1 :
名無し三等兵:
三国志を軍事分析しよう。
2
3 :
名無し三等兵:2009/04/12(日) 21:07:12 ID:???
始まった?
4 :
名無し三等兵:2009/04/13(月) 09:06:24 ID:???
赤壁の戦いとは?
5 :
名無し三等兵:2009/04/13(月) 18:58:06 ID:???
孔明最強!
6 :
名無し三等兵:2009/04/13(月) 20:18:11 ID:???
武将を弩で狙い撃ちとか、人じゃない馬を刺せとか
考えないのかな?
7 :
名無し三等兵:2009/04/13(月) 20:51:25 ID:???
弩って、戦国時代には廃れていたのでは?
唐の時代までは、残っていただろうが。
製造や管理などを考えれば、
弩より通常の弓の方が、コストパフォーマンス高いし。
8 :
名無し三等兵:2009/04/13(月) 21:29:15 ID:???
人口
魏450万
呉200万
蜀95万
一ついえることは100万の軍勢とか嘘っぱち。
かなり無理に動因しても人口の10分の一が限度か。
官渡の戦いも実際は曹操軍はかなりいたらしい。(正史で裴松之に突っ込まれてる)
そりゃそうだ。青洲兵30万は何処いったんだってなる。
おそらく正統王朝の魏を立てるために少数で大軍に勝ったみたいに書いたんだろう。
徳川が後世必要以上に武田を強敵にして持ち上げたように。
9 :
名無し三等兵:2009/04/13(月) 21:34:18 ID:???
10 :
名無し三等兵:2009/04/13(月) 21:41:14 ID:???
一次資料なんかあるのこの時代?
正史だって書かれたのは晋の時代だよ。
あちこちから資料をかき集めて書いたとはいえ大抵は何年も後に書かれたもんだろう
ちなみに戸数なら正史か正史英傑伝に乗ってたな。
詳しくは覚えてない。
11 :
名無し三等兵:2009/04/13(月) 21:48:34 ID:???
昨日のレッドクリフを見たが、
この時代でも春秋戦国時代のような戈が使われていたのか?
これは戦車戦で敵兵を引っ掛けて落とす武器だと思うが、
戦国時代には戦は廃れ、騎馬兵中心だろうに。
後漢末には既に無いと思うのだが。
12 :
名無し三等兵:2009/04/14(火) 02:23:12 ID:???
曹家の私民も魏の人口に入るの?
後漢期って民屯で豪族の小作になって国の戸籍から外れる(流民扱い)から人口激減したとか…
13 :
名無し三等兵:2009/04/14(火) 11:21:17 ID:???
>>11 騎馬兵と言っても鐙も無いこの時代にどれほど役に立ったんだろうか。
14 :
名無し三等兵:2009/04/14(火) 18:43:22 ID:4OdURsK8
そういえばこの間復刊ドットコムから「三国志軍事ガイド」の復刊リクエスト数が100票に達したとのメールが来たよ。
15 :
名無し三等兵:2009/04/14(火) 20:39:26 ID:???
>>6 そのくらいは考えてたんじゃない?
>>7 三国時代は唐の時代よりはるかに前だよ?
「唐の時代まであるにはあったが、そのはるか前の三国時代から既に廃れていた」って意味?
だったらわかんないや。実際のとこはどうなんだろうね
16 :
名無し三等兵:2009/04/14(火) 22:25:11 ID:PtBxXCzx
確か学研の本に(後漢?)
魏2800万
呉1300万
蜀600万
くらいと書いてあったような?
蜀は10万が北伐で4万が居残りだったとかも書いてあった?ので
仮に蜀の人口が95万(男は40数万)で14万も動員したら農繁期に
いちいち帰らないと駄目ではないでしょうか?1万戦死しただけでも
農村は大打撃で、孔明は石橋叩いて渡るくらい損害を気にしながら
堅実というか、やばそうだったすぐ漢中に退却・・・
17 :
名無し三等兵:2009/04/14(火) 22:28:47 ID:???
三国志 人口でググればいくらでも出てくるのにPC初心者ですか?
18 :
名無し三等兵:2009/04/14(火) 23:44:37 ID:???
正史って気持ち悪いぐらい魏の人物ヨイショしてるよね。
魏を正統とする晋の家臣の立場だからしょうがないとしてもリテン、ガクシンでさえ
もう気持ち悪いぐらいヨイショされてる。
どのくらいかと言うとコーエーゲームで能力オール85超えぐらいヨイショされてる。
カコウトンなんかなんじゃありゃ。
伊達輝宗みたいに人質になってるのにあの戦闘能力は無いわ。これと言った武勲もないのに。
19 :
名無し三等兵:2009/04/17(金) 21:05:37 ID:???
三国志とは?
20 :
名無し三等兵:2009/04/21(火) 20:36:23 ID:???
20
21 :
名無し三等兵:2009/04/21(火) 21:56:41 ID:???
何を分析すれば良いのだ? 呂布の強さについてとか?w
結局騎兵部隊を上手く使いこなせると強いのだろうな。
22 :
名無し三等兵:2009/04/22(水) 20:44:17 ID:???
しかし正史だと孔明は馬鹿だな。
ケイシュウ留守番してたのに後に関羽が呉に横腹つかれることも予想できないヘタレ軍師だし
あれだけ領地返還要求をのらりくらりかわされ馬鹿にされ続けた呉が攻めてくることも予想できないってありえない。
漢中争奪戦も法正の戦略だし北伐じゃ慎重すぎて日本海軍の南雲、栗田みたいだし
はっきり言って過大評価されすぎ。
むしろ正史だと劉備の方が有能。
バショクが辻、源田みたいな口だけの人間だと見抜いて孔明に重要するなと念をおしてるし
徐州時代の頃から曹操に認められてる。
赤壁も軍を率いて戦ってるし劉備は劉邦と違って有能だと思う。
政治しかできなかった孔明は政治戦略外交の張良に負けるし、戦じゃ韓信に遠く及ばない。
補給線無視で蕭何タイプでもない。
日本で言うと石田三成だね。
23 :
名無し三等兵:2009/04/23(木) 02:14:02 ID:???
>>22 北伐しまくっても国を全く傾けさせなかっただけでも十分だわ
24 :
名無し三等兵:2009/04/23(木) 18:49:58 ID:???
>>23 >北伐しまくっても国を全く傾けさせなかっただけでも十分だわ
そんなの上杉謙信もやってる。
むしろ孔明が疲弊させたから蜀は苦しくなったんだろ。
あと孔明は発言権も権力もあったのに対しキョウイは権力が無かった。
魏が搦め手から攻めてくるって忠告したのに無視されたりね。
もう蜀は後漢末期なみに腐敗してたんだよ。孔明がいても結果は変わんなかったよ。
北伐してる最中に別方面から本国つかれちゃうんだから。
25 :
名無し三等兵:2009/04/23(木) 20:38:07 ID:???
単に孔明は、穀倉地帯の荊州の奪回に重視しただけだろ。
北伐に専念したのは、後方を安堵するためだろ。
26 :
名無し三等兵:2009/04/24(金) 04:20:53 ID:???
>>22 >>24 自身が率いた戦じゃほぼ負けなしだし、補給担当としても入蜀時に仕事してるだろ。
それに打倒魏は先主からの国是であって、「国力的にきついので10年戦わずに富国政策に専念します」とは言えん。
そもそもそんなことやってても人口的に差がありすぎて国力差はむしろ開いていく。
個人的には張良、韓信、蕭何を足して四で割ったくらいの能力は持っていたと思う。
その三人の仕事を一人でやらねばならなかったことが彼の不幸。
劉備が有能というのには同意。夷陵以外の負け戦は全て圧倒的な戦力差があった場合のみで、指揮官としても優秀だし。
27 :
名無し三等兵:2009/04/24(金) 08:00:10 ID:???
28 :
名無し三等兵:2009/04/24(金) 21:14:19 ID:???
正史だと馬騰って山賊なんだね。演戯だとチョウヒに名門中の名門とか言ってるけど
先祖はバエンだっけ?
結構有名な人らしいけど劉備や孫権なみに出自怪しいね。
29 :
名無し三等兵:2009/04/24(金) 22:41:59 ID:???
アニメ版蒼天航路つまらんな。
せめて董卓編からやればよかったのに。
30 :
名無し三等兵:2009/04/25(土) 04:39:13 ID:???
31 :
名無し三等兵:2009/05/06(水) 01:45:17 ID:???
兵力もそうだけど距離もアレだよな。日本の戦国の感覚で言うと中原での戦いですら遠征レベルなのに、
蜀から出るとなると消耗も凄いんじゃないか。あの時代ロクに道整備されてないだろ。
32 :
某研究者:2009/05/09(土) 04:02:44 ID:wuJNZCGK
赤壁で孔明が10万本の矢を手に入れる等と言うのは
恐らく実話では無いだろうが
船を攻撃する場合は火矢を使うから
藁は炎上しないのかだが
藁は濡らしてある可能性も有る訳だろうか
33 :
某研究者:2009/05/09(土) 04:04:06 ID:wuJNZCGK
三国志の時代では現実には歩兵は殆どクロスボウ兵だろうし
律令制軍の歩兵は接近戦に弱いから
騎兵に下馬してでも突入されれば容易に壊滅と言う事に
成る訳だろうか
34 :
名無し三等兵:2009/05/09(土) 08:29:37 ID:???
>>32 無論創作
たしか赤壁より後に、呉が魏と戦った時に、孫権の乗った船が
矢を片側に受けすぎて傾いたので、逆側にもわざと受けて
バランスを取ったとかいう事実から創られた話しとか
35 :
名無し三等兵:2009/05/09(土) 23:15:20 ID:???
俺も詳しくないけど軍板住人は三国志、戦国ネタは苦手な感じがする
むしろアニメネタのがいきいきしてるぐらいw
36 :
名無し三等兵:2009/05/10(日) 08:03:20 ID:/7JO93i3
昔は「戦国時代の武器を軍板的に考察するスレ」とかあったんだけど
衰退しましたね。
37 :
名無し三等兵:2009/05/10(日) 08:08:58 ID:???
武将と軍人は違うということで一つ
38 :
名無し三等兵:2009/05/10(日) 14:30:06 ID:???
>>26 具体的にどの戦いで勝ったの?
劉備生前は自身が軍を率いることなし(参軍なんかの立場では参加してるけど)
南征は現地統治官の功績で、孔明は無関係
北伐は全て作戦目標を達成できず、敗退
戦は苦手、というのは正史の評価でもある
39 :
名無し三等兵:2009/05/11(月) 07:07:09 ID:???
諸葛亮は内務官僚だよなあ
40 :
某研究者:2009/05/11(月) 13:05:55 ID:cU4EiG+5
>無論創作
>たしか赤壁より後に、呉が魏と戦った時に、孫権の乗った船が
>矢を片側に受けすぎて傾いたので、逆側にもわざと受けて
>バランスを取ったとかいう事実から創られた話しとか
こんなに火矢を受けたら炎上しないのかと言う事は
有る訳だろうが
水を染み込ませた布等を張り巡らして居た可能性は有る訳だろうか
41 :
名無し三等兵:2009/05/11(月) 14:35:54 ID:???
>>28 馬援は、顕宗孝明帝劉荘の皇后である馬氏の父です。
この時代、初等教育機関としての書館、地方教育機関としての郡国学、高等教育機関としての太学の他、
明帝の作った、皇族や外戚のエリート教育を行う機関がありましたので、
多分そこら辺の戸籍はかなり厳重に管理されていたと思われます。
また、正史には本貫を、馬援の本貫と同じ扶風郡茂陵の人とするのみで、
馬援の子孫とするのは魏の歴史家魚豢の著とされる『典略』の記事によりますので、
敵国の人の記述ともある程度の一致を見ますから、恐らく事実と見て良いものと思われます。
42 :
名無し三等兵:2009/05/11(月) 14:54:03 ID:???
43 :
名無し三等兵:2009/05/30(土) 16:06:28 ID:???
age
44 :
名無し三等兵:2009/06/18(木) 20:57:31 ID:???
赤壁
45 :
名無し三等兵:2009/06/21(日) 21:04:53 ID:???
46 :
名無し三等兵:2009/06/28(日) 20:21:17 ID:nHnblJKJ
信長10万vs劉備10万
IF戦えばどっちが勝つ?
俺の予想は劉備。日本の戦国って三国志のパクリだしw
47 :
名無し三等兵:2009/06/28(日) 20:35:34 ID:???
48 :
:2009/06/28(日) 20:54:48 ID:oDxhu7wP
魏延の長安攻略が万一成功してしまったら
蜀内で魏延の権力が大きくなりすぎるから
孔明は絶対に反対だったんだろうな
49 :
名無し三等兵:2009/06/28(日) 21:13:25 ID:MYswibkB
イラクやアフガン戦でも教養人ぶる西洋人、やたらと孫子の兵法をだしてくる…
Sun tsuとかいって…
ブッシュの先制攻撃論が流行ったときは古代ギリシャのTucycidesに喩えるのが
常道だったが
ボスニアの民族浄化を傍観したコフィアナンや、911後のアフガン非戦論者
のようなのはネビル・チェンバレン…
最近イランのラフサンジャニはリシュリュー枢機卿だとか…
50 :
名無し三等兵:2009/06/28(日) 21:33:27 ID:???
>>48 魏延の作戦案はほとんど賭博じゃん。
歩兵5千に輜重兵5千で食料は手持ち分だけ。
歩兵が各人穀物を20Kg、輜重兵が各人40Kg携行し、一日一人3000カロリー=0.9Kg供給とすると33日分。
漢中から長安まで片道10日とすると長安攻略のタイムリミットは2週間足らずしかない。
魏延が長安を首尾良く陥落できてもそれ以降の補給は長安に備蓄されている食糧頼みで、もしも魏が撤退時に焼却したら作戦失敗は決定的。
その時点で魏延軍は敗退を余儀なくされる。
そうなったら涼州を制圧途上にある本軍は包囲殲滅を避けるために急遽、出撃拠点の漢中に撤退しなければならない。
余程、魏がアホでも無い限り魏延の作戦は失敗するもので諸葛亮が却下するのは当然だろう。
51 :
名無し三等兵:2009/06/28(日) 22:10:38 ID:XgmF4awJ
蜀漢は軍事面でみても魏には遠く及ばない、人口も激減した時代だったので
下手に出て大敗すれば取り返しのつかないことになる、それ故諸葛亮は慎重な姿勢を守り続けた
戦術的には敵地を攻める際にも自らが守りの陣を敷くという特殊なものであったので敗れても国が崩壊するほどの損害は受けなかった
その地味さ故か現代の人は諸葛亮のことを戦下手と言う、確かに上手とはいえないけれど
小国が大国に当たる際に慎重になるのは当たり前だよ、後に姜維がケ艾に大敗したのは痛手だっただろう
52 :
名無し三等兵:2009/06/28(日) 22:22:23 ID:??? BE:1322374739-2BP(0)
赤壁の戦いって本当にあったの?どんな戦いだったの?
魏の軍勢が80万人はありえない〜魏の軍勢は実際には20万人〜云々
と聞くけど、仮に10万としてもそれだけの軍がどこに待機してどこから渡河するの?
大軍勢を待機させれるような開けた土地なの?
それに呉を攻めるなら荊州から渡って攻めたほうがよくない?
後、長江は自然の防衛線とか演義にあるけど実際は壁として使えるの?
壁として使えないから合肥を奪おうとしたんだよね?
53 :
名無し三等兵:2009/06/29(月) 00:22:33 ID:???
>>50 後詰も、魏延の予想より早かったからね
補給抜きにしても、そのとおり作戦時間が2週間程度しかなく、しかもその片道10日の強行軍も時間的にあやしい、と。
54 :
:2009/06/29(月) 00:23:24 ID:gxuQyYRA
>>50 馬超&韓遂ですら成功してるんだから長安攻略はありえるよ
55 :
名無し三等兵:2009/06/29(月) 00:24:24 ID:???
>>52 もうちょっと短くしてくれた方が話し易いし、スレにネタを細く長く供給できて良いと思うよ。
>赤壁の戦いって本当にあったの?
正史およびその注だと赤壁と後世から呼ばれる地点で孫権軍が曹操軍を撃破したということになっている。
黄蓋が偽りの降伏で火計をし、これが決定打となって曹操軍が敗走したというのも史料に書かれている。
史料を信じるならば赤壁戦に相当するものはあったと言える。
>どんな戦いだったの?
赤壁戦に至るまでの経過は大体、小説とそれほど変わらない。
ケイ州中北部を制圧した曹操軍は南郡を出撃拠点として長江沿いに下っていた。
この地域は極少数の都市以外の地域は湿地帯だったり無人地帯だったりして道路状態は悪く、
大軍に食料を供給し効率よく機動させるには長江を利用した船舶輸送に頼るしかない。
曹操は慎重に進軍し、途中、津と呼ばれる長江を横断する輸送拠点を制圧していった。
そしてたどり着いたのが赤壁で、そこから先は孫権軍を撃破しないと進撃できなかった。
質の孫権軍と量の曹操軍の対陣し長期間 消耗戦が展開され、曹操軍は将兵は風土病によって病人だらけになった。
一方の孫権軍も曹操軍の物量に苦戦し、両軍の首脳は苦しんだ。こういう状態の中で黄蓋の偽降の計は使われた。
曹操が黄蓋の計略に嵌められたのは、曹操が決定打が欲しかったという心理状態だったかも知れない。
とにかく曹操軍の船舶部隊は火計によって壊滅し、大軍を維持する手段を失い、かつ瓦解した士気もあって敗走を余儀なくされた。
撤退する曹操軍は孫権軍の追撃によって甚大な損害を受け、これによって三国鼎立の素地ができた。
56 :
名無し三等兵:2009/06/29(月) 01:11:46 ID:???
>それに呉を攻めるなら荊州から渡って攻めたほうがよくない?
軍隊を動かす場合はまず地図を眺めつつロジスティックスから考えた方が早い。
現地調達はできるかと言えば、荊州南部は人口が少ない=低い農業生産性と思ったので大軍を食わせるのは難しいと思うし、第一、焦土戦術を取られたらアウトだ。
つまり、軍隊が長江を渡るとすると、その軍隊が食う食料も長江をまたぐ必要があるわけだ。
長江は対岸が見えないぐらい幅の広い河川で感覚的には海に近いとされている。レーダーや航空機による監視が出来ない時代なので尚更だろうね。
つまり軍を渡河させても長江の水運を遮断されたらその軍は戦わずして崩壊するわけだ。
ここに水軍の重要性が生じる。
荊州で渡河して行軍しても結局は呉の水軍戦力を壊滅しない限り、その軍は不安定な補給状態で養える程度の規模しか持てず、
それは呉の地上部隊への打撃戦力としては補助的な存在に過ぎなくなることは容易に想像できると思う。
>長江は自然の防衛線とか演義にあるけど実際は壁として使えるの?
長江を渡る軍は長江の水運を利用しなければ存在できず、そしてその水運は水軍に左右され、呉の水軍は三国随一だった。
そのように呉が強力な水軍を擁している条件では呉にとって長江は堅固な城壁として機能したといえる。
57 :
名無し三等兵:2009/06/29(月) 09:47:33 ID:??? BE:1371351247-2BP(0)
>>55-56 ありがとう
長文すまんかった
>>54 攻め込むルート、それに状況が違う
魏延の場合は子午谷という険しい道を10日で踏破して、20日で長安を落とし
その後に長安を敵からの攻撃を守りぬく、食料は僅か
それに対して馬超は…ねえ?
魏延が何でこんな作戦を立案したのかがまったく持ってわからん
58 :
名無し三等兵:2009/07/01(水) 09:26:21 ID:???
漢中から長安まで直線距離約220Km。
そしてその間には日本アルプス級の山岳地帯が横たわる。
10日で行軍は無謀だろーな。
59 :
名無し三等兵:2009/07/03(金) 07:27:21 ID:???
「補給戦」によると徒歩で行軍する軍は、1日24Kmが上限らしい。
この数値は訓練が行き届いた正規軍が、脱落者や疲労で戦闘力が喪失しない範囲内で、平地の良道を歩くという条件。
魏延の長安強襲案は行軍ルートの難易度からすると10日で走破すれば落伍者が大量に発生(特に輜重兵)し、到達した兵も疲労で戦闘力を大幅に減退するというのは想像に難くない。
60 :
名無し三等兵:2009/07/05(日) 19:11:32 ID:??? BE:1371350674-2BP(0)
この頃の補給ってどんなのだったの?
略奪したり、苦労して前線に運んだり、袁紹みたいに燃やされたり
いろいろあるけど実際どんなものだったの?
61 :
名無し三等兵:2009/07/05(日) 20:33:29 ID:???
侵攻軍の補給と防衛軍の補給だと大分違うんじゃね?
取り敢えず巨視的に観ると城塞都市ごとに食料を備蓄しておいてそこから最寄の部隊に運ぶというパターンが王道っぽい。
自国内を自軍が行軍する場合は街道沿いにある都市の貯蔵食料を食いながら歩けばいいのだからシステムが整っていれば輜重隊による行軍中の再補給は余り重要でなくなる。
魏はそんな感じ。呉は輸送力の高い舟艇が主力なのでちょっと概念が違う気がする。
問題は侵攻軍の補給だなぁ。
孫子や補給戦から考えるとマーケットを開いて商人や近隣の農家から買ったり、行軍ルート上にある都市に使者を送って知事を脅迫して収奪するか買うというのが楽チンだろうな。
そうわけで防御側の対抗戦術も中国では編み出されていて”堅壁清野”という焦土戦術が確立されたわけで。
62 :
名無し三等兵:2009/07/11(土) 22:28:18 ID:???
水運を利用できるか否かが重要だな。
曹操は袁紹軍を撃破した後、華北制圧の準備として運河の整備に励み、運河が完成してから袁家殲滅戦に乗り出したぐらいだ。
63 :
名無し三等兵:2009/07/13(月) 16:39:04 ID:???
>>62 陸運、水運の重要性、まったくなんだが
春秋戦国スレを、誰か建設してくれ
クレフェルト、お勧めでつよ
64 :
名無し三等兵:2009/07/15(水) 18:04:04 ID:???
>>57 私見としては・・・
当時諸葛亮は蜀の史官を廃してるんだよね。
つまり国外の情報を自身しか把握できない形にしてしまった。
しかし魏延は前線指揮官として長安の情報を何かしら握っていたようなので
その情報を元に作戦を立案し提案したのでは?
それに対し、全体の情報を把握していた諸葛亮が却下。
魏延のある意味博打ともいえる作戦は(諸葛亮の)意図的な情報不足によって
起きてしまったのでは?と思っている。
65 :
名無し三等兵:2009/07/16(木) 22:52:19 ID:???
66 :
名無し三等兵:2009/07/16(木) 23:26:36 ID:???
67 :
名無し三等兵:2009/07/17(金) 18:43:29 ID:???
今チンギスハーンにはまってるけどモンゴル軍、1季節でロシア、ハンガリー荒らしまくってるぞ。
しかもロシア戦なんて真冬だってよ。
魏延は間違っていない。
圧倒的国力差があるんだから一か八かの賭けは必要。
時間が経てば経つほど巨大な国の方が国力上になる。
ガイテイなんて大敗するよりよっぽど実行してみた方がよかった。
孔明みたいのが一番だめ。
孔明みたいな慎重な男ではアルデンヌ、シンガポール快進撃はできなかったね。
孔明って石田三成、井上成実タイプの実戦むきじゃないデスクワークの人間だろ。
軍事は法正、魏延にまかせとけばよかったんだ。
孔明は才能無いから政治だけやっててください。
法正が生きてたらぎえんの策採用してたよたぶん。
孔明の指揮で漢中とれただろうか?
たぶん無理だね。
モタモタしてるうちに魏の大軍やってきて引き返すよ。
68 :
名無し三等兵:2009/07/17(金) 20:21:27 ID:???
>>41 レス来てたの気づかなかったすいません。
なるほど先祖はほんとにバエンったんですね。
なんか木を切って生活してたとか書いてあるから絶対違うだろって思い込んでました。
69 :
名無し三等兵:2009/07/18(土) 00:34:53 ID:???
>>67 では、どうやったら魏延の作戦が成功するか聞かせてくださいな
70 :
名無し三等兵:2009/07/18(土) 00:54:28 ID:???
>>69 では、どうやったら孔明の作戦が成功するか聞かせてくださいな
魏延のなんて素晴らしい策じゃん。
孔明たち主力部隊が魏軍をひきつけてる間に裏道を通って強襲。
蜀だってこれやられて滅亡したんですけど。馬鹿?
どうやったら成功するか聞かせてくださいな だってw
馬鹿じゃねーのこいつ。
お前正史読んだことねーだろw
71 :
名無し三等兵:2009/07/18(土) 08:56:03 ID:???
売り言葉に買い言葉の典型だな
ちょっと冷静になれよ
72 :
名無し三等兵:2009/07/18(土) 09:04:21 ID:???
>>70 いやwだからね、どうやったら成功するか説明してください
>孔明たち主力部隊が魏軍をひきつけてる間に裏道を通って強襲
これは言わなくてもわかってるから、これがどうやったら成功するか説明してもらわんことには
どうしようもない。まさか、魏が同じやりかたで成功したから蜀も成功する、と言いたいの?
73 :
名無し三等兵:2009/07/18(土) 20:20:23 ID:???
成都落としたら戦争終結する公算高いから特攻ありだけど
長安落としても洛陽とかからがんがん後続が奪回しにくるし、蜀の生産力で維持するの無理だろ
74 :
名無し三等兵:2009/07/18(土) 21:20:58 ID:???
トウガイの成都強襲みたいな特攻作戦は、仮に強襲部隊が全滅しても優位性が維持できなければ採用されんよ。
魏と蜀の国力・人材層を考えたら一緒くたにするなんて普通の人はしない。
75 :
名無し三等兵:2009/07/25(土) 21:53:43 ID:???
>>73 むしろ荊州の奪回に専念した方が、
蜀にとって現実的のような。
76 :
名無し三等兵:2009/07/25(土) 22:22:37 ID:???
俺が横山三国志のアニメ版を見て思った感想としては
劉備がヒトラーで孔明がロンメルだな。と思ったよ
77 :
名無し三等兵:2009/07/25(土) 22:33:22 ID:???
そして宇禁は女の子だな。と思ったよ。
78 :
名無し三等兵:2009/07/26(日) 11:13:12 ID:???
>>75 いや、それやったらニ正面で終了でしょ。
あくまでも蜀・呉で連携するのを前提としないと。
まぁ荊州を維持していれば呉の対応が違っただろうけどね。
79 :
名無し三等兵:2009/07/26(日) 14:25:29 ID:???
>>78 蜀から見て、穀倉地帯を押さえないと致命的だよ。
ジリ貧になること必至だし。
80 :
名無し三等兵:2009/07/26(日) 14:52:41 ID:???
>>79 食糧の自給って面では同意するけど。
その「穀倉地帯を押さえる」行動自体で終了するって事。
魏が黙ってみてるんならいいけどね。
81 :
名無し三等兵:2009/07/26(日) 14:54:48 ID:???
こいつら馬鹿だな。
魏の大軍が後方にいるからなんていったら中国の王朝は一度も滅びないだろーが馬鹿?
82 :
名無し三等兵:2009/07/26(日) 19:57:19 ID:???
煽りはイラネー
83 :
名無し三等兵:2009/07/26(日) 21:02:07 ID:???
煽りも何も事実だろばーか
何で大国明は破れた?
何で金は万里の長城まであったのに敗れた?
馬鹿なこと言ってんじゃねー雑魚ども。
84 :
名無し三等兵:2009/07/26(日) 21:06:40 ID:???
王朝が滅びるにはそれなりに条件が揃う必要がある。
諸葛亮の北伐時に魏が滅びる要素があると言うならそれを列挙しろ。
列挙できないなら唯の無能煽り=夏厨ケッテーイw
85 :
名無し三等兵:2009/07/26(日) 21:29:14 ID:???
魏延の策+呉との連携なら倒せた、とかか?
それでも結構きつそう
86 :
名無し三等兵:2009/07/27(月) 14:15:18 ID:???
魏で大規模な内乱でも起きれば良いんだけどねえ。
起きたのは辺境での小規模なヤツばっかり。
87 :
名無し三等兵:2009/07/27(月) 15:05:37 ID:???
蜀は高句麗を利用すれば良かったような。
その内に荊州に進出するという。
88 :
名無し三等兵:2009/07/27(月) 16:01:10 ID:???
>>84氏が言うように
「王朝が滅びるにはそれなりに条件が揃う必要がある。」
その条件を当て嵌め、可能性を探って諸葛亮が出したのが
蜀の北伐+呉のアクション+何らかの魏内部のミス
更にこれを繰り返す必要があったから、蜀は博打が打てない。
煽ってる奴はこの魏のミスでも列挙できれば話になるんだけどねぇ。
逆に言えば魏はミスを犯さないことで勝ちになる。
それをきっちり認識していたのが魏の強さでしょ。
89 :
名無し三等兵:2009/07/27(月) 17:27:50 ID:???
>>87 当時の高句麗はそこまで強大じゃないよ。
あと、呉が遼東の公孫氏と連携して魏を挟撃する
似たような策を試しているけど、これは失敗している。
90 :
名無し三等兵:2009/07/27(月) 18:07:06 ID:???
>>88 アホ。
なら孔明の北伐事態否定することになるだろ。
孔明に任せても大敗するんだからギエンの策やってみた方がよっぽどよかった。
漢中争奪戦でも孔明は持久戦なんてアホなこと言ってるからやばかった。
劉備が法正の策を採用してほんとによかった。
このときなんて孔明の北伐より難しかったな。
曹操は生きてるしお前らの言う大軍も控えてるしw
漢中奪った後に魏の大軍やってきたけど見事守りきってるしね。
おかしいねぇお前らの言うとおりなら漢中維持なんて出来ないはずなんだけど。
400年前の劉邦もなんで5万も持たなかったのに蜀から中央まで一気に抜けたの?
当時の蜀と楚なんて三国時代より国力差あったんですけど。
91 :
名無し三等兵:2009/07/27(月) 18:50:58 ID:???
>>90 どこが否定に見えるんだかw
諸葛亮の北伐の時は必ず呉へアクションを起こすよう働きかけている。
それに加えて魏がミスを犯すことを期待乃至はミスを誘引しようとしている。
漢中争奪はなんといっても漢中内部に協力者がいる状態。
それが対魏にも対比できるというなら、最低でも漢中争奪戦と同様の規模の
魏内の分裂があったことを証明しないとね。
劉邦なんかも言わずもがな。
項羽方に漢中以上の内部崩壊が起こっている。
(劉邦側の切り崩しも当然ある)
戦闘で寡兵を持って大兵を打ち破ったとでも思っているの?
92 :
名無し三等兵:2009/07/27(月) 19:18:29 ID:???
>>90 > 曹操は生きてるしお前らの言う大軍も控えてるし> 漢中奪った後に魏の大軍やってきたけど見事守りきってるしね。
夏侯淵達が漢中の民移住させてたし来んの遅くて戦いの流れは完全に劉備側
正に鶏肋で本気で戦う理由なんてない
諸葛亮の時代はこの援軍が洛陽発で時間短縮されてる
そもそも魏延の策なんて諸葛亮との合流が大前提なのに曹真どうすんだよ?
趙雲は曹真に負けてるから魏延と合流なんてすぐには無理だ
> 400年前の劉邦もなんで5万も持たなかったのに蜀から中央まで一気に抜けたの?
> 当時の蜀と楚なんて三国時代より国力差あったんですけど。
韓信の軍略がすごいってのもあるが当時の関中は項羽が強盗、放火、殺人とかやらかしてるから秦の三王は関中民から恨まれてるし韓信をなめてかかったから序盤に一気に叩けた
それに項羽自身が反乱鎮圧に奔走してて援軍はない状態
おまけに諸侯からも反感買ってて
当時の魏とは天と地の差でお話にならない
93 :
名無し三等兵:2009/07/28(火) 13:39:53 ID:???
この時代の装備は青銅製?
鉄器への過渡期だったとすれば個人的武勇もあったのかもと思うのだが・・・
94 :
名無し三等兵:2009/07/28(火) 17:41:54 ID:???
95 :
名無し三等兵:2009/07/29(水) 04:24:28 ID:???
青銅製武器は前漢までじゃろ
後漢になると百錬鋼のような高性能鍛造鋼が出てくる。
そう言えば諸葛亮は武具用鋼材の鍛える回数も規格化してたんだっけ。
96 :
名無し三等兵:2009/07/30(木) 17:40:32 ID:???
鉄器にしてもピンキリだろうから
一般兵卒→1号戦車
将軍クラス→5号戦車
ぐらいか?差がありすぎかな?
97 :
名無し三等兵:2009/07/31(金) 02:35:27 ID:???
どういう譬えだよw
98 :
名無し三等兵:2009/07/31(金) 11:09:01 ID:???
装甲厚と攻撃力の比較って事?
雑兵の装備なんて鉄使った防具はなかなか行き渡らなかっただろうし
武器も鈍らだとすれば、鉄をふんだんに使用した防具と鍛えられた鉄製武器、
更に馬という機動力相手にはパンターに対するチハとたとえても・・・
99 :
名無し三等兵:2009/08/01(土) 02:57:00 ID:???
ああ、そういう話ね。
鎧の素材は革が主流。丈夫で加工しやすく入手しやすい。
中国で革と言っても色々あるが最高級品が犀の革で、
春秋戦国時代の著作物である「呉子」に、犀の革を大量につかって装甲を造った話が載っている。
漢の軍制だと、鎧も規定数があって常に維持されていたので三国時代も常備軍兵士は鎧があるのが建前だろうな。きっと。
蜀が滅亡した時に蜀の残存戦力帯甲十万、みたいな記述があったと思ったが、
帯甲は言うまでもなく鎧を装備した兵士であって、それは訓練が行き届いた正規軍兵士という意味も兼ねているわけで。
でも鉄製鎧は高価なのでやっぱり身分が高くないと厳しいだろうな。
そうてんこうろ、横山三国志みたいな立派な装備なんてしてないよ。
歩兵なんか馬の皮。
なんと明の時代でも歩兵の鎧は馬の皮だった。
日本じゃ日本刀による殺傷能力はほとんどなく槍で鎧の隙間突いてたが
明兵は馬の皮着てるだけで日本刀でスパスパ斬られた。
>>100 豊臣秀吉の朝鮮侵略では、
明・朝鮮軍に日本軍は完敗していたよなw
三国時代の鎧が馬の革が普遍的だったというソースはあるのか?
三国時代の人口1500万だっていうのに明の時代より動因数多いのはどういうことだ。
明の時代でさえ20万で精一杯で補給に苦しんで略奪に走ってるのに。
三国志やっぱり嘘だらけか。
長平の戦いなんてどうやって趙が50万も集めたんだろ。
あの国桁1つ増やすのすきだよな。
星新一氏(?)のショートショートで
出張報告書を書いてる男が
「ちょっと色つけて大変な仕事を上手くこなしたことにしちゃえ」
って誇大報告。
その文面が魏志倭人伝ってのがあったなw
おかげで邪馬台国の位置が分からなくなった・・・ってオチ。
三国時代の動員方法
*屯田兵によるもの
魏の場合は後漢末期に大量発生した飢餓状態になった経済難民を収容し、これに土地と資材を貸与させて屯田兵に仕立てた。
ちなみに、一度屯田兵にされちゃうと末代まで屯田兵。世襲制度でござる。
収穫はゴリゴリに徴税されたうえで、危険でキツイ軍役を退役するまで続けさせるという酷い話で、要するに兵奴。
この他に曹操は武装新興宗教団体を勢力下(兵力30万)に入れていたが、曹操の死後はこの大軍事組織は解体されたので、
厳密には三国時代には余り当てはまらない。
*異民族を傭兵として雇う
魏は北方遊牧民族を部族ごと雇って、強力な騎兵戦力を維持していた。
蜀は山岳民族を平地に移住させて、彼ら精鋭歩兵部隊 無当 を編成した。
呉も似たような事をやっていた。
*通常の兵役
と言うわけで、三国時代の動員率が高くできたのは、兵奴と異民族のおかげ。
戦国時代については知らん。
そもそも、「人口が少ないのでない、戸籍についているものが少ないのだ」と当時の政治家も言っている
それ言ったの諸葛亮だっけ?
