中共は1948年に長春でいわゆるチャーズ事件という大屠殺をやった。
あえて大屠殺という。
「屠」という字は「南京大屠殺記念館」などに使われているが、
一般の日本人が考えているように「家畜を殺すように殺す」という意味ではない。
ジンギスカンの蒙古軍がやったように、一つの城市の住民を皆殺しにする
という意味だ。
「屠城市」と使われる。
すなわち、「屠」というには1)意図的、計画的に、2)一つの城市の住民を、
3)かなりの割合で殺さなければならない。
中共はそれを国共内戦のとき、東北の長春でやった。
(続く)
>>1 >中共は1948年に長春でいわゆるチャーズ事件という大屠殺をやった。
>
いきなり一行目で事実誤認と謂ふか理解不足が見られるんですけど。。。
腐っても“学術板”なんですから、もっと勉強して來てね★
「大地の子」というドラマが流行ったが、あのなかで主人公の少年一家が中共軍
包囲下の長春を脱出する場面があった。そして少年が日本人と見とがめられ、
「この子の代わりに私が残ります」「バーバ!」となる。あれがチャーズの場面
だが、実態はあんななまやさしいものではなかった。
国共内戦のなかで起こった長春の完全包囲は、1948年5月から10月半ばまで
続いた。その間に市民は飢え、国府軍(蒋介石軍)の防衛線を出て行くものが
多かった。国府軍はそれを、再びもどらない、という条件で出してやった。もち
ろん食糧事情の上からは、そのほうが国府軍にとっても都合が良かった。そして
住民は防衛線と包囲線の間の無人地帯に入り、チャーズと呼ばれる中共軍の関門
に向かった。関門は長春の南部、いまの長春電影の近くにあった。
八路軍は脱出してくる住民を一人一人身元調査した。そしてスパイでないと
わかったものに仮出門許可を与え、グループ毎に関門の前のきまった場所に
待機させた。ここまでは当たり前だ。しかし中共は、難民達に給食も給水も
せず、かと言って関門を出してもやらず、餓死するにまかせたのだ。ただし、
全く出してやらなかった訳ではない。技術者と認めた者は出してやったり、
気まぐれにごく少数のグループを出してやったりした。しかし大部分は出して
もらえず、そのまま餓死したのだ。
(出してやるのは調査済みのグループごとだから、「大地の子」のような、
「この子は言葉がおかしい。日本人ではないか」などというシチュエーション
はあり得なかったのだ。)
(続く)
どのくらいの人が死んだか。
中共系の資料でもチャーズ内外の死体が8万体と言っている。
当時の国府系の新聞ではチャーズでの餓死者を15万人以上と言っている。
統計的には長春の人口は50万人から17万人に減った。差し引き33万人
減だ。ただしこの中には市内での病死餓死者と脱出成功者を含むだろう。
いずれにしてもチャーズでの餓死者は10万人ないし20万人と見られる。
死者の中には当時国府に留用されていた数百人の日本人もあった。
これだけの人が狭い場所で4カ月の間に餓死したのだ。当然、そこには地獄図
が現出した。死者は埋葬されずに堆積した。新入りの難民は食糧を略奪され、
抵抗すれば殺された。人肉食や人肉商売が横行した。
中共軍はなぜ難民を出してやらなかったのか。中共の公式資料が説明している。
それには「難民を出すな。市内に追い返せ。そうすれば将匪(国府軍)の食糧
を食いつぶしてくれる」という党の方針が書いてある。実に明快な党の指導が
あったのだ。「屠」というに値する意図的、計画的な行為だ。
しかしそれでも説明にはならない。なぜならいったん防衛線を出た難民を国府軍
が受け入れないことは、中共も知っていたはずだからだ。たぶん、上記の方針
さえも建て前のきれいごとで、実は日帝と将匪の両方に汚染された長春市民を
この際根絶やしにできれば、その後の建設にとって好都合、と考えたのだろう。
(続く)
チャーズ事件のことを中国人はまず知らない。しかしそれでもそれを本にする
人はいる。東北出身の長正隆という人がチャーズ事件のことを含む「雪白血紅」
と言う本を書いて返還前の香港で出版した。
彼がチャーズ事件の章の最後に書いている文章は痛切だ。
「このような古来かつてなき惨絶な悲劇が再び我々の黒土、黄土、赤土の上に
演じられないために、中国の一般庶民の権利、人格、尊厳および価値が再び
無視され、踏みにじられないために、今日および明日の子どもたちが永遠に
陽光の下で平和に暮らせるために、一言で言えば今日歌われるように「世界を
愛で満たす」ために、私たちはこの黒土の下の白骨の上に、一つの碑を建てる
べきではないのか? 建てるというのなら碑文はすぐにできる。」
長春でおこったことは南京事件のように占領のどさくさに起こったのではない。
またその後の大躍進や文化大革命のように、全国各地で起こったことの総計で
もない。一つの城市について、一定期間に、意図的・計画的に、大量に行われた。
しかもその公式の理由は説明にもならず、ただ殺すために殺した。
「大屠殺」と呼ぶに値するゆえんだ。
(続く)
中国人読者のために、上記訳文の原文を載せておこう。
「為了這種亘古未有的惨絶人寰的悲劇、不再在我們的黒土地、黄土地和紅土地上
重演。為了中国普通老百姓的権利、人格、尊厳和価値、不再被漠視、賎踏。為了
今天和明天的”小太陽”、能[多句]永遠在和平的陽光下生活。一句話、為了
今天唱的那様、”譲世界充満愛”、我們是不是在這片黒土地的白骨之上、建一座
碑?
