秋の夜長に

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1吾輩は名無しである
読書はいかが
2吾輩は名無しである:03/10/10 23:12

〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・∀・)    
  `ヽ_っ⌒/⌒c 旦 
     ⌒ ⌒
3吾輩は名無しである:03/10/10 23:14
「ジェーン・エア」読んだら映画が見たくなった
4吾輩は名無しである:03/10/11 00:15
秋の夜長に

映画もいいね
5星天停止:03/10/14 00:42
発見
6水底:03/10/14 01:00
八件
7星天停止:03/10/14 01:02
>>6
はじめまして
8水底:03/10/14 01:04
>>7
はじめました
9星天停止:03/10/14 01:07
で、どうですか
10水底:03/10/14 01:09
んー、まぁまぁ

星天さんは元気無さそうですね
11水底:03/10/14 01:10
少し心配
12星天停止:03/10/14 01:11
え、そう?
13水底:03/10/14 01:13
某スレでの最後の書き込みが、ね
14星天停止:03/10/14 01:17
ああ、心配ないわい
15水底:03/10/14 01:19
そ、そうか。ならいいけど
16星天停止:03/10/14 01:22
なんか本読んでるの?
17水底:03/10/14 01:25
>>3が私なんやけど、「ジェーン・エア」を最近読んだ。
もう読み終わったけども。
18星天停止:03/10/14 01:28
へえ、俺はもうずいぶん読んでないな。
なんか活字で状況とか説明されても、それを脳内で映像化できなきなってきた。
19水底:03/10/14 01:31
あー、それはわかるね。昔は長編でも一晩で読破できる集中力があったもんやけど、
今は少し読んで、考えて、また読んで、考えて、を繰り返しながら読むから中々進まない。
頭の中で無理に映像化してる感じ。昔は意識しなくても出来たのに。
20星天停止:03/10/14 01:32
歳ですよ、歳。
21水底:03/10/14 01:35
ああ?
22星天停止:03/10/14 01:39
コワイヨー
23水底:03/10/14 01:42
うそうそ、よしよし
24星天停止:03/10/14 01:45
よしよして
25水底:03/10/14 01:47
はは、まぁ良いではないか

今まで読んで感動した本とかある?
26星天停止:03/10/14 01:52
小説とかは無いなあ。読んだ冊数が少ないってのもあるけど。
中学生だか高校生の授業でやった智恵子抄の「レモン哀歌」はちょっと好き。
智恵子が息を引き取る場面の詩。
27水底:03/10/14 01:54
あー、いいね。がりりと檸檬をかじるとこが印象的だったなぁ

学校の授業でやったやつって結構記憶に残ってるよね
「舞姫」とか凄い覚えてる。あと、漢文が好きだった
28星天停止:03/10/14 02:00
そう、学校でやったのって印象的。星新一とか。
島崎藤村のなんとかって詩が好きだったんだけど思い出せない・・・

漢文はサッパリだなあ
29水底:03/10/14 02:03
星新一!なつかしー
しかし名前は覚えてるのに作品が思い出せない
なんやっけ
30水底:03/10/14 02:06
島崎藤村はこれかな

「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき ・・・」

若菜集やね
31星天停止:03/10/14 02:11
>>29
俺も思い出せない・・・あはは
>>30
いやそれじゃないな・・・なんか山が噴火する詩だったような気がする。
そもそも藤村じゃないような気もする。


そろそろ落ちるかなー
32水底:03/10/14 02:12
そうするか
もう遅いしね、おやすみーん

また来てね
33水底:03/10/19 23:36
種田山頭火の俳句が好きだ

分け入っても分け入っても 青い山
34水底:03/10/22 22:56
淋しいなぁ・・・このまま落ちちゃうのか
35水底:03/10/22 22:57
非難と放置を覚悟で上げてみる
36星天停止:03/10/27 23:15
放置されているようで
37水底:03/10/31 22:20
>>36
ねぇ、放置されまくりw

寝る、おやすみ
38星天停止:03/11/01 23:20
このHNはなかなか気に入っている
39星天停止:03/11/01 23:31
40水底:03/11/01 23:32
ぴーぽーぴーぽー
41星天停止:03/11/01 23:36
早く乗りなさい!
42水底:03/11/01 23:38
えー
43水底:03/11/01 23:45
あっちの名無しさんは私じゃないよ
44星天停止 :03/11/01 23:46
どの名無し?
45水底:03/11/01 23:48
二人は何処に行ったのか、って書いてた名無し

☆天さんが私と間違ったのかと思って。
46水底:03/11/01 23:49
実は私もこのHNが気に入っている
47星天停止:03/11/01 23:52
>>45
ああ、あれは別人だと思ってた
>>46
みなぞこ だと変換されないんだね。そういう読みじゃないのか
48星天停止:03/11/01 23:59
水底 ・・・あ!本当だ!
49水底:03/11/02 00:00
良かったねぇ
50水底:03/11/02 00:03
あ、書き込めた
51星天停止:03/11/02 00:04
52星天停止:03/11/12 21:29
保守
53星天停止:03/11/21 01:06
捕手
54水底:03/11/24 21:28
どこの板だか忘れてました、、
保守ありがとう
55水底:03/11/24 21:31
携帯が無いとこんなに不便
56水底:03/11/25 21:15
ぼえ〜
57星天停止:03/11/30 00:33
ほげ〜
58水底:03/12/07 22:00
ほえ
59水底:03/12/07 22:05
日曜に大阪梅田なんて出かけるもんじゃないねー
60吾輩は名無しである:03/12/09 14:23
61 :03/12/10 05:14
再放送の白い巨塔をみて はたと思い出し
久しぶりに山崎豊子を引っ張り出して読んでいます

二つの祖国 イイ
62星天停止:03/12/17 21:00
ほう
63水底:03/12/30 16:03
今年も終わりかぁ
64水底:03/12/30 16:09
来年もよろすく
65星天停止:03/12/31 23:36
よろ鋤く

もう携帯が使えない・・・しばらく駄目だろうなあ
66水底:03/12/31 23:57
私はまだ使えるぽい

田舎だからだろうか・・・
67星天停止:04/01/01 00:00
岡村を見ながら年明け
68水底:04/01/01 00:01
あけました
69水底:04/01/01 00:03
よかった、挨拶できた
70星天停止:04/01/01 00:08
鐘の音がきこえていた。そんで近所の犬が吠えていた。
71水底:04/01/01 00:12
うちも鐘の音がきこえる
72星天停止:04/01/01 00:13
水底ってどっから取ったHNなの?
73水底:04/01/01 00:13
携帯にチャレンジしてみよう
74星天停止:04/01/01 00:14
やっぱり携帯死亡
75水底:04/01/01 00:17
>>72
あ、いや、特にどこから取ったというわけじゃないね
なんとなく響きが好きだったからかな。
あと、今の生活が水底でぼんやり暮らしてるようなイメージだから。んー、意味不明
76水底:04/01/01 00:18
>>741
届いてはいるの?
77星天停止:04/01/01 00:21
誰にレスしてるのやら・・・
78水底:04/01/01 00:23
ぐへ

うーん、こうなったら741までは伸ばさないとね
79星天停止:04/01/01 00:24
誰に聞いてるのかわからんが届いてはいるみたい
80水底:04/01/01 00:26
あ、届いてはいるんですね

関連スレに挨拶してきた。でも私ってことは内緒ねん
81星天停止:04/01/01 00:28
別に変名使うこともあるまいに
82水底:04/01/01 00:29
うぐ、なんとなく・・・
83星天停止:04/01/01 00:31
むぐ
84水底:04/01/01 00:33
岡村綱渡りしてる


と思ったら落ちたー
85星天停止:04/01/01 00:35
これはどういう企画なんだろ
86水底:04/01/01 00:39
途中から見たからわからぬ・・・


1 名前:ひろゆき@どうやら管理人★ 投稿日:04/01/01 00:01 ID:???
正月三が日限定で「おみくじ機能」を搭載しました。
名前欄にomikujifusianasanといれて書き込むと、
【大吉】【中吉】などに変換されますです。。。

↑ちょっと面白そう
87星天停止:04/01/01 00:40
fusianasanて・・・やばくないか?
88星天停止:04/01/01 00:41
まだ無理
89水底:04/01/01 00:41
いや、そう思ったんだけど、そのスレでは皆やってるっぽいんだよね

罠かな?
90星天停止:04/01/01 00:43
どこの板?
91水底:04/01/01 00:45

ここのレス番210ね
http://news5.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1072882801/l50

やっぱ罠かも・・・
92星天停止:04/01/01 00:48
そりゃ罠だ
93水底:04/01/01 00:49
んー、やっぱ2ちゃんねらーってコワヒ

やばいなぁ、ここに書き込むつもりで雑談所に誤爆しちゃったんだよね
94星天停止:04/01/01 00:54
あらまあ
95水底:04/01/01 00:55
一応フォロー入れといた

ところで、まだ無理?
96星天停止:04/01/01 01:02
無理だった。だめだこりゃ
97水底:04/01/01 01:05
困ったなぁ
98星天停止:04/01/01 01:07
しばらくは復旧しないだろうなあ。
しゃあない
99水底:04/01/01 01:10
朝になれば大丈夫かな
100星天停止:04/01/01 01:22
たぶんね。年越しはいつもこんな感じだった気がする
101水底:04/01/01 01:29
100おめー
102星天停止:04/01/01 01:30
ああ、いつのまにか100に。
103水底:04/01/01 01:33
いつのまにかね
スレ立てた時はちゃんとタイトルに即した時期だったのになー
104星天停止:04/01/01 01:43
あまり使う機会もなかったからね
105水底:04/01/01 01:52
106水底:04/01/01 01:55
もう寝よう
107星天停止:04/01/01 01:56
ねえ。もう2時だ。落ちようかね
108星天停止:04/01/01 01:57
おやす
109水底:04/01/01 01:58
うん、そうしよう
早く携帯復活しますように
110吾輩は名無しである:04/01/05 20:33
監視してますよ。
111星天停止:04/01/13 19:31
お疲れさまです
捕手
112水底:04/01/13 21:27
>>110
いらっしゃい、どなたさまでっしゃろ

今日は寒い
113星天停止:04/01/25 02:07
114星天停止:04/01/31 22:24
115吾輩は名無しである:04/02/06 02:12
116水底:04/02/10 20:40
S
117:04/02/17 19:42
Y
118:04/02/29 20:42
U
119:04/03/08 21:59
U・S・J! U・S・J!
120:04/03/17 07:34
121:04/03/18 16:49
122:04/03/19 07:16
123:04/03/20 10:17
124星天停止:04/03/23 22:34
ああ、移転してたか
125星天停止:04/04/09 21:46
おひさ
126星天停止:04/04/18 12:48
127星天停止:04/04/27 23:32
「魔」のあとなんて続けようとしてたんだろ・・・思い出せへん
128星天停止:04/05/11 00:26
§・∀・§
129皆そこ:04/05/11 00:29
うあーー
保守ありがとう!

