1 :
正信 ◆ia.CYYio :
01/12/07 19:51 徳川家康公の腹心、本多佐渡守正信にござる。 天下を獲らんとする者よ、拙者でよければ献策致さん。
2 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 19:52
ククク・・・こんな事で天下が取れると思うのか?
3 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 19:53
泣かぬのなら ?
4 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 19:54
どんなひと?
5 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 19:54
ちんこのサイズは?
6 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 19:55
なりきり板で天下とりたいんですが?
7 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 19:56
今何歳ですか?
8 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 19:56
天下を取ろう〜内田の野望〜は天下取れますか?
9 :
正信 ◆ia.CYYio :01/12/07 20:02
>2 それがしは、天下獲りのための献策をするにすぎ申さん。 それで、天下が獲れるかどうかは、結局のところ、本人にかかっていると申し上げるしかない。 >3 大殿であれば、鳴くまで待つであろう。 >4 徳川家康公の家臣にござる。 武術拙きも、権謀術策には一日の長ありと自負しておる。
10 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 20:04
本多 ただかつの方が好き。え〜い、豪槍トンボ切り〜
11 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 20:05
自分は他人からどう思われてると思う?
12 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 20:06
家康は鯛の天ぷらの食べ過ぎで死んだと聞きました。
13 :
正信 ◆ia.CYYio :01/12/07 20:09
>5 そのような質問に、お答え申し上げることは何もござらん。 >6 それで、お主は何か天下を獲るための準備をされているのか? 天下獲りの道に、王道、覇道あるも、いまだ覇道にて天下を獲った者を知らず。 天下を獲るためには入念な準備が必要じゃ。 もう少し、具体的に説明さらざれば分かり申し上げず。 >7 西暦でいえば、1616年に死んでしまったが・・・ >8 内田とは何者じゃ?
14 :
正信 ◆ia.CYYio :01/12/07 20:16
>10 確かに、忠勝殿は武勇の誉れ高いお方。憧れるのも無理はない。 なんせ、57戦して傷一つ負わなかったといわれる。 ちなみに、それがしと忠勝殿は遠縁じゃ。 >11 率直に言って、多くの人から恨みをかっておるだろうな。 しかし、それも大殿のため。わざと恨みをかっておるといってもよい。 >12 普段、粗食の大殿があの日は、鯛の天ぷらを食べ過ぎてしまった様じゃな。 しかし、あの時点で、もう、大殿は胃がんに冒されておった。 鯛の天ぷらの食べ過ぎなくとも、そう遠くないうちに亡くなられたかもしれぬ。
15 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 20:27
胃癌だったの? どうしてそれが(あの時代の技術で)わかったの?
16 :
正信 ◆ia.CYYio :01/12/07 20:34
>15 うむ。正確に言うと、胃がんであったのではないかという説が有力ということである。 あの時、大殿はご自身を「食傷」と診断された。 それで、得意の手製の薬を調合されたのだが、それが効かなかった。 あの時は、正確な死因は分からなんだ。 後の世になって、上のように胃がんであったというように言われるように なったということだと心得ておる。 ただ、あの時は、それがしも体調を崩し、大殿の見舞も出来んほどじゃったからな。 死んだ後になって、分かったということじゃ。
17 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 20:35
食事する時は必ず毒見とかしてたんだっけ?
18 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 20:37
自分の性格を一言であらわすと何になる? 家康は?
19 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 20:43
落ち武者狩りってどういうものですか?
20 :
正信 ◆ia.CYYio :01/12/07 20:48
>17 ん?それは、鯛の天ぷらがらみで聞いておるのか? 必ず、というわけではないはずじゃ。 >18 一言で、か。 ワシは、権謀術策を用いたせいか、陰険でずるがしこいと思われておる。 が、これで、結構、清廉の士であると思っておるがな。 大殿も、狸おやじなどといわれておるが、義理堅い方であるし、 平和を愛された方じゃよ。
21 :
正信 ◆ia.CYYio :01/12/07 20:56
>19 要するに、戦で負けて落延びて行く者を追跡して殺害・捕虜などにすることじゃな。 その他に、負けた者の身につけている物を奪う輩もおるからの、そういう連中にも狙われかねん。 信長殿はかなり徹底してやられたが、大殿は才能ある者は味方にするなどしておった。 ところで、本能寺の変の後には、大殿もワシも落ち武者同然に、伊賀山中をぬけたものじゃ。
22 :
以上、自作自演でした。 :01/12/07 23:06
あなた、出戻りですよね? その時の事情を話して下さい。
23 :
以上、自作自演でした。 :01/12/08 15:03
疫病はやってますか?
24 :
以上、自作自演でした。 :01/12/08 15:11
三河を出奔されていた間、どこに居られましたか?
アナタハ尊皇派? ソレトモ攘夷派?
26 :
以上、自作自演でした。 :01/12/08 15:34
正直、同時期で自分より優れた軍師っている?
>22,24 大殿は、一揆に参加した者でもその罪を問わないと言って下さったが、 理由があって、わしは三河を出て、諸国を放浪、一向一揆の総本山、 加賀の国に移住し申した。 そして、姉川の合戦時に帰参(武田滅亡時という者もあるがな)、 21に挙げた、伊賀山中抜けの頃から、この功績とある事情によって、 大殿の腹心として仕えた、ということじゃ。 >23 疫病とは、実に恐ろしいものである。 欧州では、そのために人口が3分の1にまで減ったこともあったそうじゃ。 お主等は非科学的と思うかもしれんが、 疫病を沈めんと祭りが行われたりしたものじゃ。 しかし、病は気から、と申すでな、必ずしも効果が無いわけではない。 ところで、領民は国の礎である。民を蔑ろにして、長く栄えた政権はない。 江戸では、当時、世界で最も清潔な町であると称された。 尤も、欧州の衛生状態は相当ひどかったようじゃがな。
>25 必ずしも、尊王派、攘夷派どちらか、という問題でもないようじゃが。 古くは尊王・攘夷とは中国は周の春秋時代に唱えられたもののようじゃな。 わしは武家社会を築くため砕身した身。大殿も鎌倉殿を理想とせられた。 尊王派はないのぉ。 攘夷か。戦争というのは国の存亡を賭けたものである。避けるにしくはなし。 むやみやたらに、異国の徒を排除しようとするのは、決してよきこととは思わぬ。 >26 うむ。大殿と対峙せられた戦国武将だけを考えても、 山本勘助(武田信玄) 竹中半兵衛・黒田如水(豊臣秀吉) 島左近(石田三成) など、たくさんおる。 わしが、これは参ったと思ったのは、軍師というわけではないが、 豊臣秀吉殿である。 本能寺の変の後のあの動き、賎ヶ岳の合戦、大殿との戦いでのあの根回し、 ワシなど、まだまだと思ったものじゃ。 尤も、晩年のご乱心は目も当てられなんだがな。 あとは、真田父子じゃな。
sage推奨なんですね。倣いましょう。 「内閣総理大臣織田信長」では三州殿はぽや〜んとして かなりとぼけた方に描かれていますが、実際のところ はどうでしょう。 微笑みの下に背筋も凍るような凄みすごみがあったり するのでしょうか。
30 :
以上、自作自演でした。 :01/12/09 14:06
今日は何してました?
31 :
以上、自作自演でした。 :01/12/09 14:38
家康公を呼ぶとき、「大殿」って呼ぶの? 「上様」じゃないの?
>30 現在の日本は、表面上平和なのでな。 のんきに書でも読んでおる。 >31 確かに、前田利家殿が亡くなられたあたりでは、 家康公を「上様」と呼び申し上げとった。 しかし、天下をお獲りになり、将軍職を秀忠様に譲られてからは、 家康公のことを「大殿」、秀忠様のことを「若殿」と呼び申し上げておる。 まぁ、呼び方など、それほど気にすることでもないのかもしれんがな。
しまった、29について、解答し申し上げるのを忘れておった。 しばし、待たれよ。
34 :
以上、自作自演でした。 :01/12/10 21:58
儒教とか流行ってますか?
>29 わしはあまり信長公と顔を合わせたことがござらん。 近くで拝見させて頂いたのは本能寺くらいじゃった。 しかし、微笑んで話をされておる時などは、そのようなことはなかったと存ずる。 ご気性激しい方ではあったが、良い意味でも悪い意味でも、 少年のようなところが、残っていた方であった。 >34 流行っていると言うかなんと言うか、 実は幕藩体制組織の強化のために、「天道」「天命」といった考えを 骨抜きにするために、目をつけたのが朱子学じゃ。 朱子学はまことに幕府にとって好都合な学問であったために、 儒者・林羅山を任用したということじゃ。 羅山はよう働いてくれたのぉ。
36 :
以上、自作自演でした。 :01/12/11 22:06
あなたは朱子学についてどう考えてますか?
37 :
以上、自作自演でした。 :01/12/11 22:07
庶民の食生活について教えて下さい。 肉とか食べてるんですか???
>36 正直なところ、支配体制強化のためにこれは都合がいい、という思いもある。 しかし、信長殿、秀吉殿の例を見ても分かるように、 道を誤れば、二代としてもたぬことが分かる。 ということから、広く儒教ということになれば、 心構えなどといったものが学べる学問であり、評価しておる。 しかし、あまりに字面ばかり追っていても、全く意味はない。 そういう儒者も増えてきて嘆かわしいことじゃ。 >37 庶民が肉を食べることは、まず無いじゃろうなぁ。 肉を食べることが出来たのは、上級武士だけじゃ。 主に、ウサギ、猪、豚、たぬきなどじゃな。 それから、白米は勿論、米の名がつく物すら滅多に食べられん。 基本的に食べておったのは、雑炊であった。 水をたくさん入れ、菜、豆、芋がらなどを入れておったものじゃ。 ちなみに、一日二食じゃ。
性犯罪者に対する罰としてのパイプカットってどう思いますか?
>39 伝え聞くところによると、 パイプカットをしても射精時の快感が失われるわけではないそうじゃ。 そうであるならば、 性犯罪に対する罰として意味があるのかどうか、よく分からんのぉ。 しかし、今と昔では性交渉の意味合いがだいぶ変わってしまったわい。
41 :
以上、自作自演でした。 :01/12/13 19:53
子供のころの思い出を語ってください。
徳川家康についての歴史小説でお勧めは何ですか?
>41 わしは身分の低いところからの出であったがな(鷹師の出身であった)、 役人としての仕事が出来たために、そこそこの信任を得ていたものじゃ。 尤も、武功はからきし駄目であった。 >42 ありきたりで申し訳ないが、お主に時間がたーっぷりとあるのであれば、 山岡荘八氏の「徳川家康」に挑戦してみるのもよいのではないか。 但し、講談社の文庫本で26巻もあるがの。 あと、面白いのは隆慶一郎氏の「影武者徳川家康」なんかどうじゃろう。 フィクションと史実を上手く組み合わせておると思うが。 新潮文庫から上中下とあるはずじゃ。
44 :
世良田次郎三郎 :01/12/14 23:29
弥八郎おおおおおおっ!!
>44 おお、これは大殿、かようなとこ・・・うん? ああ、そなたであったか。 あまり、本名を晒すでないぞ。
46 :
以上、自作自演でした。 :01/12/16 01:17
政治の真髄とは「小の虫を殺して大の虫を生かす」でしょうか?
>46 確かに、物事を進める際に、お主の言う事が多く行われる事は否定できん。 じゃが、その逆もまた、重要じゃ。 まず、小さい虫と大きい虫を見極める事が肝要じゃ。 一見すると、小さい虫に見えても、月日が経つに連れて大きく成長する事も有る。 無論、その逆、つまり、大きな虫も月日が経って死んでしまう事も有る。 例えばじゃ、大殿が武田信玄殿に挑んで、散々に打ち負かされた事は知っていよう。 あの時の情勢からしたら、わざわざ戦いを挑む必要はなかった。 下手をすれば、死んでいたかもしれん。 じゃが、これを見た諸大名はどう思ったか。 大殿の事をたいそう勇敢な武将であると評価したのじゃ。 また、若殿が関ケ原の合戦に遅参された事も知っているかな? (わしも若殿についておったのじゃが) 若殿は、あの時、わずかな兵力であった真田殿を素通りする事は、 武将として恥であると思われた。 しかし、そこで手間取って、結局討つこともかなわず、関ケ原にも遅参された。 どちらが大きな虫かお分かりにならなんだということじゃ。 ところがどっこい、結果としては、主力部隊であった秀忠軍は、 ほとんど温存できたということになった。 他の軍勢が関ケ原で疲弊した中、徳川の軍勢は疲弊することが無かったのじゃ。 そして、小さい虫を犠牲にすべきでない時も有る。 強き人は弱き人に力を貸してやらねばならん、 そして、それが出来ることが本当の強さではないか、とわしは考える。 そうしなければならん時も有る。 重要なのは、見極めることじゃ。 かなり難しいがな。
48 :
以上、自作自演でした。 :01/12/16 17:17
座敷牢ってどういうものですか?
49 :
以上、自作自演でした。 :01/12/16 22:44
横山光輝画の於大の方と濃姫萌え〜築山殿萎え〜
50 :
以上、自作自演でした。 :01/12/16 22:47
実際の秀忠公は、隆慶の描いた様な人間だったのですか?
51 :
以上、自作自演でした。 :01/12/16 23:23
大河ドラマ「葵」についての御感想は?
>48 座敷の牢屋といえばよいのか、とにかく、そこに人を入れて出られなくするのじゃが。 >49 要はイメージじゃな。 濃姫は信長殿と結婚されて間もなく、亡くなられたという話もあるがのぉ。 他にも、婚約しかしていないとか、美濃に帰ったという話もある。 ただ、小説などでは、気丈なおなごとして、結構イメージがいいのではないか。 於大の方は、幼い頃の大殿と生き別れになったりと、運命に翻弄された方じゃしな。 築山殿は、大殿とはあまり合わなんだようじゃし、嫁いびりの話とかあるでな。 前二者は、イメージが良く、後者はイメージが悪い。 これに尽きるのではないか? >50 あの小説は、フィクションと史実を組み合わせたものじゃからな。 どこかにしわ寄せがいかざるを得ん。 その行き先が若殿であったということじゃろう。 >51 わしが生きている時は、若殿と、お江与の方は、歳の割にかなり老けておったのぉ。 あと、かなり若殿が情けなく見えたが… 戦などの場面は、それなりに良かったのではないじゃろうか。
53 :
以上、自作自演でした。 :01/12/17 15:03
北条時宗をどう思います?
54 :
以上、自作自演でした。 :01/12/17 23:03
あなたの趣味は何ですか?
55 :
以上、自作自演でした。 :01/12/18 00:03
田沼意次をどう思います?
56 :
以上、自作自演でした。 :01/12/18 00:06
田沼意次をどう思います?
57 :
足利義輝@剣豪将軍 :01/12/18 00:25
幕府の再興目指して頑張っておるのじゃが どうも大きくなりすぎた三好と松永が邪魔で中々うまくいかんのだ・・・。 何か良い方法は無いものかのう?
58 :
以上、自作自演でした。 :01/12/18 01:51
土井ごときに後れをとった息子さんに一言。
59 :
以上、自作自演でした。 :01/12/18 03:51
徳川前期と様子が似ている今の日本についてひとこと。
60 :
以上、自作自演でした。 :01/12/18 10:00
榊原康政とか、徳川家武断派(?)の諸将からあまり快く思われてなかったようだけど 実際のところどうなの? まあ、そういうのは謀臣の常だとは思うが
>53 あそこで、元の侵入を防いだのは、日本にとって非常に大きなことであったと思う。 尤も、元にとっても、滅亡の一因になったわけじゃから、大きなことであったと思うが。 わしは観ておらんかったが、大河ドラマの感想を聞くと、 餅は餅屋、和泉元彌氏はいまいちじゃったとか。 >54 「無弦の琴(きん)」という言葉を知っておるか? 陶淵明は、音楽は分からなかったが、酒に酔っていい気分になると、 弦の無い琴を弾く(頭の中で弾く)ことをしておったそうじゃ。 よく「趣味は何か?」と聞かれるが、趣味とは、他人にひけらかすものではなく、 自分の中で楽しむものなのじゃろう。 それはおいておいて、そうじゃな、書を読むことであろうか。 >55-56 田沼意次な。 悪いイメージがあるようじゃが、商業政策などは良くやった方ではなかろうか。 尤も、天災に対する対応がいまいちなのは良くないのぉ。 百姓は天下の根本じゃからな。
>57 正直なところ、室町幕府に再興されると、都合が悪いところもあるのぉ。 三好も松永も、権力欲・出世欲の旺盛な者じゃ。 そしてまた、自身が下克上によって成り上がったということは、 猜疑心が強いのではなかろうか。 それを利用するのが良いと思うのじゃが。 あと、一応名ばかりとはいえ、将軍家の権威を利用しようとする者は多かろう。 そこを逆に利用することじゃな。 ただ、あそこから再興させるのは非常に困難であるな。 所詮は、政権を少し延命させるにすぎまい。 打つ手が遅すぎたというべきか。 >58 土井利勝か。 大殿の御子であるとの話もあるが。 それは別にしても、人を管理することに優れていて、優秀な奴だと思うが。 「土井ごとき」ということもあるまい。 正純についてじゃが、客観的に見ても、わしよりも切れ者であると思うがのぉ。 少々、出世欲が強すぎたようじゃ。 織田・豊臣と一代で潰れた例を散々見ておきながら、二代で潰してしまうとは… 子育てとは、難しいものであるな。 >59 すまんが、もう少し具体的に言ってくれんか。 >60 武断派との抗争は仕方あるまい。 戦で命を懸けている者よりも、裏で算盤をはじいている者の方が、 重く用いられれば、面白くないのは当然じゃろう。 まして、わしは低い身分の出の上に、出戻りじゃからな。 古参の者からすれば、「ふざけるな」という思いじゃろう。 徳川が天下を獲ることが出来たのも、 豊臣内部の武断派と吏僚派の争いに目をつけたからなんじゃがな。
63 :
以上、自作自演でした。 :01/12/18 15:02
現代の日本経済復興策についてお伺いしたい。
64 :
以上、自作自演でした。 :01/12/18 20:14
お犬様、お犬様って馬鹿じゃないの? って正直思いませんか?
65 :
以上、自作自演でした。 :01/12/18 20:16
失業率の多さをどう思います?
66 :
以上、自作自演でした。 :01/12/18 20:30
徳川幕府前期の将軍不要論について一言。
67 :
以上、自作自演でした。 :01/12/18 21:24
ずっと御仏は大事でしたか?
68 :
以上、自作自演でした。 :01/12/19 02:46
平八さんのことはどう思ってました?
69 :
以上、自作自演でした。 :01/12/19 03:55
若年層のフリーター増加についてどう思いますか?就職する意志はあるけれどもこの就職難で・・・という人も多いと聞きますが。
>63-65-69 ここら辺は、まとめて回答致そう。 わしの頃とは、経済構造が大きく違うゆえ、 現在と共通な事柄を述べるにとどめん、と思う。 重要なことは、庶民がちゃんと暮らしていくことが出来るということじゃな。 昔は、「生かさぬよう、殺さぬよう」するものとされたが、 今は、「生かさぬよう」は不要であろう。 しかし、今も昔も殺してはならんのじゃ。 何度も言うが、「百姓は天下の根本」 今では、一言ではくくれなくなってしまったが、 いわゆる庶民が国の基礎であることは間違い無い。 このような連中が、死ぬことを考え、 それ実施してしまうようなことが無いようにせねばならん。 >64 生類憐みの令のことじゃな。 正直も何も、ただ、馬鹿らしいのぉ、の一言じゃな。。 とんでもない悪法じゃ。 将軍が私欲(世継ぎをもうけること)のために、庶民を苦しませるのは間違っておる。
>66 将軍とは、世襲制である。 故に、ときには、能力の低い者が将軍に就くこともある。 将軍のワンマン幕府になってしまっては、将軍の力量によって、 統治能力に大きな差が出て、混乱しかねん。 そういうときは、周りの者が知恵を出すようにして、 安定した統治をする方がいい。 ちなみに、古代ローマでは、パックス・ロマーナといわれる、 安定した時代があったそうじゃが、その時は、皇帝は世襲制ではなく、 貴族の中から、最も適任と思われる者が、代々継いだそうじゃ。 >67 そうじゃな、若い頃は、仏のみという感じではあったが。 歳をとってからは、勿論、仏も大事なのじゃが、 神でも仏でもない、天地の間の主、「天道」を知ることが重要であると思ったな。 >68 まさに、わしとは対局の位置にある人であるな。 57戦して傷を負ったことなく、齢15にして敵の首を獲ったこともあるという。 忠勝殿が指揮を執って造られた、大多喜城も立派なものであった。 三河時代を支えた、立派な武将じゃ。 確かに、晩年は文治へと移行しつつあったために、腕は振るえんかったようじゃがな。 しかし、忠勝殿の武名は、全国に轟いておったぞ。
72 :
以上、自作自演でした。 :01/12/19 13:59
暴れん坊将軍ってどう思いますか?
貴方は日本が世界に誇れるものは何だと思いますか?
74 :
以上、自作自演でした。 :01/12/20 01:50
いつも「知謀の人」と言うイメージがあるのですが…… 悪く言えば陰険爺(^^; なにかそういうマイナスイメージを払拭するような、良い話有りませんか?
>72 色々な意味にとれるような質問ではあるが、 まぁ、「暴れん坊将軍」とは、随分とインパクトのある題名じゃのう。 人気があるようじゃが、裏に子供番組で人気のあるものがあるゆえ、 孫に弱い老人が観ることが出来なくなっている例もあるとか・・・ >73 まぁ、色々あるがな。 火縄銃などは、あの当時は、 日本の物が世界でも誇れるものであったということじゃが。 しかし、物事は一長一短あるものじゃ。 そういうことに拘らず、自分をしっかり持っていればよかろう。 >74 陰険爺か・・・ わしも、大殿の御咎めを受けた者を、間に入ってとりなした事もあったんじゃが、 しかし、咎めを受ける原因を作ったのは、 正信であるという疑いをかけられたりしてな、 良い話も悪く解釈されておる。 敢えて言うなら、俸禄を望まんかった事じゃろうが、 まぁ、わしのイメージが悪ければ、大殿に家臣の不平不満がいく事も無いじゃろう。
76 :
以上、自作自演でした。 :01/12/20 23:26
秀康殿についてご意見を。
77 :
以上、自作自演でした。 :01/12/20 23:43
原哲夫氏描くところのあまりにも情けない若殿をどう思われますか? 若殿名セリフ集 「おこらない、おこらないよ〜っ」 (家臣に自分に遠慮なく直言するよう頼んだ時のセリフ。この後恐る恐る直言した家臣をボコボコに殴る) 「わあい!」 (こらしめに来た霞拳志郎に出会ってビックリした時のセリフ) 「ぷぺっ!ぷぴぽぺっ!」 (霞拳志郎にぶん殴られたときのセリフ) ・・・・・・えっ、他の誰かがまじってるって?
>76-77 まとめて回答致す事にしようか。 秀康殿といえば、大殿から後継の話が出た時に、 わしは秀康殿を推薦した事があったが、それは置いておこう。 秀康殿は、ご気性荒く豪胆な人物で、秀吉殿も、秀康殿の豪胆ぶりには感心しておった。 信康殿に似ている所もあったな。 じゃが、そういう武功に優れた所は、もう時代には合わんかったようじゃな。 それに、秀吉殿の養子になった事もマイナスであった。 若殿は、世間のイメージからすると、平凡な将軍というものであろう。 であるから、小説などになると、情けなくかかれるのであろう。 じゃがな、若殿は決して、平凡なんてものではないぞ。 家光公の名前で出した政策も、若殿が裏におったようじゃし。 まぁ、一言で言えば、若殿は戦下手ではあったが、律義な方であった。 エピソードをいくつか紹介してみようかの。 わしが、若殿に、「父君のように、時には嘘をつかれる事も機略があるというものですぞ」 と申し上げた事があった。 すると、若殿は、「父上が嘘をつくから、人も騙される。わしでは効無し」と仰せられた。 月の綺麗な夜、若殿が「こんな夜に天守閣にて、鼓を打ってみたい」と仰せられた。 近侍が実行するよう申し上げた所、 「上の行いは下がすぐ真似する。」と、鼓を打つ事はせなんだ。 また、料理名人が鯉をさばいておったところ、一同そのさばき具合を褒めたが、 若殿は「上手くいった時に褒めると、しくじった時には罰せねばなるまい」とて、褒めなんだ。 他方で、神池の鰻を釣って食べたが、いまだ天罰が無いという者の話を御聞きになって、 「神事を軽んじる者は、いずれ将軍をも蔑むであろう」とて磔にしてしまった。 大名の改易が一番多く行われたのも、若殿の時代じゃ(酒井・土井の思惑もあるが)。 一見、律義・温厚に見えて、やる時はやる。 こういう方が、実は、一番恐ろしいかもしれんて。
79 :
以上、自作自演でした。 :01/12/21 02:58
密かに地味な名スレ。
>79 自作自演殿にそのように言って頂けるとは、 この正信、祝着の極みに存じ奉る。 地味なのは仕方あるまい。 ただでさえ、大殿は、信長殿・秀吉殿に比べると地味であるしな。 まして、陰険爺であるわしじゃからな。
81 :
以上、自作自演でした。 :01/12/21 11:46
>80 >陰険爺 ひょっとして気にしてますか?
82 :
以上、自作自演でした。 :01/12/21 12:17
暴れん坊将軍について、何かコメントを。
83 :
以上、自作自演でした。 :01/12/21 12:28
平八郎さんは来ますかねえ・・・・?
>81 いや、気にしてはおらんよ、ははは・・・いや・・・ホントに・・・・・・ >82 「暴れん坊将軍」については、75でも答えたが、別の事を申し上げようかのぉ。 本当に、将軍が旗本に変装して、騒動に巻込まれるような事があっては、 とんでもない事じゃ。 ただ、将軍が、町人達の生活を知るというのはいい事であろう。 大殿も、よく鷹狩をされておったが、ただ単に、面白いからやっておられるだけでなく、 健康のため、はたまた、狩り場付近の住民の話を聞くためでもあった。 まぁ、吉宗公も時代劇などの素材としては、格好のものなのであろう。 >83 忠勝殿は「佐渡(わしの事じゃぞ)の腰抜け」と、わしの事を嫌っておったようじゃしな、 来て下さらんかもしれん。 もっとも、忠勝殿に限った事ではないがな。 何といっても、わしは天下無敵の嫌われ者じゃから。
85 :
以上、自作自演でした。 :01/12/21 15:23
そんなに嫌われてたんですか?
>85 乱世から治世へ、という時代の変わり目じゃったからな。 乱世における徳川家を支えてきた、武功派からすれば、 徐々に中枢から遠ざけられていく事が面白くないのは当然。 吏僚派の代表格であるわしが嫌われるのも当然じゃ。
87 :
以上、自作自演でした。 :01/12/21 19:07
年越しは蕎麦を食べながら・・・ですか?
88 :
以上、自作自演でした。 :01/12/21 20:34
戦国期の強いと思える大名について一言。 大殿以外でお願いしますね。
>87 年越蕎麦か。 わしが生きていた頃は、それほど広まっていなかったがな。 そうじゃな、大晦日の晩は蕎麦を食べる事に致そうか。 蕎麦は健康にも良いから、大晦日に限らず食べるのがよろしかろう。 >88 28で、秀吉殿について、簡単に申し上げた。 ただ、最強の大名といっても、難しいのぉ。 わしが直接戦った事がある中で、これはと思うのは、やはり秀吉殿じゃな。 大殿が尊敬せられる、武田信玄殿ももちろん強かった。 全国の中で、強い大名を挙げればきりがないのぉ。 今回は、少し違った見方をしてみようと思うのじゃが。 大名が強いといっても、当然の事ながら、それだけでは駄目で、 家臣団の強さも必要じゃ。 徳川においては、「三河衆一人に尾張衆三人」とまでいわれた、三河家臣団がおる。 三方ヶ原の戦いにおいては、倒れた者も、うつ伏せの者は頭を敵(北)側に、 仰向けの者は頭を味方(南)の側に向けて倒れておったほどじゃ。 我が軍の事はここまでにして、家臣団で恐れられておったのが、 命知らずの島津率いる薩摩隼人じゃ。 わしは参戦できなんだが、関ヶ原の戦いにおいては、 勝敗が決し、敵に囲まれた島津勢は、なんと、東軍本陣向かって突破を図りおった。 千人ほどおった者も、九州に帰った頃には80人ほどにまで減っておったそうじゃが、 さすがは、薩摩隼人と思わせるような、脱出劇であったようじゃ。 大殿も、秀吉殿も、島津勢との戦いは嫌がっておった。
90 :
以上、自作自演でした。 :01/12/22 00:48
そんな島津と毛利と長宗我部に滅ばされるのは宿命ですか?
91 :
以上、自作自演でした。 :01/12/22 01:04
大河ドラマでやってた毛利家中について何かひとこと。
92 :
以上、自作自演でした。 :01/12/22 02:49
かぶき者について何か一言
93 :
以上、自作自演でした。 :01/12/22 03:25
高い人、安い人、あまる人。 最近、こんな本が巷ででまわってますが、力及ばずして後二者になってしまった人が、充実した人生を送ってゆけるようアドバイスを。
94 :
足利義輝@剣豪将軍 :01/12/22 03:42
そういえば、本多殿よ 実際のところ、お主の武芸などの腕は、どのくらいのものだったんじゃ? これは未確認情報じゃか、あの石田三成だって実は賤ヶ岳の戦いの時に七本槍に次ぐぐらいの戦功を立てていたらしいしな
>90 幕府が倒れた時の土佐藩は、山内氏じゃったかな。 まぁ、宿命かどうかは分からんな。 江戸から離れた藩であったからな、そういう意味では宿命なのかもしれん。 >91 申し訳ないが、毛利殿の大河ドラマは見ておらん。 よって、大河ドラマについては、何とも申しようがない。 元就殿が主役であったかな。 元就殿について申さば、土豪から身を起こして、中国一の大名になられたからな、 戦国を代表する大名の一人である事は間違い無かろう。 >92 かぶき者というのは、前田利家殿の事かな。 正直なところ、目の上のたんこぶであったな。 利家殿がいなくなった事で、 豊臣内の武功派と吏僚派の対立がいよいよ激しくなったからのぉ。 おまつ殿は聡明な女性であった。 次の大河ドラマは、「利家とまつ」であったか。 最後の方に、わしが出る事もあるのかのう。
>93 「あまる人」というのは、必要とされずに余ってしまう人の事かな。 ちょっとよく分からんが。 しかし、高い安いなどというものは、それこそ、人の価値観によるでな。 わしとて、もっと早く生まれておったら、役に立たなんだかもしれんぞ。 高い、安いなどというものは、所詮、ある領域における、ある人の価値判断に過ぎん。 かような事に流されて、己を見失うよりも、もっと自己を見据える事じゃな。 >94 わしは、武芸に関しては、本当にからっきしの三級品じゃったよ。 しかし、三成殿にそういう話があるとはのぉ。 本当だとしたら、なかなかやるではないか。 ところで、「七本槍」じゃが、実際は「九本槍」じゃったとか。 七本槍+石河一光、桜井家一じゃったらしいぞ。
97 :
以上、自作自演でした。 :01/12/22 13:34
影武者はお持ちですか
98 :
以上、自作自演でした。 :01/12/22 16:59
キリシタンですか?
