「マダム・エドワルダ」の感想です。(以下、断片的ですが…)
自ら神と名乗る娼婦と彼女を買った男の一夜の物語。
真っ先に想起したのはデュラスの「死の病い」でした。
「死の病い」も夜を買われた若い女と、彼女を幾夜も買った男の物語でしたね。
マダム・エドワルダは女陰を見せながら「あたしは神よ」と言います。
――おれは知っていたのだ、知りたがっていたのだ、
彼女のなかに死が君臨していることを片時も疑わず、彼女の秘密に餓えて――
男は彼女のなかに死に至る「沈黙」と「死」が君臨していることを確信します。
バタイユにとって神とは死の君臨者であり、死の前提には「沈黙」が鎮座している
のですね。
>――死の病が醸成されるのはそこ、つまり彼女のなかだということ――(p33)
>女は自分のなかに黒い夜、つまり死を内包していることをすでに知っているの
>です。男がとり憑かれた「死の病」を、女は内奥にひそかに隠し持っています。
→(
>>317・デュラス「死の病い」の感想を参照)
(つづきます)
デュラスの見解とバタイユの見解はほぼ同じとみていいでしょうね。
つまり、両者とも娼婦(女)のなかには「死が内包されている」、ということです。
マダム・エドワルダは自らを「神」と名乗りますが、デュラスの女はそうではない。
なぜなら、デュラスはバタイユほど深く神にとらわれていないのですから。
同じように《娼婦・女・エロス・死》を描きながらも両者がこだわったのはまったく
異なったものでした。
デュラスが描いたのは二度と逢えない黄泉の国からの使者である女を慕う男の
「愛」、バタイユが描いたのは豚のように冒涜される「神」。
>――彼女は尋ねる、「あなたは一度も女を愛したことがないの?」
>あなたは言う、いや、一度も、と。
>彼女は言う、「奇妙だわね、死んでいる人って」――(p30)
→(
>>319・デュラス「死の病い」の感想を参照)
〜両者の描く男たちについて〜
「死の病い」においては、男は誰をも愛さず、すでに「死んでいる」のです。
「マダム・エドワルダ」においては、男は神を愛さず、「死」を恐れます。
デュラスの描く男は「死者」であり、バタイユの描く男は死を恐れる「生者」。
(つづきます)
〜両者の描く女たちについて〜
「死の病い」においては、女は愛の会得者であるゆえに「愛を恐れません」。
「マダム・エドワルダ」においては、女は死の君臨者であるゆえに「死を恐れません」。
両者の言わんとしていることは、男は愛を恐れ死を恐れる存在であるということ。
愛も死も言葉や思考のみでは論理づけられない領域ですね。
女は論理づけられない領域に関しては、理由づけせずに盲目的に受け容れる
ことができます。生来的な資質といってもいいでしょう。
ところでなぜマダム・エドワルダは神なのでしょう?
バタイユによれば、「神は豚にも等しい野郎であろう」とのことです。
娼婦でありながら聖性を持つ女性といえば「罪と罰」のソーニャですが、
マダム・エドワルダはソーニャのような敬虔さを持ち合わせてはいません。
むしろ己の快楽にあきれるほどに貪欲であり、自分の欲望に忠実であります。
けれども彼女は「知っている」のですね。
彼女の快楽は自分のなかに死が君臨しているからこそ、窮極のものになるのだ
ということを。
それゆえに、彼女は行為の最中においてさえ深い「沈黙」に閉じこもってしまう。
――最も痛ましいのは、マダム・エドワルダがそのなかに閉じこもった沈黙だった。
彼女の苦悩とは、もはや通じ合う途はなかった(中略)
敵意をひそめた心の夜のなかへ、おれは吸い込まれるのだった――
(つづきます)
マダム・エドワルダはエロスの絶頂に上りつめた瞬間、覚醒してしまうのです。
忘我の境地は短く、沈黙=死はいついかなる時も、片時も彼女をとらえて離さない。
何と恐ろしいことでしょう。そして、何と不幸なことでしょう。
(デュラスの「ヒロシマ」の女も然り。愛欲のさなかにおいてさえ覚醒していました…)
神が豚のような存在ならば、自ら神と名乗るマダム・エドワルダは文字通り豚であり、
同時に豚であるがゆえに男たちから崇められるのです。
神とは高みにいるのではなく、汚泥のなかにいなくてはならないのですね。
貶められ、穢され、あらゆる冒涜を甘受するとき、初めて聖性を獲得するのでしょう。
あらゆる男たちと交わったロールが、「聖なるものとは交感です」と結論したように。
神とは貶められるがゆえに崇めることができる存在。
バタイユにとって、崇高さと卑俗さとは相容れないものではなく等価の意味を持つの
ですね。すなわち、汚泥にまみれていないものは神ではない、ということです。
ということは、あらゆるものが神になり得ることが可能ということですが……。
いえ、汚泥にまみれていさえすれば神になれるのではなく、己のなかに死という
沈黙を深く内在させており、死に支配されるのではなく死を超えて支配できるもの、
死をも君臨させ得る覚醒した意識をつねに内包させているもの、それこそが神なの
だ、というべきでしょうか……。
(つづきます)
繰り返しますが、バタイユがマダム・エドワルダに神と名乗らせたのは、彼女のなかに
死が君臨していることを自覚しているから、そしてもうひとつは神は豚のような存在で
あることを彼女自らに明言させたかったからなのですね?
