戦史朝鮮役には、日本軍の減耗数。死亡、行方不明と書いてあるな。しかも半分減耗している
もう朝鮮役本は片付けたりいらんのは処分したりしてたんだが、とりあえず
参謀本部編日本戦史朝鮮役
近世日本国民史朝鮮役
壬辰戦乱史
日鮮関係史の研究
フロイス日本史
豊臣秀吉の朝鮮侵略
朝鮮日々記を読む
豊臣政権の対外侵略と太閤検地
朝鮮の役と日朝城郭史の研究
韓国の倭城と壬辰倭乱
壬辰倭乱と秀吉・島津・李舜臣
豊臣の城・徳川の城
秀吉の軍令と大陸侵攻
軍事史学通巻166号 豊臣政権下での兵たん整備とその限界-西欧との比較から-
雑兵たちの戦場
江戸時代砲術家の生活
毛利輝元卿伝
防長史学
安西軍策
通俗日本全史補遺
他は続群書類従の関連コピーで
加藤光泰貞泰軍功記
脇坂記
黒田長政記
島津家高麗軍秘録
吉野甚五左衛門覚書清正高麗陣覚書
を出した
>>948 見てみたが明の史料で石曼子だな
そういうのを懸命に討論するのはハン板に任せよう
ピッタリだと思うわ
ついでに加藤清正の鬼上官も調べてくれ
ハン板で
>>952 14万人の人はこっちにも来てるのかね?
とりあえず
>>942の人数を書いてから、フロイスの調査も書いてみてくれ
吉野甚五左衛門やグレゴリオ・デ・セスペデス書簡の平壌小西軍の様子を書いても面白いかもしれん
>>955 それも全体統計を把握したものとも言えず。
まず当初から定数がいたのかが問題。
次に個別に手繰り輸送をしているんだから漢城で統計をとれば少ないのは当たり前。
大名差はあるが、概略、釜山に近かった晋州城攻めプラスアルファぐらいがその時の実数に近いんじゃないかと。
しかし、参謀本部には死者行方不明者、減耗率60%とあるな
また、秀吉に戦況報告する資料として、点呼し忘れなどといういい加減な報告をするとも思えない。
また陸軍もその程度の単純なミスをするかね。
点呼くらいなら、仮に城を離れていたとしてもやりようは他にもあるだろう
結局、点呼し忘れがあったと反証するなら。それを裏付ける資料は欲しいかも。
加藤も半数死亡と言っているしね
別部隊展開中なら、半数死亡がいかに修辞的であってもいわんよ
これが現実だよ…
うわっ、ババッチイ。
明厨がこっちに来たのかよ。
荒らしじゃいつもりならトリップ付けろや。
>>959 まあ待て。奴に埋めさせる作戦だ。ほら。
961 :
名無し三等兵:2008/05/14(水) 21:00:13 ID:meaRxCh4
所詮レベルの高い所は避けて通る程度の自覚しかないバカか基地外だ。
14万死亡の奴は気が狂ってるだろwww
>>956 >>942にも書いたが多少参考になるかという感じですね
定数に関しては全国に人別調の届出を命じているし、軍役の人数を集めないといけないが
例えば毛利家の場合、毛利輝元卿伝を見てみると
留守を預かる長門荒滝(厚狭郡)城主内藤(左衛門大夫)隆春は
名護屋にある毛利の将南方(又二郎)元雅に(文禄元年一月か三月)二十二日に
「朝鮮渡海の儀は弥々手堅く秀吉より仰せ催された。されど毛利の人数三万は何度徴発に骨折って見ても不足である。
それに就いて卿も不足の儘名護屋より渡海せらるゝに決し秀吉にその旨断られた由である。
隆景卿も最近名護屋に出陣せられた由であるから今一応自分の立場を申し上げて下されたい。
兎に角御方は渡海に極ったのであるから、左様心得られたい。
されば御方も部下への催に彼是心遣せられることが専一である」
と申し遣った。(閥閲録、内藤小源太)
とあり、三万人集まらずそのまま渡海すると輝元が秀吉に伝えたようです。
島津家の場合も、秀吉・島津・李舜臣で見ると、文禄役では集まるどころか
名護屋に来る途中で一揆を起こしたり、日本一の遅陣をしたりで面目を失った。