99 :
以上、自作自演でした。 :01/12/22 17:08
三河物語はおもしろいですか? 大久保彦左衛門の愚痴だったりしますか?
自分を三河一の因業爺と自覚されておるか?
101 :
以上、自作自演でした。 :01/12/22 21:16
天草地方の貧民が南蛮の奴隷船に乗せられて、 印度方面に売られているって話を聞いたのですが、 本当ですか!?
>97 わしには影武者はおらなんだ。 例えば、戦場において、本来、後方の割と安全なところで指揮をされる大将が、 前線に来たりすると、士気が上がるじゃろう。 そういう時に影武者を使ったりするのもあるな。 大殿については、山岡道阿弥、服部半蔵などが、影武者をやった事もある。 >98 キリシタンではないぞ。 キリスト教の禁止も、イギリスの政治的意図や、岡本大八事件など、 キリシタンの信仰内容の他にも、政治的なものがかなり入っておるな。 >99 天下のご意見番、、大久保彦左衛門殿な。 彦左衛門殿も時代の流れに乗り遅れてしまったようじゃな。 三河物語には、わしへの文句も書かれておる。 漫画でも出ておるから、読んでみるのもよろしかろう。 >100 むむっ、忠隣殿がこのような場所に… 100を踏まれたのが、忠隣殿というのは、何かの因縁でござろうか。 わしがむごい仕打ちをしたのも、全ては大殿のため。 お主も死んで400年近く経つのじゃから、冷静に考えられよ。 しかし、お主の大殿に対する忠誠心も相当のものであったな。
>101 うーむ、どうなんじゃろう、ちょっと分かりかねるのぉ。 じゃが、奴隷船なるような話は、決して珍しい事でもないかもしれん。 九州の諸藩に、警戒を呼びかけるようにせねばな。
104 :
以上、自作自演でした。 :01/12/22 23:16
貴方の時代のおせち料理とは・・・?
105 :
足利義輝@剣豪将軍 :01/12/23 00:09
そういえば、お主は本多忠勝とは親戚なのかのう? それとも名字が同じだけなのか?
>104 今のおせち料理の中身になったのは、江戸時代後期からのようじゃ。 元々、平安時代あたりに季節の「節」をそれぞれ祝っておったのが、 特に重要な正月について言うようになったようじゃ。 さらにさかのぼると、弥生時代には、その原形のようなものがあったとか。 わしらの時代には、米、餅、のし鮑、昆布、かち栗、乾柿、橙 といったものを、客人に出して、一緒につまんでおったよ(多分ね)。 >105 忠勝殿とは、まぁ、遠縁にあたるといったらよいのじゃろうか。 わしの七代くらい前かのぉ、助政というものに、定通と定正という子供がおって、 定通の子孫が、忠勝殿、定正の子孫がわしじゃ。
107 :
以上、自作自演でした。 :01/12/23 07:52
鎖国政策についてはどうお考えでしょうか?
108 :
以上、自作自演でした。 :01/12/23 07:54
二天一流。
>107 うむ、鎖国といっても、完全に閉じてしまったわけではないがな。 大殿は、結構、海外との貿易には積極的であった。 もちろん、利益があるからじゃが。 当時は、欧州が世界を股にかけて活動しておった。 日本を属国にする意思が無かったとはいえん。 当時の政策としては、良かったのではなかろうか。 これによって、日本の近代化が遅れた事も事実じゃがな。 まぁ、近代化が全面的に良いものではないが。 >108 ふむ、宮本武蔵が始めたとかいう流派であるな。 関ケ原の戦いにも参加しておったらしいな。 わしは武芸についてはからきしじゃが、 大殿は、柳生新陰流の免許皆伝、他に、小野一刀流を学んでおったぞ。
110 :
以上、自作自演でした。 :01/12/23 16:19
柳生とか御子神典膳、野心多い剣豪は危険じゃないでしょうか。
111 :
足利義輝@剣豪将軍 :01/12/23 16:57
正信殿よ・・・ お主は、一般的には大悪人で通っている松永久秀の事どう思うかのう?
112 :
以上、自作自演でした。 :01/12/23 18:13
お家の間取りを教えて下さい
>110 確かに、野心家というものは危険であるかもしれん。 じゃが、その野心を上手く利用する事が出来れば、心強い味方ともなる。 つまり、野心から出てくる感情を、 主人に向けさせるのではなく、同僚に向けさせるように仕向ける。 そのようにすれば、家臣同士で切磋琢磨し、主君に役に立つようになるというものじゃ。 大きな大名というのは皆、優れた人事管理術を持っておったものであった。 >111 うむ、将軍であらせられる貴公を殺し、幾多の裏切りをしておるからな、 とんでもない奴じゃ、とも思われる。 しかし、反面、信頼できる者がいない寂しさや、 今度は自分が殺られるかもしれないという恐怖にとりつかれておったのではないか? そう考えれば、可哀相な者かもしれんぞ。 >112 「なかま」という正座敷があって、その裏に「なんと」がある。 他に「ちゃのま」がある。あと台所もあるな。 「なかま」の庭に面した方に、縁側が接しておる。
114 :
以上、自作自演でした。 :01/12/24 00:52
睡眠時間はどのくらいとってますか?
>114 今のように、夜になっても明るい、というものではなかったからな。 健康のためにも、早寝早起きを、皆心がけたものじゃ。 わしは、大体今で言えば、6〜7時間くらいじゃろうか。
116 :
以上、自作自演でした。 :01/12/24 21:24
同時期に活躍された、ご自分の同僚の方々について一言づつお願い致します。
皆さん、次のテンプレを使った自己紹介をお願いします。 名前 : 年齢 : 性別 : 職業 : 趣味 : 恋人の有無 : 好きな異性のタイプ : 好きな食べ物 : 最近気になること : 一番苦手なもの : 得意な技 : 一番の決めゼリフ : 将来の夢 : ここの住人として一言 : ここの仲間たちに一言 : ここの名無しに一言 :
118 :
以上、自作自演でした。 :01/12/25 04:48
奥方殿はどのようなかたでしょう?
>116 同僚といっても、たくさんおるでな。 今回は坊主どもについて語ってみようかのぉ。 林羅山 師・藤原惺窩殿と違って、出世欲旺盛な方であった。 それゆえよく働いてくれたのじゃが。 方広寺の鐘のイチャモンの付け方は、見事であった。 金地院崇伝 「黒衣の宰相」と呼ばれたが、片桐且本殿も相手が悪かったのぉ。 実は、崇伝=明智光秀説なんていうのもあって、面白いわい。 南光坊天海 謎の多い人物であったが、ライバル崇伝には最後には勝ったようじゃな。 一度、家光公に天海殿が柿を賜ったときに、種を持って帰ったそうじゃ。 周りは、「無益なことを」と言い合ったが、 何年か後、器いっぱいの柿を天海殿が持ってこられ、周りは皆、感嘆したそうじゃ。 坊主が、俗世間で出世しようとするのが、良いのか悪いのか、 それは、各々方が判断せられよ。 >118 今のように、恋愛結婚が主というわけにはいかんかったが、 わしにはもったいない、女子であった。 照れくさいので、妻に関してはこの辺で勘弁して下され。
>117 名前 :本多佐渡守正信 年齢 :1616年没 性別 :男 職業 :老中(1615年退任) 趣味 :書を読むこと 恋人の有無 :既婚 好きな異性のタイプ :惚れた女 好きな食べ物 :魚 最近気になること :「利家とまつ」における自分の出演状況 一番苦手なもの :武功派の愚痴 得意な技 :権謀術数 一番の決めゼリフ :妙案がござる 将来の夢 :もう夢は叶った ここの住人として一言 :至らぬところも多々あらば、申し訳ないことである ここの仲間たちに一言 :同文 ここの名無しに一言 :同文
121 :
以上、自作自演でした。 :01/12/25 11:50
ふぐの中毒は夜の砂浜に首まで埋まってれば治りますか?
122 :
以上、自作自演でした。 :01/12/25 17:52
埋蔵金のありかを教えておくれよ。
123 :
足利義輝 ◆oLXT0cvw :01/12/25 19:24
124 :
以上、自作自演でした。 :01/12/25 20:38
幕末の徳川の生きる道はアレしかなかったのでしょうか? 創世記の幕臣として何か一言彼らにお願い致します。
125 :
以上、自作自演でした。 :01/12/26 01:03
息子さんが失脚してしまった事どう思いますか?
126 :
以上、自作自演でした。 :01/12/26 01:19
徳川幕府の政治家で評価している人物は?
>121 (コックリ、コックリ)………・ >122 なにか、赤城山が随分と掘られたようじゃが… 大殿が残された金銀は、秀吉殿のそれをしのぐ量であった。 また、維新軍が江戸城に入ったときには、あるはずの財宝が無かったようじゃな。 わしも詳しくは知らんが、現代人の浪漫譚として、埋蔵金発掘は面白いものであるな。 >124 盛者必衰の理というものがあるが、 小さなほころびが重なれば、やがて大きな穴が空いてしまうものじゃ。 中盤に様々な改革が行われたようじゃが、そのまえに、手を打たねばならなんだな。 無論、火事や飢饉などの天災も起こる。 それに対する備えもしなければならん。 大殿は、「わしはケチではなく、倹約家なのじゃ」と仰せられたが、 その意味をよくかみしめるべきであったな。特に綱吉公あたりが。
>123 確かに、石川数正殿の裏切りは、衝撃的なことではあったな。 何せ、数正殿の祖父清兼殿の代からの側近であったからのぉ。 数正殿の裏切りの理由についても、色々あるようじゃな。 好意的なものは、徳川・豊臣の全面戦争を避けるため。 あるいは、人質がいたからとか、 秀吉殿の策略に、大殿の周りの部下がはまったために、居づらくなったとか。 有力なのは、単純に、数正殿が大殿を見限って、秀吉殿に賭けた、というものであろう。 まぁ、わしは内心、あまり強く言える立場ではないと思うておるが、 そういうわけにもいかんでな、わしは厳しく責め立てるぞ。 わしが厳しくすれば、大殿が「ここら辺でよいではないか」と仲裁に入る。 わしに怨みつらみが来ることはあっても、大殿にそれが行くことはござらん。 ただ、結局、秀吉殿のところでは冷遇されたようじゃから、 理由にもよるが、ちと可哀相であるな。 > ここを宣伝に使ってしまって済まない。 お互い、メジャーでは無いゆえ、地味ながらも頑張っていこうではござらんか。
>125 うむ、そのことについては前にも述べたが、改めて申さん。 「謀略なるものは、道家の禁ずるところである。 この罪の報いは、やがてわしの子孫が被ることになるであろう。」 これは陳平という者が言った言葉じゃが、少し説明しんぜよう。 漢の高祖・劉邦には、張良と共に陳平という謀臣がおった。 陳平は6回奇計を繰り出し、劉邦の天下獲りに貢献した。 そして、陳平の孫・何(カ)は、人妻を奪うという罪を犯し、 陳家は、諸侯の身分を失った。 何の子・掌(ショウ)は身分回復を試みたものの、 失敗し、陳家が再興されることはなかった。 わしも陳平ほどではないにしても、謀略を尽くしてきたからのぉ。 正純の失脚(本多家の終わり)は、わしの謀略に対する罰であったかもしれん。 >126 わしと対立した武功派にしても、三河時代には、彼らの力が是非とも必要なものであった。 ただ、関ヶ原より少し前を境にして、世の中が乱世から治世へと変化した。 世の中が変われば、必要とされる人材も変わる。 武功派を評価しておらんわけではない。 大久保忠隣殿にしても、大殿が亡くなった後、 「今ここで、無実を晴らさんとすれば、亡き大御所の非を認めることになる、 それは出来ん」 と言っておったそうじゃ。 鳥居元忠殿も、凄絶な最期を遂げられておる。 皆、その忠義のほどは、素晴らしいものであった。
130 :
足利義輝 ◆oLXT0cvw :01/12/26 18:50
>128 >お互い、メジャーでは無いゆえ、地味ながらも頑張っていこうではござらんか。 ありがたいお言葉じゃ。 同じ歴史系同士頑張っていきましょうな。 もし良かったら、わしのスレを宣伝に使って下され。 ついでといったらなんじゃが、ここで一つ質問じゃ。 わしが主役の小説「剣豪将軍義輝」を読んだ事はありますかのう? 正信殿も出番は少ないが、結構いい役で出ておるぞ。
宇都宮の釣天井事件は、でっち上げだと思いますか?
132 :
以上、自作自演でした。 :01/12/26 23:34
正直、大名取りつぶしすぎって気がしませんか?
133 :
以上、自作自演でした。 :01/12/27 01:42
にんにんでござる
134 :
以上、自作自演でした。 :01/12/27 05:28
松平信康と築山殿の内通疑惑事件についてどう思いますか?
>130 申し訳ないが、まだ読んだことはござらん。 大掃除が一段落したら、読まさせて頂こう。 「利家とまつ」をひかえて、戦国物が書店の前線で構えておった。。 昨日、書店をちらっと見たが、徳川家臣団だけでも、 「本多平八郎忠勝」、「井伊直政」、「榊原康政」といったところが並んでおった。 ところで、わしが書いた(と言われている)「本佐録」は知っておるか。 治国についての書なので、将軍である義輝殿にも何かの役に立つかもしれん。 ただ、今じゃと、ある程度の規模の図書館でしか置いておらんかもしれん。 おまけに、書き下し文にして約30ページ(原文は漢文)じゃから、 単独での製本は、あまり無いじゃろう。 何かの機会がござったら、読んでみるのも良いかもしれん。 (しかし、人名は変換しにくいのぉ) >131 うむ、「釣天井事件」は、俗説であって、事実ではないぞ。 フィクションじゃ。 正純の失脚に、尾ひれがついたものであろう。 しかし、正純の失脚は運命じゃったのかもしれんて。 >132 その言葉は、わしよりも、土井利勝に言って欲しいのぉ。 改易が最も多かったのは、若殿の時代じゃ。 まぁ、憂さ晴らしという理由もあったかもしれん。
>133 うむ。 大殿は、忍者を多く活用された武将の一人である。 信長殿が伊賀・甲賀を攻められたときに、仲裁に入ったこともござった。 本能寺の変の後の伊賀越えでは、服部半蔵殿の存在が大きかったのぉ。 ちなみに、あんな、真っ黒な服はまず着ておらんかったぞ。 >134 これについても、色々な考えがある。 有名なのは、信康様の妻・五徳姫がでっち上げたというものじゃ。 それから、信長殿が信康様の才能を恐れたというのもある。 ここからすると、当時の大殿の力の無さや、 生き残るために息子を殺さねばならんかった、戦国の非情さ、 あるいは、酒井忠次殿の対応のまずさがあらわれたところじゃ。 他方で、こんな考えもある。 実は、信康様が信玄殿と内通しておったのは、本当で、 それに気づいた大殿が、信康様を恐れて、というものじゃ。 その年に、若殿が生まれたことからも、そう考えたようじゃのぉ。 皆がそれぞれに、自分の考えを持つのがよろしかろう。
137 :
以上、自作自演でした。 :01/12/27 12:51
中国や南蛮諸国で尊敬する思想家、戦略家はいますか?
138 :
以上、自作自演でした。 :01/12/27 12:56
好きな俳句があったら教えてください。
139 :
以上、自作自演でした。 :01/12/27 15:31
大殿の女性遍歴に関して一言お願いいたします。
140 :
足利義輝 ◆oLXT0cvw :01/12/27 18:41
>135 本多正信 >申し訳ないが、まだ読んだことはござらん。 >大掃除が一段落したら、読まさせて頂こう。 そうか、まだ読まれておらなかったか。 「剣豪将軍義輝」は世間一般的な評価はかなり良いから、恐らく正信殿にも楽しんでいただけると存じる。 では、大掃除頑張ってくだされ。 >「利家とまつ」をひかえて、戦国物が書店の前線で構えておった。。 >昨日、書店をちらっと見たが、徳川家臣団だけでも、 >「本多平八郎忠勝」、「井伊直政」、「榊原康政」といったところが並んでおった。 これで戦国物ブームが来れば良いのぅ。 そういえば、徳川四天王の中で唯一酒井忠次殿の名があがっていないが、一人だけ無かったのか? >ところで、わしが書いた(と言われている)「本佐録」は知っておるか。 「本佐録」の事は知らなかった・・・。 申し訳ないのぅ・・・。 >治国についての書なので、将軍である義輝殿にも何かの役に立つかもしれん。 >ただ、今じゃと、ある程度の規模の図書館でしか置いておらんかもしれん。 >おまけに、書き下し文にして約30ページ(原文は漢文)じゃから、 >単独での製本は、あまり無いじゃろう。 >何かの機会がござったら、読んでみるのも良いかもしれん。 うむ、今度機会があったら読む事にする。
>137 もちろん、いる。 諸子百家といわれる思想家は、いずれも素晴らしいものであるし、 そこから派生してきた思想家もそうじゃ。 挙げだすときりがないのぉ。 とりあえず、挙げておくとすれば、 漢の高祖を助けた、蕭何(ショウカ)・曹参・張良・陳平 唐の太宗を輔けた、房玄齢・杜如晦(トジョカイ)・王珪・魏徴といったところじゃな。 南蛮とあるが、ポルトガル・スペインに限らず、西洋のことでよいのじゃな。 わしがあの世に来てからではあるが、 ネルソン提督やロンメル将軍といったところを挙げておこう。 >138 わしらの時代には、連歌の前半部分として、5・7・5はあったが、 本格的な俳句は、松尾芭蕉からと言ってしまってよいのではなかろうか。 そういうわけで、短歌でもよろしいかの。 「人はただ身のほどを知れ草の葉の露も重きは落つるものかな」 これにしておこうか。
>139 そうじゃな、大殿には正室が2人、側室が15人ほどおったな。 正室の方は、築山殿が亡くなってから後、朝日姫と再婚したわけじゃが。 秀吉殿は、側室が21人ほど、その甥の秀次殿は39人とか43人とか言われておる。 大殿の晩年には、若い側室を侍らせておったために、 それが影武者説が生まれる一つの根拠となったようじゃな。 わしは、大殿が若い側室を侍らせておったのは、次のような理由からじゃと思うておる。 若い方がいいというのもあったかもしれんが、 その他に、大殿が亡くなられた後のことを考えておったのではないじゃろうか。 つまり、大殿が亡くなられると、側室は未亡人になる。 当然、再婚の話が出てくるわけじゃ。 家康公の未亡人ともなれば、それだけで付加価値もつく。 誰しもが、婚姻したがるであろう。 そこで、大名に嫁ぐことになるのじゃが、 そうなると、その側室は、相手方の大名の元で、情報収集をすることが出来るようになる。 そういう狙いもあったのではないかと思うのじゃ。 >140 こちらは、義輝殿のスレにてお答え致そう。
143 :
以上、自作自演でした。 :01/12/28 00:16
前にパクス・ロマーナのことをあげておられたかと思いますが、 ローマ共和国・帝国に関して一言。 ついでに某作家の10巻目はなんだか手抜きのような気がしますが気のせいでしょうか。
144 :
以上、自作自演でした。 :01/12/28 01:09
( ´,_ゝ`) プッ
145 :
庄司甚右衛門 :01/12/28 02:10
それがしが聞いたのは「南光坊天海=明智光秀」という説なのじゃが
146 :
足利義輝 ◆oLXT0cvw :01/12/28 02:14
わしは「足利義輝=明智光秀=南光坊天海」というとんでもない説を聞いた事があるぞ。
親父は、欲、いや「夢」がなさ過ぎたんだよ・・・
148 :
以上、自作自演でした。 :01/12/28 03:45
上様、その3人って全員年齢層一緒なのかね?
>143 古代ローマといえば、実用性ある文化などが有名じゃが、 一つ挙げておくとすれば、ローマ法について一言。 ローマ法は、今のドイツやフランスなどにおける、大陸法系に大きな影響を与えておる。 そして、明治以降の日本の法律は、ドイツやフランスの影響を受けておる。 日本と古代ローマは、おおいに関係があるということじゃな。 >某作家の10巻目はなんだか手抜きのような気がしますが 山岡荘八氏のことか? まぁ、大長編であるからのぉ、多少のことは目をつぶってもよいのではないか。 >144 含み笑いか。 他人に思わせぶりな振る舞いをすることも、付き合いの仕方の一つじゃな。 >145,146 ある番組で、天海僧正と光秀殿の筆跡鑑定をやっておったのを観たことがある。 結果は・・・ まぁ、真相が有耶無耶の方が、面白かろう。 >147 正純か・・・ お前は、知略に関しては抜きんでておったが、世渡りはイマイチであったな。 如何にして、主君の信用を得るか、藤堂高虎殿あたりを見習うがよい。 >148 一応、一般的に言われておる生年、没年をあげておこうかの。 足利義輝殿1536〜65 明智光秀殿1528〜82 天海僧正 1536〜1643
150 :
以上、自作自演でした。 :01/12/28 15:21
旧正月ですか?
わしに信長を倒す方法を教えてくれ。
152 :
以上、自作自演でした。 :01/12/29 00:33
光栄ゲームのご自身の評価に関して一言。 他ゲームでも構いません。
>150 ふっふっふっ。 まぁ、わしが死んでいる間に太陽暦に変わってしまったでな。 現在の暦に従うことに致そう。 >151 自分を、将軍として担ぎ上げられたときには、喜んだのに、 自分に都合が悪くなると、信長討伐命令を出す。 そういった態度では、いずれ人心の離反を招きましょうぞ。 まず、ご自身が誠意をもって、行動なされ。 >152 わしは、光栄の歴史SLGは、ファミコンの初代「信長の野望」・ 「三国志3」・初代「提督の決断」くらいしか、やったことがなかったと思う。 最近のはどうなっておるか、ちと分からん。 わしの評価はどうなっておるかのぉ?
154 :
足利義輝 ◆oLXT0cvw :01/12/29 17:18
>151 >わしに信長を倒す方法を教えてくれ >>151 >自分を、将軍として担ぎ上げられたときには、喜んだのに、 >自分に都合が悪くなると、信長討伐命令を出す。 >そういった態度では、いずれ人心の離反を招きましょうぞ。 >まず、ご自身が誠意をもって、行動なされ。 義昭よ、正信殿の言う通りじゃぞ。 恩を仇で返すなどもってのほかじゃ。 そういう人物は世間からの信用がなくなり、いずれ自滅する運命ぞ。 >152 >わしの評価はどうなっておるかのぉ? ちと記憶が不確かなのじゃが、正信殿の評価は 大体いつも政治・智謀の評価が高く、戦闘(武力・統率)・采配・魅力がの評価が低くなっておる。
155 :
以上、自作自演でした。 :01/12/29 18:26
何か面白い事を言ってみてくれ
>154 うむ、なるほど。 世間の評価からすれば、大体、妥当なところではないじゃろうか。 姉川の合戦では、命を落としかけたし、政敵も多い。 ここらから、きておるのじゃろう。 >155 流れも無しに、面白いことをいうのは難しいのぉ。 面白くはないが、とりあえず、 「大殿(に限られんが)の品質が上がると、家光公が苦しむ」
157 :
以上、自作自演でした。 :01/12/29 23:55
大久保長安の事はどう思われますか? 私的には貴殿と多少イメージがかぶるのですが。
158 :
以上、自作自演でした。 :01/12/30 02:04
妹スレにお市の方がいらっしゃいます。 戦国関連で彼女のことをどう思われますか? 面識ないかなぁやっぱり……
>157 長安殿も、ある意味、使われるだけ使われて捨てられたような感じであるな。 忠隣殿の世話になったとかいうことで、大久保を名乗っておられるが、 決して、自身は武功派ではないな。 徳川の天下獲りにおいて、長安殿の功績は非常に大きい。 鉱山発掘技術、精製技術、他にも、城造りの技術も長けておった。 財貨が集まるのは、職業柄仕方ないところもあったであろうが、 やはり、そこが疎まれる原因となったのであるな。 そういう意味では、可哀相なところがある。 ところで、イメージが重なるとは、どのあたりじゃろう? 算盤勘定が上手いところか?(笑) >158 お市の方といえば、若殿の正室・お江与の方の母君であり、信長殿の妹君でござるな。 「東国一の美人」といわれた方であるが、直接お目にかかったことはござらん。 敢えて言うならば、姉川の合戦では、浅井殿が朝倉家を選んだために、 敵対したことになるということじゃ。 わしは、そこで死にかけたが、 小説では、お市の方が信長殿に、袋に入れた小豆を贈ったということになっておるな。 戦国関連となると、やはり、 女性が勢力拡大の道具とされたことの、象徴的存在の一人といえるのではないか。 戦国時代の渦に巻込まれた女性はたくさんおるが、 お市の方は、美人と評判であったがゆえに、 余計に「悲運の」と形容されるのであろう。
>159 >ところで、イメージが重なるとは、どのあたりじゃろう? >算盤勘定が上手いところか?(笑) 両者とも何となく暗いイメージがある所(このスレの正信殿はそんなことないけど・・・)。
>160 なるほどな、暗いところか。 やはり、戦場で華々しく活躍する武功派じゃと、 イメージとしては、豪快で明るい感じがするのであろう。 他方、吏僚派は、裏で算盤勘定をやっているような感じがして、 その辺りが、暗く感じるということであるように思う。 明るいとか、ひょうきんな性格であるといわれておった秀吉殿も、 本質的には、神経質、陰気、内向的で孤独だったのではないか、と考える人もおる。 やたら官位にこだわったり、派手な生活をしたりしたのも、 身分の低い出であるというコンプレックスがあったのであろう。
162 :
以上、自作自演でした。 :01/12/30 17:15
めでたいものといえばなんでしょう? お正月はどのように祝いますか?
>162 割と今、縁起が良いとされておるものと同じ物であることが多いと思うぞ。 戦の前には、打ち伸ばしたアワビ・勝栗(搗栗)・昆布を食べたものじゃ。 討つ・勝つ・喜ぶというわけじゃな。 正月といえば、門松を立てたりもした。松は縁起がよいとされておった。 江戸時代には、「にわか正月」「取り越し正月」「流行正月」などといって、 1月以外にも祝ったことがあったようじゃ。 正月はどうしたかというと、乱世(戦国時代)においては、 武将は、大名に新年の挨拶をするため登城したんじゃが、単なる挨拶だけではなく、 その年の基本的な政策を決めたり、次に攻める相手を決めたりと、 作戦・政策会議といったものが開かれておった。 また、中には、正月早々戦をしておったこともあった。 江戸時代になると、大名は将軍に新年の挨拶をした。 格の高い大名は、朝の7時から挨拶に来たものじゃ。 将軍は「めでたい」というだけで、挨拶を返すのは老中であったがな。 格の低い大名になると、「めでたい」の一言も無い。 13日からは、大名は老中のところへと挨拶に行かねばならなんだ。 いつ、改易されるとも分からんでな。 わしのところにも、長蛇の列が並んでおったこともあった。 旗本・御家人クラスじゃと、上司のところへの挨拶回りをせねばならなんだが、 寒い上に、江戸も広かったからのぉ、挨拶回りが終わると、ぶっ倒れるものもおったようじゃ。 庶民は、この時とばかりに寝坊をしたり、平穏な正月だったようじゃ。 ちなみに、おせち料理については106をご覧あれ(自信はないが)。
164 :
以上、自作自演でした。 :01/12/31 00:28
あなたがあなたと同時代の人物の中で、注目していた人物を挙げてください。
>164 うむ、では、今回は、わしと親交のあった、藤堂高虎殿について語ってみようかのぉ。 高虎殿は、外様大名であったが、大殿は、譜代の大名よりも、高虎殿を信頼しておった。 大阪の陣での活躍により、高虎殿には20万石の加増が予定されておって、 誰も反対せなんだが、わしが、「虎に翼を与えることもありますまい」とて、反対して、 結局5万石の加増となったんじゃが、そのことを、わしが高虎殿に直接伝えると、 逆にお礼を言われたことがあった。 天海僧正も、高虎殿には、随分と赤面させられることもあったようじゃ。 あと、大殿が亡くなる前に、大殿が高虎殿に 「お主とは宗旨が違うから、あの世で一緒になれないのが残念だ」というと、 高虎殿はさっそく、大殿と同じ天台宗に改宗したそうじゃ。 高虎殿のことを、「風見鶏」とて、非難する者もおるが、 逆に言えば、能力がある・見る目があるということじゃ。 文武両道の優れた武将であった。
166 :
以上、自作自演でした。 :01/12/31 13:34
節分には巻き寿しを食べますか?
167 :
以上、自作自演でした。 :01/12/31 16:58
貴殿の宗派は浄土真宗(一向宗)ですか? 三河の一向一揆の時も一向一揆側についていたようだし。
>166 うむ、昔は、節分と大晦日が一緒に来たが、今は分かれてしまったな。 巻寿司を食べるのは、関西の風習と聞いておる(起源は愛知県という話もある)。 やはり、豆まきじゃな。 昔は、桃じゃったとかいう話がじゃが。 >167 71にも少し書いたが、若い頃は一向宗で、一揆に参加し、大殿に背いたこともあった。 じゃが、年を取ってからは、中国思想などの影響も受けたりして、 天道に背かないようにする、ということに気をつけるようになったな。
169 :
以上、自作自演でした。 :01/12/31 18:33
佐渡に行ったことはありますか?
170 :
以上、自作自演でした。 :01/12/31 21:05
佐渡に隠し金山ってあるんですか?
>169 佐渡には行ったことが無い。 わしは佐渡守ではあるが、領土をもっておったのは、今の横浜・横須賀辺りじゃ。 官職と、もっておる領土は、必ずしも一致しないものじゃ。 京都所司代の板倉勝重殿は、伊賀守であったが、所領は山城・近江辺りであったと思う。 >170 どうじゃろうな。 もう、金は掘り尽くして、残っておらんのではないか。 それでも、昔は相当採れてな。 これも、大久保長安殿の働きによるものじゃ。 「黄金の国・ジパング」もあながち嘘ではなかったということじゃな。 今年も、あとわずかであるな。 各々方が、よい年を迎えられるとよいが。
172 :
足利義輝 ◆oLXT0cvw :02/01/01 00:07
正信殿、明けましておめでとう。 今年もよろしくお願いいたす。
173 :
以上、自作自演でした。 :02/01/01 00:11
本多様、明けましておめでとう御座りまする。 今年も1000を目刺し切磋琢磨したき所存にござりますれば、よろしくお願い致しまする。
義輝殿も、自作自演殿も、謹んで新年のご祝詞を申し上げる。 大殿も「めでたい」と仰せである。 ところで、「切磋琢磨」には、仲間同士励まし合い、助け合うという意味もあるが、 173殿も、何かスレを運営されておるのか?