バタイユは生と死を司るのは神であること「認めて」いるのです。
(ニーチェは著作のなかで、あなたの死にたいときに死ぬがよい、と言ってますが
バタイユはどうもこれにはあまり賛同していないような…)
生も死も人間ではどうにもならないもの、人智を超えた存在が深く関わっている
のです。
バタイユは無神論者でありながらも、神は豚のような野郎であると、ある種の情熱を
もって痛烈に神を罵倒しています。
神=豚のような存在であることを「想定」している、つまり神の存在を否定している
のではない、ということになりますね。
(かといって、肯定ということにもなりませんが…)
バタイユは神に対して反逆しながらも、完全に否定しきれない。
晩年の講演で「はるかに多く使われたのは罪という言葉だった」(→ロール後半参照)
という証言から踏まえてみても、やはり彼にとって「神=罪を裁くもの」という意識は
生涯彼から離れなかったと思われます。
彼が神から解放され得るのは唯一内的体験という神秘体験のなかでだけ。
彼は神秘体験のなかでのみ神から解放され、あれほど逃げ続けた神と初めて
顔を上げて対等に向き合うことができたのかもしれません……。
――それでは。
>>474 >どう読み、どう語るか、がわからないまま今日に至っているわけでして、
おれも同じ状況だねwまだ。
現代詩文庫で手に入る初期の作品はほとんど、他への参照を必要としない
独立した詩として普通に読めるが、「石の神」あたりから
自分が今まで書いた言葉、読んだ言葉、対話した人と、
書く現在が共鳴を始める。たとえば今読んでる「雪の島」あるいは「エミリーの幽霊」で
島尾ミホさんに呼びかけるような詩が一編あって、これなんか「ドルチェ」を見たり、
読んだりしてからの方が「わかる」んだろうなと思わせる。
それもこの前調度SXYが「ドルチェ」のこと教えてくれたからであって、
それがなかったら「なんか付き合いあったんだ?」みたいな印象にしかならないと思うし。
「死の舟」の表題作は荒木陽子さんに捧げられていて、「雪の島」には陽子さんが
逝ってしまった後の荒木経惟の歩き方が「傾いている」という表現が出てきたり、ね。
>>480-484 デュラスとの対比は思いもよらなかったな。おもしろい!
特に
>>484は「証拠発見!」だなwバタイユは無神論者では無く、
毒づく対象として「神を必要としていた」というわけかww
しかしこの部分はバタイユが自身どうにもできなかった部分、
オブセッションだったんじゃないかな。
「神の遍在」を信じていたと言えちゃうねw
>>475でSXYがバタイユの確信犯的な部分と
「性的なものと宗教的なものを結びつけている」部分を区別したのも、
この意味でおれは納得。バタイユ自身「涜神的」であることが
「萌え」であったと思われ。
さて、1941年ピエール・アンジェリック(天使のごときピエール?)という筆名によって
オルレアン図書館長ジョルジュ・バタイユが出版した(私家版50部)「マダム・エドワルダ」は
死後発見されたメモによって「聖なる神」という書名によって「わが母」(未完)
「シャルロット・ダンジェルビル(天使村のシャルロット?)」(中絶)という連作小説と
「エロティシズムに関する逆説」と題された論文をまとめた
1冊の書物として構想されていたようだ。二見書房刊バタイユ著作集「聖なる神」は
このメモに従って生田耕作が編集したものである。
本を開くと、まず「聖なる神」というタイトルが1ページ。
めくると「マダム・エドワルダ」。
めくると「序」。この巻頭にはあつらえたようなヘーゲルの引用が1文ある。
〈死とはこの上もなく恐るべきものであり、
死の作業を継続することは最大の力を必要とすることである〉
そしてエロティック小説らしからぬ序文が始まる。
「マダム・エドワルダ」の著者はこの作品の深刻さについて自ら注意を促している。
けれども、性生活を主題とする作品を軽く取り扱う風習から考えて、この点をあらためて
強調しておくことも無駄ではないように思われる。それを変更する希望を ─或いは意図を─
すこしでも抱いているわけではない。ただ快楽(性の遊戯のなかで最高度に達する)、
および苦痛(死によって、なるほど鎮められはするが、はじめに最悪の状態へ持ち込まれる)
にたいする伝統的態度について、序文の読者につかの間の反省を求めたいからである。
この序文にのみジョルジュ・バタイユの署名がある。
別ペルソナによる序文、すでに「マダム・エドワルダ」は始まっている。
確信犯バタイユの作戦領域に、我々はすでに足を踏み込んでしまっている。
「マダム・エドワルダ」自体は非常に短い作品だ。この、自分の「ぼろきれ」を
主人公に見せつけながらオルガスムスをむかえる娼婦が「神」であることを
われわれに信じさせるのに、さほどページ数は必要ないとバタイユは考えたようだ。
娼館での一幕、サン・ドニ門、タクシー。
バタイユ作品ではおなじみのアッパーで前のめりな主人公。
そしてそれをはるかに上回る女主人公、マダム・エドワルダ。
徹底的に涜神的であり、エロであること。バタイユが常に
「女性のキャラクター」に負わせるこの負荷は、わたしが読んだ中では、やはり
「マダム・エドワルダ」が最高であり、あまりに徹底的であるがゆえに、
かなり非現実な領域に達していると思われる。
存在感を犠牲にしてまでも概念性を体現したキャラクターと言えるのではないだろうか。
個人的にはロールがモデルとも言われる(年代未確認)「青空」のダーティや
「聖女」の名脇役テレザあたりが好きだが(脱線)
しかし、徹底的であるからこそ、この短い作品は未だにギラギラと輝き続けているのだろう。
路地裏に捨てられた血まみれのナイフのような輝き。
「あの」ブランショをして「20世紀の最も美しい物語」と言わしめたのも
あながち「リアル友だち持ち上げすぎ」とは言えないだろう。
「聖なる神」の企画はその後の遺稿整理によってより明らかになっている。
「聖女たち」吉田裕訳、書肆山田には「エロチスムに関する逆説」草稿
(これは本当に覚書らしく文体にバタイユ臭が少ない)をはじめ、
サルベージされた「シャルロット・ダンジェルビル」、
翻訳者の詳細な解説、調査、分析がまとめられ、
この未完成の怪物の輪郭をかいま見ることができる。
>>476-479 >こうした子供特有のくもりのない目を、大人になってからも持ち続けて
>いられる人は、自分の世界を創作(創造)できますね。
島尾敏雄が自分の最初の作品を『幼年記』と名づけたのも
島尾自身にそういう意識があったからかも。
>《非知》を言葉で表現することは無謀な試みであると百も承知の上で、あえて語り続けたこと、
>それがバタイユの 確信犯的な「いかがわしさ」なのでしょうか。。。
まさにそういうニュアンスです!