那碑文是現成的。」
(続く)
「雪白血紅」はこの惨事に立ち会った人々の言葉を収録している。
そのなかから二、三引用すると、例えば長春の老人達の言葉として:
「物心ついてこのかた、このあたりでは良いことはちっともなかったよ。
日本野郎はおれたちを騙した。ロシヤ野郎はおれたちをいじめた。
日本野郎はまったく残酷な奴らだ。ロシヤ野郎はまったく腹黒い奴等だ。
ところがあいつら畜生どもがいなくなったと思ったら、いじめはますます
ひどくなった。外国人はおれたち中国人を人間扱いしなかったが、中国人が
おれたち老百姓(ラオバイシン=庶民)を人間扱いしないのはどういう
わけなんだ?」
原文は:
「打記事起、我們這[geda]就没好過。”小鼻子”欺負[ロ自]、”大鼻子”
糟害[ロ自]、”小鼻子”才狼[ロ尼]、”大鼻子”才壊[ロ尼]。好[一/夕]
把這些畜牲[目分]走了、折騰得更[厂/萬]害!外国人把[ロ自]中国人当人、
中国人[zenme]也不把[ロ自]老百姓当人[ロ尼]?」
(続く)
はじめて包囲線の中に入った中共軍兵士の言葉もある。
「外にいたとき、市中で多少の餓死者が出ていると聴いていたが、これほど
とは思わなかった。市中に入ってあの有様を一目見て、びっくり仰天した。
涙を流した人も多かった。多くの軍幹部は「我々は貧乏人のために全国統一
をやるのだ」と言ったが、これほど多くの餓死者のなかに何人の金持ちが
いると言うのか? 国民党がいると言うのか?」
原文は:
「在外辺就聴説城裏餓死多少人、還不覚[zenme]的。(中略)可進城一看那
様子就震驚了、不少人就流涙了。很多幹部戦士説:[ロ自]們是為窮人打天下
的、餓死這[me]多人有幾個富人?有国民党[ロ馬]?」
(続く)
今度はチャーズを経験した日本人の体験談を引用しよう。
8月12日に無人地帯に入った武田英克氏は自著「極限に生きる」のなかで
次のように書いている。
「その最終の哨所から無人地帯をしばらく真っ直ぐに歩いて行き、道なりに
左折し、林の中に入り哨所から全く見えぬ所まで行くと、突然に暴徒化した
難民が棍棒を持って数十人、私たちをとりまき、「他のものはいらぬ食料だけ
をよこせ」と叫びながら私たちの荷物を奪い取ろうとした。
(中略)その先チャーズ内に入っていくと、最後の哨所で聞いたとおり、道路
も広場も一面に死体で埋まり、死体の上に土をかぶせても、またその上に死体
が重なって散乱し、足の踏み入れ場もない。よほど前から関門が閉ざされて
開かないものと見え、内部は一面真っ黒に見えるほどの人数で、その数、数万
か数十万かわからない。
時々関門が開かれ死にかかった極めて少数の難民をチャーズの外に出している
ので、チャーズの中の難民は、何時かは自分らも出してもらえるものと考えて
関門の付近に蝟集している。したがって環状に長春をとりまいているチャーズ
でも、難民が集まっているのは関門の付近だけで、それ以外の所には殆ど人影
が見あたらない。これは八路軍としても難民対策上便利であったろう。」
なお「チャーズ」とは本来「関門」の意味だが、武田氏の文章中の「チャーズ」
は「無人地帯」の意味で使われている。
(続く)
10 :
32号当狙撃手〆 ̄ ̄ ◆79F9Y0XQII :04/09/06 00:07
快把全部的文章写下来!
(・ε・)/ハヤクミタイ
請順便写后来的結幕。
還想知道西蔵的屠殺的過程
11 :
名無的発言者:04/09/06 23:32
次は長春包囲戦の終盤、9月30日にチャーズに入った、竹中重寿という人
の体験である。遠藤誉氏の「出口なき大地」から再引用する。
「やっと真空地帯にたどり着いたとき、突然二、三百人の中国人に襲いかから
れた。彼らはもう何日も前からここに到着し、共産側の門が開くのを待ってい
た。(中略)一瞬にして略奪が終わり、餓鬼たちが退散してふとわれに返った
とき、私たちはそこに得も言われぬ修羅場を見た。まるで”生き地獄”であ
る。戦後、私は開拓団員や敗残兵を救出しながら北満の山野を駆け回っていた
とき、何回か集団自殺の場に出会ったし、発疹チフスやコレラで死んだ屍の山
をいくつも見た。しかし、これほどの惨状を見たのは初めてである。何千ある
か、何万あるか数え切れない死体が、縦横に掘られた塹壕を埋め、砲弾でえぐ
られた窪地に充満し、赤土の荒野に隙間もないほど散乱している。そして生き
残りの餓鬼たちが死体と死体の間で、絶望の日々を送っている。」
竹中氏の文章からは、武田氏の「数万か数十万かわからない真っ黒な群衆」と
いう印象が薄い。恐らくその大部分は竹中氏が見た死体の山に変わったのであろう。
この段階でも、事情を知らずチャーズに入る人達はいた。竹中氏も百数十人の
日本人のグループで9月30日にチャーズに入ったのである。
そしてこの日から長春陥落の10月19日に至るまで、チャーズの門は一度と
して開かれず、さらに新たな犠牲者を生んだのである。
(続く)
12 :
名無的発言者:04/09/07 12:22
犯罪者地獄行き上げ
13 :
名無的発言者:04/09/08 03:06
14 :
名無的発言者:04/09/08 10:01
「雪白血紅」にもどって、以下の話は包囲戦の実相が窺えて面白い。
「宋占林:
私はとても運が良かった。チャーズに入って二日間ぼんやりしていると、幼なじみ
にばったり出会った。彼は王来順と言って、小さい頃私と連れションベンしたり、
泥をこねて遊んだ仲だった。彼は八路軍になってチャーズの哨所に配置され、
たまたま鉄砲を持って見回りに来たのだ。彼は私に、じぶんの家族の様子を尋ねた。
私がみんな死んだ、と言うと、彼はうずくまって声をあげて泣いた。ひとしきり
泣いた後、私が、私と彼の兄嫁とはどうしたらいいだろうか、と言うと、彼は
声をひそめて「命令があるんだ。お前の所のグループは出さない。明日、”馬車
地号”を出すから、あいつらについて歩け」と言った。”馬車地号”とは馬車夫や
苦力のことで、そんなふうに呼んでいたのだ。もし彼とばったり会わなかったら、
私は八割方生きてはいなかった。」
馬車夫、苦力を優遇したらしい。「貧乏人のために戦う」という対面を保とうと
したのだろうか。あるいは単に物資輸送のために必要だったのだろうか。
あるいはまた、この階級の人達は流動性の労働者だったから、土着の長春市民を
目の敵にしたのだろうか。
(続く)
15 :
名無的発言者:04/09/11 22:40:48
私はこの文章を書きながら、長春チャーズ事件の目的は近い将来の北京
攻略戦のための「見せしめ」だったのではないかと思い始めた。
つまり、「抵抗すれば北京でもこのようなことが起こるぞ」ということ
を見せつけておく、ということだ。そしてそのためには、東北を代表
する長春が最も効果的な舞台であった。
「見せしめ」であるならば、その惨状をじぶんの目で見て、しかるべき
ルートで伝える人がいたほうがさらに効果的だ。そしてそのような人は
いたのである。「雪白血紅」には次のようなことが書いてある。
「四平で、錦州で、遼西で、鉄と火による戦いが吹き荒れているとき、
長春の春から秋に到る150回の黎明と黄昏は、ひっそりと静まり返って
いた。だからこの包囲戦のことを書くとき、人はみな「兵は刃に血ぬらず」
