イタリア軍総合スレッド part8

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1名無し三等兵
悪印象だけが一人歩きし、
その実態はあまり知られていないイタリア軍について、
考察を交えたりしつつ語りましょう。資料情報提供大歓迎。
イタリア王国、共和国軍であれば時期は問いません。

ヘタレであるとして腐すだけの話題、
軍事が絡まない政治、情勢、スポーツの話題、
イタリアを絡めて諸国民・人種について主観的に語ったもの、
等はこのスレでは扱いません。
スレ違いですので他の板・またはスレッドをご利用ください。

前スレ
イタリア軍総合スレッド part7
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1318158196/

過去スレ
初代 http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/army/1160560471/
part2 http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1194109114/
part3 http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1230479166/
part4 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1266114038/
part5 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1287113841/
part6 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1303006376/

イタリア最強戦闘機はどっち
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1099761022/
せっかくだからイタリア戦車について語ろうぜ
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1140627003/
第二次大戦時のイタリア海軍
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1187366319/
イタリア軍の技術について真面目に考察する
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1079193237/
2名無し三等兵:2013/11/10(日) 10:23:40.96 ID:???
Q Y川氏って誰ですか?
A 各種軍事雑誌でイタリア軍関係の記事を書いている吉川和篤氏のこと。著作に「イタリア軍入門」など。

Q 塩野婆って誰ですか?
A 小説家の塩野七生氏のこと。著作に「ローマ人の物語」など。

Q おぬぬめの資料を教えて
A 「イタリア軍入門」「イタリア陸軍装備ファイル」などありますが、
  イタリア軍を単独で取り上げている日本語で書かれた物はあんまり無いです。
  軍事雑誌のバックナンバーをこまめに調べるか、いっそ英語かイタリア語の文献に手を出すと吉

Q 何これ→「ヘタリア人て何で生きてるの?」「ヘタリア人は生まれながらの臆病者」
A 過疎スレを保守してくれるありがたい方なんで、触らないでください。
3名無し三等兵:2013/11/10(日) 10:46:07.40 ID:???
>>1
スレ立て乙です。
4名無し三等兵:2013/11/10(日) 11:53:36.00 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
5名無し三等兵:2013/11/10(日) 11:58:44.99 ID:???
でも女が絡めば世界で最も勇敢なナイスガイ
6名無し三等兵:2013/11/10(日) 12:04:24.72 ID:???
前スレ埋めてくだしい
7名無し三等兵:2013/11/10(日) 12:29:57.09 ID:???
イタリア陸軍

http://theswash.com/wp-content/uploads/2012/05/italian-army.jpg

陸上自衛隊

http://livedoor.blogimg.jp/military380/imgs/9/d/9d60b0e1.jpg


wwwwwwwwwwwwww

イタリア軍ガチムチ〜〜〜

自衛隊ヒヨロヒョロ〜〜〜
8名無し三等兵:2013/11/10(日) 12:57:43.73 ID:???
中曽根康弘は80年代に、日本の厚生労働相に圧力をかけて、日本の洗剤、シャンプー、歯磨き粉、あらゆる製品に避妊剤や女性ホルモンを混ぜることに参加したんです。日本の人口削減のために。日本の男性をインポにするためにやりました。

あの男は、究極の裏切り者の北朝鮮エージェントです。

金正日が殺されたことによって、彼の権力基盤が揺れているから、早く刑務所に入れろ。あの人は野放しされるべきではない。

小泉純一郎も、サディストの殺人犯です。小はん、という新橋の芸者を首絞めて殺した本人です。それを公開できます。

どうだ?名誉毀損訴えられないでしょ?この殺人野郎!
9名無し三等兵:2013/11/10(日) 14:21:27.87 ID:???
>>5
気候が大事なんだと思うよ、熱すぎても、寒すぎてもイクナイ。
ドデカネス諸島の燦々と輝く太陽の下だと、伸び伸びと活躍するよ。
10名無し三等兵:2013/11/12(火) 07:53:31.24 ID:???
>>1
おつ
11名無し三等兵:2013/11/12(火) 13:16:12.55 ID:???
イタリアって小型武器うまいよね。

憲兵兵団用武器なら世界でトップクラス
練習機とかも最高
12名無し三等兵:2013/11/12(火) 17:13:09.40 ID:???
>>11
それだと巨人が来ちゃうぅぅ、
国家憲兵、もしくは カラビニエリ で、お願いしまふ。
13名無し三等兵:2013/11/12(火) 18:31:06.90 ID:???
>>12
巨人に絶対勝てないからな。
いや、冗談抜きで個人や憲兵レベルならリアルリヴァイ兵長とかがいたり
して連隊で巨人軍追い出したりとかした
((´・ω・`)おっとリヴァイならぬサヴォイでしたな)
14名無し三等兵:2013/11/12(火) 21:40:05.97 ID:???
戦中ではなくて、珍しく戦後の1952年に映画「Carica Eroica」が作られた、第三騎兵連隊「サボォイア」
15名無し三等兵:2013/11/12(火) 23:24:38.00 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
16名無し三等兵:2013/11/13(水) 18:26:07.01 ID:???
17名無し三等兵:2013/11/14(木) 00:32:38.82 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
18名無し三等兵:2013/11/14(木) 20:55:34.68 ID:???
前スレでレーダーと魚雷艇云々というのがあったと思うけど、
「魚雷艇」というのは直訳でイタリアの艦種区分だと「水雷艇」【伊】torpediniera だと思うよ。
cf 駆逐艦【伊】cacciatorpediniere

Giacinto Carini (cacciatorpediniere)  (840d La Masa class )
"Nell'aprile 1941 venne installato a bordo dell'unità la versione definitiva del radar EC3/ter «Gufo»,"
ttp://it.wikipedia.org/wiki/Giacinto_Carini_(cacciatorpediniere)

伊: EC3/ter "Gufo" >英: Gufo radar
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Gufo_radar
19名無し三等兵:2013/11/14(木) 22:40:35.41 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
20名無し三等兵:2013/11/21(木) 01:14:33.73 ID:???
 
867 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2006/09/25(月) 19:57:35 ID:???
WarBirdsにここのスレを転載して、反応を見てみようか?

103 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2006/11/09(木) 13:45:28 ID:???
>102
なぜそんなザマなのか、Warbirsに質問してきた

22 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2006/11/26(日) 22:22:52 ID:???
>19
それ、WarbirsのSUDOって人によると
零戦や隼よりも遥かに劣る機体で、ラバウル以上の戦力差の中で戦ったからだと。
20機も落とせるパイロットがいることはむしろ驚くべきことだとも言ってた。

194 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2006/11/30(木) 17:13:19 ID:???
>193
今度それに関してSUDOに聞いてみるが、反論の準備いいか?
21名無し三等兵:2013/11/21(木) 18:55:46.46 ID:???
ほすありがとうなのれす
22名無し三等兵:2013/11/23(土) 10:41:10.03 ID:???
静かに保守
>545の後半部分です 86 GRUPPO BM (Squadriglie 190,191. Stormo 35)

On 22 May 191 Sq was detached to Derna*1. In May the Gruppo moved to Barce*2 to begin reconnaissance and day
bombing duties. 191 Sq was detached to Mersa Matruh on 15 July for reconnaissance missions. During July and Augast
the unit carried out night escorts to convoys*3 and covered the areas that fighters could not reach. The British Special
Air Service raided Barce on 14 September and destroyed seven of 35 Stormo's aircraft*4. On the 20th it still had eight
aircraft at Mersa Matruh. Three were lost on the ground to bombing in October. Ten new aircraft were flown in that month
to add to the sixteen 35 Stormo survivors. 191 Sq returned from its forward base on 6 November and the Gruppo then
moved to Bir Dufan*5.
 In December the unit withdrew to Italy, taking only seven aircraft with it, but passing the rest to 95 Gruppo. Armament
on the Z.1007bis was improved, with the two beam guns becoming 12.7mm in place of the original 7.7mm calibre.
 On 1 June 1943 the unit transferred to the Raggruppamento Bombardamento*6.
                  『 Courage Alone 〜 』 Chris Dunning 著 より

 1942年5月22日に191スクアドリッリアはデルナへ分遣された。5月に86グルッポは、偵察任務と昼間爆撃任務を開始する
ためにバルカへ移動した。191スクアドリッリアは7月15日に、偵察任務を命じられマルサマトルーフへ分遣された。7月から8に
かけて191スクアドリッリアは輸送船団*3の夜間護衛任務を遂行した、また戦闘機の航続距離の範囲外の地域を援護した。
 英軍 SAS (L.R.D.G.長距離砂漠挺身部隊)は、9月14日にバルカを急襲し、35ストルモの7機の航空機を破壊した*4。
 9月20日にマルサマトルーフには、まだ8機の航空機があった。が、10月には3機が地上で、爆撃によって失われた。その
一方で、新しい航空機が10月に飛んできて35ストルモの16機の生存機に加わった。191スクアドリッリアは11月6日に前進基地
より戻ってきた、そして86グルッポは、『 Bir Dufan 』へ移動になった。
23名無し三等兵:2013/11/23(土) 10:44:50.74 ID:???
>22の続き〆

 12月に86グルッポはイタリア本国へ撤退した、たった7機の航空機を携えて、しかしながら同じ35ストルモ隷下の95グルッポは
北アフリカに残された。カントZ.1007bis の武装は、胴体左右の7.7_機銃を12.7_機銃に置き換えることにより強化された。
 1943年6月1日に86グルッポは爆撃機集団隷下に移動になった。

私的注釈
*1 デルナ:リビア>キレナイカ
*2 バルカ: 〃 ttp://goo.gl/maps/54Ll6
*3 北アフリカ沿岸の内航輸送船団とおもわれるが、トラック・コンボイなのかもしれない。
*4 参照:Long Range Desert Group>>History>Barce
  ttp://en.wikipedia.org/wiki/Long_Range_Desert_Group
*5 トリポリの東方(ずいぶん後退しましたね)ttp://goo.gl/maps/GBwCg
*6 Raggruppamento Bombardamento>>>ストルモ>>グルッポ>スクアドリッリア

 一部を見て全ては語れませんが、86グルッポに関しては Z.1007bis 機体の素材トラブルは酷くはなかったのでしょうか?
戦況なりに消耗して、撤退していったという感じでしょうか…。
 機体の素材トラブルが出ても部隊交代及び機種変更する余裕もないので性能低下したまま使い続けたのかも…
 木製機の場合は板金工の代わりに船大工ならぬ飛行機大工さんがいたんでしょうかねェ…。
24名無し三等兵:2013/11/23(土) 14:44:56.60 ID:???
枢軸国のエース

ドイツ     300〜   2人
         200〜  13人
         100〜   88人

フィンランド  50〜   3人
         30〜   7人

ルーマニア  50〜   2人

ハンガリー  30〜   1人
         20〜   3人

スロヴァキア 30〜   1人
         20〜   1人

ヘタリア(笑) 20〜   4人
25名無し三等兵:2013/11/25(月) 18:48:36.25 ID:???
『知られざるイタリア軍』のP180にある、

>突撃ボートは、甲板に電動ウインチや発進レールを装備したセラ級駆逐艦(960トン)に搭載され、
>外洋への攻撃に向けて運用も始まった。3隻の駆逐艦が改造され、各1隻の駆逐艦は6隻のM.T.M.型
>を各艇35秒で発進させる能力があった。

この3隻はこれ↓なのかな?

セラ級駆逐艦「フランチェスコ・クリスピ」Francesco Crispi (cacciatorpediniere)
セラ級駆逐艦「クインティノ・セラ」Quintino Sella (cacciatorpediniere)
快速通報艦(?)「ディアナ」Diana (avviso veloce)
ttp://www.marina.difesa.it/storiacultura/storia/almanacco/PublishingImages/D_immagini/diana2.jpg
26名無し三等兵:2013/11/25(月) 18:53:59.94 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
27名無し三等兵:2013/11/25(月) 20:18:24.28 ID:???
>>25
うおおお、これは燃える!
こう言うのがイタリアの魅力のひとつよ。

損傷した巡洋艦を航空巡に改装する案も日本の最上や利根と真逆でワロタ。
戦艦高速化のための水線長増加も日伊で真逆だったし、似た者だけど別のアブローチと言うのが面白い。
28名無し三等兵:2013/11/25(月) 22:47:55.86 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
29名無し三等兵:2013/11/26(火) 12:26:30.76 ID:???
貴重な駆逐艦を突撃ボート母艦にするより、水雷戦や掃海特化にした方が良い様なきがする
30名無し三等兵:2013/11/26(火) 17:23:05.07 ID:???
燃料が無いからムリだったんじゃねーの?
31名無し三等兵:2013/11/26(火) 18:07:08.01 ID:???
駆逐艦クリスピ、及びセラ、がどれだけ突撃ボート母艦として特化したのか、してないのか、はっきりとは
解らないけど、カステロリゾ島の再奪取の際(1941年2月23日、3月26日のクレタ島スダ湾攻撃の直前)には、
駆逐艦としての汎用性は、まだ失われていないようだ。

>イタリア海軍はレロス島からの増援(駆逐艦クインティノ・セラ、フランチェスコ・クリスピ、MAS2隻)
>と共に戻ってきて部隊の残りを上陸させると共に砲撃を再開した。
アブステンション作戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E4%BD%9C%E6%88%A6
32名無し三等兵:2013/11/26(火) 21:41:52.33 ID:???
ヘタリア人て何で生きてるの?
33名無し三等兵:2013/11/26(火) 23:49:33.20 ID:???
こんな高度で飛ぶなといいた
ttp://www.finn.it/regia/immagini/savoia/s79_278sq_132gr_as.jpg
34名無し三等兵:2013/11/27(水) 01:04:19.13 ID:???
>>33
ガキンチョっぽいのもいるのが欧州二等国クオリティーってかんじでいいな
35名無し三等兵:2013/11/27(水) 11:24:53.35 ID:???
挑戦人劇弱プゲラッチョ
36名無し三等兵:2013/11/29(金) 19:48:54.93 ID:???
ガルパンのOVAのアンツィオ校側はやっぱり吉川さん設定監修だそうだ

そこでRSIの襟無し野戦服にイタリア少女団の制服が出るとは!これが動くと思うとムネアツ
http://p.twipple.jp/R077A
37名無し三等兵:2013/11/29(金) 20:00:00.31 ID:???
襟無しM41型ウール野戦服チョイスが、モロによしぞう先生テイストだから、もしやとは思っていたが…
まだ友好的に協力してたんだなあ。
38名無し三等兵:2013/11/29(金) 21:41:57.95 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
39名無し三等兵:2013/11/29(金) 23:59:30.99 ID:???
12月17日に世界の戦艦コレクションでリットリオが発売。
貴重なイタリア戦艦の立体化だけど……。
なんか出来が微妙。
40名無し三等兵:2013/11/30(土) 07:02:35.62 ID:???
すでにヴェネト型はピットロードから出てるけどアレと比較しちゃダメか
41名無し三等兵:2013/11/30(土) 07:42:40.91 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
42名無し三等兵:2013/11/30(土) 09:24:21.55 ID:???
281 Squadriglia Sil*0
This unit formed from the second torpedotraining school, 2 NAS*1, with four aircraft under the command of Capitano
Buscaglia*2, formerly with 278 Sq. it went to the Aegean for attacks on the east Mediterranean convoys, joining 34 Gruppo
in April 1941. On the 21st the unit joined 279 Sq under 34 Gruppo. Between 5 March and 20 May it claimed five definite and
nineteen probable torpedo hits during the battle of Crete.
 By 1 July the unit was Autonomo again and moved to Africa. Five pilots of this squadriglia were to receive their country's
highest award, the Medaglia d'Oro*3, three of them posthumously.
 On the 4th four aircraft attacked ships in Famagusta Bay*4, Cyprus. During the attack engineer Sergente Maggiore*5
Nicola Gaesta was badly wounded by anti-aircraft fire from a destoroyer. After his crewmates applied dressings to his
wounds, he continued to control the engines on the long flight back, for which he was awarded the Medaglia d'Argento*6.
                 『 Courage Alone 〜 』 Chris Dunning 著 より

第281(独立)雷撃飛行隊
 281飛行隊(スクアドリッリア)は、二番目に作られた雷撃訓練の為の教育隊『第2 NAS*1 』を母体にして、以前は278
スクアドリッリアに所属していた(さらにそれ以前は255スクアドリッリアに所属していた)ブスカーリア大尉*2の指揮下で4機の
航空機(SM.79)をもって編成された。
 1941年の4月に、281スクアドリッリアは34航空群(グルッポ)の隷下になり、東地中海の輸送船団を攻撃する為に、エーゲ
諸島へ向かった。4月21日にはさらに279スクアドリッリアが34グルッポ隷下に加わった。
 (1941年)3月5日から5月20日の間、クレタ島の戦いに於いて、281スクアドリッリアは5件の雷撃命中確実と、19件の命中
見込みありと、戦果報告した。
 7月1日までに、部隊は再び独立の飛行隊となり(34グルッポを離れ)、アフリカへ移動した。281スクアドリッリアの5人の
パイロットが伊の最高の賞である『戦功章金章』*3を受章した、彼らのうち3人は死後に受賞した(つまり5人中3人は既に
戦死していた。)
43名無し三等兵:2013/11/30(土) 09:29:00.13 ID:???
>42の続き〆

 7月4日に4機のSM.79でキプロス島のファマグスタ湾にいる船舶を攻撃した。その戦闘中に機関士のニコラ軍曹が、
敵駆逐艦からの対空砲火によって重症を負ってしまった。同僚の搭乗員がニコラの傷に包帯を巻いたあと、帰路の
長いフライトじゅうもニコラはエンジンをコントロールし続けた。この件で彼は『戦功章銀章』*6を受章した。

私的注釈
*0 Sil=Silurante,もしくは silurare,の略。 魚雷の、魚雷艇、魚雷
*1 NAS が何の略なのか不明。
*2 カルロ・ブスカーリアについては「Viva! 知られざるイタリア軍」が詳しい。
*3  Medaglia d'oro al valor militare alla memoria 『戦功章金章』を指すと思われる。「Viva! 知られざるイタリア軍」p94を参照。
   または Ricompense al valor militare を参照
   ttp://it.wikipedia.org/wiki/Valor_militare
*4 ファマグスタ湾
   ttp://goo.gl/maps/zVdyS
*5 Sergente Maggiore =(空軍)軍曹、「イタリア軍入門」p293.
*6 *3に同じく、『戦功章銀章』を指すと思われる。

 さすがに歴戦の飛行隊だけあって文章のボリュームがあるので3〜4回に分けます。
 NAS はN=North A=Africa S=Silurante 北アフリカ雷撃隊、あたりかなあとも思うんですが……。
 キプロスにも作戦してたとは初めて知りました。
 あっ、あと「エアクラフト・プロファイルSM79」によるとSM79の5名の搭乗員の構成は、pilots, (操縦士:正、副)radio operator,
(通信士)flight engineer, {(航空)機関士} bomb-aimer, {爆撃手(兼偵察員)}です。
44名無し三等兵:2013/11/30(土) 09:37:45.65 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
45名無し三等兵:2013/11/30(土) 10:02:05.72 ID:???
>>39>>40
隔週刊 世界の軍艦コレクション スレを見てきたのですけど、
艦尾の IMAM Ro.43水上機の位置ですか…
写真や起こしたイラストと見比べると、艦央側の1機のお立ち台が……ちょっと気になりますね。

ttp://www.regiamarinaitaliana.it/Littorio%202.html
ttp://digilander.libero.it/en_mezzi_militari/html/corazzate/BB-Littorio1.png
ttp://www.gunkan-collection.jp/collection21-40
46名無し三等兵:2013/11/30(土) 19:11:19.33 ID:???
ヘタリア人て何で生きてるの?
47名無し三等兵:2013/11/30(土) 20:08:44.92 ID:???
acciuga
48名無し三等兵:2013/11/30(土) 20:13:43.29 ID:???
【海外】イタリアンマフィアのボス 生きたままブタのエサに
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1385787125/
49名無し三等兵:2013/12/01(日) 12:04:50.68 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
50名無し三等兵:2013/12/03(火) 19:13:42.95 ID:???
興味深い一節
ムッソリーニ ニコラス・ファレル著 下巻 p130 より

>イタリアの軍隊はレーダーも保有していなかった。《ファシストは自分たちがレーダーを発明したと主張した》
>が、その開発を進めなかった。理由はコストがかかりすぎたからだった。 D. Mack Smith, Le Guerre, cit.,p.234.

wiki>Gufo radar “ The project was stalled due to budget cuts until 1941, ”
wikiも同様のことを書いてあるが、《 》内が興味深い…
まあ、「わりと早い時期から開発には着手していた」という意味だと思うが…。
51名無し三等兵:2013/12/03(火) 20:24:32.14 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
52名無し三等兵:2013/12/07(土) 10:06:48.88 ID:???
>42の続き

 On 21 August*1, after operating against shipping west of Alexandria, the unit was temporarily reorganised, with new
crews boosting the strength, and resumed operations soon after.
 On 13 October, a very clear day, three aircraft attacked the battleships Queen Elizabeth and Barham, but the defences
were too strong, even though photographer 1a Aviere*2 Tommaso di Paolo managed to photograph the former from only
feet away as they completed their attack run. During this he took several good close photographs of the action.
 On 23 November two aircraft were searching around Marsa Matruh when they were intercepted by three
P-40s. The gunners claimed one 'probable'*3
             『 Courage Alone 〜 』 Chris Dunning 著 より

 1941年8月21日*1、アレクサンドリア西方の輸送船団に対する作戦の後で、281スクアドリッリアは、搭乗員の定員を増強
することにより、一時的に再編成された。そしてすぐに作戦を再開した。
 10月13日、それはとても良く晴れた日だった。部隊は3機の航空機(SM.79)で英国戦艦クイーン・エリザベスとバーラムを
攻撃した。しかし、敵の防御があまりに強力だった。それにもかかわらず、撮影者(爆撃手兼偵察員)のパウロ・トマゾ上等兵*2
は、敵戦艦の1フィート以内に近づいたと言わんばかりの、彼らの完璧な攻撃飛行行動の映像を、どうにかこうにか撮影した。
この間にトマゾは数点の戦闘中の近接写真を撮った。
 11月23日、2機のSM.79がマルサ・マトルーフ周辺で捜索中だった。2機のSM.79は3機の敵P-40の迎撃を受けた。機銃手は
1機の撃墜の見込みあり(不確実)と戦果報告した。
53名無し三等兵:2013/12/07(土) 10:10:07.39 ID:???
>52の続き〆

私的注釈
*1 281スクアドリッリアは既に1941年5月には北アフリカに移動している。Castelbenito(カステルベニート空港、現在のトリポリ
  国際空港)
  ttp://goo.gl/maps/KhBh6
*2 『イタリア軍入門』だと“1a Aviere”が無いのだが下記を参考にして上等兵と解釈してみた。
  ttp://www.europeanaf.org/ranks.htm
*3 参考:非操縦士による撃墜
  『ここで、たぶんイタリア唯一の非操縦士エースだった機銃射手、ピエトロ・ボナンニーニ上等航空兵(のちの
  特務曹長)についても述べておかなくてはならない。ボナンニーニは水上偵察機(カントZ.506およびフィアット
  RS.14)に乗り組んで、敵8機を確実に、2機を不確実に撃墜した。』「第二次大戦のイタリア空軍エース」p.45

 ボナンニーニは、恐らく輸送船団の護衛任務中のスコアだと思うのですが…本文中でも出てきて所属等が解るとよいのですが。
 日本風に“definite”は(撃墜等)「確実」、“probable”は「不確実」が馴染みがよさそうかな…。
54名無し三等兵:2013/12/07(土) 10:15:21.99 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
55名無し三等兵:2014/01/01(水) 21:22:17.62 ID:???
世界の軍艦コレクション、略して「艦コレ」のリットリオの号だけ購入した。
現時点で日本語で読めるリットリオの最も詳しい資料ってこれだけ、これだけなんだよね。
おまけの軍艦の模型も覚悟していたほど酷くなかった。
もちろん細かい事を言い出したらきりが無いのは承知の上だが。
でも二千円チョイでこれだけのものが手に入るのなら、イタリアファンは買うべき。
56名無し三等兵:2014/01/01(水) 21:25:00.60 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
57名無し三等兵:2014/01/02(木) 11:22:07.52 ID:???
>55
世界の艦船の記事・・・
・・・というかグレートライブラリ(同人)のヴェネト型の本ぐらい書かれてるのでしょうか
58名無し三等兵:2014/01/02(木) 22:33:19.59 ID:???
その同人誌は未見なので判断はできない。

世艦のイタリア戦艦史は昔読んだが、あれは確か全体を俯瞰した感じなんで、リットリオ級に特化はしてなかったよね?
59名無し三等兵:2014/01/03(金) 02:41:47.48 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
60名無し三等兵:2014/01/10(金) 13:21:18.17 ID:???
吉川先生の豆戦車写真集、とらで通販はじまったみたい
http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0030/17/96/040030179603.html
61名無し三等兵:2014/01/11(土) 19:44:04.45 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
62名無し三等兵:2014/01/11(土) 21:23:47.31 ID:???
いい加減しつこい
63名無し三等兵:2014/01/12(日) 02:07:37.94 ID:???
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51421784.html

イタリア軍が主役の漫画だって
64名無し三等兵:2014/01/12(日) 02:14:35.13 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
65名無し三等兵:2014/01/20(月) 14:31:40.61 ID:???
>>60
今日注文しようとしたら、イタリアの豆戦車は売り切れだったorz

そのかわりミリタリークラシックスの次号はイタリア戦車特集だとか
66名無し三等兵:2014/01/20(月) 17:22:46.19 ID:???
どうやらこの萌えブログで紹介されてとらは売り切れたらしい、イタリア豆
http://blog.livedoor.jp/moarea88/archives/52067943.html
67名無し三等兵:2014/01/21(火) 00:27:42.06 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
68名無し三等兵:2014/01/21(火) 15:53:05.91 ID:???
光人社 2/下旬 光人社NF文庫 WWUイタリア軍用機入門 飯山幸伸
光人社 2/下旬 光人社NF文庫 エル・アラメインの決戦 齋木伸生

この2冊は期待していいかもw
69名無し三等兵:2014/01/21(火) 22:36:11.47 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
70名無し三等兵:2014/01/22(水) 00:55:35.65 ID:???
>>68
下は「丸」連載時の記憶ではステロタイプな扱いだったような
71名無し三等兵:2014/01/22(水) 20:16:22.87 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
72名無し三等兵:2014/01/28(火) 19:38:30.39 ID:???
イタリア先生本人がOVA監修してセルフで軍装解説か
これでまた少しでもイタリアものが脚光浴びれば良いのだが

よしぞうmaro' @yosizo
【告知】GuP公式発表されたので一部解禁、
31日発売「AFVプラモカタログ」(イカロス出版)でイタリア戦車概論4P記事と共に
「アンツィオ高校に見るイタリア軍装」記事を上梓。2Pでも濃い内容で乞うご期待(^ ^;
http://pbs.twimg.com/media/Be_mUtcCcAAJoxK.jpg:large?.jpg
73名無し三等兵:2014/01/28(火) 23:42:04.40 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
74名無し三等兵:2014/01/29(水) 00:04:20.99 ID:???
現代のカラビニエリって何の銃使ってんの?
75名無し三等兵:2014/01/29(水) 05:40:05.58 ID:???
76名無し三等兵:2014/01/29(水) 18:26:36.93 ID:???
>>75
英語版のWikipediaはまだ見てなかったわ
ありがとう
77名無し三等兵:2014/01/29(水) 22:50:54.84 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
78名無し三等兵:2014/01/31(金) 00:57:06.03 ID:???
ttp://radiovr.com.cn/news/2014_01_24/260390742/
ttp://www.shanghaidaily.com/article/article_xinhua.aspx?id=195856
ロシア・タス通信によると、
イタリア陸軍航空隊の司令官Giangiacomo Calligarisが搭乗していたAB206が
墜落事故により死亡。
同乗していた25歳も死亡。
79名無し三等兵:2014/01/31(金) 22:28:53.30 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
80名無し三等兵:2014/02/04(火) 17:37:15.08 ID:???
【公式サイト更新B:ガールズ&パンツァー】そして翌日のワンダーフェスティバルにて
トークショーも開催!岡部いさく様・吉川和篤様・杉山潔・二神様の4名で、
前日の発表を受けて濃いトークを展開!ぜひ幕張メッセへ!
http://girls-und-panzer.at.webry.info/201402/article_2.html

先生、出番ですw
81名無し三等兵:2014/02/05(水) 15:48:56.90 ID:???
死ねよガル豚
82名無し三等兵:2014/02/05(水) 21:54:47.92 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
83名無し三等兵:2014/02/05(水) 22:53:30.07 ID:???
宇多田も喰っちまうイタリア人
84名無し三等兵:2014/02/10(月) 10:53:22.81 ID:???
アンツィオ高校のCV33豆戦車は全車ゾロターン20mm対戦車ライフルS-18/100
搭載型にすべきだよね?
85名無し三等兵:2014/02/10(月) 16:02:27.27 ID:???
ガル豚とage豚は一人残らず死ぬべし
86名無し三等兵:2014/02/10(月) 21:05:06.14 ID:???
>>33
ドゥチェの息子ブルーノなんか
4発のP-108で低空飛行やって
大地に激突してしまいました
87名無し三等兵:2014/02/11(火) 01:57:01.83 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
88(^。^)よろしく:2014/02/15(土) 13:45:17.41 ID:???
昨晩は「憲法9条は人類の宝、地球の宝」の講演会へ行って来ました。
すでにお送りしました反撃資料をA4四枚にコピーして会場で配布しました。
講師は車椅子に乗ったボケ老人でした。
このテーマのことはほとんど話さず、別の男女の講師が代わりに話しをしましたが、女の方が今上天皇のことを「ぼんくら」と言うので質問時間に抗議しました。
質問時間のほとんどを私の抗議に費やしました。
「宝という意味、天皇が9条を発案して作成させた」に対して論拠を示してくれ、という私の質問には「神が上から下りてきて語ったことで証拠はない」と老人はのたまわう。
女も男も数霊や言葉、文字の語呂合わせばかりの講演で、まるで魂があっちに行っている連中です。スピチリチュアルもここに極まれり、です。

(^_^;)イヤハヤ こんなオカルトはないだろう?
89名無し三等兵:2014/02/18(火) 20:37:37.82 ID:???
イタリア先生、今度はWoTのイベントでしかもアルタでしゃべるのか
http://worldoftanks.asia/ja/news/27/katatteiitomo/

イタリア戦車実装を推すんだろうなw
90名無し三等兵:2014/02/19(水) 00:40:41.82 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
91名無し三等兵:2014/02/22(土) 15:26:01.15 ID:???
92名無し三等兵:2014/02/23(日) 13:56:55.86 ID:???
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
93名無し三等兵:2014/03/13(木) 22:35:22.35 ID:???
光人社からイタリア軍用機入門という本が出ていたけど。
これって以前あったひよこ出版舎と内容は同一なの?
94名無し三等兵:2014/03/14(金) 22:10:57.49 ID:???
>93
あの本の文庫化です
たぶん来月出るフランス機本もそう
95名無し三等兵:2014/03/14(金) 23:46:03.87 ID:???
そいで、本自体は面白い?>イタリア軍用機入門
96名無し三等兵:2014/03/16(日) 23:56:00.95 ID:???
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
97名無し三等兵:2014/03/17(月) 22:50:26.35 ID:???
>95

一言でいって図鑑。
たくさんの飛行機をずらっと並べて、こんなのがあるんだ、と読むための本。
その分個々の掘り下げは浅い。
98名無し三等兵:2014/03/18(火) 03:59:10.75 ID:???
日本なみの機体ばっかりだからなあ…
生産数はダンチだけど。
まあ同じ二流国家として好感はもてる。
99名無し三等兵:2014/03/30(日) 18:55:43.04 ID:gCFrjhad
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
100軍事板強制ID制式採用選挙4/19-25:2014/03/31(月) 19:50:41.66 ID:6UlnFs+9
強制ID制仮導入ノ是非ヲ問フ投票ヲ4.19ヨリ決行セリ!総員参加セヨ!自ラノ意思ヲ示ス戦ヒニ!

