1 :
吾輩は名無しである:
いま群像でやってるやつすごくいい
2 :
吾輩は名無しである:03/08/24 23:27
やってるやつ、って連載でもしてるの?
3 :
吾輩は名無しである:03/08/25 01:27
短期集中連載か何か。
出たら買うつもりではいるけれど。
『極東アングラ何とか』ってのは黙殺した。
4 :
吾輩は名無しである:03/08/25 01:34
渋いスレ作ったな
みんなで皮剥ぎでもやるか
5 :
吾輩は名無しである:03/08/25 10:37
おっ!ついに立ったか佐川光晴スレ!
でも、この手の作家単独スレってあっさりdat落ちするんだよね
『生活の設計』は良かった。俺はアフォだから読みやすい作品が好きなのだ。
群像に連載中の作品はまだ読んでいないんだけど、この作品が佐川氏の試金石となりそう。
今月号の新潮掲載作品、カギカッコの使い方に不自然なものがあった。
編集者はチェックしてないのかね。
こいつ、私小説って読まれるのがよっぽど嫌みたいだね。
「サンディア!」(だっけ?)なんて悲惨なものがあった。
気にしない方がいいとは思うんだけれどねぇ
自意識過剰な気がするな
8 :
吾輩は名無しである:03/09/02 00:20
まあageてみてもいいんじゃないか
9 :
吾輩は名無しである:03/09/02 00:35
とりあえず今群像でやってるの読め
設計、ジャム、縮んだ愛、ときて新しい一歩を進めた
全然話題になってないがこれは間違いなくいい
10 :
吾輩は名無しである:03/09/04 00:54
14 :
吾輩は名無しである:03/09/07 14:54
age
頭が悪い。仮に悪くなくても育ちの良い知性じゃない
16 :
吾輩は名無しである:03/09/07 18:27
日本で育ち云々いうなんて...しかも今の時代の文学で。
しょっぼいミッション系の男子校でも出てそうだね
たぶん「生活の設計」しか読んでないだろうし。
群像でやってる奴、今月も完結してなかった。
速く本にしてくれ。
20 :
吾輩は名無しである:03/09/13 00:37
別にageても良いんじゃなかろうか。
連載が完結したら、図書館でまとめて読みます。
21 :
吾輩は名無しである:03/09/13 01:37
この作家は部落民か?
自称後藤明生再来作家さんやね。いちお注目。
新潮社HPで三島賞選評読んだらいいよ
>>21
23 :
インド人民党:03/09/30 13:56
『群像』連載中の「灰色の瞳」、実は凄いのではないか。少なくとも、今世紀
に入って日本語で書かれた小説の中では、もっとも良いのでは。普通、小説で
恋愛や性愛が描かれる場合、当事者間の問題として扱われ、周囲の人は「背景
」にされてしまうが、この小説では、男が世話をしなくてはいけない老人(マ
ダム)とか、女が引き取る交通遺児とかが、その存在を主張し、恋愛関係、性
愛関係の中に閉じることを許さない。特に、マダムが大けがをした時、男に連
絡を取ろうとしたが、デート中で携帯が切ってあり繋がらず、大変なことにな
るという場面など、意外といままで書かれていない問題だと思う。恋する二人
や、同世代の関係者だけでなく、上の世代のマダムや、下の世代の交通遺児に
対する倫理と責任が、恋愛とか性愛とかの世界を、外部から鋭く相対化してい
る。まさにこれからの文学が目を向けなくてはいけない領域だろう。『群像』
に電話してみたら、連載は五回で完結だそうだ。
24 :
吾輩は名無しである:03/09/30 14:01
電話してきたのはお前だったのか。喋り方キモイぞお前。
25 :
吾輩は名無しである:03/10/02 19:28
>>23 半分賛成。確かに「灰色の瞳」は、ある種、地平を切り拓いているかも
しれない。ただ千明がマダムの面倒を見るのと、礼子が子供たちを引き受け
るのは、同じ意味でしょうか。千明はしがらみで、仕方なくそうしているわ
けですけど、礼子は別にそんな義理はないのに、意志的に申し出た点、見過
ごせないと思います。「灰色の瞳」の持ち主である礼子は、堅実な生活の
世界からは浮いていて、保育園の人も「この人に預けても、子供は幸せに
ならない」と直感し、千明の両親もマダムも、礼子を嫌っています。対照
的に千明は、周囲の世界と調和している。タイトルも「灰色の瞳」になっ
ているとおり、作品の中心は礼子で、そのネガとして千明があると見た
ほうがいいのではないでしょうか。周囲から求められることもなく、しがら
みに強いられることもないのに、自分から困難な役割を求める、礼子の意
志的な姿勢を通して、インド人民党さんの言う、「倫理と責任」の可能性
が問われているのではないでしょうか。礼子が生きるような、しがらみと
か絆とかが壊れた世界で、いかにして人は倫理的であり得るか、みたいな。
連載の展開が楽しみです。それから「青いけむり」については、どう思わ
れますか。
26 :
インド人民党:03/10/03 13:46
『新潮』九月号の「青いけむり」、面白く読めた。自己言及的な「小説につ
いての小説」であり、佐川作品の重要な一系列を構成する。最初の「生活の
設計」と「ジャムの空瓶」が、自己言及的であり、かつ大きな「問題」に取
り組むものとすれば、その後、「問題」探求の系列が、「縮んだ愛」と「灰
色の瞳」と展開し、自己言及性の系列が、「サンディア!」と「青いけむり」
という具合に、それぞれ深められているといえるかもしれない。その意味で
は「サンディア!」も無視できないし、これもまあ読んで面白い(
>>6)。
27 :
吾輩は名無しである:03/10/03 13:57
>>23-24-26
おーい、改行の位置が全部同じ、文体も同じだぞー(@_@)
28 :
吾輩は名無しである:03/10/03 13:57
群像のなんてやつがいいの?
