まあ水城は城の価値以上に地形の価値が高いんだろうけどね。
現代戦においても、もし仮に福岡一帯で対着上陸戦闘やることに
なったら、あの辺一帯が防御の核心になるはず。
ついでに、水城〜太宰府一帯を占領されると、交通の要衝である
鳥栖が師団砲兵の射程内に入ってしまう。なんたる偶然の一致w
>>515 blogで福岡一帯の対着上陸想定ネタをやっていた
_屋哲さん乙w
日本史板の威力偵察くんが当初の予定通り(笑)撤退しちゃったからなw
ミリ哲もヒマになっちゃったね。
しかしまあ、文永の役は威力偵察>例として延々と日露戦争の話>近代戦とは概念自体が違う
の流れは、さすがにポルナレフ状態になったな()
とりあえずミリはブログ更新すろ。
>>491 ここだけの話だけど、少弐景資本人が劉復享を射たという話って、実は単なる書き間違い。
八幡愚童訓より成立時期の古い八幡ノ蒙古記では、部下に命じて射させてる。
八幡ノ蒙古記(1289年成立)
「その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、
究竟の馬廻に、弓の上手ありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、
おちたりけれ」
↓
八幡愚童訓(鎌倉末期成立)
「其時、景資ガ旗ノ上ニ、鳩翔リ舞シカバ、八幡大菩薩ノ御影向トゾ憑敷覚ケリ。
究竟ノ馬乗、弓ノ上手也シカバ、逸物ノ馬ニハ乗タリ、一鞭打テ馳延ビ
見帰テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男ガ真中射テ、馬ヨリ逆様ニ落シケリ」
>>488 第四回十字軍の場合、神聖ローマ皇帝のもとに亡命して来たビザンツ帝国の
皇子アレクシオスを復帰させることを名目にエルサレムからコンスタンティノープルへ
出兵先が変更され、さらに皇子アレクシオスを擁する十字軍とビザンツ帝国軍との戦闘でも
内応者の協力で戦闘中に開城。
アレクシオス4世が即位したものの、協力を得る時十字軍の軍資金を供出を約束し、
資金捻出のため増税したがこれが先代皇帝の娘婿アレクシオス・ドゥーカスは反乱を
起こして皇帝を殺害し、ドゥーカスも十字軍に捕らえられ処刑。アンゲロス王朝は断絶する。
文永の役とは事情が大分違う。
亀山天皇が兄の後深草天皇をクーデターで廃位し、後深草天皇の皇子、熈仁親王(伏見天皇)が
高麗とかに亡命し、文永の役の時に大元朝や高麗の遠征軍に一緒にやってきて、大宰府あたりで内応者が
あって京都に進軍、即位したとかそんな展開に近い。勿論、そんなことは文永の役では無い。
他の地域ではどうだか知らないが、モンゴル帝国の境域地域の鎮守軍が行う領域外への遠征としては
歩兵・騎兵合わせて3万前後は、割と普通。イラン鎮守軍で3万騎、同じくインド北辺のカシミール
鎮守軍でも2〜3万騎だから、格別多過ぎるという程では無い。
まともな水軍っていうとやっぱガレオン船が数十隻で編成されていて
後年アルマダと呼ばれる様になるのかな?
>イラン鎮守軍で3万騎、同じくインド北辺のカシミール
>鎮守軍でも2〜3万騎だから、格別多過ぎるという程では無い。
なるほど、では日本もその数で落とせるとして派遣したわけだな。
>>523 しかし僅か1日で逃げ帰ったら兵はともかく将は斬首に遭わないの?
九州で頑強な抵抗に会っても、占領した対馬と壱岐に籠もって援軍を依頼するのが妥当じゃない?
少なくともモンゴル軍は逃げ帰った訳で全滅した訳では無い
そうすると大軍が逃げ帰っるだけの船舶は無事なのだよね
台風や神風は迷信なんだし船舶被害は小規模に留まったはず
それが分かってるから幕府がその後も警戒したのかも
>>523 違う。
鎮戍軍の外征目的は、飽くまでもモンゴル帝国への服属を促すためのものであって、
帝国の外部地域を制圧→直接統治するものではない。場合によっては敵地の城塞や
都市を攻略・占領することもあるが、事情によりけりで、それ自体は目的では無く、
相手政権の軍を撃ち破ったり、戦利品獲得のため村落などで掠奪を行うのがメイン。
相手政権や現地勢力が降服でもしないかぎり、ダルガチを置くなどして統治政策を
はじめたりはしない。
こういったモンゴル帝国への服属を促すような遠征を、相手政権が降服するまで
鎮戍軍が外征出来る状況によって任意で何度となく行うのが通例。
現地勢力の降服が得られなかったら、戦闘での勝ち負けに関わらず本拠地へ帰還するし、
現地に駐留し続けることは稀。帰還するタイミングは大体、武器や糧食が尽きたりした
時だったようだ。
とにかく、鎮戍軍の外部遠征の場合は、外部へ戦利品の掠奪などして武威を示し、
敵地を荒した後、本拠地へ帰還することがメイン。それから帰還に前後して降服を促す。
というのがセオリー。
1230年〜1240年代のルーム・セルジューク朝とイラン鎮戍軍とのあいだの
キョセ・タグの戦いとか、同じくアルメニア王国、グルジア王国などとの戦闘なんかが
良い例かと思う。
それにしても、現地の軍隊を破って、補給が切れるまで
略奪し続けれると判断される、大兵力な訳だ
文永の役の場合は武威を示せていないから失敗したとみるべきだな。
530 :
名無し三等兵 :2009/12/05(土) 12:43:39 ID:F+XjPBtY
>>529 だな、たった一日で「矢が尽きた」筈なんてないし。
>>492 もう書き込むつもりは無かったんですが、どうやら絵詞さんが出てきたようなのでもう一度だけレスします。
絵詞さん。あなたは私の主張が全く理解出来ていないんですね。あなたの読解力のなさには驚かされます。他人のレスどころか自分のレスさえ理解できないとは。
> 誰が圧勝なんて言ったかなぁ?
などと書き込んだその同じレス内で、
> 元側は数の利を生かせず兵員の錬度の差によって負けまくり、
などと矛盾するような事を平気で書き込んでいます。元軍が負けまくったなら、当然幕府軍は勝ちまくった事になります。幕府軍が勝ちまくったなら、当然幕府軍の圧勝という事になります。この程度の事はあなたでも理解できますよね?
つまりあなたは幕府軍の圧勝だったと主張しているんですよ。理解できますか?
ひょとするとこれでも理解できないんじゃないかと不安です。もしあなたが
>>435のレスで私に見当違いな批判を浴びせた人と同じ人だったとしたら、たぶん理解出来てないでしょうけど。
あと、あなたは「必死で説得しはしたが」と言っていますが、
>>438や
>>440のレスはどうみても説得という態度ではありませんね。
あなたの考える展開とその論拠を求める私のレスにその後もまともに答えられないところから察すると、ただの苦し紛れの煽りとしか思えません。
もし違うと言うならあなたの考える文永の役の展開とその論拠について書き込んでみてください。
もう蒙古襲来絵詞だけが論拠でも構いませんから。
佐藤大輔が文永の役について文章書いてたな
「両軍共にたった1日で戦闘能力を喪失
両軍が下がったところに台風が来て蒙古軍あぼーん
幕府(鎮西軍)側は日が経てば更に援軍が期待できたので
台風がなかったとしても勝ってたはず」
「つまり、文永の役は神風のおかげじゃなくて、
鎌倉武士団と地域住民の必死の抵抗の賜物」
という内容だった。
>>531 池沼の長文は読む気がしないな。
あなたが文永の役であった、と主張する、
日蒙の主力が正面から激突して双方に多大な損害が出るような戦闘、
これについて明確に言及している史料をきっぱり引用してくれるかな?
これ以上あなたが自分の脳内妄想を披瀝しても、
あなたの池沼っぷりをますます印象づけるだけ。
文永の役に台風?
>>532 でも、その説明はおかしいんだよ。
元軍は一時的に下がったわけじゃなく、日本から撤退したんだから。
「台風がなかったとしても勝ってた」じゃなく、あきらかに日本の勝ちだろ。
>>534 10月20日夜半の嵐の事です。
台風というのは私の表現のアレというか誤謬を招くカキコですまぬ
>>535 えーとですね・・・要するに、佐藤大輔は
「"神風"が吹いたから勝ったんじゃなくて人の力で勝ったんですよ」
と言いたい訳です。
佐藤大輔がこれ書いた当時(1980年代後半)は
「神風のおかげで元寇を2回撃退しますた」
というのが一般的な見方だったですよ。
まあ、もれが説明下手なのはわかったので
「主砲発射準備よし!」で全文読んだほうがいいです。ええ。スミマセン
>>536 要するに佐藤大輔も史料の検討はやってないってことだね。
データマニアっていう評判も結局は
狭いゲーム業界内に局限されたものだったようだな。
>>537 もれの頭がアレでまと外れな説明になってるんだろうが
どこをどう見たら史料を検討してないっつー話になるのかわからん
もれが悪かったからどうか本文探して読んでみてくれ
ちゃんと史料検討してるからさ
本文ってのはもれのじゃなくて佐藤大輔の「主砲発射準備よし!」の方ね
蛇足だが
>両軍共にたった1日で戦闘能力を喪失
>両軍が下がったところに台風が来て蒙古軍あぼーん
駄文を読む気にならないから、一言でお願いしたいが、
この2点の根拠に佐藤御大があげている史料は何?
>>529 元軍が壱岐、対馬でした事を考えたら武威を示すのに失敗した以上は
敵地からさっさと逃げない事には、今度は元軍が略奪される対象になるからね。
上陸地に野営せずに船に帰ったのも、留守中に敵にしろ地元民にしろ船に火でもつけられて失うのを恐れたんじゃないだろうか?
軍板の住人なら進軍より後退や撤退の方が難しいのは理解出来るだろ
元軍の一夜での見事な撤退は潰走した軍隊では出来ない
はやり戦略的撤退と視るべきでは?
潰走したとか主張している人間は誰もいないが。
どこぞの日蒙決戦論者はいざ知らず。
戦略的撤退と言うならばそのとおり。
高麗史にあるとおり、これ以上戦っても何も得られないから、
決定的な被害が出る前に撤退した。
要約すれば、日本軍に完敗し、逆転の見込みも皆無なので逃げ帰った。
>>541 元軍が船に帰った理由は、日本と高麗の間に海があるせいで船に乗らないと帰れないからだよ
>>544 一夜での撤退が可能なほど潤沢な水軍を無傷で保有して帰ったってことだよな
前に水軍戦力消失したとかいうレス見たけど間違いか?
546 :
名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:08:32 ID:Z6gYHFHW
節子、文永と弘安がごっちゃになってるで
>>545 水軍戦力消失なんてレスはお前のレスしか見つからなかった。
もし本当に文永と弘安を混同しているなら100年ROMってろ。
>>542 正式に講和して撤退中に
約定破った敵の大軍に不意打ちされたにも関わらず
敵の大将ぶっ殺して悠々と大陸から引き上げていった島津は神だな。
見事な撤退ねえw
元軍が上陸作戦において百戦錬磨ならともかく、文永の役が初の航海遠征だからな。
買い被りもいいところだ。
いや撤退は見事でいいだろう。
世の中には決定的な損害が出るまで撤退してはいけない、
という馬鹿がいる。
文永の役ではチョンの将軍がそうだったし、
このスレでは日蒙決戦論者がそうだ。
余力がある中で、戦の帰趨を正確に洞察し、
チョンがブチあげた徹底抗戦論を論破して撤退した
モンゴル人は真のプロフェッショナルだと思う。
そういや高麗史には矢が尽きて困ったなんて書かれてないな。
官軍が整わないのはわかるけど。
>>544 つまり船につきっきりになってないと、武士や地元民ゲリラに船を襲われて失う可能性もあったんだろ?
>>335のレスに制海権消失とあったから900艘の船があぼーんかと思った
元軍の撤退が見事と言うなら、まさか上陸一日で撤退する作戦じゃなかったんだろうから
迎撃一日で敵を撤退させた北九州の地元武士の迎撃戦も見事と言えるだろ。
それがあって初めて元軍が撤退を考えたんだから。
>>549 初の航海遠征じゃないよ。
元軍は三別抄の乱鎮圧の時に珍島と済州島への上陸作戦経験済み。
>>551 高麗史にも一応、衣甲や弓箭を捨てちゃった者が多数いたという記述はある。
普通に考えれば、武器や鎧を捨てて撤退って、見事な撤退じゃなく潰走だよね。
それが「矢が尽きた」ってことだとすれば、モノは言いようだなって感じ。
結局の所、日本の戦い方はどちらかというと機動防御だからなぁ。
元が粘ったら攻勢転移して決戦に至ったかもしれないが。
あ、一応機動防御ってのは俺自身の判断で、何らかの文献に
そう書いてあるって訳じゃないんで。ただ、総合的に判断して
元軍を捕捉・撃滅するような行動はなかったと思われるんで、
現代戦術に照らし合わせたらそうなんだろうと。
現代戦術に照らし合わせると水城大宰府は海岸に近すぎ、
縦進が欠落していて機動防御に不可欠な要素を欠いているな。
専門用語の濫用誤用は恥をさらすだけだぞ。
>557
O−1ライン=O−3ラインになるぐらいの縦深ならともかく、博多港〜水城
一帯まで図上距離で13km程度の縦深なら、十分に機動防御できるだけの
地積は確保できるぞ。具体的には、東油山〜金隅一帯を確保、春日一帯に
誘致導入して打撃、って感じで。
流動的戦闘による遅滞、って意味なら地積は確かに足りないが。
>>558 秀吉の朝鮮征伐時の朝鮮側の縦深陣地と機動防御による対応と比べると浅すぎだな
朝鮮はあの時鴨緑江までの半島すべてで遅滞戦術を取り…
実際に戦ってみたら元軍相手に縦深陣地なんて必要なかった。
海岸に高さ2メートル程度の石垣作っとけば十分ってのが鎌倉幕府の結論。
>高麗史にも一応、衣甲や弓箭を捨てちゃった者が多数いたという記述はある。
へえ、それ気になるな。明日図書館行くから高麗史見てくるわ。
>>555 > 高麗史にも一応、衣甲や弓箭を捨てちゃった者が多数いたという記述はある。
? 『高麗史』のどの部分?
忠烈王世家や金方慶伝の文永の役の部分には見られないから、別の列伝にでも書いてあるの?
>>561>>562 気付き難い所なんだよ。
『高麗史』巻29 世家29 忠烈王2 忠烈王6年
「又た、昔、東征の時に於いて、五千三百軍の齎去せる衣甲・弓箭は、多くを棄失するあり。
僅かに収拾するを得、府庫に頓えしも支用に堪えず。」
岩波文庫の「高麗史日本伝」だと上巻P149
元寇って凄いイベントだったのに映画やドラマになった記憶がない
大河ドラマでも北條時宗でちょろっとやっただけだし
戦いそのものや現地で実際戦った武士を主役にした映画ってないな
日本への大陸からの侵略の脅威を簡単に警告出来る題材なのに
今は特にシナからの侵略の脅威がある
>>564 角川が50年前に作った映画で、『日蓮と蒙古大襲来』(1258年)ってのが
あるそうだ。長谷川一夫や市川雷蔵、勝新太郎なんかが出演したらしい。
NHKの歴史物の番組で、1シーンだけちょっと見た覚えがあるけど、
北条時宗っぽい烏帽子に狩衣着た人物が加持祈祷しているところと、
蒙古の船団が暴風雨で上下に激しくうねる海面に翻弄されている
場面が印象的だった。この映画自体は見たことが無いけど。
>>565 九州の武士を主人公にした映画が無いのか?残念
鎌倉時代の防人たちを主人公にして欲しいな
なんかその映画ヒロイックファンタジー仕立てになりそうな。
主役が鎌倉武士だと。
一騎打ち好きだし。
後ろじゃ巫女さんやら坊主が呪ってるわ。
なんと言っても今の日本映画だしW
>>567 主人公はジャニーズか妻夫木でヒロインは長澤とかメイサ
元軍や高麗軍に華流韓流スターを起用
ヒロインの巫女さんには佐々木希ちゃんを!
570 :
名無し三等兵 :2009/12/06(日) 12:34:50 ID:D2v7h+Q9
>>564 戦前(昭和16年)の「かくて神風は吹く」っていう映画もあったよ
外敵に対する戦意昂揚の国策映画だね。
見たこと無いけど・・・
対馬壱岐での残虐行為もリアルに再現するとR指定になる(笑)
>>564 だからこそチャンコロの犬どもがなおさら邪魔するだろうね。
>>567 このスレでまだ鎌倉武士が一騎打ちしてたと思ってるひといるんだな
>>567 元指揮官
「よ〜し、クソ野郎度も、覚悟は良いか!これより正面の小浜海岸へ上陸する!」
「後退は許さん!}
元兵「サー!イエッサー!」
上陸後
元指揮官
「こちら第一派上陸部隊!海岸防塁に阻まれ前進できません!」
「至急来援請う!」
日指揮官
「敵は丸見えだ!何処に撃ってもあたるぞ!」
「右翼!弾幕薄いぞ!ヘイ、ファイア!ファイア!ヒャーッハッハッハ!」
こんな感じですか?
弘安の役で博多湾にきたときは
陸継島以外には上陸すら試みてなかったんじゃなかったか
映画界(イーストウッド除く)なら、石塁に渡洋船突っ込ませる菊水作戦以外
予算が通りません(>_<)
海岸線が複雑で泊地に恵まれ防衛線が構築しずらい長崎や佐世保を主攻にすれば良かったのでは?
佐賀平野から筑後平野に進出出来れば数でまさる元軍が有利だと思うけど?
>>576 ハリウッド帰りのシナの監督だと自国の唯一の対日進攻作戦だし喜んで大作作るかも?
>>577 数で勝るのは日本のほうだけどね
一応日本のほうが少ない兵力(のような印象)になってたのは
文永の役では武士が集結する前に元が敗退したため
弘安の役では元軍がほとんど上陸できなかったため
だし
どうやれば元って勝てたんだろうな?
九州に橋頭堡を築けたら元軍にも勝機があるのれば
>>565 >>570 「日蓮と蒙古大襲来」は昭和33年(1258年って何だw)、
「かくて神風は吹く」は昭和19年の映画
制作は共に当時の大映、合戦シーンは半端じゃない人数が出てくるし
暴風雨の特撮も結構見ごたえあるが何しろ作品の背景が背景、
しかも大映の社長(永田雅一)が右翼で日蓮宗だっただけに
細々見てくと色々楽しいことになってるよw
(「かくて〜」は武具を作る光景がどう見ても軍需工場、「日蓮〜」はお察しください)
>>580 補給線が細すぎで大軍の維持が困難な状況では厳しいだろ
585 :
名無し三等兵 :2009/12/06(日) 22:05:17 ID:ts/T6cmt
>>582 戦闘シーンはいいってことだね?
日本武士団の奮戦は再現されてるのかな?
神風一辺倒じゃ情けない・・
>>584 日本は文禄・慶長の役で朝鮮半島南部を7年、十字軍は海岸沿いの都市を100年、
イングランドに至っては対岸のカレーを200年も維持してる。
中世の世界で海ほど太い補給線はないぞ。
>>585 「かくて神風は吹く」の方は戦中の映画だけに
全力で元軍を迎え撃つ→奮戦の末神風が止めを刺した的な展開だが
「日蓮と蒙古大襲来」は戦後の作だしタイトルがアレなので
元にボコられる日本→その時奇跡が起きた的展開…
文永の役で暴風雨ってのは『高麗史』のみなの?
文永の役で元軍が暴風雨に遭ったのは日本から逃げ帰る途中なのに、
「暴風雨のおかげで勝てた」というのはおかしいということ。
暴風雨は勝敗に全く関与してないじゃん。
>>580 陣取り合戦する限り元に勝ち目はない
現実的には元にできるのは一時的に大宰府を占領するのがせいぜい、
しかしいずれスタミナ切れで武士に奪い返されるので
そのたびに定期的に再攻撃して「いやがらせ」することだけだよ
それで幕府のほうが折れて朝貢
元にとってのハッピーな決着はこれ以外はほぼないだろうね
ただ、想像以上に武士は強気だったので、まあ何回やっても無駄だった可能性もかなり高いけど。
もし、それなりの勝利を元が獲てたら、
九州の諸侯を取り込む事も可能だったかも、
その後、その勢力を活用しつつ、
ドミノ倒しの様に勢力を拡大して行けば、
日本制圧も夢では無いかも。
嫌がらせでも侵攻を続けられば、御恩と奉公からなる、
鎌倉幕府体制は、恩賞不足で瓦解するのは、間違いないし。
まぁ一勝もできない上、遠征を継続でき無いんじゃ、
どうしようもないんだけど。
鎌倉幕府の封建制度だとワンサイドで決まるのが最悪、つまり史実は最悪のパターン(笑)
元軍が九州を蹂躙してくれてれば、滅んだ九州の御家人の所領を分配できるが
九州の御家人がワンサイドで防戦に成功すると恩賞が何も無い
鎌倉幕府滅亡の遠因は元寇における元軍の不甲斐なさにあったのかwww
朝鮮なんかと組んだせいで法則が発動したか
対馬や壱岐は元軍撤退以降どう復興してその後の防衛態勢を調えたのかな?
普通は当分は恐ろしくて対馬や壱岐には暮らせないだろう
>>597 それが百年ちょっとで李氏朝鮮の国を挙げての侵略を対馬だけで撃退するまでに回復したんだから凄いよね
>>598 対馬の国どころか一海賊だけで撃退したんじゃなかったけ?
私の御先祖の話ですね
韓国って歴史の授業とかで、高麗とモンゴルの戦いについて何教えてるんだろ。
情けなさ過ぎてそのまま史実を教えられるとは思えない。
モンゴル軍に攻め込まれた途端、国境守っていた武将が速攻で寝返って、高麗侵略の案内人になっちゃうとか、
ちょっと酷過ぎるよね。
しかも、どう考えても高麗へ攻め込んだモンゴル軍って1万超えてたはずないし。
>>601 殆んどページ割かない、というか、元に出兵を強制されたとか書いてるだけ。
高麗王の事とか無視してる。
さすが、都合のいいことしか書かない韓国ですね。
603 :
名無し三等兵:2009/12/08(火) 00:30:12 ID:frDRWFIt
というか漫画韓国の歴史は全体の三分の一以上が
日本統治時代の抗日運動(笑)だったぞw
よっぽどネタがねえんだなw
今の韓国人が美容整形に走るのはこの時代のせいだろ
毎年毎年多数の美人ばかりをモンゴルに献上させられたばかりに
ブスの遺伝子が異常に濃いのが韓国人だし(笑)
江南軍ってどうやって元の場所まで帰還したんだろ?半島から陸路かな?それとも船を修理して海路でかな?
>>605 江南軍の指揮官は無事だった東路軍の船に乗せてもらって半島へ行ったんだから、そこからは陸路だろ。
それ以外の兵10余万は日本軍の攻撃で全滅し、帰還できなかった。
>>606 ウヒャ!十余万の大軍が全滅なんて正直有り得るのかなぁ?
>>607 日本軍の攻撃で江南軍10余万全滅は、「元史」「高麗史」「元韃攻日本敗北歌」など
複数の史料で一致してるから、実際にあったんだろ。
>>607 正直海ならありえるよな・・・
帰ってきたって記録が残っていないからな・・・
当時の船は今の漁船より遥かにチャチ
ちょっと波が出れば船体が持たない。
海上で待機してたらちょっとした低気圧でも全滅しかねんぞ?
>>610 海で全滅したんじゃない。
台風の後、船が無くなって九州近海の島々に取り残された10余万が、日本軍の攻撃で全滅したんだよ。
日本軍のヒャッハー!タイムですね。
>>605 鷹島に取り残されてるわけだから
逃げ場がない
5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日 志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北
十余万も首があったら恩賞が足らない訳だ(笑)
壱岐対馬に追撃したついでに半島南部や済州島まで攻めないと恩賞にする土地が無い
モンゴル帝國が十余万の遠征軍を一挙に失うなんて他に例があるのかな?
防衛側の幕府軍の動員した兵力も十万も無いのでは?
渡航進攻作戦って難しいな
渡航そのものは成功しているので
単純に彼我の実力差を読み間違えたモンゴルのミスだろう
渡航進攻作戦が難しいというより日本侵攻作戦が難しかったと
大陸側の海から見ると日本列島は実際よりかなり小さく見えるそうな。
韓国人の中に日本列島が朝鮮半島より小さいと勘違いしてる人が多いのもそのため。
多分、元は日本を海南島や済州島と同じような感覚で
征服できると踏んだんだろうな。
実際には中世の日本はイングランド+フランス以上の
国力と総動員兵力を持ってたんだがな。
>>617 それは有り得ないと思う
フビライは優秀な皇帝だ
見誤りがあるとすれば
騎馬戦外での自軍の実力だな
>>615 モンゴル軍というよりは第二次大戦の枢軸側でいうところのルーマニア軍とかイタリア軍だったのでは?
勝って当然でしょ。
>>618 日本へ派遣した使者が事前に作戦中止を求めたのに、それを押し切って実行した揚句、
2回とも戦死者が万を超える大敗を喫したんだから、フビライに弁解の余地はない。
それに、元寇で元軍は騎馬兵を大量投入した上で負けてるわけで、騎馬戦も大しことなかった。
621 :
名無し三等兵:2009/12/08(火) 14:20:58 ID:KpRJfDom
馬は何頭位運んだんですかね?海上輸送で馬の飼葉と水だけでも結構な量だと思うが。
>>620 思い上がりも酷いな、そりゃ
騎兵の運用に不向きな土地で戦えば、本領発揮できなくて当たり前だろ
日本で騎兵の集団運用が発達しなかったのはコストの問題だけじゃないぞ
>>621 1271年に高麗に対日遠征軍の騎兵6000騎が配備されてるから、最低でもその程度はいたんだろ。
元艦隊900艘は糧量7200トンを輸送可能だから飼葉や水は問題ない。
>>622 日本で武士が支配階級になれたのは騎兵の集団運用が発達したからだよ。
倭寇でも高麗は対馬海峡越えて暴れまわる日本騎兵の集団運用に苦戦してる。
元軍歩兵は騎兵に劣る二線級の部隊なのか?
「騎兵」の話になると必ずこういう勘違いが起こる。
日本にいなかった騎兵はシルバリであって、日本語そのものの意味での「騎兵」は普通に存在している。
しかし10万人も鷹島などに取り残されて殲滅戦喰らう前に潰走した軍を立て直せなかったんだろうか?
関ヶ原並の大軍勢だぞ?東軍・西軍に対抗して蒙古軍として登場して勝ったら天下取れるぐらいの
大兵力なのに・・・・指揮官無能すぎね?
ちなみに関東一円を支配していた徳川家康が直接つれてきたのは3万人。
事実上の天下人でさえ、3万人を動かすのが精一杯。
向こうも江南・高麗・モンゴルらの連合編成と言え10万人。
まー補給無い軍は脆いと言う事かもしれないが。
629 :
名無し三等兵 :2009/12/08(火) 22:05:07 ID:VkiJ0IAK
狭い鷹島に万余の軍勢がひしめいたらあっという間に食糧不足になるだろ
しかも長い船上生活で弱ってフラフラだし。
その上船団は壊滅・逃走して士気も阻喪しているから、
掃討は苦もないんじゃね?
むしろ何もしなけりゃ勝手に餓死するが、討伐に向かえば味方に被害も出るわな。
自業自得だが、長期間上陸できなかったせいで疫病も流行っていた。
根こそぎぬっ殺したわけでなく、旧南宋人は捕虜ですんだのでは?
>628
当時、徳川家の主力を率いていたのは息子じゃね?
戦争下手で決戦に遅参したがw
>>632 内政では結構優秀だったから、あれで良いのでは?
どうせ家康には敵うわけないのだから
>>632 家康がどれだけ率いて関ヶ原にいったのかは知らんが。
確か秀忠の軍は2〜3万だったはず。
今から考えてみると、鷹島に退却したのは最悪の決断だったのかもしれんな。
10万人の将兵支える糧食があるわけがないのだから、損害を覚悟してでも
上陸して橋頭堡築くべきだったのでは。
補給さえ確保できれば10万人の軍をそう容易く撃破できん。
時代が変われば天下を取れるような軍が寸土すら得られず大半が殲滅されるか、
捕虜になりましたってひどすぎね?
せめて対馬ぐらいは放棄せずに、実効支配を続けていればまだ次につながっていたのでは。
>>627 仕方がない
この時点で主要な三人の指揮官(ヒンドゥとか洪茶丘)は味方を見捨てて残った船で逃走してる。
五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、
士卒十余万を山下に棄つ。
衆議して張百戸なる者を推して主帥となし、
これを号して張総管といい、その約束を聴く。
方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。
七日、日本人来り戦い、尽く死し、余の二、三万はそのために虜去せらる。
637 :
名無し三等兵:2009/12/09(水) 08:52:11 ID:t8krsahW
アイシャルリターン(笑)とも言わず、部下を棄ててさっさと逃げ帰ったのか。
たいした指揮官だな。
百姓一揆でも数万集まれば鎮圧には数ヶ月を要する
加賀の国など一世紀近く一向宗に占拠された
いくらなんでも訓練を受けた兵十万が、壱岐対馬平戸を中心に肥前北部海岸も占拠出来ないなんて
人選を誤ったな。
モンゴルの将軍でマヂで恐ろしいのは郭侃、バヤン、史天沢。
このあたりはマヂでいくさがうまい。
長期の外征や水上戦の経験、ノウハウもある。
少なくとも、味方を見捨てて10万の大軍を損失させるような事は
なかったのでは。
640 :
名無し三等兵:2009/12/09(水) 11:45:52 ID:QuHEqR6D
相手がバヤンなら棄民説厨も涌かなかっただろうね
日本を舐めて2線級の指揮官に大軍を与えたとはフビライは乱心したのか?
皇帝に成るために権謀の限りを尽くしたフビライとも思えんな
他のハン国への手前大敗はヤバイだろ
>>638
島原の大乱で3万七千人の百姓軍だったからな・・・・
>>642 島原の乱の時にはオランダ船に海上砲撃まで要請してる
>>639‐641
それって結果論なんだよ。
バヤンだって南宋戦に大抜擢されるまでは全く無名の武将だったんだから。
元寇の指揮官は日本にボロ負けしたせいで2線級と評価されてるけど、洪茶丘や劉復享だって
対日戦以外では大活躍してる。
もし、元寇がなかったら後世では名将扱いされてただろ。
ベトナム攻めの人が名を落とさなかったのは
それまでの実績があまりに凄すぎたからだろうね。
スブタイ並みにあっちこっち行ってるし
范文虎が激怒したフビライに処刑されたという話の出典は何?
>>645 ウリアンハダイはベトナム攻めに成功したから名を落とさなかったのは当然。
ベトナムは日本と違ってモンゴルに攻め込まれて属国になったから。
>>647 一応降伏したあと直ぐに離反したんだっけ?
>>648 1258年に降伏してから1285年まで20年以上属国状態だったよ
遠征軍の将軍にすれば、精兵十万が海の藻屑になったらヤバイよな
逐電するしか無い
一般的に海峡両岸を違う勢力が支配した場合
海峡内にある主要離島は分け合う形に成りやすい
しかし、対馬海峡は完全に日本側だけになっている
度重なる外寇にも関わらず対馬が半島側に属した期間は一度も無い
>634
秀忠は確か3万数千、家康は3万前後でそれほど差がないが、
大垣城への備え等で兵力を割かれて、実質2万弱「という説も
ある」ってレベルかな。
あと、家康が率いていた軍勢には、大身の譜代の家臣が少な
かったという話もある。秀忠配下には2万石以上が7名、一方
家康配下には2万石以上は3名。
まあ、いずれにしても本筋にはあまり関係ないし、ましてや
元寇には全く無関係だなや。すまんかった。
鎌倉幕府軍から半島南岸や済州島への攻勢防御をすれば御恩と奉公が成立できたのでは?
>>654 半島への反撃も立案されたけど中止になった
>>654 一応、幕府側も文永の役に対抗して高麗方面へ侵攻する計画が出たらしいんだけど、
結局お流れになった。当時、日本で使われていた船では、大兵力を渡海させるのは
数量的・技術的に無理だったから取り止めになったんだろう、と言われているみたい。
> 一昨年出た「戦争の日本史」シリーズの『蒙古襲来』とかでも触れていたと思う。
仮に異国征伐が実行されていたとして、日本は実際に元と高麗から攻撃受けてるんだから、
その根源地を叩くのなんて自衛権の範囲じゃん。
ところが驚くことに日本の中世史の学者連中は、これを「侵略主義」だと言って鎌倉幕府を
非難してるんだぜ。
何で元寇でまで日本が「侵略主義」だと非難されなくちゃいけないのさ?
元と高麗が日本に攻めて来たことには、「侵略主義」なんて言葉を使わないくせに。
三別抄の乱の時は、鎌倉幕府が朝鮮半島へ派兵しなかったとことを非難してるくせに。
とにかく日本を非難してさえいればどんな滅茶苦茶な理屈でもまかり通る・・・
こんなふざけた連中に、まともな学術研究なんて期待できない。
>>647 いや、スブタイの息子じゃなくて郭侃さんの方。
この人もモンケとかフラグの副将として、あっちこっち行ってるし。
>>652 よく、対馬の領主が朝鮮の官位を持ってた事を理由に
対馬が日本と朝鮮の両国に属していた
と主張するバカがいるがとんでもない話だ。
あくまでも
日本の中央政府=本社
対馬=支社
朝鮮=取引先
なわけで。
対馬の領主宗氏は元々は小弐氏の家臣だし
朝鮮が攻めてきたときは300ばりの活躍で撃退してるが
秀吉の九州征伐ではあっさり従った上
唐入りの時は日本の正規軍として参戦。
朝鮮に属していた事実はどこにもない。
>>659 陛下より大勲位を授与されたアーレイバーク提督が海自の提督になったみたいな話だなw
飛鳥時代までは半島南岸にヤマトの勢力の領土が存在した。
半島への進出はレコンキスタ(国土回復運動)だろ。
おまえらなら、当時の日本を制圧するのにどういう云うふうに攻めた?
ネタを振りたいならまずは自分の考えを書くもんだ。
高麗軍
釜山→対馬→壱岐→名護屋→博多→太宰府
江南軍
済州島→伍嶋→平戸→佐世保→長崎→諫早→佐賀→鳥栖→太宰府
俺なら高麗軍を陽動に使い江南軍で裏から太宰府を攻めるな。
主力はあくまで江南軍なんだから安全な橋頭堡を九州に設けることを優先する。
佐世保や長崎などは大陸からの補給拠点に最適だし
水軍の船舶も佐世保湾内に停泊させていれば暴風雨の被害も少なて済みそうだ
また空船を玄界灘や八代海を航海させれば兵力の集中を阻害出来る。
>>662 まず朝廷を調略します。つぎに九州の豪族を調略します。
3万で攻めたら1日で負け10万で攻めたら上陸すら出来なかったので力攻めは無理です。
内から切り崩すのです。
666 :
名無し三等兵:2009/12/10(木) 15:46:12 ID:92efjh+e
>>662 国家転覆には、まずは子供たちから。
教育現場にシンパを獲得して、次世代に親蒙古イデオロギーを植え付けていくわ。
>>666 今リアルタイムで日本がされてることじゃねえかw
668 :
名無し三等兵 :2009/12/10(木) 21:42:46 ID:hTnRk/Zt
>>657 まったくだ。
左巻連中はとにかく日本を悪玉に仕立てて喜んでる基地外共だからな。
一方支那・朝鮮については証拠があることでも決して悪く言わない。
売国奴・国賊とは奴らのことだよ。
対馬や壱岐など離島を占領したあと九州本土には侵攻せず
幕府軍にプレッシャーを加え財政的に疲弊させる
>>669 大軍を壱岐対馬に維持するのは大変だろう。
かといって小勢では逆襲が怖い。
結構難しいんじゃないかな。
>>664 当時の元や高麗がまともな日本地図を持っていたとは思えないのだが・・・
>662
もう少し武士達の経済的疲弊を待ち、その間倭寇(というか
商人か)を取り込んで経済的に優位に立たせ、内乱を誘発
してそこに介入する。
旧渤海ルートで豆満江河口から津軽十三湖湊へ渡り東北地方から関東を目指す
藤原や清原や安東の残党を吸収し、白河関から関東を席巻一気に鎌倉を突く
674 :
名無し三等兵:2009/12/11(金) 08:14:11 ID:7VvnZVN+
異国征伐といえば、「石築地はもともと征伐の拠点として築造された」
という説があるそうだが、これってどうなの?
>>671 そういえば、モンゴル帝国が作った世界地図の日本は大宰府だけが特別に赤い丸で囲まれてるらしいな
>>673 何気に北方ルートもアイヌ人らの抵抗で失敗してなかったか?
>>675 世界史板のコテの山野が元寇の数年前ぐらいに朝廷に
怪しげな商人どもが出入りしていたというレスをしていたな。
たしか本人文献で実際に確認してたはず。
山野にきいてみると良いが、モンゴルは対日攻略前に
間者を相当日本に放っている模様。
>>676 それは日本を狙ったわけじゃない。
しかも作戦は成功。
元軍はアイヌをサハリンから追い出した上、1308年に降伏させてる。
>>678 農耕も牧畜も出来ない樺太を占領して何に成るのかなぁ?
狩猟採取生活で縄文文化を守って来たアイヌを征服して何に成るのか?
まさか樺太で採れる燃える水や燃える石が狙いか!
毛皮や海産物を献上させたり色々価値はありますが
特にオコジョの毛皮や海東青という鷹狩り用の鷹の価値が高かったらしい。
サハリンが元軍に占領されていたことは、最南端に白主土城という元の城跡が残ってるから
疑問の余地なし。
樺太南端から肉眼でも見える北海道に侵攻しなかったのはなぜ?
北海道の方が樺太より豊かな土地なのは誰の眼にも明らか
そして北海道より日本の東北地方がさらに豊かな土地なのも明らかだけど
時代は下るが奥州藤原氏の比の富みすごいもんな
黄金の国ジパング伝説の元ネタという話もあるし
時代は下る?なんか日本語もカタコトだし、貴方はどこの人?
あおりはいりませんよ
比の富み?
しつこいね タボハゼなみの雑魚うぜぇ
海東青ネタってずっと昔に女真の空を飛んでいる海東青がなぜ明にいくのか?
国民よ立て!って感じで井上由美子が摂政王ドルゴンでネタにして
いたね。
「タボハゼ」も意味わかんねーよw
馬鹿なのかカタコトなのかはっきりしろw
>>682 距離的に限界だったんじゃないの。
アムール川下流域にある東征元帥府自体、水運が利用できるのが暖かい季節のみで
維持が大変だったみたいだし。
そこから目一杯背伸びしてサハリン南端がやっとだったってことでしょ。
でも、海東青がいるから樺太とった説おかしくね
金倒しちゃっているんだから、行く必要ないじゃん。
>>689 おまえうざいからどっかいけ
煽りしかできないカスいらねえ
>>693 だから「比の富み」ってなんだよ。
工作員の先生にちゃんと日本語教わらなかったのか?
それと奥州藤原氏は元寇から時代を下ったって現われねーよw
要するに元寇より前の時代になるが、ということだよ<時代が下る。
どうでもいいが粘着レス如きでスレを消費するなよカス。
いい加減に消えろ。
しかし十余万の大軍で九州すら落とせないとは情けない
>695
正しい日本語では、「時代が下る」は「後世」だよ。
本当に日本語わからない人なのかな?リアル工作員?
ただのリア厨かもしれんがw
元軍はなんであんな小島に撤退し自滅したのかなぁ?
武士に追い立てられて他に逃げ道がなかった
702 :
名無し三等兵:2009/12/12(土) 16:57:57 ID:b5eSXpOt
1389年の高麗による対馬侵攻は「高麗の将、朴イが対馬を攻めて倭寇船300隻を破壊した、以後倭寇は激減した」
としかわからないのですが 、日本側ではこの時の記録はどうなっているんでしょうか?
応永の外寇のようには詳しくわからないもので。
703 :
名無し三等兵:2009/12/12(土) 17:39:13 ID:ZtiDT4cg
実は初期倭寇の正体は日本の武装商人。
日本が相場の4倍の値で金を売り付け、絹等を現地価格の1/20で買漁るという超不権衡貿易。
断ればたちまち倭寇になって暴れ出す。
仕方なく明は足利義満に懇願し貿易船は公認の勘合印章を持ってなきゃ駄目ということで話をつけたが
勘合印章を司っていた大内氏が実は倭寇の大本締だったというオチ。
その後、段々と倭寇たちも経済的に恵まれてきて大陸で悪さをしなくなっていく。
幕府の取り締まりもきつくなり普通に貿易だけするようになる。
そのかわり当の大陸の人間や朝鮮人が倭寇を騙って略奪行為をするようになる。
それだけ日本人=恐ろしく強いっていうイメージが定着していたわけだね。
「ウリは日本人ニダ!」ってハッタリかますだけで勝手に相手が降伏してくれるんだからこんな楽なことは無い。
前期倭寇が海や川沿いなど水路のあるところで活動しているのに対し後期倭寇は現地人なので内陸で暴れている。
対馬は倭寇の根拠地じゃ無いしなぁ。
そこの船を何隻焼き払っても倭寇が減るはずが無い。
705 :
名無し三等兵 :2009/12/12(土) 19:01:38 ID:nDh+bzs4
実際はチョンは対馬の漁船を燃やして住民虐殺しただけだろ
やつらは昔から誇大虚言癖があるからなw
前期倭寇は対馬も根拠地の一つだったみたいだぜ。
後期倭寇の本拠地は済州島
メンバーは済州島に残ってたモンゴル人と朝鮮人と漢人の混成
>>681 一応、最近白主土城などの樺太の「方形土城」についての考古学的な発掘報告が
いくつか出ているみたいだけど、(まだ自分も全部の報告に目を通した訳じゃないが)
白主土城の成立年代は実はいまいち良く分かっていないらしい。(2004年度の報告だと)
発掘された土器・陶器片などが大元朝時代の物よりも、須恵器などの特徴が金朝時代の
特徴を持っていたり、オホーツク沿岸で10〜11世紀に流行したパクローフカ文化期の
文物が出土していたりするようだ。従来から大元朝時代のものとの見方もある白主土城だが、
どうもそこら辺は怪しげな雰囲気。
あと、金〜大元朝時代の方形城址の特徴としては、四辺の方形の外郭の中央に門を設け、
┏━
╋━━━┛ ━━━╋ という感じに門の前は土塁と堀を「鉤の手」型にするのが普通らしいが、
白主土城の場合は、
┏━━━ ━━━┓ という感じで、門は無防備な状態になっていて、砦としての機能から
すると防御性に疑問がつく。これは樺太の他の「方形土城」にも共通して見られる特徴だそうだ。
そもそも「白主」という名称が、アイヌ語で「日和見する場所」を意味する「シル・アン・ヌ・ウシィ」
あるいは「岩があり漁も多い場所」を意味する「シラン・ヌ・ウシ」、「岩がたくさんあるところ」を
意味する「シラル・ヌ・ウシ」など、いずれも主に交易や船に関わる語彙で解釈できることもあり、
白主土城も間宮林蔵らがアムール川のデレンで見た満州仮府のような朝貢・交易のための方形施設との
関係性を推測している。そのため、報告では「サハリンの土城は交易のための非日常的な場とみて
おきたい。」と推論をしているようだ。
そうだとするとアイヌ語→漢字訓読みで
「白主」という表記になったというのか?
>>709 幕末の探検家たちがいくつか白主土城をスケッチしているそうで、
秦檍丸『蝦夷島奇観』(寛政12年 ・1800年 )、
松田伝十郎『北夷談』(文政5年・1822年。文化5年・1808年の調査に基づく)
松浦武四郎『再航蝦夷日誌』(嘉永3年・1850年)
間宮林蔵『北蝦夷図説』(安政4年・1857年)
小林豊章『唐太島東西浜図』
などに「白主土城」の絵が描かれているそうだ。この頃から既に樺太南端部を
「シラヌシ」と読んでいたらしい。
>>708でも書いたが「シラヌシ」という名称の語源については諸説あるらしいが、
帆船が停泊する「日和待ち」の意味と解する説もあって、実際に樺太南端の
白主(シラヌシ)は「帆船時代の停泊地としては好適」としている論者もいるとか。
(小川運平説)
ちなみに、松田伝十郎『北夷談』(文政5年・1822年)の「白主土城」の姿は、
「『シラヌシ』より去る事凡一里許東海岸に字『グイ』称する所あり。其処に砦の旧趾あり。
夷語にチャシと称す。凡三百間四方にして、三面に堤を築き、前一面は堤なし。三方とも
堤の下ことごとくから堀にて、今に其あと連綿としてあり。所の老夷に尋るに、
『何のとき、又何ものヽ造るにや年月は勿論砦主どもしるものなし』。其製『嶋夷の作る処に
あらざる』ゆへに図を顕す。左のごとし。(又老夷いふ、昔胡人作ると云伝ふ)」
とあって、19世紀初めは、「白主土城」は「グイ」とか「チャシ」と呼ばれていたようだ。
そもそもアイヌ語の「チャシ」自体が柵や壕で取り囲んだ儀礼などを行う特別な場所を
意味していて、「シラヌシ」とも意味的な関係もあるみたい。
戦前の調査でも海岸部に面した部分に土塁と壕を欠いた「コ」の字型の遺構だったそうだが、
内陸奥面の土塁と壕はソ連時代の整地で破壊されたそうで、近年の再調査によると現在では
「┃ ┃」みたいな形状になっているとのこと。
樺太の土塁は渤海時代より歴代の沿海州の支配権を得た歴代王朝による樺太の交易窓口として利用されてきた
改修されていたってこと?
713 :
名無し三等兵:2009/12/13(日) 04:04:28 ID:rTWLKFwK
モンゴル側の根本的かつ決定的な失敗は、そもそも博多しか着上陸地点を選べない事
多数の守備兵が守る所に正面からごり押しして上陸作戦なんて、常識的に考えれば愚の骨頂
モンゴル軍の博多への強襲揚陸作戦失敗を見て
米軍は硫黄島や沖縄以外への上陸を見送ったのかな?
対馬と壱岐を落として九州には攻め込まないのが正解
>>713 元軍も一応多数の守備兵が守る所に博多正面は避けて上陸地点を百道原や志賀島にしてるんだよ。
でも、元軍と日本軍では戦闘力が違い過ぎて話にならない。
あの細い海の中道から志賀島攻撃しても日本側は兵力の逐次投入しかできないはずなのに、
何で元軍は撃退されちゃうのさ・・・
>>713 >常識的に考えれば愚の骨頂
当時に正確な日本の地図があればその通りだ。だが現実には・・・
やる気も戦闘力もねえ高麗や南宋の投降兵主力じゃそんなもんだろ。
ただ壱岐対馬の虐殺見るように自分より弱いものにはとことん冷酷非道な連中、昔も今も。
718 :
名無し三等兵:2009/12/13(日) 22:47:30 ID:M2s8lTSR
aaa
日蒙間で戦闘力に圧倒的差があるのなら
なぜ対馬や壱岐や平戸はあっさり失陥したのか説明がつかない
後年の楠木正成の様に剣峻な拠点に籠もれば抵抗活動は出来たと思うが
特に壱岐はしっかり防衛態勢をとって迎撃したはず
衆寡敵せずとはいえ博多攻防戦に比べて余りにあっさりしてる
>>719 対馬や壱岐はそんなにあっさりと陥落したわけじゃないだろ。
文永の役では攻略に何日も費やしてるし。
弘安の役でも康彦・康師子等、高麗軍の結構上層部に戦死者がでてる。
圧倒的な兵力差を考えれば大善戦だと思うが。
>717
やり返せ。
>>720 大兵力なのは事前に分かっていたのだし
普通は時間稼ぎに籠城するだろ
南宋の襄陽城の様に長期間籠城する戦略があるべき
>>722 そんな良戦略がほいほいと簡単にでてくるか馬鹿w
>>723 モンゴル軍の前歴を調べるくらいは鎌倉幕府もやっている
むかしの侍の方が戦略感は優れているだろ
>>725 孤島で長期包囲戦をする方がはるかに困難だが?
727 :
名無し三等兵:2009/12/14(月) 16:33:33 ID:FfcXCawO
まあ確かに、約200年後に
ほぼ同数で朝鮮軍が攻めてきた時は
現地の住民だけで一方的に朝鮮軍をフルボッコ
することができたのと比べたら
あっさり陥落しすぎと言えるかも
>>724 残念ながら、昔は今と違い情報を集めるのが困難です
729 :
名無し三等兵:2009/12/14(月) 17:58:14 ID:+1KP88va
孤島だけならともかく本土進攻を前提にして攻城兵器無しって、元軍の総司令官ってどんだけ相手を舐めてたのさ。
って言うか、アレ位の戦力差があってなお抵抗されるって時点で(調略)の二文字は元軍には無いのかと。。。
回回砲は持ってきてたろ。
731 :
名無し三等兵 :2009/12/14(月) 21:28:54 ID:JU5cu5OO
当時の築城技術を調べ直してこいよ
当時の城はまだ館や臨時の砦の域を出るものじゃないんだから
本格的籠城なんて不可能だろJK
>>731 飛鳥時代に唐の侵攻に備えて造られた高安城など完全な山城ですが?
楠木正成の赤坂城千早城も館状態に見えるが縄張りが山城の造り
戦国時代の城と遜色ない
佐竹氏が篭った金砂山城も頼朝が正攻法で攻めても落ちなかった。
>>729 攻城兵器というのは基本的に現地製造の代物が多い
あと、上陸時攻城兵器を展開するエリアを確保出来なかった・・・砂地でどうしろと?
船上に搭載していたタイプは射程も威力もたいした物でないのであまり役に立たない・・・
結局兵隊の力押ししかないのだろうな・・・ろくな地図もないしなw
調略にしても、まず実力を見せてからじゃないと、
やりようが無い気がする。
>>735 高麗では、モンゴル軍が攻め込んだ初っ端に国境守ってた武将が領民引き連れて寝返り、
以後モンゴル軍の高麗侵略の先導役務めてるんだぜ。
>>736 それは、近隣での戦いを漏れ聞いて、
モンゴルの強さを知ってるからなのでは、
陸続きだし情報は格段に多いと思う。
>>719 平 景隆軍も100騎たらずで丸一日戦ってるわけで、その後、自害している。
籠城しようと思えばもっと粘れただろうが、最終的には多勢に押し切られるのがわかりきってるわけだから
思い切り戦ったあとは敵の手にかかるぐらいなら潔く自害というのは武士の思考回路としては普通だと思うが。
>>738 たぶんその思考が実態なんだろうけど
上杉軍の魚津城や二次大戦での硫黄島みたいに本国防衛体制の為に時間稼ぎをする発想は無かったのかな
まあ結果として時間稼ぎするまでも無く撃退できたんだけど、それなら無駄死にじゃね?
俺にいわせりゃ
大宰府攻略にさしたる影響のないこんな小島で
寡兵の猛者達の相手させられた挙句、返り討ちにあって死んだ元軍兵士のほうがはるかに無駄死だとおもうが…
というか対馬にせよ壱岐にせよ
「とにかく一日持ちこたえよう」という強い意思は感じられる戦い方だよね
つまり、大宰府に報告を届けるまでの時間稼ぎという点では十二分にその役を果たしたともいえる。
741 :
名無し三等兵 :2009/12/15(火) 21:54:06 ID:HNrOdGGi
>>739 当時の国民に国家意識なんてないから。
それに武士道は「命を捨てて名を残す」のが華だし無駄死とも思わないだろ
高麗ってモンゴルに領土切り売りして保身に走る奴が続出して、
モンゴル領のパッチワークみたいな状況になってたしな。
チョン半島は人民が最低な為、首都から近いにも関わらずモンゴルも直轄領にしなかった(笑)
元寇は高麗と南宋の征服軍人の棄民の性格は完全には否定出来ない
745 :
名無し三等兵:2009/12/16(水) 10:20:21 ID:DT1gjn9X
棄民のつもりが海軍力の大幅削減になったでござるの巻
モンゴルの性格からして棄民はあり得ないな。
遊牧民って土地の所有には固執しないけど、人とか家畜とかは彼らにとって全財産だからな。
朝鮮や中国の土地だけ支配して、その住民を捨てちゃうなんてのは彼らのアイデンティティーの
真逆の政策だろ。
>>746 人口が稀薄な草原と人口が多く定着性が強い温帯とは価値観が違う
直ぐに裏切り兼ねない民族には違った対応をするだろ
海軍なんかもモンゴルからすれば貰い物で失ってもそれほど重要では無いだろ
>>747 海軍は重要だろ。
フビライは手に入れた南宋艦隊使って東南アジアからインド洋へ支配領域広げようと意気揚々としていた
矢先なんだから。
陸路征服できる国はほぼ征服し尽くしていたし。
モンゴル帝国は膨張し続けてることが求心力になっていたわけで、海軍失ってそれ以上の膨張が
望めなくなると没落も早かったよな。
>>748 インドシナやインドはまだ陸路で攻めればいいじゃないか
皇子時代にフビライ自身が南蛮征伐に行ったはず
本格的海軍など日本以外は不要だよ
ジャワ、スマトラも島伝いに小舟程度で渡れる
『中国史のなかの日本像』 王勇著
「また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、
その結果として海防の弛緩を招致してしまった。十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。
注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。」
751 :
名無し三等兵:2009/12/17(木) 00:16:30 ID:B+rQ+8In
まあ棄民説なんて元軍が鎌倉武士に
完全敗北した事実を認めたくない奴の戯れ言だろ
大軍で攻めて九州すら獲れないなんて恥ずかしい
日本が常識はずれに強すぎたんだからしょうが無い。
>>749 フビライが陸路インドを攻めるためには、ヒマラヤ山脈越えなくちゃいけないんだが。
それに海軍なしで東南アジアを征服するなんて、兵站の負担が大きすぎて無理。
現実には中国の隣のベトナムですら本格的海軍が必要不可欠だった。
元のベトナム侵攻が失敗した理由は、弘安の役の大敗のせいで海軍が極度に弱体化してたからだよ。
>>754 雲南から大理を攻めて大理を拠点に南越やアユタヤやビルマを攻めたらどよ
ビルマを拠点にヒンドスタン平野に侵攻すればよい
もともとモンゴル軍はペンペン草作戦なんだし兵站負担は少ない
基本的に現地調達現地消費の地産地消だろ、夜伽の相手から食料まで
756 :
名無し三等兵:2009/12/17(木) 12:52:58 ID:B+rQ+8In
なるほどこれがゲーム脳か
これがホントのジンギスカン作戦かw
ジンギスカン作戦って東南アジアの密林でやると悲惨な結果になるでしょ
759 :
名無し三等兵:2009/12/17(木) 15:15:45 ID:r3BDjAEJ
台風後、生き残った数万の元軍に鎌倉武士がおこなった殲滅戦は凄惨を極めたそうな。
ちなみに甲冑で比較すると江戸時代の武士より鎌倉武士の方が体格がよかったそうな。
>>758 ジャングルは小動物や果物など食料の宝庫だから何とかなると思う
まあ食料より疫病で全滅
761 :
名無し三等兵:2009/12/17(木) 15:36:45 ID:r3BDjAEJ
大量に出土された鎌倉武士団の遺骨によると、
彫りが深い顔立ちで頭は長頭で身長に対して手が長く骨太で筋肉質などのやや縄文人的特徴が残っていた。
大腿骨から判断されたかぎりでは平均身長は160程度とされている。
体格で鎌倉武士団が元軍に劣っていたことはないだろう。
このゲーム脳は前にいたのと同じかな?
>>761 今でも毎年10万人近いチョンやシナ人による日本人遺伝子劣化事業をやっている
帰化や結婚でどんどん弥生化してる
764 :
名無し三等兵:2009/12/17(木) 19:04:16 ID:B+rQ+8In
現代日本人より明治の日本人のが
目鼻立ちがくっきりしてるしね
>>760 2〜3人ならなんとかなるけど、師団規模になるとジャングルから食料を得るのは無理。
766 :
名無し三等兵 :2009/12/17(木) 21:32:54 ID:KTF2WQ5R
>>760 そういうつもりで行った結果が「生きて帰れぬニューギニア」だった
わけだが。
>>760 ジャングルが食料の宝庫って凄まじいゲーム脳だな。
ジャングルで何を食うの?その辺の葉っぱ?木の幹をはいだ皮?
いっとくがトカゲやカエルはそう簡単には見つからんし
捕まえるのはさらに難しいぞ?
元寇が棄民なら唐入りも棄民だよww
欧州列強のアフリカ分割も棄民政策w
769 :
名無し三等兵:2009/12/17(木) 22:57:30 ID:r3BDjAEJ
鎌倉武士団の弓は熱して強靭な炭素繊維化した竹材と木材を接着した複合弓で、矢にも飛距離をのばす工夫がされていて優れていた。
長弓ではあるが複合弓のためやや軽く、よく飛ぶので訓練次第では馬射もでき、中程度の距離ならば女性の力でも扱うことができた。
770 :
名無し三等兵:2009/12/17(木) 23:46:55 ID:pUKiYrsx
ブッシュが多い日本では向かなかったとか
>>754 カイバル峠越えじゃ駄目なのかな?
チムールの生き残りもそこからインドに攻め込んだよな?
>>771 実際にモンゴル帝国のフレグ・ウルス軍やチャガタイ・ウルス軍はそっち方面からインドへ攻め込んでるけど、
フビライの大元ウルス軍が陸路でインド攻めようと思ったらヒマラヤ山脈越える必要があるということ。
百年前に清盛が日宋貿易をしていたんだし、日本の船も渡洋性能は、かなりいいのかな
>>773 宋船を肥前神埼・備後鞆・摂津福原に誘致したのがメイン。
>>774 モンゴル軍がそれらの要港を確保しつつ
カエル飛びで福原から京の都を陥落させてたら大変だったな
100年後の倭寇では馬1600頭を朝鮮半島へ海上輸送して暴れてるんだけどな。
中世に100年でそれほど飛躍的に造船技術が進むとも思えないし。
777 :
名無し三等兵:2009/12/18(金) 12:35:32 ID:mqnrTGXj
>>775 それが最初の地点で躓いたからああなったわけで
>>776 それは済州島に残ってたモンゴル軍の末裔と済州島のチョン達と倭寇の残党
多くはエセ倭寇だよ!
>>778 エセ倭寇が多くなるのは後期倭寇。
前期倭寇は普通に日本人だよ。
>>779 前期倭寇でも騎馬を用いたのはモンゴル系エセ倭寇
>>780 何が悲しくてモンゴル騎兵が日本人を騙らなくちゃいけないのさ。
高麗人がモンゴル騎兵と日本の騎兵を見間違えるはずもないし。
倭寇として暴れてたのは日本の騎兵だから。
> 高麗人がモンゴル騎兵と日本の騎兵を見間違えるはずもないし。
朝鮮人にそんな見識はない
>>771-772 クビライがインド征服を考えるんだったらチベットかパミールあたりから
(オゴデイの時代から鎮守軍が置かれていた)カシミール方面へ抜けるルートを
使うはずだろう。
一応、モンケの時代にカシミール鎮守軍はモンケの勅によってフレグの中東遠征に
兵員を供出しているし、アフガニスタン方面はヘラートのクルト朝がおおよそ管轄していて、
クルト朝はフレグ家を主君としていたから、クビライがモンゴル皇帝として北インド遠征を
実行するのであれば、イルハン朝とその隷下のクルト朝、カシミール鎮守軍(カラウナス軍団)を
動員することになったはず。
ただ、問題は中央アジアのカイドゥ一統とチャガタイ家でクビライ側につかなかった勢力が
アフガニスタンの直ぐ北を抑えているので、彼らを分裂工作をするとか過半数を恭順させるか
しないとクビライが北インド遠征を実行に移すのは至極難しい。中央アジアの紛争を終結させないと
北インド遠征は現実化しないだろう。
クビライは1278年あたりからいわゆる「南海招諭」を行っているが、どうもこれらは
南宋と朝貢関係や冊封関係にあった東南アジアやマアバールなどのインド洋方面の諸国を
モンゴル帝国的な藩属関係でもって従来の関係を更新しようという意図があったっぽくて、
これらの海洋方面の進出は、北インド方面から内陸的なアプローチとは(地域的な担当
分野的な意味で)また別個の展開だった感じだ。
江南軍だけど先に琉球を征服して中継地とし
黒潮に乗って一気に鎌倉を強襲すべきだった
785 :
名無し三等兵:2009/12/19(土) 05:18:10 ID:8Xrjs+yc
余計に海の藻屑率が上がるだけな気が。
>>785 いやなまじ博多だと逃げかえれるが鎌倉だと腹を決めるしか無い
まさに背水の陣いや背海の陣だな(笑)
>>783 南インドは普通に宋商の大型船が行き来してた場所だからな。
それに、この時期スマトラ島はマレーシアがら侵攻受けてて、この程度の渡洋作戦は何の問題もなかった。
弘安の役で海軍が壊滅せず、南海招諭が順調に進めば、元から南インドは十分射程圏内だったのに・・・
クビライにとって元寇の大敗は大きな痛手だったな。
>>787 まあフビライは日本など大軍で脅せばすぐに降伏すると腹積りだったのだろ
太宰府を占領し日本統治の窓口にすれば満足だと考えていただろう
つうかいくら戦況が不利とはいえ、海岸の戦闘で部下を見捨てて
3万人も撤退時に損害だしたのが痛すぎ。
一日で敵前上陸(もちろん大損害)⇒同じ日に敵前撤退(指揮官連中はさっさと逃亡)
って最悪のパターンだわ・・・。
>>789 かわいい部下なら見捨て無い。棄民と言われる理由。
>>790 南宋の降将范文虎がモンゴル兵を見捨てて棄民か。。。
何がしたかったのがよくわからん
敵前上陸、敵前撤退って最悪の判断じゃん。
過去レスみると対日戦以外は名将といわれる人物ばかりと
いうが、どうみても糞なんだが・・・。
『中国史のなかの日本像』 王勇著
「また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、
その結果として海防の弛緩を招致してしまった。十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。
注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。」
上陸した後補給はどうするつもりだったんだろうか。船で運ぶにしても港湾施設は(WWIIのそれと比べれば)死ぬほど貧弱で
荷揚げ・荷下ろしなんて全部人力だろうし。前線へ持っていくのは馬が使えるだろうけど。
補給戦によれば勝って進撃し続けている間は次々略奪できるので以外と喰っていけたというけど、馬がどのくらいいるかにもよる…かな?
ヴァルダル王国のカイゼリック王は8万の軍で北アフリカに侵入し、ローマの属州を
次々に制圧してるがあの時も補給どうやっているのか日本では全然情報手に入らないな。
やはりそういう細かいことになると往時の従軍記などをみるしかないのだろうか。
>>795 蛮行の語源になっている連中に緻密な補給の概念があったとは思えんなw
やるこた一つだろ。
ヒャッハーですね! 分かります!
戦争論でも現地調達が補給の基幹になっているくらいだから、
欧州に比較して土地の生産力が高い東アジアでは言わずもがな。
わが皇軍も現地調達が基本である!
ハンニバル以来の伝統
兵すら敵地調達、将棋の持ち駒並み(笑)
801 :
名無し三等兵:2009/12/20(日) 06:51:58 ID:QVd7R4/u
文永の役の兵力じゃただの海賊の拡大版だわ
>>801 文永の役の兵力はピザンツ帝国を征服した第4回十字軍の3倍以上だよ。
第4回十字軍 兵力1万2000(騎士1500) 艦艇約200隻(大型帆船40隻、ガレー船62隻 輸送船100隻)
文永の役 兵力3万3000(蒙漢軍2万5000) 艦艇900隻(千料舟300隻 抜都魯軽疾舟300隻 汲水小舟300隻)
>>802 対馬海峡と言う天然の要害に守らながら、さらに何百年も前から外寇に備えて各地に山城を築き、侵攻正面には水城という長城をも備える国はそうそう無いからな(笑)
それに以前から予告なく刃伊の入寇とかたまに経験してたしね
804 :
名無し三等兵:2009/12/20(日) 11:09:04 ID:86I7WAqo
まあ、政権抗争に敗れて九州に追放された
都育ちの貴族のお坊っちゃんが簡単に女真族を
撃退できるほど守りが堅かったんだから
ましてや戦のプロである武士が守ってた時代に
制圧するのはまず不可能だな
一方朝鮮人は武士の侵入に対し快進撃を許し、明に泣きつくまで何もできなかった。
鎌倉時代より凄まじいくらい戦闘力が増した安土桃山時代の秀吉の朝鮮出兵軍
明の参戦で押し戻されたのが信じられない
朝鮮出兵は総大将がいなかったのが敗因。
>>807 日本軍がヘボ過ぎたのが全て
明軍は二線級の部隊だった上に兵力も大きく劣っていた
なのに全く部隊間の連携が取れず毎度単独で挑んでは敗退・苦戦を繰り返していた
調略によって開戦前には決着がついているぬるい内戦しか経験していない日本軍の限界
>>806 朝鮮戦争の経緯みれば理解できると思うが、敵勢力が南から来ても質は劣る義勇軍が
米軍・国連軍を数で圧倒して次々に高地を占領、戦線を突破し再逆転した。
大陸軍は物量が圧倒的、補給が続かない海の彼方の日本や米軍では難しい。
歴史的に朝鮮半島の安全保障は中国の歴代政権が担っているんだよね。
3−4世紀は倭が朝鮮半島南部を支配していたが、結局は唐に駆逐されたし、
舞台変わってイギリスでもフランス征服はとうとう果たせず最終的に駆逐された。
経験則で大陸には勝てないと悟っていたから天智天皇以降は内向きの政治となった
徳川氏もそうだね。家光も台湾情勢に関わらなかったし。
>>808 どの道日本の国力では朝鮮半島が攻勢限界で、
戦局な有利なうちに秀吉死後和睦したしな。
あの辺が限界だよ。
第一日本軍は補給を李軍ニズタズダにされているので
どうにもならなかった。
島津が殺したけど。
李軍にズタズタ?www
適当なこと言ってる奴がいるな。
>>810 いや・・・そもそもの原因は大名連中にやる気が無かったのが原因だろ?
大陸に魅力があればもっと熱心に征服しようとしていただろ?
なんとなく日本より進んでいる豊かな国だろうと思って侵攻したら、何じゃこりゃってくらいボンビーな国だった
こんなはずではorzっておもっていたからやる気もでないのだろう・・・
それが証拠にあの戦争で参戦した大名連中殆ど無傷で戻ってきたぞ?
兵力も殆ど失わずに撤退してきたしw
>>810 亀甲船が未来兵器なのはゲームだけだぞ。
>>814 最初の朝鮮出兵では沿岸の制海権を握れず、補給に大きな問題が生じて敗因となっている
再侵攻時は海戦で日本優位だったが、南部に立て篭もっていたからあまり関係ない
敗因?
沿岸の制海権を握れず?
ぶっちゃけ侵略より東南アジアや明との交易を活性化させたほうが後々のためだったような・・・
反乱分子を疲弊させるのが目的ですから
スレ違いの話題になっているついでに質問ですが、誇張や偏向の少ない
朝鮮出兵関連の書籍はあります?
>>808 なんつーか、未だにこんな説振りかざしてるバカいるんだなー
>>816-817
玄界灘の補給網がわが国の神将 李舜臣によって
倭国の諸侯が何もできずに敗れ去ったではないか。
李はあくまでも「朝鮮の軍人としては」優れていた程度。
秀長秀次利休たちが生きていたら朝鮮征伐は成功しただろう
元軍は一応大軍なんだし佐世保を上陸地点に選択していれば、1日で惨敗する事は無かったのでは?
江南軍も高麗軍も佐世保なら集結しやすいだろう
太宰府近辺しか詳細な地形を知らなかったんだろうか?
>>827 そんなことは無い日宋貿易で九州北部から瀬戸内海は良く知ってるはず
実際に平戸や松浦は攻撃されているから、博多など簡単に落とせるつもりだったのだろう
山形欣哉の『歴史の海を走る―中国造船技術の航跡』によると、文永の役の元艦隊の千料船は
推定で龍骨長27.80m、最大幅9.24mの420dだそうだ。
これは、同時代の十字軍用ウシャー船の龍骨長17.37m、最大幅6.1mの114dと比較すると
3倍以上の積載量になるらしい。
十字軍は航海距離が4000キロを超え、普通に馬も輸送していたことを考えると、元艦隊の規模は
大量の馬の輸送を想定してたとしか考えられない。
最低でも金州屯田部隊4500人は完全な騎兵部隊だったはずだ。
>>829 現代でも細心の注意を払ったわずか1日の輸送で競争馬は激やせする
海上の荒波を越えて数日間程度掛けて馬を運んでも
体調が回復するまで数日間は人馬共にまともに使えない
この際モンゴル騎馬軍団は戦力外と考えるべきだ
上陸1日目に戦力と呼べるのは船になれた水軍所属の部隊と輸送時間の短い高麗軍くらいだろ
831 :
名無し三等兵 :2009/12/21(月) 14:36:45 ID:0lhl1Cw3
>>829 当時の高麗・宋船には竜骨はないぞ。
代わりに横梁を肋骨状に多数組んで強度を保つ型式。
そのため船倉内は小部屋状に分断されており、荷役には不便な構造。
屯数は大きくても大型の荷・馬などを運ぶのは不効率極まりない船なんだよ。
現代の競走馬はいろんな意味で進化しすぎた存在なんで
それを元にして考えない方がいいよ
競走馬はあまりにもデリケートすぎ
サラブレッドと単純比較はできないが騎馬部隊の上陸後の立ち上がりは遅いのは事実
急激な環境変化は動物なのだから体調不良になるのは致し方無い
ハンニバルなど比較的穏やかな地中海ですら苦労してる
>>833 ハンニバルが上陸後の立ち上がりは遅さで苦労したなんて話は聞かないぞ。
そもそも、ハンニバルが馬を海上輸送した後の戦いなんてザマの戦いくらいだし、
この時は騎兵の数自体がローマ軍よりも劣勢だったことが問題だった。
地中海なら元寇とは比較にならないほど長距離の騎兵の輸送が普通におこなわれていて、
例えばフランスのルイ9世は1248年8月にマルセイユで馬を輸送船に詰め込んだ後、
キプロス島を経て翌1249年5月に6000人のムスリム軍が布陣するエジプトのダミエッタに
敵前上陸し、橋頭保確保に成功してる。
馬を9ヶ月間も海上輸送したんだぜ。
>>834 バカか誰が船上で9ヶ月も過ごすんだよ
上陸直前に十分休養と訓練した時間を合わせての9ヶ月だろ
元軍は馬も海上輸送した。これは確実だろ。
蒙古襲来絵詞にも八幡愚童訓にも馬に乗っている描写がある。
しかしそれが実際どの程度の規模だったのかは分からん。
『高麗史』27卷-世家27-元宗3-12-69-1271
「今計正軍六千人所帶馬率以一人三匹爲計則凡一萬八千匹一匹日支五升自十月至明年二月則當用上朝碩十三萬五千」
838 :
名無し三等兵 :2009/12/21(月) 22:01:53 ID:0lhl1Cw3
>>836 絵詞みると元軍の主力は歩兵でしょ。
馬は指揮官クラスが乗っている程度で少数。
少弐景資が劉復享を射た時も、襲ってきた元軍は
歩兵70-80に対し騎馬15騎ほどしかいないし。
一方の日本軍は徒の数は不明だが、一騎あたり徒の郎党二人と仮定すると
乗馬率33%。
戦い当時における騎馬の比率は日本軍の方が多かったのは間違いないでしょ。
839 :
名無し三等兵:2009/12/22(火) 00:55:19 ID:V34Lkw2l
>>809 朝鮮の役も20世紀の朝鮮戦争も、先鋒が先走り過ぎた。全体的な戦線の押し上げが出来ていない。
最も朝鮮戦争の時は一時的にソウル以南まで引いたけど、その後中国軍は移動するだけでも圧倒的爆撃に叩かれっ放しで
以後停戦まで北部の山に籠る。そこを米軍が虱潰しに殲滅しながらゆっくり北上してった。
>>839 主力となる徳川軍と前田軍を温存した日本軍がダメ
五大老に各々担当を割り振れば確実に支配出来ただろ
満足に稲作も出来ない半島など領地にしたくないと大名は考えたんだろ
利益のある豊かな土地だったら秀吉死後も遠征事業は継続されただろう
日明講和で朝鮮が日本に割譲するのは南部と済州島
言わば朝鮮唯一の稲作地域だな
元寇は高麗王が蒙古に進言して実施した。
すなわち、元凶は朝鮮人。
なんかニュース速板に元寇スレが立ってるぞ。
ひまな人は行ってみてくれ。
>>843 やっぱり日本に敵なすのはいつの世もチョン
846 :
名無し三等兵:2009/12/22(火) 15:49:51 ID:NwcTdFHD
体格的に鎌倉武士のほうが戦国武士よりよかった。栄養価の違いだろうけど。
847 :
名無し三等兵:2009/12/22(火) 16:00:26 ID:6rjmrpVe
そんなもんはこのスレじゃ常識ですw
モンゴルもまさかチョンやシナの兵隊がこれほど弱いとは思わなかっただろうね(笑)
いや、戦乱の無い平和な時代の鎌倉武士が精強しすぎただけか?
兵の練度の差もあるかもしれないけど、
そもそもモンゴル軍の編成は日本軍の編成と相性が悪かったんじゃないか?
蒙古襲来絵詞がどれだけ正しいかは知らないけど
モンゴル軍の編成は徒歩の弓兵がほとんどで残りは軽騎兵1割弱、擲弾兵少数、
日本軍は重騎兵主体って感じがする。
菊池武房が突撃をかけたモンゴルの部隊もほとんど徒歩だったみたいだし。
モンゴル軍の騎兵が強かったとはいえ、
挿絵を見る限り日本の騎兵と正面からぶつかり合えるような装備には見えないし
主力の弓兵も山林の多い日本では優位性が生かせなかったんじゃなかろうか
>>850 開けた草原や砂漠だけでなく南方の密林でもモンゴル軍の編成は基本的に同じ
騎兵&弓兵だよ
弓兵の一斉射撃で相手を混乱させ、騎兵が突撃し潰走させるのが基本戦術
852 :
850:2009/12/22(火) 17:58:27 ID:???
>>851 敵が混乱した際に突撃する重騎兵はラメラー着てるはずだけど
挿絵には布か皮を着た軽騎兵しか描かれてなくない?
元寇でのモンゴル軍は、遠巻きに射程武器を撃ちまくって
迎撃に出てくる日本軍を各個撃破するつもりでいたから
上陸直後に大規模な野戦がある事を想定してなかったんじゃないかな。
長柄武器もほとんど装備してない所を見ると
日本側が重騎兵を大量に揃えてくるとは思ってなくて
対策してなかったんじゃないかと思う
853 :
名無し三等兵:2009/12/22(火) 19:35:49 ID:NwcTdFHD
矢に対する防御力が高い武士の大鎧なら、モンゴル軍の軽い矢を使う短弓を防げそうだな。
逆に鎌倉武士の重い矢は軽装のモンゴル兵を容易に貫いたろう。
855 :
名無し三等兵:2009/12/22(火) 21:52:35 ID:qeBz9MkZ
>>844 見てないがどうせ無知なニュー即民が
いっちょ前な間違った知識振りかざしてるんだろ?
>>855 ニュー速なめんな
弘安の役の元軍の半分は農民と牛だそうだぞ
>>853 矢の重い軽いは用途の問題だよ。
それにモンゴル軍の弓は近距離で垂直に入れば日本の大鎧も貫通できる。
軽い矢は、初速を生かして直線的な軌道で近〜中距離の敵を狙うためのものが多く、
重い矢は、重力を生かして山なりの軌道で中〜長距離の敵を狙うためのものが多い。
モンゴル軍の弓はショートボウ(短弓)とクロスボウ(弩)で、
弩の放つ矢は重いけどどちらも直線的に敵を狙うもの。
対する日本軍の和弓はロングボウ(長弓)で、直線的に敵を狙うこともできるけど
山なりの軌道で敵を攻撃することができたから、
障害物が多く起伏の激しい日本の地では日本軍が有利だったと思う。
>>857 なるほどホームとアウェイの差が出たということか
>>851 ごめん今見たらラメラー着てる奴ひとりいたw
前衛ではないけど槍持ってる奴もそこそこいる
ただ、やっぱり日本の騎兵の方が圧倒的に重装備だし
モンゴル軍は騎馬突撃するような編成には見えなかったよ。
挿絵が正しいかはわからないけど、騎兵部隊は陣の中にいるし
全体的に守りの体勢な感じがする。
あと文永の時のモンゴル軍は長期戦を行おうとしてたような気がする。
まず大量の兵を揚陸させて上陸地点を確保し、
数回に分けて本国から武具や馬を輸送しようとしたんじゃないかと思う。
実際モンゴル軍の矢が切れるの早かったし。
上陸した直後に相当数の日本軍と戦闘になって拠点を築くことができなかったから
本国からの輸送を待たずして撤退したんじゃなかろうか
しかしあれだけの大軍が然したる戦もせずに、わずか1日で潰走したのが今だに理解出来ない
元軍は1万3500人が帰還できず、帰還できた兵の多くは武器や鎧を捨てて身軽になった者。
日本でそうとう酷い目に遭ったってことだよね。
一人二人斬ったら血糊で使えない日本刀より、刺すだけなら何度も使える槍の方が実戦的なんだけど
なんでモンゴル軍は乱戦に持ち込まなかったのかな?
ていうか
乱戦になったからモンゴルが負けたんじゃねえの?
>>862 まさか、日本刀で戦ってたとか思ってるのかw
お前、日本刀三人限界説は嘘だぞw
元ネタの本にはそんなこと書いてないの。
血糊がついたって人間より頑丈な豚の骨だって切れるよ。
>>860 戦闘が短期間で終わったから大した戦いに見えないだけで
実際はかなり大規模な戦闘が起きてるよ
>>862 日本刀も刺せるし、そもそもバール程度の物で人を殺傷できるんだから
血糊で切れ味が鈍った刃物でもじゅうぶん致命傷を与えうる事ができる。
それ以前に日本の主力は弓と槍だから
日本刀の威力で白兵戦能力を計るのはよくない
元寇時代に槍があるかよ馬鹿。
それに軍忠状からわかるのは死因などではなく、勝った側の自己申告受傷率の統計でしかないわ。
>>867 壬伸の乱くらいは槍や戈が日本の歩兵用戦具だったのになんで鎌倉武士は敬遠したのだろ?
869 :
名無し三等兵:2009/12/23(水) 11:27:44 ID:5KW6rZL7
戦国板にそういうスレがある。
刀の発達、あたらしい長柄武器である薙刀の登場、弩や矛は私有厳禁だったこと、矛の穂先は鍛造で作るには
手間がかかる、律令軍が編成されなくなったこと。
そういうことが指摘されてたかな。
つか、壬申の乱から鎌倉後期は離れすぎだろw
871 :
名無し三等兵 :2009/12/23(水) 12:45:34 ID:RCHkSAJo
当時の主力は薙刀・長巻だろうね。
集団での使用では槍に劣るが、乱戦では相当の威力があったという。
元軍も厳密には槍でなく矛で、矛は接合部の強度不足で
あまり鋭利じゃなく切れ味(刺し味?)もいまいちのように思う。
こんな装備や戦術相手なら重装歩兵長鎗隊の方陣による突撃したら日蒙両軍が相手でも圧勝だな
重装歩兵長鎗隊が弓騎兵を補足することなんてできないから
補足⇒捕捉
なら重装鎗騎兵隊の横隊突撃が最強ですな
重装鎗騎兵隊は実際に蒙古と戦ってボロ負けしてるじゃん・・・
ドイツ騎士団はモンゴル軍相手に潰滅
どんな部隊にも得手不得手があるわけで・・・
馬上の場合、メインは弓のみで、結局日本刀なんて無視して構わない。
『平家物語』にも、もちろん『太平記』にも馬上打物があるのに、
その間の時代に行われなかったとする根拠とは?
後年の武田騎馬隊は下馬して抜刀し斬り込みしているけどね
883 :
名無し三等兵:2009/12/23(水) 20:38:14 ID:81ObtZwo
元軍はモンゴル語、中国語、朝鮮語とか色んな言葉の兵隊いたと思うけど
部隊毎は、一定言語で纏めても、各言語相互の意思疎通はどうなっていたんですかね?
武田とかいいよ。
鎌倉武士が馬上打物やらないという根拠は?
根拠根拠とうざいよ。
そんなに根拠というのなら、強制連行の証拠だせよ。
話にならないw
江戸以前のもので現存品となると、太刀と長巻がほぼ同数か
薙刀は鉄や鍛造技術が貴重なため折れた太刀を長柄兵器として再生したという面もある
日本刀の場合、どうしても根元が折れやすい
薙刀直しや長巻直しの太刀ならあるけど、その逆の例があるの?
どうでもいいけど、裁判でも〜をやったという立証責任は訴訟する検察側にあるが、
〜をやらなかったと証明する責任は被告側にない
悪魔の証明になるからね。
したがってやらなかったという証明は立証責任がない。
わかったかね根拠君。
なぜそうなるのか。
たとえば個人単位であれば記録が残っているから過去の事例をあげるだけで証明できる。
ところが、たとえば日本人が〜をやらなかった。鎌倉武士がやらなかったという証明になると
検証はほぼ不能。膨大な手間がかかり事実上不可能だ。
こういう論法は左翼がよく好む手法だ。
論敵をまずロジックの迷路に追い込み自分が攻勢に出るためにあえてそういう無理難題を
ふっかけて議論そのものを煙に巻く狡猾でかつ悪質な詭弁と断定してよかろう。
ロジックの迷路どころかこっちの問いは極めて単純だよ。
『保元物語』『平治物語』『平家物語』などを参照すると平安後期・鎌倉初期には
騎射に続く形で行われ、南北朝期には騎射を凌ぐほど盛んになった
馬上打物をこの時代だけ無視しても構わないことの根拠は何だ、と聞いている。
乗馬や舵取りを射てはいけないママゴトしていりゃ馬上打ち物もあったのかも
乗馬や舵取りも普通に射られてるんだが・・・
>>891 質問されてんだから被告はお前。
自分の主張の根拠を上げられなければ説として成り立たない。
まったく話をすりかえておいて、なーにが被告よばわりだ。
そもそも、そんな上から目線での質問などに答える義務などないわ。
自分で立証すればよかろう。俺がなぜそんなことを立証しなけりゃならん。
話が前にすすまないから、そろそろ別の話題にいこうぜ。
被告だとか言い出す馬鹿うぜぇし
根拠も出せず論争からもにげるw
答えないじゃなくて答えられないだけだ。
馬鹿が敗北宣言したから次の話題でかまわんよ。
敗北宣言(笑
馬上打ちものアリ・日本刀使用アリ 根拠アリ
馬上打ちもの無し・日本刀使用無し 根拠無し
太平記で初めて薙刀の馬上使用が出てくるわけだから、この時代の馬上打物は
ほぼ刀の馬上使用とイコールだと考えてよさそうだよ。
歯ごたえのある珍説が拝めるかと思ったらとんだチキンだったな
もういい加減次の話題にうつれよカス
絶対に許さないよ
刀抜いた後は弓をどうするんだろうか?
>>911 脇に挟んだまま戦うんじゃないの
『源平盛衰記』巻35東使戦木曽
「弓をば脇に挟み、太刀の峰打つるべて、勅使河原余すなとて、蜘蛛手十文字、縦様横様切り廻りければ、
三百余騎の大勢も、五十余騎に駆り立てられて、馬の足立つる隙こそなかりけれ」
弓は背中に背負うんだよ!
>>913 それじゃあ騎射から馬上打ちものに素早く移行できないじゃん
背負うのは絵巻などで確認できますか?
元寇からそう時代が離れていない足利尊氏が背負っておろうが。
なんでも根拠根拠とうぜえんだよ。いちいち話しの腰をおるな。
日本史板からデテクンナ
足利尊氏?まさかあの絵?
弓背負ってないよ。
つまり元寇から離れていない時代に馬上打ち物が行われていたことは認める、と。
何も不安定な馬上で闘う必要なんて無いと思うが
槍や薙刀で闘うなら馬上打ちも理解出来るが刀だと馬上は不利だろ
馬上打ち?
なにそれ?
>>919 坂の上の雲でも秋山好古が馬上で刀使ってるじゃん。
馬上で刀を使うことが有利なのではなく、馬の機動力によって有利な状況下で刀を使用できるってこと。
例えば、弓の攻撃に耐えかねて敵が陣形崩した隙にとか、味方の歩兵に捕捉されてる敵を側面からとか。
強固な陣形組んでる歩兵に何の工夫も無く正面から騎兵が抜刀突撃するのはNGだよ。
混乱に乗じて機動力を活かしての突撃なら確かに効果適面だけど
やはり馬上からは長尺の槍や薙刀でなければ意味無いと思う
まあ騎兵同士の闘いなら刀もありかもしれないが
騎兵は機動力を活かして後方へ回り込み弓矢を用いて混乱させるのが一番
923 :
名無し三等兵:2009/12/27(日) 13:14:22 ID:Sgk00Gp4
馬の持つ機動力の他にも、高い位置から刀剣を振り下ろすアドバンテージ、
馬の巨体と速度が敵歩兵に与える心理的動揺とそれにより惹起させる混乱、
も騎兵の利点だと思うよ。
>>923 刀で斬りあうなら低所からがむしろ有利
高所からだと標的に届きにくく射程が極端に減る
一方低所からは相手の下半身に近く、安全な距離から一方的に斬れる
「刀で斬りあうなら低所からがむしろ有利」
次の新説出ました
926 :
名無し三等兵:2009/12/27(日) 14:55:40 ID:u2gtSF9E
>>924 じゃあお前実際に
刀抜いて騎馬で突進してくる奴に
刀で対抗してみろよw
>>923 確かに二階くらいの高さから刀を振り下ろされる恐怖と自動車並に大きい塊が高速で突進してくる恐怖は凄まじい
歩兵は隊列を崩さず槍襖で防ぐしか無い
>>927 昔の馬は小型で鎧武者乗せたら平地でも100M20秒も出なかったのに・・
こういう人って武田騎馬軍団とかも信じちゃってるんだろうな
>>928 その小型の馬に乗って史上空前の大帝国築いたモンゴル軍についてはどう考えてるの?
930 :
名無し三等兵:2009/12/27(日) 16:21:28 ID:P24FkKZt
そうは言うがツキノワグマが体重60kg(つまり体重だけなら人間と同じ)でも普通の人は逃げる訳で。
ガチで殺し合いって事になれば頭一つ分背が高いってだけでもかなり辛い物があるのも事実かと。
>>927 そりゃ軍馬として訓練された馬じゃないだろ。
両方徒歩で坂道の場合ならば低い方が有利だとは一応剣術の伝書にもあるが
それは騎馬対徒歩のことを述べているのではない。
だいたい鎌倉時代の馬上打物の話なのに、なんで槍とか出てくるの?
モンゴル馬と木曽馬は非常に近い種で大きさも同じ。
モンゴル馬はあらゆる意味で乗り手と同様にタフだった。この馬は当時、そして現在も4フィート4インチから
8インチ(約131〜142cm)ぐらいの背丈が低い頑丈な種である。《中略》ポニー(小型の馬)に乗った
モンゴル軍は単騎なら9日間に600マイル(約965km)を走破できたと記録されており、上記の替え馬
システムを使ったチンギス・ハーンの軍団は1221年9月に食事休憩なしで130マイル(約210km)を
2日間で走った。1241年にはスブタイの軍団が深雪の中を3日で180マイル(約290km)行軍している。
『モンゴル軍』(オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ) S.R. ターンブル著
>>919 鎌倉時代の話だから槍は論外。
鎌倉武士は不安定な馬上での射撃技術を習得していた。鎌倉時代は薙刀をもった騎兵は極めてまれ。
つか、騎兵の抜刀突撃なんて日本だけの話じゃないからw
936 :
名無し三等兵:2009/12/27(日) 22:13:34 ID:MpPuuEb7
高低差のある白兵戦では高所側有利ってのは常識だろ
(射撃戦でも同様だが)
それと得物が何にせよ、陣形を保って敵騎兵を阻止するなんて芸当は
集団戦の訓練をかなり受けた歩兵でないと無理。
鎌倉時代の徒にそれは不可能だ。
モンゴル軍も決戦時の主力はあくまで歩兵であって、
しばしば弓騎兵で敵をつり出してから歩兵で包囲殲滅する戦術を取った訳だが・・
ヨーロッパ勢なんて"脆い重装騎兵"がこの戦法でモンゴル歩兵にフルボッコされてる
小型の馬で100m20秒以上かかると言うけど、
その馬に人が乗れば、身長2mオーバー、体重
120kg以上の大男が、武装した人間の2倍近い
速度で迫ってくるって状況だから、その威圧感は
相当の物だろ。
現代戦では、武装した兵士は(てか自衛隊では)
早駆け4秒10mぐらいが基準だからな。伏せる・
起き上がるの動作があるから単純には言えない
けど。
尊氏の肖像画の後ろにある4本突き出た代物は弓矢だろ背負ってるじゃん
そして4本つきでたものの手前で顔の後ろにのびているのはどうみても弓そのもじゃん
>>940 それ刀だろ?尊氏の右手と頬の間にあるのは刀の鍔で、あなたが言っている物はその鍔から
後ろに伸びているようにしか見えない。これは馬上の尊氏が抜き身の刀を右肩に担いでいる図。
>>940 お前のことを嘘ばかり吹く奴だと思っていたことは素直に謝ろう。
お前は本当に何もわからん大馬鹿だったんだな。あれが弓?
弓じゃないし、背負ってないし。
>>942 つまり騎射のあとに刀で馬上打物をしていたことを認める、と
945 :
942:2009/12/28(月) 09:34:02 ID:???
946 :
名無し三等兵:2009/12/28(月) 10:30:40 ID:PBVPC7wK
それ以前にあの肖像画は尊氏じゃなくて
高師直ってツッコミは誰もしないのか?
師直説も確定じゃないよ。
モンゴルを含め世界中の馬具ってそれ程大きな差はないけど、実は日本の馬具だけ更に馬上戦闘用に
進化してるんだよね。
鐙の形が全く違う。
日本の鐙は安定性が格段に向上してるから、騎射にしろ馬上打ちものにしろ他の騎兵は勝てないよね。
949 :
942:2009/12/28(月) 14:50:06 ID:???
立った姿勢とほぼ同じってやつか
全然関係ないって程でもない程度の話だが、米軍のときも一応神風吹いたよな。
近代艦艇が沈んだりはしなかったが。
流れに関係ないし、今更神風とか信じてるのもどうか?
952 :
名無し三等兵:2009/12/28(月) 22:13:27 ID:vdWkjalT
日本って集団戦法をとらなかったとかいう記述がみられるが源平合戦のころにすでに「やあやあ我こそは」
なんてやってないだろ?義経なんて明らかにやってないぞ
馬なんてのは足に軽い怪我1つ負ったらもう殺処分するしかない代物
漫画みたく敵陣に騎馬で猪突猛進に突入して蹴散らすなんて運用はまかり間違ってもあり得ない
あくまでも機動力の確保のために使用されるもので突破力を期待して運用されるものではない
古来ハンニバルからモンゴル軍まで騎兵を歩兵に正面から当てるような愚は犯していない
>>952 日本が集団戦法をとらなかったなどという記録はない。
学校で嘘っぱちを教えてるだけ。
元寇だって記録では武士が集団戦法で元軍を圧倒してる。
>漫画みたく敵陣に騎馬で猪突猛進に突入して蹴散らすなんて運用はまかり間違ってもあり得ない
戦況次第です。
刀の後ろにある5つの突起は弓だろ俺には由美にみえるぜ。
こいつ日本語理解してないのか?弓という言葉を辞書で調べてごらん。
>>939>>957 なぜお前は「箙におさめられた矢」を弓だ弓だと連呼してるの?
ちなみに箙は「背中に背負うもの」ではないよ
正しくはどこにつけるものかは調べて御覧
もったいぶらずにおしえればいいじゃん小出しにしてうぜえよ
無知なおまえがウザがられているわけだが
>>960 自分で調べることもできないのか。
心底呆れるよ。
<わからない9大理由>
1.読まない …参考書などを読まない。読む気などさらさらない。
2.調べない …過去スレ、ググるなど最低限の内容も自分で調べようとしない。
3.試さない …めんどくさいなどの理由で実行しない。する気もない。
4.覚えない …人から聞いて、楽して得た答えは身に付かないから、すぐに忘れる。
5.説明できない …何に困っているのか、第三者に正確に伝わる文章が書けない。
6.理解力が足りない …理解力以前の問題で理解しようとしない。
7.人を利用することしか頭にない …甘え根性でその場を乗り切ろうとする。
8.感謝しない …教えてもらって当たり前。事がすんだらさようなら。
9.逆切れする …自分の思うようにならないと逆切れする。
尊氏の話などどうでもいいから次いこうぜ。
965 :
名無し三等兵:2009/12/30(水) 17:44:37 ID:k5OpWDoo
>>880 古今東西どんな戦でも総じて見れば、飛び道具による戦闘比率のほうが白兵戦を上回るのが当たり前。
どうしても『遠戦志向』かどうかを断じたいのならば、Aという国の白兵戦率とBという国の白兵戦率を比べるのが筋。
Aという国の『遠戦』率と、Aという国の『白兵戦』率を比較してどっちが大かを比べても、『遠戦志向』かどうかは断じられない。
そもそもどのような志向であろうが片方を無視できるような中世の戦は無い。
弓(射撃戦)がメインだから刀(白兵戦)は無視していいとかいう理屈は成り立たない。
なんでそんなに必死なの
確かに、どうしてろくな根拠もないのに刀を否定しようとするんだろうなアイツは。
しかも、形勢が悪くなると必死に話題を変えようとするし。
なぜあんなに必死に太刀を弓と言い張るんだ?
まあ刀や弓の話はスレ違いだし、そろそろモンゴルの話題に戻ろうや。
寄り道も良いが、本筋に戻ろうぜ!
刀や弓といった元寇で使われた武器がなんでスレ違いなんだ?
箙についてはまだ調べ終わらないのか?
971 :
名無し三等兵:2009/12/31(木) 01:14:09 ID:h10qG6e8
モンゴルの主要兵器と日本軍の主要兵器それの有効性を語ればいいんじゃね?
光栄のゲームなら南宋攻略どころかユーラシア大陸・アフリカ大陸北半分全制服余裕だろ。
武士はそのぐらい強い。
974 :
名無し三等兵:2009/12/31(木) 11:22:20 ID:KEFOzPeb
元軍に関しては博多湾のある福岡の公民館とか図書館とか地名とか名刹、いろんなところに資料がのこっている。
戦闘のはじまった最初の時はこんな感じ。
元軍は九州北部にたびたび上陸したため、そこかしこで野戦がはじまり伝説で語られるような一夜にして元軍敗北といったさまではなかった。
対馬で島民をあげて徹底抗戦したが惜しくも全滅、刈り取った人間を数珠繋ぎにして船べりに晒した船が博多湾に無数に現れ博多の街は騒然とした。古来から宗教は政権の統治機関として機能しており、このときも箱崎宮などは元軍と交戦、炎上し煌々と夜を照らした。
地元で信仰を集めた大社の燃える炎と、元軍によってくりひろげられる地獄絵図を前に絶望をひしひしと感じたことであろう。
迎え撃った武士団も元軍に対しては圧倒的に数の劣りたちどころに返り討ちにあい、筑紫野城まで逃げ帰っている。 筑紫野城は奈良時代から大陸に備え3方を山が囲む地の利を利用してつくった巨大な要塞である。
またそれほど遠く安全なところへ逃げなかった武士団も、丘や野にふせて博多の街を見るに、元軍が市民をほしいままにいたぶり殺すさまを見て、気が触れたように突撃をかけるものもいたりした。
っと、今日はここまで。
次回は、援軍の到着しやっと戦えるだけの大規模な武士団を形成した日本軍の鬼のような戦いっぷりです。
郷土史料には昔話レベルの信憑性のものが多数混入されているから当てにはならん。
ちゃんとした古文書から引いているなら出典も頼むわ。
当時の記録とかは参考になるが、郷土史家の書いた本はその人の
願望や根拠のない俗説も混ざることがあるからなあ。
いやまぁ確かに主観や願望が混ざるのは確かだけど
そこはそれ、事件の捜査と同じで、自供や証言だけじゃ
真実と断定できないし、しない、物証で裏づけ取りながら
可能な限り客観性を高めていくというのが学問な訳で
しかもほら、事件と違って歴史に時効は無いからさ
慌てずじっくり時間かけて確実に調査できるもん
ローカルなものでも年代や出所の確かな史料で検証していくのは必要。
ただ、無理にまとめてしまうと、まとめ方でどうしても主観が入るからな。
wkiなんかそんな輩ばっかりじゃん。
で指摘されて気にいらないとIPブロックとかマジひどい。
>978
まとめとか、継続中の案件には不要な物でも
一般の人は兎に角オチを求めてくるもんだ品
まぁ売り物ならそれも仕方ないところもあるだろうが
それでもって幕引きされちゃたまらん
局面ごとに出典を明記して羅列していくだけで余計な解説やまとめなんてないのが
一番信頼できるんだが、それだとウケないのはわかる。一般層からは「で、何がいいたいの?」で終わり。
>一般層からは「で、何がいいたいの?」で終わり
当時の世情風俗からはありえないようなドラマチック展開とか
超絶的な結末でオチが付いてた方がウケるし売れる
販社も広告代理店もノリノリでCM打ってくれるし
出資者も増えてスポンサーもホクホク、研究者側もウハウハで
みんなが幸せになれる仕事をして何が悪い状態に
忠烈王は高麗民衆を元の横暴から守るため、不本意ながら日本侵略を進言。しかし仁の心にあふれた忠烈王は
敵国である日本にさえ情けをかけようとする。将軍兵卒にサボタージュ、船大工には軍船に細工をすることを秘密裏に指示したのだ。
そして、この忠烈王の英慮が日本侵略失敗後に元の海防の弱体化を招き、ついには元の滅亡にもつながる。
そう、大元帝国を滅ぼした者は高麗忠烈王だったのだ!
で、いいですか?
>>983 上手い小説家が書けばそれはそれで悪くはない仮想戦記になりそうな気もする
仮想戦記だったら、高麗王がクリルタイで大ハーンに選出
高麗軍リーグニッツで大勝、までやらなきゃ。
987 :
名無し三等兵:2010/01/01(金) 17:07:19 ID:JqTpzy3N
弓、槍>>>>>>>>>>>>刀だろ?
ローマ軍は長槍を擁する重装歩兵であるマケドニア軍に対して投槍で
牽制、隊列の乱れた敵軍に接近して剣で殺しまくりました。
話せば分かる蒙古の人々を受け入れる度胸が倭奴にない
少なくとも相撲は蒙古の血の方が強いしなぜ受け入れなかったのか。
ウェノム博士
991 :
名無し三等兵:2010/01/01(金) 20:51:14 ID:LJqTQh8Q
福岡の箱崎宮の楼門には敵国降伏とかそんな感じの言葉が大きく飾られてるね。
生け捕りにされた元軍を那珂川だったか、どっかの河原までつれていって首をはねたわけだけど
はねた首を河に落としこんでいるうちにあまりの数の多さに真っ赤に染まった川の水かさがましたらしい。
志賀島では元軍の指揮官クラスの舟が難破しているとて生け捕りにされたとも聞くし。
だいたい日本は元軍がどれほど強かったの知っていたのかどうなのか
再三おくられたきた死者を遠い地まで引き回していってずべて首をはねている。
戦争には素人じゃなかったしある程度の準備もあった武家の時代だったからそんなことできたのかね。
「俺も手荒な真似はしたくない」とか893丸だしな言い振りしといて
話せば分かるとな?
当時の超大国モンゴル様に逆らうとは幕府も身の程しらずよの
NHKの大河ドラマでも非戦の大切さを国民に説いていたね。
私たち日本人も武器をおいて話し合いに応じるべきだったと
深く反省しなければならない。
お行儀よくしなきゃならなかったのはどっちだったか
はっきりした役だったな
せめてきた人たちには家族がいるんだよね。
かわいそうに。
>>996 家でおとなしくしていれば良かったのでは?
勝てない戦に行かせる元の皇帝は本当に冷酷無慈悲ですね
それを吹き込む高麗王は卑怯千万ですね
>>991 『五代帝王物語』とか読むとわかるけど、当時の日本人はモンゴルについてかなり正確に理解してる。
だから文永の役で実際に戦うまでは、元軍は猛烈に強いと認識してた。
現実には元軍なんて雑魚で大宰府にも到達できないまま僅か1日の戦闘で逃げ帰っちゃったけどね。
『保暦間記』とかも文永の役については、「使者が来たときに大騒ぎしただけで、すぐに静かになったね」
みたいな感じ。
ume
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。