1 :
無名草子さん:
2 :
無名草子さん:2012/05/11(金) 16:09:21.31
3 :
無名草子さん:2012/05/11(金) 16:12:29.14
4 :
無名草子さん:2012/05/11(金) 16:31:55.99
竜馬死後は人々からすっかり忘れられたおりょう。
明治後のおりょうについては、『街道をゆく/三浦半島記』24章「久里浜の衝撃」
に詳しい。司馬さんが墓参している。
5 :
無名草子さん:2012/05/11(金) 17:01:04.93
“晋ドン、モウココデヨカ”
第1章 都志の浦
嘉兵衛の宿入り。
7 :
無名草子さん:2012/05/11(金) 18:25:11.95
この物語は高田屋嘉兵衛の11歳の年から始まっている。嘉兵衛の生年が1769年なので、
物語は安永9年(1780年)から始まることになる。
8 :
無名草子さん:2012/05/11(金) 18:37:44.00
9 :
無名草子さん:2012/05/11(金) 18:50:40.98
>>7 あまり馴染みのない時代なんだけど、将軍は誰?
>>12 10代将軍・家治。次の11代将軍・家斉の在任が1787年 - 1837年だから、
この物語はほぼ家斉の時代と考えてよい。
田沼時代から寛政の改革の松平定信へ、という時期です。
徳川家斉を主人公にした映画に「エロ将軍と二十一人の愛妾」というのがあるね。
大人のことをオセというのは、戦後生まれは言わないが、戦前世代は普通に使っていた。
祖父母はオトナという言葉を知らないわけではないのだが、ほぼオセしか使わなかったな。
おとなしくて礼儀正しい少年だった筆者は、オセラシイと言われていた。
調べてみると、徳島、鳥取、鹿児島・・・その他多くの地方で方言だと思っている
人がいるようなので、方言ではなく西日本全域で使われていた日本語なんだろうな。
東北出身者に確認したが、大人=オセは聞いたことがないそうだ。
農村出身の俺だが若衆組に関してはその名残を見つけ出すことが困難だな。
都会へ進学・就職する若者が多かったから、田舎に残った者らが何をしていた
のかサッパリ知らん。父親の頃は町内に青年団があったようだが、若衆組とは
別もの。若衆宿で若衆が共同生活するなんて習慣は早くから無くなっていたと
思う。漁村や小作の多かった農村の話じゃないかな。裕福な農村には関係ない。
キッキャ一家のような貧乏は、想像しにくい。隣近所を見渡しても、一流の絵師に
襖絵を描かせていたような農家が多いんだ。18世紀のお宝美術品がゴロゴロして
いる豪農の方が多かったんじゃないの?貧乏もいたんだろうけど、よう知らん。
江戸時代、貧乏なのは下級武士で、農民(自作農)ではない。
奢汰禁止令というのも、身分が下の農民・町人に豪奢な服を着ているのに、
それを買うカネがない下級武士を慰めるためだろうからな。
第2章 潮騒
嘉兵衛17歳。天明6年(1786)。
嘉兵衛は生まれた字・本村の若衆宿に入りました。仕事は新在家の雑貨屋・和田屋喜十郎
と漁師・弥右衛門の手伝いです。旅稼ぎをする新在家の若衆宿に入らなかったことで、嘉兵衛
は新在家の若衆から迫害されます。
駒吉は憎たらしいキャラクターだな。読んでいて腹が立ってくる。
>>27 沼島は「竜馬がゆく」の第2章で、竜馬が阿波の岡崎ノ浦で眺めた島だな。
浜辺で寝ていた竜馬の元へ、お田鶴さまがやってくる。
おふさっていい名前だよな。ちぶさに似ていてエロい。
第3章 瓦船
嘉兵衛18歳。天明7年(1787)。
淡路瓦を大坂へ運ぶ瓦船の炊<かしき>になった嘉兵衛です。
船乗り人生のスタートかと思いましたが、一度の航海でクビになりました。
嘉兵衛は水夫見習いの炊<かしき>という身分である。
ここでは船乗りの身分を示す用語として紹介されているが、もともと「かしき」という
言葉は、メシを炊くこと、あるいは炊く人を意味していた。
この作品のなかでも、嘉兵衛はメシを炊いている。
メシタキ女のことを、時代小説では炊き女<カシキメ>という。
私の家では、といっても私の子供の頃のことですが、僅かな小遣い銭のことを
「ほまち」と言っていました。さて、この「ほまち」の語源が分からなかったのですが、
「菜の花の沖」に、この「ほまち」の由来が説明されていました。
「ほまち」とは「帆待ち」、すなわち、「出帆待ち」のことで、出帆待ちの僅かな時間に
船乗りが、積み荷を捌いて、小金を稼ぐ、ということが語源のようです。
それで、僅かな身入り、あるいは小遣い銭の意味に使われていたのです。
嘉兵衛の乗った佐平船は、淡路の江井浦を通過して都志浦に戻ってきた。
この小説の中では江井の扱いは小さいが、江井には徳島藩の御屋敷が
あり、廻船問屋が軒を並べた淡路最大の商都であった。
現在淡路にはウェルネスパーク五色という公園があって、
そのなかに高田屋嘉兵衛の功績を紹介する資料館もあるそうである。
嘉兵衛は観光客の集客に使われているのである。
この小説に書かれてあるような経緯で嘉兵衛が淡路から追い出された
のだとすると、ひどい話である。
>>25 憎たらしいだけで、結果的には嘉兵衛が完勝しているんだよな。読者の溜飲は
下がるが、それでもなお故郷を去らなければならなかった嘉兵衛が哀れ。
はまち?
第4章 網屋のおふさ
嘉兵衛22歳。寛政3年(1791年)。
網元の娘おふさに夜這いをかけていると虚偽の噂をたてられた嘉兵衛。
新在家の若衆・駒吉は、嘉兵衛を村から追い出そうとして、イリコ盗人の
濡れ衣を着せる。しかし、嘉兵衛が真相を暴いたことから、嘉兵衛はさらに
窮地にたたされることになった。
この章の嘉兵衛の年齢は「二十歳すぎ」としか書かれていませんが、この先、村を
抜け出し兵庫に到着した時点の嘉兵衛の年齢が22歳で、この章のイリコ事件から
村抜けまでは短期間に生じた一連の事件と思われますので、寛政3年(1791年)と
しました。
天明9年1月25日 寛政に改元されました。
1787年……天明7年…前章「瓦船」
1789年……天明9年/寛政元年……フランス大革命の年
1790年……寛政2年
1791年……寛政3年…本章
44 :
無名草子さん:2012/05/13(日) 18:44:15.86
>>33 この作品に出てくる網家の播州はんは、炊き女と紹介されているね。
盗人を“ぬしと”と読むのは懐かしかった。自分ではこういう読み方をしたことはないが、
年寄りが“ぬしと”と言っていた。鳥取弁辞書と高松の方言辞書に出ていたが、淡路の
嘉兵衛も“ぬしと”と言っているから、西日本では一般に使われていたのだろう。
>>45 年寄り言葉で聞けば意味は理解できるが、自分では絶対に使わない言葉という
のがあるね。同世代の友人たちが使わない言葉は、意味は理解できても、自分
の言葉として定着しない。古語の生成過程を垣間見たような気がする。
おふさは網屋の末娘(次女だが)なので、“こいさん”と呼ばれていたと書いてある。
上方の良家の娘一般が“いとさん”で、小さい“いとさん”なんで“こいさん”になると
おっしゃっているが、一般に“いとさん”は長女のことで、三人姉妹以上だと中の娘
には“こいさん”以外の呼び方があるようである。末娘を“こいさん”というのはその
とおりだが、小さい“いとさん”なんで“こいさん”になったのではないような気がする。
福田家は良家ではないから、知らんがな。
淡路では20歳以下が赤褌、20歳を超えると白褌になるようですが、
滋賀県守山市勝部神社の火祭りでは、赤ふんどしは二十五歳以上、
白ふんどし二十五歳以下です。
網屋の番頭・太平がイリコ盗人事件の現場にかけつけたときに言った言葉
“どうしたンなら”
他人が体調悪そうにしているときに親切に呼びかけるときも“どうしたンなら”というし、
すごんで喧嘩を売るときも“どうしたンなら”という。口調で両者を使い分ける。
人相が悪くて言葉遣いの荒い男が親切に“どうしたンなら”と呼びかけたとき、
喧嘩を売られたと勘違いした経験、あなたにもありますか?
>>50 東京では“どうしたンなら”を使わないほうがいい。言われた相手は、たいがい及び腰になる。
いまの若い人は、“どうしたンなら”を上品な言葉遣いだとは思っていないようだな。
しかし、この小説の太平は、“どうしたンなら”とやさしく話しかけているんだよ。
文章では口調まで伝えられないので、下品な言葉遣いだと誤解されるかもね。
播州はんがおふさに言った“性根を入れて”
「性根を入れろ」「性根がはいっとらんど」は、年寄り言葉というほどでもなく
俺の両親世代までは日常用語だった。しかし、わしらの世代は、あまり使わん。
体育会系はいまでも使うんじゃないか?
「性根を入れる」の語源は、仏像に性根を入れるだから、本来すごんで使う言葉じゃ
ないんだよね。体育会系は、「やきを入れる」と同じ意味で「性根を入れる」を使うが。
次も播州はんの台詞から「奪う=かたぐ」
略奪婚のことを「女房かたぎ」「嫁かたぎ」などというが、略奪した女を肩に担いだ
ことから、「担ぐ=かたぐ」という。肩に荷物を担ぐことを「かたぐ」というのは、方言
ではなく西日本一般(あるいは三河あたりまで)で使われていたんだと思う。
方言のどぎつい両親に育てられた俺は、幼稚園の頃は「かたぐ」と言っていたような気がする。
うちの地方は、「かつぐ」(戦後生まれ)、「かたぐ」(戦前生まれ)の両方を使っていたが、
かつぐの連用形・・・かちぃーで
かたぐの連用形・・・かたゃーで
だったな。
重い物をひとりで担いできた友人を称賛する言葉
「おみゃー、そりょー、ひとりで、かちぃーできたんきゃぁ?」
一人で担ぐことは「かたぐ」だったが、二人以上で物を運ぶことを「かく」と言った。
これは若い世代も使っていた。学校の掃除当番が二人で机を運ぶとき、
「いっしょにかこーや」と友達に声をかけた。
各地で方言だと思い込まれているから、古い日本語なんだろうな。
>>59 >二人以上で物を運ぶことを「かく」と言った
二人以上に限られるわけじゃないと思う。ひとりに運ぶよう命じる(依頼する)とき、
「そこの○○を、こっちぃー、きゃーてくれぇ」という。
>>60 おまいは尾張の血が濃すぎる。「こけー、かけー」が普通。
方言ネタおおすぎ。はんかくせぇーんでねぇかい?
第5章 妻問い
嘉兵衛22歳。寛政3年(1791年)。
イリコ盗人事件の続き。嘉兵衛と初めて口をきいたおふさでありますが、
即ナンパされ舳の松の根方でいっぱつやってしまいます。
∧ ∧ おふさ おふさ
+ ( ^▽^) +
(( ( つ ∧ ∧ + +
),ィ⌒( ^▽^) +
(_(__人__,つ 、つ
セックス!セックス!
初めてかけた言葉が「今夜10時に舳の松の根方で待つ」。はえーな。
こんだけ手が早いと村八分にされて当然という気もするな。
おふさは日和下駄を履いている。
歯が細くて高い雨下駄を日和下駄と勘違いしている方が多い。
下駄屋の広告でも、勘違いしている。
読んで字の如く、日和のよい日に履くから日和下駄。歯は太くて低い。
>>66 司馬さんは「格別な晴れの日でもないのに日和下駄をはいている・・・」と
正しく理解しておられるな。
》おふさがかぶりをふった。
<かぶりをふる>は、大多数の作家がひらがなで書かれておられるので、
どういう漢字をあてるのか知らなかった。
調べてみると、かぶり=頭であった。
幸蔵が若衆組の寄合をのぞこうとしたおふさを「女郎<めろ>」と罵る場面がある。
音読みすると<じょろう>だが、<めろ(う)>と<じょろう>では意味が違う。
<じょろう>のほうはなるべく「女臈」と表記していただきたい。
嘉兵衛とおふさがまぐわった舳の松の根方を探しても、もちろんそんなもの
はない。堺市の舳松が出てくるばかりだ。やたらと舳松人権という文字が
目立つから、被差別部落だったのだろう。自慢すんな。
“ぶらぶら”はやくざ者の意味らしい。
ちなみに、やくざは漢字で書くと八九三。
花札賭博のカブで、8+9+3=20でブタ(最低)になるため、
無職渡世で生業につこうとしない者を八九三とよぶようになった。
ニートはやくざなんだなw
長蔵は本村の嘉兵衛がいた若衆宿の筆頭兄若衆だったのに、いつのまにか
若衆頭になっているんだな。
>>74 あのときから7年経っているから出世したんだろう。
むしろ7年前すでに兄若衆だった長蔵が、いまだに若衆組にいることが不思議だ。
ブログというのは司馬作品を丸写しにして知ったかするところなんですか?
「チギョウ搗き」を調べていて、ふとそんなことを思いました。
地固めは、一般に地搗きという。カタカナで「チギョウ搗き」と書いたら出典がすぐ分かる。
村八分にされた家の前を通るときは、
「味噌も、醤油も、腐れ、腐れ」と囃し立てること。
これが村の掟です。
龍鬢表は床の間に飾る最高級品で、現在買おうと思えば半畳で1万円は超える。
貧乏な嘉兵衛に買えるはずがない。
>>60 一人で運ぶときでも、片手で持てるような軽い物については「かく」とは言わないような
気がする。両手を使うときは、あるいは使ったかも知れないが、やはり二人以上で運ぶ
大きな物の場合に使ったような気がするな。
女とセックスすることを「かく」
セックスだけの女のことを「かきたれ」
これ関西だけ?
オナニーが「かく」だろう。
司馬さんはなぜ「誰」のことを「たれ」とにごらずに称すんだろ
>>85 オナニーは、マスをかくと言う
マスはマスターベーションのこと
第6章 村抜け
本村の若衆宿から村八分の鍋をうけた嘉兵衛は、新在家でも同様の扱いを受ける。
嘉兵衛を殺そうと企む新在家の若衆から逃れるように淡路を国抜けする嘉兵衛。
脱藩とか国抜けの物語がお好きなようですね。
>>89 読者は現実世界から抜け出したいと思っても、そうもいかない。
物語の世界で抜け出した人物の話は面白い。
網屋の「くどのある土間」が出てくる。
昭和30年代いっぱいでプロパンガスがあまねく普及した。
それまではくどに釜をかけて薪でごはんを炊いていた。
筆者の家でも3歳ぐらいまではそうだった。
西日本なので“くど”だった。かまどという言葉はテレビで知った。
和田屋喜十郎の友人が「嘉兵衛のでぼちんに御札を貼っておけ」と軽口を
たたく場面がある。現在でも“おでこ”というから額であることは容易にわかる
と思うが、“でぼちん”は最近使わなくなったなー。
おでこそのものを指す言葉というより、おでこの大きな人のあだ名として使う
言葉だったような記憶がある。
赤塚不二夫のでこっぱちは、キャラクター名だと思っていたら、
俗語辞典に「額が広い人のこと」と出ていた。
うちの地方でも、額の広い人=でぼちんだったから、キャラクター名だと思ったのかも・・・
友人・仲間のことを連<つれ>というのは、我々の世代だと日常用語なんだが、
最近の若いもんは、暴走族等が使う下品な言葉と認識しているようだ。
旅は道連れの<つれ>なので、配偶者<つれあい>や友人に限って使う言葉では
なく、緩やかに使える言葉だ。けっして下品な言葉ではない。
標準語を上品な言葉と思う必要はない。テレビやラジオが偉いわけじゃないから。
お勉強のできない子は、地方で生まれ地方で暮らすから標準語を話す必要がない。
年寄り世代と同じ言葉を使うが、それは上品・下品とは無関係だ。
「○○は方言なんですか?」の質問への回答をする人は、もう少し考えてからしろ。
標準語からかけはなれていると「下品」とする回答が多すぎるわ。
ツレはもともと能狂言で主演者のシテに次ぐ共演者のことだったと思います。
それから、夫婦が伴侶を紹介するときに「私の連れです」というような表現となり、
さらに拡がって「友達」の意味で使われるようになったようです。
特に友達というほど親しくなくても、いっしょに学校へ行く連れ、遊びに行く連れ、
日常用語だろう。暴力団や暴走族に限って使う言葉などではない。
いっしょに小便するときでさえツレションと言うではないか。
下品というか、教養が低い、配慮が足りないって事でひとつ下に見るんだろう
国際的な場で英語じゃない言語でまくし立てる人に対する視線と似たようなもの
しかし本当に教養が高い人は、ローカル言語への寛容さは持っているものだけどね
すこし余談がすぎたようだ。ツレはこの小説では、嘉兵衛が嫌いなものとして出てくる。
いまでいうグループだ。学校のクラス、職場、政党にまでグループがあって、誰がどの
グループに属しているかを覚えていないと安心できない人が多いようだ。
グループに属する人間が他のグループの人間と親しくしていると同性であっても嫉妬
するというへんな風習だ。
村八分になった嘉兵衛は新在家の浜で寝ることを禁じられ、赤松山に寝小屋を造る。
赤松の生えた山という普通名詞だと思っていたら、淡路には赤松山(固有名詞)があった。
戦時中の由良要塞・赤松山堡塁である。
∧_∧
( ´Д`) <嘉兵衛の寝わらに 小便かけたれや
/ \
| l l | ..,. ., .,
| | | _|。.:_::゜。-.;.:゜。:.:;。
ヽ \_ .。'゚/ `。:、`;゜:;.::.。:.:。
/\_ン∩ソ\ ::..゜:: ゚。:.:.::.。.。:.
. / /`ー'ー'\ \ ゜: ::..゜:: ゚。:.:.:,。:.:.
〈 く / / ::..゜:: ゚。:.:.:,.:.:.:。:.:,
. \ L ./ / _::..゜:: ゚。:.:.:,.:.:,.:.:.:,
〉 ) ( .:: ::..゜:: ゚。:.:.:,.:.:,.:.:.:,
(_,ノ .`ー' ::..゜:: ゚。:.:.:,.:.:,.:.:.:,
寝わらに小便とは、こどもでなくちゃ思いつかないイジメだな。
尿を<ゆばり>と読ませるのは時代小説だけだと思うが、語源を調べてみた。
ゆばりは「ゆまり」の音変化。
「ゆ」は湯、「まり」は排泄する意の動詞「ま(放)る」の連用形の名詞化。
幸蔵が嘉兵衛を指して言った「わり様」
「われさま」の音変化。二人称の人代名詞。
同等または目下の者に用いる語。おまえ。おまえさん。
次も幸蔵の嘉兵衛への台詞から「けちぶとい」
ずうずうしいという意味だそうだが、淡路の方言ではなくて近世の古語。
筆者も初めて聞いた言葉なので、これ以上解析できません。
驚いたのは、「けちぶといメキャベツ」「けちぶといホテル」と、現代でも日常用語
として使っている方がいらっしゃることでした。
嘉兵衛は叔母のおらくから古い柄杓を一本もらい、抜け参りの格好で淡路を脱出する。
御厨、御師、伊勢参り、伊勢講、抜け参りについては、司馬遼太郎『歴史の中の日本』
収録の「庭燎の思い出」に詳しい。
嘉兵衛の実父・弥吉は体が弱く寝つくことが多かったとはいえ、あまりに存在感がないな。
長男が村を抜けるという一大事が持ち上がっても、まったく顔を出さない。
>>95 テレビ・ラジオのローカル局は、むしろ方言中心の番組づくりだろう。
第7章 兵庫
淡路国都志村を抜けた嘉兵衛は、和田屋喜十郎の弟・喜兵衛の廻船問屋・堺屋に
世話になるべく兵庫を目指します。
大阪府と和歌山県の県境を画する和泉山脈を、司馬さんは和泉山地としている。
冒頭6章がイジメ・嫌がらせの連続なので、兵庫へ出てきた嘉兵衛が航海に出る
場面の解放感がたまらなく嬉しくなる。にくい構成だ。
堺屋喜兵衛のあだ名・サトニラはラッキョウのことであるが、
沖縄ではラッキョウをダッチョウという。
良家・金持ちを「ええし」というのは大阪かな。なんとなく大阪的下品さがある。
うちのほうは分限(身分)の高い家ということで、分限者<ぶげんしゃ>と言っていた。
第8章 海へ
堺屋でやっかいになることになった嘉兵衛は、初めての弁財船航海に出ます。
都志村では若衆から散々にいじめられた嘉兵衛が、船乗り仲間(喜兵衛の子息)から
好かれる場面は気持ちがいい。
岩礁のことを<ハエ>という。
縄文語の系統を承継していると想定されるアイヌ語で「ハエ」を解釈すれば、
「ハエ=pa−ye=頭(の)・石」となる。水面から頭を出している岩礁が本来の意味である。
ハエは文字のなかった縄文時代からの言葉であると考えて間違いはない。
ハエは岩礁の名称として今日まで残っているが、地名の分布は関西地方以西に限られている。
口にホゲタというルビがふられている。下品なので大阪弁。
全国大阪弁普及協会という団体があって、標準語を大阪弁にしようと
もくろんでいるらしい。
まっぴらだ。
山口県の西北にある角島は、現在下関市になっているんだな。
下関と萩と岩国がずいぶん巨大になっている。
嘉兵衛が寄港した角島は「世に棲む日日」では松蔭が平戸に旅する道中に
登場した。
なお、尾山の神社とは、海の神、航海の神である住吉神社から神さんを
ひっぱってきた角島八幡宮ではないかと思う。
第9章 樽廻船
おふさが兵庫にやってきた。
嘉兵衛とおふさの頭の中は、やることしかありません。
おふさの巡礼姿がヘンです。白衣を身につけ、その上に袖無羽織というべき笈摺
を羽織っていると書かれています。袖無しが笈摺、袖有りが白衣です。その下に
着ている白装束は白衣とはいいません。
なお、笈摺にオイズリとルビがふられていますが、オイズルとも言います。
嘉兵衛とおふさは和田岬灯明台の傍でまぐわう。現在和田岬は三菱重工神戸造船所の
敷地に含まれており、こんなところでセックスしていると三菱重工の人に怒られます。
旧和田岬灯台は、いまは須磨海浜公園西に移設されています。
入場料は無料ですが、駐車場は1時間400円(以後1時間毎200円)です。
上方から関東へ運ばれる商品が「くだり物」、関東の地場産業が作った物が
「くだらない物」。大学生のとき、この作品を読んで「くだらない」の語源を知った。
ものすごく気分が良かった。
桶を作る丸鉋(まるがんな)には、削る面が山形になる外丸鉋と、谷形になる内丸鉋とがある。
樽廻船の別名が小早である旨が述べられているが、小早は元来戦国時代に
用いられていた軍船のことである。戦国時代の軍船は、大型の安宅船、中型の関船、
小型で船足の速い小早とがあった。江戸時代の樽廻船は、その小早をあだ名にした。
第10章 春の海
寛政4年(1792)正月。嘉兵衛をおふさをつれて西宮の和泉屋伊兵衛へ
年賀の挨拶に出かけます。
宮城道雄先生を思い出させるサブ・タイトルだな。そういうえば宮城道雄は神戸市出身。
この章は大部分西宮が舞台である。西宮は交通の要衝であったので
司馬作品では頻出。
「竜馬がゆく」では、蛤御門ノ変の後、西国街道を落ちてきた時山直八らが
西宮守備の姫路藩兵と出くわした話、「俄」では御用盗警備のために
明石屋万吉が西宮に詰めた話などがある。
水戸屋万吉
和泉屋伊兵衛は実在した人物。時代劇の悪徳商人っぽいキャラなので
架空の人物だと思っていたら違った。
141 :
無名草子さん:2012/05/18(金) 15:08:48.80
司馬さんの小説で一番策略とか謀略、腹の探り合いみたいなのが全面に出てるのってどれ?