【4/19〜4/25までの期間、強制ID表示の是非を問う再投票を行います】

議論中失礼いたします。
皆様お気付きのように3/19に、軍事板では任意ID制から強制ID制への変更が行われました。
今回の導入は飽くまで仮導入のため、実施一ヶ月後に是非を問う投票を行います。

投票当日に向けての議論は現行自治スレにて、自治スレ他で指摘された強制ID制導入
に伴うメリット・デメリットのまとめはまとめウィキにて行っています。

自治スレッド53(ID強制表示本採用投票4/19予定)
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1395286401/

軍事板強制ID制メリット・デメリットまとめWIKI
http://idtroops.wiki.fc2.com/

これらを参考に、強制IDに賛成の方も反対の方も共に、投票による意思表示をお願いします。
101名無し三等兵:2014/04/09(水) 10:51:46.39 ID:xY1+iWD1
西山洋書にイタリア海軍艦艇の大著が出ていた
英語版と原典版があったけど
大きくて重くて高いので買わなかったけど
持っている人はいるかな?
102名無し三等兵:2014/04/13(日) 22:49:40.78 ID:TO5dgfVK
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
103名無し三等兵:2014/04/19(土) 16:49:38.85 ID:ggfCKo3G
(^.^)コレカラ 池袋方面に行くケド西山に行けるかどうか
104名無し三等兵:2014/04/20(日) 20:19:38.43 ID:jLverhkd
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
105名無し三等兵:2014/04/21(月) 12:45:31.01 ID:ZLcBwrpV
>>101

結局海軍艦艇の本はなかったので
空軍関係のを3冊買いました

♪ サスガは本家だね
    ∧_∧ ♪
. ((o(・ω・` )(o))
   /  州 /
   し―-J

♪ 未公開資料が満載だ
   ∧_∧
 ((o(´・ω・)o))
    ヽ 州 ヽ ♪
    し―-J
106RSI[イタリア社会主義共和国]:2014/04/21(月) 19:16:36.21 ID:ZLcBwrpV
(^_^;)枢軸側のイタリア空軍がナンデ『イタリア王立空軍』に入るんだろう?

(・o・)空軍バッジは1943年9月から、北側は王冠が除かれ、南側はファッシが除かれました。
107名無し三等兵:2014/04/24(木) 13:26:24.45 ID:EGnbz1dB
南側は王立空軍のまま。共戦国空軍と呼んだのは米英だけ。
108名無し三等兵:2014/04/28(月) 00:51:54.92 ID:n0uOx9cm
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
109(・o・)映画情報:2014/05/02(金) 23:01:29.64 ID:DrJl6CRg
空軍大戦略 予告編 
http://www.youtube.com/watch?v=9a9qa2dOclI
トラ・トラ・トラ! 予告編
http://www.youtube.com/watch?v=YRfPcnlMYtU

遠すぎた橋 予告編
http://www.youtube.com/watch?v=ZDxz6JBfero

.  彡 ⌒ ミ   下の2作は枢軸軍が勝つ話なので安心して見られる
  ( ´・ω・`)
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_カタカタカタカタ
.   \/___/


(^。^)ファシスト・イタリア軍がカッコイイ「砂漠のライオン」って映画もある
110名無し三等兵:2014/05/03(土) 08:29:31.58 ID:btdplTeH
そういや今月のミリクラはイタリア戦車特集だな。
111名無し三等兵:2014/05/04(日) 10:12:32.14 ID:9PlMFAFH
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
112名無し三等兵:2014/05/05(月) 07:50:16.36 ID:mB3eyz5R
モトグッチのロゴマークはイタリア空軍のバッジから
王冠とファッシを取り除いたようなデザインをしている
113名無し三等兵:2014/05/08(木) 21:48:32.62 ID:W1B2G+KX
日伊防衛相、装備品協力の加速で一致
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0702Y_X00C14A5PP8000/
114(^_^;)ヤハリ:2014/05/12(月) 13:07:49.77 ID:X45RxptW
【話題】 北朝鮮もあきれた「韓国ハリボテ軍隊」大崩壊惨状

(^。^)韓国軍のお手本はイタリア軍なのか?

(・o・)世界最初の独立した空軍を持ちながら装備がボロ過ぎて独米に総替えさせられた

(^_^;)海軍は英海軍が来たら逃げるばかりで港内で壊滅

(^。^)陸軍に至っては圧倒的な兵力があった時でさえ積極的な攻勢に出ナカッタ上に戦えば降伏してバカリ
115名無し三等兵:2014/05/12(月) 19:10:48.23 ID:jwNrk9Wg
ナチスドイツ海軍の水上艦隊なんかみごとなハリボテ艦隊だったけどな。

駆逐艦も重巡洋艦も戦艦もみんなノルウェーのフィヨルドで壊滅。空母は未完成。

駆逐艦がみんなトップヘビーで役立たずなのも韓国海軍ぽいな。
空母も本気で使う気があったのか死ぬほど疑問だし。
ティルピッツなんかイタリア戦艦以下の活動しかしてない。
116名無し三等兵:2014/05/12(月) 19:39:45.94 ID:/o07FDIF
いやティルピッツは全戦艦の中でも最高に近い戦果を挙げただろ。
1隻でどんだけ長い間、どれだけ強力な艦隊を釘付けにしたのか。
117名無し三等兵:2014/05/12(月) 20:54:24.22 ID:a/QtJRKD
第二次大戦中に日本に駐在していたイタリア軍武官て誰ですか
日本に来たUボートの記事などでドイツ武官のヴェネカー中将の名前は
目にすることがあるんですが…
118名無し三等兵:2014/05/15(木) 00:25:28.67 ID:vPriSBa1
>>114
突っ込んだら負け?
決定的戦闘を避け続けたのは英海軍ですが。

タラント空襲(1940年11月11日〜12日)の直後ですら、
同年11月17日
マルタ向け航空機輸送迎撃にヴィットリオ・ヴェネト、ジュリオ・チェザーレ他出撃。
英H部隊(レナウン、アーク・ロイヤル、アーガス他)は交戦を避け早期に反転。

同年11月27日
スパルティヴェント岬沖海戦
ヴェネト、チェザーレ他が再度出撃。
レナウン、ラミリーズ他と交戦するも双方決定打無く引き分け。


陸軍もエジプトへ大攻勢してますよ。
こっちは直ぐに備蓄物資が尽きて進軍が止まり、その後大敗してますが。
119名無し三等兵:2014/05/20(火) 23:50:53.82 ID:pyafjr3G
まさかのマジラス

そんなメモ書き程度に戦いを挙げられてもねぇ・・
120名無し三等兵:2014/05/25(日) 00:45:08.49 ID:+tYFloB+
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
121ウルティマ・ジャポネーゼ:2014/05/31(土) 10:54:58.20 ID:pWkwO+16
ロマノ・ヴルピッタ「ムッソリーニ」 、1944年12月16日、ミラノのリリコ劇場におけるムッソリーニの演説
「 遠くて近い日本について話したい。旭日の帝国が負ける事なく戦い抜く事は、確信と言うよりも疑い得ない事実である。
(中略)日本の意思と魂を示すのは、死を覚悟した特攻隊の存在である。
数十名規模ではなく、何万人もの若者たちが、「一機以て敵艦一隻」を合い言葉にし、それを実行する。
(中略)共和国イタリア人たる我々にとって、世界の感心感嘆を得ている天皇の陸海空の兵士たちが、誠実で我々に理解を示す仲間として共にあることは誇りである」
それについて、ムッソリーニはエチオピア戦争の際、イギリスとの戦争に至った場合に備え、
イタリアでも英艦隊を標的とした決死の特攻隊が結成されたこと、
名簿の筆頭に志願したのが当時の空軍司令官バルボであることを初めて明かした。
「さて、もしいずれか、このような特攻隊を作る時が来たならば、
もし我々の血脈に古代ローマの戦士の血が未だ流れていることを証明すべき時が来たならば、
国民に対する自分の呼びかけは無駄になるのだろうか?」
と問いかけた時、「否!」と答える聴衆の叫びが会場に響きわたった。
ムッソリーニと群衆との対話が復活したのであった。

↑\[^ム^ ] ♪ヴィンチェーレ! : ワシの上記の演説は、CDにもなっておる。
写真も《Brigata Nero》紙のものや、ネオファシスト同志の絵葉書にあるゾ!多分これの映像もあるはずだ。
なお、ワシが国民大衆の前でやった最後の演説は1945年3月か4月にやったもので、これの映像もある。
122名無し三等兵:2014/05/31(土) 14:51:02.84 ID:t+6drYhb
>>119
>>タラント空襲(1940年11月11日〜12日)の直後ですら
て書いてるのが読めないのかこいつ
123名無し三等兵:2014/06/03(火) 11:02:57.70 ID:zq6PiwaA
[大日本帝国海軍の不幸]
第一次大戦以後、ろくな海軍力も持たなかったソ連、中国、独、伊、仏相手では
戦ってもポイントが稼げなかったので強大な海軍力を持つ英、米を敵として
大日本帝国海軍としては先輩の『胸を借りる』積もりだったのでしょう。
しかし、英米の両者が結束したら日独伊がまともにぶつかっても勝てる見込みは薄く
事実二年先行していた欧州大戦では独海軍は多少なりとも健闘したものの
伊海軍はからきし駄目で、ソマリア、リビア、ギリシャで負け続けました。
残念ながら、日本海軍もミッドウェー海戦までは余裕がありすぎてまともに戦っている感じがせず、
ミッドウェーに向かう連合艦隊などは乗組員に海上勤務手当を出すための一大観艦式のような陣形でありました。

(^_^;)日本が参戦する前から負け続けてるイタリアって…
124名無し三等兵:2014/06/03(火) 18:46:51.38 ID:t4F19SfK
独海軍は真珠湾攻撃前にすでにノルウェイで駆逐艦全滅しているし、
重巡洋艦も、軽巡洋艦も、戦艦も撃沈されまくってるだろ。
125ムッソリ-ニ『全体への闘争』より:2014/06/03(火) 19:23:07.70 ID:zq6PiwaA
余は敢えてイタリア国家ならびに国民の下僕であることを宣言する。
余はすべてのイタリア人が余の真意を了解し余を愛さんことを望むのである。
何等の弱みなしに、脱線なしに、毫も私情を挟まず、
公明正大の心をもって、満腔の信念を持つものこそは、
必ず期せずして国民的敬愛の的となるべきに相違ないことを余は堅く信ずるものである。
それだから、余が既に成し遂げたところを顧みて、
ファシズムは、イタリア人の創造であり、
既に歴史的必然性にも自ら適い、また今後とても適わんとするものであり、
その思想は必ずや二十世紀の歴史の上に不磨の印象を与うべき運命を担っているものなることをも、
明らかに知るわけでもある。
126名無し三等兵:2014/06/03(火) 22:31:44.37 ID:VQFM/DjI
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
127名無し三等兵:2014/06/14(土) 19:34:34.22 ID:cUJdzYIX
ちなみに、日本海軍は日独伊三国同盟には反対していたものの、
秘密裡に「日本、イタリアがイギリスと直接対立するようになった場合、
それがいかなる場合でも反イギリス行動を保障する」という内容の日伊反英協定
の締結を打診してたりする
128名無し三等兵:2014/06/19(木) 23:48:26.34 ID:y56olUfm
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
129名無し三等兵:2014/07/08(火) 16:49:11.55 ID:j0qXFL+t
走り回るCV33、カワ(・∀・)イイ!!
http://www.youtube.com/watch?v=dorXNMdvap0
130名無し三等兵:2014/07/08(火) 19:35:24.01 ID:GMLAI1DR
日本海軍もハリボテだよなぁ。ダメコンがまるでなってない
米海軍の注水区画は60%,日本じゃ大和ですら23%弱
131名無し三等兵:2014/07/11(金) 20:05:20.12 ID:ZQurCPST
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
132名無し三等兵:2014/07/11(金) 21:33:20.66 ID:B0Wvm93i
とりあえず吉川先生のイタリア軍本2冊買っとけばいいの?
他にいいのあったら教えてちょ
133名無し三等兵:2014/07/11(金) 22:11:55.13 ID:dNmuwKcz
>132
光人社のイタリア軍用機入門を読んで、そのあとに大日本絵画のエアロ・ディテール15 マッキC200/202/205を購入すると良し。
134名無し三等兵:2014/07/13(日) 11:05:28.19 ID:7phM0nEz
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
135名無し三等兵:2014/08/24(日) 21:07:21.21 ID:GNJR2pdN
このスレ初めて来たけど異様に荒れてないか…?
前スレなんか何故かイタリアスレなのに日本語りと日本叩きの応酬だし

せっかく戦艦ローマのカラーリングとデザインについて語ってみたかったのに
136名無し三等兵:2014/08/25(月) 22:35:27.77 ID:5zkrNq/o
イタ艦の迷彩ってなんかスタイリッシュだよね。
あと甲板の紅白のしましまがおめでたい。
137名無し三等兵:2014/08/30(土) 18:26:25.60 ID:gsnCk93v
艦隊の目であるカントZ501飛行艇も、戦時下なのに主翼上部には紅白模様が描かれていたんだよな。最大速力275kmで敵戦闘機には一たまりもなかった。
138名無し三等兵:2014/08/30(土) 19:01:43.78 ID:2asxA6u8
へー、飛行艇って強行偵察が主任務なのかあ…
139名無し三等兵:2014/08/31(日) 12:31:28.18 ID:Tfr/1Y3J
海上を漂流している英・米国水兵に対し、敵味方の分け隔てなく、慈悲の心をもって、
救命筏を投下するという善行を施すことがZ.501(Z.506かも)の任務です。
『マルタ島攻防戦』より

神は常にあなたの傍におられます、オー・マンマ・ユート!
140名無し三等兵:2014/09/02(火) 20:43:31.22 ID:mK7yra1m
航空爆雷でもあれば対潜任務でより良い成果があがったかもね
141名無し三等兵:2014/09/05(金) 18:54:50.81 ID:+HFrfqnK
どうやら航空爆雷は無かったみたいな…
検索にヒットしたのは艦艇用の爆雷だけだった

ttp://www.navweaps.com/Weapons/WAMIT_Main.htm

ttp://wesworld.jk-clan.de/index.php?page=Thread&threadID=3552
1421/3:2014/09/08(月) 19:08:15.32 ID:hY0k4+ID
「1940-1943年 ROYAL NAVY LOSSES BY Regia Marina and Regia Aeronautica」
                                    2014.9.8
< >内は被害を与えたイタリア艦種

巡6(潜3、魚1、MTM-boat1、機1) 
HMS Calypso (C-class cruiser)〈潜〉,HMS Bonaventure ( Dido-class)〈潜〉, HMS Neptune (Leander-class)<機>,
HMS York( York -class)<MTM-自沈>, HMS Cairo ( C-class)〈潜〉, HMS Manchester ( Town-class)〈魚−自沈〉

駆13(駆1、水雷1、潜3、機1、空7)
HMS Khartoum (F45)( K-class Destroyer)〈潜−事故〉, HMS Escort ( E-class destroyer)〈潜〉,
HMS Hostile (H 55)( H-class destroyer)〈機〉, HMS Hyperion ( The H-class)〈潜−自沈〉, HMS Mohawk ( Tribal-class)〈駆〉,
HMS Juno (J-class)<空>, HMS Fearless (The F-class)<空-自沈>, HMS Bedouin (Tribal-class)〈空〉,
HMS Foresight (F-class)〈空−自沈〉, HMS Zulu ( Tribal-class)〈空〉, HMS Quentin ( Q-class)<空>,
HMS Derwent ( Hunt class Type III)<空−未修理>, HMS Pakenham ( P-class)〈水雷〉
1432/3:2014/09/08(月) 19:10:39.90 ID:hY0k4+ID
潜34(駆3、水雷15、コ2、商船1、潜1、機11、空1)
HMS Odin ( Odin-class submarine)〈駆〉, HMS Grampus ( The Grampus-class)〈水雷〉, HMS Orpheus ( The Odin-class),〈駆〉
HMS Phoenix ( Parthian-class)〈水雷〉, HMS Oswald ( Odin-class)〈駆〉, HMS Rainbow ( Rainbow-class)〈伊商船〉,
HMS Triad ( T-class)〈潜〉, HMS Regulus ( Rainbow-class)〈機〉, HMS Triton ( The T-class)〈機〉,
HMS Undaunted ( U class submarine)〈水雷/機〉, HMS Union ( The U-class)<水雷>, HMS Cachalot ( Grampus-class)<水雷>,
HMS P33 ( U-class)<水雷>, HMS P32 ( U-class)<機?>, HMS Tetrarch (N77)( T-class)<機>, HMS Perseus ( Parthian-class)<機>,
HMS Triumph N-18 ( T-class)<機>, HMS Tempest ( The T-class)<水雷>, HMS P38 ( U-class)<水雷>,
HMS Pandora ( Parthian-class)<空−未修理>, HMS Upholder ( U-class)〈水雷〉, HMS Urge ( U-class)〈水雷〉,
HMS Olympus ( Odin-class)〈機〉, HMS Thorn (T-class)〈水雷〉, HMS Talisman (N78) (T-class)〈機〉,
HMS Utmost ( U-class)〈水雷〉, HMS P222 ( S-class)<水雷>, HMS P48 ( U-class)<水雷>, HMS Turbulent ( T-class)<機>,
HMS Thunderbolt ( T-class)<コ>, HMS Regent ( Rainbow-class)〈機/コ〉, HMS Sahib ( S-class)<水雷>,
HMS Parthian N-75 ( Parthian -class)<機>, HMS Saracen ( The S-class)<コ>,

*水雷=水雷艇、コ=コルベット、ス=スループ、魚=魚雷艇、機=機雷、空=空軍、武ト=武装トロール、

砲2
HMS Terror ( Erebus-class monitor)〈空〉, HMS Cricket (T 75) ( Gunboat)<空>
1443/3:2014/09/08(月) 19:12:09.19 ID:hY0k4+ID
補1
HMS Tynwald ( auxiliary anti-aircraft ship)〈潜〉,

コ3
HMS Marigold ( Flower-class)<空>,HMS Samphire ( Flower-class)<潜>,HMCS Louisburg ( Flower-class)<空>,

ス1
HMS Ibis ( Black Swan-class)〈空〉,

武ト2
HMT Kingston Sapphire ( naval trawler )〈潜〉,HMT Tervani<潜>

魚6
MTB 308, MTB 310 and MTB 312〈空〉,MTB 639<水雷>,HMS MTB 316<巡>,HMS MTB 665<野砲>,

掃1
HMS Algerine ( Algerine-class)〈潜〉,

輸1
HMS Lady Somers (Ocean boarding vessels)<潜>,

NAVAL-HISTORY.NET ttp://www.naval-history.net/WW2CampaignRoyalNavy.htm
World Ship Losses 1914-45 ttp://www.world-war.co.uk/warloss.php3?ship=
recksite.eu ttp://www.wrecksite.eu/Wrecksite.aspx
「海戦: 連合軍対ヒトラー」 D・マッキンタイア、「 潜水艦戦争―1939ー1945」レオンス・ペイヤール、
知られざるイタリア軍 - 吉川和篤、「Courage Alone」Chris Dunning、
145名無し三等兵:2014/09/09(火) 00:55:52.76 ID:ml+JtsHA
>>142-144
乙です。
146名無し三等兵:2014/09/09(火) 20:15:17.45 ID:ZVWruBd7
>>143の英潜水艦に追加

HMS Traveller (N48)( T-class )<機>

HMS Usk ( U-class )〈不明〉

HMS P39 (U-class)〈不明〉

これで英潜水艦損失35件+不明2件で、「NAVAL-HISTORY.NET」の英潜水艦損失37件に合致かな?
駆逐艦損失の2件不足は…継続…。
147名無し三等兵:2014/09/10(水) 21:16:59.50 ID:fzpKRU/5
ttp://xoomer.virgilio.it/ramius/Militaria/cannoniere-posamine-dragamine.html
CANNONIERE, POSAMINE , DRAGAMINE ( Regia Marina )
WWU開戦時の砲艦、機雷敷設艦、掃海艇の一覧

砲艦20隻中の内小型砲艦8隻が日本製 “ ex peschereccio giapponese ”
トロール船の転用は珍しくないが、第一次大戦時にまとまった数の日本製中古船舶が輸出されていたとは…。
輸出の詳しい経緯が分かればおもしろそうなんだけど。

ttp://www.naviearmatori.net/ita/foto-21515-4.html
砲艦「リミニ」( cannoniera "Rimini")
ttp://www.agenziabozzo.it/navi_da_guerra/C-Navi%20da%20Guerra/C-2985_RN_Mario_Bianco_1911_cannoniera_ormeggiata_a_Taranto_1923.htm
砲艦「マリオ・ビアンコ」( cannoniera"Mario Bianco")
148名無し三等兵:2014/09/11(木) 19:50:23.66 ID:42++nj70
鈴木商店とか関係していたと『したら』ロマンがありそう
149名無し三等兵:2014/09/13(土) 08:03:40.72 ID:dhFI4PSH
砲艦「リミニ」を、 Rimini (ex "G 16")で検索したら第一次世界大戦の掃海艇時代の記事がヒットしました、
旧船名の "G 16" が肝のようです…
Conway's All the World's Fighting Ships, 1906-1921
ttp://books.google.co.jp/books?id=V2r_TBjR2TYC&pg=PA286&lpg=PA286&dq=Rimini+(ex+%22G+16%22)&source=bl&ots=wUt1BCeDLG&sig=MzxOL9x7dnC4f_oXd3alOZr4A9M&hl=ja&sa=X&ei=4z8SVOy3L4vk8AXwpoKgCg&ved
=0CEUQ6AEwBjgK#v=onepage&q=Rimini%20(ex%20%22G%2016%22)&f=false

>ITALY
>VEDETTE BOATS

>A total of 47 Japanese fishing boats ( built 1909-13 ) was bought by the Italian Navy in 1916. …{中略(船の諸元)}…
>All commissioned in the Italian Navy in 1917 with one or two 3in guns. In the Italian Navy they were numbered
>G1-G47 ( G = Giappone ).

1916年に計47隻(1隻300tとして1万4千t余り!)の日本製漁船がイタリア海軍によって買付られ、1〜3門の砲を据え付けて1917年には
(小型哨戒艇として)就役していたとのこと。

" G "は日本( Giappone )の頭文字の意味だったんですね、なんかちょっぴり嬉しいですね。
まあ1922−3年には(小型)砲艦への格上げで改名されてますが…

ちなみにこの本『 Conway's〜 』では、この"G"系列艦艇を"vedette boat" 小型哨戒艇と分類してますが、
海軍公式hp. Marina Militale では" Vedette Dragamine " 小型哨戒掃海艇と分類していますね。
150名無し三等兵:2014/09/16(火) 21:23:04.78 ID:+s6MIXdo
>>142の駆逐艦から
HMS Derwent を削除した上で次の1件を追加
HMS Jersey F72(J-class)<機>

扱いに悩む2件
HMS Gallant H59 ( G-class )<機−(修理中)独伊空−閉塞船>0.5隻?
HMS Lance G87 (L-class)<独伊空共同?−未修理>0.5隻?

なんだかなあ HMS Derwent が被雷した Motobomba FFF は独にも供給されてたのか、
イタリアだけのビックリどっきりメカだと思ってたのに。
151名無し三等兵:2014/09/19(金) 19:55:08.31 ID:u6Q07c3W
>>140-141
手元の本には
“ For anti-submarine work the RA mostly used 160kg depth-bombs and 70kg depth-charges. ”

とだけ書いてあるが 通常の160kg航空爆弾と混同されている可能性も微妙に・・・
152名無し三等兵:2014/09/20(土) 12:32:12.09 ID:3Mt6iDKQ
> 160kg depth-bombs でぐぐってみると
" On Seas Contested: The Seven Great Navies of teh Second World War "
ttp://books.google.co.jp/books?id=LuiMAgAAQBAJ&pg=PA145&lpg=PA145&dq=160kg+depth-bombs&source=bl&ots=Pvs7YGj_32&sig
=slAkfJvOBDSLxneMSoZb7PEUsvQ&hl=ja&sa=X&ei=_uscVKK-LpTj8AWe_oKoBQ&ved=0CCkQ6AEwAQ#v=onepage&q=160kg%20depth-bombs&f=false

Italy
3.Antisubmarine Warfare
Italian air force flying boats and floatplanes used a 160-kg depth charge bomb. This weapon damaged, according to
Royal Navy sources, five boats and on numerous occasions helped Italian vessels to avoid subsurface threats sighted
in the Mediterranean's clear waters.

イタリア空軍の飛行艇と水上機は160s(航空)爆雷を使用していた。英海軍の出所に依ると、(伊空軍の使用した)160s爆雷は5隻の
英潜水艦に損害を与えた、そして海水の澄んだ地中海で、おびただしい機会においてイタリアの船を救ったのだった。海面下の脅威
(英潜水艦)の照準をイタリアの船から遠ざけることによって。

注:あくまで damaged 損害であって sunk 撃沈・沈没ではない。

>151の depth-bombs は【伊】bomba di profondita (深さの爆弾=爆雷)を直英訳したものでしょう
爆雷【伊】bomba di profondita, もしくは bomba torpedine a getto (略してBTGとも)

70kg depth-charges は戦間期(SM.78飛行艇)の主力っだったみたいな?
あと航空爆雷の制式が判ると良いのだけど。
1531/5:2014/09/21(日) 20:37:57.47 ID:tXfPmk/f
一節読んでみた
" On Seas Contested: The Seven Great Navies of teh Second World War "
  Vincent P. O'Hara, W. David Dickson, Richard Worth 著

Italy
3.Antisubmarine Warfare
In considering the lessons of the First World War, navy staff concluded that submarines would be a minor threat in any
future war. Consequently the Regia Marina was underprepared for modern antisubumarine warfare in terms of ships,
equipment, and doctrine.
The principal antisubmarine weapon was the depth charge, although towed torpedoes remained in use. In the 1930's a
pneumatic depth charge thrower with a 100-m range appeared on destroyers and torpedo boats, but in action it proved too
hard to reload and was replaced in late 1942 by a weapon with a shorter range and a faster relorad cycle. Other
refinements included a multiple-launch rack system, called the scaricabombe Gatteschi*1, which appeared in late 1942 on the
Gabbiano-class corvettes and permitted a saturation attack of up to forty-eight depth charges in a single pass. The later
Gabbianos were scheduled to carry an automatic 12-inch antisubmarine mortar called the Menon, but none was actually fitted.
1542/5:2014/09/21(日) 20:39:07.96 ID:tXfPmk/f
3.(イタリア海軍の)対潜水艦戦
 第一次世界大戦の教訓を酌量し、イタリア海軍参謀はどんな未来の戦争においても、潜水艦はとるに足らない脅威になるで
あろうと断定した。必然的に伊海軍は、船、装備、理論のいずれの点においても近代的な対潜水艦戦闘の準備を怠った。
 主要な対潜兵器は爆雷であった、だが依然としてロープ曳航の魚雷も使用していた。1930年代に圧縮空気を使い100mの射程をもつ
爆雷投射機が登場して駆逐艦と魚雷艇に装備された。しかし戦闘中の再装填が難しいことが判明すると、1942年の終わりには短射程で
再装填の素早い投射機に置き換えられた。「 Gatteschi 」*1爆雷発射機と呼ばれた多重発射ラックシステムを含む他の改良は、
1942年の終わりにガッビアーノ級のコルベットに登場した。そしてそれは一度の試みで48個の爆雷の集中攻撃が可能だった。
その後ガッビアーノは「 Menon 」と呼ばれる12インチ自動対潜迫撃砲を搭載する予定であった、が、実際にはならなかった。

*1 ガッビアーノ級のコルベットとその船尾の「 Gatteschi 」爆雷発射機
ttp://2.bp.blogspot.com/-eImUtZWamkM/Tduu-QobWzI/AAAAAAAAEjg/Q-FyjNoYvvE/s1600/Gabbiano%2B10.jpg
【伊】scarica-bombe=ディスチャージャー‐爆弾…爆雷発射機
1553/5:2014/09/21(日) 20:44:27.89 ID:tXfPmk/f
 By 1939 Italy had developed, after an effort of almost fifteen years, an effective sonar (ecogoniometro)*2, but the small
capacity of Italy's electoronics industry and its priority on consumer products led to the postponement of its production.
Thus, in the war's early period, hydrophones, including the almost useless First World War "C" type, provided the majar
tool for detecting submarines under water. Auxiliary escort vessels and MAS boats had to rely on the drift-and-listen
technique. This required highly trained operators with sensitive ears. Specialized antisubmarine craft consisted of only
the Albatros*3, equipped with one of the navy's two echo-detection sets available in June 1940, and the four Pegaso-class*4
escort torpedo boats. The navy acuired German sonars in late 1941, and Italian-made sets arrived the next year. However,
even as late as September 1943, the Regia Marina possessed only thirty-six Italian and thirty-one German sets. For
comparison, Great Britain entered the war with roughly two thousand Asdic.