スレ経営は一つですが。 ここのスレの丁寧さはいつも見習っておりまする。 今後とも質問をつけたき次第に御座りますれば、よろしくお願い致しまする。
176 :
以上、自作自演でした。 :02/01/01 02:46
今年の抱負をお願いします。
>175 いや、わしも間違えたかな、というところが無いわけではなくてな。 ともかく、お互い頑張りましょうぞ。 よろしくお願い致す。 >176 抱負か。 このスレは、わしと各々方との、コミュニケーションで成り立っておる。 お互いの信頼が必要じゃ。 誠心・誠意対応させて頂くことで、スレ運営をしていこうと思うておる。 あとは、特に「今年の」抱負というものはない。 信念は生涯にわたって、貫きとおすものであるからな。
178 :
以上、自作自演でした。 :02/01/01 13:06
頑張って下さい。 去年遣り残したことはありませんか?
>178 遣り残した事は、数あれど、それに拘っていては、前に進めん。 「明日出来る事は、今日するな」、「来年出来る事は、今年するな」 くらいの気持ちの方が良いかもしれんて。
180 :
以上、自作自演でした。 :02/01/02 00:20
結構、戦国ネタって需要ありそうですね。 戦国板とかで立ってたりするんでしょうか。
181 :
以上、自作自演でした。 :02/01/02 00:28
武田信玄って実際はたいした事なかったとか最近よく言われてますが、その辺はどう思いますか?
182 :
以上、自作自演でした。 :02/01/02 00:51
183 :
以上、自作自演でした。 :02/01/02 02:51
>180 一言で戦国時代と言っても、一番先に思い浮かぶのは、 応仁の乱以降の戦乱の世の中であろうが、 他にも、春秋戦国時代など、戦乱の世の中はいくつもあった。 それはともかく、三国志・戦国板であれば、何個も立っておるな。 >181 どうじゃろうなぁ、よく分からんが。 少なくとも、あの時代で要求されたのは、大名個人の力ではなく、組織としての力じゃ。 であるから、例えば、徳川家康個人の力が重要なのではなく、 徳川家臣団、徳川軍団としての力が重要なのである。 極端な話、大名は人から慕われ、周りの話をよく聞けば、それで良い。 他に、賞罰は必ず、大名が行わなければならん、ということに気をつければ良い。 主君が無能であれば、周りで支える。 逆に、主君が有能で、周りが無能では、その組織は不安定じゃ。 一人いなくなっただけで、壊滅しかねん。 大名は、少なからず、過大・過小評価されるところはある。 大名は、その組織の代表じゃからな。 実際には、周りで考えたものも、代表者が考えたかのような、錯覚をもたらすのじゃ。 まぁ、信玄殿については、それこそ、武田騎馬軍団に聞いてみるのが良いのかもしれんな。
>182 随分と、あちこちで暴れておるようじゃな。 戦いというものは、戦場で決着をつけるものにあらず。 戦場の外で決着をつけるのが良い。 今度、戦う機会に恵まれたら、戦う前に決着をつけるよう、戦うしかないな。 >183 戦わないというのも、戦法の一つであるな。 「兵(戦争)とは国の大事なり」 滅多な事では、戦うものではござらん。 しかし、武田騎馬軍団は何しに来たのじゃろうな。
186 :
以上、自作自演でした。 :02/01/02 17:29
あなた(の主君でも○)が一番苦戦した敵を教えて下さい
187 :
以上、自作自演でした。 :02/01/03 01:49
下がりきっていますのであげておきます。
家康殿の次男結城秀康殿についてはどう思いますか?
>186 武田信玄殿には、大敗北を喫した。 しかし、信玄殿が一番苦戦した相手だとは思わん。 信玄殿は、確かに、戦場での強さは相当のものであった。 が、戦というものは、戦場での戦いに限らん。 むしろ、戦場外での戦いに注意を払うべきじゃ。 そういう点からすると、一番苦戦したのは、秀吉殿じゃな。 武功派の武将であれば、信玄殿と答えられるかもしれん。 >187 おお、わざわざのage、感謝いたす。 >188 78にも、少し書いたが、追加するとしようかのぉ。 秀康殿は、大殿に疎まれているところは、確かにあった。 というのも、一つには、秀康殿は双子じゃったんじゃ。 上の子は、間もなく亡くなったんじゃが、 当時は、双子というのは、不吉なものであるとされておった。 他にも、顔が醜かったなどあったが。 もう少し早く生まれていれば、もっと活躍できたじゃろうな。
190 :
以上、自作自演でした。 :02/01/03 22:24
初夢はどんなのを見ましたか?
>190 うーむ、どうじゃったかな。 夢というのは、大抵見るもんらしいが、ほとんどは忘れてしまうらしい。 わしも忘れてしもうた。 それ以前に、これから見る夢が初夢だ、という意識をもって眠らなかったからのぉ。 お主はどのような初夢を見られたかな?
192 :
足利義輝 ◆oLXT0cvw :02/01/04 00:17
正信殿に質問じゃ。 貴殿は家康殿以外で仕えるとしたら誰を選ぶかのぅ?
>192 うむ、なかなか難しい質問でござるな。 全国に、有能な武将は数あれど、人格・能力など総合的に見た場合、 唯一大殿こそが天下を獲るに相応しい人物であったと、思うておるゆえ。 信玄殿は、結構残酷なところがあるし、 謙信殿は、性格に問題があると、わしは分析しておる。 他にも、西国に有能な武将はおるが、 そうじゃのう、藤堂高虎殿か、あるいは、伊達政宗殿か。 このお二方でござろうか。 この人、と断言することは、難しゅうござるな。
正信殿、折り入って話があるのでござるが… ちょいと、人払いを…。
大殿の苦手なものってありますか? こっそり教えてください。
慶喜公の大政奉還以降の進退について一言お願いします。 ついでに戊辰戦争における譜代諸藩の行動に一喝を。
>194 お主は、石田三成殿の参謀・島左近殿でござるな。 「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」とはよくいったものじゃが。 ところで、大殿が天下を獲ることが出来たのも、 武田信玄殿ともう一人、石田三成殿のおかげじゃ。 改めて、礼を申す。 大殿も、よく周りにそう言っておられた。 まぁ、お主がもう少し主導権を握ることが出来ていたら、少しは変わったかもしれんな。 >195 うむ、苦手なものか。 よく、大殿は城攻めが苦手と言われるが、それはどうか、と思うこともある。 城攻めというものは、味方の犠牲も多いものであるし、 じっくり攻めても、兵糧などを消費してしまう。 城攻めは、やらないにこしたことはない。 いってみれば、兵法の基本じゃ。 ところで、大殿が幼少の頃、祖母の華陽院(カヤイン)や、 祖父清康公の姉(妹)・お久の方から、念仏だの愚痴だのを聞かされておったらしい。 女性の愚痴は苦手なようじゃな。 他には、政略結婚などによる、身分の高い人(築山殿・朝日姫)との結婚も苦手なようじゃ。
198 :
以上、自作自演でした。 :02/01/05 02:34
家康殿の父、祖父などの先祖のことについて知ってる限り教えて下さい。
199 :
以上、自作自演でした。 :02/01/05 04:23
好きな食べ物を教えて下さい
200を頂く!!男として…な。
201 :
以上、自作自演でした。 :02/01/05 15:06
同胞の一人が不治の病の為、余命数ヶ月の命だとあなたに打ち明けました。 彼は事態を大仰にして欲しくはないと言っています。 この後、あなたはどんな言動をとると思いますか?
>197 うむ、大政奉還後は、上野で謹慎した後、罪人として水戸へいったようじゃな。 その後、静岡、東京を渡り歩いたと。 慶喜公は、幕府軍の代表であるからな。 政府軍に消されても、おかしくはなかったじゃろう。 慶喜公は、ギリギリの線で、よくやったというところじゃろうか。 存続できただけでも、マシかもしれん。 「一喝を」か。 大殿が、譜代よりも信頼しておった藤堂高虎殿の子孫が、薩長軍についたことで、 一気に薩長側に勢いがついたようじゃな。 確かに、命をかけて主君に従うのも一つの生き方じゃ。 じゃが、主君を見限って、自分が有利な方に転身するのも、また一つの生き方ではないか? 関ケ原の後に、島津・毛利を滅ぼすに至らなんだこと、 文道を薦めたがゆえに、外国の干渉に対して、簡単に揺れ動かされたこと、 250年後のことは、さすがに予測は出来んかったが、何かしら因果はあるものじゃ。 ところで、お主は政府軍が嫌いなのか?
>198 大殿の祖父君の名は「清康」、父君の名は「広忠」じゃ。 お二方とも、それぞれ25歳・24歳で家臣(河部弥七郎・岩松八弥、 織田に内通しておったという話もある)に暗殺されてしもうた。 祖父の清康殿は、勇猛な武将で、三河一体を平定するまでに至った。 父の広忠殿は、清康殿に比べると、勇猛というわけではなかったが、 それでも、今川・織田に挟まれながらも、何とか家を存続させることに 精力を傾けられた方じゃ。 先祖については、松平親氏殿以来、三河の土豪であることは間違い無い。 それ以前が、ちと分からん。 一応、新田義重・義季(ヨシスエ)以来の源氏の新田家ということになっておる。 それで、その義季殿が、上野国にったごおりせらだごうとくがわ新田郡世良田郷得川(徳川)という所に住んでおった。 その新田氏は、足利尊氏に滅ぼされ、さらに幕府の迫害を受け、 そして、有親・親氏の代になって上野国を出て、 三河にやってきたということになっておる。 ただ、この辺がいまいちあやふやで、系図をでっち上げたとも言われておる。 朝廷に「徳川」を名乗ることを申請したときは、一旦、却下されたが、 色々な人に賄賂を贈ったり、頼んだりして、結局認められるようになった。 ちなみに、皇室の「桐紋」の使用を、将軍などから許されることがあって、 これは名誉なことなのじゃが、大殿は、新田氏が足利氏より迫害を受けたことを理由に、 足利氏が付けた紋を使用することは出来んとて、断りなさった。 義輝殿は、松永久秀殿や上杉謙信殿などに、桐紋の使用を許したようじゃ。
>199 そうじゃな、魚などが好きであるが、ツルや白鳥なども食べたことがあるぞ。 大殿は「美味しいものばかり食べていては、食べ物は美味くない。 美食は月に二、三度でよい」と仰せであった。 酒は、ほどほどにせねばならんな。謙信殿は酒豪のようじゃが。 >200 「よくやった」と言いたいところではあるが、お主が200を獲ることが出来たのも、 わしも含めて199のレスがあったからこそ。 その事を、ゆめゆめ忘れるでないぞ。 他人の功績を無視して、自分のことばかり考えていては、 男として(女も)誇れたものではあるまい。 >201 そうじゃな、思い出話でもすることになるかのぉ。 もちろん、いきなりするのではないが。
205 :
以上、自作自演でした。 :02/01/05 23:50
あなたが親友だと思う人物を挙げてください
>205 ふむ、親友か。 新井白石殿の『藩翰譜』には 「大御所の正信を見給ふこと朋友の如くにして… 正信また常に家康を呼びて大殿といひ、将軍家をば若殿と呼ぶ。 軍事の機事にてその謀るところ、言葉多からず、一言二言にて尽くせるよし。…」 とある。 周りからはそう見えたのじゃろう。(もちろん、白石殿が直接見たわけではないが) 大殿が江戸に来られたときには、真っ先にわしを呼んで、二人で話をしたものじゃ。 他には、そうじゃな、藤堂高虎殿かのぉ。 大阪の陣の後、天海僧正が、 「大阪の陣の折りの軍功に、五万石加増では、少なすぎるようでござるな」というと、 「我が働きなど、職分を果たしただけで、功というほどではござらん。」 と高虎殿が答えて、さすがの天海僧正も赤面したそうじゃ。 他にも、朝廷の処遇についても、天海僧正が、言い負かされたこともあった。 徳川三代にわたって、信任を受けた、立派な武将じゃ。
207 :
前田 慶治 :02/01/06 22:38
正信殿!お相手くだされ!!
>207 お主は、前田利家殿の甥、前田慶次郎利太殿か? 奇行さえなければ、文武兼備の模範的武士といわうる者じゃな。 何の相手をすればよいのか分からんが、剣の相手なら義輝殿に頼むが良かろう。
209 :
以上、自作自演でした。 :02/01/07 00:35
石田三成の事どう思いますか?
210 :
以上、自作自演でした。 :02/01/07 04:10
鳥居強右衛門について一言。
>209 石田三成殿か。 三成殿のおかげで、大殿は天下を獲る事が出来たという点で、感謝しておる。 三成殿は、秀吉殿の信任も厚く、優秀な人物でござった。 じゃが、人との付き合い方が下手であったのぉ。 自信家であったようで、鼻につく振る舞いも多かったようじゃ。 あとは、正義感が強すぎて、嫌われるところがあったな。 武功派からは、嫌われるタイプであったな。 わしらは、そこにつけこんだんじゃが。 わしよりも、嫌われやすいタイプであったと存ずる。
貴方の業績を知るに当たり何か読んでおくべき小説とかありますか?
213 :
以上、自作自演でした。 :02/01/07 18:08
思想は右と左ではどちらですか?
>210 鳥居強右衛門勝商殿か。 兵わずか500〜700で、1万5千の武田軍相手に、城を守った奥平貞昌殿の家臣であるな。 貞昌殿は、武田方を裏切った際には、妻・久子を磔にされたようじゃな。 その武田方の囲みの中を、岡崎城まで援軍を求めに来たのが、勝商殿であった。 勝商殿は見事囲みを脱し、岡崎城のおった奥平貞能殿に伝え、援軍の確認をした。 そこからじゃな。(囲いを脱するだけでも、すごいのじゃが) 勝商殿が戻る事は、危険であるから、皆止めたと思うんじゃが、 城の兵士の事を思えば、どうしても戻りたかったのじゃろう。 しかし、結局捕まってしもうて、武田方に「援軍は来ない」と城に向かって大声で言えば、 命を助けるとされたのじゃが、勝商殿は「もうすぐ援軍が来るぞ」といったんじゃな。 勝商殿は、磔にされたそうじゃ。 しかし、これで勇気づけられた城の兵士は、何とか持ちこたえる事が出来た。 池波正太郎氏の『鳥居強右衛門』では、 勝商殿には、妻・加乃と7人の子供がおって、相当の愛妻家であった。 捕まった時には、城の貞昌殿が、自分の言った事を嘘と見破ってくれる事を期待して、 「援軍は来ない」というつもりであったのが、正に直前になって、 「援軍はもうすぐ来る」と言ったとしておる。 実際のところは、本人にでも聞いてみなければ分からんが、 少なからず、迷われた事じゃろう。 長篠の合戦一の功労者であろう。 その時、嘘を言って生き延び、後に恥を雪ぐ事も、生き方の一つ。 本当の事を言って、死ぬのも一つじゃ。 お主なら、どうするかな?
>212 とりあえず、大殿にまつわる本か、徳川の家臣に関する本を読むしかあるまい。 一応、PHP文庫というところから、『本多正信』著者・中村整史郎、というのが出ておる。 わしが書いた(といわれている)『本佐録』は、読む機会が無いのではないか、と思われる。
>213 右というのは保守的で、左というのは革新的、ということでよいのかな。 わしは、体制を守る側の人間であるからな。 革新的な考えを押え込んで、幕府を守る事になるかのぉ。 もっとも、現在に生きるお主等から見れば、かなりの保守という事になるじゃろうな。
217 :
以上、自作自演でした。 :02/01/08 03:45
子供の頃の印象深い思い出はありますか?
218 :
以上、自作自演でした。 :02/01/08 17:24
厨房に煽られたらどう対処しますか?
219 :
ガイシュツならすまん :02/01/08 17:37
本多平八とは、親戚ですか?
220 :
以上、自作自演でした。 :02/01/08 21:09
今最も楽しみにしていることはなんですか?
>217 そうじゃなぁ、やはり、大殿が幼少のみぎり、人質に取られた事かのぉ。 あの時、わしはまだ10歳であったが、主君のご子息が人質に取られるわけじゃから、 少なからず動揺したものじゃ。 おまけに、今川方への人質のはずであったのに、織田方へ渡ってしまったしな。 さらに、2年後には広忠殿が亡くなり、大殿は今川方へ渡ってしもうた。 悲しい出来事の方が、多かったのぉ。 >218 それは、来てみなければ分からん。 どういう煽り方をするかにもよる。 臨機応変に対処できなくなったならば、その時は、隠居の時かもしれん。 >219 106に書いてあるな。 ただ、7代前と書いたが、8代前かもしれん。 助政の長男・定通以来、代々平八郎を名乗り、 次男・定正以来、代々弥八郎を名乗っておる。
>220 ここ最近、身の回りが慌ただしくてな。 ちとゴタゴタするゆえ、楽しみを感ずる暇があまり無い。 まぁ、ここで、四方山話をする事が楽しみかのぉ。
223 :
以上、自作自演でした。 :02/01/09 03:37
最近の子供達に対して必要だと思うものは何ですか?
224 :
以上、自作自演でした。 :02/01/09 03:40
戦国板に建てなかった理由はやはり徳川の権威を広めるためですか?
225 :
以上、自作自演でした。 :02/01/09 04:10
千字村正は、本当に妖刀なんですか?
怪僧・安国寺えけい(漢字忘れた・・・(汗)についてどう思いますか?
>223 うむ、必要だと思われる事をあげると、多くなってしまうな。 一つだけ、あげるとすれば、他人を敬う気持ちであろうか。 わしらは、社会を営んで生活しておる。 今で言えば、3Kなどといわれた単純労働者といわれる者達無しでは、 快適な生活は出来まい。 皆が、社会を支えていこうと頑張っているから、皆が生きていけるのじゃ。 いわゆる、社会的に地位が高いと言われる者も、 そういった者に頼らなければ、生きてはいけん。 最低限、そういったことを忘れないようにして欲しいのぉ。 >224 少しは戦国時代などに興味を持っている、というような人に、 より興味を持って頂きたいという思いがあるな。 それから、大殿は、三大天下人の信長殿・秀吉殿よりも、どうも人気が低いようじゃ。 (不況になって、大殿の人気が上がってきたとかいう話も聞いておるが) その点をどうにしたいというのもある。 それから、私事ながら、10年くらい前の教科書19冊の内、 わしの名前が載っておったのは、たった1冊だけだったようじゃ。 それも、ちと寂しい気がしてな。 ちなみに、義輝殿は9冊のようじゃな。
>225 村正といえば、大殿の祖父・清康殿、父・広忠殿が暗殺された時に使われ、 そして、長男・信康殿が切腹した時に、介錯に使われた刀であるな。 さらには、大殿自身が関ヶ原で、誤って槍で指を切ったのじゃが、 その槍も、村正が作ったようじゃな。 村正は伊勢桑名(三重県と愛知県の県境に近いところ)の人であるから、 三河の武士は、みんなよく使っておった。 出来も良いしな。 じゃから、確率的に、村正が使われる可能性は高いわけじゃな。 ちなみに、徳川家に反感を持つ大名等は、村正を持っておったようじゃ。 >226 安国寺恵瓊であるな。(ケイの字が難しいのぉ) 秀吉殿が、まだ、そこそこの武将であった時から、 秀吉殿が天下を獲ると予測して、秀吉殿についていったというから、 見る目がある方であるな。 関ケ原の後で、処刑される事になったんじゃが。 僧としても、最高位まで上り詰めたようじゃ。 しかし、わしは、坊主が俗世で野心をもって、ノコノコ出てくるのには、反対じゃな。 (徳川幕府には、そういう僧はおるが…) 下手をすると、両方腐敗してしまうでな。
229 :
以上、自作自演でした。 :02/01/09 21:02
すいません、本多正信の名前が出ているだけでもすごいと思ってしまいました…。 戦国オタかゲーオタしか知られてないとばかり……
>229 それは、227の教科書の事か? そうじゃな、しかし、19冊の内たった1冊だけじゃがな。 ちなみに、正純は2冊だったようじゃ。 面白いのは、「本佐録」が2冊なんじゃ。 「本佐録」だけ出して、わしの名前を載せん事ってあるのじゃろうか?
231 :
以上、自作自演でした。 :02/01/09 21:11
仏っていいものかい?
232 :
以上、自作自演でした。 :02/01/09 21:13
徳川光圀公に一言お願いします。
>231 何度も答えてきたが、晩年は、 必ずしも、仏のみを信仰しておったわけではない。 仏教の中でも、自分で気に入ったところを取り入れ、 気に入らないところは、別の考えを取り入れるくらいの方が、 いいかもしれん。
>232 徳川家の中で、将軍以外では、最も有名かもしれんな。 じゃが、実際には『水戸黄門』のように、 全国を歩き回っておったわけではない。 「大日本史」を編纂したようじゃが、 後世のために、史書を残すのは、労力がいるが、良い事であるな。
235 :
以上、自作自演でした。 :02/01/09 21:19
石川数正どう思う?
>235 128にも書いたが、裏切りの理由にも、色々考えがあってな、 理由によって、どう思うかは変わってくる。 同情する事もあろうし、戦国の世では仕方が無い、と思う事もある。 少なくともわしは、裏切りは裏切り、 立場上、許すわけにはいかん。 大殿がどう考えるかは、また別じゃ。
237 :
以上、自作自演でした。 :02/01/09 22:41
天海って明智なんすか?
238 :
以上、自作自演でした。 :02/01/09 23:55
直江状について一言お願いします
239 :
以上、自作自演でした。 :02/01/10 00:27
連休中に三河の方へ行くことになったんですけど、 なんか名物や、美味しいものとかありませんか?
240 :
以上、自作自演でした。 :02/01/10 17:01
マルチ質問を1つでいいから考えてくれませんか?
>237 うむ、149にも少し書いたが、 ある番組で、天海僧正と明智光秀殿の筆跡鑑定をやっておった。 そのプロが言うには、ほぼ間違いなく、他人であるとの事であった。 但し、かなり字が似ているところがあって、 近しい関係(肉親とか)である可能性は高いということであった。 そこで、天海僧正は、光秀殿の子供ではないか、と結論づけておったような気がする。 確かに、あの時代にしては、天海僧正は相当長生きされた方なので、 光秀殿の子供であれば、生年が後ろに行く事になり、 妥当な寿命であったということができるかもしれん。 天海僧正の書は、ほぼ間違いなく天海僧正自身のものであると思うが、 光秀殿の書は、あるいは、光秀殿のものではないかもしれんな。 そうすると、同一人物説もまだ、無くなるわけではあるまい。 >238 直江兼続殿は、赤の他人というわけではなくて、 わしの息子の政重が、兼続殿の養子になったんじゃ。 ところで、「直江状」についてじゃが、 関が原の合戦の前に行われた、上杉討伐について、反論してきたものじゃな。 確かに、兼続殿のご高説、尤もであるところなのじゃが、 こちらとしては、そんなことはどうでもいいのじゃ。 「李下に冠を正さず、瓜田に履を入れず」 それらしい事さえしてくれれば、後はこちらで口実(難癖)を付けて、 攻撃をするだけじゃ。 しかし、兼続殿は、幼少の頃から容姿端麗で、謙信殿の寵愛を一身に受けた方で、 才能もあったし、自分の身よりも家臣の身を案じる、立派な武将じゃ。
>239 ほぉ、三河へ行きなさるか。 尾張の方も含めさせて頂こうか。 三河・尾張の名物というと、味噌料理になるのかのぉ。 昔から、味噌はかなり食べておったが、今なら、味噌煮込みや味噌カツなどがある。 岡崎であれば、八丁味噌の料理があったと思う。 ただ、結構、好みが分かれるのか、 東海以外の人でも、美味しいという人もいれば、それほどという人もおる。 個人的には、味噌カツをすすめておこう。 他には、コンビニにもあると思うが、天むすや、 値が張ると思うが、ウコッケイ(鶏)等有名じゃろう。 最近は不況なので、よく分からんが、喫茶店に行くと、コーヒー一杯頼んだだけで、 モーニングサービスとかいって、パンがいくつか出てきたりする事もある。 最低でも、スナック菓子の子袋くらいは出るじゃろう。 あと、なんか知らんが、パチンコなどの風俗関係も、 日本一の生産を誇っていたりするようじゃ。 帰ってきたら、感想なぞを聞かせてくれんか。 >240 わしが考えるのか。 「10年後に1億円貰うのと、今500万円貰うのと、どちらを選びますか?」
243 :
以上、自作自演でした。 :02/01/10 20:01
正信たんが一番ムカツクぶしょうおおせーて
>243 タダタカ
伊能忠敬ですか?
>245 いや、そうではない。 わしと同時代の人じゃ。
〇 〇 〇 。 o 。
ほう、正信殿にも苦手な者がおるとは意外じゃのう・・・
>247 何やら、疫病のように猛威を振るっておるようじゃな。 >248 何故、お主がここに現れたのか、わしには検討がつかんのぉ。
。 〇 。 o 。 。 o o o o 。 o 〇 〇 〇 。 〇 。 。〇 。 〇 o 。 。 o o 。 o 〇 〇 。 o 。 。 o 。 〇 o o o 。 〇 。 〇
それで、正信タンは10年後に1億円、今500万円、どちらを選びますか?
252 :
以上、自作自演でした。 :02/01/10 23:42
風邪ひいてあたまが熱いです。どうしたら良いでしょう?
>250 おお、また来たのか。 まぁ、お茶でも飲んで、落ち着かれよ。 ∬ 旦 >251 うむ、わしならば、そうじゃのぉ、10年後にはどうなっておるか分からんからな。 貨幣価値がとんでもなく下がっておるかもしれんし、あるいは、もう死んでおるかもしれん。 今500万円貰って、10年後までに2億円に増やすというのはどうじゃろう。 もっとも、逆に破産してしまうかもしれんがな。 素人には、すすめられんというところか(わしも素人じゃが)。 >252 大殿がお聞きになったら、さぞかし張り切るであろうな。 大殿が調剤したといわれる「万病円」でも飲んで、安静にするのがよろしかろう。 しかし、大殿の薬マニアぶりにも、困ったものじゃ。 片山宗哲殿には、可哀相な事をしたのぉ。
そうか、大久保忠教か!
255 :
以上、自作自演でした。 :02/01/11 17:50
政治 戦闘 智謀 魅力 野望 足軽 騎馬 鉄砲 水軍 本多正信 184 86 178 66 70 D D E E 本多正純 166 88 168 55 72 E E E E これはあなたとあなたの息子さんの「信長の野望 天翔記」での能力値です。 政治・戦闘・智謀は200が最高値、魅力・野望は100が最高値、足軽〜水軍はS〜Eの6段階です この能力値どう思いますか? 参考までに他の有名な武将の能力値をこちらに書いておきます。 こちらの能力値についても何か思う事があったらお願いします。 政治 戦闘 智謀 魅力 野望 足軽 騎馬 鉄砲 水軍 足利義輝 148 154 60 100 89 D D E E 足利義昭 158 42 166 100 85 E E E E 徳川家康 194 186 188 98 95 A B C C 豊臣秀吉 200 158 190 98 95 B B C C 石田三成 180 80 58 60 80 D D D E 織田信長 198 190 192 98 100 B C A C 明智光秀 188 156 172 81 86 B B E E 浅井長政 150 168 96 86 76 C B D E 朝倉義景 112 60 110 75 71 E E E E 武田信玄 194 192 188 96 95 B S E E 上杉謙信 144 200 120 96 75 B S E E 北条氏康 192 176 178 97 87 A B E C 今川義元 170 146 130 94 92 C C E E 毛利元就 196 178 200 97 94 A B E C
256 :
以上、自作自演でした。 :02/01/11 18:05
義輝は戦才100だと思うよ。 しかし三成の能力ヒデエな。朝倉義景より知謀低いって…。
257 :
以上、自作自演でした。 :02/01/11 18:07
お化けは怖い?
258 :
以上、自作自演でした。 :02/01/11 18:13
>256 >義輝は戦才100だと思うよ。 いや、154で合ってるって。 >しかし三成の能力ヒデエな。朝倉義景より知謀低いって…。 「天翔記」は結構古い作品だから。 最近の作品では政治に加え智謀もすごく高くなってる。
>258 戦闘154で合ってました。スンマセン…。
260 :
以上、自作自演でした。 :02/01/11 18:24
戦国の世で呆けたおじいちゃん武将なんかに対してはどう対応しておられたのですか? めしはまだかのう?なんて朝飯食った直後に言い出す親父殿に対してどのような言いかたで・・・むう あと尿洩れと徘徊も
261 :
以上、自作自演でした。 :02/01/11 18:49
弥八郎様は前田利長ってどう思う? 俺は親父より能力あると思うんだが
>254 おお、そうであった。 彦左衛門殿の名前は、大久保忠教(ただたか)であったな。 すっかり忘れておった。 わしが244で言った、タダタカというのは、歴史上無名の人物でな、 わしですら、名字はおろか、名前の漢字も忘れてしまったために、タダタカと書いたのじゃ。 もし、彦左衛門殿の事であれば、そのように書く。 邪推するのは、止められよ。 ああ、思い出した、そうじゃ、そうじゃ。 お主のおかげで、彦左衛門殿の名前を思い出す事が出来た。 感謝いたす。 >255 うむ、やはり、家臣が考えた政策も、主君の名で出されるために、家臣よりも主君の方が、 数値が高くなる傾向が有りそうじゃな。 細かい差はともかく、義輝殿も言っておったと思うが、 イメージが大きく作用しておるであろう。 大体、能力を数値化すること自体が無茶な話でな、 ゲームであるから、やむなくやっておるところがある。 政治にしても、例えば、経済政策、財政政策、産業政策、外交力など、 様々なものが、たった一言、「政治」で表されておるのじゃろう。 そうなると、さらに数値化などは困難になる。 それはおいておいて、わしは参謀であるから、主君としての政治となると、 それほど能力が高くはならんかもしれんな。 智謀はもう少し、欲しいかのぅ。 他の武将は、今川義元殿は、もう少し高くても良いと思うが。 石田三成、明智光秀、朝倉義景、浅井長政の各御仁も、もっとあっても良いかもしれんな。
>256 確かに、三成殿の数値は、ちとひどい気もするな。 三成殿は、融通のきかんところはあったが、秀吉殿もその才能を認める、優秀な武将であった。 智謀の部分はひどすぎるな。 魅力が低いのは、仕方ないかもしれん。 それぞれの相手に適合した付き合いが、下手であったからな。 >257 お化けか。 あまりそういうのは信じてはおらんが、得体の知れんものは恐いものであるな。 足が無い蛇が恐がられたり、逆に足が多すぎるムカデなどが恐がられたりするのも、 いわゆる、普通ではないところがある、というところにあるのじゃろうな。 >258 なるほど。 その点については、より妥当と思われる方になってきたということで良いと存ずる。 三成殿は、関ヶ原の敗戦が、イメージに大きく作用しておるようじゃな。 >259 すぐに間違いを指摘してくれる者がおって良かったのぅ。 間違いは、誰しもするものじゃ。 それほど、気にする事もあるまい。
>260 今は、随分と長寿になったようじゃな。 大殿は75歳でなくなられたが、これで、徳川歴代将軍の中で、最長寿であった。 今では、平均寿命がこれを上回っておる。 わしらの頃は、頭が呆ける前に、体が死んでしもうたでな、 あまり、ボケといった事は問題にはならなんだ。 もちろん、老人になって、性格が荒くなったり、ちと問題を抱える事はあったが。 秀吉殿が亡くなる数年前かのぅ、意識不明に陥って失禁した事があったそうじゃ。 恐らく、老人性の体力減退などによるものではないかといわれておる。 じゃが、呆けてどうこうということは、あまり無かったじゃろうな。 ちなみに、寿命ということでは、戦国武将は皆、塩分をかなり多く摂っておったからな、 高血圧の者も、相当おったと思われる。 激しい運動をするために、塩分をよく摂ったのじゃが、 信長殿などは、塩分を一日に50グラムくらい摂っておったそうじゃ。 ちなみに、戦国武将の平均寿命は、30代であったといわれておる。 >261 うむ、難しいのぅ。 全く同一の状況で、比べる事が出来んからな。 ただ、利家殿を創業者とし、利長殿を守成者とした場合、 やはり、創業者の方が、華々しい活躍をするために、イメージが良いのは、 少なからず当たっておるであろう。 創業者というのは、身分の低いところから、高いところへ上るために、 派手に見えるし、勢いもある。 一方、守成者というのは、家を存続させるために尽力するために、 地味になりがちであり、また、創業の勢いもストップしておる。 そういう点で、二代目のイメージが悪いのは、一般的な傾向であると思われる。 また、二代目が継いだ時には、創業時の家臣が残っておる事が多いために、 創業時の華々しさと比べられるという事に耐えねばならん。 利長殿の方が、能力があるかどうかはちと分からんが、 お主のように、自分の意見を持てるようになる事は、良い事じゃのう。
「信長の野望」が話題になったので、ちと聞きたいんじゃが、 戦国武将の名がタイトルになったゲームは何があるかのぅ? (他の武将でプレイできるかどうかは問わん) わしが知っておるのは、信長の野望・太閤立志伝・武田信玄・毛利元就 くらいなんじゃが。
FCで独眼竜正宗がございます。 小野寺が南部の居るところにいて、しかも何故か最強という、史実より ゲーム性を重視したものですが。 当時(86年だか87年だったかな)にしては面白かったですよ。
今、旬なサイトご存知ですか?
