【文永の役】元寇(蒙古襲来)を考察U【弘安の役】

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1名無し三等兵
まあ、圧勝だったけどな。

前スレ
【文永の役】元寇(蒙古襲来)を考察【弘安の役】
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1258338795/
2名無し三等兵:2010/01/02(土) 23:19:00 ID:???
3名無し三等兵:2010/01/02(土) 23:52:59 ID:???
槍が日本の侍の主力って言いすぎじゃない?
槍は軽機関銃に相当する武器だと思う。
分隊火力の中枢だけど突撃する場合は長すぎて取り回しが悪い。

一対一の試合を元に槍>刀と結論している人もいるけど、
周りに他の人間や障害物が一杯いるからさ。
スポチャンやったらわかるけど乱戦になれば槍は真っ先に死ぬよ。
大体そんなに有効なら新撰組は全員槍持ってパトロールするだろ。
彼らは武器を隠す必要は全くないんだから。
油小路の決闘では新撰組在籍時には隊内最強と言われた服部武雄を
槍で仕留めてるけど、刀の隊士が寄ってたかって
動きを止めた上で槍が突いてる。
これが接近戦時の実践的な槍の使用法だろ。

槍は刀と違って鎖帷子も破れる破壊力を持ってるけど取り回しが悪く、
刀兵の掩護がないと力を発揮できない。
4名無し三等兵:2010/01/03(日) 02:10:44 ID:???
新選組とか京都見回り組ってのははもともと浪士などの不逞の輩を暗殺するための治安特殊部隊だろ。
そもそも鎌倉時代の主力は薙刀や槍だろそもそも刀つーたって今我々が思っている刀は日本刀だろ
でもアレ玉鋼でこしらえる奴だが、まだ室町にすらはいっていない時期にそんなものはない。
旧式の刀なんだよ。切れ味全然悪いんだよ。当時の刀は重さでベルセルグみたいにブッタギル様なんだよ。
大きさはもちろんガッツのアレみたいにでかくはないが、まあ基本原理は同じだ。
いっておくがいきなり白兵戦になってないよ。 なのある武将の先駆けはともかくもそれは戦のメインじゃない。
山ほどゆんでが矢をふらせておいてかなり数減らしておいて(実際後世の戦国期でも弓矢で死ぬ将兵がダントツで多かった)
そこから土塁にきてこえようとするところを突いちゃう訳よ。
これが猛威を発揮した実際に元軍は土塁を超えられなかったオバマビーチより悲惨だ全員返り討ちなんだからな。
だから部下おいてとっとと撤退しようとしたところを逆に土塁から打って出て追撃したんだよそこで初めて刀を使うんだよ。
煽りでもなんでもなくそういうふうにするのが一番賢いだろ?
考えてみろアウトレンジから戦うのは戦の基本だしかも異国兵で負けたら日本人の合戦以上に悲惨な最期になるとわかっている。
正面から切り合わずまずは弓、次に土塁にきたら槍、遁走しはじめたら馬で追撃してさらに三萬の御首をとった。
そもそも敵は侵攻してきているのだからまともに斬り合う道理もない。アウトレンジ上等だよ!なにか文句ある!
勝てば官軍だろ?

5名無し三等兵:2010/01/03(日) 08:14:23 ID:???
元寇の時代に槍はないよ。
その代わりに武士は薙刀を使ってた。
6名無し三等兵:2010/01/03(日) 13:20:26 ID:???
三島は、アキバあたりに連れて行けば、
エロゲやら、同人誌買いまくりで、
現代マンセになるような気がする。
7名無し三等兵:2010/01/03(日) 13:28:52 ID:???
誤爆スマン
8名無し三等兵:2010/01/03(日) 17:08:56 ID:???
>>4
玉鋼信者乙。
刀の切れ味、というか性能は鎌倉時代の古刀が最高だよ。
玉鋼は量産できるというだけで刀の用材としては硬すぎる。

>当時の刀は重さでベルセルグみたいにブッタギル
漫画ばかり読まないようにね。

>実際後世の戦国期でも弓矢で死ぬ将兵がダントツで多かった
ソースは?
鈴木眞哉の妄想本にのってるのは勝ったほうの“受傷率”だけだが。
とどめ刺されて死んだ人間は入ってない。
弓矢でとどめ刺す人間はおらんわな。
9名無し三等兵:2010/01/03(日) 19:07:54 ID:???
>>8

http://rekisikenkyuusha.blog60.fc2.com/blog-category-5.html
彼のソースのリンク先の一部が消えているがそれはさておき

某研究者のblogから引用してみよう。

日本側の和弓の威力について
(モンゴルの矢は長射程だが軽い為に武士の鎧を容易に貫く事が出来なかった。
船の上からだと弓による狙撃はまず不可能で結果大量に消費する一斉射撃を
繰り返して弓矢の欠乏を招いた)

弓は日本のほうが射程も殺傷力も遥かに上
さらに、『弓馬の道』『海道一の弓取り』という言葉が示すように
武士の主戦兵器が弓であり、熟達していた
隊列を組んで整然と前進してくる元軍に対して
長大な射程を生かして後方の指揮官を弓で倒す
作戦を取っていた模様

(実際に劉復亨は負傷している)
10名無し三等兵:2010/01/03(日) 19:23:41 ID:???
>>8

http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_034.htm

鎌倉〜室町時代)古刀期は卸し鉄

鎌倉・南北朝の古名刀を目指す刀匠には地鉄派、鍛法派、焼入派がある。
古刀の時代、玉鋼や千種・出羽鋼などは使われなかったとの確信をもって
古刀を探ろうとしたのが復古刀を唱えた幕末の刀工・水心子正秀である。以下は和鋼限定の内容とする。舶載鉄の利用法は不明
0
「剣工秘伝志」 水心子正秀 (1821年著) 現代漢字仮名遣いで要約
出羽、千種などの現在の鋼は天文の頃から出てきた物で、それ以前には無かったものである。従って応永(1394-1428)頃
までの鍛冶は、自分で銑を吹き卸して鋼とし、良く卸りた時はその儘打延べて刀剣とした。是を所謂(いわゆる)「鋳刀(素延べ刀)」と言う。
又、鋼の出来が思わしく無かった時は、二、三遍鍛えて造った物もある。現在のように数遍鍛えた物ではない。多くとも七、八回の折り返しを限度とした。
それなのに、卸し加減に依って、剛柔の出来と不出来が悉(ことごと)く有って、程良い物が甚(はなは)だ得られなかった。
その為、その頃より、自然と出羽、千種の鋼を数遍鍛えて造る事が多くなった。これで卸し鉄の伝は遂に絶えた。


とあるが、どこをどうみれば性能が良いと思うことができるのだろうか?
玉鋼は量産できるが、それ以上に品質が卸し鉄のそれより「ムラ」がなかったのだよ。

>>8
受傷率が高いということはソレに起因する死亡率も自然と高いという道理になるのだが。
鈴木眞哉氏に含むモノがあるようだが、このスレではあくまでも弓矢が元軍の戦闘力を
大幅に削いだという事実が確認できればそれで用足りるのではないか。





11名無し三等兵:2010/01/03(日) 19:51:12 ID:???
ああそれと明日から仕事だから年始年末のようにはそうそうレスできないからな。
絡み主体の長文書かれても、そうすぐにアンサーできないから、早漏気味に
逃げた!呼ばわりされても困ると予め言っておく
12名無し三等兵:2010/01/03(日) 22:19:26 ID:???
>>9
冒険ブログを引用する低能って初めて見た(失笑

元軍が隊列を組んで整然と行進していたとかいうソースは?
指揮官を狙撃する作戦とかもソースは皆無。
劉復亭を射たとされる武士は大男を狙っただけで
指揮官と認識していたわけではない。
ついでに言えば彼は単騎前進して射程をできる限り縮めて狙撃している。
大勢で弾幕を張るなら別だが、
精密狙撃でカタログ上の有効射程に頼るやり方は古今を問わず失敗の原因。
しかも静止しているならまだしも戦闘中だしね。
13名無し三等兵:2010/01/03(日) 22:20:47 ID:???
>>10
全く同じサイトから。以下の要旨は他の箇所でも
データを添えて繰り返し述べられている。君の目は節穴だね。
さすが冒険信者wwww

  貴重な資料として、上海事変と北支那の実戦で使われた日本刀の記録がある。成瀬関次氏は実戦検証に基づき「私は、戦場の体験
  から、美術骨董品の領域にいる鑑識家達を一切信じない。江戸期の鑑定・鑑識は極めて作為的・政略的である」と断定している。
  この実戦検証から、優れた刀の条件が示唆された。最も重要な点は、「粘硬な刀身」という事である。
  戦える刀は、硬い刀身と鋭い刃を意味しない。古刀のようなしなやかな刀身で軟らかく斬ることができる刀を指す※。硬い量産鋼の新刀
  や更に硬い玉鋼で作られた新々刀は実戦に於いて脆さを露呈した。鋼単体として進化した和鋼が優れた刀材とはならない。
  高品質な玉鋼だから刀の性能も良いというのは全くの幻想である。硬い玉鋼は逆に刀身性能を後退させた。
14名無し三等兵:2010/01/03(日) 22:22:27 ID:???
しかし武道板でも世界史板でも日本史板でも
冒険はキチガイ扱いなのに、
こんなのを真に受ける馬鹿がよりによって軍事板にいるとはwww
何気に一番知能指数低いね、軍事板ってww
15名無し三等兵:2010/01/03(日) 22:24:07 ID:???
念のため引用ね。
隊伍を組んで整然と前進する元軍も、
日本軍が腰の引けたアウトレンジ戦法を取る様子も
どこにも全く見受けられません。

八幡ノ蒙古記(1289年成立)
「その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、
究竟の馬廻に、弓の上手ありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、
おちたりけれ」
16名無し三等兵:2010/01/04(月) 18:10:16 ID:???
>>12
俺が言いたいのは弓で日本側は効果的に戦ったということ。
それとお前、人を中傷しすぎ気分悪いぞ。自粛するように。

そもそも、他の板をあげているのなら、山野さんらが劉復亨が
負傷した件をあげているのも読んでいるはずだが。
(もっともその時に世界史のスレの流れは従来の日本側が
先駆けて名乗りを上げ、一騎打ちを望んで矢を射られると
いったステレオタイプの元寇像を議論するためであるが)
日本では前述した戦国期よりも以前から弓矢による
敵軍の掃射活動が一般化していた事実を否定するものではない。

話を戻すと、劉復亨が射られた状況空の色が変わるほどの
矢衾の中、武者が近寄って狙撃したものだ。
なるほど、撃ったものは劉復亨とは知らないだろう。
たが、考えて欲しい乱戦の中あえて近寄りあんたのいう
義理義理の射程から撃ち放ったのはなぜか。
大体指揮官はあれであろうと検討つけたからではないだろうか。

冒険を否定してそれで事足れりと形つけてしまって良いものだろうか。
さにあらず、物事の道理として元再度が船の上から騎射するのと
陸地から騎射する日本軍とではいずれが命中率が高いか
考えてみるまでもないのではないか。

>弓は日本のほうが射程も殺傷力も遥かに上
さらに、『弓馬の道』『海道一の弓取り』という言葉が示すように
武士の主戦兵器が弓であり、熟達していた
隊列を組んで整然と前進してくる元軍に対して
長大な射程を生かして後方の指揮官を弓で倒す
作戦を取っていた模様

17名無し三等兵:2010/01/04(月) 18:25:35 ID:???
無論げんくんは船から降りた連中もゆんで方が絵巻物にあるように矢をいかけている。
ただ、前スレでも議論されたように武士を戦闘力を奪うには備えが成さすぎた。
前スレで議論されたように日本側の重騎兵の防御力を低く見積もっていたのだろう。
控えめにみても、他国では通用していた手法が日本の重騎兵相手ではいささか分が悪かった

故にあちらサイドは矢衾の上、重騎兵の攻勢圧力の前に「戦い利あらず、一旦撤退すべき」と判断し
一旦引き上げた。そのあとの事はここでは言うまでもない。

>>13
次に13の件であるが、成瀬氏の試した古刀とはムラのある古刀を排除してのごくごく一部の刀剣ではないだろうか。
氏の試した刀剣は確かに優秀であったのであろう。たが、それは古刀全体に当てはまるものではない。
>>10にあるように質の良い代物を量産化できなかったのは事実だし、
元寇時の御家人たちの何%が質の良いものを使っていたか俺は疑問に感じる。

玉鋼は安定して良品を量産化できており、そういうトータルな面では古刀を上回っていただろう。
そもそも、あんたがあげた事変まで実戦で使えるような刀は古刀の中でもどれ程の確立であったろうか。
すぐなくとも玉鋼のそれよりはずっと確立は低いと思われる。

現に>>10の先でも言及しているではないか殆どは質が低いという意味の意見を述べているワケで。
極小数の業物をもって古刀そのものが玉鋼を上回っていたと結論づける姿勢に疑問を感じる。


なお、>>10の最後に受傷率が高いということはそれ起因ノ死亡率も必然的に高くなるとの俺の反論を
無視しているが、その辺はよほど都合がわるかったのだろうか。
いくら含むモノがあるとはいえ、冒険や鈴木氏を批判する以上、その態度はちょっアンフェアだよねぇ。
18名無し三等兵:2010/01/04(月) 18:31:10 ID:???
>>15
それ、ゆんでがたの攻勢を元軍がもろに食らっている中で近寄っているわけで。

そもそも徒士と鎧武者とゆんでがたはそれぞれ役割分担があろう。

何も発言は矛盾しないよ。

ではまた今度。

そうそう暴言はくのはもうやめろよ不愉快杉だ。
19名無し三等兵:2010/01/04(月) 18:53:19 ID:???
>>16
>劉復亨が射られた状況空の色が変わるほどの
>矢衾の中、

ソースは?お前の脳内?
どんな史料にもそんな情景は描かれてないからねぇwww

>元再度が船の上から騎射するのと
>陸地から騎射する日本軍とではいずれが命中率が高いか

劉復亭が射られた話をしてるんじゃないの?
彼は地上戦で射倒されているんだけど。
しかも後方にいるどころか、
「あか鎧に、あし毛なる馬にのり、十四五騎うちつれ、徒人七八十人
あひ具して」
部下を率いて小弐景資隊を襲撃したところを
景資が配下の弓の上手を前進させて返り討ちにした。

実際に後方で指揮していたのは景資。
先頭に立っていたのは劉復亭(とされている存在)。

>隊列を組んで整然と前進してくる元軍に対して
>長大な射程を生かして後方の指揮官を弓で倒す
>作戦を取っていた模様

繰り返すがソースは?君の妄想だろ?
20名無し三等兵:2010/01/04(月) 19:01:54 ID:???
>>17
>>10にあるように質の良い代物を量産化できなかったのは事実

>>10にあるのは19世紀の人間が、何の根拠もなく断定した文章でしかないが。
君にとっては「事実」になるんだねww妄想爆裂しすぎwww

ちなみに元寇以前、11世紀には既に、欧陽脩が日本刀歌を書き表し
日本刀の高い完成度を褒め称えている。
日本刀はその頃既に重要な輸出品目の一つだった。
質が悪ければわざわざ買われないわな。
21名無し三等兵:2010/01/04(月) 19:06:29 ID:???
>>18
>それ、ゆんでがたの攻勢を元軍がもろに食らっている中で近寄っているわけで。
>そもそも徒士と鎧武者とゆんでがたはそれぞれ役割分担があろう。

はーい。八幡蒙古記のどこにゆんでがたの攻勢を元軍がもろに食らっている様子が
描かれているんですかぁ?妄想同人本の八幡愚童訓にすら見当たらないんですがwww
妄想、果てることなしwww

大体ゆんでがたって何だよwwww
戦国時代みたいに分業されてないんだからさぁ。
もうちっと勉強しなよ、低能クンwwwww
22名無し三等兵:2010/01/05(火) 03:35:45 ID:???
>5
あるよ。一般化してなかっただけで。天武天皇が槍を
振り回してる話とかが残ってる。
23名無し三等兵:2010/01/05(火) 07:08:51 ID:???
「紀效新書」1595年 戚継光
「これは日本のサムライが明に攻めて来た時に初めてわかったことである。
彼らは舞うように跳び回り、前方への突進は光が閃くようで我ら明の兵は
恐れおののくのみだった。 日本人はよく躍動し、一息で一丈(約3m)も
飛び込んできて、刀の長さは五尺なので一丈五尺の間隔があっても攻撃される。
我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎて、(サムライと)遭遇すれば皆両断されて殺される。
これは彼らの武器が鋭利であり、両手で振れる強力で重い刀を自在に用いているためである」

「揮刀如神」 明末期 
「日本のサムライの剣術はまるで神の如しだ。 我々の兵士(明兵)はサムライを見れば皆身が
すくみ逃げ腰になる。 剣術に優れたサムライだが剣術だけではなく飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。
弓の扱いも我が弓兵と互角、その他あらゆる兵科と比べても不足が見つからない。
本当に日本人は殺戮者だ。その家には刀を持たぬものは無く、 子供の頃から武術を鍛えられ始め、
壮年にいたれば手に負えなくなる」

「単刀法選」 程宗猷 1621年
「日本剣術は神秘的だ。左右への跳躍が凄まじく誰にも予測できない。
そのため長技(槍)を使っても毎回刀に負けてしまう」

「広東新語・語器」 屈大均(1630〜95)
 「日本人が全力で動く時風のように漂って動く。 常に寡兵で陣に入って来て、
大勢の兵士でも抵抗できない。 その刀の使い方は、長い方で構え守り、短い方で止めを刺す。
しゃがんでいるかの如く低く移動し、決して退かない。 相手が何人いようと対応する、島の中の絶技である」

「大君の都」 Rutherford Alcock 1863年
「彼ら(サムライ)は、相当に熟達した刀の使い手である。小さい方の刀を使うときは、
二度突く必要は無い。たったの一突きで相手に致命傷を与える。大きいほうの刀を使うと、
ただの一振りで相手の四肢を切り捨ててしまう」


武士はこれほど強い。10万の大軍では太宰府攻略すら不可能。
24名無し三等兵:2010/01/05(火) 10:42:26 ID:???
>>22
飛鳥時代の話なんかして何がしたいんだw

そもそも「武士が一般的に」使用していないんじゃ何の反論にもなってない

ただし>>5も片手落ち
薙刀は武士も使っていたものの徒士が使う方が一般的
25名無し三等兵:2010/01/05(火) 10:48:27 ID:???
薙刀は武士も使うには使ったが鎌倉武士なら騎乗してるので
白兵戦では大半が刀
鎌倉武士にとっての徒歩戦は大半が船での戦いになるのでこっちもやっぱり主力は刀になる
主だった絵巻などでも徒歩戦の描かれた場面があると大体8割前後が刀でのこりが薙刀といった感じだよね

最初から徒歩である徒士になると大体半数ぐらいは薙刀だけど
26名無し三等兵:2010/01/05(火) 11:04:31 ID:???
>>8
軍忠状妄信、玉鋼信者の擁護したいわけじゃないけど
一応射撃戦と白兵戦での死傷者を比べればそりゃ飛び道具の段階で死ぬやつは多いだろうねということは
否定できないよ

ただし、射撃戦での死傷者のほうが上回るのは世界中の戦でそういえることなので弓での死傷者が多かろうが刀を軽視する理由にはならないんだけどね

>>4は鎌倉時代に武士が槍使ってたとか、ゆんで(弓手?つまり弓兵的な雑兵のことだろうか?)
がどうこうなんてこと本気で信じてるようなやつらしいな…
徒歩で弓を集団で射かける雑兵の出現は南北朝あたりからとか
鎌倉時代に武士は槍なんか使ってないとかいろいろ基本的に間違ってて
言ってることに説得力皆無なんだがまあ単純に「緒戦の段階では射撃戦」というところは間違ってない
27名無し三等兵:2010/01/05(火) 11:08:53 ID:???
ちょっと>>26後半の文章がうまくかけてないので修正

>>4は鎌倉時代に武士が槍使ってたとか、ゆんで(弓手?つまり弓兵的な雑兵のことだろうか?)
がどうこうなんてこと本気で信じてるようなやつらしいな…
「徒歩で弓を集団で射かける雑兵」の積極的な運用は南北朝あたりからとか
「鎌倉時代に武士は槍なんか使ってない」などの基本的な知識が無い人らしいので
言ってることに説得力皆無なんだがまあ単純に「緒戦の段階では射撃戦」というところは間違ってない
28名無し三等兵:2010/01/05(火) 13:22:04 ID:???
>一応射撃戦と白兵戦での死傷者を比べればそりゃ飛び道具の段階で死ぬやつは多いだろうねということは
ないね。合戦における戦死者の大半は基本的に、勝敗がほぼ決した後の追撃や壊走中に出るもんだ。
だから片方が圧勝した戦いでは数千人規模のものでも、勝者側の死者が二桁一桁だったりすることは珍しくない。

両軍が譲らぬ戦いをしている間において大量の戦死者が出るのは、命中率と死傷率がきわめて高く、
「白兵戦」で使われる武器まで変えてしまったミニエの原理が普及してから。

>>18
蒸し返すようで悪いが、>>11のようなことを書ける奴が言っていいことじゃないなそれは。
議論においてという一点ではお前が一番態度悪いぞ
29名無し三等兵:2010/01/05(火) 18:01:45 ID:???
話を変えて恐縮だけどこんなに鎌倉武士が協力なら三別抄の求めに応じて救援を送っていたらどうなってただろう?
珍島に移った1271年に鎌倉幕府へ救援を求めたが無視されたみたいだけど、1273年の耽羅島陥落までに鎌倉幕府が、
数万の武士団の救援を耽羅島(済州島)に派遣すれば撃退することは可能だったのではないかな?
それとも対馬や壱岐や平戸での戦いの様に離島での防衛戦は殲滅されていたのかな?
30名無し三等兵:2010/01/05(火) 20:33:53 ID:???
>>29
勝っても良いこと無いだろ。
耽羅島(済州島)では兵力の維持が出来ないだろうし。
そうなれば、日本からの補給が必要。
そんな事するなら、対馬を防衛した方がまし。
31名無し三等兵:2010/01/05(火) 22:01:32 ID:???
>>29
三別抄が救援求めて来たのは1271年9月だけど、その前の5月に大敗して珍島喪失してるんだよ。
学者連中は鎌倉幕府に言いがかりつけてるだけだから、そういう点を曖昧にしてるけど。
で、その5月の大敗で三別抄上層部は軒並み戦死。
蜂起した時は兵船1000隻だったのに、80隻しか耽羅へ脱出できなかった。
つまり、救援求めて来た時点で、既に三別抄は戦力として全く期待できない状態だった。

それから、三別抄の救援要請直後に来日した元使の趙良弼は、朝鮮半島への元軍配備状況が
日本側にバレてると報告してる。
鎌倉幕府は当時の朝鮮半島情勢に精通したうえで、きちんと的確な判断したんだよ。
32名無し三等兵:2010/01/06(水) 05:53:18 ID:???
武士団が強力なら自国内での戦いより半島南岸の離島を橋頭堡にして外線防衛する方が合理的では?
別に済州島でもいいけど2次大戦時のラバウルやトラックみたいにスルーされたら意味無いし
33名無し三等兵:2010/01/06(水) 09:16:05 ID:???
それなら後の異国征伐みたいに日本単独で朝鮮へ攻め込んだ方がいいだろ。
いつ寝返るかわからない三別抄は獅子身中の虫になる恐れが強い。
34名無し三等兵:2010/01/06(水) 09:57:01 ID:???
そもそも大宰府に来ることがわかってるんだから
水城を前線にして戦うのが一番いい
水城を起点に戦う限り兵力においてはほぼ無尽蔵に補給できるんだしな

と少なくとも当時の武士は考えていた
現代人の俺らがいろいろ奇案を出すのもいいが
まあ当時の武士の判断は妥当だよ
35名無し三等兵:2010/01/06(水) 21:30:31 ID:???
まあ心配のしすぎだったけどな。
敵は水城にすら行き着けなかった。
36名無し三等兵:2010/01/07(木) 23:28:06 ID:???
>>22
そりゃ矛のことだよ。南北朝以降の槍(鑓)とは歴史的に連続していない。
なんでこんな基本的なことがわからないの?
37名無し三等兵:2010/01/08(金) 00:17:40 ID:???
>>36
いや、8世紀成立の「藤氏家伝」に"槍"って文字が出てるんよ。
ttp://www.umoregi.com/koten/toshikaden/pdf/toshikaden.pdf

まぁこの本以外には無いし、どうせ実際にはただの鉾の異字だろうけどね。
38名無し三等兵:2010/01/08(金) 02:55:17 ID:???
補給の概念に関しては帝国陸軍より往時の武士たちの方が上だよね
39名無し三等兵:2010/01/08(金) 08:43:13 ID:???
>>38 間違いなく牟田口より石田三成の方が上だねw
40名無し三等兵:2010/01/08(金) 10:39:47 ID:???
秀吉の時代なんて国内とは言えあんな大軍を長期動かして破綻しなかったんだからすごい
41名無し三等兵:2010/01/08(金) 13:22:00 ID:???
>>37
「槍」「矛」「鉾」「桙」「戈」「戟」

全部「ほこ」と訓読されるから
時代と文脈から判断しないと変な事になる
42名無し三等兵:2010/01/08(金) 15:46:51 ID:???
武士の武装や主力層に関しては応仁の乱あたりを境に全く変わっている

前者と後者の違いを簡単にまとめると

武士が主力           :足軽が主力
歩兵(徒士)は武士のサポート役 :武士は歩兵(足軽)を指揮する存在
主力たる武士は騎馬戦を頻繁に行う:西国では馬が不足し武士も徒歩戦闘が増える(結局騎乗していることが多いが)
白兵戦の主武器は日本刀     :白兵戦の主武器は槍(対外戦争では大太刀も目立つ)
射撃戦の主武器は弓       :射撃戦の主武器は鉄砲
43名無し三等兵:2010/01/09(土) 11:58:34 ID:???
>>40
秀吉は大軍を長期動かす際に海運を多用してたからね。
九州征伐では兵30万人の兵糧と馬2万頭の飼料1年分を兵庫尼崎から発送。
朝鮮出兵でも肥後名護屋から釜山までの海運は7年間滞りなく機能した。
それなのに、元寇の話になると海運に頼った兵站云々を言い出す輩が後を絶たないのは何故だ?
前近代、大量の補給物資を輸送可能な唯一の手段が海運であって、陸運で兵站を支えることなんて逆に不可能。
44名無し三等兵:2010/01/09(土) 20:45:37 ID:???
そりゃあんた、秀吉といえば兵站というくらいの人ですからなあ
そのあたりをみても元・高麗の侵攻計画の杜撰さをみせつけられるわけだが

もしこれで鎌倉幕府の朝鮮侵攻計画が実施されてたらどうなったんだろう
45天上天下唯我独尊:2010/01/09(土) 21:52:24 ID:???
>>44 博多や大宰府に食いきれないほどの糧秣があると思ってたんだよw
46名無し三等兵:2010/01/09(土) 22:09:56 ID:???
杜撰な作戦をなぜか後世の人間が威力偵察とか棄民目的とか擁護する不思議w
47名無し三等兵:2010/01/10(日) 00:33:20 ID:???
>>45
後世の日本軍もジャングルに食料がタープリあると
思っていた馬鹿ぞろいだったから元高麗を笑えない
48名無し三等兵:2010/01/10(日) 06:40:19 ID:???
モンゴル帝国軍の兵站がインパールの「ジンギスカン作戦」
みたいな代物だと思っているなら、違うからね。
49名無し三等兵:2010/01/10(日) 14:08:34 ID:???
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
50名無し三等兵:2010/01/10(日) 15:18:16 ID:???
大昔に白村江まで大軍を派遣できたヤマト朝廷の兵站能力もスゴクね?
51名無し三等兵:2010/01/10(日) 18:45:46 ID:???
うむ
52名無し三等兵:2010/01/10(日) 18:49:46 ID:sI+MJZwZ
菊池武房が戦った元軍の規模は全く不明だし、元軍が竹崎季長ほか数騎相手に大部隊を繰り出したはずもない
後方で動かずに見てる元軍が描かれているように、どうみても大勢に影響のない小競り合い

竹崎さんはここで痛手を負って、これ以後の大規模戦でいいところなし
53名無し三等兵:2010/01/11(月) 02:53:00 ID:???
>>50
長らく倭人の拠点として任那があったし、そもそも百済の要請に応じての派遣なんだから
それらの支援で兵站を現地で賄うことができたんだろう。
元寇や朝鮮出兵とは状況が違うと思うぜ。
54名無し三等兵:2010/01/11(月) 07:18:42 ID:???
竹崎季長はむしろ弘安の役にて大活躍なわけだが…
55名無し三等兵:2010/01/11(月) 07:24:03 ID:???
>>53
むしろ現場では百済がわの末端の疑心暗鬼(上は日本の援軍を請うも末端は日本にイニシアチブをとらせたくない手柄を横取りされたくないという)によって
情報物資とも障害があったと聞くが…

56名無し三等兵:2010/01/11(月) 09:47:43 ID:???
竹崎さんは馬を失いながら重たい大鎧着て負傷した郎党らと無事戦場から離脱してるんだよな。
戦局が日本軍の圧倒的優勢じゃなければ、こうはいかない。
一方の元軍は生還できた兵も多くが鎧や武器を投げ捨ててるだろ。
圧勝した側の兵と惨敗した側の兵とでコントラストがハッキリと分かれてるよね。
57名無し三等兵:2010/01/11(月) 11:15:14 ID:???
まー日本軍は水城でひしめく主力が全く稼働するまでもなく元軍を撃退しちゃってるからなぁ

ちょろっと様子見程度の先駆けとどうにかいい勝負のすえ結局撃退されちゃった元軍
って言う構図だよね
58名無し三等兵:2010/01/11(月) 11:28:44 ID:y4ceuydN
蒙古襲来絵詞を見る限り少なくとも総大将は水城より前に出てきてる

絵詞は、突撃した竹崎さんに対して少数を出した元軍→竹崎さんピンチ→白石さん救出に→元軍退却して祖原の本隊に合流
って流れだろ

八幡ノ蒙古記では竹崎さん白石さんの奮戦に触れたあと本隊同士が激突、菊池さんの死闘、劉復亭の狙撃へと繋がっていく
59名無し三等兵:2010/01/11(月) 11:36:36 ID:y4ceuydN
高麗軍が装備を捨てた話があるのは高麗の史書だが、戦闘中の話とは書いてない
高麗の史書は海難に遭った話もしている
嵐に遭った船では、荷を投棄して少しでも軽くしようと試みるもの
60名無し三等兵:2010/01/11(月) 11:59:57 ID:???
>>59
また適当なことを・・・
船ってのは一定量以上の積荷がないと安定して航海できないものなんだよ。
嵐に遭った船が荷を投棄したら不安定になって余計に危険になるだけ。
61名無し三等兵:2010/01/11(月) 12:32:54 ID:???
>>59
船で捨てたとも書いてないよねw
62名無し三等兵:2010/01/11(月) 12:50:35 ID:???
>>58
竹崎季長が戦った元軍は菊池武房に潰走させられたあと麁原で踏みとどまった残党だろ
63名無し三等兵:2010/01/11(月) 12:53:41 ID:???
>>57
しかも関東からは増援が続々と集結中という…
64名無し三等兵:2010/01/11(月) 21:51:41 ID:???
>>55
すでに百済王国滅亡済み
再興を願う亡命百済貴族や
現地のレジスタンスからの
要請での出兵
ヤマト朝廷側は筑紫から
兵站を維持しなければ
なら無いはず。
65名無し三等兵:2010/01/13(水) 15:55:21 ID:???
>>26-27
結局のところ鎌倉武士は弓術も剣術もできるマルチプレイヤーってことだろ
66名無し三等兵:2010/01/13(水) 18:24:33 ID:???
>>65
そりゃ鎌倉武士は幼い頃から徹底した軍事の英才教育受けてる人達なんだから。
武士みたいな戦士階級の無い文明では、軍なんて社会のあぶれ者を動員して数を
揃えただけで、最初から勝負になるわけないんだよね。
67名無し三等兵:2010/01/14(木) 00:52:27 ID:???
いろいろなんじゃねえの下級貴族兼地方長官的なヤシもいれば、半分武士半分農民の国人的な階層や豪族もいるだそうし
武士といっても色々立場や生育環境ちがうんでね。
68名無し三等兵:2010/01/14(木) 02:20:59 ID:???
そういえば公家のくせに朝鮮からの侵略を撃退しちゃった奴もいたな
69名無し三等兵:2010/01/14(木) 07:34:52 ID:???
隆家卿のことか?系図の上では季長さん含む菊池一族の祖となっているんだよな。
70名無し三等兵:2010/01/14(木) 07:49:57 ID:???
子孫は西武の大投手になる予定
71名無し三等兵:2010/01/14(木) 20:26:23 ID:???
>>60
投げ荷とか打ち荷って言葉、聞いたことないか
海上保険の発達とも深く関わること
72名無し三等兵:2010/01/15(金) 00:09:31 ID:???
>>59-60、71
浸水時には浮力回復の為に積荷を海洋投棄するのは常識。
ただ、荷物が甲板上にあれば投棄できるけど、船倉内にあれば物理的に無理。
それと僚船が沈没したときなど、救難の為に浮力のある積荷を投棄する。
73名無し三等兵:2010/01/15(金) 09:33:18 ID:???
BS2で、アインシュタインの眼「弓道〜知られざる技と威力〜」ってのやってる。
和弓を科学的に分析する番組。
74名無し三等兵:2010/01/15(金) 10:04:57 ID:???
>>71-72
1隻〜2隻の話ならわかるけど、大船300隻の艦隊の話だぜ。
浸水してない船が積荷を海洋投棄したら復元性が失われて波風に
弱くなるだけ。
数隻の浸水なら積荷の海洋投棄は限定的なものになるはずだし、
僚船救難の為なら浮力のない鎧や武器を投げ捨てても意味がない。
結局、海難は衣甲・弓箭を多く棄失した理由にはならないだろ。
75名無し三等兵:2010/01/16(土) 06:38:24 ID:???
>>74
おいおい荒天で300隻が艦隊運用出来るっていつの時代だよw
この時代だと数隻単位で五月雨式に航行してるんじゃないか?
でなけりゃ衝突事故で壊滅するぅぅぅw
76名無し三等兵:2010/01/16(土) 06:48:07 ID:???
もし日本を攻めようとしている元軍と秀吉の朝鮮遠征軍が同じ時代にタイムスリップしてまさに出撃状態とかだったら
どっちが勝つのかね?やはり未来の兵器がある秀吉軍のほうが有利かね?
そのまま朝鮮半島に攻め込んだとして元軍の反撃に耐えられるかね?
やっぱり消耗戦になると秀吉軍が不利になるのかね??それとも元の首都まで攻め込めるかね?
77名無し三等兵:2010/01/16(土) 15:48:52 ID:???
>>68
公家のくせにって・・・
枕草子や大鏡からうかがえる明るい性格と並外れたガッツ
軍指揮官として最適だろう。腕力もあるし。
虚弱ミリオタのくせに何様のつもりだ?
78名無し三等兵:2010/01/16(土) 20:19:28 ID:???
>>76 そんなの言うまでも無い。
おっとり刀で集まった烏合の衆の鎌倉武士団でさえ圧勝、将に鎧袖一觸とはこのこと。
戦国後期の兵農分離が進み鉄砲の扱いにも長けていた豊臣軍だと戦にならないだろw
豊臣軍と戦った明軍は中国史の中でも非常に優秀な軍隊だった。
満州平原での機動戦になればまだ元軍にも勝機があるかもしれないが朝鮮半島では
まったく歯が立たず戦にもならないと思う。
79名無し三等兵:2010/01/16(土) 20:29:13 ID:???
もういいから
80名無し三等兵:2010/01/18(月) 06:54:52 ID:???
しかし高麗にしろ李氏朝鮮にしろ最悪だね。日本に迷惑掛けることしかしない。
さらに自国の民から定期的に若い女をシナに貢物にしてだす始末w
81名無し三等兵:2010/01/20(水) 00:54:17 ID:???
これがモンゴル帝国を震撼させ、元寇を遅らせたという三別抄の耽羅における全活動だ!!

1272年5月8日、慶尚道で三別抄の諜者2人が高麗官憲に捕えられる。
1272年5月20日、慶尚道に来襲して放火略奪す。
1272年6月初旬、三別抄の兵船6隻が忠清道沿岸を北上。
1272年8月7日、全羅道の税米800石を略奪。
1272年9月13日、孤欄島の造船所に来襲して兵船6隻を焼き、船匠を殺し、高麗地方官を拉致。
1272年11月15日、安南都護府に来襲して府使孔愉夫妻を拉致。
1272年11月、合浦に来襲して兵船20隻を焼き、元兵4人を拉致。
1272年11月、巨済県に来襲して兵船3隻を焼き、県監を拉致。
1273年1月22日、全羅道に三別抄の兵船10隻が来襲。
1273年1月、合浦に来襲して兵船32隻を焼き、元兵10余人を殺害。
1273年3月20日、耽津県に来襲し、高麗兵11人を殺害、15人を拉致。

凄いな三別抄!!!
文永の役で900隻、弘安の役で4400隻の元軍撃退した鎌倉武士をボロクソに叩いてる歴史学者たちが、
三別抄を大絶賛するのも納得だね。
82名無し三等兵:2010/01/20(水) 02:02:44 ID:???
どうみてもタリバンもどきのテロリストにしかみえませんw
83名無し三等兵:2010/01/20(水) 23:09:50 ID:???
せめてレジスタンスと言ってヤレ
84名無し三等兵:2010/01/20(水) 23:46:14 ID:???
こいつら高麗人にもテロや誘拐やってるだろ 単なるテロリスト以外の何者でもないだろ。
85名無し三等兵:2010/01/21(木) 05:12:30 ID:???
>>82 かつてソ連の侵攻を断念させ、今、米軍を撤退に追い込んでるタリバーンに失礼だぞ。
86名無し三等兵:2010/01/21(木) 09:50:55 ID:???
ソ連の侵攻を断念に追い込んだのは旧北部同盟の方々であって
タリバーンは当時できてないだろ。
あの時代の頃にハナタレだったガキどもが大きくなってムジャヒディン軍閥
同士の抗争に嫌気がさした連中をパキスタン情報部が唆してできたのがタリバーン

すれ違いついでにタリバーンはハザラ人を虐殺したが、このスレの住民的には
鎌倉政権が虐殺していなかったら、ハザラ人的なポジショニングの民族集団が
北九州に成立していたかな?まあ助けられた宋人らは宋人街を形成したが、
いつのまにか消滅したからつづいていないかもだが。
87名無し三等兵:2010/01/21(木) 11:05:04 ID:???
1273年に元と高麗は兵船160隻を投入するだけで、あっさりと耽羅を攻略してる。
その気になれば、いつでも三別抄の乱なんて鎮圧できたんだよね。
それなのに1273年まで放置してたのは、1271年に来日した元使の趙良弼が、
金州に駐屯してる元軍の存在が日本側にバレてると報告。
それに対する対策として、金州に駐屯してる元軍は三別抄の乱鎮圧のための部隊だと、
日本側に説明することにしたから。
つまり、三別抄の乱は元軍の日本侵攻の準備が整うまで、隠れ蓑に利用されてたってこと。
88名無し三等兵:2010/01/24(日) 18:18:44 ID:???
三別抄を討伐したみたいに、数年間かけて段々と対馬を攻略して、壱岐、五島、平戸と迫れば蒙古にも勝機がある。
89名無し三等兵:2010/01/24(日) 19:55:35 ID:bu34MyPh
三別抄って「官位しだいでいつでも帰順する」って条件闘争していた
性根の腐った奴らでしょ。

話かわって、応永の外寇は、宗氏らが勝利をおさめた訳ですが、どういう経緯で
勝ったのかがいまひとつよくわかりません。どなたか教えて
90名無し三等兵:2010/01/24(日) 22:01:47 ID:???
あの国の法則が働いたから。
91名無し三等兵:2010/01/27(水) 08:52:46 ID:???
蒙古は樺太経由で北から侵攻すれば反幕府派の協力を得れたかも?
92名無し三等兵:2010/01/27(水) 17:25:50 ID:???
>>91
そのルートは兵站が細すぎだろ。
人口密度が低い当時の樺太や北海道で万を超える軍勢がどうやって兵糧確保するのさ?
93名無し三等兵:2010/01/27(水) 22:00:00 ID:qrgiVa0R
それにアイヌしかいない未開の蝦夷を占領したって
蒙古にとって何のメリットもないしな
94名無し三等兵:2010/01/28(木) 01:16:21 ID:???
>>91
その場合、台風の代わりに積雪で輸送ルート途絶えてあぼ〜んだろ
95名無し三等兵:2010/01/28(木) 01:18:19 ID:???
>>91
反幕府派だからといって外国に協力するとは限らない
96名無し三等兵:2010/01/28(木) 07:28:13 ID:???
実際に蒙古は樺太には侵攻したんだよね。なんでだろ?
97名無し三等兵:2010/01/28(木) 13:17:43 ID:???
当時の地層から十字軍の騎士の剣が発掘されたってマジですか?
鎌倉武士団側に十字軍の騎士が居たってことですか?
弘安の役で急に鎌倉武士団が強くなったのは十字軍からの情報提供があったからですか?
98名無し三等兵:2010/01/28(木) 15:37:00 ID:???
文永の役と弘安の役を比較して急に強くなったなんてことないだろ
鎌倉武士団は文永の役から滅茶苦茶強かったじゃん
99名無し三等兵:2010/01/28(木) 21:11:57 ID:cuYxnuvM
日本軍が蒙古軍にボロ負けだったなんてのは、
自虐史観の左巻馬鹿学者どもの妄言だから真に受けないようにねw
100名無し三等兵:2010/01/28(木) 21:57:40 ID:???
「戦闘は蒙古が圧倒的に優勢だったけど何故かその日のうちに撤退した」

こんな説明ふざけてるでしょ。
今まで誰も怒らずに納得してたことが不思議。
洗脳教育マジで怖すぎ。
101名無し三等兵:2010/01/29(金) 03:58:42 ID:???
源義経の孫のフビライが攻めて来た
102名無し三等兵:2010/01/29(金) 05:10:53 ID:???
どう考えても勝ち目の無い戦い以上のものではない、文永も弘安も
103名無し三等兵:2010/01/29(金) 09:31:39 ID:???
>>102
現実に文永も弘安も鎌倉武士はモンゴル軍に圧勝してるけど?
104名無し三等兵:2010/01/29(金) 21:54:50 ID:WsD+Lv/l
>>100
だよな。
俺は子供時代からおかしいと思ってた。
「蒙古の短弓>>日本の長弓」ってのも軍事の素人の左翼歴史学者どもが
平気で吹聴してたし、本にも載っていたな。
実際は蒙古弓の最大射程と日本弓の有効射程を比較してたという大馬鹿
だったわけだがww
105名無し三等兵:2010/01/30(土) 03:42:41 ID:???
>>103

>>102はモンゴル軍に勝ち目がないと言いたかったんじゃね?
106名無し三等兵:2010/01/30(土) 16:19:09 ID:???
> 「戦闘は蒙古が圧倒的に優勢だったけど何故かその日のうちに撤退した」
>  こんな説明ふざけてるでしょ。
> 「蒙古の短弓>>日本の長弓」

モンゴル史やっている先生たちにも全く責任がない訳じゃ無いけど、これらは
ぶっちゃけ主にここ2、30年ほどの蒙古襲来関係の一般向け書籍を執筆してきた日本史の
先生たちの不勉強が原因。

「世界最強のモンゴル兵が来た!」というところで思考停止してしまって、モンゴル帝国の
当時の政治動向とか、それ以前にモンゴル軍の戦術とか戦略とか、特に軍制についての研究を
すっぱりスルーしているため、思い込み先行で叙述するもんだから日本に来た軍勢そのものの
分析を大分おろそかにしている。

「戦闘は蒙古が圧倒的に優勢だったけど何故かその日のうちに撤退した」と主張する根拠は、
主に『八幡愚童訓』の記述に依拠しているんだが、何故「その日のうちに撤退した」のか、という
重要な問題について、当時の高麗方面における高麗政府と駐留軍との確執とか、そもそも高麗への
駐留や日本遠征にかり出された軍そのものの分析とかはまずほとんどやって無いので、説得力のある
論述が出来ていない。

「蒙古の短弓>>日本の長弓」というのも分析方法からして大分おかしな話で、「日本の長弓」と
比較するんだったら、文永の役の時にやって来た軍の内容を考えれば、少なくとも高麗や遼、金、
出来れば南宋の(歩兵や騎兵の)弓矢なんかと併せてモンゴルの弓矢とも比較しなきゃならないし、
それらの有効射程距離や最大射程距離のそれぞれのデータを史書や軍事書などから抽出・比較検討して
はじめて論とできる。これ一つで論文一本出来そうな内容の問題だが、本文ではお手盛り感覚で
済ませられているので、やはり説得力に欠ける。

ものにも寄るが、最近の蒙古襲来関係の本で、参考文献に「村上正二」「本田実信」の論文とか、
弘安の役では「植松正」あたりの名前が出ていなかったら、本文中に出て来る「モンゴル軍」
についてはまず眉につば付けて読んだ方が良いだろう。逆に「志茂碩敏」「海老沢哲雄」とか
「蓮見節」の名前が出ていたら、一目置くべき。
107名無し三等兵:2010/01/30(土) 22:38:21 ID:IUUOVksG
蒙古軍内に対立があったことは十分考えられることだが、本州上陸わずか一日で指揮官の間で方針がバラバラになるとはよっぽどのこと。金方慶と洪茶丘などの指揮官クラスの潜在的対立が鎌倉武士との戦闘での苦戦によって表面化したとの見方もできると思う。
108名無し三等兵:2010/01/31(日) 09:07:29 ID:???
>>107
本州上陸って?たしかに長門付近にも来寇したけど文章おかしくないかい?
109名無し三等兵:2010/01/31(日) 10:54:10 ID:ZtwroASa
単なる本土上陸の書き間違いだろ
110名無し三等兵:2010/01/31(日) 15:04:41 ID:???
文永の役はハッキリ言って鎌倉武士団は不慣れな戦いに浮き足立ってかなりの劣勢だった。
博多の街を焼かれるという屈辱も味わったしね。
でもまあ、川の氾濫によって九州軍主力の菊池氏や島津氏の軍が到着できなかった事を考えたら北九州の武将だけで奇襲されたのに良く戦ったと思うよ。
逆にその劣勢が弘安の役の時に得する結果になったしね。
文永の役は元にとっては威力偵察だった。
鎌倉武士団がどの程度の実力かを測る為に派遣された軍であって戦い慣れたモンゴルらしい戦略だと思う。
ところが派遣された軍が遭遇したのは奇襲で浮き足立った鎌倉武士団だったわけで。
元はその戦果を分析し日本は弱いと結論付けた。
弘安の役ではその弱い日本を相手に日本全土を占領する計画で屯田兵まで組織して望んだわけだが、今度は九州の主力軍だけではなく関東からも命知らずの武者が駆けつけたわけだ。
前の時と違うぞと気づいた時にはもう遅い。
上陸し拠点を築く事すら出来ず蒙古軍は敗退するわけだが元にとってはそれほど痛手でもなかった。
なぜなら旧南宋の兵士や朝鮮の兵士のようにいつ裏切るかわからない連中を極東の海に沈めても元帝国にとって利益にはなれど不利益にはならなかったのだから。
まさに戦い慣れたモンゴルの合理的戦略だったわけだ。
111名無し三等兵:2010/01/31(日) 15:14:08 ID:???
なんか涌いたか?
112名無し三等兵:2010/01/31(日) 17:12:41 ID:???
>>110
文永の役で博多の街を焼かれたなんて事実はないよ。
モンゴル軍の奇襲はあっさりと鎌倉武士団に粉砕されたってこと。
113名無し三等兵:2010/01/31(日) 17:58:07 ID:???
>>110
なんか沸いてるなw

>鎌倉武士団は不慣れな戦いに浮き足立ってかなりの劣勢だった。
竹崎季長のように先走った奴らが順当にやられただけですが。何か?

