>>949 >>950 ただ、第三代皇帝合刺の年齢は大きく動かせないだろうから、
阿骨打の子も、子供を持つぐらいの年齢にはなっているはず。
>>907 牛皐については、岳飛の軍閥が次第に大きくなってゆく過程が描かれるのか
どうかで、登場時期が変ってくるんじゃないか?童貫戦後、あるいは靖康の変後
にそういう場面があるなら、牛皐らは、後日登場じゃないかな?
>>950 耶律大石は11歳上がってたよな。あれは一体なんだったんだろう。
>>904 マジレスすると、そりゃ無理だろう。
やはり南宋軍閥の騎馬隊は、大きな敗北後は、維持するのが困難になるよ。
韓世忠は水軍で兀朮を撃退した記録もある。やはり南は船だ。
>>954 宋禁軍をてこずらせたわけだし、そこそこの貫禄を感じさせる年齢にする必要が
あったんじゃない?
耶律大石の場合、実力で帝にのしあがるからな。重量感は必要だな。
耶律大石の立てた西遼は、現在の地理でいうと、新疆ウィグル自治区よりも
さらに西だな。金(斉)との間に一つ国があって、その隣りだ。
もう出てこれないんじゃねぇ?
現時点では、大石は外蒙古にいるがな。
それから先は、ひたすら西に向かう。
天山ウイグル王国を臣従させるのは、それほど先の話じゃないから、
接点をもてるとすれば、このあたりまでだ。
大石が遼の故地の奪還を図って兵を出すという展開もあるかもしれないが、
史実では1143年のこと。楊令伝は終っているな。
ただし、楊令伝では金の足を引っ張り、梁山泊に活躍させる必要がある。
モンゴルや西夏もあるが、楊令伝読者にはなじみがない。
耶律大石による早めの出兵がないとはいいきれない。
西遼については、西遼じしんが史書を残していない。
砂漠の田舎国なんだ。
漢人やアラビア人・ペルシャ人も、西遼については断片的な記録しか残していない。
作家が比較的自由にやれるところなので、大胆な展開を期待できるかもよ。
>>954 耶律大石関連のエピソードが11年早回しになる、というのはどうか
耶律大石がグル・ハンを名乗って即位したのが1132年。
天山ウイグル王国を臣従させたこと、さらに東カラ・ハン朝を征服したこと以外は、
よくわからない。外蒙古で腐植した勢力は、史実では金に破られ、大石は西に
逃げた形なんだが、楊令伝的には都合が悪い。
やはり中原にいつでも出兵できるポジションは保っていたいね。
>>960 西遼だった。
西遼のありようは、なんだかわからない、という感じなのだ。
西遼が、西遼でありすぎた、という感じだ、とは言えば言えた。
作家が、想像力の限りをつくして、原稿用紙と戦闘を闘うべきだ、とは感じた。
書ききった。書いて、書いて、書ききった。それでもまだ、私は書き続けている。
そんな感じになるまで、ほんとうに書いた、という感じになってはもらいたい。
そんな感じなのだ。
ウザい
>>962 中原というより燕雲十六州の奪還、つまり燕構想の実現を夢見る耶律大石だな。
聞煥章の片腕扈成と、聞煥章と大石を引き合わせた呂牛が、金国を牽制するために、
大石に出兵させるという展開じゃないかな。
常に金国と梁山泊に共同で攻められていたのでは、南宋はすぐに敗れてしまう。
そのための方策の一つ。どちらかというと主戦派になじむ戦略だろうか。
>>959 1132年の即位は、チュー河畔のベラサグンで行われた。
現在の地名でいうと四川盆地の重慶の近くなので、まだ中国といえる。
1134年以降は、根拠地が現在のキルギスやカザフスタンになるから、
登場は無理。
それまでは、外蒙古から中国奥地の山岳地帯で勢力を伸ばしていた。
山岳兵の闘いも見ものになる。騎馬隊は役にたたない。