いきなり次回予告
ttp://coc.coco.co.jp/pc/ 是非。貴方と貴方の仲間、又は知人で試してみてください。
で。どんなのが出来たか教えてください。
できれば1回目のを貼り付けてもらえると嬉しいです。
268 :
以上、自作自演でした。 :02/01/12 01:24
関ヶ原の戦いの直前に伏見城を守って討ち死にした鳥居元忠についてどう思いますか?
>266 わざわざの報告、ありがたい。 そういえば「独眼流正宗」なるものが有ったような気もするのぅ。 当時にしては、面白かったのか。 わしがプレイした事のある「武田信玄」は、まず甲信地方を治めるのじゃが、 大抵、北条と最後に戦う事になると思う。 そこを統一すると、今度は川中島で上杉謙信と戦うのじゃ。 5回勝負じゃったと思うが、とにかく勝ち越せば良い。 その後、関ヶ原で、何と、織田信長と戦う事になる。 おまけに織田軍は、兵力が強く、5部隊の内、織田軍最弱のところに、 武田軍最強の部隊を充てないと、わしは勝てなんだ。 それで、1勝0敗4分けに持ち込んで倒したものじゃ。 >267 本多正信姫は森の中を、さまよっていました。すると、小さな家を見つけました。 近づくとなんと中からは、7人の徳川家康が出てきました。 そして、本多正信姫は7人の徳川家康達と友達になりました。 しかしそんな、本多正信姫に藤堂高虎の魔の手が…! 次回【第25話・迫り来る恐怖、その時本多正信姫は…】 お楽しみ!! 気味が悪くなってしもうたな。 わしと大殿が友達になるのはよいが、 わしが姫をやったり、大殿が7人も現れるのはちょっとな… 第24話までが知りたいのぅ。
>268 鳥居元忠殿か。 これまた、立派な武将であった。 戦功を数々立てたために、大殿が感状を与えようとしたが、決して受取ろうとはせなんだ。 大殿が、駿府で人質生活を送っておられた頃、モズを鷹のよう据えておったのじゃが、 その際、元忠殿の据えようが悪いといって、縁側から突き落としてしまった事があった。 それを父・忠吉殿は、「元気があってよい。これからも忠勤せよ」 というような事を言ったのじゃが、まさしく、それ以来忠勤を尽くしてこられたな。 姉川の合戦の時に、太股に鉄砲が当たり、片足が不自由になってしまったが、 気力の方は、いささかも衰える事はなかった。 それで、伏見城の話じゃが、 大殿は、城代・鳥居元忠、副城代・藤弥家長、松平家忠、松平近正の四人に、 守城を命じたのじゃが、元忠殿は、「近正殿と二人で十分、一兵でも多く、 殿がお連れ下さりませ」と言ったとのことじゃ。 結局、西軍に戦意が無かったこともあるが、1800の兵で4万の軍を、 2週間近く足止めしたかたちになった。 最期までの忠勤でござったな。
>267のやつを試したらこんなのがでました。 「徳川家康様、お止め下さい・・・その体では無理です!」 徳川家康は優しく微笑み福島正則の頭に手を置く 「福島正則よ、よく見ておけ。そして後世に語り継いでくれ・・・この戦いは決して無駄ではなかった・・・と」 自嘲気味に軽く笑い石田三成がゆっくり立ち上がる。彼もまた知っていたのだ、この戦いに勝者などいないことを・・・ 静かに対峙する徳川家康と石田三成・・・黄昏の中、最後の火花が散る! 次回、福島正則の日記、「歴史に祝福されし者」 ・・・英雄は2人・・・されど玉座はただ1つ・・・・
江戸時代は、日本と日本人にどういう影響を残したと思いますか?
273 :
以上、自作自演でした。 :02/01/12 21:09
東北のほうってなんであんなに石高が少ないの?
>271 おお、そなたもやってくれたのか。 なかなか、いい感じになっておるような気もするな。 特に、「その体では無理です」というところなぞ、いい感じじゃ。 大阪の陣の前、これから戦いが始まるという時のことなのじゃが、 その頃、70を超えた大殿であったが、少なくとも10歳は若返ったかのように、 飛び上がったものじゃ。 そういうところも表わされておる感じじゃのぅ。
>272 江戸時代が、今の日本・日本人にどういう影響を残したか、でよいのか? 江戸時代も、それ以前の時代の影響を受けておるわけじゃから、 江戸時代特有の影響というのは、難しいものであるが、 あまり長くなってもあれなので、一つあげておこうかのぅ。 わしらは、天下を獲った後、いわゆる文道というものを推奨した。 そして、諸大名が幕府に逆らうことが出来ないように、様々な策を講じて、 武家の骨抜き化を図った。 つまり、財政面で弱体化させるために、例えば参勤交代、 武士に戦うことを忘れさせるために、例えば、儀礼を細かく決めることなどをした。 これによって、江戸幕府は、世界史史上でも稀に見る平和な時代であったと、 歴史家からは言われるようになった。 しかし、他方で、幕末の外国船来航問題にみられるように、 国内の敵はいなくなったが、国外の相手に対応できんようになった。 そこから、不平等条約など結ばされるようになったわけじゃな。 ところで、日本というものは、二つのコンプレックスを持っておる。 一つは、昔から持っておったもので、お隣の中国に対するものじゃ。 中国は大国であるし、歴史も有る、ゆえに、何かしらのコンプレックスを持っておる。 もう一つは、幕末以来、欧米に対するコンプレックスが生まれてきたように思われる。 そして、このコンプレックスに対しての日本の振る舞いはというと、 欧米に対しては、腰を低くし、中国に対しては、高圧的な態度をとるようになった。 概して、このように言えるのではないじゃろうか。 一時的に、日本が自信を持った時には、対抗したものではあるがな。 今、日本が欧米(特に米)に対し、媚びへつらい、アジアに対し見下した態度をとるのは、 こういった事情が影響しておるのかもしれん。 それはおかしい、というのがあれば、是非、言って頂ければありがたい。
>273 石高というのは、米の生産量のことをいうでな。 今でこそ、北海道や東北でもたくさん出来る米の品種が出来ておるようじゃが、 当時はまだ、そういう品種ではなかったからのぅ。 じゃから、土地の広さに比べると、石高が少ないということもある。 また、米を作る平野が狭いということもあろう。 江戸時代には、だいぶん道具や品種など改良されて、石高も上がったと思うが。
277 :
以上、自作自演でした。 :02/01/12 23:13
即興で「名セリフ」を考えてみて下さい
278 :
以上、自作自演でした。 :02/01/13 03:42
今年の大河ドラマについて一言お願いします
279 :
以上、自作自演でした。 :02/01/13 10:08
幕府転覆を企んだ由比正雪について一言お願いします。 正雪は、紀州頼宣公とぐるだったという説がありますが?
大岡越前守忠相と遠山左衛門景元は、どちらの方が優れていると思いますか? 官位間違ってたらスマソ
281 :
以上、自作自演でした。 :02/01/13 11:36
もし正信様の時代に核を除く近代兵器があったらどうなってたのでしょうか? 武将の方々の激しい戦い振りに心が沸き立つ思いです。 戦車で戦う正信様萌え・・・。
282 :
以上、自作自演でした。 :02/01/13 16:47
黒田官兵衛についてどう思いますか?
>277 何人も、文句を付けることの出来ないような「名セリフ」は、有り難し。 >278 「利家とまつ」じゃな。 大河ドラマの難しいところは、年齢設定じゃな。 ある時期には、年齢相応になるのじゃが、それ以外の時は、 やけに老けていたり、逆に若すぎたりして、そこに違和感を感じるのぅ。 仕方の無いことではあるがな。 「利家とまつ」はまだ始まったばかりであるから、何とも言いがたいな。 >279 由井正雪の乱も、途中で発覚してしまったために、 不明なところが多く、諸説紛紛しておるようじゃな。 若殿の時代には、土居利勝の妬み(?)のようなものがあってか、 最も改易が行われたものじゃが、家光公の時代も多かったようじゃな。 昔から、報償と罰などの人事権は、主君は必ず手放してはならないものとされておった。 これを手放すと、家臣を掌握することが出来ないからじゃ。 幕府にとってみれば、所領の加増・削減・没収は、これにあたるといってよい。 故に、効果的に使わねばならないのじゃが、ちとやりすぎたようじゃな。 そのため、浪人が増え(今で言えば、失業者じゃろうか)、治安の悪化などの原因となる。 そこで現れたのが、由井正雪ともいうべきで、現れるべくして、現れたといえるじゃろう。 これをきっかけに、改易の緩和が行われるようになったのであれば、結構なことかもしれん。 「過ぎたるは、(尚)及ばざるがごとし」じゃな。
>280 うむ、大岡越前守忠相殿と遠山左衛門尉景元殿(いわゆる金さん)じゃな。 どちらも、時代劇で人気のあるお方じゃのぅ。 最近じゃと、「三方一両損」などという言葉をよく眼にしたものじゃな。 大岡越前殿は吉宗公の下で、遠山景元殿は水野忠邦殿の下で町奉行をやっておったようじゃな。 これまでも述べてきたように、どちらが優れているかを言うのは、 かなり難しいことではあるが、敢えてどちらかを述べよ、ということであれば、 わしは金さんをあげようかと思う。 理由を挙げておくと、越前殿は吉宗公と協力して政策を進めることが出来たが、 金さんは、水野忠邦殿とは対立しながら、庶民を守ったといえるからじゃ。 そういう対立した中で庶民を守ったという点を捉えて、 難しい判断ではあるが、金さんに軍配を上げようと思う。 重ねて申すが、苦渋の選択である。 ちなみに、「大岡政談」の多くは事実ではないそうじゃ。
>281 近代兵器があったら、どうなるか。 どうなるじゃろうなぁ。 戦国の当時は活躍できなかった者が、活躍することが出来るかもしれんな。 ただ単に、剣術が強いとかそういう連中は、活躍しにくくなるであろうな。 逆に、剣術が下手でも、兵器の扱い方さえ出来れば、兵士としては十分じゃからな。 戦国当時もそうじゃが、広く戦局を眺めることの出来る者でなければなるまい。 じゃから、「尾張衆三人に、三河衆一人」といわれた三河武士も、 優位性が保てなくなるやもしれん。 むしろ、徳川には不利になるかもな。 重い甲冑を着ける必要も無くなるであろう。 わしが戦車に乗っておるところということじゃが、 ちょんまげしたまま、戦車に乗っておったら、たいそう違和感があるじゃろうな(笑)。 >282 黒田如水殿は、かなりの野心家であったようで、 秀吉殿も、警戒を怠らぬようにしておったようじゃ。 城攻めが得意なようであったが、兵糧攻めとかいった攻め方は、 戦闘を伴わない、平和的なもののように見えるが、 やられた方は、たまったものではないな。 もう少し、野心を気取られないように振る舞うとよかったかもしれん。
286 :
以上、自作自演でした。 :02/01/13 20:25
鬼の平蔵こと長谷川平蔵はどう評価されてますか?
287 :
以上、自作自演でした。 :02/01/13 20:31
平岩親吉いいわ〜
>286 火付盗賊改め方で、鬼平犯科帳のモデルになった方じゃな。 それまでの火盗改長官は、かなり拷問なども多かったようじゃが、 平蔵殿は、無用な拷問は避け、自白による解決を図ったそうじゃ。 また、逮捕も迅速に行ったようで、 いわゆる警察政策というか、そういったものに与えた影響は大きいんじゃなかろうか。 >287 おお、そうか。 信康殿の切腹の際には、身代わりを買って出たことがあったな。 尾張名古屋の基礎を築くことに、尽力された方であった。 もし、よければ、どのあたりが「いいわ〜」なのか、教えて下さらんか。
父上!家を潰してしまい申し訳ありません。 こうなっては仕方ありません・・・切腹してお詫びいたす。 介錯をお願いいたす。
>289 これ、待たんか。 正純が失脚する頃には、わしはもうこの世にはおらんが、 それ以前に、お前が失脚することは、ある程度見越しておってな。 直江兼次殿のところに養子にいった、次男・政重には、 「兄・正純とは兄弟付き合いしてはならぬ」と言ってある。 前田家にも迷惑がかかるでな。 じゃから、本多家が潰れたといっても、政重の代が続いておる。 明治2年に金沢藩庁で刺殺された本多政均は、政重の子孫である。
皆の衆には、大変申し訳ないのじゃが、 1週間くらい、ここには参ることが出来そうに無い。 故に、回答をすることも出来ないじゃろう。 しばしの別れとなるか、今生の別れとなるかは、分からんが、 とりあえず、さらばじゃ。 帰ってきた時に、まだこのスレがあれば、また会おう。 しかし、留守前のレスが正純のものとは…
一週間なら保全いたしますぞ。
293 :
以上、自作自演でした。 :02/01/14 19:43
最近の若者達についてどう思いますか? テレビで成人式の荒れ様を見ましたが、あんな連中が将来の日本を背負っていくと思うと不安で不安で仕方がありません。
294 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/15 00:15
父上ご安心下され。 父上がいない間は私めが代わりに回答して、保全いたします。 なので、安心して留守にして下され。 あと、一応言っておきますが、私めは上で切腹しようとしている正純とは別人ですので。
そんじゃ正純殿、質問 関ヶ原の時の常陸佐竹家の戦略ってどー思う? 貴方が佐竹家の中枢ならどーの様に動く?
296 :
以上、自作自演でした。 :02/01/15 03:33
渋江内膳マンセー
297 :
以上、自作自演でした。 :02/01/15 12:15
若様の御武運をお祈り申し上げます。 一旦上げさせていただきます。 ところで、島原の乱の平定方法、いかがに思いますか? 知恵伊豆の策略であるという説もありまするが。
298 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/15 18:09
>295 >そんじゃ正純殿、質問 >関ヶ原の時の常陸佐竹家の戦略ってどー思う? わしはあんまり良くなかったと思うぞ。 どっちつかずの態度を取ったせいで、常陸54万石から秋田20万石に減封されてしまったからな。 ついでに言っておくが、わしも詳しい事は知らぬのじゃが、佐竹家が中立になったのは理由があるようじゃ。 話によると、石田三成殿と個人的に親しかった佐竹家当主佐竹義宣殿が西軍に付こうとしたが、義宣殿の父で「鬼義重」と恐れられた隠居佐竹義重殿や重臣達が西軍につく事を反対したために結局動きがとれなかったそうじゃ。 >貴方が佐竹家の中枢ならどーの様に動く? わしならまず東軍方につく事を主張するな。 それで、東軍方として動く事になったら最上義光殿、伊達正宗殿、掘秀治殿等と共に上杉景勝殿を挟撃する。 そうすれば、宇都宮に残されていた結城秀康殿をはじめとする佐竹・上杉に対して備えさせておいた軍勢の大半が動けるようになるから、東軍の勝利はほぼ確実となるはずじゃ。 >296 >渋江内膳マンセー 渋江殿は 下野小山氏の一族で,父の代に北条氏により小山城が陥落したとき,主家とともに佐竹氏に身を寄せた。父の死後,あとを継ぎ,佐竹家臣となる。 久保田城築城に際しては,梶原美濃守とともに普請奉行を務めた。和田安房守の隠居後,家老に昇格する。 大坂冬の陣に徳川方として参戦した佐竹軍の先鋒として功名をたてるが,後藤基次・木村重成隊と戦い,討ち死にした。 このような経歴を持つ方じゃったな。 この経歴を見ると、普請奉行として活躍したり、結果的には討ち死するものの、大阪冬の陣で戦功を立てるなど文武に優れた方だったようじゃな。 >297 >若様の御武運をお祈り申し上げます。 >一旦上げさせていただきます。 >ところで、島原の乱の平定方法、いかがに思いますか? >知恵伊豆の策略であるという説もありまするが。 まず最初に、追討使として板倉重昌殿を派遣したのは失敗じゃったな。 板倉殿は確かに有能じゃったが、禄高は少なかった。 それで討伐に参加した九州の大名達になめられてしまったのじゃ。 そして、中々戦果が挙がらず、知恵伊豆こと松平信綱殿が派遣されると聞いて、功が無いのを焦って総攻撃を仕掛けて戦死されてしもうた。 松平信綱殿は無理に攻撃する非を悟り、兵糧攻めで原城に立てこもる一揆勢をかなり弱らせ、度々流言や降伏勧告を行っておる。 そして、敵が弱ったところを見図って総攻撃を仕掛け、見事一揆の平定に成功したのじゃ。 (鍋島勢が勝手に攻撃を仕掛け始めたので、仕方なく総攻撃を命じたという説もある) 結論じゃが、わしは最初に述べた板倉殿の件以外は大体あの平定方法で良かったと思うぞ。 一揆勢を皆殺しにしたのが良くないと言われる方がおられるかも知れん。 わしも皆殺しは後味が良くないから、あまり良い方法とは思わん。 が、降伏勧告を何度も行っておるし、それに一揆勢は自分達の要求が受け入れられなければ降伏する気は無かったようじゃし、武力による解決もいたし方あるまい。 回答するのは案外難しいものじゃな・・・。 父上の御苦労が良くわかる。
299 :
以上、自作自演でした。 :02/01/15 18:17
今年の大河ドラマにちなんで弟さんの本多政重殿について教えてください。
300 :
以上、自作自演でした。 :02/01/15 18:21
俺の部屋、釣り天井に改造されてないだろうな… 300
301 :
以上、自作自演でした。 :02/01/15 18:22
これぞ親子の愛情
ここの戦国スレは二つとも良スレなのだが、戦国板はどうなのだろうか。
>299 >今年の大河ドラマにちなんで弟さんの本多政重殿について教えてください。 何故大河ドラマにちなんで政重なのかが良くわからんが、まあよいか。 じゃが、わしは父上に政重と兄弟の付き合いをする事を禁じられていたので、弟政重の事は教えられる程詳しくは知らんのじゃ。 なので、済まぬが説明にはコピペを使おうと思う。 本多政重 (1580〜1647) 勝吉、従五位下安房守。 徳川家康の重臣本多正信の次男。 はじめ家康に仕えたが、故あって江戸を離れ、関ヶ原の戦いでは、西軍の宇喜多秀家に仕えていた。 関ヶ原の戦いの後、前田利長、加藤清正らに仕え、1604年、兼続の長女と結婚、兼続の養子となる。 翌年長女が病死すると、(翌々年死亡説もあり)その4年後、兼続は実弟大国実頼の娘を養女に迎え、政重に嫁す。 一説に、兼続が政重を養子に迎えたのは、景勝の継嗣の誕生を期待してのことだったともいう。 1611年、政重は直江家を去り、姓も元の「本多」に改め、加賀前田家に仕える。 翌年、政重の妻も、加賀に赴いた。 前田家では3万石(後に5万石)の禄を食み、筆頭家老として藩政に貢献した。(ちなみに加賀八家−「かがはっか」と読む。加賀藩の家老衆。−の祿高は、奥村氏、村井氏、前田氏ら譜代の家臣たちは1万石台、横山氏、長氏で3万石台であった。) ことに、前田利長のとき、越中新川郡の返上を幕府から命じられた際、政重が幕府との折衝にあたり、その命を撤回させたという。 この時の功を、藩主は5万石加増によって報いようとしたが、政重はこれを固辞。代わりに「村雨」と称する南蛮渡来の壺を賜った。この壺は、代々、本多家の家宝として伝えられたという。 これを見ると非常に有能だったようじゃな、我が弟は。 五万石加増を断る辺りは清廉で大封を受けなかった父上に似ておるな。 わしも父上の忠告に従って三万石以上の加増は受けるべきでは無かったな・・・。 >300 >俺の部屋、釣り天井に改造されてないだろうな… あれは冤罪じゃ!・・・じゃなくて改造などしておらん。 じゃから安心しなされ。 >300 キリ番ゲットおめでとうでござる。 >301 >これぞ親子の愛情 わしは父上の忠告に逆らって家を潰してしまった親不孝者じゃからな。 これぐらいはせんと父上に >302 >ここの戦国スレは二つとも良スレなのだが、戦国板はどうなのだろうか。 戦国板にも色々な種類のスレがあるが、貴殿が言っているのはここと同じなりきりスレで良いのじゃろうか? わしは戦国板にはたまに出入りする程度なので詳しくは知らぬが、あそこではキャラハンがどちらかというと嫌われる傾向にあるようじゃ。 キャラハンが嫌われるのは、一昔前に戦国板に出没していたキャラハン荒しのせいなんじゃがな・・・。 じゃから、戦国板のなりきりスレはほとんどがレス数が少なく、キャラハンの質もあまり良くない。 ほぼ唯一「武田騎馬軍団」系のスレは頑張っておるが、あそこのスレのキャラハン達は好戦的で、他の板に攻撃を仕掛けたりしておるから、あんまり好かれてはおらんようじゃ。
304 :
以上、自作自演でした。 :02/01/16 12:22
聞くところによると、1万石以上は大名ですよね。 陪臣でそれだけ多量の禄、大丈夫ですか?
305 :
以上、自作自演でした。 :02/01/16 12:28
本多政重殿は前田家の監視役ってとこもあると思います。 前田のほうから幕府に疑いをかけられないように彼をスカウトしたとか。 そのへんを考えると5万石もらってるってのも不自然じゃないと思います。
306 :
以上、自作自演でした。 :02/01/16 12:38
実際、秀忠って隆慶一郎の書いたような人物だったの?
307 :
以上、自作自演でした。 :02/01/16 12:49
伊達政宗より蒲生氏郷だね!
308 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/16 18:08
>304 >聞くところによると、1万石以上は大名ですよね。 >陪臣でそれだけ多量の禄、大丈夫ですか? 陪臣が大名並みの禄を受けても、それはその陪臣の使えている主君の勝手じゃから、大丈夫じゃよ。 例えば秀吉公がご存命の時は、わしの父上が二万二千石、榊原康政殿や井伊直正殿、本多忠勝殿は十万石を越える知行を受けておる。 他にも上杉景勝殿の家来直江兼続殿などは三十万石もの大封、石田三成殿の家来島左近殿や蒲生郷舎どのも確か万石単位の大封を受けておる。 >305 >本多政重殿は前田家の監視役ってとこもあると思います。 >前田のほうから幕府に疑いをかけられないように彼をスカウトしたとか。 >そのへんを考えると5万石もらってるってのも不自然じゃないと思います。 なるほど、確かにそういう見方も出来るな。 じゃが、前田家の監視なら隠密たちに任せればよいのじゃし、それはないと思うぞ。 まあ、隠密たちでは探れない事を探ろうとしたのかもしれんがな・・・。 >306 >実際、秀忠って隆慶一郎の書いたような人物だったの? 隆慶一郎殿の作品はまだ読んだことが無いので、わしは何とも言えぬな・・・。 その代わりと言ってはなんじゃが、秀忠様のお人柄がよくわかる話を三つほど紹介しようと思う。 その一 家康様が父上に「将軍家の律儀には困ったものよ。人は律儀だけではいかぬものよ。」といった。 父上は早速、秀忠様に「上様には時には、うそを仰せられたほうが良いのではありませんか。」と言った。 秀忠様はこれに対し「大御所さまのうそなら誰でも買うだろうが、私がうそをついても誰も買うまい。」と言ったという。 その二 秀忠様は特に鼓を打つことを好んだが、将軍となってからは一度も鼓に手を触れなかった。 近侍のものが、その理由を聞いたところ秀忠様は「上の好むものは下も必ず好むものである。今、私が鼓を好むとなれば貴賎を問わず鼓を好み、武備がおろそかになることを恐れるのだ。」と答えたという。 その三 家康様が存命中はその意に従い、没後もよく遺訓に従ってきた秀忠様であったが、自分が死の床についた時、家光様を枕もとに呼び、次のように言った。 「徳川家が天下を取って、まだ日も浅い。今まで制定した法令も完全なものとはいえない。近いうちに、これを改正しようと思っていたが、 不幸にしてその志を果たすことができない。私が死んだあとは、少しもはばかることなく、これを改正せよ。これこそが我が志を継いだことになるのだ。」 >307 >伊達政宗より蒲生氏郷だね! 政宗殿も氏郷殿も名将と言われるお方じゃな。 わしもどちらかと言うと氏郷殿の方が好きじゃ。 しかし、政宗殿の方は大河ドラマになったりして有名じゃが、氏郷殿はどちらかというとマイナーじゃな。 よく経歴を知らぬ方もおるじゃろうから、一つ氏郷殿について説明してみようかの。 氏郷殿は近江日野城主蒲生賢秀殿の嫡男じゃ。 かの信長公に目をかけられ、娘を娶られておる。 本能寺の変後、秀吉公に従って功を立て、日野城主から伊勢松坂十八万石、さらにその後会津若松九十二万石に転封されたのじゃったな。 それは伊達政宗殿への抑えのためとも、氏郷殿の才を恐れた秀吉殿が左遷したとも言われておる。 さらに氏郷殿は武道ばかりではなく、和歌をはじめ文化面にも造詣が深く、茶道において利休七哲の一人に数えられるほどの文化人じゃ。 利休の子である少庵を保護し、千家茶道の再興に尽力したことも有名じゃな。 また「レオ」という洗礼名も持つ氏郷殿は、イタリア人宣教師を家臣に迎え、ローマヘ使節団を送ろうとしたほどの熱烈なキリスト教信者でもあった。 じゃが、四十歳という若さで病死されてしまった(毒殺説もある)。
309 :
足利義輝 ◆oLXT0cvw :02/01/16 23:28
いつも正信殿には随分とお世話になっておるし、保全にわしも協力するぞ。 というわけで、留守番の正純殿に質問じゃ。 正純殿が注目されていた武将を教えてくだされ。
311 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/17 17:34
309(足利義輝)
>いつも正信殿には随分とお世話になっておるし、保全にわしも協力するぞ。
義輝公自ら保全に協力してくださるとは・・・。
そういえば会ったのは初めてでしたな。
これからもよろしくお願い申す。
>というわけで、留守番の正純殿に質問じゃ。
>正純殿が注目されていた武将を教えてくだされ。
黒田官兵衛殿じゃな。
官兵衛殿は軍師・智将として有名じゃ。
天下統一後の秀吉公が御伽衆に「わしが死んだ後、天下を取る者は誰か」の問いかけたそうじゃ。
徳川、前田、上杉、毛利といった名が、それぞれの口から出た
秀吉は笑って別の名を上げたと言う
「みんな違う、おそらく黒田官兵衛孝高であろう」
秀吉公がここまで言うという事は相当に頭のキレるお方であったろうと思う。
関ヶ原の戦いの際も浪人などを集めて九州を制圧し、天下取りの争いに参加しようとしたそうじゃが、西軍があっけなく負けてしまったために、あきらめざるを得なかったという。
>310
>しばらく前にこんなスレがあった。
>
ttp://salad.2ch.net/charaneta/kako/997/997532878.html 大ヒットした映画「千と千尋の神隠し」のなりきりスレじゃな。
この映画を撮った宮崎駿殿は相当な才を持っておられるようじゃのぅ。
であるか。
313 :
「ちゅらさん」の御婆ぁ :02/01/17 18:09
でぇあるねー 「ちゅらさん」の印象聴かせてもらいたいねぇー 御婆ぁ頭悪いんで、政(マツリゴト)の話は遠慮しとくよぉー
314 :
以上、自作自演でした。 :02/01/18 00:12
幽霊って信じてますか?
315 :
以上、自作自演でした。 :02/01/18 12:12
二俣城落城!
316 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/18 18:46
>312(織田信長) >であるか。 貴殿は信長公ではありませぬか。 このようなむさ苦しい所に何か御用でごさいましょうか? >313(「ちゅらさん」の御婆ぁ) >でぇあるねー >「ちゅらさん」の印象聴かせてもらいたいねぇー >御婆ぁ頭悪いんで、政(マツリゴト)の話は遠慮しとくよぉー わしは「ちゅらさん」というものが何なのか存ぜぬのじゃ。 じゃから、済まぬがこの質問には答えられぬ・・・。 >314 >幽霊って信じてますか? わしは実際に幽霊を見たことある。 じゃから、幽霊を信じておる。 例え非科学的だといわれようとも、わしはそういう体験をしたのじゃから、幽霊を信じ続けるつもりじゃ >315 >二俣城落城! それは上様が落とした時か? それとも、武田信玄殿が落とした時の事をいっておるのか?