関ヶ原、新史太閤記、項羽と劉邦、国盗り物語以外で
その和泉屋伊兵衛家に飾られていた正月の注連縄。
“注連”をどうして<シメ>と読むのかかねがね不思議に思っていたので調べてみた。
“注連”は当て字。“注連<チュウレン>”は中国で死霊が入り込まないように水を注いで
清めた綱を張った。日本の<しめ縄>と用途が似ていることから当て字にされたのだろう。
当て字を用いない<しめ縄>は、標縄と書く(万葉集)。標は占と同じ。
144 :
無名草子さん:2012/05/18(金) 15:13:25.05
>>143 自然と上からの4作品を購入してるってこと?
146 :
無名草子さん:2012/05/18(金) 15:30:48.46
>>145 それ大八車じゃないの?大八車を使って運送業に従事していたのが車力という
んだと思っていたけど。
第11章 出船
嘉兵衛を乗せた樽廻船・宝喜丸が西宮港から出港します。
おふさは登場すると必ずセックスするな。しかもいつも灯台の下。
番船の切手渡しの様子は浮世絵に描かれている。筆者もネット上で見つけたのだが、
著作権者に無断で使用することはできないということなので貼らない。
柝<き>は朝鮮製の拍子木である。打ち合わせると「チョーン、チョーン」という音がする。
第12章 潮路
樽廻船の航海。宝喜丸はこの年の番船でみごと1位になります。
1章〜6章 都志篇、7章〜12章 樽廻船篇。
六章ごとに一区切りになっているのかな?
「おふさ、ふとんは敷いたか」
「ごはんよりも?」
まとも(真艫)の語源をこの小説で初めて知ったときは感動に近いものがあった。
日常用語として頻用するマトモが帆船用語とは思いもよらなかった。
「菜の花の沖」の発売当時、マトモの意義を講釈する人間が巷にあふれたよな。
ニヤニヤして聞いているだけのやつもいたが、「マトモというのはだな・・・」と講釈
が始まると、「菜の花の沖」と話の腰を折る輩も多かった。……俺だけど…。
158 :
無名草子さん:2012/05/18(金) 17:19:11.15
しかし、国語辞典では、【正面/真面】(まとも)と【真艫】(まとも)を区別している。
策略や駆け引きをしないことは、前者の【正面/真面】のほうなんだよね。
真面(まとも)に風を受けるは、真正面の風。
真艫(まとも)に風を受けるは、真後ろの風。
180度違うんだよな。
_,..-――-:..、 ⌒⌒
/.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::.\ ^^
/ .::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::..ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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:::::::::::::::::::::::::::: ( ::;;;;;;;;:) 散々マトモの講釈をした後で、
:::::::::::: /⌒`'''''''''''^ヽ そんなこと言われても困るんだよな。
/⌒ヾ/ / .,;;;;;;:/.:;|
-―'――ー'''‐'ー'''―‐'―''''\,./ / .::;;;;;;:/‐'| :;|'''ー'-''――'`'
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,, ''''''' ,,,, ,, :::::::::::::;;;;;;;;::::::
「みどり、ふとんは敷いたか」
「ごはんよりも?」
<⌒/ヽ-、___ 「寝る」
/<_/____/
>>161の「寝る」で思い出したが、おふさの箱枕は桐の安物であったと書かれていた。
総桐の箪笥は高級品というイメージが強いので、箱枕とはいえ桐が安物と言われると
不思議な感じがする。江戸時代は桐財は安かったのかね?
>>164 それってどういう形の雲なのか、わかってないんじゃなかったっけ?
166 :
無名草子さん:2012/05/18(金) 18:37:52.24
万葉集にやたらと登場する雲らしいが、万葉集には図解がないから想像するしかないな。
旗がたなびいているような雲なんだろうけど。
村上水軍と塩飽水軍をごちゃまぜに書いているが、因島、来島、能島は、すべて村上水軍。
途中に塩飽をはさむと紛らわしい。坂の上の雲では正確に書いていたのに、ここでは記憶
を頼りに書いたな。それと因ノ島は因島。
息子さんて、みどりさんとは交流あるのかな?
>>158 「マトモな話ではないとか、マトモな人間とか、あるいはマトモにぶつかってしまった
とかいう陸の言葉はこういう船乗り言葉からきたのであろう」と書いてあるんですが、
違うんですか。僕は知ったかぶりして家族や友達に説明していたんですけども。
真艫から風が吹けば帆船はまっすぐに進む。
その船の進行の様子から連想して、まっすぐな人間=まともな人間というように
なったのかなと思っていたのですが、違うんですか?
171 :
無名草子さん:2012/05/19(土) 02:05:12.85
梟の城
風神の門
この2作品が司馬さんの最高傑作(と思う)
第13章 北風の湯
和泉屋に警戒された嘉兵衛は宝喜丸の乗員から外されます。
この章では、兵庫第一の豪商・北風荘右衛門と、松右衛門帆の発明者・御影屋
松右衛門が紹介されます。
北風家については南北朝時代の白藤惟村から説き起こされているが、
孝元天皇・崇神天皇の頃から史書に名前が出てくる古代豪族。
ただし、この小説で活躍する荘右衛門貞幹は養子。
北風家は初代兵庫県知事とも関係が深い。開港に伴う神戸の町づくりに
何かと力を貸した。
>>175 北風正造だな。安田荘右衛門の「北風遺事」の刊行者のひとり安田正造と名前が
似ているが、もちろん別人。
前章あたりから宝喜丸の沖船頭・重右衛門が嘉兵衛の師匠のような感じに
なっているが、この小説の嘉兵衛の師匠は、嘉兵衛の成長とともに次々と
大器量の人物に変わってゆく。嘉兵衛の成長を師匠の交代によって表現し
ていて理解しやすい。
都志の漁師:弥右衛門
↓
瓦船の船頭:佐平
↓
兵庫の船大工:伝兵衛
↓
樽廻船の沖船頭:重右衛門
↓
御影屋松右衛門
>>178 船大工の伝兵衛は、嘉兵衛の師匠というより、おふさの面倒をみた人だろう。
その位置には堺屋喜兵衛を入れてくれ。
松右衛門が考案したつばくろ船がどういう船なのかよくわからなかった。
ちなみに、つばくろとは燕の意味。
182 :
無名草子さん:2012/05/20(日) 18:39:45.97
うそか本当かわからないけど、この小説の北風荘右衛門って金持ちの鑑のような人物だね。
と、思いきや・・
第14章 松右衛門
嘉兵衛は多度津の船たで場で工楽松右衛門の面識を得ます。
松右衛門は嘉兵衛に直乗船頭になって北前船で稼げと勧めます。
現在、寛政4年(1792)の秋です。嘉兵衛は自分の年齢を松右衛門に訊かれて
「24歳」と答えてしまいます。嘉兵衛は数え年で23歳です。松右衛門に会って
きっと緊張していたのだと思います。
この緊張は、寛政5年(1793)になっても続く。本当は24歳なのに25歳と書かれている。
おっとこれは嘉兵衛の緊張ではなく、司馬さんの緊張でした。
この章の舞台は讃岐の多度津。空海の生地・善通寺に近いので、詳細は「空海の風景」でどうぞ。
琴平の金比羅権現の語源はサンスクリット語のクンビーラ(Kumbh?ra)で意味はワニ。
金比羅信仰を全国に広めたのは塩飽の水夫。神体は金比羅さんのある象頭山その
もので、船乗りが海からこの山を見て神威を感じたという話は興味深い。
天麩羅の語源はサンスクリット語のテンピーラだよ。
フナ虫が気持ち悪いと言っている人もいるんだが、むかし港でよく見かけたので
いまは懐かしい。
気持ち悪いのは船食虫のほうだ。回虫のお化けみたいなやつ。検便のうんこの
中から半分からだを出して蠢いていた回虫を思い出して気分が悪くなった。
なので船食虫の画像は載せません。
新巻鮭の発明も工楽松右衛門でしたか。もしかするとエジソンよりも偉いかもしれない。
しかし、俺は鮭よりも明太子が好き。
“人として天下の益ならん事を計らず碌々として一生を過さんは禽獣にもおとるべし”(松右衛門)
これは座右の銘になるな。
第15章 オランダ船
嘉兵衛は寛政4年(1792)冬と翌寛政5年(1793)晩春の二度長崎まで航海します。
長崎ではオランダ船を見学します。
黒船ショックは、司馬作品には欠かせない。
なお、嘉兵衛25歳というのは24歳の誤り。
オランダ船の帆に使われている黄麻(jute)で作られたduckという布の話が興味深かった。
オランダ語ではダックと読むらしいが、日本人はズックと読む。
このズックという布は、靴の製作に用いられた。筆者の少年時代には
ビニール製の靴であってもズックと呼んでいた。
そこからズックとは布地のことではなくて靴のことだと思っていた読者も多いはずだ。
ズックと呼んでいた運動靴をスニーカーと呼ぶようになったとき、大人になったような気がした。
チューリップの「虹とスニーカーの頃」があまりにダサいので、スニーカーと呼んでいた
運動靴を、再びズックと呼ぶようにした。本当の大人になったような気がした。
ズックの甲の部分は、ゴムと糸で織られていて伸縮自在だ。
ここに学年・クラス・自分の名前を書くのだ。
ズックを履いていない状態で名前を書くと、履いたときに名前
が横に広がってボヤーッとなり、読みにくくなるので注意が必要だ。
第16章 熊野鰹
寛政5年秋。嘉兵衛の頭の中は、鰹節でいっぱいでした。
202 :
無名草子さん:2012/05/22(火) 18:32:55.00
前章はズックの話題だけかよ
>>201 インタビューされて「○○という気持ちでいっぱいです」と答えるのはやめような。
そんなこと滅多にないから。頭の片隅では、電車に乗る時間とか必ず気にしているから。
イリコもチリメンジャコもカタクチイワシだったとは知らなかった。
かわいいチリメンジャコがブサイクなイリコになるのか。
イリコだしは、銀色の皮が味噌汁に浮くのが嫌いだ。
>>205 そうそう。あの銀色の皮が雑煮の餅にくっつくともっとイヤ。
あとはすべて鰹節の話題です。この後しばらく鰹節の話題が続きます。
嘉兵衛の夢の中にも、鰹の群来が出てきたりします。それほど鰹節で
儲けたいと思っていた嘉兵衛なんですが、結局……。
第17章 北風荘右衛門
寛政5年11月。毎日鰹のことばかり考えている嘉兵衛のもとに松右衛門旦那が
北風家が請け負った紀州藩の材木を運ぶ話をもってきました。
冬の西北風を<あなじ>というのはなぜなのか、調べてみた。
「一説に、此風吹ば雨なし、水氣までを吹拂ふをもて、あなしともいふ」(倭訓栞 中編一阿)
というのがあった。強い西北風なので水蒸気をも吹き飛ばして「雨を降らさない」という意味。
「雨なし」から「アナジ」に転じたという見解だ。
嘉兵衛の弟の嘉四郎は、両親からみると五男なのに嘉四郎なんだよな。
四男じゃないんだな。
>>210 嘉兵衛の父・弥吉は、三までしか数えられない。
明和6年(1769)に兵庫を尼崎藩から取り上げて天領にした石谷清昌は
田沼意次の経済官僚。「鬼平犯科帳」にも登場する。
このところすっかり御影屋松右衛門と北風荘右衛門の世話になることが多い嘉兵衛
なんだが、サトニラさんとは縁が切れたのか?
>>213 サトニラさんの内儀・貞代が初登場のときは重要な役になると思ったのにな。
あれから全然出てこない。船大工の伝兵衛も同様。
第18章 大灘
寛政6年(1794)。嘉兵衛25歳。
紀州藩の材木を筏に組んで品川まで運ぶ航海の顛末が語られます。
筏の航海は熊野の新宮が出発地点だ。そこまでは紀州の町船で移動する。
加太浦に寄港する。町船の船頭・余兵衛は「紀伊続風土記」の叙述にしたがって
紀伊國屋文左衛門は加太の出身としているが(地元の観光協会ももちろん
同意見)、一般には有田郡湯浅町の出身とされている。
紀州の漁師が居浦している富津の漁業共同組合は、現在、アサリの放射能濃度について
毎日簡易測定器で測定している。
新宮の船大工の息子で炊になった文治をドラマで演じた衣笠友章は、
プロ野球選手の衣笠祥雄の息子。
菅島のさらに沖にある神島は、三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった島。
>>221 イルカの回遊に出会うチャンスもあるしな。
223 :
無名草子さん:2012/05/23(水) 19:02:48.69
>>214 この章では、浦賀の水先案内人が伝兵衛という名で登場するよ。
品川に到着した嘉兵衛の筏を待ちうけたのは、立花屋吉右衛門という材木商。
架空の人物なんだろうが、戦国時代の立花家の武将に立花吉右衛門成家と
いう人物がいる。
定六というのは江戸−大坂間をきっかり6日間で走る飛脚のことである。
かなり速い。
227 :
無名草子さん:2012/05/23(水) 19:19:11.23
>>226 水滸伝に出てくる足の速い活閃婆・王定六が語源じゃなかったのか。がっかりした。
嘉兵衛は鰹節で大儲けして二千両という高価な北前船を買うつもりだったが、
あっさりこの夢を捨てた。理由は鰹節で二千両も儲かるなら鰹漁師は皆
直乗船頭になっとるわい、とのことである。
夢にまで出てきた鰹漁を簡単に捨てたな。
夢なんてつまんないからな。
しかし、ここまで執拗に鰹漁について書いてきて、いったい何だったんだ、
という気はする。
「夢って大切ですよね」
第19章 薬師丸
寛政7年(1795)。嘉兵衛26歳。
筏を江戸まで運んだ嘉兵衛に、兵庫の北風荘右衛門から新たな指示がきます。
嘉兵衛は思いもかけず破船・薬師丸の船持船頭になってしまいます。
浸水に<あか>とルビが振られているが、漢字で書くと閼伽。仏前に供える水である。
後の章でこの点については司馬さんが詳しく書かれている。
筆者は兜率天の巡礼の主人公の苗字を思い出してしまった。
古着のことを古手というのは、つい最近まで日常用語だった。祖母や父母
は古着と言わず古手と言っていた。ただし、衣服に限らず道具一般について
そう言っていたと思う。
僕たちはこの言葉を使わなかったけれど、そもそも古着を買ってまで着る
ということがなかったから、古着(古手)という言葉が死語になっていた。
最近、リサイクル・ショップが増え再び古手の時代がおとずれたが、
古手よりもリサイクルという言葉が好んで使われているようである。
ばあちゃんは、「フルテ川祐子って変な名前」と言っていた。
八戸と古手と近江商人と安藤昌益については、『街道をゆく/陸奥のみち』に詳しい。
青森湊の旧名・善知鳥(うとう)村の善知鳥は、元来は鳥の名称である。
その村をなぜ善知鳥村と呼ぶようになったかは不明。
>>239 おそらく善知鳥がたくさんいたんじゃないの。善知鳥の地名は各地に残っていて、
佐渡島にも善知鳥神社というのがある。
242 :
無名草子さん:2012/05/24(木) 19:04:40.99
243 :
無名草子さん:2012/05/24(木) 19:07:55.45
つい最近までラブホに行く銭もなくて浜辺でやっていた嘉兵衛とおふさなのに、
もう猫足膳や銅壷を買えるわけ?ちょっと早すぎねぇ?
都志ではたいへんな苦労をした嘉兵衛なのに、兵庫ではとんとん拍子に
出世するんだわな。もう少し苦労すると思っていたのに・・・
>>245 都志篇はこれまでの司馬の作風とは大いに異なっていた。
読者は司馬作品にああいう辛い話は求めていないんだと思う。
うちでも箱膳だったのに貧乏な嘉兵衛がなんで猫足膳なんだ?腹立つ。
第20章 松前の夢
寛政7年(1795)6月末。
嘉兵衛は那珂湊で修理した薬師丸で秋田まで航海します。
本章はその前編。出雲の宇竜湊と隠岐の西郷浦でのことどもが語られます。
“トクをする”のトクに得をあてるか徳をあてるかについては同じ悩みをお持ちの
読者もいらっしゃると思うが、辞書には両方が出ている。しかし、司馬さんが
書いているように、得は誤用で徳が正しい。有徳人の徳、お徳用セットの徳である。
水路に<みお>のルビをふっておられるが、意味はそのとおり。漢字で書くと「澪」となる。
沢口靖子主演の「澪つくし」の意義は、浅海を通行する船に対して通り易い水路(みお)
を指し示すために立てた杭のことである。
>>250 “みお”について補説しておくと、広島県尾道市の地名の由来について司馬さんは通説に
異論をたてておられる。
通説は尾道=「山の尾の道」と考える。狭い帯状の土地に山の尾根伝いに一筋の通りが
あったことに由来するとする。通説は陸の地形から地名の由来を考える。
これに対して司馬さんは、尾道が港町であることに着目する。尾道と向島の間は細い
水路のような海である。ここが、すなわち“みお”(澪)。
みおの道 →おの道、だとおっしゃっている。
>>251 湊(水路)に着目したところはさすがと思うが、「み」を省略する根拠がよくわからない。
「み」=水からきている音だろうから、「み」を省略して「お」だけが残るというところが
チト苦しいかなと思う。
253 :
無名草子さん:2012/05/25(金) 16:02:14.20
赤ちゃん言葉で水のことをブーブーというのはなぜなんですか?
石見潟について
司馬さんは「潟というのは潮のさす湖のことだから、用語として不適当だが、船乗りの
俗語」といっておられるが、ウソです。
明治や大正時代の地形図には波根湖という潟がはっきりと載っています。
島根県の古い地図までは、さすがに蒐集できなかったのだろうな。
日御前明神とあるが、日御碕明神の誤植であることはいうまでもない。
日御碕や宇竜湊は、萩の乱後の前原一誠の逃走コースなので、「翔ぶが如く」の50章「衝撃」
にチラッと登場する。
司馬さんは出雲は美人が多いと書かれている。美人といってもフィリピン顔よりは
朝鮮顔のほうがマシという程度だろう。
なお、出雲市には自称「日本で2番目に美人が多い通り」がある。
>>259 島根県人は特にこれと言ってやることがないので、遊び感覚で性交する若者が多し。
そのため初産の平均年齢が極端に低く、結婚も早い。
>>262 紙芝居のおまけでぎょうせん飴をもらえた。昭和40年当時5円。
いまの映画は1500円で、ぎょうせん飴のおまけ無し。
紙芝居を見た後に駄菓子屋で5円のアイスクリームを買って食べると、
豪遊したような気分だったな。
265 :
無名草子さん:2012/05/25(金) 18:47:48.22
砂糖黍には、薄緑色の細いのと、えび茶色の太いのがあったけど、それぞれの名称ってないのか?