>北九州の武将だけで奇襲されたのに良く戦ったと思うよ。
なんか日本劣性みたいなこと書いてるけど、元軍が水城にすら到達してない段階で劣勢とかないからw

>まさに戦い慣れたモンゴルの合理的戦略だったわけだ。
元寇での敗戦は元が傾く一因になっているのだが・・・すばらしい”合理的戦略”だなw
114名無し三等兵:2010/01/31(日) 18:02:08 ID:???
>>110
>元にとってはそれほど痛手でもなかった。
>なぜなら旧南宋の兵士や朝鮮の兵士のようにいつ裏切るかわからない連中を
>極東の海に沈めても元帝国にとって利益にはなれど不利益にはならなかったのだから。
南宋兵や朝鮮兵はそうかもしれんが、艦隊を失ったのは元にとって明らかに痛手でしたよ、先生w
115名無し三等兵:2010/01/31(日) 19:50:04 ID:ZtwroASa
事実上南宋の水軍丸ごと失ったことが
ベトナムの反乱鎮圧失敗に響いてきちゃってるし
元の軍事力低下に乗じてハイドゥにも行動されてるし
それほど痛手じゃないどころか、元の衰退のターニングポイントなんだがな。
116名無し三等兵:2010/01/31(日) 19:57:22 ID:???
『中国史のなかの日本像』 王勇著
「また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、
その結果として海防の弛緩を招致してしまった。十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。
注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。」
117名無し三等兵:2010/01/31(日) 20:13:15 ID:???
>>112
博多の街は占領され焼かれた事は事実だと思うのだが?
炎上する筥崎八幡宮の話もあるくらいなので間違いないと思われるが。
違う資料があるならぜひお教えいただきたい。
>>113
竹崎季長のように単騎駆けで名乗りを上げる武将が元軍を震え上がらせたという説もありますね。
殺しても殺しても単騎で突っ込んでくる敵兵の心理が理解できず怖がって逃げる兵が多かったとか。
文永の役の時は威力偵察だったので九州奥深くまで攻める意図はなかったですし、弘安の役の時は準備万端の強力な鎌倉武士団に敗退し水城には到達しませんでした。
元朝が傾いたのは相続争いです。
フビライの頃にも支持母体であった東方三王家が叛き反乱を起こしましたがようするに内部闘争によって滅びたのです。
外征はあまり影響ありませんでした。
>>114
艦隊と言っても旧南宋地域でかき集めた河船と高麗に作らせた質の悪い船なので沈んでもたいした痛手ではなかったのです。
証拠に堅牢に作られた旗艦に乗っていた幹部は台風にも沈まず無事に帰国しています。
痛手ではなかった証拠にその後にジャワ島遠征も実行されています。
>>115
ハイドゥの乱は元寇以前に勃発したものですし討伐軍の指揮官が裏切った事により長引いただけです。
モンゴル帝国にとっては痛い反乱かもしれませんが元朝にとっては僻地の乱なのでそれほど大きな影響は無かったはずです。
元朝の衰退の原因はフビライの息子の代から始まる相続争いだと思われます。
118名無し三等兵:2010/01/31(日) 20:31:56 ID:???
>>117

>竹崎季長のように単騎駆けで名乗りを上げる武将が元軍を震え上がらせたという説もありますね。
>殺しても殺しても単騎で突っ込んでくる敵兵の心理が理解できず怖がって逃げる兵が多かったとか。
先の発言と矛盾しているなw ”日本が劣勢”じゃなかったのかい?www

>文永の役の時は威力偵察だったので九州奥深くまで攻める意図はなかったですし
日本が劣勢とかほざいてたの君じゃなかった?劣勢じゃないと君自身が分かっているじゃないかw

>内部闘争によって滅びたのです。外征はあまり影響ありませんでした。
あのね、外政の失敗の影響は内部闘争にも響いてくるものなの。それをまったく関係ないとかw

>艦隊と言っても旧南宋地域でかき集めた河船と高麗に作らせた質の悪い船なので沈んでもたいした痛手ではなかったのです。
>証拠に堅牢に作られた旗艦に乗っていた幹部は台風にも沈まず無事に帰国しています。
南宋の船団がそのまま用いられているのだが・・・
で、堅牢に作られた旗艦ってのは建造も簡単ではなく量産には不向きだしコストもかかる
通常船が旗艦より質が悪いのはある意味当然のこと

>痛手ではなかった証拠にその後にジャワ島遠征も実行されています。
ジャワへの遠征が実行されたことが痛手でなかった証拠? 日本語をもう一度勉強し直してこいよw
119名無し三等兵:2010/01/31(日) 20:57:20 ID:???
威力偵察厨が文体変えて来ただけかよw
120名無し三等兵:2010/01/31(日) 21:20:44 ID:???
>>119
そのようだな

元寇総合スレ2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1259852075/

で最近見なくなったとおもったら、こっちに来たようだ
121名無し三等兵:2010/01/31(日) 22:41:00 ID:???
コテかトリップつけて欲しい
122名無し三等兵:2010/02/01(月) 01:23:59 ID:???
>>117
違う資料も何も、博多の街が占領され焼かれたなんて事を裏付ける資料が一切無い。
当時の手紙・日記・自伝、博多の神社仏閣の記録、鎌倉時代の史書、中国・朝鮮側の資料、
どれも文永の役で博多が被害を受けたなんて一言も書いてないんだよ。
結局資料にも残されてる通り、モンゴル軍の幼稚な戦法は全く通用せず、鎌倉武士の猛攻から
逃げ回るのが精一杯で、その日の内に撤退に追い込まれたというのが文永の役の真相だろうな。
123名無し三等兵:2010/02/01(月) 02:26:41 ID:???
真実はどうであれ、博多が焼かれたことを裏付ける資料がない以上”博多は焼かれなかった”というのが事実となる

>炎上する筥崎八幡宮の話

だけでは弱すぎるな
124名無し三等兵:2010/02/01(月) 05:17:49 ID:???
結局蒙古襲来は対馬壱岐平戸などの離島と越前肥前の北海岸周辺だけの局地的な災厄だったってこと?
125名無し三等兵:2010/02/01(月) 05:51:17 ID:???
>>124
そうだよ。
元側の記録でも「ただ四境を虜掠して帰る」だもん。
鎌倉幕府の防衛体制は、ほぼ完璧に機能した。
126名無し三等兵:2010/02/01(月) 07:15:38 ID:???
>>124-125
鎌倉幕府崩壊の一因になっているからそうとも言い切れんが・・・
127名無し三等兵:2010/02/01(月) 09:07:15 ID:???
大山鳴動して鼠一匹だったが、鳴動させたのが原因で崩壊、と

あれだ、こうなったら船つくって朝鮮征討しとけばよかったんじゃね?
領地切り取り放題にしてさ
128名無し三等兵:2010/02/01(月) 09:26:00 ID:dsQGxh6s
ほっとけよ。
こいつは元が本気じゃなかったから日本は
助かったって言いたいだけなんだよ。
「本気だしたら〜」だなんて典型的な負け犬のセリフだがな。
129名無し三等兵:2010/02/01(月) 09:29:25 ID:???
元が本気出したら、地上戦で多くの生命が失われた。
幕府は勝てない戦争を挑むより、国を明け渡して民本位の決断をすべきであった。
国ゆずりの神話を持つ日本人は中国軍がきたときにどうすべきか
示唆に飛んでいるといえる。
130名無し三等兵:2010/02/01(月) 10:25:06 ID:???
素晴らしい電波だw
131名無し三等兵:2010/02/01(月) 10:45:06 ID:???
釣りだろw
132名無し三等兵:2010/02/01(月) 15:12:06 ID:???
まあ元寇のせいで崩壊したのは元のほうだったが

第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、
海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる
中国の歴史12 第5章 王勇
133名無し三等兵:2010/02/01(月) 17:10:48 ID:???
そもそも何のメリットもない日本侵攻を行った時点で戦略的失敗だったね
134名無し三等兵:2010/02/01(月) 20:09:04 ID:???
>>133
やっかいな旧南宋兵を屯田兵として日本に追いやるのも目的だったようですよ。
高麗王がしきりに日本侵略を薦めるので高麗の国力も同時に削ごうという意図もあったようですね。
勝っても厄介払いができるし負けても失うのは余計な連中が海の藻屑になるだけ。
知略の優れたフビライらしい戦略ですね。
135名無し三等兵:2010/02/01(月) 20:17:15 ID:???
>>134
だから艦隊を失って大損害だって前から言ってるだろうがバカ
136名無し三等兵:2010/02/01(月) 21:01:49 ID:???
支配下の国々の軍事力を削いでしまうと、せっかく残した傀儡政権が
転覆しかねないこともわからん人なのか
さらに日本から報復侵攻を受ける可能性も考えると
貴重な戦力を厄介払いなどできないつーの
137名無し三等兵:2010/02/01(月) 22:24:15 ID:???
軍事力なんかモンゴル兵のちんちんでいくらでも兵隊孕ませられるがな。
138名無し三等兵:2010/02/01(月) 23:22:22 ID:???
>>132
市舶司の置廃は蒲寿庚みたいな南宋以来の江南現地の海上有力者層と
元朝中央から派遣された軍人・官僚たちなんかの目まぐるしい権力抗争の
力関係でその都度置廃されていたので、日本商船の海賊行為なんかの
影響とかは直接関係は無いんだが・・・

日本商船の対策を直接支持していたのは市舶司じゃなくて行省だったし。

> 元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
> しだいに消極的な閉関主義へ
うーん、何と言うか元朝時代のことはよく知らなくて「やっちゃった」って文だなあ・・
1309年の慶元での暴動で日本商船の慶元入港は禁止されたけど、交易奨励が元朝の
国是だったから外港での停泊・商取り引きは許可されていて、その後も数回日本商船からの
暴動はあったらしいが、この商取り引きの関係は元朝滅亡まで維持されている。

1309年の慶元の暴動は、荷下ろし関係の現地官吏たちと日本人側が揉め、それがこじれて
積み荷の硫黄に日本人側が引火、慶元城内の大部分が焼失するという大損害だった。
日本からの商取り引きは全面禁止という事態もあり得たが、中央からの上記の達しがあったため、
直接入港は禁じられたが、外港での貿易ということで決着となった。

日本人の入国もこれで大分制限されたんだが、「日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて」
というのはちょっと的が外れている。慶元暴動前後で日本商船の側にとりたてて武装が顕著に
なったような報告は聞かれない。入港制限も宗主国としての「罰則」が適用出来ない「異国・敵国」
からの商船でも貿易を継続するための措置で、なおかつ暴動の再発を警戒したもので、「復讐」
というのとは違う。

> まあ元寇のせいで崩壊したのは元のほうだったが
元朝の南部失陥は長く続いた宮廷の権力闘争と、凶作の続いた江南方面対策を失敗した事にあるので、
半世紀以上前の文永・弘安の役での損害とかは、全く関係がない。
139名無し三等兵:2010/02/02(火) 00:16:52 ID:???
>>138
>全く関係がない
それは極論
140名無し三等兵:2010/02/02(火) 04:18:13 ID:???
たぶん日本人にはわからないのかもしれない。
チョンのようにシナの王朝が代わるたびに属国化された経験ないからw
141名無し三等兵:2010/02/02(火) 15:14:23 ID:???
シンジ(そろそろアレのシーズンなんだけどアピールしとくべきなのか…?)
アスカ「なに?何か言いたいことでもある?」
シンジ「い、いやあ、ところでさ、ドイツでもバレンタインデーってあるの?」
アスカ「それはもちろん!プレゼント送ったりするわよ!」
シンジ「なんだ、日本と変わらないんだな」
アスカ「もっとも男が女に高いプレゼントする日なんだけどね。今年も楽しみだわ!」
シンジ(やぶ蛇…)
142名無し三等兵:2010/02/02(火) 18:31:05 ID:???
>>138
どう見ても元朝時代のことを知らなくて「やっちゃった」のはお前。
お前の妄想理論と違い、王勇の議論はより具体的。

元の日本遠征が失敗に終わってから、日本商船の武装化の傾向がいっそう顕著となり、元王朝はそれをつよく警戒し、沿岸都市の安全をはかって市舶制度の軌道修正を余儀なくされた。
たとえば、至元二十九年(一二九二)には、日本の商船が四明(今の寧波)に至り、貿易を求めたが、役人の検査で「舟中に甲仗みな具」えていたことが発覚した。略奪などの「異図」に備えて、元は都元帥府を設置して海防を固めさせた。[6]
また大徳七年(一三0三)には、江南沿岸にしばしば出没する日本船の警備として、
千戸所を定海に設けて海防を強化させるとともに、
市舶司を廃して禁海令を発布した。[7]
十四世紀初頭のおよそ二十年間、沿岸商人の密貿易がにわかに台頭しはじめ、
日本船の海賊行為も目立ってきたため、市舶司の置廃がしきりに繰り返された。
以下、『元史』巻九十四・食貨志から市舶廃立の記事を抜き出してみる。
143名無し三等兵:2010/02/02(火) 18:35:27 ID:???
右の寧波焚焼事件が元の朝野に大きなショックを与えたことは、
『元史』(巻九十九、兵志、鎮戌)の至大四年(一三一一)十月条に江浙省の海防強化要請に対する元朝の対応ぶりをみてもわかる。
「慶元と日本は相接し、且つ倭商のために焚き毀される。
宜しく請う所の如くし、その餘の軍馬遷調はこと機務に関わり、別に議して行なうべし。」
すなわち、軍隊の配置はやすやすと変えるものではないが、
倭商の暴行にそなえて、江南一帯の海防要衝に駐屯軍の調整を
至急行なったわけである。元朝の日本商船への警戒心はとても深く、
『元史』(巻一八四)の王克敬伝に
「延祐四年(一三一七)、四明に往って、倭人の互市(交易)を監する。
これより先に、往って監する者は外夷の情の測られないのを懼れて、
必ず厳兵して自衛し、大敵を待つがごとし。」
とある。日本の商人を「大敵」と見なされ、地方官は「厳兵して自衛し」
ながら、日本商人らの貿易活動を監視していたようだ。
このように、武装商人らの暴虐行為によって、
唐宋以来の友好的な日本人像はみごとに吹っ飛ばされ、
凶悪的な海賊イメージがそれに取ってかわり展開してくる。
144名無し三等兵:2010/02/02(火) 18:38:35 ID:???
妄想↓
>慶元暴動前後で日本商船の側にとりたてて武装が顕著に
>なったような報告は聞かれない。

現実↓
文章をもって世に知られる呉莱は、漢魏時代より中国に通好していた倭人は弱くて制しやすかったが、
今の倭寇はそれと異なり、「艨艟数千、戈矛剣戟」を装備した強敵なのだと述べ、
「険を恃んで兵を弄する」無礼な倭奴を「誅首すべし」と激論した。
「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。むかしは至めて弱いと雖も、
なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわや今は険を恃んで、
その強さはまさにむかしの十倍に当たる。
さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、
畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。
その欲望を満たされなければ、城郭を燔?して居民を略奪する。
海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)
士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。
しかし、その地を取っても国に益することはなく、
またその人を掠しても兵を強めることはない。[10]」
145名無し三等兵:2010/02/02(火) 18:40:34 ID:???
まあ>>138は一つ教えてくれたよ。
日本史学会の元寇議論は、昔はもとより
今もなお極めて稚拙なレベルにあり、
史料的根拠より願望を優先する代物である。

この分野にかけては、チャンコロ研究者のほうがまだマシ。
146名無し三等兵:2010/02/03(水) 00:31:33 ID:???
>>142-145であげている王勇氏の主張は市舶司の廃置が日本商船の武装に原因し、
1309年の慶元焼亡事件以降、江南の文人たちの日本人に対するイメージが決定的に
悪化したことは述べているが、

それと、>>132の「まあ元寇のせいで崩壊したのは元のほうだったが」という文章とは
全然繋がっていない。

> 以下、『元史』巻九十四・食貨志から市舶廃立の記事を抜き出してみる。
ここから先が恐らく主張の一番肝要な部分なのに何故引用を省いたのか。

「海軍力をほとんど失ったため、海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった」
と王勇氏は主張しているらしいが、>>142-145では、弘安の役における江南軍の全滅が、
江南地方にどう政治的・軍事的に影響したのか述べられていないし、「海防の弛緩」が
どう「招来」したのか、それがどうつながり、元朝末期までに「命取りの一因にもなった」
のかについて、ちゃんと論述されていない。

「お前の妄想理論と違い、王勇の議論はより具体的。」と言っている割に、そこら辺の王勇氏の
主張がどうなっているのか、>>142の引用の仕方は微妙にずれており、「具体的」とは到底言い難い。
人の事を妄想云々というが、王勇氏の主張を引き合いに出すんだったら、王勇氏が資料上に表れる
情報をどう解釈しているかをちゃんと消化してから、どう「妄想」なのかを批判すべきだ。

王勇氏の主張をネタに色々書くんだったら、もっと論点に沿った適格な部分からの引用の仕方を
すべきだろう。このような中途半端な引用の仕方はすべきではない。
147名無し三等兵:2010/02/03(水) 01:05:18 ID:???
で、出鱈目書いたことについての釈明は?
148名無し三等兵:2010/02/03(水) 04:07:23 ID:???
「また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、
その結果として海防の弛緩を招致してしまった。
十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。
注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。」

『中国史のなかの日本像』 王勇
149名無し三等兵:2010/02/03(水) 19:18:32 ID:???
>「まあ元寇のせいで崩壊したのは元のほうだったが」という文章とは
>全然繋がっていない。

誰も繋げようとしてないから。低能クンは誰と戦ってるの?

>ここから先が恐らく主張の一番肝要な部分なのに何故引用を省いたのか。

長くて煩雑だし、低能クンの論述で反論すべき部分は他にいくらでもあったからね。
ついでに言えば必ずしも一番肝要な部分ではない。
全然読めてないね。


 [成宗]大徳元年(一二九七)行泉府司を廃止する。

     大徳二年(一二九八)?浦と上海の市舶司を慶元市舶提挙司に合併する。

     大徳七年(一三〇三)商人の下海を禁じ、市舶司を廃止する。

 [武宗]至大元年(一三〇八)泉府院を復活させ、市舶司のことを整治する。

     至大二年(一三〇九)行泉府院を廃止する。市舶提挙司を行省に編入する。

     至大四年(一三一一)また市舶司を廃止する。

 [仁宗]延祐元年(一三一四)市舶提挙司を復活させる。商人の海外渡航を禁じる。

     延祐七年(一三二0)また提挙司を併合する。

 [英宗]至治二年(一三二二)泉州・慶元・広東三処の提挙司を復活させ、市舶の禁を厳しく監督する。

 このように、元朝は日本商船の武装化および遠征失敗後の日本の復讐を恐れて、初期の中日貿易奨励方針から、しだいに消極的な閉関主義にかわり、日本との通交を回避する方向をたどった。
150名無し三等兵:2010/02/03(水) 19:29:07 ID:???
>江南の文人たちの日本人に対するイメージが決定的に
>悪化したことは述べている

いい加減自分の無知っぷりを認めたら?
王勇を「やっちゃった」認定する資格は全くないよ。キミ。

 フビライの治世に、ときに日本用兵の建議もあったが、いずれも実施に移されることはなかった。
しかし、フビライは日本招諭の宿願をついに諦められず、至元二十一年(一二八四)参政の王積翁と
補陀禅寺住持の如智を遣わし、従来と違った口吻で、日本の来朝をうながした。
元使のたずさえた『宣諭日本国詔文』は中国側の文献にはみられないが、
日本の『善隣国宝記』巻上にひかれている。

 天命を受けた皇帝、聖旨を発して日本国王に諭す。むかし、彼国はよく遣使して入覯する。
朕はまた使を遣わしてこれに相報する。すでに約束を交わしており、汝の心にそれを置き忘れていないだろう。
このころ、彼国は信使を執って返さないため、朕は舟師を発して咎めさせた。
古えは兵を交わして、使者はその間を往来する。彼国は一語も交わさずして、固く王師を拒む。
したがって彼国はすでに敵国となり、さらに遣使するべきではないが、
ここに補陀禅寺の長老如智らが陳奏し、『もしまた舟師を興して討伐すれば、多くの生霊が被害を受ける。
彼国のなかにも仏教の感化があり、大小強弱の理を知っているはずだ。
臣らは聖旨の宣諭を齎奉し、必ずや多くの生霊を救う。彼国はまさに自省し、
懇心して皈附するだろう』という。奏請を許して、今長老如智と提挙王君治を遣わし、
詔を奉じて彼国に往かせる。善なるものは和好のほかになく、
悪なるものは戦争のほかにない。果たしてこれを思慮して帰順すれば、
すなわち去使とともに来朝するべし。したがって彼者に諭し、
朕はその福禍の変、天命に任せる。ここに詔示し、わが意をすべて汲み取ってくれ。
151名無し三等兵:2010/02/03(水) 19:29:51 ID:???
 右の国書には元初以来の日本観と著しく異なる点がいくつかみられる。
まずは、「興師致討」や「多害生霊」のような武力行使の方針をやめて、「和好之外、無餘善焉」
「戦争之外、無餘悪焉」といった無条件の修好を表明したこと。
次は、日本を「仏教の感化があり」「大小強弱の理を知」る国と認め、
自主的な来朝をうながしたこと。または仏教尊重の日本国情にあわせて、
はじめて僧侶を使者に起用したこと。このように、遠征失敗後の日本観の転換は明らかなものである。
152名無し三等兵:2010/02/03(水) 19:31:35 ID:???
フビライ(世祖)についで即位した成宗は、右のような新しい対日政策をさらに継続させ、日本征服の方針を徹底的に放棄した。大徳二年(一二九八)に也速答児が日本用兵を建議したとき、成宗は「今はその時にあらず」と不賛成の態度をはっきりと示した。
その翌年に、成宗は如智と同じく補陀禅寺の高僧であった一山一寧を日本に遣わし、
詔書には次のような言葉が述べられている。

 先ごろ、世祖皇帝はかつて補陀の禅僧如智および王積翁らを遣わし、
ふたたび璽書を奉じて日本に通好させる。みな中途に阻まれて還る。
ここに朕が即位してからは、諸国を綏懐し、それを海の内外に広げて遐遺するところはない。
日本との好みもまた遣問すべく(中略)道行もとより高い補陀の寧一山を遣わして諭し、
商船に附して行き、きっと使命を達成してくるとの請があり、
朕はこれを許し、先帝の遺意を成さんと欲する。惇好息民の事に至っては、
王はそれをよくよく考えてくれ。
153名無し三等兵:2010/02/03(水) 21:25:51 ID:???
もう許してやれよ
154名無し三等兵:2010/02/03(水) 22:34:12 ID:DSRQWOJR
つーかさ、威力偵察説も棄民説もそれを裏付ける史料
(例えばフビライがそういう指示出したとか、当時の南宋人の日記にそんな感じの事が書かれてるとか)
が出てこない限りトンデモ史学者たちの妄言の域出なくね?
155名無し三等兵:2010/02/04(木) 00:45:45 ID:???
史料至上主義こそ後の政権によって作られた歴史しか見えません。
156名無し三等兵:2010/02/04(木) 01:26:37 ID:???
>>155
お前バカだろ?
157名無し三等兵:2010/02/04(木) 09:03:27 ID:???
今頃になって何をw
158名無し三等兵:2010/02/04(木) 16:06:04 ID:???
>>155
史料的裏付けすらない歴史なんぞ妄想と変わらんわw
そんなことしてたらお隣みたいに小説を史実と混同する羽目になるぞ。
159名無し三等兵:2010/02/04(木) 17:05:10 ID:???
>>155
こっちでやれ
http://gimpo.2ch.net/denpa/
160名無し三等兵:2010/02/04(木) 19:11:34 ID:???
>>155
例え真実だろうと、何らかの裏付けがとれなければ事実にはなり得んのだよ
161名無し三等兵:2010/02/04(木) 20:13:13 ID:???
史料無視してOKなら議論にならんだろうがwww
162名無し三等兵:2010/02/06(土) 03:33:14 ID:???
キムチと中国様の傀儡報道機関とかしたマスゴミが朝青龍解雇で日蒙分断させようと陰謀を
はりめぐらしている。
163名無し三等兵:2010/02/06(土) 20:07:53 ID:???
時の政権によって後世に捏造した史料のみ残されるケースは珍しくない。
我が国でいうと弘文天皇を弑逆した反逆者大海人皇子の簒奪政権に
よって編まれた日本書紀、古事記とかね。

さらに古代になると蘇我蝦夷の死とともに消失されたとされる記紀などは
入鹿が天皇であったが、現大王家が簒奪したのではないかとすら思えてくる。

また白村江の戦いであるが、この際に唐から九州に都督が派遣されたと
いう記録がある。おそらく白村江に敗れた後、九州は軍事占領されたのではないか?
しかし都合が悪いのでその辺の描写はぼかしてかいたとそういうことだろう。

話を戻すが要するに史料中心主義は時の北条執権政権や高麗政権、フビライハン政権
にとってそれぞれ都合の悪い史料は抹殺されている可能性がある。

要するに史料を読むときは現存してない史料を念頭において行間を読む必要がある。
理解できたかいALL
164名無し三等兵:2010/02/06(土) 20:24:50 ID:???
行間を読むのと、自分の都合が良い様に想像するとの間には、
大きな差がある気がしまくりだが・・・
つうか、どこのどこの行間をどのように読んだ訳だ?
165名無し三等兵:2010/02/06(土) 20:33:50 ID:???
>>163
>また白村江の戦いであるが、この際に唐から九州に都督が派遣されたと
>いう記録がある。おそらく白村江に敗れた後、九州は軍事占領されたのではないか?
日本との交渉で派遣された可能性というのは考えなかったのか?
それを軍事占領されたからとか飛躍しすぎw
お前みたいなバカが資料を変に解釈しちまうと南京大虐殺の30万みたいなとんでもない話が出来上がるんだよなw
166名無し三等兵:2010/02/06(土) 20:40:18 ID:???
交渉は使節がやるもの。都督は現代で言えば軍司令官に該当するのだがw 
167名無し三等兵:2010/02/06(土) 20:49:36 ID:???
>>166
>交渉は使節がやるもの。
ハァ?軍司令官やそれに匹敵する政府の人間が交渉を行ったことなど古今東西いくらでもあるのだがw
168名無し三等兵:2010/02/06(土) 20:51:53 ID:???
都督クラスが来日したケースはその一件しかないんだけどなw
明や朝鮮との和議交渉でもそのクラスのきたことないw

それより上のクラスというと日清戦争後の交渉にやってきた李鴻章にまで時代が下るのだが。
169名無し三等兵:2010/02/06(土) 20:51:58 ID:???
>>166
そもそも、お前は使節の意味を辞書で調べ直してこいw
170名無し三等兵:2010/02/06(土) 20:53:45 ID:???
軍事的な交渉とすればを、軍司令官相当が交渉するのは、
むしろ普通だけど・・・
171名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:01:10 ID:???
>>168
>都督クラスが来日したケースはその一件しかないんだけどなw
>明や朝鮮との和議交渉でもそのクラスのきたことないw
それは理由にならんぞw

>それより上のクラスというと日清戦争後の交渉にやってきた李鴻章にまで時代が下るのだが。
日清戦争までに日本と中国とが戦った回数自体が少ないだろうに
この時と元寇、文禄・慶長ぐらいか?

先ずは、唐から九州に都督が派遣されたという記録のソースを出せ。話はそれからだなw
172名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:03:28 ID:???
>>168
>史料至上主義こそ後の政権によって作られた歴史しか見えません。
じゃ、なかったのか?w
173名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:03:57 ID:???
174名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:06:25 ID:???
>九州に都督が派遣されたという記録がある → 九州は軍事占領されたのではないか?

ゆとり乙www
175名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:08:02 ID:???
http://www2.plala.or.jp/cygnus/R41.html

これなんだと思う?w
176名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:09:31 ID:???
>>173
なるほど・・・じゃあ何で中国には唐が九州を占領したという記録が無いんだ?
また、その侵攻路や戦闘経緯は?
177名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:11:52 ID:???
マッカーサーが上陸した時に侵攻や戦闘したとでもいうのかね?
178名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:13:58 ID:???
アメリカに太平洋戦争やGHQの記録が無いと主張するのか?
179名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:15:42 ID:???
太平洋戦争=白村江の戦い
GHQ=筑紫都督府
180名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:18:05 ID:???
>>179
九州の戦いじゃないじゃん。
後、筑紫都督府の記録って
中国側にあるの?
181名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:18:47 ID:???
182名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:22:00 ID:???
>>173
関東都督府は中国の都督府だとでもいうの?w
183名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:26:17 ID:???
>>182
都督府の本来の意味知ってる?
簡単にいうと、異民族を統括する役所という意味だよ。
つまり、関東のそれは満州の異族をおさめ・・・・筑紫は(ny略w
184名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:31:02 ID:???
>>183
筑紫都督府があった=九州を唐が占領。というのはあまりに暴論すぎる
せめて、九州における戦闘記録が日中どちらかにないとな

で、何で中国には唐が九州を占領したという記録が無いの?
185名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:32:57 ID:???
>>183
大使館みたいなものがあったてことじゃないのか?
本来の意味以外の使われ方をした例なんてごまんとある
186名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:34:18 ID:???
ネット右翼必死ですね
187名無し三等兵:2010/02/06(土) 21:41:52 ID:???
>>186
必死www
何と戦ってるんだお前は?
188名無し三等兵:2010/02/06(土) 22:52:55 ID:???
急に伸びたと思ったら案の定キチガイが暴れたのかwww
189名無し三等兵:2010/02/06(土) 23:04:42 ID:???
>>188
どうやら、基地外が自身満々に知ったような事を言い出したが
突っ込まれてファビョったらしい
190名無し三等兵:2010/02/06(土) 23:22:14 ID:???
自分と意見が違う=基地外認定かわかりやすいねw
191名無し三等兵:2010/02/07(日) 00:09:13 ID:???
>>190
必死だなwww
192名無し三等兵:2010/02/07(日) 01:38:43 ID:???
大体、一時期でも九州が占領されたらどちらかの記録に必ず残るだろ
ついでにその軍勢は九州占領後どうしたんだ
何もせずに帰ったわけなのか
193名無し三等兵:2010/02/07(日) 02:20:23 ID:???
>九州に都督が派遣されたという記録がある → 九州は軍事占領されたのではないか?

m9(^Д^)プギャーーーッ
194名無し三等兵:2010/02/07(日) 02:55:26 ID:???
>>190
早く九州が占領されたという記録だせよ
ああ、そうか。日本のは”都合が悪いのでその辺の描写はぼかしてかいた”んだったねw

で、中国側の記録は?
195名無し三等兵:2010/02/07(日) 03:57:29 ID:???
朱全忠が開封になだれ込んだ時に記録が焼失した可能性がある。
196名無し三等兵:2010/02/07(日) 06:48:42 ID:???
>>195
何故に当時の日本に関する記録だけ跡形も無くなくなるんだ?
なんか根拠があるのか?たとえば朱全忠が意図的に焼いた記録があるとか
197名無し三等兵:2010/02/07(日) 07:05:30 ID:???
都焼けたら普通に王朝の蔵書の類焼けちゃうだろ。
198名無し三等兵:2010/02/07(日) 07:14:06 ID:???
>>197
特に根拠は無いわけね。
都意外にも、都督府成立時の記録が
朝鮮等、日本周辺に残って無いのも変じゃねぇの。
199名無し三等兵:2010/02/07(日) 09:44:31 ID:???
>>183
ちょっと考えてみただけでも、軍事的には
1)唐・新羅軍の侵攻能力
2)九州占領後の統治能力
3)撤退時に日本側の追撃を凌ぐ戦力
について説明が必要だろう。
百済滅亡後の新羅と唐の関係をみているととてもそんな能力はない。

ついでに
4)一連の軍の行動、現地占領時の記録がどこにもない
というのは致命的。言葉も違うのに、そう簡単に占領施策できるわけないでしょう。
200名無し三等兵:2010/02/07(日) 11:06:19 ID:???
お前ら脱線しすぎだぞ。
モンゴルの話に戻ろうぜ。
201名無し三等兵:2010/02/07(日) 20:13:07 ID:???
でも、九州を唐が占領したというならなんで唐史には残って無いんだ
かなりの重要事項のはずだ
202名無し三等兵:2010/02/08(月) 06:46:12 ID:???
>>201
もういいって
恣意的に資料から自分の思想に合致する部分だけ引っ張ってきて
太古のロマンwを書きなぐるアホがやってきただけなんだから。
203名無し三等兵:2010/02/08(月) 09:28:08 ID:???
九州全土で泣なくても筑紫一体は唐の占領地だった可能性もあるだろう。
204名無し三等兵:2010/02/08(月) 09:45:26 ID:???
可能性なんて言ってたら何でもありじゃん、
文献なり物証を持ってこいよ。
205名無し三等兵:2010/02/08(月) 10:01:47 ID:???
筑紫都督府跡地についてどう思う? 何もないのならああいうものはできないだろう。
206名無し三等兵:2010/02/08(月) 11:04:16 ID:???
日本側が九州の防衛の為に置いたものだろう、
後に太宰府にになる。
207名無し三等兵:2010/02/08(月) 15:58:56 ID:???
>>205
日本側がその呼び方をパクっただけだろw

時代は大きく下るけど、近衛都督府や関東都督府なんてのもあるぐらいだし
208名無し三等兵:2010/02/08(月) 17:24:25 ID:???
>>203>>205
ねぇよw
可能性があるってんなら、せめて唐が日本へと侵攻した記録か何かを出せよ。
筑紫都督府跡地だけじゃ根拠として乏しすぎる。>>207の言うように日本が取り入れただけの可能性のほうが遥かに高い。
209名無し三等兵:2010/02/08(月) 19:39:01 ID:???
言葉を返すが、日本側が取り入れたもしくは大使館説の根拠はなんでしょうか?
それこそ、史料を提出してもらわないとねw

>>207
「関東都督府」の意味を知っているのか?
満州におかれていて事実上の朝鮮総督府的なボジショニングにあったんだが。
その意味をよくかんがえようや。
210名無し三等兵:2010/02/08(月) 19:40:57 ID:???
>>206>>207
それはおかしな話だよね。
唐は都督を派遣したんだよ。
その説だと文脈が通らないよ。
211名無し三等兵:2010/02/08(月) 19:54:48 ID:???
都督を派遣したって、九州にか?
日本に使節として送っただけじゃねぇか。
つうか占領地なら派遣じゃなくて任命しないか?
212名無し三等兵:2010/02/08(月) 19:58:16 ID:???
ウィキペディアだけど
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C
太宰府の前身って事になってるね。
213名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:01:27 ID:???
>>209
>日本側が取り入れたもしくは大使館説の根拠はなんでしょうか?
大使館説は知らんがな、日本が他国の物の呼び方や文化を取り込むのは昔からのことだぜw
現に、都督府というのはもともと中国の言葉だが、関東都督府をはじめとするように日本で使われてるだろ
で、その取り込んだ意味をそのまま使用してるかというとそれはまた別でな、自分たちの都合に合う解釈に変更していったわけだ
関東都督府ってのは関東州統治機関だが、元の「異民族を統括する役所」という意味がそのままに適用されているとは限らんわけだよ
そのままの意味で使用されているとなると近衛都督府は矛盾だらけになっちまうだろw
214名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:07:34 ID:???
>>209
お前さんがどこか勘違いしてるようだから追記しとくけどな

>日本が取り入れただけの可能性のほうが遥かに高い。
ってのは、都督府という言葉を統治機関という意味で取り入れたということだ
つまり、元の意味をそのまま取り入れたわけじゃないから、お前さんの言う「異民族を統括する役所」という意味と合致しないのはある意味当然の話だな
215名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:15:08 ID:???
>>213

>>185に聞けよ。
そいつが言い出したことだから知らんがな
216名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:19:49 ID:???
>>213
付け加えると関東都督府は戦前まで時代が下るだろ

そんな後の時代の名称を根拠にして筑紫都督府も「呼び方を取り入れただけ」と
1400年以上前の施設を解釈するとはあまりにも暴論だろw
217名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:21:39 ID:???
資料からは欠片も見られない説を持ち出すほうがよっぽど暴論だと思うのだが…
218名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:23:00 ID:???
>>215
>>185は単なる一つの例(予想)として言ってるだけじゃないか。?マークも付いてるし

