781 :
無名武将@お腹せっぷく:
王平が叩き上げつーのは盛大な勘違い
王平は非漢民族の支配者層の人間で、巴夷の王侯クラス
(正史では直接非漢民族とは書いてないが巴夷の王が曹操の所へ出頭する時、実は王平も一緒に行っている)
漢字は読めないものの、別に叩き上げというわけでもなく、無学というわけでもない
文字ってのは大体10代くらいまでに読めるようになってないと文盲になるといわれてるし
単純に漢字に触れる機会がなかっただけだろう、不便もなかっただろうしな
非漢民族の支配者層が文字に対してあんま興味ないってのはよくある話
しかも王平は当初、他の家に養子として入り何平と名乗ってた時期もあり
また、後になって王平と実家に戻ったりしている(戻したのは第四次北伐後っぽい)
こういう「家」をちゃんと使い分けてるってのはそれなりの家柄でないとあんまやらない
それ軍板の三国志スレの奴じゃん
わざわざここに書き込む必要あんのか?
>>782 あっちはもう別の話題に移っているから
こっちでやろうってことになった
>>783 それ言ってるの一人だけだろ。
ここにそこの話題持ち込むな。
自治よりかは面白いレスだね
俺は歓迎するよ
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/07(日) 00:14:18
このスレ時が止まってたからなw
そろそろ保守するかと考えてたところ
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/07(日) 00:58:48
他所のスレから話題引っ張って来るんならせめてその出展やらなんやらを書けよ
>>781 俺も王平は異民族だった可能性は高いと思うが、その論には穴もあるな。
当時、巴から曹操に降伏した連中の子孫に趙キンがいる。
益州刺史になると西晋に反旗を翻した奴だが、こいつは漢民族と思われる。
>こういう「家」をちゃんと使い分けてるってのはそれなりの家柄でないとあんまやらない
それなりの家柄と王侯クラスというのは断絶があるだろう。
父が漢族で母が異民族ということはあったと思う。
>>788 後漢から三国時代の侯はピンキリだろ
侯って名前だけのものだったし
皇帝
諸侯王
列侯
関内侯
都郷侯
郷侯
都亭侯
亭侯
そう考えると、句扶も蛮族系だったのかな
板楯蛮とはまた違うんだろうけど
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 20:36:29
王平って、横柄な人だったの?
そうです。
>>792 心が狭く疑り深く、軽はずみな性格。
まあ人望を得られる性格じゃないな。
蜀の軍人は癖の強い奴が多い。
マジレス…
>>794 「という性格で有った」とだけ言われても納得いかないな
劉敏とか味方もいたし
単に嫌われてただけじゃね?
>>796 異民族出身でちょっとした事ですぐ失脚する可能性ってのを常に頭においてたとしたら
心も狭くなるし、疑り深くもなると思うんだ
それでいて功績を常に挙げないとやはり失脚するので軽はずみというか
常に前に前に俺が俺が、とかな
妄想だけど
でも曹爽を蹴散らしたのは王平の奮戦あってこそだよな
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/09(月) 04:04:49
あげ
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/19(木) 20:15:39
官職とか序列がよく分からんね(´・ω・`)
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/22(日) 13:21:31
五虎大将
無知からの質問で間違いがあるかもしれませんが、許してください
蜀にとって大ダメージになった劉備の大敗について、よくわからない事があるのだけどさ
火計くらった時の劉備軍の布陣を見て、孔明があぁオワタみたいな話をしたというのをどこかで見たか聞いたかしたのだけど
出陣している劉備軍には軍師というか戦術等を提案したりする人はいなかったの?馬良はそういうタイプではなかったのでしょうか
それとも、決定権は劉備にあるからすべて劉備の独断で突き進んだのかな
ありえないくらいに酷い布陣だったみたいな話をどこかで見たか聞いたのだけど
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/22(日) 14:40:19
まず、劉備の布陣は、長江沿いにダラダラと伸びた長細いものだった。
