【世界の】「南京大虐殺」は嘘【常識】112次資料

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1日出づる処の名無し
南京戦はありました。しかし南京大虐殺は存在しません。
このスレの最終目標は犠牲者数を算定する事です。これは中共のプロパガンダに
対抗する最も有効な手段です。ただ無かったと声を大にしても説得力がありません。

●議論のルール
1.反論を大量スルーしておきながら質問を発してはいけません。
2.矛盾を指摘されたままの資料を再び根拠として使用してはいけません。
3.スレを読まずに論を主張してはいけません。
4.30万人か虚構かという二元論的議論をしてはいけません。
5.初歩的な事項に関するソースの提示を求めてはいけません。自分で調べましょう。

●基本リンク
南京大虐殺は嘘だ
http://www.history.gr.jp/~nanking/
南京大虐殺の虚構
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/index.html
南京大虐殺関係資料
http://nankinrein.hp.infoseek.co.jp/index.html
本宮ひろ志『国が燃える』捏造問題、山本弘「と学会」をウォッチングするHP
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/
南京事件 小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/
【共同編集】 南京ペディア - 南京の真実まとめWiki
http://jpn.nanjingpedia.com/wiki/

●前スレ
【世界の】「南京大虐殺」は嘘【常識】110次資料(実質111次資料)
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/asia/1276776612/l50
●過去ログ&テンプレート置き場
http://jpn.nanjingpedia.com/wiki/?2ch/asia/NanjingLie
2日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:04:00 ID:aw94YtHd
●以下の証言者・記者・作家の発言及び記述は例外なくすべて嘘であったことが確認されています。

・ 東史郎…一番有名な捏造者。原本が存在しない創作をバラまいた。中国じゃ未だに真実扱い
・ 中山重夫…段列兵の立場で虐殺目撃談を語ったがそもそも現場に居合わせるのは不可能だったことが判明
・ 富永博道…当時は学生だったのに自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。経歴照会であっさり嘘判明
・ 舟橋照吉…東の懺悔屋成功に載せられて日記捏造。輜重兵の自分が1人で敵陣突撃し勇戦するという
 カッコつけかました仮想戦記な内容であっさり×
・ 曾根一夫…野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官だと経歴と日記を捏造。やっぱり経歴を
 調べられて嘘と判明。懺悔屋の代表格で、あの秦教授も騙された
・ 田所耕三…強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。
 後に「普通の話だと記者が興味を示さないから…」と捏造を白状
・ 太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)
 により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった
・ 富沢孝夫…海軍の暗号兵で、「南京発の松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」
 と証言(だから逆説的に虐殺があったという主張)。だが陸軍の暗号を海軍の知識しかない彼が解読
 するのは不可能で、おまけに証言日時には松井司令官は蘇州で入院していた
・ 上羽武一郎…「上官の命令で強姦虐殺放火をした」と証言。しかし彼は「(後方で担架運びの)衛生兵」で
 しかもそんな命令が出たという史料は一切無し

その他
秦賢助(従軍作家)、今井正剛(朝日新聞記者)、本多勝一(朝日新聞記者) 、
鈴木二郎(東京日々新聞記者) 、石川達三(作家) 、アイリス・チャン(作家・政治活動家)
ティンパーリ(マンチェスター・ガーディアン中国特派員:国民党中央宣伝部顧問)、中帰連

●捏造が確認されている史料・報道
紅卍字会埋葬記録(人数水増し)、崇善堂埋葬記録(全くの捏造)、朝日新聞「宇和田日記」報道
3110次スレ1:2010/07/19(月) 23:04:35 ID:aw94YtHd
以下の事件はいずれも大虐殺と呼ばれていません

ソ連秘密警察によるカティンの森事件:ポーランド人2万5千人を裁判無しに銃殺(文民含む)
韓国軍によるベトナム戦争時の悪行:ブガツ省で3万5千人を拷問の上に皆殺し(殆ど文民)
ソ連によるシベリア抑留中に死亡した日本人:軍民合わせて25万4千人、行方不明・推定死亡者9万3千人
ドイツの捕虜収容所で死亡したソ連兵320万人
米軍による東京大空襲の死者10万人(1945年3月10日だけの死者数)
米軍による広島原爆投下による死者23万7062人(2004年8月6日時点)
米軍による長崎原爆投下による死者13万4592人(2004年8月9日時点)

カティンの森事件以下の犠牲者数を、ことさら大虐殺と強調する事は歴史的に見ても
バランス感覚に欠けた主張と言えます。ましてや文民殺害を目的としていない、若しくは
文民の犠牲者が僅かな事件に関して、大虐殺と名前が付く事は非常に例外的なのです。
4110次スレ1:2010/07/19(月) 23:04:59 ID:aw94YtHd
●当時、南京での日本軍の殺戮行為は第一報こそ新聞等で報道されましたが、その後は
全く記述がありません。むしろ殺戮の記述は訂正されているのです。

『チャイナ・イヤーブック』(英字年鑑)1939年度版…過去の主な出来事の南京の項目で
出てくるのは昭和2年の南京暴行事件(第一次南京事件)である。南京大虐殺の記述は無し。

『チャイナ・ジャーナル』支那事変1周年特集号(英文月刊誌)1938/2月発行…日本軍による
掠奪・強姦・破壊の記述あり。殺戮の記述は無し。

『チャイナ・クォータリ』支那事変1周年特集号(英文季刊誌)1938/夏季号…日本軍による
恐怖の支配の記述あり。殺戮の記述は無し。

『チャイナ・アット・ウォー』創刊号(英文雑誌)1938/4月発行…金と掠奪品と女を求めて隈なく町を歩き
回る日本兵の記述あり。殺戮の記述は無し。

日本軍の殺戮行為の報が、一時期、新聞・雑誌で書かれていたのは事実です。しかしやがて噂は
収束に向かったのです。

●支那事変1周年の蒋介石の声名 1938/7/7 漢口
《(略)戦場や、日本占領地域では、資源財産の計り知れない損失に加えて、経験豊かな
数限りない青壮年、婦女子、年老いた人々が、大量殺戮、強姦、その他の無慈悲な蛮行を
免れることができなかった。(略)
広東を例にとろう。この町は過去2週間にわたって昼も夜も空襲を受け、数千の市民が殺された。
機関銃が悪魔のように狂いまくり、家屋が粉々になり、市民の血や肉が飛び交った。(略)》

これは「友好国への声名」の中で、「日本人の残虐行為」という章の中の文言です。
後に30万人が虐殺されたと主張する南京を挙げずに、数千人の犠牲者の広東を例に挙げてます。
つまり南京大虐殺とは作られた事件なのです。1938/7月にティンパーリの、『WHAT WAR MEANS
The Japanese Terror in China』が英国で出版され。1938年末にその漢訳版『外人目撃中の日軍暴行』
が支那で出版されました。ここからプロパガンダが始まったと言っても過言ではありません
5110次スレ1:2010/07/19(月) 23:05:18 ID:aw94YtHd
【名言】5次資料693氏抜粋

>先史研究では資料の要素が少ないがゆえの苦労がありますが、
>ここで話題の南京は70年程前のことですよ。
>文字資料の残存は豊富で、証拠と成り得るモノが消滅した割合も少ないでしょう。
>「証拠を示せ」と言われ、その証拠に疑問が提示されれば、堂々と反論なさればよい。
>根拠のない推論ではなく、他の資料との組み合わせで。
>できないならば、通常、自論に疑問が生じるはずです。
>
>自論の証明とは客観性を獲得することです。
>資料の解釈を1つの方向に揃えてしまえばいいわけではありません。
>読み取れる事実1つ1つの組み合わせから構成されるものが論ですから、
>論者のみに自明の論では、無意味というよりもはや滑稽、
>客観性を獲得する為には守らなければならない姿勢があるのです。


【名言】4次資料947氏

>疑問を取り除いたとは、自論に資料の解釈を近づけることですか?
>論は、資料の解釈から形成されるものです。逆なのです。
>根拠とする資料を提示しない姿勢を度々非難されています。
>また、提示した資料について矛盾などを指摘され、
>その矛盾点を解消しないままに再び根拠として提示するなど、
>意図的でなければ通常起こり得ない、恥ずべき論立てを行っています。
6110次スレ1:2010/07/19(月) 23:05:41 ID:aw94YtHd
ついでに
★716 名前:K−K@南京事件資料集[[email protected]]
 根拠無く、専門家の見解を否定するのであれば、それはトンデモ論と言わざるを得ないでしょう。
 あなたが何か主張したいのであれば、それなりの根拠を提示しなければ説得力はありません。
 それが出来ない以上、議論に決着がついたと考えるべきかと思います。
7110次スレ1:2010/07/19(月) 23:05:57 ID:aw94YtHd
南京関連ブログ集

中南海ノ黄昏 「30万」は捏造のシンボル@南京(上)
http://ihasa.seesaa.net/article/73976544.html
中南海ノ黄昏 「30万」は捏造のシンボル@南京(下)
http://ihasa.seesaa.net/article/74050971.html
ぼやきくっくり GO!GO!松原仁−1(2006/3/10衆議院外務委員会)
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1.html
ぼやきくっくり GO!GO!松原仁−2(2006/3/15衆議院外務委員会)
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid2.html
enjoy korea 意外と知らない【南京事件】3
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=493709
WGIPに対抗する為の資料収集を目的とするサイト
http://1st.geocities.jp/nmwgip/index.html
証言による南京戦史
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shougen_kaikosha.html
南京虐殺はでっち上げと確信している
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835559&tid=fn5fe5tbba6a4oa4ga4ca4abeea42a4h3nbfaea47a4fa4a4a4k&sid=1835559&mid=1&type=date&first=1
南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13&sid=1143582&mid=1&type=date&first=1
日中戦争は侵略なのか?
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835559&tid=ffccfc0oaha4obfafnaca4ja4na4aba1a9&sid=1835559&mid=1&type=date&first=1
北の狼投稿集:「便衣隊」考編 南京陥落と国際法
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/jusinbello/
8110次スレ1:2010/07/19(月) 23:06:11 ID:aw94YtHd
■ ■ ■ 注意事項 ■ ■ ■

【言論チンピラ妄言解毒対策レス#**】という文字列を見つけた場合、それに対してはレスを返さないで下さい。
通称koueiという人物、若しくはkoueiを模倣した荒らしです。議論は不可能かつ削除依頼の邪魔になります。

この【言論チンピラ妄言解毒対策レス#**】の#**は定型文の番号になっています。
例えば#45は「都合の悪い質問はスルーですか? 繰り返し質問します。(以下略)」です。
今のところ#211まで確認できているので、211種類の定型文があるようです。

つまり永遠に答えは返ってきません。その時々で最も適した定型文を
コピペしているだけなのです。しかも延々と繰り返します。

このkoueiなる人物は、このスレだけでなく他スレ・他の掲示板・国会議員のHPにも出没しています。
既に誰もレスを返さず放置を徹底しているスレもあり、その後現われなくなる等、対策が功を奏しています。
荒らしに付き合うのも荒らしと同じ行為と考えて下さい。

可能ならば、『妄言解毒対策』などをNGワードにすることをお勧めします。
9110次スレ1:2010/07/19(月) 23:06:29 ID:aw94YtHd
ストローマン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
ストローマン (straw-man)とは、議論において対抗する者の意見を正しく引用せず、あるいは歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。

語源は仕立て上げられた架空の存在を藁人形に見立てたことから。そのまま直訳して「わら人形」「わら人形論法」とも言う。

概要
相手の意見を誤解していたり、正しく引用することなく歪めたり、誇大に解釈すれば、その意見に反論することは容易になる。
このばあい第三者から見て一見すると反論が妥当であるように思われるため、人々を説得する際に有効なテクニックとして用いられることがある。
これは論法として誤謬(論点のすり替え)であり、無意識でおこなっていれば論証上の誤り(非形式的誤謬)であり、意図的におこなっていればその実態は詭弁である。
しばしば感情に訴える論法と共に用いられる。また相手の発言のうち、反論するのに都合の良い部分だけをとりだして反論することをクオート・マイニングとも呼ぶが、クオート・マイニングはストローマンの一種である。

マスメディアにおいて対抗意見を充分に取材せず、独自に解釈した反論を両論併記などの形で用いることは、故意でないにしろストローマンに繋がるものである。
しかし実際にはこうした手法はしばしば報道に取り入れられている。

ストローマンの手順
相手の意見を歪めた説明を相手が提示したものとして引用する。
これに対する自らの反論を示し、論破されたものと扱う。
相手の意見に同調する不完全な擁護意見を持ち出し、充分な主張・再反論がされたように見せかける。
批判されて当然である(本来無関係でも一見関係のありそうな)問題や考え方を創造し、さも相手側の意見はこれを象徴するものとして強く非難する。
簡単な例:

A氏「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
B氏「そうは思わない、子どもが外で遊ぶのは良いことだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」
10110次スレ1:2010/07/19(月) 23:06:48 ID:aw94YtHd
■ 詭弁のガイドライン十五条+5

事実に対して仮定を持ち出す
ごくまれな反例をとりあげる
自分に有利な将来像を予想する
主観で決め付ける
資料を示さず自論が支持されていると思わせる
一見関係ありそうで関係ない話を始める
陰謀であると力説する
知能障害を起こす
ありえない解決策を図る
レッテル貼りをする
決着した話を経緯を無視して蒸し返す
勝利宣言をする
細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
全てか無かで途中を認めないか、あえて無視する。
勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。
自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。
より重要な課題を急に持ち出し、今までの議論をなかったことにする。
電波を発する。

【悪魔の詭弁術】

みんなやってるよ── バンドワゴン・アピール
ご存知のとおり、この問題のそもそもの原因は… ── 決め付け
逆に教えてくださいよ、ぜひ── 質問に質問を返す(カウンタークエスチョン)
主張を証明できないなら、その主張は嘘だ
ぜったいまちがいないよ── 憶測にすぎない話を、事実であるかのように話す
言っていないことを言ったことにする、そしてそれを攻撃する── わら人形テク
「すべて」と「一部」を混同し、一部でもってすべてとするテク(○○人はみんな△△だ!)
質問のすりかえ、そしてすりかえた質問に答えるテクニック
11110次スレ1:2010/07/19(月) 23:07:02 ID:aw94YtHd
以後、個人的おまけw


652 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/01/09(水) 15:44 ID:v6msr+Jx0
あけましておめでとうございます。

南京の戦時国際法解釈については
ここがおおむね私の見解と同様なので参考にしてください。
ttp://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/nankin.htm

肯定論者によれば、南京に限らず、軍服を脱いで、兵士かどうかわからないように撤退する敵軍に対しては、それを掃討する自軍は、その一人一人に軍事裁判をかけなければ攻撃を加えられないという結論になります。

これが妥当かどうかは、これを読んでいる第三者にゆだねるとしましょう。
12110次スレ1:2010/07/19(月) 23:07:22 ID:aw94YtHd
【便衣兵がゲリラであることについての拙稿】
 ネット上ではよく、摘出された便衣兵(便衣化した正規兵)は、【戦闘】状態ではなかったから捕虜の資格を保持しているという主張が見受けられます。この点について拙稿ですが、反論と整理をしていきたいと思います。

 まず、前提として、便衣の状態で【戦闘】行為を行っていた場合には、交戦資格を得られないことは、両者の間では異論は無いことを確認しておきたいと思います。
 一応理由を簡単に言っておきますと、戦時国際法においては、軍民分離原則を採用しているところ、
正規兵が一般人と見分けのつかない便衣の状態で交戦しますと、相手側の軍隊は、正規兵と一般市民の見分けがつかなくなるため、
一般市民への被害が出てしまうことを防止するために法は便衣戦術を禁止した趣旨であると思います(他には、攻撃目標を明確にすることにより、戦闘の早期終結を図る)。

 問題は、【戦闘】行為とはどういう状態であるか【戦闘】の定義が、両者の間でずれがあり問題になっていると思います。

 便衣兵に捕虜の資格があると主張する説は、便衣の状態で具体的な害敵手段を起こした段階で捕らえた場合にのみ捕虜の資格を得られないと極めて限定的にとらえています。
 これに対して、便衣兵に捕虜の資格はないと考える説は、これより広い概念でとらえ、抽象的に戦闘状態であるときととらえています。
 これはハーグ陸戦協定を根拠とすることができます。
  第五章 休戦
* 第36条:休戦は、交戦当事者間の合意をもって作戦行動を停止するものとする。
       期間の指定なき時は、交戦当事者は、いかなる時点においても再び交戦を開始する事が可能である。
       ただし、休戦条件に順じ、所定の時期にその旨を通告すべきものとする。
* 第37条:休戦は、全般的、もしくは部分的に行うことを可能とする。
       前者は、交戦国の作戦動作を停止し、後者は特定地域において交戦軍のある部分間を停止するものとする。

 休戦(戦闘状態の停止)というのは36条によって両者の合意が必要であると規定しております。
 また、37条に、特定地域において交戦軍は戦闘を停止するということができるとあるので、南京に限定して、休戦ということは可能ということになります。
 南京戦において、両軍が休戦の合意が成立していないということは歴史的事実です。また中国側の南京守備隊が全面降伏(ハーグ35条)した歴史的事実もありません
13110次スレ1:2010/07/19(月) 23:07:41 ID:aw94YtHd
休戦が成立したとしても期限の定めが無い場合には相手に通告していつでも攻撃再開できますので、そもそも休戦が成立していない場合には、両軍はいついかなるときにでも攻撃することは可能な状態にあるといえます。
 つまり、休戦も降伏もしていない南京の守備隊(兵士)がいる時点において、南京は依然戦闘状態であるといえるのです。

 降伏していない軍服を着ている兵士は、そのまま攻撃を加えることができるのに対し、便衣の人間を一般市民か兵士か吟味してその後に攻撃しなければならないとすれば、
便衣兵戦術は有効な手段となり、一般市民を盾とする便衣兵戦術を防止できず、一般市民を戦闘にまきこむのは明白であります。これは文民保護を定めているハーグ法の趣旨に反することになり妥当でないと考えます。
(そもそも南京は防守地域(ハーグ25条)だったので、軍民無差別攻撃が認められており、日本軍による軍民選別の法的義務は存在しません。降伏勧告を無視し南京を戦場にした中国側の責任は大変重いものと考えます。)

 以上から、降伏も休戦もしていないのに便衣の兵士が保護される法的根拠は皆無であり便衣兵はゲリラであると結論づけられると思います。


小川法務官の日記には、以下のように記されています。
「◎十二月一日
中支那方面軍軍律、中支那方面軍軍罰令及ビ中支那方面軍軍律審判規則発令セラル…
戦闘中ハ反逆者タル帝国臣民以外ノ人民ニ対シ直ニ之ニ適当ノ処分ヲ為スコトヲ得シモ
敵国トノ戦闘休止ノ状態ニ至リタルトキハ戦争中ノ如ク適宜処分スルハ穏カナラザレバ
一種ノ軍政タル本則ニ基キ軍律ニヨリ帝国軍ノ利益ヲ保護セントスル趣旨ニ出タルモノナリ」(p.90) 

ここから、戦闘中においては、軍律裁判は不要。
戦闘休止状態になって初めて軍律裁判が必要であるといえます。

南京攻略戦においては、休戦協定は結ばれていませんので、軍律裁判は不要であったと結論付けられます。
ただ、入場式以後*は掃討作戦は一段落しており、休戦状態と同様の状態とみなし、軍律裁判は必要と考えます。
(*修正:戦闘詳報には24日まで掃討作戦は続いていた模様よってそれ以降)
日本軍もおおよそそのような処置がなされたのではないかと考えます。


この点についても、日本軍は適法に行動していたのだとおもいます。
14110次スレ1:2010/07/19(月) 23:14:52 ID:aw94YtHd
以上テンプレ+αでした

この後は持論も議論も論拠もない大虐殺被肯定(?)派の担当者の方が

「真 相 は 捕 縛 し た 不 正 規 敗 残 兵 3 万 以 下 を 処 断 す る 際 の 手 続 き 上 の 不 備 に 過 ぎ な い 」

と文字通りに『 南 京 大 虐 殺 は 嘘 』であり

しかも
『 3 万 人 を 越 え る 説 を 唱 え る 者 は 肯 定 派 で す ら な い 』となり、
肯定派の某氏の言葉を勝手に拝借するなら『 本 ス レ に 於 い て は ト ン デ モ 論 支 持 者 』としか言いようがない

と書き逃げコピペで親切丁寧に説明してくれます

それでは大虐殺被肯定(?)派の担当者の方、業務規定の通りに毎度お馴染みの論破済みコピペをどうぞ。
こんな感じ(↓)でw
-------------引用開始------------------------------------------------------------------------
否定派によると「学説の裏付けのない主張はトンデモ論に過ぎない」そうです。←ここ大事。

さて、否定派がいくら無裁判処刑を合法化しようとしても、軍事的必要性の在った場合と、4条件違反者が
敵対行為の現行犯だった場合以外での無裁判処刑は違法です。残念ながら学者・有識者の見解は、東中野
を含めてことごとく裁判が必須との事です。
------------中略-----------------------------------------------------------------------------
まとめ
 南京事件とは捕虜の無裁判大量処刑です。敵拘束兵の処刑記録は探せばいくらでも出てきます。それでも
犠牲者が3万人を越える事はないでしょう。
-------------以下は感想文なので略-------------------------------------------------------------

追記、しかも肯定派テンプレの筈なのに肯定派スレッドでは全否定されている模様です(苦笑
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/asia/1230937596/722-726
15日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:39:12 ID:PSF0Ptux
否定派によると「学説の裏付けのない主張はトンデモ論に過ぎない」そうです。←ここ大事。

さて、否定派がいくら無裁判処刑を合法化しようとしても、ハーグ陸戦条約の4条件違反者が敵対行為の
現行犯であった場合以外での無裁判処刑は違法です。学者・有識者の見解によると、便衣兵を捕らえた
場合はことごとく裁判が必須との事です。

『「南京事件」の探求』北村稔 立命館大学教授 歴史学者(中国近現代史) 2001年 P101
 筆者の見るところ、「ハーグ陸戦法規」の条文とこの条文適用に関する当時の法解釈に基づく限り、日本
 軍による手続きなしの大量処刑を正当化する十分な論理は構成しがたいと思われる。両者の論争は
 「虐殺派」優位のうちに展開している。

「板倉由明『本当はこうだった南京事件』推薦の言葉」原剛 軍事史研究家 軍事史学会副会長 1999年
 まぼろし派の人は、捕虜などを揚子江岸で銃殺もしくは銃剣で刺殺したのは、虐殺ではなく戦闘の延長と
 しての戦闘行為であり、軍服を脱ぎ民服に着替えて安全区などに潜んでいた「便衣兵」は、国際条約の
 「陸戦の法規慣例に関する規則」に違反しており、捕虜の資格はないゆえ処断してもよいと主張する。
 しかし、本来、捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定すべきもので
 あって、第一線の部隊が勝手に判断して処断すべきものではない。

『昭和史の論点』秦郁彦 歴史学者(日本近代史)・法学博士 2000年 P96,97
 南京事件の場合、日本軍にもちゃんと法務官がいたのに、裁判をやらないで、捕虜を大量処刑したのが
 いけないんです。捕虜のなかに便衣隊、つまり平服のゲリラがいたといいますが、どれが便衣隊かという
 判定をきちんとやっていません。これが日本側の最大のウイークポイントなんです。・・・捕虜の資格がある
 かないかはこの際関係ありません。その人間が、銃殺に値するかどうかを調べもせず、面倒臭いからせず
 にやってしまったのが問題なんです。

『現代歴史学と南京事件』吉田裕 一橋大学教授 歴史学者(日本近代史) 2006年 P70
 もちろん、正規軍の場合でもこの四条件の遵守が求められており、それに違反して行われる敵対行為は、国
 際法上の「戦時重罪」を構成する。しかし、そうした国際法違反の行為が仮にあったとしても、その処罰には
 軍事裁判の手続きが必要不可欠であり、南京事件の場合、軍事裁判の手続きをまったく省略したままで、正
 規軍兵士の集団処刑を強行した所に大きな問題がはらまれていた。以上が私の主張の中心的論点である。
16日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:39:56 ID:PSF0Ptux
『戦時国際法論』立作太郎 国際法学者 日本評論社 1931年版
 凡そ戦時重罪人は、軍事裁判所又は其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於て審間すべぎものである。
 然れども全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。

「北支事変と陸戦法規」篠田治策 国際法学者 外交時報84巻通巻788号 1937年10月1日 P54,55
 軍律に規定すべき條項は其の地方の情況によりて必ずしも劃一なるを必要とせざるも、大凡を左の所爲あ
 りたるものは死刑に處するを原則とすべきである。(略)
 六、一定の軍服又は徽章を著せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者(假令ば便衣隊の如き者)
 (略)而して此等の犯罪者を処罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれぼ、
 殺伐なる戦地に於いては動もすれぼ人命を軽んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることあるが為めである。

「南京の支那兵処刑は不当か」東中野修道 亜細亜大学教授 政治・思想学者 『月曜評論』 2000年3月号P55
 その違反者は、「死刑に処するを原則とすべきである」(54頁)が、処刑の前に「必ず軍事裁判」(55頁)に
 かけるべきであると篠田博士も注意を促していた。
 これは当然であったろう。便衣隊の一人として狙撃などに従事するときは、囚われたときのことをあらかじめ
 考慮して、自分は便衣兵ではなくどこそこの市民であり、名前(偽名)、住所、家族関係は次の通りという言い
 分を用意していたであろう。そこで相手の弁明を査問して、事実関係を明確にしない限り、良民が菟罪に苦
 しむことになるから、「軍事裁判」ないしは「軍律会議」(昭和十二年十二月一日「中支那方面軍軍律審判規
 則」)の手続きは、氏も言うに、「不可欠」であった。
 しかしそれはあくまで安全地帯の支那兵が便衣兵であった場合の話であった。

おまけ
『世界戦争犯罪事典』秦郁彦、佐瀬昌盛、常石敬一 文藝春秋 2002年
 軍律会議は国際的に慣習化されており、日本も既に日清戦争の時からこれに類するものを設置していた。
 軍律会議は、軍の作戦地域などにおいて、軍司令官以上が作戦の遂行上公布した軍律に違反した日本人
 以外の人民を審判するため設置されるもので、(中略)当時は、中支那方面軍、上海派遣軍、第一〇軍に
 そ れぞれ軍律会議が置かれていた。したがって、便衣兵は捕虜の資格がないとするのであれば、軍律会
 議で 審判し処断すべきであり、第一線部隊が処断してよいものではない。
 しかし、軍法会議、軍律会議は、本来少人数の違反者を対象にしたもので、多数の捕虜集団や便衣兵の集
 団を裁判したり審判することを想定していないので、実際にはこれらの集団を裁判し審判することは能力的
 に不可能に近かった。だからといって、能力的に不可能だったから、第一線部隊の殺害が不法殺害ではな
 い、として許容されるものではない。
17日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:40:38 ID:PSF0Ptux
佐藤説をもってしても敵拘束兵の無裁判処刑は違法です。

「南京事件と戦時国際法」佐藤和男 国際法学者 『正論』 2001年3月号 P314-315
  学説上では、助命を拒否できる若干の場合のあることが広く認められている。
 (略)
  第三は、軍事的必要の場合である。交戦国やその軍隊は、交戦法規を遵守すれば致命的な危険に
 さらされたり、敵国に勝利するという戦争目的を達成できないという状況に陥るのを避ける極度の必要が
 る例外的場合には、交戦法規遵守の義務から解放されるという戦数(戦時非常事由)論が、とりわけ
 ドイツの学者によって伝統的に強く主張されてきたが、その主張を実践面で採用した諸国のあることが
 知られている。
  この「軍事的必要」原則は、第二次世界大戦後の世界においてさえも完全には否認されていない。
 例えば、ミネソタ大学のG・フォングラーン教授は、無制限な軍事的必要主義は認めないものの、「必要」
 に関する誠実な信念や確実な証拠が存在する場合には、この原則の援用や適用を容認している。
  もっとも、同教授は、極度の緊急事態の不存在や、軍事的成功への寄与の欠如が明らかにされたなら
 ば、軍事的必要を根拠にした違法行為は、戦争犯罪を構成するものになると警告している。
 (略)
  ちなみに、オッペンハイムの前記著作第三板(一九二一年)は、「敵兵を捕獲した軍隊の安全が、捕虜
 の継続的存在により、死活的な重大危険にさらされる場合には、捕虜の助命を拒否できるとの規則が
 ある」と主張している。同書第四版以降の改訂者は、同規則の存続は「信じられない」との意見を表明し
 ている。
  学界の通説は、右のような場合には、捕虜は武装解除された後解放されるべきであるというものである。

どこにも一旦拘束した兵を無裁判で処刑してよい、あるいは攻撃対象を移動させ改めて攻撃を続行しても
問題ないと書かれていません。 むしろ敵兵拘束により、“交戦法規を遵守すれば致命的な危険にさらされ”
る場合以外は、助命を拒否できないと書いてあります。また、“捕虜の継続的存在により、死活的な重大危
険にさらされる場合”、“学界の通説は、右のような場合には、捕虜は武装解除された後解放されるべきで
あるというものである”と説明しています。
さらに、“極度の緊急事態の不存在や、軍事的成功への寄与の欠如が明らか”な場合の助命拒否は戦争
犯罪になるそうです。いったい否定派はどこをどう読んでるんですかね。
18日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:41:20 ID:PSF0Ptux
「南京事件 − 虐殺否定論の動向)」吉田裕 一橋大学教授 歴史学者(日本近代史) 1999年6月5日講演より
二、南京事件をめぐる論争について (2)国際法の無視による虐殺の否定
 これらは国際法の歪曲ですが、もうひとつは国際法の無視です。これは何度言ってもこの主張を無視するんですけど、
彼らが言うのは便衣兵ですね。資料8を見てください。小林よしのりさんのマンガ。「便衣兵 − つまりゲリラである」、「軍
服を着ていない、民間人との区別がつかない兵である」、「国際法ではゲリラは殺して良い」、「ゲリラは掟破りの卑怯な手
段だからである」。いい加減にしてほしいんですけど、ちょっと一言説明しておきますと、ゲリラ、民兵、義勇兵というのは
国際法の中では主流ではなかったんですね。(中略)もう一度見なおしてください。4つの条件を満たしてのみ、民兵や義
勇兵には交戦資格が与えられる。だから捕虜になった場合でも、人道的に処遇されるということです。まあ第一項はいい
ですよね、責任者がいる。ところが、第二項の遠方より認識しうべき固着の特殊徽章を有すること。たとえば都市ゲリラの
場合、民衆にまぎれて、市民に紛れて行動するわけですよね、私はゲリラですってワッペンをつけて回るバカはいないわ
けで、これはゲリラの活動を規制する面があるんですね。当時の国際法自体がです。国際法は目安として重要なんです
けれども、国際法自体が歴史性というものをもっていて、特に戦前の国際法はゲリラという形をとって現れるような、民族
的抵抗を抑え込む役割を果たしていた。その歴史性ということを考えにいれないといけません。しかしそれを押さえた上で
もやはり当時の国際法からみても無理な主張を彼らはしています。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 便衣兵というのは1932年、昭和7年の第一次上海事変の時に登場してくるんですね。これは便衣という一般人の服で
すね、これを中国の学生や労働者が着て、正規兵も少しいたようですけど、民間人の服を着て、上海で一種の都市ゲリラ
をやる。単独で行動して拳銃で狙撃したり手榴弾を投げる、これを便衣兵というんですね。そういう民間人の服を着てゲリラ
的な行動をする戦闘者、これが便衣兵です。これは当時の国際法の解釈では、現行犯でですね、手榴弾を投げてきたり、
拳銃で狙撃してきたときは、現行犯で正当防衛で反撃できますけど、処刑するにはこれもやっぱり国際法上は軍事裁判の
手続きが必要なんですね。小林よしのりは国際法上は殺してもよいと書いていますけれど、これは全くの間違いで、軍事裁
判の手続きを経て、初めて処刑ができるわけです。それはそうなんで、民間人の服を着て、武器ももってないのに、お前は
目つきが悪いからゲリラだろうとか、まあ南京ではそういうことで殺しちゃったんですけど、そういうことをやると大変なことに
なるわけですね。事実、第一次上海事変の時には、日本の外務省の電文の中に残ってますけど、かなり誤認というか、間
違って一般人を殺してしまった。日本人の居留民が自警団みたいのを作って、自分たちで検問をやって、通行人を処刑しち
ゃう、殺害しちゃうんです。外国人まで間違えて殺害した例があって、これは日本の出先の外交官が本省に報告してますけ
ど、かなり間違えて一般人を殺してしまったのです。そういうこともあるから、当時の国際法の解釈でも、間違えて良民を、冤
罪の良民を殺してしまう場合もあるから、必ず軍事裁判の手続きを経ないと処刑できないんだというのは、当時の日本軍の
常識でもあった訳ですね。ところが、南京でやったことは、まず厳密にいって、便衣兵という戦闘者はいません。多少散発的
な抵抗はあったと思いますけど、『南京戦史』をみても、先ほどの『証言による南京戦史』を読み返してみたんですけど、難民
区の掃討に当たったのは第9師団の第7連隊という連隊で、その上の旅団長の副官の談話が載ってましたけど、城内に入
って難民区に入っても、殆ど抵抗はなかったということを言ってるんですね。だから中国軍の便衣兵による抵抗は無かった。
19日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:42:02 ID:PSF0Ptux
戦時重罪犯であるだけで即決処刑を可能とする学説・見解は存在しません。

『上海戦と国際法』信夫淳平 国際法学者 丸善 1932年 P114,P125-126
 現交戦法規の上に於て認めらるゝ交戦者は、第一には正規兵、第二には民兵(Militia)及び義勇兵団
 (Volunteer Corps)にして(一)部下のために責任を負ふ者その頭に立ち、(二)遠方より認識し得べき固着の
 特殊徽章を有し、(三)公然兵器を携帯し、(四)その動作に付戦争の法規慣例を遵守するといふ四条件を具
 備するもの(正規兵も是等の条件を具備すべきは勿論である)
 然るに便衣隊は交戰者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戰法規違反である。
 その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正當防衞として直ちに之を殺害し、叉は捕へて之を戰時
 重罪犯に間ふこと固より妨げない。

便衣隊の害敵手段行使現行犯は正当防衛として直ちに之を殺害し、又は捕へて之を戦時重罪犯に間う事と言って
るだけで、交戦者資格無き者というだけで即決処刑してよいとは言ってない。因みに南京で確認できた便衣隊は5,6人。

『国際法辞典』筒井若水 国際法学者 有斐閣 1998年 P81
 伝統的な戦時国際法は、戦闘員資格をもつ正規軍による敵対行為だけを適法とし、文民等その資格を欠くもの
 はもとより、正規兵であっても不正規軍の適法な構成員資格を満たさない者の敵対行為は交戦法規に照らして
 違法としてきた。

不正規軍の適法な構成員資格を満たさない者の敵対行為は、違法と言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。

『戦時国際法論』立作太郎 国際法学者 日本評論社 1944年版 P62
 上述の正規の兵力に属する者も、不正規兵中、民兵又は義勇兵団に後述の四条件を備へざることを得るもの
 ではない。 正規の兵力たるときは、是等の条件は、当然是を具備するものと思惟せらるるのである。正規の
 兵力に属する者が、是等の条件を欠くときは、交戦者たるの特権を失うに至るのである。例えば、正規の兵力に
 属する者が、敵対行為を行うにあたり、制服の上に平人の服を着け又は全く交戦者たるの特殊徽章を付したる
 服を着せざるときは、敵により交戦者たる特権を認められざることあるべきである。

正規の兵力に属する者が四条件を欠くときは、交戦者の特権を失うと言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。

続く
20日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:42:43 ID:PSF0Ptux
「南京事件と戦時国際法」佐藤和男 国際法学者 『正論』 2001年3月号 P317
 一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、投降したとは認められない
 ので、攻撃できるのである。安全区に逃げ込んだ支那兵は、投降して捕虜になることもできたのに、 それを
 しなかったのであり、残敵掃討が諸国の軍隊にとってむしろ普通の行動であることを考えると、敗残兵と確認
 される限り、便衣の潜伏支那兵への攻撃は合法と考えられるが、安全区の存在とその特性を考慮に入れる
 ならば、出入を禁止されている区域である安全区に逃げ込むことは、軍律審判の対象たるに値する戦争犯罪
 行為(対敵有害行為)を構成すると認められ、安全区内での摘発は現行犯の逮捕に等しく、彼らに正当な捕虜
 の資格がないことは既に歴然としている。

安全区内での摘発は現行犯の逮捕に等しい為、正当な捕虜の資格はなく、軍律審判の対象たる戦争犯罪行為である
とし、逃走する敵兵は投降したとは認められないので攻撃できるが、逃走する敵兵以外を攻撃してよいとは言ってない。

「南京事件と国際法」吉田裕 一橋大学教授 歴史学者(日本近代史) 『南京大虐殺の研究』 1992年 P95-125
 しかし、『南京戦史』の主張に従って、難民区内に本来の意味での『便衣兵』が多数、潜伏していたと仮定しても、
 その殺害を正当化することは、国際法上不可能である。なぜなら、国際法の上では『便衣兵』の処刑には正規の
 軍事裁判の手続きが必要であり、軍事裁判の手続きを省略した殺害が許容されるのは、その『便衣兵』が敵対行為
 の『現行犯者』であった場合に限られていたからである

便衣兵が敵対行為の現行犯者であった場合は軍事裁判の手続きを省略できると言っているのであり、戦時重罪犯で
あるだけで軍事裁判の手続きを省略できるとは言ってない。
※因みに吉田裕は南京に便衣兵は居なかったという説を唱えている。

即決処刑を許容するのは信夫淳平と吉田裕で、信夫は便衣隊の害敵手段行使現行犯の場合、吉田は便衣兵の敵対
行為現行犯を具体的に指摘している。これらの現行犯以外での即決処刑については言及してない。
佐藤和男が現行犯とする安全区への逃げ込みは、正当な捕虜資格が得られないと言っているだけで、軍律審判の対象
であるとの事。この行為に対し即決処刑してよいとは言ってない。佐藤が許容する殺害とは逃走する敵兵への攻撃である。
筒井若水と立作太郎は、4条件を備えていない正規軍は交戦者たるの特権を失い、違法であると言っているだけで、
4条件を備えていないからといって即決処刑してよいとは言ってない。

つまり、どの説も戦時重罪犯であるだけで即決処刑が可能とは言っていない。戦時重罪の構成により直ちに殺害できる
場合がある、若しくは交戦者の特権を失うと言っているに過ぎない。学者・有識者の見解で、戦時重罪犯であるだけで
即決処刑を可能とする説は存在しない。
21日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:43:26 ID:PSF0Ptux
佐藤和男の言う違法な虐殺行為ではない潜伏敗残兵の摘発・処刑は、何人だったのでしょうか。
検証してみましょう。

「南京事件と戦時国際法」佐藤和男 国際法学者 『正論』 2001年3月号 P317
  兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得
 ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(軍事的必要)― 軍事史研究家の原剛氏は、多数の便衣
 兵の集団を審判することは「現実として能力的に不可能であった」と認めている―、また市街地における
 一般住民の眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。
 したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる。

先ず、兵民分離査問(12月24日〜1月5日)での潜伏敗残兵の摘発人数を見てみましょう。

佐々木倒一少将私記
 1月5日 査問会打切り。この日までに城内より摘出せし敗兵約2000、旧外交部に収容

このうち何人が解放されたかというと、

読売新聞 1938(昭和13)年1月10日
 敗残兵一掃のため行われた難民調査は、暮から始められて7日漸く一段落を告げて、敗残兵1600名と
 その他のものは安民居住の証を与えられ、今では大手を振って城内を歩けるようになった

兵民分離査問で摘出された敗残兵は2000人、うち1600人は良民証を与えられています。残りが全員
処刑されていたとしても400人が最大値です。
佐藤和男の言う「潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる」は、最大でも僅か
400人。否定派の無裁判処刑合法論は、僅か400人の処刑が合法であるという論だったんですね。
22日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:44:08 ID:PSF0Ptux
否定派が言う「日本は極東軍事裁判の諸判決を受け入れたのであり。裁判そのものは受け入れていない」は、はたして
本当でしょうか。単純に言えばサンフランシスコ講和条約の accepts the judgments の訳の問題です。では政府見解を
見てみましょう。

外務省 歴史問題Q&A
問7.極東国際軍事裁判に対して、日本政府はどのように考えていますか。
 1.極東国際軍事裁判(東京裁判)は、戦後、連合国が日本人の重大戦争犯罪人を裁くために設置された裁判で、28名
 が平和に対する罪や人道に対する罪等により起訴され、病死または免訴となった者以外の25名が有罪判決を受けた
 ものです。
 2.この裁判については様々な議論があることは承知していますが、我が国は、サンフランシスコ平和条約第11条により、
 極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはない
 と考えています。     ~~~~~~~~~~~~                          ~~~~~

平成18年2月14日 衆議院予算委員会
小泉総理大臣 「極東国際軍事裁判所の裁判については、法的な諸問題に関して種々の議論があることは承知している
 が、我が国は、日本国との平和条約第十一条により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾している。御指摘の答弁は
 いずれも、この趣旨を述べたものであり、その意味において相違はない。」

麻生外務大臣 「B級戦犯、C級戦犯含めまして、複数の裁判所の決定に皆従うという意味で、ジャッジメンツというぐあい
 に複数になっているというように理解するのが正しい英語の理解の仕方だと存じますので、裁判所の判決ではなくて
 裁判を受諾したというように、サンフランシスコ講和条約第十一条はそれを意味しているものだと理解しております。」

安倍官房長官 「今申し上げましたように、私は、もともとの正文である英文を引用してジャッジメンツと申し上げたわけで
 ありますが、政府においてはそれは裁判ということで訳しているわけでありますが、基本的には、要はこれは何を我々は
 受諾をしたかといえば、先ほど申し上げましたように、この判決について、またこの法廷もそうなんですが、それも含め
 て我々が異議を申し立てて損害賠償等々をする、そういう立場にはない、こういうことではないだろうか、こう思います。」

政府見解ではjudgmentsを裁判としている事がお判りいただけたと思います。
そもそも、「判決」を受け入れるのと「裁判」を受け入れるのとでは何の違いもありません。判決を受け入れるという事は、
その判決理由や裁判所の管轄権をも受け入れることを意味し、判決理由や管轄権を認めず、刑の執行のみを受け入
れるという事にはなりません。また、もし刑の執行の受け入れのみを要求するのでであれば、サンフランシスコ講和条約
第11条には accepts the sentences と書かれていた筈です。
23日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:44:51 ID:PSF0Ptux
否定派は支那兵は投降していないと言いますが、実際には各部隊で投降を受け入れています。さらに、指揮官自身が捕虜
として認識していた事が下記の史料から判ります。しかしその後捕虜は殺害されているのです。
○&●=1次史料、△=2次史料(1次史料の補足として記載)

○第16師団第30旅団長 佐々木倒一少将私記 『南京戦史資料集T』
 12/13「【俘虜】ぞくぞく【投降】し来り数千に達す」
○第16師団長 中島今朝吾中将日記 『南京戦史資料集T』
 12/13「十二日夜仙鶴門堯化門附近の砲兵及騎兵を夜襲して尽(甚)大の損害を与へたる頃は敵も亦相当の戦意を有し
     たるが如きも其後漸次戦意を失ひ【投降】するに至れり」
△第16師団佐々木支隊所属独立攻城重砲兵第2大隊 沢田正久中尉証言 『偕行』(証言による南京戦史)『南京大虐殺の証明』
 12/14「私は梶浦俊彦中隊長とともに、自動車で仙鶴門鎮へ走り、部隊を点検しました(略)われわれは墓地を利用して、接近
     する一部の敵と相対しました。やがて友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を掲げて正午頃【投降】してきました。
     その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しま
     した。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。【俘虜】の数は約一万(戦場のことですから、
     正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに
     銃殺せよ」と言ってきたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」と命令されました。」
※仙鶴門鎮付近(堯化門附近)の投降兵7,200人は南京城内に護送され収容されましたが、残りの捕虜はこの様になりました。
           ↓
●第16師団歩兵第33連隊戦闘詳報 『南京戦史』
 12/10〜12/14 [俘虜]将校14、准士官・下士官兵3,082 [備考] 1、俘虜は処断す
 偕行『南京戦史』によれば太平門で1,300人を処断、他の場所で1,796人を処断

続く
24日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:45:33 ID:PSF0Ptux
○第114師団歩兵第66連隊第一大隊戦闘詳報 『本当はこうだった南京事件』
 12/13「午前七時〇分予定ノ如ク行動ヲ起シ機関銃ヲ斉射シテ聯隊主力ノ城門進入ヲ掩護スルト共ニ同時ニ当面ノ掃蕩ヲ開始
 ス…掃蕩愈々進捗スルニ伴ヒ【投降】スルモノ続出シ午前九時頃迄ニ三百余名ヲ得友軍砲弾ハ盛ニ城内ニ命中スルヲ見ル」
△第114師団歩兵第66連隊第一大隊第4中隊第1小隊長代理 小宅伊三郎曹長証言 『丸』(城塁 兵士達の南京事件)
 12/12「それでも中国兵は三三五五【降伏】してきたので、私のところで検問して後に送った。(略)あとで千二百の【捕虜】が
 いて、他の隊が捕まえた【捕虜】二、三百も合わせると千五百人(偕行『南京戦史』では1657人)になると聞いた記憶がある」
※上記の捕虜はこの様になりました。
           ↓
●第114師団歩兵第66連隊第一大隊戦闘詳報 『南京戦史資料集』
 12/13「午後三時三十分各中隊長を集め【捕虜】の処分に附意見の交換をなしたる結果各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分
 配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は路営地西南方谷地第三中隊は路営地西南方凹地第四中隊は露営地東南谷地
 附近に於て刺殺せしむることとせり(略)各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り連隊に報告す」

○第13師団山田支隊長(第103旅団) 山田栴二少将日記 『南京戦史資料集U』
 12/14「他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば【投降兵】莫大に
 して仕末に困る(略)【捕虜】の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり」
○朝日新聞 1937年12月17日朝刊 [南京にて横田特派員16日]
 「両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で【捕虜】にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は(略)それが
 皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求め
 ているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜
 だけは到頭食はせることが出来なかった」 注:山田支隊が捕らえた投降兵は軍服を着用しています。便衣兵ではありません。
※上記の捕虜はこの様になりました。
           ↓
●第13師団第103旅団歩兵第65連隊第4中隊 宮本省吾(仮名)少尉陣中日記 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
 12/16「【捕慮兵】約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」※この部分の筆記をNNNドキュメントで放映
 12/17「【捕虜兵】の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった」
●第13師団第103旅団歩兵第65連隊歩兵砲中隊 菅野嘉雄(仮名)一等兵陣中メモ『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
 12/16「夕方より【捕虜】の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す」
 12/17「【捕虜】残部一万数千を銃殺に付す」※この部分の筆記をNNNドキュメントで放映
●第13師団第103旅団歩兵第65連隊第7中隊 大寺隆(実名)上等兵陣中日記『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』『南京事件』
 12/18「昨夜までに殺した【捕リョ】は約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ」
 12/19「揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし」
25日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:46:15 ID:PSF0Ptux
否定派が挙げる即決の軍事裁判を検証してみましょう。
>・ラーベの日記にも即決の軍事裁判が行われた事が記されている。

ラーベの日記 12月17日 『南京の真実』 P124
 軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている。きのう、即決の軍事
 裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは
 道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。

 先ず説明すべきはラーベの日記は1次史料ではありません。日記は1938年にラーベがドイツに帰国し
た後に加筆されたもので、さらに出版の為に編集までされた2次史料で3等史料です。1996年に出版さ
れました。現在では日記の検証が各所で行われ、数々の矛盾と誤認を指摘されています。また、日本
語訳に誤訳が多い事でも知られています。では「中国兵の死体が三十体転がっている。きのう、即決の
軍事裁判によって銃殺されたのだ。」という箇所のドイツ語原文はどうなっているのでしょうか。日本語訳
の「軍事裁判」では漠然としているので、軍事裁判の内、どのような裁判であったのか考察してみます。
  30 Leichen von chinesischen Soldaten, die dort gestern standrechtlich erschossen wurden.
訳「(戒厳令下の)即決裁判により昨日そこで撃たれた支那兵30の死体。」
  Standrecht+lich(〜の)は厳戒令の;(戒厳令下の)即決裁判による;ですが、この即決裁判には正式
な裁判という意味はありません。standrechtをドイツ語版のWikipediaで調べます。
  Standrecht bezeichnet im Wehrrecht den Zustand, bei dem die von den zivilen Behörden ausgeübte
  Gerichtsbarkeit auf den höchsten Militärbefehlshaber übergeht, dem ein Kriegsgericht zur Seite steht,
  das so genannte Standgericht.
訳「シュタントレヒトは防御状態の呼称です。これにより当局によって取り締まる管轄権は軍の最高司令
  官に権限が委ねられます。そして軍法会議という制度が設置されます。いわゆる即決裁判です。」
この文章は戒厳令の説明文ですが、前後の文脈によりStandrechtを即決裁判または即決軍法会議と訳
す場合がある事も確認できています。さて、ラーベはStandrechtと書いていますが、ドイツでの軍による
正式な裁判はMilitärgerichtsbarkeitになります。ラーベは日本大使館及び日本軍と接触していて、軍の
情報を得られる立場にあったのに、1938年以降に加筆されている日記においてもMilitärgerichtsbarkeit
と書けなかったのです。ラーベはこの銃殺体がどの様な経緯で撃たれたのか知らなかったし、その後も
情報を得られなかったわけです。Standrechtは正式な裁判ではない即決裁判ですが、ドイツと違い日本
は即決裁判を行える軍の規則はありません。したがってラーベが(戒厳令下の)即決裁判と書いていたと
しても、そのような制度がない日本軍が即決裁判をしている筈がなく、裁判が在った根拠になりません。
26日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:47:01 ID:PSF0Ptux
否定派が挙げる合法な処刑を検証してみましょう。
>・南京国際委員会の第37号文書第185件にも日本軍の処刑を「合法な処刑」と記載されている。

南京安全区委員会文書 「第三十七号文書」 『南京大残虐事件資料集 第2巻』 P114-115
 第百八十五件 一月九日朝、クレーガー氏とハッツ氏は、安全区内の山西路にある中央庚款大廈の
 真東にある池で、日本軍将校一名と日本兵一名が平服の一市民を虐殺するのを目撃した。
 クレーガー氏とハッツ氏が現場に着いた時には、男は割れた氷がゆれ動く池の水に腰までつかって
 立っていた。将校が命令を下すと、兵士は土嚢の後に伏せて、男に向けて発砲し、男の肩に弾丸が
 あたった。再度発砲したが弾は外れ、第三弾で男は死亡した(1)。(クレーガー、ハッツ)
 (1)われわれは、日本軍による合法的な死刑執行にたいして何ら抗議する権利はないが、これがあま
 りにも非能率的で残虐なやり方でおこなわれていることは確かである。そのうえ、このようなやり方は、
 われわれが日本大使館員たちと個人的に話し合ったさいに何回も言ったような問題をひきおこすので
 ある。つまり、安全区内の池で人を殺すことは池の水をだいなしにするし、そのため、地区内の人々に
 たいする給水量が大幅に減少するのである。このように乾燥が続いており、水道の復旧が遅れている
 さいに、これはきわめて重大なことである。市による水の配給は非常に手間どっている。(報告者注)

「平服の一市民を虐殺するのを目撃した」と書かれている事から軍律審判の判決による処刑と推測する
事はできますが、合法的な死刑執行としか書かれてなく、どこにも軍事裁判が行われていたとは書かれ
ていません。合法としたのもクレーガーとハッツがそう感じただけで、両者とも死刑に至る経過を知りま
せん。
 また、この処刑が合法であった可能性はありません。軍律審判の判決による処刑であれば、中支那
方面軍軍律審判規則によって、検察官の指揮に依りその執行は憲兵が為す事とされていますが、男に
向けて発砲したのは兵士です。検察官(検察官は法務官の中から所管軍法会議長官によって任命される)
を将校と見間違えたとしても、憲兵と憲兵以外の兵科は帽子が全く違い、憲兵の帽子は将校と似ている
ので、この兵士が憲兵であった可能性はありません。検察官と憲兵それぞれ見間違えるとしたら将校二名
と思うか、将校一名と兵士一名のうち、将校が発砲したと思う筈です。つまり、この場に居た日本兵は検察
官と憲兵の二名ではなかった事になります。したがってこの処刑が合法であった可能性はありません。
27日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:47:42 ID:PSF0Ptux
南京事件初心者用FAQ
@ 便衣兵とは何ですか?
 Ans.広義と狭義があります。広義は、一般市民と同じ私服・民族服などを着用した中国兵士(Wikipedia)で、
狭義は、抗日義勇軍・新四軍・遊撃隊のように当初からゲリラとして編成された部隊(偕行『証言による南京戦
史』)です。また、狭義の便衣兵は便衣隊・ゲリラ部隊と同義として使われ、広義の便衣兵はハーグ陸戦条約
4条件違反者という意味が内包されます。※このFAQでは広義の意味での便衣兵を使います。

A 便衣兵は捕虜になれないのですか?
 Ans.なれます。但し必ずなれるとは限りません。このような議論で否定派は立作太郎の『戦時国際法論』の
一節を引用します。「正規の兵力たるときは、是等の条件は、当然之を具備するものと思惟せらるるのである。
正規の兵力に属する者が、是等の条件を欠くときは、交戦者たるの特権を失ふに至るのである。」
 どこに捕虜になれないと書いてあるのでしょうか。交戦者たるの特権を失うと書かれているだけです。交戦者
の特権とは捕虜として扱われる権利だけではなく様々な権利があります。特権を失うとは、ゲリラ戦に至った
場合、現行犯はその場で処刑されても仕方がない、間諜と間違えられても仕方がない、文民と間違われて
刑法犯とされても仕方がない、こういった場合に権利を主張できないという事です。また、捕らえた敵兵をいつ
から捕虜とするかは指揮官の自由裁量ですから、4条件違反者であっても捕虜にして構いません。なぜなら
4条件違反者を捕虜とする事を禁止した条約・慣習法は存在しないからです。何れにしても立作太郎は便衣兵
を捕虜としてはならないとは言っていません。
 簡単な例えで説明しましょう。正規の交戦者が着替えている最中に無抵抗で敵軍に捕らえられたとしましょう。
(戦場に居たのですから捕らえられずにその場で射殺される場合もあります。これは違法ではありません。今は
捕らえられた場合を考えてみます)この者は捕虜になれないのでしょうか。答えは「捕虜になれる」です。軍人が
軍装ではなかったり武器を携行していなかったといえども、これを罰する条約・慣習法は存在しません。4条件
違反者が害敵手段を採れば戦争犯罪になりますが、4条件違反者が戦場に居ただけでは犯罪になりません。
不審者として拘束される事はあっても即決処刑はできないのです。指揮官の裁量次第では捕虜にもなれます。
 因みに、1929年ジュネーブ捕虜条約において、【第一条(俘虜の語義)本条約は第七編(或種非軍人に対する
条約の適用)の規定を害することなく左の者に適用せらるべし。(一)陸戦の法規慣例に関する千九百七年十月
十八日の「ヘーグ」条約付属規則第一条、第二条及第三条に掲ぐる一切の者にして敵に捕へられたる者】と
されており正規兵又は之に準ずる非戦闘員であれば、捕えられた場合、捕虜としての扱いを受ける権利を持ち
ます。日本は1929年ジュネーブ捕虜条約に署名をしていますが批准はしていません。しかし、南京戦時に国際
法上の捕虜の定義が確立されており、ハーグ陸戦条約を批准している以上、ハーグ条約でいうところの捕虜は
1929年ジュネーブ捕虜条約で定義された捕虜となります。したがって便衣兵であっても投降してきた場合や降伏
した場合は、戦時重罪犯として裁判が行われるまで拘束されるか、指揮官の裁量次第で捕虜になれます。
28日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:48:24 ID:PSF0Ptux
B 便衣兵を捕らえた場合は即決処刑(無裁判処刑)してよいのですか?
 Ans.いいえ。便衣兵は交戦者資格がないので即決処刑して構わないという解釈は、ハーグ陸戦条約に
より否定されています。害敵手段・攻囲及砲撃の章で下記の禁止事項があります。この禁止事項は相手側
の交戦者資格有無に関係なく禁止されています。※ハーグ陸戦条約上は、交戦者資格無き者は捕虜にな
れない、交戦者資格無き者は条約の規定から外れるとは一切書かれていません。

第二款 戦闘、第一章 害敵手段・攻囲及砲撃
 第二十三条 特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止ノ外特ニ禁止スルモノ左ノ如シ
  ロ 敵国又ハ敵軍ニ属スル者ヲ背信ノ行為ヲ以テ殺傷スルコト
  ハ 兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト
  ニ 助命セサルコトヲ宣言スルコト
  チ 対手当事国国民ノ権利及訴権ノ消滅、停止又ハ裁判上不受理ヲ宣言スルコト
 便衣兵(交戦者資格無き者)であっても背信の行為を以って殺傷する事はできない。便衣兵であっても武器
を捨て投降してきた者を殺傷する事はできない。便衣兵であっても助命しないと宣言してはならない。便衣兵
であっても権利及び訴権を奪ってはならない。また、裁判を行わないと宣言してはならない。よって、捕らえた
便衣兵は戦時重罪犯として裁判が行われるまで拘束しなければなりません。

 チの対手当事国国民には、民兵・義勇兵団を含む交戦者が含まれます。国民とは住民の意味であるという
解釈はできません。ハーグ陸戦条約では住民・人民と、国民を使い分けて記述されています。
対手当事国国民:the nationals of the hostile party 住民・人民:the inhabitants
陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約の前文に次の記述があります。「人民及び交戦者」。この部分の原文は、
the inhabitants and the belligerents となっています。では、ハーグ陸戦条約における国民とは何でしょうか。
国民が住民の意味であれば、チの項の原文はこうなっている筈です。the inhabitants of the hostile party
しかし実際は違います。国民(nationals)=住民(inhabitants)+交戦者(belligerents)と考えるのが自然です。
因みに権利及訴権の原文は law the rights and actions ですから、訴権に限らず法的な行動全てを指します。

 否定派は「捕獲した大量の便衣兵を裁判にかける事は能力的に不可能であった」と原剛も認めていると言い
ますが、原剛は「だからといってこれが合法であったとは言い難い」と書いています。では、全員を裁判にかけ
る必要があったのでしょうか。兵士は指揮官の指示に従っているだけなので、部隊に戦争犯罪行為があった
としても兵士全員を裁判にかける必要性はなく、部隊を統率していた指揮官がその責任を負うのであり、通常
は指揮官のみの裁判で済みます。便衣兵全員を裁判にかける事は不可能であったから処刑したという理屈
は成立しないわけです。
29日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:49:13 ID:PSF0Ptux
C 便衣兵を捕らえた場合は本来どのように対処すべきだったのですか?
 Ans.便衣兵はハーグ陸戦条約の4条件違反者ですから、捕らえた場合は戦時重罪犯として軍事裁判の
判決により処するのが本来の手順でした。裁判が行われるまでは拘束される事になります。裁判の種類は
中支那方面軍軍律審判規則第十条により、特設軍法会議になります。罪状は陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則
第一条違反となり、適用される法律は陸軍軍法会議法になります。罰則も陸軍軍法会議法に定められた規則
に依ります。この特設軍法会議は1938年1月初旬に設置されるのですが、この時に中支那方面軍と上海派遣
軍、第十軍の管轄区分を定めた「中支那方面軍に於ける各軍法会議の事務取扱に関する件」を松井軍司令
官が制定します。この規定によると「陸軍軍法会議法第一条乃至第三条及第六条記載の者に対する被告事
件を審判」する事になっており、第六条の記載にこう書かれています。「本条は、戦時又は事変に際し軍事上
の必要に基き第一条に記載したる以外の者に対しても、亦如何なる犯罪であっても總て軍法会議に於て裁判
権を行ふことが出来得る旨を規定したるものである」つまり、自国の軍人に限らず、敵国軍人・軍属であっても
戦時におけるあらゆる犯罪を管轄する司法権限を有するという事です。
 例外もあります。捕らえた者が軍人か民間人か判断できない場合(便衣兵嫌疑者)は、軍律審判で真偽を判
断するしかありません。間諜(スパイ)嫌疑者も、軍人か民間人か判断できない場合は同様に軍律審判で判断
するしかありません。軍人と判断されれば次は軍法会議での裁判となり、民間人と判断されれば釈放されます。
尚、占領地の住民の犯罪は中支那方面軍軍律により、軍律審判による行政処分を受ける事になります。
 また、軍法会議により支那兵が死罰となったとしても、刑の執行は陸軍軍法会議法第五百二条により陸軍
大臣の命令がないと出来ません。
 裁判の対象になるのは全ての便衣兵ではありません。捕らえた部隊全員が便衣であれば部隊の指揮官が
その責任を問われ、軍服を着用した部隊にあって個々で便衣に着替えていた場合は個人に責任が問われま
す。前者の場合、指揮官以外を捕虜とする事も出来ます。余談ですが南京戦時、国民党軍人・軍属のうち軍服
着用者は2割程しか居なかったと言われています。そもそも制服を支給されていなかったのです。したがって殆
どの場合、部隊の指揮官のみを裁判にかければ済む事になります。
30日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:49:55 ID:PSF0Ptux
D 安全区で捕らえた便衣兵は文民保護というハーグ条約の主旨に反しています。即決処刑は合法になりますか?
 Ans.なりません。ハーグ陸戦条約のどこにも兵民分離違反について書かれた条文はありません。否定派が条
約の主旨をまるで条文の如く吹聴しているだけです。これは否定派のダブルスタンダードで、ある時は条文に書か
れていないから合法と言い、またある時は条文に無い条件を当てはめます。該当条文が無ければ、4条件違反
以外の違反行為はありません。但し国際慣習法としては問題があります。しかしゲリラ活動の為の潜伏ではない
ので、安全区に潜伏していたのを発見されたとしても、正当防衛としてその場で射殺しない限りは通常の戦時重
罪犯として対処しなければなりません。実際に安全区内で捕らえられた便衣兵について、ゲリラ活動を示唆する
記録はありません。捕らえられた便衣兵に関してはどの記録を見ても武器を携行していないのです。ゲリラ活動
の記録も若干はありますが、それらの記述では「便衣隊」「ゲリラ部隊」とされており、ここでいう便衣兵とは別の
存在です。(掃討戦時に物陰から射撃された記録はありますが、射撃した兵はその場で殺害されており、射撃し
た兵が便衣兵であったという記録はありません。掃討戦時に攻撃された例では兵を捕らえておらず、応戦してい
ます。また、不意に手榴弾を投げられ、拘束兵が逃走を図った記録もありますが城外の出来事です。これらは戦
闘の延長ですので敵兵の殺傷は合法となります。しかし安全区で捕らえた兵が抵抗したという記録はありません。)
 軍装を放棄し、便衣でいる事自体が害敵手段という見解は、この件には当てはまりせん。害敵手段とは戦争の
目的を達成する為に敵に対して行う暴力的または策略的行為ならば、安全区に逃げ込んだ便衣兵は戦争目的
達成に何ら寄与する事はなく、武装も放棄しているのですから、件の便衣兵に当てはめるのは無理があります。
 また、文民保護の観点でいえば、否定派は防守地域であれば軍民無差別攻撃して構わない、南京を占領下に
置くまでは城内で兵民問わず何人殺害しても合法と言いますが、この論法こそ文民保護を無視しています。安全
区で捕らえられようが安全区外で捕らえられようが便衣兵への対処はAns.Cの様に実施されなければなりません。

E 捕らえた便衣兵は裁判後、処刑されたのですか?
 Ans.いいえ。裁判が行われた記録はありません。公式記録にないどころか、嘘を吐く事ができる証言でも裁判
に参加した者も見た者も居ません。南京戦に参加した兵の日記・メモ・手記の記述にも裁判に参加した者も見た
者も聞いた者も居ません。また、極東軍事裁判松井石根判決文に「このようにして、右のような捕虜三万人以上
が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった」とあります。
 松井石根裁判での弁護側反証に以下の様なやりとりがあります。中山証人:安全地区内に一部の敗れた兵が
潜んでおりまして、しかも武器を持って潜んでおったのでありますから、これを探し出しまして、すなわち軍法会議
にかけて処断したという事はあるいはあったと思います。それを大袈裟に伝えられたものと思います。サトン検察
官:彼らが射殺される前に、軍法会議にまわされたのは幾人でありましたか。中山証人:数は覚えておりません。
 この中山証人が本当の事を言っている保証はありませんし、実情を知っていたのか判りません。何れにしても
「あるいはあった」「覚えておりません」との証言から判るように推測で言っているだけです。そもそも城内で摘出さ
れ刺射殺された兵は6670人であり、数が合いません。その後の判決でこの主張は一切認められなかったのです。
31日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:50:37 ID:PSF0Ptux
F 軍事的必要が在った場合は捕虜を殺害してよいとの学説がありますが南京戦時に適用できますか?
 Ans.適用できません。南京戦時に軍事的必要は国際慣習法として成立していませんでした。下記を参照下さい。
「いわゆる南京事件の不法殺害」原剛 軍事史研究家 軍事史学会副会長 『日中戦争再論』 2008年 P143-145
  また、第一次世界大戦前後にドイツで唱えられた、軍事的必要 ( 危機 ) の場合、国際法規慣例の遵守よりも
 軍事上の必要性が優先するという「戦数論(Kriegsrason)」を援用して、大量の捕虜・便衣兵の殺害は危機回避
 のため正当であると主張する論もあるが、多くの国際法学者はこの「戦数論」に反対している。立作太郎もこれを
 認めることは、「戦時法規の自殺に外ならぬ」と言い、さらにこの論は「交戦法規全般の拘束力を微弱ならしむる
 ものである。此説はドイツの一部の学者の唱道する所に止まり、国際慣習法上に於て認められたる所ではない
 のである」と論じている。南京占領時の日本軍は、当時の「戦闘詳報」・「陣中日誌」・将兵の日誌などを見る限り、
 捕虜や便衣兵を殺害しなければならないほど、危機に瀕してはいなかったのである。したがって、たとえ軍事的
 必要 ( 危機 ) 論が一部に認められていたとしても、この論は適用できないと言わざるを得ない。

『戦争法の基本問題』田岡良一 国際法学者 岩波書店 1944年 P122
 従って「戦数は否定されていない」と主張する場合でも、それは必ずその正当化となる根拠を示した上で主張され
 なければならず、ここで否定された肯定論とても「緊急権」を根拠としているように、単に「戦数によって戦争法を
 逸脱出来る(ことは否定されていない)」などと主張することは許されるべきではないと思う。

『国際法辞典』筒井若水 国際法学者 有斐閣 1998年 P72
 クリークスレーゾン 独Kriegsrason
 第一次大戦前に主としてドイツの学者によって唱えられた考え方であるが、戦争法はそうした必要を既に組み込ん
 だものであり、濫用を正当づけるための口実として使用されるおそれがあるとして批判が多い。

『現代戦争法規論』足立純夫 国際法学者(国際人道法) 元防衛大学教授 啓正社 1979年 P28
 第1次及び第2次世界戦争を通じて、Kriegsraisonの主張及びその実行はしばしばドイツ軍により行われた。国際
 法学者の大部分は既に第1次世界戦争以前からこの主義に反対している。

『オッペンハイム国際法論 第3版』ロナルド・F・ロクスバーグ 1920年
 「投降者の助命は、次の場合に拒否しても差支えない、第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵
 に対して、第二は、敵の戦争法違反に対する報復として、第三は、緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容
 すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危くされる場合においてである」
南京戦前の第4版(1926年)では「第三は、緊急必要の場合において・・・」以降の部分は削除されています。つまり、
南京戦の時点で緊急必要の場合(軍事的必要)における助命拒否は国際慣習法として認められていなかったのです。
32日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:51:20 ID:PSF0Ptux
G 捕虜は戦時復仇の対象として殺害したと考えられますか?
 Ans.考えられません。戦時復仇は交戦相手に戦争法規を将来遵守させる目的に限り、戦争法規の禁止または
制限に反する措置を許されるというものです。国民党軍が南京から撤退している状況下では交戦相手に対し、戦争
法規を将来遵守させるという目的を失っています。交戦相手が復仇の措置を知りえない場合、復仇を行う事はでき
ないのです。復仇自体は南京戦時に認められた行為であり、現代の国際法においても復仇として行われる行為の
違法性は阻却されますが、復仇に至る過程と復仇の手段及び範囲は理に適っていなければならないのです。
下記を参照下さい。