ふ、まあそう身構えるな。 たいしたことではない。ほんの戯れ言だ。 余が本能寺で死なず、天下布武を成し遂げた折には 家康は座して余の盟友の立場に甘んじたかどうか・・・ それとも、あやつの狙いはあくまでも天下にあり、 場合によっては余と雌雄を決すつもりであったのか・・・ 家康第一の臣であるそなたに聞こうと思ったのだ。
318 :
以上、自作自演でした。 :02/01/19 00:15
>317 というより、信長が用済みとなった家康をどう扱うかも問題だと思われ。
319 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/19 00:20
>余が本能寺で死なず、天下布武を成し遂げた折には >家康は座して余の盟友の立場に甘んじたかどうか・・・ >それとも、あやつの狙いはあくまでも天下にあり、 >場合によっては余と雌雄を決すつもりであったのか・・・ わしはそういう事は存じませぬ。 恐らく家康様は領土さえ安堵していただければ、信長公に素直に従ったのではないかと思います。 例えば、秀吉公と争った時は小牧・長久手で戦い善戦したが、結局大局的な不利を悟り和睦し、最終的には家康様は臣従していまする。 >家康第一の臣であるそなたに聞こうと思ったのだ。 それはわしではなく、父上の事ではありませぬか?
320 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/19 00:27
>318 >というより、信長が用済みとなった家康をどう扱うかも問題だと思われ。 確かにそれも一理あるな。 信長様は厳しい御方だと伝え聞くから、家康様が少しでも怪しい動きをすれば、始末されてしまうかも知れぬの。 まあ、信長公の時代の話題はその当時青二才だったわしより、父上に聞いた方がいいかも知れぬの。 父上が帰ってきたら、話を聞くとしようか。
>319 >それはわしではなく、父上の事ではありませぬか? であるか。 ふむ、そなたは佐渡守ではなく、息子の方であったか。 噂には聞いておる。父に似てなかなかの切れ者だそうだな。 たしかに余が問いたかった相手はそなたの父・本多佐渡守の方じゃ。 そなたからもこの信長が問うていたと伝えてくれい。 >>317 天下布武が成れば、日ノ本など家康にくれてやるわ。 余は唐を攻めとり、大陸の都を新たなる居城といたす。
322 :
以上、自作自演でした。 :02/01/19 02:44
某s町氏の信長様の演技が見ていられません。夢枕に立って指導してやってください。
323 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/19 23:19
>321(織田信長) >ふむ、そなたは佐渡守ではなく、息子の方であったか。 >噂には聞いておる。父に似てなかなかの切れ者だそうだな。 いえいえ、わしなど父上の遺言を守らず、家を潰した大うつけでございます。 >たしかに余が問いたかった相手はそなたの父・本多佐渡守の方じゃ。 >そなたからもこの信長が問うていたと伝えてくれい。 うむ、わかりもうした。 父上が帰ってきしだい、この事をお伝えしておきます。 >天下布武が成れば、日ノ本など家康にくれてやるわ。 >余は唐を攻めとり、大陸の都を新たなる居城といたす。 日之本をいただければ、家康様も信長公に逆心を抱く事などないでしょうな。 >322 >某s町氏の信長様の演技が見ていられません。夢枕に立って指導してやってください。 まあ、確かにセリフが聞き取りにくい所はあるな。 演技の方じゃが、わしはそっちの分野には疎いのでな、よくわからん。 わしは信長公というと「秀吉」の時の渡哲也殿というイメージがあるのでな、 どっちにしろ今回の大河ドラマの信長公はあまり良いとは思わぬ。
324 :
以上、自作自演でした。 :02/01/20 17:00
質問を選んでない?
ただいま戻った。 一週間という、やや長期にわたる不在であったが、 各々方には、このように保全して頂いて、 ここには書き切れないくらいの感謝の思いでいっぱいじゃ。 思わぬ来客もあったようじゃしな。 不在中のレスについては、特にわしが答えた方がいいものを除いて、 正純のものをもって、返事とさせて頂こうかと思うておる。 わしの返事については、明日から再開ということにするので、 もう少しの間だけ、待って頂きたい。 正純も、ようやってくれたな。
326 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/21 00:16
>325 おお!父上お帰りなさいませ。 >正純も、ようやってくれたな。 父上、わしのような家を潰した愚息には勿体無きお言葉でございます・・・。 というわけで、わしは退場しようかと思ったが、 父上が許してくださるのなら、ここに残って父上と共に質問等に答えたいと思う。
真剣に口説いてください。
水戸黄門の悪役が、悪すぎます!だれか、たたっきてください!
329 :
足利義輝 ◆oLXT0cvw :02/01/21 17:19
おお、正信殿復帰なされたか。 これはめでたいのぅ。 復帰祝いといってはなんじゃが、早速質問させていただく。 正信殿は本能寺の真相はどう思うか? 光秀単独説、朝廷黒幕説、徳川家康殿黒幕説、羽柴秀吉殿黒幕説、その他色々な説があるが、正信殿はどれが怪しいと思うかのぅ? わしは光秀単独説、もしくは朝廷黒幕説あたりが怪しいと思うのじゃが。
>326 正純がやりたいというのであれば、答えたいレスがあれば答えてよい。 名無し殿も、正純宛ての質問等があれば、遠慮なさらずにしてやって下され。 >>293 去年も大分荒れておったようじゃが、今年も場所によっては、そうであったようじゃな。 主催者(自治体)も、何かしらの対策は取っておったようじゃが。 成人式で暴れるというのには、もちろん、そういった連中は一部なのじゃが、 そういう行事があるから暴れるものもおって、普段はそうでもないというのもおる。 しかし、概して、つまらないことで怒ったり、妙なことをやるものが、 増えてきたというか、目立ってきたようであるな。 そういった連中が将来の日本を背負うことに、不安を覚えておるようじゃが、 問題はそれに止まるまい。 わしは、そういった連中を育てた社会に不安を覚える。 つまり、今の若い者に限らず、それを育ててきた親の世代、 あるいは、これから、その若い者に育てられることになる、次の世代。 皆で手を取り合って生きていかなければならんのに、 それをしなくなったようじゃ。 その者の親の教育が悪い場合に、その周りが支えてやることが出来なくなっておる。 今の若者を育てた者が、今まさに日本を支えておるのじゃ。 将来ではなく、今が不安じゃな。 ところで、そなたはそういった連中と同世代であろうか。 そなたが同世代の人ならば、そなたのような若者がおるのは一筋の希望であるし、 そうではないのであれば、人生の先達として、若者を案内して頂きたい。
>信長殿 恐らく、大殿は、少なくとも信長殿のご存命中は、 叛意を抱くことはないのではないか、と存ずる。 (もっとも、本能寺の変は、大殿の陰謀という話もあるが) 信長殿が亡くなるまで、やはりお待ちになるであろう。 (信長殿は、その食生活から、どのみち長生きは出来なかったであろうといわれておる) 信長殿は、守成についてはどうお考えであったのであろうか。 二代目は少々頼りないところがあるゆえ、 その辺をしっかりやらなければ、大殿が取って代わるということもあるかもしれませぬ。 それから、秀吉殿も、相当気を付けませんと、権力欲旺盛な方ゆえ、 思わぬところで、足を払われるかもしれませぬぞ。 それから、明国に攻め入るという話でござりまするが、 当然の事ながら、明国と我国は海を挟んでおりまする。 補給路をどうするかが、勝敗を決するでありましょうな。 明国は、丁度、中興をなした張居正が死んで、再び国力が衰えつつありまするでな、 戦線を拡大しすぎず、補給路に気を付ければ、勝てましょう。 ただ、北方諸民族の動向が気になりまするな。 それと、信長殿は、古い観念を壊してきたのはよいのじゃが、 その方法が、はげしすぎたようでござる。 恨みを抱くものも多いよって、日本を離れると、その動きが盛んになるおそれもありまするな。 その方法で、泰平の世を築くのは、極めて困難なことでありましょう。 信長殿は、敵を殲滅することが多いので、改められた方が良いのではないかと存ずる。 その方が、天下統一も、早く出来ましょうぞ。
>324 それは、つまり、「ここについて聞きたいのに、それに答えていない」 「そういう意味で質問したんじゃない」ということかな。 こちらの返答が、質問とかみ合っていなければ、 その旨、遠慮なく言って頂きたい。 その方が、お互いにとってよいじゃろう。 >>327 真剣に口説くといっても、その相手がいなければ、真剣にもなれんが、 言葉というものは、案外便利なものではない。 自分の心を、あますところなく言葉で伝えることは出来ん。 それこそ、体からにじみ出る気で伝えるのじゃ。 せめて自筆であれば、字から伝えることも出来なくはないが、ここでは、ちと難しいのぅ。
>328 『水戸黄門』は、勧善懲悪の話であるから、悪役は徹底的に、ということなのじゃろう。 老人向けの番組のせいか、非常に分かりやすいストーリーになっておるな。 善は善、悪は悪、そして印篭を出すタイミングなど、ワンパターンであるからな。 盗人にも5(かどうか、数は忘れてしもうた)分の理、といってな、 何かしら理由はあるものじゃから、ただ、たたっきるのではなく、 悪さをしないような予防策を考えるのも大事であろう。 >>329 これは義輝殿、わざわざのご訪問、かたじけのうござる。 確かに、本能寺の変については、色々考えがあるようでござるな。 わしも、光秀単独説ではあるまいか、と思うておる。 大殿が陰謀を企てるのであれば、もっと時期を選ぶのではなかろうか。 光秀殿の「時は今天が下しる五月哉」の返歌、 「花落つる流れの末をせきとめて」の解釈について、 家康陰謀説では、「信長殿の勢いを止めて下さい」とするようじゃが、 やはり、単純に「光秀殿、そのような考えはおやめください」とするのがよいと思うが。 光秀殿は、信長殿のやり方についていけなくなったと見るのが、まぁ、自然じゃろうな。 光秀単独説でも、天下獲りの野望説、自分の身を守る説、信長への恨み説などあって、 諸説紛々しておるな。単純に割り切るよりは、組み合わせた方がよさそうじゃが。 ちなみに、連歌の会では、ちまきを笹の葉もむかずにかぶりついて、 ボーッとしておったようで、謀反のことで頭がいっぱいであったようじゃ。
334 :
以上、自作自演でした。 :02/01/22 00:06
かの有名な武田騎馬軍団がこの板に現れましたぞ。
335 :
以上、自作自演でした。 :02/01/22 11:58
二郎三郎〜!
おせん泣かすな むま肥やせ!
>334 うむ、存じておる。 割とおとなしくやっておるようなので、慌てることもあるまい。 それに武田の遺臣は徳川に組み込まれたこともあって、取り立てて敵視する必要もあるまい。 いざとなれば、四天王が相手をすることになろう。 >335 それは、世良田二郎三郎殿のことかな? 102にも書いたが、大殿について言えば、 身代わりをしたものとしては山岡道阿弥殿や、服部半蔵殿などがおる。 もっとも、当然の事ながら、影武者ともなれば、秘密の存在であるゆえ、 その詳しいことは、多くは公にはなっておらん。 ちなみに、三方ヶ原の戦いでは、夏目吉信殿が、大殿の名を名乗ったり、 あるいは、大殿の朱色の鎧と、自分の鎧を取り替えた松井忠次殿や、 大殿の采配を奪って身代わりとなった鈴木久三郎殿がおったな。
>336 「一筆啓上火の用心、おせん泣かすな馬肥やせ」 本多重次殿に、かようなところにおいで頂けるとは。 重次殿といえば、分かりやすいことでも有名であるな。 三河が乱れているのは、掟が分かり難いだからだといって、 「一、人を殺すものは命がないぞ 一、火をつけると火あぶりにするぞ 一、 狼藉をせば作左しかるぞ」 として、上手く治めたそうな。 長篠の戦では、敵七、八騎の中に飛び込んで疵を受けながらも、合計三騎を討ち取り、 高天神戦では18、北条軍との戦いでは35の首を獲られた。 じゃからこそ、鬼作左とも呼ばれよう方ではあるが、 お万の方を救い出したり、 三方ヶ原の戦いの際に兵糧を集めるよう指示されたのも、重次殿であった。 最後は秀吉殿の怒りを買ってしまったようじゃが、 鬼一辺倒ではない、並々ならぬ武将であったことは確かじゃな。
339 :
武田信廉 ◆ghlOl40o :02/01/22 18:06
ふむ、ここが本多正信殿のスレか・・・。 >うむ、存じておる。 >割とおとなしくやっておるようなので、慌てることもあるまい。 >それに武田の遺臣は徳川に組み込まれたこともあって、取り立てて敵視する必要もあるまい。 一応前に侵攻したときの雪辱晴らしと武田騎馬軍団の宣伝のためにスレを立てたのじゃ。 わしは武田騎馬軍団の中では温厚で通っており、武人よりは文化人じゃから、実際のところ戦争はあまり好かぬのじゃ。 そうじゃ、正信殿、わしの事はどう思うかな?
>339 ほう、わざわざ挨拶に来て頂けるとは、かたじけのうござる。 信廉殿は、信玄殿の二番目の弟で、 この時代には珍しく文化一辺倒の人であられたようじゃな。 わしは、文化人というわけではござらんが、官僚型のゆえ、戦が苦手ではある。 特に、自分が軍を率いるということがな。 信廉殿といえば、川中島の一騎打ちでは、 実は信廉殿であったと聞くが、どうなんじゃろう。 時代が信廉殿に合わなかったのか、信廉殿が時代に合わなかったのか、 とりあえず、御来訪の儀、祝着に存ずる。。 忠勝殿をよろしくお願い致す。
341 :
以上、自作自演でした。 :02/01/22 20:25
巷では、こんな本が評判です 「世界がもし100人の村だったら」if the world were a vilage of 100 peopel 世界には沢山の人がいますが、もしそれを100人の村に縮めるとどうなるのでしょう。 100人の内 例一:70人が有色人種で、30人が白人。 例二:20人は栄養が足りず、1人はもう死にそうです、でも15人は肥満です。 例三:全ての富みの内、6人が59%を持っていて、74人が39%、20人が2%を分け合ってます。 例四:村人のうち、1人は大学教育を受け、2人がコンピューターを持っている。けれど、14人が文字を読めない。 では、上を踏まえて、正信さまに質問 徳川家臣(時期はお好きな時を)には沢山の人がいますが、 もしそれを100人の村に縮めるとどうでしょう?
342 :
以上、自作自演でした。 :02/01/22 20:30
次は、正純さまに質問 貴方様が幕閣の中心であった時、取り潰された沢山の大名家がいますが、 もし、彼等が100人の村を作ったら 100人の内…
343 :
山本勘助 ◆KOEiWSYs :02/01/22 21:42
おお、正信殿。手前が今川家の客分であった時代の事は覚えておるか? あの頃の家康公は精悍な顔つきでござったのう。何よりいい目をしてござった。 あのまま板垣殿や信玄公の目に止まらねば、松平家に仕官を望もうと思った程じゃ。 ただ、当時の松平家はよそ者を受け入れてくれる程の余裕は見られなんだがの。 しかし後に貴公があの男に天下を取らせるなど思いも寄らなかったわい。
344 :
以上、自作自演でした。 :02/01/22 21:49
家康は鬼畜秀吉の一族を滅ぼしたため、韓国で人気と聞きました。
345 :
以上、自作自演かも :02/01/22 21:50
安彦さんの描いた三河物語のマンガ、とっても面白かったyo 夏の陣の御旗の件で、彦佐が大殿に詰問されるシーンがいいね
346 :
以上、自作自演でした。 :02/01/23 01:23
本多一族って優秀な方が多いですね。 鬼作左と呼ばれた本多重次殿、徳川四天王の一人本多忠勝殿、そして本多正信父子などなど・・・。
>341 ふむ、面白いが、ちと難しいのぅ。 そうじゃな、時期としては、大殿が天下を獲られた前後としよう。 100人の内、 一、 75人が三河衆で、25人がその他。 二、 10万石以上は10人。 三、 41人は今の関東地方に領地を持っています。 四、13人が松平姓で、7人が本多姓。 五、 全国の領地を、四の人達で7%(4+3)持っています。 記憶違いなどで、数値はあまり正しくないであろう。 統計資料などがないと、難しいのぅ。
>343 武田信廉殿に続いて、山本勘助殿にまで来訪頂けるとは。 武田騎馬軍団が、あちこちで暴れておると聞いたが、 なんのなんの、今回は随分と紳士的であるようじゃな。 勘助殿が仲間になって下さっていれば、東海平定ももっと楽になったじゃろう。 確かに、よそ者を受け入れる余裕もなかったし、 元々、排他的なところもあったでな。 しかし、勘助殿であれば、戦場でその采配を、徳川諸将に見せつければ、 皆納得するであろう。 わしなぞ、それが出来んかったばっかりに、 本多宗家の忠勝殿にまで、「腰抜け」といわれたりして、相当悪者扱いされておるでな。 わしが天下を獲らせたのではない。 皆が獲らせたのじゃ。 大殿は信玄殿を尊敬しておったが、武田軍から学んだことも多かった。 関ヶ原の戦いなど、三方ヶ原の戦いから学んだものじゃしな。 激動の時代であったから、ある時会った者が、 その後どうなるか分からないのも無理はなかろう。 しかし、勘助殿も謎多き人物であるからのぅ…
>344 向こうでは、韓国併合と並んで、秀吉殿の朝鮮侵略(文禄の役・慶長の役、 あるいは、壬辰倭乱・丁酉倭乱)に対して、強い憎悪をもっておるようじゃな。 「壬辰の悪夢」といって語り継がれておるらしい。 大殿等が、兵を撤退させ、秀吉殿に取って代わったこともあってか、 大殿が天下を獲られたあと、大殿であるがゆえに、何とか交流をもてたということもあった。 結局、日本側の総大将秀吉殿にとっても、朝鮮側にとっても、 害悪ばかりが残ったような、無益な戦であったな。 こういうことを知っておくと、交流する時などにも役に立つであろう。 それにしても、朝鮮へ行って指揮を執ると言った時の大殿の演技は、たいしたものであったぞ。
>345 そうか。 安彦氏も書いておったが、そのままではつまらないので脚色したようじゃが、 そこは安彦氏の力の見せ所でもあったな。 旗が動いた、動いていないのところは、クライマックスといったところか。 まぁ、実際には、天下のご意見番といっても、 何でもかんでも言いたい放題、というわけではなかったがな。 天下のご意見番というのは、むしろ、忠教殿が就職運動に尽力しておって、 旗本肝煎と呼ばれてな、そんな忠教殿を大殿が重用されて、 重要案件を忠教殿の事前決定を要するものとしたところから来たもののようであるな。
>346 わしなぞは、まだまだであるが、 それにしても、見事に能力の領域が分かれてしまったな。 助政には定通と定正という息子がおって、 定通から、定忠→定助→助時→助豊→忠高→忠勝 そして、定助の次男・正時→次男・信正→重正→重次 定正から、定吉→正明→忠正→正定→俊正→正信 このような具合になっておる。
352 :
以上、自作自演でした。 :02/01/23 18:21
自分の出ている作品の原作者に一言。
>352 まぁ、そんなに文句を言うこともないのじゃが、 例えば、忠隣殿を謀略をもって陥れたなどと書かれることもあるが、 これは、決してわし個人の利益を図ってやったことではなく、 徳川のことを思って、忠隣殿は退かれた方がよかろう、ということであるでな。 もっと、大きく目を見開いて物を書かれると、誤解も少なかろうとは思うな。 「某物語」の作者には、何も言うことはないな。 どうぞ、好き勝手にやって下さい、といったところじゃ。
354 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/23 23:31
>342 >次は、正純さまに質問 >貴方様が幕閣の中心であった時、取り潰された沢山の大名家がいますが、 >もし、彼等が100人の村を作ったら >100人の内… わしが幕閣の中心だった時に取り潰された大名か・・・。 済まぬが、あまり覚えておらぬでな、回答できん・・・。 今度ちゃんと調べて回答いたすので、少々待っていただけるかな。
356 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/24 17:29
>355 父上ありがとうございます。 これで何とか回答が出来そうです。 時間はかかりそうですが・・・。
357 :
以上、自作自演でした。 :02/01/24 17:32
大名の石高って正確なんですか?
358 :
以上、自作自演でした。 :02/01/24 17:36
江戸時代の大名家の国力をランクづけするとどんな感じになりますか? 石高は農業しか反映してないと思うので、いまいちわかりにくいです。 TOP10ぐらいでお願いします。
>>348 さすが正信殿は噂にたがわぬ知恵者じゃの。謙遜も世辞も過ぎようぞ。
手前は戦に花咲かせる事にしか頭が働かぬで、政略に秀でた貴公を羨望しておる。
放浪時代、手前は武芸に精を出すよりも大局眼を養うべきだったやも知れぬ。
されば川中島でも無駄に将兵を死なせずに済んだものを…。
ところで徳川家が開幕に至ったはやはり天命の帰すところではなかったかの。
今から思えば家康公には漢の高祖の如き「徳」が備わっていたように思う。
それはまた信玄公の持つ器量の大きさとは別種の不思議な包容力ではなかったか。
お互いよい主君に忠節を尽くす事が出来たは果報な事よの。
360 :
武田信廉 ◆ghlOl40o :02/01/25 00:12
>340 正信 さすがは本多正信殿。 妥当な評価でござるな。 >信廉殿といえば、川中島の一騎打ちでは、 >実は信廉殿であったと聞くが、どうなんじゃろう。 それについてはちと回答出来ぬな・・・。 この件に関しては、ご想像にお任せするかな。 >忠勝殿をよろしくお願い致す。 うむ、わかり申した。
>357 いや、正確ではなかったな。 多くの場合は、実際の石高は公称よりも高かったようじゃ。 例えば、実際には10万石であっても、公称は8万石とする。 元々、年によって豊作になったり、不作になったりするから、 正確な石高算定は難しいのじゃが、あまり石高が高かったりすると、 幕府から目を付けられたりして、面倒なことになるでな。 ただ、例えば、年々生産技術などは高まっていくから、 実質の石高は、前よりは高くなるものではある。 そこで、藩の財政が厳しくなると、検地をやり直し、新しい実質石高に公称の石高を近づけ、 なるべく年貢をたくさん取ろうとすることはあったようじゃ。
>358 基本的に、石高が財力を表し、果ては国力を表すものであるから、 とりあえず、石高のTOP10をあげてみて、それから考察するという形でよいかな? 1、 金沢藩(前田家)102万5000石 2、 鹿児島藩(島津家)77万石 3、 仙台藩(伊達家)62万5000石 4、 熊本藩(細川家)54万石 5、 福岡藩(黒田家)47万3000石 6、 広島藩(浅野家)42万6000石 7、 萩藩(毛利家)36万9000石 8、 佐賀藩(鍋島家)35万7000石 9、 彦根藩(井伊家)35万石 10、鳥取藩(池田家)32万5000石 ちなみに、御三家は抜いてある。また、同じ家であっても藩が違えば、違うようにしてある。 例えば、前田家は120万石を領有しておったが、 利常殿が、利次殿に10万石、としはるどのに7万石を分けたので、別にしてある。
金沢藩は、言わずと知れた加賀百万石で、御三家とかなり同格の扱いを受けておった。 戊辰戦争では、北陸道軍の中核として、各地を転戦しておったようじゃな。 鹿児島藩は、独立性も高く、琉球を通じて密貿易でかなり稼いでおった。 鳥羽・伏見の戦いでは、中心になったな。 仙台藩は、実際には100万石を越えておったとも言われ、また、一国一城の掟はあったが、 要害と称する、支城をいくつか造っておった。 新政府軍と対峙するため、奥羽列越藩同盟を結成したが、降伏してしまったな。 熊本藩の藩祖・細川幽斎殿は、戦国一のインテリと言われておる。 鳥羽・伏見の戦いの時は幕府派であったが、その後新政府軍に恭順してしまった。 福岡藩は、黒田官兵殿の子、長政殿に始まるところであるな。 嘉永期(1848-1854以降は、軍艦・銃器を買い込んだようじゃが、立場は不鮮明であったな。 広島藩の浅野家は、あの有名な浅野内匠頭の本家であるが、 事件とは距離をとっておったようで、こちらはずっと続いた。 文久2年(1862)の藩政改革で、軍備の洋式化をすすめたようじゃな。 幕末は、複雑な動きをしておった。 萩藩は、新田開発・殖産興業に励み、幕末には100万石を越えておったといわれる。 天保改革で、財政再建と富国強兵をやったようじゃな。 大村益次郎殿の軍制改革などで、討幕の力となったな。 佐賀藩の十代目・鍋島正直殿は、西洋式・アームストロング砲や蒸気船の製造をした。 「蘭癖大名」と言われるほどで、軍事力は相当なものであったようじゃ。 彦根藩は、唯一譜代であるが、四天王の一人井伊直政殿の子・直勝殿に始まる。 井伊直正殿は、ここから出たのぅ。 ただ、桜田門外の変の処分で、厳封されたようじゃ。 大政奉還の後は、勤皇となった。 鳥取藩の藩祖・池田光政殿の父・輝政殿は、舅が大殿であったため 「西国将軍」などと呼ばれておった。 鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍側についたが、時の藩主・池田慶徳殿は、 徳川慶喜公と兄弟であった。
さて、TOP10であるが、一応、公称の石高TOP10の中から、 わしの独断と偏見で選ぶということであるので、あまり文句を言われても困るが、 自分はこう思うというのがあれば、遠慮せずに言って頂きたい。 1、 鹿児島藩 2、 萩藩 3、 仙台藩 4、 金沢藩 5、 福岡藩 6、 佐賀藩 7、 広島藩 8、 熊本藩 9、 鳥取藩 10、彦根藩 うむ、一応やってはみたが、どこに重点を置くかで、かなり異なってきそうじゃな。 自分でも、あまり納得できんところがある感じがするのぅ。 結局、幕末ともなると、改革に成功した藩が、力を付けたということが言えるでな、 うーん、国力をどう言うかで、どうするかが決まってきそうではある。 公称石高TOP10に入っていなくとも、国力でTOP10入りしそうな藩もあるしな。
>359 いやいや、人一人の知恵には限りがあるというもの。 しかし、人は寄ることが出来る。 しかも、それぞれ個性があって、多様の知恵が集まるものじゃ。 それが上手く合わさってこそ、良き知恵に到達するものであろう。 勘助殿は、キツツキ戦法に失敗して、責任を負う形で…という話を聞いたことがあるが、 確かに、キツツキ戦法は、敵に悟られると、味方を窮地に陥れかねない戦法かもしれませぬな。 しかし、それは敵が「さる者」であったということなのでござろう。 大殿が天下を獲ることが出来た一つの大きな理由は、 主君と家臣の距離ではなかったであろうか。 あの時代、数多の優れた主君がいて、そして強力な家臣団を有した。 しかし、徳川ほど主君と家臣団の距離が近かったものは、少なかったのではなかろうか。 基本的に物事を決める際には、大殿自身の考えが ある程度決まっていたとしても、家臣の話を聞き、 城に落書きがあれば、下級武士の愚痴を聞くためといって、消させず、 つまらぬ献策ばかり書いてあった紙を、ある武士が提出した時も、 内容が大事ではなく、そのような家臣の姿勢が大切だと説かれた。 そして、三方ヶ原では、失禁した大殿に対して、 大久保忠世殿が大笑いしたというが、普通は隠すものじゃ。 そうせなんだのは、親密さの表われではなかろうか。 このように、主君・家臣が一体となれたところに、 その開幕の理由があるのではないかと思うのじゃ。 若殿も、その点、周りの話を聞くところがあった。 晩年の秀吉殿に、唯一諫言できる秀長殿が(亡くなって)ついておらなんだのが、 豊臣滅亡の一因であろう。 良き主君につくことは、他人を見る目も必要であるが、運も必要じゃ。 自分の能力を存分に発揮させてくれる主君につけたのは、 確かに、お互い果報者でござったな。
>360 確かに、真相が分からぬ方が、想像も膨らんで楽しいこともござるでな。 深くは聞かぬことに致そう。 出来れば、今度、正純と共に挨拶に参りとうござるな。 正純もよいかな?
367 :
武田信廉 ◆ghlOl40o :02/01/25 17:31
>366 >出来れば、今度、正純と共に挨拶に参りとうござるな。 >正純もよいかな? うむ、大歓迎じゃぞ。
妖怪って見たことありますか?
369 :
以上、自作自演でした。 :02/01/26 00:06
三河弁で殿様のことを殿サンというそうですが、 これも親近感の現れと考えて良いのですか?
>367 出来れば、正純と予定を合わせて、挨拶に参りたいと思う。 >368 妖怪と、幽霊やお化けというものは、必ずしも同じものではないそうじゃな。 妖怪の中にも、例えば、座敷童のように、いると幸せになれるものもあるそうじゃ。 わしは妖怪を見たことはないが、大殿なぞ「狸親爺」と呼ばれておったが、 何やら、妖怪のような響きがなきにしもあらず、といったところであるな。 >369 ふーむ、必ずしもそうでもないじゃろうが、そういうところも有るかもしれん。 言葉から考えるというのも、なかなか面白い考察方法であるな。 一度、調べてみたいものである。
371 :
以上、自作自演でした。 :02/01/26 15:24
天命とはなんぞや?
372 :
本多正純 ◆lcWeys2k :02/01/26 17:12
父上に申し上げます。 わしは急用が入ってしまい、しばらくの間これそうにありませぬ。 武田家への挨拶は父上だけで行って下さいませ。 わしも復活出来次第行きますので。
373 :
以上、自作自演でした。 :02/01/27 00:39
徳川四天王の事はどう思いますか?
374 :
以上、自作自演でした。 :02/01/27 02:13
某美少女漫画に出てくる家康殿はどう思われます。 外見はダンディーで格好良く、初登場時にはしたたかさもあったのですが、 シリーズが続くにつれてエロ親父になってきている・・。 知らなかったらすまない。
>371 辞書的定義をすれば、「天によって定められた宿命」ということになるが、 天の心とは何か、ということについて、わしが書いた(と言われる)本佐録から出せば、 「彼天道の本心は、天地の間大平に、万人安穏に、万物生長するを本意とす」と考える。 つまり、天命とは「世の中が治まるように、天が決めた宿命」ということになろうか。 しかし、体制擁護側からすれば、困ったことにもなりかねん。 徳川に天命が切れてしまった場合、いわゆる革命が起きることを 容認してしまうことになるからじゃ。 その力を削ぐために、いろいろ策を講じたわけじゃが、 そんなことをしなくとも、徳川に天命がついてくれるようにすべきなのは 言を待たぬというところじゃな。 本佐録において、上のように説いたのも、代々の将軍が身を正すよう願ってのことである。 宿命とは言っても、人事を尽くさねばならぬ。 人事を尽くした上での、宿命と考えられたし。 >372 わしが忙しかった時に、正純には世話になった。 駿府での勤めが忙しければ、仕方のないことじゃ。 正純の復帰を待っておるぞ。
>373 酒井忠次、本多忠勝、榊原康正、井伊直政、の四氏じゃな。 三河時代を支えたこともあって、武功が目立つと思われるが、 外交などの行政手腕も、決してその能力が低かったわけではない。 治世にあっては、要職から遠ざけられたものであるが、 戦国の世に活躍した武将の、最後の中の4人であったといえるじゃろう。 後三者については、もう少し早く生まれていれば、という思いもある。 >374 申し訳ないが、わしはその少女漫画については、存じておらん。 段々、エロ親爺になったか。 イメージ的に、仕方のない事かもしれんのぅ。 最後に生まれた子供が、66歳の時の子であったし、 70を越えてからも、側室と一緒に寝ておったからな。 ところで、その漫画の主人公は誰かな?