「確信犯的ないかがわしさ」という言葉が適切かどうかはわかりませんが。。。
>>485-489 >島尾ミホさんに呼びかけるような詩が一編あって、
島尾ミホは島尾敏雄の妻であるだけでなく
非常に美しい言葉を紡ぐ天衣無縫の書き手であることは
『海辺の生と死』(中公文庫)を読んでもわかりますが、
吉増剛造に語りかけさせるだけのものをやはり持っていたのでしょう。
吉増剛造が何人かの詩人について語った『詩をポケットに』では
伊東静雄(
http://www11.ocn.ne.jp/~kamimura/)にからめて島尾敏雄への言及があり
吉増の島尾に対する熱い眼差しが窺われます。
>個人的にはロールがモデルとも言われる(年代未確認)「青空」のダーティや
>「聖女」の名脇役テレザあたりが好きだが(脱線)
当方もバタイユの中で好きな作品を1作を挙げよといわれれば、
おそらく「青空(空の青み)」を挙げるでしょうね。
>徹底的であるからこそ、この短い作品は未だにギラギラと輝き続けているのだろう。
>路地裏に捨てられた血まみれのナイフのような輝き。
『マダム・エドワルダ』についてのこの詩的な表現はOTO氏らしい!
簡潔で的確に形容するには、こうした映像的表現に勝るものなし。
Cucさんのバタイユ『マダム・エドワルダ』についての文章(
>>480-484)もまた
デュラスを傍らに置いた非常に密度の高い的確な文章で、
バタイユが「神」という言葉について語った文章をもじれば、
お二人のこれらの文章は匿名掲示板という枠を超絶していますね。 〆
(OTO)さん
すばらしいレスをありがとうございます!
わたしの感想は毎回「感想文」の域を出ないのですが、(OTO)さんやSXYさんの
書き込みは大変クオリティが高いです。スレが一気にグレード・アップしますね!
おふたりに感謝です。
>バタイユは無神論者では無く、毒づく対象として「神を必要としていた」というわけか
そうです、そうです!
(OTO)さんの言葉をお借りして言うならば、バタイユにとって神とは罵倒する対象と
しての「萌え」であったと思われます。
根っからの無神論者であるならば、全情熱を傾けてまで神をこきおろす必要はない
のですね。真の無神論者は不在の対象を罵倒するなど思いつきもしないでしょう
から。なぜなら、最初から「存在しない・無い」ものに対しては罵倒しようがないの
ですから。。。
罵倒するには、対象が「存在する・在る」ことが前提条件(必要条件)になるのですね。
そうした意味合いにおいては、ニーチェも然りでしょう。
あの有名な「神は死んだ」は、かつて神が「存在した」ことが前提になります。
初めから無いものに対しては、「死んだ」とは言いません。
「ツァラトゥストラ」の全編に亘るイエスと神への強い否定の姿勢。
「無いもの」を否定することは無意味です。
神を「在る」と想定しているゆえに「否定」の意味が生じるのですね。
(つづきます)
先ず神の存在を想定し、次に激しく罵倒する、冒涜する。
バタイユはニーチェの後継者であると謳われているそうですが、両者とも深く
「神にとらわれている」点に関しては相似しています。
しかし、この両者、人間の真理を突いていますね。
人は特定の対象を永きに亘って讃美しつづけることは困難です。
すぐ飽きてしまうからです。
(恋人たちが夫婦になった途端、厭気がさして別れることの何と多いこと!)
反して、特定の対象を貶め、罵倒する情熱はなぜか永くつづきます。(嫁と姑!)