 1939年までに伊海軍は効果的な水中音波探知機(ecognoiometro)*2を、15年にわたる努力の末に完成させた。しかし、イタリアの
限られた電子工学産業の生産力と民生品の生産優先が水中音波探知機の量産を延期させた。こうして大戦初期には水中聴音機が水面下
の潜水艦を探知するおもだった道具だった、中には第一次大戦時のほとんど役に立たない「C」タイプ水中聴音機もあった。補助的護衛艦船
とMAS艇は潮流の読みと聴音の技に頼らなければならなかった。この技は高度な訓練と繊細な耳を必要とした。
 1940年6月(の開戦時)に対潜任務に特化した艦船は、伊海軍が利用可能な2つの水中音波探知機の内の1つを装備していた
『水雷艇アルバトロス*3』、それと4隻の『オルサ級水雷艇*4』だけであった。伊海軍は1941年末にはドイツ製ソナーを得た、イタリア製ソナー
が行き渡るのは翌年だった。
 しかし1943年9月になっても伊海軍は36セットのイタリア製ソナーと31セットの独製ソナーを所有するにすぎなかった。比較するに英国は
ざっと2千のアズディックをもって大戦に突入した。
1564/5:2014/09/21(日) 20:46:29.09 ID:tXfPmk/f
*2 【伊】eco-gnoio-metro エコー‐?−メーター=音波‐?−計器、造語か?、英のアズティックあたりと同義みたいな
*3 Albatros アルバトロス、1934〜(Cacciasommergibili)駆潜艇、1939〜(torpediniera)水雷艇
  他に駆潜艇扱いは唯一隻、元ユーゴ籍の「 Zuri 」1941〜のみ
*4 オルサ級水雷艇(ペガサス、オリオン、プロキオンとオルサ)はペガソ級水雷艇ともいう、第一次大戦時のペガソ級と区別するために
  オルサ級のほうが通りが良い

Italian air force flying boats and floatplanes used a 160-kg depth charge bomb. This weapon damaged, according to
Royal Navy sources, five boats and on numerous occasions helped Italian vessels to avoid subsurface threats sighted
in the Mediterranean's clear waters. Some sources credit Regia Aeronautica fighters with sinking HMS Urge on 29 April 1942
off the Libyan coast, although the official statement of losses speculates that she was mined.*5

イタリア空軍の飛行艇と水上機は160s(航空)爆雷を使用していた。英海軍の出所によると、(伊空軍の使用した)160s爆雷は5隻の
英潜水艦に損害を与えた、そして海水の澄んだ地中海で、おびただしい機会においてイタリアの船を救ったのだった。海面下の脅威
(英潜水艦)の照準をイタリアの船から遠ざけることによって。
 ある資料は英潜水艦『 HMS Urge 』は1942年4月29日にリビア海岸沖合にて伊空軍戦闘機によって撃沈と認めている。公式な声明は
熟考の上、機雷に因って沈没としてあるが。

*5 諸説
ttp://uboat.net/allies/warships/ship/3538.html
ttp://www.naval-history.net/xGM-Chrono-12SS-09U-HMS_Urge.htm
1575/5:2014/09/21(日) 20:49:14.10 ID:tXfPmk/f
Despite their lack of preparation and material deficiencies, Italian anti-submarine forces fought effectively against
Great Britain's submarine offensive, accounting for thirty-three of the thirty-eight British submarines lost in the
Mediterranean through September 1943 (excluding three boats sunk in Malta's Grand Harbor by Axis bombers). Italian depth
charges sank at least twelve British submarines and probably another three; three British boats were rammed, and one was
sunk in a surface action with an Italian submarine. Mines accounted for least eleven.

 準備不足と物資の欠乏にもかかわらず、イタリア対潜部隊は英潜水艦の攻撃に対して効果的に戦った。
 1943年9月までに地中海において失われた38隻の英潜水艦のうち33隻はイタリア対潜部隊によるものだった(独伊爆撃機によって
マルタ島グランド・ハーバーで沈められた3隻を除く)。
 イタリアの爆雷は少なくとも12隻、おそらくは15隻の英潜水艦を沈めた。また英潜水艦の3隻は体当たりによって、1隻は浮上作戦中に
イタリア潜水艦によって沈められた。機雷による沈没は少なくとも11隻だった。
158名無し三等兵:2014/09/21(日) 22:00:01.60 ID:cp7wBFxx
気付いてみれば良スレに
>>157
おつです
1591/2:2014/09/23(火) 14:59:41.87 ID:bMWSHy0W
" On Seas Contested: The Seven Great Navies of teh Second World War "
  Vincent P. O'Hara, W. David Dickson, Richard Worth 著

ITALY
C. WEAPON SYSTEMS
1. Gunnery
2. Torpedoes           ←今日はここ
3. Antisubmarine Warfare    >153-157
4. Mines

C. WEAPON SYSTEMS
2. Torpedoes
 Italian torpedoes were generally reliable and working detonators and low wander and malfunctioning values ( 5 percent and
1 percent, respectively, according to tests conducted in the summer of 1937 ). Germany imported nearly a thousand Italian
aerial torpedoes*1, and the Japanese copied features of an Italian high-speed version*2.
 The fire-control systems introduced on the destroyers and the modern torpedo boats in 1937 determined solutions using
directors in the bridge wings with a calculating apparatus, a rate-of-change-of-bearing<原文ママ> instrument
( teleniclinometro cinematico ) in the crow's nest, and binocular sights and tables fitted in each bank of tubes.*3
War experience would show, however, that the night fire-direction systems, which worked based on estimated range and target
speeds, were ineffective, and many captains preferred to aim by eye.
 At the beginning of the war, Italy had an inventory of 3,660 torpedoes, including 1,689 modern 21-inch weapons, 648
modern, and 1,323 old 17.7-inch torpedoes ( see table 4・2 ). Production was 50 per month but increased to 120 per month
by late 1941. Italian torpedoes sank or damaged 216 ships.
1602/2:2014/09/23(火) 15:01:17.81 ID:bMWSHy0W
ハ.武器体系
2.魚雷
 イタリアの魚雷は一般的に信頼性が高く、起爆薬(雷管)は実用的であり、直進安定性が良く、故障する確率も低かった(1937年の夏に
行われた試験での故障率はそれぞれ5%と1%であった)。独は1,000本近くのイタリア製航空魚雷を輸入し*1、日本はイタリア製魚雷の高速
バージョンの特徴 *2 を見習った。
 1937年に駆逐艦と最新の魚雷艇とに導入された火器管制装置が、射撃諸元を決定していた。艦橋では計算装置と方位盤を使い、
檣頭【しょうとう】(見張り台)では変距率盤 「 teleniclinometro cinematico 」を使い、そして両眼用の照準と射撃盤がそれぞれの
魚雷発射管の傾斜を適合させていた。
 しかしながら、戦史は我々に次のこと示すのだった、標的までの距離とその速度の推定値に基づき作動する夜間射撃指揮装置が
役に立たず、多くの艦長は肉眼で狙うことの方を好んでいたということを。
 開戦当初イタリアは3,660本の魚雷を保有していた、その内1,689本は最新の533_(21インチ)魚雷であり、648本は最新の450_
(17.7インチ)魚雷、1,323本は旧式の450_(17.7インチ)魚雷であった。(表4.2 「魚雷消費量」を参照)
 月産50本だった魚雷生産量は1941年の末には月産120本にまで増加した。イタリアの魚雷は216隻の艦船を沈没もしくは破損させた。

*1 [独] Lt.F5w = [伊製] F 200/450 x 5.46 、[独] LT350 = [伊製] W 120/500 x 2.6 (Motobomba FFF)
*2 [伊魚雷] W 270/533.4 x 7.2 Veloce のスリムな弾頭の外観のことらしい
*3 この一文の意味がなかなか通りません…
  solutions ≒ (firing) solutions 射撃諸元?
  directors 方位盤かな?
  rate-of-change-of-bearing instrument 変距率盤なの? rate of change of "range" instrument のような気も
  tables ≒ (fire control) tables 射撃盤みたいな?

TABLE 4・2 Torpedo Expenditures

Year Fired by navy  Fired by airforce  Total fired

1940  546         35          581
1941 1,185        180         1,365
1942 1,600        368         1,968
1943  346        n/a         >346
161名無し三等兵:2014/09/24(水) 17:32:41.06 ID:qdmEkmyF
162名無し三等兵:2014/09/25(木) 20:44:44.01 ID:5maQ299P
いつものです

4. Mines
 Mine barriers were fundamental to Italy's strategy of closing the Sicilian Channel to British traffic between Gibraltar
and Suez. In June 1940 the navy had an inventory of 25,000 mines, all moored contact types, and it laid 54,457 during the
war. The best, the Pignone P.200, had 200kg of explosives, a mooring cable as long as 820m ( by 1943 ), and could be
deployed in waters as deep as 100m. Most Italian production was based on World War T technology, however, and Italy, even
if it adopted an efficient German acoustic device in 1941, lacked a magnetic mine, Throughout the course of the war.
Italian mines sank one cruiser, three destroyers, at least eleven submarines, and twenty-six other vessels. Italy's
greatest mine warfare success occurred in December 1941 when a field*1 off Tripoli eviscerated Force K, sinking a cruiser
and a destroyer and damaging another two cruisers.

4.機雷
 ジブラルタルとスエズ間の英国(海上)交通を、シチリア海峡において機雷の障壁で遮断することは、イタリアの戦略の基本だった。
1940年6月(の開戦時)に伊海軍は25,000個の機雷の在庫を持っていた。全ての機雷は係維機雷であり、かつ触発機雷であった。
そして大戦中に伊海軍は54,457個の機雷を敷設した。
 最良の機雷はピニョーネ製の P.200 であり200kgの炸薬量があった。その係留索は820mにもおよび(1943年型)、100mの深度にも
配置可能だった。
 1941年に独製の高性能な音響作動装置を導入していたとはいえ、大部分のイタリア製機雷は第一次世界大戦時代の技術に
基づいていた。大戦を通じて磁気機雷も無かった。
 イタリアの機雷は(英国の)1隻の巡洋艦、3隻の駆逐艦、少なくとも11隻の潜水艦と26隻の他の艦船を沈めた。イタリア最大の機雷に
よる戦果は1941年12月に発生した、(その時)イタリアの仕掛けたトリポリ沖の機雷原が英国の巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が沈没させ、
他に2隻の巡洋艦を損傷させたことにより、英海軍 K部隊を骨抜きにしたのである。

*1 a field ≒ a minefield 機雷原
1631/6:2014/10/02(木) 18:53:13.56 ID:JaAGBEuI
C. WEAPON SYSTEMS
1. Gunnery             ←今回
2. Torpedoes           >159-160
3. Antisubmarine Warfare    >153-157
4. Mines              >162

1. Gunnery
 Surface. Italy's high command regarded guns-the bigger the better ― as the navy's primary weapon. The accuracy of
Italian guns and the quality of the ordnance they used has been much debated. For example, John Campbell*1, an authority on
World War U naval weapons, has commented, "Italian shells of almost all types suffered from over wide manufacturing
tolerances, which increased the often high dispersion."*13 This assertion echoes Admiral Angelo Iachino, a fleet commander,
who wrote in 1959 that "[Our guns] had the defect of insufficient precision resulting obviously from excessive longitudial
dispersion of the salvos ... because our prescribed norms for testing ammunition were less rigorous than those used in
foreign navies. "*14 However, more recent Italian scholars such as Giuliano Colliva*2 have used contemporary documents and
artillery trial results assert that the accuracy of Italian gunnery was similar to british and superior to French
shooting.*15 However, more recent Italian scholars such as Giuliano Colliva have used contemporary documents and artillery
trial results assert that the accuracy of Italian gunnery was similar to british and superior to French shooting.*15
1642/6:2014/10/02(木) 18:56:15.70 ID:JaAGBEuI
1.火砲
 水上。伊海軍の最高司令部は、火砲は海軍の最も重要な武器として、より大口径であるほどより良いとみなしていた。伊海軍の使う
伊製火砲の(命中)精度と兵器の品質についてはずいぶんと議論されてきた。例えば第二次世界大戦の海軍兵器の権威であるジョン・
キャンベルは「伊製のほとんど全てのタイプの砲弾は製造の(公差の)許容度の広さに苦しんでいた、そしてその公差の大きさはしばしば
(着弾の)散布を広げていた」と述べている。
 この主張は繰り返し述べられている、伊艦隊最高司令官だったアンジェロ・イアキーノ提督は1959年に記している、「我々の火砲は、
斉射の際に(着弾の)散布が極端に縦(遠近)に広がってしまい、精度が不十分であるという欠点を持っていた…なぜなら我々の指定した
砲弾検査の規格は他国の海軍のそれより緩かったのである」
 しかしながら、ジュリアーノ・Collivaのようなもっと近年のイタリアの学者は、最新の資料と火砲の試験結果を用いて伊の火砲の
(命中)精度は英国に並び仏の射撃より優れていたと主張している。

*1 John Campbell
  ttp://www.amazon.co.jp/Naval-Weapons-World-War-Two/dp/0851779247
*2 Giuliano Colliva
  ttp://www.worldcat.org/identities/viaf-245970369/
*13,14,15,16, 原書本文注釈、出典の明示と思われる。
1653/6:2014/10/02(木) 18:58:09.87 ID:JaAGBEuI
 The principal differnce between Italian and British gunnery was doctrinal. Many British wartime accounts report that
Italian salvos seemed excessivly dispresed; that is, when the shells fired by a group of guns landed, they were scattered
over a large area. The British goal was always to bunch salvos as tightly as possible on the principale that multiple hits
might be scored if the aim was on. The Italians favored a deliberate rate of fire whie generally the British fired at about
twice the Italian rate. The Italian Navy sought high muzzle velocities, which allowed their guns to outrange enemy weapons
of identical bore. This, along with the traditionally higher speed of Italian warships, supported the Italian objective of
gaining an early advantage in a surface action by outranging the enemy. Italian doctrine stated, " We have every interest
in prolonging the shooting at maximum range seeking to hit the enemy before he can hit us, in order to provoke a tactical
unbalance of forces that will assure our success in the later close-range phase of the fighting. "16 Also, high muzzle
velocities resulted in lower shell trajectories because the angle at wich a shell fell from any height was determined by
its velocity, and a lower trajectory resulted in a target having a larger danger space, which would offset some loss of
accuracy resulting salvo dispersion at least at lower ranges. Ultimately, however, the Regia Marina decided that high
muzzle velocities had too great an effect on barrel life―they could get only 110-130 rounds from their 15-inch weapon*3
before the barrel liner required replacement, and this led to some reductions.
1664/6:2014/10/02(木) 18:59:29.41 ID:JaAGBEuI
 伊と英の射撃法の最も重要な相違は基本原則だった。英国の戦時の多くの報告書は伊の斉射は極端に散布が広がるように思えると
報告している、『陸上の一群の火砲から砲弾が発射された時、砲弾は広範囲にまき散らされる』
 英国の目的は、目標に対して可能な限り斉射(の散布)をきつく束ねることであり、一番重要なことは照準が合っている時に
複数の命中を得ることである。
 伊海軍は緩い発射速度を好んだ、一方で、一般に英国の発射速度は伊の約2倍であった。伊海軍は高砲口初速を求めた、なぜなら
高初速の砲は、同一口径の敵の兵器に対してより長距離からの着弾を可能にしたからである。
 この高砲口初速は、伝統的な伊戦闘艦の速い船足とあいまって、敵をアウトレンジすることにより、水上の戦闘において初期に有利な
立場を得たいという伊海軍の目的を支えるものであった。
 伊の基本原則は述べていた、「我々は、敵に叩かれる前にこちらが敵を叩くために、射程を最大限に伸ばす全ての事に関心がある、
なぜなら、戦闘の終盤の接近戦においての勝利を確実にする、戦力の戦術的不均衡を引き起こしたいがために。(序盤に敵の駒を沢山
落としておけば、終盤には駒の多い我が有利という意味)」
 また、高砲口初速は結果としてより低い弾道になる(低伸性に優れる)、なぜなら頂点から落下する砲弾の角度は砲弾の速度によって
決定されていたからである。また低伸弾道は標的により大きく危険な領域を露出させる。そしてそれは斉射時の(着弾)散布の拡大により
生じる(命中)精度の低下を埋め合わせたであろう、少なくとも近距離においては。
 結局、しかしながら、伊海軍は決定した、高砲口初速は砲身寿命にとっておおきな影響をあたえるため、砲身ライナーの交換が必要と
されるまでに381_砲*3(15インチ砲)は110〜130発しか打つことが出来ないという事を。そしてこの(耐久)弾数はいくらか減少された。

*3 381/50 Modello 1934
  最大射程42,260m (46,216 yd) 初速870m/sec (2,854 ft) 発射速度45秒(1.3/min) 最大仰角35°徹甲弾885s(1,951 lb)
  Italian Battleships of World War U /Mark Stille
1675/6:2014/10/02(木) 19:01:27.56 ID:JaAGBEuI
 Fire was controlled with a director system using a fire-control computer. The best rangefinders combined stereoscopic and
coincidence instruments in one unit. The moderm battleships had 12-m rangefinders while those on the heavy cruisers
measured 7.2-m. Italian fire-control systems also included instruments to continuously measure the variation of a target's
bearing, which the Italian believed would be a decisive asset.
 Naval researchers developed prototype radars as early as October 1939, but because they had been conceived mainly for
gunnery and the metric sets then available had an excessive goniometric error, they failed to generate much interest. In
1940 staff asked its small electronic branch to give precedence to the TPA Talk Between Ships system mentioned earlier,
believing that radar was futuristic and that the British had not yet developed a naval set. The first Italian radar*4, a
combined search and fire-control set, did not appear shipboard until August 1941―four month after intecepted radio
communications persuaded naval staff that the British were employing radar to locate Italian ships from beyond visualrange.

 射撃は射撃統制計算機を使う管制装置により統制されていた。最も優れた測距儀は立体鏡と画像一致装置が一体化した光学視差式
距離計であった。最新の戦艦は12mの測距儀を備えており、一方で重巡は7.2mの測距儀を使っていた。
 伊海軍の射撃指揮装置は標的の方位変化を絶えず(連続的に)測定する装置をも含んでいた、伊海軍はその装置が決定的な長所になる
ものと信じていた。
 伊海軍の研究者は1939年の10月にはレーダーの原型機を開発した、しかしそのレーダーは主に射撃用と距離測定に想定されており、
かつ利用可能なレーダーはゴニオメーター(即角器)に極端な誤りを持っていたがために、レーダーは(海軍上層部の)重大な関心を
惹くことに失敗した。
1685.5/6:2014/10/02(木) 19:05:39.75 ID:JaAGBEuI
 1940年に、伊海軍幕僚はその小規模な電子部門にかねてから懸案の「TPA(艦船間の通話システム)」の(開発を)(レーダーよりも)優先
させるように求めた。というのも、幕僚達はレーダーはまだ未来的な物であり、英海軍もまだ艦船用のレーダーは開発していないと
信じていたのであった。
 伊の艦船用の探索装置と射撃指揮装置を複合させたレーダー*4 は1941年の8月まで登場しなかった。その4か月後、伊海軍幕僚は英海軍
の無線通信を傍受することにより、英海軍は視程外から伊艦船の位置を特定するためにレーダーを使用していることを納得させられた。

*4  EC3/ter :通称"Gufo"(フクロウ)

 Antiaircraft. In the context of the 1930s, the regia Marina was as conscious as any of the world's major navies of the
need to protect its warships from aerial attack. However, it lacked efficient fire control for close-range antiair weapons.
Battleships and cruisers had dedicated 90-mm*5 or 100-mm*6 heavy antiaircraft batteries, with the accurate and reliable
100-mm weapon being most common. Italy had tested a 4.7-inch/46*7 dual-purpose weapon in 1938-1939, but the results were
unsatisfactory. Consequently, destroyer main batteries lacked the elevation and fire control needed to serve as effective
antiair weapons. The principal close-range antiaircraft weapons were the 37-mm/54 and 20-mm/65*8 Breda guns. Both were
reliable, although early versions suffered from heavy vibration and required a strong supporting structure.
1696/6:2014/10/02(木) 19:06:51.16 ID:JaAGBEuI
 対空(砲火)。1930年代の状況下で伊海軍は他の主要な海軍と同様に空襲から戦闘艦を護ることの必要性を意識していた。しかしながら
それは近距離の対空兵器の効率的な射撃統制を欠いていた。
 戦艦と巡洋艦は90_*5 〜100_*6 の(対空)専用の重対空砲を持っていた、(命中)精度と信頼性の高い100_砲が最も一般的だった。
 伊は1938年から1939年に4.7インチ46口径長*7 の対空対艦兼用の兵器をテストしていた、が、結果は不満足なものだった。その結果、
駆逐艦の主砲は仰角が不足していた、そして射撃統制は効果的な対空兵器として用いられる必要があった(効果的な射撃統制が求め
られた)。
 最も重要な近距離対空兵器は37_54口径長と20_65口径長*8 のブレダ機銃であった。共に信頼性が高かったが、初期には大きな振動
に苦しみ、頑丈な支持体を必要とした。

*5  90/50 Mod. 1939 (アンサルド と O.T.O.製、陸上用は53口径長)
*6 100/47 Mod. 1924,1927,1928,等々(アンサルド と O.T.O.製)水雷艇クラスの主砲でもある
*7 120/45 Mod. 1926 (O.T.O.製)と、120/50 Mod. 1926〜(アンサルド と O.T.O.製)以外に、制式化されなかった120_砲が有った
  という事になる。
*8 開戦後に就役した新造艦艇を除き、Breda 20/65 Mod. 1935 へ改修の進む1940年〜1941年以前には Breda Mod. 31 (13.2_、
  ホチキスM1929のライセンス生産)がそれに替わり装備されていた。
1701/4:2014/10/09(木) 18:49:11.52 ID:WVD4TZVn
" On Seas Contested: The Seven Great Navies of teh Second World War "
   Vincent P. O'Hara, W. David Dickson, Richard Worth 著

  chapter four
Italy: The Regia Marina

T. BACKSTORY
U. ORGANIZATION      ←今回はここ
V. MATERIEL
 A. SHIPS
 B. AVIATION
 C. WEAPON SYSTEMS    →これまで
 D.
W.
1712/4:2014/10/09(木) 18:50:32.30 ID:WVD4TZVn
U. ORGANIZATION
A. COMMAND STRUCTURE
1. Administration
 Benito Mussolini concentrated power in his own hands as the of head of government, the supreme commander of all armed
forces, the minister of war, and the minister of the navy and air force. From 1934 the navy's undersecretary and chief of
staff was Admiral Cavagnari. He reported directly to Mussolini while the army-dominated armed forces high command, the
Stato Maggiore Generale*1 ( renamed Comand Supremo in May 1941 ) coordinated the various service commands. After May 1941,
following reforms*2 undertaken by its new commander, General Ugo Cavallero, Comando Supremo gained more effective control
over all the services. Even so, the Regia Marina always retained a large degree of autonomy.

U. 編成
A. 指揮系統
1. 統治
 ベニート・ムッソリーニは権力を手中に収めた、首相として、全ての軍隊の最高司令官として、陸軍省、海軍省、空軍省の大臣と
して。1934年から海軍(省)次官と海軍参謀長はカヴァニャーリ提督であった。陸軍が(全軍の)最高司令部を支配していた間は、
つまり(全軍の)参謀本部*1{1941年5月に(後述のカヴァッレーロによる参謀本部の改革により)(全軍の)最高司令部に変更になった}
が様々な部隊の管理をしていた間は、カヴァニャーリ提督は直接ムッソリーニに(海軍の案件について)報告をしていた。
 1941年5月以降、新しい(全軍の)司令官(参謀総長)であるウーゴ・カヴァッレーロ将軍が企図した改革*2 に従うことにより、
(全軍の)最高司令部はより効果的な軍全体に渡る支配を得た。それでもやはり、伊海軍は自治権の大部分を保持したままだった。

*1 歴代の参謀(本部)総長
  バドリオ(陸軍):1925年(!)5月4日〜1940年12月4日、カヴァッレーロ(陸軍):1940年12月5日〜1943年2月1日、
  アンブロシオ(陸軍):1943年2月2日〜1943年11月18日、ジョバンニ・メッセ(陸軍):1943年11月19日〜1945年5月1日……
*2 最高司令部(旧参謀本部)の権限を政治権力から切り離すこと。グッツォーニ将軍の解任(参謀副総長職と陸軍次官職)と
  参謀副総長職自体の廃止など。(ムッソリーニの戦い/バルミーロ・ボスケージ)
1723/4:2014/10/09(木) 18:52:06.75 ID:WVD4TZVn
 The supreme naval headquarters established shortly before hostilities was called Supermarina. Cavagnari commanded, but,
because he was a government member and mainly occupied with strategic, political, and administrative matters, the
supervision of day-to-day operations rested in the hands of his deputy, Admiral Odoardo Somigli, a Ciano protege appointed
in August 1939 over Cavagnari's candidate, Admiral Luigi Sansonetti. Supermarina closely managed the subordinate naval
commands. This centralization of authority, quite heavy until December 1940 when Admirals Arturo Riccardi and Inigo
Campioni replaced Cavagnari and Somigli, affected the navy's performance throughout the war and discouraged tactical
commanders from exercising initiative and ingenuity.

 開戦前に短期間設立された海軍の最上級の司令部はスーパーマリーナ(海軍最高司令部)と呼ばれた。カヴァニャーリが指揮を執
っていた、がしかし、彼は政府閣僚*3でもあり、戦略的、政治的、管理的な案件に忙しいために、日々の作戦についての監督案件
は、彼の副官であるオドアルド・ソミーリ提督の手の中で眠っていた(滞っていた)。ソミーリはチアーノ(開戦時外相、ムッソリー
ニの娘婿)と親しく、1939年8月にカヴァニャーリの推すルイージ・サンソネッティ提督を押しのけて海軍参謀次長に任命されていた。
 海軍最高司令部は隷下の海軍部隊を密接に管理した。この権力の中央集権は、アルトゥーロ・リッカルディ提督とイニーゴ・
カンピオーニ提督が、カヴァニャ−リ(海軍参謀長)とソミーリ(海軍参謀次長)に取って代わった1940年の12月までは実に重苦しか
った。
 そしてこの権力の中央集権は戦争をとおして海軍の任務遂行に影響を与えていた、そして戦術指揮官に自発性や独創性を発揮させ
ることを思いとどまらせていた。

*3 国務長官(1934年6月10日〜)
ttp://www.treccani.it/enciclopedia/domenico-cavagnari_(Enciclopedia-Italiana)/
1733.5/4:2014/10/09(木) 18:54:00.46 ID:WVD4TZVn
 The navy's place in the Fascist pecking order was indicated by the division of military funds, over which Mussolini
maintained ultimate control. The navy received a fairly consistent allotment totaling about a quarter of armed forces
spending from 1925-1926 through 1935-1936 while the army, which had supported the Fascist movement even before Mussolini's
seizure of power, averaged 56 percent. The air force ( Mussolini's own pet service ) received the balance ( 18 percent )
until 1935.
 Once war started, the army received 74 percent of appropriations and the navy's share plummeted to 12 percent. The
military's total appropriations rose from 23 billion lire in 1925-1926 to 105 billion in 1940-1941. Just the same,
appropriations remained limited. In 1939, even if it had grown rapidly since the 1920s, Italy's gross domestic product
( GDP ) measured half of Great Britain's and 42 percent of Germany's, yet Italy spent only 10 percent of its GDP on the
military compared to Germany's 32 percent. Even democratic Britain spent 50 percent more on the military as a percentage
of GDP than Fascist Italy.
1744/4:2014/10/09(木) 18:54:53.15 ID:WVD4TZVn
 ファシスト政権内での序列における伊海軍の位置は軍事予算の分配によって示されていた、予算の分配(の権限)はムッソリーニが
最終的な支配を保持していた。
 海軍は一貫して公明正大な分配を受け取っていた、1925年度から1935年度にかけては三軍全体の支出の約四分の一が海軍の予算で
あった。その一方で陸軍はムッソリーニが権力を奪取する以前からもファシスト運動を支持しており三軍合計予算の56%にあたる予算
を獲得していた。
 空軍(ムッソリーニ自身のお気に入りの軍隊であった)は、1935年までは残りの18%の予算を貰っていた。
 ひとたび戦争が始まると、陸軍は支出金の74%を受け取り、海軍の分け前は12%に激減した*4。全軍の軍事費支出は1925年度の230億
リラから1940年度の1,050億リラへと増加した。それでもなお軍事費支出には上限が設けられていた。
 1939年に、軍事費は1920年代と比べると急激に増加したにも関わらず、イタリアの国内総生産(GDP)は比べると、英の半分、独の42%
であった、さらに伊の軍事費は対GDP比たったの10%であり、独は32%もあった。
 民主的な国家の英国でさえ軍事費はファシスト・イタリアのそれより多く、英国はGDPの50%以上を軍事費に費やしていた。

one billion 1940 lira=$50.5 million 1940 dollars or 703 million 2005 dollars based on CPI.