という四文字を書くのだ。
(中略)60軍の副官所長の張維鵬の妻子が優待のもとにチャーズの
関門を出て、道中も護衛されていたとき、銃もカメラも持たない一般
民衆は累々たる白骨の傍らで、群をなしてチャーズの関門の前に跪いて、
外へ出して命を救ってくれるように哀願していたのだ。
これが「兵は刃に血ぬらず」の実態だ!」
国府軍幹部の家族は、この惨状を目にしながら関門を出て、どこかへ
護送されたのだ。本はそれ以上書いてないが、彼らは国府軍占領地域まで
送り届けられた可能性が高いだろう。そして彼らの口から、チャーズの
惨状が北京に伝えられただろう。
もし「見せしめ」が目的だったとするなら、蒙古軍によるサマルカンド
や、満洲軍による揚州と同じ性格の「屠城市」が、中共によって20世紀
の長春に再現したことになるのだ。
(そして北京は無血開城された。)
(続く)
16 :
名無的発言者:04/09/16 23:48:04
長春チャーズ事件は、近現代史のなかで起こったこれほどの大事件であり
ながら、その現場には慰霊碑ひとつ立っていないという点で、特異である。
我々はチャーズ事件の話を聞くと、それが長春郊外の原野か農地の中で
起こったような印象を持ちがちである。現に「大地の子」もそのよいうに
間違えている。しかし実際は、チャーズ、すなわち中共軍の包囲線の関門と、
そのすぐ内側の難民集合場所とは、長春のなんでもない街角にあったの
である。
長春を訪れる観光客の大部分は、「長春電映」すなわち往時の「満映」に
案内される。長春電映の正門は四角い敷地の西側にあり、「紅旗街」と
いう、電車通りに面している。この「紅旗街」は以前は「洪煕街」という
名前で、国府軍治下でもその名前で呼ばれていた。この名前が「洪煕街の
チャーズ」としてチャーズの代名詞にもなっていたのである。そのこと
がまた改名の理由でもあったであろう。
「紅旗街」の電車通りは「長春電映」の前を南西へさらに1kmほど
行って、「寛平大路」という通りに直角にぶつかり、ここで電車線路も
西北へ90度曲がり、数百メートル行って鉄道本線と立体交差する。
チャーズの関門はこの立体交差のすぐ手前にあったのである。そして
その立体交差が鉄道を越す手前の北側、すなわち市の中心の側に、
餓死体で埋まった関門前の難民集合場所があったのである。
もし個人旅行で長春へ行かれるのであれば、ほんのすこしタクシーの足
を伸ばして、この場所を訪れて欲しい。そして数十万の中国人、数百人の
日本人の犠牲者のために祈っていただきたいと思う。
(続く)
17 :
名無的発言者:04/10/02 14:45:00
前回、寛平大路が鉄道本線を立体交差で越える手前の北側がチャーズの難民
集合場所だった、と書いた。
しかしここは当時から立体交差だったのではない。それも含めて、このあたりの
様子は当時とはすっかり変わっている。どのように変わったかを説明するには、
まず当時の様子を書かなければならない。
当時、満映の前を通る電車通りの洪煕街のあたりは、一言で言えば官舎街で
あった。そして洪煕街の東側は煉瓦作り1階建てと2階建ての官舎と、満映、
病院などでほぼ埋まっていたが、洪煕街の西側は広い野原であった。そして
野原のさらに西側の、鉄道本線よりに、もう一つの2階建ての官舎街があった。
当時「進化街」と呼んでいた。
洪煕街と進化街官舎の間の野原は、なだらかだがかなり深い谷をなして、その
谷底には一筋の小川が、洪煕街と平行して、ただし南から北へ流れていた。
小川は満映の前あたりでかなり広い沼を作っていた。この小川はどこから流れ
出してていたかと言うと、寛平大路のあたりでわき出していたのである。
寛平大路は上記の谷を横切るなだらかな分水嶺の尾根に設定されていたのである。
このような地形のために、寛平大路の線が包囲線として選ばれたのであろう。
上記の谷状の野原には、ところどころ楡や泥柳の大木の群落があった。
野原と大木、小川、沼、そして両側の官舎街、が織りなす景色は独特の牧歌的
とも言える趣があった。
このような場所が長春包囲線の「無人地帯」「真空地帯」となったのである。
当時、寛平大路は未完成の道路予定地のようなものであった。そして鉄道沿いの
進化街官舎の南端と寛平大路の間には、幅100メートルほどの空き地、つまり
官舎街の造成予定地があった。この空き地こそが、チャーズの関門の前の難民
集合場所となって餓死体がうずたかく積まれた場所だったのである。
(続く)
18 :
名無的発言者:04/10/22 01:49:49
言葉なんてバカでも覚える。
言語修得を左右するのは、学習者本人にとっての必要性だ。
19 :
名無的発言者:04/11/13 13:11:23
5年ほど前、私はチャーズ跡を訪れた。
むかしすばらしく良く見通しが効いた、洪煕街まわりの官舎街はすっかり
建物が建て込んでまったく見通せない。洪煕街と進化街の間の谷は浅くなり、
小川や沼はなくなっている。
私は遠藤誉さんの「チャーズの検証」という本にあるチャーズ跡の写真を頼りに、
チャーズ跡を探した。進化街の官舎のあったあたりは、煉瓦建て平屋の
小さな家が、狭い路地をはさんでびっしり建っており、むかしの建物はない。
一軒の家の前で、人民服の二人の老人が椅子にかけて煙草をくゆらしていた
ので、尋ねて見ることにした。
私「ニーハオ。」老人「ニーハオ。」
私「お尋ねします。50年前にチャーズがあった場所はどこでしょうか。」
老人「チャーズってなんだい。」
私「1948年に、八路軍が長春を包囲したとき、この辺にチャーズと
呼ばれた関門がありました。」
老人「ああ、それならこの辺はみなチャーズだよ。」
(続く)
20 :
名無的発言者:04/11/13 13:15:58
老人は「チャーズ」という言葉を忘れていたが、説明されて思い出したようだ。
お気づきと思うが、この会話のなかで私は「関門」という狭い意味のチャーズを
尋ね、老人は難民集合場所という第二の意味で答えている。つまり老人は
チャーズの意味の広がりを知っている。
(第三の意味は「真空地帯ぜんたい」である。)
こんな問答をやっているうちに私はたちまち10人ほどの男や子供に取り囲まれ
た。はじめは老人以外誰もいなかったのに、いつのまにかどこからか出て来たの
だ。彼等は「なにを探しているんだ?」「チャーズだって」「チャーズ?ああ、
囲困のことか。」などとおしゃべりしている。若い人達には「兵糧攻め」を意味
する「囲困」という言葉のほうが一般的のようだ。
さらに周りの人たちも含めて、私は写真にあった土手の上の円筒形のポリス
ボックスとその下の井戸の絵を描いて、こんな場所を知らないか?と尋ねて
みた。しかしみな「このあたりに井戸はないよ」というだけで、写真の場所
を知らなかった。私は老人や野次馬に礼を言ってその場を離れた。
(続く)
21 :
名無的発言者:04/11/13 13:41:37
チャーズ大虐殺記念館を建てて後世まで伝えるべきだな
22 :
名無的発言者:04/11/13 14:20:17
23 :
名無的発言者:04/11/13 15:15:19
支那畜は今までいったい何回・何箇所で大量殺戮を行ったんだ?