水が低きに流れるように、人のこころも低きに流れるのですね。
讃美も罵倒も同じようにエネルギーを使いますが、讃美しつづけることよりも、
貶めるほうがはるかに楽なのです。
誤解を恐れずに言うならば、罵倒はひとつの快楽です。
まして罵倒の対象が神であるなら、侵犯がもたらす快楽の度合いはかなり大きい
のでしょう。
快楽は何もエロス体験だけとは限りませんし……。
(つづきます)
>しかしこの部分はバタイユが自身どうにもできなかった部分、
>オブセッションだったんじゃないかな。
そうですね、逃れようと意識すればするほどますます対象に深くとらわれてしまう
ことをバタイユ自身、一番よく熟知していたでしょうね。
けれども、彼のそうしたオブセッションゆえに「無神論大全」をはじめ、論文、小説
など大変意味のある資料が遺されたわけですから、後世に学ぶわたしたちとしては
感謝する反面、彼の複雑な胸中を思うと果たして手離しで喜んでいいのかどうか、
迷うところですね。。。
>「神の遍在」を信じていたと言えちゃうねw
たとえば娼婦、もしくはすべての女が持っている「誘惑する性」という娼婦性。
松毬、卵、太陽、などの球体群のなかに見る神のまなざし。
神に無関心な人たちは、こうしたもののなかに「神」を見い出すことはしませんね。
神にからめとられてがんじがらめになっているバタイユであればこそ、見い出す
ことができたのでしょう。
バタイユは神の傀儡であったのかもしれません。(例えばユダのように、、、)
なぜなら、本来神に無関心な人でも彼の著作を読むことで、結果として神に強い
関心を持つ可能性があるからです。ニーチェについても、この点は同じです。
事実、椎名麟三氏はニーチェを読んで神に帰依しましたし。。。
神にとってはまことに好都合。
(…無論、バタイユは不服でしょうが……)
(つづきます)
>徹底的に涜神的であり、エロであること。バタイユが常に
>「女性のキャラクター」に負わせるこの負荷は、わたしが読んだ中では、やはり
>「マダム・エドワルダ」が最高であり、
バタイユの作品には必ずといっていいほど娼婦が出てきますね。
マダム・エドワルダがそのなかでも群を抜いて際立っているのはやはり「あの」
セリフに尽きます。
――「あたしは神よ」――
いきなりの発言。何の脈絡も説明も説得もない。
神は神であるがゆえに、何の理由づけもいらない。されてはならない。
イエスが「わたしは天におられる神を、わが父と呼ぶ」と宣言したことに
何の理由もいらないように。イエスは神の子だから、神を父と呼ぶ。
マダム・エドワルダは神だから、自らを神と呼ぶ。
男はマダム・エドワルダのこの宣言で即、神とは豚のような野郎だ、と認めます。
何の疑いもなく。それは、男がマダム・エドワルダを神であると「信じた」からであり、
その結果として神=豚野郎という結論に達しました。
読者にとってはあまりにも短絡的な男の思考に面食らってしまうわけですが、
けれども、信仰とはもともと素朴なものであり、ある人が何かを信じさえすれば
その時点で信仰は成立するのですね。
理由づけや、説明といった論理は「信じる」人にとっては不要です。
(つづきます)
>存在感を犠牲にしてまでも概念性を体現したキャラクターと言えるのではないだ
>ろうか。
娼婦マダム・エドワルダは非常に怜悧なキャラクターですよね。
自身も快楽を貪りますが、決して快楽に呑まれない確固たるものを持っています。
彼女のなかに君臨する死が彼女を沈黙させ、その深い沈黙は男たちを圧倒します。
彼女はどんな男と交わっても、自身のなかにある死の意識から片時も逃れることは
できないのです。
あたかも、バタイユが生涯父と神のまなざしから逃れられなかったように……。
そして、彼女と交わった男たちにも「死」の意識を呼び覚ましてしまうのです。
それは絶頂の快楽のさなかから、いきなり地獄に突き落とされる恐怖で
あるのでしょう。
マダム・エドワルダの絶望、無音の沈痛な叫びは、そのままバタイユの恐怖であり、
悲鳴でした……。
――それでは。
SXY ◆uyLlZvjSXYさん
丁寧なレスをありがとうございます。
とてもうれしく読ませていただきました!
>島尾敏雄が自分の最初の作品を『幼年記』と名づけたのも
>島尾自身にそういう意識があったからかも。
おそらくそうでしょうね。
戦時中も片時もこの習作ノートを手離さなかったようですし。
出撃が間近に迫った夜に、ミホさんにノートを託した事実から鑑みますと、
自分の遺書として後に世に出してほしかったのでしょうね。。。
自分の書いたものを人に読んでほしい、小説家になりたい、という意識は
書くことの喜びを覚えた頃から目覚めつつあったのかもしれません。
(つづきます)
伊東静雄の詩のリンク先を貼りつけていただき、感謝です。
伊東静雄は昭和21年9月に林富士馬、庄野潤三、島尾敏雄らとともに
同人誌「光耀」を創刊したのですね。
戦争が終わった翌年ですね。
言論の自由が謳われ、戦争中に抑圧されていた表現することへの渇望が
当時の文学青年たちのこころに渦巻いていたのでしょう。
>吉増の島尾に対する熱い眼差しが窺われます。
詩人吉増剛三は島尾敏雄の「幼年期」に収められている詩作品をどのような想いで
読んだのでしょうね?
島尾敏雄の詩が上手いのかどうか、正直いってわたしにはよくわかりません……。
奇をてらわない素直な表現法であり、技巧もほとんど凝らさないこころに浮かぶまま
に詠んだ詩であるかと思います。
ほほ笑ましさと初々しさを感じさせます。
彼の詩はさながら、「幼年期」の前半に収められている、綴り方を覚えたての
「くもりのないまっさらな眼」で綴られたこころ模様であります。
(つづきます)
>当方もバタイユの中で好きな作品を1作を挙げよといわれれば、
>おそらく「青空(空の青み)」を挙げるでしょうね。
それぞれのバタイユのお気に入り作品、おふたりは「眼球譚」、「青空(空の青み)」
なのですね。
わたしはやっぱり「太陽肛門」ですね。
全編、詩のように美しい選び抜かれた卓抜した言葉で描かれ、比喩の斬新さと
驚きとが相まって、清冽な読後感でした。
これが「あの」バタイユによって書かれたのか……、感慨もひとしおでした。
>デュラスを傍らに置いた非常に密度の高い的確な文章で、
ありがとうございます! とてもうれしいです!!
