640 :
656 ◆pMC.4Mizqg :
《ジル・ドゥルーズは、
『カントの批判哲学』(指定文献省略・引用者注)にとどまらず、
ほかの何冊かの哲学的な著作で、
「赤」に言及するカントの言葉を参照している。
「二つ以上の表象がしばしば継起し或は同伴して現れると、これらの表象は、遂には互いに連れ合って一つの結合をなす」という事実をどうとらえるかの例として、
「赤い」と「重い」とが挙げられているのである。
その事実を、『純粋理性批判』(指定文献省略・引用者注)から引用しておく。
著作によって引用される部分は長かったり短かったりするが、
肝心な部分はほぼ以下の内容につきている。
もし辰砂が、
赤かったり黒かったり、
或は軽かったり重かったりしたら、…私の経験的構想力は、
例えば赤い色の表象によって重い辰砂を思い浮べることすらできないであろう。
(ジル・ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫)にも同様の引用箇所があったと記憶するが、いま探したところ頁を示せない。参照先知っておられる方は、もちろんドゥルーズの別の書籍でも結構なので教えてもらえれば助かる。以上引用者注)
641 :
656 ◆pMC.4Mizqg :2008/09/13(土) 01:39:53
ドゥルーズの処女作といってよい『ヒュームあるいは人間的自然--経験論と主体性』(指定文献省略・引用者注)で、
この文章はカントによる卓抜な連合説批判の例として引かれており、
そこでの引用行数はこれより遥かに長い。
(中略)
「現在を知覚するときには必ずその現在に過去との合致を強制する身体的器官によって、
わたしたちが辰砂を手に取るたびごとにその重いという感覚が再生され、
わたしたちはそれを見るたびごとに赤いという感覚が再生される、
ということが必要なのである」(ドゥールズ ガタリ『哲学とは何か』。指定文献省略・引用者注。以下中略)
「赤面した顔色と羞恥との間に、
どのような必然的な結合を見て取ることができるのか」(バークリー『視覚新論』指定文献省略・引用者注。以下中略)
「『赤くなる』という非身体的な表現と、
『赤い』という身体的性質とを区別する」(ドゥルーズ ガタリ『千のプラトー』。指定文献省略・引用者注)ことに言語の本質があるという立場を表明している。
ブレイユの記述で重要なのは、
「繋辞(である。本文傍点。引用者注/以下引用者。「である」体と「た」体の対立を想起せよ!!)を無視し、
主語を動詞--ここに付加形容詞的な属辞が目立っておかれることはない--によって表現するとき、
まったくの動詞として考えられた属辞は、
もはや概念(対象あるいは対象のクラス)としてではなく、
もっぱら事実あるいは出来事を表現するものとして現れる」(エミール・ブレイユ『初期ストア哲学における非物理的なものの理論』。指定文献省略・引用者注)という部分である。
そこから、
「身体あるいは物の状態は、
記号の『指示物』であるとはいえず、
それによって人は『表象するものではなく、指示するものでもなく、いわば介入するものであり(!!以上引用者)、これはまさしく言語の行為なのだ』」という『千のプラトー』の言葉が引き出される。
(中略)
この「事実あるいは出来事」という表現は、ニーチェ的な視点だといってよい。》
(蓮實重彦『「赤」の誘惑 フィクション論序説』)