第二次世界大戦前後のマイナー戦車話、ネタ総合2

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1名無し三等兵
■前スレ
第二次世界大戦前後のマイナー戦車話、ネタ総合
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1290076425/

■過去スレ
日本陸軍におけるM3軽戦車
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1282916593/
2名無し三等兵:2011/03/05(土) 22:28:09.36 ID:???
>>1
良スレ乙です
3名無し三等兵:2011/03/05(土) 23:30:52.40 ID:???
>>1
良スレ歓迎乙
4名無し三等兵:2011/03/06(日) 00:16:00.37 ID:???
>>1
スレ立てお疲れ様です。
5名無し三等兵:2011/03/06(日) 00:16:40.83 ID:???
【レバントの王者】

1940年5月の段階で、フランスは委任統治領のシリアとレバノンに、
第63戦車大隊(※ルノーR35×40+予備5)と第68戦車大隊(※ルノーR35×40+予備10or5)を配していました。

そこには又、第63戦車大隊の旧装備のルノーFT-17が56両存在しました。
それらの殆どは単に残置されていたのですが、
10両のFT-17(※FT-17×9+予備1)を1群とし、その3群から成るレバント独立戦車中隊が創設され、
ベイルート、アレッポ、ダマスカスに各1群ずつ計30両が配されました
(※1群=FT-17m×3・FT-17c×6・FT-17BS×1)。

40年6月、レバント独立戦車中隊は6両のFT-17で増強されました
(※3群各々へFT-17c×1、レバノンのEstabel飛行場防衛用にFT-17c×3)。

40年10月に第63戦車大隊が解体、12月には第68戦車大隊が解体され、
それらは第1捜索戦闘連隊と第2捜索戦闘連隊を形成します。
これらは後に、第6アフリカ騎兵連隊と第7アフリカ騎兵連隊へ改名されました。

※FT-17m=機関銃・FT-17c=37mmSA18砲・FT-17BS=75mm短砲身榴弾砲

○1925年、シリア。ルノーFT-17
ttp://farm2.static.flickr.com/1077/937554384_2528c30048.jpg
○1940年、シリア・アレッポ。第63戦車大隊当時のルノーFT-17(イラスト下)
ttp://i21.photobucket.com/albums/b286/hmsdiomede/Misc20mm/FT-17Colors.jpg
6名無し三等兵:2011/03/06(日) 00:17:22.04 ID:???
1941年6月8日、エクスポーター作戦が始まり、連合軍はシリアとレバノンへ侵攻します。
ヴィシー側は約90両のR35と恐らく約36両のFT-17が作戦行動しましたが、
連合軍はR35と相対した時、多くの困難に見舞われたのでした。
それというのも、連合軍には適切な対戦車砲が不足していたからです。

R35はレバント地域では最強の戦車でした(※連合軍が持ち込んだ戦車はヴィッカースMk.VIでした)。
ボーイズ対戦車ライフルはR35に対して非力で、対戦車砲の空白地点では、
25ポンド砲がこれらを撃破する機会に恵まれました。
作戦期間中、R35の戦闘行動は非常に上手く行き、その反撃は全て成功しました(※“全て”というのは?)。

Kouneitraでの例では、R35と交戦した“ロイヤル・フュージリアーズ”第1大隊は、
その歴史に於いて初めて降伏することになり、470名が捕虜となったのです。
この部隊はヴィシー軍の反撃により孤立し、大隊丸ごとが失われたのでした。

○41年6月、シリア。オーストラリア第6師団騎兵連隊のヴィッカースMk.VI
ttp://cas.awm.gov.au/item/042215
○41年8月11日、鹵獲されたフランス軍ルノーUEとロレーヌ37L(右奥)
ttp://cas.awm.gov.au/item/021982
○41年6月13日、連合軍鹵獲のルノーR35
ttp://cas.awm.gov.au/item/008268
7名無し三等兵:2011/03/06(日) 01:22:22.47 ID:???
>>1

関連スレ
第二次大戦中の中小国の軍隊、兵器を語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1200164548/
8名無し三等兵:2011/03/06(日) 06:29:08.59 ID:???
>>5訂正です

>これらは後に、第6アフリカ騎兵連隊と第7アフリカ騎兵連隊へ改名されました。

×第6アフリカ騎兵連隊と第7アフリカ騎兵連隊
○第6アフリカ猟兵連隊と第7アフリカ猟兵連隊
9名無し三等兵:2011/03/06(日) 16:14:58.23 ID:???
>>1


>>5
> 第63戦車大隊と第68戦車大隊
本土に回せよorz
植民地なんざFTでいいじゃないか。
10名無し三等兵:2011/03/06(日) 17:04:41.94 ID:???
戦車を回したとしても、戦術が…
ド・ゴールって戦車将軍としては、どうなの?
11名無し三等兵:2011/03/06(日) 22:15:03.80 ID:???
いやでも歩兵戦車だから第1軍辺りに放り込まれて
フランドルあたりで放棄されておしまいとかにはならないかもしれない。
妄想だけどさ。

>ド・ゴール
個人的には眉唾説派。政治将軍だと。
12名無し三等兵:2011/03/06(日) 22:36:02.57 ID:???
特に戦車師団を指揮して名をはせた名将って
グデーリアン、ロンメル、パットン・・・そんなもんじゃないの?
他に知らないわw
13名無し三等兵:2011/03/07(月) 03:38:14.44 ID:???
>>12
てめぇ、ジューコフ抜くとか粛清
14名無し三等兵:2011/03/07(月) 04:00:42.85 ID:???
ジューコフあたりは関わった作戦がデカ過ぎるってか
戦車を上手く使って如何こうって事じゃないじゃん。
そもそも赤軍の戦車運用って大戦の序盤は単騎でチョコマカ使って
いいように的にされてるし、中盤以降は横一列大量にワーワー突撃じゃん
そんなイメージw
15名無し三等兵:2011/03/07(月) 06:35:58.62 ID:???
>>12
エーリヒ・ヘープナーなんかは?
あとフリッツ・バイエルラインとか。
16名無し三等兵:2011/03/07(月) 09:31:26.26 ID:???
>>10
車両に無線装備を推奨したりで、上層部がマシだたらそこそこ括約したと思うんだがなぁ
17名無し三等兵:2011/03/07(月) 10:04:00.18 ID:???
英国で言えば、モンティ?
18名無し三等兵:2011/03/07(月) 10:26:38.53 ID:???
>>14
ミハイル・カツコフとかは大戦初期からそれなりに活躍してる指揮官。

あとそのイメージはかわいそうだからソ連戦車の本を読んでください(´・ω・`)
19名無し三等兵:2011/03/07(月) 17:57:03.90 ID:???
>>14
おまえそんな事言ってるとLans丼すっ飛んでくるぞ
20名無し三等兵:2011/03/07(月) 18:51:39.34 ID:???
砲兵の仕事を読むと色々面白いな
21名無し三等兵:2011/03/07(月) 18:56:52.12 ID:???
>>5-6 >>8
乙です
22名無し三等兵:2011/03/07(月) 22:08:06.77 ID:???
【R35のバトル・オブ・フランス】

@第35戦車大隊(第515戦車大隊群所属)

1940年5月14-15日、ジャンブルーでの戦闘時、
仏第15自動車化歩兵師団と第1モロッコ師団は、
それぞれ第13戦車大隊(オチキスH35×45)と第35戦車大隊(ルノーR35×45)の支援を受けていました。

両師団は予備の1個歩兵大隊に1個戦車大隊を配し、反撃用の戦力としていたのです。
戦車指揮官はドイツ軍戦車の侵入に対し、即座に反撃命令を下しました。
彼らは、ジャンブルーへの攻撃を先導するヘープナーの第16装甲軍団に立ち向かったのです。

第35戦車大隊は第1モロッコ師団の支援に当り、大隊指揮官RagaineのR35が先導します。
中隊指揮官は以下の通りでした。

第1中隊:Pelletier大尉(戦車×13)
第2中隊:Murati大尉(戦車×13)
第3中隊:Richard大尉(戦車×13)
予備中隊:Maury大尉(予備戦車×5)

戦闘団は第35戦車大隊と第2モロッコ狙撃兵連隊第3大隊(Saut大尉)で形成されました。
Ragaineの指揮の下、戦闘団は鉄道線上へ反撃を開始し、独軍は後退します。
この時、独軍はジャンブルーの仏軍戦線を突破出来ませんでしたが、
その原因の多くは優秀な仏軍砲兵にあり、ルフトバッフェはこれを沈黙させられなかったのでした。

1939-40年の第35戦車大隊の損害は、戦死14・負傷35・行方不明14で、18名が捕虜となりました。
45両のR35は全て失われたのです。
23名無し三等兵:2011/03/07(月) 22:08:47.42 ID:???
A第10戦車大隊(第504戦車大隊群所属)

Juniville周辺で、第10戦車大隊の40両のルノーR35と新編の第7軽機械化師団は、
独第1装甲師団(第17&第21歩兵師団の部隊も含む)と交戦します。
65両の仏戦車が第1装甲師団へ突撃しましたが、
長砲身の37mmSA38砲を備えているのは20両だけでした。
37mmSA18砲は対戦車戦には不十分で、
良好な装甲に対しては、25-50bの近距離でなければ効力を発揮しなかったのです。

6月10日夕刻、第10戦車大隊の第2&第3中隊の27両(13両からなる中隊×2+大隊指揮官車)のR35の内、
10両は撃破され、損傷した10両は修理中であり、稼動状態にあるのは7両だけでした。
第1中隊が13両を保有し、5両の予備戦車(乗員は生残者)もありましたので、
大隊稼動車は全25両(or20-25)でした。
24名無し三等兵:2011/03/07(月) 22:09:27.83 ID:???
B第3戦車大隊と第23戦車大隊(第3戦車大隊=第503戦車大隊群所属、第23戦車大隊=第520戦車大隊群所属)

1940年6月9-10日、エーヌ川に於いて、
第3&第23戦車大隊からのルノーR35は、第14&第2歩兵師団と共に抗戦しました。

・第14歩兵師団戦線(レーテル東)
04:20、独軍は35分間の準備砲撃の後、第73&第86歩兵師団が突撃しました。
独第170歩兵連隊(第73歩兵師団)はThugny-Trugnyでエーヌ川を渡り、
仏軍戦線へ侵入を開始します。
仏第31自動車化猟兵大隊は町で包囲されました。

仏第14歩兵師団長のLattre de Tassigny将軍は反撃すべく、
Paraire大佐と第25GRDI(歩兵師団偵察群)、第2自動車化猟兵大隊、第3戦車大隊からのR35×9両を派遣します。
彼らはドイツ歩兵連隊を押し返しました。
全戦線は第14歩兵師団によって保持され、独第23軍団の攻撃は失敗したのです。
25名無し三等兵:2011/03/07(月) 22:10:08.39 ID:???
・第2歩兵師団戦線
仏第2歩兵師団は独第17&第21歩兵師団に攻撃され、
Chateau-Porcienとレーテル南地区で激戦となりました。
ドイツ軍は橋頭堡を確保出来ず、仏軍部隊は精力的に反撃を試みます。
独軍は敗北し、第2歩兵師団は約500名の捕虜を得ました。

午後の間、仏軍戦線2箇所に穴が開き、大きくなります。
レーテル西では独第3歩兵連隊(第21歩兵師団)の6個突撃群が渡河しました。
独第3歩兵連隊はNanteuil南の丘陵をいくつか占拠し、Avancon-レーテル道を遮断します。
直ちに独第21歩兵師団の工兵がエーヌ川に架橋し、戦車が川を越えました。

2つ目の穴はChateau-Porcien東に生じ、
この2箇所の突破により仏軍は包囲の危機に晒されました。
仏第31歩兵連隊第2大隊の抵抗にも拘らず、戦線は破綻します。
Chateau-Porcien守備隊は弾が尽きるまで抵抗し、熾烈な白兵戦の後に降伏しました。
彼らはドイツ工兵の架橋を約6時間遅らせたのです。

反撃は、第23戦車大隊第1中隊(ルノーR35×13)、2個歩兵小隊、下馬した2個騎兵小隊により、
迅速に行われましたが、独砲兵と空軍機の猛烈な砲爆撃により失敗しました。
優秀なドイツ対戦車砲兵は、R35を9両撃破します。
07:00、独軍はエーヌ川南に橋頭堡を確保しました。
それはChateau-PorcienからAvanconへ約5`の深さがあったのです。
ドイツ工兵はグデーリアンの為に、Chateau-PorcienとTaizyで架橋しました。
26名無し三等兵:2011/03/07(月) 22:10:48.85 ID:???
C第12戦車大隊(第511戦車大隊群所属)

第12戦車大隊はソンム川のアミアン南で分割されており、
第2中隊は第16歩兵師団と、第3中隊は第13歩兵師団と共にいました。

1940年6月5日、Essertaux高地で、
第12戦車大隊第2中隊は独戦車部隊を食い止めるべく作戦中でした。
1両のR35が展開地区へ移動して待ち伏せ中、W号戦車に撃破されます。

第1小隊(Provoost中尉)は独戦車の攻撃に直面します。
3両のR35に多数の3.7cm砲弾が命中しましたが、装甲は貫徹しませんでした。
2両のR35がV号&W号戦車の射撃によって行動不能となります。
乗員は弾を撃ち尽くすまで戦闘を継続した後、車両から退避して仏軍戦線へ合流しました。
3両目の戦車(Devies伍長)は独軍へ3.7cm砲弾を撒き散らした後、
友軍戦線へ後退します。
夕刻、放棄された2両のR35は回収され、仏軍戦線へ牽引されていきました。

第3中隊にとって、EssertauxからAilly-sur-Noye地区での戦闘は困難なものでした。
何両かのR35が、W号戦車の75mm砲弾によって撃破されるか損傷しました。

一日中、第12戦車大隊は独軍の進撃阻止に当ります。
大隊は死傷者5名を出し、戦車3両が撃破されました。
損傷戦車は3両でしたが、それらは後に回収され、修理中隊へ送られました。
27名無し三等兵:2011/03/07(月) 22:11:29.37 ID:???
この地域のドイツ軍は、仏軍対戦車砲、対戦車地雷、野砲中隊の直射(特に75mm砲)により、
惨敗を喫しました。
フランス軍の側射は、非常に効果的であることが証明されたのです。
独戦車兵の証言では、戦車小隊が如何に素早く撃破されてしまったかが述べられています。
仏軍の砲は、真っ先に戦車小隊の最後尾車両を狙ってくると警告されました。

6月5日、独第9&第10装甲師団、第13自動車化歩兵師団、第9歩兵師団、歩兵連隊“グロースドイッチュラント”は、
アミアン南の仏軍陣地へ進撃します。
14-20`に渡る戦線を、第12戦車大隊の2個中隊(R35×26)の支援を受けた仏第16歩兵師団が保持していました。
独軍は戦車約250両・人員約60,000名で、対する仏軍は戦車26両・人員約15,000名でした。

仏軍は街と森に拠点を設け、約10`の深度で展開します。
全周防御陣地には、歩兵、機関銃、25mm&47mm対戦車砲、対戦車砲としての75mm野砲、対戦車地雷が含まれていました。
前進した独戦車は即座に支援歩兵と切り離され、その背面を仏砲兵が叩きます。

6月7-8日、仏第16歩兵師団の背後へ第24歩兵師団が来援しました。
その後5日間に渡って、ドイツ軍のこの地区での作戦は停滞し、
大きな損害と共にそれは失敗しました。
当初の計画では35`の突破が可能と思われていましたが、そのような機会は訪れず、
ドイツ軍は何日間も手間取ったままだったのです。
彼らはペロンヌへ移動しました。

6月8日の戦闘終了時、独第10装甲師団の残存戦車は60両、第9装甲師団の残存戦車は30両でした。
損害は約135両でしたが、この中には多くの完全喪失が含まれています。
2個のフランス師団の損害は60-70lでした。
ここでのフランス軍は、ジャンブルーでの戦闘とは異なり、強力な間接砲撃支援を得られませんでした。
砲兵は主に直接射撃任務に充てられたのです。
28名無し三等兵:2011/03/07(月) 22:12:09.93 ID:???
D第24戦車大隊(第502戦車大隊群所属→第4機甲予備師団所属)

1940年5月16日、第24戦車大隊はド・ゴールの第4機甲予備師団隷下となりました。
この大隊は、同じように第4機甲予備師団隷下となった他のいくつかの部隊とは異なり、
非常時の間に合わせの部隊ではなかったのです。

1939年8月、第24戦車大隊は創設されました。
そして既に、同年9月のザール地域への攻撃にも参加していました。

第3中隊所属のJeanney少尉の小隊(R35×3)は、Chivresの橋梁守備を命じられました。
19:30、3両の装甲車とオートバイからなるドイツ軍縦隊が撃破されます。
夜間、更にサイドカー2台が撃破されました。
5月17日05:00頃、別のドイツ軍縦隊が撃破され、31名が戦死し、約30名は捕虜となります。
トラック18両、単車&側車5台が破壊されるか鹵獲され、多数の無線機も仏軍の手に落ちました。

この小隊以外の第24戦車大隊は、モンコルネでの攻撃に加わりました。
そして、Lisletとモンコルネの町はもとより、Serre川の橋梁にも達しましたが、
モンコルネでのフランス戦車は歩兵支援を欠いていたのです。
何両かは対戦車地雷で撃破されましたが、3.7cmPaKには至近距離での被弾以外は耐えられました。
最終的に、大隊は7両の戦車を失ったのです。

○40年5月17日、モンコルネ入り口で行動不能となったR35
ttp://www.lunion.presse.fr/media/imagecache/article-taille-normale/protec/2010-05/2010-05-06/201005064be23465c6de9-0.jpg
29名無し三等兵:2011/03/07(月) 22:12:50.38 ID:???
5月17日05:00、モンコルネへの索敵で、仏第4機甲予備師団は80両の戦車で交戦しました。

仏軍
・第46戦車大隊第1中隊&第2中隊(22両のB1bisの内、17両が戦闘参加。残り5両は戦闘開始時に湿地で遮られる)
※同大隊第3中隊は午後のみ戦闘参加
・第2戦車大隊と第24戦車大隊からの部隊(ルノーR35×49)
・第345独立戦車中隊(ルノーD2×14)
・第4自動車化猟兵大隊からの歩兵(約650)
独軍
・車両×90(第10装甲師団の装甲車とオートバイ)
・戦車×6(第10装甲師団の修理完了車、1両は第1装甲師団)
・第666工兵大隊
・第59高射砲大隊+増援の8.8cm高射砲
・空軍のスツーカ

仏部隊は25`前進し、独軍の車両と砲を破壊します。
仏軍の攻撃はLisletやモンコルネのようないくつかの町を抜きましたが、最終的に後退しました。
終日、80-90両の仏戦車が戦闘を行ないましたが、独軍の敵対行動によって喪失したのは18両でした
(B1bis×4、D2×2、R35×12)。
少なくとも2両ずつのB1bisとD2が8.8cm高射砲に撃破され、
2両のB1bisは間接的に空襲で失われました(爆弾孔にはまり込んで行動不能)。
R35の多くは対戦車地雷か、歩兵支援を欠いた市街戦での3.7cmPaK近距離射撃により撃破されたのです。
8.8cm高射砲の戦果である2両のB1bisは、2500bの距離で撃破されました。
その内の1両は第46戦車大隊指揮官Bescondの乗車で、彼は黒焦げの戦死体と化しました。

○放棄された第46戦車大隊のB1bis
ttp://www.39-45strategie.com/fileadmin/articles/upload/sudden/c-46e%20BCC.jpg
30名無し三等兵:2011/03/07(月) 22:13:31.67 ID:???
その後、5両のB1bisが使用不可能となりました。
1両は機械的な故障、3両は地形に阻害された為、1両は乗員の手で破壊されました。
このような状況にも拘らず、フランス軍の人的損害はそれほど大きくはなく、
戦死14・負傷6・行方不明9でした。
ドイツ軍の損害の詳細は知られていませんが、
人的面に関しては約100名が戦死し、約120-130名が捕虜となりました。

5月18日、第24戦車大隊はランの戦線で守備に就きます。
19日、Crecy-sur-Serrenの攻撃に参加しますが、損害はありませんでした。
20日、大隊はルフトバッフェに攻撃されますが、10:00にドイツ騎兵隊を打ち破ります。

それから、第24戦車大隊はAubigny、Corbeney、Ville-au-Boisといった様々な地点で守備に当りました。
第1中隊&第3中隊からの戦車は、La Ferme d'Hurtebiseで包囲された自動車化部隊の救出を命じられます。
彼らはドイツ軍対戦車砲陣地を攻撃し、仏軍部隊の殆どを救いましたが、
1両のR35が失われ、乗員は行方不明となりました。

第24戦車大隊は後退しますが、撤退中に10-11両の戦車が撃破されるか放棄されます。
その後、大隊はコンピエーニュで待機し、仏第4機甲予備師団のアブヴィル橋頭堡への攻撃に加わりました。
後にロワール川へ撤退する間、彼らは戦闘をすることになります。

E第44戦車大隊(第532戦車大隊群所属→第4機甲予備師団所属)

第44戦車大隊(R35×45)は仏第4機甲予備師団の一部として、アブヴィル橋頭堡への攻撃に加わりましたが、
対戦車砲として使用された8.8cm高射砲と10.5cm砲の前に破れ去りました。
31名無し三等兵:2011/03/08(火) 00:11:57.18 ID:???
アイディアとかはともかく実務的にはド・ゴールよりプリウーとかフラヴィニーの方が良さそう
32名無し三等兵:2011/03/08(火) 01:39:27.05 ID:???
>>30
乙です
フランス軍も結構善戦してるなあ
33名無し三等兵:2011/03/08(火) 02:01:30.22 ID:???
>>22

古今東西の戦と同様、撤退時の損害が痛いなあ。
フランス軍部隊でかわいそうなのは、ダンケルク後の本土決戦のために、
遠路北アフリカから連れてこられて壊滅してしまったルノーD1の一部部隊とかかねえ。
34名無し三等兵:2011/03/08(火) 16:07:13.03 ID:???
電撃戦は個々の戦いで多少負けてもいいんだよな
いち早く敵の首都と政治の中枢を抑えればいい訳だから
35名無し三等兵:2011/03/08(火) 17:47:06.12 ID:???
政府と軍上層部が腐敗を極めていたのに、現場の部隊は結構頑張ってますね。
フランス軍の兵隊は大変だなあ。
36名無し三等兵:2011/03/08(火) 18:26:58.90 ID:???
>>31
プリウーはともかくフラヴィニーはどうなんだろ?
37名無し三等兵:2011/03/08(火) 19:29:27.29 ID:???
H35とR35 前線の戦車兵はどちらを好んだんだろう?
パナールP178が積んでいた25ミリ対戦車機関砲って、どのくらいの威力?
P178がV号戦車やW号戦車を撃破した伝説ってあるのかな?
38名無し三等兵:2011/03/08(火) 19:49:52.51 ID:???
最大速度自体はオチキスの方が高かったけどエンジンの出力が足りなかったみたいだ
路上ではオチキスが早くて路外ではルノーが速かったのかな

パナールの砲は25mm対戦車砲と同じ物
貫通力は
100 meters = 47mm /0ー
500 meters = 40mm /0ー
1000 meters = 30mm /0ー

100 meters = 35mm /30ー
500 meters = 30mm /30ー
1000 meters = 20mm /30ー

100 meters = 18mm /45ー
500 meters = 16mm /45ー
1000 meters = 15mm /45ー
ttp://www.tbof.us/data/atg/25mm/25mm_mle1934_anti_tank_gun.htm
39名無し三等兵:2011/03/08(火) 20:56:59.24 ID:???
37ミリ長身砲の比率は、H35の方が高かったみたいだね。
25ミリ対戦車砲ってフル・オート射撃出来たの?
40名無し三等兵:2011/03/08(火) 20:58:11.32 ID:???
機関砲じゃなくて重対戦車銃みたいなもんだから無理。
41名無し三等兵:2011/03/08(火) 21:45:17.90 ID:???
R35はのサスペンション。
H35と同じようなコイルバネにカバーがかけてあるんだと思ってたら、あれはゴムの塊の緩衝器だった。
地形追従性は宜しくなさげだ。
42名無し三等兵:2011/03/08(火) 21:47:28.78 ID:???
確かこの25mm対戦車砲/25mm機関砲って日本海軍が使ってた25mmの原型でしょ?
機関砲が掃射してくれば厄介かもの
ただ対戦車砲が1発ずつとかだとなぁ……
43名無し三等兵:2011/03/08(火) 22:13:52.48 ID:???
25mm対戦車砲の貫通力を見て思った。
多数のH35やR35が積んでいた短砲身プトー37ミリ砲より凄いじゃん。
H35とR35の搭乗員、可哀想すぎる。しかし2名しか居ないけど
44名無し三等兵:2011/03/08(火) 22:16:51.05 ID:???
榴弾ねーよ?
45名無し三等兵:2011/03/08(火) 22:18:50.82 ID:???
>>43
歩兵支援能力はすごくない
46名無し三等兵:2011/03/08(火) 22:28:05.91 ID:???
H35,R35の37ミリ砲は機関銃陣地向けなんだろうな。ということは、ルノーFT17と考え方は一緒か
フランス軍は対戦車戦闘を どう戦おうとしてたんだろう?
47名無し三等兵:2011/03/08(火) 22:37:12.41 ID:???
>>42
オチキス25mm対空機関砲は日本海軍のそれの原型だが同じオチキス社製でも対戦車砲は別物。ちなみに後者にはタングステン芯徹甲弾もある。
Wikipediaで九六式の原型とか書いたバカは誰だ?砲身も機関部も全然違うだろ。
48名無し三等兵:2011/03/08(火) 22:38:56.56 ID:???
まぁ基本は防御に使うつもりだっただろうし
対戦車砲と連携して街路や地形を上手く使って頑張るしかないんじゃ
49名無し三等兵:2011/03/08(火) 22:49:29.48 ID:???
古い「丸」を引っくり返してたら、この頃のフランス戦車隊の話が。

1940年5月26日、R35と装甲車(形式不明)5両ずつを装備した小さな機甲部隊が、
パリで編成着手されます。
随伴するのはトラック1両とサイドカー25両、バイク10両からなる自動車化部隊で、
47mmと25mmの対戦車砲を2門ずつ装備し、トラック10両弱で自動車化された段列も付属しました。
指揮官は35歳の大尉で、兵力220名。

6月3日、部隊はソンム河口へ向かい、その後セーヌ河畔のルーアン防衛を命じられます。
空襲と砲撃で損害を出しつつ部隊は転進、6月7日にブース村(ルーアンから10q)に展開しました。
道にバリケードを組んで対戦車砲を配置した頃、
偵察に出たバイク兵から、「付近に友軍無し」のがっかり情報がもたらされました。

ところが、翌8日午後、ブース村を一人のフランス軍大佐が訪れ、友軍戦車14両の増援を告げます。
「砲塔ハッチを開いて、白旗を掲げてくるので、間違って撃たないでもらいたい」
怪しいと感じた大尉が、そんな援軍が来るのかと軍団司令部に照会したところ、答えは「ノン」
ただちに部隊は戦闘配置につきました。

>>43
>搭乗員、可哀想すぎる。しかし2名しか居ないけど

おいw
50名無し三等兵:2011/03/08(火) 23:12:14.50 ID:???
>>46
あの国はベースが防御なので、対戦車砲などで対抗する。
やばくなったら47mm砲や長砲身37mm砲を積んだ騎兵部隊が機動防御しに行く。

>>49
> 「砲塔ハッチを開いて、白旗を掲げてくるので、間違って撃たないでもらいたい」
どう考えても敵の偽装降伏です本当にありがとうございました。
結果はどうだったんだろう?
51名無し三等兵:2011/03/09(水) 09:40:34.85 ID:???
25mm対戦車砲には、榴弾はないのかな?
52名無し三等兵:2011/03/09(水) 13:23:52.97 ID:???
>>51
つかその程度の口径だと榴弾の威力が低すぎて役に立たないだろ。
どっちかつーと今でいう対物ライフルの化け物に近いし。
53名無し三等兵:2011/03/09(水) 15:03:44.29 ID:???
ドイツのU号戦車の20ミリ砲には、榴弾があるよ。
54名無し三等兵:2011/03/09(水) 15:13:26.13 ID:???
連射が2号ほど効かねーからやっぱり無意味
55名無し三等兵:2011/03/09(水) 15:18:39.78 ID:???
28mmのゲルリッヒ砲も、後に榴弾が作られている。機銃座潰しとかに使えるから。
56名無し三等兵:2011/03/09(水) 15:27:43.39 ID:???
対戦車砲とは運用が違う
主に補給面でね
パナールの砲は撃ちまくる為に載ってんじゃない
57名無し三等兵:2011/03/09(水) 15:37:05.39 ID:???
P178は捜索用のAMDだからな。
厳密にいうと偵察用のAMRとも運用がちがう。
58名無し三等兵:2011/03/09(水) 17:40:19.40 ID:???
しかし、貫通力とか数字比較だけのスペック厨だけじゃなく、
運用に絡めて話せる軍オタが増えてきたのは喜ばしい
59名無し三等兵:2011/03/09(水) 18:04:04.72 ID:???
>>55
あれはもともと空挺や山岳の火力支援に使われてたし、
末期になると支援火砲はあれだけとかいう部隊もあったようだから、
基本的に対戦車戦で使用されることを想定して、そしてそのまま使われて消えていった
25mm砲と比べるのはどうかとも思う。

>>58
このスレとか帝国機甲兵力スレとかにそういう人が集まってるだけな気もしないでもない。
60名無し三等兵:2011/03/09(水) 20:23:03.21 ID:???
あれ?
25mm対戦車砲って榴弾てか炸裂弾なかった?
61名無し三等兵:2011/03/09(水) 20:46:19.84 ID:???
>>60
AP-Tはあったと思うが。
62名無し三等兵:2011/03/09(水) 22:09:18.74 ID:???
>>6訂正です

>連合軍が持ち込んだ戦車はヴィッカースMk.VIでした
×ヴィッカースMk.VI
○ヴィッカースMk.VIとオチキス軽戦車

自由フランス軍第1軽師団のオチキス(※9両)を失念していました。
63名無し三等兵:2011/03/09(水) 23:08:45.65 ID:???
>>62
オチキス対ルノーとか打ち合っても決着がつかない…
64名無し三等兵:2011/03/10(木) 15:52:18.98 ID:???
そーいや、第二次大戦期に作られた戦車砲って、20cmから128mmまでいろいろありますけど、
なぜか60mmクラスの砲って全然見当たらないですよね。
65名無し三等兵:2011/03/10(木) 16:00:59.20 ID:???
歩兵砲・対戦車砲から野砲・高射砲にとんだからな
66名無し三等兵:2011/03/10(木) 16:10:38.99 ID:???
>>65
第一次大戦期の標準歩兵砲が37mm、直接支援タイプの野砲が75mm、間接支援タイプの野砲が100mm、
そして対空砲が75〜100mmだから、それらから発展した戦車砲の口径が概ねそれを踏襲してるのはなんとなく
分かりますね。
・・・となると、今度は、なぜ6cm台が砲の口径の空白地帯になっているのかという疑問が・・・w
まぁ、至極どうでもいいスペック談義なんで、ここまでにして置きますけど。
67名無し三等兵:2011/03/10(木) 16:20:32.69 ID:???
軽迫撃砲での60mmはメジャーな口径だと思うが。
68名無し三等兵:2011/03/10(木) 16:29:29.90 ID:???
チェコスロバキアが66mm対戦車砲ってのを造ってたけど、ドイツはPak38に比べて特に優位点がないとして
却下しちゃったな。
57mm砲なら結構あっちこっちで使われてたけど、このクラスを積むのならいっそ75mmを積んでしまったほうが
榴弾威力が大きくて便利だったんだろう。イギリスの戦車が一部積んでただけで、車内スペースに余裕がある
戦車は75mmに換装している。アメリカのGMCやソ連のT-34の主砲にする計画もあったが、結局76.2mmになった。
仮に66mm砲で考えると、大体徹甲弾で5kg、榴弾で4.5kgぐらいの砲弾(弾頭)になるはず。
それで砲自体の重量は1300kg前後になるだろう。75mmクラスに対して、優位点が全然思いつかん。
69名無し三等兵:2011/03/10(木) 16:33:08.33 ID:???
>>68
もともと野砲としてもこのクラスの砲が存在しないのも、似たような事情なんでしょうかね。
(迫撃砲はぜんぜん構造が違うから、別枠って事になるのでしょうけど)
70名無し三等兵:2011/03/10(木) 16:46:47.96 ID:???
cmとinchがあるからどっちかに合わせると半端なのはわかるけど
同じ欧州圏で75mmと76.2mmがあったのは何か不思議だよね。
砲弾とか間違いそう。
ドイツがソ連から分捕った砲は、一応どっちの砲弾も使えるように
改造してあったらしいけど。
71名無し三等兵:2011/03/10(木) 16:54:10.42 ID:???
米軍でも、M10駆逐戦車とM4A1E8の砲が、同じ76.2mmなのに砲弾の互換性が無かったり・・・
混同を防ぐために、前者は3インチM7、後者は76.2mmM1って呼ばれてたらしいです。

あと、WW1以前の野砲の頃から口径7.5cm前後が標準だったのは、馬匹牽引の限界がその辺りだったからかな?
72名無し三等兵:2011/03/10(木) 18:56:10.83 ID:???
ここまで、ドイツの50ミリ砲、フランスの47ミリ砲、イギリスの3ポンド砲、57ミリ砲が触れられてないね。
73名無し三等兵:2011/03/10(木) 19:12:19.10 ID:???
だって「60ミリ台の口径が見当たらない」って話から始まってるんだし。
74名無し三等兵:2011/03/10(木) 19:29:31.16 ID:???
>>66
ベルギーのエバンエマールに60mm対戦車砲が!!
後、戦後イタリア・イスラエルが高初速60mm砲を
そしてこいつがチリの魔改造シャーマンに搭載され
一応ライナップ上に60mmを積んだダルド火力支援型がイタリアに
M113火力支援型がイスラエルにある
チリと違ってライナップ上だけだが
75名無し三等兵:2011/03/10(木) 19:41:44.65 ID:???
37ミリと75ミリの間に、50ミリがあるんだから、60ミリは必要なくない?
76名無し三等兵:2011/03/10(木) 19:44:33.77 ID:???
迫撃砲だと割とあって、それ転用の後装迫撃砲がけっこうありそう
77名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:18:33.91 ID:???
【我々は野で、街頭で、丘で戦うだろう】

1940年、英第2機甲旅団(※第1機甲師団)隷下のクィーンズ・ベイズ連隊(※第2近衛竜騎兵)は、
ヴィッカースMk.VIから巡航戦車へ装備転換することになりました。
最初のA9は4月に届きます。

5月3日、クィーンズ・ベイズ連隊は海外への派遣命令を受領しました。
異なる2つの型の巡航戦車(※A10&A13)が届き始めましたが、
どちらも定数を満たすものではなく、予備部品を全く欠いていました。
彼らは未だに9両のヴィッカースMk.VIC(※受領時から非武装のままでした)を保有しており、
それらのべサ機関銃は、ベイズ連隊がまさに出発しようという時に到着しましたが、
その後も梱包状態のままでした。

出立前の5月14日、ジョージ6世がクィーンズ・ベイズ連隊を初めて閲兵し、
その直後に名誉連隊長のエリザベス王妃が閲兵しました。

※40年5月21日のベイズ連隊戦力を以下のものとする資料もあります

連隊本部=A10CS×3
A中隊=@中隊本部:A9CS×2&A13×2、AA13小隊(3両)×2、BMk.VIC小隊(3両)×2
B中隊=同上
C中隊=@中隊本部:A13×3、AA13小隊(3両)×1、BMk.VIC小隊(3両)×2

こちらはヴィッカースMk.VICを9両ではなく18両としています(※他に21両とするものもあります)
78名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:19:15.57 ID:???
1940年5月19日、クィーンズ・ベイズ連隊はサウサンプトンで乗船します。
それまでに、ドイツ軍の攻勢によって状況は変化していました。
英第1機甲師団はフランス国内の演習地へ向かう代わりに、ブリュッセル西へ集結するよう命じられたのです。

師団到着前に、独軍はカンブレーに存在するとの報告がなされましたが、
それは揚陸先のル・アーヴル港の東でした。
又、ル・アーヴルでは機雷が確認されたのです。
船団は行く先をシェルブールへ転じました。

5月20日、第1機甲師団はシェルブール港で揚陸され、21日、戦車と乗員は共に列車で移動しました。
その途上、戦車兵は機関銃を組み立てます。

22日、彼らはルーアン南40マイルのBrevaiの小さな駅に到着しました。
戦車兵が創意工夫して応急ランプを拵え、それを使って戦車は列車から降ろされます。
道は避難民の群れで満たされていましたが、戦車は避難民の間を通り抜けながら移動し、
8マイル北のAiglevilleで自動車化段列(※こちらは鉄路ではなく路上行軍でした)と合流しました。
79名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:19:55.97 ID:???
今や、敵はアミアンとアブヴィルを奪取し、その尖兵はソンム川を越えてルーアンへ東から迫っていました。
クィーンズ・ベイズ連隊はルーアン東のForet de Lyonstに派遣され、
セーヌ川へ迫る全ての敵を撃破するよう命じられます。

クィーンズ・ベイズ連隊と第4ボーダー連隊が所定の陣地に到着すると、緊急命令が届きました。
それはソンムの渡河点を押さえて独軍部隊を遮断し、
撤退中のイギリス海外派遣軍への圧力を緩和せよというものでした。

先ず、バークレー大尉がソンム渡河点の偵察に赴きましたが、
そこはフランス軍が保持しているとのことでした。
しかし、仏軍部隊の姿は認められず、ドイツ軍自動車化部隊の多数の哨戒兵がいたのです。
この徒歩での偵察によって、川の北岸全ては独軍に押さえられていることが判明しました。

闇の中でキーワース大尉はベイズ連隊から分離し、旅団からの偵察車の小部隊と合流しました。
彼らは独軍の道路防塞と出くわしたのです。
キーワースの戦車ともう1両の戦車は防塞へ突撃しましたが、共に地雷で撃破されました。
キーワースと砲手は車外へ脱出し、捕虜となったのでした。
80名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:20:36.65 ID:???
5月24日、C中隊長のアスキス少佐は、Dreuil、Ailly、Picquignyの橋梁確保を命じられました。
C中隊の3個小隊が投入され、B中隊と第4ボーダー連隊が支援に当ります。
右翼は第2小隊のアーレイ中尉が、僅か2両のヴィッカースMk.VICでDreuilへ進撃しました。
目標から1マイルの地点で、中尉の先導戦車へ1門の対戦車砲が発砲します。
中尉の戦車は応射し、急転回して後退しました。

給水塔から1挺の機関銃がアーレイの戦車へ射撃を始めました。
それはべサ機関銃が応射している間は沈黙していましたが、
直ぐにボーダー連隊の歩兵に向けて射撃を再開し、英歩兵に死傷者が出ます。
さまざまな方角から小火器が発砲を始め、射撃戦が展開されましたが、
壕内のドイツ軍相手に事態は進展しませんでした。

アーレイの2両のMk.VICは側面包囲を試みます。
左翼のバン軍曹の戦車は何ら抵抗に遭いませんでした。
中央のボーダー連隊の歩兵は、銃剣、小銃、機関銃を用いての乱戦となります。
右翼のアーレイの戦車は1本の木に遮られました。

2両の軽戦車は、巡航戦車小隊がやって来ると聞き、後退しました。
しかし、巡航戦車小隊は13:00には到着しなかったのです。
アーレイの第2小隊は弾薬・燃料が尽き、予備戦力となる為に後退を命じられました。
この作戦行動により、アーレイは戦功十字章を授与されたのです。
81名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:21:17.25 ID:???
中央では、アイリング曹長の第3小隊がAillyの橋梁が破壊されているのを発見しました。
しかし、ボーダー連隊の2個歩兵小隊は何とか川を渡り、戦車の援護射撃の下、敵と交戦します。
最終的に英歩兵は増大する圧力の中を撤退しましたが、その際に英戦車は多くの標的を得たのでした。
アイリングは戦功十字章を授与されたのです。

左翼では、ギャビン中尉の第4小隊がPicquignyの橋へ向かいましたが、
出会ったフランス軍将校は、ドイツ軍の戦力は強大であると述べたのです。
別ルートを進んだボーダー連隊の歩兵中隊は、森の中で待ち伏せ攻撃に遭いました。
彼らは多大な損害を被り、そのトラックは炎上しました。

ギャビンは救援に駆け付け、敵歩兵部隊と交戦します。
それらを森の外へ追い払うと、対戦車砲と機関銃の猛烈な射撃に見舞われました。
ギャビンはボーダー中隊の生残者を援護出来る地点に位置します。
ボーダーの約15名の負傷兵が、フランス軍野戦病院まで後退すべく、一日中ぞろぞろと歩いていました。
20:00、ギャビンは撤退します。
その際、彼の戦車上には30名以上のボーダー生残兵が跨乗し、9名が徒歩で付き従いました。
82名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:21:57.76 ID:???
アスキス少佐はC中隊本部と共に、アーレイ中尉とギャビン中尉の小隊の後を続行し、
Picquigny近辺でドイツ歩兵と交戦しました。
B中隊からのニコルソン中尉の巡航戦車小隊(※2両)が、アスキスの指揮下にありました。
少佐はこの巡航戦車小隊をアーレイ小隊の支援に差し向けます。

ニコルソン小隊は途中で1両が故障し、ニコルソン中尉の車両が目的地に到着した時には、
既にアーレイ小隊は撤退していました。
そこでニコルソンも後退しましたが、彼の戦車は地雷を踏み、対戦車砲弾が飛んできました。
しかし、重大な損傷は全く被らなかったのです。

ホートン大尉指揮のA中隊は、戦力が4両のヴィッカースMk.VICに低下していました。
彼らはDreuilのボーダー連隊の支援を命じられます。
A中隊は15:00に目的地へ到着し、ドイツ軍と交戦しました。

Mk.VICは一斉に射撃し、敵陣地を挟撃すべく2両が走り出しました。
3番目に走り出したホートン大尉の戦車は、1門の対戦車砲に撃たれて被弾します。
銃手のブラウン伍長が戦死し、操縦手のハントは負傷しました。
ハントは負傷にも拘らず、自車を戦闘圏外へと運び出したのです。
他1両が行動不能となり、残存車両は後退しました。
ハントは、その勇敢な行為に対し武勇章を授与されたのでした。
83名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:22:38.33 ID:???
午後早くの時点で、B中隊のみが未だ作戦行動能力を有しており、彼らはA中隊を支援すべく送り込まれました。
ウェブ中尉の小隊は前進し、低空飛行の敵機を1機撃墜しましたが、
対戦車砲と機関銃の射撃に晒されます。
3両のドイツ戦車が詰め寄り、発砲しました。
スノスウェル曹長の戦車は2回被弾し、撃破されます。

ウェブ中尉の戦車へ砲弾が2発直撃した時、メリン曹長は自車を中尉の戦車の前面に進めました。
ウェブと操縦手は戦死し、砲手のパーソンズ伍長が負傷していました。
メリンはパーソンズを救い出し、後退します。

このクィーンズ・ベイズ連隊のWW2初陣に於ける損害は、
将校1名戦死・2名負傷・1名捕虜、下士官兵4名戦死・2名負傷・行方不明6名というものでした。
84名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:23:18.85 ID:???
翌5月25日は、休養と装備点検に充てられ、戦車兵は睡眠不足を解消しました。
25-26日の夜、第2機甲旅団はアブヴィル南12マイルの地区へ移動します。
それというのも、27日にフランス軍と協同してアブヴィルの独軍橋頭堡を攻撃する予定だったからです。

5月27日06:00、クィーンズ・ベイズ連隊が右翼、第10軽騎兵連隊が左翼で攻撃を開始しました。
ベイズ連隊はC中隊が先導し、A&B中隊の混成中隊が支援に当ります。
C中隊が、フランス小銃兵がかろうじて保持していたBailleul尾根頂上の線を越えた時、
ドイツ軍の機関銃弾と対戦車砲弾が雨あられと注がれました。
独軍はLimeux北の森の中に、強固な陣地を構えていたのです。
なだらかな尾根の頂の上で、空を背にくっきりと浮かび上がった戦車のシルエットは、
ドイツ対戦車砲兵からすると格好な標的でした。

即座に、先頭の4両の戦車が被弾し、残存車両は互いに援護射撃を行ないながら後退しました。
Aitken中尉は戦死し、アイリング曹長、バーナード軍曹、ブライス軍曹が負傷しました。
アーレイ中尉の小隊は右回りで進みましたが、敵の猛烈な射撃により前進出来ず、アーレイ車は撃破されます。
85名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:23:59.35 ID:???
第10軽騎兵連隊との連絡が絶たれ、ダンス中尉の小隊がHuppy地区の偵察に赴きました。
第10軽騎兵連隊は、そこで行動していると思われたからです。
ダンスは1人の仏軍将校と出会い、独軍がHuppyを保持し、第10軽騎兵連隊は大損害を被ったことを知らされます。

※5月27日、Huppy地区での作戦行動時の第10軽騎兵連隊戦力

連隊本部:巡航戦車×1、軽戦車×1
A中隊:巡航戦車×6、軽戦車×4
B中隊:巡航戦車×3、軽戦車×6
C中隊:巡航戦車×2、軽戦車×7
       ↓
作戦後の残存戦車:巡航戦車×5、軽戦車×5

ttp://img27.imageshack.us/img27/7528/p1300379.jpg

○1940年、フランス。放棄された第10軽騎兵連隊のA13Mk.U
ttp://farm4.static.flickr.com/3313/3187467851_a73646fc79_o.jpg
86名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:24:39.93 ID:???
この時、Limeuxの敵は静かになっていました。
そこで、A&B中隊の混成中隊の1個小隊で、試しに再び攻撃を仕掛けることになったのです。
ベーレンス中尉は、ノートン軍曹とバーンサイド軍曹の車両と共に、
尾根のフランス歩兵の陣地を通り抜けました。

即座に、3両の戦車を一掃すべくドイツ軍が砲火を開きました。
ノートンとバーンサイドの戦車は撃破され、ノートンは戦死します。
バーンサイドは致命傷を負い、その乗員は戦死しました。
ノートン車の操縦手は脱出し、負傷した砲手を救い出します。
ベーレンス中尉の車両だけが無傷で後退出来たのでした。

その晩、クィーンズ・ベイズ連隊は撤退します。
第2機甲旅団の3個戦車連隊の内、第9槍騎兵連隊がフランス歩兵の支援に残りました。
この日のベイズ連隊の損害は、Aitken中尉と下士官兵8名戦死、負傷者7名、喪失戦車12両でした。
既に、ダンケルクではBEFの撤退が始まっていました。
87名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:25:20.53 ID:???
続く4日間で、第2機甲旅団の残存戦車から1個混成連隊が編成されました。
それは第9槍騎兵連隊の2個中隊、第10軽騎兵連隊の1個中隊、クィーンズ・ベイズ連隊の1個中隊から成っており、
後にアスキス少佐が指揮します。

5月31日、ベイズ連隊指揮官のファンショー大佐が交通事故で負傷し、英本国へ送還されます。
サイクス少佐が指揮を引き継ぎました。

一方、混成連隊はサン・レジェに6月5日まで残留していました。
混成連隊の、ベイズ連隊から抽出されたベイズ中隊が、第51ハイランド師団と連絡を取るべく、
ブレル川へ進撃するよう命じられました。
アブヴィル近辺で突破したドイツ軍を攻撃する為です。

ベイズ中隊は、Fressenville周辺の歩兵の許へ赴く途中、爆撃されました。
午後の間、中隊はゴードン・ハイランダーズの陣地へ浸透せんとするドイツ軍の3度の試みを、
撃退することに成功します。
日暮れ時、中隊はブレル南へ後退しました。

続く2日間、ベイズ中隊はブレルの線を保持していました。
しかし6月8日、ルーアン近辺でのドイツ軍の突破に対処する為、中隊は60マイル移動しました。
15:30、中隊は独装甲師団と遭遇し、砲火が交わされました。
88名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:26:03.95 ID:???
そうしている間にも、サイクス少佐は残存中隊でベイズ連隊を再編しました。
A中隊は自動車化歩兵となり、小銃と軽機関銃で武装し、バークレー大尉が指揮に当りました。
戦車は、スコット少佐指揮下のB中隊に纏められます。
B梯団はその多くのトラックをA中隊へ引き渡し、ブラケット大尉指揮下となりました。

6月7日夕刻、サイクス少佐と歩兵稼業となったA中隊へ、
Andelleの線を保持せよとの命が下されました。
Poix北で突破した独軍がルーアンへ向かっていたのです。
一方、スコット少佐の戦車中隊と第10軽騎兵連隊の1個中隊は、エプトの渡河点を押さえようとしましたが、
到着してみると、既に独軍は渡河点を確保していました。
そこで、スコットはAndelle前方に布陣することにしたのです。

6月8日早く、サイクス少佐はポン・ド・ラルシュでセーヌ川を渡って退却するよう命じられました。
9日、ドイツ軍の渡河を妨げる為、橋は爆破されると告げられます。
少佐とA中隊に与えられた持ち場は、川沿い15マイルでした。
セーヌ川線の保持をもくろんでいたフランス軍は、かろうじて南へ後退しました。
夕刻、A中隊はヒバート大尉を残して撤退します。
ヒバートとその小隊は、ポン・ド・ラルシュで哨戒に当りました。

Andelleにいたスコット少佐のB中隊の戦車は、6月8日11:00頃、独装甲師団の攻撃を受けます。
中隊はルーアン〜ボーヴェ道の線へ徐々に押し返されました。
その夜遅く、B中隊はPont St Pierreとレ・ザンドリでセーヌ川を渡って撤退したのです。
それから、B中隊は第9槍騎兵連隊&第2機甲旅団司令部と共に、フランス軍の支援と士気鼓舞の為、留まりました。
英機甲部隊は仏軍が後退した時に共に下がりましたが、その戦車は残り僅かに15両でした。
89名無し三等兵:2011/03/10(木) 21:26:44.59 ID:???
6月10日、混成連隊のアスキス少佐のベイズ中隊は、
Louviers南のウール川の渡河点を保持するよう命じられました。
しかし、11日に撤退を命じられた彼らは、ラ・フェリエールへの道を辿り、
13日にル・マンに到着し、クィーンズ・ベイズ連隊に復帰したのです。
14日、スコット少佐のB中隊も、ル・マン近くでクィーンズ・ベイズ連隊へ復帰しました。
これで、ベイズ連隊は本来の編成に戻ったのです。

6月15日、フランスが休戦を考慮しているとの情報が伝わりました。
ベイズ連隊は直ちにブレストへ向かい、夕刻に港へ到着します。
連隊主隊はHMT“Isle of Man”に乗船しましたが、港の掃海の為、16日は丸一日、留められたままでした。
17日、彼らは故国のプリマス港へ到着します。

一方、残存戦車15両(※他連隊も含む)は海岸へ到達出来ず、フランスの地に放棄されました。
その操縦手はトラックでシェルブールへ向かい、そこから英国へ帰還したのです。
ベイズ連隊の“フランスの戦い”は終わりました。

翌18日、チャーチルは下院演説の最後の箇所を“This was their finest hour”で締めくくります。
やがて“英国の戦い”が始まり、ベイズ連隊はワーミンスターで、テムズ南地域への独軍侵攻に備えたのでした。
90名無し三等兵:2011/03/10(木) 23:53:36.60 ID:???
>>77-89
乙です。イギリス人て大損害出しながらも整然としてるのが不思議な連中だなあ
91名無し三等兵:2011/03/10(木) 23:57:09.44 ID:???
負け慣れてるからな
見習いたい部分だ
92名無し三等兵:2011/03/11(金) 00:08:29.33 ID:???
それでも最後は勝ってるからいいんだよ。
日本人なんて一度負けただけでヘタれたし、
酢キャベツなんてリベンジしてまた負けてるし。
93名無し三等兵:2011/03/11(金) 00:52:19.18 ID:???
英軍は粘り強いよな。D-Day上陸後間もない頃はアメリカ正面は二線級部隊ばっかりだけど
英軍正面のカーンのドイツ軍配置図見たら精鋭の装甲師団が集中しててよく海岸に追い落とされなかったと思う
94名無し三等兵:2011/03/11(金) 10:52:32.44 ID:???
英軍もどっちかってば物量頼みだよな。
どの指揮官が優れてたとか、どの兵器が強かったとかって
あんまり無くね?
アメリカより早く戦争に入ってるから経験値は高いんだろうけど
なんか優勢な時だけ攻めて普通に勝ってるだけみたいな。

ハリケーン、スピットファイアとかMarkUマチルダとか
ちょっと伝説化され杉
95名無し三等兵:2011/03/11(金) 10:56:09.85 ID:???
勝利者側なんてそんなもんだろ
96名無し三等兵:2011/03/11(金) 11:00:09.61 ID:???
伝説的な活躍ってのは負け戦で無理するから出てくる
97名無し三等兵:2011/03/11(金) 12:16:41.29 ID:???
モンティは、北アフリカでは物量が揃わないと攻勢に出なかった。
98名無し三等兵:2011/03/11(金) 13:03:36.52 ID:???
無理攻めしてもソンムみたいになるのは
身にしみて知ってたろうしなw
99名無し三等兵:2011/03/11(金) 13:18:33.49 ID:???
ディエップのアホ作戦は?
100名無し三等兵:2011/03/11(金) 13:23:07.60 ID:???
やばそうだったから主力がカナダ人だったんだろw
101名無し三等兵:2011/03/11(金) 13:44:50.03 ID:???
と言うか物量を活かすのにも個々の兵隊や兵器の能力は必要なんだぞ。

軍が最も戦果を挙げるのは敵の前線を突破した後の戦果拡張・追撃時だが
(だからこそ持ち駒が多い大軍が有利なわけで。寡兵は予備兵力がすぐに
枯渇して満足に対応できなくなる)、そもそも前線の兵士や兵器がヘタレで
満足に突破や突破口の維持ができなかったら何にもならない。
(日中戦争時の中国軍なんか見ればわかるだろうけど。)

米英軍もドイツ軍と個々での戦闘で立派に戦えるだけ十分精強だよ。
102名無し三等兵:2011/03/11(金) 17:44:42.69 ID:???
ハリケーン可愛いよハリケーン
103名無し三等兵:2011/03/11(金) 21:40:19.84 ID:???
>>101
>>20にそこら辺の話があったな
104名無し三等兵:2011/03/13(日) 18:55:12.17 ID:???
歩兵の自動化が進んでいたのが、米英なんだよね。
ドイツは意外と馬頼み。ファレーズの包囲戦の時
タイフーンのパイロットが「家畜の死臭がコクピット迄漂ってきた」 と言ってるし
105名無し三等兵:2011/03/13(日) 23:49:32.19 ID:???
てか米軍以外は馬使いまくり
後、歴史群像の最新号には米軍がイタリア戦線で、馬や馬の扱いに慣れた人を集め直すのに手間取ったとか書いてた
まぁ、チート米帝様だから集め終わったらスムーズだったようだが
106名無し三等兵:2011/03/13(日) 23:55:28.27 ID:???
ドイツはフランスを占領してからソ連に侵攻するまでの間にフランスの工業力と鹵獲物資を使って
88歩兵師
2自動車歩兵師
1戦車師
をフランス製車両で揃えた師団に整備した
と大日本絵画の本に書いてあるがこりゃ相当だ
107名無し三等兵:2011/03/14(月) 00:05:01.02 ID:???
>>106
>88歩兵師
えっ!?
88個歩兵師団なの?
108名無し三等兵:2011/03/14(月) 00:32:17.66 ID:???
書いてあるんだから信じるしかない
別のソースも探したいが
109名無し三等兵:2011/03/14(月) 03:06:04.32 ID:???
ドイツのわずかな自動車しか保有していない歩兵師団の
そのわずかな自動車がフランス製ってことでは?
110名無し三等兵:2011/03/14(月) 05:27:58.87 ID:???
一個歩兵師団で220だったか自動車
111名無し三等兵:2011/03/14(月) 19:36:27.42 ID:???
http://www.youtube.com/watch?v=_j9yFOuhN84&feature=related

サイドカーというとドイツのBMWだが、ニューウラルってどうなの?
112名無し三等兵:2011/03/14(月) 20:26:28.71 ID:???
この時代でも軍用サイドカーって側車も動力伝達されてて2WDなんだよな
113名無し三等兵:2011/03/14(月) 20:40:30.77 ID:???
ハーフトラックって米・独どっちが優れてたんだろうね?
ドイツのハノマークは車体全長に占めるキャタピラの割合が多くて
ほとんど戦車だ。前輪のタイヤは駆動力が無く、ほとんど飾りみたいな物。

アメリカのM3はキャタピラ部分は小さいが、前輪にも駆動力がある。
運転姿勢はトラックと同じで、操縦はし易そうだな。


てか、もう何でもいいから家に帰ったら地震の事以外の話がしたいわ・・・
114名無し三等兵:2011/03/14(月) 21:16:11.35 ID:???
ハノマークとM3ハーフトラックを比較するのは、カテゴリー違いなような気がする。
115名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:32:26.23 ID:???
【4月戦争】

1941年3月25日、圧力に屈したユーゴスラヴィアは日独伊三国同盟に加入しました。
3月26日、摂政パヴレは静養の為、スロヴェニアの別邸へ向かいましたが、
同日深夜、三国同盟反対派の将校団はクーデターを決行します。
翌27日01:00、実行部隊はベオグラードの全拠点を押さえ、閣僚の身柄を拘束しました。
摂政パヴレとツヴェトコヴィッチ首相の体制は崩壊し、シモヴィッチ将軍の新内閣が発足します。

摂政パヴレの乗った王室特別列車はザグレブ駅に停車し、クロアチア方面司令官の監視下にありました。
ザグレブに前日戻っていた前首相マチェック(クロアチア農民党党首)は、パヴレを市内へ連れ出します。
マチェックは、ベオグラードの党幹部から未だ情勢は流動的だと知らされていました。
彼はパヴレに、ザグレブとその周辺のクロアチア人部隊に動員をかければ十分な兵力が確保出来、
クーデター派と対等に交渉出来ると述べました。
しかし、パヴレはこの提案を却下します。
彼は、国王への反逆者になることを恐れ、ベオグラードに残した妻子の身の安全を危惧したのです。
パヴレはベオグラードに戻ると摂政の地位を退任し、妻子と共にギリシャへ出国しました。

クロアチア自治州の設置を認めた施策もあって、パヴレ公を大いに嫌っていたセルビア人は、この政変を歓迎します。
ベオグラードでは大勢の市民が街へ繰り出し、歓喜の声を挙げました。

『三国同盟加入よりは戦争を』

ザグレブ市民は、このクーデターは国家を破滅の危機に晒す、無責任極まりない企てだと憤慨していました。
多くのクロアチア人は、ヒトラーに逆らって勝算の無い抵抗を試みるよりも、妥協すべきだと考えていたからです。
戦備の整っていないユーゴにとって大切なのは時間を稼ぐことで、戦局が連合軍優位に転換するなら、
三国同盟を離脱する機会が生じる可能性もあったわけです。
今はヒトラーを挑発せず、性急な決断に走らせないことが肝要でした。
反セルビアも絡んだ市民感情は、多数のクロアチア人から成るユーゴ第4軍のその後の動向に影響するのです。

○クーデターによって成立したシモヴィッチ内閣
ttp://www.27march.org/Album/Posle27marta41/0026.JPG
116名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:33:18.41 ID:???
ヒトラーはユーゴ攻撃を即決しました。
次期作戦(ギリシャ攻撃と対ソ攻撃)の足を引っ張りかねない不安要素と見なしたからです。
特に対ソ攻撃の遅れを最小限のものとしたい彼は、
シモヴィッチ政権が態度を表明する前から、これと交渉する意思を全く持ちませんでした。
攻撃の前には、ユーゴに外交上の問題を提起することも最後通牒を突きつけることもなく、
ただ実際の行動で知らしめて、軍事的にも国家的にも粉砕せよとヒトラーは命じたのです。

一方、シモヴィッチ首相は枢軸国の動向を甘く見すぎていました。
3月29日にイタリア大使のマメリーと会談した彼は、もしギリシャのテッサロニキを独軍が占領した場合、
ユーゴはアルバニア方面へ活路を見出すことになるとの個人的見解を披露し、マメリーを唖然とさせたのです。
イタリア大使は、ユーゴがそのような行動を取ればイタリアと戦争になると警告しましたが、
シモヴィッチは前言を撤回しませんでした。
当時、ギリシャに侵攻したイタリアは、逆にアルバニア領内へ攻め込まれて窮地にありました。
恐らく、シモヴィッチはイタリアを牽制して、枢軸国とユーゴとの戦争回避をイタリアが仲介してくれるよう、
マメリー大使へ促したつもりであったとみられます。
しかし、この日の会談は直ちにドイツ大使を通じてベルリンに伝えられ、
シモヴィッチ政権の好戦的性格を示す証拠と受け取られたのでした。

3月30日、ユーゴ外相ニンチッチはドイツ大使へーレンに、ユーゴは三国同盟から離脱する意思はないこと、
又、ユーゴは独伊との友好関係の維持に細心の注意を払うことを伝えました。
へーレンの反応は冷ややかで、この声明と前日のシモヴィッチ首相のイタリア大使への発言とに、
如何なる整合性があるのかを質します。
ニンチッチは仰天しました。
彼は、シモヴィッチのイタリア大使への発言を全く知らなかったからです。
ニンニッチは、それは首相の個人的見解で、ユーゴ政府としての見解ではないと必死に弁明したのでした。

この日、へーレンは本国への情勢報告の為にベオグラードを去りました。
ドイツ大使の帰国は、開戦が間近に迫っていることを暗示していました。
4月3日、ベオグラード、ザグレブ、リュブリャナの無防備都市宣言がなされました。
117名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:33:59.57 ID:???
3月1日時点でのユーゴ軍兵力は30万人弱で、
その後、ドイツ軍のブルガリア領内への展開に対抗して、3月20日時点で60万人弱に増加していました。
しかし、総動員令が発せられたのは3月30日で、最初の入営日は4月3日でした。
動員が完了すればユーゴ軍は170万人になるはずでしたが、4月6日時点では70万人だったのです。
しかもその内の40万人は徴集されたばかりで、訓練は十分ではありませんでした。
人員が完全に充足している師団は皆無でした。

4月6日早朝、ルフトバッフェがベオグラードその他へ継続的かつ壊滅的な空襲を行ない、
ドイツ地上軍は各方面からユーゴ国内へ侵攻を開始しました。
西部では、イタリア軍砲兵が障害となるユーゴ軍陣地へ砲撃を始めます。

イタリア空軍は作戦開始時から、ユーゴ軍へ襲い掛かりました。
G.50やMC.200といった伊戦闘機は様々な任務に出撃します。
それは集結した敵部隊、戦車、海軍施設、飛行場への機銃掃射といったものでした。
伊戦闘機の他の主任務は、イタリア地上軍や艦船への攻撃を強行するユーゴ爆撃機の迎撃でした。

SM.79、BR.20等のイタリア爆撃機は自由自在に任務に当り、成功を収めました。
彼らは地上攻撃の他に、小規模なユーゴ海軍への攻撃も行なったのです。
ユーゴ空軍は激しく抵抗しましたが、数と獰猛さで勝る独&伊空軍の前に、
戦闘終了時には一掃されていました。

ユーゴ空軍機のいくらかは、国外へ脱出しました。
ごく少数がソ連へ、多くはギリシャに向かったのです。
伊軍機による偵察飛行で、ギリシャのパラミティア飛行場へ多数のユーゴ機が逃げ込んだことが確認されました。
イタリア軍は直ちに空襲を行ない、壊滅的な銃爆撃で1ダースを地上撃破します。
10機に満たないユーゴ機が生き残り、後にエジプトへ向かいました。

○ユーゴ空軍Do17K
ttp://www.letletlet-warplanes.com/wp-content/gallery/dornier-do17k/do17k-no-2-top.jpg
118名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:34:57.45 ID:???
イタリア地上軍は準備砲撃の後、直ちに侵攻を開始しました。
最初の進撃はアンブロシオ将軍の伊第2軍に任せられましたが、彼らは迅速に展開し、
ユーゴ軍の如何なる反撃も即座に打ち破りました。
相手はトリフュノヴィッチ将軍のユーゴ第7軍(歩兵師団×2、山岳支隊×2、軍直轄砲兵連隊×1、対空大隊×1)で、
伊第2軍は殆どの地区で軽〜中程度の反撃を受けます。
しかし、イタリア部隊にとって初期段階で最も脅威となったのは、ユーゴ空軍による攻撃でした。
伊第2軍に呼応して、アルバニアの伊第9軍もユーゴ南部へ侵攻を開始します。
※イタリア第2軍
【第3山岳集団】 山岳大隊×3
【第5軍団】
・第15歩兵師団“ベルガモ”
・第57歩兵師団“ロンバルディア”
【第6軍団】
・第3歩兵師団“ラヴェンナ”
・第12歩兵師団“サッサリ”
・第20歩兵師団“フリウリ”
・第26歩兵師団“アシェッタ”
【第11軍団】
・第13歩兵師団“レ”
・第14歩兵師団“イソンゾ”
・第183歩兵師団
【自動車化軍団】
・第9自動車化歩兵師団“パスビオ”
・第52自動車化歩兵師団“トリノ”
・第133機甲師団“リットリオ”
【快速軍団】
・第1快速師団“エウジェーニオ・ディ・サヴォイア”
・第2快速師団“エマヌエーレ・フィリベルト・テスタ・ディ・フェッロ”
・第3快速師団“アオスタ公アメデーオ王子”

○国境上のユーゴ軍対戦車障害
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr632.gif 
119名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:35:37.94 ID:???
伊第2軍は難なく進撃し、即座にスロヴェニアの一部、クロアチア、ダルマチアを確保します。
東方から、独第14装甲軍団が撤退するユーゴ軍の遮断に協力しました。
ルフトバッフェも又、この地区のユーゴ軍兵士と車両に大打撃を与え、
イタリア部隊へのユーゴ軍の反撃企画を妨害しました。

クロアチア人の多いユーゴ第4軍は北西部の防衛担当でしたが、まともにドイツ軍と戦おうとする部隊は少なく、
逆に独軍をセルビアの抑圧からの解放者と考え、勝手に戦線離脱する者が続出しました。
クロアチア人将校の中には、独軍と交戦していたセルビア人部隊への組織的な攻撃を指示する者もいたのです。
4月8日には、ヴィンコフツィで反乱を起こしたクロアチア人部隊がユーゴ第1軍司令部を襲撃し、
司令官の身柄を拘束するという事態が生じました。

4月10日、ドイツ軍はザグレブに進駐し、
これに先立ってドイツ軍と内通したウスタシャのクヴァテルニクは、
クロアチア独立国の樹立を宣言しました。
これはすぐ後に、ドイツの意向でアンテ・パベリッチが国家指導者に据えられることになります。
当初、ドイツはイタリアの影響下にあるウスタシャのパベリッチの政権獲得を不可能にすべく、
クロアチア農民党のマチェックに独立を宣言させたいと考えていました。
しかし、マチェックにその意思が無かった為、ハンガリー後見のクロアチア国家の設立を考え、
イタリアの影響力を削ぐと共にハンガリーの好感を得ようとしましたが、これも成功しませんでした。
そこで、最後の選択肢として少数派政治集団のウスタシャの協力を得ることにしたのでした。

○スシャクの橋を越えてユーゴ中心部へと前進するイタリア軍
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr627.gif
120名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:36:18.55 ID:???
ハンガリー駐留のドイツ軍は、初日からハンガリー・ユーゴ国境を越えて侵攻していましたが、
4月11日、ハンガリー軍が宣戦布告なしにユーゴへ侵入してきました。
この国はユーゴと前年12月に友好条約を交わし、恒久的な不戦協定を結んでいたのです。
彼らはメジュムーリェ、プレコムーリェ、バチカ、バーラニャを占領しました。
ハンガリーはこれらの地域を民族的な解放地と称して、年末に併合することになります。

4月11日、イタリア部隊はスロヴェニアのリュブリャナを占拠します。
ここは伊第2軍の主目標の一つでした。
スロヴェニアの三分の一は、イタリアに併合されることになります。

小規模なユーゴ海軍は、イタリア海軍にとってさほど脅威となるものではありませんでした。
4月14日に駆逐艦1隻がイタリア空軍機の爆撃で酷く傷ついた後、
ユーゴ艦艇はコトルの軍港へ引き返し、戦争の残り期間は閉じ篭ったままでした。

○リュブリャナのイタリア軍
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr640.gif
121名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:36:59.06 ID:???
ユーゴ軍は、枢軸軍に対し勝利を収めることは困難であると自覚しており、
部隊を温存し、他日を期す為の作戦を決していました。
これは抵抗を続けながら二手に分かれて兵力を後退させていくもので、
1グループはギリシャ国境を越えてエーゲ海方面へ撤退し、
もう1グループは西方のアルバニア方面へ向かうというものでした。
西方に向かうのはユーゴ第3軍集団隷下の第3軍(イリヤ・ブラシッチ将軍)で、
彼らはアルバニアの伊軍を攻撃して、ギリシャ軍と合流することになっていたのです。

ユーゴ・ギリシャ連合軍はイタリア軍を海に叩き落し、
アルバニア回廊を通じてユーゴ軍の大半をギリシャへ脱出させ、そこで再編するつもりでいました。
そして、ギリシャ・イギリス連合軍と共に、山がちな地形でより強力な防衛戦を行ない、
機を見て反撃に転じてユーゴ本土を解放するのです。
ユーゴ第3軍は以下の4個師団と1個支隊から成っていました。

・第13歩兵師団“ヘルツェゴヴィナ”
・第15歩兵師団“ゼータ”
・第25歩兵師団“ヴァルダルスカ”
・第31歩兵師団“コソヴスカ”
・Komski支隊

※他に第3軍集団(ミラン・ネディッチ将軍)予備の第22歩兵師団“Ibarska”が、
コソヴォ地区のUrosevac周辺に展開

歩兵師団=歩兵連隊×3、砲兵連隊×1、騎兵大隊×1、工兵大隊×1、対戦車中隊×1、機関銃中隊×1、
     対空中隊×1(第3軍も含めた第3軍集団の8個歩兵師団は全てこの編成)

歩兵大隊=歩兵中隊×3(軽機×36)、機関銃中隊(軽機×6、重機×8)、大行李、小行李
     兵員×851、馬匹×105
122名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:37:39.51 ID:???
4月7日、ユーゴ第3軍はアルバニアの伊軍への攻撃を開始します。
初日の戦闘は、ユーゴ部隊を勇気付ける結果となりました。
Komski支隊が山岳地帯をRaja-Puka村へと進撃している間、
第31歩兵師団“コソヴスカ”はプリズレン地区で国境を越え、ドリン川の谷間を進みます。
第25歩兵師団“ヴァルダルスカ”は、ディブラで局地的な成功を収めました。
ユーゴ軍兵士は折りよく友軍機の支援を受けることが出来、その車両は路上進撃に大いに役立ちました。
航空支援と断固とした猛烈な地上攻勢とが相まって、ユーゴ軍の最初の攻撃は進展したのです。

4月8日、マケドニアのスコピエを手中に収めているドイツ軍に対処すべく、
ヴァルダルスカ師団はアルバニアでの作戦行動を中止しました。
その間にも、第15歩兵師団“ゼータ”の一部はポドゴリツァ〜シュコダル道を着実に進撃します。
シュコダル守備の伊軍は、第18歩兵師団“メッシーナ”、第131機甲師団“チェンタウロ”、第19騎兵連隊でした。
一方、Komski支隊は危険なアルバニア・アルプス越えに成功しました。
その南では、コソヴスカ師団がドリン川峡谷のイタリア軍防衛線を突破したのです。

4月9日、ゼータ師団はシュコダルへゆっくりと前進していましたが、
コソヴスカ師団はアルバニア戦線での作戦行動を全て中止しました。
ドイツ軍部隊がプリズレンに出現したからです。
Komski支隊はドリン川へ達しました。

4月10日、ゼータ師団はシュコダルへ向け、ゆっくりと進撃を続けます。
ドリン川へ達したいくつかのユーゴ部隊がこれと連絡しようと試みました。
伊軍を包囲せんとするユーゴ軍の企画に対し、伊第31機甲連隊と騎兵が反撃します。
シュコダルでの攻防戦中、8-10日の間にユーゴ軍は珍しくも陸海共同の上陸作戦をいくつか行ないました。
11日、ユーゴ軍の攻撃は停滞し始めました。
123名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:38:20.04 ID:???
一方、アルバニア南部のギリシャ軍は、伊軍に対し進撃することが出来ませんでした。
イタリア軍は、ゆっくり着実にギリシャ軍戦線内へ食い込んでいきました。
伊軍の前進は、ギリシャ軍が本国でのドイツ軍による突破に対処する為、
この地の部隊を遅まきながら引き抜いたことにより、進展しました。
ギリシャ軍の前進なくして、ユーゴ軍にアルバニアでの作戦を成功させる見込みはありませんでした。
この地の伊軍は、ギリシャ軍への攻撃とユーゴ軍に対する防御という、二つの作戦行動を共に成功させたのです。

ドイツ軍の進撃は予想以上に早く、ベオグラードは4月12日に陥落しました。
これにより、ユーゴ軍の最終的な崩壊を早めるべく、柔軟な部隊展開が可能となったのです。
独軍はスコピエとプリズレンを占拠しており、ユーゴ軍が川と谷間を使って移動するのを阻止しました。
ユーゴ第3軍のKomski支隊と第31歩兵師団“コソヴスカ”は、独軍相手の防戦におおわらわとなります。
今や、イタリア部隊とドイツ部隊は第15歩兵師団“ゼータ”の背後に進撃中で、
ゼータ師団は包囲の危機に晒されていました。
ここにおいて、伊第131機甲師団“チェンタウロ”の出番がやって来たのです。

何年にも渡って、イタリア軍は ‘Rapid war’を行なうべく構築されていると言われており、
その理論は、独軍の‘ブリッツクリーク’と良く似通ったものでした。
イタリアにとっての問題は、この手の戦争を行なう準備が1940年に整っていなかったことにありました。
乏しい資源と貧弱な工業力は、軍の需要を満たすに足る戦車を供給出来ませんでした。
イタリア軍は大量の戦車を保有していたものの、それらの殆どは軽戦車で、
歩兵支援か植民地での警備用として設計されており、攻撃時の先駆けとなれる存在ではなかったのです。
124名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:39:13.11 ID:???
1940年のギリシャ侵攻時、イタリア戦車は数が不足していた上に、
任務を上手くこなせませんでした。
道は狭く、時としてぬかるんでおり、ギリシャ山中の進撃時に於いては、
戦車が路上で滑り、山の斜面へ転落することもありました。

このような地形状況は、戦車の作戦行動能力を制限しました。
又、その地形と相まって、よく隠蔽されたギリシャ軍の対戦車砲による待ち伏せ攻撃は、
多くのイタリア戦車を撃破したのです。
41年1月に伊軍がクリスラの奪回を図った際、第4戦車大隊第1中隊は殆どの戦車を撃破され、
3月の731高地の戦闘時には、第2中隊の2両の戦車が失われました。
ギリシャ戦のイタリア機甲部隊の戦績は、期待外れのものでした。

○41年1月、クリスラ。ギリシャ兵に鹵獲されたチェンタウロ師団のM13/40
ttp://img688.imageshack.us/img688/3416/3c20.jpg
125名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:39:53.81 ID:???
ユーゴ侵攻時、イタリア軍の保有する3個機甲師団の内、2個が作戦に参加しました。
それらは第131機甲師団“チェンタウロ”と第133機甲師団“リットリオ”で、
タンケッテとM13/40を装備していました。
アルバニアとユーゴの地形はギリシャ西部よりも、戦車が作戦展開するのに適していました。
伊第2軍のリットリオ師団がユーゴへ派遣されたのは4月11日でした。
彼らは直面した軽度の抵抗を全て打ち破り、6日で300マイル以上を進撃しました。
17日、勝ち誇るリットリオ師団はユーゴ中部のTrebenjeへ入城し、
期待されていた‘Rapid war’を実現させたのです。

一方、アルバニアのチェンタウロ師団の最初の配置は、
ユーゴ第15歩兵師団“ゼータ”の反撃に備えてのものでした。
ドイツ軍がゼータ師団の行き足を止め、4月11日、チェンタウロ師団はゼータ師団へ襲い掛かります。
最初に進撃した22両中、軽戦車11両と中戦車2両が失われました。
13日、ゼータ師団はチェンタウロ師団によって、Pronisat川へ全面後退を強いられました。
ユーゴ軍は勇敢に戦いましたが、伊軍の火力の前に持ちこたえることは出来ませんでした。
チェンタウロ師団はユーゴ海軍基地のコトルへ進み、コトル確保の支援に当った後、
17日にTrebenjeでリットリオ師団と合流しました。
この日、ユーゴは降伏したのです。
126名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:40:34.34 ID:???
シモヴィッチ首相はユーゴ軍参謀総長を兼ねていましたが、
4月13日に参謀総長を辞任していました。
これで首相職に専念することになるとされたわけですが、
実際には、降伏の決断者としての責任を逃れ、不名誉な任務を部下に押し付ける為の準備をしていたのです。
後任の参謀総長のカラファトヴィッチ将軍は、就任後直ぐに休戦交渉の実施に着手しました。
彼は次の六項目を休戦協定の条件にするよう代表団に指示していました。

1:休戦協定の発効を待つことなく即時停戦。
2:ヴィシー政権のような体制を作り、出来るだけ多くの領土の統治をユーゴに認める。
3:4万から5万の兵力の維持をユーゴに認める。
4:ユーゴ軍の兵士を捕虜収容所に入れない。
5:避難民が早期に帰国出来るよう取り計らう。
6:ユーゴ軍の将校と下士官を戦時捕虜とは見なさい。

ドイツ側に、このような条件を受け入れる意思など全くありませんでした。
4月17日21:00、ユーゴ全権代表のヤンコヴィッチ将軍と前外相マルコヴィッチは、
無条件降伏を認める文書に署名したのでした。
思えば、祖国を戦争の道から救うべく、マルコヴィッチが三国同盟加入の議定書に署名したのは3月25日のことでした。
それから僅か23日後に、その路線を否定してドイツとの戦争を招いたシモヴィッチ政権の代理人として、
彼が降伏文書に署名する任を引き受けたというのは、真に皮肉な結末でした。

マルコヴィッチはクーデター後、プルスの村に軟禁されており、ユーゴが戦争に突入したことを知らなかったのです。
4月15日にシモヴィッチら政府首脳が国王を連れて早々に国外へ脱出してしまい、
降伏文書に署名する有力政治家が国内にいなくなったことから、マルコヴィッチが引っ張り出されたのでした。
抵抗運動を組織する為のしっかりとした人物を国内に残すこともせず、我が身可愛さに国民を見捨てた王国政府は、
後にしっぺ返しを食らうことになります。
共産主義者が権力を握り、戦後も王国の再建は成らなかったのです。
127名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:41:15.39 ID:???
枢軸軍は、侵攻開始から11日後にユーゴを降伏に追い込みました。
ギリシャ本土から最後の英軍が撤退したのは4月30日でした。
ギリシャ侵攻に失敗したイタリア軍の汚名は完全には拭い去れませんでしたが、
ユーゴ作戦の成果は、伊軍の誇りの回復にいささかは貢献しました。
この作戦での伊軍の死傷者は3,324名で、その殆どはアルバニアでユーゴ軍の攻勢に晒された際に生じたものでした。
ユーゴ兵は30,000名以上が伊軍の捕虜となったのです。

ユーゴ領はドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアに分割され、クロアチア独立国も成立しました。
セルビアに関しては、ユーゴ第3軍集団司令官であったネディッチ将軍の傀儡政権が行政を担当しました。
イタリアは、スロヴェニアの三分の一、ダルマチアの北半分、ダルマチア南部のコトル湾を中心とした地域、
モンテネグロを統治下に置きました。
コソヴォとマケドニアの一部は保護国のアルバニアに併合されます。
ダルマチアの北半分は、1915年に協商国と結んだロンドン条約が、イタリアに割譲を約束しながら反古にした地域でした。

1941年4月はWW2でのイタリアにとって、上手く事が運んだ時期だったと認識されています。
東アフリカ帝国の終焉が数週間後に迫っていた頃とはいえ、他戦線の動向は希望が持てる時期でありました。
ムッソリーニは今やバルカンを支配しました。
長年の宿敵のフランスは前年に敗北しており、その占領地域にはイタリア部隊が駐留していました。
北アフリカの伊軍は再編され、ドイツアフリカ軍団と共にエジプトへ迫っていました。

東部戦線の悪夢を知らず、バルカンでのパルチザンの跳梁も知らない41年春が、
“新ローマ帝国”というムッソリーニの夢に、見かけ上は一番近付いた時だったのかもしれません。
しかし、彼のこの不安定な帝国は、僅か2年余の間に崩壊してしまったのです。
43年9月の休戦時迄にイタリア軍がユーゴで被った損害は、戦死9,065、負傷15,160、行方不明6,306でした。
128名無し三等兵:2011/03/14(月) 22:57:44.12 ID:???
>>113
最近、いろんな戦車のサスペンションについて調べてるが、ドイツはハーフトラックまで転輪を挟みこみ式にしてるのな。
アメリカのM3ハーフトラックが、技術的には枯れたボギー式の足回りなのとは実に対照的で、思わず笑いがこみ上げた。
129名無し三等兵:2011/03/15(火) 00:07:33.33 ID:???
>>115-127
乙です
マイナー戦域だが重要

>>113
笑える事に使い勝手は当然M3のが良いし
性能も結果的にM3のが良かった
前輪はしっかり駆動するし、接地圧も軽いから悪くない
ドイツは凝りすぎたが前輪は駆動せず、重たいし
旋回性もあんま良くなかったらしい


あそこまでやるなら簡易なハーフトラックと全装軌車輌の二本立ての方良かったかもね
後知恵だが
130名無し三等兵:2011/03/15(火) 00:14:45.43 ID:???
>>115訂正です

>ザグレブに前日戻っていた前首相マチェック

×前首相
○前副首相
131名無し三等兵:2011/03/15(火) 00:50:51.60 ID:???
火事場泥棒ハンガリーだね。
ブルガリアも周辺国とかなり遺恨があって・・・

こういう東欧圏の国々の不仲というか、いつからやってるか分からない争いは多くて、
敵の敵は味方的関係が相まって、複雑怪奇。


132名無し三等兵:2011/03/15(火) 00:53:55.15 ID:???
この辺の分割はWW1から考えるとそこまで複雑でもなくない
133名無し三等兵:2011/03/15(火) 01:44:27.32 ID:???
>>132
考えるならバルカン戦争や、19世紀のオスマンからの分離からじゃね?
134名無し三等兵:2011/03/15(火) 02:54:56.08 ID:???
>>129
技術的コダワリからあらぬ方向に突っ走って、生産性や使い勝手を悪化させる辺りは実にドイツらしいですねぇ・・・
135名無し三等兵:2011/03/16(水) 19:53:58.17 ID:gM1+4yyr
>>127
乙!
イタリアが強く見えたw
136名無し三等兵:2011/03/18(金) 17:25:50.55 ID:???
今回のガソリン騒動で、
私が小学生の時に買った「ドイツ機甲師団百科」と言う本に
バルジ作戦の漫画があり
ハイパーがディートリッヒに「車両と一緒に撤退しろ」と言われ
ハイパーが逆ぎれし「オットー(燃料)が無ければがらくたと一緒だ!!」と言って
車両を爆破して撤退した場面を思い出した。
137名無し三等兵:2011/03/18(金) 17:35:15.17 ID:???
連チャンで申し訳ないが、その漫画で燃料を「オットー」、弾薬を「ハーマン」と言っていたような気がするがドイツ軍では、本当にそう言っていたの?
138名無し三等兵:2011/03/18(金) 18:10:55.89 ID:???
若き頃の小林源文氏のだな。ティーガーの砲塔が手動旋回っての当時信じてたよ。
今でも氏のHPでギャラリーの「壮烈ドイツ機甲軍団」が丸ごと一冊公開されてるから読んでみるといい。
子供向けにしちゃ良くできた本だったよ
139名無し三等兵:2011/03/18(金) 18:35:13.39 ID:???
30年くらい前の事なんで、題名間違えてましたね。著者が中西立太でした。
140名無し三等兵:2011/03/18(金) 19:46:55.44 ID:???
>>138
オレが道を間違ったきっかけになった本だ・・・
141名無し三等兵:2011/03/18(金) 20:44:26.34 ID:???
マイナーな本だから、知ってる人居ないと思ったら、2人もいるんですね。
142名無し三等兵:2011/03/18(金) 20:52:29.84 ID:???
俺もページバラバラ状態だけどまだ持ってる。これとテレビで放映した「バルジ大作戦」が道を誤った原因だな。
143名無し三等兵:2011/03/18(金) 21:31:20.92 ID:???
144名無し三等兵:2011/03/23(水) 19:56:28.15 ID:???
【戦いは数で】

イタリア参戦時、北アフリカのイタリア軍は主に非自動車化歩兵師団で構成されていました。
7月6日、アリエテ師団から抽出された72両(or70)のM11/39が北アフリカに到着します。
1940年夏-初秋、グラッツィアーニ元帥は英軍に対し圧倒的な砲兵戦力を有し、
M11/39は英軍の巡航戦車に数で勝っており、イタリア軍は優位にありました。
熟練した伊砲兵はよく任務を遂行し、英戦車をアウトレンジしました。

これらの戦力を擁するグラッツィアーニでしたが、伊機械化部隊のドクトリンに則った戦力を必要としていました。
かつて彼はエチオピア南部での作戦中、機械化部隊の大胆な運用を行ない、大成功を収めたのです。
グラッツィアーニは戦略目標のナイルデルタとスエズ運河を確保すべく、
エジプト侵攻計画を策定しました。

グラッツィアーニは補給品、装備、最も必要とする中戦車を受領した際、
エジプトへ侵攻する様、ローマから圧力を受けていました。
この侵攻計画は3つの異なる日程で策定されましたが、最終的には4つ目の計画の日程で実行されたのです。
最初の案では7月15日に侵攻を開始する予定でしたが、これは独軍の英本土攻撃に呼応するものでした。
この案は延期され、次は8月22日に予定されました。
しかし、主に非自動車化歩兵師団で構成されている伊軍への8月の猛暑の影響を考慮し、
再び延期されたのです。
3つ目の計画では9月9日が予定されました。
これは部隊配置の遅れから、実際には10月13日に侵攻開始とされていました。

○北アフリカ、軽戦車部隊の宣伝写真
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr340.gif
145名無し三等兵:2011/03/23(水) 19:57:08.65 ID:???
グラッツィアーニ元帥は指揮を執った当初から、エジプト侵攻を大変躊躇していました。
彼は着任後直ぐに、増援部隊、補給品、戦車、装備、航空機を要求します。
その中には中戦車、対戦車砲、高射砲といったものが含まれていましたが、
何百ものトラックも又、グラッツィアーニはしきりに要求しました。
これらは機械化部隊のドクトリンに則って任務を遂行するのに、必要不可欠なものだったからです。

ローマはリビアの状況を認識した後、可能な限りの補給物資と装備を送り込みました。
とはいえ、グラッツィアーニは更なる装備と補給品を求めることになります。
彼と情報部門はエジプトの英軍戦力を過大評価していました。
グラッツィアーニはWW1以来、欧州の軍隊と交戦する機会はなかったのです。
エジプト侵攻はムッソリーニが罷免をちらつかせて強要する迄、行われなかったのでした。

グラッツィアーニと彼の参謀達の計画した最初の侵攻日は7月15日でした。
この為にイタリア第5軍の全てのトラックが取り上げられて呼び寄せられ、
到着したばかりのM11/39も使用されることになりました。
目標は非常に限定されており、サルームのみを占拠することになっていました。
これは当初、不慮の死を遂げたバルボ元帥が宣戦布告後に実施したいと提案し、ローマに拒否された計画でした。
この7月15日の侵攻計画は、ドイツ軍が英本土に侵入しなかったことで実現しませんでしたが、
7月時点でのイタリア軍の戦力をわきまえた、戦術的判断としては優れたものでした。

○バルボ元帥の棺
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146名無し三等兵:2011/03/23(水) 19:57:49.18 ID:???
グラッツィアーニの参謀達が策定した別の計画に、
エジプト侵攻は機械化部隊のみで行ない、後続の他部隊は補給線を維持するというものがありました。
彼らはリビアで使用可能な全輸送部隊でもって、2個師団&1個旅団の完全自動車化が出来ると考えていました。
グラッツィアーニはこの案を却下します。
もしもこの案を実行したなら、伊軍の残りの部隊は後方補給の輸送力を欠くことになるからです。
実際に完全機械化が成ったのは、集成リビア戦車団、3又は4個砲兵連隊、1個歩兵師団だけでした。
中戦車大隊を基に伊第10軍で機動部隊を構築しようというささやかな試みも、元帥の承認を得られませんでした。

2つ目の作戦計画では8月22日が侵攻日とされました。
この計画では伊軍の前進は制限され、目標はサルームとなっており、
3つの主隊が進撃して第一目標を確保した後、もし可能ならシディ・バラーニへ向かう予定でした。
これは考えとしてはエチオピア戦争時の北部戦線での作戦行動に近いもので、
2方面から進撃する非自動車化歩兵師団群には、利用可能な道路網が割り当てられていました。
この計画は、主力の非自動車化歩兵師団群に8月の猛暑が与える影響を考慮して、延期となります。

3つ目の作戦計画では9月9日が侵攻日とされ、
グラッツィアーニは新たにシディ・バラーニを目標としました。
ムッソリーニが厳命したこの9月9日の侵攻日迄、グラッツィアーニの参謀に残された時間は6日間だけでした。
2手に分かれた伊軍の内、非自動車化師団群は沿岸路沿いに進撃し、
ハルファヤ峠を通ってサルームを占拠し、シディ・バラーニまで前進し続けることになりました。
リビア師団とマレッティ戦闘団からなる南方部隊は、
Dayr al Hamra〜 Bir ar Rabiyah〜Bir Enba道を進撃する予定でした。
これは伊軍機械化部隊のドクトリンの一例でした。
非自動車化師団群が沿岸路沿いに英軍を釘付けとし、南方から機械化部隊がその側面を衝くわけです。

○リビア自動車化砲兵
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr343.gif
147名無し三等兵:2011/03/23(水) 19:58:29.62 ID:???
この計画によれば、マレッティ戦闘団は砂漠を長駆して側面攻撃を行いますが、
これは機械化部隊に打って付けの運用法でした。
しかしながら、グラッツィアーニの参謀達は砂漠奥深くへ侵攻するのに必要な地図と誘導装置を、
マレッティ戦闘団に提供出来なかったのです。
侵攻すべく集結地へ移動した際、マレッティ戦闘団は位置を見失い、
伊第23軍団司令部は航空機を派遣して彼らを導かねばなりませんでした。
それに加え、マレッティ戦闘団に同行する予定のリビア師団は、
カプッツィオ砦近くでの集結時間にかなり遅れたのです。
このような次第で、グラッツィアーニは作戦を遂行するに足る十分なトラックと輸送機が欠如していると判断し、
再び計画を変更したのでした。

※マレッティ戦闘団(40年7月当時)
・自動車化歩兵…リビア歩兵大隊×7(or6)
・1個戦車隊(1個中戦車中隊&1個軽戦車中隊)…後に1個中戦車大隊へ(その後も軽戦車隊保有とする資料もあり)
・自動車化砲兵隊(65/17砲、75/27砲、105/28砲、47/32対戦車砲、20mm対空砲)
・補給隊

○マレッティ将軍
ttp://digilander.libero.it/lacorsainfinita/guerra2/maletti.gif
148名無し三等兵:2011/03/23(水) 19:59:10.21 ID:???
4つ目の計画では、9月13日が侵攻予定日とされました。
グラッツィアーニは未だ目標をシディ・バラーニとその南に定めており、
伊第10軍の5個歩兵師団と機甲部隊から成る侵攻軍は、沿岸路を大挙進出することになりました。
伊軍はサルームを占拠し、ブクブク経由でシディ・バラーニへ進撃する予定でした。
グラッツィアーニはシディ・バラーニへ部隊を進出させて地歩を固め、再補給を行ない、
英軍の如何なる反撃も撃破した上で、マルサ・マトルーフへ進撃しようと目論んだのでした。

二手に分かれて侵攻する非自動車化師団群は、沿岸の道路網を利用しての進撃を余儀なくされます。
それ以外の場所では、これらの戦力は無駄となるからでした。
この作戦計画は明らかにエチオピア戦争時の北部戦線と同形態のもので、
グラッツィアーニが保有する機械化部隊は、そのドクトリンに則った運用はされませんでした。
彼はエチオピア戦ではさして恐れずに済んだ敵戦力を、ここでは過大に見積もっていました。
3つ目の作戦計画で、装備と準備の不足により機動戦に失敗した伊軍の現況を鑑み、
グラッツィアーニは英軍を打ち負かすには、膨大な数の兵力で正面から押し切るのみと確信したのです。
9月13日朝、イタリア軍はエジプトへ侵攻を開始しました。

○エジプトへ侵攻するM11/39
ttp://ww2total.com/WW2/History/Chronology/1940/09/pictures/WW2-Chronology-193-px800.jpg
149名無し三等兵:2011/03/23(水) 19:59:50.90 ID:???
エジプトへ侵攻した伊軍はサルームを占拠し、9月16日夕にはシディ・バラーニ東南東へ達しました。
彼らはシディ・バラーニ占領後、進撃を停止して陣地を設営しました。
侵攻部隊で完全に機械化されていたのは、第1黒シャツ師団“3月23日”、集成第1戦車群、
マレッティ戦闘団でしたが、これらは機械化部隊のドクトリンに則った作戦行動に失敗しました。

これは伊軍の準備、訓練、組織に問題がありましたが、
集成第1戦車群とマレッティ戦闘団に関しては運用法があまりにも消極的でした。
第1黒シャツ師団“3月23日”の場合は、歩兵とトラック運転兵の協同に問題がありました。
この師団は機械化歩兵としての行動訓練を欠いていたのです。
最終的に伊軍は適度な損失で目標へ達しましたが、英軍の戦力減耗には失敗しました。

英軍は伊軍が沿岸地区の南方から側面攻撃を仕掛けてくると予想し、
その弱体な兵力の殆どを南部に集結させていました。
伊軍の主侵攻路の沿岸には、“コールドストリームガーズ”の1個機械化歩兵大隊と少々の砲兵が
守備に就いていただけで、これらは遅滞戦術を展開しました。
英第7機甲師団の機甲部隊主力はマルサ・マトルーフに位置していましたが、
その巡航戦車は85両だけで、内15両は修理中で作戦行動不能でした。

英軍は伊軍がマルサ・マトルーフへ進撃してくることを予期して防衛計画を練っており、
その機甲戦力は伊軍の側面と補給線攻撃に用いられる手筈になっていました。
しかし、伊軍はシディ・バラーニで停止したままでした。

○伊空軍によるサルーム爆撃
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr459.gif
○40年9月13-20日、戦況図
ttp://www.desertrats.memorialassoc.btinternet.co.uk/images/Maps/Italian_Advance_1940.jpg
150名無し三等兵:2011/03/23(水) 20:00:31.42 ID:???
伊軍はシディ・バラーニ近辺に陣地を設営し、英軍の反撃を待っていました。
一方、英軍は伊軍の攻撃再開を待っていたのです。
ここでは何事も起こらず、伊軍は道路舗装や水道設備構築に時間を費やしました。
これも又、エチオピア戦時の北部戦線と似たような展開でした。

9月21日時点での伊軍の中戦車の保有数はM11/39が68両で、内31両は整備中で使用可能なものは37両でした。
第1中戦車大隊が32両保有し(稼動9両)、第2中戦車大隊は36両(稼動28両)保有していましたが、
その後、中戦車の戦力は増大しました。
より優れたM13/40が到着し始めたのです。
10月初めに第2中戦車大隊(第3中戦車大隊の誤記?)の37両のM13/40がリビアに姿を現わし、
12月12日に第5中戦車大隊の46両のM13/40が到着しました。

サルーム占領後、集成リビア戦車団は特別機甲旅団“バビーニ”に再編され、砲兵隊がいくつか付け加えられます。
このバビーニ機甲旅団は11月18日、リビアのバルディア西で創設されました。
バビーニ機甲旅団の編成は以下の通りでした(時期不明。12月12日以前?)。

・第1中戦車大隊(M11/39)
・第2中戦車大隊(M13/40)…第3中戦車大隊の誤記?
・ベルサリエリ連隊×1
・オートバイ大隊×1
・対戦車中隊×2(車載47/32砲)
・砲兵連隊×1(75/27砲中隊×1、100/17砲中隊×1、75mm高射砲中隊×1、20mm高射砲中隊×2)
・工兵中隊×1

○補給路の整備
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr461.gif
○41年、バビーニ機甲旅団のM13/40
ttp://4.bp.blogspot.com/_Eu4d4GXAEUo/TO0VJhj_aVI/AAAAAAAAEag/l_93MW72_rY/s1600/Carri_M13_Africa_settentrionale+2.JPG
151名無し三等兵:2011/03/23(水) 20:01:11.92 ID:???
ウェーベル将軍は伊軍が出て来ないのなら、こちらから出撃して叩こうと決断しました。
これは、まずエジプトの伊軍に一撃を加えてから、戦力を割いてスーダンの伊軍を押し戻そうというもので、
持続的な攻勢というより大規模な襲撃行動としての作戦計画に過ぎませんでした。
この頃、補給線の短くなった英軍は着々と増強され、戦車戦力はマチルダ50両を含む275両となっており、
航空優勢も逆転して英軍のものとなっていました。

英軍の最初の計画は、演習段階で実行可能性に疑いが生じ、放棄されました。
これは伊軍野営地を正面から攻撃しようというもので、実行したなら恐らく失敗に終わったことでしょう。
代わりに背後からの間接的な接近策が採られました。

英軍のコンパス作戦発動時、エジプトには第9軽戦車大隊(L3装備)が第2リビア師団“ペスカトリ”と共に、
第2中戦車大隊(M11/39装備)がマレッティ戦闘団と共に、
第63&第20軽戦車大隊(L3装備)が第21軍団司令部と共に存在しました。

伊軍の陣地群は良く防備されていましたが、相互に支援するには距離が離れ過ぎていました。
死角地点では、伊軍は哨戒隊か航空偵察によって英軍の行動を監視するしかなかったのです。
伊軍のものであった航空優勢は逆転していました。
伊空軍の対地協力が欠けだした後、浸透した英軍は伊軍陣地を後方から攻撃し、
それに伴って他陣地の伊軍はリビアへの後退を強いられました。
装備・準備不足から数に頼って侵攻せざるを得なかった伊軍は、より少数の英軍の機動作戦に敗れ去ったのです。
今や西部砂漠の主導権は完全に英軍が握っていました。

○コンパス作戦時、伊軍守備陣地跡
ttp://ww2today.com/wp-content/uploads/2010/12/Italian-position-after-Operation-Compass.jpg
○コンパス作戦動画
ttp://www.youtube.com/watch?v=BtoV7Egc7cY&feature=player_embedded
152名無し三等兵:2011/03/24(木) 12:09:20.21 ID:???
>>147
機械化部隊が臨時編成の1コ戦闘団だけ…
しかも戦車兵力は中戦車、軽戦車各1コ中隊…orz
153名無し三等兵:2011/03/24(木) 12:12:13.78 ID:???
>>149
第1黒シャツ師団って完全機械化だったのか!
ソースあります?

どうも建制では半自動車化師団で、臨時に自動車部隊を増強したっぽいが…。
154名無し三等兵:2011/03/24(木) 17:53:45.84 ID:???
こういう視点のイタリア軍も新鮮だなあ
155名無し三等兵:2011/03/24(木) 19:28:52.72 ID:???
>>153
「Fallen Eagles: The Italian 10th Army in the Opening Campaign in the Western Desert,
  June 1940-December 1940.」のp.75とp.92がソースです。

>The motorized formations were, the partially motorized 62nd Cirene infantry division, the partially motorized
63rd Marmarica infantry division, the fully motorized 23 Marzo CCNN division, the motorized the Maletti
raggruppamento and the 1st raggruppamento carri.

> 1st CCNN Infantry Division “23 Marzo” (fully motorized for the invasion)

※論文自体は下記リンク先からPDFで配布されています(ダウンロード完了まで数分掛かるかもしれません)
ttp://oai.dtic.mil/oai/oai?verb=getRecord&metadataPrefix=html&identifier=ADA367611

上記の引用箇所は著者が第62歩兵師団名と第63歩兵師団名を誤記していますので、ご注意ください。
“チレーネ”と“マルマリカ”が逆になっています。

>fully motorized for the invasion
おっしゃる通り、“3月23日”師団は侵攻用に臨時に自動車部隊を増強されたような気がします。
ちなみに、同じ黒シャツ師団の“1月3日”師団と“10月28日”師団は“nonmotorized”の扱いで、
侵攻時は予備か国境守備に充てられています。
156名無し三等兵:2011/03/24(木) 21:23:24.70 ID:???
マチルダ50両を含む275両って、マチルダはマチルダUでオッケー?マチルダ以外はバレンタイン歩兵戦車とクルセーダー巡航戦車?
157名無し三等兵:2011/03/24(木) 22:08:18.59 ID:???
>>156
マチルダはUです
(50両ではなく48両とする資料もあります。それでも英軍の全戦車を275両としていますが、他車種の何を+2としているのかは分からないです)。
マチルダの他は巡航戦車(主力はA13で、A9とA10が少々)とMk.VI軽戦車です。
158名無し三等兵:2011/03/24(木) 22:32:59.95 ID:???
ありがとうございます。A13巡航戦車って、クルセーダーやクロムウェル等のあだ名はないんですね。
159名無し三等兵:2011/03/25(金) 05:39:04.14 ID:???
質問です
>>123でイタリア軍の戦車戦術思想をRapid warと英語で表していますが
これは資料の原文が英語だったのでしょうか?
まぁたぶんそうなのでしょうが、イタリアの戦術思想が英語という点が気になってしまいまして
160名無し三等兵:2011/03/25(金) 11:18:57.99 ID:???
>>155
さっそくダウンロードしますた。
サンクス
161名無し三等兵:2011/03/25(金) 17:47:51.98 ID:???
私は、エジプトからイタリア軍駆逐したのは、マチルダU、バレンタイン、クルセイダーの3羽ガラスだと思っていました。A13巡航戦車に誤って来ます。
162名無し三等兵:2011/03/25(金) 19:47:12.08 ID:???
>>159
“Rapid war”は英語での原文の通りです。
>>155の論文中では“War of Rapid Decision”と記述されています。
又、よろしければ下記リンク先をご覧下さい。
英文サイトですので、こちらでも“War of Rapid Decision”と記されていますが、

>The“La Guerra di Rapido Corso”was adopted as doctrine in 1938.

>La Guerra di Rapido Corso (the war of rapid course) would be a war of manuever,
>using what Liddell Hart had called the strategy of the indirect approach.

>The“Guerra di Rapido Corso”would have dared to attempt mechanized warfare in mountainous terrain.

といったような記述もされており、これが元かと思われます。

ttp://www.1jma.dk/articles/1jmaarticlesww2italyarmy.htm
163名無し三等兵:2011/03/25(金) 21:08:35.96 ID:???
A13はマチルダとかと大体同じ時期に戦ってるはずなんだが、なぜか扱いが地味だよなあ。
164名無し三等兵:2011/03/25(金) 21:46:37.21 ID:???
確かに。パンフロをやるまでA13なんて存在すら知らなかった。
なんか、大戦初期〜中期の巡航戦車は「クルセイダー」で括られてる気がする……。
165名無し三等兵:2011/03/25(金) 21:55:15.44 ID:???
A9とか異様にカッコいいよ
166名無し三等兵:2011/03/25(金) 22:29:18.93 ID:???
あんなに数多く実戦にも出てるのに地味過ぎる英国戦車達
原因はやはり愛称が無いから?
167名無し三等兵:2011/03/25(金) 23:15:51.27 ID:???
いややっぱりあんま活躍してないからかと…
A9〜A13といった初期の巡航戦車は最厚部でも14mmとかしかなく、伊軍の47mmにすっぱすっぱやられた。
A10→A13と装甲強化されてったが根本的な解決には至らず、主砲の貧弱さ、機械的信頼性の低さも相まって駄目駄目。
それでも反攻中は本来の機動打撃戦の主力をこなした。だからこそ愛嬌がある。
A10なんかものすごく優秀そうに見えるんだがなあ…
168名無し三等兵:2011/03/26(土) 00:11:25.48 ID:???
A9やA10って、数も少ないから目立たなかったんじゃないの。A9が125輛でA10が175輛しか生産されてないし。
コンパス作戦でイタリアは、戦車約350輛失ってるけど英国は?
169名無し三等兵:2011/03/26(土) 00:17:18.82 ID:???
A13は620輌じゃん
170名無し三等兵:2011/03/26(土) 09:06:45.89 ID:???
>>168
全損数は私は知らないです。
41年に入ってからの稼動数の推移は以下の通りです(補給欠乏と走行距離増加による状態悪化、修理所不足が悩みの種だったようです)。

○マチルダU(第7王立戦車連隊)
バルディア戦(41年1月初頭)で稼動車22両に減少(戦闘での全損は1両のみ)
        ↓
約3週間後のトブルク戦開始時…1個中隊戦力規模(殆どが故障寸前の16両)に減少
        ↓
その後、西方への追撃は第7機甲師団の巡航戦車&軽戦車に任せ、整備を受けるべくアレクサンドリアへ

○ベダ・フォム戦前後の第7機甲師団稼動車
2月4日
A9、A10、A13…40(or50)両
Mk.VI軽戦車…80(or95)両
     ↓
伊第10軍壊滅後
A13…12両
Mk.VI軽戦車…40両

2月6日の戦車戦ではハルダウンした1両の巡航戦車が112発の2ポンド砲弾を撃ち、少なくとも10両のM13/40を撃破したという話があります。
伊戦車は数では遥かに勝っていたものの道路近くをバラバラに前進してきたので、巧みに機動して待ち伏せる巡航戦車に個別撃破されたそうです。
又、この戦闘時のM13/40は英戦車とは異なり無線機をまだ各車に搭載しておらず、それも勝敗に影響したとのことです。
その日の終わりには60両の伊戦車が擱座し、翌朝には40両が放棄されているのが発見され、伊第10軍の降伏に繋がります。
この日の英軍戦車(巡航&軽)の全損は3両(or被撃破8)という数字があります
(英戦車の被弾自体は48両という数字もあるのですが、全損が少ないのは戦闘後に戦場を支配出来た側の強みなのでしょう)。
171名無し三等兵:2011/03/26(土) 10:14:49.31 ID:???
この時のA13巡航戦車は、全部スペースド・アーマー砲塔のMk.4?
172名無し三等兵:2011/03/26(土) 12:46:53.49 ID:???
A9からA13までの巡航戦車は凄く好きなんだが、A13MK2からはあの砲塔が受け付けない。
ここまでに絞ったクルセイダー前の巡航戦車本とかないもんだろうか。
173名無し三等兵:2011/03/26(土) 18:46:38.42 ID:???
>>172
オスプレイの英語版にコンパス作戦の本があるから、それには多少載ってるんじゃないかなあ。
あとは最近Wydawnictwo MilitariaからA9とA10を扱った本が出てる。
英語・ポーランド語併記と書いてあるから、それなりに詳しく英語でも読めるはず。
174名無し三等兵:2011/03/26(土) 19:10:55.93 ID:???
クルセーダー前の巡航戦車本の主な内容って、カビナンターの苦労話になりそう。
175名無し三等兵:2011/03/26(土) 19:23:06.09 ID:???
>>171
第7機甲師団はA13を両型装備していたようですが、比率は分からないです。
176名無し三等兵:2011/03/26(土) 21:03:11.54 ID:???
>>174
オスプレイの『クルセーダー巡航戦車』は名前とは裏腹に
クルセーダーとカビナンターの話が2対1くらいで載ってる。

カビナンターがまともに運用できるようになるのはクルセーダーとほぼ同じ1943年になってから。
ちなみにカビナンターの配備開始は1941年8月、クルセーダーは同年5月なのでどちらも大概だが、
そこで注意したいのはクルセーダーは環境が厳しい砂漠で運用され、
カビナンターは基本的に本土にしか配備されず、整備・改良の機会が豊富にあったにも関わらず不具合が多発したということ。

ちなみにクルセーダーは当初機械的信頼性が低かった上に適当に船積みして北アフリカに輸送したため、
2個中隊の行軍で1日6台ずつ脱落するという恐るべき体験をした部隊もあったらしい。
177名無し三等兵:2011/03/26(土) 23:52:28.67 ID:???
>>176
2個中隊で一日6輌ってw
そしてカビナンターはそれを上回る面倒戦車か……
178名無し三等兵:2011/03/26(土) 23:56:06.89 ID:???
そしてクルセーダーは最大速度を制限するガバナーを解除したせいで、ますます大変なことに。
179名無し三等兵:2011/03/27(日) 00:22:17.06 ID:???
やっぱり英国は、無事是名馬なりのバレンタインだな。
180名無し三等兵:2011/03/27(日) 01:24:43.65 ID:???
>>162
ありがとうございます
大変参考になりました
イタリアにおける最初期の機動戦術は1930年におけるイタリア支配下のリビアで
グラッツィアーニ将軍(当時中将)がシヌージ族との戦闘の際に、
装甲車、騎兵、自動車化歩兵等からなる諸兵科連合部隊と航空機による地上支援
を組み合わせたものが有名ですね
またグラッツィアーニ将軍は第二次エチオピア侵攻時にも諸兵科連合の機動部隊と
航空機による対地爆撃を組み合わせて用いていました
181名無し三等兵:2011/03/27(日) 01:25:29.26 ID:???
でもなー
独ソの装甲火砲インフレに一生懸命追いつこうとして取り残された感が
182名無し三等兵:2011/03/27(日) 01:44:42.98 ID:???
追いつこうとして・・・と言うけれど、砲と装甲に関していえば大戦中のイタリア軍は
戦車も自走砲も殆どが戦前から研究されていた車体に、既存の砲を搭載したものばかりよ?
セモベンテシリーズは砲塔以外M級の使いまわしor改良で、新規開発といったら
精々P40の主砲と砲塔くらいじゃない? あれも既存の設計の改良品みたいなものだけど
183名無し三等兵:2011/03/27(日) 01:47:09.97 ID:???
訂正
×セモベンテシリーズは砲塔以外M級の使いまわしor改良で

○セモベンテシリーズは砲塔以外M級の車体と既存の砲の使いまわしor改良で
184名無し三等兵:2011/03/27(日) 10:24:56.58 ID:???
結局、英国の主力巡航戦車は、米国のM3、4中戦車になっていく。
185名無し三等兵:2011/03/27(日) 12:09:19.88 ID:???
>>183
自走砲の車体に開発リソース裂くとか贅沢すぎるだろ。
186名無し三等兵:2011/03/27(日) 12:21:14.52 ID:???
他の国でも大戦中に開発を始めた完全新規の戦車が戦場に出てきたのは1943年頃じゃないか
187名無し三等兵:2011/03/27(日) 12:31:04.14 ID:???
>>185
戦前に開発されたM系列のを流用してるって意味だろ
188名無し三等兵:2011/03/27(日) 21:17:48.50 ID:???
【太陽の帝国】

1941年4月6日、カニンガム軍はアディス・アベバへ入城しました。
1月に帰国していたハイレ・セラシエ帝は、ゲリラ戦を指揮していたウィンゲート大尉(後にビルマでも名を馳せます)
と共に5月5日に首都入城を果たします。
これは5年前にイタリア軍が入城したのと同じ日でした。

その頃、南アフリカ軍ハード大尉の装甲車小隊の2個分隊は、第1/5王立アフリカライフル隊を支援していました。
5月10日午後、彼らはBubissa丘5000ヤード内の湿地を通り抜けようとしましたが、
不吉にも泥上にはイタリア中戦車の覆帯跡が印されていました。
東アフリカ部隊の保有していた僅かな2ポンド対戦車砲は既に前線から引き揚げられ、中東へ向かっていました。
不運なことに、ここには展開していなかったのです。

湿地の表層は固かったのですが表面下はドロドロで、装甲車が前方へ進むのは大変困難でした。
枝や藪の通り道を走行する4又は5両の装甲車が、1両を牽引して引っ張り出す必要が時にはありました。
そうした困難にもかかわらず、ブラウン少尉の1個分隊は一晩中、王立アフリカライフルの支援に当りました。
その間、ハード大尉の他分隊は敵左翼で陽動を行っていたのです。

5月11日06:15、インド砲兵がBubissa丘へ砲撃を開始し、1時間後に歩兵が湿地を越えて進撃し始めました。
直ぐにハード大尉の装甲車分隊の3両の内の1両が行動不能となり、置き去りにされます。
その間にも、ブラウン少尉の3両の装甲車がインド山砲中隊を援護していました。
右翼での王立ライフルの攻撃は進展し、丘頂を占拠します。

○アディス・アベバを行進する第1トランスヴァール・スコティッシュ
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/UN/SouthAfrica/EAfrica/img/SAF-East-Africa-70.jpg
○ハイレ・セラシエ帝とカニンガム中将(右)
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/UN/SouthAfrica/EAfrica/img/SAF-East-Africa-68.jpg
189名無し三等兵:2011/03/27(日) 21:18:29.06 ID:???
イタリア軍は7両のM11/39と3両のタンケッテで反撃を開始しました。
それらは王立アフリカライフル隊が抗するには厚すぎる装甲で、彼らは撤退を強いられます。
ハード大尉は彼の分隊の立ち往生した車両を溝から救出する間、
2号車にインド砲兵の援護下で後退するよう命じました。
ブラウン少尉の3両の装甲車は、後退する歩兵を援護すべく前進し、
敵戦車の射撃を引き付けようとします。

インド砲兵は戦車1両に命中弾を与えましたが、敵戦車はブラウン隊を約400ヤード内の距離で狙い、
その37mm砲と機関銃が射撃を開始しました。
この危機的な瞬間、 ストッツ伍長の車両が行動不能となります。
他2両が進み、多くの捕虜と共に後退している友軍歩兵から敵戦車の注意を逸らしました。

3両の敵戦車が、後退するブラウン少尉の側面包囲を試みているようでした。
ストッツ伍長の装甲車を引っ張り出す試みは失敗しましたが、その搭載機関銃は素早く他車両へ移されました。
車体前面には2名の酷く負傷したアスカリを乗せ、救い出した乗員はもう1両の装甲車に乗り込みます。
イタリア戦車が至近距離で挑んでくる中、ブラウン少尉は車両を走らせたのでした。

○ジューバ川を渡る南ア軍マーモン・へリントン装甲車
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/UN/SouthAfrica/EAfrica/img/SAF-East-Africa-61.jpg
190名無し三等兵:2011/03/27(日) 21:19:09.55 ID:???
ストッツ伍長の装甲車が直撃弾を受けて爆発した時、過積載の2号車は未だ泥の中で停止していました。
激しい射撃に晒されながらも乗員は機関銃を取り外し、ブラウン分隊で唯一稼動している装甲車へ駆け込みます。
2名の負傷したアスカリとは別に11名の人員、6挺の機関銃、大量の弾丸を載せた装甲車は、
王立ライフルの数人の将校と兵に出会う迄、ほぼ1マイルを何とか走行したのでした。

その短時間の停車でも装甲車が泥の中に沈下するには十分なものでしたが、
それはハード大尉の分隊によって助け出されました。
その間、イタリア戦車はインド砲兵を恐れて退きました。
軍医とインド衛生兵が、多くの山岳兵捕虜を含む負傷者の手当てをします。
南アフリカ兵は激しい雨の中、生残装甲車の下で眠りに就いたのでした。

悪天候はBubissa地区での作戦行動を一時的に不可能としました。
5月13日、ハード大尉の装甲車隊はフォウコルの本部への道を戻りましたが、
Gidu川が氾濫して2日間影響し、装甲車は肩まである水の中を渡りました。

アンバ・アラギではアオスタ公が残存伊軍と共に立て篭もっていました。
しかし、その手兵は7000名、砲は40門、補給物資は3ヶ月分しかありませんでした。
又、エチオピア側の伊軍捕虜に対する厳しい取り扱いの風説が伝わり、伊兵の士気は低下する一方でした。
ここに至り、アオスタ公は名誉ある条件で降伏することに同意せざるを得ませんでした。
なおも抗戦を続けるガッゼラ軍とナッジ軍は夏から秋に掃討されました。
イタリアの“posto al sole”(陽のあたる場所)は失われたのです。

○アンバ・アラギのアオスタ公
ttp://digilander.libero.it/lacorsainfinita/guerra2/immagini/amedeosavoia.jpeg
○英連邦軍の前を行進する伊軍
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr872.gif
191名無し三等兵:2011/03/28(月) 00:46:49.82 ID:???
確か、名誉ある条件で降伏=拳銃を腰に帯びた状態での降伏だったと記憶しています
192名無し三等兵:2011/03/28(月) 13:47:28.71 ID:???
ボーイズ対戦車ライフルは、イタリア戦車には有効だったの?
193名無し三等兵:2011/03/28(月) 15:11:40.71 ID:???
空に向かって三発撃てば降伏してくれるよ
194名無し三等兵:2011/03/28(月) 17:45:37.47 ID:???
>>188
こんな所で「ウィンゲート」の名を聞こうとは・・・
195名無し三等兵:2011/03/28(月) 19:36:21.98 ID:???
>>192
L3は撃破した記録があります。
イタリア参戦早々の40年6月14日、第7軽騎兵連隊、第1王立ライフル兵団の1個中隊、第4王立騎馬砲兵連隊の1個中隊が
カプッツィオ砦を襲撃した際、1挺のボーイズ対戦車ライフルが反撃してきたL3(6両)の1両を撃破したそうです。
イタリア中戦車を確実に仕留めたという記録は、私は知らないです。

○ボーイズ対戦車ライフル
ttp://www.btinternet.com/~ian.a.paterson/Equipment/Infantry/BoysAT01.jpg
ttp://www.btinternet.com/~ian.a.paterson/Equipment/Infantry/BoysAT03.jpg
196名無し三等兵:2011/03/28(月) 20:30:26.25 ID:???
http://www.youtube.com/watch?v=8qaMWK3FL6w&feature=related
エジプト侵攻作戦時のイtリアのニュース映画
http://www.youtube.com/watch?v=BtoV7Egc7cY&feature=related
コンパス作戦時の英国のニュース映画
197名無し三等兵:2011/03/28(月) 20:58:59.60 ID:???
>>196
スパルビエロの爆音が(・∀・)イイ!
198名無し三等兵:2011/03/28(月) 22:41:40.49 ID:???
エンジンの音、轟々と、だね。
199名無し三等兵:2011/03/30(水) 08:26:16.34 ID:???
ユニバーサル・キャリアって、豆戦車になるのかなぁ?
200名無し三等兵:2011/03/30(水) 10:28:02.59 ID:???
装甲輸送車だろ
201名無し三等兵:2011/03/30(水) 17:28:20.15 ID:???
>>193
おいやめろw
202名無し三等兵:2011/03/30(水) 17:47:04.87 ID:oZlYyaF/
昔アメリカって原子力戦車というとんでもない物を研究してたんですね
これって攻撃されたら
203名無し三等兵:2011/03/30(水) 19:54:35.56 ID:???
原子力飛行機も有りましたな・・・
204名無し三等兵:2011/03/30(水) 20:21:48.96 ID:???
なに、原子力自動車を市販しようと目論んでたんだ
205名無し三等兵:2011/03/30(水) 22:56:39.20 ID:???
206名無し三等兵:2011/03/30(水) 23:06:24.51 ID:???
・・・上の動画のラストはなんか思いっきり間違ってないか?
肩当てが撃発でスライドはせんだろうさすがに。
207名無し三等兵:2011/03/30(水) 23:25:54.45 ID:???
>>205
三突が・・・勿体ない・・・
208名無し三等兵:2011/03/30(水) 23:35:09.59 ID:???
>>206
自営業氏の『武器と爆薬』によると
1.肩当てを下にして足で固定し、肩当てを90度回し、砲身をいっぱいに引いて激針を引っ込める
2.激針が引っ込んでロックしたら、体重をかけて砲身を押し込みばねを圧縮、肩当てまたは砲身を回してロックする
  背の低い兵士がミスると顔に砲身がブチ当たるので注意
3.装填して引き金を引くとロックが解放されてばねが激針を押し出し、装薬に着火して発射

3の反動でばねが押し込まれ装填準備完了…となるはずだが理論上の話。
うまくいかなかった場合、敵戦車や随伴歩兵が迫る中ばねを引っ張って押し戻すという手順を繰り返す。
俺なら逃げる。

>>205は多分2が足りない。
だから動画で肩当てが戻るのは、多分ばねが圧縮から解放された力ではなく伸びた状態から戻る力が作用している。
引っ張りはこの姿勢でできるだろうが、押し込みは立って体重かけないと厳しい気がする。
209名無し三等兵:2011/03/31(木) 09:06:10.03 ID:???
>>203
原子力機関車「oi おい 俺を忘れるな」
核パルスロケット「もっと熱くなれよ!」
210名無し三等兵:2011/03/31(木) 15:46:37.67 ID:???
PIATのあの弾道で、命中させるのかなり難しそう。
PIAT、バズーカ、パンツァーファウスト、火炎ビンで一番良いのはどれだろう?日本の擲弾筒もアンチタンク能力はあったのかなぁ。
211名無し三等兵:2011/03/31(木) 15:49:59.74 ID:???
射程でバズーカ、威力でパンツァーファウストってとこだろうか
212名無し三等兵:2011/03/31(木) 19:20:22.62 ID:???
パンツァーシュレック
213名無し三等兵:2011/04/01(金) 03:49:19.87 ID:???
>>205
43年撮影って、イギリスはどっから三突手に入れたんだ?
イタリア? ソ連経由?
214名無し三等兵:2011/04/01(金) 08:42:31.91 ID:???
単純に北アフリカではなくて?
215名無し三等兵:2011/04/01(金) 19:16:01.05 ID:???
>>205
弾道がめちゃくちゃ山なりに見える。目標まで結構近そうだけど。
216名無し三等兵:2011/04/01(金) 20:14:43.93 ID:???
http://www.youtube.com/watch?v=g56HSVZlZ-0&feature=related
ユニヴァーサル・キャリア萌えの方に
217名無し三等兵:2011/04/01(金) 20:26:29.84 ID:???
めんこいのう
218名無し三等兵:2011/04/01(金) 20:53:35.21 ID:???
バズーカなんかも一応弾道は放物線を描いているけどPIATはちょっとレベルが違うな
219名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:00:44.91 ID:???
>>218
PIATはバネだもんなぁ・・・
220名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:33:57.90 ID:???
【アフリカの角】

─ 英領ソマリランド侵攻 ─

1940年5月、ドイツ軍のフランス侵攻後、英海軍はイタリア参戦を見越して
防空巡洋艦カーライル、スループ3隻、1個駆逐艦隊をエジプトから紅海へ分遣し、
護送船団が組織される迄、この海域を封鎖しました。

6月10日、ムッソリーニは宣戦布告し、伊領東アフリカにも戦火が拡大します。
伊領東アフリカには追加動員された5万名も含め、約28万名(or約29万1千)の陸上戦力が存在しました
(尤も現地人部隊約20万名というのは名目上のもので、実質はその約半分と見積もられています)。
その印象的な兵力にも拘らず、これらのかなりが装備、訓練、士気劣悪な現地人部隊から成っていました。
同様に、この地の伊空軍の保有する航空機(約350)は老朽機が多く、
海軍戦力は潜水艦8隻、駆逐艦7隻、魚雷艇5隻、植民地警備艦1隻、武装商船2隻等と数字上は強力であったものの、
燃料不足と数多くの機械的な故障に悩まされていました。
それでも机上に於いて、これらの陸海空戦力は連合側のスーダン、英領ソマリランド、ケニア、
仏領ソマリランド、スエズ運河と地中海の主要航路に深刻な脅威を与えていました。

しかしながら、イタリア軍は敵方の英仏戦力を過大評価していました。
アディス・アベバの視点では“イル・ドゥーチェ”の部隊は包囲されており、増援や再補給の面で孤立していました。
特に仏領ソマリランドのジプチ港と英領ソマリランドのベルべラ港は、
連合軍遠征部隊のアディス・アベバへの侵攻路を将来的に提供するように思えました。
従って、イタリア軍はこれらの港湾に対する攻勢作戦と沿岸の他国領土の排除に、
優良部隊のかなりの部分と限りある補給品を割いたのです。
そして、殆ど偶発的でしたが伊軍は連合軍の補給路沿いに沿岸を押さえたのでした。

○ソマリア、第29飛行群第9飛行隊のカプロニCa.133
ttp://aermacchi.ifrance.com/aviationaoi/ca133.JPG
221名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:34:38.46 ID:???
<序>

1939年9月、英領ソマリランドにはニヤサランド歩兵の1個中隊、
チェイター大佐指揮の殆どが現地兵から成る約500名のソマリランドキャメル軍団
(準自動車化。後に南ローデシアの士官17名、下士官20名で増強)、小規模の1個保安隊が駐留していました。
40年5月11日、輸送船カランジャに乗船した北ローデシア連隊第1大隊がケニアのモンバサを出港し、
5月15日にベルべラに到着しました。
6月10日のムッソリーニの宣戦布告時、守備隊は約1500名でした。
彼らは、アデン湾対岸を基地とするリード空軍少将指揮下の航空機の支援を受けていました。

・第8飛行隊(ラドフォード空軍少佐):ブレニムMk.I、ヴィンセント
・第94飛行隊(ワイトマン空軍少佐):グラディエーター
・第203飛行隊(ストリートフィールド空軍中佐) :ブレニムMk.IVF長距離戦闘機

その後直ぐに、第39飛行隊のブレニムMk.Iがインドから到着します。

1939年初め、フランスは仏領ソマリランドの守備兵力を4倍に増員しました。
イタリア参戦時、ルジャンティオム将軍指揮下に約7000名が存在したのです。
それはセネガル歩兵とソマリ歩兵が7個大隊、野砲中隊×3、対空中隊×4、軽戦車中隊×1、
民兵中隊×4、キャメル軍団の2個小隊、雑多な航空機から成っていました。

・Potez 631×4
・Potez TOE×11
・MS 406×3
・Potez 29×2

○ソマリランドキャメル軍団
ttp://ww2today.com/wp-content/uploads/2010/08/Somalia-Camel-Corps.jpg
222名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:35:18.92 ID:???
東アフリカのイタリア軍は航空作戦を開始します。
最初の攻撃がアデンに対し3機の爆撃機で行われましたが、1機は離陸に失敗し、
他に1機が帰還時に墜落しました。
アデンに対する別の空襲が6月12日に行われ、同じ日に英軍がアッサブ港へ返礼をします。
ベルべラは14日に初めて攻撃され、6〜7月にかけて散発的な空襲が継続しました。
翌日、第11飛行隊の最初のブレニムMk.Iが、シンガポールからアデンへインド経由で来援しました。

同じ頃、イタリア地上軍は仏領ソマリランドへ侵攻すべく集結していました。

連合軍の計画によればジブチの割合に強力な仏軍が、
伊軍が懸念した通りにアディス・アベバ方面の鉄路を攻め上がる間、
スーダン、ケニア、英領ソマリランドの弱体な英軍は守備の為に残留することになっていました。
更に、ジプチとベルべラの裏口を固めるべく仏軍1個大隊が英領ソマリランドの国境を越え、
Jirreh峠をカバーすることになっていたのです。

6月18日、伊軍は仏軍が攻勢を開始する前にこれを叩きます。
しかし、2日間の戦闘で撃退されてしまいました。
6月21日と22日、伊軍はジプチに対し大規模な空襲を行ない、市民20名、兵士3名を殺害します。
損失は爆撃機3機でした。

6月22日、コンピエーニュで独仏間の休戦協定が結ばれ、2日後に伊仏間でも調印されました。
協定によれば、イタリアはアディス・アベバから仏領ソマリランドへの鉄道を自由に使用出来、
ジプチ港もイタリアに開放されました。

○伊仏休戦交渉時、仏全権委員
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr328.gif
223名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:35:59.76 ID:???
6月終わりから7月中旬迄、仏領ソマリランド国境上では不安定な休戦状態が続きました。
ルジャンティオム将軍は、ド・ゴール将軍の自由フランスの活動を支持していたのです。
伊軍は立ち入りを拒否され、英領ソマリランドの仏軍大隊はJirreh峠を保持し続けていました。

7月23日、ヴィシー・フランスから後任の司令官のジェルマン将軍が到着します。
ルジャンティオムはジプチを保つことは出来ず、英領ソマリランドへ脱出し、ド・ゴールの許へ赴きました。
又、フランスが武装させ訓練していた数百名の反伊エチオピア難民も仏領から英領へ逃れます。
国境を越えた後、彼らは英官憲に武装解除され、その小銃は破壊されました。
ルジャンティオム将軍が脱出して5日後、仏軍大隊はJirreh峠から撤退し、
ソマリランドキャメル軍団の小規模な分遣隊が代わりに守備に就きました。

仏領ソマリランドは実質的に中立化が成りましたが、伊海軍は紅海の制海権を手中には収められませんでした。
アデンに基地を置く英海軍艦艇は、イタリア紅海艦隊をほぼ即座に瓶詰め状態とすることに成功しました。
8隻の伊潜水艦の4隻は6月に失われました。
商船1隻とスループ1隻が沈められたものの、紅海を通ってエジプトへ赴く連合軍船団の殆どは、
航海中に害されることはなかったのです。
東アフリカでの作戦期間中、伊領ソマリランドへは補給として僅かに船舶1隻が到着しただけでした。
これは日本の貨物船がタイヤと燃料を運び込んだのですが、タイヤは全て寸法違いであることが判明し、
燃料は内陸へ運搬することが出来ず、後に敵手に渡さぬよう燃やされました。
この海域を制した英軍は東アフリカの地上部隊を増強出来、
そのことが英領ソマリランドでの作戦に重要な役割を果たしたのでした。

7月27日、イタリア軍上級司令部は、英領ソマリランドへの侵攻日を8月3日と定めました。

○ルジャンティオム将軍
ttp://signaturesofwar.com/sitebuildercontent/sitebuilderpictures/LaurieMaemura/15aBlackWhitePaulLegentilhomme.jpg
○1940年6月、英軍に拿捕されアデンへ曳航される潜水艦ガリレオ・ガリレイ
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224名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:36:40.18 ID:???
<計画と準備>

1940年7月1日、第15パンジャブ連隊第3大隊がアデンからベルべラへ海路到着しました。
同日、“ザ・ブラック・ウォッチ”第2大隊がエジプトからアデンへ移動を開始します。
開戦時にケニアで創設された第1東アフリカ軽砲中隊(3.7インチ砲×4)が、7月10日にベルべラへ到着しました。
8月初め、チェイター大佐は准将へ昇進し、英領ソマリランド全守備隊の指揮権を与えられます。
又、王立アフリカライフル隊第2大隊(ニヤサランド)と第2パンジャブ連隊第1大隊が配備されました。

4個歩兵大隊、キャメル軍団、4門の榴弾砲を擁してはいたものの、
伊領東アフリカとの長い国境を守備するのは不可能なことでした。
ベルべラ港は最も重要でしたが、守備には向かない地形でした。
チェイターは、ソマリランドの険しい丘の利点を防衛線に取り入れることにしたのです。
そこは車両で通り抜けることは出来ず、海岸線に平行しており、約50マイル内陸に位置していました。
敵部隊はベルべラへの進撃方法に3つの選択肢がありました。

・北部のJirreh峠を越え、沿岸のゼイラへ進撃する。それから南へ転じ、ベルべラへの貧弱な道路沿いに進む。
・ハルゲイサからの幹線道路沿いにトゥガ・アルガン峠を越え、ベルべラへ達する。
・南部のブラオへ進み、それからベルべラへの南路上のシェイク峠を越える。

第3/15パンジャブ大隊の初期配置は予備戦力としてベルべラでした。
北部では、キャメル軍団の分遣隊とパンジャブの小兵力がJirreh峠とゼイラへの道筋の警戒に当ります。
南部では、第1/2パンジャブ大隊がブラオからベルべラへの道筋にあるシェイク峠を保持します。
中央では、北ローデシア連隊第1大隊と王立アフリカライフル隊第2大隊がトゥガ・アルガン峠に布陣しました。
ローデシア歩兵1個中隊とキャメル軍団の1個中隊はハルゲイサの前衛陣地に位置し、
キャメル軍団残余と保安隊、雑多な非正規兵は国境の警戒に当りました。

○アーサー・レジナルド・チェイター
ttp://www.britain-at-war-magazine.com/wp-content/uploads/P-72.jpg
225名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:37:20.68 ID:???
東アフリカ伊軍・東部地区司令官のナッジ将軍は、英軍よりも遥かに多くの戦力を配置していました。
しかし、彼は少なくともチェイターの歩兵大隊の1個を見落としていながら、英軍全兵力を過大評価していました。
又、英部隊の装備を約24門の砲、8門の対戦車砲、ほぼ50門の対空砲、自動火器と膨れ上がらせて見積もっていたのです。
地形への配慮と敵部隊の分析から、ナッジは部隊を3個縦隊と1個予備に分割しました。

・北部では、ベルトルディ将軍の左翼部隊がJirreh峠を確保した上で、ゼイラを目標とします。
この部隊には8個歩兵大隊(2個は黒シャツ大隊。1個は第65歩兵師団“サヴォイア擲弾兵”の機関銃大隊)が
含まれており、4個砲兵中隊が第70植民地歩兵旅団と第17植民地歩兵旅団に組み込まれていました。
又、パッセローネ将軍の支隊(2個歩兵大隊、1個砲兵分隊)はゼイラ占拠後、
ベルべラへ向け沿岸路を自動車で南下することになっていました。

・南部では、ベルテッロ将軍の右翼部隊がアドエイナを目標とし、ブラオまで進撃を続行した上でシェイク峠を越え、
ベルべラへ押し進む予定でした。この部隊には1個歩兵大隊、非正規兵2群、1個砲兵中隊が含まれていました。

・中央部隊はデシモーネ将軍の指揮の下、ハルゲイサからの幹線道路沿いにトゥガ・アルガン峠を越え、
ベルべラへ進撃する手筈となっていました。
部隊は第13植民地歩兵旅団、第14植民地歩兵旅団、第15植民地歩兵旅団で増強されており、
総兵力は歩兵大隊×11、砲兵中隊×14、中戦車中隊×半個、軽戦車中隊×1、数両の装甲車となっていました
(中戦車:M11/39、軽戦車:L3、装甲車:フィアット611)。

・予備戦力は中央部隊の背後に位置する第2植民地歩兵旅団で、これは4個歩兵大隊と2個砲兵中隊から成っていました。

侵攻部隊は26個歩兵大隊、21個砲兵中隊を含み、約30000名の現地兵と約4800名の本国兵で構成されていました。
攻勢を支援する為、伊空軍はディレ・ダワ近郊の滑走路に戦力を集中します。
彼らはベルべラへの幹線道路と港湾を空襲し、ベルべラとLaferugへ進出していた英空軍機を撃破しました。

8月3日、イタリア軍は国境を越え、英領ソマリランドへ侵入したのです。

○ナッジ将軍
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr395.gif
226名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:38:01.19 ID:???
<イタリア軍の進撃>

地上攻勢には増加した航空活動も伴っていました。
侵攻開始日、3機のSM.81がベルべラを攻撃します。
1機は緊急発進した第94飛行隊のグラディエーターによって損傷を被りました。
翌日、第44飛行群の2機のSM.79がディレ・ダワへ移動する間、
4機のグラディエーターの内の2機がLaferugの滑走路へ進出しました。

8月5日、第8飛行隊のブレニムMk.Iが、ハルゲイサ西の路上を前進中の伊軍を悩ませました。
1機が第410飛行隊のCR.32に撃墜されます。
その間にも、伊軍は2機のSM.79と3機のCa.133をディレ・ダワへ進出させ、
ベルべラ、アデン、ブラオ、ゼイラを空襲しました。

同日、ベルトルディ将軍の左翼部隊はゼイラへ抵抗無しに入城します。
侵攻開始3日目という早いペースでした。
これで仏領ソマリランドと英領ソマリランドの国境は閉ざされたのです。
ゼイラ占拠と共に、ベルべラへの沿岸路は自動車で南下するパッセローネ将軍の2個歩兵大隊に開け放たれました。

○1940年8月、ディレ・ダワのCR.32
ttp://aermacchi.ifrance.com/aviationaoi/cr32.2.JPG
227名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:38:41.77 ID:???
8月6日、ベルテッロ将軍の右翼部隊はアドエイナへ達しました。
この南部地区では第1/2パンジャブ大隊がシェイク峠を守備していましたが、
非正規兵の小規模な一団がブラオ〜ベルべラ道とインド兵陣地へ急派されます。
ベルテッロ将軍の右翼部隊の大半は、トゥガ・アルガン峠の英軍守備隊の側面を脅かすべく
伊軍中央部隊の方向へ集中しました。

その頃、デシモーネ将軍の中央部隊は、ハルゲイサを守備するローデシア大隊の分遣隊と
キャメル軍団の1個中隊と遭遇しました。
英守備隊はトゥガ・アルガンへ後退する迄、多数の伊軍車両を撃破します。
取るに足らない抵抗を受けただけで国境から約50マイル進撃したデシモーネは、
敵主陣地へ前進する前に部隊を再編すべく、ハルゲイサで停止しました。

翌日、デシモーネ将軍は部隊再編に時間を費やします。
ゼイラ港のパッセローネ将軍は、ベルべラへの沿岸路の南下を開始するよう命じられました。
英海軍がソマリランド沖の制海権を握っていたので、
パッセローネ支隊を海上輸送する可能性は無かったからです。

伊軍の空中での戦闘展開の見通しは更に好転していました。
デシモーネ将軍がハルゲイサを手中に収めたことで、その地へ2機のCR.32と2機のCR.42が進出してきたのです。
この前進基地から彼らは戦線上空の哨戒に飛び立つことが出来、ハルゲイサ〜ベルべラ間の航空優勢を確保しました。

○英領ソマリランドへ侵攻したM11/39(デシモーネ将軍の中央部隊へ割り当て)
ttp://www.italie1935-45.com/RE/photoscopes/chars/m11-39/9.html
ttp://www.italie1935-45.com/RE/photoscopes/chars/m11-39/10.html
228名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:39:22.22 ID:???
8月8日、2機のCR.32と1機のCR.42がベルべラを空襲しました。
これらは駐機中のグラディエーター2機を捕捉し、それらが空中へ飛び立つ前に撃破します。
その報せはLaferugに進出していた2機のグラディエーターの許へもたらされ、
グラディエーターは共にアデンへ後退しました。

この時点で、支援の英空軍機はアデン湾の対岸から出撃する度に、約400マイル余分に飛行せねばならなくなったのです。
戦線からの距離が増したことによって、RAFはSM.79、SM.81、Ca.133の迎撃が困難となり、
終日、伊爆撃機はベルべラと英軍守備陣地を積極的に空襲しました。
伊空軍機が任務を遂行すべく忙しなく飛び回っている間、
上級司令部に繰り返し急かされていたデシモーネ将軍の中央部隊はハルゲイサで再編が完了し、
トゥガ・アルガンへゆっくりと進撃を開始しました。

8月9日、イタリア地上軍はゆるやかに前進し続けます。
ハルゲイサから飛来した3機の伊戦闘機がベルべラを機銃掃射しましたが、
その内の1機は豪州軽巡洋艦ホバートの対空射撃によって損傷しました。
更なるイタリア機がディレ・ダワへ運び込まれ、そこからハルゲイサへより多くの戦闘機が進出します。
トゥガ・アルガンへの空襲で、ブレニム1機がCR.42によって損傷し、
他のブレニム2機は空中で衝突して破壊されました。

○1940年夏、ディレ・ダワ。第410飛行隊のCR.32
ttp://aermacchi.ifrance.com/aviationaoi/cr31.1.JPG
229名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:40:02.79 ID:???
8月10日、A.R.ゴドウィン=オースティン少将が英軍の指揮を執るべくベルべラに到着しました。
彼のベルべラ到着は、英中東方面軍総司令官ウェーベル将軍とロンドンが協議し、
英領ソマリランドへ増援を急派する命令が発せられたことによって、もたらされた出来事でした。
増援は1個歩兵大隊、1個砲兵中隊、工兵がインドから、1個野砲連隊と2門の2ポンド対戦車砲が中東から、
第4インド師団の機械化騎兵連隊が同じく中東から来ることになっていました。
これら部隊の増加に伴って、チェイター准将よりも上位の指揮官が必要とされ、
ゴドウィン=オースティン少将がケニアへの途上でやって来たわけです。

結果的に、上記の増援で実際に英領ソマリランドへ到着したのは少将自身だけでした。
ウェーベルによって派遣された他の増援に、(王立砲兵)香港&シンガポール旅団第23砲兵中隊の2門の3インチ高射砲と
“ザ・ブラック・ウォッチ”第2大隊がありました。
これらはアデンからの部隊で、全て到着しました。

8月6日にアデンからベルべラへの増援部隊の輸送が開始されましたが、移動が完了する迄に3日間を要しました。
彼らは最終的にトゥガ・アルガン後方の予備陣地に到着しましたが(3インチ高射砲はベルべラに配置)、
それはゴドウィン=オースティン少将がベルべラで下船したのと同じ日でした。

“ザ・ブラック・ウォッチ”第2大隊の到着により、ベルべラで予備となっていた第3/15パンジャブ大隊は
トゥガ・アルガンの前線へ向かいました。
ゴドウィン=オースティン少将の到着とイタリア軍のトゥガ・アルガンへの最初の接触は同じ日の出来事でした。

翌11日、遂にデシモーネ将軍の中央部隊は英軍主陣地を“テスト”し始めたのです。

○A.R.ゴドウィン=オースティン少将(中央)
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar//////UN/SouthAfrica/EAfrica/img/SAF-East-Africa-6.jpg
230名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:40:43.14 ID:???
<ザ・バトル>

トゥガ・アルガンは英軍が抵抗地点と定めた場所でした。
ハルゲイサからの東向きの道はトゥガ・アルガンで北向きとなり、
約20マイル進むとLaferugの仮兵舎と滑走路を通り抜けます。
そこから割合に平坦な守備し難い地域を30マイル北進すると、ベルべラへ達します。

トゥガ・アルガンに於いて第3/15パンジャブ大隊の3個中隊は英軍右翼を守備し、
北から南へと散在する強化陣地は、起伏のある道なき荒地に沿って西へ面していました。
そこはトゥガ・アルガンを通る幹線道路の位置から数マイル北でした。
左翼(南)にはパンジャブ大隊とローデシア大隊の間に峡谷が存在しており、
後にトゥガ・アルガンでの主戦線となりました。
支援のキャメル軍団のいくらかの機関銃手と共に、
大隊はトゥガ・アルガンの湾曲部に沿う約5マイルの戦線に薄く配置されたのです。
湾曲部は西へ面し、それから南に向いていました。

ローデシア大隊の強化陣地はひと続きの丘陵群に位置していました。
北にはブラック・ヒル、ノブリイ・ヒル、ミル・ヒルが、南にはオブザベーション・ヒルが存在しました。
キャッスル・ヒルはミルとオブザベーション間の背後にありました。
Laferugとベルべラへの道は、トゥガ・アルガンとオブザベーション・ヒルを越えた戦区を横切っていました。
第1東アフリカ軽砲中隊の4門の3.7インチ砲はローデシア大隊と共に展開しており、
2門がノブリイ・ヒル、もう2門はミル・ヒルに配置されていました。

○1940年、キャメル軍団機関銃中隊指揮官エリック・ウィルソン中尉(大尉代行)。
トゥガ・アルガン戦時にローデシア大隊を支援し戦死認定でヴィクトリア十字章受賞(実際は捕虜に)。
抱いている犬はトゥガ・アルガン戦初日に殺害される。
ttp://www.timesonline.co.uk/multimedia/archive/00455/ERIC_WILSON_JEEP_455511a.jpg
231名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:41:23.70 ID:???
左翼(東)には、ローデシア大隊(支援機関銃&砲を含む)の彼方に別の峡谷が存在しました。
その向こうにはパンジャブ・リッジがあり、インド部隊の分遣隊が南に面して布陣していました。
パンジャブ・リッジの先には更に別の峡谷が存在しました。
続くブロック・ヒルには、道なきMirgo峠をカバーする王立アフリカライフル隊第2大隊の半数が、
これまた南に面して布陣していました。
ベルべラ道は彼らの背後を横切って通っていました。

左翼(東)の更なる先に、また別の峡谷がブロック・ヒル上の王立アフリカライフル隊と戦友達の間に存在しました。
これは5マイル以上の幅がありました。
王立アフリカライフル隊の残り半分は、左翼(東)側面から遠く離れたジェラート峠の辺鄙な陣地を保持していました。

この湾曲した防衛線背後に、新たに到着したゴドウィン=オースティン少将の司令部と
予備の“ザ・ブラック・ウォッチ”第2大隊が位置しました。
それはLaferugの放棄された滑走路の近くでした。

トゥガ・アルガンの英軍陣地は、丘陵、荒地、雨裂をよく活用して構築されていましたが、
利用可能な兵力に対してその守備線は長過ぎ、深度は無く、浸透に対して脆弱でありました。
同様に峡谷自体をカバーしても、両側面周辺から送り込まれてくる遥かに多数のイタリア部隊を
防ぐ手段はなかったのです。
しかし、イタリア軍の進撃を食い止めようとする無勢の守備隊にとって、
希望を託せる場所はここ以外にはあり得なかったのでした。

○1939年、パレスチナ駐留時の“ザ・ブラック・ウォッチ”第2大隊
ttp://www.rememberingscotlandatwar.org.uk/Accessible/Image/GetImage/360/-/f480c543-d38c-4c43-93b5-990342d86e22.jpg
232名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:42:04.17 ID:???
しかしながら、イタリア軍は自身がある点に於いて害を被っていることに、すぐには気付かなかったのでした。
彼らの地図は1926年にイギリスが編集した不正確なものを元にして準備されており、
峠の幹線道路と守備陣地周辺の地形を正確に表示していなかったのです。
この地図作成上の誤りによって、デシモーネ将軍がこの戦いを制するのは難事となったのでした。

8月10日、デシモーネの旅団群は一本道に沿って連なりながら英軍守備線へ達し始め、
徐々に隊形を解きながら展開しました。
幹線道路では、第14植民地歩兵旅団がトゥガ・アルガンの先の丘陵群に居座るローデシア大隊と相対します。
予備戦力のロレンツィーニ大佐の第2植民地歩兵旅団は前線へ送り込まれ、イタリア軍左翼側面に位置しました。
彼らは敵陣周辺と思われる場所へ向け北上を開始します。
第15植民地歩兵旅団は道の右(東)に展開し、パンジャブ・リッジ方面へ北向きに対しました。
第13植民地歩兵旅団と機甲部隊は予備となりました。

東方遠くでは、ベルテッロ将軍の右翼部隊の大半の戦力が、
ジェラート峠の王立アフリカライフル隊の辺鄙な守備陣地へ接近していました。

○進撃する伊植民地兵
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr391.gif
233名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:42:44.53 ID:???
8月11日07:30-08:00、SM.81がパンジャブ・リッジとLaferugの滑走路を爆撃しました。
1機のSM.81が対空砲火で撃墜されます。
爆撃が終わるや砲兵が準備砲撃を開始し、それは08:00から正午まで続きました。
12:30、第15植民地歩兵旅団がパンジャブ・リッジへ前進し、
第14植民地歩兵旅団はオブザベーション・ヒルとノブリイ・ヒルのローデシア兵陣地を攻撃しました。
これをローデシア部隊は、夏の雹を打ち付けられたかのようだと報告しました。
ロレンツィーニ大佐の第2植民地歩兵旅団がゆっくりと北上している間に、この2つの攻撃は撃退されました。

8月12日、第2植民地歩兵旅団が起伏の多い土地で暗中模索している間、
第14植民地歩兵旅団は北ローデシア歩兵大隊への攻撃を再開しました。
この時はブラック・ヒル、ノブリイ・ヒル、ミル・ヒルに対して攻撃が行われました。
RAFのブレニムが守備隊の支援に当りましたが、損害を被り数名の乗員が死傷し機を失いました。
16:00、伊軍がミル・ヒルの英軍陣地に侵入し始め、丘の2門の3.7インチ榴弾砲は砲側員によって破壊されます。
守備隊は暗くなってからミル・ヒルを放棄しました。
第1東アフリカ軽砲中隊の残存砲2門は、残弾が僅かに7発でした。

8月13日、アデンのRAFは第223飛行隊の11機のウェルズレイで増強されました。
イタリア軍はブラック・ヒルとノブリイ・ヒルへ再び攻撃を開始します。
第15植民地歩兵旅団はパンジャブ・リッジを越え、Mirgo峠沿いにベルべラ道の方へ浸透し始めました。
ベルべラ道はローデシア大隊と王立アフリカライフル隊の間を通っていました。
その夜、第15植民地歩兵旅団の浸透した部隊は、
補給縦隊を護衛して路上を進んでいた“ザ・ブラック・ウォッチ”の1個中隊へ待ち伏せ攻撃を仕掛けました。
英軍のトラックは散り散りとなり、ローデシア大隊陣地は遮断される恐れが出てきました。
王立アフリカライフル隊はこの事態を収拾出来ず、その指揮官は解任されたのです。

○東アフリカ上空のウェルズレイ
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/UN/UK/UK-RAF-I/img/UK-RAF-I-13.jpg
234名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:43:25.13 ID:???
しかしながら、第2植民地歩兵旅団の北部への不整地行軍は捗らないままでした。
8月14日、第15植民地歩兵旅団は浸透を利して押し進むことに失敗しました。
第14植民地歩兵旅団はローデシア大隊への3日間に渡る攻撃で多数の死傷者を出し、
後方へ下げられて予備戦力となります。
まだ戦闘に投入されていなかった第13植民地歩兵旅団が、これに代わりました。
12時間の準備砲撃の後、第13植民地歩兵旅団はオブザベーション・ヒルへ薄暮攻撃を仕掛けますが失敗します。
イタリア軍は遠方のジェラート峠の守備陣地は小規模であると感じ取りました。
イタリア機はトゥガ・アルガンの英軍陣地(特にキャッスル・ヒル)とベルべラ道上の車両に銃爆撃を続行します。

そうしている間にも、南部ではイタリア軍の小さな一隊(右翼部隊の残余)が
シェイク峠とパンジャブ陣地へ漠然と向かいましたが、なんら結果を残せませんでした。
沿岸路のパッセローネ将軍の支隊も同様に失敗しました。
ベルべラへの沿岸ルートは実質的に無防備であったものの、
パッセローネの車両はRAFの空襲と英海軍(軽巡カーライル、セレス、ホバート、駆逐艦キンバリー、
スループ艦オークランド)の艦砲射撃によって妨げられたのです。
一方、ベルトルディ将軍の左翼部隊はゼイラでRAFの空襲に晒されていましたが、
その第70植民地歩兵旅団がトゥガ・アルガンのデシモーネ将軍の許へ増援として分遣されることになりました。

デシモーネ将軍はトゥガ・アルガンの英軍陣地を包囲するよりも、
陣地を通るベルべラ道を押し進まねばならないと未だに確信していました。
8月15日、デシモーネはオブザベーション・ヒルへの新たな攻撃を命じました。
同じ頃、上級司令部はその突撃は失敗するだろうと見なし、中央部隊が増強されて再編される迄、
全ての攻勢作戦を停止するよう下命したのです。

○前進する伊軍現地兵
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr389.gif
235名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:44:05.61 ID:???
東アフリカでの後の作戦に於いて、英軍の信号諜報活動は伊軍の通信網を定期的かつ迅速に破り、
伊軍で下された殆どの命令は、受領者のもとへ届くよりも先に英軍士官達の手の内にあったのですが、
トゥガ・アルガンの戦闘時は状況が違いました。
第15植民地歩兵旅団の浸透部隊によるベルべラ道での待ち伏せ攻撃に揺さぶられた
ゴドウィン=オースティン少将は、トゥガ・アルガンが完全に包囲されるのも時間の問題だと確信し、
撤退開始の承認を求めました。
8月14日、彼は撤退しなければ戦闘は終了し、隷下部隊全てが壊滅すると連絡しました。
エジプトでは、不在のウェーベルの代行のウィルソン中将が撤退を承認しました。

8月15日午後遅く、デシモーネ将軍はオブザベーション・ヒルのローデシア部隊への最後の攻撃を発起しました。
19:00、丘はイタリア軍の手中にありました。
守備隊は投降を試み、それから無秩序に逃走しました。
ロレンツィーニ大佐の第2植民地歩兵旅団は未だ道を発見出来ず、英軍守備陣地右翼周辺に展開出来ませんでした。
彼らは最終的に、散在するパンジャブ守備陣地へ浸透していることに気付きますが、
この期に至っては最早どうでもいいことでした。

暗くなり始めた後に、ゴドウィン=オースティンは撤退命令を下しました。
第15パンジャブ連隊第3大隊、北ローデシア連隊第1大隊、そして王立アフリカライフル隊第2大隊の殆どは、
交戦を止めてベルべラへ向かいました。
彼らの撤退を“ザ・ブラック・ウォッチ”第2大隊と王立アフリカライフル隊の分遣隊が援護します。

○英領ソマリランド伊軍侵攻路
ttp://1.bp.blogspot.com/_Eu4d4GXAEUo/TFNeaj-p8EI/AAAAAAAAC24/2runBUmm8_s/s1600/800px-Somaliland_Italian_invasion.png
236名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:44:46.10 ID:???
8月16日、デシモーネ将軍は戦勝の功績を打ち立てるべく颯爽と進撃する代わりに、
いつも通りの用心深さを発揮したのでした。
彼の旅団群は以下のような戦闘隊形を取りました。

・第2植民地歩兵旅団:英軍右翼の旧パンジャブ陣地からLaferugへ前進
・第13植民地歩兵旅団:Laferugへの路上進撃準備の為、再編
・第15植民地歩兵旅団:ベルベラ道両側の高地の敵を用心深く探る(今やもぬけの殻でした)
・第14植民地歩兵旅団:予備として残留
・第70植民地歩兵旅団:左翼部隊から到着中

この日、ベルべラ道沿いでもジェラート峠でも南方遠くのシェイク峠でも前進はなされませんでした。
沿岸路のパッセローネ将軍はBulhar村に達していましたが、水の欠乏を訴え前進を停止していました。
ナッジ将軍の地上軍は英軍の撤退を阻止出来なかったものの、
伊空軍はディレ・ダワへ航空機を未だに運び込んでおり、それらをベルべラへ出撃させていました。
彼らは対空砲火とアデンからの英戦闘機(RAF第8飛行隊からの自由フランス機×2を含む)が存在する空域を飛行し、
少なくとも1機のSM.79が撃墜されました。

○茂みの中の伊軍トラック
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr390.gif
237名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:45:26.40 ID:???
8月17日、伊空軍は攻撃を続行しますが、目ぼしい戦果は挙げられませんでした。
その間に、5機のブレニムがハルゲイサの伊地上軍を攻撃しました。
遂に、デシモーネ将軍は追撃を開始し、装甲車両で増強された第70植民地歩兵旅団が先導しました。
ベルべラ道をLaferugへ向けて押し進んだ彼らは、“ザ・ブラック・ウォッチ”の後衛陣地に飛び込みます。
イタリアの戦史は“機関銃、対戦車砲、砲兵の猛射と猛烈な爆撃によって停止した”と記していますが、
実際には“ザ・ブラック・ウォッチ”は小銃に頼り、着剣して反撃を行い、イタリア尖兵を押し返したのです。
ベルべラでは英海軍が速やかに英部隊を乗船させ、無事に撤退しました。
暗闇と共にイタリア軍からの圧力は無くなり、英軍後衛の最後の部隊は離脱してベルべラへ急行します。
8月18日朝、彼らは乗船したのです。

この日、ブレニムがLaferugの伊地上部隊を空襲し、捕捉された1機が撃墜されました。
アデンからの5機のウェルズレイがアディス・アベバへ長駆飛行して危険な任務を遂行し、
5機のイタリア機を地上で撃破し他2機を損傷させました。
CR.42に護衛されたSM.79が2日間終日ベルべラを爆撃しましたが、軍事的目標は何ら残されていませんでした。

翌8月19日、伊軍尖兵はもぬけの殻の港へ進み、ブレニムの機銃掃射で歓迎されました。

“イル・ドゥーチェ”は、彼の砂漠の帝国に新たなる不毛の植民地を付け加えることに成功したのです。

○1936年4月、エチオピア南部。フィアット611
ttp://www.italie1935-45.com/RE/photoscopes/automitrailleuses/fiat611/0'.JPG
○ソマリアでのフィアット611
ttp://www.italie1935-45.com/RE/photoscopes/automitrailleuses/fiat611/3.html
○ベルべラ陥落後、英総督公邸
ttp://www.britain-at-war-magazine.com/wp-content/uploads/P-123.jpg
238名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:46:06.85 ID:???
<その後>

ソマリランドキャメル軍団の隊員は後方に留まり、去り行く英軍によって武装を解除され家郷へ戻りました。
第3/15パンジャブ大隊、第1/2パンジャブ大隊、“ザ・ブラック・ウォッチ”第2大隊、
北ローデシア連隊第1大隊、王立アフリカライフル隊第2大隊、第1東アフリカ軽砲中隊の残部、
2門の3インチ高射砲は全てベルべラから脱出しました。
撤退は、軽巡ホバート、カレドン、カーライル、セレス、スループ艦ショアハム、パラマタ、オークランド、
武装商船Chakdina、Chantala、ラオメドン、駆逐艦カンダハール、キンバリー、輸送船アクバル、
病院船ヴィータによって行われました。
合計5300〜5700名の戦闘員と1000名超の民間人が無事にアデンへ移送されました。

英軍地上部隊の損失は戦死38名、負傷102名、行方不明120名(殆どは捕虜で、東アフリカ作戦終了時に解放)でした。
RAFは8月5〜19日にかけて184ソーティをこなし、爆弾60dを投下、7機を機銃で撃破して他10機に損害を与えました。
乗員の戦死は20名、負傷は3名でした。

イタリア軍の損失は戦死465名、負傷1530名、行方不明34名で、その内161名が本国兵でした。
デシモーネ将軍は砲5門、迫撃砲5門、“対戦車機関銃”30挺(恐らくボーイズ対戦車ライフル)、
機関銃71挺、装甲車3両、トラック100両以上、大量の小銃・弾薬を鹵獲したと主張しています。

○ベルべラ占領後。左に英連邦軍捕虜
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr400.gif
○キャメル軍団ウィルソン中尉(大尉代行)の戦死報告が誤りであったことを告げるタイムズ紙(1940年10月16日付)
ttp://archive.timesonline.co.uk/tol/viewArticle.arc?articleId=ARCHIVE-The_Times-1940-10-16-04-009&pageId=ARCHIVE-The_Times-1940-10-16-04
239名無し三等兵:2011/04/01(金) 21:46:47.28 ID:???
その後、英伊双方は陸上戦力と航空戦力を分散させました。
デシモーネ将軍は、ケニアからの英軍侵攻に対する伊領ソマリランドでの指揮に赴きます(破滅的な戦闘でした)。
その侵攻時、ゴドウィン=オースティン少将は英軍部隊の1群を率いていました。
40年9月、北ローデシア連隊第1大隊はケニアのモンバサへ出航し、
同様に王立アフリカライフル隊第2大隊も新規作戦に備えケニアへ戻りました。
10月、“ザ・ブラック・ウォッチ”第2大隊は北アフリカの第14歩兵旅団へ復帰します。

しかしながら、第3/15パンジャブ大隊と第1/2パンジャブ大隊はアデンに留まり続けました。
41年3月16日、彼らはD部隊(軽巡グラスゴー、カレドン、駆逐艦カンダハール、キプリング、
武装商船Chakdina、Chantala、インド海軍トロール船Netravati、パールヴァティー、輸送船2隻、ML109)
と共にアピアランス作戦に従事し、ベルべラへ上陸を果たしたのです。
インド部隊はイタリア守備隊の残兵をベルべラで見出しましたが、
それは降伏しようとする大佐1人と第70植民地歩兵旅団の60名の兵士でした。
2週間後、第1/2パンジャブ大隊はアデンへ戻り、第3/15パンジャブ大隊は英領ソマリランドに6月まで留まりました。

英国はソマリランドキャメル軍団を復活させました。
41年4月18日、ソマリランドキャメル軍団はかつての8割の戦力となります。
5月初め迄に、彼らは解放された地域の哨戒を行ない、山賊とイタリア脱走兵に対処しました。
その後、ビルマでの作戦行動に向けてキャメル軍団を再編する案がありましたが、
一連の反抗的な騒動の後、43年にソマリランドキャメル軍団は解体されたのです。

○1940年東アフリカ戦線(動画)
ttp://www.youtube.com/watch?v=iAYdqZ9oY_w&feature=player_embedded
240名無し三等兵:2011/04/01(金) 22:59:00.04 ID:???
>>219
PIATの弾を飛ばしてる力はバネじゃないよ。
バネは激針を動かすだけで、実際に飛ばしてるのは普通の火薬。
241名無し三等兵:2011/04/01(金) 23:41:45.97 ID:???
>>240
ずっとバネだけと思ってた・・・
擲弾筒みたいなもんなのか。
242名無し三等兵:2011/04/01(金) 23:42:20.34 ID:???
それも違う。火薬とバネの両方だろ。
243名無し三等兵:2011/04/02(土) 01:44:08.35 ID:???
>>239
乙です
一連のイタリア関連の話面白い
244名無し三等兵:2011/04/02(土) 18:38:59.34 ID:???
>>241
水平発射できる迫撃砲みたいな感じ。
だから弾のロック機構がついてなくて、装填状態で下を向けると弾が落ちる。
ttp://www.flamesofwar.com/hobby.aspx?art_id=834
このページにカットモデルの写真があるが、中はほぼすべてバネ。

>>242
発射するのに直接的にはバネ使ってなくね?
245名無し三等兵:2011/04/02(土) 19:07:35.27 ID:???
撃針叩くだけのことに全身の力をこめて押し込むような強力なバネは必要ない。
246名無し三等兵:2011/04/02(土) 22:00:35.35 ID:???
弾道は山なりだが、ティガーの側面をぶち抜く威力がある。だからバックブラストが無い分、市街戦では使えそう。
247名無し三等兵:2011/04/03(日) 19:38:43.03 ID:???
>>245
弾体が固定されてないから、あのくらい強力なのじゃないと駄目なんじゃないか。
設計ミスとも言う。
248名無し三等兵:2011/04/03(日) 19:59:04.59 ID:???
動画でも撃発ピンが必要以上にっていうか弾体と同じくらい飛び出てるから
やっぱばねの力も弾体を押し出すのに火薬とあわせて使ってるんだろうな。
249名無し三等兵:2011/04/03(日) 20:44:56.08 ID:???
銀玉鉄砲みたいだな、バネの力で棒を突き出して弾丸を押し出す。
250名無し三等兵:2011/04/03(日) 20:53:35.90 ID:???
ttp://www.bocn.co.uk/vbforum/threads/4608-PIAT-Practice-Solid-Shot
ここにある弾の図面を見ると、下の方の安定翼や真ん中の細いの部分中は何も入ってないただの筒で、
先頭の丸い弾体の底部に発射薬があるようだから、激針が大変長いのはそのため。
やっぱりバネの力は発射には寄与していないと思うのですよ。
細かいこと言ってごめん。
251名無し三等兵:2011/04/04(月) 00:38:52.92 ID:???
90kgの反発力じゃないと点火しないってどんな欠陥品だよ。
何だったか昔読んだ洋書からの翻訳本で「分類が難しいがバリスタとスピガットモーターの中間」と、反発力と火薬両用であるように書かれていたが。
252名無し三等兵:2011/04/04(月) 17:25:42.54 ID:???
漢ならモロトフ・カクテルだろう(笑)。
253名無し三等兵:2011/04/04(月) 20:18:15.13 ID:???
映画「遠すぎた橋」にPIATの射撃シーンがあるが、あれはステージガンかな。
弾体はぽ〜んって感じで落ちてた。
254名無し三等兵:2011/04/04(月) 20:51:51.08 ID:???
>>252
真の漢は日本刀で突っ込みをかけるぞ
実例あるし
255名無し三等兵:2011/04/05(火) 16:45:39.92 ID:???
>>254
斧で戦って、勝った奴もいるがそういうイレギュラーは普通は含まん。
大体M3に日本刀で殴りこんだ将校だって蜂の巣にされてるじゃねえか。
256名無し三等兵:2011/04/05(火) 20:50:02.19 ID:???
>>255
火炎瓶も大概だろう
あれをレギュラーにしちゃダメ、ゼッタイ
257名無し三等兵:2011/04/05(火) 22:13:48.06 ID:???
話を横道にそらして、M3ハーフトラック
http://www.youtube.com/watch?v=0wrzmkXRrIQ&feature=related
sd kfz251
http://www.youtube.com/watch?v=BSTPwq_c-iw&feature=related
アリゲータって水陸両用車でおっけ?
http://www.youtube.com/watch?v=SHbfiwyTH_w&feature=related
258名無し三等兵:2011/04/05(火) 22:53:47.71 ID:???
>>257
おk
あと251の映像は時々違う車両が混じってるw

やっぱり戦場での移動で車両を使えるのは格段に楽だよなあ。
259名無し三等兵:2011/04/05(火) 23:23:54.91 ID:???
アリゲーターを作っていたFMC(フード・マーシーナリー・コーポレーション)って農機具や殺虫剤を作っていたのが、今やBAEの一部門だもんな。
アリゲーターにスチュワート軽戦車の砲塔を載せた、アムタンクって37ミリ砲搭載かな?
260名無し三等兵:2011/04/06(水) 00:20:54.09 ID:???
>>259
そうだったはず。
M8自走榴弾砲の砲塔を搭載した75mm火力支援型もあったね。
261名無し三等兵:2011/04/07(木) 04:01:07.41 ID:???
ところでフランス軍愛用の25mm対戦車砲って弾種は豊富だったんでしょうか?
262名無し三等兵:2011/04/07(木) 06:29:26.79 ID:???
APCRと…
APHEとかHEってあったんかな。APCR以外は普通のAP-Tくらいしかない気がする。歩兵砲みたいに使われたって話を昔よんだような…。
263名無し三等兵:2011/04/07(木) 07:18:48.93 ID:???
戦争映画や「コンバット!」等で、戦車の上部ハッチをこじ開け、手榴弾を投入という描写があるが
上部ハッチって簡単に開けられるの?
264名無し三等兵:2011/04/07(木) 07:23:42.61 ID:???
ぱっと検索してみたけど、仏がAPと赤白のAP-T2種で計3種、フィンランドがAPと白のAP-Tの2種使ってるのしか見つけられなかった。
後は車載用短縮バレル25mm砲に装薬を137gから148gに増量したタイプがあるみたいだけど、弾種は違わないし。
265名無し三等兵:2011/04/07(木) 07:34:11.79 ID:???
マトモな榴弾無し?
266名無し三等兵:2011/04/07(木) 10:22:39.65 ID:???
榴弾あっても25mmじゃ危害半径の関係で重機並みの制圧力しかないんじゃ……
267名無し三等兵:2011/04/07(木) 10:57:19.08 ID:???
ちょっと誰か翻訳してみてちょんまげ
http://www.municion.org/25x193R/25x193R.htm
268名無し三等兵:2011/04/07(木) 16:16:52.33 ID:???
Cartridge designed in 1934 for the anti-tank gun light Hotchkiss " Canon to leger of 25 to antichar SALT mle 1934" , that became the standard anti-tank gun of the French army.

Later the arsenal of Puteaux produced improved versions (Mle. 1937 and 1939).

It does not have to be confused with the cartridge of 25mm antiaircraft Hotchkiss, 25x163 without eyelash and bases of 25mm Japanese.
One was a very light tube, of about 300 kg that podia to be put and to be shot by a single man in good condition.
1.05x measured 3.71x 1,10 meters and was able to carry out up to 25 firings per minute on movable targets or 15 on fixed targets.
Designed at a time at which the motorised cavalry totally was not developed, reason why when it was towed by fast vehicles it showed very unstable.
Its penetrative power, 40mm of steel to 500 meters, was sufficient at the time of its design.
Later studies realised by the Larsen Danish for the Hotchkis served basic the German tube Gerlich 28/20 PzB41 (28/20x187R).
Many guns were sold to England, until this one covered its needs with the guns with 2 pounds of own production towards 1939.
Of these guns, many were lost in France and the rest was conserved until in 1941 they finished stocks of the ammunition and they were terminated.
The gun continued in good condition until the end of the war in the German forces and I do not even know when in Spain.
Perhaps as armament of the Maginot line would survive in the postwar period in the reactivated forts.
Images of a manual dated in 1944 and printed by Ministry of I exercise Spanish.
In the same not only the French ammunition name standard but also a distinguished type HEAT of 66.
269名無し三等兵:2011/04/07(木) 16:19:23.24 ID:???
6mm and German origin that went off with one bocacha by means of an actuating charge with false black wood bullet.
I believe that the gun that survives in Spain has bocacha mounted.
The accessories described in the manual are a mixture of French equipment and German, without a doubt fruit of a sale from material to Spain during the war.
DATA AND I SCAN: FERNANDO Cartridge with armor-piercing projectile, black end.
PHOTO: FX Detail of the projectile of the previous cartridge.
PHOTO: FX Cartridge with projectile armor-piercing-tracer, green end (EBY0004).
PHOTO: FX Cartridge of brass with eyelash, always armor-piercing bullet.
On the same, case of Oerlikon 20x110mm for comparison of sizes.
PHOTO: MAJORCA Case of 25x193R.
PHOTO: ANDREY shot Projectile of reduced reach model 1934.
Totally in steel with rifling band in copper.
PHOTO: PHIL Cnn 4 39 LM Claudinon ET Backs water.
, of Him Chambon-Feugerolles.
LM


機械翻訳だから精度はシラネ
270名無し三等兵:2011/04/07(木) 21:42:35.41 ID:???
>>267
本文は基本的に対戦車砲本体の説明。
あとそれが配備されたスペインではドイツみたいな外装式HEAT弾が使われてたっていう話が下の方に。

写真の方はよくわかんね。
271名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:36:10.54 ID:???
【アルプス一万尺】

“私は講和条約の席に着く為にも、数千名の死傷者だけを必要としておるのだ”

1940年6月10日、ムッソリーニは対英仏参戦を宣言します。
ウンベルト王太子指揮のイタリア西部軍集団は6月初旬に動員が開始されており、
隷下の第4軍は西部戦線右翼に位置していました。
第4軍は北部から進撃して来るドイツ機械化部隊の方角へ向かい、アルベールヴィル方面に打撃を加え、
仏軍要塞の背後へ回り込むことを目標としていました。
イタリア軍司令部の思惑によれば、この機動作戦は第1軍による沿海地区の突破と対をなしており、
仏軍防衛体系の崩壊がもたらされる筈でした。

第4軍は山岳軍団が主攻(小サン・ベルナール峠-アルベールヴィル)を担当し、
助攻(モン・スニ峠-ブール・サン・モーリス)は第1軍団の役割でした。

山岳軍団は山岳師団×2(後述のイタリア参戦時の戦闘序列では隷下の山岳師団はタウリネンゼ師団1個のみ。
別の資料ではトリデンティーナ師団も隷下としているので、恐らくそちらのように“2”と記述)、
独立山岳大隊×5、黒シャツ大隊×1から成っており、軍団砲兵4個大隊(左翼の第4軍団から)で増強されていました。
彼らの攻撃時の初期配置はSeign峠から南へ伸びる地区で、
ここにはソラージュ砦とトラヴェルセッテ砦が国境すぐの場所に位置しており、
ブール・サン・モーリス砦はイゼール川峡谷をカバーしていました。
これらフランス軍要塞の守備隊は3000名の人員、機関銃350挺、砲150門から成っていました。
この他にも伊山岳軍団の作戦行動地域には、60門の砲を持つ仏軍野戦部隊18個大隊が存在しました。

“アルプスからのフランスへの攻撃は、銃剣の先を掴んで小銃を持ち上げるようなものだ”

かつて、カール・フォン・クラウゼヴィッツは述べていたのです。

○ウンベルト王太子と幕僚
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr324.gif
272名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:36:50.49 ID:???
伊第4軍(第1軍団、第4軍団、山岳軍団)戦闘序列=グッツォーニ将軍指揮
※1940年6月10日

軍直轄

・第1対空連隊
・第1軍砲兵集団
・第6軍砲兵集団
・第9軍砲兵集団
・第5工兵集団
・第1地雷工兵大隊
・第3地雷工兵大隊
・第5飛行隊(偵察)
・第2電信中隊
・第129無線中隊

軍予備

・第11歩兵師団“ブレンネロ”
・第58歩兵師団“レニャーノ”
・第2山岳師団“トリデンティーナ”(山岳軍団隷下とする資料もあり)
・快速集団(第1戦車連隊、第1騎兵連隊“ニッツァ”、第4ベルサリエリ連隊)
273名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:37:30.94 ID:???
<第1軍団>

・第1歩兵師団“スペルガ”(山岳歩兵)
・第24歩兵師団“ピネローロ”
・第59歩兵師団“カリアリ”(山岳歩兵)

※山岳歩兵≠山岳兵(アルピーニ)

軍団直轄

・第8国境守備部門
・第9国境守備部門
・第1軍団砲兵集団
・第19国境守備砲兵集団
・第23国境守備砲兵集団
・“スーザ”山岳大隊
・“ヴァル・チェニスキア”山岳大隊
・第3山岳集団(“エジッレス”山岳大隊、“ヴァル・ドーラ”山岳大隊、“ヴァル・ファッサ”山岳大隊の計3個大隊)
・第1中機関銃大隊
・第101中機関銃大隊
・第113陣地中機関銃大隊
・第11建設工兵大隊
・第78電信中隊
・第83電信中隊
・第96無線中隊
・第11黒シャツ大隊
・第3移動軍鳩隊(伝書鳩)
274名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:38:11.48 ID:???
<第4軍団>

・第2歩兵師団“スフォルツェスカ”(山岳歩兵)
・第26歩兵師団“アシェッタ”(山岳歩兵)

軍団直轄

・第7国境守備部門
・第4軍団砲兵集団
・第8国境守備砲兵集団
・第4中機関銃大隊
・第104陣地中機関銃大隊
・第1建設工兵大隊
・第73電信中隊
・第92電信中隊
・第98無線中隊
・第11移動軍鳩隊(伝書鳩)
275名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:38:52.02 ID:???
<山岳軍団>

・第1山岳師団“タウリネンゼ”
・山岳集団“レヴァンナ”(山岳大隊×3、山岳砲兵大隊×1)
・第3山岳連隊(第4軍団隷下とする資料もあり)

※山岳集団“レヴァンナ”
@“イントラ”山岳大隊A“ヴァル・ブレンタ”山岳大隊B“ヴァル・チズモーン”山岳大隊
C“ヴァル・ドルコ ”山岳砲兵の2個中隊D“ヴァル・ダーディジェ ”山岳砲兵の1個中隊

※※第3山岳連隊
@“ピネローロ”山岳大隊A“フェネストレッレ”山岳大隊B“ヴァル・ペッリチェ”山岳大隊
C“ヴァル・キゾーネ”山岳大隊D“スーザ”山岳砲兵の2個中隊E“ヴァル・キゾーネ”山岳砲兵の2個中隊

軍団直轄

・第10国境守備部門
・第12国境守備砲兵集団
・第103陣地中機関銃大隊
・第110陣地中機関銃大隊
・“アオスタ公”山岳大隊
・“モンテ・ビアンコ ”山岳スキー隊
・山岳突撃隊(アルディーティ)
・第13黒シャツ大隊
276名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:39:32.38 ID:???
20-25マイルの戦線で前進する山岳軍団は、ブール・サン・モーリス要塞地区を粉砕すべく、
シャポー、セス、チーニュ奪取の任務を割り当てられました。
そして、ボーフォールとアルベールヴィルへの攻勢を続行するわけです。
攻撃主軸はSeign峠を越える右翼で(8個山岳大隊)、6月21日朝、攻勢は開始されました。
Seign峠から出現した右翼部隊は、ソラージュ砦からの強力な砲火によって停止しました。
氷河を何マイルか踏破した後、山岳兵は敵陣地を側面包囲します。
休戦時、部隊の一部はロズラン線へ突撃し、もう一つの部隊はソラージュ要塞地区の包囲を完了していました。

小サン・ベルナール峠を奪取する中央部隊は、トラヴェルセッテ砦からの砲火に見舞われ国境至近で停止しました。
山岳兵への圧力を軽減すべく、第101歩兵師団“トリエステ”(自動車化)がやって来ました。
11:00、同師団のオートバイ大隊は峠をすり抜け、支援砲火の下、イゼール川峡谷へ高速で移動を開始します。
国境から2`進んだ所で、オートバイ大隊は取り壊された一本の橋と出くわしました。
彼らは降車し、数挺の機関銃の支援の下、川を渡渉すべく前進します。
同時に、工兵が大きな損害にも拘らず橋を修復しました。

一方、沿岸地区では伊海軍が国境近くの坑道に隠していた装甲列車×3(120mm砲×4装備)を送り込みます。
しかし沿岸での進路は啓開出来ず、侵攻2日目迄に装甲列車1編成が実質的に撃破されました。
結局、伊第1軍は休戦時迄に第1目標のニースへ達することは出来なかったのです。
又、Ba.88がコルシカ島の軍用飛行場を3回攻撃しましたが失敗に終わりました。
仏軍のD.520はそれらを捕捉出来ませんでした。

○小サン・ベルナール峠の国境線上を越える伊軍
ttp://img144.imageshack.us/img144/1458/francia212fr9.jpg
○トラヴェルセッテ砦
ttp://i35.tinypic.com/2h493xj.jpg
277名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:40:12.90 ID:???
6月22日、山岳軍団戦線。
トリエステ師団の戦車大隊(L3装備)はオートバイ大隊の前線を越えた後に地雷原で1両を喪失し、停止します。
同師団第65自動車化歩兵連隊の1個大隊がトラヴェルセッテ砦の背後へ回り込もうとしますが、
野戦陣地で防御していたフランス歩兵の反撃を側面に受け、進撃を停止しました。
機関銃隊で増強された別の自動車化歩兵大隊がオートバイ大隊への圧力を軽減し、セスに対する進撃を再開します。
同じ頃、左翼部隊は仏軍の弱い抵抗を打ち負かした後にイゼール川峡谷を下り、
川の右岸沿いにセスへの進撃を開始しました。

6月25日01:30を以って軍事作戦は停止され、その時には中央部隊はセスを占拠していました。
しかしながら、野戦陣地守備隊によって増強されたトラヴェルセッテ砦は未だに抵抗を続けており、
小サン・ベルナール峠をその砲火の下に置いていました。
したがって、山岳軍団に割り当てられた目標は達成されぬまま残ったのです。

第1軍団はこれよりいくらかは成功を収めました。
彼らは25マイルの戦線沿いに、Cimis山からEtache峠への地区内を進撃しました。
軍団は国境線陣地を突破してベッサン、 ランスルブール、ブラマン、モダーヌ の線に達し、
アルベールヴィルに進撃すべく北へ転じました。

第1軍団は“ヴァル・チェニスキア”山岳隊を配属された第59歩兵師団“カリアリ”、
コビアンキ大佐指揮の山岳隊付属の第11歩兵師団“ブレンネロ”(6月10日の戦闘序列は第4軍予備) 、
ボッカラッテ少佐指揮の山岳大隊2個、その他部隊から成っていました。
軍団の左翼を第1歩兵師団“スペルガ”が進撃し、
カリアリ師団は3縦隊でブラマンへ進み、それからアーク川峡谷沿いにモダーヌへ前進しました。
第64歩兵連隊第1・第2大隊&第63歩兵連隊第3大隊から成るカリアリ師団主力はGlazette峠を通って移動し、
Ambin川峡谷沿いに進みました。

○雪を被ったタンケッテ
ttp://img160.imageshack.us/img160/664/2guerr290et9.gif
278名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:40:53.39 ID:???
第63歩兵連隊第2大隊は、モン・スニ峠から主隊との合流地点のLe Plenetへ進撃しました。
第63歩兵連隊第1大隊はBellecombeの峠と峡谷を越えて前進し、主隊と合流する為にラ・ヴィレット地区へ達します。
右翼ではボッカラッテ山岳隊がベッサンを奪取すべく進撃しました。
左翼では第59歩兵師団“カリアリ”と協同したチェニスキア山岳隊がマーシュ峠を越えて進みます。
この部隊はモダーヌ砦側面に出現しますが、それは同地を奪取せんとする主隊の接近と同時でした。
モン・スニ湖地区の第2梯団は第11歩兵師団“ブレンネロ”から成っていました。

モン・スニ、 ランスルブール、ブラマンへの道の方角は、フランス永久要塞で防備されていました。
これらの保塁は崖に構築され、強固なコンクリート建築物から成っており、
各々2挺の機関銃と1門の対戦車砲を装備していました。
保塁の下層部には弾薬と糧食が貯蔵されており、休息室が備えられていました。
全ての接近路は良好な射界の下にあり、最も重要な地区には地雷が埋設され、種々の対戦車障害が設けられていました。
この永久要塞守備隊は4500名から成っており、60両の戦車と砲兵を持つ2個師団もこの地区に存在したのです。

作戦期間中の3日間全てで雨か雪が降り、戦場は深い霧に包まれました。
6月21日正午過ぎ、主隊(3個大隊)はGiazette峠からAmbin川峡谷へ下りました。
障害物と強力な砲火に直面した主隊は、北から仏軍陣地の側面包囲を試みるよう命令され右折します。
ここで部隊は、モン・スニ峠の仏軍の弱体な抵抗を易々と打ち破ってきた第63歩兵連隊第2大隊で増強されました。
後方に残存する仏部隊個々の掃討を小部隊に割り当てた後、主隊はブラマンへの進撃を続行します。

○雪中で抵抗するフランス偵察隊
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr316.gif
○トラヴェルセッテ砦のバンカー(再現)
ttp://www.tempetesurlesalpes.fr/resources/_wsb_423x373_Photo_4.jpg
279名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:41:33.92 ID:???
礼拝堂での協議時、6月22日の終わりが近付くにつれ、第59歩兵師団“カリアリ”の各部隊はブラマンへ達しました。
ここでのイタリア軍は野戦陣地制圧の砲火によって動きを制限されました。
ボッカラッテ山岳隊との連絡を試みる1個大隊がテルミニョンへ進撃し、他4個大隊はモダーヌ方向に道を転じました。
その間に、ブラマネット山越えへ派せられたチェニスキア山岳隊は抵抗に遭うことなく、
Balmで砦の背後に出現しました。
6月23日、カリアリ師団は幾分弱体なBalm砦を易々と奪取し、
チェニスキア山岳隊と合流してモダーヌへの進撃を続行しました。
モダーヌを東方から防御するヴィラロダンとEsseillon地区の強力な砦との交戦時、イタリア軍は南から回り込みます。
砲兵はこれら砦の砲火を沈黙せしめる任務を与えられました。

休戦時、カリアリ師団の部隊はモダーヌから2-3`のヴィラロダンを越えた地点にいました。
多少の部隊がモン・スニ、ランスルブール方面の異なった場所に展開していました。
そこでは仏軍が第64歩兵連隊第3大隊に執拗な抵抗を試みていたのです。
大隊の進撃路沿いに地雷が埋設され、対歩兵&対戦車障害が構築されており、
全ての侵入路は砲火に晒されていました。
この方面にはコビアンキ大佐の山岳隊、第231歩兵連隊“アヴェッリーノ”(第11歩兵師団“ブレンネロ”)の1個大隊、
1個戦車大隊(同じくブレンネロ師団)が送られました。
しかしながら戦車2両が地雷で行動不能となり、戦車大隊丸ごと1個が阻止されます。
その間、山岳兵と歩兵は酷い損害を被りながらも仏軍の抵抗に打ち勝ち、ゆっくりと前進しました。
よく隠蔽された仏軍機関銃座は伊軍小部隊をやり過ごし、その背後へ銃弾を浴びせかけたのです。

○仏領土内でのL3
ttp://digilander.libero.it/avantisavoiait/CV%2033%20Francia.jpg
280名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:42:14.39 ID:???
休戦時、この方面の伊軍は仏要塞の最初の線にいました。
既にランスルブールの背後がボッカラッテ山岳隊に占拠されていたにも拘らず、要塞は抵抗を続けていました。
山岳兵は、山越え困難な雪に覆われたシャポーとノヴァレーザの峠(3298と3209ヤードの高所)で国境を通過した後、
リボン川峡谷を下り、如何なる仏軍部隊とも交戦せずにベッサン村落を占拠しました。
仏軍はこの地点から敵が現れるとは予期していなかったのです。

それからアーク川峡谷沿いに前進したアルピーニは、ランスルブール砦の背後へ出現しました。
彼らはランスルブールを奪取し、砦正面から前進していた部隊の状況を好転させたのです。
ボッカラッテ山岳隊は、第59歩兵師団“カリアリ”の大隊との合流地点であるテルミニョンへ進みました。
このようにして、ボッカラッテ少佐のアルピーニは割り当てられた任務を達成したのです。

6月22日、第4軍団の第2歩兵師団“スフォルツェスカ”はBois de SestrieresとBois de Prairiaに浸透しました。
その際、カラビニエリ1個小隊といくらかのL3が行動を共にします。
彼らはモンジュネーヴルとla Crete de Chaussard を占拠したのでした。
翌23日、Chenillet砦を第26歩兵師団“アシェッタ”(第4軍団)とカラビニエリ1個小隊、戦闘工兵が奪取します。

5-6両のL3に支援された200名の国境守備隊はモン・スニへWW1形式で強襲を開始し、
ArcellinsとCima della Nundaの砦を占拠しますが、le Petit Turraで仏アルペン猟兵は伊軍を行き詰らせたのでした。

アルプスでの4日間の交戦の結果、伊第4軍の主攻部隊は21/2から11マイルの深度で進撃しましたが、
国境要塞地区のどれか一つの方角にさえ十分な深さで穴を穿つことは出来なかったのでした。
側面包囲された一部の砦と包囲された砦は、休戦協定締結後でさえ抵抗し続けました。
悪天候の為、航空機は用いられなかったのです(BR.20とSM.79が山岳要塞の爆撃を試み、失敗したとする話あり)。

○仏アルペン猟兵
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr319.gif
○3000bの戦い
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr314.gif
281名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:42:54.86 ID:???
シャベルトン山(標高3200b)の伊軍要塞には第515砲兵中隊(第8国境守備砲兵集団第34群)の8門の149/35砲が
存在し、スパルタコ・ベヴィラックア大尉指揮下の守備隊は約340名の人員を擁していました。
フェニルスの村から山頂まで14`の登山道を準備した後、要塞の建設は1898年夏に開始され1910年に完成しました。
149/35砲は装甲砲塔(装甲:前面5cm、上面2.5cm、後&側面1.5cm)に収められ、7名の砲側員を保護していました。
要塞はケーブルカーで麓と通じており、ほぼ無敵と考えられて“雲の戦艦”と呼ばれていたのです。

6月20日、149mm砲は仏軍砦に発砲しますが精度不足の為、軽微な損害を与えただけでした。
シャベルトン山頂は雲に覆われ、この気象状況は仏軍の応射の照準調整を不可能とします。
翌21日、伊軍装甲砲塔はPoet Morandに隠蔽された仏軍の280mm臼砲(ミュゲ中尉指揮)によって大損害を被ります。
この日、砲塔6基が無効となり、人員9名が戦死し50名が負傷しました。
生残砲2門は仏軍砦に対し発砲しますが、最も重要な目標のPoet Morandの280mm臼砲には応射出来ませんでした。
6月22日、7&8番砲塔は夕方まで砲撃を続けました。
翌23日、彼らは第30歩兵連隊“ピサ”(第26歩兵師団“アシェッタ”)の攻撃を支援します。
仏軍は24日まで伊軍砲塔への砲撃を続行しますが、休戦となったのでした。

○伊軍シャベルトン要塞(動画)
ttp://www.youtube.com/watch?v=0ZV3rhs1A88&feature=player_embedded
282名無し三等兵:2011/04/08(金) 19:43:35.26 ID:???
6月21日にブール・サン・モーリスへの進撃を図った山岳軍団の失敗に関しては、
2つの理由で説明出来るかもしれません。

@この方面の伊軍初期戦力は守備側よりも弱体でした。
伊軍は山岳大隊×18、山岳砲兵中隊×18と軍団砲兵中隊×12(全120門)を擁していましたが、
仏軍戦力は歩兵大隊×18、要塞地区守備隊3000名、要塞砲150門、野砲60門でした。

A最初の内、山岳部隊の運用法は要塞地区に対し正面から前進するという誤ったものでした。
山岳部隊1個の攻撃力はむしろ弱いものですが、素晴らしい機動力を有しています。
その機動のみ活用すべきなのです。
アルピーニ隊に相応しい運用方法の手本は、ボッカラッテ山岳隊だけが示しました。
彼らは仏軍の予期せぬ場所に進出したのです。
チェニスキア山岳隊はブラマネット山岳を登った後に敵を側面包囲しました。
そして、最終的に山岳軍団右翼部隊の通路は氷河の上だったのです。

このアルプス作戦での評価から、次のような結論が導き出されました。

“山中では戦車の使用と他手段での迅速なる移動は困難である。
戦術的な航空機の使用は非常に制限され、航空支援無しで山中に構築された要塞に対さねばならない。
手元の全ての部隊を最大限活用することが山岳戦の基本である。
通行不可能な山岳地では、最も困難なルートが奇襲部隊が到達する為の最も手頃なルートに度々なるのである。
そして、側面包囲の機会を得るのである。”

休戦時、伊軍の損害は戦死631名、負傷2631名(凍傷含む)、行方不明616名、
仏軍の損害は戦死42名、負傷84名、行方不明150名でした。

○40年7月8日、トラヴェルセッテ砦へ入城する伊軍
ttp://i54.tinypic.com/k1dq9h.jpg
○アルプスの麓で眠る
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr325.gif
283名無し三等兵:2011/04/08(金) 23:13:18.29 ID:???
>>281
これは凄い装甲砲塔群ですね。
良く作ったものです。
284名無し三等兵:2011/04/09(土) 04:08:19.23 ID:???
>>283
俺知ってるんだ、この砲台は飛行モードがあるんだって
その名もハウニb
285名無し三等兵:2011/04/09(土) 04:25:20.34 ID:???
>>276
ttp://digilander.libero.it/lacorsainfinita/guerra2/schede/treniarmati.htm
イタリア軍の装甲列車というのはこのページにある奴かな?
俺はイタリア語わかんないんで、かなりアバウトな翻訳しかできないが
イタリア軍の場合、列車砲の用途は移動式の沿岸防衛砲くらいかと思っていたんだが、要塞攻略にも
出動していたんだな
286名無し三等兵:2011/04/09(土) 05:06:14.43 ID:cR3k7YcM
 
第二次世界大戦は、日本の遊び半分の陰謀

http://s1.shard.jp/deer/02/3/34_3.html

ハワイ真珠湾攻撃の「年」「月」「日」の全てが、二度の蒙古襲来に合わされていた。

数百万、数千万の人類を遊び半分の動機で殺した犯罪は未来永久に許されないだろう。

しかも、戦後のA級戦犯の自殺、処刑は、全て「でっち上げ」である可能性が大きい。

とんでもない国家・政府だった。
287名無し三等兵:2011/04/09(土) 07:43:10.71 ID:???
よくイタリア軍はフランス侵攻時に殆ど前進できてなかったといわれるが
突然の参戦で部隊の兵員や装備の充足率が劣悪のまま、地形の問題から航空機や戦車の支援をまともに受けられない状態で
天然の要害であるアルプス山脈を越え、フランスのアルパイン線(イタリア側マジノ線)を突破し無ければならなってんだから
たまったもんじゃないわな
大規模な迂回突破も出来ないし
288名無し三等兵:2011/04/09(土) 09:19:27.23 ID:???
って言うか、火事場泥棒的な参戦だから、印象が良くない。
289名無し三等兵:2011/04/09(土) 10:22:59.51 ID:???
毎度ネタ投下乙
フランス軍もイタリアが相手じゃ士気が高くなるんだな
290名無し三等兵:2011/04/09(土) 11:02:54.75 ID:???
>>49続き
4時半過ぎ、監視哨から、白旗を上げた戦車の列が接近との報が入ります。
フランス兵たちが息を潜めて見守る中、一人の准尉がオートバイで出迎えに走り出しますが、
陣地と先頭戦車の中間あたりから、急反転して引き返してきました。
それを追ってくる機銃弾の土煙。やはり偽装したドイツ軍だったのです。

800ヤードまで接近した時、フランス軍対戦車砲が発砲し、2発目で先頭車を炎上させます。
ドイツ軍の2号車が応射してきますが、これもたちまち対戦車砲が沈黙させました。
停止した車列を、出撃したR35隊が側方から突き、さらに2両のドイツ戦車を撃破します。
ドイツ軍は夕闇の中に退却し、あとには4両の戦車残骸の炎が周囲を照らしていました。

翌朝、戦隊はルーアン市内に移動し、橋梁の守備につきます。
主力は北岸に布陣し、予備の装甲車2両と段列その他が南岸に置かれました。
すでに将兵の疲労は著しく、戦車長の一人は神経症で倒れ、副隊長が代わりました。
付近にはドイツ軍のオートバイ斥候が出没し、攻撃が近いことをうかがわせていました。
291名無し三等兵:2011/04/09(土) 14:39:08.54 ID:???
やっぱり偽装投降だったんか
292名無し三等兵:2011/04/09(土) 16:33:54.04 ID:???
>>280
誤訳の訂正です。

×側面包囲された一部の砦と包囲された砦は、休戦協定締結後でさえ抵抗し続けました。
○側面包囲され取り囲まれてしまった一部の砦は、休戦協定締結後でさえ抵抗し続けました。


>>285
ページ左側の一枚目の写真のものがリグーリアに展開していた装甲列車の一つです。
又、伊海軍装甲列車については、伊語ですが下記リンク先に記述があります。
ttp://digilander.libero.it/avantisavoiait/Treni%20armati%20Regia%20Marina.htm

6月22日の装甲列車の戦闘については、こちらも伊語になってしまいますが下記リンク先に投稿されています。
ttp://miles.forumcommunity.net/?t=27404045
293名無し三等兵:2011/04/10(日) 23:40:02.92 ID:???
>>276の訂正です。

「装甲列車・列車砲スレ」で、この時の伊海軍の列車は装甲列車ではなく列車砲だとのご指摘がありました。
“armored train ”又は“treni armati”の箇所は、列車の作りからいってせめて武装列車とすべきでしたが、
誤って装甲列車と記述してしまいました。
列車砲に訂正させて頂きます。
294名無し三等兵:2011/04/14(木) 10:32:05.12 ID:???
295名無し三等兵:2011/04/16(土) 10:11:07.44 ID:???
装甲列車と言うと、ソ連、ポーランド、トロッキー
というイメージなんだよな。
296名無し三等兵:2011/04/16(土) 16:47:38.12 ID:???
毎度毎度ありがとう。

>イタリアの装甲列車
こういう本が出ているのは知ってた。
と言うかイタリア語読めないのに買おうと思ってた。
ttp://www.panzerbook.com/italia/it40.htm

ところで、この列車部隊は敵艦と撃ち合うつもりだから海軍所属なのか、
それとも退役艦から外してきた砲使ったとか自前で編制したから海軍所属なのか、
一体どういう目的の部隊なんだろう。
写真見る限りあまり仰角つけて撃つようには見えないんだけど。
297名無し三等兵:2011/04/16(土) 17:06:49.66 ID:???
そういやドイツにも軍艦の名前が付いた列車砲バッテリーがあったよな
298名無し三等兵:2011/04/19(火) 00:51:52.92 ID:???
>>294
これはいいな
299名無し三等兵:2011/04/20(水) 01:19:06.72 ID:???
今週はなしか…
300名無し三等兵:2011/04/20(水) 12:07:28.77 ID:???
装甲列車関連の話って中々出ないな
301名無し三等兵:2011/04/20(水) 18:40:04.52 ID:???
イタリアの装甲列車・列車砲に関しては現在調査中
専門スレの方で盛り上がってるよ

海軍所属の列車砲は沿岸防衛部隊に配備されているから、おそらく対艦・対上陸部隊用
装甲列車は陸軍砲搭載で、パルチザン対策としてユーゴスラビアに送られてるから陸軍の管轄ではないかと思われる

何分資料が少ないから砲の特定だけで四苦八苦だわ
302名無し三等兵:2011/04/20(水) 22:21:29.58 ID:???
装甲列車・列車砲は専用スレあるしね
303名無し三等兵:2011/04/23(土) 00:13:32.39 ID:???
>>299
来週初め頃に投下を予定しています。
304名無し三等兵:2011/04/23(土) 21:18:21.14 ID:???
305名無し三等兵:2011/04/23(土) 23:35:30.03 ID:???
ここではマイナー戦車の話してくれよ
306名無し三等兵:2011/04/24(日) 06:06:07.50 ID:???
これって本物?実在したの?ってちょっと疑問で
詳しい人に見て貰いたい現地改造(?)戦車の
戦場写真が有ったんだけど、今探したら見つからない。
そのうちきっと見付けるから宜しくおねがい。
307名無し三等兵:2011/04/24(日) 12:32:00.76 ID:???
>>303
無理せずやってくんなー。

>>305
一席お願いします。
308名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:19:18.21 ID:???
【ヴィシー対アジア】

─ タイ・仏領インドシナ紛争 ─

フランスの東方での植民地の野望は、最初はインドを焦点としていましたが、
1757年のプラッシー戦の惨敗によって、インドでの夢は潰えました。
いくつかの活動(主に個々のフランス探検家)にも拘らず、
革命とナポレオン戦争の期間中、フランスは公的にはアジアに関心を示しませんでした。
しかし19世紀半ば過ぎ、インドシナでの宣教師の努力の上にフランスは植民地を獲得し、
近隣を侵食していきました。

1940年、ヴィシー政権の仏領インドシナは孤立し、帝国主義の日本と隣邦のタイ、
現地人の活動に脅威を受けていました。
興味深いことに、リベラル思想と近代革命の本家としてのフランスの立ち位置の割りに、
仏印政庁は悪質で過酷でした。
最大限の利益追求を図るゴム商人の小徒党の為に(それは勿論、仏印政庁の為でもあります)、
この地には殺人と抑圧の恐ろしい体制が打ち立てられていたのです。
軍務に就いた仏将校の中には家族の許へ葉書を送り、ベトナム農民の虐殺体の山を見せる者がいました。
そして、秘密警察は万人に恐れられていました。

現地人と混合しようと試みたのはフランス当局の一部だけで、第5外人歩兵連隊の兵士によく見られました。
第5外人歩兵連隊への配属は、軍務に長く就いたことに対する報酬と見なされ、
兵士の多くは地元の女性と結婚しました。
これは特定地域では有用なシステムで、外人部隊兵士は義理の親の村を荒らさぬ代わりに、
反政府活動に関する警告を得られたのです。
フランスはインドシナ植民地に50000名の現地&本国兵から成る部隊を擁していましたが、
これは現地人2500万名の中にいる仏市民40000名よりも多いものでした。
309名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:19:58.74 ID:???
1940年のフランス崩壊の結果、ドイツは仏本国の60lを占領しましたが、
ペタン元帥のヴィシー・フランスは、本国の残りの統治だけでなく植民地帝国を維持しました。
しかし、仏領インドシナはヴィシー・フランスから再補給面で切り離されていました。
英国は効果的に仏印を封鎖しましたが、それは戦争期間中は仏部隊の交替が不可能となり、
装備が入手出来なくなることを意味したのです。
燃料の再補充も、石油の乏しい大日本帝国がアジア地域を支配している限り、不可能でした。

ヴィシーの外交官は、アジアで“白色人種”が地歩を失う可能性を指摘し、
人種的な理由でもってドイツに訴え、インドシナへ武器装備を出荷出来るよう説得を試みました。
ドイツは日本に話すことのみ約束しました。
同じ頃、日本から“保護”する為に仏印へ進駐しようという中国の申し出を、
ヴィシー・フランスは受け流しました。
この地域の中国の領土回復主義者の主張を意識すれば、もし中国軍を引き入れたなら、
この地がこれ迄のような植民地として戻ってくるのかどうか、フランスには疑問に思えたからです。
310名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:20:39.21 ID:???
<衝撃をもたらす日本>

フランスが倒れるや、日本は仏印総督のカトルー将軍に強要を始めました。
カトルーは中国への鉄道路の遮断という要求に応じた時、即座に解任されました。
ヴィシー政府は、極東艦隊(FNEO)の忠実な司令官であるジャン・ドクー提督を仏印総督に任じました。
ドクーは日本からの途方もない要求に直面します。
それには仏印駐留権と輸送部隊の領内通行権、選択した飛行場の使用権が含まれており、
中国で戦闘中の日本師団をハイフォン港を通じて撤兵させるというものでした。
米国への助けを求める訴えは、満足に受理されませんでした。

ヴィシーは圧力に屈し、1940年8月30日に松岡・アンリ協定が成立します。
これに基づき日本軍の北部仏印への平和的進駐が認められましたが、
仏印当局は遷延策を試み、現地交渉は難航を極めました。
現地協定の成立を訝った日本陸海軍中央は武力進駐も想定しました。
これは武力進駐を期待していた日本陸軍強硬派を活気づけました。
9月22日16:30(日本時間)、進駐開始時刻(交渉期限後24時間の9月23日0:00以降)寸前に現地協定が成立します。
交渉期限は過ぎていたものの、これによって本来ならば平和的進駐に切り替えるべきでしたが、
現地日本陸軍は協定成立の知らせを握りつぶし、国境を武力突破しました。
日本軍はトンキン地方のドンダンとランソンの両市を、戦車と歩兵でもって攻撃しました。
沿岸では上陸作戦が行なわれ、ハイフォンは爆撃され、ハノイ上空を日本航空隊が繰り返し飛行します。
日本軍の攻撃は、未だに欧州人の優位性を信じて日本へ厳しい措置を講じることをしばしば語っていた、
幾人かのフランス上級将校に衝撃を与えたのでした。
311名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:21:19.84 ID:???
ドンダンは即座に陥落し、ランソンは2日後に落ちました。
多くの現地人から成る植民地部隊は、初めて経験する火砲攻撃と熟練兵による鍛錬された歩兵攻撃に押され、
打ち破られて遁走したのです。
フランス情報部は日本軍が士気阻喪していると報告しましたが、
士気が低下していたのは強圧下で崩壊した仏軍の方でした。
村人は日本軍に仏軍陣地の在り処を明らかにし、仏砲兵は仏軍陣地を砲撃し、弾薬は直ぐに尽き、
1000名以上の現地兵が脱走したのでした。

10月5日、ランソン攻撃は遺憾だが重大事ではないとする日本の声明が発せられました。
仏兵捕虜は解放されましたが、外人部隊のドイツ人200名は他の仏兵捕虜から隔離され、
10月13日に至る迄、解放されませんでした。
日本師団を追尾する中国軍は国境侵犯を数多く引き起こしましたが、
終戦時迄、仏政権は中国軍の全面侵攻を恐れていました。
仏軍は、日本軍との数日間の戦闘で800名を失ったのです。

○北部仏印進駐時、仏軍捕虜
ttp://www.ww2incolor.com/d/292680-2/C__pia+de+0+Indochina+_4_1+2
312名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:22:00.38 ID:???
<民族主義者の反乱>

ランソン陥落は、フランスの統治に殆ど即座に影響しました。
不満を抱く現地人は、アジア人の軍隊が如何に易々と白人を打ち破ったのかを目撃したのです。
南寧で第22軍(日本)と合流していたベトナム民族主義者のチャン・チュン・ラップは、
日本軍の北部仏印進駐と共に先導役として仏印領内へ入っていました。
彼はランソン地区で3000名(or1500-2000)ばかりを糾合出来ましたが、
それらの多くは日本軍に破れた現地人部隊からの脱走兵でした。
しかし、彼ら“越南復国同盟軍”は、「仏印静謐保持」方針を採る日本軍からの支援を打ち切られました。
12月3日、“平和進駐”という方法でハイフォン方面へと向かう日本軍の最後の部隊がランソンを後にし、
それと前後して、“越南復国同盟軍”は蜂起し、絶望的なハノイ進撃を開始します。
戻ってきたフランス軍は、訓練未熟な烏合の衆への対処が未だ可能であることを実演してみせ、
革命家達を迅速に山中へ追い立て、航空機と砲兵が彼らを叩きました。
チャン・チュン・ラップは待ち伏せされます。
彼自身は部下達が被った機関銃による虐殺から逃れたものの、その後すぐに捕らえられ、
12月26日にロクビン郊外で処刑されました。
ランソン西方のバクソンでは住民が蜂起し、ハノイ東方では“安南独立革命軍”が決起しましたが、
これらもフランス軍に鎮圧されました。

コーチシナとして知られていたベトナム南部では、最も危険な反乱が11月下旬に生じました。
この時はタイ軍がカンボジア国境沿いに展開し始め、コーチシナ守備隊の殆どは国境へ送られていたのです。
ミトー地区で戦闘が勃発し、仏警察は圧倒されました。
反乱はサイゴンと南部の州の多くに波及します。
カンボジアへの途上にあった外人部隊の1個大隊とトンキン植民地部隊の1個大隊が南部へ転用され、
砲兵や空軍と海軍の分遣隊の支援を受けながら、最大限の冷酷さでもって反乱を即座に鎮圧しました。
今やフランスは、タイに対処すべく部隊を西へ派遣出来ることになったのです。
313名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:22:40.88 ID:???
<タイとの戦闘>

仏印は、隣邦のタイ(1939年にシャムから国名が変わりました)で増大しつつある
軍国主義と民族主義に対処せねばなりませんでした。
ドイツがヴェルサイユ条約での失地回復に努めたように、
タイは1904年に仏植民地のラオスに割譲せざるを得なかったメコン河沿いの土地の回復を切望していました。
フランスは又、1893年にシェムリアップの広大なクメール地方、バタンバン、シソポンを、
シャムが仏領カンボジアに割譲せざるを得ないよう強要しました

英国で教育を受けたラーマ6世(イートン、クライストチャーチ[オックスフォード]、サンドハーストにて)は、
シャムの国際的地位を高めるべく1917年に連合軍に参入します。
自動車化衛生隊と航空要員(仏によって訓練されましたが、実戦参加の機会はありませんでした)から成る部隊が
西部戦線に送られましたが、大戦中のシャムの主な行動は敵性外国人の抑留にありました。
これはアジアでのドイツの活動を混乱させ、シャム政府は国内の全てのドイツ資産の占有を認められました。

シャムの最後の絶対君主はプラチャーティポック国王(ラーマ7世:1925-1935年在位)でした。
1932年、人民党の欧州留学組タイ人の立憲革命に直面した彼は、年内の憲法発布に同意します。
軍は再編され、近衛兵は削減されました。
一連のクーデターと政治危機は1935年にプラチャーティポック国王の退位を招き
(既に彼は英国へ逃亡しており、1941年5月30日の死まで同国に留まりました)、
プラチャーティポックは後継者を指名しなかったので、
議会はドイツ生まれのアーナンタマヒドン王子を新国王(ラーマ8世:1935-1946年在位)としました。
しかし、彼は10歳に満たずスイスで修学中でしたので、国王代行の摂政評議会が構成されました。
1938年12月、辞任したパホンポンパユハセーナー首相の後を受け、ピブーンソンクラーム将軍が新首相となりました。

○1933年の反乱時、バンコクの街路を警備するシャム軍ヴィッカース6t戦車
ttp://weirdwars.co.uk/bangkok.jpg
314名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:23:36.78 ID:???
この積極的な独裁者は、即座にシャムの近代化進展に着手し、
同様に推進していたタイ民族主義の高まりを重視して、1939年に国名をシャムからタイに変更しました。
この変化は1940-1941年の仏印との衝突を招いたのです。

ビルマから離れた後、19世紀にフランスがやって来る迄、タイには真の“仇敵”が存在しませんでした。
イギリスはタイから土地を掠め取りましたが、そこはタイ自身と本当に文化的繋がりがあるというわけでもない
イスラム教徒が多く住むマレー地域でした(英はビルマ方面からもサルウィン川以東に進出しています)。
しかしながら、フランスに取り上げられた地域は、少なくとも民族的・文化的にタイと見なされていました。
ピブーンソンクラームの主導する民族主義運動と共に、タイ民衆のフランスへの憎しみは煮えたぎりました。

ピブーンソンクラームの親日政権は日本の援助で大規模な再軍備を行ない、
孤立した仏植民地の弱みに付け込めることを察知し、ポイペトでの小さな国境紛争の後、
カンボジアとラオスの“タイ”地方の返還をヴィシーに求めました。
1940年10月、これら地域の返還要求をフランスが拒否した後、タイは失地回復の軍事的作戦を開始したのです。
1940年6月にタイとフランスは不可侵条約に調印していましたが、
フランス首都圏の崩壊後、その批准は出来ませんでした。
10月、ピブーンソンクラームは50000名(or60000名)を動員します(5個師団)。
タイ空軍は1930年代に100機以上の米国機を入手しており(殆どはヴォート・コルセアとカーチス・ホーク)、
日本から入手した航空機なども含め、運用可能な機は仏軍機の3倍(or2.5倍)となっていました。
タイ海軍も又、近代的な艦船を保有しており、少なくとも机上に於いては仏植民地艦隊を凌駕していました。
11月、国境での衝突が始まり、12月にタイ軍はメコンを渡河しました。
他所でも窮迫していた仏軍は、バタンバン州防衛に割く事が出来たのは14個大隊(or10個大隊)だけでした。
12月下旬、戦闘はタイ-カンボジア国境沿い全般で行われ、仏軍は圧迫されます。
日中、タイ空軍はカンボジアとラオスの都市を爆撃し、仏空軍は夜間にタイを爆撃しました。
陸上作戦を支援すべくタイ海軍がシャム湾に出撃し、仏海軍サイゴン戦隊はその捜索の為、シャム湾へ派遣されます。
315名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:24:17.22 ID:???
英植民地と仏植民地の間に挟まれていたタイは、
1940-1941年当時、その軍装備の多くに英製と仏製の物を混ぜて使用していました。
兵士はアドリアン・ヘルメットを着用していましたが(朝鮮戦争に至る迄そうでした)、
戦車は英国製を購入していました。
国土の大きさと一般的状況を考慮して、タイはカーデンロイド・タンケッテ、ヴィッカース軽戦車、
ヴィッカース6t戦車(単砲塔)、ヴィッカース水陸両用戦車から成る、かなりの規模の機甲部隊を保有していました。
しかしながら、その戦車乗員は使い古したフランス風の制服とヘルメットを所持していたようです。

・ヴィッカース6t戦車×30or18(内10両は1932年11月17日発注)
・タンケッテ×60or40
・ヴィッカース水陸両用戦車×2(1933年11月から1934年4月の間に発注)

タイは、ヴィッカース6t戦車の車台をベースとした対空車両(ポンポン砲装備)を使用していました。
『British Tanks and Fighting Vehicles 1914-1945』は、
この対空自走砲が1933年にシャムへ恐らく26両売却されたと見なしています。
シャムは後に、この車両を10両追加発注したとも言われています。

1931年、ヴィッカースはシャム向けの装甲車を特製しました。
これはモーリス2tコマーシャルの車台をベースとしており、小型の砲塔(機関銃のみ?)を備えていました。
1941年に6両が運用されていたと言われます。
又、1925年にシトロエンのハーフトラックを10両購入しました。

○タイ軍ヴィッカース6t戦車
ttp://www.encyclopediathai.org/nakornthai/book3/aircraft/history1/siam.jpg
○ヴィッカース対空自走砲
ttp://www.encyclopediathai.org/nakornthai/book3/aircraft/history1/twopound.jpg
○ヴィッカース・モーリス装甲車
ttp://www.encyclopediathai.org/nakornthai/book3/aircraft/history1/vick-mor.jpg
316名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:25:06.85 ID:???
1940-1941 タイ戦車大隊

・大隊本部(指揮戦車×1)
・戦車中隊(戦車×2)×3

1940-1941 タイ戦車連隊

・連隊本部(ヴィッカース6t指揮戦車×1、2ポンド対空自走砲×1)
・中戦車大隊×1(ヴィッカース6t戦車)
・軽戦車大隊×1(ヴィッカース軽戦車orタンケッテ)

※この資料ではハ号(1940年受領?)はこの時の紛争に参加していないとしているようです。
タイ軍のハ号(40or50両?)が実際に作戦行動したのは、太平洋戦争勃発後とするものもありますが、
不勉強でこの辺の詳細は私には分からないです。

タイ軍の小銃はシャム・モーゼル、三八式歩兵銃、リー・エンフィールド(二線部隊用)等で、
機関銃はマドセン軽機関銃×625 、“コルト”機関銃(M1917)×225(内192挺は歩兵、32挺は騎兵。残り1は?)、
ヴィッカース機関銃(空軍&戦車のみ)、ルイス機関銃(空軍のみ)を使用していました。
砲は以下のようなものでした。

迫撃砲:ブラント81mm
対戦車砲:37mm&25mm
高射砲:20mm(エリコン?)、2ポンド砲(対空自走砲からの取り外し)、ボフォース75mm(1936年6月到着。2個中隊)
砲:77mm野砲(ドイツFK16?WW1戦利品を購入?WW1前にクルップ75mm野砲×40も購入しており、これと混同の可能性)
  50mm山砲×150(二線級歩兵大隊向け。歩兵砲として使用)
  75mm山砲×240(1912年にドイツから40門、1923年?に日本から200門購入)
ボフォース75mm野砲(1936年6月に4門到着。1936年8月22日に90門追加発注[陸軍78門&海軍12門])
  ボフォース105mm榴弾砲×8(1936年6月到着)
317名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:25:47.74 ID:???
仏印の兵力は50000名で、戦車はインドシナ軽戦車中隊がFT-17を20両保有していました。
バタンバン州のヴィシー部隊は、コーチシナ・カンボジア師団からのものとカンボジア狙撃兵連隊でした。
コーチシナ(サイゴンを含むベトナム南部)には、第11植民地歩兵連隊(フランス人)、
アンナン狙撃兵連隊(ベトナム人)、“新”アンナン狙撃兵連隊(ベトナム人)、コーチシナ自動車化支隊、
第5植民地軽野砲連隊(75mm砲)が存在し、少なくともいくつかの部隊はカンボジアへ移動しました。

ヴィシーは地方反乱(コーチシナを含む)の鎮圧と日本軍への対処で手が塞がっており、
トンキン(北部地区、ハノイ周辺。第5外人歩兵連隊が駐留)やアンナン-ラオス(中部)から
多くの部隊を移動させたとは考えにくいです。
1941年1月のタイの攻撃時、バタンバン防衛に使用出来たのは14個大隊(or10個大隊)だけでした。
1月5日(そのまま訳)、タイ軍は砲撃を伴った総攻撃を発起し、仏軍陣地を爆撃しました。
タイ軍は4つの戦線をカバーしました。

@ラオス北部:タイ軍は僅かな抵抗を受けたのみで係争地を占拠
Aラオス南部:1月19日、メコン渡河
Bダングレク地区:混戦の後、後退
Cバタンバン州の植民地1号線(RC 1):激戦が生じる

植民地1号線上のタイ軍の最初の進撃は、カンボジア狙撃兵連隊によって撃退されました。
1月16日、バタンバンのヤン・ダム・クムで、タイ軍主力縦隊は仏軍の反撃に直面します。
タイ部隊はヴィッカース6t戦車を装備していましたが、仏軍は機甲戦力を欠いていました。
仏軍の反撃は次の3つから成っていました。

@ヤン・ダム・クム地区の植民地1号線で反撃
Aメコン河の島をアンナン-ラオス旅団が強襲
B海軍がシャム湾のタイ艦隊に反撃
318名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:26:28.23 ID:???
仏軍の植民地1号線沿いの攻撃衝力は、Jacomy大佐の部隊でした。
ヤン・ダム・クムでの攻撃は最初から失敗します。
強襲部隊は植民地歩兵1個大隊(本国兵)と“混合歩兵”2個大隊(本国&現地兵)から成っていました。
森は砲兵の運用を困難なものとし(又、協定で日本軍の監督下にある重火器の自由使用はままならないものでした)、
仏空軍は全く姿を現わさず、航空優勢はタイ空軍のものでした。
そして、仏軍の無線通信網は貧弱なものだったのです。
フランス軍は命令伝達にモールス符号を使用しましたが、
タイ軍が仏軍の動向を予期していたのは、恐らくこれが原因なのでしょう。

機甲部隊を欠く仏軍のヤン・ダム・クムでの攻撃は、すぐに全面後退に変わりました。
仏軍はタイ機甲部隊(いくらかのヴィッカース6t戦車)を前にして遁走します。
仏軍の完全なる敗走は、プーム・プレアウ村で食い止められました。
ここで、タイ部隊は第5外人歩兵連隊の1個大隊と遭遇したのです。
外人部隊はタイ機甲部隊の強襲によって大きな打撃を被りましたが、
25mm対戦車砲×2と75mm砲×1がタイ戦車に対して発砲しました。
第11植民地歩兵連隊の自動車化支隊が来援し、外人部隊は戦車3両を撃破し、残りを後退させました。
メコン河での仏軍の陽動攻撃は成功しましたが、この紛争に於ける最大の戦闘はシャム湾で1月17日に生じたのです。

インドシナのフランス海軍は、如何なる海外植民地と同様に重要でした。
フランス極東艦隊はインドシナと太平洋の植民地防衛の責務を担っており、
インドシナ海兵隊は河川砲艦と共に仏印領内の保安任務に当っていました。
そのささやかな戦隊は、1941-1945年の太平洋戦争では事実上存在しなかったも同然で、
日本軍の侵攻にも連合軍の封鎖にも抗することは出来ませんでした。
しかし、彼らは不名誉な最後を迎える前に、一度だけ栄誉を得たのです。
軽巡洋艦ラモット・ピケ、2隻の通報艦(デュモン・デュルヴィル、アミラル・シャルネ)、
年代物の2隻の砲艦(ツール、マルヌ)から成るフランス任務部隊は、
コーチャン島沖でタイ海軍自慢の日本製海防艦に大打撃を与え、水雷艇を撃沈するか大破させたのでした。
319名無し三等兵:2011/04/26(火) 20:27:44.58 ID:???
<その後>

状況を注視していた日本は、圧力を掛けるための強力な艦隊がメコン河口に到着するや、
停戦交渉の仲介を申し出ました。
1月28日、仮休戦が強いられましたが、サイゴン沖の名取艦上で正式な休戦協定が調印される迄、
タイは国境で挑発行為を続けました。
タイと日本の深い協同関係は、1941年5月8日にヴィシー・タイ間で東京条約が締結された際に明らかとなります。
ラオスの係争地、カンボジアのシェムリアップ州、バタンバン全域がタイに与えられたのでした。
この紛争でのフランス軍の損害は死傷321名、行方不明178名、捕虜222名で、植民地民衆への威信も喪失しました。
本国兵と装備の損失は封鎖の為、補充出来ませんでした。
意気消沈したフランス守備隊は、1945年の仏印武力処理迄、残存しました。

今や日本は、タイを通路とすればビルマとマレーに直接立ち入ることが可能となりました。
アジアの隣人としての日本との協力強化を期待していたピブーンソンクラームは、
日本は戦略的な位置以外に彼の国に関心が無いことに気付きました。
ピブーンソンクラームは日本による侵略を恐れ、後に密かに英米と接近を図ったのでした。

最終的にタイは少しばかり上手くやっていきました。
タイ領内に日本軍が進駐し、日泰攻守同盟条約を締結したタイを連合軍機は爆撃し、タイは連合国へ宣戦布告します。
戦後、攻守同盟締結は日本の強迫によるものであったとタイは主張し、旧敵国条項の対象から免れました。
双方にとって不快な事件は忘れ去られ、カンボジアとラオスの係争地はド・ゴール政府に返還されたのです。

フランス軽巡洋艦ラモット・ピケは燃料不足の為、コーチャン島沖海戦後すぐに係船状態になり、
日本軍の南部仏印進駐時に武装解除されました。
1945年1月、仏印武力処理よりも前にラモット・ピケは米艦載機に撃沈されました。
その他の艦艇は1941-1945年迄、ベトナム沿岸で輸送船団の護衛を続けました。
仏印武力処理の際、フランス艦艇は空襲、拿捕、自沈などで壊滅し、乗組員は抑留されました。
仏印植民地部隊は、日本が降伏して英軍と中国軍が到着する迄、存在しなくなったのです。
第2次世界大戦後、ド・ゴールのフランスへ植民地を戻したのは、ヴィシーの人間ではなく英国と中国でした。
320名無し三等兵:2011/04/26(火) 21:51:13.19 ID:???
仏印から日本へ、装甲車両の購入が打診されてるのな。
321名無し三等兵:2011/04/27(水) 01:42:59.15 ID:???
乙。
なんというか全体的に余裕のない国同士がどうにかしようとお互い必死にやってる感じが哀愁を漂わせるなあ。
日本も汪兆銘や満州国にもあげなかった95式軽戦車を数十両輸出して、大事にしてなかったわけではないと思うんだが…
まあ「道」的な認識はあった事は否定できんだろうなあ。
ちなみに輸出した95式は一部の装甲板にクラックが生じ、クレームがついて日本で調査が行われたが、結局原因はよくわからなかったようだ。

北部仏印進駐時に日本軍が使用した戦車は何だったんだろう。
95式軽戦車か94式軽装甲車、それとも新しい97式軽装甲車あたりかな。
322名無し三等兵:2011/04/27(水) 01:53:14.07 ID:???
戦車14連隊あたりの94式軽装甲車じゃないだろうか。
対戦車砲で2両が撃破されたようだ。
323名無し三等兵:2011/04/27(水) 21:54:37.72 ID:???
324名無し三等兵:2011/04/27(水) 23:20:03.02 ID:???
あの辺りはタイ以外皆植民地だから親日政権欲しくて援助したくなるよな。
>>316のシャム・モーゼルなんてタイ一国のためにGew98ベースにダストカバーつけたりして弾まで開発してる。
他国へは三八式の口径変えたものを輸出してるのとえらい違い。
325名無し三等兵:2011/04/27(水) 23:37:02.57 ID:???
>>323
94式軽装甲車の後期型に見える。
ルノーFTがマジで仕掛けてきたら大変だったろう。

そのニュースで、「援蒋ルート遮断に寧日無かりし我が○○部隊の精鋭は…」って言ってるようだが、
○○にミキだかミチだかが入って通称号になってるようにも聞こえる。
しかし当時の軍部隊の通称号がわからん…
歩兵第5師団は通称号「鯉」で後半に「中村部隊」として出てくるから違うだろうし、
上級部隊の南支那方面軍は「波」で違う模様。
その下の第22軍は通称号がよくわからんのだが、これのことを言っているのかなあ?

ttp://home.att.ne.jp/grape/shindo/yamamot1.htm#IndoChina
歩兵第11連隊に所属していた人の、北部仏印進駐の回想。
326名無し三等兵:2011/04/28(木) 01:33:19.60 ID:???
>>325
三木部隊だと思われる。
仏印進駐部隊である第5師団の当時の歩兵第21連隊長が、三木吉之助大佐。

もっと後の部分で「中村部隊」と言ってるように、このニュースでは通称号を使用していない。
報道ではあまり通称号は使われなかったんじゃないかな。
なお、中村ってのは第5師団長の中村明人中将のことと思われ、
厳密には「中村兵団」と用語すべきなのかもね。
327名無し三等兵:2011/04/28(木) 02:16:00.74 ID:???
>>326
あーなるほど、確かに中村部隊とか言ってるんだから指揮官名だよな…。
中村中将は北部仏印への武力駐留の責任を問われて左遷されたそうで。
328名無し三等兵:2011/04/29(金) 02:51:03.68 ID:???
マイナーと言えばT34-57って言うかT34駆逐戦車が好きだな
なんか凄く格好良い
329名無し三等兵:2011/04/29(金) 17:33:20.16 ID:???
俺はチェッコの軽戦車だな。機銃を車体と砲塔に積んだ可愛い子
スウェーデンの戦車もなかなか良い
330名無し三等兵:2011/04/29(金) 17:46:00.69 ID:???
確かにスウェーデン戦車良いな
地味に75mm積んでるし
331名無し三等兵:2011/04/29(金) 17:47:53.88 ID:???
ハンガリーの44M Tasが気になる
332名無し三等兵:2011/04/29(金) 18:51:48.67 ID:???
バレンタインMK.1の無骨な感じがよい
でも一番はA13
333名無し三等兵:2011/04/29(金) 21:52:49.95 ID:???
7TPだな。
良い戦車だと思うんだが一般的なイメージが悪いっていうか薄いっていう。
きっとポーランドには7TPや10TPがドイツの戦車部隊を撃滅する仮想戦記が…
334名無し三等兵:2011/04/29(金) 23:40:24.13 ID:???
ここでスペイン戦車が割り込み
335名無し三等兵:2011/04/30(土) 10:18:12.10 ID:???
M4

堅実な足回り、ふくよかなフォルム、おっ立った星形発動機、お惚けな顔をした砲塔防盾、何気にスタビライザ、出口のない装填手、換装した折には一皮むけた新砲塔新防盾超貫徹力ついに来ました装填手ハッチ、しかし車体はそのまま。
336名無し三等兵:2011/04/30(土) 20:53:21.58 ID:???
M3中戦車を基に開発された、カナダのラム巡航戦車とオーストラリアのセンチネル巡航戦車。
337名無し三等兵:2011/05/01(日) 00:20:38.07 ID:???
>336 アルゼンチンのNafuelもお忘れなく。というか普通そもそも知らんか。
338名無し三等兵:2011/05/01(日) 07:26:19.23 ID:???
>>337 初めて聞く戦車なので、教えてください。
339名無し三等兵:2011/05/01(日) 15:00:32.98 ID:???
>>336
センチネルの25ポンド双連はすごいな
340名無し三等兵:2011/05/01(日) 16:17:55.35 ID:???
これってどういう戦車?
ttp://img7.imageshack.us/img7/98/flakdrillingt34.jpg
341名無し三等兵:2011/05/01(日) 16:53:09.68 ID:???
独軍が鹵獲したT-34に15mm対空機関砲を搭載したものらしい
342名無し三等兵:2011/05/01(日) 17:16:36.86 ID:???
実在したのかなぁ
343名無し三等兵:2011/05/01(日) 17:52:17.83 ID:???
センチネルって、車体はM3中戦車、足回りはホチキス軽戦車、砲塔はカヴェナンダー でいいのかな?
344名無し三等兵:2011/05/01(日) 18:37:12.99 ID:???
ぜんぜんよくないです
345名無し三等兵:2011/05/01(日) 20:02:43.20 ID:???
センチネルとラムならラムの方が断然良いな
346名無し三等兵:2011/05/01(日) 23:53:40.28 ID:???
センチネルとチハならセンチネルの方が断然良いな
347名無し三等兵:2011/05/02(月) 01:00:11.70 ID:???
ラムはかなり優秀と見える。隣の国がM3に甘んじてさえいれば…
348名無し三等兵:2011/05/02(月) 08:44:21.20 ID:???
ラム巡航戦車の足回りとエンジンは、M3と一緒?
349名無し三等兵:2011/05/02(月) 09:29:29.39 ID:???
>>340の写真はフェイクっぽいな
http://henk.fox3000.com/t34/drilling/1/01.jpg
これの裏焼きに上部を書き足したみたいな。
こっちの写真の方が細部が鮮明でオリジナルらしい。
アンテナポストが左に有るのもおかしい。
他にその車両の写真があるなら見てみたいが・・・
350名無し三等兵:2011/05/02(月) 09:50:16.83 ID:???
351名無し三等兵:2011/05/02(月) 10:59:41.77 ID:???
OK、で写真のフェイクはフェイクとして
実際に存在したのかどうかが知りたいな。
プラモとかは出てるんだよな。
http://www.tracks-n-troops.eu/shop/images/kora/KRA7206.jpg
メーカーが「コラ」ってのが洒落にならんけど。
352名無し三等兵:2011/05/02(月) 12:56:54.92 ID:???
ま、有りや無しやと言われりゃ可能性は否定できんわな。
証拠として提示されるものがコラじゃ信憑性はとたんに低くなるが。

http://odkrywca.pl/forum_pics/picsforum13/m8_2cm_2.jpg
353名無し三等兵:2011/05/02(月) 22:49:40.67 ID:???
>>315
いつもあり。
6t戦車に単装40mmヴィッカーズって実在したんだなぁ。
車台が無理臭い気がしてたんだが。
時代を考えると先進的かつ強力な車両だと思う。
354名無し三等兵:2011/05/02(月) 23:30:46.95 ID:???
>>353
しかしいかんせん載っているのが信頼性などがよろしくないポンポン砲…。
ただそのあとでてきたハンガリーのニムロッドでも「先進的」と言われるから、
この時代にきちんと全周防護を施した対空自走砲は確かに先進的だ。

タイは何を想定してこの車両を購入したんだろうな?
航空戦力的には1930年代にはそれなりに優勢を確保していたようだが。
355名無し三等兵:2011/05/03(火) 00:08:38.44 ID:???
一通り揃えただけでは。
中小国はよくこういう半端な車両を買ったり、買わされたりしてるね。
356名無し三等兵:2011/05/03(火) 18:51:19.44 ID:???
確かT-34に突撃砲の戦闘室乗っけたのとか、88をそのまま乗っけたのと一緒で
「実在の架空戦車」を作ろうみたいな雑誌の特集で作られた写真だったはず
357名無し三等兵:2011/05/03(火) 22:54:20.68 ID:???
AM誌Vol.94 2007年8月号「実在しない“ホンモノ”の戦車」だな。

15ミリ3連装を積んだ所で、防空問題の解決にはならないと思うが……
358名無し三等兵:2011/05/03(火) 23:18:12.54 ID:???
試作車や一品モノの現地改造車輌までほぼモデル化しちゃったから
模型業界もそういうの出すようになったのか
359名無し三等兵:2011/05/03(火) 23:58:30.18 ID:???
そういうコラがネットに上がると
もう一人歩きは止められないからな。
能書きの読めない外人がやってるガレキ屋なんかが見れば
これは珍品とばかりに作ってしまうのかも知れんね。

ちなみにAMのNo94は手元にあって、確かにそんな特集だが
件の3連装は全く載っていない。
だからってどうでもいいけどw
360名無し三等兵:2011/05/04(水) 01:33:07.34 ID:???
>>359
まったく載ってない訳でもないようだ
コラ写真を元にしたような絵が、T-34/88の記事内にある
この作者、よほど15ミリが好きらしい。4号にも載せたいようだ
361名無し三等兵:2011/05/04(水) 03:07:14.67 ID:???
悪い。
プラモの作例としては載って無いって意味な。
そのイラストの部分の短いコメントを読むと
どうもその記事書いた奴は>>340の実車があると
完全に信じ込んでるな。
ネットでその写真見つけたのが感動物くらいの調子で書いてる。
何か他に実在した根拠を持ってるならいいけどw
362名無し三等兵:2011/05/04(水) 21:42:41.15 ID:Lhb7e90E
マウス戦車

363名無し三等兵:2011/05/05(木) 00:33:45.12 ID:???
スツーカ「いただきマウス」


実在も何も、戦地での廃品利用なんだから何でもありじゃん。w付けで喋るようなもんでも無いね
364名無し三等兵:2011/05/05(木) 00:45:36.03 ID:???
カキコがなんか凄くバカっぽい無意味さ
 ↓
>>363
365名無し三等兵:2011/05/05(木) 08:28:57.21 ID:???
現地改造品を全て把握するのは不可能に近いな。
現地品なら二号車体にPAK38載っけたのとかないかな、6t?ハーフトラックに載っけたのならあったみたいだけど。
366名無し三等兵:2011/05/05(木) 08:45:32.87 ID:???
SdKfz231にPak38なら見たことある
367名無し三等兵:2011/05/05(木) 11:48:22.63 ID:???
>>365
あったらしい。
グランドパワーの2011年3月号に写真が何枚か載っていた。
368名無し三等兵:2011/05/05(木) 14:56:01.17 ID:???
WikipediaにもマーダーIIもどきのPaK38搭載車が載ってる。
369名無し三等兵:2011/05/05(木) 15:05:30.91 ID:???
1tハーフやボルグヴァルドの車体に乗っけたのもあるよね。
370ロンメル元帥:2011/05/06(金) 18:50:32.31 ID:pKGxrmiu
アフリカ線の最初の頃、一部のフランス軍はドイツ軍に脅されて無理やり
アメリカ軍に攻撃したそうで、アメリカ陸軍パットン将軍はひどく同情した
そうで。     
        
371名無し三等兵:2011/05/06(金) 19:56:06.72 ID:???
>>370
ダウト

そもそも「アフリカ戦最初の頃」ではない。「アフリカ戦後半」の
話だし、いわゆる「トーチ作戦」が実施されてからのヴィシーフランス
とアメリカの戦闘はヴィシーフランスにとっては間違いなく「侵攻を受けた」
から「迎撃」したってだけだ
(その戦闘を避ける為にダルラン提督と水面下で交渉をしていたが、
交渉が纏まる前に作戦が実施されたのと、ダルラン提督が暗殺され
た混乱が有った、等の問題はあるが)。
372名無し三等兵:2011/05/07(土) 06:40:35.97 ID:???
>>338 親独なアルゼンチンが、アメリカ対抗でM3を元に(…っていう当たりが限界)独自に回転砲塔化して、75mm砲を積んで気を吐いたんだが、
(ただしクルップM1909野砲。砲で誰でも思うだろうけど、イスラエル初期のスクラップ再生スイスクルップ砲シャーマンとの関係は知らん)
戦争が終わって本物のM4が安く出回って、元親独国家でも普通に買えるようになったんで、12台で生産中止。
センチネルやラムくらいの知名度は求めてしかるべき戦車だと思う。これ作ったからTAMも作れたんだな。

http://en.wikipedia.org/wiki/Nahuel_%28tank%29
373名無し三等兵:2011/05/07(土) 07:23:44.22 ID:???
>>368
なんと
>>372
これはいい
374名無し三等兵:2011/05/07(土) 07:27:23.05 ID:???
まるで張りぼてのシャーマンのように見えるな
カレーの海岸に並んでそう
375名無し三等兵:2011/05/07(土) 16:47:18.22 ID:???
TAMの開発はドイツだぞ。
376名無し三等兵:2011/05/07(土) 17:45:16.28 ID:???
>>375
ttp://combat1.sakura.ne.jp/TAM.htm
ベースの開発はドイツだが、そのあと国内メーカーが結構いじくったらしい。
377名無し三等兵:2011/05/07(土) 20:28:21.25 ID:???
M3とNahuelの関係とあまり変わらないんでは、TAMの原型と量産型。
378名無し三等兵:2011/05/07(土) 20:45:14.61 ID:???
>>372
砲塔が鋳造ぽいなぁ
当時の日本より技術力上なんかな
379名無し三等兵:2011/05/07(土) 22:35:55.43 ID:???
>>377
そこまで外れてねーよ
380名無し三等兵:2011/05/07(土) 22:39:15.43 ID:???
てゆーかナヒュールは見た目を似せただけでアメリカ戦車とは
技術的な繋がりなんてものはない。
381名無し三等兵:2011/05/07(土) 23:39:45.42 ID:???
>>380
クルセイダーとセレラ・サハリアノみたいな関係だな。
382名無し三等兵:2011/05/08(日) 08:29:55.50 ID:???
>>357
>>359
前にもこの手の話題でひと悶着?あったよな
383名無し三等兵:2011/05/08(日) 09:18:16.60 ID:???
>>382
あれか、戦車を改蔵してどうのこうのっていうスレが立った奴か
700レス位までは不毛な闘いを見ていたが、結局どうなったんだアレ

>>372
なんかシャーマンとT-34とM36を足して3で割ったみたいな戦車だな
そそるぜ
384名無し三等兵:2011/05/08(日) 19:25:15.01 ID:???
>>378
アルゼンチンは20世紀初めから先進国でありました…ありました…
385名無し三等兵:2011/05/08(日) 20:46:48.09 ID:???
え?
386名無し三等兵:2011/05/09(月) 10:16:32.98 ID:???
「アルゼンチンは世界最強のド級戦艦を持っていたことがあります
 馬鹿にしてはいけません、日本はド級戦艦を一隻も持たなかったのですから」

ちなみにうそぢゃないよ(言葉遊びとして)
物差しの当て方で評価なんていくらでも変えられる。
387名無し三等兵:2011/05/09(月) 18:42:14.11 ID:???
河内級→金剛級だからド級戦艦は持ったことが無いな確かに
388名無し三等兵:2011/05/09(月) 19:55:58.30 ID:???
リバダヴィアはアーカンソーやエジンコートと並ぶ最有力弩級戦艦だしね

確かにウソじゃにゃい
389名無し三等兵:2011/05/09(月) 22:30:17.30 ID:???
>>385
社会保障とか充実してたし、
フォークランド紛争のときだって空母がいたYO!
390名無し三等兵:2011/05/09(月) 23:12:01.69 ID:???
確かフォークランド紛争の時に機動部隊同士の決戦が起こりかけてたような。
まあやったとしてWW2払い下げの空母に何が出来たやら
391名無し三等兵:2011/05/09(月) 23:42:20.87 ID:???
>>390
まあジェット機をギリギリ運用できるから、
多少の圧力にはなったんじゃないかね。
機関不調でその攻撃機が発進できなかったわけだ…
392名無し三等兵:2011/05/10(火) 23:09:08.90 ID:???
393名無し三等兵:2011/05/12(木) 19:21:01.04 ID:???
じゃあA4やシュペルエタンダールの替わりに
S2トラッカーで肉迫、雷撃を?

さすがに厳しいか…
394名無し三等兵:2011/05/12(木) 21:40:24.15 ID:???
せめてエグゾセを載せないと。トラッカーなら運用機材も載せれるだろうけど、虎の子のエグゾセをプロペラ機では使わんか。
395名無し三等兵:2011/05/13(金) 00:51:18.75 ID:???
ところでこのスレの原点に戻ったみたいな質問ですが
戦時中に日本軍に虜獲されたM4シャーマンやマチルダ2が
日本本土に持ち込まれるか、現地かその近辺で詳細に調査されて
結果が日本本土にもたらされた事はあったのでしょうか?
396名無し三等兵:2011/05/13(金) 01:43:46.75 ID:???
>>395
M3軽戦車についてはビルマ方面で作戦していた林集団(第15軍)が作成した資料アジ歴にある。
(レファレンスコード:C01000143300)
敵戦車の戦法や調査データ、対戦車火器の効果などが図入りで記されているが、
標題的に資料の形で中央に送付されたと思われる。

また原氏が講演会で捕獲したM3軽戦車について解説を加えている。
ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110002448251
上の資料では「国軍の中戦車級」とされているが、
この講演ではM3軽戦車だと形式を述べている。
また文中の表のM4はM3中戦車の誤認だろう。
397396:2011/05/13(金) 01:44:48.05 ID:???
マチルダやM4の場合、戦場で捕獲しても回収能力の不足や、
戦況が詳細な調査どころでは無いなどの問題で、
M3軽戦車クラスの調査はなされなかったのではあるまいかなあ。
このスレの前々スレにオーストラリア軍のマチルダ戦記があったが、
日本軍は放棄されたマチルダを回収できなかったようだ。

ただ『歴史群像』2010年4月号付属の『対戦車戦闘の参考(戦車関係)』の敵戦車の項目をみると、
出会ったことのないチャーチルやM1重戦車(T1重戦車)と比べて各種データが詳細なので、
最低限の調査を行い書面などで送付してはいたと思う。
398名無し三等兵:2011/05/13(金) 01:49:30.93 ID:???
M4シャーマンならビルマ方面で鹵獲出来たらタイ辺り運び込んで
結構詳細な調査出来そうだけどどうなんだろ?
399名無し三等兵:2011/05/13(金) 15:20:40.11 ID:1WY2IoP8
鹵獲シャーマンはビルマで日本が使ったよね?
400名無し三等兵:2011/05/13(金) 15:48:23.01 ID:???
400
401名無し三等兵:2011/05/14(土) 08:55:47.05 ID:???
スターリン4って性能的にはどれくらいだったんだ?
朝鮮戦争に参加したとして使い物になったの?
402名無し三等兵:2011/05/14(土) 09:38:54.09 ID:???
質問なんだけど、ビルマ方面の英国軍や国府軍に、シャーマンって配備されてたの?
403名無し三等兵:2011/05/14(土) 10:47:06.12 ID:???
>>402
英連邦の軍は使ってる
多分国府軍も使ってたような?
404名無し三等兵:2011/05/14(土) 10:54:50.13 ID:???
両方配備されてる。中国の方はアメリカで訓練受けた↓な戦車兵が乗ってる
ttp://ww2db.com/image.php?image_id=10178

>>401
試作車除けばソ連で量産された戦車の中で一番重かったらしい。トランスミッション・路外性能・速度・・いいこと書かれてる資料がない。
履帯やサスの追加の仕方はJS8(T10)で使ってるからいい叩き台になったとは思う
405名無し三等兵:2011/05/14(土) 18:12:10.12 ID:???
>>401
46tっていう結構厳しい重量制限から解放されたんで、設計に余裕があったらしい。
IS-4の後に作られたT-10もそうだけど、IS-3以降のソ連重戦車は一般に車内が広く、
一般的なソ連戦車のイメージに反して各種動作などもしやすかったようだ。

まあもちろん60tという大重量のおかげで戦略機動性は大幅に制限されるわけだが。
エンジンも750馬力だから、ドイツ戦車ほどではないけど少々物足りない。
ちなみにティーガー2は70t弱の車体に700馬力のエンジン…。
406名無し三等兵:2011/05/14(土) 19:03:39.44 ID:???
戦後のソ連重戦車の試作車輌群はドイツ戦車の鹵獲や
レンドリース戦車を実見して得られた成果が色々活かされてるみたいね
407名無し三等兵:2011/05/14(土) 19:21:32.84 ID:???
M4A3E8は、朝鮮戦争の時T34/85に対して通用したの?
408名無し三等兵:2011/05/14(土) 19:30:21.40 ID:???
>>407
状況次第かと思うが理論上は正面でも抜けると言うか
数値上は正面からだと相討ちに近いような
409名無し三等兵:2011/05/14(土) 19:40:39.43 ID:???
エレファントってベルリンでも戦ってるんだな……
90輌程度の生産なのに長持ち過ぎだろ
410名無し三等兵:2011/05/14(土) 20:20:49.21 ID:???
>>409
とにかく装甲が固いから、故障や空爆を受けさえしなければあまり損害が出ないからなあ。
問題はその故障が多かったことなんだが。
まあイタリアとかの山地に投入されて残念なことになった部隊もいるし。
411名無し三等兵:2011/05/14(土) 20:33:53.09 ID:???
イタリアに送られた連中も結構頑張ってなかったか?
412名無し三等兵:2011/05/14(土) 20:41:36.27 ID:???
>>410
イタリアに11両投入、2両全損で残9両

激戦の中稼動車両9両って報告が何度も出てるのに、何が残念なの?
東部戦線でも、故障はあまり無いみたいだし
緒戦を経験したあとの改修車は結構普通に使える車両みたいよ
413名無し三等兵:2011/05/14(土) 20:47:17.17 ID:???
イタリアに送られて生き残った連中は再び東部戦線で
お仲間に合流してんだよな?
よーやるわ
414名無し三等兵:2011/05/14(土) 20:52:18.90 ID:???
>>412
残念なことになってたのはティーガーの方だった、申し訳ない。
でもエレファントも1944年2月に11両投入され、6月には稼働車両が2両になっていたようだが。
415名無し三等兵:2011/05/14(土) 21:02:23.01 ID:???
>>414
2月に2両失って
5月稼動9両、6月に一気に消耗したらしい
416名無し三等兵:2011/05/14(土) 21:19:36.40 ID:???
しかしエレファントと比較するとイタリア戦線のティーガーの苦闘が目立つ気がする
417名無し三等兵:2011/05/14(土) 23:35:49.62 ID:???
この流れで90mm積んだセモベンテの顛末がちょっと知りたくなった。
418名無し三等兵:2011/05/15(日) 00:35:04.89 ID:???
クルセーダーとカヴェナンターってビルマに投入されてる?
419名無し三等兵:2011/05/15(日) 04:49:05.92 ID:???
確かバリクパパンのカヴェナンター改造の架橋戦車の話が前々スレあたりで出てた
420名無し三等兵:2011/05/15(日) 11:50:24.86 ID:???
>417
生産数30輌前後の内、24輌がシチリア島での戦闘に投入され、ほぼ全滅している
細かい戦果は知らん
421名無し三等兵:2011/05/15(日) 13:52:20.50 ID:???
>>418
カヴェナンター架橋戦車が1942年にビルマでオーストラリア軍により使用されたらしい。
422名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:29:08.03 ID:???
【ペルシア回廊】

1941年6月のドイツのソ連侵攻により、英国とソ連邦は同盟国となりました。
中東に於いて英国は同年5月にイラクの親枢軸政権を屈服させ、
6月にはヴィシーのシリアとレバノンへ侵攻し、これを連合国管理下に置きました。
レザー・シャー・パフラヴィーのイランは中立だったものの、ドイツ寄りでした。
アングロ・イラニアン石油会社のアーバーダーン製油所は1940年に800万dの生産を誇り、
連合国の戦争遂行努力に重要な役割を果たしていました。
英国はここがドイツの手に落ちることを危惧していました。

1940年5月、英国はイラン在住ドイツ人を約700名と見積もっており、
1941年7月29日、その数は2000〜3000名に達し、それらの多くが第五列活動に勤しんでいると報告されました。
それに加え、タイムズ特派員によると“旅行者”がイラン国内の至る処に居り、
それらの4000名は短期ビザを所持し、トルコ経由でドイツから絶えず入れ替わっているとされました。
ドイツ人顧問や技術者は、イラン縦貫鉄道、郵便部門、自動車企業、道路輸送部門の要職にあり、
軍需産業としてはテヘラン近郊のシュコダ小火器工場のようなものがありました。
テヘランラジオ局のドイツ人技術者2名は、諜報機関の重要人物として知られていました。
この潜入戦術は、僅か数週間前に最高潮に達したイラクのラシッド・アリによる親枢軸反乱を思い出させました
(実際は、ドイツ民間人は英国が思うような重要活動はしていなかったともされています)。

ソビエトにとってもイランは戦略的に重要な国でした。
独軍は着実にソ連領内を進撃しており、
ソ連が是非とも必要とするレンドリース物資を得る手段は限られていたからです。
独軍の潜水艦による攻撃と大量の流氷や沿岸の氷結は、
アルハンゲリスクやムルマンスクへの護送船団の迅速な派遣を困難なものとしていました。
イラン縦貫鉄道は、ペルシャ湾から補給物資を輸送するルートとして大変魅力的に思えました。

○イラン軍部隊を閲兵するレザー・シャー
ttp://1.bp.blogspot.com/_lJ9W1QsrvLA/S9EnsMmd0bI/AAAAAAAAAHo/ovabF-TkdBI/s640/Reza+Shah+inspects+Persian+Troops.jpg
423名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:29:48.58 ID:???
7月1日、英大使のリーダー・ブラード卿はイラン首相との会談時に、
在住ドイツ人の五分の四を国外退去させるよう求めました。
イラン政府の反応は鈍いものでした。
8月初め、イランは連合国の目的が在住ドイツ人追放だけではないことに気付きました。

8月12日、要求に応じなければ連合国は思い切った行動を取るであろうとイラン首相は悟りましたが、
誰も敢えてその点をレザー・シャーに明白には指摘しませんでした。
恐らくレザー・シャーは、最後通牒か英政府に認可されたブラード卿の提案を受け取っていたなら、
要求に応じることに同意したことでしょう。
レザー・シャーは、英国がイランに対し軍事行動を取るとは信じていませんでした。
8月25日、英国とソ連はイランへ侵攻を開始しました。

侵攻日の10:00、レザー・シャーはブラード卿とスミルノフ(ソ連大使)に対して、
戦闘行為を停止するならば1週間以内に全ドイツ人をイランから追放するであろうと語りました。
ブラードとスミルノフは彼らの本国にシャーの言を伝えることを約しました。
しかし、シャーの発言は只のパフォーマンスと受け取られ、英部隊とソ連部隊は進撃を続行しました。
424名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:30:29.19 ID:???
英軍イラク部隊(9月1日にペルシャ・イラク部隊へ改名。司令官:エドワード・クイナン中将)戦闘序列

○第10インド歩兵師団(第20インド歩兵旅団はシリア北部へ分遣され、イラン侵攻には参加せず)

○第8インド歩兵師団(第17インド歩兵旅団はシリア北部へ分遣され、イラン侵攻には参加せず)
・第18インド歩兵旅団
・第19インド歩兵旅団
・第24インド歩兵旅団(9月11日まで指揮下)
・第25インド歩兵旅団(第10インド歩兵師団から分遣)
・第13槍騎兵

○ハゼル部隊
・第2インド機甲旅団群
・英第9機甲旅団
・第21インド歩兵旅団(第10インド歩兵師団から分遣)

○第6インド歩兵師団(9月11日から)
・第27インド歩兵旅団
・第24インド歩兵旅団(第8インド歩兵師団から)
425名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:31:09.64 ID:???
イラン軍戦闘序列(1941年8月25日)

○第1近衛師団(テヘラン)
・第1歩兵連隊
・第2歩兵連隊
・第20歩兵連隊
・砲兵連隊…シュコダ105mm砲
・山砲中隊

○第2近衛師団(テヘラン)
・第6歩兵連隊
・第21歩兵連隊
・砲兵連隊…シュコダ105mm砲
・山砲中隊

○第3歩兵師団(タブリーズ)
人員8500名。1個工兵大隊含む

○第4歩兵師団 

○第5歩兵師団(クルディスタン)

○第6歩兵師団(アフヴァーズ)
426名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:31:50.19 ID:???
○第9歩兵師団(マシュハド)
・第28歩兵連隊を含む歩兵連隊×3、騎兵連隊×3、砲兵中隊×3
 砲兵中隊各々は75mm榴弾砲と105mm榴弾砲を装備

○第10歩兵師団(ゴルガーン)

○第11歩兵師団(ラシュト)
・第36歩兵連隊を含む

○第12歩兵師団(ケルマーンシャー)

○第13歩兵師団(イスファハーン)

○第15歩兵師団(アルダビール)
・第11歩兵連隊を含む2個歩兵連隊。軽トラック×20、重トラック×15を保有

○第17歩兵師団
427名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:32:30.66 ID:???
又、イランは警察部隊を保有していました。

○独立旅団×5(警察)

○独立歩兵連隊×1

○重砲連隊×1

○対空大隊×1

○武装警察部隊
・独立混成連隊×7
・混成大隊×15
428名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:33:11.15 ID:???
「イラン軍歩兵連隊」

○本部中隊
○通信・近接支援中隊
・対戦車小隊(シュコダ37mm対戦車砲×6)
・通信小隊
・迫撃砲小隊(81mm迫撃砲2門装備の分隊×3=6門)
○歩兵大隊×3(歩兵大隊=歩兵中隊×3、機関銃中隊[ブルーノ機関銃×6]×1)

※連隊全戦力
将校×68、下士官兵×2070、重機関銃×18、軽機関銃×54、81mm迫撃砲×6、37mm対戦車砲×6

「イラン軍騎兵連隊」(イラン軍は22個騎兵連隊を保有し、内3個はラクダ部隊。連隊全兵力は720騎)

○本部
○通信小隊
○サーベル中隊(4個小隊)×4
○機関銃中隊(機関銃×8)

※サーベル小隊=サーベル分隊×2、軽自動火器分隊(自動火器×4)×1
429名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:33:51.67 ID:???
「機械化独立旅団」

○旅団司令部
・スタッフカー×4、ハーレーダビッドソン自動二輪×16
○第1連隊(対空・345名)
・1個中隊(ZB vz/60 15mm機関銃を搭載した乗員6名の車種不明トラック×16)
・4個中隊(各中隊はボフォース75mm高射砲を4門装備。マーモン・へリントントラクターで牽引)
○第2連隊(装甲戦闘車両・650名)
・1個軽戦車大隊(AH-IV×50)
・1個中戦車大隊(TNH×50)
・1個装甲車大隊(マーモン・へリントンTK-5×19、アメリカン・ラフランスTK-6×14、ロールス・ロイス装甲車×4)
○第3連隊(機械化歩兵・1100名以上)
・武装トラック(指揮官1+乗員2+歩兵20)×50、ベルギー製自動二輪(ブルーノ軽機関銃装備)×50
○砲兵連隊
・6個中隊(各中隊はボフォース105mmM27×4門装備)

1:イランが受領したTNH戦車を50両ではなく26両とするものもあります

2:マーモン・へリントンTK-5は後述のTH310 ALF-Iと同一車両のようですが、
そちらではイランの入手数は12両としており、機械化旅団への装備数を19両とするこの資料と違う点があります