屠殺場の読んだが微妙だったので
期待したいです
29 :
インド人民党:03/10/03 14:06
「青いけむり」では、性交場面の表現に、先鋭的な批評意識が認められる。こ
こで男は「私」に対し、性交の経緯を語る際、相手の女性のことを、「田中さ
ん」と繰り返し言う。普通、恋愛とか性愛とかが描かれる時は、女性はなぜか
下の名前で呼ばれることが多い。例えば村上春樹の場合、男が「ワタナベ」と
苗字なのに、女はなぜか「レイコ」とか「緑」とか。女性作家の作品でも、女
性は下の名前のことが多い。これに対し「青いけむり」では、「田中さん」と
連呼されることで、女性を下の名前で呼んでしまうような、ある「意識」の在
り方が、批評的に相対化されている。「田中さん」といえば、少し前、ノーベ
ル賞の人(男)は「田中さん」と呼ばれていたのに、田中外相(当時)は、な
ぜか「真紀子さん」だった。「青いけむり」の表現には、こうした、日本語に
おけるジェンダーと言語使用との相関に、鋭く切り込む側面もある。
>>25 確かに…。「灰色の瞳」での、礼子の位置に関しては、再考する。
30 :
吾輩は名無しである:03/10/03 15:03
>>27 23と24と26が同じったって、23と26(と29も)はもともと、同じ「インド人民党」なんだから同じで当然と違うか?24は改行なんか
ないしな。荒らしがいがないのを、無理して荒らそうとすんな。ほかいこうぜ。
31 :
吾輩は名無しである:03/10/03 15:19
阪神タイガース優勝バンザーイ!
よくやった星野さん。選手たち。
よーし、次はダイエー相手に日本一や!
でも喜んでる場合やないで〜
大阪の景気は超ドン底最悪状態真っ最中!
大阪の選挙の投票率はなんと全国で最下位!(55.69%)
なさけないわ、ほんま。。。
投票率が低いのは社会、経済に対して自発的な努力が無い証拠や!
(....43京都 44沖縄 45埼玉 46千葉 47大阪)
こんなことで大阪の景気が良くなるわけないやろが!
大阪を変えたいんや!
11月9日の総選挙、投票率を上げようや。
全国一位をねらおうや!
それが無理でも、せめて、
阪神の勝率(62,7%)を超えるぐらいの投票率をめざそうやー!
大阪人よ立ち上がれー!!!
そして、政権交代で日本を変えたいんや!
イメージとパフォーマンスばっかりで
弱者の痛みを無視するような政策ばっかりの小泉政治はもうアカン!
自民党の利益を失うような構造改革を
自民党自身ができるわけないのは誰でもわかる。
もうだまされへんぞー!
大多数の無知な国民をあざむくのもいいかげんにしろー!
自民による自民のための自民の政治はもう終わりにしろー!
11月9日総選挙。
政界の明石家さんまこと小泉純一郎と
政界のビートたけしこと菅直人。
さあ、勝つのはどっち!!!?
http://www2u.biglobe.ne.jp/~over80/shugiin_watching-2000.htm ........................................
33 :
吾輩は名無しである:03/10/03 18:17
どーでもいいけど、
>>21「後藤明生再来」って、どこで言ってるの?
