つか、攻略しようとした時に丁度明軍が来たものだから、
全羅道は後回しにして六番隊は北上したというのが
正確でないかな。
213名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:EM+T0Jmj0
『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠

慶長の役で李舜臣率いる朝鮮水軍が鳴梁海戦で日本水軍を撃退し、
全羅道西岸への進出を阻止したなどという主張がしばしば見られる。
しかし、これが事実ではないことは以前からyasoshima氏が明らかにしていた。
•鳴梁大捷!! しかし李舜臣は逃亡200km,
右水営陥落
http://plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/diary/200802290000/

•鳴梁海戦@高山公実録
http://plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/diary/200901120000/

•全羅道西岸の3朝鮮人の動向@1597年9月-10月
http://plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/diary/200901140001/


日、明、朝の記録には一切存在しないにも関わらず、
朝鮮水軍が日本軍の補給線を分断して、苦しめたとの嘘が流布されている。

李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_10.html
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_9643.html


そして朝鮮人と左翼が「日本軍の残虐性」ばかりを強調する慶長の役にも
日本軍に味方する村々や人物がいたと朝鮮の記録に記されている。

唐武陣 文禄・慶長の役の偏り6 慶長の役で秀吉方についた朝鮮の地域
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcgggz3w9
214名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/12(木) 09:33:18.12 ID:0/w3iLyS0
豊臣軍VS明軍 の対戦表↓

明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)

第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)

露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将のケ子竜が戦死。

特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。

第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。

戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。
215名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/02(土) 14:37:09.93 ID:sYP8GzQw0
現在リチャード・コシミズ氏をはじめ多くの人が、不正選挙の裁判をおこしていますが、
これが不正選挙を行なった人々を怯えさせ悩ましているようです。
不正選挙はなかった事にされるというのが、これまでの彼らのやり方のようです。
ところが今回の不正選挙の裁判はリチャード・コシミズ氏が相手なので、
どうもこれまでのようにはうまく行かないようです。氏は大変頭の良い人なので、
裁判長であった斉藤隆氏に女装癖があり、その筋では"ビクトリア"あるいは"ヴィッキー"と
呼ばれていることをつきとめ、ブログ上で暴露してしまいました。
くわしくはリチャード・コシミズ氏のブログでご覧下さい。大変盛り上がっています。
216名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/12(火) 23:43:12.71 ID:Uo62c2Cd0
未だにサムライ幻想にとらわれているなんて、遅れてらー!
日本史版、世界史版、戦国版ではすでにサムライ最強厨は駆逐され
てるのに(笑)
217名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/13(水) 18:04:02.74 ID:NftfMM2r0
戦国板でwikipediaの数字すらまともに読めなかったと笑われてた彼か
こんな僻地で吠えてたんだな
218名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/13(水) 23:24:25.04 ID:C0/VSogr0
>>217
>こんな僻地で吠えてたんだな
それがサー、聞いてくれよ。
碌な根拠もなく妄想丸出しの
サムライ厨と日本史版や世界史版で
遊んでたらいつの間にか逃げるように奴らが
いなくなったんだよ!
それでサムライ厨を追ってここにたどり着いた
ってわけよ(笑)
219名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/19(火) 00:01:27.86 ID:lcSDgOxj0
>>218(217)
なんの幻想かは知らないが、少なくともスレの主題に
関しては>>214の歴史的事実だけがあるから。
220名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/20(水) 18:57:23.60 ID:xxLJX2fD0
>>219
戦国時代の戦乱を生き残った安土桃山期の武士って
千年近くにおよぶサムライの歴史上「最強の世代」だろう。
その「最強の世代」のサムライにとっても朝鮮半島を征服
するには荷が重かったと思うと・・・

ってことを認めるんだろうな(笑)
221219:2013/11/21(木) 00:52:58.42 ID:HSbZEOq60
>>220
まず、言っておきたいことがある
俺は、君が喚いている、サムライの歴史上「最強の世代」 って
そもそもは知らん。

で、
「朝鮮軍や明軍に圧倒されて、戦闘に負けて後退した」というのとは
カナリ違うのは確かだね。

秀吉軍の食料不足の原因には、李舜臣は関係なく、
文禄・慶長を通じ日本の兵站ラインである名護屋-壱岐-対馬-釜山の
海路は確保されており、釜山の物資が不足したことはない。
文禄では以下が要因。

1
朝鮮軍が弱過ぎて、予想より早く制圧しすぎたこと。
明から李氏朝鮮に日本の手引をしていると詰問された程。

2
小西行長が和平交渉をしながらという曖昧な状態で、
攻勢か防御かの意思決定がハッキリせず、食料の補給が遅れたこと。

3
文禄の役前後の朝鮮は腐敗政治や天災、農奴の脱走により、深刻な食料不足だった。
そのため現地調達もままならなかった。

4
人手不足、地形の険阻さのせいで、食料の遅配のため内陸部の部隊は食糧不足に
悩まされたため(義兵は李氏王朝の倉や民衆からも略奪することも多かった)

また平壌陥落も、小西行長が和平交渉期限が過ぎたにも関わらず、
律儀にも返答の使者を待っている時に、4倍近い明鮮軍の奇襲を受けて
善戦したものの、明軍指揮官の勧告を受け入れ城を明け渡した。
文禄・慶長の役で明軍がハッキリと勝ったといえる
勝利はこの一戦だけで、あとはすべて負けている。
フロイスも、従軍した将士たちから聞き取りしたところ、
唐入りの秀吉軍の死者のうち戦闘による死者はわずかで後は病死と記している。
翌文禄2年からは本土からの補給の開始と突出していた
部隊が南部に後退したので解消。
準備を整えた慶長の役では補給の破綻は起きていないし、
慶長4年8月の豊臣秀吉の死までの間、遠征軍は
予定されていた作戦計画をすべて完遂させていた。
222219:2013/11/21(木) 00:55:30.43 ID:HSbZEOq60
>>220
準備を整えた慶長の役では補給の破綻は起きていないし、
慶長4年8月の豊臣秀吉の死までの間、遠征軍は
予定されていた作戦計画をすべて完遂させていた。

慶長の戦いでは、
南原城の戦い・稷山の戦い、巨済島、いずれも日本勝利。
過大評価されている鳴梁海戦では、日本水軍の中型船のみを用いた先鋒に
損害を与えたが、その後は日本水軍の圧力に耐え切れず、
李舜臣は北に逃走、全羅道も制圧され、水軍基地も占領された。
末期の戦いでも、
泗川の戦い (島津軍 7000VS明朝軍29015)島津の報告3万8千討ちとる 明史8万を失うとある いずれも誇張だろうが、大損害を被ったことは推測できる。
順天城攻防戦(小西軍13700VS明朝軍55000)陸海とも多数の死傷者と舟23〜39を失うとある 僉使黄世得も戦死
第二次蔚山城(加藤軍10000VS明朝軍29500)権応銖の報告では明軍の被害は数え切れないとある。

もいずれも明朝軍が敗北を喫している
12万以上を動員した一斉攻勢は失敗した。

宣祖実録十月十二日↓
全ての攻撃で敗退した。これにより三路に攻めた明・朝鮮軍は
溶けるように共に潰え、人心は恐々となり逃避の準備をした

南原城の戦い・稷山の戦いも日本勝利。
露梁の戦いも、島津の8000と明軍と朝鮮軍の2万&伏兵という好条件にもかかわらず、
朝鮮軍は李舜臣が討ち死に、明軍もケ子竜が討ち死に。 島津軍と小西軍を殲滅できず。

以上のことから明朝鮮に負けた要素は探し出せず、日本軍の自主撤退が正解。
223名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 01:20:13.30 ID:IYP1QigI0
>>213
一番下のURL先だが、
初戦だけじゃなくて、1594-1598年の間にも秀吉軍に味方する
朝鮮人多かったんだな。

一般の本じゃ、こんな内容絶対に載せてないなwww↓


西生浦付近の百姓らは、悉く日本の占領地に立ち返って農耕に従事し、
租税を清正に収めているばかりではなく、日本の風俗に従って起居し、
遠近の商人らが互いに往来して市が賑わっていることが、
清正の副将美濃部金太夫と要時羅の書面に依って明らかになった。
朝廷では敵の交通路を断ち、より活発に敵中の百姓らを招慰する方針を
都元帥以下諸官に密命した。

宣祖実録巻六十一 三月甲戌 懲録巻四

「慶州駐屯の朝鮮軍将兵は、兵力も少なく軍糧も乏しい」との
漏らしている者があると、慶尚左兵使高彦伯が一月二十四日上啓した。
当時、朝鮮軍では釈放されて帰ってきた被虜たちを陣中に留め置いていたが、
給食にもこと欠いたので、ひもじさに堪えかねた者らは、再び倭陣営に立ち帰るため
脱走する者も少なくなかった。
朝廷では聞き捨てならず、巡撫御史徐ショウを叱責し、十分な食料補給処置を取らせる一方、
都元帥と兵使以下諸将にも密命を下して、軍紀を厳しく取り締まらせると同時に軍の機密漏洩に
対する軍律を定めて処罰するようにした。

宣祖実録巻五十九 正月丁酉
224名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 16:43:36.78 ID:MvOJqojt0
>>221,222
>「朝鮮軍や明軍に圧倒されて、戦闘に負けて後退した」というのとは
>カナリ違うのは確かだね。
明国征服の目的で侵攻した文禄の役において、結局明国には入れず、その属国
の朝鮮において義兵の抵抗や明軍5万の来襲にあい、京城を放棄して全軍南岸
まで撤退したのに、圧倒されてないっていうのかよ(笑)
>秀吉軍の食料不足の原因には、李舜臣は関係なく、
>文禄・慶長を通じ日本の兵站ラインである名護屋-壱岐-対馬-釜山の
>海路は確保されており、釜山の物資が不足したことはない。
食料不足なら朝鮮義兵や明軍だって同じじゃん!!
> (義兵は李氏王朝の倉や民衆からも略奪することも多かった)
日本軍はやってないの? やってたでしょ。食料不足なんて言い訳に過ぎない。
>慶長4年8月の豊臣秀吉の死までの間、遠征軍は
>予定されていた作戦計画をすべて完遂させていた。
慶長の役の戦略目標ってなに?
明国征服では当然ないだろうが、和平交渉の条件として提示した
朝鮮南部4道の割譲でもないだろうし、結局、勘合貿易の再開を要求した
示威行動なんじゃねえの。
配下の武士達の実力を過大評価し、明・朝鮮の兵士達の実力を過小評価して
失敗した秀吉は、前回を学び武士達の実力に見合った戦略目標(勘合貿易の再開)
に絞って作戦計画を立てたんだろう。
ただ、これも秀吉の死で戦略目的は完遂できなかったけどな(笑)
225名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 17:07:52.71 ID:MvOJqojt0
>俺は、君が喚いている、サムライの歴史上「最強の世代」 って
>そもそもは知らん。
安土桃山時代の武士達ほど戦国時代の実戦に鍛えられた名将や強兵が
豊富な時期ってサムライの歴史上他にあるの?
226名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 18:14:52.23 ID:HSbZEOq60
>>224
>明・朝鮮の兵士達の実力を過小評価して

豊臣軍VS明軍 の対戦表↓

明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)

第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)

露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将のケ子竜が戦死。

特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。

第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。

戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。
227名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 18:24:07.07 ID:HSbZEOq60
>>225
いや、君が喚いてることが意味不明ってこと。
俺は最強だのなんだの書いたこともない、なのにそれを押し付けてくる
君がとても薄気味悪いってことを書きたかった。


@…日本軍の計画の成功と明軍の挫折
慶長の役は日本軍は始めから苦戦したという虚構が流布しているが、慶長の役は出兵以前に練られていた計画通りにことを運んでいた。

慶長2年2月21日に諸大名に発布した戦争計画によりますと、今度は「占領」を目的とはせずに、出兵を繰り返して明・朝鮮軍に打撃を与え最終的に屈服させるというもの
。これは、文禄の役で「占領」にこだわったために、拠点と拠点との間の兵糧の補給路の安全・確保に支障をきたし、慢性的な兵糧不足に陥った苦い経験から得た新たな戦略。

その戦略変換を基に具体的な計画が発布される。
@明・朝鮮軍の軍事拠点となっていた「全羅道」の
明・朝鮮軍を徹底的に撃滅し、忠清道の明・朝鮮軍もなるべく同様にすること
Aそれが、済めば撤収し、日本軍が補給の届きやすい沿岸部に築いていた倭城群を、
さらに拡大させ築城・補強し、防衛体制が整えば、在番を除いて日本本土に帰還し、新たな出兵計画に備えること

131.大艦巨砲の名無しさん :2012年07月23日 10:04 ID:BprBL4RE0
Bもし、明・朝鮮軍が日本軍の防衛網に侵入すれば、徹底的に撃滅すること(慶長2年2月21日書状 立花文書)

いざ慶長の役が勃発すると、全羅道の明軍が守る南原城を陥落させ、黄石山城も陥落させるなどして全羅道の明・朝鮮軍を一掃し、
忠清道に進んだ日本軍は稷山で明軍と遭遇するも、圧倒的兵力差で明軍を後退させ忠清道の掃討にも成功し、@は達成される。