3:砲兵連隊のボフォース105mmM27をシュコダ105mmとするものもあります
430名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:34:32.21 ID:???
1931-41年の間、イランは300000挺以上の小銃、約6000挺の軽・重機関銃、
約350門の種々の砲を購入しました。
イラン軍は装備にペルシャ・モーゼル等、チェコ製の物を多く使用していました。
砲は以下のようなものでした。

・シュコダ100mmM14…12個中隊(48門)
・シュコダ100mmM30…18個中隊(72門)
・ボフォース75mmM1934山砲…39個中隊

・シュナイダー75mmM1909山砲…6.5個中隊(26門)
・シュナイダー75mmM1909山砲…4個中隊(16門)※何故、上と分けて記述しているのかは不明
・ロシア製75mm砲…2個中隊(8門)
・英製不明砲(18ポンド砲?)…1個中隊(4門)

・ボフォース75oM1929高射砲…11.5個中隊(46門。マーモン・へリントントラクターが牽引)
・シュコダ105mmM35を何門か(プラガ・トラクターが牽引。カスピ海沿岸防衛用)
・シュコダ37mm対戦車砲を多数
・ボフォース105mmM27×?(少なくとも24門以上)

1:イラン向けボフォース75mm高射砲のいくらか(少なくとも20門)は1939年以降は発送されず、
その多くはスウェーデン軍が1939年に引き取る

2:各砲兵連隊は山砲中隊×3、野砲中隊×1から成る

3:105mm沿岸砲はカスピ海沿岸を2群が“移動”(4個中隊以上?)
431名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:35:12.96 ID:???
イランは1924年に2人乗りの軽戦車を獲得しました。
正確な数量や型は不明ですが、恐らくそれらは8mm機関銃装備のルノーFT-17です。

その後、CKD PIの試作車1両がシャーへ寄贈されました。
結果的に彼はCKD社のAH-IVとTNHを購入することになりましたので、
この贈り物に感銘を受けたようです(高品質の為)。
イランは最初に50両(or48)のAH-IVを発注します(TNHは26両)。
この戦車を好んだイランは100-300両を追加発注しようとしましたが、
世界大戦の為、それは実現しませんでした。

※上記のAH-IVの発注数(追加予定分も含めて)をTNHのものとして記述しているものもあり、
どちらかが正しいのかは私には分からないです。

1933年、アメリカン・ラフランス社はペルシャ向けにTK-6装甲車を製造しました。
これは37mm砲1門と機関銃2挺を装備していました。
1934年、ペルシャはマーモン・へリントン社に12両の装甲車を発注しました。
これはランズヴェルク型砲塔とボフォース37mm砲を装備していました。
又、イラン軍はマーモン・へリントンCTL1とロールス・ロイス装甲車を保有していました。

○イランへ出荷前のTNH
ttp://www.network54.com/Realm/overvalwagens/persiantank2.jpg
ttp://www.network54.com/Realm/overvalwagens/persiantank3.jpg
○アメリカン・ラフランスTK-6装甲車
ttp://www.warwheels.net/images/lafranceTK6haugh.jpg
○マーモン・へリントンTH310 ALF-I
ttp://www.warwheels.net/images/MarmonHerringtonTH310haugh.JPG
ttp://www.network54.com/Realm/overvalwagens/persianarmouredcars.jpg
○マーモン・へリントンCTL1
ttp://en.valka.cz/attachments/5461/CTL-1_a.jpg
432名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:35:53.35 ID:???
8月25日払暁、英部隊とソ連部隊は同時にイランへ侵攻しましたが、
前者は西と南西から、後者は北から進撃しました。
8月12日の英情報部の報告では、イラン軍将兵の士気は甚だ低く、
戦車部隊の保守整備は劣悪で、外国人機械工は意図的なサボタージュを行っているとされました。
又、野砲弾は不足しており、補給品は古く低品質であるとも報告されました。

スリム少将指揮下のバクダートから来た第10インド歩兵師団の英部隊とインド部隊は、
カスル・シリンで国境を越え、初日に同市を奪取しました。
2日目、彼らはPai Tak峠の強力なイラン部隊の裏をかき、
4日目にイラン兵がシャーからの停戦命令を受領した時、ケルマーンシャーへ入城しました。

この方面での英軍進撃への抵抗は中途半端なものでした。
深刻な戦いが生じたのはZibiri尾根だけで、
ここではイラン軍砲兵と軽機関銃が英兵とグルカ兵へ損害を与えました。
433名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:36:33.90 ID:???
同時に南西300マイルの地点では、
ハーヴィー少将指揮下のバスラから来た第8インド歩兵師団が、
アーバーダーンとその製油所、ホラムシャハル港、海軍兵舎、停泊していた数隻の小艦艇、
重要なカスル・シェイク要塞、数隻の枢軸国商船が避難していたバンダレ・シャープール港を奪取しました。

この方面の英部隊は、スリム少将の部隊が受けた以上の猛烈な抵抗に遭遇しました。
製油所周辺では困難な市街戦が生じ、カスル・シェイク守備隊はシーク兵と槍騎兵に対して果敢に戦い、
損害を与えました。
塹壕内の戦闘でのイラン側の損失は戦死38名、負傷4名、捕虜6名でした。

海軍兵舎と艦船の奪取も又、バルチ歩兵の損失なしには達成されませんでした。
英将校1名が戦死します。
イラン側はBayendor提督が戦死しました。
彼の死は、イランと同様に英側も落胆させました。
提督は西側連合国寄りの人物としてよく知られていたからです。
しかしながら彼は、国王に全く忠実でした。
翌日、提督の軍葬が執り行われました。

スリム少将とハーヴィー少将の2つの英部隊は、
3日半の作戦中に戦死20(or22)名・負傷50(or42)名の損害を出したのです。
434名無し三等兵:2011/05/15(日) 16:37:14.66 ID:???
一方、北部ではロシア人が嬉々として協同作戦の役割をこなしていました。
トビリシから来た強力な機械化縦隊がジョルファで国境を越え、
タブリーズを通り、MianehとZenjanへ向けテヘラン道を南下します。
その間に、バクーからの他部隊がカスピ海西岸をパフラヴィーとラシュトへ南下しました。
ソ連軍はガズヴィーンを奪取します。
8月31日、同地で英軍とソ連軍は遭遇し、英指揮官とソ連指揮官は親しく協議しました。
又、ケルマーンシャー東方のセンナで、両軍の偵察分遣隊が接触していました。
カスピ東では他の赤軍3個縦隊の各々が、ゴルガーン、Bajgiran、サラフスで国境を越えていました。

イラン北部での赤軍の侵攻は、西部及び南西部での英軍の侵攻とは対照的でした。
イラン軍はソ連軍へ実質的に抵抗しなかったのです。
これは一般イラン人の大英帝国と北の隣人に対する思いが、異なっていることを示唆しました。

9月16日、レザー・シャーは息子の21歳のモハンマド・レザー・パフラヴィーへ譲位しました。
9月27日、シャーはバンダレ・アッバース港でバンドラ(4000d)に乗船し、ボンベイへ出立しました。
モーリシャス、南アフリカで亡命生活を送った彼は、1944年に亡くなりました。

今や連合国はペルシア回廊を確保しました。
ここを通じて大量のレンドリース物資がソ連へ運び込まれ、中近東の英軍にも供給されました。
ロシアへの補給品の流れを目にした時、多くのイラン人はドイツ第五列なるものに対する英国の抗議は、
イラン縦貫鉄道接収の口実であったのだと思い至ったのです。

1942年1月、イランは英国及びソ連と三国間条約を結び、1943年9月に対独宣戦布告し、連合国の一員となりました。
そして、翌々月のテヘラン会談の舞台となったのです。
435名無し三等兵:2011/05/15(日) 21:24:03.57 ID:???
>>422-434
乙です
イラン軍意外に良い装備持ってるな
436名無し三等兵:2011/05/15(日) 21:59:43.19 ID:???
>>422-434
乙です。
チェコの中戦車とか見てみたかった。

警察が重砲連隊持ってるとかどういう治安なんだ。
国内に大きい派閥争いでもあって、
軍隊とは別の武装組織が欲しかっただけなのかな?
437名無し三等兵:2011/05/16(月) 00:50:38.61 ID:???
いつもの人乙です。
パフラヴィーって昔で言うところのパーレビ国王か。しかし当時の石油利権たった十数%でも
チェコからそれだけ買えるんだなあ。
438名無し三等兵:2011/05/16(月) 08:48:14.80 ID:???
http://combat1.sakura.ne.jp/AH-4.htm
AH-IV豆戦車
俗にTNH軽戦車から38(t)軽戦車になったといわれるが
チェコ中戦車て38(t)戦車とは違うの?
439名無し三等兵:2011/05/16(月) 16:42:38.33 ID:???
チェコの中戦車ざっと調べてみた。全部試作車だった。

プラガV-8-H(制式名STvz.39) 発注されたがドイツ軍進駐で立ち消えとなる。ドイツ軍はテストしたのみ
スコダS-IIb 試験の全項目不合格。同時に試験されたV-8-Hはそれよりいくつかマシだった程度。
スコダの次作S-IIc ハンガリーがライセンス権もらってトゥラン中戦車として生まれ変わる。
タトラT-III・スコダS-III 開発中に失敗作とわかり開発中止
440名無し三等兵:2011/05/16(月) 19:06:48.14 ID:???
>>438
TNH装備部隊の“中戦車大隊”というのは原文をそのまま訳したのですが、
軽戦車に分類されるTNHを、イラン軍では中戦車と位置付けていたのか(AH-IVよりも大型ということで)、
それとも著者が便宜的に記しただけなのか、どちらの理由かは分からないです。

同様に>>316の参考資料では、タイ軍のヴィッカース6t戦車装備大隊が“中戦車大隊”と記述されています。
両国共に豆戦車装備の“軽戦車大隊”があり、
最大クラスの戦車は砲搭載型の軽戦車であるという点で共通していますが、
その辺の事情が何かしら絡んでいるのかもしれません。

余談ながら、ギリシャ軍の“Open Tank Battalion ”の“Open Tank ”はブレンガン・キャリアであったりと
(鹵獲L3は“Closed Tank”)、他にも面白い表記を目にすることがあります。
441名無し三等兵:2011/05/16(月) 21:07:56.58 ID:???
>>436
イタリアなんかも植民地や侵攻した地域に警察軍置いてるな
まぁイタリアの場合カラビニエリがあるんで違和感無いが、対パルチザン戦だったり
治安維持のための示威行為だったりで持ってるんじゃないかな?
442名無し三等兵:2011/05/16(月) 22:01:18.68 ID:???
>>434
乙です、結構良い装備だな
確かに


>>395ですがレスくれた人達有難う
最低限の調査は現地でして、その情報が程度なんですね
443名無し三等兵:2011/05/18(水) 14:35:56.11 ID:???
第二次大戦前の兵器市場の戦車部門を席巻してたのは
ガーデンロイド豆戦車シリーズ
ヴィッカース6t戦車シリーズ
チェコの35t戦車
ルノーFT軽戦車
他に何かある?
444名無し三等兵:2011/05/18(水) 14:44:53.78 ID:???
ガーデンロイドなんて無い
445名無し三等兵:2011/05/18(水) 15:32:11.51 ID:???
俺も昔、ガーデンだと思ってた。というか最初に見た資料が誤植だった罠。あとカーデンだと語呂悪いな。
446名無し三等兵:2011/05/18(水) 19:44:09.66 ID:G5A69lWL
米国とEUとの第三次世界大戦勃発を願う

http://s1.shard.jp/rabbit1/0202/4/140_4.html

その勃発を心より願っていたのが日本だったのです。
447名無し三等兵:2011/05/18(水) 20:00:37.17 ID:???
>>443
あとはマーモンヘリントンのCTLS・CTMSぐらいだな。ルノー・フィアットも少し。
ランツベルグのL60なんてもっと売れてもいいと思うんだがトーションバーで高かったんだろな。
売った先でサスをコピられたりライセンス生産希望されてるぐらいだし。
448名無し三等兵:2011/05/18(水) 20:08:49.71 ID:???
>>443
カーデンロイド系だがイタリアのCV33はたくさん売れてるな。
カーデンロイドにせずにCV33にする積極的な理由は何だろう。
密閉戦闘室と連装機銃かな?
449名無し三等兵:2011/05/18(水) 20:10:19.96 ID:???
チェコの35トン戦車ってすごいな当時としては
450名無し三等兵:2011/05/18(水) 20:27:43.40 ID:???
一番のベストセラー戦車は、
ヴィッカース6トン戦車だろう。
ポーランドでは、ライセンス生産され、ソ連では、T26軽戦車となりフィンランドで敵味方となり、中国でも敵味方で戦いと
451名無し三等兵:2011/05/18(水) 20:32:48.42 ID:???
>>449
いやトンではないだろw
それはともかくチェコスロバキアは兵器輸出国だなあ
意外にイタリアも売ってるね……
452名無し三等兵:2011/05/18(水) 20:39:20.60 ID:???
>>443
35tは輸出されてない気が…

>>449
有名な35(t)の名称はドイツ軍の呼称で、(t)はチェコ製であることを表してる。
チェコスロバキア時代はLTvz.35と呼ばれていたようだ。
453名無し三等兵:2011/05/18(水) 20:44:13.02 ID:???
俺もはじめ35トンだと思ってたw
IV号とパンターの間ぐらいでちょうどいい大きさじゃんとか思ったw
454名無し三等兵:2011/05/18(水) 20:45:05.27 ID:???
>>452
発展型はハンガリーの戦車と突撃砲に
455名無し三等兵:2011/05/18(水) 20:48:01.53 ID:???
そういやランツベルグはソ連にも売られて
軽戦車の系統に継承されてるのか
456名無し三等兵:2011/05/18(水) 21:00:30.82 ID:???
トーションバー式の足回りはKVなど重戦車に影響を与えてるしな。
457名無し三等兵:2011/05/18(水) 22:20:13.55 ID:???
まさかこんなマニアックなスレで(t)をトンだと思ってる人がいたとはいい意味で驚いた
458名無し三等兵:2011/05/18(水) 23:00:15.48 ID:???
なんで誰も>>449がジョークだと思わないのかいい意味で驚いた
459名無し三等兵:2011/05/19(木) 00:13:31.77 ID:???
はいはい。
460名無し三等兵:2011/05/19(木) 01:06:53.21 ID:???
>>458
大丈夫。俺は>>445に応えるいいボケだと思った
461名無し三等兵:2011/05/19(木) 01:33:13.83 ID:???
35トン戦車ってレスした人は布団の中で悶えてるの?
462名無し三等兵:2011/05/19(木) 05:45:36.84 ID:???
むしろこれは「チェコが領土割譲以前に対ドイツ戦に備えた35トン級中戦車を造ったらどんな仕様になるか」という挑戦状ではないか?
463名無し三等兵:2011/05/19(木) 08:13:06.81 ID:???
私も35t軽戦車や38t軽戦車をみて、この戦車は、35トン、38トンあるんだ〜と思ってました。
449さんのおかげで勇気が持てました。
チェコの頭文字ってchじゃないの?
ドイツ語だとTになるのかな〜。
464名無し三等兵:2011/05/19(木) 08:48:49.78 ID:???
TIGER1をチジャー1と読んでいた中三の俺には誰も敵うまい
465名無し三等兵:2011/05/19(木) 12:46:14.13 ID:???
>>452 ルーマニアやブルガリアにいった35t軽戦車は、輸出されたのではないの?
466名無し三等兵:2011/05/19(木) 15:03:14.21 ID:???
ルーマニアは確か輸入だった筈
丁度今回の歴史群像がオデッサ戦だし載ってるな
467名無し三等兵:2011/05/19(木) 20:32:56.22 ID:???
>>449の人弄ってごめんな
がーでんといいこれといい、そういう時期もあったなってほろ苦く
思い出しているおっさんなだけなんだ。
俺は高校の頃ヨーロッパ戦線をやりながらこの38トン戦車って
投げやりな名前だからかなんかいまひとつだなー、と思ってた。

>>462
ああ、実に見たい。後は仏伊の75mmクラスの砲積んだ中戦車とかも。

>>463
Tschechoslowakei(ちぇっほーすろわ゛かい、とかそんな感じの読み方だた)
468名無し三等兵:2011/05/19(木) 21:52:59.19 ID:???
>>465
あーR-2とか忘れてたわ。ごめんねルーマニアとチェコスロバキア(´・ω・`)

>>467
フランスにはSAu40というS35の改良型のS40の車体を利用した75mm砲搭載車があり、ドイツ軍と戦闘してる。
砲はルノーB2みたいに車体についてるけど。
469名無し三等兵:2011/05/19(木) 22:00:19.96 ID:???
そういやチェコスロバキアって一応75mm級搭載の中戦車の計画進めてたよな?
ドイツに併合されておじゃんになったが
470名無し三等兵:2011/05/19(木) 22:07:53.94 ID:???
>>467
イタリアのP40重戦車は実質75mm積んだ中戦車ジャマイカ?
471名無し三等兵:2011/05/20(金) 06:56:39.85 ID:???
チェコの75ミリ砲搭載中戦車ってとこで、ヘッツアーは駄目?(^-^)
472名無し三等兵:2011/05/20(金) 10:38:31.55 ID:???
ヘッツァーセモペンテが中戦車なら
ちょうちょとんぼも中戦車の内♪
473名無し三等兵:2011/05/20(金) 10:40:14.85 ID:0eSxhx1d
あ、『ば』が抜けた
474名無し三等兵:2011/05/20(金) 17:07:02.72 ID:???
P40って見た目は結構好き
後、あの古臭い足回り意外に地形追従性が悪くないとか聞いたがどうなんだろ?
475名無し三等兵:2011/05/20(金) 18:29:18.71 ID:???
車重が10tぐらいしかなかろうが、中戦車と言い張れば中戦車。
476名無し三等兵:2011/05/20(金) 19:38:46.71 ID:???
流れ仏陀ですが、大分前に丸で連載してた北支戦記がおもしろかった。
対戦車砲員の手記で、橋の手前に陣地を敷いて待ち伏せ、そこに何軍だったか敵の戦車部隊が突っ込んでくる。
37mm砲(多分九四式)で何台か擱座させると退いて行ったものの、兵が少ないので擱座車輛を頂くことも出来ず、夜の内に敵さんが持って帰ったと。
あとは鹵獲した装甲車を連絡に使う描写もありました。時代は30年代だろうか。
477名無し三等兵:2011/05/20(金) 20:37:59.60 ID:???
その頃の国府軍の戦車というと
CV-33、T-26、ヴィッカース6t、T号戦車
かな〜
478名無し三等兵:2011/05/20(金) 21:21:53.94 ID:???
そこら辺なら国軍の37mm速射砲で殺せるな
479名無し三等兵:2011/05/21(土) 01:10:08.79 ID:???
フランスのパンターの話しとか知ってる人いない?
480名無し三等兵:2011/05/21(土) 02:32:48.94 ID:???
確かフランスはパンターで1個連隊か2個連隊丸々編成してるよな
あの75mm砲も発展させてイスラエルとかにも渡ってるし
481名無し三等兵:2011/05/21(土) 02:37:39.65 ID:???
>>474
26tの車重に対し330馬力ディーゼルエンジン(初期タイプは420馬力ガソリンエンジン)
履帯幅も従来のイタリア戦車と比べて広く取られているから、転輪とスプリング以外の問題は余り感じさせないな
足回りに関しては開発期間短縮やライン確保のために旧式のものを拡大し使用せざるを得なかったという部分がある
イタリアにもう少し余裕があれば、L3やL6のようなトーションバーが採用されていたかもね
482名無し三等兵:2011/05/21(土) 05:04:23.22 ID:???
483名無し三等兵:2011/05/21(土) 14:30:41.63 ID:???
>>479
シュピールベルガーの『パンター戦車』ではフランスでのパンターについて4ページ記述がある。
それによると1947年時点でも第503戦車連隊の1個大隊がパンターを装備しており、
そのほかいくつかの駐屯地にパンターとヤークトパンターが保有されていたようだ。
1946年にはZFに電気式変速機を試作させたりしてたらしい。

フランス軍のパンターの評価は、
・20度以上の傾斜があると砲塔固定に支障
・車長用キューポラは便利、あと砲隊鏡が装着できる
・照準手の外部視察装置が(性能はいいけど)照準器しかないので、指揮官が捕捉した目標を照準手が探すのが大変
(でもシャーマンよりは早く捕捉できる)
・発砲反動の吸収が優秀
・機械部品の設計寿命は走行距離5000キロのはずだが、履帯と操行装置は2000から3000キロ
・変速装置は最終変速機以外は設計通りの寿命、でも最終変速機は寿命150キロ…
・エンジンの寿命は平均1000キロ、長くても1500キロ、交換に時間がかかる。だから鉄道輸送大事。
・一部の発煙弾発射装置は火災を誘発する可能性あり
・防御力はまあそこそこだけど、75mm砲弾が連続して命中すると装甲が割れる。攻撃力は優秀。

結論として
・最終変速機とエンジンの信頼性不足が戦略機動性を低下させている。
・きちんと動かすには専門能力を有する兵士が不可欠
484名無し三等兵:2011/05/21(土) 14:33:15.83 ID:???
>>482
戦車の戦後利用は色々な国で行われてるね。
ソ連だとT-34系はドーザーやトラクターとして使われたようだし、
我が国だとハ号の警察装甲車や牽引車、チハのドーザーとか。
485名無し三等兵:2011/05/21(土) 15:25:34.75 ID:???
パンターって性能と重量の割には安いよな
それともティーガーが高過ぎたのか?
486名無し三等兵:2011/05/21(土) 20:14:16.25 ID:???
>>485
IVに少し上乗せした程度の価格だったと記憶してる。安いといえば安い。
ただ、走行装置周辺をケチッたのは失敗だったと(略

>>484
T-44は銀幕スターだしな。
487名無し三等兵:2011/05/21(土) 20:16:02.94 ID:???
ブルガリア軍でのパンターの評判はどうだったのかな。
488名無し三等兵:2011/05/21(土) 23:45:34.37 ID:???
>>483
自分の記憶では「部隊編成の維持が困難」「25km走るごとにどこかが壊れる」
と、散々な評価だったと思うんだが、ソースが思い出せない。

フレンチが手抜きすぎなのか、ドイツ人が几帳面すぎなのか……
489名無し三等兵:2011/05/22(日) 00:06:17.23 ID:???
やっぱあれだね、戦場で使う道具に過ぎないんだから
壊れたり撃破されたりは当たり前。
1台で2倍3倍の敵を相手に出来る物を作ろう見たいなコンセプトって
どこかしらに無理が出るわね。
そこそこの性能で安価かつ生産性の高いものを沢山。
稼働率が50%なら倍、30%なら3倍作ろうぜ!
みたいな考え方の方が合理的なんだろうな。
まあ、状況が許せばだけどw
490名無し三等兵:2011/05/22(日) 00:07:16.63 ID:???
それは手抜きというか何か根本的に運用面でミスがあるんじゃ
ドイツ国防軍とか武装SSは何者?って話になるし
491名無し三等兵:2011/05/22(日) 00:09:32.53 ID:???
>>490>>488

>>489
まあ、無理自体はあったんでしょうね
それでもパンターの不具合は地道に解消していってたみたいですが
492名無し三等兵:2011/05/22(日) 00:13:50.17 ID:???
>>491
それでも>>483で仏軍に評価されてるのって
最終量産型のG型なんじゃね?
493名無し三等兵:2011/05/22(日) 00:23:17.88 ID:???
>>488
『パンター戦車』のフランス軍の評価で、
ドイツ軍は25km以上の長距離を自走させないようにしていたっていう報告が載ってる。
あとその報告はドイツ軍の整備部隊の働きを賞賛しているから、まあ故障が多く整備が大変だったのは確実だろう。
ドイツ軍の場合は戦争中なうえに制空権を取られて移動も大変だったから、条件がより過酷だったともいえる。

細かいところを捕捉すると
・履帯は石だらけの不整地だと勝手に切れることがあり、条件が厳しいと転輪がゆがむ可能性がある
・エンジンは6速から10速の間で走るとき特に寿命が縮む
・エンジン交換には機械下士官1名、兵士8人がクレーンまたはベルゲパンターの支援を受けても8時間かかる。武装も同じ。

最終変速機を壊さないようにするには
・不整地でのギアダウンは特に慎重に
・最終変速機のラッチを解除せずに牽引してはならない
・両側のステアリングシフトレバーを絶対に同時に操作してはならない
494名無し三等兵:2011/05/22(日) 00:39:15.19 ID:???
ドイツ軍の頑張りが異常だったのか?
しかしソ連軍も捕獲したパンターを運用したようだし……
495名無し三等兵:2011/05/22(日) 00:41:00.39 ID:???
ここまで厄介な戦車をなんで戦後の仏が戦力化したのか分からんなぁ。
まだ米英の傘もあるだろうし、国内もえらいことになってるんだから、
当面は安くて簡単に運用出来そうなシャーマン系一本で良い気がするんだけど。
国産戦車に向けたデータ取り?
496名無し三等兵:2011/05/22(日) 01:06:53.38 ID:???
>>493
サンクス。25km云々は多分そこが出所かな。

パンターは砲塔外して操縦席周辺を分解しないと変速機に手が入れられないらしいから大変そうだ。
497名無し三等兵:2011/05/22(日) 01:54:36.69 ID:???
>>494
10年くらい前にソ連軍のパンター部隊の特集本が出てたなぁ
すっかり内容を忘れたけど、うろおぼえだと、部隊の記録ではパンターの評価は高かった。
特に居住性の高さが評価されてたと書いてあった。
ただ報告書ではそんなに評価が高くなくて、上が怖くて報告書に手心を加えたんじゃないか?と推測してたなぁ。
498名無し三等兵:2011/05/22(日) 02:08:53.35 ID:???
>>497
整備やらなんやら何かにつけてマンパワーがあれば
パンターも良い戦車って話なんだろうか
499名無し三等兵:2011/05/22(日) 02:22:17.95 ID:???
趣味の自動車やバイクとか
オーナーは「特にトラブルも無い」とか普通に言うけど
小まめな点検、注意深い扱いとか、当たり前のように前提条件にしてるから
今時の乗用車基準で扱うとあっという間に故障する。

ドイツ軍の当たり前の整備と
アメリカ装備になれた自由フランス軍上がりとじゃ、根底の意識が違うんだろ。
またT34たKVも手間のかかる代物だったから
ソ連軍の前提基準はドイツ軍に近いのかもしれん。
500名無し三等兵:2011/05/22(日) 02:39:55.02 ID:???
あと戦時の捕獲品は基本員数外で使いつぶせるから、
整備とかをあんまり考慮しなくてもよかったのかもしれん。
501名無し三等兵:2011/05/22(日) 02:42:55.56 ID:???
>>499
いまいち言いたいことがわかりません
502名無し三等兵:2011/05/22(日) 03:01:15.16 ID:???
当の独軍でも可動率は相当低くなってるがね
機動性やら可動率やらを度外視しても高い攻防力を持たせなければならないほど独軍は追い詰められていたと
503名無し三等兵:2011/05/22(日) 03:37:00.35 ID:???
パンターのギア壊れとかは明らかに欠陥だわな
ハイパー欠陥のD型とかは置いといて、パンターの生産全盛期って防戦が多くなるからあんまり機動力発揮の場が少なかったのかもね
包囲されたりいよいよヤバい時は車体放棄すりゃいいし
504名無し三等兵:2011/05/22(日) 05:50:46.37 ID:???
W号のH型からJ型への「改悪」も訳がわからんな。
砲塔の動力旋回用のエンジンを廃止して
燃料タンクを増設、航続距離を伸ばしたとか・・・
時期的に長い距離を走らなくとも周囲は敵だらけ
しかも満タンにするだけのガソリンも入手難な状況下で・・・
やっぱ裏の本音は生産工数を減らして台数を増やしたかったんだろうか?
だったら突撃砲や、それこそパンターでいいのにな。
505名無し三等兵:2011/05/22(日) 07:22:27.34 ID:???
ところが手動にしたら、傾斜地での砲塔旋回速度が上がったそうな。
あと、燃料タンク増設は途中からで、簡易化がJ型生産の第一の目的。
506名無し三等兵:2011/05/22(日) 07:48:17.14 ID:???
>>504
>だったら突撃砲や、それこそパンターでいいのにな。

ヒトラーもそう考えていたんじゃなかったっけ?
507名無し三等兵:2011/05/22(日) 11:18:29.51 ID:???
あとJ型は上面装甲が増厚されてなかったか?
508名無し三等兵:2011/05/22(日) 14:51:01.70 ID:???
もう四号は限界ぎりぎりまで行っちゃってたんだろうな。
どっか装甲増やそうとすればどっか削らないとだめ、と
509名無し三等兵:2011/05/22(日) 15:06:47.33 ID:???
足回りの限界が28tくらいだったから。これ以上強化するとなると生産ラインから作り直すことになる。
510名無し三等兵:2011/05/22(日) 15:13:13.44 ID:???
>>504
工場増やさず、生産台数を落とさずに生産台数を増やすとなると工程すっとばすしかなかったんだろうなぁ。
生産車種を変えると一時的に生産台数が落ちるからねぇ。

タンクの増設は補給回数を減らすためじゃないかなぁ。
511名無し三等兵:2011/05/22(日) 15:19:46.95 ID:???
パンターの転輪を装着したT-34やSUがあったのが最近知られてきたけど
あれはそのへんにある残骸からとってきたのを無改造でそのまま付けてるの?
512名無し三等兵:2011/05/22(日) 17:12:33.12 ID:???
転輪径が合うのかな。

フィンランド軍は捕獲したT34にBTの転輪を付けてます。
いかにもフィンランド軍らしい話ですね。
513名無し三等兵:2011/05/23(月) 20:49:38.17 ID:???
>>497
ザロガっちの本では砲手の配置が不味く、狭い上に照準するときヘッドフォン外さないと砲と干渉するって書いてあった。
別の本ではバルクマンの証言として、窮屈ではなかったと書いてあったから、車長席は快適だったのかも。
514名無し三等兵:2011/05/23(月) 21:06:46.96 ID:???
たまたま見つけた画像。
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/50/a5f2a4689259221c7e90967d1b159ab7.jpg
払い下げの戦車を改造した除雪車というが、元は九五式軽戦車でOK?
515名無し三等兵:2011/05/23(月) 21:16:00.88 ID:???
>>495
アルジェリア戦争のニュース映像を見た感じだと、フランス軍の主力はシャーマンで
パンターは駆逐戦車とか重戦車の扱いだったんじゃないかなぁと。
ベトナムにもパンターを対ソ連戦車のために持っていたという話もありますし。

>>513
ソ連の戦車と比較してって話だと思います。
T-34に乗っているとパンターの車内は広く感じるでしょうね。
516名無し三等兵:2011/05/23(月) 21:25:57.91 ID:???
>>514
そうだと思う
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%BA%94%E5%BC%8F%E8%BB%BD%E6%88%A6%E8%BB%8A#.E6.88.A6.E5.BE.8C
ここにある北海道中央バスで使用された車両だろう。
517名無し三等兵:2011/05/23(月) 23:41:18.09 ID:???
97式中戦車は戦後、ブルドーザーとして活用されてますけど、95式も
こうやって使われてましたか。
518名無し三等兵:2011/05/24(火) 00:16:34.63 ID:???
>>517
前に書いた気がするけど、95式軽戦車は戦後しばらく機動隊用装甲車として使われてる。
PANZERの2011年2月号に綺麗な写真が出てるが、砲塔を撤去して箱型の上部構造物を付けてるものの、
>>514みたいな牽引車よりも元の形が保たれてるし、車内も戦車時代とそれほど違わなかったようだ。
カナダ製ガントラクターと一緒に60年代まで使われていたみたい。

なぜかwikiはこの装甲車の出典をグランドパワーにしてるが、該当刊にはそんな記述はない…。
519名無し三等兵:2011/05/25(水) 17:06:34.89 ID:???
最近いつもの語り部さん来ないね
520名無し三等兵:2011/05/25(水) 17:20:36.88 ID:???
無理せず良作を残してくれればそれでいいよ

過去ログたまに読み返すけど楽しいもんな、
語り部氏の話…あんま持ち上げすぎると気持ち悪るがられそうだが…
521名無し三等兵:2011/05/25(水) 18:29:03.05 ID:???
今度は、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア辺りがいいなあ。
522名無し三等兵:2011/05/25(水) 19:27:14.14 ID:???
情報弱者の集まり乙
523名無し三等兵:2011/05/26(木) 02:05:10.97 ID:???
ハンガリーの戦車部隊も割と好き
イタリア、ハンガリー、ルーマニアって東部戦線でも
意外な活躍をしてたりするからなあ
524名無し三等兵:2011/05/26(木) 17:16:33.89 ID:???
ルーマニア軍は、膨大な人的損失を被ったイメージしかないですね。
対ソ戦でも対独戦でも、異常に死傷者数が多い・・・
525名無し三等兵:2011/05/26(木) 18:45:48.14 ID:???
オデッサをほぼ独力で攻め落としたのは凄いが死人の数も凄い
526名無し三等兵:2011/05/26(木) 19:27:13.12 ID:???
一次大戦のオーストリアと対峙したイタリア軍も死者が半端ないよな
装備が劣った軍隊はゴリ押しでいてまう
527名無し三等兵:2011/05/27(金) 00:29:18.35 ID:???
>>525
オデッサ戦に関しては結構な兵力を海路で撤退されてるので……
528名無し三等兵:2011/05/28(土) 19:45:26.45 ID:???
オデッサ戦と言えば黒い死、海軍陸戦隊か。
スターリングラードといい、海軍は肝心の海を置いて陸戦隊と航空隊のが目立つね。
529名無し三等兵:2011/05/28(土) 20:05:11.14 ID:???
河川用舟艇も活躍している!!
530名無し三等兵:2011/05/28(土) 21:12:32.65 ID:???
ソ連のあれは「海軍歩兵」、陸戦隊とは成り立ちに大きな違いが。乗る船が無い、出港できない水兵たちが急遽歩兵となって奮戦したもの。
何しろ機関銃の弾薬箱も無かったので、みんなで弾帯を体に巻きつけて運んでいたり、歩兵としては素人のはずが大活躍。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/zamikhovskii0.html
セパストポリ戦の生き残りの人の話が興味深い。
531名無し三等兵:2011/05/28(土) 23:39:22.12 ID:???
>>530
これは駄目だ……胸が痛い。
悲惨すぎる。色んな人が、本当にあの要塞にいて、そして死んでいったんだな……

数年後にはドイツがこの苦しみを味わったんだな……
532名無し三等兵:2011/05/29(日) 00:01:44.08 ID:???
>>530
これは・・・
なんとまあ・・・
533528:2011/05/29(日) 14:42:58.42 ID:???
>>530
陸戦隊じゃなかったのか!
屈強とはいえ単なる海兵が陸であそこまで決死に、向こう見ずに戦えるんだなあ。
534名無し三等兵:2011/05/29(日) 14:48:36.16 ID:???
>>531
末期のドイツだと水兵どころか、飛行機がなくなったパイロットと整備兵の陸戦隊とか出てくるからなぁ
535名無し三等兵:2011/05/29(日) 15:37:31.95 ID:???
なぜかドイツ軍でも、空軍野戦師団は弱兵の代名詞なのに、海軍歩兵師団は精強だった。
戦いたくても船が無い、港から出られないというフラストレーションが敵に向かって爆発したのだろうか。
536名無し三等兵:2011/05/29(日) 16:28:02.97 ID:???
サロ共和国の海軍陸戦隊も強かった
537名無し三等兵:2011/05/29(日) 23:05:52.14 ID:???
日本海軍の陸戦隊は勇猛だが先走り癖が……
538名無し三等兵:2011/05/29(日) 23:22:28.92 ID:???
海兵が強いのは屈強な兵士がまだまだ残ってたからじゃないかな。
539名無し三等兵:2011/05/29(日) 23:46:10.98 ID:???
海は懲罰や縛りが陸より強い
陸の兵士は部下が銃持ってるんであんまりきつく当たるとぬっ殺されるかもしれないから
船に乗ってるやつらは、閉鎖空間だったり拳銃所持も少ないしでやりたい放題だったりしる
だから末期戦等では陸軍兵士より士気の維持や統率が執れやすかったり
540名無し三等兵:2011/05/30(月) 00:01:34.13 ID:???
精神注入棒で新兵を間違って殺しても罪に問われなかったって読んだときはさすがに異常だろと思った
541名無し三等兵:2011/05/30(月) 10:33:06.98 ID:???
じいさんが戦艦に乗ってた時、精神注入棒で毎夜やられてたんだけど、あくる日同じ新兵が居なくなってたらしい。
夜中に海に飛び込んだんでないかと。
542名無し三等兵:2011/05/30(月) 19:07:44.35 ID:???
543名無し三等兵:2011/05/31(火) 02:56:29.76 ID:???
やっぱり水泳訓練を施さないくらいのゆとりはほしいね>海軍
544名無し三等兵:2011/06/02(木) 20:23:28.09 ID:???
流れをぶった切り、第二次世界大戦前後のアイルランド戦車隊のお話。

第一次大戦後にイギリスから独立したアイルランドは戦車の導入を計画した。
記念すべき最初の戦車に選ばれたのは、ヴィッカーズMk.D中戦車だった。
このMk.D中戦車はイギリスが導入していたMk.2戦車の発展型で、
日本が購入して89式中戦車開発の参考にしたMk.C中戦車とは車長用キューポラがあることが異なるだけである。
武装として6ポンド砲を装備していたほか、車体前面と砲塔背面、そして車体両側面に機関銃を備えていた。
Mk.D中戦車は1929年に1両のみが購入され、
後述するL-60軽戦車が1935年に配備されるまで、アイルランド唯一の戦車だった。
545544:2011/06/02(木) 20:24:59.41 ID:???
購入されたMk.D中戦車は訓練やデモンストレーションに使用されていたが、
軍もさすがに戦車が1両あるだけではほとんど意味がないことに気付き、新たな戦車の購入を計画した。
財政的な問題などから購入するのは2両の軽戦車とされ、
選定の結果購入する戦車はスウェーデンのランズヴェルクL-60軽戦車に決定した。
L-60軽戦車はドイツ資本が強くなっていたランズヴェルク社が開発した軽戦車で、
20mm砲と機関銃を同軸に備えた砲塔を持ち、トーションバーサスペンションを採用するなど、当時としては先進的な軽戦車だった。
L-60は火力強化型がスウェーデンで採用されたほか、ハンガリーではトルディという名称でライセンス生産が行われた。
アイルランド軍ではL-60の武装を、同軍の装甲車で採用していたマドセンの20mm砲と機関銃とした。
2両のL-60軽戦車は1935年から36年にかけて到着し、Mk.D中戦車とともに部隊を構成してた。
546544:2011/06/02(木) 21:08:32.04 ID:???
アイルランド軍はL-60軽戦車を気に入ったらしく、ライセンス生産することも計画されたが結局実現せず、
たった3両のアイルランド戦車隊は主に対戦車訓練に用いられた。

ところが1940年、対戦車訓練中にMk.D中戦車が損傷し、修理コストの問題から廃車にされてしまった。


長文規制が厳しい…字数調整してたら連投規制に引っ掛かったorz
547544:2011/06/02(木) 21:10:08.01 ID:???
残った2両のL-60軽戦車はもう少し幸運だった。
第2次大戦後、チャーチル歩兵戦車やコメット巡航戦車が導入された後も、
L-60軽戦車は主に訓練用に使用されてきたが、1960年代に入ると次第に維持コストが高くなってきた。
同じランズヴェルク社から購入していたL-180装甲車のように、
エンジンをフォード製に変更して近代化することも計画されたが資金的な問題から実現せず、1968年には運用から外れた。
しかし2両とも解体されずに、現在まで同国の駐屯地や博物館で展示されている。

参考資料は"Afvs in Irish Service Since 1922:From the National Army to the Irish Defence Forces"
ちなみに廃車になったMk.D中戦車の砲塔はトーチカに転用されたそうな。
548名無し三等兵:2011/06/03(金) 00:44:47.73 ID:???
面白かった。Thx
アイルランドがL60入れたのは知ってたけどたった2両だったとは。
あと、マドセンの20mmって中小国御用達のイメージがあるな。
549名無し三等兵:2011/06/03(金) 02:35:00.35 ID:???
>>544-547
乙です
アイルランド物持ち良すぎですねえw


字数制限は忍法帖のgdgdで……
550名無し三等兵:2011/06/03(金) 12:23:32.79 ID:???
実戦に参加しなければ、長持ちすのでは
トルディなんか、なまじっか東部戦線に参加したもんだから
とんでもないことに
551名無し三等兵:2011/06/03(金) 17:54:51.06 ID:???
L-60軽戦車って時期を考えたらかなり先進的な軽戦車だよなあ
552名無し三等兵:2011/06/03(金) 20:04:20.60 ID:???
それを言うならヴィッカース6t戦車も
553名無し三等兵:2011/06/03(金) 20:41:54.53 ID:???
L-60は溶接構造でトーションバーサス。6t軽戦車より明らかに先進的。
554名無し三等兵:2011/06/04(土) 06:50:27.09 ID:???
おっと溶接箇所が剥離する某重装甲車の悪口はそこまでだ!
555名無し三等兵:2011/06/04(土) 08:35:05.16 ID:???
イタリアって工業生産力はともかく、技術水準や
デザインセンスみたいなものは、当時の並み以上だったと思うんだけど。
イギリスを相手に学び、ドイツを見習える立場なのに
なんであんな可愛らしい戦車ばっか作っちゃうんだろうねw
556名無し三等兵:2011/06/04(土) 08:50:53.78 ID:???
戦前の戦車王国は、粛清前のソ連。
557名無し三等兵:2011/06/04(土) 10:04:39.72 ID:???
L10からL100まで5、6種類のいい軽戦車開発してたのに
スェーデン陸軍はプラガに固執してたな
558名無し三等兵:2011/06/04(土) 18:33:04.94 ID:???
スウェーデンの仮想敵国って、今でも昔でもソ連(ロシア)?
559名無し三等兵:2011/06/05(日) 01:06:59.37 ID:???
>>555
本来、当事のイタリア王国は外征できるだけの国力が無かった。
そしてドゥーエの制空論に準じ、国土防衛型の陸海軍で本国を固め、外征型の空軍で
敵国後方の基地、生産地帯、人口密集地を爆撃して継戦能力を奪い、早期に停戦へと持ち込むというのが元々のドクトリン。
この為、イタリア戦車には狭く脆弱な本国及び近辺地域のインフラでも運用でき、
長い国土においてトラック運搬による長距離移動が容易な小型軽量な戦車が好ましい。
また小型の戦車ならば、生産能力が低く財政が厳しいイタリア王国でも取り合えず数を揃える事が出来る。
560名無し三等兵:2011/06/05(日) 01:45:07.10 ID:???
>>552
6t戦車は豆戦車より強くて程々な値段の戦車が欲しいっていう、
当時のそれなりなレベルの国の需要に合致してた気がする。

>>559
そんなこと言ってたら山がちな国で起こったスペイン内戦で、
T-26や対戦車火器にL3豆戦車が負けちゃったじゃない(´・ω・`)
561名無し三等兵:2011/06/05(日) 02:11:11.92 ID:???
>>549
せっかくだから>>547ででてきたアイルランドのL-180装甲車のお話。

独立後、イギリスから貰ったり分捕ったりした旧型装甲車を運用していたアイルランド軍だったが、
1930年代に入るとさすがに新型を導入する必要が出てきた。
当初はコストダウンを狙ってレイランド社に国産装甲車を作らせたが、
運用してみると予想外にコストと時間がかかる割に生産が遅れて需要や財政状況に対応できず、
結局外国から購入することになった。

そこでL-60軽戦車に満足していたこともあってスウェーデンのランズヴェルク社に白羽の矢が立ち、
同社のL-180装甲車が購入されることになった。
562561:2011/06/05(日) 02:20:55.02 ID:???
L-180装甲車はスウェーデンのScania-Vabis6輪トラックに装甲ボディを架装した車両で、
L-60と同様の砲塔を搭載し、武装は砲塔の20mm砲と機関銃のほか、車体前面にも機関銃を備えていた。
ちなみに上述したレイランド製装甲車も同じ砲塔を搭載している。
砲塔の武装は他の車両と同様、マドセンの20mm砲と機関銃であった。
また本車は前後に運転席があってそれぞれに運転手が配置されており、
敵に発見された場合素早く離脱することができた。

L-180装甲車は1937年3月に最初の2両が注文され、1938年初頭に到着した。
ちなみに車両価格は12000アイルランド・ポンド(おそらく2両分?)で、
補給品や無線の費用が別に900アイルランド・ポンドかかった。
一方でさらに6両が1937年10月に発注され、1939年初頭に到着した。
563561:2011/06/05(日) 02:32:40.82 ID:???
アイルランドには装甲車がさらに必要だったが、ランズヴェルク社との交渉が難航し、
追加の5両の装甲車と予備パーツが発注されたのは1939年末だった。
しかし22005アイルランド・ポンドが支払われ、輸出準備が整っていたにもかかわらず、
政治的状況の悪化からアイルランドは支払いを完全履行できず、
この最後の5両はドイツとつながりが強いスウェーデン軍に配備され、
先に支払われた代金は利子付きで1942年に払い戻された。

アイルランドに到着した8両のL-180装甲車は、第1装甲車中隊に配備された。
564名無し三等兵:2011/06/05(日) 02:37:46.87 ID:???
>>560
俺は小型軽量の方が国土の近辺で運用しやすいと書いたが
外征で、他国の戦車や対戦車砲に対抗できるなんて書いてませんけど?