*4 相対的には減ったが絶対値は増えている。
1751/7:2014/10/16(木) 18:02:02.59 ID:VuDhnrFz
U. ORGANIZATION
A. COMMAND STRUCTURE
2. Personnel
 The Regia Marina numbered 4,180 officers and 70,500 ratings prior to mobilization and quickly expanded to 168,800 upon
the outbreak of war. In September 1943 the navy had 259,100 men under arms. Of all the Italian armed forces, the Regia
Marina enjoyed the highest quality personnel; 53 percent of ratings were volunteers serving a four-year enlistment while
draftees served two years. None the less, there existed a large social gap between officers, noncommissioned officers
( NCO ), and enlisted men. Italy had low literacy rates and life expectancies compared to its northern European neighbors.
As one historian noted, " Society's peasant base, relatively small industrial sector and narrowly selective educational
system ( 85,535 university students, of whom only 13.56 percent were studying engineering, out of a total population of
just under 44 million in 1939-40 ) meant a pervasive shortage of technical talent that placed severe limits on the extent
to which the Italian armed forces could imagine, commission, operate and maintain complex machinery. "*5
1762/7:2014/10/16(木) 18:03:44.69 ID:VuDhnrFz
2. 人員
 伊海軍は平時には4,180人の将校と70,500人の下士卒を抱えていた、戦争が勃発すると速やかにその要員を168,800人まで拡大
させた。1943年9月の休戦時には259,100人が戦闘態勢にあった。
 全てのイタリア軍の中でも、伊海軍は優秀な人材の恩恵を受けていた、下士卒の53%は志願兵であり兵役は4年間であった、一方で
召集兵の兵役は2年間であった。それにもかかわらず、将校と下士官(NCO)と応召兵との間には、大きな社会的な隔たりが存在した。
 イタリアは北ヨーロッパの隣国と比べると、識字率が低く、平均余命も短かった。
 ある歴史家は述べている、「農業が主体の社会と、比較的小規模な工業業界と、少人数に限られた高等教育(85,535人の大学生の
うち機械工学を学ぶ学生はたったの13.56%だった、1939年度の総人口4,400万人の内で)は、技術的な才能(人材)の全面的な不足を
意味していた、そしてその人材の欠乏は、イタリアの軍隊が複雑な機械類を創造し実用化し、操作し保守することを可能ならしめる
ことに対して厳しい制限を敷く事となった」

*5 原文注釈、おそらく出典明示
1773/7:2014/10/16(木) 18:05:22.37 ID:VuDhnrFz
 The navy's officers were generally more conservative and monarchical in outlook than were their army or air force peers.
The only ex-naval officer high in the Fascist hierarchy was Costanzo Ciano, the father of the more famous foreign minister
who married one of Mussolini's daughters. Based on his personal and professional observations, the French admiral and
historian Raymond de Belot described the officer corps as " well-informed, well-trained, and competent."*6 However, the
navy suffered from a relative shortage of officers " who made up only 5.4 percent of total personnel, as opposed to 7.5
percent in the French Navy and the Royal 9.2 percent. "*7

 一般的に伊海軍の将校は、陸軍や空軍の将校よりも、保守的で国王に忠誠的な見解を持っていた。唯一人、元海軍将校の
コスタンツォ・チアーノはファシスト内での序列が高かった、彼(父)より外務大臣でムッソリーニの娘と結婚した息子のほうが有名
だった。
 彼の個人的で専門的な所見に基づき、フランスの歴史家でもあるレイモンド・ Belot 提督は伊将校団を次のように述べている
「博識で、よく訓練され、そして有能である」
 しかしながら、伊海軍は相対的な将校の不足に苦しんだ、「伊海軍の将校は全人員の5.4%しかおらず、対照的に仏海軍は7.5%の将校
がおり、英海軍は9.2%もいたのであった」

*6*7 原文注釈、おそらく出典の明示
1784/7:2014/10/16(木) 18:09:06.67 ID:VuDhnrFz
 At the lower levels, Italian officers proved aggressive and often independent-minded. At higher levels, doctrine
required strict adherence to orders. There were occasions when division admirals exercised their judgment, such as when
Rear Admiral Pellegrino Matteucci opened fire against his commander's orders during the battle of Cape Spartivento, but
such actions were atypical, and independent-minded commanders did not prosper in the Italian system. Vice Admiral Eberhard
Weichold, the German navy liaison officer in Rome for most of the war, and commander of Kriegsmarine forces in the
Mediterranean from 1941 until 1943, noted that " every decision resting on personal initiative had to be submitted to the
officer in change of the operations. "*8 Other factors affecting the higher naval leadership included a well-founded lack
of confidence in aerial reconnaissance and support as well as the belief, since November 1941*11, that British night-
fighting doctrine and equipment were superior.
1795/7:2014/10/16(木) 18:10:38.26 ID:VuDhnrFz
 下級将校においては、伊海軍の将校達は攻撃的精神性を立証しており、しばしば独立心のあるところを見せた。上級将校におい
ては、命令の厳格な固守という教義に従っていた。
 時には分艦隊の提督達がその判断を働かすということもあった。たとえば、スパルティヴェント岬沖海戦において、
ペッレグリーノ・マッテウッチ海軍少将が、彼の司令官の命令に反対して砲撃を開始した時などである。しかしそのような行動は
異例だった。そしてイタリア(海軍)の組織においては自主、主体性のある指揮官は成功しなかった。
 エバーハルトWeichold 独海軍中将(独海軍の連絡将校であり戦争の大半をローマで過ごした、1941年から1943年まで地中海の独
海軍司令官であった)は述べている、「作戦の変更において、個人の主導(権)に基づく全ての決定は、将校の意見を求める必要が
あった」
 伊海軍の上層の指導力に影響を与えている要因の一つには、十分に信頼の置ける航空偵察と、空軍に対する信頼と同様に航空
支援の不足があった。さらに1941年の11月*9 からは英国の夜間戦闘教義と装備が、伊海軍のそれを凌駕しているということも
伊海軍上層部の指導力に影響を与えていた。

*8 原文注釈、おそらく出典の明示
*11 1941年11月8日「デュースブルク船団の戦い」のこと
  『イギリス艦隊とちがって、彼(伊海軍ブリヴォネージ中将)はレーダーをもっていなかった。彼の艦が十分に装備されて
   いないだけでなく、乗組員もまた夜間運動にそなえ十分な訓練をうけていなかった。…(中略)…ブリヴォネージ中将と
   ビシャーニ大佐の両者が指揮権を奪われた。もっとも、前者はのちに免除された。実際、災難に対する責任を個人に帰する
   のは公正ではなかった。それは、レーダーの不備によると同時に夜間行動にそなえた訓練と装備に対するイタリア海軍の
   軽視から起きたものだった』
  (海戦 連合軍対ヒトラー/ドナルド・マッキンタイア)

  船団:輸送船7隻  
  ブリヴォネージ中将(ammiraglio di divisione Bruno Brivonesi):直衛部隊司令 / 重巡トリエステ + トレント、駆逐艦4
  ビシャーニ大佐(capitano di vascello Ugo Bisciani):近接護衛隊指揮 / 駆逐艦マエストラーレ + 駆逐艦5
1806/7:2014/10/16(木) 18:12:27.79 ID:VuDhnrFz
 Italian naval personnel generally performed well in combat. The torpedo boats and destroyers completed thousands of
wartime missions, and even near the end, fighting supplies through on the notorious Tunisian " Route of Death,*12 " morale
never cracked. Admiral Weichold wrote after the war, " the caution shown in high places was not caused by lack of courage
among the men. "*9 Admiral de Belot endorsed this assessment as early as 1951 and noted that " history ... will correct
the impression of wartime propaganda which attributed the defeats of the Italian Navy to a general lack of fighting
spirit. "*10 When Italy signed an armistice in September 1943, the navy was only service that remained intact and
effective. The lower decks never revolted or refused to serve as did Austro-Hungarian, German, and Russian sailors during
the First World War, British sailors between the wars, and elements of the French navy after the 1940 armistice.

 イタリア海軍の兵員は一般的には戦闘において良く力を発揮した。水雷艇と駆逐艦は戦時に数千回の任務を完遂した、戦争の
末期においても、水雷艇と駆逐艦隊はチュニジアの「死のルート」*12 として有名な補給路で戦った、そして兵員の士気は砕けること
は決して無かった。
 (エバーハルト) Weichold (独海軍)提督は戦後に述べている。「伊海軍の高級将校達に見られる用心深さは、その人々の勇気の不足
からくるものではない」
 レイモンド・ Belot 提督はこの(彼の)評価を1951年には早くも支持している、「歴史は…戦時中のプロパガンダの印象を修正する
だろう、伊海軍の敗北は広く一般に戦意が不足していた事に帰するという宣伝を」
 1943年9月にイタリアが休戦に署名した時、海軍のみが依然としてそのままそっくり、効果的に任務に就いていた。伊海軍の下士官
水兵達は決して反乱も命令拒絶も起こさなかった、例えば、第一次世界大戦時にオーストリア=ハンガリー帝国やドイツやロシアの
水兵達がしたように、戦間期の英国水兵のように、1940年の休戦後の仏海軍の一分子のように。
1816.5/7:2014/10/16(木) 18:14:15.46 ID:VuDhnrFz
*9*10 原文注釈、おそらく出典の明示
*12 『 From the first day of December, however, the Italian suffered continual losses on the route frome Naples to
   Tunis, a route that was only 361 miles long ( allowing 10 percent for zigzag ) but was checkered with minefields,
   which used Ultra decrypts to decipher Axis signals about convoy routing. According to Italian naval historian
   Marc Antonio Bragadin, " Dozens of Allied aircraft would pounce on each target " and the case was not rare " where
   40 or 50 bombers were working over a single poor lighter. " As a result, in December 1942 the Italians lost eleven
   merchantmen, four naval vessels, and 28.6 percent of the tonnage on the newly opened Tunisan route. As more Italian
   merchantmen and escorts were sunk or damaged, Italian seamen began calling convoy route the " rotta della morte, "
   or the route of death. 』
    ( With Utmost Spirit: Allied Naval Operations in the Mediterranean, 1942-1945 / Barbara Tomblin )
1827/7:2014/10/16(木) 18:15:18.19 ID:VuDhnrFz
    (1942年)12月になってからイタリアはナポリ〜チュニス間航路での頻繁な艦船の損失に苦しんでいた、航路はたった361
   マイル、578qであった(10%のジグザグ航行を考慮に入れたうえで)、しかし航路は機雷原が入り乱れており、枢軸国の輸送
   船団の経路に関する暗号通信を、英国の諜報機関内のグループ・ウルトラが解読していた。
    イタリアの海事歴史家のマルク・アントニオ・ Bragadin によると「数十機の連合国の航空機が各個の目標に飛びかかって
   いただろう」という、またこんな事例は珍しくは無いという「そしてそこでは、たった一隻のちっぽけな、はしけ船に対して
   四、五十機の爆撃機が激しく攻撃を加えていた」
    結果として1942年の12月にイタリアは11隻の商船と、4隻の海軍艦艇とを失った。これは新しく開設されたチュニジア航路
   の総トン数の内の28.6%であった。
    イタリアの商船と護衛艦が沈められたり損害を受けるにつれ、イタリアの船乗り達はこの輸送船航路を「rotta(ルート)
   della(ザ) morte(デス)」つまり『死のルート』と呼び始めた。
183名無し三等兵:2014/10/16(木) 22:59:12.52 ID:pHf3FZ5T
乙なのよ
1841/8:2014/10/22(水) 19:05:42.52 ID:1zc+1K4q
2. Personnel の続き

 Training of officers : Naval Academies. Naval officers were long-term professionals. The Accademia Navale di Livorno was
established in 1881. Its curriculum stressed mathematics and ballistics, and every graduate was expected to be a sailor
first and foremost. The instructional day commenced at 0530 and continued until 2130. Students were allowed just one
opportunity to make up a failed exam. In 1940 its enrollment was 697 students ( up from 222 in 1934 ), and it graduated
about 150 officers a year who entered service as midshipmen*14.

士官教育:海軍士官学校
 海軍将校は長期に及ぶ学期(養成には長期間の教育を必要とする)の専門的職業であった。リヴォルノ海軍士官学校は1881年
(明治14年)*13 に設立された。士官学校の教科課程は、数学と弾道学に力を入れていた、全ての卒業生はまず第一に水兵になる
ことを求められていた(船乗りの基本を身に着けることを求められていた)。士官学校の一日は0530(5時30分)に始まり、2130
(21時30分)まで続く。
 学生には一度だけ追試が許されていた。1940年度には海軍士官学校に697名の学生が入学した(入学者数は1934年に222名から引き
上げられた)、その内士官として卒業できるのは約150名であり、士官候補生*14 として軍務に就くのであった。

*13 ジェノヴァとナポリにあった既存の二校の統合により誕生した。
  一方の源流であるナポリの海軍学校 " La Real Accademia di Marina di Napoli " の誕生は1735年(享保20年)
ttp://www.realcasadiborbone.it/en/history-documents/military/navy/
ttp://www.marina.difesa.it/formazione/istituti/accademia_navale/Pagine/accademianavale.aspx
1852/8:2014/10/22(水) 19:07:33.38 ID:1zc+1K4q
*14         陸軍     空軍       海軍
    中尉   Tenente     Tenente     Sottotenente di vascello
    少尉   Sottotenente  Sottotenente  Guardiamarina
   士官候補生 Aspirante     ―       ―

    『イタリア軍入門 / 吉川和篤・山野治夫』<イタリア軍の階級システム> / 解説:吉川和篤

  [英] " midshipmen " 「士官候補生」に相当する、[伊] " aspirante guardiamarina " 「aspirante(候補者) guardia(警備官)-
  marina(海軍)」が " Guardiamarina " の下に出来たのは戦後のよう。
  [英] " midshipmen " の純然たる日本語訳は「士官候補生」だが、ここは『 " Guardiamarina (少尉相当の階級)" として軍務に
  就くのであった。』と解釈するほうが適切なよう…

  機械翻訳などでは、aspirante guardiamarina も Guardiamarina も士官候補生になり、Sottotenente も Tenente も中尉に
  なるのには注意…
1863/8:2014/10/22(水) 19:08:58.10 ID:1zc+1K4q
 Training. The Regia Marina's fleet exercises followed the classic big-gun standard prevalent in the major navies during
the 1930s and evolved little during the war. Men and officers were taught to rigidly follow detailed procedures designed
to cover conceivable situation. For example, on 22 May 1941 when attacking a British surface force, the torpedo boat
Sagittario raised the flag " J, " meaning " I am launching, " because this was the procedure, even though she was a
one-ship flotilla and there was no one to read her signal.

教育
 伊海軍の艦隊演習は、1930年代には主要な他国の海軍が広く一般に行うように、古典的な大砲が標準であり、大戦中の発展も
僅かだった。将校と下士卒は、事前に決められた詳細な手順に厳しく従うように教えられていた、その手順とは考えられうる
ありとあらゆる状況をまかなうように計画されていた。
 例えば、1941年の5月22日*15 に英海軍の水上部隊の攻撃を受けた時に、伊海軍の水雷艇「サジタリオ」が「(魚雷)射出中」を意味
する「J旗」を掲げた、なぜならこれが手順(きまり)だった、たとえ艦隊が「サジタリオ」一隻のみで、その信号旗を読み取るべき僚船
がいなかったとしても。
1874/8:2014/10/22(水) 19:10:59.02 ID:1zc+1K4q
*15 Sagittario Convoy Action
   Early on 22 May the 2nd German Motor-Sailing Flotilla, thirty small steamers and caiques loaded with four thousand
  German troops, departed Milos escorted by the torpedo boat Sagittario. At 0830, when the convoy had reached a point
  thirty miles south of Milos, Admiral Schuster ordered a retreat due to reports of British ships in the area, this time
  correctly ― Force C, under Rear Admiral E. L. S. King, was indeed hunting the convoy. King was not to have much to
  show for his risky excursion north. At 0830 Perth bagged a straggler from the 1st Motor-Sailing Flotilla, and Mack's
  destroyers sank a small steamer not involved in the invasion. Then King ran into the convoy's tail end.

    Allied ships ― Force C ( Rear Admiral E. L. S. King ) : CL : Naiad, Perth(AU)
                                ; CLA : Calcutta, Carlisle
                                ; DD : Kandahar, Kingston, Nubian

    Italian ship ― ( Lieutenant Giuseppe Cigala Fulgosi ) : TB : Sagittario

 〈サジタリオ輸送船団の戦闘〉
   5月22日早朝に、4千人の(クレタ島上陸に向かう)独軍兵士を乗せた、小型汽船とカイーク(東地中海で用いられる2本マスト
  三角帆の帆船)から成る13隻の、第2のドイツ軍の汽船と帆船の小艦隊は、伊海軍水雷艇サジタリオの護衛を受けてミロス島を
  出帆した。
   8時30分、この輸送船団がミロス島の南約20q(13マイル)の地点に辿り着いた時に、この海域に英国艦艇が存在するという
  報告を受けた独軍のシュステル海軍大将は輸送船団に対して退却を命令した、この時、正に、英海軍キング少将隷下の「C」
  部隊は、第2のドイツ輸送船団を捜し求めていた。キング少将は「北への危険な遠足(ドイツ輸送船団を撃滅すること)」にむけて
  たくさんの見せるべき物がある予定にはなっていなかった(キング少将が活躍出来る予定にはなっていなかった)。
1885/8:2014/10/22(水) 19:12:18.07 ID:1zc+1K4q
   8時30分、軽巡パースは第1のドイツ軍の汽船と帆船の小艦隊から落伍した一隻の舟を捉えていた、そしてマック( P.J. Mack
  か?)の駆逐艦達はクレタ侵攻作戦とは無関係の一隻の小型汽船を撃沈した。その頃キング少将は第2のドイツ輸送船団の尻尾を
  捕まえていた。

    連合国軍艦艇 ― C部隊 キング少将:軽巡:ナイアド、パース(豪)
                    ;防空巡洋艦:カルカッタ、カーライル
                    ;駆逐艦:カンダハル、キングストン、ヌビアン

    イタリア艦 ― ジュゼッペ・シガラ・フルゴーシ大尉:水雷艇:サジタリオ

   The withdrawal order found the flotilla somewhat scattered. Sagittario was collecting stragglers when, at 0847, she
  spotted the unwelcome sight of smoke and then masts on the southeastern horizon. Lieutenant Fulgosi ordered the
  transports to disperse while he laid smoke in their wakes. Then, to buy more time, Sagittario charged the British
  formation, opening fire at 0904 from thirteen thousand yards. Kingston, sailing in the British van, traded salvos with
  Sagittario, and the torpedo boat tagged the large British destroyer twice on the bridge with 3.9-inch shells. Even
  Perth and Naiad engaged the Italian pressed on, closing, to eight thousand yards and then launching four torpedoes at
  the cruisers.
   At 0914 Italian observers reported brown smoke rising from the second cruiser in the enemy line ( Naiad ), and this
  caused Fulgosi to claim that one of his torpedoes had scored a hit.
1896/8:2014/10/22(水) 19:15:09.98 ID:1zc+1K4q
   退却命令が小艦隊(第2のドイツ輸送船団)を多少追い散らしたことが分かった(退却し始めると輸送船団はやや散り散りになり
  隊列を乱していた)。伊海軍水雷艇サジタリオは落伍した舟を寄せ集めているところだった、8時47分、サジタリオは南東の水平
  線に、ありがたくない煤煙とマストを発見した。フルゴーシ大尉は輸送船達に命令した、サジタリオが煙幕を張って輸送船の
  航跡を隠している隙に分散せよと。
   そうして時間を稼いでいる間に、サジタリオは英国艦の隊列に突進した、9時4分には12q(一万三千ヤード)の距離から砲撃し
  ながら。英駆逐艦キングストンが英国艦隊の先陣をきった、サジタリオの斉射を受けることと引き換えに。そして(伊海軍の)
  水雷艇は英国海軍の大きな駆逐艦のその艦橋に100_(3.9インチ)砲弾の弾痕を2回付けた。
   軽巡のパースとナイアドまでもが前進し続けるサジタリオと交戦した、戦闘の最後に、7q(8千ヤード)の距離から、サジタリオ
  はパースとナイアドに対して4本の魚雷を発射した。
   9時14分に、サジタリオの観測員達は敵艦隊の2番目の巡洋艦(ナイアド)から茶色の煙が上がったと報告した。このことが
  フルゴーシ大尉に、発射した魚雷の内1本が命中したと、主張させている根拠となっている。
1907/8:2014/10/22(水) 19:16:33.34 ID:1zc+1K4q
   At 0914, with the enemy hidden by smoke, Admiral King decided to withdraw west ― he did not realized how many small
  transports were nearby, Carlisle had unrepaired damage that limited his squadron's speed to twenty knots, and antiair
  ammunition was running low. Every mile north brought him a mile closer to German airfields. Cunningham later condemned
  this decision, writing that King's " failure to polish off the caique convoy " was the principal mistake made during
  the entire operation off Greece. Churchill sniffed : " The Rear-Admiral's retirement did not save his squadron from
  the air attack. He probably suffered as much loss in his withdrawal as he would have done in destroying the convoy. "
  In retrospect, these harsh judgments seem unfair and to have been inspired by the losses subsequently suffered
  throughout the campaign without a naval victory to balance them.

   9時14分に、敵が煙幕に隠れてしまったので、英海軍キング少将は西への退却を決定した。― キング少将はいかに多くの
  独軍の小型輸送船が彼の艦隊のすぐ近くにいたかを理解していなかった。防空巡洋艦カーライルはキングの戦隊のスピードを
  12ノットに制限させるだけの未修理の損害を抱えていた、そして対空用の弾薬は不足してきていた。戦隊が北へ進む毎に、
  1マイル、また1マイルと独軍の飛行場に接近していた。
   カニンガム提督は後にこの退却決定を非難した、「カイーク(帆船)の輸送船団を片付けそこねた」この事は、ギリシャ撤退
  作戦全体を通しての主要な失敗であると。
   チャーチルは鼻であしらったのであった、「キング少将の退却は彼の戦隊を航空攻撃から救わなかった。彼は独軍の輸送船団
  に与えたであろう損害と同等の被害を退却の際に被った」
   振り返ってみると、この厳しい批判は不公平であるようにも思えるし、その後の苦しみを受ける損失により英海軍に激励を
  受けさせたようにも思える、戦役を通して海軍の勝利のなかった彼らの釣合をとる為に。

  『 Struggle for the Middle Sea 』: Vincent O'Hara 著
1918/8:2014/10/22(水) 19:17:57.16 ID:1zc+1K4q
   この後、同日22日、サジタリオは損害は無かったが独空軍の誤爆を受けている
  『 World War II Sea War, Volume 3: The Royal Navy is Bloodied in the Mediterranean 』: Donald A Bertke、Gordon Smith、
    Don Kindell 著

 Practice shoots were limited until 1939 when gunnery exercises became more frequent ( and the results demonstrated that
increased drills yielded better accuracy ). Lack of antiaircraft ammunition hampered training ; in 1942, for example, the
machine-gun personnel at the Pola*16 naval school could fire only two magazines ( less than four seconds' worth ) befor
being qualified for war.
 The Regia Marina's training regimen, however, also had its strong points. In the 1930s, concerned about the largely
theoretical threat presented by torpedo aircraft, the fleet practiced defending against torpedo plane attacks, and these
exercises prefigured the general success that Italian warships would enjoy avoiding aerial torpedoes during the war.

 射撃演習は1939年までは制限があった、がそれ以降は射撃訓練は以前より頻繁に行われるようになった(その結果、訓練の増加は
より良い命中率を生むことを実証した)。対空用の砲弾の不足は訓練の妨げとなった、1942年において、例えば、ポーラ*16 (プーラ)
の海軍学校において機銃要員は実戦に出る前に弾倉2つ分(じつに4秒に満たない)だけしか射撃出来なかった。
 伊海軍の教育制度は、しかしながら、長所も持っていた。1930年代においては、雷撃機のもたらす重大な理論的脅威に関心を持っ
ていた、艦隊は雷撃機の攻撃に対する防御を訓練した。これらの訓練は漠然とした成功を予想させた、伊海軍の艦艇は戦争中に航空
魚雷の回避を享受出来るであろうと。

*16 [伊] Pola 現在のクロアチア共和国プーラ Pula
1921/6:2014/10/29(水) 19:00:03.58 ID:Issmd42d
U. ORGANIZATION
A. COMMAND STRUCTURE

3. Intelligence
 Italian naval intelligence, originally Reparto Informazioni then Servizio Informazione Segreto (SIS) after 1941, had the
task of gathering technical and operational naval information while keeping an eye out for political, economic, and
military information that might affect the navy. It was organized into four sections ; section B intercepted and
deciphered enemy radio communications ; section C evaluated and distributed information supplied to it by sections B and
D ; and section E engaged in counterespionage and police work in conjunction with a specialized branch of the Reali*20
Carabinieri.
 Between 1940 and 1943, section B deciphered 13.3 percent of British radio traffic ― slightly less than the 13.75
percent British code breakers achieved against Italian traffic. These efforts often generated actionable information. In
July 1940, for example, the penetration of enemy codes disclosed British intentions leading up to the action off Calabria
and that the navy's submarine and fleet codes had been compromised. Sighting reports of Italian submarines and convoys
were routinely intercepted, allowing the threatened units to take avoiding action. Intelligence also compromised many
British minelaying mission ― at least five of the twelve barrages laid by Manxman and Abdiel in November 1942 through
February 1943 were revealed within hours by signal intelligence and left intact so the British would not realize their
codes were being read.
1932/6:2014/10/29(水) 19:02:12.90 ID:Issmd42d
3.情報機関
 伊海軍の情報機関は、元々は「 Reparto Informazioni (情報部*17)」の名称で始まり、1941年以降は「 SIS (秘密諜報機関*18)」
という名称になった、技術的な情報と海軍の作戦上利用可能な情報の収集が任務だった、またその一方で政治的、経済的、軍事的な、
伊海軍に影響を及ぼしかねない情報を見張っていた。
 それは四つのセクション*19 (課)から組織されていた、セクション「B」は敵国の無線通信の傍受と暗号の解読をした。セクション
「C」は、セクション「B」と「D」によって供給された情報の評価と配信をした。そしてセクション「E」は防諜及び、カラビニエリ(国
家憲兵)の特別支部と一緒に警察業務に従事していた。
 1940年から1943年の間に、セクション「B」は、英国の無線交信について13.3%の、暗号を解読した、― これは英国の暗号解読者達
がイタリアの交信に対して成し遂げた13.75%の暗号解読率を僅かに下回っているだけであった。
 これらの努力はしばしば、すぐに利用出来る情報を発生させた(暗号解読情報の中には即座に作戦行動を惹起させる物がしばしば
あった)。
 例えば、1940年の7月に、伊海軍の敵の暗号を看破する力(暗号解読力)は、カラブリア沖海戦に至る英国の意図をあばいていたの
だった、そして英海軍の潜水艦と艦隊の暗号の信用を危うくさせてもいた。
 英軍による、伊海軍の潜水艦と輸送船団についての目撃報告は、日常的に伊海軍に傍受されていた(伊海軍側は自分たちが英軍に
発見されてしまった事を、英軍の交信を傍受することによって日常的に気づいていた)、それは、英軍の脅威にさらされている
イタリア部隊が戦闘を回避することを許(可能に)していた。
 伊海軍情報機関は多くの英国の機雷敷設作戦をもまた損なわせた(台無しにした)、1942年の11月から1943年の2月にかけて、英
機雷敷設艦アブディールと同マンクスマンによって実施された、12回の機雷敷設の内少なくとも5回は、英国の信号(通信)に関する
情報(を伊海軍情報機関が傍受すること)によって、数時間の内に暴露されてしまった、そして英国の機雷は無傷のままにされた
(英機雷原の位置情報を伊海軍情報機関が掴んだため伊艦艇は触雷を避けることが出来た)*21、そういうわけで英国は暗号が解読
されていることに気づいていなかった。
1943/6:2014/10/29(水) 19:04:09.20 ID:Issmd42d
*17*18 日本語訳を付けている文献に辿り着けなかったので、この二つの呼称は御参考程度に…
    この海軍の情報機関の他に、陸軍、空軍などにも情報機関があり、それらの上位に " Servizio di Informazioni Militare
    (SIM) " が存在する。
ttps://www.sicurezzanazionale.gov.it/sisr.nsf/chi-siamo/la-nostra-storia.html