第21章 北前
前章の航海の続き。この章では、越前敦賀と出羽酒田に立ち寄り、目的地・土崎湊[秋田]
に到着します。その地で御徒士出身の船大工・与茂平と出会い、嘉兵衛は持船の建造を
依頼します。
越後の粟島の向こうに見える「烏帽子のような山」が見えたら、そこが越後と出羽の
国境である、と嘉兵衛は言っている。
新潟県村上市に烏帽子岳という山はあるが、標高489mでその周囲は烏帽子岳より
標高の高い山だらけなので、目印にはならない。
>>270 平地にぽつんと聳える山が目じるしになるのであって、あれだけ山がたくさんあると
どの山も目じるしにはならんだろうな。
酒田港は、藤原秀衡の妹とも後室とも言われる徳尼公が酒田に落ち延びた際に随伴した
家臣36人により開かれたといわれる。その時の家臣が「酒田三十六人衆」と呼ばれ、
その子孫は、後に酒田を代表する大商人になった。
その中のひとりに廻船問屋の加賀屋与助がいる。
この作品では附船の船頭として登場しているが、別人の設定であろう。
最上川流域の諸藩が列挙されている。
山形藩は5万石と書かれているが、6万石の誤りである。
5万石に減俸されたのは、幕末の水野氏である。
この小説当時の藩主は秋元氏であり6万石である。
尾花沢と紅花と芭蕉の話は、「街道をゆく/羽州街道」に詳しく書かれているが、
この小説でも第8章の「「海へ」で述べられている。いささかくどい。
≫青苧(あおそ)の茎からとる繊維は強靭で・・・
これを読むと青苧(あおそ)という植物が存在するように思えるが、この前の段落に
書かれているように青苧はカラムシという植物から作られた加工品で商品名である。
この作品では庄内の特産品のように書かれているが、中世の越後国は日本一の
カラムシの産地であったため、上杉謙信は衣類の原料として青苧座を通じて京都などに
積極的に売り出し、莫大な利益を上げている。
>>275 酒田の青苧が奈良へ行って奈良晒になり、越後へ行って小千谷縮布になる、と述べられて
いるな。それはウソ。奈良も越後も青苧の産地。
なお、奈良晒の場合、江戸後期にはいり、越後や近江といった他産地の台頭により生産量は
往時の1/10ほどに減り、いちじるしく衰退した。
≫嘉兵衛は一同に、男鹿山の形状をおしえた。
男鹿山は誤植じゃないの?男鹿島(半島)でしょう。
男鹿半島に男鹿山という山はないし、船乗りが山の形状を覚えても意味がない。
覚えるならば半島の形状でしょう。文脈からしても、嘉兵衛は半島の形状を語っているし。
278 :
無名草子さん:2012/05/26(土) 16:18:23.07
この章、燃料投下しすぎ。
>>277 男鹿半島の山は、この小説にも出てくる寒風山と本山と毛無山だな。
船大工の与茂平の話に登場する摂津国伝法は、現在、大阪市此花区伝法町。
なお、粗暴で無法な振る舞いをすることを伝法というが、これは摂津の伝法村
の船大工に由来するものではなくて、浅草寺伝法院の寺男が、寺の威光を
かさにきて、境内の見世物小屋や飲食店で無法な振る舞いをしたところから。
もうひとつ文治が歌っている。
“東曇れば風とやら 千石積んだる船でさえ
みなと出る時ァ真艫でも 風の吹き様で出て戻る
まして私は嫁じゃもの 縁がなければ出て戻る”
喉元までタイトルが出てきているのだが、思い出せない。
285 :
無名草子さん:2012/05/28(月) 21:08:05.97
どうした。第22章はまだか?
第22章 和田岬
薬師丸は秋田から兵庫に無事帰ってきました。サトニラさんの計らいで嘉兵衛は
新たに長慶丸を手に入れます。新しい水夫を探すため、嘉兵衛は故郷の淡州都志
に帰省しました。
薬師丸の荷の積み下ろしの際に歌われた
“雨風に間切るその夜の その身のつらさ もうやめますわい 船乗りを”
は、佐渡民謡の小木船方節です。残念ながら音源は見つかりませんでした。
“生保がばれたその夜の その身のつらさ もうやめますわい 芸人を”
佐比江の女郎屋のポン引きを牛太郎と呼んでいるが、この牛太郎は
妓婦太郎(ぎふたろう)から変化した名前でありまする。
290 :
駒吉:2012/05/29(火) 18:53:04.64
|
|⌒彡
|冫、)
|` / 嘉兵衛が来た。
| /
|/
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| サッ
|)彡
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|
嘉兵衛は故郷に錦を飾ったな。新在家の若衆頭だった幸蔵が後付の理屈で
嘉兵衛のつらい日々は、新在家の祭礼のダンジリを新調できないことで
若衆の気が立っていたと、丸くおさめようとしているんだが。
新在家の若衆は幸蔵と駒吉が出てきたが、本村の元若衆頭・長蔵は出てこないな。
第2章の「潮騒」では、
<嘉兵衛は、長蔵兄さんのようになりたいと、たえず思っていた>
<かれのいわば生涯の人としての理想のような存在であった>
<淡路に帰ってくると長蔵を訪ねては、さまざまの話をした>
と、ずいぶん長蔵を持ち上げているんだが。
第23章 嘉兵衛の海
寛政8年(1796)2月。嘉兵衛27歳。
サトニラさんの堺屋を合併した嘉兵衛は、いよいよ高田屋を立ち上げます。
>>292 司馬遼太郎は短編は別として長編の場合余談で読ませる人だと思うな。
菜の花の沖も余談を除くと半分以下になると思うが、そこだけつなぎ合わせて
読むと全然面白くない小説だもん。
第24章 春疾風
新造した辰悦丸を受け取り、松前に渡るべく、嘉兵衛は秋田土崎をめざします。
嘉兵衛の寛政丸は播州赤穂に寄港し赤穂の塩を積み込む。
それに関連して「仮名手本忠臣蔵」の話がチラッと出てくる。
むかしから不思議に思っていたのだが、九郎判官はホウガンと読むのに、
塩冶判官はどうしてハンガンなんだろう?
寛政丸は、長州の中ノ関湊にも寄港する。幕末に長州海軍局がおかれていた三田尻である。
嘉兵衛は中ノ関湊で生蝋を仕入れる。第20章「松前の夢」では、“木蝋”と書いていた。
同じ物である。
佐吉が、勘助の下帯のすきまから手を入れ、睾丸をつかんだ。
第25章 辰悦丸
秋田の外港・土崎湊で新造の辰悦丸を受け取ります。
船舶の大きさを表す単位トンの講釈は面白かったな。
語源は辞書で調べるより作家に説明させたほうが面白い。
ついでに言っておくと、石油の量を示す単位バーレルも樽のこと。
>>303 そんなのケンタのバーレルでみんな知っているよ
夫人のことを「新造」というが、その語源について、司馬さんは新造の船も
新妻も“香りが高い”からと説明しておられる。あまり聞かない。
その由来に3説ある。
1.尾張の知多方面では、嫁入りの時には新造の船で送ることから。
2.嫁の居所を新たに造ることから。
3.遊里で新造出(しんぞうだし)は、姉女郎が禿(かぶろ)上がりの女を妹
分として披露することで、船を新しく造ることになぞらえて新造といった。
第26章 松前
念願の蝦夷地渡航。この章からいっそう余談が充実してきます。
まるで余談の隙間に小説があるみたいです。
辰悦丸の構造と比較して遣唐使船に触れている。
》天平宝字3年(759)の船団の一隻は「播磨速鳥」という名をもっていた。
「播磨」と「速鳥」という二隻の船の誤りである。
乾坤一擲の乾坤とは天地のことであると説明されている。知らなかった。
乾坤一擲は韓愈(韓退之)の「鴻溝を過ぐ」という漢詩が出典である。
司馬さんの著書「項羽と劉邦」にも出てくる河南省の賈魯河での戦い
を振り返った詩である。天下を取るか失うかの大勝負を乾坤一擲の戦い
というのであって、野田と小沢の会談ごときを乾坤一擲と表現するのは
誤りである。
もういいです。
310 :
無名草子さん:2012/06/02(土) 19:38:48.55
五島の宇久氏を調べていたら、「壇ノ浦の戦い後に伊勢平氏の一族で平清盛の弟家盛が
宇久島へ上陸し、同島の領主となって宇久次郎と名乗り宇久氏を興したともいう」と書かれて
いたんだが、ウソだよな。
司馬さんのお薦め教えてくれさい
少年漫画的なワクワクをくれる奴を
大盗禅師と血風禄 燃えよ剣 竜馬がゆく は読んだ
俄 浪華遊侠伝
俺のおすすめは国盗り物語、世に棲む日日。
戦国時代末期に蝦夷地に渡った近江商人の名前が数人記されている。
その中の岡田八十次(弥三右衛門)の故郷を八幡村としているが、誤り。
現在は近江八幡市に含まれているが、当時は近江国蒲生郡加茂村である。
>>315 司馬さんは工藤平右衛門方に寄食していた岡田弥三右衛門と別人と思って
おられるようだけど、同一人物だよね。
第27章 箱館
寛政8年(1796)夏。嘉兵衛は松前(福山城下)から箱館へ。
蝦夷地見分中の幕臣・高橋三平と出会います。
志海苔城の城主・小林良景の話から脱線して昭和43年発掘の「函館志海苔古銭」
に話題が飛ぶ。発掘された古銭の中に隆平通宝があったとされているが、隆平永宝
の誤りである。
》函館山は三峰から成っている。御殿山、薬師山、立待山がそれで(後略)
ウソである。函館山とは御殿山(334m)をはじめとして、薬師山(252m)、つつじ山(306m)、
汐見山(206m)、八幡山(295m)、水元山(280m)、鞍掛山(113m)、地蔵山(286m)、
入江山(291m)、エゾダテ山(129m)、観音山(265m)、牛の背山(288m)、千畳敷(250m)
といった13の山々の総称である。
325 :
無名草子さん:2012/06/05(火) 19:10:59.92
>>324 立待岬は有名な観光地だが、立待山というのは聞いたことがない。
このあたりの脱線(余談)では、司馬さんは本領発揮だな。
おそらくオリキャラであろう船形五平から説き起こし、本多利明、工藤平助へと続く。
そして、田沼意次へ。
赤蝦夷とはカムチャダール族だそうです。僕らはこちらの呼称になじみがありますが、
いまはイテリメン族と言うらしいです。
近時、少数民族の人々は他民族から命名された呼称を嫌って、自分たちの言語で
呼ばれることを望んでいる。
他民族に言わせると、せっかく馴染んだ民族名が変更されていると、自分のまったく
知らない少数民族のような気がして、関心が薄くなるのではないかと危惧している。
>>330 少数民族が記述の上で更なる少数民族になってしまうおそれがある。
カムチャダール族だと愛着があるが、イテリメン族だと覚えるのが面倒と
思われるだけだ。
>>328 最上徳内をはじめとする蝦夷地探検隊の簡単な紹介もあるが、徳内は後日この小説に
登場して嘉兵衛と会うことになるので、詳細はそこで。
船形五平の生まれ故郷は村山盆地と書かれているが、山形盆地の別名である。
>>333 船形の苗字は故郷の船形山からとったと五平は言っているが、船形山は山形県と
宮城県の県境にある山である。船形山は宮城県人が呼ぶ名称であり、山形県人
である五平が船形山というのは誤りである。山形県人は同じ山を御所山と呼ぶ。
第28章 野菊の浜
寛政8年(1796)晩秋。兵庫に帰ってきた嘉兵衛は摂津伝法村で新しい弁財船を
建造します。
兵庫には妻おふさの恩人ともいうべき船大工の伝兵衛がいる。どうして嘉兵衛は
秋田(土崎)や伝法村で船を新造するのかという読者の問い合わせでもあったんだろうな。
この章の末尾に伝兵衛は寛政4年に死んだと書かれている。
337 :
無名草子さん:2012/06/07(木) 14:53:48.40
>>336 伝兵衛が死んだのは4年前だと書かれているんだよな。ということは現在は寛政8年。
ところが次章のサブ・タイトルは寛政十年。寛政9年はとばされたの?
>>337 そうらしい。次章では、寛政8年に起きた出来事は「去年」の出来事と書かれている。
つまり、小説の技法として寛政9年に嘉兵衛に起きた出来事を省略して書かなかった
のではなくて、この作品の中では、寛政9年(1797)が存在しなかったことになっている。
「ひとりだけ面白いことを言った人がいます」
「誰だね?」
「宇宙円盤クラブの会長です」
――それはね、寛政9年は次元の狭間に落ちたんじゃないですか。
酔って候で、容堂が四賢人を表す際に言った、果断の容堂の下りのセリフ分かる方いますか?
キョロキョロ. ∧ ∧ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
Σ(゚Д゚;≡;゚д゚) < どうすんだい。オラ〜寛政9年生まれなんだよ、ゴルァ!
./ つ つ \______________________
〜(_⌒ヽ キョロキョロ.
)ノ `Jззз
第29章 寛政十年
寛政十年(1798)。嘉兵衛は去年である寛政8年に引き続いて、この年も松前へ行きます。
この章では最上徳内が登場します。
寛政10年当時の松前藩主を松前道広(13世)としているが、誤りである。
松前道広は寛政4年に隠居しており、寛政10年当時の藩主は、その子の
松前章広である。
349 :
松前道広:2012/06/07(木) 17:34:21.86
司馬さん。わしゃ隠居じゃよ。
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最上徳内がアイヌ人の苦境を語る。アイヌの女子供は山丹人(ギリヤーク人)に
借金の代わりにさらわれていたらしい。
なお、ギリヤーク人の自称はニヴフと言うらしいが覚える気がしない。
この時期、得撫島まで赤人(ロシア人)がやってきていたことが書かれてある。
島の名前の由来は、アイヌ語で「紅鱒」を意味する「ウルプ」から。
355 :
無名草子さん:2012/06/07(木) 18:44:37.14
>>336 サブタイトルが「野菊の浜」になっている。伝兵衛の作業場の浜に野菊が咲いていた
というのが、この章のラストに出てくる情景。はじめから伝兵衛を偲ぶつもりで書いた
章だろうよ。
>>338 少し前あたりで嘉兵衛の年齢が長い間1つ年上に書かれていたよな。
>>185参照。
寛政9年の消滅は、それと関係があるのだろうか?
つまり、嘉兵衛の生まれた年が一年前にずれていて、それを基点に年齢を数えていた
ために、小説の上で暦が1年あまってしまった。そこで寛政9年を消滅させて調整した。
読んでいてゾクゾクするのが、嘉兵衛とその仲間たちには寛政9年がないのに、
寛政8年に江戸に留め置かれた松前道広には、寛政9年があるんだよ。
ちゃんと「翌九年も帰ることを許さず」と書かれている。SFっぽい。
>>356 「寛政十年」というサブタイトルは、「この章から、暦どおりにやるぞ」という決意が
読み取れるな。
確認しておこう。
嘉兵衛の誕生日は、明和6年(1769)1月1日。
寛政10年(1798)の嘉兵衛は29歳だ。
360 :
無名草子さん:2012/06/08(金) 15:58:58.61
>>356 嘉兵衛の生年の明和6年は、この小説の中にも書かれている。
物語を進めているうちに、どこかで一年ずれたんだろうな。寛政5年の出来事を
寛政4年のこととして書いている、といったふうに。年齢が1歳上に書かれていた
のは、そのせいだろう。寛政9年の出来事は寛政8年のこととして書かれている。
第30章 蝦夷地の月
三橋藤右衛門とともに厚岸にやってきた嘉兵衛は、アイヌと交流します。
|
| | 五升芋は秘結の薬
, -─ ' `i ヽ─y───────
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_ ヽ二ノ_.):::::::::::::::::::::::::::....
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゙ー―――(__)----'
高田屋の船乗りたちが使い捨てで大量に登場してくるな。
嘉兵衛の弟たちとサトニラさんの息子たち、それと文治以外は、ほぼ使い捨て。
佐吉に金玉を掴まれた炊の勘助はどうしているのかな。いまでも寛政丸乗組か?
寛政丸の船乗りたちは、船頭の芳蔵以下キャラが立っていたんだが、あれっきりだな。
ひどいのはサトニラさんの妻の貞代。どんだけ重要な役かと思っていたら、あれっきり。
菜の花の沖は序盤めずらしく小説ぽかったから、登場人物の克訳に期待しちゃう
んだろうな。中盤以降は、この時期の作品らしく「街道をゆく」っぽくなる。
三橋藤右衛門や高橋三平が宿舎にしていた称名寺には、高田屋嘉兵衛顕彰碑や
土方歳三供養塔がある。
371 :
無名草子さん:2012/06/08(金) 18:58:18.30
シンガポールから書き込んでいるんだけど、このスレ参考になるね。
日本から「菜の花の沖」を取り寄せることにしたよ。
すべて自演である
公共のスペースの私物化といってもよいと思うのだが、どうだろう。
第31章 春信
蝦夷地から兵庫に帰った嘉兵衛。年が明けて寛政11年(1799)、嘉兵衛は不可能とされた
冬の日本海を再び蝦夷地へ航海します。
サブタイトルの春信は人名かと思っていたら、シュンシンと読むらしい。
春の訪れ、又は春の訪れを知らせる便り。花便り。
「嘉兵衛さんも、若いな」
「若いと申しても、もう三十一歳でございます」
「嘉兵衛さん。このスレで再三申し上げてきたとおり、あなたは1769年生まれ。
ことし三十歳ではありますまいか」
378 :
高橋三平:2012/06/09(土) 17:25:11.11
嘉兵衛! /⌒\ よう来た!
\●/∧__∧ /⌒\
∧_∧ ∩ (・∀・ )\●/ ∧_∧
( ・∀・)/ヽ Y  ̄ ||y||  ̄`''φ 嘉兵衛 ( ・∀・)/ヽ
ノ つつ ● ) 嘉兵衛 Lノ /ニ|| ! ソ > ノ つつ ● ) よう来た!
⊂、 ノ \ノ 乂/ノ ハ ヽー´ ⊂、 ノ \ノ
し' `ー-、__| し'
鳥取藩池田家の家老資格がある着座家を、司馬さんは5氏と書いておられるが
6氏11家ある。荒尾、津田、和田、鵜殿、乾、池田の6氏である。
もういいです。
天下と日本の関係についての解説は興味深かったな。
>>376 正確な年齢を書いている箇所もあるのにな。どうしてこうなるんだろう。
机の前に大きく「嘉兵衛 1769年生まれ」と書いた紙を貼っておけばよかったのに。
>>364 この章には炊の勘助とそっくりの炊の仙吉が登場して、勘助同様角島まいりをする。
それと、この章では嘉兵衛は北風家から暖かく迎えられる。東蝦夷地が天領となって
風向きが変わってきたからだ。第28章「野菊の浜」で嘉兵衛に嫌味をたっぷり言った
北風の二番番頭新蔵が嘉兵衛にどのような態度をとるか興味深く読んでいたが、
新蔵は消滅していた。
>>366 貞代は、この時点からずっと前に伯耆八橋に病気療養のため帰省していたことにされているよ。
386 :
無名草子さん:2012/06/09(土) 18:30:45.26
>>265 幹の太いサトウキビの名称は忘れたが、細い方は、この章で嘉兵衛が
讃岐坂出で仕入れた三盆白の原料になる竹糖のことだ。
俺の家の畑でも、むかし細い方を植えていたが、竹糖とは言わなかったな。
太いのも細いのも砂糖黍と言っていた。
>>388 太い方の写真が違う。もっともっと茶色だ。エビ茶色といってもいい。
>>384 北風家の台所に勤める女中のひとりの名前が、お浜であることが明かされる。
それはいいんだが、このお浜、北風家の台所に30年も勤めているそうだ。
北風家の台所は若くて美人の女中ばかりなので、船乗りたちが集まるんだと
書いてあったが、勤続30年とは、これいかに。
:||:: \ゴルァ 荘右衛門 出て来い!! ドッカン ゴガギーン
:||::  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ _m ドッカン ☆
:||:: ___ ======) ))_____ / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
:|| | | | ̄.ミ∧_∧ | | ────┐||:: ∧_∧ < 勤続30年のお浜をクビにしろ
:|| |ぁゎゎ. | |_..( ) | | .___ │||:: (´Д` ) \___________
:|| |Д`); | |_「 ⌒ ̄ ,|.. |_... ..||||:: / 「 \
:|| |⊂ノ; | |_| ,/  ̄ .  ̄ ̄ ̄ │||:: | | /\ \
:||:  ̄ ̄ ̄  ̄| .| :||│ ;, │||; へ//| | | . |
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄: ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
第32章 波濤
寛政11年(1799)3月。
箱館に到着した嘉兵衛は、金兵衛の奔走による高田屋の店の完成を見ました。
様似で道路普請に当たっていた最上徳内は、取放ち(罷免)になりました。
この物語のどこかで書かれているのだろうが、嘉兵衛の跡を継いだ高田屋二代目は、
弟の金兵衛である。金兵衛は抜け荷の疑いで全財産を幕府に没収される。
>>394 辰悦丸を建造する直前だったと思うが、金兵衛が抜け荷で儲けて船を造ろうと嘉兵衛
に進言する場面があったね。嘉兵衛はやらなかったけど。あれは後日の伏線だね。
あのシーンは問題があるな。金兵衛の抜け荷は冤罪の可能性もある。
高田屋に仕事を奪われた松前の両浜商人(近江商人)たちが濡れ衣を
着させた可能性が高い。
寛政4年(1792)の9月3日に根室にやってきたロシア軍艦とは、アダム・ラクスマンの来航
のことだ。大黒屋光太夫らの漂流者を引渡しに来た。
398 :
無名草子さん:2012/06/10(日) 23:42:39.38
司馬遼太郎の本のなかで「日本は明治維新できたのに中韓はなぜ明治維新できなかったのか」
みたいなのを書いた文章があったと思うんだけど。なんだっけ?
飛ぶが如くか世に住む日日か。底あたりだと思うんだけど。
自己解決したわ。花神だったわ。
なんでなの?