『現代国際法入門』エイクハースト・マランチェク 成文堂 1999年 P573
 復仇は、国に戦争法の遵守を強制する、延いては実際上国際法一般の遵守を強制する主要な手段の1つであ
 る。 復仇は、通常は違法行為であるが、しかし復仇が向けられる国が行った先行違法行為より合法とされる行
 為である。すなわち、それは、先行違法行為に対する一種の返報である。復仇は、他の救済手段(たとえば、抗
 議および警告)が失敗に終わったときにはじめて使用される。

『戰争と國際法』立作太郎 国際法学者 東京外交時報社 1916年 P35-38
  戰時復仇は戰時に於て行ふものであつて、敵國政府叉は軍隊の交戦法規違反の行爲叉は敵国私人の不正
 なる敵對行爲に應じて、敵國、敵軍叉は敵人に対して加ふる所の惡報である。理論としては、敵をして將來に於
 いて交戰法規を遵守せしめ、若くは不正の敵對行爲を行はざらしむる目的を以て、叉は敵の既に行ひたる交戰
 法規違反の行爲、若くは其他の不正の敵對行爲の結果を復舊し、不正行爲を行へるものを處罰せしむる目的
 を以て行ふべきものと為すのが、學者の唱ふる所であつて許多の學者は戰時復仇が交戰法規違反の救済の
 手段としてのみ之を認むのであると稀するのである。(略)
  交戰國の一方が交戰法規に違反せる場合に於て、他方の交戰國は交戰法規の遵守の義務を解除せらるる
 者であるか否かは一の問題である。或る學者は一方の違反は他方の交戰者に對して、交戰法規を遵守するの
 義務を解除すると爲すのである。(リユーダー・ホルツエンドルフ 國際法提要第四巻二五五頁)若し此の説が正
 しいとすれば、復仇手段は對手國の違反行爲の救済の目的を以て之を行ふに限らずして、苟も對手國に交戰
 法規の違反あれば此方も亦交戰法規違反の行爲を行ひ得ると爲さねばならぬ。併しながら假令對手國が違反
 行爲を行ふも、直ちに此方の交戰法規遵守義務が解除せらるるのでは無くして、其の救済を求むるを得るに至
 るのみであるとの説が最も有力なのである。(ウエストレーキ 國際法戰時一一四頁)此等の見地より見れば復仇
 は對手國をして將來に於て交戰法規を遵守せしめ、若くは敵の己に行へる交戰法規違反の行爲の結果を復舊
 せしむる目的を以て行ふべきものであると言はねばならぬ。
33日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:52:02 ID:PSF0Ptux
H 捕虜と俘虜の違いは何ですか?
 Ans.戦前は捕らえた者を総称して捕虜と呼んでいました。捕虜のうち、公式に扱われる者は俘虜と呼ばれます。
また、「戦地において虜となるのは捕虜といい、相手国において拘束されるものを俘虜という」(秋月達郎)とする解
釈もあります。戦後は俘虜という言葉が使われなくなった為、従来の意味の俘虜であっても捕虜と記される事が多
くなっています。戦前の捕虜と俘虜の使い分けの例が下記文章です。

飯沼守少将日記(上海派遣軍参謀課長) 1937年10月9日 『南京戦史資料集』 P142
 歩戦協同不十分なり(敵の夜襲に追踉する夜襲)“俘虜”を作る如くす敵動揺の兆あるに乗し来る者は“捕虜”と
 すへし、彼等は日本軍に捕らわれは殺さると宣伝しあり之を是正すること

尚、南京戦2ヶ月前に俘虜の扱いに関する訓令が発せられていました。

戦闘二関スル教示 上海派遣軍第十三師団司令部 1937年10月9日 『南京虐殺の徹底検証』 P93,94
 11、俘虜ノ取扱二就テ
 多数ノ俘虜アリタルトキハ、之ラ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ、師団司令部二報告スル
 ラ要ス。又、俘虜中、将校ハ、之ヲ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、師団司令部二護送スルヲ要ス。此等ハ軍
 ニ於テ情報収集ノミナラズ宣伝二利用スルモノニ付、此ノ点、部下各隊ニ、徹底セシムルヲ要ス。但シ、少数人
 員ノ俘虜ハ、所要ノ尋問ヲ為シタル上、適宜処置スルモノトス。

しかし支那事変は日本側・国民党側双方とも、戦争ではなく地域紛争であるという立場を採っていた為、上記の訓
令が発せられた後、俘虜の名称を努めて避ける様、下記の通達が出されました。厳密に言えば、戦争ではないの
で俘虜という名称は使えなかったわけです。

交戦法規ノ適用二関スル件 次官通牒陸支密第一七七二号 1937年11月4日 『南京戦史』 P339
 日支全面戦ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルルカ如キ言動(例へハ戦利品、“俘虜”等ノ名称ノ使用或ハ軍
 自ラ交戦法規ヲ其ノ儘適用セルト公称シ其ノ他必要己ムヲ得サルニ非サル二諸外国ノ神経ヲ刺戟スルカ如キ言
 動)ハ努メテ之ヲ避ケ

これらの経緯は、南京事件の史料を読み解く上で知識として頭の片隅に置いておかれる事をお勧めします。
34日出づる処の名無し:2010/07/19(月) 23:52:44 ID:PSF0Ptux
まとめ
 南京事件とは捕虜の無裁判大量処刑です。敵拘束兵の処刑記録は探せばいくらでも出てきます。それでも
犠牲者が3万人を越える事はないでしょう。3万人以下とはいえ、これだけの人数を無裁判で処刑すれば虐殺
と呼ばれても仕方がありません。
 しかし否定派は当時は他国の軍隊も捕虜を無裁判で処刑していたと反論をします。他国もやっていたとすれ
ばその国も虐殺をしていた事になるだけで、他国もやっているからいいという事にはなりません。対手国が戦争
法規を無視してるとしても文明国である日本は遵守義務があるのです。単なる手続き上のミスである、処断が
処刑とは限らないという反論に至っては愚の骨頂というしかありません。もはや否定派の反論は肯定派の主張
を歪曲するか、肯定派を十派一絡げにし、市民大量殺害の記録は無いから南京事件は無かったと言い張るし
かないのです。そうしなければ中間派(中・小虐殺派)に言い返す言葉が無いからです。市民にも相当の犠牲が
あったでしょうが戦争である以上、市民の犠牲者は出ます。しかし組織的に市民を殺害した証拠はないので市
民殺害を以って南京事件の本質とする理由がありません。肯定派でも市民大量殺害説を唱える者は少数です。
否定派は存在しない大虐殺肯定派に対しシャドウボクシングをしているのです。また、広島・長崎への原爆投下、
都市への空襲の方がはるかに残虐であり大犯罪と言いいます。これには同意しますが、だからと言って南京で
日本軍が犯した犯罪が相殺されるわけではありません。戦争犯罪はどれも酷く、南京事件もその中の一つです。
 前掲した様に、否定派がいくら無裁判処刑を合法化しようと試みても、学者・有識者の見解はことごとく裁判は
必須との事です。もはや無裁判処刑合法論は破綻し、この期に及んで合法論を唱える者は無教養と言わざるを
得ません。追い込まれた否定派の中には裁判が在ったと主張する者も居ます。裁判が在ったとする根拠は、無
裁判で処刑された証拠が無いからと主張する有り様です。処刑の記録があり、その処刑に対しての裁判記録・
証言が無いのだから自明なのですが決して認めません。およそ論理的とは言えない主張です。或いは詭弁と知
りながら言っているのです。
 別の観点から見れば、否定派は信じたい事以外は認めない思考停止状態に陥っていると言えます。その傾向
は無裁判処刑合法論以外でも、証言についての反応で見られます。例えば処刑を見たという証言は検証できない
と言い、処刑など見た事もないという証言は無条件で信じます。当たり前の話です。処刑は城外で行われました。
城内に居た者は見れる訳がありません。また、処刑の場に立ち会った者は日本軍の中でも僅かであろう事も付け
加えておきます。処刑を見た者と見なかった者、相反する立場が共存していても矛盾しません。
 他にも、陥落直後に城内で飲食店や露店が営業していたから南京は平和であった、だから虐殺など在り得ない
と言います。しかしこれも城外での処刑が無かった証拠にはなりません。このように否定派の主張は全く非論理的
であり、2択にならない条件を2択に誘導し、虐殺は無かったと詭弁を使います。証言は証拠にならないというの
なら、一切の証言を無視すべきです。持論に都合のいい証言は信じ、そうでないものは切り捨てるといった手法
では、その史実探求に誠実さは望めません。日本が過去において過ちを犯したと思いたくないのは判りますが、
史実の探求に感情論を持ち込んではいけません。
35日出づる処の名無し:2010/07/20(火) 15:59:15 ID:CcFzoSCK
【肯定派FAQに対するカウンターテンプレ】

前スレより拝借、勝手にまとめさせてもらいました。

@ 便衣兵とは何ですか?
Ans.一般市民と見分けのつかない服装で攻撃を行う兵士の事です。
 【肯定派FAQに対する注意点】広義・狭義を無意味に分け、読み手を混乱させる意図があります。
どちらにしても交戦資格を有するべき4条件を欠く者で、捕虜たる資格はありません。


A 便衣兵は捕虜になれないのですか?
Ans.なれません(=日本軍は便衣兵を捕虜とする義務はありません)。
 【肯定派FAQに対する注意】 但し、敵軍が任意に捕虜の資格を与えることができますが、極めて例外的な場合に限られます(ex軍の有力な情報との引き換えに捕虜資格を与える等)。
 原則と例外を意図的に逆にしており、読み手にミスリードを起こさせようとする卑劣な表現技法を用いています。
  また、便衣兵(=交戦資格を有しない者)が捕虜の権利を有しないことはハーグ1条本文(交戦資格4条件を有する者がハーグの権利を有する)にて明確に規定されています。
  さらに、捕虜になれた者に対しては即決処刑はできないと主張しているが、捕虜になれない者は即決処刑できることを自白しています。
  言うまでもないことですが、批准していない条約が効力を持つことはありません。
36日出づる処の名無し:2010/07/20(火) 15:59:56 ID:CcFzoSCK
【肯定派FAQに対するカウンターテンプレ】

B便衣兵を捕らえた場合は即決処刑(無裁判処刑)してよいのですか?
Ans.まず、即決処刑は、無裁判処刑ではありません。軍律審判の一つであり、当然に認められています。肯定派がしなければならないとしている裁判とは、じつは、即決裁判であり、その判決に基づく処刑が即決処刑です。
  肯定派は、一般人の無知に付け込んで、即決処刑があたかも違法な手続であるかのような印象を与える極めて巧妙で悪質な表現技法を用いています。またハーグ条文の解釈がデタラメです(後述)。
 【肯定派FAQに対する注意】以下の肯定派の記述を【】に注意して読んでみてください。
 >便衣兵(交戦者資格無き者)であっても【背信の行為を以って殺傷する事】はできない。
 何かおかしくありませんか?
 背信の行為を以って殺傷する事とは、一般市民を装って攻撃を加える便衣兵そのものではありませんか?
 この背信行為を行っている便衣兵が、ハーグの法的保護を受ける。そんな解釈したらどうなると思いますか?
 みんな便衣兵となってやりたい放題ですよね?つまりハーグの23条ロを規定した意味がなくなってしまうのです。
 このように、素人が少し考えれば当然にわかるような誤った解釈をさも息を吐くようにしれっと、肯定派がさも完全に正しいように表現します。悪質極まりないですね。
 また、そもそも軍人として投降すれば捕虜の資格を得られるのに、便衣兵が本心で投降するというのは、まずありえないことです。なぜなら、便衣兵は一般人を擬制して隙があれば攻撃する者ですから、投降を擬制して攻撃する可能性も十分にあるからです。

 さらに、第23条チの解釈ですが、日本軍は第23条チに該当する宣言を行ったことは歴史上ありません。とある国がとある国に対しその国の憲法を廃止して、国民が誰も投票しないで新憲法を制定したという暴挙も行ったことはありません。

 なお、指揮官の命令によらず、個人の意思によって便衣兵になった場合その全員を裁判にかけることは不可能です。
法の一般原則として、法は不可能を強いないというものがあります。たとえば、嘘をついたら者は死刑という法律があっても法律は無効であり、嘘をついてもそれは合法となります。
この点について原剛の事実認定(全員の裁判は不可能)は別として、法律解釈(だからといって合法ではない)は誤っています。
37日出づる処の名無し:2010/07/20(火) 16:00:37 ID:CcFzoSCK
【肯定派FAQに対するカウンターテンプレ】

C 便衣兵を捕らえた場合は本来どのように対処すべきだったのですか?
Ans.戦闘中においては、直ちに適当な処分をする事ができる。戦闘休止状態になったときは軍律によって裁判を行う。 

小川法務官の日記には、以下のように記されています。
「◎十二月一日
 中支那方面軍軍律、中支那方面軍軍罰令及ビ中支那方面軍軍律審判規則発令セラル…
 戦闘中ハ反逆者タル帝国臣民以外ノ人民ニ対シ直ニ之ニ適当ノ処分ヲ為スコトヲ得シモ
 敵国トノ戦闘休止ノ状態ニ至リタルトキハ戦争中ノ如ク適宜処分スルハ穏カナラザレバ
 一種ノ軍政タル本則ニ基キ軍律ニヨリ帝国軍ノ利益ヲ保護セントスル趣旨ニ出タルモノナリ」(p.90)
注:法務官とは、軍法(軍律)裁判において裁判官のような役割を担う人(法律のプロ)です。死刑廃止論者の学者1000人よりも死刑判決を下す裁判官が実際に行われている実務です。
【肯定派FAQに対する注意】肯定派の記述は戦闘休止状態になったときについての即決裁判についての記述です。
 南京においては、敵の司令官唐生智は、降伏や休戦などは一切せずに、逃げてしまっているので、残念ながら、戦闘休止状態ではありませんでした(>>11-12参照)。つまり、戦闘中であったため、直ちに適当な処分をする事ができる事になります。
 さらに、肯定派が要求している軍事裁判の目的は、敵軍の兵士の人権を保障するものではなく、軍律違反の者を【みせしめ】として処刑することによって、占領軍に抵抗することを防止し、占領軍の安全を図るために行われるものです(上記小川日記の最後の行参照)。
 実際には、戦闘終了後の1月には軍事裁判は行われています。
38日出づる処の名無し:2010/07/20(火) 16:40:21 ID:CcFzoSCK
【肯定派FAQに対するカウンターテンプレ】

D 安全区で捕らえた便衣兵は文民保護というハーグ条約の主旨に反しています。即決処刑は合法になりますか?
Ans.即決処刑は、即決裁判によって科されるもので、陸軍軍法会議法で認められている以上合法です。
南京戦においては、中国軍は最後まで降伏しなかったため、1月の上旬まで、戦闘の休止はなされていません。
【肯定派FAQに対する反論】
>ハーグ陸戦条約のどこにも兵民分離について書かれた条文はありません。
まず、ハーグ第1条が兵民分離について明確に規定しています。
また、ハーグ第25条も兵民分離について書かれているものと言えるでしょう。非防守宣言をした都市は、軍事施設以外は、攻撃をしてはいけません。

>該当条文が無ければ、4条件違反以外の違反行為はありません。
まず、@便衣兵は、「便衣に着替える」行為によって1条の4条件違反以外に、自動的に、第23条のロの背信行為に該当します。
この背信行為の代表例は、降伏したと見せかけて攻撃をする行為がそれですが、非防守宣言(=あなたの軍隊に対しては一切の抵抗はしませんという宣言)したにもかかわらず、抵抗する場合に背信行為に該当します。
つまり、A便衣兵が、「安全区に侵入する行為」によっても背信行為が成立します。
これがどれだけ重要な背信行為かと言いますと、非防守宣言も無効となってしまい、安全区に対して、一般人を巻き込んでの無差別攻撃が可能になってしまうと言うことです。
(ちなみに、日本軍は安全区に対して、このような無差別攻撃は行っていません。参照「ラーベの感謝状」)
また、兵士にとっても、無防守地域に居ること自体が、戦時重犯罪を構成し、しかもその現行犯であると言うことです(=つまり直ちに処刑が可能)。

以上のような宣言違反によって強烈なペナルティが課せられるがゆえに、司令官は兵士に対して非防守地域には侵入しないよう厳命するなどして、非防守宣言は厳格に守られるのが通常です。
南京については、中国側の便衣兵の安全区侵入の他、戦場のど真ん中に安全区を設置するなど安全区委員会の管理も杜撰だったとしか言い様がありません。これらの責任こそ厳しく断罪されるべきでしょう。
39日出づる処の名無し:2010/07/20(火) 17:08:19 ID:CcFzoSCK
【肯定派FAQに対するカウンターテンプレ】

E 捕らえた便衣兵は裁判後、処刑されたのですか?
Ans.100%確実な証明は、今となっては不可能ですが、状況証拠から即決裁判がなされた可能性が高いです。
ttp://www.geocities.jp/nankin1937jp/img062.gif
数千の便衣兵が捕らえられて、一人一人憲兵によって審問されている写真です。
(このような気の遠くなるような作業をきちんとこなす軍隊は世界中に存在しないでしょう)
即決裁判では、憲兵が取り調べに基づいて、上官が処罰を下す事ができます。
ちなみに、これら便衣兵が、処刑されたという事実も未だ100%証明されておりません。
南京では、捕虜の収容所がきちんと設けられており1万人前後の捕虜が収容されていました。


F 軍事的必要が在った場合は捕虜を殺害してよいとの学説がありますが南京戦時に適用できますか?
Ans.戦数論は、肯定論者・否定論者様々に存在していましたが、
  否定論者の間でも、捕虜の取り扱いにおいて以下の例外がある事は認めざるをえなかったようです。
 『オッペンハイム国際法論』
 「投降者の助命は、次の場合に拒否しても差支えない、
 第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して、
 第二は、敵の戦争法違反に対する報復として、
 第三は、緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危くされる場合においてである」

 オッペンハイムは否定論者の代表格であり、1919年に死亡しています。
 彼の死後、彼の弟子によって上記記述は削除されました。当然のことながら、弟子は国際法の最高権威ではありません。最高権威はオッペンハイム自身です。

 私見は、この生前のオッペンハイムの説を支持しています。当時、戦時国際法は未だ不十分な点があり、後にジュネーブ条約等で補完されていることも付言しておきます。


G 捕虜は戦時復仇の対象として殺害したと考えられますか?
Ans.復仇の可能性は排除されません。
 しかし、安易な復仇論に陥ることは、自身が不法行為を行ったということを認めることにもなります。
 支那事変以前から、中国側の便衣兵戦術や、中国の日本兵捕虜や在華日本人・親日中国人の虐殺は、頻繁に行われており、日本側としては当然に中国側に抗議していました。
 これらの事実は、常に指摘しておかなければ、歴史の真実は永遠に見えてこないでしょう
40日出づる処の名無し:2010/07/20(火) 18:01:13 ID:eu7ALnrX
>>35-39
全て学説の裏付けのない自己解釈。いちゃもんに過ぎない。それらの主張を裏付ける見解もしくはまぼろし説を主張して
いる現代の歴史学者及び法学者は誰なんですか? 歴史学者・法学者で居なければ、南京事件に関する論文を発表
している学者でもいいです。前述の学者か歴史学者及び法学者ではない学者の見解は学術的な見解とは言えません。
およそ論理的とは言えない主張が列挙されているわけですが、学説の裏付けのない主張はトンデモ論に過ぎないと何度も
指摘してますよね。それらの主張はまさかとは思うがネットで見た、誰かが言ってた、そう思ったからという程度のものが
根拠じゃないでしょうね。現代の学者に限定しているのは、南京戦当時の学者をお互い挙げると解釈論になるからです。
それに立作太郎・信夫淳平・篠田治策は南京事件に関して見解を示してません。南京事件について専門に研究していて、
まぼろし説を主張している現代の歴史学者・法学者もしくは南京事件に関する論文を発表している学者を挙げて下さい。

先に肯定派テンプレの主張を裏付ける見解を持つ現代の歴史学者・法学者もしくは南京事件に関する論文を発表して
いる学者を挙げておきます。

北村稔 歴史学者(中国近現代史)
秦郁彦 歴史学者・法学博士(日本近代史)
吉田裕 歴史学者(日本近代史)
井上久士 歴史学者(中国近現代史・日中関係史)
石島紀之 歴史学者(中国近現代史・東洋史)
色摩力夫 法学者(国際法) 元外交官
波多野澄雄 国際政治学者(日中歴史研究南京事件の日本側論文筆者)
中村粲 英文学者(捕虜不法殺害に関して数量的考察をした論文を発表)

笠原十九司・藤原彰・洞富雄(いずれも歴史学者)の見解には同意しません。それに藤原・洞は亡くなられているので
過去の人ですね。

では、まぼろし説を主張する現代の歴史学者・法学者もしくは南京事件に関する論文(寄稿文・書籍・講義内容ではなく
論文ですよ。中でも研究論文の事ですからね)を発表している学者を挙げて下さい。
まさか佐藤和男ただ一人って事はないでしょうね。
41日出づる処の名無し:2010/07/20(火) 19:35:40 ID:HrmCKLZX
ID:eu7ALnrXのカキコ「も」コピペ

40のコピペに対する前スレでの流れ
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/asia/1276776612/129
129     >>108-112 全て学説の裏付けのない自己解釈。いちゃもんに過ぎない。それらの主張を...
├130     >>129 素人に論破されるそいつらの肩書きに、一体何の価値がある事やらw
│└144     >>130 >素人に論破されるそいつらの肩書きに、一体何の価値がある事やらw ...
│ ├147     >>144 >笠原十九司・藤原彰・洞富雄の言ってる見解には同意しないが 肩書きが...
│ ├148     >>144 入手経路について反論できないバカw 上等兵がどうやって軍機である戦闘...
│ └149     >>144 >適法じゃなかったから松井軍司令官は有罪になったわけですが。 東...
├133     >>129 松井司令官は国際法専門家である斉藤良衛博士を顧問として随行させていま...
├135     >>129 「何を言ったか」より 「誰が言ったか」に執着する事大主義者w
└152     >>129 内容に関する反論が一切ないってところに 肯定派の 無能さが現れている...
42<:2010/07/21(水) 00:38:29 ID:jTWX3IjO
>>15-34
クスクスクス♪・・・(・∀・)

 >交戦者資格無き者というだけで即決処刑してよいとは言ってない。
 >不正規軍の適法な構成員資格を満たさない者の敵対行為は、違法と言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。
 >正規の兵力に属する者が四条件を欠くときは、交戦者の特権を失うと言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。
 >逃走する敵兵は投降したとは認められないので攻撃できるが、逃走する敵兵以外を攻撃してよいとは言ってない。
 >戦時重罪犯であるだけで軍事裁判の手続きを省略できるとは言ってない。
 >どの説も戦時重罪犯であるだけで即決処刑が可能とは言っていない。
 >何れにしても立作太郎は便衣兵を捕虜としてはならないとは言っていません。

延々と続くナマポ中間派の "自己解釈" ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
書いてない事を "禁止事項" へ勝手に脳内変換をしてのける "ナマポ自己解釈" を木っ端微塵にする♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
43<:2010/07/21(水) 00:39:56 ID:jTWX3IjO
まずは 【 前提 】 を戦時国際法の権威色摩力夫氏の著書から抜粋する・・・(´・ω・`)
 
 『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P129』 ・・・ 【 前提@ 】
 軍隊の活動が想定される地域には、原則として制限がありません。国際法から見て、地球上どこへ行って
 も活動することができます。何故なら、国外であっても国内であっても、外国との間に武力紛争が起これば、
 自動的に「戦時国際法」が支配するからです。もはや、原則として「平時国際法」の言う主権侵害という問題
 は起こりません。せいぜい政治的あるいは道義的な次元の侵略という問題がありうるだけです。

 『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P277』 ・・・ 【 前提A 】
 現行の「戦時法規」の基本的な枠組みは、一九〇七年のハーグ陸戦法規と一九四九年のジュネーブ
 四条約との二本の柱です。

●前提@とAより、戦場において支配される法理は 【 戦時国際法 】 であり、1937年当時の南京戦にお
  いては、【 一九〇七年のハーグ陸戦法規 】 が適用法となる・・・(´・ω・`)

では、具体的に軍隊と戦時国際法との関係を見てみる・・・(´・ω・`)
44<:2010/07/21(水) 00:42:41 ID:jTWX3IjO
軍隊と戦時国際法との関係は、下記戦時国際法の権威色摩力夫氏の見解が非常に重要になる・・・(´・ω・`)

 『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P126』
 「軍隊」の権限は、「ネガ・リスト」方式で規定されます。ネガ・リストというのは、これだけはしてはいけない、
 これは禁止されるという項目が列挙されたものです。つまり、「原則自由」、「原則無制限」であって、例外
 的に制限されることがあるという考え方です。そして、この場合、制限とか禁止にあたる制限的な否定項目
 は、主として国際法による規制です。

 もっと具体的に言えば、戦時国際法の特異な部門である「戦時法規」、即ち害敵行為の制限及び戦争犠
 牲者保護のルールです。これに補完的に国内法による若干の規制がありえます。それでは、何故、軍隊
 の権限は原則無制限かというと、これは軍隊の本質から当然導かれてくるものです。

 軍隊は軍事上の必要に応じて、未知のよその土地に出かけて行って活動せねばならないことがあります。
 また、自国内で侵略に対する自衛のための武力行使であっても、平時の法秩序がいつの間にか一時停止
 に陥り、それが戦時の法秩序に置きかえられてしまいます。従って、いずれにせよ、平時の国内法でがんじ
 がらめに拘束されていない組織でないとものの用に立ちません。どこでも通用する権限を当然に持っていて、
 軍事的必要に応じて柔軟に情勢判断により、それに対処できるものでなくてはなりません。それは、つまり
 軍隊です。それ以外にあり得ません。

 他方「警察」の権限は、「ポジ・リスト」方式によって規制されます。ポジ・リストとは、してよいこと、しなければ
 ならないことが列挙されたリストです。つまり、「原則制限」の考え方です。

●【 軍隊 】 とは、【 ネガ・リスト方式で規定される 】 のであり、即ち、戦時国際法及びこれを補完的に
  規制している国内法に 【 これだけはしてはいけない、これは禁止されるという項目 】 でない限りは、
  【【【 「原則自由」・「原則無制限」 】】】 である・・・(´・ω・`)
45<:2010/07/21(水) 00:48:05 ID:RwpwVtXj
軍隊が 【 ネガ・リスト方式で規定される 】 事は非常に重要であり、繰り返し記載されている・・・(´・ω・`)

 『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P144』
 軍隊の権限規定は、「ネガ・リスト」方式ですから、原則無制限です。国際法で明示的に禁止されていない限り、
 法的には何でもできる筈です。軍事的必要に応じて、刻々変化する客観的情勢に応じて、いかようにも対処で
 きる筈です。そうでなくては、軍隊の態をなしません。役に立ちません。ひょっとすると無用の長物となってしまい
 ます。法的に明示的に認められていない限り何もできないのであれば、それは警察であって軍隊ではないので
 す。

●軍隊の権限は、【 国際法で明示的に禁止されていない限り、法的には何でもできる筈です。】 とまで明言
  している。戦場において国際法上に明記が全く無い "戦争犯罪者をわざわざ裁判にかけなければならない"
  とするチン論は、戦時国際法の権威から判断すれば、正に笑止千万と言ったところだろう・・・(´・ω・`)

●また、【 法的に明示的に認められていない限り何もできないのであれば、それは警察であって軍隊ではない
  のです。】 を見ても判る通り、池沼中間派の自己解釈は 【 軍隊 】 と 【 警察 】 の区別がついていない
  惨めな "" 勘違い "" だと言えるだろう・・・(笑
46<:2010/07/21(水) 00:50:40 ID:RwpwVtXj
更に下記は国際法違反の有無を解釈する上で非常に重要な見解だろう・・・(´・ω・`)

 『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P228』
 条約の解釈に疑義が生じたとき、その疑義を解いて事案の解決をはかるとき、何を基準にするかという問題
 があります。即ち、条約の解釈の基準は何かということです。これは、まことに単純明快に答えることができます。
 条約の解釈の基準は、ずばり、「立法者の意思」なのです。立法者というのは、二国間条約の場合であれば、
 その条約の両締約国です。多数国間条約であれば、その条約すべての締約国です。いずれにせよ複数です。
 もし、両締約国の間に意思のくい違いがあれば、国際紛争が生じます。それから先は国際紛争解決の手段に
 訴える他ありません。いずれにせよ、立法者の意思がオールマイティなのです。ここのところが重要なポイント
 です。

 疑わしきは「主権」に有利に解釈されなければなりません。
 条約の解釈も、慣習法の解釈も、いずれにせよ疑義が生じた場合は、前項で述べたように、その直接の当事者
 となった主権国家が行う解釈は十分に尊重しなければいけません。どちらとも解釈し得る場合でも、当事国が主
 張する限度において、それに有利な解釈の方に軍配をあげざるを得ません。

●言うまでも無く、日本政府は今日に至るまで "便衣兵や支那拘束兵の殺害が違法であった" 等とは一言も
  主張していない・・・(´・ω・`)

●即ち、池沼中間派が自己解釈してる "裁判を行わずに殺害したから虐殺だ" は、日本政府が公式に違法性
  を認めた発言が無い限り存在し得ない解釈であり、単なる池沼の "思い込み" でしかない・・・(´・ω・`)
47<:2010/07/21(水) 00:52:09 ID:RwpwVtXj
最後に、"捕らえた場合は戦時重罪犯として軍事裁判の判決により処するのが本来の手順でした。裁判が行われ
るまでは拘束される事になる" とのナマポ自己解釈が国際慣習法上でも存在しなかった事を確認する・・・(´・ω・`)

 【 リーバー法:『国際人道法』 有信堂 藤田久一著作、P13  】 ※グースさん、お借りします・・・(´・ω・`)∩
 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8312/page006.html
 「パルチザンは武装し彼らの軍隊の制服を着用する兵士であるが、敵占領地域に侵入するため主要部隊から離
 れて行動する部隊に属する。彼らはもし捕えられれば捕虜のすべての特権の資格を有する」(81条)としつつ、委
 任も受けず組織された敵軍に属さずまた戦争に継続的に参加するのでもなくしかもさまざまの方法で敵対行為を行
 うものまたはその分隊は「公の敵ではなく、それゆえ捕えられれば、捕虜の特殊な資格を有せず、公道での盗賊ま
 たは海賊として即決処分されねばならない」(82条)とした。

●上記にある『委任も受けずに組織されたパルチザン』は、正にのちに言う『戦争犯罪者』の事であり、その者に
  対しては即決処分を認めている・・・(´・ω・`)

●ちなみにこの『即決処分』に裁判的な意味合いを含まない事は、下記法令からも確認できる・・・(´・ω・`)
  『違警罪即決例 1885(明治18)年9月24日公布(太政官布告第31号)』
  http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ikeizaisokketurei.htm
  第2条 即決は裁判の正式を用いず被告人の陳述を聴き証憑を取調べ直ちに其言渡を為すべし

このリーバー法に対しては、国際法学者信夫氏は 【 非常に高く評価 】 している事も記しておく・・・(´・ω・`)

 『戦時国際法提要(上)信夫淳平著 P353』
 その規定事項は当時にありて戦時国際法上の一般周認の陸戦関係の重要な諸原則を網羅して漏らさず・・・
                   ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
以上より、"捕らえた戦争犯罪者は裁判が行われるまで拘束される" などとする自己解釈に正当性は全く無い
と言えるだろう・・・(´・ω・`)
48日出づる処の名無し:2010/07/21(水) 21:46:46 ID:EbPdLljz
>>40
でも、「人間は間違いを起こす、それが結論」なんだろ
その学者が全部間違っている可能性も否定できないわな

てか実際間違っているが
49日出づる処の名無し:2010/07/22(木) 00:56:16 ID:qU7N8LU0
学者より 法務官の解釈のほうが上なんだがw
50<:2010/07/22(木) 01:32:27 ID:IkFEMJi6
平日なのに "昼と夜" のIDが同じなのは何故だろうか?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
あ・・・ "ナマポ" だからか・・・(笑 

>615 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/07/21(水) 12:58:16 ID:5W2SOjwq
>625 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/07/21(水) 23:40:26 ID:5W2SOjwq
>626 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/07/21(水) 23:46:18 ID:5W2SOjwq
>627 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/07/21(水) 23:59:16 ID:5W2SOjwq
51日出づる処の名無し:2010/07/22(木) 02:21:09 ID:jR5yY9xs
しかし、前スレで戦闘詳報に粘着していた肯定派のバカは何がやりたかったんだろうかw
裁判で相手の主張に反論しなければ相手の主張を認めた事になるのにw
肯定派によると、一審では被告がわざわざ戦闘詳報に触れているのに証拠を提出して反論せずw
二審や最高裁では戦闘詳報には全く言及していないのだからあえて触れる事はないw
一審で提出しなかった理由は「昭和55年当時の学会の状況を示す証拠足り得ないから」w

相手が「軍の命令による殺害が組織的に行われたと断定することはできない」と主張しているんだから、
「軍の命令による殺害が組織的に行われたと断定することができる」証拠を提出して反論すればいいだけ。
その証拠が有効かどうか判断するのは裁判官であって原告ではない。
その証拠の提出さえ行わなかったのなら相手の主張をそのまま認める事になるだけw

原告はいつから証拠価値を判断する裁判官の立場も兼ねる様になったんだろうw
「証拠にならない」と判断したならそんなものでいったい何が主張したかったのだろうw
52日出づる処の名無し:2010/07/23(金) 23:46:45 ID:5joNFTp2
肯定派って、50日間に南京市内で、20万だか30万だかの虐殺があった
って話だよな?
秦郁彦とか、4万人前後なのに、なんで肯定派になってんの?
わけわかんねぇよ、ここw
53日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 00:24:16 ID:mnw2rPPQ
秦氏は慰安婦の人数は随分細かく調べているようだが
南京事件の被害者数はどうにもおおざっぱというか
スマイス報告を元に「不法殺害の割合は1/2〜1/3」としているんだけど
その1/2〜1/3の根拠がよくわからん

あと、スマイス報告って「入居中の家屋50戸に1戸」で抽出した数字を
50倍したっていろんなサイトで説明しているんだけどさ
これだと、「全滅又は犠牲者がいたけど一家で避難」したケースの犠牲者数が無視されね?
あれって生き残って尚南京にいた人限定の、身内死者数だから
あの数字を元に算出しても簡単に「これが上限です」なんて言えないと思うんだよなあ
54日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 05:19:00 ID:1OpxJxtx
スマイスの被害者2400人/南京人口20万人
仮に1家族5人とすると、全滅の確率は (2400/20万)の4乗 
これに推定世帯数(20万/5人)掛けても1に遠く及びませんね
従って全滅は考慮するに値しません
日本軍は避難完了した後やってきたのだから、例え避難した家族に被害者が居たとしても日本軍とは関係有りませんよ

あと、農村部なんですが、数字上南京周辺の10倍以上被害が出ているはずなのに中国では全く話題になっていません
日本軍による物とはとても思えませんね

つまりスマイスが調査した2400人は上限と考えて差し支えない物と結論付けられます
55日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 05:20:07 ID:1OpxJxtx
×(2400/20万)の4乗
○(2400/20万)の5乗

訂正します
56日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 12:20:51 ID:mnw2rPPQ
最後に推定世帯数をかけているので、恐らくは全滅した世帯数を計算しようとしたのだろうが
君はまず計算の仕方を間違えている

君の計算方法では1人死ぬ確率は(2400/20万)の1乗、2人死ぬ確率は(2400/20万)の2乗・・・
となるわけだが、同じように推定世帯数をかけてみるとこうなると言いたいのだろう?

世帯で1人死亡・・・(2400/20万)^1*(20万/5人)=480世帯
世帯で2人死亡・・・(2400/20万)^2*(20万/5人)=5.76世帯
世帯で3人死亡・・・(2400/20万)^3*(20万/5人)=0.069世帯
世帯で4人死亡・・・(2400/20万)^4*(20万/5人)=0.00083世帯
世帯で5人死亡・・・(2400/20万)^5*(20万/5人)=0.00001世帯

しかしすぐにわかるように、これでは1人死亡の世帯が480世帯だから、これで480人が死んだとなり
2人死亡世帯だと5.76をかけて約11人死んだとなり・・・と計算しても死者数が500人にもならない
最初の2400人は一体どこへいったのさ、って話になる
57日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 12:37:19 ID:1OpxJxtx
>>56
あ、一世帯で死んだ可能性は5人全てにあるんだから5倍しないと計算に合わないな
世帯で1人死亡・・・(2400/20万)^1*5*(20万/5人)=2400世帯
本当は2400を再帰的に計算するべきだから合計が2400を超える事になっているが
全滅がほぼ0なのは同じ事だね
58日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 12:44:09 ID:mnw2rPPQ
まずそもそもとして、死者数2400だけで計算している事からしておかしい
スマイスは行方不明者も4200人いて、そのほとんどは戻らなかった、おそらく殺されたのだろうと言っている
数学なんてものを持ち出すなら、データが示す可能性を排除せず
死者数を2400人から最大合計6600人の場合まで幅を持たせて推定しなければいけない

また、世帯での死者数を、全体の死者の割合から1人死ぬ確率、2人死ぬ確率として出しているが
これは例えば、一人殺したら殺した側が強制的に城外に追い出され、
そして城内の人の配置がランダムに変わるというような、ありえない話を前提にした確率だ

一人殺しても、殺した側の人間は家族の目の前に尚いるのだ
そして家族は抵抗もするし、殺した側の目的が略奪や強姦であれば邪魔者や目撃者を排除しようというのは当然だ
その状況で家族の人間と他の20万の人々とが「死ぬ確率は同じ」だとか
2人殺されるのは1人殺されるより100倍近く、3人なら1000万倍近い確率だなどと言える馬鹿はいない
59日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 12:49:01 ID:mnw2rPPQ
>>57
更に言えば、あくまでもサンプルは「南京に残って居住した人」前提になるので
その数字を元に全滅数を算出しようとしている事事態おかしい
あの死者数2400〜6600は、君の理屈で言うなら1人〜4人の犠牲者が出て
尚且つ家に戻ってきた人たちだけの数

最初に言ったが、全滅、または犠牲者は出たが家に戻らず逃げた人たちの犠牲者数はカウントされていない
60日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 12:50:16 ID:mnw2rPPQ
>>58
> 2人殺されるのは1人殺されるより100倍近く、3人なら1000万倍近い確率だなどと言える馬鹿はいない

訂正
3人なら1万倍近い
61日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 13:10:56 ID:1OpxJxtx
>>58
あの、民間人の大量虐殺は埋葬記録からも否定されているんですけど
4万の男性の遺体に対して女性子供は75人ですから
それとも、中国の家族ってのは男だけの世帯だらけと言いたいのでしょうか?
家族構成に女性が居る可能性は高いと思いますから、全滅は皆無と言っていいのではないでしょうか

>>59
だから避難は日本軍が来るまでに完了していたとあれほど言っているのに・・・
62日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 13:24:52 ID:1OpxJxtx
あと残った住民の死亡率は1.2%程度、君の言うように最大6600人としても3%
仮に数字に影響でそうな5000人程度の被害者家族が脱出したとすると、15万程脱出した事になる

南京開城以降、そんな記録何処かにありますか?
63日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 13:44:57 ID:mnw2rPPQ
>>61
あれ?あなたの計算の無茶苦茶さに対する反論は無いの?

「君の計算だと、夏事件では哈家の1家4人全滅は500万分の一の確率で、
夏一家11人中7人の死亡は京の単位でも足りないくらいの小さい確率で発生したという事になる」

というものも用意していたのですが
あなたの計算だと一家で3人以上の死亡はありえないはずですが
どこが”皆無”なんですか?

また、スマイス報告でも男性の民間人が中心で殺されたと書いてあるので
死者が男性に偏っていたというのは理解できる
しかしそれで全滅の数を無視していいという話にはならないし
逃亡の場合も勿論無視してよいとも思わない
64日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 13:48:07 ID:1OpxJxtx
4200名は、南京出身の兵士の戦死者や重慶に逃げた兵士が大量に含まれていると考える方が自然
逆に含まれないとしたら、彼らは何処にカウントされていたのか教えて欲しい物だ
65日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 13:52:01 ID:1OpxJxtx
>>63
夏の証言がインチキだって常識で考えれば分かるものだが
あと向こうはレイプが横行したと言い張っているけど、日本軍は男を中心にレイプしたと主張するんですか?
男性の死亡者が多いってのは兵士が殺されたという話の裏付けですね
66日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 13:57:08 ID:mnw2rPPQ
>>61
>>62
避難については、陥落前の避難者でも安全区や周辺の難民キャンプであれば
そこで被害に遭ったり一時的に家に戻ろうとして被害に遭遇する可能性はあります
その場合で家に戻らないままであればカウントの対象外でしょう

また、陥落後も安全区への流入が多かったとあるので
現住地にずっと留まっていた人の方が少ないのではないか
67日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:02:50 ID:1OpxJxtx
>>66
で、10万20万単位の流入や転出があった記録は何処にありますか?
第一虐殺があったとしたら、その地域に何で住民が流入するんだ
仮に流入が大量にあったとしたら虐殺など無かった根拠になりますよ
68日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:05:41 ID:mnw2rPPQ
>>65
> 夏の証言がインチキだって常識で考えれば分かるものだが

あなたの常識、世の非常識、OK?
なにしろ無茶苦茶な計算方法でどーだとばかりにふんぞり返るくらいですからねw

> あと向こうはレイプが横行したと言い張っているけど、日本軍は男を中心にレイプしたと主張するんですか?
> 男性の死亡者が多いってのは兵士が殺されたという話の裏付けですね

言ってる意味がわかんないんですが
レイプが横行したから埋葬遺体はレイプの数だとでも中国が主張してるんですか?
スマイスも推定強姦数を2万とか言ってますが、これが埋葬者数にカウントされるなどと世迷言は書いてませんが

中国もスマイスも男性の一般人の死者は、兵士と間違われて殺されたという主旨しか言ってないと思いますが
なんでレイプが出てくるの?
69日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:08:09 ID:1OpxJxtx
>>68
スマイス報告書は、君の「家族を全滅した例が多数有ったに違いない」説とは矛盾していますねw
70日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:12:02 ID:mnw2rPPQ
>>67
大量の流入は無いですね、危なっかしくてなかなか城内の安全区以外にはいけなかったようなので
だから専ら、安全区への移動だったり、陥落前に周辺への難民キャンプで移動していた人たちが
なかなか戻れなかったりして、そういう人たちの被害状況は調査できないでしょうと言ってます
そしてその人たちも難民キャンプにいたからと言って安全だったわけではない
71日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:15:56 ID:mnw2rPPQ
>>69
スマイス報告は全滅がサンプル対象外だと何度言ったら理解しますか?
さすが、あんなメチャクチャな計算で偉そうにしてた人間は違いますなw
それからどこに私が全滅多数などと発言しましたか?
また分が悪くなったから「相手の言ってない発言をでっちあげるしかないぜチクショウ!作戦」ですか?
72日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:17:16 ID:1OpxJxtx
>>70
でも、スマイス調査は「南京市及びその周辺」で、その人達も調査対象でしたね
仮に君の言うような数字に影響が出る流入や転出があったとしたら
それより外から10万20万の移動があった事になります

で、そのような記録は何処かにありますか?
73日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:21:08 ID:1OpxJxtx
>>71
言いたい事は、スマイスの数値からは君の言うような未調査分が問題になるような客観的数字を見つけられない
と言う事です。2400人から漏れた人も居るかも知れないが、それが全体に影響出るほどのことはないですね
74日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:22:09 ID:mnw2rPPQ
>>72
入居中の家50戸につき1戸と最初に言いましたが、それは難民キャンプも入るのですか?
それから大規模な流入など危なくて無かったと何度言ったら理解しますか?
流出も城内の安全区への移動が主だと何度言ったら頭に入りますか?
そういう状況だから、元の家に戻れない人が多かったのではと言ってますが少しは理解しましたか?
75日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:27:52 ID:1OpxJxtx
>>74
君の言う例が一々レアケースにしか見えないんですよ、具体的にどれほどの影響が出ていると考えて居ますか?
仮に1%程度の影響なら+24人程度ですよ
76日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:28:23 ID:mnw2rPPQ
>>73
城内の民間人で10万も20万も犠牲者が出るとは考えてませんが
全滅が仮に50家族いたとしたらそれだけで死者が250人増えます
犠牲者が出て尚家に戻らない家族も含めれば千人単位とは言いませんが
それなりの漏れは出るでしょう

それらも考慮せずに簡単に上限4万というように秦氏が決めているようにしか思えないから
私は最初の疑問をぶつけました
慰安婦の数の出し方と違って、随分とずさんに計算していないか?
という秦氏への疑問ですが、一体どこがおかしいんですか?
77日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:29:36 ID:mnw2rPPQ
>>75
それであなたのずさんな計算式がでてくるわけですが、
あなたの計算上の天文学的レアケースが夏事件だったというわけですか?
同時に同居する2家族で発生したと、そういう事ですか?
78日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:31:03 ID:1OpxJxtx
>>74
あ、国民党の清野作戦で家を焼け出された人たちの話ですか
そりゃ失礼しました
79日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:33:34 ID:1OpxJxtx
>>77
簡単に言うと、一家全滅が多数出る状況だったらスマイス調査で2400人なんて数値が出る訳がないと言う事です
数値を逆算するとめちゃくちゃな天文学的数字になる事からも判りますよね
80日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:35:14 ID:mnw2rPPQ
>>79

> 数値を逆算するとめちゃくちゃな天文学的数字になる事からも判りますよね

お前まだ自分の計算方法が正しいと思ってるのかよw
どんだけ丁寧に説明してやったと思ってんだw
81日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:45:29 ID:1OpxJxtx
>>80
いや丁寧というならきちっと数字出してから言ってくれ
それに出てきた誤差が250人かよ、スマイスでは戦死者や自然死を除いたという確証ももてないから
それを引いたら何人人になる事やら

因みに前計算したけど1000人以上調査時期に自然死しているとなりましたよ
それを除いているか足しているか定かでないが
82日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:48:51 ID:I73765tM
>>76
>全滅が仮に50家族いたとしたらそれだけで死者が250人増えます
埋葬記録からそれは否定されていますが?
>61
>あの、民間人の大量虐殺は埋葬記録からも否定されているんですけど
>4万の男性の遺体に対して女性子供は75人ですから
>それとも、中国の家族ってのは男だけの世帯だらけと言いたいのでしょうか?
>家族構成に女性が居る可能性は高いと思いますから、全滅は皆無と言っていいのではないでしょうか

>>53
>これだと、「全滅又は犠牲者がいたけど一家で避難」したケースの犠牲者数が無視されね?

それと南京の推定世帯数を(20万/5人)=4万世帯とすると、女子供の埋葬数は75人なので全滅世帯数は最大75世帯。
一世帯5人構成とすると全滅推定人数はわずか375人。
考慮に値しません。
83日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:52:39 ID:mnw2rPPQ
>>64
これにレスしていなかったが、スマイス自身調査の結果に
「敗残兵がまぎれこんでいる可能性はほとんどない」とコメントしている

>>81
スマイス自身、2400人は状況の明らかな軍事行動以外の日本兵士の暴行による殺害だと言っている
軍事行動による殺害を含めると3250人だ
84日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:55:49 ID:kIiNMD5J
軍事行動による死者も「虐殺された」数に入るのか?
85日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:56:52 ID:mnw2rPPQ
>>82
> >全滅が仮に50家族いたとしたらそれだけで死者が250人増えます
> 埋葬記録からそれは否定されていますが?

されていません
それに埋葬は卍会のみでほかの慈善団体や日本軍自身による処理は含まれてません

それから埋葬の付記に、腐敗が激しくなどとあり、男女の区別がつかないものを
全て男子とした可能性は十分あります
86日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 14:57:33 ID:mnw2rPPQ
>>84
だからスマイスはそれを除いて2400人と書いたんじゃないの
87日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:00:44 ID:1OpxJxtx
>>83
敗残兵じゃなくて南京で徴兵されたり家族が南京にいた兵士の戦死や重慶に逃げた分ですね
敗残兵とか話を変えないでくれるかな?
敗残兵の事なら。軍が撤退した後、敗残兵の家族がどうやってそれを知る事が出来たんですか?

あと、国民党の敗残兵による暴行や清野作戦による被害は何処にカウントされたんですか?
88日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:03:24 ID:I73765tM
>>85
>それから埋葬の付記に、腐敗が激しくなどとあり、男女の区別がつかないものを
>全て男子とした可能性は十分あります
可能性は不要です。
根拠をお願いします。
可能性であれば、衣服で性別の判断は可能だった可能性が高いはずですが?
それとも埋葬した遺体は全て全裸だったとでも主張されるのですか?
全裸であれば性別の判断はさらに簡単だったはずですが?
89日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:09:16 ID:1OpxJxtx
>>88
日本軍は爆撃していないんだから性別不明の遺体等数少ないでしょうからね
それに男女別で料金変えていた訳でもないから誤魔化す理由もありませんよね
それに子供というか小学生以下と大人を間違える理由は何一つありませんね
90日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:09:37 ID:mnw2rPPQ
>>87
違います
スマイスははっきりと一般市民についての死者で、軍事行動以外の日本兵による暴行で死んだ数と言ってます

国民党の敗残兵による暴行や清野作戦による被害については、
調査したうちほとんどが日本軍によるものだったといっている事から
調査の過程でそのようなサンプルはあったけれども少数だったという結論でしょう
91日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:17:50 ID:RdJm1xxE
最近ではめずらしい大虐殺派だね。

持論が資料に基づいてないから、ああいう可能性がある、こういう可能性もあると子供のように駄々をこねまくる。

虐殺肯定派の多くが中間派へ移行しているのもわかる気がする。
92日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:18:07 ID:1OpxJxtx
>>90
死者じゃなくて行方不明者について言っているんだけど、行方不明なのに何で区別付くの?
93日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:18:07 ID:mnw2rPPQ
>>88
> 可能性であれば、衣服で性別の判断は可能だった可能性が高いはずですが?
> それとも埋葬した遺体は全て全裸だったとでも主張されるのですか?
> 全裸であれば性別の判断はさらに簡単だったはずですが?

衣服は男女の別がつかないものも多いですよ
また、重ねて言いますが、確かに男子の方が多いのは事実です
その意味で卍会の数が男に偏っているのも頷けます
しかし、卍会以外の慈善団体や日本軍による処理、その他有志による埋葬もある
従って卍会の数字だけを以って上限を決めるのは乱暴です
94日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:20:44 ID:mnw2rPPQ
>>92
重ねてい言いますがスマイスは調査の結果は一般市民のもので、敗残兵はまぎれていないと言っています
行方不明者もその対象ですから、一般市民の行方不明者です
95日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:25:03 ID:1OpxJxtx
>>94
重ねて言いますが、行方不明者に戦死者や敗走兵が含まれていると言っているんですよ
敗残兵は君が言い出しただけでしょ。レス確認してください

もう一度聞きますが行方不明者をどうやって戦死者と暴行に分ける事が出来るのですか?
不明なのにどうやってやるの
96日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:31:51 ID:mnw2rPPQ
>>95
> 重ねて言いますが、行方不明者に戦死者や敗走兵が含まれていると言っているんですよ
> 敗残兵は君が言い出しただけでしょ。レス確認してください

何度言ったら理解しますか
スマイス報告でよく出される数字の、市部死者2400と行方不明4200は
スマイス自身が一般市民の数字だと言っています
敗残兵ではないと言ったのもスマイスです

> もう一度聞きますが行方不明者をどうやって戦死者と暴行に分ける事が出来るのですか?
> 不明なのにどうやってやるの

不明だから2400から最大6600と言ったでしょう
あんたと違って下限だけ取り扱うのではなく、下限から上限まで含めて推定すべきと言ったのです
不明なのに勝手に全て除外したのはあんただろ
逆に「不明なのにどうやって除外できたのですか」と質問します
97日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:36:37 ID:1OpxJxtx
>>96
スマイスが幾ら言っても4200名の行方不明者から戦死や逃走兵を取り除く術はないだろ
奴が言ったらそれが全てとかおかしいんじゃないの?
どうしても主張するなら行方不明者から区別する方法を示してくれないかな?
まさか行方不明者から聞いたとか言わないよなw
98日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:44:18 ID:mnw2rPPQ
>>97
家族からの聞き取り調査時に状況を聞いている
その理由から戦死や、兵士である可能性はほとんどないと判断したのだろう
全ての調査票があればもっとわかるのだろうが
そこからある程度どのような形での行方不明が多いかという推測をするのは特に問題に感じないね

それから君は不明だ不明だと喚いている割に、自信満々に計算では行方不明者を死者から除外した
なぜ不明なのに全く除外できたのか、早く答えなさいよ
99日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:46:05 ID:uMlMfjh1
議論が普段に比べてやけに丁寧な言葉だと思ったら
いつもの中韓派とは別の人か
100日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:46:53 ID:1OpxJxtx
>>98
あの、行方不明って文字通り不明だから家族さえ判らないんですけどw
スマイスの調査員は超能力者なんですか?
101日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:52:54 ID:RdJm1xxE
>>98
>家族からの聞き取り調査時に状況を聞いている
その理由から戦死や、兵士である可能性はほとんどないと判断したのだろう


何でそんなことがわかるんです?

調査時に聞いたとしても、殺された家族が中国兵だったなんて普通いわないだろう。
102日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:53:33 ID:mnw2rPPQ
>>100
つまりあなたは、行方不明者を暴行による死者からは全く除外してよいけど
その理由は一切答えられないという事ですね
これだけ何度聞いてもはぐらかすのだからそういうことですね
了解した
103日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 15:59:54 ID:1OpxJxtx
>>102
避けたと主張していても、それを示す根拠が全く無いんですよ
特に行方不明者から兵士を除いたとすると除いた数字は何処に残っているとかね

あと、スマイスが戦死者を1000人としているのが正しいとすると、両者10万の陸軍による戦争で
その程度だとすると、日本軍は極力民間人に配慮して戦った事になる
それが戦後に万単位の民間人虐殺とか違和感有りまくりなんですよ
シナ人を保護しながら戦った日本軍は終結後に全部入れ替わったんでしょうか?
104日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 16:20:45 ID:mnw2rPPQ
>>101
スマイス博士がそいういう可能性を考慮せずに
敗残兵はほとんどいないと発言するとは考えづらいですが
まあ、そういうケースが無いとも言い切れないとは思います

>>103
行方不明者も一般人であり、兵士はほとんど含まれていないというのがスマイス博士の見解です
調査票にどのような理由が書かれていたのかまで参照できないのは歯がゆいですが
不明だと主張するなら私と同じく、下限2400から最大6600人で推定するのが筋でしょう
あなたは「わからないから除外したい」と言ってるようにしか見えませんね

それから南京城での攻防は、城壁での戦闘が主で
城内ではあまり抵抗がなかったようですから
民間人の戦死者は1000人程度で住んだんじゃないでしょうか

それとも人口密集地である城内で、激しい戦闘があったという記録でもあるのですか?
105日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 16:32:52 ID:1OpxJxtx
>>104
だから何時敗残兵の話したの?敗残兵が含まれないとスマイスは言っているが戦死者が含まれないとは言っていないんですね

>下限2400から最大6600人で推定するのが筋でしょう
こそっと全滅の話は取り下げですかw

>それとも人口密集地である城内で、激しい戦闘があったという記録でもあるのですか?
え?南京城の周辺に大量に市民が居たというのが君の主張じゃなかったんですか?
今までの全滅家族とかそれ前提で語っていたとしか思えませんが
主張は全部嘘ですと言うならそれでも良いけどw
106日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 16:42:55 ID:mnw2rPPQ
>>105
> だから何時敗残兵の話したの?敗残兵が含まれないとスマイスは言っているが戦死者が含まれないとは言っていないんですね

スマイスは4200人は日本兵に拉致されたと言っています
拉致されてから戦死というのはちょっと状況がよくわかりません


> >下限2400から最大6600人で推定するのが筋でしょう
> こそっと全滅の話は取り下げですかw

おお、そうでした
全滅者や自宅に戻らなかった人たちの分もあるので+αですね
ただ、スマイス報告で出ている数字は上記ですから、計算するならとりあえず上記の範囲での推定でという話

> >それとも人口密集地である城内で、激しい戦闘があったという記録でもあるのですか?
> え?南京城の周辺に大量に市民が居たというのが君の主張じゃなかったんですか?
> 今までの全滅家族とかそれ前提で語っていたとしか思えませんが
> 主張は全部嘘ですと言うならそれでも良いけどw

夏事件の例を見るに、戦闘中の出来事には見えませんが
基本的に戦闘は城壁や陣地に対して行います
城壁や陣地に人が住んでたんですか?w
城内で市街戦やったってんなら別ですが
107日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 17:07:20 ID:1OpxJxtx
>>106
夏事件がでっち上げだと認めておかないと偉い目に遭うぞ

警告したからな
108日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 17:10:39 ID:mnw2rPPQ
>>107
> 夏事件がでっち上げだと認めておかないと偉い目に遭うぞ
>
> 警告したからな

なんじゃそら
109日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 17:21:54 ID:1OpxJxtx
>>108
銃剣で3カ所も刺されて自然治癒する8歳の少女の存在を証明してください
110日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 17:41:07 ID:mnw2rPPQ
>>109
> 銃剣で3カ所も刺されて自然治癒する8歳の少女の存在を証明してください

まずは刺された箇所と深さ、流れた血の量を説明してください
でなければそれが致命傷なのかどうかわかりません
111日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:09:09 ID:1OpxJxtx
>>110
小学生が得意な「何時何分何秒にそんな事言った?」並みの恥ずかしい証明だなw
112日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:14:33 ID:mnw2rPPQ
そうですか
では、本人や傷をみたマギーが証言しているように
致命傷ではなかったのでしょう
113日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:19:26 ID:uMlMfjh1
三箇所もさされて致命傷でない?
子供一人殺せないほど日本軍は弱かったと?
よくそれで大虐殺が出来たなw
114日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:24:14 ID:mnw2rPPQ
また論理性のかけらもないことを
なら聞き返しますが何箇所刺されたら致命傷になるんですか?
115日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:26:31 ID:uMlMfjh1
子供だぞ?w
一箇所さされただけでもやばいだろうに
3箇所さされたらそりゃ普通に考えて致命傷だと思うが?
116日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:29:03 ID:mnw2rPPQ
致命傷でなければ人は死にません
で、何回で致命傷なんですか?
117日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:30:32 ID:1OpxJxtx
>>114
あんた、広辞苑に載っている「論理」という言葉の意味を書き換えるつもりなんですか?
致命傷処か傷の手当てする人も居ない環境で一週間以上生き残ったと言っているんだぞ
しかも保護された時は病院にも入院せずにお寺に引き取られたとかw
118日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:32:11 ID:mnw2rPPQ
>>117
マギーが見たときにはかなり回復していた
傷はあったが元々たいした刺し傷ではなかった
それ以上でも以下でもないですね
119日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:35:40 ID:1OpxJxtx
>>118
明らかに背中を3カ所も刺されたって言うのは嘘だったんですねw
マギーがあったのは事件から一月程度の話の筈なのにね
120日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:40:59 ID:mnw2rPPQ
>>119
背中は2箇所、左腕に1箇所
彼女は背を向けていたという事は、逃げたところを刺されたんですかね
逃げた分、突き刺す時の踏み込みが甘くなったのかもしれません

何にせよ、致命傷でなければ人は死にませんね
121<:2010/07/24(土) 18:43:34 ID:dRxvJztQ
>>120
このスレで夏証言を持ち出すとはどんだけ馬鹿なんだよ?・・・(´・ω・`)
122日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:44:10 ID:1OpxJxtx
>>120
気を失ったと言ってなかったっけ?
決して軽い傷じゃないけど治療せずに一週間生き延びたんだねw
123日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:45:51 ID:mnw2rPPQ
ああ、一番の馬鹿が来たよw
また妄想始めちゃうから退散するわ
勝利宣言どうぞw
124日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:47:04 ID:mnw2rPPQ
>>122
転んでも気を失う事はある
致命傷でなければ死なない
それだけだね
125日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:48:27 ID:1OpxJxtx
>>124
刺されて気を失ったと言っているが、夏は嘘を付いているとw
126<:2010/07/24(土) 18:49:07 ID:dRxvJztQ
>>123
このスレで粘着する肯定派は "なまぽ中間派" 一匹だぜ・・・(笑
オマエの池沼自己解釈は完全に死んだよ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

ながながと "勘違い" を曝し続けたアホレス>>15-34 の削除依頼を出して
さっさと自殺してしまいな♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
127日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:52:43 ID:mnw2rPPQ
>>125
違うよ、人は転んでも気を失うことはある
気を失う時は致命傷であるなんて論理は成り立たない
そういう話
んじゃね
128日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:53:16 ID:uMlMfjh1
逃げたしw
ばいばい^^
129日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:55:33 ID:1OpxJxtx
>>127
いや本人が刺されて気を失ったと言っているのに何で否定するの?
夏が信頼できない人間だから否定するのかなw
130<:2010/07/24(土) 18:57:25 ID:dRxvJztQ
>>127
否定派によりまたしても "絶句モード" にさせられたナマポ中間派には爆笑させてもらったワ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
他の肯定派からも孤立し、たった一つの頼りの綱だった "ナマポ自己解釈" は完全崩壊♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪ 
131日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 18:59:56 ID:1OpxJxtx
・・・だから夏は止めとけと忠告したのに
132<:2010/07/24(土) 19:52:33 ID:dRxvJztQ
レスを見ると、ナマポ池沼の劣化自爆パターンが顕著で笑える・・・(笑

★ナマポ中間派の自爆パターン ⇒ "書いても無い事を勝手に妄想して自爆"
  スマイス報告書に書いてもいない事を勝手に妄想してら♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

  これと同じパターン♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
    ↓    ↓    ↓    ↓
  >交戦者資格無き者というだけで即決処刑してよいとは言ってない。
  >不正規軍の適法な構成員資格を満たさない者の敵対行為は、違法と言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。
  >正規の兵力に属する者が四条件を欠くときは、交戦者の特権を失うと言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。
  >逃走する敵兵は投降したとは認められないので攻撃できるが、逃走する敵兵以外を攻撃してよいとは言ってない。
  >戦時重罪犯であるだけで軍事裁判の手続きを省略できるとは言ってない。
  >どの説も戦時重罪犯であるだけで即決処刑が可能とは言っていない。

【結論】: 馬鹿は死ななきゃ治らないw
133日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 22:29:23 ID:aFappzlD
そもそも「マギーフィルムの少女」と夏は別人じゃなかったっけw
134日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 23:37:25 ID:EMrFRzET
スマイス調査について

加害者は、特定されていない。
日本軍入城前に中国軍による一般市民の虐殺があった(漢奸狩り)。
夏事件について、日本軍にはアリバイがあり、漢奸狩りの被害者の可能性が高い。


これでコノスレは結論でてるから蒸し返さないようにw
135日出づる処の名無し:2010/07/24(土) 23:44:08 ID:EMrFRzET
「銃剣の先っぽに日の丸つけて押し入ってきた」とか抜かしている

糞ばばぁのたわ言をいまでも信じている馬鹿はしんだほうがいい
136日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 00:10:09 ID:Gvehnihx
第一大隊戦闘詳報の後は夏事件かよ(苦笑)。
しかも毎度おなじみ反日至上主義者の常套手段である立証責任のスリカエの嵐な。

137日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 02:09:07 ID:OTFQyDN4
>>135

> 糞ばばぁのたわ言をいまでも信じている馬鹿はしんだほうがいい

なら、夏さんと公然と批判してごらん
実名でね

できやしないだろうけどw
138日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 02:24:44 ID:wmildghc
する意味がないしw

139日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 02:28:43 ID:OTFQyDN4
>>138
ヘタレがw
140日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 02:47:04 ID:wmildghc
>>139
おまえがやれw
141日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 02:54:58 ID:OTFQyDN4
>>140
俺はこの世の中が夏さんを信用してても別に構わんさ
と、同時に、否定派はここで捏造だと喚くだけで
表立って批判できないヘタレチキンだって事でも別に構わんけどw
142日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 02:57:33 ID:AqQS5x3n
痴呆老人をいたわりなさい
143日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 03:10:24 ID:OTFQyDN4
さっすがヘタレの否定派
逃げ馴れてますなあw
144日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 04:06:02 ID:MtFnlxyX
もう、夏休みの時期なんだねぇw


夏とか言うばあさんの話が本当なのかどうか、まずはそこからじゃないのかねぇ?w
あの程度の話をしただけで事実と思っている奴はまさかいないだろうねぇ?w
根拠がなければ後付で何でも言いたい放題だからねぇw


ついでにスマイス調査の場合は、調査の仕方が雑だから信用に値しないw
当時の南京の人口を概算で調べる程度には役には立つが、あれで日本軍の民間人に対する被害調査にはできやしないw
スマイスの言うことではなく、実際にどのような調査で行ったのか正確に調べれば自ずと答えは見えてくると思うが、ねぇw


埋葬記録については、紅卍字会は「まだ」信用できるが、崇善堂の資料はインチキきわまりないものだから鵜呑みにしない方がいいw
腐乱死体が女性の可能性という奴は、そもそも“腐乱するまで放置されているような場所に女性が行くかどうか”で判断すればいいだろうにw


肝心なことは、「可能性で事実を断言するな」と言うことかねぇw
可能性を語るなら、その前提に「南京大虐殺は事実とは断言できない」と言うことを言ってからだと思うが、ねぇw
事実であるなら可能性を語る必要はないのだからねぇw
と言うか、他者を「虐殺犯」と言うのであれば、可能性ではなくそれ相応の証拠を持ってくるべきだろうにw
人殺しと言った奴が人殺しを証明できないのであれば、人殺し呼ばわりされる筋合いなど無いはずだからねぇw
145日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 07:05:50 ID:ekQZYv1r
国際委員会 事件番号 第二一九件 1月13日
十二月十三日、ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、
城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。
生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。[マギー]
日中戦争史資料9南京事件/洞富雄/河出書房新社/1973年

被害日の特定は、子供がしたんだとw
貧乏で学校にいけなかった子供がどうやって日付を特定したんだ?w
ちなみに当時の中国の一般家庭にカレンダーはありません。
不思議なことに国際委員会はこの件について日本軍に対し抗議を
行っていません。

ラーベのヒトラーへの上申書 「南京の真実」317ページ
中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、
これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人
とみています。遺体の埋葬をした紅卍会によりますと、一日二百体以上は無理だった
そうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万の死体が処理できないまま、
郊外の下関に放置されていたといいます。

紅卍会の処理能力はがんばっても一月に6000人

腐乱死体の性別は簡単につくよ。当時は長髪の男も短髪の女もいなかった。
腐乱しても髪の毛は残る。日本軍が支那女を殺す前に坊主にしたという
証言でもあれば別だが(藁
146日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 12:05:26 ID:2XoH9qNN
なんだ、イチャモン・チンカス・シナ人生きてたのかよ(笑)。
相変わらず脳みそにウジが湧いてるようだな。
147日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 12:47:57 ID:tUpyuiG3
紅卍会以外の埋葬記録に男女子供の区別が無いかちょっと探してみたが
崇善堂以外みあたらんなあ
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/maisou/suzendou.html

崇善堂は確かに、郊外分として4月にいきなり10万を計上しているので
この分をそのまま信用することはできないが
城内分に関しては収集場所や担当者名(臨時人夫除く)、埋葬地、期間が
無理ない範囲で記録されているので参考にはなる

これによると、城内での埋葬は男6742、女522、子供285

紅十字会や同善堂の男女別記録は無いんだろうか
148日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 12:59:41 ID:GklH+ay/
おまえら、日本軍兵士の犯行現場に行ったことないだろ?
いつまでひきこもっているんだ?
149日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 13:08:50 ID:og8nxhMr
またタクマニアか
150解説者 ◆ayPjxbmM2c :2010/07/25(日) 13:24:35 ID:MtFnlxyX
>>147
そこ、K−Kんところの南京事件資料集じゃないのか?
ちゃんと紅卍字会の資料も載っているはずなんだがな。

ついでに言っておくと、崇善堂の問題点は10万人がどうとかの話ではない。
「南京事件から10年たってから作成されたものである」と言うことが問題なのだよ。
紅卍字会の場合は、日本軍がその資料を基に賃金を支払っていたということがあるから信憑性がまだあるんだが、
「南京大虐殺を非難するためだけに作られた資料」など、何の裏付けもなく適当に作ったところで誰も指摘できないのだから信憑性に欠けるんだよねぇ。

紅卍字会との男女比などを比較すればわかるのだが、まんべんなく平均的に女性(つまり市民)が殺されている時点でおかしな話なんだよねぇ、崇善堂は。
崇善堂の資料が意味するところは、突然日本軍が攻め込んできて、市民が逃げる暇もなかった、と言うことを言っているようなものなんだよねぇ。
紅卍字会の資料を見れば、「同じ地域であっても男女差があまりにもありすぎる」んだよなぁ。
紅卍字会が男性優先に埋葬したとでも言うのかねぇ?