1124年 燕から外蒙古に逃れる。
1125年 鎮州可敦城(モンゴルのオルコン河上流)
1127年 カシガル(新疆維吾爾自治区喀什市)軍に勝つ。
1131年 ウイグル、耶律大石をとらえ、金に献じる。
天山ウイグル王国を臣従させる。
1132年 西遼建国。
なんかもう歴史ヲタのオナニーだな、ここ。
きもちわる
>>941 このスレでも、他のブログでもそうだが、17〜19巻の童貫はとても評判がよい。
原典の童貫と大幅にキャラが変化していることと、周囲が腐敗役人ばかりの
中で、自分の職分に忠実で、戦に没頭する童貫に好感をもつ読者が多かった
のだろう。
しかし、楊令伝になって、梁山泊側の新キャラがパッとしない、生き残りのベテランが
劣化していくのに反し、童貫一人は老化速度が遅い/方臘戦ではかつて梁山泊が
使った戦法を丸取り/岳飛・劉光世らの視点を期待していたのに童貫視点が
やけに多い、等々の理由で飽きられてきたな。
>>968 楊令伝の終了するあたりまでなら、十分物語にかかわってこれる位置だな。
>>970 海上の盟のような宋の命運にかかわる条約でも、童貫や青蓮寺がノータッチ
であれば、廷臣の大失策扱い。結果的に金の進攻を招くから失策には違い
ないのだが、ならばどうして禁軍や青蓮寺は反対しない?
小説の前面に登場するこの二つの集団は、阿呆の尻拭いをするために、
せっせと仕事をする。権限が強いのか弱いのか分からなくなるな。
>>970 力量が対等な敵と、余人を交えないで、戦らしい戦をしたいというところも、
見方によっては鼻につく。
童貫は、期末試験の前日まで登校しなかった。禁軍府の教場で、騎馬と遊んでいた。
遊んでいることを他人に見せたいような、派手な遊び方だった。
試験範囲は、仲間の高キュウから聞いた。
「どうして登校しない。ちゃんと授業を聞いていれば、試験前日にバタバタすることもあるまい」
「それでは試験が易しすぎるのだ」
一夜漬けで闘うべき敵だと、童貫は思っていた。そうすることで、やっと試験らしい試験を
受けることができる。期末試験を敵として認識できるのは、一夜漬け以外の準備をまったく
やらないときだけなのだ。
常日頃から賄賂を取っていれば、軍費がないと大騒ぎすることはなかったんじゃないか?
>>971 耶律大石の名は登場しなかったが、どうやらモンゴルではないかと思われる集団
が力を蓄えているような叙述はあった。
大石が可汗に推戴されている可能性はある。
>>975 計画性がないんだよな。戦は生き物だと思っているんだろうしw
>>976 モンゴルだったら、山岳兵ではなく、また騎馬隊じゃないかよww
「おまえがいてくれて、楊令殿はどれだけ助けられただろうか、と時々思う」
「そんな。俺なんかが」
戴宗はお世辞を真に受けている。張青と孫二娘に性根を入れるため、役人の仕業の
ように装って小屋を打ち壊した頃の、図太さや冴はまったく感じられなかった。呉用は、
戴宗の劣化を嘆いた。
「いてくれて、よかった。楊令殿と二人だけで話す時、いつもはじめにそれを言う」
「楊令殿が、ですか?」
読点が多すぎる。いつもの戴宗の癖だ。
「そんなふうに言われているなんて、俺は考えてもいませんでしたよ」
処女のように、喜んでいる。これでは亡くなった張横と張順の父も、嘆いているに違いない。
戴宗が、涙ぐみそうな眼をしていた。邵房の代わりに、戴宗を殺すべきだった。呉用は、
なんとなくそう思った。
>>978 三国志の致死軍は、たしか山岳兵だったよな。
あれ以来、山岳兵の登場はない。
青蓮寺の高廉軍も、水中で行動する部隊を作ったはずなんだが、
呂方に接近を見破られてから、登場がない。
