夏侯尚との仲は良かったというけど孟達を客として遇してたのか本当にダチだったのか
どっちなんだろうな
そして生まれる鎮北将軍孟達
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/21(火) 17:35:01
あげった
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/21(火) 18:22:15
90年代中盤頃までは風呂やシャワーのカタログに裸の女性モデルが写ってるのがあった。
後ろ向きのやつが多かったんだが中には前向きでおっぱいが写ってるのもあった。(オークションにでも出品されてないかな?)
それに新聞に折り込んであった生活の知恵の事とか書いてある別冊の小冊子(朝日家庭便利帳みたいなやつ)にトイレの広告が載っていて横向きの全裸の女性モデル(顔は写ってなかったと思う)が便器に座ってるのもあったな。
あとはそういう小冊子にはバストアップできる器具(胡散臭いと思われるやつ)の広告も載ってたこともあった。
それは水着つけてるのとかが多かったんだが中にはある器具を使えば短い時間でバストが上向きになるとかいうやつがあっておっぱいの写真を使って実演方法を説明してた。
乳首はその商品のブランドマークの印刷で隠されてた(当時は実際の乳首ういうシールでも張ってるのかと思った)が当時はエロ本も見れなかったから興奮した。
【三戦板之序列】
┌学徒閣下┬最高顧問―新党党首┬新党副党首―党首代行─幹事長─三元老─七奉行
│ ├八大英雄 . └征夷大将軍
│ │
│ │
│ ├ロコ家
│ ├婿家
│ ├魔玉家
│ ├斯波家
│ ├八戸家
│ ├ぴよ家 ─┬戸田家
│ │ └コロ家
│ ├メディシス家
│ └金王家─┬可児公家
│ . . . . └聖臣公家
│
├─────蛮王:ロコ皇帝(ロコモティブ)
├─────蛮王:三戦板天皇(クマッタ)
└─────蛮王:可児大帝(可児麿)
906 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 12:53:59
あげあげ
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/13(木) 00:26:39
蜀の武将って言ったら個人的には趙雲が最初に思い浮かぶな。
関羽とか張飛ほど目立たないけど男らしくてかっこいい。
子供のころは張飛とか馬鹿じゃん、関羽趙雲かっこいい!
今は張飛が好きで仕方が無い。
>>907 「趙雲別伝」が曲者だ。趙雲のかっこいいイメージの8割はここから来てる
>>908 関羽と違って頭使って敵に勝つ逸話もあるんだよな。
でも死に方で損してるよね
死に方で言えば三兄弟みんな頭悪いよね。
次兄→同盟国の君主を侮辱したのちその方面の防衛を削減
末弟→警告されていたのに部下を虐待して殺害される
長兄→反対を押し切って出陣、戦術上の禁忌を犯して大敗
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 10:08:42
>>908 馬鹿な張飛が好きなの?実は賢い張飛が好きなの?
単純な張飛が好き
なにげに馬岱が凄いと思う
>>914 晋書宣帝紀によれば235年に魏を攻めて撃退されているけど,
その後の事跡って残っていたっけ。
916 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2011/02/26(土) 23:33:38.65
街亭の戦いから、蜀における「軍」の規模と街亭における馬謖軍の数が分からないだろうか?
あの戦いでは、名前が見える限り、
・丞相参軍 馬謖
・裨将軍 王平
・将軍 李盛
・将軍 張休
・将軍 黄襲
が参戦している。
他に陳某が馬謖の参軍として参戦していたともされるが、丞相参軍の参軍とは何だろうか?