377 :
以上、自作自演でした。 :02/01/27 17:50
徳川将軍十五人の中で最も優れていると思う将軍は誰ですか?
好きなおつまみは?
379 :
以上、自作自演でした。 :02/01/28 00:56
武田24将について思うところがあったら述べてください
>377 うむ、何度も言ってきたが、比較するというのは、難しいものである。 将軍を取り巻く状況など、様々な違いがあるでな。 しかし、そうは言っても、比較したくなるのは人情というもの。 とりあえず、考えてみることに致そう。 一般に評価が高いと思われる将軍としては、 創業者の家康公、基礎固めを完了させた家光公、享保の改革を行った吉宗公、 それから、最後の将軍である慶喜公であろう。 この4将軍は、それぞれの状況に対応した政策などをされておる。 なかなかに優れた将軍であろう。 じゃが、わしはこのような中で、敢えて秀忠公、若殿を推すことに致そう。 確かに、若殿は戦が上手いわけでもないし、いまいちパッとせん。 しかし、家光公の時代にも、大御所という形で若殿が健在であったから、 家光公の名で、若殿の政策を実施したこともあった。 それから、何といっても、親の干渉にひたすら耐えたことじゃな。 (もちろん、多少の反発はあったが) だいたい2代目で潰れる例の一つには、親の威光を払拭しようとして、 自滅するということがある。 その点、若殿は分をわきまえ、くさることなく、家光公へとバトンタッチした。 二代目として、守成者としてやるべき事をやり切ったのではなかろうか。 こういうところで、わしは、敢えて、若殿をもって質問の答えと致そう。
>378 それは、酒のつまみという意味かな? わしは、魚などをつまみながら、というのが好きであるが、 上杉謙信殿は、梅干しを酒の肴にしておったと聞く。 他に、織田信長殿は、金のドクロ(朝倉義景殿、浅井久政・長政殿のドクロ)を 酒の肴にしたとかいう話も聞いておる。 >379 江戸時代になってから決めたためか、武田二十四将が、 誰を指すかは、統一されてはおらんと思うが、 その辺は、騎馬軍団に聞いて下され。 徳川としては、武田軍とは、小競り合いなども含めると、 あまり勝ったことがなかったように思う。 非常に、厄介な相手であったことは確かじゃな。 長篠の戦で、鉄砲隊の前に敗れた者もおったようじゃが、 名も無き足軽にやられるというのは、無念であったかもしれんな。
382 :
以上、自作自演でした。 :02/01/28 17:59
徳川家康殿の息子はたくさんいますが、誰が一番後継ぎに向いていると思いますか? ただし、秀忠は除いてください。
>382 大殿の息子といえば、 松平信康、結城秀康、徳川秀忠、松平忠吉、武田信吉、松平忠輝、 尾張義直、紀州頼宣、水戸頼房、の11人であるな。 このうち、秀忠公は除き、また、信康殿は切腹を命じられたことで、 除くということでよかろう。 とりあえず、前提条件としては、下の方の方になると、 大殿とは、孫ほどの年の差があるので、一応、年齢がそれほど違わず、 ちょうど、天下獲りが見えたくらいに、皆、20歳くらいにはなっておると仮定して、 話を進めていくことに致そう。 関が原の合戦の後、大殿が、後継者は誰がよいかと聞かれた時には、 わしは、結城秀康殿を推したのじゃが、今回は、今から考えるとということでご勘弁頂きたい。 まず、秀康殿、忠吉殿は、乱世でこそ、その能力が活かせるものであったじゃろう。 信吉殿は、病弱な方で、21歳で亡くなったのじゃが、ちょっと、評価しかねる。 もっとも、一国の将軍が病弱では、不適格といえるであろう。 忠輝殿は、乱行などが目立つこともあり、将軍にはむかんであろう。
義直公は、尾張徳川の祖であるが、産業振興・治水・税制整備などを行い、 また、学問にも造詣が深かったといわれておる。 頼宣公は、少々我が侭であったようじゃな。 最初、紀州に行くのを嫌がって、大阪城に行きたいと言っておったのじゃが、 藤堂高虎殿が、田丸の五万石を献上してな、そこには頼宣公の好きな鶴が たくさんいるということで、納得してくれたという話であるな。 頼房公は、才気に溢れ、大殿も愛着を示しておったが、野心家であるところがあってな、 治世にはむかないかもしれん。 このように考えてみると、義直公が一番、将軍として相応しいのではなかろうか。 もし、義直公がもっと早く生まれていれば、あるいは、秀忠公ではなく、 義直公が二代目将軍となっておったかもしれん。 ちなみに、信康殿が切腹することなく、生きておられたら二代目になっておったじゃろうな。 ただ、治世に相応しい方かどうかは、ちと分かりかねるのぅ。
385 :
以上、自作自演でした。 :02/01/29 00:10
桶狭間で負けたというだけで過小評価され続けてきた悲劇の名将今川義元についてどう思いますか?
>385 確かに、そなたのいうように、 今川義元殿は、世間的なイメージは低いものであるようじゃな。 しかし、北は武田、東は北条とあって、海道一の弓取りと称せられるほどの方。 凡将であるはずがない。 特に、その領国経営には、卓越した腕を振るわれたようじゃな。 一般の人に、たった一戦で、その業績を顧みられることが無くなってしまうほど、 桶狭間の戦いというのは、インパクトの強いものであるということなのじゃろう。 ところで、「利家とまつ」の義元殿は、えらく痩せておったのぅ。 実際には、かなり太っておって、馬に一人で乗ることも出来んほどであったようじゃが。
387 :
以上、自作自演でした。 :02/01/29 12:17
それでは前項と関連して、寿景尼と太源雪歳についてかたってください。 (漢字違っていたらすいません)
388 :
以上、自作自演でした。 :02/01/29 17:07
毛利家のためを思って行動したが、結果的に失敗してしまった吉川広家についてどう思いますか?
>387 太原崇孚(大原雪斎)と寿桂尼であるな。 雪斎殿は、臨済寺の坊さんであったが、その道でも高名な学者であったようじゃ。 いわゆる、今でいう「軍師」は、雪斎殿が初めてであったとも言われておるようじゃ。 大殿が幼少のみぎりは、大変お世話になって、感謝しておる。 大殿は、かなりの読書家であったが、これも雪斎殿のおかげじゃ。 大殿は、かえって、人質に取られてよかったのかもしれん。 いろいろな意味でな。 寿桂尼は、義元殿の母君にござるが、「女の戦国大名」といわれるくらいで、 領地経営などにも、かかわっておったようじゃな。 とかく、女性は政略の道具として使われることが、少なくなかった時代で、 このような形で名前が残るのも、稀であるな。 >388 それは、関ヶ原の戦いでの、東軍との内通のことじゃな。 毛利家の所領安堵が条件であったにもかかわらず、 徳川が難癖をつけて、結局、減封されてしまった、と。 広家殿は、裏切り者だの何だのと、相当言われておるようじゃな。 まぁ、難しいところではあるが、わしは、毛利家の取り潰しを防いだと見る。 もっとも、成功したわけではなくて、失敗を最小にとどめたな、という思いであるな。
390 :
以上、自作自演でした。 :02/01/30 00:46
徳川家の家臣に誘いたい他家の武将を五名教えて下さい。
391 :
足利義輝 ◆oLXT0cvw :02/01/30 17:46
久し振りにわしも質問させて頂く。 我が配下の細川藤孝についてはどう思うかのぅ?
>390 そうじゃな、明智光秀殿、石田三成殿、片倉小十郎殿、真田幸村殿、加藤清正殿、 といったところか。 明智光秀殿は、その能力はもちろんのこと、 政策など徳川に合うところが多いような気がするな。 天海僧正=光秀殿という考えもあることじゃし。 石田三成殿は、あるいは、その性格が徳川には合わないかもしれん。 特に、徳川内部においても、武功派に嫌われてしまうかもしれん。 武力よりも、その知力に期待するところが大きい。 片倉小十郎殿は、伊達政宗殿をよく支えた方じゃ。 政宗殿が少々やけになったような時も、傍らにいて抑えておったようじゃ。 大殿も、秀吉殿も領地を与えようとしたが、断られてしまった。 真田幸村殿は、わしも目の前で苦戦させられたし、 関ケ原の戦の後、10万石で勧誘したんじゃが、 「仮に日本の半分を賜るとも、約束を違うことは出来ず」 とて、断られてしまってな、それもあって、ということじゃ。 加藤清正殿は、その武略はもちろんのこと、城造りの上手さに惹かれるな。 大阪の陣では、大阪での戦いの他に、それに備えた城造りにも注目してしかるべきであろう。 もっとも、あの時のような大規模な城政略は、天下人でないと出来ぬことではあったがな。 しかし、天下人でなくとも、城造りは重要。 その点が、理由であるな。
>391 細川幽斎殿といえば、なかなかの文武両道の士であると聞いたことがござる。 じゃが、やはり、文の方に目が行ってしまいますな。 特に、田辺城が石田軍に攻められた際の、天皇直々の御助命。 さすがと言うしかないでござる。 その才は、天下万人に認められる、立派なものでございましたな。 武将といえども、最低限の文化を修めなければならなかった時代、 細川幽斎殿のような方は、貴重な方にござる。
394 :
以上、自作自演でした。 :02/01/31 01:07
優秀だったのに、最後が悪くて、暗愚と評価されてしまった人をどう思います? 例えば今川義元然り、武田勝頼然り、北条氏政然り。
395 :
以上、自作自演でした。 :02/01/31 01:31
徳川幕府草創期の行政を担われた正信様にお聴きしたい 事務方と対立、例えば、別系統からの指令を優先する・虚偽の報告をあげる等で 行政機構が機能不全に陥った場合、いかように事態を打開なされますか? 意訳:真紀子の立場で、復興会議以来の騒動の渦中であったなら、如何様に処されます?
396 :
以上、自作自演でした。 :02/01/31 17:48
尊敬する人物を教えて下さい
>394 一つは、日本史の教科書に原因があるじゃろう。 教科書であるがゆえに、大きな出来事をまとめて書くという体裁をとっておる。 小・中・高等学校であれば、歴史の概略を学ぶということをやるから、仕方が無いことである。 しかし、これが故に、ある人・ものについて、勘違いも生まれる。 例えば、今川義元殿であれば、その名が出るのは、 恐らく、「今川仮名目録(追加)」と、桶狭間の戦いだけであろう。 桶狭間では、多勢をもって、少数の織田軍に敗れたことが書いてあるため、 「今川義元は駄目な大名だ」と思われてしまうのじゃろう。 武田勝頼殿は長篠の戦、北条氏政殿は小田原の戦いということであるな。 教科書に細々と書くと、煩雑になってしまうゆえ、 こういった方々の業績について、教師が一言いってもよいのではなかろうか。 氏政殿は、「汁のかけ方のあんばいが分からない」エピソードや、 「新鮮な麦(刈ったばかりの麦)で昼食を作れ」エピソードなどもあって、拍車をかけておるな。
>395 多少、そちらの意図とずれるかもしれぬが、 今回の騒動についてのわしの考えを述べてみようかのぅ。 仮に、田中真紀子氏が自分の代で、外務省を根底から改革しようとしておったのであれば、 事務方との接し方が間違っておる、と断ぜざるを得ない。 では、どうすべきなのかといえば、真っ正面から対立するのではなく、 相手方が不満を持ちながらも、従わざるを得ないような状況を作らねばならぬ。 対立しながらも、うわべはその意図を隠し(実際にはその対立が明白であっても)、 いつのまにか、それとなく遠ざけるような仕方で、 事務方を丸め込むようにすべきであったろう。 とりあえず、田中氏が更迭された今の状況から考えれば、 田中氏は、ある役割を担ったと、考えるべきであろう。 つまり、外務省の体質を露呈させたということじゃ。 田中氏が外務省の体質を露呈させ、次の大臣が事務方を丸め込みながら改革する。 このような役割分担をして、改革するという形になるといいとは思う。 であるから、次の大臣は老練で、田中氏を継ぐことが(改革する気がある人) 出来るような人物がなるといいんじゃろうな。 で、わしがこの状況でどうするかといえば、 田中氏には、外交手腕ではなく、外務省改革の役割の一部を 担ってもらおうという意思があるため、 (仮にわしが首相で、田中氏を選んだとした場合) 役割が済んだということで、やはり、辞めさせるかもしれぬ。
>396 うむ、尊敬する人物であるか。 極端な話、人にはそれぞれ尊敬すべき点があり、 自分の知っておる人のほとんどが、尊敬する人物ということにもなりかねんが、 とりあえず、敢えて挙げるなら、ということに致そう。 141にも少し書いたが、 漢の高祖を助けた、蕭何(ショウカ)・曹参・張良・陳平 唐の太宗を輔けた、房玄齢・杜如晦(トジョカイ)・王珪・魏徴 といった方々など、優れた人達であった。 一人あげるなら、呂尚(太公望)といたそうか。 むろん、某漫画のような方ではなかったであろう。 実際に会ったことはないので、分からぬが。 兵法の始祖とも称された方で、張良なども影響を多分に受けておる。 ちなみに、太公望が文王・武王についておる頃は、よぼよぼの爺さんで、 「封神演技」でも、そのようになっておるが、 漫画では、都合があってか、見た目が若くなっておるな。
400 :
以上、自作自演でした。 :02/01/31 19:25
じゃあ田中はまさに「コウトシシテリョウクニラレル」ってことですね。
>400 400番目、おめでとう。 そうじゃな、「狡兎死して走狗烹らる」じゃな。 ただし、仮にわしが首相で、田中氏を外務大臣に任命し、 今の事態に至った場合に、じゃぞ。 実際に、小泉首相がどのように考えておられるのかは、知らぬ。 わしと同様の考えか、あるいは、単にトラブルを起こしたから切ったのか。 今後の外務省を見れば、自ずと明らかになるかもしれんな。 田中氏の外務省改革の熱意は買うが、彼女では、ちと無理かもしれん。 (ちなみに、根元から変えるというのは、革命が起きても難しいな。 今までの革命を見てきても、表面が変わるだけで、 根本から変わったということはまずない。) 外交手腕も、どうかと思うしな。 ただ、辞めさせるにしても、事実は明らかにしてくれんとな。 是非とも、発展的更迭として欲しいものじゃ。 それから、周りの協力も欲しいな。 しかし、だいぶん内閣支持率が下がったな。
402 :
以上、自作自演でした。 :02/02/01 17:16
家康公の好きな食物を教えて下さい。
義輝殿が、急用ということじゃが、残念じゃな。 復活を心待ちするとしよう。 >402 大殿の好物は、ずばり、薬じゃ。 というのは冗談であるが、結構たくさんあるな。 一富士・二鷹・三なすびというが、これは大殿の好きなものを並べたものと言われておる。 駿府からは富士山が見えるし、茄子も美味しいということじゃな。 他には、浜(名)納豆、すりおろしたニンニク、カニ、キジ、山桃(揚梅)、魚(シラウオなど) など、たくさん好んでおられた。 基本的に、旬のものは何でも食べられ、偏食はなかったのぅ。 季節外れのものは、決して口にせず、信長殿から「珍しい桃が手に入った」とて頂いた桃も、 季節外れということで、食せなんだ。 もっとも、美食は月に二、三度ということで、普段は麦御飯や味噌を召し上がっておったな。 面白いのは、お八の方(お梶・お勝)であったか、阿茶局であったか、定かではないが、 世の中で一番美味しいのも、不味いのも塩であると言っておられた。 塩加減一つで、料理を美味しくもし、不味くもするとな。 人間関係にあてはめると、また深みがます言葉であったな。
404 :
以上、自作自演でした。 :02/02/02 00:40
百薬の長といわれた酒についてどう思いますか?
>404 そうじゃな、わしは、或る10ヶ条を座右の銘としておるが、そのうちの一つが、 ・ 酒の飲み過ぎは、早く死ぬ地形 というのがある。 要するに、酒は飲みすぎず、程程にするのがいいということで、気をつけておった。 それから、酒を飲む際に気をつけねばならぬのは、いわゆる「おつまみ」じゃな。 こちらを食べ過ぎて太る人や、あるいは健康を損なう人もいるようじゃからな。 大殿も、酒はかなり好きな方であるが、一応飲み過ぎには気を付けておったな。 上杉謙信殿は、無類の大酒のみであったようじゃ。 しかも、どんなに飲んでも、酔って暴れたりということはなかったようで、 相当酒に強かったようじゃな。 ただ、アルコール中毒による禁断症状が出ておったとか。 織田信長殿は、酒に強かったわけではないが、酒盛りが好きであった。 しかし、少々酒癖が悪くてな、酒嫌いの明智光秀殿に、度々からんでおったようじゃ。 ちなみに、日本で最初にワインを飲んだのは、信長殿であるといわれておる。
406 :
以上、自作自演でした。 :02/02/03 00:51
三国・戦国板には出入りしてるんですか?
>406 うむ、頻繁に、というわけではないが、たまに見に行っておる。 「早すぎた静岡のJリーガー・今川氏真」は、面白い着想であった。 三国志の方のスレは、あまり見ておらんな。
408 :
以上、自作自演でした。 :02/02/04 00:09
この板で見ているスレを教えて下さい
>408 継続的に見るかどうかは別にすれば、結構いろいろ見ておる。 歴史物関係などは、割と見る方ではないかと思う。 もっとも、よく分からぬのもあるが。 あなごさんのスレもよいと思うのぅ。 サザエさん関係の擦れにしては珍しく、似ておって面白い。 あと、ぼのぼのというラッコのスレも見ておる。
410 :
以上、自作自演でした。 :02/02/05 01:43
毛利元就とその三人の息子たちについて何か一言お願いします。
>410 申し訳ないが、明日回答させて頂くことにする。
412 :
以上、自作自演でした。 :02/02/06 01:10
徳川(松平)家の先祖について知っている限りでいいので教えて下さい。
>410 毛利元就・毛利隆元・吉川元春・小早川隆景殿であるな。 それぞれに、何かしらの秀でた能力を持っておられたな。 謀略を尽くして、次々と家を乗っ取るのは、兵法にかなった戦略であろう。 元就殿は、大殿以上に健康に気を使っていたと聞く。 隆元殿は、内政に能力を発揮された。信望も厚かったようじゃ。 元春殿は、黒田如水殿が用意した鮭を、皮膚病に悪いと知りながら 召し上がり、亡くなったそうで、律義な方であったようじゃな。 隆景殿は、戦で活躍されたが、朝鮮でもあちこちと転戦しておったようじゃな。 家の結束にも配慮されておった。
>412
>>203 にも少し書いたが、これは、まぁ、でっち上げたものじゃ。
はっきり言えば、どこの馬の骨とも分からん。
一説には、乞食浮浪者で、松平のところに婿に来て、
そのまま、松平になったという話もある。
一応、系図では、
新田義重-義季-頼氏-教氏-家時-満義-政義-親季-有親-
親氏(松平氏)-泰親-信光-親忠-長親-信忠-清康-広忠-家康
であるが、有親-親氏のところが、よく分かっておらんのじゃ。
ここが解明されなければ、何者かは、ちと分からん。
415 :
以上、自作自演でした。 :02/02/06 18:51
モララーとイマノウチどっち飼いたいか選んで欲しいからな!  ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ○ ∧__∧ ⊂⌒~つ ・∀・)つ
>415 うーむ、わしとしては、イマノウチ殿に舞を披露してもらいたいのじゃが、 聞くところによると、イマノウチ殿は誰もいなくなった時に舞われるとか。 諸大名、こぞって柱の影に隠れてその舞を見ることになるかもしれんのぅ。
417 :
以上、自作自演でした。 :02/02/07 00:27
水戸黄門こと徳川光圀って実際はどんな人物だったのですか?
>417 当然の事ながら、わしは光圀公と直接会ったことはないが、一言。 光圀公は諸国漫遊などということはされなんだが、司馬遷の「史記」に魅せられて、 日本でも歴史書を作ることを決意されたようじゃ。 それで、全国の優秀な学者を集めて、「大日本史」(この名は、後でついたらしい)の 編纂をしたのじゃな。 この「大日本史」が完成したのは、約250年後の明治39年(1906)じゃった。 この書が、王政復古運動に大きな役割を果たしたといわれておる。 藩政においても、内外から名君と仰がれるほど、 産業政策・貧民救済・インフラなどに腕を振るわれたそうじゃな。 「生類憐みの令」に対抗して、犬の毛皮をプレゼントするというのが、 ドラマの最終回らしいが、実際にあったとかいう話もある。 ドラマにはフィクションが多いにあるが、皆に慕われるのは、ノン・フィクションじゃ。
むぅ、ここまで知れ渡っておるか…。
>419-420 うむ、和睦が成立したようじゃな。 思えば、負けず嫌いというのは、負けた事実を否定するものにあらず、 負けを負けと認めて、次で雪辱せんとするを言うのじゃろう。 寡兵をもって、衆兵と戦わんとするのも勇気であろうが、 退くことも、また勇気じゃ。 三十六計、逃げるをもって上策とするのも、人の逃げるを 恥とするところから来ておるのじゃろう。 自身、家臣、その家族のことを考えれば、どちらの勇気を選べばよいのかは、 自ずから明らかとなるのではないか。 徒に、人の命を落とさせることもあるまい。
422 :
里見義弘 ◆FaTN.JZI :02/02/08 19:47
当家の子孫、お手前が大久保の忠隣殿を改易したとき連座してしもうた。 おかげで当家は伯耆倉吉に転封。そのまま寂しくアボーンじゃ。 戦国の世ならまだしも、太平の世の泥臭い政争の、しかも巻き添えというのは 口惜しいものじゃ。
>422 里見忠義殿が、大久保忠常殿の娘と婚姻したんじゃったな。 義弘殿の御気持ちも分かり申すつもりではあるが、 太平の世とはいえ、家の中の政争は、滅亡の原因となりかねん。 韓非子などにもうるさく書かれておるが、 家臣が徒党を組んで、あれこれ動くのは問題がある。 特に、二大勢力ともなれば、なおさらじゃ。 徳川のためには、大久保忠隣殿に、中枢から遠ざかってもらう必要があった。 単なる政争ではなく、徳川の将来のために、忠隣殿には、退いてもらったのじゃ。 それと、里見家を転封したのは、いつまでも、外様が江戸の近くにいるのは 都合が悪かったからじゃ。 里見殿には、少なからず警戒をしておったしのぅ。 このような事を言うのは酷かもしれんが、時代の流れを 見誤ったというべきでござろう。
424 :
以上、自作自演でした。 :02/02/09 00:59
正信殿は色々な小説に登場しますが、その中で自分に一番近いと思った本多正信殿が登場する小説を教えて下さい。
>424 わしも、それほど多くの小説を読んでおるわけではないのでな。 答えにくい質問であるが、「家康と正信」(童門冬二著)なぞはどうであろう。 と言っても、実はわしはまだこの本を読んだことはない。 ただ、内容がある程度予想できるのでな。 まぁ、恐らく現代の組織などに置き換えながら、 参謀とは何かを説明しておるのじゃろう。 わしのことは、組織のNO.2として見て欲しいので、これを挙げておこう。
426 :
以上、自作自演でした。 :02/02/10 01:06
正信殿は徳川家中では嫌われ者だったらしいですが、一人くらい仲の良い人はいなかったんですか?
427 :
以上、自作自演でした。 :02/02/11 01:20
戦国・三国板で上杉軍と北条軍が暴れてるみたいですよ。
昔親父が「うちの先祖は山本勘助の流れを汲んでいる」とか言ってたんです。 まあ確実に大嘘でしょうが、そんな事もあってあの武将が好きなんですよ。 彼は本多さんから見てどうでしたか?
>426 まぁ、嫌われたのは、主に武功派の諸将じゃな。 戦で活躍されて出世した者にとっては、わしのような者は受け入れがたかったのであろう。 吏僚派の武将からは、好かれてはおらんかったかもしれんが、 それほど嫌われてはおらんかったと思う。 徳川の中ではなかったが、藤堂高虎殿とは仲がよかった。 他には、いわゆる徳川ブレーンと呼ばれた人とは、仲が悪くはなかったと思う。 わしの思い込みかもしれんが。 >427 上杉軍団とかいうのが、現れたようじゃな。 じゃが、やはり、武田騎馬軍団の真似をしたとしかいえんような気もする。 真似云々はどうでもよいのじゃが、あまり周りに迷惑をかけんようにして欲しいものじゃな。
>428 以前、こちらに勘助殿がいらっしゃったことがあったのぅ。 343、348あたりで、少し書いた。 徳川家臣団は若輩者が多くて、三河時代は、未熟なところもあったのでな、 勘助殿のような方がおってくれたら、と思うところはある。 もっとも、あの経験があったからこその、天下獲りであったのかもしれん。 謎の多い方ではあるが、素晴らしい軍師であった。
431 :
以上、自作自演でした。 :02/02/12 00:52
昔の人はどんなお菓子食べてたのですか?
徳川幕府は清王朝にたいしてどんな姿勢をとってたんですか?
ぐへへへへ、お代かn、じゃない、、、正信さまもお人が悪い どうぞ、このずしっり重い山吹色の饅頭と、 襖の向こうにご用意した小指をお収め下さい、、、ぐひひひぃぃ じゃ、家康さまへの御口利きお願い致しますよ、、、、うひひぃひぃ
ちわーす、三河屋でーす お米・お醤油・お酒の御用ありませんかー
435 :
以上、自作自演でした。 :02/02/13 01:53
正信殿と石田三成は似たような立場だったと思うのですが、 両者の違いについて一言。
>431 わしらの頃になると、いろいろと菓子が増えてきたな。 中国で、点心というお茶請けの菓子があるが、 日本でも、戦国時代よりも前は、饅頭などをお茶請けにしておった。 その頃は、小豆を使った菓子が主であったようじゃ。 戦国時代前にもなると、南蛮船が来て、カステラなどの砂糖を使った菓子が広まった。 それから、砂糖を使う菓子が増えて、菓子も多様になってきたのじゃ。 江戸時代には、今で言う和菓子のかなりの数が出てきたようじゃな。 ちなみに、義輝殿(一色殿)のところで、卵がどうこうとあったが、 それまで、卵を食べると災いが起こるなどといわれておったのじゃが、 南蛮人が平気で食べていたことや、中国でもそうであったことなどから、 日本でも、戦国時代前あたりから、食べられるようになった。 カステラも、卵を使っておるしな。
>432 よく知られておるように、徳川幕府では、外国との交流を制限しておった。 が、全く交流をしていなかったわけではない。 わしが死ぬ頃には、明はもう末期の状態であったが、 日本と明は貿易をしておった。 日明貿易というやつじゃが、これは三代将軍・義満殿の頃から行われておった。 ところが、「北虜南倭」というのがあったが、海賊が暴れておったので、 大殿は明との貿易を望んだが、明が貿易を制限してしまっておった。 しかし、商人が私貿易を営んでな、それで交流があったんじゃ。 そのうち、明は滅びてしまったが、清になっても、引き続き貿易は続いた。 出島でな。 貿易額も増えていったんじゃが、輸入超過を防ぐために、 輸入を制限しておったな。
>433-434 うむ、いわゆる賄賂というやつか。 しかしのぅ、老中であるわしに、三河屋が賄賂を贈ってものぅ。 贈るのであれば、代官クラスでなければ、役には立つまい。 賄賂が横行すると、幕府が頽廃する元じゃからな。 幕府の役人たる者、その心構えが欲しいものじゃな。 大塩平八郎殿の怒りも、もっともじゃ。
>435 うむ、わしも三成殿も、武功派には嫌われておったな。 三成殿は、正義感に強く、法に厳しかった。 しかし、これは尤もなことで、わしも厳しくしておったのじゃが、 韓非子の法治と、儒家の徳治とで、どちらに重きを置くかと言われたら、 やはり、法治に重きを置くべきであるからな。 ただ、なかなか理解されずに、こういう措置に怒る人もよくおった。 あと、三成殿は、横柄な振る舞いが目立ったこともあった。 一番大きかったのは、後ろ盾の不存在であったかもしれん。 わしには大殿がついておったし、三成殿にも、もちろん、秀吉殿がおった。 しかし、秀吉殿は、はやくに亡くなってしまったからな、 それから、三成殿を支える、強力な後ろ盾を失ってしもうた。 この辺が、大きかったかもしれん。
太陽板に、「上杉軍団だが、何か?」というスレが立っておる。
441 :
以上、自作自演でした。 :02/02/14 02:23
三国・戦国板では武田、上杉、北条による関東三国志が展開されているようですな。
442 :
以上、自作自演でした。 :02/02/15 01:08
最近気になる事件とかありましたか?
>441 うむ、じゃが、あの太陽板のスレは、元々の上杉軍団とは関係ない人が 立てたような感じであるな。 そこに、元々の上杉軍団が、乗り込んできたと。 戦う意思はないようじゃし、周りに迷惑をかけることもあるまい。 >442 死亡したアフガン人のDNAを鑑定して、ビン・ラディンか どうか確かめるといっておったが、本当に、見つからないものじゃのぅ。 あるいは、もう死亡しておるかも知れんが、 地の利を活かして逃げるものを見つけるのは難しい、と改めて思った。
444 :
以上、自作自演でした。 :02/02/16 01:09
徳川家康公が途中で影武者と入れ替わったという説についてどう思います?
445 :
以上、自作自演でした。 :02/02/16 15:43
446 :
以上、自作自演でした。 :02/02/16 20:09
447 :
以上、自作自演でした。 :02/02/17 01:46
揚げ物
>444 恐らく、晩年の大殿と、若い頃の大殿に、性格や趣向などに違いがあることから 来ておるものなのじゃろう。 例えば、晩年の大殿は、若い側室を多く侍らせておった。 また、狸親爺というのは、もっぱら、晩年の大殿を指して言うものであろう。 晩年は、謀略を巡らし、陰険とも言えるような策を弄してきた。 じゃが、若い頃は、結構、血気盛んで、そのために失敗をしたこともあった。 こういうところから、家康影武者説が出てきたようじゃな。 しかし、関ヶ原あたりから、影武者が入れ替わっていたということはないぞ。 面白い話であるとは思うがのぅ。 >445 ほぅ、このようなサイトがあったとは。 実石高が掲載されておるのは、珍しいのかもしれんのぅ。 実石高は、今となっては、計測も困難であろうが、なかなか面白いのぅ。 紹介して頂いて、感謝いたす。
>446 わしも、前から、謙信女性説というのは聞いたことはあった。 ここまで詳細な理由は見たことはなかったがのぅ。 確かに、謙信殿は、生涯独身を貫いたといわれておって、 戦国の世にあっては、珍しいことであった。 一応理由にもいくつかあるが、有力なものに、戦勝祈願説というのがある。 真言宗の出家者は、妻帯を禁止されておるようで、 戦勝祈願・信仰のために謙信殿もそれに従ったというものじゃ。 正室・側室をもたなんだのは、それがためと思われる。 それに、伊勢姫という美女を側室にしたがったが、 泣く泣く諦めたという話もあるとか。 謙信殿が女性ということは、わしはないと思うがな。 かなりの酒豪とも聞いておるし(もちろん、女性にも酒豪はおるがな)。
>447 揚げ物か。 不吉なのか、ありがたいのか、よく分からぬな。 聞いたところによると、喜劇王・チャップリンは天ぷらが大好物で、 日本に来ると、帰りの船の中では、毎日天ぷらを食べておったとか。
451 :
以上、自作自演でした。 :02/02/18 02:10
正信殿の時代の娯楽ってどんな物があったんですか?