ここで、@を達成した日本軍は、防衛網に撤収し、築城・補強を開始しました。しかし、築城中の蔚山城に明から大増援を得た明軍が襲撃を掛ける。
これに対して、日本軍は苦戦するも明軍六万のうち、二万もの兵を打ち取って大勝。
『明史』朝鮮伝「鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬」

ここで、慶長の役の作戦の成功を見た秀吉は、新たに明本土から増援された明軍の撃滅を計画し、
さらに明・朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で休息をとっていた日本軍を1599年に再度朝鮮に派遣する号令を発する。
『島津家文書』によると、総大将は石田三成と福島正則、増田長盛を充てることを計画していたようだ。
さらに、再出兵の準備のため兵糧の備蓄などを朝鮮の倭城に命じ、着々と準備を進めていた(島津家文書、鍋島文書等)

そんな中、秀吉は死去し、1599年の再出兵の計画は流れます。秀吉の死とは関係なく、日本軍と決戦を計画していた明軍は
本土から大増援を得て、倭城攻略に動き出します。在番の日本軍の動きを抑えるため、三路に分かれて倭城に攻めかったが大敗。
228名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 18:25:45.75 ID:HSbZEOq60
理由A…明軍の疲弊
戦争末期には明側は極度に疲弊し、戦争を続行することは困難でした。三路の戦いで九州勢のみにより明・朝鮮軍に大勝した日本側とは
違い明側はすでに極度に疲弊していました。明側は三路の戦いを日本軍との決戦だと考え、数カ月かけて攻城具を大量に造り、
明各地から徴兵を実施するなど意気込みは相当なものだった

しかし、相当な意気込みで挑んだ明軍でしたが、九州勢のみの日本軍に敗退します。この時点で明軍に勝算はなかったと明側でも認識していた
例えば『明史』朝鮮伝によると「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、
百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」(
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息)とある。

また、明朝廷の国家予算が四百万両であるのに対して、明側がこの戦役で費やした戦費は780万両に及び財政も極度に悪化していた。
『明史』王徳完伝「寧夏用兵(ボハイの乱)、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役(楊応龍の乱)二百余万」

さらに、明軍の敵は日本軍だけではありませんでした。この頃には、満洲の女真族のヌルハチがたびたび明に侵攻を繰り返し、
対日本戦の明軍を割いてまで、ヌルハチに備えなければならない状況にあった。
『朝鮮王朝実録・宣祖実録』「西路?子, 與老乙可赤, 約與合勢, 開元、瀋陽、遼東、鴨壕齶謌ネ西等地, 欲爲搶掠云云。」 軍門已抄李芳春、牛伯英等撤送, 使之防守。 」

このように、戦争が続いたとしても日本軍が撃退される可能性はほぼ喪失していたため、日本軍は朝鮮に居座っただろう。
ただし、秀吉が朝鮮の制圧を目指していたかは別問題です。秀吉は文禄の役の講和条件に「勘合貿易の復活」を挙げており、
それを認めさせれば朝鮮から手を引いた可能性も十分ある。

指導者(秀吉)が死んだので打ち切りになっただけ。
229名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 23:59:28.15 ID:0oJbaIf70
甥の関白秀次に渡した二十五か条の朱印状で明を征服するって宣言しておきながら
絶望の状態で和平に逃げた文禄の役、目的がはっきりしないまま開始して1年以上
も南岸に倭城を構築して立て籠もってた慶長の役
230名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 00:09:14.34 ID:D0mUw2WY0
>>229
@明・朝鮮軍の軍事拠点となっていた「全羅道」の
明・朝鮮軍を徹底的に撃滅し、忠清道の明・朝鮮軍もなるべく同様にすること
Aそれが、済めば撤収し、日本軍が補給の届きやすい沿岸部に築いていた倭城群を、
さらに拡大させ築城・補強し、防衛体制が整えば、在番を除いて日本本土に帰還し、新たな出兵計画に備えること

Bもし、明・朝鮮軍が日本軍の防衛網に侵入すれば、徹底的に撃滅すること(慶長2年2月21日書状 立花文書)

いざ慶長の役が勃発すると、全羅道の明軍が守る南原城を陥落させ、黄石山城も陥落させるなどして全羅道の明・朝鮮軍を一掃し、
忠清道に進んだ日本軍は稷山で明軍と遭遇するも、圧倒的兵力差で明軍を後退させ忠清道の掃討にも成功し、@は達成される。

ここで、@を達成した日本軍は、防衛網に撤収し、築城・補強を開始しました。しかし、築城中の蔚山城に明から大増援を得た明軍が襲撃を掛ける。
これに対して、日本軍は苦戦するも明軍六万のうち、二万もの兵を打ち取って大勝。
『明史』朝鮮伝「鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬」

ここで、慶長の役の作戦の成功を見た秀吉は、新たに明本土から増援された明軍の撃滅を計画し、
さらに明・朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で休息をとっていた日本軍を1599年に再度朝鮮に派遣する号令を発する。
『島津家文書』によると、総大将は石田三成と福島正則、増田長盛を充てることを計画していたようだ。
さらに、再出兵の準備のため兵糧の備蓄などを朝鮮の倭城に命じ、着々と準備を進めていた(島津家文書、鍋島文書等)
231名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 00:37:11.90 ID:ggFFVdgl0
>>229
なんか基本的な理解が...
あんまりもどかしいから口を挟むけど、慶長2年(1597年)進攻作戦が開始されて、文禄で朝鮮の敗残軍が集まって10万近く
終結していたことがある「全羅道を悉く成敗し、そして忠清道や他にも進攻せよ」というもので、
作戦の達成後は城砦を築城して進撃拠点を作ることだったんですよ。
城郭群が完成後は、各々の城の在番を除いては帰国する予定で、
慶長3年・1598年中は攻勢を行わない方針を立てていた。 知らない?

つか私が口を出すまでもなく貴方のすぐ上の>>277に載ってるよね。 よく読んで。
232名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 00:50:42.31 ID:zAPnaMvH0
>>231
>なんか基本的な理解が...
だったら慶長の役の戦略目標ってなんだったんだ。
233名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 01:09:54.25 ID:D0mUw2WY0
>>232
交渉決裂で再派兵=条件認めさせる。
以外ないだろ。

だから君は他の人にも呆れられるんだよww
234名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 01:19:12.37 ID:zAPnaMvH0
>>233
>交渉決裂で再派兵=条件認めさせる。
>以外ないだろ。
条件認めさせるだって。
どうやって明国の皇女を天皇家に降嫁させるの?
南部4道の多くを征服したのにどうしてそのまま占領しなかったんだ?
235名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 01:39:51.66 ID:D0mUw2WY0
>>234
事業が継続されなかった。
それだけ。
指導者が変わったら国の方針が変わることって古今東西無数に多々あるだろ?

そんなことも分からない?ww
236名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 06:34:35.17 ID:xSzqJ7G40
在日朝鮮人か左翼思想にかぶれた奴かなのかわからんが、
住人に見境無く難癖つけたに現れたのはいいが、フルボッコされててワロタww
もともとがイチャモンだから仕方ないが、質問が稚拙すぎ。

>>223
それもそうだけど、李舜臣関係のも本来、
学者がやるべきなんだが、一般の有志に頼ってるのが
なんとも学会にとって情けないことだね。
いまやネット普及で、従来のように一部の学者だけが独占できた時代は終わって、
殆どの歴史資料がみんなで共有できる時代になったというのに。
偏った自虐史観ばかりだと後で信頼失うのにな。

俺も以前、宣祖実録や懲録を翻訳したことあるけど、
日本の学者がなんで、この出来事を書かないのかと疑問に思うことが結構あったね。
今になればその学者先生たちは、アッチ系の思想の持ち主とか人種のせいってのはわかるがな。

平川新氏の スペインの世界征服に立ち向かった豊臣秀吉 にあるように、
今まで伏せられてた資料からの視点もでてきているし、
あと数年か十数年後には、現在の自虐史観版の文禄・慶長の役観は消えているかもな。
237名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 09:30:43.00 ID:IgXz2Ina0
>>235
>事業が継続されなかった。
>それだけ。
>指導者が変わったら国の方針が変わることって古今東西無数に多々あるだろ?
慶長の役における戦略目標も答えられないくせに(笑)
文禄の役では明国征服などという分不相応な目標を掲げたため、征服相手の明国にも
入れずに失敗した秀吉は、慶長の役では勘合貿易の再開(初戦の3〜4ヶ月間南部4道を荒らし回りながら占領しなかったことからも南部4道の割譲は考えていなかったんだろう)という分相応の目標に転換した。
結局、自分たちの実力を見誤ったことに気づいたんだろう。
その証拠に文禄の役では明・朝鮮軍に対し攻撃的に対応しているのに(例:京城での籠城を選ばず碧蹄館で迎え撃ったような)慶長の役では初戦の3〜4ヶ月南部4道を荒らし回った後はひたすら倭城に立て籠もって明・朝鮮軍を迎え撃っている。
238名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 09:39:19.71 ID:D0mUw2WY0
>>237
ああ、答えられないよww
なんせ現在、確認できる資料はないのか見つかってないからね。

だから交渉決裂=戦争=条件認めさせる なんだよ。
だから君はダメなんだよww

慶長でも 稷山 南原城 黄石山城 で攻勢にでてるだろ?

ほんっと文も読めないのなw↓

@明・朝鮮軍の軍事拠点となっていた「全羅道」の
明・朝鮮軍を徹底的に撃滅し、忠清道の明・朝鮮軍もなるべく同様にすること
Aそれが、済めば撤収し、日本軍が補給の届きやすい沿岸部に築いていた倭城群を、
さらに拡大させ築城・補強し、防衛体制が整えば、在番を除いて日本本土に帰還し、新たな出兵計画に備えること

Bもし、明・朝鮮軍が日本軍の防衛網に侵入すれば、徹底的に撃滅すること(慶長2年2月21日書状 立花文書)

いざ慶長の役が勃発すると、全羅道の明軍が守る南原城を陥落させ、黄石山城も陥落させるなどして全羅道の明・朝鮮軍を一掃し、
忠清道に進んだ日本軍は稷山で明軍と遭遇するも、圧倒的兵力差で明軍を後退させ忠清道の掃討にも成功し、@は達成される。

ここで、@を達成した日本軍は、防衛網に撤収し、築城・補強を開始しました。しかし、築城中の蔚山城に明から大増援を得た明軍が襲撃を掛ける。
これに対して、日本軍は苦戦するも明軍六万のうち、二万もの兵を打ち取って大勝。
『明史』朝鮮伝「鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬」

ここで、慶長の役の作戦の成功を見た秀吉は、新たに明本土から増援された明軍の撃滅を計画し、
さらに明・朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で休息をとっていた日本軍を1599年に再度朝鮮に派遣する号令を発する。
『島津家文書』によると、総大将は石田三成と福島正則、増田長盛を充てることを計画していたようだ。
さらに、再出兵の準備のため兵糧の備蓄などを朝鮮の倭城に命じ、着々と準備を進めていた(島津家文書、鍋島文書等)
239名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 12:40:31.46 ID:IgXz2Ina0
>>238
>ああ、答えられないよww
>なんせ現在、確認できる資料はないのか見つかってないからね。
戦略目標も分からず作戦がうまくいっているなんて分けるの?
朝鮮半島南岸に立て籠もって明側に勘合貿易の再開などの要求を飲ませる
嫌がらせとしてはうまくいってるなとは思うけど。
>だから交渉決裂=戦争=条件認めさせる なんだよ。
>だから君はダメなんだよww
文禄の役では明国征服を戦略目標に掲げておきながら、1年もたたずに行った
和平交渉では南部4道の割譲や勘合貿易の再開までトーンダウンし、交渉決裂
後の慶長の役では海外領土を諦めたような軍事作戦をたてている。
秀吉本人の当時の日本の実力に対する評価が年々厳しくなっている様子が読み
取れるね(笑)
240名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 12:47:31.45 ID:IgXz2Ina0
>>238
>慶長でも 稷山 南原城 黄石山城 で攻勢にでてるだろ?
>ほんっと文も読めないのなw↓
それって俺が主張した
「初戦の3〜4ヶ月南部4道を荒らし回り」
以外の期間でのことか?! 初耳だな(笑)
>さらに明・朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で休息をとっていた日本軍を
>1599年に再度朝鮮に派遣する号令を発する。
>『島津家文書』によると、総大将は石田三成と福島正則、増田長盛を充
>てることを計画していたようだ。
封建制下の日本において派遣軍の大将の大名としての石高はそのまま、
派遣軍の兵数に比例する。
すなわち
>石田三成と福島正則、増田長盛
この程度の大名ではせいぜい1万〜1万5千人程度しか動員できないんだが。
その程度の兵力でどうしようと考えてたんだろうね(笑)
241名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 12:49:50.84 ID:D0mUw2WY0
>>239
ほれ、成功してるだろ?