しかし慶長役では軍役を果たさねば改易と恫喝されたようで、軍役一万人に対して
一万五千九十七人(島津家文書)の動員計画を立てたようです。
>>956 それから漢城統計は
>>957さんのようにいろんな本でも損耗として紹介されている事が多いのですが
壬辰戦乱史のように「日本軍漢城駐留兵力一覧表(一五九三年三月二〇日現在)」
というように表記するのが妥当かと思います
もちろん損耗の参考にはなると思いますが
参謀本部編日本戦史朝鮮役には大抵文書や補傳にソースがあるのですが、漢城点検の文書はないですね
豊臣秀吉の朝鮮侵略を見てみると
清正・直茂は同二九日、朝鮮二王子をひき連れてソウルに着いた。
その兵力は清正配下が五四九二人、直茂配下の兵が七六四四人であった(鍋島直茂譜考補)。
とあるので、ここに元の文書があるのでしょう
読んでませんが
晋州取り巻き人数指示の日付は五月二十日
帰朝人数の日付は七月二十九日ですね
しかし、
>>955でフロイスの調査を書いてみてくれと言ったからか
世界史スレの349にフロイスの引用があるが、違うわな
一応フロイスさんが何人死んだかと死因を書いてるだろう
普通それと死因を書くだろ
あんたがその話をしてるんだしよ
テスト失格っつうか何つうか
豊臣政権の対外侵略と太閤検地P320に
天正二〇年の陣立書によれば、大友吉統は豊前中津の黒田長政の第三軍に属し、その軍役人数は六〇〇〇人とある。
軍役の規模が天正十九年八月の豊後国御検地目録を基に算定された事は疑いのないところであろうが
この間の無役高設定等細かな状況は不明である。
文禄の役における大友吉統供奉衆の着到については芥川龍男氏の復元作業があるが
この豊後国諸侍着到によると七五五名の豊後侍が動員されたことになっている。
もとより当時の大友氏にすれば最大限の動員規模であったろう。
軍団編成としてはこれらの侍衆に被官層と陣夫役として召集された農・漁民がくわわることになる。
ただし、これまでの検討を踏まえると、軍団の編成の本質は戦国段階のそれを継承したものであったと考えられる。
いずれにしろ、当面の問題はこれらの総体として六〇〇〇人の軍役動員を大友氏がなし得たか否かである。
というのがありますが、続きはまた夜にでも改めて
夜と言いましたが
>>966つづき
この点に直接的に答えを出し得る史料状況にはないが、幸い「豊太閤遺文」(日下寛編『豊太閤遺文』(1914年、博文館)425〜7頁。)には
「文禄二年三月廿日 高麗都ニ而御人数改之着到」なる史料が収められている。
史料的な限界は否定すべくもないが、それによると、豊後侍従=大友吉統支配下の人数は「弐千五拾仁人」と判明する。
侵略当初の大友軍が規定どおり六〇〇〇人規模の軍団であったと仮定すると、その減耗率は六五・八%に及ぶ。
この数値は小西行長率いる第一軍とほぼ等しく、加藤清正・鍋島直茂らの第二軍の減耗率をはるかに上回るものである。
算出の基礎となる史料の双方に問題があるので、この数値自体には全く意味はないのであるが
当初から大友軍は豊臣政権の軍役基準に達していなかった可能性が極めて高い。
もとより、規定の軍役人数を達成できなかったのはひとり大友氏のみではないが
(むしろ軍役基準を達成できていない状況が一般的といえよう)
くわえて問題となるのはその質である。
この後も軍団の質の欠陥を指摘したりしていますが、とりあえずここまで
漢城の点検は「豊太閤遺文」の「文禄二年三月廿日 高麗都ニ而御人数改之着到」の数字のようですね
>>963 小早川隆景も八千しか動員できなかった史料もありましたな。
969 :
名無し三等兵:2008/05/15(木) 09:54:12 ID:7l1iruMI