それでいて「南京」と言える神経がまったく理解出来ない。
24 :
名無的発言者:04/11/13 16:45:46
25 :
名無的発言者:04/12/01 10:24:35
私が老人に尋ねた場所は寛平大路よりもすこし北に寄ったところである。なぜ
かというと、当時の鉄道踏切は未完成の寛平大路にはなく、そのひとすじ北側
の「寛平胡同」という道路にあったので、そのように勘違いしていたのである。
老人たちと分かれて南側の寛平大路のほうへもどりながら、このあたりの街を
観察した。前にも書いたようにこの辺は一応「住宅街」である。同じような単純
な形の一階建て煉瓦作りの小さな家が、並ぶともなく並んでおり、その間を未
舗装の細い路地が走っている。
チャーズ跡を訪れたチャーズ事件経験者の遠藤誉さんは、この辺の住宅に当時の
「鉄条網」が利用されていて、強い感慨を覚えたことを「チャーズの検証」に
書いている。民家を見ると、なるほどそれはあった。錆びに錆びてかろうじて
形を留める鉄条網の切れ端が、そこここに見られる。例えば窓の外側にからめ
渡して、防犯用にしたりしているのである。
(続く)
26 :
名無的発言者:04/12/01 10:26:54
鉄道と平行に走っている広い道路に出て、北側から寛平大路に近づくと、
寛平大路の土手の上に円筒形のポリスボックスが眼に入った。探していた
「チャーズの検証」にある写真の場所だった。なんのことはない。関門跡地
は寛平大路そのものにあったのだ、と分かった。そして土手の下に、井戸も
あった。ブロックで囲った、人が落ち込みそうもないような小さな井戸で、
中は土で埋まっている。
遠藤誉さんによると、チャーズの関門近くにあった井戸は何万という避難民の
唯一の給水源であった。中共軍は全く給水しなかったからだ。そしてその井戸
には水を汲もうとして落ち込んだ女の人の死体が浸かっており、それでもかま
わず難民たちが(もちろん遠藤さん一家も)その水を汲んで飲んでいた。
チャーズの象徴とも言える井戸であった。
現在の井戸は当時と同じではない。当時、官舎街のそこここに井戸があった。
もちろん水道もあったから、非常用のものだったろう。そしてその井戸は直径
1メートル以上ある、ヒューム管で囲った大きなものだった。ヒューム管の井戸
がブロックの小さな井戸に変わり、それも土で埋まった経過は謎である。
土手の上からチャーズ跡に向かって手を合わせて、その場所を後にした。
そして近くまで来たついでだからと、鉄道の反対側にある「長春電影城」に行っ
た。これは紅旗街にある元満映の「長春電影製片所」とは別で、単なる遊園地で
ある。
(続く)
27 :
名無的発言者:04/12/15 16:54:35
さて私は寛平大路に待たせてあった借り切りのタクシーに乗って、「長春電影城」
に向かった。「長春電影城」はチャーズ跡地よりやや北寄りで、鉄道の反対側に
ある。その名前に反して映画とはあまり関係が無く、単なるさびれた遊園地で
あった。妻と二人で、トロッコで回るお化け屋敷のようなものでひろしきり遊んだ
後、敷地の中を歩いていると汽車の汽笛の音が聞こえた。
私は満鉄型の蒸気機関車が勇ましく走る姿が見られることを期待して、列車が
やって来るのを待っていた。そして列車は近づいてきたが、機関車の姿は見られず、
地面からもくもくと煙が立ち登って、目の前を通り過ぎて行っただけであった。
このとき私は始めて、鉄道が掘割と言うか、切り通しと言うか、半地下式になって
いるのに気が付いた。そのときまで、汽車に乗って南から長春に近づくとき、土の
土手が延々と車窓に続くのを眼にして、なんとなく違和感を覚えながら、迂闊にも
この事にはっきりとは気が付いていなかったのである。
昔は違った。鉄道は地面の上をじかに走っていて、洪煕街の東側の私の家から
鉄道まで1キロ弱の間視界を遮るものはなにもなかったから、走り過ぎる機関車
のシルエットが家の前からはっきり見えたのである。何種類かある機関車の形
の違いを見分けることもできた。
なんのために掘割にしたのだろうか。たしかに寛平大路には「分水嶺」という
地名もあるくらいだから、長春中央部から見て高くなっているには違いないが、
その勾配は東京の渋谷周辺の坂ほどもないゆるやかなものである。むかし機関車
はちっとも苦しそうでなく元気に走っていたのである。
(続く)
28 :
名無的発言者:04/12/15 17:37:02
29 :
名無的発言者:04/12/15 20:22:26
中式屠殺法
30 :
名無的発言者:05/01/12 18:37:52
シナ畜は救いがたい虐殺魔だな
31 :
名無的発言者:05/01/12 18:42:13
ついに抜かれちまったよ
★中国の貿易額1兆ドル超、日本抜き世界3位確実
・中国商務省が11日に発表した2004年の貿易収支速報によると、輸出と
輸入を合わせた貿易総額は前年比35・7%増の1兆1547億ドル(約120兆円)
と、初めて1兆ドルを突破した。
日本の1―11月の貿易総額は累計約100兆7000億円で、12月を加えた
通年でも109兆円程度と見られる。これはドル換算で1兆ドルをわずかに
上回る水準で、中国が日本を抜いて、アメリカ、ドイツに次ぐ世界3位の
貿易大国になることがほぼ確実となった。
中国の貿易の内訳は輸出が35・4%増の5933億ドル(約61兆7000億円)、
輸入は36・0%増の5613億ドル(約58兆4000億円)だった。年間の貿易
黒字は25・6%増の約320億ドル(約3兆3000億円)だった。
また、中国の貿易相手国・地域では、欧州連合(EU)が1772億ドル(18兆
4000億円)で1位、アメリカは1696億ドル(17兆6000億円)で2位となり、
昨年まで1位だった日本は1678億ドル(17兆4500億円)で3位に転落した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050111-00000017-yom-bus_all
32 :
名無的発言者:05/01/12 23:10:26
鉄道はなぜ切り通しになったのだろうか。
寛平大路の分水嶺を越える勾配を和らげようとしたのか。しかし前に書いたように
勾配はもともと緩やかなもので、列車が走るのに支障になるものではなかった。
それに、勾配を和らげるというなら最も高い寛平大路の位置で掘割の深さが最も
深くなければならないが、そんなことはなく、全長にわたって殆ど一定の、列車
がちょうど隠れるくらいの深さなのだから、勾配緩和の意味はあまりないだろう。
寛平大路のところで深くないからこそ、前に書いたように寛平大路は立体交差の
ところで2、3メートルの土手を築いてやっと鉄道を跨いでいるのだ。それならば
立体交差そのものが目的だったのか。それにも疑問がある。この切り通しを作った
時代に自動車はまだ極めて少なかっただろうし、鉄道はと言えば現在でも一時間に
1、2本しか通らない。そんな交通量で、これほどの工事を行って立体交差にする
必要性があるとは思えない。
どうしてもと言うなら、掘割の区間内で立体交差はたった3箇所しかないのだから、
道路の方を跨線橋か地下ガードにしたほうがよほど安上がりである。
要するに長春の鉄道切り通しは、大工事の割にはなんの目的かさっぱり分からない
設備なのである。
33 :
名無的発言者:05/01/12 23:16:12
ずばり、切り通しはチャーズの死体を埋める土を手近に求めたのではないか。
このあたりの戦後の処理を想像してみよう。チャーズ跡に残された十万以上の
死体をいつまでも人民の目にさらして置くわけにはいかない。中共は苦力をかき