>>748 劉譲は韓成隊にやられて終わり。
李明は、すごい蕭珪材殿だろうな。
完顔成と唐昇に死んでもらって、兀朮を後任にしてもらいたいのだが・・・
斡離不も2年後に死ぬから、もう二人いるな。
案外唐昇も長生きするのかもよ。
斡本、訛里朶が戦場に出ることもありうる。
地勇の光(孫立)、地数の光(孫新) →ついでに地楽の光(楽和)もまだ
地周の光(陳達)、地隠の光(楊春)
地微の光(王英)、地異の光(鄭天寿)
天殺の夢(李逵)、地闊の光(欧鵬)
義兄弟ではないと思うが、二人とも呼延灼戦で死んだ遊撃隊の穆春と施恩
なお、欧鵬を語ると、流花寨組は全員語り終わることになる。
それに比べ、二竜山と双頭山は大勢残っている。
>>833 李富の叛徒(梁山泊)に対する偏見は、世間によくある紋切り型。
インテリだし、諜報のプロなんで、もっと穿った見方をするのかと
思っていたんだが、拍子抜けした。
これに対して、韓世忠の偏見は、自然な感じ。
他人や他集団を好きになったり嫌いになったりする理由は、意外と
他愛ない。
>>983 孫新は、水滸伝のとき、顧大嫂が長く回想したんで、また顧大嫂がやると
同じようになる。といって他人がやると、徐寧を仲間にしたときの話を孫二娘
がやらない限り、ちんこネタしかない。
>>983 施恩は将校としての活躍はほとんどなかったね。
もっとも印象に残っているのは、替天行道に書き込みをしてまで
貪り読んでいたことか。
先月号で、公孫勝が豚の脳味噌を「ちびちび」食べていた。
公孫勝は小食で、むかし樊瑞が公孫勝の3倍食べて恥じている場面があった。
あの場面を思い出した。
ひどいネタバレだな。すばる派、もう少し自重せよ。
韓天麟など、先の梁山泊戦で戦死した将校の回想は、結局なかったね。
>>760 徐絢は徐寧の娘ではないか、という意見もあったが、
調べてみると、徐寧の結婚生活は半年。女房に逃げられている。
孫新は、鎧を相続する者がいないから、自分に鎧の処分を任せろ、と徐寧と交渉している。
徐寧に子はいないな。
>>987 現在の梁山泊は河水のほとりにあるんだろう?
公孫勝と劉唐が大昔にやっていた河水のほとりの砦跡が登場しないかな。
そこで、公孫勝が石秀を回想ですね?
>>982 唐昇に関しては、「野戦は苦手」と秦明が言っている(文庫7巻・367頁)。
「原野戦に引き摺り出せば、あしらい方はある」
次回、戦死決定だなw
しかし、北京大名府の軍管区の中では、もっとも若くして、つまり秦明よりも若くして
将軍になった男だ。アドレナリン。
>>842 了義山の闘いをやったことがよかったのかどうか、
史進・陳達と穆弘・宋万らに議論させていたよな。
史進や陳達は、戦の後でこんなに分析をするのかと驚いていた。
呼延灼は、戦の反省会もしない若い連中を見て嘆いていたが、
いつからこんな情けない梁山泊になってしまったんだろうな。
>>995 了義山戦後の神経質な議論は、ちとやりすぎかなと思ったな。
しかし、志が強調されている時代にはクソまじめな議論、
志がやかましく言われなくなると学級会の雰囲気。
この関係は、面白くないな。
「宋を倒す」という一点で結ばれていれば、同志は結束できるのかが疑問になる。
10万人近い人間を統率するには、ある程度厳しい規律は必要ではないかな?
>>993 いくら梁山泊が徴発しても、唐昇と祝家の連中は、野戦をしなかった。
痺れをきらした扈三娘が飛び出して、戦局に大きな変化があったね。
童貫、郭盛、劉譲、唐昇、寇亮、李明
誰が死ぬのじゃ?
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