モンゴル帝国なんて日本の戦国時代の200万石ぐらいの動因兵力しかもたなかったのに中国ボロ負けw
外国と戦ったらつねに負ける不思議な国、中国。
清なんてイギリス船にびくびくしていいなりになってやんのw
あれー?後方に大軍控えているから負けないんじゃなかったっけ?w
断言する。中国は薩摩一国より弱い。
女子供以外は全員兵士みたいな遊牧騎馬民族と比べるなよ。
人口当たりの動員が桁違いだぞ。
200万石って結構すごくね?
同じく秀吉にボコボコにされたどうしで張り合ってもなあ>薩摩と明
モンゴル帝国は時代が全く違う。
スレタイを100回読んでから出直してくれ。
嫌中したいなら東亜板でやれ。
ついにスレタイも読めないアホがでてきたか
東漢末はなんかしらんけど外国にはすげー強かったからね
土地ボロボロなのに
バトゥ軍2万>弱小中国軍100万
一つ質問、関羽が負けた時、呉には殺さずに返すという選択肢は無かったのかな?
それとも、蜀との総力戦と、将来における関羽の脅威を考えた結果、首を切ったのかな。
馬鹿かお前。
自分の領土取られて蜀が怒らないわけ無いだろ。
どうせ攻めてくるのわかってるんだから関羽は殺すしかないだろ。
お前の言うとおり関羽を返したとする。
関羽は汚名返上させてくれと大軍で攻めてくる。
史実と違って総大将は百戦錬磨の名将関羽。
軍オタはほんと歴史はてんで詳しくないな。
興味あるのはカタログスペックだけ。
それともまさか関羽を逃がせば恩にきるとでもおもったか?僕ちゃんw
関羽は曹操に降伏しておきながら出戻った男
そもそも関羽が名将かどうかと関係なく、生かしとくメリットが無いわけでして。
劉備が夷陵に臨んだのも関羽が殺されてキレたからではなく、荊州の重要性を考慮してのこと
正史だとどう見ても劉備>夏侯惇
三国志
三国志って何が面白いの?
あんだけやったのに、その後300年(200年でもいいけどw)続く王朝ができましたメデタシメデタシ、じゃない。
最終的に勝った魏もすぐに家臣に簒奪され、その国も北方民族に滅ぼされた・・・
いったいどこにロマンがあるわけ?
久々に書き込みがあったと思ってワクワクしながら見に来たら
なんだよ、三国志の軍事を語るスレで三国志を否定するって
こういうこと訊く人って結果を絶対視してて過程なんかどうでもいいんだろうな
さっさと自分がロマン(笑)あると思う時代のスレに消え去ってください
その儚さが良いんだよ。
晋って何百年も続いたっけ?
三国時代の軍隊は隊列を保ったままゆっくり接近して最初は弩を遠距離から
撃ちまくり、続いて矛?を持った歩兵が突き合い、さらに接近すると
盾と剣や戟を持った歩兵が接近戦をやって、そして騎兵が絡む・・・という
イメージなんでしょうか?
兵馬俑の配置や最近の古代中国の映画を見るとそう思いますが?装備ごとに
明確に役割が決まっており完全に機械のように戦闘を行って、後退はもちろん
命令無く勝手に動いたりする兵は即効殺されますか?
映画のように大将が先頭で突撃したり、雄たけびあげて全軍突撃は
ほとんどなかったのでしょうか?ロマンが無いですが・・・・
三国時代というより後漢末期の袁ショウvs公孫サンの戦争になるが
公孫サンが率いる主力の騎兵軍団を、袁ショウの部下の麹義が撃破した戦例だと
中央に障害物を盾にした歩兵を置き、左右に弩部隊を配置して、騎兵軍を弩の集中射撃で勝った。
(なんだか、現在の突撃粉砕射撃みたいだな。)
この戦術は対騎兵戦術として馬援あたりが確立したと思った。
いや、攻守・兵数・地勢等々ありそれに応じての戦術があるわけですんでね・・・
だだっ広い平原で同数・同編成で殴り合いするわけじゃないんですから。
>装備ごとに明確に役割が決まっており完全に機械のように戦闘を行って、後退はもちろん
命令無く勝手に動いたりする兵は即効殺されますか?
罰を与えられるのは当然でしょう。速攻殺されることはよほどの場合でないとないかと。
>映画のように大将が先頭で突撃したり、雄たけびあげて全軍突撃は
ほとんどなかったのでしょうか?
三国志正史には戦場で「個人的・直接的に」将が将を斬ったりしていますし
(関羽の顔良斬りとかね)
攻城戦でも曹操は最前線に出たりしています。
全軍突撃はあったんじゃないですか?正史ではそうとれる文章はあります。
劣勢挽回の為、戦局が決定して戦果を拡大させる為等ですが、こういう場合は
将が先頭(先陣)に立つって言うのは立つだけの理由はありますね。
それを考えたら結構前線に出る将はいたと思います。
三国時代では魏の騎兵戦に対抗するために蜀では歩兵の武器、特に弩の配備に力を入れた。
政府直轄の工房では高度に規格化、分業化され、威力(石)、製造年、製造工房、製造責任者など
が刻まれていた当時の最先端の兵器だった。
蜀が魏に対抗できた理由のひとつに独自で鉄鉱山を抑えていたことが大きく、これは鉄製の武器や
防具の製造以外にも、鍬や鋤など農具にも使われ、灌漑などの土木工事でも威力を発揮した。
横山光輝が弩というものを知らずに漫画を描いていたのは
あとがきにも書いてある有名な話
三国志軍事ガイド復刊してくれないかなあ
>>101 どの資料を見ても軍事的には日本軍の完勝ですが?戦略的には敗北だけど。
>>117 孫権からの縁組を関羽が罵詈雑言付きで拒絶した。
隣接する孫氏領内からの兵糧・物資の強奪を関羽が指揮した。
ちょろっと調べるとこんなのが出てきた。
君主の側から見れば、斬る理由としては十分だと思うけど。
普通は捕虜になった総司令官クラスの将軍は直ぐに死刑にするけどな。
死刑にした後、貴族の格式で葬儀をすればOK。
生かす場合は大抵は屈辱を与えるのが目的だ。
>>93>>95 青銅製の武器等は後漢時代に鋳潰されて貨幣になったものが多い
鉄のほうが安上がりになっている為青銅製の戟→鉄製の戟→鉄製の槍(青銅、鉄製造共に燃料は木炭だったので森林の荒廃はひどかったらしい)
霊帝も宮殿を飾るのに青銅製品を強制徴収して余った青銅は貨幣にしてる
確か製鉄に石炭が使われるようになるのは宋の時代くらいだったはず
三国志
貨幣と言えばトウタクが悪貨を大量製造してハイパーインフレが起きたというが
その貨幣の素材は何だろうね?
銅貨を改鋳したということだから普通は鉛なんじゃないかなあ
大量の鉛なんてないよ
鉄でも混ぜたんだろ。鉄製貨幣は更に価値が低かったし。あと董卓の作った貨幣ってただ丸くて穴のあいた円形だから見た目がひどい。
ローマ帝国はもともと通貨が少ないのに劣質銀貨発行で通貨価値がなくなったけど
董卓銭は大量にあるのも問題。中原は森林荒廃で200年以上再改鋳するための燃料がなかったから
魏、晋とも何の手も打ててない。
劣質銀貨→劣位銀貨
144 :
名無し三等兵:2009/09/24(木) 15:03:31 ID:eGtwlY4y
>>90 みんな判ってない、
長期の安寧があると政治官僚腐敗があって民はやっぱり苦しむ。李氏朝鮮
孔明の狙いは、
天下三分の計の維持、
戦国領主10個くらい乱立・・・戦争で民が苦しむ。
長期安定中央集権で、政治官僚腐敗・・・もっと民が苦しむ。
適度に他国に対し緊張感を維持し経済を円滑に・・・となったほうが、そのほうが苦しむ人が少なくなる。
北伐・・・・攻勢防御(そら被害を少なくしょうとするわな。)
-----
日本でも腐敗した安土桃山時代より、戦国時代の方がGNPが高く
民の生活は楽だった。
一般的には日本の安土桃山時代の通称を戦国時代と言う。
146 :
名無し三等兵:2009/09/25(金) 09:52:04 ID:AVQKsXUw
× 日本でも腐敗した安土桃山時代
○ 日本でも腐敗した平安時代
----
ごめんね。
>>145 日本史の戦国時代とは応仁の乱から室町幕府の滅亡までを差す。
足利将軍廃止以降徳川幕府成立までを織豊時代または安土桃山時代という。
>>147 安土桃山時代は信長の上洛からカウントするのでそれも極論だよ。
赤壁
官渡
正史での蜀将の戦術能力の評価をすると
関羽>>>>>魏延>>>>>張飛、姜維>>>>>馬超>>>>>黄忠、趙雲>>>>>>>>>>>>>>諸葛亮
蜀を弱体化させた張本人は諸葛亮
無謀で補給が極めて困難なルートで敵に察知されやすい大兵力攻撃で北伐を行ったのは
まさに三国志のインパール作戦そのもの
またそれ以前に全く意味のなさない南蛮制圧に無駄な犠牲と出費を行い民を苦しめた
姜族との連携も姜維のように具体的な手段を講ぜず、対敵感情のある呉の助攻を当てにする愚かさ等々
諸葛亮に軍才が全くないのは明らか
姜維はその点、天水郡出身で姜族の言語、風俗に通じ姜族との連携を受けやすく
姜維の攻勢も諸葛亮より少数兵力で諸葛亮の攻勢ルートよりさらに西の南安郡、隴西郡といった姜族居住地域に近いルートに設定している
また姜維が北伐で実際の戦闘に敗れたのは256年上けいの戦いのみで
それも胡済が本軍との合流命令を無視して来なかったためである
実績と名声からすれば張飛は魏延よりも上だろ。
>諸葛亮に軍才が全くないのは明らか
まあ、三国志の編者、陳寿が「柔軟な軍略は不得手だった」と評価して、
演義厨でもなければ、もっともだと思ってる話を、今更力説されてもなあ…。
>>151-153 諸葛亮は戦略的に考えて、
荊州の奪還を主軸に置いていたのでは?
当時の勢力比では、荊州の奪還は蜀には不可能だろうし、
北伐のような局地戦を行ったり、南蛮を平定するなど、
せめて後方を安全にする必要もあったのでは?
あと西域の交易ルートも模索もあるかも。
ほんとに奪還考えてたなら大船団作って無いのはおかしい
>>155 大船団作れるほどの、
国力が蜀にあったか?
国力はないが銭は一番持っている蜀
国力もないのに何処から湧いてでたのだろう
孔明の仙術(錬金術)
鉱山が蜀地域に集中、呉にも多少はあったが魏の中原は当時の技術で掘れる鉱山は枯れていた
改鋳しようにも燃料である木材が不足(当時は寒冷化の為暖房用に大規模な森林伐採で禿山状態。蜀は人口が少ない為木炭が無事入手可能)
結果金銀も蜀に集中していった(金や銀は国家間の貿易で主に使用。王侯以下の所有は原則禁止)
ちなみに魏、晋は銭が発行できず絹、麻(絹の約30分の1の価値)、穀物を通貨として主に使用
で、絹だが蜀錦が高級品なんだなこれがw
絹、麻は糸じゃなくて布。40尺で1匹(幅は53センチくらいだったとか・・・異説もあり)
魏、晋は尺、寸単位に切ってでも使用したらしい
魏、晋は漢の時代税は銭と穀物だったのを絹布と穀物、繭綿(木綿は当時の中国にはなく綿といえば繭綿)に変えている
董卓が大量に乱造した董卓銭が銭の流通のほとんどになってしまった為銭の価値が大きく低下した為。
蜀では董卓銭100枚の価値を持つ貨幣が鋳造され魏、呉でも流通した。
(董卓銭は円形で穴があいてるだけで文字なしの粗悪銭。それでも鉄銭より価値が高いがそれ以前流通していた通貨の数十分の一の価値)
>>163 >それ以前流通していた通貨の数十分の一の価値
つまり董卓は数十倍のハイパーインフレを起こしたのか・・・
正史を読むだけじゃわからんよなぁ、董卓の悪行。陳寿しっかりしろ!
いや、正直、勉強になったわー
ちなみに呉は国家成立前は豪族割拠で漢にも服してない地域が多かったので金銀はそこそこあったが
会稽や特定の街でしか貨幣流通は基本的ではなく豪族に収められるのも物税だったので長江流域で貨幣経済があったくらい
孫権が董卓銭500枚にあたる貨幣をつくってみたりしたが本格流通にいたらず、魏に準じた税体系になったと思われる
当時の魏地域で近年大規模な出土貨幣(貯蓄されていたものがそのまま埋まったもの)があり数万枚に及ぶ銭の種類を類別した記事があったが
内訳は董卓銭96%、後漢末期以前の良貨3%、蜀直百銭(前述の蜀で鋳造された貨幣)1%
蜀だけ貨幣がまともに税としても使えていたようだが蜀でも絹が貨幣のかわりに税で納められる地域もあったようだ
96%に及ぶ董卓銭が当時の貨幣価値に換算すると残りの4%の半分かそれ以下の価値しかなかったのは笑うところなのか個人的には悩みどころであったり
蜀(益州)って国力が小さかったって言うけれども
太平洋戦争の日本vsアメリカほど酷いという感じでも
人口、兵数、人材は負けてるが、金があるから装備は三国最高
魏、呉、蜀ともに利点と弱点があって統一した晋は弱点だけになり更に弱体化
蜀の鉄や銅は蜀だけで使うには足りたが全土にまわす余裕はなく晋の皇帝にそうした認識はなかった
三国分裂してたほうが外敵に抵抗できただろうに
晋の捕らえられた皇帝の死に様はみじめで辱められたものだったな。それも二代続けて
>>164 晋の時代になっても通貨の鋳造ができず(燃料が足りないから)董卓銭が鋳潰され新貨になったのは隋を待たないと・・・という事情があるので
晋の臣下である陳寿には多分書けない
まぁ、横読みすればそれとなくわかるようには書いといたんだけどね・・・
当時って米は暖かい南の呉くらいでしか作れなかったというのは嘘ですか?
他はひえきび麦を食っていたとか
ひえきび麦が穀、大豆が豆、米は別にしてそれ以外は雑穀
例えば190年頃の飢饉の曹操軍の糧食は主に桑の実だったとか
麦のなかでも後から入ってきた小麦は五穀に入るが大麦は雑穀扱い
あと粟を忘れるな
>>173 南のほうだけは本当。呉くらいは嘘。蜀南部でも作ってた。魏は呉や蜀から買うしか手に入れる方法は無かった。
中原は粟が主食じゃねーの?
前漢時代に小麦が伝来し三国時代にはむしろ小麦やキビ、地域によってはヒエが主食。
またこの時代はオオアワとコアワが栽培されており現在も栽培されているオオアワには別の字が当てられている為注意が必要。
米が伝来していない頃は粟に米の字を当てることもあった。
粟は収穫量は多い為前漢では主食だが地力が落ちることから後漢の華北ではキビ、小麦の混作になっており収量は大幅に減少していた。
後漢末期の凶作時にはススキの実ですら主要穀物とされたが戦場では人肉食すら頻繁だったので当然か。
三国時代には小麦や南方での米の栽培が増加した。
ススキの実って食えるのか・・・知らんかった。
主要穀物には五穀、六穀、八穀と色々分類の仕方があるが漢末は「百穀」
小麦かキビか粟20?(当時の一石=10斗)に50万董卓銭の買値がついたのが劉備が徐州牧を譲られた190年。
税は免除せざるを得ず、糧食はほぼ皆無。その状況で曹操、袁術、最後に呂布が敵対・・・
兵の食い物は想像するまでもなく食えればなんであろうとまし(曹操軍も人肉を混ぜたと言われ、呂布にも糧食はない)
この辺から演義での「妻を殺して劉備に食べさせた」が善い事のように描かれて違和感があるんじゃないかと。
漢末は人肉食が奨励されてはいないが「暗黙の了解」だった可能性は高い。
20?じゃなくて20?
リットルが?に・・・どゆこと?
文字化けして単位が?になっているぞ。
ショウのことか?
漢代、魏、晋のころの1升は202cc〜198cc
中国の1升は日本の1升に近づいたことがない。現在は1000ccぴったり
というか日本の升は中国の現在を除き最も1升が多い唐升(700cc越える程度)を元にだんだん増えていき
地域ごとにばらついたりしたが信長、秀吉が統一升(秀吉のが旧京升。1,74リットル)を設定した。
1669年に江戸幕府が作った升が新京升で1,8039リットル。現在もこの量。
漢の税制は耕作地あたりの収穫の一部(1割程度〜以下。1畝あたり4升収量にかかわらず一定)と人頭税(1人あたり90銭程度。こちらのほうが主)が主体
魏、晋では人頭税の部分が絹布に代わる。
日本は基本的に穀物のみ4割とか5割(戦国時代には収量にあわせて前後、江戸時代には収量にかかわらず一定)だった為升を大きくしていく傾向があった。
新京升は形状を変えることで大きくなってないようにみせる好例という人も居る。
リットルとか平米とかは機種依存文字だから使わない方がいいよ。
低い農業生産性、戦乱で滞る物流、董卓銭という悪貨の流通
……つまりは、三国時代ってーのは、全体的に見れば、恐るべきスタグフレーション時代だったわけやね。
農業生産性はアジアはヨーロッパの20倍だが
ヨーロッパは雑草も生えにくい、発芽率が数%。アジアは80%以上
ちなみに貨幣は物納税だと荘園から税がとれないからそうした連中にも貨幣を使わせることで戸籍外から税収を得る手段として発達した。
193 :
名無し三等兵:2009/12/27(日) 22:09:33 ID:3xlKJ7pZ
>>193 本当はレッドクリフ公開までに完成させたかったんだろうな
195 :
名無し三等兵:2009/12/31(木) 19:40:54 ID:CebQ5zlA
もし牟田口閣下の十五軍がこの時代にタイムスリップしたなら
呂布や末期孔明ですら歯が立たない無敵軍なんだよな
今年NHKで三國志演義モチーフの「三國演義」ってのやるね
暇つぶしになんじゃねよかったな
>>196 現地調達できるし道もビルマほど酷くないし武器も槍と剣と弓があればいいだけだし
WW2の日本と連合軍みたいに武器性能の差無いし案外成功するかもな。
董卓、馬超ぐらい暴れまくってたかもしんない。
時と場所とある程度の兵に恵まれれば力攻めオンリーの大将は案外成功する。
>>198 危険な最前線には赴かずに後ろで女とヤルばかりだった牟田口に兵が付いていくわけがなかろう。
現代と違ってこの時代の兵は国家への帰属意識が低いので将軍の人望が低ければ脱走だけで軍は壊滅してしまうよ。
で、軍が瓦解するなか部下が手土産に牟田口の首を取って降伏するのがよくあるオチだろ。
十五軍がつってるから大規模な戦国自衛隊みたいな想定だろうよ。
>>199 董卓が前線に出てバリバリ指揮取っていたとでも?
正史だと若い時は個人戦闘能力高かったって書いてあるけど洛陽占拠後は後方でふんぞり返ってるだけだろ。
牟田口と大してかわらん。
佐藤幸徳、宮崎繁三郎もいるし彼らが指揮を執るから問題ない。
ってかね日本の戦国大名とかと違って中国の王、皇帝、君主って前線に出ない人多いよ。
出ても重臣にほとんど任せる奴のどっちか。
始皇帝、秦の2代皇帝、劉邦、武帝、孫権、劉表、劉禅パッと思い浮かぶのでこれ。
まだ探せばゴロゴロいる。
春秋戦国時代の王なんてほとんどそうだし
呉の伍子胥、越の范蠡とか重臣に任せっぱの王も大勢いる。
これらの王は大抵無能で讒言にだまされるか才能に恐れて名臣を粛清するか追放する。
中国人は馬鹿揃いだから牟田口みたいな馬鹿の言うことも聞くよ。
ってか勝ってる間は無能な君主でも兵は将兵はついてくるもんだよ。
龍造寺隆信とかがいい例。
奴が生きてる間は兵もよく戦ってる。
負けたら置き去りにされて殺されちゃったけど。
人を任用できる資質を混同してる時点で論ずるに値しないというか
そもそも十五軍が三国時代でどうだろうと知ったこっちゃ無いw
孔明も補給無視の無能。
孔明が昭和19年第15軍率いてたらムッチーと同じことやりそうで怖い。
名将ギエンの案をことごとくしりぞけ自分の大好きな無能バショクを重要。そして大敗。
ギエンが佐藤幸徳に見えてならない。
敗戦の責任をバショク一人に負わせ自分に匹敵する地位の名臣リゲンを追放。
こいつろくでもねぇ。
李厳ってなんで補給担当なんてやらされたんでしょうね。
軍事の才能もズバ抜けてて劉備が後を頼むって言って死んだ一人で劉備も才能見抜いてたのに。
孔明は人を見る目がありませんね。
逆に劉備は人を見る目が凄いですね。
馬謖が口だけなのも見抜いてますし。
陸遜に匹敵すると言わしめた李厳を使わない孔明はほんとに有能だったのか疑問ですね。
それとも活躍されると自分の地位が危ういから重用しなかったのか。
蜀からの補給はそれこそ第15軍が経験したぐらいの苦労だったろうに
自分の戦略失敗の責任は取らないんですよね孔明。
馬謖は普通に有能だっただろ。参謀としての実績もある。
指揮官経験がないのにいきなり重要な戦闘の総大将に任命した上、
負けたからって死罪にする孔明がアホなだけ。
蜀は攻勢に出る場合兵站は大変だったから兵站担当官は大勢いたけど?
筆頭の李厳が責任取らされたわけで
孔明無能論は数倍の軍勢率いてて守勢に終始した魏軍の立場がなくなるからやめたら?
孔明=100点満点はつけられません(当たり前)=落第点の無能(なんでだ)
ってやつだからな
そりゃ2000年前の人間なんて、現代人から見れば無能だろう
俺だって革ジャンとサバイバルナイフ装備でシクロクロス(高性能自転車)に乗れば、呂布との一騎打ちだって楽勝だしね
ハンドルに固定したエアガンでも撃ちまくりながら突撃すれば、単騎で孔明率いる蜀軍をかき乱せるよ
馬に自転車で突撃?笑
弩で撃ち抜かれて死ぬな
エアガンの射程<<<弩の射程
>>201 すまんが洛陽にいた時の董卓は劉協を抱えていて権威があったし、政治権力を行使できた君主なわけで、将帥の話じゃないんだが。
三国時代の将帥としての資質の話だというのは理解できないのかな?
上杉謙信や吉川元春なら、三国志世界でもやって行けると信じてる
>>205 >馬謖は普通に有能だっただろ。参謀としての実績もある。
実績無いでしょ?
南蛮平定で活躍したのは張嶷、馬忠ですよ
>指揮官経験がないのにいきなり重要な戦闘の総大将に任命した上、
>負けたからって死罪にする孔明がアホなだけ。
馬謖が死罪になったのは命令を無視したからでしょ……
馬謖「何でぼくの言うとおり戦わない!何でぼくの思ったとおりにならないんだよぉーーーーー!」
馬謖ってこんな奴だぜ。
しかもこの馬鹿、最初王平に責任転嫁してやがんの。
「何で王平様が罰せられるの?」
と兵達が騒ぎ出したため孔明もかばい立てできなくなって死罪を通告。
それ演戯
王平は諸葛亮の命じた通りに山麓に陣取るべきという諫言を行った所までは正史も演義も同じだけどな。
自分だけ山麓に陣して奮戦したのではなく、馬謖軍が破れた時に、
殿軍となって張合βの追撃を阻んだのが正史の記述。
馬謖は斬られたが、王平はその功績で討寇将軍に任じられた。
孔明とかどうしようもない奴だよな。
あんだけ戦争して国を傾けなかった手腕は無視かね?
上杉謙信だって戦ばかりやって領土拡張してないのに越後他衛星国20万石たらずで100石超える北条武田織田と戦いながら最終的に150万石行ってる。
孔明は戦が下手すぎたが法正だったら第1回北伐の時点で長安まで雪崩れ込んで一気に魏国に浸入していた。
もう第1回目のチャンス潰した時点で北伐は無理になった。第1回が終わった時点でガチガチに守り固められ電撃戦が不可能になっちゃったから。
第1回目の絶好のチャンス潰した孔明はやはり無能といわざるを得ない。
魏の将は超絶無能ってことでいいすか
孔明ってゲーリングに似てるよね。
>>220 蜀を攻める気があんまりなかったんじゃね。司馬氏が国内固めるために動いてたり皇帝死んでごたごたしたり。
曹丕も曹叡も早死にだったしね。
牟田口が勝手に自滅したインパールもイギリスがビルマに侵攻したのでさえ1945年だからな。
ビルマもインパールさえなきゃ終戦まで英軍に取られなかった。
当時の魏⇔蜀も大軍で行軍に向かない。道が悪い。物資の輸送が大変で攻めたほうが負ける地勢だった。
魏が攻めたら逆に返り討ちにあってたね。
孔明死んで宦官が蔓延って腐敗したから負けたけど孔明がいたら魏も撃退されてたね。
ま、孔明が生きてるうちは魏も蜀を攻めようなんておもわんかったでしょ。
魏と蜀の関係は1570年代序盤の織田家と武田家の関係、1943年のアメリカと日本の関係
放って置いても時間が経てば経つほど戦力格差が開いていくので、魏・織田家・アメリカは早急に勝敗を決する必要は無い。
一方で蜀・武田家・日本は早いうちに戦略的勝利に変換出来るほどの戦術的勝利を収める必要がある
>>224 あ?何お前。
まったく内容かぶってねーじゃん死ねカス
>>223 >司馬氏が国内固めるために動いてたり
軍オタ詳しくないなら無理に書かなくていいのに。
>>226 >>222の
>蜀を攻める気があんまりなかったんじゃね。
という発言を
>>223が
>当時の魏⇔蜀も大軍で行軍に向かない。道が悪い。物資の輸送が大変で攻めたほうが負ける地勢だった。
>魏が攻めたら逆に返り討ちにあってたね。
>孔明死んで宦官が蔓延って腐敗したから負けたけど孔明がいたら魏も撃退されてたね。
>ま、孔明が生きてるうちは魏も蜀を攻めようなんておもわんかったでしょ。
というふうに補強、加筆してるって言う意味じゃね?結論一緒だし
あとすぐ死ねとかいうのはなんなの?乳酸菌取ってる?
>>153も言ってるけどさ、
軍事面で孔明無能って言われてるのは少しでも三国志を知ってる奴には
当たり前の認識になってる事なのに
いまだにそんな必死になって無能無能言われても
またか、としか思わないよな
どこもかしこもそんなんで食傷だわ
軍才ないか?作戦から戦略単位ではほとんど破綻がないと思うが
それこそ第四次北伐あたりは普通に見事だと思うけどね
戦術以下の単位での前線指揮ができないだけ(だけっていうのもおかしいが)で、
行政や人事能力の低さなんかに比べればよっぽど軽い弱点だろ
232 :
231:2010/01/11(月) 21:58:07 ID:???
ごめん最後の行の「行政や」の語句だけ削除してくれ
ちゅうか、なんか無能無能ってことになってるねい。
陳寿がいってるのも、陳寿と同時代の奇策で異民族の大軍を鎮圧した人の策略の腕を踏まえて、
ただ、「そういう大差ひっくり返すような軍略の才能はなかったんじゃない?」って推測の話なのに。
無能とか劣ってるというのではなく「優秀ではなかった」程度って事か
235 :
名無し三等兵:2010/01/11(月) 22:20:51 ID:HnQKSRXG
>>234 陳寿の書き方だと
「こんなにすごい人なのになんで失敗したんだろう?奇策が下手だったの『かもしれない』」
という意味になる
優秀ではなかったどころか陳寿ですら優秀だったとは認めてるんだけど決め手に掛けてたという程度の認識
>>235 「応変の将略」は「奇策」ではないだろ。つまりその場で作戦を修正するのが苦手ってこと。
事前に緻密にスケジュール組んでそれに従って難しい作戦をこなすタイプだったって意味。
>>235 根拠のない解釈だな
陳寿は普通に孔明は軍事下手だと思ってたかもしれんよ
優秀だと思ってたけど晋の手前本音が言えなかったって可能性もあるが
>>236 陳寿は孔明を「奇策に劣る」とハッキリ言ってる
俺は
>>230みたいに孔明が軍事面が無能っていうのはおかしいと思うよ
第一次北伐での馬謖がやらかすまでの動きは完璧
第二次、三次北伐をほぼ同時期に行い武都・陰平の二郡を確保
どちらかが失敗しても(実質第二次北伐は失敗した)
武都・陰平の二郡を確保できるように軍を動かしていた素晴らしい戦略センス
第四次北伐では司馬懿を自分が用意した戦場に引きずり込んだ
蜀軍の堅固な陣地を攻撃しなければいけないという状況に戦略的機動で引きずり込んだんだよ
並みの将ができることじゃない、まさに「天下の奇才」
全て
>>236のいう様にスケジュール通りにこなしていた
結局第五次北伐では結局目標を達成する前に死んじゃうけどね
なぜ軍事的才能が〜政治家としては云々と言われるかがまったく理解できない
>なぜ軍事的才能が〜政治家としては云々と言われるかがまったく理解できない
陳寿が政治面は絶賛してるのに軍事面は批判しかしてないから
>>237 はっきりとは言ってない。
蓋しってのは「〜だと思われる」「〜ではないだろうか」っていうニュアンス。
あと、陳寿が蜀内部で外征派と対立する派閥に属していた事実を軽視しちゃならんよ。
三戦から来ました
牟田口ってだれ? さすが軍事板
分からん用語が飛び交っとる
諸葛亮を孔明と呼ぶのも何か新鮮
諸葛亮の軍事能力評価は三国志・戦国板では高いよ
低いと言う奴は、研究者が書いた巷の副読本を読んだだけの「にわか三国志ファン」と判断される
たぶん軍事関係のネタも、"通"の間では同じような評価を受けるんじゃないかな?
三国志分かる人居るのだったら三戦にも来てよ
今も細々と良スレがある以外、基本的に最悪板状態の廃墟だった希ガス。
兵站から見れば諸葛亮の軍才は普通に高いじゃん。
桟道を補給線にしなければならないハンデと外征地での野営の不利をしょっていても
それを最後には克服し長期持久戦を可能にした力量、
強力な魏の騎兵軍団を殲滅できるだけのハードと組織と戦術の構築、
どれも驚異的じゃねーか。
北伐の戦略目標は最終的には中原の恢復(出資の表より)
とりあえずは長安占拠
そのための前提条件として
長安駐留軍の撃破、増援の魏本国軍の撃破、涼州の確保
が必須
そして、自軍は補給のため活動時間が制限されてる
第一次こそこういった条件を理解して戦略を立てているようだが
以後は、魏本国軍の撃破は無理。長安駐留軍を撃破して点数稼ぎ
みたいな戦略なき出兵ばかり
戦術面で優秀でも、勝利条件が厳しい戦を自ら企画して失敗続きじゃあ
国家の最高軍事指導者としてどうなの?
結局、非戦派との政争の材料だったんだろうね
弟子の姜維により一層顕著に顕れてる
247 :
連投:2010/01/12(火) 04:32:06 ID:???
そういった視点で観ると
魏延の長安急襲案は興味深い
ともかく長安占拠して目標達成
策源地を失った長安駐留軍の弱体化(うまくいけば自壊する)
喧伝効果による涼州の鎮撫効果増(馬超が生きていれば完璧だった)
長安蔵の穀物による活動時間の延長(その間に涼州を確保すれば∞に)
拠点を得れば、魏増援軍との戦いも(史実より)有利
不確定要素が多いことも確かだが
勝利条件と自軍の弱点とをちゃんと見極めてる
無謀とか言われるけど、現地の最高責任者が無茶な立案はしないと思うんだけど
248 :
名無し三等兵:2010/01/12(火) 13:02:59 ID:+/CoGdHQ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7174054 ニコニコ動画で悪いんだけど、孔明の軍事能力を評価する作品
論点を説明すると
-魏延の作戦は無謀
-孔明の戦略そのものは無問題
-孔明が馬謖を選んだのは自分も本から学んだだけで軍を率いることができたんだから馬謖も
それぐらいできるだろうと思い込んだ天才ゆえの過ち
-張合β本体の時間稼ぎのために派遣された馬謖は、張合βには速攻の一手しかないと踏み
山頂に布陣するが、なんと張合βは持久戦をかけてきた
-しかも馬謖は実は現場指揮官としては無能だったため酸敗
>>247 孔明が一般的に戦下手だと言われているのは
魏延の長安奇襲案を採用しなかったから、という理由が挙げられる場合も多い
陳倉に出戦し、堅城に対して実りのない力攻めに終始して失敗した第2次北伐。
「諸葛亮が勇者なら武功から東進するが、五丈原に出てくるなら無問題」と
司馬懿に予測され、案の定、五丈原に出て、無益な対陣に終始した第4次北伐。
曲がりなりにも成功と呼べるのは、武都、陰平の2郡を得た第3次北伐のみ。
それがゆえの軍事面における陳寿の低評価でしょうが。
司馬懿が「天下の奇才」と言ったのも、彼の死後であり、陣の跡を見てのことだったのは、
死んだ好敵手に対する尊敬半分に、軍政家としての合理性を陣跡に見て取ったからではないのかな。
魏延の長安奇襲て実際に行ったら牟田口と似たようなことになりそう
五丈原は五次な
>>241牟田口も知らない人が軍板にいるほうがびっくりなんだが。
なんか俺は三国志凄い詳しいんだぜ。みたいな書き方するけど当然正史全巻、正史英傑伝全巻ぐらいは持ってるんだろうな?
ちょっと証拠の写真UPしてごらん。
俺も昔は三戦よく覗いてたけど正史持ってない奴多いから行くの止めた。
漫画、ゲーム、演義の話してる奴ばっかで話するの疲れるんだよね。
間違い指摘すると逆切れするしさ。
子供多いだろあそこ。
ちくまと世説新語と後漢書ぐらいしか持っていねーよ。
ちくまは評判悪いけど一応持ってるな。
中華書局の原書も買いたいところだが今は中華文化網で我慢してる。
『後漢書』は最近必須になりつつあるな。
訳書は高いから大学図書館で見るけど。
評価が結構変わってしまう孔融とか、おもしろいわ。
ちくまのあれ読んで理解できる奴いるの?
どういう戦いで兵数とか全然載ってないし。
そもそもあの書き方ってどうも好きになれない。
やっぱ年代ごとに書いてくれないと。
トウタク、バトウとか演戯じゃ書いてない若い頃まで書かれててトウタクと孫堅のやり取りとか面白かったけど。
もっと戦術レベルで載ってる本って無いの?
兵数、布陣。まったくもって載ってなかった。
三国志軍事事典
>256
理解するんじゃない。感じるんだ。
>>256 紀伝体が嫌いなら、『三国志』じゃなくて『資治通鑑』読むしかないな。
翻訳はなかったと思うが、『三国志』の範囲内ならネット上に訳している人が居た気がする。
あるいは前半の後漢がまだ続いている時期なら『後漢紀』を読む。
ろくに兵数が載ってないのは中国の史書のデフォルト。
載ってても、日本で言えば『太平記』の千早城か台湾沖の大本営発表並に誇張バリバリなことがほとんど。
そっから誇張元の数字を算出するっていう根気の要る作業をやって初めてまともな兵数になる。
複数の人の伝記の同じ戦闘の記述をクロスチェックかけたりしていけば割と信用の行く数字がでたりすることもある。
260 :
名無し三等兵:2010/01/16(土) 10:05:41 ID:fNHV/8Rr
なんか孔明アンチ多くね?
このスレ
だって戦下手なんだもん。
張良みたいに戦は他の人に任せてた方がよかったな。
局地的な勝利はあっても結局兵糧が続かず撤退して魏に元通り取られての繰り返しで国力を疲弊させた人間だよ。
これをどう評価しろっての。
262 :
241:2010/01/16(土) 20:18:46 ID:???