それはともかくとして、彼らの内、率いた兵数が明確に分かっているのは裨将軍王平の千人だけである。
この千人と「裨将軍」を手がかりに何とかするしかないだろう。
裨将軍は何れかの将軍の副将であって、時代は不明なものの通典に載っている軍制によれば、
軍の半分の兵を率いる事となっている。
そして一方で偏将軍という存在もあり、偏将軍、裨将軍がそれぞれ左右の庶長に対応するという記述もある。
また、牙門将という将もあり、これは牙門を守る位置にある将であるから、必然的に中央の隊にある。
牙門と偏・裨将軍が「軍」に置かれていたとするならば、彼らが軍を三分し、それぞれ中央と左右を率いてたと推定できよう。
翻って王平の率いた兵数を見ると、これは千人である。
王平が牙門だったか裨将軍だったかは不明だが、これは軍の約三分の一の規模としても良いだろう。
したがって、一軍は約三千となり、それを中核として輸送隊等が付随する。
そう考えると、一軍というのは三千から四千の間くらいであっただろう。
街亭の戦いでは、上記のように三人の将軍がいる。
彼らの戦力を、先ほど算出した一軍の人数で当てはめると、九千から一万二千程となる。
更に、王平が馬謖を諌めていた状況を考慮すると、王平は他の将軍の下にあった裨将軍ではなく、
馬謖の下についていた裨将軍であったとも考えられる。
とすると、馬謖もまた一軍を率いていたのかもしれない。
そうなれば、先ほどの規模に更に一軍を追加して、街亭における蜀軍の数は一万二千から一万五千となる。
李盛や張休や黄襲なども、偏将軍や裨将軍だった可能性は?
偏将軍や裨将軍だった頃に、他の人物の伝に「将軍」として登場する人物はわりと多い。
>>917 それだと、李盛らの上に何らかの将軍がいたはずで、
その将軍連中らを差し置いて李盛らが処罰されるのも不自然だろう。
彼らは将軍だったとする方が自然に思える。
919 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/27(日) 00:09:26.86
>>918 ジョミさんに聞きたいと思ってたんだけど、
羊コ・杜預・衛カンらって記述にない戦にも参戦してると思いますか?
特に杜預・衛カンは蜀滅亡の時が初陣とは思えないんですがね。年齢的にも。
>>918 その上位の将軍に相当するのが、臨時に指揮権を与えられた馬謖としたらどうだろう?
三国時代ではあまりないけど、晋や南北朝なら参軍の資格で軍を率いた人物もいる。
あと、軍の直下の単位を率いるのは、偏将軍や裨将軍ではなく、校尉ではなかろうか。
三国の伝記を見て、将軍位の叙任者を比較すると、下位の将軍と偏将軍・裨将軍・中郎将あたりは、
率いる軍の規模や戦場での使われ方などの役割は大差がなくて、
称号と序列の違いだけに過ぎないように思える。
>>919 何らかの戦争に参加していなければならない合理的理由が無いなら、参戦しているとは思わない。
朝廷で官僚を続けていれば、戦争なんか参加しなくても出世できるしね。
彼らとは別だけど、ケ艾なんて40くらいまで地方の小役人だったんだし。
当初から軍人だったのでない限り、年齢の高さはさほど不自然さを持たないと思うよ。
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/27(日) 00:35:32.01
>>921 なるほど
では、戦慣れしてるのはケ艾と鍾会ぐらいだったという見方ですかね
本格的に蜀を滅亡させる為には、それなりの精兵と戦慣れのした将らが抜粋されて揃ってそうに思ったんですが。
三国志は孔明が死んでからの記述が雑に思えてならないです
>>920 その可能性もあるとは思うよ。
蜀でも太守が裨将軍を帯びていたり、呉でも拠点の督が裨将軍だったりする。
ただ、王平の件で言えば、裨将軍が将軍と同等だとするならば、千人では少ない。
千人では軍として、少なくとも戦略単位として機能させるのは困難だろう。
ふと思って李厳弾劾の上書を確かめたが、
行中護軍偏将軍臣費禕、行前護軍偏将軍漢成亭侯臣許允、行左護軍篤信中郎将臣丁咸、
行右護軍偏将軍臣劉敏、行護軍征南将軍當陽亭侯臣姜維、行中典軍討虜将軍臣上官雝、