てかありがとう、色んな意味でm(__)m
130星天停止:04/05/17 00:06
§・∀・§<苦しゅうない
131水底:04/05/28 22:56
ふー…
132水底:04/06/09 23:53
鹿ー!
133星天停止:04/06/16 22:20
鹿せんべい
134星天停止:04/06/27 10:33
味噌かつ
135水底:04/06/30 23:43
味噌カツ、またいつか
136星天停止:04/07/24 12:22
mohayou
137星天停止:04/08/03 23:48
138水底:04/08/05 22:06

底辺まできた
139水底:04/08/15 22:46
超頑張れ、このスレ
140水底:04/08/22 17:30
⊂⌒~⊃。Д。)⊃もは〜
141フラチン:04/08/23 23:11

            / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
         /           \
         /              ヽ 
   / ̄\ l      \,, ,,/      | 
  ,┤    ト |    (●)     (●)   | 一日一善
 |  \_/  ヽ     \___/     |     
 |   __( ̄ |    \/     ノ 
 ヽ___) ノ

142水底:04/08/29 19:08
あ、あがっちゃられら!!
143星天停止:04/09/08 00:13
144星天停止:04/09/22 00:08:04
河原町
145星天停止:04/10/04 18:42:09
淀屋橋
146星天停止:04/10/14 22:54:52
烏丸御池
147星天停止:04/11/02 20:33:34
三条京阪
148星天停止:04/11/16 00:03:37
梅田
149星天停止:04/11/21 01:23:18
おだいじに
150吾輩は名無しである:04/12/05 01:14:49
151星天停止:04/12/18 18:54:29
太秦
152星天停止:04/12/31 19:32:45
四条大宮
153水底:04/12/31 23:58:02
としこし
154水底:05/01/01 00:15:08
蕎麦うま
155水底:05/01/01 00:16:02
書き込みにく
156星天停止:05/01/01 00:16:13
蕎麦くいてー
157星天停止:05/01/01 00:16:36
コンビニ行こうかな
158水底:05/01/01 00:18:18
(-_-)ノシ
159星天停止:05/01/01 00:21:49
160水底:05/01/01 00:24:37
雪降ってる?
161星天停止:05/01/01 00:26:15
やんでる
162水底:05/01/01 00:28:08
ほうか〜
でも道凍ってそう
163星天停止:05/01/01 00:31:56
寒いしねえ
164水底:05/01/01 00:32:43
コンビニ行くなら気をつけなあかんえ
165星天停止:05/01/01 00:37:54
いてくる
166水底:05/01/01 00:40:11
いてら

私はお風呂に入ろう
167星天停止:05/01/01 00:49:46
いてーら
168星天停止:05/01/27 00:35:45
淀屋橋
169星天停止:05/01/27 00:37:26
しまった淀屋橋は出てたか
代わりに…
170星天停止:05/01/27 00:38:18
丹波橋
171星天停止:05/03/03 13:01:12
嵐山
172吾輩は名無しである:2005/04/19(火) 03:35:46
173星天停止:2005/04/19(火) 19:52:23
化野
174星天停止:2005/05/12(木) 06:44:15
仇野
175星天停止:2005/05/12(木) 19:00:02
おお何だ何だ

みなさんありがとう。後は頼みましたよ
176 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/14(土) 15:11:28
はじめまして。
こんなスレがあったのですね…

ところで質問なのですが、ここは読んだ本の感想や意見交換の場として
カキコしてもいいスレなのでしょうか?
また、カキコは長文でもいいのでしょうか?

せっかく訪れたので、有効に利用したいと思っている者です。
177吾輩は名無しである:2005/05/14(土) 20:59:32
あげましょう
178吾輩は名無しである:2005/05/14(土) 21:26:05
><176
好きに使っちゃってくだせい
179 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/14(土) 21:52:57
>>178

ありがとうございます。
他スレでバタイユについてカキコしていた者です。
では、お言葉に甘えて「読書感想」や、「意見交換」の場所として使わせていただきますね。
180吾輩は名無しである:2005/05/14(土) 22:06:19
廃物利用
181SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/15(日) 10:22:38
>>179
こんにちは。
182 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/15(日) 21:14:09

>>181  SXY ◆uyLlZvjSXY さん
さっそく、いらしていただきまして、ありがとうございます。

>カフカは日記や手紙以外の大半の小説は読みました。

あの難解なカフカ作品の大半を読まれているとはすごいですね…! 敬服いたします!

カフカは『変身』、『城』、『審判』とあと幾つかの短編を読みました。
ちなみに『審判』は途中で投げ出しました…。(わたしのなかでも迷宮入り、です)
カミュは『異邦人』のみを読みました。

両者とも「不条理」、カミュにはプラス「ニヒル」という言葉がおそらく定番なのでしょうね。
わたしの読後感は――分け入っても 分け入っても 青い山――(山頭火)に尽きます。
この句は、行けども行けども手の届かぬ境地(青い山)に向かって辿る、山頭火の思いを綴る
代表作の一句だそうです。
勢いよく伸びた夏草は丈が高く濛々と茂り、行く手をこれでもかこれでもかと阻みます。
必死で草をかき分けながら進んでも、もなかなか目的の場所には辿り着けません。

城に辿り着けないKも、太陽のせいで人を殺したムルソーも、永遠のループに嵌まり、
彷徨し続ける山頭火の句と重なるような気がするのですね…。
いつまで経っても終わりがない、達成感がない、、、残るのは飢餓と疑惑と失望のみ。。。


(つづきます)
183 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/15(日) 21:14:48

>語りえないものについては沈黙しなければならない、けれども、
>語りえないがゆえに語ろうとする欲望がかきたてられるのか、それとも、
>語りえないものを語ろうとする不可能なことを試みるのは
>そこに《語りえないもの》があるということを「示す」ためなのか、
>そんなことを考えているのです。

……人に「言葉」が与えられている以上、わたしたちは誰もが「語ろう」と欲望しますよね。
けれども、この「言葉」への欲望は永遠に満たされることがないでしょう。
なぜなら、この世は《語りえないもの》で満ちているのですから。
「語ろう」と欲望することは本能であり、それは伝達手段である言語が唯一人間にのみ
与えられている、という特権意識からきているものなのかもしれません。
言葉を与えられたわたしたちは、傲慢にもすべてを語れると錯覚します。
けれども、《語りえないもの》があるのは厳然とした事実であり、
《語りえないもの》はただ「示される」のみに留まります。

――初めに言葉があった、言葉は神とともにあった――とは聖書の言葉です。
言葉は本来、神のものであり、わたしたち人間は神から言葉を授けられたとすれば、
ここにわたしは、神が人間に付与した「言葉の限界」と「戒め」を見るのですね。
わたしたちは「語ろう」と欲望した次の瞬間に、「語れない」ことがあると知って、愕然とします。
そのとき初めて、「言葉」に対していかに高慢であったか、痛感するのですね……。
『論考』を書いたウィトゲンシュタインは、それを誰よりもよく知っていたのではないかと推察します。


(つづきます)
184 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/15(日) 21:15:24

>その門の中に何があるのかはわからない。
>門の中に入れるのかどうかもわからない。

『城』でも同じ疑問が残りました。そのものの正体が掴めない、辿り着けない…。
バタイユの《語りえないもの》は神秘的なものの暗示でしたから《神》と推測されましたが、
カフカの場合は異なりますね。。。「法」とか「掟」のようなものでしょうか?

今日では「法」は成文化されており、文盲でない限り誰もが読めるものであります。
法律書なども簡単に入手できます。けれども、何か事に巻き込まれた時には、一般人には
まったく歯が立たない。特定の専門家しか使いこなせない。とりわけ、よそ者や異邦人には厳しい。
「法」や「掟」は本来ならわたしたちを守るためにあるはずなのに、時として無実の人間に
不当な処罰を与えるものでもあります。

それは遠くにそびえ立っている「城」そのものであり、「城」や「法」を目にすることはできても、
決して本体に近づくことはできず、どんなにあがこうとも手を出すことができません。
カフカの作品における、永遠に開けてもらえない門、辿り着けない城、唐突な逮捕、、、、
ここでは、「法」はただ、結果を「示す」だけのものです。。。(理由は度外視されます)


(つづきます)
185 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/15(日) 21:16:06

>待つことに意味があるのかどうかもわからない。
>それでも彼は待ちますが、それはあたかも、
>「門」の存在を示すというただそれだけを目的としてるかのように。

いったい≪待つ≫とは如何なる行為なのでしょう? 
最も容易であると同時に最も困難である、それが≪待つ≫ことではないでしょうか。
人は待つことを課題として与えられた瞬間から、試されることが始まります。
それは永遠に気の遠くなるような「任務」に近いものです。
何の期待もなく待つことは不可能でも、「任務」としてなら可能なのかもしれません…。
それも、他人から強要されたものではなく、自ら≪待つ≫ことを欲し、自ら選んだ「任務」としてならば。
途中で任務≪仕事≫を放棄することも可能なのに、カフカの人物たちはあえて自由意志でそれをしない。

――仕事というものはいったい誰のためにするのだろう。仕事自体のため、という人もある。
自分自身のため、という人もある。どちらも決して本当ではない。
仕事は心をもって愛し尊敬する人に見せ、よろこんでもらうためだ。それ以外の理由は全部嘘だ。
――(森有正『バビロンの流れのほとりにて』より)

≪待つ≫=≪仕事≫であるとすれば、待つこととは誰かに喜んでもらうための行為なのでしょうね。
「誰か」とはその人にとっての大切な「真実なる存在」以外のなにものでもありません。
それは、ほぼ信仰そのものではないでしょうか。。。


(つづきます)
186 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/15(日) 21:16:53

>キルケゴールとカフカの間に差異があるとすれば(飛躍と彷徨)、
>それはバタイユとブランショの間の差異にもつながるのではないか(侵犯と待機)、
>というようなことを考えたり(多くの共通点があるにもかかわらず)。。。

実に、簡潔かつ的確な表現ですね! それぞれが《語りえないもの》に向き合う姿勢でしょうか。

>『私についてこなかった男』の訳者解説に書いてあったのですが、
>この本はリルケの影響が濃厚とのことで、『マルテの手記』を読み返そうかな、

新刊の図書は、発売されてから約一ケ月くらい経たないと図書館には入らないらしいのです。。。
ですから『私についてこなかった男』を読むのはもう少し先になりそうです。
今、ブランショの『死の宣告』を読んでいるところです。『牧歌』『窮極の言葉』も収録されています。
ブランショの小説は読むのは初めてですが、彼は冷静な目を持つ観察者であり、分析者ですね。
書いていてもつねに立ち止まることを忘れない、勢いに呑まれない、、、

実際のところ、わたしは本をそれほど読んではいないのですよ。。。
一人の作家を徹底して読んだこともありませんし、思いつくままの無計画な読み方なのです。


それでは。
187SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/15(日) 23:42:01
>>182-186
まず書いておかなければなりませんが、いつものことながら、
とても濃厚なレスなので、その全体を充分に受け止めることは難しく、
部分的にしか応答できませんが悪しからずご了承を。

>城に辿り着けないKも、太陽のせいで人を殺したムルソーも、永遠のループに嵌まり、
>彷徨し続ける山頭火の句と重なるような気がするのですね…。
山頭火とはシブイですねぇ。
「城に辿り着けないK」に関してですが、
ここにも《不可能性》のテーマがあります。
ただ、ここでひとつの疑惑的な思いが頭をよぎります。
《辿り着けないもの》=《語りえないもの》=「真実」としたとき
もしもKは既に辿り着いてるのにまだ城を探しているとしたら、
つまり「真実」を手に入れているのにまだ求めようとしていたら・・・

>言葉を与えられたわたしたちは、傲慢にもすべてを語れると錯覚します。
>けれども、《語りえないもの》があるのは厳然とした事実であり、
>《語りえないもの》はただ「示される」のみに留まります。
「謎」によって「語ろうとする欲望」はおこりますが、
むしろ「語ろうとする欲望」が「謎」をつくっているとすれば・・・
188SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/15(日) 23:50:19
>>182-186(承前)
>バタイユの《語りえないもの》は神秘的なものの暗示でしたから
>《神》と推測されましたが、 カフカの場合は異なりますね。。。
>「法」とか「掟」のようなものでしょうか?
そうですね。 カフカにおいては「法」ないし「掟」です。
そして、私見では、ブランショはとてもカフカに近いものがあると思います。

Cucさんはいま『死の宣告』を読まれてるそうですが、
これも謎めいた作品ですね。今度読まれる機会があったら、
『私についてこなかった男』の感想もぜひ聞いてみたいです。
189SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/15(日) 23:52:49
>>182-186(承前)
>「誰か」とはその人にとっての大切な「真実なる存在」以外のなにものでもありません。
>それは、ほぼ信仰そのものではないでしょうか。。。
それは「信仰」といえますね。
わたしにはその「真実なる存在」というものがまだよくわかりませんし、
「信仰」という言葉もうまく理解できませんが。

>思いつくままの無計画な読み方なのです。
山頭火や森有正の引用(以前の宮沢賢治や河野多恵子も)でわかりますが
いろんな作家の言葉を引用できるのはなかなかできないものです。
当方は忘却力にとても秀でているので、とても感嘆してます。

追伸 今日は寒いのでなんかスレタイがしっくりくるような。。。 〆
190吾輩は名無しである:2005/05/16(月) 10:42:01
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・∀・)    
  `ヽ_っ⌒/⌒c 旦 
     ⌒ ⌒
191 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/16(月) 21:59:47