集めて、死体を200−300メートル離れた東側の低地(小川の流れる谷底)へ
運び、とりあえず近くの土を取って浅く埋めただろう。
しかし浅く埋めたのでは安心できない。将来の工事などで死体が現れて問題に
なる可能性がある。そこで鉄道切り通しのアイデアが浮かんだのではないか。
交通上や都市計画上の理由をつけて鉄道を切り通しにすれば、区間次第で相当量の
土が採取できる。こうして鉄道は約4キロにわたって掘り下げられ、その土は東側
の低地に運ばれて死体の上に厚く積まれ、それによって谷が埋められて小川はなく
なり、現在のようにほぼ平坦な地形ができたのだろう。
長春の町に醜い傷跡のように走る鉄道切り通しは、大屠殺事件の物言わぬ証言者
かも知れないのである。
<続く>
>>23 あんまりそんなことを言うもんじゃない。
神戸でも横浜でも戦後は色々なことがあったが、みんな黙ってる。
シドニーでもオタワでも、色んな事が起こるかもしれないが、
そんなことを言えば人種による差別を誘発してしまう。
沈黙は時として雄弁。
いや、日本においては、加害者が自己の行為を隠滅するために、
逆に徹底して日本人を叩いてきた。
かかることが、再び三たび、諸外国で展開されたとしても、
それは物事の真実を見きれなかった当該国人達の責任でしかない。
事実であったとしても、日本人がそれを言ってしまえば、
差別の助長になってしまう。
本当に自国民を守るつもりのある人達なら事実を見るだろう。
宗教によってではなく、イデオロギーによってではなく、
自国民に対する同胞愛に基づき、真実を告げて警鐘を鳴らすだろう。
そんな人達に恵まれなかった国々、
あるいは自分たちの宗教やイデオロギーだけが助かれば良い、
そんな人達に蝕まれている国々が、リスクに曝されるのも致し方ない。
37 :
名無的発言者:05/01/14 00:07:43
アイリスチャンが自殺した理由も分かる。
ある意味では恐ろしく残酷だ。
38 :
名無的発言者:05/01/14 00:10:51
しかし、それに対する答えは、
今現在の中華人民共和国の態度なわけだ。
華人の中には方針を転換する人達が多い。
卑怯だが、日本人に紛れたり、或いは既存の運動に紛れたり、
ただ大陸だけは国際的にとか反ファッショでとか言訳して、
多くの同胞をドツボに嵌めている。
40 :
名無的発言者:05/02/27 09:58:01
あげとこ
おれの爺ちゃんと婆ちゃんは、新京(今の長春)に住んでた。
戦争が終わると、新京にいる日本人の成人男子は全員ソ連の捕虜になった。
爺ちゃんはうまいことやって収容所から逃げ出して、
爺ちゃん一家は1946年には内地に帰還した。
もし逃げられなかったら悲惨なことになってたんだな。
全然知らなかった。
42 :
名無的発言者:05/03/12 11:31:17
支那畜の本性啓蒙
43 :
名無的発言者:05/03/12 15:29:39
44 :
名無的発言者:05/03/12 16:49:20
age
45 :
名無的発言者:05/03/12 18:35:56
なんちゅーかシナ人ほかの事はだめだめなのに
宣伝工作だけはうまいなぁ
人の足を引っ張ることのみ長けているというか
遣ることが人間で無い。
47 :
名無的発言者:2005/04/07(木) 23:54:50
48 :
名無的発言者:2005/04/08(金) 00:12:35
歓迎 来来
台湾 陳総統 イタリア・バチカン訪問。
49 :
名無的発言者:2005/04/14(木) 14:56:35
虐殺国家、中国
50 :
名無的発言者:2005/04/16(土) 18:33:22
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
現代のファシスト=中国共産党、現代のナチス=朝鮮労働党
51 :
名無的発言者:2005/04/17(日) 18:22:44
犯罪者地獄行き上げ
52 :
名無的発言者:2005/04/17(日) 18:23:25
中華人民共和国政府はかなりビビっている。
あのバカ騒ぎが愚民扇動の賜物である事が世界に知れることは、中国政府の国民への欺瞞が世界に認められる事であり、
中国政府が連呼してきた大儀の崩壊を意味する
53 :
名無的発言者:2005/04/19(火) 01:41:59
毛沢東「一千万人や二千万人の死者など物の数ではない」
54 :
名無的発言者:2005/04/20(水) 13:17:58
チベットで虐殺ベトナムで虐殺何処へ行っても虐殺虐殺
一体中国人ってどうなってるの?
55 :
名無的発言者:2005/04/20(水) 15:03:23
>>41 すこし正確にして置こう。
終戦直前、南方に動員されて空になった兵員を補うために、関東軍がむちゃくちゃな
動員をかけて、一般人を軍に組み入れた。この人達は一夜漬けとはいえ、法的には兵士だ。
ソ連軍は本来の関東軍の残りと同時に、これらの運の悪い「速成兵士」を捕虜にしたのだ。
それ以外の成人男性は別にどうということはなかった。
決して無差別に人狩りをやったわけではない。もちろん一部ではノルマ達成のために
強引なことはあっただろうけどね。
(ソ連軍の捕虜連行そのものを弁護するわけではない。)
56 :
名無的発言者:2005/04/21(木) 08:49:56
虐殺大国 中国
57 :
名無的発言者:2005/04/24(日) 06:44:10
あげ
58 :
馬鹿陽区:2005/04/24(日) 06:54:44
女を兵士にしたほうがいいのに!
59 :
馬鹿陽区:2005/04/24(日) 07:00:39
福沢諭吉は脱亜論を唱え聖徳太子は陽帝に失礼な手紙を送り付けた!ってことで提案する今度の万札は監真にすべきである!彼は低能である日本人の為に礼節を尽くした偉人だからだ!ってことで早く差し止めよう
60 :
馬鹿陽区:2005/04/24(日) 07:11:38
馬鹿陽区は叩かれる天才です。しかしタイーホされるのはとてもこわいでつ!なのに反日を叫び祖国の為に危険な行為をする馬鹿陽区は中華の誇りです!デモはいけない事ですが日本国の低能国会議員が我々を敵視するからこうなったことを自覚してほしいです。
>55
なるほど。
おれの爺ちゃんも終戦の少し前に召集されて訓練を受けた。
戦地に送られる前に戦争が終わったそうだが。
爺さんが書いた手記を見てみると、
「…警備班長であり、兵隊上がりの故で無理に押しつけられて、
初日の警備についていた自分のところへ、隣組の班長が
日本人会の会報を持って来た。見ると
『八月十四日現在在営しおりたるものは、九月十一日八時までに
公安局に出頭すべし。若し出頭せずして後日発見されたるときは
銃殺に処せられるべし』という公安局長の写だ。」
そのあと爺さんたちは師道大学というところに連れて行かれ
「広い校庭には百近い天幕が張られ、既に先客がウヨウヨしている。
右手の建物は将校収容所と見えて、嘗ての関東軍の中堅が今は丸腰で、
出たり入ったりしている。襟章はつけている。ここにいる一将校の話によると、
一番偉いのは大佐で、隣りの師道学校に収容されており、
ここの人員まで合わせると八千名の元軍人がいると言う。」
とのことなので、やっぱ元軍人が捕虜になったようだね。
63 :
名無的発言者:2005/04/24(日) 13:05:57
中中共の長春大屠殺
酷過ぎる。
64 :
名無的発言者:2005/04/24(日) 22:51:27
>>62 55です。私も概念的にしか知らなかったが、おかげで具体的な様子がわかった。
サンクス。
65 :
名無的発言者:2005/04/29(金) 06:09:11
支那畜は今までいったい何回・何箇所で大量殺戮を行ったんだ?