@明・朝鮮軍の軍事拠点となっていた「全羅道」の
明・朝鮮軍を徹底的に撃滅し、忠清道の明・朝鮮軍もなるべく同様にすること
Aそれが、済めば撤収し、日本軍が補給の届きやすい沿岸部に築いていた倭城群を、
さらに拡大させ築城・補強し、防衛体制が整えば、在番を除いて日本本土に帰還し、新たな出兵計画に備えること

Bもし、明・朝鮮軍が日本軍の防衛網に侵入すれば、徹底的に撃滅すること(慶長2年2月21日書状 立花文書)

いざ慶長の役が勃発すると、全羅道の明軍が守る南原城を陥落させ、黄石山城も陥落させるなどして全羅道の明・朝鮮軍を一掃し、
忠清道に進んだ日本軍は稷山で明軍と遭遇するも、圧倒的兵力差で明軍を後退させ忠清道の掃討にも成功し、@は達成される。

ここで、@を達成した日本軍は、防衛網に撤収し、築城・補強を開始しました。しかし、築城中の蔚山城に明から大増援を得た明軍が襲撃を掛ける。
これに対して、日本軍は苦戦するも明軍六万のうち、二万もの兵を打ち取って大勝。
『明史』朝鮮伝「鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬」

評価が厳しいどころか逆だよww
今まではギャクサツガー、シンリャクガー、ブンロクカラケイチョウマデ
ドロヌマガーのオンパレードだったけど、実態は>>227-228 >>226の様相が
明らかになってるんだよw

つーかねぇ、契丹、女真(金)モンゴル帝国や後金(清)は何十年もかけて領土を切り取ってるしなぁw
上記の国も攻めては引いて攻めては引いて、交渉をやってるんだがねぇww

だから君は駄目なんだよ
242名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 12:53:45.42 ID:D0mUw2WY0
>>240
1598年8月頃にいた小西、加藤、島津、
立花、黒田、毛利と言った諸隊の存在忘れてない?

あったま悪ww
243名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 13:05:56.94 ID:QBEfT22n0
あかん こいつは本物の頭悪い反日工作員や!!
244名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 13:09:46.84 ID:IgXz2Ina0
>>241
>つーかねぇ、契丹、女真(金)モンゴル帝国や後金(清)は何十年もかけて領土を切り取ってるしなぁw
>上記の国も攻めては引いて攻めては引いて、交渉をやってるんだがねぇww
すでに日本も足かけ8年も戦争して朝鮮半島南岸に立て籠もっていただけなんだが。

>>242
>1598年8月頃にいた小西、加藤、島津、
>立花、黒田、毛利と言った諸隊の存在忘れてない?
疲弊著しい7〜8万の軍勢がいるだけなんだが。
それに1万程度の新兵が加わった程度でなにができるんだ(爆笑)
城から立て籠もって迎え撃つのと違い、城から出て明・朝鮮軍相手に
野戦や城攻めを行うには力不足だと思うけどね(笑)
245名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 13:11:58.46 ID:IgXz2Ina0
>>243
>あかん こいつは本物の頭悪い反日工作員や!!
それって追い詰められたサムライ厨の断末魔の叫びってやつか(笑)
246名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 13:14:18.06 ID:D0mUw2WY0
>>244
文禄・慶長の戦闘期間は32ヶ月程度で、あとは交渉期間だよ。

慶長でも野戦城攻めで勝ってるだろ 稷山 南原城 黄石山城

疲弊した日本軍にこんなに負けるなっつーの↓
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)


ホント君は、マジでなにも知らないんだな。
247名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 13:16:35.81 ID:QBEfT22n0
>>245 あれ、なんで君が反応してんの?w 自覚あったんだねw
248名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 13:44:27.25 ID:IgXz2Ina0
>>246
慶長4年春からの再侵攻に投入する日本側の兵力に不安があるって言ってるのに
慶長2年の倭城に立て籠もっての戦での勝利が関係あるのかわかんない。
249名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 13:49:08.19 ID:D0mUw2WY0
>>248
あれ? その兵力に不安がある日本軍になんで負けてんの? 俺のほうが君の書いてることわかんないや

ついでに過去の一覧も追加。

第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)

露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将のケ子竜が戦死。

特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。

第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。

戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。
250名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 14:10:35.67 ID:IgXz2Ina0
>>249
>あれ? その兵力に不安がある日本軍になんで負けてんの? 俺のほうが君の書いてることわかんないや
大好きなサムライの理想と現実のギャップを知るのってやっぱつらいよね。
とくに自分が中二病ならなおさらね(笑)
>平壌の戦い(日本勝利)
>泗川 (日本勝利)
さらっと嘘を書いてるみたいだけど上記の戦は
平壌(城)の戦い(或いは平壌城攻防戦)や
泗川(城)の戦い(或いは泗川城攻防戦)
すなわち日本側から見れば城に立て籠もってのの籠城戦だ。
敵軍と向かい合って戦う会戦(野戦)や逆に敵の立て籠もる
城を攻める攻城戦とは違う。
負ける可能性が多く、勝手も犠牲が多い野戦や城攻めを行うには
力不足だと思うけどね(笑)
251名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 14:23:22.89 ID:D0mUw2WY0
>>250
俺は【歴史的事実】載せてるだけなのに、
それで【サムライ】がどうこう言われても困るんだけどねぇw
悪いのは俺じゃなくて、日本軍に負け続けた当事者である
朝鮮人や中国人だよ  俺はあったことを載せているだけだから。
君がはじめからギャーギャー騒いでるだけジャン。

で、慶長の役では、南原城と黄石山城を攻略。
あとねぇ、君は都合よく忘れてる(正しくは無知)、
明・朝鮮連合軍が11万以上を動員した一斉攻勢で敗退して、
人が溶けたと表現されたほどの大敗を喫しているわけなんだが。

準備も入念に行われた軍事行動でね。
1598年 宣祖実録5月3日 宣祖実録7月7日 宣祖実録7月20日

架空戦記が大好きな君に聞きたいんだけど、
大敗した後の兵力はどうすんの?
守る兵力は? 失った攻城具他物資の補充は


1からいちいち説明しないといけない、こんなに疲れる相手は始めてだわw
252名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 15:03:24.92 ID:IgXz2Ina0
>>251
その話が慶長4年春からの再侵攻とどのように繋がってくるのか
わからん?
それに
>明・朝鮮連合軍が11万以上を動員した一斉攻勢で敗退して、
>人が溶けたと表現されたほどの大敗を喫しているわけなんだが。
順天倭城については、明・朝鮮連合軍は撤退し遠巻きに監視していたんだが。
また、蔚山倭城についても、20町(約2.2km)ほど離れた場所まで引いて対陣した
(20町というのは大鉄砲の射程を避けたか)。
この時点で主将麻貴は蔚山城攻略の困難さを痛感し退却の意思を抱いている。
やがて、泗川の戦いにおける中路軍大敗の報が伝わると勝算のない蔚山城攻略を
完全に断念して慶州方面に撤退する。
つまり泗川倭城攻防戦以外は大敗といえるほどのものじゃないね。
253名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 15:11:02.66 ID:D0mUw2WY0
>>252
だから、その損害を受けているのに秀吉軍の攻勢を防げるの?って話。
順天でも明水軍も損害を受けてるのに?
兵糧も失ってるのに?

架空戦記が好きな君に改めて聞きたいんだけど、
慶長の役後に、全国規模の大合戦が行われてるのに?
関ヶ原だけで両軍16万。

九州でも黒田軍9000や鍋島軍3万。
上杉も2-3万 佐竹も2万。

勝てるの?
254名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 16:43:07.44 ID:IgXz2Ina0
>架空戦記が好きな君に改めて聞きたいんだけど、
慶長4年春の再侵攻に過度の期待をかけて、秀吉が死ななけれバーとか
秀吉が生きていたラーとか妄想たくましくしてるからだろ。
>だから、その損害を受けているのに秀吉軍の攻勢を防げるの?って話。
戦場は朝鮮半島で彼らに取っては郷土防衛の戦いなんだ、いくらでも兵の
なり手ぐらいいるだろ。
>九州でも黒田軍9000や鍋島軍3万。
>上杉も2-3万 佐竹も2万。
で、黒田や鍋島、上杉や佐竹が上記の大軍を率いて
慶長4年以降に渡海する予定なんかあったの?!
255名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 16:44:33.64 ID:D0mUw2WY0
>>254
いや、君が幻の1599年の史実外のことに固執し始めたから、
話を合わせてるだけだよ。

明と朝鮮からみたら、初回(文禄)に20万以上も渡海させてきて、数万−十数万を居座らせて、
さらに懲りずに2回目(慶長)も15万の兵力を渡海させてくるような連中だよ。
おまけに小賢しくも文禄の教訓を活かして、策源地殲滅と冬季を過ごす術も覚えてるってわけだ。

架空戦記的に言えば、秀吉が生きてるってことだから(もしくは秀吉死去後も続行)
中部地方、関東地方、東北地方の余力がまだまだいるってわけで。
小西、加藤、島津の九州勢の一軍も殲滅できてないのに?

慶長で渡海させた15万人を運んだ船は残ってるわけだから、
その気になれば数万くらい一気にやってくるぞ。

勝てるのか?
256名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 17:08:17.62 ID:IgXz2Ina0
>>254
>慶長で渡海させた15万人を運んだ船は残ってるわけだから、
>その気になれば数万くらい一気にやってくるぞ。
>勝てるのか?
やっぱ架空戦記好きなのはそっちじゃん(笑)
ただ、慶長の役における秀吉の戦略目標が奈辺にあるかわからないと
なんともいえないけどね。
例えば明国の征服が目的だった場合(海から直接攻め込んだ方が危険は多いけど時間を短縮できる)
例えば朝鮮半島南部4道が目的だった場合(一度は占領した南部4道の大部分を放棄したのが疑問だけど)
例えば勘合貿易の再開が目的だった場合(まあ、十中八九これだろうけど)
257名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 17:15:49.13 ID:D0mUw2WY0
>>256
君が>>240からしつこく話を引っ張ったからだよ。

俺はそれに答えただけだよw

結果としてあるのは>>227-228 >>226が顛末なわけで、
それ以上でもそれ以下でもないよ。
258名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 17:51:47.06 ID:IgXz2Ina0
>>257
ふーん、結局慶長4年春の再侵攻についての議論では旗色が悪くなったんで
話をすり替えるわけだ。
いかにもサムライ厨らしい恥知らずぶりだな(笑)
何か一生懸命日本側の勝率を誇っているけどじゃあそんなに勝率の高い
のに失敗したのはなんで?
それはその勝率の多くが明・朝鮮軍相手の会戦(野戦)や攻城戦ではなく
南岸に構築した倭城に立て籠もっての籠城戦だからだろ。
籠城戦は食料が不足しない限り守勢が圧倒的に有利だもんな!
ただしどんなに勝っても現状を維持するだけでそのままでは占領地を広げられない。
もっとも慶長の役の戦略目標が勘合貿易の再開の為に明・朝鮮に嫌がらせを
しているんだったらまた違うけどな。
259名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 18:03:27.17 ID:D0mUw2WY0
>>258
それはね↓

@…日本軍の計画の成功と明軍の挫折
慶長の役は日本軍は始めから苦戦したという虚構が流布しているが、慶長の役は出兵以前に練られていた計画通りにことを運んでいた。

慶長2年2月21日に諸大名に発布した戦争計画によりますと、今度は「占領」を目的とはせずに、出兵を繰り返して明・朝鮮軍に打撃を与え最終的に屈服させるというもの
。これは、文禄の役で「占領」にこだわったために、拠点と拠点との間の兵糧の補給路の安全・確保に支障をきたし、慢性的な兵糧不足に陥った苦い経験から得た新たな戦略。

その戦略変換を基に具体的な計画が発布される。
@明・朝鮮軍の軍事拠点となっていた「全羅道」の
明・朝鮮軍を徹底的に撃滅し、忠清道の明・朝鮮軍もなるべく同様にすること
Aそれが、済めば撤収し、日本軍が補給の届きやすい沿岸部に築いていた倭城群を、
さらに拡大させ築城・補強し、防衛体制が整えば、在番を除いて日本本土に帰還し、新たな出兵計画に備えること

Bもし、明・朝鮮軍が日本軍の防衛網に侵入すれば、徹底的に撃滅すること(慶長2年2月21日書状 立花文書)

いざ慶長の役が勃発すると、全羅道の明軍が守る南原城を陥落させ、黄石山城も陥落させるなどして全羅道の明・朝鮮軍を一掃し、
忠清道に進んだ日本軍は稷山で明軍と遭遇するも、圧倒的兵力差で明軍を後退させ忠清道の掃討にも成功し、@は達成される。

ここで、@を達成した日本軍は、防衛網に撤収し、築城・補強を開始しました。しかし、築城中の蔚山城に明から大増援を得た明軍が襲撃を掛ける。
これに対して、日本軍は苦戦するも明軍六万のうち、二万もの兵を打ち取って大勝。
『明史』朝鮮伝「鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬」