これは、最初からこうだった訳では無く、陸遜が持久戦に持ち込んだ為に
補給線が伸びた結果と言える。
又、当初は水陸両軍で攻めていた蜀軍が、水路から陸路へと攻撃ルートを
切り替えたのも大きな敗因。
曹ヒは、この布陣を見て「戦を知らない」と評した。
諸葛亮は、「法正がいれば」と嘆いたらしい。
法正は蜀の戦術担当としての信任厚かったので、劉備も彼の進言なら
聞き入れたであろうという意味に思える。
一方で、黄権も戦の前に「長江からの進撃は容易だが撤退は困難」と
劉備に進言しているが、黄権が自分を先陣にしろという言は無視した。
馬良は、進軍に際して異民族の帰順に奔走し、成功させている。
彼も優秀な人材だっただろうが、蜀の有能な戦術家・策略家は法正や
黄権が挙げられると思う。
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/22(日) 14:42:14
厳顔開けたら二分で呉班
806 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/22(日) 21:20:29
>>804 厳顔って定軍山で夏候徳を斬って以来いつのまにか我々の前から消えていたな
補足すると孔明が劉備の布陣を観て終わったと言ったのは演義の話で正史には無い
正史的には確かに酷い布陣ではあったが、後に呉将に「あの布陣はあの状況では仕方なかった」と擁護されてる
演義的には劉備が戦下手だったから独断でああいう布陣したってことで間違いないんだろうけど
正史的にも劉備の戦下手って事になってるよ。
三峡全域に五十もの陣営を分散して配置したのに、水上や水際の防御を考慮せず、
呉の水軍に後方に回られて退路を断たれた上で殲滅されたんだ。
そりゃ曹丕も笑うし諸葛亮も嘆くだろう。
ところで擁護した呉将って誰だろう?
劉備は武将として一軍を統率するのは得意でも大将として全軍を率いるのは駄目だったんだねえ
劉備は逃げるのは得意でも攻めるのは駄目だったんだねえ
811 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/25(水) 16:24:28
地図見ればわかるけどすごい移動距離・・・
お疲れ様です
>正史的にも劉備の戦下手って事になってるよ。
なってねーよw
赤壁と漢中で二度も曹操を破ってるし。
>そりゃ曹丕も笑うし
ろくに戦をしたことがない曹丕が言っても説得力ありませんから
>ところで擁護した呉将って誰だろう?
それも知らん奴が正史がどうのって語っちゃうんだからなぁw
曹丕の人物評は全くアテにならない
劉備曰く、曹丕の才なんて孔明の10分の1に過ぎない
ふーん、曹丕ってろくにいくさをしたことがないんだ…
>>812 >赤壁と漢中で二度も曹操を破ってるし。
赤壁でも漢中でも劉備自身は特に何もしてないと思うが。
ろくに戦をしたことがないならどうやって
敵地である袁紹屋敷に乗り込んで
曹操よりも先に甄夫人を手に入れることができたんだろうね
818 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/26(木) 18:02:14
曹丕って甄氏に自殺を指示したり
嫌いな曹洪を召使の罪に連座して処刑しようとしたんだからいやなやつなんだろう
>>816 劉備が何もしてないという根拠はどうせ蒼天だろ?
>>819 さすがに漢中で何もしていないってことはないだろうが,
呉志と蜀志の記載の差を考えれば,
赤壁では本当に何もしていなかったんじゃないか。
その後の江陵の方は知らないが。
それは単に呉志と蜀志の全体の文量の差だろう
赤壁に限らない
>>821 張飛や趙雲のように大敗した長阪での活躍すら残っているのに,
勝ったはずの赤壁での具体的な活躍が誰にも全く残っていないというのは,
実際には活躍していないと考えた方がいいと思うのだが。
赤壁のような状況だと1万の兵が要地にいるだけで意味はあったと思うから
「何もしてない」ってのは言い過ぎかもしれないが、
少なくとも「劉備が戦上手だから勝利した」とは言えないだろうよ
>>822 新聞の野球欄をご覧なさい
2安打したり打点を上げても活躍が語られるのは殊勲を挙げた選手だけ
張飛や趙雲の長坂の記事はサイクルヒットや満塁打のようなもの
野球欄にもこれらは載る
結局劉備は赤壁で何かしら役に立ったかもしれないが特筆すべきほどの活躍はしてないってことだろ
>>817 そりゃー曹操は大将なんだから女漁りより他にすることがあるだろ。
それに、曹丕がギョウ城攻略で指揮官として何がしかの働きをしたと本当に思ってるのか?