女性に着目したのは、男性だと「戦闘兵なのか一般市民なのか区別がつかないから」。
その点、女性なら兵士であることはほとんど無いので、一般市民の虐殺された判断基準となるわけで。
で、紅卍字会を見る限りでは、女性の埋葬がほとんど無い。
あるにはあるが、20万人都市の南京での自然死を考えれば、その範疇でしかない。

つまり、市民の虐殺があったなどと言うことは疑わしいと言わざるを得ない、と言うことになるなぁ。
151日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 13:35:29 ID:tUpyuiG3
お前には聞いてないから出てこなくていいよ
152日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 13:48:36 ID:DOZEGmEd
>>151
あと崇善堂の運営資金が大きな謎でしょ、仮に只で埋めてくれる団体が多数有るなら
紅卍字会に日本軍が態々金払う事無いよね
そこら辺について君はどう考えるのですか?
153日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 14:13:45 ID:tUpyuiG3
>>152
主たる財源は不動産収入であった。崇善堂は南京近郊江寧県の一六七二・八五畝〔一畝は約六・六六七アール〕の
田地、長江中洲の一万三〇二八・〇六畝の土地のほか家屋二六四室分を所有しており、そこからの地代・家賃で
慈善事業を運営していた
http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data8/data8-4.htm

一応の資金力はあったようです
作業用に自動車も所持していたようなので、運搬能力もある程度あったようです
ただそれでも郊外の10万を処理する能力があったとは思えないのは確かです

ですが能力が無いけど郊外の数字が嘘かと言われると
本当とはいえないけどそれなりに背景となる数字はありそうだとは思います
例えば、材木商の盛世征が出資して処理した、上新河一帯28730人の遺体の記録ですが
これは1月〜5月までに紅卍会南京分会がその辺りで埋葬した数9461人と
崇善堂がその辺りで計上した18788人を足した28249人に近い
中国の学者がこれを以って、「重複しているかもしれない」と評していますが
確かにその可能性は十分あると思います

つまり、崇善堂は自身の出資による処理以外の数字も(協力したとか関連したという経緯から)
計上したんじゃないかと
まあ詳しい事はわかりませんが
154日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 14:42:27 ID:DOZEGmEd
>>153
ただ、一台のトラックの修理費援助を日本軍に要請しているのに、埋葬費を請求していないのが理解に苦しみます
同じ仕事で紅卍字会が料金請求しているのに何故なんでしょうかね?
それと地代の類は多数の住民流出があって、その時期は回収が難しかったと思いますが如何でしょうか
155日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 15:15:43 ID:tUpyuiG3
>>154
修理費ではなく部品の援助です
地代のところは普通の社会人であれば、入った資金をすぐ使い切って有事に備えない
慈善団体など想像できないと思いますが、本気で疑問に思ってるんですか
156日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 15:26:39 ID:DOZEGmEd
>>155
大幅な減収がある時、今までやっていなかった事業をいきなり立ち上げますかね?
今後何年減収が続くのか見通しは立っていないんですよ、社会人の常識が欠如しているのはそちらの方では
それと部品の援助でも、日本軍に対価を求めなかった理由は説明できていませんね
何故部品を要求するのに埋葬費は要求しなかったんですか?
157日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 15:45:18 ID:tUpyuiG3
>>156
崇善堂は慈善団体です
有事の際に必要な事をやっても何の疑問もありません
ましてや減収だからと、資金がまだある状況でも活動しないなど考えられません
いちゃもんをつけるにも程があります

また、正確には南京市自治委員会に部品の援助を求めています
勘違いしているのかと思い先ほどは流しましたがお聞きします
日本軍に費用請求、ないしは部品援助を求めたというのはどこの史料でしょうか
私も参考にしたいので教えてください
158日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:02:20 ID:DOZEGmEd
>>157
日本軍の援助で運営している団体があるのに、埋葬の実績がマルでない崇善堂が事業を興す理由が不明です
何故彼らはプロを差し置いて事業を興したのですか?しかも人を雇わないと遂行不可能な事業
ノウハウ無しに出来る事とは思えませんね

あと彼らの資産は金じゃなくて土地や家屋などして持っていたように見受けられますが
それを換金する手段があったのでしょうか?100万都市から20万に縮小して、しかも金持ちは避難して
残りは貧乏人しか居なかった筈なんですが
159日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:06:16 ID:tUpyuiG3
>>158
こちらはあなたのどうしようもない思い込みに対して何度も回答しました
無視せずあなたもきちんと答えてください

日本軍に費用請求、ないしは部品援助を求めたというのはどこの史料でしょうか
私も参考にしたいので教えてください
160日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:10:15 ID:DOZEGmEd
>>159
ああそっちの話ね、そりゃ失礼しました確かに思い違いがありましたね
で、何故埋葬費用を請求しなかったんですか?金が十分あったとは思えないんですが
161日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:19:16 ID:DOZEGmEd
あと、昨日の積み残し「気を失う程の傷を背中に負った8歳の少女が、
どうやって一週間誰の援助もなく生き残ったのか?」ってのも答えて貰えませんか?
背中の傷なんだから大人でも自分で治療するのも難しいんですよ
本人の証言を無視して「転んで気を失ったはずだ」とかの言い訳は却下しますね
162日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:22:35 ID:tUpyuiG3
>>160
つまりあなたは大して正確に物事を把握していないのに
やたら根拠の無い思い込みで疑問に思ったり、自分の理屈が正しいと勘違いしているというわけです
埋葬費用を日本軍に請求するはずだというのも、あなたの勝手な思い込みです
そんな決まりは無いし、自力でできるなら別に自力でやっても構いません
自力でやったら何か犯罪にでもなるんですか?

ただ、資金は1年後にはかなり困窮したようで、>>153にも在るとおり江蘇省振興委員会に
補助金の無心をしています

まあ、これ以上あなたやここの連中と話しても
いちゃもん以外のレスは返って来そうに無い事は
昨日から今日にかけての内容でよくわかりました
163日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:24:46 ID:DOZEGmEd
>>162
金が取れる所に請求しない理由を教えてください、当該団体は資金源が途切れていたんですよ

で、夏の県は黙りなんですねw
本日も逃走ですか
164日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:25:48 ID:tUpyuiG3
>>161
たぶん私の話を「転んだから気を失ったんだよ」と受け取ったのはあなたくらいだと思いますし
馬鹿の相手は本当にうんざりするんだなと身に染みましたのでもう結構です
165日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:28:24 ID:vdeLosfh
崇善堂関しては他にも死体埋葬には日本軍の許可が必要だったのに記録にまるで残ってないというのもあるなw
活動したとしても紅卍字会の下請け手伝い程度だったと考えるのが妥当だw(当然死体カウントも卍に含まれる)
166日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:31:50 ID:DOZEGmEd
>>164
へーそれじゃ刺されて気を失った事は認めるんだw
自然治癒できる程傷が浅かった理論は放棄するんですね
167日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:42:56 ID:nnqmsO9M
日本軍の資金援助は、いつ、いくら位出したんだ?
168日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 16:56:51 ID:DOZEGmEd
他にも、中国が主張する民間人無差別虐殺期間の12月から埋葬作業やっているのも不思議なんですよね
日本軍に認知されていないはずの崇善堂の埋葬隊が、何故か虐殺を免れて普通に作業やっていた
埋葬記録が事実とすれば民間人虐殺はなかった事になり、崇善堂の女性子供の数字は捏造した事になる

資料自体が自己矛盾しているんだよ、アレ
169日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 17:12:01 ID:DOZEGmEd
124 名前:日出づる処の名無し sage ▽1件 投稿日:2010/07/24(土) 18:47:04 ID:mnw2rPPQ 34回目
>>122
転んでも気を失う事はある
致命傷でなければ死なない
それだけだね

127 名前:日出づる処の名無し sage ▽2件 投稿日:2010/07/24(土) 18:52:43 ID:mnw2rPPQ 35回目
>>125
違うよ、人は転んでも気を失うことはある
気を失う時は致命傷であるなんて論理は成り立たない
そういう話
んじゃね

164 名前:日出づる処の名無し sage ▽1件 投稿日:2010/07/25(日) 16:25:48 ID:tUpyuiG3 8回目
>>161
たぶん私の話を「転んだから気を失ったんだよ」と受け取ったのはあなたくらいだと思いますし
馬鹿の相手は本当にうんざりするんだなと身に染みましたのでもう結構です
170日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 19:48:35 ID:nnqmsO9M
日本軍の資金援助が、いつ、いくら位出したのかわからないの?
171日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 20:04:03 ID:6ZAloS21
『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』(南京事件調査研究会,青木書店)

これの各国の報道書いてある部分については否定派はどう説明すんの?

俺も否定派だけどさ
172日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 20:06:55 ID:og8nxhMr
>>171
否定派なら説明できるだろ?
173日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 20:22:57 ID:PsDtGC/R
イチャモン大魔王まだ頑張ってるのか(呆笑)。
ええかげん本質論で攻めたら?

で、南京大虐殺があったという証拠は??
174<:2010/07/25(日) 20:33:11 ID:vzInOizy
>>171
報道が真実を示しているのなら、日本軍兵士による暴行はともかく
"南京《大虐殺》" は無かったという結論にしかならんのだが?・・・(笑

"俺も否定派だけどさ" ← 馬鹿か、老害・・・(笑
175<:2010/07/25(日) 20:52:30 ID:vzInOizy
>>171
いい加減削除依頼出してこいよ・・・(笑 >>15-34

【 軍隊 】 と 【 警察 】 の区別も出来ていなかった "ナマポ勘違い" をいつまでも
曝してんじゃねーよ♪馬鹿め・・・(笑笑笑笑
176<:2010/07/25(日) 21:12:48 ID:vzInOizy
>>15-34
お〜〜〜い♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
"元"お仲間の肯定派ども見てるかぁ〜〜〜♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

ナマポ "ミスター自己解釈" 中間派は壮絶に砕け散ったぜ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

苦々しくも同時に "ざまぁみろ!" と思っただろ?・・・(笑
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪

177日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 21:48:41 ID:og8nxhMr
とりあえず貼っとくかw
【NHK】在日特集実況スレ by 東亜出張所
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1280061303/
178日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 22:29:35 ID:+75YUTzk
>>153
肯定派って本っっっっっ当に過去スレに目を通さないのなw
【世界の】「南京大虐殺」は嘘【常識】97次資料
ttp://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/asia/1260489846/l50
>748
>崇善堂の主な収入は地代。
>ttp://sengosekinin.peacefully.jp/data/data8/data8-4.htm#01
>崇善堂の収入を現在の価格に換算すると、
>大阪毎日新聞 1912.6.24(明治45)
>支那人の稲作経営
>ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00493818&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=null
>によると1912年の中国の地代は毎畝一円五十銭
>いまならいくら?
>ttp://chigasakioows.cool.ne.jp/ima-ikura.shtml
>によると
>1912年 白米10kg1円38銭(1石=20.7円)
>1937年 白米10kg2円16銭(1石=32.4円)
>物価は約1.56倍
>崇善堂所有地
>14700.91畝(1672.85畝+13028.06畝)x1円50銭=22051.365円(1912年)
>22051.365円x1.56倍=34515円(1937年換算)
>
>ここからさらに税金を支払うと残りは?
>現在日本の法人税率は07年で40.7%
>
>中共政権の成立と中国同郷団体の改造・解体(PDF)
>ttp://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Ajia/pdf/2005_03/article_kawahara.pdf#search=%27%E6%88%A6%E5%89%8D%20%E4%B8%AD%E5%9B%BD%20%E5%9C%B0%E4%BB%A3%27
>によると当時の税負担率は52%
>34515円の52%=17948円が税金。残りは16567円(現在の価格で約8億3000万円)w。
>必要金額は15万7077人X1円=15万7077円。
>現在の価格で約78億円w
179日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 22:34:57 ID:+75YUTzk
>>178
続きw
>749
>以上より崇善堂の地代収入16567円(現在の価格で約8億3000万円)に対して
>必要金額は15万7077人X1円=15万7077円(現在の価格で約78億円)w
>崇善堂はどうやってこれだけの資金(年間収入の約10倍w)を調達したのだろうw
>肯定派はこの疑問に答えることが出来ますかw
>
>あくまでもこれは紅卍字会を基にした単なる「15万7077人」の埋葬費用の試算であり、肯定論、否定論とは関係ない事を明記しておくw

結局、肯定派はこの崇善堂の収入に対する疑問に答えることなく逃亡したまんまw
どうせ支離滅裂な戯言を撒き散らして負け犬の遠吠えの挙句逃げ出すことしかできないんだから、せめて回答する振りぐらいして見せろw
180日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 23:40:52 ID:l0LYcx/6
>>178
153は、10万処理する能力はなかったけど、例えば、他の有力者が出資した埋葬を
数に入れたのではないかって話だから、崇善堂の収入だけで15万人を埋葬する
シミュレーションで反論してもあまり意味がないんじゃない?
181日出づる処の名無し:2010/07/25(日) 23:59:28 ID:+75YUTzk
>>180

>153
>本当とはいえないけどそれなりに背景となる数字はありそうだとは思います

この主張の根拠が、「2万8千人は埋葬できたかもしれないので、15万人も埋葬できなかったとはいえない」とでも?
言い訳以前の問題。
182日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 00:05:56 ID:ekQZYv1r
南京戦前に国民党は対日協力者は漢奸として処刑すると公布していたから
下手に日本軍に協力して処刑されるリスクを犯して埋葬事業に金を出す奴がいるのか?
183日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 00:13:37 ID:a28DEaCo
話が通じそうに無い
184日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 00:20:49 ID:koMkESXV
>>180
崇善堂の埋葬費用は人夫1人に対して1日1円。
>ttp://sengosekinin.peacefully.jp/data/data8/data8-4.htm
>戦後責任ドットコム 崇善堂史料集成
>崔金貴(崔金貴、男、70歳)の証言
>日本兵が入って来てから、崇善堂が死体を集めて埋める人を探したので、それまで
>にお棺を担いでいた人やわたしのような暇で生活の資のない人たちが行って、一日
>やって一円くらいでした。

崇善堂の収入は
>178
>34515円の52%=17948円が税金。残りは16567円(現在の価格で約8億3000万円)w。
人夫1人に対して1日1円なのだから崇善堂の埋葬可能数は1万6567人。

1万6567人程度しか埋葬できないのに、《他の有力者が出資した埋葬を数に入れたり》《重複して計上したり》した結果、
埋葬数を《15万7077人》と記録したとでも?
15万7077人(記録上の埋葬数)−1万6567人(埋葬可能数)=その差14万510人
つまり崇善堂以外に14万人分の埋葬記録が存在しなければならないんだがw
それとも盛世征の28730人の処理数を5回重複して計上したとでも?

この崇善堂の埋葬記録自体に意味がない。
185日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 00:25:39 ID:a28DEaCo
そもそも崇善堂は11万だと思うんだけど
186日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 00:33:17 ID:a28DEaCo
そういや、日本兵が埋葬した数を除いた
紅卍字会、紅十字会、同善堂、盛世征などの個人有力者を足すと
だいたい11万になる…あれ?

ひょっとして崇善堂って知ってる限りの数を全部足して
東京裁判に持っていったんじゃないかこれ
187日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 00:43:17 ID:koMkESXV
>>185
ああ、確かに15万ではなく合計112,267体だな。
ttp://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/maisou/suzendou.html
間違っていたみたいだ、謝罪する。

しかし、肯定派がどれだけ虚言を並べ立てようと埋葬に人手が必要なのは事実。
人手には費用がかかるのも事実。
そして肯定派は、その人手の費用は具体的にいくらなのか証言している。>184
さらに、具体的に埋葬した人数まで判明している。
尚且つ、具体的な崇善堂の収入も判明している。>178

それにもかかわらず肯定派は《合計112,267体を埋葬した具体的な方法を埋葬費用も含めて説明できない》
そんなものが何の根拠になるのかとw
188日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 00:55:18 ID:eIkH/6Yu
つうかどう見ても一晩ででっち上げた数字に何時まで粘着しているんだろうな
捏造するにしても余りに杜撰だ
189日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 01:14:03 ID:a28DEaCo
うん、崇善堂は埋葬活動全体の合計数だった説を立ち上げてみようw
190日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 01:54:03 ID:eIkH/6Yu
>>186
最初にでっち上げた数字を上に持っていった時に「これじゃ足りない、倍にしろ」と言われて
崇善堂をでっち上げたとしたら納得できるね
191日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 09:19:52 ID:opiJ5bt0
三十万は嘘だから、まるで南京大虐殺がなかったような論調があるけど、
十万だとしてもとんでもないことだけど。
192日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 11:02:32 ID:hOJ35uH4
>>191
「じゃ、証明してよ。」って言うと、黙ってしまうんだよね。w
193日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 20:37:27 ID:QtBZGWkw
>>187
崇善堂が埋葬したと言っているのが11万体で、埋葬に必要な人夫が15万人なんだから別に間違っていないのでは。
194日出づる処の名無し:2010/07/26(月) 21:15:02 ID:a28DEaCo
そんなずれた突っ込みで蒸し返さんでも
195日出づる処の名無し:2010/07/27(火) 01:23:22 ID:G1lcxoqE
>>191
沖縄が犠牲10万とかいわれているけど

アメリカ軍は、沖縄の地形が変わるほど砲撃しまくったんだがな

片や日本軍は、人口密集地の安全区にたいして砲撃せずに
ラーベから感謝状おくられてましたっとw
196日出づる処の名無し:2010/07/27(火) 14:41:28 ID:5Wzcvl4a
>>194
崇善堂の埋葬記録を持ち出す事自体がずれている。
197日出づる処の名無し:2010/07/27(火) 21:12:40 ID:TVTzT0gY
6月の後半から1ヶ月ぐらい規制があって、その後どうでもよくなって見なくなってたんで話の流れわからんな
まぁどうせたいした話はないだろうから、ブックマークしないでおいてもよかんべ

何かあったら非常識スレをageてくれたまい
それが狼煙ニダ
198<:2010/07/28(水) 19:26:59 ID:iD8/X+Cf
・・・ブワッ・・・(´;ω;`)
オイラの遊び場が無くなってる!・・・(`;ω;´)
199日出づる処の名無し:2010/07/29(木) 01:43:22 ID:IoZzionL
中卒フリーターのトラ猫玉砕す(笑)。
200日出づる処の名無し:2010/07/29(木) 09:02:30 ID:BQd+fpUZ
>>192
>>>191
>「じゃ、証明してよ。」って言うと、黙ってしまうんだよね。w

【言論チンピラ妄言解毒対策レス#116】
南京大虐殺論争

南京大虐殺事件を日本人が知ったのは敗戦後の東京裁判においてである。この事件が
「論争」となるのは、日本が高度成長を遂げ公然と十五年戦争が肯定されるようになって
からである。論点は虐殺事件の存否、組織性、犠牲者の数であり、七〇年代の第一次論
争、八〇年代の第二次論争がある。この事件を六〇年代から本格的に研究したのは洞
富雄であり、事件を世に広めたのは本多勝一『中国の旅』(七二年)である。第一次論争
は七二年の鈴木明「『南京大虐殺』のまぼろし」が事件の存在に疑問を呈してはじまった。
第二次論争では田中正明『?南京事件″の虚構』が事件の存在を否定したために中国を
巻き込む論争に発展した。しかし、論争の過程で多くの新資料が発掘・発表され、旧陸軍
将校の親睦団体偕行社が機関誌『偕行』で「証言による『南京戦史』」を連載し、事件の存
在を認め中国人民にわびたことをもって事件の存否に関する論争は収束した。第二次論
争の時期に事件の非組織性を主張したのは文部省であり、教科書検定で「混乱の中で」
と書き込ませた。しかし、南京攻略戦参加部隊の「戦闘詳報」などの資料や藤原彰『南京
大虐殺』(八五年)、吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』(同年)などによって日本軍の組織
的虐殺であることが明確になった。中国人犠牲者の数の問題に関しては、中国では八五
年に開館した侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館に明示するように三〇万人を主張す
る。これに対し事件の存在を認めざるをえなくなった人々は三〇〇〇人から四万二〇〇
〇人という数を提示、偕行社刊『南京戦史』でも約三万人という。しかし、洞は『決定版・南
京大虐殺』(八二年)で二〇万を下らない数といい、『南京大虐殺の証明』(八六年)で少数
              ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
説の誤りを指摘した。実証の厳密さからも洞・藤原などの主張には説得力があり、論争は
ほぼ決着がついた。(三省堂『戦後史大事典』より)
201日出づる処の名無し:2010/07/29(木) 09:48:16 ID:T3JCyDEp
>>200
それ証明って言わないから。
日本語か頭が不自由なんだね。
かわいそう。w
202日出づる処の名無し:2010/07/29(木) 12:40:16 ID:2jEWPQrK
南京兵レオナール
「話は聞かせてもらった。
 やはり説得は難しいようだな。
南京兵レオナール
「いや、気にしなくていい。
 こうなることはわかっていたんだ…。
南京兵レオナール
「よく聞いてくれ…。これから
 町の住人を一人残らず殺すんだ。
チャン
「!!
南京兵レオナール
「こうなることを予想されていた
 主席のご命令なんだ。
チャン
「どうして? いったい、どうしてッ?
 何故なんだッ、理由を教えてくれッ!!
南京兵レオナール
「主席はこう申されていた…。
203日出づる処の名無し:2010/07/29(木) 12:41:06 ID:2jEWPQrK
--------------------------------------------------------------------------------
ケ小平主席
『…南京の住人がすんなりと
 蜂起するなら何も問題はない。
『しかし、あの子どもたちが行ったとて、
 やつらは武器を手に取り革命のために
 命を投げ出したりはせんよ。
『そのとき、おまえは日本人を
 装い、住人を一人残らず殺すのだ。
南京兵レオナール
『な、なんですとッ! 我が同胞を
 殺せとご命令になるのかッ
ケ小平主席
『落ちつけ、レオナール。おまえは
 頭のいいやつだからわかろうがッ。
『よいか、日本人との戦いに
 勝つには、これまで以上に我々、
 中華民国の団結が必要なのだ。
『南京が日本人によって
 滅ぼされたとあれば、他の自治区にいる
 同胞は否応もなく戦わざるを得まい。
--------------------------------------------------------------------------------
南京兵レオナール
「…従ってくれるな? こうしなければ
 中華民国に明日はないッ!

シナリオ分岐
<選択1>…わかっています。 (虐殺に加担)
<選択2>馬鹿なことはやめるんだッ! (虐殺を拒否)
204日出づる処の名無し:2010/07/29(木) 22:26:22 ID:X8C4xOKF
このスレになってから肯定派が来たのは24,25日の土日2日間だけかよ
205<:2010/07/29(木) 23:19:18 ID:/tGFthr0
オイラの遊び場はなかなか復活せんのぉ・・・(`・ω・´;
206日出づる処の名無し:2010/07/29(木) 23:25:36 ID:3tZi3rSs
肯定派は便衣化してるから、そのうちまた姑息な戦法にでてくること間違いなし。
207<:2010/07/29(木) 23:41:45 ID:/tGFthr0
koueiと同じで "劣化中ナマポ" の思考パターンはいつもこれ・・・(´・ω・`)

 @"トンデモ自己解釈" を "学者の裏付けがある" と抗弁
   ↓
 A完膚無きまでに論破され意気消沈
   ↓
 Bショックが少し癒された頃に "からかってるだけ" 等の惨めレスでリハビリ
   ↓
 C更にトンデモな自己解釈を思い付き、粘着開始 ⇒ @に戻る

@→Cを "螺旋周期" 的に繰り返し、螺旋中心部に落ち込んだ時、
"自己解釈の矛盾" と "客観性を得たいという願望" がせめぎ合い、
自己崩壊が始まる・・・(´・ω・`)

 ■これを "ナマポ自己解釈スパイラル" と言う・・・(´・ω・`)■

"ナマポ自己解釈スパイラル" に陥ったナマポ臭ヨは、議論に対する恐怖心と
現実直視への拒否性より、壊れたコピペをうわ言の様に繰り返し貼り付ける行動
を取る・・・(´・ω・`)

 ■これが "koueiフォールダウン現象" ・・・(´・ω・`)■
208解説者 ◆ayPjxbmM2c :2010/07/30(金) 00:44:49 ID:DTUIFbdC
夏休みだねぇ。

学生さんのために、ちょいと復習したいねぇ。
209日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 01:34:18 ID:XtUvXm0C
●百人斬り競争

陸軍もお役所であり、典型的な世界であり、いたるところで「ハンコ」が必要で
「日本軍はハンコがなければ戦争はできない」という冗談があったほどである。

また「部隊印」と「部隊長印」があり、これは今の社会で使われている
あの四角い「社印」「社長印」とほぼ同じ形で、すべての書類にベタベタ押してあった。

部隊印の保管責任者は副官で、I副官は縞の布袋にこの二つの印を入れ、肌身離さずもっていた。
事実これは大切な印で、もし盗用・悪用されて、だれかに勝手に「作命」でも作られたら、
その被害は「小切手印の盗用」の比ではあるまい。
まず副官が切腹ものである。

「百人斬り」野田少尉の「○官」が「副官」だと知ったとき、
この創作の悪質さを瞬間に感じさせたのがこの「印」であった。

大隊命令に押す「印」は野田少尉が保管責任者のはずである。
おそらく彼も肌身離さずもっていたであろう。
元来「部下の兵士」といえるものがないに等しい副官が、
大隊長を放り出して、印をもったままただ一人であっちのトーチカに斬り込んだり
こっちの無名集落に切り込んだりしたら一体どうなることか!

「私の中の日本軍(下)」山本七平
210日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 01:44:06 ID:fQxXsvGG
いや、大統領や首相が麻雀で戦う世界なら、
有り得るんじゃないですか。
211日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 09:02:21 ID:cpSYBJMe
>>201
>>>200
>それ証明って言わないから。
>日本語か頭が不自由なんだね。
>かわいそう。w

証明は既に終了して判決が出ています。
南京大虐殺
日中戦争さなかの1937年(昭和12)12月から翌年1月にかけて、南京を占領した日本軍が中国人に対して行なった大規模な暴行略奪虐殺事件。このとき殺された中国人の数は、極東軍事裁判では二〇万人以上、中国側の発表では三〇〜四〇万人とされる。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C6%EE%B5%FE%C2%E7%B5%D4%BB%A6&kind=jn&mode=0&jn.x=39&jn.y=8
三省堂提供「大辞林 第二版」より
212日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 10:32:07 ID:y182RUt2

かわいそう。w
213日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 11:06:32 ID:cpSYBJMe
>>212
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#120】
「宣伝と誇張を、できるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は、
日本軍がその占領した、ある地域の一般民衆、はたまた
戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は
圧倒的である」

NHKスペシャル2007/8/14
パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判知られざる攻防〜 抜粋
214日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 12:17:44 ID:w8UwM1b/
三〇〜四〇万人と言えばアイスランドの人口だな
215日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 12:30:40 ID:jF3BlF0C
この手の話は世界中どこに出もある。先に言ったモノ勝ち

日本にも、1人も死んでないのに「○○の乱」とかあるし
216日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 13:05:25 ID:GbkGXXTd
また否定派のなりすまし肯定派自演か。肯定派はsageて書き込むが、なりすまし肯定派はsageないからな。
217日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 13:33:09 ID:EaamchmR
>>213
やっぱり、頭が不自由なんだ。w
218日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 14:58:53 ID:cpSYBJMe
>>214
>三〇〜四〇万人と言えばアイスランドの人口だな

【言論チンピラ妄言解毒対策レス#148】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「虐殺数30万人説には信憑性が無い!」

d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
東京裁判で南京大虐殺の被害者は20万人以上ということで判決が出ており、その判決を日
本は受け入れています、つまり日本国は南京大虐殺を事実として公式に認めています。そ
の東京裁判の判決で認定された被害者数と中国が自国内で認定してる被害者数の開きがあ
るからと言って南京大虐殺は無かったと言うのは歴史修正主義者の苦しい言い訳に過ぎず、
国際社会では通用しません。ok

>>215
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#160】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「お前らが言う虐殺の証言ってのは、又聞きしかないんかいぃぃぃ!」

d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
虐殺を「直接目撃した」「自分がやった」証言・記録が数多あります。『南京大虐殺の証
明』、『私が見た南京事件』、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』などをどうぞ。ok
219日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 16:03:44 ID:cpSYBJMe
おーいw どしたーWWWWWWW
220日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 18:17:45 ID:cpSYBJMe
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#65】
返答に窮したようなので、このくらいで勘弁してあげます。 気が向いたらまた〆に来ますね(笑)
総括!
@南京大虐殺は事実であり、それは大日本帝国の責任の下で日本軍が行った
極めて残酷・非合理・不法な蛮行であった。
A中国が発表する南京大虐殺の被害者数には、学問的検証と修正の余地がある。
B南京大虐殺の被害者数に異議ありとする学者は存在するが、南京大虐殺その
ものがなかったと主張する学者は存在しない。

2ch総括!
@野菜食えよ
Aたまには表出て新鮮な空気吸えよ
B変な本読むなよ
C夢と現実の境を無くすなよ
D初心者の質問には優しく答えろよ
E鉄火場でもユーモアーと遊び心を忘れるなよ
F煽りは煽られた本人がこの人に煽られたいと思わせるような煽りをしろよ
G年上に敬意を払えよ
H言論には言論で対抗しろよ
I皆仲良く

地獄の青空(非戦主義系)
http://kouei39.blog10.fc2.com/
ウィザード級質問者(非戦主義系)
http://qual1ty.blogspot.com/

  ○y一~~ 論破完了サンキュー☆
 (|,へ
  」 ○| ̄|_
221日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 19:30:50 ID:du7C1gLz
中卒フリーターのトラ猫は論破されると悔しさのあまり中卒koueiになりすまします(笑)。
222日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 21:56:30 ID:KnPjbF1e
【大紀元】南京ガス爆発事故、2キロ範囲に 死者259人か[07/30]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1280470889/

南京大虐殺30万の千分の一の規模でこの惨状w
223日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 21:59:56 ID:534Cv8cj
>>218-220
バカチョン特有の火病ですね。w
224日出づる処の名無し:2010/07/30(金) 22:05:49 ID:OLZWE3BH
>>222
【南京ガス爆発】「死者13人」と発表…だが、100人以上の遺体目撃情報=“虚偽発表”の疑い&報道統制(画像あり)
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1280493956/

何が何だかw
225<:2010/08/01(日) 00:32:29 ID:h0GGtMY5
まぁ・・・なんだ・・・(-ω-;

所詮、肯定派はカビ臭い古文書ネタしか持ち合わせてない団塊クサヨばかりだしな・・・(-ω-;
頭脳も体力もすっかり衰えちゃってるし・・・(-ω-;

 ネタが尽き
   気力も尽きて
      クサヨ散る   by オイラ・・・(´・ω・`)
226日出づる処の名無し:2010/08/02(月) 12:52:06 ID:xvDdGSaw
ほれほれウヨども日本近代史板の南京スレでは虐殺は確定したぞ
くやしいのうくやしいのう
227日出づる処の名無し:2010/08/02(月) 13:46:44 ID:L0f5YHB1
>>226
現実が見えていない負け犬の遠吠え&勝利宣言乙w
228日出づる処の名無し:2010/08/02(月) 13:50:27 ID:L0f5YHB1
>>226
つーか、そこでバカが粘着しているのは「兵士個人の犯罪」でしかないんだが?
バカサヨの「南京大虐殺」とは

『日本軍の組織的犯行ではなく兵士個人の犯罪』

という主張なんだなw
229日出づる処の名無し:2010/08/02(月) 17:09:54 ID:L0f5YHB1
なんだかな〜、カビの生えた肯定派の妄想を繰り返しているだけだなw
230日出づる処の名無し:2010/08/02(月) 23:30:55 ID:9JyWwcRF
1938.1.4 NYタイムス
元支那軍将校が避難民の中に 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに
南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一味とその部下の将校を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。
実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。
 この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。
彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのもであると自白した。
 この元将校たちは、南京で掠奪した事と、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や外の外国人たちのいる前で自白した。
この元将校たちは戒厳令に照らして罰せられるだろう。


1938.2.17 大阪朝日
皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る
【同盟南京二月十六日発】
皇軍の南京入城以来わが将兵が種々の暴行を行つてゐるとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わつてゐるので在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところこのほど漸くその根源を突き止めることが出来た。
右は皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いてゐた憎むべき支那人一味であるが憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。
この不逞極まる支那人はかつて京城において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で皇軍入城後日本人を装ひわが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、(略)の三ヶ所を根城に皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し強盗の被害は総額五万元、
暴行にいたつては無数で襲はれた無辜の支那人らはいづれも一味を日本人と信じきつてゐたため発覚が遅れたものであるが憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである。
一味は主魁呉堯邦のほか……の十名でいづれも皇軍の入城まで巡警を務めてゐた。
231日出づる処の名無し:2010/08/03(火) 19:21:42 ID:VcfWQxd6
>>34
>南京事件とは捕虜の無裁判大量処刑です。敵拘束兵の処刑記録は探せばいくらでも出てきます。それでも
>犠牲者が3万人を越える事はないでしょう。3万人以下とはいえ、これだけの人数を無裁判で処刑すれば虐殺
>と呼ばれても仕方がありません。

【言論チンピラ妄言解毒対策レス#148】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「虐殺数30万人説には信憑性が無い!」

d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
東京裁判で南京大虐殺の被害者は20万人以上ということで判決が出ており、その判決を日
本は受け入れています、つまり日本国は南京大虐殺を事実として公式に認めています。そ
の東京裁判の判決で認定された被害者数と中国が自国内で認定してる被害者数の開きがあ
るからと言って南京大虐殺は無かったと言うのは歴史修正主義者の苦しい言い訳に過ぎず、
国際社会では通用しません。ok
232日出づる処の名無し:2010/08/03(火) 19:26:00 ID:NsLnFA29
>>231
東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ
233日出づる処の名無し:2010/08/03(火) 19:31:20 ID:VcfWQxd6
>>232
>東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#120】
「宣伝と誇張を、できるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は、
日本軍がその占領した、ある地域の一般民衆、はたまた
戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は
圧倒的である」

NHKスペシャル2007/8/14
パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判知られざる攻防〜 抜粋
234日出づる処の名無し:2010/08/03(火) 20:04:37 ID:NsLnFA29
>>233
お前はあれが正当な手続きによってなされたものだと思っているのか
パールが何言ってようが関係ないんだよ
事実関係なんか無視で結論ありきなんだからよ
牛蒡食わせたのが捕虜虐待で有罪とかやってた裁判なんか持ち出すと、
逆効果だと言ってるのが分らんのか低脳

こういう馬鹿や山本弘みたいのがアホな事いって、敵に塩を送るから誤解を与えるんだよ
山本弘なんてただのオタクだぜ?
いまじゃ、と学会とか名乗ってやがるけど、昔は安田均っていう
TRPG関連のボスに呼ばれもしないのに、まとわりつき強引にグループSNEに入れて貰った男だ
要するに金の亡者なんだが、そいつが売名金儲けで南京本作ったりしてるから誤解される
あんな適当な構成で肯定派名乗りやがってマジでむかつくぜ
235日出づる処の名無し:2010/08/03(火) 20:29:00 ID:xpsHAmgM
その両方の暴力的口調から、やはり日本人は残虐な鬼子という印象を持つ人がいるに違いない。
236日出づる処の名無し:2010/08/03(火) 23:39:24 ID:nW7Jsiiu
否定派がいくらなりすまし肯定派自演で上げ続けても、来ない時は誰も来ないよ
237日出づる処の名無し:2010/08/04(水) 04:22:15 ID:ol9PVrge
なりすましはお前だろw
キムチ臭いからすぐ分るんだ。
238<:2010/08/04(水) 21:57:10 ID:EfpiahL0
"ナマポクサヨ中間派" と "高麗棒子の子供" の内ゲバを生暖かく見守ってたけど、
もう終わったん?・・・(´・ω・`)
239日出づる処の名無し:2010/08/05(木) 00:55:45 ID:PHDcERE6
日本軍が虐殺したからって恥ずかしがる事ないんだよ
どこの国もみんなやってることなんだから
ソ連だってやったしアメリカだって中国だってイギリスだってやった
むしろ日本だけやってないって言う方が信用失うよ?
240日出づる処の名無し:2010/08/05(木) 00:58:47 ID:2SAuqBtW
中国の古典に引きずり込まれても困るし、
知らない人が聞いたら、本気にするだろ。
241日出づる処の名無し:2010/08/05(木) 10:13:10 ID:P4acScaO
>>239
推論はいいから 実証的に証拠もってきて説得しろよw
242日出づる処の名無し:2010/08/05(木) 14:28:19 ID:nivRTXcK
>>239
死体の存在しない虐殺事件w
民間人の犠牲者が存在しない虐殺事件w
強姦殺人事件が多発したはずなのに女性の死体が存在しない虐殺事件w

ひとつでもまともに説明してみろw
243日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 18:06:05 ID:HpcdViX5
今日も暑かったよw 恵比寿の防衛研究所史料閲覧室へ行ってきて
件の第一大隊戦闘詳報を閲覧してきました。

南京附近戦闘詳報(昭12.12.10〜12.13)
REF# 支那事変 上海南京348
頁数は110頁ほど正確な頁数は数えていません。

添付記録には
>借用  昭和60年11月18日
>複製  昭和60年11月18日
>返却  昭和60年11月18日
>取扱者 原剛
>原本  秦郁彦
>注記  第114師団の文献が少ないため歩兵66連隊関係者から借用
とありました。

コピーの冊子サイズはB5版、表裏紙は厚紙で製本されていました。
「歩兵66連隊関係者」が藤沢氏なのでしょう。
「昭和61年8月台風10号で汚損・破棄」というのは、借用者の秦郁彦氏の手元か
所有者の藤沢藤一郎氏の手元で汚損し破棄されたことになります。

同時期の他の114師団の戦闘詳報を見ると、B5版のB4用紙袋とじ、用紙は薄茶色の薄い和紙。
手書きではなくガリ版印刷され印刷色は黒でした。図表には黒で輪郭を作り赤と青が追加されていました
多分、第一大隊戦闘詳報のオリジナルも同様な物であると思いますが、
しかしコピーを見た限りでは手書きかガリ版印刷か判別できませんでした。
ただしガリ版印刷の物は極細の線で文字が書かれており、第一大隊戦闘詳報の文字は手書きに近い
感じがしました。
244<:2010/08/06(金) 21:04:17 ID:fT0v4e8N

オイラが考えるに、本物の戦闘詳報であれば、【 部隊名が不明 】 とか絶対ありえないだろと・・・(´・ω・`)
部隊名が不明のままだったら、戦闘詳報を受け取った管轄師団が管理できないじゃんか・・・(´・ω・`)

 『日中戦争3 p194 児島襄著 1984年(※昭和59年)』
 この戦闘詳報の部隊名は不明であり、記述の中にある旅団名もわからない。 したがって、命令自体が、
 旅団の独断命令であるのか、それとも、上級の師団、軍、方面軍からの下令であったのかも、判然としない。

児島氏によれば昭和59年の時点でも部隊名は不明・・・(´・ω・`)
第一大隊に所属していた藤原氏が所有している事を知っていたにも関わらずだ・・・(´・ω・`)

 ●つまり昭和59年の時点では、藤原氏も戦闘詳報が『第一大隊のもの』だとは証言していなかった
   事になる・・・(´・ω・`)

なんで秦はこの戦闘詳報が『第一大隊のものである』と特定できたんだ?・・・(´・ω・`)
245<:2010/08/06(金) 21:13:42 ID:fT0v4e8N

秦ってさぁ、そそっかしいところがあるから、元第一大隊所属の藤原氏が所有してたから、
勝手に第一大隊のものだと思い込んでしまっただけなんじゃねーの?・・・(´・ω・`)

 ★"ナマポクサヨ池沼中間派の名台詞" ・・・ 『人は間違いを犯す』★
246日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:21:36 ID:ij8yRq+B
>>242
> >>239
> 死体の存在しない虐殺事件w
> 民間人の犠牲者が存在しない虐殺事件w
> 強姦殺人事件が多発したはずなのに女性の死体が存在しない虐殺事件w
>
> ひとつでもまともに説明してみろw

【言論チンピラ妄言解毒対策レス#120】
「宣伝と誇張を、できるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は、
日本軍がその占領した、ある地域の一般民衆、はたまた
戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は
圧倒的である」

NHKスペシャル2007/8/14
パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判知られざる攻防〜 抜粋
247<:2010/08/06(金) 21:24:56 ID:fT0v4e8N
>>246
クスクスクス♪・・・(・∀・)

東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ

パールが何言ってようが関係ないんだよ
事実関係なんか無視で結論ありきなんだからよ
牛蒡食わせたのが捕虜虐待で有罪とかやってた裁判なんか持ち出すと、
逆効果だと言ってるのが分らんのか低脳
こういう馬鹿や山本弘みたいのがアホな事いって、敵に塩を送るから誤解を与えるんだよ
248日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:27:21 ID:ij8yRq+B
>>247
> >>246
> クスクスクス♪・・・(・∀・)
>
> 東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
> お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ
>
> パールが何言ってようが関係ないんだよ
> 事実関係なんか無視で結論ありきなんだからよ

【言論チンピラ妄言解毒対策レス#153】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「南京大虐殺の物証(死体)は全く出ていないぃぃぃ!」

d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
南京大屠殺記念館は死体が埋まっている場所に立っており、埋まったままの姿を展示してい
ます。歴史修正主義者の言う「○○がないのはおかしい」は、大概その○○が実際にはあり
ます。ok


> 牛蒡食わせたのが捕虜虐待で有罪とかやってた裁判なんか持ち出すと、
> 逆効果だと言ってるのが分らんのか低脳
> こういう馬鹿や山本弘みたいのがアホな事いって、敵に塩を送るから誤解を与えるんだよ
249<:2010/08/06(金) 21:29:34 ID:fT0v4e8N
>>248

>>232、234のアホに直接言ってやんなよ♪ヘタレ高麗棒子の子孫♪・・・(・∀・)
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
250日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:32:22 ID:7ddX8s4J
内ゲバほど見ていて楽しいものはない
251日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:33:09 ID:ij8yRq+B
>>249
>>250
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#148】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「虐殺数30万人説には信憑性が無い!」

d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
東京裁判で南京大虐殺の被害者は20万人以上ということで判決が出ており、その判決を日
本は受け入れています、つまり日本国は南京大虐殺を事実として公式に認めています。そ
の東京裁判の判決で認定された被害者数と中国が自国内で認定してる被害者数の開きがあ
るからと言って南京大虐殺は無かったと言うのは歴史修正主義者の苦しい言い訳に過ぎず、
国際社会では通用しません。ok
252日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:34:09 ID:7ddX8s4J
>>251
>>232
>東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
>お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ
253<:2010/08/06(金) 21:34:17 ID:fT0v4e8N
>>251
面白いからもう一度投下♪・・・(・∀・)
"ある肯定派のレス"より抜粋♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

 東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
 お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ

 パールが何言ってようが関係ないんだよ
 事実関係なんか無視で結論ありきなんだからよ
 牛蒡食わせたのが捕虜虐待で有罪とかやってた裁判なんか持ち出すと、
 逆効果だと言ってるのが分らんのか低脳
 こういう馬鹿や山本弘みたいのがアホな事いって、敵に塩を送るから誤解を与えるんだよ
254日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:35:35 ID:ij8yRq+B
>>252
> >>251
> っ>>232
> >東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
> >お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ

南京大虐殺
日中戦争さなかの1937年(昭和12)12月から翌年1月にかけて、南京を占領した日本軍が中国人に対して行なった大規模な暴行略奪虐殺事件。このとき殺された中国人の数は、極東軍事裁判では二〇万人以上、中国側の発表では三〇〜四〇万人とされる。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C6%EE%B5%FE%C2%E7%B5%D4%BB%A6&kind=jn&mode=0&jn.x=39&jn.y=8
三省堂提供「大辞林 第二版」より

>>253
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#209】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「東京裁判は戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた無効な裁判だった!」

d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
あーはいはい、東京裁判不要(無効)論ですね?
戦後日本が中国・ソ連・アメリカに「三分割統治」される危機を避けるための選択肢が東京
裁判です。 東京裁判を否定するなら日本が「三分割統治」されてこの分割線上で延々と代
理戦争・兵器の実験場 となった方が良かったのでしょうか?こんな恐ろしい事態を避ける
ために東京裁判で決着をつけて、 日本は国際社会に復帰することを許可され世界第二位の
経済大国まで成長できたのです。 東京裁判無しでは皇族は全員処刑されたり、世界第二位
の経済大国になることなんて不可能です、 それとも東京裁判などやらないで戦勝国に領土・
文化・自由・財産・権利を奪われる「三分割統治」 されれば良かったのでしょうか?私は
そうは思いません。ok
255<:2010/08/06(金) 21:37:02 ID:fT0v4e8N
>>254
こりゃおもろい・・・(笑

 東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
 お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ

 パールが何言ってようが関係ないんだよ
 事実関係なんか無視で結論ありきなんだからよ
 牛蒡食わせたのが捕虜虐待で有罪とかやってた裁判なんか持ち出すと、
 逆効果だと言ってるのが分らんのか低脳
 こういう馬鹿や山本弘みたいのがアホな事いって、敵に塩を送るから誤解を与えるんだよ
256日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:37:30 ID:7ddX8s4J
>>254
>>34
>南京事件とは捕虜の無裁判大量処刑です。敵拘束兵の処刑記録は探せばいくらでも出てきます。それでも
>犠牲者が3万人を越える事はないでしょう。
257<:2010/08/06(金) 21:39:32 ID:fT0v4e8N
>>256
お、お主要領を心得て居るな・・・(笑
258日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:41:41 ID:ij8yRq+B
>>255
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#209】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「東京裁判は戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた無効な裁判だった!」

d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
あーはいはい、東京裁判不要(無効)論ですね?
戦後日本が中国・ソ連・アメリカに「三分割統治」される危機を避けるための選択肢が東京
裁判です。 東京裁判を否定するなら日本が「三分割統治」されてこの分割線上で延々と代
理戦争・兵器の実験場 となった方が良かったのでしょうか?こんな恐ろしい事態を避ける
ために東京裁判で決着をつけて、 日本は国際社会に復帰することを許可され世界第二位の
経済大国まで成長できたのです。 東京裁判無しでは皇族は全員処刑されたり、世界第二位
の経済大国になることなんて不可能です、 それとも東京裁判などやらないで戦勝国に領土・
文化・自由・財産・権利を奪われる「三分割統治」 されれば良かったのでしょうか?私は
そうは思いません。ok

>>256
少数説は厳密な検証によりその間違いを指摘され、20万を下らない数として南京大虐殺論争は決着がついています。ok http://eeg.jp/psI2
259<:2010/08/06(金) 21:43:42 ID:fT0v4e8N

オマイラもkoueiのチンカスコピペは、ナマポ中間派のレスから引用すればヨロシ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
つーか、koueiの正体は山本弘か?・・・(笑笑笑笑

>>258
もっと言ってやんなよ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

 東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
 お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ
 パールが何言ってようが関係ないんだよ
 事実関係なんか無視で結論ありきなんだからよ
 牛蒡食わせたのが捕虜虐待で有罪とかやってた裁判なんか持ち出すと、
 逆効果だと言ってるのが分らんのか低脳
 こういう馬鹿や山本弘みたいのがアホな事いって、敵に塩を送るから誤解を与えるんだよ
260日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:46:10 ID:ij8yRq+B
>>259
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#209】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「東京裁判は戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた無効な裁判だった!」

d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
あーはいはい、東京裁判不要(無効)論ですね?
戦後日本が中国・ソ連・アメリカに「三分割統治」される危機を避けるための選択肢が東京
裁判です。 東京裁判を否定するなら日本が「三分割統治」されてこの分割線上で延々と代
理戦争・兵器の実験場 となった方が良かったのでしょうか?こんな恐ろしい事態を避ける
ために東京裁判で決着をつけて、 日本は国際社会に復帰することを許可され世界第二位の
経済大国まで成長できたのです。 東京裁判無しでは皇族は全員処刑されたり、世界第二位
の経済大国になることなんて不可能です、 それとも東京裁判などやらないで戦勝国に領土・
文化・自由・財産・権利を奪われる「三分割統治」 されれば良かったのでしょうか?私は
そうは思いません。ok
261日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:47:25 ID:7ddX8s4J
今度はどんなコピペが出てくるだろうなw ちょっと実験してみようw

>>258
>戦後日本が中国・ソ連・アメリカに「三分割統治」される危機を避けるための選択肢が東京
>裁判です。 東京裁判を否定するなら日本が「三分割統治」されてこの分割線上で延々と代
>理戦争・兵器の実験場 となった
っニュルンベルク裁判w
ドイツはニュルンベルク裁判で裁かれたにも拘らず分割統治されてますがw
軍事裁判の有無と分割統治の有無は無関係w 
           『論破完了なう♪♪』・・・ok♪(・∀・)b
262<:2010/08/06(金) 21:48:10 ID:fT0v4e8N
>>260
クスクスクス♪・・・(・∀・)

 東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
 お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ
263日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:48:52 ID:ij8yRq+B
>>261
あのー話を戻していいですか?
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#148】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「虐殺数30万人説には信憑性が無い!」

d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
東京裁判で南京大虐殺の被害者は20万人以上ということで判決が出ており、その判決を日
本は受け入れています、つまり日本国は南京大虐殺を事実として公式に認めています。そ
の東京裁判の判決で認定された被害者数と中国が自国内で認定してる被害者数の開きがあ
るからと言って南京大虐殺は無かったと言うのは歴史修正主義者の苦しい言い訳に過ぎず、
国際社会では通用しません。ok
264<:2010/08/06(金) 21:49:27 ID:fT0v4e8N
>>263
♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

 東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
 お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ
265日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:50:23 ID:7ddX8s4J
論破されたから話題変わったw
266日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:52:07 ID:7ddX8s4J
>>263

 【笠原教授見解そのA】
 ■http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page009.html
 「南京城内に進軍した日本軍が20万、30万の市民を寄ってたかって殺しまくった」と
  いうのはまったくの虚像である。そこで実際に発生した南京事件の実像の紹介を
  簡単にしておきたい。
 (『南京大虐殺否定論 13のウソ』 P92)
267日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 21:56:31 ID:7ddX8s4J
なんだもう逃亡か
268<:2010/08/06(金) 21:58:08 ID:fT0v4e8N
涙目でモニター睨みつけてるんだろ・・・(笑

>>263
ほら♪どうしたよ♪遠慮しなくていいんだぜ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

 東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
 お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ
269日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 22:07:06 ID:7ddX8s4J
>>kouei
返答に窮したようなので、このくらいで勘弁してあげます。 気が向いたらまた〆に来ますね(笑)
  ○y一~~ 論破完了サンキュー☆
 (|,へ
  」 ○| ̄|_
270<:2010/08/06(金) 22:07:39 ID:fT0v4e8N

このスレで肯定派からも馬鹿にされていた事が証明された哀れで孤独な老人kouei♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
271日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 22:47:31 ID:mN0ZKNFu
と、ここまで全て否定派が肯定派を自演して書き込んでいます。
272日出づる処の名無し:2010/08/06(金) 22:48:29 ID:ACVc3P0+
>>243
>添付記録には
>>借用  昭和60年11月18日
>>複製  昭和60年11月18日
>>返却  昭和60年11月18日
>>取扱者 原剛
>>原本  秦郁彦
>>注記  第114師団の文献が少ないため歩兵66連隊関係者から借用
>とありました。

暑い中お疲れ様です。
やはり「資料が誰にでも確認・検証できる」というのは大きいですね。
どこぞの肯定派が持ち出す『誰にも確認・検証できない』資料と称するシロモノとは大違いですねw
やはり『誰にでも自由に確認・検証できる』と言うのは大切です。
本当にお疲れ様でした。m(_ _)mペコリ

ttp://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/
※昭和61年8月台風10号で汚損・破棄(「城塁・兵士たちの南京戦史」連載19回P209-210より)
※防衛研究所戦史資料室にコピーあり(タイトル「歩兵第六十六聯隊第一大隊 南京附近戦闘詳報」)
つまりこの戦闘詳報のコピーは、昭和61年に台風で破損する以前に、昭和60年の時点で既に戦史資料室に存在していたということですねw
肯定派の妄想を叩き潰すネタがまたひとつw
273日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 08:30:35 ID:Jnak648z
久しぶりに見たけど
koueiっていう奴 肯定派の中でもかなり馬鹿だな
274日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 10:18:38 ID:bK2kMgLJ
リアル火病を見た感じ。

もう、koueiのタコ踊りは終わったのか。w
275日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 16:16:59 ID:1qyrWCkt
>>272
神田に行って丸の該当号も入手してきました。戦闘詳報はコピー申請してきましたので、後日HPで公開できると思います。

丸MARU 1990年7月号 通算528号 P208
兵士たちの「南京事件」 城壘 連載19回

●戦史の汚点といわれる日本軍による中国人大量虐殺事件は果たして有ったのか。
参戦した生き残り無名兵士たちの証言で迫る日中戦争の秘められた真相中国兵

虐殺命令は出されたのか

 宇都宮第六十六連隊第一大隊から出された中国兵処刑の命令について、それがどんなものか、実際に命令は出されたのか、結局、正確に証言できる将校は一人もいなかった。
 そこで、次善の策として、戦闘詳報が伝える現場にいたと思われる兵士にあたることにした。そのときの状況や、もしあったとするなら命令はなぜ出されたのか、証言を得ることができるかもし
れない。
 まず最初にあたったのは、この戦闘詳報を保存していた第三中隊の藤沢藤一郎氏である。数十年間にわたって戦闘詳報を保存していた藤沢氏であるから、将校たちと同じくらい貴重な話が聞ける
のではなかろうか。そう思って最初にあたったのは当然である。
 藤沢氏は、宇都宮より東に二十キロメートルほど行った益子という陶器で知られた田園地帯に生まれ、現在もそこに住んでいる。当時二十六歳の上等兵で、二十六歳というとこの中隊の中では最
も若く、そのため今でも第三中隊会の世話役をやっている。
 中隊会は毎年開いて既に二十回ほどになる。藤沢氏から話をうかがった前年である昭和六十一年も九月に開き十人が集まった。戦争に行った当時から兵隊は中年の人が多かったので、いまでは十
人も集まれば最も活発な中隊会である。
P209
 期待を持って藤沢氏の話を聞くことになったが、話してくれた当時の様子は次のようなものであった。 昭和七年に徴兵で軍隊に入り、いったん除隊して、四年目に再び召集されて南京に向かった。
 南京攻略戦ではなんといっても雨花合の戦いが最も激しかった。敵からの攻撃のため手も足もでず、野砲が敵のトーチカを砲撃してくれるのを待つだけであった。そうして待っている間、まともな
食べ物はなく、唯一の食べ物か近くの畑のさつまいもて、さつまいもを掘りに行って撃たれた兵隊もいた。さつまいもと野菜をかじって二日ほど過ごしたか、対峙している中国軍では、前方に雑兵がいて、
後方にはきちんとした軍服を着た督戦隊がいる。対峙している二日て、わずかてはあったか日本軍が進み、中国軍の隊形か少しずつ崩れていく。
そうやって時がたつうち、中国軍の中に日本軍を恐れて尻込みしたり逃げたりする雑兵が現れ、そういった兵隊たちを後ろから督戦隊か撃ち出した。藤沢上等兵はそのような光景を何度も見た。
 いよいよ十三日になり、藤沢上等兵は中華門から東よりの城壁にかけられた縄梯子から登った。
第三中隊は西沢中隊長以下がここから登ったが、城壁上では万歳したくらいでそのまま城壁内に入って進んでいった。城壁上で万歳をしたとき、中隊の兵力は相当落ちていて、杭州湾上陸時の六割
くらいではなかったろうか。
 しかし城内に入ってみると、敵兵は一人もいなかった。民家に入って見つけた砂糖をなめたのが城内で一番印象深く、今も忘れられない。城内で
276日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 16:20:02 ID:1qyrWCkt
P210
は倉庫に泊まった。入った日か翌日、後方から食べ物が届き、手のひらに少しだけ米をもらって食べた。これも印象的だった。
 そのまま城内にとどまり、十七日の入城式に参加した。入城式には宇都宮連隊を代表して第三中隊か参加することになっていて藤沢上等兵も参加したのだが、他の中隊からも何人かの代表者が来た。
 入城式が終わると、連隊は既に大胡に向かっていたので、藤沢上等兵たち第三中隊はすぐに連隊を追いかけた。 第六十六連隊はこのあと中支に転戦して。昭和十四年八月に内地に戻ひ解散になる。
 解散のとき、藤沢氏は軍曹まで進み、大隊本部に勤務していた。解散にあたって大隊の記録は宇都宮五十九連隊留守部隊に収めたが、このとき、藤沢軍曹は記念として第一大隊戦闘詳報を貰った。
何か記念になるものを、と思ったが、戦闘詳報は同じものか二部か何部かあり、そのうちの一部を貰った。
 留守部隊に収めた記録は終戦時に焼却されたから、当時の記録は藤沢氏が持っていたものだけになった。戦後、サンケイ新聞や栃木新聞が第六十六連隊史を連載したときこれを貸し出した。昔は
コピーがなかったのて戦闘詳報の複製か出回ることもなかったが、数年前に貸し出したときからコピーか出回るようになった。戦闘詳報の原本は昭和六十一年八月の台風十号で畳の上四十センチほどまで浸水して水びたしになったので、日記とともに捨ててしまって今はない。
 一時間近くの藤沢氏の話はこのようなものであつたけれど、肝心の虐殺命令については一切ない。そこで改めて質問することにした。
―戦闘詳報によると、第三中隊も捕虜をやったとありますが。
 「全然知りませんてした。第三中隊は十三日からすっと城内に入っていましたから」
―捕虜をやったことを第三中隊の他の人から聞いたことはありませんか。
 「ありません」
―第三中隊は十三日全員城内に入ったのですか。
 「全員かどうかわかりませんが、ほとんど入ったと思います」
―戦闘詳報を持っていらっしやいましたか、捕虜処刑のところを読んでどう思いましたか。
 「戦闘処刑は全部読んだわけてはなく、自分の戦ったところだけを見たものでしたから。そのところを読んでどう思ったかについては特別記憶はありません」
―戦闘詳報がまるっきり嘘を書くことはないと思いますか。
 「そうです。戦闘については中隊から来た戦闘詳報をもとに書きます。嘘を書くということはありません。ただし鹵獲兵器などは数字が来ますけど、もともと正確に数えていませんから、
九十とあったら百と書くとかそういうことはあります。しかし、捕虜のことはよくわかりません」
―投降してきた中国兵がいたといいますが。
 「さあ、私らか城壁の前で中国兵と向かい合っていたときはそういうことはありませんでした」
―西沢中隊長からは何か聞いたことはありませんか。
 「西沢さんは本を書いていますが、そういうことは載っておりません。中隊会などでも虐殺したなどということは聞いたこともありません。 お役に立てずにすみません」
 以上が質問とそれに対する藤沢氏の答えであった。
第三中隊生き残り兵士の証言
 既に五十年前のことてある。藤沢氏は、ゆっくり、昔の記憶をよみがえらそうとしなから話す。これ以上無理して聞くことはできない。もっと詳しく知るためには他の兵隊たちから聞くだけてある。
 そこでさらに第六十六連隊の兵士だった人たちをたずねて聞いてみた。
 当時、第六十六連隊の兵士の平均年齢は三十歳近くだったという人もいれは、三十歳半ばだったと証言する人もいる。どちらにしろ、最も若くとも二十五歳というのは確からしく、しかも二十五
歳の兵隊はめずらしかったという。今、名簿の一部を見ると、明冶三十年代生まれの人が最も多く、明冶二十年代生まれの人もいる。老人たちに言わせれば「大正五、六年の兵かいた」というか
ら部隊は三十代の兵隊が中心だったのであろう。当時三十歳だとしても既に八十歳を過ぎている。
最も若い人でも七十五歳で、誰もが日本人男性の平均寿命を過ぎている計算になる。
277日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 16:23:49 ID:1qyrWCkt
P211
 そのような老人を、さまざまな手づるで捜して、十数人ほどの兵士たちから話を聞くことができた。実際は三十人ほどの人と接触できたが、家族の方が、本人は寝たきりだとか、年だからむず
かしい話は無理だ、とおっしゃる場合も多く、そこをさらにお願いして聞くわけこもいかなかった。また、負傷して、戦闘詳報の現場にいなかった人もいる。
 それでもこういう返事が来るうちはよい。五年前に亡くなっています、亡くなったのは十年も前になります、という返事には全く恐縮してしまう。
 具体的に話を聞くことのできた兵士たちの証言は次のとおりである。 まず、第一大隊本部の兵士、大関初次上等兵。
 大関上等兵は、第一大隊本部にいたが、一刈大隊長が負傷してからは終始一刈大隊長に付き添うことになった。一刈大隊長は本来なら絶対安静なのだが、ぜひとも南京に行くというので大関上等兵が同行し、部隊に少し遅れて進むことになった。
 この時期、大隊長と終始一緒なら大隊長が命令に関与したのか、たとえ関与しなくとも、命令についての手掛かりくらいは得られるのではなかろうか。期待ははずんだ。
 しかし、答えは簡単なものであった。
 「私はたおれた一刈大隊長とともにいたので、第一線のことは知りません。部隊の後をついて行きましたが、捕虜のことは聞いたことがありません。戦闘中のことだから、捕虜というより敵という感じが強かったのではなかろうか」
 このような、質問は愚問だというような、はっきりした返事であった。 大隊本部にいて、大隊長のそばにいた兵隊が何も知らないという。命令が出されたようなことはなかったのか。
 次いで第三中隊関係者にあたった。
 まず渡辺紋蔵小隊長。
 「第三中隊は十三日、十四日と城内にいたので捕虜を捕らえるということはありませんでした。 城内に入ってしばらくするうち、私は師団の四百柱の遺骨を持って内地に帰るように命じられた
ので、南京から上海に向かいました。入城式(十七日)の前のことで、ですからあの入城式は全く知りませんでした。
 翌年二月に原隊に復帰したとき、南京では捕虜が二百人から三百人いたと聞いたことがあります。 いま南京で虐殺があったと話題になっていますが、当時私が知っていたのはそれだけです。
 南京虐殺ということは戦後になって初めて聞きました。
 このような証言である。
 第一大隊戦闘詳報などから判断すると、第百十四師団左翼隊の南京突入は水戸の連隊に続いて宇都宮の連隊が行い、そのとき宇都宮部隊では、第三大隊が突入部隊で、連隊本部及び軍旗中隊の第
二中隊もそれに引き続いて城内に入ったようであった。しかし、藤沢上等兵と渡辺紋蔵小隊長の話から、第三中隊も西沢中隊長以下が突入部隊とほとんど同時期に城内に進み、少なくとも十三日午
後には城内にいたと思われる。そうすると、捕虜に関しての大隊長と中隊長とか話し合いは、第三中隊に関してはありえないことになる。
 もう一人、第三中隊の兵士の話である。 「南京城を見たときは感動しました。
 十二日ごろ、城壁を前にしていたとき、くすんだ白旗を掲げた丸腰の中国兵が来た。線路上に腰をおろしていたのを覚えている。その日と翌日の二晩、近くの校舎のようなものに泊め、二回食事
を与えた。城外の濠には相当死体があって、そこを超えて南京城に向かったが、私は入城式には参加しなかった」
 こう話してくれた久保田和三郎氏は、随分昔のことだから記憶がはっきりしない、話したことは断片的にいま頭に残っていることだという。また、そのときの人が集まって皆で話をしてお互い
の記憶をつなぎあわせればはっきりすると思うともおっしゃった。
 久保田氏の証言によると、第三中隊は全員十三日に城内に入ったわけでもなく、城外にいた人もいたらしいことが分かった。
 その後、もっと具体的に第三中隊のようすを証言してくれる人がいた。
 「南京城壁の前で戦っていたとき、白旗を掲げて中国兵が投降してきたのをおぼえています。人数は百人弱でした。第三中隊が城内に入ったのは朝か昼かはっきりしませんが、夜ではありませんでした。そのとき
第三中隊はまとまっていたと思います。
 中国兵のことですが、我々が城内にいたとき、中隊の幹部の人、西沢さんじゃありませんでした、指揮班の人あたりだったと思います、その人が、捕虜をやる、といって希箆者を募っていました。
278日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 16:26:50 ID:skKAx/JR
P212
 戦闘詳報に書いてあるのでしたら、そのとき何人かが城外に戻ってやったのではないかと思います。ただし捕虜をやった場面は見ていませんからそれは私の想像です」(水沼兼吉氏)
 水沼氏は足が悪いので、ここ二年ほど中隊会には参加していない。水沼氏の証言によれば、第三中隊のほとんどは城内にいて、中隊長は捕虜のことを知らなかったらしい。そして、何人かが捕虜をやるために城外に戻ったらしいのだ。
 もう一人、第三中隊の兵士の証言である。中隊長本部にいた森尾市太郎上等兵である。
 森尾氏は上等兵であったがそれまで役場で事務をやっていたので、中隊本部で陣中日誌を書く任務を与えられた。激しい戦闘のあったときは徹夜で戦闘詳報を書いたこともあり、六部作って五部を上に提出していた。
 「十二月十二日夜、中隊長と一緒の濠の中にいましたが、まわりには死んだ者や負傷者もおり、そのとき、中隊長のそばにいた兵隊はわずか十二、三人でした。
 そのうち、上から、明日、南京城突入という命令が来まして、中隊長は、この兵力で攻撃か、と涙を流していました。
 十三日朝、城壁の前の高台で中隊長と一緒だったことは記憶していますが、私は昼前、中華門から入り、そのとき中隊長も一緒だったかどうか記憶にありません。
 城内では煉瓦作りの建物を中隊本部にして、中隊長もここにいました。
 十三、十四日と二晩南京城内にいて、私は十五日か十六日、中隊の遺骨を持って日本に帰るよう命令され、下関から船に乗りました。師団の遺骨を持っていた渡辺さんと一緒です。
 捕虜については何も聞いておりません。捕虜を捕まえたり、命令があったということを陣中日誌に書いたこともありませんでした。
 南京で一番記憶に残っていることは、下関に相当死体があったことです。下関から船に乗るとき見ました。凄惨だと思いました。
 三月に原隊に戻りましたが、虐殺という話は戦後聞いたことで、中国兵は軍服を脱いで市民になりすましていたのでそういう兵隊をやったことを虐殺と言われているのでしょう」
 以上が第三中隊の証言である。