*19 なぜ「A」が欠番で「B-C-D-E」の四つなのか…
*20 この時代のカラビニエリには頭に " Reali (王立)" とは付かない。Reali Carabinieri (王国騎銃兵)は19世紀初頭の呼称。
  『イタリア軍入門 / 吉川和篤・山野治夫』
*21 作戦機関の後半には傍受が上手く出来なかったのであろうか、1月以降は少なくとも駆逐艦コルサロ( Corsaro )、駆逐艦
   サエッタ( Saetta )、水雷艇ウラガーノ( Uragano )が触雷し沈没しているよう。
1954/6:2014/10/29(水) 19:06:23.85 ID:Issmd42d
*21の続き

   On the night of 8 Junuary Nubian and Kelvin reported sinking three motor sailing vessels off the Kuriat Island, but
  they had actually engaged floating barrels of gasoline dropped by a small Italian convoy, which reached Tripoli safely.
  More deadly was a minefield laid by Abdiel that sank the destroyer Corsaro and damaged Maestrale the next night
  northeast of Bizerta. The deadly and largely silent mining efforts conducted by both sides determined the geography of
  the convoy war. By early December massive Italian fields fenced in a fifty-mile-wide corridor supposedly safe from
  surface intervention between Sicily and Tunisia. However, the fast British minelayers Abdiel and Welshman slipped into
  the corridor, a tricky and dangerous business, and laid counter fields. Besides Corsaro, these fields sank the
  corvette Procellaria on 31 January, the torpedo boat Uragano and the destroyer Saetta on 3 February, Ciclone on 7
  March, and the destroyers Malocello and Ascari on 24 March. Short on minesweepers, the Italian soon gave up trying to
  sweep these fields, and by March the route between the Aegades[原文ママ]*23 and Tunisia was " reduced to the point
  where, for a distance of forty miles, the ships had to pass through a narrow ‘ alley ' that was... scarcely more than
  a mile wide. "
         『 Struggle for the Middle Sea 』: Vincent O'Hara
1965/6:2014/10/29(水) 19:07:42.64 ID:Issmd42d
   (1943年の)1月8日の夜に、英海軍の駆逐艦ヌビアンと同ケルビンは報告した、(チュニジアの)クリート島沖で3隻の機帆船
  を撃沈したことを。だがしかし、英駆逐艦達が実際に交戦した相手は小規模のイタリア輸送船団が投棄した海面に浮いている
  ガソリンのドラム缶であった、そしてそのイタリア輸送船団は無事にトリポリに到着していた。
   伊海軍にとってより致命的だったのは、英機雷敷設艦アブディールによって敷設された機雷原による損害であった、その機雷
  原によりビゼルトの北東にて翌夜に伊駆逐艦コルサロが沈没し、同マエストラーレが損傷した。
   両陣営によって行われた、致命的でそして広範囲に及ぶ静粛な機雷敷設の努力は、輸送船団の戦いの地理学を決定した。
   (1942年)12月の初旬までは、シチリアとチュニジアの間において、(伊軍輸送船団のための)幅80q(50マイル)の廊下(通路)を
  確保するための囲いを伊海軍は大規模な機雷原によって築いていた、そしてその廊下は恐らくは英軍の水上戦力の干渉から免れ
  ているだろうと想像されていた。
   しかしながら、快速の英機雷敷設艦アブディールと同ウェルシュマン*22 はいつのまにかその廊下をすり抜けていた、そして
  際どく危険な仕事、伊海軍に対抗する機雷原の敷設をこなした。
   コルサロの他にも、(1943年)1月31日にこの(アブディールとウェルシュマンが敷設した)機雷原は伊コルベット:
  プロチェッラーリアを沈めた、水雷艇ウラガーノと駆逐艦サエッタは2月3日に、水雷艇チクローネは3月7日に、駆逐艦の
  マロチェッロとアスカリは3月24日に沈められた。
   掃海艇が不足していて、伊海軍はこの機雷原を掃海することをすぐに諦めてしまった、そして3月にはチュニジアと
  エーガディ諸島(シチリア島西部沖の諸島)間の、この航路は、距離は64q(40マイル)もありながら、…しかし道幅1マイルあるか
  ないかそこそこの、艦艇が通過しなければならない、狭い「裏通り」になってしまった。

*22 ウェルシュマンは損害を受けたマンクスマンの後任
*23 [英] Aegadian Islands [伊] Isole Egadi エーガディ諸島
1976/6:2014/10/29(水) 19:18:14.83 ID:Issmd42d
あまった…

しかし英の機雷敷設艦アブディールって豪華だなあ
3,640トン、10,2cm砲6門、36ノット、…
イタリアの大型駆逐艦以上かな
1981/4:2014/11/04(火) 19:00:51.65 ID:1yyUPw+i
U. ORGANIZATION

B. DOCTRINE
1. Surface Warfare
 Going into the war Italy's surface warfare doctrine envisioned an opening long-range gunnery phase with well-spaced
salvos to permit observation of the fall of shot. Once the shells had bracketed the target, rapid fire would commence.
The intent was to inflict damage at the maximum possible range to weaken the enemy force before the decisive short-range
phase. The ability to hit with effective, long-range gunfire proved far more difficult than all navies envisioned prewar,
but Italian performance in this area equaled that of any preradar navy.

B.教義
1.水上戦
 戦争に突入した時、伊海軍の心に描いていた水上戦における教義とは、『戦闘は、十分に時間間隔を開けた、着弾を観測する
ことが可能な斉射による、長距離の砲撃戦の局面で始まる』というものだった。ひとたび砲弾が標的を括弧に括ったら、速射が
開始される(ひとたび着弾が修正され標的を捉えると、速射が開始される)。目的は可能な限り最大限の長距離において、敵に損害
を与えることだった、決定的な近距離戦闘の局面の前に敵戦力を弱めておくために。
 効果的に敵に打撃を与える能力は…、長距離の砲撃は、戦前に全ての海軍が想像していたよりも、より遥かに難しいことを証明
した…、が、しかし、この領域(長距離砲撃)の伊海軍の能力は、いかなるレーダー未装備の海軍にも劣らなかった。
1992/4:2014/11/04(火) 19:01:38.21 ID:1yyUPw+i
 Although the navy conducted some big-gun night exercises in 1920s, the high command decided that the battle fleet would
fight only day actions. Thus, major warships had almost no night training with their main armament and had inadequate
doctrine should circumstances force a night battle, especially against a British enemy that diligently exercised night
combat in the 1920s and 1930s. Destroyers and torpedo boats, conversely, practiced an offensive night doctrine that called
for ships to operate individually in extended lines of bearing ( " rake " formations ) with up to four miles between
units. Upon sighting a target, the torpedo boats would immediately attack, aiming by eye single tubes at short range, like
a hunter sighting and shooting, meanwhile signaling their position to the flotilla. This doctrine did not envision
coordinated or mass night torpedo attacks. At the begining of the war, Italian doctrine for the fleet destroyers specified
that no more than two-thirds of a ship's load should be expended in any one attack. This practice arose from training
exercises that indicated a second opportunity to fire torpedoes could occur during naval actions. The navy also doubted
whether its fleet destroyers would be able to close to effective torpedo range during daylight actions.
2003/4:2014/11/04(火) 19:02:36.12 ID:1yyUPw+i
 1920年代に伊海軍はいくらかの大砲の夜間演習を行ったにもかかわらず、最高司令部の決定は、艦隊は日中においてのみ戦闘
させようというものだった。このように、主要な(大型の)軍艦はたいてい主砲の夜間訓練を行わなかった、そして不備のある教義
は夜戦を強制した、とりわけこつこつと1920年代と1930年代に夜間戦闘を訓練してきた英国に対して。
 駆逐艦と水雷艇は、逆に、攻撃的な夜戦教義を実践した、その教義は艦艇にそれぞれが独立した操船をして、艦艇間の間隔を
最大6q程度(4マイル)までとって、方位の異なる進路を伸ばす「くま手隊形」をとることを要求した。
 目標を発見するやいなや、水雷艇は直ちに攻撃したものであった。一本の魚雷発射管の狙いを目で短距離に合わせて、まるで
狩人が狙いを付けて射撃するように、また一方では、自身の位置を帰属する小艦隊に信号で伝えながら。この教義は協調した、
もしくは、集団での、魚雷による夜間攻撃を想像してはいなかった。
 戦争の初期においては、イタリアの艦隊駆逐艦のための教義は、明白に記していた。一度の攻撃において、一隻の船についての
弾薬の消費は三分の二以下にとどめるべきであると。この慣例は海軍の戦闘中には二回目の魚雷を発射する好機が生じるであろう
ということを示していた演習を行うことから起きていた。
 伊海軍は疑ってもいた、艦隊駆逐艦が日中の戦闘で効果的な魚雷発射距離まで接近できるかどうかということを。
2014/4:2014/11/04(火) 19:03:54.41 ID:1yyUPw+i
 The navy continually studied its wartime experiences and updated doctrine to specify the action to be taken under most
circumstances. For example, the fleet tactical instructions distributed in January 1942 specified under the subsection,
Combattimento in caccia ( Combat in pursuit ), " If the enemy is attempting to disengage at maximum speed, our formations
will pursue while always seeking to close range and engage. As our ships' speed is generally superior to that of the
enemy's, it should be easy to maintain contract. In every case, it is better that our pursuers divide in two groups, one
to port, one to starboard of the enemy's course, in order to prevent him from suddenly turning into a smoke screen. "*11

 伊海軍は戦時の経験を、たえず学習していた、そして教義を最新のものにしていた、たいていの状況下でとり得るべき行動を
明示するために。
 例えば、艦隊の戦術的な訓令は細分を明記して1942年の1月に「追撃における戦闘」は配布された。
「もし敵が全速力で戦闘からの離脱を企てているとしたら、我艦隊は追跡せよ、同時に敵に接近し交戦するために常に敵を捜し
求めよ。我艦艇の速度が概して敵の速度より優れている時は、敵との接触を維持することは容易であろう。あらゆる場合において、
追跡隊は二つの集団に分割するほうが良い、一隊は港へ、もう一隊は敵の進路へおもかじをとる、敵が突然煙幕のなかに隠れる
ことを妨げるために」

*11 原注
2021/5:2014/11/11(火) 19:10:34.15 ID:sujmFQbO
B. DOCTRINE
2.Aviation
 The Regia Marina was the largest World War U navy to not operate an aircraft carrier. From 1931 everything that flew,
except for reconnaissance floatplanes, operated under Regia Aeronautica ( air force ) control. Experience gained in the
Spanish Civil War heavily affected offensive air force doctrine relating to naval cooperation ― including a claimed
success against the Republican dreadnought Jaime T. By 1939 the Regia Aeronautica had developed horizontal bombing tactics
that called for inundating anchored targets with 50-kg and 100-kg bombs because the air force staff considered the chances
of getting a hit at sea using larger but less numerous bombs to be almost zero.

2.航空機
 伊海軍は航空母艦を運用しなかった第二次世界大戦最大の海軍だった。1931年からは、偵察のための水上機を除き、空を飛ぶ物
はすべて空軍の管理下にて運用されていた。
 イタリアがスペイン内戦で得た経験は、― 共和国派の弩級戦艦ハイメT世に対して行った爆撃の成功の主張を含んでいる。*1―
海軍との協同(作戦)と関係のある、空軍の攻勢における教義に重大な影響を与えた。
 1939年までには伊空軍は水平爆撃の戦術を開発し終えていた。その水平爆撃の戦術は(敵艦艇を沈めるために)、停泊している
標的(艦艇)に50s爆弾と100s爆弾とを殺到せせることを要求していた、なぜなら(なぜ小型の爆弾を大量に投下するのか)、
空軍参謀は、海上で(航海中の艦艇に対して)命中弾を得る機会は、より大型の爆弾を使用し、逆に爆弾の数は減らしても、ほとんど
ゼロだろうと熟考していたのであった。
2032/5:2014/11/11(火) 19:12:05.89 ID:sujmFQbO
 The air force believed that dive bombing held the best promise for attacking ships under way, but attempts to develop an
indigenous, twin engined dive bomber, the S.85, and its follow-up, the S.86, failed, which forced Italy to purchase and
import German Ju87s. These aircraft were not operational until September 1940. Efforts to develop a torpedo bomber
likewise fell afoul of air force requirements that called for a plane capable of dropping a torpedo at 500km/h and from a
height of 300m ― extremely ambitious specifications for the mid-1930s. The air force finally activated torpedo bombers
squadrons in July 1940 after the action off Calabria confirmed to all the ineffectiveness of high-altitude bombing and
British Swordfish torpedo bombers demonstrated the aerial torpedo's practicality and potential.

 伊空軍は、航行中の艦艇に対しての攻撃には、急降下爆撃が最も見込みがあると信じていた。がしかし空軍は国産(加えて
イタリア固有の仕様)の物を開発しようと試みたが失敗に終わった、双発の急降下爆撃機、S.85とその後継のS.86である。この開発
の失敗はイタリアに独Ju87を輸入し購入する事を強制した。これらの航空機は1940年の9月までは作戦可能ではなかった。
 雷撃機を開発しようとする奮闘もまた同様に、空軍の要求と衝突した、空軍の要求は航空機に対し高度300mにて速度500q/hでの
魚雷の投下が可能な性能を求めていた、―1930年代中期にしては極端に野心的な仕様であった*2。
 空軍は最終的にカラブリア沖海戦の後の1940年の7月に雷撃機の飛行隊を作戦可能な状態にした。カラブリア沖海戦は高高度の
(水平)爆撃をすっかり無効なものにしてしっまった、そして英国のソードフィッシュ雷撃機の実用性と可能性を証明したのであった。
2043/5:2014/11/11(火) 19:13:14.17 ID:sujmFQbO
 The deployment of the S.79 in this role improved the Regia Aeronautica's effectiveness as they torpedoed the cruisers
Kent on 19 September, Liverpool on 14 October, and Glasgow on 3 December 1940. There were never enough torpedo or
dive-bomber squadrons, however, to make a decisive difference.
 By September 1943 Italian torpedo bombers had sunk three destroyers ; one sloop ; one corvette ; one landing ship tank
( LST ) ; and fifteen freighters and had damaged one battleship ; one carrier ; six cruisers ; one destroyer ; one LST ;
three auxiliary ships ; and six freighters. The high-altitude level bombers sank three destroyers, and the dive-bombers
sank two destroyers and one Greek torped boat.

 雷撃任務においてのS.79の配備は、伊空軍の有効性を改善したのだった、伊空軍が巡洋艦を雷撃したので、9月19日にはケントを、
10月14日にはリバプールを、そして1940年12月3日にはグラスゴーを。しかしながら決定的な差を生むには、雷撃機飛行隊も急降下
爆撃機飛行隊も決して十分な数を満たしてはいなかった。
 1943年の9月までに、伊雷撃機は、駆逐艦3隻、スループ1隻、コルベット1隻、戦車揚陸艦( LST )1隻、貨物船15隻を沈めた。
また、戦艦1隻、空母1隻、巡洋艦6隻、駆逐艦1隻、戦車揚陸艦1隻、補助艦船3隻、貨物船6隻に損害を与えた。
 高高度水平爆撃機は駆逐艦3隻を沈めた。そして急降下爆撃機は駆逐艦2隻とギリシャの水雷艇を沈めたのであった。
2054/5:2014/11/11(火) 19:14:27.02 ID:sujmFQbO
*1  The years 1937 and 1938 passed without any major developments. Cavagnari made a speech to the Senate declaring,
  study, that Mussolini had stated the carriers were not necessary for the Italian Navy in the Mediterranean but that
  beyond the Red Sea and Gibraltar they were indispensable, and that according to Mussolini's imperial policy the Regia
  Marina expected to project power into the Italian and Atlantic oceans. Nonetheless, the Navy's request for two 15,000t
  carriers was rebuffed, and the torpedo bombers remained experimental curiosities ; the only progress made was to
  upgrade the plans for Roma's emergency conversion.
   In the meantime the Regia Aeronautica claimed to have destroyed the Spanish Republican dreadnought Jaime T in
  Almeira harbour on 21 May 1937 ( in fact five S.79 bombers landed only a few small 50kg bombs which did inconsequential
  damage ― it was an accidental internal explosion which put the ship out service on 17 Jun 1937 ). Between April and
  July 1938, however, the vaunted Italian bombers failed to hit a single Republican freighter at sea despite hundreds of
  sorties and attacks.
   This failure, together with the results finally obtained in 1939 by Italian bombers based in the Balearic Islands
  against the merchant and military vessels in the last Mediterranean ports held by the Spanish Republic, induced the
  Regia Aeronautica to develop a new horizontal bombing doctorine against ships which specified the need to inundate
  anchored targets with 50kg and 100kg bombs, as the chances of getting a hit at sea were almost zero using the bigger
  and less numerous 250kg, 500kg and 800kg bombs.

 『 Search for a Flattop:THE ITALIAN NAVY AND THE AIRCRAFT CARRIER 1907-2007 Vincent O'Hara and Enrico Cernuschi 』
2065/5:2014/11/11(火) 19:15:48.64 ID:sujmFQbO
   目立った発展の無いまま1937年と1938年が過ぎ去った。カヴァニャーリ伊海軍参謀長は元老院(上院議会:Senato della
  Repubblica )での演説で、ムッソリーニの声明を公表した。統帥曰く、地中海の伊海軍にとって空母は必要ない、しかし
  紅海とジブラルタルを越えた向こうでは空母はなくてはならない、そして統帥の帝国政策によると伊海軍はその力を
  イタリアと大西洋に投入することを期待すると。
   それでもなを、海軍の2隻の15,000d級空母に対する要求は拒絶された、そして雷撃機はいまだ実験的な珍品だった。
   唯一つの進展は(商船)ローマの緊急(空母へ)の転換の計画を最新のものさせたことだった。
   そうするうちに、伊空軍は1937年5月21日にアルメリア港にてスペイン共和国派の弩級戦艦ハイメT世を破壊したという戦果
  を主張した。(実際は5機のS.79爆撃機が数発の小さな50kg爆弾によって取るに足らない損害を喰らわせただけだった―ハイメ
  T世は1937年6月17日に偶発的な船内からの爆発により使用不能になった)
   しかしながら、1938年の4月から7月の間に、誇らしげな伊爆撃機は海上で航行中のたった一隻の共和国派の貨物船にも爆弾
  を命中させることが出来なかった、数百回の出撃と攻撃にもかかわらず。
   この失敗と、最終的に1939年に得られた結果は、――スペイン共和国派が最後に保持する地中海の港†1、そこに居る商船と
  軍用艦艇に対して作戦する、バレアス諸島†2 に基地を置く伊爆撃機達によって得られた結果――、伊空軍に艦艇に対する新
  しい水平爆撃の教義を開発するようにさせたのであった。
   この新しい教義は明白に記していた、停泊中の艦艇に50kg爆弾と100kg爆弾を殺到させる必要があることを、なぜなら海上に
  於いて航行中の艦艇に対して(50kg爆弾と100kg爆弾)より大きな、そしてより数の少ない250kg、500kg、800kg爆弾を使用して
  命中を得る機会はほとんどゼロと言ってもよかったので。

  †1 カルタヘナ( Cartagena )
  †2 バレアス諸島マヨルカ島( Mallorca )
*2 『Viva! 知られざるイタリア軍/吉川和篤』などによると、実戦のS.79による雷撃は、高度100m、速度300q/hにて。
207だつお ◆t0moyVbEXw :2014/11/13(木) 15:46:36.80 ID:z0ZUlWMy
第二次世界大戦のイタリアには第15航空軍という米空軍基地が作られており、これはイギリスの第8航空軍に次ぐ規模。
列強最弱でも列強は列強。イタリア半島を朝鮮半島と混同してはいけない、その戦略価値は天と地ほどの差がある。
208名無し三等兵:2014/11/13(木) 17:02:01.53 ID:Pr23bLsi
今のイタ軍は、つおいよ。
コンバットとか見た限りだけど、空挺でも見たことない精悍な面がまえと強靭なガタイ。
209名無し三等兵:2014/11/13(木) 17:58:55.59 ID:ZC3rrmXE
参考になるなあ
210名無し三等兵:2014/11/13(木) 19:26:30.61 ID:rEpLVMVp
イタリアは地域的な戦略価値ではく軍としての価値が問題なのでは・・・
211名無し三等兵:2014/11/16(日) 20:08:50.26 ID:jaxI1Ctt
昭和十三年の春にイタリアの極東艦隊旗艦の新鋭巡洋艦が横浜港へ入港し、米内海相主催の晩餐会が行われ、井上も出席した。
宴会の始まる前に井上は古賀峰一中将に、こうささやいた。
「見ててごらんなさい。外見は立派な海軍士官ですがね、連中、接待用に出してあるあの葉巻を、全部ポケットへ入れて持ち帰りますから」と。
閉会後、テーブルを見ると、井上の言ったとおり葉巻は一本も残っていなかった。

昭和二年の十一月、井上は駐イタリア大使館附武官としてローマにいた。一年十ヶ月のイタリア生活の中で、イタリア人に対する印象をこう述べている。
「ファシスト党が思想統制民族の団結をいかに鼓吹しても、国民性の本質は一朝一夕には改まらない。過去にどのような学者芸術家を出していようと、
彼ら大多数に染み付いた乞食根性は抜きがたいものがあって、こんな国と手を組むことはとんでもない」と評した。
さらに、制服の軍人が雨が降っても傘をささないのは、おおむね万国共通のマナーであるが、黒シャツ義勇軍の街頭パレードの最中に、たまたま雨が降ったら、
隊列を乱して我先に軒下に雨宿りに駆け込む姿に、あきれたという。
バスの車掌や売店の売り子がつり銭をごまかすのは毎度のことで、陽気で憎めないところはあるが、国民総自堕落、総コソ泥の感じを受ける。と酷評している。
212名無し三等兵:2014/11/17(月) 17:57:15.84 ID:mzDuWtfT
人の見る目の無さ、視野の狭さ、早合点して決めつけるあたり
さすが日本人だな
2131/6:2014/11/17(月) 20:43:31.00 ID:lwQ52nm/
B. DOCTRINE
3.Antisubmarine
 During the First World War, Italy conducted antisubmarine warfare with a variety of small coastal craft armed with 47mm
guns, depth charges, and towed torpedoes. By 1918 the navy deployed some three hundred vessels supported by more than a
hundred flying boats, seven airships, and a system of defended anchorages. By the eve of the Second World War, Italy's
antisubmarine capabilities had regressed. The hydrophone remained the principal means of locating a submarine underwater;
the navy lacked a specialized corvettesized warship and a modern coastal craft and seaplanes available two decades before.

3.対潜水艦
 第一次世界大戦中に、イタリアは、47_砲や爆雷や曳航水雷などで武装した、多種の小さな沿岸用の船*3 を対潜水艦戦力として
運用していた。1918年になると、伊海軍は100機以上の飛行艇と7機の飛行船、そして停泊地の防御体系に支援された約300隻の
<対潜>艦艇を配備するまでに至った。
 第二次世界大戦の直前までには、イタリアの対潜水艦能力は退化してしまっていた。
 水中聴音器がいまだに水面下の潜水艦の位置を特定する主な手段だった*4。伊海軍には、<対潜任務に>特化したコルベット級の
艦艇、近代的な沿岸船、利用可能な水上機が20年前<1920年>から欠乏していた。
2142/6:2014/11/17(月) 20:44:52.20 ID:lwQ52nm/
 This situation existed because of a lack of funds, not a lack of vision. After a solitary and expensive 1929 prototype
( the aptly named Albatros ) and four long-range escorts of the Pegaso class laid down in 1934, and facing the planned
retirement of many of the old torpedo boats and destroyers, Regia Marina staff requested sixty economic, 500-t corvettes
and a division of twelve floatplane-equipped antisubmarine sloops. However, the money was not there. Moreover, the
government's belief in a short war encouraged the notion that existing units ( which in 1940 totaled thirty-six old
destroyers and torpedo boats and two dozen armed merchant cruisers*6 ) would suffice, even if they were hardly ideal for
the task. Fortunately for the Regia Marina, the modern torpedo boats proved adequate antisubmarine vessels, despite the
much different intentions behind their design. With the modern destroyers, they sank three of the twelve British submarines
present in the Mediterranean in the war's first weeks.
2153/6:2014/11/17(月) 20:45:55.84 ID:lwQ52nm/
 この状況(対潜能力の不足)は、海軍の未来展望の欠如からではなく財源<海軍軍事予算>の不足から現れた物であった*5。ただ一隻
の、そして高価な1929年の原型試作(適切にアルバトロスと命名された)の後に、4隻の長距離船団護衛のオルサ級<ペガソ級>水雷艇
が1934年に起工した。そして多数の老朽化した水雷艇と駆逐艦の退役の計画に直面して、伊海軍参謀は、60隻の経済的な500d
コルベット、そして水上機を装備した12隻の対潜スループによる分艦隊を要求した。
 しかしながら海軍には予算が無かった。そのうえ、政府の短期決戦への信奉は、現存部隊(1940年に合計36隻の古い駆逐艦と
水雷艇、そして2ダース<ほどの>武装商船巡洋艦*6)で<対潜任務にあたるは>十分であろうという考えを助長していた。たとえそれら
が対潜任務にとって、はなはだ理想的ではないとしても。
 伊海軍にとって幸運だったのは、最新の水雷艇*7 が対潜艦艇として十分であると証明された事であった、水雷艇の設計意図とは
大きく違っていたにもかかわらず。
 最新の駆逐艦は大戦の最初の一週間で、地中海に存在する12隻の内の3隻の英潜水艦を沈めた*8。
2164/6:2014/11/17(月) 20:47:01.60 ID:lwQ52nm/
 Nonetheless, by October 1940 it was clear to the navy's leadership that they needed to drastically improve the navy's
antisubmarine capabilities. That month the Italian yards received the order for the first twelve ( later sixteen )
specialized antiair / antisubmarine ( AA/ASW ) escorts of the Ciclone class. On 1 August 1941 an ASW command, Ispettorato
Antisom, began operation. This led to plans to construct sixty subchasers and sixty corvettes. The new command also
greatly increased the number of personnel trained to use the hydrophones and sonar equipment and began to draft Italy's
first modern tactical antisubmarine doctrine.

 それでもやはり、1940年10月までには、伊海軍はその対潜能力を抜本的に改善する必要があることが、伊海軍の指導者に
とって明白になった。その月にイタリアの製造所<造船所>達は、最初の12隻の(後には16隻)対空対潜護衛に特化したチクローネ級
水雷艇の発注を受けた<前段の『12隻の対潜スループ』を引き継ぐものであろう…>。
 1941年8月1日に対潜司令部『 Ispettorato Antisom*9 』は任務を開始した。これは60隻の駆潜艇*10 と60隻のコルベット*11
を建造する計画を導いた。この新しい対潜司令部は、水中聴音器と水中音波探知装置の訓練を受けた人員をも、大いに増員した。
そしてイタリアで最初の最新の戦術的な対潜教義を起草し始めたのだった。
2175/6:2014/11/17(月) 20:48:23.80 ID:lwQ52nm/
*3 M.A.S.艇(対潜水艦モーターボート)を指す
  Tipo "S.V.A.N. da 12 Tonn." Tipo "Orlando da 12 Tonn." Tipo "Elco(米国) originale da 40 Tonn." など多種
  ttp://www.marina.difesa.it/storiacultura/storia/almanacco/Pagine/mas.aspx
  
  全体の何割か、少なくとも40隻以上の艇には、Rognini & Balbo 製の2基のモーターが搭載されておりレシプロエンジンとの
  併用により静音航行が出来た、(ガッビアーノ級コルベットのコンセプトのはしり)。
  ――『Conway's All the World's Fighting Ships, 1906-1921』より
  手前2隻目の船尾に見えるのが曳航水雷のよう…
  ttp://www.naviearmatori.net/albums/userpics/14438/1387809431.jpg
  
  第一次大戦時には、対潜任務以外に敵停泊地の進入の際にもモーターによる静音航行を行っていたよう…。
  ttp://www.historynet.com/naval-weaponry-italys-mas-torpedo-boats.htm
*4 ソナー:水中音波探知機(ecognoiometro)に関しては>>155
*5 軍事予算は>>173-174
*6 (漠然と)2ダースほどの…意味、武装商船は、[伊] incrociatori ausiliari (補助巡洋艦)、
  35隻の伊補助巡洋艦の内で爆雷投下軌条があるのは以下の9隻。
  アドリアティコ(Adriatico)1,976t、Ipparco Baccich 1,500t、ブリオーニ(Brioni)1,240t、カッターロ(Cattaro)1,280t、
  ラゴ・ターナ(Lago Tana)790t、ラゴ・ズワイ(Lago Zuai)790t、ロレダン(Loredan)700t、
  ロレンツォ・マルチェロ(Lorenzo Marcello)1,415t、ラザロ・モチェニーゴ(Lazzaro Mocenigo)1,290t。
2186/6:2014/11/17(月) 20:49:10.66 ID:lwQ52nm/
*7 スピカ級水雷艇を指すと思われる
*8 英潜水艦オーディン( Odin )、グランパス( Grampus )、オルフェウス( Orpheus )の3隻
  英オーディン1940年6月14日沈没、伊駆逐艦ストラーレ(ダルド級1932年就役)同バレノ(フォルゴレ級1932年就役)の攻撃により。
  英グランパス1940年6月16日沈没、伊水雷艇キルケ(スピカ級1938年就役)の攻撃により。
  英オルフェウス1940年6月19日沈没、伊駆逐艦トゥルビーネ(トゥルビーネ級1927年就役<ちょっと古い>)の攻撃により。
  遅ればせながら…英フェニックス1940年7月16日沈没、伊水雷艇(駆潜艇)『アルバトロス』の攻撃により。
*9 [伊] Ispettorato (検査官、視察団) Comando より下位の統治組織ぐらいの意味か
  Antisom = [伊] anti-sommergibile (対‐潜水艦)
*10 Vedette antisom (Motovedette antisommergibili: 対潜哨戒艇)= VAS艇
   tipo Baglietto 68 tと、tipo Ansaldo 80
*11 ガッビアーノ級コルベット
219名無し三等兵:2014/11/18(火) 00:22:14.98 ID:CBSWiR9G
>>212
同じようにイタリアで駐在武官やってた平出英夫は逆に親伊派で
「井上は近代イタリアを知らない」って反論していたんですよね、何が違ったのか
2201/6:2014/11/24(月) 18:35:29.78 ID:DMfWUDgr
B. DOCTRINE
4.Submarine
 In 1940 Italy possessed 115 submarines ( 84 operational, 29 undergoing repairs, and 2 working-up ). Of the subs, 39 were
oceangoing while 69 were " Mediterranean " boats. Italy's submarine Operations during the First World War wer limited to
the Adriatic's narrow waters where targets were few. The Regia Marina, moreover, diligently studied the German experience
and concluded that antisubmarine forces and new technology had defeated the conventional submarine. Based on this
conclusion, Italy explored the concept of a snorkel and later a workable single engine, air-independent*13原文ママ submarine
during the 1920s and 1930s but failed to develop an effective prototype. Therefore, the Regia Marina relied on numbers.