で、他のことについては反論できないでおk?
219名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:27:10 ID:???
>>216
別に、都督府に限ったことではないが、日本は昔から他国の言葉をよく取り入れてきたというだけのこと
確か、旅館とかがそうじゃなかったか?
だから、都督府という言葉を当時日本が取り入れていたとしてもそれほどおかしな話ではない
220名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:30:54 ID:???
>>216
おまえが、唐が九州(の一部)を占領した、と言っているのはいつから
いつまでだ?
水城とその関連施設建設が664年以降であり、かつ670年以降に
新羅と唐が旧百済地域の支配権を巡って争ったことからすると、極めて
短い時期だったと思うがね。
あと、水軍を唐はどう整備した?
高句麗がなお踏ん張っていたことを考えると、水軍より陸軍を先に整備
していたんじゃないか?
まずはここらへんで合理的な説明を願おうじゃないか。
221名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:47:15 ID:???
>>220
いささか電波臭が強いが、ここら辺の記述が要領よくまとめられているから
参考にされたし

http://www2.plala.or.jp/cygnus/k12.html
222名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:47:23 ID:???
論拠が”九州に都督が派遣されたという記録”と”筑紫都督府”だけじゃんねぇw
”九州に都督が派遣されたという記録”はまともなソースが示されておらず、
”筑紫都督府”は>>213氏のほうが一理ありそうだしな
223名無し三等兵:2010/02/08(月) 20:57:31 ID:???
>>221
ざっと読んだだけだが、ただでさえ電波臭が強いうえに肝心なところ(交戦記録etc...)が無いじゃん
しかも参考文献や資料すら載ってないし・・・俺が見逃してるだけか?
224名無し三等兵:2010/02/08(月) 21:46:55 ID:???
「筑紫」って唐側がつけた名前なのか?
唐が日本の地名を採用してつけたのか?
225名無し三等兵:2010/02/08(月) 22:00:03 ID:???
筑紫島=九州だよ。
そもそも九州と呼ばれるようになったのは律令制度が整備されてからの話だよ。
226220:2010/02/09(火) 03:03:26 ID:???
>>221
リンク先飛ばしながら読んだが、6世紀に大和政権が分裂して一方が百済と結んで敗れ、唐に占拠されました、なんていうトンデモ史観じゃないか。
九州が占領されたのは以下の理由。
「『三国史記』を読めば、「唐羅軍」に敗れた「百済」が、厳しく戦争犯罪を問われ処分されたのに対して、同じく敗戦国である「倭国」が戦争犯罪をどうして免れることができようか。
 当然占領政策が布かれたと考えることに、疑問を挟む余地などない。」

余地がいっぱいありすぎて困っちまうな。
227名無し三等兵:2010/02/09(火) 03:08:10 ID:???
そのトンデモ史観はフィルタリングしてくれて構わないから。
ただ、実際に唐が都督を派遣して九州を占拠したとする
学説は実際にあるんだよ。
228名無し三等兵:2010/02/09(火) 03:14:35 ID:???
「してくれて構わない」?じゃあそこは遠慮して徹底的に叩いてやるよw
229名無し三等兵:2010/02/09(火) 03:18:50 ID:???
史観そのものはこのスレ的には関係ないし、元々は史料の文脈を読み取る一例として
あげたまでの事。
そこに食いつかれただけで、要は過去の事象は史料だけでなく文脈および行間を読取り
真実を明らかにすることが肝要だとそういう話をしているだけだよ。

元々元寇のスレだし、これ以上の議論は無駄。>>163の真意は今申し上げた通りだ。
さて、そろそろスレ違い、板違いも良いところだし、モンゴルの話にもどろうぜ

じゃ次の人↓話題変えて。
230名無し三等兵:2010/02/09(火) 03:21:25 ID:???
付け加えると、>>163にある通り、「九州は軍事占領されたのではないか?」と疑念を呈しているのみで
断定してはいない。実際にそういう風に解釈している学説もあるし(検索すれば分かるだろう)

要するに玉虫色と言う事でこの話題から離れてモンゴルの話に戻ろうか。


↓次の人話題転換よろしくお願いします。
231名無し三等兵:2010/02/09(火) 03:22:01 ID:???
自分でやれ
232名無し三等兵:2010/02/09(火) 03:42:55 ID:???
>>227,229,230
まさか夜中に話が進むとはw
しかし朝散大夫がどの程度の役職か知らずに、記紀などの一文から妄想たくましく、歴史を語る人って多いんだね。検索してびっくりしたよ。

〉要は過去の事象は史料だけでなく文脈および行間を読取り真実を明らかにすることが肝要だとそういう話をしているだけだよ。
それは当時の政治・経済・軍事・文化全般を横にらみしながら史料批判できればの話。おまえさんのやっているのは妄想の垂れ流し。
挙句具体的なことが回答できないと見るや、話題転換。IDが出るならあぼーんできるのに。
233名無し三等兵:2010/02/09(火) 06:55:06 ID:???
学説なんてもんは探せば、およそどんな物でもあるもんで、
学説が存在するだけでは、話にならんな。
玉虫色じゃなくて完全否定されて話に戻るって事だな。

後、古代ならともかく、13世紀の出来事で、
敵味方双方の記録に全く出てない仮定など
議論する価値も無いんじゃないか。
234名無し三等兵:2010/02/09(火) 13:50:39 ID:???
ウルセー馬鹿
235名無し三等兵:2010/02/09(火) 14:34:48 ID:???
簡単ですよ。裸一貫で船から放り出されて送ってきた船が全速退避、これでそいつが都督名乗ったってハァ?でしょ?
都督以外に色々付いてきたはずで、そういう史料は存在するの?
236名無し三等兵:2010/02/10(水) 02:42:48 ID:???
>>234
ファビョったw
237名無し三等兵:2010/02/10(水) 04:59:41 ID:???
>>234
およそ通説に反することを主張するのであれば、当該事件について、
「通説より合理的な」説明ができることが絶対的な条件だと思う。
「元軍が圧倒していたがなぜか撤退しました」という(今や過去のものになりつつあるが)通説に対して
本スレでの「いや鎌倉武士が圧倒していたんじゃね?」という主張がまさにそれ。
妄想史観は当時の科学技術や、前後の事件とのつながりなどを無視するから、多少疑って読み始めると
すぐぼろが出る。なにせ書いている本人が「歴史を作る快感」に酔っているから穴だらけ。
238名無し三等兵:2010/02/10(水) 06:08:42 ID:???
ところで>110あたりから出てきた威力偵察厨が博多の街が焼けたと主張しているが、
実際そういう主張をしているHPも結構ある。とはいえ具体的なソースを提示したのを見たことがない。
博多のwikiにも焼失とあるが、実際丸焼けになったのだろうか?それとも単に元軍が撤退の際、
放火したのを読み違えたのか?
239名無し三等兵:2010/02/10(水) 07:20:07 ID:???
>>238
博多の街が焼けたという主張の根拠はただ一つ。
八幡愚童訓に「博多から避難した人たちが一夜明けて帰ったら家々が跡形もなくなってた」という記述があるから。
で、その他の史料との比較検証とか一切しないまま、この記述だけを根拠に博多焼失が通説になってたわけ。
本来なら、八幡愚童訓以外に裏付ける史料が一切無い時点で、記述の信憑性を問題にするべきだったのに。
実際には八幡愚童訓の記述は単なる書き間違い。
八幡愚童訓より成立時期の古い八幡ノ蒙古記だと、該当箇所の記述は「博多から避難した人たち」ではなく
「博多に避難した人たち」なんだよ。
避難民は博多で一夜を過ごしてるわけで、元軍に占領されたり、焼き払われたりしてるわけないじゃん。
これで博多焼失に関する唯一の史料も消滅。
240名無し三等兵:2010/02/10(水) 10:57:57 ID:???
おお、これは参考になった
241名無し三等兵:2010/02/10(水) 11:43:42 ID:???
自演乙
242名無し三等兵:2010/02/11(木) 01:53:01 ID:???
ファビョンなよ偵察厨。
いや、今は玉虫妄想くんとでも呼ぼうか
243名無し三等兵:2010/02/13(土) 03:15:56 ID:???
「学説がある」ねえ…
でもかの国じゃこんなのもそのうち「学説」扱いなんでしょ?

サムライの起源はサウラビといったとんでもない馬鹿話が何故韓国で流布するのだろうか。

サウラビ起源説の「起源」を追ってみたところ、1983年まで遡ることが判明している。
初めてこの説が発表されたのは、
数学史が専門で漢陽大学教授の金容雲が著した「韓国人と日本人」(1983) だ。
彼の説明では次のようになるそうだ・・・

>韓国語で戦うということを「サウル」といい、男を「アビ」という。
>「戦う男」を韓国語でじかに表現すると、「サウルアビ」になる。
>飛躍がすぎると叱られるのを覚悟で、アマチュア式思考でいうと、
>日本の「サムライ」と、韓国の「サウルアビ」と、
>なにかつながりがありそうに考えられる。

本人の言う通り、素人の思い付きにすぎない。
こうしてサウラビ起源説は世に現れたらしい。
これが時間の経過とともに「学説」となり、
さらに「歴史的事実」として韓国人の間に流布していったそうだ。


>飛躍がすぎると叱られるのを覚悟で、アマチュア式思考でいうと、
>飛躍がすぎると叱られるのを覚悟で、アマチュア式思考でいうと、
>飛躍がすぎると叱られるのを覚悟で、アマチュア式思考でいうと、
244名無し三等兵:2010/02/13(土) 06:01:49 ID:???
八幡愚童訓、八幡愚童訓とウザイ
これ一つで鬼の首をとったように否定されてもねぇ!
245名無し三等兵:2010/02/13(土) 07:33:27 ID:???
>>244
単なる一つの学説だけで騒いでたのは君だろうにw

結局、反論できずファビョることしかできないんだなw
憐みすら感じるよ
246238:2010/02/13(土) 09:14:06 ID:???
>>239
お礼が遅れすまない。
もし博多の街が焼けていたのならそれはいつだろうとおもってね。
高麗側が言う暴風雨が博多上陸当日の夜中にあったなら、博多の街はそもそも焼けていないだろうと漠然と考えていたから。
そうすると日暮れ後撃退された元軍は大慌てで、放火・略奪する暇もなく撤退したわけか?
月明かりがどんなものか知らんが、よく撤退できたものだ。
247名無し三等兵:2010/02/13(土) 13:47:07 ID:K6bmewcP
>>246
両軍日暮れも計算にいれてお互いに後退したんだと思う。
今もそうだが、当時ならなおさら夜襲は混乱しがちで
大兵力を投入するとかえって攻撃が散漫になり墓穴を掘ってしまうから。
夜は少なくとも主力は陣地にこもって守りを固めるのが基本。
日本側は数で劣勢だから深追いは避けた。
元側も敵地で劣勢だから無理は避けた。

史料からは日本軍の優勢は疑う余地はないが、
同時に元軍が決定的な被害は受けていないのも確かだと思われる。
248名無し三等兵:2010/02/13(土) 13:57:15 ID:???
で、撤退途中に嵐にあってあぼ〜んと

文永の役に神風が吹いたと勘違いされるのはこれが原因だな
神風で撤退したんじゃなく、撤退途中で嵐に遭ったと
249名無し三等兵:2010/02/13(土) 14:29:19 ID:???
決定的な被害でなければ、船まで逃げないだろう、
つうか上陸軍が、陣地を作れず野営できないって事
自体が決定的な被害であり敗北
250名無し三等兵:2010/02/13(土) 14:39:19 ID:K6bmewcP
>つうか上陸軍が、陣地を作れず野営できないって事

船のそばに陣地を作ってるし、野営もしてる。
日本軍はそこまでは攻撃しなかった。
翌朝偵察して初めて、元軍がいなくなったのを知った。
251名無し三等兵:2010/02/13(土) 14:50:38 ID:K6bmewcP
>決定的な被害でなければ、船まで逃げないだろう、

「負けていなければ、水城まで逃げないだろう」と同レベルの論法だ。

10kmと離れていないところに立派な大宰府があり、
他に大した地形もないから、
元にとってはどこに野営しようと同じ。
陣地の防衛能力に差がありすぎるから
一方的に攻撃を受けてしまう。
それなら船のそばに野営したほうが補給線も防衛線も短くできて都合がいい。
252名無し三等兵:2010/02/13(土) 14:57:27 ID:???
>>250
朝までに、いなくなったって事は、野営できてねぇじゃん。
>>251
上陸ていうのは面倒なんよ。陸での安全を確保出来なかった時点で完全に負け
現に、本国まで逃げる間に莫大な被害がでてる。
253名無し三等兵:2010/02/13(土) 15:05:37 ID:K6bmewcP
>>252
野営して軍議を開いてるが。
君は史料を読んでないね。

>上陸ていうのは面倒なんよ。
文永の役の上陸は全くもって面倒ではなかったがな。
海岸部にいたのは松浦党だけで主力は水城で迎撃体勢にあったから。
君は何の話をしてるの?
254名無し三等兵:2010/02/13(土) 15:26:05 ID:???
>>253
万単位の人の船への乗り降りが面倒じゃ無い訳ないだろう、
戦闘がなければ一瞬で出来るとでも思ってるの?

野営に問題ないなら船に戻る必要ないじゃん。
被害がないなら、なんで朝になる前に逃げてる訳
255名無し三等兵:2010/02/13(土) 16:04:42 ID:K6bmewcP
>万単位の人の船への乗り降りが面倒じゃ無い訳ないだろう、
失笑wwwじゃあ軍事行動は全部面倒だな。
君は何が言いたいの?

>野営に問題ないなら船に戻る必要ないじゃん。
?意味不明なんだけど。
誰も問題ないとは言ってない。
決定的な損害がない場合でも、大宰府攻略が成らない現状では
船のそばで野営するのがベストの選択だとは言ったが。

>被害がないなら、なんで朝になる前に逃げてる訳
あの、高麗史金方慶伝は前スレから数えて
百回は引用されてる気がするんだが。
それにはっきり書かれてるからとりあえず自助努力してください。
256名無し三等兵:2010/02/13(土) 17:18:36 ID:sNj0Uu8E
2度目の元寇は海岸はプライベートライアン状態だろ
弓の射程に上陸地点すべて入ってる
元軍は前にすすむしか手が無い状態
257名無し三等兵:2010/02/13(土) 19:11:36 ID:???
武士は一騎打ちしない卑怯者集団
258名無し三等兵:2010/02/13(土) 20:10:53 ID:???
> 2度目の元寇は海岸はプライベートライアン状態だろ
おお、なんと的確な表現だ。
しかし日本側の矢玉は有限なんだからたとえば船を難破覚悟で一気に突っ込ませ、とにかく森林地帯にでも根拠地を作る・・・わけないか。
帰りの台風で壊滅するとわかっているから、↑の発想ができるのだし。
石垣で重装備が上陸困難であるとわかった時点で撤退するという選択肢があればよかったが。
ところでフビライは何カ月も海上で待機していることについて督戦などの指示はしなかったのか?
259名無し三等兵:2010/02/13(土) 20:17:25 ID:0FguZEuH
遥かに確実な方法として志賀島に根拠地を作ろうとしたよ。
一本しかない狭い陸橋から突っ込んできた武士にボコボコにされたけど。
あんなに有利な状況ですら勝てないんだから何やっても無駄。
260名無し三等兵:2010/02/13(土) 20:51:50 ID:???
>>259
元軍と言っても主力が降伏した南宋軍なんだから当たり前だろ…

ペルシア戦争でギリシャ軍が勝ったのと同じ
インダス川河畔で徴兵された兵士がギリシャで死にたいと思うかどうかだよw
261名無し三等兵:2010/02/13(土) 21:08:43 ID:8E4bHdBM
やる気が無かった
262名無し三等兵:2010/02/13(土) 21:17:05 ID:0FguZEuH
>>260
アホすぎて何も言えない。
志賀島で戦ったのは元と高麗が主力の東路軍。
弘安の役を語る上で初歩中の初歩。
100年ROMれ。
263名無し三等兵:2010/02/13(土) 21:22:35 ID:???
強い南宋兵は日本に棄民されたのでベトナムは助かった
264名無し三等兵:2010/02/13(土) 21:47:13 ID:???
>>260
南宋軍主体なのは江南軍だよw
で、江南軍は東路軍と合流してどれほども経たずに神風であぼ〜ん
こんな常識以前の知識すら無いのに偉そうにさえてもなw
265名無し三等兵:2010/02/14(日) 01:00:08 ID:???
無知なヤツが来るとスレが伸びるw
266名無し三等兵:2010/02/14(日) 01:33:45 ID:???
>>253
野営はしてないよ。
軍議を開いたのは夕暮れの頃で夜は海上で風雨に遭ってたと高麗史に書いてある。
267名無し三等兵:2010/02/14(日) 03:50:03 ID:???
>>263
水木しげるのベトナムの話に似た主張がありましたネ
268名無し三等兵:2010/02/14(日) 13:01:48 ID:???
>>264
一応補足
台風のあと鷹島で戦ってる


異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ

八幡ノ蒙古記

南宋兵は武士の力に敗北
269名無し三等兵:2010/02/14(日) 14:20:49 ID:???
防衛3倍の原則に、1人あたりの錬度がたかい鎌倉武士団オールスターズでドン
だからなあ

どんなに元朝・モンゴルが万全でも勝てるはずがない
270名無し三等兵:2010/02/14(日) 14:22:20 ID:???
補給がなんとかなってたら高麗侵攻もできていた可能性高い
271名無し三等兵:2010/02/14(日) 14:37:56 ID:7nDLmX46
文永の役では防衛三倍の法則は満たされていた。
武士側は一万もいなかったのに対し、
元側は4万だったか?
それでも海岸から10kmと離れていない大宰府どころか、
水城にすら指一本触れられなかった。
272名無し三等兵:2010/02/14(日) 16:56:31 ID:???
だから、そもそも文永の役で大宰府が攻略目標とされていたかは怪しいと
何度言えば分かるのか・・・
>『元高麗紀事』の記述は根拠にならないから

あと、水城の手前までには多分偵察目的だと思うが劉復亨が来ているぞ。
少弐景資の一党に射られて怪我したけど。
273名無し三等兵:2010/02/14(日) 18:21:00 ID:S+RlCnd6
>『元高麗紀事』の記述は根拠にならない

理由を述べてください。
お前の妄想よりはいい根拠だが。
274名無し三等兵:2010/02/14(日) 20:35:31 ID:???
>>272
では、目標は何なの?

2万以上の兵力を動かして何も目標がないのはおかしい。
また、その後の対日交渉に有利になるものでないと目標にならない。

太宰府攻略が目標じゃないとしても、野戦軍(九州方面)の撃破ぐらいがないと
目標にならない。

史実の展開だと、対日交渉は進展せず第2回侵攻が行われた。
戦訓を生かして防御を固められて2回目は難戦を強いられた。
良いことがないように見えるが。
275名無し三等兵:2010/02/14(日) 22:01:28 ID:???
元軍は赤坂で菊池に蹴散らされてそのまま撤退だろ
276名無し三等兵:2010/02/14(日) 22:19:23 ID:btrfJlIn
>>272
劉復亨が射られたのは水城の手前だという根拠は?
少弐景資隊が退却する途中なのは確かだが、場所は不明の筈。
277名無し三等兵:2010/02/15(月) 18:06:56 ID:???
元って準備諜報活動不足だよね。
オレなら佐世保や長崎に上陸して兵船は波の穏やかな大村湾に投碇させるけどね。
278名無し三等兵:2010/02/15(月) 18:40:15 ID:???
戦闘中だというのにいちいち場所を確認できるか。
難癖つけるのいい加減にしろよ。

>>277
事前に京や博多で間者が多数潜入していたよ。
279名無し三等兵:2010/02/15(月) 20:47:05 ID:???
>>273
『元高麗紀事』では確かに耽羅人の発言として太宰府を攻めるのに2、3万の兵力が必要だ、
と書かれているが、これを奏上した中書省はこの意見を退けているため、文脈上、この耽羅人の
発言が政策として採用されたものではないから。

『元高麗紀事』の当該部分は、日本遠征の三年前、至元九年十一月十五日のこととして、
中書省がクビライへの奏上に出て来る耽羅人の発言からの引用だが、中書省はその耽羅人の発言を
却下して耽羅遠征の優先を主張し、クビライもそれを承諾して耽羅島遠征計画について中書省との
協議に終止していて、それ以降の文中には太宰府は全く触れられていない。その後も日本遠征計画に
この耽羅人の発言が何らかに考慮されたり採用されたような形跡が、関連資料には全く見られない。

日本遠征の三年前に中書省と枢密院との協議の中で、耽羅人が図本と「太宰府に?」という
発言があったと奏上のなかで触れているだけだが、遠征の前年に一年ほどの滞在の後、太宰府から
帰還した国使・趙良弼の場合は、現物は残っていないが「日本の君臣爵号、州郡の名や数、風俗や産物」
についてより詳しい報告をクビライ自身にしている。
日本への政策には中書省の奏上中にちょっと触れられただけの耽羅島人の間接的な発言よりも、
国使である趙良弼の提出した報告データを採用されたはずと見るのが自然、などが理由。

特に『元高麗紀事』の記事自体が退けるべきものとして耽羅人の発言を出しているだけだし、
以降の『元高麗紀事』本文中はもとより、『元史』『高麗史』はもとより『国朝文類』など
元朝時代に編纂された文書集などにも日本遠征計画に関する部分で、この耽羅人の発言について
載っておらず、類似の意見が採用されたような形跡が全く残っていないのは注目すべき。

これら『元高麗紀事』については、今の元寇総合スレの最初の部分で長々と説明があるんで、
それをこちらに転載するのも手間だから、そちらをまず確認してくれ。

元寇総合スレ2
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1259852075/16-46
280名無し三等兵:2010/02/15(月) 21:16:20 ID:???
>>279
コピペばっかしてないで>>274に答えたらどうだ
281名無し三等兵:2010/02/15(月) 22:18:24 ID:???
>>264
俺は日本軍の編成について調べて
遺跡後も調べただけだからね…

主だった上陸予想地点には陣地が構築されてて
今で言う十字砲火の前に敵前上陸なのを指摘したまで。
282名無し三等兵:2010/02/15(月) 22:21:43 ID:???
>>259さんですか? レス先をお間違えでは…?
283名無し三等兵:2010/02/15(月) 22:28:31 ID:???
>>281
返答先間違えてるぞ
284名無し三等兵:2010/02/16(火) 03:41:51 ID:???
>>279
そりゃ単に大宰府を「2、3万でなら攻められる」、「先に攻めよう」を却下したってだけじゃん
結局戦略目標が大宰府でないという根拠になってない

285名無し三等兵:2010/02/16(火) 04:26:54 ID:???
>>276
文永の役の時の博多湾周辺での戦闘については、『八幡愚童訓』が主な典拠資料に使われるが、
実は、この『八幡愚童訓』自体、写本によって博多湾周辺での戦闘の経過を描写する内容が
それぞれ二種類に別れている。それぞれのおおよその流れとしては、

1)の系統:幕府軍劣勢→ 大男(流将公)の一部隊来襲 → 少弐景資らが射倒す
    → 博多、筥崎の放棄 → 幕府軍水城へ退却

2)の系統:幕府軍劣勢 → 幕府軍博多、筥崎の放棄 → 幕府軍水城へ退却
    → 大男(流将公)の一部隊来襲 → 水城から出撃して少弐景資らが射倒す

というようになる。
問題の少弐景資(の一党)が劉復亨(「享」にあらず)らしい「流将公」なる人物を射った話だが
文永の役部分での個所は、これも上述のような感じで写本ごとに文脈が前後している。

『八幡愚童訓』は本文に「九十四代朝庭異姓更ニマ(坐)シハラス」と書かれているため、
少なくとも花園天皇(在位1308-1318年)頃には成立していたと考えられているそうだが、
蒙古襲来への八幡大菩薩の神威発揚を祈願する風潮や、武士階級の八幡信仰の展開にあわせて
鎌倉時代から室町時代にかなり読まれた。

『八幡愚童訓』も写本ごとに内容に微妙に異同やら差異やらがあるんで、そこら辺を
きちんと了解して使わないと、実際の文永の役の状況の分析どころか最悪ただの論者に
都合の良い話しの羅列になりかねないから、なかなか扱いが難しい資料。
286名無し三等兵:2010/02/16(火) 04:28:30 ID:???
>>285の続き。
『八幡愚童訓』で文永の役について詳しい記事があるのは甲種とよばれる系統の諸本だけど、
鎌倉末期に成立したらしい菊大路本(『八幡愚童記』)、書写年代の明記がある、東大寺上生院本
(『八幡愚童記』文明12年(1480年)書写)、いわゆる文明本(『八幡大菩薩八幡愚童訓』
文明15年(1283年)書写)など、群書類従本や江戸時代中期に『八幡愚童訓』の文永・弘安の役
部分の典拠に使われたものとして漢学者・橘守部が見い出した『八幡ノ蒙古記』(正応2年(1289年
との跋)まで含めると色々とある。
(上の1)2)は便宜上分けたもので、『八幡愚童訓』の研究上の分類とはまた別物)

上述の1)、2)の区分で言うと、
1)は菊大路本、東大寺上生院本、文明本などの現存の『八幡愚童訓』の多数。
2)は『八幡ノ蒙古記』、群書類従本など一部。

一般に知られている『八幡愚童訓』の多くが1)の方であるため、少弐景資の一党が「流将公」を
射た場面は、良く分からないが博多周辺での戦闘中でのどこか、という感じで、しかも「流将公」を
射たのは少弐景資本人とする場合が多い。

2)の『八幡ノ蒙古記』、群書類従本などの記述に基づけば、
幕府軍が博多・筥崎の放棄して幕府軍は水城へ退却したあと、顎鬚がヘソまであるという背丈も七尺、
鎧をまとい葦毛の馬にのった「蒙古の大将」と思しい人物が「十四五騎」と「徒人七八十人」を引き
連れてやって来たらしい。
この時、八幡神の瑞兆を感じた少弐景資の一党が水城から迎撃に出て、少弐景資の郎党のひとりが
この大将っぽい人物を射ると命中。動揺したこの大将の手勢は大将を抱えて退却したが、少弐景資の
一党はこれを追撃した。彼らは(恐らく「徒人」のひとりのようだが)兵のひとりを捕縛し尋問すると、
あの大将らしい人物は「蒙古一方の大将、流将公と云うもの」だったという。というのが話の筋だ。
287名無し三等兵:2010/02/16(火) 06:00:40 ID:???
>>273
>目標
文永の役の軍勢が、モンゴル帝国の辺境部に置かれた鎮守軍(探馬)と同質の軍だったと考えるなら、
「相手政権に服属を促すため、掠奪や現地の軍を攻撃するなどして武威を示す」という鎮守軍の
通常の外部遠征と同じことが、文永の役の目的でもそうだったと考えても、特に不自然なところは無い。

『元史』では「矢が尽き」「官軍整わず」とは書いているが、「その国に入りて、これを敗る」
「惟だ四境を虜掠して帰る」とあって、直接、遠征軍が敗退したような事は書かれていない。
「四境を虜掠(捕虜を獲て掠奪を行う)」したとあるが、実際に『八幡愚童訓』や日蓮の書簡などでは
対馬や壱岐、平戸、能古、鷹島などの地域で掠奪や男女が捕虜にされたことが述べられており、
『高麗史』でも高麗国王とその王妃となったクビライの公主に童男女の捕虜が献じられたことが
出て来ていて、これらの「四境を虜掠」などの記述の裏付けができる。

関連スレでは、武士側が博多湾周辺での戦闘で遠征軍を敗退させ、文永の役は鎌倉武士側が勝利した、
とする意見が大勢を占めているが、文永・弘安の役の直後に編まれた日本側の資料は総じて武士側が
敗退したと見ているものの方が目立つ。

遠征軍の目的がこの種の「相手政権に服属を促すため、掠奪や現地の軍を攻撃するなどして武威を示す」
という鎮守軍の通常の外部遠征と同じと考えるなら、捕虜の獲得や日本側へ「蒙古の脅威」を強く
印象付けることが出来ているため、「掠奪や現地の軍を攻撃するなどして武威を示す」ということは
軍が帰還出来た段階で、文永の役での遠征の目的は達成出来ていた、と考える事ができる。

しかし、これは一回やれば終了。ということではない。
この種の軍の遠征の場合、再度兵員や装備を補充しつつ、何がしか使者や書簡を送って明確な
意思表示をするまで、何度も何度も催促の使者と侵攻を繰返すのが通例だが、弘安の役まで
日本への文永の役規模の遠征は、周知の通りまったく行われなかった。

つまり、遠征での戦闘自体の勝敗やら正否やらに関わり無く、文永の役の一回だけでは
「相手政権に服属を促すため」の軍事行動としては中途半端のままだったと言えるだろう。
288名無し三等兵:2010/02/16(火) 06:12:00 ID:???
>>287の続き。
上述の鎮守軍(探馬)と同質の軍だったと考えるなら、例えばモンケの時代の高麗遠征のように
九年で七回とかみたいに、隔年とか二年置きに北九州一帯を満遍なく侵攻して(防塁を建設を
妨害するとかみたいな)北九州での防備体制を疲弊させるくらいのすべきはずだったが、
周知の通り、文永の役と弘安の役とでは七年もブランクが空いている。

これは、元朝や高麗側に間断なく遠征を継続するだけの余裕が無かったことに原因している。

まず、文永の役の翌年から翌々年にかけて高麗では、文永の役の時の高麗軍の指揮官、金方慶が
謀反を企てたと(洪茶丘を中心として)誣告する事件が起こり、さらに高麗国王、忠烈王が
自分の妃でもあるクビライの公主クトゥルク=ケルミシュを呪詛したとの中傷が大都に報告され、
高麗はこの事件を解決するために、忠烈王やその廷臣たちが高麗と大都を往復して、クビライの
面前で洪茶丘などを相手に釈明に熱弁を振るうなど大変な事態になった。
(忠烈王が日本への遠征に積極的だった云々の話は、この時の釈明に出て来る。それまでは
 高麗の負担を軽減してくれるよう懇願するだけだったが、謀反を疑われた事に反駁して
 激して日本への遠征が計画されたら高麗も積極的に後押しする!というようなこと言って
 しまった。かなりテンパってうっかり口を滑らした感じだ)

さらに、1277年に元朝領西端のアルマリクでシリギの乱が勃発。クビライの嫡子のひとり
ノムガンやその幕僚たちが捕縛、連行され、東部でもすぐに鎮圧されたが、高麗のすぐ北の
興安嶺周辺のモンゴル王侯の一部が乱に同調していくつか決起している。
翌年には反乱王族たちはカラコルム近辺を掠奪。この事態に対して南宋遠征に従事していた
丞相バヤンをモンゴル高原へ転戦させている。クビライは断続的に北方の軍を増強する事で
反乱王族たちを西部へ徐々に押し出す作戦に出て、1280年にキルギス方面での戦闘で
シリギらの軍は敗退、ようやく事態は鎮圧に向かう。1281年に反乱王族たちは内訌のすえ
シリギらは捕らえられ反乱軍は投降、シリギの乱は終結した。同じ年に皇子ノムガンも釈放
されたらしい。
289名無し三等兵:2010/02/16(火) 06:15:36 ID:???
>>288の続き。
高麗にとって北方のモンゴル王族による反乱は、いつ自分のところに飛び火するか知れない
事態であったため、到底継続的な外征をするだけの余裕はなかった。後のナヤン・カダアンの乱
などでは、反乱鎮圧のために高麗も軍を送っているし、逆に逃げ延びて来たカダアンに高麗領内に
侵入され諸城が占領されてすらいる。

文永の役の後、元朝から何度か使者が送られているが、周知のようにこれらは尽く処刑されている。
モンケの時代までだったら、使者が殺害された、拘引されて帰還出来ない状態になっていると
知れたら、直ぐに「問責の軍」が派遣されるものだが、1270年代後半は南では南宋征服が佳境で、
時の同じくして北方ではシリギの乱が起こっていた。使者への報復として軍を派遣するにしても
南宋遠征かシリギの乱のどちらかが片付くかしないと無理だったろう。

1279年には崖山の戦いで南宋は滅んだが、これによって南方に回していた軍を北方へも回せる
余裕が出来、シリギの反乱軍を決定的に弱体化させモンゴル高原から締め出す事に成功している。
弘安の役で南宋からの大規模な水軍を使用出来るようになった事が、遠征実行の重要な要素と
なった事は周知の通りだが、恐らく北方の動揺がある程度解決したことも大きく関わっている
と考えても良いだろう。

本来は使者の派遣と軍事侵攻を併行するものだったが、文永の役から弘安の役では、元朝内部の
問題でこういった通常手段が取れず、この期間は使者の派遣のみという半端な対処しか出来なかった、
というのが実情だったろう。
290名無し三等兵:2010/02/16(火) 06:51:50 ID:???
>>284
何度も言うが、文永の役の時に大宰府が攻略目標だった、という確実な証拠だとも状況的に言えない。
耽羅人のいう数字が妥当なのか、枢密院や中書省が現地に一年近くもいた趙良弼の意見も加味して
判断したはずだが、何がしか政策決定に関わったような形跡が無いのは重要だろう。

『元史』日本伝ので、弘安の役の時に太宰府が攻略目標とされていたことが明言されているので
問題ないが、もし文永の役の時にも攻略目標として設定されていたら、この部分で「再び太宰府を攻める」
とかそれらしい文言があってしかるべきだが、何ら触れられていないのも注意すべきだろう。

2、3万という軍勢も、拠点攻略や占領は必ずしも必須とはされない鎮守軍の遠征と同じと考えると、
軍の規模だけで、「大宰府や水城のような拠点、城塞」の制圧が目的と判断する事も出来ない。

耽羅人の発言だけでは単発では証拠としては薄い。耽羅人の発言が何らかの形で政策に反映された、
という具体的な証拠が無い限りは、「耽羅人の発言」と「文永の役での軍勢規模」との関係は、
ただの「偶然の一致」の枠内で終わってしまう。
特に何もなかったら両者を繋げて考えるのは普通に有りかもしれないが、モンゴル帝国としての
軍制上の問題が絡んでいるので、それらを考慮せずに安直な結論を出すのは避けるべきだろう。
291名無し三等兵:2010/02/16(火) 06:52:10 ID:???
文永の役でも、理由はどうであれ、遠征軍の約3分の1という被害が出てる以上、
何が目的であったとしてもしても敗北であることには間違い無い。
そもそも、当時の状況として、暴風雨ではなかったようだが、天候も考慮せず、
夜間に出港というのは、無謀と言うべき話で、かなり逼迫した状態であったことは、
想像に難くない。結局のところ戦略的にも戦術的にも元の敗北であったのだろう。
292名無し三等兵:2010/02/16(火) 07:29:58 ID:???
長文の人のは長いし連投だしで読む気になれん
そこを我慢して読んでも結局要点がないので意味不明
三行とは言わんがもう少し文章をまとめる癖をつけよう
293名無し三等兵:2010/02/16(火) 07:30:11 ID:8/aNV9dG
> 「掠奪や現地の軍を攻撃するなどして武威を示す」ということは
> 軍が帰還出来た段階で、文永の役での遠征の目的は達成出来ていた、と考える事ができる。

じゃあ官軍相整わず、とか矢が尽きた、とか
見え透いた言い訳使わずに、予定通り撤退しました、
と書けばいいだけ。何度言わせればいいの?
史書には予定どおりなんてことを裏付ける論拠なんてない。
反対のことは書かれているが。

>文永・弘安の役の直後に編まれた日本側の資料は総じて武士側が
>敗退したと見ているものの方が目立つ。
日本軍が敗退していると見ているのは
はるか後になって書かれた八幡愚童訓しか知らないが。
294名無し三等兵:2010/02/16(火) 07:32:14 ID:???
>>290
少なくとも博多湾から上陸して「幕府に何らかの打撃もしくは脅威を感じさせることが可能なポイント」
は大宰府しかないわけだが…
295名無し三等兵:2010/02/16(火) 17:06:40 ID:???
ぶっちゃけ防衛線なので日本側には
敵を追い払えば勝ちなんだけどなぁ…

珊瑚海海戦みたいにどっちが勝ったか微妙な戦いじゃないのにな
296名無し三等兵:2010/02/16(火) 19:35:16 ID:VrJVeqbr
敵を追い払うだけなら
ベトナムも最終的には成功している。
その過程で元に首都を制圧され属国化もされたが。

しかし文永の役では海岸から10kmも侵入させず、
わずか一日で撤退に追い込んでいる。
両者には明らかな違いがある。
297名無し三等兵:2010/02/16(火) 19:36:24 ID:???
とネトウヨの弁。
298名無し三等兵:2010/02/16(火) 22:28:40 ID:cZM/58Oo
と左巻くんが負け惜しみw
299274:2010/02/16(火) 22:58:17 ID:???
>『元史』では「矢が尽き」「官軍整わず」とは書いているが、「その国に入りて、これを敗る」
>「惟だ四境を虜掠して帰る」とあって、直接、遠征軍が敗退したような事は書かれていない。
>「四境を虜掠(捕虜を獲て掠奪を行う)」したとあるが、実際に『八幡愚童訓』や日蓮の書簡などでは
>対馬や壱岐、平戸、能古、鷹島などの地域で掠奪や男女が捕虜にされたことが述べられており、
>『高麗史』でも高麗国王とその王妃となったクビライの公主に童男女の捕虜が献じられたことが
>出て来ていて、これらの「四境を虜掠」などの記述の裏付けができる。

相応の兵力が配備されていない辺境で行ってもねえ。
倭寇でも出来るようなことで武威を示したとは言えないだろう。

>遠征軍の目的がこの種の「相手政権に服属を促すため、掠奪や現地の軍を攻撃するなどして武威を示す」
>という鎮守軍の通常の外部遠征と同じと考えるなら、捕虜の獲得や日本側へ「蒙古の脅威」を強く
>印象付けることが出来ているため、「掠奪や現地の軍を攻撃するなどして武威を示す」ということは
>軍が帰還出来た段階で、文永の役での遠征の目的は達成出来ていた、と考える事ができる。

博多湾周辺1日目の戦闘をどう評価するか意見が分かれているようだが、
どう評価しようが結果として元軍は作戦継続を不利と判断したわけだ。
万単位の兵力は相応に脅威ではあろうが、1日の戦闘で退却して武威を示せたとは言えないだろう。
少なくとも、幕府は全く態度を軟化させていない。

目的が達成できたというのなら、元にとってどんな良いことがあったのか。
継続して侵攻が出来なかったから・・と書いているが、継続できないならやらない方がましではないか。
南宋と北方の問題だそうだが、南宋は最初から確定なので、事実上何かあれば継続できないことになる。
長期計画のはずなのに長期的見通しがないわけだ。
300名無し三等兵:2010/02/17(水) 01:16:05 ID:???
そもそも態度を軟化させていったのは元のほうだけどねw

目的が達成できていたなら最初の無礼な国書のとおりの強気な態度でとおせただろうに
実際はどんどん下手に出るようになる
そしてますます日本に相手にされなくなっていく

301名無し三等兵:2010/02/17(水) 01:42:01 ID:???
当時の執権が今の首相みたいに友愛とか言い出すやつじゃなくて本当に良かったよ
302名無し三等兵:2010/02/17(水) 07:02:58 ID:???
NHKの大河ドラマでも話しあいの大切さを説いていたというのに。
303名無し三等兵:2010/02/17(水) 09:20:42 ID:???
ところで元の方でも色々と他の厄介ごとがあったのは判るんだけどさ
そういうのがなくて普通に毎年日本に侵攻できるような状況だったらどうなってたの?
同程度の兵力なら何回来てても撃退出来てた?
304名無し三等兵:2010/02/17(水) 09:59:52 ID:???
話し「合い」は大切だが
礼を知らぬ暴力馬鹿とは話し「合い」にならない
305名無し三等兵:2010/02/17(水) 13:33:59 ID:???
>>290の人の慎重な見方は評価するよ
常識的に考えて、まあ戦術目標は太宰府の攻略かな〜とは思うが
史料にはっきりと書かれていない事を断言しちゃうのは危険だからね。
306名無し三等兵:2010/02/17(水) 16:12:41 ID:???
>>305
じゃあ元軍は何しに来たのよ。
威力偵察ですかぁ?w
307名無し三等兵:2010/02/17(水) 20:08:54 ID:0ObR2D57
>>303
同程度の兵力を毎年送れるって
元は全く資源を使わずに装備や人間を無限に生産できるって想定?
そりゃあそのうち日本側は疲弊するだろうな。
308名無し三等兵:2010/02/17(水) 20:22:16 ID:???
同じ程度の兵力を同じ所に3度も4度も送る馬鹿でも皇帝って務まるんですねぇ。

ここで棄民説に戻るw
309名無し三等兵:2010/02/17(水) 20:28:21 ID:???
日本が元に勝利したからこそベトナムも強気になれたんだよ
日本すごい
310名無し三等兵:2010/02/17(水) 20:35:53 ID:???
まあ元にすれば威力偵察代わりに数万の軍勢を送れば大宰府くらい落とせて
簡単に九州全島は確保できると思ってたかもな
311名無し三等兵:2010/02/17(水) 20:39:42 ID:???
>>303
そもそも、その前提がありえない
近代ならともかく、あの時代にあの国土の大きさなら厄介事の種が尽きることはない
312名無し三等兵:2010/02/17(水) 20:43:26 ID:???
>>305
だが、その場合だと元は何を目標に進軍してきたんだということになる
ゲームと違って、片っぱしから闇雲に攻めればいいというわけではないからな
仮に、威力偵察だとしても何かしらの目標があるだろうし
313名無し三等兵:2010/02/17(水) 20:58:30 ID:???
モンゴル軍の戦法として、とりあえず少数で突っ込んでみて様子を見るというのがあるらしいが。
で、相手が降伏すればそれでよしだし、抵抗する奴らがいれば、翌年は大兵力で攻め込んでもみ潰すと。
314名無し三等兵:2010/02/17(水) 21:34:42 ID:???
>>313
そんなんだからモンゴルは弱小国だったんじゃないの?
モンゴル帝国の時がミュータントだったというだけで
315名無し三等兵:2010/02/17(水) 21:38:11 ID:???
世界史板にスレが立ってた。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1265643751/
316名無し三等兵:2010/02/18(木) 08:12:44 ID:???
>>312
明日の本隊の全面対決をまえに少数で戦ってみて敵状をさぐるってのが威力偵察でしょ

数日程度間隔が開く分にはわかるが年単位ひらいたらそりゃ「威力偵察」の言葉の適用外でしょ
317名無し三等兵:2010/02/18(木) 10:52:00 ID:???
そもそも威力偵察だとしても、何か情報掴めたのかね?
弘安の役見る限りじゃ、何も活かせてないように見えるんだが。
318名無し三等兵:2010/02/18(木) 13:54:09 ID:???
19 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/02/10(水) 13:10:26 0
結局、文永の役では一旦大宰府まで退いて防ごうという最中、
追撃してきた高麗の副将・劉復亨を射殺したのがきっかけとなり、
高麗軍に動揺が生じて撤退してるしね。
圧勝とは言わないが戦術的な勝利には間違いない。
319名無し三等兵:2010/02/18(木) 17:07:48 ID:wB5UNTbP
コピヘ貼って何がしたいのかわからんが、戦略的にも元は何も得られず、戦術的にも敗北したという事か

元の圧倒的な敗北じゃないか
320名無し三等兵:2010/02/18(木) 19:59:52 ID:???
>>316
威力偵察厨の主張では文永の役は威力偵察だが
現代の威力偵察に必ずしも当てはまる行動ではないとのことだそうだw
321名無し三等兵:2010/02/18(木) 22:51:33 ID:???
元軍は海岸沿いにある博多の町にすら何の損害も与えられなかった。
なのに元軍の優勢だったとかいう奴が未だにいることがおかしい。
どう考えても武士の圧勝だろ。
322名無し三等兵:2010/02/19(金) 02:08:46 ID:???
モンゴルに限らず遊牧民族の国家のドクトリンって
1、周囲の連中に「ヒャッハー!」を仕掛ける
2、この時点で手ごわかったら、他所に「ヒャッハー!」
  脆かったら来年も「ウッヒョー、水だぜ〜!」を仕掛ける
3、何年も仕掛けて相手が「この種籾だけは勘弁してくれ!10倍にして渡すから」
  って言い出したら真面目に侵略し始めるってのだろ?