劉備が動いたのは曹操が敗走してからではないでしょうか。
周瑜が手塩にかけた水軍だからこそ自在に操れるけど、劉備軍は扱いが
難しいと思う(最前線に出すわけにもいかないだろうし)
劉備は1万の兵でどっしり構え、呉軍に安心感を与えた、という活躍かな
張飛や趙雲が赤壁で活躍してないってのは劉備自身も何もしてないという根拠にならん
赤壁以前にも劉備の勝ち戦はけっこうあるがそれでも張飛や趙雲はまるで触れられてない
少なくとも呉志でも先主伝でも魏志でも劉備は活躍したように書かれてる
劉備が何もしてないと言ってるのは江表伝だけ
劉備の名は出ているがほとんど劉備の軍勢がどう動いたってことで
「活躍」と呼べるほどのものかは簡単には断言できないだろ。自分も「何もしてない」とは思ってないけどな。
赤壁で同盟が勝利したのは周瑜や黄蓋の計略によるところが大きく
劉備勢が火計後の追撃に動いたことは確かだろうが、追撃は呉の面々も行っているわけだから
「劉備の活躍によって勝利した」と言えるようなものじゃないし
「赤壁で勝ったから劉備は戦が下手じゃない」ってのは無茶な論法
劉備の戦が上手いか下手かを論じる時に資料の少ない赤壁の話を持ち出すこと自体が間違いだ
劉備の戦が上手いか下手かの結論まで出たわけじゃないが
この話題の発端である
>>812のこの部分は否定できる
> >正史的にも劉備の戦下手って事になってるよ。
> なってねーよw
> 赤壁と漢中で二度も曹操を破ってるし。
劉備は諸葛亮を呉へ派遣するという活躍を
戦上手でなければ夏侯惇や夏侯淵に勝てるはずない
うむ
劉備が戦下手とか言ってる奴は演義厨だわな
夏侯惇→徐庶
夏侯淵→法正
の可能性はあると思うが?
曹丕は演義厨で決定
>>834 徐庶は文官。軍略に優れていたとか、劉備の軍師的役割を果たしていたという記述は史書のどこにもない。
夏侯淵攻撃を直接命令したのは法正じゃなくて劉備。
文官という記述もないし、参謀に決定権(命令権)もない
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/28(土) 00:31:25
魏では吏僚だったが劉備に仕えていた頃にアレをしたこれをしたという記述は…
羅漢中さんや反三国志の作者は何で徐庶をあんなスーパー軍師にしてしまったんじゃろうか
夏侯惇や夏侯淵に勝てば戦上手なのか?
どっちも猪突猛進タイプだと思うが
夷陵の戦いでのズサンな進軍についてどう説明を?
舐めていた
船戦は不慣れだった
長対陣で気が緩んでいた
連戦連勝で浮かれていた
出兵への反対者が多く、半ば意固地になっており、臣の意見を聞かなくなっていた
相手を舐め、船戦が不慣れで、長対陣に気が緩むような武将を
戦上手と評価するのはどうかと
あの一回の敗戦で劉備はそれまで築き上げてきたすべてを失ったね
>>840-842 曹操にも当てはまりそうだがw
お前らは議論をミスリードしてる。
お前らの意見なんて鼻くそだよw
正史で劉備が戦下手だと言ってる奴は二人しかいないだろ。
この二人が誰か分かる奴しか議論に参加する資格はないんだぜ?w
劉備は逃げるのは得意だった
KOEIの三国志11でも劉備の特技は「遁走」となってる
劉備の戦の手腕は、一流とは言えないが三流でもない。そんな感じかな
>>844 右中郎将は近衛の武官だから、皇帝や宰相の腹心の官僚が就任する事が多かったよ。
近衛の武官は、武官と考えるよりは吏僚と考えた方がいいよ。
馬謖かな?