>>253 銃器に全く興味が沸かないから近代戦はちょっとね
牟田口とか普通の人は知らないと思うよ
俺はたまたま来て二〜三十分だから軍板にいるとは言えない人間です
>当然正史全巻、正史英傑伝全巻ぐらいは持ってるんだろうな? 以下
正史全巻読んでたら英傑伝いらんくない?
三戦には正史持ってるか訊く人間も、持ってると自慢する人間も居ないが
史書の方の知識に基づく意見が圧倒的に多いかな
演義の知識でレスする人もたまーにいるけど、皆あまり気にしてないっぽい
>>253氏は正史の知識があることを自慢に思っているんじゃないかな
だから演義の話をする人間が目につくんだと思う
三戦では典拠などに原文(漢文)コピペして提示するのが主流だから
もしかしたら住人ちくま持ってないかもだね(笑)
持ってるかどうかなんて三戦の誰も気にしてないな
263 :
241:2010/01/16(土) 20:23:09 ID:???
>>242-243 仰る通り三戦は荒廃してるが
真面目なカキコにはちゃんと真面目なレスがつくよ
>>260 三国志ファンってのはデフォルトでこんなもんです
三戦板だとまたちょっと雰囲気変わるがそこを一歩出ればネット・書籍は正史系だとどこもこんな感じ
>>237 原文で読めよ
それもしないで意味のない解釈とか言われても、漢文知らないクズは黙ってろとしか言いようが無い
蓋で始まって歟で終わってる、けだし〜か、の形がどう読んだら
根拠の無い解釈になんだよ…
軍板で軍事語ろうって奴が漢文も読めないのは恥ずかしい
それとも中国の戦史研究やる気ないだけか?
まあそれならそれでいいけど、やる気も知識もない奴が偉そうに語ってるんじゃねーよ
>>236 奇策って意味で合ってるよ
君の読み方では多少計画と違う形になったって上手く収拾してる諸葛亮の評としては適当でない
最近の三戦板は頭が硬くて腐った蜀の盲信者が荒らしてるしな。
夷陵の戦いの失敗は牟田口並み
>>267 〜並というってことは両方熟知してるんだよね?
じゃあどこが共通点なのか述べてみろよ
諸葛亮無能論は意図を読み取らない結果論。
結果論で論ずるにしても、諸葛亮の意図を読み取らなければ、有能無能の判断すら出来ないだろう。
諸葛亮の兵の詭道は、政治戦略にあり、国力で劣るにも関わらず、戦術的勝利を挙げうる環境を整えている。
勝利を得ている以上、政治戦略で対蜀軍の中核を孤立させて叩こうとする諸葛亮の戦略は、大筋妥当と言っていいだろう。
そして兵も強兵で、統率力があった事は記述から読み取れる通り。問題は他にあるという事になる。
>>261 局所的な勝利と、戦略的敗北に繋がった理由を考察するなら、
有能無能どちらの結論を出すにせよ、そんな短絡的な思考で結論は出ないはずだけど。
第二次、第三次に関しては連携、もしくは計画失敗を収集する事で三次の成功に繋げてるしね。
四次に関しては惜しい。どの史料を参考にするかによるが、少なくとも司馬懿の大勝利はありえない。五次の兵力から考えてね。
となると、司馬懿の攻撃をいなして痛撃を与えた+事前の諸葛亮軍の行動により、司馬懿軍は郭淮に頼るほど補給が欠乏していた
という理想的な状況を築き上げた事になるけど、長雨と李厳でオジャンになって終了。
第五次に関しては評価は下せん。途中で死んだから。あえて経緯だけを見るなら、諸葛亮、司馬懿よりも、曹叡がヤバイ。
孫権の大軍を寡兵で撤退させつつ、増援部隊を司馬懿に送るとか、軍事における視点、能力が高すぎる。
それと聞きたいんだけど、諸葛亮が国力を疲弊させたってのは、何処から出た発想なんだろう?
後半の北伐になるにつれ兵力が増加している事は無視?
国力が落ちた記述なし、さらに戦術勝利によって得られる人間(捕虜ではなく、現地人の収奪な)を考えれば、
敗北を重ねたにしても、国力を低下させたなんて発想は中々出てこないと思うけど。
三国志の諸葛亮伝を読む前、孫子は読んでいるのかな?
孫子は史家にとっても常識なんで。孫子だと正をもって当たり奇をもって勝つとある。
そして正とは廟算に基づいた作戦計画とその実施であり、戦争の行方のほとんどはこれで決まる。
陳寿はその部分は絶賛していて、だが同時にこれだけ優秀なのに何故勝てなかったのか悩んだ。
一方、司馬仲達の評によれば諸葛亮は智謀に長けるが土壇場での決断力が少し遅いとあり、それが原因ではないかと考え
応変は苦手かもしれないと評したのではないか?
え〜と
>>269さんは
正をもって当たり奇をもって勝つといった戦術レベルの話じゃなくて
もっと視野を広げた戦略レベルの話をしてるんじゃないのかな
あと「戦争」の行方のほとんどは
正をもって当たり奇をもって勝つじゃなくて
兵法は一に曰く度、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝
地は度を生じ、量は数を生じ、数は称を生じ、称は勝を生ず
これでほとんど決まるんだよ
作戦計画とその実施で戦争の行方がほとんど決まるなんて
そんなこと孫子に書いてあったっけ?なんか一次大戦のドイツ軍みたいだな……
孫子ってまず戦争に負けないための国づくりや
戦争の勝敗を分けるのはその国の国土なり諜報などの努力なり、
外交面で優位に立ったりといった、戦争に入る前の努力で行方が決まる
そして戦争に入ったときにはすでに、勝負がついてなきゃいけない
そして戦争に入る前に必勝の状態を作れっていうのが最重要課題で
作戦なんかは二の次だった気が気がす
273 :
270:2010/01/17(日) 21:49:30 ID:???
>>269はなぜか透明で
>>271がレスアンカーをつけるまでは存在そのものを知らない。
よって他意はない。
>一に曰く度、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝
>地は度を生じ、量は数を生じ、数は称を生じ、称は勝を生ず
あのね、それを全部引用すると長くなるから「廟算」で代用したの。
「廟算」は中国兵法じゃ基本用語でしょうが。
>>270 李衛公問対のように正奇の変化で語ってるケースもあるがな
孫子って出せば黙るとでも思ってる三戦馬鹿ウザイから消えてくんないかな。
近代戦じゃ通用しないからもう来なくていいよ。
考察でもやろっか 軍事板住人が戦の内容に興味ないわけないだろうし
スレタイ通り軍事分析ということで
>>276 クラウゼヴィッツの戦争論になら聞いたことあるが
孫子が近代戦で通用しないとは寡聞にして聞いたことがなかった
自分が軽く目を通した限りでも十分通用する論となっていると感じたが
孫子は抽象的、普遍概念的に語っている部分が多いから時代を超えて通ずるが、
西洋軍事学は数字のある、或いは具体性のあるものだから、逆に時代の移り変わりに弱いのよな。
米軍が湾岸戦争・イラク戦争で孫子を用いたのは有名か。
クラウゼヴィッツの戦争論は戦争の勝ち方について書いたものではなく
戦争とは何かについてかかれたものだからね
書いてることは今でも通用するし、理念は有用なものばかりだし、研究されてもいる
>>280 第一次・二次湾岸戦争は孫子だけではなく
さまざまな西洋軍事学の考えでも過程をうまく説明できる
戦争論とか、リデルハートの間接アプローチとか
つまりまだ時代遅れの産物ではない、時代を超えて通ずるのは孫子だけではない
あとエア・ランド・バトルも忘れないで><
戦争に一番有効なのは、老子なんだけどね・・・
はぁ?
>>279 孫子読んでその通りやればアメリカに勝てるんだ凄いね。
ミサイルまず飛んできて次に圧倒的多数の航空機から攻撃されて制空権とられて地上部隊フルボッコ。
孫ピン、孫武の時代にはミサイル、空母、航空機、潜水艦、戦車はありません。
WW2でポーランドは一応兵力はそれなりにあったけど機械化されたドイツにまったくもってかないませんでしたね。
硫黄島も孫子の言うとおり水際上陸したところを叩いてたら栗林中将なみの踏ん張りはできなかったでしょう。
艦砲射撃で壊滅してたね孫子の言うとおりやってたら。
孫子を読んでその通りにやるなら、そもそもアメリカとの戦いを絶対に避けるな
>>286 んじゃ孔明は何で魏に戦争ふっかけたの?
勝てるはずないのに。
>>285 何が恥の上塗りだ。
騎馬隊で3号戦車、スツーカに勝てるかボケ。
>>287 少なくともイラクにとってのアメリカほど、
蜀にとっての魏は強大ではないでしょ
>>286 その理屈で言うと織田と戦った勢力はみんな無能ってことか。
孫子って言葉出せばなんでも通用すると思ってるの?
まっ硫黄島、沖縄戦孫子の言うとおりやってたら一方的にやられてたけどな。
アメリカに戦争挑んだ日本が無能?そうは思わんね。
この辺はハルノートスレあたりでやってるから省略する。
あのまま要求飲んでたらイラク化してたのは間違いないがな。
ところでさ。
中国の軍人、将軍って孫子読んでるはずなのになんでいつも外国に負けるの?
三国志の英雄クラス一人ぐらいいてもいいじゃん。
朱元璋ぐらいなもんであと無能ばっか。
イギリス相手にもビビりまくってやんの。
日本は薩摩一国で戦いに挑んで旗艦大破させて艦長、副長ぶっ殺してんのに。
>>290 >織田と戦った勢力はみんな無能ってことか。
織田と一対一のガチ喧嘩したのは斉藤家くらいで、他の勢力は織田の圧力の前に戦わずして屈するか、
織田包囲網の一員として織田と戦ってる。
人口で5倍近くあったらしいけどな。
立ち読みモードだけど蜀90万、魏450万ぐらいだったと思った。
山ばかりの蜀と違って平野多い魏の方が生産力も高いだろう。
「孫子なら戦争挑まないがな」なんて馬鹿すぎ。
そんなのはその強大な国が絶対攻めてこないって前提だ馬鹿。
孔明だって時間がたてば立つほど国力差で勝る魏に勝ち目がなくなるから戦い挑んだんだろうが馬鹿かこいつは
>>284 孫子読んだらアメちゃんとは仲良くして、最低でも敵対はしないで、他の雑魚叩け
もしくは、戦略レベルで包囲して叩けって結論しか出ない罠
前者と後者を考えるとソ連が後者で失敗してるわけで、現在は前者選ぶしかないでしょ
>>287 勝てると目算つけてやってんだろ
実際、天候と寿命というどうにもならない要素さえ無けりゃ4次、5次それぞれかなり勝ち目あったわけだし
>>292 その広い平野で作るのは麦だがな
蜀は米作地帯で同じ作付面積だと米のが有利なのはカロリー的な観点からは明らか
単位面積辺りの石高は日照時間の関係で蜀の方が少ないが、米が生産可能なおかげで
見かけの石高や作付面積で見たよりは大分有利に戦える
また米作と麦作では収穫時期が違うせいで攻める蜀は農閑期、守る魏は農繁期、収穫期という状況が
頻繁に起こってて、カタログスペックとは違う部分でかなり差が埋まってたりする
>>286 教えてください。
どうすればポーランドはドイツ、ソ連から攻め込まれなかったんですか?
同じくフィンランドはどーすればソ連から攻め込まれなかったんですか?
いっちょ孫子の兵法とやらで解決法教えてくださいな。
>>290 三国時代って中国史上では弱い方だった気がするんだが。
ちゅうか、よく曹操が統一できなかったことの言い訳に使われるところではあるが、名将不在とまで言われることも。
対外的には確かにそこそこではあるけどな。
まあ、考古学的に言えば、当時アジアは弥生小海進期だから気温が高くて南方優位にある時代だし。
ちゅうか、あれだけ遊牧民に圧迫され続ける地域にあるのに安定した帝国が何度も形作られている時点で十分だと思うがね。
>>292 魏には鉱物資源での圧倒的不利がある。
貨幣を造るための銅を得ることも難しく、鉄は蜀ほどの産出量は無かった。
経済的には圧倒的優位にあるのが呉蜀。
>>290 中央集権王朝の末期に近代軍と戦えってか。
現代日本で現代アメリカと戦う方がまだマシだろう。
動員兵力人口の13分の1とすると魏35万、蜀7万。
こりゃ無理だ。絶対勝てん。
戦は1割死ねば負け、3割死ねば大敗。
蜀は2万ちょっと死んだらやばいのに対して魏は2万死んだぐらいじゃ蚊に刺された程度。
蜀は無傷で何回勝たなきゃいかんの。
>>294 勝てない戦をするな・・・と言うのが孫子の兵法の鉄則であり、
『如何にして勝てない戦を回避するか』をサポートしてる訳ではない
ok?
>>298 末期でそのちょっと前に大敗北しといても蜀にはなお10万常備兵がいるようだし焼け石に水ながら
一応蜀の最大動員は最盛期には12万くらいだと思われる
ま、実際一回姜維が魏の王経を盛大にぶち破って魏軍に「死者数万」といわれる被害を与えたんだが
増援で同じくらい補充されてて意味なかったしな
>>299 国力差が離れ過ぎてる国があって将来戦争吹っかけてくる国がある場合どーすればすればいいんですか?って聞いてんだよ。
時間がたてば立つほど戦力差が離れていくのに指をくわえてみてろってことでOK?
スターリンからどんな無理難題突きつけられても全て飲む。ってことでOK?
孫子孫子言っててその程度ですかい。
>>300 ちくま三国志ぐらいしか読んだこと無いんだが兵数はどの本に載ってるの?
兵数が載ってる本教えてください。
正史って人物辞典みたいでそういうの全然見当たんないんだが、ちくま以外のには載ってるんだろうか?
>>301 繰り返して言うが、孫子の兵法ではその部分はサポートしてない。
>孫子孫子言っててその程度ですかい。
孫子の兵法書は軍事学の本であり、政治学を説いたモノではない。ok?
孫子の兵法より日本のゲリラ戦術の方が有効。
ベトナムから始まって今もアメリカ苦しめてる。
日本マンセーは極東でやれ
>>302 蜀漢の具体的な常備兵はちくまでも載ってる
後主伝の注釈
原文だと
「又遣尚書郎李虎送士民簿、領戸二十八萬、男女口九十四萬、帶甲將士十萬二千、吏四萬人、米四十餘萬斛、金銀各二千斤、錦綺綵絹各二十萬匹、餘物稱此。」
という風に滅亡時の資産目録まで判る
注目すべきは米と金銀、それから絹の量だな
この米の量だと兵10万の維持に必要な年600万斛の1/15で実はあと1ヶ月持たない兵糧状況だった
金銀はたったの二千斤で、董卓が貯蓄してた金2〜3万斤、銀8〜9万斤に全く及ばないどころか
魏で褒美にポンポン百斤、二百斤と配布してる事を考えると、蜀の慢性的な金銀不足がよくわかる
ただ逆に絹製品は恐ろしい量を保有しており、金銀を数百斤配布する魏ですら絹製品は精々数斤、数十匹が褒美で配れる限界で
各種絹製品を二十万匹保有しているというのは、とんでもない資産ということになる
これで外貨稼いでいたのだろうな
>>308 あれ?ちくまに載ってたんだ。
全然気づかなかった。
読み直してみますありがとね。
金銀の備蓄状況なんかも興味深いね。
310 :
名無し三等兵:2010/01/23(土) 00:07:47 ID:oXll/fFv
孔明のよく語られるけど
ライバルの司馬懿の軍事力はどれぐらいのモノだと思う?
>>310 俺そんな詳しくないんだけど、情報処理力と速断に優れて組織を統括する、近現代の将軍とか軍官僚の適性があるような人物のように思える
荊州では政治的なレベルでの見識の高さ、みたいな逸話が多かったし、
対北伐では孔明相手に主動をほとんど奪えてない(というか思った以上に孔明の機動が巧み)が、大きな破綻も作らないし全体的な戦略判断はあってた。
とにかく方針にぶれがないし攻める止める引くの判断基準がしっかりしてる感じ
組織内での立ち回りも自分の立ち位置を正しく見定めてて対応が早いし、向上心や出世欲は高い
>>298 その7万を項羽が率いてたら、長安洛陽を抜いて(あるいは迂回して)、
略奪行軍で中原を荒らしまわるくらいはできたかもよ。
最終的に勝利することはできなかったろうが。
>>311 俺もそんなイメージだわ
公孫氏討伐のときとか孟達の反逆を鎮定したときとか
とにかく情報判断が早い
>>312 ここの連中は蜀は絶対に勝てないなんて決め付けてるけど
戦なんてもんは勝ち続ければ雪だるま式に兵数増えてくからな。
日本に黒田官兵衛って武将がいるけど関ヶ原に息子送って兵力ほとんど無くなって金で農民集めて快進撃つづけたけど
たった2ヶ月で3万にまで膨らんで肥後水俣まで進撃した。
とりあえず長安、涼州落とせばまったく可能性無かったわけでは無いとおもうけどな。
そこだけでも兵力10万は養えるだろうし。
これで呉も好機と見て北へ向かえば魏は2正面作戦取らされてかなりヤバイことになる。
不利な状況になると寝返りも出てくるよ。
>>314 ご先祖様(劉邦)と同じ方式ですか・・・
>>314 まあ、主不在時の空き巣狙いや火事場泥棒で終わるならそれでも良かったんだが。
そもそも、19世紀以前の戦争って火事場泥棒か武装盗賊の略奪合戦だよね?
>>317 ヨーロッパで、ヨーロッパの国同士の、と限ればもう少し遡れるな。
まあ、
>>316が言いたいのは奪った土地を維持できないということだろう。
>>314 >とりあえず長安、涼州落とせば
いや、これが出来なかったわけで
しかも、第二次以降はそこに至る道筋も示せてないんじゃないか?
あくまで、魏軍の殲滅を主眼においた戦略
>>319 >
>>316>>318 三国志は官渡の戦いあたりで、流浪の豪族同士の戦闘から、
官僚制を整備した国家同士の戦争になってきてたでしょ。
だからまあ、孫策の例は、必ずしもあてはまらないように思うけど。
何言ってんのこの馬鹿たち。
劉邦がとっくにやってるじゃん。
対秦戦でも降伏兵取り入れてドンドン膨らんでる。
んなのもしらねーのか。
323 :
↑:2010/01/26(火) 20:11:40 ID:???
漫画の読みすぎ
324 :
↑:2010/01/26(火) 20:43:11 ID:???
へー劉邦が秦首都一番乗りしたの漫画なんだ。
劉邦が漢王朝建てたのも漫画なんだ。
お前死んでいいよ。
劉邦の時代では、敵の方に問題ありまくりだったからな
円熟期を向かえた(まあここから下り坂なんだが)魏と
軍事に限れば天才的な曹叡という皇帝を相手にするには、劉邦をなぞるだけじゃ不十分だ
ほとんど対蜀体制を整えてなかった第一次ですら、魏延案がほぼ不可能と断じられる程の速度で増援が来ている
漫画の読みすぎ、といわれたのは、事が起こった背景を考慮しなかった為じゃないか?
>>325 そう思われ易いが事績を丹念に拾えば劉邦は凄まじい男だし、項羽も物凄いということが判る
項羽に問題がなかったとは言わないが劉邦陣営の宣伝と外交能力がヤバい
あと韓信がおかしい
hを抜かすことをせず直リン貼るか……しかもニコニコて……
なんで三国志を軍事分析してるのに、なんで二次大戦時の将軍の実績をいいだすのかと
この前すごい人知ったんだぜ、ってみんなに言いたいだけちゃうんかと
最近シモヘイへとかルーデルがやたら有名になってきてるけどもうね……
>>327があれだからか……
330 :
↑:2010/01/31(日) 10:55:43 ID:???
今時直リンw
どうせお前専ブラも使ってないIEの雑魚だろ?
>この前すごい人知ったんだぜ、ってみんなに言いたいだけちゃうんかと
残念。
梅本本持っております。
君は持ってるのかな?
三国志って一次資料なの?
ちんじゅが書いた時ってとっくに三国志終わってるけどこんなんで信憑性あるの?
太田牛一みたいにその時に書いてるわけじゃないんだよね?
>>331 二次史料だよ
ただ書いた人がほぼ同時代人だから、その時代そうであったとされている事が判り易いとして称揚されてる
注釈抜きでは簡素すぎて判り難いし、当時の政権に遠慮して書いてない事も多いので
細部を見る時はどうしても真偽定かならぬ注釈を見ないといけなくなるが、他の史料に比べりゃはるかにいい
二次資料な上、おもいっきり好きな国と嫌いな国贔屓して書いてるからな。
こんな奴の書いた資料価値ないよ。
>>333 いや、読む限り微妙な表現の差はあるが、内容まで潤色したり逆に貶めたりしてるような様子はないが
君は何を根拠にそういうんだ?
そもそも、歴史書の記述なんてでたらめだよ
そんなの今の官僚・大企業が作る「報告書」や政府検閲済み「歴史教科書」を見れば、バカでもわかるだろうにw
史料批判という言葉を知らないヴァカ発見
贔屓とかじゃないが
晋支配下にある以上特定の国を正統なものとしなければいけなかったり
それゆえ都合の悪いことを書けなかったり
呉の皇帝が歴史家たちを殺して内容に偏りが出来てしまったり、ってのはあると言われている
なんでそう好きだから嫌いだからの感情で曲筆したなんて幼稚な発想になるのかね
自分がそうするからって他の人もするとは限らんのだぞ
誰か夏侯惇&夏侯淵の軍事評価頼む
二人とも劉備に負けてるけど
340 :
名無し三等兵:2010/02/02(火) 07:44:24 ID:auc+fGCe
夏侯淵は白地将軍だっけ?
>>339 お前は劉備を引き合いに出すということは、劉備が超戦下手という
「蒼天」のイメージに引きずられているのだろうけど、
黄巾族に対する義勇軍の旗揚げ以来、劉備はほとんどを兵馬に費やして来た戦争屋。
セオリー通りの伏兵に引っかかる夏候惇、
柵を兵と共に直しに出て黄忠の背後からの一撃を食う夏候淵、
2人とも負けるべくして負けた。
諸葛亮の考察書いていい?
書いてしまえw
長すたら、3行にまとめろとか言い出すかもしれないがww
一次から五次までやるから長さは保証するw
戦争は敵主力を殲滅なり完全撤退なりさせ戦地から消滅させて、やっと
勝利とひとまずの安定を得られる。
(或いは敵国の政治上での敗北宣言による領土の放棄によって、以下略)
敵主力が生きている内は何処まで侵攻しようが一時的なことなのであまり意味がない。
諸葛亮の北伐のひとまずの目標は長安以西を支配下に収めること(だろう)。
であるならば、戦の目指すところは雍州上から魏主力を消滅させることにある。
つまり、「如何に敵主力を打破するか」である。
敵主力を戦場から消滅させるには、敵軍が 解散 or 撤退 するか、会戦で打ち破るかしかない。
敵の解散や撤退は普通期待出来ないので、やはり会戦となるが
会戦で破ることが出来ても、自軍の被害も大きければ、敵国は自国と比べ強大ゆえ
更なる侵攻は勿論、戦線の維持も困難になる。
諸葛亮は会戦で自軍の被害を小さく抑えながら敵主力を撃破する必要がある。
それには戦闘に有利な地を自軍が占め、そこで敵を迎え撃つことが重要となる。
ここに主眼を置くと諸葛亮の北伐が分かる。
第一次北伐
諸葛亮は斜谷道から?を奪うと宣伝し、偽兵を用いて長安駐留の雍州防衛軍を箕谷に引きつけ
諸葛亮率いる本隊は馬謖を先鋒に関山道を進み、武都を抜いて祁山を攻めた。
諸葛亮の率いる軍の兵士はよく統御され、戦列は整って乱れず、指揮官の手足のように動いた。
南安・天水・安定の三郡は蜀軍の勝利を信じ
魏に叛いて諸葛亮に呼応したので関中に激震が走った。
曹叡は張?に軍を率いさせ涼州へ向かわせると共に、自身も長安へ出向いた。
張?軍の目的は涼州の安堵。
則ち涼州への敵軍の侵攻を許さず、郡県の叛乱を未然に防ぐこと だった。
隴右の残り二郡広魏・隴西もいつ蜀軍に降ってもおかしくない状況だった。
もし広魏・隴西が蜀の手に落ちれば、涼州は本国から完全に分断される。
そうなれば涼州もまた蜀に靡くだろう。
諸葛亮に降った三郡は蜀の先兵として広魏・隴西を侵食していたので
そうなるのは時間の問題だった。
張?が諸葛亮軍に向かえば、手こずっている間に広魏・隴西は落ち、涼州を失う。
張?が広魏に留まり守ろうとも、軍の散開は不利を招くだけなので叶わず、
張?軍の周囲を残して蜀の手に落ちる。そうなればやはり涼州を失う。
最善の手は、広魏を素通りして涼州に入ること。
威を以て叛乱を防ぎ、州を掌握。関中の曹真あるいは曹叡が率いる大軍と時を合わせて
隴右へ取って返せば、蜀軍を東西から大軍で挟撃出来る。
そうなっては、仮にその時蜀が隴右を完全掌握していたとしても、諸葛亮はまず勝てないだろう。
張?軍は涼州へ向かった。
(「張コウ」字が出ないんだね )
>諸葛亮は斜谷道から?を
「?」は「ビ」
はじめ、諸葛亮は雍州防衛軍を箕谷に引きつけ、その間に西進して防衛拠点である祁山を落とし、
祁山で魏の中央軍を待ち受けて撃破し、余勢を駆って関中へ進撃。
陽動で引きつけておいた雍州防衛軍を打ち破り長安を奪取。
或いは、雍州防衛軍が退いて何処かへ立て籠もれば、そこに防衛線を築き、
その地から西を切り取るという算段だった。
ところが、諸葛亮軍の強さを前に三郡が戦わずに帰服した為、
危機を感じた魏の中央軍を涼州へ向かわせる事にってなってしまった。
完全に計算が狂ってしまったのである。
思わぬ三郡の帰服を受け、諸葛亮は戦略を切り替えた。
隴右平定を急ぐと共に、新たに防衛線を構築し、東進より先に涼州を分断させて併呑することにした。
張コウが北上したので馬謖を街亭に遣わし、これを防がせた。
長期戦に持ち込めばその間に隴右平定が完了し、涼州も降る。
が、なぜ諸葛亮が自ら行かなかったのか?
諸葛亮は全軍の総指揮と、いずれやって来る曹真との決戦に向けての準備をしていた。
諸葛亮は張コウが街亭への北路を取ったのを知ると、馬謖を街亭に差し向けこれを塞がせると共に、
魏延あたりを密かに渭水に沿って下らせ張コウ軍の背後に出し、補給路を断とうとした。
張コウ軍が脇を通って来た六盤山(山脈)の東は蜀に寝返った安定郡。
そこからの補給はない。関中からの兵站線を断ちさえすればよいのだ。
そうなれば張コウは持久出来ず撤退せざるを得ない。
これで隴右・涼州を手に入れることが出来る。
馬謖に懸かっていた。
しかし、馬謖が敗けてしまったので、張コウの涼州行きを阻止出来なくなり、
あとは先述の通り、必敗が待つのみとなった。よって撤退した。
※断定口調で書いたが
>曹叡は張コウに軍を率いさせ涼州へ向かわせると共に、自身も長安へ出向いた。
以下は推論。
ここ連投何回まで?
区切りのいいトコでレス頼みます
クラウゼヴィッツかよ。
ちゃんと、引用元を明らかにしておけw
馬謖と街亭の戦い
馬謖は諸葛亮の指示に背いて兵法書通りに山に登り、水を断たれて敗れた。
劉備は臨終に「馬謖の言葉は実態から離れているから大事は任せられぬ」と言っていた。
諸葛亮は人を見る目がない。明らかな人選ミスだ。
などとよく言われる。
果たしてそうだろうか?
街亭の戦いの時、諸葛亮はどうしていたか? と合わせて考えてみよう。
馬謖は天才だった。無能だなんてとんでもない。
諸葛亮は馬謖と深く付き合い、その才器が他とは異なることを知っていた。
劉備は…、叩き上げの戦人で苦労人だった。学問を好まず、馬で戦場を駆けることを好んだ。
劉備は基本的に学士が好きではない。
?統は名があったにもかかわらず、初め軽んじられた。
諸葛亮は名もあり、寸土も持たなかった劉備勢力に天下取りの構想を示し、
孫権との同盟を成立させて滅亡の危機から救い、荊州南部の領土経営を成功させて
劉備の今(益州牧)の全ての土台を作った。
それでも、益州平定後の人事で、法正・麋竺・孫乾・簡雍・伊籍よりも位階が下だった。
劉備は、頭で考え口で言うだけの行動をあまり評価しない。
その手で何事かを為した行動・目に見える物を評価する性格なのだ。
学問・理論を軽んじ、実地・実労を重んじる。ある程度当然だが、苦労人劉備は偏っていた。
夷陵で"書生あがりの若造"陸遜に敗けたのは、きっと劉備のそういう性格の所為でもあったろう。
劉備を完璧に破った陸遜の作戦は、結果を収めるまで呉陣営で理解されなかった。
歴戦の武将というのは、理論というものを軽んじる傾向にあるのかもしれない。
劉備は戦人ゆえに、自分の道である戦争に関して学者の意見に耳を傾けない。
法正は特別だった。性格的に劉備との相性が良かった。
蜀攻略で行動を共にし、実際に"行動"を見て戦人として認められた。
だから法正は軍事に関しても信頼された。
夷陵の大敗を受け、諸葛亮は「もし法正が生きていたら東征を止められたろう。
仮に東征したとしても、必ず大敗は避けられたに違いない。」と言った。
これは、戦に関し劉備が法正以外の学士の言うことを聞かないということを示している。
諸葛亮は劉備のそういう性格を知っていた。
だから呉征伐の討議で敢えて反対することをしなかった。無駄だと分かっていたのだ。
諸葛亮の南征に際し、馬謖は
「心を攻めるが上策。城を攻めるは下策。なんたらかんたら、心服させられませ。」
と助言した。これは馬謖を評価する材料となっているが※
もし劉備が聞いたなら体が痒くなったことだろう。
「こいつは戦というものが分かっておらん。現実はそんなに綺麗なものではないのだ。
学者風情が知った風な口を利きおって…。」と思ったに違いない。
劉備の馬謖に対する評価は、街亭で大敗したから取りざたされているが、
叩き上げの年配からの高学歴若輩に対する評価として
世を問わず非常に多く見られるありふれたものだ。
街亭の大敗があるから、劉備の評価が史書にある。
街亭の戦いがなければ、劉備の評価は史書にない。
劉備の評価を以て、街亭の戦いの内容まで推測するのは道理に合わないのではないかな。
※「南方で叛乱が起きることは二度となかった」に関しては三戦で議論になったことがあるが
必ずしも誤りとは言えないということで決着した。
では、街亭の戦いはどうであったのか考えてみよう。
諸葛亮伝注袁子「諸葛亮は街亭に居た。数里しか離れていなかったが馬謖を救わなかった。」
とある。ここに着目して考える。
街亭の戦いの時、実際に諸葛亮は何処にいて何をしていたかは不明。
諸葛亮本伝では諸葛亮は街亭に居ないことになっている。
おそらく袁子の言葉は真実ではないだろう。
一里=500m。“数里”とは“数里”× 1/2 qで、1〜5キロしか離れていない。
敗れれば総退却する状況で自軍の危機を看過するはずはない。
袁子の言葉の内容が真実とは思えないが、敢えて依って考える。
「諸葛亮は街亭に居た。」魏に伝わっている話は真実である。とする。
〜 街亭の戦い 〜
街亭に到着した馬謖は現地を見分して名案を思い付いた。
事前に受けていた指示(内容は不明だが山に登ることではないらしい)に違えることになるが
その案の方が上策に思えた。要は張?を足止めすればよいのだ。
その案とは兵書にある「高所に拠れば有利」といった単純なものではない。
敵軍から見て手前の山に堅陣を築いて一軍を置き、前衛とする。
2〜3q離れた後方の高台に本陣を布く。
前衛が馬謖軍で、本陣が諸葛亮本隊だ。
左手を前に突き出し構えている武闘家と向き合っているところを想像してほしい。
懐に飛び込んで打撃を加えようとしても、突き出された左手が邪魔になる。
左手に打撃を加えても大したダメージを与えられないし、こちらも痛い。
左手を掴もうとすれば右の拳や蹴りが飛んでくる。
左手は馬謖軍。諸葛亮本隊を突こうとすれば、馬謖軍が横っ腹を突く。
山に籠もる馬謖軍を力攻めにすれば、大きな被害が予想される。
馬謖軍は耐えきれなくなったら退却して本隊に合流するだけなので、
攻めても敵兵力を大きく削ることには繋がらない。
その上、苦労の末、山一つ取っても、諸葛亮を抜いて涼州に行くことなど出来はしない。
馬謖の山を囲もうとしても、本隊からの攻撃に遭って退けられる。
決戦をしても、有利な地に陣取る蜀軍の前に張?軍は圧倒的不利。
打つ手のない張コウは大迂回するか、自軍も陣を張って睨み合いをするか しかない。
張コウが撤退すれば追撃して大打撃を与えることも可能だろう。
いずれにせよ目標は達成される。
馬謖は山に陣取れば水を断たれる事くらい分かっていた。
が、水を断たれる心配はなかったのだ。敵が山を囲む筈はなかったのだから。
偽兵を使って後方の高台に諸葛亮の大軍が陣を張っていると見せ掛け
自軍は山に登って守りを固めた。
作戦は完璧だった。
が、王平だ。
街亭の真の戦犯は王平だと言っていい。
やはり劉備・夷陵の呉将よろしく"叩き上げ"中の叩き上げ、王平もまた理論が苦手だった。
馬謖の考えが理解出来ず、水に固執して反対した。
結局、物別れに終わり王平は諸葛亮の指示通り山に登らなかった。
王平伝に「敗戦後、踏み止まって太古を打ち鳴らし伏兵を思わせた」とあるので
史実の王平も演義のように麓に陣を張ったのだろう。
王平は学士の馬謖を信頼しなかったのだ。
>>353 だがちょっと待って欲しい。
劉備の対呉戦については、戦人であり、関張に次ぐ長い付き合いである趙雲も停めたではないかと、
重隅をしてやろうw
街亭に到着した張コウは蜀軍の万全の布陣を見て困窮した。
馬謖の作戦は上手く行ったのだ。
が、すぐに或る一隊に目が止まった。
万全の態勢を整え、来るなら来いと言わんばかりの構えを取っている蜀軍にあって
その一隊の布陣位置は不自然だった。王平隊だ。
王平の布陣した位置は不明。道を遮るように陣を張ったのか、
はたまた馬謖軍の弱点である水道を庇う位置に陣を張ったのか、定かでないが、
王平の布陣は張コウの目に「来られたら困る」と言っているように映った。
王平隊の位置に蜀軍の不自然さを感じた張コウは馬謖の策を見破り、山を攻めた。
左手の向こうの武闘家は消え、左手だけが中空に浮かんでいた。
その手を片付けるのは容易かった。
こうして馬謖は敗れた。敗走する馬謖軍の中、王平だけは落ち着き、
太古を打ち鳴らして伏兵を思わせた。
突如鳴り響く太鼓の音を聞いて張コウは
「やはり諸葛亮は本当に来ていたのか!」と驚き、追撃するのを止まった。
王平は敗残兵を拾い集めながら帰還した。
馬謖は天才だったが、理論家と叩き上げの相性は良くなく、
ガチガチの叩き上げ王平に足を引っ張られて敗れたのだった。
諸葛亮の指示を守ろうとした王平が悪いわけではない。
天才の敵は時に味方の常人であるのだ。ただそれだけだ。
馬謖は敗戦の責任を取らされ斬られた。
責任の所在を王平に在りとして王平を処罰すると
誰も上の指示に従わなくなる。
敗戦の重い責任と事前の指示に従わなかった事実の前に
馬謖は斬らざるを得なかった。
惜しいかな馬謖
馬謖を斬らざるを得なかった諸葛亮の心痛は如何ばかりのものだったろう
これが馬謖と街亭の敗戦の真相である。
指示を守り手柄を立てた王平を称揚することは規に照らして当然であり、
馬謖の処罰と対を為し必要だった。たとえ王平が足を引っ張ったのだとしても。
繰り返しになるが、敗戦の原因であるとしても王平が悪いわけではない。
王平が優秀であることに間違いはないだろう。
もし馬謖が名案を閃かなかったら、
王平の経験は馬謖のよき輔けとなったのではないだろうか。
魏のひと袁準(袁子)は嘘を吐いたのではなく、
魏では諸葛亮が街亭に居たという話が伝わっていたのだろう。
袁準はその話を信じているのだ。
蜀のひと陳寿は諸葛亮は街亭に居なかったと考えている。
蜀では街亭に居なかったという話が伝わっていたのだろう。
他国より諸葛亮の属した国に伝わる話の方が正確だろうと思う。
陳寿もそう判断したのではないだろうか。
ではなぜ魏は諸葛亮が居たというふうに思っているのか
袁子の話を振り返る。
諸葛亮伝注袁子「諸葛亮は街亭に居た。前軍が大破するのに
数里しか離れていない諸葛亮は救わなかった。(軍を出さなかった)
(引き揚げるとき)、官軍(魏軍)が接近してるのに、ゆっくりと行軍した。」
王平は敗残兵を拾い集めながら帰還した。
であれば、きっと速やかな退却ではなかったに違いない。
何をか況わんや。
いや、ちょっとだけ言おう。袁子の話と王平の行動は符合する。
あとは想像してほしい。
魏は街亭に諸葛亮を見た。これは魏にとって事実なのだ。
その"諸葛亮"は、蜀にとって実在しなかった。
つまり、偽兵である。
『馬氏の五常、白眉もっともよし』なのだから
もし馬謖が天才なら、馬良はそれ以上の天才でないとおかしい。
と、言われそうなので、このことに触れておこうと思う。
人物評価というものは、頭脳の一点を以て下されるわけではなく、
知識・知能は勿論だが、人品・風貌・儒教精神などの総合で評価される。
事績から見て、馬良の対人能力はおそらく高かった。
対人能力が人物評価に与える影響は小さくない。
穿った見方抜きにしても、対人能力の高い人間は実際使える。
対人能力は人材としての能力のひとつであり、評価の対照となる。
一方、馬謖の対人能力はおそらく高くなかったろう。
豊富な知識、明晰な頭脳の持ち主で、人付き合いも上手な人と
頭は良いが、人付き合いが下手な人
どちらが人材として評価できるかと問えば、前者だろう。
『馬氏の五常、白眉もっともよし』に矛盾しない。
>>358 「武人が反対すれば劉備は聞く」と
「学士の言うことを劉備は聞かない」
は違うよ
一つ突っ込むと、劉備は学閥的にはかなり中枢に近い地位にいる。
劉備の師の盧植は清代に至るまで尊重され続けることとなる大学者であり、当時から高名。
盧植の師の馬融は外戚学者で、皇帝の師でもあり、宮殿で国史編纂事業に携わる学問エリート。
馬謖なぞより余程学歴は高い。
あと、別に学問や学士を嫌っては居ない、どころか子孫に遺言で学問を修めろと言っている。
ちゅうか、学士嫌いなら何故孔融を救おうとしたか、何故孔融に名を知られている事を喜んだかってことになる。
ついでに言うと、内面を語るにせよ「何を思っていたか」なんていう抽象的で、
学術の徒ならまず触れようとしない所より「何をしようとしていたか」を語るべき。
>>364 気にしないでくれ、言ってみただけだw
全体としては論理的破綻は見えずに、面白い考察だ。
王平も山頂に布陣していたのなら、踏みとどまり、後衛戦闘して、残兵の収容もできんからね。
演義の如くに布陣した結果として、張合βが馬謖の全体構想を見破る切っ掛けとなった…
という可能性もあったかもしれない。
とは言え、馬謖は天才なのかもしれないが、街亭では理屈を先行させてしまった、という評価は覆らないんじゃないかとも思う。
山頂によらず、確実に街道を塞ぎ、張合βの行動を自由にさせなければ、事足りる。
それで目的は達成できたはずなのだから。
馬謖擁護論か。面白いけど補給面から考えれば、水の補給が不可能な山頂に陣をしいたのは
擁護しようがないな
三戦板最近行ってないが、王平敗因論は斬新だな
にしても、戦役の要となる戦いにおいて実戦経験皆無の馬謖を起用して失敗した
諸葛亮の人選は間違いだったとしか言いようが無い
でもまあ、一戦敗れて処刑って、厳し過ぎる処罰だと思う
この戦い、諸葛亮も実質初陣みたいなものだったわけで
蜀や呉崩壊の際も実戦未経験の将が期待されて出陣してるわけで、
当時は学問を修めていれば将の器としては十分という評価があったのかも
王平が叩き上げつーのも盛大な勘違い
王平は非漢民族の支配者層の人間で、巴夷の王侯クラス
(正史では直接非漢民族とは書いてないが巴夷の王が曹操の所へ出頭する時、実は王平も一緒に行っている)
漢字は読めないものの、別に叩き上げというわけでもなく、無学というわけでもない
文字ってのは大体10代くらいまでに読めるようになってないと文盲になるといわれてるし
単純に漢字に触れる機会がなかっただけだろう、不便もなかっただろうしな
あと街亭の後、馬謖を斬ったのは責任論とかそういうレベルでなく
馬謖が処分待ちで逃げて再逮捕されたから
逃走に厳しいのは古今の軍の常識
>>365 廬植の兄弟弟子で、後漢儒学会の巨人でもある鄭元も廬植死後、劉備に肩入れして弟子の孫乾紹介してるしな
廬植生前の紹介なら、師匠の口利きテラ強す、で説明付くが、
死後の紹介となると劉備は学歴も高く学閥からもそれなりに支援を受けてないと説明が出来ない
高学歴劉備に比べると、諸葛亮はむしろ「本質さえ判ればいい」と言い放つ豪快な若人
何故か巷間のイメージだと豪快な劉備と生真面目諸葛亮という逆のイメージになっとるが
正史を正直に読むと劉備って非常に生真面目だし、若き日の諸葛亮は野望に燃えてギラギラした豪傑なんだよなぁ
馬謖が陣を敷いた山ってどんな山ですか?山頂ですか?中腹ですか?