存在しなかった戦闘詳報!?
 次は第四中隊の兵士である。
「南京城には城壁からでなく、城門から入りました。中華門だったと思います。入った日にちははっきりしませんが、昼だったと思います。
 捕虜は城外にいたとき、何人かいてご飯を食べさせました。その後、大隊から命令が来たのか、その捕虜を処分することにしました。夕方でした。平沢(第四中隊長代理)あたりからの命令のような気がします。
 捕虜にご飯を食べさせたことも、やったことも、考えてやったことではありません。すべて命令です。あのときは無我夢中で、それが戦争だと思っていました」(田波希平分隊長)
 第四中隊の兵士はこのように証言した。
 多くの兵士は一局面の証言であったが、最後になって比較的大局的に見ることができる人に会えた。第四中隊で第一小隊長代理をやっていた小宅伊三郎曹長である。
 小宅氏は、南京攻略戦の後、昭和十四年ごろのことであるが、南京軍官学校の教官を勤め、そのため第一大隊の行った作戦や南京のようすについてはこれまでの兵士と比べにならないほど詳しい。
 小宅曹長が証言することによって、この前後のようすがだいぶはっきりしてきたが、その話は次のようなものであった。
 「十二月十二日、第四中隊の戦力は半減していたが、第一線で戦っていた第三中隊の右側に進むように命令を受けて、私は第一小隊、第三小隊、指揮班の計六、七十人を指揮して第三大隊の援護に
向かった。ですから、当時の第四中隊は私が指揮していたことになります。もちろん第一線の戦場ですから、我々の中隊長がどこにいるのか、他の小隊がどこにいるのか分かりませんでした。
 兵士廠の建物の前にある陸橋で指揮を取っていたが、やがて中国軍が後退し、その中に白布を振っている兵も見えたので射撃を禁止し、彼らに対して手招きをした。すると、城壁上から私を狙って撃ってきて、五、六発が私の近くに当たった。
 それでも中国兵は三三五五降伏してきたので、私のところで検問して後に送った。検問している途中、中国軍の逆襲にそなえたり、井上戦車隊長との打ち合わせ等があり、どのくらい捕虜がいた
のか正確には分からない。あとで千二百の捕虜がいて、他の隊が捕まえた捕虜二、三百も合わせる
279日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 16:28:19 ID:skKAx/JR
P213
と千五百人になると聞いた記憶がある。
 しかし、あのとき千二百人の捕虜を検問して武装解除するだけの時間があったのかと考えてみると、とても千二百人もいたとは言えない。
 その日の夕方だったと思うが。先輩の大根田副官から、この日の捕虜で誉められ、また、極秘だが引き続き杭州作戦があるといわれた。それを聞いて、兵隊たちは極度に疲労しており、さらに作戦があるのはひどいと思いました。
 その後捕虜についてはどうしたのかはっきりした記憶がない。それでも捕虜収容状況を見に行き、行ってみると、収容所が騒然としていて警戒にあたる兵隊の苦労は大変だと思っていたのが印
象に残っています。また、部下から捕虜への給与がなくなるとの問い合わぜもあり、警備の交代と給与のことを大隊長に言った記憶がある。
 一刈(大隊長)さんは負傷していましたが、片足になっても南京に突入するという頑固な人で、担架かなんかで運ばれてついてきました。大隊長に捕虜の件について言ったような気がしますが、
大隊長からどういう答があったのか記憶にないのです。私は引き続き城内掃射もしなぐてなりませんし、忙しかっためでその間も飛び回っていたと思います。
 ただし、満州事変にも参加しており、常に軍紀には厳しく言っていました。捕虜を殺すように命令したなどということはありません。
 城内に入っても兵隊の編成替え、誰を入城式に参加させるか、戦闘詳報の整備などで忙しく、私自身は入城式にも参加していません。
 城内の大隊本部に行ったとき、外国の新聞記者二人が城内と雨花台を見たいといっているので失礼のないようにと言われ、(平沢)中隊長代理にそのことを言ったことがあります。中隊長代理と
はそのとき久し振りに会つたくらいです。中隊といっても第一線ですからそれほど命令系統は混乱していました。
 戦闘詳報について言えば、第四中隊の戦闘詳報は私が書いていました。もちろん捕虜処刑などありませんから、そんなことは書いていません。
 大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大
根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまとじな戦闘詳報はなかったと思います。
 戦闘詳報は文字どおりこの戦闘に関するすべての事実を詳報するもので、副官または書記が作製し、大隊長の決裁を経て連隊に報告するもので、責任者は大隊長ということになります。
 捕虜の取扱は国際条約で定められており、捕虜とは戦意を失い、降伏して我が方の命令指示に従順に従う者をいいます。しかし、捕虜と言われている中には、戦闘に敗れ抗戦力を失い一時降伏の
意を表し、収容されると群れをなしてただちに反乱したり、偽装降伏して再度戦線復帰の機をうかがうものがいます。捕虜護送中、捕虜が護送兵を急襲して武器を奪い、大脱走した例もあり、捕虜
として確認するのには相当の日時を要することが多いのが現実です」
 以上が小宅曹長の話である。
 第一大隊戦闘詳報には「最初の捕虜を得たる際、隊長は三名を伝令として抵抗を断念して投降せば助命する旨を含んで派遣せるに」とあり、このときの隊長とは一刈大隊長ではなく小宅小隊長
代理のことであることが分かったが、小宅小隊長代理は、捕虜を捕らえたのは確かだが三人を伝令に出したりとかそういうことは一切なかったという。
 そして、中国兵を捕らえた小宅小隊長代理が捕虜虐殺命令を出したことも、そのような考えを持っていなかったことも分かった。
 最後に、渋谷第一大隊長代理、平沢第四中隊長代理あたりが実際命令したらしいという話もあるが、どう思いますか、という問いに小宅氏は、
 「あの前後、渋谷さんや平沢さんがどうしていたかはっきりしませんが、ともに第一大隊本部にいたのではないかと思います。また、捕虜がいたことについては一刈大隊長も知っています。問題は
捕虜についてですから、連隊長以下でできることではありません。
 しかし実際どうだったのか、捕虜を捕らえて第四中隊を指揮していた私すら知らないので、相当混乱していたと思います。誰がどうしたのか私には全く分かりません。
 第一大隊戦闘詳報に書いてあるのでしたら、形の上では一刈大隊長ということになるのでしょうか」
 このように答えた。
 以上が第一大隊の兵隊たちの証言である。
(づづく)
280日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 16:32:47 ID:skKAx/JR
阿羅さんの丸の連載は、単行本化されてないようですから連載されているすべて丸を買ってきたほうがよかった。
古本をネットで調べてみます。
281日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 16:47:22 ID:K6af5u0d
>>273
> 久しぶりに見たけど
> koueiっていう奴 肯定派の中でもかなり馬鹿だな

ネトウヨの類に悪口を言われることは私の株を上げることを意味するので大歓迎しますマジで、どんどん私の悪口を言いふらして下さいマジで。ok

>>274
> リアル火病を見た感じ。

その台詞、そのまま君にお返しします。 ok


>>275>>276>>277>>278>>279>>280
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#204】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「証拠出して見ろwwwww証拠無いから出せないんだろwwwww」

d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
ここに沢山ありますよ。ok

南京戦史編集委員会 「南京戦史」 (偕行社)←現在入手極めて困難
→「南京戦史」「南京戦史資料集」「南京戦史資料集U」
南京事件調査研究会 「南京事件資料集」全2巻 (青木書店)
→第1巻「アメリカ関連資料編」 第2巻「中国関係資料編」
洞富雄編 「南京大残虐事件資料集」全2巻 (青木書店)
→第1巻「極東国際軍事裁判関係資料編」第2巻「英文資料編」
防衛庁防衛研修所戦史室著 「戦史叢書」全102巻(朝雲新聞社)
「第86巻 支那事変陸軍作戦〈1〉―昭和十三年一月まで―」
「第89巻 支那事変陸軍作戦〈2〉―昭和十四年九月まで―」
井口和起、木坂順一郎、下里正樹編 「南京事件・京都師団関係資料集」 (青木書店)
282日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 19:10:07 ID:cPf70Fgi
>>273
まぁ、Koueiの場合はコピペに依存しているから情報の精査も出来ず、既にスレ内においては
「肯定派ですら」支持していない論理に頓着しているからな。むしろ、肯定派から一番批判される
タイプと化している訳だし。
283日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 22:42:01 ID:gDjxpq2e
やたらとネトウヨがはしゃいでるなw
中間派も糞もない。俺は真実が知りたいだけだ。

ところでネトウヨの諸君は、ソ連やアメリカが日本に対して行った虐殺について勉強してるかね?
南京大虐殺に変態じみたフェチズムを見せるのもいいが、バイアスのかけ方がおかしくないかね?
同じ日本人が何十万と不当に殺された事にはろくに抗議もせず、南京大虐殺にはCM打つ神経が分らんねw

この二つにはウヨクもサヨクも何故かだんまり。たまーに申し訳程度に触れるだけ。
双方とも虐殺と言えば、もっぱら南京大虐殺を熱く語る。

サヨクは中国ロシアの代弁者、ウヨクは欧米の代弁者とはよく言ったものだ。
双方に共通しているのが、日本人の視座の欠落。
284日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 23:12:19 ID:Cn062yeL
ここは南京スレなんだから他の話題は他のスレだろw
馬鹿じゃねーの?w
285日出づる処の名無し:2010/08/07(土) 23:23:32 ID:1eYFUbqc
>275->280
重ね重ねお疲れ様です。
やはり、こういった地道な資料の積み重ねが真実を明らかにしていくのですね。
否定派としてではなく、単に真実を求める者の一人として僭越ながら御礼を申し上げますm(_ _)mペコリ

「丸」の内容を読んだ限りでは、証言の内容と藤沢氏の所有していた戦闘詳報の内容がかなり乖離していますね。
証言が正しければ戦闘詳報に書かれたような内容になるはずがない。
戦闘詳報は藤沢氏が持っていたものだけ。
「記念に戦闘詳報を貰った」と言っているのも藤沢氏だけ。
そして内容が他の証言と著しく異なるなら信頼性に疑問があるとしか言えませんね。
しかし、他の資料と付き合わせればまた異なった事実が判明するかもしれませんねw

続きも期待していますw
お疲れ様でしたw
286 ◆MvRbZL6NeQ :2010/08/08(日) 00:10:11 ID:GmJwL1Qi
>>275

大変ご苦労様です.
地道な資料検討こそが,否定派肯定派問わず大切なことでしょう.
その意味でも大変価値があることだと思います.
287日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 05:45:18 ID:iixSH6y8
米国のウォールストリートジャーナルなど一流紙が、
米国大使が広島原爆慰霊祭に参列したことを痛烈に批判しています。

その理由は、「日本がアジアで酷いことをやっていたのを止めることが出来た!」との見解です。
「アジアで酷いこと」その象徴が、日本軍は南京で「大虐殺」をしたということだ。

アメリカも中国も南京大虐殺では国益が一致している。
288日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 10:54:09 ID:wY/voY73
原爆投下を謝罪しないなら

アジアで酷いことを謝罪しなくてもいいよね

てかアジアを侵略してたのは、日本か?欧米列強か? どっちだよw
289日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 10:55:42 ID:MOmRtYnN
>てかアジアを侵略してたのは、日本か?欧米列強か? どっちだよw
いいえ、どちらでもありません

南京大虐殺は朝鮮族の仕業アル4
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/asia/1280476026/
290日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 11:02:04 ID:wY/voY73
>>287
また肯定派の捏造か・・・。

広島市で6日に行われた平和記念式典に、ルース駐日大使が
アメリカ政府の代表として初めて参列したことについて、
アメリカメディアの一部では、痛烈な意見も見られた。

6日付のウォール・ストリート・ジャーナルは、ルース大使の広島訪問は
日本との連携を強くするかもしれないが、オバマ政権に政治的リスクをもたらすかもしれない」
と警戒感をにじませた。

また、ニューヨーク・ポストは社説で、日本のアジア攻撃は悲惨なもので、
原爆は戦争を効果的に終わらせたと主張。

日本に対して「謝罪する必要はない」と強調した。

(C)日テレNEWS24 8/7 09:41
http://news.gree.jp/news/entry/552970
291日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 12:29:47 ID:JWbYM+S5
丸MARU 1990年1月号 通算522号 P210
兵士たちの「南京事件」
城壘 連載13回
●戦史の汚点といわれる日本軍による中国人大量虐殺事件は果たして有ったのか。
参戦した生き残り無名兵士たちの証言で迫る日中戦争の秘められた真相

P210
捕えられた中国軍の遊兵
 暦が十二月十三日になろうとするころ、会津若松の第六十五連隊は南京北東の郊外を南京城に向けて進んでいた。第一大隊は南京城から十キロメートルほどの烏龍山砲台に向かい、連隊の主力は
鳥龍山からさらに七、八キロメートルほど先の幕府山に直行することになっていた。数時間前、南京城門を守っていた中国軍に撤退命令が出され、城内の中国軍は一斉に引き揚げ始めていたけれど、
城外にいた中国軍にはその命令は届かず、これから日本軍と中国軍の戦いが行われようとしていた。
 このとき、会津若松第六十五連隊の栗原分隊長はマラリアに悩まされていながらも烏龍山に向かっていた。
 会津若松の連隊が上海に上陸したのは十月上旬であったが、そのころ、上海にはたくさんの蝿や蚊がいて、握り飯を食べようとすると蝿で真っ黒になる。また蚊もいたるところにいて、そのため
多くの兵隊が病気に罹った。頑健なはずの栗原分隊長も例外ではなかった。
 いつのころからか夕方になると、悪寒がして熱が出るようになった。熱が出ると必ずめまいがして、やがて体中が汗でびっしょりになる。悪寒と熱は決まったように数時間続く。それはマラリア
P211
の典型的な症状であった。
 やがて症状は毎日おきるようになった。救いは、症状が夕方から夜にかけてだけ現れることである。この時間が過ぎればふるえも熱もおさまって、行軍や戦闘にはなんら差し支えない。とはい
うものの、だんだん体力が落ちていく。
 それでも致命的な外傷を負っていなければ戦うだけであり、亡くなった部下のことを思えばマラリアで苦しいなどとは言えなかった。いざ戦いだというと、栗原分隊長の頭からはマラリアのこと
など消える。暗闇の中を鳥龍山に向かっていたときもマラリアのことは忘れていた。
 鳥龍山の登り口に差しかかったとき、栗原分隊長は、敵の様子がどうなっているのか探ろうとして、斉藤一等兵を斥候に出した。
 しかし、斎藤一等兵はいつまでも帰ってこない。とにかく行軍は急を要するというので、分隊は敵情が分からないままに進むことにした。
 烏龍山に登りはじめると、突然、中国兵が暗闇の中から撃ってきたり、あるいは暗闇の中を移動したりするのが見えるけれど、本格的に攻撃してくる様子はない。栗原分隊が上海に上陸したとき
待ち受けていた中国兵と比べるとまるで違い、江陰城を守った中国兵より弱いようにみえた。南京陥落か目の前に迫っていることをさとって戦闘意欲を喪失しているのではないかと栗原分隊長は思
った。
 そう思ったのは栗原分隊長だけでなく、島龍山に向かった第一大隊の兵隊すべてで、そのため第一大隊はこれといった激しい戦闘もなく、その日の午後には島龍山砲台に日の丸を掲げることがで
292日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 12:30:42 ID:JWbYM+S5
P212
きた。
 ちょうどそのころ、揚子江を進んでいた日本の海軍は烏龍山砲台の下を進んでいたけれど、二十数門の砲は沈黙したままであった。
 烏龍山山頂に登った栗原分隊長が南京城の方を見ると、城内ではあちらこちらで煙が上がっていた。
 第一大隊は烏龍山砲台を占領すると間もなく幕府山に向かうことになった。烏龍山砲台を占領したからといって一息ついているような状況てはない。
 すでに鳥龍山を迂回して幕府山に向かっていた連隊主力はこの日の夕方、幕府山の麓に到達していた。
 連隊の主力が麓に到達してみると、幕府山にはたくさんの中国軍がいることがわかった。鳥龍山とは違って万を越える兵隊がこもっていて、そのざわめきが麓まで聞こえてくる。
 会津若松の連隊は、会津若松を出発した十月に三千七百名の兵隊がいたけれど、ニカ月の戦いで二千三百名がたおれ、このときは千四百名に減っていた。補充兵を入れても二千二百名である。幕
府山の敵はざっと計算しても五倍ほどの数になる。中国兵のざわめきを聞いて連隊には緊張感が漲った。
 しかし、連隊本部に入ってくる情報によれば既に日本軍は南京城内に突入しているという。会津若松の連隊は一刻も早く幕府山を占領しなければならなかった。
 そのため、深夜になり第五中隊の角田中隊長以下百二十名が決死隊となり幕府山の砲台に向かうことになった。
 十四日午前一時、月の光の中で決死隊と両角業作連隊長は水杯を交わして出発した。
 角田中隊は砲台に向かったけれど、山中のあちらこちらでうごめく大軍を見て、全滅も覚悟した。いたるところに中国軍がいるようなので、角田中隊が砲台まで進むには中央突破以外に方法は
ない。中央突破するにしても、角田中隊の兵力が分かれば中国軍にやられてしまう。少しでも多くいるように見せかけて中国軍をひるまさなければならない。そのため、大声をあげて威嚇しながら
進むことにした。
 銃を撃ちながら進むと、中国軍はほとんど抵抗らしい抵抗を見せない。角田中隊は目の前に現れた中国兵をひとりひとり捕まえて進むけれど、そのうち、中国兵があまりにも多いのでとても手に
おえなくなってきた。決死隊の目的は一刻も早く幕府山砲台を占領することにあるので、途中からは中国兵の武装を解除するだけにして進むことにした。
 砲台に近づくとさすがに中国軍は激しく抵抗しはじめたけれど、それでも決死隊は十四日午前十一時には幕府山砲台に日の丸を立てることができた。
 遅れて幕府山に向かった第一大隊も十四日の早朝。まだ暗いうち、幕府山の麓で多数の中国兵と出会った。第一大隊は一瞬たじろいだけれど。それでも進むと、中国兵は攻撃してくるわけでもな
く、鳥龍山の兵隊と同様にいつもの様子とは違っている。進んでいくうちに、白い旗を掲げてくる集団も現れる。そこで第一大隊は中国兵をつぎつぎ捕らえいった。十名足らずの栗原分隊だけでも
百二十名ほどの中国兵を捕えた。
 捕らえた兵隊を調べてみると、南京郊外の戦いで敗れて幕府山に逃げ込んだ兵と、南京撤退を命令されて南京城外に逃げのびようとした兵などである。中には上海で会津若松の連隊を苦しめ、その
後撤退して南京の守りについていた兵隊もいた。
 中国兵はいくら戦意を失っているとはいえ、栗原分隊の十倍ほどの数であり、一斉に襲ってきたら全滅する。そこで栗原分隊長は捕えた中国兵に、
 「不要、不要」
 と言って武器を捨てる手振りをして見せた。
 中国兵の多くは素直に武器を捨てたが、手榴弾を隠し持っている兵もいる。何度か同じ仕草をして、手榴弾もひとつ残らず出させた。

飢えと疲労の中国兵
 たちまちまわりはチェツコ銃、重機関銃、迫撃砲、手榴弾などの武器でいっぱいになった。他の分隊たちが捕えた中国兵たちも同じ場所に武器を投げたので、武器だけで小山のようになった。
 武器の山の中にモーゼル拳銃を見つけた栗原分隊長は、その中から一挺取り出した。噂には聞いていたけれど、手に取って見るのははじめてである。モーゼル拳銃は三十発もの弾を装填できるも
ので、握るとどっしりとした感触が伝わってきた。試しに空に向けて一発撃ってみると、強い発射の反動が腕に伝わって腕が持ち上げられた。腕が持ち上げられたため思わず再び引き金を引い
293日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 12:31:36 ID:JWbYM+S5
P213
た。するとさらにもう一発が発射されて腕が持ち上がる。そのため弾がなくなるまで撃ち続けることになり、発射音が山の中に響いた。
 弾を撃ち尽くしたモーゼル拳銃を改めて見つめながら、栗原分隊長は自分たちが上海で苦戦したのもわかる気がした。
 中国兵に武器を捨てさせた後、各分隊が捕えた中国兵には毛布などの身のまわりのものを持たせて麓まで連れていくことにした。中国兵は日本兵と違って背嚢などを持っていないのでそれぞれが
腕に抱えたり、丸めて肩から吊したりした。
 最後尾にいた栗原分隊長は、小隊長より、武器に火をつけるように命ぜられて残った。
 全員が出発してから、山となった武器に火をつけると、武器の山は一斉に燃え上がり、弾が火の中で熱を帯びて爆発した。それを見届けてから皆を追った。後ろの方で何度も弾が爆発する音がす
る。しばらくして振り返ると、黒煙が空高く上がつていた。
 栗原分隊長が中国兵を護送して幕府山の麓までくると、麓には連隊本部が設定されていて、そこにも何千という中国兵がいた。兵隊の話によると、連隊だけで一万三千五百人の
中国兵を捕まえたという。ひとりひとり数えたわけではないから、おおまかな数であろうが、とにかく大変な数の中国兵である。
 その中には一般市民も混じっていたので、市民は釈放することにし、残った中国兵たちはちょうど近くに兵舎があったので、ここに収容することにした。兵舎といっても藁の屋
根で、中は土間である。中国軍が演習で休むときなどに使っているものらしく、兵舎は十棟ほどあった。
 どの中国兵も連日の戦闘で疲れ果て、食事も満足に取っていないようである。飢えている中国兵を見ていると、栗原分隊長は一ヵ月半前の自分たちを思い出さずにはいられなかった。
 上海では中国兵が待っていて、トーチカから狙い撃ちされて、退くこともできず、中国兵と対峙した。食べ物は後方から握り飯を運んでくれることになっているが、握り飯を運ぶ兵隊が
途中で撃たれることもあり、満足に届かないため一個を四つに分けて食べることもあった。握り飯が来るうちはよかったけれど、そのうち届かなくなりだした。最後に各自が持っているわずかな乾
麺包を食べることになったとき、土を掘って滲み出る水を集めて一緒に飲み込んだ。
 その辺りは揚子江が上流から運んでくる土砂でできた土地だという。だから縦横にクリークが走り、雨が降らなくとも土を少し掘るだけで水が滲み出てくる。日本軍にとってありかたいことには
水だけは困ることがなかった。乾麺包がなくなってからは、水だけをクレオソートと一緒に飲んで飢えをいやした。
 しかし、水を飲めば必ず数時間後には下痢が始まる。赤痢、コレラにかかる者が増えていった。会津若松を出た三千七百人が千四百人になったのは、戦死、戦傷のためだけでなく病気になる者も
少なくはなかった。
 あのときの敵がいま逆に飢えている。違うのは、今度は日本兵も飢えていることである。むしろ日本兵の方がひどいかもしれない。日本兵は上海から飢えていた。上海では前線まで食糧を補給
する兵隊がつぎつぎ撃たれた。その後は急進撃をしたため、行動力のない輜重部隊が追い付けなかった。そのため兵隊たちは謝家橋鎮、江陰、鎮江と進むたびに食糧を占領地の民家から徴発した。
中国の民家に一番残っていたものは中国のどぶろくであった。それは家庭用に造るお酒で、大きな鍋によく残っている。南京米が残っていなくと
294日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 12:32:59 ID:urlGlEiP
P214
も、どぶろくだけが残っている家が少なくなかった。どぶろくだけは持って逃げることができなかったのか、あるいは、どぶろくだけはどこの家庭でも常用したのか、本当によく残っていた。栗原
分隊長がこの一ヵ月で一番多くロに入れたものはどぶろくで、どぶろくで飢えをしのいで来たようなものである。
 今でも日本兵は自分ひとりの食事を工面するのが精一杯で、中国兵に食べさせるなどということはとてもできないことである。それでも中国兵に何か食べさせなくてはならない。
 そうするうちに、昨日占領した鳥龍山に南京米があったという話を聞いたので、栗原分隊長は部下とともに馬を連れて取りに行くことにした。
 南京米だけであったけれど、相当あったのでさっそく大きい釜でおかゆを作り、茶碗を集めてきて食べさせた。他の兵隊たちもそれぞれ食糧を探しにいった。食糧探しはなれているから兵たちた
ちはどこかで何かをみつけてきた。そして中国兵たちに食べさせた。どの兵隊たちも多数の中国兵のことで忙殺され、幕府山の占領とか、南京陥落とかを話題にする余裕はなかった。
 その晩、兵舎で火事があり、半数近くの中国兵が逃亡した。兵隊たちはあまりの中国兵に持て余していたので、中国兵が逃げ出したと分かっても敢えて捕えたりはしなかった。中国兵が少なくな
ってほっとした。
 栗原分隊長が監視にたったとき、中国兵を観察していると、中にはいかにも悪人らしい顔をしている兵隊もあれは、しっかりした幹部らしき者もいる。監視をしながら、その中の一人と話をし
た。話をしたといっても中国語は分からないから、筆談と身振りである。
 栗原分隊長が話かけた兵隊はみるからにしっかりした兵隊で、その兵隊が言うところによると、それまで北京大学の教授をしていて、戦争が勃発すると同時に軍に入ったという。やがて兵隊は名
刺を取り出して栗原分隊長に差し出した。名刺は日本の名刺の倍ほどある立派なものである。その大きい名刺にはこう書いてあった。
 国民革命軍第三十三連隊 国民革命軍第三十三軍教導師参謀長・呉襄平 風陽県印花税所所長
 さらに聞くと、呉襄平は少佐と言う。 しばらく雑談しているうちに、呉襄平は懐中時計を取り出し、
 「進上」
 といって栗原分隊長に差しだした。外国製の薄型のもので、立派な時計である。一瞬どうしようかと迷ったけれど栗原分隊長は、
 「謝々」
 といって受け取った。拒絶すれば呉襄平を傷つけるような気がしたからである。
 受け取ながら、よく処遇してもらいたいのだろうか、あるいは自分を知ってくれた人に形見としてあげたくなったのだろうかと考えた。呉襄平という人間をまだよく知らないのでどちらか分かりかねた。
 しばらくして、栗原分隊長は呉襄平を大隊本部に連れていった。高級将校クラスの軍人は取り調べて中国軍の作戦、謀略などを聞き出すことになっていたからである。

南京陥落で賑わう提燈行列
 十三日夜遅くには南京が日本軍のものになった。そう判断した中支那方面軍は午後十一時十五分。東京の参謀本部に南京陥落を打電した。
 この日、日本中では一日中旗行列、提燈行列が行われていた。いつもなら十時ごろに寂れてくる銀座も人が絶えず、十二時まで賑わった。
 大規模な提燈行列や官公庁主催のお祝いはこの日まで禁止されていたけれど、南京が陥落したという中支那方面軍からの入電に、警視庁はとうとう官公庁の奉祝にも許可を与えると発表した。
 十四日は堰を切ったようにお祝いが行われた。繁華街のビルには旗が林立し、電車、バスは小旗を立てて走った。正午、全国七十余力所の・刑務所では紅白の大福餅が配られ、手製の日の丸で皇軍
万歳が三唱された。
 東京では浅草にある瓢箪池畔に大祝賀塔が建てられ、旗行列が午後一時から五時まで許可になったので、一時から市立女学校などの生徒五万六千名が宮城前まで旗行列をし、小学生八十万人も各区で旗行列を行った。
 提燈行列は午後五時から八時までと決められていたので、六時になると市立中学校、市職員など一万五千人が上野公園、神宮外苑などから宮城前まで提燈行列を行った。さらに一般社会人の提燈
行列もはじまった。東京実業組合連合会が五千人といった具合である。日本銀行でも千人か提燈行列を行ったが、これは日清戦争以来のことであっ
295日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 12:37:56 ID:urlGlEiP
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た。日活多摩川撮影所でも京橋の本社に集まり、内田吐夢監督以下五百人が提燈行列をした。行列は、百万人の大行進といわれるほど賑やかなものであった。
 三宅坂にある参謀本部では、市民の万歳に応えるため二基の高張提燈を立て、陸軍省は正面二階のバルコニーに二尺四方の文字で「謝御後援」と貼り出し、軍歌レコードを奏でた。
 この日まで全国で提燈三百万個、旗四百万本が使われ、その金額は百万円にもなった。
 当時から旗屋をやっている東京の田中旗店では代が替わっているが、そのときの話は半世紀たっても伝えられている。
 「先代や先輩から南京陥落のときが一番すごかったという話をよく聞きました。旗屋の景気のよさは想像できないくらいだったらしいですよ。
 大人は旗を作るのに忙しくて、お金の勘定は子供にやらせていた。店頭に上からザルを吊して、そこにお金を投げ込んで売っていたといいます」
 十五日も同じように全国で奉祝行事がつづいた。早くも「南京陥落」というレコードが発売され、南京陥落のニュース映画も公開された。
 東京では朝から全市百二十余校の女学生七万人が皇居前や参謀本部に旗行列を行い、府下の中学生十余万人もブラスバンドを先頭に旗行列を行った。夜は夜で十万人の提燈行列が行われた。
 新宿に渡六という旗屋がある。もともと呉服屋をやっていたけれど、昭和のはじめ不景気が長く続いたため、店を閉めざるをえなくなった。しばらくして、今度は同じ場所で旗屋を始めた。
 旗屋を始めて一年後に支那事変がおき、旗屋大繁盛の波にのった。そして南京陥落である。
 渡六の主人は旗屋組合の理事長もやっていたが、そこの娘の渡辺幸子は、このとき山脇高等女学校の一年生だった。山脇高等女学校には軍人の子女が多く、そのころの父兄会会長は前総理大臣
林銑十郎陸軍大将で、後に山本五十六海軍大将も会長をつとめている。
 渡辺幸子はこう語っている。
「そのときは本当に大変で家の二階まで仕事場にするくらいでした。私は女学生だから景気がどれほどだったか実感としてわからなかったけれど、すごかったというのははっきり覚えているわ。
 学校のほうでは旗行列だというので全貝が参加してね。うちの女学校は親が軍人という人が多かったし、学校が赤坂でしょう。それでまず皇居に行って、それから陸軍省や参謀本部のある三宅坂
のほうまで行列してね。女学生だったから昼の旗行列だけで、大人は夜の提燈行列だったの。 今の個人主義の世の中と違って、そのころは嬉しいことや悲しいことがあれば隣の家も一緒に喜
ぶし悲しむというのが普通だったでしょう。南京が陥落して、大人が喜んでいたから私達も嬉しかったのよ」
 十六日は東京大学で全職員千五百人と制服姿の学生八千人が本郷から宮城前まで祝賀行進するという騒ぎで、日本あげてのお祝いは一週間以上も続いた。
 また、南京陥落を祝って、男の子には勝太郎、女の子には祝子という名前を付ける親も多かった。
(つづく)
NETは便利だね。 昨日注文して今朝届いたよ。 城塁を順不同にUPしていきます。
OCR読み込みから手修正していますので誤植があればご指摘ください。
296日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 14:47:56 ID:urlGlEiP
丸MARU 1990年2月号 通算523号 P206
兵士たちの「南京事件」 城壘 連載14回
P206
一斉射撃で倒れる中国兵
 中国軍の主力は南京城外に逃げたけれど、一部は城内に残り、北西部にある難民区か、政府の大きい建物の中に隠れた。日本軍は城内に進出した十三日のうちに城内に残った中国軍を制圧しきれ
なかったので、翌十四日も掃討作戦を行うことになった。
 第十六師団では福知山連隊と奈良連隊が城内を掃討した。福知山連隊は第四中隊が中心になり、第一機関銃中隊かちは山室分隊などが参加した。南京城外を紫金山の北側から回った奈良の連隊は
北西にある城門から城内に入って、掃討しながら進んできていた。
 十四日、山室分隊たちは前日引き返した所に向かった。外交部や軍政部など中国政府の建物の中に入って行くと、それらの建物は中国軍の臨時野戦病院にあてられて、多くの中国兵が収容されて
いた。収容されているというより、放棄されている。看護する兵はなく、兵隊は苦しんでいた。
 山室分隊たちは負傷兵が収容されている建物をそのままにして掃討を続けた。
 政府の建物が並ぶ中山北路には武器も捨てられてあった。小銃はもちろん、機関銃、迫撃砲、高射砲などがあり、自動車まで乗り捨てられてある。武器の多くはドイツ製で、徳国製という印が
P207
付いている。またドイツ語らしいラベルの貼ってある小銃弾の袋も捨ててあった。
 しかし、負傷兵や武器が放棄されてはいたけれど、兵隊は見当たらない。
 武器は裏通りにも捨ててあったので、表通りに面した建物が済むと、裏通りの建物の掃討も行われた。
 中山路辺りは政府の大きい建物が多いせいか、これらの建物には市民がまとまって避難していた。女と子供だけが避難している建物もあれば、男性が半分以上避難している建物もある。
南京の市民は難民区にだけ避難したのではなかった。
 裏通りを進むと武器だけでなく、軍服もたくさん捨てられている。中国兵が軍服を脱いで、市民の中に隠れているに違いなかった。
 中国では市民の服装をしながら武器を隠して日本兵を狙ういわゆる便衣兵がたくさんいる。上海でも市民だと思って油断をして撃たれた日本兵がたくさんいた。南京城内は建物が密集しているの
で、便衣兵となって狙われては被害が大きくなる。
 脱ぎ捨てられた軍服はいたるところにあり、そこで福知山の部隊は、便衣兵を見つけ次第射殺することにした。
 ひとつの建物で多くの男性が発見された。落ち着きのない態度や、市民が不安そうにしている様子からすぐに中国兵が混じっていることが分かった。
 山室分隊は第四中隊とともに。市民の中から便衣兵をよりだすことにした。いくら市民の中に隠れているといっても便衣兵はすぐ分かる。兵隊としての特徴が体に残っているのだ。頭髪が短い
297日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 14:49:00 ID:urlGlEiP
P208
上、軍帽の跡がついているし、肩に銃を担いだ跡がある。
 中には、銃や軍服を捨てているのに巻脚絆を付けていたり、市民の服を着ているのに兵隊だけに与えられた袋などを持っている者がいる。
 山室分隊が中国の男性だけを並べて、突然、
 「こらっ!」
 と大きな声を出すと、おもわず、きをつけの姿勢を取る者がいる。これらは軍隊教育を受けているからだとすぐに分かる。
 市民と便衣兵を見分けるためにそのような方法が取られたけれど、そうでなくとも兵隊だということは一見して分かるものである。死ぬか生きるか戦ってきただけに、市民と比べれば兵隊はする
どい目をしており、兵隊独特の雰囲気を身につけている。
 そうやって何力所かでよりわけ、便衣兵となっている中国兵を見つけだした。
 これらの中国兵は指揮官もいないばらばらの兵隊たちで、日本軍に降伏したわけでもない。軍服を脱ぎ捨てて隠れているくらいだからこのままにすれば何をするか分からないし、どこかに武器を
隠しているのかも知れない。既に掃討している途中、いくつかの建物からは銃と手榴弾の山が見つかっている。
 第四中隊ではこれらの中国兵を近くにある玄武湖まで連れていって、そこで射殺することにした。
 山室分隊長は小隊長から、重機関銃隊も玄武湖に行き、玄武湖では湖の中にある道まで連れて行き、前と後ろから重機関銃で撃つ方針であると聞かされた。
 いくつかの建物で捕まえた便衣兵は三百二十八名になった。一ヵ所に集められて、玄武湖に連れていくことになったけれど、ほとんどの中国兵は見つかったときからあきらめており、素直に従っ
た。しかし中には、これからわれわれをどうするのかと、身振り手振りで日本兵に話かけてくる兵隊もいる。
 玄武湖に向かって数十分はどすると玄武門が見えだした。玄武湖は玄武門の外にある。玄武門の近くにはバラック風の家が幾棟か建っているけれど、住民は避難していて、誰もいない。ほとんど
の門がそうであるように寂しい場所である。
 しかし、玄武門に着いてみると、玄武門は閉じられて、内側には土嚢が積み上げられていた。玄武門の両脇近くに土が盛られて、ここでも中国軍は日本軍の城内進出を防ぐつもりでいたらしい。
 土嚢を取り除いて玄武門を開けるのは簡単ではなく、そこで急遽方針は変更され、中国兵は城壁の内側で射撃することにした。
 中国兵は第四中隊の兵隊たちによって土が盛られている辺りに集められた。
 重機関銃隊の小隊長が中国兵の三十メートルほど手前に二台の重機関銃を据えるように命令した。一台は山室分隊の重機関銃である。
 二台の重機関銃が据えられると、さらにその脇に第四中隊の軽機関銃が四台ずつ据えられた。準備が整い、山室分隊長は、射手の後ろで小隊長の命令を待った。
298日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 14:49:56 ID:urlGlEiP
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 そのとき、射手の位置に着いた牧上等兵が気が進まないようなそぶりをした。それは一瞬であったけれど、山室分隊長は見た。つい先ほどまで牧上等兵は中国兵を相手に撃っていたけれど、たく
さんの中国兵をみて尻込みしたのか、あるいは抵抗する力もなくなった中国兵を見てかわいそうに思ったのか。しかしこれは軍事行動である。小隊長の命令が出れば、分隊長としては従わなければ
ならないし、分隊長が命令したら射手は撃たなければならない。今やそのときはせまっている。
 とはいうものの山室分隊長は牧上等兵の気持ちが分からないわけではなかった。なんとなく撃つのがいやになる日もあるのだ。この場合は自分が射手になって命令を守ることだ
と思った。そう思うと、自分と代わるように牧上等兵に直ちに命令した。
 分隊長の山室伍長が射手の位置につき、牧上等兵は弾込めの位置についた。
 そのとき、突然、 「さがれ」 という命令が玄武門一帯に響いた。門の前で中国兵を並べていた日本兵は一斉に両脇に散った。
 今度は小隊長の、「撃て」 と叫ぶ声がした。
 山室分隊長はその声を聞くと、重機関銃の引き金を引いた。
 つぎつぎ中国兵が倒れていく。中国兵は何列にもなっているので、前列の中国兵が倒れると、次の中国兵が倒れる。開始された敗残兵掃討作戦
 中国兵の両脇には玄武門に沿って日本兵が銃を構えているため逃げる中国兵は一人もいない。
 数列になっていたため弾の当たらない後方の中国兵がひょいと頭を上げる。そうすると両脇にいる歩兵がその中国兵を狙って撃つ。
 中国兵は全員倒れた。射殺はアッという間に終わった。
 冬の南京は日が暮れるのも早く、玄武門に着いたときはまだ明るかったけれど、既に辺りは暗くなっていた。
 山室分隊長はこれで亡き戦友のかたきを取れたと思った。
 日本兵は倒れた中国兵の上に、門のまわりにあった土をかけ、この日の掃討作戦を終えた。
 山室分隊は再び町の方に戻り、税務署に宿営することにした。
 山室分隊長は京都を出発するときから日記を持っていた。日記は分隊長として持参を許されていた小さいバッグに入れて、時間があるときに一日の主な出来事を書いていたけれど、この日の日記
には次のように書いた。
 「市内の敗残兵を掃討す。五、六百名の敗残兵を捕らえ、そのうち三百二十八名を午後四時、玄武湖に連行すれど門が閉まっていたので城壁に面せしめて、重機関銃、軽機関銃の一斉射撃で永眠さす。
 噫乎憐れなる敗戦国の民よ!
 自分も今日は吾が分隊の奥山、川勝の勇士や有傷せし足立、糸井の復しゅうだと射手となりて射撃した」
 翌十五日も南京城内には中国兵がまだ隠れているというので福知山連隊は掃討を続行することになった。第四中隊が同じように任務についたけれど、この日は第四中隊だけで十分だというので重
機関銃隊の山室分隊は宿舎に残った。
 山室分隊は残ることになったのでさっそく重機
299日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 14:50:59 ID:JWbYM+S5
P210
関銃の手入れをした。戦場では休みなどはない。重機関銃の手入れが済むと、衣服の手入れを行った。兵服は汚れていて、いたるところすり切れている。兵服の手入れは久し振りであった。
手入れが一段落したとき、山室分隊長は昨日射殺した中国兵のことが気になったので、ひとりで玄武門まで見にいくことにした。
 玄武門まで行くと、昨日死体の上にかけた土が崩れており、土の上には新しい足跡が残っていた。足跡を見ると、四、五人のものらしかった。射殺から逃れた中国兵の何人かが日本軍が引き上
げた後、逃げたのだ。全滅させたと思ったけれどひとり残らず射殺することはむずかしいものだ、と足跡を確かめながら思った。足跡は町の方に伸びていた。
 それにしても、日本軍は全員が死んだかどうか確かめもせず、土をかけたまま引き上げているし、中国軍も日本兵の何倍もの兵力がありながら抵抗したり逃げたりしない。もし三百数十名の中
国兵が一斉に襲いかかれば。日本軍はどうなったか分からない。少なくとも相当数の中国兵は逃げることができるのではないか。後で考えればいくらでもよい方法が考えつくものであるけれど、戦
場ではお互いに錯誤の連続であると思った。
 午後になると、南京城の外にも相当の敗残兵がいるというので、山室分隊は郊外の掃討作戦に向かうことになった。
中国軍には十二日の夜遅く、撤退命令が出ているが、中山門外や紫金山で戦っ七いる中国兵には知らせが伝わっていなかった。これら中国兵は支援もなく孤立し、その上、日本軍の攻撃に会い、
紫金山かな湯水鎮にかけての広い地域に散在していた。山室分隊に命令されたのはこの敗戦兵を掃討する作戦に従事することであった。
 山室分隊は翌十六日も南京郊外で掃討作戦に従事した。
 南京から数十キロメートル離れた鎮江にいた中国兵は日本軍に敗れた後南京方面に向かっていたから、湯水鎮から鎮江にかけても多くの敗残兵が出没していた。既に上海と南京の間では敗残兵が
あちこちに出没していて、日本軍の輜重隊に襲いかかっており、敗戦兵を掃討しないかぎり、日本軍の犠牲は増えるだけである。
 山室分隊は第一中隊に同行して南京郊外の馬群から鎮江に向けて十数キロメートルほど行った。しかし、敗残兵とはほとんど遭遇しなかった。広い中国では当然なのかもしれない。
 十六日は日没とともに小さい部落に宿営した。

光華門の戦場掃除
 光華門を占領した鯖江連隊は、そこから城内に入ったけれど、中国兵はほとんどおらず、翌十四日には光華門を戦場掃除することになった。
 死んだ兵隊たちを確認して、荼毘に付す戦場掃除は、戦闘が一段落した後、真っ先にやる。死体は各中隊ごとに荼毘に付することになっていたから、最も激しく戦った第一大隊の中隊が中心にな
って戦場掃除をすることになった。この日は西坂上等兵たちの第六中隊も光華門に向かうために城内の宿舎を出発した。
 光華門の瓦礫の中では何人もの日本兵が死んでいた。第一大隊は十日に光華門に突入し、その後二日間にわたり中国軍からの攻撃が続き、倒れた日本兵の上に城壁の瓦磯が崩れ落ち、土嚢や木材
が投げ込まれた。光華門の戦いでは二百人の兵士がたおれた。
 第一大隊の各中隊は、瓦礫を取り除き、木材や土嚢を運びだし、同じ中隊の兵隊をひとりひとり確認していった。戦場では顔面が撃たれて、誰なのか分かちなくなることもあるけれど、兵隊は認
識表を紐に結び付けて、その紐を体に直接たすきがけしているのでどの兵隊か分かる。
 西坂上等兵たちの第六中隊では戦死者がいなかったので、光華門外の戦場掃除にあたった。城外には中国兵の戦死体もあり、それを見た伊藤中隊長は、
 「仏様は日本兵も中国兵も同じだ。ていねいに埋めてやれ」
 と兵隊たちに命令した。
 西坂上等兵は数人の中掴兵を埋めて、念仏を唱えた。
 戦いの後だからといって必ずしも戦場掃除ができるわけではない。上海では戦場掃除をする余裕がなかったので、西坂上等兵は死んだ戦友の歯を叩いて取り、それを背嚢に入れてきた。歯だけで
なく、髪の毛を切り取ったり、爪を切り取って遺骨がわりにする場合もある。上海でのときはすぐに追撃戦に移ったので歯を遺骨代わりにする方法しかなかった。いつも死体を焼いて荼毘に付し、
骨を遺骨として持っていけるとは限らない。もちろん中国兵の死体に心を配る余裕もなかった。
300日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 14:53:39 ID:JWbYM+S5
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 光華門での戦場掃除は十五日も行われ、日本兵の死体はこの日荼毘に付された後、埋めて墓標が建てられた。死体を焼いた木材は、近くにある民家から集められてきた。日本兵が埋められた近く
には中国戦士を悼む墓標も建てられた。
 西坂上等兵たち第六中隊は戦場掃除が終わると、そのまま申家巷の宿舎にとどまり、十六日からは、宿舎で兵器と被服の手入れを行った。
 中隊長からは、南京は中国の首都であり、軍紀を一層厳しくするようにとの命令がだされた。公用以外に外出は禁止され、外出できる者は中隊長の許可証のある者に限られた。しかも単独外出は禁
止された。既に十四日から憲兵が城内に出ており、日本軍は規律が守られ、城内は整然としていた。
 鯖江連隊が城内に入ってから、辺りは静かで、混乱は何ひとつなかった。
 光華門のちょうど真西にあたる水西門からは都城連隊が入ったけれど、都城連隊は市民とも中国兵とも会うことはなく、十四日以降は水西門内の民家に宿営することになった。
 町の中央から流れてくる秦淮河は水西門のすぐそばを通って流れていく。かつてこの河では秦の始皇帝が船を浮かべて遊んだといわれ、そう言い伝えられるほど秦淮河に沿った
辺りは昔から賑わっていた。南京の中心街であり、秦淮河に沿った地域は色街として有名である。しかし、長年の間に民家が密集しすぎ、建物は古くなり、今はごみごみした下町に代わっていた。
 鎌田上等兵たちの宿営した民家の回りもそういった民家が立ち並んでいる。しかし、市民は避難していてひとりもいなかった。
 南京城を南から攻撃したのは、都城連隊の第六師団と宇都宮連隊の第百十四師団である。宇都宮連隊の高松分隊は十四日に中華門から場内に入
り、掃討作戦に従事したけれど、敵と遭遇することはなかったため、その日のうちに城外に出て、雨花台にある建物に宿営した。
 十五日は新たな作戦はなく、高松分隊は、その建物で久し振りに兵器と被服の手入れをした。どの兵隊も髭が伸び、顔は垢と疲れでどす黒くなっていた。こんなにのんびりするのは久し振りであった。
 高松分隊がのんびりしている十五日の夜遅くになり、宇都宮連隊本部には、杭州攻略のため十七日には南京を出発せよとの命令が出された。
 杭州は、宇都宮連隊が上陸した杭州湾よりさらに南にあり、南京からは二百キロメートル以上も離れている。浙江省の省都で、揚子江下流では、上海、南京と並ぶ都市である。上海、南京、杭州
を結ぶと、揚子江下流で三角形をなし、杭州は戦略的にも重要な都市である。日本軍は南京に続き、ここをも占領して、揚子江下流一帯を完全に日本のものにしようとした。そのため無湖を占領
していた第十八師団と、南京を占領したばかりの第百十四師団を杭州を攻略するために向かわせることになり、第。百十四師団は南京を攻略したばかりなのに再び反転することになった。
 翌十六日、兵隊。たちにはまだ新しい命令は出されず、高松分隊は雨花台の建物の中でのんびりとして、やがて南京見物でもできるだろうなどと話していた。一昨日、城内に入ったけれど、それは南
京のごく一部で、それまで話に聞いていた南京とは大分違う。中国の首都南京を攻略したのだから、ゆっくり南京の町を見たいものだと思っていた。
 ところがそんな話をしていると、突然、至急出発の準備せよ、との命令がきて、まもなく、弾薬、乾麺包などか次々渡された。出発は明日早朝だという。高松分隊はびっくりした。
(つづく)
301日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 22:38:18 ID:QYrszaah
>>291
連日お疲れ様です。
続きを期待していますw
302日出づる処の名無し:2010/08/08(日) 22:49:25 ID:OAXcVNNC
これって全部地道にタイプしたのかな? もしそうだとしたらマジでお疲れ様としか
303日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 00:54:31 ID:kl4yzK+z
丸MARU 1990年3月号 通算524号 P206
兵士たちの「南京事件」城壘 連載15回

P206
折りかさなる中国兵の死体
 十二月十四日、南京郊外で大量の中国兵を捕まえた会津若松の第六十六連隊は、十六日になると大きい問題を抱えるようになった。中国兵に食べさせる物がなくなったからである。せめて飲み水
だけと思ったけれど、近くには飲み水もなかった。栗原分隊長が監視していると、兵舎に収容されている中国兵が兵舎から顔を出し、すぐそばを流れる側溝に顔をつけて汚水を飲んでいる。汚水
といっても、兵舎に収容された数千人の中国兵の小便が流れているものである。それを見て、中国兵をかわいそうに思ったけれど、栗原分隊長には他に良い方法はみつからなかった。
 山田栴二旅団長以下の司令部はすでに多数の中国兵を捕らえたときから中国兵をどうするかで頭を悩ませていた。南京での戦いは殲滅戦になると考えていたから、中国兵を捕まえるとは思っても
みなかった。しかも会津若松の連隊に捕まえられた中国兵は、いろいろな部隊からの集まりで統制は取れていないから、監視するだけでたいへんである。さらにその中国兵は捕らえたときから飢え
ていたので日本軍が食べさせなければならない。日本兵すら満足に食べていない補給態勢で、日本兵の倍もいる中国兵に食べさせることは不可能であった。多数の中国兵を収容できる兵舎が近くに

P207
あっただけでも運が良いといわなければならない。
 山田旅団長は、中国兵を捕まえた翌十五日には揚子江の左岸を進んでいた師団司令部に指示を仰いだ。本間少尉を師団司令部に派遣したところ、始末せよとの返事が返ってきた。師団司令部も南
京を包囲殲滅するために、迂回して北から南京に向かおうとしている。たくさんの中国兵を捕まえることなどてんから考えていなかったから、このような決まりきった答しか返ってこなかった。
 山田旅団長はそこで翌十六日には相田中佐を南京城内に進出していた上海派遣軍司令部にやった。しかし、上海派遣軍司令部からも名案は来なかった。
 そのころ南京城は日本軍が完全に制圧して、会津若松の部隊には十九日に揚子江を渡って浦口に進出するように新たな命令がきた。多数の中国兵を連れて浦ロまで行くわけにはいかない。かとい
って釈放すれば、中国兵は結集して、再び日本軍に敵対する恐れがある。
 そこで山田旅団長は両角業作連隊長と相談して、中国兵を揚子江の中州に移すことに決意した。中州に移せば連隊は身軽になるし、中国兵は一時的に隔離されるから、日本軍に脅威になることもない。
 十七日午後、兵舎の警備についていた第一大隊に、揚子江岸まで中国兵を護送せよという命令がきた。そのとき兵舎の回りで警備していた栗原分隊など百三十名ほどが護送することになった。
 護送するといっても数千人という多数の中国兵だけに準備が大変である。中国兵が一斉に暴れだ
304日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 00:55:32 ID:kl4yzK+z
P208
したら危険なので、それぞれを後み手に結わえることにした。何千人分もの縄があろうはずもなかったので、主に中国兵が足に巻いている脚絆を使った。脚絆は厚い布でできているから、完全に結
わえられることはできず、気休めにすぎなかったが、結わえないよりはましてある。そうやって一人でも多くの中国兵を結わえることにした。
 言葉が通じない上に、中国兵は素直に従わないこともあり、ひとりひとり結わえて整列させるまで半日近くかかった。ようやく準備を終わり中国兵を四列はどの列にして進むことになった。
 兵舎を出発したのは夕方近くである。日本兵は全員銃に着剣して護送することにしたけれど。数千人ほどの中国兵に対し日本兵は十メートル間隔ほどになる。一番後方を護送したのは栗原分隊長であった。
 栗原分隊長は、ニカ月前、上海の中国陣地を攻撃してる最中、迫撃砲の反撃を受けたことがあった。迫撃砲弾は栗原分隊長のニメートルほどのところで爆発し、爆発と同時に持っていた銃が吹っ
飛び、吹き飛んだ土砂で埋められた。回りにいた部下が、分隊長がやられた、と叫ぶ声を、土の中で聞いた。そのとき、部下の叫んだ声は夢かうつつかと思った。兵士の声を聞きながら体を動かそ
うとすると、土砂の中で手足が動いた。そこで必死になってもがき、起き上がった。起き上がってみると、体中が泥だらけであったけれど、血は流れていなかった。
 奇跡的に助かったのだ。あと半歩後にいたら、そうでなくとも、数センチ横にずれていたら死んでいたはずである。
 そんな体験をしているだけに死を恐れる気持ちはなかったけれど、これはどの中国兵と一緒だと恐ろしくなってくる。中国兵を護送してるのか、中国兵に取り囲まれているのか分からない。
 夕暮れが迫ってきて、一層日本兵の恐怖を倍加していった。
 そのうち一人の中国兵が逃げようとしたのか、水を飲みたかったのか、隊列を抜け出し、小さな沼に飛び込んだ。それを見た一人の日本兵が飛び込んだ中国兵を撃った。撃たれた中国兵は沼の中
で僅かの間もがいていたけれど、すぐに動かなくなり、やがて体から血が流れ出て、沼の水を赤く染めだした。
 そのときの銃声が中国兵と日本兵の間の緊張をさらに高めた。
 日本兵も中国兵もそれを見ながら行列は続いた。
 すでに出発して二、三時間が過ぎ、前のほうはもう揚子江岸に着いているようであった。中国兵の歩みはだらだらとして、普通の倍の時間がかかっていると思われた。
 もしこの中国兵たちが一斉に日本兵を襲えば、日本兵はひとたまりもないだろう。そんなことを栗原分隊長は思った。
 そのとき、列の前のほうで何か騒ぐ声が聞こえた。栗原分隊長は、その声が中国兵の声のような気がした。聞こえたかと思うと、それは「ウワーン」という異様な騒々しさに変わって、すぐに栗原分隊
長が護衛する最後部の中国兵まで伝わってきた。
 目の前の中国兵の間で動揺がおきだした。中国兵は勝手に騒ぎだした。前の方から騒ぐ声が聞こえたのと最後部の中国兵が騒ぎ出したのは一瞬の間で、栗原分隊長は、一体何がおきたのか全く分からなかった。
 と思う間もなく、中国兵は、一斉に逃げだした。
 中国兵は回りが騒がしくなったので、それを利用して、逃げようとしたのだろう。あるいはそんなことを考えずに何も分からないままに逃げたのかもしれない。中国兵の中には今きた方向に逃げ
る兵もあれば、前方に逃げる中国兵もいた。日本兵に襲いかかるというより、ところかまわず逃げるという混乱になった。中央に逃げた中国兵は押し合いへい合いして、倒れた中国兵の上を別の中
国兵が逃げるという大混乱になった。
 中国兵が急に逃げ出したので、日本兵は夢中になって銃を撃った。銃を持っているとはいえ、日本兵はわずかである。威嚇するために空に向けて撃った兵隊もいた。自分の身を守るために目の前に
いる中国兵に向けて撃った兵隊もいた。先頭にいた重機関銃隊は重機関銃で撃った。命令も統制もなかった。百数十人の兵隊がそれぞれ勝手に撃った。中国兵と日本兵入り乱れての大混乱になった。
 群集心理として、混乱状態になると人の集まっている方向に逃げるものらしく、中央には中国兵が集まった。四方八方から中国兵が集まり、中国兵の上に中国兵が飛び乗り、さらにその上に別の
中国兵が上って逃げようとする。天空に逃げようとしても逃けられるものではないが、中国兵は空に向かって逃げる。またたくまに人の柱ができた。しかし人の柱は数秒後にどっと崩れる。また
中国兵が集まって人の柱ができ、崩れる。中央ではそれが何度か繰り返された。柱が崩れるたびに
305日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 00:56:25 ID:kl4yzK+z
P209
中国兵が折り重なる。最後方にいた栗原分隊長はただ呆然とその光景をみつめるだけであった。

揚子江に捨てられた多くの屍
 日本兵の銃火から逃れ、中国兵はどんどん逃げていく。中国兵はまとまって日本兵に襲いかかる考えもなく、ひたすらそれぞれの方向に逃げた。そんな混乱が何時間か続いた。あるいは何十分だったのかもしれない。
 逃げることのできた中国兵は全員逃げてしまい、ようやく混乱がおさまった。
 中国兵が逃げた後にはおびただしい数の中国兵が倒れていた。重機関銃で撃たれた者、歩兵銃で射殺された者、踏まれて圧死した者などさまざまである。
 その光景を見ながら日本兵は誰もが呆然としていた。しばらくして、ようやく我にかえった日本兵は、誰もが何とかしなくてはならないと、めいめいが動き出した。
 栗原分隊長は中央で折り重なっていた死体を崩した。上海では顔の砕けた日本兵や腕のとんだ日本兵などかずかずの死体を見てきたが、これだけの死体というのははじめてである。折り重なった
中に虫の息の中国兵がいた。苦しませてはと思い、栗原分隊長は銃剣で刺し殺した。
 とにかくこの死体をどうにかしなくてはならない。しかし、だれも虚脱感に襲われていた。戦場とはいえ、想像もできない出来事だった。何もはかどらなかった。
 そのため、いったんは死体の山を崩したものの、今夜はそのままにして兵舎に戻り、明日改めて死体処理をすることに決った。
 第一大隊の兵隊が兵舎に戻ったとき、すでに真夜中になっていた。
 翌十八日は第一大隊だけでなく、他の大隊の兵隊も連れて行って死体を処理することになった。昨日、南京に来たばかりの補充兵も連れて行った。
 補充兵にとって会津若松を発ってはじめて自分の部隊に追及したところ、最初に連れて行かれたのが死体の山である。累々たる死体を見て、補充兵はだれもが驚いた。息を飲み、声にならない声をあげていた。
 栗原分隊長は、満州で匪賊の死体を見て、上海でも数多くの死体を見た。自分で焼いた死体もある。そういう経験をしていながら、この死体の数にはすさまじいと思ったから、戦場がはじめての
補充兵がどのくらい驚いたかは想像もできなかった。補充兵は戦場は本当にむごいものだと思っただろう。栗原分隊長はそう思った。
 死体を処理するといってもあまりに多いので焼くこともできず、埋めることもできない。結局は揚子江に流すことにした。
 兵隊たちは辺りに生えている柳の枝で手鈎を作り、死体に引っ掛けて引っ張るなどして揚子江岸まで運び、そこから揚子江に流した。
 作業はその日一日かかった。夜遅くなってよう
306日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 00:57:05 ID:gy0vP3+h
相手は兵士狩りして徴用してんだから、
国に戻って村を守れ、とか言って解放する以外に、
妥当な手当もあったもんじゃないとは思うけど、まあ、
困るね。
307日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 00:57:51 ID:nY/8WMtf
P210 やく終わった。
 護送の指揮を取った第一大隊長は、中国兵を舟に乗せて中州に連れて行き、そこに釈放する予定でいた。中州といっても日本でいえば島にあたり、民家もあればたくさんの人も住んでいる。と
ころがこの中州には南京が陥落しそうになった時から中国兵が逃げていて、中国兵を乗せた最初の舟が近付くと、既に逃げていた中国兵が一斉に撃ってきた。これを岸で見ていた中国兵が揚子江で
日本兵に射殺されると勘違いしたらしく、騒ぎだし、日本兵に襲いかかった。それがきっかけで一瞬のうちに大混乱になってしまったのだ。
 第一大隊では将校も含めて七人が死んだ。しかし、あの大混乱で死んだ日本兵が七人だったとは奇跡的なことである。

松井軍司令官、涙の南京入城
 十二月十七日午後一時半から南京では入城式が行われた。よく晴れた日であった。
 中支那方面軍司令部は十二月七日から蘇州に移っていたが、二日前、南京郊外の湯水鎮まで軍司令部を進めていた。
 軍司令部では松井石根軍司令官が二ヵ月に及ぶ上海戦の心労から体を悪くしていた。その上、蘇州に移ったころから風邪気味で、肺炎の恐れもあった。そのため松井軍司令官は、皇后陛下からいた
だいたというお手製の毛糸の襟巻きを離さなかった。それでもようやく体の調子も良くなってきたので、十五旦飛行機と車で湯水鎮に進んでいた。
 司会部が上海−から進むとともに、高木衛兵長は衛兵をひきつれて従った。蘇州、湯水鎮と松井石根軍司令官の護衛の任にあたってきだけれど今日の入城式には先導役をつとめることになっていた。
 十二時半になり、松井軍司令官は車で湯水鎮の軍司令部を出発し、アスファルト道路を南京城に向かった。道路の両脇は松林が続いている。
 一時二十五分に中山門の外に着いた。
 既に南京城に入っていた上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦中将と第十軍司令官柳川平助中将が中山門外で松井軍司令官を待っていた。
 今日の式典は中山門から一キロメートルほど入ったところにある国民政府の前庭で行われる予定である。そして、中山門から式典会場までは松井軍司令官以下が馬で入城行進することになってい
た。中山門は瓦礫や死体がかたづけられ、中山門から城内に続く中山東路も掃き清められ、南京城はすっきりしすぎるほどきれになっていた。中山門から国民政府の建物のあるところまでの中山東
路には各部隊から選ばれた兵士たちが参列している。どの兵隊もそれなりにこぎれいにしていた。北を背にして上海派遣軍の将兵の代表が、南を背にして第十軍の将兵の代表が並んでいる。
 数十人の新聞社のカメラマンたちが、並んだ兵隊の間や中山門の上で、あるいは中山東路の電柱に梯子を掛けて松井軍司令官を待っていた。カメラマンだけでなくニュース映画のカメラマンはア
イモを持って、NHKのアナウンサーはマイクを持って待ち構えていた。 松井軍司令官は中山門の前まで来て、そこで馬に乗り換えた。
 一時半、松井軍司令官が先頭になり中山門から南京坂に入った。十メートルほど後方を朝香宮軍司令官と柳川軍司令官が並び、さらにその後に師団長、軍参謀長、師団参謀長、軍参謀などが続い
た。高木衛兵長は憲兵隊長とともに松井軍司令官の五十メートルほど先を先導した。
 海軍の軍楽隊は南京の北西から入城した。空には飛行機が舞っていた。日露戦争で日本軍が奉天を攻め、大山巌軍司令官が入城式を行ったときに並ぶ晴れがましい入城式であった。
 この入城式には数千人の兵隊が参加したけれど、都城連隊を代表して鎌田上等兵も参加した。
 南京城一番乗りを果たした鯖江連隊は脇坂連隊長以下ほとんどが出席した。出席しなかったのは宿舎の当番だけである。
 西坂上等兵も第六中隊の一人として中山東路に整列して松井軍司令官を待った。
 間もなく、先導された松井軍司令官が見え、鯖江連隊の前まで進んてきた。
 西坂上等兵は軍司令官が進んでくるのを見ているうちに、軍司令官の顔がかすんできた。死んだ戦友の顔が浮かび、よくここまで生きてくることができたという気持ちや、ついに南京を陥落させ
たという気持ちがないまぜになって自然に涙が出たからである。溢れた涙はやがて目から流れ落ちた。
 中山東路を進んだ松井軍司令官は、国民政府の建物の前までくると右折し、国民政府の前庭に入った。長谷川清支那方面艦隊司令長官以下の海軍将兵は、既に南京の揚子江口にあたる下関より南
京城に入り、国民政府の建物で松井軍司令官を待
308日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 00:58:55 ID:nY/8WMtf
P211
っていた。入城が済むと前庭には日の丸の旗が掲げられた。そのあと遥拝式を行い、松井軍司令官の発声で全員が大元帥陛下万歳を三唱した。松井軍司令官は感激のあまり第二声を発することができなか
った。
 続いて松井軍司令官が挨拶を行った。そこでも思わず松井軍司令官は涙を流した。
 この後、全員、建物の中に入り、酒とするめで祝い、再び長谷川長官の発声で大元帥陛下万歳を三唱して式典を終えた。
 入城式が行われた十七日、南京城外の雨花台にいた宇都宮連隊の高松分隊長は暗いうちに起きた。宇都宮連隊では第三中隊だけが代表として入城式に参加することになっていた。第三中隊以外
は入城式に参加せず、杭州に向かうことになっており、高松分隊長は夜が明ける前、南京城を後にした。暗い中をつい一週間前に来た道を戻り出した。
 高松分隊長の頭の中では、二晩中鳴り響いていた砲弾の音が今も鳴っていた。入城式を祝うこともなく、南京は砲弾の飛び交う戦場、という印象だけが残った。
 入城式の行われた同じ日、郊外ではまだ敗残兵掃討が続いていた。福知山連隊の山室分隊も敗残兵掃討のため南京郊外にいた。前日同様この日も第一中隊とともに掃討作戦に従事していたけれ
ど、敗残兵とほとんど遭遇しなかった。昨日と今日の二日間で掃討した敗残兵は二十人ほどであった。
 昼近くになり、第一野戦病院の警備のため下騏麟門に向かうことになった。下騏麟門は中山門から郊外に延びる中山公路の途中にあり、中山門から十キロメートルほどの所である。
 一時間ほどして下麒麟門に着くと、第六中隊が数千人の敗残兵を捕まえて、これを南京に連行するところに出会った。四列にしても千メートルも続く敗残兵である。山室分隊は遭遇することがな
かったけれど、郊外にはまだ多くの中国兵がいるということであった。
 この日、華やかなうちに入城式は終わったけれど、夜になると南京は冷え出し、翌十八日は朝から小雪のちらつく天気になった。
 十八日の午後二時から、上海と南京の戦いで没した将兵の霊を慰めるために慰霊祭が行われることになっていた。日本軍は上海と南京の戦いで日露戦争以来という多数の戦死者を数えていた。
 慰霊祭の会場は国民政府の建物より中山門寄りにあふ故宮飛行場と呼ばれる城内飛行場があてられた。飛行場には祭壇が設けられて、中央には、中支那方面陸海軍没将士之霊、と墨で書かれた白
木が建てられ、午後一時までに数千人の兵隊が整列を終えた。
 前日、中山北路にある首都飯店に宿泊した松井軍司令官は、兵隊が整列を終えた一時に宿舎を出発し、故宮飛行場に向かった。式場では、それからしばらくして柳川軍司令官以下、師団長、軍参
謀長、師団参謀長らが整列をした。やがて朝香宮軍司令官が到着し、一時五十分になると、松井軍司令官が長谷川司令長官と共に到着した。
二時、慰霊祭が始められた。
 昨日とうって変わった天候で、将兵は身が引き締まり、式は厳かに進められた。
 この日もたくさんのカメラマンたちが集まり、霊前の前で祭文を読み上げる松井軍司令官を撮ろうとカメラマンたちは祭壇の近くまで進んだ。
 松井軍司令官は、没した兵士に思いを馳せ、涙を流した。カメラマンたちは涙を流す松井軍司令官を見て驚いた。
 三十分ほどで慰霊祭は終わった。その後、松井軍司令官は、参列した軍司令官、師団長たちを前に、軍紀を一層厳しくするように訓示した。
 そのころ、南京郊外にいた山室分隊はに、野戦病院の警備であったので、兵器の手入れをしたり、のんびり手紙を書いたりしていた。山室分隊長も手紙を書いて、日記を整理した。
 夕食には馬を処分して料理することになったので、福知山の兵隊たちは大騒ぎして喜んだ。(つづく)
309日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 00:59:56 ID:nY/8WMtf
丸MARU 1990年4月号 通算525号 P196
兵士たちの「南京事件」城壘 連載16回

P196
首都南京はつかの間の平和
 南京城の北側にいた会津若松第六十五連隊は、十二月十七日にかつて経験したこともない異常な出来事が突発したため、浦口行きを一日延期することになった。当初の出発予定日だった十九日、
連隊は幕府山麓の上元門で休んだ。
 兵隊たちが久し振りにのんびりしていると、一昨日の入城式に参加した兵隊が来て、入城式の様子を話し出してくれた。会津若松の連隊で入城式に参加したのはごく一部の将兵だけで、ほとんど
の兵隊は入城式があったことも知らなかった。
 栗原分隊長もそのときはじめて入城式があったことを知った。入城式は立派で堂々としていたという。
 中隊長もその話を兵隊たちと聞いていたが、しばらくすると、せっかく南京まで来たのだから南京城だけでも見に行こうと栗原分隊長を誘った。
 南京城は遠くに見るだけであったので、栗原分隊長もぜひ南京城を間近に見たいと思った。
 南京城は、入ることを禁止されていたけれど、中隊長が近くの城門を見るだけだと言うので、栗原分隊長ら二人は中隊長と馬に乗って行くことにした。
 上元門から小高い丘を越えてニキロメートルほど行くと、城壁が見えてくる。そこは南京城の北

