【スガって】さすがぁ♪ 糸圭秀実 8【いいよなぁ】
【 すが秀実 @ Wikipedia 】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%8C%E7%A7%80%E5%AE%9F > 絓秀実(すが ひでみ 1949年-)は文芸評論家。新潟県出身。
> 新潟県立長岡高等学校卒業。学習院大学文学部哲学科中退。
> 「日本読書新聞」編集長、日本ジャーナリスト専門学校専任講師を経て、
> 2002年より近畿大学国際人文科学研究所教授。
> 本名は菅秀実。菅孝行と差別化するため苗字の表記を絓としたが、
> 筒井康隆・呉智英などから、鮭(シャケ)などと揶揄的に呼ばれることにもなった。
> 「絓[糸圭 U+7d53]」がJIS X 0208内に無い外字になるのでウェブでは仮名表記が多い。
【 「絓」の書き方 】
絓 - 「絓」(半角英数字・カギ括弧なし)と書いて投稿する。
絓 - 「絓」(半角英数字・カギ括弧なし)と書いて投稿する。
絓 - 「絓」(機種依存文字・カギ括弧なし)と直接と書いて投稿する。
過去スレ・関連スレなどは
>>2-5 の辺りにあります。
>>1 荒しを呼ぶタイトルをつけるなよ。削除依頼出して、立て直したら?
6 :
吾輩は名無しである:2006/08/04(金) 18:16:34
はい
7 :
吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 19:12:43
新スレおめでとうございます。
8 :
犬彦:2006/08/06(日) 22:42:18
9 :
吾輩は名無しである:2006/08/07(月) 14:07:02
おめー
10 :
犬彦:2006/08/07(月) 14:53:45
11 :
犬彦:2006/08/07(月) 14:57:42
>>9 いやー、どうもありがとう。
先程は急に芳川泰久からもお祝いの電話が掛かってきたもんで失礼しました。
12 :
吾輩は名無しである:2006/08/07(月) 15:08:36
よもたん!?
13 :
犬彦:2006/08/07(月) 15:19:16
14 :
吾輩は名無しである:2006/08/07(月) 15:21:25
あたしよもたんのファン
きもかわいい!
15 :
犬彦:2006/08/07(月) 15:38:07
16 :
吾輩は名無しである:2006/08/07(月) 16:48:56
糸圭タソは本当にこのスレを見てるんですか?
17 :
吾輩は名無しである:2006/08/07(月) 20:02:24
青木孝平っていいよなぁ
18 :
吾輩は名無しである:2006/08/08(火) 14:00:11
糸圭タソ見てるー?
/ ノノ ノノノ ヾヽ、ヽ
/ ノj ` ´ i |
i { ` , ,-,、´ i |
{ i )-―-'( i |
ヽ i ⌒ } |_,,,. -‐- 、
__)), ,ノ人 、_, ノ''"´ , \
/ ` ー--,. '´ . : :`( ゝ、
>>18 安心しろ、見てるぞ。
オレのファンが大勢いるので嬉しいぞ。
21 :
犬彦:2006/08/08(火) 22:25:26
>>20 このスレをうまく回そうと奮闘している俺の努力は無視するの??
糞スレになったもんだな。
23 :
犬彦:2006/08/08(火) 23:48:14
>>22 あーその気持ち、よくわかる。
お前らまともに糸圭の話もできないのかよ!?
24 :
吾輩は名無しである:2006/08/09(水) 11:25:13
25 :
吾輩は名無しである:2006/08/10(木) 01:52:18
スガだって禿げてるだろ!
26 :
吾輩は名無しである:2006/08/10(木) 12:31:51
まぁまぁすこし落ち着いてくださいよ綿禿さんw
>>22 doui.
著作内容に関しては何も書けない程度の低いヤシが一匹板に粘着している。
必死でスレに混ぜてもらおうと画策する時に
顔とかハゲとか体躯とか
くだらないミーハー糞レスを書き込む。どのスレでも同じ手口… w
>>27 doui.
著作内容に関しては何も書けない程度の低いヤシが一匹板に粘着している。
必死でスレに混ぜてもらおうと画策する時に
盗作とかババアとか自演とか
くだらない妄想糞レスを書き込む。どのスレでも同じ手口… w
29 :
吾輩は名無しである:2006/08/10(木) 12:59:40
てか一人でバレバレ自演の佐藤亜紀粘着繰り返してる人物って一体何者!?
佐藤本人が板粘着自演…なんて妄想は・・・病気ででも無ければわいてこんw
ケッサクな狂人だな
32 :
吾輩は名無しである:2006/08/10(木) 23:40:31
「自演荒らしのラノベ婆」とかいう妄想なんか誰も信じてないのにw
アンチ佐藤スレでひとりでバレバレ自演やってるの、マジ失笑にも値しねーけどw
あらゆる文学板に出没して「ばあさんw」とかキチガイ書き込みして
一体何が楽しいの???w
33 :
吾輩は名無しである:2006/08/11(金) 01:05:39
あ?
34 :
吾輩は名無しである:2006/08/11(金) 01:40:50
35 :
吾輩は名無しである:2006/08/11(金) 01:41:31
>>33 どうした?ラノベ婆さんw
ついに言葉まで失ったか、哀れだなww
36 :
吾輩は名無しである:2006/08/11(金) 04:26:28
>>35 よう、文学板を荒らしまくる盗作ラノベ婆さんw
一度書き込みに失敗したみたいだな、年寄りの冷や水はみっともないぜ??w
37 :
革マル派の指導者、黒田寛一元議長死去:2006/08/11(金) 05:00:46
過激派「革マル派」の最高指導者だった黒田寛一(ひろかず)元議長(78)が今年6月下旬、
埼玉県内の病院で死亡していたことが、関係者の話でわかった。
黒田元議長は63年、日本革命的共産主義者同盟(革共同)が分裂して革マル派が結成
された時から最高幹部で議長を務めていた。
同派の理論的指導者として長く著述活動を続けたが、「目が不自由で病気がち」などと
され、公の場に姿を見せることはなかったという。96年の政治集会で議長を退くことが表明
されたが、一般にはその動静はほとんど知られていなかった。
公安当局によると、その後も最高幹部として組織を指揮し、メンバーにとっては絶対的な
存在だったとされる。
38 :
家出猫:2006/08/11(金) 08:48:54
靖国になんで行きたがるかはっきりした答を出してませんでしたね
どうなんですか
39 :
吾輩は名無しである:2006/08/17(木) 13:26:43
糸圭タソ、どうなんスカ?
平野っていいよなぁ
41 :
吾輩は名無しである:2006/08/17(木) 19:26:58
青木氏の『コミュニタ』の 価値形態論はどう評価しますか?
それから降旗退官記念の『市場経済と共同体』は読みましたか?
降旗と青木が根本的対立を始めたみたいだけど、どのように評価しますか?
糸圭タソはワセダとかカクマルとかチューカクとか世界革命しか興味ないよ。
絓っていいよなぁ
平野っていいよなぁ
45 :
吾輩は名無しである:2006/08/20(日) 18:30:02
鮭の海岸物語
46 :
10月近刊:2006/08/29(火) 10:44:53
『1968年』(ちくま新書)糸圭秀実
47 :
スガスレ向上委員会:2006/08/30(水) 21:49:35
>>46 マジか?いいねw
でも筑摩にあわせて、中途半端な内容だったら、どうしよう
筑摩にあわせて高度な内容を期待する
48 :
吾輩は名無しである:2006/09/17(日) 20:56:43
マジですごいと思う
49 :
吾輩は名無しである:2006/09/19(火) 22:36:10
壮大な釣りにすぎない。
50 :
吾輩は名無しである:2006/09/21(木) 15:33:35
釣りじゃなくてスガほどのバカ見たことも聞いたこともないんですが。
話している内容も書いている内容も余裕でクソ以下だろう。
文章も下手だし、本も全く読んでない。
語学も全く出来ないし、つまり言ってることは全部他人のパクリとイデオロギーと一般常識。
せいぜい学習院あたりの学部生レベルのノリ。
お前ほどのバカも初めて見たよ。
52 :
吾輩は名無しである:2006/09/21(木) 20:21:11
あの世代では一番頭いいと思う
53 :
吾輩は名無しである:2006/09/21(木) 20:38:41
スカ褒めるヤツって何読んでるの?
ゴー宣レベル
55 :
吾輩は名無しである:2006/09/21(木) 20:48:05
アタマ極めて悪いシンパに支えられているスカってある意味幸せだな。
56 :
吾輩は名無しである:2006/09/21(木) 21:36:51
すがけなす奴って何読んでんの?
俺はスガをそこそこ熱心に読んできたつもりだが、
>>50のようなことを思ったことがなくはない。
スガは本をかなり読んでいるはずだけど、
>言ってることは全部他人のパクリとイデオロギーと一般常識。
という感想が出てくるのは、ちょっと分かるんだよな。
ほんとは疎外論的な姿勢でやっていくのが一番性にあっているのに、
本人が無理やりそれを否定しようとして中途半端な批評に終始しているということかなぁ。
批評というよりレビューなんだと思う
書評家に徹していれば一流だったかも
59 :
吾輩は名無しである:2006/09/22(金) 10:00:59
>>57 スガは、疎外論批判をしているけど、ラカンやジジェクに凝った事でもわかるけど、
疎外論を無理やり否定してはいない。むしろ、疎外論は最強である、だからこそ(にもかかわらず?)
・・・ってことじゃない?それは一貫している。スガは結構シニカルだと思う。だから、スガからある種の必死さ?
を読み取るひとがいるとしたら間違えだ。
あと、注目しているところも、例えパクリだとしても結構世界的な文脈で
話そうとしていて、私は好感が持てる。68年を考えようとしているのを始めとして、
古くは、ハイデガーとルカーチやヘーゲルを、コジェーヴなんかを経由しながら
関連付けようとか。広松とアルチュセールとか・・・日本だけで通用しそうな
文脈よりは、外を見ている(例え語学が堪能でなくともw)。
あと、スガは映画や演劇でもコメントできるしね。それとレビューなんて言う人もいるけど、
スガが評価できるのは、ジャーナリスティックな着目点だよね。国文学研究者
なんかが注目しないようなところを論じる。あるいは、利権上触れないところを
暴いている。スガの文芸批評のおもしろいところだと思う。
ただ、今の不満は、最近まとまったのを書いていないこと。老いるには、早過ぎないか?
>利権上触れないところを
>暴いている
こういうのはどんどんやってもらいたいところだ。
61 :
吾輩は名無しである:2006/09/22(金) 12:25:10
二流の青二才に徹してもらいたい。
>>59 だからレビューなんじゃないか。
ジャーナリスティックな着眼点を生かせるのは。
64 :
吾輩は名無しである:2006/09/28(木) 21:58:25
島田は青二才でもなんでもないから
65 :
吾輩は名無しである:2006/09/28(木) 22:45:14
大衆教育批判序説
迷った時の安吾のように
今こそ語学をやるのだスガよ!!
67 :
吾輩は名無しである:2006/09/30(土) 15:30:44
スガっていいよなぁ
68 :
吾輩は名無しである:2006/09/30(土) 15:40:06
スガって
青木孝平って
東大現代インチキ保守マル研って
いいよなぁ
マジ「スガスガしい国 日本」に必要とされる「人財」だと思う
NAM再チャレンジの必要無し
69 :
吾輩は名無しである:2006/10/01(日) 14:56:58
なんでシャケのスレがあるの?
本人または側近がスレ立てしたこともあるみたいよ
71 :
吾輩は名無しである:2006/10/06(金) 00:14:02
今日発売?
72 :
吾輩は名無しである:2006/10/06(金) 00:32:44
スガって ?
73 :
吾輩は名無しである:2006/10/06(金) 13:15:56
74 :
吾輩は名無しである:2006/10/07(土) 18:24:08
スガサダムフセイン
75 :
吾輩は名無しである:2006/10/08(日) 21:16:50
もどりジャケ
76 :
吾輩は名無しである:2006/10/09(月) 01:20:29
俗情との結託
77 :
吾輩は名無しである:2006/10/09(月) 08:18:56
シャケのくせに
大西巨人のトラの威を借りちゃいかん
78 :
吾輩は名無しである:2006/10/09(月) 08:22:27
すがの赤塚不二夫論例によって強引だなw
79 :
吾輩は名無しである:2006/10/09(月) 12:31:56
新書買った奴はいねぇのかよ
> 二松学舎大学近代文学ゼミナールAではサブゼミ(理論書講読)の特別版
>として、文芸評論家の絓秀実さん、音楽家の花咲政之輔さんを
>お招きして、お二人の編著『ネオリベ化する公共圏――壊滅する大学・市民社会
>からの自律』(明石書店、2006年4月30日)の読書会を行います。2005年12月に
>起こった早稲田大学でのビラまき逮捕事件をめぐり、ネオリベラリズムの浸透
>の中、自治空間であることを放棄しつつある大学の現状と今後とを討議します。
>当日は、絓さんの新著『1968年』(ちくま新書、2006年10月10日)も
>取り上げ、より広い視野から問題を検討する予定です。
>
>ゲスト:絓秀実、花咲政之輔
>
>日時:11月11日(土)13時半〜16時半
>
>場所:二松学舎大学九段キャンパス6階608教室
>
>(九段キャンパスの場所については、以下のサイトをご参照ください)
>
http://www.nishogakusha-u.ac.jp/a7.htm >
>参加費などはありません。事前申し込みは不要です。どなたでも参加していただけますので、興味のある方は、ぜひお越しください。
81 :
スガスレ向上委員会:2006/10/10(火) 00:53:16
出たね!
まあ、感想できる段階じゃないけど、「革あ革」と、かなり違うね
82 :
吾輩は名無しである:2006/10/10(火) 01:24:49
うむ
前作の構造とチカラよりだいぶ読みやすい
83 :
吾輩は名無しである:2006/10/10(火) 02:04:54
これは長く売れ続ける良書だよ
84 :
吾輩は名無しである:2006/10/10(火) 02:20:42
60歳にしてフリーター生活卒業ですね
85 :
吾輩は名無しである:2006/10/10(火) 03:50:27
『砂のペルソナ』書いてることだし、この際スガが『花田清輝アンソロジー』みたいの編集して、今や中々読めない埴谷や吉本との花田の論争文とか入れてくれたら面白いんだがな。やってほしいな。
86 :
吾輩は名無しである:2006/10/10(火) 10:01:00
シャケは人のふんどしで相撲をとるのが好きだよね
87 :
吾輩は名無しである:2006/10/10(火) 17:51:04
近大で『レフトアローン』の上映会するらしいよ
88 :
『LEFT ALONE』上映委員:2006/10/13(金) 01:54:20
11月3日、近畿大学の学園祭で映画『LEFT ALONE』を上映します。
午前中に本編を30分にまとめたものを、午後から本編を上映します。
上映後、文芸批評家の糸圭秀美、中島一夫による対談があります。
広い教室も確保できているので、ぜひご参加下さい。
89 :
吾輩は名無しである:2006/10/13(金) 08:12:10
レトロアローンか?
90 :
吾輩は名無しである:2006/10/14(土) 19:57:23
スガってかならず歌詞に「ぼくら」って書いてしまう人のことだっけ?
91 :
吾輩は名無しである:2006/10/14(土) 23:56:31
わざわざ近大まで誰が「レフトアローン」なんか見に行くんだよ。
見る価値あるのなんかオープニングのスガが踊ってるところくらいだろ
否。見る価値あるのは、西部邁の「〜だな、〜なんだな」の連発だけです。
キャラ助詞ってか。
93 :
吾輩は名無しである:2006/10/15(日) 20:22:47
え!『LEFT ALONE』みにいかないの?もったいないでしょ。
関東だから近大は無関係
95 :
吾輩は名無しである:2006/10/15(日) 21:18:26
新著でたのに盛り上がんないな
批評空間みたいな雑誌がないのが痛い
97 :
『LEFT ALONE』上映委員会:2006/10/17(火) 21:38:08
11月3日、近畿大学の学園祭で映画『LEFT ALONE』を上映します。
午前中に本編を30分にまとめたものを、午後から本編を上映します。
上映後、文芸批評家の糸圭秀美、中島一夫による対談があります。
広い教室も確保できているので、ぜひご参加下さい。
久々にここに来た。新書面白いよ。スガやるじゃん。
>>97 ウェブカメラ仕込んで対談だけでもネット中継してくれ。
シャケも自分で書き込むようになったらお仕舞いだな
革あ革とどう違うの?
文章がより荒れています。
おそらく糸圭氏はいま、文芸批評家から別の何者かに変貌する過程にあるのでしょう。
102 :
吾輩は名無しである:2006/10/19(木) 06:53:48
ネオリベ化する鮭秀実
エロ雑誌の埋め草にへんなテツガク的文章みたいなのが書いてあったりするけど
シャケってそういうの似合うよね
104 :
吾輩は名無しである:2006/10/19(木) 10:50:23
あくまで「テツガク的」であって哲学の要素が微塵もないのが似合うよな、ていうか鮭の宿命だよな
105 :
『LEFT ALONE』上映委員会:2006/10/19(木) 22:09:17
11月3日、近畿大学の学園祭で映画『LEFT ALONE』を上映します。
午前11時30分から映画を30分にまとめたものを、午後1時30分から本編を上映します。
上映後、文芸批評家の糸圭秀美、中島一夫による対談があります。
広い教室も確保できているので、ぜひご参加下さい。
ごっつぁんです
ていうか
相撲部の人がなんでシャケの上映会やるんですか
107 :
吾輩は名無しである:2006/10/19(木) 23:25:53
また内輪の話ですか
今回の新著は、かなり方向転換がなされてると思う
スガが批判してた対象が両義的に記述されてる
問題作だね
読んでくれる人がヒトケタ行けば
シャケ的にはベストセラーだね
110 :
吾輩は名無しである:2006/10/31(火) 07:45:28
シンポジュウムで監督の井土紀州が鎌田哲哉に「これを沖縄で上映できる
か」と言われて、回答をスルーしたが、彼にとって運動が知識でしかない
なら、これから作られる映画も上映は不能、状況に切迫することもないと
思う。同じことはスガ秀美にも言える。
実際に運動されてはたまらん。知識で沢山だ。
こんどのすがの新書では、沖縄問題にも触れているが、どうなの?
観光気分で触れられても困る。
運動気分でも困る。観光でたくさんだ。
<<110
「履歴詐称常習者」平井玄
スガが沖縄問題を真剣にやるわけないw
飯の種。他者ナンちゃら不在は自明である。
例の映画も本土でも通用しないんやから
鎌田のは愚問
>>105 そんな大雑把な情報じゃ当日現地に行っても途方に暮れてしまうよ。
もっとkwsk!
>>105の実行主体は不誠実無責任と断定して不参加決定。
新書かよ! 堕ちたな、糸圭!
今から買いに行くぞ。
柄谷が企画してたという日本の批評家をまとめて海外に紹介するという仕事、
糸圭が替わりにやらないかなー。
海外に紹介するのが無理でも、
岩波辺りからシリーズでまとめて解説付きで出して欲しい。
糸圭の一番良い仕事の内のひとつは、文芸批評家論(『複製の廃虚』、『探偵のクリティック』等)だからな。
68論を語るのも良いが、1930年代についても再考して欲しい。
『1968年』、途中で飽きてきたよ。
『革あ革』同様のクロニクルじゃん。その補遺みたいなもん。
>>122 そうかな? クロニクルだってのは同意するけど
かつて馬鹿にしてた市民運動に対しての態度が変わってるんじゃないのか?
クロニクルしか書けないという自覚は本人にもあるだろうよ
稲葉が新左翼嫌いだから、こっちを評価してるんだろ
内ゲバ体質を叩けば良しとか、そんな発想。
128 :
吾輩は名無しである:2006/11/06(月) 12:17:48
昔、GS神国/日本ってあったなそういえば
あれは八幡書店絡み
自分なりの読みを提示してほしいな。
もっとも俺は読む気が失せているが。
131 :
吾輩は名無しである:2006/11/07(火) 03:56:36
>>126 >ある不気味なもの……ってなあに? 知ってる人、ハッキリ言って頂戴。
フマとかピエとかじゃねーのwww
132 :
吾輩は名無しである:2006/11/07(火) 06:46:48
>>131 目の覚めるような鋭い意見だな。 wwwwww
134 :
吾輩は名無しである:2006/11/08(水) 14:09:42
糸圭サダムフセイン「な〜はっはっは、な〜はっはっは」
(旧『ゴー宣』)
『1968年』短いってこともあるけど、普通に面白かった。
厨先生が書いてる「民主と愛国」批判や
内ゲバの論理の分析もそうだけど、
山口健二と三島との関わり、中野重治「村の家」読解、
吉本「共同幻想論」批判なども(特に中野の「転向」解釈)、
いままで余り語られてない新鮮な切り口ではないかな。
少なくとも俺には「革あ革」より、説得的だったよ。
136 :
吾輩は名無しである:2006/11/08(水) 22:07:56
「革あ革」はスガの「アンチオイディプス」だろ。あのでたらめをでたらめと
して読めないようでは、駄目だと思うがな。
分りやすさは必要だが、やはり「革あ革」にはかなわない。
むしろ出鱈目を出鱈目として書けない絓秀実の文体に問題がないかね。
以前の、丸谷才一をポトラッチ理論で解いてみせた戯評(『「超」言葉狩り論争』収録?)なんかは良かったけどさ。
どうもラカンやジジェクを持ち出すと、冗談が冗談になってない。悪い冗談なんだよね。
鹿爪らしい顔つきの中に苦笑・微笑を読み取らせる、そんな文章を工夫しないと。
資質的にはジジェクそのまんまなんだよな
>>136 言いたいことは、分かるよ。
俺も「革あ革」の何というか、無理筋と分かっていながら言い張る感が
嫌いではない。
しかし、『1968年』では、説得的に語れる部分を、
より深化させ傍証も増やしているように感じられたんだ。
141 :
吾輩は名無しである:2006/11/09(木) 22:26:46
>>139 稲葉センセーに答えてもらうまでもない。
フロイトを読みなさい、無知なバカものが。
もちろん、すがもフロイトを前提にして論じているわけだ。
>>141 「不気味なもの」って言葉がフロイトからの引喩であることと、
「ある不気味なもの」が何であるのかは、別のこったろ。
まして稲葉振一郎は「もっと具体的に抉り出している」とまで言ってるんだから、
具体的に何がどうフロイト的な意味での「不気味なもの」なのかを説明すべきだね。
>>142 だよね。
スガさんはいい仕事してると思う。
いくらこの対談で蓮實氏がスガちゃんを揶揄し、
スガちゃん本人が蓮實氏に遠慮し(というか阿り)
自らの言説を冗談ですからと否定しようが、そうなのである。
と、『革あ革』的論法wで主張したいです。
論理が空回りして、全然説得力無いんだけどね。
「〜であるとしても」「〜しようが」って言回しの部分がまた、阿ねりよな。
うん。で、俺がいいたかったのは
『1968年』は、そういうのがかなり少なくなって
一冊の本として説得力がましてると思った訳です。
そりゃ、同じ主題で繰り返し書いて、少しはマシにならなきゃ、文筆業失格でしょ。
148 :
吾輩は名無しである:2006/11/13(月) 23:07:17
「〜だとしても、そうなのだ」っていうのは、単に、翻訳文体をスガが
模倣しているだけじゃないのか。
おいおい、そんな翻訳文体があるのか。どんな原文だよ一体。
スガは外国語の本が読めないのが痛いんだろうな
太宰スレを震撼させたすが秀実
153 :
吾輩は名無しである:2006/11/14(火) 23:06:21
>>149 スガが読みそうな思想書いくつか読んでみろよ。
けっこう頻繁にみつかるぞ。
そのくらい意識できずに、ここをあげつらうのは不勉強だな。
>>153 残念ながら、具体的に挙げてくれないと説得力が無いね。書名とページは?
それに、原文(英文?)での形を知りたいものだ。
155 :
吾輩は名無しである:2006/11/15(水) 04:44:33
>>154 お前のような馬鹿は二度とこないほうがいい。
原文で読んで、こう言う翻訳文の型を知っていれば、素人でも訳すだろう。
even ifの構文(フランス語ならこれに相当する)で、論旨を強調している箇所がそれだ。
ページというが、デリダでもジジェクでも、頻繁にある、英訳でもいいし、みてみろ。
お前のような馬鹿は、じゃあ全部even ifの強調文はそう訳しているんだな?という
ばかな質問をするだろうが、それは文意で訳している。
例えば、一番最近に出た訳、デリダの『雄羊』p52の第二段落を読んでみろ。
「たとえこの文法的な外見が、大いに異質な時間性を隠しており、実際に
それを利用しているとしても、そうなのである」
こう言う言い回しで、強調文にしている。スガはこれを真似ているだけだ。
スガの文体が、翻訳文体の影響をむちゃくちゃ受けていることくらい、
ここまで馬鹿が騒ぐ前から、当然分っているものだと思ったが。
後は自分で調べろ。かす
156 :
吾輩は名無しである:2006/11/15(水) 04:51:16
カッコイイ…
even if構文で「〜だとしても」と訳すのならば、たしかに珍しくもないね。
でも、それを「としても、そうなのである」と無理押しに締め括るの迄は、
どうなのかな。そんなに多いか? 『雄羊』の訳者は林好雄、か……。
絓も、そんな説明になってない勇ましがりを真似て、どうするのかねえ。
それに絓秀実の文体が翻訳文体の影響を受けたってのも、
丹生谷貴志だの松浦寿輝だのと較べれば「むちゃくちゃ」って程のこともない。
158 :
吾輩は名無しである:2006/11/15(水) 06:17:39
>>157 お前のようなレスをする馬鹿にこそ「苦し紛れ」と言う言葉がふさわしい。
「〜としても、そうなのだ」は強調と同時に、逆説を説明するときのもので、
しかもこの文体は別に、林特有のものではない。それは、読んでいれば分る
ことだ。そんなことにもお前は気付かなかったのか。
丹生谷や松浦と違うのは、スガは翻訳はしないと言うことだ。しかし、そう言う
スガにこそ翻訳文体が、影響している。たとえスガが原文を直接読んでいないと
しても、そうなのだ。
しかし、翻訳で読む限り、「〜だとしても、そうなのだ」を単なる無理押しとして
読んでいるとすれば、お前は相当ピントがずれてそうだな。
というか、お前が本読んでるわけないか。
翻訳をしてない絓に、なぜ松浦・丹生谷ら以上に欧文脈の影響が強い?
実際、仏文の連中の文章の方が翻訳文的口調が顕著なのは歴然(それが見えなきゃ文盲だ)。
そこを、「直接読んでいないとしても、そうなのだ」で逃げたのは、まさに、苦し紛れ。
そして何より問題は、絓の文に頻出する「〜としても、そうなのだ」は
逆説にもなってやしないで、単なる無理押しの言張りとしてしか効いてないことだ。
嫌いな人には無理押しに見える(言い回しが気に障る)し
そうでもなければただの言い回しって
よくあることじゃん。
>>160 でも、「嫌いではない」と述べる
>>140にすら
「無理筋と分かっていながら言い張る感」を指摘されてるよ。
「非Aだとしても、Aなのである」って論法は、
その逆説性を納得させるだけの説明が、前後に要るよね。
でも糸圭の場合は大抵それで言切ってしまって、補足が無いから困る。
語勢を強くする修飾としてだけ使ってしまってるから、拙いのでは。
162 :
吾輩は名無しである:2006/11/15(水) 20:05:52
>>159 なにが仏文の連中だ。お前が翻訳文体に全く目配せできていなかった
段階で、お前はカスだったということだ。後からならなんとでもいえる。
原文が読めないからこそ、翻訳に必要に引っ張られると言うのは、当然
あることだ。何も珍しくない。
お前もスガが、どこがどう逆説になっていないのか、例示してみろよ。
お前こそ何も具体的なこといえてないと思うが。
>>161も人の尻馬で話さないで、お前がどこを同思っているのか書けよ。
とことんカスな頭だな。
>>162 で、丹生谷や松浦や仏文の連中より、スガの方が翻訳文体であるとでも?
そこを誤魔化していくら虚勢を張っても、苦し紛れだな。
何か下らない議論が続いているが、
翻訳が国語に先行するというのは大前提でしょう。
古代「日本語」が翻訳から出来たということも歴史的に証明されているし、
われわれが使っている現代(近代)日本語も然り。
165 :
吾輩は名無しである:2006/11/16(木) 00:21:07
>>164 お前みたいに、一般論の大前提を言うほどつまらないものはないがな。
すがって外国語の本読めないんだ?
167 :
吾輩は名無しである:2006/11/16(木) 02:48:27
>>165 全然反論になってない。
「大前提」であることは受け入れるの?
168 :
吾輩は名無しである:2006/11/16(木) 04:20:45
>>167 反論した覚えはない。間の抜けた一般論なんて誰も答えてくれと
いっておらんからな。
まだ、くだらない馬鹿のほうが、おまえよりましだ
169 :
吾輩は名無しである:2006/11/18(土) 08:16:32
流れ切っちゃってごめんね。
スガちんの授業が聞きたいから近大のコミュニティカレッジに
入ろうと思うんだけど、大阪まで行かなくちゃいけないのかな・・・?
東京ではやってないの?
情報お願いします。スミマセン。
公式サイトいきなよ
東京では授業やってないよ
171 :
吾輩は名無しである:2006/11/18(土) 09:08:48
ありがとうございます。
公式は見ていたんですが、どこで授業をしているのか
さっぱり解りませんでした。
スガさんの研究室、四谷にはないということでしょうか。
(ということは普段大阪にいらっしゃる?)
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ローカルな日本の学生運動を中心に「1968年」を考察しても正直何も見えてこない。
>>174 ちゃんと読んでみようよ。
「革あ革」と「1968年」。
読んだら違う批判ができるはずだよねえ。
176 :
吾輩は名無しである:2006/11/26(日) 22:01:06
「たどしても、そうなのだ」の一件でも分るように、スガをここで批判している
やつのほとんどが、スガの本をちゃんと読んでいないか、ここでレスするには
恥ずかしいくらい頭の悪いやつだということはわかっている。
スガは学生運動をローカルなものとして捉えていないにもかかわらず、
>>174のような馬鹿は常に現われる。こう言う馬鹿は二度と現われて欲しくないものだ。
本も読めない、読解力もないにもかかわらず、なぜスガスレに書こうとするのだろうか。
馬鹿も突き抜けていれば面白いが。ほとんどが難癖レベルでしかない。
>>176 うむ。恥ずかしいほどの馬鹿って言っちゃうと可哀想なんだけど、同意。
まあ、クリシェを語って何か意味のあることを言ったと思っちゃう若者なんでしょ。
それよか、馬鹿で愚直な感想の方が面白いのにね。
178 :
吾輩は名無しである:2006/11/26(日) 22:22:55
176はホントに「頭の悪い」と「馬鹿」って言葉好きだな
あと「オバハン」とか「中年」とか
>スガは学生運動をローカルなものとして捉えていないにもかかわらず、
だから、駄目なのでは。
所詮ローカルでしかなかった日本の学生運動を、
ローカルではないものとして大袈裟に論じたがるから
無理が出るってことでしょ。
>>176 おい馬鹿、
>>163への応答が無いぞ。
他人を罵って虚勢を張っても、自分が馬鹿でないことにはならんのよ。
>>175-177 『革あ革』と『1968年』を読んでいったい「何」が見えてきたか具体的に書いてみな。
精読してるお前らにはできるはずだよな。
俺には見えない「何か」が見えると主張しているのだから。
それを記述してもらわないと始まらない。
俺には糸圭自身が関わった学生運動とそのごく周辺のトリビアとノスタルジー以外何も感じないね。
他人の卒業アルバム見てるような感じだよ。
そのことを特に批判するわけでもないがどうも広がりを欠いたローカル臭い話になってつまらんってこと。
これは糸圭が「1968年」体制の内実をしっかりと説明せずに何となく周知の事実として流してしまって、
その日本に於ける起源としての学生運動というムーヴメントを滔々と語っていくだけになっているので、
そういう結果に陥ってしまっているのだと思う。
『大衆教育批判序説』だっけか? あれのほうがまだ面白かった。
『革あ革』と『1968年』にどこか読みどころがあるなら教えてくれ。
2mの跳躍の可能性とかそういうことはどうでもいいから。
182 :
吾輩は名無しである:2006/11/27(月) 00:27:44
機動戦→陣地戦は世界的(というか先進国でというべきか)な流れじゃん。
それを日本の文脈で論じたわけで。
まあこの時期にこれを書いたのは某批評家への嫌味かもしれないが。
183 :
吾輩は名無しである:2006/11/27(月) 18:50:06
>>181 説明した気になっているようだが、何も言ってないなお前は。
恥ずかしい限りだ。どうアルバムなのかノスタルジーなのか
人に精読を求めるなら書いてみろ。お前は一連のレスの中で一番卑怯
な書き方ゆえに、カス過ぎる。人をダシに使わず、どう大衆教育批判序説
が面白かったのか言ってみろ。カスの中でも最低のやつだ。
>>179 ローカルじゃないとかいているのを、ローカルだと言いたいのなら、
そのローカル性をいってみろ。スガはマイノリティ運動や世界的な
受動的革命=反革命の世界的な文脈で読むんだろ。
日本の所謂学生運動がどの意味においてローカルなのか、スガ以上に
説得的にいってみろ。そう言うお前もカスだ。
きさまらなど
>>182の三行で一蹴されている。今北産業以下だな。
184 :
吾輩は名無しである:2006/11/27(月) 18:51:59
あと、これはいっておかないといけないことなんだが
学生運動の「内実」と馬鹿の
>>181は言うわけなんだが、
その意味では、スガは決して「内実」など書いていない。
そんな内実などはないといっているんだ。
「内実」という言葉を使うやつは、9割頭が悪い。
185 :
吾輩は名無しである:2006/11/27(月) 19:17:22
「内実」という言葉を使うやつは、1割頭が良い。
>>183 まあ、そこまで言わずともw。
「革あ革」「1968年」の類似と異同についても
ここでは既出だし、本読んでもトリビアとノスタルジーしか感じられないって威張ってるヤツには、
過去ログをROMっても何が書いてあるか分からない筈。
こういうのには、じゃあ何が面白くてスガ読んでるのか、聞きたいよ。
単に読まなきゃいいだけ。
『革命的……』で失望して、『1968年』は読む気なくしとった。
面白くなってるってんなら、是非そこを紹介・説明していただきたいね。
183みたいな空威張りはつまらん、もっと中身(内実)のある話をしようや。
何か、糸圭についてちょっと批判がましいことを書くヒステリックになる白痴が常駐してて雰囲気悪いな、ここは。
糸圭のファンらしからぬ余裕の無さが露呈しててこっちが恥ずかしくなる。
おおかた一等馬鹿な教え子かな。大学の教員になるのも善し悪しだ。
>183
お前、俺の言ったことに具体的に何も絡めねえじゃねえか。
「糸圭自身が関わった学生運動とそのごく周辺のトリビアとノスタルジー以外何も感じない」という俺の感想が気に入らなきゃ、そうじゃないってことを例証すりゃいいだけの話だろ。
俺はそこを聞いてんだよ、ボケ。
>学生運動の「内実」と馬鹿の
>>181は言うわけなんだが、
そんなこと何処で俺が言ってんだよ、ボケ。
俺は「「1968年」体制の内実」 っつってんだよ。
お前は何をダシにしょうもない難癖つけてんだ? このカス。
「学生運動の「内実」」なんてどうでもいいんだよ。もう腹一杯なんだよ。
そこに終始してるから「どうも広がりを欠いたローカル臭い話になってつまらん」って言ってんだろ。
他人のレスについて何か言いたかったら最低限読んでから書き込め、このボケが。
>186
>過去ログをROMっても何が書いてあるか分からない筈。
この新書が出てからどんな立派な書き込みがあったのかな?