>>187-189 SXY ◆uyLlZvjSXY さん

カフカ作品をとても深く読み込んでいらっしゃるのですね。ありがとうございます。

>《辿り着けないもの》=《語りえないもの》=「真実」としたとき
>もしもKは既に辿り着いてるのにまだ城を探しているとしたら、
>つまり「真実」を手に入れているのにまだ求めようとしていたら・・・

驚きました! すでに手に入れているにも拘わらず本人だけが気づいていないわけですね。
(わたしも気づきませんでした…) 手に入れているのに満足できないのは欲望ゆえでしょうか。
「真実なもの」=「大切なもの」と想定するならば、メーテルリンクの『青い鳥』もそうですね。
また、――大切なものは目に見えない――(サン=テグジュペリ『星の王子さま』)も然り。
そういえば、ヘッセの詩にもありました。

――幸福を追いかけている間は、お前は幸福であり得るだけに成熟していない、
たとえ最愛のものがすべてお前のものになったとしても。(中略)
すべての願いを諦め、目あても欲望ももはや知らず、幸福、幸福と言い立てなくなった時、
その時はじめて、でき事の流れがもはや お前の心に迫らなくなり、お前の魂は落ちつく――
(ヘッセ詩集『幸福』より)

>「謎」によって「語ろうとする欲望」はおこりますが、
>むしろ「語ろうとする欲望」が「謎」をつくっているとすれば・・・

実に、興味深い問いですね。語らなくてもいいことを語ろうとするから、謎が生じる。
欲望が謎をつくりだす→その謎を追求してみたい。人間は生来、「思考」したい存在なのでしょうか。
この問題につきましては、もっと時間をかけて考えてみたいですので、答えは保留にしますね。
(『論考』、実はあれから読み進んでいないのですが、開いてみますね)


(つづきます)
192 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/16(月) 22:00:33

>そして、私見では、ブランショはとてもカフカに近いものがあると思います

わたしも同じことを考えていました。
不可解、難解という点では両者とも比類のない作家ですよね。ついでに消化不良、という点でも。。。

>『私についてこなかった男』の感想もぜひ聞いてみたいです。

そうですね。ブランショ初心者なので、今はとりあえず図書館で読める小説から読んでいます。
何しろ難解な作家ですので、前もってある程度免疫をつけておかないと、脳髄がヒートするのでは
ないかと今から危惧しています……。

>わたしにはその「真実なる存在」というものがまだよくわかりませんし、
>「信仰」という言葉もうまく理解できませんが。

そうなのです。これは西欧の小説を読むと必ず行き当たる問題です。わたしたちには神の概念が
よく理解できないのですね。希薄であり、実感が伴わないのです。。。

>いろんな作家の言葉を引用できるのはなかなかできないものです。

……これは、実は読んだ本の数が少ないがゆえに覚えている、ということなのです。
手元にある本がさほど多くないので引用しやすいだけなのですよ。。。

SXY さんのように特定のキイ・ワードをふっていただけると、わたしはそこから端を発して
自由に空想(妄想?)することができますので、感想をつけやすいですし、とてもありがたいのです。
SXY さんはフランス文学に実に詳しくていらっしゃいますよね。(その上、哲学にも!)
今まであまりフランス文学を読んだことのないわたしにとっては、指南してくださる方がいて
とても嬉しいです!


(つづきます)
193 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/16(月) 22:01:23

『死の宣告』、読み終えました。

魔境に迷い込んだかと思いました。
霧の中をさまよいながら、ようやく読み終えた気分です。

物語とは「語る」ものなのに、この作品の主人公以外の人物たちは「語らない」「語ろうとしない」
人たちです。つまり対話が成り立たない。それも成り立たないゆえのちぐはぐさは時として、
ユーモアをもたらすものなのに、行き止まりの息苦しさのようなものを感じさせます。
登場人物たちは皆、生きながらにして死んでいる人=死者であるような印象を受けました。

また、この作品は全編「私」のモノログで語られていますが、夢か現か判断しかねる語り口です。
対象を怜悧な目で観察し、意識は極めて鋭く醒めているはずなのに、現実感がなく、実体を
伴わない。ここにおいては、登場人物の誰ひとりとして呼吸しているとは思えないのですね。
カフカの登場人物でさえ、日常はくだくだとこまやかに描かれ、息づいて動き回っているのに、
『死の宣告』の人物たちは物語の始まりと終わりがあるにも拘わらず、時間も人物も静止したまま、
モノクロームの静物画そのものです。

全体に動きというものがほとんど感じられず、夢遊病者が断崖を歩いているような作品でした。
魅入られる、とはこのような作品のことをいうのでしょうか……。


それでは。
194星天停止:2005/05/18(水) 12:19:18
梅小路
195SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/19(木) 00:11:24
>>191-193
Cucさんは非常に読解力が優れているので
自由に思いつくままの言葉で書き込めるので楽です。

>――幸福を追いかけている間は、お前は幸福であり得るだけに成熟していない、
という引用されたヘッセの言葉にあるように、幸福を求めてるうちは幸福ではない、
という関係は、これまでに書いてきた《不可能性》につながりますね。

それでは、幸福を手に入れたときは人は幸福を求めたりなどしない、
ということが真実であるとすれば、逆説的にこう言えるでしょうか。
幸福を得るための近道は、幸福を求めたりしないことだ、と。

逆説的ということは、不可能だということなのかもしれませんが、
語ろうとしても、あるいは知ろうとしても、
(カフカの登場人物では城に入ろうとしても、門に入ろうとしても)、
語りえないものは語りえない、知りえないものは知りえない、
というのは当然といえば当然のことなのですが、
それでも語ろうとし、知ろうとするのは、
逆に「真実」から遠ざかることなのでしょうか。
ヘッセのいう「幸福」と同じく。
196SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/19(木) 00:27:11
>>191-193(承前)
《語りえないもの》ということをテーマにするとき、
やはり「神」という言葉を想起せずにはいられませんが、
そこには「言葉」もまた関係してくるのでしょう。
――初めに言葉があった、言葉は神とともにあった――
>>183で引用されていますが、
言葉(ロゴス)が端緒であり、神とともにあり、神である、
とされていますが、一方、神について我々は充分な言葉を持ちません。
YHWH(ヤハウェ)という発音できない言葉に象徴されるように。

>言葉は本来、神のものであり、わたしたち人間は神から言葉を授けられたとすれば、
>ここにわたしは、神が人間に付与した「言葉の限界」と「戒め」を見るのですね。
と以前に書かれていたこともそういうことなのでしょう。

ユダヤ人にとってのメシアニズムを考えるとき、
>いったい≪待つ≫とは如何なる行為なのでしょう?
という>>185でのCucさんの問いを思い起こすわけです。
(レヴィナス、ジャベス、デリダといったユダヤ思想家のことも)
デリダはメシアなきメシアニズムという言葉を使っていますが、
このあたりのことはまだうまく言語化できそうになく。。。
197SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/19(木) 00:36:03
>>193(追伸)
>夢遊病者が断崖を歩いているような作品でした。
>魅入られる、とはこのような作品のことをいうのでしょうか……。

『死の宣告』についての実に的確な批評的感想ですね。
カフカにとっての「城」「掟」にあたるものが
ブランショにおいては「死」と呼ばれているのかもしれません。
「死」についてはジャンケレヴィッチやレヴィナスをはじめ、
様々な哲学者が語っていますが(「関係なき関係性」など)、
とりあえずこのあたりで。  〆
198吾輩は名無しである:2005/05/19(木) 09:49:36
吉祥院
199吾輩は名無しである:2005/05/20(金) 12:28:06
天満宮
200吾輩は名無しである:2005/05/20(金) 13:23:16
中書島
201吾輩は名無しである:2005/05/20(金) 14:34:04
樟葉
202吾輩は名無しである:2005/05/20(金) 16:12:49
鳴滝
203吾輩は名無しである:2005/05/21(土) 18:29:04
修学院
204吾輩は名無しである:2005/05/21(土) 20:27:50
河内森
205 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/21(土) 22:47:58
>>195-197 SXY ◆uyLlZvjSXY さん

今回も深い示唆に富んだレス、ありがとうございます。

>幸福を得るための近道は、幸福を求めたりしないことだ、と。

まさに慧眼です! 幸福な人とは本来、幸福を欲望することも、追求することもなく日々を
無垢のうちに生きている人といえるでしょうね。裕福な家を棄てて無一物で生きたアシジの
聖フランシスコの生涯を思いました。吟遊詩人でもある彼は、花や鳥、太陽や月、雨や風に兄弟よ、
と呼びかけ謳いました。晩年盲目になったときも、大地に口づけして「太陽はあたたかい」と讃えました。


>(カフカの登場人物では城に入ろうとしても、門に入ろうとしても)、
>語りえないものは語りえない、知りえないものは知りえない、

カフカにおいては「求めよ、さらば与えられん」の聖書の言葉の逆ですね。「不毛な努力をするな」と
冷笑や皮肉に近いものを感じます。

>それでも語ろうとし、知ろうとするのは、
>逆に「真実」から遠ざかることなのでしょうか。

…そうですね。真実や幸福は《追求》するものではなく、《発見・気づき》であるのかもしれません。
(聖フランシスコが病床である朝ヒバリの声を聞き、素朴な生き方に目覚めたように…) 
真実は隠されているのではなく、すでに示されているのである、このように考えることも可能です。
わたしたちは、そこに真実がすでに書かれているのに(行間という余白も含めて)、示されてあることに
なかなか気づかないのですね。
わたしにとって真実とは、素朴な驚きに満ちたひそやかな発見であります。
それは、勇み足で執拗に追及した結果得られるのではなく、足を止めて静かに仰ぎ見たその瞬間に
見い出されるものではないかと思うのです。


(つづきます)
206 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/21(土) 22:48:51

けれども、どんなに目を凝らしても真実を発見できない作品も、当然あります。
そんなときは、いったん本を閉じます。後日、あるいは後年、再読したとき見い出せるかもしれません。
自分が熟していない、発見できる目が育っていないことは往々にしてあることです。
けれども、本は待っていてくれます。また、書かれてある真実は決して逃げたりしません。
そこに「在る」のです。読み直しは何回繰り返してもいい、焦ることはないのですよね。

>(レヴィナス、ジャベス、デリダといったユダヤ思想家のことも)
>デリダはメシアなきメシアニズムという言葉を使っていますが、

哲学者たちの名前ですね! この中で名前を知っているのはデリダだけです。。。
彼の主著は未読です。手元にあるのは解説書だけで、まだ全部は読んではいないのですが、
デリダは文学にも、また「書くこと」にも深い関心を寄せていたようですね。

――哲学という制度と文学という制度のあいだの境界は、はるかに複雑でその境界に「書くこと」の
問題があると、デリダは考えたのだ。文学が原理上「何でも言う」ことができるのに対して、哲学が
「明晰さと真理への願望」としてあるかぎり、悲劇的な失敗に終わる宿命にあることだ。(略)
哲学が、その悲劇的結末を承知で「語る可能性」に賭けようとするならば、哲学の責任は、繰り返し
物語ることしかない――(林好雄・廣瀬浩司『デリダ』P164)

デリダの指摘する、文学は「書くこと」であり、哲学は「物語る」という両者の境界が具体的には
どのようなものなのか、わたしにはまだよくわかりません……。

>カフカにとっての「城」「掟」にあたるものが
>ブランショにおいては「死」と呼ばれているのかもしれません。

わたしもまったく同じことを考えていました!
「死」はまさに《語りえぬもの》であり、沈黙(頻繁に登場する言葉)にそのまま繋がると思います。


(つづきます)
207 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/21(土) 22:49:42

『牧歌』、読み終えました。

「真の自由」とは何か、を読み手であるわたしにも突きつけられた作品でした。
作品の表題『牧歌』とは、沈黙の霧が濃厚に垂れ込める不幸で不毛な祝祭とされる結婚生活である、
とはブランショの痛烈な皮肉でしょうか。(こうした風刺や冷笑はカフカに近いような…)

異邦人である男は結婚すれば救護所から出られ、自由の身になれたにも拘わらず脱走を試みて
鞭打ちの刑を受け死んでいきます。
「偽りの自由」=「牧歌的な結婚」を拒み、「真の自由」=「死」を欲したわけですが、
カミュの『異邦人』のムルソーというよりは、「真理」のために自ら毒杯を仰いで死んでいった
ソクラテスをほうふつとさせました。