4.潜水艦
 1940年にイタリアは115隻の潜水艦を保有していた(84隻が作戦可能であり、29隻が修理中、そして2隻が拡張工事中だった)。
潜水艦の内、39隻が外洋航海型であり、69隻は『地中海型<沿岸警備型>』であった*12 。
 第一次世界大戦中の伊海軍の潜水艦作戦は、獲物がほとんどいないアドリア海の狭い海域に限られていた。
 伊海軍は、さらに、独軍の経験を勤勉に学習した、そして対潜水艦部隊と新しい技術は従来の月並みな潜水艦を打ち負かして
しまったと結論付けた。
 この結論に基づき、1920年代から1930年代にかけて、伊海軍は非大気依存推進の潜水艦を探究した、それはシュノーケルと最近の
物になる単基のエンジンによる構想だった、しかし実戦に使える試作機の開発に失敗してしまった。
 それゆえ、伊海軍は<潜水艦に関しては>数に頼ることにしたのであった。
2212/6:2014/11/24(月) 18:36:37.84 ID:DMfWUDgr
 Italy envisioned its oceanic submarine cruisers operating alone. Their number demonstrated an intention to project power
on the high seas and plans existed to construct naval bases on the Indian Ocean in Italian East Africa. However, the
advent of war found Italy's oceanic access constricted by choke points at Gibraltar and Aden. Moreover, the Regia Marina's
lack of experience in oceanic warfare led to unrealistic training and unsatisfactory technical characteristics. Italy's
interwar boats were designed for cruiser tactics and did not compare favorably to the smaller and faster German boats
adapted for wolf-pack tactics.

 伊海軍は外洋航海型の潜水艦を単艦で作戦する事を想定していた。
 潜水艦の数は、外洋において海軍力を突き出そうとする<注力する>考えを示していたし、またインド洋のイタリア領東アフリカ*14
に海軍基地を建設する計画の存在を示していた。
 しかしながら、戦争が到来すると、イタリアの外洋への出入り口はジブラルタルとアデンの閉塞地点で締め上げられていることが
わかった。さらに、伊海軍の外洋戦闘における経験の不足は、非現実的な訓練と不満足な<潜水艦の>技術的特性をもたらした。
 伊海軍の戦間期における潜水艦は巡洋用兵のもとに設計されていた<大型で航続距離が長い>、群狼戦術に適合させた小さく高速
な独潜水艦と比べると遜色がないとは言えなかった<見劣りがした>*15。
2223/6:2014/11/24(月) 18:37:44.29 ID:DMfWUDgr
 Comand Supremo*16 tasked the submarine force with launching an immediate offensive, and when war began, fifty-five boats
lurked in ambush positions or in multiboat patrol lines throughout the Middle Sea. However, the Allies had stopped all
Mediterranean traffic beginning 30 April 1940, and from 23 May in the Red Sea, which left few targets. Italian submarines
only sank one light cruiser, one steamship, and two tankers in the war's first two weeks and damaged a tanker and a
freighter. Moreover, because the British had penetrated some Italian naval codes, the undersea force took a beating,
losing by all causes ten boats in the first weeks. Once the Regia Marina switched codes, however, losses, fell sharply.

 最高司令部*16 は即座に攻撃態勢をとるようにと、潜水艦部隊に任務を課した。そして戦争が始まった時、55隻の潜水艦が
待ち伏せ位置に潜伏するか、もしくは多数の潜水艦で地中海のすみずみにに哨戒線を張った。
 しかしながら、1940年の4月30日から連合国軍は地中海の全ての交通を止めてしまった、次いで紅海の交通は5月23日から止めて
しまった、<なので>そこ<地中海と紅海>には、ほんの少ししか<伊海軍潜水艦の>獲物が残されていなかったのである。
 <そういうわけで>伊海軍の潜水艦が開戦後の二週間で撃沈したのは、1隻の軽巡、1隻の汽船、そして2隻の油槽船だけだった*17、
そして1隻の油槽船と1隻の貨物船に損害を与えた。
 そのうえ、英国は伊海軍のいくらかの暗号を見抜いてしまっていたので、伊海中戦力<潜水艦>は痛手を受けた、そして全ての
原因<自沈なども含む>により伊海軍は10隻の潜水艦を最初の一週間で失った。
 が、しかし、ひとたび伊海軍が暗号を変えると潜水艦の損失は急激に落ちた<急激に減った>。
2234/6:2014/11/24(月) 18:38:55.72 ID:DMfWUDgr
 Italy generally maintained twenty to twenty-five boats at sea at any given time until late 1941 when a new doctrine went
into effect whereby Supermarina withheld submarines until it detected a large operation. Mediterranean conditions,
unrealistic training, inadequate tactics, a shortage of targets, and British antisubmarine expertise prevented Italy from
realizing significant advantages from its large submarine force. Most of the successes achieved by Italy's " dolphins*18 "
came in the Atlantic.

 伊海軍は1941年末までは、いかなる時にも、通常20〜25隻<だけ>の潜水艦を海上に維持していた<作戦させていた>。1941年末に
なると、それまで大きな作戦を見いだせずに、<多数の>潜水艦を控置していた海軍最高司令部(スーパーマリーナ)により新しい
教義が実施された。
 地中海という状況、現実的でない訓練、不適当な戦術、標的の不足、そして英国の対潜専門技術は、イタリアが海軍の大きな
潜水艦戦力で重大な優越を得ることの妨げになっていたのだった。
 伊海軍の『イルカ*18』達が成し遂げた成功の大部分は大西洋で挙げられたものだった。
2245/6:2014/11/24(月) 18:40:28.94 ID:DMfWUDgr
*12 外洋航海型、沿岸警備型…『イタリア軍入門 /吉川和篤/山野治夫』より。

   39隻+69隻=108…第一次大戦時建造のH級5隻とX級2隻を除いた数字。
   さらに識者によっては総計を115隻ではなく117隻とする場合があるが、恐らくはCA級のポケット潜水艦2隻を含めるか否か。
*13 Air-Independent Propulsion
*14 イタリア領ソマリランドのキスマヨ、[伊] Chisimaio, [英] Kismayo,
  『 Assab and Chismaio ― A small naval and submarine base had been planned for both of these ports in East Africa but
   on 10 June 1940 construction had not yet begun.
   ―― Mussolini’s Navy: A Reference Guide to the Regia Marina 1930-1945 / Maurizio Brescia ―― 』
   (アッサブは紅海の港)
*15 レオナルド・ダ・ヴィンチ:グリエルモ・マルコーニ級 1,171t/1,446t 18.0kt/8.0kt(/h) 8ktで10,500海里
   U-47:ZB型                     753t/ 857t 17.9kt/8.0kt(/h) 10ktで8,500海里
2256/6:2014/11/24(月) 18:49:45.92 ID:DMfWUDgr
*16 >171
  従来 Stato Maggiore Generale 1941年5月以降 Comand Supremo なので、ここは Stato Maggiore Generale (参謀本部)
  のはず…
*17 1940年6月12日英軽巡カリプソ(バニョリーニ<Bagnolini>リウッツィ級、の攻撃により)、同ノルウエー油槽船オルカンゲル
   (ナイアード<Naiade>シレナ級、の攻撃により)、6月16日ルウエー油槽船 James Stove (ガリレオ・ガリレイ:アルキメデ級
   の攻撃により)、6月22日スウエーデン貨物船 Elgo (ピエール・カッポーニ<Pier Capponi>ゴフレド・マメリ級、の攻撃に
   より)、James Stove のみ紅海にて、他は地中海にて。
*18 伊潜水艦搭乗員の徽章がイルカがモチーフであることに掛けていると思われる、つまりはイタリア潜水艦乗りの意味。
   もしくは、伊海軍最初の潜水艦が " Delfino " デルフィーノ(イルカ)1895年就役、だったことか。
226名無し三等兵:2014/11/24(月) 19:13:23.27 ID:DMfWUDgr
ERROR:さくらが咲いてますよ。urlが貼れなかった、そゆことか…

>伊潜水艦搭乗員の徽章がイルカ

italian SOMMERGIBILI Badge
↑これで検索すると可愛いイルカが「キュイッ」と出てくるよ
2271/6:2014/12/01(月) 18:16:39.77 ID:wFXIiWu9
B. DOCTRINE
5.Amphibious Operations
 Prewar Italian amphibious doctrine was based on the concept of the coup de main. Planners envisioned operations against
Corsica, Yugoslavia's Dalmatian coast, and the Greek Ionian island. The Regia Marina maintained a flotilla of
semispecialized amphibious units in June 1940 ( a prototype and four ships of about 1,000tons, which doubled as water
carriers ) and the San Marco marine infantry brigade 原文ママ.

5.陸海共同作戦(上陸作戦)
 戦前のイタリア軍の陸海共同作戦は奇襲の概念に基づいていた。
 作戦立案者は、コルシカ島、ユーゴスラヴィアのダルマチア海岸、*19 ギリシャのイオニア諸島に対しての<上陸>作戦を心に
描いていた。
 伊海軍は1940年の6月の時点で、半ば上陸作戦に特化した一つの小艦隊(1隻の試作船と4隻の約1,000dの水運搬船と兼用の船)*20
とサン・マルコ海兵旅団<原文ママ>を保持していた。
2282/6:2014/12/01(月) 18:17:45.11 ID:wFXIiWu9
 After a failed March 1939 assault against Cartagena, Spain, delivered by two Nationalist merchant vessels adapted as
amphibious ships, Italian staff concluded that many small landing craft would stand a better chance of success in an
opposed landing that a few large ones. In May 1939 they projected a 20-ton craft capable of landing a 13-ton tank from a
forward ramp. However, the program for a batch of fifty such units was cancelled in November 1939. Although the army and
some young admirals argued that an assault against Malta in the war's first month was feasible, Cavagnari rejected the
idea believing that such an enterprise would require the battle force ― which at the time consisted of only two rebuilt
battleships ― to concentrate in a predictable place and time where it would be exposed to an overwhelming Franco /
British counterattack.

 1939年3月のスペインのカルタヘナに対しての強襲作戦失敗の後で…、<将兵の一部は>上陸作戦用船舶として適合させられた
ナショナリスト派の2隻の商船によって搬送されていた。*21…その失敗の後で、伊の参謀は結論付けた、<敵の>抵抗を受ける
上陸作戦においては、数隻の大型上陸用船舶より、多数の小型の上陸用舟艇の方がより作戦の成功の見込みがあると。
 1939年5月に伊の参謀達は、前面の傾斜路から1台の13dの戦車を揚陸可能な20dの舟艇を企画した。しかしながら、その20d
舟艇の50隻の生産ロットの計画は1939年11月に中止された。
 陸軍と何人かの若手の海軍将官たちは、戦争の最初のひと月<序盤>でマルタ島に対する強襲は実行可能であると、主張した
のだったが、カヴァニャーリ<海軍参謀長>はそのマルタ島強襲のアイディアを拒絶した。
 カヴァニャーリには、そのアイディアのような冒険的な企ては<伊海軍>戦力に――この頃はたった2隻の改修した戦艦から
成っていた――<敵が>予測出来る場所と時間に我が戦力を集中する事を要求するだろうし、そしてそこで我が戦力は圧倒的な
仏/英の反撃にさらされるであろう、と思えたのだった。
2293/6:2014/12/01(月) 18:18:39.05 ID:wFXIiWu9
 In the end, the navy did not undertake any large-scale amphibious operations. On 28 October 1940 bad weather foiled an
operation to land the San Marco Regiment and the Bari Infantry Division on Corfu on the opening day of the invasion of
Greece. There were, however, many small actions including a successful counterinvasion of Castellorizzo in February 1941,
landing on the Dalmatian islands in April and on Greek islands in May 1941 ( including Crete ), and unopposed landings
on Tunisia and Corsica in November 1942.

 とうとう伊海軍は大規模な上陸作戦を一つも行わなかった。1940年10月28日に悪天候がギリシャ侵攻初日の、サン・マルコ
連隊と<第47>歩兵師団バーリの、コルフ島への上陸作戦をくじいた。*22
 しかしながら、多数の小さな実施された行動があった、1941年2月のカステロリゾ島の再奪取の成功*23、1941年の4月の
ダルマチアの諸島への上陸、それと5月のギリシャの諸島への上陸(クレタ島を含む)、そして1941年5月の抵抗勢力のない
チュニジアとコルシカ島への上陸である。
2304/6:2014/12/01(月) 18:19:41.86 ID:wFXIiWu9
*19 参考 Irredentismo italiano (未回収のイタリア)
*20 NAVI DA SBARCO (上陸用艦艇)- CISTERNA ACQUA (水運搬船)
  ・Adige (アディジェ) 810t (1929年就役)†
  ・Sesia (セージア)- classe "Sesia" 1,460t (1934年)‡
   ttp://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=136199
  ・Garigliano (ガリリャーノ)- classe "Sesia" 1,460t (1934年)‡
   ttp://www.anb-online.it/wp-content/uploads/2012/10/0106.jpg
  ・Tirso (ティルソ)- classe "Tirso" 1,086t (1937年)‡
  ・Scrivia (スクリーヴィア)- classe "Tirso" 1,086t (1937年)¶

  †:Dipartimento militare marittimo "Ionio e Basso Adriatico" (イオニア海及び南アドリア海海軍管区)
    >> Comando militare marittimo "Basso Adriatico" Base: Brindisi (南アドリア海海軍<小>管区、ブリンディジ基地)

  ‡:Dipartimento militare marittimo "Ionio e Basso Adriatico" Base: Taranto (イオニア海及び南アドリア海海軍管区、
    ターラント基地)

  ¶:Comando militare marittimo autonomo "Alto Adriatico" (独立北アドリア海海軍管区)
    >>Comando militare marittimo "Pola" base: Pola (ポーラ海軍<小>管区、ポーラ基地)

*21 スペイン内戦末期のカルタヘナ蜂起( Cartagena Uprising )で1939年3月7日に、ナショナリスト派の輸送船カスティロ・
   デ・オリーテ( Castillo de Olite )3,545tが、沿岸砲(ヴィッカース製15in砲と6in砲3門)により撃沈される、約2,100人
   の将兵の内1,200人以上が死亡した。
   ttp://www.regmurcia.com/servlet/s.Sl?sit=c,373&r=ReP-22721-DETALLE_REPORTAJESPADRE
2315/6:2014/12/01(月) 18:20:48.45 ID:wFXIiWu9
*22 『 22 OCTOBER 1940
   The Italian " Special Naval Force " was formed with old light cruisers BARI(バーリ、竣工1914年)‡ and
   TARANTO(ターラント、竣工1911年)‡; 《 destroyers MIRABELLO(1916年就役)† and RIBOTY(1917年)†;
   torpedo boats CALATAFIMI(1924年)§, CASTEL FIDARDO(1924年)§, CURATONE(1923年)§, MONZAMBANO(1924年)§,
   CONFIENZA(1923年)♯, SOLFERINO(1921年)♯, PRESTINARI(1922年)♭, CANTORE(1921年)♭, FABRIZI(1918年)†,
   MEDICI(1918年)†,and STOCCO(1917年)‡; AMCs RAMBV, CAPITANO A, CECCHI, LAGO TANA, and LAGO ZUAI;
   four MAS boats of the 13th Flotilla§;》 and three landing ships of the SESIA type‡.
    Italian torpedo boats ANTARES, ALTAIR, ANDROMEDA and ARETUSA of the 12th Torpedo Boat Division were assigned as a
   fighting force to support the operation.
    This force was formed for a landing on Corfu and departed on the 31st, but 1 November, the orders were changed to
   land troops at Valona instead, and the Corfu operation was cancelled.
   ―― World War U Sea War, Volume 3 / Donald A Bertke、Gordon Smith、Don Kindell ――』

   …略…この部隊はコルフ島上陸の為に編成された、そして1940年10月31日に出発した。しかし11月1日に命令はヴァローナ
   <アルバニアの旧首都>を代替えとして上陸することに変更になった、そしてコルフ島上陸作戦は中止された。

   §:Dipartimento militare marittimo "Alto Tirreno" Base: La Spezia
   ♯:Comando militare marittimo autonomo "Alto Adriatico" Base: Venezia
   ♭:Dipartimento militare marittimo "Basso Tirreno" Base: Napoli
2326/6:2014/12/01(月) 18:21:55.65 ID:wFXIiWu9
  『 21 OCTOBER 1940
   Italian MARITRAFALBA command ( CV Polacchini ) was formed in Brindisi, Italy, to escort troop and supply convoys to
   Albania. The escort group included 《 destroyers MIRABELLO……the 13th Flotilla 》(上のカッコ《 》内).
   ―― World War U Sea War, Vol…―― 』

    1940年10月21日、イタリア軍の MARITRAFALBA (アルバニア護送船団)司令部(ポラッチーニ大佐指揮)がブリンディジに
   編成された、アルバニアへの護送船団の移動手配と上陸部隊の護衛が目的だった。護衛部隊は次から成っていた、駆逐艦
   ミラベッロ……第13小艦隊。

   MARITRAFALBA ( MARI-TRAF-ALBA )アルバニアへの海軍の交通=アルバニア護送船団
   CV = Capitano di Vascello, 大佐

*23 英呼称アブステンション作戦 (Operation Abstention) への反撃と島の再奪取。
2331/2:2014/12/08(月) 19:08:31.98 ID:enfKoGbY
B. DOCTRINE
6. Trade Protection  
 The Regia Marina maintained a dedicated escort command to protect the sea routes to Spain, France, and the Balkans.
Communications with Libya and the Dodecanese were responsibilities of Supermarina. Because the North African and Balkan
harbors were generally small with limited facilities, Italy favored small convoys and frequent departures. Torpedo boats
and old destroyers performed most routine escort duties, but in special cases fleet destroyers, cruisers, and even
battleships would put to sea to shepherd a convoy through. Up until the fall of Greece in April 1941, Supermarina supplied
the Dodecanese using submarines and solitary merchant ships, which made six successful voyages between August 1940 and
January 1941; the fast sloop Diana, when she became available, made two decisive trips in February and March 1941.

6.通商保護
 伊海軍は、スペイン、フランス、そしてバルカン諸国への海上航路を保護するための、専門の護衛司令部*24 を維持していた。
リビアとドデカネス諸島との連絡は海軍司令部(スーパーマリーナ)の責任だった。
 北アフリカとバルカンの港は大概小さく、設備も限られていたので、イタリアは小さな護送船団で頻繁な出港を促進した。
 大部分の日常的な護衛任務は、水雷艇と古い駆逐艦達が実行した、しかし、特別な場合には艦隊型駆逐艦、巡洋艦、そして
戦艦までもが、船団を<航海の>始めから終わりまで護るために出港していたものだった。
 1941年4月のギリシャの瓦解までの間に、海軍司令部(スーパーマリーナ)は潜水艦や単独の商船を使ってドデカネス諸島に補給
を行っていた。その商船単独の輸送は、1940年8月から1941年1月にかけて、6度の航海を成功させた。
 高速スループ*25 のディアナが<ドデカネス諸島への輸送に>使用出来るようになると、ディアナは1941年の2月と3月に思い
切った2往復<の輸送>をしたのだった。
2342/2:2014/12/08(月) 19:09:34.25 ID:enfKoGbY
*24 Comando Difesa Traffico ( MARICOTRAF ) 交通護衛司令部。

  その関連

  ・ Comand Motonavi Veloci (‘ Mariconvo', i.e.‘ Fast Merchant Vessels Command' ), that began operating in Naples in
  March 1942;
   Comand Motonavi Veloci (‘ Mariconvo'、すなわち高速商船隊司令部)は1942年3月にナポリで運用を開始した。

  ・ Comando Gruppo incrociatori Ausiliari e Navi Trasporto (‘ Maritrasporti' ), with jurisdiction over auxiliary
  cruisers;
   補助巡洋艦群及び輸送船司令部( Maritrasporti )は補助巡洋艦を管轄する権限を持つ。

  ・ Comando Superiore del Dragaggio (‘ Maridrag ' ) co-ordinating the very large number of minesweeper groups scattered
  throughout home waters as well as in the Aegean and North Africa.
   掃海最高司令部( Maridrag )は、近海と同様にエーゲ海と北アフリカ沿岸までをも含めた海域へ、非常に多数の掃海艇群を
  分散させる調整をとる。
  ( ―― Mussolini’s Navy: A Reference Guide to the Regia Marina 1930-1945 ―― )

*25 [伊] Avviso veloce (高速通報艦)
235名無し三等兵:2014/12/17(水) 12:28:51.73 ID:fJ1ZLNaA
セモヴェンテと一式砲戦車がガチでやりあったらどっちが強いですか?
2361/5:2014/12/19(金) 18:24:20.90 ID:h1M7v0tc
B. DOCTRINE
7. Communications
 The tight control exercised by Supermarina and the officer in tactical command required quick and reliable
communications. Italy considered its ship-to-shore links to be reasonably efficient from the beginning, and these improved
with war experience. For tactical communication, the Regia Marina introduced in Spring 1940 the TPA ( telefono per
ammiragli ), equivalent to the American TBS ( Talk Between Ships ).
 At the same time, navy doctrine, sensitive to security requirements, minimized radio traffic. One ongoing problem for
nearly the entire war was the lack of direct ship-to-plane radio links ( except for the floatplanes catapulted by the
cruisers and battleships ). Finally, in August 1943, after about eighteen months of study and experiments, certain ships
finally received a fighter-direction capability that was considered efficient and affordable.

7.通信
 海軍司令部(スーパーマリーナ)と戦術指揮に就く将校が、<隷下の部隊を>きっちりと管制するには、素早く信頼性の高い通信
が必要だった。イタリアは最初から船と陸との<通信>接続は合理的に効果的である、と考えていた*26、そしてそれら<通信>接続
は戦争の経験を伴って進歩した。
 戦術的な通信のために、1940年の春に伊海軍はTPA *27 (提督の電話)を導入した、TPAは米国のTBS(船舶間無線通話)と同等な
ものであった。
 とは言うものの、伊海軍の(安全の必要条件に敏感な)教義は、無線交信を最少限に留めた。一つの目下進行中のほとんど戦争
全体に及ぶ問題は、船と航空機間直接の無線接続の欠如であった(巡洋艦と戦艦から射出された水上機を除いて)。
 1943年8月、ついに、約18か月の研究と実験の後に、ある程度の艦艇が戦闘機指揮能力*28 を備えた、それは効率と手頃さが
良く考えられていたのであった。
2372/5:2014/12/19(金) 18:25:13.34 ID:h1M7v0tc
*26  彼ら<マルコーニ一家>の誰一人として、最も適切な最初の一歩は海軍省に行くことだということを知らなかった。
  …中略…もし担当大臣が、無線通信の使用によって、イタリア艦隊が他国の艦隊に対して比類のない有利な立場にたてる
  ことを理解すれば、間違いなく全面的に支持してくれたことだろう。
   しかし、マルコーニ夫妻<グリエルモの両親>は、海軍省ではなく、郵政省に気持ちが向いていた。なぜなら、郵政大臣が
  国の通信に関するキーマンであり、グリエルモの発明はその管理下におかれるものと判断したからである。
  
  ――父マルコーニ / デーニャ・マルコーニ・パレーシェ // 三舩佳子訳――

*27 Allocchio-Bacchini TPA 20 radio.
   (―― The Littorio Class: Italy's Last and Largest Battleships / Ermingo Bagnasco ――)
2383/5:2014/12/19(金) 18:26:28.15 ID:h1M7v0tc
*28 (―― The Littorio Class: Italy\'s Last and Largest Battleships / Ermingo Bagnasco ――)
  『 Fighter direction station
   The need to provide direct shipboard control of fighter aircraft for the defence of the ship, or of the formation of
   which it was part, against enemy air attack became apparent once the war had started, but was partially resolved
   from late summer of 1942 and was more firmly established from the spring of 1943. The solution was to create a
   station from which an air force officer could continuously direct the air defence fighters, in a position with the
   greatest possible view of the sky over the ship, that was also equipped with the necessary radio-telephone systems.

   戦闘機指揮所
    一たび戦争が始まると敵の航空攻撃に対して、艦艇を防御するための戦闘機を直接船上から指揮する、もしくは編隊の
   一部分を指揮することを準備する必要性が明白になった。しかし、その<船上戦闘機指揮>は1942年の晩夏から部分的に
   解決された、そしてより確かに確立されたのは1943年の春からだった。
    解決策は空軍の将校が継続的に護衛戦闘機を指揮出来る指揮所を<船上に>作ることだった、そこは船上で最大限可能な
   空の視界を得られる場所であり、そこはまた無線電話装置の装備が必要とされていた。
2394/5:2014/12/19(金) 18:27:49.19 ID:h1M7v0tc
   Almost inevitably, the choice of site for this station was the main top, the platform that connected the lower
   section of the mast itself with the near of the primary fire-direction station. Initially the installation consisted
   of a small space given shelter by covering the existing railing with a waterproof canvas cover; although it was well
   suited to overhead observation, it nevertheless provided insufficient protection from the weather for the radio gear
   and internal telephone lines connecting with the command bridge and the anti-aircraft control stations.

    ほとんど必然的に、この指揮所のための用地の選択は大檣楼であり高台だった<指揮所に最も相応しい場所は大檣楼で
   あった>。そこはマストの下部の部署と接続しており、マストそれ自体が主射撃指揮所に近かった<マストとブリッジ
   最上部の射撃指揮所とを繋ぐ、渡り廊下の様なもの>。
    最初のうちは、施設<戦闘機指揮所>は小さな空間から成っていた、そこは既存の鉄索を防水帆布で覆うことによって
   出来た雨覆いが与えられていた。
    防水帆布の雨覆いは頭上の観測にかなり都合が良かったとはいえ、それでも、無線装置と、艦橋や対空指揮所とを繋ぐ
   内部の電話線にとっては、防水帆布の雨覆いは天候からの保護としては不十分な備えであった。
2405/5:2014/12/19(金) 18:29:20.14 ID:h1M7v0tc
   …from late spring-summer of 1943 small sheet-metal shelters were built on the Littorio class, partially open to the
   sky and partially covered by transparent squares of rigid plastic of the type used in aircraft, of slightly
   different sizes on each of the ships.
   These constituted the‘ fighter control \' stations where, in addition to the‘ fighter controller \' seated on a
   platform-mounted stool, another ten or so lookouts and communications personnel were also stationed. When Luftwaffe
   fighters were to be present as part of the air cover, a German air controller and communications personnel were also
   often embarked.

    1943年の晩春から夏以降に、リットリオ級に小さな金属板の雨覆いが建てられた、一部分は無蓋で、一部分は航空機に
   使用されるタイプの透明な正方形の硬いプラスチィックで覆われていた。それは船ごとにわずかな大きさの違いがあった。
    これらに、床に固定された止まり木に据え付けた戦闘機指揮機を加えた物が、『戦闘機指揮』所を構成していた、
   さらにそこには10人ばかりの監視要員と通信要員が詰めていた。
    独空軍戦闘機が上空援護の一部分を務めるべき時は、独軍の指揮官と通信要員がしばしば乗船した。』
2411/7:2014/12/26(金) 18:00:36.58 ID:0M1b5qHI
B. DOCTRINE
8. Special Forces
 The Regia Marina was the only navy to enter the Second World War with a coherent special forces doctrine and a
specialized unit with the training and weapons to carry it out: Decima Flottiglia MAS ( Tenth MTB 原文ママ*29 Flotilla ).