P197
の門で、二人は門のそばまで行った。十メートルを越える城壁が目の前にひろがり、どっしりした城壁がどこまでも続いている。その城壁を見て、これが南京なのだ、と栗原分隊長は思った。
会津若松の連隊は一日のんびりしたあと、翌二十日朝早く上元門を出発した。しばらく進むと城壁の一部が近くに見えてくる。そのまま南京城壁を左に見て進み、下関から船に乗った。揚子江は
真っ黒い水が激しく流れていた。
  一方、南京城内は日に日に落ち着きを取り戻してきていた。鯖江連隊の西坂上等兵たちが宿営している辺りは、入城式が行われたころから中国人が即席の店を出し始めた。戦乱になれている中
国人は、占領地の情報をつかむことが早く、安全だとわかると、今までどこに隠れていたのか、アッという間に現れてくる。煙草が日本兵にとって最も貴重品だというのも知っていて、日本兵相手
に一本一本ばら売りを始める中国人も現れた。
 西坂上等兵たち第六中隊は宿営地の申家港でそのまま数日間のんびり過ごした。
 都城連隊の鎌田上等兵は入城式に出席した翌日、慰霊祭にも出席した。そして、その後は再び水西門内の民家に宿営した。
 はじめて水西門から南京城に入ったとき、辺りには一人の中国人も見かけなかったが。慰霊祭が終わるころにぼつぽつ市民が現れ出した。中国人は自分の家がどうなっているのか心配になってい
るらしく、自分の家が安全なのを確かめるとまたどこかに去って行った。
 入城式のころ南京郊外にいた福知山の山室分隊
310日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 01:32:16 ID:kl4yzK+z
P198
は、当初一週間ほど下騏麟門で野戦病院を警備する予定であったけれど、途中で変更になり、南京城内を警備することになった。
 二十日午後に南京城に戻り、その日は国民政府の建物のすぐそばにある国民大会堂の付近の建物に宿営した。
 二十一日は国民大会堂で福知山連隊の合同慰霊祭が行われた。この慰霊祭には山室分隊長も出席した。
 慰霊祭に参加しながら、山室分隊長は、南京陥落を夢見ながらたおれた兵隊を思い出し、思わず涙を流した。山室分隊では二人の兵士を失っている。
 国民大会堂近くでも南京市民たちが新しい生活を始め出していた。
 慰霊祭から三日後の十二月二十一日、南京攻略に参加した部隊に新しい命令が出された。
 中支那方面軍司令部は上海に戻ることになった。
 南京は中国の首都であるけれど、上海にはイギリスやフランスが権益を持つ租界地があり、各国の主なジャーナリストもここに集まっている。また日本の大使館も実際は上海で機能している。上
海は国際都市の名前にふさわしく、これから中国とのさまざまな交渉は上海が舞台になるはずである。中支那方面軍司令部が上海に戻るのは当然である。
 二十二日の午前十時半、松井石根軍司令官は司令部の幕僚とともに下関から水雷艇「鴻」に乗り、上海に向かった。
 南京には上海派遣軍司令部が残ることになった。南京攻略の直前、軍司令官に着任した朝香宮中将の司令部である。
 上海派遣軍の各部隊にも新しい命令が与えられた。第十六師団は南京に残って警備を続けることになった。第九師団は上海に戻り上海付近の警備をすることになり、既に揚子江左岸に渡っていた
第十三師団がそのまま揚子江の北岸を整備することに決まった。
 一方、第十軍は、杭州を攻撃することになったため、十八日の慰霊祭が終わるとともに軍司令部が杭州に向かっていた。隷下の第百十四師団も十七日に長興に向けて出発し、第十八師団も杭州に
向かっている。
 それまで蕪湖を警備していた第十八師団が杭州に向かうことになったため、代わりに第六師団が蕪湖を警備することになり、南京城西側にいた第六師団は二十一日から蕪湖に向かうことになった。
 中国では清の末期に、清朝と革命勢力との争いが起こり、その後は軍閥同士の戦いが続き、近年は国民党と共産党との戦いが繰返えされてきた。戦争がおきて時の為政者がいなくなると、その代
わりを町の古老や有力者がつとめる。それは中国人の長年の知恵で、中国各地で行われてきた。町の人望家が集まって作られる組織は自治委員会とか治安維持会などといわれてきた。南京でも早急
に中国人による行政機関か必要とされるようになってきた。そのため二十三日に自治委員会の準備
311日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 01:33:11 ID:kl4yzK+z
P199
会がスタートした。日本軍が南京城に入ってからわずか十日後である。
 委員長には六十一歳の陶錫山が就任した。中国では戦争のたびごとに多数の難民が発生したので、その難民を救助する慈善事業が早くから発達していた。陶錫山はこれまて十五年間にわたって
そのような慈善事業にたすさわってきて、南京に難民区が出来たときも中国人の会長として、市民の救済にあたってきた。自治委員会の委員長としては適役であった。
 副会長以下にも、慈善事業家や銀行の副頭取などが就任し、自治委員会発足の準備が進められることになった。
 当初心配された食糧も、国立美術館から一万二千俵の米がみつかるなどして、市民の生活は好転してきた。
 自治委員会の準備会が発足した翌十二月二十四日、鯖江第三十六連隊は新しい命令に従って南京を発つことになった。南京城に真っ先に突入し、そしてたおれた伊藤大隊長の霊に対し、鯖江連隊
は全員が別れの挨拶をした。早朝、光華門に、「伊藤善光大隊長以下の英霊に対し奉り捧げ銃!」と叫ぶ号令が響きわたり、この号令を合図に第三十六連隊は南京城を出発した。
 九月に鯖江を出発した兵士のうち、この日光華門をあとにした兵士は二割にも満たなかった。上海と南京の戦いがどれほど激しかったか。
 西坂上等兵たちは光華門を後にすると、中山陵を左手に見ながら句容に向かった。第三十六連隊と入れ代わりに、避難民たちが句容道を南京に向かってきた。郊外に避難していた市民も南京が安
全になったことを知っている。天びんに家財道具を積んだ市民と第三十六連隊は句容道でつぎつぎすれちがった。

難民地区で中国ゲリラ狩り
 国民大会堂近くの建物に宿営していた福知山連隊の第一大隊は、十二月二十六日、上海派遣軍司令部のある首都飯店と同じ並びにある軍政部に移ることになった。軍政部といっても首都飯店と比
べると小さい建物で、ここは上海で戦いが始まってから中国軍の臨時野戦病院として使われていたところである。軍政部では、日本軍が南京に近付くにつれ、運び込まれる負傷兵が増えていったけ
れど、逆に医師や看護婦は南京から疎開していった。山室分隊長たちが南京城内に入ったとき、軍政部には死者と動けない負傷兵だけが充満していた。しばらくして、十三人の医師と五十人の看護
婦が戻ってきたけれど、彼らの仕事は負傷兵の手当ではなく死体を運び出すことだけであった。かろうじて生き残った中国兵はその後日本軍医の手当を受け、別の建物に収容された。
 山室分隊長たちが軍政部を宿舎として使おうとしたとき、建物にはまだ消毒液のにおいが染み込んでいた。
 そんな軍政部ではあったけれど、軍政部に移ってから、山室分隊はのんびりとした日を過ごした。兵隊たちは泥と汗で汚れすり切れていた軍服を洗濯し、髭を剃ってさっぱりした。
 身の回りの整理が終わると、兵隊たちの関心は食べ物に集まる。
 商売上手な日本の商人が兵隊の気持ちを見透かしているかのようにトラックに食料を満載して上海からやってきた。上海から南京までの間は中国の敗残兵がいて、危険ではあったけれど、商人た
ちは商売のためにはそれでもやってくる。
 酒一合は二十五銭、五十本入の煙草は三円、羊羹は二十銭で、内地の何倍もの値段がした。それでも移動酒保が来ると兵隊たちはむらがり、トラックが到着すると同時になくなってしまう。
 山室分隊長は酒も煙草ものまないだけに甘い物には目がなく、いつも移動酒保が来るのを楽しみに待っていた。
 やがて昭和十三年の正月をむかえた。
 元日、軍政部にいた機関銃中隊は一堂に集まり、東天を遥拝し、天皇陛下万歳を三唱したあと、祝宴を開いた。
 祝宴ては、雑煮のほかに数の子、ごまめ、黒豆、鯛、えび、昆布、蒲鉾、ごぼう、といった正月料理が一人ずつ用意された。量は少なかったけれど、品数が多く、正月らしさをかもしだしてい
た。その他、酒、羊羹、みかん、日本米のご飯もついた。
 山室分隊長はこの後、准士官下士官の宴会に出席し、部隊は正月のお祝いで一日中賑わった。
 町では自治委員会の発足式が南京市民たちの間で華々しく行われていた。疎開していた市民たちはつぎつぎ戻ってきており、一日ごとに増え、南京の人口は二十数万人を数えるようになっていた。
 のんびり正月を迎えていた二日の夕方、突然、
312日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 01:34:08 ID:kl4yzK+z
P200
高射砲の音が南京城内に響いた。夕闇を利用して中国機が南京を爆撃するためにやってきたためである。すぐに日本軍から五機の戦闘機が飛び立ち、中国機はすぐさま逃げて行ったが、そのた
め、夜には火が外に漏れないようにとの注意が出された。噂によると、南京郊外には中国軍が大挙集結しているという話である。
 それでも南京では平和な日が続いた。
 第六師団では各連隊が十二月二十一日から蕪湖に向かったけれど、都城の連隊が最後まで残り、鎌田上等兵たちは水西門で正月をむかえた。
 鎌田上等兵たちもささやかに正月を祝い、一月三日、蕪湖に向かうことになった。
 城内にある難民区は日本軍が南京城に入った直後、金沢の連隊が掃討作戦を行い、便衣兵を摘発していたけれど、その後も市民はそのまま難民区で生活を続けていた。しかし、避難民をいつまで
も難民区で生活させていると、南京の町が復興しないので、暮れの二十四日から、難民調査を行い、南京市民であることがはっきりした者には安居証を渡し、自分の住まいに帰らせることにし
た。調査は日本軍と自治委員会とが手分けして行った。
 改めて行われた調査は一月五日まて続けられ、この調査てさらに二千人近くの便衣兵が摘発された。
 便衣兵は外交部に収容された。この中には難民区国際委員会の大学教授の助手をつとめていた中国軍の大佐がいて、大佐一味の中には、難民区の女性を襲って日本兵の仕業にみせかけている者も
いた。これら一味はたまたま摘発できたけれど、難民区国際委員会はアメリカの建物にあるため、ここまでは捜査することが出来ない。その他、中国兵かひそんでいることが分かっても、星条旗が
翻っているため、手が出せない建物がいくつもあり、調査は完全でなかった。アメリカは自国権益を主張し、日本軍とトラブルが絶えなかった。このため、調査は必ずしも完全ではなかったけれど、
日本軍も自治委員会もこれ以上徹底を期することはできなかった。
 一月七日になるとあらたに東京で編成された憲兵が南京にやってきた。それまでは上海憲兵隊と補助憲兵が憲兵隊としての任務を行っていたけれど、日本軍が本格的に南京を整備するようになっ
たため、南京憲兵隊が編成され、派遣されたものである。
 新しく派遣された憲兵隊は、日本兵の軍紀だけではなく、中国軍の謀略にも注意しなければならなかった。国民政府が南京を放棄した際、多くの間諜を放ったと予想された。そのままにしておけ
ば、日本軍の作戦がつつぬけになる恐れがあり、また、こういった間諜から日本軍司令部が急襲される可能性もある。南京の表面上の平静さとは違って、裏のほうでは憲兵隊による激しい情報収集
が行われていた。

届いた内地からの慰問袋
 正月が明けたころから、本格的な店も営業を始め出した。その前から泥棒市は町のあちこちに出始めていた。中国では、戦争がおきると、どさくさにまぎれて略奪が行われ、戦争が終わると、略
奪されたものが売りに出される。それが中国全土に見られる泥棒市で、南京でも絨毯から食べ物までさまざまなものが売りに出された。この泥棒市に続いて、本格的な店が営業を始め出したのだ。
最も賑やかなのは四、五十軒の店が開いている山中路である。
313日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 01:35:32 ID:nY/8WMtf
P201
 一月十日、国民大会堂で大娯楽会が開かれた。兵隊といってもまだ二十代の若者であり、この若者にとって戦場には何一つ娯楽らしきものはない。このために大娯楽会が開かれることになった。
 国民大会堂では午前十時から午後五時まで、四十五のさまざまな出し物が演じられた。大娯楽会では部隊ごとに何か喜劇を演じることになっていたのて、どの部隊も何日も前から練習を
してこの日にそなえていた。部隊ごとの喜劇の他に、長崎から来た芸者の踊り、手品、漫才、一剣舞、浪花節、民謡、ピアノ演奏などが喝采を博したけれど、兵隊たちの演ずる喜劇が最も喝采を浴びた。
 正月料理も大娯楽会も嬉しかったけれど、山室分隊長が最も喜んだのは慰問袋であった。
 慰問袋を最初に受け取ったのは一月八日である。そのときの慰問袋は、国防婦人会からのもので、中には氷砂糖、昆布、メンソレータム、褌三本が入っていた。戦場では必需品かなく、
不自由であっただけに、どんなものでもありがたがったけれど、それ以上に心のこもった思いやりに山室分隊長は感激した。
 慰問袋は十六日と十九日にも貰った。
 十六日の慰問袋は小学生からのもので、菓子、ちり紙、手拭、封筒、薬が入っていた。小学生らしい慰問袋で、この慰問袋にはさっそくお礼の言葉を書いた。
 十九日の慰問袋は三井合名会社からのもので、こちらは缶詰。小説、ブロマイド、氷砂糖、手袋、靴下、褌が入っている豪華な慰問袋であった。
 そんなのんびりした日を送っていたけれど、まもなく部隊には、南京を離れるという噂が流れ出した。
 南京城を攻めたとき、兵隊たちは、南京が日本軍のものになれは内地に帰れると思っていたけれど、中国では首都をおとされる前から蒋介石以下の中国政府の責任者が逃げてしまっている。それ
を聞いたとき、兵隊たちは、戦いは簡単に終わらないかもしれないと思った。
 南京を去るという噂は、南京を去って日本に帰るのではなく、もっと寒い所に行くという噂である。戦いは簡単に終わらないと思っていたからそんな噂を聞いても兵隊たちはそれほど驚きはしな
かった。
 噂はやがて現実になり、第十六師団は南京を出発することになった。行き先は誰も知らない。
 二十二日、第十六師団では順番に下関から船に乗り、南京を後にしはしめた。山室分隊は翌二十三日に南京を出発することになった。
 二十三日は寒い日であった。午前七時から船に荷物や馬の積み込み始め、ようやく兵隊たちが船に乗り終えたのは午後五時であった。四十日間も南京にいたので兵隊の中には中国人と顔なじみに
なり、親しくなる者もいた。親しい中国人に挨拶に行った者もいれば、中国人が挨拶に来たものもいる。
 第十六師団が去った後、南京は第十一師団が警備することになっていた。
 この日、山室分隊長は船に寝て、翌二十四日午前六時、南京を離れた。
 南京は戦争前に戻っていた(つづく)
314日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 01:36:24 ID:nY/8WMtf
丸MARU 1990年5月号 通算526号 P205
兵士たちの「南京事件」城壘 連載17回

P208
戦闘詳報を記載したのは誰
 昭和十二年十二月十三日、南京に突入した日本軍は、引き続き南京城内を掃討し、完全に占領し、その後、南京の警備を続け、翌年一月末に他の部隊と交替して南京を去った。
この間、日本軍の軍紀は完全無欠であったのだろうか。
 その点に関して言えば、必ずしもそうではない。
 松井中支那方面軍司令官は、南京に入城したとき、塚田攻参謀長より作戦状況の報告を受けたが、その報告の中には、日本軍が十数件の非行を働いたという憲兵隊の報告があった。これを聴い
て、松井軍司令官は激怒し、非行を働いた兵隊の厳正な処罰と、今後一層厳しく取り締まるように命令した。のち、東京裁判で松井大将が認めた日本軍の非行である。
 しかし、松井大将が怒った非行というものは、数万の人間がいれば、どんな社会にもあることである。それは軍隊も例外ではない。もちろんそのことはとがめればとがめられることである。
 このような軍紀とは別に、南京では、捕らえた中国兵についての問題があった。これが後に南京虐殺という言葉を生むひとつの原因となった。
 日本軍から見れば、南京戦は最も基本的な戦闘

P209
である。日本軍は南京を包囲して、中国軍を殲滅するために四方から南京に向かった。
 軍の作戦要務令には、攻撃の主眼は敵を包囲して之を戦場に殲滅するに在り、とある。殲滅とは敵を残らず殺すことである。包囲して、少しでも多く敵を殲滅する。多ければ多いほどよい。そう
すれば戦いは勝利し、早く終結する。それが戦争というものである。
 南京に向かった日本軍のうち、第十三師団と国崎支隊が長駆、揚子江を渡って左岸から南京に向かったのはそのためである。
 南京攻撃はこういった戦闘の基本に忠実に進みつつあった。
 十二月十日、中国軍は日本軍の降伏勧告を拒否した。拒否された後、日本軍は中国兵の殲滅以外は何も考えていない。第一線では激しい戦闘が繰り返され、あらゆる方法で中国兵を殲滅しながら
戦闘は続けられていた。
 一方、中国軍から見ても首都南京防衛を放棄することは建前の上で考えられず、降伏は一切ない。降伏する兵がいるとすればそれは敵前逃亡であり、中国軍には中国軍特有の督戦隊がいて、こ
ういった兵隊たちを直ちに射殺していた。中国軍には、日本軍を撃退するか自軍の全滅かしがない。包囲網から逃げるというのは最後の最後で、そしてもしそれができれば僥倖である。
 こうやって戦闘は行われており、日本軍は南京城に入った十三日以降も、軍服を脱いで便衣兵となって逃げ込んだ敗残兵を殲滅していった。この段階でも中国兵にとって降伏はない。日本軍に反
撃したり、市民に化けたりしていかに逃げのびる
315日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 01:38:33 ID:nY/8WMtf
P210
かだけである。
 ここで問題になるのは、殲滅だけを考えていた第一線の部隊に行き過ぎはなかったかである。中国兵がかわいくて仕方なかった松井大将にしてみれば、いくら戦闘とはいえ、どうにかならなかったのかという思いがあったのかもしれない。
 この疑問に関していえば、南京ではある時刻を境に戦闘が終わったものでもなく、多くの戦場の場合同様曖昧模糊としている。中国軍の反撃は終息に向かっているのか、これから大反撃があるの
か、日本軍は分からない。掃討戦を続けるだけである。兵隊たちは戦闘が続いているとの認識で、例えば福知山の部隊は捕らえた中国兵を玄武門に連行して殺したけれど、そのことを掃討作戦と考えていた。
 これが第一線の状況であったけれど、これに対して、後方では、捕らえた中国兵をその場で釈放したり、捕らえたままにして戦闘が一段落した段階で捕虜として収容したりした。
 このことが後に様々に言われるようになったのである。
 この他、南京では会津若松の部隊が直面した幕府山の出来事などがあった。これは突発的な出来事であるが、これらすべてが東京裁判のいう南京事件にあわせて虐殺だとみなす考えが戦後になり
生まれた。しかし、これは戦闘を知らない人の空論、あるいは、ひとつの現象面だけを取り上げた議論であろう。
 このように第一線での中国兵殲滅は、それまでの戦闘の流れの中で行われたのであり、虐殺とは全く別のものであるけれど、それではすべてがそうであったのか。
 しかし、殲滅戦と思われるこれら一連の戦いの中には、上からの命令によって中国兵を処刑したと公式に記録しているものがある。
 それは、高松伍長が所属していた宇都宮第六十六連隊第一大隊の戦闘詳報である。
 この第一大隊戦闘詳報が知られたのは今から十年ほど前、児島穣氏が週刊文春に『日中戦争』を連載して、その中にその一部を引用したときである。
 児島氏は、この資料をある部隊の戦闘詳報として、部隊名を記さなかったけれど、次のような内容だと紹介した。

 「午後二時零分、連隊長より左の命令を受く。
 左記
 イ 旅団命令により捕虜は全部殺すべし。其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。
   午後三時三十分、各中隊長を集め、捕虜の処分に付き意見の交換をなしたる結果、各中隊(第一、第三、第四中隊)に等分の分配し、監禁室より五十名宛連れ出し、第一中
   隊は露営地南方谷地、第三中隊は露営地南西凹地、第四中隊は露営地東南谷地付近に於て、刺殺せしむることとせり。但し、監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し、連れ
   出す際絶対に感知されざる如く注意す。
   各隊共に午後時準備終り、刺殺を開始し、午後七時三十分刺殺を終へり。連隊に報告す。
   第一中隊は、当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして、失敗せり。捕虜は、観念し恐れず軍刀の前に首を差し伸びるもの、銃剣の前に乗り出し従容とし
   居るものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり、特に隊長巡視の際は、各所に其の声起れり」
 このような戦闘詳報である。
 文語体と戦闘詳報独特の簡潔な書き方が読む人に凄さを想像させるが、ここに描かれていることはまさしく虐殺てある。戦闘詳報に書かれていることは本当なのだろうか。

虐殺命令は本当に出されたか
 この資料は、それまでの南京虐殺の証拠として出されたものと比べ、比較にならないほどの価値を持っていると言えた。なぜなら、それまで証拠といわれた多くのものは、中国兵が処刑されるの
を見たというものや、中国兵の死体を見たという類いのものである。しかし、戦場なら死体はいくらでもあるし、また、便衣兵の殲滅や反抗する中国兵の処刑は行われたから、死体や処刑がそのま
ま虐殺の証拠とはならない。また、兵隊が内地に書き送った手紙や、戦地で書かれた日記などにも悲惨な様子が書かれていることがあるが、戦場はもともとそういうものであり、悲惨な様子が書か
れているからといって南京が特別残酷な戦場で、南京で虐殺が行われたということにはならない。
316日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 02:33:02 ID:kl4yzK+z
P211
 こういった証拠と称するものが戦後数多く新聞などを賑わしたけれど、証拠というからにはもう一歩踏み込んだものでなければならない。
 その一歩踏み込んだものとして、かつて捕虜処刑の軍命令が出されたという証言が出された。すなわち、上海派遣軍の長勇参謀が捕虜処刑を命じたというものである。もしそうであればこれは重
要である。
 しかし、これも武勇伝のよくある長参謀のまわりにある話のひとつであり、まして敵味方が戦う戦場での話てあればそういう伝説があっても不思議ではない。結局、長参謀は情報参謀であり作戦
命令を下す地位にいなかったし、そういう命令もなかったことが分かり、証拠というほどのものではなかった。
 ところが第六十六連隊第一大隊戦闘詳報は、公式文書の形で捕虜処刑の命令があったことをはっきり伝えており、今までのものとは質を異にする。それ故、第六十六連隊第一大隊戦闘詳報は注
目すべきものであった。
 この戦闘詳報を見たほとんどの人は、噂にのぼっていた捕虜処刑についてやはり軍命令があったのかと思った。だから南京虐殺があったと主張する人が、これこそ捕虜虐殺の決定的証拠である、
と指摘するのも当然である。
 ところで、この資料が公開されると、軍人だった人の中から、公式文書とはいえ史料点検が行われなければならない、公式文書の形をとっているとはいえそれだけで全面的に信用できるものであ
ろうか、という声があがった。
 というのは、まず、数多く残っている南京攻略戦の戦闘詳報や命令綴には、上級指揮官が軍紀厳正を要求している命令はあっても、捕虜を殺せなどという命令は全くない。この戦闘詳報だけは例
外であり、不自然である。だから確かめなくてはならないというのだ。
 ある軍人は、この戦闘詳報を見て、
 「只々驚く他なく、戦闘詳報の記事は異常のものとして論じようもありません」 と述べた。それほど当時の軍の命令を知っている人にとっては信じられない内容である。
 次に、一般に言って陣中日記、戦闘詳報といったものは、戦闘中であれば砲弾の飛ぶ中でメモされたものを基にして後に書かれる。その際、記録すべき者が戦死などして、戦闘に参加していない
者がまとめることがある。その上、生死をかけたものであるから、敵の戦死者を多くみつもりがちだとか、実際以上に激しい戦闘があったとか、それだけにとどまらず、攻撃していないのに攻撃し
ている、占領していないのに占領していると書かれる場合もある。こういうことが経験的に知られていた。
 そのため、形の上では公式文書てあるが、そのまま鵜呑みにできない。ましてまだ証言者のいることであるから証言によって確認しなければならないというのだ。この意見は、中隊長など実戦て
指導を取り戦闘詳報と実際の戦場との差を知っている人に多かった。
 第一大隊戦闘詳報は防衛庁の戦史史料室にもあり、公式文書として残っている。そのまま点検さ
317日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 02:33:46 ID:kl4yzK+z
P212
れずに残されれば、南京虐殺が軍命令によって行われた証拠として残るであろう。
 本当に戦闘詳報通りの出来事があったのだろうか。
 そのことを点検するためには、まず、このときの第六十六連隊の戦闘状況はどうだったのか、それを把握しなければならない。
 戦闘状況を把握しようとするとき、最初に参考すべきは当時の公式記録である。
 当時の公式記録としては、中支那方面軍の命令綴、第十軍の作戦指導に関する参考資料、第百十四師団の作戦資料綴、第六十六連隊命令綴、野重砲第十三連隊命令などが現存している。
 しかし、これらをつないでも第六十六連隊の戦闘状況を書くことはできない。
 ちなみに第十軍の公式記録によると、第百十四師団は十二月十二日に南京城に突入している。しかし、第百十四師団の記録を見ると、十二日に城壁占領という記述もあれば、一方では十三日午前
九時半、いまだに城外から南京突入の命令を出している。これは、十二日には右翼隊が雨花門を占領し、十三日には左翼隊が中華門近くの城壁から突入しようとしていることを示しているのだが、
公式文書だけからは戦闘の実態がよく分からない。そこで公式文書以外のなの、例えば当時の新聞報道などが参考になる。
 しかし、新聞報道も正しいとはいえない。

証言と証拠から判断した状況
 当時の新聞を見ると、第百十四師団の各部隊は十二月十日に中華門から突入、城内を攻撃中と伝えているものもあれば、十二日午後に城内に進出と言うものもある。さらに十三日午前に中山門か
ら入ったというのもある。まるっきりばらばらである。十日に中華門から突入というのであれば、日本軍で最初の南京城内突入である。十三日中山門から入ったということであれば、他の師団の戦
闘地域で戦っていたことになる。
 もちろん当時の記録は故意に誤って書かれたものではないが、公式文書や記録は鵜呑みにできないことが分かる。当時の記録だけで戦闘状況を語ろうとしては何も語れなくなる。
 結局、記録の不備、間違いを補うため証言に頼ることになる。
 戦後、第六十六連一隊の戦史が二度まとめられた。一度は昭和三十七年のサンケイ新聞栃木版の「郷土部隊奮戦記」であり、もう一度は昭和五十四年の栃木新聞の「野州兵団の軌跡」である。ど
ちらも参戦者の証言と、当時の戦闘詳報、陣中日誌を基に書かれている。証言が記録と同様に重要だということであろう。
 そういうことで証言と証拠から昭和十二年十二月十二日の戦場に戻ると次のようになる。
 南京城を前にして第百十四師団は幅約一キロメートルの戦線に西から東へ水戸の第百二連隊、宇都宮の第六十六連隊、高崎の第百十五連隊、松本の第百五十連隊と並び、水戸と宇都宮が中華門近
くの城壁、高崎と松本が雨花門を目標にした。一つの連隊の攻撃範囲は二百五十メートルほどである。このため同じ目標の連隊どうしが相手の陣地に入ることもしばしばあった。この中で第六十六
連隊は第三大隊が東側、第一隊が西側で第一線になり、雨花台を越えたところで第三大隊が城壁から突入を狙い、それを第一大隊が援護することになった。第二大隊は後方で師団の予備隊となって
いる。
 問題はこのあとである。第一大隊戦闘詳報によ
318日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 02:34:55 ID:kl4yzK+z
P213
ると、第一大隊はこの日の昼、雨花台を越えて南京城目前まで進み、そこから城壁までの間の敵と戦うことになった。第一大隊は戦い進み、午後二時までに二百名の中国兵をたおし、夕方までさら
に七百名をたおした。そして夜になるまで千五百名の中国兵を捕らえた。
 戦闘詳報によれば、翌日、第一大隊はこの中国兵を連隊からの命令で処刑したというのだ。
 この捕らえた中国兵に関する記録がどのくらい正確なものなのか。
 まず、肝心の中国兵処刑命令についてである。
 第一大隊戦闘詳報には十三日午後二時に処刑の連隊命令がでたとあるが、この命令とはどんなものてあったのだろうか。この前後、連隊からは午前三時十分に「作戦命令甲第八十五号」と。
午後九時に「作戦命令甲第八十六号」が出されており、この二つの命令には捕虜処刑の命令は一切ない。捕虜に関することなら作戦上のことであり、当然作戦命令甲として出されるはずである。
 また、この命令は旅団命令により連隊長が命じたとあるが、指揮系統からいえば、師団旅団連隊と命令は伝達され、師団と旅団が同一場所にいるときなら旅団は師団の命令を連隊に取り次ぐだ
けになる。このとき、南京城を目の前にした師団司令部、旅団司令部、連隊本部はほとんど同一場所にいた。せいぜい離れていても一キロメートルかニキロメートルである。
 旅団命令としてどのような命令が出されたのか資料が残っていないので不明だが、このときの師団命令を見ると、第百十四師団作戦命令甲第六十二号が十二月十三日午前
九時に、第六十三号が午後八時に出されており、ここにも捕虜を処刑するようにという命令はない。
 師団からにしろ連隊からにしろ緊急の命令の場合、口頭で出されることもあるけれど、あとで必ず文書にして出されるから、文書の形が残っていないということはこのとき作戦命令で出されてい
なかったということになる。この場合、処刑命令は一刻を争うようなものではない。
 また、連隊から第一大隊に出された作戦命令であるなら、第二大隊と第三大隊にも出されているはずである。しかし、現存している第二大隊の陣中日誌を見るとそのような命令が出された記述はない。
 ちなみに第二大隊がさらに隷下の中隊に出した命令を見ると、第五十一号が十三日午前十一時、第五十二号が午後九時三十分である。もちろんどちらにもその上うな命令はない。つまり発令者の
ほうから見ると、連隊や師団が命令を出した形跡は一つもないということである。
 今度は別の面から検討してみよう。
 第一大隊戦闘詳報には、旅団命令として「十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何」とあるけれど、一般的に言って、命令には「……如何」という相談風なものはない。生死をかける軍隊で「……如
何」という命令を出していたら兵隊は命令どおり動かなくなる。「……せよ」という有無をいわせぬ命令だから兵隊は命をかけて命令どおり動くのである。
 つまり、この戦闘詳報の表現は、命令が実際はなかったということを暗示しているのではないのか。あるいは、この命令というものは口頭で何かが行われ、そのためこのような相談風となったのではないのか。
 そこで考えられることは、命令以外の何かであるのかということだ。軍には文書による命令の他に、単なる口頭命令の場合もあるし(さきほどの口頭で出された後、文書で改めて出される命令とは違
う)、指示の場合もある。これらのどれかだったのだろうか。
 しかし戦闘詳報からは分からない。(つづく)
319日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 11:16:04 ID:DkTX2NAJ
すげええぇぇぇえ
ご苦労さまです。
320日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 12:04:36 ID:nY/8WMtf
丸MARU 1990年6月号 通算527号 P206
兵士たちの「南京事件」城壘 連載18回

P206
ナソだらけの戦闘詳報
 宇都宮第六十六連隊第一大隊戦闘詳報の記述は、多くの問題点かあるけれど、捕虜の数についてもそうてある。
 まず戦闘詳報には、三個中隊が五十人ずつの捕虜を連れだして処刑した、とある。この表記から判断すると合計百五十人を処刑したと思われるが、第一大隊は十二日の戦いで千五百二十名の捕
虜を得て、さらに十三日午前の戦いでは三百余名を得ている。これらの捕虜はどうしたのか。
 第一大隊戦闘詳報の最後には、捕虜、武器をいくら鹵獲したかという鹵獲表があり、俘虜として将校十八名、准士官下士官兵千六百三十九名を捕らえたとある。そうすると、これらの捕虜は、処
刑した百五十名の残りということなのか。
 処刑したという捕虜の数がはっきりしない。
 次に、捕虜の数として千五百二十名とか、五十名とか、具体的に記述されているか、それは信じられるものなのか。
 連隊命令によれば、連隊全体で捕虜にした中国兵は千数百名であったという。連隊全体の捕虜というのは、第一大隊、第二大隊、第三大隊合わせた数で、ということは、第二大隊、第三大隊で一
人の中国兵を捕らえなかったとしても第一大隊の捕虜は連隊の捕虜より多くなる。
P207
 ここで捕虜の数の正確さをみるため、武器などの鹵獲品を見てみよう。百十四師団、六十六連隊、百五十連隊など現在資料が残っているもののみであるが、次の通りになる。

部隊 遺棄死体 捕虜 小銃 重機関銃 拳銃 手榴弾 銃弾(小銃実包)
百十四師団 5000〜5800 - 844 1 34 20000 78000
百五十連隊 - - 485 6 6 910 85635
六十六連隊 - 千数百 - - - - -

六十六連隊/第一大隊 1400 1657 602 7 31 35 50000

 師団の数字は各連隊からの数字を合計したものである。連隊の数字は各大隊の数字を合計したものである。だから連隊の数字が師団より、大隊の数字が連隊より大きいことはありえない。しか
し、鹵獲表を見ていくと、第百十四師団で鹵獲した重機関銃が一挺なのに第一大隊だけで七挺鹵獲したことになっている。小銃と拳銃も、師団のものより第百五十連隊と第六十六連隊第一大隊の合
計だけで上回っている。この表には第百二連隊、第百十五連隊の記録がないが、もしそれらの資料が残っていれば、それぞれの連隊も百五十連隊や第六十六連隊と同じくらいの鹵獲品があったであ
ろうから、ますますつじつまが合わなくなる。
 また、遺棄死体は、師団が五千ないし五千八百
321日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 12:05:42 ID:nY/8WMtf
P208
と計算しているが、第一大隊のみで千四百とある。師団からみると第一大隊は師団戦力の十二分の一であるから、師団で五千から五千八百の遺棄死体があったとするなら、第一大隊での遺棄死体
は四百から五百が妥当である。戦闘詳報に記されている数字はその三倍ほどになっている。
 同じように捕虜も第六十六連隊からみれば第一大隊は連隊の三分の一の兵力であるから、連隊の捕虜が千数百であったとするなら、第一大隊だけで四百から五百の捕虜を捕らえていれば自然であ
るが、これもその三倍ほどになる。
 この数字だけからいちがいにどちらが正しいとはいえないが、戦果を多く記載する傾向からみて、大隊の数字に誤りないしは水増しがあるように思われる。
 それではこの戦闘詳報がいつ書かれたのであろうか。
 大隊の戦闘詳報は戦闘ごとにまとめられるが、戦闘中、メモされたものや中隊の陣中日誌などをもとに戦闘が一段落してから書かれるのが普通である。多くは、戦闘が終わった後の警備期間と
か、次の戦闘に入る間とかに書かれる。この第一大隊戦闘詳報も、表題に「昭和十二年自十二月十日至十二月十三日南京付近の戦闘詳報」とあることから、十四日以降に書かれたものであることは
確かである。
 それでは、十四日以降のいつかと言えば、十四日に戦闘は一段落したけれど南京城内で掃討戦が続いており、十五日は戦場掃除、十六日には転進の準備をし、十七日早朝には太湖方面に転進し
た。このことから南京にいるとき書かれた可能性は少ない。
 十七日に太湖方面に向かった連隊は、十二月三十日、武康に着いて転進が一段落する。
 第三中隊長の書いた「われらの大陸戦記」の中には、十二月三十一日のこととして「軍は戦闘詳報作成の為め昨日より暮れも正月も返上して戦いの結果を総まとめにかかる」という記述がある。
そして一月に入って「中隊は上陸以来の戦闘詳報、編成、装備、教育等それぞれ担当者を指示して作成報告、実施と日夜をついて進める」状況だったという。
 このことから戦闘詳報は、暮れからまとめはじめられ、一月ごろにかけて書かれたと思われる。
 それを裏付けるようにこのときの戦闘詳報は二色刷りで作成されている。大隊は二色刷りの謄写版を持ってはおらず、連隊が二色刷りの謄写版を持っていた。大隊が二色刷りの謄写版を使って戦
闘詳報を作成したのは、作戦が一段落して連隊の二色刷り謄写版を使えるようになってからである。このことからも一月ころというのが作成された時期と考えられる。
 ここで一般論としての戦闘詳報、陣中日誌の記述について考えてみたい。第六十六連隊第一大隊の戦闘詳報は、少なくとも細部に関して言えば、自ら陣中日誌を書き、さまざまな戦闘詳報を見て
きた何人かの第一線指揮官は戦闘詳報や陣中日誌をどうみているか。その中でも興味深いのが坂武徳氏の話である。
 坂氏は当時、第百十四師団の東隣で南京城を攻撃していた第九師団の鯖江第三十六連隊の中隊長をつとめていた。昭和十二年九月、第三十六連隊の第十一中隊長として上海戦に参加し、上海・南
京戦の後は徐州・武漢作戦に従軍し、途中から連隊副官をつとめた。しかし、この間の昭和十二年十一月上旬、蘇州河作戦で負傷し、昭和十三年一月まで野戦病院に入院していた。つまり、日本軍
が南京を攻撃していたときは負傷していたことになる。

ある中隊長の陣中日誌の信憑性
 坂氏は、この中支での戦いを昭和五十八年「自昭和十二年九月至昭和十四年七月 歩兵第三十六連隊中支方面に於ける行動概要」としてまとめた。作戦命令書や戦闘経過要図をふんだんに使
い、昭和十二年九月から昭和十四年七月までの第三十六連隊の戦闘を詳細につづったもので、一つの連隊記録でこれほど詳しくまとめられたものは他に類をみない。これを記述するために坂氏は、
公式文書であっても関係者から聞き書きをした上でそれが正確だと判断できるものだけを使用した。
 第三十六連隊の戦友会は「歩兵第三十六連隊戦友会誌」を発行しておy、その中に「鯖肛大会編」がある。この中で第十中隊の兵士であった沢崎正恵氏が「悲運の第十中隊」という一文を書いた。
 沢崎氏は自分の体験と、残っている第十中隊の陣中日誌を基にして、「自昭和十二年九月至昭和十四年七月 歩兵第三十六連隊中支方面に於ける行動概要」の坂氏の記述に一部誤りがあるのでは
322日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 12:06:37 ID:nY/8WMtf
P209
ないかと考え、それを指摘した。これにたいして当然のように坂氏が反論した。
 これを読んだとき、私はどちらが正しいかということより、戦闘記録というものは公式のものであれ如何に誤りの多いむのかということがわかって、それに関心を引かれた。二人のやりとりは非
常に興味深いものであるが、そのうち坂氏の沢崎氏への反論の一部をここに紹介する。
 「昭和十二年十月の(第十中隊の)陣中日誌は昭和十三年南翔(上海の近く)駐留時に作成された。大隊本部への提出は一月末頃。第十中隊は出戦当初の幹部は殆ど戦死傷し失われたので、日誌
作成の適任者はいなかったと思われる。
 中隊は日誌作成に当たっては大隊本部と打ち合わせの上、適当な形を整えて作成しており、実状は示されていない。
 (中略)
 走馬塘クリーク付近の戦闘に就いての第十中隊陣中日誌の記述内容は尠からず事実と相違している。恐らくこの戦闘の有無にかかわらず毎日書くように要求されていたのだが、兵馬倥偬の間、
中・小隊長等幹部の損害が多発し、疲労困憊その極に達すると中々書けるものではない。特に第十中隊のように当時の幹部をすべて失い、連・大隊命令に合わせるよう南京戦後にまとめられたもの
が漠然としていたのはやむをえない。従って沢崎氏個人のとった行動に間違いないが、陣中日誌そのものには時刻・場所・内容等に関し更に布衍しなくてはならぬ事項が多いと考えられる」
 このようなものである。
 陣中日誌は公式文書であるが、第三十六連隊第十中隊のように実状を知らない人によって作成されたり、連隊や大隊の命令にあわせてまとめられることもあるのだ。しかもこの場合、実際の戦闘
から三ヵ月後に書かれている。公式文書だからといって全く信用できるというわけにはいかない。
 このようなことが言えるのも多くの戦闘詳報、陣中日誌をみている坂氏にしてはじめてできることであろう。
 そこで改めて坂氏に陣中日誌・戦闘詳報についてたずねると、坂氏は一般論としてこう述べた。
 「陣中日誌や戦闘詳報は部隊の行動、状況を述した公式記録で極めて重要な書類で日々記載するのが本則です。
 しかし実際には連隊以下の部隊、殊に中隊などが戦闘間の記載整理するのは無理なので、これらの部隊は毎日の命令、通報、報告、其の他の記録、日々の経過の概要、その他必要事項をその都
度記録してまとめておき、作戦終了後の駐留警備間にこれを整理して作成するのが実状です。
 これらの書類は実状を正確に記述することが第一義でありますが、実際には特に中隊などの尖端部隊にあたっては激戦により幹部の大部を失うことか多く、諸記録も散逸することが多く、新たに
補充された後任の幹部が戦場も戦闘の実況も知らずして日誌や詳報の作成に当たる訳で、随分苦労して作成に当たるが重要事項や真実が充分記録されず、また止むを得ず適宜作文するということも
あり、事実と相違する記述も生しています。
 この件に就き、歩三六戦友会誌で第十中隊陣中日誌の誤りを指摘しましたが、これは単に一例で、このような例は他にも少なくありません。
 幹部、特に中隊長が健在の場合、其の人が感動した記事を書かぬ限り、概ね実況実状を記録されていると考えていいと思います」
 戦闘の途中、戦闘の様子を正確に記録するのはいかにむずかしいかということで、そのため作文せざるを得なくなる。これからも第一大隊戦闘詳報にも相当事実とずれがありそうだということがわかる。
 それでは第一大隊戦闘詳報に書かれている捕虜処刑は実際どういうことだったのだろうか。
 第一大隊戦闘詳報には、午後三時三十分、各中隊長を集め捕虜の処方に付意見の交換をしたる結果、刺殺せしむることとせり。おおむね午後七時三十分刺殺を終る、とある。戦闘詳報には具体的
に名前が出ているのだから。このときの大隊長・中隊長に聞けば、そのときの様子がわかるわけである。
 さっそく大隊長・中隊長にあたることにした。 まずあたるべき人は、命令を出したと思われる大隊長の一刈少佐である。度胸のある、くそまじめな人だったと将校や兵隊たちはいう。
 しかし、探しているうちに、一刈大隊長は、南京を目の前にした十二月八日、右大腿部貫通銃創でたおれ、この場にはいなかったことがわかった。そのとき大隊は大隊付の渋谷大尉がを代理で
指揮をとっていた。改めて戦闘詳報を見ると、記
323日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 12:09:11 ID:kl4yzK+z
P210
されている大隊命令はすべて第一大隊長代理渋谷大尉の名前で出されている。

戦闘詳報に驚く元中隊長
 それでは渋谷大尉が中隊長と相談し、命令を出したのか。 一刈大隊長の代わりに渋谷大尉をあたることだ。
 渋谷大尉は、当時四十代の半ばで、もし生きているとしたら九十半ばになっているはずである。手掛かりとなるようなことが聞き出せるのだろうか。
 大隊本部の関係者をたよりに渋谷大尉を探していると、やがて、渋谷大尉は亡くなっていることを知らされた。渋谷大尉を探しているうちに、ほぽ同じ年齢だった一刈大隊長も亡くなっていることがわかった。
 大隊本部にいる将校としてはもうひとり大根田少尉がいたが、大根田少尉も十年前に亡くなっていた。
 つまり相談をもちかけ、命令を出したといわれる将校側に証言者がいないことがわかった。
 それでは相談にあずかった中隊長たちはどうか。
 戦闘詳報では、大隊長が第一、第三、第四の中隊長たちと意見交換したことになっている。このとき第二中隊は軍旗中隊として連隊長とともに城内に入っていたので第一大隊の作戦行動とは別行動である。
 三人の中隊長たちにあたることだ。
 まず第一中隊長であるが、岡部中尉もこのとき病院におり、増井少尉が代理をしていた。
 増井少尉をあたると、既に死亡していた。 第三中隊長は西沢中尉である。
 ここではじめて生存者があらわれた。西沢中尉は存命中で、栃木県ではなく、生まれ故郷の長野県に住んでいることがわかった。
 ところが、さっそく連絡を取ると、既に八十八歳で、以前から脳内出血のため寝たきりでロもきけない状況であるという。
 とても会うことはできないというので、家族の方にそのときの様子を聞いてもらおうとした。しかし、家族の方も細かいことは聞きただすことを遠慮している状況であるという。生存はしているけれど、証言は得られない。
 西沢中隊長はこのときの戦いを「われらの戦記 -歩兵第六十六連隊第三中隊のあゆみ-」という私家本にまとめている。当時の日記をもとに、昭和四十七年にまとめたものである。しか
し、この中に捕虜のことは書かれていない。
 最後の頼みは第四中隊長である。 第四中隊長の手塚中尉は地元宇都宮で健在であった。いよいよ証言が得られるのか。
 さっそく手塚中隊長を自宅にたずねると、手塚中隊長は十二月七日、株陵関を突破したところで右足に貫通銃創をうけ、そのため平沢少尉が代理で指揮をとることになったという。手塚中隊長は
後方の野戦病院にいて、南京城を目の前にして、中隊では何か行われたのかわからない。
 それでは、平沢少尉の消息を探したが、平沢少尉も三年前に亡くなっていた。 このように真相がつかめると思っていた大隊長、中隊長からは何も聞くことはできなかった。
 そこで少しでも手掛かりを得たいと思い、その前後の話だけでも手塚中隊長から聞くことにした。
 手塚中隊長から話を聞くことになったとき、手塚中隊長は八十四歳になっていた。宇都宮の農家に生まれ、学校を卒業してから家業の農業を継ぎ、その途中、戦争に行き、戦後は公民館長など
もつとめ、地元では人望のあった人である。中支での戦いを手塚中隊長も「聖戦の思い出」としてまとめている。青春をかけ、生涯二度とない体験をしたという思いは第三中隊長の西沢中尉と同じ
だ。そしてそれは中隊長だけでなく兵隊たちも同じで、戦後になると旧部下は手塚中隊長を中心にして集まって、定期的に中隊会を開くようになった。しかし、次第に生存者が減り、元気な人も少
なくなって、昭和五十年代の終わりに開かれた中隊会が最後で、それからは開かれていない。手塚中隊長は年齢に比べれば元気で、私が訪問すると、筆記用具を用意して待っていてくれた。耳も
よく聞こえるし、声もはりがある。ただ足だけが不自由で、
 「私が外に出れませんから中隊会も開いていません。第四中隊の人も少なくなり、元気な人もほとんどいなくなりました。淋しいものです」
 と説明した。足が不自由なため座敷をはって歩く。いくらかくしゃくといっても、老人であるのには変わりない。
 そんな手塚氏であったけれど、私から戦闘詳報
324日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 12:10:40 ID:kl4yzK+z
P211
のコピーを受けとると一変した。急に目が輝き、それまでのゆっくりした口調とは変わって、大きな声で戦闘詳報を読みだした。途中、「ほう!」とか、「なになに、意見を交換して?」などと大
きい声をあげた。一度読むと、手塚氏はもう一度ゆっくり読み直した。
 読み終わったあと、相当驚いたようすで、コピーを無意味にためつすがめつながめていた。
 手塚中隊長は、偕行社が南京事件を調査するようになったため、南京ではそういうことがあったらしく、しかも事件と関係ある記述が第一大隊の戦闘詳報に記載されているということは聞いてい
たが、戦闘詳報を見るのははじめてだという。年が年であるからめったに驚くようなこともないと思われるが、戦闘詳報の内容には相当驚いたようである。公式文書に書いてあるのだから驚くのも
当然かもしれない。
 しばらくして、「こういうことがあったのかねえ」と言った。
部隊の行動を記録しているはずの戦闘詳報だから否定するわけにはいかない。しかし、記述されていることはとても信じられない。信じたらよいのか、間違いだと決めていいのか、まよっているようである。
 会ったとたんにそんなことが十数分続いてから、手塚中隊長が話してくれたその前後の様子は次のようなものであった。
 昭和十二年十二月七日、南京に向かっている途中、手塚隊長は負傷し、平沢少尉と交代した。すぐ後方の野戦病院に運ばれた。野戦病院といっても形だけのものである。それから一週間ほどで南
京は陥落し、入城式の日になって手塚隊長は南京城内に運び込まれた。それから数日後、上海に運ばれ、そこの病院に入院した。
 翌十三年一月にほぼ傷が治って、第四中隊に復帰して平沢代理と引き継ぎをすることになった。引き継ぎをした際、その間のさまざまな報告を受けたけれど、捕虜を殺したというような話は何も
聞かなかった。
 しばらくすると、別の部下から、南京で中国兵を殺したという話を聞いた。そのときは、別段気にもとめていなかったので詳しく聞くことはしなかったが、数人の中国兵をやった、というニュア
ンスで部下の話を聞いた。
 南京で中国兵をやったという話を聞いたのはそれだけである。もし戦闘詳報のようなことがあったとするなら、そのことではなかろうか。
 こういう話である。
 その後、誰が命令したと考えられるか、捕虜に対して手塚隊長はどのような考えを持っていたかなどを質問すると、手塚中隊長は次のように言った。
 「激しい戦闘でしたから敵慌心は相当なものでした。
 あのころ、一刈さんも負傷していましたから、渋谷さんが命令したのだろうか。
 渋谷さんは現役の将校で、第一大隊の現役は一刈さんと二人だけでした。連隊が編成されるというので満州から急遽やってくることになったが、宇都宮まで来る時間がなかったので五島列島で私
たちと一緒になりました。まあ豪胆な人でした。
 しかし、中国兵をどうするというのは大きい問題だから上のほうに問い合わせたと思います」
 これ以上手塚中隊長もわからない。
 大隊長と中隊長の間で本当に話し合われたのかはとうとう証言が得られなかった。上のほうの連
隊の関係者にも生存者はいなかった。(つづく)
325日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 12:23:21 ID:kl4yzK+z
>>301
ありがとうございます。 古本屋とNETで連載号を見付次第UPします。

>>302
手打ちではさすがに無理ですのでスキャンしてOCRソフトで読み込み
文字を修正しています。そのため濁点が飛ぶことが有りますのでご了承を

>>275 丸MARU 1990年7月号 通算528号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載19回
>>291 丸MARU 1990年1月号 通算522号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載13回
>>296 丸MARU 1990年2月号 通算523号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載14回
>>303 丸MARU 1990年3月号 通算524号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載15回
>>309 丸MARU 1990年4月号 通算525号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載16回
>>314 丸MARU 1990年5月号 通算526号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載17回
>>320 丸MARU 1990年6月号 通算527号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載18回
326日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:06:16 ID:nY/8WMtf
丸MARU 1990年8月号 通算529号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載20回

P206
元第二大隊副官の証言
 南京の戦場の話は、第一大隊以外の兵士からも聞くことができたけれど、そのうち捕らえた中国兵に関する話は次のようなものである。
 第二大隊関係者
 「捕虜かいたとか、それをどうしたとかということは知りません。雨花台ではどうやったら勝って生きて行けるかだけを考えていました。虐殺ということは戦後になって始めて聞いたことです」
(田村猛小隊長)
 第二大隊の兵士の頭にあることは、田村小隊長をはじめとして、雨花台での激しい戦闘だけである。捕虜とか虐殺という話は聞けない。
 第三大隊関係者
「虐殺の話はどういう場面なのか全然わかりません。十一日ごろだったと思いますが雨花台のほうにたくさんの捕虜がいたのを見たことがあります。捕虜の数は、本当かどうか七、八千人とか一
万人とかと聞いたこともあります。その後、私らは城壁の攻撃があったので、捕虜がどうなったかは知りません。
 私は十二日、銃剣を持った中国兵に飛びかかられてどうにか助かりましたが、そういう中でのことですから殺すか殺されるかで、戦場はすごいものてした。虐殺という話は中国の宣伝ではないで
しょうか」(大貫酉一指揮班長)
 このように、噂であるが捕虜一万人という話も

P207
あった。
 「他の大隊のことだが、各中隊で八十人から百人くらいの捕虜がいて、これをやったと聞いたことがある。そのとき、工場に追い込んて手榴弾を投げ込んだとも聞いた。
 その話を聞いたのは南京戦の後か戦後のことかはっきりしないが、捕虜を連れて攻撃もできないのでやったのではないか。
 我々の隊も一人とか二人の中国兵を処刑したことがある。移動しているから処刑するしか方法がなかった」(日向野博分隊長)
 以上が捕らえた中国兵に関して第三大隊の兵士から聞けた話てある。
 どの人たちも南京事件が最近いろいろ取り上げられていることをよく知っており、また、特に隠しだてするような話ぶりでもなかった。
 これらの兵士たちの証言から、戦闘詳報に書かれていることと似たようなことがあったことは分かった。しかし戦闘詳報の内容とは大分違う。
 第四中隊が中国兵を捕らえ、一時管理し、その後処刑した。ただし戦闘詳報にあるように大隊長、中隊長の話し合いがあったものではない。
 第一中隊は戦闘詳報によると捕虜を建物に閉じ込めて火を放つたといわれるが、第一中隊関係者からは確かな証言は得られなかった。ただし、第一中隊では一部の兵士が関係しているらしく、ま
わりの人の話では火を放とうとしたけれど、多くの捕虜は逃げたという。
 第三中隊はほとんどが城内に入っていて、こちらはごく一部だけがかかわった。
 また、実際処刑した捕虜の数は三個中隊合わせ
327日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:08:05 ID:nY/8WMtf
P208
て百人強という証言が多い。
 兵士たちの証言による捕虜の話はこのようなことであった。
 捕らえた中国兵をどうしたのかということの次に問題になるのは、戦闘詳報の内容からすると大隊に命令らしきものがあったと思われるが、その命令らしきものはどこから来たものかという問題である。
 それについても兵士にあたってみたけれど、兵士はどの兵士も命令に関しては従うだけで、命令系統がどうなっていたかについては分からない。
そこで将校はいないだろうかと探していくと、ただ一人、第二大隊副官を務めていた青柳忠夫少尉が健在であった。
 青柳氏は八十歳ながら元気で、いまだ岡野電機工事の取締役会長を務めている。かつて東京都庁に勤め、その後、東京都社会福祉協議会理事などを経て長らく岡野電機工事の社長を務めていた人である。
 第二大隊本部にいた人たちは戦後になると青柳氏を中心に集まり「あおやぎ会」を作って旧交を温め、亡くなった人の冥福を祈ってきた。
 青柳氏にとって、軍隊時代の体験は今でも心の中で大きな部分を占め、大切に保存しているハードカバーの陣中日誌をたまにひもとくこともある。陣中日誌には第六十六連隊から受けた命令
と、それを受けて第二大隊が出した命令がすべて記録されていゐ。大隊副官の陣中日誌であるけれど、第二大隊の戦闘詳報はこれを基に書かれたものであるから、第二大隊戦闘詳報の原本にあた
る。第一大隊戦闘詳報と同じ価値を持つ。
 青柳氏は大隊本部にいただけに軍の命令には詳しく、第六十六連隊の命令について具体的に聞くことができた。
 青柳氏は陣中日誌をもとに命令の実際について話をし、また、陣中日誌に書いていないことも話してくれたが、まず、たずねたことは、第二大隊にはどのような捕虜処刑の命令が来ていたかということである。
 しかし、青柳氏の陣中日誌には捕虜処刑の命令が書かれていない。
 そこで、日誌には書かれていないけれど命令はあったのではないかたずねると、青柳副官は、連隊から捕虜処刑という命令を受けた記憶はないときっぱり答えた。
 その代わり青柳氏は自分が直面した捕虜の話をしてくれた。
 十二月十二日のことである。もしかすると、一日のずれがあるかもしれないが、十二日前後のことで、南京突入を今か今かと身構え、連隊、旅団、師団の各司令部がだんご状態になっていたと
きのことである。第二大隊は師団司令部の護衛をしていたが、そのとき、中国兵を捕らえた。中国軍と日本軍は入り乱れていたから師団司令部の近くにも中国兵がたくさんいて、中国兵を捕まえた
からといって特別奇異なことでもない。捕らえた数は三百から五百であった。
 青柳副官ははじめての経験だったためどうしたものかと近くにいた師団参謀長磯田三郎大佐に指示を仰いだ。銃声、砲声がひっきりなしで、混乱
328日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:09:22 ID:nY/8WMtf
P209
している中でのことである。すると、磯田参謀長からは、
 「厳重に、しかるべく処理せよ」 と指示がきた。
 その指示を受けると、青柳副官は、捕虜に銃と弾と持ち物をその場に置いて、前に進むように、と通訳に言わせた。銃弾は部下に命じて集めさせ、持ち物は没収させた。中国兵は全員を戦線の
後方に連れていって釈放させた。
没収した中国兵の持ち物とは米の入った袋であるけれど、青柳副官は参謀長から指示されたとき、すぐにこの袋を狙おうとしたのだ。なにしろ数日間、満足に食べていないので、中国兵を見た
とき、これが真っ先に目に入り、結局、日本兵で食べた。
 当時、何人かの新聞記者が師団司令部にいて、その中に青柳副官と大学で同窓の三船四郎朝日新聞記者もいた。これをそばで見ていた新聞記者の一人が、青柳副官の行動は連隊長の指示どおりな
のかと青柳副官にたずねたので、連隊長の指示どおりだと答えた。 このような捕虜の話であった。
 それでは、第一大隊の戦闘詳報の話についてはどうなのか。青柳氏は自分の体験からと言って、次のように推測した。
 第一大隊でも捕虜を捕まえて同じように上に指示を仰いだのではなかろうか。作戦命令の記録も残っていないから、命令というものではなく、いわゆる指示を仰いだものだろう。たぶん、青柳副
官が磯田参謀長から受けたと同じ指示が第一大隊にも行ったのではないか。。
 そのように判断するのは青柳氏が上の人の考え方をよく知っているからである。
 青柳副官は南京入城直前、旅団長の秋山充三郎少将から、兵隊は戦闘中は軍紀を守るが、戦いが終わると気がゆるんで何をするか分からないから、これからが大切だ、と念を押された。また、
磯田参謀長からは先はどのように厳重にしかるべく処理せよとの指示を受けている。磯田参謀長はのちに日米が開戦するときの駐米大使館の武官をつとめる人であるけれど、南京に向かう途中も話
す機会があり、ある程度、参謀長の考え方を知っていた。だから「捕虜は殺すべし」という命令が師団や旅団から出されるということはどうしても考えられない。
 しかし、その後、指示を受けて第一大隊はどうなったのか、そしてどう行動を取ったのか。捕虜を処刑したという話は当時聞いたことがなかったし、第一大隊もたぶん自分と同じような処置を取
るとしか考えられないので、戦闘詳報にあるようなことは想像ができない。

ナソだらけの戦闘詳報
 ここでもう一度兵隊たちの証言に戻る。第一大隊の兵士たちは青柳副官の体験や戦闘詳報の内容については知らないので、第一大隊に「捕虜は殺すべし」という指示があったのかどうかをたずね
ても誰も分からない。そこで、連隊長が捕虜を処刑する指示を出したのではないか、という形を変えた質問をしたが、その質問についてはほとんどの人が言下に否定した。何故かというと、山田連
隊長の常日頃の言動からそのような指示は絶対ありえないからという。
 山田連隊長は当時四十六歳であった。第六十六連隊の兵士たちから聞いた山田連隊長のプロフィールは次のようなものである。
 山田連隊長は温情の人で、絶対兵隊を無駄死にさせる人ではなかった。上からのきびしい命令があっても連隊長のところで兵隊向きに変わってしまうほどである。兵隊にとってはいい人であった。
 ということは必ずしも軍人としては適任ではなかった。軍人らしくないので、連隊長にもかかわらず金鶏勲章を持っていなかったという人もいれば、山田連隊長は翌年の徐州作戦の後に連隊長を
やめているが、これを、連隊長があまり兵隊のことだけを考えているからやめさせられたのだという人もいる。
 「斥候に行って帰ってくると、連隊長がまず聞くことは全員無事だったかということで、敵情を聞くのはその後でしたね」
 「戦闘のときは、時期を待とう、とよく言っていました」
 「連隊長のいつものロぐせは、まあ、あせるな、です。兵隊のことを考えているからですよ」 このように異口同音に連隊長の人柄を語っている。
 そして下士官でも連隊長のことを「山田常さん」という。連隊長の本名は山田常太である。階級の厳しい軍隊の中で、下士官が山田常さんと呼ぶほど連隊長は親しまれていたのだ。
 そういえば、問題の第一大隊戦闘詳報を持って
329日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:10:26 ID:kl4yzK+z
P210
いた藤沢藤一郎さんは、話が一段落して、二人の間にしばらく沈黙が流れた後、しんみりとこう言った。
 「ここ七井からも五人が戦争に行き、今生きているのは私一人だけです。すべてこれも運でしょう。もし私が二、三年若ければ六十六連隊ではなく五十九連隊で行っていますからどうなっていま
すか。六十六連隊の連隊長は温情の部隊長という話でしたからこうやって生きているのです」
 また、中にははっきりと、
 「人柄を知っていますから言えますが、山田常さんが命じたということはありません」 と言う人もいた。
 このようなことから、連隊から第一大隊に処刑せよという命令が来たことはありえないと考えられる。
 それては戦闘詳報の記述はどうしたのだろうか。
 こうなると、「捕虜は殺すべし」という命令も、「十数名を捕縛し、逐次銃殺しては如何」という不自然な表現も、後で戦闘詳報を書いた人が作ったものである、と考えた方がよいのではなか
ろうか。その方がはるかに辻棲が合う。
 戦闘詳報の記述が事実と違うことは、小宅小隊長代理が中国兵と直面したときの話でもうかがわれる。また、戦闘詳報には、十三日、南京城前で激しい戦闘があったように書かれているが、これも事実と違う。
 最後に、戦闘詳報の内容に沿って第一大隊関係者にたずねたが、その話をまとめると、最もありうるケースはこうである。
 十二月十二日、第四中隊を中心そして第一大隊は戦闘中に何人かの中国兵を捕まえた。その日は収容し、なんとか食べ物を与えた。。十三日、連隊はいよいよ南京突入で、第二中隊、第三中隊は城
内に入った。第四中隊も城内掃討をしなければならないが、中国兵がいる。そこで第四中隊は中国兵をどうするかにつき大隊に指示を仰いだ。
 この後、大隊から連隊、旅団、師団とのぼっていったのかどうか。連隊本部は城内である。師団司令部は東にある雨花門に移ろうとしていた。
 青柳副官が受けたと同じような指示が第一大隊まで来たのかもしれない。渋谷大隊長代理は、まだ戦闘は続いている。食料も充分にない、といった状況で、この指示を処分することだと解釈して第四中隊に命令した。
 このときもう一つ考えられることは、最初から連隊に指示を仰ぐことなく大隊が判断したということである。むしろこの方が確率からは高い。

捕虜処刑の命令はあったか
 ともあれ処刑は第四中隊が中心になって行い、第一、第三中隊も行った。実際、処刑した数は第四中隊が約百人、第一、第三中隊はどのくらいか不明。最大合計しても二百人くらいのようだ。
 これが何人かの話をまとめたものである。もちろんこのストーリーがどの程度正確なものか分からない。特に渋谷大隊長代理が指示したのかどうか全く想像である。あえて戦闘詳報どおりに証言
を組み合わせるとこうなるというものである。
 これ以上データがないので述べることはできない。多くの兵士たちから話を聞いたけれど、第一大隊戦闘詳報の記述から感じられる無機的な冷たさはくみ取れなかったことは確かである。早く南
京城内に入って掃討しなければならない、中国兵に食べさせる食糧はない、中国兵はあばれる、といった状況で、このとき他に選択肢があったといえるのは結果論であろう。戦闘詳報を見ただけな
ら、システマチソクな捕虜処刑の軍命令があったと取られがちだが、実際の戦場は、だれがどこにいて、どこからどういう命令が来るのかも分からないような状態であった。
 第一大隊の兵士のうち、負傷のため城壁前にいながら捕虜処分に第三者的立場にいた人も何人かいる。例えば第三中隊の指揮班にいた原貫一氏てある。
 原氏は城壁前の攻防に先立つ将軍山の戦いで左腕に盲貫銃創を受けた。激しい闘争心のあった入らしく、後方に退くこともなく、応急手当てをしただけで南京に向かった。さすが第一線からは退
いたけれど、第一線とはほぽ同じ行動を取った。城内へも入り、入城式にも参加した。しかし、入城式に参加したころには左腕は右の倍ほどふくれあがり、軍服を切らなければならないほどになっ
ていた。そこではじめて南京城内の野戦病院にかつぎこまれた。広い講堂のようなところである。病院といっても真冬に毛布一枚でうなった。腕を切らなければならないという地獄の苦しみであ
る。戦場では、戦闘していても、負傷していても厳しい現実が待ちうけていた原氏の話である。
 「負傷したものですから第一線に遅れて雨花台の
330日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:11:30 ID:kl4yzK+z
P211
方に進みますと、中国兵の捕虜がいました。そこは戦線の後方で、一旦捕らえて放したものでしょう。問題の捕虜は第一線にいた捕虜だと思います。
 戦闘詳報に書いてあるのでしたらそういうことがあったのでしょうが、私はそれは見ていませんからなんとも言えません。
 しかし、南京事件を調べている人たちに、そのときの様子をどんなに説明しても分かってもらえないでしょう。戦場にいなかった人にその場をいくら説明しても正確には伝えることができないからです。
 私は中隊の指揮班で給与係をやっていましたから、食料がないことはよく知っていました。だからああいう戦闘の状況で捕虜を処刑したと聞いても分かります。戦場を知ってい
れば、その処置に対して何も言えません。それが戦争です。
 それに世の中は勝てば官軍ですから、第六十六連隊は何を言われてもしょうがありません。そう思っています」
 このような話であった。
 最後に第六十六連隊史を書いた人はこの資料をどのように見ていたかたすねてみた。
 まず、サンケイ新聞栃木版に「郷土部隊奮戦記」を二年にわたって連載した印南千里氏の話である。
 「連載を始めるにあたって資料を集めたとき、その中に第一大隊戦闘詳報がありました。
 これを見たとき、私自身も中国の戦場に行って日本軍が共産軍のこもった建物を焼いたりしたのを見ており、戦場は撃つだけではありませんからそういうことだなと思っていました。
 私か連載してから十年ぐらいしてから朝日新聞の本多勝一記者が南京大虐殺があったといいだしましたが、私か書いたころは南京大虐殺などということはありませんでしたからびっくりしたものです。
 書くにあたって特に何人かから詳しく聞きましたが、その一人が高柳清平(第四中隊小隊長代理)さんです。高柳さんからは戦闘の内容などを聞いていたので、捕らえた中国兵の話などは出ませんでした。
 高柳さんは律義者として有名でしてね、私か話をうかがうたびにいつも背すじを伸ばして話をしていました。高柳さんが実際兵隊に処刑命令をしたとしても、高柳さんに虐殺などという気持ちはなかったと思います」
 もう一人、栃木新聞に「野州兵団の軌跡」を書いた高橋文雄氏の話である。
 「私か六十六連隊史を書いたとき、連隊は郷土の名誉ですから栄光の記録を書くつもりでいました。第一大隊戦闘詳報は当然見ていましたが、捕虜のことは兵隊だった人から聞いたことはありま
せんでしたし、私も聞こうとはしませんでした。
 第一大隊戦闘詳報にある捕虜に関してはどの程度正確か分かりませんが、記録は実際残っているものですから、それは資料を使う人の自由だと思います。
 私が思うに、戦闘詳報は名誉の記録でもありますから、戦果を誇大に書くことがあります。捕虜に関しても武士の時代から捕虜、首級を競うということがありましたから、第一大隊戦闘詳報は誇
大に書きしるしたものだと思います。
 これを書いた人は、今、こんな風に取られているとは夢にも思わなかったでしょう」 (つづく)
331日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:20:47 ID:kl4yzK+z
丸MARU 1990年9月号 通算530号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載21回