>>400 日本は鎌倉以来「武」の国で「武」には機能主義とか技術主義が含まれてるから
西洋の技術を取り入れられた
中韓は儒教の国で「文」が原則だったので産業革命の波に乗れなかったとかなんとか。
強すぎる儒教&中華思想が商業蔑視・西洋文明の忌避につながり、近代化が阻害された清と朝鮮。
儒教文化が近代化の阻害要因とならずにすみ、近代化の萌芽(商品経済の発達や蘭学による西洋文明学習)があちこちに生じた江戸期の日本。
というパターンの文章が各随筆に多い。
江戸期日本は儒教国家というよりも“法家”、という大隈重信の言葉も、司馬氏はしばしば引用する。
前章に引き続き、辰悦丸の炊・仙吉は名前つきで登場した。
親司も出てくるが、五郎蔵という名前では呼ばれず、単なる親司であった。
様似の北東にある山をピネシリ山というと書いてあるが、地図で確認できなかった。
現在は別の名称で呼ばれていると思う。誰かの旅行記に日高山脈のピネシリ山
という文章が出てきたので、様似近辺にそういう山があることは間違いない。
最上徳内が開鑿した様似山道の位置がよくわからなかった。
司馬さんの叙述によると、幌泉と豊似を結ぶ山道ということだが、幌泉という地名は
町名ではなく郡名として残っているだけなので、どこなのかわからない。
かりに幌泉が幌別を指すとすれば、現在の国道236号のルートということになる。
漢民族以外は頭髪を剃る風習があったというんだけど、ドラヴィダ人にもそういう風習が
あったと書かれている。・・・そう?
最上徳内を取放った松平忠明の下僚に、遠山の金さんの父・遠山景晋がいたことは
本文に書かれている。下僚のなかに、もう一人著名人がいた。
西丸御書院番の長坂高景は、若いころ雲楽山人というペンネームで活躍した戯作者
である。
第33章 重蔵
様似で最上徳内と別れた嘉兵衛は、厚岸へやってきます。
そこで近藤重蔵と出会います。重蔵は、嘉兵衛に択捉島航路開拓に協力するよう
要請します。
寛政11年6月12日、根室を発った嘉兵衛と重蔵は、国後島の泊に到着しました。
アッケシ場所の請負人の手代(支配人)は福島屋というが、この章では「去年の男」と紹介
されている。
この章でも嘉兵衛は31歳とされているが30歳の誤り。
驚いたのは、近藤重蔵について明和8年(1771)生まれと書いた直後に、29歳と
紹介している箇所だ。28歳の誤り(現在1799年なので)。誕生日前ならば満27歳。
天明7年(1787)に松平定信が始めた学問吟味のことが書かれているが、
前章で登場した遠山の金さんの父・遠山景晋は、寛政6年(1794)の第2回
昌平坂学問所の学問吟味に甲科筆頭で及第している。
近藤重蔵の火付盗賊改時代および長崎奉行手附出役時代を素材にした小説に、
『重蔵始末』(逢坂剛/講談社)がある。
>>413 生まれてから1年間は○ヶ月と言われ要するに0歳なんだが、司馬さんは生まれた年に
1歳になるとカウントしてるんじゃないか?他作品では、どうなっている?
420 :
無名草子さん:2012/06/13(水) 13:59:40.58
>>419 他作品は確認していないが、この作品に関する限り、生まれると即1歳になるという
数え方をしているな。
2008年、国土地理院と海上保安庁海洋情報部で構成する「地名等の統一に関する連絡協議会」において、
決定地名の歯舞諸島を歯舞群島へ変更しました。
地図で野付崎を見ていると、わらびを食いたくなる。
第34章 三筋の潮
寛政11年夏。
嘉兵衛の宜温丸は、国後水道を横切り、国後島から択捉島へ向かいます。
羅臼という地名は知床半島にもあるので注意。羅臼国後展望台は、知床半島にあって
見渡せば国後が見えるという展望台である。
前章でも登場した蝦夷通詞には山村久兵衛という名前があったが、本章では
名無しになっている。そのくせ出身地が江差で前職が漁師である等、彼に
関する事柄が多く語られ、嘉兵衛との会話シーンも長い。しかし、名無しに
落とされている。
択捉島への上陸は次章で語られる。本章では、国後水道の潮流を嘉兵衛が見定める
話が中心であるが、海流の名称が嘉兵衛が暫定した用語であるために非常に理解し
にくい。司馬さんが今日の学術用語を調べれば理解しやすいのであろうが、それを
していない。以下の整理を参照されたい。
<嘉兵衛語> <司馬さんの用語> <日本語>
“カラフトの汐” 親潮 親潮:千島海流(寒流)
“北海の汐” カラフト東岸の寒流 東樺太海流(寒流)
“西蝦夷の汐” 宗谷海峡で別れた対馬暖流 宗谷海流(暖流)
宗谷暖流に逆らって北進した嘉兵衛の航法は、誤りではないと考える。
435 :
無名草子さん:2012/06/14(木) 16:13:38.78
ロシアによる北方領土の不法占拠のため、「菜の花の沖」中盤〜後半に出てくる地名の
画像が集めにくい状況になっております。ロシアはすみやかに日本固有の領土を返還
しなさい。
>>435 画像はなくていいよ。日本人が作った町並なら美しいけど、露助の作ったこぎたない
町並を見ても面白くない。自然の風景も大味だし。
>>437 画像はいらないと言っているのに、天邪鬼だな、おまい。羅臼山は
>>429と重複しているぞ。
嘉兵衛のエトロフ行きは、郷里の淡路国沼島の漁師を水主にしています。
沼島の漁師に関する話題が多いのも、この章の特徴です。
「沼島くどき」(兵庫くどきの変形)の“黒津地門兵衛”に出てくる黒津地は、
現在、徳島県阿南市黒津地町となっています。
>>432 嘉兵衛は親潮のことを本当に“カラフトの汐”と呼んだのだろうか?
方角がまったく違うんだけど。
>>440 樺太探検をした最上徳内と親しかったわりにはモノを知らんよね。
第35章 火山島
嘉兵衛が択捉島の丹根萌湾に上陸したところで時間は止まります。
ここからしばらく千島と樺太をめぐる日露の外交関係(余談)がしばらく続きます。
寛政7年(1795)にロシアの植民団が得撫島を占拠したところから話が始まっているが、
本スレではなるべく時系列に従って書き込んでゆく。寛政7年の得撫島の話は、この章
の後半にも出てくる。もっというと、年表上の同じできごとが次章や、もう少し先のロシア
事情の章にも出てくる。未整理のまま次々に話を継ぎ足していった感じなので、読者は
非常にわかりづらいと思う。
余談が下手くそになってきたな。
元禄10年(1697)
ウラジーミル・アトラソフ(Vladimir Vasilyevich Atlasov 1661-1711)が、65人のコサックと60人のユカギール族で
半島を調査する。カムチャツカ川に船着場2つを造る。そこがロシアの毛皮商人たちの交易の拠点となる。
正徳3年(1713)
占守島と幌筵島にやってきて毛皮税<ヤサク>を取り立てたのは、アンツィフョーロフと
コズィレフスキー。
正徳5年(1715)
松前藩主は幕府に対し、北海道本島、樺太、千島列島、勘察加は、松前藩領と報告している。
宝暦4年(1754)
松前藩によってクナシリ場所が開かれ、泊には運上屋が置かれた。
明和5年(1768)
司馬さんは「ロシアが択捉島を占拠」と書いているが事実と異なる。
少し後に出てくる徴税官チェルヌイが千島列島を調査しながら南下し択捉島に上陸した後、
ウルップ島でロシア人としてはじめて翌年まで越冬したというだけの話。
ここの叙述が混乱の原因です。
天明6年(1786)
最上徳内による国後島、択捉島、得撫島の探検。
探検の時期は、チェルヌイよりも18年ばかり遅れている。
寛政7年(1795)
この章の冒頭に出てくるロシア人による得撫島への入植開始
寛政10年(1798)
近藤重蔵と最上徳内が、択捉島に「大日本恵登呂府」の碑を建立
安政元年(1855)
日魯通好条約によって、得撫島(ロシア)と択捉島(日本)との間の国境が定まる。
幕末と戦国時代ばっかりだよね。この人。
鎌倉中期〜室町中期
ぐらいの話が詠みたかった。
457 :
無名草子さん:2012/06/18(月) 14:46:23.78
>>451 ロシアはラッコが群生するウルップ島を占拠することが目的だったと言った
1ページ後で、ラッコが群生するエトロフ島を占領したと書いてあるんだ。
おかしいよね。
サハリン漁業規制局の調査(1991年)によると、ラッコは約1200キロメートルの海岸線全体で
約1万頭を数える。このうちおよそ3割が択捉島とウルップ島に生息している。
両島は隣接しているからラッコは両島にいるんだろうが、「ラッコ島」と呼ばれているのは、
ウルップ島のほうだね。
>>455 ここから明治8年の千島樺太交換条約に流れる。
その前に、嘉永2年(1849)ロシアが樺太の領有宣言をしたと書かれているが、
嘉永6年(1853)の誤りである。
相変わらず過疎ってるな
坂の上の雲って前半と後半まるで別の小説だよね。
正岡子規を主人公にする意味あったのあれ?
兄弟の話にしてたほうがしっくりくるんだけど。
>>462 正岡子規を書きたいから坂の上の雲を書いたと司馬さんが言っていた意味が
よくわからんかったな。中盤以降の山場である日露戦争前に死んでしまうという
のがどうもいかん。
まぁ正岡子規だけでは大長編持たないから秋山兄弟入れた気はする
ていうか正岡子規の部分も中途半端というか。
構想だと多分日露戦争史と日本文学史を重ね合わせるつもりだったんじゃないかな?
いまいち正岡子規がなんで有名になったのかがわからない。俳句発掘しただけの人みたい。
>>443 江戸から明治にかけての日露外交史を過不足なく系統立てて20頁ぐらいにまとめる余談なら良かったのにな。晩年の余談はディテールにこだわりすぎて大事なところが抜けていたりする。この章の余談にはプチャーチンの話が抜けているね。
引越しのため小休止
一身上の都合により中止します。
一時休止です。一週間後に再開します。
11番目の志士ってなにが11番目なの?
松陰 桂 高杉 大村 久坂 伊藤 井上 広沢 山県 赤根
の次ぐらいって事なのかな?前原が入らなくなってしまうけど。
山城屋和助
473 :
無名草子さん:2012/06/23(土) 01:58:45.68
まだ引越は終わらんのか?
一身上の都合により中止します。
475 :
無名草子さん:2012/06/23(土) 12:12:42.98
こんにちわ。菜の花の沖の続きはまだですか?
>>473 今日から引越ほんばんです。ご迷惑をおかけしてもうしわけございません。
お引越、乙です。落ちついたら、また菜の花の沖、よろしくね^^
もういいです。
479 :
無名草子さん:2012/06/23(土) 23:50:06.23
嘉兵衛は、何をしているのだろうな?すっかり評論になってしまったな。
480 :
無名草子さん:2012/06/24(日) 22:46:35.29
燃えよ剣
幕末
花神
/\___/ヽ
/ノヽ ヽ、
/ ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' :::ヘ
| ン(○),ン <、(○)<::| |`ヽ、
| `⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒´ ::l |::::ヽl
. ヽ ヽ il´トェェェイ`li r ;/ .|:::::i |
/ヽ !l |,r-r-| l! /ヽ |:::::l | また菜の花の沖、よろしくね^^
/ |^|ヽ、 `ニニ´一/|^|`,r-|:「 ̄
/ | .| | .| ,U(ニ 、)ヽ
/ | .| | .|人(_(ニ、ノノ
過疎ってんなw
質問。司馬の短編集で古代日本を舞台にした作品があったと思うんですが。
わかる人いますか?
なんか古代日本で争ってる国があって。
その片方の国に生まれが悪く差別されてる男がいて。
戦争になったからその男が道案内として前線に行く
みたいな話だったんですが。差別されてションベンを呑まされる描写があったような気がするんですが。
「八咫烏」
神武東征伝説に登場する八咫烏が実は人間でしたという物語
今週中には菜の花の沖を再開できそうです。
もういいです
490 :
無名草子さん:2012/07/05(木) 13:16:49.47
菜の花の沖はまだ再開しないんですか?
栗の花の沖をきぼん
492 :
無名草子さん:2012/07/05(木) 16:03:22.49
さて
第36章 択捉島雑記
前章に引き続き千島列島をめぐる日露外交史に関する余談です。
この章の後半になって嘉兵衛が久しぶりに登場するな。
>>466 この章で出てくるけどね。余談が小刻みに分断されて出てくるので、分かりづらくなっているな。
>>494 牧田供内が厚岸でロシア人の襲撃を目撃した話も27章「箱館」とこの章に分けて書かれてあるな。補足していると言ったほうが正確なんだろうが。
>>496 ロシア人がアイヌの女性3人を略取した場所を厚岸湾の沖ノ島とされているが、大黒島の間違いじゃないかな。厚岸の沖にある島は大黒島というから。
牧田供内は、牧田伴内ね。
498 :
無名草子さん:2012/07/05(木) 19:12:58.62
カムチャツカ総督のベム少佐って、やっぱり妖怪人間?
ウイマムの語源については、司馬さんは「おめみえ(御目見得)」の転訛説だが、
他に日本語の「ういまみえ(初見)」から転訛したという見解、アイヌ語の「交易」
を意味する語とする見解がある。
500 :
無名草子さん:2012/07/05(木) 19:46:06.65
501 :
無名草子さん:2012/07/05(木) 19:57:25.17
嘉兵衛は淡路で漁師をやっていた頃ボラを釣っていたそうな。ボラは秋田ではシュクチと呼ばれていて、秋田の漁師は「淡路ではそんなものを食うのか」とバカにしたと書いてある。
そのとおりだ。ボラを食う奴なんておらんやろ。ボラは別名ネコマタギ。あんな不味い魚、猫も跨いで食わないという意味だ。
嘉兵衛が釣っていたシュクチ(シクチ)とは、おそらくボラ科の魚・メナダのことだろう。これなら食える。
もういいです。
王子山中学の生徒によるいじめはすさまじく、自殺した被害者は、すずめの死骸を咥えさせられるようなむごい
仕打ちを受けていたということである。担任の教師もいじめのことは知っていたが怖くて注意できなかったらしい。
時の大審院院長である児島惟謙は「法治国家として正義は遵守されなければならない」とする立場から、
「このうざい馬鹿どもに適用する少年法はない」として政府の圧力に反発した。要するに「法か正義か」という
回答困難な問題が発生したのである。のちに大津事件と呼ばれるようになった事件の顛末はおおよそこのようである。
なぜ電子書籍で出てないの?
売れすぎて困るから
>>506 売れるならいいんでないの?
電子書籍で街道シリーズとか大人買いしたいなあ
鬼平とか売れてるみたいだし司馬も出してくんないかな
>>504 大津警察の理屈はおかしいよな。「被害者が自殺している場合、殺人事件でなければ捜査対象にならない」というが、そうすると自殺関与罪は一切捜査対象にならないことになる。スレ違いスマン。
大津警察のお墨付きが出たから、ネットが加害者を自殺に追い込んでも刑事事件になりません。
510 :
無名草子さん:2012/07/06(金) 18:28:58.08
その日は、暑かった。煙草をきらした筆者は、車の灰皿に残っていた4cmばかりの吸殻を拾い上げて
吸おうと思った。せまい道路わきにある車が四台ばかり停まっている狭い駐車場でのことである。
あまり他人に見せられた姿ではないが、さいわい周囲に人影はなかった。
しかし、これが筆者の油断であった。最近の自動車のガラスは、車の内部が見えにくいのである。吸殻
に火を点けていると、車のドアが開いて中から人が降りてきた。
「おや、めずらしいところで…」
たらこ唇の怪人が苦笑しながら筆者を見つめている。おそらく先ほど来の筆者の行動の一部始終を観察
していたに相違ない。
「松本先生。今日は取材ですか…」
512 :
無名草子さん:2012/07/06(金) 18:51:50.94
513 :
無名草子さん:2012/07/06(金) 18:58:06.16
司馬の三河人の考察読んでなるほどと思ったwww
確かに三河は閉鎖的で陰湿で、尾張は自由で開明的だ
>>504 現実に起きる凄惨な事件と比べれば、作家の想像力なんてチャチなもんだね。
作家の場合、創作で酷たらしい場面を描いても理性の歯止めがどこかにある。書いているのは常識人だからな。リアル基地外は、我々の想像の及ばないことをする。
ーーそうしますと、司馬先生は探偵小説はあまりお読みにならないんですか?
司馬「せやな、読まへん。探偵はどうしてああも執拗に他人の秘事を暴くことに情熱を燃やせるのか。そっちのほうこそ小説の主題にすべきやと思うわ」
松本「それは間違っているなぁ。僕は君とは少し考えが違うんだけどね」
第37章 帰帆
寛政11年(1799)秋。
択捉から箱館へ帰ってきた嘉兵衛は、辰悦丸で久しぶりに兵庫に帰ります。
宮本源次郎は第33章「重蔵」に出ていたらしい。思い出せない。
工楽松右衛門が材木運搬のための河川改修工事を行った豊前彦山は、『風神の門』の第9章
「真田屋敷」の余談で登場した。役ノ行者が豊前彦山に籠もって修行した話が出ていた。
嘉兵衛もまたそのように思っている。事実、大津における市教委の体制がこのまま存続すれば、
大津市もそれが属する滋賀県も、日本領であることを失わざるを得ないかのようでもあった。
「むずかしいご時勢でございますな」
嘉兵衛は、いまは京都市民である木村束麻呂に対し、さしさわりなくいった。
嘉兵衛もイジメられっ子だったけど、大津に生まれなくてよかったなと思っただろうな。
「あれをまあ、御覧じろ」
沼島衆の頭の源兵衛がいった。
「気味の悪い中学でございましょう」
かれら沼島衆は、この大津のいじめ殺人事件にはくわしいのである。
「しかし、格好のネタにはなる」
嘉兵衛は、犯人とされる少年の顔を記憶すべく凝視した。
「小嬢さまよ。えらいことじゃ。マンションの中庭で、中学生が自殺しちょりまする」
「そんなの、わかっちょる……」
乙女は、障子のかげで笑った。
「またいつもの源おんちゃんの法螺じゃ。自殺というのに、遺体が仰向けということが、どうしてありましょうぞ」
笑わせてくれる。
名前が、である。
その中学生は、御所の紫晨殿のやぶれ築地に腰をおろし、あごを永正十四年六月二十日の星空にむけながら、夜の涼をとっていた。
「自殺の練習させようぜ」
と中学生はつぶやいた。
弱肉強食、弱者必敗は、社会のルールを守った場合にのみ正当化される。ルールを破った勝者は、敗者が味わった苦痛に倍するサンクションを社会から受けることを余儀なくされる。
司馬さんみたいにお金を稼いであれだけの蔵書があればなぁ・・・
ほんまに。憧れるわ
第38章 東の大灘
寛政11年(1799)冬。
江戸を経由して東廻りで蝦夷地へ向かう嘉兵衛です。
>>522 幸蔵は「新在家の若衆は、わりさまを殺そうと企んでいる」と言っていたよ。
嘉兵衛はその直前に兵庫へ逃げたから難を免れたけどね。
531 :
無名草子さん:2012/07/09(月) 18:20:11.54
田沼意次時代に蝦夷地開発が着手され、次の松平定信が中止したことはわかるのですが、
その後、幕府は再び蝦夷地開発に力を注ぎます。寛政5年に定信が失脚後、蝦夷地開発を
推進した老中は誰なんですか?
>>531 よくわかりませんが、松平定信とともに寛政の改革を進めていた松平信明は、定信失脚後も幕閣の中心
にいましたので、彼ではないかと思われます。
NHKのドラマでは、大和田伸也が演じる松平信明だったね。
原作で活躍する松平忠明は、最上徳内を解雇するときは嫌な奴で、その後江戸で嘉兵衛に会った
ときはいい人になっているから、ドラマには出してもらえなかったな。
ドラマでは雲の上の老中・松平信明が出ていた。
ここから先は、江戸からの東廻り航路にある有名な湊が登場します。まずは銚子湊。
この地の商人・武蔵屋十兵衛が、宮本武蔵と柳生十兵衛を合成したオリキャラであることは言うまでもありません。
「下らない」商品の代表格であった関東の濃口醤油が生き残れたのは、幕府の政策の賜物です。
インフレ防止のために幕府は諸商人に価格引下げを命じますが、野田・銚子の醤油製造業者が
異議を申し立てたところ、幕府は醤油は値下げに及ばずという御触れを出したばかりか、関東
地場の醤油に「最上醤油」の称号まで許してしまったのです。
賄賂贈ったんじゃないの?薄口醤油のほうが旨いでしょ。
銚子の醤油屋 ヤマサ、ヒゲタ、ヤマジュウ、ジガミサ
野田の醤油屋 キッコーマン、キハク、ジョウジュウ
↓ 松岡きっこの写真の股間部分にチンコの絵をマジックで描いて、キッコーマンと叫んで喜んでいた椰子がひとこと
以上、自演である。
>>525 「自殺の練習」で想定していた自殺とは、飛び降り自殺なんだろうな。それで階段や木から飛び降りさせていたんだろう。
アスペルが主人公の小説は思春期にはハマったけど、いい大人になるとチョットね
平凡な自分には感情移入出来ないというか、生き方の参考にならないというか
司馬のでアスペ賛美じゃなく真っ当な主人公のものってありますか?