ま、スペイン内戦を契機に(というか、列強の戦車の実力を実感したことで)
一応世界標準のスペック追い求めるようになるけど
565561:2011/06/05(日) 02:49:33.02 ID:???
1957年、L-180装甲車の近代化が行われた。
エンジンをフォードのV8エンジンに、マドセンの20mm砲をヒスパノ・スイザ製20mm機関砲に、
同じくマドセンの機関銃をブローニングの30口径機関銃にそれぞれ換装したのである。
この近代化改修は機関砲以外は問題なかったのだが、ヒスパノ・スイザ製機関砲は不具合が生じた。

この機関砲の標準発射速度は600発/分だったのだが、L-180で機能させるためには150発/分に速度を落さなければならなかった。
しかしこの改造の結果、装弾不良が頻発するようになったのである。
566561:2011/06/05(日) 02:53:03.54 ID:???
ともかく機械的な寿命を延ばすことには成功したL-180装甲車は、
1972年に第一線を退いたものの、1980年代半ばまでは軍にとどまっていた。

その後数両が廃車となったが、ある車両は駐屯地や博物館に展示され、
また別の車両はオランダ軍、スウェーデン軍、そしてオランダ人の好事家に引き取られていった。
現在でも8両中5両が様々な場所で余生を送っている。
567561:2011/06/05(日) 03:03:25.96 ID:???
ちなみにL-180の前に4両が生産されたレイランド装甲車も、近代化改修を受けながら3両が1980年代まで軍にとどまり、
現在でも2両がアイルランドとイギリスの博物館にそれぞれ展示されている。

ttp://bbs.2ch2.net/freedom_uploader/?m=img&q=../freedom_uploader/img/1169728249/0859.jpg
そのうちの1両、イギリスのBovington戦車博物館に展示されている車両。
なおL-180はこの車両とは運転席が逆(アイルランドは左側通行、スウェーデンは右側通行)

参考資料は>>547の本

字数制限と連投制限(´・ω・`)
568名無し三等兵:2011/06/05(日) 03:59:15.00 ID:???
>>560
山岳地形といっても自国領土と他国領土じゃ運用方法がまた違ってくるからね
同じものとして語るのはちと強引だな
569名無し三等兵:2011/06/05(日) 08:15:09.76 ID:???
>>561-563
>>564-567
乙です
アイルランドそんなもん1980年代まで維持してたのか
まあ、北アイルランドはともかくアイルランド自身には
特段切迫した脅威がなかったからなんだろうが
570名無し三等兵:2011/06/05(日) 12:01:21.56 ID:???
>>564
>>568

確かにそうだな。ごめんよ(´・ω・`)
571509:2011/06/06(月) 00:33:26.18 ID:???
>>567
>ちなみにL-180の前に4両が生産されたレイランド装甲車も、近代化改修を受けながら3両が1980年代まで軍にとどまり、
>現在でも2両がアイルランドとイギリスの博物館にそれぞれ展示されている。

ttp://bbs.2ch2.net/freedom_uploader/?m=img&q=../freedom_uploader/img/1169728249/0859.jpg
>そのうちの1両、イギリスのBovington戦車博物館に展示されている車両。
>なおL-180はこの車両とは運転席が逆(アイルランドは左側通行、スウェーデンは右側通行)

>参考資料は>>547の本

>字数制限と連投制限(´・ω・`)
572名無し三等兵:2011/06/07(火) 06:22:57.04 ID:???
ブルガリアの戦車部隊ってWW2時に活躍したんだろうか?
573名無し三等兵:2011/06/07(火) 15:57:34.08 ID:???
ブルガリア戦車部隊は、ラスカンに書いてますね。
ソビエトには宣戦布告してませんので、戦闘はありません。

ドイツはせっせと四号戦車や三突を供給してますが、それらは対独戦で使用されています。
ブルガリア-トルコ国境線に埋設された四号戦車などが大量に発見されたのは、去年だったかな?
574名無し三等兵:2011/06/08(水) 00:23:02.55 ID:???
あ、それが例のサビまみれの四号の写真か

終戦後かなんかの写真にしては綺麗だと思ったw
575名無し三等兵:2011/06/08(水) 17:32:06.27 ID:???
終戦間際のハンガリー戦線で、ソ連からブルガリアへ払い下げられた独軍AFVの写真が
数多く残ってるな
576名無し三等兵:2011/06/09(木) 12:46:19.11 ID:???
パンターとか四号駆逐戦車とか、種種雑多なドイツ軍装甲車両を使ってますね。
ブルガリアからはまだまだ車両が出てきそうだ。
577名無し三等兵:2011/06/17(金) 12:57:19.78 ID:???
トルディT保守
578名無し三等兵:2011/06/20(月) 00:10:48.65 ID:???
>>250
遅レスだが、PIATのバネはちゃんと推進力を生んでいる。
約12ポンドの推進力を与えているらしいぞ
579名無し三等兵:2011/06/23(木) 21:36:43.27 ID:???
>>578
「対戦車戦」によればスプリングは雷管を発火させる為のもののようですが。
580名無し三等兵:2011/06/23(木) 22:08:21.98 ID:???
撃発にも使うし押し出しにも使う、なんでそれじゃダメなんだか
581名無し三等兵:2011/06/24(金) 01:35:19.85 ID:Zkze/BN5
>>580が正解じゃないの?
582名無し三等兵:2011/06/24(金) 15:05:00.52 ID:???
昔からそうだと思っていたが、何故かこのスレの一名だけはバネが推進力になってない派。
583名無し三等兵:2011/06/24(金) 20:50:43.87 ID:???
はぁ・・素人ばっかりなんだね
584名無し三等兵:2011/06/24(金) 20:55:18.13 ID:2uAaIzHd
ずっと前から探してる画像があるんだけどいつの戦争、どこの国の兵隊かもわからない。
戦場で銃を抱えて泣き崩れてる兵士に上官?らしき人が怒鳴ってる画像知ってる人いない?
585名無し三等兵:2011/06/24(金) 21:06:19.41 ID:???
それをこのスレで尋ねる馬鹿って可哀想
586名無し三等兵:2011/06/24(金) 21:38:21.28 ID:???
>>584
スレチならせめてもっと手がかりを置いていけ。
探そうにも探せん。
587名無し三等兵:2011/06/24(金) 23:25:36.34 ID:Zkze/BN5
588名無し三等兵:2011/06/24(金) 23:59:39.86 ID:???
その本でいいならであごすちーにが日本語訳してる。いわく
 ただし、PIATはスピゴット迫撃砲の作動原理を用いており、
 火薬のエネルギーではなくコイル・スプリングによって擲弾
 を発射する。この発射方法では、PIAT擲弾は発射筒前部上面
 の開口部から装填される。そして、このスプリングの力に
 よってスピゴット(外装式の鋼鉄桿)が擲弾の推進薬を打ち、
 擲弾が発射筒から発射される。
この文章の見どころはたぶん「推進薬」
589名無し三等兵:2011/06/25(土) 00:09:44.70 ID:???
結局>>580か。
590名無し三等兵:2011/06/26(日) 21:52:03.56 ID:???
>>584
なんか俺もその画像が気になる
よければもっと詳しく教えてくれ
591名無し三等兵:2011/06/26(日) 22:10:58.05 ID:???
もういいって。前も画像クレやってたけど他のスレでやって
592名無し三等兵:2011/06/27(月) 00:22:20.91 ID:???
ttp://25.media.tumblr.com/tumblr_kz0xvnvX111qz7b9so1_500.jpg
これのことだったら映画「橋」の一場面。少年兵がチビってるとこ。

違ってたら以降この話題を出さず他のスレへ行くべし。
593名無し三等兵:2011/06/27(月) 00:51:33.09 ID:???
ふと思い立って調べてみると・・・

・・・PIATにめちゃくちゃな解説付けてるページがあった。あまりに酷過ぎる。
594名無し三等兵:2011/06/27(月) 00:57:46.47 ID:???
>>593
どこどこ?気になっちゃうじゃないか。紳士的に。
595名無し三等兵:2011/06/27(月) 02:27:25.42 ID:???
ググりゃすぐに出てくるよ・・・
596名無し三等兵:2011/06/27(月) 11:42:26.89 ID:???
>>592
パンツァーファウストの真後ろにいた少年兵の顔面焼けてたな
597名無し三等兵:2011/06/27(月) 15:25:20.57 ID:???
その映画で後方爆風にやられたのは少年兵じゃなくて、民家にいたそこの住人。
598名無し三等兵:2011/06/27(月) 18:59:29.49 ID:???
ttp://homepage3.nifty.com/gun45/piat.htm

ここかな?まぁ知らない人が見たらロケット弾使ってると思っちゃうかもしれないけど。
599名無し三等兵:2011/06/27(月) 19:28:18.08 ID:???
それは無理やり翻訳って感じのページなので文体は微妙だが
書いてる事はあまり問題は、って言い出しといてなんだがやめとこうぜ
いたたまれない気持ちになる
600579:2011/06/27(月) 21:57:15.17 ID:???
>>582
私は>>251氏ではないので少なくとも1名じゃないですね。ジョン・ウィークスの「対戦車戦」の記述によれば
「発射の時は引鉄を引くとスプリングが撃針を前方にはじき、これが弾体についている雷管を発火させる。
こうして発射された弾丸は撃針を吹きもどすと同時に目標に向けて飛び出す。
爆圧が撃針をスプリングの方に押しもどすと、引鉄を撃発状態にもどす。」
601579:2011/06/27(月) 21:58:59.23 ID:???
とありスプリングの力が弾丸の推進に寄与しているようには読めないのです。単に説明が端折られているだけなのかもしれませんが。
 スプリングの力は確かに90kgとそれなりに高いのですが、この説明を読む限りでは機構としては擲弾発射に伴う反動を吸収するのが主たる目的なのではないかと考えていました。
素人計算ですが恐らく反動をほぼ半減できたのではないでしょうか。
 
602名無し三等兵:2011/06/27(月) 22:10:05.81 ID:???
雷管を叩くロッドが何mmめり込むのか知らんが、弾頭はトレーに乗ってるだけなんだから、雷管を叩いたら多少なり前に押されるでしょ
603名無し三等兵:2011/06/27(月) 22:14:43.46 ID:???
どうでもいいが251は「両方の力」だろ
604名無し三等兵:2011/06/27(月) 22:48:11.86 ID:???
>>603
海外の掲示板の書き込みとか調べてみたが、メインは火薬だけど、スピガットの力だけでも10〜15フィートは飛ぶって書いてあったよ。
605名無し三等兵:2011/06/28(火) 00:29:31.13 ID:???
だから「両方の力」なんだろ。
606名無し三等兵:2011/06/28(火) 13:40:21.06 ID:???
スレの流れが英国面に墜ちるとヤバくなる典型だな
607名無し三等兵:2011/06/28(火) 14:31:49.71 ID:???
10〜15ftって子供が投げるゴムまりより飛ばないじゃん
608名無し三等兵:2011/06/28(火) 20:02:30.11 ID:???
かといって火薬だけだと反動が全部射手の肩にくる。バネの力が射出・点火・反動吸収をほとんど同時にやってるのか。
609名無し三等兵:2011/06/28(火) 22:01:25.40 ID:???
>>606
スレ的に巡航戦車・歩兵戦車的な意味で落ちて欲しい。
いつもの人の巡航戦車の話とか面白かった。
610名無し三等兵:2011/06/29(水) 00:54:48.08 ID:???
カヴェナンターを少数北アフリカに持っていったのは何だったんだろう?
パーツ取りかな?ナイルまで後退したらこれに乗せるぞって言う脅しとか?w
611名無し三等兵:2011/06/29(水) 01:09:19.84 ID:???
>>610
一応仕えるかどうかテストしたんじゃね?
なんたってイギリスが誇る新鋭巡航戦車だし、
もし首尾よく活躍できれば見た目のカッコよさから大人気間違いなし!
612名無し三等兵:2011/06/29(水) 02:55:08.70 ID:???
当時スバリストは存在しなかったが、水平対向の魅力は時代と場所を問わないということだなww
613名無し三等兵:2011/06/30(木) 11:08:03.28 ID:???
http://www.youtube.com/watch?v=8QJhuxQnO7A&feature=youtube_gdata_player
これマジンガーZのOPなんだかど
出てくる戦車、W号戦車じゃない?
614名無し三等兵:2011/06/30(木) 11:20:18.08 ID:???
>>613
有名じゃない。
615名無し三等兵:2011/06/30(木) 23:26:19.65 ID:???
>>613
勢い余って敵が持ち上げてる味方の戦車まで壊してしまうお茶目なマジンガーさん
616:2011/06/30(木) 23:52:27.40 ID:???
ナチスドイツの人口が69000000人。ホロコーストの被害者が11000000人。大日本帝国の人口が97000000人。
617名無し三等兵:2011/07/06(水) 20:47:39.66 ID:???
ネタなし・・・
618名無し三等兵:2011/08/02(火) 21:14:27.81 ID:???
もうすぐ1ヶ月
619名無し三等兵:2011/08/04(木) 22:47:57.51 ID:???
開戦当初、ハワイにもM3軽戦車が配備されてたんだね。
メモリアルのパンフレットにホノルル市内を警らする写真が載ってたよ。
620名無し三等兵:2011/08/04(木) 23:24:46.46 ID:???
語り部…何処に…
621名無し三等兵:2011/08/07(日) 13:40:41.72 ID:???
2chは全員が語り部なのであって、情報クレクレは本意にあらず。
勉強だ勉強
622名無し三等兵:2011/08/10(水) 08:53:14.43 ID:???
スレが細分化されたのもあるんじゃない?
アメリカ車両やフランス戦車のスレがあるし。
ところでソ連のT-26は、各国に輸出されたのにBTシリーズは、されてないのは何でだろう?
623名無し三等兵:2011/08/10(水) 12:13:15.82 ID:???
あの語り部さんは格別だったよ

楽しく、でも楽しませ過ぎず、語るんだよ
軍ヲタが「えっ!?そうなの?」なとこは淡々と、割と知られてるとこで楽しく、
美味く話しを盛り立てるんだよな

ちょっとドキュメンタリー番組の直訳みたいな文体も逆に面白いし

まぁ、あんまり褒めすぎると本当に来なくなりそうだからこの辺にするけど…


BT高かったのかね?
それとも戦略、政治上のなんかがあったのか?

ほとんどの国は歩兵直協のトロい戦車で十分と思われてたとか?
624名無し三等兵:2011/08/10(水) 12:33:21.54 ID:???
>>622
歩兵支援戦車の方が、輸出対象国の運用に合致してたからでは?
625名無し三等兵:2011/08/10(水) 12:49:51.49 ID:???
そうなのかな。結局BT戦車が他国で使用されたのって、フィンランドで捕獲されたのを使用
というのしかないんだよな。
スペイン内戦で置き去りにされたソ連製車両って、フランコ軍に使われたりしなかった?
626名無し三等兵:2011/08/10(水) 12:55:45.13 ID:???
>>625
あんま聞かないよな。
スペインに送られたのは、T-26が281両、BT-5が50両か。
627名無し三等兵:2011/08/10(水) 14:53:42.98 ID:???
スペイン軍の装備で聞くのは、ルノーFTぐらいだしね。
628名無し三等兵:2011/08/10(水) 17:35:01.12 ID:???
>>625
T-26は数を送った分大量に捕獲されて、1号戦車やL3しかなくて、対戦車能力が貧弱だったフランコ側の機甲戦力を補ってる。
1号戦車装備部隊だと、後期になるとT-26と1号戦車が1対2位の割合で装備されてたようだ。

BT-5も捕獲はしてるようだが、数が少ないためか余り話が出てこないね。

>>627
スペイン内戦開始時、スペイン軍は十数両のルノーFTのほかに、数両のシュナイダーと1両のフィアット3000を保有してた。
あとは国産車としてトゥルビア戦車なんて言うのも何両か持ってた。
629名無し三等兵:2011/08/10(水) 18:02:03.62 ID:???
>>628
数両のシュナイダー!?
630名無し三等兵:2011/08/10(水) 18:25:12.12 ID:???
631名無し三等兵:2011/08/10(水) 23:28:03.50 ID:???
>>630
鹵獲したもののうち、T-26は39台、BT-5は4台使ってたとあるな。
632名無し三等兵:2011/08/11(木) 06:05:35.76 ID:???
T号戦車に、対戦車戦闘能力を付ける為
イタリア製の20ミリ砲を載せたとあるが、良くあんな小さい砲塔に、載せる余裕があったな〜と思う。
633名無し三等兵:2011/08/11(木) 08:21:59.21 ID:???
>>629
シュナイダーCA1、あの第一次大戦のシャールダソーを使ってたw
634名無し三等兵:2011/08/11(木) 08:27:43.56 ID:???
Dionisio Garciaの本とか、いろいろ情報が載ってそうだけど
スペイン語じゃなぁ…
635名無し三等兵:2011/08/11(木) 10:48:16.65 ID:???
シュナイダー戦車を見ると、カブトムシを思い出す。
636名無し三等兵:2011/08/13(土) 16:50:22.84 ID:WsIQ9AFX
今、原乙未生の講演内容を読んでるんだが、今の観点からしたらいろいろ間違っててワロチ。

なんだよ最大速度80km/hのT-34って……
637名無し三等兵:2011/08/13(土) 16:56:47.30 ID:???
装輪走行可能ならいけるかもしれんなw
638名無し三等兵:2011/08/13(土) 17:10:25.66 ID:???
戦時中の本読んでると、情報が不十分だからいろいろ間違ってるのが多いな
639名無し三等兵:2011/08/13(土) 18:31:57.34 ID:???
BT-7辺りだとキャタピラーなしで、72Km/hじゃなかった?
640名無し三等兵:2011/08/13(土) 19:28:44.49 ID:???
多砲塔戦車だと思ってたらしいしな>T-34
641名無し三等兵:2011/08/13(土) 23:08:58.57 ID:???
それって、T-35のこと?
642名無し三等兵:2011/08/13(土) 23:32:47.29 ID:???
T-28の次の中戦車だからそうなるとか考えてたんじゃねーかなと
643名無し三等兵:2011/08/14(日) 07:00:05.31 ID:???
644名無し三等兵:2011/08/14(日) 15:10:09.36 ID:???
T-28とT-35の間だからとかか
645名無し三等兵:2011/08/14(日) 20:55:15.52 ID:???
>>643
何か好きだなこれ。
小砲塔山砲にしたりとかして欲しいな。
重量的にもガサ的にも小砲塔邪魔なのは分かるけど浪漫。
646名無し三等兵:2011/08/14(日) 21:51:43.30 ID:???
>>634
スペイン内戦の戦車でお勧めなのは
オスプレイの"Spanish Civil War Tanks: The Proving Ground for Blitzkrieg"
手ごろにまとまってるし参考文献も充実。
647名無し三等兵:2011/08/14(日) 22:41:01.52 ID:???
>>646
それ、この前買った。
俺的にはイマイチだったわ。
648名無し三等兵:2011/08/15(月) 00:02:09.49 ID:???
>>647
そうかー(´・ω・`)
文章だけでなく写真も図もそれなりに充実してて良いかなあと思ったんだが。
649名無し三等兵:2011/08/15(月) 00:13:55.17 ID:???
>>648
部隊編制と作戦運用をビジュアルで見せてよ、って思た
650名無し三等兵:2011/08/15(月) 00:52:18.47 ID:???
>>649
なるほど。文章で満足してたわ(´・ω・`)
まああの薄い本でスペイン内戦全部とその考察まで扱うから紙幅が足りなかったんだろう。
日本の戦車を扱った時もそんな感じだったし。

スペイン内戦でそういう解説をしてるのは、
オスプレイだとキャンペーンシリーズで出てるエブロ川の戦いなんかは比較的部隊行動とかを図示してるね。
651名無し三等兵:2011/08/15(月) 02:44:54.66 ID:???
話投下したいけど戦車兵よもやま話の丸コピになっちまう。皆もう見てるだろうし…
652名無し三等兵:2011/08/15(月) 06:59:10.96 ID:???
イタリアは、スペイン内戦の戦訓は、どうとらえたの?ドイツは良い方に持っていき電撃戦に
ソ連は悪い方に取り戦車万能主義になったが
653名無し三等兵:2011/08/15(月) 09:57:50.07 ID:???
戦車万能主義?

イタリアはタンケッテがまともな戦闘では使い物にならんと改めて認識。
投入した試作8t戦車は好評だった為、後のM11/39からM13/40へとレールが繋がる。
654名無し三等兵:2011/08/15(月) 14:40:05.10 ID:???
戦車に限らず、第一次大戦後の戦間期の話は日本のふつうの雑誌とかにはあまり掲載されないよね
655名無し三等兵:2011/08/15(月) 14:41:05.71 ID:???
「普通の雑誌」といっても軍事関係の雑誌のことだが。念のため
656名無し三等兵:2011/08/15(月) 20:07:27.31 ID:???
日中間の話はよく目にするけど、他はロシア内戦とか、スペイン内乱、エチオピア侵攻くらい?
つかさすがに調べてる人が少ないんじゃないか。
657名無し三等兵:2011/08/15(月) 21:01:07.04 ID:???
>>656
戦間期に戦車が投入された戦いとしては
・ロシア内戦
・中ソ紛争(1929年に満州で勃発した中華民国とソ連の紛争。ソ連側がT-18軽戦車を投入。)
・満州事変(日本はルノーFT、ルノーNCを投入。中華民国はルノーFTを保有。その後の熱河作戦では89式戦車、92式重装甲車を日本が投入)
・チャコ戦争(1932年から38年までつづいたボリビアとパラグアイの戦争。ボリビアがヴィッカース6t戦車を数両投入)
・エチオピア侵攻(イタリア・エチオピア双方がイタリア製戦車を投入。)
・スペイン内戦
・日中戦争

>>653
スペイン内戦前後のイタリア戦車開発については前スレで書いてる人がいたね。

>>632
20mm載せるために砲塔の高さが延ばされてる。
658名無し三等兵:2011/08/15(月) 21:03:18.88 ID:???
チャコ戦争は戦車戦があったよね。
659名無し三等兵:2011/08/15(月) 22:15:28.12 ID:???
>>654
あのあたりの少ない予算で軍が如何なる将来を目指すかとかの
方向付けとか技術の歩みとか結構楽しいんだけどな。
雑誌も売らないとならないし、直接的な戦争でないと
興味引けないんじゃないかと。
戦間期の政治経済とかから攻めるしかない。
660名無し三等兵:2011/08/15(月) 22:54:55.00 ID:???
スペインがモロッコの反乱鎮圧に戦車繰り出してるね
ルノーFT中隊がベルベル人に襲撃されて、2両が放棄されたそうな
661名無し三等兵:2011/08/15(月) 23:04:20.14 ID:???
>>660
おおそうだ、すっかり忘れてた。
スペイン軍はルノーFTの戦車型のほかに無線搭載の指揮車型も投入してたね。

当時植民地で勤務してたフランコは、戦車の働きを評価したそうだ。
662名無し三等兵:2011/08/15(月) 23:13:31.87 ID:???
あとポーランド・ソビエト戦争もあったな…。
装甲列車とルノーFTを組み合わせて運用する戦術が用いられてる。

あとは国共内戦あたりにもルノーFTがいそう。
663名無し募集中。。。:2011/08/15(月) 23:20:15.91 ID:???
>>657
あと「サヌーシー戦争」(リビア現住遊牧民を主体とするサヌーシー教団の
抵抗と、それに対するイタリアの鎮圧。映画「砂漠のライオン」の話)
イタリア軍が戦車(CV33,L5/21?)・装甲車(ランチア)を投入してる。
特にグラツィアーニが指揮したクフラ攻略はプレプチ電撃戦だった。
664名無し三等兵:2011/08/15(月) 23:46:04.18 ID:???
戦いとは言いがたいが、アメリカでボーナス・アーミーを軍が弾圧した時にパットンの戦車隊が出動してるね。映像の世紀で見た。
665名無し三等兵:2011/08/16(火) 01:27:41.28 ID:???
>>657
ノモンハンもぎりぎり戦間期では
間というより前夜で終わった頃にはWW2始まってるけど
666名無し三等兵:2011/08/16(火) 01:48:39.63 ID:???
スペイン内戦と並ぶWW2前夜祭だな。
タイ仏印戦争・冬戦争あたりは協賛イベントってところか。
667名無し三等兵:2011/08/16(火) 02:22:23.94 ID:???
>>662
ソポ戦争は作戦術の発展という意味でも大きいんだよね。
ガムランから1940年のドイツのフランス侵攻にもつながってるし。
668名無し三等兵:2011/08/16(火) 02:50:21.60 ID:???
第一次上海事変は市街戦における装輪装甲戦闘車両の価値と言う点で、興味深いね。
669名無し三等兵:2011/08/16(火) 09:46:57.84 ID:???
ソ連-ポーランド戦争と言えば、トハチェスキー粛清の伏線というのもある。
670名無し三等兵:2011/08/17(水) 05:47:18.67 ID:???
2.26事件で戦車は投入されたのかな?

あと、満州国軍やタイ軍の認識マークが描かれた95式軽戦車か97式中戦車の写真は存在しないのだろうか。または国共内戦時の国民党軍や共産党軍バージョン。戦闘機の隼は見た気がするがさすがに戦車はないか。
671名無し三等兵:2011/08/17(水) 13:04:38.91 ID:???
共産党勝利パレードに97改他が出てたね。
あとは戦後増加装甲張り付けた仏印軍仕様の95式とか。仏印軍は正式な装備が届くまで日本の遺棄装備を使ってる。
672名無し募集中。。。:2011/08/17(水) 22:02:56.89 ID:???
>>671
増加装甲95式は仏印軍仕様ではないよ
日本軍の部隊改造車を接収して使っていたもの。
673名無し三等兵:2011/08/17(水) 23:07:14.81 ID:???
>>670 2.26なら出てる。NHKの「ブラタモリ」の六本木回で、2.26で出動した八九式戦車の写真が紹介されとった。昔の軍都だからね。
(その軍都が占領軍に接収されて米軍人が出入りするようになったのを相手に発展したのが、今の六本木繁華街の起こりだったりする)
674名無し三等兵:2011/08/18(木) 02:23:24.92 ID:???
>>670
97式中戦車は輸出されてない。

タイ軍の95式軽戦車は写真もあるし、現物も残ってる。
昔の写真を見ると日本陸軍風の雲形迷彩(熱地仕様のほう?)に見える。

満州国軍は94式軽装甲車と雑多な装輪装甲車しか持ってない。
94式軽装甲車の写真は、乗車歩兵と演習中のものが残ってる。
675名無し募集中。。。:2011/08/18(木) 21:31:04.21 ID:???
>>673
あと92式重装甲車や91式広軌牽引車とかね。
676名無し三等兵:2011/08/19(金) 00:14:39.45 ID:???
226事件の時、習志野の化学戦教導部隊が装甲撒毒車で突入し、
くしゃみガス撒いて制圧する計画もあったようだ。

>>673
これ、226事件の時の鎮圧部隊の戦闘行動要図で、戦車も書かれてるね。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/February_29_map_1936.jpg
677名無し三等兵:2011/08/19(金) 00:22:22.22 ID:???
野戦重砲兵第一連隊の三八式15榴も投入予定で、
緑弾も用意してたみたいだね。
678名無し三等兵:2011/08/19(金) 02:22:54.43 ID:???
広義の暴動鎮圧と考えれば催涙ガスってのはアリだが
場所が場所なだけに流れガスに気をつけないとなあww
679名無し三等兵:2011/08/19(金) 10:28:48.83 ID:???
本土決戦があったら日本中の残存車両を富士山の頂上に集めて、東京制圧後に長野に向かう連合軍が無警戒で富士山麓を通過してる時に、その全ての車両が一斉に山を滑り転がり降りて連合軍に襲い掛かる姿を見たかった。
680名無し三等兵:2011/08/21(日) 01:32:23.68 ID:???
ベルギーの装甲車両は厳めしいぃぃい!
681名無し三等兵:2011/08/21(日) 09:45:38.53 ID:CKzCN0b2
第二次世界大戦の敵国の重要人物と歴史

http://s1.shard.jp/rabbit1/0204/43/289_2.html

驚くべきことが、数々出てきた。

( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p033.html )
682名無し三等兵:2011/08/21(日) 11:31:55.35 ID:???
読む価値の無い電波サイト
683名無し三等兵:2011/08/21(日) 12:10:45.90 ID:???
徳川家康の誕生日に生まれて同じ日に死んだだけで徳川家康の直系にされてしまうパーシバルにクソワロタ
んじゃ俺は重巡那智の生まれ変わりだなw
684名無し三等兵:2011/08/21(日) 21:35:08.57 ID:???
>>670
ttp://www.youtube.com/watch?v=uf-6ff2B0yg
例えばこの動画には国共内戦で使われたチハとかが出てくる。
他にも調べればハ号とかが出てくる奴もあったはず。

戦中の輸出・供与バージョンについては
『もう一つの陸軍兵器史』が詳しい。
今まで出てるの以外だと、汪兆銘政府が九四式軽装甲車を保有してた。

>>679
光景を想像して吹いてしまったw
685名無し三等兵:2011/08/21(日) 22:02:43.22 ID:???
色々調べてたら、戦後の国共内戦ではこんな兵器が使われたそうで。
ttp://media.photobucket.com/image/china%20civil%20war%20tank/sunlijen/China%20-%20Civil%20War/WT20_p079s.jpg
チハの砲塔を撤去し、75mmクラスの火砲を戦闘室付きで搭載したもの。
ttp://forum.axishistory.com/viewtopic.php?f=101&t=158499
ここでは94式山砲じゃないかと言われている。
686名無し三等兵:2011/08/22(月) 17:32:36.41 ID:???
>>685
これは面白い形をしてますね。
残留日本戦車兵たちの力作かな。
687名無し三等兵:2011/08/24(水) 01:28:24.13 ID:???
国共内戦、インドシナ、インドネシアでは国軍のAFV大活躍で誇らしい……のかなぁ?
688名無し三等兵:2011/08/24(水) 01:56:57.62 ID:???
>>663
ムフタール刑死が1931年で、リビア完全平定が1932年でしょ
Fiat3000は投入されたみたいだけど、CV33はまだ実戦配備されてない時期じゃない?
689名無し三等兵:2011/08/24(水) 02:10:31.63 ID:???
CV29かな?
690名無し三等兵:2011/08/24(水) 02:58:22.79 ID:???
資料ではCV29の生産数は21輌、リビアには使用テスト目的で1932年2月に2輌が送られている。とある
リビアにおける機動戦の主力は装甲車の方だったんじゃないかな

グラッツィアーニの場合、エチオピアでの機動戦の方がより電撃戦に近いものだったように思う
エチオピア軍によって要塞化された町コラへを空爆と機甲部隊による迂回包囲行動で陥落しているしね
691名無し三等兵:2011/08/24(水) 04:27:54.69 ID:???
サヌーシー戦争と今のリビア騒乱……
692名無し三等兵:2011/08/26(金) 17:15:02.53 ID:???
グラッィアーニって、日本では、知る人ぞ知るって感じで、過小評価されてるよね。
693名無し三等兵:2011/08/26(金) 20:36:38.69 ID:???
砂漠のライオンとは誰あろうかの御仁なのにな
694名無し三等兵:2011/08/26(金) 20:48:15.01 ID:???
開戦劈頭、日本軍がタイに上陸した時の小戦闘で戦車は参加してないのだろうか?

オン・サン率いるビルマ義勇軍が反旗を翻した時に戦車は参加してないのだろうか?

明号作戦で仏印軍の掃討をした時に戦車は参加してないのだろうか?
695名無し募集中。。。:2011/08/26(金) 22:45:11.32 ID:???
>>692>>693
グラツィアーニはWWIIのエジプト侵攻時の消極ぶりとその後の第10軍壊滅
による最悪評価が有名だからね。
エチオピア戦争はおろかサヌーシー戦争なんて日本では名前すら知られて
ない状況だから・・・
696名無し三等兵:2011/08/27(土) 09:28:44.82 ID:???
>>695
俺たちはイタリア人じゃねーんだから、んなマイナーな歴史は知る必要ねーだろ
知ってても何の得もねーし自慢にもならねーよ
697名無し三等兵:2011/08/27(土) 09:49:21.36 ID:???
お前、このスレ見る必要無くね?
698名無し三等兵:2011/08/27(土) 10:40:03.23 ID:???
>>694
タイ上陸に関しては、戦車第1連隊第3中隊がシンゴラ上陸の第一派に混じってて、
少なくとも先鋒小隊がタイ国軍との戦闘にも加入している。
寺本弘「戦車隊よもやま物語」が、当該小隊長の回想。

ビルマ国軍反乱の頃には、日本軍に戦車はほとんど残っていなかったが、
下のブログによると騎兵第55連隊の戦車中隊が、警備任務に参加してるそうだ。
ちなみに、その後、進撃してきた英軍の戦車隊と交戦して壊滅してるようだ。
http://yamanekobunko.blog52.fc2.com/blog-entry-308.html

明号作戦では、日仏両軍が戦車を出撃させてる。
日本側では、捜索第2連隊や捜索第4連隊、独立混成第70旅団戦車隊が、
89式中戦車や95式軽戦車、軽装甲車などを装備して参加。
仏印軍も、ルノーFT-17を1個中隊持っていて、ランソン兵営などで交戦。
699名無し三等兵:2011/08/27(土) 13:43:48.93 ID:???
あと、シンゴラ・パタニには捜索第5連隊が上陸してるけど、
軽装甲車の揚陸は遅れ気味で、タイ軍との戦闘には参加してないんじゃないかと思われる。
乗車中隊(自動車化騎兵)の方はタイ軍を撃破して武装解除、自転車・自動車を徴発してる。
700名無し三等兵:2011/08/27(土) 16:02:39.51 ID:???
>>965
第二次大戦時にしても、消極的というよりは、堅実なだけだしね
前の語り部さんの書き込みにあったけど、英軍の戦力を過大評価していたとはいえ、当時の戦力じゃ砂漠超えすら厳しいわけだし、あれ以上を望むのも酷だわ
701名無し三等兵:2011/08/27(土) 21:42:05.54 ID:???
日本帝国陸軍で、戦車将軍と言えば だれ?
702名無し三等兵:2011/08/27(土) 22:10:45.59 ID:???
実戦指揮官ではないが、吉田悳(中将・陸士20・陸大29)あたり?
騎兵監ながら伝統を捨てて騎兵機械化を推進し、戦車兵と騎兵の統合→機甲兵科創設の立役者

実戦指揮官で戦闘時将官だった人だと、重見伊三雄(少将・陸士27)が一番有名?
第一次上海事変(当時:独立戦車第2中隊長)以来の歴戦指揮官で、
戦車第2師団の戦車第3旅団長として1945年ルソン島にて、自ら戦車に乗車しての戦闘で戦死。
703名無し三等兵:2011/08/27(土) 22:13:34.32 ID:???
ああ、重見は死後中将。
704名無し三等兵:2011/08/28(日) 00:06:55.18 ID:???
重見旅団長は米軍側の資料が出てきてから再評価されたんだっけ?
705名無し三等兵:2011/08/28(日) 00:32:23.39 ID:???
多分に技術畑だけれど原乙未生。一応は戦車連隊長にもなってる。
706名無し三等兵:2011/08/29(月) 20:25:14.59 ID:???
ノモンハンに虎の子の戦車部隊を送ったのは、何の為?ソ連の戦車部隊と戦う為なら、数が少ないし、少数しか送れないなら、送らない方が良いと思うんだが
張峰峽でも戦車なしで戦えたんだから。
707名無し三等兵:2011/08/29(月) 20:27:38.01 ID:???
すみません。張皷峰です。
708名無し三等兵:2011/08/29(月) 20:37:29.95 ID:???
>>706
「牛刀主義」の関東軍は「少数」とは考えていなかっただろう。
709名無し三等兵:2011/08/29(月) 21:05:51.91 ID:???
地形がだいぶ違うし、対処方針も違うし、担当軍も違う。

張鼓峰事件は名前のとおり山地での戦闘で、
戦車が使いにくいし、歩兵が砲撃に耐えられる。
ノモンハンは目標物が無くて困るだだっ広い平原で、機甲戦向き。

張鼓峰事件はひたすら不拡大方針で現地師団だけで対応、
停戦協定後に係争地に再侵入されても黙ってたくらい。
ノモンハン事件では、侵入部隊を包囲殲滅する意図。

張鼓峰事件は朝鮮軍の管轄下で、そもそも戦車を持ってない。
ノモンハン事件は関東軍の管轄下で、1個戦車団持ってた。
710名無し三等兵:2011/08/30(火) 01:26:10.47 ID:???
関東軍では、ソ連戦車に関して、どのくらい情報を持っていたのだろう?
良く言われる、搭載砲の差とか
それとも戦車部隊は、粛清直後だから烏合の衆だと思ってたのかな?
711名無し三等兵:2011/08/30(火) 01:51:46.09 ID:???
>>710
ノモンハンの前の上海戦の報告書に
九五式軽戦車には失望した
BTみたいなのが欲しかったって書かれる位には把握してたっぽい。
712名無し三等兵:2011/08/30(火) 02:30:39.64 ID:???
T-26は張鼓峰事件で鹵獲してるね。
713名無し三等兵:2011/08/30(火) 03:28:52.45 ID:???
>>711
そもそもあの可愛いwミニ戦車は産まれた時から疎まれていた可哀想な子で……
714名無し三等兵:2011/08/30(火) 04:50:28.17 ID:???
戦車じゃなくて高速自走狙撃砲としておけばよかった。
715名無し三等兵:2011/08/30(火) 06:01:39.86 ID:???
いや、遊園地で子供用の乗り物にしておけば良かった
716名無し三等兵:2011/08/30(火) 10:07:56.64 ID:???
ノモンハンの時の主力戦車って、八九式戦車じゃなかった?
717名無し三等兵:2011/08/30(火) 14:25:27.43 ID:???
>>716
戦車第三連隊は2個中隊編成
本部に八九式中戦車2両、軽装甲車2両
どちらの中隊も八九式中戦車10両、九七式中戦車2両、軽装甲車5両の比較的大型の編成
その他段列に予備車両として八九式中戦車4両、軽装甲車3両

計 中戦車30、軽装甲車15

戦車第四連隊は5個中隊編成
本部に九五式軽戦車3両
第一〜第四中隊は九五式軽戦車9両
第五中隊は八九式中戦車(甲)8両、軽装甲車2両
他に段列に予備車両として九五式軽戦車5両

計 中戦車8、軽戦車44、軽装甲車2

合計
八九式中戦車(甲) 8
八九式中戦車(乙) 26
九七式中戦車    4
九五式軽戦車    44
九四式軽装甲車  15

というわけで参加兵力としては似たようなものだが、第三連隊が一日で壊滅して後方に下がってるから
第四連隊の九五式軽戦車が主力と言い切って間違いない

ソースはここ>ttp://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage68.html

損害表見ると九七式軽装甲車4両も第三連隊に居たようだね
718名無し三等兵:2011/08/30(火) 17:10:35.39 ID:???
>>714
BTみたいに速度命にしないと軽戦車の意味無いよって
日本の戦車将校が書いてるんだ
719名無し三等兵:2011/08/30(火) 18:05:17.40 ID:???
仕方ないっちゃ仕方ないんだけど九五式はノモンハンの時点で時代遅れだったからね
速度は遅い、装甲は薄い、砲は貧弱、メリットは三人乗りだからタンケッテよりは偵察任務向きってことくらい
(しかしその任務には隠密性と速度に決定的に欠けるという厄介な一面も……)

しかし速度命の軽戦車は九八式/二式軽戦車の登場を待たねばならんのであった
 ってそれは1943年になっちゃうんだけどね……はぁ……
720名無し三等兵:2011/08/30(火) 18:12:12.10 ID:???
98式/2式軽戦車程度ならノモンハン時点で量産化してるか、量産化目前にして欲しかった……
721名無し三等兵:2011/08/30(火) 18:19:41.57 ID:???
>>718
95式は「装甲薄くして速くしろよ!」っていう騎兵系と
「装甲厚くして支援しやすくしろよ!」っていう歩兵系が衝突した結果、
騎兵よりに寄った妥協の産物だからな…。

歩兵系の要求を容れて出来たのがチハ。
722名無し三等兵:2011/08/30(火) 21:04:37.54 ID:???
司馬遼太郎が乗ったのは、九五式戦車?
723名無し三等兵:2011/08/30(火) 21:27:24.92 ID:???
>>722
あの人は戦車第十九・第一連隊所属でチハとチヌだったはず。
『歴史と視点』(ttp://www.amazon.co.jp/dp/4101152268)っていう本にエピソードが45ページくらいでまとまってる。
旧軍憎しになって筆が滑ってるところも結構あるが、有名なやすり云々のほかにも、
チヌの砲塔の電動旋回がアバウトで照準の微調整が大変だったとか、
伝聞だが終戦後の中国での戦車引き渡しのエピソードとかそういう話も書いてる。
724名無し三等兵:2011/08/31(水) 00:23:24.13 ID:???
クックスのノモンハン読んでて戦車を機動部隊として使うためには
送受信可能な無線機が必要だと痛感した。
予定地点に殆ど集結できてなくて壊滅したと思っちゃった連隊長が
腹切るの覚悟したとか。
地形的に位置特定が難しくて、何処走ってんだか分からなくても
無線機あれば少なくとも無事は確認出来る。

>>706
敵情をそこまで精査して考慮して判断していたとはちょっと思えない。
725名無し三等兵:2011/08/31(水) 01:40:33.10 ID:???
>>724
迷子になった戦車第4連隊のハ号は指揮官車両にしか無線機無かったんだっけ?
726名無し三等兵:2011/08/31(水) 04:22:34.17 ID:???
ソ連軍なんか基本的に全て隊長車にしか無線機ないがな
727名無し三等兵:2011/08/31(水) 12:10:32.54 ID:???
まだ手旗信号か指揮車以外は受信専門の通信機がポピュラーな時代だな。
同じ頃ドイツ人は超短波送受信機どころか車内インターコムまで整備した戦車作ってるから恐ろしい
728名無し三等兵:2011/08/31(水) 13:41:43.47 ID:???
>>727
でもボロ負けしたら意味がない
729名無し三等兵:2011/08/31(水) 20:37:51.42 ID:???
アメリカがレンドリースで沢山無線機送ってくれた品
730名無し三等兵:2011/08/31(水) 22:31:19.50 ID:???
ノモンハンのソ連軍は指揮官車にしか無線がない代わり、対空識別旗とか発煙弾の利用とかで陸と空の意思疎通にかなりの工夫をこらしてたとか、
大学の図書館にあった「軍事史学」で昔読んだぞ。日本軍この手の工夫が足らないって論調だったが。
731名無し三等兵:2011/08/31(水) 23:13:35.00 ID:???
T-34の初期型には砲塔のデカい一枚ハッチの上に、手旗/信号弾打ち上げ用の小さな丸いハッチが付いてる。
戦闘時にハッチを閉じたまま車内から簡易だけれど連絡を取れるよう、無線が無いなら無いなりの工夫が面白い。
732名無し三等兵:2011/08/31(水) 23:26:16.04 ID:???
>>730
空と陸との意思疎通か…
家にある「モスクワ大攻防戦」の中で印象に残ってるシーンがあって、
司令官が「機械化軍団の攻撃を支援し、ドイツ軍を攻撃しろ」っていう上からの命令を持ってくるんだけど、
空軍の将校が「無理です」って言って、何でだと怒る司令官に
「部隊の航空機は再編時にわずか数か所に集中させられ、ドイツ軍に偵察された」
「今日1日で航空機528機が地上で破壊され、もう航空機は一機もありません」と言い放ち、
「もう機械化軍団に攻撃命令出しちゃったよ…」と呆然とする司令官をしり目に部屋に引っ込み自殺する。
そして機械化軍団の攻撃は敵の航空攻撃で頓挫する。

>>731
あの小ハッチってそのためのものだったのか
733名無し三等兵:2011/09/01(木) 13:33:17.24 ID:???
その頃のルフトバッフェって冬に凍った軍用機とばす方法知らなかったから
寒くなると役に立たないんだよな
734名無し三等兵:2011/09/01(木) 13:52:21.31 ID:???
ドイツ空軍は過大評価されてるだけで実際はショボくて弱かったからなぁ。
735名無し三等兵:2011/09/01(木) 21:32:55.72 ID:???
>>733
独ソ戦2日目の話だからおk
つーかこれが実話だったのかもわからんけど。
736名無し三等兵:2011/09/02(金) 10:07:20.40 ID:???
空地協同が、システム化されてたのは、米軍くらいでしょ。陸軍に航空隊の連絡将校がいたりするんだから。
ソ連の場合は、シュトルクモビックに、どう連絡してたんだろう。
737名無し三等兵:2011/09/04(日) 02:44:22.01 ID:???
学研のWW2欧州戦史シリーズのソ連軍3部作のどれかにあった希ガス
だが今手元に無いんだよな

誰か持ってない?
738名無し三等兵:2011/09/04(日) 18:41:59.74 ID:???
「歩兵との密接な協力」とはあるけれど、具体的にどうするかは書いてない > 学研赤軍本
739名無し三等兵:2011/09/04(日) 23:00:13.63 ID:???
ソ連軍は創意工夫とか臨機応変を現場がやってはいけない組織なんよ
このシステムを考えると空軍も基本は遠距離砲兵と同様で
D日H時以降にα点に通じる道路を攻撃とか、β点の陣地を爆撃とか
そういう事前に決めたモノを狙うということになるんじゃないかな。
740名無し三等兵:2011/09/05(月) 10:52:13.16 ID:???
お前…
にははが来るぞ
741名無し三等兵:2011/09/05(月) 13:04:00.59 ID:???
メンヘラ召喚とかすんなよ鬱陶しい
742名無し三等兵:2011/09/05(月) 18:43:19.98 ID:???
どれ、魔よけにつ偽270式
743名無し三等兵:2011/09/08(木) 00:16:37.25 ID:???
>>738
あ、そうなの?

>>739
確か戦術航空部隊は野戦部隊にくっ付いてるんだよね?
司令部とか飛行場には連絡官が居るとか何処かで見たような?
744名無し三等兵:2011/09/08(木) 00:26:52.04 ID:???
>>743
そりゃ連絡網とか事前協議とかなかったら
地上軍の作戦行動も分からんでしょw
745名無し三等兵:2011/09/08(木) 01:36:03.80 ID:???
>>744
いやある程度リアルタイムでの目標選定をする為の連絡官ね
746名無し三等兵:2011/09/08(木) 03:20:44.06 ID:???
>>745
そのリアルタイムで目標をってのも実は事前に決めてるんだよ。
某隊が某地点に達したら、事前に決めておいたB地点への攻撃を開始等でね。
747名無し三等兵:2011/09/08(木) 18:10:06.01 ID:???
748名無し三等兵:2011/09/08(木) 18:51:30.05 ID:???
>>746
誰がどれにレスしてるか分かりにくいんで一応聞くけど
それって>>739みたいな想像で言ってるのか、何かの資料で書かれている話なのか、どっち?
749名無し三等兵:2011/09/08(木) 19:02:07.69 ID:???
>>748
赤軍の教本が恵比寿にあるので見てきたら?
750名無し三等兵:2011/09/08(木) 19:48:05.52 ID:???
>>749
その教本に書いてある内容って事でおk?
東京に住んでるわけでも、仕事を自由に休めるわけでもないからなぁ
機会があれば見に行ってみるよ
751名無し三等兵:2011/09/08(木) 23:41:39.92 ID:???
>>747 初期のイスラエル戦車隊だな。WW2型の火砲を入手したんで放出したスイス民兵隊のクルップM1914を改造してシャーマンに載せてたやつ。
752名無し三等兵:2011/09/09(金) 00:17:51.74 ID:???
>>746
そうなんですか?
>>749の教本で良いのかな?
753名無し三等兵:2011/09/10(土) 14:14:58.70 ID:???
日本製榴弾砲とシャーマン・・・・・・だと!
754名無し三等兵:2011/09/11(日) 03:20:51.60 ID:???
こっちの攻撃は通じず、攻撃されるとスポスポ抜けて一方的にアウトレンジされる悪寒
755名無し三等兵:2011/09/11(日) 05:17:24.34 ID:???
雪風に10cm高角砲積んだのと同じで、動作して弾のストックがあれば何でも良かったんだろうよ
756名無し募集中。。。:2011/09/11(日) 12:47:03.85 ID:???
>>739
後期はソ空軍が数で優勢にもかかわらず、西部戦線みたいに圧倒的な制空権
を握れなかったのはそのへんが原因かね。
もちろんソ軍の戦術・搭乗員の質の低さもあるだろうけど
757名無し三等兵:2011/09/11(日) 17:51:57.06 ID:???
理由は簡単で極端な集中主義を取ったからと聞いたけどね
バグラチオンの時もあの戦力差なのに異常な程、ソ連側の物量が圧倒的に見えるのも
重点正面へ集中とその秘匿に成功したから

拮抗して見えるのはソ連にとって集中対象地域以外の場所だからとか
758名無し三等兵:2011/09/11(日) 17:55:41.96 ID:???
ソ連軍の攻撃時の兵力集中に対する熱意は異常
759名無し三等兵:2011/09/16(金) 15:11:04.70 ID:qq5MWj1Y
コンビニ本で日本軍兵器特集でノモンハン戦争の八九式戦車やっていた
ヨーロッパ戦線の2線級にも負けるパチ戦車だって
760名無し三等兵:2011/09/16(金) 15:20:18.83 ID:???
対戦車戦闘ならそんなもんだわな
761名無し三等兵:2011/09/16(金) 15:45:29.02 ID:???
正面装甲17mm、速度は25km/h、主砲は装甲貫徹力皆無に近いからにゃ
ただの移動トーチカだよなー……
欧州正面の各国ならその手の支援戦車は75mm軽榴+装甲30mmくらいの時期だからしゃあないわ

チハの時期からでも、せめて英米みたいなCS+対戦車用の二本立てが出来ていればなぁ
実際に戦場でそういう運用がされたのは1944年末から、ってのが泣ける
762名無し三等兵:2011/09/16(金) 16:11:24.85 ID:???
1929年当時の戦車なんてどこもそんなもんだと思うが
まだ本格的な対戦車砲が存在して無い頃で、正面装甲17mmというのは37mm級の平射歩兵砲を念頭に置いた数字だし
日本が他国に遅れだしたのは30年代末頃からだろ
763名無し三等兵:2011/09/16(金) 19:33:01.34 ID:???
>>762

>>759からの流れだから、1939年後半の話だよ
764名無し募集中。。。:2011/09/16(金) 21:29:53.55 ID:???
>>761
89式の主砲は装甲貫徹力20mm程度はある
ソ連軍の主力歩兵戦車 T-26(M33)だって、正面装甲15mm、速度28km/hと
ほぼ同じだろ W.W.U当時まで使われてるのも同じ。
違いは主砲くらいで、装甲貫徹力重視の45mmと榴弾威力重視の57mmと
性格が違うわけで、戦闘局面によってより効果がある側は異なるだろ。
車外視察能力や車長の分業化の面ではむしろ89式の方が優れてるし。
対戦車能力だけの比較や、10年後の他国戦車との比較は明らかにフェアでない
765名無し三等兵:2011/09/16(金) 22:22:22.20 ID:hvSlDeer
ルノーD1辺りがライバルにふさわしい
でもこれも30年代後半ごろはとっくに植民地送り
766名無し三等兵:2011/09/16(金) 22:34:19.05 ID:???
同軸機銃も装備してないのにフェアだのなんだのってw
767名無し三等兵:2011/09/16(金) 22:59:00.34 ID:???
敵がフェアに同時期の戦車を出してくれれば何とかなったか?
768名無し三等兵:2011/09/16(金) 23:33:02.01 ID:???
>89式の主砲は装甲貫徹力20mm程度はある

まずこの前提が大うそなのに誰もツッコまないのはなんで?
769名無し三等兵:2011/09/16(金) 23:40:24.12 ID:???
でもまあノモンハンの頃なんてソ連戦車だって
国軍の37mm速射砲にフルボッコにされる時代だし
89式だけを指して2線級だなんだ言うもんでもないと思うけどね

貫徹力は確かに20mmも無かった気がするが……
770名無し三等兵:2011/09/17(土) 00:03:23.46 ID:???
徹甲弾で20mm、榴弾で10mmくらいじゃなかったか?今、出先なので資料を確認できないが。
771名無し三等兵:2011/09/17(土) 00:10:21.61 ID:???
戦車研究室によると100mで20mmらしい
772名無し三等兵:2011/09/17(土) 00:14:14.92 ID:???
抜けるだろうが実際の戦闘を考えると厳しい距離だね>貫徹力20mm
773名無し募集中。。。:2011/09/17(土) 00:54:08.59 ID:???
>>768
お前の知識を疑え
100mで20mmだよ
でなきゃ正面13mm傾斜のBT-5を撃破できるはずないだろうが
774名無し三等兵:2011/09/17(土) 01:25:21.05 ID:???
[陸軍技術本部試験報告集]歩兵火器弾丸効力試験報告 等
レファレンスコード A03032062400
5糎7戦車砲 徹甲弾 対ニセコ鋼
17.5mm 1800m
20.5mm 1400m
25.7mm 350m*
30.4mm 砲口前45m*
*印は弾頭に亀裂発生
775名無し三等兵:2011/09/17(土) 01:26:31.55 ID:???
つまり実用交戦距離でなら当たれば20mm抜けるけど
逆にどんなに近づいても30mm逝けるかどうかという性能であると。
776名無し三等兵:2011/09/17(土) 01:27:43.42 ID:???
>>774
日本の戦車では英仏独米の戦車に勝てないのがよくわかったw
777名無し三等兵:2011/09/17(土) 01:43:13.31 ID:???
少なくとも同時期の巡航戦車や独戦車には勝てるだろう
それでもやはり味方の血が必要だな
778名無し三等兵:2011/09/17(土) 01:48:52.05 ID:???
1940年位までならなんとかなるな
779名無し三等兵:2011/09/17(土) 01:59:23.26 ID:???
ちなみにルノーFT相手の実射試験だと
1200m相当の着速に調整した射撃で
左側面16mmに対しては、左側面装甲を圧壊した上右側面まで抜いて外に出ちゃったw
装甲材質等の関係なんだろうけど
場合によってはかなりの貫徹力を出すこともあるようだ。
780名無し三等兵:2011/09/17(土) 02:07:48.77 ID:???
薄い方が材質の差がモロに出そうだよね
781名無し三等兵:2011/09/17(土) 06:02:51.12 ID:???
BTは側面狙いだろ。
782761:2011/09/17(土) 08:07:31.32 ID:???
>>762 >>764

>>759でノモンハン時点の話として二線級以下だったって言ってたから、そうだねぇって言ったまで。
フェアとか言ってるのは筋違いもいいとこ。
例えばT-55を未だに装備してるところがあるとして、それが現用MBTに比べて劣る、ってのはしょうがないだろう。
783名無し三等兵:2011/09/17(土) 08:20:29.00 ID:???
ノモンハンの時点だと、ソ連はT-26が主力なわけで
どっちもどっちじゃね?
784名無し三等兵:2011/09/17(土) 13:02:32.72 ID:???
その割には、名前が出てくるのは、BT-7 なのは何でだろう
785名無し三等兵:2011/09/17(土) 13:11:40.14 ID:???
89式が2線級以下ならBT-7だって程度の問題だと思うが
どのみち日本陸軍の37mm速射砲にボコボコ
786名無し三等兵:2011/09/17(土) 13:21:44.81 ID:???
ノモンハン事件単体でなら
投入されたソ連軍AFVの最大派閥がBTなのは事実
ttp://www.armchairgeneral.com/rkkaww2/battles/khalkhin_gol/Khalkhin_cut1.pdf
BTが370、T-26は24、T-37が15、各種装甲車が324
損失は(修復も含めて)
BTが216、T-26は18、T-37が17、装甲車133(T-37は二回以上壊されたのかな)
酷い消耗率だ。装甲の薄い戦車を前線で使っちゃいけないね。
787名無し三等兵:2011/09/17(土) 13:35:55.09 ID:???
BTは紙装甲だが主砲が優秀だからなぁ
788名無し三等兵:2011/09/17(土) 13:49:06.18 ID:???
>>784
有名だから。
もっとも主力はBT-5だったらしいが。
789名無し三等兵:2011/09/17(土) 14:04:59.41 ID:???
実戦で血を流しても色々学ぶなら、まだマシなんだよ。
ソ連はちゃんとT-34なんて化物作っちゃったんだから。
790名無し三等兵:2011/09/17(土) 14:15:56.64 ID:???
日本陸軍だって学んだ事は学んだが余裕無さ過ぎたw
791名無し三等兵:2011/09/17(土) 14:25:53.75 ID:???
基礎工業力の差だな