それでいて「南京」と言える神経がまったく理解出来ない。
66 :
名無的発言者:2005/04/29(金) 07:51:39
67 :
名無的発言者:2005/04/29(金) 09:42:55
このスレには中国人が出てこないね。
なにか言うことないのかな。
68 :
名無的発言者:2005/04/29(金) 10:26:40
>67
流石にな…馬鹿陽区はただの釣り師だし…。
69 :
名無的発言者:2005/05/05(木) 20:31:41
長春大屠殺
70 :
名無的発言者:2005/05/12(木) 23:26:42
71 :
名無的発言者:2005/05/15(日) 17:32:40
中共は、自分の都合のいい歴史しかふれませんね。
都合の悪いものは歴史から抹殺ですか。
72 :
名無的発言者:2005/05/15(日) 21:31:07
まあそうしないと成り立たないのが共産主義だからね。
つまり、一党独裁が終わるまで連中の相手をしなきゃいけないってことか。
やれやれ。
73 :
名無的発言者:2005/05/16(月) 00:19:07
正しい知識と認識を国民が持てば問題は無いのだが、朝日新聞やNHKがその邪魔をするんだよ。
74 :
名無的発言者:2005/07/07(木) 21:02:32
長春大屠殺あげ
75 :
名無的発言者:2005/07/17(日) 00:19:19
76 :
名無的発言者:2005/08/19(金) 00:02:23
チャーズの経験者、遠藤誉さんはその著書「チャーズの検証」(1997)
のなかで、「チャーズの門の跡に建っている黄色いポリスボックス」の写真を
載せている。また難民たちが水を求めた井戸の跡として、前記ポリスボックス
の土手下にある井戸の写真を載せている。前に書いたように、私はこのポリス
ボックスと井戸とが、現在の寛平大路の鉄道寄りにあることを現地で確かめた。
また同書のなかの「長春市街図」に、チャーズの関門や包囲線のあった道路に
「寛平大路」と書き込んである。遠藤誉さんが、チャーズの関門が寛平大路に
あった、と考えていることは明らかだ。
しかしそれには疑問がある。
結論を先に言えば、チャーズの関門は寛平大路ではなく、寛平大路の北側を
平行に走る「寛平北胡同」にあった、と私は考える。
私がそのように考える理由をこれから書く。
<続く>
77 :
名無的発言者:2005/08/19(金) 00:05:04
その前に、以前と重複するが寛平大路と寛平北胡同との関係をもういちど
説明する。寛平大路は都市計画上では、市の南郊で「満映」の前を南北に走る
洪煕街の南端でこれとT字型に交差する東西方向のメインストリートであり、
現在の姿はその通りになっている。
しかし、満洲国当時は寛平大路はまだ工事中であり、将来その南側の歩道と
なるべき部分を供用しているのみであった。この辺の東西の道路としてもっぱら
使われていたのは上記の寛平北胡同であった。鉄道踏切も寛平北胡同にあって、
寛平大路にはなかった。ここでお断りするが「胡同」というのは単なる名称で
あって、北京の胡同とは無関係である。新京では大通りに平行する補助道路を
「何々胡同」と呼ぶ、というルールが作られていたのである。
寛平北胡同の北側には洪煕街寄りの春光小学校や、それより西の鉄道寄りの
「第七代用官舎」(別名「進化街官舎」)が接していた。しかし寛平北胡同の
南側と寛平大路との間はまったくの空き地であった。空き地の幅はワンブロック
分、約100メートルに寛平大路の工事中部分の幅を加えたものであった。
寛平大路と寛平北胡同とはほぼ等高であるが、寛平大路の南側と寛平北胡同の
北側とはそれぞれ落ち込んでいた。以前に寛平大路が分水嶺であったと書いた
が、正確には中間の空き地をはさむ寛平大路と寛平北胡同とが形成する帯状の
台地がこの辺の最高点だった。
<続く>
78 :
名無的発言者:2005/08/19(金) 23:54:44
私が、チャーズの関門があったのは寛平大路ではなく寛平北胡同だと考える
最大の理由は「井戸」の位置である。遠藤誉さんが写真で示すように、現在の
寛平大路の土手下の古井戸が当時の井戸の跡であるならば、その場所は当時は
寛平大路の工事中部分に接する空き地であったはずである。上記のように、
そこから官舎街までは100メートル以上も空き地が続いていた。要するに
広い野原のまんなかである。このような場所に当時井戸があったとは、ちょっと
想像し難いのである。
それではチャーズのなかで難民たちが水を汲んだと言う井戸は実際はどこに
あったのか。遠藤誉さんが「チャーズの検証」以前に書いた「チャーズ・出口
なき大地」(1984)には「チャーズ復元図」という見取り図が入っている。
それによると井戸は、南北に長い矩形をなす官舎街の廃墟の、南端近くの西側
縁部に書き込んである。それならばわかる。いかにも井戸がありそうな場所である。
また、この本の本文にも、遠藤誉さんは「崩れ落ちた赤レンガの壁の蔭に井戸が
一つある。」と書いている。間違いなく井戸は官舎街のなかにあったのだ。
それでは井戸から関門まではどのくらいの距離があったのか。それについては
「チャーズ・出口なき大地」の文章に、数値的には書いてない。しかし井戸の
近くに陣取ったという遠藤誉さんのグループに、関門の所から八路兵が呼びかけた
という文章からは100メートルの距離は感じられない。
なによりも、遠藤誉さんが「関門跡」とする現在のポリスボックスから、現在の
古井戸までの距離は、井戸のほうが道路に沿ってすこし東にずれているとは
言え、「同じ土手の上と下」という感じである。遠藤誉さんの感覚では、当時の
井戸から関門までもこのくらいの感じであったのだ。
79 :
名無的発言者:2005/08/20(土) 14:29:11
井戸が官舎街のなかにあり、井戸からチャーズの関門まで近かったのであれば、
関門は寛平大路ではなく、官舎街と接する寛平北胡同にあった可能性が極めて
高い。現在の寛平大路に立っている黄色いポリスボックスとブロック囲いの
井戸は、チャーズの関門とは無関係と思われる。
もう一つの理由は軍事的なものである。
遠藤誉さんが、チャーズの門が寛平大路にあったとする一つの理由は、当時
工事中であった寛平大路の道路用地に、2メートルくらいの高さの土盛りが
延々と積んであったことである。遠藤誉さんはこのことを取材の過程で知って
「チャーズの検証」で触れている。この土盛りが見張りに好都合であること
から、この上に包囲線を置いたのではないか、という考え方である。
しかしよく考えるとこれはおかしい。なぜなら、以前に書いたことを想起して
戴きたいが、寛平大路は包囲する中共軍の側から見て、帯状の台地の後縁部で
ある。後縁部に2メートルくらいの土盛りがあっても、前面の台地がじゃまして
大きな死角ができてしまう。これは、難民集合場所だけを見張るのならともかく、
台地の前面の低地や谷を利用して浸透してくる敵を見張るのには極めて不都合
である。
当時の戦況は寛平大路の台地の争奪戦の段階はとうに過ぎて、国府軍の防衛線
ははるか2kmも北の、安民大路(現・工農大路)の線にあったのだから、
中共軍は台地上のどこに包囲線を置こうが、自由であった。それならば必ずや、
包囲線は見張りに便利な台地の前縁部、すなわち寛平北胡同に置かれたのでは
あるまいか。
<続く>
80 :
名無的発言者:2005/08/25(木) 14:33:11