8.特殊部隊
 伊海軍は、理路整然とした特殊部隊教義とそれを実行するための武器を持ち訓練を受けた特殊部隊とともに、第二次世界大戦
に参戦した唯一の海軍だった。その特殊部隊とは『デチマ・マス』(第10駆潜艇部隊)であった。
2422/7:2014/12/26(金) 18:07:47.37 ID:0M1b5qHI
 The idea of forcing enemy harbors is as old as naval warfare, but in the First World War Italy took the next step of
using specialized personnel, tactics, and weapons to penetrate Austro-Hungarian harbors on numerous occasions. The sinking
of the dreadnought Viribus Unitis by frogmen confirmed that special forces could obtain great results. During the 1935
Ethiopian crisis, the old doctrine crystallized under Admiral Cavagnari’s leadership, who, in November 1916, had himself
penetrated the main enemy base of Pola with his torpedo boat during a combined operation. In brief, this doctrine called
for hand-picked and highly trained personnel and carefully planned operations using hitherto unknown weapons. The first
prototypes of new weapons, the SLC for siluro a lenta corsa ( slow speed torpedo ), a manned torpedo called the “pig”for
its horrible sailing qualities, and the MT, an explosive motor boat, appeared at this time.

 敵の港に強行突破で進入するという発想は海戦と同じくらい古くから存在する、しかし第一次世界大戦においてイタリアは
特化した要員、特化した戦術、特化した兵器の使用法において次の段階に進化した、それは多数の機会においてオーストリア=
ハンガリー帝国の港に潜入するためだった。
 潜水工作員による弩級戦艦フィリブス・ウニティスの沈没は*30、特殊部隊をもって大きな戦果を得ることが可能であると
いう事を裏付けた。
 1935年のエチオピア危機<アビシニア危機>の間に、古い教義はカヴァニャーリ提督の指導の下で明確になった<洗練された>、
カヴァニャーリ自身、1916年11月の連合作戦の期間中に水雷艇で敵の主要基地であるポーラに侵入した経験があった*31。
 手短に言えばこの教義は、精選された、そして高度に訓練された要員と、今までのところは知られていない兵器を使った
作戦を、注意深く計画することを必要としていた。
 新兵器の最初の試作機、siluro a lenta corsa の頭文字からSLC(低速走行魚雷)、この人を乗せた魚雷は、そのぞっとする
航行特性から『豚』と呼ばれた。そしてMT、爆装したモーターボート。これらがこの時登場した。
2433/7:2014/12/26(金) 18:09:15.89 ID:0M1b5qHI
 In 1937, while testing a mechanical system to let the SLC pass under a protective boom, an accident revealed that,
contrary to medical literature, human beings could breath pure oxygen from their respirators for more than an hour. This
discovery, tested over the next two years, opened new opportunities because the Italian frogmen could undertake a longer
underwater approach to their target.

 1937年に、SLCが港口の防材を潜って通過するための、機械装置の試験中に起こった事故が、次の事を明らかにした。
医学的文献に反して、人間は人工呼吸器から純粋な酸素を一時間以上も呼吸することが可能であるということを。
 この発見は、二年以上に渡り試験され、<伊海軍に>新たな機会を開いた<与えた>、なぜなら、伊海軍の潜水工作員が標的への
接近のために、水面下で長時間に渡り作業することが可能になったたからである。
2444/7:2014/12/26(金) 18:10:33.06 ID:0M1b5qHI
 Although surprise attacks do not win wars, the Regia Marina\'s leadership considered a strong blow by their secret
weapons a good way to commence hostilities against Great Britain and France. However, the rush to war as well as teething
problems experienced by SLC frustrated this intention. A plan, studied and tested since 1936, to attack Alexandria using
a regularly scheduled liner to ram the booms at dawn while four MAS boats, previously launched by that same ship, followed
and attacked the enemy battleships and carriers was frustrated in early June 1940 by the elementary British precaution of
interdicting Italian vessels entering the harbor. The idea of forcing Malta\'s highly fortified base with a pair of old and
expendable MAS boats was cancelled in late May due to a lack of targets; the contemporary plan to send an old submarine,
the Bausan, with a party of frogmen armed with compressed air scissors to cut a passage through Alexandria\'s booms did not
materialize either as it was considered too desperate and would jeopardize more realistic SLC attacks once those weapons
were combat ready, presumably before the end of the next summer.
2455/7:2014/12/26(金) 18:11:38.02 ID:0M1b5qHI
 奇襲<だけ>で戦争には勝てないが、伊海軍の秘密兵器による強烈な一撃は、英仏に対しての交戦開始には良い方法であると、
伊海軍の指導者は熟考した。しかしながら、戦争への慌ただしさ<せきたてられた準備の整わない参戦>は、SLCにより経験した
初期トラブルと同様に、この<奇襲の>意図を挫折させた。
 アレクサンドリアを<奇襲>攻撃する一つの案が1936年から研究及び試験されていた。この案は、<MAS艇の母船として>定期船
を使って夜明けに港口の防材を押し込んでいる間に、あらかじめ同じ<母船としての>定期船から発進した4艘のMAS艇が、敵の
戦艦と空母を追跡し攻撃するというものだった、しかしこの案は1940年6月初旬に、伊船舶の入港禁止という初歩的な英国の
予防措置によって挫折したのであった。
 一組の古く消耗覚悟のMAS艇による、マルタ島の高度に要塞化された基地への強行突破という着想は、標的の不足のため
5月下旬に中止された。
 最新の案は、古い1隻の潜水艦バウサン*32 を潜水工作員の一隊と一緒に送るというものだった。その潜水工作員達は、
アレクサンドリアの港口の防材を切断して通過するための圧搾空気<で作動する>はさみで武装していた、<しかし>この案も
また実現しなかった、それは余りにも自暴自棄に思えたし、そして、ひとたび戦闘準備を整えたSLCによる攻撃<行動>を、
より現実的に危うくすると思えたので。
 <これらの敵地を奇襲する案は>多分翌年の夏の終わり以前は実現しなかったでしょう。
2466/7:2014/12/26(金) 18:12:53.44 ID:0M1b5qHI
 Finally, rivalry with the air force also affected use of the commandos. Plans to insert a force on seaplanes existed,
but in May 1940 the Regia Aeronautica refused to release the necessary aircraft on the basis that they had a superior
plan. This was a surprise low-altitude strike against Gibraltar by twenty S.79s flying out of a Spanish field at Cartagena.
The group arrived in Spain on the last day of June, but the raid was cancelled on 4 July, the day after the attack on
Mers el-kebir, when Generalissimo Franco suddenly revoked permission for the raid.

 最後に、空軍との競争もまた、奇襲部隊の使用に影響を与えた。
 水上機に攻撃ユニットを差し挟むという案も存在した*33、しかし1940年5月に、必要な航空機を<海軍へ>譲渡することを
伊空軍は拒絶した、それは空軍にはより優れた案があるという根拠に基づいたものであった。この案は、スペイン領のカルタヘナ
から飛び立った20機のS.79により、ジブラルタルに対しての低高度の奇襲攻撃を行うというものだった。
 一団はスペインに6月30日に到着した、しかし空襲は7月4日に中止された。<英海軍による>メルス・エル・ケビールへ<仏領>の
攻撃の翌日、その時フランコ大元帥は突然空襲への許可を無効にしたのだった。
2477/7:2014/12/26(金) 18:14:07.47 ID:0M1b5qHI
*29 MAS の誤り、校正もれと思われる。
  『 [伊] Decima Flottiglia MAS 〔これを英文で言い換えると〕( Tenth MAS Flotilla ) 』と書くつもりだったのでは。
*30 1918年11月1日に伊海軍のラファエレ・ロセッティ少佐とラファエレ・パオルッチ医療中尉が「ミニャッタ(mignatta)」を
   使い撃沈させた事。
   ttp://www.marina.difesa.it/Notiziario-online/Pagine/20141031_rossetti.aspx
*31 ttp://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/15696596
*32 ピサーニ級ジョバンニ・バウサン(Giovanni Bausan)880t、1929年就役
   この艦のパフォーマンスもやや \"expendable\" 消耗覚悟か…
   ttp://www.marina.difesa.it/storiacultura/storia/almanacco/Pagine/Smg/pisani_bausan.aspx
*33 SLCをZ.506Bなどに、MT艇をSM.55に。(Viva! 知られざるイタリア軍/吉川和篤)
248名無し三等兵:2014/12/28(日) 09:41:02.96 ID:2+n4N9Ke
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
249名無し三等兵:2014/12/28(日) 17:17:17.01 ID:sNvVyyDu
2501/3:2015/01/22(木) 17:11:57.62 ID:8VhIIK/f
V. MATERIEL
A. SHIPS
 Between 1922 and 1939 Italy laid down 126 surface warships displacing more than 600 tons and armed with at least a
100-mm gun, and 108 submarines. By 10 June 1940 the Regia Marina possessed a modern fleet with its World War T holdovers
consisting of just four ( reconstructed ) battle ships, two light cruisers, and a collection of second-line destroyers
and torpedo boats ( see table 4・1 ).

V.軍用資材
A.艦艇
 1922年から1939年の間にイタリアは126隻の水上艦艇を起工した、それらは排水量600d以上で少なくとも100_砲で武装
していた、それに加えて108隻の潜水艦を起工した。
 1940年6月10日には、伊海軍は近代的な艦隊を所有していた、<しかし、その主力は>第一次世界大戦の生き残りの4隻の
(改修した)戦艦と2隻の軽巡洋艦、そして二戦級の駆逐艦と水雷艇だった。
2512/3:2015/01/22(木) 17:12:36.43 ID:8VhIIK/f
TABLE 4・1 Warships Available on the Outbreak of War and Subsequent Additions
(開戦時に使用可能な艦艇と開戦以降に加わった艦艇)

           Post-1922  Pre-1922   Subsequent Additions (開戦後に加わった艦艇)

Battleships        0       2      2 pre-1922 recomissioned and
                            3 new construction
Hevy cruisers      7       0      0
Light cruisers      12      2       3 new construction
Destroyers        57      2       5 new construction
                            7 captured
Torpedo boats      34     33      16 new consutruction and
                            1 recommissioned
Sloops           1      0       1 new consutruction and
                            1 captured
Corvetts          1      0      29 new consutruction and
                            2 captured
Submarines       115      0      38 new consutruction and
                            3 captured
2523/3:2015/01/22(木) 17:13:17.30 ID:8VhIIK/f
 The four old battleships of the Cavour and Doria classes were extensively reconstructed, having their main batteries
rebored from 12-inch to 12.6-inch, losing a turret, adding new secondary batteries, super structures, machinery, fire
control, and some protection. They emerged as useful, twenty-eight-knot ships, although hardly the equal of the French
Dunkerque class. Their protection proved vulnerable when tested in action; a single 15-inch shell caused Giulio Cesare to
terminate a surface action, and at Taranto one Torpedo sank Conte di Cavour. The three commissioned battle ships of the
Littorio class, conversely, were arguably equal to any design in the world with powerful guns, adequate protection, and a
good turn of speed.

 カブール級とドリア級の4隻の古い戦艦は大規模に改修された、主砲は12インチ(305mm)から320mm(12.6インチ)にボーリング
し直され、<第3>砲塔を廃止し、新しく副砲を加え、上部構造物、機械類、射撃管制、そしていくつかの防護を加えた。
 それらは28ノット<を出せる>使える船として出現した、とはいえ、とてもフランスのダンケルク級と同等とは言えなかった。
 実戦において<それらの>防御は脆弱である事を証明した、一発の15インチ砲弾がジュリオ・チェザーレに海上の戦闘を終了
させた、そして、タラントにて一本の魚雷がコンテ・ディ・カブールを着底させた。
 翻って、リットリオ級の3隻の就役した戦艦は、ほぼ間違えなく、強力な砲、十分な保護、優れた速力の変化を持つ
世界中のどんな設計<の戦艦>にも十分渡り合える力量があった。
253名無し三等兵:2015/01/22(木) 21:18:30.53 ID:yUOzGDPC
そいやイタリアも3番砲塔なの?


日本のように一番二番なのか。
ドイツみたいに、アントン、ブルーノや
英米みたいにA、Bじゃないんだな。
254名無し三等兵:2015/01/22(木) 22:55:51.64 ID:8VhIIK/f
原文は> losing a turret,
一つの砲塔を廃し、
で〈 〉は(全て)私自身で補った言葉ですから…

イタリア語の文献を探しになったらいかがです?
255名無し三等兵:2015/01/22(木) 23:44:56.12 ID:8VhIIK/f
>>253
仮に tre, だとして トレ砲塔って書くのが親切なの?アントン砲塔さん
これから独艦はアントン砲塔、ブルーノ砲塔で頼みますわ。
256名無し三等兵:2015/01/23(金) 01:01:06.73 ID:3V541IfE
魚雷が艦底で起爆したせいで大穴開けられて再起不能になったカブールを脆弱と謗るのは酷だと思うのよ。
257名無し三等兵:2015/01/23(金) 12:47:37.35 ID:DeVZB7p7
艦底防御ぐらいちゃんとするのはごく普通のことだが
258名無し三等兵:2015/01/23(金) 16:52:33.00 ID:IvBWq9S9
なんか酷く刺々しく突っかかってるけどさ
単に興味があるから実際の所を知っていたら教えてもらいたかっただけなんじゃねえの?

もしかして翻訳にケチつけられたと勘違いでもしちゃったの?
259名無し三等兵:2015/01/23(金) 18:04:38.51 ID:2xyJbX4R
>>257
この当時でカブール級より明らかに艦底防御が強いといえるのなんてダコタと大和級ぐらいしかないんだが
2601/2:2015/01/23(金) 18:31:29.05 ID:DU4vGOUO
>252の続きいきますよ
 Italian heavy“ treaty ”cruisers, like all warships built under the Washington Treaty limitations, were compromises
because it was impossible to incorporate high speed, protection, and eight 8-inch guns on a 10,000 ton displacement. The
first two ships, Trento and Trieste, at 500 tons over limit, were fast and well armed. Their belt could not defeat an
8-inch shell outright but was effective against smaller rounds, and had decent deck protection. They also validated many
post-World War T machinery and fire-control solutions adopted by the navy. The Zara class, nearly 2,000 tons over treaty
limits, had better protection ( 1,500 tons devoted to armor compared to 888 tons in the earlier class ). Moreover, their
8-inch / 53 guns represented a major improvement over the Trento class's 8-inch / 50 weapons.

 イタリアの『条約型』重巡洋艦は、ワシントン海軍軍縮条約の下で建造された全ての軍艦のように、妥協<の産物>だった、
なぜなら、一万dの排水量に、高速、防御、そして8門の8インチ砲<の全てを>を取り入れることは不可能だった。
 最初の2隻<の重巡>、トレントとトリエステは、<軍縮条約の>制限を500d超過していたが、高速で十分に武装されていた。
それら<重巡>の舷側は8インチ砲弾を徹底的に打ち負かすことが出来なかった<防ぐ事ができなかった>、しかし、より小さい砲弾
に対しては効果があった、そして適切な甲板の防御を持っていた。
 それら<トレントとトリエステ>はまた、<信頼性が>確証された、第一次世界大戦以前の機械と、一連の射撃指揮装置が
海軍によって採用されていた。
 ザーラ級、これは二千d近く条約の制限を超過していた、は、<トレント、トリエステ>より良い防御を持っていた
(<ザーラ級は>千五百dが装甲に割り当てられていた、比較して、初期の<伊重巡>は八百八十八dが装甲に割り当てられていた)。
 そのうえ、それらの8インチ53口径長砲は、トレント級の8インチ50口径長砲に対して、明らかな発展を表していた。
2612/2:2015/01/23(金) 18:32:10.96 ID:DU4vGOUO
 Italian light cruisers have the reputation of being fast and fragile. One historian went so far as to write;“ Most of
Italy's light cruisers were foreseeable disasters; they achieved trial speeds in the vicinity of 40 knots in calm seas,
but sometimes disintegrated when hit and lacked protection against heavy weather. ”*12 In fact, the so-called Condottieri
classes of six light cruisers were originally designated large scouts: heavily armed, unprotected, and expendable units
designed to hit and run. They had little role in the war of attrition Italy ended up having to fight. The subsequent light
cruisers of the Montecuccoli, Duca d’Aosta, and Abruzzi classes incorporated progressive improvements, particulary in
their protection. Giuseppe Garibaldi was among the world’s best 6-inch cruisers up through the late 1930s and served in
the Italian navy until 1972, after a reconstruction in the 1950s, as Europe’s first missile cruiser.

 イタリアの軽巡洋艦は速度の速さと壊れやすさが評判だった。
 ある歴史家が記述するかぎりでは、『大部分の伊軽巡は予見可能な失敗作だった<設計コンセプトに無理があった>。
それらの軽巡は穏やかな海では40ノット前後の試験速度を達成した、しかし、荒天時に於いて防御が欠落したり、被弾した時に、
時々崩壊したのだった』
 実のところ、いわゆる6隻の軽巡から成るコンドッティエーレ級は元来大型偵察艦として設計されていた。重武装で、非防御、
短時間の攻撃と素早い退却<の戦術>の為に設計された消耗覚悟の一団だった。
 それら<軽巡>はほとんど役割を持っていなかった、イタリアが行き着いた戦わねばならない<準備不足の>消耗戦の中で。
 その次に続く軽巡の、モンテクッコリ級、デュカ・ダオスタ級、アブルッチ級は、進歩的な改善を組み入れていた、
とりわけ防御に関しては。
 ジュゼッペ・ガリバルディは1930年代の後半を通して、全世界で最良の6インチ<砲を持つ>巡洋艦のひとつであった。
そして、1950年代に改修を行ったあとで、欧州最初のミサイル巡洋艦として1972年まで伊海軍に就役していた。

*12 原注
262名無し三等兵:2015/01/23(金) 18:54:43.24 ID:8V3UO9Sh
正直ここに書くよりブログにでもまとめた方が無駄にならなくて良さそうだが
263名無し三等兵:2015/01/23(金) 20:51:46.92 ID:Ac4Hhjim
折角の好意に何という事を
264名無し三等兵:2015/01/23(金) 22:43:55.48 ID:Njdnx+kt
>>254-255
ちょっとした疑問を書いただけの相手に対して、何でそこまで嫌味で上から目線の態度を取るの?
あんた、知識は凄いけど、性格は最低だな
265名無し三等兵:2015/01/23(金) 23:59:53.19 ID:SJRrRzYx
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
2661/5:2015/01/24(土) 12:51:41.60 ID:dOyk+G4w
>261の続き
 All of Italy’s destroyers launched after 1924 had twin mounts that lacked the elevation and fire control to double as
antiaircraft weapons. They suffered from poor stability ( particularly the thirty-six ships launched up through 1931 ) and
carried only two triple torpedo mounts. They were short-ranged, which limited the fleet’s effective intervention zone to
an area between Bone in eastern Algeria and Gavdos Island south of Crete. Their antiair armament was good by prewar
standards because it was based on the effective Breda 20-mm, while the British relied, until 1942, on their 0.5-inch
machine guns and the old, slow-firing, and short-range 40-mm pom-pom, and the French on the 13.2-mm machine gun. By the
1942, however, the Breda was inadequate in the face of growing Allied air power. The last class, the Soldati, saw hard war
duty and proved tough and capable fleet units notwithstanding the faults described above.
2672/5:2015/01/24(土) 12:52:25.33 ID:dOyk+G4w
 1924年以降に竣工した全てのイタリアの駆逐艦*1 は連装<砲>*2 を持っていた、その連装砲は仰角が不足しており、また対空
兵器として二役を果たすための射撃指揮装置を欠いていた。
 それら<駆逐艦>は貧弱な復元力に苦しめられていた、(とりわけ1931年までに進水した36隻の船)*3 そして3連装魚雷発射管を
2基搭載しているだけだった。
 この<駆逐艦達>は航続距離が短かった、それは艦隊が有効に<戦闘へ>介入できる範囲を東アルジェリアのボン<岬>とクレタ島の
南のガヴドス島*4 の間にに限定していた。
 これら駆逐艦の対空の備砲は戦前の基準では良いものであった、なぜならそれはブレダ20mm<機関砲>に基づいていたからである、
一方で英国は1942年まで英国製の0.5インチ(12.7mm)機銃と、古くて発射速度の遅い、短射程の40mmポンポン砲に頼っていた。
仏は13.2mm機銃に頼っていた。
 しかしながら1942年になり、連合国の航空戦力の増加に直面すると、ブレダ<20_機関砲>では不十分となった。
 最新<かつ最後>のソルダーティ級は辛い戦争の義務に黙従した、そして上記の失敗にもかかわらず、ソルダーティ級は頑丈さと
艦隊を構成する有能な一団であることを証明したのだった。

*1 開戦時において、これに当てはまらないのは、カルロ・ミラベッロ級(Classe Carlo Mirabello)1915年竣工の2隻
  厳密には、クインティーノ・セラ級(Classe Quintino Sella)も改装前は、備砲の内一基は単装砲。

*2 120/45 Mod. 1918/1919, 及びそれ以降(のMod.)、そして、120/50 Mod. 1926, 及びそれ以降(のMod.)。

*3 マエストラーレ級以前の駆逐艦群。

*4 ガヴドス島、ヨーロッパ最南端の意味でもある。
  (The most southerly part of Europe, Gavdos…)
  ttp://www.angelfire.com/super2/greece/gavdos.html
2683/5:2015/01/24(土) 12:53:30.34 ID:dOyk+G4w
 Italy built thirty-two 600-ton torpedo boats prewar ( including two for Sweden ). This did not reflect a true
commitment to torpedo warfare because these boats carried feeble broadsides of only two small, short-range torpedoes.
Instead, they represented an inexpensive class of ships that Rome could construct without regard to treaty limits; as such,
they were truly expendable vessels. Although they turned out to be disappointments in their intended role of nighttime
interceptors, they proved adequate escorts.

 イタリアは32隻の600dの水雷艇*5 を戦前に建造した(スウェーデンのための2隻を含む)。
 この水雷艇は、水雷戦への真の傾倒を反映させたものでは無い、なぜならこれらの艇は貧弱な舷側<片側>に短射程の、たった
2本の魚雷を身に着けていた<搭載していた>だけだった<両舷で都合4本の450mm魚雷>。
 その代わりに、それら水雷艇は費用の掛からない船のクラスを象徴していた、ローマ<イタリア>が条約の制限の考慮なしに
建造する事が出来るという。そういうものとして、それら水雷艇は真の消耗覚悟の艦艇だった。
 それら水雷艇達は、夜間の迎撃を意図した役割において、失望させられることが判明した。ではあるが、それらは船団護衛に
十分であることを証明したのだった。

*5 スピカ級水雷艇
2694/5:2015/01/24(土) 12:54:57.66 ID:dOyk+G4w
 On 10 June 1940 the Supermarina’s fleet units were mostly assigned to two formations: the 1st Fleet ( Squadra ) based
at Tranto under Vice Admiral Ingo Campioni and the 2nd Fleet under Vice Admiral Vittorio Paladini at La Spezia until late
May 1940 and then transferred to Taranto. When both fleets were at sea, Campioni, the senior officer, held commands*4.
The two fleets did not train together, except for a few annual exercises. The navy also maintained various regional
commands, called dipartimenti, responsible for the interior sea communications and coastal warfare. A special escort
command named Comando Difesa Traffico MARICOTRAF, under Vice Admiral Arturo Riccardi, was responsible for the defense of
sea lanes with Albania and of the civilian traffic with Spain ( and, after the armistice, France and Tunis ). Supermarina
considered traffic with Libya and the Dodecanese a strategic matter and the responsibility of the battle force.
2705/5:2015/01/24(土) 12:55:33.99 ID:dOyk+G4w
 1940年6月10日にスーパーマリーナ<海軍最高司令部>の艦隊の艦艇群は大抵二つの編成に割り当てられていた。第1艦隊
(Squadra)はイニーゴ・カンピオーニ中将の下、タラントに拠点を置いていた。第2艦隊はヴィットリオ・パラディーニ中将の下
1940年5月下旬までラ・スペツッアに拠点を置いていた、その後タラントに転任になった。
 両方の艦隊が海上にあった時、先任将校であるカンピオーニは、指揮権を持っていた。2つの艦隊は、2〜3の例年の演習を
除いては、一緒に訓練をしなかった。
 伊海軍はまた、多種の地方的な司令部を持っていた、その司令部は“dipartimenti”と呼ばれ、内海の連絡と沿岸の戦闘を
担当していた。
 特別な船団護衛司令部は“Comando Difesa Traffico MARICOTRAF”*6 と呼ばれていた、アルトゥーロ・リッカルディ海軍中将
の下、海上交通輸送路の防衛を担当していた、その輸送路は、アルバニアとスペインの民間交通(そして休戦後はフランスと
チュニス)であった。
 スーパーマリーナは熟考した、リビアとの交通と、ドデカネス諸島との交通は、戦略的事案であり、戦力<艦隊>が責任を
負うと<責任を持って守ると>。

*6 MARICOTRAF >>233-234
271名無し三等兵:2015/01/24(土) 21:29:49.18 ID:s2Vlc9Bn
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
272名無し三等兵:2015/01/28(水) 10:13:41.89 ID:BwnVVH5B
スペイン空軍基地でギリシャのF16戦闘機が墜落、10人死亡
ttp://www.afpbb.com/articles/-/3037791
273名無し三等兵:2015/01/29(木) 00:52:43.57 ID:EeRyVydX
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
2741/5:2015/02/02(月) 19:22:06.30 ID:+0Zr8aIh
V. MATERIEL
B.AVIATION
1.Ship-based
 At the start of the war, Italy's ship-based aviation consisted of catapult-launched floatplanes that were used for
reconnaissance and spotting. In the autumn of 1942 some Re.2000 fighters aboard the modern battleships gave an extremely
limited ship-borne air defense capability, but in the only occasion it was really required, in the battle force's voyage
south following the armistice with the Allies, the one fighter catapulted off Roma did not have time to climb to altitude
before Luftwaffe bombers sank the battleship.

B.航空機
1.艦載<機>
 開戦時に、イタリアの艦載機は、射出機発射の水上機*7 から成っていた、その艦載機<水上機>は偵察と弾着観測のために
使用されていた。
 1942年の秋に、近代的な戦艦の船上のいくらかの Re.2000 戦闘機が、海上輸送にとっての極めて限られた防空の能力を
与えていた。しかし、ただ一つの場合においては、それは真に求められていた<防空の能力だった>。連合国との休戦に従った、
戦艦艦隊の南への航海中において。<戦艦>ローマから射出された、一機の戦闘機にとっては<迎撃>高度に上昇する時間が
足りなかった、独空軍爆撃機が戦艦<ローマ>を沈める前に。*8
2752/5:2015/02/02(月) 19:22:43.59 ID:+0Zr8aIh
2.Shore-based
 In 1923 most of the Regia Marina's considerable aviation assets, along with about one hundred officers and its most
air-minded personnel, transferred to the newly established Regia Aeronautica. Air force control over maritime aviation
solidified during the following decade until, in 1931, a law decreed that the navy would retain control over only the
land-based and catapulted reconnaissance floatplanes and flying boats. An even stricter version of this law followed in
1937. Thus, the Regia marina went to war with no control over its aviation except for reconnaissance planes that, although
flown by air force personnel, However, there were in June 1940 only twenty-four such squadriglie as opposed to the navy's
stated requirement for forty-five, and there was no effective increase throughout the conflict.

2.沿岸配備<機>*10
 1923年に、大部分の伊海軍の相当な数の航空機資産は、(付随する約100人の将校達と、海軍で最も航空機に関心のある人員と
を伴い)新たに設立された伊空軍へと譲渡された。
 空軍は海に関する航空機の支配を固めた、<1923年の>次に続く10年間の間中、1931年までは。1931年に、一つの法が次の事を
定めた、『海軍は支配を保持する、地上配備と射出機発射の偵察用の水上機と飛行艇に限り』。さらにこの法に関する厳しい
解釈が、1937年に続いた。
 このように、伊海軍は戦争を始めた、偵察機を除いては支配下の航空機無しに、〔空軍の人員がそれを飛ばしているが〕。
しかしながら、1940年6月にその様な飛行隊*8 は24個だけしかなかった、海軍の要求申し立ての45個に反して。そして
<海軍と空軍の>衝突を通過して効果的な飛行隊の増加はなかった。
2763/5:2015/02/02(月) 19:23:24.22 ID:+0Zr8aIh
 Not surprisingly, coordination with aerial units controlled by separate commands and subject to different doctrines and
priorities was poor. Cooperation at its best consisted of a naval asset requesting air support, which local naval command
would pass the request along to the appropriate local air command for execution. In the dynamic environment of naval
warfare, this tortuous process seldom resulted in prompt and effective support.