日本は対戦車砲も戦車も張鼓峰事件以降頑張って開発してるよ
結果としてどの戦場でも間に合わなかったけど

ある意味でイタリアと似てるんだが
泥縄度がイタリアより遥かに低い割に間に合ってない度が大幅に高いから
悲劇性が増してるんだろうなぁ
792名無し三等兵:2011/09/17(土) 14:27:32.30 ID:???
日本も45mm対戦車砲に耐えられる防御を導入してればな・・・
新砲塔チハの50mmは決して悪くないと思うのだが、導入遅すぎっていうか
(あんだけ左右に絞ってれば正面からじゃ正撃しっこない)
旧砲塔でも増加装甲しておけと・・・泣けるね。
793名無し三等兵:2011/09/17(土) 14:32:41.29 ID:???
日本陸軍の機甲関連とか色んな場所で言われる通り、言ってる事自体はそれなりにまともだから
余計に救いようが無い感じになるんだよ
794名無し三等兵:2011/09/17(土) 17:05:14.32 ID:???
新砲塔チハの50mm装甲は一部の車両だけだよ。
一式から三式に生産切り替わった時に旧砲塔チハに一式の砲塔載せた、とかじゃねーのかな。
795名無し三等兵:2011/09/17(土) 19:05:16.57 ID:???
みんな装甲が薄いとか言ってるが、1939年当時の列強の主力戦車で、装甲が厚いと言えるのある?
796名無し三等兵:2011/09/17(土) 19:19:43.43 ID:???
>>795
フランスのH35とかR35は40mmあるぞ
主砲はプート37mmだとか、時速20kmがやっとだとか
座席が無いとか、サスがウンコで路外機動が怪しいとかはキニスンナ
797名無し三等兵:2011/09/17(土) 19:45:12.53 ID:???
ヤンキーなんか意味不明な戦車作っていたな
やたら機銃のついてる
798名無し三等兵:2011/09/17(土) 19:59:16.39 ID:???
ドイツは、U号戦車、35t戦車、38t戦車
英国は何になんだ?
799名無し三等兵:2011/09/17(土) 20:07:05.31 ID:???
T-26があれば3号4号なんて虐殺してやんよ

というゲーム脳
800名無し三等兵:2011/09/17(土) 22:30:08.81 ID:???
>>798
歩兵戦車Mk.TマチルダT(A11)、巡航戦車Mk.V(A13)
801名無し募集中。。。:2011/09/17(土) 22:55:30.21 ID:???
>>783>>786
ソ連軍全体としては、狙撃師団に大隊規模で付けられてたT-26が最多だが、
鉄道から極めて遠く、広大で乾燥したステップ地帯のノモンハンには
機動力の優れたBTが主力として投入されたのよ。
低機動力のT-26では戦場までの機動だけでも大変だろうし。

路外性能の悪い装甲車も、乾燥ステップ地帯なので機動力を発揮できたから
戦車の代用として大量投入されたし。
(その結果大損害だがw)
ノモンハンに2個が参戦した装甲車旅団も、この方面のみの特別な部隊だ。
802名無し三等兵:2011/09/17(土) 23:07:02.61 ID:???
どっちにせよ1940年頃までの列強戦車はその後を考えると軒並みびっくりする程微妙だな
それが5年もしたら日本ですらチリだのチトだのをとりあえず完成させる程度にまで……
803名無し三等兵:2011/09/18(日) 07:55:59.39 ID:???
第二次大戦開戦まではどこもかしこも軍縮時代を引き摺ってるからなぁ
ただ、単に陸軍予算の関係で作れなかったところと、背伸びして頑張ってついてってたところの差が
戦争になった途端に現れ始めるのが切ない
804名無し三等兵:2011/09/18(日) 08:34:02.09 ID:???
ソ連の場合スペイン、フィンランド、ノモンハンの戦訓を経て、T-34に辿り着く でいいの?
ドイツの場合、T-34と出会わなかったら、パンター、タイガーは作られずに、W号戦車で戦いきってた?
805名無し三等兵:2011/09/18(日) 09:26:53.66 ID:???
>>804
T34ショックの影響ありのパンターと違い、タイガーのほうはT34ショック以前から企画されていた
陣地突破戦車の流れだから作られたんじゃない?
806名無し三等兵:2011/09/18(日) 12:23:21.55 ID:???
T-34出なかったら完成してたかどうかすらあやしい
807名無し三等兵:2011/09/18(日) 13:04:27.29 ID:???
KV、マチルダ2、チャーチル対策で41年に出た75mm砲の35d戦車がまんま続く気がするが
808名無し三等兵:2011/09/18(日) 15:05:24.11 ID:???
>>804
冬戦争時のフィンランドには試作車が送られている(しかし実戦投入間に合わず)ので、時期的に戦訓を反映する余裕は無い。
しかし従来よりコストが高いT-34を採用する理由(装甲が厚い)にはなっている。
809名無し三等兵:2011/09/18(日) 16:54:40.36 ID:???
あれって完全なT-34の試作ではなく45mm耐弾戦車で
あの後T-34に直接繋がる試作戦車作成じゃなかった?
810名無し三等兵:2011/09/18(日) 18:17:11.11 ID:???
A-32ではなくA-34だったと思うが。
811名無し三等兵:2011/09/19(月) 17:04:22.24 ID:???
まあBT以降はどれも似たようなもんだ
ttp://momi6.momi3.net/war/src/1316419098109.jpg
812名無し三等兵:2011/09/19(月) 17:06:56.43 ID:???
>>795
ソミュアS35は砲塔正面56mm車体正面35mmぐらいあったと思うぞ。
813名無し三等兵:2011/09/19(月) 18:35:20.00 ID:???
主力戦車だよ…ソミュアは違うだろう。
814名無し三等兵:2011/09/19(月) 18:56:24.38 ID:???
フランスは兵科ごとに車種が違うような状況だったが、
主力の定義は?
815名無し三等兵:2011/09/19(月) 20:19:46.43 ID:???
数的には歩兵科の軽戦車が主力で良いのかしら?>WW2前のフランス
816名無し三等兵:2011/09/19(月) 21:19:11.88 ID:???
>>811
これは良い写真ですね。
817名無し三等兵:2011/09/19(月) 21:28:24.56 ID:???
>>815
そうだね
818名無し三等兵:2011/09/19(月) 21:39:04.92 ID:???
フランスの一連の軽戦車群は額面の装甲厚だけは立派だよね
819名無し募集中。。。:2011/09/19(月) 22:10:52.96 ID:???
WW2フランス軍の主力戦車は、ルノーR35とホチキスH35が双璧だね。
いずれも重装甲なのに弱武装・鈍足の歩兵戦車。
820名無し三等兵:2011/09/19(月) 22:15:17.54 ID:???
フランス戦車はせめて対戦車砲積んでたらな
821名無し三等兵:2011/09/19(月) 22:33:33.15 ID:2c1oKC8q
あの辺はまさに装甲化歩兵な感じがたまらなく好き
822名無し三等兵:2011/09/19(月) 22:33:37.17 ID:???
二人乗りではねえ・・・
823名無し三等兵:2011/09/19(月) 22:39:20.69 ID:???
見方を変えてみよう。
フランスは日本の軽装甲車と同じクラスの小型戦車の装甲が40mmもあった。
824名無し三等兵:2011/09/19(月) 23:14:04.51 ID:???
>>823
いや、日本の軽装甲車に相当するのは、ルノーUE、ルノーAMR33/35とかだろ。
無砲塔のルノーUEはさておき、
AMRは最大装甲13mmで、武装は機銃か13.2mm機関砲あるいは25mm戦車砲を砲塔装備。
・・・最高速度は54〜60kmともっと速いけどなorz

んでもってAMC34/35あたりが95式軽戦車相当の騎兵戦闘車。
最大装甲25mm、47mm戦車砲と機銃、最高速度40km
825名無し三等兵:2011/09/19(月) 23:31:04.14 ID:???
95式も主力じゃねーの?
826名無し三等兵:2011/09/20(火) 04:57:54.50 ID:???
チハばっか有名だけど、戦場に居た数・実戦投入された数だとハ号のが多いよな
けど帝国陸軍的には主力戦車的な考えじゃないんじゃね
827名無し三等兵:2011/09/20(火) 07:37:07.71 ID:???
トラックに追従出来て、ついでに安く数を揃えるつもりが
ちょっと限界低すぎたのでやむなく中戦車を作った。
89式だって軽戦車にしたかったんだぜ。
828名無し三等兵:2011/09/20(火) 12:50:30.17 ID:???
ヘタにブリキ戦車つくるよりは長山号で地雷撒いてたほうがマシだったかもなw
829名無し三等兵:2011/09/20(火) 23:15:58.48 ID:???
長山号ってさ
http://www.tractorshed.com/gallery/tphotos/a35811.jpg
↑フォードのトラクターをベースに大改造してるから
つくるのすげー大変
830名無し三等兵:2011/09/21(水) 02:00:31.40 ID:???
フォードか。ホルトのトラクターがベースだと思ってたわ
831名無し三等兵:2011/09/21(水) 22:42:49.39 ID:???
ガリレオからソ連機甲部隊特集本出たね
832名無し三等兵:2011/09/22(木) 09:16:38.41 ID:???
T34の話題は出てくるが、JSシリーズはない。
JSシリーズって、対戦車戦闘で活躍したの?
833名無し三等兵:2011/09/22(木) 10:47:02.77 ID:???
え?
834名無し三等兵:2011/09/22(木) 20:21:58.88 ID:???
44年4月のデビュー戦や、それに続く5月の作戦(バクラチオンの陽動)で、ティーガーと撃ち合ったそうだけど
その後のバグラチオン作戦ではまだ配備数が少なすぎ
使い方も装甲部隊へぶつけて対戦車戦ではなく、突破(敵戦力が薄い≒戦車がいない所狙い)の支援
対戦車のハデな活躍はないような
835名無し三等兵:2011/09/22(木) 20:32:20.43 ID:???
もうその頃になると、大規模な機甲戦も殆ど発生しないだろ
836名無し三等兵:2011/09/22(木) 21:24:25.66 ID:???
あいつ等突破となったら比較的広い突破正面を設定して
そこに全力を叩き込んでくるからな

とりあえず落ち着くまで分かりやすい戦車戦にはなり難いし
837名無し三等兵:2011/09/23(金) 08:48:50.74 ID:???
昨日、本屋で「model art」を立ち読みしたら、ドイツの装甲偵察部隊車両の特集だった。
ルクスや偵察用試作戦車のレオパルドを見ていたら
BT7にもこういう使い方があったのでは と思った。
838名無し三等兵:2011/09/23(金) 09:43:38.46 ID:???
>>837
大戦中にソ連は色々と偵察部隊用軽戦車を作ったが
結局それらの生産は戦争半ばに縮小
理由はT34の登場で主力から外されたことで余剰化したBTが沢山あったから。
ベルリン攻防戦にもBTが参加してるように、ちゃんと「そういう使い方」をしてる。

基本的にドイツで考え付くようなことはソ連はもっと上手にやってる。
839名無し三等兵:2011/09/23(金) 15:41:01.29 ID:???
BT-7は満州侵攻でも大活躍だしな
まあ、T-26すら大量に参加してるが
840名無し三等兵:2011/09/23(金) 15:48:20.59 ID:???
>>838
それ、なんかの本に載ってるの?
841名無し三等兵:2011/09/23(金) 16:18:33.09 ID:???
俺は戦車誌でT-80の解説で見たな
偵察用軽戦車は残ってるBTやT-26にプラスして、レンドリースで入ってくる米英製の車両を充てれば十分だから、
継続生産・新規開発の必要なしで、T-80は少量生産で終わったと
842名無し三等兵:2011/09/23(金) 16:20:07.62 ID:???
確かバレンタインとかもその手の任務に充当されたんだよね
843名無し三等兵:2011/09/23(金) 17:29:10.26 ID:???
英米のその手の戦車は、スチュワート?
844名無し三等兵:2011/09/23(金) 18:47:13.99 ID:???
>>842
装甲が厚いから向いてる、みたいな話なかったっけ?

ソ連軍の偵察方法は、偵察部隊はとにかく敵と戦え、
敵陣地の編成とかは師団参謀とかが見てるから、
みたいな無茶な感じだったはず。
845名無し三等兵:2011/09/23(金) 19:26:15.58 ID:???
確か偵察部隊に戦わせてそれを参謀教育受けてたり情報関連の技量を有する士官が観察みたいな感じだっけ?>ソ連
846名無し三等兵:2011/09/24(土) 04:07:49.75 ID:???
威力偵察至上主義ってところか
実戦的だとは思うが・・・
人間に優しいとは思わない無いけど
847名無し三等兵:2011/09/24(土) 11:20:44.37 ID:???
>>842
バレンタインって武装強化の一方で装甲がだんだん削られて言ってるけど、
側面も厚いから、どこから撃たれるかわからない偵察に向いてるんだろうなぁ
848名無し三等兵:2011/09/24(土) 11:31:16.23 ID:???
>>839
ウラルノ向こう側とこっち側では事情が違う気がする。
向こう側は、独ソ戦の緒戦でドイツ軍相手に大量消耗してT-34やT-70で補充したけど、
こっち側は、独ソ戦前のBTやT-26が消耗せずにそのまま残ってた、ってだけでしょ。
849名無し三等兵:2011/09/24(土) 15:45:44.01 ID:???
>>846
その代わりっていうか
偵察部隊は現場の判断で退却できる自由度がある
正確には「ドコソコまで進まなくちゃいけない」という縛りが無いというべきだが
850名無し三等兵:2011/09/24(土) 15:51:26.04 ID:???
>>848
ちと違う。

ウラルの向こうのインフラも大概だが、ウラルのこっちのインフラは
もっと弱いから、速度を必要とする突破先鋒としてはBTの機動力が
必要だったから、と言う事らしい。
851名無し三等兵:2011/09/24(土) 16:53:21.91 ID:???
たしかわざわざT-34からBT-7に乗り換えた戦車兵とか居た筈
満州の悪路パネェみたいな
852名無し三等兵:2011/09/24(土) 17:02:58.63 ID:???
日本相手なら無双できるT-34から
37mm速射にも耐えられないBTってな・・・泣けるな
853名無し三等兵:2011/09/24(土) 17:31:05.71 ID:???
>>851
この話かな?

大興安嶺を超えてハルビン-大連へ向かう第6親衛戦車軍がBT-7を3個大隊、
BT-5を1個大隊の計211輌配備し、それへ極東軍管区の兵にプラスして他の戦車で独ソ戦を戦い抜いた戦車兵を乗せた

T-34やM4の部隊はほぼ大興安嶺を超えるだけで終戦になるほど山岳悪路に苦労したが、
BT配備部隊は2個大隊が栄誉呼称授与、他の2個大隊は戦闘赤旗勲章の部隊叙勲を受けたという
854名無し三等兵:2011/09/24(土) 17:42:47.45 ID:???
満州侵攻って主役はどったかと言うと歩兵と航空戦力なんよね?
855名無し三等兵:2011/09/24(土) 19:29:48.66 ID:???
BTは戦車じゃない、装軌装甲車だ って思えば
37ミリ砲にやられたって許せる。
856名無し三等兵:2011/09/24(土) 20:23:15.86 ID:???
対戦車火力は同時期の戦車と比べるとチートクラスなんだがなぁ
857名無し三等兵:2011/09/24(土) 23:33:54.73 ID:???
BT戦車が偵察戦車で使われたなら
同じような紙装甲、逃げ足が速い、英国のクルセーダーは使われなかったのかな?
858名無し三等兵:2011/09/24(土) 23:38:29.52 ID:???
やはり機動力があって装甲もそこそこ厚いクロムウェルはレンドリースを断られ、バレンタインが継続して貸与されてる。
859名無し三等兵:2011/09/24(土) 23:39:27.89 ID:???
ちょっと抜けてしまったが、「ソ連に」断られて、ね。
860名無し三等兵:2011/09/24(土) 23:47:07.74 ID:???
それはクロムウェルがガソリンエンジンだったからじゃないの
861名無し三等兵:2011/09/25(日) 00:36:26.65 ID:???
ソ連さん相当バレンタイン戦車気に入ってるね
862名無し三等兵:2011/09/25(日) 00:48:10.31 ID:???
ルスキはネコみたく自分の体ピッタリサイズで
余裕の無い入れ物が落ち着くんじゃないか?
国産戦車はみんなそうだし、レンドリ車両も
M3-LEEとか中が広いのは評判良くないもんw
863名無し三等兵:2011/09/25(日) 00:58:27.35 ID:???
M4は「家のように広い」って好評だったぞー
864名無し三等兵:2011/09/25(日) 08:57:04.85 ID:???
>>863
後機械的信頼性が高くて、動かしやすい、と言う評判も有ったような。

旧ソ連のM4は殆どがA2で、ドイツが捕獲して使ったのはA2以外
が大部分だが、評価がソ連とドイツでほとんど同じなのは興味深い。
865名無し三等兵:2011/09/26(月) 03:19:07.00 ID:???
38(t)軽戦車は、北アフリカには、送られていますか?
866名無し三等兵:2011/09/26(月) 10:32:40.47 ID:???
気になりますね

三突も送られていないんでしたっけ?
867名無し三等兵:2011/09/26(月) 13:26:27.07 ID:???
38(t)から派生した105o自走砲なんかは
アフリカでの写真があるな。
さっき軽くググったけど38(t)そのもののアフリカでの戦場写真は
どーも見つかんない。
プラモだとDAK仕様とか作ってる奴は居るな。

3突はヘタレで有名な空軍の降下機甲師団が
アフリカに持ち込んでたような気がする。
868名無し三等兵:2011/09/26(月) 19:11:42.67 ID:???
3突は1942年に油田開発専門家などが含まれた特別編成の部隊にD型が3輌送られている
869名無し三等兵:2011/09/26(月) 19:54:19.67 ID:???
1942年にヴィッカースMk.IIとかイギリス物持ち良すぎ
870名無し三等兵:2011/09/28(水) 14:08:58.09 ID:???
>>862
冷戦時代には対立陣営製の車両について公に誉めるのは憚られてたけど
で、冷戦終結後になって資料が出てくるようになったら
機械的信頼性とか修理の容易さ、操縦性の良さとかで
実戦部隊での評価は良かった、みたいな話だったような気がする

エレファントも昔はボロクソだったけどシュピルベルガー本が出てから評価逆転したし
871名無し三等兵:2011/09/28(水) 14:35:18.51 ID:???
昔は下手なこと言えなかったけど、元兵士へのインタビューも読めるようになったしね。
元シャーマン乗りの人が言うにはソ連戦車に比べ内装がとても綺麗。
見張りをおかず戦車を離れると、歩兵が合皮製シートを盗み、それでブーツを手作りしてしまうんだとか。
872名無し三等兵:2011/09/28(水) 14:38:45.14 ID:???
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/loza0.html
これか
兵隊同士の喧嘩でトンプソンを撃ち合うとかw
873ロンメル元帥:2011/09/28(水) 19:01:50.37 ID:hix7nqcE
俺、タイガー戦車好きなんだ〜
特にキング・タイガー戦車が一番ーーーーーーーーー好き!!!!!
今、タイガー戦車のプラモデルがあります!
いつも眺めてます〜
ティーガー戦車好きいますか?
いたらいいな〜
874名無し三等兵:2011/09/28(水) 19:51:23.76 ID:???
ソ連の国産戦車は着弾の衝撃で装甲が剥離して乗員が負傷したりするが、
レンドリースの米英車両はクロムの含有率が倍くらいあって剥離しないだとかあるな。
875名無し三等兵:2011/09/28(水) 19:51:50.01 ID:???
キングタイガーって言うかタイガーUって、東部戦線で戦ってるの?
イメージ的にバルジの戦いしか参加してない感じなんだが
876名無し三等兵:2011/09/28(水) 20:45:47.23 ID:???
ハンガリーに出向いたりしてるじゃん
877名無し三等兵:2011/09/28(水) 20:49:04.99 ID:???
国防軍SS合わせて7個大隊274両、半分以上が東部戦線に配備されてるよ。
878名無し三等兵:2011/09/28(水) 21:30:56.29 ID:???
>>872
それ読むとドイツ戦車が車体に付けていた履帯で砲弾が滑ったって話が載ってるけど
あれも効果的だったんだな
879名無し三等兵:2011/09/28(水) 21:49:00.77 ID:???
やっぱり装甲板用の鉄ってクロムの含有量多めが良いの?
880名無し三等兵:2011/09/28(水) 22:36:52.94 ID:???
>>879
炭素鋼にニッケルやクロム添加すると熱処理がやりやすくなる特徴がある
炭素鋼は熱処理で物性が全く異なり、それを引き出すためにレアメタルを使う
よって熱処理技術が低いメーカーだとせっかくのレアメタルも無意味なる。

この時代の装甲は現代のJIS規格の機械構造用合金鋼鋼材によく似た組成で
性能的にはSNCM439やSCM440に近い
興味があるならどうぞ↓
http://www.tobu.or.jp/yasashii/kouzai/book/03.htm
881名無し三等兵:2011/09/29(木) 08:58:13.23 ID:???
パンターの前面装甲なんかは表面だけ焼きを入れて
固〜くしてたとか、何かで読んだな。
882名無し三等兵:2011/09/29(木) 22:18:07.56 ID:???
>>881
で、大戦末期のパンターの装甲はクロム不足の所為で
被弾時に割れ易いって話だな。
883名無し三等兵:2011/09/30(金) 08:12:56.87 ID:???
グランドパワーのKVのテストの話、あれは結局雪中の奇跡に出た謎戦車の事か?
884名無し三等兵:2011/09/30(金) 11:04:57.03 ID:???
>>883
カサパノスで撃破されたSMKの事でしょうか?
このSMKとは別に、砲塔をボフォース37ミリ砲で打ち抜かれた多砲塔戦車がありました。
これが「謎の重戦車」です。
885名無し三等兵:2011/09/30(金) 23:20:34.81 ID:???
>>880
遅くなりましたがありがとう
こういうの面白いな
886名無し三等兵:2011/10/04(火) 00:56:40.33 ID:???
>>884
あれ何なんだろうなあ。
T-35やT-28を識別できなかったのか、
もし本当に新型ならT-29あたりだろうか
887名無し三等兵:2011/10/04(火) 23:21:22.86 ID:???
「自分は確かに何々を見た」と思ってたら、記憶の中の映像がそれに合うよう無意識のうちに作り変わったりするからなぁ
実体験で確かな記憶のいい加減さを思い知った
888名無し三等兵:2011/10/05(水) 14:08:02.61 ID:???
>>886
フィンランド軍兵士たちの証言を聞くとT35の特徴と一致しますけど、
T35はフィンランドには来ていないとされています。
まさに「謎」だなあ。
889名無し三等兵:2011/10/05(水) 21:54:27.19 ID:???
>>888
普通に行ってたと思ってたが誤りだったのか…。
試験的に1両くらい投入とかしたんじゃないかなあ。

『冬戦争の戦車戦』でも買って調べてみるか。
890名無し三等兵:2011/10/05(水) 23:57:36.81 ID:???
>>889
出て無いんですよ、これが。
しかも、T26とBTが主で、T28とかKVはサラッとしか書いてません。

別に「T35、T100、SMK本(原著ロシア語!)」があるからそっちを買えとは、酷いですね。
891名無し三等兵:2011/10/06(木) 11:47:58.12 ID:???
T-28の現地改造型では?
892名無し三等兵:2011/10/06(木) 13:07:34.64 ID:???
擱座したT28を回収しようとして撃破されたと書いてあったような・・・
だから、T28ではなさそう。
893名無し三等兵:2011/10/06(木) 13:45:12.32 ID:???
そこでKV試作車が出てきてこんにちわ、
フィン人ちょっと強がって撃破しちゃったことにしちゃった、とか
894名無し三等兵:2011/10/06(木) 16:26:06.17 ID:???
冬戦争中のKVの写真は一枚もありません。
何故?
895名無し三等兵:2011/10/06(木) 17:29:26.01 ID:???
悪魔の証明(あくまのしょうめい)とは、基本的に、所有権帰属の証明の困難性を比喩的に表現した言葉である。
896名無し三等兵:2011/10/06(木) 17:37:07.31 ID:???
フィンランドに送られた多砲塔戦車は、SMK、T100、T28くらいだよ。
897名無し三等兵:2011/10/06(木) 17:53:29.31 ID:???
T-28の銃塔に37mm砲だか45mm砲を積んだやつがあったはずだからそれかもねえ
898名無し三等兵:2011/10/06(木) 21:16:14.82 ID:???
ところでクルセーダーとバレンタインの6ポンド砲型って何時から生産されたのでしょう?
899名無し三等兵:2011/10/06(木) 22:29:30.47 ID:???
>>898
『British and American tanks of World War Two』によれば、
クルセーダーの6ポンド砲搭載型(Mk.3)が1941年12月制式化、1942年5月から量産
バレンタインの6ポンド砲搭載型(Mk.8なのかMk.9なのか不明)が1942年3月から量産
900名無し三等兵:2011/10/07(金) 01:23:32.62 ID:???
>>899
ありがとうございます
まあ、妥当な時期からの量産なんだろうか?
現場的には遅いと不満だろうけど
901名無し三等兵:2011/10/07(金) 02:30:34.80 ID:???
>>900
『Panzer Tracts:Panzer Production』でドイツ戦車の生産を見てみると、
・42口径50mm砲装備の3号戦車H型の生産開始が1940年7月
・60口径50mm砲装備の3号戦車L型(J型後期)の生産開始が1941年12月
・43口径75mm砲装備の4号戦車G型(F2型)の生産開始が1942年3月

まあそれ以前にあの当時のイギリス戦車は機械的信頼性が…
902名無し三等兵:2011/10/07(金) 08:30:17.20 ID:???
バレンタインだけは問題ありません!
903名無し三等兵:2011/10/07(金) 12:17:38.58 ID:???
クルセーダー、バレンタインと来れば、マチルダUは?
904名無し三等兵:2011/10/07(金) 17:15:58.41 ID:???
>>901
時期的には妥当より少し遅い位ですか
まあ、機械的信頼性はバレンタインが頑張ってくれますw
マチルダIIは次点で

>>903
マチルダIIは6ポンド砲搭載型とは入れ替わりみたいな感じですし
まあ、生産自体は1943年頭までしてますが
905名無し三等兵:2011/10/07(金) 20:13:37.28 ID:FFnCqjlw
60口径50mmに浪漫を感じる
906名無し三等兵:2011/10/07(金) 20:19:44.83 ID:???
http://www.2iemeguerre.com/blindes/image1/matilda6pr9.jpg

これはセントーの砲塔そのまま載せたのかな?
907名無し三等兵:2011/10/07(金) 21:48:23.41 ID:???
すごく、ブサイクです
908名無し三等兵:2011/10/07(金) 23:42:47.49 ID:???
CSが如何に短砲身でも、最初の頃だったら徹甲弾装備でいける気がするんだけどなぁ。
いっそ、巡航戦車Mk1・2の94mmに徹甲弾とかさ。
909名無し三等兵:2011/10/08(土) 00:38:33.87 ID:???
短砲身94mmの徹甲弾か……胸熱だな
910名無し三等兵:2011/10/08(土) 01:01:52.76 ID:???
高初速の運動エネルギーは望むべくもないし、
弾頭重量も知れてるから、炸薬の爆圧で装甲を叩き割るのも難しい

フィンランドのBTに4.5in榴弾砲積んだ自走砲は実戦で敵戦車に弾を当てたそうだが、
まったく効果がなかったそうな
911名無し三等兵:2011/10/08(土) 03:05:02.17 ID:???
本邦の十榴は戦車撃破してるしまあ相手次第かな
912名無し三等兵:2011/10/08(土) 05:18:36.16 ID:???
>>908
BT-42が積んだのはオードナンス QF 4.5インチ榴弾砲
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/QF_4.5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%81%E6%A6%B4%E5%BC%BE%E7%A0%B2
口径114.3mm、砲身長は1,778mmで約15.6口径、砲口初速最大秒速1010フィート
グランドパワーの連載を見ると戦車戦ではHEAT使ってたみたいだ。

一方九一式十糎榴弾砲は
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%B8%80%E5%BC%8F%E5%8D%81%E7%B3%8E%E6%A6%B4%E5%BC%BE%E7%A0%B2
口径105mm、砲身長は2090mmで約20口径、砲口初速秒速454メートル(約1791フィート)

そしてCS型が積んでた3インチ榴弾砲は
口径3インチ(76.2mm)、砲身長75インチで25口径、砲口初速秒速600〜700フィート

3.7インチ榴弾砲は
口径3.7インチ(94mm)、砲身長55.5インチで15口径、砲口初速秒速620フィート

3.7インチ砲に徹甲弾だと砲身が短くて初速も遅いから相当厳しいと思う。
3インチ砲はドイツの24口径75mm砲と似たようなスペックだけど初速が1.5倍くらい違う。
913名無し三等兵:2011/10/08(土) 09:31:14.95 ID:???
対戦車砲ってば一撃必殺みたいな事しか考えてない奴らめ。
たった一台のM3やM4を屠るのに豆鉄砲みたいな砲を
人力で右往左往させながら、何発も当てて
チマチマと内部破壊を積み重ねた皇軍の兵隊さんに謝れ・・・(;つД`)
914名無し三等兵:2011/10/08(土) 14:12:50.10 ID:???
BT42は陣地戦にはぴったりな戦車ですね。
あれを対戦車戦闘、それもT34/85相手に使うのは酷いね。
915名無し三等兵:2011/10/08(土) 14:17:42.82 ID:???
備砲と戦車をいっしょくたに考えるのはよくない
装甲薄いからBT自体が不向きだよ
916名無し三等兵:2011/10/08(土) 15:40:25.93 ID:???
車体は捕獲品、砲はえらい年代物。
好きで使ってんじゃねえ!とフィンランド軍戦車兵は言いそうだね。
917名無し三等兵:2011/10/08(土) 16:43:40.43 ID:???
T-34と言えば樺太で山砲でT-34を撃破した猛者が居たようだが
918名無し募集中。。。:2011/10/08(土) 22:29:14.24 ID:CnsPnkUi
>>917
あれは古屯陣地の連隊砲中隊の41式山砲だね。
敵はT-34もあったかもしれんが主力はT-26のはずだよ。
それでも丸の記事によれば32両(!?)を撃破して奮戦したという
919名無し三等兵:2011/10/08(土) 22:33:20.34 ID:???
>>906
リング径1372mmを改修してセントーの1448mmリングごと載せたみたいだね。
6ポンド砲ならマチルダと同じリング径のチャーチル砲塔が簡単な気がするけど
あえて使わないのがイギリス流なんだろな。
920名無し三等兵:2011/10/14(金) 01:10:12.50 ID:MZtVYqFZ
不細工過ぎるよね
さすがブリテン
921名無し三等兵:2011/10/15(土) 21:36:31.97 ID:???
まあ・・・
紅茶でもいかが?
922名無し三等兵:2011/10/15(土) 22:13:26.93 ID:???
じゃ、アールグレイにレモンで熱いのを・・・
923名無し三等兵:2011/10/16(日) 01:54:51.55 ID:???
さぁさ、重巡航戦車をどうぞ召し上がれ。なかなかどうして、厄介なものですがね。
924名無し三等兵:2011/10/16(日) 02:05:36.17 ID:???
>>923
まあセンチュリオンは結果的におkだろう

個人的にはチャリオリティアを推したいところではある
見た目のカッコよさと実態があれほど乖離してるのも珍しい
925名無し三等兵:2011/10/16(日) 03:38:06.09 ID:???
あれって見た目格好良いけどそんなに駄目なん?
926名無し三等兵:2011/10/16(日) 12:43:48.47 ID:???
面白い記事にするために書き手が脚色しちゃったものをうのみにするのは以下略
927名無し三等兵:2011/10/16(日) 17:12:36.05 ID:???
チャリオティアは弾の数がJS重戦車以下だから
その辺りだろ
928名無し三等兵:2011/10/17(月) 00:09:09.25 ID:U+ABhjl4
チャリオティアは結局性能不十分で国防義勇軍に回され
転売され何故かシリアに渡り戦友が4号戦車と3号突撃砲みたいな愉快な経歴だったような……
929名無し三等兵:2011/10/17(月) 01:12:48.35 ID:???
まあ名前的に強そうなのはブラックプリンスだけどね♪
930名無し三等兵:2011/10/17(月) 01:43:32.75 ID:???
ブラックプリンス見た目もかっこいいじゃないか。
931名無し三等兵:2011/10/19(水) 22:59:12.10 ID:???
あやしい粉が入ってて微妙な味なのに食べずにはいられなくなるプリンですねわかります
932名無し三等兵:2011/10/20(木) 23:34:43.59 ID:???
なんでまた1943年にもなって、低速すぎ(約17km/h)な歩兵戦車を作るんだ > ブラックプリンス
と思ったら、高いギア比が登坂能力を生み、起伏の激しい朝鮮半島で使えたってのが意外だ
933名無し三等兵:2011/10/20(木) 23:47:48.66 ID:???
>>932
それは殆どヨタだと思ってよいかと
934名無し三等兵:2011/10/21(金) 00:08:26.67 ID:???
ブラックプリンスという名の兵器は、なんとなく不憫な感じがする。
たしか末期の装甲巡洋艦にHMSブラックプリンスというのがいて、
ジャットランド海戦であっけなく撃沈されてたような記憶。
935名無し三等兵:2011/10/21(金) 00:13:40.47 ID:???
ヨタねえ・・・アフリカでドイツ人が絶対戦車が登れないような場所に陣取ってたのに
登ってきやがった、って驚いたのもヨタだったのだろうか
936名無し三等兵:2011/10/21(金) 00:29:55.22 ID:???
陣取ってたのがイタリア軍なら、根拠なしでもそれはアリと思ってしまいそうだ
937名無し三等兵:2011/10/21(金) 00:50:39.53 ID:???
>>932
機動性が必要な場面なら巡航戦車の出番だから
938名無し三等兵:2011/10/21(金) 00:52:43.64 ID:???
>>935
それはサスペンションと履帯の性能であって
トランスミッションじゃねえんだよ。
普通の戦車は充分すぎるギア比の段を有してるわけでな
939名無し三等兵:2011/10/21(金) 01:57:50.03 ID:???
940名無し三等兵:2011/10/21(金) 04:22:36.68 ID:???
>>935
それは本当みたいだが北アフリカの何時何処での出来事なんだろ?
チュニジア?
941名無し三等兵:2011/10/21(金) 08:33:44.51 ID:???
忘れた
タミヤの資料写真集あたりに載ってた気がする
942名無し三等兵:2011/10/21(金) 12:10:02.36 ID:???
>>939
http://www.wwiivehicles.com/usa/tanks-medium/m4a3.asp
M4シャーマンの1速は5速の10.35倍遅いので
1速全開で4km/h出ないぐらいになる。
4km/hで最大出力として450〜500馬力だから2.6km/hなら300馬力以上出てることになる
300馬力で35tだから、最大350馬力で40tのチャーチルと駆動力は変わらん。
ギア比の差じゃないことは分かるでしょ?
943名無し三等兵:2011/10/21(金) 13:06:50.89 ID:???
ふかさないとトルク足りないよ
944名無し三等兵:2011/10/21(金) 13:26:36.93 ID:???
>>943
トルクじゃなくて馬力なんだよ、わかる?
945名無し三等兵:2011/10/21(金) 13:38:04.49 ID:???
えっ?
946名無し三等兵:2011/10/21(金) 13:38:25.78 ID:???
えっ
947名無し三等兵:2011/10/21(金) 13:43:16.64 ID:???
948名無し三等兵:2011/10/21(金) 13:50:24.20 ID:???
F-1マシンのエンジン積んでも戦車は動かないよ。馬力は十分だけどね。
949名無し三等兵:2011/10/21(金) 13:54:54.65 ID:???
スポーツカーであるジャガーのエンジンなら動きます。
950名無し三等兵:2011/10/21(金) 13:57:12.69 ID:???
機関系はエンジンにブリティッシュ・レイランド・モーター社(現ジャギュア・ランドローヴァー社)製の
民需用ガソリン・エンジン(ジャギュアJ60 No.1 Mk.100B 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン)が用いられており、
最大出力を265hpから190hpに減格して使用しているが

ようするにトルク重視なのよ。
951名無し三等兵:2011/10/21(金) 16:35:14.89 ID:???
>>948
普通に動かせるよ。
F1じゃないけど超高速回転で1500馬力のガスタービン
つまりトルクなんかすかすかのM1戦車は普通に動いてるでしょ?

F1のエンジンみたいに大回転数で馬力を作ってるエンジンは
大減速する変速機をかませば、回転数を駆動力に変換できるの
だから馬力(トルクx回転数)なんだよ

英のジャガーのは、トリプルキャブで265馬力が嘘だったんだ(今では有名なハナシ)
他モデルに積んだツインキャブのエンジンだと220馬力がやっとで
これを普通にシングルキャブにしたら200馬力出るかどうか、別にトルク重視したわけではない
(英の高級車は元々低速トルク重視で回らないエンジンだけど)
952名無し三等兵:2011/10/21(金) 16:57:11.38 ID:???
M1
Horsepower Net: 1232@3000rpmGross: 1500@3000rpm
Torque Net: 3800 ft-lb@1000rpmGross: 3934 ft-lb@1000rpm
M60
Horsepower Net: 643@2400rpmGross: 750@2400rpm
Torque Net: 1575 ft-lb@1750rpmGross: 1710 ft-lb@1800rpm

超減速するにも力は必要なんだぜ
F-1エンジンを戦車基準でローにまで減速すると回転数1/100くらいになっちまう
953名無し三等兵:2011/10/21(金) 17:14:11.29 ID:???
>>940
オスプレイの「チャーチル歩兵戦車」だと、1943年4月26日のロングストップ・ヒル(チュニジア・メジェルダ渓谷の北側)での話となってる。
ジェベル・アーメラとジェベル・ラーの二つの頂があって、ラー攻略時に捕虜としたドイツ軍守備隊長が言ったそうだ。
アーメラの方はその3日前に占領したが、チャーチルにとってすら傾斜が急過ぎ、歩兵が単独で頂上を攻略して大損害を被ったとなってる
(頂上を占領した時点で 、「アーガイル」第8大隊は40名にまで戦力減少)






954名無し三等兵:2011/10/21(金) 21:20:14.52 ID:???
>>953
ありがとう
なんかまさにチュニジア戦線みたいな雰囲気を感じるw
955名無し三等兵:2011/10/22(土) 00:07:18.43 ID:???
>>952
1/100に減速すると、エンジンのトルクは100倍に増幅されるんだよ
(ギアによる損失を別にすれば)
956名無し三等兵:2011/10/22(土) 00:38:41.46 ID:???
あとM1の回転数アウトプットシャフトの回転数で
リダクションギアで1/10に減速してるんだよ
エンジン本体で言うと10倍の回転数で、1/10のトルク、3万回転、393ft-lbでしかない
これはF1(18000rpmで800馬力≒200〜250ftlb)でも同様に減速すれば
馬力分、つまりM60戦車並みにはできるってことでもある。
957名無し三等兵:2011/10/22(土) 10:53:45.85 ID:???
たぶんそんなエンジン積んだところで50km/hに加速するまでに火を吹くだろうな
958名無し三等兵:2011/10/22(土) 12:18:39.25 ID:???
数時間に及ぶレースを全力で数戦行えるんだから問題ないでしょ
959名無し三等兵:2011/10/23(日) 00:16:08.37 ID:???
また変なの見つけちゃった。
ttp://img202.imageshack.us/img202/2194/polacco5dc.jpg
これはなぁに?
960名無し三等兵:2011/10/23(日) 00:27:51.38 ID:???
足回りからするとソ連のT-27タンケッテだな
牽引車にされたものもあるそうだから、その類だと思う
961名無し三等兵:2011/10/23(日) 03:44:13.42 ID:???
>>959
ポーランドのTK豆戦車シリーズのC2P牽引車だと思う
962名無し三等兵:2011/10/28(金) 19:59:43.78 ID:???
上の方でも話してるがドイツ軍は何だかんだでパンターを使用して戦争して
ソ連もある程度使ってるのにフランスは早々に音を上げたのは
やはりフランスがドイツ、ソ連と違いガチ総力戦中では無かったからかな?


ブルガリアは謎だが
963名無し三等兵:2011/10/28(金) 20:40:39.71 ID:???
車体側面に整備用のアクセスハッチ付けるような連中だし
964名無し三等兵:2011/10/28(金) 21:06:09.41 ID:???
>>962
フランスは国内で総力戦中で、対外方針を纏めるところまで手が回ってないからw
965名無し三等兵:2011/10/28(金) 21:09:48.77 ID:???
>>962
その時期にM26を無償で貰えることになったからじゃね?
966名無し三等兵:2011/10/28(金) 22:26:31.68 ID:???
>>962
まあ上のフランスの話は戦後の話だから、
いざソ連が攻めてきても西ドイツがあるしアメリカもいるから平時的な感覚でいたんじゃないかなあ。
で平時的な感覚だとパンターは使いにくいと。

今月のグランドパワーはマチルダ特集だね。
967名無し三等兵:2011/10/28(金) 22:37:02.61 ID:???
>>966
いや平時感覚どころか冷戦始まったばっかでピリピリしてる時だよ
46年からインドシナ紛争が始まり(フランスは当事者)
48年にベルリン封鎖、50年に朝鮮戦争といつでかい戦争になるかわからない状況

フランスが自前戦車の開発を考えられるようになるのは57年だ
968名無し三等兵:2011/10/28(金) 22:39:55.31 ID:???
あと西ドイツの再軍備は1955年からだからね
それまでは米英仏軍によって守られてたわけ
いいかえると西ドイツの防衛にフランス軍も責任を負ってたのだよ
969名無し三等兵:2011/10/28(金) 23:04:31.98 ID:???
ただフランスは間に西独が挟まってて国内再建と自植民地優先だから
フランスは対ソ戦への切迫感が比較的低かったみたいだけどね
もう米におまかせと開き直ったとか
970名無し三等兵:2011/10/28(金) 23:14:47.09 ID:???
>>969
西ドイツの再軍備に反対し
それが不可避になったら西欧全部で統合軍を提唱(ドイツ信用できない)
その上で国内の政争で統合軍条約を批准できずに崩れるというグタグタが
50年前後のフランスの状況

てか再建とか大事なら鹵獲車両を大事に使うのがスジなわけだし
戦後長いことフランス軍は軍拡続けてたんだよ
その戦略打撃力の中心が核だったのは紛れも無い事実だけど
国防を軽視してたことは無い。日本なんかよりずっと力入ってる

単純に要らない車両だからパンターをお蔵入りさせただけだし
それでも暫くは倉庫に残してたんだから、それなりに大事だったし使える代物だったんだろう
971名無し三等兵:2011/10/30(日) 00:39:45.81 ID:???
ハンガリー、ルーマニア辺りの戦車部隊の武勇伝ってあるだろうか?
後は支那戦線の国府軍戦車部隊
972名無し三等兵:2011/10/30(日) 01:32:25.04 ID:???
>>960-961
>>959を貼っといて忘れてたwwwdトコd♪
973名無し三等兵:2011/10/30(日) 03:38:12.43 ID:???
タイ軍や満州軍の戦車隊(機甲部隊)が活躍した話をくれ
974名無し三等兵:2011/10/30(日) 03:48:41.81 ID:???
くれくれ君は嫌われるよ
975名無し三等兵:2011/10/30(日) 05:39:11.31 ID:???
しかしドマイナーネタだと調べてもよくわからない……みたいな事が加速度的に増えるから
知ってる人居ますか?みたいな事に
976名無し三等兵:2011/10/30(日) 10:40:19.68 ID:???
そういやAMX50なんてのも作ってたね
977名無し三等兵:2011/10/30(日) 21:27:11.24 ID:6/Q6jjGs
>>973
満州国軍の戦車隊は、一個中隊の94式軽装甲のみで、実戦も不参加。
タイ国軍の戦車隊は、戦前からビッカース6tなど大隊規模で保有し、
対仏印紛争でも使ってる。
仏印軍のホチキス25mm対戦車砲に撃破されてるが・・・
978名無し三等兵:2011/10/30(日) 23:40:52.11 ID:???
満軍装甲車の実戦についての解説を以前にどっかのサイトで見かけたんだが、ブックマークから発見できない
979名無し三等兵:2011/10/31(月) 05:20:17.53 ID:???
多砲塔戦車が多少なりとも活躍した戦いって1939年のワルシャワくらいかな?
機銃装備の多砲塔7TPがドイツ歩兵相手に善戦したと、どこかで聞いた
確か、多砲塔だったおかげで対応がしやすかった云々という話だった
980名無し三等兵:2011/10/31(月) 06:53:15.83 ID:???
受勲したT-28戦車長のインタビューをどこかで見た気が
フィンランドも鹵獲T-28で格上の戦車を仕留めてたり
981名無し三等兵:2011/10/31(月) 11:28:03.44 ID:???
>>979
独ソ戦初期に占領後のミンスク市街をT-28が単機で荒らしまわったという話があるな。
どうも敵中に孤立してミンスクを突破しようとしたらしい。
ちなみにその戦車は荒らしまわった後東方へ逃げようとして撃破されたんだが、
乗員の1人は生き残ってT-34の操縦手になり、3年後のミンスク解放戦で撃破された自分のT-28を見たそうだ。
ちょっとプロパガンダ臭いが…
982名無し三等兵:2011/10/31(月) 13:22:37.79 ID:???
フランスのシャールb1sやアメリカのM3リー/グラントは、多砲塔戦車には、ならない?
983名無し三等兵:2011/10/31(月) 13:32:21.27 ID:+pgqNnGM
だって砲塔1個だもんね。シャール2Cはまちがいなく2砲塔戦車だけど。
984名無し三等兵:2011/10/31(月) 14:00:56.49 ID:???
最近の戦車とかも車内からの遠隔操作で全周囲撃てる機銃とかつけてるし
(M60は砲塔にしか見えんキューポラ兼用銃座だった)
多砲塔が間違いってわけでもないんだよな(武装の軽重はしっかり分けるべきだろうケド)
985名無し三等兵:2011/10/31(月) 14:20:03.60 ID:???
>>951ホンダのVTEC積めばいいのに
986名無し三等兵:2011/10/31(月) 14:20:35.34 ID:???
>>980
フィンランド軍の捕獲T28は、ロシア軍のT34/85を撃破してますね。
大したものだなあ。
987名無し三等兵:2011/10/31(月) 15:11:21.07 ID:???
フィンランド人の「旧式武器の活躍させ方】は異常すぐるw
988名無し三等兵:2011/10/31(月) 23:47:18.38 ID:???
巡航戦車MkIの出番でしょうか?
989名無し三等兵:2011/11/01(火) 04:20:30.38 ID:???
フィンランド軍が弱小戦車で格上戦車を撃破したとか大健闘をした話は良く聞くが、日本軍がそれをしたという話をほとんど聞かないのはなぜだろうか

具体的な撃破数や戦闘推移どころか、ただ一行「水際反撃に出て壊滅した」「進出して来たシャーマン戦車に撃破された」程度しかない。
990名無し三等兵:2011/11/01(火) 04:45:53.17 ID:???
>>988
何か武勇伝ある?

>>989
ペリリューのハ号とかは?
無論対戦車能力はあれだが上陸後の相手が苦しい時期にミニ機械化部隊の一員として突撃して大混乱させてる
おまけに数輌撃破されずに稼働状態で日本側陣地に帰還してる

チハだとビルマ戦線でM4の撃破記録が多いような?
待ち伏せ成功で上手く側面に一方的に射撃して
M4を含む部隊を敗走させた事も
後はルソン島の重見支隊は日本軍側には敢えなく撃破されたと思われてたが
戦後連合国側の記録を見たら大奮戦してて連合国側の評価のお陰で名誉挽回
そしてお馴染みサラクサク峠とか
ルソン島の2TkDは十分頑張ったと思うよ?
991名無し三等兵:2011/11/01(火) 04:49:55.36 ID:???
>>989
基本的に殲滅されてしまったから、具体的にどうしたっていう話があまり残ってないんだよねえ。
かなり大規模な戦車隊が送られたフィリピンだって、一式自走砲が多少有名なくらいで、それも具体的にどう戦ったかはわからない。
オルモックに逆上陸した特二式内火艇は損害を与えられずに全滅してしまったようだが…。

まあ残ってるほうが珍しいといえば珍しいんだが。
湾岸戦争だってイラク側の装甲部隊が(少なくとも地上戦では)多少とはいえ多国籍軍に損害を与えてるんだが、具体的な話はとんと出てこない。
ほかの戦車戦があったり戦車が投入された戦いだって正直…。

そろそろ次スレの季節か。
992名無し三等兵:2011/11/01(火) 04:57:38.44 ID:???
>>991
上の方でも語られてるが砲兵火砲程じゃないが
冷静に考えると戦車戦もびっくりする程戦史、戦記がよくわからないか一般で語られてない事例が

フィリピンの自走砲だと四式もたった2輌でよくやった

次スレはどなたかお願いします
建てられない……
993名無し三等兵:2011/11/01(火) 09:01:30.52 ID:???
>>991
「軍事研究」誌の連載記事『湾岸戦争“大戦車戦”』じゃ、それなりに描かれていたような。
994名無し三等兵:2011/11/01(火) 10:29:11.77 ID:???
>>993
上下巻で単行本化してるね
中々良い
995名無し三等兵:2011/11/01(火) 10:45:56.63 ID:???
次スレ誰かお願い
996名無し三等兵:2011/11/01(火) 15:40:41.13 ID:???
俺も無理だった


第二次世界大戦前後のマイナー戦車話、ネタ総合3

■前スレ
第二次世界大戦前後のマイナー戦車話、ネタ総合2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1299331552/

■過去スレ
第二次世界大戦前後のマイナー戦車話、ネタ総合
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1290076425/
日本陸軍におけるM3軽戦車
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1282916593/
997名無し三等兵:2011/11/01(火) 15:45:36.45 ID:???
998名無し三等兵:2011/11/01(火) 16:14:09.53 ID:???
>>997
乙です!!


そして埋立
999名無し三等兵:2011/11/01(火) 16:54:45.24 ID:???
>>997
>>1000ドゾー
1000名無し三等兵:2011/11/01(火) 20:45:59.49 ID:???
第二次世界大戦前後のマイナー戦車話、ネタ総合3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1320129904/l50
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