2,3日留守にさせて頂くので、回答が少し遅れるが、申し訳ない。
>449 あのHPの主は、伊勢姫は架空の人物でその話は創作だと語ってましたが 本当ですか?
454 :
以上、自作自演でした。 :02/02/19 01:06
正信殿は歴史ゲームの類はやるんですか?
三国志の方の知識はあるんですか?
武田家はdat行きになってしもうた…。無念ぞ。
457 :
以上、自作自演でした。 :02/02/21 01:48
秀吉が北条氏直にほうき(漢字失念しました・・・)国を与えようとしていたらしいと聞いたのですが、本当ですか?
>451 今の人が思うような娯楽とは、ちと違うかもしれぬが、色々とあった。 茶の湯や、鷹狩などは娯楽であるといえるじゃろう。 和歌や踊りなどもそうであるといえると思うが、 信長殿は、品のない歌を歌ったり、変な踊りを踊ったりしていたようじゃ。 また、信長殿は、相撲を好まれておって、よく相撲を見たり、やったりしておった。 他に、戦国の世になって広まったものとしては、碁や将棋などがある。 日海という僧侶がおってな、囲碁も将棋も上手かった。 信長殿は、日海に名人の称号を与え、大殿は「本因坊」という名を与えた。 某碁漫画は終わってしまったようじゃな。
>453 う〜む、他のところに、そのHPの主は、伊勢姫について書いておるな。 確かに、伊勢姫は伝説上(は大袈裟か)の人物で、よく分からぬところがある。 存在するのかどうか、あるいは、他の人なのか。 こればかりは、上杉謙信殿本人に聞いてみるより、他はないのかもしれんのぅ。 ちなみに、謙信殿は、小さい頃からは母や姉(つまりは肉親)に 大事にされたため、肉親の女性以外には、 興味を示さなくなったのではないか、と考える人もおるようじゃ。
>454 最近は、ゲーム自体、やらなくなってしまったな。 わしがやったことのある歴史ゲームは、 ・信長の野望(FCの最初のもの) ・武田信玄(FC) ・三国志2(SFC) ・提督の決断(SFC) ・大戦略98(PC) ・いっき(FC) こんなところであろうか。 わしがやったことのあるものは、データなどが単純で、 兵を訓練して、他国を攻めることを繰り返せばよかったものじゃ。 「信長の野望」などは、大名の年齢が問題になったくらいであるな。 毛利元就殿を選ぶと、すぐ亡くなってしまうため、 クリアすることが出来んかった(大名が死んだら、それで終わり、跡継ぎ無し)。
>455 三国志の方は、大まかな知識しか持っておらん。 読んだことがあるのは、三国志演義の方なので、正史の方はあまり詳しくはない。 個人的には、演義の蜀の武将が、あまりにも立派なので、 蜀は、それほど好きではないのじゃ。 わしは、どちらかというと、漢楚の戦いや、殷周革命の方に興味があるのぅ。 >456 うぅむ、留守の間に足切りがあるとは思うておったが、 騎馬軍団スレが落ちるとは・・・・・・ 本スレも、名無し殿の弛まぬ努力で、首の皮一枚つながってはおるが、 いつ切られてもおかしくはないじゃろう。 どんなに稼動していても、一瞬の隙を突かれて落ちるものであるから、 難しいのぅ。
>457 伯耆じゃな。 小田原城攻めの後、秀吉殿と氏直殿が大阪で会見したんじゃが、 その時に、氏直殿に伯耆を与えるという話があったとかいう話じゃ。 じゃが、その時の会見の内容は、明らかにはなっておらんので、 そういう話があったかどうかは、わしではちと判断しかねるのぅ。
463 :
以上、自作自演でした。 :02/02/24 05:15
攻撃的発言の多い某国大統領ブッ○ュ氏についてどう思いますか?
正信殿、お久し振りじゃ。 わしのスレの方は何とか持ち応えられたようじゃ。 これからもよろしくお願い致す。 うーむ・・・久し振りに書くせいか文がうまく書けんのぅ・・・。 そういえば、太陽に移ったなりきっていいともで正信殿に出演依頼が来る寸前になっているのはご存知かな? 今呼びかけられている比古殿と言う方が断れば、正信殿に出演依頼が来るようじゃ。
465 :
以上、自作自演でした。 :02/02/25 01:15
家康公の死因について教えて下さい。 鯛のテンプラにあたったというのは本当ですか?
>463 「狡兎死して走狗烹られ、飛鳥尽きて良弓蔵めらる」 敵がいなくなれば、軍隊も削減せねばならなくなる。 じゃが、世界には、きな臭いところも、まだ少なくない。 それに対処するためには、それなりの軍事力が必要じゃ。 世界の警察を自称する国にとっては、具体的な敵を作っておかねば、 軍事力維持に対する国民の支持が、得られないということなのかもしれぬ。 アメリカにしても、軍事費に大量につぎ込めば、 景気対策が出来なかったりするからのぅ。 最近はどうか知らぬが、国連の分担金を滞納したりして、 歳入と歳出が合っているわけでもなさそうじゃ。 しかし、大切なのは、有事に対する対処のみならず、 有事を起こさせないようにすることも、また行わなければならぬことじゃ。 それをやっておるのか、といわれると、わしは疑問に思うのぅ。
>464 お久しぶりにござる。 奸臣が蔓延って、将軍が後宮に忙しいようなことになれば、国の大事、 御政務にお忙しいのであれば、結構なことなのかもしれませぬなぁ。 義輝殿には、お疲れ様にござりまするが。 「なりきっていいとも」の件にござるが、 彼らも、少なからざる難を受けられ、依頼にも出来れば 応えたいところでござったが、わしの方も、レス返しが 出来ぬほどではござらぬが、忙しゅうてな。 もう幾ばくか前に依頼が来ておれば、というところなのでござるが。 残念ながら、今回はお断りさせて頂こうと思っているのでござる。
既出かも知れませんが、本多殿は幽霊・妖怪の類は信じてますか?
>465 16あたりにも書いたのであるが、鯛の天ぷらにあたったというよりは、 恐らく、胃癌であったがゆえに、亡くなられたのであろうと思われる。 元和2年(1616)の1月に、鯛の天ぷらを食べ過ぎて、腹痛で寝込んでしまわれた。 片山宗哲殿の投薬で、小康状態になり、駿府城に戻られた。 2月3日には、納豆汁が飲めるくらいに回復されたようじゃ。 その後は、病状が悪化する一方であったが、3月19日になって、 急に回復しはじめ、かゆを1日に数回召し上がることが出来るようになった。 が、それも束の間、4月16日に危篤状態になり、亡くなられたということじゃ。 もっとも、わしもその時、死の淵をさまよっておったがな。
>468 あまり信じてはおらんのぅ。 じゃが、絶対にいないと主張するわけではない。 いるかもしれぬ。 ただ、あまりそういうのに固執すると、 例えば、国において占い師が重用されるようになり、 兵士や軍師、行政官などがその功績に見合う俸禄を 貰えないということになると、国が滅びる原因となるのでな。 ほどほどがよいと思う。
471 :
以上、自作自演でした。 :02/02/27 01:00
風邪を効果的に治す方法を教えて下さい
「水戸黄門は悪人だった」という本が出ているようなので、 興味のある方は、読んでみるとよいじゃろう。 わしも、読んでみたいと思う。 >471 基本的に、平生の養生が重要じゃな。 普段から備えをしておけば、いざという時も、すぐに立て直すことが出来よう。 何事にも言えることではあるがな。 薬学などに通じておる者も、大殿のように、むやみやたらと、 医者を遠ざけるようなことはせん方がいいじゃろう。 あとは、思い切って安静にすることじゃな。 中途半端に安静にしておっても、長引くだけじゃ。
今川氏真が剣の達人だったという話は本当ですか?
474 :
以上、自作自演でした。 :02/03/01 00:00
本多氏のご先祖様を教えて下さい
>473 う〜む、確か、戦国板でそのような書き込みを見た覚えはあるのじゃが。 氏真殿が、剣の達人であったかどうかは、ちと分からんのぅ。 調べてみることに致そう。 氏真殿も、世間でいうほど無能な方ではないとわしは思う。 内政の方も、それなりに充実しておったとかいう話じゃしな。
正信殿が最近注目されている武将とかいますか?
>474 徳川家の家紋は「三つ葉葵」じゃが、葵の紋自体は、松平家よりも本多家の方が 早く使いはじめたのじゃ(というか、本多家が最初ではなかろうか)。 この葵の紋は、賀茂神社に関係しておって、本多家はそこで神官をしておったといわれておる。 本多というのは、豊後の本多というところに住んでおったので、 本多という姓を名乗ったのじゃ。 助定のときに足利尊氏殿に仕え、尾張へ行き、助時のときに三河へ移ったようじゃ。 本多宗家はそこそこにしても、わしは身分の低い出であるがな。 まぁ、どうなんじゃろうな、一応このように伝えられてはおるが。
>476 うーむ、やはり、前田利家殿の周辺の武将が、注目というわけではないが、 気になるというところかのぅ。 あとは、特に個人を特定はせんが、西国の武将にも目をむけたいところであるな。
479 :
以上、自作自演でした。 :02/03/04 02:02
最近どんな本を読みました?
480 :
以上、自作自演でした。 :02/03/04 02:09
正信様の奥方ってどんな人ですか?
>479 専門書以外じゃと、ここに紹介されておった「100人の村」というのを 最近読んだな(立ち読みじゃが)。 途中から、社会批判のようなことがあって、なかなかおもしろうござった。 あと、記紀を読んだことがあったので、ギリシア神話も読もうと思って、 ある本を買ったのじゃが、訳者の名前の訳し方が、のばす音(ー)が多くて 読みにくかったので、漫画のギリシア神話(全8巻)を読んだのぅ。 概要を知ってから読めば、読みにくさも緩和されたな。 >480 わしは晩年こそ、大殿のお側につき尽力することが出来たが、 それまでは、安定した生活は出来なかったからのぅ、 妻には何かと苦労をかけた。 あの時代は、一部を除けば、皆そうであったかもしれぬが、 本当に、よう支えてくれた。 良妻であったな。 (あとは、メール欄参照のこと)
緊急連絡! 武田騎馬軍団が壊滅した模様 詳しくは三国・戦国板まで
だいぶん下の方に来たので、どうせなら、一番下まで落としたいものじゃ。 >482 そのようじゃのぅ。 コピペじゃが、 山本勘助殿 切腹 秋山信友殿 討死 諏訪四郎勝頼殿 出家 一条信龍殿 隠居 米倉重継殿 隠居 他無名武将一名 討死 むかで衆 解散 足軽衆 解散(足軽組頭 隠居) ------------------------- 真田昌輝殿 乱心の末真田蕎麦軍団として独立 斉藤朝信殿 独断での武田攻略を上杉首脳陣に咎められ、切腹 ------------------------- という状況のようじゃな。 いつかは終わるものではあるが、ここは武田騎馬軍団の冥福を祈ろうかのぅ。
悪人:人を進歩させる最も重要な要因 ある西洋人の箴言ですが、正信さまはどう思われますか?
>484 特にわしあてに聞くところに意味があるのか、無いのか。 それは、もしかしたら、悪魔の辞書だったか辞典だったかに載っておった言葉かのぅ。 ピアス著の。 あたっておるのではないじゃろうか。 悪人の範囲をどうするか、という問題はあるが、 例えば、科学の発展は戦争によるところが大きい。 戦争で使ってから、平和的な利用をすることが多いようじゃしな。 それから、法律を制定しても、悪人が抜け穴を見つける。 その穴を埋める、また抜け穴を見つけるというような、 イタチゴッコなどからも、そう言えるのかもしれぬ。 それから、特に「人」ということになれば、 悪人に騙されて、人が成長するというようなこともあろう。 確かに、善人ばかりでは、人も含めて世の中は進歩しないのかもしれんのぅ。 じゃが、進歩することが良いことなのかどうかも、怪しい気はするな。
今川義元が桶狭間で戦死せず、上洛に成功していたらどうなっていたと思いますか?
うむ、なかなか順調に、下の方に来ておるな。 >486 歴史上の「もしも」話は、難しいな。 所詮は推測に過ぎぬわけじゃし、当時の状況を事細かに適確に捉えるのは難しいからのぅ。 下手をすると、妄想になってしまう。 が、こういう話はえてして楽しいものじゃ。 ところで、義元殿の上洛についてじゃが、あれに関しては、上洛ではなかったといわれておる。 教科書などには、上洛と書かれておるかもしれぬが。 何故、上洛ではなかったのかというと、まず上洛のための工作をしておらんかった事。 つまり、朝廷への働きかけや、これから上洛するという連絡をしておらなかった。 また、当時の三好や六角の勢力を考えると、軍勢がイマイチであったこと。 その頃、家督を氏真殿に譲っておったことなどじゃ。(軍事は義元殿が握っておったようじゃが) では、尾張の平定のためであったかというと、そうでもなくて、 後詰めの戦いではなかったかと思われるのじゃ。 つまり、鳴海城(桶狭間の近くにあって、熱田神宮から桶狭間までを3等分した場合に、 2つ行ったところ辺りにある城じゃ、名古屋市の市境にあるかのぅ) が、織田方の近くの城に封鎖されておったので、それの救援に行ったということじゃ。 ちなみに、大殿(松平元康)が救援に行った大高城(鳴海城の近くにある)も、 周りを織田の城に囲まれて封鎖されておったので、兵糧入れに行ったというわけじゃな。 それで、丸根・鷲津砦を攻めたと。 要するに、国境争い程度に過ぎなかったようじゃ。 その中でチャンスがあれば、尾張をつぶしに出るようなこともあったかもしれぬ。
ここまで来たので、桶狭間についても語ってみようかのぅ。 一般的には、信長殿が情報を収集し、適確に義元本陣を奇襲し、 討ち取ったということになっておる。 しかし、そうではないとも言われておる。 まず、情報についてじゃが、信長殿はたいした情報を持っていなかったようじゃ。 つまり、義元本陣がどこにあるかなどの情報を得ていなかった。 そして、信長殿が討って出る際に、家臣の制止に対して、 「敵は丸根・鷲津を攻めて疲れている。こちらは新手…」と言ったとか。 すなわち、信長殿の言う敵は義元本陣ではなく、丸根・鷲津を攻めた部隊であったということじゃ。 (その頃、丸根・鷲津を攻めた部隊は、大高城などで休息しておった) で、信長殿が丸根・鷲津を攻めた部隊と思って攻撃しておったところ、 豪雨などで今川軍が崩れたりしたのじゃが、そこで兵を補足した時点でようやく、 今目の前の敵が、義元本陣であることに気づいた。 それでついには、討ち取ったというわけじゃ。 要するに、信長殿は勘違いしながら攻めておったところ、結果的に成功した、 というわけじゃな。 信長殿は、兵法の常套に則って、敵の弱いところを攻撃するはずが、 本陣を攻撃することになった。(ちなみに、側面攻撃ではなく、正面への攻撃であった) しかも、急な豪雨で今川軍は浮き足立ってしまった。 じゃから、桶狭間の戦いは、信長殿の天下人となるべき「強運」によって、勝てたといえるじゃろう。 基本的に、信長殿は過大評価され、義元殿は過小評価されておるといえるじゃろう。 (徳川のせいでもあるのじゃが)
ようやく本題に入るが、仮に義元殿が上洛を目指し、なおかつ、それが成功した場合じゃな。 上洛=天下を取るというわけではなかったので、それで義元殿が天下を取ることにはならんじゃろう。 それに、義元殿は将軍から天下を奪い取るというよりは、将軍を助けるという立場に立つであろうな。 義元殿が上洛すれば、信長殿が討死に、大殿の独立は無し。 じゃが、今川家は何らかの形で崩れて、大殿は結局は、独立しそうな気がするのぅ。 天下が治まるのは、かなり遅くなりそうじゃな。 その時は、大殿が天下を治めるということには、ならんような気がするのぅ。 あるいは、誰かが治めた天下を奪い取るか。 難しいのぅ。
少し訂正させて頂く。 488の「基本的に、信長殿は過大評価され、義元殿は過小評価されておる といえるじゃろう。」 を、「〜とわしは思う。」にさせて頂きたい。
千利休って何で切腹させられちゃったの?
492 :
以上、自作自演でした。 :02/03/10 19:04
ageでござる
>491 一言で言えば、秀吉殿の怒りをかったから、であるが、何故怒りをかったのかということになると、 必ずしも、明らかになっておるわけではない。 娘お吟を側室に差し出すことを拒んだ、自分の木像を大徳寺に建てた、 茶道具を法外な高値で販売したなどが、その理由といわれておる。 そもそも、利休殿が大成した「茶の湯」というものは、 贅沢の中からあらゆる物を省き、ごく簡素な中で茶を味わうというもの。 利休殿の出身であるところの堺は、自治都市になるくらいに豪商が幅を利かせ、 贅沢をしておったところに、利休殿がわび茶というものを立てたのじゃな。 秀吉殿も派手好きであったから、そういう利休殿と肌が合わなかったのかもしれぬ。 政治的思想の事も申さば、利休殿のそういう革新的な考えというものが、 「茶の湯」の中で下克上をおこしていることを意味し、天下人の秀吉殿が それを嫌ったとも言えるじゃろう。 秀吉殿対堺の自治、などの要因も絡み合っておるようじゃ。 いずれにせよ、秀長殿の死が影響したのもあるじゃろう。 わしらにとっては都合が良かったわけじゃが、秀長殿がもう少し長生きしておれば、 というところじゃろうか。
>492 今回の足きりで、一応、実質的には一番下まで行ったということになるのかのぅ。 まぁ、戯れに言ったことじゃから、別にどうでもよかったのじゃが。 足切りといえば、ついに義輝殿のスレも落ちてしまったな。 特に一色殿が頑張っておったが、義輝殿の不在が響いたようじゃな。 残念ではあるが、お疲れ様であった。
拙者がちょっと留守にした間に上様のスレが落ちてしまうとは・・・。 本多殿、済みませんがこの場を借りさせてもらいます。 上様!もし、いらっしゃりましたら、これからどうするかご予定をお聞かせ下さい! 次スレを御立てなさるのか、しばらくお休みになされるのか、引退されるのか・・・ 拙者はどこまででもついていきますぞ! お返事お待ちしております。
山本勘助ってほんとに実在の人物?
498 :
以上、自作自演でした。 :02/03/12 17:56
淀君の一人称は”妾(わらわ)”ってイメージが強いけど ほんとに自分の事をそんな風に、呼んでたんですか?
>495 ここを使うこと自体は、構いませぬぞ。 一色殿のような方がおられて、義輝殿も果報者であるな。 >496 山本勘助殿は、非常に謎の多い人物じゃなぁ。 一般的には「市河文書」というものに、「山本菅助」という名があるために、 山本勘助殿が実在したとされておる。 じゃが、疑問があるとすれば、 当時、当て字をすることが多かったのであるが、こういう書状で当て字をすることがあるのか。 まして、第三者ではなく主人である信玄殿(の指示を受けた人)が書いた書状で、 しかも重要任務を受け持つ人について、当て字をするだろうか。 勘助殿は本名を晴幸(はるのぶ)というが、晴幸の「晴」は晴信(信玄)から 貰ったものであろうが、もともとは将軍・義晴殿から頂いたもの。 将軍から頂いた「晴」を家臣に与えることは、考えにくいことである。 このようなこともあって、「山本菅助」という人物がいたことは確かであろうが、 一般に言われておる「山本勘助」がおったのかどうかは、分からんのぅ。 ちなみに「山勘」は、「山師の勘」であって「山本勘助の山勘」ではないらしいぞ。 >497 ははは、信長殿の仰せのこと、至極尤もなことではござりますが、 それを言っては、元も子もござりませぬ。 今しばらく、お付き合い頂きたい。
佐州よ、御宿勘兵衛政友について教えてくれぬか?
>498 確かに、そのように言っておった気がするのぅ。 じゃが、「わらわ」というのは、必ずしも珍しいものではないぞ。 というのも、「わらわ」というのは女性が自分を謙っていう一人称であるからな。 「わらわ」というのは「めかけ」とも読めるし、淀殿はまさしく妾じゃったしな。 ちなみに、中国の漢文なんかじゃと、結婚前の女性の一人称らしいのぅ。 現在じゃと、「わらわ」などというと、高慢ちきな女性などが使いそうな感じは するようじゃがな。
>500 これはこれは、秀康殿、わざわざ御出でくださるとは。 御宿勘兵衛政友といえば、小田原攻めの後に、秀康殿に仕えたのでしたな。 その後間もなく、出奔。 確か大坂の陣では、大野治房隊に所属しておりまして、「荒浪」という名馬に 乗り、白糸の鎧に梨子打ち烏帽子の冑を着していたとか。 3000くらいの兵を率いておりましたが、松平忠直殿の隊(野本右近殿)に 討ち取られたようにござります。 その際、右近殿に「身分が並みのため馬が無い。出来れば、立派な馬に乗って快く 一戦交えたい」とかいう手紙を忠直殿に渡すように頼み、忠直殿は怒りながらも、 秘蔵の名馬「荒浪」に金覆輪の鞍を置かせて、大坂城へ贈ったとのことにござります。
安藤枡って知ってる?
質問です。 戦国大名の一人称、どんなのがあるか教えて下さい。 信長は本当に「余」って言ったんですか? 信玄とか謙信、家康についても教えて下さい。
ついでに二人称も教えて下さい! そなた、そち、おぬし、とかって本当ですか? 具体的な事例あったら教えて下さい。お願いします。
上様・・・いつになったら現れてくれるのだろうか・・・。 たまには本多殿に質問してみるのもいいかも知れないな・・・。 というわけで、質問・・・足利義昭様が室町幕府の権威を取り戻す事って不可能でしょうか?
>503 詳しくは知らぬが、北条殿の方で使われておった枡じゃな。 安藤良整殿の考案とか。 徳川幕府のときは、福井家というところで、独占的に製造しておったな。 一応、江戸時代には統一の大きさの枡を造られてな、それが現在でも使われておる 枡の大きさなのじゃ。 じゃが、最終的に、枡の大きさが全国で統一されたのは、明治時代になってからのようじゃな。
508 :
以上、自作自演でした。 :02/03/17 20:09
最近の若者に一言お願いします。
>504-505 一人称と二人称については、同じ言葉で使い分けたりすることもあったし、 身分などで使われる言葉が違っておったりして、かなりの数があるな。 「拙者」は目上の者に使う言葉じゃな。 武家では、「それがし」や「なにがし」といった言葉も使われておった。 「よ」は、今じゃと尊大なイメージがあるようじゃが、わしらの頃は、 そうでもなく、やや改まったような場で使われた言葉で、結構使われておった。 「おれ」という言葉もあったぞ。 これは身分の上下・男女関係なく使っておった。 「まろ」などもそうじゃ。 ちなみに、このスレでは「わし」を連発しておるが、「わし」は専ら女性が使う言葉で、 男性が使うことは少なかったのぅ。 といって、わしにその気があるわけではないが。 「われ」「そち」は、目下の者を指すときなどに使われておった。 「おぬし」は、対等か、やや下の者などに、男女問わずに使っておった。 「そなた」は軽い敬語であったな。 「きこう」などは、かなり目上の者に使っておった。 「きさま」も似たようなものじゃな。 他にもたくさんある。 まぁ、誰がどの言葉を使っておったかは、場所や時・機会などによっても変わるので、 一概にはいえんじゃろう。 名前を使うこともあるしな。(この正信、云々など) もっとも、相手方の名前を言うのは中国同様(諸葛孔明といって、諸葛亮とは言わぬのと同様)、 失礼になるので、わしならば、佐渡守と官職名で言ったりした。 このスレで、名前を言うのは見逃して頂きたいが。 これに方言なども加えると、ちと分からぬが(奥州と、九州では言葉が通じんかった)。 ちなみに、現在の時代劇などで使われておる武士言葉は、三河弁が元になっておる。
佐州、礼が遅れたようじゃな。すまぬ。 しかし、流石は佐州よのう。父君の智嚢だけの事はあるわ。 さて・・・また質問なのじゃが、よいか? 佐州は時代劇は見るのか。NHK大河とかはどう思うておる?
>506 義輝殿も忙しくて、2ch自体見ておられんのかもしれんな。 室町幕府復権についてじゃが、義輝殿も言っておられたように、 まず、幕府の体制作りからして、体制の空洞化を招きやすいものであったことは否めんのぅ。 仮に、義昭殿が室町幕府のために働いてくれる大名を味方につけたとしても、 将軍家を延命させることにはなっても、将軍家自体の権力が回復するということには ならんかもしれん。 つまりは、将軍家の威光を利用するだけの大名に、上手く使われることになるかもしれん ということじゃな。 まぁ、わしらにとっては、義昭殿が権威を取り戻さん方が都合がいいわけじゃが。
>508
>>330 にも、ある程度のことは書いたことはあったな。
まぁ、もう少し気持ちに余裕を持った方がいいな。
一歩譲ってもよいところで譲らんかったりするでな。
韓信は股をくぐったし、張良は履を拾ってはかせてやった。
どうでもよいところで、意地を張って殴ったりすることもあるまいて。
>510 いや、拙者は人から聞いたことを書いたまで。 礼ならば、その人にお願いいたします。 時代劇の方は、最近はほとんど観ませんな。 大河ドラマの方は、今回の「利家とまつ」は観ております。 それ以前のものに関しては、用事があって観られなかったこともありますし、 かなり前のものに関しましては、観はしたものの、内容の方はあまり覚えておりませぬな。 ちなみに「利家とまつ」についてでござるが、合戦のシーンなどがほとんど無いのは、 少々残念にござりまするな。 これを期待しておる方も、少なくないと思うのでござるが。 演技に関しては、少々気が入りすぎなのかもしれませぬな。
>514 こちらのスレにまで、わざわざそのような報告をして下さるとは。 さすがに、面と向かっての煽りあいなどは起こらないでしょうな(笑)
>>515 大丈夫です。あの板の中でも穏健派の人達が集合します。
都内のは締めきりが近いようですのでその場合はお早めに
れっぺんさんにメールして下さい(笑)
>516 ふふふ、では信玄支持者と信長支持者との間で、胸倉をつかみ合っての 罵り合いということは、起こらぬということですな(笑)
518 :
以上、自作自演でした。 :02/03/20 17:33
もうだめぽ
>518 毛利殿 討って出なかったは 大失敗 目尻を下げる ぽんぽこタヌキ
三戦板の徳川軍団スレにいる本多正信とここの正信は同一人物?
>520 うむ、その通りじゃ。 本当は、このスレが何らかの形で終わったときに、まだ向こうのスレがあれば あちらに行こうかと思っておったのじゃ。 じゃが、いつまで経っても大殿と忠勝殿だけで、四天王すら揃わんような状況で あったのでな。 まぁ、最近はそこそこ増えてきて、活気も出てきたのでよかったがのぅ。
お尋ねします。 本田忠勝って城攻めは得意だったんでしょうか? 気になったので、逸話等ご存知でしたら教えてください。 よろしくお願いします。
>522 う〜む、小田原攻めの際には、いくつか攻城戦をやって攻略しておるが。 もっとも、忠勝殿の軍が単独でというよりは、他の武将と共同で城を攻めたと思うが。 ちと、詳しいことは分からん。 岩槻城を攻めたときには、嫡男・忠政殿が敵の首を獲ったんじゃがな。 忠勝殿は城造りにも長けておったので、城攻めもなかなかのものであったかもしれぬ。 また何か情報を得たら、報告いたそう。
今までにみた歴史物ドラマで一番好きなものを教えて下さい
523で名前を入れ忘れておったの。 今になって、ようやく気づいたわい。 >524 歴史物ドラマか。 時代劇とは違うということかのぅ。 そうなると、わしの場合は主にNHKの大河ドラマということになってしまうな。 若殿に焦点を当てたという点では、この前の「葵」はよかったようにも思う。 後半は地味であったかもしれぬが。 (わしは、後半は用事があって、観たり観なんだりであったが) そういえば、「春日局」の大殿はえらくしぶかったのぅ。 誰かが、同じ役者を違う役柄で使うので前作のイメージなどが残って入り込めない、 と言っておったが、そういうのが気になる人とっては、NHKの大河ドラマの 一つの悪い点になるんじゃろうな。 まぁ、ある程度は仕方が無いかのぅ。
青少年有害社会対策基本法についてどう思います?
http://www.mainichi.co.jp/digital/yuugai/01.html 罰則規定はどうするのじゃろう。
政令に委任するということかのぅ。
曖昧な規定ゆえ、ちと分からぬこともあるな。
青少年を保護したいという目的自体は、それなりに正当であろう。
さて、その手段じゃが、基本的には些細な暴力・猥褻な描写を見たくらいで
健全に育たないというような(広い意味での)教育をすることを正すべきじゃな。
よっぽど、過度にそういった描写が過激なものは別にしても、
その辺で売っておる漫画の暴力描写くらいで、不健全な成長をしてしまうような
育て方をしておる方が、よっぽど問題じゃ。
0−157を防ぐのに、除菌・抗菌に励むのではなく、少しくらいの菌にも
感染しないような体にする方が大切じゃろう。
この法案の文を見る限りでは、皆の衆(ここの人間だけかもしれぬが)が
危惧しておるような状態になるのかは、分からぬ。
文言が曖昧であるからな。
基本的には制限的に解釈すべきではあるが、政治家は広く解釈するかもしれぬな。
牛乳は江戸時代には薬だったって本当ですか?
>528 うむ、そのようじゃのぅ。 わしらの頃は、牛乳などというものはなかったのじゃがな。 正確に言うと、昔はあったんじゃ。 例えば、奈良時代の貴族の間では、牛乳が流行ったという。 平安時代の字引などには、牛乳を煮て作るのが、酪、で、酪が、蘇、となり、 蘇が、醍醐、そして、乳餅と成るとあったようじゃ。 酪は練乳、蘇はヨーグルト、醍醐、乳餅はチーズと言われておる。 その頃から、牛乳は薬というか、栄養補助剤みたいなもののように 扱われておったらしい。 ちなみに、わしらの頃に乳製品を採る習慣が無かったのは、 一つは、卵などと同様、仏教の肉食禁止が影響しておる。 仏教が牛乳飲用を禁止しておったわけではないが、 詳しくは分からぬが、何となく牛乳も憚られたのじゃろう。 それから、武士は馬に乗っておったのでな、牛が少なかったのじゃ。 牛が少なかったのは、日本では酪農が非生産的であったとか、 植生が合わなんだとかいうのもあったがな。
ア
お気に入りのスレがあるんだけど、名無しが自分一人 楽しいけどさみしい この気持ちどうしたらいい?