しょ〜もない感想ばっかじゃん。
何か目の覚めるような指摘があったなら具体的にレス番指示してみな。
お前がやるんだよ、カス!
ヒステリックに雰囲気悪くしてるのは上の人だと思う。
>>188の馬鹿はもう使い物にならん早々に消えてくれ。
最初に口汚くわめいて雰囲気悪くしたのは、絓を擁護する方の馬鹿だな。
んで、罵り合って共に馬鹿の淵に落ち込んでゆくト。
192 :
吾輩は名無しである:2006/11/28(火) 16:08:17
>>191 翻訳の問題に全く目配せできない頭の悪さを露呈させて、
それを指摘した俺に全く感謝もせず、居直っている
馬鹿で卑怯者のスガ批判のおまえより、お前が言う
擁護?のやつらのほうがよほどちゃんと読んでいるからな。
大体批判と擁護の区別しかできないお前は、どうしようもないがな。
とにかくおまえのような、馬鹿でカスで卑怯者は難癖だけで
批判していると思っているから始末が悪い。
>>188の救いようの
ない馬鹿を引き取って、もう少し頭のいいレスをしてくれ。
恥知らずだな。
ヒステリックにならないように書いてみるけどw。
過去の時代のことを主題にして書かれた本を読んで
その時代のトリビアとノスタルジーしか感じないって否定するのは、ちょっとおかしいんじゃないの?
その時代のことを同時代の体験として(別に体験してなくて調べて書いてもいいんだけど)書いてれば
過去の事実すら知らない人間がトリビアだって感じるのは当たり前の話しで。
ごく普通に、知らないことを教えてくれるだけでも、普通に知的好奇心(今や恥ずかしい言葉だけどw)
持ってる人なら「へ〜そうなんだ」って、それだけで価値を認められる筈じゃない?
で、その上で、それが、新鮮な視点で動員されてれるなら、面白いってなるか、その視点は無理だろ!ってなるわけでしょ。
トリビアばっかりって言うだけで否定ちゃうから、笑われるんじゃないの?
スガが「革あ革」以降、「華青闘」告発をテコにして、明示的に言い始めたのは、
全共闘おじさんたちの行動が、連赤事件きっかけに全否定されてた空気に対して
今やまともな人間なら否定できないPC的活動は、実は殆ど「1968年」の成果なんだぜ!ってことでしょ。
俺はそれは、今までにない新鮮な視点だったと思った。
スガ的無責任発言だとしても、割に面白かったわけ。
ただし、過去ログで問題になってたのは、それが説得的に書かれてるかどうかってことで。
過去ログ議論では「革あ革」では、無理やり感が色濃かったのが「1968年」では更に別視点を導入して、
かなり説得的になってるって言うヤツとまだ不足って言ってるヤツがいたわけじゃん。
で、俺は「1968年」に至り説得力が増したって感想なの。
今トリビアしか感じなかったって書くなら、どうトリビアに過ぎないのか書かないと、叩かれるのは仕方ないと思うよ。
ぶっちゃけると、
あなたぐらい委曲を尽くした文を書くと、
即座に面が割れる人が多いんじゃなかろうか?
だから幼稚な煽り合いに終始しているのだとも取れる。
内ゲバにまで深刻化しないように罵り合っているわけです。
これは日本の1968年の負の遺産とも言えよう。
196 :
吾輩は名無しである:2006/11/29(水) 19:48:31
すがによれば内ゲバは革命ごっこじゃなく本気なことを示すための行動らしいね。
しかし…
197 :
中川泰秀 ◆tyvkWCNtzY :2006/11/29(水) 20:10:13
近畿大学はむやみやたらと人を呼ぶなあ・・・・・・。
>>193 >今やまともな人間なら否定できないPC的活動
それを否定できないのが左翼小児病的心性なのさ。
まともな人間なら、市民派どもの言葉狩りの馬鹿馬鹿しさにもまた気づくはず。
もし糸圭がそれを肯定するだけなら、全共闘世代のノスタルジックな自己擁護でしかないわな。
>>192 で、
>>163には返答できないのね、結局。
だって、絓が松浦や丹生谷らより翻訳文体でないのは歴然としてるもんなあ。
そこをごまかしていくら言張っても、駄目。
>>198 えーと、君はそれだけでかい口叩いておきながら「1968年」を読んでいないのかな?
それとも鳥頭のせいで忘れちゃったのかな?
もし、読んでないのなら本屋に行って冒頭数ページだけでも読んでみてごらん。
さすがの君でも、スガにすら先回りされてる自らの知性に対して忸怩たる思いを抱くんじゃないかな。
言葉狩りって社民的心性でしかないじゃん
左翼とは別の「市民」を取り違える198のような批判は、
ぶっちゃけ「女教師」的な類型が嫌いなだけだと思う。
スガもその類型は嫌いだから、たぶん多くのサヨ叩きとそこでは一致するはずだ。
>>198 俺はすが擁護派wっていうのじゃ全然ないんだけどさあ
ポリティカルコレクトネスと言葉狩りがどうしたら
一緒くたに批判できるのか、教えてほしい罠。
PCて言葉狩りのことなの?ww
左翼小児病的心性っていうのもいつの時代の言葉か知らないけど
(すごい言葉知ってるよねえ、あなたいくつ?)
そういうジャーゴン、この時代に使って何を批判しようとしているのか、不明。
(それこそ60年代から70年代初めの紋切り型の罵倒語じゃないの?ww、今もどこか知らない勢力の内部ではそういう言葉使われてるのかね?)
誰でも普通によめば、すがはPC全肯定していないじゃん。
どこに向かって吠えているのか、説明してほしいよ。
いや、だから「市民」が嫌いなだけじゃん
そういう無駄な挑発は疲れるだけですよ
政治的に正しいことが好きな連中の多くが愚劣な言葉狩りに帰結したのは事実。
前著がつまらなかったので『1968』は読んでないが、面白いのなら見どころを語ってくれ。
204の左翼像が貧しすぎるんだよ
>>204 今手許に『1968年』も『革あ革』もないし、
『革あ革』は出た当初に、一回読んだきりだから間違ってるかもしれないけど、
華青闘告発絡みで、『革あ革』になくて(あったのならごめん)『1968年』で
出てきたのは、華青闘告発に居合わせた明治学院の女子学生の日記で、
俺は、これがちょっと面白かった。
つまり、現在、既に一般化している反差別・マイノリティ擁護の趨勢は、
1968年(というか年号で言えばその後の華青闘告発)に
淵源をもつと言われても、前著では結果論のこじつけではないかという疑いも強かった。
すが氏が華青闘告発を後出しジャンケンのように持ち出し、
1968年の体験を現在の視点から、無理矢理意義づけているように感じられたからだ。
前著で弱かったのは、普通の学生が、当時華青闘告発の意義を
ちゃんと受け止めていたのか、という疑問で、
そういう受け止めがなければ、すが氏だけの体験と思想に基づく後出しのこじつけと言われても仕方ないだろう。
『1968年』で、持ち出された明治学院の女学生(末端の活動家だったか)の日記が伝えているのは、
同時代に既にその意義が、十分とは言えないまでも、意識されていたということだ。
ここで、『1968年』で説得力が増しているという人がいるのは、その辺のことを読んでのことではないか。
ただし、俺がホントに面白かったのはそこではなく、
前にあげてる人もいたが、中野重治の「村の家」読解による
中野転向論の従来説の転倒で、これはすが氏の面目躍如だと思った。
あと、すが氏はいわゆる「市民」が(多分)嫌いだから、
小熊英二『民主と愛国』をしつこく批判しているわけだし、
>204氏がいう「愚劣な言葉狩り」にしても、
そういうものがあることを十分前提にした上で
にもかかわらず差別は批判されるべきであるというんで、
『「超」言葉狩り宣言』『「超」言葉狩り闘争』を書いているのだから、
>204氏が書いてることの根拠は弱い、というか考えてることは、むしろすが氏に近いと思う。
長文スマソ
「反差別・マイノリティ擁護の趨勢」って、「現在」ってより、
それこそ70年代からあったことで、むしろ古臭くてアクチュアリティを感じない。
「一般化し」たのは90年代以降としても、そんなの薄まったサヨクに過ぎないでしょ。
同様に、過激な「新左翼」も、そのニュー・ファミリー的に穏和化した「市民」も、
同じ穴のむじなではないのかなあ。
絓の論が狭いコップの中での虚しい卓越化(ディスタンクシオン)に見える。
俺らはあいつらとは違ってるんだ、と。
近年は「市民」て語が、70年代的意味に別の含意を附けて再来してるみたいだけど、根は同じ。
208 :
吾輩は名無しである:2006/12/05(火) 15:59:03
>>206 『「超」言葉狩り宣言』『「超」言葉狩り闘争』など読んでも、説得力に乏しく、
キム・チョンミとかの旧弊な教条主義を支持する気には到底なれなかったけどな。
愚劣を擁護しようにも無理がある。スガ自身も、どっかの座談で教条的過ぎると語ってたはず。
だったら猶のこと、ことさらサヨクを偽装してまで「糾弾」に躍起となるわけがわからない。
『革命的なあまりに革命的な』では、それを「享楽」ってラカン派ジャーゴンで強引に肯定してたけど。
>>207 お前さんにとってアクチュアリティーがある「思想」ってあるの?
>>209は、ポリティカル・コレクトネスやゲイ・リベレーションやに古びない現働力を感じるの?
質問返ししかできないのか……
>>210が言っているのは
PCやゲイ・リベレーションは、もう古いから価値がないってこと?
ほっとけば、バックラッシュがどんどん起きて、簡単に元の木阿弥になっちゃうもんだから、
仕方なしに、事あるごとに言い続ける、というか、前提にすべきだってことなんだと思うけど。
こういうのがもうダメなら、どういう態度をとるのがいいのか、書くべきだよ。
原働力って言葉の意味がよく分からないけど、
古くなって現在では役に立たない、価値がない、面白くもないっていうことなら
自由wでも平等wでも民主主義wwでもなんでもいいけど、
こういうのだって、もっと古い概念じゃない?
こういうのも、今の社会じゃ全く価値のないモノなの?
>>210みたいなことを読むと、やっぱり
今アクチュアリティがあって、現働力がある思想って何か、教えてほしくなります。
混ぜ返ししかできないのか……
210=213はちゃんと答えなよ
210≠213だし、即レスを求められる義理は無い。2chに常時接続してるわけではないから。
原働力ではなく現働力、ね。
>>212 言語理論や精神分析でactualiser(仏)を「現働化」と訳すでしょ。
「事あるごとに言い続ける」だけでは、陳腐になり、まるで効き目がないわな。
自由、平等、民主主義……が、そのままでは苦笑ものでwをつけざるを得ないのと一緒。
温故知新ってこともあるが、古い真理を新鮮に感じさせるにも工夫が要るな。
それが、現在の「反差別・マイノリティ擁護」の運動には、見当らないよね。
絓秀実の主張するごとくそれらが68年に起点を持つとして、
もう70年代以降ウンザリするほど繰り返され、薹(トウ)が立ってるわけ。
その記憶も無く知識も無い若者なら、新しく見えるのかもしれんが。
で、君は、あんなのを現代的だ新しいことだと感じるのかな?
いまは、それらが旧式だとわかればいいはずで、代替案を示す必要は無い。
別に社会改革の志なんか無いしね、サヨクではあるまいし。
足引っ張って喜んでるだけか
犬儒の徒にも劣る
217 :
吾輩は名無しである:2006/12/06(水) 22:00:16
足引っ張る――って何の? 誰がまともに地面を踏みしめて歩んでるってのさ。
どのみち実効性のない、評論家の空論でしょ。
空論と現実の対比か…
幼稚な弁証法だな
教えて厨だけどさ。
>>215 書いてることに別にそんなに異議はないけど、一つだけ。
>いまは、それらが旧式だとわかればいいはずで、代替案を示す必要は無い。
というのだけは、旧式だと分かるだけでなぜいいのか、説明キボン
それと
>>217 にも聞きたい。
実効性のない、空論でもいいけど、それならなぜ、読むのか?
空論だけど、読んでるとき、ちょっとでも面白いということか?
空論であり、面白くもないなら、そういうものをなぜ、語ろうとするのか?
俺は少なくともスガ読んでどっか面白い所あると感じているから、読んでいるのだけどね。
小説は、人生に相渉らない虚構だが、それだからこそ面白いよな?
評論だって、変に実践的たらんと力まなければ、観念論は観念論で楽しめる。
分際を越えて、正義漢役の俳優がマジで世直しに乗り出すみたいなことされると、興醒め。
NAMとかも。張本人の柄谷行人の愚劣はもちろんだが、
あれに熱中した読者は、仮面ライダー見てライダー少年隊になりたがるみたいに幼稚。
じゃあ「2mの跳躍」なんて言うなっつー話だよな。
>>219 >旧式だと分かるだけでなぜいいのか、説明キボン
だって
>>207が古臭いと言ったことに異論があったんでないの?
それが解消されれば、もういいだろに。
〜は古臭いって言うのは簡単だ。でも何が新しいというのだろう
新しいもの探しは各自で好きにやっとくれ。
ただ、新しくもないものを新しがっても、同調できんけどな。
そうやって腐すのは完全に素人衆の発想だね
何を当り前のことを。ただの一般読者なんだから当然、素人だ。
玄人(プロ)が銭も取らずにこんなとこ書くものか。小谷野敦ではあるまいし。
未読なんだが、糸圭は「2mの跳躍」ってどんな意味で言ってるの?
>>221
>227
最低読んでから参加してくれ。
ブックオフの百円均一に出たら読みます。
五冊百円でもアレだよね
>今やまともな人間なら否定できないPC的活動は、
>実は殆ど「1968年」の成果なんだぜ!ってことでしょ。
アホ丸出しだな。
まるでPCが正義のような言い草だ。
糸圭がそんなこと言うか?
ましてや「「1968年」の成果なんだぜ!」なんて手柄話みたいに。
繰り返し言う。
糸圭がそんなこと言うか?
シャケなら言いかねない
233 :
吾輩は名無しである:2006/12/11(月) 00:31:56
筒井厨が約1人うようよと下らないことばかりカキコしているみたいだな。
おれは、筒井の「ダヌンツィオに夢中」は優れた三島由紀夫論だと思うが、
スガの『1968年』のなかの三島論も、それに匹敵するものだと思うぞ。
ハア? どのレスが筒井康隆なんか支持してるかよ?
235 :
吾輩は名無しである:2006/12/11(月) 00:49:52
スガの本なんてどこにも売ってねーしwww
236 :
吾輩は名無しである:2006/12/11(月) 13:57:41
おまいら青春だな
ちゃんと就職活動もやれよな
オサーンはシャケのケツでも舐めてればおk
保守
「何もしない人ほど批評家になる」
自分がバカにされないことに意識を集中する。
これが劣等意識がもたらす「引き下げの心理」なのです。
部下の行動、妻の言動、何かのコラムを批評することで
「自分の方が偉いんだ!凄いんだ!」と自分で確認しなければ、気がおさまらない。
だから良いところより、批判することにのみにすぐに意識が向く。
なぜ人を誉めることやよい所を認めることに、ある人はこれほど抵抗感を持つのか。
誉めないまでも、一つの考え方としてとらえる事ができないのでしょう。
演劇や舞台の批評文ばかりを見て、あの舞台はキャスティングミスさ、台本の流れが問題さ、
と退屈と苛立ちにアグラをかいて人を批判するより、
一生懸命作っている演出家や出演者の方が人生を楽しんでいるし、心からの友達も多いはず。
何もしない人ほど批判精神ばかりを育てて、人生を孤独にする傾向があるのです。
批判ばかりがクセになると、自分の小さな行動に対しても「くだらない」「意味がない」
と自分にも批判精神は向いてしまい、自分の前向きなエネルギーまでもが枯渇します。
自己言及?
241 :
吾輩は名無しである:2007/01/26(金) 03:35:24
スガっていいよなぁ
ところでスガって今どんなもの書いてんの?
243 :
吾輩は名無しである:2007/02/05(月) 16:34:34
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
▼あったらイヤなスガ シカオ〜Part 2 △ [邦楽サロン]
学問文系、終わっているね。
245 :
吾輩は名無しである:2007/02/25(日) 23:04:24
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ゝ}__ .lllll}{゚;;.;;__:]{.lIrt(____、./゚゚]llll゚ xI゚゚..li.i.゚゚llllllll}
`、 .lllll`、.ヽ__.lllll)゚{__ f././゚__./.ヽ{゚゚__llllllllll
このおっさんてチョンなのか?
オウムのときカイドウの人間にアサハラやジョウユウが部落の人間だから
カイドウも共闘せよと詰め寄ったらしい。
実際はアサハラはチョンだったわけで、部落の人間にオウムの蛮行を押し付けた
かに見える。
学習院出の貴族だよ。
248 :
吾輩は名無しである:2007/03/12(月) 06:04:25
プゲラ
249 :
吾輩は名無しである:2007/03/23(金) 08:29:04
このスレのみんなはもちろん外山恒一に投票すんでしょ?
250 :
吾輩は名無しである:2007/03/23(金) 20:01:47
誰それ?
251 :
吾輩は名無しである:2007/03/25(日) 17:31:42
笙野が
「名前を出すのも汚らわしい
W辺とSが」
って言っていたが……w
253 :
吾輩は名無しである:2007/03/25(日) 20:38:20
チョンだろ?こいつ
外山恒一の政見放送見たよ。
僕は嫌いですね、こういうコケオドシ的な野郎は。
内田裕也先生の足元にも及ばない。
255 :
吾輩は名無しである:2007/03/26(月) 08:27:40
256 :
吾輩は名無しである:2007/03/26(月) 09:52:31
257 :
吾輩は名無しである:2007/03/26(月) 13:57:42
こんなパフォーマンスが有効な時代はもう十年以上前に終わってるだろ。
むしろ脳天気なマジョリティーだとさえ思う。
258 :
吾輩は名無しである:2007/03/26(月) 15:11:57
マジで凄いと思う
アメリカコメディアンの猿真似
数多いる泡沫候補のうち、なぜ、外山恒一に注目しなければならないのか?
(「早稲田文学」の連載の話です)
この程度の輩に「政治」を見出してしまうのは、まさに<俗情との結託>ではないか。
これでは、『真空地帯』で一人のやくざ者に革命を夢見た野間広とまったく変わりがない。
「ポストポリティカルな状況」だかなんだか知りませんが、スガ氏は相変わらず
頭の中で一足飛びに近代を飛び越えられる夢見がちなオジサンですね。
くだならい68年史観なんぞにいつまでも固着しているから身動きがとれなくなるのです。
どうせだったら本当に高度なことを具体的に言ったら成立するのに
こけおどしになってないよ
かといってただつまんなくて笑えないし
262 :
吾輩は名無しである:2007/03/28(水) 23:03:39
すが秀実は外山恒一のことどう言ってるの?
263 :
吾輩は名無しである:2007/03/29(木) 00:53:44
>>262 一番新しい「WB」の連載でなんか書いてた。
基本的に誉めてたような。
でかい本屋には置いてあるので貰ってき。タダやし。
264 :
吾輩は名無しである:2007/03/29(木) 02:53:18
あなたの書き込み、まさに我が意を得たり、です。
>>260 鮭め、馬脚を現しやがったなw
筒井康隆先生にチクっておきますです!
265 :
吾輩は名無しである:2007/03/29(木) 09:41:02
すがは別に外山に「革命を夢見」ているわけではないでしょう。
せいぜい、「考えるヒント」くらいのものか。
それにしても、筒井厨がまだいるとは!
柳厨かもよ?
スガがうけたように、びんたくらいたい?
267 :
吾輩は名無しである:2007/03/29(木) 23:09:17
外山のダメなところは、ジャンクたらんとする覚悟がないこと。
スガは自分がどうあがいても知的ジャンク以外ではないことをよく自覚している。
そこのところの落差は決定的だね。
スガさん、酔っ払って自分を褒め称える書き込みして、人生たのしい?
269 :
吾輩は名無しである:2007/03/31(土) 09:59:00
超ホーマツ
270 :
吾輩は名無しである:2007/03/31(土) 14:22:18
271 :
吾輩は名無しである:2007/04/05(木) 01:18:48
社民バカにしてたNAMの元会員が浅野応援するって敵の敵は味方ってことですか石原の敵なら何でもいいですか誰かおせーて
272 :
吾輩は名無しである:2007/04/05(木) 21:46:29
NAM残党にもいろんなヤツがいるってこと。
273 :
吾輩は名無しである:2007/04/06(金) 00:12:53
人民戦線ですか
274 :
吾輩は名無しである:2007/04/06(金) 02:02:01
俗情と結託しなければなにも書けないモノカキ鮭秀実は外山恒一を応援しております(笑)
俗情と結託しなければなにも書けないモノカキ鮭秀実は外山恒一を応援しております(笑)
275 :
吾輩は名無しである:2007/04/06(金) 08:01:22
>>273 だから敵の敵は味方で浅野応援するってこと。
それのどこが悪いの?
276 :
吾輩は名無しである:2007/04/06(金) 09:06:01
--------------------------------------------------------------------------------
新宿区の路上で外山氏&運動員が演説していたところ、近隣の大学の職員とおぼしき人物たちが群がり、演説の妨害を続けてました(最終的には職員は警察官に連れて行かれる)。目撃者は100人以上いたと思われます。
この大学職員は選挙違反ではないのですかね?後日逮捕とかってないんですかね?
早稲田大学で一昨年おきた不当逮捕に対して抗議するノンセクトグループの4月1日行動に、外山恒一が「連帯」して「反管理」の選挙演説をおこなったものですね。
都知事候補がくれば、公職選挙法上、妨害できないち考えたトリッキーな戦術だったようです。演説をやめさせようとする職員を、警官が制止していました。
>>275 93 :考える名無しさん :2007/04/06(金) 10:20:03
「敵の敵は味方」って、たとえば毛沢東は敵=ソ帝の敵=アメ帝は味方、
という論理で、米中国交回復をやって、結果、社会主義をほろぼしたわけだよね。
こういうバカ左翼は枚挙に暇なし。
NAM残党(たとえば攝津)の浅野支持も同じ。
278 :
吾輩は名無しである:2007/04/17(火) 09:57:27
絓
279 :
吾輩は名無しである:2007/04/23(月) 06:27:19
お前らが大好きな外山もまた落選したぞ。
ざまあみろwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ニートと悪循環
糸圭さん新しい本書かないかな
282 :
吾輩は名無しである:2007/05/06(日) 04:09:46
68年の次はなんだ?
評伝黒田寛一
284 :
吾輩は名無しである:2007/05/06(日) 04:44:13
絓
うお、ほんとに書けたw
♠ ♣ ♥ ♦
へへ、ほんとにかけた
288 :
吾輩は名無しである:2007/06/15(金) 00:54:53
みんなどこ行ったんだ?
紅野謙介ブログ
http://konokensuke.weblogs.jp/blog/2007/06/post_8e1c.html 「文化左翼」?
スガ秀実さんが「早稲田文学」の最新号の評論「吉本隆明と黒田寛一」で、ぼくのことを「文化左翼」と言っているんだそうな。(略)
だいたい注をたくさんつけて、いかにも学問的・論文的のように見せかけながら、文献名もあげないというのはいかにもアンフェア。(略)
ま、文化左翼とかプチブルとか言われても、全然痛くない。むかしはそういう左翼用語で切られると屈辱感にまみれたんでしょうか。(略)ぜひ、そういうスガさんにはほんとうの「左翼」を目指して、孤高の道を突き進んでもらいたいものです。
かつて左翼が論壇に勢力を占めた時代、文化左翼は贋物であり、「文化」は軽蔑の指小辞だった。
今や文化左翼と呼ばれると、文化的であることよりも左翼であることの方が恥かしく、侮蔑語に当るかも?
今はカルスタ系しか左翼っぽい人がいなくなった。
すがも文芸学部教授だし、社会科学者ではないんだよね
「文化左翼」という言葉は、
先頃なくなった
リチャード・ローティのキーワードとして復活していた。
もちろん、昔とニュアンスは異なっている。
ふむふむ、どう異なってるの?
今は、ローティー程度のデモクラットでも、
十分左翼と言いうる時代って事です。
彼は北米のアルチュセール読者に対して、
「わが国の自由の価値観を掘り崩す」がゆえに警戒していたのですが。
小谷野がなんか吠えてるよ
>>294 は? ローティーのカルチュラル・レフトってのは批判語では?
ローティーが自分が左翼たることに甘んじてるとでも?
297 :
吾輩は名無しである:2007/08/01(水) 06:31:50
ageru
すがは予備校時代、小田実と親しかったらしい。
300 :
吾輩は名無しである:2007/08/10(金) 08:49:51
301 :
吾輩は名無しである:2007/08/11(土) 17:29:40
>>300 URLくらい正しく貼り付けられるようになってから書き込めよ、低脳が。
302 :
吾輩は名無しである:2007/08/11(土) 17:37:56
URLじゃなくて「URI(Uniform Resource Identifier)」。
絓
305 :
吾輩は名無しである:2007/08/17(金) 09:33:17
スガヒデミ
306 :
吾輩は名無しである:2007/08/22(水) 16:34:31
wikipediaですがちんのセクハラ疑惑が・・・
307 :
吾輩は名無しである:2007/08/30(木) 07:17:36
スガ秀実が「しょうが焼き定食を一心不乱に食う柄谷行人」を描写した
文章はどこで読めるのでしょうか?教えてください。
「安かろう悪かろう」のハンバーグ定食だったよ
309 :
吾輩は名無しである:2007/08/30(木) 13:42:22
国文学の柄谷特集だったような。
なんとかする批評、なんだったけな・・・・・・・・・・・・
310 :
吾輩は名無しである:2007/09/01(土) 01:51:31
>>309 <スガ秀実の柄谷に関する論考>
「柄谷行人 マルクスの中の漱石」(「現代思想」 1980.12.01 青土社)
「柄谷行人」(柄谷行人ほか共著『<批評>のトリアーデ』 1985.10 トレヴィル)
「「貧しさ」について」(柄谷行人『意味という病』講談社文芸文庫 1989.10.10 解説)
「教育者、柄谷行人」(「國文學解釈と教材の研究」 1989.10.20 學燈社)
どれでしょうか?
311 :
吾輩は名無しである:2007/09/01(土) 02:56:05
自分で探すという発想はないのか……
312 :
吾輩は名無しである:2007/09/01(土) 12:40:14
6こめのやつでしょ
313 :
吾輩は名無しである:2007/09/26(水) 21:42:34
spa!「書店員が選ぶ信用できない書評家ランキング」
見事4位(2票)にランクイン!!!
スガが正しすぎること書くから
書店員が客に三文小説を売り捌けないことの苦情だな
しかるにスガの書評を参考にしている人なんて少ないだろうに
しかもたった2票じゃね
兎も角スガにとっては勲章
スガはベタに偉大である
314 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/09/28(金) 00:53:38
私は80年代からスガ読んでるんだけど、
結局この人って疎外論批判の人だったんだなって思う。
例えばスガの詩人論も疎外論批判のための詩人論のようになっちゃってるしさ(詩から疎外論批判の契機を読みとる)。
ああ以上は誉め言葉ね。
江藤淳とか吉本とかetc.はみんな予定調和の疎外論だもん。
スガは今でも読めるしさ。
ただ昔に比べて毒舌鋒が弱まったような…?
定職についちゃったからか?それとも年取っただけか?ふーむ。
>>310 哲板(すでにDAT落ち)のほうにレスをつけていたのだが、読んでなかったのかよ。
>>314 sugaは『革あ革』以来、疎外論の一定の再評価に傾いているように思える。
最近の「吉本隆明と黒田寛一」(『早稲田文学ゼロ』)など。
スガはどう見ても疎外論の人であると思うのだが。
キマジメさが嫌いなだけであって。
318 :
吾輩は名無しである:2007/11/06(火) 00:48:13
浅田美代子 反戦高協
西城秀樹 広島NR共闘
秋吉久美子 第四インター
坂本龍一 反戦高協
つかこうへい 中核全学連
宮崎美子 社青同向坂派
糸井重里 中核全学連
嵐山光三郎 革マル全学連
舛添要一 革マル全学連
本日の朝日朝刊。
スガ様の68年史観が、朝日記者に揶揄されていたよ\(^o^)/
320 :
吾輩は名無しである:2007/11/09(金) 10:11:28
電波どうし気が合うのかも知れん
まじめな話、スガは痛々しくて見ておれん。
小泉は揶揄されやすいのは仕方ないとして哲学者としてはホンモノだが。
近大の紀要もどき(リニューアル第一号)のスガ文など
そのへんの内輪天狗の戯れ文にも劣る。
哲学者としてホンモノとは思えんよ
そう判断できるあんたの立派さは本物だけどね
現代詩が気になるけどいざ読むとぜんぜんわからなくて
調べて詩集や詩論や詩誌読みまくったけどなんかピンとこなくて
特に詩人や学者の批評とか対談とかなに抽象的な言い方でゴマかしてんだとしか感じないんでスガ
スガと松本が名前を挙げた詩人は一応読むようにしてます。
この2人が紹介したのは読めたつもりくらいになれるのが多い。
他の文芸評論家、柄谷蓮實浅田以下その派閥たちで現代詩について書いてるのがあれば読みたいんでスガ
見たことない。
325 :
吾輩は名無しである:2007/12/04(火) 10:46:42
ふに
326 :
吾輩は名無しである:2007/12/15(土) 10:09:23
糸圭秀実と山崎行太郎を、下品比べさせてみたいんでスガ
327 :
吾輩は名無しである:2007/12/15(土) 23:39:29
>>326 スガと山崎行太郎が文壇バーで乱闘という話もあったよね。たしか福田和也が書いていたような……。
スガが「最低」と山崎に言うんだからw
世の中おかしなことばかりですね
スガは本当に良いよ
スガの批評の(特に批判の)対象への律儀なまでの対応っぷりには「教師」の正義感が滲み出ていて俺は好きだ。
柄谷や蓮實なら恫喝で済ますだろうし、浅田なら無視、その他大勢の批評家なら「わからない」としか言えないところを何がなんでも言葉の綾を暴いて説き伏せようとする様は本当に魅力的だし貴重だ。
最近渡部直己も文芸誌で大型連載始めた事だし、スガもどこかで復活して欲しい。
331 :
吾輩は名無しである:2007/12/17(月) 03:35:59
>批判対象への律義な対応ぶり
NAM騒動後の柄谷に対する態度のように、か?