543 :
無名草子さん:2012/07/10(火) 14:58:48.75
544 :
無名草子さん:2012/07/10(火) 15:05:41.56
545 :
無名草子さん:2012/07/10(火) 15:16:52.34
546 :
無名草子さん:2012/07/10(火) 15:25:10.27
尻屋崎から大畑を経由して大間崎へ。筆者もこのコースは通りました。嘉兵衛と違って陸上のドライブですが。
大間崎の本州最北端の地で、記念に飼い犬におしっこをさせました。
547 :
無名草子さん:2012/07/10(火) 15:41:00.57
野辺地は長崎御用銅である南部銅を出荷する湊として賑わっていた。南部銅の産地・尾去沢銅山は、
「歳月」で江藤新平が井上馨を大蔵大輔の辞職に追い込んだ事件で有名である。
549 :
無名草子さん:2012/07/10(火) 16:12:05.28
金兵衛を除くと他の嘉兵衛の弟たちがまったく登場しなくなったな。それとサトニラさんの息子たちも。
私事になるが、四、五年前までは、正月を京都ですごすのが癖になっていた。
京都に宿をとって、近江に出かける。中毒のようだった。
「来年のお正月は、あれやめませんか」
「なにゆぅてんねん。大津さえ避ければええこちゃろ」
「京都も、宇治も、怖いわ」
「十兵衛、汝はめくらか」
信長のほうが、あきれ顔で光秀をみた。
「いいえ、めくらではござりませぬ」
「それとも悪人に加担する気か」
「悪人とは」
「束麻呂どもよ」
そう言われると、光秀は一言もない。「首を絞めた」の文言に気づかなかったと公言してしまったのだ。
「光秀」
義昭は絶句した。
「わしは確かに信長に内密にせよとは申したが、気づかなかったという申し開きをせよとは命じておらぬぞ。藤孝、信長へは何と申せばよい」
細川藤孝は、肩を落とした。
坂本城主時代の光秀だなw
第39章 転変
寛政12年(1800)。
択捉島の場所請負人になった嘉兵衛は、再び択捉島へ向かいます。
同じころ、東蝦夷地の地図を作るために伊能忠敬が箱館から根室に向かいます。
558 :
無名草子さん:2012/07/11(水) 17:39:03.60
忠敬が伊能家に婿入りするとき、仲介をした庄屋・平山某とあるが、俺様が調べてやったぞ。
平山藤右衛門季忠だ。伊能達<ミチ>の母・民の実兄だ。
伊能忠敬と親しかった金工の名前が二人登場する。
大野弥五郎規貞が父で、大野弥三郎規行はその子だ。
嘉兵衛が伊能忠敬を訪ねたとき、三人の門人が出てくるが、その中の平山宗平は、
>>558の平山藤右衛門季忠の孫だ。
伊能忠敬の師である高橋至時の相弟子・間重富が長崎へ遊学させた弟子の橋本宗吉は、
胡蝶の夢の第5章「春風秋雨」の余談で蘭学の歴史が語られたときに登場した。
傘張り宗吉が、その人である。
この年の七月十一日、信長は暴行事件の捜査のために皇子山御所に踏み込み、義昭に拝謁し、いきなり、
「自儘をなされるな」
と、苦言を呈した。
「河童」
信長は、この次元のちがう会話をくりかえしているのが面倒になったのだろう。やにわに光秀の頭の天辺をつかんでふりまわした。
(うっ)
と、光秀は堪えた。
「汝にわからせるのは、これしかない」
「殿」
「百年、汝と話していても決着はつくまい」
「猿めは」
と、信長はくすくす笑った。
「二、三日でくそガキ三匹を逮捕してみせますると申しおった」
(猿め)
と、光秀は胸中、うめきあげた。
「あれは大気者よ。そちのような陰気者ではない。おそらく二、三日で片づけるだろう」
「上様」
参議になって、信長の尊称がかわった。
「それがしは、間違いなきところを申しあげたばかりでござりまする。いじめと自殺との因果関係は判断できかねまする」
「十兵衛、袂別にきた」
いきなり藤孝は、顔をにがく歪めていった。
「ふむ?」
「ながらく世話になった。思うことあってわしは教育委員会の仕えをやめる」
「いったい、なぜ退隠する」
「わしは秘事を知った」
「たれの」
「束麻呂の。おそろしいことだが、束麻呂は……」
「四面楚歌」
という古代中国の言葉を、光秀はおもいだした。
束麻呂の周囲は、敵軍の軍歌でみちみちている。
束麻呂には自己の地位の安泰を図ろうと企てるボンクラ市教委以外、天下に友軍とする大名は一人もいないのである。
で、続きは?
,. -ー冖'⌒'ー-、
,ノ \
/ ,r‐へへく⌒'¬、 ヽ
{ノ へ.._、 ,,/~` 〉 } ,r=-、
/プ ̄`y'¨Y´ ̄ヽ―}j=く /,ミ=/
ノ /レ'>-〈_ュ`ー‐' リ,イ} 〃 /
/ _勺 イ;;∵r;==、、∴'∵; シ 〃 / ぼ、ぼ、僕はち、地図が好きなんだ
,/ └' ノ \ こ¨` ノ{ー--、〃__/
人__/ー┬ 个-、__,,.. ‐'´ 〃`ァーァー\
. / |/ |::::::|、 〃 /:::::/ ヽ
/ | |::::::|\、_________/' /:::::/〃
「上様、おそれながら」
光秀はうなだれた。
「にがい薬をお飲みあそばすおつもりで、信長の諫言をお受けくださりますように」
「先日の信長よりの書状であれば、スーッと順に見ただけであるから、諫言なぞ見落としたわ」
「上様!」
「光秀、そちゃどちらの家来じゃ」
575 :
足利義昭:2012/07/13(金) 23:21:18.15
今夜の主役は、わしじゃ。
「光秀殿は、どう思われる」
「左様さな」
光秀は、口が重い。かれも「民主教育の再興」という点では自分の情熱をそそぎ入れた甲斐があったと思っているが、当の義昭については、
(こまったお人)
と思うほかない。頭がわるくて、しかも人間が陰気すぎるのである。教育長の位置につく者としてこれほどの不適格者はない。
「大津は?」
と、藤孝は光秀に感想をもとめた。
光秀は首をひねってしばらく考えていた。この光秀という男は、藤孝がこの世に生をうけて以来見つづけてきた人間のなかで群をぬいて秀抜な頭脳をもった男だが、ただ直感力の点ですぐれず、ずいぶん思慮をかさねるくせがあった。
やがて顔をあげたとき、光秀の顔はほとんど桃色といっていいほどに紅潮していた。
「暴力を振るったり、持ち物を壊したことは認めたが、それはいじめとして行ったものではない」
「追え」
と、信長は命じた。ここまで馬鹿が露呈した以上、これで義昭を追放しても世間はそれを諒とするであろう。
義昭は追われ、光秀や藤孝があれほど奔走して再興した「民主教育」はここに滅んだ。その後この義昭は、河内、紀州、備前を転々としたあげく最後には大津に戻り小学校の用務員になったが、すでに政治的には廃人とかわらない。
「被害者に不埒を働いた者は、容赦なく罰する」
と、近藤重蔵は執拗にかれらの耳にたたきこんだ。重蔵は江戸の与力あがりだけに、こういう場合、
若いくせに変にどすのきいた言い方をした。ともかくも被害者に対する苛酷なあつかいは、不心得者
の一人や二人を打首にしてもいじめを断ち切ろうという意気込みが、重蔵だけでなくどの幕吏にもあった。
いじめグループは、暴行だけでなく、被害者宅へ駈けて盗賊も働いたが、しかし大津の町に帰ってくると、得たものはみな散じた。
しかし大方は、生業を持たないために無一文でいることが多く、オナニーをして暇をつぶした。
「こどもはオナニーをする。おとなはセックスをする。どちらもちんこを大きくするためのものだ」
と、いった。
趙高はこの謀議の座長格になった。
「えっ」
胡亥は、肝をつぶしたような顔をした。
「兄上と蒙恬を殺すのか」
「殺すのではございません。遊びでございます」
と、趙高はいった。
大津の三馬鹿は、ついに中国史上屈指の悪人・趙高に比肩されるまでになったか。
感慨深いものがあるな。
この時期、趙高は郎中令というPTA会長の子息のような職にのぼっていた。
皇子山中学の陰キャラとして校内のいじめの面は趙高があますところなく壟断していた。
(趙高は陰キャラであって、人ではない)
と始皇帝は思うようになっていた。
しかし始皇帝の認識では趙高は陰キャラであっても、趙高自身にとっては自分自身が人間であることに変わりがない。
(わしは、PTA会長の息子なのだ)
と、趙高はずっしりとおもっている。
(わしほどえらい者はこの世にいないのではないか)
ともおもっていた。
胡亥が次年度のPTA会長に即位したあと、趙高は新会長に対し、
「会長は安堵なさってはなりませぬ」
と、耳打ちした。
例の秘事は漏れている、と趙高の嗅覚は察していた。
ネットやマスコミのあいだで自殺の秘密がささやかれている、という。
あるいは趙高の不安がつくりあげた幻覚であったかもしれないが、しかし趙高にとって事実そのものよりも不安のほうが重大であった。
586 :
無名草子さん:2012/07/16(月) 23:52:48.01
まだやるのか?
そろそろ菜の花の沖をやりたいんだが……
被害者は三ヵ月は苦しんでいるからな。
タリオの法に従って三ヵ月はやるよ。
尤もオリンピック特赦はあるかもしれん。
悪い兆候だな。
589 :
無名草子さん:2012/07/17(火) 10:43:25.35
中岡は刀をころがして座るや、
「いかんチャ。竜馬、とほうもないことを仕出かしてくれたな」
と、いった。
「ああ、大津市教委へのFAXの一件かいな」
「おおさ。時勢の車輪の前に丸太ン棒をころがすようなことはよせ、
もはや挙兵の時期も目捷にせまっちょる。
大津市教委は武力で倒すほかないぜよ」
パークスの有能さは、土方の親方のような健康さと下品さと怒りっぽさで支えられていた。
腹が立つと、誰かれかまわず品のわるい英語でがなり立てた。
「東洋人を相手にするには、論理よりも、がなり声と鞭と大砲のおどしのほうがわかりが早い」
と信じてきた男だった。
「この国では、その流儀は通らない。しかし教師が相手のときは、その流儀でゆきましょう」
ということを、若いながらもほとんど天才的な情報分析力をもつ通訳官アーネスト・サトウが、
適時、この猪武者のような上役に教育してきた。
パークスという男は被害者家族のような自尊心に満ちた相手に対しては礼儀ある態度をとり、
同じ日本人でも事実を隠蔽するような交渉相手には悪鬼羅刹のような態度をとるらしい。
被害者の父親が帰ったあと、大津市教委から事務局の平山図書頭がやってきた。
サトウなどの若い館員たちが、「河童」と呼んで軽蔑している幕吏である。
要領よく教員になったかもしれないが無能でずるくてつねに哀れっぽい。
慶喜着座。
小松、後藤、福岡、辻は平伏している。仰ぎ見ることはできない。
小松はいう。いま因果関係を否認しても、アンケート結果を警察が押収した以上、
損害賠償請求が棄却されることはあり得ない。
大津市に第三者委員会ができ、世論が鎮静化した四ヵ月後に調査報告を提出するまで、
反省したふりをしていれば、懲戒免職を免れ退職金を丸取りできようかと存じまする、といった。
「もっともなことである」
慶喜は、うなずいた。
「竜馬、料簡しつくれ」
菅野覚兵衛はいった。沢村を殺すことを、である。
菅野も石田も、竜馬がはっとするほどのすさまじい顔つきになっている。
土佐郷士の上士への恨みの根のふかさはもはや異常といっていい。
「待ちや」
「止めるな、竜馬」
「そうではない。沢村惣之丞は上士やないきに。おまんらが殺すんは、後藤象二郎の間違いじゃ」
この前後、勝が書いた日記では、
「当此時、大津、当月○日、中学生殺戮の挙あり。束麻呂輩、興の余、無辜を殺す」
とある。幕臣たちはことごとく殺害の事実を隠蔽しようとしたが、勝のみは不快とした。
「馬鹿が教育を滅ぼす」
と、勝は、自分が幕臣でしかも軍艦奉行でないならば叫んだであろう。
「竜さんえ」
と、勝は、河の流れを指さした。
「流燈が、ながれている」
なるほど、いじめにより殺された者の霊をなぐさめる流燈が点々と川をながれてゆく。
考えてみると、盂蘭盆はとっくに過ぎている。
川上の村々から流されたものか、まるで、大津で多数殺されたいじめられっ子たちの霊が、川波にただよっているようであった。
596 :
無名草子さん:2012/07/19(木) 14:24:13.52
大津いじめ事件ばかりネタにされているから、菜の花の沖の人たちがこなくなっちゃったな。
竜馬は、十二になっても寝小便をするくせがなおらず、
近所のこどもたちから「坂本のよばあったれ」とからかわれた。
しかし、血が出るまで乳首を強くつままれたことはない。
「そぎゃん変態は、土佐にはおらんぜよ」
『週刊新潮』を読んだ。改めて怒りがこみ上げてきたわ。
1対1の喧嘩で傷害したのなら少年法でもいいかなと思うが、
多数をたのんでのリンチ。許せんな。死刑でも足りない。
こんな派手な暴力があったのに、気づかなかったという教師たち。めくらかいな?
針で両目を突いて、ほんまにめくらにしたれや。
菜の花の沖の高田屋嘉兵衛も酷いいじめにあってたよな
嘉兵衛はどうやって克服したのか大分前に読んだので覚えてない
司馬のいじめ論みたいなのもあったような
確かいじめは日本の文化だとかなんとか
嘉兵衛は、いま何をしているんですか?
602 :
無名草子さん:2012/07/21(土) 09:55:15.95
ツカマロウとコウチャンに乳首をつねられている。
>>596 豪雨被害のため、避難所へ疎開しておりました。月曜日から再開します。
605 :
無名草子さん:2012/07/23(月) 04:09:38.79
菜の花の沖の再開を寿ぎます。
第40章 択捉十五万石
寛政12年(1800)〜享和元年(1801)春までの嘉兵衛です。
幕府の蝦夷地定御雇船頭となり、択捉島開発に本格的に乗り出します。
塩引紅鱒の話のところで、「高田屋の経木」が出てくる。ここでいう経木は記録媒体としての経木
であって、刺身の包装に使われていた経木のことではない。
羽太正養の羽太家の出身地・三河国額田郡大門村は、現在、岡崎市大門町。
帆柱材では最高とされる熊野北山川の杉。北山川は観光筏下りで有名なところ。
薩摩白樫に次いで優良な舵材とされる日向美々津産の赤樫。
日向美々津は西南戦争の舞台のひとつなので、『翔ぶが如く』にも登場する地名である。
612 :
無名草子さん:2012/07/23(月) 18:43:03.87
大坂の川奉行の話が出たところで、「大坂侍」の主人公・川同心の鳥居又七を思い出した。
『大坂侍』はドラマ化されたことはないが、宝塚歌劇の舞台で上演されたことがあるらしい。
そのビデオは、タカラヅカ・スカイ・ステージで観れるらしいのだが、観方がわからん。
614 :
無名草子さん:2012/07/23(月) 22:50:07.82
大津の憲帝、名は次、かれは沢村という小さな村で生まれた。
憲帝は、なんとなく存在していた教育委員会というあいまいな制度を一掃した。
それにかわるに、中央集権というふしぎな機構をもちこみ、教育行政が司法権をも行使するという体制を確立した。
かれは、いじめと自殺の因果関係を自ら判断した。
615 :
無名草子さん:2012/07/23(月) 22:59:47.41
「ただ一人が、億兆の生徒を所有している」
というかれの権力思想は、具体的には無数の生徒を自殺に追い込むということでもあった。
かれは自殺者がでるたびにアンケートを採ったが、その内容に目を通したことはなかった。
この皇帝制度の創始者は、ひどく視察旅行を好んだ。
「――あんなやつが」
教育長か――と、その在任中、視察旅行中のかれを路傍で見た多くの者がおもったのは、
かれが一度として記者会見でまともな受け答えができなかったことを侮蔑する感情もあったであろう。
しかし一方、かれのしていることが、加害者の少年を利する結果にしかなっていないことに対する義憤もあった。
第41章 林蔵
享和元年(1801)。
嘉兵衛、ウルップ島探検。間宮林蔵、登場。
享和は、寛政と文化の間に挟まれた目立たない年号で、3年ほどで文化に改元される。
寛政13年(1801)2月5日・・・享和に改元
享和4年(1804)2月11日・・・文化に改元
享和元年に本居宣長が死去。享年71歳。
享和3年に前野良沢が死去。享年80歳。
この時代の天皇は光格天皇。将軍は徳川家斉。
津軽半島の三厩は、義経北行伝説の地。
勘定奉行・石川忠房が登場したところで、勘定奉行配下の切手米手形奉行という役職が出てくる。
蔵屋敷が蔵米の所有者に発行した「米切手」に関する役職であろう。米切手に関する争訟を扱って
いたのだろうか。米切手は流通証券としての性格を持ち、為替の代用品として支払に利用されたり
転売が行われていた。現代の倉荷証券のようなもの。
その石川忠房は旗本・伊丹氏からの養子であるが、戦国期の伊丹城主の伊丹氏の家系とは
別の系統。いちおう同族ではあるらしい。
石川忠房は根室でラクスマンとの交渉に当たった官吏であるから、映画「おろしや国酔夢譚」で
配役されているかと思ったら、いなかった。
水主の磯吉は、米山望文。
石川忠房が将軍手ずから賜った銘刀則光は、備前長船の名工。
工楽松右衛門の施工した港湾整備については、この作品には、箱館と高砂しか紹介されて
いないが、備後鞆港の防波堤もそう。これは現存。
627 :
無名草子さん:2012/07/24(火) 16:30:09.70
最上徳内を罷免したときの松平忠明はいやな奴だったのに、後日、嘉兵衛と関係が深く
なるに従い、徐々にいい人に変ってきているのが気持ち悪いです ><
間宮林蔵は登場するにはするが、この時点では若くて、村上島之允の門人というにすぎない。
まったく活躍しない。
>>627 松平忠明は本当にウルップ島を探検したのだろうか。享和元年のウルップ島探検隊の隊長は
富山元十郎とする資料が多い。
本文にも出てきた「天地長久大日本属島」の標柱を立てたのも、富山元十郎とする資料が多い。
上司である松平忠明を差し置いて富山元十郎の名前が出てくるということは、松平忠明はウルップ島へ
行ってないんじゃないの?
蝦夷地開拓に従事する幕臣はみんないい人ということになっているんだよね。
誰かひとりぐらい嫌らしい人がいてもよかったのに。松平忠明は、いい感じで
嫌な人路線を歩んでいたのに、富山元十郎を小説から追い出してまで、いい人
にする必要ないのにね。
第42章 高田屋雑記
この章は特殊な章で、享和元年から嘉兵衛の死までの出来事が駆け足で語られます。
ネタバレになりますが、次に嘉兵衛が登場するのは第49章「嘉兵衛船」で、その間
嘉兵衛はまったく登場せず、文化8年(1811)のゴローニン事件に至る経緯がロシア側
の視点で延々と語られます。その前に、ゴローニン事件を除いた嘉兵衛の今後が
大急ぎで語られたのが本章です。
函館へゆくと、旧ロシア領事館という建物があるが、本文にもあるように明治40年の函館大火で、
教会のみならず、旧領事館も焼失した。現在あるものは、地元の棟梁・佐藤誠が焼失以前の設計図
に基づき再建したものである。
聖堂の再建に献金したというナスタアシアについて調べようとしたが、ロシア人と日本人の
ハーフである川村カオリという歌手の話しか出てこない。
どうやら、この歌手の聖名がアナスタシアというらしい。よって、不明でした。
ギリシア正教がロシアに伝わった時期を、司馬さんは「キエフ政権時代」と言っておられますが、
世界史の試験では「キエフ大公国」と解答するようにしてください。
ちなみに「キエフ公国」は、時期的には「大公国」よりも後の国です。「キエフ公国」と解答すると
間違いですので注意してください。
635 :
無名草子さん:2012/07/25(水) 15:46:16.75
637 :
無名草子さん:2012/07/25(水) 16:49:26.60
>>462 NHKのドラマは、後半になっても正岡律を登場させることで、上手く連続性を持たせていたと思う。
田舎出身の律と都会出身の秋山真之の妻・季子が、魚をおろすシーンは面白かった。
あれは司馬さんの原作にはなくて、子規が「墨汁一滴」で書いていることを素材にして
脚色した出色のシーンだと思う。
>>637 「坂の上の雲」にはない場面だけど、「この国のかたち 六」の「言語についての感想」という
評論で、「墨汁一滴」のその話を引用しているよ。もちろん律と季子のエピソードではない。
同じ箇所に、漱石が稲穂を見て、それが毎日食べている米であることを知らなかったという
話も出てきて、なかなか面白いよ。
深芳野を得てからあとの校長は、ただ一つの仕事にうちこんだ。
いじめ事件の隠蔽である。
校長の軽トラは、今日も軽快に走った。
「校長、ご遺族に謝罪はなさらないのですか?」
「自殺の練習というのは、マスコミの流したデマです」
群衆は、一瞬、息をのんだ。
たった一言が、これほどの力で歴史を変えたことは例がないであろう。
「自殺したのではござりませぬ」
と、長井隼人佐道利は言ったのである。
だけではない。
「鷺山の校長は、お屋形さまのご実父ではござりませぬ」
「ま、まことか」
と、義龍は、全身の血の流れがとまり、手の先まで真蒼になった。
「隼人佐、念をおす。この一件、まことであろうな」
「手前のみが申しておるのではござりませぬ。
美濃国中で、知らぬはお屋形さまのみ、と申してもよき公然たる秘事でござりまする」
「事実ならば、鷺山殿は教育者とは名ばかり、被害者の仇ではないか」
「左様」
とはいわず、密告者の長井道利は事の重大さに小さな肩をふるわせて平伏している。
校長が斎藤道三なのはわかるけど、
教育長は前は足利義昭だったのに最近は始皇帝なんだな。
「学校中のいじめられっ子をみんな?」
「はい。自殺の練習をさせて、耳たぶを切りとって、むしろの上で乾かせて、集めて、
坂本さまのために耳たぶの枕をつくりたいんです」
「えっ」
お登勢は、もううろたえてしまった。
枕一個をつくるのに、皇子山中学のいじめられっ子がいっぺんになくなってしまうではないか。
「あんた。……」
お登勢は、がっくり力がなくなった。
「ばれたら、どうすんのさ」
お登勢はすっかり蒼ざめている。
「学校側の調査は憶測に基づくもの。坂本さまが自殺したら、どう責任をとるつもりか、
と大騒ぎして、校門前でビラを配ります」
地域の皆様へ
ここ一月ばかりの学校側の対応に問題があるのは確かだが、
事件を大きくしたのは、加害者の親の猛烈なクレームに学校側が全面的に屈服した点にあるな。
加害者親の背後には恐ろしい組織ないし有力者がいるのか?
