その一例の虚構を築いてみるが、その前提となる貴重な示唆を長文で引用。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1155313983/640-641 「二」的「超人」と俺なりに仮構してみたが、
要は「n+1」からの俺なりのコミュニケーション哲学(適当に受け取ってもらって結構)なのだが、
「n」に「介入する」「1」は、
常に「n」から表象される運命にあり、
「1」ではなく「赤いn」だったり「青いn」だったり表象される
もっとジジェク的にこじつけていえば、
「1」ではなく「重いn」「エラそうなn」「ウザいn」「キモいn」…
この時「1」は果たして耐えられるのか?病んでしまわないのか?
「二」的「超人」で果たして耐えうるのか?
あるいはcpuのように感情を情報処理してしまえれば救われるのか?
とはいえcpuにも速かったり遅かったりするものがあり(「遅延」はスガの主題のひとつ)壊れるたり捨てられたりするのを覚悟で感情を捨てて動作するしかないのか…
もしかしたら「二」的「超人」のよりどころが3.だとしたら、
ギリシャ哲学から2000年も少しすぎてイエスの復活も寡聞にして知らないわれわれは出口なしの「この世界」からユートピア
(超自我?!参考文献に柄谷のユーモア論と、それを批判する芳川泰久の主に『漱石論-鏡あるいは夢の書法』)
を夢見て「死に至る病」を甘んじるほかないのか…
(当時のユダヤ人はもちろん使徒すら知らなかっただろうが。
たぶんイエスに助けてもらった無名の「n」の記憶にのみ「GOD」ではなく「Yhoshuah」は存在したのだろうが、
果たしてどんな発音で発声されていたか判るはずもなく、現代日本人なら「ヨッシャー」とでも記憶するのか…)