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問われた南京虐殺の責任
 昭和十二年に行われた南京攻略戦は、八年間にわたる戦争のはじまりで、日本は支那だけでなく、さらにアメリカ、イギリス、オランダを相手にし、最後には敗北した。
 日本が受諾したポツダム宣言は戦争犯罪人を裁くことを述べており、進駐してきた連合国側は一と月もしないうちに戦争犯罪人の逮捕をはじめた。やがて東京市ヶ谷に極東国際軍事裁判所か設
けられ、侵略戦争を始めたり、非人道的行為をした者として二十八名が起訴され、裁判にかけられることになった。南京を攻略した日本軍の最高司令官であった松井石根大将もそのなかの一人であつた。
 裁判所は昭和二十一年五月三日に開廷し、裁判はそれから二年六ヵ月続いた。
 判決公判は、昭和二十三年十一月に始まり、十一月十二日午後三時五十五分から刑の宣告が行われた。
 松井石根大将に対する刑の宣告は絞首刑であった。他の被告と違って、戦争の共同謀議とも、戦争を遂行した罪とも関係なく、いわゆる南京事件の責任だけを問われ、しかも絞首刑を宣告され
た。日本軍が南京を攻略したとき、投降者、市民などを不法に虐殺したというのである。南京事件はそれほど極東軍事裁判で重大なできごとだとみなされていた。
P209
 この判決では松井大将の他に六人にも絞首刑か宣告されたが、絞首刑の宣告を受けた七名は、他の十八名と区別され、巣鴨拘置所に戻ると、別の棟に移されて、そこの独房に一人ずつ入れられ
た。この棟には五十以上の独房があったが、使われたのは七つの独房だけである。
 独房に入ると、二人一組の監視兵が六時間交代で七人を監視することになった。その他に衛生下士官が十五分ごとに七名の呼吸と脈を調べ、その上、監視の長である将校と軍曹も異常がないかど
うか十五分ごとに調べる。自殺されては困る、七人は処刑するのだ、という連合国側の気持ちが表れていた。人生の最後を迎えるにあたってうるさすぎる警備であった。
 一方、判決が下りると、弁護団はただちに裁判所条例の規定による再審の申し立てを占領軍総司令部に行った。
 この申し立てに対して、判事団の各国代表が集まったが、申し立ては簡単に却下された。
 刑の執行はただちに行われるはずであったが、ファーネスなど何人かのアメリカの弁護人がさらにアメリカ法に基づいてアメリカ連邦最高裁判所に人身保護の申し立てを行った。このため占領軍
総司令部は十一月三十日処刑をいったん延期した。
 処刑が延期されたため、十二月一日には突然七名に対する面会が許可されることになった。判決後最初の、そして最後になった面会である。
 この面会で松井大将は自ら面会人を指名した。
 松井大将の指名した面会人は四人で、文子夫人、養女の久江さん、実弟七夫中将夫人、それに
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岡田尚の四人である。
 面会が行われると決まったとき、これが最後の面会になるだろうと弁護人からいわれていたが、面会人を指名してきたことからもそれが本当てあることを四人は知った。
 四人のうち、三人は松井大将の親類縁者であるが、岡田尚だけは違っていた。岡田尚の父は有民といい、頭山満、萱野長知などと同じように孫文の中国革命を援助した日本人の一人である。明治
の半ばから中国に渡り、商売をするとともに、教師をもしていた。尚はそのころ、杭州西湖で生まれた。
 大正の半ばになると、有民は国民党西山派を援助し、昭和に入り、福建人民政府が樹立されたときは当時の台湾軍司令官松井大将とともに福建人民政府と国民政府との間に立った。そんなことか
らも松井大将とは昔から親しくしており、尚も子供のころから松井大将を身辺に知っていた。松井大将は子供がいなかったせいもあり、尚を子供のようにかわいがった。岡田尚は松井大将を「おじ
さん」と呼び、松井大将は岡田尚を「たかし」と呼んだ。
 尚は上海で育って、中学時代を日本で過ごした。その後、東亜同文書院に入学するため再び上海に戻った。
 東亜同文書院卒業後も中国にとどまり、昭和十年、松井大将の推薦で国策会社・興中公司に入った。仕事の場は主に中国であった。
 昭和十二年、松井大将が上海派遣軍司令官に親補されたとき、岡田尚はたまたま日本にいたが、東京大森にある松井大将の自宅に呼ばれ、軍司令部嘱託・軍司令部付として同行するように命ぜられた。
 岡田尚は、いわゆる公用中国語である北京官話だけでなく上海語もでき、小さいときの環境から中国の要人に知り合いも多い。そのため、上海ではこれら要人と連絡を取り、和平工作などをするためだという。
 松井石根は軍人として大将まで進み、名をなしたが、心の中ではどうやったら日中間が仲良くできるかばかり考えていた。そのため、現役を引退したころは軍人としてより、政治家として中国と
の交渉にあたる仕事をしたいと思うようになっていた。そういうことから、軍司令官に任命されると、すぐに和平のことを考え、岡田尚を連れて行こうとした。
 上海に上陸すると、さっそく岡田尚は上海租界で旧知の中国人と連絡を取り合い、情報収集にっとめた。
 やがて南京が陥落し、南京に入城して上海に戻ったが、ほどなくして、松井軍司令官に呼ばれた。
 軍司令官室に行くと、和平工作の話であった。外交ルートを通した和平工作は東京で行われていたが、うまく進んでいない。そこで松井大将は経済人を通して和平工作を行おうと考えた。日中の
経済人同士で和平を進め、国民政府がその話にのりやすいようにしようというのである。
 当時、中国の経済人で最も力があったのは宋子文であった。宋子文は浙江財閥の一つである宋一族の長子で、姉妹三人は孔祥煕、孫文、蒋介石の夫人となっている。宋子文自身国民政府の財政部
長をつとめており、国民政府内で大きい影響力を持っていた。

作られた南京維新政府
 松井軍司令官は、交渉の相手として宋子文が適任と考え、岡田尚に宋子文と連絡を取り、この話を打診するように命じた。
 岡田尚はさっそく河北政務委員最高顧問であった李択一にその計画を打ち明け、宋子文と連絡を取ってくれるように依頼した。やがて李択一から返事が来て、宋子文は香港にいるが会ってもいいという。
 そこで岡田尚は年明け早々の一月四日、上海を出発して香港に向かった。十一日に香港に着き、十四日李択一とともに宋子文に会った。
 要件を述べると宋子文は主旨を了解し、早速政府と連絡を取ってみるので数日待つてほしいと返事をした。順調なすべりだしに岡田尚は喜び、さっそく祝杯をあげ、香港にとどまって返事を待つことにした。
 ところが十六日午前、突然、李択一から、日本政府は蒋介石を相手とせす、との声明か新聞に載っているがどうしたのかとの電話があった。岡田尚はあわてて日本領事館に行き、中村領事に問い
合わせた。中村領事も新聞を見て知ったばかりでそれ以上にことはわからない。岡田尚は改めて宋子文に面会を求めると、宋子文は気持ちよく会ってくれたが、このまま話を進めていいのかどうかとたずねてきた。
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 政府からこのようなはっきりした声明が出れば条件は一変しているはずである。岡田一人が逆らってもどうしようもない。断らざるをえなかった。追いかけるように翌日、上海の臼田大佐から
工作を打ち切って上海に戻れとの命令がきた。こうして宋子文工作は終わった。
 上海に戻った岡田尚には新しい仕事が待っていた。今度は南京の維新政府設立のための仕事である。松井軍司令官は、日本軍が占領した地域については、いつまでも占領のままにしておかない
で、中国人による行政を行うのが良いと考えていて、中国の行政機関の設立を進めるよう指示していたけれど、岡田尚にも協力するようにというのである。
 岡田尚は早速上海と南京で新しい仕事に携わりはじめたが、そうしているうちに松井大将は畑俊六大将と交代して東京に帰ることになった。
 軍司令官をやめるに際して、松井大将の気掛かりは新しい政府のことであったから、岡田尚としてはなんとかして松井大将の在任中に維新政府の骨格を決めたかった。
 二月下旬、松井大将が帰る直前になりようやく梁鴻志以下の維新政府の陣容が決まり、松井軍司令官と維新政府の首脳との会談をすることができた。岡田尚はほっとした。
 岡田尚は一緒に戻れるものと思っていたが、松井大将の命令でそのまま残ることになり、三月の維新政府発足を見届けた。しかし、そこでも手を引くことはできず、維新政府顧問部事務局長とし
て引き続き仕事をすることになった。

 判決が下りるまでの面会は共同の面会場で行われ、隣の面会人との間は数メートルも離れていなかった。絞首刑が宣告されたあと七人は別棟に収容されたため面会場は変わった。
 面会場は新しい棟の中にあった。四人は指定された部屋に入ると、部屋には椅子があり、そこに座って待つことになった。部屋は大きく、中央には金網が張られ、こちら側と向こう側とに分けて
ある。金網の向こう側の部屋にもドアがついている。松井大将はそのドアから入ってくるらしい。岡田尚は金網の前で待ちながら、ふと何度か前の面会場でのことを思い出した。
 そのときの面会では松井大将の隣に板垣征四郎大将がいた。岡田尚が松井大将の前に行くと、金網の向こうで松井大将が板垣大将に向かって、
 「これが岡田の息子だよ」
 といった。板垣大将も中国とは関係が深かったから、二人の間で父の話が出たのだろう。その板垣大将も松井大将同様絞首刑を宣告されている。
 そんなことを思い出しながら待っていると、下駄をがたんごとんさせて来る音が聞こえた。やがて金網の向こうのドアが開いてアメリカ軍の憲兵が現れ、そのあとから松井大将が入ってきた。
 いつものように瓢々として、判決前に会ったときと少しも変わらない。ただ以前は国民服であったが、今日は白い着物のような獄衣を着て、サンダルを履いている。その服装か今日は今までと違うことを示していた。
 三人の女性は、松井大将を励ます立場であった
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けれど、松井大将を見るととたんに涙ぐんでしまった。逆に松井大将が、
 「涙をこぼしてもしようがない」
 と励ました。松井大将の話しぶりはいつもと全く変わらなかった。
 松井大将は極東軍事裁判で身に覚えのない南京事件を持ち出されたから、絞首刑になろうとは思ってもいなかった。ただし、満州事変や支那事変の際、軍の中枢にいたわけではないが、上海・南
京戦のときの軍の最高司令官であったし、最後は負けた戦いだから、有期か無期くらいはあるかもしれないと思っていた。
 岡田尚が以前面会に行ったとき、松井大将はそのような見通しを話していたし、岡田尚自身、南京では松井軍司令官と終始一緒にいて、検事側か述べたようなことは見たこともなかったので絞首
刑は予想もしなかった。文子夫人も久江さんも七夫中将夫人も松井大将から同じことを聞いていたから、絞首刑の判決には腰が抜けるほど驚いた。
 松井大将は、「こうなったのも国の犠牲だから」 ともいって三人をなぐさめた。
 三年ほど前、松井大将に出頭の命令が出て、巣鴨の拘置所に入ったとき、既に七十歳であり、胸もやんで体が弱くなっていたから、たとえ有期になったとしても、生きて自宅に戻れるとは考えて
いなかった。出頭を命ぜられたときも肺炎をわずらっていて四ヵ月も延ばしてもらったほどである。そのため、巣鴨に入ってからはよく写経をして心を静めていた。
 だから絞首刑を宣告されても今までと変わりがないのだ、と松井大将を見ながら岡田尚は思った。

刑場の露と消えた松井大将
 松井大将は、三人の女性を励ますと、やがて四人を前に訥々と話し出した。 松井大将は兄弟の中で唯一人の生き残りとなっていたので、生家の先祖の位牌を家に置き、いつも拝んでいた。
松井大将の頭の中にはこの松井家の位牌のことが最もあったらしく、これを弟七夫の長男にお守りさせようと考えた。そこで、文子夫人と七夫氏の夫人にそうするように命じた。
 次に松井大将は一人おいていく夫人のことを思った。
 二人の間には子供がいなかったので常日頃松井家はこれで終わりだと思っていた。ところが、敗戦で戦犯に指名され、巣鴨に入ることになり、文子夫人を一人おいていくことになった。そのた
め、一人で淋しい思いをしてかわいそうだと、急遽女中の久江さんを養女にすることにした。
 久江さんは大正八年、松井大将が姫路の連隊長をしていたとき、女中として松井家で働きだしたもので、そのとき十四歳だった。それから松井家の女中として、松井大将が移るたびに一緒に移っ
て家族同様に過ごしてきた。
 松井大将は、夫人のためできるだけのことをし
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P213
て巣鴨に入ったが、これからは本当に文子夫人を一人にしてしまう。
 その文子夫人に、これからは興亜観音をお守りしながらやっていくようにいった。
 松井大将は昭和十三年上海から戻ると、上海と南京で死んだ日本と中国の兵士をとむらいたいと思い、また、同時に日中親善を願った。そのため上海の激戦地の大場鎮の土と、戦場で荼毘に付さ
れた戦死者の灰を芯にして観音像を作ろうと思いたった。中国から土と灰を持ってくる役は岡田尚が命じられた。松井大将は岡田尚に、特に血のある土を、と命じた。
 上海から戻ってきた松井大将は、東京の大森から熱海に引っ越していたが、観音像ができると、これを興亜観音と名付け、熱海の伊豆山の中腹にお堂を建ててここにおさめることにした。そして
多くの人の寄進を受け、興亜観音は昭和十五年に開眼式を行った。それから松井大将は毎日観音堂まで登り、堂守りをしてきた。日本の戦いが激しくなったときもそれは変わらなかった。
 松井大将は、夫人にこの興亜観音を守るように言うとともに、養女の久江さんにも夫人と一緒に守るようにと言った。
 次に、松井大将は岡田尚に向かった。
 岡田尚と松井大将の関係は、親と子、おじと甥といったような間柄だったから、岡田尚は今日もいつものように松井大将が何かをいうのを待つという気持ちでいた。
 松井大将は、岡田尚に向かって、自分の遺骨は返してもらえるのやらどうやらわからない、また松井家はこれで終わりになる、だから自分の位牌は黒住教の本部に持っていって永代供養してもら
うようにと命じた。また、天皇陛下から賜った銀の花差し一対を黒住教本部に寄贈するようにとも言った。
 松井家の家宗は神道で、冠婚葬祭は神道にのっとって行っていた。たまたま岡田家も神道で、黒住教であった。そういうことでこのように頼んだものである。
 岡田尚には興亜観音に関しても命じた。
 松井大将の存命中なら維持もお守りもできるだろうが、いなくなってはそれもむずかしくなる。そこで、熱海市に話をして市の力を借りるなりして将来も残すようにと。また、そのことについて
は興亜観音奉讃会の常任理事でかつて中日実業の社長であった高木睦郎とも相談するように言った。なんとかしてお守り続けるようにということである。
 松井大将は最後に岡田尚に対して、文子夫人のことをくれぐれもよろしくと頼んだ。
 こうして松井大将は。先祖の位牌のこと。夫人と養女のこと、興亜観音のこと、自分の位牌のことを四人のそれぞれに話しかけたが、すべてがお互いに共通していることであった。それは今まで
も何度か松井大将が話していることでもあった。
 それだけで、時間にして二十分ほどである。最後の面会は終わった。
 アメリカ連邦最高裁判所はアメリカ弁護人の申し立てにより、十二月十六日から十八日まで聴取会を行うことにした。そして二十一日、最高裁判所は評決をしたが、六対一で人身保護の訴願受理
の管轄権はないとした。これで絞首刑が確定した。
 占領軍総司令部は、アメリカ連邦最高裁判所が否決した翌々日の十二月二十三日午前零時から処刑を行うことにした。
 予定通り深夜の零時一分三十秒に処刑が行われ、松井石根大将は零時十三分に死亡した。(つづく)
336日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:37:35 ID:nY/8WMtf
丸MARU 1990年11月号 通算532号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載23回

P206
南京大虐殺を報じた記者
 戦後になると、戦場での話がおもしろい体験談として語られ、人から人へ伝わって、増幅され、修飾されていった。これが酒飲み話であるうちはよかったが、それがマス・メディアにのると話は違ってくる。
 南京攻略戦の話は、東京裁判で取り上げられたこともあり、しばしば語られたようで、こういった体験談で最も影響力があったのは今井正剛氏の話であろう。
 南京攻略戦には、十万人近くの兵隊のほか二百人にも及ぶ記者が従軍した。従軍記者は毎日戦線の様子を書き日本に送った。それらの記事は連日新聞の一面を飾った。一面だけでなく、新聞の多くの部分を占めた。
 そういったおびただしい戦場の記事が掲載されていたけれど、南京事件なるものは報道されることもなく、事件があったとされてから十九年後の昭和三十一年十一月、朝日新聞の従軍記者だった
今井正剛氏が「特集文藝春秋 私はそこにいた」の中に「南京城内の大量殺人」を書いて南京では大虐殺があったと告白した。
 この告白は、それまで発表された東京裁判における外国人の証言と違って、日本人、しかも従軍して国威発揚の記事を書いた記者の告白だったから衝撃は大きかった。南京攻略戦に参加した兵隊
達は特にこたえたようで、そのことは、昭和三十六年の「大分合同新聞」に連載された「郷土部隊奮戦史」に今井氏の証言が言及されていることからもわかる。
 今井氏が「南京城内の大量殺人」の中で述べた南京事件というものは簡単にいうと次のようなことであった。
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 一、昭和十二年十二月十五日の夕方、難民区の中にある旧朝日新聞支局のすぐ近くの空き地で四、五百人の敗残兵が六人ずつ射殺、刺殺された。
 二、同じ十五日の夜、二万人ほどが旧支局の前の通りを下関までつれていかれ、機関銃で殺された。それは明け方まで続き、死体は苦力が江へ投
げ、この苦力もそこで射殺された。揚子江にのがれた人もポンポン船から機関銃でやられた。
 これが今井氏の書いた南京事件の概要である。
 告白によると、この日の朝、今井記者は宿泊の臨時通信本部(中山通り中央医院)を出て国民政府を見物し、その後旧支局に行き、そこで昼寝をして、午後から夕方にかげて一の現場に出会い、夜
から翌十六日の朝にかけて二の現場に出会ったという。
 その年の八月十三日、上海事変が勃発したとき、今井記者は早くも翌日上海に派遣されている。戦線の記事は一面トップを飾る記事であり、戦線への派遣は花形記者に限られている。今井記
者は当時朝日新聞社会部の売れっ子記者であった。
 その後、朝日新聞ではカメラマンたちも含めて数十人の従軍記者が南京に行ったが、それら花形記者の中でも特に今井記者は飛び抜けていたらしく、十二月十六日には一面全部を使って従軍記事
を書いている。これは他の従軍記者にはみられないことで、しかも南京攻略戦のしめくくりである南京入城式の記事まで書いている。
 戦後になり、昭和二十三年の元旦の朝日新聞に 「北と南」というルポルタージュが掲載された。
337日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:38:31 ID:nY/8WMtf
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北の千島列島はソ連に、南の奄美諸島はアメリカに占領されていて、日本人は行くことができない。そこで境界ぎりぎりまで行ってルポしようという元旦用の特別記事である。そのとき南の黒島
の記事を書いたのが今井記者である。このときも代表として選ばれている。
 このように今井記者は長い間花形記者であった。花形記者というだけでなく、名文家でもあった。同僚も度々今井記者が名文家であったことを書き、述べている。
 今井記者が「南京城内の大量殺人」を書いたときは朝日新聞をやめていたが、そういった花形記者の告白だったから体験談は信頼されて当然だった。
 今井氏が見た事件というものは、同僚の中村正吾記者も同一行動をとって目撃しているという。中村記者はのちに朝日新聞のアメリカ総局長などもつとめた人である。体験談は信憑性のある貴重なものであった。
 昭和三十九年になり今井氏の証言は直木賞作家榛葉英治氏によって小説『城壁』にされた。榛葉氏は南京攻略に関するいくつかの資料の中から今井氏の書いた「南京城内の大量殺人」を信憑性の
あるものと思ったのであろう。小説の中で今井氏を山内静人特派員として登場させているだけでなく、今井氏が「南京城内の大量殺人」に書いたシーン、例えば旧支局にいたアマとボーイが飛び出
すシーン、多数の中国人が連れていかれるシーン、今井記者と中村記者が虐殺が外国に知れると恐れるシーン、記者と日本兵が会話するシーンなどをそっくり引用している。そして、小説のあと
がきには「作中の新聞記者のみた状況は、もと朝日新聞記者、今井正剛の『南京城内の大量虐殺』を基いにして書いた。これは目撃者による数すくない貴重な記録の一つである」と書いた。
 このとき、榛葉氏はわざわざ今井氏に会ったらしく、「今井正剛氏は、氏の書かれた記録を資料とすることを、快く許諾された」とも書いていた。
 『城壁』が発表されると、文芸評論家の林房雄氏は朝日新聞の「文芸時評」の中で大々的に取り上げ、こう書いた。
 「中国と連合国側はこの『大虐殺』を誇張して日本軍の『野獣性』を世界に宣伝した。戦後は日本の左翼人がこれに同調して日本そのものを攻撃し、日本人の心に毒汁をそそぎこむことに協力し
た。右翼人はこれに対してその『真相』をかくし抹殺することに努力した。国民としては左翼人の誇張も右翼人の抹殺も信用できず、そのため『南京事件』は『黒いナソ』として永久に残った形に
なっている。これはいけないことだ。日本民族の自信を喪失させ、未来への前進の可能性をはばむ暗雲は日本人自身の手によってはらいのけるべきだ」。
 さらに続けて。
 「榛葉英治氏『城壁』は、いわゆる『南京大虐殺事件』を扱った力作である。
 勇気を要する仕事であり、作家の努力がつづけられることによって、国民は次第に事件の『真相』に近づいて行く」
 と書いた。『城壁』はどちらにもかたよらず、真相にせまろうとしていたからだと誉めたのである。
 その後、今井氏は昭和四十一年にも週刊誌で同様な証言を繰り返した。
 しかし一方で同じころからこの証言に疑問が投げかけられ始めた。証言に疑問を投げかけた最初は昭和三十九年発行の『南京作戦の真相』である。この中で今井氏の証言は、
 「全く事実に反する虚構のもので、これを読んだ誰もが、不愉快というより義憤を感ずると思います」と非難された。
 次いで非難したのは昭和四十三年に発表された五島広作氏の「南京大虐殺の真相」である。
 五島氏は第六師団の従軍記者として南京に行った毎日新聞の記者である。今井氏はさらに昭和四十二年十月一日、テレビ番組「日本この百年」に出演して虐殺を証言していたが、このことを含め
て五島氏は、 「テレビに出演して南京虐殺を証言した今井記者に下野中将(南京攻略当時の第六師団参謀長、谷師団長は南京事件の責任者として南京で処刑されている)が詰問した結果、推理小説的に架空の事実を虚構
して、興味本位に書いたと自供した」と内幕をあばいた。
 それにもかかわらず今井氏はその後も同様な証言を繰り返し、そのため、多くの事件の参考資料にされ(泰郁彦『南京事件』 児島襄『東京裁判』)また多くの南京事件関係書に証言が引用された
 (洞富雄『決定版 南京大虐殺』 本多勝一 『南京への道』)。 やはり今井氏の証言は真実なのであろうか。
338日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:39:26 ID:nY/8WMtf
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事件の真相を求めて検証する
 そこで改めて昭和十二年当時の朝日新聞をめくってみた。今井記者の書いた記事は花形記者らしく南京占領直後の昭和十二年十二月十六日から十八日にかけて連日載っている。これらの記事を要約するとこうなる。
 まず十六日付夕刊(十五日発行)である。先ほど述べたように第三面に一頁いっぱい使って今井記者の従軍記が載っている。十二月六日から十三日まで八日間にわたる一日ごとの詳しい従軍記で
ある。次は十七日の朝刊である。第二面に、揚子江をはさんだ南京城の対岸にある浦口に渡った記事が載っており、また第三面には同僚十五人との座談会の記事がある。
 最後は十八日付夕刊(十七日発行)で、十七日に行われた日本軍の南京入城式の記事である。
 この三日間の記事をよく見ていくうちに、十七日の記事が重要な事実を示していることに気がついた。
 まず第二面の浦ロでの記事である。この記事は〔十六日南京発〕とあり中村正吾記者と共同のもので、記事によると、日本人記者として十五日にはじめて浦ロに渡ったとある。浦口は南京市の一
部であるが、揚子江をはさんで南京主要部の対岸にある。南京主要部の下関から船に乗れば十分足らずで着くが、十五日といえば揚子江を渡る船はまだ軍艦しかなく頻繁に渡れる状況ではない。浦
ロに行って取材するなら少なくとも半日仕事である。しかし今井氏の書いた「南京城内の大量虐殺」によれば、十五日は国民政府を見たり昼寝をしたあと虐殺を見たことになっている。これはど
うしたことだろう。浦ロに行っているとしたら虐殺を見る時間はないし、虐殺を見ているなら浦口に行ぐ時間はない。本当はどちらか。
 もう一つの第三面の記事では今井記者を含めて十五人の従軍記者、カメラマン、無線技師などが座談会を行っている。「臨時通信本部(山中門近く)」で「ローソクの光の中で語り合った」とあ
るから、夜、取材が一段落してから行ったものであろう。この座談会は十六日夜とあるだけでいつ行ったのか明示がない。
 座談会はいつ行われたのであろうか。掲載された前夜の十六日であろうか。十六日と仮定してみよう。座談会は内容から二時間はかかると考えられる。座談会が終われば記者の一人がこれを原稿
にまとめる。二時間のものであればまとめるのに少なくとも倍以上の時間はかかるであろう。六時に座談会が始まったとしたら原稿が出来上がるのが十二時になる。それから上海経由で送稿する
と、十七日朝刊の締め切りこは間に合わない。
「十六日特電」ともずれてしまう。
 もっと早めに始めて短時間で済んだとすれば締め切りにぎりぎりで間に合わなくもない。しかし内容は必ずしも一刻を争うようなものではない。南京から送る原稿量はたくさんあり限られていた
し、無線がいっぱいでオートバイで原稿を運ぶ新聞社もあった。一刻を争うもの以外は込む時間は避けている。そうすると十六日夜のことではなさそうである。
 それでは十五日の夜行われたものであろうか。
 十五日夜行ったと仮定しよう。翌十六日に原稿をまとめて午後にでも送稿し、十七日に掲載。こう考えると無理がない。しかし、さらに一日早く座談会を行った可能性はないのだろうか。当
時の新聞のニュースと掲載日を見るとこれもありうることである。座談会は十四日夜行われたのであろうか。
 ただし十四日と仮定した場合、十四日夜の座談会の記事を十六日まで手元に置くだろうか。座談会の記事の冒頭に「十六日特電」とあるのだ。こう考えると十五日の夜行ったと考えるのが自然である。
 以上の新聞記事から十五日の今井氏の行動が明らかになる。
 十二月十五日といえば冬至一週間前で一日は短い、南京の夜明けは七時過ぎである。まだ電気も水道も途絶えたままであった。夜が明けるとともに起きる。臨時通信本部には賄いがいるわけでは
ないから各自が食事の用意をする。朝日新聞では上海から米を持っていった。今井氏も自分で食事を用意したのであろう。
 朝食が終わるのは八時過ぎか。それから取材にでかける。中山路の中央医院にあった臨時本部から下関まで真っすぐ行っても二時間はかかり十時ごろになる。それまで朝日新聞は自動車を一台持
っていたが、南京攻略戦の途中地雷に触れてこわれた。そのころ記者は、すべて歩いていた。
 下関では海軍に頼んで軍艦で浦ロに渡してもらったのであろう。浦口に渡り取材して、下関に戻ってくるのに二、三時間かかったとして午後一時
339日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:40:52 ID:kl4yzK+z
P210
ごろになる。昼食時間を入れればもっと時間がかかる。そのまま真っすぐ臨時本部まで戻っても三時ごろ、海軍との交渉が長びいたり、乗艦を待っていたりすれば日は暮れる。さらにこれを原稿に
まとめなければならない。一日がかりの仕事である。そして夜は座談会が行われた。
 このように新聞記事から今井記者の十五日の行動を見ると、浦口取材と座談会でいっぱいである。ところが「南京城内の大量殺人」に書かれていゐ今井記者の十五日の行動は先はどの通り、宿
泊所を出て国民政府を見物し、旧支局に行き昼寝をして、午後から夜は二つの虐殺を見ている。新聞記事から考えられる行動とは全く別である。新聞記事によるかぎり午後から夕方の虐殺を見た
り、夜の中国兵の連行に出会う時間は少しもない。既に指摘されているとおり「南京城内の大量殺人」の証言はまるっきりのフィクションであることがわかる。
 逆に「南京城内の大量殺人」の告白が本当だとすれば、十七日付の二つの新聞記事が嘘になる。これらの新聞記事はフィクションだったのだろうか。
 しかし、今井記者が浦口に行っていないのなら中村記者単独の記事でよかったし、座談会も十五人でなく十四人でよいはずである。中村記者単独の記事は他の日にもあるし、従軍記者で座談会に
出席していない人が何人もいる。やはり今井記者は浦ロに行ったのだし、座談会に出席していたと考えるめが自然だ。
 それでは今井記者が証言した「南京城内の大量殺人」に日付の間違い、勘違いがあったのであろうか。今井記者は虐殺を見たのは十五日といっているが、別の日であったのだろうか。
 まず十六日と仮定してみよう。
 十六日の今井記者についていえば、その日の夜は翌日の入城式の長い予定稿を書いでいた。それは「南京城内の大量殺人」で今井氏自身が述べている。
 十七日の午後一時半から行われる入城式の模様は入城式が行われてから書いたのでは間に合わない。そのため前もって書かれることになっていた。その役は名文家の今井氏にあてられ、今井氏
の書いた予定稿は十七日の天気を確認した上、朝一番で送られその日の夕方のトップを飾った。今井氏自身はその日の入城式を見ないで南京を立っている。
 とをあれ十六日の昼は予定稿を書くため軍司令部に行き取材をしたであろう。日露戦争の大山元帥以来このような大規模な入城式はたえてなく、入城式がどんなものになるか誰も知こない。取材
がなければ書けないはずである。
 このように十六日と仮定しても、今井記者は予定稿のための取材と原稿書きのため虐殺を見たりする時間はない。

虐殺をみた記者の"記事”
 それでは虐殺を見た日を一日早い十四日と仮定しよう。十四日は日本軍が南京城に突入した翌日で、掃討が一部残っていたが、南京城内のようすからいえば午後から夜にかけて虐殺現場に出会う
ことは不可能ではない。十五日と今井氏が書いたのは十四日の間違いだったのだろうか。「南京城内での大量殺人」の中で今井氏は、兵隊は十四日入城したばかりで、国民政府や市内要所を回って
忙しく、そのような日ではない、と言ってるがどうであろうか。
 しかし、この日も今井記者は虐殺を見る時間はなかったようである。翌昭和十三年一月二十七日の東京朝日新聞を見ると「戦場から帰って」と題する記事がある。評論家の杉山平助氏や朝日新聞
の従軍記者がリレー式で書いているもので、四回目のこの日は今井記者が書いている。この記事によると、今井記者は十四日に中華門の前でシカゴディリー・ニュースのスチール特派員と立ち話
をして、一緒に金陵大学のほうへ歩いていったという。
 「南京城内の大量殺人」によると、虐殺を見た日は国民政府の建物をぶらぶらした上、旧支局に行ったとある。午後は昼寝と虐殺見聞である。そうするとスチール記者と会えるのは午前しかない。
 しかし「戦場から帰って」を読むかぎり、中華門に行ったのは時間に追われた行動ではない。となると、午前中にのんびり国民政府の建物を見て、かつそこから四キロメートルほど離れている
中華門でスチール記者と立ち話をするということはできない相談である。
 また、今井記者と同一行動を取って虐殺を見聞しているはずの中村記者は同じ十四日、中山路と中正路の出会う新街ロでニューヨーク・タイムズの記者やパラマウントのカメラマンと会い、それ
までの南京の概要を取材している。さらにAP通
340日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:42:21 ID:kl4yzK+z
P211
信の記者などにも会っている。それらの記事は、十五日南京発として新聞に大々的に載っている。中村記者は十四日の昼、彼らと会ってその日のうちに原稿にしたものであろう。今井氏の告白によ
れば、中村記者も同一行動を取っていることになっており、とても中村記者は今井記者と旧支局に行って昼寝をしたり、今井記者と虐殺現場を見る時間はない。
 結局、十四日と仮定しても無理で辻褄があわないことがわかる。
 どう拡大解釈しても「南京城内の大量殺人」はフィクシゴンというより他にない。
 フィクションであることがわかった上、再び「南京城内の大量殺人」を読んだ。改めて読むと辻棲があわないことだらけである。もう一度見よう。まず、今井氏は旧支局にいた中国人の阿媽と
ボーイに会うシーンをこう書いている。これは榛葉氏の『城壁』の中にも引用されているシーンである。
 「以前の支局へ入ってゆくと、ここも二三十人の難民がぎっしりつまっている。中から歓声をあげて飛び出したものがあった。支駱で雇っているアマとボーイだった。
 『おう無事だったか』」
 非常にリアルで臨場感あふれなシーンである。
 しかし、よくよく考えれば不思議なシーンだ。
今井記者はそれまで東京の社会部記者をしており南京支局にいたことはなく、阿媽とボーイが支局に雇われていたかどうか知らないはずである。顔も見ていない。もちろん阿媽とボーイも今井記者
を知らない。とすると、阿媽とボーイが歓声をあげて飛び出してくるはずがない。
 戦争が始まるまで朝日新聞の南京支局にいたのは、橋本登美三郎支局長と山本治記者の二人である。中支が険悪になって、最後まで南京に残った人たちは上海に戻れず、八月十六日になって陸路
青島に向かった。この中に橋本支局長と山本記者がいた。
 数日して二人は無事日本に戻り、二人の南京脱出記は朝日新聞の第一面トップ記事となった。
 二人が南京を脱出する二日前の八月十四日、社会部の今井記者が東京から上海に従軍記者として行くことになった。
 いったん東京に戻った橋本、山本の二人の記者は南京攻略だというので再び南京に向かった。それから四ヵ月して南京は陥落した。
 陥落と同時に橋本と山本の二人の記者は南京に入り、そして旧支局に行った。そしてそのときのようすを記事にした。十二月十六日付夕刊(十五日発行)である。
 「取敢ず通信局に行くと、そこには数十名の避難民がウヨウヨとして居るが俄に飛び出して来たのはそれは思いがけぬ数年に亙って使用して居た阿媽とボーイであった。彼等は懐かしさの余り吾々に飛び付く有様であった」
 阿媽とボーイが橋本記者と山本記者に飛びつくのは当然である。数力月前まで一緒に働いていたのだ。特に山本記者は東亜同文書院を卒業して中国語が自由に話せたから親しかった。
 今井記者は二人の記者が書いた阿媽とボーイに会うシーンを自分のこととして「南京城内の大量殺人」に書いたのである。いわゆる剽窃である。
 もうこれ以上「南京城内の大量虐殺」の問題点をあげる必要はなさそうだが、念のため二、三あげておく。
 今井氏は虐殺の夜を「まっくら」と書いているが、暦を見ると昭和十二年十二月十五日は十三夜で、しかも連日晴天か続いていた。月夜である。月は明け方に沈んでいるから「まっくら」ではな
い。さすが各文家の今井氏も見たことのない二万人の虐殺現場を書き表すこともできず「まっくら」と書いて逃げた。
 さらに、ゆらゆらと揺れるポンポン船から苦力たちを機銃掃討したとも書いている。これも注意しないといかにもありそうなシーンと信じてしまう。このころ、揚子江にはポンポン船はない。揚
子江岸にあった船はすべて市民が乗って上流に逃げていった。市民はあらそって持ち金を船賃にした。八十万人以上といわれた市民がにげたのだから当然である。最後に中国兵が筏や板まで使って
逃げている。そのとき、揚子江にあったのは上海から遡江してきた日本の軍艦だけである。せいぜい上流から来たわずかの日本兵が乗っていた船だけである。
 このように今井氏が告白した証言はフィクションであり、剽窃までしていたのだ。朝日新聞でも名うての名文家といわれた今井氏の名文に多くの南京事件研究家がだまされたわけである。直木賞
作家すらだまされるのだから当然であろう。むしろ「南京城内の大量殺人」は何人もだますほどの名文だったことをほめるべきかもしれない。
 南京事件とは、こうして日本人の手でも作られていったのである。(つづく)
341日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:47:47 ID:/BKBNO5a
>>340
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#82】
【政府】
日本政府は南京大虐殺を裁いた極東軍事裁判の判決を国家として受け入れており、南京大虐殺を国家として認めて
います。また、「中国に対する過去の侵略と植民地政策を反省している」というのが95年の村山談話以降、政府の公式
見解で、この点は小泉首相もことあるごとに強調しています。羽田内閣の時、永野法務大臣は「南京大虐殺は捏造」と
発言したことが問題となってクビになり、ついには羽田内閣もぶっつぶれました。
【法律】
南京大虐殺は極東軍事裁判で有罪となりました。この裁判で死刑になった松井大将は証言の中で虐殺の事実を認め
ていました。戦後日本の賠償訴訟(「七三一部隊」被害者損害賠償請求訴訟,東京高裁判決,1999.9.22)でも南京虐殺
の事実認定がなされています。また、南京虐殺否定本でウソツキ呼ばわりされていた中国人女性が否定本の著者を
訴えていた事件では、この著者の敗訴が最高裁で確定しました
【学術】
「南京大虐殺」の事件の存在自体を否定している歴史学者は一人もいません。(「否定説はほとんどの歴史家の間
では受け入れられる傾向はない」ウィキペディア「南京大虐殺論争」)。日本の歴史事典、百科辞典類で、南京大虐殺
の事件を否定ないしは存疑として記述しているものは一つもありません。日本の教科書にも事件に疑いを差し挟んで
いるものは一つもありません。アノ「作る会」の教科書でさえ、他の教科書と同じように南京大虐殺を認めた記述をし
ています。以上のように南京大虐殺否定論というのは、右翼の人たちが、学術的にはお話しにならないようなデタラメ
な検証を根拠に、勝手に言い立てているだけのことであって、日本でも公の場では全く認められていない、アングラ的
言説に過ぎません。ただ、このアングラ説にとびついた漫画(ゴー宣)などのせいで、漫画しか読まないような若者はこ
ちらが真説と思いこんでしまったようですが。
342日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 17:55:02 ID:kl4yzK+z
丸MARU 1990年12月号 通算533号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載24回(最終回)

P260
教科書に載った南京事件
 四ヵ月にわたって松井石根中支那方面軍司令官の衛兵長をつとめていた高木威勲大尉が、方面軍司令官とまともに言葉を交わしたのは昭和十三年二月末、いよいよ松井大将が東京に凱旋するとい
うときであった。それが最初であり、そして最後である。
 挨拶に行くと、松井大将は、
 「長い間ごくろうであった」
 といい、前もって高木大尉のために書いておいた書をくれた。
 方面軍司令官の衛兵長とはいえ、それまで方面軍司令官とは言葉を交わしたこともなく、十万の兵を指揮する方面軍司令官からみて衛兵長など眼中にないと思っていたところ、心のこもった言葉
をかけてくれ、その上、書まで用意してくれていたので非常に感激した。
 松井大将の後任は畑俊六大将である。高木大尉は衛兵長として、そのまま畑大将にも仕えることになった。
 同じ方面軍司令官でも松井大将は予備役からであり、畑大将は現役だったため、回りの勢いが違う。そういうことから、畑大将の方が松井大将よりも光っていたかといえば、高木大尉にとってはそうではない。
P261
 高木大尉は、畑大将に対しては武人という印象を持ったが、松井大将は畑大将とも違う人物だ、と畑大将の衛兵長をつとめて改めて松井大将の偉さを感じた。
 それではどのように偉いのかといえば、
 「表現する適切な言葉がありません。
 なんといったらよいのか、度々聞かれるのですが、うまくいえないのです」 と言う。
 戦後になり松井大将は南京事件の責任者とされたが、それについては、
 「私は衛兵長ですから南京では常に松井軍司令官の側にいて一緒に南京を見ていました。また、方面軍司令部が上海に戻ってからは中支那方面軍の軍法会議の判士もつとめました。こちらはかかり
っきりというのではなく、お手伝いをしたといった方が適当なのですが、それにしても判士をつとめましたから兵隊の軍紀がどの程度か知っています。ですから戦後、東京裁判で南京虐殺が持ち出
されたときは本当にびっくりしました」 と述べている。
 戦争が終わって軍はなくなったけれど、高木さんは軍人であったことに誇りを持ち、正月になると熱海にある興亜観音にお参りに行くようになった。
 興亜観音は中支でたおれた日本と中国の兵士を弔うために松井大将が建てた観音である。小高い伊豆山の中腹にあり、そこにいたる道は長くないが、急な坂道になっている。この坂道は年を取る
とともにきつくなり、七十を越してからは行っていないが、松井大将を尊敬する気持ちは少しも変
343日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 20:59:33 ID:KzKMp1BR
肯定派としても資料など参照できるのはありがたいのだけど
やっぱり掲示板はそう使うようにはできていないし、利用目的も資料のうp用ではないので、
無料HPとか無料wikiにうpして、リンクを貼るのが正しいと思うよ

それから、それ程の量の著作物を丸々貼り付けるのは
また別の意味で問題だと思う
344日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 21:09:50 ID:Nv1Nuchg
ttp://nanking1937.web.fc2.com/index.html

ここに貼れないのかな?
345<:2010/08/09(月) 22:14:06 ID:6qJT18HX
ID:kl4yzK+z

乙かれ・・・(`・ω・´)∩
オイラもじっくり読んでるゾ・・・(`・ω・´)

まだヒラメキみたいなものはないが、何か思い当たったらオイラ見解を書こうとオモ・・・(`・ω・´)
346日出づる処の名無し:2010/08/09(月) 22:59:22 ID:RCXDvamH
>>291
連日お疲れ様です。
やはりネットでこういった資料を確認できるのは大変ありがたいですね。
なにやら、もっともらしい建前を並べ立てた雑音が聞こえますがお気になさらずw
こういうものは否定派、肯定派を超えた財産になると確信していますので続きを期待していますw
347<:2010/08/10(火) 00:53:11 ID:TCFBR+jv

303-305、307 って幕府山事件の事だな・・・(´・ω・`)
この記載では 【 支那兵捕虜一時隔離 】 のために連行したと言う事か・・・(´・ω・`)
348日出づる処の名無し:2010/08/10(火) 01:47:49 ID:G1v5nMG1
小説だけどな
349日出づる処の名無し:2010/08/10(火) 02:11:21 ID:xy7icePv
P262
わらない。
 光華門を攻めた鯖江連隊の西坂上等兵は、その翌年、徐州作戦に参加し、徐州作戦が終わったとき、連隊の遺骨を持って一時帰国するよう命じられた。遺骨の中には徐州作戦で死んだ従兄弟の高
橋太重郎伍長の遺骨もあった。
 鯖江まで遺骨を持って行くと、叔母は遺骨を抱いて泣きながら、「なぜ代わりにおまえが死んでくれなかったの」
 と西坂上等兵にいった。従兄弟は一人息子、西坂上等兵は六人兄弟である。泣く叔母を見て、代われるものなら代わってやりたいと思った。 数日で再び中支の戦場に戻った。
 西坂上等兵は、上等兵への昇進が一番早かったが、その後も上官からは評価された。自分も丁稚奉公の生活より軍隊生活があっていると思っていて、上官のすすめがあり軍隊に残ることになった。
 「軍隊にいるうちに不撓不屈の精神ができて、また体がきたえられましたから、軍隊で心身ともに磨かれたと思っています。
 戦後、両国の店はなくなっており、新しい仕事につくことになり、それからもいろんなことがありましたが、軍隊にいてよかったといつも思っています。
 私は軍隊からいろいろな影響を受けましたが、軍隊では生水は飲まなかったので、今でも飲み水はいったん沸かしてから飲む習慣がついています。これなんかもその一つです」
 このように西坂さんは九年間の軍隊生活を述べている。
 昭和五十九年、教科書の南京事件の記述が事実と違っているというので、国を相手どって民事訴訟が行われた。教科書は二十万、三十万の虐殺があったというが、事実を書くべきだと主張したの
だ。西坂さんもこのとき原告の一人となった。
 「軍紀は厳しかったから南京で虐殺事件はありえません。
 今でも光華門で受けた。突入命令を覚えていますが、光華門でたおれた戦友のためにも南京事件の記述だけは訂正しなければなりません。そうでないと死んでから戦友に会えません」
 いかにも立派な兵士だったことをしのばせるてきぱきとした仕草と話し方の人である。
 裁判は東京地裁で棄却の判決が出て、西坂さんたちは高裁に控訴した。しかし高裁でも棄却になり、最後に上告して敗れた。裁判の結果については仕方ないとあきらめたけれど、教科書の記述に
ついてはあきらめず、ほかに方法がないかどうか検討している。

「毎日新聞」のトップ記事
 会津若松連隊の栗原伍長は南京攻略戦の翌年秋、武漢作戦で大腿部貫通銃創を受け、内地に戻った。そして警視庁に復帰し、以来、停年までつとめた。
 昭和五十九年七月二十二日の毎日新聞の社会面トップに「南京大虐殺 中国が立証」 「犠牲者は三十余万人」という見出しと記事が載った。記事の内容は、中国で出飯された『証言・南京大虐
殺』が日本でも翻訳されるが、これは南京事件の犠牲者が三十万人であったことを証明している、といデものである。東京日々新聞といった時代から毎日新聞の読者である栗原氏は早朝、自宅でこ
の記事を見て驚いた。こんなに大きく南京大虐殺の記事が載った新聞を見るのははじめてだったからである。そして、そのとき、南京攻略戦に参加した一兵士として、この記事をこのままにしてぷ
いては大変だ、何も知らずに読んだ人が本気にしてしまうと思った。
 軍隊時代に頑健だった栗原さんは七十歳を過ぎてもきわめて健康で、一日五、六時間寝れば充分である。停年退職してからは武道を教えていて、
 一日家にのんびりいることはない。ラジオの君が代を聞いてから寝て、朝はラジオ放送が始まるのを聞きながら起きる。
 朝早く毎日新聞を読んだ後、新聞社が始まるころまで待って編集局に電話をした。自分も南京攻略戦に参加した兵隊だがあの記事はおかしい、と自分の思ったままを述べると、数日して記事を書
いた記者が栗原さんの家にやってきた。栗原さんは、自分の見聞するかぎり三十万人という虐殺はありえない、と言って改めて自分の体験した話をした。そして、当時持っていたスケッチなども見
せた。その記者は熱心に栗原さんの話を聞きながら、スケッチーブックをお借りしたいといって帰っていった。
 それから二週間ほどした八月七日、突然、「元陸軍伍長、スケッチで証言 南京捕虜一万人虐殺 自動発砲説覆す」という見出しの記事が毎日新聞に載った。記事の内容は、自動発砲説といわれ
ていた南京の幕府山事件は虐殺だった、その証拠
350日出づる処の名無し:2010/08/10(火) 02:12:40 ID:xy7icePv
P263
であるスケッチを栗原氏が持っている、というものである。南京虐殺はなかったと抗議したら、南京虐殺の証言者にさせられたわけである。
 毎日新聞には栗原氏の住所も載っていたので、新聞を見た人からは、勇気ある発言だという励ましと、日本軍の恥をさらすなという非難が半分ずつ来た。
 栗原氏は毎日新聞の記事に、記事の内容が違うこと、住所や名前など了解もなしに書いたこと、そして、そのため非難の手紙が来ていることを抗議すると、今度はそれが「記者の目」コーナー
で、「反論あれば堂々と、匿名の中傷やめて」という記事になった。今度の内容は、八月七日の記事を見て証言者にいやがらせの手紙をよこす人がいる、反論があるなら匿名でなく堂々とすべき
だ、というものである。そこではじめて栗原氏は毎日新聞に抗議するだけ無駄だと連絡を断った。
 栗原氏の話を聞いたとき、まさか新聞記者が証言者のいわんとすることと逆の記事を書くことはないだろう、記者にも言い分があるのではないかと思った。そして記者に会いに行くことにした。
会って、まず一番気になっていることを話した。
 「栗原さんはあの記事に怒っていますよ」 すると、記者は、 「そうでしょうね。知っています」
 とこともなげに言った。記者は栗原氏の証言を意に介せず、自分の意図する記事を書いていたのである。
 そんなことがあった翌六十年三月、栗原さんは、顧問をつとめる武道学園の第三次日中友好少年文化使節団の一貝として中国にわたった。それまでも何度か中国への旅行をすすめられていた
が、いつも万里の長城や北京を見るというものであったので断っていた。中国に行くのならたくさんの戦友の死んだ上海に行って供養したいと思っていたからである。
 そのときは上海と南京に行くというので行くことにした。
 「上海に着いたとき、皆と別れて郊外に行ってみました。そうするとね。クリークは昔のままで、確かに見覚えのあるトーチカの跡もありました。それを見たとたん、昔のことがいろいろ思い出さ
れ、涙が流れ、どうしても止まりませんでした。
 日本からお酒と花を持っていきましたから、それを供えて戦友の冥福を祈り、。それでようやく落ち着きました」
 上海の後、南京に行った。戦争当時は船で揚子江を渡り南京を後にしたのだが、その揚子江に行ってみると、近代的な橋が架けてあり、あまりに立派なのでびっくりした。南京城壁も一部が壊さ
れていたが、聞くと、古いものはすべて取り壊す方針だと言う。
 栗原さんは軍隊生活について。
 「教育の場としては軍隊以上のところはないと思います。気配りもおぽえ、実行力もでます。裁縫も覚えます。私の幼なじみで満足に文字も読めなかった者が軍隊に入って手紙の書き方をおぼえ、
その後、社会に戻ってから社長にまでなりました。社会生活での最低必要なことを教えてくれるところですよ。
 軍隊はピンクをもらうひどい所というが、それは怠けているからで、怠け者には軍隊はつらいでしょう。軍隊生活は共同生活を行い、その体験は人間社会にとって本当に必要です」と言う。
 栗原さんも軍隊生活がその後の人生での支えになっている。

 都城連隊の鎌田上等兵は、兵役が終わってからも軍隊に残り、終戦まで軍人として生きることになった。終戦時には准尉まで進んだ。昭和十五年、支那事変の論功行賞が行われたときには当然のことながら金鵄勲章を貰った。
 小柄な体といい、素朴な話し方といい、鎌田上等兵と南京城突入を結びつけるのはむずかしいほどである。その鎌田上等兵を支えていたのは国を思う心である。
「あのころ、自分のことは何も考えませんでした。国のことだけです。それは私だけでなく、昔そうだったと思います」と言う。
 軍人として最後はブーゲンビルに行って戦った。そこでは重傷の者は自決するという不文律であった。鎌田准尉はここで右脛貫通銃創を受けたが、すんでのことで自決しないですんだ。
 「九年間を振り返りますと、気にかかるのは多くの部下を死なせたことです」
 と軍隊時代を一言で語った。
 戦後、都城連隊の連隊会が結成されたとき、すぐに第九中隊の世話人になり、それ以来、戦友との親睦につとめている。連隊会は毎年開かれているが、世話人なので受付をやったりしてゆっくり戦友と話もできない。
 その連隊会に結成以来の出来事が昭和五十九年におこった。
351日出づる処の名無し:2010/08/10(火) 02:14:07 ID:xy7icePv
P264
 昭和五十九年八月四日、朝日新聞が、都城連隊の兵士が南京虐殺を告白している。写真もあると報道し、その南京虐殺の証拠という写真を載せたからである。
 連隊会では驚いてさっそく調査に乗り出したが、朝日新聞が報道するような人物はおらず、南京の写真というのも満州での匪賊の写真と酷似している。連隊会は朝日新聞のデッチあげと断定した。
 さっそく朝日新聞に抗議したが、朝日新聞は、報道は事実であり、兵士の名前は公表できない、と撤回しようとはしない。会談は度々持たれ、連隊会は白黒をはっきりさせるため取材源をはっき
りさせるよう求めたが、朝日新聞は取材源の秘匿は当然と逃げるだけ。とうとう連隊会は裁判に持ち込むことにした。連隊会といっても定年を過ぎた老人ばかりで、裁判といえば少なくとも数百万
円単位のお金がかかる。しかし、連隊会は黙っているわけにはいかなかった。
 結局、連隊会と朝日新聞の間で会談か持重れ、昭和六十二年一月、朝日新聞が紙上で謝罪する代わりに連隊会は告訴を取り下げた。解決するまであしかけ四年かかった。
 「朝日新聞に虐殺の写真だというのが載っていましたが、虐殺だという話は一度も聞いておりませんでしたから、朝日新聞はどうしたのかと思いましてね。私は絶対そういうことはないと信じて疑いません。
 朝日新聞もお詫びして、ようやくあの記事にも決着が着きました。六十二年の連隊会ではそれを祝いました」という。
 軍隊生活は鎌田さんの戦後の生活にとってどうだったのかとたずねると、
 「結果として敗戦となりましたから、どうだったといっても仕方のないことです。
 私個人としては農業という仕事でしたので仕事自体には軍隊の知識は結びつきませんでしたが、人間的に大いにプラスになりました」と語った。
高松元伍長の証言
 福知山連隊の山室伍長は南京攻略から二年後の昭和十四年十月、連隊の凱旋とともに故郷に帰った。大東亜戦争が始まって再び徴兵になり、今度はフィリピンに行ってアメリカと戦った。
 しかし、アメリカ軍との戦いは中国軍とのようにいかず、さんざん痛めつけられ、仕上げに砲撃でやられた。砲撃を食ったとき、肩口が割れ、傷口を押さえようとした右指四本がすっぽり傷口に入ったほどである。
 昭和六十三年、日本の商社貝がフィリピンで誘拐され、指を切られたと報じられた。その報道に接した山室さんは、フィリピン当時のことを思い出したのか。「本人は痛いとも何とも感じないで
しょう。気が張っていますからね。私も肩口が割れたときは痛いと思いませんでしたよ」と言った。
 「南京での戦いでは辛いこともありましたし、戦友が死んで悲しいこともありました。でも何年かしてフィリピンで戦ってみると、南京での辛さは物の数ではなかったんですね。辛さ、悲しさなどは限りがないものです。
 しかし、アメリカ軍には負けましたか、アメリカ兵ば日本兵がいそうなところを遠くから機関銃で撃つだけで、怖いから撃つとそのまま帰ってしまいます。やはり日本兵が一番勇敢だったと思います」と戦争体験を話した。
 戦争が終わってからは毎日が仕事で忙しかった。戦前戦中は戦場での戦士、戦後は復興の戦士である。仕事に明け暮れていたので、自分から誘って戦友と会うことはなかったが、それぞれの戦
友会があって、会合の通知が来れば必ず行く。
 「戦争のことを思えば、仕事でどんなにつらいことがあっても苦になりませんでした。それと、軍隊での皆で一緒にやる、命令は守る、ということは仕事の上で大いに役に立ちました」
 と言った。復興の戦士として山室さんは中堅企業の工場長までつとめた。
 宇都宮連隊の高松伍長は第六十五連隊が宇都宮に戻った昭和十四年九月に家に戻った。
 その後、大東亜戦争で再び召集されている。
 高松さんのまわりで南京事件がいいだされたのは昭和六十年代に入ってからである。それまで話題にもなっていなかったが、日本軍の将校の集まりである偕行社が調査をするようになったのがき
っかけとなった。雨花台で一緒に南京城を攻撃した軽装甲車の兵士が近くに住んでいて、ある日高松さんが雨花台で中国兵を剌殺したことを話すと、捕虜を殺すのは国際条約違反だといわれた。
 そのことに関して高松さんは、「あのとき、あの中国兵は殺すものだと思っていました。中国軍ですら中国兵を殺していましたから。私かやったことが南京虐殺といわれているものなのかどうか
352日出づる処の名無し:2010/08/10(火) 02:18:44 ID:/hdfvDbh
P265
自分ではわかりません。しかし、戦争とはそういうものだと思っています」 と答えた。高松さんは巷間、虐殺だと言われている事柄の当事者である。どのように答えるのか
と思っていたが、昔の人らしく、中途半端に答えたりしない。はっきり答える。それはほかの質問でも同じだ。
 軍隊生活は自分にとってどうだったかとたずねると。
 「厳格な生活は身のためによかったと思っています。軍隊生活を経験していない今の者と私達を比べるとはっきりした差があります。今の者からみれば軍隊生活は夢のようなことですから言っても
しょうがありませんが、整理整頓とか目に見えるところでもはっきり違っています」と答えた。
 五、六年前までは昔の戦友と定期的に集まっていたが、一番若かった高松さんでも米寿で、病院に通う体である。ここ五年ほど戦友に会ったことはない。第四中隊の人達の様子を知らせると、
 「手塚中隊長はまだ元気ですか。それはよかった。
 それにしてももう中隊会が行われることはないでしょうね」 と言った。
 松井大将から中支那方面軍の嘱託を命じられて同行した岡田さんは、生まれや育ちなどから中国で仕事をする運命にあったようだ。松井大将が凱旋帰国しても岡田さんは残り、結局、終戦まで中国にいた。
 戦後はすぐに松井大将の裁判の手伝いをすることになり、それを三年間続けた。
 岡田さんも戦後は新しく生活を始めなくてはならず、事業をおこしたが失敗して遺産の土地をほとんど失った。やがて医学書の出版をすることになり、こちらの方は日本医師会と提携してどうに
か続けることができた。世話好きでもあり、自分の卒業した東亜同文書院の同窓会の世話をしたり、昭和五十九年に結成された「孤峰会」の副会長をつとめてもいる。
 孤峰とは松井大将の雅号で、孤峰会は松井大将の徳を忍び、その遺志をつごうとして結成されたものである。毎年五月十八日に熱海の興亜観音に会員が集まって供養するが、松井大将と縁故のあ
る人たち数十人が全国から集まってくる。中には九十歳になろうとする人もいる。この人達は、松井大将と聞くとどうしても行かなくてはおさまらないのだ。松井大将がなくなって既に四十年にも
なるが、松井大将の偉大さがしのばれる。
 昭和六十二年の集まりで岡田さんは久し振りに松井大将の養女久江さんと会った。岡田さんはまるで青年のように目を輝かせて喜んだ。
 この年の集まりでは、供養をした後、岡田さんが皆の前で松井大将の思い出を話した。
 「東京裁判のとき、松井大将をなんとかしてもらおうと、山田純三郎氏を通して蒋介石に働きかけたことがありました。蒋介石からの答えは、南京でも漢口でもどこでもいい、誰か一人をやらないと中国がおさまらない。そういう答えでした。
 それを松井大将に伝えるとね、大将は黙っていました」そんな思い出を話しながら、最後に、
 「体の動くかぎり、皆さんとここでお目にかりたいと思います」と挨拶した。
(おわり)
353日出づる処の名無し:2010/08/10(火) 16:51:45 ID:/Ifg17rq
>>349
否定論肯定論どちらに対しても大変有用な資料ですね。
連日お疲れ様でした。
354日出づる処の名無し:2010/08/11(水) 12:49:22 ID:kRksb13V
おまえら、日本軍兵士の犯行現場とか行ったことないだろ?
355 ◆MvRbZL6NeQ :2010/08/11(水) 14:52:57 ID:vwoNrUjg
>>354
>おまえら、日本軍兵士の犯行現場とか行ったことないだろ?