大軍を敷くスペースはあったんですか?街道との距離感とか解ってるんでしょうか?
>>368 諸葛亮って蜀取りで軍率いてたような
王平敗因論は斬新だな
煮詰めると、面白いかもね
>>371 場所すらロクにわかんねぇよ
ただ指示は街道に拠って守れとなってた
馬謖は山頂に布陣、命令は煩雑で混乱を来たし、結局水を断たれて特攻、敗北
総崩れになりそうなところを王平の見事なブラフで張コウの追撃を防いだ、という事くらいしかわかってない
三戦なら「合β」や「眉β」なども表記されるから、そのつもりで書いたんだけど
三戦や中英に限られていたんだね…知らんかった
急遽修正したが見落としが多く、見苦しくしてしまって申し訳ない
一応、もう五次まで出来てるけど、長文読むのも疲れるだろうし
何日かに分けて投稿するつもり
(もしかしたらアクセス規制に巻き込まれてそのうち来れなくなるかも知れないけど)
軍板のみなさん、よろしく
とりあえず反論から
>劉備
先主伝「先主甚だ読書を楽しまず、犬馬・音楽・美しい衣服に入れ込んだ。〜(中略)〜
豪傑・キョウ客たちと交わりを結ぶことを好んだので、若者たちは競うように彼に従った。」
学問好きの人間ではないみたい
当時も役人になるには学校で勉強する必要があった だから劉備も通った
盧植がたまたま同じ郡にいたので、盧植に教えを受けることになっただけだと思う
誰に師事したかは本人に関係ないと思うよ
>孫乾
孫乾は鄭玄と同郷で北海人
鄭玄は青州で黄巾賊が暴れたとき、難を避けるため徐州に移った
鄭玄が孫乾を劉備に推薦したのは劉備が徐州を統治している時期で、
師匠が弟子に"地元の殿様"への仕官を斡旋しても別に不思議はないと思う
鄭玄は孔融と親交があり、劉備は孔融と親交があった
劉備の評判も良かった
推挙は自然
>孔融
劉備が学士嫌いだとは言ってないよ
学士を重んじる性格ではない、基本的に好きではない、と言っているだけ
孔融を助けたのは孔融が学士で劉備がそれを重んじたからではなく、
「助けを求められた」という義が劉備にあったからだと思うよ
この時劉備は平原相でしかなく無名に近い存在だった
一方、孔融には何進も董卓も彼を無下にできない程大きな名声があった
超有名人がちっぽけで無名な自分を知っていたらそれは多少驚くよ
劉備が孔融を学問の大家として尊敬していたとは必ずしもならない
>劉禅への遺言
それ普通のことだと思う
中卒で裸一貫から会社を建て成長させた大会社の社長がいたとする
そんな人でも子どもを名門学校に入れたがる
自分本人と親としての自分は違う
子に勉強させようと思うのは親心として当然でしょう
豫州刺史時代、劉備の元に陳羣がいた
劉備に徐州牧就任のオファーが来たとき
陳羣はこう言って徐州牧を受けようとする劉備を止めた
「袁術は依然強大です。今徐州に行けば必ず袁術と争うことになります。
そのとき呂布が将軍(劉備)を背後から攻めれば、将軍は必ず徐州を失うことになるでしょう。」
劉備は陳羣の言葉に従わなかった
結果はご存じの通り
呂布に注意しろとまで言われていたのに、、、
劉備という人はそういう性格
>王平
王平は巴夷の王の一人ではないよ
杜護(護「へん」がさんずい)らに随行しただけ
巴夷の王らが曹操に帰服したとき
杜護は巴西太守
朴胡は巴東太守
袁約は巴郡太守
に任じられた
王平は校尉
王平は戦場で生まれ育ったため読み書きが出来なかったと明記されている
一方、太守となった巴夷の王、杜護・朴胡・袁約らが
読み書き出来なかったとは書かれてない(書かれるような場もないが)
異民族とはいえ、王候なら漢語くらい読み書き出来ないとおかしい
杜護らが太守に任じられたのに比べ、王平は校尉という武官の職に就いただけ
武帝紀注に「(帰服した巴夷の王たちは)皆、列侯に封じられた。」とある
王平は杜護らに仕える有力武将の一人だったと見るのが自然
ついでに
馬謖は厳罰を恐れたからこそ逃亡した
初めに厳罰ありき
「諸葛亮は馬謖を斬って軍に詫びた」とある
街亭の守り方
諸葛亮の指示は不明だけども、街道を塞ぐことだったとして
街道を塞げば、敵は数の利を活かすことが出来ない が、その犠牲もまた小さい
蜀軍が数に劣り、要害でもない地に立ち塞がっていれば、張コウは攻撃を選択する
猛攻撃に遭い、数日に渡る激戦は必至
一方、この策であれば一兵も失わずに張コウを足止めすることが出来る
もし攻めて来られても随分有利に戦える
水道を断たれる畏れはまずない
馬謖軍を涸らすまで数日かかる
なので魏軍が蜀本隊の大軍に横っ腹あるいは背を晒し続けて水道断ちにでることはあり得ない
2〜3日もそんな態勢が保てるわけはないのだから
そんな状況で山を囲むのは無意味
山を囲みつつ諸葛亮を食い止めれば、と考え得るかも知れないが
馬謖の抑えに多くを割けば、残りの兵で諸葛亮本隊と戦うことになる
張コウは数的不利を作り出して蜀軍と会戦することになる
そんな愚かな事はしないだろう
たかだか前衛の処理にそんなリスクは冒さない
張コウが自軍を危険に晒してまで馬謖の水道を断ちにくることはないはず
>>370 >若き日の諸葛亮は野望に燃えてギラギラ
ああ、、それについても触れよう、と今思った
誤解が流布してるんだと思う
北伐のあとに書こうかな
>>371 分かりません
どうなんでしょ
街亭古戦場跡というのはあるみたいだけど
>>375 その記述で劉備を学問好きではないと言うのはやはり盛大な勘違い
当時の知識層の流行で「読書を重視しない儒学」「任侠の徒と交友を持つ」というものがあり
曹操や袁紹、袁術、董卓なんかもそういう行動を取ってる
また、当時の廬植は大学者で、同郷だからという理屈でおいそれと学べる相手じゃない
実際、幽州各地からエリート層が廬植の元に集まっていて、劉備はそこで公孫サンと出会い、義兄弟になってる
孫乾の斡旋は学閥抜きで考えると全く自然ではない
じゃあ何で陶謙に推挙しねーんだ?ということになる
>>377 王そのものとは言ってない
王侯貴族などに類するって言ってる
非漢民族の支配者層が文字に対してあんま興味ないってのはよくある話
しかも王平は当初、他の家に養子として入り何平と名乗ってた時期もあり
また、後になって王平と実家に戻ったりしている(戻したのは第四次北伐後っぽい)
こういう「家」をちゃんと使い分けてるってのはそれなりの家柄でないとあんまやらない
盛大な勘違いと言われてもね
盛大に勘違いしているのは自分かも知れないだろ?
劉備
>同郷だからという理屈でおいそれと学べる相手じゃない
家柄、コネ、有力者の推薦などの条件があるだろうけど
勉強熱心さは別に必要ないと思うよ
先主"甚だ"読書を楽しまず
これを覆せるような自説はあるの?
王平
母方の家だね
>それなりの家柄
王侯が母系に養われるからと言って父系の家を捨てるかな
無理に王侯だったと考える事なくない?
配下も連れず王侯のみが洛陽へ行ったと考えるのはどうかと思うが
ま、どうでもいい
「叩き上げ」を争ってるわけだから
主観の問題だからこれ以上の議論はやっても仕方ないと思う
つぎ行っていい?
第二次北伐
諸葛亮は曹真に手を読まれ、陳倉の防備を固められた。
魏軍は千人余なのに、数万を率いていながら城を落とすことが出来なかった。
これを受け
孔明ショボイな。手を読んで阻んだ曹真カッコえぇ。
演義の天才軍師ぶりに引き替え、史実の諸葛亮はヘボ過ぎる。
などと思われがちだ。
果たしてそうだろうか
では第二次を考えてみよう。
まず、漢中と陳倉を結ぶ故道の説明を少し。
故道の途中には散関がある。
故道は漢中と関中を結ぶ街道の中で最も距離が短い上、
関山道除く4道の内、最も道が平坦である。
それ故、平時は使い易いが、戦時は真っ先に塞がれる。
必争の地だけにかえって最も危険なルートとなる。
曹真は諸葛亮が陳倉に来ると読んだ。
これは実は大したことではない。誰にだって読めたはずなのだから。
蜀軍が陳倉に来るなんて、まず誰も予想しないだろう。曹真でも。
蜀軍は陳倉には絶対来ない。いや、来れない。
何故なら、
曹操が劉備に敗れて漢中を捨てるとき、散関以南の桟道をすべて焼いたのだから。
空でも飛んでこない限り、蜀軍はやって来ないのだ。
がしかし、実際に諸葛亮はやって来て、曹真はそれを読んだ。
どうして来れたのか? またどうして読めたのか?
諸葛亮は桟道の一部を修復している。(仮説ではない)
修復距離次第だが、おそらく数ヶ月は掛かったろう。
諸葛亮が桟道を修復している情報を掴めば
誰でも攻めてくる気かもしれないと思うだろう。
諸葛亮の桟道修復を知れば、来るだろうと思うし
桟道修復を知らねば、来ると予想することはない。
曹真の予測はそういうこと。
陳倉攻めは読まれて当然、読んで当然の話なのだ。
(桟道を焼いた・直したの話は、本の名は失念したが資料に載っている。
他にこの話を知っている人はいるだろう。
ちなみに演義にこの話はない。なので演義由来の情報ではない。)
そして、何と言っても、
諸葛亮は初めから陳倉を落とす気がなかったのだ。
陳倉城は堅城として知られていた。後漢末、涼州で叛乱を起こした王国(人名)が
数万の軍勢で陳倉城を囲んだ。王国軍は強かったが、孤立無援の陳倉城を80余日かけても
落とすことが出来ず撤退した。
陳倉の救援に派遣された董卓は「急いで救援しなければ城が落ちてしまう」と言った。
これは城兵と王国軍の兵力差がそれ程大きかったという事だろう。
董卓の言葉を受けて皇甫嵩は「陳倉城は小さいが守りが堅く、王国軍は強いが陳倉城を落とすことは
出来ないだろう。」と言って救援せずに見守り、敵が疲れて退却するのを待って追撃し大勝を収めた。
普通の城ならばすぐに落とされてしまう程の兵力差でもって攻められていても
あの城は落ちないと予想させる程の堅固さを、陳倉城は備えている。ということ。
そんな城を攻めるのに、諸葛亮はどうして20余日分しか兵糧を持って行かなかったのか?
相手が千人余りの寡兵と知って、落とせると踏んだのか。
しかし仮にそうだとしても、漢中を発って陳倉に着くまでの間に
兵が2〜3千人に増えていたら、たったそれだけで計画は破綻してしまう。
無謀というものだ。
また、仮に落とせたとしても、その後必ずやって来る魏の救援軍と
兵糧もないのにどうやって戦うというのだろうか。
結局、城を捨てて撤退するしかない。
陳倉城に蓄えてある兵糧を使えばいい。そんな考えもありそうだが
陳倉という字面からイメージしてしまう大量の物資は多分なかったのではないか。
雍州軍は対呉戦線へ行っていて手薄…、ではなかったか。
雍州軍は軍需物資を持たずに荊州へ行ったのだろうか?
大量の物資を兵がいくらも居ない前線の小城に残して?
蜀軍が来る兆しが見えているのに?
あり得ない。
陳倉に数万の蜀軍を持久させるだけの兵糧はきっとなかったろう。
諸葛亮がそんな薄い期待を頼みに軍事行動を起こすなどあり得ないはずだ。
攻め落とすのが困難、且つ城を落としても守れない条件で戦を始めるというのは
どう考えても真っ当じゃない。裏がある。
第三次北伐 武都・陰平攻略
これが面白い。
武都取りの意図をめぐって様々な解釈が生まれている。
それが諸葛亮の北伐そのものの意図まで解釈を分けてしまう。
つまり、第三次が北伐考察における最も重要なキーなのだ。
・諸葛亮は本気で漢朝復興を目指していた。
・いや魏打倒ではなく攻勢防御だ。
・いや北伐は益州閥を納得させる為の建前に過ぎない。
・いや防衛の為の領土拡張だ。
おまけに
武都を取ったのは
・第一次・二次の失敗を埋める為に功績が欲しかったからだ。
・威信回復の為だ。
など言われる。
では武都・陰平攻略について考えよう。
まず武都の説明を少し。
武都郡は蜀漢国に接し、蜀の戦力が集中する地から近く、魏の中央から遠い。
故にひとたび蜀が軍を起こせば武都を守るのは不可能。蜀による占領は免れない。
その為曹操は武都の住民を大規模に内地へ移した。武都に残っている民は少なく、
曹叡・諸葛亮時代、人口の少ない武都に経済的価値はあまりない。
陳倉攻めと武都攻めの時期は極めて近い。行軍に費やされる日数を考えると、
二つの戦役は一連のものであったと考えられる。
陳倉攻めは武都・陰平攻略の為の陽動だったのだ。
持久の出来ない縣軍(補給線なしで侵攻する軍)で陳倉を攻めたのは
落とすつもりがなかったからであり、
陳倉近くに引きつけた隴右軍を置き去って速やかに漢中へ引き返し、
武都攻略を有利に運ぶ為だった。
陽動は成功し、そのおかげで侵攻は有利に進み、大いくさをすることなく
武都・陰平を切り取ることが出来た。
諸葛亮は武都が欲しかったのだ。
陳倉城は攻めても時間内に落とすことは出来ないが
万一あっさりと降伏してくれたなら、それはそれでもっと良かった。
兵糧は陳倉のものと攻囲20余日分と帰路分を合わせれば、
本国からの輸送が到着するまでもつかもしれない。
が、そんな敵の降伏に全てを賭けるような僥倖頼みの軍事行動などするわけもない。
狙いはやはり陽動だっただろう。
諸葛亮は武都が欲しかった。
経済的価値のない武都をどうしてそんなに欲しがるのか。
始めの
>>345を読み返してほしい。
>>345の「その地」は“祁山”。
正確には祁山ではなく、その先天水郡の何処か。
武都を抜けると、秦嶺・岷山(びんざん)ふたつの山脈に挟まれて高原が広がっている。
その高原の中心に小高い山がある。その山が祁山。山上には堅城が築かれていた。
防衛側は一方的に敵を俯瞰しながら戦える上、不利になれば堅固な山城に籠ればいい。
関山道ルート上の魏の防衛拠点で、蜀軍はそこを抜かないと先へ進めない。
纏った敵兵力が祁山に拠れば蜀軍の侵攻は阻まれる。
祁山を攻め倦ねている内に敵主力が駆けつけ、
蜀は勝地を占めて迎え撃つどころか
不利な地で大軍と戦う羽目になる。
即ち北伐を成功させるには、速やかに祁山を抜け、
その先の勝地で会戦の準備を整える必要がある。
作戦を成功させる上で最も重要なのは「時間」ということになる。
蜀軍は漢中を発し、祁山の先の勝地を目指す。
一方、魏では「蜀軍、関山道を北上す」の報を受け、
長安駐屯の雍州防衛軍(主力)は蜀軍を撃つべく西へ向かう。
同時に隴右の兵は防衛拠点の祁山を目指す。
蜀軍が武都を突き進んでいる間に隴右の兵が祁山に集結しはじめ、
徐々にそれなりの戦力となってゆく。
蜀軍は祁山まで至ったものの、そこから先へ進むことは出来ない。
そこへ魏の主力である雍州防衛軍が到着し、蜀軍は不利な状況に陥る。
これが魏国の関山道ルート防衛戦略だった。
諸葛亮は第一次の時、進発前にビ(眉β)を攻めると宣伝し、敵の目を斜谷出口に集めた。
そして疑兵を使い雍州防衛軍を箕谷に引き付けた。
こうして祁山を抜いた。
もう同じ手は通用しない。
ならば、どうすれば祁山を抜くことが出来るのか。
武都を取ることだ。
武都を自領にしてしまえばスムーズに進軍できる。
速やかな行軍が出来れば、祁山に至るまでの時間を短縮でき
まだ兵が充分に集まっていない祁山を抜くことが出来る。
しかし、そう簡単ではないのだ。
大軍を挙げれば武都を取ることは難しくない。
がしかし、経済的価値の低い武都を攻め取れば、魏はどう思うだろう?
何の為に取ったのか、当然考える。
そして隴右を狙っていると考え至るに違いない。
関山道を強く警戒し、前線となった祁山、隴右に兵を置くだろう。
そうなればやはり祁山を抜くことは出来ない。
ところが諸葛亮が武都を取っても魏はさほど警戒しなかった。
諸葛亮は大軍を二度も挙げて遠征しておきながら、街亭・陳倉と立て続けに失敗したので
その穴を埋める為に仕方なく武都でも取って面目をギリギリ保った
ぐらいに思ったのかも知れない。
魏にとって武都は捨てている地で、取られてもそれ自体は痛くも何ともない。
それも手伝ってか、魏は武都の持つ意味に着目しなかった。
諸葛亮は陳倉取りを失敗したという失策を演出することで
戦略上重要な武都の概念を魏から盗み取り、
真意に気付かれることなくその地を取ったのだ。
こうして祁山を抜く手立てを創り出した。
陳倉攻めは、武都・陰平攻略戦の為の陽動であり、更にその上の
「魏の防衛戦略を掻いくぐる為の陽動」であったのだ。
蛇足
元も子もないが、陳倉攻防の魏略の話は怪しい。
城はいくら何でも2百人じゃ守れないだろう。
諸葛亮は昼夜を通して攻めた。昼夜それぞれ5時間ずつとしても、20日で100時間。
1千人を2百人になるまで減らすには8百人殺傷すればいい。
ということは、一時間あたり8人殺傷すればいいわけだ。
蜀軍"数万"を仮に2万として、4交代制で5千人。
5千人で1時間掛けてたったの8人も殺せなかったのか?
20余日を20日とし、1日の戦闘時間を低く見積もって10時間とし、
兵数を最低の2万人としても、たったの8人。
最大のサービス設定のそれで、5千人1時間8人。
(実際はもっと蜀兵は多く、時間も多いだろうから、1時間当たりの必要殺傷数は低くなる。)
いくら堅城に籠もっていると言っても、本気攻めして1時間8人も殺傷出来ないものなのかな。
魏略の陳倉城の兵士数は誇張としか思えない。もしくは他のどこかに誇張がある。
或いは全て誇張かも知れない。
>>381 読書を楽しくないが、ちゃんと学問自体は修めてる、字もそっち系から取ってるしな
劉備が学問を修めていないという批判が全くない、どころか名立たる儒学者たちが劉備を重んじてる事をお忘れなく
つまり勉学してるって姿勢を表に出さなかったってこと
王平は叩き上げじゃないってことが判ってもらえてうれしい
元々巴夷の指導者的な地位に近い立場だったわけで
文字が読めない=叩き上げってのは大いなる勘違い
>>384 陳倉に食料備蓄があまり無い、と言う解釈は面白いと思う。だが、それ
は牽強付会が過ぎると思う。
少し時代が下った後、蜀崩壊の少し前にケ艾が「蜀の侵攻先が或る程度
限定されるのは侵攻線の制約もあるが補給線の維持にはもっと苦しんで
いるようだ」と言う意味の事を述べてた覚えがあるんだが。
諸葛亮が二次北伐に陳倉を選択したのは、この場合は「食料庫としての
陳倉」よりは「前線補給拠点としての陳倉」としての価値に重点を置いて
考えたと思った方が良いと思う(陳倉を押さえる事で魏の西方軍の前線
補給線を遮断すると共に、蜀の前線補給拠点を充実させる、と言う狙い
と言う意味で)。
>>393 陳倉城に戦闘正面がそれ程無かったならば、別に驚く事ではない。
日本でも岩屋城に籠もった高橋紹運率いる大友軍が、島津軍の十万
を号する侵攻軍相手に一ヶ月近く篭城を続けて、最後玉砕したような
例もある。
高橋紹運は約700名程度の城兵で島津軍の当初投入した60000人程度
の軍勢と相対してる。
陳倉攻め自体僅か2週間くらいの事だしな
中国の城とか関とかは少数でも1ヶ月、1年くらいはもつように出来てるし
また直前にそうなるように整備してるわけで、1ヶ月、2ヶ月と攻めれば話は変わるだろう
40名弱で4000のソ連軍を撃退したシモ・ヘイヘの所属していた部隊がありましてな
銃火器がそれなりに発達した近現代の戦闘はあんま比較にならんけどね
まあそんでもこの当時も弩は強いし、数がありゃ防御だけならかなり出来るだろう
数百挺の弩を趣味でコレクションしてた漢の王族が、
蛮族の侵入にコレクションを城の人に渡して撃退したって話も残ってるしな
>>398 あれは悪天候と森林、山岳に紛れてのゲリラ戦による補給遮断であって全然状況が違うだろ。
曹仁は過小評価されすぎだろ
>>373 ありがとうございます。場所も推定できず、地形も見えず、派遣軍の
数も明確でなく、軍事分析は難しいですね。
>>403 王平敗因論とか言ってる根拠が叩き上げだからという嘘っぱちだから指摘してるだけ
王平が理論苦手だったということが間違ってるのは漢中防衛戦に於ける諸々の発言からもわかる
>>395 あ、いや、陳倉はその通りなんだけど、ここで言ってるのはそういう意味じゃなくて
第二次の戦略意図の考察なんだ
もう少し第二次の説明を
陳倉の価値は武都なんかとは比べものにならない
まわりくどく関山道から攻める必要もなくなるし
蜀にとって陳倉は喉から手が出るほど欲しい土地に違いない
それは魏も分かってるから簡単に取らせてくれない
第二次のとき、兵站線繋ぎながら攻めていても
おそらく蜀は陳倉を落とせていない
魏は呉を討伐する為に荊州に軍勢を集めていた
関中諸軍も張コウに率いられて荊州へ行っていた
隙があるといえばあるが、蜀にあっさり攻め取られるほど無防備にして
外征に出るわけがない
蜀が攻め込んできても、援軍の到着が間に合うくらいの防備はしていたはず
そして実際に間に合っている
諸葛亮が陳倉を攻めたとき、張コウは蜀軍の持久日数を計算して到着までに帰っていると言い当てた
逆に言えば、諸葛亮は魏の援軍到着日を予想し、それに合わせた軍事計画を立てていた
ということになる
これは、諸葛亮が"援軍が到着したら陳倉を落とすのは無理"と判断していたということ
当時関中がそういう状況だったということを表してる
だから兵站線を繋いで来ても陳倉は落とせなかったはず
援軍到着までに陳倉城を落とせばいいのだが
陳倉城は堅く、短期間で落とすのは困難。 その上カク昭がもう一つ城を建てて備えていた
陳倉は欲しくても取れない
諸葛亮は取れないのを計算の上で、陳倉を攻めた
それが縣軍であった事に表れている
食糧備蓄の話は
仮に諸葛亮が陳倉を落とせたとして、どうやって魏の援軍と戦うのか?
という陳倉攻防の延長戦での話
城なんとか取りました 魏の援軍が来ました 兵糧ないんで逃げます
じゃ話にならない
縣軍で攻めてきて、その後どんな展望があったのか
陳倉を取るつもりで来たのなら、勿論展望があったはずだが
秦嶺越えの大軍の縣軍というのはそれを感じさせない
>>396 それ考えてどんな城か調べたんだけど分からなかった
三面が崖とかなら城兵1千と言っても普通の城の4千に相当する
しかし三面崖などの記事が見つからない
ということは、別段そういう立地条件の城ではなかったと考えていいのかも知れない
>>393の魏略疑義は四面城の想定でのもの
一面城ならそれで問題なし
城兵4千(相当)の城じゃ短期で落とせなくても不思議じゃないし
>>406 第三次とされてる武都・陰平攻めと第二次とされてる陳倉攻めの期間が極々短い期間なのを見落としてないかね
10月〜12月くらいに陳倉攻めて引き返すんだが、翌年の3月までに二郡を落としてる
数万規模の軍隊でそんな高速移動が鉄道もない時代に出来るわけもなく
陳到を別軍として諸葛亮本軍とほぼ同時に軍事行動を起こしてると見るべきで、そうなると
>これは、諸葛亮が"援軍が到着したら陳倉を落とすのは無理"と判断していたということ
と判断するのは無理があるというか二次は取れたら儲け
取れなくても陳到が二郡を切り取ってる間に魏を引き付ければいい程度の陽動作戦と見て
魏本隊と争って消耗するのを避けて早々に退散したと考えられる
そしてこの動きは陳到が第一次北伐の馬謖、諸葛亮が趙雲とほぼ同じ役割をしている
諸葛亮はこの手の陽動作戦が大好きのようどう
>諸葛亮はこの手の陽動作戦が大好きのようどう
【審議中】
∧,,∧ ∧,,∧
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u
`u-u'. `u-u'
>>406 う〜ん、それは済まんが個人的には「戦略企図」と「作戦企図」を
取り違えて居る気がするんだ。飽くまで個人的意見だが。
漏れの考える二次北伐での諸葛亮の「戦略企図」は「魏の西方領(具体
的には涼州等の西方)の魏の政治的影響力の遮断」であって、その為
に作戦企図として「陰平、武都の攻略による魏中心部から涼州への連絡
線の遮断」と「陳倉攻略による蜀前線補給拠点の確保及び魏中心部から
涼州への連絡線の遮断」と「主攻」と「助攻」として準備していた、と言う
判断な訳なのだ。
(この辺、諸葛亮の手堅い部分では有ると思う)
尚、諸葛亮が何故涼州への魏の政治的影響力遮断を考えたか、と言うと、
それは偏に蜀の地の生産力の問題に尽きると思っている(涼州諸族の蜀
への帰属を促す、と言う事ね)。
で、此処からが本題になるが、「どちらが主攻と助攻となるか」と言う話に
なるんだが、やはり飽くまで諸葛亮にとっての主攻は陳倉だったと漏れは
判断してる。と言うのは、基本的に手堅い手法で軍事行動を行う諸葛亮が
陳倉に関しては速戦主義で行動してる。これを刺して貴方は陽動と判断
している訳だが、漏れは逆で、「諸葛亮でも速戦で陳倉を抜ければ陳倉
に大部隊を置いて占領を既成事実化出来る」と判断したから「兵は拙速
を尊ぶ」の原則に従って行動を開始したんだろうと思ってる。
だが、陳倉の地は蜀にとって重要であるのと同じくらい、魏にとっても重要
な拠点なのだな。その辺、魏にとっての武都、陰平とは違う。その上カク昭
によって作られた出城で、唯でさえ攻め難い陳倉の戦闘正面がより極限
されてしまった。こうなると大部隊で来ている事が逆に不利に作用した。
その辺を見切って損害を極限して整然と撤退させた諸葛亮の指揮能力と
判断力は中々のものだとおもうけど。
>>406 う〜ん、それは済まんが個人的には「戦略企図」と「作戦企図」を
取り違えて居る気がするんだ。飽くまで個人的意見だが。
漏れの考える二次北伐での諸葛亮の「戦略企図」は「魏の西方領(具体
的には涼州等の西方)の魏の政治的影響力の遮断」であって、その為
に作戦企図として「陰平、武都の攻略による魏中心部から涼州への連絡
線の遮断」と「陳倉攻略による蜀前線補給拠点の確保及び魏中心部から
涼州への連絡線の遮断」と「主攻」と「助攻」として準備していた、と言う
判断な訳なのだ。
(この辺、諸葛亮の手堅い部分では有ると思う)
尚、諸葛亮が何故涼州への魏の政治的影響力遮断を考えたか、と言うと、
それは偏に蜀の地の生産力の問題に尽きると思っている(涼州諸族の蜀
への帰属を促す、と言う事ね)。
で、此処からが本題になるが、「どちらが主攻と助攻となるか」と言う話に
なるんだが、やはり飽くまで諸葛亮にとっての主攻は陳倉だったと漏れは
判断してる。と言うのは、基本的に手堅い手法で軍事行動を行う諸葛亮が
陳倉に関しては速戦主義で行動してる。これを刺して貴方は陽動と判断
している訳だが、漏れは逆で、「諸葛亮でも速戦で陳倉を抜ければ陳倉
に大部隊を置いて占領を既成事実化出来る」と判断したから「兵は拙速
を尊ぶ」の原則に従って行動を開始したんだろうと思ってる。
だが、陳倉の地は蜀にとって重要であるのと同じくらい、魏にとっても重要
な拠点なのだな。その辺、魏にとっての武都、陰平とは違う。その上カク昭
によって作られた出城で、唯でさえ攻め難い陳倉の戦闘正面がより極限
されてしまった。こうなると大部隊で来ている事が逆に不利に作用した。
その辺を見切って損害を極限して整然と撤退させた諸葛亮の指揮能力と
判断力は中々のものだとおもうけど。
>>406 う〜ん、それは済まんが個人的には「戦略企図」と「作戦企図」を
取り違えて居る気がするんだ。飽くまで個人的意見だが。
漏れの考える二次北伐での諸葛亮の「戦略企図」は「魏の西方領(具体
的には涼州等の西方)の魏の政治的影響力の遮断」であって、その為
に作戦企図として「陰平、武都の攻略による魏中心部から涼州への連絡
線の遮断」と「陳倉攻略による蜀前線補給拠点の確保及び魏中心部から
涼州への連絡線の遮断」と「主攻」と「助攻」として準備していた、と言う
判断な訳なのだ。
(この辺、諸葛亮の手堅い部分では有ると思う)
尚、諸葛亮が何故涼州への魏の政治的影響力遮断を考えたか、と言うと、
それは偏に蜀の地の生産力の問題に尽きると思っている(涼州諸族の蜀
への帰属を促す、と言う事ね)。
で、此処からが本題になるが、「どちらが主攻と助攻となるか」と言う話に
なるんだが、やはり飽くまで諸葛亮にとっての主攻は陳倉だったと漏れは
判断してる。と言うのは、基本的に手堅い手法で軍事行動を行う諸葛亮が
陳倉に関しては速戦主義で行動してる。これを刺して貴方は陽動と判断
している訳だが、漏れは逆で、「諸葛亮でも速戦で陳倉を抜ければ陳倉
に大部隊を置いて占領を既成事実化出来る」と判断したから「兵は拙速
を尊ぶ」の原則に従って行動を開始したんだろうと思ってる。
だが、陳倉の地は蜀にとって重要であるのと同じくらい、魏にとっても重要
な拠点なのだな。その辺、魏にとっての武都、陰平とは違う。その上カク昭
によって作られた出城で、唯でさえ攻め難い陳倉の戦闘正面がより極限
されてしまった。こうなると大部隊で来ている事が逆に不利に作用した。
その辺を見切って損害を極限して整然と撤退させた諸葛亮の指揮能力と
判断力は中々のものだとおもうけど。
陳倉は前漢の時代から大軍の通り道として利用されているし
曹操が漢中を攻める時にも使用されてるわけで、大部隊で不利になるってことはそうそうないと思うがなぁ
心理的意図なんてのを考慮にいれすぎだと思うんだよな。
その地をよっぽど理解しているだろう敵に気づかせない戦略機動なんて、それこそ人材レベルで劣る蜀軍に理解させることなんて不可能だろう。
>>392みたいなそんな無理な思考しなくても、陳倉攻めと西涼二郡の二連作戦でかすめ取ったと十分考えうるのに
>>404 実に叩き上げらしい発言だと思うけど?