34 :
吾輩は名無しである:03/10/03 18:27
>>34 賞の選評かどこか。新潮だったかな。探してみて。
35 :
吾輩は名無しである:03/10/03 18:34
36 :
吾輩は名無しである:03/10/04 07:16
あきらかに一人しかいないだろ、このスレ
晒しあげ
37 :
インド人民党:03/10/06 16:53
確かに「灰色の瞳」では、千明がしがらみの中で「責任」を果たしているのに
対し、礼子は何の絆もないところで、「責任」を引き受けようとしている。し
かしこのことは、礼子が作品の「中心」であり、千明が「ネガ」であることを
を意味しないと思う。作品は、全体が礼子の視点で書かれているのではなく、
千明の側からも捉えられているし、礼子の思考が時に、独りよがりに陥ること
も十分に示されているといえる。しがらみを離れた、主体的な「親切」はする
けれども、人から求められた場合には、応じようとせず、しがらみに制約され
ている人達の状況にも無理解な礼子の態度は、作品の内部でも相対化されてい
ると思われる。礼子と千明の感覚は確かに異なるが、どちらが中心ということ
ではなく、異なる視点、異なる倫理感覚が、対等にせめぎあう関係に置かれて
いると観るべきだろう。
38 :
吾輩は名無しである:03/10/07 11:30
>>35 「地に足のついた生活感と、
後藤明生を思わせる思弁の組み合わせが興味深く、
とても面白く読めた。」(佐伯一麦)
新潮新人賞、『生活の設計』選評。『新潮』2000.11
「『差別』や『弱者』を問題にするなら、
なぜその語りが後藤明生じみていたりしなければならないのか。」(小谷野敦)
『縮んだ愛』書評。『文学界』2002.10
39 :
吾輩は名無しである:03/10/09 01:28
>>29 考えすぎかと
連載は今月で終わりかと思いきや4回目だった。
40 :
吾輩は名無しである:03/10/15 16:21
41 :
吾輩は名無しである:03/10/15 18:10
第四回を読むと、作品のねらいが、礼子の人間像を描くところにある
ことは、確実だと思います。今回、言われている、市民社会の理想を説
きながら、私生活では自分のことしか考えない「二重底」の知識人には
千明も入るでしょう。群衆を見下して、「日本人はまだ変わらない、駄
目だ」などと思うのですが、その自分は、地位を得ることとかしか考え
ていないのです。礼子の「灰色の瞳」が意味するものは、そうしたしが
らみを離れた、市民としての主体的な「倫理と責任」だと思います。礼
子は同じ「灰色の瞳」をもつ自分の父親も、自由に生きているようで実
は自分の都合しか考えない、「二重底」の人間であることを知り、そう
ではない、ほんとうに「灰色の瞳」にふさわしい生き方を貫こうとして
いるのです。それでタイトルも「灰色の瞳」なのですから、千明と同じ
比重ということはないと思います。
43 :
吾輩は名無しである:03/10/16 17:08
『極東アングラ正伝』よんだ。いつもと文体が違うが、たとえば、
なにしろ、標高二千メートルを超えるアンデス山中では空気が薄い。しかしそれ以上に、紫外線の強さが
こんなにこたえるものだとは思ってもみなかった。一応サングラスは持っていたが、そんなものはほとんど
役に立たないし、紫外線は目だけではなく、服を突き抜け体中に降り注ぐ。
物体の奥に本質を見つけるとか、遠近法を攪乱することで認識論的配置を変えるなどというのは、みんな
気楽な学者連中のでっち上げだ。そんなことは、物体どうしの表面と表面を隔ててくれている空気が薄くな
ってゆくことのおそろしさに比べれば、なんということもない。
はっきりとわかっているわけではないが、壊れている者にとってはいつでも死がすぐそばにあって、確か
らしいものはただその死だけしかないのだから、死によって壊されることで、やっと自分がもうずっと前か
ら壊れていたことを知り、それを全身でわかり、しかしそのときにはもう死んでしまうだけなのである。
といったあたりは、やはり佐川節だなあと感じた。
>>29 「田中さん」のところは、私もあの田中さんの顔が浮かんできて、笑い
ました。けれども、それが、「ジェンダーの問題に対する鋭い批評」という
のは、やはり考えすぎではないでしょうか。あの前で「吉田」は、「週刊誌
などでは、ごく簡単にセックスの快楽は得られるかのように書いてあるが、
実際にはあれは、そんなにうまくいくものではない」と言っています。そこ
で田中さんとも、なかなかすんなりいかない様子を語るわけですから、「田
中さん」の繰り返しは、批評意識と言うより、そういうぎこちない感じを表
すために用いられたのではないでしょうか。「灰色の瞳」では、男性が「千
明」(ちぎら)と姓で、女性が「礼子」と名前で呼ばれています。女性を名
字で呼ぶ現象は、「青いけむり」の世界に限られたものではないでしょうか。
考え杉。「女性の名前は何でしたっけ?」「田中さんでしょう」みたいなやり取りもあるし。
46 :
吾輩は名無しである:03/10/18 02:06
俺、灰色読んでると明暗っぽく感じられるんだけどなんでだろ。
47 :
インド人民党:03/10/19 18:18
>>42 礼子の「灰色の瞳」が、単に「市民社会の倫理」という抽象的なものを意味するものではないことは、まさに第四回を読めば明らかだと思う。
広島生まれの礼子は、自分の「灰色の瞳」を、原爆の影響が遺伝したものと結び付けており、丸山は「二重底」だと西岡が言うのも、丸山が被爆体
験から目を背けたことを意味する。礼子は被爆が子や孫にまで身体的影響を残し、差別を招くことを気にしており、交通遺児の甥をすんなり引き取
るのも、自分の子供を作ることに対する不安のためと考えれば納得がゆく。死んだ藤本教授も長崎の被爆者であり、遺されたマダムに身内が無く、
千明を頼らざるを得ないのにも、同じ事情が予想される。
即ち礼子がしがらみから切れているように見えるのは、身体的に血縁の形成が不可能なためであり、それはマダムも同じなのである。だから礼子が、
マダムと千明との絆を切ろうとする行為は、自分と交通遺児との絆を危うくすることと、パラレルなのである。幼稚園の先生が、礼子に育てられて
もこの子達は幸せにならないと直観するのも、いかなる絆も作れない礼子の本質を見抜いたものではないか。「灰色の瞳」では、「市民社会の倫理」
なるものが、原爆のような、人間を生活環境から切断する暴力の上に、成立していることの意味が問われているのだと思われる。それは、「市民社
会的」的なものと、私達の生き得る環境との関わりが、問われているということでもある。
ポストモダンが終焉、というか厳密には、ポストモダンが単にモダンの内部での末端的な現象でしかないことが、明白になった今、モダンの根源
にあるものと、私達の生の基盤との関わりを問う点で、単なる老人問題とか交通遺児問題とかを超えた、大きな射程を獲得しているのがこの作品だ
と私は感じる。そして何よりも、戦前の長崎で生まれた母を持つ私は、世代を超えた原爆の影響をこうした形で取り上げたくれたこの作品には、何
か「感謝」したい気もする。現代文学でもようやくこうした作品が可能になったのだ…という感慨が深い。
死ん
だ藤本教授も被爆者であり、マダムとの間に
48 :
吾輩は名無しである:03/10/20 03:02
これ後藤的な文章じゃなく明治期の近代文学のような
文体で書かれてるのが新鮮だった。
漱石っぽくもあり有島っぽくもありで。
49 :
吾輩は名無しである:03/10/20 03:12
これは巻き込まれがた人生の人間を描いたものであって
今の小説なり映画なりもそういったテーマは多いけど、どれも比較的距離をとって
ユーモラスに書いたりする。でも灰色は巻き込まれを真正面から描
こうとしている。だからこの文体な訳だし、その態度こそ現代の小説の置かれた
にっちもさっちもいかない状況を受け止めんとするもの、なわけで
つまるところ傑作
50 :
吾輩は名無しである:03/10/20 10:30
>>46 それは目からウロコが百枚!