なぜなら、ソクラテスも当時、悪妻(?)との牧歌的な悲惨な結婚生活に散々辛苦を
嘗めさせられていたからです。(…事実かどうかは、ともかくとして)
主人公の男は、所長の牧歌的な寒々しい結婚生活を目の当たりにして、「真の自由」を得るために
死んでいきますが、この男の死が果たして幸か不幸かは神のみぞ知るところでありましょうね……。
それにしても『死の宣告』とはまったく異なる作風に、少し驚いています。
『死の宣告』を濃霧に喩えるなら、『牧歌』は沙漠に吹く風です。

〜次回予告〜
この次は『窮極の言葉』の感想をupする予定です。それでは。
208SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/22(日) 22:32:24
>>205-207
>裕福な家を棄てて無一物で生きたアシジの聖フランシスコの生涯を思いました。
ギリシアの作家カザンツァキに『アシジの貧者』を書かせた聖者ですね。
聖者とは隔たった性格ゆえ、以下の言葉は非常に遠いものです。

「慰められるよりも慰めることを/理解されるよりも理解することを
愛されるよりも愛することを/人は自分を与えてこそ受け
自分を忘れてこそ自分を見出し(後略)」

>カフカにおいては(中略)冷笑や皮肉に近いものを感じます。
確かに素朴さはないとしても、この部分はちょっと違う感想を持っています。
まず、カフカの作品にはアイロニーよりもユーモアを感じることがしばしばあります。
カフカはノートに「鳥かごが鳥を探しに行く」という言葉を記していますが、
この逆説的で不条理な言葉に誠実さを感じもするのです。

アシジの聖フランシスコのような素朴な生き方に憧れつつも
語ることや書くこと、つまり表現することにおける逆説性にも惹かれ、
その2つの間で分裂しつつ揺らめいているような状態です。
「不合理ゆえに吾信ず Credo,quia absidum」というわけではないのですが。。。
209SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/22(日) 22:48:28
>>205-207(承前)
>真実は隠されているのではなく、すでに示されているのである、
>わたしたちは、そこに真実がすでに書かれているのに(行間という余白も含めて)、
>示されてあることになかなか気づかないのですね。
私たちは、真実というものを「隠されているもの」と考えがちですね。
真実というのが隠されているものではなく、露わになっているものであれば、
私たちはそれを真実とは呼ばないのかもしれません。
隠されている真実などないとすれば、真実とは非真実であるわけです。
このテーマに関して興味深いものにデリダのニーチェ論があります。

>デリダは文学にも、また「書くこと」にも深い関心を寄せていたようですね。
デリダにはとても興味深いカフカ論やブランショ論がありますがかなり難解です。
最近文庫で出た『パピエ・マシン』という本を読んでいるのですが、
《不可能なものの可能性》ということをデリダは様々なモチーフで語っています。
たとえば、歓待、贈与、出来事、赦し、発明、亡霊、郵便、証言、死の経験etcetc
デリダにおいては、不可能なものが自らの可能性を開くのであり、
不可能なものは可能性の否定ではなく、むしろその条件だとしています。
とここまで書いて、自分では未消化であることに気づいたので中断します。
210SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/22(日) 22:54:40
>>205-207(承前)
>――その悲劇的結末を承知で「語る可能性」に賭けようとするならば、
>――哲学の責任は、繰り返し物語ることしかない
という引用された解説者(林好雄・廣瀬浩司)の言葉は、
Cucさんが読まれてるブランショ的テーマでもあると思います。
『牧歌』『最後の言葉』が収められた本は『永遠の繰り返し』と題されています。
(未訳ですが『終りなき対話』という書名のものもあります)

>「死」はまさに《語りえぬもの》であり、沈黙にそのまま繋がると思います。
そうですね。そしてまた逆説的にも、
《語りえぬもの》=「死」「沈黙」こそが語ることを可能にするのかもしれない、
ということを、考えています。

>『死の宣告』を濃霧に喩えるなら、『牧歌』は沙漠に吹く風です。
とてもイメージ豊かな比喩ですね。
次回予告の『窮極の言葉』の感想が楽しみです。  〆
211吾輩は名無しである:2005/05/23(月) 10:17:24
京橋
212吾輩は名無しである:2005/05/23(月) 20:23:36
枚方市
213吾輩は名無しである:2005/05/23(月) 21:08:23
高槻市
214 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/25(水) 20:12:39
>>208-210  SXY ◆uyLlZvjSXY さん

聖フランシスコの生き方について、こころに染み入るようなコメントをありがとうございます。

>ギリシアの作家カザンツァキに『アシジの貧者』を書かせた聖者ですね。
この作家の名前、今回初めて知りました。ぜひ読んでみたいです。

>「慰められるよりも慰めることを/理解されるよりも理解することを(後略)
わたしの大好きな聖フランシスコの「平和を求める祈り」を記していただき、感激しています!
……なかなか、彼のように生きることはできませんね。現代では、特に困難です。。。

>まず、カフカの作品にはアイロニーよりもユーモアを感じることがしばしばあります。
…なるほど。そういえば『城』の測量士の使用人も双子のようによく似た人物が登場しており、滑稽味が
ありましたね。その点では、ブランショのほうが「笑い」があまり無いような印象がありますね。

>真実というのが隠されているものではなく、露わになっているものであれば、
>私たちはそれを真実とは呼ばないのかもしれません。
>隠されている真実などないとすれば、真実とは非真実であるわけです。

これは難しいですね……。もし仮に真実は誰にも公開されているものであれば、それにも拘わらず
見つけられる人と見つけられない人がいる。。。真実というものは基準を持たないがゆえに真実
なのですが、なぜ見つけられない人があるのか、という問いが投げかけられるようにも思えますね。

また、真実は普遍的なものであるはずですが、「私」にとっての真実は他の人にとっても真実かどうか、
という問題も残ります。ここで、先に挙げたキルケゴールの日記「私にとっての真理であるような真理を
見いだすことが必要なのだ」を想起するのですが……。


(つづきます)
215 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/25(水) 20:13:22

>《不可能なものの可能性》ということをデリダは様々なモチーフで語っています。
>デリダにおいては、不可能なものが自らの可能性を開くのであり、
>不可能なものは可能性の否定ではなく、むしろその条件だとしています。

何と自信にあふれた高らかな宣言でありましょう! さすがデリダですね。(未読なのにお許しを…)
確かに、不可能なものを閉じた世界のもの、と限定してしまうとわたしたちの思考は途絶えてしまい、
そこから一歩も踏み出すことはできませんね。
――答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。謎は存在しない。
問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる――(『論考6.5』)

《不可能なものの可能性》とは? という問いが立てられた以上は、答えもまた与えられうる、
ということでしょうか。しかし、言うは易し、証明は難しでしょうね。
でも、これを卑近な例に引用(誤用?)すれば、わたしにとって理解不可能な難解な哲学書も、
いつかは読めるという可能性に繋がっているような……?

>『牧歌』『最後の言葉』が収められた本は『永遠の繰り返し』と題されています。
わたしたち読み手が何とか解読しようと繰り返し読み返すように、読まれる立場である書き手も
同じように繰り返し「書く」しかないのですよね。双方とも、「命がけの飛躍」の繰り返しです。
このような「繰り返し」を、わたしはとても愛おしいと思います。

>《語りえぬもの》=「死」「沈黙」こそが語ることを可能にするのかもしれない、
>ということを、考えています。
まさにデリダ的なアプローチですね。逆説的ですが沈黙とは、一番雄弁なものであるらしいですから。


(つづきます)
216 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/25(水) 20:14:27

『窮極の言葉』の感想です。

これはいったい、どのような類の小説なのでしょう…? 言葉を裁く小説でしょうか?
「言葉」に対するブランショの痛烈な批判の書なのでしょうか?
「合い言葉」とは何の意味で使われていたのか、さっぱりわからないまま終わりを告げます。
「に、いたるまで」、「で、ない」「が、ある」断片的に飛び交う意図的(?)かつ思わせぶりな単語の数々、
まさに言葉の迷宮です…。

主人公が裁判官であることから鑑みれば、裁判官の「窮極のお告げ」の言葉は人の生死、運命を
決定づける裁定の言葉です。彼の最後のひとことで運命が決まるのですから恐ろしい「言葉」ですよね。

――最後の言葉とは、すでにもはや言葉ではないが、だからといって、ほかのものの始まりでも
ないのだ。(中略)つまり、窮極の言葉でもなく、また言葉の決除でも、また言葉以外の別のもの
でもありえないことだ。――(p225〜226)
この表現は「言葉」とは深遠な意味の深さも、内容の広がりも示し得ない、「言葉」は「言葉」以外の
なにものでもない、という意味にもとれます。

物語の最後に出てくる塔の所有者=全能なる神、は裁判官に「わたしの共犯者よ」とささやきます。
神だけが人を裁ける権能を持ち得るのですから、「言葉」で人を裁く裁判官もある意味、確かに
共犯者なのでしょう。
最後に崩壊する塔は、おそらくは人間が有している「言葉」の世界の象徴ではないでしょうか?
そして、塔の所有者=全能なる神も、裁判官も女も倒壊した塔から落下していきます。
「言葉」の創造主である神の死、「言葉」で人を裁く裁判官の死、わたしたちが使っている言葉の死。
ここで暗示されているのは、言葉の世界が死に絶える瞬間でしょうか。
言葉という怪物になぶり殺される男の物語でした。
イメージとして喩えるならば、草原炎上です。(注:草の葉を言の葉=言葉になぞらえました)


〜次回予告〜
この次はいよいよ長編、『謎の男トマ』の感想をupする予定です。それでは。
217吾輩は名無しである:2005/05/25(水) 20:28:48
私市
218吾輩は名無しである:2005/05/26(木) 21:02:10
御宿
219SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/29(日) 00:56:25
>>214-216
>ブランショのほうが「笑い」があまり無いような印象がありますね。
確かにその通りで、とてもストイックな印象があります。

>真実というものは基準を持たないがゆえに真実なのですが、
そうですね。「真実」は何かの基準によって真実となるのではなく、
それ自体が基準となるべきものとして「真実」と名づけられるのであってみれば、
我々には、真実を計るべき基準などないのは当然といえば当然です。

>「私」にとっての真実は他の人にとっても真実かどうか、という問題も残ります。
>「私にとっての真理であるような真理を見いだすことが必要なのだ」を想起するのですが……
真実は絶対的に真実でなければなりませんが、普遍的だとはいえないわけですね。
キルケゴール的には、むしろ個別性と絶対性が結びつく形なのかもしれませんが、
「私にとっての真理」というとき、そこでは複数形としての「真実s」になります。
ただ、それをどうやって「真実」と呼ぶことができるのだろうか、という問いは残ります。
しかし、この「問いの立て方」は正当なものかどうか。。。

ヴィトゲンシュタイン的にいえば、問いがたてられれば答えも与えられる、
また、答えがないならば問うこともできない、ということになるのでしょうか。
そして、本当の「謎」とは問うこともできず沈黙のなかに沈んでいることになるのでしょうか。
もしもそうであれば、そのとき「言葉と沈黙の関係」はどうなるのでしょうか。
220SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/29(日) 00:59:20
>>214-216(承前)
>逆説的ですが沈黙とは、一番雄弁なものであるらしいですから。
言葉と沈黙の逆説的な関係ですね。
これは《不可能なものの可能性》ということにもつながると思います。
この《不可能なものの可能性》は、デリダ特有のテーマというわけではなく、
ハイデガー、レヴィナス、ジャンケレヴィッチ、そしてブランショにも見られますが、
それについて書くとなるとたいへんな労力が要求されるので、
古井由吉の次の短い文章を引用してみます。

「表現としての無力さの認識。それがあらゆる表現者の出発点であると私は考える」
(『招魂としての表現』より)

語ること=表現することの無力さや困難さが、逆説的にも、
語ること=表現することの欲望をかきたてるということなのでしょう。
221SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/05/29(日) 01:06:51
>>214-216(承前)
『窮極の言葉』についての「草原炎上」という比喩はとてもユニークですね。

言葉と沈黙の関係は、法や神や死のモチーフとともに
『窮極の言葉』においてもテーマになっているのでしょうが、
それはまたブランショのすべての作品にも貫かれていると思います。

「最後の言葉」は、すでにもはや言葉ではないにもかかわらず、
「ほかのものの始まり」でも「言葉以外の別のもの」でもないとすれば、
それは「別の言葉」の始まりなのでしょう。