王平は余人が兵力差を前に慌てているときにも落ち着き
「敵進路上の要害興勢山に籠もり敵を塞ぎ、
もし敵の別働隊が黄金谷へ来るなら自分が行って塞ぐ」
と、まともなことを言った
地の利を活かして守り援軍を待つという持久防衛の典型じゃないかな
将たる者自分で作戦を立て判断する能力を誰しも少なからず持っている
陸遜の作戦を理解できなかった将たちも自分の考えを持ち語っている
誰だったそうだ 考えて行動している
猟師でさえそうだよ
しかし理論家のような深謀は持ち合わせていない
ある程度の論理的思考は誰でもする普通のこと
それを理論を解すると言ったのでは、理論家という言葉すらなくなってしまう
王平の言葉に深謀まで感じる?
単純な兵数だけで動じることはない経験豊富な軍人に見えるんだが…
そういえば興勢と街亭の発言は似てる
興勢 もし関城を取られたらやばい
街亭 もし水道を断たれたらやばい
興勢 通常通り、要害に入って進路を塞ごう
街亭 命令通り、街道を塞ごう(仮)
どちらも当たり前の事を言い、優秀な叩き上げだけあって臆病で(誉め言葉)まず危険を見ている
これ以上この件をここで議論したくない
主観の議論したらレスの20や30はあっという間に食うよ
どうしても納得いかないのなら
>>403の先でやった方が絶対いい
>>409 ううん、もちろん見落としてない
同時進行かどうか無論考えたけど
同時ではなく時間差攻撃だったと判断した
諸葛亮伝劉禅の詔が載ってるが、これは当時の生の声なので何より信頼できる
それに「先年、帥を輝かして、王双の首を斬り、今年ここに遠征し、〜」とある
"ここに(同:ここにおいて)遠征し"
同時進行ならこのような言い方はしないはず
これが判断のポイント
そして、諸葛亮は一端陳倉から帰還している
それから再度出陣し、建威まで到達した
それなりに時間が掛かっているよね
同時進行で諸葛亮が陳倉を攻囲している間、
陳式が武都を攻めていたのなら
様子見していたのであろう郭淮は、少なくとも諸葛亮の撤退とほぼ同時に
大急ぎで陳式に向かって発ったはず (陳倉には援軍が来る頃だし)
諸葛亮が陳倉→漢中→建威と移動している間に
郭淮は陳式に辿り着いて交戦しているはずだが、
辿り着いていない
従って、諸葛亮が陳倉を攻囲している間、
郭淮は上ケイあたりで戦局を窺っていた というのはないんじゃないかと思う
つまり武都は安泰で蜀軍は入っていなかった
陳倉と武都を比べた場合、重要度が全然違うから
そもそも天秤に掛けないと思う
上ケイで様子見というのは優柔不断に等しくないかな
どちらかがいよいよやばくなって動いても間に合わない
張コウの話をみると、張コウは日数の話はしてるけど、辿り着く前に落ちる心配は全くしていない
これは「自分が行くまでに陳倉が落ちることはない」と言っているも同じ
それは他方面の陳倉支援を考えに含んでのことか分からないが
とにかく陳倉は短期間では落ちないと考えられていることは確か
「他方面の支援」に郭淮軍が含まれているなら、郭淮は陳倉へ向かっている事になるし、
武都も攻められていて郭淮が様子見していると仮定して考えるならば
郭淮軍抜きで、「陳倉は落ちない」と考えられていることになる
その状況で郭淮が攻められている武都を救おうとせず様子見しているのであれば
郭淮は判断を誤っている
そしてやはり、陳式に辿り着かなかったというのはおかしな話
よって同時進行ではなかったと考える
諸葛亮が漢中に帰り、それから陳式を行かせ、
更にそれから諸葛亮が出たのでは時間が掛かりすぎる
陳式と諸葛亮が武都に向け、殆ど同時に発ったのならば時間的には可能だけど
そういう書かれ方ではない
残る可能性は
諸葛亮が帰還途中に、漢中で待機していた陳式に使いをやって武都へ発たせたというもの
流れはこんな感じ
諸葛亮は城攻めを年内に切り上げ、撤退途中に王双を斬った
諸葛亮が陳倉を出る前に年が変わった
魏は蜀軍が陳倉から出たのを以て戦役の勝利とした(曹真伝「春〜、増邑」はそういうこと)
諸葛亮は帰還途中に漢中へ使いを遣り、待機していた陳式を武都へ発たせた
おそらく陳倉防衛に陳倉付近まで来ていたであろう郭淮は慌てて武都へ向かった
陳式と入れ替わるように漢中に帰り着いた諸葛亮は物資の補給を済ますとすぐさま
陳式の応援に向かった (魏軍が来るのは当然なので)
>>411 言ってること、よく分かります
考察最後まで読んで貰えたらそこんとこも分かって貰えるんじゃないかなと…
(もう書き上がってる)
陳倉が欲しいけど
やはり 取れるのか? その方法で維持できるのか?
って話になる
>「兵は拙速を尊ぶ」の原則に従って行動を開始したんだろうと思ってる。
本仮説は「兵は詭道なり」を行った(いった)というもの
欲しいと見せて、狙ってない
仕方なく貰ったと見せて、内心これが本命
相手を騙し、真の狙いを悟らせない
陳倉の存在感は大きく、小さな武都は霞んでしまう そこに隠されている狙いも
攻城兵器を使ったというのも実に派手
陽動は派手であるほどいい(真の狙いを隠す目くらまし)
兵器製造に時間を費やせ(その間攻めなくても自然)
攻城兵器を使った攻めは味方の犠牲を少なくし
兵器攻め以外で手を抜いていても意識されない
坑道戦は相手に気付かれていたら上手く行かない
どこから掘ったのだろう
少なくとも矢の届かない場所からだろうから
そこから城の中までとなると200m以上は掘ることになる
何日掛かることか
しかも相手に気付かれているとなると、もはや拙攻としか言いようがない
でも、こういう攻防戦は人の好奇心をくすぐり注意を引く
陳倉の存在感、派手で好奇心くすぐる戦の話
人の気は自然と陳倉の攻防の方に引き付けられてしまう
そして殆どの人が陳倉を望んだと考える
"兵は詭道なり"
みんな騙された
第2次・第3次は第4次の布石
(
>>383-392)(
>>406-407)
と、考えるんだけど
>>416 歴戦と叩き上げ混同されてもな
そもそも経歴のスタートから指導者側な奴を叩き上げと言えると思ってんのか?
言えるさ
歴戦とは「戦の経験を重ねた」以上の意味を持たない
器も能力も位も、現場で成長させてきた者を叩き上げという
>>425 スタートが呂蒙のような一兵卒、募兵に応じて軍歴をスタートさせた張コウのような連中なら叩き上げでもいいが
曹操に降り校尉から経歴をスタートさせ、劉備に寝返ると今度は近衛にも近い牙門将かつ裨将軍になる、そんな奴が叩き上げだとでもいうのかよ
248年没だから享年50歳とすると曹操から劉備の間を移動した時期は20代にもなってない
さすがにこれは現実的ではないので享年60歳としたって30歳にも満たない若造がこの厚遇を受けて叩き上げと言うのは有り得ない
ごめん、ちょっとケアレスミスってた
20代にもなってない→20歳に毛の生えた程度
30歳にも満たない→三十路を超えた程度
って脳内変換しといて
>>414 >>陳倉は前漢の時代から大軍の通り道として利用されているし
>>曹操が漢中を攻める時にも使用されてるわけで、大部隊で不利になるってことはそうそうないと思うがなぁ
陳倉が重要なのは「司隷方面からの行動、及び益州方面からの行動に
際して、前線補給拠点になる」から(秦崩壊〜彭城の戦いから膠着
状態になった際に陳倉を占領した時、劉邦が言った事を思い起こ
してみて欲しい)。ただ、劉邦が陳倉を占領した時、項羽陣営は陳倉
は抑えてなかった。
因みに、大軍があっても戦闘正面が狭いと、効率的に戦闘が推移され
ない場合は大軍で攻めている側が不利になる場合がある。
>>421 >>陳倉が欲しいけど
蜀にとっても魏にとっても陳倉が「要地」である、と言うのが漏れの判断。
何故なら、
蜀陣営
・魏の司隷(含長安)、荊州北部侵攻を臨める一大要地だから
・同時に司隷西半分より西の魏領を蚕食する出撃根拠地となりうる
・上層部に荊州出身者の多い蜀陣営にとっては組織的強化にもなりうる
魏陣営
・荊州北部への連絡線強化の為必要
・涼州への連絡線確保の為必要
・蜀への圧力をかける選択肢のために必要
その辺、蜀にとっては陰平・武都はそれなりに重要だけど、魏にとって
の涼州支配権と言うのは陳倉確保から較べたら重要度は低い。
諸葛亮の努力によってそれなりの補給線確保が出来ているといっても、
所詮蜀の国力では長期間陰平・武都の確保は不可能、と言う判断もある
だろう。
>>426 仮に死んだのが65歳だったとすると
街亭の時45歳
王平は戦場で生まれ育った
充分すぎる経験だよ
校尉は漢軍人としてのスタート
それから戦デビューしたとでも?
そんなことはない
巴夷軍人として数多の修羅場を潜ってきているはず
まじでここでやるのはもう止めようよ
>>427 うん 分かる
あとで語る
進みます
そろそろあれが起こる頃だった。
三度も侵攻したのだから、無い方がおかしいのである。
大国 魏 の反撃だ。
曹真の反攻
武都攻略の翌年、遂に魏は討伐軍を興し、
大司馬曹真・大将軍司馬懿が褒斜道・子午道・漢水の三路から一斉に漢中を目指した。
が、進軍中長雨に遭い川は溢れ桟道は断絶し、進める状況ではなくなったので引き返した。
もし雨が降らなかったら、
おそらく魏は敗けていた。
諸葛亮は魏の反攻に備えて二つの堅固な城 漢城・楽城 を築き、防衛戦略を構築していた。
諸葛亮亡き後、蒋エン(王+宛)の時代
大将軍曹爽が歩騎10余万(蜀書)、6〜7万(魏書)で漢中に攻め込んできた。
その時漢中の兵は3万にも満たなかった。
それでも曹爽は山を固めて守る蜀軍に勝つことが出来ず、輸送にも苦しみ、
蜀の援軍が到着したので何の功も挙げられないまま撤退した。
費偉(偉「へん」は示)は兵を進め天嶮に拠って曹爽の退路を断った。
そのため曹爽は危機に陥り、苦戦のすえに何とか帰ることが出来た。
無理な徴発をした上での出征だったので敗戦で関右は大変衰耗した。
この興勢の戦いで魏は大きな被害を出したと言える。
ちなみに司馬懿は出征に反対した。
今回の蜀討伐は曹真の提案だが、それ以前に曹真は二度提案し、
二度とも陳羣に反対され却下された。
秦嶺越えは進退が難しい。
そのうえ敵を捕捉しがたく、輜重の護衛に多くの兵を割く必要がある。
攻撃に充てられる戦力は低下し、攻めあぐねて撤退ともなれば退くのも難しい
とくれば攻め込むべきではない。
諸葛亮の再三の侵攻が癇に障った魏は禁忌を冒し、遂に秦嶺越えに踏み切った。
曹真は二度蜀を退けたことに気を大きくしていたのだろう。
曹真は大勝できると豪語したが、元より魏を倒したいと思っていた諸葛亮にとって
これは絶好のチャンスだったと言える。
もし雨が降らなかったら、魏はおそらく敗けていた。
もし出征がもっと早ければ、或いはもし雨が降るのがもっと遅ければ
魏軍は漢中に入っており、雨の為に兵站と退路を断たれていた。
魏は大敗北を喫していたに違いない。
>>429 65歳没だと33歳程度
これでも降伏していきなり校尉は厚遇の部類
叩き上げではなく、ある程度背景のある人間でないとこうは行かん
一応、対魏戦ということで
街亭古戦場跡の地図
ttp://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E8%A1%97%E4%BA%AD%E5%8F%A4%E6%88%A6%E5%A0%B4&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl 渭水が東西に走り、地図中央に向かって南北から山が迫る狭隘な地形だということが分かる。
街亭古戦場のポイントがおかれているのは、渭水の屈曲部に突出した、小高地ではないかと推測される。
地形図や航空写真に替えても、ちょっと分かりにくいけどね。
で、古戦場跡すぐそばの渭水の南側に、道路が走っているようだが、これが昔の街道筋に合致するかがポイントだね。
この道筋を塞ぐのなら次の4案がある。
1)航空写真で見るとより東に道路の交差点のようなものが見て取れるので、そこまで前進し、陣列を敷く。
2)更に東側、街道と渭水の交錯するところまで行って布陣する。
3)それよりも西側、古戦場跡のやや南東側にも渭水と街道が交錯しているところがあるので、そこに布陣する。
4)さらに西側、古戦場の真南、渭水の南側で街道沿いに縦深く布陣する。
1)は開けた地形での決戦になる感じになる。
2)3)は渭水を渡る敵を討つ感じになる。が、渭水がどの程度の水深で、どの程度の障害になるかは不明。
4)もっとも消極的だけど、北岸からの迂回に対する警戒部隊を出す必要はあるが、確実に街道筋は封鎖。
王平は、3)ないし4)案で布陣し、張合βは一隊を警戒に当たらせ、王平軍と古戦場跡の間を無理矢理に進出。
北側は険阻な山なので、西、南、東と古戦場跡を半包囲する形になったんではないだろうか。
↑川の名前を間違っていた。渭水じゃねえ、清水川ですた。
>>325 曹叡ってそんなに優秀な皇帝だったの?
にわかで申し訳ないが解説キボン
北伐がならなかったのは、皇帝である曹叡と劉禅の能力の差と言ってもいいんじゃねえかな。
非常に軍事に明るく、決断力にすぐれ、実際に戦闘には突入しないものの、
後詰めのための親征も厭わない。
第一次北伐の時にも、自ら軍を率いて長安に出て、周辺地の同様を防ぐとともに、
陣頭指揮をやろうとする姿勢を見せている。
同様に、第5次北伐に呼応した呉の攻勢に対しても、合肥を放棄しようという策を蹴り、
積極的な迎撃を命ずるとともに、自分が軍を率いて出陣。
結果、孫権は曹叡軍の到着前に、撤退を決めた。
同時に、五丈原で諸葛亮と対陣する司馬懿の陣に使者を遣わして、長期戦とするよう詔勅を下している。
これは演義なんかでは、司馬懿の差し金のようにも描かれるわけだが、
蜀軍は兵糧に乏しく、持久戦に持ち込めば退くしか無いという正しい認識があればこそで、
司馬懿をサポートしてやれているわけだ。
司馬懿との信頼関係は絶大で、公孫淵の乱でも群臣の反対を押し切って征討を決断し、
司馬懿を総司令官に任命してその判断にすべてを委ねている。
首都に居続けで何事も為さず、宰相に出師の表を出させるようなボンクラとは違う。
お前、やる気があるなら、自分で出師の勅を出すべきだろうとか、
せめて漢中に慰問に訪れるとかしないわけか、みたいな。
ただし、曹叡も晩年は財政を傾けさせるような宮殿の造営などをやらせており、
この辺は麒麟も老いては駑馬にももとるってことかな。
>曹叡も晩年は財政を傾けさせるような
対蜀戦のための運河・街道整備の割合も大きかったようだが
>>441 だったら、宮殿の造営は諦めろ。
と、お前に言ってもどうしようもないことだけどなw
>>440 >麒麟も老いては
35歳の働き盛りで死んでるじゃん
>>437 地図、感謝。探したけど見つからなくて。
面白い地形ですね。
街道を封鎖するというか、進行阻止なら古戦場跡の突出した丘に本陣を置くのは
正しい様な気もしないでもないけど・・・。水の確保ってのあほみたいだけど。
検索して調べた兵数だと、馬ショク2万、張コウ5万騎ってあるから、
街道封鎖といっても兵数の少ないほうは難しい。勢いでも魏軍は救援目的、
蜀軍は敵の遅延。
地形的には山崎の合戦が似てるような気がする。
>>444 山や森林の中って、飲料水の確保が大変らしい。
ガダルカナルやインパールでも密林の中で飢餓状態になってからは水の確保が大変だったらしいからね。
スコールを容器に細々受け止めたり、水たまりの泥水をすすったりと……。
恐らく、三国志当時だと、集落もかなーり少なく、もっと緑生い茂る地域だったんじゃないかな。
とすれば、水の補給源として、清水川と数少ない周辺集落との連絡は非常に大切になったろう。
清水川の流れ方は今とは違ってる可能性もあるけどね。
>>442 前年に地震があって宮殿が傷んでたんだよ
国の顔たる宮殿がボロっちいと威信に傷が付くよ
>>436 ◆BO6way2NcQのぶち上げてる説が「王平が叩き上げだから負けた」ってものなんだし
その根幹に関わる議論をここでやって何が悪いんだ?
権限もないのに仕切るなよ
王平を叩き上げと思ってない人あんまりいないと思うよ?
王平が叩き上げというのは一般の共通認識
王平は叩き上げではないという主張は
一般認識に対して挑戦をしていると言える
つまり受動的な主張ではなく、能動的な主張
「王平非叩き上げ説」は北伐考察と離れたところにある独立した議論
まず余所で世間を納得させて、それからの反論にして欲しい
余所で議論して、結果が出たらスレのURLをここにリンクすれば丸く収まる
>>448 その共通認識ってのを疑えって言ってんの
王平を叩き上げと言ってる人、普通に沢山いるだろ?
>>436の先にも何人もいたよね
まさか「王平は叩き上げじゃない」と言う人間が居るとは思ってなかった
449は王平の件に関してチャレンジャーの立場にいる
議論先は三戦がお勧め 一応専門板だからね
他板に入りづらいなら切欠を作ってあげてもいいよ
ここのを編集したコピペでいいかな?
冒頭は多少煽りが入ってるくらいが食い付きがいい
王平が叩き上げつーのは盛大な勘違い
王平は非漢民族の支配者層の人間で、巴夷の王侯クラス
(正史では直接非漢民族とは書いてないが巴夷の王が曹操の所へ出頭する時、実は王平も一緒に行っている)
漢字は読めないものの、別に叩き上げというわけでもなく、無学というわけでもない
文字ってのは大体10代くらいまでに読めるようになってないと文盲になるといわれてるし
単純に漢字に触れる機会がなかっただけだろう、不便もなかっただろうしな
非漢民族の支配者層が文字に対してあんま興味ないってのはよくある話
しかも王平は当初、他の家に養子として入り何平と名乗ってた時期もあり
また、後になって王平と実家に戻ったりしている(戻したのは第四次北伐後っぽい)
こういう「家」をちゃんと使い分けてるってのはそれなりの家柄でないとあんまやらない
これでおk?
第四次北伐
長雨で魏が撤退したあと、諸葛亮は二度目の北伐を開始する。(二次三次はその下準備)
魏延に軍を率いさせて羌中へ向かわせるとともに、鮮卑の軻比能に使いを出した。
一方、魏延西行の報を受けた魏朝は、この行動の意図を量りかねていた。
「蜀軍は輜重を連れていないので兵糧不足に陥って自滅するだろうから
軍を派遣して兵を疲れさせるまでもない」という意見が挙がったが、
曹叡は肯わず
郭淮に命じてこれに当たらせた。
諸葛亮が魏延を遙か遠い羌中まで行かせたのは
涼州の腹部に程近い地に蜀軍を出現させて、
北部に至る涼州全土の吏民に、蜀漢は決して遠い国ではないことを知らしめ
来たる大戦の折、涼州が、蜀軍の隴右占領に伴って速やかな帰服を選択するように、
脅威を与えておくことが目的だった。つまりはデモンストレーション。
涼州の目の覚まさせると、いよいよ本格的な侵攻を開始した。
羌中の魏延は東進を始め、隴右へ向かった。
魏では命を受けた郭淮が魏延を討ちに西進。
諸葛亮軍も漢中を出て滞ることなく武都を進み、天水目指して北上した。
魏延と郭淮は陽谿で激突し、魏延は大いに郭淮を破った。
諸葛亮は手薄の祁山を一部の兵で囲むと、先へ進んだ。
諸葛亮の招きに応じた鮮卑の軻比能が北地郡に迫った。
一方、魏では
病の曹真と替わって対蜀戦線を任されていた司馬懿が、この危機の対処にあたった。
陽谿より帰った郭淮らに上ケイを守らせ、司馬懿は張コウを伴い大軍を率いて隴右へ向かった。
諸葛亮は軍を駐留・攻撃に分け、自らは攻撃軍を率いて上ケイへ向かった。
そして郭淮らを撃ち破り、上ケイ周辺の麦を大いに刈り取った。
これは自軍の兵糧とする為でもあるが、何より敵軍に麦を得させず
兵糧不足に陥らせる為である。この前後、西から戻った魏延が合流した。
司馬懿は張コウに涼州へ至る北道を行かせ、涼州で叛乱が起きないよう牽制し、
自らは渭水沿いに上ケイへ急行した。
そして上ケイの東で諸葛亮と司馬懿は遭遇する。
晋書宣帝紀(=司馬懿伝)はその時のことをこう記す
宣帝(司馬懿)は「諸葛亮は思慮深いが決断力に乏しい。必ずや自軍の守りを固めて安泰にし、
それから麦を刈り取るだろう。私なら二日兼行すれば間に合わせることが出来る。」と言った。
そこで兵を軽装にし、朝早くから夜まで駆け上ケイへ急いだ。
諸葛亮は遠く魏軍の巻き上げる砂塵を見つけると逃げた。
宣帝は「我らは通常の倍の道のりを進んで来たため疲労している。
兵法を知る者であれば貪り掛かるところである。
諸葛亮は敢えて渭水に拠ろうともしない。これなら与し易い。」と言った。
と。
諸葛亮は麦を刈るために上ケイに来ている。素早く出来るだけ多くの麦を刈る為に
兵を広範囲に分散させていた。急遽現れた敵を叩けるだけの戦力は手元になかった筈だ。
諸葛亮は勝地に敵主力を誘い込み、そこで一方的勝利を収めることを狙った作戦を立てている。
麦刈りもその為だ。渭水に拠ると敵は攻め入り難いが、諸葛亮の狙いは敵を塞ぐことではなく
大勝を収めること。渭水に拠ってもしょうがない。
張コウは北道を略陽まで進んで涼州に睨みを利かすと南下した。
司馬懿が迫ったので諸葛亮は天険に依り、分散させていた兵を集合させた。
張コウが司馬懿に合流した。
司馬懿は囮を使って待ち伏せしている地まで諸葛亮を誘き出そうとしたが
諸葛亮は囮に食い付かなかった。
諸葛亮は戦を仕掛けてみた。が司馬懿は応じなかった。
諸葛亮は鹵城まで後退した。
司馬懿は諸葛亮を追った。
張コウは言った。
「諸葛亮は遠くまで来て我らに戦を請いましたが、我らが応じなかったので、
彼は我らが戦わないことに利があると考えていると思い、
長期戦で戦を制したいと思っている筈です。
且つ、祁山は味方の大軍が近くに来ていると知り、希望を得て頑張っている筈なので、
我らは暫く此処に留まることが出来ます。
奇兵(敵の意表を突く部隊)を密かに出しましょう。
「諸葛亮を追う」と祁山や敵に示すのはその後です。
"前に進んでおきながら敵に迫れない"となるのは良くありません。
座して民の信望を失うことになるでしょう。
今、諸葛亮の縣軍(補給線をもたない部隊)は兵糧が少ない筈なので、
行くか去るかするでしょう。※」と。
※解説 諸葛亮は留攻に軍を分けていた。駐留軍の居る場所が蜀軍の本営。
蜀本国からの輸送はこの本営まで届く。
上ケイまで麦を刈りに出た部隊は補給線をもたない縣軍だ。
麦を刈りに出ている部隊に後方基地から兵糧を送る必要はない。
また、麦刈り部隊は魏主力と決戦するつもりはないので、後方基地に麦を送った筈だ。
遠征軍全体のことを言えば、この遠征で木牛を使用したとあることや、
大軍ながら戦が数ヶ月に及んでいること、撤退理由が兵站の滞りであることを観れば、
北伐軍自体は縣軍(補給線をもたない部隊)でなかったことは明らか。
張コウの言葉の「今亮縣軍食少,亦行去矣。」は眼前にいる諸葛亮の一部隊のことを指している。
そして、奇兵を出して縣軍の後方を取っても全く意味はない。
相手は元から補給のない縣軍なのだから。
これと違う解釈をしている人は誤読している。
「諸葛亮は我らが不戦に利を見出していると思って、長期戦で来るはずです。
そのための作戦を練っていることでしょう。我らはその裏を掻いて短期決戦で臨み、
長期戦に備えている敵の隙をつくとしましょう。
奇兵(敵の意表を突く部隊)を密かに出しておけば、作戦の幅が広がり、
勝機を作り出すことが出来るかもしれません。
奇兵部隊を密かに出しておいて、その後、諸葛亮を追うのが良いと考えます。
焦る必要はありません。祁山は味方の大軍が近くまで来ていると知り、
頑張って持ち堪えている筈です。
目の前の蜀軍は補給もなく食糧も少ないので、その内いなくなるでしょう。
敵がいなくなったら密かに部隊を出して潜行させ、
その後我らは諸葛亮を追うとしましょう。
もし今無策のまま諸葛亮を追って、そのまま攻めかからず長期戦となってしまえば
民の信望を失うことになります。」
司馬懿は張コウの言葉に従わず、諸葛亮を追った。
司馬懿は諸葛亮の本営の置かれた地に着くと、山に登り堀を掘って陣を構え、戦おうとしなかった。
諸葛亮が麦を刈っていたので、魏軍は兵糧不足に陥った。
が、郭淮が羌族の地区から調達し、難を逃れた。
敵に優る兵力を有しておきながら、敵を前にしても陣に籠もったきり戦おうとしない司馬懿に
部下たちは戦を請い
「司馬懿どのは蜀を虎のように恐れている。天下に笑われるのをどうするおつもりか!」
と言った。司馬懿もこれには悩んだ。従軍しているすべての魏将が司馬懿に戦を請うた。
下からの突き上げに抗しきれず、司馬懿は会戦を決断した。
諸葛亮は南北二つの山に拠り、川を堰き止めて二重に囲っていた。
北伐軍は祁山を抜けると会戦に向けて鹵城の地に留まり、上ケイで麦を刈っている間も
残した軍で着々と準備をしていたのであった。
司馬懿は南山を守る王平を張コウに攻めさせ
自らは中道を進んで諸葛亮の陣に向かった。
諸葛亮は魏延・高翔・呉班を司馬懿に当たらせた。
蜀軍は大勝し、
首級3千、玄鎧5千領、角弩3千百張を獲得した。
会戦の敗北で魏軍の士気は著しく下がり、祁山も痛く失望したことだろう。
司馬懿は帰ると陣を守ることに徹した。
これは、周辺の地域を蜀軍が制したということになるだろう。
制海権・制空権を握ったに等しいと言えばイメージし易いかな。
輸送部隊は近づけず、魏軍は補給を断たれる。
今ある兵糧が尽きかければ、無理な動きをして更に被害を出す可能性も高い。
どのみちいずれ兵糧不足で撤退せざるを得ない。
諸葛亮はそれを待てばいい。あとは撤退する魏軍を追撃しながら突き進むだけだ。
蜀の勝利は確定的だった。
陳倉を派手に攻めてみせることで、武都取りの真意に気付かせず
戦略上の時間を創り出して魏の防衛戦略を掻い潜り、
勝地に必勝の態勢を整えて敵を誘い込み、大勝を収めた。
諸葛亮の戦略は完璧に上手く行った。
ところが、、、
北伐の成功を目前にして
ここで、漢中で輸送を任されていた李厳が
長雨で兵糧を送れないことを理由に撤退を求めてきた。
やむなく諸葛亮は遠征を断念。撤退を開始した。
司馬懿は追撃を命じた。
張コウは異を唱えたが司馬懿は従わなかった。
諸葛亮は撤退途中の木門(地名)で追撃してくる敵を待ち伏せ、
張コウを射(い)殺した。
陳倉に続きこの戦いでも撤退戦を捌き、漢中へ戻った。
こうして結果的に2度目の北伐も成功を収めることが出来なかった。
諸葛亮考案の木牛・流馬について
第四次で木牛、第五次で流馬が使用された。
蜀は別に牛馬が足りなかったわけではないだろう。
木牛・流馬は単に足りない牛馬の代用ではないのだ。
関漢の間に横たわる秦嶺山脈を越えるには
切り立った崖に設置された長い桟道を通る必要がある。
荷車を牽く牛馬が桟道の途中で恐れをなして進まなくなったら
それだけで輸送が滞る。
また、数十qに及ぶ桟道には牛馬の餌となる草は生えていない。
そこで荷駄牛馬の秣まで運搬する必要があるが、大変な量になる。
運搬しているのが人間なら、桟道で進めなくなるということもなく、
牧草の生えない地では人力の方が輸送効率も良い。
一日に必要な人夫の食糧である乾燥米と牛馬の食糧である秣とでは
体積に於いて比較にならないだろう。
また、
進軍するときは戦闘部隊を前に、荷駄隊を後ろにして行軍する。
反対に、撤退するときは荷駄隊を前に、戦闘部隊を後ろに行軍する。
進軍中、後続の荷駄隊がまだ桟道や隘路を通っているときに
前軍が敵の攻撃を受けたらどうなるか?
通常なら一端退いて態勢を立て直すことも可能だろうが、
桟道は牛車・馬車がターン出来るようには出来てない。
その上、牛車・馬車はバックが出来ない。
退路が支え(つかえ)、大変なことになる。
(牛車・馬車でもジリジリとなら退がれるが、そんなのでは話にならない。しかも直線だけだろう。
道が曲がっていたら終わり。普通、道は曲がっている。)
人力の木牛・流馬なら、号令ひとつで人夫が回れ右、一瞬で押し車が牽き車に早変わり。
速やかに、どんな道でも後退できる。
これが木牛・流馬の最大の利点だろう。
木牛・流馬は、牛馬の怖じ気による輸送の停滞を防ぎ、不毛地帯での輸送効率を上げ、
更には秦嶺越えの安全性を飛躍的に高める超兵器と言えるだろう。
出張して来たとか言いつつ仕切るなよ
まぁ待て、俺は面白いと思って読んでる。
三国志なんて全く分からんからな
>>459 蜀領域と魏領域では主食が違うと思うが。
魏では小麦を中心とした食生活だが、蜀では当時は米が中心の筈。
(五斗米道の寄進が「米」であったのは象徴的だろう)。
因みに、使役動物も蜀では水牛で牛は当時は殆ど居なかったはず。
牛と水牛では生活形態が違うから、水牛は漢中〜司隷方面への
輸送手段には向かない(その辺も諸葛亮が木牛を開発した一因の筈)。
>>460 これは異論のつもりはないが、その情況での司馬懿は明らかに最低
でも張コウの失脚を狙っているように思える(その判断からすると、
張コウの戦死は司馬懿にとっては万々歳だったろう)。
司馬懿より軍歴が長くて且つ朝廷にもそれなりのコネを作ってる張コウ
は司馬懿にとっては邪魔者だから。
軍事板に三国志スレがあることは知っていたような気がするが、はじめて来たよ。
三戦の王平の話から。
本筋に関係ない話だけど
>>376 陳羣の例の話はかなり胡散臭いと思うようになってきた。
その頃の呂布というのは曹操と争っている最中でどうなるか分からない。
また、徐州と豫州を比べれば、両者の危険度は大差ないように思える。
袁術にとっては豫州こそ最優先の係争地だろうし、袁紹も黙っちゃいない。
ま、劉備の性格がどうのには直接は関係ない話だけど。
あと劉備と学者との関わりで言えば、陳紀がいる。
後主伝の最後に記述があるが、それからすると
劉備が学問を好まなかった、という先主伝の記述に疑問が湧いてくる。
なんか軍事と関係ない話ですまんね。
蜀漢孔明時代の陣地防衛ってどんな感じだったの?
>>462 牛・馬は荷を背に負わせて牽くんじゃないか?
特に桟道や隘路では馬車牛車は使わんだろ
日本でも明治まで駄載が主流だし
そうであれば、その場で超信地旋回もできるし方向転換云々は全くの空論だよ
木牛・流馬は、猫車大八車的なものとされてるけど舟説もあるし
牛馬の性質とか食糧の話なんかは滅茶苦茶
輸送効率上昇は、人間が背負った場合と比較してのはずだが
まだよく解明されてないことには謙虚にならないと、牽強付会の烙印を押されちゃうよ
>>465 主食と兵糧は全く関係がない
北は米が作れないから麦が主食
南は米が作れるから米が主食
ただそれだけだよ
兵は、人間は、何でも食う そこにあるなら
>水牛
それ、俗説の域を出ないのでは?
蜀は水牛、魏は牛だったというのを聞いたことはないが
仮にそうだったとして、
どうして漢中〜司隷方面への輸送手段には向かないということがある?
水牛は農耕にも運搬にも向き、世界中で飼育・利用されている
魏=北ということで、気候に関して言うのなら
イギリスにも棲息している水牛が
温帯大陸性気候で大して寒くない長安に
寒くて行けないということはないだろうと思う
「が」を付け忘れた
>>468 旅行か何かならそうかもね
でも、戦争は大量の物資を運搬する
当然、車だよ
遙か昔から物流というものはある
車が通れないんじゃ、そんな道は道として話にならない
『李衛公問対』に引く曹操の『新書』によって
戦線の一万人の部隊の内訳を計算すると
攻撃7500人
守営2500人・輜重車100台
うち、守衛500人、飯炊き1000人、秣集め馬の世話500人、採薪水汲み500人
となる
牛馬が如何に秣を大量に消費するか、窺い知ることが出来るよね
それらを輸送に頼るとなると、秣運びに何台必要になるだろうか
人力はそのロスを無くすことができる
背負うか、牽くか、その比較も確かに輸送効率といえるが
何を使って運ぶかの比較も輸送効率だよ
>>465 それたまに耳にするんだけど、どうかな…
魏は曹氏と外戚の夏侯氏が軍権を握って来た
皇帝が軍権を手放すわけはないのだから
後々までこの2氏が軍権を握り続けていくことになる
どんなに頑張っても、司馬氏に最高軍権を握れる可能性などなかった
賢明な曹叡の元で史実のようなことが起こせるわけもない
若い曹叡が司馬懿より早く死ぬなんて予想出来ないだろうから
司馬懿は精々栄達し、重鎮としての地位を守るくらいの事しか考えていなかったはず
政治家としては上には陳羣がいて、陳羣が大きな権力を持っていた
陳羣グループに司馬懿も一応属したが、本流は荀氏・鍾氏・陳氏
結局、陳羣の跡を司馬懿は継ぐが、
仮に、陳羣が死ぬのを司馬懿は心待ちにしていたとして、
司馬懿に陳羣と同年代の張コウを謀って殺す必要などない
待ってればその内死ぬ
それに張コウは所詮兵隊で、司馬懿のライバルにはならない
既に位も司馬懿の下だしね
張コウの死は別に謀略ではなかったように思える
>>462 方向転換云々てのはどうかと。輸送力の話に限定した方がいいんじゃないか
隘路口で襲撃食らって、前衛がそれを確保できず展開余地を捨てて後退せにゃならんって、最も良くない展開だろう。
>>473 よくある話じゃないか?