「明」=白、「暗」=黒の中間で灰色とか?
具体的に説明してほしい。
51 :
吾輩は名無しである:03/10/22 00:34
『痴人の愛』を『縮んだ愛』と、近代文学を意識してる作家だから
有り得るかも>明暗説
52 :
吾輩は名無しである:03/10/23 10:42
>『痴人の愛』を『縮んだ愛』と、近代文学を意識してる
意識してるのかな? ただのお遊びじゃないかと。
『生活の設計』も『屠殺日記』にしようとしてて。
いわく『土佐日記』の洒落だとか。イマイチ、わかりにくい、気づきにくい。
佐伯一麦が「『縮んだ愛』ってタイトルだけで脱力させられる」って書いてたね。
53 :
吾輩は名無しである:03/10/25 03:42
超大穴だな 佐川は
54 :
吾輩は名無しである:03/10/27 11:47
近代文学といえば、太宰が確か「あらゆる被害妄想には、正当な根拠がある」と言ってたが、
マダムが被害妄想にとらわれてく様子は、そういう感じがよく出てるな。
55 :
吾輩は名無しである:03/10/29 10:15
土佐日記はたんなるシャレだろうが
痴人の愛はマジらしい
ユリイカで語ってる
56 :
吾輩は名無しである:03/10/29 11:00
あと設計の瀬川春樹も破戒の〈瀬川〉丑松と
島崎〈春樹〉を組み合わせたもの……と思うんだが
題材もそういうことだし、枠組を借りながら、スタンスでアンチテーゼを示すというのは、縮んだ愛もそう
>>48 内容は違うが、或る女とはなんか空気感が似てる気がする。
漱石はピンとこないけど、時代の変わり目で、いろんな様式を試してるところは初期漱石ぽいかなあ。
>>39,
>>44,
>>45 作品全体を見ると、「青いけむり」の核心にジェンダーの問題があることは
確かだと思われる。この作品には、専業主夫の男が、仕事ばかりで家庭をかえ
りみない妻に不信感をもつという構図がある。仕事漬けの夫に妻が不満をも
つというのが伝統的な図式だが、この作品ではそれが転倒され、女性の「社会
進出」が進めば、男の側にも同様の不満が生じ得ることが、示されている。特
に子どもが死んだ後、仕事優先でその子に愛情を注がなかった妻に対し、夫が
隔たりを感じ、長く交わりも途絶えるという所など、愛とか性とかを成り立た
せなくする大きな「しこり」が描き出される。その意味で、「田中さん」との
場面ではまさに、ジェンダー的に規範化された呼び方を、あえて転倒させるこ
とにより、そうした「しこり」が、表現されているといえるだろう。
次号で完結みたいだね
雑誌の発売をどきどきして待ってる自分てのは
なんかすごい久しぶりな気がする。
62 :
吾輩は名無しである:03/11/07 19:48
「灰色の瞳」、連載完結しましたね。
「灰色の瞳」は、第二回までは何となく読んでいたが、第三回でピンとくるも
のを感じ、第四回で更に強く惹かれた。第五回は、やはり思った通りの凄い作
品だと感じながら、読み終えた。
>>63の続き。
今回では、礼子と千秋はマダムについて深刻に相談したあと、そのままふた
りの性愛の場面に移る。病んだ老人に対する責任が、礼子の求める「今だけの
快楽を求める」という異質なものに、唐突に転換される事で、先にふたりが交
わした真剣な会話が異化され、しらじらしく響いてくる。こうして老人に向き
あう人の側の、微妙な心の持ち方が問題化されているように思う。そもそも、
マダムが被害妄想を起こしたのも、千秋が礼子とデート中で携帯を切っていて、
大変な時に連絡が取れなかったからだ。介護や福祉について声高に議論される
問題よりも、普通の人なら何でもないと思うことのなかに、介護される者との
関わりの結び方という点で、実は大きな問題があるのだと言う事が、浮き彫り
にされているといえるだろう。
>>64の続き。
最後は結局、千明が「礼子ではなく、マダムを選ぶ」というところに、作品
の主題が集約されている。老人問題は、老人の問題ではなく、老人の周囲の人
達の側の、心の在り方、更には生き方そのものに関わる問題であり、ひいては
人と人との関わりの質、社会の在り方自体が問われる問題と感じられる。この
作品では、マダムの病気を、老人の問題として描くのではなく、恋愛もし性交
もする「普通の」若い世代の生活との関係性の中で捉え、老人の置かれる立場
を浮き彫りにしている。「縮んだ愛」でも、ミステリ風の謎解きの陰に、障害
児と関わる人たちの生活を描く事で、障害児問題にアプローチする姿勢が見ら
れたし、「子どものしあわせ」でも、ドタバタ劇風の展開の陰に、身寄りのな
い老人が、逆に若い「僕」のしあわせを心配するという形で、保護される厄介
者としてではなく、対等でトータルな関わりをする相手として、老人を捉える
発想が示されていた。それらの作品で、萌芽的に現れていた問題関心が、「灰
色の瞳」で充分に展開され、文学としての確かな表現を得たということだろう。
66 :