>>331 NAMの騒動は内情を全く知らないのでなんとも言えないのだが、小林よしのり批判からヘーゲル批判(疎外論批判?)までの律儀さは他に類を見ないと思う。
あと『革あ革』とかも。
今のスガにはそこまで寄り添いたいような批判の対象がないのかなー。
333 :
吾輩は名無しである:2007/12/26(水) 07:50:37
すが秀実氏がNAMについてほとんど言及しないのは何故?
>>333 あくまで推測だが、柄谷のキャラを知ってるが故に氏があのような行動に出ることに一定の理解を示しているのではないか
蓮實重彦が東大総長就任以後一部から大ブーイングを受けていたがスガは一切批判していない
それが批評家として正しい態度かはまた別問題だが
しかしNAM解散について語られた本を検索しても見つからないな
鎌田も散々文句垂らしながらも未だ重力の特集すら出せていない
NAM騒動で文句のある奴は一冊の本でも出してみればいいのに
335 :
吾輩は名無しである:2007/12/31(月) 18:07:45
すが氏はNAM原理についてはどう考えてたのでしょうか?
336 :
吾輩は名無しである:2007/12/31(月) 19:37:10
ジャナ専の授業で絶賛してたじゃん。
NAMの時にスガはジャナ専にはいないはず。
ルンプロ時代でしょう。
スガは地域通過にかんしては一貫して批判的だった
NAMではほとんど活動せず
小森陽一が東京支部長をやめるきっかけになった文章を
発表しただけで、
Qにも入っていないはず
そもそも、鎌田のNAM批判のパンフ
「構想と批判」にスガとの対談部分が載っているというのは、
スガが掲載を了解しているからでしょう
(鎌田の性格としても、無断掲載はありえない)
NAMなんてどうでもいいと思ってるんじゃないの?
823 :考える名無しさん:2007/12/27(木) 23:27:17 0
>>820 誰も直に、柄谷とデリダを直結なんかさせていないよw
ちゃんと読め。別にデリダに限った話ではないが、ラカンでもフーコーでも、その前から
ニーチェでもスピノザでも幾らでも引用で持ち出すことは可能だが、
ある種の人間主義的言説の、力の構図というのが、近代では一時期
必ず支配的になるんだよ。デリダが引き合いに出されたのは、その近代的なものの切断面
について、最も分かりやすい例だったからにすぎない。「脱構築」の話なんて
誰もしてないだろう。
人間を巡る言説の力の構図。
古くから言えばそれは、経験論対超越論の図式で示せるが、
具体性というのは経験論に属し、抽象性というのは超越論性に属する。
柄谷がカントに依拠するのは、そういう理由による。
彼は、吉本まで続いた経験論の図式を、そこで切断した人なんだよ。
だから柄谷を根拠に、具体性の云々を語るほど、言葉の使用法について誤りやすいケースはない。
それは構築や実践を抜かすものではないが、経験的なものの優位と権力については
常にカッコに括り続けるものだ。そのようにして、現在=現前の権力と誤謬が疑われた後に
「未来」というパースペクティブから、超越論的な視野に立った「制作」の立場が選択される。
そういう話にすぎない。
その前に、820は別にデリダさえ全く正確に読めていない。
831 :考える名無しさん:2007/12/28(金) 00:43:40 0
しかし
>>823は柄谷を批判しているようだが(こう書くとまた突っ込まれそうだが)、
柄谷自身は
>>823と近似した文章を批評空間のあとがきで書いている。
《九〇年代には、懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在」肯定、経験論的歴史主義・サブカルチャー重視(カルスタ)が、当初もっていた破壊性を失いながら、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。
今日では、それは最も保守的な制度の中で公認されているのである。
これらは合理論に対する経験論的思考の優位---美学的なものをふくむ---であり、一言でいえば、「ヒュームへの回帰」である。私がカントを読み返すのは、この文脈においてである。
カントの「批判」はヒュームに触発されたとはいえ、まさにヒュームへの批判なのだ。
それは形而上学が不人気で嘲笑の的になった時期にこそなされている、むろん、形而上学者にその責任があるとはいえ。
重要なのはこのようなカントの機敏なフットワークであり、それがトランスクリティークにほかならない。》
しかし最後の一文でこんな言葉を吐かざるをえない柄谷を擁護する言葉はもう産まれないのだろうか。
《どんなものであれ、そこに立てばつねに革命的でありうるような窮極的立場などありはしない。アホめ。》(「批評空間」1999 2-21)
832 :考える名無しさん:2007/12/28(金) 01:04:59 0
> 《どんなものであれ、そこに立てばつねに革命的でありうるような窮極的立場などありはしない。アホめ。》(「批評空間」1999 2-21)
そもそも「NAM原理」とかいう究極のボケを公然とかましてくれて
自分のついさっき言ったことまでケロリと棄却し、裏切ってくれたのが柄谷でしょ。
NAMのときは
「そこに立てばつねに革命的であるかのような窮極的立場」を
まさに主張していたのではないか。
まさに革命ペテン師の歴史を地で自演してくれた。
君達はそういう柄谷の支離滅裂な事実を、そもそもどう認識してるわけなのか?
もう君達自身が忘れてしまったのか?
恐ろしいな。読者という存在はw
834 :考える名無しさん:2007/12/28(金) 01:16:15 0
>>832 おまえアンチはアンチスレ立ててやれよ。
NAMが窮極的立場ではないから柄谷は放棄したんだよ、それくらいわかれよ、アホ。
836 :考える名無しさん:2007/12/28(金) 01:20:02 0
> NAMが窮極的立場ではないから柄谷は放棄したんだよ、それくらいわかれよ、アホ。
コイツ本物のアホだな。
そんなこといってたらNAMの歴史的な関係者が泣くぞw
柄谷はそういう事大な宣伝を明らかに自分でやっていたから、あの組織は問題が生じたんだよ。
何にも事実知らないで、批評空間辺りを引用してくるバカを相手にしてるほど下らん
処理もない。
おまえは明らかに初心者かダメ厨房なんだから、よくわきまえろ。
恥ずかしいなあ。
>>334 そういうところも含めて好きなんだろうね。
柄谷のことも蓮実のことも。
342 :
吾輩は名無しである:2008/01/01(火) 19:32:46
そもそも柄谷氏の「理論的」な文章は、まともに哲学や数学基礎論を勉強した者にとっては
、むかしから読めた代物ではなかった。はっきりいって、哲学はぜんぜんわかっていない。浅田のほうはちゃんと分かっている。
絓秀実の話をどうぞ。柄谷行人スレッドは別にある。
絓
}S
絓
鮭
348 :
吾輩は名無しである:2008/01/13(日) 15:17:24
スガヒデミ
今年は五月革命40周年だね
糸圭もそろそろ還暦かぁ
俺も歳取るはずだわ
351 :
吾輩は名無しである:2008/02/10(日) 01:37:05
こいつ今なにしてんの?
古書で、『探偵のクリティック』買ってみて、表題論文を読んでみたら面白かったよ。
あまり探偵小説論を読んだことがない私だが、最も面白い論だったな。
シービオクの本よりいい。
>>341 好きなどと上からの目線で言える立場じゃない
庇護されている飼い犬
この前、阿佐ヶ谷ロフトのトークイベントに行った奴に聞いたんだが、
吉本隆明論の書き下ろしやってるとか。
秋には出るといってたそうだ。
売れないもんを出すな
>>354 へええ、それは初耳。
高澤秀爾も最近吉本論を出してたようだけど、何か並行性があるのかな。
357 :
吾輩は名無しである:2008/02/14(木) 22:25:51
スガの吉本論か・・・・・
358 :
356:2008/02/15(金) 00:55:11
しかし、去年の『情況』の府川らとの鼎談で
「日本の68年が吉本に代表されたかのような感じになったのが不幸だと思う。
吉本よりも三島で代表させられたのならまだしも…」
というふうに言ってたんだけどね、スガ。
一体どういう吉本言及にするんだろう。
359 :
吾輩は名無しである:2008/02/15(金) 12:24:03
多分そういう批判的な内容なんじゃないの?
>>360 なるほど、こんなレクチャーやっていたのか。
知識人/大衆問題と、68年問題と、70年代以後の日本の言説空間のヘゲモニーの分析みたいなものを
吉本を素材にしておこなう感じなのかな。
割と、80年代のすがの単著からつながってる論点だし、
68年論ばかりになってしまった近年から距離をおいて、
別の問題系につながるかもしれないから期待したいな。
『日本近代文学の〈誕生〉』を読み始めているが、面白いね。
すがって、論者としては力量に比して誤解されている人なんだなと思う。
私自身、90年代中盤〜後半の、論の手続きが甘い時評集や薄い本からすがを知ってしまい、
どうにもこうにも印象が悪かったのだが、80年代の単著やきちっとした本を読みはじめてから、かなり印象が変わった。
このへんの本、一冊ぐらいどっかで文庫化すればいいのにな。
決して水準が低くないにもかかわらず在庫切れの本が多いと思う。
363 :
吾輩は名無しである:2008/04/05(土) 03:37:47
age
364 :
吾輩は名無しである:2008/04/10(木) 23:18:35
でも立て看やハンドマイクはやはり古いよな。
新しい方法なんて案出する気もない。それは運動家が自分で工夫しなよ。
↑重箱の隅をつついてる馬鹿
絓自身の希望で十川信介の重箱隅つつきを掲載させたわけだが。
http://urag.exblog.jp/6999195/ Commented by 攝津正 "Linda" at 2008-04-18 21:41 x
自分のブログにアップしましたが、すがさんもそろそろ自分のブログを持てば如何?
mixiと手間は変わらないよ。
余計なお世話だよ。ただのチョウチン持ちの癖にw
371 :
吾輩は名無しである:2008/04/18(金) 22:27:13
摂津正の提灯持ちますコピーレフト!
ネグリなんてネグれ。
スガさん最近なにしてんの??
めっきり姿も文章もみないけど
374 :
吾輩は名無しである:2008/05/02(金) 10:06:30
375 :
吾輩は名無しである:2008/05/02(金) 12:26:26
読書会って何?
京都ローカルな話はわかりません。
絓
>>374 Loft A Presents
「緊急論争!アントニオ・ネグリは来なかった」
2008年3月末に来日し、2週間の滞在中に大学などで、
グローバル化時代の労働問題などをテーマに講演する予定で、
あれだけ話題になったのに結局来日しなかったイタリアの哲学社アントニオ・ネグリ。
講演の舞台となった東大、東京芸大などでは「ネグリは日本政府の入国拒否によって来日を阻止された、
自由の侵害だ」と批判の声があがっている。
ネグリをめぐっての論争が続いてますが、
そもそも私たちは何故ネグリを見たかったのか!?
話を聴いてみたかったのか!?
様々な関係者を集めてのガチンコトークです。
なんか面白そうだな
在京なら見に行くんだがな
>話を聴いてみたかったのか!?
ネグリの話を聴きたがってたんではないんでしょ、きっと。
ネグリを出汁にして反体制を気取りたい人らが気焔を上げたがってるだけで。
旧マルクス主義が非組織労働者とかルンプロとか呼んだものを
マルチチュードって呼び方にしたら何か変るの? 用語改正のWord Politicsってか。
378 :
吾輩は名無しである:2008/05/12(月) 15:57:34
379 :
吾輩は名無しである:2008/05/12(月) 16:10:48
府川充男も出てるね
要するにこの運動はなんでもありだということだけでしょ
382 :
吾輩は名無しである:2008/05/14(水) 09:39:21
この運動、学内ではすっかり飽きられてるが…
あとスガがわざと逮捕されるよう指示してるってホント?
学生をコマみたい使い捨てるのよくない
要するにもう終わってるものを蒸し返すなっつーことよな
このネタしかないのなら
左翼自体を解散
それで全然構いまへん
384 :
吾輩は名無しである:2008/05/14(水) 09:58:22
すがにはECDの小説を支持して欲しい。
>>382 そういう、おバカなバカ田大学生って、つまり、学校の思うツボなんだよな。
ところで、抗議先筆頭の白井総長の息子って、「思想地図」で若手左翼論客で売り出している
レーニン主義者なんでしょ?
387 :
吾輩は名無しである:2008/05/14(水) 19:09:53
早稲田なんて街ごと大学に支配されてるんじゃないの?
大学当局も悪者扱いや騒がれるのがメンドいから
警察呼んだり逮捕までしたくないがホンネ
が 放置すると一般市民の苦情やら抗議やらスゴイから仕方ないんだって
学内施設の破損やら落書きくらいならガマンしても
近隣商店街に及ぼす迷惑は避けないとWブランドにかかわる
署名が激減したのもその辺の実情が伝わったからと思われww
は? 構内で逮捕されたんじゃないの
意見を聞くとしたら、大学ではたらいている警備員だな
落書きや、捨てられたビラをきれいにするのも外部委託の清掃員だろう
破損は設備管理人か
大学で働く労働者は学生の馬鹿騒ぎとしか思ってない
390 :
吾輩は名無しである:2008/05/14(水) 23:12:15
住民の苦情もあるだろうね。表現の自由もいいが、夜だけでも静かに眠らせてほしいもんだ。
上三人、お前ら本当の馬鹿だな
392 :
吾輩は名無しである:2008/05/15(木) 06:53:51
>>392 だから普通の住民への騒音公害が問題な
>>390は夜だけとゆーが昼間ならいいのか
ジジババ病人だらけの近隣に迷惑かけてどうする
当局が可哀そうwほっとけばほっといたで住民に怒られて
これ生活権・環境権の問題だよ
も少し配慮、控え目にやれば何もなかったのに
394 :
吾輩は名無しである:2008/05/15(木) 10:40:21
>>393 アホ言え。棺桶近いジジババより革命が大事にきまっとるw
396 :
吾輩は名無しである:2008/05/15(木) 12:13:47
大学の職員や近隣住民なんかでも、警察を介入させての逮捕はやっぱりやり過ぎという意見も多そうだけどな
そして、そういう意見の人でも2chのレスのようにアイロニカルに対応してしまうのが本当のところでは?
>>374 しかしこのイベントは見事に話題にならなかったな
検索かけても全然レポートが見当たらない
398 :
吾輩は名無しである:2008/05/15(木) 12:55:44
>>396 あんた関係者だろwww
内ゲバ盛んな頃から住民や商店街は早稲左翼に超冷淡今回も同し
早稲田の運動は住民無視 支持もとめず迷惑かけまくりが
当然ちゅーか伝統的に勲章だと思ってるわけよ 何が伝統だかしらんがw
それは今回もおんなしで、
関係者には商店街に協力・連帯を求める考えが洟からないわけ
それで真也の騒音公害が表現の自由じゃチンボツも当然かと
>>398 深夜の校歌合唱と、今回の事件を同じに考えている時点で、
おまえは死んだ方が良いから、もう来なくていいよ。
頭が悪すぎる。
400 :
吾輩は名無しである:2008/05/15(木) 20:29:34
上三人、と書くのはスガちゃん以外いないな
スガさん2ちゃんねる見てますか〜
陰ながら応援してます
日本を征服してください
騒音問題に誘導しようとしているやつがいるな
スガちゃんなら2ちゃんは常時即時的にチェック中よ
証拠は上がってる
証拠ってw
やっぱり人権板とかに行ってるのか
405 :
吾輩は名無しである:2008/05/15(木) 23:28:02
騒音問題ってことでもないな
スカタンは革命や学生運動を自己主張する前に
近隣住民の人権や環境権を尊重せいや
406 :
吾輩は名無しである:2008/05/15(木) 23:59:43
近隣住民の人権が脅かされたという証拠を出せ。
ていうかテメー何者だよ?
革命が起きたら近隣のジジババや
>>405は全員処●
騒音や破壊ぐらいで文句たれるなってwww
408 :
吾輩は名無しである:2008/05/16(金) 00:57:32
破壊なんてしてねーだろ?テメー何者だよ!?
>>407 絶対起きないんだから勝手に妄想してろ
救急車よんでやろうか?
入学式の時、ビラ受取るの拒否ったら追いかけられたり罵倒された新入生、父兄がたくさんいます。
彼らの人権を思うと今回の逮捕はやむをえなかったのでは?
すがすがしい
>>410 それって、革マルに追いかけられたの?
そういう幻影がある(あるいは、でっち上げられる)から
前回今回のような私人逮捕が正当化されてるんでしょう?
スガちん=花咲のグループが、そうしているのは見たことないが。
スガが角●を黙認して新入生を見殺しにしたのは
日本が中国を黙認してチベットを見殺しにしたのにクリソzツ
↑
なんか、とんでもない妄想狂が入り込んでるな?
それとも、手の込んだスパイか?
416 :
吾輩は名無しである:2008/05/18(日) 17:51:49
このスレ、スガスガしいね・・・
もちろん、反語だけど
スガちゃんは早稲田で何がしないの?
教授になって体制化した自分をゴマカシたいの?
体制の中にいるからこそ意義があるのだ
そういうわけで守中とか、変に澄ましたやつの言質でも取って来い
>>417 早稲田を良くしたいからに決まってるじゃん
これ常識な
420 :
吾輩は名無しである:2008/05/19(月) 18:12:36
>>417 アリバイ作りに決まってるじゃん
これ常識な
421 :
吾輩は名無しである:2008/05/20(火) 02:54:56
今日、スガの授業行ってきます
422 :
吾輩は名無しである:2008/05/23(金) 14:12:52
地元民としては、早大当局の措置に感謝している。
批判は気にせず、騒音公害や暴力学生はビシビシ取り締まってほしい。
ちょっと昔なんてさあ、早稲田界隈のアパートは、特に安アパートとか
借りるのが怖くてたまらなかったわけよ
今の人はもうあんまりわかんないんだろうけどさ
だって隣とかには、どんな凄い過激派が、セクトが住んでるかわからないわけだからさ
安アパートに入って、それで中核や革マルや解放派と同居していました
なんていう状況は、実際には笑えるのかもしれないけど
とんでもないには違いないわけ。
こういった大学から派生してくる近隣の迷惑は、昔から沢山あるわけだからねえ。
424 :
吾輩は名無しである:2008/05/23(金) 15:54:03
新入生も父兄も気持ち悪がってたね
逮捕は自業自得でしょう
スガの売名行為に付き合わされて気の毒だけど
おお、さも自分が早稲田住人であるかのごとき書き込みだな。
池袋でアパート借りるときでも、高円寺中野界隈でも
安アパート借りるときの心得はまず同じよ
セクト住人のチェックねw
んなこたぁない。少なくとも自分の経験には合致しない。
428 :
吾輩は名無しである:2008/05/23(金) 22:00:25
だから君はそういう生温い環境でしか生きたことないんだよ
左翼を語るにまだまだ足りず
80年代に左翼やった人間は必ず住む場所には神経質に気を使ったよなあ
早稲田or池袋or高円寺中野周辺で安アパート借りるのがそんな生臭いことかね。
別に注意なんて要らないが。
大袈裟なんだよな、左翼や左翼アレルギーの人は。
>>430 だからあんたは単なる「無知の涙」なのよw
433 :
吾輩は名無しである:2008/05/23(金) 22:19:56
全然違う
あんたがただのバカなだけw
左翼というのは、かつてはカラダ張ってやるもん
カラダ張ってなんぼのものだったの
もうそれも終わったんだから、
左翼はホントつまんなくなったの
左翼がどうであれ、それが世界の全てではあるまいに。
だのにセクトだの何だのとそのことばかり気にするのが、
滑稽に大仰で、誇大妄想か被害妄想っぽく見えることに気づいてない。
左翼小児病って奴かね。
大体、いつの時代の話だ。現在は関係無いだろ。
>>433 スガはカラダ張ってると思うけどね
それが左翼かどうかは別として
436 :
吾輩は名無しである:2008/05/24(土) 11:53:36
>>435 スガちゃん、自分をほめてどうするよ
学生に迷惑かけるのやめて
スガちゃんが逮捕されなよ
437 :
吾輩は名無しである:2008/05/26(月) 14:58:07
スガつて最近、何、してんのよ。すがフアンの俺としては、さびしいぞ。
だからまた早稲田界隈でうろうろしてんじゃないの
439 :
吾輩は名無しである:2008/05/26(月) 15:16:33
「SAPIO」編集長の塩見健よ、
曽野綾子その他の「罪の巨魁」発言における「巨魁」(巨塊)という誤字をこっそり訂正するなよ。
訂正するなら、読者や関係者に謝罪し、堂々と断り書きを掲載しろよ。
編集者なら、
ノーベル賞作家・大江健三郎の文章の引用ぐらい正確にやれよ。
それが出来ないなら、
即、廃刊にしろ。出版人として失格だよ。
さらに、この問題を無視している「小学館」社長の社会的責任を問う。
純文学系の雑誌を持つていないからって、いい加減な商売は許されんよ。
437,439
山ちゃん、ここは大江スレでもコヴァ板でもないよ。
徘徊してないで早く自分の小屋に戻んなさい。
スガの本て誰が買って誰が読んでるの?
>>441 蓮實と柄谷と渡部と丹生谷は読んでるんじゃね?
浅田はシラネ
443 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/09(月) 23:13:52
スガ秀実、最近は昔のような文学原理論ぽいのとか書かなくなっちゃった。
あと平野謙の昭和10年問題はスガはまだ思考の対象にしてるのかな…
444 :
吾輩は名無しである:2008/06/12(木) 16:33:13
うっとうしいはみるなぁぁあああああああああああああああ
うっとうしい言葉はみるなぁぁあああああああああああああああああ
消えうせろぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
うっとうしいおっさんはみるなぁぁあああああああああああああああああああ
うっとうしいやつらはしゃべるなぁぁあああああああああああああああああああああ
消えうせろぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
うっとうしいやつら2ちゃんねらーは消えうせろぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
445 :
吾輩は名無しである:2008/06/12(木) 16:37:30
このスレ関係者が立てたな
気持ち悪いスレタイ
446 :
吾輩は名無しである:2008/06/12(木) 17:17:51
↑の↑の人 童貞
447 :
吾輩は名無しである:2008/06/12(木) 17:20:34
446ビンゴ!
スガって肩書きなに?
思想家革命家?
449 :
吾輩は名無しである:2008/06/12(木) 20:38:14
最近2ちゃんねるも馬鹿は馬鹿なりに罵倒語の返しは達者になったけど、
昔の方が荒れた時はひどかった代わりに真面目な応答があったように思う。
「↑こいつ馬鹿w」とか論点をまともに争わずあくまで上から目線で罵倒するねらーは確かに進化してる。
こいつらとまともにやり合うのは相当疲弊するよな。
柄谷なんかNAM絡みで罵倒されまくってよく死ななかったと思うよ。
スガが早稲田に局所的にこだわるのもポレミカルである事の限界=臨界を自覚したからかも。
その意味では早稲田文学で大真面目に批評について語る蓮實はタフというかターミーネーターというかプレデターというか。
彼こそは「戦争花嫁」と呼ぶに相応しい。
451 :
チンポAA連投で山崎行太郎に抗議しよう:2008/06/21(土) 17:33:29
2ちゃんねるを私物化する山崎行太郎の宣伝行為は絶対に許さないぞー!!
>チンポAA連投で山崎行太郎に抗議しよう
それって丸善に檸檬を置いて爆破を夢想する梶井基次郎より遥かに阿呆だな
当たり前だが
453 :
吾輩は名無しである:2008/06/21(土) 22:48:17
>>452 え?マジ??もう相当やっちゃったんだけど、どうしよう(T_T;)
454 :
吾輩は名無しである:2008/06/21(土) 22:52:04
200本くらいチンポ投下してしまった…まだまだいきますよ!
455 :
吾輩は名無しである:2008/06/21(土) 23:26:58
★ 2008年11月刊行予定の本
『吉本隆明の時代』 すが秀実 予価:2800円(税別)
六〇年安保以後、あるいは、現在においてもなお、日本の「知識人」の代表的な存在と見なされ、
「知の巨人」、「戦後最大の思想家」とさえ評される吉本隆明は、
どのようにして、そのような存在となっていったか。
その50年代の批評家としてのデビューから60年代において彼が行った論争と時代背景をとおして解明する。吉本は同時代のヘゲモニックな知識人との多くの論争に「勝利」することで、知識人界のヘゲモニーを確立していったが、それは果たして、どのような勝利だったのか。
【内容目次】
第一章 「普遍的」知識人の誕生――ジッドからサルトルへ/小林秀雄から吉本隆明へ
第二章 一九五〇年代におけるヘゲモニー闘争――「文学者の戦争責任」と花田清輝
第三章 ドレフュス事件としての六〇年安保――共産主義者同盟と武井昭夫
第四章 六〇年安保後の知識人界――黒田寛一と「真の」前衛党
第五章 市民社会と大学――丸山真男と六〇年代
第六章 「六八年」へ――再びサルトル、そして岩田弘/廣松渉/津村喬
関連年表/索引/あとがき
実は早稲田文学部教授の座を大学側と裏取引してるスガ秀実
〜こんなスガ秀実は嫌だ〜
先生の本は売れないから価値なし
漫画のおかげでもってる
461 :
w:2008/06/26(木) 14:03:37
サルトル=吉本説は、スガは前から言っていたから、それを理論化
してくれるのはいいな。
目次見た感じでは、ブランショの知識人問題もあわせて考えている
ようだ。
ということは、サルトルとハイデガーの関係はどう論じるつもりなんだろう、
などと考えさせられる、久々のスガの本になりそうだ。
462 :
吾輩は名無しである:2008/06/26(木) 15:02:29
うっとうしいババァババァはしゃべるなぁぁあああああああああああああああああああああああああ
消えうせろぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
うっとうしいメガネ女ババァはしゃべるなぁぁあああああああああああああああああああああああああああああ
消えうせろぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
463 :
吾輩は名無しである:2008/06/26(木) 15:37:41
狂ってるねえ
ラノベも読めないスガは時代遅れの評論家
465 :
w:2008/06/26(木) 17:54:26
>>464 ラノベ読んだら時代遅れじゃないと思っているお前、頭大丈夫か?
バカは書き込むなよ
うん、スガとスガの読者って頭いいよね
467 :
吾輩は名無しである:2008/06/26(木) 18:37:33
ラノベ読者よりはいいよね
スガ先生がノーベル賞の候補にも上がらないなんて世の中間違ってる
スガは相対的に頭が悪い
たとえば浅田彰のような頭の良さは全く持ち合わせてない
ただ問題意識を探る勘と執着心が圧倒的に鋭いし粘っこい
『小説的強度』とかあの読みにくさ、ヘーゲルやらニーチェを巡る哲学論のようでいて、表現を巡る日本文学に対する「時評」であるところが凄まじい力技だ
470 :
吾輩は名無しである:2008/06/26(木) 18:55:35
浅田彰と比べたらみんなバカだろ。柄谷行人だって。
>>470 最近、浅田の限界と同時に可能性が分かって来た
というか『逃走論』を読んで浅田のルサンチマンの在り処が少し想像できた
彼に洛星中学〜高校時代の想い出を小説化してもらいたいものだが
相当面白いものができると妄想するのだが
スレ違いスマソ
472 :
吾輩は名無しである:2008/06/26(木) 19:05:32
浅田にルサンチマンはないのが定説ですが…
>>472 逃走論の最初のエッセイ(タイトル失念)で「スキゾ/パラノ」の図式化とスキゾへのシンパシーを示してるけど、
一方でパラノというかヘテロ?的な性愛に対する悪意は相当なものだと思う。
パラノ/ヘテロを「妻を性的に独占して事足りる」みたいな書き方には、その是非はともあれ、かなり屈折してると思うけど。
穿った見方をすれば、女を性的に独占できないもの(浅田自身??)の憤りが読める。
むろんその悪意がルサンチマンでないかのように、浅田はスキゾ的性愛への賛意を示すが、ヘテロ的性愛への批判はいま読むとやや唐突に見える。
スキゾと永劫回帰(ニーチェ)の微妙な差異を誰か論じないかな?
あのみてくれでないわけない
スガ先生に「構造と力」みたいな代表作ある?
>>475 『世紀末レッスン』
時事エッセイに現代思想を織りまぜてバッサリ世相を斬る芸当はスガならでは
図書館で探してみ
> 時事エッセイに現代思想を織りまぜてバッサリ世相を斬る
どこにでもありそうなw
浅田彰はマザコンのゲイだからけっこう典型的
うん。ヒゲが自慢で特に特徴がない評論家こそ異端だよね
480 :
吾輩は名無しである:2008/07/05(土) 23:05:55
最近やっと『1968年』読み出して半分ほどクリアしたけど、とんでもない本だな。
これ今の中学生が読んだらマジで革命児になりかねんヤバさがある。
スガ入魂の一冊だな。
自己紹介お疲れ様です、先生
482 :
吾輩は名無しである:2008/07/07(月) 22:19:51
スガは手下の革マルをパシリに使っていないで自分で体を張れ!
>>482 諸葛亮孔明に先鋒を任せる党もないだろう
スガは大切な頭脳最終兵器
『1968年』やっと読了した。
それにしても凄まじい本だな。68年を巡る「探偵のクリティック」に支えられた歴史精神分析の執拗さと鮮やかさはスガの過去の書物の中でも希有の出来映えだと思う。
ただ空無でもなければ去勢でもない「50センチの差」(スガの主題である「遅れ」の近傍にあると思われる)という「差異」は、探偵の繰り広げた推理の結論にしては微温的だし弱々しい、かのように、見える。
しかしニーチェ(あるいはヘルダーリン?)のように発狂しないがための精神的遅延行為としては狡猾すぎるな。
本当はもっとマシな文章を書いたのだがPC操作をミスってまとめて消してしまったので面倒臭いのでこの辺で。
そういえば今日は華青闘7.7の翌日である、だったのだ、。
485 :
吾輩は名無しである:2008/07/09(水) 06:55:53
すがちゃん、体張ってがんばってるよ。
ノンセクトとしてね。革マルがスガチャンの手下になったら
面白いけど、ありえないよ。
486 :
吾輩は名無しである:2008/07/09(水) 16:03:06
逮捕もされたことないくせに。
487 :
吾輩は名無しである:2008/07/09(水) 17:03:34
スガちゃん、近くのコンビニからカレーパン買ってきて
つーかスガを別件逮捕できない早稲田の方もどうなの?
489 :
吾輩は名無しである:2008/07/17(木) 17:07:54
「(従軍慰安婦)問題をめぐる保守派の論理は、まずおおむね、すぐれて実証的である」
「彼女たちが強制連行されたという事実は、今のところ認められない。「従軍慰安婦」は
、当時の「公娼制度」によって、合法的に売買されて戦地に送られてきた人々であったと
いうのである。秦らの研究によれば、「従軍慰安婦」強制連行問題の引き金になった吉田
某の回顧談は、全て虚言であると証明されるという。そして、私見によれば、この実証は
まず精度が高いと見做して差し支えない。」
(「そのために死にうる「国家」」)
スガ秀実が貴重な左翼たる所以である。
490 :
吾輩は名無しである:2008/07/21(月) 00:55:50
スガ?
なんちゃって左翼の代表。
せいぜいしょぼいシンパとじゃれあってろよ。
要するに暇。
サヨクをネタに飯食って、本当にどうしようもない。
趣味で食えていいですね、としか言いようがない。
永遠のマッチポンプ。
スガと渡部以上の評論家は今世紀まだ出てこない。
彼らの死後、文学はどんどん腐っていくであろう。
彼らがいる今でさえ、筒井のようなゴミがのさばるのを止められないのだから。
筒井を槍玉に挙げる意味ってあるの?
彼はラノベの元祖って位置付けに収まったろ
なら形だけでもラノベ批評でもやらないと潰せないんじゃね
もう数年前だけど浅田の金井批判てどう思うんかな?
浅田クラスの批評家であそこまで具体的で激烈に金井を批判した例てないと思うんだが
あんま反響なかった気が。ゴシップ的なのがちょっとあったくらいで。
スガはめっきり金井に触れなくなったが。
たしか、
蓮實にルノワール通をわかってもらいたいだけの田舎者で、
蓮實に否定されたら自分の方がルノワールをわかっているといきり立つ、
絶望的に退屈な小説を書くコンプレックスの塊の哀れなオールドミス
みたいな感じだったと思うが。。。
浅田はオカマだからあのタイプを美的に嫌悪する感じ
ぶっちゃけ批評性はない
ああいうのって、金井の駄目な部分に対して、
もっとも駄目な叩き方をしたという印象だ
浅田の最悪な部分が全開になっただけで、
金井並みに無様じゃね
ああいう批判はみっともないから浅田は自重するべき
俺は、阿部・青山たちのような若手層に対して間接的に牽制したんだと思った。
そういう蓮実エピゴーネン&「自分は作家だから」的居直りの振る舞いに権威が与えられ、
かつ文壇内で誰も批判することなく祭り上げられちゃった最初の一人がたぶん金井で、
阿部・青山らどころか、その後の作家志望若年層にまで漠然とつながっているように思ったんじゃないかな。
そうした状況に間接的に助力してしまったのが、90年代の渡部・スガの対談本だったりしたし。
阿部や金井は小説家だから間違いまくっていいし
調子乗りすぎたら叩かれまくったらいいんだと思う。
最近出た金井の文庫本巻末で金井と対談している城殿はひどいと感じた。
みんなルノワールを見てないからダメだ、ルノワール! ルノワール!て連呼してて。
映画は小説に活力を与えるかもしれんが、決して必須条件じゃないはずだ
>496
スガの対談本てあったっけ?