>530 誤爆なのか、誤爆でないのか、それが問題じゃ・・・ >531 まず、お主はどうしたらいいか、よく考えたのかのぅ。 安易に人に頼るのは、破滅への道じゃぞ。 もう一度よく考えよ。
533 :
以上、自作自演でした。 :02/03/29 20:43
家康公は使い込んで色が変わったふんどしを勿体無いと言って、いつまでも洗って使ってたそうですが それは本当なんですか?
本多殿の時代には恋愛結婚みたいのはあったんですか?
>533 うむ、他にも具足などは穴があいても使っておったし、 そういう他者に配慮を払う必要が無い場合には、継ぎ接ぎだらけのものをお召であった。 現代人も見習ってもよいのではないじゃろうか。 >534 前田利家殿とまつ殿は、わしは詳しくは知らんが、そういう形であったようじゃがな。 敢えて言うならば、たとえば、大殿がどこかの女性を気に入って側室にする という場合があるが、相手の意志が恋愛であるとは言い切れんじゃろうな。 お梶の方などは、いちど松平正綱殿に嫁がされたことがあったが、 お梶の方は正綱殿を嫌ってのぅ、夜のお勤めを拒否し、一ヶ月後に 大殿の所に呼び戻されたことがあった。 まぁ、結婚した後に仲良くなることもあるがな。
今年の大河はツッコミどころが満載だと思うんですが、本多殿はどう思われますか?
石高と貫高の違いを教えてください。武田と上杉と北条と、どこが一番租税が高かったですか?
戦の時は何を召し上がっていたんですか? それはおいしいですか? 現代でも作れます?
ちと、レス返しが滞り勝ちになるやもしれぬな。 >536 ははは、確かにそうとも思われるな。 「まつにお任せ下さりませ」は決め台詞であったんじゃな。 まぁ、戦の場面を少なくて、日常の場面が多いということで、 そういったところが多くなってしまう、という所があるのかもしれぬ。 よくは分からぬが。
540 :
以上、自作自演でした。 B :02/04/03 01:17
司馬遼太郎の覇王の家ってどうですか?
>537 貫高というのは、簡単に言うととれた米を銭に変えて換算したものじゃな。 じゃが、これじゃと場所によって基準が違ったりして、正確ではなかったこともあった。 石高というのは、だいたい太閤検地あたりからよく使われたもので、 米の生産量が、より正確に表されるようになったのじゃ。 租税は、多くのところは四公六民(4割)くらいであったじゃろう。 ただ、武田家の場合は、米の生産高が少なかったのでな、その不足を補うために 例えば、家屋にかける棟別銭などは、北条氏の4倍くらいであった。 他にも富裕者に有徳税や、ある地域に限って特別の税をかけたり、 坊主が妻を持ったときにも、税金がかけられたりしたものじゃ。 上杉家では、今でこそ越後は日本一の米どころじゃが、わしらの頃はそうでもなく、 それほど生産高が高かったわけではなかった。 その代わり、営業に対する税や流通(輸出入)にかける税などで、かなりの収入が あったようじゃな。 北条家については、ちと分からんので、また後で何か分かれば、 ということにさせて頂こうかのぅ。
追加じゃが、棟別銭については、北条家は減税しておったようなので、 伊達家と比べると、武田家はそれでも2倍であったようじゃ。 ちなみに、逃げたりした場合には、地域で責任を負わされ、 徹底的に探し出させたようじゃ。
ついさっき学研の歴史群像シリーズの「関東三国志」を読みました。 いやー、信玄・謙信・氏康は三人ともほんとにかっこいいですね。 正信殿はこのシリーズは読んだ事ありますか? 読んだ事がありましたら、感想やおすすめのものなどを教えてくれるとありがたいです。
どうも、今は一名無しとしてこのスレに住み着いている藤長でございます。 しかし、上様はほんとどうしてしまったのでしょうか。 やはり、現実の生活が忙しいのか・・・。 ついでに質問・・・駒井高白斎は実在の人物ですか?
>538 まず、戦が近くなると、食事も豪華になったのぅ。 下級武士などは、普段は米を食べることは出来なんだが、この時ばかりは食べることが出来た。 おかずも、魚やキジ料理など、スタミナ源になるようなものを食べることが出来たのじゃ。 じゃが、戦が始まると、例えば干飯(ほしいい)や味噌を携帯して食べるようになるのじゃ。 干飯は、御飯を水で洗って粘り気を取ったものを乾燥させたものでな、そのままポリポリと 食べることも出来たし、水に浸して普通の御飯のようにして食べることも出来た。 味噌は栄養補助食品みたいなものかのぅ。 戦の最中は、満腹になるまでは食べてはいかん。 動けなくなることはもちろん、空腹になったときに空腹感が強くなってしまうのからじゃ。 それと、満腹状態で腰に鉄砲弾を受けたりすると、討死にすることが多かったな。 普段は一日二食じゃが、戦のときは一日に三〜五食になったな。 干飯などは、味はたいしたことはないが、戦になると食事が出来るということで、 それを目当てに兵になるものもおった。 今でも作れるじゃろう。
>540 う〜む、司馬遼太郎氏は徳川にはちと厳しいような感じがするのぅ。 彼の歴史観には、わしが徳川の人間のためか、賛成できぬ所もある。 が、まぁ、そういうところはその人の生き方などが影響する所もあるやもしれんでな、 全く否定しようとまでは思わぬ。 いずれにしても、なかなか面白い作品じゃよ。
ということは、空腹状態で射撃されたら助かるって事なんでしょうか? なんでだろう……?
548 :
以上、自作自演でした。 :02/04/08 21:57
>543 そうか。 武田信玄殿や上杉謙信殿は、戦国時代をよくは知らないものの間でも、 人気が有りそうじゃな。 北条氏康殿は、ある程度知ってくると、興味をもたれる方が多いのかもしれぬ。 わしも、「関東三国志」は前から読みたいとは思っておったが、 まだ読んだことはない。 一応徳川関係では、「徳川家康」、「徳川四天王」、「徳川家光」、「徳川慶喜」 あたりであろうか。 後二者は読んだことが無いが。 あと、「関ヶ原」と「大阪の陣」があるかのぅ。 「石田三成」あたりはどうじゃ?
age
>544 某所では、武田の騎馬軍団はその質問に答えておらぬようであったが。 保留とさせて頂こうかのぅ。 >547 その言い方は、ちと極端じゃなかろうか。 う〜む、現場におる兵に聞いただけで、統計を取ったわけでもないし、 無論、科学的に解明したわけでもない。 あるいは、満腹に食べたいという者に対して、そうはさせぬように、 デマを流したのかもしれぬ。 何となく、そのような気がする、という程度に思って下され。
>548-550 「さっさとレスを返せ」と急かしておるのかな。 申し訳ないが、平日は遅れがちになるのじゃ。 なるべく、早く返すようにはしたいと思うておるのじゃが。
age
湯漬けってよく本なんか読んでいると出てきますが 一体どんなモンなんでしょうか。 ご飯にお湯をかけただけ?
555ゲット! ついでに質問です 日本の総理大臣にしてみたい歴史上の人物はいますか?
556 :
以上、自作自演でした。 :02/04/11 20:56
上がっているので便乗して質問させて頂きます! 戦国時代の日常の着物って、どういったものでしたか? 大河ドラマを信じてもいいんでしょうか?
>553,556 う〜む、わしは要らぬことを申したかもしれぬな(笑) >554 有名なところでは、桶狭間の前の信長殿じゃろうか。 まぁ、基本的にはお湯をかけるだけじゃが、それだけではない。 塩っけのあるものを添えるのが普通じゃ。 尾張や三河じゃと、味噌を添えたりするな。 謙信殿などは、おそらく梅干しなど添えたのではなかろうか。 御飯は、言うまでもなく、白米ではないので、湯をかけただけでは、 それほど美味くはない。 が、家光公の逸話などでも話そうかのぅ。 「美味いものを食べたい」ということで家光公が、沢庵和尚に招待されて、 午前10時に東海寺に行きなさったそうじゃ。 ところが、昼になっても食事は出てこずに、午後4時になってようやく、 一杯の湯漬けと香の物が出されたそうな。 それを召し上がった家光公は「こんなに美味しいものは食べたことが無い」 とおっしゃったということじゃ。 空腹は最高の調味料とはよく言ったものじゃな。
ああ、ちなみに湯漬けというものは、平安時代に水漬けを食べておったのが、 鎌倉時代になって湯漬けが現れるようになったということじゃ。 茶漬は江戸時代からのようじゃな。 夏は水漬け、冬は湯漬けといったところであるな。
560 :
以上、自作自演でした。 :02/04/13 23:18
食パンたべる?
ぶぶ漬けとはまた違うんですか?
562 :
以上、自作自演でした。 :02/04/14 00:53
サーバー移転に基づきage
>555 ふふふ、さすがに旗は揚がらなんだようじゃな。 う〜む、難しいのぅ。 現在の政治において、あまりに謀略などを用いられても困るような気がするでな。 まぁ、閉塞感漂うような世の中では、信長殿のような方のほうがいいのかもしれぬ。 謙信殿のような、先頭に立ってやられるような方もいいかもしれぬが、 官僚機構と、無用な戦いを演じるやもしれぬな。 ところで、今日は「今川仮名目録」が制定された日じゃなかろうか。 氏親殿の子・義元殿なども、その内政力からしたら、いいかもしれぬな。 >557 うむ、大体あんな感じでよいと思うが。 ただ、素材が違うのかもしれぬ。 大河ドラマでは、どうじゃろう、綿などを使っておるのではないじゃろうか。 わしらの頃は、絹は言うまでもないが、綿などもかなり高級品でな、専ら麻を使っておった。 ちなみに、赤みの強い茶色で染めることが出来るようになってのぅ、 茶色が流行になったものじゃ。
>560 うむ、確か南蛮人が持ってきたものの中に、パンもあったな。 じゃが、わしらの主食は、やはり米であったのでな、パンを食べるにしても、 お菓子感覚であったな。 結局のところ、パンを食べておったのは、教会の人間と平戸・出島あたりではなかったじゃろうか。 特に、禁教令が出てからは、本当に細々と食べられておったようじゃ。 それでも、幕末になると兵糧として、パンが作られたということじゃが。 ちなみに、江戸時代の初めにもパンが作られたことがあってな、 そのパンは、世界で最も質のよいパンであるといわれたようじゃ。 >561 ぶぶ漬けというのは、わしは京で言うところの、お茶漬のことじゃと聞いておるが。 京都で、「ぶぶ漬けでもどうぞ」と誘われたら、家に入ってはいかんらしいのぅ。 また、家にあがってからも、「ぶぶ漬けでもどうぞ」といわれたら、 「そろそろ帰って下さい」という意味じゃとか。 逸話としては、京の漬物は粗食であったから、侍・公家が来たときに、 「ぶぶ漬けでもどうぞ」というと、そんなものは食えん、と言って帰ったとか。 京は薄味じゃて、わしら武士には、ちと物足りんのぅ。
>562 なるほど、どうも様子が変わったような気がしたのじゃが。 わざわざ報告して頂き、忝けない。 足切りも600→500になったということで、厳しくなったな。 とりあえず、天運が切れるまで、人事を尽くすといったところじゃな。
正信さんは味は濃いめのを召し上がるんですか? 今でいうとどんなものでしょう? 吉野家くらい?
567 :
以上、自作自演でした。 :02/04/15 13:51
保全
>566 うむ、多くの武将は味の濃いものを食べておったのではなかろうか。 戦場を駆回ったり、武術鍛練をすると塩が欲しくなるものじゃ。 わしも若い頃は、まだ身分も低く、そういった生活をしておったものじゃよ。 前にも書いたような記憶があるが、戦国武将は平均すると1日に50gの塩を 摂っておったということじゃな。 >567 ああ、忝けない。 厳しくはなるが、頑張る所存じゃ。
信玄が鉄砲で暗殺されてたって言う俗説が大河で採用されてた
>569 わしの個人的な意見を述べさせてもらうと、あれはドラマじゃからな、 少しくらい、史実と離れたりしても構わんと思うのじゃ。 小説なんかでも、訳の分からん人物が出てきたりするが、 それと同様、ドラマでも大筋が合っていれば、と思う。 まぁ、個人的な意見じゃから、「いや、史実に近くなければ嫌だ」 という人もおるじゃろう。 それよりも、タイトルに三方ヶ原があるのに、随分と簡単に終わったような 感じの方が驚いたのぅ。 始めは、本当に秀吉殿の台詞だけで終わるのかとも思ったわい。 話の展開が早すぎて、混乱してしまう。 確か、7月に本能寺の変をやるとか聞いたが、どうなるのじゃろうな。 「さらばじゃ」とか言うらしいが。
因幡の白兎って何?
|| ∧||∧ ( / ⌒ヽ | | | ∪ / ノ | || ∪∪ /旦/三/ /| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | |温州みかん|/
573 :
以上、自作自演でした。 :02/04/23 18:21
正月はどんくらい餅を食いますか?
>571 うむ、古事記にこのような話があるな。 淤岐島(オキノシマ)に一羽のウサギがおってな、仲間に会うために海を渡りたがっておったのじゃ。 そうはいっても、泳いで渡ることも出来んので考えておったところ、サメが「何をしている」と たずねてきたのじゃ。 そこで、ウサギは「ウサギとサメと、どちらが多いか数えている」と言ってな、サメが「面白い」 ということで、数えることになった。 その数え方じゃが、サメが一列に並ぶのを、ウサギがそのサメをピョンピョンと渡っていく というものじゃった。 それでな、もう少しで向こうの地に着くというところで、ウサギがサメを騙したことをばらしたのじゃ。 それでサメが怒って、ウサギの皮を剥いでしまってな、困っておったところ、 大国主神の兄弟が通って、「海水を浴び風にあたれば治る」と嘘を言ったのじゃ。 当然、ウサギの傷がひどくなって泣いておったところ、大国主神が通り 「真水で体を清め、蒲の花の黄色い花粉を敷き散らし、その上に転がり身体にまぶしなさい」 といって、ウサギが実行すると体が治ったのじゃ。 まぁ、そんなところじゃろうか。
>573 2日経っておるな。 もう間に合わんな。 南無阿弥陀仏
お茶、飲まれます
577 :
以上、自作自演でした。 :02/04/25 00:37
オヤスミナサイよい夢を
578 :
以上、自作自演でした。 :02/04/25 15:15
自制など利かないっ……!
579 :
以上、自作自演でした。 :02/04/27 17:05
策を授けてくれ
>573 けっこう食べるぞ。 昔から、餅には神聖なものが宿るといわれておってな、正月になると飾ったり 食べたりしておる。 三河の雑煮は、白醤油を使った質素な澄まし汁のものじゃ。 ちなみに、昔は餅は歯固めにしか使われなかったとも聞いておる。 しかし、何故今ごろこの話題を持ってきたのじゃろう。 >576 うむ、茶の湯とはまた別な形で飲んだりもするな。 日常的に飲んでおったかというと、必ずしもそうではなかった。 現代のような煎茶は、江戸時代に永谷宗七郎(宗円)という人による煎茶製法 から来ておるようじゃな。
それは何でも良いからあなたにネタを提供したかったからです。 とにかく返事有難う御座いました。
>577 大分遅れてしまったが、おぬしも良い夢を見て下され。 家光公においては、しばしば夢枕に大殿が立たれたという話じゃな。 >578 うむ、自制が利かないのであれば、利かさなくてもよいが、 それには「自」を鍛える必要があるな。 優れた「自」を持っているのであれば、自制を利かすこともあるまい。 しかし、そうでないのであれば、そうもいくまい。 >579 う〜む、もう少し具体的に言ってくれんとのぅ、 こちらとしては、策を授けることが出来るのか、出来ぬのかさえ分からぬ。
>581 なるほどな。 いや、こちらこそ、わざわざネタを提供して下さって忝けない。 返事をするのは当然のことじゃから、謝辞は要らぬよ。 >544 さて、駒井高白斎殿じゃが、駒井殿が残された日記は歴史的な価値も高う 御座るようじゃな。 駒井政武から出家して高白斎となったといわれておるが、 政武という名ではなかったと、わしは聞いておる。 じゃから、高白斎はおったが、政武というのは、どうか分からぬ。 より詳しいことは、武田家にでも聞いて下さるのがよいかもしれぬな。
緑の日ってどうよ?盆栽好き?
宴会芸には何がおすすめですか?
>584 盆栽か。 盆栽は昔(鎌倉時代)からあったが、わしらの頃は、あまり鑑賞したりせなんだな。 利休殿がな、盆石(盆の上に石や砂を置いて、風景を造るのじゃが、箱庭みたいなものかのぅ)・ 盆山(こちらは、特に山水の風景をあらわすものじゃ)を床飾りから外したのでな、 「茶の湯」と「盆石・盆山」とが分離して、あまり流行らなんだ。 大殿は花が好きで花畑を作らせたりもしたのじゃが、若殿や家光公も並々ならぬほど花が 好きでな、特に家光公は盆栽が好きで、庭に盆山を並べたりして楽しんでおったようじゃな。
>585 あれは、いつじゃったかのぅ。 秀吉殿がな、大名を集めて大名が能をやるということをしたのじゃ。 信雄殿などは、竜田舞の名人で諸大名もその舞を見て感心しておった。 ところがな、大殿は義経を舞われたのじゃが、これがまた不格好でな、 諸大名こぞって大笑いしたものじゃ。 まぁ、大殿はそういうものには関心を示さなんだので、無理はないがな。 思い切って、下手なものをやってみるとウケるかもしれぬぞ。
テンプラって元はポルトガル語だったていうのはマジですか?
589 :
以上、自作自演でした。 :02/05/06 23:16
age
>588 日本語説、中国語説、南蛮語説などあるな。 天竺浪人が「ふら」りとやってきて云々。 とか、山東京伝が、小麦粉で作る「麩」に、うすものをあらわす「羅」を組み合わせた。 あるいは、temporasという調味料を表す言葉から来ただの、 temporaという天上の日を表す言葉から来たとか言われておるのぅ。 (天上の日には、鳥獣肉を食べずに魚肉を食べたとか) いまいち確証は持てぬが、なんにしても天婦羅は美味いな。 >589 う〜む、天婦羅とかけたのか、かけていないのか。 いずれにしても、随分下がっておったようじゃな。 忝けない。
591 :
以上、自作自演でした。 :02/05/11 15:49
何の天婦羅が好きですか
戦国時代の美味しい辛い料理の作り方、教えてください。
>591 うむ、地方によっても違うようじゃが、わしの周りでは天婦羅といえば、魚介類を 具にしたものをいうのでな、野菜などを揚げたものは、また違うのじゃ。 それから、現代のような衣をつけて揚げるものを天婦羅というのではなく、 ただ単に、油で揚げたり炒めたりしたものを天婦羅と呼んでおった。 (といっても、天婦羅の名が登場したのは1669年じゃが) 衣をつけた天婦羅は、江戸時代の中期に現われ、屋台で立ち食い天婦羅などをやって おったようじゃな。 わし自身は、まだ珍しい食べ物であったしな、どれが美味しいというほど食べたこともないが、 大殿が食べ過ぎたくらいじゃからな、鯛の天婦羅ということにしておこうかのぅ。
いえ、元ネタはカレーマルチなので、是非辛い料理を……。
>592 う〜む、塩辛い食べ物ならあるのじゃが、辛いものとなると・・・ ちと見当たらんような気もするのぅ。 唐辛子が世界に広まったのが、ちょうどわしらの頃じゃと思うが、 韓国のキムチもそれからじゃしな。 八角(スター・アニス)という中華料理で使うような香辛料があるのじゃが、 わしらの頃は、兜の中にそれの香を焚き込めた事はあったが。 辛い食べ物は、あまりないのぅ。 >594 うん? 勘違いなされたかな。 まぁ、それはともかく、戦国時代の辛い料理を紹介できずにすまんのぅ。 あるいは、どこかの地方にあるかもしれぬのじゃが。
596 :
以上、自作自演でした。 :02/05/14 23:44
美少年は好きですか?
佐野浅夫や石坂浩二が演じた 水戸黄門を、全然認めてないのは俺だけか? あの貫禄のなさでは、せいぜい佐野は村の庄屋、石坂は商店の番頭が いいところだと思うが。
>>595 新潟の「かんずり」はどうでしょうか。
謙信愛用の軍用食だとか・・
599 :
以上、自作自演でした。 :02/05/15 20:37
から揚げ
600 :
以上、自作自演でした。 :02/05/15 20:46
六百
>596 それは、男色のことについて言っておられるのかな。 森蘭丸殿などは有名じゃが、美少年であるだけでは駄目じゃ。 仕事が出来なければな。 蘭丸殿も、優秀なことをうかがわせる逸話が多いのぅ。 ちなみに、男色は戦国時代に限らず、昔から行われておったぞ。 >597 「水戸黄門」じゃな。 最近は観ておらんが、わしは西村晃のイメージが強いな。 佐野浅夫や石坂浩二は、なんか違和感がある。 まぁ、ちりめん問屋の隠居と称しておるしな、下手に貫禄があると、 只者ではないことがばれてしまうぞ。
本多様!以前お聞きしたと思いますが、また大分変わっているようですし、 また「利家とまつ」について一言頂きたいのですが。
>598 おお、そのようなものがあったな。 教えて頂いて、忝けない。 まぁ、敢えて言うのであれば、かんずりは調味料の域を越えておらんようじゃな。 雪国ならではのもののようじゃのぅ。 また、わしも調べてみようかのぅ。
>599 から揚げか。 大殿が召し上がったのも、現代で言えば、どちらかというと唐揚の方に近いかもしれぬな。 もっとも、現代で言う唐揚にしても、小麦粉をつけたりはするのじゃから、 厳密には違うのじゃろう。 どちらかというと、素揚げじゃったようじゃしな。 衣をつけないという意味では、空揚の方が正しそうな気もするが、 唐揚とどっちがよいのかは、良く分からぬのぅ。
>600 六百か。 当初は六十くらいで沈むと思っておったがな。 ここまで来れたのも、各々方のおかげじゃ。 忝けない。
>602 変わったか・・・ 確かに、当初の予想とは違う展開になっておるような気もするのぅ。 というか、なっておるな。 あるいは、脚本家が対象としておる視聴者というものが違うのかもしれんな。 ここまで、合戦の場面などを省かれるとは思わなんだ。 しかし、大殿はあのままなんじゃろうか。 気味が悪いわい。
608 :
以上、自作自演でした。 :02/05/21 23:04
ならではのもののようじゃのぅ。 また、わしも調べてみようかのぅ。 604 :正信 ◆ia.CYYio :02/05/19 22:51 >599 から揚げか。 大殿が召し上がったのも、現代で言えば、どちらかというと唐揚の方に近いかもしれぬな。 もっとも、現代で言う唐揚にしても、小麦粉をつけたりはするのじゃから、 厳密には違うのじゃろう。 どちらかというと、素揚げじゃったようじゃしな。 衣をつけないという意味では、空揚の方が正しそうな気もするが、 唐揚とどっちがよいのかは、良く分からぬのぅ。 605 :正信 ◆ia.CYYio :02/05/19 22:52 >600 六百か。 当初は六十くらいで沈むと思っておったがな。 ここまで来れたのも、各々方のおかげじゃ。 忝けない。 606 :正信 ◆ia.CYYio :02/05/20 22:20 >602 変わったか・・・ 確かに、当初の予想とは違う展開になっておるような気もするのぅ。 というか、なっておるな。
足切り回避おめでとうございます。 ちょっとあぶなかったかも。
610 :
以上、自作自演でした。 :02/05/23 00:03
む
>607 うむ、どこかで書いたと思うが、大殿も諸将が集まって軍議をするときなどは 無口でな、最後に一言だけものを言うておったものじゃ。 「巧言令色鮮(すくな)し仁」とは言うが、無口な人の方が一言の重みがあったな。 じゃが、現代ではそんな事を言っておると、かえって先を越されたり、 誤解されたりして、無口な人には難儀な時代になったのぅ。
と言うことは、軍儀というのは今の我々が抱いているイメージとは違うのでしょうか? だから猿は軽く見られたんでしょうか?
613 :
以上、自作自演でした。 :02/05/24 02:17
大坂のお袋さまは大柄な方とお聞きしましたが、 ご容姿は如何でしたか? 関が原後の大坂入城の際、千畳敷の広間とかで お目にかかったりしてますっけ? 少なくとも評判は如何でしたか? あと悪女イメージについては如何思われますか? 漏れは彼女の軍装に萌えますが、 あなた様はどうでしょうか? 最後に良心の呵責を感じる事はありますか? 一度にたくさんで、申し訳ございませぬ。
>608 ん?村越茂助殿かのぅ。 関が原の合戦のおりには、大殿の口上を清洲城へ伝えて下さったようじゃな。 茂助殿は、愚直者ゆえ、口上をそのまま伝えなさるようにしておるようじゃが、 今回は、ちと上の方が切れて御座るぞ。 >609 危ないのは今回に限ったことではないが、そのような言葉を頂いて、忝けない。 どうやら、現存するスレの中では、10番目に古くなったようじゃのぅ。 スレを建ててから、もうすぐで半年か。 各々方のご助力を得て、また頑張るとしようかのぅ。
616 :
以上、自作自演でした。 :02/05/26 00:10
淀の方と内府とが 再婚したら面白かったのに そういう話はありませんでしたか?
秀吉公が通り道にしようとしたあの国と今度共催することについてはどう思いますか?
>610 昔 長安に在りて 花柳に酔う 五侯 七貴 杯酒を同じくす 気岸 遥かに凌ぐ 豪士の前 風流 肯えて落ちんや 他人の後 夫子は紅顔 我は少年 章台に馬を走らせて 金鞭を著く 文章 献納す 麒麟殿 歌舞 淹留す 玳瑁の筵 君と自ら謂う 長えに此の如しと 寧ぞ知らんや 草動いて風塵の起るを 函谷 忽ち驚く 胡馬の来るに 秦宮の桃李 胡に向って開く 我は愁う 遠く謫せられて夜郎に去るを 何れの日か 金鶏 放赦して廻らん
>612 まぁ、それぞれやり方があるじゃろうしな、主が指揮を執ってやる所も在るじゃろう。 ワンマンタイプの所も在れば、必ず家臣に聞くようなものもおる。 どれがよいのかは、状況によっても違うじゃろう。
620 :
以上、自作自演でした。 :02/05/27 12:01
脳内淀の方タンで ズリセンこいた事ありますか?
>613 うむ、淀殿は大柄で太目でな、大阪の陣の際には80kgの鎧を着けて歩き回っておった らしいのぅ。 美人は美人であったかな。 まぁ、淀殿は人を信じやすいというか、ある意味素直というかな、戦国の世を生きるには 不向きであったかな。 それ故に、取り返しのつかぬ事をしたというべきか。 評判が悪いのは、わしらのせいもあるかもしれぬ。 軍装に萌えるか。 見たことはないが、鎧を着けて歩き回れると、「萌え」を通り越して、たくましいと 思うくらいかのぅ。 ちなみに、大阪の陣のときは、淀殿は50歳に近かったぞ。 良心の呵責についてじゃが、無論、わしらも数え切れぬほどの人を殺してはきたが、 出来れば、敵味方に限らず、犠牲は少ない方がいいものじゃ。 しかしな、平和な世を造らんとする大義の元にやっておったことじゃし、力を失い 国を治めることが出来ぬような君主であれば、家臣が取って代わるのも、また、 戦国の世の習い。 天運の尽きた豊臣に代わって、徳川が天下を取ったとしても、それは、天の意志なのじゃ。 秀吉殿が天下を取ったとき、大殿は臣下の礼をとった。 逆の場合にそれをせなんだら、潰されても仕方のないところはあるじゃろう。
622 :
以上、自作自演でした。 :02/05/27 23:38
大女と猿とのセクースを 想像して思わず吹き出した事ありますか?
>614 時間のあるときに考えるので、後回しじゃ。 >616 たしか、秀吉殿の遺言か何かで再婚するように、とかいう話があったような。 しかし、大殿も淀殿も嫌がるじゃろうなぁ。 大殿は、身分の低い者の後家を側室にしたことはあったが、身分の高い者となると、 築山殿や朝日姫でこりておるじゃろう。 淀殿にしても、徳川を豊臣の家臣と思っておるのに、そのようなことはすまい。 まぁ、仮に再婚したら、父子の嫁が姉妹ということになるな。 再婚しても、結局は・・・ということになるかもしれぬな。
>617 まぁ、徳川としては、朝鮮とは友好的に交流しようと思っておったしな。 蹴球で共催できるとなれば、結構なこととは思う。 秀吉殿がどうこうというのは、とりあえずはどうでもよいのぅ。 今回のこと、氏真殿はどうお思いなのじゃろうな。
625 :
以上、自作自演でした。 :02/05/29 23:32
age
626 :
以上、自作自演でした。 :02/05/31 19:13
「葵・徳川三代」では 中村梅雀が演じる水戸光圀は 「フィクション」とか「プライバシー」とか「ファンタジー」とか 時代考証無視しまくって、横文字連発してましたけど。 あれはいいんでしょうか?
age
>620 脳内淀たんの方が言い易いかのぅ。 どうでもいいが。 わしと淀殿は大体30ほど歳が違うのでな、淀殿が秀吉殿の側室になったのが23歳くらいであったが、 その頃は、わしはもう50過ぎじゃ。 歳が違いすぎて対象にならんのと、敵方の側室で自慰にふけるほどのんきではないぞ。 >622 ははは、言われてみれば面白いが、祖父と孫ほど歳の差が離れた武将と側室もおったでな、 面白い組み合わせは、結構あるようにも思うが、あまり考えたことはないのぅ。
>625 おお、忝けない。 最近こういうのが多くて申し訳ないが。 >626 う〜む、確か突然あの場に石田三成殿が現れたこともあったような。 まぁ、あの場面は本編ほど気にしなくてもいいという所なのじゃろう。 あそこは見逃してやってもいいのではなかろうか。 >627 またもや忝けない。 このまま阿弗利加が頑張って、亜細亜が不甲斐ないと本当に枠を減らされるかもしれぬな。 中国対伯剌西爾(ブラジル)戦が心配じゃ。
そういえば、今日は本能寺の変が起きた日じゃ。
時は今〜 と言うのは、本当に本能寺の決意を表していたのでしょうか? 当時訊いた本多様的にはどうでしたか?
鉄砲と弓はどちらが強かったのですか? 熟練者が使うと弓の方が強いとか、当時の鉄砲は天候以外にも誤動作の危険が多かったとか、 色々聞いたのですが。