吾輩は名無しである:03/11/15 16:03
福田和也が『贅沢な読書』の序(立ち読みなので本文は読んでない)で
漱石の『明暗』は、複数の価値観や世界観がせめぎあう
西洋的な「社会小説」を実現した、珍しい小説と言ってた。
前に出てた『灰色』が『明暗』ぽいというのと、関係あるんではないか。
ただ『灰色』は、単に「社会」を描くというより、「社会」の崩壊とか不可能を描いた感じ。
ひとつは視点のとりかたで、明暗は複数の人物の内面に立ち入る視点を採っている
灰色も男女二人の内面に入って行ってる
やっぱりこれは明暗を一番意識してると思う
本はいつ出るかな。
これまでこのスレでは「インド人民党」として、他では名無しで書いてましたが、
最近、名前が付いたので、それを使います。
他スレで、佐川光晴の歴史的な位置付けについて考察したので、
整理して貼らせていただきます。大部分が「前置き」で、すみません。
「文学の衰退」は二つに分けて考える必要がある。まずは、ここ二十年くらいの社会の変化による事態。
もうひとつ、小説を中心とする「近代文学」自体、何らかの「衰退」の結果、または兆候として出てきたものではないのかということ。
即ち「近代文学」自体に、「衰退」は内包されているのではないかということ。
この点に遡り考えることで、現代における「衰退」の意味も明確にできると思う。
「近代小説」という様式そのものに、「衰退」が内在する要因として、
まずそこでは、「自分」の表現が、中心になったということが、大きいだろう。
小説の意味と価値を支えるものが、おれは人とは違う!だから俺の言うことには、俺の生活には、空想には意味がある!価値がある!
という自意識の強度だけになる時、読む側は「それで何?」「別にあなたのことなんか知りたくないんだけど?」
という思いを禁じ得なくなる。近代小説は常にこの、「それで何?」という問いに脅かされることを、
宿命付けられてきたといえる。「自分」の表現にしか拠り所を求められなくなったこと自体が、既に「衰退」なのである。
即ち80年ごろから、文学をめぐる状況は大きく変化した。
近代文学的な「自意識」を究めるなどという姿勢は嘲笑され、
そこでは、「都市感覚」ただよう記号や固有名詞、表層的な「性」と「暴力」の戯れ…などに彩られた、
ひたすら横滑りしていく、文学空間、文学的な「世界」が形成された。
ここに現代的な「衰退」が派生する。
即ち「自意識」を拠り所としてきた近代小説から、
その「自意識」が除去されたとき、何が残るのかということである。
小説の意味と価値は、他の何により支えられるのか?と言い換えてもいい。
即ちこの世界に対し、垂直的に突き刺さり、独自の価値を提示する契機としては、
依然として「自意識」しかないのだが、その「自意識」すら希薄化したことが、
現代の小説世界を、身勝手な「センス」や、「性」や「暴力」の刺激に頼るしかない、
平面的で空疎な空間にし、現代における文学の「衰退」を招いているのではないだろうか。
ここで、ポストモダンの問題を考えたい。
80年代的な、ポストモダン的な文学空間が形成される直前の、
あるいは、近代文学的な文学空間が、終焉を迎えた直後の、
70年代の「内向の世代」達は、これまでの安定した「世界」像も、
充実した「自己」像ももはや不可能な地点で、近代文学を支えてきた「自意識」を、
内側から極限まで突き詰めることにより、「世界」や「自己」というものが、
意識に現れる仕組み、言葉で表現される仕組み自体を、表現の眼目とし、
文学を支える意味と価値は、いかに生成されるのかを問おうとしていた。
ところが村上春樹、山田詠美ら続く80年代の文学者達は、
近代文学を内側から超えようとする、「内向の世代」の試みを踏まえることなく、
近代文学の歴史などリセットできるかのように、新たに別の文学空間を作り出そうとした。
柄谷行人は、「内向の世代」の同伴者であった頃、『意味という病』で、
近代的な「風景」の自明性を崩し、世界が意識に現れる契機を問う文学として、古井由吉らを評価したが、
ポストモダン的な文学空間が確立した80年代終盤には、『終焉をめぐって』で、
村上春樹ら80年代文学が、近代的な「風景」にかわり、
単に別の自明の「風景」を作り出しているに過ぎないことを、鋭く批判している。
すなわちポストモダンの内部には、
既成の「世界」の自明性を疑うという契機と、
それ自体としてある「世界」を形成しようとする契機とが、並存していた。
既成の「社会」と「環境」を超えようとして出てきたものが、それ自体、
ひとつの「社会」や「環境」と化し、従来のもの以上に、支配力を振るう。
「内向の世代」達は、近代文学的な「世界」と「自己」を疑い、
意識と言葉により、「世界」と「自己」が創られる現場を凝視した。
これは近代的な「自意識」を超える試みだが、それは、「自意識」の内部から遂行されねばならなかった。
ところが、後続の80年世代たちは、「自意識」の内在的な批判をスルーしたため、