ホウヨウじゃなかったか
>>845 曹操の場合、喪失したのは旧劉表軍の船団だろ。
それに損害を受ける前に撤退(死者の大半は疫病によるもの)したじゃないか。
劉備の場合は都督以下、参加した主だった将兵を失ったんだけど、
どうすれば同一視できるのか不思議でならない。
それと
>>841-842は船戦に不慣れと書いているが、
そもそも夷陵では劉備が水軍を撤収させたので船戦は行われて無い。
なので呉軍に退路を断たれて蜀軍全滅という惨事に繋がった訳だ。
>曹操の場合、喪失したのは旧劉表軍の船団だろ。
>それに損害を受ける前に撤退(死者の大半は疫病によるもの)したじゃないか。
こう断言できる根拠はなかろう。
それに旧劉表軍の船団だろうが、兵を失い、しばらく南征できず、
曹仁がサンドバックになってるのに、自分は引き籠ってるじゃんw
荊州六郡を失ってるんだぜ?
まぁ曹操の場合は決戦直前で焦慮から子飼いの騎兵を失って後方に下がり、
よりによって天下分け目の大戦で、外様を槍面に立たせて後ろから追い立て
それでも不安だからと降兵を受け入れた結果が、あの有り様だよ、だからなぁ
そりゃ同一視はでけん
家康の逆を振りまくりだわ
>>853 でも曹操の将領の被害は無かったことからの判断かも
曹操って逃げるの得意でしょ。おそらく劉備以上かと
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/03(金) 09:16:21
>>839 惇兄はともかく、淵は軍略に長けた名将だろう
「白地将軍」は急襲が得意だったという意味も有るのに
最後が戦死だから完全に悪口になったね
しかし劉備は曹操を相手にすると逃げ出す事が多いね
どうも苦手意識が有ったんだろうか、引き際が良かったのか
局地戦に持ち込んだら相手が曹操だろうが張コウだろうが勝ち星挙げてるのに
個人的には張コウや李通の方が猪突猛進タイプな印象が有る
生前は幾ら強くても、戦死や陣没をしたら意味ないよ
劉備は逃げ出した末に病死したんだからまだマシ
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/03(金) 14:37:32
張コウのどこに猪突猛進なイメージがあるんだ?
基本的に冷静沈着な名指揮官だと思うが。
わけわからないこと言ってる奴だから無視しとけ
KOEI三国志11での夏侯淵と張コウの能力
夏侯淵
統率87武力91知力54政治61魅力80 特技:急襲
張コウ
統率90武力89知力69政治57魅力71 特技:昂揚
夏侯淵のほうが猪突猛進っぽいかな。統率知力特技が張コウは
名将に近いものを感じる
>>856 惇兄とか腐女子臭い呼び方は腐女子板だけでやれ
>>859 ゲームの能力値が根拠になると思ってんのか。ここは歴ゲ板じゃねえぞ
KOEIなめんな
惇兄は三戦発祥だろ
惇兄は無双だろ。発祥がどこであれキモイが
曹操は夏侯淵の猪突猛進ぶりを心配し、度々「勇ばかりではダメだ」と注意している
最後の時(定軍山)も直前に曹操から猪突猛進を注意する手紙を受けているが、
逆に奮起してしまい雄叫びを上げつつ出撃、死を招いている。
張コウは曹操から「我が韓信」とまで評価された名将。夏侯淵が討ち取られた時、
動揺する魏軍を張コウが見事に治めている。
>>864 自分から出撃して討ち取られたんじゃなくて、
劉備の攻撃を受けて迎撃に出たら討ち取られたんだぞ?
>>867 劉備軍の攻撃を受けのは間違いないけど、曹操直々の書面で「お前の妙才を見せろ」と
言われてむしろ発奮してしまい、無理に黄忠を討ち取ろうと頑張った結果、戦死。
曹操は慟哭したそうです。
これが夏侯淵ではなく、例えば徐晃とかであれば、無理に蜀の一武将を討ち取ることに
力を入れすぎず、ある程度の迎撃で陣に帰り、ひたすら守りに専念しただろう
>>868 劉備が張コウを攻撃→夏侯淵、張コウに援軍送る→劉備が他の陣地を攻撃→
夏侯淵、自ら陣地の逆茂木の修理に向かう→黄忠の急襲を受けて戦死という流れ
別に黄忠を討ち取ろうとして返り討ちにあったわけでは無い
>>870 普通に迎撃するのではなく、背後を突こうとしているのでは?