《最後の言葉》については、後のブランショのいくつかのロマンとレシから引用し、
書きたいこともあるにはあるのですが、それはまたの機会にすることにして、
Cucさんの『謎の男トマ』の感想を楽しみに待つことにします。
(個人的には『謎の男トマ』『アミナダブ』はそれほど好きではないのですが) 〆
222吾輩は名無しである:2005/05/29(日) 20:01:22
東福寺
223吾輩は名無しである:2005/05/29(日) 21:57:59
麻布
224 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/31(火) 21:45:39
>>219-221  SXY ◆uyLlZvjSXYさん

>ただ、それをどうやって「真実」と呼ぶことができるのだろうか、という問いは残ります。
>しかし、この「問いの立て方」は正当なものかどうか。。。

そうですね。「真実」の見分け方は誰にも正確には、わかり得ないものだと思いますね。
一番先に見つけたもの、言ったもの勝ちのようなところがあります。
(『論考』でウィトゲンシュタインは、真/偽の論理的な証明方法を試みてはいますが…)
「問いの立て方」の正当性については、考えつく限りの「問いの立て方」があり、それによって
導き出される答えもその数だけあるとしたら、
>そこでは複数形としての「真実s」になります、よね。。。

>そして、本当の「謎」とは問うこともできず沈黙のなかに沈んでいることになるのでしょうか。
>もしもそうであれば、そのとき「言葉と沈黙の関係」はどうなるのでしょうか。

沈黙(謎)とは問おうとする言葉さえも見つからないことであれば、見つけられない言葉(問い)に
対しては答えは与えられないでしょうね。問いが沈黙のままならば、当然答えも沈黙でしか応酬さ
れないからです。ですから、先ずわたしたちは問おうとする「言葉」を見つけなければならないの
かもしれませんね。

>これは《不可能なものの可能性》ということにもつながると思います。
>ハイデガー、レヴィナス、ジャンケレヴィッチ、そしてブランショにも見られますが、

哲学、文学、双方からのアプローチの方法に大変興味があります。哲学に関しては残念ながら
わたしには語ることはできないのですが……。先に引用した林好雄・廣瀬浩司『デリダ』によれば
――文学が原理上「何でも言う」ことができる――、文学は言葉を自由に使うことが許されて
おり、幅の広さをも託されています。言葉についての可能性はより開かれている、ということで
しょうか。


(つづきます)
225 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/31(火) 21:57:36

ブランショは日本の小説家で喩えるなら、ほの暗い洞窟の奥でロウソクを灯しながら創作する人
というイメージがあり、高橋たか子氏あたりかなあ、と漠然と想起していたのですが両氏は内容も
目指すところも異なりますし…。古井由吉! ぴったりの答えをいただいて嬉しい驚きです。
氏の『杳子』の筆致はブランショとよく似ていますね。誰の言葉かは失念しましたが、
――『杳子』は<吊り橋を渡っているような>神経症の女性――
まさにブランショの世界であり作風そのものです。

>語ること=表現することの無力さや困難さが、逆説的にも、
>語ること=表現することの欲望をかきたてるということなのでしょう。

まさにそのとおりだと思います。言葉を編み出し、語ろうと熱望する小説家たちは特にその欲望
が強いのではないでしょうか。あたかも登山家たちが人跡未踏のより高い山を制覇したいと野望
を抱くように。人間は生来、限りなく欲望し続ける闘争的な存在なのですね。

>「最後の言葉」は、すでにもはや言葉ではないにもかかわらず、
>「ほかのものの始まり」でも「言葉以外の別のもの」でもないとすれば、
>それは「別の言葉」の始まりなのでしょう。

「別の言葉」、まったく思いもしませんでした! SXYさんは非常に洞察力が鋭いですね! 先の
>つまり「真実」を手に入れているのにまだ求めようとしていたら・・・ (>>187
の時もそうでしたが豊かな思考の広がりを感じます。哲学をされてる方なのだなあ、と。羨望です。
「別の言葉」が旧来の言葉とはまったく異なったものであるのなら、作家たちは自由に新しい言葉
をつくり出すことが可能なのですから、別天地の未知の言葉に対して激しく情熱を掻き立てられる
のは当然ですね。ブランショは特に言葉を追求する作家であり時として鬼気迫るものを感じます。


(つづきます)
226 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/31(火) 21:58:41

>《最後の言葉》については、後のブランショのいくつかのロマンとレシから引用し、
>書きたいこともあるにはあるのですが、それはまたの機会にすることにして

ぜひぜひ、語っていただきたいです。楽しみにしております!
実は、わたしはロマン(小説)と、レシ(物語)の違いがよくわからないのです……。

『謎の男トマ』の感想です。
先ず、わたしがこれから記すのは断片的なものです。この作品について述べようとしても、今は
まだ模索中でなかなかまとまらないからです。その点、ご了承いただければと思います。

冒頭、トマが海水に浸る場面。海はあらゆる原初の生命を誕生させる象徴でもあるのですね。
(バタイユの「太陽肛門」の海の律動を想起しました…) 陸に上がった生命はやがて死を迎え、
土に還るという運命を辿ります。けれども、原初の海においてさえトマは生きながらにしてすでに
死者なのです。トマは海の中から深い死の匂いを纏わりつかせて地上に上がります。

彼の死臭は、ある種の人を惹きつけます。それは死を望んでいる人です。
トマがアンヌに出逢ったのは偶然などではありません。アンヌにとっては必然です。
なぜなら彼女は死を渇望していたから。

ホテルの一室で読書するトマは、自分が「言葉」という雌のかまきりに食われそうになっている
雄のカマキリであるように錯覚します。「単語」は彼にとって殺戮行為であると錯乱状態になりま
す。かくして、言葉との格闘の末、彼は半狂乱になって廊下に飛び出していきます。
氾濫する活字の群れ、増殖する言葉たち、夥しい単語の数々…、ブランショは言葉を綴る人で
ありながら、実際は言葉を非常に怖れ(=畏れ)ていた人ではないでしょうか。


(つづきます)
227 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/31(火) 21:59:53

――じじつ彼は死んでおり、同時にまた死の現実から押し返されてもいた。彼は、死のなかに
おいてすら死を奪いとられているのだ。(略) 死からも生からも同時に引き離されているという
確信を抱きつつ――トマはこの世にはいない人間、つまり不在者、であることを知っています。
生者でもない、また、完全な死者にもなれない、いったいトマとはどういう男なのでしょう?

トマがホテルの壁に上に書きつけた ――我考う、ゆえに我在らず―― 
という言葉。思考のみが在って、主体である「私」は無い、デカルトへの皮肉でしょうか?

アンヌのトマへの問いかけ。――ほんとのところ、あなたってどんなひとなのかしらねえ?――
この問いかけは、いつもここで中断され、問いも答えも結局は、沈黙のまま終わります。

――ぼくは思考する、そして眼に見えず、言葉にあらわすことができず、生存もしていないトマに
ぼくはなった(略)、ぼくの存在は不在(略)、ぼくはたしかに彼岸の世界にいるのだ――

トマは「死」そのものの具現者です。考え、沈黙し、語りながらも彼はこの世のどこにも存在しな
い。アンヌが「死」の権化であるトマに出逢った以上、死ななければならない運命にあるのは必須
です。トマに惹かれ近づくたびに、至高の時を旅する人となっていくアンヌ。彼女が体験するさま
ざまな至高の時間――死滅した都市や地下墓地、化石やミイラ――すでに死に絶えた過去の
遺物たち。彼女がいつしか沈黙と孤独の「夜」を愛するようになっていく描写は幻想的で妖しく
大変美しいですね。ブランショの小説家としての本領が発揮されている箇所と言えるのではない
でしょうか。死の世界がまぎれもなくアンヌをとらえたとき、ここでトマとアンヌの立ち位置は逆転し
ます。それまではトマが優位に立っていたのに、今やアンヌのほうが高みに立っているのです。
なぜなら、彼女は確実な死者となりつつあるから。トマのように完全な死者でもなく生者でもない、
あやふやな存在ではないから。アンヌは死を完全に自分のものにしたから。


(つづきます)
228 ◆Fafd1c3Cuc :2005/05/31(火) 22:01:10

物語のラスト、春の野原は生き生きと活気にあふれ、彷徨するトマとは何と対照的なことでしょ
う。生命の息吹を受け万物は輝き、大地は力強く鼓動し、そこではすべてが彩られ息づいていま
す。アンヌのまったき死の世界にも行けず、この世にも居場所が見つけられないトマは、茫然自
失するしかすべがない。彼は死を「外側」からしか語れない。なぜなら、トマは死からも押し返され
た存在だから。彼に残されたのは沈黙を守ることだけ。言葉も思考も今では何と空虚なことか。
ついに終末を目指してトマは「飛び込んだ」のです。  どこへ? 何に向かって?
時間のなかへ…言葉のなかへ…思考のなかへ…騒音のなかへ…闇のなかへ…沈黙のなかへ
人々のなかへ…トマが愛したアンヌの記憶のなかへ……?

「沈黙」、「至高」、本編のなかで繰り返し登場する言葉です。
「至高」というとバタイユを想起するのですが、ブランショの「至高」とは少し異なりますね。
バタイユにおける「至高」は《死》と《エロス》に結びつけられます。
ブランショにおいて「至高」は《死》と《沈黙》で表現されます。
両者に共通して語られているのは《死》ですね。

中盤、現実と幻想の世界とを自在に行き来しているアンヌの内的世界がひとり歩きしています
ね。幽玄で神秘的な世界の描写の美しさに惹きつけられました。読後も、嵌まったままです……。
『死の宣告』によく似た作風だと思いました。
イメージとして喩えるならば、深い海のなか音もなく静かに降る、マリン・スノウです。


〜次回予告〜
この次はまたもや長編の『アミナダブ』の感想を断片的にupする予定です。それでは。
229吾輩は名無しである:2005/06/01(水) 14:51:09
御堂筋
230吾輩は名無しである:2005/06/01(水) 18:43:14
萱島
231吾輩は名無しである:2005/06/01(水) 19:30:23
おサルの学芸会
232吾輩は名無しである:2005/06/01(水) 19:36:27
対比構図にするような関係性がそもそもからしてない
233吾輩は名無しである:2005/06/01(水) 19:44:48
ストーカーさえないければ「ソフィの世界」のようなものだった
234吾輩は名無しである:2005/06/01(水) 19:53:03
宮崎駿が「ハウルの動く城」で描いた「ソフィ」には思うところなし
235SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/05(日) 11:25:53
>>224-228
レスありがとうございます。
いつもながらの、またいつも以上に濃密で的確な表現に刺激を与えられています。
返答はこのところちょっと自由になる時間が少なくごく簡単になりますが。。。
Cucさんのように自分の言葉でイメージ豊かに表現できる人は羨ましいですね。

>ブランショは特に言葉を追求する作家であり時として鬼気迫るものを感じます。
そうですね。読んだ限りではブランショによって書かれたもののほとんどすべてが
言葉や書くことをめぐっています。自らの手を描く手。。。
エッシャーという画家の「描く手」という絵では、画布の中にペンをもつ手が描かれてますが、
その描かれた「手にもたれてるペン」によってその絵が描かれてるという構図です。
これは騙し絵ですが、以前Cucさんが書かれていた下記のことを思い出しました。

>――だが、やがてある一日、僕の手が僕から遠く離れ、書けと命じれば、およそ僕の心に
>ない言葉を書き記す、というようなことになるのかもしれない――(リルケ『マルテの手記』)
>バタイユの手は死につつあり、リルケの手は身体から切り離されて「嘘」を記し始めます。
>ここに見られるのは、手に託された「言葉」への想い、前者は「死」であるとし、後者は「偽り」で
>あるとする、両者の見解でしょうか。
236SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/05(日) 11:26:50
>>224-228(承前)
>実は、わたしはロマン(小説)と、レシ(物語)の違いがよくわからないのです……。
この違いについてはジッドにおける区別や純粋小説といった概念が関係するのかどうか。。。
わたしも詳しいわけじゃありませんが、ブランショは自作を区別して名づけていますね。
長さによる区別(長篇=ロマン、短篇・中篇=レシ)という単純なことでもなさそうです。
レシとは、ロマンから余計な装飾をはぎとって(それだけ無機的で乏しいものになりますが)、
上に書いた、書くことそのものを書くこと、により接近するための作品だといえると思います。
『謎の男トマ』『アミナダブ』『至高者』がロマン、『死の宣告』『望みのときに』などがレシですね。
『死の宣告』の最後の言葉は、レシさえも「?」で疑問化されるわけですが。