ここで、慶長の役の作戦の成功を見た秀吉は、新たに明本土から増援された明軍の撃滅を計画し、
さらに明・朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で休息をとっていた日本軍を1599年に再度朝鮮に派遣する号令を発する。
『島津家文書』によると、総大将は石田三成と福島正則、増田長盛を充てることを計画していたようだ。
さらに、再出兵の準備のため兵糧の備蓄などを朝鮮の倭城に命じ、着々と準備を進めていた(島津家文書、鍋島文書等)

そんな中、秀吉は死去し、1599年の再出兵の計画は流れます。秀吉の死とは関係なく、日本軍と決戦を計画していた明軍は
本土から大増援を得て、倭城攻略に動き出します。在番の日本軍の動きを抑えるため、三路に分かれて倭城に攻めかったが大敗。
260名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 18:04:06.30 ID:D0mUw2WY0
>>258
理由A…明軍の疲弊
戦争末期には明側は極度に疲弊し、戦争を続行することは困難でした。三路の戦いで九州勢のみにより明・朝鮮軍に大勝した日本側とは
違い明側はすでに極度に疲弊していました。明側は三路の戦いを日本軍との決戦だと考え、数カ月かけて攻城具を大量に造り、
明各地から徴兵を実施するなど意気込みは相当なものだった

しかし、相当な意気込みで挑んだ明軍でしたが、九州勢のみの日本軍に敗退します。この時点で明軍に勝算はなかったと明側でも認識していた
例えば『明史』朝鮮伝によると「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、
百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」(
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息)とある。

また、明朝廷の国家予算が四百万両であるのに対して、明側がこの戦役で費やした戦費は780万両に及び財政も極度に悪化していた。
『明史』王徳完伝「寧夏用兵(ボハイの乱)、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役(楊応龍の乱)二百余万」

さらに、明軍の敵は日本軍だけではなかった。この頃には、満洲の女真族のヌルハチがたびたび明に侵攻を繰り返し、
対日本戦の明軍を割いてまで、ヌルハチに備えなければならない状況にあった。
『朝鮮王朝実録・宣祖実録』「西路?子, 與老乙可赤, 約與合勢, 開元、瀋陽、遼東、鴨壕齶謌ネ西等地, 欲爲搶掠云云。」 軍門已抄李芳春、牛伯英等撤送, 使之防守。 」

このように、戦争が続いたとしても日本軍が撃退される可能性はほぼ喪失していたため、日本軍は朝鮮に居座っただろう。
ただし、秀吉が朝鮮の制圧を目指していたかは別問題です。秀吉は文禄の役の講和条件に「勘合貿易の復活」を挙げており、
それを認めさせれば朝鮮から手を引いた可能性も十分ある。

指導者(秀吉)が死んだので打ち切りになっただけ。
261231:2013/11/22(金) 22:40:11.74 ID:ggFFVdgl0
なんか、私のレスからだいぶ進んで、別の人が答えちゃったようで。

>>252
一番、重要な記録を除けてますね。
第二次蔚山城でも明軍はかなりの損害を受けていますよ。
明鮮軍の数度の攻撃を撃退して
天兵(中国兵)の死傷者は数知れずと記されています。
そこで初めて、明・朝鮮軍は距離を置いたのですよ。

麻貴退師于島。C正自去年受圍以後。聚諸陣軍兵。幷力堅守。
大軍臨城。計無所出。乃卽退出本道。左防禦使權應銖報元帥云。
本月十九日。麻提督掩擊東萊城內溫井等處之賊。二十日。移兵島山。
只爇外柵。城將陷。賊丸如雨。天兵被害。不知其數。天兵日日挑戰。
固守不出。不得已退師。大槩賊兵之衆。十倍於上年。城柵之險。又甚於前日。觀其兵勢。未知上策云。圍城一旬。賊勢日熾。
一日李副總題送絶句于兵相云。蚌鷸持多日。王師久未旋。

趙慶男『乱中雑録』


(前略)此面(蔚山)へも去廿一日ニ、人数七八万罷出候、雖然、及数度討果候之故、
城際ニ陣取候事不成、廿町程引退、対陣候行と相見候、(後略)–

加藤清正書状(9月27日付、島津義弘・忠恒宛), 『島津家文書之二 九六九』

(前略)一 蔚山表之儀も、此方へ注進候、敵三万騎ニて押寄候處、大鉄炮ニて打立、手屓死人不知其数ニ付而、引退令対陣之由候、
御手前悉被追崩通承候者、定而蔚山表も可爲敗北と存候、(後略)–

長束正家・増田長盛・徳善院玄以、連署書状(11月3日付、島津義弘・忠恒宛), 『島津家文書之二 九九〇』
262231:2013/11/22(金) 22:44:26.50 ID:ggFFVdgl0
>>252
順天城の戦いにも、誤りがおありなので訂正させていただきます。
10月2日 日本軍は銃撃のあと打って出て白兵戦を展開して明朝軍に800戦死者を出させています。

10月3日と10月4日には明陸軍は動かず、明鮮連合水軍は損害受けています。
とくに明船は39艘を焼かれたとあります。

この時期の明船は武備志に完結に記されている程度の実態は
大きさや搭乗員も不明な船なので、中華系王朝の朝鮮の戦闘艦の板屋船が120名前後ですので、
順天の戦場の様相から、揚陸用の強襲船代わりと仮定して少なめに(朝鮮の偵探船79名が参考)
見積もって79名としても3081名になります。

内140名が生還し、あとは討ち取られたり捕虜になったこと甚だしと
あるので、2941人の損害を出したことになり、
朝鮮水軍の130名を合わせると3071名の
損害を出した可能性があります。

陸の損害800人を合わせると合計で3800人の損失の推測ができます。

わざわざ李朝実録に三路で負けたと記してるのですから、
ここは素直にそれなりの損害を被ったと見るべきでしょう。


第二次蔚山城、敗北後の麻貴提督の評価も芳しくありません。

“提督自內城退遁之後, 頗有畏怯之意, 方欲退陣 慶州 矣。”–

麻提督 接伴使 李光庭の報告, 『宣祖実録10月 2日』

“提督聞中路之敗, 將欲退守于 慶州 , 步兵則已爲發送, 不勝悶慮事。”–

麻提督 接伴使 李光庭の報告, 『宣祖実録10月 10日』
263名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 23:35:20.55 ID:zAPnaMvH0
何やかや言っても秀吉は賢い。
サムライの力を過信して失敗した文禄の役を教訓として
戦略目標を大幅に下げることで始めたのが慶長の役だ。
264名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 23:48:33.32 ID:D0mUw2WY0
265名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/23(土) 09:24:24.17 ID:EUvrrruQ0
>>261
>>262
こwれwはwひどいw
散々、妄想を語った後 
ID:IgXz2Ina0=ID:zAPnaMvH0は自爆かよw
266名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/23(土) 19:37:18.87 ID:XvxzSTBs0
宣祖実録(25年5月の条)
「人心恨叛し、倭と同心」と認め、
宣祖が「賊兵の数、半ばが我が国人というが、然るか」と臣下に尋ねた

金誠一の「鶴峯集」には、「倭奴幾ばくもなし、半ばは叛民、極めて寒心すべし」
267名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/24(日) 12:00:31.37 ID:KBUSnZEE0
サムライ厨が言い訳がましく「秀吉が生きていたら―」とか
「秀吉が死んでいなかったらー」とか言い訳がましいこと主張するけど
秀吉って不老不死なのかよ(爆笑)
秀吉の死が想定されてないまま行った戦争なのかよ。
だったら秀吉は慶長3年8月に死ななくてもそんなに長生きできるとは
思えないからどっちにしても戦争目的なんか果たせないよ。
268名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/24(日) 17:41:18.56 ID:J0G9kHUy0
>>267
>>252 >つまり泗川倭城攻防戦以外は大敗といえるほどのものじゃないね。

>>261 >>262

  ク    ク   || プ  / ク   ク  || プ  /
  ス  ク ス _  | | │ //. ス ク ス _ | | │ //
  / ス   ─  | | ッ // /  ス   ─ | | ッ //
  / _____  // /          //
.  /   l⌒l l⌒l \  ))   ____
. / / ̄| ,=| |=、| ̄ヾ   / ____ヽ
/ ̄/ ̄.  ー'●ー'  ̄l ̄ |  | /, −、, -、l  ))
| ̄l ̄ ̄  __ |.    ̄l ̄.| _| -| ,=|=、 ||
|. ̄| ̄ ̄  `Y⌒l__ ̄ノ ̄ (6.   ー っ-´、}
ヽ  ヽ    人_(  ヾ    ヽ    `Y⌒l_ノ
  >〓〓〓〓〓〓-イ   /ヽ  人_(  ヽ
/   /  Θ  ヽ|  /    ̄ ̄ ̄ ヽ-イ
269名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/24(日) 19:35:14.47 ID:KBUSnZEE0
>>268
サムライ厨の断末魔の叫びって奴か(笑)
270名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/24(日) 20:13:45.06 ID:J0G9kHUy0
267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/24(日) 12:00:31.37 ID:KBUSnZEE0
269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/24(日) 19:35:14.47 ID:KBUSnZEE0


これが都合の悪いことにはレスには、一切なーんにも答えないで、
連戦連敗の明朝鮮が なぜか日本に勝つという妄想を抱いている、
チョウセン厨(笑)、ミン厨(笑)の姿です。

チョウセン、ミン最強ww
271名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/24(日) 22:05:37.30 ID:KBUSnZEE0
>>700
発狂したのか(爆笑)
272231:2013/11/24(日) 22:42:59.45 ID:zxznIiFC0
>>267 >>271
ちょっと待って下さい、あんまり酷いので二つばかりの事に口を挟みますが、
貴方が>>240で慶長4年の攻勢の推測を言い出して、
そして、そのことをずっと引っ張っているのも貴方自身ですよ。

貴方が書き込みを始めて以降、どの住人も最強などとは書いておらず、
文禄の経験を活かした慶長の秀吉軍の戦略と日明軍のこれまでの戦闘結果を提示して、
それを照らし合わして、貴方の問いに答えて推測しているだけです。

さすがに、そのマッチポンプ的なやりくちは、とても卑怯だと思います。
これは誠実ではありません。
貴方も同じ歴史を学ぶ者だとしたら、これは非常に残念なことです。

他の人は問いに答えているだけですので、
慶長の役の総括はすでに>>259>>260の書き込みに出ています。

あとは貴方が、事実を受け入れるか否かだけの問題なんですよ。
273231:2013/11/24(日) 22:44:05.06 ID:zxznIiFC0
>>267>>271
二つめです。
慶長4年の攻勢の予定があったという文の意義ですが、
そこから日本側には、まだまだ余力が残されていたということが読み取れるので、
この記述の有無によって、この戦役の結論が大きく変わるのです。

要するに、たったその一文で上記で何度も書かれている対戦表と組み合わさることによって、
慶長の役が秀吉軍主導で進められたということが明瞭になるのです。

別の視点からも、これは従来の自虐史観的な方向から、
大きく修正される萌芽となりますし、研究者としても意図的に無視することはできません。
>>236さんが書くように【共有できる時代】になったが故に
より正確性や、個人の信頼、良心、誠実性が問われることにもなってくるのです。

これはプロアマ問わず、私たち【資料読み者】の視点からも、
アイデンティティーに関わってくる問題です。
274名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/24(日) 23:39:54.98 ID:KBUSnZEE0
>>273
>慶長4年の攻勢の予定があったという文の意義ですが、
>そこから日本側には、まだまだ余力が残されていたということが読み取れるので、
>この記述の有無によって、この戦役の結論が大きく変わるのです。
前から言っているけど慶長の役の戦略目標ってなに?
文禄の役同様の明国征服か?
明側へ提示した交渉条件を獲得する為の戦いか?
せいぜい、勘合貿易の再開を得るための戦いか?
275名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/25(月) 19:26:05.61 ID:6tszFXr20
>>273
その意味では貫井正之なんか最悪だな。

左翼や半島のうそが罷り通ってた時代に出版された、
歴史群像の シリーズ35 文禄・慶長の役 で貫井が
出張ってたけど、鳴梁や第一次蔚山の、
その後の戦局を完全に隠蔽して明・朝鮮が勝ったかのような
印象工作してたからな。

詳しくは下記のURL

慶長の役で李舜臣率いる朝鮮水軍が鳴梁海戦で日本水軍を撃退し、
全羅道西岸への進出を阻止したなどという主張がしばしば見られる。
しかし、これが事実ではないことは以前からyasoshima氏が明らかにしていた。
•鳴梁大捷!! しかし李舜臣は逃亡200km,
右水営陥落
http://plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/diary/200802290000/

•鳴梁海戦@高山公実録
http://plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/diary/200901120000/

•全羅道西岸の3朝鮮人の動向@1597年9月-10月
http://plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/diary/200901140001/
276231:2013/11/25(月) 23:39:12.59 ID:thfzBqGr0
>>275
それは文禄・慶長の役を研究してる人なら、あの時期なら大抵は押さえている本でしょうね、私も持っています。
貫井氏に関しては、完全に半島に籠絡されてるので、然もありなんです。
最近は学研も少しずつしがらみがとれてきたようで、隔刊の群像シリーズでも、
読み応えのある文禄・慶長特集もでてきました。