以上から、私は現在は中共軍の包囲線と関門(チャーズ)とは寛平大路ではなく、
寛平北胡同にあった、と考えている。
以前に私は例えば次のような文章を書いている(#17):
「当時、寛平大路は未完成の道路予定地のようなものであった。そして鉄道沿いの
進化街官舎の南端と寛平大路の間には、幅100メートルほどの空き地、つまり
官舎街の造成予定地があった。この空き地こそが、チャーズの関門の前の難民
集合場所となって餓死体がうずたかく積まれた場所だったのである。」
これは寛平大路に関門があった、という「チャーズの検証」のなかの遠藤誉さん
の説をもとにして書いたものである。しかし私は上記のように見方が変わった
ので、このような文章は取り消す。幅100メートルの空き地はチャーズの関門
の外側、つまり難民たちから見て関門の向こう側だった。
では難民たちが待機した場所はどこにあったのか。これについては遠藤誉さんの
以前の著作「チャーズ・出口なき大地」に具体的に図示してある。難民たちは
進化街官舎の廃墟と鉄道の間の細長い土地に集められていた。その土地は官舎の
西側の敷地(裏庭)、それに接する「開運街」という皮肉の効いた名前の鉄道
沿いの道路、それに鉄道用地の一部、などを合わせたものであったろう。
そして死体は官舎街のあらゆる隙間に埋められ、積まれた。遠藤誉さんが見た
最大の死体の山は建物の廃墟と包囲線との間、つまり官舎街の南側の敷地に
あった。ひとことで言えば、難民集合場所という第二の意味のチャーズは、進化
街官舎そのものだった。
第二の意味のチャーズは、寛平大路前の空き地をもとにして考えるよりも、
もっと狭い場所に、もっと密度高く存在したのである。
<続く>
81 :
名無的発言者:2005/08/26(金) 15:31:18
「チャーズは進化街官舎そのものだった」ということに関連して少し寄り道する。
遠藤誉さんの「チャーズ・出口なき大地」に、難民集合場所の描写で「立ち枯れ
た高粱の葉が風にかさかさ鳴っていた。」という文章がある。これと一致するか
のように「チャーズ復元図」には(もと高粱畑)という言葉が、井戸の近くに
書き込んである。これらの言葉はチャーズのイメージをあいまいにする。
「大地の子」を書いた山崎豊子さんは恐らく「チャーズ・出口なき大地」のこの
表現に引っかかって、チャーズの風景として次のように書いたのである。
「もとは、長春市に一番近い田畑だったが、真空地帯になったため、農民は
逃げだし、今や畑の畝さえ見分けがつかぬ荒地になっている。」
しかし、ここは官舎街だから、そんな本格的な農地があるわけがない。
恐らく遠藤誉さんが見た高粱は、日本人が去った後にこのあたりに住み着いた
中国人が、食糧の足しにと官舎街の敷地に、または鉄道用地に、小規模に耕作
したものであろう。遠藤誉さんも、「チャーズの検証」では農地であることを
否定して次のように書いている。
「しかし、ここは農地ではない。<中略>ここは堂々たる長春市内。いわゆる
農民というのはいなかっただろう。」
山崎豊子さんも、ちょっと調べれば官舎街そのもので起こった事件だったこと
がわかっただろうに、残念なことである。「大地の子」を読んでチャーズの背景
について誤ったイメージを持たれた方は修正していただきたい。
<続く>
平和記念資料館の大嘘に抗議しようぜ!
日本国民なら,執拗に抗議すべきだ。
抗議しないのはチョソやチャンコロに国を売り渡そうとしている広島長崎厨だ!
【卍】≦予 ̄>
G\(^■^ ラ 諸君!南京大虐殺だけでなく、広島、長崎の原爆も捏造だった!
\ <!>+\
Sieg・Hail〜
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/china/1124268613/9-20 肯定派は捏造した張本人であるアメリカ、日本政府、糞サヨク広島、
長崎住民が出した証拠か「無理やり肯定させる」権威、権力、学者に
頼るしかない。何一つ確かな証拠を出せないのです。
藻前らいまだに南京大虐殺を騒いでいるチャンコロか?
それとも従軍慰安婦や強制連行を叫んでいるチョソの同胞か?
そんなにチャンコロ・チョソ・広島長崎に支配されたいのか?
こんな抗議もしないで打たれてばっかりだから「倭国」「倭寇」とバカにされる。
83 :
名無的発言者:2005/08/26(金) 17:04:24
모든걸 받쳤다는걸 정말 너 몰랐었니
약속이 라면 그때 왜 내 눈을 멀게했어떻게 가니
그게 지금인데!!!!!!!!!
라면 그때 왜 내!!!
라면 그때 왜 내!!!
라면 그때 왜 내!!!
Japanese pig
84 :
名無的発言者:2005/08/26(金) 17:37:00
人間が使う文字を書け、クズめ。
人は他人を罵るのに自分が言われていちばん傷つく言葉を選ぶと言う
86 :
名無的発言者:2005/08/27(土) 13:28:11
>>75 残念ながら私のコンピューターでは図版しか見られません。
江澤民以下4人の像が後ろ手で跪くこの記念碑はいったい何の記念碑ですか?
すみませんが教えて下さい。
87 :
名無的発言者:2005/08/29(月) 10:33:31
「チャーズ・出口なき大地」の「チャーズ復元図」で改めて気付いたが、この
見取り図では春光小学校の角のところで、包囲戦の置かれた東西の道路と洪煕街と
が十字に交差するように描かれている。つまり洪煕街は包囲線を越えてさらに
南に伸びている。これはまさに包囲線の道路が寛平北胡同であることを示している。
これが寛平大路であるならば交差はT字になるはずだからだ。
遠藤誉さんは「・出口なき大地」の段階では非常に正確な地理的情報を持っていた。
それが後の「チャーズの検証」の段階では、なんらかの理由で寛平大路を包囲線
とする誤った判断となり、これによって生じる矛盾と妥協するために、地図が
あいまいになったものであろう。
さて、現在においてチャーズの関門を訪ねるにはどうすればよいか。
一つの方法は寛平大路を基準とする方法である。洪煕街を、長春電影を通過して
さらに南端まで行き、左に折れて寛平大路に入り、鉄道跨線橋のたもとまで行く。
すると左側に、一見円筒形に見えるポリスボックスが立っている。ここから、
寛平大路と直交する鉄道沿いの道「開運街」を約100メートル北へ行けば、
そのあたりが関門のあった場所である。
開運街の東側はすべて住宅街で、細長い灰色煉瓦作りの、同じ様な形の小住宅が
だいたい南北にならんでおり、その間を縦横に未舗装の細い人道が通っている。
その人道のなかでどれが寛平北胡同の跡なのかは、わかり難い。私が老人と話を
した家の前の道路は比較的に遠くまで東西方向に伸びていたから、これがそれか、
と推定した程度である。
そしてその住宅街と鉄道との間の、開運街を含む細長い土地が、難民たちが
集まっていた待機場所だった。要するに、現在は関門も、包囲線も、官舎街の
赤煉瓦二階建ての建物も、当時あったものの跡はなにひとつない。
経験者の方がここを訪れたならば、むしろ全くなにもないことに感慨を覚える
だろう。
<続く>
88 :
名無的発言者:2005/08/29(月) 14:57:59
>>87 訂正:
3段落3行目 誤:左に折れて寛平大路に入り
正:右に折れて寛平大路に入り
89 :
名無的発言者:2005/09/06(火) 23:08:29
>>87 もうひとつ訂正。間違いが多くて申し訳ない。
誤:すると左側に、一見円筒形に見えるポリスボックスが立っている。