行中参軍昭武中郎将臣胡濟、行参軍建義将軍臣閻晏、行参軍偏将軍臣爨習、行参軍裨将軍臣杜義、
行参軍武略中郎将臣杜祺、行参軍綏戎都尉盛勃、領従事中郎武略中郎将臣樊岐
偏将軍は多いね。逆に裨将軍は一人しかいない。
こうなると、偏将軍が左、中央に牙門、右に裨将軍という図式を当てはめずらくなる。
そもそも、この上書に牙門が出てこない。
>>922 杜預は鍾会の長史、衛瓘は兵千人を与えられていたものの、実際はケ艾と鍾会の監視役。
二人とも実戦における指揮の巧みさが要求される職じゃないと思うよ。
蜀討伐で言えば、ケ艾麾下の王頎とか、鍾会麾下の胡烈とかは歴戦の将軍だし、
道案内も兼ねて蜀の降将である句安なんかもいた。
「将軍としての仕事は初めてです」みたいな素人が集められたわけではないね。
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/27(日) 00:59:16.76
>>924 さすがです。
なんか状況が少し納得できて来ました。ありがとうございます。
>>923 その頃になると、牙門を見かける頻度が少なくなるね。
だいたい、赤壁以降から三国の本当の初めまでに頻出した印象だ。
叩き上げの軍人は、司馬or校尉→中郎将or偏将軍or裨将軍→将軍の順で昇格してくのが多い。
そろそろジョミ編集の後・三国志が読みたいお( ´・ω・`)
俺編集って何すりゃ良いんだ?
書式は何でもいいが、ジョミなら姜維を中心とした推論と史実に基づく三国志かな
ブログを時系列や事跡順に並べるだけでも、結構それらしくなると思う
ところで、モツを取り出された武将って姜維くらいか?
摘出されたのか、内臓撒き散らして死んだだけなのか・・・・・・
文鴦・文虎が諸葛誕の腹を割いて肝を食らったという逸話が、御覧だかに載ってた。
三国志について一冊の本に纏めるというのは非常な労力だろうからなぁ。
何か強烈な動機があるか、或いはそこに利益があるかしないとやらないだろうね。
とりあえず今は、適当に思いついた事を書いているだけの状態が続くだろう。
姜維については当帰と遠志の話が好きだなあ
孫盛の雑記の記述はウィットに欠けて詰まらない
蜀末期の傅僉さんマジ勇者
てs
>>935 姜維の母が「当帰」を入れた手紙を姜維に送り
その返事に姜維が「遠志」を入れた手紙を母に送った
「帰れるか?」という問いに「志が成就するまで帰れない」と答えたという逸話
で、あるか。
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/26(日) 09:42:57.51
こんな長い歴史のある由緒正しいスレでもレスがほとんどつかずに沈むんだな
最下位復活上げ
939 :
魏延:2012/02/26(日) 10:04:49.91
初代スレスレ立て人アゲ
「当帰」といえば太史慈もそうだっけな
と
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/01/30(水) 18:43:36.40
そろそろ新しい発見が欲しいところ。
943 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/01(水) 22:29:30.56
たまには蜀を持ち上げるとするか
2、3年ぐらい前と比べて三国志関連スレが揃って過疎化してるんだが何かあったの?
疫病
蜀将のハナシはもう食傷なのだ (,,´w`)ナンチテ
947 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/08/31(日) 10:33:38.45
>>931 新版三国志新聞があの素晴らしい充実度とまとまりようだから、
倍のページ数にしてネタや写真だったスペース省いて地図やら文章で埋めれば相当なものが出来ると思う
948 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/10/22(水) 20:43:25.19
「遠志」て「志が成就するまで帰れない」という意味だったのか。なるほど程遠志
949 :
無名武将@お腹せっぷく:
蜀持ち上げ