自己などないと嘯く「自己」が、無傷のまま生き延び、強烈な力を誇示することになり、
自明性を奪われた「世界」も、逆に恣意的な構成を許すことで、更に強固な統制力を帯びるに至った。
即ち現在の衰退とは、自意識などないと嘯く自意識が構成する、透明で上滑りな世界像の安易さに起因する。
いま必要なのは、80年代的、ポストモダン的な「風景」を打破すること。
そして、自意識を罵倒するような自意識さえ、解体していくこと。これは即ち
世界と自己の自明性を懐疑するという意味での、ポストモダンを徹底させるということでもある。
性急に新たな「世界」像を求めるのではなく、あるべき「世界」が構成される条件自体を、
自意識という隘路の内部から、模索する表現が必要だ。
具体的には、まず古井由吉ら「内向の世代」のリバイバル。
ここで、村上や山田ら80年世代が創る「世界」に対しても、破壊と解体を徹底する。
そして次に、その上で可能なる「世界」の表現に向かう、若い世代の台頭。
柄谷行人も当時、自分達のすぐ下の世代は駄目だが、その更に下の世代は期待できると言っていた。
即ち40台、50台の80年世代を、20台、30台の若い世代と、「内向の世代」の老人とで挟み撃ちにするのだ。
さて「挟み撃ち」といえば後藤明生だが、例えば佐川光晴が
後藤明生的な文体で登場してきたことには、上に述べたような意味で、
歴史的な必然性があると思われる。彼の文学はまさに、
現在の「世界」に対する批判を、この「世界」と対峙する、自意識の内部から行い、
真の意味で多元的な、客観的な「世界」像は、いかにして可能かを模索する、という要素をはらむ。
その意味で私は、今年の夏に佐川を読んで以来、文学の未来にほのかな希望を抱くに至った。
自意識という近代文学の病を、自意識の内部から克服していく、
真の意味でのポストモダンは、まだ始まったばかりなのである。
75 :
吾輩は名無しである:03/12/03 23:30
生活の設計読了age
と畜業に従事する青年を描いても
例えば大江の初期作品に顕著な「物」及びそれと対峙する「自己」
というポジションの確保は出来ないし、
ヘーゲル的自己充足・自己陶冶としての労働観(あるいは世界観)
が根底にあるわけでもない(だったら中上でも良いものね)。
文章的には後藤と似通っている部分もあるのだが、
自意識の発生を個人史やその背景である
歴史との関わりで解体しようとしているわけでもない。
そんな作品がわりとモダンな“文”で構成されている点が
興味深いな。
ま、「性」「労働」「暴力」「家族」の神話が
徹底的に解体された地点で書き始めているから
そうならざるを得ないんだけどね。
>>69-74 乙。レス全体に同意するわけじゃないけど、
とても興味深く、力強さを感じた。
>>78 >佐川の小説には、誰かが何かを引き受ける、というような話しがよく出てくる。
>「灰色の瞳」なら、ひとりで生きていくと決心していた主人公の女性が、
>はっきりとした理由を欠いたまま、交通事故で亡くなった兄夫婦の二人の子どもを引き受けるのだと言い出し、
>最後にはその恋人の男が、(彼女と別れて)二人の子どもと一人の老婆の世話を引き受けることを選ぶのだ。
これはかなり核心を突いた意見だと思う。確かに佐川作品では、普通なら引き受け
なくてもいいことを、引き受けて生きる人物がよく描かれ、しかも、彼らがなぜ引き
うけたのかという理由や経緯は、作品中に明かされていない。心理や動機など重た
い要素が省略され、何でもないように、どんどん行動が展開されていく点、これは村
上春樹や村上龍など、ポストモダン系の小説に通じる手法といえる(佐川作品のこ
の「軽さ」を、私のこれまでのレスでは看過していたかもしれない)。しかし、ポスト
モダン系の小説では、そうした上滑りの手法により、作品世界は、現実の重力感を奪
われて、現実の拘束を離れ、性なり暴力なりの強度をエスカレートさせる。つまり
何も「引き受けない」方向に進むのだが、佐川作品では逆に、軽やかな展開が進めば
進むほど、内容はむしろ重くなり、登場人物は、必要の範囲すら超えて過剰に、現実
の拘束を「引き受ける」ことになる。この点に、ポストモダンを継承しながら、その
方向性を転倒させることで、相対性の軽やかな戯れでなく、人はみな、さまざまに
何かを「引き受け」ているという被拘束性、人が生きる文脈に根ざした、真に複数的
で相対的な世界観の提示に到る、佐川文学の核心があるのかもしれない。
>>76 これを読んで、やはり虚を突かれた気がした。私が「インド人民党」の頃、書いたレス
はどれも、佐川に何かポジティブな世界観を見ようとするものだったように思う。し
かし思えば、佐川ほど、「何なにでもなく、何なにでもなく、何なにでもない」という語り
方が似合う人も、いないかもしれない。それは結局、主体とか歴史とか、近代文学を支
えた諸観念が解体される、ポストモダンの方向性を、かなり極限まで押し進めたという