日本に対する態度が今ひとつ読みにくいのは高麗が間に挟まって機能障害起こしてたからじゃないか?
そうでもないとあまりもの優柔不断ぶりの説明がつかん。
323名無し三等兵:2010/02/19(金) 02:52:47 ID:???
>>322
モンゴルの場合、チンギス・カンが2回目に金に攻め込んで以降は、そういう遊牧民のドクトリンから
外れてるような気がするけどね。
ホラムズ・シャー朝との戦いとか、いきなり大真面目な侵略してるし。
対日戦も最初から本格的な侵略作戦だよね。

ところで、日本に対する態度のどの辺が優柔不断?
特に説明つかない所など無いと思うが。
324名無し三等兵:2010/02/19(金) 15:28:42 ID:???

仮に文永の役で大宰府攻略できたとしても
補給はどうするつもりだったのかな?
大宰府に数万の軍勢養うだけの貯蔵なんてある?
325名無し三等兵:2010/02/19(金) 16:01:05 ID:???
>>324
大宰府には当時モンゴルの侵攻に備えて貯蔵した大量の兵糧があったよ。
周辺に略奪遠征して確保することも可能だし。
それに、大宰府さえ押さえておけば、朝鮮半島から幾らでも海上輸送できる。
十字軍も海岸沿いの都市は100年近く維持できたし、百年戦争のカレーとか、文禄慶長の役の釜山とか、
一度橋頭保さえ確保してしまえば維持自体は比較的容易。
326名無し三等兵:2010/02/19(金) 17:47:04 ID:???
国書の和訳DQN風味
上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」
大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」
日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」
境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」
況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」
遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」
朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」
日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」
開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」
尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」
故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」
冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」
且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」
不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」
以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」
 王其圖之不宣「じゃーな!」
    至元三年八月 日

まさにDQN
327名無し三等兵:2010/02/19(金) 23:08:59 ID:g7qNIqJA
>>326
ワロタwww
328名無し三等兵:2010/02/20(土) 08:27:48 ID:???
優柔不断どころか完全な恫喝外交
こんな無礼な手紙じゃ無視されて当然

まあ実際は幕府は元を中華帝国の後継と認めなかったから無視したんだろうけど
329名無し三等兵:2010/02/20(土) 13:41:09 ID:???
人類史上最大の帝国であるモンゴル帝国の拡張に終止符を打ったのは日本
330名無し三等兵:2010/02/20(土) 16:27:10 ID:???
私は、モンゴルによる侵略が正しいとは思わない。むしろ悪いことだと考えている。
ただ、その批判の対象は、モンゴルではなく、日本政府に向けられるべきだろう。
そもそも、鎌倉幕府が早めに降伏していれば、侵略されずに済んだ。
それを軍国主義的な意地や体面が優先されて、ムダな戦争を継続した結果がこれだ。
鎌倉幕府と北条時宗のクズ野郎こそ、元寇の根本原因といえる。
331名無し三等兵:2010/02/20(土) 16:36:07 ID:???
さすが半万年土下座して嫁や娘差し出して命乞いした国の人の言葉は違うな
332名無し三等兵:2010/02/20(土) 18:11:29 ID:???
モンゴルからの国書に対して当時声高に断固拒絶を主張したのは、正傅寺の禅僧である東厳。
その理由は、「窃尋敵国之元意者、駆日本軍兵、欲令調伏諸方国土」(鎌倉遺文10559)。
つまり、元の軍門に下ることは、日本の軍兵が諸国への征服事業に利用されることになるから。
高麗のように元の尖兵として他国を侵略する国になりたくないという思いから、日本は降伏しなかったわけ。
そして、日本はその戦いに勝利し、結果として東南アジアの多くの国々を元の侵略から救ったんだよ。
333名無し三等兵:2010/02/20(土) 18:57:30 ID:lz5nxODS
>>330
結果的に日本本土に一歩も踏み入れさせずフルボッコ。
泣きを見たのは戦わずしてモンゴルに降参したチョンだけw
やっぱ徹底抗戦して正解だったな
334名無し三等兵:2010/02/20(土) 19:21:31 ID:???
元に降伏して時宗にフビライの孫娘でも娶らせてもらって
東南アジアを征服して日本ウルスでも開闢するかw
335名無し三等兵:2010/02/20(土) 19:39:33 ID:???
>>332
当時の時点で、すでに大体の世界情勢は知ってたんだな
この分だと幕府の内部でも抗戦と元軍動員との損得勘定がうごいてたんだろうあ
336名無し三等兵:2010/02/20(土) 20:11:11 ID:TT4w1zBR
>>335
江戸幕府もオランダからきわめて正確な世界情勢を入手してたからね…
ロシアとの戦争を真面目に考えてた。
まぁそこにまさかのアメリカが来た訳だがw

鎌倉幕府も日本に逃げてきた禅僧から情報は貰っていたと考えるべきだろうな
337名無し三等兵:2010/02/20(土) 23:51:09 ID:???
>>336
何気に幕府って世界情勢理解してたからな・・・
338名無し三等兵:2010/02/21(日) 07:13:57 ID:???
当時の時点で、大宰府を防衛し、水際でおさえこみ橋頭堡を築かせなければ
日本側にとってはベストな勝利であることはわかってたんだな

海が巨大な長城であると認識してたんだな
339名無し三等兵:2010/02/21(日) 15:13:26 ID:???
捏造乙  7カ月占領されているというのに。

http://another-country.hp.infoseek.co.jp/marcopolo.htm

元寇

クビライ=ハンは、チバング島の財宝のことを聞き、征服しようとして2人の有能な貴族に大船団、騎兵、歩兵を授けて派遣した。
2人の貴族は互いに激しく、嫉妬し、反目しあっていたが、突然、猛烈な北風が吹いて、逃れようした船は衝突し合って、多くの船は
難破し失われた。2人の貴族は身分のある者だけを収容して、多くの兵士を見捨てて逃げ帰った。
 
 見捨てられた3万もの兵士は、敵を欺き、チバングの都を7か月間占領したが、その後、土着するという約束で包囲軍と協定して降伏した。
一方、卑怯な振る舞いをした2人の貴族の一人は斬首され、もう一人は無人島に流され死刑に処せられた。生剥ぎの水牛の皮で
両手を縫い付けられ、皮が乾いて両手は動かすことができなくなっても、食べ物も与えられず、地べたを嘗め回して死に至るという凄惨な処刑である。

 元寇に際して、もう一つ奇妙な話が書かれている。2人の将軍は捕らえた大勢のチバングの兵士を処刑したが、8人だけは
どうしても首が切り落とせない。それは、彼らが自らの肉と皮の間にひそかに隠し入れた石の呪力のためであった。
刃物では切り殺せないというので、やり方を変え、鞭で叩くとたちまち死んでしまったというから随分、中途半端な呪力であった。
将軍は、彼らの胸からこの石を取り出すと大切に秘蔵したという。
340名無し三等兵:2010/02/21(日) 15:40:36 ID:???
なんか世界史のスレにも>339みたいな妄想サイト貼付けて喜んでるのがいるけど、何が彼をここまで追い詰めたんだろ
341名無し三等兵:2010/02/21(日) 15:42:44 ID:U0XhxJSY
7ヶ月の間どこを占領したの?行軍経路は?
途中での交戦記録は?なんで帝も執権も無事なの?
342名無し三等兵:2010/02/21(日) 15:54:51 ID:???
>>341
>7ヶ月の間どこを占領したの?

日本海の底
343名無し三等兵:2010/02/21(日) 16:01:18 ID:???
チバングの都=京だろ
帝は鎌倉に避難したから執権も帝も無事であったと
合意的に説明出来る。
344名無し三等兵:2010/02/21(日) 16:07:24 ID:???
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
 この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。
345名無し三等兵:2010/02/21(日) 16:25:00 ID:???
>7ヶ月の間どこを占領したの?

対馬海峡あたりの海上じゃねw
少なくとも日本領土は対馬や壱岐を除いて占領されてないよ
まあ、あの二島は地理的にしかたないね
346名無し三等兵:2010/02/21(日) 16:49:33 ID:GiogbrwJ
対馬には七日間ぐらいいたんじゃなかったっけ?
七日が七カ月になっちゃったのか?
347名無し三等兵:2010/02/21(日) 17:00:26 ID:U0XhxJSY
>>343
たった三万でまともな補給も無しに
どうやって京まで攻め上ったの?
しかも九州には鎌倉幕府軍がうじゃうじゃいる状況で。
348名無し三等兵:2010/02/21(日) 17:38:24 ID:???
つーか、>>339の貼りつけたサイト読んでみれば、『東方見聞録』の日本に関する記事の内容が、
いかに奇妙奇天烈で信憑性が低いかの例として、元寇についての記事を取り上げてるんじゃん。
これを読んで、本当に日本が「7カ月占領されている」と考えちゃう奴って、物事についての理解力に
根本的な問題抱えてるんじゃないのか?
349名無し三等兵:2010/02/21(日) 17:57:20 ID:???
>>348
日本が7カ月占領されていると信じ込んでるのは>>339だけで、
あとは皮肉で言ってるだけだろ
350名無し三等兵:2010/02/21(日) 18:11:42 ID:???
>>346
それなんて韓国時間
351名無し三等兵:2010/02/21(日) 18:43:44 ID:???
太平洋戦争時も本土決戦はまず九州上陸で橋頭保確保してから関東への攻撃開始だったな。
航続距離考えれば硫黄島から出撃するより南九州から日本全土を射程内に収めた方が良いし。
P-51HやP-82なら十分航空戦で日本機に勝てるし。

元寇の時だと瀬戸内海を海路京都に向かうとしても北九州と山口県辺りを占領しておかないと補給路断たれるからな。
元軍が好きで北九州を攻めて訳でもない戦略上の理由だよ。
352名無し三等兵:2010/02/21(日) 18:49:37 ID:???
今気がついたが、なぜ元軍は対馬や壱岐を放棄したのだろう?
文永も弘安もそのあとを考えれば駐留軍の一部隊も置いておけばよかったと思うのだが?
353名無し三等兵:2010/02/21(日) 18:58:32 ID:U0XhxJSY
補給とか防衛面から考えて維持すんのは無理じゃね?
354名無し三等兵:2010/02/22(月) 02:38:18 ID:???
>>350
韓国じゃそれぐらい日常茶飯事だよ
355名無し三等兵:2010/02/22(月) 10:24:20 ID:???
339は何がしたかったんだw
356名無し三等兵:2010/02/22(月) 13:13:52 ID:???
>>355

>>339は朝鮮人だから、そのすばらしい思考回路は凡人たる我々には理解できないのさw
357名無し三等兵:2010/02/22(月) 13:19:39 ID:???
http://mainichi.jp/enta/book/review/news/20100126org00m040022000c.html

十字軍に参加したイングランドの騎士、エドワード・ガウェインをリーダーとする一団は、二年半の航海を経て、漂着同然に九州にたどり着く。
しかしその地は、二年前にモンゴル軍の襲撃を受けていた。モンゴル軍の再来に怯える人々により、異国人の彼らは激しく警戒される。
それでもなんとか意思疎通を図った一団は、鎌倉へと送られた。しだいに日本の暮らしになじんでいくエドワードたち。だが、
その間にも、モンゴル軍の脅威が近づく。日本の武士とはまったく違う戦闘方法を使うエドワードを見込んだ、鎌倉幕府の第八代執権・北条時宗は、
モンゴル軍の戦いに、エドワードたちを投入。異国の騎士に、戦いの指揮を任せるのだった。

 元寇を舞台に、モンゴル軍と十字軍を戦わせる。このアイデアを思いついた時点で、本書の成功は約束された。たしかに時代的な矛盾はないが、
よくもまあ、こんなアイデアが出てきたものである。日本史と世界史を結びつけた、作者の着想は脱帽ものだ。

 しかも、そのアイデアをベースにしたストーリーが面白い。日本という異邦の暮らしに溶け込んでいくエドワードたちの姿をガッチリと描きながら、
物語はモンゴル軍との戦いへとなだれ込んでいく。時宗から戦闘の指揮権を預けられたエドワードだが、しょせんはよそ者だ。集団戦を理解せず、
武功に走る日本の武士に足を引っ張られる。それでもエドワードは、農民兵や投石機など、あの手この手を使って、モンゴル軍の上陸を阻止する。

 従来の“元寇”を題材にした歴史小説とは一線を画した、斬新な戦いの描写が、本書の大きな魅力になっているのである。

 
358名無し三等兵:2010/02/22(月) 13:40:27 ID:???
>>321
八幡の蒙古記は博多の被害についてなにも言っていないのだが、推論は
できる。
箱崎の住民がなぜ博多に避難したかと言えば、その時点で博多のほうが
より安全だったからだろう。なぜ安全かと言えば、箱崎が被害を受け始めた
時点で博多はまだ日本軍が戦っていたと考えられる。
その日本軍もやがて退却するのだから、それ以後は博多は無防備になり、
これもまた戦禍を被ったと考えるほうが自然だ。

で、博多に避難した箱崎住民たちはどうしたかと言えば、やはり郊外や
山など、市街地以外の場所に避難して、「一夜を過ごした」のではないか?

つまり「博多に迷いし」とは避難した時点の話だと考えれば、「一夜を過ごし」
た場所は博多とは限らない。だからこの文章をもってしては「博多が焼けなかった」
証拠には不十分だと思う。
359名無し三等兵:2010/02/22(月) 14:08:15 ID:???
それ以上に博多が焼けた証拠の方が不十分だと…
360名無し三等兵:2010/02/22(月) 14:45:33 ID:???
>>358
その推論は完全な間違い。
文永の役に関する史料は数多くあるけど、その中に博多が戦禍を被ったなどと記した物は皆無。
つまり博多が無事だったことは確定事項なわけで、ハッキリ言って『八幡愚童訓』や『八幡ノ蒙古記』なんて
問題にならない。
博多方面の戦況なら『金剛仏子叡尊感身学正記』という史料に記述がある。

「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」

20日に博多(波加多)に着いた蒙古は即退散したわけで、ようするに日本軍の圧勝だったということ。
361名無し三等兵:2010/02/22(月) 14:54:04 ID:???
壱岐は幕府軍に奪還されたけど対馬は自主撤退だったように思う。
何でか不思議だけど?
362名無し三等兵:2010/02/22(月) 16:55:19 ID:???
>>357
いまだに鎌倉武士が集団戦してなかったと思ってるやついるんだな
363名無し三等兵:2010/02/22(月) 17:17:04 ID:rUOqEfBw
一般的には一騎討ちの武士大苦戦、神風で運良く助かったって感じじゃないの
364名無し三等兵:2010/02/22(月) 17:18:00 ID:???
たかしま・てつお:1949年岡山県生まれ。慶大工卒、同大学院修士課程修了。日本原子力研究所研究員を経てカリフォルニア大留学。「メルト・ダウン」小説現代推理新人賞
、「イントゥルーダー」サントリー・ミステリー大賞。『ミッドナイトイーグル』ほか話題作多数。

よく下調べしてないんだろうな。経歴は立派なのにね。
365名無し三等兵:2010/02/22(月) 17:27:38 ID:???
律令制の右にならえ式以外の集団戦は集団戦と認めません的な頭の固さを感じるな
366名無し三等兵:2010/02/22(月) 17:38:20 ID:???
>>320
その理屈が通るなら
文永の役での竹崎季長の行動も威力偵察ってことにできちゃうよな
白石通泰も威力偵察。

塚原で蹴散らされた元軍は日本の威力偵察部隊にぼこぼこにされましたとそういうことですか
わかりません
367名無し三等兵:2010/02/22(月) 17:41:54 ID:???
歴史小説や時代小説は史料を死ぬほど読み込まないと書けないってw
司馬遼太郎もよく批判されるが、それでも、神田でめいっぱい買って読破していたし。
368名無し三等兵:2010/02/22(月) 18:52:04 ID:???
>>367
でも、現実にたかしま・てつおは史料をまともに読んでない。
武士が集団戦法で戦っていたなんてことは、蒙古襲来絵詞を一目見ればわかることことじゃん。
369名無し三等兵:2010/02/22(月) 19:24:55 ID:???
おもいつきで専門の原子力離れて歴史小説書いても通用しないってことだわな。
修行不足。そもそもフランクの軍隊って郭侃に負けまくりだろ
370名無し三等兵:2010/02/22(月) 20:01:29 ID:JgqQrkfp
18世紀以降なら分かるが、
それ以前のフランクに戦争について
教えてもらうことなんて何一つないわ。
371名無し三等兵:2010/02/22(月) 22:09:13 ID:BbmkkO7C
だな
中世騎士の方が個人戦だったわけだがw
372名無し三等兵:2010/02/22(月) 22:35:15 ID:???
結局、元側は橋頭堡をつくれなかった、維持できなかったんだからさ。
単純に負け確定。
博多がどうとかどうでもいいよ。
373名無し三等兵:2010/02/23(火) 00:10:15 ID:???
>>372
くくく・・・たしかに今回はわれ等の負けだ・・・
しかし・・・
・・・
いずれ第二第三の侵攻軍が貴様らを襲うのだ!
精々恐怖するのだな・・・・
ぐはああああ!
374名無し三等兵:2010/02/23(火) 00:21:38 ID:???
元軍なんぞ我が四天王の中でも最弱
375名無し三等兵:2010/02/23(火) 04:39:08 ID:???
元寇以前の源氏VS平氏の戦いを少しでも調べれば武士が集団戦法で戦っていたことぐらい分かるのに
どれだけ勉強不足なんだ?w という感じだな
376名無し三等兵:2010/02/23(火) 07:30:06 ID:???
日本は散兵戦術だからシナや西洋的な集団陣形戦術とは一線を画す。
小部隊単位が各々の判断で突撃するため、
集団陣形戦術に慣れた相手から見たら士気が乱れ壊走したと間違う。
壊走したと追撃にでたら、実は日本軍はヤル気マンマンとかだろうな。
377名無し三等兵:2010/02/23(火) 10:50:29 ID:???
>>367
昭和40年代からの視点では違和感ないんだよ、いまふうの歴史小説も40年後によんだら古臭くなってるとおもう
378名無し三等兵:2010/02/23(火) 19:00:12 ID:???
結局、書物を一人で黙々と読んだところで、議論等をしないから自己完結しちゃうんだろうな
379名無し三等兵:2010/02/23(火) 20:28:26 ID:???
圧倒的な秀吉軍でさえ平壌まで一次的に攻略しておきながら
明軍参戦後は慶尚南道の維持で手一杯だったくらいだし
まして鎌倉幕府軍より戦闘力の低い南宋高麗連合軍などに
水際から奥地に侵攻できるはずは無い。
380名無し三等兵:2010/02/23(火) 21:59:18 ID:???
プロの作家が2chで歴史考証の議論なんかするか?
自営業先生や大石センセは別枠だろうし
381名無し三等兵:2010/02/23(火) 22:23:43 ID:h2WBmmnO
>>376
日本は山がちで起伏に富み森林も多く開けた場所が少ないから小部隊戦術が
発達したのだろうね。
大草原や森林の少ない平坦な平原の蒙古や北支における集団陣形戦術とは
背景が異なる。
それぞれが国土に応じて発達したものだから、日本の地形では
小部隊戦術>>集団陣形戦術 だったんだろうか。
382名無し三等兵:2010/02/23(火) 22:47:41 ID:???
>>381 関が原をはじめ十数万規模の大合戦が昔からあるよ。
物部氏討伐戦、白村江、壬申の乱、源平合戦、奥州藤原氏征伐、承久の乱
383名無し三等兵:2010/02/23(火) 23:57:48 ID:ZYa5g80y
簡単に十数万規模って言うけど、十数万規模の動員能力って本当にあったの?
384名無し三等兵:2010/02/24(水) 01:25:38 ID:???
>>373
何だその安っぽいバラモスみたいなセリフはw
完全に中ボスのセリフじゃねーかw
385名無し三等兵:2010/02/24(水) 05:41:01 ID:???
>>383
書物を信じるなら、あった
まあ、当時の日本の人口を考えればそれくらいは可能かと
奥州征伐の28万はさすがに多すぎる気がするが(個人的に)
もっとも、奥州征伐に関しては19万とも言われてたはず(どの資料かは忘れたが)
386名無し三等兵:2010/02/24(水) 13:11:14 ID:???
日本の集団戦術レベルは低かったからな。同じ国での戦いならどっちもレベルが低いから大軍ってだけで
有利だけど、白村江のように先進国が相手のときは、少数の相手に簡単に大敗する。
387名無し三等兵:2010/02/24(水) 13:18:11 ID:???
>>386
ここは元寇スレだよ。
モンゴルの大軍に圧勝したんだから鎌倉時代の集団戦術レベルは世界最高峰だろ。
388名無し三等兵:2010/02/24(水) 15:01:43 ID:???
>>386
お前は鎌倉時代前後の日本の合戦をすべて調べ直してこいw
389名無し三等兵:2010/02/24(水) 16:42:01 ID:???
古代の飛鳥時代のそれも海外派兵と防衛戦を同列に扱う?
比べるのなら同じ中世の秀吉による朝鮮征伐と元寇だろ。
日本軍の派遣軍とモンゴル軍の派遣軍で比較すべきだ。

390名無し三等兵:2010/02/25(木) 01:33:12 ID:???
朝鮮出兵は、むしろ徳川時代にこそ
第三次出兵を行うべきだったかも知れないな。
その時代であれば明は滅びているし、成立間もない清も日本相手に戦う余力も無いし
朝鮮や台湾を取る事は可能だったかも知れない。

もっともその後、清と対峙を続ける必要もあり
その事に国力が割かれる可能性もあるけどね
391名無し三等兵:2010/02/25(木) 01:36:02 ID:???
モンゴル軍の強さは、軽騎兵によって占められた
軍隊の統一性の高さと、それによってもたらされた迅速性だったが。
しかし日本への海を越えての遠征となれば、その迅速性が失われる
さらに日本遠征軍の構成も、雑多な民族の集まりで統一性が取れていない。

こうした状況を考えると、ユーラシア大陸を席巻した蒙古軍の強さは、日本遠征軍には無かったと思うよ
392名無し三等兵:2010/02/25(木) 05:24:07 ID:???
>>391
もう一度勉強し直してこいよw

蒙古軍が征服した国の兵を別の戦争に投入するというのは毎回のこと
つまり、ユーラシア大陸を席巻した強い蒙古軍というのは雑多な民族の集まりなわけだ
雑多な民族の集まりだから統一性が取れてないとかはお前の妄想にすぎんよ
393名無し三等兵:2010/02/25(木) 08:30:04 ID:???
1287年、ナヤン・カダアンの乱でモンゴル人主体の反乱軍は、モンゴル騎兵、漢人、高麗人の混成軍に大敗してるんだが
394名無し三等兵:2010/02/26(金) 20:58:10 ID:???
モンゴル軍の中堅の指揮官は漢民族も多かったって話だけどね
モンゴル軍の強さは人種民族とわないってところかねぇ
395名無し三等兵:2010/02/26(金) 22:07:32 ID:???
>>394
まあ、そうなるな
歴史的に見てモンゴルが隆盛を誇れたのはモンゴル帝国のときぐらい
まあ、お隣に中国がいたというのがどちらにも関係してるんだけどね
396名無し三等兵:2010/02/27(土) 05:51:44 ID:???
南宋を下した、元が弱いって事はないだろう。
鎌倉武士が時代の割に洗練されすぎてただけで。
397名無し三等兵:2010/02/27(土) 14:20:46 ID:???
つーか、当時の大陸では税金代わりに兵隊やってるからモチベーション低いからな・・・
モンゴルや遊牧民が強かったのは、戦争が趣味みたいなものだったし、略奪品で潤うから自発的に参加してた・・・



で・・・日本では武士が出来てきて本業として戦闘技術磨いていたから強かっただけw
プロとアマがぶつかればどうなるか・・・
余程の戦力さが無ければ結果は見えてるだろ?
20対1程度なら逆転できてたしね・・・
分かりやすく言うと
正社員1割でやる気の無いバイト君9割の会社と全員正社員でやる気バリバリの会社で競争すればどうなるかってことw
398名無し三等兵:2010/02/27(土) 16:02:23 ID:???
まあやる気がありすぎた武士たちは、自分達で鎌倉幕府をぶったおしちゃったわけだが。
399名無し三等兵:2010/02/27(土) 16:31:10 ID:???
モンゴル帝国は中国を倒しから強かった
モンゴル帝国は欧州勢を倒したから強かった
日本は元を倒したから強かった

モンゴル帝国は世界で一番巨大な国家だから強かった
モンゴル帝国は肥大化しすぎたために消滅した


つまり、こういうことだろw
400名無し三等兵:2010/02/28(日) 18:34:45 ID:???
http://3kstyle.blog104.fc2.com/blog-entry-144.html
この圧倒的な装備をみよ。
日本人は歴史を捏造をやめ、講和に応じるべきであった。
401名無し三等兵:2010/02/28(日) 18:52:21 ID:???
>>400
圧倒的な装備だったのに勝てなかった・・・ということは、それを扱う者達がカスだったか言うほど圧倒的な装備でなかったかのどちらかだなw
やっぱ徹底抗戦して正解だったじゃんw
402名無し三等兵:2010/03/01(月) 01:24:26 ID:???
でも面白い着想だな。十字軍が元の侵略軍と壮烈なバトル。
もう映画化権は取ったんだろうか?東宝さん。
「13ウォリアーズ」みたいに派手なチャンバラ期待してます。
しかし「7人の侍」とリドリー・スコット監督「キングダム・オブ・ヘブン」
を下地にしたような原作だけど、どうなん?
403名無し三等兵:2010/03/01(月) 07:02:12 ID:???
ヨーロッパが強くなったのって兵器の発達した近代の事だぜ
兵数や戦術(戦略)が主だった昔はあまり強くなかったよ
404名無し三等兵:2010/03/01(月) 09:27:07 ID:???
>>381
時代は違うけど

鄭若曾「等潅図編」
(日本人は)その兵を用うるや善く埋伏し、しばしば巡って我が軍の後ろに出で両面を討ち、
常に寡を以って衆に勝ち、塁を劫かし、華人たやすくその術中に堕つ。
その未だ戦わざるや、団結分散、三々五々にして、一人扇を揮うや伏兵四方に起る。
これを胡蝶陣という。
405名無し三等兵:2010/03/01(月) 13:56:03 ID:???
この時代なら武士は逆に十字軍に対して戦術を教える立場だな
406名無し三等兵:2010/03/03(水) 18:45:02 ID:???
中国の昔の書物に書いてあることを
中国側が実践できて無いだけなんじゃ?
407名無し三等兵:2010/03/03(水) 18:46:25 ID:???
そもそも山岳部や林間部を平気で突破して挟撃を狙ってくるような戦法
中世期の通常の兵士で構成されたような軍隊では机上の空論であって実行はほぼ不可能とされてるんだよね
移動中に必ず大半の兵士が落伍してしまう
現代の空挺部隊や特殊部隊並みの統率された行動を無線もない時代にやってのける武士のほうが規格外
武士って言う特殊な身分だからこそ可能な離れ業なんだよね
408名無し三等兵:2010/03/03(水) 18:56:17 ID:???
>>407
源平合戦の鵯越の逆落とし とか、まさに空挺部隊の奇襲みたいなもんだからな
409名無し三等兵:2010/03/03(水) 21:36:52 ID:???
>>405
十字軍は投入人数といい、さして強かったわけじゃないからな
最終的に失敗してるし
410名無し三等兵:2010/03/03(水) 22:47:10 ID:xcqyFRFA
>>408
義経の鵯越も、戦国期・塩尻峠での武田軍も、騎馬すなわち武士だけの
選抜部隊で急襲・奇襲してるよね。
これは>>406氏の言うとおり、生まれた時から鍛錬を積んだ「武士」ならでは
というところ。
"役人兵士"の漢人などとは練度が違うわけだね。
411名無し三等兵:2010/03/04(木) 00:01:41 ID:f8+On33t
武田軍の騎馬隊って本当にあったの?
実際は荷物などを運ぶための部隊だったんじゃないの?

最近の研究では、戦闘時は降りて戦ってたらしいよ

でもその一方で、現実に存在したって言う学者も多いんだよなあ
どっちが信憑性があるんだろう
412名無し三等兵:2010/03/04(木) 01:18:53 ID:???
>>405
まぁでもまるっきり優越するところが皆無というわけでもないけどね。<十字軍
例えば騎兵突撃時の密集度、歩兵による騎兵のあしらいかたとか。
これらは、別にこれらへの理解が無かったわけじゃないイスラム勢やビザンツも舌を巻くレベルだった。
他にも、去勢技術や蹄鉄などは「必須ではない」のは無論だが、学ぶに足る知識ではあると思う
413名無し三等兵:2010/03/04(木) 07:58:44 ID:???
>>411
最近の研究って鈴木だろw
出してくる史料は他人の軍忠状研究と昔からの史料ばかりだよ。
少なくとも関東衆が騎馬で乗りかけて来たのは『信長公記』でも描かれている。
414名無し三等兵:2010/03/04(木) 10:31:39 ID:hCslFiwv
元寇の時、対馬に上陸した奴らは住民を釜茹でにしたらしいね ガクブル
つくづくあの時代の対馬に生まれなくてよかったよ
415名無し三等兵:2010/03/04(木) 10:32:08 ID:???
http://3kstyle.blog104.fc2.com/blog-entry-145.html

これみてると弘安の役がいかに悲惨な状況かわかるなあ
恩賞に飢えた貧乏御家人や次男・三男坊の前にカモがやってきたかんじだわ
416名無し三等兵:2010/03/04(木) 14:07:48 ID:???
>>412
十字軍、イスラム勢、ビザンツが戦ってた地域って世界レベルで見れば軍事的空白地帯だよ。
フレグの遠征以前、オゴデイが僅か3万の遠征軍を派遣したところ、立ち塞がる諸勢力を次々になぎ倒しながら
最終的にアナトリア半島にまで到達してる。
さらに、この遠征軍に押し出されたホラムズの残党が十字軍領内に逃げ込んだらエルサレムがあっさりと陥落。
なんか食物連鎖の最下層って感じ。
417名無し三等兵:2010/03/04(木) 14:51:24 ID:???
ホラムズだっけ?
418名無し三等兵:2010/03/04(木) 15:00:34 ID:???
>>417
ゴメン
ホラズムの間違い
419名無し三等兵:2010/03/04(木) 15:54:00 ID:???
>>414
釜茹でのソースは何?集史にはのってませんよ。
モンゴルの残虐行為とされるものの大半は武士やフランク人、中国人による捏造ですけどね。
420名無し三等兵:2010/03/04(木) 22:24:34 ID:OP+tDjNc
>>419
は?
釜茹では俺も初耳だが、蒙古・高麗軍の残虐非道はガチだろ。
対馬の住民を片っ端から撫で切りとか、引っ捕らえて手に穴を空けて
舷側に数珠繋ぎとか。
「ムゴい」の語源にもなったほどだし。
421名無し三等兵:2010/03/04(木) 22:34:45 ID:???
集史なんて、お行儀よくなった後世の王様が書かせた伝聞の寄せ集めじゃん。
釜茹でや捕虜を非常食にする話なんて載せられるわけないないw

他のシーンであったんなら別だが。
422名無し三等兵:2010/03/04(木) 22:41:59 ID:???
そもそも集史ってフレグ=ウルスの史書だろうが
いちいち隣の国が自国の反対側で何したかまで事細かに書くわけ無いだろ
423名無し三等兵:2010/03/04(木) 22:52:39 ID:???
>>419
集史がなんなのか理解できずにしゃべってたのかw
424名無し三等兵:2010/03/04(木) 23:45:41 ID:hCslFiwv
>>419
釜茹での刑についてぐぐってたら、そういう情報に当たったんだけど、記憶しようと思ってたわけじゃないから覚えてないけど、なんかの記録に残ってるらしいよ
425名無し三等兵:2010/03/05(金) 20:13:44 ID:???
まとめるとモンゴルヘイトが妄言を2chで吐いたということか。
日本が降伏していれば対馬・壱岐の人々の人生は変わっていたというのに。
ひどいよね。
426名無し三等兵:2010/03/05(金) 22:10:17 ID:+cjA9bhn
427名無し三等兵:2010/03/05(金) 22:57:44 ID:???
>>426
それ日本刀の形してるだけで刀ですらねぇじゃん…
428名無し三等兵:2010/03/05(金) 23:37:05 ID:???
>>426
これが現実。

『日本史』豊臣秀吉篇第三六章(第三部四七章)
「朝鮮国の描写、およびアゴスチイノ(小西行長)がその艦隊を率いて先発した次第」
・(※注:朝鮮人の)その他の武器には威力がなく、特に刀剣は短く、たいして役立たない。

『日本史』豊臣秀吉篇第三七章(第三部四八章)
「朝鮮に向けて出発したアゴスチイノが、ついで幾つかの城を攻撃し、大いに苦労して
軍勢をもってそれらを屈服せしめたこと、ならびにそこで彼が獲得した名誉について」
・双方とも大いに奮戦したが、朝鮮人は頭上に振り翳される日本人の太刀の威力に対抗できず、
ついに征服された。朝鮮人の側では約五千の兵が戦死し、日本人の側では二つの城塞
(の攻略に際して)百人近くの戦死者と四百人以上の負傷者を出した。

『日本史』豊臣秀吉篇第三八章(第三部四九章)
「アゴスチイノが朝鮮の都に入るに先立って生じたこと」
・だが日本軍はきわめて計画的に進出し、鉄砲に加え、太刀の威力をもって散々に襲撃したので、
朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼(のよう)にして先を争って遁走した。

『日本史』豊臣秀吉篇第四一章(第三部五二章)
「シナ(軍)が日本(軍)と交えた他の戦闘、ならびに種種の出来事について」
・ある者は、それは(シナ側)の策略であって、彼が武具を求めたのは、同じものを(シナ側で)
造ろうとしているのである。槍や長刀についても言えるが、とりわけ、日本刀の威力に対抗できる鎧を
製作しようとしているのだ、と言った。
429名無し三等兵:2010/03/05(金) 23:51:45 ID:???
>>425
なんだ、まだこんな脳内お花畑が存在したのかw

元軍が征服した国の人間を兵として投入するのはいつものことというのが理解できないらしい
430名無し三等兵:2010/03/06(土) 00:07:35 ID:???
>>427
動画主が自分で刀作ってる動画あるけどもうムチャクチャ。
せめて玉鋼使えよと。
431名無し三等兵:2010/03/06(土) 00:50:44 ID:???
どちらが強いかは知らんが、その動画はないわw
専門家が作った日本刀じゃなく個人で作った日本刀だろそれ
ブロードソードと日本刀じゃ作る難易度が違うんだわ
432名無し三等兵:2010/03/06(土) 01:12:41 ID:???
模造品もいいところだろそれww
433名無し三等兵:2010/03/06(土) 08:49:24 ID:???
材料も製法も関係無しでいいなら金属で棍棒作った方が強いんじゃないか?