1部隊という小さな規模(局所)で考えても起こるし、
全軍という大きな規模で考えても起こりうる
>>475 ケンカ腰だな
もっと穏やかに頼むよ
ジンギスカン作戦というのは駄牛を食べるってやつだね
それと何の関係が?
>水牛は山岳越えの進攻に耐えない
根拠が知りたい
証拠でもいいけど
>車が通れるような道がないから魏の攻撃を防ぐ防壁として機能したんじゃねえのか
それとはつまり木牛流馬を否定しているということかな?
「船だった」と
「諸葛亮集」(諸葛亮の書簡集)に木牛に関する記述がある
船説はどっから出た話か知らないが無理がないかな
wikiでは
牛車の積載量は、四輪車で最大1,300kg 二輪車で800kgとなっている(現代の話)
木牛は兵士一年分の食料を積めるらしい
ということは576kgは積めることになるか
木牛を何人で動かすかは不明だが
「人出はそんなに要らない」らしい
牛というのは一日に乾燥物を約6s食べるらしい
秣6sの体積は結構ありそうだと思わない?
桟道の写真
怖いだろう? いつも通っているような個体なら馴れているだろうけど
戦争に駆り出される牛馬はそうではないしね
>>469 >>主食と兵糧は全く関係がない
いや、それはおかしい。兵食はやはり兵隊が馴染んだ主食から作るものだ。
蜀の場合は単に遠征すれば良いだけじゃない。遠征先で勝利する事を
目的に遠征しているのだから。指揮官はともあれ、食べ物の給与のレベル
が落ちれば兵隊の士気も低下する。
それに、米と麦では食料化するのに必要な水の量が違う。
>>水牛は農耕にも運搬にも向き
だから、使役動物としては侵攻型の使役動物ではないのよ、水牛は。
確か水牛の方が必要とする水分が多いから、使役動物としては潤沢
な水の補給が必須になる筈。秣と大量の水がないとマズイんじゃなかったっけ。
>>472 張コウの項の伝を読むと言いたい事が判ると思うが、張コウは儒者の
推挙を何回かしていて、且つその儒者が朝廷でそれなりに重きをなして
いたと思うが。多分元々が外様の張コウの立場とすれば、それは万一
の為の保険だったろうとは思うが、司馬懿の側がそう解釈したかどうかは
別の問題だろうと思える。
軍事上の功績だけならば、張コウは司馬懿より上の名声があるから。
>いや、それはおかしい。
んな、バカな
>侵攻型の使役動物ではないのよ
運搬に侵攻も何もないと思うけど?
水牛が水を好むのは水浴びの為
汗腺が牛より少ない為、本当は牛より暑さに弱い
だから水浴びする
>張コウ
筆頭格なのだろう卑湛という人物が博士
張コウの儒者愛のそれを重く考えすぎでは?
>>479 >>>いや、それはおかしい。
>>んな、バカな
現代でも各国は基本的に主食をメインとした糧食を配給してるぜ。
我が自衛隊でも野戦炊事車装備してるのは何故なのか、考えてみなよ。
缶飯だってエネルギー吸収効率を考えているとはいえ、やはり自衛隊員
の普段の食生活にマッチしたものを配給してる。戦争に従軍すれば楽しみ
なんて食べ物しかないのは古今あまり変わりは無い。
で、今話題にしてる中国のこの時代だと、糧食給与があまり悪くなると
下手すれば逃亡が出るぜ。
で、蜀の場合は元々の益州の統治機構に荊州出身者を中心とした層が
間借りしてるようなものなんだぜ。今の時代の我々が考えるよりも遥かに、
そういう観点も無視できないのが諸葛亮の立場の筈だが。
>>水牛が水を好むのは水浴びの為
>>汗腺が牛より少ない為、本当は牛より暑さに弱い
で、水が無いところを長躯行動させると途中で死ぬ(熱射病に似た症状を
を起こすと聞く)。我らが牟田口閣下がインパールで大失敗してるのは475氏
が挙げてる通り。
>>張コウの儒者愛のそれを重く考えすぎでは?
張コウの考えるそれは恐らく自身の保身と純粋な郷土愛を出るところでは
無いと思うけど、司馬懿がそう判断するかは別って話のこと。
そういうある種の「暗さ」が司馬家にはあると思う。
水牛って普通の牛と食うもんも違うしな
結局謀殺の根拠なんか何も無いんじゃん
蜀には秦嶺の4道(関山道除く)の外にも似たような峻険な街道があるんだけど
知ってるかな?金牛道、米倉道、陰平道というんだが
漢中と巴蜀は大巴山(山脈)により隔てられている
従って漢中から成都へ行くのにも、また永安に行くのにも
山脈を越えなければならない
このような地の牛が山岳越えに向かないといったようなことはまずないだろうね
仮に蜀の牛が水牛だったとしても
先に述べたように水牛は運搬用の家畜として世界中で飼育されている
どうもここの人はインパール作戦の失敗から
勝手なイメージを持ってしまっているのではないかと思える
インパール作戦というのは水牛ではなく牛だったら成功したのか?
そのルートは平時牛馬の往来があるのか?(牛馬通行可能なのか?)
まずはこれを検証し、「牛だったら可能だった」という答えが出たら
そこから初めて「水牛はその行軍に向かなかった」と導くことが出来る
そこまで行って、次にインパール作戦のルートと秦嶺越えルートの条件
気温、湿度、傾斜、道路の状態、水場などをを比較し、
近似、或いは秦嶺の方が水牛にとって厳しいとなった場合にやっと
「水牛に秦嶺越えは無理かも」ということが出来る
そもそも蜀は水牛で魏は牛という
どこから出たかも分からない説が根幹なのだから
こんな議論はやっても仕方ない
兵糧の話は問題外
食えるだけでも有り難い時代にそんなワガママ言う子はいませんw
インパール作戦は立案の時点で失敗だし
溺死、滑落死、過労死で大半の駄獣が死亡
なかでも水牛は、餌を選ぶ、性格が荒い、斜面を登らない、で世話焼きの兵士の手を煩わせた
平坦な湿地を生活のベースにしている水牛が山岳適正に問題があるのは自明だろ
>このような地の牛が山岳越えに向かないといったようなことはまずないだろうね
じゃあ牛車で運べばいいのに
ただでさえ人口で大幅に劣るのにわざわざ人手(しかも壮丁じゃないと務まらない)の要る方式を採用って
自軍が劣位の資源を、代替手段があるのにもかかわらず浪費してるわけだな
まず、蜀の桟道は牛車馬車の通行が可能だったことを示して
それよりも木牛流馬の方が輸送効率がよかったことを示してくれないと
ついでに、木牛流馬の正体がどういった物なのかも説明してくれると助かる
>>477によると積載量は576kg、車体重量を含めると800kgは切らないだろう
この、現代の軽自動車に近い車両(らしい)を斜面や狭路を人力で押してく・・・・・・って
李厳が失敗するのも無理はないね
自分は
木牛流馬とは、道路の整備や集積・集配システムの改善等を含む
兵站ロジスティックの変革のことなんかなぁ、と考えてる
無論、運搬手段の改良はあったろうが
そんなに効率いいものなら、後に誰かが真似・応用してもおかしくないはず
システムの改善だからこそ、形が後世に残らなかった、と
騎馬率が高くない武田軍が棒道によって高展開能力を獲得し、騎馬軍団と称されたのと似たようなもんかなと
李厳の失敗が木牛流馬のせいならば
元々李厳に責任はなく諸葛亮が責任を負うはずなのに
なぜわざわざ「兵糧は足りているはずなのになぜ撤退させたのか」なんて嘘をつく必要があるんだ?
元々諸葛亮の責任なのに、責任逃れのような発言をして諸葛亮に責任をなすりつける…意味不明の行動になる
つぎ行きます
今回長いです
486取り消し
>>484 >じゃあ牛車で運べばいいのに
運んだんじゃないかな
第一次の趙雲とか
それに劉備の漢中攻略戦、夷陵の戦いなど
諸葛亮が成都に残って兵站を担当した
山脈越えの輸送というのは行われている
>>461-462に書いた通り、牛車より木牛の方が優れている
そして牛車と言えど人間は付いているんだよ
余所からの転載だが
正史(ちくま学芸文庫版:井波律子訳 蜀書164ページ)
流馬の寸法が詳細に述べられるが、その構造、術語などよくわからない。残念ながら省略せざるを
えない。
演義(角川文庫版:村上知行訳 5巻113ページ)
孔明の木牛・流馬はたいへんに有名である。ただし、その形式も製法も伝わっていない。
「木牛は、全体的に牛のかたちに似せていて、ひとつの車輪の左右に四角いコンテナを搭載している。このコンテナの下には四つの添木がある。湾曲した頭部をもち、舌が腹部につくまで収納可能。たくさ
ん積めるが移動速度は遅く、大量の物資を運ぶのには向くが少量のものを運ぶのには向かない。二本の
ハンドルをつかんで60センチ歩けば、車輪は4回転する。慣れれば一日数十里、まぁ二十里は行ける
だろう。1年分の食糧を運んでも労苦とならない」
「流馬は、ふたつのコンテナを連結し、左右に車輪をつけたもの。コンテナの外側にはカバーがかけら
れ、中には兵士23人分の食糧を搭載できる。前後にハンドルが伸びていて、四本の脚をもつ」
>>485 長雨の所為
それと、おそらく李厳は職務怠慢だった
責任を諸葛亮に被せて失脚を謀ったというのもあるかも知れない
つぎ行っていいかな?
ああ、
それと木牛流馬がその後残ってない理由
木牛流馬は戦時における秦嶺越えに特化した兵器
他の場所では使う必要がないし、平時には無用の長物
ただ伝わってるやつ(
>>488)もおそらく正しく伝わってない
車輪が小さすぎる
牛、終わっていい?
>>482 最初に「これは異論ではない」と断ってるが。それに飽くまで、張コウの
件は個人的な判断だよ。
>>483 >>兵糧の話は問題外
>>食えるだけでも有り難い時代にそんなワガママ言う子はいませんw
それが魏の支配地ならばそうだろうけど。
益州の住民にとって、蜀の政権ってのは基本的に外来者の政権
なんだが。苛斂誅求があって漢中部に住民が逃げていると言っても、
他の地域から較べたら比較的に安定している地域で、地の人間には
関係が殆ど無い雍州やら涼州やら司隷へ長躯侵攻させて逃亡させない
ってのは、今の時代の我々が考えるより遥かに大事業なんだが。
幾ら蜀政権の中枢で建前として「漢再興」なんて建前で盛り上がってて
も、末端の兵隊には殆ど関係が無いのに、且つ劉王章政権時代より
或る意味重税を課してるのと同じ状態にも関わらず、益州では蜀政権
が成立してから諸葛亮が死ぬまでの間、異民族反乱以外に大規模な
反乱は起きてないだろ?兵士の逃亡も殆ど見られない。
幾ら指揮官がオダ揚げても兵士の逃亡が出たらマズイ訳だし、蜀志
でも諸葛亮伝ではしつこい位に補給に言及してるのは何故なのか、
考えてみるべきでは?水牛の話とも繋がるけど、その辺を軽視し過ぎ
だと思う。
諸葛亮は規律の維持に関しては明らかに過小評価されてんだよなぁ
それこそ他の蜀将とは一線を各する点なのに
わざわざ泣いて馬謖を斬るなんつーエピソードが残るのは何故だか考えないと
あのね、「ぼくお米が食べたい」って逃げる兵士が何処にいるの?
魏に逃げる? 魏に行ったら一生麦しか食えんぞw
それと、馬謖斬ったとき10万の蜀兵が泣いたとある
愛国心や仲間意識といった結束力は当然あるだろう
外来政権とか関係ない
劉障政権も外来だ
>しつこい位に補給に言及してるのは何故なのか
まず、水牛を頭の中から消した方がいい
「水牛だった」という大前提を決定づけなければ
議題にあげる事すら出来ないんだ
史料に「水牛」とあるかな?
そして「水牛だから蜀から秦嶺を越えるのは難しい」とあるかな?
蜀から水牛の骨ばかり見つかったとか?
水牛説の根拠は?
魏は秦嶺越えをどう言っている?
魏もやはり秦嶺越えを難しいと言っている
どう考える?
>>494 徴兵して反逆しないで命令聞いてる事を過小評価しているだろ。
別に食うには困らない連中に武器持たせて動員掛けてるんだよ?
(蜀の地に中央の戦乱を避けて非難してきた人民が多い、と言う由
の記述があった筈)
無理矢理維持しようとすれば、それこそ荊州や交州辺りまで逃げる
って選択肢が、当時の一般民にはあるって事を忘れてるだろ。
(そうなったら呉は万々歳だったろう。まぁ、これは余談も余談だが)
魏のように屯田兵制でもない、呉のように豪族の私兵集団の連合体
が国家としての組織になった訳でもない。蜀の兵隊に関して言えば、
志願兵制を取ってないんだから、基本的には徴兵と考えていいだろう。
で、徴兵しているのは益州の地の人間なんだが。そういう場合に兵に
不満を生じさせない為には、なるべく地元と同じような環境に置くよう
考慮するのは司令官クラスならば当たり前だろう(時代が下がって
蜀の滅亡後に鍾会の反乱が予想された時、司馬昭がどう言ってた?
蜀で徴兵して侵攻を行う諸葛亮はもっとその辺を配慮しなかったら、
遠征中に下手すれば軍が瓦解するがな。兵に配慮しない故に兵に
そっぽを向かれて自滅したのは、彼らの時代ではもっと身近だった
ろうよ((公孫サンや、諸葛亮の死後の話だがカン丘倹等は当にそう
いった例になるだろう)))。そういう意味での「兵站」(補給よりもっと
大きな概念としての)を無視し過ぎてると思う。
>>>しつこい位に補給に言及してるのは何故なのか
>>まず、水牛を頭の中から消した方がいい
水牛が牛だったとしても、それは同じだよ。牛を徴用する事で、根拠地
の生産性を下げると言う問題も有るし、何より使役動物を駆使し続ける
為には水の大量補給が必要になる、と言うのが前提条件になる。
(牛が水牛だったら、もっと水が必要になる)
で、米の収穫出来る所よりは、麦の収穫出来る所の方が、水の必要量
が少ないって問題がある(陸稲でも同じだから。念の為)。
>BO6way2NcQ
もう別スレ立てたらどうだ?なんか見てらんないよ。
>>494 兵士は米を売って現金化して自分で食う用の雑穀を買うんだよ
三国時代にケ艾が献策に述べてる兵糧として配る米の量が明らかに人一人で食う量を超えてる
俸給込みだと見ればその問題は氷解するがね
だから米が配給できないと兵士は給料貰ってないのと一緒だし逃げるんじゃないかな
>>496 自分は◆BO6way2NcQの考察も議論も楽しく見てるんだけどね
三戦ですべきだったのだろうか
議論には大して参加してないんだけど、◆BO6way2NcQの問題だと思うのは、
・持論は一ミリたりとも絶対に捨てる気はない
・違うんじゃないかと言う意見に攻撃でも受けたかのような反応を返す
・自分の挑発的な言葉は容認するのに相手の荒い言葉は容認出来ない
って所だろうか。
一つめと二つめの欠点に関してだが、わざわざ不特定多数の人の集まる所ででやる意義なくね。
譲れない部分なのかも知れないが、意見が欲しいんじゃなくて賞賛が欲しいようにみえる。
三つめに関して。
時折「ハーハン?ナンセンスだね。」とでもいいたげなすげえ嫌み混じりの回答を返しながら、
>>475程度のちょっと口調が荒いだけで内容は別に普通の言葉に喧嘩腰といいだす意味が分からない。
というか、個人的な見解を言えば、2ch内では「〜ないかな」みたいな言葉は対等ではなく振る舞うように見えて、
議論向きではないんだよね。
議論の横から入っていって仲裁するのには向くけど。
いっそ論文調みたいに断言する方が良い。
つーか、感性的な話になって申し訳ないが「ぬめっ」としたものがすり寄ってくる感じで気持ちが悪い。
湿度高い。
>>499 初めに聞きたいんだが、三国志知ってる?
知っていれば彼の反駁が如何に馬鹿馬鹿しいのか分かる
それが分かれば彼と俺が対等じゃない事も分かる
劉備、王平
正史に明記されてあり俺が語っている方が常識
彼なりに考えがあるのだろうけど、かなり常識から外れている
それ自体独立して考察披露なり議論なりして共感を得てからにした方がいい
彼の全く確立されていない見解は、少なくとも、「盛大な勘違い」と
いきなり横から出てこれるような意見ではないんだよ
水牛
何と言っても水牛説 これも全くの非常識 根も葉もない話
上と同じで水牛・水牛ダメ説が確立されてから反論に用いるべき
既に示したように論理的に穴だらけだが
米
俺は軍事に詳しくないが、彼の話を喩えるなら
「火薬は湿気に弱いから多湿帯で銃は使えないはず」
ぐらいのことを言っている
彼は自分のチャレンジをひとの考察に反論としてぶつけている
もちろん俺に彼のチャレンジを受ける義理はないが、
判断できない素人もいるだろうしと敢えて答えてきた
しかしいい加減疲れるよ
>・自分の挑発的な言葉は容認するのに相手の荒い言葉は容認出来ない
偏ってないか?
>自分の挑発的な言葉
呆れてるだけ
>相手の荒い言葉は容認出来ない
一言言っただけだろう? 非難されるようなことか?
語気荒げても良いことは何もない 無用な軋轢を生むだけだよ
それに結構失礼だったぞ 複線の
>>468とかね
あと、俺は議論に来たわけじゃない 語りに来ただけ
基本、質疑応答のような形になる
一応色々と考えた上で考察を立てているつもりだ
陳倉
>>411,
>>428の事は無論踏まえた上で書いている
説明しているだけで説得しているつもりはないので
腑に落ちなきゃスルーしてくれればいい
>つーか、感性的な話になって申し訳ないが「ぬめっ」としたものがすり寄ってくる感じで気持ちが悪い。
>湿度高い。
優しく言ってるだけだよ
どうでもいいけど
>>499 >・持論は一ミリたりとも絶対に捨てる気はない
基本的にみんなそんな奴ばっかり
2chで相手を論破できるとは考えないほうがいい
もう牽強付会の烙印を押していいんじゃないかな?
でも、面白いから続けてよ
このスレに来る人は正史齧るくらいしてる
史料批判というのか
百官とか百万の軍とか良く出てくるけど、白髪三千丈の国だからなぁという認識
歴史には勝者に都合のよいことしか書かれない、なんてのも常識
例えば
>>494の
>それと、馬謖斬ったとき10万の蜀兵が泣いたとある
こんなの文字通り受け取る人はここにはいない
劉備、王平、水牛にしても、良く調べてる人からすれば散見する話
>それが分かれば彼と俺が対等じゃない事も分かる
どっちがどうなのか
でも体系的に語れるってのはすごいと思う
いちいち反論せず、とりあえず持論を完成させてみては?
この2レスにも及ぶ過剰反応っぷりが
>>499のいうぬめっこいという感じなのか
非常に厳しい言い方になるが、君は割りと頑固で粘着質なところがあると思う
その上、論が他所から引っ張ってきたもののツギハギみたいに見えるから
反論も整合性を欠く、というか納得しがたい出来になるんだろう
多分、論の完成度云々より、君の文章力、伝達力の問題かと思われる
今のままだと論の是非以前に、チラシの裏に書いてろって感じなんで
自分でブログ開いたりしてやっておいてほしい
506 :
499:2010/02/09(火) 23:18:10 ID:???
>>500-501 >三国志
『三国志』『後漢書』『華陽国志』を白文で読んでるくらいには知ってる。
専門東漢なんで知識はそっちの時代よりだけど。
つか、俺にはそもそも、対等であるかないかという価値基準を持ち込むこと自体が信じがたいだよ・・・
対等であることは、正しい文献に依拠している限り自明なことではないのん?
まあ、議論する気が無いというなら無駄なんだろうけど。
>503 >505 >506
へー、彼に同調する人間が居るとは思わなかった
お手数だけど、もう一回頭から読み直してきてくれないかな
>503
>こんなの文字通り受け取る人はここにはいない
この解釈に悩むね
「10万」に言ってるの?、それとも「泣いた」に?
>505
過剰かな
>反論も整合性を欠く、というか納得しがたい出来になるんだろう
整合性を欠いているというのならどこか指摘して
>506
俺は北伐の定説に関してチャレンジャーの立場にある
彼は(同一人物か分からないが)
劉備「甚だ書を楽します」という定説に対してチャレンジャーの立場にある
王平も水牛も米も同様に、定説に対してチャレンジャーの立場にある
この2者のチャレンジは交わらない
名指しで悪いけど、>503 >505 >506のお三方
初めから読み直した上で、
・劉備
・王平
・水牛
・米
に関し、自分なりの見解を聞かせてくれないかな
一応、名前(番号)付きで
×「楽します」 ○「楽しまず」
510 :
503:2010/02/10(水) 01:31:26 ID:???
一応答えとくけど、気にせず早く先進めてよ
>>こんなの文字通り受け取る人はここにはいない
>この解釈に悩むね
>「10万」に言ってるの?、それとも「泣いた」に?
両方
当時の蜀の兵の総数が最大10万弱、
(総人口90万人で10万維持は難しいし、対呉備えの兵まで泣いたのか?)
派閥争いにおける馬謖派は(出世の道が閉ざされて)泣いただろうね
・劉備
高学歴劉備説、
興味深いし、無理の無い論
自分の知識の範疇では納得する部分が多々あるものの、断定はできない
・王平
同じくたたき上げと称される魏延も豪族の出だし、腑に落ちる
自分の知識の範疇では納得する部分が多々あるものの、断定はできない
・水牛
四川や中国南部の農村部の旅行記には水牛が印象的に記されてることが多いようです
・米
乏しい食料事情のなか、魚の干物・牛蒡・沢庵・納豆なんかを捕虜に提供して
戦後、虐待の廉で死刑になったBC級戦犯を思うと、食文化は大切だと思います
横レスすまんが
>乏しい食料事情のなか、魚の干物・牛蒡・沢庵・納豆なんかを捕虜に提供して
>戦後、虐待の廉で死刑になったBC級戦犯を思うと、食文化は大切だと思います
それってただの文化の違いだよな、日本では立派な食べ物だけど相手にとっては
食べ物でさえなく、ただの木の根っこや腐ったものとしか認識されなかった
米と麦の違いだとかそういう問題じゃないと思うが
あと、互いに人格批判は無しでたのむ、2ちゃんねるじゃ全員対等
多少ムカついてもキモくても大人なら我慢しろ
>BO6way2NcQ
>初めに聞きたいんだが、三国志知ってる?
>俺は議論に来たわけじゃない 語りに来ただけ
…なんで三戦板からわざわざ出張ってきてるの?
三戦板で相手にされないからじゃないの?
一応俺も書いとく
(議論する気はない。各自が好きなように考えればいい。)
・劉備
「高学歴」は俺が馬謖の例えで使ったもの
「インテリ」を意味する表現として使っている
劉備は廬植の門弟なのだから「学校名」でいうなら高学歴と言えないこともないかもしれない
がしかしスポーツ推薦入学などの場合、高学歴とは言い得ても、インテリと言えるわけではない
廬植に師事したということを以て、彼の言う意味で高学歴だったと言うには
廬植の塾が学問的に高度な入試を設けていたのか、そうでないか
これが重要だろう
劉備は公孫サンと非常に仲が良かった
馬融の孫弟子、廬植の弟子で、劉備と馬があった公孫サンはどのような人物だったか
廬植の弟子 = 高学歴 → 学士を好きではないことは絶対ない
とはならないことが証明されている
・王平
「成り上がり」と混同しているんじゃないかと思える
>>515 あの、インテリって「知識層」「知識階級」って意味ですけど…
この時代の指導者層ってほぼ全員がインテリ…
■米
問題外
>>517 現代の例えの中で出した言葉なんだけど?
>がしかしスポーツ推薦入学などの場合〜
修正: がしかし、一流大卒でもスポーツ推薦入学などの場合〜
>>519 齟齬を招きたくないならそういうくだらない論理展開はやめてちゃんと斜に構える事だ
インテリは知識層を指す言葉
つまり高学歴を知識層と言い換えた事になるが、三国時代の指導者達は大多数が知識層
ちなみにインテリは知識や受けた教育を用いて何かをなす人も示すので
スポーツ推薦で大学に入ろうと知識や教育を用いて何かやってりゃ立派なインテリですよ?
不毛な言葉遊びはやめてちゃんと日本語理解してなかった自分を猛省なさい
wikipediaをソースにするなってお母さんに怒られなかった?
どっちにしても高学歴をインテリの意味で使ったってのは通らないよ
そういうのは相互のコンセンサスがないとダメだわ
カタカナ語ってのは飯屋の符丁と一緒でどこ行っても通用するってもんじゃないからな
コンセンサスはさすがに意味もほぼ固定されてるし大丈夫だとは思うがそれでも一般的ではないし
どうもすべては細かい事を気にし過ぎる性格の所為だと思えるね
言葉の正確な定義なんてどうでもいい
そんな細かい突っ込み入れたりそれにレス返したりしていちいち流れ止めてたら
いつまで経っても終わらんよ
自分の想定している意味と異なってても文意を読んで相手の言いたい事を理解すればいい
日本語を研究するスレじゃないんだから
>>525 そういうところ気にしないと高学歴=インテリの意味だ!とか言いつつ
しかし高学歴であってもインテリじゃない奴もいる!とかわけのわからん事言われてワケわからん事になるんで
>>516 こんな証明が許されるなら、
「今は河北や燕で米作ってるから当時も米が取れたに違いない」
なんて強弁も可能だよな。
三国志の原典も読めない素人だけど、
もとはと言えば劉備・王平の実践重視派と諸葛亮・馬謖の理論重視派の
対立・意見の行き違いが第一次北伐の失敗を招いたって感じの話だったのに、なんで
こんな流れになってるの?
本来の板で相手にされなくなった奴が、頼まれもしないのに自分語りを「してやってる」からじゃね?
まあ、いいんじゃね。
今、文春に三国志小説の連載やってるが、ちょうど北伐のところなんだよね。
1次、2次の諸葛亮は、まさに「応変の才を欠く」という感じで描かれ、
3次、4次と将として成長していくみたいな感じだよね。
それとの比較で読めてるんで、ここんところの流れは面白い。
叩き上げ説と水牛・牛論争は、脱線でちとうざいけどな。
蛇足的に書いとくが、インパール戦の時に水牛が運搬手段として不適切だったのは、
野生の水牛に、にわか調教を施したという点を忘れちゃならんぞ。
あと、日本軍に、現地の水牛にあった運搬装具がなかったこともな。
その辺の事情は、NHKが昔作った番組の内容を本にまとめた「太平洋戦争 日本の敗因」の4巻で、
当時の兵隊だった人の証言があって、手軽に分かるけど。
一般的には水牛は運搬に向いた使役動物だと思う。
適切な調教を施す時間があり、適切な運搬装具を用意されている限りはね。
ただまあ、水の補給はどうしたか、桟道の通行に耐えられる動物か、というのは疑問に残るけどね。
しかし将才は天才魏延の足元にも及ばないという宮城谷諸葛亮
>>527 稲は品種改良を重ねて稲作の北限が広がってるけど
スイギュウは稲のような改良をされたの?
>>528 諸葛亮も別に理論重視じゃないけどな
劉備、王平も実践重視じゃなくて実理両面からきっちりやるタイプ
イメージだけで語ってるからおかしいんだよ
>>535 劉備は実践先行というわけでもなく、論理的な発言をする人を重んじるし
王平は曹爽の侵攻時には理論を示し、漢中を防備している
それに口述筆記による文章は論理的で、理論家としての側面も持っている
諸葛亮は逆に理論派だなんだと言われるが、理論派な人からしょっちゅう注意されるし
自身でも理論派としては劉巴には遠く及ばないと言ってみたり、むしろ自身を実践者として考えてた節すらある
イメージではなくちゃんと根拠あって言ってる事だよ
そら見ろお前のイメージじゃないか
情報と印象形成の間に思慮を挟め
お前の勝手なイメージでいちいち他人に難癖つけて妨害すんな
>>537 横レスで失礼だが、イメージでしかないというのなら、
どこがイメージでしかないとキチンと指摘してあげないと、
お前が難癖を付けてるだけにしか見えないよ。
品種改良といいこれといい見苦しい
コイツら精神的な自立が出来ていないんだよなぁ
見てるとよ
それに謙虚さの欠片もない
恥ずかしすぎる
考察ってのは所詮読み物なのよ
読んで自分で考える足しにすればいい
それだけのものなのさ
つぎ行きます
今回長い
魏は第四次の反省から雍州の防備を強化した。
司馬孚の献策で、中央軍から歩騎2万を移して二つの部隊を作り、
新たに関中に配備した。
また、冀州から農丁五千人を上ケイに移して屯田させ、
秋冬は軍事訓練をし、春夏は田畑を耕した。
更に魏は扶風を東西に貫く水路を整備し始め、
長安と隴右を水運で直結させて兵員・兵糧物資を素早く西へ送り込めるよう図った。
(第五次の前年完成する)
諸葛亮は魏の強力な諸葛亮対策の前に、北伐戦略の練り直しを迫られることとなった。
先の大戦で、曹叡から「君を措いて任せられる者はいない」と言われて赴いた司馬懿であったが、
敵が退いてくれたから良かったものの完全に敗北した。
そのうえ反対を押し切って追撃した結果、張コウまで死なせてしまった。
結果の上では防衛に成功し、形の上では賞されもしたが
曹叡の信頼と王朝の期待に背いたことは間違いなかった。
出ては敵を恐れて戦わず、戦えば大敗し、
敵が退けば挽回しようと無理に追撃して古参の名将を失った。
これまでの功績は霞み、司馬懿は立場を失いつつあった。
先の大戦で自身の名誉に傷を付けた司馬懿は
転落を回避しようと蜀攻めを何度も求めた。
転落を避けるには、勇んで見せて"負け犬"でないことを示す他ない。
もちろん曹叡が却下するのは計算に入れている。
後に司馬懿自身も反対する蜀攻めを司馬懿が本気で計画するわけもない。
かつて曹叡は二度も曹真の提案を退け、三路から同時に大軍で攻める案にやっと首肯した。
司馬懿が蜀攻めを求めた時期は呉との緊張も高まり
西方の遠征に大軍を投入できるような状況ではなかった。
また、成国渠(水路)・臨晋陂(堤防)という大工事を行っているさなかの関中に
遠征できるだけの余力などなかったはずだ。
工事が終わったら終わったで、水路の一早い有効活用の為に
投機的な遠征より大規模な灌漑および開拓を優先すべきなのは明らかだった。
曹叡が出征を許可する筈はないのだ。それを分からない司馬懿ではないだろう。
先の大戦から2年7ヵ月、諸葛亮は三度目の北伐を開始する。
第五次 五丈原の戦い
今度の遠征は呉との共同作戦だ。
蜀が西から、呉が南と東から、大軍で同時に魏領へ侵攻するかつてない大規模な作戦だった。
諸葛亮は兵十万を率いて褒斜道を北へ向かった。
今回の目標は洛陽。
呉が東方・南方で魏を破れば、一気に首都攻略戦へもつれ込むだろう。
蜀も遅れをとるわけにはいかない。呉に先んじて洛陽を陥れてしまいたいものだ。
もし呉に洛陽を取られれば後々不利になる。
そんな事は分かりきっているので、洛陽を目標と設定した作戦をとった。
他国との共同作戦は難しい。
魏の防衛線の一角が崩れればその影響は他方にも及ぶ。
蜀としては呉が東で魏を破ってくれて、その影響で崩れた敵を
労少なく破り、一気に進撃したいところだ。
逆に、他国との共同作戦で、自国が苦労のすえ敵を破ったおかげで、他国が快進撃をし、
自軍は傷つき疲れているのに他国は無傷、その上首都を落とされる
というのは頂けない。
他国との共同作戦は駆け引きが必要なのだ。
諸葛亮は呉と駆け引きしながら借刀殺人を狙った。
つまり呉が魏軍を破ったら、その動揺に乗じて関中の敵を片づけ、一気に東進する作戦だ。
魏はもとより、呉よりも兵力に措いて劣る蜀は
戦力を温存しながら機会を待たなければならない。
が、他国に期待はしても宛てにするようではいけない。
ましてや軍を起こすなどあってはならない。諸葛亮がそんなことをするはずもなかった。
諸葛亮は蜀単独でも遠征を成立させるだけの戦略をもっていた。
諸葛亮は褒斜道を進むと、前軍を使って斜谷の途中から陳倉へと抜ける小道を開通し、
軍を二手に分けた。
主力が五丈原で敵の主力を抑え、その間にもう一軍で陳倉以西を攻略するという戦略だ。
そうしている内にもし呉が東で魏を破れば、東進を開始すればよいのだ。
呉が敗れても、蜀は陳倉以西を獲得して遠征に区切りを打つことができる。
これが三度目の北伐の戦略だった。
褒斜道にいるとき、諸葛亮は兄の瑾に手紙を送っている。(水経注亮集)
その手紙には、陳倉へ軍を出して囮とし、主戦場である東の敵戦力を減らすつもりである
と書いてあった。諸葛瑾は兄とはいえ呉の臣。諸葛亮はその辺をきちんとわきまえている。
「主力を東で抑え、陳倉以西を取るつもりです。」と正直に言うわけはない。
呉が望んでいるのは蜀軍が西でいち早く魏軍を破ること。
「積極的に攻めない。東に進まず領土を切り取る。」と聞かされて
共闘している呉が喜ぶ筈はないのだから。
五丈原にいるとき、呉の歩シツに手紙を送っている。(水経注亮集)
その手紙には、20余里東の有利な地に魏軍が陣取ってて簡単に進めない。
仕方ないので五丈原に留まるのを良しとするのみ と書いてあった。
これは東進しないの事の非難を避けるための方便だろう。
諸葛亮は呉を操りながら戦を進め、丞相としてきちんと自国の利を図った戦い方をしているのだ。
諸葛亮と司馬懿は共に渭水を北にし、東西に向かい合って陣を張った。
宣帝紀を信じ切っている司馬懿ファンには申し訳ないが、
あれはかなりの脚色と見ていい。
宣帝紀では、諸将が北岸に陣を張って諸葛亮を待ち受けるべきと言ったのを
司馬懿は否定して南岸に陣を張ったとなっている。
現代地図(google maps)を見ると分かるが、守るべき長安は渭水南岸にあり、
五丈原から真っ直ぐ東に120キロ行った地点にある。
北岸に大軍を置いてどうする?というような位置関係にあるのだ。
「北岸で待ち受けるべきだ」という将がいるとは到底思えない。
普通に、敵の進路を妨害すべく渭水の南側に陣を布いた。
川を背にもしていない。どれも司馬懿を格好良く見せるため潤色して伝えたもの。
司馬懿の本営は、亮集に残った歩シツへの手紙にある「‘武功’の東十余里に在る"馬冢"」と思われる。
ちなみに五丈原は‘武功’の西十里にあるという。
従って、宣帝紀の司馬懿は
「諸葛亮がもし勇者であるならば、武功に出てきて山にそって東に進むであろう。」
→ 勇者ならば司馬懿の所へ攻めてくる。
「もし西に進み五丈原に出たのであれば、我々の軍は事なきを得るであろう。」
→ 五丈原へ行ったのであれば、会戦は起きない。
と言っているのである。
曹叡の命令が「戦うな」なのだから、諸葛亮が五丈原へ行ったのならひとまず安心だ
ということなのだろう。別段格好いいことは言ってない。
宣帝紀は"諸葛亮が手を誤って司馬懿の術中に落ちた"と読者に錯覚させているだけなのだ。
さらに諸葛亮が渭水を北に渡ろうとしたと続くが
諸葛亮が北に行くことのメリットが見当たらない。
宣帝紀では渭水北岸が本来守るべき場所のように書かれているので話が通るが、
長安は南岸にあり、北岸に渡って進んでも長安へすんなり入る事はできない。
北岸を行けば遠回りなうえに兵站を断たれるだけだろう。
諸葛亮と司馬懿は共に渭水を北にし、‘武功’を挟んで東西に向かい合って対陣した。
五丈原のすぐ東に武功水が流れている。諸葛亮は武功水の東岸に陣を築き孟エンに守らせた。
郭淮は諸葛亮が必ず北原(渭水の北にある広大な丘陵)に出て来るだろうと予想した。
多くの者が否定したが司馬懿は従い、郭淮を派遣して北原を守らせた。
まだ要塞が完成しない内に蜀の大軍が攻め寄せたが、郭淮はこれを撃退した。
数日後、諸葛亮は西へ向かう動きを示し、西囲を攻めると見せて陽遂を襲ったが
郭淮が見抜いていて備えていたので、落とすことができなかった。
司馬懿に援軍が届く。
渭水が増水(武功水も当然増水)し、諸葛亮軍は武功水を渡れなくなった。
司馬懿は騎兵一万で武功水東岸の孟エンの陣を攻めた。
諸葛亮は竹を組んで橋を作らせるとともに、川越しに矢を射掛けた。
魏軍は橋が完成しそうになったのを見てすぐに逃げた。
呉が撤退した。
とまぁ、大体こんな流れだろう。
諸葛亮は司馬懿に何度も戦いを挑んだ。が司馬懿は応じない。
そこで諸葛亮は先の大戦の戦利品を持ち出す。
諸葛亮は司馬懿に女物の着物と髪飾りを贈りつけた。
「こうまで戦を恐れて戦おうとしないお前は、男子ではない。女だ!」というメッセージだ。
『や〜い! 女野郎。』 『 オ・ン・ナ! オ・ン・ナ! 』
司馬懿を嘲る声が脳裏に浮かんだかも知れない。
名門に生まれ、若い頃から司馬の八達ともてはやされ、
帝王の師となり、数々の功を為して今の地位まで登りつめた司馬懿さまが
女と呼ばれ笑われている。
司馬懿はその人生で自分が女呼ばわりされるなど思いもしなかったろう。
丈夫にとってこれ以上の侮辱はない。
魏将たちも司馬懿と諸葛亮の贈り物の成り行きを見守っている。
魏将たちも思っているはずだ。
「男なら絶対我慢できない」と。
義憤に駆られた者も数多いるだろう。
司馬懿の脳裏にもう一つ言葉が浮かんだ。
それが諸葛亮が先の大戦で得た戦利品だ。
“ 負け犬 ”司馬懿
出ては恐れて戦わず、戦っては大敗し、
追撃すれば宿将を失わせた
その男が、今、敵から女物の衣装を贈られ
戦いを挑まれている。
拒めるはずもない。
拒めば求心力を失い、魏での立場は危うくなる。
先の敗北から2年8ヵ月、司馬懿が腐心してきたイメージの回復が
女の衣装ひとつであっさり剥ぎ取られ
敗残者の司馬懿に引き戻されてしまった。
朝廷で求心力が大事なのは勿論だが、
目の前の将兵も無視できない。
戦士は皆男。男としての自負が戦場に男を立たせている。
大将を女呼ばわりされて黙っていられる男は居ないだろう。
ところが当の大将が恥を知らず、軍命で下を縛って統制しようとすれば
軍は瓦解しかねない。
戦場での求心力を総大将が失えば、まともな戦は出来ないのだ。
それで敗れてもやはり戦を預かる司馬懿の責任。
戦いを拒めば司馬懿に先はない。
戦えばかなりの確率で敗ける。敗ければ君命に背いた罪で命すら危うい。
司馬懿は追い込まれた。
そして、やはり、戦いを選択せざるを得ないのだ。
戦う以外の選択肢はなかった。
司馬懿は心の内で諸葛亮の策謀に感服し、苦笑いを浮かべたに違いない。
司馬懿は冷静を取り戻し、素早く頭を回らせた。
"怒ってないフリ"を使者と魏将たちに"して見せ"た。
使者を帰すと魏将たちの前で怒り狂って見せ、
決戦を宣言した。
そして言う。
「今すぐにでも攻め寄せ、諸葛亮めを斬り伏せたいところだが、
生憎、我らは国家の大事を任されて此処におる。
敵に辱められたからと言って君命に背くようでは臣とは言えまい。
諸君らは胸を張って戦うことが出来るか?