少し前に偶然にもデュラスを読みましたので、作品内容がまだ脳裡に鮮明に
残っておりました。
このようなうれしい偶然は、何か目に見えない大いなるものの力がはたらいて
いるのかなあ? などとバタイユの神秘体験に想いを馳せたりもします。。。
偶然とは善き賜物、とでもいうのでしょうか……。
――それでは。
>>498-500 早いもので500レスまできたんですね。
Cucさんはもう島尾『幼年期』の詩を読まれたとのことで
私のほうは初期短篇の途中まででひと休みのまま、詩は未読です。
遅々として進まない私ののろまさがいやになってくるのですが、
もし同じペースで読めたらどんなにいいだろうと思うことしばしば。
『幼年記』は文字通り幼年時代の習作といえる文章を収めているだけでなく
また作家としてのスタートとしてそう名づけたばかりでもなく、
人が幼年期にしか持ち得ない原初的な繊細で鋭い感受性というモチーフを
島尾はこのタイトルに込めたんじゃないかと勝手に想像しているのですが、
おそらくはそうした感受性というのは普段は無意識のほうへと追いやられ、
時折夢の中でだけ顔を覗かせるように思います。
島尾が初期から晩年の『夢屑』に至るまで、
夢を拠り所に書いてきたのも当然のことなのでしょう。
>偶然とは善き賜物、とでもいうのでしょうか……。
OTO氏が読んだ吉増剛造とCucさんが読んだ島尾敏雄とに関係があること、
それもまた、偶然の粋な計らいにも感じつつ。 〆
半分のレス数ですが既に479KBです。
>>502さん
お気遣い、ありがとうございます。
確か500KBで圧縮されて、落ちてしまうのですよね…?
495KBに達しましたら、次スレを立てる予定です。
SXY ◆uyLlZvjSXYさん
>早いもので500レスまできたんですね。
そうですね。おふたりが熱意を込めて書いてくださるおかげで
当初の「各駅停車の旅列車」はここまで来ました。。。
おふたりに感謝です。
>Cucさんはもう島尾『幼年期』の詩を読まれたとのことで
>私のほうは初期短篇の途中まででひと休みのまま、詩は未読です。
いえ、実は告白すると前半までの短編以降、なかなか遅々として
読み進めずにいましたので、いきなりページを飛ばして、著者の「あとがき」を
読んだのですね。そして、以下の一文を見つけたのです。
――もともと「ものをかく」ことに近づいたのは、「詩もどき」とでもいうべきかたちに
おいてであった。(中略) 幼虫のすがたをもう一度あらわにすることに加担する気に
なった今でもなお、さなぎの時期をそうすることにはためらいがはたらく。
そのとき詩なら書けるなどと思っていた気配のあったことが、そこをかくしておこうと
かりたてるのかもしれない――(p627)『幼年期』・島尾敏雄・弓立社
島尾敏雄に創作の意志が芽生えた当初、最初に試みたのが詩であったことを
発見したのです。
それで、短編を幾つか飛ばして詩を読んでみたのでした。
(つづきます)
「思 ひ 出」 島尾敏雄
思ひ出!
美しいそして人なつこい姿で 訪れてくる思ひ出!
僕は幼い時の写真を見た
妙見山の頂上で のどかな汽笛を聞き乍ら
田を耕す村人を いつまでもいつまでも
見てた時の 純真な姿を思ひつつ
>人が幼年期にしか持ち得ない原初的な繊細で鋭い感受性というモチーフを
>島尾はこのタイトルに込めたんじゃないかと勝手に想像しているのですが、
上の詩には、まさにSXYさんの読みのとおり、「幼年期にしか持ち得ない原初的な
繊細で鋭い感受性」が込められていると思います。
幼年期特有の「純真な姿」が描かれています。
時を忘れて、野ではたらく人たちを飽かずながめていたトシオ少年。
野で働く人の苦しみやつらさを、まだ何も知らずにいた、無垢な少年時代。
島尾敏雄は、幼年期という二度と帰らぬ日々、思い出に回帰したかったのではなく
ものごころがついた当初の、世界に眼が向けられていく過程や、人々や自然へと
こころが伸びていき、何らかの形でそうしたものたちとこころが結びつけられていく
瞬間の煌きを後々まで大切にしたかったのかもしれませんね……。
(つづきます)
>おそらくはそうした感受性というのは普段は無意識のほうへと追いやられ、
>時折夢の中でだけ顔を覗かせるように思います。
ああ、なるほど!
『夢屑』は未読ですが、『夢の中での日常』も夢を題材にした作品でしたね。
また、今読んでいる『幼年期』でも、島尾は見た夢を克明に日記に記しています。
異性への淡い恋ごころ、怖い夢、願望などささやかなものから濃厚なものまで
実に多岐に亘っています。
こうした普段は眠っている意識が感受性を呼び覚まして夢に現れ、それが
彼の作品にそのまま生かされているのですね。
彼にとって「夢」とは、鋭敏な幼年期の感受性をふたたび呼び戻してくれる貴重な
世界であり、作品の宝庫でもあったのでしょうか。
(以下、「C神父」の感想です)
「C神父」再読しました。 (訳/若林真 二見書房/1971年)
再読してよかったです! というのは、わたしは神父が殺されるシーンで
勝手に「眼球譚」のなかの≪闘牛士の眼≫と≪蝿の足≫の章をこの作品に混入して
読んでいました。「眼球譚」でも若い僧侶が殺される場面があり、どうやらその描写が
脳裏から離れずに「C神父」と混同していたようです。
この作品はバタイユの痛切な「信仰告白」の書ではないでしょうか。
無論、彼は神の死を提唱したニーチェの後継者であり、自ら無神論者であると
公言していますが、あらゆる思想家、思索する人、哲学者にとっては「懐疑」が
第一義であるかと思うのですね。
それゆえに、若き日のバタイユは司祭職を志しながらもつねに神に対する懐疑が
こころを捉えていたことでしょう。
そんな矢先に「神の死=神の不在」を叫んだニーチェの思想に触れ、我が意を得たり
と快哉を叫びました。その後の棄教、アセファルの結成、冒涜的な作品の数々。。。