何の比較なのか分からないけど
434名無し三等兵:2010/03/06(土) 11:10:33 ID:???
両方とも同じ外人のオッサン作なら形と重さの比較でしかないもんなあ
435名無し三等兵:2010/03/06(土) 12:40:14 ID:???
【話題】 "日本刀vs西洋のロングソード" どちらが強いか?…ドイツのテレビ局が検証★8
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1267843707/
436名無し三等兵:2010/03/06(土) 12:41:03 ID:???
437名無し三等兵:2010/03/06(土) 13:07:26 ID:???
それ、「日本刀」じゃなくドイツ人が適当に作った模造品だよ。

http://www.youtube.com/watch?v=qpEC38sL3iU
438名無し三等兵:2010/03/06(土) 16:35:46 ID:???
以前、犯罪に使われて問題となった、ブラック・サムライソード
鉄板を削って作っただけのものだが、それでも人を殺すには充分だよ
439名無し三等兵:2010/03/06(土) 18:53:00 ID:DhvrwvUg
>>426
これじゃ「日本刀」ではないよな。
同じ材質・同じ職人作なら、重い(厚い)方が丈夫なのは当然だろ。
440名無し三等兵:2010/03/06(土) 19:12:57 ID:???
【国際】日本刀VS西洋のロングソード、どちらが強いか?ドイツのテレビ局が検証★9
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1267860171/

【話題】 "日本刀vs西洋のロングソード" どちらが強いか?…ドイツのテレビ局が検証★10
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1267870197/

もりあがってまいりました!
441名無し三等兵:2010/03/06(土) 19:32:08 ID:???
>>440
聞きかじりの知識を披露し合ってるだけ。
442名無し三等兵:2010/03/06(土) 19:48:51 ID:???
>>440
素人のおっさんが形だけ真似ただけの模造品じゃん
工程が滅茶苦茶だよ
どちらが強い以前の問題であれは日本刀ではない
443名無し三等兵:2010/03/06(土) 19:49:33 ID:???
>>441
↑こんな感じで?
444名無し三等兵:2010/03/06(土) 19:53:16 ID:???
>>441
2chにいったい何を求めているんだ?w
完全んな知識の持ち主なんて片手で数えられるほどしかいないだろうに
445名無し三等兵:2010/03/06(土) 19:55:15 ID:???
鈴木説を最新の説だから正しいとか無批判に受け入れている連中も多いみたいだな。
その辺は裏づけもなしに威力偵察説をごり押しする連中通じるものがある。
446名無し三等兵:2010/03/06(土) 21:00:54 ID:???
>>440
予想通りチョンがわいてました。そんなに嬉しいのかね?
日本刀の形した鉄クズ曲がるのを見るのが。
447名無し三等兵:2010/03/07(日) 01:48:42 ID:Yc+uIunD
>>440
ここのネトウヨどもよりよっぽど物わかりいい人が多いな。
448名無し三等兵:2010/03/07(日) 03:23:10 ID:???
確か昔テレビの番組で日本刀vs拳銃の弾をやってた。
拳銃の弾が割れて日本刀は少し焦げてただけだったな。
449名無し三等兵:2010/03/07(日) 04:15:26 ID:???
あんなのただのナイフでも同じ結果になるわい
450名無し三等兵:2010/03/07(日) 05:05:03 ID:???
つか勤王刀みたいなろくでもない日本刀が、生産数でも現存数でも一番多いわけで……
おかげで維新期なんか打ち合っただけで刀が折れた曲がったなんてザラだったらしいのに、
何を神格化して火病起こしてるんだろうな彼らは。
451名無し三等兵:2010/03/07(日) 09:44:21 ID:???
>>450
そりゃ、相手の刀も日本刀だったからじゃん。
452名無し三等兵:2010/03/07(日) 12:35:58 ID:???
http://bbs63.meiwasuisan.com/bbs/arms/img/12662873350061.jpg
日本刀の倍以上の大きな西洋剣でぶったたかれても日本刀はぴんぴんしてたね。

ちなみに瞬間的に大きな力がかかった場合ならば日本刀も大きくしなる
これは日本刀の「靭性」の高さの証明だね
小さな力ではびくともしないが大きな力が瞬間的にかかると大きくしなり、そしてすぐに元に戻る
453名無し三等兵:2010/03/07(日) 12:46:52 ID:???
マルポしてんのかよ、みっともねぇなぁ。
454名無し三等兵:2010/03/07(日) 13:14:23 ID:???
>>428
こんなのあった

「懲秘録」
日本人はよく刀槍を用いる。
我々には堅甲がないゆえ日本人に敵わない。
そこで厚鉄を用い全身鎧を作り
この鎧を着た兵士を敵陣深く切り込ませようと考えた。
取り敢えず、全身鎧の見本を製造して、
これを試用したが、とてもその重さに堪えられる兵士がおらず、これを廃した。
455名無し三等兵:2010/03/07(日) 13:30:15 ID:???
【国際】日本刀VS西洋のロングソード、どちらが強いか?ドイツのテレビ局が検証★13
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1267923700/
まだ続いてます。
456名無し三等兵:2010/03/07(日) 14:13:51 ID:???
>>455
なんか西洋厨と鈴木信者湧いてるな
457名無し三等兵:2010/03/07(日) 18:12:47 ID:???
>>415
そこの動画のラストにでてくる
台風の予想進路が出てくるのが良いな
458名無し三等兵:2010/03/08(月) 14:49:25 ID:???
>>457
元軍が「現地で自活しろ」と言われて士気が下がったように書いてあるが、
そもそも屯田は支那兵の伝統じゃん。
459名無し三等兵:2010/03/08(月) 16:45:11 ID:???
>>415 某国営放送は某与党と同じく売国奴と理解しやすい番組だったなw
460名無し三等兵:2010/03/10(水) 01:27:06 ID:???
元が日本侵攻に失敗したのって相性が悪かったからでは?
元に限らず遊牧民の基本戦術って中距離で相手包囲して矢の連射で殲滅だったはず。
当然速度重視の装備になるから防具は軽装でスピード重視。
日本では広い平野が無いから陣を構えて腰を据えて矢戦しつつ距離を詰めて近接戦闘が主流、
当然機動力よりも防御力重視。
切り合いになったら日本の方が有利で、日本国内で戦う分には日本有利。
兵員も蒙古はともかく高麗、南宋は基本的にアマチュア兵で練度も低いし、戦意も低い。
日本は基本的に郎党にいたるまで職業戦士で幼少から訓練されていて練度高いし、恩賞目当てで戦意も高い。
蒙古もまさか自分たちが獲物扱いされているとは思うまい・・・
いろんな欲の皮の突っ張った職業戦士に襲い掛かられるのは始めての経験じゃないのかな?
時期と位置はずれるけど、ノルマン人対イングランド王国の戦争もそんな感じだったはず・・・
461名無し三等兵:2010/03/10(水) 06:48:58 ID:???
地形の問題とか、そういうレベルのとこまで達してないから元。
上陸時にボロ負けしたら平地が狭いとか関係ねぇし。
兵員の質も世界的に低いとか言う話は、聞いたことはないなぁ。
逆に質は高いとされるような。
462名無し三等兵:2010/03/10(水) 14:41:41 ID:???
モンゴル軍は山だらけの金とかアフガンとか朝鮮半島とかも普通に征服してるのに
463名無し三等兵:2010/03/11(木) 02:24:43 ID:???
>>462
そいつら基本的に遊牧民だろ?
同じ戦術だから、あとは数とやる気の問題だろ?
あんな狭い浜辺に押し込まれるなんて、想定外だったんだろうなw
464名無し三等兵:2010/03/11(木) 02:26:20 ID:???
>>461
元は高いかもしれんが、高麗は問題外では?
200年後、奇襲で20倍の兵員数で、対馬で宗勢にぼろ負けしてたぞ
465名無し三等兵:2010/03/11(木) 12:12:59 ID:???
>>464
決して高麗兵が弱くないことはナヤン・カダアンの乱が証明してる。
1287年4月、チンギス・カンの3人の弟の子孫である東方三王家がクビライに対して蜂起。
これに対し、忠烈王の派遣した高麗部隊や范文虎率いる旧南宋部隊の加わった元軍が、
同年6月のシラ・オルドの戦いで大勝。
なおも抵抗を続けるカダアンと息子ラオディは高麗に攻め込んだものの、高麗軍の粘り強い抵抗に
消耗し、結局1292年に鴨緑江の畔で元高麗連合により完全鎮圧。
最後にとどめを刺したのは洪茶丘だぜ。
元寇でボロボロだった連中が、モンゴルの反乱軍相手には大活躍。
466名無し三等兵:2010/03/12(金) 02:25:32 ID:???
>>465
ほほう・・・
高麗兵それなりに頑張るんだな・・・
しかし・・・なぜに李氏朝鮮になるとあんなに脆くなるんだろ?
あまりに酷すぎて目撃者の中国人ころすか?って相談してたくらいなのに・・・
劣化したのかね?
それとも指揮官がモンゴル人だったから頑張れたとかw
467名無し三等兵:2010/03/12(金) 02:58:12 ID:???
その話はいいです
468名無し三等兵:2010/03/12(金) 10:07:07 ID:???
>>466
鯛は頭から腐るって見本じゃね? 日本もその辺頭痛いですが。
469名無し三等兵:2010/03/12(金) 18:21:42 ID:???
>>463
モンゴルは南宋との戦いで水上戦に苦しめられたが、降伏した将軍や南宋兵をいれて、襄陽や克Rの戦いで南宋の要衝や
南宋最後の皇帝を飛び降り自殺に追い込んでいる。
またジャワ遠征でも制圧したしな。

そもそも、モンゴルは迂回して大理をせめたってのもあるけど、中国の王朝が完全に制圧されたというのは元が
知ってのとおりはじめてなんだね。

では、なぜいままで制圧出来なかったかというと北馬南船と古来からいわれるように南北でがらっと戦いの様相
そのものが変わるからなんだね。

今までの華北にできた遊牧国家はいずれも華南を制圧しようとしてその度に大敗してきたけどフビライはその辺ちがった。
モンケの時代から30年あまりずーと辛抱づよく落としてきて降将をいれ、水上戦に長けた南宋兵も許して次第に
いれていってる。

元の水軍はなるほどあの時は壊滅したが、三度目の戦いがあれば過去の失敗をいかし、日本は高麗の属国となっていたでしょうね。
470名無し三等兵:2010/03/12(金) 18:47:27 ID:???
>>469
30年あまりずーと辛抱づよく育ててきた海軍が、弘安の役で壊滅しちまったのに、
簡単に三度目なんてできるわけないじゃん。
実際、元を最後まで海軍を再建できなかったしな。
無理して三度目なんてやれば、命取りになるのは元の方だよ。
471名無し三等兵:2010/03/12(金) 19:37:20 ID:???
>今までの華北にできた遊牧国家はいずれも華南を制圧しようとしてその度に大敗してきたけどフビライはその辺ちがった。
>モンケの時代から30年あまりずーと辛抱づよく落としてきて降将をいれ、水上戦に長けた南宋兵も許して次第に
>いれていってる。


まさに世界一の海軍だね。でも、それほどの海軍を持つ元が
どうして二度も大敗を喫し三度目を諦めたんだろう?どうして?
472名無し三等兵:2010/03/13(土) 14:30:28 ID:???
金がないからだろ。海軍再建と簡単にいうが、どいつもWWU時に海軍は結局英国に対して優越するほど
立て直せなかった。
装備や訓練って一旦失うと再建にとてつもない時間がかかるんだよ。 1
473名無し三等兵:2010/03/14(日) 11:29:33 ID:???
>金がないからだろ。

二度の大敗も金がないからなの?
474名無し三等兵:2010/03/14(日) 11:33:51 ID:???
高麗の歴史書には大勝利と記されているというのに!
475名無し三等兵:2010/03/14(日) 11:52:51 ID:???
>>474
高麗の歴史書には戦いに敗れたと記されてるよ。

『高麗史』巻八七・表二・年表二
「十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」
(文永の役)

「七年五月、金方慶、忻篤・〔洪〕茶丘等と与に、日本を征す。覇家台に至り、戦い敗れ、軍の還らざる者十万有奇」
(弘安の役)
476名無し三等兵:2010/03/15(月) 09:42:15 ID:???
>>409
高麗の属国。。。ねぇw

なんというスネオニズム。。。その癖ジャイアンの足を一番引っ張ってたりもするのだが。
477名無し三等兵:2010/03/16(火) 01:37:10 ID:xp53BVdc
こんなに戦死者の数が開いた一方的な戦争は他にあまりないだろう
日本の一方的大勝利だな
478名無し三等兵:2010/03/16(火) 20:43:29 ID:???
一方的大勝利すぎて、幕府は恩賞ケチるのに必死になって、
神風とか世迷言をほざいたわけだが
479名無し三等兵:2010/03/17(水) 00:31:17 ID:AungItpg
勝ちすぎて傾いた政権って鎌倉幕府位だろうなw
480名無し三等兵:2010/03/17(水) 01:10:20 ID:???
日本側死者1000
元の奴隷兵シナチョンの死者150000


こんな一方的な大勝利は世界史上ほとんどないwww
481名無し三等兵:2010/03/17(水) 14:17:06 ID:???
元寇が、鎌倉幕府の崩壊の原因となったというのは正しいのかな。
元寇の恩賞が足りなく、鎌倉幕府が崩壊したというなら、戦いの主体となった
九州の武士から動乱が起きなくないと説明がつかなくないか?
482名無し三等兵:2010/03/17(水) 14:33:45 ID:???
少なくとも直接の原因にはなってないな

かといって全く無関係ともいえないだろうがせいぜいバタフライ効果レベルのこじつけ
483名無し三等兵:2010/03/17(水) 15:56:41 ID:???
元寇の恩賞問題は直後の岩戸合戦のお陰で無事解決しました
484名無し三等兵:2010/03/17(水) 17:42:25 ID:???
鎌倉幕府の崩壊の原因は、
財産を子供に均等に分配し続けて
御家人が貧乏になったから

江戸時代では長子相続になった
485名無し三等兵:2010/03/17(水) 21:25:56 ID:i1VJaBQv
>>480
日本側死者のソースは?
"定説"は捏造で日本軍戦術的勝利だと思うが、そこまで一方的だったかは疑問。
自惚れは驕慢となり自軍の堕落になるので戒めるべきだ。
486名無し三等兵:2010/03/17(水) 22:50:37 ID:hpfO1OPG
鎌倉幕府の権威と信用が崩れたから、正しいには正しいよ<崩壊の遠因
487名無し三等兵:2010/03/17(水) 23:14:59 ID:gZzhAuDX
>>485
ソースなんかないが
というか1000も死んでない可能性もあるぞwww

488名無し三等兵:2010/03/18(木) 00:07:14 ID:???
日本の圧勝であることは確かであるが、日本側に損害が少なかったら
戦没者の慰霊のために北条時宗が円覚寺を建立したりするかな?
ただ、円覚寺は敵側の戦死者も祀ってるんだよな。
ここがどこぞの国の人と違って日本人らしい良い面だよな。
489名無し三等兵:2010/03/18(木) 01:04:44 ID:???
寺関係に戦死者の目録とかのこってないの?
何なくなったか、大体の見当つくとおもうんだけど。
490名無し三等兵:2010/03/18(木) 01:06:07 ID:???
それと2次は小船で接近して切り込んだりしたんだろ?
勇猛だとはおもうけど、生存率どんぐらいあったんだろうかな。
夜襲って向こうをビビらスにはいいけど、単身切り込みとかって
カナリ無茶だよな。
491名無し三等兵:2010/03/18(木) 01:10:34 ID:???
無能で臆病で残虐なシナ、チョン奴隷兵にはその戦術で十分
492名無し三等兵:2010/03/18(木) 01:57:56 ID:???
5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北
493名無し三等兵:2010/03/18(木) 02:36:05 ID:???
台風が無かったら元軍も大して被害が無かったと思う。
494名無し三等兵:2010/03/18(木) 14:48:13 ID:???
>>493
高麗史ぐらい読もうよ。台風以前に武士と戦えども敗戦を繰り返し
さらに疫病が蔓延して船内は地獄絵図そのものといった状況だった。
台風はとどめを刺したにすぎない。
495名無し三等兵:2010/03/18(木) 16:23:33 ID:???
でも台風が無かったら、撤退する余力ぐらいあっただろうし、鷹島に数万人も取り残されることは無かったんじゃない?
496名無し三等兵:2010/03/18(木) 17:02:04 ID:???
毎年台風が来るのは元も知ってただろ
497名無し三等兵:2010/03/18(木) 17:39:46 ID:???
はぁ?季節外れのたいふうであったし、二回目にいたっては合流が予定とちがい大幅に狂ったんだが。
その辺「だけ」無視して都合のいいところだけつまみ食いですか?
498名無し三等兵:2010/03/18(木) 17:47:31 ID:???
そもそも鷹島に残されたのって組織だった統率がとれない状態だった。
どうも、武士最強厨があちらこちらで湧いているようだが、正直疑問なのよね。
近接戦闘は武士の得意分野であったのは事実だが、要するに日本の元寇に
対する戦略、防衛に徹する方針がかれらのような軽騎兵装備では着上陸戦に
おいて不無機であり、一方で日本側にとっては非常に適した兵科であったという
そういう話にすぎない。
そもそも、台風の件にしても、
3割やられたら組織戦闘が不可能になるのは軍板では常識だと思う。
歴史系の板からきた住民は史料をみて結果的に負けた云々と持論を展開するが、
過程を重視して後世の戦史考察とする軍板ではまた議論の骨子そのものが
変わってくるその辺を理解して欲しいものだ。

ここの話ではないが、自分の言が入れられないと罵倒する輩も出ているようだし
言動の自制を求めたい。
499名無し三等兵:2010/03/18(木) 17:51:46 ID:???
3回目の企画段階でさらに大規模になってるとこ見ると
兵力が足りなかったんでしょう。
500名無し三等兵:2010/03/18(木) 19:38:49 ID:???
>>497
一回目は台風じゃないよ。
普通に元軍が負けただけ。
二回目だって、元軍は合流してから台風が来るまで1ヶ月以上猶予があったんだから
完全に実力負けだろ。
501名無し三等兵:2010/03/18(木) 19:45:47 ID:???
>日本の元寇に対する戦略、防衛に徹する方針がかれらのような軽騎兵装備では着上陸戦に
>おいて不無機であり、

元軍は歩兵主体じゃないのか?
502名無し三等兵:2010/03/18(木) 20:02:46 ID:???
>ここの話ではないが、自分の言が入れられないと罵倒する輩も出ているようだし
>言動の自制を求めたい。

まずは自分からだな。他者を最強厨とか罵っておいてそれはない。
503名無し三等兵:2010/03/18(木) 20:08:08 ID:???
>>501
スレの前半で元軍の武装は軽装備といってたし、写真まで転載していたろ。
そういう文脈で解釈してくれ。

>>502
某板の言動は目に余るものがあるが、あんたにそれをいわれたくはないな
どうせ同一人物なんだろうし。
504名無し三等兵:2010/03/18(木) 20:10:48 ID:???
>>503
どういう被害妄想だ?
こっちはそういう空気を持ち込むなと言いたいんだがね。
505名無し三等兵:2010/03/18(木) 20:17:56 ID:???
>>499
いずれの時代においても補給が続かないと厳しいものがあるな。
武士を持ち上げる発言者がいるが、あくまで近接戦闘に強く
防塁も構築した上に着上陸侵攻だからな。策源地も遠すぎるし
モンゴルにとってはかなり分の悪い戦いであった。

海も一種の天然の要害であることを考慮すると、
3倍の兵力差は欲しいところだ、まあ当時の輜重では厳しいが、
手薄なところに上陸して平野部を遊撃して橋頭堡を確保できて
増援を期待出来るような情勢にもっていけていたらな。
506名無し三等兵:2010/03/18(木) 20:32:50 ID:???
>>505
ええええええ???
元寇なんて策源地の朝鮮半島から200キロ程度しか離れてないじゃん。
ヨーロッパや中東が策源地から何キロ離れてると思ってるのさ?
そもそも日本遠征は海運が使える分、補給面では他の遠征より圧倒的に楽だった。
弘安の役で元軍が戦況不利にも関わらず踏みとどまったのは、兵糧に余裕があったことが理由なんだけど。。。
507名無し三等兵:2010/03/18(木) 20:39:44 ID:???
>>503
会戦がたった一度ならともかく、二度に渡っているのに
装備が不利だとかは言い訳にもならんわ。
508名無し三等兵:2010/03/18(木) 20:43:11 ID:???
はぁ?その200`があるから大陸勢力が容易にこなかったのだが。
ヨーロッパというがドーバー海峡なんかと比べて渡航の難易度が違いすぎる。

そもそも、中東やヨーロッパへの兵站はイスラム商人が大きな役目を果たしていたのだが。
日本への航海途中にそういうものあるのか。

>兵糧の余裕。
後詰めがないと無理。 


>そもそも日本遠征は海運が使える分、補給面では他の遠征より圧倒的に楽だった。

人員の補給が必要。
他の地域では一気に殲滅されるなんてことはない。そもそもあちら近接戦闘しないし
回回砲のような大型攻城兵器ももってこれないしな。

イスラム商人のように内情が詳しいものの内通もなかった。
かなり難しい戦いなんだけどね。
509名無し三等兵:2010/03/18(木) 20:45:11 ID:???
>>507
現場からのフィードバックがうまくいかない事例は古今東西腐るほどある。
軍組織というのは一種の官僚機構なのでどうしても運用がある程度硬直
するのは常識だろう。
510名無し三等兵:2010/03/18(木) 20:52:52 ID:???
今度は日本遠征は元にとって不利な戦いだった、ですかw
威力偵察じゃなかったの?棄民じゃなかったの?
511名無し三等兵:2010/03/18(木) 21:10:25 ID:???
>>510
威力偵察云々の人とは別人ですよ。
512名無し三等兵:2010/03/18(木) 21:18:16 ID:???
対馬を占領できる兵力は用意できたけど
九州を占領できる兵力を用意できなかった
元の負け
513名無し三等兵:2010/03/19(金) 00:32:49 ID:???
>>508
大陸が日本に来れなかったのは対馬海峡のせいじゃないし。
日本は4世紀末にその200キロ越えて新羅・百済を征服してるんだよ。
対馬海峡は秀吉の朝鮮征伐7年間でも何の支障も無かった超難易度の低い海。
難易度なら大陸からイギリスに遠征する方が遥かに上。

それから、策源地から中東やヨーロッパへの兵站を維持することなんて、当時の陸運じゃあ不可能なの。
だから、イスラム商人とか何の関係もなし。
中東やヨーロッパへ遠征したモンゴル軍は、現地の略奪で食い繋いでたんだよ。
海運を利用できる日本遠征が中東やヨーロッパへの遠征よりも補給面で不利な要素など何一つないから。

あと、他の地域で一気に殲滅されなかったモンゴル軍が、日本遠征で一気に殲滅されたのは鎌倉武士が
それだけ強かったというだけ。
そもそも、鎌倉武士の主力武器はモンゴル軍と同じ弓で、近接戦闘云々も全く見当違い。
514名無し三等兵:2010/03/19(金) 00:56:45 ID:???
>>513
まあ、鎌倉武士が水際で叩き落すことに成功したってのもあるが
計画自体が杜撰だったってのも事実としてある
515名無し三等兵:2010/03/19(金) 02:35:00 ID:???
>>497
真夏に台風が来るのが季節外れとは驚きだね
516名無し三等兵:2010/03/19(金) 10:08:03 ID:???

テスト
517名無し三等兵:2010/03/19(金) 20:00:42 ID:???
世界史板の住人レベル低すぎワロタw
518名無し三等兵:2010/03/19(金) 20:06:41 ID:???
【蒙古】鎌倉武士が圧倒してた件について2【襲来】

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1268996625/l50
519名無し三等兵:2010/03/19(金) 20:12:41 ID:???
>>515
情報の伝達がうまくいかない事例は古今東西腐るほどある。
軍組織というのは一種の官僚機構なのでどうしても運用がある程度硬直
するのは常識だろう。
520名無し三等兵:2010/03/19(金) 20:26:01 ID:???
gobaku?
521名無し三等兵:2010/03/19(金) 20:35:22 ID:???
アホは世界史板の隔離スレから出てくるなよ。
522名無し三等兵:2010/03/19(金) 21:19:04 ID:???
>>517
世界史板でウォッチ対象になっているような基地外を世界史板住人認定すんなよ。
523名無し三等兵:2010/03/19(金) 23:00:34 ID:???
つーか世界史板ってまともな奴はとっくに逃げ出してるぞ。
今残ってるのは、政治板から流れてきた気違いばっか
524名無し三等兵:2010/03/20(土) 01:06:15 ID:???
>>523
印象操作乙
525名無し三等兵:2010/03/20(土) 03:25:55 ID:???
>>519
情報の伝達が出来ないと真夏に台風が来ることも予測できなくなるのかw
それは大変だなw
526名無し三等兵:2010/03/20(土) 03:29:11 ID:???
>>519
何の話をしているんですか?
527名無し三等兵:2010/03/20(土) 07:55:32 ID:???
>>525
官僚機構だからね。元にとってはそういう面でも
不利な作戦だった。武士が強かったわけではない。
528名無し三等兵:2010/03/20(土) 09:45:46 ID:???
補給やら地の利、情報集取能力は軍の強さの内というか、
むしろ本質、軍板の住人なら当然わかっているはずだけど。
529名無し三等兵:2010/03/20(土) 10:25:45 ID:???
米軍は、天気予報してるぞ
元軍<<米軍
530名無し三等兵:2010/03/20(土) 19:17:14 ID:???
当時の天気予報なんて精度はたかが知れているし、
官僚機構だから伝わるのはどうしても遅れる。
531名無し三等兵:2010/03/20(土) 20:16:57 ID:???
>>527
へー官僚って「夏には台風が来ることがあります」程度のことも分かんないんだw
そんなもん情報収集以前の問題

5月21日 対馬襲われる
6月06日 博多に出現
同日   志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲
6月08日 大友貞親軍らによる攻撃
6月09日 東路軍海上へ撤退
6月13日 東路軍壱岐まで後退
6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃
7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退
7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃
7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす
7月30日 台風
閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北

武士が強かったせいで
五月末〜六月初旬での博多湾攻略に失敗した

そのあとこれまた武士が強かったせいで
海上を逃げ回った末に台風が来ているわけで
そもそもが台風がくる以前の段階で元の負け

官僚とか情報収集とか関係ナッシングw
532名無し三等兵:2010/03/20(土) 21:54:22 ID:???
>>524
でも実際最近の世界史板が昔に比べて低レベルなのは事実よ
533名無し三等兵:2010/03/21(日) 04:40:17 ID:???
>>495
それ以前に元軍は合流後も一カ月近く
本州上陸することもできず完全撤退することもできず
海上を武士に追いかけ回されてウロウロするばかりだったじゃん。
これじゃ台風が来る前から「元軍全体が対馬以南の海上に閉じ込められ取り残されてる」といってもいい状態
いずれはすり潰されて魚のえさ。
台風なくても一か月かそこら寿命が延びるぐらいのものだろうね。
むしろ台風のおかげで一部の元軍は日本軍の目を逃れて帰還できたわけで。

こんな体たらくじゃ台風は言い訳にすら使えないことになる
534名無し三等兵:2010/03/21(日) 12:37:46 ID:???
>>531
>そんなもん情報収集以前の問題

だから情報を収集しても取り上げられるとは限らないんだよ。官僚機構とはそういうものだからね。
535名無し三等兵:2010/03/21(日) 13:56:37 ID:???
>>534
そういう軍を「弱い」っていうんだよ
536名無し三等兵:2010/03/21(日) 13:57:39 ID:???
台風来る前に負けてる以上言い訳にすらならんな
537名無し三等兵:2010/03/21(日) 15:58:35 ID:???
夏になったら台風が来ることぐらい
情報収集なんてせんでも常識でわかるだろ
538名無し三等兵:2010/03/21(日) 16:26:58 ID:???
>>538
だよな〜 そんな事すら上がらないで何のための南宋高麗海軍の吸収合併なんだよと。
539名無し三等兵:2010/03/21(日) 17:02:23 ID:???
>>527
この話の通らなさ…こいつ偵察厨か?
540名無し三等兵:2010/03/21(日) 18:15:52 ID:???
つか、モンゴル軍は情報収集を重視しているという話はどうなったのよ?
一応そういうところから威力偵察説とか出てきたんだろ?
541名無し三等兵:2010/03/21(日) 18:59:16 ID:???
偵察厨は都合のいいでたらめばかり並べてるから矛盾だらけなことになる
542名無し三等兵:2010/03/21(日) 22:20:50 ID:???
>>532
せっかくアホをまとめて世界史板に隔離してるんだから刺激すんな
543名無し三等兵:2010/03/21(日) 23:27:46 ID:???
>>542
お前、今日もまた湧いてきたか…
544名無し三等兵:2010/03/28(日) 15:22:36 ID:???
よくよく考えてみたら、最初の攻撃って、そこに敵がいるから取り敢えず攻めてみようってのりだったんでは?
取り敢えず攻めてみるってのはあいつらの習性だからな・・・
強ければよそに行くだけだから強引にこっちの解釈当てはめれば威力偵察と取る事も出来なくも無い・・・(連中にそんな考えは無いけど)
楽勝と舐めきっていたら意外と苦戦したからサッサト撤退しただけなんじゃないかな?
ある程度略奪もしたし被害は高麗に集中してるから、赤字じゃないと判断したのかも。
で高麗はこのまま帰ったら大赤字だからもう少し粘ろうって主張したのではないのかな?
545名無し三等兵:2010/03/28(日) 16:40:40 ID:???
とりあえずの割にはいきなり4万も送ってよこしたわけか


爾、爾が国に還り、速かに軍額を奏せよ。
不らずんば、爾をして将に之を討たしめん。
爾等、軍を出して、将に何れの国を討たんとするか知らざらん。
朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。
今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。
爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。
朕、不庭の国を征するに、爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。
爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、米三、四千石を載すべきを造れ
546名無し三等兵:2010/03/30(火) 00:26:48 ID:3/QhkWxl
とはいえ、連中のいきあたりばったりも大概だったがな。
なんで対馬、壱岐を要塞化して兵站ととえながら攻めないかな?
ぶわ〜と攻めて、ちょっと抵抗激しいと直ぐ帰ると言い出す。
高麗も慌てるだろうよ。
なんせ、あの時点ではまだ赤字だからな。
547名無し三等兵:2010/03/30(火) 08:18:02 ID:MtRBw9kw
敵が弱いか攻めろ、強いか強いか逃げろ だからねw
548547:2010/03/30(火) 08:19:07 ID:MtRBw9kw
敵が弱いか攻めろ、敵が強いか逃げろ
549名無し三等兵:2010/03/30(火) 12:11:16 ID:???
>>544
元軍の被害1万3500人の内、高麗の被害は2700人だよ。
被害が高麗に集中してたなんてことは無いし、文永の役は元にとっても大赤字。
550名無し三等兵:2010/03/30(火) 17:45:36 ID:???
そもそも戦略目標であった大宰府にまったく到達できず
それどころか手前の水城にすら到達できなかった元軍。

文永の役での元軍の進路と交戦状況は
今津沖→息の浜
百道原→赤坂

どっちの元軍も返り討ちにあっている


元軍は…なんというかプールサイドであがってくるたび何度もプールに突き落とされる出川哲郎先生のような状態だな
551名無し三等兵:2010/03/30(火) 18:03:15 ID:???
日本はTASやってた。普通にやってたら到底不可能だった。
552名無し三等兵:2010/03/30(火) 18:16:01 ID:???
TAS?
553名無し三等兵:2010/03/30(火) 18:35:05 ID:???
>>552
この動画を見て書いてしまったネタ発言だから本気に取らんでくれ
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm8676543
554名無し三等兵:2010/04/01(木) 01:46:24 ID:???
にこにこは見れないのでつべで上げ直してください

555名無し三等兵:2010/04/01(木) 02:07:18 ID:???
556名無し三等兵:2010/04/11(日) 03:34:26 ID:???
>>1
平原で距離を取って騎馬射撃戦主体の元が近接戦闘に巻き込まれた時点で負け決定だろ?
ろくに鎧着てない連中がガチガチに防御固めた武士に接近戦で勝てるわけ無いだろ?
お陰で船に武士一人乗り込まれたら禄に阻止出来ずに一方的に殺戮されてたし・・・
もし仮に平原で元と野戦でぶつかれば勝負は逆になってたかもしれんがな・・・
まあ、弓の射程でも負けてるから苦戦はしそうだがな・・・
557名無し三等兵:2010/04/11(日) 08:42:49 ID:???
>>556
鎌倉武士の戦術も騎馬射撃戦主体だし。
福岡平野という平原で騎馬射撃戦主体の軍同士が戦った結果が武士の圧勝。
単純にモンゴル軍の方が武士より弱かったから負けたというだけで、シチュエーションのせいじゃない。
558名無し三等兵:2010/04/11(日) 20:29:22 ID:KYD+N8an
どうだろ?
騎馬戦になれば機動力が物を言うし、重装備の日本側が不利な気もするが?
そもそも連中上陸戦に失敗してるし、騎馬戦もしてないからな・・・
559名無し三等兵:2010/04/11(日) 20:55:41 ID:???
騎馬戦って言葉で吹くw
560名無し三等兵:2010/04/11(日) 22:39:23 ID:???
>>558
いや、文永の役でも弘安の役でもモンゴルの騎馬部隊は上陸して
鎌倉武士と騎馬戦やって敗れた。

文永の役で鹿原に布陣する元部隊に多数の騎兵が描かれてるだろ。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/image/h800/e_04_h800.jpg

弘安の役でも志賀島の戦闘は、
「日本軍突進し、官軍は潰え、[洪]茶丘は馬を棄てて走る。」(高麗史)

モンゴル騎兵は騎馬戦で鎌倉武士より弱い。
561名無し三等兵:2010/04/11(日) 22:51:24 ID:LpVy4inG
>>560
それは自家撞着すぎるだろ。
来寇した元軍の乗馬率は低く15%程度だろう。
劉復亨が少弐景資に射られた時も騎馬15騎程度と徒80人程度だったし、
絵詞でも騎馬の描写率は少な目だ。

562名無し三等兵:2010/04/11(日) 22:58:26 ID:???
15%って数字はどこから?
563名無し三等兵:2010/04/11(日) 23:19:43 ID:???
>>561
モンゴルは日本侵攻のため1271年から6000騎の騎馬部隊を高麗に駐屯させてる。
来寇した元軍には最低でもそれだけの騎馬部隊がいたわけだが。
564名無し三等兵:2010/04/11(日) 23:29:56 ID:???
>>563
おまえ、高麗に駐屯して軍勢が皆、日本に来ると思うなよ・・・・・
高麗とモンゴルの間での数十年に及ぶ戦争を知らないのか?
大部分の兵力は、高麗の治安維持ようだと思うんだが
565名無し三等兵:2010/04/12(月) 10:20:51 ID:???
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:30年戦った高麗の方が凄い。
Answer:戦ってません。単に民を捨てて逃げ出しただけです。

1232年以降、高麗の為政者は江華島に引きこもり、モンゴル軍が朝鮮半島全土を蹂躙するのを放置してただけ。
だからモンゴル軍は30年間にわたって思う存分高麗で奴隷狩りを満喫できたわけです。
一回の奴隷狩りで高麗人20万6800余人お持ち帰りなんてのを、許しておいて、「30年戦った?」
普通の感覚なら恥ずかしくてそんなこと言えないですよね。
566名無し三等兵:2010/04/12(月) 10:34:58 ID:???
弓の射程に関して弘安の役を例に考えてみよう

防塁は敵軍の内陸部への侵攻を止めるには効果的だが、
累上の武士を守る遮蔽としては効果がない。
そりゃそうだ、乱暴にいえばただの段差にすぎないんだから。
つまり防塁それ自体は飛び道具には無力。
したがって本当に和弓より威力も射程も勝る弓を大量に投入できていたなら
船上からでも上陸した海岸ギリギリからでも防塁の上の武士めがけて矢を放ち、武士どもを射散らしながら進軍すればいいはずだ。
ところが実際の元軍は防塁の前になすすべなし、
結局防塁がない陸継島に上陸を試みている(結局今度は武士の白兵戦の能力の前にここからも敗走するが)
つまり元軍にも高麗軍にも
海上から、あるいは海岸線から防塁上の武士まで届く有効な射撃ができるほどの弓はなかったことになる。

一方武士は当然自分の弓の有効射程に合わせて海岸〜防塁間を決めたことだろう
海岸線から防塁まではどこも大体が50メートル程度だというので
有効射程が80から100程度あれば海上まで届くことになろう。

したがって元高麗軍の弓の射程は和弓より劣るかせいぜい互角


防塁上で和弓を携えてずらりと待機する武士軍団
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e09.htm
567名無し三等兵:2010/04/12(月) 13:13:52 ID:???
>>564
日本侵攻のため高麗に駐屯してる部隊が、日本侵攻に投入されないわけないだろ。
その6000騎は皆、日本に来たと考えるのが当然。
高麗に駐屯した部隊が日本侵攻目的だってことは元史にも明記してある。

元史 卷一百?志第四十八 兵三 屯田
「高麗屯田:世祖至元七年創立,是時東征日本」

あと、日本侵攻の時の高麗にはモンゴルに取り入って自らの権力を維持しようとする腐った奴しかいないから。
高麗の治安維持に大兵力なんて必要ないんだよ。
568名無し三等兵:2010/04/13(火) 00:15:51 ID:P24teE/Q
あのじだいにそんなに大量の馬運び込めたのかね?
569名無し三等兵:2010/04/13(火) 01:33:49 ID:???
>>568
無理なんじゃね?
そもそも上陸戦に馬なんぞ意味ないだろ?
唯でさえ大喰らいで水と秣大量に必要なのに・・・
とは言え、対馬〜壱岐と順番に基地化して攻めれば兵站繋がるよな・・・
なんで維持しなかったのかね?
570名無し三等兵:2010/04/13(火) 01:35:46 ID:???
>>566
なぜだろう・・・
オマハビーチとかプライベートライアンとか203高地を思い出すw
571名無し三等兵:2010/04/13(火) 02:30:57 ID:B9P+dXqF
>>568-569
あの時代なら馬の輸送なんて余裕だよ。
1066年のウィリアム征服王のイングランド征服でも大量の騎兵が船で運ばれてるし。
距離的にも、北フランスのディーブ河口からサン・ヴァレリーを経てイングランド南岸のぺヴンジーまで
約200キロで対馬海峡約200キロとほぼ同じくらい。
十字軍も大量の馬を船で運んでるけど、1202年の第4回十字軍がヴェネツィアからコンスタンティノープル
まで約2000キロで対馬海峡の約10倍。
1248年の第7回十字軍に至っては、マルセイユからエジプトまで約4000キロで対馬海峡の約20倍。
東アジアでも元寇と同じ対馬海峡越えの倭寇が大量の馬を運んでいて、その数も1380年には1600頭。
四国や九州の海賊でも簡単に馬を海上輸送できるのに、世界帝国の元ができないわけないじゃん。
572名無し三等兵:2010/04/13(火) 03:07:53 ID:???
>>571
なるほど、ありがとう。
しかし・・・それにしては元側の騎兵の記述が少ないような・・・
巻き狩り戦法もやった記述もないし・・・
どうなってんだろうな?
573名無し三等兵:2010/04/13(火) 03:46:05 ID:???
つうか相手がおってきたら退いてパルディアンショットなんて
騎射文化があるとこならどこでもやるからな

日本人にとっては珍しくもない戦法

574名無し三等兵:2010/04/13(火) 07:29:56 ID:B9P+dXqF
>>572
高麗史には、日本遠征軍のため高麗王朝が大量の馬料、草糧を負担してる記事があちこちに存在する。
元軍にかなりの騎兵が含まれていたことは確実だよ。
575名無し三等兵:2010/04/13(火) 10:35:24 ID:???
去程に前陣の大衆且く法勝寺に付て後陣の勢を待ける処へ、
六波羅勢七千余騎三方より押寄て時をどつと作る。
大衆時の声に驚て、物具太刀よ長刀よとひしめいて取物も不取敢、
僅に千人許にて法勝寺の西門の前に出合、近付く敵に抜て懸る。
武士は兼てより巧みたる事なれば、
敵の懸る時は馬を引返てばつと引き、
敵留れば開合せて後へ懸廻る。
如此六七度が程懸悩ましける間、山徒は皆歩立の上、重鎧に肩を被推て、次第に疲たる体にぞ見へける。
武士は是に利を得て、射手を撰て散々に射る。
大衆是に射立られて、平場の合戦叶はじとや思けん、
又法勝寺の中へ引篭らんとしける処を、丹波国の住人佐治孫五郎と云ける兵、
西門の前に馬を横たへ、其比会てなかりし五尺三寸の太刀を以て、敵三人不懸筒切て、
太刀の少仰たるを門の扉に当て推直し、猶も敵を相待て、西頭に馬をぞ扣たる。
山徒是を見て、其勢にや辟易しけん。
又法勝寺にも敵有とや思けん。
法勝寺へ不入得、西門の前を北へ向て、真如堂の前神楽岡の後を二に分れて、只山上へとのみ引返しける。
576名無し三等兵:2010/04/13(火) 22:55:40 ID:???
船上と陸上からの射撃戦だと明らかに陸からの方が有利だろうしな。
それは割り引いて考える必要があると思う。
577名無し三等兵:2010/04/13(火) 23:27:27 ID:P24teE/Q
弓の射程はどうだろ?
578名無し三等兵:2010/04/14(水) 00:26:03 ID:???
人力の弓で言えば日本の弓のほうが遥かに長い。
全長が段違い。
ついでに言えば意外に勘違いしてる奴が多いが、
日本の弓も複合弓。
木しか使ってないが、木目を違えて組み合わせて張力を増している。
しかし射程だけで言えば、モンゴル軍のボウガンには敵わない。

和弓の最大の特徴はこの長弓を馬上で自在に操れること。
握りが下に寄っているので、下半分が短くて鞍に引っかからない。

モンゴルにも射程重視の長弓はあるし、ボウガンもあった。
しかしどっちも徒歩でしか使えない。
579名無し三等兵:2010/04/14(水) 00:35:04 ID:???
長射程の長弓を自在に操る武士にとっては
モンゴル騎兵は完全にアウトレンジできるし、
ボウガンなどの徒歩弓兵に対しては機動力と、
白兵能力では後の近世鎧に劣るが、
矢戦に関しては究極性能に達した大鎧を活用することで
射撃を回避して無力化することができる。
白兵戦における優越は語るまでもない。

しかし一番の脅威は、このような多様な戦術を実行できる
高コストな装備と能力を兼ね備えた軍事貴族が
万単位で湧き出てくること。
人口、経済力を客観的に検証すれば決して不思議ではないが。
日本は今も昔も普通に大国の一つ。
580名無し三等兵:2010/04/14(水) 21:41:00 ID:CljK+LUy
郎党は貴族と言わないのでは?
581名無し三等兵:2010/04/15(木) 03:26:26 ID:???
そりゃそうだが
鎌倉時代じゃ主力は郎党じゃないからな
582名無し三等兵:2010/04/15(木) 09:08:26 ID:???
弓箭の輩が激増したのはやはり治承寿永内乱期以降の意図的な再生産かな。
もともと存在はしていて、全国的動員が可能になっただけかも知れないけど
583名無し三等兵:2010/04/15(木) 11:17:14 ID:???
日本の弓は威力でも射程でも大陸の弓に劣る
584名無し三等兵:2010/04/15(木) 11:23:13 ID:RVOFNVEh
実際に戦ってみたら鎌倉武士がモンゴル軍に圧勝したんだから、大陸の弓の威力や射程、戦術は
日本より劣っていたってこと
585名無し三等兵:2010/04/15(木) 11:28:11 ID:???
弓で勝ったんじゃないだろうに
船に乗り込んでって日本刀を振り回して勝ったのじゃないの?
だから武士の魂は日本刀になったのじゃないの?
586名無し三等兵:2010/04/15(木) 11:33:54 ID:RVOFNVEh
>>585
弓で勝ったんだよ。
当時の武士の主力武器は弓。
上陸してきたモンゴル軍を騎射戦で圧倒。
モンゴル軍は副司令官の劉復享まで日本軍に射られて負傷してる。
587名無し三等兵:2010/04/15(木) 12:16:52 ID:???
博多が焼かれているじゃん、ストップ出来なかったんだろう?
588名無し三等兵:2010/04/15(木) 12:34:26 ID:RVOFNVEh
>>587
博多が焼かれたなんて事実はないよ。
モンゴル軍は鎌倉武士に歯が立たず、城壁に囲まれてるわけでもない博多の町に
何の損害も与えないまま逃げ帰るしかなかった。
589名無し三等兵:2010/04/15(木) 16:46:43 ID:lEWaWf69
>>585
船に乗り込んで刀で元軍を圧倒した記録があるのは弘安の役、志賀島でのこと

ここで述べているのは弘安の役でも元軍が防塁に阻まれて上陸失敗したときのことね
このときは防塁上からの徒歩射撃で元軍の上陸を阻止した
この上陸失敗により元軍は志賀島から上陸せざるをえなくなり
陸海から船に乗り込む武士の攻撃の前に敗北する

>>586氏が指摘してくれてるのは文永の役のときのことだね
文永の役ではほとんど騎射戦で元軍は撃退されちゃってるのよね

>>585クンはもう少し基礎的な知識を入手してから書き込んだ方がいいよ
590名無し三等兵:2010/04/15(木) 21:53:18 ID:HLrs005d
>>583
それは軍事素人の左巻歴史学者どもがほざいている"通説"だろ。
木・竹の複合素材で作られた日本の長弓と、選別した竹を矯めて作る矢は、
威力・射程とも大陸の短弓に優る、のが事実だ。

自分的には、文永は日本軍圧勝ではないと思うが、練度・士気・兵器の質に
より苦戦はしたものの兵力に勝る元軍を撃退できたんだと思う。
"通説"での「兵器(火器=鉄砲)と戦法(集団戦術)共に圧倒された」のなら、
なぜ元軍が夜に船に戻ったのか軍事的に説明できないのだから。
591名無し三等兵:2010/04/15(木) 21:59:04 ID:???
>>585
せっかく防塁の後ろにいるんだから弓を使わないわけがないだろう
というか、飛び道具使わないなら防塁の効果は半減だろうにw
で、防塁を突破できなかったということは弓戦にて元・高麗側が敗れたことを意味する
592名無し三等兵:2010/04/15(木) 22:13:56 ID:???
文永の役でモンゴルが破れたのなら弘安はないのじゃないの?
大したこと無いって見切ったから二度目があったのじゃ?
593名無し三等兵:2010/04/15(木) 22:47:31 ID:???
>>592
一度目で敗退したから二度目では
14万っていう破格の大軍を送り込んできたんだろ。
というか、大したことないなら一度目で征服しちゃえばいい話じゃん。
594名無し三等兵:2010/04/15(木) 22:53:28 ID:???
日本の感覚じゃ破格でも元だよ? 破格じゃないだろう
595名無し三等兵:2010/04/15(木) 23:10:11 ID:6QGy3TG9
増員して二度目やって逃げ帰ったのは痛すぎ。

また日本側が塁は作ってもさらなる長射程の飛び道具の配備計画はさっぱりなのは要らないから?作れも輸入も出来なかったから?
596名無し三等兵:2010/04/15(木) 23:32:41 ID:???
>>594
一方面に投入できる軍勢としては破格

元ぐらい領土が大きいとな、一方面に全軍投入できるわけじゃあないんだよ
それと、十字軍の数がどれだけだったか知ってるか?
597名無し三等兵:2010/04/15(木) 23:36:20 ID:???
>>592
本格的な会戦を一度もやってないのに見切ったとかw