今しばし堪え忍び、陛下にお許しを頂こうではないか。
そして堂々と胸を張り、生意気な山猿どもを討ち果してくれようではないか!」
と。(創作)
司馬懿は雌雄を決したいと使者を遣わして上表した。
無論、曹叡が許す筈はない。
曹叡は辛ピを勅使として遣わし、諸将の前で司馬懿をなだめ、改めて戦を禁じた。
こうして司馬懿は面目を守りながら諸葛亮の挑発を巧みに躱すという難技をやってのけた。
さすがである。
戦を挑んでも敵は乗らず、こちらから無理に攻めても大きな被害を出す
これでは諸葛亮も戦にならなかった。
膠着状態に陥り、睨み合いを続けた。
そして
諸葛亮は病没した。
蜀軍は漢中に引きあげた。
住民がその事を告げに来たので、司馬懿は蜀軍を追撃した。
ところが、追いついたところで蜀軍が軍旗を返し、太鼓を打ち鳴らして向かってきたので、
司馬懿は追撃を止めて撤退し、迫ろうとしなかった。
数日経って司馬懿は蜀軍の陣営跡を見て回った。
検分を終えた司馬懿は諸葛亮を偲び、「まこと天下の奇才であった。」と評した。
そののち斜谷周辺の百姓が司馬懿の追撃のことを論って
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」 と諺を作って言うようになった。
或る者が百姓らを誅罰しようと司馬懿にこの事を告げた。
司馬懿は怒らず笑って
「私は生きている者なら上手く処理することが出来るが、死んだ者には手も足も出ない。」
と言って上手く返した。
五丈原で諸葛亮を完封した司馬懿に
もう負け犬の影はなかった。
〜 諸葛亮の死について 〜
よく過労死だと言われる。
が、そう決めつけるのは早計だろう。
多忙+病死=過労死
とはならない。
司馬懿は使者に諸葛亮の生活をつぶさに尋ね健康状態を量った。
どうしてそんな不可思議なことをする?
まるで諸葛亮が健康を病んでいると前もって知っていたみたいではないか。
そう、知っていたのだと思う。
対峙している敵の総大将が病んでいれば、その進行具合を探りたいのが人情だろう。
そうでないというのなら、健康状態に問題のない50男の生活を聞いてどうするというのだ。
諸葛亮は病を押して不帰の覚悟で3度目の北伐へ赴いたと考えるべきだろう。
不治の病を患い死期が迫りつつあった諸葛亮には遣り残したことが沢山あった。
諸葛亮の願いは漢王朝復興。
腐った後漢ではなく、大漢帝国の皇統という天を引き継ぐ新たな漢をしっかりと建て
良き世を作ること。それが願いだろう。
出師表を読めば諸葛亮の思いが痛いほど伝わってくる。
ただ国を建てればいい、ただ天下を取ればいい のではない。
その帝国が世を照らし、民を安寧へと導かねばならないのだ。
後漢末、国が腐り、世が乱れた。その争乱を通して人が多く死に
人口は百分の1と言われる程にまで減っていた。
野には人骨が散らばり、町を離れれば人を見ることはなく
蕭々とした風景が広がっていた。
これは紛うことなく天下国家の責任だ。
諸葛亮は、永きに渡って世を照らし、民を安寧へと導き続ける統一国家の建設を目指した。
理想実現のためには何よりその王朝が健全である必要がある。
人が私利私欲に塗みれていれば国家の健全は保てない。
諸葛亮が愛した者たちは皆、公正無私で清廉だった。
反対に、対立したりトラブルを起こした者たちは皆、我欲が強かった。
清廉さばかりを人に求めていては、有能な人材を逃し、国は強くならない。
それでは天下は取れない。
諸葛亮は現実をしっかり見、妥協してその者たちを容れた。
が、あくまで国の中枢は清廉な人間で占めなければならず
緩やかに私欲人間を閉め出していった。
魏晋そして蜀の終焉を見ればその重要さが分かるだろう。
諸葛亮が志し半ばに不治の病に冒されたとき
蜀はまだまだ未熟だった。
先の短い諸葛亮に寝ている暇はなかったのだ。
善き世を作るには、乱世を経た俗人たちの下々に至るまで、
何より重要な「公正」の概念を浸透させる必要があったが
出来ていなかっただろう。簡単であろうはずはないのだから。
役人は未だ私縁私情で賞罰を加減する裁きを当然のようにやっていたのだろう。
諸葛亮は裁きの手本を示すために、軽い罪まで自分で裁いた。
そして、所謂判例を作り上げ、規範として遺した。
蒋エン・費偉の代に諸葛亮の作った"慣習として人々が了解している事柄や、新たにきめられた事柄を
文章として書き表して成した、行動や判断のよりどころとなる基準"は引き継がれ、
その成規に沿って物事は判断された。諸葛亮の作った成規は革められる事がなく、
皆そのままこれに従った。
諸葛亮の才能・精神・努力は
その死後も蜀を支え続けたのだった。
病身を押して働いた諸葛亮に
「諸葛亮は人に任せられない性格でそのために早死にした。」
などと言うのは冒涜だろう。
さて、第五次の考察に戻ろう。
むしろここからが本番。
諸葛亮の3度目の北伐は成功することなく終わった。
どうして上手く行かなかったのか?
諸葛亮が死んだ
それもある。
呉が早々に撤退した
それもある。
が、何もないまま諸葛亮と司馬懿の戦いが膠着した
これが大きいだろう。
その理由を考えていく。
何もないまま諸葛亮と司馬懿の戦いが膠着したのは
何と言っても、"郭淮に北原を押さえられ、奪うことに失敗したから。" ではないだろうか。
それに陳倉方面はどうなった?という疑問も残る。
郭淮曰く「もし諸葛亮が渭水を跨いで北原に登り、北の山に兵を連ねて隴道を隔絶すれば
民・異民族は揺れ動き、我が国は困ったことになるでしょう。」
ここでお手数ながら地図を見てもらいたい。
http://ditu.google.com/ 右下に地図があり、左下に省や区の一覧がある。
その一覧の右上の「くく」ボタンをクリックすると一覧が消え地図が横長になる。
そしたら西安(長安)を何度かWクリック。すると西安の左(西)に「宝鶏市」が見えてくる。
表記は簡体字なので字体が多少崩れている。「宝鶏市」これが昔の陳倉。
宝鶏市を何度かWクリックすると、西安との中間あたり、道の上に「眉県」が見えてくる。
「眉県」がビ(眉β)。「県」の字も崩れて「具」のような形になっている。
眉県を2度Wクリックすると、眉県の左下に「落星幺」のような表記の場所が出てくる。
ここが五丈原の戦いのとき隕石が落ちたと言われる場所。
地図上を東西に川(青線)が流れているが、これが渭水。
もう一度Wクリックすると「五丈原鎮」が見えてくる。
五丈原鎮をWクリックすると「諸葛亮宙」のような表記の場所が出てくる。
そしたら、地図画面右上「地形」ボタンを、「諸葛亮宙」を見ながらクリック。
地図が地形図に切り替わり、「諸葛亮宙」のあった場所に
親指のような、はたまたラムチョップのような形の台地が現れる。
その台地が五丈原。
台地の南端が狭まっていて、5丈(12〜15m)しかないのでその名が付いた。
地図画面左上に「手のマーク」とその上下左右に「く」がある。
これで地図をスクロール(移動)する。
スクロールボタンの下に「人のマーク」と「+」「−」がある。
「+」「−」で地図を拡大縮小する。
画面を縮小すると、渭水の北に広大な台地が広がっている。
これが北原と言われる。
以下は地図を参照しながら読んで欲しい。
もう一度、郭淮の言葉を。
郭淮曰く「もし諸葛亮が渭水を跨いで北原に登り、北の山に兵を連ねて、隴道を隔絶すれば
民・異民族は揺れ動き、我が国は困ったことになるでしょう。」
諸葛亮は何の為に北原へ登ろうとしたのだろうか。
郭淮の言葉の通りなのか。
「渭水を跨ぎ、北原に登り、北の山に兵を連ね(連兵北山)、隴道を隔絶する」
隴道を隔絶して、以西の民・異民族を蜀に帰服させる と。
距離を測った。
五丈原は南北に5q
渭水の走る平野の幅が6q
北の広大な台地、南から北辺の山脈までの距離が15q
諸葛亮が以西を隔絶するには、封鎖の為に26qに渡り点々と陣を布く必要がある。
するだろうか?
陣が無駄に伸びる。
北の広大な台地は平坦で、守りに適しているとは言えない。
おまけに中ほどを東西に渓谷が走り、南北は分断されていて連携がとれない。
平野もそうだ。
魏軍が遊撃すればきっと対処できないだろう。
兵站線はどうする?
幅6qの平野、渭水付近で遮られたら、以北の軍は補給を断たれてしまう。
下手な戦略にしか思えない。
諸葛亮がこんな戦略を取るとは思えないのだ。
そこで大胆な仮説が浮かんだ。
郭淮の言う北原とは、五丈原の北の広大な台地のことではなく、
もっと西の、鋭く尖った形をした如何にも堅そうな台地のことではないのか。
地図見てどこだか分かるかな。
広大な台地の左の方に、斜めを向いた長方形の湖があり、
その左横に少し色の違う鋭角の台地があると思う。
それ。
そこならば守り易く、東側は崖のようだから陣を縦に連ねて東西を遮断する必要はない。
敵の遊撃に晒されることもなく、台地上の連携も断たれず、
兵を散らばらせる必要もない。
北の山の谷に陣を築き、台地の軍と連携して守れば
隴道を封鎖することが出来る。
どうだろうか?
その台地は宝鶏市にある。そう、陳倉だ。
諸葛亮は褒斜道の途中で軍を二つに分け、
自らは主力を率いて東へ進み五丈原に布陣して、敵主力を食い止めた。
もう一軍を陳倉へ行かせ、以西を攻略しようとした。
が、陳倉方面軍は郭淮に阻まれた。
こうではないだろうか。
その陳倉方面軍の指揮官は誰か?
魏延だろう。
陳倉攻略は3度目の北伐(第五次北伐)の戦略の肝であり
非常に重要な任務だった。
数万もの大軍を預けられる将器と職位があり、実力を信頼して重要な任務を任せることが出来る人物…
誰がいいだろう?
魏延ではないだろうか。
諸葛亮陣没後、楊儀らは魏延を置いて帰った。
魏延は先回りをして桟道を焼いた。
どうやって先回りしたのだろう?
撤退する蜀軍を司馬懿が追撃したが、迎えたのは楊儀。
置いて行かれた魏延はどこいった?
楊儀は司馬懿を追い返せるほどの大兵力を従えていたのに
魏延は自分の部隊数千ほどの兵力で、よく戦いを挑もうと思えたな
という疑問が
もし魏延が陳倉方面軍として別軍を率いていたとしたら
すべて解ける。
つまり、諸葛亮の3度目の北伐(第五次)が
暗礁に乗り上げ何の成果も挙げないまま終わったのは
方面軍を任されていた魏延が陳倉を攻略しなかったからなのではないのか。
諸葛亮が没すと、魏延は総指揮を自分が執って戦争を継続すると言いだした。
名将諸葛亮をして攻め手がなく、膠着してしまった戦の指揮を引き継いで
戦いを続けるというのは貧乏くじだ。
魏延には何か秘策でもあったのだろうか。
あったのだろう。
陳倉を攻略して、以西を手に入れるというとっておきの策が。
驍勇を誇る魏延が数万の軍を率いておきながら
防塁がまだ完成してないにもかかわらず北原を取れなかった。
"取らなかった"のではないか?
魏延は諸葛亮の命が短いことを知っていた。
魏延が陳倉を攻略しても、遠征の功績は戦略を立てた総大将諸葛亮が持って行く。
魏延も当然賞されるが、それは陳倉攻略という戦果に限るだろう。
以降おこる西方の帰服までは魏延の功にはならない。
諸葛亮が死んだらその後継者は楊儀だろう。(魏延の目から見て)
楊儀が後釜に座れば魏延に未来はない。
楊儀は酷く魏延を憎んでいるので、魏延はいずれ謀殺される運命にある。
魏延が一発逆転して未来を切り開く為には
無理矢理にでも総指揮を引き継ぎ、それから陳倉を攻略し、
以西を手に入れるという諸葛亮でも為し得なかった大功績を挙げるしか
ないのではないか?
諸葛亮が生きている間に陳倉をとれば遠征の成功は諸葛亮のもの。
たとえ陳倉だけを得たタイミングで諸葛亮が亡くなっても変わらない。
魏延は諸葛亮存命中に(自分が総指揮を執らない内に)陳倉を取れば大損をするのだ。
軍内での魏延の地位は諸葛亮に次いで2位。
陣中で総大将に何かあったら
普通、指揮権はナンバー2に移行する。
魏延が総指揮を引き継げる可能性は充分過ぎるほどにあった。
普通なら魏延が継ぐことになるのは確定的。
さ、どうする魏延?
今すぐ陳倉を取るか?
それとも後で取るか?
ということではないだろうか。
こうして諸葛亮最後の北伐も失敗に終わった。
失敗の原因であるであろう魏延が、二心を抱き保身に走ったのは
諸葛亮の死が遠からず訪れるということで後継問題が浮上したからだ。
結局のところ諸葛亮の寿命が第五次北伐の失敗の原因ということになる。
おしまい
拙文で申し訳ない
陳倉を取れるなら、より備えの薄かった二次北伐のとき取ってればよかったのに
ちょっとお粗末
まあでも、スレも盛り上がったし、面白かった
お疲れ様
>>563 というかだな。
その尖った大地の手前。
中州があり、渭水にかかる橋がある。渭河大橋か。
そこんところを引き気味の地図……スケールが2km&2マイルでみるとだね。
略字体で見逃しているのかもしれないが、そこは普通の漢字で書けば、
「陳倉区」だ。
陳倉城は、そのものズバリ、そこにあったんだろう。
渭水(河)の北岸、北側の広い台地が迫る谷間にあって、そこだけ小高くなっているところがあるから、
いかにも要害らしい。
北原=陳倉だという着眼点は見事と思ったし、尖った台地の部分も極めて要害に思える。
しかし、陳倉という城そのものは、五丈原からその尖った台地の部分に行こうとすると、その手前にあるんだよ。
第五次のとき、魏軍は東で諸葛亮に押さえられているから陳倉に援軍は来ない
長期戦で落とすことが可能
第二次のときは陳倉に援軍が来れた
張コウが率いたのは洛陽あたりから集めた軍で、荊州にはまだ軍が残っていた
蜀が張コウ相手に粘ってもいずれはその軍までやって来る
>>571 陳倉区の西、金台区あたりに石鼓鎮があるよね?
陳倉城はその向かいって史料にあったような気がする
でみると、真向かいからやや東に「陳倉鎮」という所がある
そこじゃないかと思うんだが
574 :
571:2010/02/12(金) 00:30:47 ID:???
今度は、その簡略体の陳倉区と書いてある場所を地図で拡大してみた。
陳倉区の文字は消えるが、北堡村、南堡村、東堡村(東は簡略体)というのが現れる。
堡塁の堡の字が村名に使われてるなんて、そこに陣地施設がありましたという証拠だ。
地形図で見ると、ちょうど標高が小高くなっている部分に合致する。
航空写真で見ると、周辺が田んぼの中に、横長の長方形にキレイに区画されている。
やっぱりここが、かつての陳倉城に違いないだろう。
575 :
571:2010/02/12(金) 00:59:59 ID:???
陳倉鎮も確認してみた。
今は、普通に市街っぽいっていうか、鉄道の引き込み線があって、
工場か、倉庫街っぽいかんじだな。
地形図をみると、北に尖った台地からの続きの急傾斜、南に渭水を臨んで、
ここに城があっても攻めにくそうだな。
574の最後は、かつての陳倉城の可能性も高いんじゃないか、とトーンダウンしておくww
陳倉城がどこにあるにせよ、魏延に一軍を預け、一旦、北上させて後に西へ指向させ、
陳倉城を落とすか、その死命を制する土地を占拠する=同時に西方へつながる街道を切断する、
というのは、妥当かもしれないと思ってみたり。
つまり、諸葛亮の戦略は一貫して、涼州なり、異民族の居住地を魏の中枢から切断し、
孤立させて蜀へとなびかせようとした、という点では一貫していたことになる。
たとえ会戦で連勝しても、魏に対する究極的な勝利につながるかは分からんのだから、
国力差を縮小、さらには逆転へと導くという発想は、
むしろ政治家でもある諸葛亮としては、至極まっとうで健全な考え方であり、
戦略に自然と戦術・作戦が従う形にもなる。
まあ、あとは、魏延や司馬懿が、本当にどこまで、諸葛亮が死病であるということに気づいていたかだな。
>>560 地図いいですね。全然どうやって調べていいかわからん人間には助かります。
さすがにいい場所に城を作るもんですね。
>>516 >>560の地図で関漢を見るとどちらも平野部で標高600mもあった
ということは、街道の傾斜はあまりキツくないということになる
この時代の城の概念ってどんなもんよ。それがわかれば地形からわりだせるっしょ。
陳倉城の場所。
漢字で城って言えば壁で囲った防御用の施設って程度の意味だな
中には都市が入ったり要塞があったり色々だ
582 :
名無し三等兵:2010/02/14(日) 19:06:33 ID:9am/YTUw
中国の古代地名は住民ごと城の引っ越しがよくあるので、
現在の所在と同じじゃない場合があるよ。洛陽や長安も移転してるし。
三国の陳倉城は
>>573が正解。
カク昭が築いた下城ってのがよく分からなかったんだが(普通は上に作るだろと)、
断崖の中腹に築いてたんだな。
一方、諸葛亮は陳倉を攻撃するとき石鼻城というのを築いたらしいが、
それがどの辺にあるのかよく分からん。
陳倉の西、金陵河の手前だったらしいが、
日本地名の法則からすると蟠龍山あたりかね。
585 :
名無し三等兵:2010/02/20(土) 18:46:29 ID:qa1azJc1
まあ、たしかに『三国志』中では城って書いて県を指していることが多いな。
一般的に防御施設の意味で使われているケースはあまり記憶にない。
偽城とか長城とかいう場合くらいかな。
あと壁で囲った…というのも微妙で、
もともとは壁そのものを城と言ってたはず。
>>585 壁そのものはちゃんと壁そのものを指す言葉があるよ
587 :
名無し三等兵:2010/02/22(月) 01:10:14 ID:92vzhfMU
>>586 たとえば登城って言葉は城壁の上に登ることだよ。
囲いの中に登るって意味じゃなくて。
>>587 そりゃ登城で「城壁をよじ登る」って意味になってるだけであって
城=壁ってわけじゃない
城ってのはその壁によって仕切られた空間の事
だから「城中」「城外」という言い方が生まれるわけだ
一応字義は漢和辞典何冊かひっくり返して見たけど壁そのものという意味はほぼないな
壁とその中の物をひっくるめる形だ
説文解字まで見たが以盛民也。从土从成、成亦聲。とあり
「民衆を収容するを以って城という。土と成から出来た字で、声符は成。」だそうだ
589 :
名無し三等兵:2010/02/22(月) 08:33:15 ID:92vzhfMU
壁そのものという意味がないって、マジそうか。
城というのは土を成(も)るという字形から成りたち、
土を成るとなれば、とうぜん版築で形成された構造物を指すと思うんだが。
むしろ城壁そのものを指し、それに囲まれた空間を派生的にそう呼ぶことはあっても、
原義から空間の方を指すとはちょっと考えにくいんだけど…。
それに登城は城壁にしがみついてよじ登るというニュアンスじゃなくて、
城内から階段を使って上がるんだよ。
>>589 説文解字にそう書いてある
ついでに字統だけ持ってるでそれも見てみたが、やはり「壁」じゃなくて
「壁そのもの」という意味ではないね
成は「戍守」の意で、「戍」は人が戈を持ち戦う事という意味なんだとさ
全体的には「民を入れて守るための施設」ということだそうだ
591 :
名無し三等兵:2010/02/22(月) 20:47:43 ID:92vzhfMU
なるほど。そうなんだねー。
横レスだが、
『成』は「戊」+「丁」。
「戊」は矛の"象形"。大きな鉞(まさかり)の意。
「丁」は釘の象形で、釘づけるの意。そこから「平定する」の意味となる。
鉞で敵を平定するの意味から、ある事柄がなるの意味を表す。
ちなみに「戍」は「人」+「戈」。
"会意"で、人が矛を持って守るの意味を表す。特に辺境を守るの意味に用いる。
『成』は「戊」+「丁」だから、「人」と「戈」からなる「戍」は関係ないよ。
『城』は「土」+「成」。
「土」の部分は、古い文字"金文""籀文"では望楼の象形が使われていた。
つまり『城』とはもともと「望楼から成る」という「城壁」を指した文字だった。
>以盛民也。
民盛んを以て也。
"民衆を収容する"だったら「以容民也」などとなる。
容れるという意味で"人を盛る"なんて言わんだろ?
容れるという意味の「盛る」は「物を容器一杯にする」というニュアンス。
城を容器に見立てて民を目一杯詰め込みでもしない限り盛るなんて言わない。
いやそれでも言わないだろう。
「民盛んを以て也。」というのは、
おそらく古代中国の集落“邑”の繁栄度・規模のことを言っている。
昔の中国の集落は小さなところでもその周りを塀で囲んでいた。
大小様々な集落のうち、ある一定の繁栄度・大きさを超えた集落のことを「城」と呼ぶのだろう。
「家」に例えると、大小様々な家のうち、大きくて立派なものを「屋敷」という。
それと同じことではないかな。
つまり後漢代に書かれた説文解字の一文「以盛民也。」は
「大きな集落を城と呼ぶ」と"集落の別"を言っているのであって、
城そのものの意味を定義しているのではないようだ。
万里の長城や、函谷関などの関所も城と言うのだからね。
三国志的には
216年〜217年の濡須口の戦いで、戦いの最中に孫権が「何か」を築いて曹操を拒んだが
呂蒙伝ではそれを「塢」(意味 @土手。Aとりで。小城。)と言い、
武帝紀ではそれを「城」と言っている。
まぁそういうこと。
>>592 字統によると「戊と丁」ではなく「戈とh(こん)」という字だそうだ
金文では「丁」は字形として作られていないとのこと
白川御大の説だと戈を用いて戦争する事で平定するという意味が生まれたんだろう、てことらしい
>「土」の部分は、古い文字"金文""籀文"では望楼の象形が使われていた
防壁+守りという意味で、「壁そのもの」という意味ではないということだね
>>593 「黍稷在器中以祀者也。从皿齊聲。」
とあって、繁栄度を示すわけでなく「祭祀者」と言う意味だそうだ
字統を見ると「盛」に「さかん」という意味が付くのは戦国時代なんだと
そりゃ祭祀者が増えりゃ「盛ん」になるわね
「盛(い)れる」と読み下す
>>594 字統ってのは駄目らしいね。
>字統によると「戊と丁」ではなく「戈とh(こん)」という字だそうだ
説文解字に「成:就也。从戊丁聲。」と書かれてあるじゃないの。
「h(こん)」というのは「たてぼう」で
上下に貫く、上下に通じるの意。「中」「串」などにある。
どっから根拠持ってきてんの?それ。
「个」と篆文の「丁」を間違えてるとか?
「个」は「箇」の別体で、「か」と読む。竹1本の形象。
「丁」と「个」については漢和辞典で『一』の字の語例「一丁字」を読んでほしい。
「丁」は釘を横から見た象形で、篆文からそうなった。
それ以前は釘を上から見た象形で、甲骨文字の時代からある。
甲骨文は「□」で、金文は「●」(見たそのまま、□と●)
「丁」は十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)に含まれるが、
殷の時代には既に十干はあった。当然「丁」の字は昔からあった。
『成』の甲骨文・金文・篆文は漢和辞典を見れば載っている。
「戍」の金文・篆文、「戈」の甲骨文・篆文も載っている。
「戊」の甲骨文・篆文も載っている。見比べてみるといい。
甲骨文・金文を見ると、ほこはほこでも「戈」「戊」「戉」のモデルとなった武器は
形状が異なる。
つまりこれらの字は似ているようでも区別されている。
部首的にも「戍」は戈部、『成』は戊部、「戉」は戉部と説文解字では分かれている。
漢和辞典では総じて「ほこ(長柄の武器)部」なんだろうけれど。
以上踏まえれば、「成」に「守る」的な意味はないと分かる。
ということで『城』は本来「城壁」を指すと言える。
>『盛』
「者」は「人物」に限らず「もの」や「こと」を言う。
でもここでは助字として使われているみたいだね。
穀物を器に満たした祭事の供え物を指している。
清代に書かれた説文解字の注釈に
「今人分平去。古不分也。如左傳"盛服"將朝。盛音成。」とあり、(""は付け加えた)
「今人分平去。古不分也。」は
「今(後漢代)の人は盛ん(平去)と分けるが、昔は分けなかった。」と読む。
漢字は発音で意味が変わる。「もる」はcheng、「さかん」はshengと発音する。(現在の発音)
"盛服"は華やかに着飾った衣服のことで「さかん」に当たる。
その後に「成と同じ発音」と書かれてある。
「成」は「もる」と同じ cheng と発音する。
つまり後漢の人は意味で「盛」を言い分けていたが
昔の人は同じ発音をしたということ。
左伝も春秋時代に書かれたが、左伝ではなく春秋本紀に「盛服」とある。
少なくとも孔子の頃には「さかん」という意味があったことははっきりしている。
「戦国時代から」というのは間違い。
>「盛(い)れる」と読み下す
訓読みにそんなのはないよ?文筆家が好むような当て字だね。
漢語解釈の日本語読みはどうでもいい。どうでも意味するところは同じ。
文句っぽいのは字統に対してだから。あしからず。
>>595 いやぁ、ちゃんと分析した学者の出してる本だし君の思い込みよりマシだと思うよ?
>左伝も春秋時代に書かれたが
しれっと定説の無い事を断言すんなよ
春秋左氏伝は春秋と戦国の過渡期、それも戦国寄りの時期に書かれたものだろ
あれを春秋時代の物と言い張る根性には恐れ入る
>訓読みにそんなのはないよ?文筆家が好むような当て字だね。
白川先生に言ってくれ
左伝は劉キン偽作説なんかもあるな。
これだと前漢末から新あたりまで時代が下る。
白川センセは無茶なこと言ってるなと思うことは俺も多々ある。
601 :
名無し三等兵:2010/02/25(木) 08:08:20 ID:UySCN2U9
文字学談義は楽しくてよいけど、スレの本旨からはずれてるね。
白川先生の説は金文や甲骨文から字源を探るというもので、
漢代の著述者がその字をどういうつもりで使ったかとは別の話だし。
>>601 城の原義がどーのこーのって話が元伸びてきたわけだし
漢代の定義以前の問題だがな
まあ、◆BO6way2NcQの書いた所を、非常に手短にしてポイントを絞れば、
結局の所、諸葛亮は本当に戦略家として十分な応変の才があったのか。
北伐という戦略上の選択肢はただしかったのか、そこに尽きるんだと思うんだが。
>>603 荊州といった穀倉地帯の奪還を重視していて、
且つ、その地域を維持できる国力が当時の蜀にあったかどうか考えれば、
答えが出てくるような。
字統をちょいと見てみたら思ってたよりまともだった。
説文解字の記述を挙げながら、自分なりの考えを書き、異論を唱えたりしている。
問題はこのスレで字統を元に語っている彼だと分かった。
>>598 なぁ、バカじゃね?
漢和辞典の著者達や古の学者達が研究してないとでも思ってるのか?
>>599 しょうもない。
著者とされる左丘明は春秋時代の人だよ。
春秋と戦国をいつで分けるか主に二説あるが問題ない。
それに君は"左伝"がいつ書かれたかに拘ってるが
左伝ではなく"春秋"に「さかん」とあるんだよ。本旨からズレている。
それにだな、これが肝心なんだが
>>594で
>字統を見ると「盛」に「さかん」という意味が付くのは戦国時代なんだと
と言ってるが、字統には「盛徳などは“列国期以降”見られる」と書いてあったぞ。
列国期を戦国時代と勝手に脳内変換したら駄目だろ。
それに「丁」は字形として作られてなかったとも言ってるが、
そんなことは書かれてなかった。
字統を読んで
>(『成』は)字統によると「戊と丁」ではなく「戈とh(こん)」という字だそうだ
字統はちょっと付会な感じがしたな。
なぜ戊とh(こん)ではなく、戈とh(こん)なんだ?
「丁」の部分が棒のように伸びているというのは分かる。
しかし「戊」の部分は「戈」の形ではなく「戊」の形だろう。
「戈」からなる「"戍"守」に結びつけたくて言ってるとしか思えない。
儀式の時、戈に垂れ飾りを付けていたと言うが、
その漢字ならちゃんとある。「哉」から□を取った字だ。「サイ」と読む。
「サイ」を部首にした字を作れば済むじゃないか。
「成」の甲骨文字に「丁」が無いと言うが、ある。
棒をわざわざ「h(こん)」と解釈せずに
「成」の「丁」は小さすぎて彫るのが難しいから略字的に棒状に書かれることもある
くらいに解釈すれば難しくない。
>>606 甲骨文じゃなくて金文を調査してるからじゃないの?