無神論思想に精力的に活動している間は酩酊状態で幸福でありますが、
ひとたび酔いから醒めた瞬間、またもやあの「懐疑」がふたたび彼を襲ったのでは
ないでしょうか。
すなわち、「神は本当に死んだのだろうか? 神の不在は果たして真実なのか?」と。
なぜなら彼は「思索する人」でありつづけた以上、「懐疑」からは逃れ得ないのです。
(つづきます)
ニーチェに心酔しながら、ニーチェの思想を疑う自分をバタイユは自嘲したことで
しょうね。司祭職を投げ打ってまで傾倒したニーチェ。
偉大なその師とも仰ぐ人の思想を懐疑せざるを得ない自分……。
――僕はただの一瞬も、神を離れた人間を想像できない。
なぜなら、目の開いた人間には神は見えるが、テーブルも窓も見えはしない。(中略)
神は絶えず人間が自分に似るように仕向けている。だからこそ、神は人間を侮蔑し、
神を侮蔑することを人間に教えるのだ。(中略)
神が僕の正体を見抜くとき、神の姿は増大する――(p208〜209)
これは神が存在することを前提にして書かれた文章です。
人間は神の似姿であり、それゆえにひとときも神を離れてはいかなる人間も
この世に存在しない。これに先立つものとして、
――常軌を逸するほどぼくは悩んでいた。神を失った兄貴に代わって、
ぼくが神のみもとに戻らなければならなかったのだ、悔恨が心を蝕んでいた。
ぼくは信仰にどんな救いも求めなかった。しかし贖罪の時は来ていた――(p156)
この一文は晩年のバタイユの神に対する真情の吐露ではないでしょうか。
すなわち、「神の死を唱え、神を失ったニーチェという師に代わって、彼の継承者で
ある自分こそがふたたび神のみもとに帰らなければならない」のだと。
(つづきます)
この作品には他の作品には見られない単語、≪悔恨≫、≪贖罪≫、≪罪荷≫、
≪反省≫、などが登場します。
「無神学大全」を著したバタイユからは到底想像もつかない言葉の群れ……。
わたしはこれらの言葉に、聖書のなかの放蕩息子の姿を見る思いがしました。
若い日に家出をしてあちこちで放蕩し、散々父を困らせた息子が、後年父が恋しくて
改心し、ふたたび家に帰ってくるお話しです。
「マダム・エドワルダ」同様、この作品にも三人の娼婦が出てきます。
バタイユの言葉を借りて言うなら、豚のように蔑まされる存在=神、すなわち、
娼婦=神、ということになります。
彼の作品の一連には必ず娼婦、もしくは娼婦のような女が登場しますね。
そして、ありとあらゆる肉欲の快楽を味わい、法悦に身を任せます。
神は我々人間と同じように快楽の果てに排泄行為をし、その汚物にまみれてこそ
神なのだ、と言わんばかりです。
毎回の娼婦(=神)の登場と猥褻な性行為、やはりバタイユは生涯神から逃れること
は不可能だったのですね。。。
――あたしを見つめてちょうだい。あたしは明晰なのよ。見透してるのよ。
見つめてちょうだい。あたしは幸福で震えてるわ。
知ろうとするから、淫らになるのね。知ろうとするから、幸福なのね。
――(p218〜220)
娼婦に託されたバタイユの率直な叫びですね。
(つづきます)
かつては「眼球譚」であらゆる球体群を眼球に見立てて穢し、父や神の「まなざし」を
嫌悪し恐れ忌避していたのに、ここでは一転して「見てほしい」と懇願します。
なぜなら、彼もまた他の人々と同様、神に見られ神を知ろうとすることで、誰よりも
幸福になりたかった一人なのですから。
彼は神から逃れたいのではなく、誰よりも神に「見つめてほしかった」。
彼は神を知ろうとするばするほど、神を冒涜する淫らな作品を書きました。
なぜ人は信仰を求め、宗教に帰依するのでしょう?
おそらくは、こころの平安や拠り所を得たい、病苦死の恐怖から逃れたい、、、
これらは、煎じ詰めるならば「幸福」になりたいからではないでしょうか?
――幸福感に苦しむほど、幸福なのよ。たとえば、ライオンに食べられながら、
その食べてるライオンを見つめてるように、あたしはこの耐えきれない苦しみを、
いま楽しんでるの――(p225)
この比喩のライオンとは「神」のことでしょうね。
神より高い位置に視点を据え、神に跳梁される自分を見下ろすことで快楽を得る。
幸福とは苦しみを楽しみ享受すること。すなわち「受諾」。
バタイユの幸福は神への反逆どころか、あらゆる宗教の根幹を成すものです。
若い日の神への背信、後年悔恨と贖罪という痛恨の思いを味わいながら、自分を
弄ぶような神の仕打ちをはるか高みから見つめ、耐え切れない恥辱をこころから
楽しみ、ひそかに幸福を味わっていた、おそらくは内的体験のなかで。
バタイユの独創的な「内的体験」、超・神性、超・宗教がここに明確に現れています。
(つづきます)
訳者の若林真氏があとがきのなかでこのようなことを述べておられます。
――要するに彼らは、生きながら死に、目をさましていながら眠っている。
あるいは逆に言ってもよかろう、彼らは死んでるように生き、眠ってるように
目ざめているのだ。
彼らが体得しようと望んでいるものは、狂気の明晰さ、または明晰な狂気である
――(p257)
まさに日頃ブランショの作品に対して抱いていたわたしの私見とぴったり一致
します! (なんて言うと、ちょっと生意気かなあ……?)
「謎の男トマ」然り、「至高者」然り。
バタイユがブランショに抱きつづけた友愛は、表現の方法は異なりつつも、
問題提起が同じであること――神を超越した《至高者》by(ブランショ)、
《超・神》by(バタイユ)――、人物の死生観、そして共通する明晰な狂気が
表現者として互いのこころを深くとらえたのですね。
やはり、再読してよかったとこころから思います。
このような機会がなかったら、放棄して未読のままだったと思います。
再読の機会を与えて下さって、ありがとうございました。
――それでは。
◆Fafd1c3Cucsさん
>>503以降、独力で10KB消費して現在489KBです!