 当然の事ながら、別々の司令部による統制下の航空部隊の調整、そして異なった教義と優先順位に従属させることは、
へたなことであった。<航空部隊が海軍と空軍の両方に従属する事は得策ではなかった>。
 海軍の資産から成る<艦隊部隊が>航空支援の要請をするという最良の協力は、地方の海軍司令部はこの要請を、適切な地方の
空軍司令部に沿って、空軍司令部へ伝達した、<航空支援の>執行のために。
 海上戦闘の動的な環境の中で、このねじれた手順<を踏んでいたので>は、<航空>支援が迅速で効果的に終わることは、
めったになかった。

*7 Ro43,Ro44,† >>202
*8 戦艦ローマの最後。
  Il mistero della CORAZZATA ROMA (戦艦ローマの謎)(1)
  ttps://www.youtube.com/watch?v=_XDQ7PlRGgc
*9 一個飛行隊定数9機、爆撃機飛行隊と同様。†
2774/5:2015/02/02(月) 19:24:09.62 ID:+0Zr8aIh
*10 †(COURAGE ALONE The Italian Air Force 1940-1943 / Chris Dunning)
   2 Command Structure
   Commands
   Regia Marina (RM)
   This was a similar organisation to RAF Coastal Command and was equipped with squadriglie using Cant Z501, Z506B,
   and later Fiat RS14B flying boats and seaplanes. Two individual commands covered the different areas. The Adriatic,
   Ionian and Tyrrhenian Seas were all under Comandi Dipartimenti Marittimi, while Sardinia, Sicily and the Aegean
   islands were under Comandi Militari Marittimi. Shortly after the start of hostilities, the two commands were
   reformed into the Comandi Aviazione for easier administration. The squadriglie carried out anti-shipping,
   anti-submarine, convoy escort, air-sea-rescue, and maritime reconnaissance duties. The Z506Bs flying boats(原文ママ)
   were initially used to bomb land targets too.

   ○○GRUPPO RM など
    これは、英空軍の沿岸(航空)部隊と類似した組織であった。そして飛行隊はカント Z501、 Z506B、そして後には
   フィアットRS14Bといった飛行艇<Z501>と水上機を装備していた。
    二つの独立した司令部が別々の地域を担当していた。アドリア海とイオニア海とティレニア海は全て“Comandi
   Dipartimenti Marittimi”(海事部門司令部)の管轄であり、一方でシシリーとエーゲ海諸島は“Comandi Militari Marittimi”
   (海事軍事司令部)の管轄であった。
    交戦開始の後に間もなく、二つの司令部は緩い管理のために“Comandi Aviazione”(航空司令部)に改正された。
   この飛行隊は、対海上輸送攻撃、対潜攻撃、輸送船団護衛、救難活動、そして海上偵察、などの任務を遂行した。Z506B
   <水上機>は、最初のうちは地上目標の爆撃にも使用された。
2785/5:2015/02/02(月) 19:24:52.66 ID:+0Zr8aIh
    On 10 June 1940 the commands also controlled several coastal sections, which were all equipped with Z501s and
   were based as follows:

   1 Sezione Costiera at Cadimare. Became 140 Sq from 1 August 1942
   2 Sezione Costiera at Messina?<原文ママ> Became 138 Sq from 1 August 1942
   3 Sezione Costiera at Taranto. Became 139 Sq from 1 August 1942
   4 Sezione Costiera at Pola. Became 149 Sq from 1 August 1942
   5 Sezione Costiera at Olbia. Became 193 Sq from 3 March 1941

    By November 1942 the Regia Marina had 190 out of 290 aircraft serviceable. On 20 May 1943 eleven ‘Sezioni Aerei
   di Soccorso’replaced all ASR units.

    1940年6月10日に、司令部はまた、いくつかの沿岸<航空隊>分隊<1個分隊定数3機>をも統制していた、それら分隊は
   全てZ501を装備しており、拠点は次のごとく。(Sezione Costiera=沿岸分隊)
    1942年11月には、伊海軍は290機のうち190機の使用可能な機体を持っていた。1943年5月20日に、11個の“Sezioni Aerei
   di Soccorso”(航空救難分隊)は全てASR<Air-Sea-Rescue>部隊に置き換えられた。
279名無し三等兵:2015/02/03(火) 00:56:47.03 ID:v4yUPf8/
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
280名無し三等兵:2015/02/04(水) 20:47:46.02 ID:6HoidAeT
イタリア海軍の艦載防空戦闘機が飛び上がっても、
敵の高度に上がるまでに逃げられて<FINE>
結局、撃沈される母艦を空から見ているだけじゃねwww
281名無し三等兵:2015/02/05(木) 23:07:07.88 ID:r9Qfv+v/
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
282名無し三等兵:2015/02/06(金) 13:06:02.42 ID:bar7O65d
イタリアの装甲車両について調べてるがイタリア語でも英書でもいいんでなんかいいのないですか
283名無し三等兵:2015/02/06(金) 17:28:32.58 ID:+Hlp62T9
イタリア軍入門/吉川和篤/山野治夫 の巻末に見開きで推薦書が2冊(全15冊のうち)紹介されてます。
・GLI AUTOVEICOLI DA COMBATTIMENTO DELL’ESERCITO ITALIANO VOL. 1 と2 (伊?)
・Italian Armour in German Service 1943-1945 (独軍の伊車輌、対英訳付)

あと↓このへんを叩き台にして、あまでぐりぐり探してみて。
Italian Medium Tanks: 1939-45 (New Vanguard) (英語)
ペーパーバック ? 2012/12/18
Pier Battistelli (著)
ttp://www.amazon.co.jp/Italian-Medium-Tanks-1939-45-Vanguard/dp/184908775X/ref=zg_bs_2632087051_94
284名無し三等兵:2015/02/06(金) 18:04:40.78 ID:qWTMoGRM
ありがとうございます参考にさせて頂きます
285名無し三等兵:2015/02/06(金) 22:28:27.29 ID:5mQ+ztOq
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
2861/3:2015/02/08(日) 12:07:02.64 ID:5/eTAwL9
V. MATERIEL
C. WEAPON SYSTEMS >>159 前後

D.INFRASTRUCTURE
1.Logistics
 The Italian navy began the war with 2 million tons of oil stockpiled, reduce to 1.7 million when Mussolini ordered
Cavagnari to surrender 300,000 tons to industry in June 1940. Operations during the war's first seven months consumed
676,560 tons, and the navy burned another 1,123,148 tons through 1941. By late September 1941 the Regia Marina's fuel
supply was dependent on the Italian oil concession in Romania and on German charity.

D.基盤(軍事施設)
1.兵站
 伊海軍は二百万トンの石油の備蓄を携えて開戦した。1940年6月にムッソリーニがカヴァニャーリ<海軍参謀長>に
<備蓄のうち>三十万トンを工業界に譲るように命じた時、その<伊海軍の>備蓄は百七十万トンに減じられた。*1
 戦争の最初の七ヶ月間の<幾つかの>作戦を通して、676,560dの石油が消費された。そして海軍は1941年を通じて、更に
1,123,148dの石油を燃やした<当然輸送中に失われたものもあるだろう>。
 1941年9月下旬になると、伊海軍の燃料供給は、ルーマニアにおけるイタリアの石油採掘権と独の救済に依存していた。*2
2872/3:2015/02/08(日) 12:07:41.76 ID:5/eTAwL9
 Italian ships were designed to operate in the Mediterranean and tended to have short ranges and high fuel consumption.
For example, the light cruiser Da Barbiano could steam 3,800 nautical miles at economical speeds consuming 6.1 tons of oil
an hour. In contrast, a British Leander-class cruiser could travel 5,730 miles at 3.9 tons / hour. An Italian Soldati-
class destroyer had a range of 2,340 miles 3.0 tons / hour compared to a larger British Tribal-class vessel, which could
range 5,700 miles at a rate of 1.4 tons / hour.

 イタリアの艦艇は地中海で作戦するように設計されていた、そして航続距離が短く、燃料の消費が多い傾向があった。
例えば、伊軽巡のバルビアーノは、経済速力〔一時間あたり6.1dの石油を消費して〕で、3,800海里<4,373マイル>を蒸気で
進むことが可能であった。
 <それとは>対照的に、英国のリアンダー級の<軽>巡洋艦は、一時間あたり3.9dの石油を消費して、5,730マイルを進む事が
出来た。
 伊のソルダーティ級の駆逐艦は燃費3.0d/hで2,340マイルの航続距離を持っていた、比較して、英のより大きなトライバル級
の艦船は、燃費1.4d/hで、5,700マイルの航続距離が可能だった。*3
2883/3:2015/02/08(日) 12:08:20.26 ID:5/eTAwL9
 The limited endurance of their destroyers defined the battle fleet's radius of action. To the east, the fleet's
practical limit was the waters off central Crete, and to the west, operations never extended past Majorca and Bone.
Although it practiced underway replenishment in prewar exercises, Italy considered this technique too dangerous under
wartime conditions, especially in waters subject to submarine attack, and did not use it operationally.

 伊海軍の駆逐艦達の限られた持久力<航続距離>は戦闘艦隊の戦闘の行動半径を限定していた。
 東へは、艦隊<2つの本艦隊、地方艦隊を除く>の事実上の<作戦の>限界は中央クレタ島沖合の水域であり、西へは、
マヨルカ島とボン岬を越えては、決して作戦を拡張しなかった。
 戦前の演習で、航行中の<燃料の>補充を実行したにもかかわらず、伊は熟考した、この<航行中給油の>手法はあまりに危険で
あると、戦闘下の、とりわけ水中の潜水艦の攻撃にさらされている状況においては。
 そして<燃料の>補充<航行中の給油>は作戦上、用いられなかった。

*1 この備蓄量が8ケ月分相当。(イタリア軍入門/吉川和篤/山野治夫)
*2 アルバニアからの供給は伊戦時需要(年)四百万dの約2パーセント、つまり(年)八万d。(第二次世界大戦/リデル・ハート)
*3 最高速度(ノット)
  伊バルビアーノ  37
  英リアンダー級  32.5
  伊ソルダーティ級 38
  英トライバル級  36
289名無し三等兵:2015/02/08(日) 16:14:21.09 ID:khZx53q5
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
290名無し三等兵:2015/02/18(水) 23:22:48.97 ID:2BoH3YsG
今度リビアでの対イスラム国戦でイタリアが主導的な役割に名乗りを
あげた。ただイタリアはイスラム国に負けそうだが大丈夫か。
291名無し三等兵:2015/02/18(水) 23:32:07.07 ID:tPZbUdMS
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
292名無し三等兵:2015/02/19(木) 03:58:13.52 ID:u6Jjw0Gy
ムッソリーニもイスラムの剣を振りかざして威勢を振ったが、
結局イスラム教徒を味方にできなかったからね(^o^)
293名無し三等兵:2015/02/20(金) 00:25:43.42 ID:ycWPVPvF
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
294名無し三等兵:2015/02/20(金) 01:33:51.62 ID:Eq5AwAcf
【軍事】韓国ミサイル高速艦の欠陥76ミリ砲、イタリア製のリサイクルだった・・韓国ネット「本当に国家?」「米国が助けてくれなければ」(c)2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1424340643/

http://www.focus-asia.com/socioeconomy/photonews/409746/
295名無し三等兵:2015/02/20(金) 19:46:24.63 ID:7hu/a0fz
>>290
イスラム国 vs シチリアマフィア

シチリアマフィアが勝ちそうじゃね?
296名無し三等兵:2015/02/20(金) 22:44:38.99 ID:ycWPVPvF
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
297名無し三等兵:2015/02/21(土) 15:28:16.83 ID:VlAqdoNt
連戦連敗のイタリア軍大好き!楽しましてくれます。
298名無し三等兵:2015/02/22(日) 08:56:44.14 ID:SdfdTXzz
個々のイタリア兵はつおいよ
習志野でも見ない面構えがゴロゴロいる
299名無し三等兵:2015/02/22(日) 10:36:22.68 ID:qGwUH1CD
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
300名無し三等兵:2015/02/24(火) 11:26:08.16 ID:QC3tvB8L
The Economist
イタリアとリビア:海の向こうの脅威
ttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42991
301名無し三等兵:2015/02/25(水) 02:48:18.13 ID:Nt8ajUjT
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
3021/2:2015/02/25(水) 17:44:54.50 ID:1MV4zUfz
D.INFRASTRUCTURE
2.Bases
 The Regia Marina had an extensive network of strong naval bases. The principal fleet anchorages, Taranto and La Spezia,
could maintain and repair all warship classes. Secondary bases included Naples ( with yards capable of repairing up to
cruiser-sized warships ), La Maddalena in Sardinia, Venice ( with a naval arsenal*1 ), and Brindisi and Pola on the
Adriatic Sea, all of which could receive ships of up to battleship size. Genoa's port was mainly commercial, but it could
also receive and repair any class of warship.

2.基地
 伊海軍は、強力な海軍基地の、広範囲に及ぶ網状組織=ネットワークを持っていた。
 第一<級>の艦隊の停泊地、タラントとラ・スペイツィア、は全てのクラスの軍艦の整備と修理が可能であった。
 第二<級>の基地には以下が含まれる、ナポリ(巡洋艦規模の軍艦を修理する能力のある用地<製造所>を持っていた)
サルディーニャのラ・マッダレーナ、ヴェニス(海軍兵器工場*1 を持つ)、そしてアドリア海のブリンジディとポーラ、これら
全ての港は戦艦規模までの船を受け入れる事が出来た。
 ジェノバ*2 の港は主として商業用であった、しかしジェノバは如何なる軍艦の受け入れと修理も、また可能であった。

*1 Arsenale di Venezia (アルセナーレ・ディ・ヴェネツィア)
  ttp://www.marina.difesa.it/storiacultura/ufficiostorico/musei/museostoricove/Pagine/Larsenale.aspx
*2 マルコ・ロッシがフォルゴレ号で旅立ったのもジェノバ
3032/2:2015/02/25(水) 17:45:30.60 ID:1MV4zUfz
 Tertiary-level bases included Cagliari in Sardinia, Messina, and Augusta in Sicily, which had harbors that could host
cruisers but limited repair facilities. Leros in the Aegean Sea and Tripoli and Tobruk in Libya could briefly base
cruisers. Massawa, on the Red Sea, had a five-thousand-ton floating dock.
 Fuel, water, and ammunition could be supplied at Elba's Portoferraio; Gaeta, Reggio Calabria, and Ancona on the
peninsula; Valona in Albania; Sicily's Palermo; Benghazi and Toripoli in Libya; and Kysimaiu<原文ママ>*3 in Somalia. Palermo
and Ancona also had limited repair facilities in private yards.

 第三<級>の水準の基地には以下が含まれる、サルディーニャのカリアリ、シチリアのメッシーナとアウグスタ、ここには
巡洋艦をもてなす事の出来る港があった、しかし修理施設<の修理能力>は限られていた。
 エーゲ海のレロスとリビアのトリポリとトブルクは、一時的な巡洋艦の基地たりえた。
 紅海のマッサワは五千トンの浮きドックを一つもっていた。
 燃料、水、弾薬は、以下にて供給を受ける事が可能だった。エルバ島のポルトフェッラーイオにて、半島のガエータ、
レッジョ・ディ・カラブリア、そしてアンコーナ、アルバニアのヴァローナ、シチリアのパレルモ、リビアのベンガジと
トリポリ、そしてソマリアのキスマヨにて。
 パレルモとアンコーナはまた、限られた修理の<出来る>施設を私有の土地に持っていた。

*3 [伊] Chisimaio, [英] Kismayo,
304名無し三等兵:2015/02/26(木) 01:20:28.29 ID:DIrmLTJG
ヘタリア人は生まれながらの臆病者
3051/5:2015/03/03(火) 17:27:21.53 ID:+1J51B9Y
>303の続き
 Until the Taranto attack in November 1940, harbor defenses were designed to permit warships to swiftly sortie. After the
attack, net boxes that reached to the bottom were adopted and deployed in Taranto beginning in March 1941, and at the
others harbors as quickly thereafter as materials could be manufactured. After October 1942 harbors also incorporated
anti-small-attack-craft defenses.

 1940年11月にタラントに攻撃を受けるまでは、<イタリアの>港湾の防御は軍艦に迅速な出撃を許すように<優先するように>
設計されていた。
 タラントが攻撃をうけた後で、1941年の3月の初めに、タラントに<海>底まで届くネット・ボックスが採用され配置された。
そして他の港でもその後は出来る限り迅速に、<ネット・ボックスの>材料が製造された。
 1942年の10月以降、港はまた、対小型攻撃機<用>航空機を編入させた。
3062/5:2015/03/03(火) 17:28:54.57 ID:+1J51B9Y
 An important defensive development was a smoke curtain system that, from January 1941, proved able to protect harbors
from enemy bombers ( La Maddalena was the exception because the wind there was generally too strong ). The system was so
effective that five army smoke battalions were sent to Germany in 1942 following a Kriegsmarine request. Antiair defenses
were also improved, although the general lack of effective fire directors mandated the use of a barrage system. By July
1943 only 23 of the 121 batteries armed with the excellent 90-mm/53 AA gun and 11 of the 31 batteries equipped with the
modern 75-mm/46 gun had directors. Italian antiaircraft artillery employed a collection of Italian, German, Hungarian, and
French fire directors. Italian fighter protection was always numerically and qualitatively modest ( two Fiat CR.42
biplanes with the navy controlled 1st Squadriglia Riserva Navale at Spezia during the spring of 1943 ) and able, at best,
to interdict reconnaissance flights.
3073/5:2015/03/03(火) 17:29:45.75 ID:+1J51B9Y
 重要な防衛上の発展は、煙幕だった。1941年の1月から、その煙幕は敵の爆撃機から港を守る事が可能であることを証明した
(ラ・マッダレーナは例外であった、なぜならそこは通常、風があまりに強すぎたためである)。
 煙幕の装置は非常に効果的だったので、独海軍の要求に従って、1942年に5個煙幕大隊が独に送られた。
 対空防御もまた改良された、しかしながら、全般的に効果的な射撃指揮装置が不足していた、その不足が弾幕<射撃>システム
の使用を許していた<弾幕を張ることに頼らざるを得なかった>。
 1943年7月までに、121個のうち23個の砲兵中隊だけが優秀な90_53口径長の対空砲を装備していた。そして31個のうちの11個
の砲兵中隊が近代的な75_46口径長*4 の指揮装置付の砲を装備していた。
 伊の対空砲兵隊は、伊、独、洪(ハンガリー)、そして仏の射撃指揮装置の収蔵品<不要な物の堆積という意味でもある>を使用
していた。
 伊の戦闘機の援護は、常に、数の上でも質の上でも、控えめで、可能なのはせいぜい<敵の>偵察飛行を阻止することだった
(1943年の春までの間は、スペイツィアの海軍支配下の海軍リザーブ第1飛行隊の、2機のフィアットCR.42複葉機)*5。

*4 Cannone da 75/46 C.A. modello 1934
  ttp://ww2photo.se/gun/ita/aa/75-34%20mod%2034.htm
3084/5:2015/03/03(火) 17:31:03.45 ID:+1J51B9Y
*5 Courage ALONE The Italian Air Force 1940-1943 / Chris Dunning
  4 Unit histories

1 GRUPPO FF.NN
Squadriglie 1,2,3
 This unit consisted of three naval squadriglie, which used floatplanes aboard warships for reconnaissance, gunnery
spotting and escort duties. The aircraft were allocated between the nine naval divisions in two Naval Squadra.
 On 10 June 1940, 2 and 3 Squadriglie had forty-nine Ro 43s and Ro 44s embarked, of which forty-two were serviceable. The
Ro 44s were gradually relegated to training duties. No confirmed reference to the status of 1 Squadriglia at this time has
been found, although it appears to have operated some Ro 43s by 1941.

第1 FF.NN 航空群
第1、2、3飛行隊
 この部隊<航空群>は三つの海軍の飛行隊から成っていた。この飛行隊は軍艦に搭載された水上機を、偵察、弾着観測、そして
護衛任務に使用した。航空機は海軍の二つの艦隊の中の九つの分艦隊の間で分配された。
 1940年の6月10日に、第2と第3飛行隊は船上に49機の Ro 43<複座>と Ro 44<単座>を持っていた、そのうち42機が使用可能
だった。Ro 44 は次第に訓練任務用にと格下げされた。
 この時期の第1飛行隊の状態を、言及した確かな物は見つかっていない。ではあるが、1941年まではいくらかの Ro 43 を、
運用していたように思われる。
3095/5:2015/03/03(火) 17:31:44.69 ID:+1J51B9Y
……
 Eventually it was agreed that 1 Sq would be equipped with the Re 2000 for the defence of the naval bases, and for
embarking on board the major warships. After launch the fighters were to fly to the nearest land-base, which was not a
problem for them, as they were equipped with larger fuel tanks than the land-based version. 1 Sq may also have received
some MC 200s and G 50s for comparison trials and local defence. It certainly used CR 42s, forming at Grottaglie, then
moving to Taranto to work with the Naval Squadra there, then on to Capodichino when the Naval Squadra transferred to
Naples. Finally it settled in Sarzana from January 1943, to cover La Spezia naval base.

…(中略)…
 ついに、意見が一致した、第1飛行隊が海軍基地の防衛のために、そして主要な軍艦の船上に搭載するために Re 2000 を
装備しようという事で。
 <船上より>射出の後で、戦闘機達は最も近い陸上基地へ飛んで行くことになっていた、そこの基地は戦闘機にとっては
問題はなかった、戦闘機達は地上基地配備型よりも、より大きな燃料タンクを装備していたので。
 第1飛行隊は、またおそらく、比較検討のためと、地方の<基地の>防衛のためにいくらかの MC 200 と G 50 を受領していた
のかもしれない。
 間違いなくCR 42 も使用されていた、グロッターリエ<タラント近郊>で編成されて、タタントの艦隊と行動する時はタラント
に移動した、海軍の艦隊がナポリに転任になった時はカポディキーノに移動した。
 最後に、1943年の1月からはサルザーナ<ラ・スペイツィア近郊>に落ち着いた、ラ・スペイツィアの海軍基地を守るために。
310名無し三等兵:2015/03/04(水) 00:07:32.85 ID:5PHv1XA6
ヘタリア人劇弱プゲラッチョ
3111/5:2015/03/08(日) 15:21:38.19 ID:1Bn80gf6
>309の続き
 The shore batteries that defended Italian ports were tested on several occasions. The first British operation of the war
a brief cruiser bombardment of Tobruk. The French conducted crusier bombardments of Vado and Savona on 14 June; British
battleships hit Genoa on 9 February 1941, which was defended by a two 15-inch guns, two 7.5-inch guns, and eight 6-inch
guns; Valona on 19 December 1940; and Tripoli on 21 April 1941, which had eight 7.5-inch/39 guns. Some ports enjoyed an
apparently lavish scale of defense. In 1940 six batteries ringed Massawa with nineteen 4.7-inch and three 6-inch guns. By
March 1941 another seven 4.7-inch and four 4-inch guns had been added. Even Kysimaiu and Mogadishu in Somalia each had a
battery of four 4.7-inch cannons. However, a serious lack of munitions counterbalanced this impressive infrastructure. The
Sicilian coastal batteries, for example, met the Allied invasion with enough ammunition for a quarter hour of fire,
according to a court convened by Mussolini\'s social republic in 1944 that tried the admiral commanding Augusta for
treason.
3122/5:2015/03/08(日) 15:22:20.92 ID:1Bn80gf6
 伊の港湾を防衛する海岸砲は、いくつかの機会において試された<実戦の機会があった>。
 最初の英の戦争における作戦は短時間の巡洋艦によるトブルクに対する砲撃だった。
 仏が指揮した、6月14日のヴァード・リーグレとサボーナへの巡洋艦の砲撃*6、、英の戦艦による1941年2月9日のジェノヴァ
への攻撃、これらの攻撃は、<伊の海岸砲である>2門の15インチ<381_>砲<381/40 Mod. 1914>、2門の7.5インチ<190_>砲、
そして8門の6インチ<152_>砲によって防がれた。1940年12月19日にヴァローナ<アルバニア>、そして1941年4月21日にトリポリ
<がそれぞれ攻撃を受けた>、ここは8門の7.5インチ<7.4インチとも†>39口径長の砲<Skoda 19 cm Vz. 1904>をもっていた。
 いくつかの港では、見たところでは物惜しみしない規模の防御を享受していたらしい。
 1940年に6個砲兵中隊がマッサワ<エリトリア>を取り囲んで<防御に就いて>いた、19門の4.7インチ<120_>砲と3門の6インチ砲
をもって。1941年の3月までに、それとは別に7門の4.7インチ砲と4門の4インチ砲が加えられていた。
 ソマリアのキスマヨとモガディシュでさえ、それぞれ4門の4.7インチカノン砲をもつ1個砲兵中隊をもっていた。
 しかしながら、深刻な弾薬の不足が、堂々とした軍事施設を相殺していた。
 例えば、シチリアの沿岸砲は、15分間の砲撃に十分な弾薬を持って、連合国軍の侵攻に直面した、1944年にムッソリーニの
サロ共和国によって召集された法廷に従って、アウグスタ<シチリアのアウグスタ要塞>*7 を指揮していた提督を反逆のかどで
裁判した。*8

*6 Alba di guerra nel mar ligure (戦時中制作の再現映画)
ttp://www.dailymotion.com/video/xrpx2f_alba-di-guerra-nel-mar-ligure_webcam
3133/5:2015/03/08(日) 15:23:20.61 ID:1Bn80gf6
*7 Regio Esercito; The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943 / Patrick Cloutier
  The Retreat through Sicily Begins
12 July saw the firmly-established Americans expanding from their beachheads, as the flow of supplies and reinforcements
increased; the British consolidated their gains south of Syracuse, and prepared for offensive action toward the ports of
Augusta and Catania. The latter had attempted to get a landing force past the harbor defenses of August on the night of
11/12 July, but those members of the 246th Coastal Battalion who remained at their guns turned back the effort, which was
made by one Greek and two British destroyers. Rear-Admiral Leonardi, who had not shown strong leadership, and perhaps more
neglect the past two days, manned a deserted gun with members of his staff, perhaps in hopes of restoring his personal
honor, or in hopes of avoiding a court-martial with an act of duty. In any event, the shore batteries delayed a British
takeover of Augusta by two days. They perhaps also prevented the British from turning the seaward Axis flank at an
inconvenient moment, and making a rush for Catania. At this time, Colonel Schmalz of Battle Group Schmalz was concerned
with the British to his south. He did not have enough soldiers to cover Augusta in his rear and the British to his front,
so he had taken a chance in leaving Augusta largely unguarded. Fortunately for the Axis, gun crews were present.
3144/5:2015/03/08(日) 15:24:05.04 ID:1Bn80gf6
 米軍の補給の流入と増援が増えたので、<1943年>7月12日に、堅固に設立された米軍の橋頭保からの拡張がわかった<顕著に
なった>。
 英軍はシラクサの南の増強を強固にした、そしてアウグスタとカタニーアの港へ向けての攻撃的戦闘のための準備した。
 後者<英軍>は上陸部隊を得る<上陸させる>ことを企てていた、それは11日から12日の夜間に<上陸部隊を乗せた艦艇を>
アウグスタの港湾の防御を通過させるというものだった。
 しかし、<伊>第246沿岸防衛大隊<陸軍>の<アウグスタ守備に就いていた>一員達は、彼らの砲‡ に依然として留まっていた、
彼ら<伊>第246沿岸防衛大隊は、<その砲を使い><英軍の>奮闘を引き返させた、その奮闘は一隻のギリシャの駆逐艦と二隻の
英駆逐艦によって出来たいた<伊軍は駆逐艦3隻から成る英軍の上陸部隊を退けた>。
 レオナルディ伊海軍少将は、彼は強い指導力を発揮しなかった、そして多分、二日以上を無為に過ごした。<そして>たぶん彼の
名誉を取り戻すという望みで、もしくは義務の行動についての軍法会議を避けるという望みをもって、レオナルディ伊海軍少将は
遺棄された砲に彼の幕僚の一員を配置した。
 いずれにしても、<伊>海岸砲が英軍のアウグスタの奪取を2日間だけ遅らせた。
 彼ら<伊>海岸砲は、<枢軸国軍の>都合のよくない<不利な>瞬間において、たぶんまた英軍が海の方の枢軸国軍側面へと、方向を
変える事を妨げた<枢軸国軍がその側面を突かれることを防いだ>、そして英軍のカタニーアへの突入を妨げた。
 この時、シュマルツ戦闘群の独シュマルツ大佐は彼の南側の英軍に関心があった。
彼は、彼の後方つまり英軍の前面のアウグスタを保護するためには、十分な兵士を持っていなかった、それで彼は一か八か広範囲
を無防備にしてアウグスタからの撤退を行った。
 枢軸国にとって幸運だったのは<撤退が成功したのは>、<海岸砲に>砲兵要員が存在したことだった。
3155/5:2015/03/08(日) 15:24:50.79 ID:1Bn80gf6
*8 イタリア敗戦記 / B・パルミーロ・ボスケージ P.208
 パルマ裁判は五月二十二日、前記の海軍軍人を被告として行われたが、レオナルディとパヴェージ両将軍は欠席裁判で
あった。これらの軍人はファシスト政権に従うことなく独自の行動をとり、休戦当時、連合軍側に協力した罪を問われたが、
事実上、旧海軍に対するファシストの報復である。……
 欠席裁判を受けたレオナルディ将軍はシチリアのアウグスタ要塞の司令官であったが、昨年七月十日から十二日にかけて、
英米連合軍がシチリア上陸作戦を展開した際に、全然無抵抗で降伏したこと。……被告に死刑判決を下している。

‡ (With Utmost Spirit: Allied Naval Operations in the Mediterranean, 1942-1945 : Barbara Tomblin)
  six coastal batteries and fifteen antiaircraft batteries.
  (†Mussolini s Navy: A Reference Guide to the Regia Marina 1930-1945 : Maurizio Brescia)
  上記沿岸砲台6基の内1基は、15インチ<381_>砲<381/40 Mod. 1914>の連装砲で砲台は“Opera A”と呼ばれていた。
  1基は8インチ<203_>50口径長砲<203/50 Mod. 1924>が2門。
316名無し三等兵:2015/03/09(月) 21:10:02.50 ID:ZV7/dAid
フォルゴーレ
317名無し三等兵
ヘタリア人は生まれながらの臆病者