>>606 俺を変とか言うのは一向に構わんが、結局城が「壁そのもの」という事を示すものはなんもないぞ
壁を含む防衛施設全体を示す概念の一つだろ
三国志本文で城と言ったらやはり壁としての城ではなく施設しての文脈しかない
まあ全部完璧に精査したわけでもないので例外はあるかもしれないがね
まあ、城や壁の文字の成り立ちが解釈がどうあれ、
陳倉が我々が普通に「城」とか「城塞」とかでイメージするくらいに
強固な防御施設であったことは、第2次北伐の記述からは明らかだろうに。
大切なのはそこんとこだろ。
>>609 大切なのはそこじゃないだろう・・・。
>>580が言ってるのは、城という言葉が指すものが分かれば、
陳倉の現在地が分かるんじゃないかということ。
防御施設として強固かどうかなんて誰も問題にしてないよ。
◆BO6way2NcQが資料に基づいて、うんと西の陳倉鎮を、
それに対して、現状の地勢、区内の地名(北堡村、東堡村など)からは陳倉区こそ陳倉という「城」って説だわな。
で、郭淮が、北原を守りに出たのが、諸葛亮の作戦に致命的だったという点に着目して、
◆BO6way2NcQはうんと西の陳倉鎮の東方にある台地を、蜀軍は一軍をもって制圧しようとしたと結論づけた。
ただ、それに対して陳倉鎮と五条原の中間くらいにある陳倉区が、三国時代の陳倉だとして何が変わるかな、
◆BO6way2NcQの陳倉鎮の西の台地へアプローチしたかったという説が危うくなるだけだっだりするんじゃないか。
五条原を主力で占め、ほかの一軍をもって北原を制し、魏と異民族居住地域との連絡を断ち、蜀へなびかせる。
この戦略に基づいた行動を取られることを危ぶんで、
郭淮が先んじて北原を抑えたというのは、北原がさす具体的なポイントや
陳倉がどこでも史実として変わらないだろう。
◆BO6way2NcQは、ここから推理を膨らませて、実際に、諸葛亮はこの行動に出ており、
魏延がその一軍の将となり、諸葛亮の死病を知っていたために、積極的に北原制圧に出なかった…
と結論づけている。
命題の中心は、北原制圧という戦略は妥当なのか、郭淮に阻止された分派行動の将は魏延なのか、
魏延が諸葛亮の死病を知り消極的行動に徹したのか……てあたりじゃねえの。
580だが、611の通りの意味だよ。
>北原制圧という戦略は妥当なのか
それを軍事的に考察するためには、五丈原の位置は正しいとして、
北原の位置と陳倉城の位置がわからないと判断できないだろう。
陳倉城の位置は、その城のキャラクターが解ればおのずと解ると思ったのだけど。
>>608 字統の見解は
>>606で否定したが
「城壁を指す」ということは殆ど語ってなかったね。
じゃ、俺なりの見解を。
まず、武器の戈・戉・戊について
「戈」「戉」の金属部(金属とは限らないが)は、板のように薄く、
柄である棒に挟むか挿すかして固定していた。
例えるなら、未使用でまだ割っていない割り箸に名刺を挟んだような感じ。
「戊」は「ボ」「ボウ」と読む。ちなみに「矛」もボウと読む
「戊」は金属部の根本に穴が空いていて、その穴に柄を差し込んで固定した。
例えるなら、斧の刃が横に付いた鉛筆キャップのような感じ。矛も鉛筆キャップタイプ。
この様式から、「戊」は頭巾を意味する字(「月」似にた字)に繋がり、
同系の冒(=帽)に繋がる。よって戊・矛は「ボウ」と読む。
「盛」の甲骨文には「丁」にあたる部分が無い。
しかも「成」と「皿」は上下ではなく、左右になっている。
「皿成」、もとい「皿戊」と書く。
なぜ皿と戊で「もる」になるかと考えれば、
字統はその解を儀式に求めたが、俺は武器に求める。
戈・戉と戊の金属部を思い描いて比較すると、
板状の戈・戉に比べ、キャップ状の戊は
体積感とでも言うか、ボリューム感がある。こんもりしている。
こんもりと言えば、草木がこんもりしている事を「茂る」と言う。
「戊」をこんもりと意味づけると、
「盛」(甲骨文「皿戊」)は“皿にこんもりと食物をいれる事”になり、「もる」になる。
ちなみに「戊」の字には「しげる」の意味が実際ある。
日本語の「もる(も+する)」の「も」は「戊(ボ)」に音が近い。
もしかしたら、遙か昔、中国では「盛」を「ボ」と読んでいて、
それが稲作と共に日本に伝わったのかもしれない。荒唐無稽だがその可能性はゼロではない。
その後の甲骨文で、左右だったものが上下になり、より「皿に盛る」のイメージに近くなった。
金文期になり、「盛」に「さかん」の意味が派生すると、
「つよい・さかん」を意味する「丁」を「戊」に加えて「成」の字を当て、
「盛」の上部が「戊」から「成」になった。
それと共に読みも「ボ」から「セイ」に変わった。というのはどうだろう。
ここで思ったが、「丁」の源字、甲骨文の「□」は単に釘を上から見た象形ではなく
「てっぺん」の意なのかもしれない。
現行の解釈でも指しているのは釘のてっぺんの部分。
壮年の男子という意味もあるが、働く者としててっぺんの時期に位置する。
「□」の形は、他の字の中で国やむらを表す字として使われる。
国やむらのような共同体は所属する人間にとって天辺の存在だ。
また「丁」には南の意味がある。南は太陽が天頂に達する方角だ。
「丁」を「てっぺん」と意味づけると、
「戊」=「しげる」という“伸張”が「てっぺん」に来る、
つまり「伸張が最高点に達する」となり、→「完成」となる。
完成されたものはそれ以上成長しない。つまり伸張が最高点に達している。
それで「戊」(しげる)+「丁」(てっぺん)=「成」(完成)となる。
「盛」の発音は「成」から来、「成」の発音は「丁」から来ている。
また「城」の発音も「成」から来ている。
発音と言えば、「正」=「征」の発音はその甲骨文の一部「□」から来ている。
同じく甲骨文が「□」の形の「丁」にはその発音がある。偶然ではないだろう。
「城」が「城壁」の根拠
簡単に言えば漢和辞典に第一義としてそうあるから。
「土庸(ヨウ)」という字があり、説文解字に「城垣也。」とある。
注釈で「傳曰。ヨウ、城也。ッ高。以作爾庸。傳曰。庸、城也。庸?古今字也。」
これも一応根拠になるかな。
字形から考えるならば、
「城」の古い字には「丁」がない。
「[楼閣]戊」と書く。つまり「楼閣がしげっている」。
このように、昔の字は城壁の形容でしかない。
時代を下って「土成」と書かれるようになる。
当時の城壁は土を盛り固めて作ったものだったからだろう。
>>619の「庸?古今字也。」
「?」は「土庸(ヨウ)」
ここは、最近の頭が腐ってる蜀マンセー患者が妄信的に荒らしてる三戦板住人がいなくて
よく考察しているスレですね。平和っていいっすね ^^
陳倉鎮が陳倉だとしたら東西に流れる川は、当然西から東にがれているんだろ、
陳倉鎮の下流で川の合流点があって、合流する側の川のほうが上流に向かって
繋がっているんだけど。
陳倉城がピュアな軍事施設だったら、こんなところに防御施設作るものか?
生活の場だとしたら、北側の圧迫する高地や川の流れからすごく不便な気がする。
まあ川の流れもどっち向きか、ようわからんのだけど。
>>624 「曲逆」みたいな例もあるから我が国の常識だけでは判断が難しい。
いやいや、地形図で等高線見れば分かる
地震一発で地形なんざ簡単に変わるからなぁ…
確か諸葛亮死んでから三国時代に1回でかいのあったよね
あそ 大変だね
勇者求ム。
誰か中国版知恵袋で訊いてきて
−−−−−−−−
三国志的陳倉 何処?
現・金台区 or 現・陳倉区 ?
地元民or訪問経験者的回答歓迎!
−−−−−−−−
で、ここにそのURLを貼ってみんなで成り行きを見る と
我欲確実情報
>>623 陳倉鎮のあたりは、渭水と北側の急斜面が接近して、極めて狭隘な地形。
で、渭水沿いに街道が走ってたわけだろ。
人の流れをコントロールするには、いいポイントだよ。
東西に柵なり、壁なりを置いて、抜かりなく人さえ配置しておけばいいんだから。
大昔に関所がわりに亭がおかれて、それに付随するように、人も住み始めたんじゃないかな。
軍事的にも守りやすいと思うぞ。
四面を包囲したとしても、南面は渭水。
で、繰り返しになるが、東西はけっこう狭隘。
北面は急斜面。
東西南北、どっちから進軍してきても、展開が面倒だと思う。
意表を突ける攻め口はやっぱり北の急斜面からのアプローチだろうけど、
南側に本拠を持つ勢力だと、一旦、渭水をわたって北へ突き抜けてから、
台地の上に展開しなけりゃならん。
兵力の質量しだいのところもあるが、攻略は難しいと思うよ。
加筆修正
−−−−−−−−
三国志的陳倉 何処?
現・金台区 or 現・陳倉区 ?
地元民or訪問経験者的回答歓迎!
我欲確実情報
−−−−−−−−
陳倉を陳倉区とするだろ
そうすると、諸葛亮は陳倉城を攻める必要はない
故道の出口はどこかはっきりしている
(
>>560の地図で「古大散関」で検索してみ。一発で出る。それから少々縮小。)
蜀は秦嶺の向こうの地を得て
そこに要害を築いて橋頭堡とすれば、秦嶺越えの難を解決できるのだから
それこそ陳倉鎮の場所に堅城を築けばそれが叶う
魏にとっても蜀にとっても戦略上重要なのは陳倉鎮の方ということになる
陳倉区に何か防御施設的なものを置くとしたら、
それこそ、三国志より後の時代じゃないのかな。
しかも、区内の村名の「堡」。これは橋頭堡とか堡塁とかをイメージさせるが、
むしろ野戦築城施設であり、恒常的な壁をイメージさせるものじゃないとおもーてみたり。
案外、皇甫嵩伝に出てくる陳倉城が陳倉区で
カク昭が築いた城が陳倉鎮だったりして。
上城、下城というのは「上り」「下り」の上下で
都に近い方を「上城」とした とかね。
つーことで、誰か
>>632(
>>629)ヨロ。
納得した。陳倉鎮が陳倉城の可能性が高い気がした。
荊州
孔明たん
諸葛亮が頑張っても、全て曹叡の思惑通り
そして、曹叡の読み通り諸葛亮の死亡
当時の魏の軍事力は素敵
641 :
名無し三等兵:2010/04/12(月) 19:22:38 ID:omQ+SHoW
>>515 劉備は現代なら地方帝国大学の落ちこぼれという感じだな
学友の公孫サンは役人として成功して孝廉に推挙された秀才だから地方帝国大学から国家一種に受かったエリートといったところだろう
公孫サンは勉強もできたけど武勇も当代随一で文武両道だったけど、エリートや身分の高い人物を嫌って商人や占い師と仲が良かったらしい
642 :
名無し三等兵:2010/04/17(土) 21:53:31 ID:fdZp3Hjo
魏についていえば物々交換が主流だったのは事実
歴史上も悪名高い董卓銭は鉄製貨幣で、価値が低い粗悪品。丸くて穴のあいた円形だから見た目がひどい。
そんなのが魏の市場貨幣を駆逐していた。
董卓銭は大量にあるのも問題。中原は森林荒廃で200年以上再改鋳するための燃料がなかったから
魏、晋とも何の手も打ててない。 全てトウ卓の悪政のせいだが、ハイパーインフレになすすべもなく
その点、蜀は鋼材資源豊富だったから、劉巴の貨幣制度改革で物価は安定してた
でも軍事力では魏が圧倒なんだよね
蜀なんて足元に及ばんぞ
蜀なんて山ばかりの僻地だから。
人口も少ないし日本で言うと青森、秋田、岩手と関東徳川255万石ぐらい差があった。
645 :
名無し三等兵:2010/05/06(木) 03:02:11 ID:S1pr2G4W
蜀は人口めちゃ多いよ。後漢書郡国志見れ。
面積が大きいので密度は大したことないけど。
>>645 >郡国志
益州も多かったけど、三国時代の100年昔は全体的に多かった
豫州一州に1100万人くらい住んでたり
三国時代の人口は戦乱の影響や軍閥が割拠し
統一国家が無いとか理由で正確な統計は
よくわからないということでいいんですか?
いいんです
一説には「漢民族」は700万人まで減った、なんて話もあるもんねぇ
各国とも塞外民族を引っ張ってきてるから更に実数は不明に。
「純粋な古代からの血統でないと漢民族とは認めない!」って話になると、
日本なんて大和民族ほぼ全滅にならね?
651 :
名無し三等兵:2010/05/16(日) 11:10:36 ID:1E3gYNC7
山を越えて進撃するなど、インパール作戦に等しいな北伐
インパールと違って、屯田や輸送用具開発なんかで兵站にはそうとう気を使ってたけどな。
それでも国力の差は覆せない。
全盛期の蜀の総力を挙げても漢中を落とすのがやっとだったのに、
そこから更に北伐ってのは無謀以外の何ものでもないよね。
ましてや夷陵で劉備を始め主軸の将兵が壊滅したのに。
>>653 対応した連中も優れてたから防がれただけで蜀の北伐自体は結構成功の見込みある
一回目は孔明が人選誤まらなければ行けたかもな。
法政が生きていたらあんな無様な敗戦はしなかっただろ。
第2次以降はもうダメダメ。
なんだってそうだよ。こういうのは最初で成功させなきゃ相手もガチガチに守り固めるし対応策も練る。
もしドイツがアルデンヌに失敗してたらフランスは落とせなかったか相当犠牲と時間かかった。
昭和16年12月の真珠湾、フィリピン、香港、マレー上陸作戦も失敗に終わってたら日本の南方快進撃も無かった。
656 :
名無し三等兵:2010/05/19(水) 08:51:35 ID:YrHL0mMF
蜀は防御に徹していれば良い土地なんだが・・・。やはり劉備の遺言かね。孔明の執念は。
慎重すぎたね。まぁ国力考えたら一発逆転よりも安全策とるのは解るが・・・。
仮に第一次でそこそこいけたとしても、国力が段違いだからいずれ潰されるよ。
三国時代だって、戦争は国力と兵站に左右されるという原則はかわらない。
>>657 国力と兵站に左右される原則は変わらんが
万が一、蜀が関中以西を抑えた場合、魏は司隷から眼と鼻の先の関中攻めるのに峻厳な山々を越える必要がある上に
漢水方向も警戒しないといけないので長い前線を維持する必要に迫られる
兵站の維持で苦しむのは魏
しかも長期化すればするほど関中の生産力は回復して手に負えなくなって行く
659 :
名無し三等兵:2010/05/20(木) 06:47:37 ID:4itu1fDP
>>658 それはないだろう。
魏の策源地に戦場が近く設定されるわけで、むしろ兵站面での負担は軽くなる。
戦線が長くなれば、動員力の劣る蜀が、呉を加えたとしても劣勢。
どうがんばっても破綻するのは蜀側だよ。
この時点で人口はじめとする国力に差がつきすぎているんだから。
>>660 魏は洛陽、南陽、襄樊、のラインで相変わらず守らにゃならんが
蜀の戦線は漢中の前線が長安に移動してもあまり変わらんぞ
関中の人口と隴右の生産力を考えれば、
かつて漢中で曹操がやったような強制移住政策でもやられない限り、
そこまで戦力は悲観するような差にはならない。
関中から強制移住で過疎化してる漢中に徙民出来れば結構行けると思う。
隴右の生産力はかつて秦が統一の原動力としたもの。
>>655 おいおい、強大なる大日本帝国と三国志ヘッポコ蜀と比べては困るぞ
とにかく、ヘッポコ蜀は長安を攻略できる手立てが無いし攻略する気もないしな
強大な大日本帝国って・・・
そこをツッコンだらいけないのが大人の事情。
北伐の目的は洛陽攻略の第一歩であるが
経済的に見た場合はシルクロードの権益の独占にあるんだな。
魏と蜀の潜在国力の差は6:1くらいだったろうが、
蜀は後漢末の戦乱の影響を受けてないから、
孔明北伐の時点では3:1〜4:1…動員兵力80万vs20万くらいだったんじゃね?
(夷陵の大敗がなければもっとマシだったのかも)
で、待ってると魏の国力回復のペースの方が早いから、
孔明としては、そうなる前に関中、可能なら司隷まで抑えたかったんだろう。
あと、国力が圧倒的と言うが、当時の技術ではなかなかそれを生かしがたい。
当時の通信・指揮の技術では、10万人以上の兵力は兵站に負担をかけるだけだろ。
略奪行軍で戦術的に不要な機動を強いられちまう。
(中世欧州では、4万3千がベストと言ったのは誰だっけ。あと、謙信公は8千で十分、とか。)
10万vs10万の野戦で、魏を圧倒できる戦術優位があれば、
(実際には無かったわけだが)
あとは順番に出てくるのをなぎ倒していくだけだろ。
3つも勝利を得れば、味方には必勝の信念ができるし、
敵は逃げ腰になって、流れも味方してくれる。
蜀の人口90万で20万も動員したら国が破綻するわ。
動員数は人口の1/13ぐらいか妥当。
夷陵の戦いも蜀の動員数は4万ぐらい。
よく前漢の人口が多いから三国時代も多いと思ってる奴いるが
後漢末期は乱の多発、天変地異、トウタクの横暴で激減してる。
668 :
名無し三等兵:2010/05/23(日) 17:08:47 ID:7X3Atf6x
中原から逃げてきた人も多いからむしろ90万以上いたんじゃ?
いや実数なんて知らないけど。
蜀は史的記録がほとんど無いので、90万というものがどれほど正確なものなのかは解らん。それに奴婢が含まれているかどうかも。
確実なのは兵の多くは徴兵による物ではない豪族の私兵なので90万の中に入る訳じゃないということと、
魏晋時代の研究では三国全体で、軍屯民屯含めた屯田が計算に入っていないことは確実と言われている。
また、後漢末でも董卓の乱の少し前辺りが後漢の人口調査上の最高値で全土に5600万程度。
それでも殆ど豪族に対しての田地&口数調査は曖昧になっており、
十分の一税が実体は百分の一税になっていて豪族が抑制されてない、税が軽すぎると『政論』では批判されている。
つまりこの時点では統計よりさらに多いと見られる。
更に、董卓の暴政の影響を受けるのは三輔地域の人間と貨幣を主に使う交易者であるのだが、
当時の交易者の中心というのは豪族であり、豪族というのは、漢の貨幣経済の衰退の一因となったと
言われることでもわかるように、基本的に一単位で自立可能な体制をとっている原始的コングロマリット
とでもいうべき存在であって、田地と私兵を数多くを抱えているので、平時はそもそも貨幣流通を
富を増やすため以外にはとりたてて必要としていない。
また、後漢というのは基本的に豪族連合政権であるが、現在の説では前漢と違い一人で国家と伍しうるような
大商人が居らず、そのかわりに各地に豪族を中心としたヒエラルキーを形成していたと見られており、
そのヒエラルキーに乗っかっていない貧しい自作農が多く残っていたとは考えがたく、
仮に居たとしても豪族に小作農或いは奴婢として吸収されたであろうし、大規模人口減少の要因とするには少々弱い。
乱世に突入しても曹操ですら豪族に妥協してさらに減らし、百二十分の一税にせざるを得なくなっていることから、
当時の田地&口数把握は全土的に後漢より酷いことになっていることは明白。
また実際この時代は六朝貴族制の引き金となっていることから、
地方勢力の実質的逃戸というのはかなり多いものとなっていると見て良いように思う。
演義ならともかく、正史では質的にも魏のほうが上。
蜀が勝てる要素がどこにもないからな。
671 :
名無し三等兵:2010/05/25(火) 03:07:34 ID:FpIzSJbq
質ってなんだよ?wだが、
鉄の豊富さによる武装度や孔明の火力重視とかで蜀兵は強いんじゃねーのというのが一般的見解じゃね
孔明が指揮する野戦軍と同数程度で正面から当たれば粉砕されちゃうだろ
まぁ、そんなに強いなら五丈原で渡河した孟エンの小勢くらい簡単に駆逐してくださいよ
>>671 >一般的見解
ないない。そりゃゲームか何かじゃないの?w
当時の産鉄・軍馬を産する土地を押さえていたのも魏だよ。
現実に蜀は勝てなかった。
劉備存命中は実戦に関わらなかった孔明が、わざわざ出張って戦闘指揮取らないといけない人材層の薄さも致命的だな。
あと内訌。李厳が保身のために嘘を言い立てるとかもね。
>>672 軍馬の産地はともかく鉱産資源の多くは蜀呉の領域に産地があるぞ
特に鉄は巴蜀に産地が集中しており、魏が抑えてる鉄の産地は他二国に比べるとあまりにも心許ない
蜀呉同時がかりでも魏は小揺るぎもしなかった史実があるからな。
鉄といえば卑弥呼が魏から送られた鉄剣なんかが日本とかかわりあるが、
豊かな中原・強兵として知られた北方民族や青洲兵を抑えた魏の力が突出していた後だからな。
>>671 蜀兵のモラルは、中国史上珍しいくらいレベルが高い気がするなあ。
略奪もしないし、戦に負けても指揮官の言うことを聞くし、整然と退却するし。
まずまず平均的な魏の兵士は上回ってたんじゃないの?
特に、姜維配下で剣閣に篭った1万−2万?の兵士たちについては、
軍事上の偉業である、山越えの遠征と撤退を何度も行っている訳で、
そのモラルと練度は、ハンニバル配下のベテラン傭兵1万に匹敵したと思う。
それでも、平均的魏兵に対する戦闘効率は、せいぜい1.2倍〜1.5倍くらいだったろうが。。。
魏軍の方も、北伐の相手をすることで、かなり経験つんでたし。
魏の軍事的優越性は大兵力によるのになんで武装の質だと言い切るのか理解できんな。
蒲元が神刀作ったという記述はあるが、魏だと馬鈞がカタパルト改良したくらいの記述しかねーな
あと、蜀は弩兵の精鋭部隊がいたりして珍しい
数も装備も上回ってるのに、キ山でボコボコにされた司馬懿、張コウはザコ過ぎだろwww
その雑魚に蜀軍は何度も負けて、戦略上も挫折させられたんだけどな。
一回の局地戦を絶対視させる詭弁なんて通じるはずもないのにw
郭准の少数の軍に腰が引けて劉備本軍がベン水渡河を断念したとか、やはり少数の徐晃の奇襲で大損害食らったとか。
そういう局地戦の話をして魏を強い、といってたのなら蜀贔屓と同レベルだけど違うからねぇw
史実は変動不能。三国志演義の影響で蜀贔屓って病気入ってるからなー。
>>679-680 お前ら文章の癖がすげぇ似てるよな
ここ数日似た様な癖を持った奴のレスを三国志関係のスレ方々で見るんだが
そういう文体流行ってるの?
>>679-680 魏ヲタの良いところは、魏側の事ならなんでも実質より美しく見えるところだ
幸せだね〜
ま、魏は蜀に負けダメージをうけたのは夏侯淵が破れ漢中を奪われた一戦だけ
他は十分に防いだよね
しかも、曹叡の代は呉をも相手にしなきゃならんかったし
鳥丸や鮮卑も一部あるけど
>>683 涼州二郡を奪われてノーダメージなわけがないけども
戦国時代で例えると1582年の織田800万石と毛利135万石ぐらい差があるわけだろ。
呉が北条200万石として両方と戦っても織田は楽勝だったのと同じで魏は楽勝だったんちゃうんか?
しかも蜀には人材がいない。
しいて言えばキョウイだが一人じゃ無理だ。
おまけに宦官がはびこって腐敗してるし蜀が勝つなんてどーやっても無理だと思うね。
大村益次郎クラスの戦術の天才でも現れればまだ可能性はあるがキョウイじゃ無理無理。
>>384 魏の不本意で二郡奪われようが、ちんけな諸葛亮はそれ以上に侵攻が不可能なんだから十分だよ
対蜀にせよ対呉にせよ魏のパーフェクトゲームだ
なんせ、強力な馬均の連弩と投石を配備しなかったからな
そうだね。対蜀対呉はパーフェクトゲームだね。
まさか内部で足をすくわれるとは思ってなかっただろうな。
うむ、それを考慮すると
呉>>>魏>>>越えられない壁>>>蜀
だね
司馬一族>>>>>>魏呉蜀
蜀は最弱だな
692 :
名無し三等兵:2010/06/29(火) 20:01:49 ID:+X+ZT3/G
真夏の行軍には諸葛行軍散が必需品だろう。
諸葛亮が考案した薬だ。
倭国はどうなの?
696 :
名無し三等兵:2010/07/27(火) 20:15:32 ID:YT2Ap0SF
三国志時代は鉄器武器は使われてましたか?
秦の時代から鉄器武器は普及しているよね。
地域によって違う。
鉄製武器は戦国時代の楚国では普及していたが、中原は青銅製武器。
鉄製武器が青銅製武器よりも性能的に凌駕するようになったのは前漢末期あたりだろ。
戦国末期の人口爆発の一大要因が鉄器による農作物増産なのに?
700get!
>>699 ふーんそうなんだ。
ソースよろしくね。
『漢代都市機構の研究』(汲古書院2002年)ISBN4-7629−2538−6
魏
>>702 アホ。
タイトルだけじゃなく本文も抜粋するんだよタコ。
本文を勝手に抜粋した場合、
無断引用に抵触する。
そもそも史料を提示された場合、
提示された場合がその史料を入手して、
自分で読む責任と義務が発生する。
>>705 著作権法で認められてる条件をこえない限りは
引用してもいいんだよ
>>707 著作権法で認められてる条件をまず提示せよ。
それをクリアしても、
>>705氏の指摘する後者の部分、
「そもそも史料を提示された場合、
提示された場合がその史料を入手して、
自分で読む責任と義務が発生する。 」
がある。
著作権法くらい誰でも簡単に調べられるんだから
他人まかせにしないで自分で調べろよ
責任だの義務だの言うんだったら
最初からソースも言えないような発言すんなっての
>>709 市販されている本くらい誰でも簡単に調べられるんだから
他人まかせにしないで自分で調べろよ
責任だの義務だの言うんだったら
最初からソースも言えないような発言すんなっての
…凄いのが湧いてるな。
>>699 に向かって
>ふーんそうなんだ。
>ソースよろしくね。
程度の認識なんだから、
義務教育程度の教科書すら満足に読んでないんじゃないかな?
公表された著作物は、引用して利用することができる。
この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、
かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
要件
ア 既に公表されている著作物であること
イ 「公正な慣行」に合致すること
ウ 報道,批評,研究などの引用の目的上「正当な範囲内」であること
エ 引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること
オ カギ括弧などにより「引用部分」が明確になっていること
カ 引用を行う「必然性」があること
キ 「出所の明示」が必要(コピー以外はその慣行があるとき)
>>707 漢代都市機構の研究は入手困難且つ中古でもそれなりに高価なのでそうそう手に入らないし
>そもそも史料を提示された場合、 提示された場合がその史料を入手して、自分で読む責任と義務が発生する。
お前、資料提示してないじゃん
だって漢代都市機構の研究という本のどこに書いてあるかも不明なのに
提示ってのは「どの史料のどのページの何行目にどういった記述がある」と具体的に示すもんだよ?
そんな常識も知らないの?
>タイトルだけじゃなく本文も抜粋するんだよタコ。
>そんな常識も知らないの?
この文章だけで笑えるな。
>漢代都市機構の研究は入手困難且つ中古でもそれなりに高価なのでそうそう手に入らないし
研究の場ではそんな泣き言的言い訳は全く通用しない。
そんな常識も知らないの?
つーか、お前ら両方とも恥ずかしくないのか?
>>701 鉄器によりそれまで困難だった森林地帯の開拓とかが簡単になり
至る所に新しい農耕地、集落ができたが、諸侯は従来の体制ではそうした新開拓地を統治することが出来なかった。
そうした状況下で法家を始めとした様々な政治改革が行われ、その中でも秦の改革は圧倒的で
結果として他の六雄を圧倒することが出来たとか何とか。
記憶は定かじゃないが西嶋定生あたりが書いてたと思う。
ソースになるもん探してきますわ。
ってか
>>702の態度はあんまりだろ……
研究の場にしても脚注ぐらい付けるし、正統な手続きに則ったやり方で引用ぐらいするし、で
まじ
>>714は意味不明。
しかもここは軍板であって、大学や研究所のように汲古書院の出版物示されたってそう簡単に手に入ったり
閲覧できたりする人ばっかりが集まってるわけじゃない。
そこら辺の判断すら付かないような奴に研究云々言う資格はない。
本当何なのコイツ。
それから史料を読む責務が発生するとか言ってるが、
>>702は史料じゃないだろ……
提示されてもない史料を一体どうやって読めっての?
>>705は。
書名で検索すると流通経済大学の教授のサイトが引っかかったが
春秋時代に鉄製農具が普及してたこと自体は肯定されている。
716にある西嶋定生の下にいた平勢隆郎も同じスタンスというか
鉄製農具普及は前提みたいな感じで書かれている。
あと712には入手困難とあるが出版社のサイトによると品切れではないっぽい。
ただ目次を見るに該当箇所は直ぐに分かるだろうから
近くに所蔵する図書館があるならそっちの方がいいと思う。
戦国時代に鉄製農具が使われていた事に意義を唱える人はいないし。
そんなのは高校の教科書レベルだし。
ていうかBC4Cあたりにはふいごが発明されていて溶解鉄を製造する技術が確立していたし。
そうでなくて武器としては戦国時代はまだ青銅が中心だってこと。
レヴェル低すぎワロタ
発掘史料の写真で韓の青銅武器とかは結構見た記憶あるな。
まあ読んでて気が付いたけどこの論争どっちもどっちだな。
介入せん方が良さそう。
農具に用いられてて武器に用いられないなんてありえないと思うけどな
>>722は何故青銅が中心だと思うの?
秦が技術的に立ち遅れてはいたから確かに秦は青銅器時代なんだけどもさ
中原諸国や斉なんかは早々に鉄剣の鋳造してて結構出土してるよ
一番古い鉄剣は西周時代のものが出土してる
単に秦が採用してなかったので中心ではなかった!とか言うつもりではないよね?
呉越春秋に出てくる有名な干将・莫耶とかも鉄剣で
既に戦国時代には高価で献上品として認められるものであるということと
一般の鍛冶屋でも技術的には鉄の剣を作れるということが書かれてるわけで
「鉄剣とは高級品であるが作れるものである」という認識がないとこの物語は成立しない
ってか漢代の製鉄ブームなんてのは古い時代からの下積み無しにはありえないわけで…
韓非子には剣の精錬の譬えに銅と錫の混合比を持ち出しているわけで
そのぐらい戦国時代の末期の中原は青銅製武器が中心だったんだよ。
韓は三晋の一つで技術や文化は中原そのものだ。
それを否定したいなら勝手に言っていれば?
製鉄がその時期に広まりつつあって農具やら武器やらに利用されてたこともまた事実じゃね?
鉄製品はまだまだ高級品ではあったので、武器は宝剣として扱われる程であったと
農具は耕作能率を向上させるから高級でも真っ先に買うなり作るなりするだろうし
教科書レベルで史実認定されてるならよっぽど確定的な証拠でも出してこの
時期は鉄製農具なかったって断言でもしないとダメだよ
728 :
名無し三等兵:2010/10/23(土) 21:02:56 ID:ZaCpAANV
少なくとも後漢にはいると青銅のほうが高級品
2010/11/17 27:45〜28:15 テレビ東京
最強武将伝〜三国演義第5話「董卓の最期」
王允と李粛の計画は順調に進む。呂布を虜にした貂蝉は、董卓をも惑わす。王允が設けた接待の席で、董卓は貂蝉を見初める。
舞台は今から1800年ほど昔(183年〜280年)の中国。「漢」の末期から次の「晋」という国ができるまでの間の戦乱の時代である。内政は腐敗し、人民は飢餓に苦しんでいた。その荒れきった時代に中国大陸の覇権を握ろうと3人の男たちが立ち上がり、三国時代の幕が開ける。
出演
【[声]】 董卓…河原さぶ、王允…大石吾朗、貂蝉…木南晴夏、呂布…ささきいさお、李粛…菊田大輔、李儒…石塚義之 【ナレーション】鹿賀丈史
>貂蝉…木南晴夏
冗談だよね?本当に冗談だよね?
ごめん
誤爆誘導した
呉の政権が晋の司馬政権の猛攻に耐えかねて、
倭に亡命して来ていたらどうなっていたのだろう?
神武東征が孫氏東征になるだけだろ
では、その「神武」は一体誰なんだ?w
当時の航海技術じゃ台湾が精一杯だろ
>>736 呉は正史の記録でも倭に遠征しているんだが?
今の沖縄諸島沿いにそって艦隊を派遣したのだろうけどさ。
そのようにやれば、九州沿岸にはたどり着けるだろうに
>>737 遠征したのは「倭」じゃなくて、「亶州」じゃなかったっけ?
で、「亶州」が何処かって説で、台湾説と沖縄説が有った
ように思うんだけど。
>>738 基本的に沖縄説が有力。
それに風・海流のことを考えると、
季節さえ誤らなければ、
日本に辿りつく。
辿り着けば、馬と鏡と兵法で蛮族を征服?
呉の技術力高けー
この頃の鎧甲って現存する現物ってあるの?
映画やらアニメでの表現って、信憑性はどの程度あるの?
age
>>742 漫画で着てるようないいもの着てないって。
日本の戦国時代、刀じゃ鎧に防がれて殺傷能力全然無くて使い物にならなくて槍が主流になったのに
遥かに後の時代の明の兵士は馬の皮着てて刀でもスパスパ面白いように切れたって記録に残ってる。
まぁ向こうは大砲とか騎馬だけの本当の騎馬隊とか日本より優れてるところもあったが鎧はウンコだよ。
一部の兵以外はキングダムの飛信隊みたいな格好だったんだろうな。
日本刀は凄かったらしいな。
明の槍を柄ごと斬り落としただの棒きれにしてしまうほどだったとか。
三国志
中国の剣もヤバイ。
大量生産の鋳型製ゆえ日本刀と打ち合うとあっさり折れた。
剣道みたいな剣で払って反撃するような技は使えない。
やると貫通してそのまま斬られるw
兵制について語らないか?
>>739 日本も奇襲用のドラを用意しとかないとな
750 :
名無し三等兵:2011/07/27(水) 23:52:57.50 ID:q6HbHry8
呉のしぶとさはパネェ
中国史の兵力を見てると兵站がどうなってたのかがいつも気になる
兵站を見るのに必要な兵員数も誇張が多いって言うし、分からないよな
そこで木牛ですよ
一つ、マジ質問があるんだけど
鶏肋って旨いの?
鶏肋の料理を今でも出してくれる中国料理店が、
日本でもあるの?
明の時代でさえ20万餓えてるのに100万とかありえねぇ
三国志より遥かに後の900年後のモンゴル帝国って兵数少ない
6万とかで東ヨーロッパ行って暴れまくってんの。
中国は桁1個多いんだよな
時代が古いほどテキトーになるのは必然だな
>>754 鶏肋って鶏がらのことだよ
出汁はうまいし、こびりついている肉もうまい
>>755 曹操軍なら官渡の戦いで7万、赤壁で推定15万だが
かんとで思い出したが、たった7万しかいないのに、自軍の守備範囲が数十kmと広かったり
スケールが違うよね、なんでこうなるんだが
>>757 鶏肋を使用(最終的に出された料理の形態でも肋の骨が入った状態で出て来るという意味で)
の代表的料理は何でしょうか?
>>760 骨そのものを食べる料理があるとは聞いたことが無いな
>>759 官渡戦は黄河を挟んでの対陣で、攻防戦の中心は「津」だった。
津とは大規模な船着場と倉庫のことで渡し舟の集積所でもあり、
重要な物流インフラで、ここを抑えないと進軍できない。
よって、両軍の布陣は津に守備兵を置き、後方に野戦軍を配置するのが基本だと思うな
最寄の都市群は例によって城砦都市でもあり、地元の人間を守備兵として使っただろう
ということで実際に野戦軍が守備している防御線の距離は短いのではないかと思う
官渡は曹操軍の数を実際よりずっと少なく書いてるだけらしい
裴松之曰く
青州兵何処行っちゃったんだよって俺も思ったな。
中国って勝った王朝に都合のいいこと書く風潮あるから実際官渡は曹操軍の方が数が多かったかもしれない。
数で勝ってて勝ったより劣ってるのに勝った方がかっこいいからな。
それ考えると信長はえらいよな。
ちゃんと負け戦も正直に残させてるから。
20万人を養うために毎日専用道路で昼夜も夜も食料を満載さいた
馬車が走ったりする・・・考えただけでも胸が熱くなる。
実際どうなの?河川や運河を使って舟で食料を運んだんでしょうか?
基本現地調達と豪族達自分で用意しろ
アメリカと蕭何ぐらいのもんだな。
後方からどんどん物資送ってくれて前線の指揮官が戦闘に集中できたのは
万単位で現地調達だと、進軍ルートも非常に限定されるな
飯があるところを順に回っていく感じで
>>765 水運が中心だと思った
官渡で曹操軍が勝利し袁家支配領域を制圧するために運河を整備したぐらいだし
時代は遡るが漢楚の戦いでの劉邦軍の行軍ルートは河川沿いだったし
そうやって考えるとすべて効率の悪い陸路で輸送しなければならない
諸葛亮の北伐軍の補給は困難極まりないな
諸葛亮も李厳にめちゃくちゃ困難な補給担当やらせて首にしちゃったからな。
名将李厳を首にするなど宝石をドブに捨てるようなもん。
ただでさえ蜀人材少ないのにアホすぎ。
もし北伐で大敗してたら諸葛亮もムッチーなみの無能の烙印押されてたかもしれんな
>>768 そう考えると案外ショウエンの漢水下ってのジョウヨウ攻撃は実行したら上手くいったかもな
そこから呉共同でハンジョウ落として許都狙えたかも知れん
>>765 夏侯淵の軍歴の前半は輸送部隊の指揮官と実戦部隊の指揮官の二束の草鞋
三日五百里といわれた超速を誇ってる時期はモロに輸送部隊
この時期なら馬車をガラガラやってんじゃないかな
夏侯淵は正史でもバリバリの名将だが夏侯惇は全然これと言った活躍が無い
でもゲームだとものすごい能力値
隻眼って強そうだもんね。
袁術が全土統一していたらどうなっていただろう?
夏侯惇は曹操が一番信頼していた武将だからな
曹操の眼に適うとあればやはり名将なんだろう
惇兄の能力は戦闘指揮よりも諸将間の調停で発揮された、みたいな話をどっかで見たことがあるな
曹操はオハイオ級
777
袁術統一の可能性は3点さえクリアできれば少しだが見えてくる
孫堅の偶発的な戦死、匡亭敗戦、それから197年の旱魃
まあ、一時は最大勢力だった事もあるからね