朝鮮水軍のせいで補給が途絶えたという記録も、日中朝の三ヶ国の資料のいずれにも無いんですよね。

>223の
西生浦付近の百姓らは、悉く日本の占領地に立ち返って農耕に従事し、
租税を清正に収めているばかりではなく、日本の風俗に従って起居し、
遠近の商人らが互いに往来して市が賑わっていることが、
清正の副将美濃部金太夫と要時羅の書面に依って明らかになった。
朝廷では敵の交通路を断ち、より活発に敵中の百姓らを招慰する方針を
都元帥以下諸官に密命した。

宣祖実録巻六十一 三月甲戌 懲録巻四

「慶州駐屯の朝鮮軍将兵は、兵力も少なく軍糧も乏しい」との
漏らしている者があると、慶尚左兵使高彦伯が一月二十四日上啓した。
当時、朝鮮軍では釈放されて帰ってきた被虜たちを陣中に留め置いていたが、
給食にもこと欠いたので、ひもじさに堪えかねた者らは、再び倭陣営に立ち帰るため
脱走する者も少なくなかった。
朝廷では聞き捨てならず、巡撫御史徐ショウを叱責し、十分な食料補給処置を取らせる一方、
都元帥と兵使以下諸将にも密命を下して、軍紀を厳しく取り締まらせると同時に軍の機密漏洩に
対する軍律を定めて処罰するようにした。

唐武陣 文禄・慶長の役の偏り4 日本軍地域の朝鮮民衆
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcerk3c2n

上記の、この状態が慶長の再戦まで、続いたというのも興味深いですね。


>>274
明が目標ですよ。もっとも、その過程で占領地の統治や明側との様々な駆け引き発生して、
結果として、貿易獲得や朝鮮領統治も起きていたでしょうがね。
立花文書 慶長二年二月二十一日に、※明軍を半島南部に引きつけて撃滅したあとに大明に進行せよ。
参考にして下さい  慶長の役戦略
https://sites.google.com/site/woruzan/home/bunrokukeichou/keichou-no-eki/keichou-no-eki-senryaku
277名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/29(金) 21:00:32.75 ID:S8FA31UT0
大谷吉継を総大将にすればよかった
278名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/04(水) 20:26:43.99 ID:WBojZTPG0
>>220
>>224

>戦国時代の戦乱を生き残った安土桃山期の武士って
>千年近くにおよぶサムライの歴史上「最強の世代」だろう。
>その「最強の世代」のサムライにとっても朝鮮半島を征服
>するには荷が重かったと思うと・・・

>明国征服の目的で侵攻した文禄の役において、結局明国には入れず、その属国
>の朝鮮において義兵の抵抗や明軍5万の来襲にあい、京城を放棄して全軍南岸
>まで撤退したのに、圧倒されてないっていうのかよ(笑)

「撤退した(失敗した)から戦闘で圧倒されたに違い無い」か。あまりにも短絡的な発想としか言いようが無いね。
ベトナム戦争で敗戦した米軍は北ベトナム軍に戦闘力で劣っていた、などと言うのと同レベルだ。
戦争の勝敗は戦闘力だけで決まるものではない。今時軍事のド素人でもその程度のことは知っているよ
事実、ほとんど大部分の会戦で日本軍が勝利しているのだから、戦闘力で日本軍が圧倒的だったのは疑いようが無いではないか。
君の言う「最強の世代」のサムライは攻城守城野戦を問わずほとんどの会戦に勝利し、その最強の戦闘力を遺憾なく発揮しているではないか。
文禄の役失敗の原因は戦闘力とは別にある。何よりも制圧した朝鮮領土の宣撫・統治に失敗し兵糧を徴発できなかったことだ。

「従来、豊臣政権下で兵たん機能が大幅に強化・向上したと漠然と考えられてきたが、
主な改善点は作戦発起点への兵糧の事前大量集積に尽きており、
敵地に進んだ軍隊への陸上補給は、物理的な制約から依然困難であった。
結局、一七世紀頃は日欧ともに敵地の野戦軍は現地調達に頼らざるを得ず、
これが出来なければ敗退するしかなかった。
日本の朝鮮出兵の敗退は、義兵運動等様々な要因はあるにせよ、
第一には、当時の陸上補給能力の限界と現地での食糧調達の不可能性に起因するものだった。 」
(久保田正志氏の豊臣政権の兵たん論文より)
279名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/04(水) 20:27:33.34 ID:WBojZTPG0
>>237

>文禄の役では明・朝鮮軍に対し攻撃的に対応しているのに(例:京城での籠城を選ばず碧蹄館で迎え撃ったような)
>慶長の役では初戦の3〜4ヶ月南部4道を荒らし回った後はひたすら倭城に立て籠もって明・朝鮮軍を迎え撃っている。

日本軍の主力を結集して事に当たった碧蹄館と、留守番組を駐屯させていただけの三路の戦いを比較するのは不適当だね。
三路の時点では日本軍の駐屯部隊は6万5千人しかおらず、残りの大部隊は帰国休養させていた
つまり、日本側はこの程度の残置兵力で明・朝鮮軍の反攻を十分撃退し得ると高を括っていたことになる。
このことも戦闘力における日本軍の優位性を示唆しているね。


>初戦の3〜4ヶ月間南部4道を荒らし回りながら占領しなかったことからも南部4道の割譲は考えていなかったんだろう

>交渉決裂後の慶長の役では海外領土を諦めたような軍事作戦をたてている。

占領しなかったから海外領土は諦めていた、というのも短絡的に過ぎるね。
定期的に派兵して朝鮮の国家基盤を徹底的に破壊し、屈服させることによって
南部四道の割譲や王子の人質などの要求を呑ませることもできるではないか。
日本軍が南部三道(4道ではない。3道だよ)を席巻しながらその地に留まらなかったのは、
文禄の役で占領政策に失敗して以降兵糧の現地調達が見込めなくなり、本国からの補給が保証される南岸地帯に帰らざるを得なかったためだ。
そもそも、前近代の外征において兵糧を本国からの輸送に頼るという状況が異常なのだ。
文禄の電撃戦から慶長のようにじわじわと侵食していくやり方に切り替えたのも、
やはり日本軍の戦闘力が及ばなかったためではなく「現地での食糧調達の不可能性」が第一の原因だったのだ。

>>240

>石田三成と福島正則、増田長盛
>この程度の大名ではせいぜい1万〜1万5千人程度しか動員できないんだが。
>その程度の兵力でどうしようと考えてたんだろうね(笑)

>それに1万程度の新兵が加わった程度でなにができるんだ(爆笑)
>城から立て籠もって迎え撃つのと違い、城から出て明・朝鮮軍相手に
>野戦や城攻めを行うには力不足だと思うけどね(笑)

なぜ君の頭の中では総大将の直属部隊しか増援されないことになっているのか。文禄の総大将宇喜多秀家、慶長の総大将小早川秀秋が
西国大名だったのに対し、慶長四年の攻勢で総大将として指名された三人がいずれも東国大名であることから、
東国の諸大名に大動員がかかったであろうことは容易に想像できるではないか。
恐らく、史実では陣立に組み入れられながらも未参戦に終わった徳川、前田、佐竹、蒲生、最上、津軽らの軍勢が投入されたことであろう。
「力不足」などとんでもない、明・朝鮮軍にとっては総力を上げた三路の大攻勢さえ留守番部隊に過ぎない少数の九州勢に惨敗を喫してしまったのに、
慶長四年以降は気力充実したさらなる大軍勢を迎え撃たなければならないわけだ。
280名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/04(水) 23:30:09.27 ID:mRvOLOcX0
>>279
モンゴル帝国も、金や南宋、他を攻撃してるけど
敵兵力の撃滅が目的で、土地を占領しなかった事例はいくらでもあるしな。

統治関連も(>>276)、終始、秀吉軍が抑えていた占領地では朝鮮人が秀吉軍に
馴染んで生活していて、市場も賑わっていて朝鮮商人や一般の朝鮮人も商売しようと、
李氏朝鮮が取り締まっても、秀吉軍占領地に入ってるくらいだしな。

慶長の役でも 【海南、康津、長興、宝城、務安のほとんどの村・人民は賊につき】と
記述されている。(http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcgggz3w9)

戦争が続くんだとしたら、結局は、時間の問題だったろうな。


戦闘にも勝てずに、長期に秀吉軍が駐屯している地域では、
普通に朝鮮人が生活していてと・・・・

自分で一次資料に当たって調べるのと、
巷で言われてる朝鮮出兵のイメージとでは、こうも違うんだから驚きだ。
281名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/05(木) 16:57:26.64 ID:BJd4gGXA0
こんなのもあるしな

フロイス『日本史』
・これら武装した異様な集団の中にありながら、(朝鮮の)老幼婦女子たちに対する
(日本側の)安全保障(態勢)には見るべきものがあったと言われる。(朝鮮人)は
なんの恐怖も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似で
何か必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面喰っていた。

・一部の朝鮮人は、生計に窮して、日本人のように月代を剃り、頭髪を結んで日本人を
装い、掠奪を目的として手真似や恐喝でもって同胞を襲った。
282名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/05(木) 20:41:45.82 ID:9o1l0/B20
>>281
李氏朝鮮の記録にもあるぞ。
フロイスの書簡は1593年までの記述で、
下の李氏朝鮮の記録は1595年の出来事。


六月二十三日、日本軍に変装した匪賊四十余人が、晋州の陽全里に押し寄せて、
伏兵将李永寿と女児二人を拉致し去った事件があった。
その頃、晋州・固城沿海の漁夫らが土賊どもと結託して、日本軍に変装して横行しながら
掠奪狼藉の限りを尽くしていたので、怯えた百姓らは、それを避けて日本軍占領地区である
咸安郡・鎮海県・漆原県地方の郷里に帰って、こ屋を建て農耕に従事する者が増えた。

これに対する備辺司の処置を見れば、先ず李永寿が一矢も報いずに
捕らえられたのは不当千万であるとし、晋州判官朴思斉を
巡察史軍営に呼び出し、笞刑を加えて見せしめにした。
宣祖実録巻六十四 六月甲子 1595 6

http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5gd

間違いなく秀吉軍のせいにされてる蛮行も多くあるなw
283名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/06(金) 17:45:38.40 ID:P155pEwk0
>「撤退した(失敗した)から戦闘で圧倒されたに違い無い」か。あまりにも短絡的な発想
>としか言いようが無いね。
>ベトナム戦争で敗戦した米軍は北ベトナム軍に戦闘力で劣っていた、などと言うのと同レ
>ベルだ。
日本国内で秀吉主導の朝鮮出兵に対して反戦運動でもおこったのか?(笑)

>「従来、豊臣政権下で兵たん機能が大幅に強化・向上したと漠然と考えられてきたが、
>主な改善点は作戦発起点への兵糧の事前大量集積に尽きており、
>敵地に進んだ軍隊への陸上補給は、物理的な制約から依然困難であった。
>結局、一七世紀頃は日欧ともに敵地の野戦軍は現地調達に頼らざるを得ず、
>これが出来なければ敗退するしかなかった。
>日本の朝鮮出兵の敗退は、義兵運動等様々な要因はあるにせよ、
>第一には、当時の陸上補給能力の限界と現地での食糧調達の不可能性に起因するものだっ>た。 」 (久保田正志氏の豊臣政権の兵たん論文より)
天正二〇(一五九二)年四月一二日の侵略開始以来、北西では平壌、北東では
咸鏡道までを席巻した秀吉軍であったが、李舜臣率いる水軍に連戦連敗したことから、
全羅道・慶尚右道への西進はかなわず、当初予定した全羅道沿岸を航海して
漢城・平壌付近で兵糧を荷揚げする計画は不可能となった。
加えて、朝鮮義兵(民衆によって自発的に組織された軍隊)によって陸の
輸送路を寸断されたために、秀吉軍は飢餓の危機に陥ることとなり、こうした
情勢の打開をはかるべく、一〇月初旬、二万の大軍をもって全羅道侵入の要衝
・晋州邑城を攻撃した。
しかし、侵略戦の今後を占うこの攻防戦において、秀吉軍は官兵・義兵が一体
となった朝鮮軍の奮戦によって撃退され、結果、釜山から漢城への補給路の
確保に困難を来すことになる。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai42.html
284名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/06(金) 17:48:11.94 ID:P155pEwk0
>日本軍の主力を結集して事に当たった碧蹄館と、留守番組を駐屯させていただけの三路
>の戦いを比較するのは不適当だね。
>三路の時点では日本軍の駐屯部隊は6万5千人しかおらず、残りの大部隊は帰国休養さ
>せていたそもそも他国に攻め込んでおきながら、倭城に立て籠もって、派遣軍の半数を撤退させたことになんの疑問も持たないのか?(笑)
>つまり、日本側はこの程度の残置兵力で明・朝鮮軍の反攻を十分撃退し得ると高を括っ
>ていたことになる。
>このことも戦闘力における日本軍の優位性を示唆しているね。
倭城に立て籠もっての籠城戦と、攻城戦や野戦は違う。
朝鮮軍は、第一次晋州城の戦いでは5倍の大軍を幸州山城の戦いでは13倍の大軍を籠城戦により撃退している。
このことも戦闘力における朝鮮軍の優位性を示唆しているね。
285名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/06(金) 17:49:52.47 ID:P155pEwk0
>占領しなかったから海外領土は諦めていた、というのも短絡的に過ぎるね。
>定期的に派兵して朝鮮の国家基盤を徹底的に破壊し、屈服させることによって
>南部四道の割譲や王子の人質などの要求を呑ませることもできるではないか。
慶長の役の戦略目標がわからない状況では日本軍の行った行為から(自分の願望は一切排除して)忠実に分析しないといけないんだけど・・・
膨大な出費をかけて行っている朝鮮出兵において、征服目標の朝鮮の国家基盤を破壊して
どんなメリットがあるの?