非公式・非公開の紛争解決が好まれたかつての日本社会とはちがい、
隣人どうしの紛争においても訴訟で解決するケースが増えてくると、
大津いじめ事件の加害者の保護者のような腹立たしい被告の言動に接する機会が多くなりそうである。
我々はそのことを覚悟しておかねばならない。
訴訟が紛争解決の中心になる前に、我々がやっておかねばならないことは、被害者の権利の確立である。
「息子は友情を知っています」
ここ笑うところですか?
ツァーカマロの帝権はすさまじいほどに古代的な力をもっていた。
小さな例をあげれば、かれが若い頃、例のヨーロッパ視察団にみずから加わって
各国を歴訪したとき、コペンハーゲンに滞在した。
ある日、デンマーク王からそのマンションに招待され、
14階に登ったとき、ツァーカマロは不意に従者のコサックをかえり見て、
「お前、ここから飛び降りろ」
と命じた。
案内者のデンマーク王は、息がとまるほどに驚いた、という。
第43章 ロシア事情
本章の主役は、ピョートル大帝とエカテリーナ二世。エカテリーナ時代にロシアまで漂流した
大黒屋光太夫が、三人目の主役です。
ゴローニン事件に至るまでの日露の接触が、ここから数章にわたって展開されます。
嘉兵衛はまったく登場しません。司馬作品の中では、もっとも膨大な余談の始まりです。
背景事情を語るときに、ロシア国家の始まりまで遡る。
う〜む、なんか『坂の上の雲』でもやったような気が・・・。
652 :
無名草子さん:2012/07/28(土) 17:23:54.74
スタート地点は同じだけど、坂の上は政治・軍事の余談が中心、菜の花の沖は
通商問題が中心なんで、内容はかなり違うよ。
「日本の六、七世紀の飛鳥・奈良朝などの時代」とあるが、平城京遷都は8世紀(710年)なので、
正しくは「七、八世紀」。
654 :
無名草子さん:2012/07/28(土) 18:59:42.38
いま「竜馬がゆく」を読んでいるんだが、コバエが本の上を歩いているときに閉じてしまうと
ど根性ガエルのようにページに貼りついてしまう。
コバエホイホイをセットしたが、まだ一匹もとれない。その間に、両手でパッチンして3匹
殺した。アースよりも俺のほうがすごいじゃん。
>>654 コバエは、発見すると完全に撲滅するまで戦いたくなる虫だよな。
本のページに押しつぶされたコバエを見るのは、ほんと嫌ですね。
私がテーブルに置いているコバエ・ホイホイには、現在2匹はいっています。
間抜けなコバエが無様な死骸を晒している姿を見るのは、気分がいいです。
ステンカ・ラージンが処刑されたクライスナヤとは、クラースナヤ・プローシシャチつまり
モスクワの「赤の広場」のこと。
毛皮税<ヤサク>を、司馬さんはモンゴル語としているが、モンゴル語の「ヤサ」もしくは
「ヤサク」「ジャサク」は、規範の意味。不文法。軍律を主としていたものと思われる。
ピョートルが貴族たちにエチケットについて注文しているので紹介しておく。
人前でつばをはかないこと
音を立てて鼻をかまないこと
指で鼻くそをほじくらないこと
食後に手で口をぬぐわないこと
ナイフで歯の掃除をしないこと
食事中に豚のように口をならさないこと
/ ̄ ̄ ̄ \ ホジホジ
/ ― ― \
/ (●) (●) \
| (__人__) | 指で鼻くそをほじくらないこと
\ mj |⌒´ /
〈__ノ
ノ ノ
ロシアの千島(クリル)諸島侵略の開始が、1713年のワシリイ・コレソフの探検からと書かれているが、
1711年の誤り。ワシリイ・コレソフというのは誰なんだろう?千島へ来たのは、アンツィフェーロフと
コズイレフスキーである。
ナルヴァの戦いやポルタヴァの戦いを含むロシアとスウェーデンの戦いを、大北方戦争という。
1714年にロシア艦隊がスウェーデン艦隊を打ち破ってバルト海の制海権を確立した海戦は、
ハゲの戦いという。
664 :
無名草子さん:2012/07/30(月) 15:05:48.18
大坂谷町の質屋伝兵衛とピョートルの出会いについての叙述は面白かった。
「大坂」の地名はロシア人の耳には“ウザカ”と聞こえたらしい。
ウザカ大阪で笑ってしまった。
シベリア流刑はピョートル大帝が創始したように書かれているが、制度そのものは
モスクワ大公イワン3世の時代(1462‐1505)から存在した。もっともシベリア流刑が
激増するのはシベリア開発に力が入った18世紀からなので、間違いというほどの
ことではない。
大黒屋光太夫の陳述を基礎に「北槎聞略」を著した桂川甫周は、「解体新書」の翻訳メンバー
でもある。このことは『胡蝶の夢』第5章「春風秋雨」に書かれている。
「北槎異聞」で光太夫と磯吉からロシア事情の聞き取りをした中川忠英は、小栗上野介忠順の祖父。
シベリア抑留を経験された加藤九祚氏については、『歴史の世界から』に「加藤九祚さんの学問と人間」
という評論がある。
672 :
無名草子さん:2012/07/30(月) 17:55:10.94
どうして重箱の隅をつつくような話ばかりするんだ?
菜の花の沖の本筋に沿った話をしてくれんか?
あまり使われない人名が二つばかりあったので、念のために・・・
シビル汗国を攻撃した“エルマク” ・・・ イェルマーク
喜望峰の発見者“ディアシュ” ・・・ (英語名)バーソロミュー・ディアス
676 :
無名草子さん:2012/07/30(月) 22:47:45.08
オリンピックねたはないのか?
第44章 続・ロシア事情
アダム・ラクスマンの帰国後、エカテリーナ二世とシェリコフが亡くなります。
この章から、ロシアにおける時間が、嘉兵衛と同時代になります。
レザノフとクルーゼンシュテルンの日本への航海は、享和3年(1803)です。
クルーゼンシュテルンは、この航海で「日本海」を通り、のちに彼が作成した地図には
「日本海」を "MER DU JAPON" と記した。「日本海」を最初に命名した人物である。
ロシアに漂流した石巻の水主・津太夫らに関する史跡も、震災でやられてしまったかね。
津太夫たちがアレクサンドル二世とともに熱気球の飛行を見学した話に関連して熱気球の
歴史が書かれているが、誤りが多い。
まず、発明者であるリヨンの製紙業者の兄弟というのは、モンゴルフィエ兄弟であるが、
有人飛行に初めて成功したのも、この兄弟である。
その気球に乗ったのが、この作品でいうロージェ[ピラトール・ド・ロジェ]とフランソワ・ダルランド侯爵
の二人である。
なお、ピラトール・ド・ロジェが自ら製作した気球で飛行したのは本当の話であるが、翌々年
1785年6月15日に自らが考案した新型気球でドーバー海峡を飛行試験中、水素に引火した爆発で
同乗者のジュール・ロマンとともに墜落死し人類初の気球による死者となった。
「その後、ほどなくイギリス人が水素ガスを用いた」とあるが、ここでいう「その」は、
モンゴルフィエ兄弟の有人飛行の成功を指している。ピラートル・ド・ロジェの
ドーバー海峡横断飛行は、水素ガス気球の試験飛行の後である。
なお、この「イギリス人」は、ジャック・シャルルのことであり、名前からわかるとおり
イギリス人ではなくフランス人である。
685 :
無名草子さん:2012/07/31(火) 18:43:56.08
>>684 そうすると、その次に書いてある「ヨーロッパは相互模倣の文化圏」という叙述も
嘘になりますね。熱気球に関しては、イギリス人は特に何もしていないんでしょう?
イギリスは鉛の飛行船
>>683 お前も間違えているだろうw
アレクサンドル二世ではなく、一世だよw
1709年: 神父バルトロメウ・デ・グスマンがポルトガルで熱気球(実用模型)の実験を行うが、異端として告発される。
↑本作品に記載なし
1783年6月5日: モンゴルフィエ兄弟が無人の熱気球の実験成功。
↑羊、鶏、あひる
1783年8月27日: ジャック・シャルルが水素を使った無人のガス気球の飛行実験に成功。
↑イギリス人ではなくフランス人
1783年11月: モンゴルフィエ兄弟が熱気球の有人飛行に成功。
↑ピラートル・ド・ロジェは乗っただけ
1785年6月: フランス人ピラートル・ド・ロジェとジュール・ローマンが新型気球(現代のロジェ気球の原点)で
ドーバー海峡横断を試みたが、上空で気球が爆発し二人とも事故死する。(人類最初の航空事故)
中日新聞ほどネットにおける大津いじめ事件の評判を気にする新聞はなかった。
気にするというその内容は、どちらかといえば被害者の名誉よりも、加害者の名誉
の場合である比重のほうが重かった。
――加害者は人殺しである。
と、日本中の人間が、夜の食卓でひそひそと語っているのではないかという妄想を、
あるいはいつも上衣の隠しに入れているのではないかと思えるほどであった。
690 :
無名草子さん:2012/08/01(水) 16:56:13.67
>>654 見た目は良くないが、むかしながらのハエとりリボンが最強だと思う。
設置後30分以内に大バエ、小バエともにほぼ全滅。
人類と蠅の戦いの歴史上大きな転機となったのが、カモ井加工紙が昭和五年(1930年)に
発明した天井吊り下げタイプの蠅取りリボンの発明である。それまで海外で使用されていた
タイプは平紙状の粘着・誘引シートを設置するだけという素朴なものであった。筆者の少年
時代は“とりもち”と呼ばれ、竹竿の先につけて蝉の採取に使われた。
粘着技術で、人・暮らし・未来を拓く――
すごいキャッチ・コピーだな。
695 :
無名草子さん:2012/08/02(木) 17:34:03.50
もっとも、自殺原因の解明に学校側が無為であったわけではない。大津市教委はアンケート調査
によって真相解明を助力した。しかし実意のないこの種の援助というものは、
「調査してやった」
というだけのことで、在校生に手間をかけたわりには、ロシア側の感激までは引き出すことは
できなかった。
むしろ、レザノフは、憎しみをこめて、艦上から大津の山や町、あるいは水面を漕ぎまわる小舟
などを眺めつづけたはずである。
「一発、やってやるか」
と、暴力によって自分の感情を鎮めたいという衝動が、レザノフをとらえていたことは、のちの彼の
行動からみても、あきらかであったといっていい。
第45章 レザノフ記
文化元年(1804)、レザノフのナジェージタ号が長崎に到着した。
ズーフ・ハルマで有名なオランダ商館長のドゥーフは、幕末モノの蘭学関係の余談で
頻繁に登場する名前なんだが、本人が小説の登場人物になったのは、司馬作品では
「菜の花の沖」だけ。
1810年、フランスに併合されたオランダ(ホラント王国)の王ルイ・ナポレオンは、
ナポレオン三世の父(と言われている)。
699 :
無名草子さん:2012/08/02(木) 19:27:03.69
700 :
無名草子さん:2012/08/02(木) 19:36:13.58
>>532-534 小説では、この章をはじめとして、老中筆頭の戸田氏教(大垣藩主)の名前しか出てこないよ。
>>700 寛政五年(1793)に松平定信が老中を罷免された後も、寛政の改革は定信グループにより続けられた。
グループの主だった人物は、老中・松平信明(のぶあきら)・本多忠籌(ただかず)・戸田氏教(うじのり)ら。
その中心は松平信明。原作よりもドラマが史実に近い。
702 :
無名草子さん:2012/08/02(木) 23:06:15.99
鎖国はキモい。
司馬の文章っ格好つけすぎてて恥ずかしくなってくる
飾らない無駄のない文章の歴史小説かって誰かしらない?
子母澤寛はどう?
台詞ばかりだから飾り気ないよ
ヒント:大長編 1000枠
遠山景晋の長男とされている遠山景善について
この作品の叙述からすると、遠山景善と遠山景元(映画・ドラマでおなじみの金さん)は、
血のつながった兄弟のように読めるが、そうではない。
遠山景善の実父・景好が景晋を養子にした後に、景好の実子・景善が生まれた。すでに
景晋を世継ぎに定めていた景好は、景善を義兄・景晋の養子にした。
ところがその後、景晋に実子・景元(金さん)が生まれた。そこで、景晋は、実子・景元を
養子・景善の養子にした。つまり、景晋の実子・景元は、法律上、景晋の孫ということに
なってしまった。景元が放蕩生活を送ったのは、この複雑な家庭環境が原因といわれている。
(註) |実子 ‖養子
〔自然血族〕
景好 景晋
| |
景善 景元
〔法定血族〕
景好
‖
景晋…義兄弟…景善
‖
景元
レザノフが上陸を許された梅ヶ崎は、現在の長崎市梅香崎町であろうと思う。
クルーゼンシュテルンの世界就航記を翻訳した青地林宗の長女は、坪井信道に嫁いでいる。
坪井信道は松本良順の蘭学の師であるため、「胡蝶の夢」に登場する。
シーボルト事件の原因となった日本地図等の持ち出しに高橋景保が関係していることは
この作品にも書かれているが、詳細は「胡蝶の夢」第23章「崎陽の雲」を参照せよ。
そこでは、景保は高橋作左衛門の名で登場している。
景保の父・高橋至時<よしとき>は、本作品の第39章「変転」の余談のなかで登場する。
伊能忠敬の師匠である。
ニイニイゼミの種名kaempfen というのは、江戸時代に日本の長崎出島にやってきた
医師Kaempferの名前をつけたものである。Kaempferは長崎の出島でニイニイゼミを発見した。
本章で紹介されているクルーゼンシュテルンの著書に名前が出てくるケンプェル(1651−1716)が、その人である。
チ〜〜〜
ジ〜〜〜
チ〜〜〜〜
o=¥=o
~\ハ――ハ/~
∧ヘ三/∧
ノ||メ∀メY|ヽ
/|乂王乂|ヽ
|YY水YY|
VY人YV
V V
714 :
無名草子さん:2012/08/03(金) 15:42:06.38
>>712 その本に出てくるもうひとりの植物学者ツンベリを探せないのですが、どういう人なんですか?
>>714 スウェーデン語がマイナーな言語であるため、翻訳者が好き勝手に読んで表記しているため、
おびただしい数の訳語がある。スウェーデン語に近い発音表記は、トゥーンベリであるが、
ドイツ語風にツンベルクと表記するものが多い。
(註) |実子 ‖養子
〔自然血族〕
景好 景晋
| |
景善 景元
〔法定血族1〕
景好
‖
景晋…義兄弟…景善
‖
景元
〔法定血族2〕
景好
‖
景晋
‖
景善 …景好の実子。景晋の義弟であったものを景晋の養子にした。
‖
景元 …景晋の実子。景晋の養子・景善の養子にした。遠山の金さん。
717 :
無名草子さん:2012/08/03(金) 20:11:18.80
>>680 この作品は、日本海vs東海の話題に触れていないね。
当時は話題にする者がいなかったからな。
719 :
無名草子さん:2012/08/04(土) 17:39:30.47
>>713 さっき神社の境内を歩いていたら、セミに体当たりされてしまった。
戦国のころ、伊賀甲賀の忍び仲間のあいだで、
「伊賀の三鬼」と呼ばれた三人のいじめっ子がいたそうである。
忍者のならいで、本姓は定かでなく、その異名だけが残っている。
列記すると、
A
B
C
である。
721 :
無名草子さん:2012/08/09(木) 17:36:02.14
翔ぶが如く読んでるけど、余談が多いねw
坂の上の雲も多くて、途中で投げたけど、これも投げるかも、、
他の長編は世に棲む日日しか読んだことないけど、あれは一気に読めたんだけどな
>>721 翔ぶが如くは同じ余談が何度も出てくるのでかなり難儀した
作者は呆けて自分の書いたこと忘れてるに違いないと思ったわ
余談のまとめ集のような『この国のかたち』になると、
7割以上が他で読んだことのある話だな。
大家と呼ばれるようになってからの作品は面白くない。雑な感じがしても初期作品のほうが面白いよ!
司馬は終始、悪い意味で「元新聞会社社員」
文学ではないことは、自ら「小説」ということで自供している
もっとも、それ以前の山岡あたりの作品は
ダラダラ長いだけで、途中で読む意欲がそがれる
自分の好みの話ってことかも知れないが
隆さんくらいかな、最後まで読ませてくれるのは…
文学と小説の違いってなんだ?
セリフが多いのが文学、余談が多いのが小説か
言葉(文字)をもって相手の脳裏に風景を描かせるのが文学だと思う
司馬のは道路地図で説明受けている感がある
チラシの裏
オリンピックが終了したので再開します。
>>726 ×説明
○思い込みによる間違いが非常に多くて聞く価値が無いどころかむしろ害にしかならない年寄りの説教
第46章 カラフト記
クルーゼンシュテルン航海の続き。文化2年(1805)。ナジェージタ号は樺太に向かいます。
樺太が半島ではなく島であることが確認されたのは文化5年(1808)の間宮林蔵の全島踏査によると述べられているが、
同じ章のもう少し後のページでは、林蔵の全島踏査は1809年と述べられている。
文学は金にならない、金になるのが小説
732 :
無名草子さん:2012/08/15(水) 09:06:30.66
何か怨みでもあるのか司馬は鳥取県人に容赦なしだよ
お腹が空いたからって人間まで食ったのは鳥取県人だけだよ
記録に残っているから、言われてもしかたね〜よなっ
ってのが司馬小説の真髄
“サハリン”の語源は、この作品に書かれているとおり。
21世紀研究会編「地名の世界地図」(文春新書)の“樺太”の語源についての記述は笑えるので掲げておく。
「樺太」の語源は「江戸時代、ここに中国人が多く住んでいたので唐人(からと)とよばれていた」から(p76)。
735 :
無名草子さん:2012/08/15(水) 15:57:34.93
樺太場所の請負商人、伊勢丸と祥瑞丸の船主でもある柴屋長太夫は、
大塩平八郎の門人の中にもその名前が出てくるのだが、同一人物なのであろうか?
>>735 大塩平八郎の生年が1793年。柴屋長太夫は36歳で大塩平八郎の門人となっている。
その年、平八郎は40歳なので、長太夫よりは4歳の年長。
そうするとクルーゼンシュテルンが伊勢丸を追跡した文化2年(1805)当時、長太夫は
8歳ということになる。8歳で場所請負は無理だろう。この作品に登場する長太夫の
子か孫にあたる人物ではなかろうか。
737 :
735:2012/08/15(水) 16:07:08.05
>>736 小学校の算数の問題で、こういうのがあったなw
翔ぶが如く、早くも二巻の後半で倦んできたw
厳しい戦いになりそうだ
講談社でやめとかナイト
741 :
無名草子さん:2012/08/16(木) 14:13:48.88
>>729 ロシア人ばかりで日本人がまったく登場しなくなったな。
大津市役所の会見場においては、沢村の印象は、多くは学校と市教委に都合のよい
話だけをする役人として後世に伝わっている。
さらに暴漢に対して一太刀も報いなかったということで、世論は、戻ってきた沢村に対し、
冷たかった。かれは吟味の席上、「たしかに逃げたには相違ない」と認めつつも、
「しかし、その理由は、薄手とはいえ、頭部に傷を受けたためだ」
という意味のことを述べた。これに対し、吟味方のひとりが、
「にせ傷であろう。わざとつけたものであろう」
と、嫌がらせを言っている。
第47章 暴走記
文化2年(1805)。セルーゼンシュテルンと別れたレザノフは、樺太襲撃の準備を始める。
文化3年〜4年(1806−07)。いわゆるフヴォストフ事件勃発。
樺太をはじめ、択捉島、利尻島などがフヴォストフに襲撃される。
クルーゼンシュテルンの誤植を訂正しようとして、誤ってメールをクリックしてしまいました。失礼。
嘉兵衛は登場しないけど、間宮林蔵が出てくる。久しぶりに、この小説の登場人物が出てきた。
劫掠に司馬さんは<きょうりゃく>というふりがなを当てているが、かなり古い読み方。
いまは<ごうりゃく>と読む人が多い。
レザノフはバラノフ島でジョン・ド・ウォルフからユノナ号を買う。
この島名がアレクサンドル・バラノフに由来することは本文にある通りである。
ここからは本文には書かれていないが、アレクサンドル・バラノフは露米会社の支配人。
彼を支配人にしたのは、ほかならぬレザノフである。
748 :
無名草子さん:2012/08/16(木) 17:29:02.05
>>743 フヴォストフ事件と文化露寇は、同じ事件なんですか?