戦死するほどなんだから、自ら先頭に立っていたのか、少人数だったのか、
いずれにしても無理な攻撃だったと思いますよ
>>871 張コウに援軍送ってたから、夏侯淵の手兵は手薄だったろうね。
それで劉備に攻撃された陣地に行って逆茂木の修復とかは、
確かに軽率だと思う。俺が言いたかったのは、夏侯淵は戦うために出たのではなく、
黄忠を討ち取る気も無く、陣地に駆けつけて逆茂木の修理をしてたら急襲されて殺されたと言う事だけ。
「夏侯淵、自ら陣地の逆茂木の修理に向かう」
ここが誰かに任せられなかったのかなという感じか
曹操は夏侯淵に「将」としての伸び白を見て南鄭をまかせつつも、
一方では「勇」を誇る行動を心配し、たびたび注意喚起
思い出したんだけど、ここは蜀将のスレだったねw
気づけば魏将に関してズラズラとw
よくよく考えてみれば野戦で将帥が死ぬケースってのが、むしろレアだな
捕虜となって捕らえられて切られるという方が圧倒的に多い
死んじゃう武将ってのはよほど運がないのか、自重してないのか
捕虜となって処断という方が圧倒的に多い、か
大事なことではあるが二回繰り返してしまったw
捕虜となるケースも戦死するケースもあまり大差ないのでは?
いずれも自身の周りに敵が多く居る状況になっているのだろうから
大事なのはそこに至る過程かと。夏侯淵のケースでは、果たして夏侯淵が
自ら逆茂木修理に出向く必要があったかどうか。そして黄忠の背後を突く
必要があったかどうか。このあたりがポイントかと。
偶発的あるいは突出したことで陣が薄くなって死ぬ、投降後処断される
この2つは大分違うと思うぞ
>>878 張昭と孫権の虎狩りの一件一つ見るだけでも
「総大将は切ったはったなんてやるもんじゃない」「そもそも前線に出るもんじゃない」
ってのは当時の常識だったんじゃないかな
建前論で展開してるだけに前例や凡例の無い事は言わないだろう
夏侯淵も張コウも蜀将に敗れて死亡だろ
>>880 孫権の例は軍を預かる大将の話じゃなく勢力のトップについての話だから
夏侯淵や張コウには関係ない
どっちも一緒だよw
くたばったらそこの戦は負けなんだからw
>>834 夏侯惇の時は劉備陣営に徐庶はいないよ。
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/11(土) 14:07:42
>>878 捕虜になるのは戦場じゃなく逃亡中や宮殿で味方に裏切られてってのが多い。
もちろん殺されることもある。
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/11(土) 14:42:26
征夷まんこ大将軍w
劉封の出身は冠氏じゃなくてケ氏だよって注釈は誰の物だっけか
鵜呑みにすれば長沙劉氏(光武帝の系列)の甥で、ケ禹(二十八将筆頭)の一族
俺からするとなにそれかっこいいなんだけど、当時はそう大したもんでもない(=信憑性にかけるorどうでもいい)のかね
孟達の勧誘を跳ね除けるシーンはカッコイイんだけど最期の言葉がちょっとなぁ
何か好都合な解釈の仕様はないのかな
むしろその後の魏での孟達の厚遇ぶりを考えると
孟達は凄い奴で劉封の失策のせいで蜀を出ないといけない羽目になったのではないかと言う邪推も
けど劉封をあまり悪く書けないから全部孟達のせいにしてそのとばっちりを受けたかのような記述にしたと
でも旗色が悪くなるや蜀へ転向ってのは相当のデンプシー野郎じゃないとできないんじゃないか
人品と能力は別だとしても寝返る種が孟達側にあったってのは確定だと思うね
そもそも蜀志十巻に纏められてる時点で名誉もヘッタクレも無い感じががが
あの地域になんらかの強固な影響力があったんじゃないだろうか。出身ではないし……
むしろ孟達は良い人
劉封のせいで魏に行かざるをえなかったのに劉封の蜀での地位が危なくなった時に援助を申し出てる
劉封が断ったのも不義理を働いた孟達の世話になるのを忌避した為ではないだろうか
劉封の罪状にも関羽を見殺しした事と共に孟達を追い詰めて魏へ走らせたことも上げられてる
劉備の心証としては孟達>劉封であろうしだからこそ後年孔明も孟達を再び用いようとしたのではないだろうか
孟達は魏では仮節・建武将軍・散騎常侍・新城太守・平陽亭侯なんだよね。
仮節は普通は州刺史・都督クラスじゃないと持たせてもらえない高位の指揮権。
散騎常侍は皇帝の側近。そして亭侯。度外れた待遇としか言いようがないが、
ここまで厚遇するならなぜ黄権のように中央に置いて皇帝の側近として仕えさせるか、
逆に郡太守以上の官位を与えなかったのかが不思議だな。
とは言え新城太守ってのは孟達の為にいくつかの郡をあわせて作られた新設のポストではなかったっけ?
あ
>>893読んでたらものすごい要地に強く結びついてて引き離すこともできず、
高位を与えておくしかないような扱いに見えてきた
高位を与えて前線に置くなら、いっそ荊州刺史とか平南将軍とか安南将軍とかにしてやれば良かったのにね。
そうすると喜び勇んで南に仕掛けていきかねないのが孟達
しかも、そこそこ成功しかねない程度には優秀
ああウザいウザい
いや、刺史や平南将軍や安南将軍じゃ都督の夏侯尚を無視して勝手な軍事行動はできんだろ。
夏侯尚との仲は良かったというけど孟達を客として遇してたのか本当にダチだったのか
どっちなんだろうな
そして生まれる鎮北将軍孟達
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/21(火) 17:35:01
あげった
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/21(火) 18:22:15
90年代中盤頃までは風呂やシャワーのカタログに裸の女性モデルが写ってるのがあった。
後ろ向きのやつが多かったんだが中には前向きでおっぱいが写ってるのもあった。(オークションにでも出品されてないかな?)
それに新聞に折り込んであった生活の知恵の事とか書いてある別冊の小冊子(朝日家庭便利帳みたいなやつ)にトイレの広告が載っていて横向きの全裸の女性モデル(顔は写ってなかったと思う)が便器に座ってるのもあったな。
あとはそういう小冊子にはバストアップできる器具(胡散臭いと思われるやつ)の広告も載ってたこともあった。
それは水着つけてるのとかが多かったんだが中にはある器具を使えば短い時間でバストが上向きになるとかいうやつがあっておっぱいの写真を使って実演方法を説明してた。
乳首はその商品のブランドマークの印刷で隠されてた(当時は実際の乳首ういうシールでも張ってるのかと思った)が当時はエロ本も見れなかったから興奮した。
【三戦板之序列】
┌学徒閣下┬最高顧問―新党党首┬新党副党首―党首代行─幹事長─三元老─七奉行
│ ├八大英雄 . └征夷大将軍
│ │
│ │
│ ├ロコ家
│ ├婿家
│ ├魔玉家
│ ├斯波家
│ ├八戸家
│ ├ぴよ家 ─┬戸田家
│ │ └コロ家
│ ├メディシス家
│ └金王家─┬可児公家
│ . . . . └聖臣公家
│
├─────蛮王:ロコ皇帝(ロコモティブ)
├─────蛮王:三戦板天皇(クマッタ)
└─────蛮王:可児大帝(可児麿)
906 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 12:53:59
あげあげ
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/13(木) 00:26:39
蜀の武将って言ったら個人的には趙雲が最初に思い浮かぶな。
関羽とか張飛ほど目立たないけど男らしくてかっこいい。
子供のころは張飛とか馬鹿じゃん、関羽趙雲かっこいい!
今は張飛が好きで仕方が無い。
>>907 「趙雲別伝」が曲者だ。趙雲のかっこいいイメージの8割はここから来てる
>>908 関羽と違って頭使って敵に勝つ逸話もあるんだよな。
でも死に方で損してるよね
死に方で言えば三兄弟みんな頭悪いよね。
次兄→同盟国の君主を侮辱したのちその方面の防衛を削減
末弟→警告されていたのに部下を虐待して殺害される
長兄→反対を押し切って出陣、戦術上の禁忌を犯して大敗
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 10:08:42
>>908 馬鹿な張飛が好きなの?実は賢い張飛が好きなの?
単純な張飛が好き
なにげに馬岱が凄いと思う
>>914 晋書宣帝紀によれば235年に魏を攻めて撃退されているけど,
その後の事跡って残っていたっけ。
916 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2011/02/26(土) 23:33:38.65
街亭の戦いから、蜀における「軍」の規模と街亭における馬謖軍の数が分からないだろうか?
あの戦いでは、名前が見える限り、
・丞相参軍 馬謖
・裨将軍 王平
・将軍 李盛
・将軍 張休
・将軍 黄襲
が参戦している。
他に陳某が馬謖の参軍として参戦していたともされるが、丞相参軍の参軍とは何だろうか?
それはともかくとして、彼らの内、率いた兵数が明確に分かっているのは裨将軍王平の千人だけである。
この千人と「裨将軍」を手がかりに何とかするしかないだろう。
裨将軍は何れかの将軍の副将であって、時代は不明なものの通典に載っている軍制によれば、
軍の半分の兵を率いる事となっている。
そして一方で偏将軍という存在もあり、偏将軍、裨将軍がそれぞれ左右の庶長に対応するという記述もある。
また、牙門将という将もあり、これは牙門を守る位置にある将であるから、必然的に中央の隊にある。
牙門と偏・裨将軍が「軍」に置かれていたとするならば、彼らが軍を三分し、それぞれ中央と左右を率いてたと推定できよう。
翻って王平の率いた兵数を見ると、これは千人である。
王平が牙門だったか裨将軍だったかは不明だが、これは軍の約三分の一の規模としても良いだろう。
したがって、一軍は約三千となり、それを中核として輸送隊等が付随する。
そう考えると、一軍というのは三千から四千の間くらいであっただろう。
街亭の戦いでは、上記のように三人の将軍がいる。
彼らの戦力を、先ほど算出した一軍の人数で当てはめると、九千から一万二千程となる。
更に、王平が馬謖を諌めていた状況を考慮すると、王平は他の将軍の下にあった裨将軍ではなく、
馬謖の下についていた裨将軍であったとも考えられる。
とすると、馬謖もまた一軍を率いていたのかもしれない。
そうなれば、先ほどの規模に更に一軍を追加して、街亭における蜀軍の数は一万二千から一万五千となる。
李盛や張休や黄襲なども、偏将軍や裨将軍だった可能性は?
偏将軍や裨将軍だった頃に、他の人物の伝に「将軍」として登場する人物はわりと多い。
>>917 それだと、李盛らの上に何らかの将軍がいたはずで、
その将軍連中らを差し置いて李盛らが処罰されるのも不自然だろう。
彼らは将軍だったとする方が自然に思える。
919 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/27(日) 00:09:26.86
>>918 ジョミさんに聞きたいと思ってたんだけど、
羊コ・杜預・衛カンらって記述にない戦にも参戦してると思いますか?
特に杜預・衛カンは蜀滅亡の時が初陣とは思えないんですがね。年齢的にも。
>>918 その上位の将軍に相当するのが、臨時に指揮権を与えられた馬謖としたらどうだろう?
三国時代ではあまりないけど、晋や南北朝なら参軍の資格で軍を率いた人物もいる。
あと、軍の直下の単位を率いるのは、偏将軍や裨将軍ではなく、校尉ではなかろうか。
三国の伝記を見て、将軍位の叙任者を比較すると、下位の将軍と偏将軍・裨将軍・中郎将あたりは、
率いる軍の規模や戦場での使われ方などの役割は大差がなくて、
称号と序列の違いだけに過ぎないように思える。
>>919 何らかの戦争に参加していなければならない合理的理由が無いなら、参戦しているとは思わない。
朝廷で官僚を続けていれば、戦争なんか参加しなくても出世できるしね。
彼らとは別だけど、ケ艾なんて40くらいまで地方の小役人だったんだし。
当初から軍人だったのでない限り、年齢の高さはさほど不自然さを持たないと思うよ。
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/27(日) 00:35:32.01
>>921 なるほど
では、戦慣れしてるのはケ艾と鍾会ぐらいだったという見方ですかね
本格的に蜀を滅亡させる為には、それなりの精兵と戦慣れのした将らが抜粋されて揃ってそうに思ったんですが。
三国志は孔明が死んでからの記述が雑に思えてならないです
>>920 その可能性もあるとは思うよ。
蜀でも太守が裨将軍を帯びていたり、呉でも拠点の督が裨将軍だったりする。
ただ、王平の件で言えば、裨将軍が将軍と同等だとするならば、千人では少ない。
千人では軍として、少なくとも戦略単位として機能させるのは困難だろう。
ふと思って李厳弾劾の上書を確かめたが、
行中護軍偏将軍臣費禕、行前護軍偏将軍漢成亭侯臣許允、行左護軍篤信中郎将臣丁咸、
行右護軍偏将軍臣劉敏、行護軍征南将軍當陽亭侯臣姜維、行中典軍討虜将軍臣上官雝、
行中参軍昭武中郎将臣胡濟、行参軍建義将軍臣閻晏、行参軍偏将軍臣爨習、行参軍裨将軍臣杜義、
行参軍武略中郎将臣杜祺、行参軍綏戎都尉盛勃、領従事中郎武略中郎将臣樊岐
偏将軍は多いね。逆に裨将軍は一人しかいない。
こうなると、偏将軍が左、中央に牙門、右に裨将軍という図式を当てはめずらくなる。
そもそも、この上書に牙門が出てこない。
>>922 杜預は鍾会の長史、衛瓘は兵千人を与えられていたものの、実際はケ艾と鍾会の監視役。
二人とも実戦における指揮の巧みさが要求される職じゃないと思うよ。
蜀討伐で言えば、ケ艾麾下の王頎とか、鍾会麾下の胡烈とかは歴戦の将軍だし、
道案内も兼ねて蜀の降将である句安なんかもいた。
「将軍としての仕事は初めてです」みたいな素人が集められたわけではないね。
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/27(日) 00:59:16.76
>>924 さすがです。
なんか状況が少し納得できて来ました。ありがとうございます。
>>923 その頃になると、牙門を見かける頻度が少なくなるね。
だいたい、赤壁以降から三国の本当の初めまでに頻出した印象だ。
叩き上げの軍人は、司馬or校尉→中郎将or偏将軍or裨将軍→将軍の順で昇格してくのが多い。
そろそろジョミ編集の後・三国志が読みたいお( ´・ω・`)
俺編集って何すりゃ良いんだ?
書式は何でもいいが、ジョミなら姜維を中心とした推論と史実に基づく三国志かな
ブログを時系列や事跡順に並べるだけでも、結構それらしくなると思う
ところで、モツを取り出された武将って姜維くらいか?
摘出されたのか、内臓撒き散らして死んだだけなのか・・・・・・
文鴦・文虎が諸葛誕の腹を割いて肝を食らったという逸話が、御覧だかに載ってた。
三国志について一冊の本に纏めるというのは非常な労力だろうからなぁ。
何か強烈な動機があるか、或いはそこに利益があるかしないとやらないだろうね。
とりあえず今は、適当に思いついた事を書いているだけの状態が続くだろう。
姜維については当帰と遠志の話が好きだなあ
孫盛の雑記の記述はウィットに欠けて詰まらない
蜀末期の傅僉さんマジ勇者
てs
>>935 姜維の母が「当帰」を入れた手紙を姜維に送り
その返事に姜維が「遠志」を入れた手紙を母に送った
「帰れるか?」という問いに「志が成就するまで帰れない」と答えたという逸話
で、あるか。
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/26(日) 09:42:57.51
こんな長い歴史のある由緒正しいスレでもレスがほとんどつかずに沈むんだな
最下位復活上げ
939 :
魏延:2012/02/26(日) 10:04:49.91
初代スレスレ立て人アゲ
「当帰」といえば太史慈もそうだっけな
と
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/01/30(水) 18:43:36.40
そろそろ新しい発見が欲しいところ。
943 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/01(水) 22:29:30.56
たまには蜀を持ち上げるとするか
2、3年ぐらい前と比べて三国志関連スレが揃って過疎化してるんだが何かあったの?
疫病
蜀将のハナシはもう食傷なのだ (,,´w`)ナンチテ
947 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/08/31(日) 10:33:38.45
>>931 新版三国志新聞があの素晴らしい充実度とまとまりようだから、
倍のページ数にしてネタや写真だったスペース省いて地図やら文章で埋めれば相当なものが出来ると思う
948 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/10/22(水) 20:43:25.19
「遠志」て「志が成就するまで帰れない」という意味だったのか。なるほど程遠志
949 :
無名武将@お腹せっぷく:
蜀持ち上げ