>日本軍が南部三道(4道ではない。3道だよ)を席巻しながらその地に留まらなかったの
>は、文禄の役で占領政策に失敗して以降兵糧の現地調達が見込めなくなり、本国からの
>補給が保証される南岸地帯に帰らざるを得なかったためだ。
日本軍が朝鮮に上陸したのは6月下旬〜7月上旬で、南部三道を席捲したのは
286名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/06(金) 18:00:14.26 ID:P155pEwk0
>なぜ君の頭の中では総大将の直属部隊しか増援されないことになっているのか。文禄の>総大将宇喜多秀家、慶長の総大将小早川秀秋が
>西国大名だったのに対し、慶長四年の攻勢で総大将として指名された三人がいずれも東>国大名であることから、
>東国の諸大名に大動員がかかったであろうことは容易に想像できるではないか。
>恐らく、史実では陣立に組み入れられながらも未参戦に終わった徳川、前田、佐竹、蒲>生、最上、津軽らの軍勢が投入されたことであろう。
お前の妄想はいいから(笑)ソースだせや!!
だいたい、この程度の大名(石田三成、福島正則、増田長盛)が出征軍の大将なのにその下に徳川家康や前田利家が配属されると考えること事態、封建制を理解してないだろ。

>「力不足」などとんでもない、明・朝鮮軍にとっては総力を上げた三路の大攻勢さえ留>守番部隊に過ぎない少数の九州勢に惨敗を喫してしまったのに、
>慶長四年以降は気力充実したさらなる大軍勢を迎え撃たなければならないわけだ。
倭城に立て籠もっての籠城戦と、攻城戦や野戦は違う。
朝鮮軍は、第一次晋州城の戦いでは5倍の大軍を幸州山城の戦いでは13倍の大軍を籠城戦により撃退している。
287名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/06(金) 19:57:22.61 ID:YblAICdv0
>>283-286
見てるとお前さw 同じことをずっと繰り返して、
答えはいろんな住人が出しまくって解決済みなことを蒸し返してるだけだよなw

あと231さんが出したレスで、ぐうの音が出ない事に関しては
悉くスルーしてるしwwww
288名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/06(金) 21:49:26.14 ID:jVBdgzjv0
>日本国内で秀吉主導の朝鮮出兵に対して反戦運動でもおこったのか?(笑)

例え話としてベトナム戦争を挙げただけであって、失敗の理由がベトナム戦争と全く同じだなどと言うつもりはないよ。
失敗の理由は >>278で説明済みだ。

>http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai42.html

まず「李舜臣率いる水軍に連戦連敗した」ことが「全羅道・慶尚右道への西進」ができなかった要因としているのが意味不明だし、
「当初予定した全羅道沿岸を航海して漢城・平壌付近で兵糧を荷揚げする計画」というのも根拠不明だ。
そのような計画がどの文献・資料に現れているというのか、寡聞にして聞かない。
これについて一つ思いついたことがあるのだが、懲ヒ録に、小西行長が「日本の水師十余万が、また西海から到来する。
朝鮮国王は、ここ(平壌)からどこへ行かれるというのか」と朝鮮政府を恫喝したという記述がある。
ひょっとして神戸大学文学部日本史研究室が言っている「計画」とはこのことではないのか?
もっとも、実際には西海から平壌方面へ水軍をまわすような計画はどこにもなく、
小西のこの発言は虚仮威し的なパフォーマンスに過ぎないと「壬辰戦乱史」の著者李烱錫氏も指摘しているのだが。
また晋州城攻撃が飢餓状態からの打開策だというのも、晋州城攻撃時点ではまだ兵糧に余裕があったため無理のある主張だと過去に指摘されていたね。

>そもそも他国に攻め込んでおきながら、倭城に立て籠もって、派遣軍の半数を撤退させたことになんの疑問も持たないのか?(笑)

それについては>>279で説明しているではないか。文禄の役で占領政策に失敗して以降兵糧の現地調達が見込めなくなり、
本国からの補給が保証される南岸地帯に帰らざるを得なかったのだ。
また、戦略自体も電撃戦から朝鮮半島をじわじわと侵食していくやり方に切り替えたのだ。

>倭城に立て籠もっての籠城戦と、攻城戦や野戦は違う。
>朝鮮軍は、第一次晋州城の戦いでは5倍の大軍を幸州山城の戦いでは13倍の大軍を籠城戦により撃退している。
>このことも戦闘力における朝鮮軍の優位性を示唆しているね。

君は幸州山と晋州をことさらに取り上げるけれど、結局それは数少ない例外に過ぎず、
釜山鎮、多大鎮、東莱、慶州、金海、昌原、鴒原山、胡寧、泗川、漣川、平壌、於郎山、南原、黄石山など
数え切れないほどの城が日本軍によって攻め落されているという事実がある。
特に於郎山城などは金悌甲らの朝鮮軍4千人が険阻な山城に立て篭もっていたのに、その城方よりも少ない毛利吉成ら3千人の日本軍に
攻め落されてしまっている。やはり、戦闘力における日本軍の優位性は否定しようが無いようだね。
それに幸州山城にしても戦闘直後に放棄されてしまったし、晋州城も陥落してしまったね。
残念なことに、これに対して倭城は一つも陥落していないのだ。
289名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/06(金) 21:51:51.03 ID:jVBdgzjv0
>慶長の役の戦略目標がわからない状況では日本軍の行った行為から(自分の願望は一切排除して)忠実に分析しないといけないんだけど・・・
>膨大な出費をかけて行っている朝鮮出兵において、征服目標の朝鮮の国家基盤を破壊して
>どんなメリットがあるの?

それは>>276さんをはじめ何人かが既に回答しているではないか。

>だいたい、この程度の大名(石田三成、福島正則、増田長盛)が出征軍の大将なのにその下に徳川家康や前田利家が
>配属されると考えること事態、封建制を理解してないだろ。

それがそうとも言えないのだ。例えば、秀吉が当初想定していた晋州城攻めの陣立初期案では徳川家康、前田利家らが組み入れられており、
この二人が宇喜多秀家の指揮下に入ることになっていたという実例がある。

「このたびわたり申し候しゆ、一番あさの左近大夫に、われらさしそえられ候、(中略)二番にとしいへ、
かもひだ、三番ふねにいへやす、そのほかくわんとう、ゑちこしゆみなみなのこり申さずいたり申し候・・・」
(文禄2年3月14日付、伊達政宗書状より)

それに君の理屈で言えば、慶長四年の攻勢では石田三成(19万石)、福島正則(24万石)、増田長盛(20万石)
の3人より格上の大名は誰一人参戦できないということになるが、それでいいのか?
290名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/06(金) 23:08:54.42 ID:rbpJJfMY0
どうも231です、こんばんは。

>>283
私も神戸大学の件がすごく気になります、全羅道の補給なんて、そんな文献は私も読んだことありません。
他のことにも色々と突っ込みたいですが、混雑するので今回はこの件だけにします。

文禄2年3月3日に漢城から発せられた書状には、4月11日まで食料はあると記されており、
釜山にも食料があると書かれています。
同書状には食糧輸送の遅延の原因は、道が険しいことと、
人手不足のせいだと書かれています。

【釜山海之御兵糧も、山坂に而御座候間、五日路六日路、道中届かぬ可申候哉、
川に付て船にてのほせ申儀も、今のつなきの御人数にては、難届候由申候】
これと同様の記述が、小西行長軍の関係者から聞き取りしたフロイスの日本史にも記されています。

この書状とフロイスの日本史の記述を、合わせて読むと以下のことが読み取れます。
日本軍の食料遅延の原因が悪路の為と人手不足、そして補給隊の往復の糧食消費、
冬の到来で部隊の移動制限、冬季の釜山-対馬-名護屋の海峡の荒れが原因とあります。

朝鮮水軍は関係ありませんね。

そこで283さんにちょっとお願いがあるのですが、神戸大には反日色が強い人たちも多く、
思想的なことも絡んでくる危険性もあり、ぜひ確認したいことでなので恐縮なんですが、
念のために、その【全羅道から補給する】というソースも一緒に示してくださるとありがたいのですが。
291名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 09:21:16.01 ID:xbdcqYFy0
>それがそうとも言えないのだ。例えば、秀吉が当初想定していた晋州城攻めの陣立初期案>では徳川家康、前田利家らが組み入れられており、
>この二人が宇喜多秀家の指揮下に入ることになっていたという実例がある。
>「このたびわたり申し候しゆ、一番あさの左近大夫に、われらさしそえられ候、(中略)
>二番にとしいへ、
>かもひだ、三番ふねにいへやす、そのほかくわんとう、ゑちこしゆみなみなのこり申さず
>いたり申し候・・・」
>(文禄2年3月14日付、伊達政宗書状より)
伊達政宗の書状のどこを読むと、家康・利家が宇喜多の指揮下に
入ることになっていたっていえるんだ(笑)
292名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 09:51:59.94 ID:xbdcqYFy0
>>288
>攻め落されてしまっている。やはり、戦闘力における日本軍の優位性は否定しようが無い
>ようだね。
>それに幸州山城にしても戦闘直後に放棄されてしまったし、晋州城も陥落してしまったね。
>残念なことに、これに対して倭城は一つも陥落していないのだ。
人に反論する際はちゃんと人の文章を読んで理解してから反論しろ。
私は、
>「力不足」などとんでもない、明・朝鮮軍にとっては総力を上げた三路の大攻勢さえ留守>番部隊に過ぎない少数の九州勢に惨敗を喫してしまったのに、
>慶長四年以降は気力充実したさらなる大軍勢を迎え撃たなければならないわけだ。
この意見の反証として籠城戦と野戦や攻城戦は違うことの例示に幸州山城攻め
や第一次晋州城攻めを例に挙げただけなんだから。
>それに幸州山城にしても戦闘直後に放棄されてしまったし、
これについては日本側も対してかわらない、第一次蔚山城攻めの後に
明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最西方)、
順天倭城(最東方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を
秀吉に打診したが却下された。
これなんかも現場レベルで判断できたら3城とも放棄したはずだから。
293名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 13:34:07.13 ID:6E2tvA610
>>292
いや、その後に蔚山、順天、梁山で日本軍が大勝してるから、
秀吉の判断が正しかったことが立証されてるわけで。
やっぱり288の書いてることが正しいよ。

あと283で載せた神戸大学の件のことから逃げないで、
288と290が要求してるんだからソースをださないと。
294名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 17:56:15.42 ID:xbdcqYFy0
>>293
>いや、その後に蔚山、順天、梁山で日本軍が大勝してるから、
>秀吉の判断が正しかったことが立証されてるわけで。
>やっぱり288の書いてることが正しいよ。
なんのこっちゃ?
>「力不足」などとんでもない、明・朝鮮軍にとっては総力を上げた三路の大攻勢さえ留守
>番部隊に過ぎない少数の九州勢に惨敗を喫してしまったのに、
>慶長四年以降は気力充実したさらなる大軍勢を迎え撃たなければならないわけだ。
この意見の反証として籠城戦と野戦や攻城戦は違うことの例示に幸州山城攻め
や第一次晋州城攻めを例に挙げただけなのに(笑)
>あと283で載せた神戸大学の件のことから逃げないで、
>288と290が要求してるんだからソースをださないと。
それは神戸大学文学部日本史研究室に自分で聞きば!!
仮にもネットに研究成果を上げているんだからよろこんで
答えてくれるんじゃない。
295名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 18:03:00.42 ID:6E2tvA610
>>294
その記事を紹介した責任があるよ。
あんたの同意見という意味でも。

そしてそれに反論されて答えられないと、
信用や知識不足が露呈することになもなる。

というわけでソースよろしく。

それに288が釜山鎮、多大鎮、東莱、慶州、金海、昌原、鴒原山、
胡寧、泗川、漣川、平壌、於郎山、南原、黄石山

で日本が城を陥落させた例を上げているわけで。
文章読んでるの?
296名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 18:15:46.24 ID:3uQmrYFL0
>伊達政宗の書状のどこを読むと、家康・利家が宇喜多の指揮下に
>入ることになっていたっていえるんだ(笑)

説明不足だったかもしれないが、この書状は晋州城攻めのための増援に関する記述の抜粋だ。
秀吉は文禄二年二月十八日付の朱印状で、宇喜多秀家を総大将とする朝鮮侵攻軍の再編成を指示し、
秀家に侵攻軍の統括指揮を行う権限を与えている。従って、その後増派される徳川、前田らが
宇喜多秀家の指揮下に入る予定であったことは明白だ。
事実、徳川や前田の渡海は無かったが、書状にある他の軍勢、「われら」(伊達政宗)や
「ゑちこしゆ」(上杉景勝)は宇喜多の指揮下に入っているではないか。

それと、君はまだ私の質問に答えてくれていないからもう一度聞くよ。
君の理屈だと慶長四年の攻勢では石田三成(19万石)、福島正則(24万石)、増田長盛(20万石)
の3人より格上の大名は誰一人参戦できないということになるが、それでいいのか?