>>493-496 最近金井の『小説論 読まれなくなった小説のために』と『目白雑録』をサラッと読んだのだが、そこに書かれてある文章の「正しさ」がやけに鼻について苛立ってしまった。
たとえば「むずむず日記」なる章で金井姉妹宅に黒のカシミアコートや特大タラバガニを送りつけるファンらしき人間の振る舞いを批判するのだが、
彼等(彼女等)について「神経症をはるかに越えた症状の病人なのかもしれない」と書いたり、
その後一緒に食事した精神科医に事の顛末を話して、その医者から彼等(彼女等)は「姉妹に自分を自己同一視している」と分析され、
その分析を「陳腐」と片づけながらも、もしそこまで「自己同一視」してしまうくらいの熱心なファンならば、金井姉妹の趣味くらい理解できないのだろうかと「笑いあう」光景はやはりゾッとしてしまう。
自身の生活圏を脅かす「不快なもの」を徹底的に貶める一方で、自身の「病的」なまでの潔癖さについてはまるで疑うところのない金井美恵子の「市民性」は、
そんな陳腐な市民性も映画や小説の仕掛けのなかではなんとでも豊穣になったりするのだから厄介極まりない。
浅田の批判を文章としてきちんと読んでないにも関わずあえて言えば、「金井の駄目な部分に対して、もっとも駄目な叩き方」を敢行した浅田は、批判の対象に相応しい批判の仕方をしたまでだと思うのだが。
499 :
496:2008/07/25(金) 14:04:16
>>497 それでも作家になりたい人のための〜 のことを言ったつもりだった。
この本に限らず、『皆殺し文芸批評』『ニッポンの知識人』など、90年代中盤〜後半は
対談の印象がずいぶん色濃くてね。単に私がそういうものしか読んでなかっただけかもしれないし、
あるいは文芸批評で全体的にそういう傾向だったのかもしれないが。
当時あまりいい印象を持ってなかったのだが、その変化については
>>362で書いた。
スガには面白い面はしっかりあるなあ、と。
城殿はほんと蓮実エピゴーネンって感じだよね。国文学研究にああいうのがたまにいる。
>間違いまくっていいし、調子乗りすぎたら叩かれまくったらいい
それでいいと私も思うんだけど、金井は何だか持ち上げられすぎな気がしてね。
その風習に慣れきってる層が目に付くような。豊崎由美とか(論外かもしれないが)。
>>498 なんか批評的にどうこうという指摘ではない気がするが、
感覚的にはその「ゾッとしてしまう」感触は共感できる気がする。
500 :
496:2008/07/25(金) 14:22:42
蓮実エピゴーネン、というかねてから良く使われた言い回しでは何か足りないかもしれないな。
なんていうかなあ、蓮実が作ったと言える領域と語法…
〜〜をこう褒めれば、絶賛すれば、それでよい、というスタイルというかな。
で、おおむね、単に賞賛の言葉で終わり、これこれとして私は読み、
こういうふうな成果として考えるから評価できる、とたとえ荒削りな言葉であろうと言うことなく、
「あいつはわかってない」とかの対立関係で言葉を保たせてしまう。
で、第三者にとっては――ひょっとすると当人たちにとってもかもしれないが――
「〜〜を見なきゃ駄目だね」みたいな空気をグループで作って盛り上がってるだけにしか見えないんだよね。
なんか、読みや線を引くことを遂行するんじゃなくて、漠然とした合意や気分を撫でてるだけみたいな。
たしか浅田の金井批判を行ったレヴュー自体、当時ABCで行われ、早稲田文学に載った
金井・青山対談の直後に書かれたものだったと思うが、
そこで浅田について言われたのは「浅田って悪趣味だよね、映画わかってないよね」「そうだね」
といった弛緩した、趣味の合意作業みたいなレベルでね。
連中、そういうことだけ言ってれば済むと思ってるんだ。
で、青山を強力に押し出した手前、浅田は青山がそうした蓮実的語法への依存が悲惨なのに苛立ち、
仕方なく書いたのがあのレヴューだったというふうに当時思った。
他にも当時、青山の『すでに老いた彼女については語らぬために』について
批評言説への露骨かつだらしないもたれかかりと、自らそれを口にしてしまう振る舞いに苛立ちながら、
若干嫌味を入れた助言的指摘をしていた。
501 :
498:2008/07/25(金) 15:42:03
>>499 金井ってその内実はなんか哲学的還元ではなく無意識(無反省?)に得た《有限性》(丹生谷貴志)を頼りに「原生動物のように自由に」(金井美恵子。淀川長治に対する形容を引用)快/不快を書き連ねてるだけで、
その小説的技術はともかく「主題」を批評的に賞揚したり批判したりしようがない気がする。
金井が小説とは「厭な人間を滑稽に書くための装置」(引用元が見つからず記憶を頼りに再構築)と定義してたが、「不快なもの」に対する耐性を築くのが哲学〜精神分析〜文芸批評だと思う私には、金井を批評するなんて面倒臭い事は誰もする必要はない。
柄谷にあからさまに馬鹿と評されては、一方で「神経症のくせに」等とヒステリカルかつスキャンダラスに書きたてる善良な市民の金井は批評性のない「器官なき身体」(J・ドゥルーズ)を永遠に生きれば良い気味だと思う。
502 :
496:2008/07/25(金) 16:07:45
>>501 なるほど、あなたの言葉で言うと、小説として豊穣に展開されもする「市民性」は、
しかし主題としての価値は危ういって意味でもあるのかな。
少なくとも、かなり希薄だと。
>「厭な人間を滑稽に書くための装置」
あまり金井を読まないせいかはじめた目にした文章だけど、
これって日常生活のガス抜きで小説書いてると言われても仕方ないような…(笑)。
そして、そういう金井を不快に感じようと、相手にする必要はないってことだね。
私が気にかかるのは文壇内での妙なヘゲモニーとしての意味だけなんで、結論部は重なるかもしれない。
>その小説的技術はともかく
ここまでの論旨で言うと、スガはここだけを買ってるわけで、ある意味筋は通ってるね。
ただ、「「原生動物のように自由に」快/不快を書き連ねてるだけ」というのは、
すでにして作家なのだろうか、という気持ちはあるんだ。
金井自身のみならず、そうした作家とそれを問わない批評の共犯的構造がやだなあ、みたいな感じだけど。
こう言うと、作家はかくあるべし、みたいな論調になるから難しいな。
しかし、80年代以後の文芸批評の「作家」の扱いにおいて、
何となく自らを作家になぞらえる柄谷・蓮実がいたり、
「作家なんてのは無責任な居直りをするものですし、それでいいですよ」と言い放った蓮実とか
あるわけで、他方で社会的素材をどう料理するか、みたいな素朴な批評と分離している。
スガに甘さがあるとすれば、こうした80年代以後の言説風習とあまり切れていない、
再び問いだしていない、というところがあると思うんだよね。
スガに限った話でもないし、広範にある現象だと思うけど。
ぐだぐだと長文申し訳ない。
503 :
498:2008/07/25(金) 19:24:29
>>502 金井美恵子『小説論 読まれなくなった小説のために』の中で特権的に「小説本を読みすぎたせいで、その気になってしまった、と称される二人の小説のヒーローとヒロイン」のうちのヒーローことドン・キホーテは、
「騎士道物語を読み過ぎた結果、自らを中世の騎士と思いなしてサンチョ・パンザとともに遍歴の旅に出るが、そこで出会うのは、騎士道物語とは似ても似つかぬ世俗的『現実』であった」(スガ秀実。『必読所150』)らしい。
ドン・キホーテを読んでないにも関わらず厚顔無恥で語れば、おそらくはドン・キホーテは世俗的「現実」に嘲笑される滑稽な存在として描かれているのではないかと想像するのだが、
スガが「ヘーゲルは小説を『近代の市民的叙事詩』と定義した。本書は、この定義にぴったりあてはまるが、にもかかわらず、叙事詩の壮麗さを欠いたパロディとなっている」、
「『精神現象学』もまた「近代の市民的叙事詩」であった(しかも壮麗な)。
しかし、同じ「市民的叙事詩」でありながら、それは本書といかに隔たっていろことか。ヘーゲルに反対するドン・キホーテ。それが小説の特異性である」と評するドン・キホーテが、
騎士道物語のヒーロー=主人へと近接しようとするアンチ・ヒーロー=奴(奴隷)=ドン・キホーテの「労働」(『言葉と物』のフーコーなら「書物」と呼ぶかも知れない。『小説論 読まれなくなった小説のために』文庫本92頁に示唆的な引用あり)は、
金井なら「拙劣な読者」と呼ぶかも知れない(もうひとりの特権的な小説のヒロインであるエンマ--フローベール『ボヴァリー夫人』--がナボコフに「拙劣な読者」と評されるのを金井は『小説論 読まれなくなった小説のために』の中で引用する).
とはいえ果たして小説とは「労働」だろうか?むろんそんな風に考える人などいるはずがないかのようである。
504 :
498:2008/07/25(金) 19:27:44
しかしスガは『小説的強度』の中で自己表現と労働という概念がいかに姦通しあって資本主義的現実から遊離してると同時にまさしく依存してるかを精緻に記述した。
むろん金井も「小説」が自己表現などとは口が裂けても言わないだろうが、
「小説=技術」が「労働力商品」(マルクス)として流通するのに「疚しさ」を感じるどころか、
それが幸福であるかのごときに感じているとは、
たとえば「ときどきふと思うのは、自分の好きなものを書いて、
生活はそんなに豊かにはならないんですけど、
でも自分の書きたいものだけを書いてやってこられたっていうのは、
恵まれていたというか幸運だったというか、
そういう気分にはときどきなりますね」(『小説論 読まれなくなった小説のために』文庫本あとがき)という一文を読むとそう理解してしまう。
資本主義的現実の中では「父=貨幣」は確かにリアルではあるけど虚無的でもあって、それを「滑稽に書く」のが小説かもしれないが、しかしわれわれは馬鹿にしてるはずの「父=貨幣」に依存してる事を時として知る事になる。
金井はその「発狂」を逃れるどころか、「n個の性」(J・ドゥルーズ)の多様性を無邪気に生きている、かのように、みえる。
505 :
498:2008/07/25(金) 19:29:53
しかしたとえば柄谷行人はスラヴォイ・ジジェク『厄介なる主体』の書評でこう書く。
《デカルト的主体の批判はポストモダニズムに共通する。
互いに一致するはずのなさそうな諸学派が、この点では一致している。
啓蒙(けいもう)的近代を否定するニューエイジ神秘主義者やエコロジストから、
デカルト的主体から「存在」に向かったハイデガー、
コギトを言説的虚構とみなす脱構築主義者、
対話を通した間主体性を提唱するハーバーマス、
コギトに男性的な支配を見いだすフェミニスト……。
(中略)では、こうした「反デカルト的主体」の大合唱は何を意味するのか。
端的にいって、「懐疑」の放棄である。
つまり、現在のグローバルな資本主義とともに生じた事態、
あるいはリベラル民主主義に対する、懐疑の放棄である。
たとえば、多文化主義者は、「超越論的主体」に対抗して、女性という主体、ゲイという主体、民族という主体などの主体の多様化を歓迎する。
だが、多文化とは、グローバル資本主義による均質化の結果にすぎない。
多文化主義は、資本主義的現実を政治経済的な視点から考えることを放棄させる。
それこそ、「デカルト的主体」の放棄にほかならない。》(
http://book.asahi.com/review/TKY200511010322.html )
これは柄谷の妄想ではない。『厄介なる主体』の序文を読めばジジェク自身が高らかに宣言してる文章とパラレルである。
506 :
498:2008/07/25(金) 19:32:22
「n個の性」はそれ自体「父」に対する対抗概念として生きられなければ(アンチ・オイディプス!!)現実への追従でしかあるまい。
これ以上の議論はひとまず『小説的強度』に譲ろう。
スガは「『父の名』をフェティシズム的に否認(原文傍点)するところで書かれるのが小説(原文傍点)であることを、何度でも、繰り返し反芻しなければならないだろう」という一文で『小説的強度』を結ぶスガは、
「換喩的描写の累進が」「『父の名』の否認」「を要請するのだ」といい、それが「固有名の永劫回帰として現象する」と書く。
「小説」とはこんなこ難しい理屈とは無縁の「快楽」なのかもしれないが、あとは読者の判断に委ねよう。
そういえば徳と幸福は一致しないと書いたのはカントだったが(J・ドゥルーズ『カントの批判哲学』からの孫引き)、果たして「小説」は徳と幸福とどちらに、あるいはまた別の「領土」に位置するのか??
>>502への応答としては見当違いかも知れんが、筆が走ったのでここに遺しておく。
ここの人たちが柄谷好きで蓮實の「趣味」を嫌悪しているからか、
当の趣味の内実に立ち入った批判が行われていないうらみがある
ああいうのは内在批評でぶった切れば「根絶」できるんだぜ
スガに似てここの文章は意味不明ですね
509 :
498:2008/07/26(土) 00:54:03
>>507 金井を散々弄んで言うのもなんだが、蓮實はエラいと思う。
私には柄谷もスガもわかりやすすぎるのだが(これもどうかと思うが)、蓮實は難解につきる。
カントのいう「崇高」ではないが平伏してしまう。
『批評あるいは仮死の祭典』や『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』などよくぞ当時こんな本を書いた人間がいたと思う。
蓮實の趣味というか対象の取り上げ方と料理の仕方は私にはとても批判できない。
もうちょっと(ていうかかなり?)勉強してからいつか触れてみたい。
>>508 >>503-506の文章のかなりの部分はテキトーに書かれてるので、金井はもちろんドゥルーズ、ジジェクをちゃんと読んでる人間には手の内が透けて見えて恥ずかしい文章と思われる。
でも言いたい事は、金井に興味がないって事なんだな。
もっと言えば「不快」でありながら「立法行為」(カント)ができなくて苛立つんだな。
だから「厭な人間を罵倒するための装置」として柄谷やらスガを引用してるだけで幼稚極まりない。
それは別として『小説的強度』を久々に流し読んだがまた新しい側面が読めて貴重だった。
510 :
496:2008/07/26(土) 10:50:20
>>503-506 これはジジェク、ドゥルーズっていうよりは、
『小説的強度』の解説を混ぜながら、父の名をゼロとするシニフィアンの構造と
それからの逸脱はありうるのか、という軸に、小説の可能性の在り処を考えた、って感じだね。
で、あまりにヘーゲル、コジェーヴ、ラカンの系譜が色濃い問題なので
『小説的強度』すら手にしていない俺には即座の返答はできない。
この問題設定については新たに関心を覚えたので、読もうとは思ったけれど。
ただ、498の言うドゥルーズらしい論旨(n個の性、[欲望と対比される]快楽、父の名への抵抗)
が、すでにして柄谷の言うドゥルーズになりすぎていて、俺にとっては得るものがないな。
素朴に、柄谷の言うような構図でドゥルーズ(というか上記論旨はむしろドゥルーズガタリだが)
を回収できるのだろうか、という疑問がある。しかしながら、
大した読解成果をここで提示することも俺にはまだできないのだが。
小説の可能性について語るときの例として出てきた金井については(アンビバレントに語ってはいるようだが)、
俺もまた興味もなく、たぶん読解においても498の方が蓄積がありそうなので、
これ以上俺から付け加えることもないな。率直に言うと
>>498のレスを見て快哉を叫んだね。
やっぱりこういうふうにとらえてる人っているんだなと。
>蓮実について
これはなぁ…正直賛成できないや。いや、金井に対比すると蓮実は別格だというのはあるし、
単に趣味の共同体の村長ってだけじゃない、ってのは言えるけど、
俺は蓮実のデリダやドゥルーズについての語り方に感心したことがない。
既成の受容には回収できない蓮実に孕まれていたものを徹底的に突付くという作業が必要だという意見もうなづけるけど、
蓮実派コミュニティや映画批評の言説空間に対する介入するには、そこからやったらかなり効果的だとは思うが、
逆に言うと、徹底的に突付くだけの理由をそれ以外に見出せないでいる。
こいつ結局バタイユとバルトの人だろ、って言いたくなるんだ。
511 :
496:2008/07/26(土) 10:51:15
『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』は読んでないけど、『仮死あるいは』は読んだことがある。
しかし、たとえば一義的たりえたブルジョワの言語が第二共和制のあとの国民教育によって崩れ、
言語の一義性が確立できなくなり、それ以来人類は「言語の悲劇」に生きている、とか書かれているけど、
これってバベルの蒸し返しで、しかも多義的な言語の現況にあっては「同じパラドクスがつねに出てくるだけ」みたいな話でしょう。
で、多義的な語を用いていかにして構成するか、という方向には全く進まないよね。
デリダだったら翻訳、遺産相続の問題になるようなものが出てこない。
あと、バルトに関する箇所で、聞き取りできない外国語(日本語)を聞くバルトは、
その耳触りに官能性を感じ…という一節があり、これは実に蓮実自身のスタイルを言い当ててるんだけど、
これって、理解可能性を放棄するがゆえに官能性たりえている、というふうにも見えてしまう。
結局、非知のごとき瞬間の現前があって、そこにたじろぎながらおのれの/対象の官能
(蓮実においてはカント的な主観が全く問われず、「対象の現れ」の前に溶けて消えているかのような素朴さがある。
したがって、おのれの/対象の の区分はいたって混濁している)に着目する、ってところで終わる議論ばかりだと思うんだよね。
512 :
496:2008/07/26(土) 10:52:27
で、そんな議論で満足できる人間に、デリダやドゥルーズ(ドゥルーズの結構厄介で、わかりにくい局面)に向かうとは思えない。
フーコーについてはあまり知らないのでとりあえずノーコメント。しかし、フーコーならば「人間学」にとどまると批判するような19世紀的知を
それこそが不可避である、と言いたげな蓮実は、フーコーをダシに使ってるだけに見える。
と、思想的には割と陳腐だという判断を下しているけれども、
小説の固有性における読解の経験、映画の固有性における読解の経験、といった面において、
蓮実はかなり強力な影響をもっていて、これは侮れないと思う。
ラカン派精神分析における不可能性と記述、という問題に、ある意味できわめて似ている。
ただし、上記のような思考から記述がはじめられるから、あんまり本腰も入れられていないんだけどね。
俺にとっての関心は、こういった、コジェーヴ〜バタイユ〜ラカン/デリダ/ドゥルーズの系譜におけるような、
不可能性とその記述・翻訳の議論のレベルでだね。そして、この問題について論じるには、
蓮実を経由する必要はないと思っている。ただし、日本で・映画論において、やる場合は、
蓮実を書き換えながらやったほうがいいのだろうと。
書き飛ばしみたいな文章で意味不明になってそうだが、こんなところで。
513 :
496:2008/07/26(土) 11:10:22
補足すると、
>ラカン派精神分析における不可能性と記述、という問題に、ある意味できわめて似ている。
というのは、精神分析理論・概念そのものが、蓮実の記述行為や蓮実の主張に似ているというよりも、
なんというかな…、精神分析における動因と、蓮実の小説・映画批評における動因が、ある意味で近似している、ぐらいの意味であって、
たとえば「じゃあラカン派の理論で蓮実を書き換えよう」というのがうまい手かというと微妙だったりする。
十川幸司が指摘するように、マテームを使っていく後期ラカンは、現実界へと重点がかかっていくにもかかわらず、
アプリオリに存在する超越論的論理学といったものになってしまっていて、経験における不可能性との遭遇と、議論との往復がなくなっていく
という面などもあり、単にラカンでいいというものでもないのだろう。
あと、付言しておくと、80年代スガのいくつかの文章を読んでよく感じたのは、
上記におけるような蓮実の論点の思想史的な対応物を相手にしている、ということで
(「全体性」に対するバタイユの使い方が似ているように思った)、
諸芸術固有なものをめぐる経験やその技法の上演はないものの、スガは
当時の批評家の中でも蓮実の読みが冴えているという印象がある。
ただし、『小説的強度』含む主著をまだじっくり読めていない俺には、雑駁なことしか言えないのだが。
514 :
吾輩は名無しである:2008/07/26(土) 11:12:17
「二和向台のビン・ラディン(笑)」
つうかお前どこかで物書いてるのか?
無意味に偉そうなんだが
ぎゃはは、
ゼンキョートー世代の批評家は可哀想だわなあ・・・・
吉本、江藤、柄谷、蓮見という桎梏が永遠に成熟を邪魔したからな。
一世代下の浅田、福田、宮代、宮崎より出世が遅れちまった。
このコンプレックスが、きゃつらのアイデンティティなんだべ。
だから、あんまり真面目に読まねえ方がいいぞ、人間が卑屈になるからな。
517 :
w:2008/07/26(土) 18:05:52
スガほど世界的に考えてるのはそうはいないだろ
>>517 それ、冗談だろ?
矢沢永吉はベートーベンより偉大な音楽家だ、という類の?
80年代ぐらいと、68年論、近年のスガは世界的文脈の上で仕事してる。
ただ、書き方や検証密度に反感や甘さを感じる人がいるんだろう。
「〜をちゃんと読んでる人間には」わかる文章ってこと。
読んでない人間には意味不明でいい加減な物言いに見えるんだろう。
何でそんなにマージナルなものに引かれるんだか・・・・・
まあ、若い内には道草もいいかね
「言語にとって美とは何か」
「日本近代文学の起源」
この二つの書物には取り上げられることのなかった
「書く」ということの現象学を志向してるのね。
相変わらずだ、何も進歩してない・・・・・
書くということを再現なく細分化して、作家自身が意識していなかったものを取り出し
その裸の概念を社会という装置から逆相関して、大中小のミクロコスモスの概念マップ
を作る。
まだ、やってる。
フォースターのエッセイで十分なのに。
むしろスガ「も」読む、ぐらいでないと失敗するんじゃない?
スガに入り浸ってもしょうがないわけで。
ところで、大嶽秀夫『新左翼の遺産 ニューレフトからポストモダンへ』(東京大学出版会)
読んだ人いるのかな。こっちは、スガと対照的に、日本の60年代末からポストモダン諸派の輸入
までに切断が走っているという論旨らしい。
その本は読んでないけど、ポストモダン前夜の断層って、文学的事件じゃないよ。
大ざっぱにしか言えないけど、おそらく85年の「プラザ合意」が、メルクマールになると思う。
所謂、円買いドル売りの協調介入のこと・・・・・
戦後日本社会がある種の拡大、変質を被った事件だったと思う。
もちろん文学史的な事件ではないが・・・
単なるやまかんだが、これは大きな結節点だったと思う。
日本が世界とリンクしたという市民レベルでの感触が醸成されたようにみえたね。
>>515-522(抽出するの面倒臭いのでひとかげらにしてスマソ)
スガスレまで出張してきて中身のないスガ批判御苦労さん
しかし文学板・哲学板のねらーのマナーのなさは恥ずかしいね
普通当事者スレで批判(という名の荒らし)なんて音楽板とかだったら糞恥ずかしい行為なのに、
批判という「言論の自由」がアプリオリにあると思ってるらしきプチ文学者はTPOをわきまえて欲しい
525 :
522:2008/07/26(土) 21:49:38
私は批判したつもりはなかったよ。
対照して読んだり、別の立場もまじえて読んだほうが、何につけいいんじゃないかと。
どんな著者だって、思想史上の連関があってその人のものだけ読んでてもしょうがないって一般論でね。
単に大嶽の本でカウンターにしようと思ったわけでもない。
526 :
524:2008/07/26(土) 21:58:13
>>525 >>515-516に過剰反応してPC的対応をしてしまった。申し訳ない。
もし大嶽をもってスガの盲点を照明するのなら具体的に引用してどんどんやって欲しい。
正直フォローしないといけない本が多すぎて(私の不勉強さもあるのだが)全ての文脈についていけない。
そういう「批判」なら歓迎します。
527 :
522:2008/07/26(土) 22:00:42
いやいや陳腐な原則を言ったまでだし、論点を提出したわけでもないので気にせずに。
私も大嶽の本をまだ手にしてないので、
ぶっちゃけ「こういう本あるみたいよ」報告の域を出てません。
大嶽の本は、スガの論旨よりも60年安保の時点を高く買ってるらしい。
>>524 515は俺だけどスガ批判じゃないって
あんたが色々な批評家を裁く手つきは、
少なくとも素人じゃないだろ
ならちゃんと批評を書けよって話
>>528 少なくとも素人ではないが(肩書きがあるとかどこかに所属してるとかの意味でなく、それなりの問題意識を持ってスガやその他の著作を読んで来た、ほどの意味)別にプロを目指してない
批評を書く事の大変さは重々承知してるけど、それがゆえにそんな大層な事はとてもじゃないができない
たとえば
>>506で「「n個の性」はそれ自体「父」に対する対抗概念として生きられなければ(アンチ・オイディプス!!)現実への追従でしかあるまい。 」と書いてるが、繊細な手続きをまったくスっ飛ばした文章で、
「父」の前では「子」は果たして「性」を主張できるのかという疑念もあるし、
でもなおかつ「セクシャリティ」を主張するとなればどういう手続きがいるのか考えると気が遠くなる。
ただ直観的に「n個の性」というだけでは、たとえそれが《出来事》として生きられたとしても、「父」が揺らぐ事はないのではないかと思うばかりである(具体的には中上健次『枯木灘』での秋幸とさと子の近親相姦とそれを赦す浜村龍造が念頭にある)。
まぁ2ちゃんでしかものを書けないからといって、それは別に構わないだろう。
批評なんてもっと優秀な人間がやってくれればいい。
ここでは素人ではないけどアマチュアの忘備録で充分だろう。
530 :
496:2008/07/27(日) 09:26:29
>肩書きがあるとかどこかに所属してるとかの意味でなく、
>それなりの問題意識を持ってスガやその他の著作を読んで来た、ほどの意味
なるほど、その意味では俺も素人の方だ。
「お前どこかで物書いてるのか?」「ちゃんと批評を書けよ」
こういう評言が2chだとすぐに出てくるんだが、
それこそ「偉そう」だと思うんだが…。
ど真ん中の関心対象ではないとき、人は「忘備録」程度の記述、追及で一旦措くということがあるしね。
そしてそもそも批評として、まとまった記述としてそれがやるべきかどうか、
どの水準に達しているかどうか、という問題もある。
そのとき、「批評として書かれるべきだ」とつねに言えるわけでもない場合がある。
いや、あんたの断罪は何らかの内的権威に基づいてるだろ
でもここで色々叩いても、幼稚な陰口と同種のディスクールだと思うぜ
もったいないってことさ
すがは批評的な勝ち馬に甘い
大西巨人は無条件に認めるとか
534 :
498:2008/07/28(月) 00:23:25
なんかレス番晒してレスするのもこっぱずかしいが一応儀礼として応答を。
>>531 本気なのかお世辞なのかからかってるだけなのかともかく、素直に光栄です。
ただ、いまは万が一物書きでなにがしかの原稿料をもらう(まぁありえない話ですが)よりは、自分の思考をもっと他者の思考に晒されて磨きたい。
たとえば
>>510で
「ただ、498の言うドゥルーズらしい論旨(n個の性、[欲望と対比される]快楽、父の名への抵抗)
が、すでにして柄谷の言うドゥルーズになりすぎていて、俺にとっては得るものがないな。
素朴に、柄谷の言うような構図でドゥルーズ(というか上記論旨はむしろドゥルーズガタリだが)
を回収できるのだろうか、という疑問がある。」
と言われれば、もっときちんとドゥルーズを読みなおさないといけないと思うし、
>>521の『小説的強度』批判も、それが間違ってるという直観を持ちつつも、こういう批判はありうるし、それに応対するには自分は未熟だと思う。
その場所として2ちゃんを選ぶのも情けない話かも知れんが、スガスレの反応はまだ文学板・哲学板の中では面白い。
たとえば柄谷解体スレやジジェクスレで柄谷の話題をしても「NAMで失敗したからおしまい」の一言で総括(という名の無視=無知)で終わったり、
中にはいかにデリダのパクリであるかを懸命にレスする偉い方がいたり、まぁ正しいのかも知れんが、つまらなさすぎる。
それはそれとして、私の文章が「無意味に偉そう」に見えたり「何らかの内的権威に基づいてる」ように見えるのは何故か?
という事を漠然と考えたら、柄谷とスガの言文一致運動をめぐる些末な論争(という程でもないが)を思い出した。
柄谷は言文一致体は文末が「た」体に統一された事によって「中性的な話者」が成立したと主張するが、
スガはそれに対して、尊大語であった「である」体こそ言文一致運動の本流と指摘した。
これについて柄谷はどこかの対談だかインタビューで、そんな細かい話はどうでもいい、と発言してたが果たしてそうなのかどうか?
この件については後日また書き込みします。続きが知りたい方はスガ秀実『日本近代文学の〈誕生〉』を読まれてください。
私ができるのはそこからの引用とちょっとした解説くらいです。
535 :
498:2008/07/28(月) 00:26:28
>>532 昔、『小説的強度』を初めて読んだ時、ベンヤミンをなぜか「ベシミヤン」と思い込んで、本屋で『複製技術時代の芸術』を探すも見つからなかった経験を思い出した。
とはいえ『JUNKの逆襲』でスガが坂口安吾の中学時代の成績表を見て、そのヒドさに苦笑した事を記しているが、
私の中学〜高校時代の成績を見ればさすがのスガも、中野重治『村の家』の父親のごとく、文学などどうでもいいから働け!、と叱られかねない。
それでも「文学」にしがみつく哀れな私に、おそらくは私より遥かに高等教育を受けていると思しき2ちゃんねらーのみなさん、存分に啓発してください。
536 :
498:2008/07/28(月) 01:12:25
>>510-512 早稲田文学1号に蓮實のロング・インタビューが掲載されていてなかなか面白い。
その中でドゥルーズやデリダには批評性がないと言い切る一方で、フーコーを賞揚している。
いま早稲田文学が手許にないので細かい話はできないが(そもそもそんな教養はないが)、何かの参考にはなるかも知れないです。
537 :
496:2008/07/28(月) 01:18:35
>>536 いやあ、そのインタヴューは苛付きながら読んだんですよ。
哲学者をサルトルに代表させるってのも無茶だし、
ある意味細部読解に関してはリシャールよりもデリダの方がやってるのに
理由を挙げずにリシャールの方を賞賛するし(細部構成読解が蓮実の好みだって思うしかない)、
細部を覚醒させる翻訳としての批評、というのも、不可能性との絡みが甘くて素朴だと思うし、
いちいちうなづく聞き手の市川もどうしようもないし、
いろいろ駄目なインタヴューですよ。
ただ、誰も突っ込まないことで、蓮実周辺の言説がどこまで弛緩してるかってのは実によく見える。
追い詰めの甘い議論をやってても、今の言説空間だと蓮実は簡単に許されちゃうんだよね。
538 :
496:2008/07/28(月) 01:25:52
なんか、否否といってばかりなのも微妙なので、
提示できる議論のブロックをこしらえるまではしばらくROMってます。
539 :
498:2008/07/28(月) 01:41:26
>>537 蓮實についてそれなりに読み返した本と言えば数冊しかなく、
たぶん『私小説を読む』、『小説論=批評論』、『大江健三郎論』くらいかなぁ…。
『表層批評宣言』とか『反=日本語論』とかあの文体を追うのが疲れるので正直理解できてない。
ただすごく凡庸にイメージとして言えば、蓮實って擁護の人だと思う。
「無神論の牧師」だけど、時としてエイリアンにも変化する、みたいな(すみません、くだらなくて)。
いま文芸批評として「小説」をまともに論じてる数少ない批評家だし、
蓮實は誰かが(蓮實エピゴーネンではない批評家が)救ってやらないといけないと思う。
そしてその批評で蓮實を泣かさないと駄目だと思う(蓮實の別名は「泣く教授」)。
城殿とか、別に評価してないけど、ルノアールで泣いたとか金井で泣いたとか言う前に、蓮實を泣かさないと批評家になった値打ちないでしょう。
540 :
496:2008/07/28(月) 01:53:07
蛇足的だけど:
蓮実の内在的なものを扱い、大きく裏切って(「裏切り」にはジジェクや浅田では翻訳の意味がある)
水準を高い論を提出することはやりがいはあると思うけど、
だからといってそれを読んで蓮実が泣くかというとまた別。
蓮実自身、誰からか許されようとして書いたわけでないように、蓮実に許されようとはせずに書いたほうがいいと思う。
そのため、蓮実を泣かせるというふうには私は考えないね。
金井や城殿のように泣いた泣いた言うんじゃなくて、蓮実を泣かせろよという意味合いはよくわかるけど。
たぶん俺の思考の経験は、498さんよりも蓮実からはじめすぎてるんだろう。
ゆえに、その論法、その暗黙の基礎的前提、振る舞いのコードなどに自覚的に距離をとるべきだ、とつい思ってしまう。
スガとか渡部とか
確固たる「評論家」の地位を築いてる自負があるはずだが
蓮実の例のインタビュー、「日本の評論家に誰も期待できるのがいない」
発言になにも答えてない。
黙るということは「くだらない評論家」として認めるわけだ。
>>534 柄谷は岩波版「日本近代文学の起源」で、結局、自説の誤りを認めたわけだが。
ar
544 :
吾輩は名無しである:2008/08/02(土) 05:24:06
545 :
吾輩は名無しである:2008/08/02(土) 22:59:24
糸圭を良いとか言ってる人って、若い人らなのかな。
自分らの世代だと、糸圭って、渡辺直巳のような2流どこってイメージなんだけど…。
>>545 糸圭って柄谷とか蓮實の前ではそれなりに映えるけど、
笠井潔や竹田青嗣のような同世代の前だとホント沈黙するんだよな。
あれが不思議なんだが。
ただそれと糸圭が二流かは別だと思うが。
少なくとも糸圭と同世代で読むにたえる文芸批評を書いているのは、渡部、丹生谷、松浦、芳川くらいだろう(それを評価するかは別としても)。
もし糸圭の本を一通り読んでなお二流といえるのなら、アカデミズムのお方なんでしょうか?
