【スガって】さすがぁ♪ 糸圭秀実 8【いいよなぁ】

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659656 ◆gzRKmnYdjs
『権力と抵抗』をパラパラ読んでて、
さらにいままで考えてたことを少しだけ整理整頓 

0.「零度」(バルト/蓮實?)
1.「n」(ドゥルールズ/ガタリ?)
2.「一」(バタイユの仮想敵)

0.は「天皇制」や「無限」(柄谷)や「無意識」(フロイト)等とパラレル
1.は「他者」や「外部」とパラレル
2.は「形而上学」と「自己」と「署名」と「身体」とパラレル
(注・ラカンの理論はここで語れるほど蓄積がないので触れないが、根底には精神分析への関心がある)

ここで「多」(バタイユ)とはスガ秀美『小説的強度』に倣って言えば、
「雑」ともいえるし、
「JUNK」や「マルチチュード」(ネグリ/ハート?)も併置してもいいかもしれないが、
俺の直感では「n」と抵触するし、
もちろん「零度」であるはずがない

あるいは0.と1.のデュアルコアCPUが「多」「雑」「JUNK」「マルチチュード」なのかもしれないが、
しかし「二」という存在とは何者なのか?

少なくとも「超人」(ニーチェ)は「n」の多様性を生きる存在だが、
ニーチェが「二」を明記した箇所は俺は知らない
あるいは『悲劇の誕生』の「アポロ」と「ディオニュソス」が「二」なのかもしれないし、
「二」的「超人」()による「n」との「闘争」や「逃走」や「社交」が「永劫回帰」だとしても、
果たして「二」的「超人」(人間の脳をご想像ください)の感情やら精神はそれに耐えられるのだろうか…?
660656 ◆gzRKmnYdjs :2008/09/13(土) 01:45:56
その一例の虚構を築いてみるが、その前提となる貴重な示唆を長文で引用。
 
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1155313983/640-641

「二」的「超人」と俺なりに仮構してみたが、
要は「n+1」からの俺なりのコミュニケーション哲学(適当に受け取ってもらって結構)なのだが、
「n」に「介入する」「1」は、
常に「n」から表象される運命にあり、
「1」ではなく「赤いn」だったり「青いn」だったり表象される

もっとジジェク的にこじつけていえば、
「1」ではなく「重いn」「エラそうなn」「ウザいn」「キモいn」…

この時「1」は果たして耐えられるのか?病んでしまわないのか?
「二」的「超人」で果たして耐えうるのか?
あるいはcpuのように感情を情報処理してしまえれば救われるのか?
とはいえcpuにも速かったり遅かったりするものがあり(「遅延」はスガの主題のひとつ)壊れるたり捨てられたりするのを覚悟で感情を捨てて動作するしかないのか…

もしかしたら「二」的「超人」のよりどころが3.だとしたら、
ギリシャ哲学から2000年も少しすぎてイエスの復活も寡聞にして知らないわれわれは出口なしの「この世界」からユートピア
(超自我?!参考文献に柄谷のユーモア論と、それを批判する芳川泰久の主に『漱石論-鏡あるいは夢の書法』)
を夢見て「死に至る病」を甘んじるほかないのか…
(当時のユダヤ人はもちろん使徒すら知らなかっただろうが。
たぶんイエスに助けてもらった無名の「n」の記憶にのみ「GOD」ではなく「Yhoshuah」は存在したのだろうが、
果たしてどんな発音で発声されていたか判るはずもなく、現代日本人なら「ヨッシャー」とでも記憶するのか…)
661656 ◆gzRKmnYdjs :2008/09/13(土) 02:13:33
これ以上議論を膨らます容量が足りない。
最後に引用する。

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1089996017/71

ドゥルーズに敵対して「赤」に誘惑されるならn個の色(n個の表象)もあるのではないかと誘う蓮實的存在と、
それをオィディプスと退けるドゥールズ+1

それとも…

(補足/>>659-660も参照)