やったことは対馬・壱岐でホルホルと九州に上陸したものの大宰府にすらたどり着けずに撤退
これは世間一般に見切ったとは言わない
598名無し三等兵:2010/04/15(木) 23:42:03 ID:???
>>594
国際的に見れば破格だから。有名な十字軍やウィーン包囲を調べてみろと
599名無し三等兵:2010/04/15(木) 23:49:46 ID:???
ヨーロッパじゃ破格だろうが中国じゃ破格とは言えないだろうに
本気なら何十万の単位じゃないの?
600名無し三等兵:2010/04/16(金) 00:11:40 ID:???
>>599
それを一方面にすべて投入できる(する)と思うか?
その本気ってのは防衛戦でないなら見ることはできんよ
そもそも、何十万もの兵を輸送する船自体がない
601名無し三等兵:2010/04/16(金) 00:16:01 ID:???
>>599
背後の憂いがないならな
実際には西に南に国内にと所々に兵を配置せにゃならん
602名無し三等兵:2010/04/16(金) 00:27:06 ID:???
でも一回目を失敗してるなら二回目は違う所を攻めてもよさそうなもんだな
一回目でみくびったから二回目も同じところじゃないの? どう?
603名無し三等兵:2010/04/16(金) 00:32:51 ID:SkR4JMhq
回りが敵だらけな事や海上輸送能力の限界を投入戦力をケチる言い訳にするなら、日本攻撃自体がそもそもやらんでいい事。
604名無し三等兵:2010/04/16(金) 00:46:36 ID:???
>>602
地図を良く見てみようねw
605名無し三等兵:2010/04/16(金) 00:49:21 ID:???
>>602
北九州で大宰府以外に
幕府が痛がる要所があんのか?
606名無し三等兵:2010/04/16(金) 00:58:40 ID:???
普通どんな上陸作戦でも陽動するぞ
しなかったらバカにされてるとしか思えないがな
607名無し三等兵:2010/04/16(金) 01:05:42 ID:???
>>606
当時あの辺で大規模な水軍持ってるのは日本だけ
大陸の真ん中で頑張ってる連中に無茶いうなよw
高麗がもっとしっかりサポートしないといかんと思う。
対馬くらいはしっかり確保しないといかんと思う。
608名無し三等兵:2010/04/16(金) 01:09:28 ID:???
>>607
南宋も大規模な艦隊もってたぞ
というか、弘安の役で14万も送り込めたのは南宋の艦隊を接収したから
文永の役の時点ではあれが限度だった
609名無し三等兵:2010/04/16(金) 01:11:34 ID:???
>>606
別に馬鹿にされててもいいじゃないか
仮に海岸線を突破したところで結末は変わらんよ
610名無し三等兵:2010/04/16(金) 02:12:45 ID:???
>>608
南宋って河川や内水域艦隊じゃなかったっけ?
外洋に出てくる事できたんだ・・・
まあ、船は同じだから可能と言えばかのうだなw
611名無し三等兵:2010/04/16(金) 02:39:15 ID:???
>>610
南宋は諸外国との海洋貿易で大発展した国だよ。
外洋航海向けの大型船を南宋ほど大量に所有してる国は当時の世界にない。
612名無し三等兵:2010/04/16(金) 02:49:42 ID:???
>>610
お前あまりにも無知すぎ
もう少し自分で調べる努力をしてそれでも分からんことがあったらここに来ようや
613名無し三等兵:2010/04/16(金) 12:23:52 ID:???
継続的な補給が困難な渡洋遠征軍だから結末は変わらないだろうが、
モンゴルのやり口から考えて北九州一円で徹底的な破壊が加えられるだろうから
その後の歴史にはだいぶん悪影響与えただろうな>海岸線突破
614名無し三等兵:2010/04/16(金) 12:50:40 ID:???
>>613
前近代で継続的な補給が可能なのは渡洋遠征軍だけ。
十字軍国家や百年戦争におけるカレーなど海運による継続的な補給によって
1世紀近く維持することに成功してる。
逆に陸上の遠征軍に対する継続的な補給は物資の輸送手段が無いため不可能。
615名無し三等兵:2010/04/16(金) 13:11:54 ID:???
>>614
付け加えるなら、十字軍の海運補給が可能だったのは地中海の気候がおだやかなため
もしこれが日本周辺だと、気候が荒れることが多く、台風が定期的にくるため遠洋遠征軍の継続的な補給は難しい
616名無し三等兵:2010/04/16(金) 13:14:45 ID:???
秀吉が朝鮮へ逝ってるし、古くは神功皇后がやってるぞ
元に出来ないってことはないだろう
617名無し三等兵:2010/04/16(金) 13:17:10 ID:???
>>615
秀吉が朝鮮攻めた時は7年間の継続的な補給に何の支障も無かったよ。
618名無し三等兵:2010/04/16(金) 14:24:58 ID:???
おいおい
補給切れで飢えかけたのに何の支障も無かったって…
619名無し三等兵:2010/04/16(金) 14:27:52 ID:???
飢えたのは囲まれた清正だけだろうに…
620名無し三等兵:2010/04/16(金) 15:46:51 ID:LVl6W5uH
朝鮮役は世界史的に見ても異例の補給体制で戦ったわけで
十万以上の兵力の内半数以上は兵站部隊と、その護衛に吸収された
それでも釜山からソウルまでが維持の限界
621名無し三等兵:2010/04/16(金) 16:34:36 ID:???
>>620
膨大な補給体制を必要としたのは陸運じゃん。
名護屋―釜山間の補給は順調だったろ。
何故なら対馬海峡の海運が使えるから。
補給面で渡洋遠征が陸上の遠征より不利な要素なんて無いから。
622名無し三等兵:2010/04/16(金) 17:39:11 ID:???
陸運は鉄道が出来るまで運ぶ人間や馬の物資ですぐにいっぱいっぱいになる
623名無し三等兵:2010/04/16(金) 17:57:40 ID:???
>>618
半島内部での話な
海上のの補給線は一度も切れていない
624名無し三等兵:2010/04/17(土) 00:54:39 ID:???
>>606
まあすくなくとも元軍は一か所から上陸しようと予定してたわけじゃないよ
文永の役(大まかにわけても三か所)でも弘安の役(上陸できそうなとこは全部防塁があって断念,
仕方なく陸継島)でもね

で、それでも全部撃退されちゃったわけ
625名無し三等兵:2010/04/17(土) 01:06:19 ID:???
あの時期に数カ月も海上でホルホル
そりゃあ台風の1つや2つ直撃するわな
現代になってまでそれを奇跡とか言う人って・・・
626名無し三等兵:2010/04/17(土) 01:22:50 ID:???
>>625
何ヶ月も上陸許さなかったのが奇跡なんじゃないのかな?
627名無し三等兵:2010/04/17(土) 01:30:41 ID:???
>>626
大規模対外戦争は数百年ぶりだったから
興味深い点は多々あるが、
国力、装備、国内の軍事作戦の規模を客観的に検討すれば
十分有り得る結果。
今時奇跡よばわりするのは
学術的根拠よりもイデオロギーを優先する低脳文系だけ。
628名無し三等兵:2010/04/17(土) 06:14:28 ID:+BMpyDYH
>>621
元冦当時の水軍はそもそも物資や兵員を満載しながら船団を組んで、長距離を往復出来るものではない。沿岸航海しか出来ないから航続力に制限がある。
航海は日本海の一番狭い所を渡るのが精一杯な上、海上兵站の発想自体が無い。
当面の食糧を積んでいって食糧の続く内に決戦をするか略奪して食い繋ぐ形。
補給用の船を確保すると必然的に上陸一陣の兵力が減る。兵力が少なければ略奪で賄えるし。

元軍が橋頭堡の確保に成功していても、十万以上の兵力は直に崩壊しただろうな
629名無し三等兵:2010/04/17(土) 08:34:28 ID:???
別に頼んで渡ってきてもらったわけじゃない以上
それを言い訳にするのって情けなさすぎね
630名無し三等兵:2010/04/17(土) 09:19:52 ID:???
初戦で勝ってれば、略奪やら恭順した勢力からの補給で何とかなる
計算だったのでは、勝算もなしに遠征するとは思えん。
631名無し三等兵:2010/04/17(土) 10:07:33 ID:???
少なくとも弘安の役では
元軍はろくな補給もせずに二か月以上逃げ回れるだけの備蓄は出来ていたようだね
まあ最初の一カ月切ってからは病気と飢えで苦しんだらしいので
想定して積載していた備蓄は一カ月ぐらいなんだろう。

632名無し三等兵:2010/04/17(土) 13:14:55 ID:???
>>628
書いてることが全部間違ってる。
元が接収した南宋の大型船は物資を満載しながらインド洋まで長距離を往復してたから、
航続力、積載量ともに問題無い。
ベトナム侵攻で兵糧の海上輸送を試みてるから、海上兵站の発想があったことも確実。
更に東路軍が積んでいた当面の食糧も3カ月分という贅沢さ。

そもそも、橋頭堡の確保に成功していれば、そこから先は普通の陸上の侵攻作戦と同じ。
「十万以上の兵力は直に崩壊」には全く根拠がない。
じゃあ、何でそれまで元軍が行った十万以上の兵力の作戦は直に崩壊しなかったのさ?
633名無し三等兵:2010/04/19(月) 23:19:59 ID:12c1NPvv
そのころの船に、戦闘艦、兵員輸送艦、補給艦の区別があるとも思えない。
大軍を輸送して、それに必要な物資も満載して随伴させるなんて非現実的。
どれだけの船が必要なんだ?
まず兵員を輸送して橋頭堡を確保して、その船で物資のピストン輸送してこそ
船の輸送力が意味を持つ。
それが出来てないんだから、元軍の侵攻作戦は初っ端から破綻してる。
634名無し三等兵:2010/04/20(火) 00:00:50 ID:???
モンゴルなんて羊の群れを連れて大草原を遠征していったんだぜ?
食料を連れて戦っていたんだ、同じ戦法で海を渡っても不思議じゃないね
きっと船倉には羊がいて、それを塩茹でして食料にしたんだろう
朝鮮には未だキムチはなしだろうし…
635名無し三等兵:2010/04/24(土) 00:04:22 ID:???
>>633
ちょっと調べてみればいいのに何で思い込みだけで書くのかね。
そのころの船には、ちゃんと戦闘艦、兵員輸送艦、補給艦の区別がある。

元史日本伝
「十一年三月、鳳州経略使忻都・高麗軍民総管洪茶丘に命じ、千料舟・拔都魯輕疾舟・汲水小舟各三百、
共に九百艘を以て、士卒一萬五千を載せ、期するに七月を以て日本を征せしむ。」

「千料舟」が兵員輸送艦、「拔都魯輕疾舟」が戦闘艦、「汲水小舟」が補給艦な。
更にこの九百艘は3ヶ月分の兵糧11万石を積載していた。
何しろ、弘安の役では戦況が不利になっても、兵糧がまだ1ヶ月分残ってるという理由で、
撤退せずに踏み止まったくらい。
船の輸送力のお陰で兵站面は破綻どころか余裕綽々だったんだよ。
636名無し三等兵:2010/04/24(土) 00:23:26 ID:???
兵站はあってもプライベートライアンじゃあなぁ
637名無し三等兵:2010/04/26(月) 20:16:11 ID:???
むしろ元軍は不利な状況にも関わらず健闘したといえる
638名無し三等兵:2010/04/26(月) 22:37:21 ID:???
元軍は奇襲という圧倒的有利な状況にも関わらず日本軍に手も足も出なかったんだよ
639名無し三等兵:2010/04/26(月) 22:40:51 ID:???
勝ち目のない戦いにあえて挑んだ元の勇気に拍手を送りたい。
640名無し三等兵:2010/04/27(火) 07:21:49 ID:???
防御側なら、ある程度、勇敢さを評価しても良いが、
攻撃側だと馬鹿なだけ。
641名無し三等兵:2010/05/05(水) 03:23:09 ID:???
例えば、北条時宗をイギリスのエリザベス女王と比較するとどうだろうか?
世界人口の約半分を支配していた元寇当時のモンゴル帝国は、アルマダの海戦当時のスペイン帝国よりも
圧倒的に巨大だよな。
当然派遣された艦隊の規模も、スペイン無敵艦隊が3万程度の兵力なのに対し、元艦隊は文永の役が4万、
弘安の役に至っては14万で元寇の方が遥かに大きい。
世界史に与えた影響も、何しろ世界史上最大帝国であるモンゴル帝国の拡張に歯止めをかけたんだから、
元寇の方がアルマダの海戦よりも上だろう。
そう考えると、北条時宗は世界史上特筆されるべき偉人であり、現状はあきらかに過小評価。
日本は自虐史観のせいで随分と損してるんだよ。
642名無し三等兵:2010/05/05(水) 10:18:02 ID:98Zhgs8p
鎌倉に政府があるのは元も知っていただろう。
俺が元の大将なら、佐渡占領、新潟あたりに上陸。
新潟平野を南下、大清水トンネル抜けて、一気に
関東平野、鎌倉と攻めただろうね。
643名無し三等兵:2010/05/05(水) 12:41:34 ID:???
>>642
なぜ博多など北九州が中国・朝鮮との外交貿易の舞台になっていたか考えよう。
644名無し三等兵:2010/05/05(水) 16:53:56 ID:???
>>642
だから当時に正確な日本地図なんてなかったと何度も言われているだろう
あったとしても、対馬→壱岐→九州の√を捨ててまで佐渡とか戦略的に無意味杉だろw
それに、鎌倉から遠く離れた北九州すら制圧できなかったのが、どうやったら短期で鎌倉まで攻め上がれるんだ?
包囲 → 殲滅 であぼ〜ん以外の結果が思い浮かばんぞ
645名無し三等兵:2010/05/05(水) 17:34:11 ID:???
        Λ Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
       /:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::
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 ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
大清水トンネルあたりで気づけよ
646名無し三等兵:2010/05/05(水) 20:36:01 ID:???
そういえばディスカバリーチャンネルの日本刀特集でも
「博多湾でサムライと戦うまで、モンゴルは無敵の帝国でした」
って言ってたけど、本当なんだろうか。
647名無し三等兵:2010/05/05(水) 21:34:00 ID:???
>>645
ほんとだ、普通にスルーしてたわw
648名無し三等兵:2010/05/05(水) 21:35:59 ID:???
>>646
まあ、帝国としては無敵ではあったな
当然ながら敗北もあったが、最終的には勝利していた
649名無し三等兵:2010/05/06(木) 02:57:21 ID:???
なんで元って壱岐と対馬維持しなかったのかね?
あそこを要塞化して海上からネチネチ嫌がらせしておけば手のうち様が無かったと思うが?
3回目の時でも部隊の展開に有利だとおもうのだが・・・?
650名無し三等兵:2010/05/06(木) 04:37:30 ID:???
>>649
単純に維持ができなかった

文永・弘安の両方とも船団に甚大な被害がでているわけで
で、両島を維持するには大量の物資が必要になるがそれを運ぶのは何かを考えれば・・・分かるな?
651名無し三等兵:2010/05/06(木) 21:39:29 ID:???
元が壱岐と対馬を維持しなかったというよりも、日本が維持させなかったというのが正しい。
博多から撤退した元艦隊に、ただちに追撃加えて追い払ったからな。
652名無し三等兵:2010/05/12(水) 02:43:24 ID:???
642って昔の仮想戦記ネタだよね
653名無し三等兵:2010/05/12(水) 09:34:43 ID:???
レイド オン トーキョーだな
654名無し三等兵:2010/05/15(土) 06:09:09 ID:???
大清水トンネルってところが笑いどころだな
655名無し三等兵:2010/05/16(日) 02:19:06 ID:???
>>649
普通に考えれば
1・対馬、壱岐占領して要塞化
2・艦隊で日本の沿岸荒らしつつ略奪を行い、相手を混乱させる。
3・沿岸船舶輸送を妨害して政情不参を起こす。
4、相手が出撃してきたところで、要塞と艦隊を連動させ敵海上戦力の撃破。
5、任意の場所に上陸し橋頭堡の作成
6、橋頭堡を軸に地上戦力の侵攻
この順番でやれば問題なく勝てたんじゃね?
船の数も十分足りてるし
不思議なのは新羅の頃から散々日本沿岸を荒らしてた高麗がなんであんな無理な作戦進言したのかね?
普通コレだけ戦力差があればじっくり正攻法で攻めたほうがいいと思うのだが?
なにしろ幕府にとって一番不味いのが長期戦
御家人は自前で戦費まかなってるから破産しかねないw
この辺の事情理解してなかったのかね?
656名無し三等兵:2010/05/16(日) 03:55:45 ID:???
>>655

>1・対馬、壱岐占領して要塞化
まずこの段階で無理だなw
657名無し三等兵:2010/05/16(日) 23:40:20 ID:???
>>656
どうかな?
最初の戦力減らす前なら全島制圧して城作る事もできるんじゃね?
釜山あたりに物資集積して輸送する分には日本の水軍も手が出せないだろ?
速攻で攻めるなら、対馬と壱岐までなら占領出来るだろうし、水軍の数もそれなりにあるから日本軍を寄せ付けないまでは可能と思う。
もっとも・・・>>665の2以降はどうかな?
史実では船に武士一人乗り込まれただけで止める事が出来ず将兵大勢きり伏せられてたからな・・・
ある程度の数だと動き察知されて先回りされたり待ち伏せされたり厄介な事になって無駄に戦力消耗しかねない。
手が出せない程の大船団で沿岸を威嚇しつつチクチク攻めて幕府は何やってるって内政面で追い詰めるのが吉かな・・・
一応連中もこっちの内情は良く理解してたしなw(それは日本も同様w)
・・・
気のせいだろうか・・・こいつらの方が今の日本政府より戦略や外交理解してる様な気がしてきた・・・
658名無し三等兵:2010/05/17(月) 18:42:14 ID:???
>>657
弘安の役で4400艘の大水軍でも日本軍を寄せ付けないなんて無理だったじゃん。
それだけ、日本の水軍も強力だということ。
平戸を要塞化したけど、台風の後1週間持ちこたえることもできなかったし。
直前に日本軍の防備が手薄だという理由で平戸要塞化案に作戦変更されたのだって、
根本的には対馬、壱岐の占領をクビライが無理だと考えていたからだろ。
659名無し三等兵:2010/05/17(月) 22:31:38 ID:???
というか、当時の日本ってマジで攻めたくない国だな。
海を隔てていて地形も山がちで入り組んでいる上、
兵士の数が異常に多くて、そいつら全員討死万歳の戦士階級なんだからなw
660名無し三等兵:2010/05/17(月) 23:48:12 ID:VuKyvUGZ
自分が死んでも家に保障が約束されてるからな
661名無し三等兵:2010/05/18(火) 01:40:05 ID:???
鎌倉時代の弓と蒙古・女真・高麗の弓の推定射程距離とかわかる人いる?
よく、蒙古軍の優秀な弓に鎌倉武士は歯が立たなかったとか妄想めいたこと
言う人居るけど、実際のところが気になる・・・
662名無し三等兵:2010/05/18(火) 19:53:52 ID:???
実際のところ日本の弓は威力でも射程でも蒙古の弓に劣ってたからな。
663名無し三等兵:2010/05/18(火) 21:03:57 ID:???
その説の初出はたぶん黒田俊雄の『日本の歴史8 蒙古襲来』
だと思うけど、「射程」と「有効射程」を比較してるし数値の根拠も不明なので
忘れておk
664名無し三等兵:2010/05/18(火) 21:58:09 ID:+NL3xwEQ
>>661
それは軍事に無知な左巻歴史学者や>>662みたいな馬鹿の妄想だよ
665名無し三等兵:2010/05/19(水) 02:31:47 ID:gEWCVHOd
>>662
じゃあなんで弘安の役では
元軍はまともに上陸できなかったの?

御自慢の弓で防塁の上の武士やっつけて悠々上陸すればよかったじゃん

666名無し三等兵:2010/05/19(水) 11:43:54 ID:???
水戸黄門でも「ご隠居ファイト!」があったんだから、
元寇ドラマで「敵が大清水トンネルを抜けてきたらどうなさるのか!」
などと評定していても、ちっともおかしくない。
667名無し三等兵:2010/05/19(水) 12:35:24 ID:???
無理だろ。仮に戦闘で勝てても荒海を隔てて兵站が続くわけがない。
逆に日本から大陸に侵攻した例でも、長続きしたためしがないのと一緒。
当時の海運や国家組織じゃ不可能とはいわないまでも厳しい。
668名無し三等兵:2010/05/19(水) 13:35:00 ID:???
>>661-662
事実から考えてみようか
防塁は剣や槍をもった戦闘部隊には有効だが、弓に対してはあまり効果がない
史実において防塁を突破できなかったことから、蒙古や高麗の弓が日本の弓に勝っていたとは考えにくい
もし、万一勝っていたのなら、それはそれで、元・高麗軍がいかに脆弱かということになる

あと、専門家のはずなのに弓の”最大射程”と”有効射程”を理解していない恥ずかしい人もいるから注意が必要な
669名無し三等兵:2010/05/19(水) 14:26:21 ID:vimIOt8D
>>667
このスレで過去にも議論されてるが、兵站は海を隔てていた方が有利。
当時の海運や国家組織なら余裕。
兵站は言い訳にならない。
670名無し三等兵:2010/05/19(水) 14:48:27 ID:???
>>669
有利だといい続けてそのたびに破綻している奴が粘着、の間違いじゃ?w
史実として日本海を隔てた侵攻は神話的な古代とか、近代以降を除いて成功例はないし。
明治時代に既に佐藤鉄太郎提督が戦史を研究して、当時の日本の能力でさえ大陸進出は失敗すると予見してその通りになったし。
671名無し三等兵:2010/05/19(水) 14:53:41 ID:???
現存している蒙古襲来時の大陸軍の弓は半弓。威力や射程より連射しやすさを重視したもの。
日本のは長弓。性質の違う弓を同じ基準で比べてどうのという以前で……。
672名無し三等兵:2010/05/19(水) 14:59:41 ID:???
モンゴルが南宋滅ぼした時は、雲南まで大陸レベルで迂回して包囲して何十年もかけて少しずつ落としていったわけだが。
このときの執拗な戦いぶりはどっかいって、なんかいきあたりばったりで兵を出しまくってたからなこの時期は。
673名無し三等兵:2010/05/19(水) 15:05:20 ID:vimIOt8D
>>670
古代に日本が海を隔てて朝鮮侵攻したことは、神話でも何でもなく高句麗の
史料にもある確固たる事実だが。
いくらなんでもモンゴル帝国が古代日本以下ってことは無いな。
674名無し三等兵:2010/05/19(水) 17:06:38 ID:vimIOt8D
モンゴル軍の戦闘技術は、あくまで遊牧生活のための技術の応用であって、
純粋に戦争のための技術ではない。
それでも巨大帝国を築けたのは、周辺にまともな軍を持った国が無かったから。
所詮はアマチュアチャンピオンなんだよ。
当時の世界で真にプロフェッショナルな軍はマムルークと鎌倉武士くらい。
そのマムルークと鎌倉武士にモンゴル軍が敗れたのは必然。
675名無し三等兵:2010/05/19(水) 17:35:06 ID:???
マムルークとモンゴルって戦法も似たようなもんじゃないの?
676名無し三等兵:2010/05/19(水) 20:05:01 ID:???
>>675
一人一人の練度が違うじゃん。
マムルークは幼い頃に奴隷として買われてから、
戦士として純粋培養されてるわけで。
677名無し三等兵:2010/05/20(木) 03:10:22 ID:fnBk1nu+
■元寇・サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答

Excuse:海を越えての侵攻は難しいから元軍は負けて当然
Answer:日本→大陸では勝ち戦がありますが何か?
確かに渡航という行為は難しいのですが、その中で相対的に見れば対馬海峡はとりたてて難しいわけではありません。
日本から大陸への侵攻では過去何度も成功例※がありますし、
負けた言い訳とするにはちょっと苦しいのではないでしょうか?
そもそもこちらが頼んで来てもらったわけではありませんよね?
攻めてくるからには勝算があってのことでしょう。
その目算が外れたということは…まあ言わずもがなですよね。
ちなみにそんな程度の元軍でも各国に勝利してきています。
鎌倉武士は優秀だったということになりますね。
むしろ海がそんなに侵攻の障害になるならそんな障害をものともせず大陸や半島を震え上がらせる日本の兵站能力がますます強調されるだけですね

※すべての準備が整った西暦202年10月、
この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。
新羅王はこの東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。
恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。
彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。
神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。
彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。
ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』

※百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳>そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、
百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
【広開土王碑】

※自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息
<訳>我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
『明史』(ちなみに日本軍が朝鮮南部に無数に築いた「倭城」を明朝鮮軍は最期まで全く落とすことができませんでした)
678名無し三等兵:2010/05/20(木) 07:55:22 ID:???
>>674
マムルークの勝利は鎌倉武士に比べてあまりに小規模。
679名無し三等兵:2010/05/20(木) 10:19:32 ID:???
日本海よりはるかに渡海が容易な海を隔てた占城とかを元は占領に成功したが、これも一度は勝ってもすぐ追い出されているからな。
逆に陸続きのところは、百年単位でモンゴル化が続いたところも多い。
軍事的に弱体でも日本は神の国だから云々、という戦前戦中の脳みそ膿んだ皇国史観の遺物が現在の大まかな元寇のイメージを作ったんだが、
そういうウヨがかった妄想はおくとしてもまさに日本海は百万の軍勢に匹敵する守りだな。日本が攻めるときも足枷になるから、ある意味平等だがw
680名無し三等兵:2010/05/20(木) 11:32:24 ID:???
チャンパーが大陸から海を隔てていたとは知らなかった。勉強になる。
681名無し三等兵:2010/05/20(木) 11:48:39 ID:???
戦闘時の兵站よりも、造船のために前線基地の高麗にかかった負担のほうが、
戦争全体として見たら勝利にずっと貢献してるんじゃないかな。
682名無し三等兵:2010/05/20(木) 11:49:44 ID:???
そもそも高麗忠烈王の蒔いた種wwww
683名無し三等兵:2010/05/20(木) 13:54:21 ID:???
今やルーピーズの間でも威力偵察説や棄民説は流行らないみたいだなww
684名無し三等兵:2010/05/20(木) 14:17:57 ID:???
日本第三次攻撃をベトナム侵攻優先で取りやめられたり明らかに戦略目標として低かったからな極東は。だったら最初から兵を出すな、という話にもなりかねんがw
当時の国家運営能力から考えると、膨らみすぎだったんだろう元軍の攻勢範囲は。
対金・対宋戦と比べると戦略の劣化が凄い。
まぁ外交音痴の日本が国書無視ったうえ使者殺すとかトンデモやんなきゃ戦争まではならんかっただろうな。
表向き頭さげて、その下で舌出している外交なんて大陸に対して日本は昔からやってきたことなのに、何を依怙地になってたのやら。
685名無し三等兵:2010/05/20(木) 15:24:33 ID:???
>>684
また適当なこと書いて…
恥ずかしくないのか?

文永の役以前に数度にわたって送られてきた使者は
全員無傷で返してるだろ

686名無し三等兵:2010/05/20(木) 15:28:15 ID:???
ついでだし例のコピペも張っとくかw

国書の和訳DQN風味
上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」
大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」
日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」
境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」
況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」
遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」
朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」
日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」
開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」
687名無し三等兵:2010/05/20(木) 15:29:07 ID:???
尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」
故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」
冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」
且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」
不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」
以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」
 王其圖之不宣「じゃーな!」
    至元三年八月 日
東大寺蔵

まさにDQN

驚くほどコピペの内容が的確で笑った
明らかに恫喝してますな
すでに軍門に下った高麗の例をクドいほど出し、
高麗のように挨拶に来い、と言ってきている以上、
どういう国書を出しても国書を出した段階で
「挨拶をしに来たってことはお前は俺の家族(日本が下であることを認めた)ね」
と言われる可能性があるわけでまあ無視して懸命だったわな
「申し訳ないが家族ごっこはお前らだけでやってくれ」と返信してもよかったろうけどねw
688名無し三等兵:2010/05/20(木) 15:55:35 ID:???
>>686
こうゆう挑発にすぐ乗るのが日本だよな
適当に返答しておきゃいいのに
相手が挑発してくる時は戦争をしたい時っていう
外交の常識を知らないんだな
太平洋戦争でもドイツと戦争したいアメリカが
開戦の口実として日本に攻撃してほしいから
ハルノートとかで挑発したのに日本はアメリカの思惑通り
素直に真珠湾を攻撃しちゃうんだもんなぁ
本当に外交が下手な国だよ
689名無し三等兵:2010/05/20(木) 16:03:25 ID:???
鎌倉幕府自体が程なく内乱に入って滅ぶ。
この辺りで全盛期のモンゴルなら内応誘って、現地風土に強い部隊作って切り崩しにかかっただろうな。
大ハーンを戦病死させるほど南宋が何度も撃退してもしつこく攻撃されて滅亡したような事態に陥らなかったのはまさに僥倖。
国力の土台が大陸とは違ったからな。海があって本当によかった。
690名無し三等兵:2010/05/20(木) 16:37:59 ID:???
「また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、
その結果として海防の弛緩を招致してしまった。
十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。
注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。」

『中国史のなかの日本像』 王勇
691名無し三等兵:2010/05/20(木) 16:39:37 ID:???
いずれにせよ
橋頭保も維持できず、攻撃目標である大宰府の制圧どころか
前線の水城にすら全く届かず、
ただの先駆けレベルの武士団にいいようにすり潰され遁走した元・高麗軍

情けなさすぎ
692名無し三等兵:2010/05/20(木) 16:48:52 ID:???
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、

「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。
我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません
(来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」

という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、
自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。

明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」
693名無し三等兵:2010/05/20(木) 17:27:39 ID:???
>>692
しかし、足利義満は朱元璋と朝貢貿易してたわけだが
形式上は明の家来の日本が貢物を渡して、明がお返しを与えるというものだけど
そのおかげで明での滞在費も向こうが持ってくれるし、税金もかからない
そしてお返しは、みついだ物より余計にもらえたりする
意地になるよりもうけた方がいいよね
694名無し三等兵:2010/05/20(木) 20:43:28 ID:???
でも文永の役以前の元の日本との通交は
南宋包囲網に日本を組み込もうと言う意図もあったでしょ。
日本がそれに応ずるとはまず考えられない。

文永弘安の両役の後に高麗遠征計画が浮上してる所を見ると、
肥後守護だった安達泰盛やら以外は戦況を楽観的に捉えてたのかも知れない。
文永の役は慣れない戦ではあっても、敗戦とは捉えられてなかったんだろうな。
695名無し三等兵:2010/05/20(木) 21:34:59 ID:???
>>693
相手によるだろw
696名無し三等兵:2010/05/20(木) 23:20:33 ID:???
>>694
当時の日本は大陸情勢を完璧に把握していたし、もし元との通交に応じたら
日本の兵が南宋征服に利用されるだけだということも理解していた。
どうせ、元は最初から日本攻める気なんだから、国書なんか与えない方がいいんだよ。
お陰で元は日本の国情を掴んだり、内部を切り崩したりすることができなかった。
一方、日本側からは外交使節と称して偵察要員を大都まで派遣してるんだぜ。
鎌倉幕府の外交政策は完璧。

それから、文永の役は明確に日本の勝利と認識されてたよ。
元軍は海外沿いの博多にも到達できないまま、その日のうちに敗走したんだから当然。
697名無し三等兵:2010/05/21(金) 04:50:34 ID:???
>>693
だから「貿易ならいいですけど侵略するなら戦いますし脅しは効きませんから
そのつもりでねwってことだろ」
698名無し三等兵:2010/05/22(土) 08:31:22 ID:???
>>694
敗戦ってw
いったいどこに負け要素があったんだ?
ああ、あれか。竹崎季長などが先走って案の定ボコられたことかw
699名無し三等兵:2010/05/22(土) 10:24:19 ID:???
松浦党がぬっ殺されたことだろう
700名無し三等兵:2010/05/22(土) 11:43:25 ID:???
元軍は1万3500余人もぬっ殺されてるのに、松浦党が数百人ぬっ殺されたら敗戦って・・・
701名無し三等兵:2010/05/23(日) 02:44:30 ID:???
しかも文永での腹いせか
松浦党、弘安の役では大暴れ
702名無し三等兵:2010/05/25(火) 01:05:53 ID:WqfDB1Dr

つーかさ。

明らかに一番貧弱な武器防具で
モンゴル軍を打ち破ったのは

マムルーク軍でも鎌倉軍でもなく


ジャワ島軍だろ。


最強はジャワ人。異論は無いな。

鎌倉軍と比べても、ポン刀はもってないし
長弓ももってない。
騎乗すらしてないぞ。
703名無し三等兵:2010/05/25(火) 01:53:47 ID:???
何言ってんだこいつ
704名無し三等兵:2010/05/25(火) 02:33:29 ID:???
で、ジャワ島にはどのくらいの規模でどういう編成の元軍が行ってたんだw
705名無し三等兵:2010/05/25(火) 14:51:53 ID:???
ジャワ人最強、その発想はなかったw
706名無し三等兵:2010/05/25(火) 19:04:08 ID:tUUolrrr
>>91
当時のカムチャッカあたりの生態系は
グリズリーの2倍はあるクマたちがシベリアタイガーの祖先に生活圏を追われてきたレベル。
最新装備で身を固めたソリッド・スネークでも日本まで踏破できるかどうか・・・
707名無し三等兵:2010/05/25(火) 19:36:23 ID:???
>>702
ジャワ軍の装備は俺も興味あるな。どういう史料に載ってる?
708名無し三等兵:2010/05/25(火) 19:57:03 ID:???
スンバ島のパソーラなんか歴史が古そうだ
ジャワ軍もこんな感じだったんじゃないかな
動画を見たことあるけど殆ど戦争みたいだよ
http://poyoland.jugem.jp/?eid=235
709名無し三等兵:2010/05/25(火) 20:00:24 ID:???
とりあえず騎乗してるのはわかった。
710名無し三等兵:2010/05/25(火) 20:01:57 ID:???
>>704
ジャワ島に侵攻した元軍は海船200艘、軍士2万人。
1293年2月13日に元軍が上陸した時、ジャワ島を支配してたのはクディリ国のジャヤカトワン王で、
それにマジャパヒト国のウィジャヤが抵抗してる状況。
即座にマジャパヒト国が元軍に降伏したため、元・マジャパヒトは合同でクディリ国を戦うことに。
3月19日、元・マジャパヒト連合軍の攻撃でクディリ国に首都ダハ城が陥落し、ジャヤカトワン王は降伏。
ところが、突如マジャパヒト国が裏切り、油断した元軍を襲撃する。
3000余人の犠牲者を出した元軍は4月24日にジャワ島から撤退し、ジャヤカトワン王の妻子や
官人100余人、クディリ国の地図・戸籍などを含む膨大な戦利品を持ち帰った。
この後、1294年にクビライが死去し、その翌年の1295年にはマジャパヒト国が元に朝貢。
711名無し三等兵:2010/05/25(火) 20:07:50 ID:???
>>710を訂正。

ジャワ島に侵攻した元軍は海船500艘、軍士2万人。
712名無し三等兵:2010/05/25(火) 21:01:30 ID:???
鎌倉武士最強厨涙目だな。(・∀・)
713名無し三等兵:2010/05/25(火) 21:06:42 ID:???
>>712
???
714名無し三等兵:2010/05/25(火) 21:14:36 ID:???
書き間違い大杉なため再度投稿

ジャワ島に侵攻した元軍は海船500艘、軍士2万人。
1293年2月13日に元軍が上陸した時、ジャワ島を支配してたのはクディリ国のジャヤカトワン王で、
それにマジャパヒト国のウィジャヤが抵抗してる状況。
即座にマジャパヒト国が元軍に降伏したため、元・マジャパヒトは合同でクディリ国と戦うことに。
3月19日、元・マジャパヒト連合軍の攻撃でクディリ国の首都ダハ城が陥落し、ジャヤカトワン王は降伏。
ところが、突如マジャパヒト国が裏切り、油断した元軍を襲撃する。
3000余人の犠牲者を出した元軍は4月24日にジャワ島から撤退し、ジャヤカトワン王の妻子や
官人100余人、クディリ国の地図・戸籍などを含む膨大な戦利品を持ち帰った。
この後、1294年にクビライが死去し、その翌年の1295年にはマジャパヒト国が元に朝貢。
715名無し三等兵:2010/05/26(水) 00:03:46 ID:???
裏切りとかまでやってようやく撃退できた程度か
元軍の数も元寇よりはるかに少ないし
716名無し三等兵:2010/05/26(水) 00:05:21 ID:???
すげー姑息じゃねーかww

なんでこれで「鎌倉武士最強厨」が涙目なのか?
717名無し三等兵:2010/05/26(水) 00:07:10 ID:???
何かこう言う姑息な戦いって大好きw
718名無し三等兵:2010/05/26(水) 00:18:06 ID:???
>>712>>717
ワロスw
719名無し三等兵:2010/05/26(水) 01:01:10 ID:MibJNVmG
ついにジャワまで持ち出してきたか・・・。
しかし、これならマムルークやベトナムのがまだ説得力があったなw
藪蛇だったなw
720名無し三等兵:2010/05/26(水) 07:15:52 ID:???
つうか、元が渡洋作戦が出来たっていう、証明になるな。
内容的に、本土で略奪されたジャワと水際で余裕で阻止の日本じゃ大違い
721名無し三等兵:2010/05/26(水) 08:42:45 ID:???
>>720
元寇を「元が渡洋作戦が出来なかった」で済ますのって単なる思考停止だからね。
戦後長い間、日本は軍事について考えることすら悪という異常な状態だった。
「昔は馬を船で輸送できなかった」とか、「渡洋作戦は兵站が大変」とか、ちょっと調べれば
嘘とわかるレベルの話が堂々と通説としてまかり通っていたわけで。。。
722名無し三等兵:2010/05/26(水) 09:18:35 ID:???
でもマジャパヒト王国って後には現在のインドネシアの領土の匹敵する王国を作ってるよな。
やっぱりそれなりには強かったのかも。
723名無し三等兵:2010/05/26(水) 10:16:53 ID:???
ジャワの歴史は知らないけど>>714だけ見てるとマジャパヒトってすごい狡猾に立ち回ってるように見える
724名無し三等兵:2010/05/26(水) 10:48:19 ID:???
元寇において朝鮮がマジャパヒトに比べるとゴミのような生き物な点についてw
725名無し三等兵:2010/05/26(水) 11:37:36 ID:???
仕方ないニダ!ウリ達は元のすぐ隣なんだニダ!<# `Д´>
726名無し三等兵:2010/05/26(水) 11:54:04 ID:???
ジャワの起源は朝鮮ニダ
727名無し三等兵:2010/05/27(木) 12:17:07 ID:???
むしろこの世界に存在する何かで朝鮮か中国の起源ではないものなどあるのかと
728名無し三等兵:2010/05/27(木) 13:39:14 ID:???
なんで、朝鮮はいつも中国と同格扱いなんかね?「中国・朝鮮では・・・」
とか「中国・朝鮮といった先進諸国」とか多すぎない?普通ジンベエザメと
コバンザメを同列に語る人なんていないと思うんだが。
729名無し三等兵:2010/05/28(金) 07:19:10 ID:???
「いつも」ではないだろ
単に支那に隠れて悪さしてきた事実を省略してないだけ

このスレの元寇でいえば元による侵略ではあるものの
もともと忠烈王発信だってことを省略するわけにはいかない
対馬壱岐での虐殺が金さん主導だったってことも忘れるわけにはいかない

悪事ある所朝鮮あり
730名無し三等兵:2010/05/28(金) 14:35:49 ID:???
勝ったっつってもモンゴルの正規軍なんてほとんどいなかったんだろ
高麗人や漢民族を徴用した多民族軍で士気が低かったらしいし
江南軍なんかほとんどが南宋の兵だからな
社会不安の要因となる南宋の兵を厄介払いする目的で送り込んで
それを鎌倉武士が処理してくれただけだろ
実際モンゴルの司令官が乗った船は一隻も沈んでないしな
731名無し三等兵:2010/05/28(金) 18:56:09 ID:???
>>730
そりゃ指揮官の乗る船は他の船より上等な船だから当然嵐にも強いだろ

で、モンゴル人のみで構成された軍が多民族軍に撃破された事実に関してはどういった言い訳をしてくれるの?w
732名無し三等兵:2010/05/28(金) 18:58:59 ID:???
>>730
ナヤン・カダアンの乱について調べてみたらwwwwwwwwwwww
733名無し三等兵:2010/05/28(金) 19:41:31 ID:???
>>731
侵略者から自国を守るための戦争と
支配者の侵略のために無理やりやらされる戦争では
士気に差が出来て当然だろ
734名無し三等兵:2010/05/28(金) 21:29:24 ID:???
こういうたまに迷い込んだ馬鹿を袋叩きにするスレになってきたなwww
735名無し三等兵:2010/05/28(金) 22:00:03 ID:???
>>732
南宋軍の精鋭部隊はフビライが直轄、中央アジア戦線へ。
次は広東・広西へ向けられ、江南軍は残った「弱兵」とでも言うべき
やっかいもの的存在だったわけだが・・・
736名無し三等兵:2010/05/28(金) 22:02:02 ID:???
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、
海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる
中国の歴史12 第5章 王勇
737名無し三等兵:2010/05/28(金) 22:34:39 ID:???
鎌倉武士が元軍より強いって言ってる奴は
鎌倉武士が大陸に逆侵攻して元を征服できると思ってるの?
738名無し三等兵:2010/05/28(金) 22:41:21 ID:???
さあね。ただわかることは元が日本相手にこの上ないほどの惨敗を喫したことだけだな。
739名無し三等兵:2010/05/28(金) 22:55:49 ID:???
大陸に侵攻したら確実に負けてただろう
それくらい軍事に詳しい連中が集まった板なんだからわかるでしょ?
740名無し三等兵:2010/05/28(金) 23:04:25 ID:???
実際の戦闘が惨敗だったからタラレバで語るしかなくなってきたのかwwww
741名無し三等兵:2010/05/28(金) 23:08:57 ID:???
そもそも元に侵攻する意味ないしねww
じゃあ大宰府を陥落させないのはなんで?
742名無し三等兵:2010/05/29(土) 00:15:55 ID:???
>>737
そういうことを言い出すときりのない話
強弱はタラレバではなく実際にあった事情から判断される
743名無し三等兵:2010/05/29(土) 00:19:17 ID:???
>>733
士気が低かったから負けたとでも言いたいの?
如何に士気が低かろうと数倍の戦力差で上陸すらまともにできんかった言い訳にはならんぞ
744名無し三等兵:2010/05/29(土) 00:22:31 ID:???
>>373
モンゴル軍が欧州軍より強いといわれているのは、
合戦で欧州軍に勝ったからであって、欧州を征服したからではありません
745名無し三等兵:2010/05/29(土) 02:39:04 ID:???
>>730
Excuse:蒙古軍なんて言うけどさぁー実際に戦ってたのは高麗兵と南宋兵が殆どじゃん
Answer:それは言い訳にはなりません。

第一に蒙古軍はもともとそういう混成部隊で各国を侵略してきており、対日本戦だけのことではありません。
第二に文永の役での高麗軍はわずかに8000、弘安の役東路軍の高麗軍は10000だけです。
緒戦で直接本州へ上陸を試みた東路軍には南宋兵は含まれていません。
それなりの比重ではありますが「殆ど」といいはれるほどではありません。
しかも蒙古軍は連戦連勝だったウルス。
例えばナヤン・カダアンの乱で、カダアンとその息子ラオディ率いるモンゴル反乱軍は、
朝鮮半島で大元ウルス・高麗連合軍によって壊滅しています。
渡航作戦を経験していたヒンドゥを指揮官にしていますしね。
746744:2010/05/29(土) 18:31:13 ID:???
アンカミスってた

>>373 → >>737
747名無し三等兵:2010/05/29(土) 20:18:13 ID:???
>>736
「市舶司の置廃の繰り返し」ねぇ?
海軍の組織改革をやって防衛力の強化、にしては同じ所をぐるぐる回ってるようにしか見えない書き方なんだな。

別に理由があるんじゃないの?一番考えられるのは組織の腐敗や反乱計画の露見なんだけど。
そうじゃないなら「置配の繰り返し」の軍事的合理性は何?
748名無し三等兵:2010/05/29(土) 20:23:53 ID:???
>反乱計画の露見なんだけど。

反乱計画が露見してるのか?
749744:2010/05/30(日) 01:06:42 ID:???
>>747
そう書かれているのに、軍事的合理性とか求められても・・・・・
750名無し三等兵:2010/05/30(日) 02:27:42 ID:???
「また一方では、第二次の日本遠征(「弘安の役」)により、元は宋から接収した海軍力をほとんど失い、
その結果として海防の弛緩を招致してしまった。
十四世紀の初頭から、広州・泉州・慶元(明州の改称)の
市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、沿海地域の防衛問題が深刻になりつつあった証拠である。
注意すべきは、これらの海防策は主として日本の動向に対して講じられたことである。」

『中国史のなかの日本像』 王勇
751名無し三等兵:2010/05/30(日) 07:15:55 ID:???
>>747
今の感覚でなら不合理極まりないよな。
考えられるのは腐敗や反乱、倭寇への対応ぐらいか。
3回目の日本遠征計画とのからみもあるだろうしね。
多分一貫した戦略があったんじゃなくて、
いつの世にもある、上層部の独善と官僚制の弊害と現場のサボタージュが招いた結果と思う。
752名無し三等兵:2010/05/31(月) 03:12:13 ID:???
なんだ、結局いつものごとく偵察厨らしきバカが撃退されて終わったかw
753名無し三等兵:2010/05/31(月) 03:19:37 ID:???
700余年前の祖先と同じような事をしたのか
754名無し三等兵:2010/05/31(月) 04:01:18 ID:???
実際のところ、日本みたいな貧しい土地を占領しても元はうまみがなかっただろうしな。
文化レベルの低い日本みたいな僻地に送られたことにも、兵士の士気が低かった要因があると思う。
755名無し三等兵:2010/05/31(月) 04:17:54 ID:???
と、漢の宣帝クン
756名無し三等兵:2010/05/31(月) 09:32:50 ID:???
>>754
宋代から日本は黄金の国ジパングですが何か?