547 :
496:2008/08/03(日) 07:09:59
>>545 >渡辺直巳のような2流
そこは、俺も以前そんなイメージだったんだけど、渡部よりいいと思うようになった。
ただ、スガの本にしても『文芸時評というモード』などは「取り巻きの駄本」ぐらいにしか思ってない。
相対的には、渡部よりは頭はいいんじゃないかな。
持久力というか粘りというか…そういうのをもっとスガは持ってほしいけど。
芳川だったら四方田の方が…
あの性格の悪さ(?イメージだけかもしらんが)とかコンプレックス度合いは好きです。
蓮實系が嫌ってるのを研究対象にしたりとか。
「渡部が2流」とかいう言い方をする意味つーか意図がよくわからんのだが…
自分の立場関係なく、具体的な批判以外は、陰口みたいでカコワルイよ。
549 :
496:2008/08/04(月) 20:51:56
>自分の立場関係なく、具体的な批判以外は、陰口みたいでカコワルイよ。
たしかにそうですね。漠然とした印象言っててもしょうがないな。
蛇足すると、あまり渡部の著作を追ってないので、スガについてよりもつい印象でしゃべっちゃいましたけど、
「渡部ならこの本」ってなると、何になるんだろう。
漱石本、スガとの共著、対談集(『現代文学の〜』)、時評集(『電通文学〜』)、はあんまり感心しなかったんだ。
(すでに印象でしゃべってしまっているが、ごめん)
550 :
吾輩は名無しである:2008/08/05(火) 00:27:59
渡部ならデビュー作の鏡花論『幻影の抒機』以外にはないでしょう。
それも知らずにスガとの共著(『現代文学の〜』なんて本はない)とか言ってるとは、
あまりにもおバカ。
そんなのとっくに絶版だろw
絶版だと、存在しないものだと思うバカwww
ネット通販しか使わないんだろう……
554 :
496:2008/08/05(火) 09:22:45
>『現代文学の〜』
『現代文学の読み方・書かれ方』(1998)のことだよ。スガの共著はまた別。
インタヴュー集と言ったほうがよかったかな。
しかしやっぱり『幻影の抒機』か。
これか『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』が渡部の主著なのかと思っていたんだけど、
これ読まないと論じようがないのかな。
たとえば、漱石論の巻末出題で出てるような、暗黙の描写の擬人説の自明視とか、
小説の固有性として(換喩的な)描写があり、それでもって抵抗せよというのは
ヤコブソン〜バルトあたりが言ってたような隠喩/換喩への着目の継承としてその射程は理解できるけど、
「なんかなあ…」とか思っちゃうんだよ。単に固有性まっしぐらになれば大丈夫とでも思ってるのかと。
そういう、大筋における疑問なんだ。
で、渡部主著ってのは、その大筋において単に「詳細かつ細やか」になってるのとは別の可能性あるのかなあ。
絶版云々で言うと、スガの『小説的強度』『探偵のレトリック』はじめとして主著といえるものの多くが
同様になってるから、もちろんそこは問題にしない。
555 :
498:2008/08/10(日) 22:01:26
実は数週間前に蓮實重彦『赤の誘惑』を読んで、きちんと完読してないにもかかわらず、大いに啓発されて動揺しまくっていた。
ヘコんでたところでスラヴォイ・ジジェク『厄介なる主体』を読み出したら、ジジェクvs蓮實の構図が見えて来て、幾分か気が楽になったが、
なにはともあれスガについて予告していた引用と解説をせねばならない。
柄谷行人『近代文学の起源』岩波版は結局まだ読んでないのだが、以下の内容がもしそこで既に処理済みの問題だとしたら悪しからず。
無知を承知で進めて行きます。
まずは引用から。
《ここでまず言えることは、「です・ます」体、「でござります」体が話者の読者に対する敬まった立場をあらわし、
「だ」体(「た」体)、「である」体が尊大感をあらわしているとすれば、対象を描写しようとする時、後者の文体の方がはるかに容易だという一事である。
前者の敬体によっては、細部の積極的な描写が、その話者の引き下がった位置のため、十全に行いえないのだ。》
(スガ秀実『日本近代文学の〈誕生〉』)
『小説的強度』において、小説の定義(あるいは可能性?)を、「換喩的描写の累進が」「『父の名』の否認」「を要請するのだ」といい、それが「固有名の永劫回帰として現象する」ところにひとまず認めたスガが、
言文一致体の語尾について「である」体の優位を指摘するのは自然な流れと言えよう。
そしてここに
>>534で予告した、言文一致運動に対する、スガと柄谷行人の差異が見えてくる。
556 :
498:2008/08/10(日) 22:03:43
再び引用する。
《(中略)そこで(柄谷行人「『近代日本文学の起源』再考?�」で。引用者注)柄谷は、過去形の「た」体のみに限定して、言文一致の成立を論じている。
柄谷によれば、「た」体は「語り手の中性化、いいかえれば語り手の消去に不可欠」なものであり、二葉亭の『浮雲』第二篇以降は、「た」体に統括されたことによって、
「日本最初の近代小説と呼ばれる」ものとなったのだと言う。》
(同上)
ここでは「た」体と「である」体のどちらが言文一致運動の正統であったか、は問わないし、また私にもそのような能力はない。
私が注目したのは、次の一点である。
柄谷が近代小説の目指すものは「語り手の中性化」だと指向されているのに対して、
スガにおいては「(近代)小説」の「語り手」は「中性」であるどころか、
「である」体という「尊大感」のある語尾のレトリカルな操作によって、「父」に擬した存在であるかのごとく想定されているようなのだ。
この点については『近代文学の〈誕生〉』第一章「俗語革命と『詩』(ポエジー)でスガは詳細に分析しているので、詳しくはそちらを読まれたい。
近代小説の語り手が「父」に擬した存在であるかのごときなのは、スガの説明では次のように言われる。
《このことは、「である」体による俗語革命成立の意義を改めて確認させる。
「である」体は、世俗的な時間・空間を、「詩的なもの」(原文傍点)とかかわらせる「散文的文末詞」(原文傍点)なのだ。
ヨーロッパ文学においては、このような垂直性をキリスト教的「伝統」(というよりは、「存在論」的「伝統」というべきであるが)が保証していたことが、アウエルバッハ=アンダーソンの前提であった。
明治文学において、それが、かかる俗語革命によって、初めて達成されたのである。》
(同上)
このような「存在論」的「伝統」の政治性については、『日本近代文学の〈誕生〉』の中で事細かに論述されていくのであるが、ここではその問題系が単なる小説の問題ではなく、哲学=精神分析を貫く問題系とも密接に通底している事だけを指摘しておく。
557 :
498:2008/08/10(日) 22:05:25
実際スガもその事にはある程度自覚的だったようである。
《「敬語と語尾(ことばじり)」の操作によって目指されていたのが、「語り手の中性化」であるという柄谷行人の視点は、
柄谷が直接には触れていないさまざまな問題系を呼び寄せると思われるが、そのことを論じるための予備的考案を、われわれはいまだ構築しえていない。》
(同上)
『日本近代文学の〈誕生〉』において、日本近代小説は、「父」に対して「中性的」な存在であるどころか、
世俗的な時間・空間を、「詩的なもの」とかかわらせる垂直性によって「存在論」的「伝統」へと回帰する事によって、
図らずも(?)「父」への抵抗を放棄したかのように見えるのだが、その政治性がいかなるものかはあとは読者の方々に精読を願いたい。
558 :
498:2008/08/10(日) 22:06:29
ところでここでまた、冒頭の蓮實が回帰するのだが、『日本近代文学の〈誕生〉』はベネティクト・アンダーソン『想像の共同体』を間違いなく意識して書かれた書物であるはずだが、
早稲田文学1号のインタビューで蓮實重彦は、「誰か『想像の共同体』では分析不可能な小説の一覧表を作ってもらえませんかね」(手許に早稲田文学がないため記憶を頼りに再構築)といささか挑発的な発言で締めくくる。
これを蓮實の抑圧的な言説とやり過ごすのは容易いが、『赤の誘惑』そして『厄介なる主体』を読んだばかりのウブな私には、「零度」を決して手放さない蓮實の「心の余裕」を前にしては、
短絡的に「父」等と結び付けるおのれの思考の脆弱さを意識せざるをえない。
その「零度」を、一方でジジェクは『厄介なる主体』の中で「想像力」と〈悟性〉の対立を軸に論じて行くのだが、
こちらも私の拙劣な解説よりは実際に本書を精読されたい。
以上、要するにみなさん実際に手に取って読んでみてください。
蓮実の「早稲田文学」でのその発言は明確にスガに対して言われていると思われますね。
『魂の唯物論的擁護のために』だったかに収録されているスガと蓮実の対談(インタヴュー)では、「である体」なんかにかかずらう必要なしと、蓮実が言っていたような。
スガは、そこでそのことをうっちゃっていたように記憶しますが、その後もこだわっているということですね。
560 :
498:2008/08/10(日) 23:52:00
>>559 そのスガvs蓮實の対立軸でいくと、「である」体にこだわるかどうかは、単なる小説の形式的な問題、あるいは趣味の問題ではなく、
たぶんに批評的=倫理的な態度の差異かと思われます。
スガは『「帝国」の文学』を最後に小説=文学については直接的にはまとまった文章を書いていないですが、
「68年革命」という「歴史」(フィクション?!)へと関心を移行していったスガは、
『トランスクリティーク』以降、国家論から交換論とさえいえる分析(長池講義等)へと向かった柄谷とどこかでパラレルな印象を持ちます。
「想像力」(おそらくカント由来の概念と思われるが出典&文脈不明。
詳しくはジジェク『厄介なる主体』第一部第一章「超越論的想像力の行きづまり カントを読むハイデガー」参照。副読本としてJ・ドゥルーズ『カントの批判哲学』文庫版がお薦め)の可能性に優位をおく蓮實と、
スガや柄谷はそれへの批判(というより、『赤の誘惑』は紛れもない柄谷・スガ批判だと読めるのだが)から小説=文学から距離をおいていると思われるのだが、
これを文壇内のヘゲモニーとか学問的な正しさで優劣をつけるのではなく、
あくまで批評的=倫理的な態度で読めば、能力のある方なら非常に魅力的な批評が書けるのではないかと思われます。
561 :
496:2008/08/11(月) 15:29:59
『日本近代文学の〈誕生〉』を始めのほうまでしか読んでない俺には
分不相応な議論になってきているので、すぐ言えることだけ書くと、
>>558 >『日本近代文学の〈誕生〉』はベネティクト・アンダーソン『想像の共同体』を間違いなく意識して書かれた書物であるはずだが、
>早稲田文学1号のインタビューで蓮實重彦は、「誰か『想像の共同体』では分析不可能な小説の一覧表を作ってもらえませんかね」
>(...)といささか挑発的な発言で締めくくる。
>>559 >蓮実の「早稲田文学」でのその発言は明確にスガに対して言われていると思われますね。
これはその通りだと思うよ。当該インタヴューを読んだ当初、俺が対比的に連想したのも、
柄谷の『近代文学の起源』とそれを継承しながら問い直すスガの『日本近代文学の〈誕生〉』だった。
世俗的ニュースや身辺の諸事、恋愛沙汰を素材にして(いわば小説として構成し翻訳して)
近代文学作品は生まれていくんだけど、その小説化、作品と世俗との関係のあり方を
蓮実はアンダーソンや国民国家の枠じゃないところで考えたいんじゃないかな。
近年蓮実が熱心に向かってるフィクション論の方は追跡できてないんだけど、
「フィクションとして成立する境位」というものを考えている論脈はここでつながってるんだと思う。
>これを文壇内のヘゲモニーとか学問的な正しさで優劣をつけるのではなく、
これはおそらく俺を念頭に書かれたのかな、と思ったけど、これも同感で、
ヘゲモニー云々にこだわると議論の射程がどうもつまらないところに帰着するというのはあるし。
562 :
498:2008/08/11(月) 21:20:01
>>561 >>これを文壇内のヘゲモニーとか学問的な正しさで優劣をつけるのではなく、
これはおそらく俺を念頭に書かれたのかな、と思ったけど、これも同感で、
ヘゲモニー云々にこだわると議論の射程がどうもつまらないところに帰着するというのはあるし。
これは必ずしも
>>496ばかりを念頭においた訳ではない。
浅田板では東浩紀と浅田の現代芸術・サブカルチャー批評におけるヘゲモニーの交代について書かれているが、
浅田が圧倒的にまとまった文章を書いてないのを差し引いても、どうでも良い話だと思う。
まずある言説なりの政治性(及び非政治性)を分析して、
その歴史性なり出来事性を肯定(あるいは批判)するのが文芸批評の役割だと思うので(柄谷は「何が書かれているか」ではなく「誰が書いているか」を常に問題にしてきた)、
仮に誰某のヘゲモニーを批判するとしても、分析の手続きが疎かで書き手の主観的印象にばかり走る文章は、いかに「正しさ」を醸し出していたとしても、
すぐに読むに耐えないものになるのだけは指摘しておきたい。
あと私は大学で哲学理論を専攻して学んだ訳ではないので、概念やその文脈を誤解している面も少なからずあるとしても、
哲学板のそれなりに教養のあるはずのねらーも往々にして教科書的な説明の域を越えてない場合が多いと思われる。
そういう言説は、単純につまらないので、少なくとも私は読みたくない。
>>496は蓮實への「不快」が批評意識の原動力になってるようで、
その種の政治性への感性がない人間は少なくとも批評は書けないと思うので、それは大いに良い傾向だと思うが、
ただ言説の対象は、それが批判の対象であればあるほど矮小化の危険だけは極力避けなければならないと思う。
前レスの私による金井美恵子批判も、金井に対する「不快」についてのある一面を提示しただけに過ぎず、
批評として書かれるならあんな大雑把な読みでは不備が多すぎる(何より具体的に小説を論じてないのだから話にならない)。
まぁここを読んでる人ならそんな事は百も承知でしょうが、
大学の授業の知識を鵜呑みにして書き込みしてるとしか思えない方もたまにいらっしゃるので、
念のため記したまでで他意はありません。
563 :
498:2008/08/16(土) 00:34:06
あのー全く批判もなにもないのですが、もしかして内容が寒すぎるんでしょうか…
もしスレの雰囲気を悪くしたならすみません
結構エラそうに書いてますがあまり大したことは書いてないのでみなさん進めてください。
スガがいなくなったら、文学は本当の意味で終わる
金井美恵子に対する浅田彰の批判(揶揄?)は
>>494の言う通りだと思う。
まあホモというより、
浅田にしても柄谷にしてもホモソーシャル的なノリが
金井を忌避させてるんだと思う。
金井は「男」の無意識の権力意識なんかをチクチク刺すのが巧い。
それが男性批評家のカンに触るんだろうな。
私は先鋭なフェミニストとして金井美恵子を捉えている。
本人は嫌がるだろうがね。
ま、こんなこと言うのは私くらいだろうな…。
なんにせよ浅田も自分のホモソーシャル的なとこ自覚して欲しいな。
浅田は他人のそういうとこは鋭く看取できるのに、
やはり自分のことは客観視できないのかな?
つまり渡部と小谷野はホモ?
ホモソーシャルとホモセクシャルの違いぐらい
すが秀実のwikipedeiaを誰か修正してくれないかな。
誤記と思われる箇所があるんだが。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%8C%E7%A7%80%E5%AE%9F >この作品と並行して製作されたドキュメンタリー映画『LEFT ALONE』(2005)では、
柄谷行人に「二重の意味で嫌味なやつ」と評された。
自分はパイロット版『LEFT ALONE』しか観れてないのだが、
映画で柄谷は、「二重の意味で人の嫌がる事をするやつ」、と言ってたと記憶する。
「嫌味なやつ」では柄谷が言ったダブル・ミーニングが全く伝わらない。
映画関係者及び柄谷の発言を正確に記憶してる方、よろしくお願いします。
>>568 私は映画版は見ておらず、書籍版しか読んでいないが
(こっちはカットされた部分も多く含むそうだが、無改稿と明記されていないので
映画版より優先すべき「原典」として扱えるのかわからない)、
書籍ではこうなってる。pp.205-207.
井土 柄谷さんは昔、中上(健次)さんとの対談で、「一人だけ信頼できる批評家はすが秀実だ」
というようなことを言っていて、「あいつはホントは白鳥なのに、自分のことを醜いアヒルの子だと思っている」
っていうようなことを言われていたんですけど、柄谷さんから見たすがさんって、どういう感じなんですか。
柄谷 実はね、すが秀実を白鳥にしようとして「白鳥計画」というのを長くやってきたんですけど、常に失敗しましてね。
すが すぐ俺がぶち壊すというのもあるらしい(笑)。
柄谷 その通り。すが秀実はどういう人かっていうと、人の嫌がることをする人ですね。
まあ、学校の先生がよく「みなさん、人の嫌がることをやりなさい」とか言うけどさあ、
そうすると、教室でウンコをするような奴なのよ。
すが・井土 あっはっはっはっは!(一同爆笑)
柄谷 だけど、すがさんはそういうこともするんですが、そのウンコをきちんと片付けるということもやるわけですよ。
人の嫌がることですから。しかし、その片付けたウンコを校長室に持っていくとか、ですねえ(笑)。
いいことをしても、人の嫌がる形でしかしない人なので、つねに誤解されるね。
今は、全てにおいて善人で、全てにおいていい子ちゃんであろうとする人が多いじゃないですか。
特に物書きや学者なんかには多いよね。だから、差別問題でもそうだけど、
そういう人の書いているものは面白くないんですよ。
誰も面白いと思ってないと思う。しかし、そういう中ですがさんは際立っている。
彼は嫌われることを言うからね、当然嫌われるよね(笑)。
井土 すがさん自身はどうなんですか? 醜いアヒルの子を貫こうと思っているんだというところはあるんですか。
すが でもまあ、なかなかそれは貫けないところもあって、やっぱり辛いものがあるんですよ。
ただ最近、それこそカルチュラル・レフトって言われているのは、みんな単純な正義
――デリダが「ディコンストラクションは正義である」とか言っていたのをいいことに――
ホントにつまらない正義を振りかざしている人がいるじゃないですか。あれはいつ頃からなんでしょうねえ?
これは世界的な傾向とはいえ、それでもアメリカなんかはまだ少しはひねくれてるでしょう?
柄谷 いやあ、同じだと思う。それは、それこそ君の言う「68年」に、市民権運動、差別反対闘争が出てきてからではないですか。
差別にはいろんな差別があるでしょ。女性差別から部落差別……
すが もう無限にありますよね。
柄谷 しかも、その次元がたくさんあるから、差別されている側が差別しているとか、ややこしくなってくる。
すると、差別を糾弾している者が糾弾される。そういうことが進行すると、
糾弾を逃れるためには、三重苦、四重苦になればいい、というような傾向が出てきた。
アメリカは特にそれがあったと思うよ。だから、デリダ的な逃げ方も出てくる――
まあ複雑に両義的な言い回しでいえばわけが分からなくなりますからね。
すが でも、やっていることは単純っていうね。
柄谷 そう、そう(笑)。……イヤですね、そういうのはね。
すが 柄谷さんは割と、当時の日本でのいわゆる反差別闘争に対して冷淡でしたよね。
でも、それはやっぱりある意味、一方で考えざるを得ない問題でもあるわけじゃないですか。
そのあたりのことを、アンビバレンツな感じで意識されたのはやっぱりアメリカ行ってからですか?
柄谷 僕はもともと物事を現実的に解決することを先ず考えた。それを心の問題にすることを避けたいということですね。
すが 差別問題はやってると、どうしても心の問題になっちゃうからね。
柄谷 いや、だから僕が先ほど言った、くじ引きでも市民通貨でもそうだけど、心の問題にすることを避けたいということですね。
すが 心に還元するなということですね。
柄谷 そう、そう。システムとしてそれを解決したい。そうでないと必ず心理的な問題になり、糾弾になる。
僕はスターリン主義の問題について考えてきましたけど、いろんな批判や分析はあるが、
どうすればそれを避けられるかという考えに出会わなかった。
結局、スターリン、レーニン、マルクス、ヘーゲル、プラトン――そういう人たちを次々と糾弾するだけです。
そして、結局のところ、議会制民主主義しかない、ということになってしまう。
そういうのは情けないと思うんですよ。
この後も、そうした対抗運動に関して指導者の資質による規定の話だとか、
ヒロイックでもなんでもない革命とかについて語られるんだけど、この引用箇所は本作中の柄谷との対話のキモで、
表象不可能性とマイノリティ、正義をめぐる言説布置やそれをめぐる期待の地平があり、
そうじゃないかたちでどう議論するかという意味で、柄谷の対抗運動観がわかりやすく出ている。
すがについて言われている「人の嫌がることをする」というのは、この文脈では、
正義の言説をおこなう人間を苛立たせるような論立てをやっていることを言ってる。
もちろん、柄谷の言うような下部構造から規定はもっと厄介なんじゃないかとか、
「心の問題」つまり表象と主体化の問題はなかなか除外できず両輪になるのではとか、
言説に正義が付与される構造に抵抗する論をさらにどう考えるか、といったさらに踏み込んだ問題はありうるんだけれど、
そのwikipedeiaの記述では単に人格評になっててそれ以前で、
意図的なネガティブキャンペーンとして書かれたか、馬鹿が書いたとしか言いようがない。
>>569-571 この対談を読んで改めて思い返したのは、すがの事ではなく、柄谷の「お笑い(あえてユーモアとかギャグとはいわない)」の際立ったセンスの高さで、
俺は直接柄谷と会話した事はないが、
数度観た講演や公開討論会では、常になんとも形容し難い絶妙のネタで観客を笑わせていた(もちろんそのほとんどはマジメな話だが)。
そのセンスは俺の個人的見解では、ビートたけしやダウンタウン松本の比ではないと思われる。
柄谷のこの「お笑い」のセンスを理解できない者は柄谷と行動を共にすべきではない。
足手まといになるか後で手酷く恫喝されるかだろう。
574 :
569:2008/08/30(土) 00:14:13
論理的な記述に平行させて喚喩を構造的に展開させるのは、
いわば論理構成を喚喩において再現前させるというか、再び舞台にかけるようなところがあってね。
そして、こうした再舞台化の技法というのは、口頭のトークに重きをおいていた批評の風習にあっては、
見ようによってはクリティカルな箇所になる。
ログで蓮実/すが/柄谷におけるフィクションの境位について触れられているけど、
柄谷自身はこれを議論の対象にしないとはいえ、こうした技法がすでに、フィクションの成立と似ている面がある。
「嫌がることをする」という、字面だけを見れば何てことのない語句が、
両義性のある謎めいた概念的な運動を付加されるわけね。
落としどころのある喚喩構成が、柄谷の場合では「お笑い」に近いんだろう。
視差と言い出した彼の発想の好みもそこに絡んでて、
たぶん柄谷言うところの視差のある構成が、お笑いにおける視点の移動を生み出しているんじゃないかな。
これは、フィクション化の技法として、という議論の立て方ではないけれども、
柄谷において単に話芸や性格のみならず、論理構成と距離の立て方のセンスにはつながってる。
575 :
572:2008/08/30(土) 01:22:24
柄谷の「お笑い」ネタの具体例はほとんど記憶にないのだが、憶えてるものをひとつ。
85年に阪神タイガースが日本一になった頃の対談で、「阪神ファンは皆フセイン支持です」、
と語り、その意味を問われたら、「われわれはバース党ですから」と答えていた。
こういう危険思想ギリギリのネタをサラッと笑いに変えるセンスは柄谷ならではだと思う。
基本的に柄谷のお笑いは親父ギャグであり、本当のモノと比べたらレベルは低いと思う
ただ文壇というある種知的障害者の集団に属してるから、それでも笑いが取れてるのだろう
本格的な場所では全く通用しない。
彼のピッチングに同じである。
577 :
569:2008/08/30(土) 02:22:11
たしかに、柄谷がたまにやる駄洒落みたいなのはかなりつまらんな。
最近の例では、カラマーゾフの兄弟新訳が売れるのは、訳者が亀田だからです、
亀田兄弟にも人気がある、とか(亀山の誤り)。
>>569 Wikipedeia訂正してきた。
ところでいまのWikipediaのやつ読んでいる?ネガティブキャンペーンの エピソードは改善されている。
「正義の言説をおこなう人間を苛立たせるような論立てをやっている。」
という文脈で改正されていると思う。
不満は、
すががなぜああいうスタイルをとるのか?その由来である、マイノリティ運動に新左翼が移行したことの目撃、
華闘共の経験=68年の経験=他者性の導入を、思想レヴェルの言葉で、すがを知らない人にもわかりやすく
、書くことだと思う。
>>569はどう?だれかやってくれない? けど百科事典で踏み込みすぎだろうか?
俺、すがは超重要だと思う。すがを知らない人にもすがを知らしめたい。
579 :
569:2008/08/30(土) 11:49:14
>マイノリティ運動に新左翼が移行したことの目撃、
>華闘共の経験=68年の経験=他者性の導入を、思想レヴェルの言葉で、すがを知らない人にもわかりやすく書く
のはたしかに必要だね。少なくとも、68年論の前後で明確になったスガの思想史的な立場はそこにある。
でも、私はそれをある程度簡潔にまとまったものを書くほどの知見・力量はないなあ…。
説明に対して(こうした立場が)無責任だという誹りは免れないが、
目下のところは、「人文系統でwikipediaの記述は書誌情報しか期待してはいけない。
論壇・思想・批評に関しては具にもつかない風聞ぐらいしか書かれていない」という認識で、
まあ言ってしまえば放置でいこうかと思ってる。
実際のところ、簡潔かつ適切で、辞書に見合った文字数、語句選択で書ききるには、ある程度の力がないとできないんだよね。
書誌情報ってのはそんな力なくてもできるから簡単なわけですが。
いま、哲学板浅田彰スレで浅田の書誌情報をまとめようという動きが出ているけれど、
ここまではなら人海戦術と細かい探索だけで一応はできる。その後が面倒なんだよね…。
580 :
569:2008/08/30(土) 11:58:26
しかし、いま柄谷やすがの項目見たけど、前に見たよりはるかにまともな記述になってきてますね。
己を恥じました。
581 :
575:2008/08/30(土) 15:14:18
>>576-577 柄谷の「お笑い」のパターンは親父ギャグ的な駄洒落ばかりではなかったと記憶する(とはいえ、具体的な例は憶えてないので提示できないが)。
あと仮に親父ギャグだとして、その笑いの質は周りと同一化するような笑いではなく、むしろそこを異質な空間に変える類いのものと個人的には思う。
>>575の例を挙げて解説すれば、阪神ファン=バース党という駄洒落は、そのセンスもさる事ながら、
まず一般的に流布するフセイン批判のイメージに対して、そういう画一的なイメージの共有をささやかに笑い飛ばすところに柄谷の「単独性」がある訳で、
こういう「お笑い」のセンスは少なくとも芸人やTV御用達のコメンテーターにはない類いのものと思われる。
582 :
575:2008/08/30(土) 15:28:29
>>578 「華闘共」じゃなくて「華青闘」ね。
確か華僑青年闘争委員会の略。
584 :
吾輩は名無しである:2008/09/03(水) 05:40:42
585 :
569:2008/09/03(水) 07:16:24
>>584 そんな書評が。教えてくれてありがとう。
>「ポストモダンな批評」による盗作概念の曖昧化
私はこの線の本をあまり知らないが
(盗作概念を結果的に変えたのはバルトの「作者の死」だろうけれど)、
ジャン=リュック エニグ『剽窃の弁明』現代思潮新社 (エートル叢書)ってのがあるよ。
この本はガリマールのテルケル叢書から出てた本だったと思う。
ヴォルテールからデュマ、ブレヒトにいたるまで近親者や弟子からの剽窃が多く、
活版印刷による書籍の流通が近代著作権法の成立の基礎にある以前は、
そもそも盗作であることが糾弾にならなかった云々の歴史をエッセー的に軽く追う
+バルト、間テクスト性に照らして、そもそもテクストには「著作権」というべき区切りはないのだから…
といった本。
国内での近年の議論としては、建築家の青木淳が青木事務所元所員の小野弘人
の創作物の著作権を占有したときに、岡崎乾二郎がそれに対して松浦寿夫・田中純たちとともに
批判文書を『InterCommunication』に載せた(「批評の窮状」)というのがあった。
そっちの文章の方がコンセプトの扱いからして刺激的なんだけれども、
岡崎が地方裁判所に提出した意見書はネットで読むことができる。
まあ、これは裁判所向けの説得の手法という感じ。
http://armadillon.exblog.jp/3218603/
『剽窃の弁明』は読む甲斐の無い本。
587 :
569:2008/09/03(水) 15:11:19
たしかにその通りです。
なら挙げるなよ。そんなに知ったかぶりたいのかい。
栗原の文章って読んでて面白かったためしがない
マトモな知性のある人間ならスルーするが、
まぜかメディアでは持ち上げられちやほやされる対象に噛み付くのは、
小林よしのりから吉本隆明にいたるまでスガのお家芸
しかも相手の論述構成を完全に読み切った上で相手の全く想定だにしない文脈に乗せて批判してるのだかなんだか、
みたいな文章を書く芸はやはりスガならでは
2ちゃんやブログのコメント欄が荒れるたびに、
スルーとか削除とかするのも一つの方策だが、
それとまともりやり合って言い負かす時、
スガの文章はまさしくバイブルと化するのは俺の中の秘伝
詩的モダニティの2作目出してほしいなあ。
80年代以降の詩人対象で。
現代詩に興味はあっても詩オンチでなんか感覚的にピンとこないから
朔太郎論で書いてたようなジャンル全体の総論というのかな、
そういうのと絡めて、80年代以降と現代詩について読みたい。
詩手帳読んでも意味がわからん…
592 :
吾輩は名無しである:2008/09/03(水) 20:07:49
この前のユリイカに、今は68年当時のようには呪われた詩人になれないようなことを書いていたでしょ
クリティカルで微妙な書き方をしてて個人的にはおもしろく読めたけど、そのぶん内輪向けになってるかも
絓秀実自身もどこかに書いとったが、68年が生み出した様々な新文化のうち
唯一サブカルチャーの中に生き残れなかったのが現代詩でしょ。
だから68年革命の勝利なんてのは、そこでもう破れてるんだよな。
80年代軽チャーに規定された俺にゃ、詩なんてわからんし、興味も無いよ。
詩論や批評ならまだしも、詩人の戯言なんざどうでもいいや。
吉本隆明が阿呆なのも元が詩人だからでないの。
594 :
吾輩は名無しである:2008/09/03(水) 21:03:01
その絓が詩は殺そうと思っても殺せないものだと言ってるじゃん
だいたい今時サブカルチャーもハイカルチャーもないし、詩人という肩書きで戯言とやらを繰り返すやつらとは関係なしにこれからも詩は書き続けられます
大は小を兼ねはしても。
殺す必要も無く詩は死んでるよ、とっくに。
絓のは未練に過ぎないね。
597 :
吾輩は名無しである:2008/09/04(木) 13:52:36
>>590 実は自分の書き込みに自レスで恐縮だが、
荻上チキってブログで読む限り、
スガのポレミカルな部分を良い意味で受け継いだ物書きだね。
たまたま自分の興味のない対象を扱った書籍が多いのでちゃんと文章は読んだ事はないし、
果たして彼が文芸批評家になれるかというとそこまでの教養はなさそうだが、
アカデミズムの立場から若者風俗を分析する論客より個人的には興味深い存在。
えー 私なんかはチキを全然買ってないな。
論壇フォロワーで、イベントおよびネット動向の紹介者にすぎないと思う。
スガの思想史的な立ち位置に比べると、かなり貧弱なような…。
ただ、ポレミックな場所や、論壇動向に(直接間接問わず)言及し手厳しく批判する
人間そのものがいないから、ああいったウォッチャーが目立つだけなのでは。
彼ってリンク紹介以外に、何か論を立てたことがあるの?