>この意見の反証として籠城戦と野戦や攻城戦は違うことの例示に幸州山城攻め
>や第一次晋州城攻めを例に挙げただけなんだから。

果たしてそれが反証になっているのだろうか。日本軍の新手が攻め寄せたとき、
対する明・朝鮮側の籠城戦が、皆「数少ない例外」に過ぎない幸州山や晋州のようにうまくいくだろうかと言っているのだ。

>これについては日本側も対してかわらない、第一次蔚山城攻めの後に
>明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最西方)、
>順天倭城(最東方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を
>秀吉に打診したが却下された。
>これなんかも現場レベルで判断できたら3城とも放棄したはずだから。

実際に放棄されなかったばかりか、その後も攻城軍を撃退している蔚山や順天が幸州山と大して変わらないはないだろう。
297名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 18:58:14.83 ID:xbdcqYFy0
>>294
さて、秀吉は戦局の推移を受けて文禄2年3月に朝鮮へ渡ることを計画する。
これに合わせて、前田利家も朝鮮に従軍することになった。
前田勢らの渡海は朝鮮半島南部、慶尚道の要衝・晋州(日本側では「もくそ」
と表記)城攻略のための一大攻勢計画に基づくものであった。
3月10日付けで秀吉が定めた攻撃計画書には「もくそ城とりまき候衆」として
「一、七千人 羽柴加賀宰相(前田利家)」と記され、利家が七千人を率いて
晋州城攻撃の一翼を担うことになっていた。
http://www.nihonkaigaku.org/library/group/i040401a-t8.html
298名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 18:59:02.82 ID:xbdcqYFy0
>>296
さて、秀吉は戦局の推移を受けて文禄2年3月に朝鮮へ渡ることを計画する。
これに合わせて、前田利家も朝鮮に従軍することになった。
前田勢らの渡海は朝鮮半島南部、慶尚道の要衝・晋州(日本側では「もくそ」
と表記)城攻略のための一大攻勢計画に基づくものであった。
3月10日付けで秀吉が定めた攻撃計画書には「もくそ城とりまき候衆」として
「一、七千人 羽柴加賀宰相(前田利家)」と記され、利家が七千人を率いて
晋州城攻撃の一翼を担うことになっていた。
http://www.nihonkaigaku.org/library/group/i040401a-t8.html
299名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 19:06:36.89 ID:6E2tvA610
>>297 >>298
連投で流したがってるようだけど、
261(262)や276で論破されて、逃亡して
関係ない内容で粘着するよりは、
神戸大のソースよろしく。

またダンマリ伝説を作る気かな?
300名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 19:53:37.95 ID:ET3iZAGr0
幸州山に関してだが、朝鮮の大勝とは程遠く、日本の再攻撃準備中に逃げたのが真相のようだな。
こんなのがあったので参考に。

俗に言う朝鮮出兵の戦いで、朝鮮側の三大大捷
と呼称されている勝利のひとつに、幸州山の戦いがあります。
幸州戦の記録で、当時に書かれたという意味で、一番信頼できる朝鮮の乱中雑録1にはこうあります
(後代になるほど朝鮮側は潤色され派手になります)
矢や石を浴びせ、日本軍も三度進み三度引いたが、火が回り城の柵も燃え落ち、
矢も尽き、日本軍に切り込まれて落城寸前だったとあり、白兵戦の最中に
朝鮮の丁傑の救援の2艘が現れたので、日本軍は引いたとあります。
小西、大谷、黒田ら8将が 秀吉に宛てた文禄2年2月18日発の書状でも、
この丸に攻入り数百人を切り捨て、本城の付近で相戦い、少々の手負が発生したとあり、
乱中雑録でも朝鮮側の戦果が130頸とあり、
現在言われているような派手な勝利?ではなく少なめであり、
そして日本側の数百人切捨と、乱中雑録1のあわや落城かという
双方の記録が一致しています。
乱中雑録では、日本軍が引いたところで
記録が終わっていますが、同書状では、
諸将が城に対して夜責めでもしようと協議している間に
17日に朝鮮軍が城を焼いて逃げたとあります。
この書状は、権慄が城を焼いて放棄した翌日の18日に発せられているので、
日本軍は城の近くにいたことがわかります。
同時期の懲録も、この戦いについては簡潔にしているだけであり、
特筆するとすれば、幸山城の指揮官であった権慄が命令を出して、
日本兵の死体をズタズタにして、木に掛けたという箇所ですか。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffc8zt4wig
301名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 19:57:29.64 ID:3uQmrYFL0
>>298
そのコピペを根拠に文禄二年三月には秀吉自らが渡海する予定だった、
だから徳川、前田らを統括する総大将は秀吉の予定だったはずだと言いたいのだろうが、
残念ながらそれは無理な話だよ。何故なら秀吉の三月渡海計画があったこと自体は事実だが、
文禄二年初旬から中旬にこの計画は延期されているからだ。例えば、その後の文禄二年二月十五日付の
島津義久宛の石田正澄書状には「上様御渡海は四・五月のころたるべく候」とある。
理由は平壌の敗報がこの頃名護屋に届いたためとも、船が揃わなかったためとも言われているが、
こうして秀吉渡海が延期されたために、二月十八日付の朱印状によって
宇喜多秀家を総大将とした朝鮮侵攻軍の再編成が指示されているのだ。
つまり「3月10日付けで秀吉が定めた攻撃計画書」が出された時点で、既に秀吉の渡海は想定されていなかったのだ。
302名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 20:26:36.82 ID:3uQmrYFL0
それから私の質問についてだが、
君には答えられないということがよく分かったので
もう返事をしてくれなくても結構だよ。
303名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 23:54:54.13 ID:oRSYFmuM0
>>300
興味深いですね。

先の>>275さんの貫井氏の鳴梁や第一次蔚山の話が思い浮かびます。
さっき群像シリーズを読み返しましたが、ご多分に漏れず幸州城関係の記事も同じ内容でしたね。
304名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 09:48:03.88 ID:7gBPaRiU0
>>296
文禄4年、上杉景勝が菊亭晴季に権中納言数人の序列について問い合わせをしたところ、
晴季からの回答書状によると、秀吉の一族である(宇喜多)秀家、秀保、秀俊に
続き、景勝、輝元、利家の順になっている。
つまり文禄の役当時は、秀家の方が景勝、輝元、利家より格上なんだな(笑)
だから、景勝や利家が秀家の指揮下に入ってもなんにも不思議はないねー!
>君の理屈だと慶長四年の攻勢では石田三成(19万石)、福島正則(24万石)、増田長>盛(20万石) の3人より格上の大名は誰一人参戦できないということになるが、それ>でいいのか?参戦できないことになるね(笑)
ところで、石田治部少輔、福島侍従(当時)、増田右衛門少尉の指揮下にどれだけの大名が付くんだろうねえ-(笑)。
305名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 13:38:34.25 ID:3wmaKjIu0
>>304
ようやく回答してくれたね。
しかしその見解にはいくつか問題がある。石田・福島・増田より格上の大名が一切参戦できないとなると、
文禄・慶長両役を兵力面で支えてきた毛利輝元、毛利秀元、宇喜多秀家、小早川秀秋らが誰一人参戦しないことになり不可解だし、
なにより上述の晋州城攻めの際の徳川家康(権大納言)について説明できていないではないか。
そもそも、石田と増田の二人は文禄の役の際、秀吉が渡海するまでの暫定的な処置として秀吉の代理である奉行衆に任命され、
朝鮮侵攻軍に指示を出し朝鮮支配を統括する権限を与えられていたこともあるのだ。
やはり、誰が誰の指揮下に入るかは必ずしもその官位・石高に依らないと考える方が自然のようだね。
306名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 14:59:28.97 ID:7gBPaRiU0
>>305
>ようやく回答してくれたね。
>しかしその見解にはいくつか問題がある。石田・福島・増田より格上の大名が一切参戦で
>きないとなると、
>文禄・慶長両役を兵力面で支えてきた毛利輝元、毛利秀元、宇喜多秀家、小早川秀秋らが
>誰一人参戦しないことになり不可解だし、
慶長の役での戦略目標は勘合貿易の再開だって言ってんだろ(怒)
朝鮮王が明皇帝に泣きつかせるように圧力として、倭城に立て籠もってるんだろ!!
倭城に立て籠もっているだけなら、たいした兵力はいらないから、石田・福島・増田
を中心に彼らより格下の大名で6万〜7万の兵を交代要員として渡海する予定だったんだろ。
何度言わせんだ!!(怒)
>なにより上述の晋州城攻めの際の徳川家康(権大納言)について説明できていないでは
つべこべ言わず、家康が秀家の指揮下に入ることを証明する文書をだせよ!!
307名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 15:06:29.89 ID:8RbZodzA0
>>306
あんたも神戸大のソースだせよ。

嘘を書いて261(262)や276で論破されて逃亡してる
お前の名誉回復するにはソースを出すことだ。
308名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 15:33:09.31 ID:7gBPaRiU0
>>307
>それから私の質問についてだが、
>君には答えられないということがよく分かったので
>もう返事をしてくれなくても結構だよ。
昨日は余裕ぶっこいておきながら、追い詰められたら
>あんたも神戸大のソースだせよ。
だもんな、ホント見苦しいやつだなお前は(笑)
309名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 15:36:16.62 ID:8RbZodzA0
>>308
俺は他人だよ。

お前が>216で現れたときから、お前の書き込みに注目している。

というわけで神戸大のソースよろしく。

嘘を書いて261(262)や276で論破されて逃亡してる
お前の名誉回復するにはソースを出すことだ。

いつまでも逃げてないで勇気を示すんだ。
310名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 16:08:52.41 ID:7gBPaRiU0
>>309
>お前が>216で現れたときから、お前の書き込みに注目している。
>というわけで神戸大のソースよろしく。
てめえが神戸大学に直接きけよ。
309「もしもし、神戸大学文学部日本史研究室ですか!」
神戸「そうですが、なにか」
309「なんであんなのをネットにあげたんですか!そのせいでぼくが
論破されそうなんです。」
神戸「そんなこと言われてもわれわれが研究して得た最新の史実をあげただけですから」
309「あなた日本人でしょ!日本人だったら日本人にとって都合の良い真実ってあるじゃないですか。」
神戸「我々は研究者ですから都合の良い真実といわれましても・・・」
309「ふざけんな、お前ら朝鮮人に買収されてるだろ、きっとそうに違いない。」
神戸「我々を買収して朝鮮人にどんなメリットがあるんです。」
309「俺を論破するメリットがあるじゃないか!!」
神戸「我々は忙しいんです。それじゃ切りますよ!」
309「あー、まだ話は終わってない・・・」
まあ、とにかく神戸大には迷惑かけるなよ(笑)
311名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 16:57:02.51 ID:tvnBKPOM0
>>309
こいつがID:7gBPaRiU0>>216で荒らしに現れてからの書き込みをみたが
ドンドン外堀を埋められていって追い詰められて
今に至っているようだなw

始めはサイキョウガーとほざいてたが、実際に中国朝鮮は負け続けてるし、
戦略目標がーとわめいてたときは、>>261で提示されてるし

3路の大敗では、損害は受けてないと嘘をついところを指摘されてるし、
必殺の秘蔵の神戸大は胡散臭い代物だったし と。

最終的に行き着いたところは、架空戦記に例えられてたが
起こりもしなかった1599年のことを利用して、
根拠もなくいいっぱなし可能なことにしがみついて、
住人につき纏っている図式w

荒らそうと思って登場した>>216頃の姿をみると哀れだなww
312名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 19:09:24.24 ID:3wmaKjIu0
>>306
>慶長の役での戦略目標は勘合貿易の再開だって言ってんだろ(怒)
>朝鮮王が明皇帝に泣きつかせるように圧力として、倭城に立て籠もってるんだろ!!
>倭城に立て籠もっているだけなら、たいした兵力はいらないから、石田・福島・増田
>を中心に彼らより格下の大名で6万〜7万の兵を交代要員として渡海する予定だったんだろ。

勘合貿易の再開のみを慶長の役の戦略目標とする説はさすがに聞いたことがないね。君のオリジナルかな。
これについて北島万次氏、中野等氏をはじめとする専門家らは「半島南部四道の領有化」が目的だと述べており、
これが近年の主流となっているはずだが。それに「倭城に立て籠も」るためだけに
「石田・福島・増田を中心に彼らより格下の大名で6万〜7万の兵を交代要員として渡海」させるというのも
君個人の推測に過ぎないよね。実際には秀吉は慶長三月十三日の立花宛秀吉書状で
「来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候」とし、慶長四年の攻勢では都(漢城)
まで攻め落すよう指示しているのだ。「石田・福島・増田を中心に彼らより格下の大名で6万〜7万の兵」では
到底このような大それた攻勢計画は立てられないだろう。
また、慶長三年五月二十二日付の鍋島直茂宛朱印状で「来年大人数遣わされ働の儀」と述べていることからも、
君が言うような小規模の軍勢による消極的な計画でなかったことは明白だ。

>つべこべ言わず、家康が秀家の指揮下に入ることを証明する文書をだせよ!!