>>748 そのとおりです。しかしながら、フヴォストフ事件も文化露寇も、高校日本史では教えない
ようですね。レザノフの長崎来航やフェートン号事件は頻出事項なんですが。
日本人=侵略者の洗脳をすることに必死なもんで、日本が侵略された話はスルーです。
フヴォストフの海賊行為に関する余談のなかにフランシス・ドレーク(1545−96)が登場する。
ドレークは『この国のかたち』の「歴史のなかの海軍」にも名前が出てくるが、そこでは
ドレークではなくドレイクだった。
紗那事件の描写は面白いな。
平和ボケは戦後特有のものではなくて、江戸時代から続く遺伝だな。
レザノフ、フヴォストフ、ダヴィドフ、三人とも変な死に方しているね。
754 :
無名草子さん:2012/08/17(金) 14:15:10.37
>>753 他国の領海・領土を侵した人物は、ろくな死に方をしないよ。
>>741 嘉兵衛と直接かかわりがあるのは、ゴローニンとリコルドのディアナ号だけなんだよな。
ゴローニンが幽囚されるはめになったのは、フォボストフ事件が関連するということで、
レザノフの来日が語られた。レザノフの来日に関連するということでラクスマンと大黒屋
光太夫が語られた。ここまでくると関連は薄いから簡単に紹介すればよいものを詳細を
極めた。それ以前のピョートルやキエフ大公国の話になると、まあいつもの癖というしかない。
もう少しの辛抱だ。司馬作品史上、もっとも長い予断が、あと一章で終わる。
単行本、文庫本の第5巻は、ほぼすべてがロシア事情の余談で埋め尽くされているからな。
しかも、リコルドの登場シーンよりもレザノフの登場シーンのほうが長いww
>>754 韓国・中国は過去と向き合う姿勢を考えたほうがいいよ。
50年前の日本人のようだ。みっともないよ。
>>758 香港の活動家の発言が昔の新左翼の立て看に書いてあったことと同じなので笑える。
760 :
無名草子さん:2012/08/20(月) 15:08:25.86
「馬鹿ときちがいほど怖いものはない」
…台詞にしても司馬爺言いすぎ
第48章 ゴローニン
文化4年(1807)〜文化9年(1812)。
ゴローニンがディアナ号で世界周航をするためクロンシュタット軍港を出港した文化4年(1807)から、
国後島で捕縛された文化8年(1811)をはさんで、リコルドが再度国後島を訪れる文化9年(1812)までのお話です。
762 :
無名草子さん:2012/08/20(月) 17:38:29.55
文化4年(1807)5月の北辺警備の強化は、秋田藩と仙台藩にだけ命じられたように
書かれていますが、会津藩にも命じられましたよね?
(ゴローニンは)九歳で両親をうしない、孤児になった。かれの家は親類に有力者をまったく
もたない家で、頼るべき保護者ももたなかった。
この孤児が十三歳になったとき、親族の者がそこ(クロンシュタット海軍幼年団)へ入れた。
…保護者いるじゃんwww
ゴローニンが15歳で初陣をかざったスウェーデン艦隊との戦いとは、
第一次ロシア・スウェーデン戦争(1788年−90年)の最後の決戦である
スヴェンスクスンドの海戦(1790年)であろうと思われる。
>>765 ゴローニンの生年は1776年なんで、司馬さんのいわれる15歳を足すと、1791年になるんだよな。
しかし、それだと第一次ロシア・スウェーデン戦争(1788年−90年)の終了後ということになる。
_,====ミミミヽ、
,,==≡ミヽミヾミミミ、ヾ、
_=≡≡三ミミミ ミミヾ、ソ)),,》 .
彡彡二二三≡ミ-_ ミミ|ノノj )||ヽ, )、
__,,,,,,,,,/彡二二二 ,- __ミ|/ノ ノノノノ) ||
-=二ミミミミ----==--'彡 ∠ミミ_ソノノノノ ノ
//>=''"二二=-'"_/ ノ''''')λ彡/
,,/ ̄''l 彡/-'''"" ̄-=彡彡/ ,,-''",,,,,,,ノ .彡''"
(, ,--( 彡 ,,-- ===彡彡彡"_,-_ ヽ Υ
ヾ-( r'''''\ //=二二''''''彡ソ ̄ ∠__\ .\ソ .|
\;;;; \ Ζ彡≡彡-'''',r-、> l_"t。ミ\ノ,,r-v / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\;;;; \ 彡""彡彡-//ヽ" ''''''"" ̄'''""(エア/ / ゴローニン
\;; \'''''')彡ヽ// | (tv /| , r_>'| <一体おまえは誰と戦っていたんだ
\;;; \'" \ ,,"''-,,ノ,r-", / r'''-, .j \
\;;; \ /,,>--'''二"''' r-| 二'" / __ \______
\;;r'""彡_l:::::::::::::::::::::: /./_ " / ̄ ̄"===-,
)''//rl_--::::::::::::::::/:/ヽ"'=--":
ゴローニンのディアナ号が1807年(文化4年)の出航直前に、ロシアはフランスと講和し、
イギリスとの関係が悪化します。これが災いして、ゴローニンはケープ・タウンでひどい目
に会います。この講和は、ティルジットの和約です。
769 :
無名草子さん:2012/08/20(月) 18:57:05.88
御浪人 ?
ゴローニンの「日本幽囚記」の最初の翻訳は、馬場佐十郎(貞由)の「遭厄日本紀事」であるが、
翻訳者が中途で死亡したため、杉田立卿と青地林宗が補った。
杉田立卿は「蘭学事始」で有名な杉田玄白の次男。
青地林宗は、第45章「レザノフ記」で名前が出てきた。クルーゼンシュテルンの航海記を翻訳
した人物である(「奉使日本紀行」)。馬場佐十郎の弟子。
771 :
無名草子さん:2012/08/20(月) 19:41:38.29
ゴローニンの「日本幽囚記」の翻訳者・井上満が卒業した日露協会学校(のちのハルピン学院)の
創立委員長は後藤新平。
後藤新平については、『街道をゆく』の「本所深川散歩」や「台湾紀行」で詳しく述べられています。
>>766 |⌒| |⌒|
|┃| |┃|
|┃|__|┃|
(ヽ | ノ ヽ /)
(((i ) / −□―□- | ( i))) ハァイ!
/∠彡 ( _●_) |_ゝ \ 司馬。おまえ、足し算・引き算、だいじょうぶか?
( ___、 |∪| ,__ )
| ヽノ /´
| /
>>765 フヴォストフ大尉とダヴィドフ少尉が軍法会議の翌年脱走して志願出兵したスウェーデンとの
戦いというのが、第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808−09年)ですね。
776 :
無名草子さん:2012/08/20(月) 20:44:22.46
>>775 その橋、ゴーゴリの『外套』にも出てくるよ。
カムチャツカ郡警察署長タマーキン
本作品では紹介されていないが、この章に登場する商相ルミャーンツェフは、津太夫らが
ペテルブルグ滞在時に、その屋敷を宿所にしていた。津太夫はレザノフとクルーゼンシュテルン
が日本へ送り届けた漂流民。
津太夫らがアレクサンドル一世とともに見物した気球の絵があった。が、転載できなかった。
779 :
無名草子さん:2012/08/21(火) 13:28:13.14
この小説のロシア事情について読者がいまいち萌えないのは、同時期にナポレオン戦争が
進行中だからだろうな。レザノフがオホーツク港を出航する直前に、ナポレオンのロシア侵攻
が開始されている。アレクサンドル1世以下のロシア宮廷人は、正直なところゴローニンが
どうなろうと知ったことではない。
読者としても、ゴローニンがどうなったかよりも、ナポレオン戦争の方を読みたいと思うだろう。
リコルドが観喜丸の漂流民を日本に連れ帰る話のところに、一足先に帰国した久蔵という
人物が出てくる。この小説では、あまり詳しく語られていないが、日本に種痘を持ち込んだ
人物である(1813年帰国)。楢林宗健が佐賀藩の医師楢林宗健と長崎のオランダ人医師
モーニッケが牛痘法による種痘が成功させる35年以上前である。
>>782 楢林宗健は二人いるのか?
それから、日本における種痘の祖としては、中川五郎治のほうが、久蔵よりも先だ。
中川五郎治は、この小説の第47章「暴走記」に登場する。フヴォストフに択捉島の
内保で拉致された人物だ。残念ながら、この小説では“五郎次”と表記されている。
784 :
無名草子さん:2012/08/21(火) 14:26:35.06
>>783 五郎治は、ゴローニンとの捕虜交換で、今回リコルドが日本に連れてきているはずなんだけど、
この章には名前が出てきていませんね。
『胡蝶の夢』では、日本における種痘の歴史がかなり詳しく述べられていたように思いますが、
中川五郎治や久蔵の名前は出てきませんでしたね。
787 :
無名草子さん:2012/08/21(火) 14:33:21.05
>>786 楢林宗健とモーニッケの名前すら出てこないからww
>>782 その観喜丸の船主・嘉納屋治兵衛は、有名な灘の酒造業者。ここまで、この小説に
名前が出てこないのが不思議だったが、やっと出てきた。
嘉納屋は白鶴酒造や菊正宗酒造の名称で今日まで続いている。
名門灘高を創立したのも嘉納屋。
柔道の嘉納治五郎も、この一族。
>>785 この小説のレオンザイモは、リコルド視点で語られているため、ずる賢い通訳という
キャラクターにされているな。レオンザイモと中川五郎治が同一人物であることを
司馬さんが知っていれば、キャラが変わっていたと思う。
>>789 理系コンプレックスが強いから、あるいはそうなっていたかもしれんな。
「日本におけるジェンナー式牛痘の祖」という肩書きは読者にインパクトがあるからな。
司馬さんのこのあたりの叙述は、ゴローニンの「日本幽囚記」とその付録のリコルド
の手記が元ネタ。ゴローニンもリコルドも、日本に帰ってからのレオンザイモ(中川五郎治)
が何をした人物なのかは知らないだろうから、司馬さんも知らなかったかもしれないな。
第49章 嘉兵衛船
第42章「高田屋雑記」とよく似た章です。
「高田屋雑記」では、寛政12年(1800)から享和3年(1803)までの高田屋嘉兵衛の身辺事情が
大急ぎで語られましたが、本章はその続編のようなもの。
ロシアの海運と探検の事情が長々と語られましたので、主としてクルーゼンシュテルン航海と
ゴローニン航海の間に、嘉兵衛の身辺に生起した事情が語られています。
寛政11年(1799)の東蝦夷地の天領化から、リコルドが再度クナシリ島にやってきた
文化9年(1812)までのまとめの章です。
792 :
無名草子さん:2012/08/21(火) 16:52:32.88
嘉兵衛は久々の登場だな。日本側の出来事が12年間も語られていなかった。
その間に北風荘右衛門と工楽松右衛門は死んでいる。
第42章から第49章までのまとめ
寛政11年(1799);幕府、東蝦夷地を直轄領にする
寛政12年(1800);嘉兵衛、官船2艘を含む5艘の船を建造
享和元年(1801);嘉兵衛、定御雇船頭役になる
享和2年(1802);北風荘右衛門定幹…病歿
享和3年(1803);嘉兵衛、箱館港の船作事場を拡張する
文化元年(1804);クルーゼンシュテルン航海が始まる
文化2年(1805);北風貞常(養子)、蝦夷地取扱人となる
文化3年(1806);フヴォストフ事件。箱館大火。
文化4年(1807);ゴローニン航海が始まる
文化5年(1808);間宮林蔵、貞宝丸で樺太探検
文化8年(1811);ゴローニン事件
文化9年(1812) ←いまここ
運送船ゾーチック号はブリッコ船
この章では、享和元年(1801)に嘉兵衛が幕府の定御雇船頭役になったと述べられているが、
第40章「択捉十五万石」では定御雇船頭になったと述べられている。後者が正しい。
>>755 最大限妥協してエカテリーナと大黒屋光太夫まで遡るところまでかな。
ピョートル以前は、さすがに不要だろう。
坂の上の雲で書いていたのとほぼ変わらないし。
長すぎるわ。
北の寒い地域ばかり出てくるから、ゴローニン航海でニューヘブリディーズ諸島が出てきたあたりは嬉しかったがな。
799 :
無名草子さん:2012/08/21(火) 18:27:58.18
>>793 >文化元年(1804);クルーゼンシュテルン航海が始まる
クルーゼンシュテルン航海が始まりは、前年の享和3年(1803)8月7日ですよ。
>>789 レオンザイモがフヴォストフに拉致されたことは記されているが、それが「五郎次」と同一人物
であることは記されていないから、中川五郎治との同一性どころか、レオンザイモ=五郎次の
同一性すら無視されているな。
菜の花の沖の中でもロシア事情を続けざまに述べたこのパートは人気がないんだろうな。
序盤は珍しく物語っぽい書き方だったが、このパートは、ロシア人の著書の翻訳者の履歴
まで詳細に書かれていて、趣が違いすぎる。木に竹を接いだような感じがするな。
次章から、元の感じに戻ればいいんですがね。
>>801 引用した著書の著者の履歴を書き連ねるのは、後期の作品の特徴だな。
あまり意味があるとは思えない。
出版社の都合で原稿を水増したので
仕方ないといえば仕方の無いことなのです
805 :
無名草子さん:2012/08/22(水) 19:09:45.01
>>801 クルーゼンシュテルンもゴローニンも帰国する日本人漂流民を乗船させていたのだから、
彼らの視点をもう少し折り込めば面白かったのにな。
参考文献の奥付を写すのだけはやめてほしい。
リンク先を大量に張り付ける嵐と変わりがない。
日本人漂流民を中心にすれば、史料の空白を想像で埋める小説の醍醐味が味わえたろうな。
余談がつまらなくなったな。
前期はまとめ的な余談だったが、
後期はディテールを記した補注的な余談になっている。
司馬さんの余談が鋭かったのは、翔ぶが如くの前までだな。
そのあたりまでは、本文と余談が識別できる。
それ以降は、本文が弱い。
項羽と劉邦、箱根の坂、韃靼疾風録は、本文がしっかりしているが、
他は本文と余談が識別できない。
担当者が頁数水増した文章に文句つけるなよ
>>800 それは違う。
次章「遭遇」ではレオンザイモ、つまり良左衛門について、
「良左衛門(五郎次)」と書かれている。
おそらく調べものをしている過程のどこかで中川五郎治との同一性にもきづかれたはずだ。
しかしレオンザイモのキャラクターはリコルドの手記のとおりにしてしまった。
途中で変えられなくなったんだろう。
812 :
無名草子さん:2012/08/25(土) 10:09:21.47
>>811 途中でキャラを変えると、松平忠明のときの失敗を繰り返すことになるからな。
レオンザイモは五郎次が本名で、中川良左衛門はロシア人に名乗った偽名。
この偽名を名乗るように強要したのは、同じ時期にロシア人に捕まった大村治五平。
大村治五平はフヴォストフによるシャナ襲撃の際、この小説にも登場した南部藩砲術方。
第50章 遭遇
文化9年(1812)9月。
嘉兵衛の観世丸はリコルドのディアナ号に襲撃され拿捕されます。
817 :
無名草子さん:2012/08/25(土) 15:26:26.87
>>816 前々章では、ゴローニンを尋問したのは、松前奉行ではなくて箱館奉行になっていましたよ。
標津川河口付近でルゥダコフ中尉に襲われ拉致された周助(44歳)・惣九郎(27歳)・標津アイヌ
についての詳細はわからなかった。
なお、ルゥダコフ中尉の部下のスレッドニーは、わらび座公演「菜の花の沖」ではスレッドニー少尉
とされている。
819 :
無名草子さん:2012/08/25(土) 15:36:47.23
>>818 この小説内でも、その3名がどうなったか書かれていないんだが、やっぱり嘉兵衛と
ともにカムチャツカへ連行されたんだろうか?
>>814 良左衛門がリコルドに「ゴローニンは殺された」と嘘をついたために、リコルドが日本人拉致を決意した。
良左衛門のこの小説における立場は、こいつさえ嘘を言わなければ嘉兵衛が捕まることはなかった
というので悪くなっているな。
高田屋の江戸店は八丁堀にありました。
現在、池袋西口に高田屋という居酒屋がありますが、高田屋嘉兵衛の精神を勝手に受け継ぎ
全国から新鮮で美味しい食材を使った料理とお酒を提供しているらしいです。
嘉兵衛が建造した船が数多くでてきていたので、観世丸という船名もどこかで読んだこと
があるような気分になっていましたが、この章が初出でした。
“おこがましい”は、「烏滸がましい」と書くものだと思っていたが、「痴がましい」でもいいみたいだね。
嘉兵衛の「男をみがく」に関連して曽根崎心中の話が出てくる。
徳兵衛が九平次に「時貸」(短期間金を貸すこと)をするが、現代でも会計用語として
使われているようである。
『坂の上の雲』を今読んでるんだが、
それなりに面白い小説だとは思う。
しかし「故人の意志を踏みにじった」という非難を浴びてまでも映像化する必要のある作品とは
とても思えん。
>>825 会計用語は、言葉そのものや漢字の読み方が、江戸時代しちゃってるものが多いよな。
勉強したことはないんだが、歴史ファンには会計用語は魅力的だよな。
>>826 最近の大河ドラマに比べると、ずっと面白かったよ。
少年時代を描いた初回は特に秀逸。
桂小五郎がきれいに映るテレビといえば、日立のキドカラー。
>>104 座敷で使う簡易トイレ“おまる”は、形状が丸いからそのように呼ぶんだろうと思っていたけど、そこで排泄するから「まる」というのでしょうか?
それは知らないけど、広島カープの丸はオシッコが近いということです。
>>825 『この国のかたち』に「浄瑠璃話」という文章がありますが、
『菜の花の沖』のこのあたりを纏めただけです。
835 :
無名草子さん:2012/08/26(日) 14:17:47.08
>>819 次章を読み終えましたが、標津川の三人については何も書かれていませんでした。
蒸発したんですかね?
>>826 戦国時代ともなればいくら悪し様な人物像を作文しようが苦情を
もうしたてる者はいないと考えるが、坂の上の雲はもとより批判
体質の司馬が手を出してはならない時代なのである
>>815 ロシア暦で9月上旬だから、陰暦だと8月中旬ごろでしょう。
第51章 北へ
文化9年(1812)8月18日に国後を出航。
嘉兵衛を捕虜にしたディアナ号は千島列島をさかのぼりカムチャツカ半島のペトロパヴロフスク港へたどり着きます。
_. -─‐-
/ ⌒ \
/ ⌒ (● ) \
/ ( ● ) 、_) ヽ おい、リコルド
| (__ノ / | 国後に帰ったほうがええんとちゃうか?
ヽ  ̄ _ノ
>  ̄ \
松輪島と雷公計島の間の海峡を、リコルドはゴローニン海峡と名づけた。
残念ながら、その海峡は松輪海峡と呼ぶのが正しい。
ペトロパヴロフスクに聳える火山を、司馬さんはアバチナ火山と表記しておられるが、
アヴァチン火山で検索したほうがヒットしやすいと思う。
843 :
無名草子さん:2012/08/26(日) 19:56:51.42
すぐ近くにある山なのに、どうしてコリャーク火山は無視されたのだろうな。
標高を比べると、2,742mのアヴァチン火山に対して、コリャーク火山は3,456m。
700mも高い山を無視する理由がよくわからない。
,,-''" ,, --''"ニ_―- _ ''-,,_ ゞ "-
て / ,,-",-''i|  ̄|i''-、 ヾ {
(" ./ i {;;;;;;;i| .|i;;;;;;) ,ノ ii
,, ( l, `'-i| |i;;-' ,,-'" _,,-"
"'-,, `-,,,,-'--''::: ̄:::::::''ニ;;-==,_____ '" _,,--''"
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._,,-'ニ-''ニ--''" ̄.i| ̄ |i-----,, ̄`"''-;;::''-`-,,
,,-''::::二-''" .--i| .|i "- ;;:::`、
._,-"::::/  ̄"''--- i| |i ヽ::::i
. (:::::{:(i(____ i| .|i _,,-':/:::}
`''-,_ヽ:::::''- ,,__,,,, _______i| .|i--__,,----..--'''":::::ノ,,-'
"--;;;;;;;;;;;;;;;;;""''--;;i| .|i二;;;;;::---;;;;;;;::--''"~
+  ̄ ̄"..i| .|i
.i| |i +
+ i| |i
.i| .|i +
+ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ /\ /\ \ +
ドカ━━━ / \━━━━ン!!!!
/ ○ \ 俺を怒らせると噴火するぞ!
+ / \
/ \+
>>843 ペトロパヴロフスク湾からみて、コリャーク火山は北、アバチナ火山は東北の方角なんだ。
アバチナ火山から吹き降ろす風によってゾーチック号は座礁したと書かれておられるが、
むしろコリャーク火山からの影響を受けやすいと思うんだよな。
ペトロパヴロフスク港に停泊していた米船の船主はドベルであるが、カムチャツカの嘉兵衛は
ドベルを通してロシア皇帝に自分の刀を献上していた。
>>846 それ、『高田屋嘉兵衛――只天下のためを存おり候――』(生田美智子 著 / ミネルヴァ書房)で読んだ。
>>839 リコルドは人柄はいいけど、操船は下手くそだなw
849 :
無名草子さん:2012/08/27(月) 11:04:14.79
夏休みの宿題に読書感想文があります。いまから『竜馬がゆく』を読み始めて間に合いますか?