ことだろう。ここに言う、「モダンな“文”」というのも、いわゆる「近代」のことでなく、
そうした現代的な「軽さ」をさしたものだと、受け止めている。ただ私としては、そうし
た軽い表現が、作品世界をも軽くすることなく、逆に表現が軽くなればなるほど、作品
世界の方は、非常に鋭く、根本的な領域に届いていくという辺りが、凄いと思う。
矢部氏乙。あと2ちゃんではもう少し柔らかめの文体の方がいいと思いますた。
84 :
吾輩は名無しである:04/01/07 21:06
「灰色」の本はまだ?
85 :
吾輩は名無しである:04/01/08 10:57
おい後藤明生に似てるってほんとかよ
またたいしたことない作家じゃねーだろーな
>>85 それは最初のだけじゃないのか?今もそうか?
>>85-86 「地に足のついた生活感と、
後藤明生を思わせる思弁の組み合わせが興味深く、
とても面白く読めた。」(佐伯一麦)
新潮新人賞、『生活の設計』選評。『新潮』2000.11
「『差別』や『弱者』を問題にするなら、
なぜその語りが後藤明生じみていたりしなければならないのか。」(小谷野敦)
『縮んだ愛』書評。『文学界』2002.10
だいたい書きたいことは書いたので、これで僕は終了します。時に人に意見を
書いてもらい、また考えるプロセスが、面白かったです。有難うございました。
>>89 え、ここも終了するの?ここはロムしかできなかったけど勉強になりましたよ。
もう少し矢部氏の読んでる本などを聞きたかったんだけど・・・。
また機会があったらどこかで会いましょう。
ほす
「灰色の瞳」は来月あたり出るそうだ。
礼子の側から読んでみると、また別の解釈ができそうだね。
>>86-87 「サンディア!」が講演体なのも、後藤明生を意識したんじゃないかと思えるが
94 :
吾輩は名無しである:04/02/22 11:31
95 :
吾輩は名無しである:04/02/23 13:04
後藤スレより
299 :吾輩は名無しである :04/02/22 02:15
ここの連中は佐川光晴をどう思ってるんよ。
http://book.2ch.net/test/read.cgi/book/1061735195/l50 300 :吾輩は名無しである :04/02/22 15:38
生活の設計とジャムの空瓶は読んだ。
最近のは読んでないっす。
305 :・・・ :04/02/22 23:52
>>299 『生活の設計』は読みましたよ。
後藤さんに似てるかよりも、個人的な印象は現代風「プロレタリア文学」でした。
306 :おさみ ◆pTvo7z/DwU :04/02/22 23:56
>>305 それは最後のあれだろ?
あれはシャレで言ってんじゃないのか?
307 :・・・ :04/02/23 00:10
ええ、あの最後の言葉はユーモアですよね。
「現代風」と書いたのはその意味でですが、紛らわしい言い回しでした。
御免なさいです。
96 :
鳥 ◆c0RZqMDFxs :04/02/23 13:13
「生活の設計」のラスト、「万国の労働者よ、団結せよ!」は、「・・・だから私達は、
繰り返し言わねばならない」みたいな言葉のあとに出てくる。時代の空気からは外れて
いるけれど、あえてその言葉を使うことで、現実のある面に注意を喚起するというよう
な意味合いではないかと思うが・・・・この作品そのものが、そんな感じかも。
97 :
鳥 ◆c0RZqMDFxs :04/02/23 13:25
佐川の小説では、登場人物が唐突に涙を流す。「生活の設計」では瀬川が、「縮
んだ愛」では牧野が、「青いけむり」では吉田が・・・・それは何故なのか?
98 :
鳥 ◆c0RZqMDFxs :04/02/23 13:30
「生活の設計」では、小谷野敦が瀬川の涙を手がかりに、主人公の妻をめぐる
複雑な人間関係という、作品の表面には現れてこない主題を読み取ろうとした。
たしかに瀬川の涙は、そういう読み取りを許すような文脈に置かれていた。
99 :
鳥 ◆c0RZqMDFxs :04/02/23 13:37
それに引き換え「縮んだ愛」では、牧野の涙は全く唐突で、その意味を探る
手がかりは、作品の中にはない。涙に意味をもたらす文脈が、意図的に消さ
れているようだ。牧野の涙は、小谷野が読みこんだような「深い意味」に収
斂されない、たんなる表面の「現象」として、あえて提示されてるようだ。
100 :
鳥 ◆c0RZqMDFxs :04/02/23 13:49
「青いけむり」では、吉田の涙に、主人公はある解釈をあたえるが、吉
田の話は、その解釈とは全く違う方向に展開していく。ここでは、涙に
対する意味付けがはぐらかされる様子が、物語化されているかのようだ。
101 :
吾輩は名無しである:04/02/23 14:19
>>97-100 佐川さんまだ生きてらっしゃるんだから、直接佐川さんに聞いてみたら?