どうせ,まともな返事は返らないと思いますが,リアルタイムで犯行現場にいた事がある人はほぼ皆無でしょうね!
過去に犯行現場になった場所という意味ならあなたがさきに
* どこが日本軍兵士の犯行現場なのかを特定してください.
* いったことがある場合とない場合はどういう違いが生ずるのか説明してください.
* そういわれるあなた自身は ”当然” 「犯行現場」にいった経験がおありでしょうからその体験をふまえて,主張したいことを述べられると宜しいかと

こういうことを怠っての上記発言は,何の説得力をもちえませんよ
356日出づる処の名無し:2010/08/11(水) 15:30:43 ID:Nl9CZJvc
>>355
そもそも何をもって「犯行」と判断したのかとw
肯定派は、日本兵の「犯行」とはどんなものなのか説明できるのだろうかw
357<:2010/08/11(水) 20:02:15 ID:Rinya0LQ
>>354
なるほど♪・・・(・∀・)

"日本軍兵士の犯行現場" を目撃したわけでもないナマポクサヨどもが
"南京大虐殺は真実だ〜!" と主張するのは正に捏造だな♪・・・(・∀・)
358<:2010/08/11(水) 21:01:44 ID:Rinya0LQ

 >>349:
 朝早く毎日新聞を読んだ後、新聞社が始まるころまで待って編集局に電話をした。自分も南京攻略戦に参加した兵隊
 だがあの記事はおかしい、と自分の思ったままを述べると、数日して記事を書いた記者が栗原さんの家にやってきた。
 栗原さんは、自分の見聞するかぎり三十万人という虐殺はありえない、と言って改めて自分の体験した話をした。そして、
 当時持っていたスケッチなども見せた。その記者は熱心に栗原さんの話を聞きながら、スケッチーブックをお借りしたい
 といって帰っていった。それから二週間ほどした八月七日、突然、「元陸軍伍長、スケッチで証言 南京捕虜一万人虐殺
 自動発砲説覆す」という見出しの記事が毎日新聞に載った。記事の内容は、自動発砲説といわれていた南京の幕府山
 事件は虐殺だった、その証拠であるスケッチを栗原氏が持っている、というものである。南京虐殺はなかったと抗議したら、
 南京虐殺の証言者にさせられたわけである。

     ↑    ↑    ↑    ↑
これって、毎日新聞じゃなくて朝日新聞の本多勝一の事なんじゃないの?・・・(´・ω・`)
359日出づる処の名無し:2010/08/11(水) 21:06:57 ID:tu5XD6vv
間違ってないよ
360日出づる処の名無し:2010/08/11(水) 22:15:17 ID:zdKPWdH0
丸MARU 1989年1月号 通算510号 P180 兵士たちの「南京事件」 城 じょう るい 壘 連載第1回 阿羅健一 え・小貫健太郎
●戦史の汚点といわれる日本軍による中国人大量虐殺事件は果たして有ったのか。参戦した生き残り無名兵士たちの証言で迫る日中戦争の秘められた真相

P180
将軍と兵士
 中国の首都南京が陥落したのは、あと半月で昭和十二年も終わろうとしていたときであった。そのころ、一国の首都が陥落するということはめずらしいことで、しかも、陥落は、攻略命令が出さ
れてからわずか十二日間でのできごとであった。
 中支那方面軍司令官松井石根大将は、十二月十七日に南京に入城し、五日間南京にとどまった。
 この間、南京では、入城式と慰霊祭が行なわれ、松井軍司令官は二十二日に水雷艇で揚子江を下った。
 上海に戻った松井軍司令官は、南京を占領したこともあり、多忙をきわめた。上海にいるアメリカとフランスの艦隊司令官を訪れ、パネー号事件について陳謝し、上海の租界地について話し合う
一方、上海、南京一帯のこれからの行政について、大みそかまで中国の要人と話し合いを続けた。
 松井軍司令官の頭には、まず第一に、早く中国人による行政府を作り、民心を安定したものにしたいという思いがあった。
 大みそかまで話し合いを続けた後、昭和十三年の正月は軍司令官官邸でむかえた。天気は良く、上海では初日を拝むことができた。
 明治十一年生まれの松井軍司令官にとって、こ

P181
の年は還暦の年にあたっていた。南京が陥落し、中国との流れもいよいよ変わるような気配が見えていた。
 しかし、正月とはいえ、各地では作戦が展開されていたので、元旦に祝っただけで、いつもと変わらない軍司令部での生活が続いた。
 二日には、東京に派遣していた塚田攻中支那方面軍参謀長が戻ってきたのでその報告を受けた。松井大将は、すでに地方に逃げた蒋介石に代わり、新しい中国人による政権を作ることに意を注
いでいたが、それについて東京とは大きいずれがあった。
 三日からも東京から来る人々と会ったり、作戦の打ち合わせで忙しい日が続いた。
 上海は東京とほぼ同じ気温で、この年の正月は晴れの日が続いていた。
 松もとれたある日、松井軍司令官は軍司令部から一人で外に出た。
 軍司令官が外に出るときは、戦線視察や上海にいる各国の大使、軍司令官、新聞記者との会談などにかぎられ、それはいつも前もって決められている。それ以外に軍司令官が外に出ることは珍しいことであった。
 その日の軍司令官は特にこれという目的があった外出ではなく、しかも突然のものであったため、いつも同行する専属副官や参謀たちはもとより、護衛のための衛兵など、誰も同行するものが
いなかった。衛兵たちの指揮官である衛兵長がたまたま松井軍司令官の外出を見つけ、急遽一人で軍司令官の後を従うことになった。
 軍司令部は上海の郊外にあり、回りはすぐ畑に
361日出づる処の名無し:2010/08/11(水) 22:16:13 ID:zdKPWdH0
P182
なる。松井軍司令官はその郊外に向かって歩いていった。あたりに人はほとんど見えない。
 しばらく歩いていくと、軍司令官ども知らずに一人の日本兵が軍司令官の前方を通りすぎて行った。日本兵は、寒かったためか、軍服の上に中国のチョッキを着ていた。
 それを見つけると、松井軍司令官は兵士を呼びとめ、 「そのチョッキはどこから手に入れたか」 とたずねた。
 チョッキを着ていた兵士は突然の質問に驚いたようだったが、すぐに、これは中国人からもらったものだ、と答えた。
 すると、松井軍司令官は、 「中国人の着ているものをもらうとはなにごとか。中国人の中には着るものにも困っている人がたくさんいる。もらったにしろ日本兵が着るとはもってのほかだ」 と叱った。
 決して大きくはないが、凛とした声に兵士は圧倒されてしまった。兵士は、郊外のこのような辺りを軍司令官が一人で歩いているとは思ってもみないだけに、相手が誰かわからなかったが、相当
偉い人だとはわかったらしく、うろたえてそれ以上何も言えなかった。
 それを見ると、軍司令官は、 「わかったか。すぐに中国人に返しなさい」 と、静かに言って、ふたたび郊外に向かって歩きだした。
 戦場にしろ、平時にしろ、陸軍大将が一兵士をつかまえて注意を与えるということは全く異様な出来事であった。階級が何段階にも分かれている軍の中で、大将が一兵士に注意を与えるというこ
とはほとんどありえないことである。このとき、日本陸軍には松井大将のほか、現役の大将は、閑院宮参謀総長、植田謙吉関東軍司令官、寺内壽一北支那方面軍司令官、杉山元陸軍大臣、畑俊六教
育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官の六人しかいなかった。一兵士にとって大将はまさに雲の上の人である。

衛兵長ひとり
 松井軍司令官の後ろ十メートルをつかず離れず従っていた衛兵長は、この光景を見て驚き、あまりのことにわれを忘れていた。
 衛兵長の高木威勲大尉は、ニカ月ほど前まで千葉県習志野にある騎兵学校の教官をしていた。十一月、中支那方面軍司令部を警護する衛兵隊が編成されることになり、東京近郊の歩兵、砲兵、騎
兵の各連隊より優秀な兵士たち百二十名が選ばれてその任についた。二十七歳の高木大尉はその衛兵隊の隊長として指揮をとるように命ぜられて、上海に向かった。
 上海に着いて、高木大尉はただちに任務に従った。
 衛兵は交代で常に軍司令官を警護している。軍司令官が軍司令部を出るときには高木衛兵長が二十名ほどの部下を従えて必ず同行する。オートバイで先導する時もあれば、衛兵とともにトラック
に乗って後を従うこともある。外出先に着くと、衛兵たちは入りロや外で護衛するけれど、高木衛兵長だけは軍司令官の見える場所まで行って待機する。それが一番の任務であった。
 こうして、十一月から二ヵ月以上仕えていたけれど、この間、松井軍司令官から何か問われることも、また、高木衛兵長から何かを申し上げるということもなかった。庶務的なことは専属副官の
角良晴少佐がすべてを行ない、作戦については塚田参謀長、武藤章参謀副長以下、参謀が相談にあずかる。だから常にそばにいるといっても、衛兵長が問われることも、申し上げることもない。松
井軍司令官はいつも静かで、おとなしい人のように見えた。
 その軍司令官が目の前で叱っている。しかも、二十万を越える中支那方面軍を叱咤するのではなく、一兵士の着ているものに注意を与えている。高木大尉がわれを忘れて見ていたのも当然であった。
 やがて高木衛兵長は気づき、自分が兵士の所まで行って、注意を与えるべきだと思ったが、そう思ったときには、軍司令官が歩きだしていた。
 高木大尉は、上海に来るまで、陸軍大将について、偉いとか、尊敬するとか、そういうことは考えてもみなかった。高木大尉にとって、大将とはそういう考えが浮かばないほど自分から離れた人
であった。それが突然、松井大将の衛兵長を命ぜられた。
 上海に来てみて、最初に驚いたことは、軍司令部には中国人がよく出入りしていることであった。それまで内地にいた高木大尉にとって、戦っている相手国の人間が軍司令部に出入りするのは
362日出づる処の名無し:2010/08/11(水) 22:17:19 ID:zdKPWdH0
P184
どうしても理解できなかった。
 そのうち、松井軍司令官は、毎日数力国の新聞をとりよせて目を通しているということを知った。そのこともそれまでの自分の回りで起きたこととは相当違っていた。
 しばらくすると、軍司令部の参謀たちが、
 「軍司令官は日本より中国人の方がかわいくて仕方がないのだ」
 というのを聞いた。参謀には公平匡武中佐、中山寧人少佐などという錚々たる参謀がいたが、参謀たちの口調は、軍司令官を非難するといったようなものではなく、軍司令官の中国人に対する考
えには心から感嘆しているといった言い方であった。
 そんなことが重なるうち、高木大尉は、なぜ中国人が軍司令部に出入りするのか分かるような気がした。軍司令官は高木大尉が考えることのできないほど幅のある人らしいのだ。
 そしてそれらが分かるにつれて、軍司令官から何かが伝わって来るような気がして、いつの間にか心の中に軍司令官を尊敬する気持ちが生まれてきた。
 ふたたび松井大将の後を従った高木衛兵長は、このような今まで軍司令官について見たり聞いたりしてきたことが次々と目の前に浮かび、いつもはおとなしい大将がなぜ一兵士をあんなに叱った
のか自分なりに分かった気がした。

随一の支那通
 その年、還暦をむかえた松井石根中支那方面軍司令官は、明治十一年七月二十七日、名古屋で生まれた。家は代々武将で、祖先には、今川義元の家来として織田信長と桶狭間で戦って死んだ松井
宗信や、御普請奉行として今の名古屋の町づくりをした松井武兵衛などがいる。
 このうち、松井武兵衛の名はいまも名古屋市内の中心地に、武平町と武平通として残っている。武平町は町名変更のため一区画しか残っていないが、そこには大きいビジネス・ビルが建ってお
り、また、松井武兵衛が住んでいた所は栄公園になっている。
 士族の子として育った松井石根は、中央幼年学校から陸軍士官学校に入学し、明治三十一年、二番の成績で陸軍士官学校を卒業した。陸士第九期と呼ばれたこの期には特別に優秀な者がそろって
いて、後に大将まで進む真崎甚三郎、本庄繁、阿部信行、荒木貞夫などの逸材がいた。これら教育総監、侍従武官長、総理大臣、陸軍大臣などをつとめるような人と比べても松井石根の力はすぐれていた。
 松井石根には二歳違いの弟がいたけれど、この七夫も士官学校を優等で卒業して、のちに中将まで進んでいる。
 明治三十四年に陸軍大学に入学したが、在学中に日露戦争がおこり、二十六歳の松井中尉は、最前線の指揮官である中隊長として出征し、日露戦争初期の遼陽の戦いで大腿部貫通銃創でたおれ
た。日露戦争の後半は第二軍司令部で働いた。
363日出づる処の名無し:2010/08/11(水) 22:22:38 ID:oCrDK/bt
P184
 日露戦争が終わってふたたび大学に戻り、明治三十九年、首席で卒業した。
 陸大在学中から、松井石根は、同郷の士であり、アジアの復興を志しながらわかくして死んだ荒尾精を尊敬するようになった。
 アジア十億の民衆は長い間欧米の収奪と圧政にあい、数千年の古来の文化は欧米の覇道文化に侵食されていた。しかし、アジアは地理的、人種的だけでなく、文化的、政治的、経済的にも一個の運命共同体である。
 松井石根は、そう考え、やがて、自分の生涯のすべては、日中をふくめたアジアの自主自立に捧げよう、と心に決めた。そのため、陸軍大学卒業後は自ら中国駐在武官を志願し、陸軍大学の優等が派
遣されるフランスにも派遣されたけれど、自分の希望する中国にも度々派遣されるようになった。
 陸大卒業の翌年、松井大尉は中国に渡った。
 そのころは清の時代であった。日本とともにリーダーとなりアジアを興すべき清国は、精神、物質ともに欧米の侵食を受けていた。
 明治四十五年、辛亥革命がおきて清朝が倒れた。しかし、。権力者は、袁世凱や段祺瑞に代わっただけで、こんどは軍閥の争いが始まった。
 このころ、松井石根は国民党の指導者である孫文、胡漢民らと親しく交わり、孫文とは、アジアは運命共同体だとする大アジア主義で考えが一致した。
 その後、松井石根はウラジオ派遣軍参謀、ハルビン特務機関長、三十五旅団長を経て、大正十四年、陸軍の情報をつかさどる参謀本部第二部長の地位に就いた。このとき、第一部長に就いたのが同期の荒木貞夫である。
 同じ大正十四年、孫文が死んで、国民党は汪兆銘を中心にして孫文の遺志を継ぐことになったが、国民党による中国統一の道はまだ遠いものであった。
 やがて、アジア自主自立のためには、中国が統一されることが先決であると考えていた松井石根は、中国を統一するものは蒋介石であるとの見通しを持ち、そのため、かげになりひなたになり蒋
介石を助けるようにつとめた。
 第二部長時代の昭和三年、田中義一首相と蒋介石の会談の根回しをし、台湾軍司令官時代の昭和八年には、福建人民革命政府の蒋介石への帰順工作を行なった。
 松井石根は、軍人として、フランスに派遣されただけでなく、ジュネーブ軍縮会議に全権委員として派遣されもしたが、中国への関心がいつも頭の中にあり、陸軍では随一の支那通といわれていた。
 昭和八年三月、松井大将は、近衛文麿、広田弘毅などと大亜細亜協会を作った。
 大亜細亜協会はその前年の春、下中弥三郎、中谷武世などによって作られた汎アジア学会がもとになっている。汎アジア学会はアジアの問題を研究する団体であったが、これを知った松井は自ら入
会を希望し、あるとき事務所を訪れた。しかし、松井が軍人だということから入会は断わられた。
 いったんは断わられたが、松井の強い希望で、改めて、陸軍の代表としてではなく、松井個人と
364日出づる処の名無し:2010/08/11(水) 22:24:11 ID:oCrDK/bt
P185
して入会が認められた。
 汎アジア学会に入った松井は、この団体を単に学究的なものではなく、国家に影響力のある大きいものにしようと提案し、自ら近衛文麿などに働きかけた。

運命の皮肉
 昭和七年暮、大きい組織にするための創立準備会が開かれ、松井はその会合の座長を務めた。このとき、これからの運動は日本と中国が中心になるべきなので、孫文が提案した大アジア主義にち
なんで、新しい会の名前を大亜細亜協会えすることに決めた。
 こうして、大亜細亜協会が発足したけれど、その創立総会には、当時人気絶頂の荒木貞夫陸軍大臣が出席して挨拶し、満場をわかせた。荒木陸軍大臣の出席も松井のつながりからであった。
 大亜細亜協会の考えは、アジア諸国が反目することは欧米の干渉を許すことになり、それはアジアの不幸だけでなく、世界平和の障害となる、そのためアジアはお互いが理解しあって、連合体と
なり、そして世界平和に貢献すべきである、というものであった。
 このため、松井石根は自らアジア各地をまわり、大亜細亜主義を説き、各地に大亜細亜協会を作るように努力した。
 台湾軍司令官を一年つとめた後、松井大将は昭和九年八月からは軍事参議官をつとめたが、昭和十年八月十二日、永田鉄山軍務局長斬殺事件がおきると、責任を感じて、その月の三十日には自ら
予備役願いを提出し現役を退いた。
 名古屋生まれの松井石根は、陸軍主流の長州閥でも、それに対立する九州閥でもなかった、中国通では松井石根の先輩にあたる宇都宮太郎大将が九州閥であり、松井石根の同期生にはその流れを
くむ荒木貞夫、真崎甚三郎がいたが、派閥というのに関心がなかった。松井石根は、軍の下剋上の雰囲気をきらい、自らは毅然とした態度をとり、そのため軍務局長斬殺事件がおきると、決然、軍
事参議官の職を退くことにしたものであった。
 予備役になってからも松井の中国に対する関心は変わらず、昭和十年から昭和十一年にかけて北支那から南支那まで回り、広東に拠って蒋介石に対立している李宗仁、白崇禧の両広派とも会った
上、南京で蒋介石と会談した。ここでも松井は大亜細亜主義を説き、中国が分裂している弊害とソ連と結ぶ愚を説いた。
 しかし、大亜細亜協会の努力が実らないままに、日中の現実は松井石根の考えているものとは少しずつかけ離れたものになっていった。
 それは、中国が長年の間、欧米の思想に侵され、彼らの手先になって日本に対立するようになっているからだ、と松井大将は考えた。
 そして松井石根が大アジア主義のため、南京で蒋介石と会談してからわずか一年半後の昭和十二年八月、上海事変が勃発した。松井石根は上海派遣軍司令官に任命され、自ら助けてきた蒋介石と
戦うことになった。そのときの気持ちを松井大将は後にほぼ次のように記している。
  三十年間、支那と親睦を図り、相互の融和提携を祈念し、その信念は一日として変わらなかったが、自ら軍を率いて支那に向かうに至ったのは真に皮肉の因縁である。
 このように書いていた松井大将は、この戦いを、中国が憎いからではなく、かわいさ余って、反省を促すものであり、この戦いは日中両国民の怨恨となることなく、かえって今後の親善提携の基になることを願った。
 そのために、上海で中国軍と戦っているときも、このことを部下に徹底させ、また中国官民を宣撫愛護するようたびたび訓示した。
 松井石根をよく知る者は、しばしば、松井は日本人より中国人を愛している、という言い方をしたが、それは、中国は日本とともにアジアの中心にならねばならぬと考えているから自然そのような考えになるのだと理解していた。
 日本軍はこうした軍司令官をいだいて、上海に、南京に戦うことになった。    (つづく)
365日出づる処の名無し:2010/08/12(木) 00:06:48 ID:i/Ae0FZM
>>354
タクマニアまだ居たんかw
366日出づる処の名無し:2010/08/13(金) 06:46:24 ID:WTYlCeJo
>>365
日本側から見た視点はそのとおりであると思う。
第2次上海事変は中国側が仕掛けた戦争で裕福な上海を占領する目的があった。
軍事顧問はドイツの戦略家。武器はドイツ製最新鋭を装備していた。国民党軍は
中国だけで日本には対抗できずアメリカ参戦を前提でなければ戦略がたたなかった。
戦略の1つとして南京虐殺があるわけです。ちなみに中国軍は漢妖ということで
中国市民に向けて虐殺は始まっていた。上海事変の数日だけで、上海だけでも1万弱の市民が惨殺されています。
一般に言う恐怖政治を敷いていたわけです。
367日出づる処の名無し:2010/08/13(金) 14:48:42 ID:rxVq1w8/
http://www1.axfc.net/uploader/S/so/79959.zip
PASS : nanking

佐々木周一軍医写真 上海・南京・徐州・漢口
368<:2010/08/13(金) 15:53:40 ID:F0e2k32L
>>367
南京戦に関係した写真は全然無いね・・・(´・ω・`)
369日出づる処の名無し:2010/08/13(金) 22:53:46 ID:4fyELO2n
俺は日本軍兵士の犯行現場行ったよ。修学旅行で。
先人達の悪行を謝るために、作文書いて、被害者の遺族の前で読んだけど。
370日出づる処の名無し:2010/08/13(金) 23:10:41 ID:+HhAE9IZ
>>369
修学旅行で行ったのならはっきりと答えられますよねw
その「犯行現場」はどこにありましたか?w
まさか南京大虐殺記念館ではないですよね?w
371日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 00:44:21 ID:C6rWUE5D
丸MARU 1989年2月号 通算511号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第2回

P154
石原"参謀総長"
 松井石根大将が蒋介石と戦うようになったきっかけの蘆溝橋事件は、昭和十二年七月七日、七夕の夜に起きた。
 北京と天津にいた日本人は一万二千人で、これを守っているのは田代皖一郎中将を軍司令官とした五千人の支那駐屯軍である。この回りには四十万ほどの中国地方軍がいた。
 北京郊外で起きたこの事件は、簡単に解決するかに見えたが、小競り合いはおきてはおさまり、それを何度か繰り返していた。
 このとき、東京では、日本陸軍がソ連に対する防衛の準備に追われていた。
 陸軍の新しい国策は、ソ連を仮想敵国としていたが、その時の日本陸軍の兵力は、列強諸国の中では最も少なく、ソ連や中国の兵力数と北べると六分の一以下であった。ソ連に備えるためには、
まず早急に鉄鋼、石炭、電力などの産業を拡充して国力を増強しなくてはならず、この年からまず満州で「重要産業五ヵ年計画」がスタートした。遅れて日本でも二ヵ月前に「重要産業五ヵ年計画
要綱」が決定され、これから乗り出そうとしていたところである。
 参謀総長は閑院宮載仁親王であったため、実際は参謀次長がその役を果たしていた。しかし、事

P155
件勃発のとき、今井清参謀次長は病気で伏せっており、その任務は第一(作戦)部長の石原莞爾少将が代行していた。つまり、石原部長が事実上の参謀総長ということになる。
 石原部長は昭和十年八月の人事異動で参謀本部に来て以来、参謀本部第一部の機構を変え、宇垣首班を阻止し、すぐれた実行力をみせた。それらはすべて新しい国策のための布石であった。
 このような布石をしてきた石原部長の国策理念は、アジアを白人から解放して、日中親善を作り上げることであったから、いうまでもなく中国と事を荒立てる気持ちは全くなかった。
 しかし、それまでの一年の間だけでも、中国各地では、日本人に対しての数々のテロが頻発していた。さらに、親日中国人の暗殺もおきていた。そういうことから、中国には、蘆溝橋での衝突が
紛争拡大を呼ぶ下地は十分にできていた。
 このような中国に対し、中国との友好が日本の国策ではあったけれど、なにかが起きたら中国軍をたたくべきだとする機会主義者が日本にも少なからずいた。
 当初、現地部隊は早急に解決することをめざし、中央の不拡大方針も現地に指令されていた。
 しかし、小競り合いが繰り返されているうちに、参謀本部には、徐州近くにいる中国の中央軍四個師団が北上準備中との情報が入った。もし中央軍がそのまま北上すれば支那駐屯軍と在留邦人
が非常に危うくなる。軍人である石原部長にとって、この危機感を無視することはできなかったのであろう。
 そのため、中国軍とことを荒立ててはならぬと
372日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 00:45:49 ID:C6rWUE5D
P156
思いながちも、七月十日、ほぼ五個師団の派兵を決定した。
 派兵を決定しながら、石原部長は翌日の正式決定の閣議の前になり、近衛首相に五個師団の派遣を閣議で否決してくれるように申し入れた。
 石原部長をよく知る人は、彼は、強烈で堅い意志を持っていたという。その石原部長が自分で決裁したものを翌日には否決するよう工作した。それは派兵が国策を根本的に覆すものであったから
で、石原部長にとって、その決断がどれだけ揺れ動き、どれだけの苦悩だったのか想像にあまりある。
 閣議は予定通り五個師団の派兵を決定したが、さしあたり満州と朝鮮の二個師団だけで、内地の三個師団の動員は一時延期された。
 ところがこの派兵決定を聞いて、国民政府は本格的に中央軍を北京方面に進め、さらに七月十七日には蒋介石の最後の関頭声明が行われた。
 七月二十五日には、北支で日中が本格的に衝突した。
 日本は二十七日に延期していた内地の三個師団の派兵を決めざるをえなかった。
 蘆溝橋事件の知らせは直ちに中国各地に伝えられた。北支と違って中支では揚子江を利用して日本人が奥地まで進出していた。一番の奥地は上海から千五百キロメートルも入った重慶であった。
この距離は青森から下関にあたっている。
 重慶では二十九人の日本人が商売をしており、租界地があり、領事館もあった。そのため、砲艦比良が警護にあたっていた。
 蘆溝橋の衝突が重慶に伝わると、市内にはアジビラがまかれ、比良が投錨している対岸の山々にはつぎつぎ機銃陣地が構築された。あっという間に重慶の町は険悪な雰囲気になった。
 このような急変は重慶だけにかぎらず、日本人のいる都市ではすべてそうであった。そのため、漢口より上流の重慶。宜昌、沙市、長沙などにいる日本人は漢ロに引き揚げ、漢口より下流の日本
人は上海に引き揚げることが急遽決められた。
 八月一日、重慶の日本人たちは財産をそのままにして全貝宜陽丸に乗り漢口に向かった。このとき、誰もが二、三ヵ月も漢ロにいれば再び重慶に戻れると思っていた。
 ところが漢ロに着いてみると、そこは重慶の比ではなく、全員は再び船に乗り上海に向かわざるを得なかった。
 漢口に着いた日本人はすぐさま漢ロを離れて、外交官を乗せた最後の岳陽丸は八月十一日に漢口を出発した。岳陽丸は途中南京によって、ここにいた日本人を乗せて上海に向かった。
 岳陽丸が江陰まで下って、上海まであと半日となった時、突然、中国軍艦に停船を命じられた。
 岳陽丸は中国側の言うままに、十三日夕方には再び南京に戻らざるをえなかった。
 江陰から戻った岳陽丸の一団と南京に残っていた大使館関係者など数十名は、中国の内陸部にぼつんと取り残されてしまうことになった。数十名を守る軍隊はいなかった。
 そこで彼らは南京にある国民政府外交部と交渉し、その結果、陸路北上して、済南経由で青島に向かうことになった。
 八月十六日、一行は午前と午後の二手に分かれて出発した。真夏ではあったけれど、列車の窓を閉め切った上、黒いカーテンで覆い、決死の覚悟であった。
 中国人に見つかれば全員殺されるかもしれないという危機感が列車をおおった脱出であったけれど、幸運にも、十六日夕と十七日朝、全貝無事に青島に着くことができた。
上海攻防戦
 一方、上海は、上流から引き揚げて来た日本人と、もともと上海にいた日本人を合わせて二万二千名にふくれあかっていた。この人達を二千八百人の海軍陸戦隊が守っていたが、八月九日、陸戦
隊の大山勇夫中尉らが射殺されるという事件が起こり、上海も安全な場所ではなくなってきた。
 そのため、海軍は、八月十一日に千二百人の陸戦隊を上海に送った。しかし、中国の中央軍三万は日本人居留地を取り囲み、数千の海軍陸戦隊だけでは守ることができなくなった。
 ここにいたって海軍は陸軍の出兵を要請した。
 石原第一部長は蘆溝橋事件が起きたとき、万事やむをえず北支に派兵したが、再びそれが中支でも起きようとしていた。
 八月十三日、上海に対しても陸軍派兵の閣議決定が行われた。ちょうどそのとき、上海では、中国軍が陸戦隊を機銃射撃し、日中間で全面的に争いが始まった。
 このため上海の日本人は一斉に引き揚げることになり、婦女子を中心に十五日から二十二日まで
373日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 00:46:52 ID:C6rWUE5D
P157
の間に引き揚げた者は一万四千三百人に及んだ。
 閣議決定をうけ、十五日には第三師団と第十一師団からなる上海派遣軍の編組が発令され、上海派遣軍司令官に松井石根大将が親補された。
 松井大将はこの知らせを富士山の麓の芦ノ湖畔の別荘で聞き、ただちに上京して宮中で勅令を受けた。
 上海派遣軍が編組されたのはこれが二度目である五年前、満州事変が起きた翌年、上海が不穏になり、三万人の居留民の安否が気づかわれ、三個師団強からなる上海派遣軍が編組されたことが
ある。このときは二月一日、まず一個師団強が上陸して戦い、一ヵ月後の三月一日、さらに二個師団が上陸した。中国軍との戦いはそれから三日で勝負がついた。
 しかし、それから五年の間で中国軍はすっかり変わっていた。
 蒋介石は国民党の実権を握ってからドイツ陸軍軍事顧問団を招いていたが、ドイツ陸軍にとって、第一次世界大戦で敗れて軍備を極度に制限されていたこともあり、招聘は願ってもないことで
あった。そのため、第一次世界大戦後にドイツ陸軍司令官をつとめ、敗戦直後のドイツで最も権限を握っていたフォン・ゼークトやファルヶンハウゼンといった一流の将軍を送っていた。
 ドイツ軍事顧問団は第一次上海事変の教訓から、上海市街をとりまく郊外に何重にもトーチカを築くことを指導した。上海は網の目のようにクリークが走っており、守る側にとって有利な地形
である。中国軍は、このクリークを利用してトーチカを築き、塹壕を掘り、もし日本軍が攻めて来ても、持ちこたえられるようにした。ドイツは長年フランスと国境を接して対決し、ジークフリー
トーラインで知られるように陣地構築が得意だったから、ドイツ軍の指揮で作った上海の陣地も堅固なもので、これらの防御線はブォンーゼークト将軍の名前を取ってゼークトーラインと呼ばれていた。
 この他に、ドイツ軍事顧問団は、日本に対する敵愾心を持つことが中国軍の質を高めることだとしてその教育をし、それとともに蒋介石直系の軍にドイツ式訓練をほどこした。
 松井上海派遣軍司令官は、かつて国民党の中で軍事力を背景に成長した蒋介石に期待をかけていただけに中国軍の実力をよく知っており、中国軍が五年前の中国軍とは違っていることも認識していた。
 また、第一次上海事変では、蒋介石が剿共に主力をおいて日本軍に対しては精鋭を投入していなかったけれど、一年前におきた西安事件を境に国民党と中国共産党は手を握り、蒋介石は日本軍に直系軍をあてる覚悟でいた。
 こういう中で松井大将の率いる派遣軍は、二個師団という、少数ではないが、かといって中国軍と戦うにはあまりにも少ない軍を率いて上陸をすることになった。
 最初増員した海軍陸戦隊が上陸した八月十二日の段階で、上海にいた日本車は約四千であったが、中国軍は約三万が陸戦隊を囲んでいた。
 八月二十日ころに日本軍は約六千三百人になっ
374日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 00:47:56 ID:fiwmNsbW
P158
たけれど、中国軍は約七万に増えていた。
 八月二十三日、上海派遣軍はいよいよ第三師団が呉淞に、第十一師団が川沙ロに上陸し始めた。予想通り激しい戦いになった。特に第三師団の敵前上陸は熾烈で、上陸船の舷側から首を出すとと
もに戦死者が出る状態であった。このころ中国軍は一日一個師団以上の割合で戦線に投入していた。
 日本軍は九月七日過ぎまで、両師団で四万人近くが上陸したけれど、そのころ中国軍は十九万にふくれあがり、さらに後方には二十七万から二十八万の軍がひかえていた。
 上海派遣軍は上陸したものの、第三師団は上陸点から二、三キロ、第十一師団も五、六キロ進んだきりで、軍司令部も設置できない状況であった。松井軍司令官は上海沖で待機していた。
 軍の作戦上、攻撃する軍は守備する軍の三倍は必要といわれている。一方、日本軍は一個師団で中国軍の三個師団に匹敵する力を持っているといわれていた。このことは単純にいえば、上海を攻
略するには中国軍と同程度の兵力が必要だということになる。しかし、中国軍は常に日本軍の五倍から十倍の兵力を維持していた。
 ようやく軍の中央部も二個師団だけでは足りないことに気がついた。このため参謀本部は第九師団、台湾の重藤支隊のほか、特設師団である第十三師団、第百一師団を派遣することに決め、これ
らの部隊は九月十八日から十月上旬にかけて上海に上陸した。
 石原部長の不拡大方針は、北支、中支と派遣が続いた上、さらにこれら三個師団強の増派で完全に破綻した。策定した国策は無意味なものになりつつあった。このため、自ら転出を希望し、多田
駿参謀次長の要請をけって、九月二十七日には関東軍参謀副長として都落ちすることになった。
 十月上旬までに日本軍は七万近くの兵力を上陸させ、合計十一万ほどになったが、中国はそれ以上のペースで戦力を投入し、このころには七十万ほどに達していた。
 上海のクリークでは激しい戦闘が繰り返され、日本軍の戦死者の数はうなぎのぼりのように増えていた。
 富山日報の従軍記者として、郷土の第九師団についていった長崎正間は、そのころ第九師団司令部で前線視察に来た松井軍司令官を見た。連日降り続く雨で、師団司令部の回りの道路は泥濘と化
していた。その中を松井軍司令官が到着した。降りしきる雨が軍司令官のマントを濡らし、戦局が軍司令官の顔を青ざめたものにしていた。軍司令官という勇ましいイメージとは似ても似つかぬそ
の横顔を見て、長崎正間は深い衝撃を受けた。
 このため参謀本部は、あらたに第十軍を編成して杭州湾に上陸させ、上海の中国軍を背後から衝く作戦を立案した。
 そうは決めても参謀本部の参謀たちの頭にはソ連軍の脅威があり、国内の常設師団はこれ以上出せない。このため、北支で戦っていた第六師団と、第五師団の国崎支隊を持ってくることにし
て、さらに国内からは特設の第十八師団と第百十四師団をあてることにした。また、杭州湾だけでなく、揚子江上流の白卯江にも北支で戦っていた第十六師団などを上陸させることにした。
 第十軍は十月十二日動員になり、柳川平助中将が軍司令官に親補され、参謀長には田辺盛武少将が就任した。編成にあたり、多田参謀次長は田辺参謀長に、軍紀を厳正にするようにとの注意を与
えた。この意向を受けて、柳川軍司令官は十月十五日、隷下部隊に、軍紀を厳守するように命令するとともに、支那住民に対する注意として、上海方面では老人、女、子供も間諜をつとめ、単独の
日本兵に危害を加えることがあるので注意が必要であり、もしその場合はいささかも仮借することなく断固たる処置を取るべしとの命令を出している。
 第十軍の上陸とともに、第十軍と上海派遣軍の上に中支那方面軍が設けられ、上海派遣軍司令官の松井大将が中支那方面軍の軍司令官も兼ねた。
 十一月五日、第十軍は杭州湾に上陸し、上陸作戦はみごとに成功した。上陸直前、上海派遣軍が大場鎮から蘇州河に向かっていたため、杭州湾上陸の知らせに上海の中国軍は動揺をきたし、一挙に崩れた。
 第十軍が上陸した四日後の十一月九日、日本軍はようやく上海を手中に収めた。

南京攻略命令下る
 結局、上海制覇のために投入した兵力は上海派遣軍が六個師団強、第十軍が三個師団強で、合計九個師団強であった。
 上海上陸以来三ヵ月近くもかかり、戦死者はその後の戦病者も入れると一万五千人を越えた。日
375日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 00:49:05 ID:fiwmNsbW
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露戦争の戦死者八万数千人を別にしても。日清戦争の一万人、シベリア出兵一千人、満州事変一千人、第一次上海事変三千人と比べれば、上海攻略戦がどれほど多い戦死者であったかがわかる。
 この甚大の死傷に対して松井軍司令官以下、上海派遣軍司令部は沈滞していた。
 十一月上旬、中支那派遣方面軍参謀副長武藤章大佐が上海派遣軍司令部に行ったとき、松井軍司令官以下は甚だ不機嫌でとりつくしまもない始末であった。また十一月十八日、参謀本部の河辺虎
四郎作戦課長が訪れた際、飯沼守参謀長、上村利道参謀副長などは来意を告げてもほとんど見向きもしない状況であったという。
 しかも、上海を手中にしたものの、第一次上海事変のときと違って停戦のきざしは見えなかった。日本からは和平条件が提示されたが、ブリュツセル会議をあてこんだ蒋介石からの返事はなかった。
 このような中で、杭州湾に上陸した第十軍は、すでに上陸直前、中国軍が後退しつつあるのを知って、単に背後を衝くだけでなく、太湖から常州に向かい中国軍を捕捉殲滅すべきだと上海派遣軍
と参謀本部に意見具申をしていた。
 この第十軍の意見具申には軍司令官柳川中将の意向が大いに反映されていた。
 上海、南京、杭州の三点を結ぶ三角形は、揚子江が何千年かの間に作り上げた肥沃の土地で、米、麦、綿など多くの農作物がどれ、中国の経済の中心地をなしていた。柳川軍司令官は、一気に
ここを押さえ、その代わり、これ以上は進出しない、そこで外交的にこの紛争を解決する、という考えだった。この中国軍を捕捉殲滅するといった考えは戦術的には正しいものであった。
 しかし、もともと参謀本部は、上海派遣軍の目的を上海における中国軍の掃討と考えて、南京まで攻める考えは持っていなかった。上海事変勃発からIヵ月ほどした九月には早くも和平工作に動
きだし、石原部長の命令で第二部員馬奈木敬信中佐が上海に向かっている。中島参謀次長の後任である多田駿中将も上海から一歩も出る考えはなかった。
 第十軍の意見具申に対し。参謀本部からは十一月七日、作戦の制令線は蘇州〜嘉興の線までと返事があった。参謀本部の考えは、上海を確保することに変わりはなかった。
 それでも、第十軍は十一月十九日に制令線の嘉興まで進んで再び南京追撃を具申した。
 積極的な第十軍に比べ、上海派遣軍は、退却した中国軍を討つため、上海より六十キロの蘇州まで攻める考えを持っており、中支那方面軍はさらにその三十キロ先の無錫まで攻めるのが得策だと考えでいた。
 しかし、第九師団が簡単に蘇州を占領するとともに、中国軍が南京方面を根拠地としつつあることを知った中支那方面軍は、南京追撃の意見に変わり、十一月二十二日には「事変をすみやかに解
決するため南京を攻略すべし」との電報を参謀本部に打った。
 参謀本部は二十四日、とりあえず蘇州〜嘉興までという制令線を廃止した。
 このような状況で、もともと南京攻略の考えを持っていた下村定参謀本部第一部長以下、参謀本部の大方は南京攻略の考えに傾き、月末には、それまで強硬に反対していた多田参謀次長もついにこれを認めた。
 十二月一日、南京攻略が決まった。
 ただちに多田参謀次長は上海の大場鎮南方の助産教育学校に設けられている中支那方面軍可令部に向かい、松井軍司令官に南京攻略命令を伝達した。
 この時、上海派遣軍では、第十三師団が江陰を攻略中、第十六師団は常州から丹陽に向かっており、第九師団が常州から金壇に向かっていた。
 第十軍では、第百十四師団が 陽攻撃に向かって、国崎支隊、第十八師団、第六師団は広徳に進みつつあった。
 こうして中支那方面軍の半数が南京に向かうことになった。約十二万の大軍であった。(つづく)
376日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 09:05:11 ID:y/4rJijN
日本軍の犯行現場なら、日本が侵略した各国にあるでしょ。
南京ばかりが目立つが、マレー大虐殺を始め、インドシナ半島でも
同規模の虐殺はあったからね。
あとは独立を阻止するために、朝鮮半島でもかなりの一般市民を虐殺したし。

あげたらきりがないよ。修学旅行で多かったのは南京だと思うが、
重慶で同じように生徒に謝罪文書かせる学校もある。
377解説者 ◆ayPjxbmM2c :2010/08/14(土) 09:18:30 ID:ydfuvz79
おいおい、いったい「何の犯行現場」なんだろうねぇ?w
30万人大虐殺というのであれば、日本の肯定派学者ですら否定していなかったか?w

そもそも謝罪文ってなんなんだよ?w
当事者でもない奴に書かせた文章に何の意味があるのやらw
相手も当事者の遺族かどうかも怪しいってのにw
378日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 09:19:20 ID:0nd8EJmS

日本が支払った賠償金一覧

(単位は億円) 賠 償 準賠償 各種請求権
ビルマ(ミャンマー) 720.000 612.000  
スイス     12.0000
タ イ   96.000 54.0000
デンマーク     7.2300
オランダ     36.0000
フィリピン 1980.000    
スペイン     19.8000
フランス     16.7280
スウェーデン     5.0500
インドネシア 803.088 636.876  
ラオス   10.000  
カンボジア   15.000  
南ベトナム 140.400    
イタリア     8.3305
英 国     5.0000
カナダ     0.0630
インド     0.0900
韓 国   1080.000  
ギリシャ     0.5823
オーストリア     0.0601
マレーシア   29.400  
シンガポール   29.400  
ミクロネシア   18.000  
北ベトナム   85.000  
ベトナム   50.000  
アルゼンチン     0.8316
モンゴル   50.000
379日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 09:23:59 ID:OkJHkbXl
日本軍のアジア各地での虐殺や強姦といった、凶悪な犯罪をやめさせるために、
原爆が投下されたんだけどね。
380日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 10:11:20 ID:7HR3p+L0
結局、犯行現場とかいいながらその場所も言えず、逃亡。w
まるで朝鮮人を見てるようだ。

>>379
ヨネ坊、仕事は見つかったか?w
381日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 10:37:38 ID:0nd8EJmS
シンガポール大虐殺

1942年2月、日本軍はわずか2ヶ月でシンガポールを陥落させました。
そして大規模な華人虐殺を行い、何万人ともいわれる華人を虐殺しま
した。

1929年の世界大恐慌以後、日本は不況を海外侵略によって克服しよう
と、1931(昭和6)年に満州事変、1937(昭和12)年には日中
全面戦争を仕掛けましたが、中国は強く抵抗を続けました。欧米列
強は、国際法を守らず、非人道的な日本を批判、また自国の植民地
を守りたいこともあって、経済封鎖を実施しましたが、日本は侵略
を重ねることでこれをはねのけようと、1941年対英米蘭戦争を始め
ました。これがアジア・太平洋戦争です。
382日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 11:54:43 ID:xDBgZ7eE
>>381
犯行現場を見たこともないヤツがテキトーなこと書くなよw
383日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 11:56:58 ID:NrtuhcuI
当時の日本軍には、兵士一人あたりに虐殺や強姦する数のノルマがあったからね。
敵を発見するより、虐殺や強姦するターゲットを探すのに必死だった。
384日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 11:59:17 ID:YIKbPKjr
>>383
すごい……妄想ですね。
385日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 11:59:23 ID:uP9Gtsre
なんだ、今度は逆方向のトンデモ発言で煽りか?
386日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 12:10:31 ID:ghS9jhAk
つーか、日本軍兵士は、アジアの人々を徹底的にポアするように指示されたからね。
387日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 13:52:49 ID:3RjuAwt9
中国系犯罪組織+朝鮮系企業+無能な警察=日本の終焉
http://homepage3.nifty.com/cristalart/yahoo1.html
388日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 14:46:08 ID:k9sR1dHW
>>383>>386
誇大に嘘を言わないでください。
戦争は、たしかに、いつも殺すか殺されるかです。
敵国人を多く殺せば英雄と称えられるのは事実です。
憎しみを持たせるように、兵士を扇動するのが常套手段なのも世界戦史上の事実です。
ですが、そんなに人を殺してばかりでは、戦場という自分の命さえ危険な状況にいつもいることになり、兵士は疲弊するだけです。
戦争時の虐殺行為を隠ぺいしたり、軍国主義を賛美する必要はないです。
しかし、いい加減な嘘を並べて断定するのは、まじめに歴史から教訓を学ぼうとしているとは思えないです。
389日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 16:23:56 ID:Krm5IUid
日本軍兵士の場合、慰安所の慰安婦や性奴隷とやりすぎで、
戦意喪失していたのも事実だし。
390日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 16:27:25 ID:YIKbPKjr
>>389
何が事実だって?
君の脳内妄想のソースで語られても困るんだよ。
391解説者 ◆ayPjxbmM2c :2010/08/14(土) 16:41:36 ID:ydfuvz79
そういや慰安所を設けなかった韓国は、ベトナム戦争の時にベトナム人を強姦しまくって
ベトナム人を大量虐殺した上、まともな謝罪もほとんどしないでいたようなw

ああ、ふと思い出しただけだからw

そういや中国もチベットに対して謝罪していたっけ?w

ああ、これもふと思い出しただけなのでw
392日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 19:06:15 ID:LMNf+no9
「日本軍の犯行現場」とやらの提示はまだですか?w
このスレには日本軍の犯行現場すら見たことがないエセ肯定派しかいなかったのですねw
393日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 19:53:39 ID:lx7S51UY
>>392
何をするにも印鑑が必要だった日本軍だから、ハンコウ現場は幾らでもあったよ
394日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 21:04:33 ID:HvQlut73
>>393
つ【座布団2枚】
395日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 21:22:12 ID:VzUqFB7H
嫌韓はちょっと22ちゃんねる見てこい

南北朝鮮人撲滅作戦やってるよ

22ちゃんねるでググれ
396日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 21:36:18 ID:5Pz3kfqb
何をもって犯行現場と認定するかだな。
日本軍による虐殺事件は、くさるほどあるが、ビデオでも撮影してないと
証拠に認定しないんだろうし。
397日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 21:47:31 ID:YIKbPKjr
>日本軍による虐殺事件は、くさるほどあるが
具体的にそれを証明できる資料などはあるのか?
「お前は殺人を犯した!」とか言っただけで特定の人間を罪に処すことは当然出来ない。
犯行を証明するものが無いなら、それは「御伽話」あるいは「妄想」でしかないというのは世界の常識だぞ。
398解説者 ◆ayPjxbmM2c :2010/08/14(土) 21:47:45 ID:ydfuvz79
北朝鮮による日本人拉致は、小泉首相が被害者という“証拠”を持ってくるまで、
左翼の連中は「証拠がないから」と否定していたんだがw

同じ口で「南京大虐殺」を証拠もなしに語られてもなぁw
過去に『従軍慰安婦』と言うねつ造事件を見せられてもいるし、正直、証拠がなければ信用できないというのは当たり前の話だろうにw


ちなみに社民党は、拉致被害者が戻ってきたときに「日本政府の陰謀」とか言ってなかったか?w
拉致事件の解明を遅らせ、否定し続けていた連中はどう責任をとったのだろうか?w
慰安婦問題をさんざん持ち上げていた連中は、いったいどうしたのかねぇ?w


南京大虐殺を語るのはいいが、その発言の責任はちゃんととってもらえるんだろうねぇ?w
無責任な発言で、真実が明らかになったときに逃げ回るってのは勘弁してもらいたいものだよなぁw
399日出づる処の名無し:2010/08/14(土) 22:01:11 ID:LMNf+no9
>>396
「犯行現場にすら行ったことがないエセ肯定派」が、さぞ知った風に「南京大虐殺は真実だ」などと言う資格はないですよ、と言ってるだけなのですが?w
ほんと、日本語がお粗末なんですねw
犯行現場にすら行ったことがないようなエセ肯定派が、今度は勝手に「犯行現場認定」をしようとしてるのですか?w
また捏造の繰り返しですね。
400日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 03:44:43 ID:hW/3izPa
丸MARU 1989年3月号 通算512号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第3回

P148
西坂上等兵の出征
 昭和十二年十二月一日、参謀本部が南京攻略を決定した日、鯖江の歩兵第三十六連隊は常州から卜戈橋に向かっていた。常州はほぼ上海と南京を結んだ直線上にある古い街で、上海からは百五十
キロあり、そしてここから南京まではさらに百キ口ほどもある。
 辺りには一人の中国兵も見えず、遠くに、民家が燃えているのか煙が上っているのが見えるだけであった。
 ちょうどこの日、鯖江連隊の第六中隊の一人として行軍していた西坂一等兵は上等兵に昇進した。
 前の年に二十歳をむかえた西坂中は、徴兵検査を受けたあと、この年の一月に福井県の鯖江第三十六連隊に入隊した。入隊して初年兵の教育を受けた後、六月に一等兵に昇進した。一等兵に昇進
した兵士は一緒に入隊した中の二割ほどで、鯖江の兵舎にいたときのことであったから、誰が昇進したのかすぐにわかった。それから半年で今度はさらに上等兵に昇進した。一等兵に昇進したなか
で上等兵に昇進するのは半分だといわれていた。
 今度は他にだれが選ばれたのだろうかとも思ったが、戦場では、だれが上等兵に昇進したのか知るすべがない。この日の昇進ですら、実際に知ら

P149
せを受けたのは半月ほど後のことである。
 上等兵まで昇進するのは同年兵の一割ほどといわれていたから、昇進の知らせを受けたとき、西坂中は喜ぶとともになぜだろうかと考えた。
 西坂中が入隊した時、配属されたのは軽機関銃班であった。それまで銃などというものは持ったこともなかったけれど、軽機関銃班に配属され、訓練するうちに誰でも撃てるようになる。そし
て、誰でも命中する一発目と違って、二発目は撃つ人によって違ってくる。西坂二等兵の二発目は命中する確率が高く、命中させるこつは銃のくせをのみこんで、気持ちだけそのくせをとりこむこ
とだと自分なりに思った。やがで西坂は射手を命ぜられた。
 十二人ほどいる軽機関銃班の中で、射手に選ばれる者は二、三名で、特別に優秀な者だと見られていた。上等兵に昇進したのはそのことと関係があるのだろうかと思った。
 あるいは別の理由からであろうか。
 福井市武周町の農家の三男に生まれた西坂中は、高等小学校を出ると、東京に丁稚奉公に出された。それは生まれてはじめての東京で、丁稚奉公先は両国にあった。当時の両国は、東京のちょ
っとした繁華街のひとつで、大相撲のときは特に賑わった。ちょうど玉錦の時代が始まる時であった。
 丁稚奉公先は塗り物屋で、都内のデパートや小売店に家具を卸すのが商売であった。何人かいる小僧は、注文品の届けや、卸した先の店の手伝いが仕事であり、一番若い西坂には、この他に子供
めお守りと、隠居のお供があり、ほとんど休むこ
401日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 03:45:44 ID:hW/3izPa
P150
とはなかった。
 丁稚奉公を数年して二十歳になったとき、故郷に戻って軍隊に入ることになった。
 いよいよ入隊となったとき、兄やいとこから、軍隊はつらいものだとさんざんおどかされたが、入ってみると、聞かされていたものとは随分違っていた。
 入隊して二日目に、突然、中隊付きの中尉から呼ばれ、「西坂二等兵は、西坂昿の弟か」と問われ、そして「兄貴は銃剣術がうまかった。兄貴に負けずにやれよ」と励まされた。
 中尉は、兄と同年兵であったけれど、幹部侯補生として進み、そのときは中尉になっていた。兄と同年兵だった者は、他にも下士官になっている者がいて、なにくれとなくめんどうを見てくれ
た。軍隊が考えていたものよりつらくなかったのはこのためであるかもしれない。
 それに丁稚奉公のときと比べると、つらいのは軍隊だけではないと思った。
 丁稚奉公のころ、一番若い西坂は、毎晩、出入りロに近い所に、腰に紐を結わえて寝ることになっていた。その紐は店の出入り口から外まで伸びていて、夜遅く遊びから帰ってきた番頭がそれを
引く。目を覚ました西坂は、他の小僧を起こさないように、こっそり鍵を開けて、番頭を入れなければならなかった。
 子守のときは、背中には赤ん坊をおぶって、そして四歳の子供を連れて近くの安田庭園にいくことが多かった。四歳になる子供の方は、四六時中相手にしないと、一人で家に帰って、小僧さんに
たたかれた、と母親にいいつける。あわてて戻って弁解しても、 「子供が嘘をいうはずはありません」といって叱られた。
 そんなことと比べれば、軍隊が特別つらいということはなかった。入隊して一番困ったのは、麦飯のにおいくらいだった。
 もちろん軍隊が良いことずくめというわけではない。初めて東京に出たとき、なまりが恥ずかしくて、めったに話すことはなかったけれど、ようやく慣れてきたころ鯖江に戻ってきて、今度は自
分が悩んだ言葉が、郷里の者に嫌われた。あかぬけた印象を与えたため、「こいつは違った言葉を使って」と、他の者より殴られることが多かった。
 それに、上野の松阪屋や日本橋の三越では、卸した家具の販売を手伝っていて、日本一の繁華街でもまれたから、福井で生活をしていた者から見ると、要領がよく、生意気に見えた。それもピン
クが飛ぶ原因にもなった。
 しかし、西坂にとってピンクは苦にならなかった。それどころか、軍隊の規律や礼儀がきびしいのは、むしろすがすがしいものだと思った。もともと規律のある生活が好きなのだ。だから軍隊で
は、毎日が生き生きとしていた。
 上等兵に進んだのもそのためであろうかなどと考えたが、本当の理由は分からなかった。

連隊長の意気込み
 翌十二年二日、行軍を続けていた鯖江の連隊は金壇に進んだ。
 金壇も古く隋や唐の時代から栄えた町で、町は城壁に囲まれて、郊外も含めた金壇県の人口は六万五千人ほどである。
 連隊が町に入ってみると、既に住民は逃亡してほとんどいなかった。住民が持ち去ったのか、中国兵が持ち去ったのか、家の中のめぼしいものは何もなく、その上、町の主な建物は放火されて焼け落ちていた。
 西坂上等兵たちの歩兵部隊は、休む暇もなく前進してきたので、輜重部隊は相当遅れていた。そのため食糧は徴発にたよることが多かった。軍紀はきびしく、建前として、徴発は禁止されていた
が、食べ物だけの徴発は大目に見られ、実際、徴発といっても相手がいないため代価を払うことはしなかった。
 兵隊は金壇の町に入ると、まず食べ物を探した。しかし、いくら探しても食べ物はみつからなかった。金壇でみつけたものは、煙草工場に残っていた煙草だけであった。それは二匹の猫の描い
てある中国の煙草で、中国軍があわてて逃げたため処分を忘れたらしい。それでも煙草は食べ物以上に手に入りにくかっただけに、兵隊は食べ物をみつけだす以上に喜んだ。
 この日、夜遅くなって、ようやく上海派遣司令部から、隷下の師団に、南京攻略の命令が出された。
 西坂上等兵の第九師団は、四個の歩兵連隊から成り、それぞれの連隊本部は、金沢、富山、敦賀、鯖江にあった。
402日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 03:47:45 ID:hW/3izPa
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 金沢の連隊が第七連隊で、連隊長は伊佐一男大佐、富山の連隊は第三十五連隊で、連隊長は富士井末吉大佐、敦賀の連隊は第十九連隊で、連隊長は下枝金之輔大佐、鯖江の連隊は第三十六連隊
で、連隊長は脇坂次郎大佐である。
 これら各連隊は、二年前の昭和十年の六月、満州に渡って、満州の治安維持と匪賊討伐にあたっていた。特に後半の一年は、冬になると零下数十度まで下がる北満のハルビンから牡丹江にかけての一帯に駐屯した。
 二年間満州にいて、帰ってきたのはこの年の五月末で、帰って一月ほどで、蘆溝橋事件が起きた。そのため、第九師団の管轄区域からも師団が動員になり、第九師団は帰還したばかりだという
ので、予備役と後備役からなる特設の第百九師団が編成され、北支に向かった。
 それから一月ほどした九月に、上海が大変だというので結局、第九師団も動貝されることになった。
 今度は満州駐剳の時と違って戦時編成となり、予備役の兵隊が半分ほど入ってきた。
 これらの四個連隊は、上海に上陸して戦い、上海が日本軍の手におちたとき、数日休んだだけで、再び一斉に出発し、ほぽ同じコースを南京に向けて進んだ。
 富士井部隊が蘇州を占領すれば、無錫には脇坂部隊と下枝部隊が最初に突入し、一方、伊佐部隊は太湖を船で渡って進むという具合に、お互いが先になったり後になったりして常州までやってき
た。当然、南京攻略となれば、再びお互いに競争になる。
 そのうちの一つである鯖江第三十六連隊の連隊長脇坂次郎大佐は、南京攻略の命令を受けたとき、ぜひとも南京城一番乗りを果たしたいと意気込んだ。三十年もの長い軍人生活を送って、連隊
長として戦場に臨むことができ、しかも敵の首都攻略という機会に恵まれたのである。意気込むのも当然であった。
 脇坂連隊長は戦国時代の武将脇坂甚内安治の子孫である。脇坂甚内安治は、豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで名を馳せた七本槍の一人で、のちに秀吉の下で朝鮮の役にも行った武将で
あった。そのとき脇坂甚内が朝鮮に持っていった采配は代々脇坂家に伝わっていて、この采配を、脇坂連隊長は上海まで持ってきた。そして上海戦の最後を決した蘇州河の渡河作戦のときにはこれ
を振って自ら進んだ。そのせいか、蘇州河渡河作戦はみごと成功した。
 連隊長が勇ましいのは蘇州河のときだけでなく、つい一週間前に行われた無錫の戦いでも自らが先頭に立って進んだ。このときは連隊長と一緒に進んだ朝日新聞と読売新聞の記者が撃たれて死
んだほどの勇ましい進撃であった。ふだんはやさしく、回りによく気を配ってくれる連隊長であったが、戦場に出れば一変して、激しい声が発せられることが度々あり、回りの将校も緊張した。
 しかし、遠くから見ている西坂上等兵にとって、細面の連隊長は、八の字ひげを生やし、泰然自若として頼りがいのある連隊長にみえた。
 この日、鯖江の連隊は金壇まで進んだけれど、
403日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 03:49:06 ID:o05h4/Sm
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金沢や敦賀の連隊はまだ常州で出発の準備をしていたから、このまま進むことができれば脇坂連隊長の望み通り、鯖江の連隊が一番乗りできるかもしれなかった。一番乗り部隊を取材しようとして
いた新聞記者たちも、元気な脇坂部隊こそ一番乗りする、と噂していたくらいであったからその可能性は高かった。
 このとき南京攻略が命令されたことは、一兵士である西坂上等兵が知る由もなかったが、上海を出発するとき、多くの兵士たちは、次は南京が目標だ、と話していたから、行軍していながら、南
京をめざしているのではないかと思っていた。
 もし本当に南京を攻めるとなると、西坂上等兵も緊張しないわけにはいかなかった。
 一月に入隊した時、西坂たち初年兵は、鯖江の兵舎に入ったが、鯖江にいたのは二週間ばかりで、すぐに遠くハルビンまで連れて行かれた。四ヵ月間満州にいて、日本に帰ってきた。それからさら
に四ヵ月いただけでまた日本をたって上海に向かった。満州にいる時、匪賊討伐に出掛けて行ったのは二年兵だけで、西坂たち初年兵は教育に明け暮れていた。だから、上海に船で近づいた時、遠
くから、「ドオーン、ドオーン」 と遠雷のように砲声が聞こえ、それが戦場というものの始めての体験であった。
 上陸すると、辺りのクリークには、中国兵の死体が浮いていて、緊張した。上陸して三日目、弾が飛んできて、初めて死を意識した。それからは毎日が戦いで、戦うたびに体は震え、なんど戦っ
ても戦いは怖いと思った。いつまでたっても慣れるということはなかった。戦いが始まると無我夢中になり、そのときの気持ちを後で説明しようとしてもとても説明できなかった。
 上海でこれから攻撃だと緊張しているとき、伊藤新作第六中隊長が、兵士たちに向かって。 「自分のものを握ってみろ」 といったことがある。緊張で我を忘れていた西坂上等兵は、いわれるままに握ると、金玉は小さ
くなって上にあがっていた。そのときはじめて気持ちだけでなく、体のすみずみまで緊張していることが分かった。そして、それが分かってほっとし、少し気持ちのゆとりができたような気がした。
 戦いは怖いが、それでも、もし南京に行くのであれば、自分たちで南京を落としたいとも思った。そして、南京を落とせば戦争も終わりになるだろう。そうすれば早く日本に帰れる。そんなことを考えていた。

静かなり南京城外
 十二月三日、金壇を出発するとき、尖兵として進んでいる小隊に軽機分隊をつけることになった。
 連隊は前衛、中衛、後衛とわかれた戦闘体形で進み、前衛のうちの二十人ほどが敵情をさぐったり、敵が現われればすぐ後方に伝えるため、前衛のさらに五百メートルほど前方を進む。金壇まで
来たとき、これから先は中国軍と遭遇する可能件が高いというので、この尖兵に軽機分隊をつけることになったものである。 西坂上等兵は、正式には歩兵第三十六連隊第二大隊第六中隊第二小隊軽機分隊所属であった。し
かし、上海で中隊の指揮班の多くがたおれたため、十一月に入ってからは指揮班に務めることが多くなった。指揮班の任務は中隊の命令を各小隊に伝えたり、連隊や大隊に行って命令を貰ってく
ることで、ぞのため、無錫、常州と進む間は常に伊藤中隊長のそばにいた。
 金壇まで進んで尖兵に軽機分隊をつけることになったとき、西坂上等兵は軽機分隊に戻り、尖兵として進むように命令された。
 第三十六連隊は、九月二十三日に鯖江駅を出発したとき、全貝で三千八百名であったが、ニカ月近くにわたる上海での戦いで、多くは、戦死するか、傷ついて病院に送られていた。ここまで来た
者はその三分の一ほどであった。そのため連隊は何度か補充を受けていたが、それでも今は鯖江を出発したときの半分近くに減っていた。連隊は、定員を相当下回っていたから。兵隊たちは状況に
応じて任務に着かなければならなかった。
 軽機分隊に戻った西坂上等兵は、十キログラム以上もある軽機関銃を肩にかついで進むことになったが、久し振りのことであった。
 出発してしばらくすると、それまでの平坦地が起伏の多い道になった。金壇の先には摩盤山山系が連なっていて、いよいよここにさしかかったのである。そのため部隊は丘陵地帯の地図にない道を進むことになった。
 常州、金壇とすでに一週間も敵兵は見えなかったが、いつどこから中国兵が現われるかもしれな
404日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 03:50:03 ID:o05h4/Sm
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い。尖兵を命令された三十人ほどは注意深く進んだ。
 しばらく進むと、道端に女性の死体がなげだされてあった。尖兵の兵隊たちは死体になれっこになっていたが、女性の死体だけに一瞬いろめきたった。しかも下半身は裸のままである。そばに行
ってよく見ると、女性のそこには木の棒が差し込まれていた。中国兵が逃げる途中、犯して殺したものであるらしかった。多くの戦死体を見慣れている西坂上等兵もこの死体には驚いた。
 兵隊たちが騒いでいるのを見て、いつもはおとなしい脇本第三小隊長が、「みっともないから埋めろ」と怒鳴るようにいった。
 小隊長の怒鳴り声に、騒いでいた兵隊ははじめて我に帰った。西坂上等兵は、同胞に対してひどいことをすると思いながら何人かと手分けして穴を掘った。
 しかし、この日の行軍ではこの出来事の他には何もなく、やがて連隊は天王寺鎮に入った。
 中国で地名につく鎮というのは日本でいえば部落ほどの所で、天王寺鎮も小さい部落であった。
 天王寺鎮にも敵や市民はおらず、代わりにあるのは略奪の跡だけである。市民はめぼしいものをすべて持って逃げ、そのあと、兵隊が略奪した上、放火して逃げる。日本兵に使われそうなもの
なら何でも焼いてしまう。それが中国兵のやり方であった。部落に入っても穀類などはほとんどなく、何人かが芋などをみつけただけであった。
 天王寺鎮に入ると、西坂上等兵たちの軽機関銃分隊は尖兵から前衛に戻された。天王寺鎮辺りには陣地があって、相当数の中国兵が待ち受けているのではないかと思われ
ていただけに、何もなかったので軽機分隊はほっとした。
 軽機関銃分隊が前衛に戻るとともに西坂上等兵は再び中隊の指揮班に入った。
 上海の中国軍が総崩れになって退却したとき、日本軍にとっては絶好の追撃の機会であったけれど、和平の可能性もあり、二週間以上も足踏みをしていた。この間に、中国軍は、無傷で退却を
成し遂げており、退却した中国軍はまもなく態勢を立て直すであろうと考えちれた。その暇を与えないため、連隊は休む時間があれば少しでも進むことであった。
 十二月四日ころになると、連日三十キロメートルを越す行軍を続けていた脇坂連隊は、南京に向かっている日本の各部隊の中では最も南京に近づいていた。この辺りは上海戦線の延長線上という
よりも、南京の外郭地帯といった方が正確であった。
 天王寺鎮に敵がいなければ、次に予想される陣地は、淳化鎮であった。
 淳化鎮は天王寺鎮から五十キロメートル先で、距離からいえば二日行程の所である。飛行機からの偵察によれば、淳化鎮には二重、三軍の防御線がひかれ、相当前から作られたトーチカが南京を
とり囲むようにして築かれているとい。うことであった。
 もし、淳化鎮を手中にすれば、そこから南京までは二十キロメトトルで、一気である。
 天王寺鎮を出発して進むうちに誰とはなしにいよいよ淳化鎮だといいだし、翌日になると伊藤中隊長が指揮班に、「我々の目標は南京だが、淳化鎮は敵の最後の抵抗線になるだろう」ときっぱりいった。
 そのいい方からすると、淳化鎮では再び上海のように激しい攻防戦が行われそうであった。天王寺鎮にいるはずの兵隊もすべて淳化鎮で日本軍が来るのを待ち受けているのかもしれなかった。西
坂上等兵はそれを思うと、恐ろしさでいっぱいになったけれど、いくら考えてもどうしようもなく、中隊長の話を聞いて、あとはやるだけだと言い聞かせた。(つづく)
405日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 05:31:08 ID:+TI2XV0f
ちょ前のですまん >>383
おいらのじいさんその辺の戦地行っているんだが、
生きるのに必死だったらしいよ。
あんたどうせ墓参りもしない、墓がないんじゃねか?
406日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 06:47:19 ID:o05h4/Sm
丸MARU 1989年4月号 通算513号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第4回
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長江最大の要塞
 南京攻略が決定した十二月一日に、日本軍の中で最も揚子江よりを進んでいたのは第十三師団で、この日は揚子江沿いにある江陰を攻撃していた。
 江陰は上海から揚子江を百四十キロほど上ったところの町で、ちょうど上海と南京の中間に位置している。中国によくあるように、この町も城壁に囲まれた小さな町であった。
 しかし、小さい町ではあったけれど、江陰は他の町とは違っていた。それは、この町に揚子江沿岸の中でも最大の要塞があることだった。
 上海を河口とする揚子江は上流に行くにしたがい、南京、漢口、重慶などという中国有数の大都市が続き、揚子江はこれらの都市を結ぶ重要な交通機関の役目を果たしていた。
 一方で揚子江には、日本をはじめアメリカ、イギリス、フランスなどが自国の砲艦を重慶まで遡江させる権利を得ていた。このことは、中国と紛争が発生すれば砲艦が揚子江を遡江して、南京や
重慶を攻めることもできることを意味している。だから交通路として重要な揚子江は、中国にとって国防上のアキレス腱ともなっていた。そのため中国は揚子江沿岸にさまざまな砲台を造り、そう
いう砲台の一つが江陰にもあった。

P201
 しかし、江陰は他の場所とは違って様ざまな特徴があった。
 一つは、揚子江下流の川幅は十キロほどあったけれど、江陰付近で急にニキロほどに狭まっていたことである。二つ目は、江陰が高台になっていて、揚子江を上から見下ろす位置にあった。三つ
目は、数千キロもある揚子江の中で、江陰は河口から百四十キロのところにあったことである。
 これら江陰の持つ条件は要塞としてぴったりで、このような特徴を持つ場所は江陰以外なかった。そのため江陰には特別に六十余門の大砲がそなえられ、外国の軍艦がここを通れば一撃のもと
に沈めることができるようになっていた。江陰砲台にそなえられていた最大の砲は、当時世界で最も大きい戦艦陸奥の大砲にも匹敵するほどのものであった。揚子江を遡江できる軍艦の大きさは限
られていたから、この砲は日本の軍艦にも恐れられていた。
 江陰は、揚子江の中でいわば関所の役目を果たしていたのである。
 このような江陰は、揚子江から海軍が攻めるのはむずかしかったため陸軍が背後から攻めることになり、一十一月下旬から第十三師団が向かっていた。
 江陰では、江岸にある砲台はすべて揚子江に向いていたが、その背後にはトーチカがあり、陸からの敵にもそなえていた。このトーチカは郊外まで何重にものびていた。
 江陰に向かった第十三師団は郊外の陣地を一つ一つ破うて行き、十一月三十日には江陰の町の一角を攻撃し始めた。江陰要塞が目標であったけれ
407日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 06:48:21 ID:o05h4/Sm
P202
ど、同時にそこからニキロ離れた江陰城も目標であった。江陰城には県政府があっで、ここが町の中心をなしているところである。
 すでに中国国民政府は十日前の十一月二十日に、軍をのぞいた政府機関を南京から漢口と重慶に移転させていたけれど、江陰が日本軍の手に落ちるようなことになったなら、日本の軍艦が漢
ロ、重慶まで行けることになり、政府機関は再び移転しなくてはならないかもしれない。そのため、上海にいるアメリカやイギリスの関係者たちは、江陰が陥落したら蒋介石は下野するのではな
かろうか、と観測していた。それほど江陰は戦略的に重要な位置をしめていた。
 江陰を攻めることになった第十三師団は、仙台、会津若松、高田、新発田で編成された四つの歩兵連隊からなっていた。上海戦のために急きょ予備役を中心に編成された部隊で、そのため大正
時代の軍縮で廃止されていた第十三師団の名称が十数年ぶりで使われた。
 上海に上陸した後、揚子江よりを進み、江陰に近づいた時は高田と新発田の部隊が江陰砲台と江
陰城東門の攻撃に向かい、仙台の部隊。は江陰城南門を、そして最も西よりを進んでいた会津若松の部隊が、江陰城西門の攻略に向かっていた。
 十二月一日早朝になると、会津若松第六十五連隊は江陰郊外の横塘里陣地を落とし、午後一時過ぎには高台にある城門に迫った。すでに県政府関係者も市民も町を離れており、火を放たれた家い
えからは黒炎があがっていた。多くの兵も城外に逃げていたが、最後に一部の中国軍が城内にたてこもったため、この日は終日江陰城攻撃が行われた。
 十二月二日の早朝、工兵隊の城門爆破が成功し、そこで江陰城の勝負は決った。連隊は一斉に城門に入った。城門に入ってから戦いは四時間ほど続いたけれど、昼前には江陰城を完全に占領し
た。午後にはさらに江陰城の北にある鐘山砲台も攻め落とした。
 背後の陣地を落とせば、要塞自体を落とすことは簡単だった。江陰要塞に向かった他の連隊も、この日の夕方までに要塞を攻め落とした。江陰攻撃が始まってから三日目であった。海軍は江陰下
流で第十三師団の砲台占領を待っていたが、これで気がねなく江陰の回りにある機雷の啓開に従事できることになった。
 江陰城は、第六十五連隊がそれまで攻撃していた上海のトーチカと違って、大きな城だけに、兵隊はだれもが戦いに勝つたという気分で一杯になった。十月に上海に上陸して以来、はじめての勝利らしい勝利であった。
 連隊は連隊旗を先頭に江陰城に入滅し、上海上陸以来これもはじめての日の丸を掲げた。万歳三唱もした。新聞社のカメラマンがきて何度も写真を撮り、そのたびに兵隊たちは万歳三唱を繰り返
した。万歳三唱は十一月三日の明治節以来一ヵ月ぶりであった。
 翌三日には侍従武官が江陰まで来て、戦闘の模様を詳しく聞いた。侍従武官が来たことは第十三師団の将兵を一層元気づけた。戦闘の模様は天皇陛下に伝えられるはずだからである。
 第六十五連隊はそのまま江陰にとどまり、五日には、上海派遣軍司令官松井石根大将から、謝家橋鎮と江陰城攻略の働きに対して感状を授けられた。予備兵からなる特設師団としては破格のこと
であり、もちろん感状をもらうのはそれだけの活躍があったからである。

栗原伍長の初陣
 やがて江陰城占領を祝うかのように、それまで降り続いていた雨もすっかりやみ、晴天が続いた。兵隊たちは久し振りにのんびりした。十分とはいえないが食事もとれた。江陰砲台を見学に行く兵隊もいた。
 砲台では、口径三十二センチの砲身を見て、どの兵隊もただ驚くばかりであった。砲身に股がってみると、股が割れるほどの大きさである。砲台は近代化されていて、台の下から自動的に弾が運
び込まれるようになっている。この砲が活躍すれば日本の軍艦はひとたまりもなかったかもしれない。一発も撃たせないで砲台を占領したことは大成功であったと兵隊たちは思った。大きい砲身を
見て、これで戦争は終わったと考えた兵隊も少なからずいた。
 そんなのんびりした数日間が続いたが、第二中隊で分隊長をしている栗原利一伍長の心は晴れなかった。
 二ヵ月半前の九月十五日、二十五歳の栗原利一は東京で召集令状を受け取った。栗原利一は四年前に兵役を終え、その後、警視庁に勤めるようになった。それから二年ほどして結婚して、杉並に
住んだ。そのため、本籍のある福島で編成される
408日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 06:49:17 ID:o05h4/Sm
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第六十五連隊の召集電報は警視庁で受け取った。杉並の自宅に帰ると福島の田舎からお祝いの電報が届いており、栗原利一はうれしくもあり、少し緊張もした。そして、だれでもそうであったよう
に、その日のうちに上野から列車に乗って会津若松に向かった。
 会津若松では、四年ぶりに兵舎を見た。
 栗原利一が初年兵として軍隊に入ったのは昭和七年一月である。
 三月の第一期検閲が終わったときの成績発表では、九十五名の初年兵の中で一番の成績をおさめた。そのとき、まだ第六十五連隊はなく、第二十九連隊だったが、連隊は満州で匪賊の討伐にあた
っていたから、初年兵もすぐに満州事変下の奉天に行くことになった。
 会津若松を出発した初年兵は、船で朝鮮に渡り、そこから列車に乗って満州に向かった。満州は栗原利一にとってはじめての外国であった。列車の窓から見る景色はすべてが雄大で、奉天に着
いたとき、駅の大きさと広場の広さにびっくりしてしまったものである。
 第二十九連隊が所属していた師団は、多門師団として有名になっていた第二師団で、一年以上も前から満州に駐剳していた。満州事変が起きた時、この師団は、独立守備隊とともに、張学良軍
と戦い、あっという間に満州から張学良の軍を追い払った。そして半年ほどたったそのころは満州各地で匪賊討伐を行っていた。
 奉天に着くと、初年兵たちもさっそく匪賊討伐に従軍することになった。満州が建国され、黒龍江省の省長に就任した馬占山が、一ヵ月ほどで反旗をひるがえしていた。会津若松の連隊は、この
馬賊の親玉であった馬占山の軍を撃つというのであった。
 栗原たちの初年兵は、はじめて戦場に出たとき。遠くで撃たれた弾の音に全員おどろいて首をすくめた。中にはとっさに地面に伏す者もいた。それを見て古参兵たちはゲラゲラ笑った。
 古参兵はたった一年だけの年上だったが、その一年の間に張学良軍と戦い、馬賊と戦い、初年兵から見ると、怖いものは何もない兵士のように見えた。
 初年兵は、笑われたけれど、また音が聞こえるとあわてて首をすくめた。
 弾の音が聞こえたとき、すでに弾は過ぎているのだから首をすくめても遅いとか、弾が当たるときは音など聞こえないものだ、といわれてなるほどと思った。しかしそう聞いても弾の音が聞こえると、自然と首がすくんだ。
 何度か弾の音を聞くうちに、ようやく安全な音と危険な音を聞き分けることができるようになった。発射音と頭上を通過する音を聞き分ければよいのだ。発射音と通過する音が近ければ。気をつ
ければよい。弾は遠くになればなるほど上にそれるから、発射音と通過する音が離れていれば立っていても当たることはないのだ。それに一発目から当たることはめったにない。そのうち、安全な
音であればいくら弾の音が聞こえる中でも、平気で立っていることができるようになった。
 そういうことが分かり、首をすくめた自分を恥
409日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 06:50:20 ID:hW/3izPa
P204
ずがしいと思ったのはずいぶん後になってからだった。
 また、思ってもみなかったことだが、戦場に出てみると、やみくもに進んでも、尻込みしていてもやられることを知った。
 栗原利一は子供のころから運動神経が発達していて、その上、武道が好きであったが、軍隊に入って一層上達した。体が大きく、体力に自信があったから、肝っ玉がすわっており、優秀な兵士だとよくほめられた。
 体だけではなく、心から優秀な兵士でもあっヵ。戦争に行くことは国のためである、と心から信じていた。また、戦争では一人でも多くの敵を殺すことが、日本のためになると信じていた。実
際、戦場では敵を見つけたら殺さなくてはならなかった。見つけられたらこちらが殺されるだけであった。
 こうして匪賊と戦い、実戦のこつというものを会得していった。馬の扱いになれている匪賊は、馬を走らせながら拳銃を撃ったり、追われて危険になれば、馬の優に体を隠して逃げたりして、なかなか手ごわい相手だった。
 日本の軍隊の中でも精鋭といわれた第二師団は休みなく戦い、栗原一等兵も死に瀕したことがたびたびあった。満州の荒野で交戦中に、敵の弾が雑嚢の中の歩兵操典の中で止まって助かったことがあった。
 第二師団は、二年の満州駐剳をへて、栗原たちが満州に渡った年の暮に日本に戻ることになったが、大きい負傷をすることもなく日本に帰ってくることができたとき、栗原一等兵にとって弾痕の
ある歩兵操典か何よりの記念だった。歩兵操典はもぐらが土を掘るように、弾が紙をえぐって、途中で止まっているものであった。
 日本に帰って昭和八年に除隊したとき、栗原上等兵は下士官適任証、善行証書、銃剣道初段証書をもらった。銃剣道初段は連隊の中でも三人しかもらえない貴重なものであった。
 下士官適任証は、四年たって久しぷりの兵舎に行ったとき、名前だけでないことが証明された。栗原利一は兵舎に着くとただちに第二中隊の分隊長要員を命じられたのだ。正式に第六十五連隊第
一大隊第二中隊第三小隊の第二分隊長で、部下は十人である。満州事変のときのような一兵士ではなく、兵隊を指揮する下士官であった。
 緊張しながら命令を受けたとき、栗原利一はいくら命令がすべての軍隊とはいえ、まず自分でやれることは自分でやる、そして、部下に命令するときは、自分が命令された場合のことを考えて命
令すべきだ、それが分隊をうまく統率する方法だ、と思った。
 特設兵団である第六十五連隊は予備役を中心に編成されたため兵士の年齢は高かった。二十五歳かち三十歳までの人たちが最も多く、三十代の人がそれに次いでいた。家庭を持っている人が多
く、栗原分隊では二十五歳の栗原分隊長が最も若かった。