>>849 初めの150頁ぐらいをよんで、読んだ範囲の感想文を書けばいいのた。
続きは来年書くと言っとけ。
851 :
849:2012/08/27(月) 11:31:30.38
ありがとうございました
>>851 昆虫採集は自宅で採集できるゴキブリ、ハエ、蜘蛛、カメムシなどを標本にすればいい。
蝉や蟷螂を取りに行ってると、夏休み帳をやる時間がなくなるぞ。
第52章 カムチャツカ
文化9年(1812)秋。
ペトロパヴロフスクにおける嘉兵衛の捕虜生活の模様です。
『高田屋嘉兵衛遭厄自記』に書かれてある嘉兵衛の国家論が述べられている本章の後半は、本作品の白眉。
新在家における虐めの叙述も、ここで生きてくる。納得しました。
韓国右翼と中国右翼に読ませたい一章ですね。両国は疑いなく“国政悪敷国”。
司馬遼太郎が名宛人にしているのは戦前の日本の右翼と軍閥なんだけどな。
戦前の記憶が薄れ、戦後固有の領土問題が浮かび上がってくると、李明博が
名宛人のように読めてしまうな。
>>854 単行本一巻を費やした長いロシア事情に分断されて、前半と後半のつながりが悪いなと
思っていたけど、ここで見事につながりましたね。
オリーカ少年、登場。次章では、嘉兵衛がちょっとエッチな気分になる。
ロシア婦人の服を見て喜んでいた“つね”と、オリーカ少年が、後半の救いだな。
>>835 三人のなかにアイヌが一人いたじゃないですか。
嘉兵衛について行ったシトカが標津アイヌなんじゃないですか?
>>863 シトカは嘉兵衛を“タイショウ”と呼んでいたから、シャナ場所で働いていた漁師じゃないのかな。
観世丸乗船組だよ。
日本人が、自分がうけた被害を拡大して感情世論を形成しているように、
韓国人も自分の側の痛みを拡大して世論をつくっていた。
ただし、「日本をやっけろ」というところまでこの国の世論は行っていない。
日本大使館に向かってうんこを投げつけるのが、精いっぱいであった。
むしろ、そうあるべき反応を持ったのは、中国人だった。
かれらの国民性は、ちょうど江戸の職人や火消し人足のように、事件がおこればすぐ反応し、
その反応も、まことに先鋭的であった。
第53章 冬営
文化9年冬〜文化10年(1813)正月。
シベリア総督の親書を得たリコルドは、ゴローニンと嘉兵衛の捕虜交換を実現するため
国後へ帰ることを嘉兵衛に告げます。
この間、欧露では、ナポレオンのロシア遠征という大事件が起きています。
オリーカ少年との間にくりかえされた交歓は、1ヶ月あまり続いた。
870 :
無名草子さん:2012/08/28(火) 15:27:25.60
前章に引き続きたいへん出来のよい章だね。
嘉兵衛は小恵をケチの意味で使っているんだそうだが、小恵といえば三国志の
「治世は大徳を以ってし、小恵を以ってせず」を思い出す。
>>873 小恵というのは、民衆の人気を得たいがために、子ども手当てをばらまくような政治を言うんだよね。
恩赦を連発していた他所の君主を批判した劉備の言葉だけどな。
>>867 高田屋嘉兵衛とナポレオンの生年が同じ1769年というのは覚えやすいな。
877 :
無名草子さん:2012/08/28(火) 20:00:04.67
>>876 ナポレオンの年齢の数え方も間違っているということだな
第54章 無明
文化10年(1813)春。
リコルドから国後に帰ることを告げられた嘉兵衛ですが、その後、仲間の吉蔵、文治、シトカ
を亡くし精神が衰弱します。リコルドの言葉を信じられず、疑心暗鬼に陥りました。
そんなところへオホーツクから橇がやってきました。
『竜馬がゆく』では、日本で最初にキス(うま口)をしたのは、坂本竜馬とお元という
ことになっていたが、嘉兵衛のほうが先じゃんかww
880 :
無名草子さん:2012/08/29(水) 14:26:59.67
嘉兵衛以前にロシアへ漂流した日本人が門付乞食の大黒舞を踊ったという話が出てきます。
「竜馬がゆく」では門付芸人がワイワイ天王と称して踊り狂った話が出てきます。
門付乞食と門付芸人は、同じものですか、それとも違うものですか?
文治は早くから登場していたキャラなので、死ぬ前に小説的な場面があってもよかったのにな。
拉致後はノンフィクションの中の人物になってしまっている。
884 :
無名草子さん:2012/08/29(水) 14:51:54.02
宿題やるのに忙しいので、新学期にまとめて読みます。
本章の嘉兵衛の優れているところは、ロシアの威圧外交を躯を張って阻止したところだな。
敵と刺し違える覚悟がないと、外交は成功しない。
事後に「遺憾の意」を繰り返すだけのどこぞの阿呆に教えてやりたい。
NHKのドラマでは、嘉兵衛の妻のおふさは、店の後継者を息子の弥吉ではなく弟の金兵衛にしようと
するころから嘉兵衛と仲が悪くなった話をしていたな。その後、嘉兵衛とは別居状態になるところまで
やったようだ。原作には、そんな話出てこないね。この先、そんな話があるの?
887 :
無名草子さん:2012/08/29(水) 15:25:38.75
随分とだらだら長い読書感想文だね
第55章 流氷の海へ
文化10年(1813)4月18日。
嘉兵衛とリコルドを乗せたディアナ号は、国後島の泊へ向け出帆しました。
ディアナ号の艦底に鯨がぶつかったところで、『海底二万哩』を思い出してしまった。
航海の場面を詳しく書くのは、この小説の特徴のひとつなんだけど、
往路を少し前にやったばかりなので、率直に申し上げて、復路は飽きた。
>>891 知 ∧_∧
ら ∧(∧ω・`)
∧ ・∧・`) >
ん ( ・∧・`∧>/
( ・∧・`_∧
が ヽ( ・∧・`∧ ♪
な < ( ・ω・`)
|< >
♪ (_/ ∧ ヽ
(_) (__)
893 :
無名草子さん:2012/08/29(水) 16:58:42.75
この章の嘉兵衛は45歳とされている。
我々が慣れ親しんだ満年齢だと44歳なんだが、
戦前生まれの年寄りは、つい最近まで“数え年”だったから間違いではないな。
>>889 この作品では、南太平洋で鯨の乱獲をしたため、鯨が北へ逃げてきたことになっているけど、
1790年からオホーツク海での捕鯨は始まっている。
896 :
無名草子さん:2012/08/29(水) 18:56:54.38
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ちびまるこ…かわいそな子
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( ´Д`) <まる〜〜
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〉 ) ( .:: :..゜:: ゚。:.:.:,.:.:,.:.:.::,:,
(_,ノ .`ー' ..゜:: ゚。:.:.:,.:.:,.:.:.::,:,:,
>>890 国内航路なら省略できるけれど、
往路は嘉兵衛にとって初めてのカムチャツカへの航路、
復路は苦難の果てに日本へ解放されるべき航路、
どちらも省略しにくいな。
>>894 間違いだよ。嘉兵衛の誕生日は1月1日。
数え年と満年齢が一致する稀な例。
>>901 間違えているのは、おまいら。ことわりもなく満年齢ではなく数え年を使用している
司馬さんも不親切だがな。
数え年というのは、生まれた瞬間に1歳になる。その年の大晦日まで1歳だ。
翌年の元日に2歳になる。
1769年1月1日生まれの嘉兵衛は翌年の1月1日に数え年2歳になる。
参考までに嘉兵衛を満年齢でいうと、1769年の12月31日の満了を以って1歳となる。
翌年の12月31日までは1歳だ。数え年とは、ほとんど1年のズレがある。
数え年のおかしなところは、12月31日が誕生日の人に顕著である。
生後2日目の赤ん坊が2歳とカウントされてしまう。
満1歳になった翌々日に、数え年3歳になる。
文化10年(1813)の現在、嘉兵衛は数え年で45歳で間違いはない。
903 :
訂正:2012/08/30(木) 13:13:59.26
韓国人は、いまだに満年齢ではなくて、数え年を使用しているらしい。
第56章 泊村の海
文化10年(1813)5月24日。
嘉兵衛とリコルドを乗せたディアナ号は、国後島泊村の善平古丹沖に停泊しました。
善平古丹<ゼンベコタン>は、現在、パルトゥーソヴォ集落と呼ばれています。
クナシリやエトロフの地名を調べても、京都や長崎の地名と違って、旅行してみようという
気分にならないから、なんか空しいな。
嘉兵衛が髻を切る場面で出てくる、
“男、はかなく見なしつれば、愛宕にゆきてもとどりきりて法師になりにけり”
は、『宇治拾遺物語』の序から引用されたもの。
嘉兵衛の従者のうち生き残ったのが、平蔵と金蔵[吉三郎]です。
サトニラさんの四男も金蔵なんですが、「嘉兵衛とかかわったために数奇に運命をたどる」
みたいな書き方をされていたので、てっきりこの金蔵がカムチャツカに拉致されたのかと
思っていました。
>>910 サトニラさんの四人の息子たちのなかでは、特別扱いされていたよね。
新造した久宝丸の船頭が文治で、もう一艘の昌徳丸の船頭が、嘉兵衛の弟たちや三人の実兄
を差し置いて金蔵だった。
>>911 金蔵だけが特別扱いというわけでもないさ。
三男の文五郎は、嘉兵衛が大坂・靭の問屋を見に行った際、ひとりだけ同行していたよ。
>>820 ゴローニンが殺されたと嘘をついたのは、太田彦助だよ。
良左衛門はリコルドに太田の言葉を伝え補強するような言い方をしただけ。
むしろ、良左衛門はリコルドの期待に反して上陸後ディアナ号に帰ってこなかったのに対し、
嘉兵衛はリコルドとの約束を守った。この点を捉えて、良左衛門と嘉兵衛を対照的に描いて
いるのではあるまいか。
第57章 日本陣屋
ついに嘉兵衛は日本の土を踏みます。
日露交渉も成功し、ゴローニンの生存も確認される感動的なラストです。
ラストっていうけど、あと3章もあるじゃんww
平蔵と金蔵が松前奉行からリコルド宛の親書を持ってくるんだけど、その内容を
嘉兵衛やリコルドが知る前に、司馬さんが( )書きで読者にだけネタバレする。
こういうの何とかならんのか?
嘉兵衛の“ふしだらな娘”って誰のこと?
>>917 ふしだらと言われてもピンとこないよな。
母親のおふさもふしだらだし、そもそも自分も夜這い野郎、女房かたぎのくせにw
仮屋に幽閉された嘉兵衛ら三人に、まずい飯を食わせた国後場所の請負商人は、
近江商人の藤野喜兵衛と判明しました。
日本中どこへ行ってもろくなことをしていない近江商人。
921 :
920:2012/08/30(木) 17:30:34.01
>>916 史実は明らかとはいえ、ゴローニン事件はそれほど有名じゃないし、
過去にこの事件を扱った著名な小説や映画があるわけではないから、
顛末がどうなったかを伏せようと思えばできたのにな。
突然でてきた嘉兵衛の親友、丸屋治郎左衛門って誰?
幕臣・太田彦助のキャラクターが、いまひとつ決まらないな。
若いのか年配なのかを想像するのも難しい。
>>924 寛政12年から文化9年に12年超えのワープをした弊害が、こういうところに出てきたな。
寛政年間に登場した幕臣はわりあい丁寧に書かれていてキャラが立っていたが、
12年ワープのおかげで、それらの人々が高橋三平を除いてみんな蝦夷地から
いなくなっている。嘉兵衛がカムチャツカへ拉致されていたために、留守中の蝦夷地を
書けない。太田彦助は、嘉兵衛の身内からの手紙を落としたふりをして拾わせるという
味な行為もあるんだが、鈍感な官吏というイメージも強い。最後に重要な役割を担うの
だから、もう少し描き込んでもらいたかった。
この小説のゴローニン事件は、嘉兵衛とリコルドの友情を中心に描いているから、
太田彦助はあまり良く書けないんだよな。ところが史料に出てくる太田は、そんなに
ひどい人間じゃない。加えて、松前奉行が立てたこの事件を処理する方針が嘉兵衛と
まったく一致していて、その方針に忠実な太田を悪く書けなくなってしまった。
良くも書けない、悪くも書けないという理由で、中途半端なキャラになった。
太田彦助のキャラが定まらないのは、おおよそこういう事情からかな。
鎖国日本の嫌な部分は良く描けていて、学生には参考になるよ。
もっとも「おろしや国酔夢譚」における帰国後の光太夫の運命の方が鮮烈で理解しやすいかもしれない。
なんで読後感想を書いてんだよ。まだ3章残っているだろう。
929 :
無名草子さん:2012/08/30(木) 20:04:13.16
司馬さん自身が、ここで終わってもいいと言っているしw
>>907 写真で見る限り、千島もカムチャッカもパッとしないな。
火山と雪と氷のイメージしかない。
実際に見ると雄大なのかもしれないが、自然は濃厚だが、文化が薄味って感じか。
>>913 この章では、五郎次の名前で出てくるよ。
括弧書で、良左衛門ともレオンザイモとも言ってない。
>>927 光太夫は首都ペテルブルグやイルクーツクといった欧州文明を見てしまったからな。
これを喋られるとまずかったんだろう。
嘉兵衛が見たのはド田舎なんで問題ない。
>>931 良左衛門は場所の番人。
嘉兵衛は商家の旦那。
人品に差があったのだろう。
>>933 嘉兵衛はアイヌ人を雇って魚をとってディアナ号の水夫に与えて、自分の評判を良くしただけだろうww
>>934 金持ちに対する嫉妬だけなら左翼思想も無害だが、
歴史を歪曲するから、左翼は許せない。
しかし、「江戸時代で最も優れた人物は高田屋嘉兵衛」は言いすぎな感じ。
>>932 沖船頭と船持船頭の差。嘉兵衛が蝦夷地の幕臣と親しかったというのも大きい。
第58章 展開
文化10年(1813)6月。
松前奉行所吟味役の高橋三平が泊村陣所にやってきました。
ゴローニン事件の解決にむけ幕府が動き出しました。
「展開」というサブ・タイトル。やる気ねーな。
ドラマで通訳の上原熊次郎を演じたのは、上世博及という役者さんだが、
この人は本物のロシア語通訳でもある。
むかしNHK教育の「ロシア語会話」に出演していた。
嘉兵衛は官船・長春丸を見て懐かしがっていたが、長春丸は、この小説では初出である。
前章で嘉兵衛は、丸屋治郎左衛門とリコルドの二人が親友であると言っていたが、
この章では、高橋三平が親友に加わり、親友が三人いたことになっている。
944 :
無名草子さん:2012/08/31(金) 13:40:02.15
>>943 シーモンキーは胡散臭いから買わなかったなー。
漫画雑誌の広告の通販で買ってガッカリしたのは、
イーグル・バッジと短剣ベルトだ。
通販の空気銃には憧れまくったが、友達が買ったものを見て、買わなくてよかったと思ったわ。
第59章 箱館好日
嘉兵衛はようやく箱館に帰ることができました。弟たちやおふさとの再会です。
文化10年(1813)9月29日、ついに袂別の日がやってきます。
ディアナ号は箱館を出港しました。
おふさは疝気の病だそうであるが、疝気とは下腹部から睾丸に波及する劇痛を訴える症状の総称。
おふさには睾丸ねーだろ。
》おふさは…(中略)…疝気があるために若いころのように身ごなしがかるがるとはいかない。
》彼女(おふさ)は、お四国の行脚のおかげで病いぬけしたのか、すっかり元気になっていた。
おふさがお四国めぐりをしたのは、嘉兵衛が帰国する前の話だろww
第44章の「続・ロシア事情」で、通訳のキセリョフ[善六]はのちに嘉兵衛とかかわりを
もつ旨が述べられていたが、やっと出てきた。
第60章 晩霞
ゴローニン事件の後日譚と、嘉兵衛の最期が描かれています。
最終章です。みなさま、長い間おつきあいくださいまして、ありがとうございました。
文政4年(1821)、幕府は松前藩に蝦夷地を返還する。
そのときの藩主は松前章広である。
なお、
>>347を参照のこと。
嘉兵衛の死の年、かれが登城して拝謁した徳島藩主は、蜂須賀斉昌である。
955 :
無名草子さん:2012/08/31(金) 16:19:27.64
結局、菜の花は、最初と最後に出てきただけだったね。
《あとがき集》
菜の花の沖は単行本では全6巻ですが、各巻にあとがきが付せられています。
岩屋漁師の話が出てくるが、現在でも阪神地方には「岩屋漁師直送」を売り物にする
魚屋・居酒屋がある。
959 :
無名草子さん:2012/08/31(金) 17:03:33.99
あとがきまでやるのか。熱心だなwww
《あとがき二》
明石浦漁業協同組合のよしさんの弟子が手涕をかんだ。
手涕というのは、片方の鼻の穴を指でふさいで、鼻汁(はんだら)を地面に勢いよく飛ばすものだと思っていた。
うちの地方では、みんなそのようにしていた。
調べてみると、掌を鼻紙の代わりにして、掌にはんだらを出すものであることがわかった。
汚ねーよ、ばか。やめろよ。
『川渡甚太夫一代記―北前船頭の幕末自叙伝』は、現在は東洋文庫で読めるようである。
川渡甚太夫の故郷である若狭国三方郡久々子村は、現在は、福井県三方郡美浜町久々子。
三方五湖は、レインボーライン山頂公園から眺める景色がよい。
964 :
無名草子さん:2012/08/31(金) 18:16:57.74
>>951 嘉兵衛が夢にうなされて「オリーカ」と叫ぶシーンは何だったんだろうな。
何か怪しいな。
966 :
無名草子さん:2012/08/31(金) 18:31:38.47
>>960 片方ずつ鼻汁を地面に飛ばす清潔手洟にも問題点はある。
適度な粘り気のある青洟は勢いよく地面に落ちるが、
失敗しやすいのが、透明鼻汁。
失敗すると上着の袖に透明鼻汁がダラリと流れてしまう。
>>965 カムチャツカの風景はくそつまらんかったが、日本の風景はええのう。
《あとがき三》
本編の第10章「春の海」から第11章「出船」にかけて、樽廻船が品川まで競争する
という話がありましたが、その元ネタ披露です。
西宮の戎川というのは、現在の洗戎川のことだろうか?
灘の酒造に使う宮水は、お湯にすると美味しくないと、この後書きで酒造メーカーの方がおっしゃっていましたが、
そうすると炊飯に六甲のおいしい水を使うのはまずいですかね?
石原都知事は、船だまりと云われました。
張燕は、歌唱、美貌、スタイル、妖艶さ、
どれをとっても文句のつけようがないんだが、
名前が三国志なんだわな。
>>970 六甲と灘五郷が地理的に近いというだけで、両者はまったく別物。
宮水は硬水だけど、六甲のおいしい水は軟水。
《あとがき四》
八戸と安藤昌益と昆布だしのお話。
京料理に欠かせないのが利尻昆布。
大阪のうどんは羅臼昆布。
幕の内弁当に入っている昆布巻は苦手だった。
昆布がやわらかくて歯ごたえがないし、甘露の甘さが気に入らなかった。
ちなみに、筆者は小学1年のころ、「幕の内弁当」を熊の肉弁当と読んでいた。マジで。
理由は不明だったが、いまやっとわかった。
幕(まく)・・・さかさまに読むとクマ。
内・・・肉の漢字と似ている。
カタン糸がcottonの訛ったものであるとは知らなかった。
むかしのミシンは足踏み式でカタン、カタンと音をたてたから、
ミシン糸のことをカタン糸というものだと思っていた。
ネタだけど。
《あとがき五》
福井藩の三国湊と小廻り廻船について
毛野川は江戸時代より前は銚子に河口があったように読めるのであるが、そうではない。
なお、毛野川は、現在の鬼怒川。
982 :
無名草子さん:2012/09/01(土) 15:56:40.64
>>981 》「じつは、能登で、古い設計図(設計図)がみつかったんです」
何度読んでも、( )の中に書いてある文字が、その上に書いてある文字と同じにみえるんですが。
文中に出てくる“ふるい知人の橋本篤慶氏”は、読売新聞の社員。
「播磨灘物語」の担当者だったような気がする。
>>972 スレ違いなんですが、張燕の「月亮女兒」です。誰か空耳日本語ヴァージョンを作らないかな。
曲中、ちんこ、ちんこを連発しているんですが。
985 :
984:2012/09/01(土) 16:12:40.55
敦賀湊は北前船の寄港地として栄えたと言われているし、この小説でも、嘉兵衛は
毎回、敦賀でニシンやホシカを詰める俵を買っていたよな。
刀禰勇太郎氏は、沖乗りが始まって敦賀はとばされるようになったというが、ウ〜ム。
《あとがき六》
嘉兵衛がリコルドと交渉するにあたり浄瑠璃の影響がどうのこうのという話が本編で出てきたが、
若干わかりにくいと思われた読者もいるのではなかろうか。
あの場面で出した浄瑠璃の例が「曽根崎心中」だったので、わからなかった読者が多いと思う。
そこで、よりわかりやすい「頼光跡目論」を出して補足しているのが、このあとがき。
上方武士道の百済ノ門兵衛は、渡辺綱の子孫という設定ではなかったか?
源頼親は頼光の実子とされているけど、異母弟じゃないの?
―――― 菜の花の沖 完 ――――
で、次は何をやるつもりなのよ。
994 :
次回予告:2012/09/01(土) 17:10:23.78
『燃えよ剣』
『新撰組血風録』
『幕末』
『項羽と劉邦』
だいたいこのような予定であります。
司馬さんは、新撰組じゃなくて新選組なんだよな。
そろそろ涼しくなるだろうから、いいかもしれない。
嘉兵衛は帰国後おふさとやったの?
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