《最後の言葉》については、いくつかの作品の末尾の言葉や終わることに関する言葉を引き、
(『至高者』『死の宣告』『望みのときに』『私についてこなかった男』『最後の人』『期待・忘却』などから)
私見を述べることが、ブランショ読書中のCucさんに余計な雑音とならなければ、と思うのですが、
後日時間のあるときに書かせていただくことにします。
237SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/05(日) 11:29:08
>>224-228(承前)
とは書いてみたものの、『謎の男トマ』の素晴らしい感想のあとではちょっと書きにくいですね。。。

追伸
次回予告の『アミナダブ』の感想も楽しみにしています。  〆
238吾輩は名無しである:2005/06/05(日) 13:21:33
崇禅寺
239 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/11(土) 19:56:42

>>235-237 SXY ◆uyLlZvjSXY さん

こちらこそ、丁寧なレスありがとうございます。
急ぎませんので、どうぞお時間のあるときにゆっくりとカキコしていただければ、と思います。

>読んだ限りではブランショによって書かれたもののほとんどすべてが
>言葉や書くことをめぐっています。自らの手を描く手。。。
リルケやバタイユをはじめ、作家という人たちは自らの意志とは無関係に手が見えざる何者かに
書かされている、と思う瞬間があるのではないでしょうか。
――引かないでほしいのですけど、自分で考えてどうこうしようとして書いているわけでは
決してありません。……言葉がそこに在るんです、降ってくるというか、無意識のうちに手が
まるで道具のように書かされているというか、わたしは何も考えなくていいんですよ……
――(山本文緒氏の直木賞受賞当時、ダヴィンチという雑誌でのインタビューでの応答)

>エッシャーという画家の「描く手」という絵では、画布の中にペンをもつ手が描かれてますが、
>その描かれた「手にもたれてるペン」によってその絵が描かれてるという構図です。
検索して初めてこの絵を観ました。確かに手が描くのではなく描かされているという構図ですね!
この騙し絵は、創作する人たちのまさにその創造の瞬間を見事に現しているといえますね……。

>レシとは、ロマンから余計な装飾をはぎとって(それだけ無機的で乏しいものになりますが)、
>上に書いた、書くことそのものを書くこと、により接近するための作品だといえると思います。
――我々ハ≪ロマン≫ヲ書カナケレバナラヌ――、堀辰雄氏、二十五歳のときの日記に
記されていた、と『菜穂子』の解説で小佐井伸二氏が述べています。


(つづきます)
240 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/11(土) 19:58:14

それだけ堀辰雄氏はロマンを渇望していたということなのでしょう。そういえば、今頃気づいたの
ですが、堀辰雄氏、遠藤周作氏や福永武彦氏など、わたしの好きな作家たちはフランス文学の
影響を濃厚に受けた人たちが多いです。やはり≪ロマン≫を書きたかったのでしょうね。

>『死の宣告』『望みのときに』などがレシですね。
…なるほど。『望みのときに』は未読なのでこれから読む予定なのですが、『死の宣告』は全編
モノログで語られており、確かに「書くことそのものを書くこと」の印象がありますね。
ロマンは読み手のために書かれ、レシは書き手自身のために書かれたものなのかあ…、と。

『アミナダブ』の感想を記します。
闇に捧げる賛歌、夜を彷徨する旅人の物語ですね。
普通、旅人というのは昼間旅をし、夜は休むためのものであるのにここでは逆転しています。
間借り人トマは建物の上方を目指して横柄な職員たちと噛み合わない会話をし、世話係りの娘に
懇願しながら上階への道を尋ねて迷路のような建物を彷徨しながらついに病気で倒れます。
目覚めたとき、トマの記憶は茫洋としています。

トマのそばにいつもつききりだったドムが、このとき初めてトマに「真実」を告げますね。
――あなたの野心は上に行くこと、階から階へと昇ることでした。(略)真の道はちゃんと通じてい
たのです。それはゆるやかな下り道で、努力も相談も必要ではなかった。それにその道は、
あなたが生きがいのある暮らしを送れる地帯に向かっていた。(略)地階のほうへ行く道です――

また娘もおなじようなことを言います。
――あなたは待っていればよかったのよ。勝手に歩き回らず。上には何もありませんし、
誰も住んでいません。これは真実ですわ――


(つづきます)
241 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/11(土) 19:59:18

ドムは地下での暮らし、すなわち大地のもたらす偉大さをトマに語るのですが、トマは受け入れな
い。これは人が生来、より高見へ、より上方を目指すことへの痛烈な批判なのでしょうか?
衣食住を例に出せば、たいていの人は「下方」ではなく「上方」に属するほうが安泰であると考え
るからです。そのためにトマのようにあちこちを彷徨し、ついに野心半ばで倒れるということが少
なくありません。ドムや娘の言うように、その場を動かないでいるか、もしくは無理な上方など望ま
ずにゆるやかな地下へと降りていく道を選んだほうがいいのか……。

ブランショの言う地下への道とは、努力を放棄することや怠惰を許すことではないのでしょう。
実際、地下では地中で掘り続ける仕事が待っているようですし。。。
但し、その仕事は苦役ではなく「甘美な沈黙」である、と言ってます。

途中、トマと職員の建物の間借り人の「掟」について対話のやりとりは、まさにカフカ的ですね。
例えば以下の会話などが好例です。この作品はカフカをかなり意識しているようですね。
――法規ははるか遠くある、わたしたちの経験や言語ではつかまえることができない、それは
近づきえぬものなのだ――

ブランショの小説の魅力は、何といっても幻想的な魅惑に満ちた夜の闇の描写です。
幽玄な至高の世界へ、異界へとわたしを誘惑するのです。
――夜がまなざしを閃かせて、真の夜のイメージを浮かびあがらせる――
――甘美な暗闇のなかで完全な行動の自由が得られます(略)すこし慣れれば、影をとおして
輝き、優しく眼を引きつける一種の明るさのようなものをよく見分けられるようになります。この明
るさは内的真実であり(略)――


(つづきます)
242 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/11(土) 20:00:05

不思議だったことは、トマが歓迎せざる間借り人であり、闇や沈黙がふんだんに散りばめられて
いるにも拘わらず孤独感があまり感じられないことでした。真の対話も意思疎通もできない人間
は通常「孤独感」に打ちのめされるはずなのですが。。。
トマの関心(野心)が、ひたすら建物の上階にしか向いていないから、でしょうか?

この作品の題名でもある「アミナダブ」とは何を示すのでしょうか?
検索しましたら、人の名前で、イエス・キリストの系図のひとりに該当するようです。

――巨大な正門で、かれらがアミナダブと呼んでいる男によって守られていることになって
います――
この門は地下にあり、門に近づくのはきわめて簡単です。そこでは法規の力はほとんど
弱まっているのです。。。

アミナダブとはキリストを暗示します。つまり、救い主です。救い主=至高者は通常に考えるなら
最高位にあり、わたしたちを見下ろし睥睨するものであるのに、ここでは地下という底辺におり、
闇のなかの労働者とともにあり彼らを守る存在です。上方にあり高みから人を支配するものが
「法」である、とここでは描かれています。本来ならば、至高者のほうが上で法はその下に置かれ
て然るべきものではないでしょうか?
いえ、真の至高者とは底辺にある人たちとともにあり、守る存在なのですね? 高みにいて一方
的に崇められるものではないのですね。至高者とは支配しないのです。
トマが希求したものは地下にいる至高者ではなく、上方にある権威の象徴、法であったがゆえ
に、悲劇的な最後を迎えました……。


(つづきます)
243 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/11(土) 20:00:54

カフカとブランショを対比するならば、両者とも主人公が深い迷路を彷徨する作風でありながら、
カフカの彷徨させる舞台は城壁、道、門など非常に人工的、無機質なものであります。
それゆえに「生きている」人物のこまごました動き、会話が際立ちます。
ブランショの場合は同じように人工的な建物や廊下を舞台にしながらも、暗い森や、濃霧、
深い地中、淀んだ水など、いつしか自然界に紛れ込んだような錯覚を覚えるのです。
そして、人物は生きながらにして「死んでいる」ような人であり、沈黙しています。

人工的な上方にあるものは饒舌でわかりやすく、人間の欲望を掻き立て誘惑しますが、自然界
の被造物は深く沈黙しているのです。そして、沈黙が死と密接に結びついているとすれば、わた
したち人間はいつか必ず沈黙している大地へ還らなければならない運命にあるのです。
トマが地下(大地)に下るのではなく、上方ばかりを目指して進んでいたのは、あたかも死から
逃れたいという人間の本能ゆえの行為なのでしょうか……。

この作品を喩えるならば、夜光虫の飛び交う地中で妖しく誘う隠花植物の絡みつく根、
でしょうか。


(追記)
毎回、長文で申し訳ありません。。。
途中、読みづらいところや読み苦しいところは読み飛ばしていただければ、と思います。
どうもわたしはひとたび書き始めると、熱に浮かされた状態になるようなのです。
書いているのは本当に自分の手なのかなあ…? と書き終えるたびに思います。。。
次回は『至高者』の感想をupする予定です。
――それでは。
244吾輩は名無しである:2005/06/11(土) 20:52:51
烏丸
245吾輩は名無しである:2005/06/11(土) 20:54:04
お前らのスレじゃないんだ。少しは遠慮しろ。馬鹿野郎!
246吾輩は名無しである:2005/06/11(土) 21:16:43
リサイクルしてんだからいいんじゃねーの>245
247吾輩は名無しである:2005/06/12(日) 02:27:01
南禅寺
248吾輩は名無しである:2005/06/12(日) 02:29:18
青蓮院
249吾輩は名無しである:2005/06/12(日) 02:30:25
高台寺
250吾輩は名無しである:2005/06/12(日) 02:33:55
御室
251吾輩は名無しである:2005/06/12(日) 18:48:49
醍醐
252SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/19(日) 11:56:02
>>239-243
>どうもわたしはひとたび書き始めると、熱に浮かされた状態になるようなのです。
熱に浮かされた状態で書けるなんてうらやましい!
どんどん言葉があふれてくるような感じですか?
わたしはときどき、まるで失語症に陥ってしまったように、
言葉がなかなか出なくなってしまうときがあるんですよ。

>堀辰雄氏、遠藤周作氏や福永武彦氏など、わたしの好きな作家たちは
>フランス文学の 影響を濃厚に受けた人たちが多いです。
この3人の作家についてあまり詳しくないのですが、
三島もラディゲなどのフランス文学の影響が強いですね。
最近の作家だと『熊の敷石』で芥川賞をとった堀江敏幸でしょうか。

余談ですが、
前に書いた「言葉と沈黙の関係」に絡めて武満徹のこんな文章に出会いました。

  私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。
  私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。
  そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。
                  (武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)
253SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/19(日) 17:55:13
>>239-243(承前)
『謎の男トマ』に続き『アミナダブ』の感想も拝読させてもらいました。
トマとドムの関係に近いものは、ベケットの小説を想起させたりもしますが、
建物の中をあてどなく彷徨する『アミナダブ』は
>この作品はカフカをかなり意識しているようですね。
と書かれているように、カフカ的イメージに満ちていますが、
それゆえにカフカとブランショを対比させた言葉は新鮮でした。

カフカの場合には
>それゆえに「生きている」人物のこまごました動き、会話が際立ちます。
ブランショの場合には
>人物は生きながらにして「死んでいる」ような人であり、沈黙しています。
とのことですね。

ブランショのほうが言葉(書くこと)に対する意識が強く
両者とも法、死、至高者といったテーマをめぐりながらも、
カフカにあるユーモア、また女性との性的な関係は、ブランショには稀薄で、
ブランショのほうが言葉(書くこと)に対する意識が強いといえるかもしれませんね。
254SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/19(日) 18:00:03
>>239-243(承前)
>何といっても幻想的な魅惑に満ちた夜の闇の描写です。
『謎の男トマ』『アミナダブ』にあるのが「夜の闇」であるとすれば、
『白日の狂気』『死の宣告』等のレシには「白日の光」が感じられます。
(それから、急いで書いたので>>253の最後から4行目を消し忘れました)

>次回は『至高者』の感想をupする予定です。
『至高者』はブランショのロマンのなかで最も好きですね。
といってもそれについて語るには読み返さなければなりませんが、
感想upを楽しみにしてます。   〆
255吾輩は名無しである:2005/06/19(日) 20:55:18
泉涌寺
256吾輩は名無しである:2005/06/19(日) 23:10:11
「族長の秋」スレッドかと思った。
257吾輩は名無しである:2005/06/21(火) 18:10:09
来迎院
258吾輩は名無しである:2005/06/25(土) 00:39:51
米原
259SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/26(日) 01:03:27
>>252-254に追記です。

前にエッシャーの『描く手』について書いたときには
『死の宣告』のなかの次のような言葉が脳裏にあったのでした。

「この物語を綴った男の手を心に浮かべるよう試みられますように。」
書かれた言葉だけでなく、これらの言葉を書いている手を読んで欲しい、
そうブランショ自身が読者に語りかけているのだと思います。
260SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/26(日) 01:05:06
追記の続きです。

そして後回しになっていた《最後の言葉》についてですが、
ロマンやレシを締めくくる文字通りの最後の言葉について
ブランショ自身かなり意識的だったと思います。

『至高者』の最後の言葉
「今、今こそ私は語るのだ。」は、
『死の宣告』の次の言葉
「異常なことは、私が筆をおく瞬間から始まるのだ。」
に対応するように感じますが、
これを裏返してパラフレーズするような終わり方が
『望みのときに』や『私についてこなかった男』にも
見られるのではないかと思います。

「そして、それでいて、円環がすでに私を導いているとはいえ、
また私は永遠に書かねばならなかったとしても、私は永遠を消すために
こう書くであろう。今、終わり、と。」(『望みのときに』より)

「だが、数秒間の錯乱ののち、やっと終わりが到来したときには、
すでにすべてが消え失せていた。日と共に消え失せていた。」
(『私についてこなかった男』より)
261SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/26(日) 01:19:17
追記の続きの続きです。

『私についてこなかった男』の終わり方についてはちょっと前に
Maurice Blanchot,L'ecriture du desastreスレで少し書いたのですが、
「日と共に消え失せていた。」 という《最後の言葉》は
別の言葉(=時間)を予告しているのではないか、と感じました。

このレシのなかでは、
「日」のなかでは言葉たちは「日の透明さ」を獲得し、
「夜」においては言葉たちは「夜の隠蔽」とされています。
「日」とともに《終わり》は訪れるのですが
その《終わり》は別の時間=「夜」の開始予告と読める。

「最後の言葉」は、すでにもはや言葉ではないにもかかわらず、
「ほかのものの始まり」でも「言葉以外の別のもの」でもないとされていて、
それを「別の言葉」の始まりと読むことができるだろうと思います。
(これは前に書いたことですが)

それにしても、別の言葉が始まる「夜」とは何だろうか?
という問いがそこから出てくるわけですが。。。    〆
262吾輩は名無しである:2005/06/26(日) 06:18:54
糞長い駄文書くなボケ。チラシの裏にでも書いてろ。
263 ◆Fafd1c3Cuc :2005/06/26(日) 10:13:24
SXY ◆uyLlZvjSXY さん

たびたびの移動で申し訳ありません。下記におりますので、呼びかけて
いただけばと思います。

☆☆「読書交換日記〜長文歓迎〜」☆☆
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1119743931/l50
264吾輩は名無しである:2005/06/26(日) 17:00:09
なんか嫌味な感じw
265SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/06/27(月) 01:07:12
>>262
声援ありがとう(smile&giggle)。
sageで書き込んでないところを見ると
きみも何かレスが欲しいようだね。
今日は暇だから特別にレスをしてあげよう。

「チラシの裏にでも書いてろ」という言葉の意味だが、
チラシの裏に書く習慣を持たない私にとっては
ちょっと意味が把握しにくかったんだが、
きっときみはそういう習慣を大事にしてるんだね。

いや、これはとてもいいことだよ。
限られた資源を無駄にせずにリサイクルしてるんだからね。
これからも是非続けて欲しい。
私もきみを見習って、またきみのサジェッションを受けて、
今度チラシの裏に書いてみることにしよう。
266重複につき誘導:2005/06/27(月) 10:24:09
雑談はこちらで。

牛の涎の如く雑談を垂れ流すが好い 32
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1107100712/
【梅雨】文壇BAR♪153店目【渇水】
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1119772231/
267吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 11:09:12
嫌な奴だな。コテ名乗る資格なさそうだ。
268吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 18:45:55
三千院
269吾輩は名無しである:2005/06/28(火) 19:13:20
>265
その切り返し方は見覚えがある! 文学王だな。
270吾輩は名無しである:2005/06/29(水) 17:41:32
ひそかにロムってたのに茶々入れたのは誰だYO!
271吾輩は名無しである:2005/07/08(金) 06:59:47
先斗町
272吾輩は名無しである:2005/07/08(金) 15:16:02
観月橋
273吾輩は名無しである:2005/07/15(金) 19:34:04
さびれてもーたな
274吾輩は名無しである:2005/07/18(月) 20:01:59
卜部
275SXY ◆uyLlZvjSXY :2005/07/18(月) 20:24:12
>>269
それは一時的な仮HN。

ところで、秋の夜といえば思い出すのが中也。

  秋の夜は、はるかの彼方に、
  小石ばかりの、河原があって、
  それに陽は、さらさらと
  さらさらと射してゐるのでありました。
276シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/07/18(月) 21:06:56

中也の詩が引用されていますね
では、室生犀星の詩を…

「五 月」

――悲しめるもののために
みどりかがやく
くるしみ生きむとするもののために
ああ みどりは輝く。――
277シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/08/25(木) 20:36:17
「草に寝て……」   立原道造

それは 花にへりどられた 高原の
林のなかの草地であつた 小鳥らの
たのしい唄をくりかへす 美しい声が
まどろんだ耳のそばに きこえてゐた

私たちは 山のあちこちに
青く 光つてゐる空を
淡く ながれてゆく 雲を
ながめてゐた 言葉すくなく

――しあはせは どこにある?
山のあちらの あの青い空に そして
その下の ちひさな 見知らない村に

私たちの 心は あたたかだつた
山は 優しく 陽にてらされてゐた
希望と夢と 小鳥と花と 私たちの友だちだつた
278吾輩は名無しである:2005/09/01(木) 00:54:25
九月
279SXY=%:2005/09/05(月) 00:04:13
室生犀星に立原道造とはまたシブイ。中也をもうひとつ。

「秋の夜空」

これはまあ、おにぎはしい、
みんなてんでなことをいふ
それでもつれぬみやびさよ
いづれ揃つて夫人たち。
    下界は秋の夜といふに
上天界のにぎはしさ。

すべすべしてゐる床《ゆか》の上、
金のカンテラ点《つ》いてゐる。
小さな頭、長い裳裾《すそ》、
椅子は一つもないのです。
    下界は秋の夜といふに
上天界のあかるさよ。

ほんのりあかるい上天界
遐《とお》き昔の影祭、
しづかなしづかな賑はしさ
上天界の夜《よる》の宴。
    私は下界で見てゐたが、
知らないあひだに退散した。
280吾輩は名無しである:2005/09/05(月) 11:09:48
>>279
  秋の夜は、はるかの彼方に、
  小石ばかりの、河原があって、
  それに陽は、さらさらと
  さらさらと射してゐるのでありました
この作品よりだいぶおちる感じがする。
281シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/09/08(木) 23:01:45
こんにちは。
「上天界」とは、天国や極楽浄土、神々の聖地、あるいはもっと単純に
星の世界でしょうか……。
秋の星空は美しいですね。また、夕暮れ時もこころが惹かれます。


夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。

それは季節にかかはらぬ、
冬なれば暖炉のかたはら、
夏なれば大樹の木かげ、

それはいつも神秘に満ち、
それはいつも人の心を誘ふ、
それは人の心が、
ときに、しばしば、
静寂を愛することを、
知つてゐるもののやうに、
小声にささやき、小声にかたる……

夕ぐれの時はよい時、
かぎりなくやさしいひと時。

――「夕ぐれの時はよい時」 堀口大學
282:2005/09/11(日) 20:56:29
>>280
確かに。「秋の夜空」はリズム感はあるけど
「一つのメルヘン」のほうが深く届くね。

  それとなく郷里のことなど語り出でて
  秋の夜に焼く餅のにほひかな (石川啄木)
283:2005/09/11(日) 21:05:37
>>281
上天界は、
はるかの彼方にある小石ばかりの河原だったり、
山のあちらのあの青い空だったり。。。

啄木をもうひとつ。

  げに、かの場末の縁日の夜の
  活動写真の小屋の中に、
  青臭きアセチレン瓦斯の漂へる中に、
  鋭くも響きわたりし
  秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。

追伸 アポリネールやシュペルヴィエルは堀口大學訳で読みました。
284吾輩は名無しである:2005/09/13(火) 18:45:10
285シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/09/14(水) 21:05:08
>>283

「ふるさとの山に向ひて言ふことなし
  ふるさとの山はありがたきかな」
この歌で知られる啄木は、詩人としてよりも
歌人としての方が有名ですよね。

アポリネールは代表作の「ミラボー橋」(堀口大學・訳)が好きです。
(これは画家マリー・ローランサンとの恋の終わりを
詠んだ詩なのですね……。
彼女の絵は少女小説の挿絵になりそうな、
夢見るような筆致と、淡くてやわらかくやさしい色彩です)
286シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/09/14(水) 21:05:53

「秋の祈」  高村光太郎

秋は喨喨(りょうりょう)と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる

よろこびとさびしさとおそろしさとに跪く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨(りょうりょう)と空に鳴る
287% ◆uyLlZvjSXY :2005/09/21(水) 00:57:59
「ミラボー橋」はセンチメンタルな詩だけれど
アポリネールの短篇(「異端教祖株式会社」「虐殺された詩人」など)になると、
ダークかつユーモラスな幻想性が強く感じられます。
288シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/09/25(日) 21:03:51

アポリネールは詩だけでなく短編小説も書いていたのですね!
初めて知りました。
「異端教祖株式会社」「虐殺された詩人」は近いうちに読んでみたいです。

図書館のパソコン検索で両方ともありました。
289シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/09/25(日) 21:04:23

「うつくしいもの」  八木重吉

わたしみずからのなかでもいい
わたしの外の せかいでもいい
どこにか「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であっても かまわない
及びがたくても よい
ただ 在るということが 分りさえすれば
ああ ひさしくも これを追うに つかれたこころ
290シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/10/02(日) 22:19:10

こころなき身にもあはれはしられけり 鴫たつ沢の秋の夕暮
――[新古362] 西行


あますなく小草(おぐさ)は枯れて風に鳴る かなたに小さき山の中学
――木俣修
291:2005/10/08(土) 23:41:19
ベンチの男

ベンチに座る男だ
五月の微風が男の思いを吹き払う
男の前で、潰されたアルミ缶が日差しを反射している
男はようやくそれを認め
踏みつぶされた空き缶があるべき場所ではないと気が付く
車のタイヤで潰された空き缶が、公園の
車の進入が禁じられた場所だ
誰かが持ってきたか、投げ入れたか
男は、
潰されたアルミ缶を
円盤のように投げる少年の姿を
思い浮かべる
見ることが出来ない少年の、
潰れたアルミ缶を投げる姿を見る
頭の中に
投げる少年の姿を浮ばかせることが出来た
ベンチに座る男だ

(以下略)
292:2005/10/08(土) 23:43:14
ttp://www.catnet.ne.jp/srys/
鈴木志郎康ホームページ
293:2005/10/12(水) 23:04:35
神よ、いま僕は、君に口をきいている自分に驚いている次第だ、
君が存在するとさえまだ知らない僕だから。(以下略)
       ――シュペルヴィエル「未知なる神への祈り」より――
294シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/10/15(土) 22:32:06
>>291-293 % さん

鈴木志郎康ホームページ、拝読しました。
「詩の包括的シフト」、大変興味深く読みました。
吉増剛造の詩について触れていますね。
(彼の詩をつい最近読んだばかりです…)

――吉増剛造の詩には、その日本人の多神崇拝的な心が息づいていると
いえるのではないか――「詩の包括的シフト」より
確かに天照大神やイザナギ、イザナミ、七夕にちなんだ織姫も登場しますし、
お天道様や山の神やイタコも登場します。
彼にとって神は細部に宿るといってもいいでしょう。そうした神々に対する
畏敬の念が彼の詩的歓心を呼び起こし、共振し、言葉を綴らせるのだと思います。

シュペルヴィエルはベケットの次に読んでみたいです。
295シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/10/15(土) 22:33:22

今回は詩ではありませんが、好きな小説の一節を書き記します。
(先週、久々にリルケを読み返しましたので…)

――愛されることは、ただ燃え尽きることだ。
愛することは、長い夜にともされた美しいランプの光だ。
愛されることは消えること。そして、愛することは、長い持続だ――

『マルテの手記』 リルケ
296吾輩は名無しである:2005/10/17(月) 23:12:36
秋の長雨
297吾輩は名無しである:2005/10/21(金) 02:33:38
秋の長文
298吾輩は名無しである:2005/10/21(金) 18:23:01
秋の長介
299めるす ◆ZspydnSMwU :2005/10/21(金) 19:22:16
高村光太郎といえば売り言葉を戯曲で読んでほほう、と思ったもんだ。
300吾輩は名無しである:2005/10/21(金) 20:04:09
300get
301吾輩は名無しである:2005/10/21(金) 20:47:23
高村光太郎の売り言葉って何だYO!?
302めるす ◆ZspydnSMwU :2005/10/21(金) 22:14:36
>301
飛躍しすぎて申し訳ないのである。
高村光太郎→智恵子抄→智恵子抄をモチーフにした売り言葉
なのである。売り言葉は野田秀樹の戯曲なのである。
303吾輩は名無しである:2005/10/21(金) 23:51:19
中原中也 室生犀星 立原道造 堀口大學 石川啄木 アポリネール 高村光太郎
八木重吉 西行 木俣修 鈴木志郎康 シュペルヴィエル 吉増剛造 リルケ 野田秀樹 
仲間はずれが一人いる。
304シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/10/23(日) 20:44:29

高村光太郎は戯曲を書いていますね。
二十一歳の時、新詩社演劇会で自作戯曲「青年画家」を執筆し、
上演しています。
戯曲「青年画家」は「高村光太郎全集・第7巻」(筑摩書房・増補版1995)に
所収されています。

『智恵子抄』が引用されていますので、ではその中から好きな二編を。
305シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/10/23(日) 20:45:40

「風にのる智恵子」  高村光太郎 (『智恵子抄』より)

狂った智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴れの風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣が松にかくれ又あらはれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろひながら
ゆつくり智恵子のあとをおふ
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ
306シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/10/23(日) 20:46:46

「千鳥と遊ぶ智恵子」  高村光太郎 (『智恵子抄』より)

人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ
無数の友だちが智恵子の名を呼ぶ
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい、――
砂に小さな足跡をつけて
千鳥が智恵子に寄つてくる
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす
ちい、ちい、ちい、――
両手の貝を千鳥がねだる
智恵子はそれをぱらぱら投げる
群れ立つ千鳥が智恵子を呼ぶ
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい、――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽くす
307シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/10/30(日) 20:08:19

「書 物」  ヘッセ

この世のあらゆる書物も
お前に幸福をもたらしはしない。
だが、書物はひそかに
お前をお前自身に立ち帰らせる。

お前自身の中に、お前の必要とする一切がある、
太陽も、星も、月も。
お前のたずねた光は
お前自身の中に宿っているのだから。

お前が長い間
万巻の本の中に求めた知恵は
今 どのページからも光っている、
それはお前のものなのだから。
308シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/10/30(日) 20:09:01

「独 り」  ヘッセ

地上には
大小の道がたくさん通じている。
しかし、みな
目ざすところは同じだ。

馬で行くことも、車で行くことも
ふたりで行くことも、三人で行くこともできる。
だが、最後の一歩は
自分ひとりで歩かねばならない。
309シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/11/06(日) 21:30:11

「おもかげをわすれかねつつ こころかなしきときは
ひとりあゆみて おもひを野に捨てよ
おもかげをわすれかねつつ こころくるしきときは
風とともにあゆみて おもかげを風にあたへよ」

――尾崎翠「歩行」の冒頭より抜粋――
310% ◆uyLlZvjSXY :2005/11/17(木) 00:23:07
偽テクスト


ここにその人の「誕生」が、
誤読かそれとも偽テクストであるかについて、
             考えてみなければならない。
選択肢は誤読か、
それとも偽テクストかしかない。
「誕生」は誤読かあるいは偽テクストかである。
なぜならそれは「詩」の内部における事件であるから。
                そんなことは百も承知だ。

「法」に似ているといえるかもしれない。
法則であるとともに文法でもあるような何物かだ。
その人は「誕生」したのか。
「法」は問う、「法」は答える。
それは誤読だ、
または偽テクストだと。

 (藤井貞和「日本の詩はどこにあるか・続」より)
311シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/11/19(土) 20:37:02

詩論について引用されていますので、ではわたしも。。。


「詩作品は、核心に触れる事件の創造であり、≪裸体≫として
感じとられる≪交感≫である、ということによって聖なるものなのです
――それは自身への暴行であり、露出であり、他の人々への
生きる理由の伝達なのです。
ところで、この生きる理由は≪移り変わるもの≫です」

――「バタイユの黒い天使」・ロール遺稿集より抜粋(p305)――
312吾輩は名無しである:2005/11/28(月) 07:14:31
さみしい
313シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/11/28(月) 12:22:35
リルケは徹底した孤独を詩で詠みました・・・


「嘆 き」  リルケ

おお なんとすべては遠く もうとっきに過ぎ去っていることだろう
私は思う 私がいまその輝きをうけとっている
星は何千年も前に消えてしまったのだと
私は思う 漕ぎ去っていったボートのなかで
なにか不安な言葉がささやかれるのを聞いたと
家の中で時計が鳴った…… それはどの家だったろう?……
私は自分のこの心から 大きな空の下へ出ていきたい

私は祈りたい
すべての星のうちのひとつは まだほんとうに存在するに違いない
私は思う たぶん私は知っているのだと
どの星が孤りで生きつづけてきたかを――
どの星が白い都市のように 大空の光のはてに立っているかを……
314シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/12/01(木) 12:42:27

(…バトーより少佐に捧ぐ、あるいは、タチコマよりバトーに捧ぐ…)

「片 恋」   北原白秋

あかしやの 金と赤とがちるぞえな
かはたれの 秋の光にちるぞえな
片恋の 薄着のねるのわがうれひ
曳船の 水のほとりをゆくころを
やはらかな 君が吐息のちるぞえな
あかしやの 金と赤とがちるぞえな
315シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/12/03(土) 13:10:07

「八月の終わり」  ヘッセ

もう諦めていたのに、
夏はもう一度力をとりもどした
夏は、だんだん短くなる日に凝り固まったように輝く
雲もなく焼きつく太陽を誇り顔に

このように人も一生の努力の終りに、
失望してもう引っ込んでしまってから、
もう一度いきなり大波に身をまかせ、
一生の残りを賭して見ることがあろう

はかない恋に身をこがすにせよ、
遅まきの仕事にとりかかるにせよ、
彼の行いと欲望の中に、
終りについての秋のように
澄んだ深い悟りがひびく
316吾輩は名無しである:2005/12/17(土) 13:23:18
もう冬だ
317シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2005/12/17(土) 18:44:34

「朝の歌」  室生犀星

こどものやうな美しい気がして
けさは朝はやくおきて出た
日はうらうらと若い木々のあたまに
すがらしい光をみなぎらしてゐた
こどもらは喜ばしい朝のうたをうたつてゐた
その澄んだこゑは
おれの静かな心にしみ込んで来た

おお 何といふ美しい朝であらう
何といふ幸福を予感せられる朝であらう
318吾輩は名無しである:2005/12/18(日) 13:40:09
外が寒すぎる。そういう時はやっぱこたつで読書がいい。
ローズマリ・サトクリフの「王のしるし」は児童書に分類されるけど
大人になってから読んでも充分面白い。
こういうの読むと、スコットランドとか行きたくなる。
319吾輩は名無しである:2005/12/21(水) 22:15:34
寒い冬は手もかじかんで
頁をうまくめくれなかったりする。
320吾輩は名無しである:2005/12/22(木) 12:53:19
ストーブをつけて部屋をあたため、
こたつに入りながら読むのがよろし
321吾輩は名無しである:2005/12/22(木) 14:45:14
>>320
空気の入れ換えを忘れずに
本読んでるといつの間にか平気で三時間とか五時間とか経ってるし
322吾輩は名無しである:2005/12/25(日) 10:54:09
ありがとう

家のストーブは連続八時間可動すると自動的に
オフになります
休日に朝からつけてたら途中で切れてることに気づかずに
寒い思いをしましたよ・・・
ああ、公園のベンチで本が読める季節、早くこい。。。
324名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/01/29(日) 08:08:51
初夏におもてでバタイユを読むのがすきだ。
あ、あげとこっと。
325シリウス ◆qS5Y1mPhJ2 :2006/02/25(土) 19:16:14

早く野にすみれの咲く季節になるといいですね♪


「すみれ」  ゲーテ

野に咲くすみれうなだれて、草かげに
やさしきすみれ うら若き羊飼の女、
心も空に足かろく、歌を歌いつ野を来れば

「ああ」と、切ない思いのすみれ草
「ああ、ほんのしばしでも野原で一番美しい花になれたなら
やさしい人に摘みとられ 胸におしつけられたなら
ああ、ああ ほんひと時でも」

ああ、さあれ、ああ、娘は来たれど
すみれに心をとめずして あわれ、すみれはふみにじられ
倒れて息たえぬ されど、すみれは喜ぶよう

「こうして死んでも私はあの方の、あの方の足もとで死ぬの」
326吾輩は名無しである:2006/04/23(日) 18:34:47
327吾輩は名無しである:2006/05/05(金) 00:37:06
すなはた
328DR.キリコ ◆vBuV4V6TIk :2006/05/05(金) 01:12:02
夜中にふと目が覚めると、誰かがドアを開けて入ってくる音が聞こえた。
鍵を掛けたはずなのにおかしいと思って起き上がろうとしたが、身体が
金縛りにあって動けなかった。侵入者は、恐ろしい顔をした体格のいい
ブ男だった。私の足元に立つと、いきなり私の足をつかんで、どこかへ
連れていこうとして引っ張った。私は恐怖感から叫ぼうとしたが声が出ない。
しばらくすると侵入者はあきらめたようで、部屋から出ていった。その後
私はウトウトと再び眠ったがすぐに目が覚めた。今のは何だったのだろうと、
飛び起きてドアの鍵を確かめてみたが、間違いなくドアの鍵はかかっていた。
もしかしたら、今のは何かの霊では・・・。
329吾輩は名無しである:2006/05/05(金) 01:14:38
>>328
美香(=yonda?)のブログに書き込みしてる人?
330DR.キリコ ◆vBuV4V6TIk :2006/05/05(金) 01:17:53
とは思うものの、この世に霊など存在するはずはない。そう固く信じて
疑わなかった。それから数日がたち、また同じことが起きたのである。
今度はその男もあきらめが悪く、強引に私のパジャマを引っ張り、パジャマが脱げた。
・・・そこからはまったく記憶にない。しかしその後まもなく私は妊娠した。
331吾輩は名無しである:2006/05/05(金) 01:25:51
福田逸ブログ荒し、論先生実名晒し事件を知ってて絡んでんのか
だとしたらこいつもクズだな
332DR.キリコ ◆vBuV4V6TIk :2006/05/05(金) 01:28:14
は?
333吾輩は名無しである:2006/05/05(金) 01:28:41
美香(=yonda?)の子分は豚小屋に行け
http://otd4.jbbs.livedoor.jp/shelter/bbs_plain
334DR.キリコ ◆vBuV4V6TIk :2006/05/05(金) 01:34:32
幼稚な捏造厨にだまされるような馬鹿じゃないんで。
335DR.キリコ ◆vBuV4V6TIk :2006/05/05(金) 01:37:52
私は全面的に信頼してますから。
336吾輩は名無しである:2006/05/05(金) 02:04:25
自民党系列防諜機関のエージェントだからあまり近づかないほうがいいよ。
337吾輩は名無しである
それは暗黙の了解で知れ渡っていること