十一人中の七人が……
やがて第六十五連隊は、連隊長の両角業作大佐以下、九月二十五日に会津若松を出発し、十月三日からつぎつぎと上海の 江碼頭に上陸した。
 上陸したての十月十日に栗原上等兵は伍長に昇進した。
 第六十五連隊は、前線に進めば激しい場面に直面することが予想された。そのため、第一線に出る日、全員、遺品となるものに名札をつけて背嚢に残した。前線に持っていったのは歩兵銃の他に
弾と、乾麺包などの入った雑嚢だけであった。死を覚悟した戦場ではだれもが身をひきじめた。
 戦場に出ると、聞いていた通り中国兵がトーチカの中で日本兵の現われるのを待っていた。その上、トーチカはクリークをたくみに利用して作られていたので第六十五連隊は苦戦した。連隊は郊
外に広がる綿畑を利用して進んだけれど、綿畑からちょっとでも頭をあげると一斉に弾が飛んできた。夜は夜で雨あられの如く迫撃砲弾が落下した。
 この上海で栗原分隊の十一人のうち六人がたおれた。最初たおれた兵隊を助けに行こうと動くと、さらに死傷者がふえるというようにして次つぎたおれた。秋雨が水の多い上海を一層しめっぽ
くしていた。攻めあぐんで、疲労が重なるうちに秋が深まり、雨は体を芯まで冷やしてしまう。
 一ヵ月もの長い上海の戦いが終わり、戦場掃除をしたとき、顔を撃たれたため、どうしてもかつての部下だったとは信じられない兵隊が一人いた。栗原伍長は、持ち物で判断し最後はむりやり自分を納得させた。
 その上、同じ中隊の六十五人の死体を焼いて骨を拾った。そして六十五人分の袋を作って骨をお
410日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 06:52:48 ID:hW/3izPa
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さめた。覚悟はしていたが、しかしそれは予想もできないほどのことであった。
 十一月中旬に入り、第六十五連隊は迫撃戦に移った。第十軍が杭州湾に上陸して上海にいる中国軍は総崩れになったためであるが、それまで苦戦をしていた第六十五連隊にとってみれば、戦いに
勝って敵を追撃しているという気はしなかった。
 謝家橋鎮に進んだとき、こんどは残った五人のうちの松本上等兵が右の胸を撃ち貫かれた。栗原伍長が抱きおこすと、背中には弾の抜け出た大きい穴があいていた。弾は肺を通って背中に抜けた
らしく、穴からは血とともに泡が吹き出ていた。それでも松本上等兵は、 「分隊長、だいじょうぶです」 と答えた。心配かけまいと、つとめて元気を装っているのがよくわかる。その声からは急所はは
ずれたらしいが、泡が吹き出ている傷口を見ると、とても助からないと思えた。一しょにそばに残ってやりたいが、分隊長が残るわけにはいかない。栗原伍長は松本上等兵を衛生兵に託して進んだ。
 そしてそのまま江陰まで来た。
 いつも陽気で元気だった松本上等兵はいまごろ上海の病院でどうしているのだろうか。もう死んでしまったのだろうか。江陰城を落としたとき、真っ先に考えたのはそんなことで、だから江陰城
を落としたからといって陽気にはなれなかった。十一人のうち七人がたおれ、先頭で戦っている分隊長の自分か生きているのは心苦しかった。亡くなった部下を思うと血がたぎって体が熱くなって
くる。自分が生き残っているのは運としかいいようがないと自分にいい聞かせた。 「軍隊とは運隊だ」 ふと、いつも思っている言葉がロからでた。
 第十三師団が江陰でのんびりしている間、海軍は江陰付近の機雷を啓開していた。やがて新しい命令が来て、第十三師団は江陰から揚子江を渡り、迂回して背後から南京に向かうことになっ
た。背後から南京に向かうのは、南京を包囲して中国軍を殲滅するためで、同じように揚子江上流からは田崎部隊が、揚子江を渡って南京に向かうことになっていた。
 十二月七日夜になり、萩洲立兵師団長以下、師団の主力は海軍の護衛のもとに揚子江を渡ることになった。このとき、仙台と会津若松の部隊は残って揚子江の右岸を北上することになり、このた
め第十三師団は揚子江をはさんで両岸を進む形になった。
 江陰を出発したけれど、連隊はほとんど中国兵とは遭遇しなかった。上海で百メートル進むのに一日もかかったことを考えると夢のようであった。上海ではグリーグと雨のためいつも足がふや
けていたが、このころは好天と堅い道路でクリークでの不快感からは解放された。しかし、こんどは行軍につぐ行軍で逆にマメができて悩まされた。
 このころから冷たい風が吹き出し、本格的に冬が近づいてきたことを思わせた。
 連日行軍していたけれど、栗原伍長は自分たちがどこに進もうとしているのか、何が目標なのかわからなかった。進む方向から南京ではないかと噂しあっていたが、しかしぞれも特別に根拠のあ
る話ではなかった。もちろん小隊長に聞こうが中隊長に聞こうが教えてくれない。教えてくれないというより彼らも知らないのである。
 兵隊は行軍を命ぜられれば行軍する。途中、敵と会えば命令がなくとも戦う。行軍がいつ終わるのか、どこをめざそうとしているのか知ろうとしないで、今の局面にどう対処するかだけである。
それが兵士の習性であった。しかし、それは兵士だけではなく、師団長でずらどこを目標にするのかねからず、命令どおりに行軍することだってあるのだ。(つづく)
411日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 10:03:42 ID:8Ik+wLo2
NHKテレビ「日中戦争」―兵士は戦場で何を見たのか―は、国民党軍の
将校はいち早く南京から逃亡、その指揮下の兵士は戦闘意欲を失い武器を
捨て軍服を捨てて兵士を捨ててしまいました。その状況の中で日本軍は
敗残兵の掃討作戦を行い、検査・選別をろくにせず敗残兵とみなして
殺害します。敗残兵を捕虜にした場合でも殺害することは国際的な取り
決めの違反です。

南京駐在のドイツ外交官 ゲオルク・ローゼンは、本国政府に次のような
報告を送っています。

私は日曜日、日本軍の犯行現場を見た。日本兵はひとりの老人を銃で撃った。
老人の家族や知人は彼を助けようとしたら、4人全員は射殺された。

ゲオルク・ローゼンは米国の南京在住の宣教師 ジョン・マギーの撮影した
南京における日本軍の虐殺行為を記録したフィルムを本国政府に送ってい
ます。

この記録フィルムにはコピーがあり、米国はジョン・マギーの撮影
フィルムと説明に基づき映画を作っています。何千人にも民間人が
ロープで縛られ、川岸や池のふちや空き地に連行されて、機関銃や銃剣、
手榴弾で殺されたことを説明しています。

元第九師団歩兵第七連隊の兵士(番組では実名が記された)は、陣地に
突っ込んで敵を殺すのとは全然意味が違っている。非戦闘員かも分らない
者を殺す、だから虐殺とされる、と述べています。そして兵士は敗残兵
か非戦闘員か分らない者を自分は1人殺したと述べ、戦争はやってはなら
ないと語っています。
412日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 10:12:01 ID:8Ik+wLo2
1932年9月16日に,日本軍が行った平頂山虐殺

日本兵隊は先ず平頂山村の人たちに「全部の記念写真をとってあげ
ますから,村の人たちは全部ここに集め、先ず村の家に火をつけ始
めた時,気がついた村の人たちが騒いでいました。包囲を突破しよ
うとしている人もいました。その時 一人の日本軍指導者が手で
一声の命令と一緒に黒い布が取られて持ち出した機関銃で射撃
を始めたのです。この機関銃の連射は1時間ほど続いた後,村の人たちは
全部この虐殺現場で倒れました。この生き残っている人を発見した
後は,銃剣や拳銃や軍刀をもって再び虐殺現場に戻って,今度は南
からずっと北へ,北からずっと南へ死体を一つひとつ検査しました。
そして,死んでいる人も生き残っている人も女の人も子どもにもか
かわらず,銃剣で突き刺したり,軍刀で切ったりしてもっとも
残忍な虐殺を行いました。

413日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 10:18:13 ID:8Ik+wLo2
旅順虐殺事件

日本軍の旅順攻略の際に市内及び近郊で発生した、日本軍が旅順市民
を虐殺した事件。

「夜明けて敵の敗兵十三名を捕す、然れども下士哨にて悉く之を剣殺
す、予も三人やりつけたり。・・・敗兵及負傷者毎戸二三人つつ在ら
さるなし、皆な刀を以て首を切り、或は銃剣を以て突き殺したり、予
等の踏所の土地は皆赤くなりて流るる河は血にあらざるなし」(
『福岡日日新聞』12月19日付)。この他当事者ではない第一師団野戦
砲兵第一連隊付き輜重輸卒であった小野六蔵は、日記に「11月25日 
・・・毎家多きは二三名の敵屍有り、白髭の老爺は嬰児と共に斃れ、
白髪の老婆は嫁娘と共に手を連ねて横たわる、其惨状実に名状すべか
らず」と目撃したことを書き記している。

犠牲者はどの程度の数に上るのか。この犠牲者とは基本的に民間人及
び戦闘終了後の捕虜、戦闘放棄した者を指すが、その被害者数につい
ては諸説ある。被害者は「万忠墓」という墓に葬られ、外国の
機関も以下のように公表している

有賀長雄『日清戦役国際法論』・・・・500名
『タイムズ』(1894.11.28)・・・・200名
『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20)・・・・2000名
フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年)・・・・1500名


中国側の研究では2万名弱という数が定説となっている。一方日本の
研究では2000名弱〜6000名となている。
414日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 10:33:51 ID:8Ik+wLo2
世界戦争犯罪辞典より日本軍の犯行一覧 part1


旅順虐殺事件」(1894年11月21〜25日)
日清戦争で大山巌大将指揮の陸軍第二軍が旅順攻略の際に発生した事
件。被害者は2千〜2万人
「朝鮮東学党に対する掃討作戦」(1894年8月〜1895年3月)
日韓両軍による朝鮮東学党農民に対する苛烈な掃討作戦。日本軍の
記録によれば戦闘で6000人、処刑5600人とされている

「閔妃暗殺事件」(1895年10月8日)
朝鮮正妃である閔妃が、王宮で日本軍兵士、壮士、大陸浪人らによって惨殺された事件。

「3.1独立運動事件」(1919年3月1日)
朝鮮における最大規模の反日運動で日本官憲により多数の死傷者をだす。

「台湾霧社事件」(1930年3月27日)
日本統治下の台湾霧社で先住少数民族タイヤル人の武装蜂起に対し
日本軍、警察が毒ガスを使用して鎮圧。

「平頂山事件」(1932年9月)
満州国建国半年後、満鉄の撫順炭鉱を警備する日本軍守備隊が近く
の平頂山集落の中国人住民を大量殺害した事件。被害者数は400〜
3000名

「陽高事件」(1937年9月)
支那事変初期において内モンゴルの陽高で関東軍チャハル兵団
(兵団長:東条英機)が引き起こした中国人虐殺事件。被害者数350〜500名。
415日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 10:36:11 ID:8Ik+wLo2
世界戦争犯罪辞典より日本軍の犯行一覧 part2

「南京虐殺事件」(1937年12月)
日本軍が首都南京を攻略した際、2ヶ月にわたって多数の中国人捕虜、
敗残兵、便衣兵、一般民間人を殺害した事件。

「重慶戦略爆撃」(1938年12月〜1941年9月)
日本陸海軍航空部隊が首都重慶に対し反復実施した大規模な戦略爆
撃で多数の民間人死傷者を出した事件。
「七三一部隊と細菌兵器」(1933年〜1945年)
石井機関の七三一部隊と一六四四部隊が組織的に人体実験を行う。
七三一部隊の記録によれば1943年までの検体数は850体。
1940年10月27日に南京の一六四四部隊が寧波市でペスト蚤を散布。
この攻撃後から2ヶ月間の寧波市でのペストによる死者106名。
「真珠湾奇襲攻撃」1941年12月7日
ハーグ開戦条約に違反するとされ、この相殺として原爆投下が正当化された。

「中立国タイとの交戦」1941年12月8日
シンガポール攻略を目指す日本軍が、タイ政府の許可前に南部タイへ
上陸、タイ軍と交戦し、タイの中立を侵犯する。

「香港戦における英軍捕虜の処分」1941年12月18日
香港戦における投降英軍兵士に対するいくつかの殺害事件。

「バリスト・スロン捕虜殺害事件」1942年1月22日
近衛師団長西村琢磨中将が、バリスト・スロン捕虜収容所で捕虜
の処分を命じ150名が処刑されたとされる事件。
事件自体でっち上げの説あり。しかし西村中将はこの事件の責を
負わされ戦犯として処刑される。
416日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 10:39:00 ID:8Ik+wLo2
「アレクサンドラ病院事件」1942年2月14日
シンガポール陥落の当日、日本軍が英軍アレクサンドラ病院を襲撃。
軍医、看護婦、患者を殺害。被害者数200名

「シンガポール華僑虐殺事件」1942年2月15日
シンガポールを占領した第二十五軍が行った反日華僑粛清事件。
被害者数6000人〜2万人。

「バンカ島豪軍看護婦殺害事件」1942年2月
シンガポールからバンカ島の脱出した豪陸軍看護婦20名が日本兵によ
り殺害された事件。

「ラハ事件」1942年2月
日本軍によるインドネシア・アンボンのラハ飛行場占領時に約200人
の捕虜を殺害した事件。

「バターン死の行進」1942年4月
フィリピンバターン半島を攻略した日本軍が、投降した米比軍7万
人をルソン島中部オドンネル収容所まで炎天下を徒歩行軍させ3万
人近い死者を出した事件。

「マキン島米捕虜の処刑」1942年8月
日本軍が占領するマキン島へ奇襲上陸してすぐに撤退した際、取り残
された9名の米海兵隊員を処刑。この処刑された9名に米大統領の息子
ジェームス・ルーズベルト少佐が含まれていたとかいないとか。

「駆逐艦秋風虐殺事件」1943年3月16日
ニューギニアからラバウルへ約60名の外国人抑留者移送中の駆逐艦
秋風が、洋上で全員を処刑。
417日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 10:52:58 ID:MktgXqcK
これだけ出されても、右翼は犯行現場とみなさないんだろ?
右翼学校では習わないだろうから。
418日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 11:19:41 ID:8Ik+wLo2
世界戦争犯罪辞典より日本軍の犯行一覧 part4

「泰緬鉄道」1942年1月〜
連合軍捕虜6万2000名が鉄道建設工事に投入され、過労と伝染病などで1万2000名が死亡。
「潜水艦による捕虜洋上処分」
1943年12月14日、呂110潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。55名を殺害。
1944年2月22日、伊37潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
1944年3月26日、伊8潜が蘭船を撃沈し、生存者98名を艦上で処刑。
1944年3月29日、伊26が米商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明
1944年7月2日、伊8が米商船を撃沈した際、揚収した生存者96名を甲板に放置し急速潜行。
「ビハール号事件」1944年3月
重巡利根が英商船「ビハール号」を撃沈した際、揚収した生存者60名を甲板で処刑。
「ババル島事件」1944年10月〜11月
インドネシア・ババル島の日本軍守備隊による住民虐殺事件。被害者数704名。
「ポンナチャック事件」1943年10月〜1944年1月
インドネシア・ポンナチャックで発生した大規模な住民検挙粛清事件。
被害者数4000〜2万人
「デュエナス神父処刑事件」1944年7月
日本軍占領下のグアム島で島民への影響力が強かったデュエナス神父
を逮捕、公衆の面前で拷問し処刑した。
「メリッソ村民虐殺事件」1944年7月15日
グアム東南部のメリッソ村民が日本軍により虐殺。被害者数46人。
「トラック病院の捕虜生体解剖事件」1944年2〜7月
米兵捕虜4人に生体切開を行い、このうち2名がショック死。生き残っ
た二人はダイナマイトで爆殺された。
さらに他の4名にぶどう状球菌を注射し全員死亡させる。
「ティンブンケ事件」1944年7月
東部ニューギニアのティンブンケ村で、約100名の村民が日本軍に
集団殺害された事件。
419解説者 ◆ayPjxbmM2c :2010/08/15(日) 12:24:11 ID:7ZBsIvyK
で、『南京大虐殺とはいったいどのような事件であったか』、その程度もわからないようなものを出されてもねぇw
「これだけ出されても」とか言われてもなぁ、南京大虐殺のスレで南京以外を出されても何の根拠もになり得ないわけでw

南京大虐殺関連が、

> 「南京虐殺事件」(1937年12月)
> 日本軍が首都南京を攻略した際、2ヶ月にわたって多数の中国人捕虜、
> 敗残兵、便衣兵、一般民間人を殺害した事件。

これだけかよw
どこに犯行現場が書いてあるんだろうか?w
むしろどこで行われたかなんて書いていないように見えるのは気のせいだろうか?w

それともキミタチ肯定派には、見えない文字まで見えるのだろうか、ねぇ?w
結局、南京の証拠が出せないからごまかしているだけかw

つか、「世界戦争犯罪“事典”」なw
引用するなら引用元の名前を間違えるなよなw
420解説者 ◆ayPjxbmM2c :2010/08/15(日) 12:35:26 ID:7ZBsIvyK
そもそも南京大虐殺があったかどうか話しているってのに、ほかの事件を持ち出されてもねぇw
ほかに事件については、別にあったかどうか語っているわけでもないしw
単純に「たとえどんな極悪人であったとしても、やってもいないことまで責められるいわれはない」ってな話でw

犯行現場と言ったところで、実際に起きた直後の現場でもないし、ねぇw
そんなところに行って何か意味でもあるのかねぇ?w

つーか、ここで聞いていても民間人虐殺の根拠は全く聞こえないわけでw
兵士の違法処刑がどうのこうのであって、中国側が求めているような民間人虐殺については全く聞こえないわけでw
むしろ謝罪するにしても、「誰が誰をどこでどのようにして何人虐殺したかは知らないけど、理解できないまま謝罪します」と言う方が失礼だと思うけどねぇw
そしてそれがえん罪だったら、誰がどのように責任をとるのだろうか、ねぇ?w

無責任な発言は勘弁してもらいたいねぇw
421日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 12:52:38 ID:beajdA2z
南京云々を語る前にまず中国は「通州事件」の謝罪をしろよ。
422日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 12:58:59 ID:hW/3izPa
丸MARU 1989年5月号 通算514号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第5回

P198
志願兵鎌田一等兵
 南京、上海、杭州を結ぶ三角形のほぼ中央に太湖がある。琵琶湖の何倍も大きい湖で、湖の中には大小さまざまな島があり、多くの人が生活していた。この太湖には昔から海賊がいて、太湖の中
にある島と沿岸一帯はこの海賊が取り仕切っていた。海賊は力で統制しているだけでなく、税金を徴収したり治安を担当したりしてその力は強いものであったから、国民政府の軍隊も一切手を出すことはできなかった。。
 その海賊たちも日本軍だけはどうにもならないらしく、いつごろからか全く姿を消してしまった。そのため上海が日本軍のものになってから陸軍も海軍も太湖まで進んだけれど、だれも海賊を見たことがなかった。
 上海から南京に向かうコースも、杭州から南京に向かうコースも、途中にこの太湖があるため、太湖をはさんで進むようになる。いわば、北回りコースと、南回りコースである。
 杭州湾に上陸した第十軍は、第五師団の国崎部隊が先頭になり、第十八師団、第百十四師団、第六師団と、南回りコースを進むことになった。距離からいえば杭州から南京に向かう距離の方が上海より数十キロほど短い。

P199
 南京攻略が正式に決定された時、第六師団の都城第二十三連隊第三大隊は南回りのコースを下泗安に向かっていた。
 下泗安は、杭州と南京のちょうど真ん中で、それぞれから百八十キロの所にある。この辺りは、太湖を過ぎ、ようやくクリークも少なくなって、めずらしく舗装された立派な道路が続いていた。
もともと軍用道路として作られたもので、武器を輸送したり、兵隊を移動するためのものであった。それだけに、道路の中央を自動車が通っても、その両脇を二列縦隊で兵隊が行軍できるくらいの広さがあった。
 都城の第三大隊は、しばらくの間は戦闘もなく、ひたすら中国の平野を進んでいた。
 一面の平原の中を真っすぐに伸びている立派な道路も、クリークにかかると、橋は、焼くか破壊するかしてあり、部隊は迂回して進まねばならなかった。
 第三大隊第八中隊の鎌田一等兵はあとで知らされたのだが、ちょうどこの日上等兵に昇進した。
 宮崎市から北に二十キロほど行った西都の農家に生まれた鎌田年明は、学校を卒業すると家業の農業を継いだ。
 鎌田年明は小柄だったが、そのころ、男の子は何にもまして体の丈夫な大人に成長して、立派な兵士になることが一番だと言われ、鎌田年明も小さいころから、それが国のためで、男として当然
のつとめであると教えられて育った。
 兵役は男の義務として二十歳をむかえてから服する決まりになっていたけれど、立派な兵隊こそ立派な人間だと思った鎌田年明は、二十歳を待た
423日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 12:59:54 ID:hW/3izPa
P200
ずに兵役を志願した。そのため普通より一年早く都城にある二十三連隊に入隊した。この年の一月のことである。
 そんな兵隊だったから第一期検閲が終わった後、真っ先に一等兵に進み、さらにその後、熊本にある教導学校に入ることになった。教導学校は。兵隊の中から優秀な者を選んで教育し、下士
官を養成するための学校であった。百人近くの第九中隊の中からは鎌田一等兵たち四人が選ばれただけであった。
 そうするうちに七月になり蘆溝橋事件がおき、都城二十三連隊は、まっ先に北支に向かうことになった。
 蘆溝橋事件がおきたとき、三個師団が中国派遣を予定されていながら和平の機会があり、延期されていたけれど、北京では本格的に日本軍と中国軍が衝突したため、応急動員されることになったものである。
 応急動員を受けたため、普通なら予備役の兵隊を動貝したうえで出動するが、都城の連隊は、兵営にいる現役の兵隊と一部の予備役の兵隊だけで出兵することになった。
 この動員のため鎌田一等兵の教導学校入学はとりやめになり、第三大隊第九中隊第三小隊第二分隊の一兵士として出征することになった。
 鎌田一等兵たちは列車に乗って門司に向かい、門司から船に乗って釜山に上陸し、そこからさらに列車に乗って北京に向かった。北京に着くと、蘆溝橋で知られている永定河を渡り、拒馬河を渡
り、保定、正定、石家荘を攻めた。「文字通りの破竹の勢いであった。
 第六師団は日本に数ある師団の中でもい南九州の強者からなる豪勇な師団として知られていた。中国に行づて戦うようになると、その名は中国にも知れ渡り、第六師団は日本軍の中で最強の師団
だという伝説を生み出したけれど、その伝説が生まれる最初はこの北支の戦いであった。
 それだけに兵隊たちは都城の兵舎にいる時に考えられないほどの体験をしていた。

小隊長の亡霊をみた
 正定を攻める時、第六師団では都城連隊が第一線となって攻めたけれど、その時のことである。
 正定には中国の軍官学校があり、正定城はこの軍官学校の教官と生徒が守って、激しい戦いになった。
 都城の二十三連隊は、十月七日に正定城のニキロ手前まで進み、翌朝、一キロ手前まで進んだ。いよいよこの日、総攻撃を行うことになった。
 第一大隊第二中隊第三小隊の佐藤正一小隊長は、正定城を目の前にした塹壕の中で、小隊を前に、 「人間、畳の上で死ぬのも、長生ぎして死ぬのも、長い目で見れば針の先のように同じものである。
 いま正定城を前にして、国に命を捧げるのは男として本懐ではないか」 と訓示した。それを聞いてみなは、小隊長が命を預けてくれと言ってるのだと思い、それぞれの心の中で命を預けることにした。
 やがてその日の攻撃が始まり、都城連隊のうち、第一大隊はほとんど壊滅状態になりながら夜
の十時に城壁を占領した。佐藤准尉の率いる第三小隊は七名を除いて全員が戦死するか傷つくというありさまで、佐藤小隊長も戦死した。
 翌十月九日は早朝から中国軍を追って遊撃戦に移ったけれど、特に第二中隊は隊の形をなさなかったので、軍旗中隊として、師団司令部とともに正定に残ることになった。七名だけになった第三小隊は、正定城の中の民家に宿営することにした。
 七名は戦友を失った悲しみと、激しい戦いの後 の虚脱感で、十畳ほどの民家でぼんやりと過ごしていた。生き残ったことから言えば、幸せであっ たが、みなから取り残されたことを考えると寂しい気持ちになった。
 民家の中は土間で、小さい窓がひとつあるきりであったから、家の中は薄暗かった。中央には幅が一メートルとニメートルの高机があった。
 午後になり、この辺りでとれるというスイカをゴボウ剣で割って、岩塩を振りかけて食べた。食べ残しのスイカと、岩塩の固まりは高机の上に置かれたままであった。
 しばらくすると、外に出ていた七人のうちの一人である杉田一等兵が戻ってきた。小隊長の当番兵だった杉田一等兵は戻るなり、
 「部屋が臭い。猫でも死んでいるような臭いがする」 と言い出し、高机の上にあった岩塩を部屋の四隅に撒き始めた。部屋にいた他の者たちは、杉田一等兵をみて、
424日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 13:01:39 ID:hW/3izPa
P201
変なことをすると思いながらも、虚脱感から、特別それに対して何かを言う者などいなかった。杉田一等兵が岩塩を撒き終わると、部屋は再び静寂になった。
 その時、中隊本部の平尾軍曹が遠くから、 「点呼」 と叫ぶ声が聞こえてきた。 虚脱感に襲われていた七名も、その声には素早く腰を上げ、民家の前の通りに整列しようと部屋知ら外へ出た。
 ほとんど同時に外に出て、民家の前数メートルに整列しようとした時、そこからさらに数メートル前に、昨日夕方、城壁上で心臓を打ち抜かれて死んだ佐藤小隊長が立っているのが見えた。
 それを見ると、七名は自分たちの髪が「サーツ」と音を立てて逆立つのを感じた。 「小隊長」と呼ぶ者も、部屋に逃げ戻る者もいなかった。全員、体が激しく震えて、金縛りのように身動きがとれなかった。
 佐藤小隊長はおよそ三秒、七人の兵隊をみつめたまま、それからさっと消えた。あっという間であった。
 佐藤小隊長が消えると、金縛りから解けた七名は先を争って部屋に戻った。部屋の中までわずか二、三メートルを駆けただけで七名とも、全速力で走ったかのように激しい呼吸をして、高机にすがって喘いだ。
 しばらくして、ようやく一人が、 「今の小隊長よな」 と、言った。 その言葉を、誰も否定はしなかった。 しばらくすると、もう一人が、 「確かに小隊長だ」 と言った。 それ以上誰も言う者はいなかった。
 不思議なことに七名とも佐藤小隊長の目を見ただけで、他にどこも見る余裕はなかった。手には何を持っていたのか、何を履いていたのか、誰も分からなかった。
 やがて、中隊の平尾軍曹が七名のいる民家の前まで来て、 「第三小隊は何をしているのか」 と怒鳴ったのであわてて七名は外に出て、整列した。
 佐藤小隊長が七名の前に現れたのは確かであった。佐藤小隊長は、小隊が次つぎにたおれ、その途中に自らもたおれたため、第三小隊はどうなったのか心配で見に来たのだと七名は考えた。
 都城連隊が最初に戦った戦場ではそんなことがあったのだ。 兵隊は指揮官に命をあずけ、指揮官は死んでまでも部下を思う。第六師団が弱かろうはずはなかった。

めざす南京は五十キロ
 北支で三か月に戦ったあと、第六師団は塘沽まで戻って船に乗った。一体どこに行くのか分からなかった。けれど、船に乗っているうちそれが中
425日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 13:02:48 ID:o05h4/Sm
P202
 支だと分かり、同じように北京に行っていた第五師団の国崎部隊と、十一月五日杭州湾に上陸した。
 都城の連隊は、杭州湾に上陸すると、松江まで行って、そこから第一、第二大隊が嵐山まで攻め、第三大隊が平望鎮を攻めた。杭州湾上陸は成功し、上海の中国軍は総崩れとなり、退却する中
国軍は、主に二手に分かれた。一方が揚子江と並行に南京方面に逃げ、一方が太湖から蕪湖方面に向かって逃げた。
 嵐山まで攻めた第一、第二大隊は中国軍を捕捉殲滅することはできなかったため、反転することになった。
 嵐山に向かったのは都城の第一、第二大隊だけでなく、第六師団の主力であったから、反転することになった時、第一梯団と第二梯団に分かれた。第一梯団は第三十六旅団長の牛島満少将が指
揮し、都城の第一、第二大隊と鹿児島の連隊からなっていた。そして第六師団司令部、熊本連隊、大分連隊が第二梯団となってその後を進むことになった。
 しばらくすると、第二梯団の大分と熊本の連隊では、コレラ患者が発生し、途中で嘉善に一週間ほどとどまったため、第一梯団からは百キロほど遅れることになった。
 鎌田一等兵たち第三大隊は、平望鎮を占領していたが、平望鎮は、上海を囲む要衝蘇州と嘉興を結ぶ重要な拠点であったため、第三大隊には第十軍司令官柳川中将から感状が授けられた。都城連
隊は、北支の戦いでも香月第一軍司令官から感状を受けていたから、これで二度目で、第六師団の中でも特に目覚ましい働きをしていた。
 第一梯団はやがて平望鎮を通過し、太湖の南を迂回して進んだ。
 平望鎮を占領していた第三大隊は、第一、第二大隊が平望鎮を通過してしばらくしてから、第一梯団を追うことになった。平望鎮は、南京から二百数十キロも先の所にあったから、このとき鎌田
一等兵たちは、南京などは考えもせず、中国兵を追撃する、という気持ちで出発した。
 そうやって進むうちに、第一梯団の先頭は、十一月三十日に下泗安まで進み、南京追撃の命令が出れば、そのまま一気に南京をめざす準備もできた。
 東京で南京攻略が正式に決まった十二月一日、第一梯団を追っていた鎌田一等兵たちの第三大隊は下泗安まで進み、先遣隊より丸一日の距離まで追いついた。
 十二月二日も鎌田一等兵の第三大隊は前を行く第一梯団を追い、下泗安から二十キロ先の広徳に向け、ひたすら歩いた。
 行軍中の休みは、突然やってくる。遠くから大休止、の声がかかると、兵隊は一斉に止まり、体を投げ出すように道路に腰を下ろした。一息つくと、空腹だったことに気がつき、すぐに、水、薪を探し始める。
 杭州湾に上陸した時、兵隊たちは地下足袋に履き変え、背のうに歩兵銃という姿で上陸したけれど、遠浅の杭州湾では野砲、車輛、馬などは揚陸できなかった。そのため、野砲や輜重部隊は埠頭
のある上海に回ることになり、上陸部隊は最低限の弾や食糧しか持たなかった。そのためここでも食糧は徴発にたよることが多かった。
 第六師団は勇敢な兵士が多いと言われていたけれど、若者であることには変わりなかった。よく笑い、騒いで、失敗もやる。
 徴発のために、民家に入ったときのことである。飯倉を洗うのに手頃な桶があった。模様が描いてあって、きれいなものであったから、これで飯盒を洗った。
426日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 13:03:58 ID:o05h4/Sm
P203
 ところがしばらくして、この桶は中国の女性が夜に便器として使うものだということがわかった。模様が描いてあるだけに、どの兵隊もそんなものだとは知らず、後で聞いてから、そのため飯
がまずかったのだ、とわらって納得した。しかし、そんなことがかえって次の行軍の活力となった。
 第一梯団を追っていた第三大隊はついに十二月二日、広徳まで進んでいた第一、第二大隊に追いついた。広徳は城郭で囲まれた大きい町であったが、住民たちの多くは疎開していた。
 この日遅くなり、第一梯団にはあらたな命令が出された。六十キロ先の定埠を占領して、南京追撃を準備するようにとの命令であった。いよいよ第六師団も本格的に南京をめざすことになったのだ。
 もし鎌田一等兵が普通通りの徴兵で入隊していたなら、今ごろ故郷の西都で家業を手伝っていたはずである。南京攻略という名誉に出会うことはなかった。もちろん南京攻略戦に向かっている兵隊の中では、最も若い兵隊であった。
 このころ、南京方面に向かっていた他の師団はおおむね南京から百キロの線に達して、さらに進んでいたが、第六師団の第一梯団が進出していた地点は南京からまだ百五十キロもあった。一緒に
杭州湾に上陸した部隊は、第六師団が嵐山に進んでいる間、まっすぐ太湖方面に進んだため、国崎部隊も第十八師団も第百十四師団も第六師団より数十キロ先を進んでいた。そのため、第一梯団で
は、命令が出ると軍用道路を離れ、最短距離を南京に向げて進むことになった。
 十二月三日、広徳を出発した。軍用道路をはずれると道は急に悪くなった。途中、部落を通過すると、中国人が「皇軍歓迎」と書いた旗を持って日本軍の行軍を不安そうに見ている。急いでいる
兵隊たちは、小休止、の声がかからなければそれらを横目に見て進むだけであった。
 町を離れるとあたりは一面に広い平原になる。このあたりは第十八師団と、第五師団の国崎部隊が通過していたので、中国軍はどこにもいなかった。それでも午後になり、中国軍と戦っている第
十八師団に追いつき、第一梯団も中国軍と戦うことになった。第一梯団は戦いながら進み、四日には向天山の近くまで進んだ。
 五日昼には、郎渓を通過、夜になると、さしあたっての目標である定埠まで進んだ。しかし他の師団は先を進んでいる。そこで第一梯団はさらに進むことになっていた。この晩は特別に厳しい冷え込みであった。
 前夜からの厳しい寒さの続く六日も、朝早くから出発し、この日だけで三十五キロも行軍し、深夜になり、 水に到着した。連日、駆け足のような進軍であった。そのため、この日行軍が終わっ
たとき、南京まであと五十キロの所まで進んでいた。
 しかし、同じコースを行く宇都宮の部隊は、すでに二日前に 水に到着していた。そして都城の連隊たちが深水に到着した時にはさらに三十キロ先の秣陵関を攻め始めていた。秣陵関は南京まで
二十キロの地点で、 水から南京へ向かう街道の最初の中国陣地のある所だ。
 このため部隊は、二時間の大休止をとって食事をした後、睡眠もとらず再び出発することになった。二十数キロ後を進んでいた師団司令部も同じように二時間ほどの大休止で行軍を開始した。
 結局、七日の昼近くまで行軍を続け、禄口鎮まで進んだ。(つづく)
427日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 13:14:46 ID:hJwdac5M
久しぶりにmixiにタラリ出現
瞬殺されてるw
428日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 13:16:44 ID:vmTJX99g
これだけ犯行現場出てるじゃん。右翼って、日本語不自由なの?
429日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 13:19:59 ID:8Ik+wLo2
「南京虐殺」

 小学校の教科書では、「日本軍は中国各地を侵略し、多くの生命を奪
うなど、中国の人々に大きな被害と苦しみをあたえました」(大阪書
籍)の様な内容で「南京大虐殺」を全5社が記述している。


南京入場
 中学校の教科書でも全7社が記述している。「・・首都南京を占領し
た。その際、婦女子を含む約20万人とも言われる中国人を殺害した(南京大虐殺)。」
(東京書籍)、「日本軍は、シャンハイや首都ナンキンを占領し、
多数の中国民衆の生命をうばい、生活を破壊した。ナンキン占領の
さい、日本軍は、捕虜や武器を捨てた兵士、子供、女性などをふく
む住民を大量に殺害し、略奪や暴行を行った(ナンキン虐殺事件)。」
(教育出版、写真)と記述。 欄外の註には「この事件の犠牲者は
20万人といわれているが中国では戦死者と会わせて30万人以上と
している。また、1941年からは、日本軍は、華北の抗日運動の根拠地
などに対し、『焼きつくし、殺しつくし、うばいつくす』という三光
作戦を行った。こうした日本軍の行為は、世界から強い非難をあびた
が一般の日本国民は、敗戦後になって初めてこれらの事実を知った。
」と記述されている
430解説者 ◆ayPjxbmM2c :2010/08/15(日) 13:34:29 ID:7ZBsIvyK
…で?w
慰安婦問題の時もそういう記述があったけど、今ではすっかり無くなっているんだけどなぁw

まあ、教科書に載っている記述で南京大虐殺を語りたいのならそれでもかまわないんだけどねぇ、「それならその死体はいったいどこに?」w
場所はどこ?w
いつどのようにどのくらいの人が殺されたの?w

「これだけ犯行現場が出ている」と言っている割には、非常に曖昧で理解できないんだけどねぇw


逆に言えば、南京大虐殺ってのは未だ事実かどうかわかっていない代物だってことだよなぁw
そのことも知らずに、自分で調べようともせず、他人の記述を理解するのではなく「信じている」ってのは痛いとしか言いようがないw

反論するなら、まずは具体的に「南京大虐殺とは何か」、その定義をはっきりとさせてごらんよw
そうしなければ、いったい何について語ればいいのかわからないからねぇw
まあ、キミタチには無理だと思うけどねぇw
げらげらげらげらw
431日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 13:38:32 ID:sTRqTniy
>>411
>>428
馬鹿ですか?wあぁ、そうですかw
こちらは日本軍の犯行現場は「何処」なのか、を聞いてるんですが?w
どこを読んでも犯行現場が「何処」であったとする記載が見えないのですがw
あれほどまでに南京大虐殺があったと喚いていながら、その犯行現場が「何処」だったことすら知らなかったとはw
いやはや…肯定派の捏造病にはあきれますねw
お気の毒なことですw
432日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 13:40:18 ID:Gyuk30mT
どこの誰が何を言ったとしても、客観的証拠に基づいた
実証的証明でない限り、主観による意見の範疇を出ない。
信じている人数の多寡は、真実性の根拠にはならない。
433日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 13:46:05 ID:sTRqTniy
>>428
南京大虐殺とはまるで関係のないソースまでを「独りで」せっせと貼り付けて自慰行為にふけっていた老肯定派さんw
どこにも犯行現場が「何処」であったとは書いてないんですけど…w
それと私のレスの趣旨は「犯行現場に行ったことすらない肯定派」が、さぞ見てきたかのように「南京大虐殺は真実だ」と喚くのは詐欺ですよ、と言うものなんですけど?w
日本語がお判りになっていないようで、お気の毒ですw
434:2010/08/15(日) 13:53:55 ID:5Q9Tz0ed
【世界の】「南京大虐殺」は嘘【常識】113次資料
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/asia/1281847592/l50
435日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 14:31:23 ID:/4mHNnzd
南京大虐殺なんだから、犯行現場は南京に決まってるだら?頭弱いんですか?
そんなこと言うなら、原爆投下された犯行現場を示して下さい。
436日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 14:47:04 ID:sTRqTniy
>>435
ついに発狂ですか?w南京の「何処」なのですか?w
その犯行現場に行ったことすらないエセ肯定派が、さぞ知った風に「南京大虐殺は真実だ」などと言う資格があるのですか?w
ちなみに原爆投下に関しては、「爆心地」まで判明しておりますが、何か?w
437日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 14:47:58 ID:H4P9sDCq
肯定派発狂ワロタw
438日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 15:04:38 ID:sTRqTniy
>>435
このスレで明確になったことは、ここに湧いてた肯定派は「日本軍による犯行現場」が「何処」なのかも知らないエセ肯定派揃いだったということですねw
失笑ものですねw
439日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 15:12:12 ID:EQUM8rM/
日本軍兵士の犯行現場も分からない馬鹿がいると、噂を聞きこのスレに来ました。

認めたくないだけでしょ?あなたがたは。
440日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 15:15:00 ID:n9HWMx7l
俺は否定派だったけど、修学旅行で犯行現場に行ってから考えが変わったよ。
否定派も、まずは犯行現場に行ってから議論すれば?
441日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 15:23:27 ID:GeD+qin9
一匹のゴミ虫が、必死にID変えて沢山居るように見せかけてるw
ばれていないと思っているのか?
442日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 15:27:01 ID:sTRqTniy
>>439
>>440
その犯行現場とやらは「何処」ですか?w
何度周回遅れのループを繰り返すつもりなのでしょうか?w
犯行現場が「何処」かも知らないクセに、「南京大虐殺は真実だ」と喚いていたのですか?w
馬鹿ですな?w
443日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 15:30:14 ID:H4P9sDCq
オレもボロボロに論破され、精神が崩壊しかかっている孤独な肯定派の抗いを生暖かく見守っているところw
444日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 16:08:10 ID:8Ik+wLo2
南京大虐殺 幕府山事件 虐殺の現場

●幕府山事件の事実調査結果

「南京市の北郊外・幕府山に集められた中国人捕虜<約1万5000人以上>は、
<揚子江岸で>、<12月16、17両日の2回に分けて>殺されたが、
それは、<2ヶ所で><少なくとも3分割にして行われた>可能性が極めて高い。
即ち、16日は、中国海軍関係設備の<魚雷営>、
17日は、同じ<魚雷営>のほか、
その2,3キロ下流(注:北東方向)の<大湾子>付近で行なわれ、
後者の方が大量だった。
(注:栗原証言はこの<大湾子>付近の件であり、1万3千500名を殺害)

機関銃で一斉射撃を繰り返した後、石油をかけて焼き、
死体を揚子江に流すのに、18、19の両日掛かった。」

この捕虜殺害の中心になったのが
「第十三師団」山田支隊「歩兵第六五連隊(会津若松)(連隊長:両角業作)」であった。
更に言えば、この「両角業作手記」は、上記の事実と真っ向から対立している。
つまり、捕虜の大量虐殺は、揚子江岸で多数の箇所で行なわれていたのです。
◆殺害方法と作業の大変さ
・銃撃
 完全に<重機関銃>の射撃範囲が、最初から、決められていたみたい。
 それで、何回かに分けて連続的に撃った。
・銃剣での刺殺
 その後、捕虜の周りを取り囲んでいた歩兵が、
 突撃命令(注:上官から殺害命令が出ている)で、捕虜の中に入る。
 全部銃撃で死ぬわけでありませんので、銃剣で突き刺しに入る訳です。
・石油をかけ焼く
 銃剣の突き刺しでも、まだ生きている人がいますので、
 <石油をかけて焼いて>、<熱くて立ち上がった捕虜>を又銃剣で刺すという
 作業をやる。
445日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 16:19:29 ID:ccnO/CiO
右翼は間違いなくスルーするね。
446日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 17:03:56 ID:sTRqTniy
>>444、445
とうとう釣れましたかwwww
幕府山事件は、南京大虐殺の証明が困難になった肯定派が、勝手に「幕府山事件」と名付けたものを南京大虐殺につなげてしまってるだけなのですが?w
しかも栗原証言によれば、遺体はすべて河に流したことになっており、「犯行現場」が残っていたハズはないのですがwwww
更に私のレスの趣旨は、「日本軍の犯行現場にすら行ったことがないエセ肯定派」が、さぞ知った風に「南京大虐殺は真実だ」等と言う資格はないのでは?というものなのですが、日本語は理解できてるのでしょうか?w
エセ肯定派の皆さんは、「幕府山の犯行現場に行った」とでも言うのでしょうか?w
ついでにお尋ねしますが、それ程の捕虜殺害が行われたのなら、何故、今の幕府山に記念碑の一つもないのでしょうか?w
幕府山事件などと騒いでいるのは、日本のクサヨさんだけで、当の中国人は「幕府山事件」など知らないのでは?wwwwww
447日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 17:10:11 ID:sTRqTniy
>>444
>>445
ほんとにこのスレに湧いてるエセ肯定派は無知蒙昧ですねw
幕府山事件の犯行現場にすら行ったことがないエセ肯定派が、「幕府山事件は真実だ」と喚くのでしょうか?w
今からでもその幕府山事件の犯行現場とやらに行ってみてはどうですか?w
犯行現場とやらがあるならの話ですがwwwww
448日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 17:15:37 ID:GeD+qin9
何故か河に逃げない中国兵(笑)
449日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 17:34:07 ID:H4P9sDCq
肯定派の連中って、これまでも散々幕府山事件を引用してたくせに、幕府山事件の犯行現場に行ったことが無かったの?マジで?マジで?w
450日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 17:55:18 ID:4lK4nNRR
幕府山へは、まず犯行があった現場として、学者や修学旅行者が訪れるぞ。
ウヨクのみなさんは行かれないだけでしょ?(笑)
自分が見てないとか、行ってないからって、事件そのものをなくしちゃ駄目ですよ。
451日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 18:03:49 ID:sTRqTniy
>>450
幕府山事件は戦後になって出てきた話で、東京裁判当時は誰も知らなかったのですが、一体「いつ誰が」犯行現場を特定したのですか?wwww
更にその幕府山には捕虜殺害に関する記念碑があるのですか?wwww
452日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 18:09:42 ID:H4P9sDCq
幕府山は健在だが、事件現場の写真とやらを見たことがないなw
今の幕府山って、単なる公園化してて、中国人自身も幕府山事件など今も知らないのか?w
453日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 18:15:27 ID:GeD+qin9
まあ「三面から撃ったらトイ面で同士討ちじゃないか」って攻められたら
「撃ったのは高台からニダ」なんて口から出任せ言ったから、
もう犯行現場なんて特定できませんw
454日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 18:16:51 ID:sTRqTniy
>>450
犯行現場らしさの欠片もなく、平和そのものが今の幕府山のハズなんですがwwww
ここは是非クサヨさんに今ある幕府山の「犯行現場」とは如何なるものか、画像をUP頂かないとw
455日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 18:23:18 ID:H4P9sDCq
栗原証言も伝聞証拠が入り混じって、どこまで本当なのか不明w
おまけに暗闇の中、目クラ撃ちして捕虜を皆殺しにできるわけねーつうのw
456日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 18:54:09 ID:j/IMjCim
否定派どんだけ必死やねん
457日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 19:15:46 ID:beajdA2z
必死なのはどうみても肯定派だがねww
458<:2010/08/15(日) 19:47:49 ID:qAyo/Jju
●幕府 "山" 事件の矛盾・・・(´・ω・`)
  チン論肯定派が孤独な戦いを強いられてる様だか、そもそも幕府 "山" 事件には大きな矛盾がある・・・(´・ω・`)

●事件の現場とされる場所は "山" ではなく "(揚子江)河岸" であると言う事・・・(´・ω・`)
  一体誰なんだ? 幕府 "山" 事件などと名づけたドアホは?・・・(´・ω・`)

 丸MARU 1990年3月号 通算524号 P206 『兵士たちの「南京事件」城壘 連載15回』
 護送の指揮を取った第一大隊長は、中国兵を舟に乗せて中州に連れて行き、そこに釈放する予定でいた。
 中州といっても日本でいえば島にあたり、民家もあればたくさんの人も住んでいる。ところがこの中州には南
 京が陥落しそうになった時から中国兵が逃げていて、中国兵を乗せた最初の舟が近付くと、既に逃げていた
 中国兵が一斉に撃ってきた。これを岸で見ていた中国兵が揚子江で日本兵に射殺されると勘違いしたらしく、
 騒ぎだし、日本兵に襲いかかった。それがきっかけで一瞬のうちに大混乱になってしまったのだ。第一大隊で
 は将校も含めて七人が死んだ。しかし、あの大混乱で死んだ日本兵が七人だったとは奇跡的なことである。

 『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1> P437』
 http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen5.html
 第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付
 近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡し
 た。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江
 岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵は
 これに射撃を加えた。これにより捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦
 死した。

 『栗 原 利 一 証 言』
 http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/yamada/kurihara.html
 半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあび
 せる。一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄・阿鼻地獄であっ
 た。田中(栗原)さん自身は小銃を撃ちつづけたが、いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後の・・・・

●幕府 "山" が犯行現場になりえるハズもなく、幕府 "山" で捕虜殺害が行われたワケでもない・・・(´・ω・`) 
  故に、>>450は犯行現場とは全く関係の無い幕府 "山" に行っている事を公言してるギガトン級の馬鹿レス・・・(´・ω・`)
459<:2010/08/15(日) 19:50:38 ID:qAyo/Jju
>>450
>>456
ギガトン級の馬鹿頭肯定派に質問・・・(´・ω・`)∩
事件現場と関係の無い幕府 "山" に行って、何がしたいん?・・・(笑
460日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 19:55:51 ID:H4P9sDCq
肯定派脱糞wwwwwwww
461日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 20:15:10 ID:9aVREbRn
おい、糞ウヨク。永久戦犯が見せしめにされている靖国行ったのか?
462日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 20:23:07 ID:8Ik+wLo2
幕府山の捕虜たち

 旧版で取りあげた主要な「虐殺事件」のうち、難民区の便衣兵狩り
に並ぶ規模の犠牲者を出した幕府山の捕虜処分は、このの段階では不明の部分が残り、
「疑問点を箇条的に整理」する形にしておいた。
 その後、阿部輝郎『南京の氷雨』(一九八九)、小野賢二他『南京
大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(一九九六)の刊行で、疑問点はか
なり解明された。とくに後者は歩六五連隊の下級将校と兵士の日記
一九編を利用した貴重な資料だが、過半が仮名にしてあるのは惜しま
れる。
 「現場は一か所か二か所か」という疑問に対し、笠原十九司
『南京事件』と板倉由明「南京事件−虐殺の責任論」(いずれも
一九九七)は阿部、小野の調査を取り入れ、十二月十六日夜の海軍
魚雷営と、十七日夜の大湾子(上元門と燕子磯の中間で八卦洲に向
かいあった江岸)の二か所が現場だと判定した。この推定に今のと
ころ異論は出ていない。
 犠牲者数については、当初の一万四七七七人(魯甦証言の五万七
四一八人に該当か)のうち民間人はすぐに釈放して半減、十六日の
火事に紛れて逃亡する者もいたとされるが、十六日に残った捕虜(
敗残兵が主体)の約三分の一、十七日に三分の二(合計して畝本は
二千、板倉は四千、秦は八千人と推定)が殺害された。
463日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 20:27:13 ID:QFppdjc/
>>459
永久戦犯?
ネタなのかマジなのか…
464日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 20:28:23 ID:8Ik+wLo2
南京で最も多く捕虜を捕らえたのは、第13師団の山田支隊(山田栴
(せん)二少将)麾下の歩兵第65連隊(会津若松市・両角業作大佐)
である。
 同連隊が揚子江岸に沿って進撃した14日、幕府山付近でとらえた
捕虜は1万4700人にも及ぶ大量のものであった。
 この捕虜の処置について、その真相を明らかにするため、鈴木明氏
は、昭和47年、わざわざ仙台に山田少将はじめ、この時の関係者数名
を訪ねて『「南京大虐殺」のまぼろし』にその真相をレポートしている。
 その真相というのは、山田少将はこの大量の捕虜の処置に窮し、
ついに意を決して揚子江の中洲に釈放することにし、護送して目的地
近くについたとき、暴動が起き、捕虜約1000が射殺され、日本側将兵
も死傷したというのである。
 地元紙の福島民友新聞社も多数参戦者の証言を集めて『郷土部隊戦
記』を発刊。その中で暴動――射殺説を明確にした。そして、これは
そのまま自衛隊戦史室編集の『支那事変陸軍作戦(1)』にも掲載され
ている。
 ところが、59年8月7日「毎日新聞」は「元陸軍伍長、スケッチで
証言、南京捕虜1万余人虐殺」という大見出しで、第65連隊の伍長で
あったK氏が多数の捕虜を揚子江岸に連行して1万3千5百人を皆殺し
にしたという証言を発表した。それは従来の説をくつがえす計画的・
組織的な虐殺説であった。
465日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 20:34:13 ID:FAtnOGml
A級が永久戦犯にグレードアップか。
中国人や朝鮮人からすれば、確かに永久に戦犯だよな。死刑になったからって、
許される訳じゃないし。
466<:2010/08/15(日) 20:44:52 ID:qAyo/Jju
>>463
スレ間違ってんぞwwwww バカwwwwww


もしかして肯定派のチンカスどもは、幕府山事件の現場すら知らなかったワケか?ニヤニヤ・・・(・∀・)
467日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 20:51:29 ID:I070Tj+V
463は肯定派じゃないでしょ?
大丈夫?
468<:2010/08/15(日) 20:52:42 ID:qAyo/Jju
大変な事が曝されてしまったな・・・(・∀・)
肯定派は幕府山事件の犯行現場すら知らないワケか・・・(・∀・)

おい♪このスレを書いたバカ、フクロにしとけ♪・・・(笑
   ↓    ↓    ↓    ↓    ↓
 354 名前:日出づる処の名無し[] 投稿日:2010/08/11(水) 12:49:22 ID:kRksb13V
 おまえら、日本軍兵士の犯行現場とか行ったことないだろ?
469日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 20:57:36 ID:sTRqTniy
ちょwwwww
肯定派の皆さんは幕府山事件の犯行現場を知らなかったんですか?w
それでよく「南京大虐殺は真実だ」なんて言えたものですねw
470日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 20:58:29 ID:7YNBH+8C
意味不明。日本語でOK
471日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 21:03:33 ID:H4P9sDCq
またまた肯定派脱糞wwww
肯定派は幕府山事件の犯行現場を知らなかったとはwwwww
472日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 21:06:20 ID:BbojE3SU
知らない肯定派はおらんよ。知らないヤツは右翼だよ。一番世界的にも有名な
事件だったし。
473日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 21:15:40 ID:H4P9sDCq
で、犯行現場はどこにあるの?wwww
474<:2010/08/15(日) 21:21:09 ID:nIBUUE0f
いや〜〜・・・後になっても判る事があるんだな・・・(・∀・)

肯定派は、最大の捕虜殺害事件とされる幕府山事件の犯行現場すら
知らなかったんだ〜〜〜・・・(・∀・)

へぇ〜〜〜〜・・・(・∀・)
それでよく ”南京大虐殺があった” と言えたもんだな・・・(・∀・)
475日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 21:21:48 ID:8Ik+wLo2
>>473 日本語読めないの?バカ?
476<:2010/08/15(日) 21:39:38 ID:nIBUUE0f
>>475
幕府 "山" 事件の犯行現場はどこ?♪・・・(・∀・)
後、何回ループするつもりか?・・・(笑
477<:2010/08/15(日) 21:45:47 ID:nIBUUE0f
南京大虐殺の七不思議に新たな疑問が一つ♪・・・(・∀・)

●最大の捕虜殺害事件とされる幕府山事件の犯行現場が不明・・・w

クサヨどもは、一体どういう証言の取り方をやったんだ?♪・・・(・∀・)
m9(^Д^)プギャーー
478<:2010/08/15(日) 21:52:06 ID:nIBUUE0f

蒼白になってる肯定派に質問♪・・・(・∀・)∩

 ●幕府山事件の犠牲者は川に流されたとされて不明
   (※おまけに下流に遺体が大量に流れ着いた等の証言も無し)

 ●幕府山事件の犯行現場も不明

これで一体どうやって幕府山事件があった事を証明するん?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
479<:2010/08/15(日) 22:07:45 ID:nIBUUE0f
おい、チンカス虫けら肯定派♪このアホ、フクロにしとけ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
     ↓    ↓    ↓    ↓
 354 名前:日出づる処の名無し[] 投稿日:2010/08/11(水) 12:49:22 ID:kRksb13V
 おまえら、日本軍兵士の犯行現場とか行ったことないだろ?

このアホがこういう書き方をしなかったら、【 幕府山事件の犯行現場はどこ? 】 なんて
切り返し方を思いつかなかったかもな・・・(笑
480日出づる処の名無し:2010/08/15(日) 22:49:40 ID:H4P9sDCq
肯定派沈黙w
481日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 09:31:57 ID:9X1T9tKz
右翼って、日本軍が悪いことばかりしたから、処刑されたり、原爆落とされた
こと知らないの?そんなこと、小学生でも知ってるぞ。
これだから、まともに義務教育も受けたことのないヤツらは困るよ。
482日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 09:42:06 ID:jEGuSjYg
ウヨクのみなさんは、中国とか行ったことないんでしょ。
家にひきこもってばかりじゃ、行く金もないだろうし。
幕府山、行ったことないだろ?本当にないと思っているのか?
恥をさらさない方がいいですよ、これ以上。
483日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 10:32:00 ID:r9TUc8un
南京事件なんて三笠宮様が認めてるのに・・・
ネット右翼は皇室の方の発言を否定する反日なんだな。
484解説者 ◆ayPjxbmM2c :2010/08/16(月) 10:58:16 ID:ByVAjBMX
なんだこの小学生みたいな文章は?w
夏休みでリアル小学生でもきているのか?w
それとも中国あたりの人が日本語翻訳で書き込んでいるような文章だねぇw

>>481
日本軍が悪いことをしたからと言って、罪無き人々を原爆で大虐殺する理由にはならないわな。
その程度の理屈は幼稚園児でも知っているだろうに。

>>482
いや、行ったからどうだっての?w
むしろ当時の資料を見たり調べたりして何があったかを調べたこと無いでしょ、キミ?w
まあ、日本語も怪しい人だから当時の文書を読むことまでは無理かw

>>483
おやおや、その発言って何だっけ?w
ソースよろしくw


はい、論破w
まあ、チベットに対して謝罪を行っていないような連中が自分の被害だけに対して謝罪とか言われてもねぇw
天安門事件で恐怖政治を目の当たりにした人々だから中国共産党に逆らえないのはしょうがないかもしれないけどさw
485日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 11:18:25 ID:dDxHS7YO
肯定派最後の砦、幕府山事件が怪しくなってきたw
486日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 11:28:25 ID:puQHJHqf
物理学的におかしい事件を持ってこらても...。w
487日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 13:01:30 ID:Vgcb8myf
>>458
それ全部二次資料じゃんw 否定派は二次資料しか見ないのかよ。長々貼られている『丸』兵士たちの「南京事件」も
二次資料で三等資料w しかも史料批判されていない。史料批判されてない史料に価値は無いんじゃないのかよw
488日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 13:04:19 ID:tjX4FgyM
>>487
一次も二次も関係なく、「山」で事件が起こったとは誰も言っていないだろw
489日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 14:04:42 ID:dDxHS7YO
>>487
じゃあ事件の犯行現場はどこなの?w
490日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 14:05:56 ID:dDxHS7YO
肯定派のヤツらは幕府山事件の犯行現場すら確認してなかったとなw
491日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 14:11:31 ID:tjX4FgyM
>>490
「三方から水平撃ちしたらトイ面同士討ちだろ」なんて言う徴発に「現場はすり鉢状の岸ニダ」って口から出任せ言っちまったから
二度と現場を特定できないでしょうねw
492日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 15:14:15 ID:dDxHS7YO
>>491
しかも河岸で発生したとされる事件なのに、「トイ面にも機関銃をかまえた日本兵がいた」とはどういうことなのかとwwww
トイ面の日本兵は河の中に居たとでも言うのだろうかwwww
493日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 15:24:42 ID:tjX4FgyM
>>492
いや3方だから正面は河だが両側が水平撃ちだと同士討ち
494日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 17:15:57 ID:dDxHS7YO
>>493
サーセンwあまり詳しくないものでw
495左翼ん ◆PDzqWniYxQ :2010/08/16(月) 19:20:38 ID:lL7bLk1x
幕府山が無かったとなると肯定派はもう解散ですな。
長い事ご苦労さんw
今度何かをでっち上げる時はもう少し上手くやれよ。
南京はちょっとお粗末すぎたからなwww
496日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 19:22:40 ID:Wso8IbLP
>>487
そもそも城塁を出してきたのは肯定派のK-Kなのだがw

http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/114D.html
阿羅健一「兵士たちの「南京事件」 城塁」連載第19回(『丸』1990年7月号)

>二次資料で三等資料w しかも史料批判されていない。史料批判されてない史料に価値は無いんじゃないのかよw
そういうものをK-Kはソースとして出してきたのか?(大爆笑
497<:2010/08/16(月) 19:29:39 ID:Z8j+E2ZP
>>487
馬鹿犬・・・(笑

オイラが>>458で引用したこの資料は肯定派が事ある毎に引用しまくってた資料なんじゃなかったのか?・・・(笑

 『栗 原 利 一 証 言』
 http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/yamada/kurihara.html
 半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあび
 せる。一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄・阿鼻地獄であっ
 た。田中(栗原)さん自身は小銃を撃ちつづけたが、いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後の・・・・

この資料も "価値が無い" ワケか?♪別にいいんだけどさ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
498左翼ん ◆PDzqWniYxQ :2010/08/16(月) 19:30:36 ID:lL7bLk1x
奴らはそもそもその場しのぎで反論してるだけで、史料の価値とか信憑性なんてものはいつも後付けなんだw
499<:2010/08/16(月) 19:35:56 ID:Z8j+E2ZP
>>487
おい♪クダラナイ馬鹿犬♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
オマエの自己解釈では、下記肯定派解釈は間違ってるんだろ?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

 "ラーベ日記の史料的価値は高い"
 http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%A5%E9%A1%BC%A5%D9%C6%FC%B5%AD%A4%CE%BB%CB%CE%C1%C5%AA%B2%C1%C3%CD%A4%CF%B9%E2%A4%A4
 そもそも内藤氏の定義に忠実に分類すれば、ラーベ日記は「一等史料」にあたり、ドイツに帰国して加筆された部分が
 「二等史料」となるはずである。
500日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 19:41:41 ID:lL7bLk1x
馬鹿と肯定派につける薬は朝鮮人参くらいかな?
まあ、いくらつけても治んねーだろうけどw
501日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 19:57:21 ID:z1CkIQ4z
右翼も左翼も馬鹿はかりだの。
右翼は日本軍兵士を擁護するばっかりだし、左翼は日本軍兵士を非難するばっかりだし。
502日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 19:59:28 ID:Ba8QbEHF
jjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjjj
503日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 20:00:08 ID:v3QXO1/M
右翼はいつも願望だけで独自の歴史を作ろうとするからね。
504日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 20:04:21 ID:RQ7/hC5c
そこまでして、極悪非道残忍な日本軍兵士を擁護するのは何故?
金もらっているの?
505日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 20:38:14 ID:Wso8IbLP
>>504
自分が金を貰っていると他人も同じだと思うのが普通w
506<:2010/08/16(月) 20:47:51 ID:Z8j+E2ZP

栗原利一氏は、ウンコ息子の "核心" を心底憎んで死んだんだろうな・・・(´・ω・`)

 栗原氏のご子息である「核心」さんからの証言
 http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/yamada/kurihara.html
 毎日新聞に記事が載ったあと、すぐに本多勝一氏から父に取材の申込みがありました。
 父から、本多氏のインタビューを受けるべきかどうか事前に相談を受けたのですが、「歴史的なこと
 なので正確に話ししておいた方がいい」と積極的に証言をすすめました。
 また、本多勝一氏の経歴等に関して私は熟知していたのですが、父には告げないでおいた方がより
 正確な証言が得られると考え、敢えて父には告げないでおきました。そして上記証言が得られたわけです。
507日出づる処の名無し:2010/08/16(月) 20:51:38 ID:uZFYqt03
まあ客観的に見ると、いまだに日本軍兵士の犯行現場も知らない、知ろうとしない、知るのが怖い馬鹿ウヨクと
検証が甘くて、事件を誇張して、中国の言うことを鵜呑みにする馬鹿サヨク
といったとこか。
508解説者 ◆ayPjxbmM2c :2010/08/16(月) 20:57:15 ID:ByVAjBMX
知りたいのは犯行現場ではなく、犯行の証拠そのものなんだがなぁw
右翼というのを誰をさして言っているのかわからんが、現在の犯行現場をみたところで何がわかるというのだろうか、ねぇw
「当時の犯行現場」と言うのであればいざ知らず、行ったから全てがわかるとかどこのサイコメトラーだよw

少なくとも今ある資料では日本軍を非難することはできないってだけの話なんだけどなぁw
証拠もなく殺人犯と呼ぶのは正当ですか?w


こんな当たり前のことすら理解できず、中立の立場を装って無知をさらしている奴が一番醜いねぇw
IPをころころ変えるのは何か意味があるのかねぇ?w
他人のふりして書き込みまくるほどみっともないことはないよなぁw
げらげらげらげらげらげらげらげらw
509<:2010/08/16(月) 21:46:54 ID:yvQRcLwo
オイラも大して幕府山事件に詳しかったワケではないんだが、これを機会にオイラなりに再検証
している途中。今や否定派ですら当然の如く 『あった』 とされている幕府山事件だが、どうにも
腑に落ちん・・・(´・ω・`)

●一番の疑問は幕府山事件があったとされる日付 "1937年12月17日" ・・・(´・ω・`)
  この日は南京占領を内外に示す入城式があっていた日・・・(´・ω・`)

 『ある軍法務官の日記 小川関治朗 P117』
 昭和12年(※1937年)12月17日
 ・・・(略)・・・
 やがて松井方面軍司令官 朝香宮上海派遣軍司令官殿下 柳川第十軍司令官等到着
 次いで全員整列 日章旗掲揚式を君が代の国歌吹奏により挙行せらる。その間の感激
 絶頂に達し終生深く印象を離れざるべし
 ・・・(略)・・・
 三時過ぎ頃終了
 宿舎に帰れば今日は祝として小豆飯外に支那にて全く初めて見る料理を給与さられ酒も
 勿論豊富十分歓を尽くす。所々にて酒宴盛に大声にて歌う音又喚声上り如何にも全南京
 市にある日本兵は一時戦闘を忘れたかの如く歓喜の巷と化したるかの観あり。大塚局員
 帰途に就く。吾々も大いに祝杯を挙げ歓声上り十分喜びを尽し十一時漸く寝に就く

●小川法務官によれば、この日は南京中の日本兵がドンチャン騒ぎをやっていた事が記載
  されている・・・(´・ω・`)

  幕府山事件は、このウラで発生していた事になる・・・(´・ω・`)
510<:2010/08/16(月) 21:52:45 ID:yvQRcLwo
オイラなりにぼんやり見えてきた事があるから、再度レスを投下する・・・(´・ω・`)
511日出づる処の名無し
>>497
>オイラが>>458で引用したこの資料は肯定派が事ある毎に引用しまくってた資料なんじゃなかったのか?・・・(笑

へー、過去スレ10くらい遡ったが肯定派が栗原証言を証拠としてこのスレで引用したレスは無かったぞ。見落としがある
可能性もあるから1つもないとは言わないが、少なくとも「事ある毎に引用しまくってた資料」ではないな。
そりゃずっと遡れば肯定派も証拠として引用していただろうが、何年前の話だよって事だw それに引用しまくって
いたのはたった一人だろw 捏造乙w

>>499
>オマエの自己解釈では、下記肯定派解釈は間違ってるんだろ?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)

間違ってるな。常識で考えれば、ラーベの日記はラーベが帰国後加筆修正した二次史料で、出版の為に第3者が編集まで
した三等史料だろ。そんな事も判らないの? あとさ、自分の事を「オイラ」とかバカじゃねw 恥ずかしくないの?w