495KBだと遅いような気がします……
過疎板だからすんなり新スレッドが立つのかも知れませんが。
513 :
◆Fafd1c3Cuc :2006/04/02(日) 23:03:33
514 :
SXY ◆uyLlZvjSXY :2006/04/02(日) 23:22:57
Cucさん、島尾敏雄についての早速のレスありがとうございました。
ところで、スレッドに容量のリミットなんてあるんですね。
はじめて知りましたよ。ここではどこまで書けるのでしょうか?
SXY ◆uyLlZvjSXYさん
>島尾敏雄についての早速のレスありがとうございました。
いえいえ、どういたしまして!
早速、次スレに少しつけ加えて書きました…。
>ここではどこまで書けるのでしょうか?
わたしも実は詳しくは知らないのですが、おそらく500KB?
くらいではないでしょうかね……?
圧縮されるまでの間、あまり堅苦しくならずに少し文学から外れた話題などで
楽しむのも一興かもしれませんね。
いま490.8kだな。確か512kとか515kで落ちるんじゃなかったかな?
AAスレとか700くらいで「埋め」始めるけどな。
おれも落ちる瞬間は見たことないなww
にしてもまだ500超えたばかりだからなww
すごいスレだよwスレ主乙。
「C神父」は未読だけど感想おもしろいよww
あれだな、バタイユはキリスト教的な「パッション」(受苦)
の作家と言えるのかも知れないな。
ニーチェは、都市生活を温床として様々に分化を繰り広げる
人間の創り出した思想、価値観を俯瞰して、それが最早「神」という
中心概念を必要としていない状況を「神は死んだ」と表現した、とも
言えると思うが、バタイユは「聖なるもの」の存在、宗教的(そして性的)
トランスを実感として持っていた分、神も、エロも手放すことはしなかったの
だろう。
この前「ドルチェ─優しく」(本)を購入して、
いま読んでる。感想は読了後少し書こうと思っているが、
映画の方は新宿ツタヤでも置いてなくて、
とりあえず「日陽はしづかに発酵し…」というソクーロフの
他作品を借りてきて見たんだが…
正直かなりショックを受けた。なんかすごい監督だこの人ww
見れるものは全部チェックしようと心に決めましたw
(OTO)さん
さっそくのカキコ、ありがとうです!
このスレは落ちるまで「対話」で埋めることにしようかと思います。
(新しい感想文は次スレで順次upしていく予定です)
>おれも落ちる瞬間は見たことないなww
わたしもです。落ちるのを見るのは今回初めてです。
>「C神父」は未読だけど感想おもしろいよww
ありがとうございます♪
……毎度のことながら、思い込みの激しい(!)感想文なのもので。。。
>ニーチェは、都市生活を温床として様々に分化を繰り広げる(以下略)
そうですね。
人々はかつてのように共同体のなかでの帰属意識や、ムラ意識を
持つことはなくなりました。
文明の発達とともに、集団で神に祈願をしたりする必要性は減っていった
でしょうね。
また、科学の進歩により、病気治癒の祈願も以前ほどではなくなったので
しょう。
このような状況下においては、人はもはや神を顧みることはせず、
神は不要なもの、もしくは無用の長物となっていったでしょう。
人は安逸な日々のなかでは神を求めることはしないのですね。
そう、「神は死んだ」のです。。。
>バタイユは「聖なるもの」の存在、宗教的(そして性的)
>トランスを実感として持っていた分、神も、エロも手放すことはしなかったの
>だろう。
「エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だと言うことができる」
バタイユはエロティシズムについてこのように言及しています。
彼はエロティシズムを考える際、どうしても「死」を外すことが
できないのですね。
また、いくら文明や科学が進んでも、「死」から逃れることはできません。
死は究極の君臨者です。
その「死」を司っている超・存在。(超・神?)
トランスに導かれるとは生きたまま死に近づくこと、超・存在を「知る」こと。
《非―知》についてバタイユはこだわりにこだわりました。
神秘体験、恍惚体験は、はたして《知》なのだろうか?
《知》ならば、どのように表現できるのだろうか…?
>この前「ドルチェ─優しく」(本)を購入して、
>いま読んでる。感想は読了後少し書こうと思っているが、
今、図書館にリクエストして他地区から取り寄せてもらっているところです。
早く読んでみたいなあ……。
そしたら、また次スレで意見交換ができますね!
楽しみです♪
>正直かなりショックを受けた。なんかすごい監督だこの人ww
えっ! いったいどのような衝撃を受けられたのでしょう?
〜おまけ〜
以下は、以前保存しておいた映画『死の棘』の感想です。
松坂慶子の抑えた演技、いいですね。
狂奔する妻の役というと、たいていは髪振り乱し、般若の形相、乱れた衣服、
ヒステリックに大声で罵詈雑言を浴びせる、、、
こうした大仰なわかりやすい演技ではなく、うちに秘めた狂気を押さえた声で
表現し(ドスの効いた低い声)、座った目で執拗に責め抜くという高度な演技力。
静かであればあるほど、かえって不気味さが漂います。。。
ときおり挿話のように映し出される奄美大島の海と空の青さ、濃い緑の
鮮やかな映像は実に見事ですね!
南国の島特有ののどかさと、色彩ゆたかな自然。
東京の片隅でのせわしない暮らしと、殺風景な四季の映像。
奄美にいた頃と今の妻のこころのなかが映像で対比されているのですね。
>>521 >えっ! いったいどのような衝撃を受けられたのでしょう?