正:すると右側(または北側)に、一見円筒形に見えるポリスボックスが立っている。
ついでにもうひとつ。
>そしてその住宅街と鉄道との間の、開運街を含む細長い土地が、難民たちが
>集まっていた待機場所だった。
と書いているが、ゆったり建てられていた当時の官舎街に較べて、現在の貧民
住宅街は隙間なく建てられている。だから当時の難民待機場所は、上記以外に
現在の住宅街の鉄道側の一部(当時の官舎街の裏庭にあたる)を含んでいる。
90 :
名無的発言者:2005/09/06(火) 23:12:26
さて、チャーズの関門跡を探すもうひとつのルートは、洪煕街(現・紅旗街)の
方から寛平北胡同の跡を辿ることである。それには「春光小学校」が目印になる。
当時の寛平北胡同は、春光小学校の南端で洪煕街と交差していたからだ。
春光小学校は、現在は寄宿舎つきの高等学校になっている。寛平大路の手前で
紅旗街の西側に並ぶ施設のなかで最も大きな学校であるからすぐわかる。
これが春光小学校の跡であることは、校舎のレベルとは段付きに下がっている
運動場でわかる。春光小学校の敷地は、小川の谷に向かって下がっていく地形に
合わせて段付きになっていたのだ。
しかし春光小学校跡はわかっても、残念なことに現在、寛平北胡同の紅旗街寄りの
部分は別の施設でつぶされている。そこで逆に高等学校の北端にまわると、敷地
に沿って西にだらだらと下る道路がある。これは当時もあった道で、現在の地図
では「集安路」と名前がついている。この道を谷底まで下ると、新しい小さな
小学校が建っている。
この小学校の横で南へ曲がってこんどは寛平大路に向かってだらだら坂を上ると、
寛平大路に行く前に、高等学校の南端に相当する位置に東西の道路があるはず
である。「はずである」というのは私は実際にこのルートを辿っていないが、
地図上ではそうなっているという意味である。
この道がわかれば、これが寛平北胡同の跡であり、当時の包囲線の跡である。
そしてこの道を西へ、鉄道沿いの開運街に至れば、そこが関門のあった場所である。
その途中で地形なども観察できるだろう。
長々と書いてきたが、これで一応の区切りとする。有り難うございました。
91 :
名無的発言者:2005/09/09(金) 19:41:55
92 :
名無的発言者:2005/10/12(水) 03:07:11
中国共産党はいくらなんでも殺しすぎ。
中共と比べればヒトラーも善人に見える。
93 :
名無的発言者:2005/10/12(水) 19:37:29
94 :
名無的発言者:2005/10/12(水) 19:46:46
今さっき、BBCでイギリスの専門家の声
部品も計画もロシア製
予算は軍事費から。
目的は軍事&世界に中国のプレゼンスをアピール
95 :
名無的発言者:2005/10/13(木) 21:18:09
96 :
名無的発言者:2005/12/14(水) 02:24:38
>>93-95 お前の幼稚な日本語では2ちゃんに来るのは1000年早いわ
wwww wwwwwwwwwwwwm9(^Д^)プギャーッ
倭人というやつ、なに人だ?
なりすまし中国人だろ。
とりあえず、クソチョンの戯言はスルーでオケ。
99 :
名無的発言者:2006/04/25(火) 18:51:50
シナの歴史は内戦、虐殺の歴史
100 :
名無的発言者:2006/07/07(金) 18:17:50
国連国際特別法廷、「クメール・ルージュ」を審判 中共の支援を受け、大量虐殺
国連が選出した、カンボジア人判事17人、外国人判事10人が3日、カンボジア首都・プノンペンで
宣誓し職務に付き、当時の「クメール・ルージュ(カンボジア共産党)」の指導者らを起訴し公判する
運びになった。選出された裁判官たちは、「クメール・ルージュ」の当時幹部らに対して取調べを
行った上、集団殺戮及び反人類罪で提訴するかどうか決定するものとみられ、同公判は来年より
開始される予定だという。
クメール・ルージュは、中共が手塩にかけて育て、組織し指揮した過激派共産主義組織で、
その指導者・ポルポト容疑者は若い頃、中国で何度も訓練を受け、毛沢東とも何度か会見をした。
1975年4月17日、クメール・ルージュは、首都プノンペンを占領し、都市の人々を田舎へ追い払い、
強制的に重労働をさせた。また、個人財産を没収し、学校を閉鎖させ、宗教信仰を禁止した。
クメール・ルージュが占領してからの4年間、カンボジアは大型屠畜場と化した。
大量の処刑および気が狂ったような拷問によって、当時のカンボジア全人口の3分の1に相当する
300万人を殺害した。
101 :
オイ、オマイら助けてください:2006/07/07(金) 18:24:37
北米生活板にいるお父さんを助けてください。
「おまえら海外行く前に日本の歴史を勉強したか? 」
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/northa/1041012690/l50 息子が今8THGLADEなんだが、
歴史の先生が世界三大悪人みたいな感じでヒットラー、ムッソリーニ、寛人の
行った悪行を調べよと宿題を出した。提出日に先生からのオピニオンがあって
1番の悪人は寛人とのこと、彼の命令でやった中国人に対する蛮行は3000万人が殺され
史上最大の虐殺である・・・????との事。家の息子は、私が言ってる事と違うので
コンフューズするし、良い点も取りたいし困っていた。外務省、何してるんだよ?
102 :
中国福建人:2006/07/07(金) 18:43:39
鄙视日本
103 :
名無的発言者:2006/07/07(金) 21:52:14
中国人は邪悪だな。
104 :
名無的発言者:2006/07/10(月) 02:54:38
法輪功学習者を対象にした中国の臓器狩りで、カナダ法政界関係者、調査報告書を発表
カナダ議会議員デヴィッド・キルゴア(David Kilgour)氏=カナダ外務省前アジア大洋州局長=
と国際人権弁護士デヴィット・マタス(David Matas)氏は6日、カナダ議会で記者会見を開き、
中共による法輪功学習者の臓器を強制摘出する告発について、二ヶ月間を費やした調査の結果を
カナダ政府とメディアに公表した。両氏は、中国における法輪功学習者の臓器を生きたまま強制摘出
する告発は紛れもない真実であるとの調査結果を発表した。
マタス弁護士は記者会見で、「すべての証拠を詳しく検証した結果、我々の調査結論は、
法輪功学習者の臓器を生きたまま摘出するのは、紛れもない事実であり、本人の意思を反する、
法輪功学習者を対象とした、この大規模な臓器狩りは常に存在し、未だに行われていると我々は信じる…
私たちもその調査結果に驚いており、これは地球上において前代未聞の邪悪な行為だ」と述べた。
105 :
名無的発言者:2006/07/10(月) 03:31:25
またコピペ信者か
106 :
名無的発言者:2006/08/14(月) 05:18:59
>>100 人道にもとる行為に時効はない、ということが定着した。
いつの日か、長春チャーズ事件も裁かれなければならない。
107 :
名無的発言者:2006/09/27(水) 20:54:32
いい加減、中国人の残忍さに気づけ。
108 :
名無的発言者:2006/10/17(火) 12:41:46
大東亜戦争を引き起こした原因も中国人にある。
中国の戦争責任こそ問われなくてはならない。
109 :
名無的発言者: