【文永の役】元寇(蒙古襲来)を考察【弘安の役】

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1名無し三等兵
何故か無いので立ててみました。
2名無し三等兵:2009/11/16(月) 11:49:07 ID:???
多分、ソ連を攻め続けたから勝利できたと思う。
3名無し三等兵:2009/11/16(月) 14:25:18 ID:???
日本の誇る気象兵器が初めて実戦投入された戦いですね。
4名無し三等兵:2009/11/16(月) 17:49:15 ID:+Ew98+lO
何故日本の勝利に終わったか、それぞれ理由を記せ
1.文永の役
2.弘安の役
5名無し三等兵:2009/11/16(月) 23:07:56 ID:7d6TQNNx
ちなみに、今なら東京国立博物館で蒙古襲来絵巻が見られますよ。
まだ見てないかたはどうぞ。
6名無し三等兵:2009/11/17(火) 01:06:45 ID:???
>>4
日本勝利の理由は単純。
鎌倉武士の方がモンゴル軍よりも強かったから。
7名無し三等兵:2009/11/17(火) 06:06:32 ID:???
このスレは事業仕分けの対象スレです。
8名無し三等兵:2009/11/17(火) 07:40:48 ID:jcuj+bVB
>>4
1)三別抄の乱のおかげで日本侵攻が遅れたから
2)高麗人が戦闘に消極的だったから

現代の日本史教科書ではこれが現実w
9名無し三等兵:2009/11/17(火) 09:30:42 ID:???
>>8
こういう嘘っぱちを子供に教え込んで、教師は良心の呵責とか感じないのかな?
10名無し三等兵:2009/11/17(火) 13:27:49 ID:???
自衛官が考察した本があるべ。
それをテクストにして話し合うか?
11名無し三等兵:2009/11/17(火) 15:27:28 ID:???
>>10
自衛官も基本的に学者が提示した情報からしか考察できないからな。
相手の配ったカードでポーカーしてるみたいなもので、もとの情報でインチキされていたら
お手上げなんだよね・・・
12名無し三等兵:2009/11/17(火) 18:42:28 ID:???
>>11
軍事的に考察した結果、「もとの情報インチキ」あるいは「疑わしい」って言えんものかね?
歴史学に詳しい人、教えてくり。
13名無し三等兵:2009/11/17(火) 19:13:12 ID:1Crh9WoO
>>6>>9
ネタレスですか?それとも頭おかしいんですか?
14名無し三等兵:2009/11/17(火) 20:36:11 ID:???
>>12
文永の役を軍事的に考察した結果、「一度上陸した軍が、優勢にも関わらず船に戻るなんてあり得ない」って
いくら指摘しても平気で無視だからな。
これなんて、資料には明確に「劣勢の元軍が撤退するために船に戻った」と書いてあるのに、それすら無視
なんだから酷い話だよ。
15名無し三等兵:2009/11/18(水) 00:02:07 ID:???
>>14
上陸作戦自体は成功した。
会戦自体は激戦だったが元軍の勝利といえる。
しかし、日本軍を壊滅できなかったので日本軍は拠点で防御している。
間違いなく、日本軍は増援を受けて反撃してくる。
そうなれば、元軍に勝ち目はない。
反撃を受けないうちに撤退する。

経過はこのようなものだと思う。

実際の戦闘だけを見れば元軍優勢と言えるので、それだけ見て言ってるのじゃないかな?
時間がたてば劣勢になることが確実だから元軍の指揮官は撤退を決断したのだから。
16名無し三等兵:2009/11/18(水) 00:44:50 ID:???
>>15
その日のうちに撤退に追い込まれた上陸作戦の一体どこに成功と呼べる要素があるのさ?
あきらかに元軍の大惨敗だろ。
1715:2009/11/18(水) 00:58:40 ID:???
>>16
二回目は上陸すらできなかったんだから、それに比べればね。
一応博多は確保したんだから上陸作戦は成功。
ただ、それで勝ち目がないようだと戦略的に無理だったんだろうね。
18名無し三等兵:2009/11/18(水) 01:08:09 ID:???
>>17
文永の役で元軍が博多を確保したなんて事実はないぞ。
鎌倉時代の史料とされている歴史書で、文永の役における博多の損害に言及したものは
一つも無いんだから。
19名無し三等兵:2009/11/18(水) 03:39:30 ID:???
だいたいモンゴル人なんか対日戦にほとんど参戦してなんかいない
ほとんど金や高麗の人間
弘安の時の江南軍は元南宋の屯田目的の元が戦後処理で困った老兵
武器以上に農具を大量に持っていた
元は本気で日本を攻めようと思っていたか疑わしい
まず防衛拠点を潰すために元やその他モンゴル諸国が必ず随伴してるはずの攻城兵器が全くない
(当時日本に城はないという馬鹿はスルー)
次いで海上から上陸した対ベトナム戦ではドゴンら高級指揮官多数が敵の捕虜になっているのに
日本が捕虜にした高級指揮官は一人もいない

それに元にとっては征服したとてなんら利益の出ない対日なんか副次的目的でしかない
元にとって最大の関心事は同じ同族のチャガタイ・ハン国ら反フビライ勢力と西方との交易路の保全
ついで弘安前までは南宋の征服だ

ほとんど金、南宋、高麗の兵だとするのは
だいたいモンゴル人が当時何人いたと思うんだよ
今のモンゴルの人口考えてみろよ
今1億3000万の日本は戦国期1500万しかいなかったんだぞ
対日戦は単なる虚仮威しと殺されて構わない南宋の敗残兵処理に過ぎぬ
第三回遠征予定の建造した船舶を全て対ベトナム戦につぎ込んだことでもわかる
20名無し三等兵:2009/11/18(水) 04:31:25 ID:???
>>19
日本はモンゴル人皆殺しにしちゃったからな。
クビライは本当は日本を征服したかったんだけど、これ以上日本に惨敗し続けると帝国の存亡に関わると
朝臣から大反対されて、仕方なくもっと簡単に征服できそうなベトナムで妥協したんだよ。
21名無し三等兵:2009/11/18(水) 07:09:35 ID:L1tsPhIM
>>17
元軍兵力3万強のうち1万数千人が戦死・捕虜になったらしいが、
本当に上陸作戦が成功したなんて言えるのか?
さらにその博多も焼き払って次の日には撤収してるんだか
博多を確保してるなら焼き払う必要は無いだろ。
22名無し三等兵:2009/11/18(水) 08:54:10 ID:???
過去二回は占領国の軍事負担を強いる為の出征だろう
本格的出征の前に情勢変更で対日出征断念
23名無し三等兵:2009/11/18(水) 09:25:35 ID:???
>>20
陳興道テラカッコヨス
24名無し三等兵:2009/11/18(水) 10:30:35 ID:bxvtaEos
名前は卑猥だがな
25名無し三等兵:2009/11/18(水) 10:40:24 ID:???
>>21
1万数千人も戦死・捕虜になっていない、「未帰還」となっているだけだ
一回目の船はまっすぐ帰らず半年かけてインドネシアあたりをうろうろしながら
農機具といっしょに大量の人間をばら撒いて帰港している
その結果の未帰還
26名無し三等兵:2009/11/18(水) 10:47:47 ID:???
>>21
だから文永の役で博多が焼き払われたなんて記録は無いんだって。
歴史書だけでなく、筑前国続風土記みたいな地域史料調べてもそんなこと書いてない。
承天寺や櫛田神社の歴史に当たっても該当事実無し。
完全な作り話だぞ。
27名無し三等兵:2009/11/18(水) 10:49:55 ID:???
>>25
船はまっすぐ帰らず半年かけてインドネシアあたりをうろうろしながら
農機具といっしょに大量の人間をばら撒いて帰港している
なんて訳ないだろーが。
28名無し三等兵:2009/11/18(水) 11:01:47 ID:YPbZbr+N
コリアの人たちの抵抗が日本(当時統一国家はなかったが)を救ったんだよね
29名無し三等兵:2009/11/18(水) 11:03:50 ID:???
>>26
要するに一回目は元軍と戦闘があったことさえ怪しい、ってことは認めるんだな

まともな戦闘もないのに、どうやって1万数千人も戦死・捕虜にできるんだよ?
30名無し三等兵:2009/11/18(水) 11:09:30 ID:???
>>29
一回目で戦闘があったことは記録がある。
元軍は赤坂で日本軍に負けて敗走。
1万数千人が戦死・捕虜になっても何の不思議もないよ。
31名無し三等兵:2009/11/18(水) 11:15:39 ID:???
>>19
本気じゃなかったから日本は助かった。
本気だったら元が負けるわけない。





まるで、スポーツの対抗試合とかで
日本に負けた時のチョンの言い訳みたいだねw
32名無し三等兵:2009/11/18(水) 11:20:57 ID:???
>>28
国王はまさに元の飼い犬になり果ててたけどな
33名無し三等兵:2009/11/18(水) 11:55:54 ID:CzLTp9B0
三万も引き連れてやって来たのに抵抗が激しいから一日で侵攻を諦めた
その後インドネシナにいったとしたら、良くて代わりに空白地帯を開拓しての点数稼ぎ、悪いと単なる遭難だろ
大体インドネシアに行った記録はあるのか?
34名無し三等兵:2009/11/18(水) 12:21:01 ID:???
通常、戦闘では負傷者は戦死者の3倍は出るけどね
その戦死者の多くは暴風雨での溺死者だろ
捕虜の多くは戦闘結果でなく暴風雨で乗船を失い帰れなかった者たちだろうことは容易にわかる
貫通力ある弩、バリスタもなく、火炎をつけた壺を投擲できる投石機もなく
馬上鎗も存在せず馬蹄も存在しない重装騎乗弓兵主体の当時の日本の兵装では敵にたいした損害を与えられないのは明白
司令官クラスが1名の負傷者を含め全員撤収できているところを見ると
戦闘で戦死捕虜1万5千は眉唾もの
35名無し三等兵:2009/11/18(水) 12:42:35 ID:???
>>33
インドネシアは言い過ぎだったことは認めるよ
しかし真っ直ぐ帰らなかったのも確か
36名無し三等兵:2009/11/18(水) 12:53:15 ID:???
つまり>>25に書いたことは全部何の根拠もない嘘だったわけだな
37名無し三等兵:2009/11/18(水) 13:06:42 ID:???
何の根拠もない嘘ではない、どこそこに立ち寄ったという記録が無いだけだ

いわば日本軍が強制連行、従軍慰安婦、南京大虐殺の証拠を隠滅して、記録を残さなかったようなもんだ
38名無し三等兵:2009/11/18(水) 14:10:43 ID:???
1回目は実質戦闘1日で船に引き上げてるし
上陸作戦成功してたら船に戻るわけないよな
日本側は九州の戦力すらまだ集結してなかったし
本州からも戦力を投入可能だった
元は増援を投入するにも船がないし
どうやっても日本の勝ちだろ
39名無し三等兵:2009/11/18(水) 14:19:25 ID:???
で2回目は戦闘開始から1月もたってから台風で全滅
てことは、1月戦っても上陸できなかったということ
やっぱり日本の勝ちだろ
40名無し三等兵:2009/11/18(水) 16:42:07 ID:???
元の兵力の半数は非戦闘要員の船員と見ていい
じゃなきゃ動員できんよ
物理的に不可能
41名無し三等兵:2009/11/18(水) 17:01:14 ID:???
お前ら何百年か前のことでも平気でケンカできるんだな。平和だな。
42名無し三等兵:2009/11/18(水) 18:02:10 ID:???
まともに上陸できなかったんなら、神風が吹こうが吹くまいが、結果は同じだったんじゃないか。
43名無し三等兵:2009/11/18(水) 18:03:46 ID:???
この際、元が本気だったか否かはどうでもいい。
幕府側だってまだまだ兵力動員する余裕あったんだから
44名無し三等兵 :2009/11/18(水) 22:25:02 ID:z2umSNc0
>>34
捕虜の多くは戦闘結果でなく暴風雨で乗船を失い帰れなかった者??
まだ神風信じてるって奴?
文永の時に暴風雨があったなどという確実な資料は全くない。
撤退翌朝に一隻が座礁放棄されてただけ、未帰還船の多くは帰る途中の
暴風雨によるものだ。
つまり勝っていたのなら元軍には"帰らなければならない"理由はなく、
それを撤退したと言うことは戦闘ーに負けていたとまでは言わないが
"予期したほどの戦果を上げられなかった"ということ。
戦術に劣る日本武士団が予想外の奮戦をし、それにより元軍が
予期しない損害を被り、司令官の忻都が述べてるように矢玉が尽きた、
というのが撤退の理由だろう。

45名無し三等兵:2009/11/19(木) 03:42:42 ID:???
もし元軍が緒戦を上手く勝ち越せたら九州くらいは占領する気合で攻めて来たのかな?
有力な騎馬軍をもってるのになぜ防備体制のある博多湾を主攻にしたのかがわからない。
普通は離島や防備の手薄な港を占領して橋頭堡を確保した後に陸海合同で博多へ進軍する。
46名無し三等兵:2009/11/19(木) 07:13:51 ID:???
>>45

有力な騎馬軍は連れていけなかったんじゃないか?
当時の船で多数の馬運ぶのは大変だろう
47名無し三等兵:2009/11/19(木) 08:18:24 ID:qSEeiisX
>>41
去年〜今年に映画化された「レッドクリフ」は1800年前だぞw
48名無し三等兵:2009/11/19(木) 08:22:57 ID:qSEeiisX
>>45
文永弘安ともに壱岐対馬を好きなだけ荒らし回ってはいるがね…
さらに両回とも博多以外を攻撃する様子はあるのだが
何故か博多に戻ってきてしまう。
49名無し三等兵:2009/11/19(木) 08:55:28 ID:???
>>46
モンゴル軍が騎馬軍連れてないわけないじゃん。
1271年時点で朝鮮半島に対日戦用に配備されたモンゴル軍6000は、1人当たり馬3頭を所持する
完全な騎馬部隊。
モンゴル帝国は当時朝鮮半島から海上約100キロの済州島に馬の牧場作って、そこから普通に
船で多数の馬を運んでたんだよ。
50名無し三等兵:2009/11/19(木) 10:55:32 ID:???
歴史的に日本列島を外部から軍事占領できたのは次の3つだけ
@除福A天孫降臨B米軍
51名無し三等兵:2009/11/19(木) 11:02:27 ID:???
バグダッドもブダペストもワルシャワも蹂躙されたのに太宰府も京も鎌倉も無傷な日本は凄いね!
蒙古は成人捕虜を男は皆殺し女は手に穴を空けて鎖で繋ぎ性奴隷にする鬼畜らしい
52名無し三等兵:2009/11/19(木) 12:08:44 ID:???
文永の役は威力偵察です。作戦自体は成功。
53名無し三等兵:2009/11/19(木) 12:18:39 ID:???
>>52
目標の大宰府にたどり着くことすらできなかったんだから、あきらかに大失敗。
54名無し三等兵:2009/11/19(木) 12:43:58 ID:???
フビライの取り巻きの戦略だと
一次:博多を拠点に北部占領
二次:瀬戸内を中心に京まで占領
三次:鎌倉奥州を含む完全占領
55名無し三等兵:2009/11/19(木) 12:46:29 ID:???
一次:目標北部九州占領
56名無し三等兵:2009/11/19(木) 12:50:43 ID:???
一次:威力偵察
二次:棄民

目標は達成されています。
57名無し三等兵:2009/11/19(木) 13:06:35 ID:???
そんな無理やりな言い訳しかできないなんて余程モンゴル軍が日本に完敗したことが悔しいんだね
58名無し三等兵:2009/11/19(木) 13:19:46 ID:???
>>49

> 船で多数の馬を運んでたんだよ。
ソースくれ
合戦絵巻だとほとんど歩兵で、騎兵は一部だけだったけど
59名無し三等兵:2009/11/19(木) 13:57:48 ID:???
>>52
本格侵攻である弘安の役が失敗したんだから
その威力偵察である文永の役は
敵の戦力を見誤ったという点で明らかに失敗だろう。
威力偵察説を採りあげるなら、だが。
60名無し三等兵:2009/11/19(木) 14:49:20 ID:???
赤坂の戦いでも日本側の騎兵200が2000の歩兵を蹴散らしてるな
日本側の活躍はほとんどが騎兵なのに絵巻も伝聞も蒙古は歩兵しか出てこない
61名無し三等兵:2009/11/19(木) 15:03:59 ID:rDbbX2V4
>>56
それだと結局何がしたかったの元軍?
という話になる
62名無し三等兵:2009/11/19(木) 15:58:21 ID:???
威力偵察がしたかったんだよ
63名無し三等兵:2009/11/19(木) 16:24:15 ID:???
>>60
絵巻にはわりと蒙古の騎兵描かれてるぞ
64名無し三等兵:2009/11/19(木) 17:21:27 ID:???
ところで元の兵士連中ってほとんど高麗や旧南宋の連中だったんだよな?
モンゴル人は実戦部隊にはいたのかな?
65名無し三等兵:2009/11/19(木) 17:35:18 ID:???
文永の役の元軍の主力はモンゴルの騎兵部隊だろ
66名無し三等兵:2009/11/19(木) 17:35:55 ID:???
>>63
ネットじゃまるで見つからないけど、どこの元寇サイトで見れるのだろうか
67名無し三等兵:2009/11/19(木) 17:44:58 ID:???
>>66
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/

麁原に陣取る蒙古軍の本隊に騎兵が多数描かれてる。
あと、高麗に配備されていた元の騎兵部隊6000のソース。

高麗史27卷-世家27-元宗3
今計正軍六千人所帶馬率以一人三匹爲計則凡一萬八千匹
68名無し三等兵:2009/11/19(木) 17:52:17 ID:OwkBBmWn
常識的に考えればだ
文永の役で三万で惨敗しているのに、弘安の役の東路軍四万だけでは勝ち目は無い。
問題は三万で勝てなかったのに四万のみで博多を攻撃した事。当初から合流してからの作戦だったのに現地部隊が先懸かった。
元軍が勝つにはどの道江南軍が必要で、江南軍が到着してから上陸に手間取ると台風シーズンなわけだから、江南軍の出発時期を早めなきゃならない
東路軍が壱岐で待って斥候を出し上陸地点を探す事
次いで江南軍の到着を待ってから唐津あたりに東江混成で五万程度を陽動上陸した後、博多湾外に主力を上陸させれば良かった
69名無し三等兵:2009/11/19(木) 18:14:11 ID:???
文永の役は大宰府攻略を目的とした侵攻作戦でしょう


撤退の理由は
1、対馬、壱岐による虐殺、予定にない長期滞在によって物資を消耗した。
『我が軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境の日本人を虜掠して帰る 元史日本伝』

2、武士の抵抗により指揮官が重傷を負うなど自軍に予想以上の消耗と被害を受けた

3、明日以降の武士の増援を恐れた
『忽敦曰 兵法小敵之堅大敵之擒 策披乏乃兵 敵日時之衆 非完計也 不若回軍 復亨中流矢 先登船 遂引兵還』

などの事情によるもの
単純に元の敗北でしょうね
70名無し三等兵:2009/11/19(木) 18:24:51 ID:???
威力偵察の成果が生きてないのはなぜですか?
71名無し三等兵:2009/11/19(木) 18:28:41 ID:???
>>67

高麗に配備されてても、九州まで連れてこれなきゃ意味ないような。
72名無し三等兵:2009/11/19(木) 18:33:47 ID:???
たった一日で撤退したんじゃ、幕府の投入可能兵力の把握は無理だよな
73名無し三等兵:2009/11/19(木) 18:40:03 ID:???
>>71
高麗に配備されていたのは日本侵攻のための部隊なんだから当然九州まで連れてきただろ。
74名無し三等兵:2009/11/19(木) 18:55:50 ID:???
>>73

高麗の降伏1270年
三別抄滅亡1273年
文永の役1274年

占領したばかりの国をがら空きにして、全軍侵攻って、どんなゲーム脳だよ
75名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:10:16 ID:???
>>67
それって
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html

のこと?
これは有名だよ
皆、別に元に一騎もいないとは言ってないと思うが
76名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:11:08 ID:???
>>74
高麗は親モンゴル国家だから問題なし
77名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:23:05 ID:???
ところで忠烈王の韓国や北での評価ってどんなもんなんだろ?
日本から見れば唾棄すべき元のポチだがあちらではやっぱり「日本征伐」を
実行させた英雄扱いとかなんかな?
78名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:23:21 ID:???
>>76

>>74
> 高麗は親モンゴル国家だから問題なし
それはさすがに朝鮮人にたいして失礼だろ
それじゃ、占領されたらすぐに尻尾ふるヘタレじゃんか
79名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:26:27 ID:???
>>78
>それじゃ、占領されたらすぐに尻尾ふるヘタレじゃんか

モンゴルの第二次日本遠征に際し、高麗の定慧寺の禅僧冲止(1226〜1293)が
日本遠征の威容をマンセーする「東征領」の中で述べたもの↓

皇帝(フビライ)が天下を統御するに
神功は放勲(帝堯)より越えた
徳は寛大で断折を包容し
広い恩沢は隅々にまで及んだ
車は千途の轍と共にし
書は天下の文章と共にした
ただ醜い島夷だけが残り
仮に鼎魚のように群れをなして生きていた
ただ滄溟を隔てていることを頼りにして
よって領域を分けることを図った
苞茅(朝貢のこと)はかつて入ったことがなく
班瑞(朝貢のこと)もまた聞いたことがない
そこで帝がこれに怒って
そのとき我が君に命令した
千隻の龍鵲(軍艦カ)の船と
十万の勇敢な軍兵で
扶桑(日本)の野において問罪し
合浦(馬山)の水辺で軍師を興した
鼓声が大海に鳴り響き
旗は長い雲を揺さぶった
(以下略)

高麗人ってこういう連中。
80名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:27:04 ID:???
高麗そのものはモンゴル大嫌いだろ
忠烈王だけが熱狂的に媚びてただけで
81名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:30:29 ID:???
高麗が親モンゴル国家なら、なんで戦って負けて占領されたんだ?
82名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:34:50 ID:???
「我が国は人も物資も援助は惜しみません!だからあの野蛮な日本を攻めましょう!」
こんなやつが晒し首にされず天寿をまっとうできたってのが信じられん。
83名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:38:18 ID:???
>>79

ヘタレってことか
すくなくとも、忠烈王はヘタレ決定
84名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:43:39 ID:???
>>81
モンゴルと戦った時の高麗と占領された後の高麗は政権が違うから。
モンゴルと戦った時代は崔氏という武臣勢力が実権握っていて王朝は傀儡に過ぎなかった。
ところが、高麗王朝はモンゴルの高麗占領を利用して、それに取り入ることで武臣勢力を一掃。
権力奪取に成功したわけ。
だから高麗王朝は親モンゴル政権なんだよ。
85名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:51:45 ID:???
>>84

なるほど。
でも、降伏からの期間が短すぎないか?
モンゴル側がそこまで信用するとは思えんのだが。
86名無し三等兵:2009/11/19(木) 19:57:32 ID:???
忠烈王は元の後ろ盾がなければなにもできない愚物だし
使いやすい駒だと思ってたんじゃないかね。
高麗人の憎悪を集中させて元に対する敵意を軽減させることもできる。
87名無し三等兵:2009/11/19(木) 20:00:01 ID:???
>>85
降伏の後、高麗王朝は文永の役の1274年に更に代替わりしてるから。
新たに即位した忠烈王は、わざわざモンゴルへの忠誠示すため名前に「忠」の字入れて、
フビライの娘を妻に娶り、服装までモンゴル式の衣装にしてた。
命じられてもいないのに勝手に日本侵略用の兵船を建造して、「さあ日本に攻め込みましょう!」
って言いにくるような奴。
88名無し三等兵:2009/11/19(木) 20:20:16 ID:???
>>87

> 新たに即位した忠烈王は、わざわざモンゴルへの忠誠示すため名前に「忠」の字入れて、
> フビライの娘を妻に娶り、服装までモンゴル式の衣装にしてた。

このへんはまあ、立場を考えるとしかたがないのかなーと、同情できるけど
> 命じられてもいないのに勝手に日本侵略用の兵船を建造して、「さあ日本に攻め込みましょう!」

こっちにはおもわず謝罪と賠償を求めたくなる。まあしないけど。
89名無し三等兵:2009/11/19(木) 20:20:42 ID:???
それから、高麗の降伏は1259年だよ。
90名無し三等兵:2009/11/19(木) 21:33:03 ID:???
>>89

> それから、高麗の降伏は1259年だよ。

でも、1269年の反乱で降伏した高麗の国王元宗は、一時政権を失ってるよ。
降伏前の高麗と、降伏後の高麗が別政権とするなら、
この時期の高麗は、降伏前の政権にもどったともいえる。
1974年の時点で、親モンゴル派が完全に国内を掌握しているとモンゴルが考えるかな。
やっぱり高麗からっぽにして日本に侵攻とか有り得ないと思う。
91名無し三等兵:2009/11/19(木) 21:59:15 ID:???
高麗国王は元の日本侵攻を利用して、潜在的な反国王派=反元派を日本に追放したんだ!…と妄想した
92名無し三等兵 :2009/11/19(木) 22:03:46 ID:WhrFWmJQ
ところで残酷を意味する「むごい」って言葉はもともとは「ムゴい」、
つまり「ムクリ=モンゴル(蒙古)、コクリ=高句麗(高麗)」が訛したもので
対馬壱岐での蒙古・高麗兵の残虐非道が語源なんだよね。
800年以上も言葉として伝えられてるほどの悪行だったんだろうな・・・
93名無し三等兵:2009/11/19(木) 22:48:34 ID:???
文永の役の3万程度の兵力じゃ、どうにもならない。
60年後には、足利尊氏が九州を中心にして十万以上の兵力を集めて京に進撃してる。鎌倉幕府の動員可能な兵力はそれ以上。
最初から弘安の役ぐらいの兵力を投入してれば、九州の北部を一時占領するくらいは出来たかもしれないが、いずれ叩き出されてる。
94名無し三等兵:2009/11/19(木) 22:52:23 ID:???
>>92
それは柳田國男先生も言っておられるのう

「お化けの鳴き声は?」「モーと鳴く」

このモーは蒙古を指すそうな
95名無し三等兵:2009/11/19(木) 23:06:55 ID:???
>>94

モーって。なんかかわいいな、おばけ
96名無し三等兵:2009/11/19(木) 23:47:59 ID:???
>>90
1269年の反乱はモンゴルの軍事介入であっさりと失敗し、元宗はその年の内に復位してる。
三別抄の乱が最後の残り火みたいなものだけど、その三別抄も実は裏でモンゴルに直接臣従したいと
申し入れていたりするんだよね。
結局、この時点で既に朝鮮半島に反モンゴルの勢力が存続していくのは現実に不可能というのが、
ほとんど周知の事実と化していた。
三別抄の乱は一応1273年まで続いたことになってるけど、1271年に大敗して戦力の大半を失い、
その後は軍事的にほとんど無視しても構わないような状態だったし。
97名無し三等兵:2009/11/20(金) 00:14:00 ID:???
>>96

>>90
> 1269年の反乱はモンゴルの軍事介入であっさりと失敗し、元宗はその年の内に復位してる。
> 三別抄の乱が最後の残り火みたいなものだけど、その三別抄も実は裏でモンゴルに直接臣従したいと
> 申し入れていたりするんだよね。
> 結局、この時点で既に朝鮮半島に反モンゴルの勢力が存続していくのは現実に不可能というのが、
> ほとんど周知の事実と化していた。
> 三別抄の乱は一応1273年まで続いたことになってるけど、1271年に大敗して戦力の大半を失い、
> その後は軍事的にほとんど無視しても構わないような状態だったし。
98名無し三等兵:2009/11/20(金) 00:20:26 ID:???
>>97

つまりモンゴルの軍事介入がなければ成功してたわけだよな。忠烈王的にもモンゴル軍に居てほしかっただろうね。
99名無し三等兵:2009/11/20(金) 06:12:46 ID:???
>>93
ならば、60年後に幕府軍10万をわずか500か1000で翻弄した楠木党だけで元寇は余裕で防げそうだな
100名無し三等兵:2009/11/20(金) 06:22:13 ID:???
>>92
近年でも英国のサッチャー首相がソ連を非難するのにジンギスカンの様に野蛮と表現している
モンゴル軍は若い女以外の住民を皆殺しにし略奪の限りを尽くす
若い女は連れ去り性奴隷にしてモンゴル人の子を孕ませ植民地に住まわせる
現代の中央アジアからトルコに掛けてのトルコ系民族はその末裔
101名無し三等兵:2009/11/20(金) 10:32:27 ID:???
>>93
兵の数だけでは計れない
数が全てならスペインがインカを滅ぼせない
102名無し三等兵:2009/11/20(金) 10:37:38 ID:???
>>93
3万程度の兵力って、この時代の常識だと1国の征服を十分狙える数なんだよ。
1066年にイングランドを征服したウィリアム征服王や、1204年にピザンツ帝国を征服した第4回十字軍は、
もっと兵力少なかったんだから。
普通なら3万あれば最低でも九州くらいは征服できると考える。
撃退した日本が凄すぎるんだよ。
103名無し三等兵:2009/11/20(金) 11:29:02 ID:???
>>102
確かに完璧にモンゴル軍を撃退した国は日本だけだな
欧州や中東を含めみな蹂躙されたのにね
104名無し三等兵:2009/11/20(金) 11:37:59 ID:???
>>102
アレキサンダーは数千を率いてマケドニアから出征しオリエントを統一した
105名無し三等兵:2009/11/20(金) 11:49:45 ID:LvndAPsk
ベトナムも元を撃退してなかったっけ?
106名無し三等兵:2009/11/20(金) 12:06:31 ID:???
>>105
完璧に撃退したのは日本だけ
ベトナムは一次蹂躙されたが最終的に撃退した
107名無し三等兵:2009/11/20(金) 12:27:21 ID:ykm5tlf2
>>101
インカの場合
・疫病持ち込まれた。
・王様あっさり人質に
・インカ滅亡の伝説と状況が酷似していて士気がほぼゼロに。

というファクターがデカいからな。
勿論、戦術や装備の差も大きいが
同じように戦術と装備に差があったマゼランは
原住民に討ち取られてるし
108名無し三等兵:2009/11/20(金) 12:58:04 ID:???
インカは鉄製の武器が無かったのが大きかったんだよ。
アメリカ大陸は建築技術とかが発展していても軍事技術は石器時代のままだった。
反対にアフリカは鉄製武器が普及していたおかげで、征服されたのがアメリカよりもかなり後になってから。
109名無し三等兵:2009/11/20(金) 13:26:27 ID:???
>>101

文永の役の戦闘結果から判断すると、戦力の質でも大差ないよ。投入戦力では日本側が少なかったし。
110名無し三等兵:2009/11/20(金) 13:48:25 ID:???
やっぱり『陸続きじゃない』ってのも大きかったんじゃないかな。
仮に西欧も完全にモンゴルに蹂躙されて同じ島国のイギリス攻めたらどうなってたか
111名無し三等兵:2009/11/20(金) 15:13:09 ID:???
イギリスって戦国期でも人口数百万もいなかったんじゃなかったっけ
112名無し三等兵:2009/11/20(金) 15:34:39 ID:???
実際ブリテン島は外からガンガン征服されまくってるからねえ
113名無し三等兵:2009/11/20(金) 15:38:37 ID:???
鎌倉期の日本の人口(琉球・アイヌを除く)は1500万人くらいだろ。
元が攻めた周辺国家の中では飛びぬけて大国だった上になれない船旅。
補給や備蓄などの準備もそこそこにこの程度の戦力での侵攻作戦は
戦略的は無謀の一言だね。
114名無し三等兵:2009/11/20(金) 16:21:40 ID:???
>>112
距離も長く黒潮が流れ潮流の速い対馬海峡とドーバー海峡を同列には扱えない
ドーバー海峡は瀬戸内海の早瀬と同程度の難所
115名無し三等兵:2009/11/20(金) 16:35:44 ID:???
芸能人が泳いで渡るとか、テレビでやってたしな
116名無し三等兵:2009/11/20(金) 17:54:23 ID:???
「ドーバー部なんてだっせえよなwwwwwwww」
「やっぱウリナリは社交ダンス部だよなwwwwwwww」
117名無し三等兵:2009/11/20(金) 18:44:50 ID:???
日本が幸運だったのは、神風なんかじゃなくて、この時期鎌倉幕府が存在したことだろうね。
源平合戦とか南北朝の時代にやってきて、平氏や南朝が元と手を組む展開になってたらヤバかったかもしれない。
118名無し三等兵:2009/11/20(金) 19:42:23 ID:???
デーン人ってドーバー海峡から来たのか?
119名無し三等兵:2009/11/20(金) 20:54:20 ID:???
>>114
対馬海峡という条件は同じなのにあっさり上陸されて首都が陥落した
国もあるけどあれはなんなんだ?
120名無し三等兵:2009/11/20(金) 21:03:33 ID:???
185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 16:05:24
>>184
ノルマンディー公はドーバー海峡の最狭部を渡ったわけではないから。
ディーブ河口を出発してサン=ヴァレリーを経由し、イングランドのぺヴェンシーに上陸。
距離的には、文永の役の元軍や、弘安の役の東路軍と大して違わない。

それに、島国イングランドは北海を遥か隔てた半島デンマークにも征服されてる。

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 17:10:02
>>188
ノルマンディー公がディーブ河口に艦隊を集結させたのは8月上旬。
ところが悪天候のため出港することが出来ず、9月11日には一度渡航を試みたものの、
失敗してサン=ヴァレリーに漂着。
そこから延々と天候回復を待って、ようやくイングランド上陸を果たしたのが9月28日。

一方の元軍は文永の役で、10月3日に合浦を出港し、10月5日に対馬、10月14日に壱岐と
順調に船を進めた上で、10月20日には博多上陸を果たしている。
弘安の役の東路軍は、5月3日に合浦を出港し、5月21日に対馬と壱岐を襲撃した後、
6月6日に博多湾到着。

あきらかに、ノルマンディー公の方が気象条件で苦労しているだろ。
121名無し三等兵:2009/11/20(金) 21:08:54 ID:???
>>119
チョンやモンゴルの遠征軍と一緒にされたら三成たち豊臣子飼いのテクノクラートが可哀想
122名無し三等兵:2009/11/20(金) 23:39:18 ID:lyO1S8Ib
>>117
元寇後の対応を誤ったので幕府が倒れた、という順番なのでその仮定はあまり意味がない気がする。
応永の外寇の時なんかは伝聞に尾ひれがついて蒙古が攻めてくるなどと大変だったらしいが。
123名無し三等兵:2009/11/21(土) 02:10:21 ID:WfPjt5K4
応永の時は、対馬の民衆に撃退されたんだよな
124名無し三等兵:2009/11/21(土) 04:02:55 ID:uaon6PlQ
日本に来たのが練度の低いチョンだったてのが1番大きい
125名無し三等兵:2009/11/21(土) 07:47:55 ID:???
>>124

> 日本に来たのが練度の低いチョンだったてのが1番大きい

>>49によると、モンゴル軍の有力な騎馬軍がいたらしいが。
126名無し三等兵:2009/11/21(土) 07:50:35 ID:???
錬度が低い?三別抄を平定した軍じゃないのか?
127名無し三等兵:2009/11/21(土) 07:56:27 ID:???
よく考えると、済州島に馬の牧場作っても文永の役には間に合わないな。三別抄が1273年までいたんだから。
128名無し三等兵:2009/11/21(土) 09:13:15 ID:???
カワイイ当歳馬を戦闘に参加させんなよ
129名無し三等兵:2009/11/21(土) 11:27:17 ID:???
済州島で育てた馬を文永の役に投入したと言ってるわけじゃない。
モンゴルはその前の1271年に馬18000頭を高麗へ配備してるんだから。
モンゴル時代、馬は日常的に済州島から船で海を輸送されていたわけで、
海があるから日本へ騎馬部隊を投入できないなんて理屈は成立しないって話だ。
130名無し三等兵 :2009/11/21(土) 12:03:16 ID:nhRymm6e
しかし絵詞みると元軍の主力は歩兵。それが実態でしょう。
131名無し三等兵:2009/11/21(土) 12:20:31 ID:???
>>130
それがこの時期のモンゴル軍の平均的な部隊編成だからな
132名無し三等兵:2009/11/21(土) 12:32:09 ID:???
>>129

> モンゴル時代、馬は日常的に済州島から船で海を輸送されていたわけで、

済州島は1273年まではモンゴルの支配下になかったんだから、文永の役の時はあてはまらないんじゃないかな?
133名無し三等兵:2009/11/21(土) 12:43:48 ID:???
>>107
あと騎兵。
数万のインカ軍がピサロ軍の数十騎の突撃であっさり崩壊する程免疫がなかった。
スペイン人は「危機的状況に陥ったとき、我々を救ったのは常に神の加護と馬だった」という旨の述懐を残している。
134名無し三等兵:2009/11/21(土) 13:04:59 ID:???
騎兵だけを集中して運用する戦術は、日本ではすでに義経がやってたけど、当時の日本では一般的なものだったのかな?
135名無し三等兵:2009/11/21(土) 13:12:14 ID:???
>>134
絵巻でも日本軍は騎兵の集中運用してるじゃん
136名無し三等兵:2009/11/21(土) 14:25:52 ID:???
モンゴル帝國にすれば支配下民族主体の軍による遠征であり敗戦による政権へのダメージは少ない
137名無し三等兵:2009/11/21(土) 15:12:37 ID:???
実は政権へのダメージが滅茶苦茶大きかったんだが。

『中国史のなかの日本像』 王勇著
「また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、
その結果として海防の弛緩を招致してしまった。十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。
注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。」
138名無し三等兵:2009/11/21(土) 15:23:43 ID:???
>>137
既に倭寇のはしりが活動開始していた
倭寇の構成は北部九州から瀬戸内の海賊を中心に対馬壱岐伍島島原天草薩摩の民が参加している
後年になり巨済済州琉球奄美等の海賊をも参加している
139名無し三等兵:2009/11/21(土) 16:12:01 ID:???
>>136
>モンゴル帝國にすれば支配下民族主体の軍による遠征
帝国とは、そういうものだろ。帝国なのに単一民族で構成されてる軍なんて珍しいだろ
140名無し三等兵:2009/11/21(土) 16:53:20 ID:???
朝鮮出兵と並んで日本の武士が大規模に異国の軍と戦った数少ない戦だよな。
どこかが映画化とかしてくれないかな。
「日本神国化の復活だ!」とか左寄りのバカが騒ぐだろうけどw
141名無し三等兵:2009/11/21(土) 18:55:54 ID:???
>>129

文永の役に馬18000頭も連れてくるなんて、モンゴルも馬鹿な事したな
その分の輸送力で歩兵運んでれば、一日で撤退なんて情けない結果にはならなかっただろうに
142名無し三等兵:2009/11/21(土) 20:07:41 ID:WfPjt5K4
威力偵察だったからいいんだよ。
元の目的は達成されたんだよ。



と、向こうのスレで暴れてるバカがいます。
143名無し三等兵:2009/11/21(土) 20:12:22 ID:???
占領も視野にいれた示威行動、ってことだと思うけどね。
実際手薄だった壱岐、対馬ではヒャッハーやってたしな。威力偵察ならば
あそこまでやる意味がない。
144名無し三等兵:2009/11/21(土) 20:32:04 ID:???
殲滅した橋頭堡にもなる対馬壱岐をあっさり放棄した理由がわからない
145名無し三等兵:2009/11/21(土) 21:38:36 ID:???
守りきれないと考えたんだろう。駐留できる部隊は少ないのに加え、運用できる軍船の数も
少なくなってしまったんだから。
146名無し三等兵:2009/11/21(土) 22:01:14 ID:???
もう魔法の言葉になってるよな「威力偵察」w

戦果が上がらなかったのも威力偵察だからよし。
大宰府まで侵攻しないのも威力偵察だからよし。
他国ならば立派に占領できる数の兵を大船団に載せて行っても威力偵察。
七年後の侵攻のためでも威力偵察。
弘安の役の敗戦も威力偵察部隊の責任ではない。
147名無し三等兵:2009/11/21(土) 22:59:08 ID:???
威力偵察?そんなわけないよ!
明らかに当時の文献は日本本土(現在の統一日本と異なる)の征服を示唆している。
同時期にベトナムも傘下に収めようと、現在の中国南部で大攻勢をかけている。
ベトナム軍のすごいのは陸戦主体で元を撃退しているところだ。
結局日本軍が元寇を阻止できたのは、近海の気象状況及び、季節、なによりも
隔てる海があったからだ。
戦国時代中期なら火器の差で日本軍大勝利だったけどね。
148名無し三等兵:2009/11/21(土) 23:10:52 ID:???
ベトナムの地形や気候は侵略軍にとって有利にも不利にもならなかったの?
149名無し三等兵:2009/11/21(土) 23:44:15 ID:???
>>148
ご明察!ベトナムの地形、気候は中国南部のデータを元にしても、計りがたく
突発的なスコールや定期的な雨季は侵略軍にとって不利以外の効果はなかった。
大河メコンは元にとっても渡河しがたく、時には防衛側にも牙をむいている。
150名無し三等兵:2009/11/21(土) 23:51:30 ID:???
>>141

馬1頭当たり人間3人運べると仮定して18000頭で54000人…
大宰府ぐらいは落とせたな
まあ実際には指揮官クラスの馬を運ぶのがやっとで
まともな騎馬部隊は存在しなかったが
151名無し三等兵:2009/11/22(日) 00:09:43 ID:AcjMB91m
何度も何度も服属要求使節をよこして、しまいには使節を斬り殺されて、
それでもやっぱり威力偵察(笑)
152名無し三等兵:2009/11/22(日) 03:47:23 ID:???
日本もベトナムもモンゴル軍には不馴れな戦場条件だったのは確かだが
撃退出来たのは国を上げて防戦に勤めたからであり神風とかはデフォルメして伝承でしかない
日本の防戦が成功した理由は時の執権時宗や北条一門と九州の御家人など幕臣の働きによる
153名無し三等兵:2009/11/22(日) 04:40:23 ID:qL12tz/n
>>151
当時はそれでも威力偵察だよ。使節の観念は残念ながら東洋には存在しない。
第一次大戦後に出来た規範で、中国や韓国、残念だが本邦の歴史も改ざん
されている。
つーかさ>>151

威力偵察ってなによ?理解してる?
なんで笑えるのか不思議なんだけど。
154名無し三等兵:2009/11/22(日) 04:54:59 ID:???
>>153

> 使節の観念は残念ながら東洋には存在しない。
> 第一次大戦後に出来た規範で、中国や韓国、残念だが本邦の歴史も改ざんされている。

そのへんたのむ。非常に興味深い
155名無し三等兵:2009/11/22(日) 07:09:53 ID:???
ジャワ遠征は威力偵察ですか?
156名無し三等兵:2009/11/22(日) 07:55:18 ID:???
文永はまあいいとしよう。
弘安の総計14万も威力偵察ってか?
157名無し三等兵:2009/11/22(日) 08:41:02 ID:???
>>156
これは完全に本格侵攻作戦だな!
158名無し三等兵:2009/11/22(日) 09:38:29 ID:???
秀吉の朝鮮出兵も威力偵察だよな
159名無し三等兵:2009/11/22(日) 12:29:44 ID:???
もう真珠湾攻撃もノルマンディー上陸作戦も威力偵察だったってことで
160名無し三等兵:2009/11/22(日) 13:01:40 ID:???
>>153マダー?
161名無し三等兵:2009/11/22(日) 13:14:31 ID:???
>>158
秀吉の朝鮮征伐は威力偵察だろ
当時の国内動員最大兵力が80万だからな
実際に渡海した兵力は十分の一だし
162名無し三等兵:2009/11/22(日) 13:56:47 ID:???
>>161

オイオイその理屈だと文永の役が威力偵察になっちゃうぜ。
163名無し三等兵:2009/11/22(日) 14:07:02 ID:???
>>162
いや、歴史上ほとんどの攻勢軍事行動が威力偵察になるw
164名無し三等兵:2009/11/22(日) 14:55:26 ID:???
>>163
威力偵察→総力戦の二段階でおk
165名無し三等兵:2009/11/22(日) 16:11:05 ID:???
威力偵察だとしても大宰府に到達できず、1万数千の損害出してるんだから、
文永の役はモンゴル軍が大敗だったという点には何の違いも生じないけどな。
166名無し三等兵:2009/11/22(日) 17:07:24 ID:???
>>126

ただのテロリスト鎮圧しただけだからな
167名無し三等兵:2009/11/22(日) 19:11:50 ID:???
そろそろ>>153がレスしてくれると信じてる。
168名無し三等兵:2009/11/22(日) 21:57:17 ID:???
>>159
もはやシーザーのガリア遠征もナポレオンやヒトラーのロシア遠征も威力偵察
ハンニバルのローマ遠征や曹操のレッドクリフすら威力偵察
無敵艦隊など威力偵察の露払いに行ってネルソンに殺られた事になる
169名無し三等兵:2009/11/22(日) 22:03:20 ID:???
論破されてもあくまで威力偵察に来ただけなので負けじゃない。
170名無し三等兵 :2009/11/22(日) 22:20:20 ID:LkWV3c3V
そうか、>153は威力偵察に来ただけだったんだなww
171名無し三等兵:2009/11/22(日) 23:00:50 ID:???
>>149
元軍対ベトナム軍の戦い、何の本読めばわかる?
172名無し三等兵:2009/11/22(日) 23:23:20 ID:???
>>171 元朝秘史
173名無し三等兵:2009/11/22(日) 23:24:47 ID:???
陳興道の伝記みたいなのがあればわかりやすいんだろうが見当たらんな
174名無し三等兵:2009/11/23(月) 00:20:58 ID:5x19T8NG
ちんこうどん!
なんちってw
175名無し三等兵:2009/11/23(月) 00:55:39 ID:jV4ZMoN7
>>153
え?朝鮮通信使や琉球の冊封使も都市伝説だったの?驚き!
176名無し三等兵:2009/11/23(月) 01:21:45 ID:???
うちの爺ちゃんが参戦してたけど、威力偵察だったって言ってるよ
177名無し三等兵:2009/11/23(月) 04:28:45 ID:???
そういえばガチで威力偵察しに行って一個師団磨り潰したことあったな(笑)
ノモンハン
178名無し三等兵:2009/11/23(月) 06:09:39 ID:???
当時アジアで10万以上の兵力を投入できたのって日本、中国、モンゴルくらいじゃ・・・
179名無し三等兵:2009/11/23(月) 07:58:50 ID:???
>>171
元軍対ベトナム軍の戦いについて知りたいのなら山本達郎の「安南史研究」がベスト。
ちょっと高いけど今なら古本屋のサイトで購入できる。
http://www.kosho.or.jp/public/book/detail.do?tourokubi=86D834466F0345225976FC76CE9AF3F8879BD51193DB80C3&seq=513&sc=BFEF5EF8DBD602164ED18997687098EA
180名無し三等兵:2009/11/23(月) 10:59:19 ID:???
モンゴル騎馬軍は草原や砂漠の戦いは無敵だったが船旅や密林の戦いは苦戦した
まあ当たり前たな
181名無し三等兵:2009/11/23(月) 11:12:58 ID:???
>>180
モンゴル軍がそんな局地専用の軍隊なら、あんな巨大帝国築けないって。
南宋の大艦隊にも勝ってるし、密林で象部隊に勝ってビルマのパガン朝征服してるんだし。
182名無し三等兵:2009/11/23(月) 11:34:14 ID:???
いやん、パガン
183名無し三等兵:2009/11/23(月) 12:42:23 ID:???
>>182は船に括り付けて高麗お持ち帰りの刑
184名無し三等兵:2009/11/23(月) 13:08:37 ID:???
>>181
モンゴル軍でなくモンゴル騎馬軍が密林や船戦で苦戦するのは必然だろ
185名無し三等兵:2009/11/23(月) 13:52:05 ID:???
またおかしなのが来たな。
こいつも威力偵察目的か?
186名無し三等兵:2009/11/23(月) 14:47:08 ID:???
つーか元寇って数万のドルジが攻めてきたようなもんだろ?
想像しただけで怖いわ
187名無し三等兵:2009/11/23(月) 15:38:37 ID:???
3万の兵なんて、さいたまスタジアムに集まったレッズサポーターよりも少ないじゃん
大したことないよ、ぼこぼこにしてやれる
188名無し三等兵:2009/11/23(月) 15:41:55 ID:???
>>186
朝青龍みたいなのばかりじゃないと思うけど、小柄な日馬富士くらいは標準かも
189名無し三等兵:2009/11/23(月) 15:44:59 ID:???
>>188
大きな人は船に乗せられなくて、痩せた兵ばかりだったっておじいちゃんが言ってた
190名無し三等兵:2009/11/23(月) 16:05:00 ID:???
おいおい
騎馬武者あいてにドルジならむしろ的が大きくて好都合でしょ

さくさく矢が当たって終わり


http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
191名無し三等兵:2009/11/23(月) 16:14:03 ID:???
>>184
モンゴル騎馬軍は第一次ベトナム侵攻の時、僅か3000騎でベトナム占領して属国化させてる。
密林で苦戦どころか圧倒的な強さだったんだよ。
それに、文永の役でモンゴル騎馬軍は船戦で負けたわけじゃないし。
福岡平野で普通に野戦して負けただけ。
192名無し三等兵:2009/11/23(月) 18:21:28 ID:ej3gEY+w
>>191
どこにそんなこと書いてあったの?
193名無し三等兵:2009/11/23(月) 18:23:22 ID:ej3gEY+w
>ベトナム占領して属国化
ここ。そんな話聞いたこともないんでな。
194名無し三等兵:2009/11/23(月) 18:26:56 ID:???
>>191じゃないけど、少なくとも服属して朝貢はしているな。

http://homepage2.nifty.com/Kircheis/Nenpyoh/chrono01.htm
1257 モンケ、南宋親征を決定する。
ウリャンハタイ軍、ベトナム陳朝の首都・昇竜(ハノイ)を攻略。
1258 フラグ、バグダードを攻略。アッバース朝の滅亡。
ベトナム陳朝、モンゴル帝国に朝貢する。
195名無し三等兵:2009/11/23(月) 18:41:02 ID:???
>>194
おお、マジか。
196名無し三等兵:2009/11/23(月) 18:49:22 ID:???
米軍ですら陥落できなかったのに
197名無し三等兵:2009/11/23(月) 20:08:02 ID:???
>>195
まさか単に知らなかっただけなのか?
198名無し三等兵:2009/11/23(月) 21:44:56 ID:???
>>196
米軍が失敗したのは当時の世界状況からなる政治的理由という足枷があったから
モンゴル軍見たいに皆殺しおkなやり方なら余裕だたよ
199名無し三等兵 :2009/11/23(月) 22:12:23 ID:cs3cxLFv
絵詞みると>190みたく日本武士団は結構活躍してるんだよね!
「集団戦術と火薬兵器に手も足も出ず惨敗」なんて記述が左翼系歴史書や
日教組推奨教科書には堂々と書いてあるが、モンゴル軍がそんなに楽勝した
ならなぜ撤退したのかと小一時間問いつめたいわ。
劣勢の日本軍が精強さを発揮して激しく抵抗し、予想外の損害を受け苦戦
したから撤退した、というのが軍事的に見て妥当だろ。
200名無し三等兵:2009/11/23(月) 22:18:49 ID:???
『蒙古襲来絵詞』を未だに恩賞目当てだと思ってるのがいるんだよな。
どちらかというと『八幡愚童訓』の方が神威の喧伝という目的があるんだけどねw
武士のを貶めて勝利を神威に帰するのは当然。
201名無し三等兵:2009/11/23(月) 22:25:07 ID:???
>>199
>「集団戦術と火薬兵器に手も足も出ず惨敗」
おれの学生時代の教科書にもこう書いてあったわ
まあ、教科書つくっているやつら自身が歴史に関して教科書レベルの知識しかないんだから仕方ないわ
202名無し三等兵:2009/11/23(月) 22:30:32 ID:???
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
この巻の全体を見るとどっちの陣営が集団戦術から逃げ惑っているか
明らかなんだけどねw
季長は先走り過ぎて孤立しただけなのに。
203名無し三等兵:2009/11/23(月) 22:33:06 ID:???
実際、季長は勇者というよりは一人で突っ走ったただの馬鹿だからな
204竹崎季長:2009/11/23(月) 22:46:29 ID:5x19T8NG
だって、少弐さんが先駆けしてもいいよ。
って許可してくれたんだもん
205名無し三等兵:2009/11/23(月) 22:49:33 ID:???
つーか、教科書がおかしすぎ
集団戦術は当時の日本においても十分に確立されていたんだがな
なにを根拠にそう表記してるのだろうか
206名無し三等兵:2009/11/23(月) 23:27:06 ID:???
>>202
おい志村、誰が書かせた絵巻だ?
207名無し三等兵:2009/11/23(月) 23:32:50 ID:???
>>205
転写ミスが根拠らしいよw


336 :世界@名無史さん[sage]:2008/04/01(火) 23:14:50 0
ちなみに、元寇で武士が蒙古に一騎打ちを挑もうとしてフルボッコにされたという
有名な逸話も八幡愚童訓が唯一の根拠なんだけど、これも転写エラーだから。

八幡ノ蒙古記
「高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に」

菊大路本
「高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処」

どの元寇関連本も八幡愚童訓を根本史料としてる癖に、その根本史料に関する
まともな説明が一切無いのはこういう事情。
今までの定説が全部ひっくり返っちまうからなw
208名無し三等兵:2009/11/23(月) 23:54:12 ID:???
>>153は威力偵察を終えて撤退しちゃったの?wwww
209名無し三等兵:2009/11/24(火) 00:24:11 ID:???
南越国は大人の判断だろ。徹底抗戦するより朝貢貿易に参加するほうが利益が大きい。
幕府と朝廷の二重権力の日本では朝貢貿易をするわけにも行かず本格戦闘に発展しただけ
210名無し三等兵:2009/11/24(火) 00:24:23 ID:???
>>208
>>153は威力偵察中に戦死されましたw
211名無し三等兵:2009/11/24(火) 00:33:44 ID:cm3JEh0A
>>209
二重支配ってのは何の理由にもならないと思うぞ。
たった100年後には日本も朝貢貿易を行っているのだから。
212名無し三等兵:2009/11/24(火) 02:46:08 ID:???
>>211
それはちと違うぞ
朝貢貿易をもう一回調べなおしてみろ
213名無し三等兵:2009/11/24(火) 07:30:49 ID:???
利益が大きいというかさ、首都落とされた後に朝貢って服属以外の何物でもないよ。
214名無し三等兵:2009/11/24(火) 08:55:49 ID:???
>>213
真の首都はフエじゃないの?
陥落したのは比較的平野が多いハノイだし
人口はメコン河口に集中している
ハノイなんて首都と言えるのかな?
215名無し三等兵:2009/11/24(火) 09:41:54 ID:???
>>177
英軍も一個師団で上陸しての威力偵察でやられたことがあるよなぁ
216名無し三等兵:2009/11/24(火) 09:45:45 ID:???
>>215
ロンメルなどは威力偵察に北アフリカに行って
あれよあれよという間にエルアラメインまで攻め込んだ
217名無し三等兵:2009/11/24(火) 10:21:20 ID:???
ドイツアフリカ軍団が威力偵察専門だったのかw
218名無し三等兵:2009/11/24(火) 11:01:01 ID:???
>>211

足利義満は朝廷の権力を越えようとしてたから
鎌倉幕府にはそのつもりがなかった
219名無し三等兵:2009/11/24(火) 11:09:13 ID:???
>>217
ドイツアフリカ軍団は数個師団規模しかない上に補給線も貧弱
正真正銘の威力偵察部隊
220名無し三等兵:2009/11/24(火) 11:11:46 ID:???
その後陳朝は反攻に転じているが、大人が子供に変わったのか?
二重支配でも始まったのか?
221名無し三等兵:2009/11/24(火) 11:18:47 ID:???
>>218
義満は明から日本国王に任じてもらい
清和源氏の直系ゆえに皇位継承出来ると
無茶苦茶な論理で天皇になるつもりだった
日本史上天皇から皇位を纂奪を計画したのは怪僧道教 足利義満 織田信長の三人
実際に纂奪したのは継体天皇 天武天皇 明治天皇の三人
222名無し三等兵:2009/11/24(火) 11:26:30 ID:???
日本が元に対して権威を認めてなかったってのもある
「は?おまえどこの無礼者だ?」ってなもんで

というか新参がこんな無礼な手紙よこせば日本にへそ曲げられて当然

国書の和訳DQN風味
上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」
大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」
日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」
境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」
況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」
遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」
朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」
日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」
開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」
尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」
故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」
冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」
且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」
不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」
以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」
 王其圖之不宣「じゃーな!」
    至元三年八月 日
東大寺蔵

まさにDQN
223名無し三等兵:2009/11/24(火) 11:48:12 ID:???
>>222
しかし当時の諜報能力凄いね!
元朝の侵攻日時も規模も把握してないと
あんなに上手く迎撃出来ないだろう
二回も緒戦の水際で撃退してる実績から見て紛れ当たりでは無い
224名無し三等兵:2009/11/24(火) 12:21:33 ID:???
>>209
当時ベトナムがやってたのは朝貢貿易なんてシロモノじゃないよ。
ただ貢物を搾り取られていただけ。
それに、元からベトナムへは間接統治のためにダルガチという役人が派遣されていた。
張庭珍というダルガチは、ベトナムの宮廷で「蛮夷の小邦に仮に王号を与えただけ」の国王よりも、
フビライから派遣された自分の方が上位であると主張。
元の属国だったベトナムは、そんな屈辱にも耐え忍ぶしかなかったんだよね。
225名無し三等兵:2009/11/24(火) 12:37:35 ID:???
>>224
なるほど過去の支那歴代王朝と同じ感覚で降伏したらモンゴルはヤカラだったから直ぐに反抗したのか(笑)
226名無し三等兵:2009/11/24(火) 13:32:07 ID:???
まあ、最初からモンゴルの本性見抜いて的確な対応した鎌倉幕府が立派だったということだな
227名無し三等兵:2009/11/24(火) 14:30:21 ID:???
当時の執権が今の首相みたいに友愛とか言ってるやつだったらどうなってたか…
228名無し三等兵:2009/11/24(火) 14:35:34 ID:???
>>227
考えるだに恐ろしいな
229名無し三等兵:2009/11/24(火) 15:10:22 ID:???
>>228
それだけ今が平和な証拠
230名無し三等兵:2009/11/24(火) 17:06:48 ID:???
>>221

朝廷が南北にわかれて争っていたせいで、鎌倉時代より大幅に朝廷の権威が低下していた。
その南北朝を義満は統一させた。
さらに義満は後円融天皇のいとこにあたる。
まあ、天皇になろうとした気持ちもわかるよ。
231名無し三等兵 :2009/11/24(火) 21:52:42 ID:GV1p0guO
>>229
平和なのは鳩ポッポの脳内だけだろw
あいつら左巻どもは危機意識が無さ過ぎる
時宗の爪の垢でも飲めと言いたいわ
232緑装薬4 ◆8R14yKD1/k :2009/11/24(火) 21:54:29 ID:XQMjXRmb
蒙古襲来から得た経験

「博多湾は着上陸適地」

ちなみに、水城付近は今でも戦術想定で使われます。
戦略的妥当性は全く無視ですが。
233名無し三等兵:2009/11/24(火) 22:03:31 ID:???
>>232
九州北部から山陰は上陸適地ばかりで困る
234名無し三等兵:2009/11/24(火) 22:39:41 ID:???
>>219
機動性重視で補給軽視だとみんな威力偵察になっちゃうわけか。
奇襲も威力偵察も一緒か。
235名無し三等兵:2009/11/25(水) 05:19:16 ID:???
>>234
奇襲は威力偵察の一形態
236名無し三等兵:2009/11/25(水) 11:26:05 ID:bDcSxPop
つまり真珠湾攻撃も威力偵察と
237名無し三等兵:2009/11/25(水) 11:40:22 ID:???
参加兵力300万人のバルバロッサ作戦とかも威力偵察
238名無し三等兵:2009/11/25(水) 12:00:53 ID:???
>>236
空振りだった可能性もある。完全に威力偵察だろ(笑)
239名無し三等兵:2009/11/25(水) 12:07:33 ID:???
240名無し三等兵:2009/11/25(水) 12:57:20 ID:55YXrgq+
>>205
>>207

面白いね。
通俗的な日本史理解でいちばんひどい誤りかもしれん
241名無し三等兵:2009/11/25(水) 13:37:27 ID:???
名乗りあうってのも手柄の証人になってもらうために味方同士で名乗りあうってことだしね。
242名無し三等兵:2009/11/25(水) 14:48:24 ID:???
言葉も通じない相手だし
壱岐対馬の虐殺も耳に入ってるだろうし
さぞ凄惨な殺し合いになったんだろうな。
243名無し三等兵:2009/11/25(水) 21:08:54 ID:???
>>241
恩賞が雀の涙だった悲劇
244名無し三等兵:2009/11/25(水) 21:13:35 ID:???
地頭職が雀の涙か。
245名無し三等兵 :2009/11/25(水) 21:20:56 ID:ib91FRa7
>>242
モンゴル高麗兵は残虐の限りを尽くしたからな
男は皆殺し女は手に穴を空けて舷側に結びつけて拉致(性奴隷に)
それを知ったから日本兵も捕虜は全員斬首だもんな
246名無し三等兵:2009/11/26(木) 00:33:18 ID:PtJNoidY
それなんて60年前の戦争?
247名無し三等兵:2009/11/26(木) 01:19:11 ID:???
通州事件、いわゆる通州の虐殺か
248名無し三等兵:2009/11/26(木) 15:41:10 ID:???
そういや古来の日本では
前線は水城だったんだよな
249名無し三等兵:2009/11/26(木) 18:26:42 ID:???
>>248
鎌倉幕府も文永の役以前はそのつもりだったろ。
水城で粘ってる間に国内で動員して反撃みたいな内地持久戦略。
でも、実際に戦ってみたらモンゴル軍が予想外に弱くて水城までたどり着けないから、
前線を海岸まで引き上げた。
250名無し三等兵:2009/11/26(木) 21:06:13 ID:???
学校の教科書には神風(台風)が来たから勝てたと表記されていたが、
来なくても大丈夫だったんじゃねと思うのは俺だけか?
251名無し三等兵:2009/11/26(木) 21:22:15 ID:???
>>250
コーエーのジンギスカンシリーズの攻略本で「もし神風が吹かなければ」ってIF戦記があって
無事合流した元軍に九州北部は制圧されてそのまま京都にまで侵攻されるも
総動員かけた日本軍との決戦で結局敗北するって流れでなかなか面白かったな。
252名無し三等兵 :2009/11/26(木) 21:44:30 ID:ZHHK1H80
>>250
文永は水城までは攻め込まれたろうがそこで拒止
弘安は石築地で上陸阻止できただろう。
上陸地を別の場所に移せば上がられたろうが、兵站の問題からも
元軍がそんなに前進できるとは思えない。
253名無し三等兵:2009/11/26(木) 22:34:06 ID:???
>>250
むしろ、歴史関連のスレや掲示板に書き込んでる奴は
俺含めて、みんなお前さんと同じ認識だよ。
余所ならともかく、この手のスレで
今時一騎打ちとか神風とか言ってたら笑い飛ばされるぜ
254名無し三等兵:2009/11/26(木) 23:09:33 ID:???
>>252

水城までこれないんじゃないか?
むこうは背水の陣とかいってるし
矢も尽きてたそうだし
日本側の戦力はどんどん集結中だし
撤退してなかったら翌日か翌々日には潰滅してる予感
255名無し三等兵:2009/11/27(金) 00:13:13 ID:???
台風が来て船が多数沈んで元は帰って行った。これは事実。
台風が来なくても勝てた、なんてことをなんで口を大にして言えるのか
256名無し三等兵:2009/11/27(金) 00:29:47 ID:???
文永の役ではこなかったみたいですよ台風
弘安の役では台風こなくても上陸させなかったし
台風が来なくても絶対勝てます
257名無し三等兵:2009/11/27(金) 00:51:32 ID:???
>>255
船が沈んだのになんで帰れるんだよw
258名無し三等兵:2009/11/27(金) 01:41:10 ID:???
>>257
全部の船が沈んだわけじゃないよ

>>255
実際台風来なくても勝てたと思うよ
文永の役は現実にそうだったし
弘安の役でも春から攻めてるのに結局台風シーズンまで元軍は逃げ回るばかりだった
これは江南軍と合流すれば反撃に転じれるはずだという希望にすがってのことだったろうけど
実際は合流したあとも元軍は武士にぼこぼこにされて逃げ回ってるんだよね
史実ではここで台風が来て船が多数沈み、幹部連中は残った船で逃げ帰った。
鷹島中心に取り残された10万あまりの元軍兵士を置き去りにしてね

台風はいわば幹部連中が逃げ帰る口実になっただけ
台風がもし来なかったとしても結局全滅までの期間が延びただけになる
259名無し三等兵:2009/11/27(金) 03:03:15 ID:???
>>255
大宰府どころか水城までもたどり着けなかったのにか?
それどころか弘安の役じゃ上陸すら満足にできてないぞwww
260名無し三等兵:2009/11/27(金) 07:15:54 ID:???
奥州藤原氏の精兵十万を壊滅させた幕府軍にとって蒙古など屁の突っ張りにもならん
261名無し三等兵:2009/11/27(金) 07:54:39 ID:???
奥州征伐で28万もの大軍勢を擁した作戦を行っているのに
集団戦術がなかったなんてありえないだろ。
262名無し三等兵:2009/11/27(金) 08:28:01 ID:+paaLCxD
中世の動員兵力数は誇張が大きいから
実数としてはあまりあてにならないような。

それにしても、「個人戦主体の日本軍が集団戦の元軍に悩まされた」
というのはおかしいんじゃないか。悩まされるのは逆じゃないの?
263名無し三等兵:2009/11/27(金) 09:16:00 ID:???
>>262

> 中世の動員兵力数は誇張が大きいから
> 実数としてはあまりあてにならないような。

それは元軍にもいえるんじゃないか?
264名無し三等兵:2009/11/27(金) 12:16:58 ID:???
>>262
それが必ずしも実数だとはいわんよ。ただ、少なく見積もって
仮にその半分程度だとしても大軍であることには変わりはない。
265緑装薬4 ◆8R14yKD1/k :2009/11/27(金) 20:26:38 ID:z/wF1c6y
>235
ヲイヲイ・・・

奇襲の要件知ってるのかぁ?(笑)

「敵の意表をつき、対応のいとまを与えない」のが奇襲であって、威力偵察とは全く違うでしょうに。
266名無し三等兵:2009/11/27(金) 22:05:06 ID:???
>>265
上手くいったら奇襲
気付かれたら強襲
気付かれたから小手先でお茶を濁したら威力偵察
267名無し三等兵:2009/11/27(金) 22:14:40 ID:???
承久の乱以降のブランクのせいで、
源平時代には存在したであろう集団戦術のノウハウが
失われてしまっていた可能性はない?
268名無し三等兵:2009/11/27(金) 22:23:57 ID:???
>>267
百年くらいで戦術が後退するとは思えない
中小規模の反乱が絶え間なく発生してる
269名無し三等兵:2009/11/27(金) 22:28:31 ID:???
>>267
時宗の父時頼の代には宝治合戦
時宗の代には二月騒動
いずれも反逆者の粛清という形ではあるが
大きな戦乱は起こってるぜ
270名無し三等兵:2009/11/27(金) 22:35:18 ID:???
>>252
要するに一日目にボコボコにされて逃げ帰った元軍が
二日目以降日本側より勢力を盛り返すことが可能と
君は考えるわけだね。

どこから増援は湧き出てくるの?
271名無し三等兵:2009/11/27(金) 22:49:01 ID:???
>>265
その通りだと思うよ。元軍はそれまで集団戦の奇襲で勝ってきたから、長期戦で統制が取れなくなってきて、いざ個人戦になった時の戦術を知らなかったんだと思う。

てつはうや日本軍の倍以上の射程距離の弓矢など、離れた位置からの集団攻撃のうちはまだしも、いざ一対一の個人戦闘の高等技術は教育されてなかったのもあると思うよ?
272名無し三等兵:2009/11/27(金) 22:51:11 ID:???
あ、ゴメン。>>271>>265じゃなくて>>262ねw
273名無し三等兵:2009/11/27(金) 22:51:41 ID:???
>>268-289
そうか
失礼しました
274名無し三等兵:2009/11/27(金) 23:07:16 ID:???
>てつはうや日本軍の倍以上の射程距離の弓矢

こんなの持っていて直、日本軍ご撃退できない元軍(高麗軍?)ヨワス

275名無し三等兵:2009/11/27(金) 23:12:22 ID:???
たしか和弓の方が射程長いんじゃなかったか?
276名無し三等兵:2009/11/27(金) 23:25:55 ID:???
>>275
モンゴルの騎兵が持ってる短弓と、
日本の和弓とでは和弓のほうが確実に射程が長い。
弓の全長が違いすぎる。

ただしクロスボウはその和弓よりも射程が長い。
277名無し三等兵:2009/11/28(土) 00:06:12 ID:???
クロスボウって精度悪くなかった?
278名無し三等兵:2009/11/28(土) 00:35:21 ID:???
>>271
一対一とかまだ言ってるのか。集団で騎射やってますけど。
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm
279名無し三等兵:2009/11/28(土) 01:19:36 ID:c1k/qmQ6
クロスボウは連射が利かない
280名無し三等兵:2009/11/28(土) 01:23:51 ID:inn97sDF
>>278
馬鹿だな。その絵は弓手一人一人が日本軍の侍一人一人と一騎打ちしているところ。
281名無し三等兵:2009/11/28(土) 03:47:38 ID:???
古代から弩はある
日本はなぜ普及しなかったのかな
282名無し三等兵:2009/11/28(土) 04:18:28 ID:???
>>150
馬は水をガボガボ飲む生き物なので、当時の海上運搬能力では
真のモンゴル騎兵戦術を使えなかったからね。
もし、日本と朝鮮がつながっていたら、俺なら戦わずに天皇を差し出して
全面降伏するよ。
モンゴルは抵抗するものには容赦ないが、戦わないものにはやさしい気の良い人たちですよ。
戦争は何も生みません。えらいさんは首を切られるために贅沢三昧の生活を続けているのですからね。
283名無し三等兵:2009/11/28(土) 07:06:23 ID:???
虐殺された対馬と壱岐の住民にあやまれ
284名無し三等兵:2009/11/28(土) 07:36:58 ID:???
と、妄想を語る>>282であったが、後日、>>282
モンゴルのさらなる領土拡大戦争に強制的に従軍させられるのであった。


モンゴルが征服した国の人間を別の戦線に投入するのはいつものことだぜ
高麗軍とか南宋軍を見てりゃわかるだろうにw
285名無し三等兵:2009/11/28(土) 08:05:38 ID:???
>>282
別に歩兵が騎兵に劣るってことはない。ナヤンの反乱などでは
生粋のモンゴル騎兵が歩兵主体の元軍に敗北している。
286名無し三等兵:2009/11/28(土) 08:52:18 ID:???
>>282は忠烈王
287名無し三等兵:2009/11/28(土) 09:06:20 ID:???
人類の戦術の進歩は常に騎兵(戦車)と歩兵の戦術が交互に優位に立ち進歩して来た
ファランクスしかり斜行陣しかりチャリオットしかり蒙古騎兵しかり
日本では軽騎兵のみの機動運用戦術は義経が源平合戦時代に確立してる
288名無し三等兵:2009/11/28(土) 09:48:49 ID:BfTw/Idm
日本では結局騎兵が主力兵科にはなりきれなかっただろう。
現代でも戦車の立ち位置は微妙。
289名無し三等兵:2009/11/28(土) 10:09:06 ID:???
大平原がないのに馬が主力になるわけ無いじゃんw
290名無し三等兵:2009/11/28(土) 10:29:58 ID:WKVyZWQ+
というか騎兵>歩兵なら
ベトナムやジャワはどうやってモンゴル撃退したんかとw
291名無し三等兵:2009/11/28(土) 13:33:19 ID:QWudBPFe
でも、大宰府まで日本軍を追い込んだ元軍は、何故博多湾に一旦引いたんだろ?
292名無し三等兵:2009/11/28(土) 14:12:22 ID:???
追い込んだ?
293名無し三等兵:2009/11/28(土) 14:45:53 ID:???
攻勢限界に到達した上、占領地域の維持が困難だったから
というのが軍事的観点から見たら普通だと思うがどうだろう
294名無し三等兵:2009/11/28(土) 15:02:56 ID:???
お腹が空いただけだろ
295名無し三等兵:2009/11/28(土) 15:07:49 ID:???
それ以前に日が暮れたから
双方が引き上げただけだろ
296名無し三等兵:2009/11/28(土) 15:24:17 ID:???
そして暗闇の中、竹崎季長らが蒙古の艦船にに奇襲をかける。
ここからが本番やほないこか!
297名無し三等兵:2009/11/28(土) 15:41:35 ID:???
だいたい、一会戦で弾薬が尽きて補給の見込みもないって真面目に侵攻するつもりないだろ
当時の造船や航海技術からすると対馬海峡だけってのは補給線が細すぎるのでは?
298名無し三等兵:2009/11/28(土) 15:43:44 ID:???
だから威力偵察だといってるだろ
3回目から本気出す予定だったんだよ。
299名無し三等兵:2009/11/28(土) 15:46:02 ID:???
>>291
大宰府の手前の水城にもたどり着いてませんよ
博多あたりで夜まで激戦してました
300名無し三等兵:2009/11/28(土) 15:47:23 ID:???
モンゴル口ほどにもなかったわw
301名無し三等兵:2009/11/28(土) 15:53:50 ID:???
>>298
威力偵察だというのは一日で矢がなくなる理由にはならないだろ
一日で矢がなくなるほどの激戦だったと考えるのが普通
302名無し三等兵:2009/11/28(土) 16:02:47 ID:???
想定外だっただけだろ遭遇戦というものは往往にして
そういうものだよ。
303名無し三等兵:2009/11/28(土) 16:05:19 ID:???
他国への強襲揚陸後の戦闘が遭遇戦?
304名無し三等兵:2009/11/28(土) 16:16:09 ID:???
つーか対馬で無駄にハンティングゲームしてたから
本番でそういう事態に陥るんだろ
305名無し三等兵:2009/11/28(土) 16:18:42 ID:???
「島国の野蛮人って聞いてたけど話違うじゃねえかよー」
「んだな、夜襲怖いし一旦引き上げようぜ」
306名無し三等兵:2009/11/28(土) 19:09:00 ID:???
モンゴル軍といえども東郷元帥の連合艦隊三笠があらわれ一斉回答はじめたんだから
遁走するのも無理はないね
307名無し三等兵:2009/11/28(土) 22:27:48 ID:???
文永の役は実質一日だけの戦闘だけど、元軍の矢がなくなるほどの激戦だった。
日本側の投入戦力は史料から騎馬武者約五千騎。騎馬武者には、足軽が数名つくのが普通。騎馬武者一騎に二名足軽がいたとして一万五千の兵力。三名なら二万。
兵力では日本側が少ないが博多より内陸への侵攻は阻止している。戦闘は日が落ちるまで続き、夜になると双方兵をひいた。
日本側は水城まで。これは集結中の戦力と合流、再編の為と考えると、ごく自然な戦術行動といえる。
元軍が船まで引き上げたのは、日本側を撃破できず、また戦力を消耗したため、撤退を考えてか、上陸地点に留まった場合には日本側の夜襲を受けると判断したため。
元軍は船に戻ったが、敵を撃破した上陸部隊が船にもどる訳が無い。上陸した元軍の任務が威力偵察や示威目的だとしても、それは船に戻った理由にはならない。元軍がもし日本側を撃破していたら、対馬や壱岐での行為と同じ事をしないで船に戻った事が説明できないから。
一日の戦闘結果だけならば双方敵を撃破できずに痛み分けといえるが、日本側は九州の戦力も半分以上は集結してなかった事を考えれば、たとえ神風が無かったとしても元軍に勝利の可能性はまったく無く、日本側の完勝といえる。
308名無し三等兵:2009/11/28(土) 23:26:04 ID:???
>>92
「ムクリコクリ」は「ムクリコク(蒙古国)」が語源という説もある
そもそも数百年前に滅びた高句麗がなんでそこで出てくるのかわからんし
ちなみに高句麗自体も日本書紀などでは通常高麗(こま)と呼ばれていて
高句麗と言うのは元々日本であまり知られた名前ではないはずだし

>>100
トルコ人が中央アジアや小アジアに住み着いたのはモンゴルがくるよりもずっと前なんだけど
309名無し三等兵:2009/11/29(日) 00:32:26 ID:???
>>308
モンゴル帝国は蒙古族トルコ族が支配階級
310名無し三等兵:2009/11/29(日) 02:22:30 ID:???
>>307
「足軽」は南北朝期からの用語だから使わない方が説得力増すよ
普通に全時代的に「従者」とするか、院政〜鎌倉期は「家子郎等」とした方が揚げ足取られないよ
311名無し三等兵:2009/11/29(日) 03:44:40 ID:???
何上から目線で語ってんだ 揚げ足取るなら自分でかけやマジ怒る。
312名無し三等兵:2009/11/29(日) 13:26:04 ID:???
確かにその時代に足軽はねえなw
しかも注意されて逆ギレはひどい。
313名無し三等兵 :2009/11/29(日) 13:40:04 ID:jFYLmUzX
まあまあ細かいことで争うなや
確かに「足軽」とは言わないが実態は後世の足軽同然だし、
>>307の言ってることは当を得てると思うよ。
よく日本軍は「5000騎。その他合計10000」と書いてあるが、
一騎当たり郎党一人というのはあり得ないだろう。
二人として合計15000というところだと俺も思う。
314名無し三等兵:2009/11/29(日) 13:54:32 ID:???
奈良時代の直刀を「日本刀」と呼ぶような微妙さだな。
315名無し三等兵:2009/11/29(日) 14:41:09 ID:???
あげ足とられるかどうか
ということもあるけど
徒士と足軽は正社員とバイトぐらい職種的な
違いもあるのでやっぱり可能な限り区別した方がいいとおもう

運用の違いも大きい
徒士が戦闘に参加するのはおもに「陸戦で白兵戦」のときだしね
騎射の段階じゃ騎馬だけ先行しちゃうし(平治とか蒙古襲来絵詞とかみるとよくわかるけど)
白兵戦でも船戦だと大半が徒士なしで戦っちゃうし
316名無し三等兵:2009/11/29(日) 14:45:08 ID:???
>>287
資料から見れば赤坂あたりの菊池勢の戦い方は騎馬のみっぽいな
317名無し三等兵:2009/11/29(日) 21:55:16 ID:???
>>316
騎馬隊が連日戦闘参加するには替え馬や飼い葉の手配や馬具の補修など後方支援が必要
318名無し三等兵:2009/11/29(日) 22:08:48 ID:???
なぜそんなレスがつく?
319名無し三等兵:2009/11/29(日) 22:12:10 ID:dMY7F7cg
無敵のモンゴル騎馬軍団に弱小日本軍が勝てるわけないだろ
日本軍はモンゴル軍の集団戦術に手も足も出ず敗走した
教科書にものってるだろ捏造するな
320名無し三等兵:2009/11/29(日) 22:23:50 ID:???
なら橋頭堡の確保もできず船に撤退するわけないだろ
321名無し三等兵 :2009/11/29(日) 22:33:07 ID:uoddrUlI
>>316
捏造は左翼の十八番だろ 教科書ももちろんな
日本軍を敗走させたならなんで撤退せにゃならんのだ?
いっとくが文永では神風は無しだぞw
322名無し三等兵:2009/11/29(日) 22:50:08 ID:???
>>313
地本の住民が戦闘に参加してた可能性はないかな?
おらの田んぼを荒らすんじゃねーって感じで
対馬や壱岐の虐殺を聞いていたらとっくに逃げ出してたかもしれんが
323名無し三等兵:2009/11/29(日) 22:51:38 ID:???
おまえらが教科書で習った元寇
ttp://image.blog.livedoor.jp/nagasime37/imgs/1/f/1fe04de6.gif

これは何?
http://uploader.sakura.ne.jp/src/up1855.jpg



なぜ日本の教科書では朝鮮軍が逃げる様を
絶妙の部分でカットしているのかすごい疑問。
おまえらの手元にある教科書を見てみろ。
必ず同じ部分でカットされてるから。
324名無し三等兵:2009/11/29(日) 23:01:58 ID:???
山に登って弁当食いながら観戦してました
325名無し三等兵:2009/11/29(日) 23:16:23 ID:???
>>323
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/index.html
ちゃんとこっちに誘導してやれよ。
326名無し三等兵:2009/11/29(日) 23:22:52 ID:???
『元史』(日本伝)
「冬十月、その国に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き、
ただ四境(しきょう、まわり)を虜掠(りょりゃく)して帰る」
327名無し三等兵:2009/11/30(月) 04:28:04 ID:???
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。

328名無し三等兵:2009/11/30(月) 14:01:00 ID:+liCkUz9
>>319
教科書より当時の文献や絵詞のほうが信頼性高くね
329名無し三等兵:2009/11/30(月) 20:02:04 ID:???
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/otayori7.html
>メールをありがとうございます。 元寇に関する第1級の資料は「八幡愚童記」「高麗史」「竹崎季長絵詞」と言われています。ところが、
>どこの国の記録もそうですが、自分たちにとって都合良く書かれている部分があるので100%信じるわけにはいきません。そこで、
>学者はそうしたことを加味しながら事実を読みとっていこうと努力しています。


となると自分たちのことを都合よく書かれている部分があるはずの『元史』において
「冬十月、その国に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き、ただ四境(しきょう、まわり)を虜掠(りょりゃく)して帰る」
とあるのだから、ここはまず信用できるということになる。


>今日の最も新しい説では第一回目の文永の役では、元軍は威嚇という目的を果たしての帰路で嵐に遭っているようです。
>「八幡愚童記」を読む限り、文永の役でメタメタにやられていたのは日本の武士達です。ところが朝起きてみたら敵が消えていた・・
>と書かれていますから、これは真実だと思われます。


なのにこいつは神官が手柄を主張する目的故に武士が貶めて書かれている可能性が高い
『八幡愚童訓』が真実だというんだからなwww
330名無し三等兵 :2009/11/30(月) 21:59:18 ID:F65WY0Ic
何年もかけて準備し900艘も船作って三万も動員して来襲したあげくに
「威嚇目的だから」たった一日で撤退とかww
軍事的にあり得ないだろJK
こういう説を流布したのは軍事知識皆無の左巻馬鹿学者どもだ。
こいつらは歴史をねじ曲げ捏造する、万死に値する輩だな。
331名無し三等兵:2009/11/30(月) 22:06:40 ID:???
>威嚇目的
威嚇を果たしたどころかかえって舐められた訳だしなw
332名無し三等兵:2009/11/30(月) 22:08:15 ID:???
威嚇を果たした→目的を果たした
333名無し三等兵:2009/12/01(火) 03:21:30 ID:???
>>328
当然。
教科書なんて、元寇に限らず当てにならないよ。
秀吉の朝鮮出兵や第二次世界大戦でも教科書はその凄まじさを発揮してる
334名無し三等兵:2009/12/01(火) 04:23:15 ID:???
モンゴル軍にすれば信用出来ない高麗に負役を課し、南宋に兵役を課せたから、敗戦でも大成功なんじゃね?
335名無し三等兵:2009/12/01(火) 05:01:26 ID:48xy9zTt
制海権をごっそり失ったのに成功なの?
336名無し三等兵:2009/12/01(火) 07:14:24 ID:???
>信用出来ない高麗に負役を課し

「高麗史」十五(ソウル大学)世家二十七 高麗史二十七 元宗三 元宗十三年(1272)三月の条
世子'ェ(後の忠烈王)云'の箇所
『惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師』

読み下し
『惟だ彼の日本のみ、末だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵糧は方に須むる所在り。
もしこのこの事を以て臣に委ぬれば、勉めて心力を尽くし、小しく王師を助くるに庶幾からん』


元寇の原因はそもそも高麗の忠烈王の進言。弘安の役の後、第3次遠征を計画していたことから考えても
当事者たちは成功と思っていなかっただろ。
337名無し三等兵:2009/12/01(火) 07:24:13 ID:???
>>333
第二次世界大戦のあたりkwsk
学校の授業だとそのへん猛スピードでとばされて、教科書になに書いてあったか記憶にないや
338名無し三等兵:2009/12/01(火) 13:01:19 ID:???
>>334−335
太平洋戦争の日本も大成功ってことだな
339名無し三等兵:2009/12/01(火) 13:02:55 ID:pOgUCHLL
「悪逆非道な枢軸国」VS「正義の連合国」
って見方の教科書が多いことを指してるんでしょ
340名無し三等兵:2009/12/01(火) 13:19:13 ID:???
>>307
>兵力では日本側が少ないが博多より内陸への侵攻は阻止している。

日本軍はもっと手前でモンゴル軍を撃退してるよ。
蒙古襲来絵詞だと、麁原付近に上陸したモンゴル軍は赤坂で菊池勢に撃退されて敗走してるんだから。
文永の役で博多に被害があったなんてことを裏付ける史料は皆無だし。
341名無し三等兵:2009/12/01(火) 18:11:00 ID:???
>>340
麁原付近に上陸したのはモンゴル軍の一部だけだよ。主力は博多方面に上陸してる。
342名無し三等兵:2009/12/01(火) 18:19:21 ID:???
>>341
主力が博多正面に上陸したことを裏付ける史料もない。
史料に記されてる上陸地点は、全部麁原など博多湾岸西方。
主力が博多正面に上陸し、その部隊によって博多が占領された揚句に焼失したなんて話は、
最初から最後まで全く史料的根拠のない完全な作り話だから。
343名無し三等兵:2009/12/01(火) 18:58:37 ID:???
>>342
上陸地点の話だが、史料にもないからといっても、有り得ないとはいえない。
なんでかっていうと、軍事的に有り得ないから。
地図で大宰府の位置をよくみるんだ。
344名無し三等兵:2009/12/01(火) 19:11:07 ID:???
>>342
あと、あなたが言うように上陸地点が全部麁原など博多湾岸西方で、モンゴル軍は赤坂で撃退されて敗走してるんなら、幕府軍が戦闘終了後に水城まで戻ったのが意味不明になるよ。
345名無し三等兵:2009/12/01(火) 19:42:38 ID:???
>>344
主力が集まるのを待っての一斉攻撃と考えれば不自然ではないと思う。
346名無し三等兵:2009/12/01(火) 20:02:25 ID:???
>>345
ごめん。言っている意味がよくわからない。
モンゴル軍はまだ主力を戦闘に投入してなかったということ?
それは有り得ないと思うし、もしそうなら、船に引き上げたりしないんじゃないか?
347名無し三等兵:2009/12/01(火) 20:04:08 ID:???
違う違う、日本側が一端引いた理由。
主力という言葉が紛らわしいなら増援でも構わん。
348名無し三等兵:2009/12/01(火) 20:19:58 ID:???
>>347
敗走させてるのに増援をまつかな?竹崎さんなら何て言うか。
増援を待つにしても、幕府軍がモンゴル軍を圧倒してるなら水城まで戻る必要はないし。
無意味に博多の町とかを危険にさらすことになる。
一所懸命な武士的にもその作戦は可能性低いような。
349名無し三等兵:2009/12/01(火) 20:23:43 ID:???
まあ、竹崎さんは先駆けし過ぎて助けられてるくらいだから
なんて言うかねw
350名無し三等兵:2009/12/01(火) 20:29:36 ID:???
典型的な猪武者w
でもおれは竹崎さん大好きだw
351名無し三等兵 :2009/12/01(火) 22:05:37 ID:ayO4+/q/
博多はともかく筥崎宮も消失してるよね、これも怪しいの?

確かに位置関係を考えると、赤坂で敵を撃退した筈なのに
博多・筥崎宮が消失っていうのは矛盾してて、戦況の推移が
前から疑問だった。
別の上陸部隊だとしても、博多前面に上陸してきたら日本軍左翼の背後が
脅かされ赤坂・麁原方面へ攻撃することなどできないだろうし。
その辺り軍事知識のない歴史家が書いた本では説明されてなく
納得できないのよ。
352名無し三等兵:2009/12/01(火) 22:10:32 ID:???
首都消失
353名無し三等兵:2009/12/01(火) 22:20:20 ID:???
志賀の島とかに上陸してたはず
博多を東から役せる
354名無し三等兵:2009/12/01(火) 22:31:29 ID:???
回回砲で可燃物飛ばしてたとかw
355名無し三等兵:2009/12/02(水) 01:12:42 ID:???
>>344
そもそも水城が本来の前線なの
そして野営地でもある

ところが元軍は先駆けレベルの軍勢に当たっただけで
敗走、および時間切れ(日暮れ)になっちゃった
(水城にすらたどり着けなかった)

武士にしてみりゃ一日戦ってるんだぜ
いくらなんでも飯と睡眠ぐらいとってもいいんじゃね?

>>348
日が暮れてるのに深追いする理由もない
追ってもよかったかも知れんが、普通は帰って飯食いたいんじゃね

というかこの話って何度も出てないかい?
356名無し三等兵:2009/12/02(水) 01:34:03 ID:???
モモ地場るから高麗軍が進軍してきたわけだがこっちは赤坂で撃退

劉復享は遅れて出撃したわけだがこっちは福岡平野で狙撃されてぐちゃぐちゃになり撤退

この時点で夕刻になったので勝ってた方の武士も水城まで戻ったわけだ

まあ博多を焼いたというのが事実無根だという説に関して俺は肯定も否定もできないという意見なんだが
仮に元軍が博多を焼いたとすれば武士が引き揚げ、水城で夜営しているとき

こっそり小規模の人さらいが出ばってきて略奪レベルのことをやったんだろうということになると思う
357名無し三等兵:2009/12/02(水) 01:54:15 ID:u7JYtgd/
>>342
そもそも博多を昼間武士がいるうちから焼いたとかいう珍説自体が珍しいと思うが…
たいてい夜焼いたって話が主流ではないかい?

358名無し三等兵:2009/12/02(水) 04:42:53 ID:???
一般的な軍事常識から見れば博多に火を放ったのは幕府軍。
既に博多は疎開が完了していたはずだし、夜営駐屯地の水城まで下がるに当たり、蒙古軍に利用されぬ様に火を掛けた。と、考えるのが妥当だろ。
359名無し三等兵:2009/12/02(水) 06:24:57 ID:???
>>355
だから地図をよくみるんだ。
上陸地点が全部麁原など博多湾岸西方で、モンゴル軍は赤坂で撃退されて敗走してるんなら、
幕府軍が戦闘終了後に水城まで戻る方が疲れるだろ。博多で休めばいいじゃん。
360名無し三等兵:2009/12/02(水) 07:16:28 ID:???
そもそも大宰府攻略を目的とした上陸作戦で博多湾西部にしか上陸しないなんて軍事的に有り得ないから
モンゴル軍は大宰府の位置も知らなかったのか?
361名無し三等兵:2009/12/02(水) 07:39:28 ID:jEB/zcq9
>>358
幕府軍が博多を燃やしてどうするの?
水城まで前線を下げるの?

元軍が撤退の時間稼ぎのために焼き払ったと考えるほうが自然では。
362名無し三等兵:2009/12/02(水) 07:55:18 ID:???
文献が残っている激戦地が蒙古軍主力が展開した博多西部なだけで
博多東部に一切上陸した部隊がいないと考える方が軍事常識から見れば不自然
363名無し三等兵:2009/12/02(水) 09:57:24 ID:???
>>362
博多東部ってどこのことを言っているのかわからないが、
博多湾の東側は遠浅の干潟なので上陸には不向き。
364名無し三等兵:2009/12/02(水) 09:59:07 ID:???
>>357
元軍は夕刻に戦闘終了して日本から撤退してるんだから、夜博多を焼けるわけないぞ。
その時刻には遥か彼方の海の上だ。
365名無し三等兵:2009/12/02(水) 10:16:54 ID:???
モンゴル軍は博多湾西部に主力を上陸させて、湿地帯の赤坂を越えて大宰府を目指して侵攻したと言うのか?
いくらなんでもモンゴル軍ナメすぎ。あいつら日本以外では勝ちまくってたんだぜ
366名無し三等兵:2009/12/02(水) 10:37:51 ID:???
モンゴル軍は赤坂で菊池勢に撃退されて敗走してるとすると、少弐景資はいつどこで劉復享を矢で負傷させたんだ?
それともこれも作り話しなのか?
367名無し三等兵:2009/12/02(水) 10:52:44 ID:???
>>366
弘安の役とごっちゃになっててどこまで信憑性があるか判断難しいんだけど、
少弐氏の家伝史料だと蒙古大将を射止めた場所は百道原ってことになってるんだよね。
赤坂よりもっと西の。
368名無し三等兵:2009/12/02(水) 10:58:32 ID:???
>>367
それって上陸地点じゃね?
ますます水城まで戻った意味がわからない
369名無し三等兵:2009/12/02(水) 11:17:24 ID:???
>>368
まあ、元軍は夕方には撤退してるんだから、日本軍が夜水城に戻ったとすれば、
それは飯食って寝るためだろうな。
水城には兵糧が大量に蓄えてあったらしいし。
370名無し三等兵:2009/12/02(水) 11:27:09 ID:???
ゲームのコマではないのだから小数で奮闘すれば疲労も人一倍溜まるだろうしな
371名無し三等兵:2009/12/02(水) 16:00:37 ID:???
>>364
夕刻に撤退して軍議
夜略奪
深夜日本を離れたんだろ
372名無し三等兵:2009/12/02(水) 16:05:41 ID:???
>>359
まさか水城がどういうところだか知らずに書いてるの?
地図を見るのはいいが
武士は弁当持参で参加するレジャーキャンプしにきてるわけじゃないんだぜ

なんでわざわざ飯も寝床も用意されてないとこでしかも無防備に寝なきゃならんのよ
水城にもどるだろ常識的に考えて
373名無し三等兵:2009/12/02(水) 16:10:12 ID:/ZM2KeAR
みなさん非常にお詳しいので参考になりますが、
元寇(蒙古襲来)に関して、良い本などありますか?
白石一郎の『蒙古襲来』は読みましたが、多くの
謎に対する考察は十分ではなかったので、教えて
もらえれば助かります。
374名無し三等兵:2009/12/02(水) 16:40:33 ID:???
>>372
あなたこそ水城をなんだと思ってるんですか?
堀と土塁ですよ
375名無し三等兵:2009/12/02(水) 16:45:17 ID:???
>>373
旧日本軍陸軍少将の竹内栄喜が昭和6年に書いた『元寇の研究』が良い。
最近の本だと、元陸将補の松村劭が書いた『海から見た日本の防衛 対馬海峡の戦史に学ぶ』かな。
376名無し三等兵:2009/12/02(水) 16:49:54 ID:???
>>374
その堀と土塁の裏は大宰府じゃん
377名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:06:59 ID:???
>>376
そう。だけど戻ったのは大宰府ではなく水城までなんだよ
休養だけを考えるなら大宰府に戻ればいいのにね
378名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:10:46 ID:???
>>377
水城まで戻ったとすれば、それは大宰府まで戻ったってことだろ
その時間にはとっくに元軍が敗退してるんだから
379名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:18:13 ID:???
>>374
水城が野営地なのに…
やっぱわかってなかったか
380名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:19:03 ID:???
赤坂で敗走した元軍を追撃して上陸地点まで追い詰めたんなら、水城まで戻るなんて軍事的に有り得ない。
食事や睡眠ならそこまで戻る必要ないよ。博多でいいじゃん。
381名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:24:21 ID:???
>>380
水城に集めてある
兵糧や夜営に必要な物資そのほかを
博多に瞬時に移動させる魔法があればねw
382名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:29:24 ID:???
>>380
元軍は既に敗退してるんだから軍事的にはどこで野営しようが問題ないんだよ。
ただ、大宰府は有事に日本軍が駐屯するように、鎌倉幕府がもともと準備を整えてた場所だから。
博多はそうじゃない。
383名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:32:54 ID:???
>>379
野営地って、戦況の推移によって移動させるものだよ。
幕府軍が元軍を撃破したなら移動させて当然だよ。
もっとも私は水城は野営地ではなく防御拠点だと思うが。
幕府軍がそこまで引いた判断にはそれなりの状況があったと考えるだけだよ。
384名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:36:33 ID:???
むしろ無防備な博多やら赤坂やらで
そのまま寝るとかいう方が軍事的にあり得ないw

朝鮮マフィアがうろうろしている繁華街で自宅まで数キロ程度しか離れてないにもかかわらず
そこらへんの道ばたで寝るようなものだろw
385名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:37:53 ID:???
水城は
前後二重の濠の間に整地された野営用のスペースと高い土塁、緩やかな土塁がはさまれた防御の要

防御も夜営もここほど安心な場所はない
386名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:40:05 ID:???
>>387
そりゃ寄せ手ならそうするだろうが
武士側は防御する側だ

撃退させたって言ってもこの時点で武士たちは元軍が夜逃げすることを知らない
普通に考えて拠点に帰還するだろう
387名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:43:24 ID:???
>>381
戦況に合わせて当然移動させてるはずだよ。瞬間移動の必要はない。幕府軍が無能じゃなければね。
あと、あなたは幕府軍が本当に一日飲まず食わずで戦ったとでも思ってるのか。
幕府軍のだれも飯の心配しなかったというのか。
388名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:45:56 ID:???
そもそも赤坂突っ込んでいった連中って先駆けじゃん

なんで先駆け連中のために野営地(当然切り盛りする裏方さんがた人材もいっしょに)のほうを移動させにゃならんのよ

幕府のほうだってまさか先駆け連中がちょっと張り切っただけで元軍が逃げ出すとは予想外だろう
389名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:47:07 ID:???
>>386
八幡愚童訓の著者が知らなかっただけで、前線で戦ってた武士たちは元軍が撤退したこと知ってたんだろ。
実際、「合戦して元軍を追い返した」と報告してるんだし。
390名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:52:04 ID:???
>>387
ちょっと昼飯かきこむのと
安全を確保された状態じゃなきゃならん夜営じゃ全然違うだろうに

391名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:54:50 ID:???
そういや蒙古襲来絵詞なんかでも
武士団は各集団ごとに攻めては引き攻めては引きと
入れ替わり立ち替わりしながら攻めてるのがうかがえるよね

勝ち負けに関わりなく一定の首をとれたら引き上げる戦い方していたようだね
392名無し三等兵:2009/12/02(水) 17:57:49 ID:???
>>384
> むしろ無防備な博多やら赤坂やらで
> そのまま寝るとかいう方が軍事的にあり得ないw
この話題は元軍が撃破されてる事が前提じゃなかった?
あと、元軍が上陸したのは博多湾西部のみというのも。
それで元軍は赤坂で敗走して上陸地点まで追い詰められたと。
その状況で博多が無防備とはどういうことだ?
393名無し三等兵:2009/12/02(水) 18:00:52 ID:???
>>389
撤退したとはいえそれなりに安全を担保できるような陣のない場所で野営するより
きちんとした拠点に戻る水城はさほど遠くもないんだから

一時的に撤退させるのと
日本から船ごと離れるのとは別だろ

先駆けに参加した武士が知ってたのは上の情報だけだろ
実際元軍は撤退した後、軍議を行い
それから日本を離れることを決定している

この軍議〜日本を離れる行動までの間は武士の監視はない
394名無し三等兵:2009/12/02(水) 18:05:04 ID:???
武士は明日以降も戦いは継続されると考えていたわけで
古代からの防御ドクトリンにしたがって水城に帰ったんだろ
395名無し三等兵:2009/12/02(水) 18:11:36 ID:???
>>388
幕府側の司令官的な立場だった少弐景資が敵将に矢が届くほどの距離にいたのに先駆けだけなの?
396名無し三等兵:2009/12/02(水) 18:14:21 ID:???
>>390
この話題の前提条件では安全は確保された状態になるね
397名無し三等兵:2009/12/02(水) 18:20:24 ID:???
無力化されたわけではない元軍の逆襲も考えられるのに安全?
398名無し三等兵:2009/12/02(水) 18:31:32 ID:???
>>394
> 武士は明日以降も戦いは継続されると考えていたわけで

だからなんでそう考えたのかが問題なんだよ。
幕府側がそう考えたからこそ水城に戻ったということには完全に同意するよ。
でも元軍はその日のうちに撃破され橋頭堡も築けずに撤退したというなら、
なんで幕府側はそう判断したのか、おかしいよねということを主張してるんだが。
399名無し三等兵:2009/12/02(水) 18:42:03 ID:???
>>397
> 無力化されたわけではない元軍の逆襲も考えられるのに安全?

敵の主力を上陸地点まで追い詰めて撤退させたんでしょ。
それが本当なら弘安の役の時みたいに船で追撃したはずだけどね。
400名無し三等兵:2009/12/02(水) 18:56:20 ID:???
>>385
> 防御も夜営もここほど安心な場所はない

つまり不安があったから水城まで戻ったということだよね。
元軍を撃破したのにおかしいよね。
401名無し三等兵:2009/12/02(水) 19:01:41 ID:???
いくら圧勝してたからって1日で撤退するとは思わんわなあ。
402名無し三等兵:2009/12/02(水) 19:04:31 ID:???
あと、元軍が船に引き上げていて、翌日以降も戦いは継続されると幕府側が考えていたとすると、
水城まで戻ったら元軍の予想される再上陸にたいして初動が遅れることになる。
軍事的に有り得ないね。
403名無し三等兵:2009/12/02(水) 19:15:26 ID:???
>>389
> 実際、「合戦して元軍を追い返した」と報告してるんだし。

赤坂方面ではね。
話しを戻すが、私は上陸地点が博多湾西部だけというのは軍事的に有り得ないと思ってる。
軍事的にみれば、前日に今津に上陸した部隊とあわせて、博多湾西部に上陸した部隊は陽動じゃないかな。
幕府側の戦力を西部に誘引しといて、主力は博多前面に上陸。
そこから大宰府に進撃しようとして、幕府軍主力に阻まれた。
404名無し三等兵:2009/12/02(水) 20:06:20 ID:???
もちろん幕府側も敵の総戦力も西部に上陸した部隊の規模も把握してない段階で、
博多前面を空けるなんて馬鹿な事するはずがないから、
そこで両軍の主力がぶつかって激戦が繰り広げられたと思う。
>>391のような戦い方だと、遭遇戦の連続の様な形になって両軍とも損害が続出しただろうが。
その結果として両軍とも撤退という判断を下したんじゃないかと思って、私は>>307を書いたんだけどね。
405名無し三等兵:2009/12/02(水) 20:14:46 ID:???
あと、今更だし、証明する方法もないけど、>>311は私じゃない。
寝てる間にそんなカキコがあってなんかせつなくなったよ。
406名無し三等兵:2009/12/02(水) 20:21:24 ID:???
>>405
あんたのレスはまあ、それなりに論理的といえなくもないが
それだけは信じてやんないw
407名無し三等兵:2009/12/02(水) 21:11:04 ID:???
>>387
一日で後方拠点に集積した物資全てを橋頭堡に輸送できるわきゃないだろ・・・。
のまず食わずってそりゃ腰兵糧くらいは持ってっただろうが、一軍が野営するだけの量は無理。
408名無し三等兵:2009/12/02(水) 21:35:28 ID:???
>>407
後方拠点に集積した物資全てを輸送する必要は当然ないわけで…
とりあえず一泊する分だけあればいいんですよ。無理と考える方がどうかしている。
全軍水城に引き上げるよりは簡単ですよ。
あと>>402についてはどう考えてるんですか。
それと、橋頭堡という言葉の使い方に違和感が…
409名無し三等兵:2009/12/02(水) 21:40:31 ID:???
蒙古軍が当初の予想に反して西側から博多に迫ったので水城防衛線から戦場が離れた
幕府軍は赤坂以西に進出した場合、後方に上陸され挟み撃ちにされるのを恐れ、防衛拠点の水城まで退いたと考えるのが妥当
水際防衛が困難と考え、博多地区の防衛放棄は規定路線だと思う
蒙古軍の戦力は諜報活動で知りえたはず、翌日以降に本戦があると考え一旦引くのは中世の戦術では妥当
410名無し三等兵:2009/12/02(水) 21:56:28 ID:???
>>334

第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、
海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商戦の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる

中国の歴史12 第5章 王勇
411名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:00:38 ID:???
>>404
そんな激戦なら日本側の当時の資料に記載されるはずだが
まずそれを出してからにしてくれるか?
さらに主力同士の決戦になれば総兵力で圧倒的に劣る日本側は極めて不利。

実際の史料を素直に読み取れば、
>>391のような戦い方だと、遭遇戦の連続の様な形になって両軍とも損害が続出しただろうが。
という解釈はただの妄想で、>>391のような戦い方によって、
元軍としては、博多西方の湿地帯の中で、数の利を生かせず、
丘陵部を巡る中小規模の戦闘に巻き込まれ、
武装と錬度で遥かに勝る日本武士団に一方的に凹られた様子が見えてくるはずだ。
412名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:03:08 ID:???
>>409
> 水際防衛が困難と考え、博多地区の防衛放棄は規定路線だと思う

水際防衛が困難と考えたって事は幕府軍は元軍を撃退してないってこと?上陸地点まで追い詰めて撤退させたんなら困難とはおもわないよね。

> 蒙古軍の戦力は諜報活動で知りえたはず、翌日以降に本戦があると考え一旦引くのは中世の戦術では妥当

つまり元軍は主力を投入してないと、諜報活動で得た情報で幕府側は判断したということですか。
413名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:14:54 ID:???
>>411

>>395
両軍の指揮官が矢のとどくほどの距離でたたかってる。どう見ても乱戦状態。
414名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:15:39 ID:???
開戦初日で、元軍にある程度の打撃を与えた事は解っても
幕府軍に、元軍の状況が全部まるっと解ることはあり得ないんだから
当初の防衛計画通り行動するのに何の不思議もないでしょ

戦場でリアルタイムに得られる情報は限られており、
常に最善の行動をとるとは限らないというのは
戦史を見る上で大前提の常識でしょ?念のため
415名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:21:54 ID:???
>>402-403
君の脳内軍事常識はさておくとして、
現実は厳しい。
元軍は日本の発達した軍備、社会体制をプロの目で分析せず、
商人三名の「大宰府なら2、3万人で征服できるよ」
という甘い見通しにのっかって4万人も参加する遠征を興して
一日で帰る羽目になった。
日本側も緊急時に鎌倉幕府の統治機構が全く機能せず、
本土どころか、九州の御家人すら全ては集められないまま
敵に比較して圧倒的に劣る兵力で戦う羽目になった。
彼らの寄りべになったのは鎌倉幕府ではなく
飛鳥時代に築かれた防衛施設である水城だった。

あなたのいう軍事的常識というのはただの理想論。
実際は自然条件やヒューマンエラーにより
とんでもない錯誤が多々生じる。
416名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:24:06 ID:???
>>411
> 丘陵部を巡る中小規模の戦闘に巻き込まれ、
> 武装と錬度で遥かに勝る日本武士団に一方的に凹られた様子が見えてくるはずだ。
中小規模の戦いで元軍が撤退を決意するほどの損害を与えられるのか?矢が尽きるのか?
417名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:28:18 ID:???
>>416
損害の多寡は撤退の原因にはならない。
弘安の役では明らかに文永の役よりひどい目にあっているが
一ヶ月間も海の上を未練がましくさまよっている。

むしろ損害があまり出ていなかったからこそ
これ以上損害が拡大しないうちに撤退を決意したと考えるべき。
418名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:30:09 ID:???
ついでに言えば矢が尽きた、というのは確かに元史にある記述。
だが、それを言うなら、1257年にタガチャルが南宋侵攻から撤退した理由について元史には、
「秋の長雨のため」と記されているし、1260年にフレグがシリアから撤退した理由については、
ルイ9世宛ての書簡で「馬匹に与える飼料と牧草が尽きたため」と記されているんだよね。
こういった言い訳は、モンゴル軍が撤退する際のお約束だから、通常なら真に受けたりはしない。
戦後の日本史研究者たちは、「日本軍が強かった」以外の説なら、どんなに根拠が貧弱でも、
平気で採用するけどね。
419名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:42:53 ID:???
>>414
あるていどの打撃というか、撤退するほどの打撃なんだが。
数的に劣る幕府軍が元軍にそれだけの打撃を与えるために自軍にも相当な損害を出したと考えるほうが自然だよ。
すくなくとも水城で増援を待つ判断をくだすぐらいのね。
幕府軍の一方的な圧勝とする主張のほうが無理がある。
とくに先駆けだけで撤退させたとか、有り得ないよ。
420名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:49:24 ID:???
>>417
> 弘安の役では明らかに文永の役よりひどい目にあっているが
> 一ヶ月間も海の上を未練がましくさまよっている。

それならなおさら少ない損害で撤退したことが不可解ですよ。
421名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:53:31 ID:???
>>419
>自軍にも相当な損害を出した

まずその裏づけとなる史料を持ってくるべきだね。
水城まで戻ったことを奇異に思っているようだが、
水城から海岸までは10kmもない。
仮に水城まで引き返したことによって、
元軍が博多に入ったとしても、
博多には何の防衛設備もないし、
地の利は日本側にあり、むしろ日本側に有利な体制で奇襲が可能。
逆は不可能。
むしろ屠殺用の檻に自分から入ってくれてありがとう、というところだ。
422名無し三等兵:2009/12/02(水) 22:56:28 ID:???
>>419
その可能性はゼロとは言わないけれど、
開戦初日で幕府軍が海岸まで押し出して大丈夫と判断できる
敵情をつかんでいない可能性の方が高いのでは?

侵攻部隊の全容がわからなければ、翌日以降元軍の増援が
上陸する可能性も考えなければならないだろうし
423名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:00:17 ID:???
>>415
ごめん、あなたが何を主張したいのかわからない。
私のレスを否定しているのはわかるんだが…
あなたは文永の役がどのような展開だったと考えているのか、またその根拠などご教授して頂けないでしょうか。
424名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:03:34 ID:???
>>420
高麗史によれば元軍は事前に商人三名にインタビューして
「大宰府は2、3万で取れる」という言質を得ている。
実際に元軍が用意した人数は4万。
文永の役は海岸から10kmしか離れていない大宰府の占領に
その目的を局限した戦いだった。
より大規模な弘安の役と違って後続もない。状況が全く違う。

さらにあなたの言うとおり、日本側、元側双方に多大な損害が出ていたのなら、
それはむしろ戦いを続ける強い動機になる。
数の差があるのだから元側のほうが優位にたつ。
次の日には大宰府が取れるかもしれない。
大宰府が取れれば寡勢でも日本側の増援に対して充分持ちこたえることは可能。
425名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:13:10 ID:???
600年前に建設した水城が有用だとはなんたる天智帝の遠慮深謀
426名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:16:17 ID:???
付け加えよう。

さらにあなたの言うとおり、日本側、元側双方に多大な損害が出ていたのなら、
それはむしろ戦いを続ける強い動機になる。
日本側は乏しい防衛戦力を、水城への篭城に使わず、
愚かにも決戦に出てすり減らしており、
相対的に数の差は開くことになり、元側のほうが優位にたつ。
次の日には大宰府が取れるかもしれない。
大宰府が取れれば寡勢でも日本側の増援に対して充分持ちこたえることは可能。

無論実際には、日本側としては、元より当初は水城に篭城するつもりで
彼の地に集結していたが、先駆けした菊池勢の戦いから
敵の思わぬ雑魚っぷりを知って初めて、白石勢を出撃させて
福岡平野から敵を駆逐しているんだがね。
427名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:16:36 ID:???
>>421
それではなぜ幕府軍は一日目は積極的に攻撃したのか、そして一日戦ったあとなぜその方針を変更したのか説明できないよ。
428名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:21:09 ID:???
>>427
方針は全く変更されていない。
海岸から10kmも離れていない水城は、
積極的な前哨地点。
水城までいきつけない元軍が弱すぎるだけ。
429名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:24:27 ID:???
>>425
チラ裏レスで恐縮だが、その事実に思い至るとき、
わが国の歴史の連綿たる流れを得ない。
430名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:25:06 ID:???
>>422
いや、開戦初日で実際幕府軍が海岸まで押し出して元軍を撃破したと、あなたは主張していると思ってたんだが。
> 敵情をつかんでいない可能性の方が高いのでは?
敵情をつかんでない初日から幕府軍は撃って出てるし。
その方針を変更したんならその理由は?
431名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:30:57 ID:???
>>430
誰がいつ、海岸部まで押し出した、と主張しているのかな?
私は一言もそんなことは述べていないが。
蒙古襲来絵詞にも白石勢のようなまとまった戦力が
海岸部まで押し出したとは一言も述べていない。

ここまで議論はしていなかったが、個人的な考えとしては
海岸部までの突入はあえて避けたものと私は考えている。
海岸部ならば地形がひらけており、蒙古軍も戦力を展開できる。
そうなれば兵力に劣る日本側にとっては不利。
私としては、あなたの妄想爆裂を非難する立場なので、
史料に直接言及のない意見は避けてきたが、
少なくともあなたの俺理論よりは説得力はあるつもりだ。
432名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:35:47 ID:???
>>424
> 大宰府が取れれば寡勢でも日本側の増援に対して充分持ちこたえることは可能。

矛盾してないか?元軍がそのように大宰府を認識してたなら、攻略の困難さも当然認識していたはず。
それに大宰府は海からの敵には水城という備えがあるが、内陸からの敵にたいする防御はそれより劣るよ。
433名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:37:07 ID:???
敵情をつかんでいないというのも真っ赤な嘘。
正式なさきがけではないが菊池勢、及び竹崎季長には許可を与えて先発させ、
敵の情報を得て初めて、白石勢が出撃している。
434名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:41:31 ID:???
>>430
限られた情報では、初日で撃破した敵が全力だとは限らないでしょ?
翌日以降、さらに本格上陸があり得ると考えればうかつに前に出るよりも
防衛拠点に戻るのは不自然ではないし
435名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:43:17 ID:???
>>432
君は元軍が大宰府を占領したあと、
どうするつもりだったと思うのかな?
4万の軍勢で内地まで押し出すつもりだったとでも?
それとも威力偵察(笑)を果たしたから、すぐ放棄して帰るつもりだったとでも?
馬鹿げてるね。

元側に事態を正確に認識する気があるなら、
三名の商人の「大宰府なら2、3万人で取れる」
という甘言を真に受けたりはしない。
436名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:48:16 ID:???
いい機会だから文永の役の目的についても私論を述べておく。
大宰府を占領して南宋との貿易を阻害し、南宋の国力をそぐのがその目的だ。
無論その作戦の中には、内地からの反攻を大宰府を拠点に撃破することも
含まれているだろう。
437名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:51:21 ID:???
>>431
あれ、夜になる前に船に撤退させたんじゃないのか?
その後幕府軍は水城に戻ったと主張していると思ってたが。
ではあなたの考える文永の役の展開とその理由をご教授願います。
438名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:58:17 ID:???
>>437
文永の役の展開については今夜散々述べているな。
君の理解力の乏しさをよく示すレスだ。
何なら蒙古襲来絵詞を直接当たってみたまえ。
今夜のべたのはこれの素直な要約にすぎないから。
誰かさんの何の根拠も無い日蒙決戦説と違ってね。
439名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:58:25 ID:???
>>435
それ、私にたいするレスなのか?
>>424にたいしてむけられるべきレスのようなw
440名無し三等兵:2009/12/02(水) 23:59:07 ID:???
ああ、「軍事的ジョーシキ」という根拠はあるのかなwww
失敬失敬
441名無し三等兵:2009/12/03(木) 00:10:26 ID:???
>>438
いや、そういうことじゃないんだ。誰がどんなレスしたのか分からないから、あなたの主張だけを聞きたいんだよ。
コテつけてくれればいいんだが。
それとも私以外のレスは全部あなたなのか?
だとすると支離滅裂だけど。
442名無し三等兵:2009/12/03(木) 00:15:13 ID:???
なんか日本史板の彼みたいな口調の人がいるね。
主張は真逆だけど。
443名無し三等兵:2009/12/03(木) 00:16:34 ID:???
>>438
まとめるのが面倒ならあなたのしたレス番号を書いてくれるだけでもいいんだけど。
444名無し三等兵:2009/12/03(木) 01:16:22 ID:???
>>438
あなたの考える文永の役の展開とその論拠は、結局聞かせて貰えないんですか。
それともまさか蒙古襲来絵詞のみで語っていて、それを挙げるだけで十分だと思ってるんですか。
だとすればなぜ他の史料は否定して、蒙古襲来絵詞だけを挙げるのか理由が知りたいですね。
でも>>440のような煽りを最後に逃亡するような人に期待しても無駄ですよね。もういいです。時間の無駄でした。
445名無し三等兵:2009/12/03(木) 03:59:06 ID:???
そもそも外交施設である太宰府が湊のある博多でなく、なぜ内陸部に設置されているか考えてみよう
水城がなぜ内陸部に建設されたか考えてみよう
中世の感覚では意外と現代人が思うほど内陸部でないのではないのかな?
446名無し三等兵:2009/12/03(木) 04:01:50 ID:???
他の史料は否定して、蒙古襲来絵詞だけを挙げるひとなんてここのところだれかいたっけ?
447名無し三等兵:2009/12/03(木) 04:15:38 ID:???
壱岐から九州に行くなら松浦か名護屋あたりに上陸するのが近いのでは?
448名無し三等兵:2009/12/03(木) 04:47:00 ID:???
文永の役の時のルートって言うと
対馬 壱岐 いったん平戸 で百地原から金方慶軍…
ここまでは確定でいいの?
午後になってから出陣したと考えられる劉復享軍が具体的にどこから上陸したのかはよく分かってないんだよね?

どのみち西側から沿岸沿いに二回以上に分けて上陸したわけで
上陸地点が西に偏ってることってなにも不自然なこととも思えんが
逆に劉復享軍がど真ん中から上陸してもこれまた不自然じゃない

結局劉復享軍がどこから上陸したのかについては考えても仕方がないという結論になるのでは?

449名無し三等兵:2009/12/03(木) 05:03:41 ID:???
>>425
600年前と当時の武器の性能差はそんなにないよ
1〜2年で時代遅れになる近代戦と勘違いしてないか?
450名無し三等兵:2009/12/03(木) 06:01:01 ID:???
>>446
>>438
本人が蒙古襲来絵詞の要約しかのべてないと書いてるじゃん
451名無し三等兵:2009/12/03(木) 07:57:28 ID:???
438は437へのレスなんだから
438の考える展開とその根拠はすべて蒙古襲来絵詞だととられても仕方ない罠
452名無し三等兵:2009/12/03(木) 09:48:12 ID:???
>>445
大陸からの侵攻に対する防衛拠点としてだろ常考
453373です:2009/12/03(木) 10:34:33 ID:yPGEwPkA
>>375さん
昭和6年発行の『元寇の研究』はちょっと手に
入りそうにないね。でもPHP新書のはブックオフに
あったのでどうもありがとう。
454名無し三等兵:2009/12/03(木) 10:42:15 ID:???
高麗史で上陸地点と書かれている三郎浦は、早良すなわち百道原とされている。
元史・洪茶丘伝で上陸地点と書かれてる宜蛮は、今津とされている。
蒙古襲来絵詞だと、元軍は赤坂で菊池に敗北し、鹿原まで敗走したと書かれてる。
八幡ノ蒙古記だと、元軍は朝今津に上陸して松原に本陣を置き、夕方に松原の陣を捨てて撤退したと書かれてる。
455名無し三等兵:2009/12/03(木) 10:58:41 ID:???
>>438

> 誰かさんの何の根拠も無い日蒙決戦説と違ってね。

根拠は少弐景資が敵将を矢で負傷させた事じゃないか?
少なくとも、幕府軍は主力を投入したのが伺える
双方の指揮官が弓矢の射程内にいたのなら
普通に激戦だったと思うが
まあ蒙古襲来絵詞だけが根拠ならしょうがないね
456名無し三等兵:2009/12/03(木) 11:40:29 ID:???
>>452
継体帝の時の筑紫国造磐井の乱以降、後歴の九州探題的な軍事統治施設はあるが、
太宰府は純粋に大陸との通交が目的の施設として開所されている。
もし防衛拠点という認識なら仮想敵国に公開するのは如何なものかな?
457名無し三等兵:2009/12/03(木) 14:29:14 ID:pjVutRUZ
>>442
日本史板の彼のようなアスペルガーっぽいレスする人は
ここにはいないみたいだよ。口調は確かにやや似てるが
458名無し三等兵:2009/12/03(木) 16:30:09 ID:???
>>456
鎌倉幕府がモンゴル対策として最初にやったのは大宰府の防衛力強化だよ。
それに強固な軍事施設である大宰府で海外の使節を迎えることで、抑止力を期待するって狙いもある。
実際、大宰府を何度も訪問した元の使節は、日本遠征に大反対してるし。
459名無し三等兵:2009/12/03(木) 17:49:04 ID:???
>>457
普通に別人だろうが、
どこかから威力偵察にきた感じはするなw
460名無し三等兵:2009/12/03(木) 19:15:23 ID:???
そういえば、博多は無防備だったというレスがあるけど
対馬からの蒙古襲来の知らせがはいってからの
時間的猶予は結構あるよな
海岸沿いを哨戒する必要もあるし
いちいち大宰府から往復するのは面倒だし
簡単な陣幕とか、柵ぐらいはあったんじゃないか?
461名無し三等兵:2009/12/03(木) 20:29:33 ID:???
>>460
地形障壁がぜんぜんないから無理に守らないほうが良いと判断したんじゃないか
そりゃ近いにこしたことはないだろうけど策源地としての頑強さは全く違う
博多は河口部の港町、水城は両側に山が迫った隘路に昔作った土盛が存在

あと優勢なのに博多で野営しなかったのはおかしいってレスしてる人いるけどおかしくないぞ

地元の人間なんだけど博多と大宰府って問題になるほど距離離れてない
のんびりブラブラ歩いてもせいぜい半日の距離で普通に歩けば数時間
距離を問題に策源地を前進させる程じゃない
さらに糧食を運べばいいと言ってけど実際優勢とわかったのは当日のことで
いきなり予定を変更すれば状況が大混乱に陥るのは間違いなく
(コンピューターゲームでユニットを動かすのとは話が違うし
当時は命令伝達手段が現在より圧倒的に劣ってる、つか現在でもそれやったら混乱する)

最初に書いた策源地としての防御力の差、状況が混乱する危険性、さらに輜重が消耗することを考えれば
日暮れとともに予定通り水城に後退するのは軍事的見地からして常識的行為でしょう
462名無し三等兵:2009/12/03(木) 20:43:23 ID:???
461の続きだけど全体の流れはこんなもんでしょ
元軍が百地に上陸し太宰府方面に進撃を開始、それを察知した日本軍は武士団単位で逐次逆襲開始
(これは元軍にはつらい展開、地積を確保したいのに次々に敵の新手が来るから戦闘してばかりで前に殆ど進めない)
そのまま終日戦闘は続き最終的には両軍の主将が弓を掛け合うほどの距離に存在するほどの混戦に
日暮れにより双方策源地に撤収、日本軍は前述の理由により予定通り水城に、元軍は土地を確保できなかったので船に
(当時の、つかかなり後の時代まで野戦では余程一方的な展開にならなければ日暮れとともに双方後退するのが普通
 理由は当時の技術では周到に準備した夜襲という状況以外では夜間に戦闘は不可能だし戦線整理しないといけない)
日本軍側は安全な水城で翌日の戦闘に備えて状況整理と再編成、休息をとる一方で、
元軍側は想定を超える敵の頑強な抵抗とそれによる損害の多さ、さらに将来への不安
(日本軍は時間とともに増え続ける)から撤退を決意、夜陰にまぎれてすばやく撤収していった

元軍の作戦目標ははっきりしないけど、それが何であれ日本軍が作戦目標「来寇した敵を追い返す」を
完璧に達成できてる以上、日本軍の判定勝利は誰も異論はないでしょう
463名無し三等兵 :2009/12/03(木) 22:26:27 ID:4m+79SOy
>>462 >>日本軍の判定勝利は誰も異論はないでしょう
同意。
軍事知識皆無か思想的偏向の奴でない限り、そう思うはずだね。
464名無し三等兵:2009/12/03(木) 22:49:50 ID:???
両軍とも大きな損害と言っていた人がいるけど
一番多く損害が出るのは勝負が決定して片方が敗走した段階なんだよな
正面からぶつかって、決着がつかないまま両軍大損害って余りない
川中島の戦いとかあるけど、あれは気象条件や戦術の影響が大きい
ただ>>462のような展開だと有り得ないとは言えないと思う
戦力の逐次投入は損害が大きくなるけど、全軍が一気に敗走する事はない
劣勢になった武士団が引き上げる時には別の武士団が攻撃に入って追撃を阻む形になる
引き上げた武士団は体勢を立て直して再び攻撃
双方陣形を整えて一気に決着をつける会戦方式の戦いより合理的な選択だな
幕府軍としては時間を稼ぐだけで有利になる
465名無し三等兵:2009/12/03(木) 23:03:04 ID:???
>>463
日本軍圧勝じゃないと気が済まない人とかいたような
蒙古襲来絵詞の人とか
もともと寡兵な日本軍が先駆けだけでモンゴル軍撃破とか
鎌倉武士は無敵超人かってのw
466名無し三等兵:2009/12/03(木) 23:06:17 ID:???
無知でスマンが、日本側の軍勢はどれくらいだったの?
467名無し三等兵:2009/12/03(木) 23:08:28 ID:???
>>456
太宰府の元々の機能は、九州全体を統括する国衙でしょ
外交の接待は博多にあった鴻臚館では?
468名無し三等兵:2009/12/03(木) 23:12:46 ID:???
>>466
>>313
正確な数字は無理
469名無し三等兵 :2009/12/03(木) 23:17:07 ID:4m+79SOy
>>466
馬上武士が5000騎、+徒の郎党(数は不明)が一騎あたり二人だとすると
合計約15000というところ。

ところで>>462のような展開だったとすると、筥崎宮が燃えたのは事故
だったのかね?
博多はともかく、まさか神宮に自ら火はかけないだろうし・・・
470名無し三等兵:2009/12/03(木) 23:45:47 ID:???
>>469
モンゴル軍がすべて百道原に上陸したとすると
赤坂で撃退してるのにそこまでくるのは確かに不思議だ
まあ当時はまだ分捕り切り捨ての法は無かったから
首を持ち帰るために敵を破っても追撃せずに
本陣まで引き返して戦果報告してる間に
また敵が出てきたとか…ちょっと無理があるか
471名無し三等兵:2009/12/03(木) 23:59:05 ID:???
>>373
文永・弘安の役前後のモンゴル帝国・大元朝については、講談社新書の
杉山正明『モンゴル帝国の興亡』(上・下)が通史として使える。ただ、文献リストが無いので、
中央公論社の『世界の歴史9 大モンゴルの時代』あたりも使いつつ読むのが良い。あと、著者
(杉山先生)の叙述スタイルがえらく癖があるので注意。
NHKの『文明の道』のモンゴル帝国の回のムック本とか、絶版したものだが同じく20年程前に
NHKスペシャルで放映した『大モンゴル』のムック本三冊なんかモンゴル帝国の支配体制とか軍政など
についても基礎的な知識が得られる。専門的なものだったら、本田実信、村上正二、岩村忍など、
割と多くあるので、図書館などで見付けると良いかも。
これも絶版したが、月刊『しにか』2003年11月号:特集「モンゴルの衝撃」が、色目人問題など、
現在の研究水準でどれだけ解明しているか各研究者が用量良く纏めているので(できれば)必見。

元朝時代の江南史については植松正、堤一昭などがここ10年くらいで色々詳しい研究があるが、
『岩波講座世界歴史 10 中央ユーラシアの統合』とか『宋元時代史の基本問題』 なんかが
取っ掛かりと良いかも知れない。

同じく、絶版になったが中公新書(80)の旗田巍『元寇 -蒙古帝国の内部事情』がモンゴル帝国に
よる侵攻から文永・弘安の役での高麗の情勢について一番詳しい概説書。ただ、1970年発行の
著作なので、著者が折に触れて「民族自決」云々なことを述べていて、60〜70年代の時代を
感じさせる文体。

武田幸男編訳『高麗史日本伝 - 朝鮮正史日本伝 - 』全二冊、岩波文庫なんかが最近出た。
岩波文庫の『高麗史日本伝』は註が充実していて、割と最近のモンゴル帝国史研究の成果
なんかも反映しているので、本文中に出て来る語彙の意味を理解するのに役立つ。
最近の大元朝時代の高麗についての研究では、森平雅彦などの論文が最近目覚ましい成果を
あげている。『史学雑誌』などに掲載されているものもあるので興味があればそちらも。
472名無し三等兵:2009/12/04(金) 00:01:49 ID:???
>>466
当日に投入可能だった戦力がそれだけって事だ
まだ九州の戦力も半分以上集結してなかった
翌日以降どんどん増援がくる。本州からも
元軍に勝ち目なしw
473名無し三等兵:2009/12/04(金) 00:13:34 ID:???
元寇の耳塚って無かったっけ?余りに数が多くて首の代わりに耳を取った様な気がする。
474名無し三等兵:2009/12/04(金) 01:07:00 ID:???
>>469
蒙古襲来絵詞では徒士いないよね
平治物語とか春日権現とか徒士がいればちゃんと描いてるのに

総力戦じゃないし機動性重視のため徒士は連れて行かなかった(もしくは遠巻きに待機)とみていいのでは
475名無し三等兵:2009/12/04(金) 01:10:05 ID:???
>>470
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
これみると首をとったら追撃せずに首を持って引き返すってのを繰り返してたみたいだが?
476名無し三等兵:2009/12/04(金) 01:53:57 ID:???
>>475
落ち着いてよく470を読むんだ
470は当時はまだ分捕り切り捨ての法は無かったかと言ってる
分捕り切り捨ての法ってのは、敵の首をとってもわざわざ本陣までもどらず
戦果確認ためについてきてる人や、一緒に戦ってる人に確認してもらい

首はその場に捨てて、続けて戦うって事
無理があるのは本陣に引き返している間に敵が出てくるってとこだろ
477名無し三等兵:2009/12/04(金) 03:09:07 ID:???
>>474
前九年合戦絵詞でも歩兵は省略されてないね
打ち物しないときは騎馬だけのことも多かったのかもな
478名無し三等兵:2009/12/04(金) 04:22:16 ID:???
>>445
博多湾は今より内陸まで食い込んでたらしいね
479名無し三等兵:2009/12/04(金) 06:10:02 ID:???
>>476

どうして無理があるの?
480名無し三等兵:2009/12/04(金) 08:52:38 ID:???
博多湾に限らず大概今より海が食い込んでいたパターンが多い
戦後の埋立は論外として、私たちが知っている「自然の」海岸線も
歴史を紐解くとたいてい江戸期を中心に開拓がすすんで形成
されたものだったりするので、古の軍記を語るときには注意が
必要。
481名無し三等兵:2009/12/04(金) 11:50:58 ID:???
>>469
>博多はともかく、まさか神宮に自ら火はかけないだろうし・・・

別に「まさか」というような話じゃない。
ていうか、中世だと神宮に自ら火をかけることって、普通にあったみたいだぞ。
比叡山延暦寺とか石清水八幡宮とかは、幕府との緊張が高まる度に自焼してたらしい。
あと、筥崎宮ってこの頃燃えまくってるんだよね。
その度に莫大な寄付が集まるもんだから、完全に焼け太り状態。
482名無し三等兵:2009/12/04(金) 12:00:54 ID:???
神火ってのはそういうもんだしね。出雲大社なんかでも
何度も意図的にもあの高層社殿を倒したりしたようだ。
483名無し三等兵:2009/12/04(金) 14:29:44 ID:???
元軍は平戸方面を橋頭堡にして博多から太宰府を攻略し南は佐賀や久留米、東は小倉や門司くらいまで押さえる気だったのかな?
それにしたら投入戦力が少ない
484名無し三等兵:2009/12/04(金) 15:55:53 ID:???
まともな水軍を持たない当時の日本を攻めるのなら対馬壱岐を攻略した後に
日本海を対馬海流に乗り東進し中継点として隠岐を攻略
若狭湾から京の都を直接狙うけどな
敦賀、小浜、舞鶴、宮津に分散上陸して、本隊は小浜から鯖街道を南下し、
敦賀の部隊が北陸道と中仙道からの援軍を遮断
舞鶴の部隊は福知山から回り道をして西国からの援軍を牽制
宮津の部隊は山陰道を西進して日本海沿岸を平定し補給路を確保する
本隊を五万、各隊は三万の十四万、小浜、隠岐、壱岐、対馬には各五千を駐留させる総勢十六万
485名無し三等兵:2009/12/04(金) 16:39:56 ID:???
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
486名無し三等兵:2009/12/04(金) 16:41:44 ID:???
弘安の役では長門に6万、京都にも6万が動員されてたんだろ。
各個撃破されて全滅だな。
487名無し三等兵:2009/12/04(金) 18:03:36 ID:???
そもそも中世の水軍は
現代以上に陸軍のバックアップなしじゃまともに戦闘できない
これは元も同じ
外海を航行する能力と内海での操船能力や海戦能力は別で、
大陸と日本でさほどの戦力的有利不利はないので単純に強い方が勝つ
まあ壇ノ浦みたいなこともあるが
488名無し三等兵:2009/12/04(金) 18:41:26 ID:???
モンゴルが文永の役に投入した兵力って、中世の世界基準では圧倒的な大軍なんだよ。
コンスタンティノープル攻略してラテン帝国築いた第4回十字軍の約3倍。
この頃のピザンツ帝国の人口って日本より多かったはずなのに。

しかも文永の役は奇襲。
それが何の戦果も無いまま、1日で敗退って日本の即応力が凄過ぎだろ。
元軍対馬襲来の報の博多到着は14日なのに、それから6日後の20日には100キロ離れた熊本から、
菊池勢100余騎が駆けつけて来て戦ってるんだぜ。
489名無し三等兵:2009/12/04(金) 18:55:24 ID:???
壱岐や対馬で散々略奪してからくりゃ誰でも警戒するわ
モンゴル人は残虐だという噂も人口に膾炙しているし
スパイもそんな状況でおこりっこないだろ
490名無し三等兵:2009/12/04(金) 18:57:27 ID:???
>>488
我が国は神国である。
八百万の神々がついているのである。
日本軍は常勝無敗だ!
491名無し三等兵:2009/12/04(金) 19:04:46 ID:???
>>462
なかなかいいまとめだけど、
大将同士が矢を射掛けあう混戦というのがひっかかる。
少弐景資が劉復亭を射たというのは
信頼性のおける史料には全く出てこない話。
八幡愚童訓の信頼性が皆無なのは、
その執筆動機は元より、同時代の平行史料に
それらしき損害の記録すらない博多焼き討ち説によっても分かる。
ましてや少弐景資などを顕彰する意図を持っていた
竹崎季長が伝えないわけがない。
ちなみに蒙古襲来絵詞では普通に後方で采配をふるっている。
492名無し三等兵:2009/12/04(金) 19:23:36 ID:???
>>465
誰が圧勝なんて言ったかなぁ?
「軍事的常識によれば元軍が撤退したのは大損害を受けたからニダ!
日本軍と元軍の決戦が生じたに違いないニダ!」
とか妄想爆裂させてる軍事マニア氏を
「そんな一大決戦なんて史料からは微塵も読み取れないんだよ!
大体撤退が作戦続行か決めるのは、損害の多寡とは必ずしもリンクしてないんだよ!
史料から読み取れる文永の役は、中小規模の戦闘の連続で、
元側は数の利を生かせず兵員の錬度の差によって負けまくり、
後続もない状況では作戦目的達成の見込みがなくなったために
撤退を余儀なくされたんだよ!」
と必死で説得しはしたが。
493名無し三等兵:2009/12/04(金) 19:38:44 ID:???
>>484
よく知らんのだが、まともな水軍のない日本がなぜ2ヶ月も
上陸を阻止できたんだ?水際防衛だけでなんとかなるものなのか?
それとも弘安の役ともなると、まともな水軍が完成していたのか?
494名無し三等兵:2009/12/04(金) 20:17:44 ID:???
>>462
> 日暮れにより双方策源地に撤収、日本軍は前述の理由により予定通り水城に、
> 元軍は土地を確保できなかったので船に
> (当時の、つかかなり後の時代まで野戦では
> 余程一方的な展開にならなければ日暮れとともに双方後退するのが普通
>  理由は当時の技術では周到に準備した夜襲という状況以外では
> 夜間に戦闘は不可能だし戦線整理しないといけない)

説得力あるな。
495名無し三等兵:2009/12/04(金) 20:26:07 ID:???
モンゴル弓騎兵
「弓の引き重量は166ポンド(約75Kg)あまりで、
その殺傷できる有効射程距離は200−300ヤード(約187−274m)に達した」

俺なんかベンチプレス40kでもフーフー言うのに、半端ねー屈強さですな。
496名無し三等兵:2009/12/04(金) 20:28:58 ID:0HQGHixb
>>492

そんな頭に血昇らせんなよ
冷静にみて>>440みたいなレスはどうかと思うぜ
さきに煽ったのはおまえさんの方なんだし
相手は低姿勢でおまえさんに教えを請うてるんだから
今からでも>>437にレスしてやればいいだろ
497名無し三等兵:2009/12/04(金) 20:33:40 ID:???
弓って引いたことないんだけど、
これって、ほぼ片手で引くんだよね?
498名無し三等兵:2009/12/04(金) 20:51:28 ID:???
>>493

俺もよく知らんけど、準備したんじゃないか?
時間はあっただろうし
弘安の役では日本側の水軍が逆襲してるんだろ?
499名無し三等兵:2009/12/04(金) 20:56:00 ID:R6yH5qoG
>>495
同時代の武士達が引いていたのも
現代弓道やアーチェリーで使われてるものとは
全く比較にもならないほど張力の強いものだった。
昔の人って背は低いけど、力は確実に現代人の俺らより強いだろうな。
500名無し三等兵:2009/12/04(金) 20:59:11 ID:???
>>425
「こんなこともあろうかと築城させておいた」
無論突破されても屋島など近江に至る日本各地に
国難に対する備えをしておいた

501名無し三等兵:2009/12/04(金) 21:52:27 ID:???
>>500
天智天皇は真田さんだったのか。
502名無し三等兵:2009/12/04(金) 22:05:01 ID:???
>>493
君の言うまともな水軍の定義がさっぱり分からない。
沖合いで艦隊戦するなら大型船をもたない日本軍は不利だが、
泊地攻撃なら全く差はない。

>>499
現代のアーチェリーの弓の張力は当時のものとは比較にならんよ。
悪いけど。滑車を使ってようやく引ける。
503名無し三等兵:2009/12/04(金) 22:07:42 ID:???
>>496
と、煽られて頭に血が上った低能クンが負け犬の遠ぼえをいたしておりますww

日蒙決戦なんてどこの史料に出てるのかなぁ〜
君の脳内?
504名無し三等兵:2009/12/04(金) 22:16:14 ID:???
唐が大軍で攻めて来ても高安城まで幾重にも防衛線は完璧だ
505名無し三等兵 :2009/12/04(金) 22:16:29 ID:TGXE6kPC
>>500
天智天皇は真田さんかよ!w

>>495
日本と蒙古の弓矢を比較すると、
射程では、長弓>短弓なのが武器の常識だし、
矢の方も手間をかけ竹を撓めて作る日本の矢のほうが
ただの木製である蒙古の矢より軽く精度が高いのでぶれず、
射程・命中精度・威力の全てにおいて優るはず。
よく「蒙古の短弓は日本の弓より射程が長く威力も大きい」などと
書いてあるが、無知な歴史家のただの思いこみにすぎない。
506名無し三等兵:2009/12/04(金) 22:20:12 ID:???
>>505
に付け加えると、
射程云々の元凶はコレ。

黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』
「ところが、元軍の矢は二町(220メートルぐらい)ほども射程があるので、
(日本側の矢は有効射程100メートル以内とみてよい)、味方にたちまち二人
手負いが出た。景隆らは城(といっても簡単な館だが)にたてこもって防戦
したが、衆寡敵すべくもなくついに城の内で自害した」

元軍の弓の射程と日本弓の有効射程を比較している。
こういう低能がのさばっていたのが最近までの日本史学会。
ま、軍事畑も他人のことは言えないけどな。
例の軍事ジョーシキ氏とかwww
507名無し三等兵:2009/12/04(金) 22:23:14 ID:???
>>501
真田「こんなこともあろうかと…」
どんだけ〜先見てんだよ(笑)
508名無し三等兵:2009/12/04(金) 22:23:55 ID:???
>>505
長距離用の弓と近距離用の弓を使い分けていたようだけど。
509名無し三等兵:2009/12/04(金) 22:26:08 ID:???
さらに日本の射手は返しの技術を持っている。
これは矢を射るときに、こぶしの中で弓を反転させることで
矢と弦の接触時間を増やし、
張力を可能な限り矢に伝える技術。

ただし、元軍にはクロスボウがあり、
当然だがこちらは和弓よりも射程が長い。代わりに速射がきかないが。
510名無し三等兵:2009/12/04(金) 22:29:53 ID:???
>>507
白村江の戦いで敗北し、百済も崩壊した直後で、
現実味があった唐の来寇に備えただけ。
511名無し三等兵:2009/12/04(金) 23:18:37 ID:???
>>510
楽琅郡と帯方郡の復活を目論む唐に対して新羅は半島の統一を目論んでいる
高句麗もまだ健在だし、ヤマトどころか九州にも攻め込む余裕など無い
水城や瀬戸内から畿内の城塞は国内の不満を外敵の脅威を演出してそらすため
もしくは六百年後の元の来寇に備えたのだよ(笑)
512名無し三等兵:2009/12/04(金) 23:27:40 ID:???
しかしmade in japanのお城は長持ちするねえ朝鮮式のお城だけど
600年も持つとはすごいじゃん
513名無し三等兵:2009/12/04(金) 23:36:22 ID:???
>>512
城や砦は洋の東西を問わず基本的に長持じゃ内科医
保つと言っても土塁や石垣や掘割りなどだし
514名無し三等兵:2009/12/04(金) 23:41:11 ID:???
いちいちそんなことかくなよ野暮な野郎だ
515名無し三等兵:2009/12/04(金) 23:46:15 ID:???
まあ水城は城の価値以上に地形の価値が高いんだろうけどね。
現代戦においても、もし仮に福岡一帯で対着上陸戦闘やることに
なったら、あの辺一帯が防御の核心になるはず。

ついでに、水城〜太宰府一帯を占領されると、交通の要衝である
鳥栖が師団砲兵の射程内に入ってしまう。なんたる偶然の一致w
516名無し三等兵:2009/12/04(金) 23:58:57 ID:???
>>502
まともな水軍の定義は>>484の人に聞いてくれよ。
俺は質問しただけなんで。
517名無し三等兵:2009/12/05(土) 00:05:40 ID:???
>>515
blogで福岡一帯の対着上陸想定ネタをやっていた
_屋哲さん乙w
518名無し三等兵:2009/12/05(土) 00:09:05 ID:???
日本史板の威力偵察くんが当初の予定通り(笑)撤退しちゃったからなw
ミリ哲もヒマになっちゃったね。
519名無し三等兵:2009/12/05(土) 00:22:20 ID:???
しかしまあ、文永の役は威力偵察>例として延々と日露戦争の話>近代戦とは概念自体が違う
の流れは、さすがにポルナレフ状態になったな()

とりあえずミリはブログ更新すろ。
520名無し三等兵:2009/12/05(土) 01:28:21 ID:???
>>491
ここだけの話だけど、少弐景資本人が劉復享を射たという話って、実は単なる書き間違い。
八幡愚童訓より成立時期の古い八幡ノ蒙古記では、部下に命じて射させてる。

八幡ノ蒙古記(1289年成立)
「その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、
究竟の馬廻に、弓の上手ありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、
おちたりけれ」

八幡愚童訓(鎌倉末期成立)
「其時、景資ガ旗ノ上ニ、鳩翔リ舞シカバ、八幡大菩薩ノ御影向トゾ憑敷覚ケリ。
究竟ノ馬乗、弓ノ上手也シカバ、逸物ノ馬ニハ乗タリ、一鞭打テ馳延ビ
見帰テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男ガ真中射テ、馬ヨリ逆様ニ落シケリ」
521名無し三等兵:2009/12/05(土) 01:55:53 ID:???
>>488
第四回十字軍の場合、神聖ローマ皇帝のもとに亡命して来たビザンツ帝国の
皇子アレクシオスを復帰させることを名目にエルサレムからコンスタンティノープルへ
出兵先が変更され、さらに皇子アレクシオスを擁する十字軍とビザンツ帝国軍との戦闘でも
内応者の協力で戦闘中に開城。

アレクシオス4世が即位したものの、協力を得る時十字軍の軍資金を供出を約束し、
資金捻出のため増税したがこれが先代皇帝の娘婿アレクシオス・ドゥーカスは反乱を
起こして皇帝を殺害し、ドゥーカスも十字軍に捕らえられ処刑。アンゲロス王朝は断絶する。

文永の役とは事情が大分違う。

亀山天皇が兄の後深草天皇をクーデターで廃位し、後深草天皇の皇子、熈仁親王(伏見天皇)が
高麗とかに亡命し、文永の役の時に大元朝や高麗の遠征軍に一緒にやってきて、大宰府あたりで内応者が
あって京都に進軍、即位したとかそんな展開に近い。勿論、そんなことは文永の役では無い。

他の地域ではどうだか知らないが、モンゴル帝国の境域地域の鎮守軍が行う領域外への遠征としては
歩兵・騎兵合わせて3万前後は、割と普通。イラン鎮守軍で3万騎、同じくインド北辺のカシミール
鎮守軍でも2〜3万騎だから、格別多過ぎるという程では無い。
522名無し三等兵:2009/12/05(土) 04:48:57 ID:???
まともな水軍っていうとやっぱガレオン船が数十隻で編成されていて
後年アルマダと呼ばれる様になるのかな?
523名無し三等兵:2009/12/05(土) 08:05:49 ID:???
>イラン鎮守軍で3万騎、同じくインド北辺のカシミール
>鎮守軍でも2〜3万騎だから、格別多過ぎるという程では無い。

なるほど、では日本もその数で落とせるとして派遣したわけだな。
524名無し三等兵:2009/12/05(土) 08:44:23 ID:???
>>523
しかし僅か1日で逃げ帰ったら兵はともかく将は斬首に遭わないの?
九州で頑強な抵抗に会っても、占領した対馬と壱岐に籠もって援軍を依頼するのが妥当じゃない?
525名無し三等兵:2009/12/05(土) 08:51:20 ID:???
>>524
小敵之堅、大敵之擒也
526名無し三等兵:2009/12/05(土) 09:38:14 ID:???
少なくともモンゴル軍は逃げ帰った訳で全滅した訳では無い
そうすると大軍が逃げ帰っるだけの船舶は無事なのだよね
台風や神風は迷信なんだし船舶被害は小規模に留まったはず
それが分かってるから幕府がその後も警戒したのかも
527名無し三等兵:2009/12/05(土) 10:25:00 ID:???
>>523
違う。
鎮戍軍の外征目的は、飽くまでもモンゴル帝国への服属を促すためのものであって、
帝国の外部地域を制圧→直接統治するものではない。場合によっては敵地の城塞や
都市を攻略・占領することもあるが、事情によりけりで、それ自体は目的では無く、
相手政権の軍を撃ち破ったり、戦利品獲得のため村落などで掠奪を行うのがメイン。
相手政権や現地勢力が降服でもしないかぎり、ダルガチを置くなどして統治政策を
はじめたりはしない。

こういったモンゴル帝国への服属を促すような遠征を、相手政権が降服するまで
鎮戍軍が外征出来る状況によって任意で何度となく行うのが通例。

現地勢力の降服が得られなかったら、戦闘での勝ち負けに関わらず本拠地へ帰還するし、
現地に駐留し続けることは稀。帰還するタイミングは大体、武器や糧食が尽きたりした
時だったようだ。

とにかく、鎮戍軍の外部遠征の場合は、外部へ戦利品の掠奪などして武威を示し、
敵地を荒した後、本拠地へ帰還することがメイン。それから帰還に前後して降服を促す。
というのがセオリー。

1230年〜1240年代のルーム・セルジューク朝とイラン鎮戍軍とのあいだの
キョセ・タグの戦いとか、同じくアルメニア王国、グルジア王国などとの戦闘なんかが
良い例かと思う。
528名無し三等兵:2009/12/05(土) 10:37:31 ID:???
それにしても、現地の軍隊を破って、補給が切れるまで
略奪し続けれると判断される、大兵力な訳だ
529名無し三等兵:2009/12/05(土) 12:00:15 ID:???
文永の役の場合は武威を示せていないから失敗したとみるべきだな。
530名無し三等兵 :2009/12/05(土) 12:43:39 ID:F+XjPBtY
>>529
だな、たった一日で「矢が尽きた」筈なんてないし。
531名無し三等兵:2009/12/05(土) 12:51:28 ID:???
>>492
もう書き込むつもりは無かったんですが、どうやら絵詞さんが出てきたようなのでもう一度だけレスします。

絵詞さん。あなたは私の主張が全く理解出来ていないんですね。あなたの読解力のなさには驚かされます。他人のレスどころか自分のレスさえ理解できないとは。
> 誰が圧勝なんて言ったかなぁ?
などと書き込んだその同じレス内で、
> 元側は数の利を生かせず兵員の錬度の差によって負けまくり、
などと矛盾するような事を平気で書き込んでいます。元軍が負けまくったなら、当然幕府軍は勝ちまくった事になります。幕府軍が勝ちまくったなら、当然幕府軍の圧勝という事になります。この程度の事はあなたでも理解できますよね?
つまりあなたは幕府軍の圧勝だったと主張しているんですよ。理解できますか?
ひょとするとこれでも理解できないんじゃないかと不安です。もしあなたが>>435のレスで私に見当違いな批判を浴びせた人と同じ人だったとしたら、たぶん理解出来てないでしょうけど。
あと、あなたは「必死で説得しはしたが」と言っていますが、>>438>>440のレスはどうみても説得という態度ではありませんね。
あなたの考える展開とその論拠を求める私のレスにその後もまともに答えられないところから察すると、ただの苦し紛れの煽りとしか思えません。
もし違うと言うならあなたの考える文永の役の展開とその論拠について書き込んでみてください。
もう蒙古襲来絵詞だけが論拠でも構いませんから。
532名無し三等兵:2009/12/05(土) 13:48:28 ID:???
佐藤大輔が文永の役について文章書いてたな

「両軍共にたった1日で戦闘能力を喪失
 両軍が下がったところに台風が来て蒙古軍あぼーん
 幕府(鎮西軍)側は日が経てば更に援軍が期待できたので
 台風がなかったとしても勝ってたはず」

「つまり、文永の役は神風のおかげじゃなくて、
 鎌倉武士団と地域住民の必死の抵抗の賜物」

という内容だった。
533名無し三等兵:2009/12/05(土) 13:53:00 ID:???
>>531
池沼の長文は読む気がしないな。
あなたが文永の役であった、と主張する、
日蒙の主力が正面から激突して双方に多大な損害が出るような戦闘、
これについて明確に言及している史料をきっぱり引用してくれるかな?

これ以上あなたが自分の脳内妄想を披瀝しても、
あなたの池沼っぷりをますます印象づけるだけ。
534名無し三等兵:2009/12/05(土) 13:54:24 ID:???
文永の役に台風?
535名無し三等兵:2009/12/05(土) 13:57:23 ID:???
>>532
でも、その説明はおかしいんだよ。
元軍は一時的に下がったわけじゃなく、日本から撤退したんだから。
「台風がなかったとしても勝ってた」じゃなく、あきらかに日本の勝ちだろ。
536名無し三等兵:2009/12/05(土) 14:09:52 ID:???
>>534
10月20日夜半の嵐の事です。
台風というのは私の表現のアレというか誤謬を招くカキコですまぬ

>>535
えーとですね・・・要するに、佐藤大輔は
「"神風"が吹いたから勝ったんじゃなくて人の力で勝ったんですよ」
と言いたい訳です。
佐藤大輔がこれ書いた当時(1980年代後半)は

「神風のおかげで元寇を2回撃退しますた」

というのが一般的な見方だったですよ。

まあ、もれが説明下手なのはわかったので
「主砲発射準備よし!」で全文読んだほうがいいです。ええ。スミマセン
537名無し三等兵:2009/12/05(土) 14:11:37 ID:???
>>536
要するに佐藤大輔も史料の検討はやってないってことだね。
データマニアっていう評判も結局は
狭いゲーム業界内に局限されたものだったようだな。
538名無し三等兵:2009/12/05(土) 14:17:17 ID:???
>>537

もれの頭がアレでまと外れな説明になってるんだろうが
どこをどう見たら史料を検討してないっつー話になるのかわからん
もれが悪かったからどうか本文探して読んでみてくれ
ちゃんと史料検討してるからさ
539名無し三等兵:2009/12/05(土) 14:18:26 ID:???
本文ってのはもれのじゃなくて佐藤大輔の「主砲発射準備よし!」の方ね
蛇足だが
540名無し三等兵:2009/12/05(土) 14:24:24 ID:???
>両軍共にたった1日で戦闘能力を喪失
>両軍が下がったところに台風が来て蒙古軍あぼーん

駄文を読む気にならないから、一言でお願いしたいが、
この2点の根拠に佐藤御大があげている史料は何?
541名無し三等兵:2009/12/05(土) 14:42:08 ID:???
>>529
元軍が壱岐、対馬でした事を考えたら武威を示すのに失敗した以上は
敵地からさっさと逃げない事には、今度は元軍が略奪される対象になるからね。
上陸地に野営せずに船に帰ったのも、留守中に敵にしろ地元民にしろ船に火でもつけられて失うのを恐れたんじゃないだろうか?
542名無し三等兵:2009/12/05(土) 14:52:25 ID:???
軍板の住人なら進軍より後退や撤退の方が難しいのは理解出来るだろ
元軍の一夜での見事な撤退は潰走した軍隊では出来ない
はやり戦略的撤退と視るべきでは?
543名無し三等兵:2009/12/05(土) 14:57:32 ID:???
潰走したとか主張している人間は誰もいないが。
どこぞの日蒙決戦論者はいざ知らず。

戦略的撤退と言うならばそのとおり。
高麗史にあるとおり、これ以上戦っても何も得られないから、
決定的な被害が出る前に撤退した。
要約すれば、日本軍に完敗し、逆転の見込みも皆無なので逃げ帰った。
544名無し三等兵:2009/12/05(土) 14:58:36 ID:???
>>541
元軍が船に帰った理由は、日本と高麗の間に海があるせいで船に乗らないと帰れないからだよ
545名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:05:43 ID:???
>>544
一夜での撤退が可能なほど潤沢な水軍を無傷で保有して帰ったってことだよな
前に水軍戦力消失したとかいうレス見たけど間違いか?
546名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:08:32 ID:Z6gYHFHW
節子、文永と弘安がごっちゃになってるで
547名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:09:47 ID:???
>>545
水軍戦力消失なんてレスはお前のレスしか見つからなかった。
もし本当に文永と弘安を混同しているなら100年ROMってろ。
548名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:11:45 ID:???
>>542
正式に講和して撤退中に
約定破った敵の大軍に不意打ちされたにも関わらず
敵の大将ぶっ殺して悠々と大陸から引き上げていった島津は神だな。
549名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:13:08 ID:???
見事な撤退ねえw
元軍が上陸作戦において百戦錬磨ならともかく、文永の役が初の航海遠征だからな。
買い被りもいいところだ。
550名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:19:21 ID:???
いや撤退は見事でいいだろう。
世の中には決定的な損害が出るまで撤退してはいけない、
という馬鹿がいる。
文永の役ではチョンの将軍がそうだったし、
このスレでは日蒙決戦論者がそうだ。
余力がある中で、戦の帰趨を正確に洞察し、
チョンがブチあげた徹底抗戦論を論破して撤退した
モンゴル人は真のプロフェッショナルだと思う。
551名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:23:03 ID:???
そういや高麗史には矢が尽きて困ったなんて書かれてないな。
官軍が整わないのはわかるけど。
552名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:25:20 ID:???
>>544
つまり船につきっきりになってないと、武士や地元民ゲリラに船を襲われて失う可能性もあったんだろ?
553名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:34:53 ID:???
>>335のレスに制海権消失とあったから900艘の船があぼーんかと思った
554名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:36:26 ID:???
元軍の撤退が見事と言うなら、まさか上陸一日で撤退する作戦じゃなかったんだろうから
迎撃一日で敵を撤退させた北九州の地元武士の迎撃戦も見事と言えるだろ。
それがあって初めて元軍が撤退を考えたんだから。
555名無し三等兵:2009/12/05(土) 15:42:53 ID:???
>>549
初の航海遠征じゃないよ。
元軍は三別抄の乱鎮圧の時に珍島と済州島への上陸作戦経験済み。

>>551
高麗史にも一応、衣甲や弓箭を捨てちゃった者が多数いたという記述はある。
普通に考えれば、武器や鎧を捨てて撤退って、見事な撤退じゃなく潰走だよね。
それが「矢が尽きた」ってことだとすれば、モノは言いようだなって感じ。
556名無し三等兵:2009/12/05(土) 17:25:16 ID:???
結局の所、日本の戦い方はどちらかというと機動防御だからなぁ。
元が粘ったら攻勢転移して決戦に至ったかもしれないが。

あ、一応機動防御ってのは俺自身の判断で、何らかの文献に
そう書いてあるって訳じゃないんで。ただ、総合的に判断して
元軍を捕捉・撃滅するような行動はなかったと思われるんで、
現代戦術に照らし合わせたらそうなんだろうと。
557名無し三等兵:2009/12/05(土) 17:46:52 ID:???
現代戦術に照らし合わせると水城大宰府は海岸に近すぎ、
縦進が欠落していて機動防御に不可欠な要素を欠いているな。
専門用語の濫用誤用は恥をさらすだけだぞ。
558名無し三等兵:2009/12/05(土) 18:16:29 ID:???
>557
O−1ライン=O−3ラインになるぐらいの縦深ならともかく、博多港〜水城
一帯まで図上距離で13km程度の縦深なら、十分に機動防御できるだけの
地積は確保できるぞ。具体的には、東油山〜金隅一帯を確保、春日一帯に
誘致導入して打撃、って感じで。

流動的戦闘による遅滞、って意味なら地積は確かに足りないが。
559名無し三等兵:2009/12/05(土) 21:30:13 ID:???
>>558
秀吉の朝鮮征伐時の朝鮮側の縦深陣地と機動防御による対応と比べると浅すぎだな
朝鮮はあの時鴨緑江までの半島すべてで遅滞戦術を取り…
560名無し三等兵:2009/12/05(土) 22:38:55 ID:???
実際に戦ってみたら元軍相手に縦深陣地なんて必要なかった。
海岸に高さ2メートル程度の石垣作っとけば十分ってのが鎌倉幕府の結論。
561名無し三等兵:2009/12/06(日) 00:26:49 ID:???
>高麗史にも一応、衣甲や弓箭を捨てちゃった者が多数いたという記述はある。

へえ、それ気になるな。明日図書館行くから高麗史見てくるわ。
562名無し三等兵:2009/12/06(日) 01:30:58 ID:???
>>555
> 高麗史にも一応、衣甲や弓箭を捨てちゃった者が多数いたという記述はある。
? 『高麗史』のどの部分?
忠烈王世家や金方慶伝の文永の役の部分には見られないから、別の列伝にでも書いてあるの?
563名無し三等兵:2009/12/06(日) 02:56:58 ID:???
>>561>>562
気付き難い所なんだよ。

『高麗史』巻29 世家29 忠烈王2 忠烈王6年
「又た、昔、東征の時に於いて、五千三百軍の齎去せる衣甲・弓箭は、多くを棄失するあり。
僅かに収拾するを得、府庫に頓えしも支用に堪えず。」

岩波文庫の「高麗史日本伝」だと上巻P149
564名無し三等兵:2009/12/06(日) 07:36:00 ID:???
元寇って凄いイベントだったのに映画やドラマになった記憶がない
大河ドラマでも北條時宗でちょろっとやっただけだし
戦いそのものや現地で実際戦った武士を主役にした映画ってないな
日本への大陸からの侵略の脅威を簡単に警告出来る題材なのに
今は特にシナからの侵略の脅威がある
565名無し三等兵:2009/12/06(日) 08:23:54 ID:???
>>564
角川が50年前に作った映画で、『日蓮と蒙古大襲来』(1258年)ってのが
あるそうだ。長谷川一夫や市川雷蔵、勝新太郎なんかが出演したらしい。

NHKの歴史物の番組で、1シーンだけちょっと見た覚えがあるけど、
北条時宗っぽい烏帽子に狩衣着た人物が加持祈祷しているところと、
蒙古の船団が暴風雨で上下に激しくうねる海面に翻弄されている
場面が印象的だった。この映画自体は見たことが無いけど。
566名無し三等兵:2009/12/06(日) 08:50:57 ID:???
>>565
九州の武士を主人公にした映画が無いのか?残念
鎌倉時代の防人たちを主人公にして欲しいな
567名無し三等兵:2009/12/06(日) 09:52:56 ID:???
なんかその映画ヒロイックファンタジー仕立てになりそうな。
主役が鎌倉武士だと。
一騎打ち好きだし。
後ろじゃ巫女さんやら坊主が呪ってるわ。

なんと言っても今の日本映画だしW
568名無し三等兵:2009/12/06(日) 10:53:50 ID:???
>>567
主人公はジャニーズか妻夫木でヒロインは長澤とかメイサ
元軍や高麗軍に華流韓流スターを起用
569名無し三等兵:2009/12/06(日) 12:31:36 ID:???
ヒロインの巫女さんには佐々木希ちゃんを!
570名無し三等兵 :2009/12/06(日) 12:34:50 ID:D2v7h+Q9
>>564
戦前(昭和16年)の「かくて神風は吹く」っていう映画もあったよ
外敵に対する戦意昂揚の国策映画だね。
見たこと無いけど・・・
571名無し三等兵:2009/12/06(日) 13:08:17 ID:???
対馬壱岐での残虐行為もリアルに再現するとR指定になる(笑)
572名無し三等兵:2009/12/06(日) 13:43:32 ID:???
>>564
だからこそチャンコロの犬どもがなおさら邪魔するだろうね。
573名無し三等兵:2009/12/06(日) 13:48:45 ID:???
>>567
このスレでまだ鎌倉武士が一騎打ちしてたと思ってるひといるんだな
574名無し三等兵:2009/12/06(日) 14:05:34 ID:???
>>567
元指揮官
「よ〜し、クソ野郎度も、覚悟は良いか!これより正面の小浜海岸へ上陸する!」
「後退は許さん!}
元兵「サー!イエッサー!」
上陸後
元指揮官
「こちら第一派上陸部隊!海岸防塁に阻まれ前進できません!」
「至急来援請う!」
日指揮官
「敵は丸見えだ!何処に撃ってもあたるぞ!」
「右翼!弾幕薄いぞ!ヘイ、ファイア!ファイア!ヒャーッハッハッハ!」
こんな感じですか?
575名無し三等兵:2009/12/06(日) 14:12:25 ID:???
弘安の役で博多湾にきたときは
陸継島以外には上陸すら試みてなかったんじゃなかったか
576名無し三等兵:2009/12/06(日) 14:21:29 ID:???
映画界(イーストウッド除く)なら、石塁に渡洋船突っ込ませる菊水作戦以外
予算が通りません(>_<)
577名無し三等兵:2009/12/06(日) 14:24:40 ID:???
海岸線が複雑で泊地に恵まれ防衛線が構築しずらい長崎や佐世保を主攻にすれば良かったのでは?
佐賀平野から筑後平野に進出出来れば数でまさる元軍が有利だと思うけど?
578名無し三等兵:2009/12/06(日) 14:31:34 ID:???
>>576
ハリウッド帰りのシナの監督だと自国の唯一の対日進攻作戦だし喜んで大作作るかも?
579名無し三等兵:2009/12/06(日) 16:42:43 ID:???
>>577
数で勝るのは日本のほうだけどね
一応日本のほうが少ない兵力(のような印象)になってたのは

文永の役では武士が集結する前に元が敗退したため
弘安の役では元軍がほとんど上陸できなかったため

だし

580名無し三等兵:2009/12/06(日) 17:11:17 ID:???
どうやれば元って勝てたんだろうな?
581名無し三等兵:2009/12/06(日) 18:03:14 ID:???
九州に橋頭堡を築けたら元軍にも勝機があるのれば
582名無し三等兵:2009/12/06(日) 18:37:58 ID:???
>>565 >>570
「日蓮と蒙古大襲来」は昭和33年(1258年って何だw)、
「かくて神風は吹く」は昭和19年の映画

制作は共に当時の大映、合戦シーンは半端じゃない人数が出てくるし
暴風雨の特撮も結構見ごたえあるが何しろ作品の背景が背景、
しかも大映の社長(永田雅一)が右翼で日蓮宗だっただけに
細々見てくと色々楽しいことになってるよw
(「かくて〜」は武具を作る光景がどう見ても軍需工場、「日蓮〜」はお察しください)
583名無し三等兵:2009/12/06(日) 18:55:46 ID:???
>>582
黒澤明作品で見たかった
584名無し三等兵:2009/12/06(日) 19:04:07 ID:???
>>580
補給線が細すぎで大軍の維持が困難な状況では厳しいだろ
585名無し三等兵 :2009/12/06(日) 22:05:17 ID:ts/T6cmt
>>582
戦闘シーンはいいってことだね?
日本武士団の奮戦は再現されてるのかな?
神風一辺倒じゃ情けない・・
586名無し三等兵:2009/12/06(日) 22:13:18 ID:???
>>584
日本は文禄・慶長の役で朝鮮半島南部を7年、十字軍は海岸沿いの都市を100年、
イングランドに至っては対岸のカレーを200年も維持してる。
中世の世界で海ほど太い補給線はないぞ。
587名無し三等兵:2009/12/06(日) 22:30:20 ID:???
>>585
「かくて神風は吹く」の方は戦中の映画だけに
全力で元軍を迎え撃つ→奮戦の末神風が止めを刺した的な展開だが

「日蓮と蒙古大襲来」は戦後の作だしタイトルがアレなので
元にボコられる日本→その時奇跡が起きた的展開…
588名無し三等兵:2009/12/06(日) 22:40:57 ID:???
文永の役で暴風雨ってのは『高麗史』のみなの?
589名無し三等兵:2009/12/06(日) 23:04:07 ID:???
>>588
『勘仲記』とか日本側の文献にもある
590名無し三等兵:2009/12/06(日) 23:30:48 ID:???
文永の役で元軍が暴風雨に遭ったのは日本から逃げ帰る途中なのに、
「暴風雨のおかげで勝てた」というのはおかしいということ。
暴風雨は勝敗に全く関与してないじゃん。
591名無し三等兵:2009/12/06(日) 23:38:12 ID:???
>>589
それはあくまで逆風でしょ?
592名無し三等兵:2009/12/07(月) 03:35:41 ID:???
>>580
陣取り合戦する限り元に勝ち目はない
現実的には元にできるのは一時的に大宰府を占領するのがせいぜい、
しかしいずれスタミナ切れで武士に奪い返されるので
そのたびに定期的に再攻撃して「いやがらせ」することだけだよ

それで幕府のほうが折れて朝貢
元にとってのハッピーな決着はこれ以外はほぼないだろうね

ただ、想像以上に武士は強気だったので、まあ何回やっても無駄だった可能性もかなり高いけど。
593名無し三等兵:2009/12/07(月) 07:47:40 ID:???
もし、それなりの勝利を元が獲てたら、
九州の諸侯を取り込む事も可能だったかも、
その後、その勢力を活用しつつ、
ドミノ倒しの様に勢力を拡大して行けば、
日本制圧も夢では無いかも。
嫌がらせでも侵攻を続けられば、御恩と奉公からなる、
鎌倉幕府体制は、恩賞不足で瓦解するのは、間違いないし。
まぁ一勝もできない上、遠征を継続でき無いんじゃ、
どうしようもないんだけど。
594名無し三等兵:2009/12/07(月) 09:36:04 ID:???
鎌倉幕府の封建制度だとワンサイドで決まるのが最悪、つまり史実は最悪のパターン(笑)
元軍が九州を蹂躙してくれてれば、滅んだ九州の御家人の所領を分配できるが
九州の御家人がワンサイドで防戦に成功すると恩賞が何も無い
595名無し三等兵:2009/12/07(月) 12:17:42 ID:???
鎌倉幕府滅亡の遠因は元寇における元軍の不甲斐なさにあったのかwww
596名無し三等兵:2009/12/07(月) 13:36:57 ID:???
朝鮮なんかと組んだせいで法則が発動したか
597名無し三等兵:2009/12/07(月) 22:20:38 ID:???
対馬や壱岐は元軍撤退以降どう復興してその後の防衛態勢を調えたのかな?
普通は当分は恐ろしくて対馬や壱岐には暮らせないだろう
598名無し三等兵:2009/12/07(月) 22:26:49 ID:???
>>597
それが百年ちょっとで李氏朝鮮の国を挙げての侵略を対馬だけで撃退するまでに回復したんだから凄いよね
599名無し三等兵:2009/12/07(月) 22:49:59 ID:???
>>598
対馬の国どころか一海賊だけで撃退したんじゃなかったけ?
600名無し三等兵:2009/12/07(月) 23:03:29 ID:???
私の御先祖の話ですね
601名無し三等兵:2009/12/07(月) 23:13:12 ID:???
韓国って歴史の授業とかで、高麗とモンゴルの戦いについて何教えてるんだろ。
情けなさ過ぎてそのまま史実を教えられるとは思えない。
モンゴル軍に攻め込まれた途端、国境守っていた武将が速攻で寝返って、高麗侵略の案内人になっちゃうとか、
ちょっと酷過ぎるよね。
しかも、どう考えても高麗へ攻め込んだモンゴル軍って1万超えてたはずないし。
602名無し三等兵:2009/12/07(月) 23:19:38 ID:???
>>601
殆んどページ割かない、というか、元に出兵を強制されたとか書いてるだけ。
高麗王の事とか無視してる。
さすが、都合のいいことしか書かない韓国ですね。
603名無し三等兵:2009/12/08(火) 00:30:12 ID:frDRWFIt
というか漫画韓国の歴史は全体の三分の一以上が
日本統治時代の抗日運動(笑)だったぞw
よっぽどネタがねえんだなw
604名無し三等兵:2009/12/08(火) 00:40:48 ID:???
今の韓国人が美容整形に走るのはこの時代のせいだろ
毎年毎年多数の美人ばかりをモンゴルに献上させられたばかりに
ブスの遺伝子が異常に濃いのが韓国人だし(笑)
605名無し三等兵:2009/12/08(火) 01:12:11 ID:???
江南軍ってどうやって元の場所まで帰還したんだろ?半島から陸路かな?それとも船を修理して海路でかな?
606名無し三等兵:2009/12/08(火) 01:24:34 ID:???
>>605
江南軍の指揮官は無事だった東路軍の船に乗せてもらって半島へ行ったんだから、そこからは陸路だろ。
それ以外の兵10余万は日本軍の攻撃で全滅し、帰還できなかった。
607名無し三等兵:2009/12/08(火) 01:40:37 ID:???
>>606
ウヒャ!十余万の大軍が全滅なんて正直有り得るのかなぁ?
608名無し三等兵:2009/12/08(火) 01:47:25 ID:???
609名無し三等兵:2009/12/08(火) 01:49:36 ID:???
>>607
日本軍の攻撃で江南軍10余万全滅は、「元史」「高麗史」「元韃攻日本敗北歌」など
複数の史料で一致してるから、実際にあったんだろ。
610名無し三等兵:2009/12/08(火) 01:50:05 ID:???
>>607
正直海ならありえるよな・・・
帰ってきたって記録が残っていないからな・・・
当時の船は今の漁船より遥かにチャチ
ちょっと波が出れば船体が持たない。
海上で待機してたらちょっとした低気圧でも全滅しかねんぞ?
611名無し三等兵:2009/12/08(火) 01:56:59 ID:???
>>610
海で全滅したんじゃない。
台風の後、船が無くなって九州近海の島々に取り残された10余万が、日本軍の攻撃で全滅したんだよ。
612名無し三等兵:2009/12/08(火) 03:10:25 ID:???
日本軍のヒャッハー!タイムですね。
613名無し三等兵:2009/12/08(火) 03:23:27 ID:???
>>605
鷹島に取り残されてるわけだから
逃げ場がない

5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北
614名無し三等兵:2009/12/08(火) 09:38:58 ID:???
十余万も首があったら恩賞が足らない訳だ(笑)
壱岐対馬に追撃したついでに半島南部や済州島まで攻めないと恩賞にする土地が無い
615名無し三等兵:2009/12/08(火) 11:04:54 ID:???
モンゴル帝國が十余万の遠征軍を一挙に失うなんて他に例があるのかな?
防衛側の幕府軍の動員した兵力も十万も無いのでは?
渡航進攻作戦って難しいな
616名無し三等兵:2009/12/08(火) 12:15:36 ID:???
渡航そのものは成功しているので
単純に彼我の実力差を読み間違えたモンゴルのミスだろう

渡航進攻作戦が難しいというより日本侵攻作戦が難しかったと
617名無し三等兵:2009/12/08(火) 13:01:22 ID:???
大陸側の海から見ると日本列島は実際よりかなり小さく見えるそうな。
韓国人の中に日本列島が朝鮮半島より小さいと勘違いしてる人が多いのもそのため。
多分、元は日本を海南島や済州島と同じような感覚で
征服できると踏んだんだろうな。
実際には中世の日本はイングランド+フランス以上の
国力と総動員兵力を持ってたんだがな。
618名無し三等兵:2009/12/08(火) 13:42:45 ID:???
>>617
それは有り得ないと思う
フビライは優秀な皇帝だ
見誤りがあるとすれば
騎馬戦外での自軍の実力だな
619名無し三等兵:2009/12/08(火) 14:03:08 ID:???
>>615
モンゴル軍というよりは第二次大戦の枢軸側でいうところのルーマニア軍とかイタリア軍だったのでは?
勝って当然でしょ。
620名無し三等兵:2009/12/08(火) 14:15:30 ID:???
>>618
日本へ派遣した使者が事前に作戦中止を求めたのに、それを押し切って実行した揚句、
2回とも戦死者が万を超える大敗を喫したんだから、フビライに弁解の余地はない。
それに、元寇で元軍は騎馬兵を大量投入した上で負けてるわけで、騎馬戦も大しことなかった。
621名無し三等兵:2009/12/08(火) 14:20:58 ID:KpRJfDom
馬は何頭位運んだんですかね?海上輸送で馬の飼葉と水だけでも結構な量だと思うが。
622名無し三等兵:2009/12/08(火) 14:26:23 ID:???
>>620
思い上がりも酷いな、そりゃ
騎兵の運用に不向きな土地で戦えば、本領発揮できなくて当たり前だろ

日本で騎兵の集団運用が発達しなかったのはコストの問題だけじゃないぞ
623名無し三等兵:2009/12/08(火) 14:32:54 ID:???
>>621
1271年に高麗に対日遠征軍の騎兵6000騎が配備されてるから、最低でもその程度はいたんだろ。
元艦隊900艘は糧量7200トンを輸送可能だから飼葉や水は問題ない。
624名無し三等兵:2009/12/08(火) 14:38:28 ID:???
>>622
日本で武士が支配階級になれたのは騎兵の集団運用が発達したからだよ。
倭寇でも高麗は対馬海峡越えて暴れまわる日本騎兵の集団運用に苦戦してる。
625名無し三等兵:2009/12/08(火) 14:44:11 ID:???
元軍歩兵は騎兵に劣る二線級の部隊なのか?
626名無し三等兵:2009/12/08(火) 15:56:42 ID:???
「騎兵」の話になると必ずこういう勘違いが起こる。
日本にいなかった騎兵はシルバリであって、日本語そのものの意味での「騎兵」は普通に存在している。
627名無し三等兵:2009/12/08(火) 19:54:58 ID:???
しかし10万人も鷹島などに取り残されて殲滅戦喰らう前に潰走した軍を立て直せなかったんだろうか?
関ヶ原並の大軍勢だぞ?東軍・西軍に対抗して蒙古軍として登場して勝ったら天下取れるぐらいの
大兵力なのに・・・・指揮官無能すぎね?
628名無し三等兵:2009/12/08(火) 20:00:17 ID:???
ちなみに関東一円を支配していた徳川家康が直接つれてきたのは3万人。
事実上の天下人でさえ、3万人を動かすのが精一杯。
向こうも江南・高麗・モンゴルらの連合編成と言え10万人。
まー補給無い軍は脆いと言う事かもしれないが。
629名無し三等兵 :2009/12/08(火) 22:05:07 ID:VkiJ0IAK
狭い鷹島に万余の軍勢がひしめいたらあっという間に食糧不足になるだろ
しかも長い船上生活で弱ってフラフラだし。
その上船団は壊滅・逃走して士気も阻喪しているから、
掃討は苦もないんじゃね?
630名無し三等兵:2009/12/08(火) 22:11:56 ID:???
むしろ何もしなけりゃ勝手に餓死するが、討伐に向かえば味方に被害も出るわな。
631名無し三等兵:2009/12/08(火) 22:40:34 ID:???
自業自得だが、長期間上陸できなかったせいで疫病も流行っていた。
根こそぎぬっ殺したわけでなく、旧南宋人は捕虜ですんだのでは?
632名無し三等兵:2009/12/09(水) 00:06:04 ID:???
>628
当時、徳川家の主力を率いていたのは息子じゃね?
戦争下手で決戦に遅参したがw
633名無し三等兵:2009/12/09(水) 01:14:27 ID:???
>>632
内政では結構優秀だったから、あれで良いのでは?
どうせ家康には敵うわけないのだから
634名無し三等兵:2009/12/09(水) 02:49:28 ID:???
>>632
家康がどれだけ率いて関ヶ原にいったのかは知らんが。
確か秀忠の軍は2〜3万だったはず。
635名無し三等兵:2009/12/09(水) 06:35:44 ID:???
今から考えてみると、鷹島に退却したのは最悪の決断だったのかもしれんな。
10万人の将兵支える糧食があるわけがないのだから、損害を覚悟してでも
上陸して橋頭堡築くべきだったのでは。
補給さえ確保できれば10万人の軍をそう容易く撃破できん。
時代が変われば天下を取れるような軍が寸土すら得られず大半が殲滅されるか、
捕虜になりましたってひどすぎね?
せめて対馬ぐらいは放棄せずに、実効支配を続けていればまだ次につながっていたのでは。
636名無し三等兵:2009/12/09(水) 07:44:34 ID:???
>>627
仕方がない
この時点で主要な三人の指揮官(ヒンドゥとか洪茶丘)は味方を見捨てて残った船で逃走してる。


五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、
士卒十余万を山下に棄つ。
衆議して張百戸なる者を推して主帥となし、
これを号して張総管といい、その約束を聴く。
方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。
七日、日本人来り戦い、尽く死し、余の二、三万はそのために虜去せらる。
637名無し三等兵:2009/12/09(水) 08:52:11 ID:t8krsahW
アイシャルリターン(笑)とも言わず、部下を棄ててさっさと逃げ帰ったのか。
たいした指揮官だな。
638名無し三等兵:2009/12/09(水) 10:06:16 ID:???
百姓一揆でも数万集まれば鎮圧には数ヶ月を要する
加賀の国など一世紀近く一向宗に占拠された
いくらなんでも訓練を受けた兵十万が、壱岐対馬平戸を中心に肥前北部海岸も占拠出来ないなんて
639名無し三等兵:2009/12/09(水) 10:45:08 ID:???
人選を誤ったな。
モンゴルの将軍でマヂで恐ろしいのは郭侃、バヤン、史天沢。
このあたりはマヂでいくさがうまい。
長期の外征や水上戦の経験、ノウハウもある。
少なくとも、味方を見捨てて10万の大軍を損失させるような事は
なかったのでは。
640名無し三等兵:2009/12/09(水) 11:45:52 ID:QuHEqR6D
相手がバヤンなら棄民説厨も涌かなかっただろうね
641名無し三等兵:2009/12/09(水) 11:59:43 ID:???
日本を舐めて2線級の指揮官に大軍を与えたとはフビライは乱心したのか?
皇帝に成るために権謀の限りを尽くしたフビライとも思えんな
他のハン国への手前大敗はヤバイだろ
642名無し三等兵:2009/12/09(水) 12:37:11 ID:???
>>638
島原の大乱で3万七千人の百姓軍だったからな・・・・
643名無し三等兵:2009/12/09(水) 12:54:08 ID:???
>>642
島原の乱の時にはオランダ船に海上砲撃まで要請してる
644名無し三等兵:2009/12/09(水) 14:19:06 ID:???
>>639‐641
それって結果論なんだよ。
バヤンだって南宋戦に大抜擢されるまでは全く無名の武将だったんだから。
元寇の指揮官は日本にボロ負けしたせいで2線級と評価されてるけど、洪茶丘や劉復享だって
対日戦以外では大活躍してる。
もし、元寇がなかったら後世では名将扱いされてただろ。
645名無し三等兵:2009/12/09(水) 16:05:14 ID:???
ベトナム攻めの人が名を落とさなかったのは
それまでの実績があまりに凄すぎたからだろうね。
スブタイ並みにあっちこっち行ってるし
646名無し三等兵:2009/12/09(水) 16:18:55 ID:???
范文虎が激怒したフビライに処刑されたという話の出典は何?
647名無し三等兵:2009/12/09(水) 17:16:58 ID:???
>>645
ウリアンハダイはベトナム攻めに成功したから名を落とさなかったのは当然。
ベトナムは日本と違ってモンゴルに攻め込まれて属国になったから。
648名無し三等兵:2009/12/09(水) 18:10:24 ID:???
>>647
一応降伏したあと直ぐに離反したんだっけ?
649名無し三等兵:2009/12/09(水) 18:26:23 ID:???
>>648
1258年に降伏してから1285年まで20年以上属国状態だったよ
650名無し三等兵:2009/12/09(水) 21:36:04 ID:???
遠征軍の将軍にすれば、精兵十万が海の藻屑になったらヤバイよな
逐電するしか無い
651名無し三等兵:2009/12/09(水) 21:44:04 ID:???
Pirate of the Far East, 811-1639
ttp://books.google.com/books?id=__9EEed9bugC&pg=PA12&hl=ja&source=gbs_selected_pages&cad=4#v=onepage&q=&f=false

ミリタリーのイラスト入り解説書で有名な、オスプレイ社の本の一部ページが閲覧できます。
で、ここの11、12ページ目を注目!
1389年、高麗による対馬来襲のイラストです。現代韓国で描かれた想像図と、それを元にしたイラストです。
より有名な1419年の応永の外冦じゃないのは、実態の不確かなこの戦いと違って、負け戦であることを彼らも自覚しているからでしょう。
652名無し三等兵:2009/12/09(水) 22:04:51 ID:???
一般的に海峡両岸を違う勢力が支配した場合
海峡内にある主要離島は分け合う形に成りやすい
しかし、対馬海峡は完全に日本側だけになっている
度重なる外寇にも関わらず対馬が半島側に属した期間は一度も無い
653名無し三等兵:2009/12/10(木) 00:22:01 ID:???
>634
秀忠は確か3万数千、家康は3万前後でそれほど差がないが、
大垣城への備え等で兵力を割かれて、実質2万弱「という説も
ある」ってレベルかな。
あと、家康が率いていた軍勢には、大身の譜代の家臣が少な
かったという話もある。秀忠配下には2万石以上が7名、一方
家康配下には2万石以上は3名。

まあ、いずれにしても本筋にはあまり関係ないし、ましてや
元寇には全く無関係だなや。すまんかった。
654名無し三等兵:2009/12/10(木) 00:55:45 ID:???
鎌倉幕府軍から半島南岸や済州島への攻勢防御をすれば御恩と奉公が成立できたのでは?
655名無し三等兵:2009/12/10(木) 03:06:25 ID:???
>>654
半島への反撃も立案されたけど中止になった
656名無し三等兵:2009/12/10(木) 05:50:02 ID:???
>>654
一応、幕府側も文永の役に対抗して高麗方面へ侵攻する計画が出たらしいんだけど、
結局お流れになった。当時、日本で使われていた船では、大兵力を渡海させるのは
数量的・技術的に無理だったから取り止めになったんだろう、と言われているみたい。
> 一昨年出た「戦争の日本史」シリーズの『蒙古襲来』とかでも触れていたと思う。
657名無し三等兵:2009/12/10(木) 10:06:23 ID:???
仮に異国征伐が実行されていたとして、日本は実際に元と高麗から攻撃受けてるんだから、
その根源地を叩くのなんて自衛権の範囲じゃん。
ところが驚くことに日本の中世史の学者連中は、これを「侵略主義」だと言って鎌倉幕府を
非難してるんだぜ。
何で元寇でまで日本が「侵略主義」だと非難されなくちゃいけないのさ?
元と高麗が日本に攻めて来たことには、「侵略主義」なんて言葉を使わないくせに。
三別抄の乱の時は、鎌倉幕府が朝鮮半島へ派兵しなかったとことを非難してるくせに。
とにかく日本を非難してさえいればどんな滅茶苦茶な理屈でもまかり通る・・・
こんなふざけた連中に、まともな学術研究なんて期待できない。
658名無し三等兵:2009/12/10(木) 10:51:22 ID:???
>>647
いや、スブタイの息子じゃなくて郭侃さんの方。
この人もモンケとかフラグの副将として、あっちこっち行ってるし。
659名無し三等兵:2009/12/10(木) 11:04:41 ID:???
>>652
よく、対馬の領主が朝鮮の官位を持ってた事を理由に
対馬が日本と朝鮮の両国に属していた
と主張するバカがいるがとんでもない話だ。
あくまでも
日本の中央政府=本社
対馬=支社
朝鮮=取引先
なわけで。
対馬の領主宗氏は元々は小弐氏の家臣だし
朝鮮が攻めてきたときは300ばりの活躍で撃退してるが
秀吉の九州征伐ではあっさり従った上
唐入りの時は日本の正規軍として参戦。
朝鮮に属していた事実はどこにもない。
660名無し三等兵:2009/12/10(木) 12:49:49 ID:???
>>659
陛下より大勲位を授与されたアーレイバーク提督が海自の提督になったみたいな話だなw
661名無し三等兵:2009/12/10(木) 12:52:54 ID:???
飛鳥時代までは半島南岸にヤマトの勢力の領土が存在した。
半島への進出はレコンキスタ(国土回復運動)だろ。
662名無し三等兵:2009/12/10(木) 13:41:02 ID:???
おまえらなら、当時の日本を制圧するのにどういう云うふうに攻めた?
663名無し三等兵:2009/12/10(木) 14:14:22 ID:???
ネタを振りたいならまずは自分の考えを書くもんだ。
664名無し三等兵:2009/12/10(木) 14:53:05 ID:???
高麗軍
釜山→対馬→壱岐→名護屋→博多→太宰府
江南軍
済州島→伍嶋→平戸→佐世保→長崎→諫早→佐賀→鳥栖→太宰府
俺なら高麗軍を陽動に使い江南軍で裏から太宰府を攻めるな。
主力はあくまで江南軍なんだから安全な橋頭堡を九州に設けることを優先する。
佐世保や長崎などは大陸からの補給拠点に最適だし
水軍の船舶も佐世保湾内に停泊させていれば暴風雨の被害も少なて済みそうだ
また空船を玄界灘や八代海を航海させれば兵力の集中を阻害出来る。
665名無し三等兵:2009/12/10(木) 15:39:18 ID:???
>>662
まず朝廷を調略します。つぎに九州の豪族を調略します。
3万で攻めたら1日で負け10万で攻めたら上陸すら出来なかったので力攻めは無理です。
内から切り崩すのです。
666名無し三等兵:2009/12/10(木) 15:46:12 ID:92efjh+e
>>662
国家転覆には、まずは子供たちから。
教育現場にシンパを獲得して、次世代に親蒙古イデオロギーを植え付けていくわ。
667名無し三等兵:2009/12/10(木) 16:15:32 ID:???
>>666
今リアルタイムで日本がされてることじゃねえかw
668名無し三等兵 :2009/12/10(木) 21:42:46 ID:hTnRk/Zt
>>657
まったくだ。
左巻連中はとにかく日本を悪玉に仕立てて喜んでる基地外共だからな。
一方支那・朝鮮については証拠があることでも決して悪く言わない。
売国奴・国賊とは奴らのことだよ。
669名無し三等兵:2009/12/10(木) 22:24:36 ID:???
対馬や壱岐など離島を占領したあと九州本土には侵攻せず
幕府軍にプレッシャーを加え財政的に疲弊させる
670名無し三等兵:2009/12/10(木) 22:50:48 ID:???
>>669
大軍を壱岐対馬に維持するのは大変だろう。
かといって小勢では逆襲が怖い。
結構難しいんじゃないかな。
671名無し三等兵:2009/12/10(木) 22:59:37 ID:???
>>664
当時の元や高麗がまともな日本地図を持っていたとは思えないのだが・・・
672名無し三等兵:2009/12/11(金) 00:36:23 ID:???
>662
もう少し武士達の経済的疲弊を待ち、その間倭寇(というか
商人か)を取り込んで経済的に優位に立たせ、内乱を誘発
してそこに介入する。
673名無し三等兵:2009/12/11(金) 04:06:36 ID:???
旧渤海ルートで豆満江河口から津軽十三湖湊へ渡り東北地方から関東を目指す
藤原や清原や安東の残党を吸収し、白河関から関東を席巻一気に鎌倉を突く
674名無し三等兵:2009/12/11(金) 08:14:11 ID:7VvnZVN+
異国征伐といえば、「石築地はもともと征伐の拠点として築造された」
という説があるそうだが、これってどうなの?
675名無し三等兵:2009/12/11(金) 09:30:34 ID:???
>>671
そういえば、モンゴル帝国が作った世界地図の日本は大宰府だけが特別に赤い丸で囲まれてるらしいな
676名無し三等兵:2009/12/11(金) 09:31:52 ID:???
>>673
何気に北方ルートもアイヌ人らの抵抗で失敗してなかったか?
677名無し三等兵:2009/12/11(金) 09:35:05 ID:???
>>675
世界史板のコテの山野が元寇の数年前ぐらいに朝廷に
怪しげな商人どもが出入りしていたというレスをしていたな。
たしか本人文献で実際に確認してたはず。
山野にきいてみると良いが、モンゴルは対日攻略前に
間者を相当日本に放っている模様。
678名無し三等兵:2009/12/11(金) 09:54:36 ID:???
>>676
それは日本を狙ったわけじゃない。
しかも作戦は成功。
元軍はアイヌをサハリンから追い出した上、1308年に降伏させてる。
679名無し三等兵:2009/12/11(金) 10:45:01 ID:???
>>678
農耕も牧畜も出来ない樺太を占領して何に成るのかなぁ?
狩猟採取生活で縄文文化を守って来たアイヌを征服して何に成るのか?
まさか樺太で採れる燃える水や燃える石が狙いか!
680名無し三等兵:2009/12/11(金) 11:03:28 ID:???
毛皮や海産物を献上させたり色々価値はありますが
681名無し三等兵:2009/12/11(金) 11:18:44 ID:???
特にオコジョの毛皮や海東青という鷹狩り用の鷹の価値が高かったらしい。
サハリンが元軍に占領されていたことは、最南端に白主土城という元の城跡が残ってるから
疑問の余地なし。
682名無し三等兵:2009/12/11(金) 11:55:36 ID:???
樺太南端から肉眼でも見える北海道に侵攻しなかったのはなぜ?
北海道の方が樺太より豊かな土地なのは誰の眼にも明らか
そして北海道より日本の東北地方がさらに豊かな土地なのも明らかだけど
683名無し三等兵:2009/12/11(金) 12:02:52 ID:???
時代は下るが奥州藤原氏の比の富みすごいもんな
黄金の国ジパング伝説の元ネタという話もあるし
684名無し三等兵:2009/12/11(金) 12:24:01 ID:???
時代は下る?なんか日本語もカタコトだし、貴方はどこの人?
685名無し三等兵:2009/12/11(金) 13:00:58 ID:???
あおりはいりませんよ 
686名無し三等兵:2009/12/11(金) 14:20:43 ID:???
比の富み?
687名無し三等兵:2009/12/11(金) 14:42:01 ID:???
しつこいね タボハゼなみの雑魚うぜぇ
688名無し三等兵:2009/12/11(金) 14:47:29 ID:???
海東青ネタってずっと昔に女真の空を飛んでいる海東青がなぜ明にいくのか?
国民よ立て!って感じで井上由美子が摂政王ドルゴンでネタにして
いたね。

689名無し三等兵:2009/12/11(金) 16:53:27 ID:???
「タボハゼ」も意味わかんねーよw
馬鹿なのかカタコトなのかはっきりしろw
690名無し三等兵:2009/12/11(金) 17:25:01 ID:???
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。

691名無し三等兵:2009/12/11(金) 17:42:06 ID:???
>>682
距離的に限界だったんじゃないの。
アムール川下流域にある東征元帥府自体、水運が利用できるのが暖かい季節のみで
維持が大変だったみたいだし。
そこから目一杯背伸びしてサハリン南端がやっとだったってことでしょ。
692名無し三等兵:2009/12/11(金) 19:48:40 ID:???
でも、海東青がいるから樺太とった説おかしくね
金倒しちゃっているんだから、行く必要ないじゃん。
693名無し三等兵:2009/12/11(金) 19:49:23 ID:???
>>689
おまえうざいからどっかいけ
煽りしかできないカスいらねえ
694名無し三等兵:2009/12/11(金) 20:04:10 ID:???
>>693
だから「比の富み」ってなんだよ。
工作員の先生にちゃんと日本語教わらなかったのか?

それと奥州藤原氏は元寇から時代を下ったって現われねーよw
695名無し三等兵:2009/12/11(金) 21:35:31 ID:???
要するに元寇より前の時代になるが、ということだよ<時代が下る。
どうでもいいが粘着レス如きでスレを消費するなよカス。
いい加減に消えろ。
696名無し三等兵:2009/12/11(金) 22:31:46 ID:???
しかし十余万の大軍で九州すら落とせないとは情けない
697白くべたつくなにか ◆4EZIX.r92I :2009/12/11(金) 23:13:21 ID:???
>695
正しい日本語では、「時代が下る」は「後世」だよ。
698名無し三等兵:2009/12/12(土) 01:02:28 ID:???
本当に日本語わからない人なのかな?リアル工作員?
699名無し三等兵:2009/12/12(土) 01:12:05 ID:???
ただのリア厨かもしれんがw
700名無し三等兵:2009/12/12(土) 06:00:43 ID:???
元軍はなんであんな小島に撤退し自滅したのかなぁ?
701名無し三等兵:2009/12/12(土) 13:42:43 ID:???
武士に追い立てられて他に逃げ道がなかった
702名無し三等兵:2009/12/12(土) 16:57:57 ID:b5eSXpOt
1389年の高麗による対馬侵攻は「高麗の将、朴イが対馬を攻めて倭寇船300隻を破壊した、以後倭寇は激減した」
としかわからないのですが 、日本側ではこの時の記録はどうなっているんでしょうか?
応永の外寇のようには詳しくわからないもので。
703名無し三等兵:2009/12/12(土) 17:39:13 ID:ZtiDT4cg
実は初期倭寇の正体は日本の武装商人。
日本が相場の4倍の値で金を売り付け、絹等を現地価格の1/20で買漁るという超不権衡貿易。
断ればたちまち倭寇になって暴れ出す。
仕方なく明は足利義満に懇願し貿易船は公認の勘合印章を持ってなきゃ駄目ということで話をつけたが
勘合印章を司っていた大内氏が実は倭寇の大本締だったというオチ。

その後、段々と倭寇たちも経済的に恵まれてきて大陸で悪さをしなくなっていく。
幕府の取り締まりもきつくなり普通に貿易だけするようになる。
そのかわり当の大陸の人間や朝鮮人が倭寇を騙って略奪行為をするようになる。
それだけ日本人=恐ろしく強いっていうイメージが定着していたわけだね。
「ウリは日本人ニダ!」ってハッタリかますだけで勝手に相手が降伏してくれるんだからこんな楽なことは無い。

前期倭寇が海や川沿いなど水路のあるところで活動しているのに対し後期倭寇は現地人なので内陸で暴れている。

704名無し三等兵:2009/12/12(土) 18:53:09 ID:???
対馬は倭寇の根拠地じゃ無いしなぁ。
そこの船を何隻焼き払っても倭寇が減るはずが無い。
705名無し三等兵 :2009/12/12(土) 19:01:38 ID:nDh+bzs4
実際はチョンは対馬の漁船を燃やして住民虐殺しただけだろ
やつらは昔から誇大虚言癖があるからなw
706名無し三等兵:2009/12/12(土) 19:08:52 ID:???
前期倭寇は対馬も根拠地の一つだったみたいだぜ。
707名無し三等兵:2009/12/12(土) 19:41:09 ID:???
後期倭寇の本拠地は済州島
メンバーは済州島に残ってたモンゴル人と朝鮮人と漢人の混成
708名無し三等兵:2009/12/12(土) 21:45:59 ID:???
>>681
一応、最近白主土城などの樺太の「方形土城」についての考古学的な発掘報告が
いくつか出ているみたいだけど、(まだ自分も全部の報告に目を通した訳じゃないが)
白主土城の成立年代は実はいまいち良く分かっていないらしい。(2004年度の報告だと)

発掘された土器・陶器片などが大元朝時代の物よりも、須恵器などの特徴が金朝時代の
特徴を持っていたり、オホーツク沿岸で10〜11世紀に流行したパクローフカ文化期の
文物が出土していたりするようだ。従来から大元朝時代のものとの見方もある白主土城だが、
どうもそこら辺は怪しげな雰囲気。

あと、金〜大元朝時代の方形城址の特徴としては、四辺の方形の外郭の中央に門を設け、
      ┏━
╋━━━┛ ━━━╋  という感じに門の前は土塁と堀を「鉤の手」型にするのが普通らしいが、
白主土城の場合は、

┏━━━ ━━━┓   という感じで、門は無防備な状態になっていて、砦としての機能から
すると防御性に疑問がつく。これは樺太の他の「方形土城」にも共通して見られる特徴だそうだ。

そもそも「白主」という名称が、アイヌ語で「日和見する場所」を意味する「シル・アン・ヌ・ウシィ」
あるいは「岩があり漁も多い場所」を意味する「シラン・ヌ・ウシ」、「岩がたくさんあるところ」を
意味する「シラル・ヌ・ウシ」など、いずれも主に交易や船に関わる語彙で解釈できることもあり、
白主土城も間宮林蔵らがアムール川のデレンで見た満州仮府のような朝貢・交易のための方形施設との
関係性を推測している。そのため、報告では「サハリンの土城は交易のための非日常的な場とみて
おきたい。」と推論をしているようだ。
709名無し三等兵:2009/12/12(土) 21:52:31 ID:???
そうだとするとアイヌ語→漢字訓読みで
「白主」という表記になったというのか?
710名無し三等兵:2009/12/12(土) 23:02:46 ID:???
>>709
幕末の探検家たちがいくつか白主土城をスケッチしているそうで、
秦檍丸『蝦夷島奇観』(寛政12年 ・1800年 )、
松田伝十郎『北夷談』(文政5年・1822年。文化5年・1808年の調査に基づく)
松浦武四郎『再航蝦夷日誌』(嘉永3年・1850年)
間宮林蔵『北蝦夷図説』(安政4年・1857年)
小林豊章『唐太島東西浜図』
などに「白主土城」の絵が描かれているそうだ。この頃から既に樺太南端部を
「シラヌシ」と読んでいたらしい。

>>708でも書いたが「シラヌシ」という名称の語源については諸説あるらしいが、
帆船が停泊する「日和待ち」の意味と解する説もあって、実際に樺太南端の
白主(シラヌシ)は「帆船時代の停泊地としては好適」としている論者もいるとか。
(小川運平説)

ちなみに、松田伝十郎『北夷談』(文政5年・1822年)の「白主土城」の姿は、

「『シラヌシ』より去る事凡一里許東海岸に字『グイ』称する所あり。其処に砦の旧趾あり。
 夷語にチャシと称す。凡三百間四方にして、三面に堤を築き、前一面は堤なし。三方とも
 堤の下ことごとくから堀にて、今に其あと連綿としてあり。所の老夷に尋るに、
『何のとき、又何ものヽ造るにや年月は勿論砦主どもしるものなし』。其製『嶋夷の作る処に
 あらざる』ゆへに図を顕す。左のごとし。(又老夷いふ、昔胡人作ると云伝ふ)」

とあって、19世紀初めは、「白主土城」は「グイ」とか「チャシ」と呼ばれていたようだ。
そもそもアイヌ語の「チャシ」自体が柵や壕で取り囲んだ儀礼などを行う特別な場所を
意味していて、「シラヌシ」とも意味的な関係もあるみたい。

戦前の調査でも海岸部に面した部分に土塁と壕を欠いた「コ」の字型の遺構だったそうだが、
内陸奥面の土塁と壕はソ連時代の整地で破壊されたそうで、近年の再調査によると現在では
「┃ ┃」みたいな形状になっているとのこと。
711名無し三等兵:2009/12/13(日) 02:13:18 ID:???
樺太の土塁は渤海時代より歴代の沿海州の支配権を得た歴代王朝による樺太の交易窓口として利用されてきた
712名無し三等兵:2009/12/13(日) 04:03:21 ID:???
改修されていたってこと?
713名無し三等兵:2009/12/13(日) 04:04:28 ID:rTWLKFwK
モンゴル側の根本的かつ決定的な失敗は、そもそも博多しか着上陸地点を選べない事
多数の守備兵が守る所に正面からごり押しして上陸作戦なんて、常識的に考えれば愚の骨頂
714名無し三等兵:2009/12/13(日) 09:44:32 ID:???
モンゴル軍の博多への強襲揚陸作戦失敗を見て
米軍は硫黄島や沖縄以外への上陸を見送ったのかな?
対馬と壱岐を落として九州には攻め込まないのが正解
715名無し三等兵:2009/12/13(日) 17:22:29 ID:???
>>713
元軍も一応多数の守備兵が守る所に博多正面は避けて上陸地点を百道原や志賀島にしてるんだよ。
でも、元軍と日本軍では戦闘力が違い過ぎて話にならない。
あの細い海の中道から志賀島攻撃しても日本側は兵力の逐次投入しかできないはずなのに、
何で元軍は撃退されちゃうのさ・・・
716名無し三等兵:2009/12/13(日) 19:23:12 ID:???
>>713
>常識的に考えれば愚の骨頂
当時に正確な日本の地図があればその通りだ。だが現実には・・・
717名無し三等兵:2009/12/13(日) 20:48:39 ID:???
やる気も戦闘力もねえ高麗や南宋の投降兵主力じゃそんなもんだろ。
ただ壱岐対馬の虐殺見るように自分より弱いものにはとことん冷酷非道な連中、昔も今も。
718名無し三等兵:2009/12/13(日) 22:47:30 ID:M2s8lTSR
aaa
719名無し三等兵:2009/12/14(月) 10:06:00 ID:???
日蒙間で戦闘力に圧倒的差があるのなら
なぜ対馬や壱岐や平戸はあっさり失陥したのか説明がつかない
後年の楠木正成の様に剣峻な拠点に籠もれば抵抗活動は出来たと思うが
特に壱岐はしっかり防衛態勢をとって迎撃したはず
衆寡敵せずとはいえ博多攻防戦に比べて余りにあっさりしてる
720名無し三等兵:2009/12/14(月) 10:20:18 ID:???
>>719
対馬や壱岐はそんなにあっさりと陥落したわけじゃないだろ。
文永の役では攻略に何日も費やしてるし。
弘安の役でも康彦・康師子等、高麗軍の結構上層部に戦死者がでてる。
圧倒的な兵力差を考えれば大善戦だと思うが。
721名無し三等兵:2009/12/14(月) 12:00:12 ID:???
>717
やり返せ。
722名無し三等兵:2009/12/14(月) 12:19:30 ID:???
>>720
大兵力なのは事前に分かっていたのだし
普通は時間稼ぎに籠城するだろ
南宋の襄陽城の様に長期間籠城する戦略があるべき
723名無し三等兵:2009/12/14(月) 13:27:58 ID:???
>>722
そんな良戦略がほいほいと簡単にでてくるか馬鹿w
724名無し三等兵:2009/12/14(月) 15:12:26 ID:???
>>723
モンゴル軍の前歴を調べるくらいは鎌倉幕府もやっている
むかしの侍の方が戦略感は優れているだろ
725名無し三等兵:2009/12/14(月) 15:26:32 ID:???
>>722
孤島で長期篭城とか無理だろ。
726名無し三等兵:2009/12/14(月) 16:18:06 ID:???
>>725
孤島で長期包囲戦をする方がはるかに困難だが?
727名無し三等兵:2009/12/14(月) 16:33:33 ID:FfcXCawO
まあ確かに、約200年後に
ほぼ同数で朝鮮軍が攻めてきた時は
現地の住民だけで一方的に朝鮮軍をフルボッコ
することができたのと比べたら
あっさり陥落しすぎと言えるかも
728名無し三等兵:2009/12/14(月) 17:02:14 ID:???
>>724
残念ながら、昔は今と違い情報を集めるのが困難です
729名無し三等兵:2009/12/14(月) 17:58:14 ID:+1KP88va
孤島だけならともかく本土進攻を前提にして攻城兵器無しって、元軍の総司令官ってどんだけ相手を舐めてたのさ。
って言うか、アレ位の戦力差があってなお抵抗されるって時点で(調略)の二文字は元軍には無いのかと。。。
730名無し三等兵:2009/12/14(月) 20:02:36 ID:???
回回砲は持ってきてたろ。
731名無し三等兵 :2009/12/14(月) 21:28:54 ID:JU5cu5OO
当時の築城技術を調べ直してこいよ
当時の城はまだ館や臨時の砦の域を出るものじゃないんだから
本格的籠城なんて不可能だろJK
732名無し三等兵:2009/12/14(月) 23:25:24 ID:???
>>731
飛鳥時代に唐の侵攻に備えて造られた高安城など完全な山城ですが?
楠木正成の赤坂城千早城も館状態に見えるが縄張りが山城の造り
戦国時代の城と遜色ない
733名無し三等兵:2009/12/14(月) 23:59:34 ID:???
佐竹氏が篭った金砂山城も頼朝が正攻法で攻めても落ちなかった。
734名無し三等兵:2009/12/15(火) 01:26:07 ID:???
>>729
攻城兵器というのは基本的に現地製造の代物が多い
あと、上陸時攻城兵器を展開するエリアを確保出来なかった・・・砂地でどうしろと?
船上に搭載していたタイプは射程も威力もたいした物でないのであまり役に立たない・・・
結局兵隊の力押ししかないのだろうな・・・ろくな地図もないしなw
735名無し三等兵:2009/12/15(火) 09:37:25 ID:???
調略にしても、まず実力を見せてからじゃないと、
やりようが無い気がする。
736名無し三等兵:2009/12/15(火) 09:47:30 ID:???
>>735
高麗では、モンゴル軍が攻め込んだ初っ端に国境守ってた武将が領民引き連れて寝返り、
以後モンゴル軍の高麗侵略の先導役務めてるんだぜ。
737名無し三等兵:2009/12/15(火) 09:55:30 ID:???
>>736
それは、近隣での戦いを漏れ聞いて、
モンゴルの強さを知ってるからなのでは、
陸続きだし情報は格段に多いと思う。
738名無し三等兵:2009/12/15(火) 11:04:46 ID:???
>>719
平 景隆軍も100騎たらずで丸一日戦ってるわけで、その後、自害している。
籠城しようと思えばもっと粘れただろうが、最終的には多勢に押し切られるのがわかりきってるわけだから
思い切り戦ったあとは敵の手にかかるぐらいなら潔く自害というのは武士の思考回路としては普通だと思うが。
739名無し三等兵:2009/12/15(火) 12:56:12 ID:???
>>738
たぶんその思考が実態なんだろうけど
上杉軍の魚津城や二次大戦での硫黄島みたいに本国防衛体制の為に時間稼ぎをする発想は無かったのかな
まあ結果として時間稼ぎするまでも無く撃退できたんだけど、それなら無駄死にじゃね?
740名無し三等兵:2009/12/15(火) 15:39:57 ID:???
俺にいわせりゃ
大宰府攻略にさしたる影響のないこんな小島で
寡兵の猛者達の相手させられた挙句、返り討ちにあって死んだ元軍兵士のほうがはるかに無駄死だとおもうが…

というか対馬にせよ壱岐にせよ
「とにかく一日持ちこたえよう」という強い意思は感じられる戦い方だよね
つまり、大宰府に報告を届けるまでの時間稼ぎという点では十二分にその役を果たしたともいえる。
741名無し三等兵 :2009/12/15(火) 21:54:06 ID:HNrOdGGi
>>739
当時の国民に国家意識なんてないから。
それに武士道は「命を捨てて名を残す」のが華だし無駄死とも思わないだろ
742名無し三等兵:2009/12/16(水) 02:17:34 ID:???
>>737
いや裏切り保身はチョンの専売特許だ
743名無し三等兵:2009/12/16(水) 09:25:50 ID:???
高麗ってモンゴルに領土切り売りして保身に走る奴が続出して、
モンゴル領のパッチワークみたいな状況になってたしな。
744名無し三等兵:2009/12/16(水) 10:15:37 ID:???
チョン半島は人民が最低な為、首都から近いにも関わらずモンゴルも直轄領にしなかった(笑)
元寇は高麗と南宋の征服軍人の棄民の性格は完全には否定出来ない
745名無し三等兵:2009/12/16(水) 10:20:21 ID:DT1gjn9X
棄民のつもりが海軍力の大幅削減になったでござるの巻
746名無し三等兵:2009/12/16(水) 10:46:32 ID:???
モンゴルの性格からして棄民はあり得ないな。
遊牧民って土地の所有には固執しないけど、人とか家畜とかは彼らにとって全財産だからな。
朝鮮や中国の土地だけ支配して、その住民を捨てちゃうなんてのは彼らのアイデンティティーの
真逆の政策だろ。
747名無し三等兵:2009/12/16(水) 10:59:15 ID:???
>>746
人口が稀薄な草原と人口が多く定着性が強い温帯とは価値観が違う
直ぐに裏切り兼ねない民族には違った対応をするだろ
海軍なんかもモンゴルからすれば貰い物で失ってもそれほど重要では無いだろ
748名無し三等兵:2009/12/16(水) 11:11:47 ID:???
>>747
海軍は重要だろ。
フビライは手に入れた南宋艦隊使って東南アジアからインド洋へ支配領域広げようと意気揚々としていた
矢先なんだから。
陸路征服できる国はほぼ征服し尽くしていたし。
モンゴル帝国は膨張し続けてることが求心力になっていたわけで、海軍失ってそれ以上の膨張が
望めなくなると没落も早かったよな。
749名無し三等兵:2009/12/16(水) 12:10:09 ID:???
>>748
インドシナやインドはまだ陸路で攻めればいいじゃないか
皇子時代にフビライ自身が南蛮征伐に行ったはず
本格的海軍など日本以外は不要だよ
ジャワ、スマトラも島伝いに小舟程度で渡れる
750名無し三等兵:2009/12/16(水) 20:01:12 ID:???
『中国史のなかの日本像』 王勇著
「また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、
その結果として海防の弛緩を招致してしまった。十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。
注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。」
751名無し三等兵:2009/12/17(木) 00:16:30 ID:B+rQ+8In
まあ棄民説なんて元軍が鎌倉武士に
完全敗北した事実を認めたくない奴の戯れ言だろ
752名無し三等兵:2009/12/17(木) 05:26:53 ID:???
大軍で攻めて九州すら獲れないなんて恥ずかしい
753名無し三等兵:2009/12/17(木) 06:28:57 ID:???
日本が常識はずれに強すぎたんだからしょうが無い。
754名無し三等兵:2009/12/17(木) 09:37:15 ID:???
>>749
フビライが陸路インドを攻めるためには、ヒマラヤ山脈越えなくちゃいけないんだが。
それに海軍なしで東南アジアを征服するなんて、兵站の負担が大きすぎて無理。
現実には中国の隣のベトナムですら本格的海軍が必要不可欠だった。
元のベトナム侵攻が失敗した理由は、弘安の役の大敗のせいで海軍が極度に弱体化してたからだよ。
755名無し三等兵:2009/12/17(木) 12:14:46 ID:???
>>754
雲南から大理を攻めて大理を拠点に南越やアユタヤやビルマを攻めたらどよ
ビルマを拠点にヒンドスタン平野に侵攻すればよい
もともとモンゴル軍はペンペン草作戦なんだし兵站負担は少ない
基本的に現地調達現地消費の地産地消だろ、夜伽の相手から食料まで
756名無し三等兵:2009/12/17(木) 12:52:58 ID:B+rQ+8In
なるほどこれがゲーム脳か
757名無し三等兵:2009/12/17(木) 14:04:14 ID:???
これがホントのジンギスカン作戦かw
758名無し三等兵:2009/12/17(木) 14:49:42 ID:???
ジンギスカン作戦って東南アジアの密林でやると悲惨な結果になるでしょ
759名無し三等兵:2009/12/17(木) 15:15:45 ID:r3BDjAEJ
台風後、生き残った数万の元軍に鎌倉武士がおこなった殲滅戦は凄惨を極めたそうな。
ちなみに甲冑で比較すると江戸時代の武士より鎌倉武士の方が体格がよかったそうな。
760名無し三等兵:2009/12/17(木) 15:23:17 ID:???
>>758
ジャングルは小動物や果物など食料の宝庫だから何とかなると思う
まあ食料より疫病で全滅
761名無し三等兵:2009/12/17(木) 15:36:45 ID:r3BDjAEJ
大量に出土された鎌倉武士団の遺骨によると、
彫りが深い顔立ちで頭は長頭で身長に対して手が長く骨太で筋肉質などのやや縄文人的特徴が残っていた。
大腿骨から判断されたかぎりでは平均身長は160程度とされている。
体格で鎌倉武士団が元軍に劣っていたことはないだろう。
762名無し三等兵:2009/12/17(木) 16:12:23 ID:???
このゲーム脳は前にいたのと同じかな?
763名無し三等兵:2009/12/17(木) 18:31:58 ID:???
>>761
今でも毎年10万人近いチョンやシナ人による日本人遺伝子劣化事業をやっている
帰化や結婚でどんどん弥生化してる
764名無し三等兵:2009/12/17(木) 19:04:16 ID:B+rQ+8In
現代日本人より明治の日本人のが
目鼻立ちがくっきりしてるしね
765名無し三等兵:2009/12/17(木) 20:57:33 ID:???
>>760
2〜3人ならなんとかなるけど、師団規模になるとジャングルから食料を得るのは無理。
766名無し三等兵 :2009/12/17(木) 21:32:54 ID:KTF2WQ5R
>>760
そういうつもりで行った結果が「生きて帰れぬニューギニア」だった
わけだが。
767名無し三等兵:2009/12/17(木) 21:37:11 ID:???
>>760
ジャングルが食料の宝庫って凄まじいゲーム脳だな。
ジャングルで何を食うの?その辺の葉っぱ?木の幹をはいだ皮?
いっとくがトカゲやカエルはそう簡単には見つからんし
捕まえるのはさらに難しいぞ?
768名無し三等兵:2009/12/17(木) 22:43:21 ID:???
元寇が棄民なら唐入りも棄民だよww
欧州列強のアフリカ分割も棄民政策w
769名無し三等兵:2009/12/17(木) 22:57:30 ID:r3BDjAEJ
鎌倉武士団の弓は熱して強靭な炭素繊維化した竹材と木材を接着した複合弓で、矢にも飛距離をのばす工夫がされていて優れていた。

長弓ではあるが複合弓のためやや軽く、よく飛ぶので訓練次第では馬射もでき、中程度の距離ならば女性の力でも扱うことができた。
770名無し三等兵:2009/12/17(木) 23:46:55 ID:pUKiYrsx
ブッシュが多い日本では向かなかったとか
771名無し三等兵:2009/12/18(金) 01:12:52 ID:???
>>754
カイバル峠越えじゃ駄目なのかな?
チムールの生き残りもそこからインドに攻め込んだよな?
772名無し三等兵:2009/12/18(金) 01:46:26 ID:???
>>771
実際にモンゴル帝国のフレグ・ウルス軍やチャガタイ・ウルス軍はそっち方面からインドへ攻め込んでるけど、
フビライの大元ウルス軍が陸路でインド攻めようと思ったらヒマラヤ山脈越える必要があるということ。
773名無し三等兵:2009/12/18(金) 04:36:43 ID:???
百年前に清盛が日宋貿易をしていたんだし、日本の船も渡洋性能は、かなりいいのかな
774名無し三等兵:2009/12/18(金) 05:47:40 ID:???
>>773
宋船を肥前神埼・備後鞆・摂津福原に誘致したのがメイン。
775名無し三等兵:2009/12/18(金) 12:27:14 ID:???
>>774
モンゴル軍がそれらの要港を確保しつつ
カエル飛びで福原から京の都を陥落させてたら大変だったな
776名無し三等兵:2009/12/18(金) 12:32:24 ID:???
100年後の倭寇では馬1600頭を朝鮮半島へ海上輸送して暴れてるんだけどな。
中世に100年でそれほど飛躍的に造船技術が進むとも思えないし。
777名無し三等兵:2009/12/18(金) 12:35:32 ID:mqnrTGXj
>>775
それが最初の地点で躓いたからああなったわけで
778名無し三等兵:2009/12/18(金) 17:03:32 ID:???
>>776
それは済州島に残ってたモンゴル軍の末裔と済州島のチョン達と倭寇の残党
多くはエセ倭寇だよ!
779名無し三等兵:2009/12/18(金) 18:02:33 ID:???
>>778
エセ倭寇が多くなるのは後期倭寇。
前期倭寇は普通に日本人だよ。
780名無し三等兵:2009/12/18(金) 20:50:36 ID:???
>>779
前期倭寇でも騎馬を用いたのはモンゴル系エセ倭寇
781名無し三等兵:2009/12/18(金) 22:21:49 ID:???
>>780
何が悲しくてモンゴル騎兵が日本人を騙らなくちゃいけないのさ。
高麗人がモンゴル騎兵と日本の騎兵を見間違えるはずもないし。
倭寇として暴れてたのは日本の騎兵だから。
782名無し三等兵:2009/12/18(金) 22:32:02 ID:???
> 高麗人がモンゴル騎兵と日本の騎兵を見間違えるはずもないし。

朝鮮人にそんな見識はない
783名無し三等兵:2009/12/19(土) 00:06:26 ID:???
>>771-772
クビライがインド征服を考えるんだったらチベットかパミールあたりから
(オゴデイの時代から鎮守軍が置かれていた)カシミール方面へ抜けるルートを
使うはずだろう。

一応、モンケの時代にカシミール鎮守軍はモンケの勅によってフレグの中東遠征に
兵員を供出しているし、アフガニスタン方面はヘラートのクルト朝がおおよそ管轄していて、
クルト朝はフレグ家を主君としていたから、クビライがモンゴル皇帝として北インド遠征を
実行するのであれば、イルハン朝とその隷下のクルト朝、カシミール鎮守軍(カラウナス軍団)を
動員することになったはず。

ただ、問題は中央アジアのカイドゥ一統とチャガタイ家でクビライ側につかなかった勢力が
アフガニスタンの直ぐ北を抑えているので、彼らを分裂工作をするとか過半数を恭順させるか
しないとクビライが北インド遠征を実行に移すのは至極難しい。中央アジアの紛争を終結させないと
北インド遠征は現実化しないだろう。

クビライは1278年あたりからいわゆる「南海招諭」を行っているが、どうもこれらは
南宋と朝貢関係や冊封関係にあった東南アジアやマアバールなどのインド洋方面の諸国を
モンゴル帝国的な藩属関係でもって従来の関係を更新しようという意図があったっぽくて、
これらの海洋方面の進出は、北インド方面から内陸的なアプローチとは(地域的な担当
分野的な意味で)また別個の展開だった感じだ。
784名無し三等兵:2009/12/19(土) 03:03:40 ID:???
江南軍だけど先に琉球を征服して中継地とし
黒潮に乗って一気に鎌倉を強襲すべきだった
785名無し三等兵:2009/12/19(土) 05:18:10 ID:8Xrjs+yc
余計に海の藻屑率が上がるだけな気が。
786名無し三等兵:2009/12/19(土) 09:09:32 ID:???
>>785
いやなまじ博多だと逃げかえれるが鎌倉だと腹を決めるしか無い
まさに背水の陣いや背海の陣だな(笑)
787名無し三等兵:2009/12/19(土) 09:20:45 ID:???
>>783
南インドは普通に宋商の大型船が行き来してた場所だからな。
それに、この時期スマトラ島はマレーシアがら侵攻受けてて、この程度の渡洋作戦は何の問題もなかった。
弘安の役で海軍が壊滅せず、南海招諭が順調に進めば、元から南インドは十分射程圏内だったのに・・・
クビライにとって元寇の大敗は大きな痛手だったな。
788名無し三等兵:2009/12/19(土) 10:10:42 ID:???
>>787
まあフビライは日本など大軍で脅せばすぐに降伏すると腹積りだったのだろ
太宰府を占領し日本統治の窓口にすれば満足だと考えていただろう
789名無し三等兵:2009/12/19(土) 10:21:05 ID:???
つうかいくら戦況が不利とはいえ、海岸の戦闘で部下を見捨てて
3万人も撤退時に損害だしたのが痛すぎ。
一日で敵前上陸(もちろん大損害)⇒同じ日に敵前撤退(指揮官連中はさっさと逃亡)
って最悪のパターンだわ・・・。
790名無し三等兵:2009/12/19(土) 10:54:22 ID:???
>>789 かわいい部下なら見捨て無い。棄民と言われる理由。
791名無し三等兵:2009/12/19(土) 11:23:49 ID:???
>>790
南宋の降将范文虎がモンゴル兵を見捨てて棄民か。。。
792名無し三等兵:2009/12/19(土) 11:52:00 ID:???
何がしたかったのがよくわからん
敵前上陸、敵前撤退って最悪の判断じゃん。
過去レスみると対日戦以外は名将といわれる人物ばかりと
いうが、どうみても糞なんだが・・・。
793名無し三等兵:2009/12/19(土) 12:55:13 ID:???
『中国史のなかの日本像』 王勇著
「また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、
その結果として海防の弛緩を招致してしまった。十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。
注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。」
794名無し三等兵:2009/12/19(土) 16:42:23 ID:???
上陸した後補給はどうするつもりだったんだろうか。船で運ぶにしても港湾施設は(WWIIのそれと比べれば)死ぬほど貧弱で
荷揚げ・荷下ろしなんて全部人力だろうし。前線へ持っていくのは馬が使えるだろうけど。
補給戦によれば勝って進撃し続けている間は次々略奪できるので以外と喰っていけたというけど、馬がどのくらいいるかにもよる…かな?
795名無し三等兵:2009/12/19(土) 16:46:55 ID:???
ヴァルダル王国のカイゼリック王は8万の軍で北アフリカに侵入し、ローマの属州を
次々に制圧してるがあの時も補給どうやっているのか日本では全然情報手に入らないな。
やはりそういう細かいことになると往時の従軍記などをみるしかないのだろうか。
796名無し三等兵:2009/12/19(土) 22:18:46 ID:???
>>795
蛮行の語源になっている連中に緻密な補給の概念があったとは思えんなw
やるこた一つだろ。
797名無し三等兵:2009/12/19(土) 22:39:52 ID:???
ヒャッハーですね! 分かります!
798名無し三等兵:2009/12/19(土) 22:52:57 ID:???
戦争論でも現地調達が補給の基幹になっているくらいだから、
欧州に比較して土地の生産力が高い東アジアでは言わずもがな。
799名無し三等兵:2009/12/19(土) 23:09:12 ID:???
わが皇軍も現地調達が基本である!
800名無し三等兵:2009/12/20(日) 00:15:15 ID:???
ハンニバル以来の伝統
兵すら敵地調達、将棋の持ち駒並み(笑)
801名無し三等兵:2009/12/20(日) 06:51:58 ID:QVd7R4/u
文永の役の兵力じゃただの海賊の拡大版だわ
802名無し三等兵:2009/12/20(日) 10:35:35 ID:???
>>801
文永の役の兵力はピザンツ帝国を征服した第4回十字軍の3倍以上だよ。

第4回十字軍 兵力1万2000(騎士1500) 艦艇約200隻(大型帆船40隻、ガレー船62隻 輸送船100隻)
文永の役 兵力3万3000(蒙漢軍2万5000) 艦艇900隻(千料舟300隻 抜都魯軽疾舟300隻 汲水小舟300隻)
803名無し三等兵:2009/12/20(日) 11:02:04 ID:???
>>802
対馬海峡と言う天然の要害に守らながら、さらに何百年も前から外寇に備えて各地に山城を築き、侵攻正面には水城という長城をも備える国はそうそう無いからな(笑)
それに以前から予告なく刃伊の入寇とかたまに経験してたしね
804名無し三等兵:2009/12/20(日) 11:09:04 ID:86I7WAqo
まあ、政権抗争に敗れて九州に追放された
都育ちの貴族のお坊っちゃんが簡単に女真族を
撃退できるほど守りが堅かったんだから
ましてや戦のプロである武士が守ってた時代に
制圧するのはまず不可能だな
805名無し三等兵:2009/12/20(日) 12:43:43 ID:???
一方朝鮮人は武士の侵入に対し快進撃を許し、明に泣きつくまで何もできなかった。
806名無し三等兵:2009/12/20(日) 15:56:26 ID:???
鎌倉時代より凄まじいくらい戦闘力が増した安土桃山時代の秀吉の朝鮮出兵軍
明の参戦で押し戻されたのが信じられない
807名無し三等兵:2009/12/20(日) 16:02:03 ID:???
朝鮮出兵は総大将がいなかったのが敗因。
808名無し三等兵:2009/12/20(日) 16:10:00 ID:???
>>807
日本軍がヘボ過ぎたのが全て
明軍は二線級の部隊だった上に兵力も大きく劣っていた
なのに全く部隊間の連携が取れず毎度単独で挑んでは敗退・苦戦を繰り返していた

調略によって開戦前には決着がついているぬるい内戦しか経験していない日本軍の限界
809名無し三等兵:2009/12/20(日) 16:23:11 ID:???
>>806
朝鮮戦争の経緯みれば理解できると思うが、敵勢力が南から来ても質は劣る義勇軍が
米軍・国連軍を数で圧倒して次々に高地を占領、戦線を突破し再逆転した。
大陸軍は物量が圧倒的、補給が続かない海の彼方の日本や米軍では難しい。
歴史的に朝鮮半島の安全保障は中国の歴代政権が担っているんだよね。
3−4世紀は倭が朝鮮半島南部を支配していたが、結局は唐に駆逐されたし、
舞台変わってイギリスでもフランス征服はとうとう果たせず最終的に駆逐された。
経験則で大陸には勝てないと悟っていたから天智天皇以降は内向きの政治となった
徳川氏もそうだね。家光も台湾情勢に関わらなかったし。
810名無し三等兵:2009/12/20(日) 16:26:45 ID:???
>>808
どの道日本の国力では朝鮮半島が攻勢限界で、
戦局な有利なうちに秀吉死後和睦したしな。
あの辺が限界だよ。
第一日本軍は補給を李軍ニズタズダにされているので
どうにもならなかった。
島津が殺したけど。
811名無し三等兵:2009/12/20(日) 17:10:24 ID:???
李軍にズタズタ?www
812名無し三等兵:2009/12/20(日) 17:41:25 ID:???
適当なこと言ってる奴がいるな。
813名無し三等兵:2009/12/20(日) 17:45:08 ID:???
>>810
いや・・・そもそもの原因は大名連中にやる気が無かったのが原因だろ?
大陸に魅力があればもっと熱心に征服しようとしていただろ?
なんとなく日本より進んでいる豊かな国だろうと思って侵攻したら、何じゃこりゃってくらいボンビーな国だった
こんなはずではorzっておもっていたからやる気もでないのだろう・・・
それが証拠にあの戦争で参戦した大名連中殆ど無傷で戻ってきたぞ?
兵力も殆ど失わずに撤退してきたしw
814名無し三等兵:2009/12/20(日) 17:51:11 ID:???
>>810
亀甲船が未来兵器なのはゲームだけだぞ。
815名無し三等兵:2009/12/20(日) 17:58:05 ID:???
>>814
最初の朝鮮出兵では沿岸の制海権を握れず、補給に大きな問題が生じて敗因となっている
再侵攻時は海戦で日本優位だったが、南部に立て篭もっていたからあまり関係ない
816名無し三等兵:2009/12/20(日) 18:03:34 ID:???
敗因?
817名無し三等兵:2009/12/20(日) 18:07:44 ID:???
沿岸の制海権を握れず?
818名無し三等兵:2009/12/20(日) 18:20:59 ID:???
ぶっちゃけ侵略より東南アジアや明との交易を活性化させたほうが後々のためだったような・・・
819名無し三等兵:2009/12/20(日) 18:23:48 ID:???
反乱分子を疲弊させるのが目的ですから
820名無し三等兵:2009/12/20(日) 20:32:37 ID:???
スレ違いの話題になっているついでに質問ですが、誇張や偏向の少ない
朝鮮出兵関連の書籍はあります?
821名無し三等兵:2009/12/20(日) 20:33:23 ID:???
>>808
なんつーか、未だにこんな説振りかざしてるバカいるんだなー
822名無し三等兵:2009/12/20(日) 21:48:19 ID:???
>>816-817
玄界灘の補給網がわが国の神将 李舜臣によって
倭国の諸侯が何もできずに敗れ去ったではないか。
823名無し三等兵:2009/12/20(日) 22:29:39 ID:???
李はあくまでも「朝鮮の軍人としては」優れていた程度。
824名無し三等兵:2009/12/20(日) 23:07:27 ID:???
>>822はなぜ日本語がカタコトなの?
825名無し三等兵:2009/12/21(月) 01:16:02 ID:???
秀長秀次利休たちが生きていたら朝鮮征伐は成功しただろう
826名無し三等兵:2009/12/21(月) 08:19:12 ID:???
元軍は一応大軍なんだし佐世保を上陸地点に選択していれば、1日で惨敗する事は無かったのでは?
江南軍も高麗軍も佐世保なら集結しやすいだろう
827名無し三等兵:2009/12/21(月) 08:32:44 ID:???
太宰府近辺しか詳細な地形を知らなかったんだろうか?
828名無し三等兵:2009/12/21(月) 08:58:39 ID:???
>>827 そんなことは無い日宋貿易で九州北部から瀬戸内海は良く知ってるはず
実際に平戸や松浦は攻撃されているから、博多など簡単に落とせるつもりだったのだろう
829名無し三等兵:2009/12/21(月) 11:46:56 ID:???
山形欣哉の『歴史の海を走る―中国造船技術の航跡』によると、文永の役の元艦隊の千料船は
推定で龍骨長27.80m、最大幅9.24mの420dだそうだ。
これは、同時代の十字軍用ウシャー船の龍骨長17.37m、最大幅6.1mの114dと比較すると
3倍以上の積載量になるらしい。
十字軍は航海距離が4000キロを超え、普通に馬も輸送していたことを考えると、元艦隊の規模は
大量の馬の輸送を想定してたとしか考えられない。
最低でも金州屯田部隊4500人は完全な騎兵部隊だったはずだ。
830名無し三等兵:2009/12/21(月) 13:55:32 ID:???
>>829
現代でも細心の注意を払ったわずか1日の輸送で競争馬は激やせする
海上の荒波を越えて数日間程度掛けて馬を運んでも
体調が回復するまで数日間は人馬共にまともに使えない
この際モンゴル騎馬軍団は戦力外と考えるべきだ
上陸1日目に戦力と呼べるのは船になれた水軍所属の部隊と輸送時間の短い高麗軍くらいだろ
831名無し三等兵 :2009/12/21(月) 14:36:45 ID:0lhl1Cw3
>>829
当時の高麗・宋船には竜骨はないぞ。
代わりに横梁を肋骨状に多数組んで強度を保つ型式。
そのため船倉内は小部屋状に分断されており、荷役には不便な構造。
屯数は大きくても大型の荷・馬などを運ぶのは不効率極まりない船なんだよ。
832名無し三等兵:2009/12/21(月) 15:11:24 ID:???
現代の競走馬はいろんな意味で進化しすぎた存在なんで
それを元にして考えない方がいいよ
競走馬はあまりにもデリケートすぎ
833名無し三等兵:2009/12/21(月) 17:45:26 ID:???
サラブレッドと単純比較はできないが騎馬部隊の上陸後の立ち上がりは遅いのは事実
急激な環境変化は動物なのだから体調不良になるのは致し方無い
ハンニバルなど比較的穏やかな地中海ですら苦労してる
834名無し三等兵:2009/12/21(月) 18:58:20 ID:???
>>833
ハンニバルが上陸後の立ち上がりは遅さで苦労したなんて話は聞かないぞ。
そもそも、ハンニバルが馬を海上輸送した後の戦いなんてザマの戦いくらいだし、
この時は騎兵の数自体がローマ軍よりも劣勢だったことが問題だった。

地中海なら元寇とは比較にならないほど長距離の騎兵の輸送が普通におこなわれていて、
例えばフランスのルイ9世は1248年8月にマルセイユで馬を輸送船に詰め込んだ後、
キプロス島を経て翌1249年5月に6000人のムスリム軍が布陣するエジプトのダミエッタに
敵前上陸し、橋頭保確保に成功してる。
馬を9ヶ月間も海上輸送したんだぜ。
835名無し三等兵:2009/12/21(月) 19:35:03 ID:???
>>834
バカか誰が船上で9ヶ月も過ごすんだよ
上陸直前に十分休養と訓練した時間を合わせての9ヶ月だろ
836名無し三等兵:2009/12/21(月) 21:05:46 ID:???
元軍は馬も海上輸送した。これは確実だろ。
蒙古襲来絵詞にも八幡愚童訓にも馬に乗っている描写がある。

しかしそれが実際どの程度の規模だったのかは分からん。
837名無し三等兵:2009/12/21(月) 21:09:49 ID:???
『高麗史』27卷-世家27-元宗3-12-69-1271
「今計正軍六千人所帶馬率以一人三匹爲計則凡一萬八千匹一匹日支五升自十月至明年二月則當用上朝碩十三萬五千」
838名無し三等兵 :2009/12/21(月) 22:01:53 ID:0lhl1Cw3
>>836
絵詞みると元軍の主力は歩兵でしょ。
馬は指揮官クラスが乗っている程度で少数。
少弐景資が劉復享を射た時も、襲ってきた元軍は
歩兵70-80に対し騎馬15騎ほどしかいないし。
一方の日本軍は徒の数は不明だが、一騎あたり徒の郎党二人と仮定すると
乗馬率33%。
戦い当時における騎馬の比率は日本軍の方が多かったのは間違いないでしょ。
839名無し三等兵:2009/12/22(火) 00:55:19 ID:V34Lkw2l
>>809
朝鮮の役も20世紀の朝鮮戦争も、先鋒が先走り過ぎた。全体的な戦線の押し上げが出来ていない。
最も朝鮮戦争の時は一時的にソウル以南まで引いたけど、その後中国軍は移動するだけでも圧倒的爆撃に叩かれっ放しで
以後停戦まで北部の山に籠る。そこを米軍が虱潰しに殲滅しながらゆっくり北上してった。
840名無し三等兵:2009/12/22(火) 04:16:11 ID:???
>>839
主力となる徳川軍と前田軍を温存した日本軍がダメ
五大老に各々担当を割り振れば確実に支配出来ただろ
841名無し三等兵:2009/12/22(火) 11:58:52 ID:???
満足に稲作も出来ない半島など領地にしたくないと大名は考えたんだろ
利益のある豊かな土地だったら秀吉死後も遠征事業は継続されただろう
842名無し三等兵:2009/12/22(火) 13:51:06 ID:???
日明講和で朝鮮が日本に割譲するのは南部と済州島
言わば朝鮮唯一の稲作地域だな
843名無し三等兵:2009/12/22(火) 13:54:38 ID:???
元寇は高麗王が蒙古に進言して実施した。

すなわち、元凶は朝鮮人。
844名無し三等兵:2009/12/22(火) 15:23:24 ID:???
なんかニュース速板に元寇スレが立ってるぞ。
ひまな人は行ってみてくれ。
845名無し三等兵:2009/12/22(火) 15:38:09 ID:???
>>843 やっぱり日本に敵なすのはいつの世もチョン
846名無し三等兵:2009/12/22(火) 15:49:51 ID:NwcTdFHD
体格的に鎌倉武士のほうが戦国武士よりよかった。栄養価の違いだろうけど。
847名無し三等兵:2009/12/22(火) 16:00:26 ID:6rjmrpVe
おまえらが教科書で習った元寇
ttp://image.blog.livedoor.jp/nagasime37/imgs/1/f/1fe04de6.gif

じゃあこれは何?
ttp://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.jpg



なぜ日本の教科書では朝鮮軍が逃げる様を
絶妙の部分でカットしているのか?
おまえらの手元にある教科書を見てみろ。
必ず同じ部分でカットされてるから。
848名無し三等兵:2009/12/22(火) 16:27:27 ID:???
そんなもんはこのスレじゃ常識ですw
849名無し三等兵:2009/12/22(火) 16:41:18 ID:???
モンゴルもまさかチョンやシナの兵隊がこれほど弱いとは思わなかっただろうね(笑)
いや、戦乱の無い平和な時代の鎌倉武士が精強しすぎただけか?
850名無し三等兵:2009/12/22(火) 16:45:04 ID:???
兵の練度の差もあるかもしれないけど、
そもそもモンゴル軍の編成は日本軍の編成と相性が悪かったんじゃないか?

蒙古襲来絵詞がどれだけ正しいかは知らないけど
モンゴル軍の編成は徒歩の弓兵がほとんどで残りは軽騎兵1割弱、擲弾兵少数、
日本軍は重騎兵主体って感じがする。
菊池武房が突撃をかけたモンゴルの部隊もほとんど徒歩だったみたいだし。

モンゴル軍の騎兵が強かったとはいえ、
挿絵を見る限り日本の騎兵と正面からぶつかり合えるような装備には見えないし
主力の弓兵も山林の多い日本では優位性が生かせなかったんじゃなかろうか
851名無し三等兵:2009/12/22(火) 17:35:43 ID:???
>>850
開けた草原や砂漠だけでなく南方の密林でもモンゴル軍の編成は基本的に同じ
騎兵&弓兵だよ
弓兵の一斉射撃で相手を混乱させ、騎兵が突撃し潰走させるのが基本戦術
852850:2009/12/22(火) 17:58:27 ID:???
>>851
敵が混乱した際に突撃する重騎兵はラメラー着てるはずだけど
挿絵には布か皮を着た軽騎兵しか描かれてなくない?

元寇でのモンゴル軍は、遠巻きに射程武器を撃ちまくって
迎撃に出てくる日本軍を各個撃破するつもりでいたから
上陸直後に大規模な野戦がある事を想定してなかったんじゃないかな。
長柄武器もほとんど装備してない所を見ると
日本側が重騎兵を大量に揃えてくるとは思ってなくて
対策してなかったんじゃないかと思う
853名無し三等兵:2009/12/22(火) 19:35:49 ID:NwcTdFHD
矢に対する防御力が高い武士の大鎧なら、モンゴル軍の軽い矢を使う短弓を防げそうだな。
逆に鎌倉武士の重い矢は軽装のモンゴル兵を容易に貫いたろう。
854名無し三等兵:2009/12/22(火) 21:34:57 ID:???
>>853
モンゴル軍には弩は無かったの?
855名無し三等兵:2009/12/22(火) 21:52:35 ID:qeBz9MkZ
>>844
見てないがどうせ無知なニュー即民が
いっちょ前な間違った知識振りかざしてるんだろ?
856名無し三等兵:2009/12/22(火) 22:10:21 ID:???
>>855

ニュー速なめんな

弘安の役の元軍の半分は農民と牛だそうだぞ
857名無し三等兵:2009/12/22(火) 22:11:34 ID:???
>>853
矢の重い軽いは用途の問題だよ。
それにモンゴル軍の弓は近距離で垂直に入れば日本の大鎧も貫通できる。

軽い矢は、初速を生かして直線的な軌道で近〜中距離の敵を狙うためのものが多く、
重い矢は、重力を生かして山なりの軌道で中〜長距離の敵を狙うためのものが多い。

モンゴル軍の弓はショートボウ(短弓)とクロスボウ(弩)で、
弩の放つ矢は重いけどどちらも直線的に敵を狙うもの。
対する日本軍の和弓はロングボウ(長弓)で、直線的に敵を狙うこともできるけど
山なりの軌道で敵を攻撃することができたから、
障害物が多く起伏の激しい日本の地では日本軍が有利だったと思う。
858名無し三等兵:2009/12/22(火) 22:48:20 ID:???
>>857
なるほどホームとアウェイの差が出たということか
859名無し三等兵:2009/12/22(火) 23:19:17 ID:???
>>851
ごめん今見たらラメラー着てる奴ひとりいたw
前衛ではないけど槍持ってる奴もそこそこいる

ただ、やっぱり日本の騎兵の方が圧倒的に重装備だし
モンゴル軍は騎馬突撃するような編成には見えなかったよ。
挿絵が正しいかはわからないけど、騎兵部隊は陣の中にいるし
全体的に守りの体勢な感じがする。

あと文永の時のモンゴル軍は長期戦を行おうとしてたような気がする。
まず大量の兵を揚陸させて上陸地点を確保し、
数回に分けて本国から武具や馬を輸送しようとしたんじゃないかと思う。
実際モンゴル軍の矢が切れるの早かったし。
上陸した直後に相当数の日本軍と戦闘になって拠点を築くことができなかったから
本国からの輸送を待たずして撤退したんじゃなかろうか
860名無し三等兵:2009/12/23(水) 04:18:06 ID:???
しかしあれだけの大軍が然したる戦もせずに、わずか1日で潰走したのが今だに理解出来ない
861名無し三等兵:2009/12/23(水) 05:02:57 ID:???
元軍は1万3500人が帰還できず、帰還できた兵の多くは武器や鎧を捨てて身軽になった者。
日本でそうとう酷い目に遭ったってことだよね。
862名無し三等兵:2009/12/23(水) 05:56:18 ID:???
一人二人斬ったら血糊で使えない日本刀より、刺すだけなら何度も使える槍の方が実戦的なんだけど
なんでモンゴル軍は乱戦に持ち込まなかったのかな?
863名無し三等兵:2009/12/23(水) 06:59:38 ID:???
ていうか
乱戦になったからモンゴルが負けたんじゃねえの?
864名無し三等兵:2009/12/23(水) 07:48:15 ID:???
>>862
まさか、日本刀で戦ってたとか思ってるのかw
865名無し三等兵:2009/12/23(水) 08:10:43 ID:???
お前、日本刀三人限界説は嘘だぞw
元ネタの本にはそんなこと書いてないの。

血糊がついたって人間より頑丈な豚の骨だって切れるよ。
866名無し三等兵:2009/12/23(水) 08:47:39 ID:???
>>860
戦闘が短期間で終わったから大した戦いに見えないだけで
実際はかなり大規模な戦闘が起きてるよ

>>862
日本刀も刺せるし、そもそもバール程度の物で人を殺傷できるんだから
血糊で切れ味が鈍った刃物でもじゅうぶん致命傷を与えうる事ができる。
それ以前に日本の主力は弓と槍だから
日本刀の威力で白兵戦能力を計るのはよくない
867名無し三等兵:2009/12/23(水) 10:22:26 ID:???
元寇時代に槍があるかよ馬鹿。

それに軍忠状からわかるのは死因などではなく、勝った側の自己申告受傷率の統計でしかないわ。
868名無し三等兵:2009/12/23(水) 11:12:48 ID:???
>>867
壬伸の乱くらいは槍や戈が日本の歩兵用戦具だったのになんで鎌倉武士は敬遠したのだろ?
869名無し三等兵:2009/12/23(水) 11:27:44 ID:5KW6rZL7
戦国板にそういうスレがある。

刀の発達、あたらしい長柄武器である薙刀の登場、弩や矛は私有厳禁だったこと、矛の穂先は鍛造で作るには
手間がかかる、律令軍が編成されなくなったこと。
そういうことが指摘されてたかな。
870名無し三等兵:2009/12/23(水) 11:37:54 ID:???
つか、壬申の乱から鎌倉後期は離れすぎだろw
871名無し三等兵 :2009/12/23(水) 12:45:34 ID:RCHkSAJo
当時の主力は薙刀・長巻だろうね。
集団での使用では槍に劣るが、乱戦では相当の威力があったという。
元軍も厳密には槍でなく矛で、矛は接合部の強度不足で
あまり鋭利じゃなく切れ味(刺し味?)もいまいちのように思う。
872名無し三等兵:2009/12/23(水) 15:02:31 ID:???
こんな装備や戦術相手なら重装歩兵長鎗隊の方陣による突撃したら日蒙両軍が相手でも圧勝だな
873名無し三等兵:2009/12/23(水) 15:27:44 ID:???
重装歩兵長鎗隊が弓騎兵を補足することなんてできないから
874名無し三等兵:2009/12/23(水) 15:33:24 ID:???
補足⇒捕捉
875名無し三等兵:2009/12/23(水) 16:27:06 ID:???
なら重装鎗騎兵隊の横隊突撃が最強ですな
876名無し三等兵:2009/12/23(水) 16:58:54 ID:???
重装鎗騎兵隊は実際に蒙古と戦ってボロ負けしてるじゃん・・・
877名無し三等兵:2009/12/23(水) 17:05:49 ID:???
ドイツ騎士団はモンゴル軍相手に潰滅
878名無し三等兵:2009/12/23(水) 17:48:40 ID:???
どんな部隊にも得手不得手があるわけで・・・
879名無し三等兵:2009/12/23(水) 19:11:37 ID:???
>>864>>871
反日史観じゃない人でも結構このあたりがあいまいなままのひとがいるけど、
こと元寇での白兵戦に関しては重要な局面で日本刀での戦いはあった。
ttp://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e12.htm
鎌倉時代での一般論としては当時の白兵の主力は薙刀というのは間違いじゃないが、
薙刀を主に使用するのは徒士で、武士に関しては日本刀での戦いもかなりの比率を占めている。
特に馬上打ちものや船上では大半が日本刀。
>>866
そういうわけだから鎌倉期において白兵戦を考察する時、日本刀を無視することは出来ない。

ttp://iup.2ch-library.com/i/i0040435-1261562851.jpg
ttp://iup.2ch-library.com/i/i0040436-1261562963.jpg
880名無し三等兵:2009/12/23(水) 19:57:31 ID:???
馬上の場合、メインは弓のみで、結局日本刀なんて無視して構わない。
881名無し三等兵:2009/12/23(水) 20:05:49 ID:???
『平家物語』にも、もちろん『太平記』にも馬上打物があるのに、
その間の時代に行われなかったとする根拠とは?
882名無し三等兵:2009/12/23(水) 20:29:12 ID:???
後年の武田騎馬隊は下馬して抜刀し斬り込みしているけどね
883名無し三等兵:2009/12/23(水) 20:38:14 ID:81ObtZwo
元軍はモンゴル語、中国語、朝鮮語とか色んな言葉の兵隊いたと思うけど
部隊毎は、一定言語で纏めても、各言語相互の意思疎通はどうなっていたんですかね?
884名無し三等兵:2009/12/23(水) 20:47:12 ID:???
>>882
『信長公記』PDF版
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_9.pdf

「家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵を付けさせられ」

「三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、
馬上の功老にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる」
885名無し三等兵:2009/12/23(水) 21:18:26 ID:???
武田とかいいよ。

鎌倉武士が馬上打物やらないという根拠は?
886名無し三等兵:2009/12/24(木) 05:23:54 ID:???
根拠根拠とうざいよ。
そんなに根拠というのなら、強制連行の証拠だせよ。
887名無し三等兵:2009/12/24(木) 05:49:36 ID:???
>>886 それを言っちゃお仕舞いよ(笑)
888名無し三等兵:2009/12/24(木) 11:15:11 ID:???
話にならないw
889名無し三等兵:2009/12/24(木) 11:22:29 ID:???
江戸以前のもので現存品となると、太刀と長巻がほぼ同数か

薙刀は鉄や鍛造技術が貴重なため折れた太刀を長柄兵器として再生したという面もある
日本刀の場合、どうしても根元が折れやすい
890名無し三等兵:2009/12/24(木) 11:38:27 ID:???
薙刀直しや長巻直しの太刀ならあるけど、その逆の例があるの?
891名無し三等兵:2009/12/24(木) 14:31:00 ID:???
どうでもいいけど、裁判でも〜をやったという立証責任は訴訟する検察側にあるが、
〜をやらなかったと証明する責任は被告側にない
悪魔の証明になるからね。
したがってやらなかったという証明は立証責任がない。
わかったかね根拠君。
892名無し三等兵:2009/12/24(木) 14:35:45 ID:???
なぜそうなるのか。
たとえば個人単位であれば記録が残っているから過去の事例をあげるだけで証明できる。
ところが、たとえば日本人が〜をやらなかった。鎌倉武士がやらなかったという証明になると
検証はほぼ不能。膨大な手間がかかり事実上不可能だ。

こういう論法は左翼がよく好む手法だ。
論敵をまずロジックの迷路に追い込み自分が攻勢に出るためにあえてそういう無理難題を
ふっかけて議論そのものを煙に巻く狡猾でかつ悪質な詭弁と断定してよかろう。
893名無し三等兵:2009/12/24(木) 19:50:17 ID:???
ロジックの迷路どころかこっちの問いは極めて単純だよ。

『保元物語』『平治物語』『平家物語』などを参照すると平安後期・鎌倉初期には
騎射に続く形で行われ、南北朝期には騎射を凌ぐほど盛んになった
馬上打物をこの時代だけ無視しても構わないことの根拠は何だ、と聞いている。
894名無し三等兵:2009/12/24(木) 20:36:24 ID:???
話すりかえるなよ。
>>880のコメントヘの問いかけがが
>>881に何故変わる?

895名無し三等兵:2009/12/25(金) 08:11:16 ID:???
そもそも>>880からして話のすり替えじゃん

896名無し三等兵:2009/12/25(金) 08:13:51 ID:???
ひとつ確実に言えることは鎌倉時代、馬上打ち物は行われていたし
馬上打ちものにおいては日本刀は頻繁に使用されていた。
ttp://iup.2ch-library.com/i/i0040435-1261562851.jpg
ttp://iup.2ch-library.com/i/i0040436-1261562963.jpg
そういうわけだから鎌倉期において白兵戦を考察する時、日本刀を無視することは出来ない。
897名無し三等兵:2009/12/25(金) 13:17:03 ID:???
乗馬や舵取りを射てはいけないママゴトしていりゃ馬上打ち物もあったのかも
898名無し三等兵:2009/12/25(金) 13:35:14 ID:???
乗馬や舵取りも普通に射られてるんだが・・・
899名無し三等兵:2009/12/25(金) 13:57:36 ID:???
>>891
質問されてんだから被告はお前。
自分の主張の根拠を上げられなければ説として成り立たない。
900名無し三等兵:2009/12/25(金) 14:02:32 ID:???
まったく話をすりかえておいて、なーにが被告よばわりだ。
そもそも、そんな上から目線での質問などに答える義務などないわ。
自分で立証すればよかろう。俺がなぜそんなことを立証しなけりゃならん。
901名無し三等兵:2009/12/25(金) 14:03:42 ID:???
話が前にすすまないから、そろそろ別の話題にいこうぜ。
被告だとか言い出す馬鹿うぜぇし
902名無し三等兵:2009/12/25(金) 15:27:02 ID:???
最初に言い出した>>891マジでうぜえww
903名無し三等兵:2009/12/25(金) 15:35:57 ID:???
根拠も出せず論争からもにげるw
答えないじゃなくて答えられないだけだ。

馬鹿が敗北宣言したから次の話題でかまわんよ。
904名無し三等兵:2009/12/25(金) 17:22:07 ID:???
敗北宣言(笑
905名無し三等兵:2009/12/25(金) 17:46:29 ID:???
馬上打ちものアリ・日本刀使用アリ  根拠アリ
馬上打ちもの無し・日本刀使用無し  根拠無し
906名無し三等兵:2009/12/25(金) 18:36:56 ID:???
太平記で初めて薙刀の馬上使用が出てくるわけだから、この時代の馬上打物は
ほぼ刀の馬上使用とイコールだと考えてよさそうだよ。
907名無し三等兵:2009/12/25(金) 19:05:13 ID:???
歯ごたえのある珍説が拝めるかと思ったらとんだチキンだったな
908名無し三等兵:2009/12/25(金) 23:13:15 ID:???
>>906
1309年成立の『春日権現霊験記繪』に薙刀や熊手の馬上使用が描かれてるよ。
馬上で弓を脇に抱えて刀を抜こうとしてる武士も描かれてるけど。

http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y04/html/n02/p024.html
909名無し三等兵:2009/12/25(金) 23:15:24 ID:???
もういい加減次の話題にうつれよカス
910名無し三等兵:2009/12/25(金) 23:36:36 ID:???
絶対に許さないよ
911名無し三等兵:2009/12/25(金) 23:39:01 ID:???
刀抜いた後は弓をどうするんだろうか?
912名無し三等兵:2009/12/26(土) 00:00:23 ID:???
>>911
脇に挟んだまま戦うんじゃないの

『源平盛衰記』巻35東使戦木曽
「弓をば脇に挟み、太刀の峰打つるべて、勅使河原余すなとて、蜘蛛手十文字、縦様横様切り廻りければ、
三百余騎の大勢も、五十余騎に駆り立てられて、馬の足立つる隙こそなかりけれ」
913名無し三等兵:2009/12/26(土) 06:18:13 ID:???
弓は背中に背負うんだよ!
914名無し三等兵:2009/12/26(土) 07:57:53 ID:???
>>913
それじゃあ騎射から馬上打ちものに素早く移行できないじゃん
915名無し三等兵:2009/12/26(土) 09:18:26 ID:???
背負うのは絵巻などで確認できますか?
916名無し三等兵:2009/12/26(土) 15:07:30 ID:???
元寇からそう時代が離れていない足利尊氏が背負っておろうが。
なんでも根拠根拠とうぜえんだよ。いちいち話しの腰をおるな。
日本史板からデテクンナ
917名無し三等兵:2009/12/26(土) 16:53:35 ID:???
足利尊氏?まさかあの絵?
弓背負ってないよ。
918名無し三等兵:2009/12/26(土) 17:41:02 ID:???
つまり元寇から離れていない時代に馬上打ち物が行われていたことは認める、と。
919名無し三等兵:2009/12/27(日) 05:02:31 ID:???
何も不安定な馬上で闘う必要なんて無いと思うが
槍や薙刀で闘うなら馬上打ちも理解出来るが刀だと馬上は不利だろ
920名無し三等兵:2009/12/27(日) 08:33:41 ID:???
馬上打ち?
なにそれ?
921名無し三等兵:2009/12/27(日) 10:07:26 ID:???
>>919
坂の上の雲でも秋山好古が馬上で刀使ってるじゃん。
馬上で刀を使うことが有利なのではなく、馬の機動力によって有利な状況下で刀を使用できるってこと。
例えば、弓の攻撃に耐えかねて敵が陣形崩した隙にとか、味方の歩兵に捕捉されてる敵を側面からとか。
強固な陣形組んでる歩兵に何の工夫も無く正面から騎兵が抜刀突撃するのはNGだよ。
922名無し三等兵:2009/12/27(日) 11:54:18 ID:???
混乱に乗じて機動力を活かしての突撃なら確かに効果適面だけど
やはり馬上からは長尺の槍や薙刀でなければ意味無いと思う
まあ騎兵同士の闘いなら刀もありかもしれないが
騎兵は機動力を活かして後方へ回り込み弓矢を用いて混乱させるのが一番
923名無し三等兵:2009/12/27(日) 13:14:22 ID:Sgk00Gp4
馬の持つ機動力の他にも、高い位置から刀剣を振り下ろすアドバンテージ、
馬の巨体と速度が敵歩兵に与える心理的動揺とそれにより惹起させる混乱、
も騎兵の利点だと思うよ。
924名無し三等兵:2009/12/27(日) 13:59:26 ID:???
>>923
刀で斬りあうなら低所からがむしろ有利
高所からだと標的に届きにくく射程が極端に減る
一方低所からは相手の下半身に近く、安全な距離から一方的に斬れる
925名無し三等兵:2009/12/27(日) 14:46:42 ID:???
「刀で斬りあうなら低所からがむしろ有利」
次の新説出ました
926名無し三等兵:2009/12/27(日) 14:55:40 ID:u2gtSF9E
>>924
じゃあお前実際に
刀抜いて騎馬で突進してくる奴に
刀で対抗してみろよw
927名無し三等兵:2009/12/27(日) 15:39:55 ID:???
>>923
確かに二階くらいの高さから刀を振り下ろされる恐怖と自動車並に大きい塊が高速で突進してくる恐怖は凄まじい
歩兵は隊列を崩さず槍襖で防ぐしか無い
928名無し三等兵:2009/12/27(日) 15:49:39 ID:???
>>927
昔の馬は小型で鎧武者乗せたら平地でも100M20秒も出なかったのに・・
こういう人って武田騎馬軍団とかも信じちゃってるんだろうな
929名無し三等兵:2009/12/27(日) 16:19:13 ID:???
>>928
その小型の馬に乗って史上空前の大帝国築いたモンゴル軍についてはどう考えてるの?
930名無し三等兵:2009/12/27(日) 16:21:28 ID:P24FkKZt
そうは言うがツキノワグマが体重60kg(つまり体重だけなら人間と同じ)でも普通の人は逃げる訳で。
ガチで殺し合いって事になれば頭一つ分背が高いってだけでもかなり辛い物があるのも事実かと。
931名無し三等兵:2009/12/27(日) 16:44:21 ID:???
>>927
そりゃ軍馬として訓練された馬じゃないだろ。
932名無し三等兵:2009/12/27(日) 16:49:06 ID:???
両方徒歩で坂道の場合ならば低い方が有利だとは一応剣術の伝書にもあるが
それは騎馬対徒歩のことを述べているのではない。
だいたい鎌倉時代の馬上打物の話なのに、なんで槍とか出てくるの?
933名無し三等兵:2009/12/27(日) 16:58:43 ID:???
モンゴル馬と木曽馬は非常に近い種で大きさも同じ。

モンゴル馬はあらゆる意味で乗り手と同様にタフだった。この馬は当時、そして現在も4フィート4インチから
8インチ(約131〜142cm)ぐらいの背丈が低い頑丈な種である。《中略》ポニー(小型の馬)に乗った
モンゴル軍は単騎なら9日間に600マイル(約965km)を走破できたと記録されており、上記の替え馬
システムを使ったチンギス・ハーンの軍団は1221年9月に食事休憩なしで130マイル(約210km)を
2日間で走った。1241年にはスブタイの軍団が深雪の中を3日で180マイル(約290km)行軍している。
『モンゴル軍』(オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ) S.R. ターンブル著
934名無し三等兵:2009/12/27(日) 18:39:05 ID:???
>>919
鎌倉時代の話だから槍は論外。
鎌倉武士は不安定な馬上での射撃技術を習得していた。鎌倉時代は薙刀をもった騎兵は極めてまれ。
935名無し三等兵:2009/12/27(日) 21:14:44 ID:???
つか、騎兵の抜刀突撃なんて日本だけの話じゃないからw
936名無し三等兵:2009/12/27(日) 22:13:34 ID:MpPuuEb7
高低差のある白兵戦では高所側有利ってのは常識だろ
(射撃戦でも同様だが)
それと得物が何にせよ、陣形を保って敵騎兵を阻止するなんて芸当は
集団戦の訓練をかなり受けた歩兵でないと無理。
鎌倉時代の徒にそれは不可能だ。
937名無し三等兵:2009/12/28(月) 00:50:44 ID:???
モンゴル軍も決戦時の主力はあくまで歩兵であって、
しばしば弓騎兵で敵をつり出してから歩兵で包囲殲滅する戦術を取った訳だが・・

ヨーロッパ勢なんて"脆い重装騎兵"がこの戦法でモンゴル歩兵にフルボッコされてる
938名無し三等兵:2009/12/28(月) 01:51:31 ID:???
小型の馬で100m20秒以上かかると言うけど、
その馬に人が乗れば、身長2mオーバー、体重
120kg以上の大男が、武装した人間の2倍近い
速度で迫ってくるって状況だから、その威圧感は
相当の物だろ。
現代戦では、武装した兵士は(てか自衛隊では)
早駆け4秒10mぐらいが基準だからな。伏せる・
起き上がるの動作があるから単純には言えない
けど。
939名無し三等兵:2009/12/28(月) 05:37:33 ID:???
尊氏の肖像画の後ろにある4本突き出た代物は弓矢だろ背負ってるじゃん
940名無し三等兵:2009/12/28(月) 05:38:54 ID:???
そして4本つきでたものの手前で顔の後ろにのびているのはどうみても弓そのもじゃん
941名無し三等兵:2009/12/28(月) 06:43:13 ID:???
>>940
それ刀だろ?尊氏の右手と頬の間にあるのは刀の鍔で、あなたが言っている物はその鍔から
後ろに伸びているようにしか見えない。これは馬上の尊氏が抜き身の刀を右肩に担いでいる図。
942名無し三等兵:2009/12/28(月) 08:08:59 ID:???
>>911
>>879の画像にも描かれてたじゃん
943名無し三等兵:2009/12/28(月) 08:32:51 ID:???
>>940
お前のことを嘘ばかり吹く奴だと思っていたことは素直に謝ろう。



お前は本当に何もわからん大馬鹿だったんだな。あれが弓?
弓じゃないし、背負ってないし。
944名無し三等兵:2009/12/28(月) 08:39:35 ID:???
>>942
つまり騎射のあとに刀で馬上打物をしていたことを認める、と
945942:2009/12/28(月) 09:34:02 ID:???
>>944
何か勘違いしているようだが俺は馬上打ちもの否定派じゃないよ

もしかして>>942の語尾が「じゃん」だから>>939と俺を混同してるのか?
946名無し三等兵:2009/12/28(月) 10:30:40 ID:PBVPC7wK
それ以前にあの肖像画は尊氏じゃなくて
高師直ってツッコミは誰もしないのか?
947名無し三等兵:2009/12/28(月) 11:40:15 ID:???
師直説も確定じゃないよ。
948名無し三等兵:2009/12/28(月) 11:47:37 ID:???
モンゴルを含め世界中の馬具ってそれ程大きな差はないけど、実は日本の馬具だけ更に馬上戦闘用に
進化してるんだよね。
鐙の形が全く違う。
日本の鐙は安定性が格段に向上してるから、騎射にしろ馬上打ちものにしろ他の騎兵は勝てないよね。
949942:2009/12/28(月) 14:50:06 ID:???
立った姿勢とほぼ同じってやつか
950名無し三等兵:2009/12/28(月) 15:42:37 ID:???
全然関係ないって程でもない程度の話だが、米軍のときも一応神風吹いたよな。
近代艦艇が沈んだりはしなかったが。
951名無し三等兵:2009/12/28(月) 16:28:43 ID:???
流れに関係ないし、今更神風とか信じてるのもどうか?
952名無し三等兵:2009/12/28(月) 22:13:27 ID:vdWkjalT
日本って集団戦法をとらなかったとかいう記述がみられるが源平合戦のころにすでに「やあやあ我こそは」
なんてやってないだろ?義経なんて明らかにやってないぞ
953名無し三等兵:2009/12/29(火) 01:46:41 ID:???
馬なんてのは足に軽い怪我1つ負ったらもう殺処分するしかない代物
漫画みたく敵陣に騎馬で猪突猛進に突入して蹴散らすなんて運用はまかり間違ってもあり得ない

あくまでも機動力の確保のために使用されるもので突破力を期待して運用されるものではない
古来ハンニバルからモンゴル軍まで騎兵を歩兵に正面から当てるような愚は犯していない
954名無し三等兵:2009/12/29(火) 04:21:09 ID:???
>>952
日本が集団戦法をとらなかったなどという記録はない。
学校で嘘っぱちを教えてるだけ。
元寇だって記録では武士が集団戦法で元軍を圧倒してる。
955名無し三等兵:2009/12/29(火) 20:00:50 ID:???
>漫画みたく敵陣に騎馬で猪突猛進に突入して蹴散らすなんて運用はまかり間違ってもあり得ない

戦況次第です。
956名無し三等兵:2009/12/29(火) 22:57:40 ID:???
957名無し三等兵:2009/12/29(火) 23:54:02 ID:???
刀の後ろにある5つの突起は弓だろ俺には由美にみえるぜ。
958名無し三等兵:2009/12/29(火) 23:54:59 ID:???
こいつ日本語理解してないのか?弓という言葉を辞書で調べてごらん。
959名無し三等兵:2009/12/30(水) 02:59:25 ID:???
>>939>>957
なぜお前は「箙におさめられた矢」を弓だ弓だと連呼してるの?

ちなみに箙は「背中に背負うもの」ではないよ
正しくはどこにつけるものかは調べて御覧
960名無し三等兵:2009/12/30(水) 03:32:18 ID:???
もったいぶらずにおしえればいいじゃん小出しにしてうぜえよ
961名無し三等兵:2009/12/30(水) 04:57:27 ID:???
無知なおまえがウザがられているわけだが
962名無し三等兵:2009/12/30(水) 07:44:25 ID:???
>>960
自分で調べることもできないのか。
心底呆れるよ。
963名無し三等兵:2009/12/30(水) 13:48:35 ID:???
<わからない9大理由>
1.読まない …参考書などを読まない。読む気などさらさらない。
2.調べない …過去スレ、ググるなど最低限の内容も自分で調べようとしない。
3.試さない …めんどくさいなどの理由で実行しない。する気もない。
4.覚えない …人から聞いて、楽して得た答えは身に付かないから、すぐに忘れる。
5.説明できない …何に困っているのか、第三者に正確に伝わる文章が書けない。
6.理解力が足りない …理解力以前の問題で理解しようとしない。
7.人を利用することしか頭にない …甘え根性でその場を乗り切ろうとする。
8.感謝しない …教えてもらって当たり前。事がすんだらさようなら。
9.逆切れする …自分の思うようにならないと逆切れする。
964名無し三等兵:2009/12/30(水) 16:25:29 ID:???
尊氏の話などどうでもいいから次いこうぜ。
965名無し三等兵:2009/12/30(水) 17:44:37 ID:k5OpWDoo
>>880
古今東西どんな戦でも総じて見れば、飛び道具による戦闘比率のほうが白兵戦を上回るのが当たり前。
どうしても『遠戦志向』かどうかを断じたいのならば、Aという国の白兵戦率とBという国の白兵戦率を比べるのが筋。
Aという国の『遠戦』率と、Aという国の『白兵戦』率を比較してどっちが大かを比べても、『遠戦志向』かどうかは断じられない。
そもそもどのような志向であろうが片方を無視できるような中世の戦は無い。

弓(射撃戦)がメインだから刀(白兵戦)は無視していいとかいう理屈は成り立たない。
966名無し三等兵:2009/12/30(水) 18:49:59 ID:???
なんでそんなに必死なの
967名無し三等兵:2009/12/30(水) 19:30:59 ID:???
確かに、どうしてろくな根拠もないのに刀を否定しようとするんだろうなアイツは。
しかも、形勢が悪くなると必死に話題を変えようとするし。
968名無し三等兵:2009/12/30(水) 19:35:40 ID:???
なぜあんなに必死に太刀を弓と言い張るんだ?
969名無し三等兵:2009/12/31(木) 00:43:52 ID:???
まあ刀や弓の話はスレ違いだし、そろそろモンゴルの話題に戻ろうや。
寄り道も良いが、本筋に戻ろうぜ!
970名無し三等兵:2009/12/31(木) 00:47:27 ID:???
刀や弓といった元寇で使われた武器がなんでスレ違いなんだ?
箙についてはまだ調べ終わらないのか?
971名無し三等兵:2009/12/31(木) 01:14:09 ID:h10qG6e8
モンゴルの主要兵器と日本軍の主要兵器それの有効性を語ればいいんじゃね?
972名無し三等兵:2009/12/31(木) 05:00:27 ID:???
サムライって世界的に見てどのくらい強かったのかな

http://news23vip.blog109.fc2.com/blog-entry-106.html

ここの※欄に元寇についての種々の詳しい考察があるけど、
武士ってのが異常な錬度を誇る戦闘集団だったのは間違いないと思われる。

結局鎌倉武士がチートだっただけなんでは?
973名無し三等兵:2009/12/31(木) 06:15:01 ID:???
光栄のゲームなら南宋攻略どころかユーラシア大陸・アフリカ大陸北半分全制服余裕だろ。
武士はそのぐらい強い。
974名無し三等兵:2009/12/31(木) 11:22:20 ID:KEFOzPeb
元軍に関しては博多湾のある福岡の公民館とか図書館とか地名とか名刹、いろんなところに資料がのこっている。
戦闘のはじまった最初の時はこんな感じ。
元軍は九州北部にたびたび上陸したため、そこかしこで野戦がはじまり伝説で語られるような一夜にして元軍敗北といったさまではなかった。
対馬で島民をあげて徹底抗戦したが惜しくも全滅、刈り取った人間を数珠繋ぎにして船べりに晒した船が博多湾に無数に現れ博多の街は騒然とした。古来から宗教は政権の統治機関として機能しており、このときも箱崎宮などは元軍と交戦、炎上し煌々と夜を照らした。
地元で信仰を集めた大社の燃える炎と、元軍によってくりひろげられる地獄絵図を前に絶望をひしひしと感じたことであろう。
迎え撃った武士団も元軍に対しては圧倒的に数の劣りたちどころに返り討ちにあい、筑紫野城まで逃げ帰っている。 筑紫野城は奈良時代から大陸に備え3方を山が囲む地の利を利用してつくった巨大な要塞である。
またそれほど遠く安全なところへ逃げなかった武士団も、丘や野にふせて博多の街を見るに、元軍が市民をほしいままにいたぶり殺すさまを見て、気が触れたように突撃をかけるものもいたりした。
っと、今日はここまで。
次回は、援軍の到着しやっと戦えるだけの大規模な武士団を形成した日本軍の鬼のような戦いっぷりです。
975名無し三等兵:2009/12/31(木) 12:11:06 ID:???
郷土史料には昔話レベルの信憑性のものが多数混入されているから当てにはならん。
ちゃんとした古文書から引いているなら出典も頼むわ。
976名無し三等兵:2009/12/31(木) 12:58:42 ID:???
当時の記録とかは参考になるが、郷土史家の書いた本はその人の
願望や根拠のない俗説も混ざることがあるからなあ。
977名無し三等兵:2009/12/31(木) 14:21:58 ID:???
いやまぁ確かに主観や願望が混ざるのは確かだけど
そこはそれ、事件の捜査と同じで、自供や証言だけじゃ
真実と断定できないし、しない、物証で裏づけ取りながら
可能な限り客観性を高めていくというのが学問な訳で
しかもほら、事件と違って歴史に時効は無いからさ
慌てずじっくり時間かけて確実に調査できるもん
978名無し三等兵:2009/12/31(木) 14:38:48 ID:???
ローカルなものでも年代や出所の確かな史料で検証していくのは必要。
ただ、無理にまとめてしまうと、まとめ方でどうしても主観が入るからな。
979名無し三等兵:2009/12/31(木) 14:51:33 ID:???
wkiなんかそんな輩ばっかりじゃん。
で指摘されて気にいらないとIPブロックとかマジひどい。
980名無し三等兵:2009/12/31(木) 15:04:24 ID:???
>978
まとめとか、継続中の案件には不要な物でも
一般の人は兎に角オチを求めてくるもんだ品
まぁ売り物ならそれも仕方ないところもあるだろうが
それでもって幕引きされちゃたまらん
981名無し三等兵:2009/12/31(木) 20:16:00 ID:???
局面ごとに出典を明記して羅列していくだけで余計な解説やまとめなんてないのが
一番信頼できるんだが、それだとウケないのはわかる。一般層からは「で、何がいいたいの?」で終わり。
982名無し三等兵:2009/12/31(木) 20:57:26 ID:???
>一般層からは「で、何がいいたいの?」で終わり
当時の世情風俗からはありえないようなドラマチック展開とか
超絶的な結末でオチが付いてた方がウケるし売れる
販社も広告代理店もノリノリでCM打ってくれるし
出資者も増えてスポンサーもホクホク、研究者側もウハウハで
みんなが幸せになれる仕事をして何が悪い状態に
983名無し三等兵:2009/12/31(木) 21:25:47 ID:???
忠烈王は高麗民衆を元の横暴から守るため、不本意ながら日本侵略を進言。しかし仁の心にあふれた忠烈王は
敵国である日本にさえ情けをかけようとする。将軍兵卒にサボタージュ、船大工には軍船に細工をすることを秘密裏に指示したのだ。

そして、この忠烈王の英慮が日本侵略失敗後に元の海防の弱体化を招き、ついには元の滅亡にもつながる。
そう、大元帝国を滅ぼした者は高麗忠烈王だったのだ!




で、いいですか?
984名無し三等兵:2009/12/31(木) 22:05:28 ID:???
>>983
上手い小説家が書けばそれはそれで悪くはない仮想戦記になりそうな気もする
985名無し三等兵:2009/12/31(木) 22:12:58 ID:???
仮想戦記だったら、高麗王がクリルタイで大ハーンに選出
高麗軍リーグニッツで大勝、までやらなきゃ。
986名無し三等兵:2010/01/01(金) 10:44:52 ID:???
>>984
>>983書いた自分が読みたくないわw
987名無し三等兵:2010/01/01(金) 17:07:19 ID:JqTpzy3N
弓、槍>>>>>>>>>>>>刀だろ?
988名無し三等兵:2010/01/01(金) 17:23:36 ID:???
ローマ軍は長槍を擁する重装歩兵であるマケドニア軍に対して投槍で
牽制、隊列の乱れた敵軍に接近して剣で殺しまくりました。
989名無し三等兵:2010/01/01(金) 18:18:57 ID:???
話せば分かる蒙古の人々を受け入れる度胸が倭奴にない
少なくとも相撲は蒙古の血の方が強いしなぜ受け入れなかったのか。
990名無し三等兵:2010/01/01(金) 19:47:30 ID:???
ウェノム博士
991名無し三等兵:2010/01/01(金) 20:51:14 ID:LJqTQh8Q
福岡の箱崎宮の楼門には敵国降伏とかそんな感じの言葉が大きく飾られてるね。
生け捕りにされた元軍を那珂川だったか、どっかの河原までつれていって首をはねたわけだけど
はねた首を河に落としこんでいるうちにあまりの数の多さに真っ赤に染まった川の水かさがましたらしい。
志賀島では元軍の指揮官クラスの舟が難破しているとて生け捕りにされたとも聞くし。
だいたい日本は元軍がどれほど強かったの知っていたのかどうなのか
再三おくられたきた死者を遠い地まで引き回していってずべて首をはねている。
戦争には素人じゃなかったしある程度の準備もあった武家の時代だったからそんなことできたのかね。
992名無し三等兵:2010/01/01(金) 22:08:56 ID:???
「俺も手荒な真似はしたくない」とか893丸だしな言い振りしといて
話せば分かるとな?
993名無し三等兵:2010/01/02(土) 01:16:51 ID:???
当時の超大国モンゴル様に逆らうとは幕府も身の程しらずよの
994名無し三等兵:2010/01/02(土) 03:47:51 ID:???
NHKの大河ドラマでも非戦の大切さを国民に説いていたね。
私たち日本人も武器をおいて話し合いに応じるべきだったと
深く反省しなければならない。
995名無し三等兵:2010/01/02(土) 09:40:53 ID:???
お行儀よくしなきゃならなかったのはどっちだったか
はっきりした役だったな
996名無し三等兵:2010/01/02(土) 16:45:45 ID:???
せめてきた人たちには家族がいるんだよね。
かわいそうに。
997名無し三等兵:2010/01/02(土) 17:34:30 ID:???
>>996
家でおとなしくしていれば良かったのでは?
勝てない戦に行かせる元の皇帝は本当に冷酷無慈悲ですね
それを吹き込む高麗王は卑怯千万ですね
998名無し三等兵:2010/01/02(土) 21:01:46 ID:???
>>991
『五代帝王物語』とか読むとわかるけど、当時の日本人はモンゴルについてかなり正確に理解してる。
だから文永の役で実際に戦うまでは、元軍は猛烈に強いと認識してた。
現実には元軍なんて雑魚で大宰府にも到達できないまま僅か1日の戦闘で逃げ帰っちゃったけどね。
『保暦間記』とかも文永の役については、「使者が来たときに大騒ぎしただけで、すぐに静かになったね」
みたいな感じ。
999名無し三等兵:2010/01/02(土) 23:13:32 ID:???
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【文永の役】元寇(蒙古襲来)を考察U【弘安の役】
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1262441578/
1000名無し三等兵:2010/01/02(土) 23:13:43 ID:???
ume
10011001
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