やっぱそう来るよなあww
なんつんだろ、「ズラウスキーの映画を初めて見た時のような衝撃」ww
これじゃわかんないなww
まだよく調べていないんだけどソクーロフはタルコフスキー
の弟子らしく、映像を積み上げていくだけで観る者をトランスに
もっていく感じは多少似ているとも言えるが、テンポはタルコフスキー
よりもずっと速い(つかタルコフスキーはゆっくりすぎるw)
撮影現地で取材した実際その街で生活する人々の映像、その
言葉にならない感情の動きを絶妙に編集しながら、そこで
演じられるドラマの流れと同期させていく手法には唖然としたな。
この街は何処なんだろう?ロシアの辺境地帯、様々な人種、言葉、
脅威的な自然、風景。徹底的に煮詰めたれた色彩。
あはは、何言ってるかわかんないなwwww
そのくらい衝撃的だったんだよ、見てみww
ドルチェ(本)の撮影日記とか読むと
ほんと優しい普通のおじさんなんだけどなソクーロフw
だけど1本観ただけでおれの中の「監督ベスト5」くらいに
食い込んできたなあww
>>552 >松坂慶子の抑えた演技
ミホさんはすごい厳しいしつけで育てられたらしい(「ドルチェ」対談参照)
女は笑うときに歯を見せてはならない、とか。すごいよねww
そう思うとあの狂いっぷりも、さらにすごく感じるww
(OTO)さん
スレ埋めにご協力ありがとうです♪
(いったい何KBくらいで落ちるのでしょうかね? う〜ん、目が離せません…♪)
>「ズラウスキーの映画を初めて見た時のような衝撃」ww
この監督の作品、まだ一度も観たことがないのです……。
>ソクーロフはタルコフスキーの弟子らしく、
「惑星ソラリス」はビデオで観て、「僕の村は戦場だった」のほうは、
テレビの深夜劇場の時間帯に観ました。
「惑星ソラリス」はそれまで観たSF映画とは明らかに質を異にしていました。
SF映画というと娯楽的な要素が強いのですが、この作品は人間の潜在意識、
深層心理をテーマにしており、不気味な怖さが漂う作品でした……。
ソラリスの“海”は人間のこころを読み取り、意のままに操作します。
未知の生命体“海”は非常に高い能力を持っています。
静かであるけれども正体不明ゆえに、不気味さが一層際立つ。。。
正体不明といえば、ブランショの作品も全体が“濃霧”で包まれていますね。
“濃霧”のなかには何が潜んでいるのか、読者には最後まで明かされることは
ありません。人物たちは沈黙しつづけ、会話をしないのですから。。。
“濃霧”はソラリスの“海”同様、言葉を持たないゆえに、接するものたちを
困惑させ、謎や神秘は強まるばかり、、、
“濃霧”=ソラリスの“海”=「沈黙」。
対話不能なものたちに対しては、わたしたちは口を閉ざすしか術が
ありません。
「沈黙」とは、言葉を与えられた人間たちが慢心し饒舌すぎることへの警鐘、
戒めなのでしょうか……?
「僕の村は戦場だった」は、少年の眼をとおして描かれるモノクロの映像が美しい!
詩情ゆたかな映像は、「シベールの日曜日」(セルジュ・ブールギニョン監督)に
通じるものがあり、モノクロゆえの美しさが際立っています。
そういえば、この二作品とも静かな反戦映画ですが、子供が主役であり、
戦闘シーンはあまり出てきませんでしたが、子供の眼をとおして描くことで
戦争の悲惨さは一層鮮明です。
>そのくらい衝撃的だったんだよ、見てみww
そうですね。週末にTUTAYAに問い合わせてみます。
>ミホさんはすごい厳しいしつけで育てられたらしい(「ドルチェ」対談参照)
>女は笑うときに歯を見せてはならない、とか。すごいよねww
ええっっっーーーーーー!!!!!!!!
すごいですね……。
ミホさんは生まれた島では王族の高貴な血を引く一族のひとり娘として
大切に育てられたそうですが、その分しつけも厳しかったのですね。。。
高貴な一族の末裔として、島民ばかりでなくどこに出しても恥ずかしくないように
厳格に育てられたのでしょう。
「死の棘日記」に掲載されている島尾敏雄と知り合った頃の娘時代のミホさんの
写真を拝見しました。
整ったはっきりした目鼻立ち――南国の島特有の情熱的な黒い瞳、一途さを
思わせる濃い眉、娘らしいふっくらとした頬、きりりと結ばれた聡明な唇。
ミホさんの写真の隣には海軍の制服姿の島尾隊長の写真。
特攻隊長のイメージから程遠い優美な立ち姿――ごつさのない長身痩躯、
温和なまなざし、微笑しているような口元。
戦争、特攻が引き合わせたこのふたりは千載一遇の出逢いでした。
奇跡のような、特攻出撃寸前での終戦。
数奇な運命に導かれたふたりは極北の文学と後世で謳われる「死の棘」を
生むに至りました。
あの作品はミホさんと出逢わなければ書かれることは決してなかったのでしょう…。
いよいよ501KBです。(まだ書けるのかな…?)
このスレに書き込んでくださったSXYさん、OTOさん、
本当にありがとうございました。
おふたりのおかげでこんなにも良いスレッドに成長することができました。
感涙です……。
また、名無しでエールを送ってくださった方々、
ROMしてくださっている皆さま、感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。
皆さまに支えられて、このスレも幕を閉じようとしています。
今度皆さまにお目にかかるのは、次スレですね。
別板でOTOさんはすでに既読ですが、わたしの好きな作家の言葉を
記します。
――人間が人間に及ぼす影響のなかで、もっとも深い部分を揺り動かすものは
何だろうと考えてみるとき、友情や信頼、無償無私の行為といった、人間の美質が
もたらす抗いがたい力を、思わないではいられません。
作品の上で実現することの困難さ、未熟な者が希うことの無謀さを思い知る一方で、
そこから目を離しては書く意味も無くなる、と遠い声がします――
――高樹のぶ子『その細き道』あとがきより――
ありがとうございました。
――スレ主こと ◆Fafd1c3Cuc