世界レベルの交易ネットワークを構築してた元からすれば
通貨となる金銀の産出が多い日本は喉から手の出る征服対象
757名無し三等兵:2010/05/31(月) 12:03:59 ID:???
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、

「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。
我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません
(来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」

という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、
自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。

明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」
758名無し三等兵:2010/05/31(月) 13:46:23 ID:I01daCXi
日本の古代から続く本当の資源は豊富な雨量なんだよな
これは高い農業生産力による人口の多さにもなるし
木の生育が良いことによる豊富な燃料は、鉄の生産量にも繋がってくる
759名無し三等兵:2010/05/31(月) 22:02:54 ID:???
760名無し三等兵:2010/06/01(火) 02:03:38 ID:???
>>756
元って塩本位制じゃなかったっけ?
確か交叉って塩との引換券じゃないのかな?

>>757
たしか、その人日本に手を出すな!
出したものはいずれ滅びるって遺訓のこしてなかったっけ?
761名無し三等兵:2010/06/01(火) 16:10:27 ID:???
銀本位の国でも塩は欲しがるし
金本位の国でも銀は欲しがる
塩本位の国でも金銀は欲しがる
762名無し三等兵:2010/06/01(火) 20:44:34 ID:???
>>735
ソースよろしく。

あと、言っとくけどそういうこと言い出したら
武士達だって承久の乱以来半世紀余り(宝治合戦に参戦したのは関東のごく一部)
実戦から遠ざかってたわけなんですが。
763名無し三等兵:2010/06/02(水) 23:58:30 ID:???
>>735は順番的におかしいよね。
南宋軍がフビライに直轄されて中央アジア戦線へ投入されたのも、 広東・広西に配備されて東南アジア戦線に
投入されたのも、弘安の役の後なんだから。
南宋軍の精鋭部隊は江南軍として日本戦線に投入され、中央アジアや広東・広西に向けられたのが残りカスの「弱兵」。
764名無し三等兵:2010/06/05(土) 06:09:44 ID:???
>>758
古代から文明発展最大の制約は木材資源量の制約だからな
メソポタミアもギリシャもエジプトもイースター島も木を使い果たして衰退した
欧州文明が科学文明になれたのは、アメリカ大陸という巨大な資源供給基地をゲットしたから
ってのは多きい
実際、16〜17世紀だったかでイギリスが木材資源完全に枯渇して行き詰ったわけで
そこから石炭資源の利用と鋼鉄船にいった

日本は切っても質を問わなきゃ20年でまた再利用可能になるからな。
765名無し三等兵:2010/06/10(木) 09:10:41 ID:???
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
 この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。
766名無し三等兵:2010/06/12(土) 12:40:34 ID:uDbG0YcL
ところで季長って文永では一人もやってないのになんで恩賞もらってるんだ?
767名無し三等兵:2010/06/12(土) 12:42:04 ID:???
見てきたの?
768名無し三等兵:2010/06/12(土) 12:53:03 ID:uDbG0YcL
いや
769名無し三等兵:2010/06/12(土) 13:07:45 ID:???
しかし日本の歴史家って軍事に疎い奴多いよなw
770名無し三等兵:2010/06/12(土) 13:26:38 ID:uDbG0YcL
たとえば誰?
771名無し三等兵:2010/06/12(土) 14:08:27 ID:???
馬の体高がなにを意味するのかすら知らない鈴木あたりが例に出てきそうな予感。
772名無し三等兵:2010/06/12(土) 18:08:34 ID:???
◇和種馬の体力
和種馬はその小柄な体型から甲冑武者を乗せるとよたよたとしか走れない、と誤解されていますが、
約3.5kmをノンストップで速歩、駈歩で問題なく走り続けられることを確めました。
機会があれば何処まで走り続けられるか確認してみたいと思います。

ttp://www.marvellouswings.com/Kattyuu/Reviw/Review.html
773名無し三等兵:2010/06/12(土) 21:50:06 ID:???
>>766
つ 一番やり
774名無し三等兵:2010/06/13(日) 14:17:40 ID:i09Ho2AI
乗り込んで行こうとしたらすでに武房等に先越されてたって話じゃなかった?
775名無し三等兵:2010/06/13(日) 16:13:26 ID:???
>>※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
>>恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
>>この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。
「鎮魂と報謝」の為に作られたんならそいつがぼろ負けする所を描くわけがないだろw
史料批判という概念の無い低能ゴミカスが偉そうな口を叩くなw
776名無し三等兵:2010/06/13(日) 17:38:45 ID:???
『蒙古襲来絵詞』に安達さん無双なんかあったっけ?
777名無し三等兵:2010/06/13(日) 19:01:57 ID:???
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  \ ヽ  /         ヽ /
   \_,,ノ      |、_ノ
778名無し三等兵:2010/06/13(日) 20:00:28 ID:???
>>776
読解力の無いカスだな。
そいつとは竹崎季長の事だ。
恩人の「鎮魂と報謝」の為に自分達がボコボコにされるのを描くわけが無いって事だ。
それにそんな物を作って後世に残ったら一族の恥、そして子孫の恥にもなるしなw
よってそれに史料的価値は皆無だ。
779名無し三等兵:2010/06/13(日) 21:36:12 ID:???
>>http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
これって旗を持ってるのがリーダーの白石通秦で後ろにいるのがその郎党って事でいいんだよね?
780名無し三等兵:2010/06/14(月) 06:45:51 ID:???
傷にも二種類在ってな。
背中に受けるのは大恥(間抜けか臆病の証明)だが向こう傷なら勲章のうち。

781名無し三等兵:2010/06/14(月) 08:24:00 ID:???
いや、季長は先走りすぎてボコボコですけどw
782名無し三等兵:2010/06/14(月) 12:40:43 ID:???
武士って偉そうなだけで弱いよねww
783名無し三等兵:2010/06/14(月) 12:42:55 ID:???
同意。その弱いヤツにボコられた元軍は相当弱いことになるよな。
784名無し三等兵:2010/06/14(月) 16:53:03 ID:???
その元軍の奴隷として動員されてた朝鮮人は家畜同然か
785名無し三等兵:2010/06/14(月) 18:44:12 ID:???
家畜は役に立つわな
786名無し三等兵:2010/06/14(月) 22:45:55 ID:???
家畜から人間に昇格させてやったら調子にのりだしたけどなw
殺虫剤かけてやりたい
787名無し三等兵:2010/06/14(月) 23:19:35 ID:???
>>784
奴隷?兵隊じゃなかったの?
788名無し三等兵:2010/06/17(木) 03:02:26 ID:???
>>760
201* 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん [] 投稿日:2009/05/09(土) 13:26:40 ID:HrPMY+6M
かの国の法則は、かの国が味方した国は皆負けるというものだが
日本の法則というのもありそうだ。
日本と戦争した国は殆どがその時を境に衰えてる。
例外は唐とアメリカぐらいだ。

261* 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん [sage] 投稿日:2009/05/10(日) 01:57:01 ID:Om/tvA6/
>>201
例外のときは日本の味方に朝鮮が・・・・・・・。


263* 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん [] 投稿日:2009/05/10(日) 05:56:48 ID:ZkJDm80q
>>261
君のお陰で>>201のもやもやがスッキリした!
ありがとう!

265 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん [sage] 投稿日:2009/05/10(日) 10:22:59 ID:M03Rl1vt
>>263
確かにwww
実にエレガントな解だったねwww
789名無し三等兵:2010/06/25(金) 00:29:12 ID:???
どうでもいいが、八幡ノ蒙古記に元の弓の射程が短いみたいなこと書いてあるな。
「蒙古が矢は短しといへる如く、凡て外国(この国は旧字体)の弓はよわくちいさき物なれば、それにたくらべて二三町も離れては箭はあたらぬものと思い侮りて如此思いの外に射とらるる事の多きなり」
って記述があるが、実際どうなんだろうか。
790名無し三等兵:2010/06/25(金) 05:15:20 ID:???
八幡ノ蒙古記は宗教書なので一切信用できない。
「大将軍の船は、風の以前に、青龍、海より頭を、さし出し硫黄の香、虚空にみち、異形の者とも、眼にさへきるに、おちおそれて、追はれて、にけさりぬ、此ふ ねも、長門の浦に吹つけられたりと」
なんて書いてあるんだぞ?
791名無し三等兵:2010/06/25(金) 18:48:03 ID:???
史料批判を重ねた上で信頼できないとするならともかく、宗教書だから全て嘘って頭ごなしに決め付けるのは感心できないな。

792名無し三等兵:2010/06/26(土) 08:13:43 ID:???
ま、常識的に考えて和弓と元の弓じゃ大きさ違うしな
でかい弓程飛距離も長いってのは当然
793名無し三等兵:2010/06/26(土) 23:47:58 ID:???
>>789
弘安の役で元軍が防塁を突破できなかったというのが一つの答えかな
元弓>日本弓 なら防塁を突破できたはず。つまり 日本弓>元弓
794名無し三等兵:2010/06/27(日) 05:19:59 ID:???
元寇は鎌倉武士の圧勝

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
 この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。
795名無し三等兵:2010/06/27(日) 12:04:43 ID:???
それは>>49>>344>>765でさんざん既出だ
Ctrl+Fでスレ内検索もできないほどバカなのか?
796名無し三等兵:2010/06/28(月) 03:08:26 ID:???
橋頭保も確保できず戦略目標の大宰府どころか
水城が見えるところまですら到達できず
福岡平野沿岸部をうろうろしただけ
先駆けレベルの武士団だけで返り討ち
弘安に至っては上陸すらままならず数カ月も海上を逃げ回った蒙古・高麗軍
797名無し三等兵:2010/06/28(月) 03:15:50 ID:???
今日読んだ本には、武士は怖気づいていて大宰府まで引こうといって
我先にと大宰府まで引いたそうで
その武士の腰抜けっぷりに幕府はおおいに嘆いたらしい。
って、日本の戦争の歴史みたいな本に書いてあったよ。
798名無し三等兵:2010/06/29(火) 00:33:59 ID:???
それ以前になんで元軍は
橋頭保も維持せずに
夜逃げしたの?
799名無し三等兵:2010/06/29(火) 06:03:55 ID:???
>>797
その本明らかに間違ってるだろ、てかそれマンガか?マンガなら当てにならなくて当然だが・・・
仮にそうだったとしても、それはそれで戦略的に正しい判断
小勢で大軍に挑めば各個撃破されるからな。堅固な要塞のある水城までいったん退いて戦力の集結を量るのは当然の行動
むしろ小勢の日本軍に元軍が撃退されたのが「史実は小説よりも奇なり」ってことだ
まあ、弘安でのヘタレっぷりを見れば納得できるんだけどね
800797:2010/06/29(火) 15:19:43 ID:???
マンガというか、戦争の日本史の7巻「蒙古襲来」って本ね。
文永の役のあたり流し読み的な感じだったもんでw
他スレで検索してみたら・・・

180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/04/20(金) 00:17:02
新井孝重の『戦争の日本史7 蒙古襲来』(吉川弘文館)がヤバイことになってる。
この本が凄いのは、同時代性とか一切無視して江戸時代に書かれた『北肥戦誌』を
元寇の史料として多用していること。
中でも圧巻は、「てつはう」について大胆な新説を展開している箇所。

蒙古襲来 P57
「『北肥戦誌』という本によると、「てつはう」の威力はすざましく、その音天地
に響くだけでなく、あたるところのものは木っ端微塵となり、味方はこれのため
討たれるもの数知れず、おおいに怖じ恐れて、みな其処かしこに逃げ竄れ、
「大将ノ下知ヲモ不相用、更ニ戦ハントモセザリケリ」といった具合であった」

新井孝重が根拠としている『北肥戦誌』の記述をもう少し詳しく読むと・・・

北肥戦誌
「蒙古豫ねて日本の用心をや量りけん。件の石築地に猶二三丈が程高く、己が船に
勢楼を切組み置き、是を俄に組み立てて、日本勢の陣所を遥か目下に見なし、其頃
曾てなかりける佛郎機を放し掛けしかば、其音天地に響き、中る所微塵となり、
味方是が為に討たるる事数を知らず」

元軍は元寇で佛郎機(フランキ)を使用していた!!!

そもそも『北肥戦誌』の記述だと、武士が蒙古に連戦連勝しているのだが、その点は見事に
スルーされているし・・・
まさに戦後のトンデモ元寇研究の集大成だな。
801名無し三等兵:2010/06/29(火) 15:29:08 ID:???
まあ文永の役では
水城を拠点に防衛戦する予定だったんだけど
一部の元気な子たちが「ちょっくらぶちかましにいきたいんですが」
というので許可したらそいつらだけで追い払っちゃったっていう展開だな

日本はほんの前哨戦のつもりであすから本番だ!とか気合入れてたら
元軍のほうに夜逃げされちゃった
802名無し三等兵:2010/06/29(火) 15:36:56 ID:???
その程度の強さの元軍に圧倒され続けた当時の世界のレベルって本当に低かったんだなw
どう考えても当時の世界最強は鎌倉武士だ。
803名無し三等兵:2010/06/29(火) 15:40:17 ID:???
ぶっちゃけ最強ではなかろう
804名無し三等兵:2010/07/01(木) 11:26:15 ID:yq/vbdgX
日本の山がちな地形で補給さえ続くなら最強クラスだろう
ただ、平地の長期戦だとだめだろうな
805名無し三等兵:2010/07/01(木) 14:28:39 ID:???
平地で戦って勝ってるけどな。
806名無し三等兵:2010/07/01(木) 15:50:17 ID:???
その通り。
平地で6倍の数のモンゴル騎兵に完勝した鎌倉武士こそが世界最強。
807名無し三等兵:2010/07/01(木) 22:50:45 ID:???
>>800
その本、俺も読んだけど内容が滅茶苦茶。

当時の日本人のことを「日本人」ではなく「列島住民」とか呼ぶし
「列島住民」は元の要求を受け入れず戦うことしか考えつかなかった蛮族
武士は一騎打ちを挑んで集団戦術の元軍に惨敗、敗走
列島住民は恐れおののき絶体絶命、しかし神風によって九死に一生を得た、
なんてことを本気で書いちゃってる。

あと対馬や壱岐での元軍の残虐行為については軽く流すくせに
日本側については使者を斬ったことなどの野蛮性を執拗に強調してた
この作者正気か?と本気で思った
808名無し三等兵:2010/07/02(金) 09:25:09 ID:???
つまりは文永の役でさえ元軍が「集団戦法」で大きな打撃を与えたことは無かったってこと?
809名無し三等兵:2010/07/02(金) 14:03:20 ID:???
だってまともに上陸もできてないのに集団戦法もくそもなかろう
810名無し三等兵:2010/07/02(金) 15:22:12 ID:???
そもそも武士だって集団で戦っている。
811名無し三等兵:2010/07/02(金) 15:26:19 ID:???
高麗史に見る文永の役


「蒙古大勝利!倭兵死にまくりワロタwww麻クズが散らばってるみてーだなww( ^∀^)ゲラゲラ」


「敵が多すぎてヤバイから撤退しよう( ー`дー´)キリッ」



    ,ィィr--  ..__、j
   ル! {       `ヽ,       ∧
  N { l `    ,、   i _|\/ ∨ ∨
  ゝヽ   _,,ィjjハ、   | \
  `ニr‐tミ-rr‐tュ<≧rヘ   > つまり武士は死んでも生き返る 
     {___,リ ヽ二´ノ  }ソ ∠  ゾンビだったんだよ!
    '、 `,-_-ュ  u /|   ∠
      ヽ`┴ ' //l\  |/\∧  /
--─‐ァ'| `ニ--‐'´ /  |`ー ..__   `´
    く__レ1;';';';>、  / __ |  ,=、 ___
   「 ∧ 7;';';'| ヽ/ _,|‐、|」 |L..! {L..l ))
   |  |::.V;';';';'| /.:.|トl`´.! l _,,,l | _,,|  , -,
    ! |:.:.:l;;';';';'|/.:.:.:||=|=; | |   | | .l / 〃 ))
    l |:.:.:.:l;';';'/.:.:.:.:| ! ヽ \!‐=:l/ `:lj  7
    | |:.:.:.:.l;'/.:.:.:.:.:.! ヽ:::\::  ::::|  ::l /
812名無し三等兵:2010/07/02(金) 21:32:16 ID:???
>>810
集団として行動するには当然その為の訓練が必要だけど(騎兵なら尚更)武士達はやって集団行動の訓練をしてたんだ?
813名無し三等兵:2010/07/03(土) 07:57:34 ID:???
訓練ぐらい一族郎党単位で常にやってるだろう。
814名無し三等兵:2010/07/03(土) 08:15:24 ID:spg7vpu1
>>803
武士は小さくて小回りの効く馬に当時最強クラスの弓とほぼ完成された重鎧を
装備し、小さいころから英才教育を受け十〜数百人単位で部隊を作り死を恐れず戦う。
世界のレベルが低いのではない。

815名無し三等兵:2010/07/03(土) 09:54:44 ID:???
それ何てファンタジー?w
816名無し三等兵:2010/07/03(土) 13:39:01 ID:???
>>813
欧州の騎士もそうだけど、マニュアルにしたがって定期的に訓練をしていたわけじゃないからいまいちイメージがし辛いんだよ。
817名無し三等兵:2010/07/03(土) 13:51:06 ID:???
洋の東西を問わず中世の軍事訓練といえば狩猟だよ
大勢で集まって巻狩りしたり逃げる獲物を追物射したりする
818名無し三等兵:2010/07/03(土) 14:06:57 ID:???
犬追物とかは部隊行動の訓練になるだろうな。
819名無し三等兵:2010/07/03(土) 15:15:21 ID:spg7vpu1
>>815
ファンタジーじゃなく事実だよ、ず〜っと属国で独自の文化文明を築けずウンコ食ってた国は
少数で小さい島に逃げ戦いを放棄して国を好き放題荒らされる。
もう一つの国は5年間粘り強く戦うが結局負けてしまい、征服者(元)から日本遠征に狩り出されて
死んでしまうが征服者も多大な損害を受け衰退の一途をたどるが、そこを抜け目なくつき
新しい国を建国し独自の文化文明を再び築きあげる。
ウンコ食ってる国は再び属国になり細々と生きる。

最強クラスの攻撃力を誇る弓と高い防御の鎧と機動性を持ち強い精神力を持った武士の国は
常に独立国家を営み独自の文化文明を築く。

これは誰にも揺るがしようのない事実である。
820名無し三等兵:2010/07/03(土) 19:41:56 ID:???
独自の文化文明ってなんだぁ?
821名無し三等兵:2010/07/03(土) 21:12:56 ID:???
日本の文明は中国とかの文明を魔改造したものも多いんだがな・・・・
822名無し三等兵:2010/07/03(土) 21:18:06 ID:???
>>808
日本側の投入兵力から考えると、仮に全滅したとしても「大きな打撃」にはなりえない
実際は全滅どころか撃退しているんだから受けた打撃はかすり傷程度
そもそも、大人数で少人数をボコボコにするのは集団戦法ではない
823名無し三等兵:2010/07/03(土) 22:29:18 ID:???
集団戦法という言葉が先行して実際にそれが何なのかを良く解ってないのが多い気がする。
824名無し三等兵:2010/07/05(月) 09:47:21 ID:???
単純に、鎌倉武士=一騎打ちという幻想のせいで
集団戦に弱かったに違いない、という思い込みからうまれてきた説に見える
825名無し三等兵:2010/07/05(月) 12:03:56 ID:???
源平合戦だって一騎打ちじゃないのに
なんで元寇は一騎打ちってなったんだろうねえ?
826名無し三等兵:2010/07/05(月) 13:56:03 ID:???
源平の絵巻物とかですら普通に集団で突撃したりしてるよねwそういやw
827名無し三等兵:2010/07/05(月) 19:43:59 ID:???
この頃の騎馬武者ってどうやって戦ってたの?
遠距離から弓を撃ちあうだけ?それとも騎馬同士で斬りあったりしたの?
828名無し三等兵:2010/07/05(月) 20:00:29 ID:???
だからやっぱ負けていて、その言い訳に一騎打ちを持ち出した
のじゃまいか?
829名無し三等兵:2010/07/05(月) 21:25:58 ID:???
>>827
両方だろ。当時から主力兵器は弓とはいえ、突撃してくる多数の敵を相手にするには弓だけじゃ不可能
830名無し三等兵:2010/07/05(月) 21:52:02 ID:4uSZHLJw
少弐資能の孫(名前忘れた)が戦はじめの名乗りに鏑矢を放ったこと・
竹崎季長が僅かな騎数で先駆けで突っ込んだこと、が一騎打ち戦法の
論拠にされてるように思う。
実際は一部の例に過ぎないのに。
831名無し三等兵:2010/07/05(月) 22:28:59 ID:???
鏑矢を放つのは要するに戦闘開始の合図だろ?一騎打ちとは関係ないんじゃ?
832名無し三等兵:2010/07/06(火) 02:54:31 ID:???
>>828
どっちが?
833名無し三等兵:2010/07/06(火) 12:49:12 ID:???
ts
834名無し三等兵:2010/07/06(火) 17:47:11 ID:???
鶴翼とか魚鱗とかの陣形って、戦国時代以前にも使われてたん?
835名無し三等兵:2010/07/06(火) 18:09:14 ID:???
陣形とか今はどうでもいいからさ
836名無し三等兵:2010/07/06(火) 18:35:07 ID:???
義経が六韜三略の虎の巻だろう?
兵力がどんだけなら弓は何張り槍は何人とか、きっちり書いてあるらしいぞ
つまり孫子並な兵法は既にものにしていたはずさ、とうぜん陣形だって…
837名無し三等兵:2010/07/06(火) 20:11:16 ID:???
実際に使われていたかは知らんが、八陣自体は大江維時が9世紀に唐から持ち帰ってるので存在自体は知られていたはず。
838名無し三等兵:2010/07/06(火) 20:49:54 ID:???
古くは吉備真備が兵法を学んでいて活躍したよねえ
839名無し三等兵:2010/07/07(水) 02:27:51 ID:???
そもそも、日本に集団戦が無いというソースは?
少なくとも源平合戦時に集団戦法をやっているのは様々な資料から読み取れるが・・・
840名無し三等兵:2010/07/07(水) 03:21:31 ID:???
蒙古襲来絵詞で竹崎が血しぶき上げてる馬に乗って突撃してるシーンを見て集団戦法をやっていなかった
って言っている日本史の学者がいたよ
841名無し三等兵:2010/07/07(水) 13:15:16 ID:???
蒙古は船だったから馬は少なかったんだろう?
歩兵に騎兵突撃は有効な戦法なんじゃないのか?
842名無し三等兵:2010/07/07(水) 13:52:19 ID:GY2ck42B
>840
その学者は、集団戦法と云うものを西欧を含む大陸型しか知らないのではと半刻問い詰めたいw
843名無し三等兵:2010/07/07(水) 19:46:31 ID:???
日本史学者は総じてそんなもんだよ。
「信長の戦争」は歴史史料批判の過程はとてもいい本なのに、
戦術の話になると、
旧日本軍が火力に劣るが故に発展させていた浸透戦術を、
「歴史上の迂回戦術の再現にこだわっていたため
見事に勝とうとしすぎ。
ときには正面突破も必要!」
とか言い出しててゲンナリした。
844名無し三等兵:2010/07/07(水) 19:56:46 ID:???
海外では退役軍人が戦史研究家になるのはそう珍しくないが、日本じゃ皆無だからな。
軍事と全く縁が無いし興味も無いから珍説がはびこる事になる。
845名無し三等兵:2010/07/07(水) 22:33:07 ID:1hkIzPXG
軍事に全く無知なうえに自虐史観が入ってねじ曲がったりしてるからな
歴史学者の馬鹿共は
846名無し三等兵:2010/07/08(木) 00:44:23 ID:???
バンザイ突撃も無言でそそくさ浸透すりゃよかったのにね
847名無し三等兵:2010/07/08(木) 01:08:02 ID:???
硫黄島の最期の突撃が無言だったらしいね
400人でやったらしい、米軍、大混乱したらしいね
848名無し三等兵:2010/07/08(木) 11:05:43 ID:???
東京ローズが放送で予言した地雷爆弾だな。
切り込み先が主に航空基地要員の兵舎だったから混乱したんだろうな。
849名無し三等兵:2010/07/08(木) 11:35:24 ID:???
大陸式の集団歩兵戦が騎射戦術より有利なら
なんで朝廷はあんなに蝦夷平定にてこずったんだよ
健児とか俘囚とかもいらねーじゃん(´・ω・`)
850名無し三等兵:2010/07/08(木) 16:27:26 ID:???
密集歩兵主体の軍隊の騎馬弓兵との相性が最悪なのは常識みたいなもんだと思ってたがな。
851名無し三等兵:2010/07/09(金) 22:47:13 ID:Obl/p5fA
>>843

火力に劣るが故発展させていたわけではないだろ

太平洋戦争で浸透失敗したのは、そもそも兵力が同数以下なのに攻撃させるから。
852名無し三等兵:2010/07/09(金) 23:02:13 ID:???
一次大戦時の浸透戦術の発明過程を考えれば、
数とかも関係ないだろう。最新の歩兵戦術を、
実践できてたというだけの話。
火力とか兵力の不足は又別の問題だよ。
853名無し三等兵:2010/07/09(金) 23:39:16 ID:Obl/p5fA
>>852
浸透は兵力をかけても突破不可能な前線を、兵力さえかければ突破可能にするだけだよ。

失敗の典型の様に言われてるガダルカナルやインパールだって、前者は簡易陣地しかない島、後者は機動戦なんだから
突破して島内制圧やインパール直撃だって兵力が上回れば可能。

ただ兵力を集める事が出来ない現実を直視せず、戦線を整理して戦機を伺わずに攻撃をかけたから失敗
854名無し三等兵:2010/07/10(土) 14:40:48 ID:yEkwqN8z
おれ社会で習ったんだけど。
855名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 22:34:50 ID:sHxh3Evj
>>853
上海でもビルマでも、
遥かに多数の敵を相手に浸透戦術を成功させてるけど。

逆にガダルカナルの第一次総攻撃では、
川口支隊3000が交戦した米兵部隊は
たった700名だったが、
川口支隊は700名の死傷者を出して撤退してる。

兵力上回れば可能とか暴論に等しい。
妄論と言ってもいい。
856名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 23:03:59 ID:???
>>855
うるさい死ね低能ブサヨク。
857名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 00:01:11 ID:1K3CR3te
>>855
川口支隊3000は700の守る前線を突破しても、突破した部隊から殲滅させられたわけで…
島の米軍は総勢一万を優に超えていたんだから攻撃自体が無意味。
それに上海やビルマの阻止火力は大した事無かったろ。
858名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 10:00:37 ID:cWM8JtJz
>>857
その700の守る前線に阻まれたんですが。
突破できたのは一個中隊だけ。
日本史学者を馬鹿にできないな。

>それに上海やビルマの阻止火力は大した事無かったろ。

結局火力の問題だな。
兵力かければ突破できるのが浸透戦術!(キリッ
じゃなかったの?
859名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 17:30:54 ID:???
お前らみんな深呼吸してからスレタイを10回音読しろ
860名無し三等兵:2010/07/12(月) 02:54:32 ID:???
民主党ですが、ジミンガーZ強すぎですと読めるぞ。
861名無し三等兵:2010/07/15(木) 17:50:26 ID:???
和弓の張力ってどれ位なん?
モンゴル弓は100〜160kgらしいけど。
862名無し三等兵:2010/07/15(木) 23:05:08 ID:???
>>861
kgじゃなくててポンドだろ……
人間じゃまず不可能だ。
863名無し三等兵:2010/07/16(金) 14:45:33 ID:???
モンゴル弓の張力は100〜160ポンド。
最大飛距離は500m以上で有効射程は300m。
大して和弓は通し矢でたかが100m程度の距離で命中させるだけで偉ぶり、しかも百発百中ではないw
張力もモンゴル弓の半分程度w
どう考えてもモンゴル弓の圧勝だろ。
864名無し三等兵:2010/07/16(金) 17:19:07 ID:???
通し矢で使われた軽い弓が張力30kgくらいだろ?
戦用の弓は40〜50kgはあるんじゃね?
865名無し三等兵:2010/07/16(金) 20:01:40 ID:???
最大飛距離=素肌に命中しても貫通の保障なし。それこそ毒にでも頼らないと戦術的に無意味。
有効距離も100発100中の距離って訳じゃないし。一定以下の仰角で撃てるってだけ。

そんなにモンゴル弓がすごいなら、火器がボルトアクションに進化するまでなら世界征服が何度でも出来ちゃいますw
866名無し三等兵:2010/07/16(金) 20:22:33 ID:???
和弓の最大飛距離は四町(436m)ほどと見積もられていた。
戦場で実際に矢を放ち始めるのは二町(220m)の距離から。
モンゴル弓と大した差があるようには見えんな。
867名無し三等兵:2010/07/16(金) 21:31:07 ID:???
そういや、モンゴルの弓は接着剤の関係で水に濡れると壊れる。
という話を聞いたことがあるけどホントのところはどうなの?
868名無し三等兵:2010/07/16(金) 22:33:41 ID:???
そう、複合弓は大抵ぬれると弱い。 これは日本製も似たり寄ったり。
防水に漆塗ったりの努力はしますけどね。

今時の化学合成の接着剤とは違うのですよ。。。
869名無し三等兵:2010/07/17(土) 00:20:49 ID:???
>>867
それはどこの弓でもおおむね同じだろ
870名無し三等兵:2010/07/17(土) 06:35:13 ID:???
和弓は湿気にはある程度慣れてるし対策はしてるが、
モンゴル弓はどうだろうね。ましてや、船で長期間運ばれた後じゃ、
精度とか相当劣化してると思われ。
871名無し三等兵:2010/07/17(土) 10:01:20 ID:???
>>869
大陸の合成弓は材料の特性上、湿気に滅茶苦茶弱い
日本の複合弓は湿気への耐久性はまだマシな方だよ


872名無し三等兵:2010/07/17(土) 11:35:16 ID:???
まあ日本の場合、世界でも類を見ない漆大国なのに対して
膠による接着が主だと思しき大陸人は海を渡って来ると弓も弦も湿気るし
膠は結構水分に弱いからなぁ
873名無し三等兵:2010/07/17(土) 12:52:51 ID:???
ん、和弓もかつての接着剤は膠(ニベ)だが。
874名無し三等兵:2010/07/17(土) 14:55:52 ID:???
だから結構後まで丸木弓が現役で使われてたりするわけか
メンテ楽そうだもんな
875名無し三等兵:2010/07/17(土) 15:47:11 ID:???
兵頭とかいう自称軍学者が戸山流の人と共著で出した本で「鎌倉刀は硬いものを斬るのに適した蛤刃だったからモンゴル軍の柔らかい革鎧には効かず
刀を改良するはめになった」とかいう話を書いてあった

何で、こんな出鱈目な話が広がったんだろ?

蒙古襲来の時の元軍や高麗軍の鎧は、裏に鉄片を縫い付けたタイプのもので
斬る時の手応えは別に日本の鎧と変わらなかっただろうに(厚さが違う分、寧ろ日本の鎧より斬り易かっただろう)

鎧に対して詳しくも無いくせに、見た目が柔らかそうな革だけだからと言って変な説を垂れ流すんだよな

まあ、その本の共著者である兵頭からは日本刀と旧軍を貶めることができれば何でも良いという印象しか受けなかったけど
876名無し三等兵:2010/07/18(日) 13:27:08 ID:???
革と言えばクニャクニャ柔らかいもんだと思ってるんだろう
877名無し三等兵:2010/07/18(日) 19:09:17 ID:???
>>875
>自称軍学者
まともな人もいるんだろうが、あやしいやつが多いからなぁ
技術的要因とかも結構無視しがちだし
878名無し三等兵:2010/07/18(日) 19:33:30 ID:???
人間の骨以外って柔らかい所だらけな気がするんだが、その。。。鎧破壊だけに特化されてもなぁw何処のエロゲよと。。。
879名無し三等兵:2010/07/19(月) 20:58:20 ID:???
大鎧の小札って一つ1〜3mmで、二層の横列を更に縦に二層に並べるわけだろ?
つまり厚さは最大で12mm前後になるって事でいいのか?
880名無し三等兵:2010/07/20(火) 16:48:07 ID:???
>>879
近距離で複合弓から放たれる矢を防ぐには硬さだけでなく、ある程度の厚みが必要なんだよな
881名無し三等兵:2010/07/23(金) 14:16:07 ID:fIre1k4e
>>878
そもそも刀剣類に簡単に斬られて真っ二つになるような
鎧なんて鎧の意味がねえしなw
そりゃ機動力重視して、ある程度防御性捨ててる鎧もあるけど。
882名無し三等兵:2010/07/24(土) 04:35:34 ID:8ZbgHgYR
機動遊撃戦による完全な勝利です。

200から300人単位の小部隊で、数箇所から突撃を繰り返し、
元軍を混乱に落としいれ、日本軍の部隊は疲弊すると収容陣地に後退、
しかし後詰の部隊が元軍に隙を与えず機動的に前進して、またもや突撃。
西日本各地から部隊が次々と集結してくる日本軍の態勢を考えれば、
元軍は絶えず士気旺盛な日本軍の遊撃に晒され、部隊の再編成や指揮官の統制も
ままならず、船に戻るほかはなかった。

さらに船に戻っても夜間や黎明時に切り込みを受けていますから、
元軍の疲労は想像を超えていたと考えられます。
883名無し三等兵:2010/07/24(土) 15:14:29 ID:uPIH4Ykr
>882
まぁ、賛成に一票
884名無し三等兵:2010/07/25(日) 17:15:08 ID:???
>>863
通し矢って殆ど仰角取れないからその距離なんだけど。
そもそもトルコ弓が凄いって話は聞いた事があるが、モンゴル弓の凄さの具体的なソースを聞いたことが無い。
885名無し三等兵:2010/07/25(日) 23:27:10 ID:???
>884
テレビのナーダムだと、女子供の的が百メートルちょっとくらいだったよ
確か…
886名無し三等兵:2010/07/26(月) 02:01:37 ID:???
http://www.coldsiberia.org/monbow.htm

モンゴル弓はイギリスの物ほどの大きさは無いが、威力は遥かに勝る。
イングリッシュロングボウの張力は70〜80ポンドほどだが、George Vernadskyによれば古いモンゴル弓は平均で166ポンドあり、Chambersは100から160ポンドの間だとしている。この差は弓手の力やその弓が作られた目的による物だ。
想像出来るだろうが、射程距離には大きな差があった。 イングリッシュロングボウの最大射程は250ヤード(228m)ほどだが、モンゴル弓は350ヤード(320m)離れた的に当てる事が出き、熟練した射手ならそれ以上を狙う事もできた。
古モンゴル人が凄まじく離れた距離の的を狙えたと主張する人たちがいる。モンゴル国立体育大学副学長のGongor Lhagvasurenは"The stele of Chinggis Khan."という論文を書いている。
この論文でLhagvasurenはザバイカルのErdene川に流れ込むUrlengui川の支流であるKharkiraa川から見つかった古い碑文を参照している。この1226年に作られたと思われる碑文はこう書かれている。
「チンギス・ハーンはSartaulを征服した後、モンゴルの要人を集めて会議を開いた。そこでEsunggeは335アルド(536m)離れた的を射抜いた」。
Lhagvasurenはこのような業績は13世紀のモンゴル人射手にとっては大して珍しくない物だとし、「この事例は700年以上前のモンゴル人の力、正確さ、鋭さと肉体の強さを表す物である」と書いた。
モンゴル人射手がLhagvasurenいうような距離の的を簡単に射抜けたかどうかはともかく、弓の歴史の中でも彼らとその弓が素晴らしい物だったという事に疑問は無い。
887名無し三等兵:2010/07/26(月) 09:12:26 ID:???
|∀・).。oO( モンゴルにも韓国ネチズンみたいなのがいるんだな
888名無し三等兵:2010/07/26(月) 10:21:20 ID:???
現在の小銃が射程800メートルくらい
M1カービンだと400メートルくらいか?
それより射程が長い弓、弓だぜ?
889名無し三等兵:2010/07/26(月) 11:45:59 ID:???
鎮西八郎が300m先の軍船を沈めたみたいな伝説じゃねえのそれ?
890名無し三等兵:2010/07/26(月) 18:09:11 ID:???
てかこんなに射程があるなら、弘安の役で船から防塁越に武士攻撃できただろ
それとも和弓はこれより射程が長かったのか?
891名無し三等兵:2010/07/26(月) 18:18:15 ID:???
わざわざ碑文に残すって事はそれが非凡な記録だって意味だろ?
それに的に当てられたとは言ってもその距離で殺傷能力があるかどうかは別の話。
892名無し三等兵:2010/07/26(月) 23:56:01 ID:???
文献に残ってるだけでいいのなら
太平記でも600メートルくらい飛ばしてるよw

まあこれは冗談としても
張力70キロ以上の弓ってことは
その射手は大の男を親指一本で軽々持ち上げられるって事になるな
マジぱねぇ
893名無し三等兵:2010/07/27(火) 00:05:38 ID:???
和弓なら倶梨伽羅峠で義仲軍が谷越えで高いほうから射てるね
だいたい200メートルちょっとくらいだろうと推測されてるね
894名無し三等兵:2010/07/27(火) 00:40:34 ID:???
>>892
500m以上離れた的に当てる云々はともかく、張力160ポンドの弓は別におかしくともなんともない。
メアリー・ローズ号から引き上げられた実戦用のロングボウはそれ位の張力があると見られている。
もちろんそれを自在に使えるようになるには腕が奇形化する程の鍛錬が必要だが、現代でも使える人はいる。
いわゆる三人張りの和弓はそれ位の張力がなきゃむしろおかしくないか?
895名無し三等兵:2010/07/27(火) 03:27:01 ID:???
西欧のクロスボウなんて ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6b/Armborst_4%2C_Nordisk_familjebok.png
みたいに器具を使って弦を巻きあげていたわけだし、それに対抗するために
長弓もとんでもない張力のものがあっても全然おかしくないものねい。

イングランドの長弓はフランスのクロスボウを連射で圧倒したとはいえ、射程距離に
差がありすぎるようなら連射以前の問題なわけだし。
896名無し三等兵:2010/07/27(火) 11:14:56 ID:???
結局は弓の射程の差はほとんどなく
モンゴル側は騎馬での後退しながら射るとゆう得意な戦法ができず
日本側も対歩兵に有効な騎馬突撃も少数で決定的な打撃を与えられず
船に乗り込んでの日本刀による攻撃がいちばんの決めてになって
それが武士の魂にまで神格化される要因になったつう
ヒストリーチャンネルの主張が正しいのじゃないの?
897名無し三等兵:2010/07/30(金) 01:02:15 ID:???
>>894
ロングボウは地中海式に3本指で引くんだから
難易度については一概には比較できないだろ
蒙古式は親指一本で引くんだからさ