それは既に>>296で述べているではないか。
313名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 19:56:02.09 ID:8RbZodzA0
>>311
それで>>214のような対戦表を作るのも面白そうだなw 連戦連敗記録w
314名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 19:57:00.49 ID:3wmaKjIu0
おっと、

×慶長三月十三日の立花宛秀吉書状で
○慶長三年三月十三日の立花宛秀吉書状で

書き間違いがあったので訂正しておく。

追記:同書状では「其の上二年、三年に一度づつ、御人数指し渡され、焼き動きにりやうとう
境目までも、仰せ付けられるべしと思し食し」とも書いているから、いずれは明国境まで進撃する予定だったようだね。
315名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/10(火) 23:08:58.68 ID:gFW5ucBx0
>>314
314さんの「其の上二年、三年に一度づつ、御人数指し渡され、焼き動きにりやうとう
境目までも、仰せ付けられるべしと思し食し」と

2月21日付朱印状(立花文書他)と合わせると「大明国迄可被仰付事」
目的が明らかですね。

私が276で2月21日の朱印状の一文が記載されているURLを、
紹介していたのに、また戦略目標が不明だの、とわけのわからないことを
書き始めたのをずっと監視してましたが、これで次はどうでてくるでしょうか。
https://sites.google.com/site/woruzan/home/bunrokukeichou/keichou-no-eki/keichou-no-eki-senryaku
316名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/11(水) 09:43:17.77 ID:HKO0h++70
>>312
>「来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候」とし、
>慶長四年の攻勢では都(漢城)まで攻め落すよう指示しているのだ。
「仰せ付けららるべく候」って、命令してください!ぐらいの意味でしょ。
これって秀吉から宗茂への命令書じゃなくて、宗茂から秀吉への嘆願書じゃないの(笑)
>また、慶長三年五月二十二日付の鍋島直茂宛朱印状で「来年大人数遣わされ働の儀」と
>述べていることからも、
立花文書とは違いこちらには朝鮮都までの動きが記されてないけど、それはなぜ?
「大人数遣わされ働の儀」についても鍋島や立花程度の大名にとっては6〜7万でも大人数だよね(笑)
317名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/11(水) 14:01:00.57 ID:o9Pz0DOZ0
>>316
それって、結局はそういう見方をしても、
現地軍は漢城まで、到達できるくらいの実力や気勢があった
ということになるんじゃ・・・・
318名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/11(水) 19:46:56.99 ID:fr/KHIhG0
>>316
>「仰せ付けららるべく候」って、命令してください!ぐらいの意味でしょ。
>これって秀吉から宗茂への命令書じゃなくて、宗茂から秀吉への嘆願書じゃないの(笑)

呆れてものも言えない。こうした支離滅裂な言動を見ると、もはや君は「反論のための反論」をしているに過ぎないようだね。
その書状については「日本戦史・朝鮮役」に全文が載っており、下記URLで閲覧可能なので声に出して読んでみよう。
すべて読み上げる頃には、同書状が秀吉から宗茂ら諸将に送られた指示書であることを完全に理解できるだろう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936356/129

>立花文書とは違いこちらには朝鮮都までの動きが記されてないけど、それはなぜ?
>「大人数遣わされ働の儀」についても鍋島や立花程度の大名にとっては6〜7万でも大人数だよね(笑)

「度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候」
「来年」(慶長四年)に計画中で「大人数」を要し、しかも度々指示してきたとなれば、それは慶長三年三月十三日付朱印状や
慶長三年五月二十六日付書状等で言及されてきた慶長四年の攻勢計画(大部隊で北上し漢城攻略)のこととしか考えられないではないか。
なにも「鍋島や立花程度の大名にとっては〜」などと曲芸的な解釈をする必要は無いのだ。
他の文献と照らし合わせた上で素直に読めばいいではないか。
319231:2013/12/11(水) 23:59:29.60 ID:LY2N/JyP0
>>316
私は基本的に、史実とは関わりのないIF的なものにはノータッチですが、
貴方の反論の仕方そのものが、相変わらず、あまりにも稚拙なのが見てられないのと、
資料面では>>318さんが提示して決着してるんで、私は別の視点から書かせてもらいます。

まずは8行目について。
それは解釈の違いによるものですから、反証としては脆弱です。
鍋島や立花は両役に参加しており、

文禄15万8700人(または20万とも 後詰含めると30万とも)
慶長14万1490人
の陣立てを経験しています。

両役に参加している彼らにとって大軍とはどいうものなのかは、
本人たちに聞くしか真意はわかりません。まぁ無理な話ですが。

ちょっと、頭を働かせたらこれくらい、すぐに思い浮かびませんか?

次は7行目について。
これも前例を無視した内容なので反証として無意味です。

なぜなら文禄の役において、秀吉は作戦の要点と先鋒を決めた後は
基本的に戦術・進撃ルートは渡海した部隊に任せており、半島から報告書がやってくるたびに、
秀吉は情勢を判断し、状況に応じて思いつくことがあれば指示を出しています。

少しだけ例をあげますか、文禄元年5月16日に加藤清正の漢城占領の報を受けると、
秀吉は5番隊-9番隊に、京畿道、忠清道、慶尚道の各地に
駐留するようにも指示を出しています。

同年6月3日には戦闘序列の変更も行っています。、
福島正則が5番隊から4番隊に移る、長曽部が5番隊から6番に移るなど。

秀吉が朝鮮水軍を、陸で迎え撃てと指示して釜山浦で有効だったことなどは有名でしょう。


後半戦である【事実としての慶長の役】においても、大まかな指示をだしあとは、
渡海した将兵に任せており文禄と同じです。(毛利元秀記巻3)
320名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/12(木) 09:32:54.88 ID:pfKwT4uL0
慶長二年二月二十一日付けの立花宛て秀吉朱印状と慶長三年三月十三日
の立花宛秀吉朱印状を比較しても前者が天下人から一介の大名への命令
書の体裁を(最後の一文をのぞき)取られているのに対し後者は天下人
から一介の大名への命令書というより一介の大名から天下人への上申書
の形になっている。
「其の上二年、三年に一度づつ、御人数指し渡され、焼き動きにりやう
とう境目までも、仰せ付けられるべしと思し食し」この一文の「仰せ付
けられるべし」とはご命令願います的な意味だし、「然れば、今度仕置
きの城々の儀、見計らい申し付け候由、言上候間、上様御覧なされざる
ところに候条、おのおの次第と思し召され候処、敵弱く候へば、何方ま
でも、其の分と存じ、城をとりひろげ候。」この一文の「上様御覧なさ
れざるところに候条、」などは相手のことを上様と呼んでるんだけど・・・
321名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/12(木) 18:15:15.85 ID:kf5Q/6JP0
>>320
君は朱印状の最後の「三月十三日 朱印 羽柴久留米侍従とのへ 羽柴柳川侍従とのへ 
高橋主膳正とのへ 筑紫上野介とのへ」が見えないのか。立花宗茂の上申書の宛先が立花宗茂になっているなど、
そんな馬鹿げたことがあるはずがないではないか。それから以下のURLを見たまえ。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936356/129
「日本戦史朝鮮役 文書目次」でも同朱印状の「発信者」は「秀吉」、「受信者」は「小早川秀包等」になっているではないか。
それと書状の言い回しについては、もう一々説明するのも馬鹿馬鹿しくなってくるのだが、
上の朱印状に限らず秀吉から発信された書状には「思し召され」「御覧に及ばれ」「御奉行遣され」などの尊敬表現が頻出する。
君の理屈で言うとこれらの書状は発信者と受信者がすべて逆転してしまうことになるのだが、もちろんそんなことはありえない。
単に、祐筆に書かせたからこうなったというだけだろう。
322名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/12(木) 18:17:10.14 ID:kf5Q/6JP0
おっと、上のURLだと目次のページに飛ばないようだね。
上のメニューから9ページを開いてみてくれ。
323名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/12(木) 19:02:53.49 ID:pfKwT4uL0
>>321
>君は朱印状の最後の「三月十三日 朱印 羽柴久留米侍従とのへ 羽柴柳川侍従とのへ 
>高橋主膳正とのへ 筑紫上野介とのへ」が見えないのか。立花宗茂の上申書の宛先が立
>花宗茂になっているなど、
>そんな馬鹿げたことがあるはずがないではないか。それから以下のURLを見たまえ。
さー、なにかの手違いで発信者と受信者がすべて逆転してしまったんじゃね!
>上の朱印状に限らず秀吉から発信された書状には「思し召され」「御覧に及ばれ」「御奉
>行遣され」などの尊敬表現が頻出する。
へー、この文書のように発信者と受信者が逆転したようなレベルで尊敬表現がちりばめられたの
文書があるんだ?
もちろん、秀吉から配下の大名に対する「言上候間」や「上様御覧なされざるところに候条」などの
表現もつかわれてるんだろ?(笑)
324名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/12(木) 19:21:28.68 ID:+BbKNPTO0
>>321
まったくだ。
なんでこの人は、無理やりな解釈するんだろうな。

俺にも理解できない。

216の始めのほうからのやりとりを見ても、
何度も結論結果が書かれてるのに、同じ事を
何度も書いているし、相手の文章も読んでないようだ。

323さんには悪いんだが、煽り抜きってことを了解してほしいんだけど、
文章を認識できない神経障害持ちじゃないか?この人。
325名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/12(木) 20:44:38.76 ID:kf5Q/6JP0
>>323
>へー、この文書のように発信者と受信者が逆転したようなレベルで尊敬表現がちりばめられたの
>文書があるんだ?

「然らば、両国土民百姓に至らば、悉く首を刎ぬべきと思し召し候」
(天正十三年四月二十二日付、太田城籠城衆宛朱印状)

「国郡境目の相輪、互に存分の儀聞し召し届けられ、追って仰せ出さるべく候」「急度御成敗なさるべく候」
(天正十三年十月二日付島津義久宛朱印状)

「上野のうち、真田持来り候知行三分の二、沼田の城に相付け、北条へ下さるべく候。三分の一は真田に仰せ付けらるべく候」
(天正十七年十一月二十四日付宣戦布告状、北条文書)

「去る夏既に御渡海有るべきの処、おのおの申し留めるに就き、御延引なされ、御後悔千万に候」
(天正二十年十一月十日付小早川秀包宛朱印状)

「尾張国中、在々すいびせしめ、田畠荒れ候躰、御覧に及ばれ、上様御生国にて候条、別して不便に思し食し、郡々へ御奉行遣され候」
「三ケ年の間、諸給人手前おも、上様御代官なされ、百姓めいわく仕らざる様に仰せ付けられ、給人くんやくおも半役に仰せ付けられ、
給人も百姓に成りたち候様に、仰せ付けらるべく候」
(文禄二年十一月二十八日付尾張国宛「条々」)

この通り、いくらでもあるよ。上様という表現もしっかり使われているね。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/hideyoshi-mon.htm

こちらのURLも参照してもらいたいのだが、秀吉の書状に見られる尊敬表現は祐筆によるもの、
もしくは秀吉自身がそうした祐筆の文体を真似たものだというのが一般的な常識だ。
また上記URLにも書いてあるが、当時の関白や公方の間で自尊表現を行う習慣があったという指摘もある。

「「関白」(Quambacu)と「公方」(Cubo)は、書状や渡航免許状において、自分自身に敬意を払った言ひ方をする。これがその文体だからである。
例へば、Voxe idasaruru(仰せ出ださるる)、Voboximesu(思召す)、quicoximesu(聞召す)、Yorocobini Voboximesu(喜びに思召す)など」
(イエズス会通事・ロドリゲス日本原典、1604年)

その上で、まだ君は
>さー、なにかの手違いで発信者と受信者がすべて逆転してしまったんじゃね!
などというような主張を続けるつもりなのだろうか。
言っておくが、こんな子供染みた屁理屈など社会では全く通用しないよ。
326名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/25(日) 12:30:14.57 ID:B7tQ9TUd0
大陸系の城門に、和装甲冑の侍達が出入りする光景はシュールw

当時は古典の影響大きかったろうし、いざ明軍と戦う侍たちの方が
色々感慨深かったろうな。
おお、ジャーンジャーン鳴って!!とか。
相手の大軍見るとまるで蒼天航路のような雰囲気だったろう。
327名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/26(土) 07:23:57.43 ID:hdy8M+Jv0
保守
328名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/06(土) 12:35:09.55 ID:sIfHmAjY0
あげ
329名無しさん@お腹いっぱい。
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