102 :
鳥 ◆c0RZqMDFxs :04/02/23 14:29
>>101 >まだ生きてる
老人みたいな言い方だなwww 三十台だぞたしか
>直接佐川さんに聞いてみたら?
作家が意図したものと、作品に実現されたものとは、ずれるのが普通だから
作家に聞いたとしても、それが「正解」とはいえないと思う。
103 :
吾輩は名無しである:04/02/23 14:33
鳥さんって鳥インフルエンザさんですよね。
>>99 「縮んだ愛」しかわかりませんが、「泣いた」とは書いてなかったのでは?
「泣きそうな表情をしたように見えた」か、そんな感じだったと記憶しています。
>>102 作家の意図を全く無視するのもどうかと思うが
106 :
吾輩は名無しである:04/03/13 12:16
>>103 そうです。
>>104 ですね。思い出したんだけど、
泣くようにしたとか、唐突にいうのは、宮沢賢治がよくやってた気がする。
「縮んだ愛」はそもそも、文体で泣くという感じで、それも賢治を思わせる。
>>105 そもそも聞けないじゃんw
でも「縮んだ愛」の意図を説明した、ユリイカのはいい文章だと思った。
>>106 意外とこういう細かいとこが、重要だったりするんじゃないかなと思って・・・
110 :
吾輩は名無しである:04/04/05 20:51
あげ
>夏目漱石の『明暗』と有島武郎の『或る女』を両睨みにするような場所にまで立ち戻って小説を書いてみたい。しかも現代の日本を舞台にして。
やっぱり漱石、有島だったね。でも大本はヘンリージェイムスらしい
112 :
吾輩は名無しである:04/04/07 18:12
小谷野敦の『鳩の翼』論ってどんなのだったかな?思いだせない
>>1 どうして君の書きこみは下にスペースがあくのかね?
どうでもいいことだが気になってしょうがない
>113
あなた神経症だね
115 :
吾輩は名無しである:04/04/08 05:02
文学界5月号に「弔いのあと」出たね
100枚くらいか?
どう考えても、そんなに分量なさそうだったけど
400字換算なら100はあるだろ
150くらいか
118 :
吾輩は名無しである:04/04/14 23:01
じゃあ芥川賞
119 :
吾輩は名無しである:04/05/05 10:23
ageとく
120 :
吾輩は名無しである:04/05/05 10:30
文學界に載ったあれで芥川賞だろ。
ばればれだ。みんなわかってるって。
勤労感謝の日とダブル受賞だ。
121 :
吾輩は名無しである:04/05/06 01:07
さて、どうだろうか?
今「灰色の瞳」を単行本で読み終わりました。
癖のない文体で切れ味も良いぶん、ロジックに傾きがちで、
私が強く感情移入できた部分はラストシーンの千明の爆泣きくらいでしたが、
もともとヒロインは感情には流されない人物として描かれているため、
それも無理からぬことかとも思いました。
しかし、この強烈な印象のヒロインが何の痕跡も残さずに消えてしまった
ことは一介の読者にすぎない私にとってもつくづく寂しいことであり、
あんまり寂しいので「作者が「灰色の瞳・第2部」でも書いてくれない
ものかな」などとアホなことを思わず考えてしまいました。
それにしても...
千明はマヌケすぎた!
この結末はみんなおまえが悪いんじゃ!
と私は思いました。
>>123 なるほどね。
>>108のをみると
浮世離れしたヒロインってとこが古典的「ロマン」
情けなくて間抜けな男ってとこが「リアリズムの手法」
かな・・
礼子って性格悪すぎない?
腹黒すぎ。
育ちの悪い女ってやだね。
千明には萌え。
126 :
吾輩は名無しである:04/07/15 10:03
芥川賞受賞おめでとうございます
127 :
吾輩は名無しである:04/10/08 22:23:47
128 :
吾輩は名無しである:04/10/15 19:49:38
だおっはどこだ!?
ほしゅしとく
130 :
吾輩は名無しである:05/01/16 12:41:49
芥川には見放されたようだな
131 :
吾輩は名無しである:05/02/07 21:06:56
長編発表でageておこう
132 :
吾輩は名無しである:05/02/08 14:35:11
「永遠の誓い」一気読みした。
初めて読んだがおもろかった。
夫婦喧嘩のシーンがリアル。だが新婚男がオナニー二年してないとか俺には分からん。
133 :
吾輩は名無しである:2005/04/21(木) 21:37:27
佐川君からの手紙
134 :
吾輩は名無しである:2005/04/22(金) 02:35:08
年賀状北よ
135 :
Corentin ◆bBm/UfuWG2 :