たとえるなら
親指一本で片手懸垂と人差し〜薬指使って片手懸垂どっちがキツいかって問題だよ。
898名無し三等兵:2010/07/30(金) 19:00:48 ID:???
その喩えは妥当じゃないな
親指っても付け根の方だし、大体道具を使って握力に関係なく引けるようになってるはず。
って言うか和弓でもアーチェリーでも指に力が入るのはあまり良くない。
899名無し三等兵:2010/08/07(土) 01:28:04 ID:???
和弓の矢は重い
射程や飛距離では殆ど変わらなくとも命中した時の深刻さは全然違う
900名無し三等兵:2010/08/15(日) 17:07:27 ID:doEXLA0t
901名無し三等兵:2010/08/15(日) 18:11:13 ID:???
日本ですら一騎打ちを仕掛けた武士がボコボコにされ神風で救われましたって認識が根強いなか、海外の研究者の元寇の認識ってどうなってるんだろう。
902名無し三等兵:2010/08/15(日) 20:14:58 ID:???
そう覚えさせる事で誰かが得をするからだろ
未だに教科書でそんな嘘教えてるんだろっか
903名無し三等兵:2010/08/16(月) 13:53:03 ID:1PWaFO60
このスレの住人は知ってると思うがいま遊就館の特別展示は蒙古襲来だよ
904名無し三等兵:2010/08/17(火) 17:59:56 ID:???
>>901
日本だって研究者なかでは日本の完勝でほぼ一致してるよ、
歴史教育には反映されてないけどね。
905名無し募集中。。。:2010/08/19(木) 10:21:12 ID:5RRQw+YX
軍事に無知な歴史学者や左巻の日教組教師共には何を言っても無駄だろうな
906名無し三等兵:2010/08/23(月) 00:56:25 ID:???
【話題】日本刀VS西洋剣 徹底比較した動画で日本刀の凄さがわかる!
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1282487794/

日本刀と西洋剣(ヨーロピアンロングソード)を徹底比較した動画が『YouTube』にアップされている。
その動画は『Japanese Katana VS European Longsword』という名前。
日本刀とロングソードどっちが凄いのかを動画内で検証している。

氷を切る勝負に至っては日本刀は真っ二つに切ることが可能でその切れ味の良さを見せつけた。
一方西洋剣は斬ることが出来ずに失敗となってしまった。この勝負は日本刀の圧勝だ。
http://getnews.jp/img/archives/001505.jpg

お次の皮を着た胴体人形斬り対決だが、日本刀は皮を先中までえぐっている状態。
西洋剣は皮にめり込むも日本刀ほど切り裂くことが出来なかったようだ。
http://getnews.jp/img/archives/002196.jpg

そして最後は鎧に対して横切りと突きの対決だ。鎧に対して日本刀と西洋剣は
どのようなダメージを与えれるか。ここから先は見てのお楽しみということで。

・Japanese Katana VS European Longsword
 http://www.youtube.com/watch?v=Ih7bmzFQ9rI

日本刀は各部の名称が30以上も付いているのはご存じだろうか?
柄(つか)の部分でさえ各部により何種類もの呼び名があり柄糸、柄巻、
鮫肌、柄頭という呼称がついている。知れば知るほど奥が深い日本刀だが
実物を触ることはないんだろうなあと。
http://getnews.jp/archives/73758

日本マジ強すぎ
907名無し募集中。。。:2010/08/24(火) 21:40:29 ID:Moc9GHbF
>>906
おもしろい!
以前のなんちゃって日本刀vsロングソードのとは大違いだw
908名無し三等兵:2010/08/24(火) 21:53:40 ID:???
>>氷を切る勝負に至っては日本刀は真っ二つに切ることが可能でその切れ味の良さを見せつけた。
>>一方西洋剣は斬ることが出来ずに失敗となってしまった。この勝負は日本刀の圧勝だ。
重心が先端のほうにあるロングソードなのに、柄に近い部分で斬っている。
素人がやれば斬れないのは当たり前。
>>お次の皮を着た胴体人形斬り対決だが、日本刀は皮を先中までえぐっている状態。
>>西洋剣は皮にめり込むも日本刀ほど切り裂くことが出来なかったようだ。
刀は素人でもやりやすい袈裟斬りなのに、ロングソードは難しい横薙ぎ。
意図的にしているとしか思えん。
あのドイツ人のおっさんが自作した刀対プロが作ったロングソードの動画と同じくらいの茶番だぞこれは。

そもそも刀剣の質なんてピンキリなんだから、「どっちが優れているか」なんて質問自体がおかしい。
貧乏足軽が使うような鈍物と王侯貴族用の剣を比べても無意味だし、逆もしかり。
出来るとすればせいぜい同じ種類の刀剣を何百何千と集め、テストを繰り返して平均値を出す位だ。

909名無し三等兵:2010/08/24(火) 22:08:10 ID:???
>>908
中世欧州は古代ローマの技術が全て途絶え、狂ったキリスト教が支配する完全な暗黒時代だろ。
通りはゴミと汚物で溢れ識字率はほとんどゼロ。
まともな文化は存在せず、軍事も馬から下りたら身動きも出来ないような糞重い鎧をつけた騎士が勝手に突撃するだけで戦術も戦略もあったもんじゃない。
剣も溶かした鉄を型に流しただけの、刃物というよりは鈍器のような代物だ。
最も純粋な鋼である玉鋼と、現代でも再現するのが難しい折り返し鍛錬で作られた日本刀と比べる事すらおかしい。
910名無し三等兵:2010/08/24(火) 22:34:37 ID:???
>>909
偏見の塊だな。
100年戦争での戦術の進化や、当時の製鉄技術で純粋な鋼なんて作れないことは知らんのか。
911名無し三等兵:2010/08/24(火) 23:02:15 ID:???
>>908
日本式の袈裟斬りをロングソードでやるほうが変だろ
912名無し三等兵:2010/08/24(火) 23:06:24 ID:???
>>911
普通に考えて長物を垂直に振り下ろすのと横に振るのはどっちが楽だ?
物理的に一番力をかけやすい以上、袈裟懸けに斬るのに日本も西欧も関係ない。
913名無し三等兵:2010/08/24(火) 23:32:31 ID:???
>>906
あまりスレと関係ないコピペは貼らないようにな
無駄に埋まっちゃうから
914名無し三等兵:2010/09/10(金) 21:18:18 ID:mOoP07ve
やっと全部読み終わった。
途中いろいろ言いたいことはあったがすべて結論が出ていた。
ようするにモンゴルが攻めてきて日本で戦い日本が勝った。
この戦いにおいては日本軍及び日本の兵器が優れていたということですね。
士気云々を取り上げている意見もあったけど、
優秀な軍隊において一番重要なものが士気といっても良いくらいだからナンセンスだと思う。
ところで鏑矢について「モンゴル軍が嘲った」を強調しているサイトや書物があるみたいだけど、
鏑矢は味方に対しての攻撃開始の合図でもあるだろうから、
敵軍がどう思おうとあまり問題は無いと思うがいかがでしょう?
915名無し募集中。。。:2010/09/10(金) 21:54:06 ID:S/+i+p6R
>>914
末文に同意。
鏑矢は儀式的意味をもつ合図であり、それを知らぬ敵兵に笑われたからのは
ある意味当然だが、同時にマイナスになることでもないよ。

916名無し三等兵:2010/09/11(土) 08:30:03 ID:???
そこはおたがいさまじゃないかな

元軍が銅鑼を打ち鳴らしてひしめき合っていたという情景を思い浮かべるとつい笑ってしまうし
鏑矢の音もきっと相手の耳には面白い音だったんじゃないか

下品な手段かもしれんけど敵を煽り嘲笑い士気高揚を狙う指揮官もいるだろうし
917名無し三等兵:2010/09/11(土) 12:53:53 ID:PdxuuklD
>>916
モンゴルや朝鮮の研究者や歴史好きの人が
「銅鑼を鳴らしたら日本兵に嘲られた」と言っているのなら
理屈は良くわからないが「お互い様」かもしれないけど、
それは俺は分からない。
ただ鏑矢を嘲られたからといって武士による日本軍の戦闘能力に
疑問符をつけるのはおかしいと感じただけなんだよね。
ただ鏑矢を知っていようと知らなかろうと、
信号音が発せられれば守備隊の総攻撃が開始されることは想像がつくはず。
自分が知らないからといって嘲っていた時点で元軍の敗戦は決まっていたようにも思える。
918名無し三等兵:2010/09/11(土) 15:19:25 ID:???
文化の違いから互いの行為を可笑しく感じることはあるでしょ
鏑矢の音色で勢力や組織力を図るバカがいたとは初耳です
919名無し三等兵:2010/09/11(土) 17:14:00 ID:PdxuuklD
>>918
敵前上陸をしておきながら守備隊の反撃の合図を見逃すというのは、
私には侵攻側としてかなり致命的な欠陥に思えますけど。
ただの文化交流でしたらともかく戦争ですからそもそも可笑しがっているほうが不思議です。
どちらが優秀かはともかく矢が当たれば死ぬかもしれないのです。

それに誰も音色云々なんていってないのにバカとか言い出すのはなぜでしょう?
920名無し三等兵:2010/09/14(火) 00:19:18 ID:???
>>917
「鏑矢を射ったら蒙古兵に笑われた」という話は、件の『八幡愚童訓』(『八幡蒙古ノ記』も含む)
に出て来る話なんだが、日本史の研究者の人たちはあまりよく考察せずにスルーしているけど、
「なぜ鏑矢を射ったら蒙古兵に笑われたのか?」っていまいち理由が良く分からないんだよね…

というのも、匈奴の時代からモンゴル高原では鏑矢が存在しているうえ、モンゴル帝国時代の墓から
鏑矢が普通に出土しているし、『元朝秘史』にもモンゴル語で「コドリ(qodoli)」と呼ばれて
出て来る。
中国ではそもそも「鏑」という字が『説文解字』にあるし、物事のはじまりを「嚆矢」と言うが、
これは「嚆矢」自体が「かぶらや」のことで、会戦の始まりを知らせる用具として使われたため、
転じてものごとのはじまりそのものを指すようになった。

これもそもそもというか、『高麗史』によると、文永の役の時の高麗軍の指揮官だった金方慶が
博多周辺に上陸してからの合戦で、鏑矢(一?矢)を使っている。
(「方慶、植つが如く少しも却かず、一?矢を抜き、諮コ(れいせい)大喝するに…」)

なので、蒙古側にとって鏑矢自体は珍しくもなく、それどころか蒙古側も使っていた装備だった。

つまり鏑矢の使用そのものに、蒙古側が「どつと笑ひ」というような要素がある訳ではないので、
これに別の何かが加わっていたから「どつと笑」うことを誘ったと思われるんだが、その、
「別の何か」がいったいどんな事/物だったのか、いまいち分からない。
921名無し三等兵:2010/09/14(火) 08:46:18 ID:???
敵の戦闘力も兵力も地理も不明で、いわば未知の世界に足を踏み入れた段階で
よく笑う余裕なんかあるよな。そもそも、『八幡愚童訓』の著者(神社の神官だっけ?)
が合戦開始直前の状況をどうして知ってるのかも不思議。
922名無し三等兵:2010/09/18(土) 18:56:45 ID:???
文永の役って一日で
撤収してるけど、何しに来たの
923名無し三等兵:2010/09/19(日) 13:16:10 ID:2RMxt5T1
>>922
ミッドウェイで日本海軍がすぐに撤収したのと同じだと思う。
なんだかんだ言っても結局は負けたからじゃないの?
924名無し三等兵:2010/09/19(日) 16:16:55 ID:???
火矢はこの頃は日本では水軍の戦法として普及してなかったの?
少人数での切り込みだと、襲撃者の数や所在がわかって不利だから使わなかったのかな
925名無し三等兵:2010/09/19(日) 21:40:06 ID:???
>>922
「官軍整わず。矢種盡。」とありました。
思うように戦えず、矢を射ち尽くしたので戦闘不能に陥り、引き揚げたようです。
926名無し三等兵:2010/09/21(火) 04:28:10 ID:???
ぶっちゃけた話、これくらいあれば日本を恫喝できるかレベルの戦力で攻めてみたら
予想以上に日本の戦力が多く、負ける可能性が高かったので
とりあえず言い訳できるレベルには戦闘しておいてから撤退した

ってところではと
927名無し三等兵:2010/09/21(火) 21:19:57 ID:???
[ア+]【青森】 流鏑馬に蒙古襲来!国際大会で個人・団体ともモンゴル勢が優勝 [09/21]
http://headline.2ch.net/test/read.cgi/bbynews/1285070784/

モンゴルの方が圧倒的です。台風襲来で買っただけのネトウヨ武士厨は現実の前にひれ伏せ。
928名無し三等兵:2010/09/21(火) 21:38:45 ID:???
韓国が前に大会やったときにウリナラが騎射宗主国とか言ってなかったっけ?w
929名無し三等兵:2010/09/22(水) 01:36:26 ID:???
そりゃ騎射ではモンゴル人には勝てないだろ。
日本は相手が船の上だから勝てただけ。
930名無し募集中。。。:2010/09/22(水) 13:54:42 ID:aSmAAbYf
てか今でも放牧で幼少から騎馬に慣れ親しんでる蒙古人と、
乗馬クラブか競馬場以外、馬など殆ど見たこともない現代日本人じゃ
優劣が付いて当たり前だろJK
流鏑馬やってる人たちだって休みの日に稽古する程度だろうが
931名無し三等兵:2010/09/22(水) 21:38:39 ID:???
つまり真のガチンコ戦ならモンゴルは武士に勝っていたということだね。
932名無し三等兵:2010/09/22(水) 21:53:26 ID:???
蒙古弓で大鎧を打ち抜けるならな〜
933名無し三等兵:2010/09/22(水) 21:58:57 ID:eJDOeoW5
>>931
現代の状況で何で鎌倉時代の軍事力が図れるんだか・・・
まあ日本軍が勝ち進んで朝鮮半島北部まで進出してたら、
元が逆襲して勝っていたかもしれないね。
934名無し三等兵:2010/09/22(水) 22:12:56 ID:???
>>932
(事実) 重装備で知られるフランクの軍を尽く平らげ、アナトリアやワルシュタットまで軍事的勝利を重ねた事実。
つまり、蒙古弓は重装備も苦としないと言う事だよね。
935名無し三等兵:2010/09/22(水) 22:19:38 ID:???
いやつーか、当時の鎌倉幕府の動員力はどんだけ高く見積もっても10万には届かんだろ?
地形的・戦略的条件一切無視して
陸続きのひらぺッたい戦場でやりあったとしたら、平気で10万越え動員可能な元には勝てんだろ


現実にはそんなことはありえないけど
どう転んだって日本に攻め込むにゃ海越えになるし
日本側が半島に攻め込むとかもっとありえねーし
936名無し三等兵:2010/09/22(水) 22:33:28 ID:???
平地でモンゴル騎兵と戦えば鎌倉武士はあっというまに崩壊だろ。
937名無し三等兵:2010/09/22(水) 22:35:30 ID:???
まーたはじまった
938名無し三等兵:2010/09/22(水) 22:40:54 ID:JbrDs7P8
元寇では、馬を渡海して運ぶのは困難で彼らが徒歩戦闘したにもかかわらず、
日本の武士団は抗しきれず、古代太宰府の水城を防衛線にすべく撤退している(第一次)。
第二次では北九州〜山口県にかけて海岸に石垣の防塁を築き、防御戦闘に徹した。
一次、二次とも暴風により元寇が撤退。
日本武士が特に強大だったとは言えない。
939名無し三等兵:2010/09/23(木) 00:36:59 ID:???
文永の役では、暴風で撤退したなんて書いてない。
「官軍整わず。矢種盡。」これだけ。
鎌倉武士が弱かったら、矢を射ち尽くして撤退するなど有り得ない。
弘安の役でも、すぐに台風が来たのではない。
元軍も台風の季節は知っていたから、その前に片付けるつもりだった。
それなのに「六月、海に入り、七月、壺島に至り、五竜山に移る。
八月一日、風舟を破る」とモタついているのは、上陸戦に敗れたことを示す。
その後も戦闘は続き「尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍は…これを奴とす」
とあり、南宋人のみ捕虜として扱いに差のあったことが知られる。
結局「十万の衆、還るを得たる者三人のみ。」と記された惨状は、
フビライをして日本を畏怖せしめるに至った。
かように元の政策を転換する原因となった鎌倉武士団が、
強くないなどと言って済ませられる存在であろうか?
少なくともフビライはそうは考えず、日本に対する態度を改めたのである。
940名無し三等兵:2010/09/23(木) 00:49:34 ID:???
以前から武士最強論を唱えている八幡愚童記厨は肝心要の事を離していない。

旧暦7/1の翌日(今のお盆くらい)に
「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」 八幡愚童記
「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入る。浦これがためにふさがり、踏み行くを得たり」   高麗史

とある。
つまり、この後の一週間で台風通過を奇貨として之を襲い壊滅させたということ。

何のことはない通説通り日本に神風が吹いたから蒙古を漸く退けられたと
それだけの話であったのである。

941名無し三等兵:2010/09/23(木) 08:11:52 ID:???
>>935
承久の乱では、幕府は東国だけで19万騎の兵力を集めているわけだが
942名無し三等兵:2010/09/23(木) 09:37:26 ID:???
それは頼朝の恩顧を背景とした政子に武士の既得権益代表者としての価値を見出しての動員。
というか数字大きく見積もりすぎては?
19万騎を養う糧食や補給はどうしていたんだ? 数だけ豪語して兵站は等閑とあれば
普通に詐称の数字という結論が導かれるw
943名無し三等兵:2010/09/23(木) 10:02:00 ID:RnkZssqT
>>938
日本武士が特に兄弟だったとは思わないが、
大宰府を拠点して水城を防衛線にして侵攻軍を防ぐというのは古代からの基本戦略。
無線も何も無い時代だから夜は安全な根拠地に引き返しただけで、
負けたとか不利だったと判定する理由にはならないだろう。
だいたい元軍は水城どころか再上陸が必要になるリスクを犯してまで船に引き返しているんだからさ。
結局は一気に太宰府まで行くつもりがどうにもならなく、
「官軍整わず。矢種盡。」と理屈をつけて引き返した。
防衛戦としては課題は残しつつも、暴風とかは特に関係なく日本軍の勝利で問題ないでしょう。
944名無し三等兵:2010/09/23(木) 10:08:38 ID:???
>>942
元寇時に同様の動員が出来ないとする根拠としては薄弱だな
詐称の可能性は元軍についても同様では?
945名無し三等兵:2010/09/23(木) 18:32:31 ID:???
> 結局は一気に太宰府まで行くつもりがどうにもならなく、
> 「官軍整わず。矢種盡。」と理屈をつけて引き返した。
弘安の役の時は太宰府が攻略目標だった事は『元史』日本伝に記述があるので問題ないが、
文永の役の時は太宰府を攻め落とすことを目的としていたかは、書かれていない。
そもそも、水城のような一辺が1kmくらいもある城塞の類いを攻略するのに、実戦力が
3万前後ではいささか足りない規模だし、博多湾沿岸に上陸した兵力がその3万前後のうち
どれだけだったのかも不明だ。

「官軍整わず」がどういった事態だったかは良く分かっていないが、当時の高麗内外での軍事行動に
ついて、高麗側とモンゴル側の高麗方面の軍・民政担当官だった洪茶丘、高麗近辺のモンゴル帝国軍の
指揮官だった忻都との間で、指揮権を巡って対立が常習化していた事が『高麗史』には出て来る。
文永の役の時は遠征軍の司令・忽敦と高麗軍の指揮官・金方慶が博多での戦闘の後での軍議で、
『孫子』などを引いて撤退するか否かで討論しているは、良く知られている通り。
(高麗では文永の役の直後に、高麗国王・忠烈王が妃でクビライの娘だったクトルクケルミシュを
 呪詛したという事実無根の誣告が洪茶丘の近辺から持ち上がって、三者間の対立は高麗王国の
 転覆寸前までになった。この騒動が沈静化するまで2年程掛っている)

「官軍整わず」はこういった諸将間の意思の不一致や反目の影響が、博多周辺での戦闘中などで
表面化したことを指すんじゃないか、とも言われている。
弘安の役の時に、遠征に向かう忻都や洪茶丘などの指揮官たちの拝謁を受けて、クビライ自らが
「諸将が一致して遠征に勤めるように」とわざわざ訓示する程だったことからも、文永の役の時の
「一致していなさ加減」はそれくらい問題になっていたことを匂わせているからだ。
946名無し三等兵:2010/09/23(木) 19:13:17 ID:???
>>944
話すり替えるなよ。
ようするに幕府は19万騎揃えたというのも今は昔のファンタジーに過ぎない。
せいぜい10万騎が精一杯だろう国力的に考えてもな。

元の場合世界帝国であり、広大な東アジアから資金、動員、建造プロセスと
いずれをもってしてもスケールメリットをいかし辺境国家に過ぎない幕府とは
比較すら恐れ多いよ。
947名無し三等兵:2010/09/23(木) 21:00:23 ID:???
>>944
弘安の役から10年近くあとの至元27年(1290年)のデータに基づくものだが、
例えば『元史』地理志の江西行省の戸口表によると、江西行省下の17路+7州の戸口の総計は、

戸数:233万3413戸 口数:1167万4613口 とされている。

ただし、各々の路や州の口数を戸数で割ると、5や7などの切りの良い数字で割り切れてしまうため、
口数のデータはかなり改竄されている可能性が高いらしい。(1戸1〜3口未満で前後しているデータが
あることから、実際は1戸あたり2口前後だったろうと推測されている)
948名無し三等兵:2010/09/23(木) 21:02:18 ID:???
>>947の続き
元朝時代の江南史を研究している植松正という先生が『元史』での戸口データの抽出を行っているが、
それによると以下のような感じになっている。(論文のなかでは『宋史』などから抽出した宋代の
崇寧元年(1102年)、嘉定16年(1233年)のデータも出ているが、併記が面倒なので割愛した)

     戸数       口数     1戸当たり口数 
湖北 a)----       ----      ----
    b)86万7412    392万5123   4.52

湖南 a)----       ----      ----
    b)122万9988    270万3408   2.20

淮南 a)51万3827    102万1349   1.99
    b)13万8912    83万2758     5.99

江西 a)105万1829    207万6400   1.97
    b)200万5865    996万6269   4.97

江東 a)83万1852    191万9106   2.31
    b)164万4369    891万0528   5.51

両浙 a)298万3672    569万2650   1.91
    b)338万1237    1361万1522   4.59

a)が『元史』世祖本紀の至元12-13年(1275-76)の戸口調査のデータで、
b)が『元史』地理志の至元27年(1290)の戸口調査のデータ。
949名無し三等兵:2010/09/23(木) 21:08:38 ID:???
>>946
で、日本側がせいぜい10万とする根拠のデータはないのね
日本の土地は降雨の関係で比較的生産性が高いことをお忘れ無く
950名無し三等兵:2010/09/23(木) 21:12:00 ID:???
>>948の続き
このうち、軍戸がどれだけ割り当てられていたのか良く分からないが、
a)の時期(1275年)の淮南、江西、江東、両浙の戸数は合計538万1180戸、
b)の時期(1290年)の淮南、江西、江東、両浙の戸数は合計717万0383戸で、
これに湖北、湖南の戸数を含めると合計926万7783戸になる。

弘安の役の江南軍10万というのは、勿論、戦闘要員として換算された以外にも、
操船要員も加わっての数字だろうから、文永の役の時の操船要員の比率を考えれば、
実戦力は8万とかそのくらいだったろう。

データ上の口数は「1戸あたり5口」と数合わせ的な水増し申告がされている恐れがあるので
ひとまず置くとして、それでも、「10万」という数は、
a)の時期(1275年)の淮南、江西、江東、両浙の戸数からすると約1.85%、 同じく
b)の時期(1290年)の淮南、江西、江東、両浙4行省の戸数からだと約1.39%、
 これに湖北、湖南を含めた6行省の戸数からだと約1.07%
になり、供出不可能な非現実的な数字、という訳でも無さそうだ。

なので「江南軍十万」という数字はそれなりに現実味のある数字だったと思う。
951名無し三等兵:2010/09/23(木) 21:38:48 ID:???
>>949
おう。 >>950氏のように幕府軍19万騎の裏付けとなり得る史料をだしてきてもらおうか。
952名無し三等兵:2010/09/23(木) 22:01:05 ID:RnkZssqT
949ではないが、日蓮上人いわく、当時の人口は500万人弱らしい。
現在では500万から1000万人くらいで推定されているとのこと。
10万人だと人口の2%から1%くらい。
19万人だと人口の2%弱から4%弱くらい。
関ヶ原の戦いのころの人口が約1500万人で両軍で20万人参加だとすると1.3%強。

かき集めれば何とかならなくもないだろうけど乗馬も考えれば19万騎は難しそう。
しかし歩騎で10万なら不可能ではないと思う。
953名無し三等兵:2010/09/23(木) 23:21:41 ID:WSDzyBUr
>>945
ただ、周辺を荒らして帰るだけだとすると三万人は明らかに過剰。
準備にも数年かかってるし。

単に大宰府がそんだけ大規模だって言うのが分からなかったんじゃないの?
そもそも指揮命令系統に問題があるのに遠征を実行してる時点で異常。
954名無し三等兵:2010/09/24(金) 01:42:28 ID:???
>>953
> ただ、周辺を荒らして帰るだけだとすると三万人は明らかに過剰。
モンゴル帝国における軍の遠征、特に辺境部の駐留軍が行うようただの掠奪遠征では無くて、
モンゴル帝国への服属を促す「問責の師」の類いだったことを考えれば、特に多過ぎという訳でも
無いと思う。

1241年にイラン北西部に展開していたモンゴル軍がキョセ・タグの戦いにおいてルーム・セルジューク朝の
ギヤースッディーン・カイホスロー2世の軍を敗ってルーム・セルジューク朝やトレビゾンド帝国を臣従
させているが、この時戦ったルーム・セルジューク朝軍は2万騎ほど、モンゴル軍はイラン高原に駐留を
命じられた2?3万騎だった。

文永・弘安の役と引き合いに出される傾向にある、1290年頃のジャワ遠征では派遣された軍勢は
2万だったが、文永の役のように高麗という遠征先の地域に隣接するモンゴル帝国に服属する政権の軍が
加わった訳では無かったし、ジャワなど現在のインドネシア、マレーシア沿海は(場合によっては座礁
するところも少なかった訳では無いが)インド洋と並ぶアジア世界の沿海交易では中核的な地域であり、
「風濤険阻」のような絶海を踏破して遠征軍を繰り出す感じだった日本への遠征とは、同じ渡海遠征でも
微妙に雰囲気と言うか性質が異なる。

純粋に騎馬兵力2?3万騎と、ジャワ遠征の2万人(騎兵と歩兵がどれくらいいたのか不明だが)、
日本遠征の蒙漢軍2万5000+高麗軍8000(これも騎兵と歩兵がどれくらいいたのか実数不明だが)
+操船要員6700では大分おのおの毛色の違う軍様だが、モンゴル帝国への服属を促す「問責の師」で
兵力2万以上を出す、というのはおおよそセオリー的なものだったと考えても妥当なところだろう。
また「風濤険阻」のような渡海そのものに危険性を伴うと見なされた地勢的要因を含んだ地域への
遠征だったことを考えれば、実戦力3万強という規模が、セオリー分+αの兵力を加算したもの
だったと見ても、やはり特に多過ぎるという訳でも無いように思う。
955名無し三等兵:2010/09/24(金) 02:12:11 ID:???
>>953
> 準備にも数年かかってるし
そもそも、高麗がクビライに兵力を供出を最初に命じられた時、モンゴル帝国に服属する政権の
義務として兵糧や兵力の供出が出来るよう準備を命じられたもので、その派遣先は具体的に
決められたものではなかったようだ。

クビライの最大の懸案のひとつが南宋遠征だったから、本来であれば高麗は真っ先に南宋遠征への
兵糧や兵力の供出を命じられる立場にあり、クビライの日本への招諭も南宋遠征への一環として
始められたものだとは良く言われている通り。
(高麗からの負担軽減の嘆願に対して、準備の増強の目的となる遠征先が「南宋になるかも知れないし、
日本になるかも知れない」とクビライはその時派遣先をぼかしているが、最初に名前が上がっているのが
南宋であることは注意すべき)

「準備にも数年かかっ」たというのは結果的な問題で、高麗の服属政権としての従軍義務に対して
その派遣先が、南宋か別の地域(最終的には高麗の嘆願で負担の比較的軽い近隣の日本になったが)かで
長らく決まらなかったことや、高麗が長年のモンゴル軍の侵攻(特にモンケの治世中のもの)の影響などで
クビライ側から課せられた兵糧や兵力の供出の規模に至らなかったことも関係している。

加えて、文永の役の前年までには三別抄の反乱の鎮圧もあったので、「準備にも数年かかっ」た
云々というのは、そもそも準備をはじめた時期には日本へ遠征するかは決まっていなかった事など、
日本遠征に至るまでに経た諸々の事情に依拠している。
956名無し三等兵:2010/09/24(金) 11:56:57 ID:???
頭悪そう
957名無し三等兵:2010/09/24(金) 20:45:47 ID:WB5DaOVb
長文お疲れさん。
で、「問責の師」は敗退したわけでしょ。
たいした町があるわけでもない当時のこと、
仮に博多が焼かれていても日本側としては痛くもなんとも無い。
そんなことは江戸の大火を見れば明らか。
結局は撃退成功で防衛側勝利なんだよ。
958名無し三等兵:2010/09/24(金) 23:46:33 ID:???
>>952
関ヶ原は関ヶ原以外でも戦闘があったのだが。
959名無し三等兵:2010/09/25(土) 15:40:53 ID:mB9KfTa/
四国伊予の住人、河野通有参上!!!!!!!!!!!!!
960名無し三等兵:2010/09/26(日) 07:42:12 ID:???
>>958
それは別感情だろう。余程鎌倉19万騎でないと困る人ですか?w
961名無し三等兵:2010/09/26(日) 12:41:04 ID:???
>>960
別に19万騎でなくてもいいんだが、動員を受ける側の状況が違うだろう。
地方での戦闘が行われる可能性がある状況と無い状況では。

>>952は動員兵力をベースにした検討で、
>>958は単純には比較できないよという意見。

仮に2000騎あったとして、
地元での戦闘があるかもしれないから出せるのは500ということも考えられるし、
地元で戦闘の可能性がないから忠誠を示すために1500出すことも考えられる。

つまり、952の動員割合に基づく検討は無茶な数字を排除するという意味で意味があるし、
958の状況が違えば単純に割合だけでは言えないというのも妥当だと思う。
962名無し三等兵:2010/09/26(日) 20:50:46 ID:???
おい 推論が無茶すぎるぞ。

承久の乱は幕府側が戦の主体だが、関ヶ原の戦いは東軍西軍の戦いで別段徳川や石田が兵糧など全てを差配したものではない。
地方を別勘定にするの当たり前。長谷堂の戦いや九州での官兵衛の天下取りは関ヶ原の戦いに便乗した領土拡張戦だ
どさくさにまぎれての私戦的なものもあり、承久の乱と同列に論じるのはおかしい。

そもそも、鎌倉時代と桃山期末期はインフラや農業生産力も比較にならんだろ・・・そもそも桃山期ともなると基礎人口からして
500-1000万じゃねえんじゃねえの。
963名無し三等兵:2010/09/27(月) 01:52:35 ID:???
>>960
別勘定?
動員兵力を考えるなら全国で戦に参加した人数を基準にしないとダメだろ。
侵略に対してどれだけ動員できるかのベースとなる数字を出すんだから。

単純に考えても、対上杉戦線の上杉+徳川側の兵力、徳川秀忠の率いていた遊軍ww兵力を無視できまい。

>>962
何を言ってるんだ。
戦闘に参加可能な兵数という点では地方の戦闘も含めてあたりまえだろ。
関ヶ原にはたまたま、上杉討伐に家康が率いていた兵力の一部と三成がその時に動員できた兵力しか参加してない。




まぁ、戦国末期の状況を当てはめること自体に無理があるんだが。
964名無し三等兵:2010/09/27(月) 10:51:51 ID:???
>戦闘に参加可能な兵数という点では地方の戦闘も含めてあたりまえだろ

意味不明。 お前は守将、守兵おかずして外征するのか。
そもそも、諸侯は「まず自領を守る」これが第一義。 コレ理解できていないとは分かった。
あくまでも軍役は義務であり、厳戒こえた賦課は叛乱起こされる元になる。
武田勝頼から木曽氏など数多く離反したように机上の空論の動員溶いても
話にならないぞ。 
965名無し三等兵:2010/09/27(月) 17:42:25 ID:???
>>964
戦闘が行われている点を無視していないか。
守備兵力は誰と戦っているんだ?

対上杉に攻めかかってる部隊は徳川方の守備兵力か?
上杉は関が原に居なかったが、全部守備兵力として外征不能だとみなしてカウントしないの?
秀忠旗下の3万弱は?

地方での戦闘でも、戦闘を行ってるんだから、
最低でもどちらか一方は守備兵力を残して外征してるだろJK。

関が原に参加した大名の本国守備兵力が隣国に戦闘を仕掛けたなんて言ってません。
966名無し三等兵:2010/09/27(月) 20:20:11 ID:???
>>関が原に参加した大名の本国守備兵力が隣国に戦闘を仕掛けたなんて言ってません。

最終行が変だ。ww
関が原に参加した大名の本国守備兵力をカウントしようとは言っていません。
967名無し三等兵:2010/09/27(月) 20:23:38 ID:???
>>965
おまえなあ・・・・・関ヶ原の戦いはもともと上杉の征討をきっかけとしての三成の挙兵から
はじまったんだろうが・・・・。

前提条件理解していないから頓珍漢な事を聞いてくるんだろうな。
話にならん。
968名無し三等兵:2010/09/27(月) 20:26:30 ID:???
>>967
あんたなぁ、関が原に参加した兵数だけカウントすると言う思考のおかしさを指摘してるわけだが。
969名無し三等兵:2010/09/27(月) 20:38:38 ID:???
だからそれは動員能力にいれるという発想自体がおかしいだろ。
元々の勢力基盤を維持するに必要な兵力なんだから。
別計算になるといってる。
970名無し三等兵:2010/09/27(月) 20:59:35 ID:???
>>969
元寇の時は敵味方が国内でモザイクになってる状況じゃないからな。
残す兵力は異なるだろうし。

関が原に来なくても、上杉も前田も伊達も最上も佐竹も加藤も余所で戦ってませんか?
当然、留守居の兵は残してるでしょう。
それを関が原に来なかったと言う理由で一切カウントしないのは何故?

秀忠も参加して無いけど。参加するつもりで行軍中。カウントしないの?
971名無し三等兵:2010/09/27(月) 21:21:32 ID:???
それは中山道をいく秀忠軍以外が関ヶ原の戦役とは別にかんがえるべきじゃないのかね。
一日で関ヶ原終わったが、諸侯の動きは関ヶ原を機に戦国の世が再来することも考えた上で
各地で戦闘行為に入っている。
それは東西両軍の動きとは別のタームと勘定すべき。

というか、モンゴルの話からそれ過ぎだな。話元に戻せよ。
972名無し三等兵:2010/09/27(月) 22:05:24 ID:???
>>971
動員兵力数の試算の根拠に疑問を呈しているだけ。
別のタームでも同時の動員兵力にかわりない。
973名無し三等兵:2010/09/27(月) 22:20:21 ID:???
意味不明。 「軍役」と「守兵」は別だろう。 動員能力というものをどうとらえているのかしらんけどさ
軍板的に例えると、自衛隊が如何なる状況にあろうが、対馬に駐屯する対馬警備隊は対馬防衛専門におかれ
それ自体が域外で動員されることは決して無いようなもの。
974名無し三等兵:2010/09/27(月) 22:50:48 ID:???
>>973
まったく意味不明。
大名単位で行動する。上杉征伐に動員されなきゃ、その大名の手元に全軍が居るわな。
前田とか。伊達とか。そいつらが交戦してるし。
前田は自国周辺で交戦した後、関が原に向かったが間に合わなかった。これも除外する理由なし。
伊達とかは北から上杉を攻めてる。これも除外する理由なし。


家康は豊臣の大名の一部を動員して上杉征伐。
一部を上杉に貼り付けたまま関が原に来るわけだが、その部隊を除外する理由は無い。

石田と上杉に対して両面で戦ってると見れば全部カウントできるだろ。


元寇の守備試算に使うなら、文禄の役の渡海兵数+名護屋城駐屯兵数とかだろ。
大名は領国に必要な兵力を残して出征して来てるんだから。そのぐらいは引っ張り出せるんじゃね。

975名無し三等兵:2010/09/28(火) 14:07:34 ID:???
朝鮮の役で秀吉から課せられた軍役は百石につき6人
太閤検地による日本の総石高はおよそ1850万石
単純に計算すると日本全国で111万人が動員できたであろうことが推測できる
もちろん鎌倉時代の御家人役賦課の形は戦国期とは違うから
簡単には19万騎が嘘とも本当とも言うことは出来ないが
976名無し三等兵:2010/09/28(火) 14:42:57 ID:???
>朝鮮の役で秀吉から課せられた軍役は百石につき6人

むちゃくちゃ書いてるなw それは中国・四国の大名への賦役の建前で、
豊臣政権との疎遠、地域によってそれから減免があって実数は様々。
実際にはそれだけの人数を出している大名はほとんどいなかったし、
1万石あたり600人も動員されれば地域経済にかなりの支障が出る。

無理のない軍役は1万石あたり250人程度と言われてるな。
977名無し三等兵:2010/09/28(火) 14:45:49 ID:???
対豊臣戦時北条をざっくり200万石として
後の無い総動員かけてざっと10万かそこらへんだっけ
978976:2010/09/28(火) 23:50:14 ID:???
おっとっと、書き間違い。

× 中国・四国の大名への賦役
○ 中国・九州の大名への賦役
979名無し三等兵:2010/09/29(水) 01:23:26 ID:???
>>976
一万石あたり250人って確か非戦闘員も含んでるんだよね。
980名無し三等兵:2010/09/29(水) 03:26:26 ID:???
ネトウヨが多いスレですねw
ぶっちゃけ台風で奇跡的な勝利を得たんだから、考察も糞もねえだろ
学がねえのに偉そうに妄想に浸ってんじゃねえよ
武士とか騎士に比べればださいんだよw
981名無し三等兵:2010/09/29(水) 04:03:05 ID:???
>>980
鯨の口よりでかいな。
982名無し三等兵:2010/09/29(水) 14:31:19 ID:???
>>979
それぞれの家中によって構成は異なるけど、概ね4割から6割が
小者や夫丸などの非戦闘員やね。
983名無し募集中。。。:2010/09/29(水) 20:50:14 ID:FTd0lf0H
>>980
きちんと戦闘推移を調べてから出直してこいブサヨ
984名無し三等兵:2010/09/30(木) 01:41:35 ID:???
980は日本は神国だから神通力でなんとでもなるから軍事的考察なんていらないって言ってるんだよw
985名無し三等兵:2010/09/30(木) 01:56:31 ID:???
気になったのは日本全国で何人動員できるかと一つの戦場に何人動員できるかは別問題って事かな
986名無し三等兵:2010/09/30(木) 02:28:08 ID:???
>>985
国力の問題と兵站の問題だからねい
987名無し三等兵:2010/09/30(木) 18:22:06 ID:???
冬季装備の東北北陸勢を派兵して九州中国勢は兵站とか分担すりゃよかったのに
988名無し三等兵:2010/09/30(木) 18:45:12 ID:wbEyINzh
スレ進んでてワロタw
989名無し三等兵:2010/09/30(木) 18:58:12 ID:???
>>985
大名が動員できる総数は変わらん。
遠くまで出かけるときは、きついから減るだろうというていど。
統一政権下にある時の方が動員はしやすいだろう。移動も楽。

内乱中と侵略防衛時は異なるだろう。
990名無し三等兵:2010/09/30(木) 19:44:55 ID:wbEyINzh
>>954-955
あれこれ言い訳して元が負けてない事にしないと気が済まない人ですか
991名無し三等兵:2010/10/01(金) 01:42:06 ID:???
sage
992名無し三等兵:2010/10/01(金) 03:21:35 ID:uAYC1aqH
要は

元→ヒョードル
日本→ファブリシオ
993名無し三等兵:2010/10/01(金) 03:46:45 ID:???
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1172215786/839-845

武士厨が論破された瞬間
>>954-955への反論も無いしな
994名無し三等兵:2010/10/01(金) 11:18:17 ID:???
あの程度で日本を制圧出来ると思われてたって完全に舐められてるよね
実際は太宰府すら落とせなかった訳だが

使者を切ってまで立場をはっきりさせたんだから、降伏なんて絶対に有り得んし
最初から本気で攻め取るなら20万人は送らなきゃ話にならん

やる気あったんかね
995名無し三等兵:2010/10/01(金) 11:40:01 ID:???
文永の時は、元は南宋と対峙中だしあれぐらいが限界でしょ。
996名無し三等兵:2010/10/01(金) 15:35:44 ID:???
>>994
朝鮮半島側から日本海を見ると
日本列島ってすごく小さく見えるらしいぞ。
多分それで錯覚したんだろ。
997名無し三等兵:2010/10/01(金) 20:36:31 ID:???
所詮は辺境の田舎侍だとなめられてたのでは?
なにせ相手は人類史上最大の帝国で自分達が地上の全てを支配するのが神の意思だと思ってる連中なんだし
998名無し三等兵:2010/10/01(金) 22:02:53 ID:???
島国だからたいした兵力がないと思ってやってきたら案外手こずった。
最初の兵力では無理っぽい・・・撤退。
もっとたくさん連れてきたよー。
あれ?準備万端で待ってるじゃんか。話が違う。
愚図愚図してたら、台風さんコンバンワ。


舐めすぎ
999名無し三等兵:2010/10/01(金) 22:15:46 ID:???
>>998は当時の認識や事情を調べるよりも、そういうストーリーが好きなのね。
1000名無し三等兵:2010/10/01(金) 22:21:33 ID:rSBkRRWT
1000ならキラー・カーンがモンゴル統一
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