>>599 チキがおそらく大して豊富な読書経験も映画経験もないのはある程度想像はつく。
その点で批評家や評論家ではなく、所詮ライターにしか過ぎないと言われれば、ある程度同意する。
ただ中森明夫的なライター、スーパーバイザーetc…のポジションの中でうまくハマれば意外に面白い存在になるかもしれないとは思う。
あとチキの「アンチ・サブカル」的な立ち位置(俺にはそう見える)は案外硬派で貴重かと。
別に100年後にも読むに耐える文章を書く人間だけが偉いのではないし、
スガの『1968年』的に言えばプチブル急進的な「親切な機械」(『1968年』が手許にみつからないので間違ってたらスマソ)の一例として荻上チキは面白い存在かと。
まぁちょっと期待を込めて高評価しすぎかもしれんが、彼のような存在がいればスガもいちいち色んなところでポレミカルに活動する手間も省けて、
本腰入れてまとまった文章を書く暇ができそうに思うのだが。
ちなみにamazonで「荻上チキ」で検索すればいくつか彼の著作がみつかるはず。
俺は読んだ事ないのでなんとも言えないが、もし興味のある方は手に取ってその感想でも書き込んでもらえるとありがたいかも(もちろん批判的な物でもOK)
小谷野先生は東大だというのに
小者は早稲田かw
チキは石原千秋を高く評価してる時点で全く期待できない。
どこかできちんと論を立てたことがあるのかもしれんが、
ブログ見る限り、テクストを論じるというより誰かの言説の揚げ足を取るだけに見える。
著作って言っても、ネット社会をどう生き抜くかって、それこそ彼が書く必然性あるのかってものじゃないか?
彼に限らず最近の若手と呼ばれている人の論って、悪い意味で「新書」レベルじゃないか?
批評家が育たない現状があるのかもしれんが、読んで面白いとか刺激を受けるものが全くない。
まるでスガのが刺激うける批評のようだなw
>>602 渡部直己だって最初は筒井康隆を高評価していたではないかw
柄谷だって吉本と江藤の影響下にあったのは紛れもない事実
石原千秋をどういう文脈で評価してるかは知らないが(もし該当文章の載ったブログの日付けを教えてくれたら自分で追う)、
まずはそれとどう向き合いどう料理したかだろう
俺がチキを買うのは、たぶん文壇のこれまでのヘゲモニーの奪い合いのややこしい歴史を知らないところにあり、
そういう「ピュア」なところが善くも悪くも持ち味だと思う。
個人的には、スガが安原顕を称していった「フェア」な態度よりも、「批評的」だと思う。
まぁこれからいろいろ間違いも犯すだろうが、俺は相当おもろい存在になると予想。
というか、もし知り合いの方がここ見てたら是非焚き付けてやってください。
アンチサブカルだから硬派ってのは幼稚な見方じゃね
>>605 じゃあ前言撤回
俺はアンチサブカル
その俺から見てチキは好感もてる
異論は認める
607 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/09(火) 23:39:40
>>593 そういう発言を当時してたら
バカ扱いじゃない?
現代詩手帖のバックナンバー並びに
当時の論壇、文芸誌を
図書館か古本屋で漁ってみな。
608 :
吾輩は名無しである:2008/09/09(火) 23:43:06
お前はババアじゃないの。
609 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/09(火) 23:49:15
>>606ほか
その何とかチキのどこがアンチサブカルなわけ?
まともな教養も専門的な学問的知見もなく
論壇がどうとか言ってる時点でサブカルだよw
サブカルならサブカルでゴミ本いっぱい読んでりゃ救いようもあるが
ろくすっぽ読んでないなら話にならない。
どうでもいいが柄谷と藤田省三の逸話知ってるか?
藤田が文芸批評やりたいと言った話だ。
藤田のような人間がアンチサブカルなのさ。
論壇云々するバカはアンチサブカルの訳がない。
詩は読まないとかバカまるだしなこと言ってたりくだらねえ
610 :
吾輩は名無しである:2008/09/09(火) 23:51:49
まったく、くだらねえババアだぜ!
>>609 論壇云々する奴はアンチサブカルと「認めたくない」という主張はわかるが、
別にあり得ない議論じゃなかろう
612 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/10(水) 00:10:21
>>611 認めたくないとか、何だよそれw
アンチサブカルって
サブカルが嫌なんだろ?
普通それは“カルチャー”(嫌な響きの言葉だぜ)
の人間がするもんさ。
“カルチャー”なしで
論壇事情しか知らないバカならサブカルだろw
論壇事情みたいなゴシップばっかしか知らないで、
まともな教養も知識もない奴なら十分にサブカル野郎だ。
教養と知識があってなおかつ論壇事情に詳しいという人間がアンチサブカルを気取るなら分かるが、
論壇事情しか詳しくないバカならサブカル野郎だよw
お前が教養人認定できるタマかよw
614 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/10(水) 00:21:26
ま、お前よりかはあるなw
なら論壇で完璧に振る舞って見せろよ
616 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/10(水) 00:34:19
>>615 バカらしいw
論壇なんて嫌いだし興味ねえよ。
スガの本は読んるがな
とりあえずここで論争してりゃいい
議論したければ
気が向いたとき相手してやっからさ
だいたい私はまともな学問の人間を目指すべき範としてるんであって
論壇がどうとかのサブカル馬鹿なんかどうでもいいから
馬鹿にしてんだろうが。
スガはとりあえず読めるんだよ。
だから読んでるんで
たとえば永江なんとかとか
ああいうのは読まないんだよね
617 :
吾輩は名無しである:2008/09/10(水) 00:47:09
要するにババアだから無理なんでしょ。
メッタ斬りの厚顔無恥を見習えよな。
こいつはすががせっかく68年を取り上げた意味がわかってないんだな
『現代詩手帖』は詩を除く評論と座談だけが読む価値のある雑誌である。
>>607
例えば誰の評論?
溺れる者はチキをも掴むか…
お前ら本当にばかだな
っていうかさ、アンチサブカル、って表現が癪に触ったのならもうその表現は使わないが、
それでもサブカルとかアンチサブカルで人を評価しただけで、ここまで過剰な批判というにはお粗末な批判が出るのはいかがなものか
あと俺がチキに好意を持つのは「論壇」から「2ちゃん」までチキなりのピュアな批判精神をよりどころに
(とはいえ、秋葉原通り魔事件に寄せた文章で、メディアでの安易な物語化はやめよう、という立場を、
しかもそれを選択した経緯まで説明して書けるチキはただ者ではない)、
首を突っ込んでは素人(装われたものと見える)からの無邪気な視点で、論壇の真面目だが硬直した議論に斜めから立ち向かう姿勢は、
スガに学んだだけのポレミカルなセンスは感じる。
あと武陽隠士さんへ一言。
>とりあえずここで論争してりゃいい
議論したければ
気が向いたとき相手してやっからさ
だいたい私はまともな学問の人間を目指すべき範としてるんであって
論壇がどうとかのサブカル馬鹿なんかどうでもいいから
馬鹿にしてんだろうが。
学問に人間を目指すべき範としてると宣言してるわりには、
自分の印象やら不快感をまき散らしてるだけで俺には面倒臭い人にしか見えない。
もしここで論を張るなら、それなりに本気モードで頼む。
そうでないならアカデミズムの外からしゃしゃり出てくるな。
いつでも応戦する用意はあるが、俺は面倒臭いので、まともな議論されるまで今後一切無視する。
623 :
622:2008/09/10(水) 09:08:18
>そうでないならアカデミズムの外からしゃしゃり出てくるな。
この表現はおかしかったので訂正
批評=空間に入ってくるならアカデミズムも知識人もその辺の高校生も学はないけど会社を動かしてる中小企業の社長も労働者も…あらゆる階級が侵入可能。
それでも通じる言葉を吐いて欲しい。
俺も多少いいかげんに書き込みしたところはあるのでそれは反省してる。
ともかく細かいニュアンスはその際少しづつ詰めていって、その上で議論しよう。
あと俺のチキ賞揚はいったん終わりにする。
もちろん本気の話だが、ネタ提供的側面もあったので、これ以上大きな話をすると自分に負担がかかる。
言い出しっぺで恐縮だが、しばらく議論には参加しない。
以上、まだ言い足りないかも知れないが取りあえず。
>>623 おまえはチキを出しにして自分が、くだらないものでも拾い上げられますよって
アピールしているだけだろ。それだけして退場かよ。
おまえはチキを何も論じず、高野って盛り上げられるかもっていう、
似非批評家気取りで長文垂れ流しただけだ。すれよごしだから二度と来るな。
で、チキへの評価点って何だったの?
・サブカル、オタクがなんとなく論壇で注目されてる中でアンチサブカル
・秋葉原通り魔事件についてメディアでの安易な物語化はやめようという立場
あとは、いろんな論争ややりとりを細々と紹介
そんなに面白いのそれって。
「ピュア」とか「無邪気」だなんて、それ自体無邪気な賞賛言辞を飛ばされても、
「馬鹿」で置換できそうな話になるよ。
ヤンキーにもオタクにもなれないやつらが文学に向かう
だが、凶行時の加藤には文学の言葉が届いていなかったのが問題
そんな「無知の涙」みたいな議論って今でも必要なの?
無知というものは深い井戸みたいなもんで、底が見えない
その無知の空間を自分に知らしめてくれるのが、文学であったり哲学であったりする
じゃなきゃ文学なんてストレスの溜まるもの誰が読むか
>>624-627 なんか凄い盛り上がりだな。
みんなチキに好意的でなかったのが分かっただけでも収穫だ。
俺はチキの全ての言説をフォローしてる訳ではないが
(それは俺の文章を読めば明白だが)、
成城トランスカレッジは開設当初からそれなりにチェックしてきた
(実は最初期にコメント欄に書き込みした事がある。そのチキの対応がなかなかデキた対応だったのも俺の評価する点のひとつだが)。
最初はスガの生徒(子分?)が一生懸命にいろいろ論じたり論じたらなかったり、
まぁ紹介者にしてはそれなりに物が書けるくらいの印象だったが、
ジェンダー、フラッシュバック、ブログ炎上、
といった扱いにくい議題に積極的にコミットしていく姿勢は、
プチブル急進主義的だと思う。
いやこの表現も誤解を生むな。
俺は評価したい。
俺が「アンチサブカル」で伝えたかったのはこの一点につきる。
その際の「アンチサブカル」という表現でチキを説明する際の文章不足及びその用意がなかったのは認める。、
ここで訂正とともに謝罪する。
そこで残るは、扱いにくい議題にコミットする際のチキの姿勢が、
果たして「ピュア」なのかどうか(あるいはそうおいう形容を使っていいのかどうか)だが、
ここでは安原顕の「フェア」(詳しくはスガ秀実『文芸時評というモード』参照)に対置して使ったまでで、
その文脈を全て説明するのは俺には困難。
スガスレだからある程度伝わると思った俺が浅はかだった。
これは訂正しないが、批判もそれなりに受け止める。
その「ピュア」な姿勢が「馬鹿」にも見えるかどうかは、
たぶんこれこそ具体的に論じなければならない議題で、
00年代以降のプチブル急進的な「親切な機械」足り得るかどうか、
は大いに検証されなければならない(むろん俺がそう思うだけで、無視してくれて構わない)。
チキごときというなかれ。
蓮實の『凡庸なる芸術家の肖像』で取り上げられた対象を想起せよ。
ここから先は、
とりあえずこういう視点があるというのを提示しただけで、
ここでの議論にはもう参加しないが、
もちろん批判も大いにありえる訳で、
それらの批判はそれなりに俺も受け止める。
ただ最後にこれだけはひっかかる。
>おまえはチキを出しにして自分が、くだらないものでも拾い上げられますよって
アピールしているだけだろ。それだけして退場かよ。
おまえはチキを何も論じず、高野って盛り上げられるかもっていう、
似非批評家気取りで長文垂れ流しただけだ。すれよごしだから二度と来るな。
つーかここ2ちゃんじゃん
しかもスガスレでチキとスガは無関係ではないじゃん
つーか一行レス批判やら脊髄反射的な文章がスルーされて、
「似非批評家気取り」の長文がなんであえて批判の対象になるの?
じゃぁ俺は
>>624の「似非批評家気取り」あるいはそれ以上の高度なチキ批判を読みたい。
反論するのはもちろん自由だが、
俺の揚げ足を取る以上はあんたの立場もそれなりに示してもらいたい。
それについて再度俺からレスする用意はいまはないが
(PCがブッ壊れそうなので、マジで)、
2ちゃん的にはアリでもスガ的にはありえないではないか?
もちろん黙秘権も「巣にカエレ」も認める。
あくまで俺の考えなので悪しからず。
オタク評論に対する漠然とした嫌悪感があって、
でもチキはそこに抵触しなかったってだけじゃね
632 :
630:2008/09/10(水) 11:34:15
>>631 それは核心を突いてる
たぶん俺のサブカル嫌悪は、具体的なサブカル評論(家)だったりそこで取り上げられてる対象なのではない。
俺はアニメもコミックも村上隆とそれに連なる芸術家も、それほど詳しくはないし(スガが甲斐バンドが好き、というくらいのライトなレベル)、
それをいちいち評価/批判するつもりもないが、
「サブ」という一語で、何か新しいもの(あるいは特権的なもの)について語ってるという姿勢はどうも納得いかない。
俺は音楽(一般にロックとそれから派生した音楽、あるいはそのルーツとなった音楽、及びそのカウンターとなった音楽)に関してはそれなりの知識を有するつもりで、
洋楽、邦楽の歴史及び日本の音楽誌&音楽評論家の間の論争は知識としてはある程度知っている。
その上で、仮に新しいジャンルの音楽が出て来たとして、
それを形容するのに「サブ・ロック」という言葉は聞いた事ないし、
もしお目にかかってもむしろ馬鹿にしてるような気さえする。
あと「サブ・ミュージック」という形容も同様の理由で不可解。
ただ、たぶん「カルチャー」に補足的について使われるから有効なんだろうが、
勉強不足のせいもあるが、どうにもリアルに感じられない。
もしこれについて啓蒙の用意ある方は是非レスください。
むろん参考文献を提示されるだけでも結構です。
>>632 でもそんなだからあんたの書き込みが真摯じゃないなあと思うんだよ
ある領域全部を評論家の好悪で判断するのって無理じゃん?
634 :
630:2008/09/10(水) 11:51:36
>>631 あと実は全く偏見に走った話なのだが、
ある具体的な知人のサブカル厨(むろん無名の人物。俺よりかなり年下)と議論になる際に、
別に常に批判しあってる訳ではなかったが、
どうも相手の議論する際の態度が気に入らなかった。
たとえば、俺が小説の話をすると、そいつは綿矢りさ『インストール』を勧めて来て、
>>630さんこれ読まないと今の若い子の感性についてこれないですよ、
とか言うので買って読んで、まぁつまらないと思いつつもなんとか良さを拾って、そいつに伝えた。
ところが俺が柄谷の話をすると、俺が『マルクス、その可能性の中心』の古本を探して渡したにもかかわらず、
一切その話はしないし(読んだかすら怪しい)、そのくせよくわからないサブカルライターの単行本を買って来て、
そこで柄谷のキーワードやら概念が説明されてるのを俺に見せながら、
>>630さんそんな難しいの読まなくてもこれで充分なんですよ、
と平気で言い放った。
もし大塚英志や、サブカルにいれていいかは不明だが、小野谷敦の著作なり作品を具体的に読んで論じれる相手なら、
もちろん批判するかもしれないが、議論は成り立った気がする。
あとエヴァンゲリオンやらハチクロやら、別に何でも良いが、そういう具体的に論じる対象があれば、
なんとかなったと思う。
そいつは音楽とお笑いに関しては、その年齢にしてはそれなりの知識と見解を持っていたが、いかんせん「言葉」がなかった。
そいつはよく俺に、僕には経験がない、いま欲しいのは経験なんです、とかいってライヴにも腐るほど行ってたし、
彼女もいて恋愛もしたろうし、他にも出会いはいくらでもあったのに、まだそんな寝言言ってた。
「はじめに言葉ありき」(『旧約聖書』)。
それを理解できてない奴がたまたまサブカル厨だったもので、
たぶんそういうしょーもない原体験がサブカル嫌悪の元にある。
こうなると俺の昔話になるので議論が逸れるな。
チラ裏スマソ。
語の出自に遡って、『思想の科学』一九七五年四月号「日本のサブカルチュア」とか読むと、
今のサブカルチャーとは籠められた意味の違ってるのがわかるよ。
シオドア・ローザック『対抗文化〔ルビ:カウンター・カルチャー〕の思想』(邦訳1972)とかも。
でもここは糸圭スレッドだろ。大概にな。
サブカルチャー論に疎い(東浩紀らに較べて)のは現代日本の評論家としては絓秀実の弱点になる、
……とか何とか論じようってんならまだしも。
636 :
630:2008/09/10(水) 12:04:16
>>633 >ある領域全部を評論家の好悪で判断するのって無理じゃん?
いや評論家の好悪だけじゃない。というかむしろヲタク評論家は認めている。
>>632で説明した通り、「サブ・カルチャー」という言葉で示す領域の喚起力が俺には感じられないんだ。
むろん、それは俺の勉強不足や感受性の不足もあるやもしれないが、
むしろそれなら、「ポスト・カルチャー」と言ったって構わないとさえ俺は思うのだ。
あと「ヲタク」という言葉の方が俺には喚起力があって、
そこで無作為に大量に蒐集された文化対象をある言葉で表現してもいいが、
俺には「サブ」を補足してカテゴライズするのは反対だ。
たとえ既に「サブカルチャー」という言葉で語られた言説が大量にあるとしても、
俺は批判的な立場にいたい。
但し、そこで論じられてる対象や言説の内容を否定するつもりではない。
「サブ」を使うか否か。
このどうでもいい些細な違いにこだわりたい。
たとえば、「サブカルチャー」と「ポストモダン」はどういう緊張関係にあるのか。
これは論じても良い議論だと思う。
しかし、提示ばっかりで、提示厨とか言われそうだな。
でも一行レスよりは面白いと思うけど。
個人的な嫌悪かよw
あと対抗文化、サブカルチャーの文献も文芸評論周辺か
ヘブディッジ以来のカルスタ周辺も読んでおきなされ
ようするにあなたは「文芸評論」が社会を論じる回路たり得ていた時代への郷愁を持ってるんじゃないかな
でもすがは一応そのへんに敏感だと思うんだが
例えば大西巨人の小説はサブカルじゃないわけ?
639 :
630:2008/09/10(水) 12:09:19
>>635 図書館で一回読んでみます。
啓蒙ありがとうございます。
ちょっと荒らしに近くなってきたので、しばらくROMります。
ちょっとアツくなって申し訳ない。
一回退場します。
絓に論じられるのはカウンター・カルチャーを改名したサブカルチャーまでで、
今のオタク文化の代名詞になった「サブカル」に口出すのは無理でしょ。
>>620 『ユリイカ』も「詩と詩論」って副題だが、あれを詩の雑誌として読む奴なんか居らへんやろ。
読まれるのは評論・エッセイ・座談だ。誰の評論がいいとかとは別に、な。
『現代詩手帖』もそれと同じこっちゃ。
642 :
吾輩は名無しである:2008/09/10(水) 12:30:24
現代詩手帖なんか詩の雑誌として読む以外に読めないだろw
いつの時代の話だよ
ブランショ特集とかけっこういいじゃん
644 :
吾輩は名無しである:2008/09/10(水) 12:48:53
このスレはアンチオタクの文学オタクばかりです
近頃は手に取ってないねえ、詩や詩人を特集した『現代詩手帖』なんて当然はなから読む気起らんので。
それこそ現代詩が死に体で詩以外にはみ出す活力が無くなったあかし、では?
ま、文藝批評もそれに続いて衰退しつつあるわけだが。
結局スガも詩や小説については、文学作品そのものとしてってよりも、
それが哲学思想や社会理論等々としてのはみ出た意味を持った限りでしか
つきあってこなかったんでないの。
646 :
吾輩は名無しである:2008/09/10(水) 13:11:31
でもまさにそれこそ批評じゃないですか
たんなる作品の読解なら学校の成績がいい人がやればいいんだし
647 :
630:2008/09/10(水) 13:19:22
>>636に嘘の表現があるので一部補足します。
本当は具体的に誰の評論とか誰の言説とかではなく、
「オタク評論に対する漠然とした嫌悪感」(
>>631)がある。
それは、例えば音楽で言えば、音源たくさん聞いた者勝ち、みたいなところがある。
特にレアな音源に精通してるものが勝ち、みたいな。
そしてそこで蒐集された音源が、仮に文化や社会にカウンター足り得た瞬間があったとしても、
それは絶対的でも超越的でも特権的でもないし、ましてやそこにシニカルあるいはイロニカルあるいはニヒリスティックに居直られても困るんだ。
むしろ「『文芸評論』が社会を論じる回路たり得ていた時代への郷愁」(
>>637)があるとすれば、
サブカルを肯定的に論じる際の論調に、具体的に論じるほど手許に資料がないが、
なぜか「郷愁」を感じてしまうのだ。
それはスガが『詩的モダニティの舞台』で論じた「詩(ポエジー)」の近傍にある気さえする。
《詩(ポエジー・原文フリ仮名)がイロニーとして存在しえないのであれば、詩作品が直接的に「郷愁」という意味内容を持つ必要はないからだ》(スガ秀実『詩的モダニティの舞台』「詩的モダニティの系譜--萩原朔太郎の位置」)という批判的視点から、
詩的モダニティを批判する戦後詩を論じているのが『詩的モダニティの舞台』だが、
恥ずかしながら、ここまでの強度を持ったヲタク・サブカル評論を具体的に知らない(東の著作は全く不勉強にもきちんとフォローしてない。この文脈から読み直します)。
あと「文芸評論」はともかく、「文芸批評」には確かに「郷愁」が俺にはあるかもしれない。
ただ蓮實的に言い訳しておけば、それは書くごとに一回死ぬような作業であり(早稲田文学1号インタビュ−参照)、
「郷愁」というよりは「ユートピア」と言った方が近いかも知れないが、蓮實が同意するかは不明。
ちなみにユートピアとは、トマス・モーアによれば、実現の可能性のない理想的な社会(原典不明。広辞苑より引用)、だが、確か語源はどこでもない場所だったか…。
作品要らないやん。作家も。
つまらん文学なんかダシにしてないで正面から思想とか理論とかをやればぁ?
ま、それが無理だから批評家やってるのかな。
>>648 でも実際には、
大半の評論は、作品に屈するのが早すぎるのが欠点なんだぜ?
すがにとっての大西巨人もそういう盲点だと思うね
彼が錦の御旗になってしまってるんだ
いまさら、大西巨人に限ったことではない。
>>650 絓ってば昔から中上健次とか金井美恵子とか、
批評なら蓮實重彦とか柄谷行人とか、権威に弱い。
世評高きものを果敢に批判するかに見えて、
実は既にそれら権威筋では否定的に見られた対象ばかり、
その意味で追随者としての批判に過ぎなかった。
要は、スノビズムなんだ。
プチブル急進主義とか誇称する前に、
スノッブである自分をどうやればポジティブに打ち出せるかの戦略を練った方がいい。
>>651 でもその問題性は鎌田哲哉に露呈してると思う
すがはなんだかんだいっても作品の内実を読み解く批評だし
そういう「取り巻き感」は、『文芸時評というモード』では強く感じるけど、
必ずしも初期単著、近年の著作では感じないな。
大西への依存は鎌田のほうが酷いと思う。いや、スガの方がマシだといってはじめてしょうがないのだが。
モッブとか言って愚民を見下すエリート気取りの鎌田哲哉ではスノビズム批評家たり得ない。
スノビズムは、本来卑賤な俗物が成り上がり根性で教養文化に憧れる上昇志向なのだから。
絓は上昇過程で自分が置き去りにしてきた中卒同級生らに疚しい良心を感じるから、
出自のいやしさに相応しくジャンクに塗れようとしたりするわけだ。
鎌田が無教養な競馬好きなのはバレてるから、
あれはあれですでにシミュラクルだけどね
656 :
622:2008/09/12(金) 22:08:04
いやはやチキが世間でどう思われてるか知らずに書き込んだが2ちゃんスレみて愕然とした
これこそすくつ(なぜか変換できない)だな
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1200253674/l50 有志の方はチキ関連のここの議論を丸ごとコピペされてください
どんな応答がかえってくるか興味ある
後学の参考にしたいものだ
さすがに自分がやると自作自演になるので提示しただけですので悪しからず
しかしジジェクとドゥルーズを読み直す作業が全くはかどらない
なんとなく本屋にあった感じよ良さげだった佐藤嘉幸『権力と抵抗』を買ってきてぼちぼち読もうかと考え中
ジジェクスレでは全く評判の悪い長原豊のまとまった文章も読みたい
いま考えてるのは「零度」と「n」と「一」の関係なんだが、
直感的には答えじみたものがあるのだが、
俺の教養と知識ではとても形にはならない
京都造形大学にでも入り直して浅田彰の教えを乞いたいものだが…
そういや蓮實を相手にされてた人も最近はご無沙汰ですね
お互いがんばりましょう
エール交換スマソ
教養主義の歴史的経緯とかどうでもいいよ
今現在の研究者の階層的背景が重要
>今現在の研究者の階層的背景が重要
もしそう思われるのなら
>>657の視点からなにか意見欲しい
チラ裏にはまだ白紙はたくさん残ってるぞ
『権力と抵抗』をパラパラ読んでて、
さらにいままで考えてたことを少しだけ整理整頓
0.「零度」(バルト/蓮實?)
1.「n」(ドゥルールズ/ガタリ?)
2.「一」(バタイユの仮想敵)
0.は「天皇制」や「無限」(柄谷)や「無意識」(フロイト)等とパラレル
1.は「他者」や「外部」とパラレル
2.は「形而上学」と「自己」と「署名」と「身体」とパラレル
(注・ラカンの理論はここで語れるほど蓄積がないので触れないが、根底には精神分析への関心がある)
ここで「多」(バタイユ)とはスガ秀美『小説的強度』に倣って言えば、
「雑」ともいえるし、
「JUNK」や「マルチチュード」(ネグリ/ハート?)も併置してもいいかもしれないが、
俺の直感では「n」と抵触するし、
もちろん「零度」であるはずがない
あるいは0.と1.のデュアルコアCPUが「多」「雑」「JUNK」「マルチチュード」なのかもしれないが、
しかし「二」という存在とは何者なのか?
少なくとも「超人」(ニーチェ)は「n」の多様性を生きる存在だが、
ニーチェが「二」を明記した箇所は俺は知らない
あるいは『悲劇の誕生』の「アポロ」と「ディオニュソス」が「二」なのかもしれないし、
「二」的「超人」()による「n」との「闘争」や「逃走」や「社交」が「永劫回帰」だとしても、
果たして「二」的「超人」(人間の脳をご想像ください)の感情やら精神はそれに耐えられるのだろうか…?
その一例の虚構を築いてみるが、その前提となる貴重な示唆を長文で引用。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1155313983/640-641 「二」的「超人」と俺なりに仮構してみたが、
要は「n+1」からの俺なりのコミュニケーション哲学(適当に受け取ってもらって結構)なのだが、
「n」に「介入する」「1」は、
常に「n」から表象される運命にあり、
「1」ではなく「赤いn」だったり「青いn」だったり表象される
もっとジジェク的にこじつけていえば、
「1」ではなく「重いn」「エラそうなn」「ウザいn」「キモいn」…
この時「1」は果たして耐えられるのか?病んでしまわないのか?
「二」的「超人」で果たして耐えうるのか?
あるいはcpuのように感情を情報処理してしまえれば救われるのか?
とはいえcpuにも速かったり遅かったりするものがあり(「遅延」はスガの主題のひとつ)壊れるたり捨てられたりするのを覚悟で感情を捨てて動作するしかないのか…
もしかしたら「二」的「超人」のよりどころが3.だとしたら、
ギリシャ哲学から2000年も少しすぎてイエスの復活も寡聞にして知らないわれわれは出口なしの「この世界」からユートピア
(超自我?!参考文献に柄谷のユーモア論と、それを批判する芳川泰久の主に『漱石論-鏡あるいは夢の書法』)
を夢見て「死に至る病」を甘んじるほかないのか…
(当時のユダヤ人はもちろん使徒すら知らなかっただろうが。
たぶんイエスに助けてもらった無名の「n」の記憶にのみ「GOD」ではなく「Yhoshuah」は存在したのだろうが、
果たしてどんな発音で発声されていたか判るはずもなく、現代日本人なら「ヨッシャー」とでも記憶するのか…)
>>659に保留事項あり
>0.「零度」(バルト/蓮實?)
1.「n」(ドゥルールズ/ガタリ?)
2.「一」(バタイユの仮想敵)
0.は「天皇制」や「無限」(柄谷)や「無意識」(フロイト)等とパラレル
1.は「他者」や「外部」とパラレル
2.は「形而上学」と「自己」と「署名」と「身体」とパラレル
むしろこう?
0.は「天皇制」や「無限」(柄谷)や「無意識」(フロイト)等とパラレル
1.は「自己」や「署名」や「身体」や「他者」とパラレル
2.は「形而上学」とパラレル
「外部」はあいまいなので外してみた。
むしろいくら構築してもあらわれるのが「外部」への衝動かもしれないが柄谷読者の俺でもよくわからん
長池講義行かれてる中でもの好きな方、
柄谷に直接この656 ◆gzRKmnYdjs の議論設定が正しいか教えてください
もちろん、それ以前にわかる方いれば訂正、批判、修正、その他レスお願いします
ってそんな人いないでしょうが…
ここは絓秀実スレッドだ。お前のノート代りのチラシの裏ではない。
>>663 この議論への656 ◆pMC.4Mizqgからの応答はしません。
このコテハンも一回限りで死にます。
スレ汚し失礼しました。
まるで哲学板のkyrie並みの厚顔無恥だな。
読書メモのためにスレを占拠しないでほしい。
匿名で偉そうに批判してる奴はほんと見苦しいな。
せんすとかほんと糞だ。
匿名で正しいこと言うより実名で暴言吐く方がまし。
ではどうぞ、実名で書き込みしてください。
そうなるよね論理的に(笑
っつーか匿名だろうが名乗った上でではあろうが、
グデグデと他人に粘着している奴らは皆、見苦しいよ。
故意か否かにかかわらず、荒らしが出てきたとき、
荒らしに構うのも荒らしの同類
656のボケはほっとけ
バルトの意味を保留する(零度)テクストではなく、ドゥルーズの連結していくテクスト観(n+1)をスガ氏は取っている。
その際バタイユ的なヘーゲルの裏返し(否定神学)になる危険もあるが、あえてフェティシズムの中にその反転の可能性を探ろうとしているのだろう。
ラカンほど、記号表現を信じていないし、柄谷ほど禁欲的ではないが。
政治主義的な態度は、やはり1848年と1968年の悪しき反覆だと個人的には思う。
ただし、ブルジョアジーを相対化するのはこうした自覚的で「享楽的」態度かもしれない、、、。
絓 - 「絓」(半角英数字・カギ括弧なし)と書いて投稿する。
やってみた
フェティシズムとは愛かも
だだしフィロソフィアではなく性愛
ここがスガと柄谷を一番分つところ
愛は地球を救うが性愛はどこかにendがある(なぜなら連結点の父/夫は必ず死ぬから)
それでもくりかえされる諸行無常よみがえる性的衝動
1968+40 全共闘もシラケも知らない若者たちへ
http://kazuyaserizawa.com/synodos/sympo/index.html 1968年、世界中の大学で紛争の波が巻きおこった。日本でも既存の左翼を批判して
学生たちが立ちあがり、〈自由〉を求めて警官隊と激しい攻防戦を繰り広げた。
あれから40年。あの体験は何をもたらしたのか。また、その記憶は、これからの
我々にとって何になりうるのか。多様な切り口でこの問題を論じてきた、
幅広い世代の論者たちと、東大闘争の内部を目撃した唯一の写真家、渡辺眸の
スライドショーが届ける、新しい「1968年」。
基調講演/渡邊一民 司会/芹沢一也 荻上チキ
パネリスト/絓秀実 酒井隆史 橋本努 鈴木謙介
写真協力/渡辺眸
日時:2008年9月23日(祝) 開場13:30 開演14:00
場所:立教大学池袋キャンパス11号館地下AB01教室
定員:500名(入場無料)
674 :
622:2008/09/15(月) 00:34:26
>>573 武陽隠士さんへ
ちょっと脊髄反射で批判したところもあってすみません
まぁお互い何をひけらかして何を隠してるかひとそれぞれですものね
また気が向いたらどうぞ
私は当分あっちいったりしますので
だーれもしらないしられちゃいけないー
すがひでみがだーれーなのかー
だれにもーいえないーしられちゃいーけないー
すがひでみがだーれーなのかー
ひとのよにあいがあーるー
ひとのよにゆめがあーるー
このうつくしいものをまもりたいだけー
きょうもどこかですがひでみー
きょうもどこかですがひでみー
あの〜すが〜らしい あ〜い〜を〜も〜お〜い〜ち〜どぉ〜
字数制限のために言うところ(意)が足らなかったということではないの?
逆にはならないような。
確かに、最近の新聞や座視の書評欄は字数制限で、
ハスミが言うように「本の万引き」しかできないようになっておるわい。
いや、慣用句なら「意余って言葉足らず」でしょが。
「言うところ」は文字通り「言」であって意ではないし。
だいたい、字数に制限あればこそ言葉が足りなくなるわけで。
そんなとこまでスガを擁護することはないんだぜ?
絓が『情況』に対抗して新雑誌を創刊するって仄聞したが……誰か詳しいこと知ってるか。
すがちゃんは過去にキマイラという雑誌でこけている
>>681 へえ。それいつ頃? どんな雑誌だったの。
日本読書新聞の編集者だったってのに、エディターシップ能力には疑問符がつく感じ。
恥ずかしい過去ですから・・・
キマイラって演劇雑誌じゃなかったっけ?
90年代末ぐらいに雑誌広告みたな。
恥ずかしすぎて、余りに恥ずかし過ぎて、・・・・
絓って、演劇を評論したことなんてあったか?
コンビニで売られるエロ本と見間違うような安易な表紙の演劇誌でしたそれは
ああいうのって、センスの問題じゃないの?
>>686 『舞台芸術』で書いてたのは演劇関係じゃないの
>>687 売るための苦肉の策で、しかし誤った策だったとか。
ま、基本はセンスの問題だろうね
それで情況に勝てるかどうかということだけど
センスの悪さで圧倒的なのはもち情況なんだけど
でもあの辺の世代は、どん臭いのが多いからね。
元から、天然で。
吉本と廣松の流れって強力だからねえ
演劇雑誌で理論系って、そもそも全く売れてないようなところもあるからね。
生き残ってる『シアターアーツ』だって、そんなに理論水準高いという気がしない。
映画も、『映画芸術』『カイエ・ジャポン』が紛いなりにもそういう線を維持していたけれど
(スガは映画芸術で井土と座談やったりしていた。レフトアローンの人脈つながりはこの90年代末以来だろうと思う)、
カイエは休刊、映芸もふらふらしてるし。
このへんの領域の国内動向って、理論書、翻訳書、映像記録商品も含めてかなり悲惨なことになってる。
一つには、研究者の頭数や学科数の乏しさやの反映なんだろうけど。
もともと、需要や売上げ面で言うと、きわめて維持しにくい領域なんじゃないかな。
>>691 コミックボックスから出てるってのもある意味驚きだけど、2号で終わったみたいだね。
1号、2号の目次を見てると興味を引かないこともないが、売れないだろうな・・・
あの表紙で冒頭の広末涼子インタビューというのがつらい
小学館の小学生雑誌にも負けてる感じだ
『情況』自体はもう既に完全に終わってる雑誌だからね
ライバル視するもなにも
底辺の戦いみたいにならなければよいが。
>>696 終わってる感はそうなんだけど、たまあああに面白い論文が出るから困る。
表象文化論にそれ系の人って多そうだけど、
概して金持ち喧嘩せずだよね
しかしキマイラというのは、ほんと底辺の雑誌にしか見えんな
スガの弟子筋にそれ系の人がいるって知ってて書いてるでそw
そっか。
68年の生んだ諸文化では、現代詩だけでなく、アングラ演劇も死んだわけか。
それとも他のサブカル形態に変化して生き残ってる?
コンテンポラリーダンスとして生き残ってはいるんじゃないの<アングラ演劇
コンテンポラリー・ダンスって見たこともない。それホントに生きてるの?
松尾スズキとかも小劇団の流れを汲むんだぜ
劇団新感線の中島かずきがアニメに出たり、
まさに他のサブカル形態へと転化している
>>704 文芸評論に関心を持つ俺たちにはそのへん入るの無理
バレエやってる連中が、
クラシック・モダン・コンテンポラリーに分かれているのが現状だが、
批評言語なんかないし、踊ってない奴の言葉は聞いてもらえない。
>>705 ああ、なるほど。お笑いやアニメも含めて、転化形態はありそうだねえ
80年代〜90年代にはまだ鴻上尚史とかが人気あったかな。
そのあとは全然耳に入ってこないので知らん。
>>704>>706 古谷利裕みたいな美術・文学・映画系統の人すらチェルフィッチュのレヴュー書いたり、
岡崎がトリシャ・ブラウン関係の本を出したり、
フォーサイスの国内DVDが最近2本出たり、
まあ全く動きがないわけではないとでも言う感じ・・・
俺もあんまりきっちり把握してないのでお力にはなれない。
流れぶったぎってすまんが、wikipediaのすが項目、
少しずつ加筆されてるね。2chでしゃべるのに漬かってしまってる俺には頭が下がる作業だわ。
Wikipediaの記述、主観的評価に過ぎるよ。頭は下がらん。
>>710
たとえばどのへんが?<主観的評価
この辺とか。
>実は、2004年4月独立行政法人化によって、明治期以来の激変を経つつある大学のあり方を根底から問う、極めて斬新な活動を行っている可能性が高い。ちなみに、
>ルサンチマンも抱かず、現実感覚もある[4]。
運動に肩入れしすぎ。
714 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/20(土) 00:41:16
>>703 意味がまるで分からない。アングラ演劇でコンテンポラリーダンスに行った奴って誰のことだよ?
昔から棲み分けしているじゃん。
それから批評やるならダンスみたいな身体言語(いやな言葉だ)も対象にできなくちゃだめでしょ。
文芸に絞った批評家なんて今時皆無じゃない?なにかしら文芸以外のことを批評の対象にしている。 三浦雅士、蓮実は映画だ。ほかにもたくさんいる。
>>713 たしかに主観的な形容詞が踊りすぎかもしれないね。
〜〜の点で論じている、というぐらいでいいかも。
ただ、いざまとめろと言われても面倒くさくてつい放棄してしまいそうな、
すがの仕事をある程度紹介するのは大変だろうしさ、それはそれでいいことだと思うよ
716 :
吾輩は名無しである:2008/09/21(日) 16:12:23
文芸評論こそ評論の王?
「杼」って雑誌は?
>>717 あれは文芸誌だし、その一部単行本化である『批評のトリアーデ』を見るかぎり、
江中・渡部・スガでやってた小規模ワセブン(90年代ワセブン)という感じ。
論壇誌やキマイラのような演劇雑誌(に、本当に監修レベルで参加していたのかどうかは俺は知らないのだが)
とはまた別じゃないかな。
ひとこと、「同人誌」と言ったら済む話。商業ルートにも乗せたけど。
>>718 ところで、あした
>>673見物にゆく人〜?
文芸同人誌って戦後の文壇ではいくつも例があるんだし、
紙面構成としては従来の文芸誌だって似てるんだから、
そんな簡単に規定できないでしょ。
映画雑誌だって、おそらくキマイラだって、ひょっとすると情況だって、
ある意味では「同人誌」だよ。
>>720 絓秀実・渡部直己・江中直紀が同人であり、どう見ても同人制です。
単に少部数で非商業的な雑誌を同人誌的だと貶価するのと一緒くたにすんなって。
722 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/22(月) 21:34:46
>>717>>718>>719>>720>>721 いま『ひ』が二部手元にある。数年前に古本屋で入手したnumber1とnumber4だ。文芸同人誌というより批評同人誌というほうがいいよ。『試行』みたいなもんかな?
number4には柄谷行人の埴谷雄高を揶揄した「政治と文学にかんする語命題」が笑える。これって単行本未収録じゃないかな?
渡部直己のNHKの言葉言い換えの分類(?)もふざけてるが面白い。
批評同人誌が文藝同人誌のうちに入ることが解ってない阿呆発見。
同人と編集同人、編集委員って、厳密な差なんてあるんですかね。
725 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/23(火) 00:50:14
>>723 批評は別に文藝じゃない。批評のターゲットは広いからさ。対象が言語化できるもんならなんでもいいのさ。
まあアングラ演劇がどうとかいい加減なレスが並んでも誰も何も言わないバカばっかのスレだから
仕方ないな。
まあどうでもいいが『ひ』は読んでないんだろ?内容確認したら?君、バカまるだしだからw
文藝同人誌なんていったらスガに笑われるよw
『杼』に文藝批評以外の批評なんか載ってたか? 文学中心だったのは明らか。
昨日あった立教のシンポジウムは、スガの作るという新雑誌と何か関係あるのかいな?
面白かった?
スガってカツゼツあまりよくないね
雑誌で批評的にその業界が維持されてるみたいな雰囲気だけでもできるんなら
文学はだいぶマシなんじゃないかな
それとも映画やいろんな芸術ジャンルで、同人レベルではいろいろあるんかな
だって文学は活字だし批評も活字、つまりメディアが同じなんだぜ。
映画や演劇なんかは批評も同人誌も別媒体で展開しなけりゃならんわけで(劇中劇とか除き)。
映画批評されてそんならお前監督やって撮ってみろと反論するのは無茶だが、
文学や思想への批評に対してだとそんならお前書いてみろって声が出るのは(それも無茶だが)、
書かれた言葉を使った表現って意味では同列に感じられてるからだろ。
立教のシンポはネット上の報告読む限り、最低感が漂ってますね
733 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/25(木) 00:16:47
>>726 ドゥルーズとフーコーとの対談の翻訳とか、スガと政治犯(?)との対談とか。文学というより広い意味での「言語」について雑誌だよ。
いずれにせよ文芸同人誌はまずいだろw
現物読んでないんだろ?なら御託並べんなさんな
そんなの文藝誌の範疇だったよなあ。
>>733 「「言語」について」ってのが茫洋として的外れってことは確かだ。
736 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/25(木) 01:09:37
>>734>>735 読んでみてよ。今の文芸誌じゃなく当時の文芸誌もさ。
ドゥルーズなんか出てこないだろ。今の文芸誌は例の現代思想ブームの名残だよ。
しかし現物読まない奴が、現物読んでる人間に向かって偉そうな口叩く。バッカじゃねえw
しかし批評誌を文芸同人誌というのはすごいなw
あほくさw
アングラ演劇がコンテンポラリーダンス云々とかレスするだけはあるなw
ヤスケンの系譜で文芸誌にその種の思想記事が載るようになったんじゃん
スガもその流れ
ヤスケンの「海」、中野の「パイデイア」が文芸誌じゃなかったことにされてるのか
明らかにおかしいよな
あと、パイデイアや、さらにその昔あった「思潮」の
シュルレアリスム特集などに見られるように、
海外文学紹介・文学論紹介って枠があったね。
「海」、「パイデイア」はその派生的なものだと思う。
サルトルやカミュの翻訳が雑誌に載ってた時期もあったと思う。
<文芸誌>から海外紹介が薄れていったのは、それこそ近年の動きに過ぎない。
翻訳が雑誌に載らなくなったよな
昔のパイデイアに、テル・ケルの論文翻訳で1号埋め尽くされてたことなんか、今では信じられないよな。
あと、「現代思想」発刊に中野が参加してるから、
思想紹介と文学雑誌が全く別個に動いていたわけでもないんだよね。
そもそも「フランス現代思想」とか「現代思想」って言葉自体、パイデイアあたりに生まれた言葉だろうと。
アメリカでもその種の物言いはあったよ
ようは70年代にフランスの動向をフォローするメディアが多数あったと
>>743 ド・マンが言うには、50年代のアメリカの文学研究では
サルトル(ただし一部の著作は例外)、アウエルバッハやクルティウス、
クローチェ、ヴァレリーも消化されていたらしいから(『理論への抵抗』p.31)、
そういう下地もあったんだろうね。
80年代にSemiotext(e)が目立つけど、この雑誌の発刊も74年だから、
その「多数あったメディア」の一つに含まれるのかも。
絓秀実・渡部直己・江中直紀が同人なら、文学の範囲は超えられないだろ所詮。
まあ糞コテハンだから、相手にするだけ無駄か。
絓は文学以外も時々論じてきたにせよ、
68年論なんかからやっと文学を主としない評論が纏まってきた。
でも或る意味それって、文化史ってかカルスタの潮流に乗った転換なのかも。
これは絓がカルスタを批判するにもかかわらずそうなのである。
(「にもかかわらずそうなのである」は、絓が強引に断言するときの常套句)
たしかに、「にもかかわらずそうなのである」はそういう感じだったねw
隣近所からいきなり懐メロが聞こえてきた気分になった。
そう受容しちゃうのもなんだけど。
そもそもずっとカルスタじゃん
文化史、出版史、思想史、観念史・・・・いわばそんな領域があるのは知ってるけれど
(マーティン・ジェイとか)、+この半世紀の潮流における人脈・潮流を跡付けた、って側面があるね、68年論には。
問題は、スガのはゴシップ・レヴェルでの人脈論や
党派性に拘泥した潮流の裁断に陥りがちなことで、
思想や歴史の検討としてはそこが不十分。
たしかにそれはある。
そこは、スガ以外の連中が暗に陽にあの本に応答して書いた側面などで補完し、
今後の充実をみたいものだ。・・・・としか言いようが。
で、立教でのシンポジウム(
>>673)に鑑みるに、それが補完され充実しつつあるのかい?
さあ? 行ってないから知らないし。
スガに充実させる気があるのかどうか、スガ個人でやれることかっていう問題もあるでしょ。
思想史記述なんて一人で数年で完璧に出来ることはないと思うが。
ああ、シンポって、シノドス絡みだったのか。
シノドスってどうも興味もてないな・・
いとけい ひでみ と よみました。おわり
757 :
吾輩は名無しである:2008/10/01(水) 18:27:44
en-taxi最新号
スガ秀実、中島一夫、山城むつみ、前田塁・・・・・
758 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/10/02(木) 00:00:32
あんまりマジには読んでないから(ウィキゴミ溜論者だから)、ウィキのスガ秀実の項にはスガの疎外論批判、平野謙が提起するところの昭和十年問題(人民戦線の可能性)及びファシズムの問題について一貫してスガが論じてきたことを記述していない。
スガ自体も21世紀以降あまり明確な形では言わなくなったようだが(もしかしたら言及してる?)…
ちなみに私は大学図書館他で古雑誌、スガの著作群をチェックして指摘している(八十年代生まれなので)。
はっきりいって八十年代九十年代のスガの論鋒の方が鋭かったと思う。
68年代問題はつまらない。ただスガの68年代問題他関連論考はあまり読んでないから私にも見落としはあるかもしれない。
えー20代でその硬直ぶりはヤバイだろう
中年かと思ってた
760 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/10/02(木) 00:14:59
>>759 硬直なんかしてないよ。対象に沿って禁欲的に論じればこうなる。
あまり飛躍しないんだよ私は。あと私自身の思想みたいなものはここじゃ書いてない。
君は飛躍しすぎ。どうだっていいが論壇がどうとかいう野次馬は、まともな勉強できないバカばかりだと私は思う。
761 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/10/02(木) 00:25:54
前に『発言者』のバックナンバーを読んでたら例のニューヨークの同時多発テロについて論じたスガ秀実の時評が載っていて恐ろしくトンチンカンなこと言ってた。
訳の分からない宗教問題として論じるんだよなスガは。スガは本当に宗教分からないみたいだ。まあこれは誉め言葉だ。
ついでにいえばスガは最近バカマジョリティに流行してるスピリチュアル何たらも興味ないだろうな。
それもスガのいいところだ。柄谷行人だと気分次第でハマりそうな気がする(柄谷がサイードにしたスピリチュアルをどう思うかとか質問した事例を想起せよ)。
スガは唯物論者なんだ。ま、この国には唯物論者なんて実は限りなくゼロなんでスガは貴重な存在ではある。
762 :
吾輩は名無しである:2008/10/02(木) 01:21:36
うるさいなあ。バカは黙ってろよ。
763 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/10/02(木) 01:35:30
>>763 うるせーぞ
ろくに本も読まない(むずかちかったのねぇw読めないの〜お子さまねえw)バカは黙れよ
ここは学問板だぜ。まったりする親睦板じゃねえつーの。バカならバカらしくロムってりゃあいい。
とりあえず寝るんで、ヒマなオマエは朝までにまともな反駁くらい書き込みしろや。
いいかげん論壇がとうとかくだらねえ御託ならべてくんな
ああそうそう私コテハンつけて応じるから。ていうかコテハンでしか書かないんで。
764 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/10/02(木) 01:39:28
誰も論壇の話なんかしてねえのに
被害妄想一歩前だな
たれながしレスの無用さんがんばれw
767 :
吾輩は名無しである:2008/10/02(木) 01:49:59
寝るネルといいつつ寝ない年寄りさん、バイバイ
どうせバカレスなんだが
武酔う陰死のは自己陶酔レスという種類。始末にわるい
769 :
吾輩は名無しである:2008/10/02(木) 01:57:03
無用因氏か…
あらららら〜〜
520 名前:武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/25(木) 01:46:58
>>519 私が金井美恵子先生なはずがありません。
敬愛する先生のような方と私が同一人だなんて恐れ多いことです。冗談でも止めて頂きたいものです。
ちなみに先生が若い頃の写真を観れば瞭然なように、妖艶な美人です。
私は別段妖艶じゃないいたって普通のほうです。
ところで私はまだ若いです。先生の子供みたいな世代です。別に年取ることを忌避しているわけではなく単なる事実として言っているだけです。
いずれにせよ誰にしても年取るのが当たり前。年のこと云々するのはどうなんでしょうか。
分かったか!オヤジうぜーよ(`ε´)
ここは金井スレだ。ググった能についてのいい加減な書き込みをしたり、コテハンを揶揄したりする場所じゃねえんだよ。
金井ファン以外は消えろや。
さて寝るか。バカ相手にくだらねー夜更かししちまった。明日つらい…
>>770 正体は金井美恵子に間違われて勘違いして舞い上がってるババアかww
ははん、それで偉そうにいいとこ見せようと
くだらん糞レスを垂れ流してまわったというわけかw
無用因子がかなりの歳のおばはんであるのは間違いない(笑
773 :
吾輩は名無しである:2008/10/02(木) 02:15:08
おばさんじゃなくてもドブスだろうな。セックス相手にも困るくらいの。
俺の知り合いだったらどうしよw
知り合いというより一身同体www
批評馬鹿にならない方がいいと思う。
小説読めよ
778 :
吾輩は名無しである:2008/10/02(木) 20:29:44
>>777 「批評」という文芸ジャンルがあり、「小説」という文芸ジャンルがあるんだから、
どっちか一方を愛好してもいいんじゃないのかな?
もちろん「批評」を「小説」の下位ジャンルとは考えていないだろうけれどさ。
>>778 お前の言うように、批評が上とか小説が下とか言うつもりでは
なくて、こいつら小説読んでなくてスガ云々しているだろうな、
というのが話の流れでよく分かったから。
スガは、少なくとも小説の読解を、このスレの流れよりは面白く
読解するからな。お前らは、批評状況がどうのとか、
ここでスガは読めてないとか、そういう分析は鋭いくせに、
それを面白く読ませようとはする気がないんだよな。
2ちゃんのスレでそれやってくれとは言わないが。
お前らって、論の中に洒落が入れられないのか?
一応小説っていうジャンルに限定した話だけど。
そもそも「スガの小説論」が話題になることもこのスレでは珍しいのだが。
文学板にあるからってスガの小説論がメインじゃないよ。
>>780 おれは小説論が言いたいわけじゃないんだなあ
小説の読解できないやつに、批評はできないだろといいたいだけ。
スガは少なくともそこはクリアしてるから、68年問題の枠組みが
つくれる。
でもお前らの議論って、枠組み作れないよな。それって根本的に
小説が読めないからだと思うよ。思想書と批評だけ読んで
云々しても、面白くないんだよ。構想力と小説読解の問題を考えろよ。
最後に言いたくなってきたから書くけど、お前みたいに読解力がなくて頭が悪いやつが
なんで、批評なんて読むんだと思うだけ。小説論の話などしていない。
本末転倒してるんだよ、カスども
フィクションの境位の問題に関してる人も、このスレではいたじゃない?
あなたは「お前ら小説読めてない」と言い募ることが
あたかも「小説読めている」ことの証になると思ってるようだけど、
「面白く読ませようとはする気がない」のはあなたにまさにあてはまるんじゃないかな。
まあ、無責任に偉そうなことを言いたいだけの"2ちゃんねらー"なんですね。
>>782 おれが読めるやつだと、おまえは思っているのはよくわかる。
それがなぜ無責任や責任の話になるのか全く分からん
スガスガしい
読めるやつだなんて思ってないよ。
あなたのしているのは自己表明だけでしょう。
「面白く読ませようと」は自分ではしないが、スレが「面白く読ませ」るものがないと言い募るのは、
自分を棚上げできると思ってる人間のやることだ、といってるだけだ。
第一、面白くないじゃない、あなたの話。俺は俺は、ばっかり。
>>785 お前が自己を引き出してくれたんだぞ。
責任やら自己表明やら、求めてないのに読みとってくれるw
お前のような馬鹿がしゃしゃり出てくる前は、なにも、責任も自己も
でてきてないんだけどな。お前みたいな馬鹿は二度と来なくていいよ。
たちの悪いまじめさは何にもならない。
絓秀実のは68年論でも何でもフィクションとしての構築性が弱いやん。
ほかの批評分野ならまだしも文学評論の人としては致命的だよ。
68年論だと、人脈を辿って語ると陰謀論になってしまって、それが真顔だから、もうトンデモだ。
絓の68年論は呉智英の封建主義みたいなもんだと誰かが言ったが、
封建主義ならまだしもその名称だけでまさかと疑らせ、アイロニーとして受け取れる。
蓮實重彦みたいなぬけぬけと嘘ついて吹き出させる余裕がなく、
漱石『こころ』のKが幸徳か否かなんて洒落にもならん、悪い冗談でしかない。
あと、小説ばかりが構想力を持つと思ってるのは他分野を知らなすぎる。
>>781 構想力は虚構以外にも結びつくし(カントとか三木清とか見よう)。
>>787 何か言ってるようで何も言っていないという痛いやつだな。
構想力が、フィクションだけだなんて、おれは一言も言っていないが、
早漏のお前は早く出してしまう。下手で早漏って生きている価値ないだろ。
おれのいう構想力は、フィクションに働く差異の運動でも、三木のいう
神話や経験の綜合力でも、カント=ハイデガー的な意味でも何でもいいんだよ。
お前もそうだけど全く構築しようとしない。スガは少なくともはったりでも
68年を理論的にここまで盛り上げている。しかもスガは常に世界文脈だからな。
>漱石『こころ』のKが幸徳か否かなんて洒落にもならん
俺はこれを評価はしないが、お前が引いているから一応コメントすれば、
おまえはこのはったりかませないだろwこの力技。なぜできないのか、
くそまじめだからです。もう一人いた馬鹿の、責任とか自己表明とか、
中学生の学級会じゃないんだからさ。
おまえら、批評ばっか読んで頭硬くなってるよ、しかも早漏だし。
もう少し我慢しろよ、この我慢も構想力の一つだよな?
カントや三木読んでいるお前にならわかるだろw
ほんと、カスしかいないな。
そのハッタリを段々マジに主張しだしちゃってるのがスガのイタいところだろが。
ジョークをジョークとして保つフィクショナルな構築性が、行論に見られないから。
端的に言って、文章が下手なのよね。
花田清輝論から出発した人にしては繊細なレトリックが足りない。
かといって、愚鈍な力強さを持つわけでもない。
フィクションの境位とアイロニーを結びつけるのは面白いけど、どうなんだろう。
真面目/不真面目の操作で終わったらつまんなくないかな。
マジであるかのように見えてネタ・ジョーク、なのがフィクションならば、
そんなフィクションなど何のためにあるのかわかんないね。雑談で盛り上がるための話題じゃあるまいし。
フィクションとしての力を出すためにこそ、本気としてやるってのはありなんじゃないか。
そこで見たときに問われるのは、「68年」というフィクションを支えている問題設定が
どこまでアクチュアルだと言えるのか、どう検討するか、ということと、
スガ自身がそれをどこまで持続的に模索しているか、などになる。
ハナから実現も目指しているのか怪しい呉の封建革命や、
あらかじめ対象の議論勢力に対する牽制であると効果範囲が見切れてしまう蓮実の言動
をもってフィクションのモデルとするならば、所詮「ネタ」としての効果しか、
当初から見込めない視野に立ってしまうんじゃないか。
ただし、アイロニーが関わるというのは興味深い。
アイロニーというのは差延に似たところがあるのだし、フィクションとして
問題圏域をでっちあげることは、その圏域を自立的に作動させ、
唱導者(作者)の意図を超える動きにいたるだろう。その意味ではなるほど、
フィクションであることはアイロニーに関わらざるを得ない。
>>791は
>>787へのレス
>>789 ここでフィクションとしての力、有効性がどこまであるのかを考えるとき、
文章の巧拙、レトリックは別に不可避な指摘点ではないと思う。
>>791 その「フィクションとしての力」と言ってる力が
専ら「どこまでアクチュアルだと言えるのか」って実践力のことにされるなら、
運動やら活動やらに興味無い一介の読者としては、つきあってらんないね。
ページをめくる以外の運動なんて真っ平御免さ。
書かれたものは読んで楽しめればそれでいいのだ(楽しみ方はそれぞれでも)。
雑談で盛り上がるための話題、それで結構ではないか。
いまのスガが繰り出す作品は盛り上がれるほどの出来映えで仕上がってない。
つまりひとことで――ネタにマジレス、カッコ悪い。
江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション』中公文庫版「対話による解説」
絓 何かにつけ馬鹿正直じゃないか、われわれは。この人たちは全く
正直じゃないからね。江藤さんの『自由と禁忌』なんかは、盛んに演技して
いるでしょう。蓮實さんにいちおう正直の香りがするのは、『「私小説」を読む』
とか『監督小津安二郎』とかぐらいでしょう。演技しながらも、人格をきちんと
使いわけられるのは、やはり都会人なんだよ。〔略〕俺なんかホント、我ながら
正直者だなあって嫌んなっちゃってさ(笑)。物書きとしてはこれじゃあ失格なんだけどね。
渡部 確かに、才能の多寡とは別に、演技することへの脅えはあるな、ぼくにも。で、
書くものがひよわになる。
いや、議論としての有効性でもいいんじゃないの。活動だとかは特に念頭に無く言ったよ。
ネタだからマジレスするな、というのは、それこそフィクションを貶める規定なんじゃないかなあ。
作者の意図はこれ(ネタとして笑うこと)に決まってる、だからそこからはみ出るな、ってことじゃないの。
フィクションと言うのなら、そんな意図があろうと無かろうと、
ネタであろうと展望に可能性を見出してマジに議論を遺産相続してもいいわけだ。
2ch用語の「ネタ」という意味合いに、アイロニーへの考えが引きずられすぎだと思うね。
そんな発想は「このフィクションは文脈が決まっていて、そこでのみ作動する」と言ってるのと同じだろう。
アイロニーっていうのは、単に裏の意味が出てくる、そして裏の意味は自明だ、
というのではなく、「別の意味」がつねに見出されてしまうという作用であって、
ゆえに作者のコントロールを超える面を持つんだよ。
フィクションをなぜに作者の顔色を伺いながら読まなくてはならないのか。
それこそ「ネタ(アイロニー)にマジレス(作者の意図への縮減や文脈への自明化)、カッコ悪い」
であって、もっと柔軟に考えてもいいんじゃないかな。
作者の意図なんて問題になってないだろ。
>>796 ネタにマジになるなんてそれこそ悪い冗談で、目指すはその逆だよ。
仮に作者の意図がマジであれ、マジをもネタ化するツッコミのアイロニー、それが批評ってもんさ。
あ、ツッコミ以外にも、ボケ(ネタ)にボケで返すボケツッコミもあるな。
もちろん最初のボケは天然で、それに返すボケは作為的なアイロニーだけど。
>>797 >作者の意図なんて問題になってないだろ
>>794で根拠付けてきたのかと思ってそう書いたんだけどね。
その「ネタ」って言い回しだと、予めある超越性から診断してるみたいに聞こえるけどな。
大体、「ネタ」って容易に笑える、笑う立脚点を確保できるものじゃない?
マジとして返すコードが予め決まっている、ネタとして返すコードが予め決まっている
そんなものがくるくる反転したところで、何が面白いんだろう。
強迫的に振舞ってるように感じるんだけど。
天然/作為なんて、聞くに耐えない素朴疎外論じゃないのかな。
そもそも、ネタとマジの境界なんて不確定なものなんじゃないだろうか
ネタにも見えるしマジにも見える、それに対する継承、応答が
一見マジに見えようとも、それはネタであるかもしれない
「〜〜はネタ」という言明があるとき、それはネタでもマジでもあるような側面を消し去ってしまう
ネタを単に笑うための素材にしてしまうのも、笑うという目的論に奉仕するマジでしかなく、この場合同じものになってしまう
ネタ(虚構)でもありかつその虚構性がマジ(問題設定)でもあるというものはあるわけで
ネタだからといって何も笑うこともない気がするね
「ネタにマジレス」云々というのは、つまるところは2ちゃんの共同体志向(コード共有志向)であり
これこれの受容こそが正しい、と言ってるだけなんじゃないか
そんなに正しく、空気を読んで振舞いたいものなのかな
そういう行為に何の可能性があるのかわからない
>>799 ええと、
>>794の引用からどうして作者の意図なんて問題になるのかな?
「演技」ってのが虚構=フィクション=ネタってことでしょ。
「馬鹿正直」はマジってことで。
で、馬鹿正直に現実にひっついてると、虚構の次元が弱いわな。
ネタを現実と取り違ってマジになるのが馬鹿正直なんだ。
それは虚構を虚構として真剣(マジ)に遊ぶのとは別だね。
そんな愚直なだけでは遊戯を交すことはできんわけよ。
演技力が要る。書かれる批評だと文体、文章力だ。
お前ら商業媒体でなんか書いてるの?
それならわからんでもないが、
あまりにも偉い人が多いので俺はびっくりだよ
そんなに現実/虚構の境界は簡単じゃないよ。
それこそ構想力によって媒介されているんだから。
スガは68年論関連でどこかで「擬史」という言い方をしていたそうだが、
これは真偽の対立に基づく偽史ではなく、歴史の語りはシミュラクラとしてしか出せないってことだろう。
ヘイドン・ホワイトが歴史論争を繰り広げたように、
現実=真実/虚構 というのはそんなに自明ではない。
むしろ、構想力、構成能力がつねにあるんだよ。
小説を読んだ方がいいと言うのは正しい。ただし、正しい読みなるものはない。
結局、68年とは批評と小説、両方敗北したということ。
(知識人は何の計画性も示せなかった。)
連合赤軍をめぐって、スガがちくま新書では映画について触れているのは示唆的。
個人的には真に68年の出来事足りえたのは音楽だと思うが。
阿部薫をきくべきw
806 :
糟糠力:2008/10/03(金) 22:56:59
真面目不真面目、現実虚構、これの構想力の媒介という問題に
やっと来たか。だが、このスレで誰が馬鹿か馬鹿じゃないかははっきりと分かってきたな。
これだけは明確に分けられる。
運動=構想力とマルチチュードの関係をスガがやっているならば、
やはり映画や小説音楽読解の構想力から、スガを批判すべきであって、
文章がどうのとか、はったりは現実味がないとか、そういう馬鹿なこと言ってるのは、
早く静かな読書生活に戻ったほうがいい。
>>802 こいつはスガスレにたまに出没するが、商業誌=批評という、
いつも二次選考くらいで落とされている、文学青年は、くるなよ。
>>804 趣旨には賛成なのだが、小説に敗北なんて付けると、小説は
歴史的にそういうロマン主義を内在させているんだから、また同じ
議論になると思うけどな。
俺は文学青年じゃないw
出版される媒体で書いているか否かは決定的な差異だろ
808 :
糟糠力:2008/10/03(金) 23:00:57
>>807 馬鹿に言っておくが出版物ってちゃんと考えた事ないだろ。
消えろ春日
>>808 お前が何かちゃんと書き通したとは思えないね
ハンドル変えるなよ
810 :
糟糠力:2008/10/03(金) 23:07:03
>>809 馬鹿は区別しやすいからお前を名指しただけだ。
お前ほど目立つ馬鹿はいないからなw
いつも忘れた頃に「商業誌・・・」って見るたびに、
第二次選考で落とされているお前の歯ぎしりが聞こえたが、
そんなコンプレックスは抱かない方がいいし、人に反射させなくていい。
あと、おれは何をもって書きとおしたというのか、わからん。
書きとおすとか、自己責任とか、馬鹿は何か明確なもんがないと
不安でたまらないわけだな。
構想力はほとんど耐えることと同じ意味だぞw
チラシの裏でやってくんない、スガと関係ない下らぬ話は。
ようするにネットで駄文を書き散らして発散させているだけと
スガの弟子筋を見習えよ
チキとか山本とか
813 :
糟糠力:2008/10/04(土) 01:37:46
>>811 >>812 チラシの裏にチラシの裏を書くなですかw
へたれるくらいなら相手しに来るなよ。負け犬
今度『詩的モダニティの舞台』の増補版が出るって話だ。
なにが増補されるんだろう
817 :
吾輩は名無しである:2008/10/05(日) 18:15:51
雑誌の目次を見たが、
この人(たち)は、「1968」とか言ってる限りまずダメだろう
浮かばれないだろうと思うよ
また同じネタを使いまわすのか
俺はすがの68年論は、それなりに理論的にパースとして面白いところもあったと思うけど、
68年ブームみたいなのは、かなり違和感あるなあ。
「なんでアルチュセール再検討とかやんないの?」とか思う
ゼロ年代か68年か?
というパースペクティブを超える
ものを読みたいなあ。
それで素人の乱でもないもの。
既に彼らのネタとは、完全に無意味な形式と化してるのね。
それでこの無意味な形式は、小規模エンタメとしては、
それなりに延々と使い回しができるわけ。
しかしそういう光景は常に、左翼を自称するという振る舞いがいかに
バカなものであり、惨めな光景にすぎないかということを
ずっと示し続けるような図にしかならない。
左翼は、全消滅はしないが、しかし決してそれが社会を支配するようにもならない
この微妙なダブルバインドによる持続を、いかに、小ネタ、小芸能として
小出しにして使っていけるかというのが、1968という形で、左翼の不可能性を
再生産する芸の使いようなんだけどな。
しょせん、1968とは、
場末のバーの小規模な演芸、流しのおっさんにすぎないんだから。
> 「なんでアルチュセール再検討とかやんないの?」とか思う
この人(たち)じゃあ、そこまで知能がないんだろうね。
しかし年齢的に言っても、もう明らかに限界でしょ?
今から新しい知識おぼえろといったところで無理よ。
でも老人ホームには、いつもそれ用のオモリがいて、介護の職があるわけ。
>>822 でも、そういう、たとえばアルチュセール再検討のような
継続の仕方をしないと意味ないじゃないの。
いやだから勉強系のネタを出しても、若い連中にはとても勝てないんでしょ
だからこういう退行型のネタに丸く収まるんだよ
要するに八方塞なんだけど
この雑誌買ってくれと売りに出たって、どうせ年寄りしか買わないよ
でも
>>822でいうように、老人ホームには常にそれ用の
特殊な商売が成立する。
これも資本主義社会が多様化して発展してくれたことの恩恵だ。
825 :
吾輩は名無しである:2008/10/05(日) 19:20:18
1968ネタの正体とは、退行現象である
>>824 いやいや言いたいことはわかるけどさ、
だからこそ若い連中を巻き込み巻き込まれ、理論的にやるってのもいいじゃないのと。
全部が全部、すがやすが世代がやることもないのだから。
すがの68年本は結構理論的な本でもあるんだから。
年寄りどもの回顧へと消費しちゃうのはもったいないよ。
たぶんそれは党派的な理由で相手にされないんだよ。
たぶんすがは、この雑誌やろうとしたときに、まず最初に酒井のところに
頭下げにいった。しかし相手にされなかったんだな。
この奇妙な依存関係がもう精神病的なんだが
一応彼らは、左翼が存在する、という信仰を前提にして生きていて
商売し、それなりに必死になり、泣き笑いしてる。
すがの研究を理論的に役に立てるとしたら、それはしかしそういう方向ではない
ところでしか、冷静に、客観的には読まれえないよ。
資料としては面白いし、多様性を含んでいるにしてもだ。
左翼の内部では、左翼の何たるかについては、とても解明できないんだな。
まるでゲーデルの理論みたいだが。
でも、國分に評価されたりしてるし、鵜飼とだって座談会やってるんだし、
そんなにスガがこてこてのセクティストってわけでもないでしょう。
偏見強すぎじゃないの、そういうのは。
俺は、すがが周囲の人脈に引っ張られててぐだついてるんだと思ってる。
周囲は祭にでもしたいのかね。
>>828 すが単独なら平気でも、すがの取り巻きと仕事はしたくないんじゃないかな
この雑誌に國分とか鵜飼が書くか?
想像しにくい
偏見もくそも、それじゃあこの雑誌が一体何号までもつのかについて
お手並み拝見ということでしょう。
68じゃないけど時間が証明するでしょうね。
それか最初から敗北しようと思ってこの人達、雑誌とか出すわけ?
リプレーザじゃないんだからさ。
ほんとやめてほしいよね
やめたほうがいいよ
831 :
糟糠力:2008/10/05(日) 19:50:57
スガはアルチュセール問題も広松のや、大学における知識人問題
で一応、触れているわけで無視はしていない。アルチュセール再考
という意味ではしていないかも知れないが、アルチュセールの疎外論
批判を日本の文脈で検討はしてるから。あとこの問題を、ちゃんと
大学問題と絡めている。デリダの条件なき大学とアルチュセール
の距離との問題ともちゃんと相即してると思うんだけどな。
問題は、スガ周辺からじゃなくて、スガの理論的構築を、詳細に
理論化できるやつが現れればいいということだと思う。ネグリというのは
両方をやれちゃってるわけだけど、それをスガに求めるのは酷だ。
>>828がいうように國分はデリダのマルクス問題(アルチュセール)に
スガのパースペクティヴは有効だといってるわけで、スガは基本的には
はずしていない。
でも、人脈的活動が目につくから、物足りないってのもわかるけどな。
ただ、1968年が重要じゃないって言うのとはまた別問題だ。
スガのソースを誰かがブルデューみたいにまとめればいいんだよ
『ホモ・アカデミクス』日本版みたいなの
>>829 >この雑誌に國分とか鵜飼が書くか?
鵜飼との座談だってこの雑誌目次にあるじゃないの。
内部関係者じゃないんだから、「やった上で断られたに決まってる」とか
「きっと國分は断る」とか「すがはそんなこと考えない」とか断定してもしょうがなくない?
834 :
833:2008/10/05(日) 20:37:04
とはいえ、じゃあこの雑誌に大きな期待をするかって言うと、
俺はしないよ。だけどそういう模索もありうるだろう、やればいいのに、って話まで
「ありえない」とか言い放つのはおかしい気がするんだが。
>>831 >問題は、スガ周辺からじゃなくて、スガの理論的構築を、詳細に
>理論化できるやつが現れればいいということだと思う。
そうだね。スガが関わってる雑誌とかメンバー、スガが依頼するとかでなくても、
そういうかたちであれ、成果が出てきさえすればいいね。
スガの議論がどの程度まで相即してるのかの整理とか、どの程度議論の余地がまだあるのか、
他のアプローチもあるのでは、という検討まで含めると、
やられてないことって結構あると思う。
836 :
吾輩は名無しである:2008/10/05(日) 20:49:31
要するに、目の前には≪それ≫が存在しないから、1968とかいうの。
つまりそれは、対象が不在であることの証明なの。
しかし実際に目の前にそれが存在しはじめたときに
人はまだそんなこというのだろうか?
たぶんそれがアクチャルな時間には、人は別にそんなこおと言わないんだな
そこに言及するとしても、反復してはいけないネガティブな痕跡として
それの歴史を引用するだけだよ。
1968とは、不在の形而上学である。
しかも延々とした惰性のそれである。
それでは現時点で、もう一方に居る現実の左翼は、なぜそう言わないのだろうか?
蟹工船が再び読まれているという若者たちの左翼である。
単純に目の前にそれがアクチャルになれば、人はそんな懐古趣味を決して持たないんだよ。
だから現状ですべては証明されてる。
まあ、すがが雑誌を出すとなると
、それなりの期待を同世代をこえてもたれる
ということですな。
だから厳しい評価を持たれるということで。
838 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/10/05(日) 21:46:25
>>778 批評を文芸ジャンルの一つとしてみるのは半ば正しく半ば間違っている。
厳密に小説(ないし詩)だけを批評対象にしている(優れた)批評家を探すのはむしろ困難だ(向井敏みたいな文壇批評家とか19世紀フランスの批評家たとか他にも純然たる文芸評論家は多いが、ハッサン、ソンタグ、スガや柄谷行人、小林秀雄なんかは違う)。
私が『ヒ』のことを書いたときもここの連中は文芸同人誌に収めたがるのは私には不思議だった。なぜそんなに文芸ジャンルにこだわる?
はっきりいってスガの最初期の小説を対象とした評論は、安っぽいリシャールもどきでしかない。
あとブス呼ばわりされたことは甚だ心外だ。このスレの住人は院卒ないし院生は皆無なんだろうか?
ブス(嫌いな言葉だが)のルサンチマンで学問はできない。むしろ妨げだ。男にもてたり男と遊んでるほうが学問は出来る。
まあいい男がいれば経済的にも彼に助けてもらって学問にいそしめるしな。
もう一つ容姿端麗だと博覧強記はいないとでも思っているのだろうか?
いったいまともに勉強した女院生に知り合い友達もいないほど、ここの住人は田舎の引きこもりか今どきの院生も知らない世間知らずの親父たちなのか?
あと小説など古典的名作は十代で読了すべきことだ。
くだらない現代小説は学問に比べたらすぐに読みおおせる代物。
小説をあまり読まず文芸ジャーナリズムの無駄話が好きなのはかまわないが基本的勉強はしてくれ
親父w
武陽はこんなところにカキコしているんじゃなくて、
すがに直接接触しろ。
疑問を直接口頭か、論にしてぶつけろ。そのほうが生産的だろ?
すがの敷居は低い。
840 :
糟糠力:2008/10/05(日) 22:19:24
>>838 お前のレスが十分に「文芸」的すぎるんだよw
おれのいう小説を読めっていうのは、スガの構想力批判したかったら、
小説読めと言っただけで、文芸を論じろとはいってない。
おまのような馬鹿が入ると、整理できたものも出来なくなるから、
まともな返答ができないなら黙ってろよ。
お前の文学談義なんぞ聞きたくない
841 :
糟糠力:2008/10/05(日) 22:22:01
もう少しスガを論じるなら理論的に行こうぜ。
露払いはもういらないんだからな。批評の態度とか、そんなもんは
胸にしまっておけばいいこと。
武陽隠士が俺の知人であることにほぼ確信が持ててしまったw
なぜかこの板住人に対してすまない気持ちが溢れ出すw
なんで固定ハンドルの奴ってこんなに糞ばかりなの?
固有名を顕示することには何か根本的な錯誤がつきまとってる。
おっと、これは、スガの一九六八年論の人脈よりかかりについて蓮實が言ったことでもあるな。
蓮實も同じ錯誤につきまとわれているからw
特に映画論
845 :
糟糠力:2008/10/06(月) 01:38:24
>>843 お前みたいなやつより武陽なんとかのほうがましだけどな
だから君みたいな糞コテハンはもういいって。
847 :
糟糠力:2008/10/06(月) 03:09:04
>>846 頭悪い奴は来るなってだけだ。つまりお前は意見言う資格がないから来なくてもいい。
あなたの頭が悪いことは、そんな繰り返し顕示しなくてももう十分わかったってば。
>>847
俺は
>>806見て、ああ馬鹿ってわけじゃないんだなと思ったけどな。
頭よさそうなのに、それまでのレスで
なんであんなに煽ってたのか逆に不思議な気分になったw
また頭の悪い人が一人来たよ……馬鹿か馬鹿でないかにあんなに拘泥するのは馬鹿に決まってるでしょ。
彼は煽りをやりたい人なんだろう
露骨に武陽を馬鹿にしてるんだけど
超越性を確保して実質何も言わない人よりマシだろう、とかそんな切り方なんだろうね
じゃあ自己言及をやってしまってる850に
構想力とフィクションの関係について何か言ってもらえると
そもそも絓を読むに際して構想力なんか問題にするってのがトンチンカン。
批評における虚構性の問題はそれとは切り離して考慮してよい事柄でないか。
虚構性の問題と構想力をつなげるのはありふれたことだろ常考
ハイデガーのカント講義以来の文脈と、デリダ-ハイデガー以降、
およびカント/ヘーゲルの差異に関しても構想力の局面は大きい
ヘーゲルにこだわり、デリダに影響を受けていると思しきスガについて
フィクションをどう扱うかというときに、スガ自身が構想力と言ってないからトンチンカン
みたいな反応が返ってくることがすでにトンチンカン
すがちんもここまで熱くすがちん
のことを語る80年代生まれがいるんだからさあ、
雑誌がんばってほしいわ
・・・というと、がんばらないのがすがちん。
853は半端に哲学を齧った頓珍漢。
「ヘーゲルにこだわり、デリダに影響を受けていると思しき」なんて珍しくもない、
特にスガのこととして語るべきことかよ。
>>853 じゃあすがのこととして語るべきこととは何だ?
>「ヘーゲルにこだわり、デリダに影響を受けていると思しき」なんて珍しくもない
その上で、
>>803の言うような、フィクションとしての「擬史」を語り、
しかもそれを理論的構築でおこなうのは、「珍しくもない」んですかね?
スガだけとは言わないとしても、そんなに沢山いると言うのなら、どうぞ名前を挙げてください。
フィクションとしての歴史、というのがヘーゲルとデリダにこだわるスガらしい
という意味でくっきりつながるんじゃないの
スガにはフィクションをフィクションとしてフィクショナルに語る演技力が弱いってのは既出。
「フィクションとしての歴史」なんてのも珍しくもなくて、
これもヘーゲルだのデリダだのは切り離して、置いておいてよいこと。
ヘイドン・ホワイトとかポール・リクールとか欧米はさておいても、
野家啓一『物語の哲学』でも坂本多加雄『日本は自らの来歴を語りうるか』でも挙げられる。
いや、だから、「フィクションとしての歴史」が珍しいと言ってるんじゃなくて、
スガにおいてヘーゲル〜デリダの関心とつながっているんじゃないか、って視点もありうるから
そこでスガなりの線を引けるかもしれないんじゃないの、って話でしょう。
いつの間に、「フィクションとしての歴史」が珍しいかどうかなんて話に。
そもそも絓秀実がそんなにヘーゲルやデリダに関心持ってると見られるかが怪しい。
結局これかよ
・
>>843が馬鹿(糞)と編集者的にいいはじめる
・→コテハンがそれに見合った程度の切り返しをとる
・→さらに同じ切り返しでもってしか返さないので自己言及乙と言われる
・自己言及乙と同時に構想力とフィクションについてたずねられる
・→特に根拠なく、関係ない、そんなのはトンチンカン とキレる
・→スガの他の理論的関心A(ヘーゲル〜デリダ)から関係付けることもできるのでは、根拠なく言うのもトンチンカンじゃないかと返される
・→理論関心Aをもってるやつは珍しくない、だからトンチンカンと返す
(? 根拠がないこととどうつながるのだろう)
・→スガの他の理論的関心A(ヘーゲル〜デリダ)と関心B「フィクションとしての歴史」つながってるのでは、とさらに返される
(もともとフィクションというかたちで語られていたのはこの話、Bだし)
・→関心Bをもってるやつは珍しくない と返す
・→AとBのつながりが切れてると返される
・→つながってるのか怪しいと返す
こんな感じか。
>>861 初期のスガはめっさデリダ影響濃いだろう
このスレでちょっと触れられていたけれど、『小説的強度』なんかヘーゲル、コジェーヴ、ラカンの文脈じゃん。
デリダ好きの書き込み主が自分の問題に引きつけすぎ
あんたがスガ論書くと良いよ
『小説的強度』のヘーゲル参照は、ブランショの筋で再検討したものですよ。
デリダの影響って何を指してるつもりかね。
結局のところ、何度も「つながってると見ることもできるんじゃない?」
→「珍しくない」or「つながってるかどうか怪しい」→「つながってると見ることもできるんじゃない?」
とかのループか。
このループを続けるかぎりは、最初の「構想力とフィクション」は回避可能。
読みってのは何の可能性として考えるか、ってことなんだから、
じゃあ、この問い「構想力とフィクション」の可能性を見出さないこの人は、
何の可能性としてスガを読んでるんだろうな
まさか「ネタ」じゃあないよね。そんな何の可能性も模索しない、「ためにする」議論みたいなことじゃ。
そして、考察の可能性を捨ててまで、時間を費やして理論的な本なんか読む必要もないだろう。
デリダからの影響は、初期からちょっと前にいたるまで出てきてると思うけどね。
『日本近代文学の誕生』にしたって、現前性を確保する言文一致、みたいな
デリダ→柄谷の議論の継承じゃないの。
『小説的強度』はデリダ文脈として出したわけじゃなくて、ヘーゲルの方。
>>863 「自分の問題に引きつけすぎ」じゃない可能性の模索なんかどこにも無いでしょう。
どこかに公明正大で客観的な「正しい」読解があるとでも思ってるの?
ほんなら「構想力とフィクション」にはなんかいい可能性があるっての?
>>865 むしろ糸圭は、オウム真理教絡みで原田実の証言を昂奮して引いてたときなんかが一例だけど、
偽史的想像力も陰謀論として実態還元してしまって、フィクション性を無くす傾向がある。
>>867 自分の問題に引きつけるのはいいが、それと「引きつけすぎ」を一緒くたに免罪してはいかんよ。
>>867 いやあしかし「スガはデリダの問題をそれほど追求していないから糞」
ってのはアンフェアだろ
「西田幾多郎と対決しろ」とか、
この手のイチャモンはそいつの関心に応じていくらでも拡張可能
スガは漫画を批評できていないから68年の新宿がろくにわかっていない
とか、なんとでも言えるんだぜ
一部デリディアンは、デリダを通過していない議論は駄目って決めつけたがる
>>866 >現前性を確保する言文一致
それって、デリダの名のもとに語るまでもない、現代思想の基礎知識でしょ。
直接には柄谷行人の影響だし。
スガの場合、マルクスについてならそういうツッコミは可能だし、どんどんやるべきだと思う
>>868 いい可能性も何も、理論と歴史の交叉を何らかの射程で語るとき、
そうならざるをえないってことじゃないですか。
偽史的想像力に関しては、偽史も擬史の一つではあるとはいえ、
いわゆる正史(マイナー性のない擬史)にとってのオリエンタリズム、
といった相補的関係にあるという意味で、可能性が無いとして切り捨ててるんじゃないかな。
(もちろん、いや、そうじゃない可能性もこう読めばできる、ってのはあるかもしれないですが)
スガの言う擬史って、擬史だからよいってことじゃなく、
何の可能性、展望を語る擬史なのかによって是々非々に接するということであって、
問題は何の理論的展望を選択するかにあるんでしょう。
だから、擬史だから即、何かの可能性があるという話にはならない。
>>870 >「スガはデリダの問題をそれほど追求していないから糞」
そんなこと誰も言ってないみたいだけど?
スガはデリダに拘ってるかどうかは疑問でも、
それだから糞だってことにはならんのは当然。
>>869 「引きつけすぎ」と「引きつける」を分ける基準は一体どこにあるんでしょう?
スレの空気とか流れとか気分とか言わないでくださいね。
>>870 >「スガはデリダの問題をそれほど追求していないから糞」
え? 誰がそんなこと言ったの?
むしろ、逆だともいえるんじゃない、とか線を引いたつもりだったんだけど。
>>873 あのー、再現前的であることが避けられない言語・文芸において、
いかにして現前性を確保するかってかたちでやってるんで、もろデリダじゃないですか?
しかも、柄谷よりデリダを意識してる可能性だってあるでしょ。
まあ、ハイデガー〜デリダ以降という意味でなら「現代思想の基礎知識」かもしれないですが。
現前性批判ってほかならぬハイデガー以降の文脈なんだから。
こうして考えると、
>>872と
>>873って対立してるんですね。
お二人で「現代思想の基礎知識」の正しい基準設定について盛り上がってはいかがですかね。
>>874 ああ、それはあるかもしれないですね。ここは確かに突っ込んだ方が面白い論点になるかも。
>>877 繰り返すけど、お前がデリディアンもどきなのはわかったから、
それをベースに叩き台となる68年史論のアウトラインを出せばいいのでは
>>879 そんな編集者的要望には応えません。
上のコテハンが煽り屋まがいの立場をとってるのは、
まともに返答すると、一気にスレ住人が
編集者立場を選択してあれこれ言い始めるから、初手からそれを避ける戦略なのかもしれないね
881 :
『悍【HAN】』発刊宣言:2008/10/06(月) 19:30:35
われわれはここに雑誌『悍【HAN】』を創刊する。
本誌はその名のとおり「悍ましくも精悍な」批評メディアをめざし、年二回の発行を決定した。
夢にまで日常がはびこってしまった今、眼を見開いて対象をしっかり見つめなければ
夢を見ることもかなわない。もとより批判とは現実を根本において捉えることである。
かつて、一九六八年革命のころ、日本においても多種多様な反権力メディアが刊行され、
?雑誌の時代?の全盛期を創出していた。しかし、六八年革命の敗北とともに、反権力
すなわち批判の精神は、多くの場合、身振りだけのものとなって微温的な文化主義と
社会学主義のなかに吸収され、消滅していった。批判精神を失った雑誌ジャーナリズムは、
商法改正もあいまって必然的に衰退した。そして現在、エセ学際的な?左翼?論文の多くは
自己保身を覆い隠すために反権力を標榜し、批評を僭称している。総合誌の休廃刊は、
哲学的には?何が正しいかわからない?という不可知論と?すべては相対的でいろいろ?
という相対主義の反映である。
本誌の目的は、在野の批判精神の復興である。ジャーナリズムと批評の危機を資本主義
や国家権力のせいにすることは、結局のところ現状追認と諦めを自他に強いるドレイ精神
にほかならない。社会のどの階層も、自分たちが抑圧されているときには悲鳴をあげるが、
時代のせいで自分より?下?の階層ができるやすぐに自分たちはひとかどのものだと、
己は何もしないのに勘違いしはじめる。六八年革命は、左派や進歩派の看板を掲げながら
実際は権力のしもべとして自己保身をはかる守旧派、実権派をこそ撃つものだった。
自身の頭の中を革命することから始めなければならない。
本誌の方法は、われわれが住む世界の状況を歴史的、地理的かつ構造的に分析、批判し、
世界の変革への戦略をつくり出すことに寄与しうる、できる限り質の高い文章の掲載、
論争の場としてのメディアの制作である。旧来の左派は?社会正義?や?ボランティア?の
名の下に、原稿料を払わず、印刷や製本などの制作費を叩き、デザインや校正をタダ働き
にしてしまった。これは資本主義との対決を放棄する退却である。メディアをつくるすべての
人びとをないがしろにすることは、メディア自身の自殺行為である。われわれは必要で
最低限の対価は支払うことを前提に出発した。このことが不可能になった時、本誌は
消失するだろう。これは制度の中で制度を批判するという逆説的な状況に投げ込まれて
いるわれわれにとっては当たり前のことだが、その当たり前のことさえ不可能になりつつ
あるのが、グローバリズムとネオリベラリズムが跳梁する現在なのである。こうした状況
をもうち壊すべく始められるわれわれのこの新たなプロジェクトに多くの方が参集するよう
ここに呼びかけるとともに、このプロジェクトに対して読者・執筆者の方々のさまざまな
支援をお願いしたいと思う。
新雑誌、原稿料を払うというところがミソなんじゃないの?
いまどきは情況でも原稿料払うようになったらしいよ
それは絶対にない、デマに類することでしょう。
原稿料払うというなら、20数年の未払いを払えといいたいね。
まあ、払ったらたちまち父さんかな。
ある「情況」関係者は、最近、ある学者の執筆者が原稿料払えと言ったといって、本末転倒で怒っていますた。
インパクションも、「vol」原稿料ないでしょう。
図書新聞は書き手見て払っている。
だってあの攝津正でさえも情況から2万5千円貰ったとかいって喜んでたじゃない。
よく周囲の流れとかチェックしときなよ
もし逆に、あなた本気で「それは絶対ない」とか思っていたとしたら
そっちの思い込みのほうがこわい。問題だよ。
volは原稿料あるよ
摂津正の場合は特例でないの?
最近、ブントOBが増資をして多少金があるから、摂津のような貧民が請求すれば、特例はあるということ以上ではない。
わたしの友人に数人「情況」の常連がいるが、一度ももらっていない。
それは、20数年そうであるという。
何度も言うが、原稿料払うというのは、未払い分を全部払うということだ。
「情況」がマトモに原稿料払っていたのは、
第一次の売れていた一時期(60年代末〜70年代初期)のみである。
「vol」があの膨大な原稿の量の全てに払っていると思うか?
払っているというなら、訂正するが。
まぁ、攝津はあそこの母子含めて存在自体が今流行の言葉で「モンスターペアレント」だから
あれの要求食らったら出さざるえないとか、そういう事情もあるのかもしれませんがね。
どうなんだろうかその辺のことは。
攝津も肝心な事はブログに書かないからねえ・・・。
摂津母ってすごいの?
息子から演繹してよく想像してみて
雨宮処燐が群像の連載に攝津の取材を載せたのは、母親が雨宮に手紙書いたらしいよ
情況界隈ってキモイな
>>894 全然逆だろうw
逆に「family resemblance」がエセ唯物論を蓑にして見えない奴のほうが
全く頭悪いよな
>>893 ラジオで攝津母は、正が翼を広げて羽ばたくのを夢見ていると言っていたな。正の成長が生きがいだそうだ
>>880 「編集者」がなぜ貶辞になってるのか、独りよがりの文章で理解に苦しむ。
いいからすっこんでろよボケ
悍【HAN】 第1号 特集・1968
A5判208頁、定価:本体1400円+税
ISBN978-4-8344-0102-8
2008年10月25日 第1刷発行(年2回、4月・10月刊)
編集委員 内野儀・鴻英良・すが秀実・前田年昭
編集人 前田年昭
発行者 江村信晴
発行所 白順社(東京都文京区本郷2-4-13、phone 03-3818-4759、fax 03-3818-5792)
【もくじ】
68-72*世界革命*展(豊島重之)
1968年の頃の風(唐十郎)
反逆には やっぱり 道理がある(津村喬)
特集討議・「1968」という切断と連続(佐伯隆幸×すが秀実×鵜飼哲×米谷匡史)
「大学解体」に関する若干の考察(青柳宏幸)
壮大なテーマに「楽しく」挑み続けることは可能か?(ペペ長谷川)
なんと正しいことをしたのだろう!(ふとら のぶゆき)
『地の果て 至上の時』 あるいは「路地」の残りの者たち(石川義正)
1968年の戦争と可能性 アナキズム、ナショナリズム、ファシズムと世界革命戦争(千坂恭二)
同意は何を消去したか? 68年5月を今、考えるために(クリスティン・ロス、内野儀訳)
執筆者紹介/編集後記/発刊宣言
『悍【HAN】』発刊宣言
われわれはここに雑誌『悍【HAN】』を創刊する。本誌はその名のとおり「悍ましくも精悍な」批評メディアを
めざし、年二回の発行を決定した。夢にまで日常がはびこってしまった今、眼を見開いて対象をしっかり見つめなけ
れば夢を見ることもかなわない。もとより批判とは現実を根本において捉えることである。
かつて、一九六八年革命のころ、日本においても多種多様な反権力メディアが刊行され、「雑誌の時代」の全盛期を
創出していた。しかし、六八年革命の敗北とともに、反権力すなわち批判の精神は、多くの場合、身振りだけのもの
となって微温的な文化主義と社会学主義のなかに吸収され、消滅していった。批判精神を失った雑誌ジャーナリズム
は、商法改正もあいまって必然的に衰退した。そして現在、エセ学際的な「左翼」論文の多くは自己保身を覆い隠す
ために反権力を標榜し、批評を僭称している。総合誌の休廃刊は、哲学的には「何が正しいかわからない」という不
可知論と「すべては相対的でいろいろ」という相対主義の反映である。
本誌の目的は、在野の批判精神の復興である。ジャーナリズムと批評の危機を資本主義や国家権力のせいにすること
は、結局のところ現状追認と諦めを自他に強いるドレイ精神にほかならない。社会のどの階層も、自分たちが抑圧さ
れているときには悲鳴をあげるが、時代のせいで自分より「下」の階層ができるやすぐに自分たちはひとかどのもの
だと、己は何もしないのに勘違いしはじめる。六八年革命は、左派や進歩派の看板を掲げながら実際は権力のしもべ
として自己保身をはかる守旧派、実権派をこそ撃つものだった。自身の頭の中を革命することから始めなければなら
ない。
本誌の方法は、われわれが住む世界の状況を歴史的、地理的かつ構造的に分析、批判し、世界の変革への戦略をつ
くり出すことに寄与しうる、できる限り質の高い文章の掲載、論争の場としてのメディアの制作である。旧来の左派
は「社会正義」や「ボランティア」の名の下に、原稿料を払わず、印刷や製本などの制作費を叩き、デザインや校正
をタダ働きにしてしまった。これは資本主義との対決を放棄する退却である。メディアをつくるすべての人びとをな
いがしろにすることは、メディア自身の自殺行為である。われわれは必要で最低限の対価は支払うことを前提に出発
した。このことが不可能になった時、本誌は消失するだろう。これは制度の中で制度を批判するという逆説的な状況
に投げ込まれているわれわれにとっては当たり前のことだが、その当たり前のことさえ不可能になりつつあるのが、
グローバリズムとネオリベラリズムが跳梁する現在なのである。こうした状況をもうち壊すべく始められるわれわれ
のこの新たなプロジェクトに多くの方が参集するようここに呼びかけるとともに、このプロジェクトに対して読者・
執筆者の方々のさまざまな支援をお願いしたいと思う。
903 :
糟糠力:2008/10/08(水) 18:41:18
やはり馬鹿は、編集者気取りで、じゃあ書けばいいっていう方に逃げるなw
そういう馬鹿は死んでもらうとして、スガの雑誌は買ってみるしかないな。
>>903 それって逃げだろw
買うだけなら消費者のままだろ
ぜひ参加しろよ
905 :
糟糠力:2008/10/08(水) 19:18:22
>>904 買うというのが逃げという意味が分らない。
カスは言いがかりだけでできているようだなw
>>905 文章を書かない口実として「編集」を持ち出しているだけのように見える
ここで吠えるだけなら名無しと大差ないよ
コテにする程度のちっぽけな自尊心がショボい
907 :
糟糠力:2008/10/08(水) 19:37:12
>>906 文章を書かない口実の編集って、お前頭大丈夫か?w
編集者気取りで人に師事している馬鹿が何人かいる、
そんだけの話だ。もしかしてお前なのか、あの一連の馬鹿は。
>ここで吠えるだけなら名無しと大差ないよ
お前みたいな本当のカスのことだな。
言っておくが、おれより馬鹿なやつがここで、あれを書けとか逃げるなとか言うなよ、
馬鹿はばかなりに小さくなるか面白い意見言え、かスガ
馬鹿を判別する基準ってなによw
語学能力かなんかか?
909 :
糟糠力:2008/10/08(水) 19:49:37
>>908 おれの相手すらできないやつに、スガを論じることなどできない。
さっさと風呂入って寝ろw
馬鹿の基準って何って、中学生か小学生が先生に聞くみたいな感じだな。
情けない。そういう怠けものには何も教えないし、お前がどの程度の
やつか分ったので、以後はなま暖かく見守ってやる。おれの温情に感謝しろ、
かすが。
>>909 マジでお前に知性があるように思えないのだが
>文章を書かない口実として「編集」を持ち出しているだけのように見える
これは、編集と言われた側だって該当してるだろ
物書きが書き込んでるのかも
そんな、どうとでも言える・誰も明かすことがないスレ外の事情を持ち込まれたら、
上のコテハンだって「実は物書きやってて立派に書いてるかもしれないから、全部解消できます(笑)」ともできるし、
編集といわれた側だって「実は物書きやってて(ry」だし
編集を言った側だって「実は物書きやってて(ry」になって、
全部帳消しできるわ
それでいいんじゃね
それって相手の問いに答えない卑劣な手をいくらでも使えるってことじゃね
糟糠力や武陽隠士が無駄に偉そうだからじゃね
あおりゃお前の反発心の対象になってるだけじゃね
訂正 そりゃ
え?お前あいつら好きなの?
別に好きじゃないけど、あいつらむかつく、でスレが進行すること自体、
コテハンがひっぱってるのと同じことになってるじゃん
921 :
吾輩は名無しである:2008/10/11(土) 01:22:14
>>901 >「左翼」論文の多くは自己保身を覆い隠すために反権力を標榜し、批評を濳称している。
自己批判ですか
×濳称
○僭称