>>965 フロイスは「損耗については知ることができなかった」と明確に書いてあるよね。
その後に損耗想像数を書いているが、結論は前述の「知ることができなかった」
ダメじゃん。
どうだろう
経験則的に言うと大名の軍団構成は侍に対し10倍が総数ということになり
その場合、軍役を満たしている事になる
どうもネットに書いてある事を鵜呑みにして釣られる人が多いみたいですが
>>975に参謀本部編日本戦史朝鮮役に死者行方不明者、減耗率60%と書いてありますね
参謀本部編日本戦史朝鮮役に日本軍全体が60%と書いている訳ではなく
軍役と京城の点呼を比べて60%を越えている武将がいるだけです
>>969も違いますね
フロイスが知りえなかったと書いているのは朝鮮人の死者です
ネットに何か情報が書いてあっても本当かわかる人じゃないとダメなんですよね
この辺で相手がどの程度かもわかる訳です
>>968 八千というのは天正十九年三月十三日の知行方目録にある小早川隆景の軍役でしょうか
ここには弐拾萬石に四人役で八千とあります
朝鮮役の小早川隆景軍役は一万なので、五人役ですね
>>971 大友軍団の質について
>>967の続きです
その意味で、石田三成家臣安宅秀安によるつぎの指摘(島津義弘宛書状)は非常に示唆的である。
彼家中衆大友殿をあなとり、歴々之老中高麗へ出陣も不仕候て、大友殿手前無人故、其上歴々無在陳(陣?)ニ付而、
引退間敷処を被引取候ニ付而、末代侍之上日本之被失御面目、家をも被相果候間、能々乍憚可被成御分別候、
大友殿を心安存あなとり申候内衆も同前ニ身上相(果脱カ)、只今身之置所無之仕合共ニ候、
安宅は石田三成の島津領仕置に重要な役割を担った人物であり、右の大友氏改易の顛末も島津氏に対する牽制の過程で言及されたものである。
したがってここでの表現にいくぶんか政治的な潤色が施されたことは否定できないが
本質的な部分には侵略戦争を主導する豊臣政権中枢に共通的な理解が反映していると判断される。
つまり石田は文禄元年六月に朝鮮へわたり、増田・大谷らとともに在陣三奉行として侵略軍を指揮しており
ここにみえる大友軍に関する認識もその実態に基づいてかなり堅実に形成されたものといえよう。
大友軍団はすでに家臣団統制に失敗しており、軍団を指揮すべき重臣の多くが朝鮮渡海を忌避
幕下にくわわった将兵とても吉統の統率に諾々と従っていたわけではなかった。
さきに検討した領国支配の不安定性を考えるとき、領主権力の結集にも自ずから限界があったことは否定できまい。
大友氏は政権の要求する軍役動員を量的に果たし得なかったのみでなく、戦地において軍団の質的な欠陥が露呈したのである。
「過大な減耗率」というかたちに結果する大友軍の実態はこのようなものであった。
大友軍は軍団としての求心力を欠いており、さらにいうと、上述の「豊後国諸侍着到」などが
果たして実際に渡海した大友軍の陣容を正しく伝えたものかどうかも疑問となる。
あげ
>>975 大友はまともに戦闘したことはあるのかな?
後方の輸送部隊の方が遭遇率が高そう。
こっちは上げ進行でいいんだよ。
実際、徴収した人夫を全員、渡海させたかは疑問だな
名護屋まで引率させてそこで解散、渡海した後に現地で雇う方が合理的ではある
>>979 飢えた朝鮮人人足候補は無尽蔵にいるみたい。
>>980 無論、直ぐ逃げる
点呼は確か、漢城に到着した時点だったから
それなら半分敗走に等しい
落伍者の実態はそこん所が実際かな?
>>982 ああ、3月20日だから直後ではないか
しかし各大名ともこの時点での損耗は戦闘員の消耗も大だが
大半は朝鮮人陣夫の逃亡だと思う
>>983 朝鮮人陣夫の点呼記録があると言うのか?
>>977 参謀本部編日本戦史朝鮮役と壬辰戦乱史で三番隊、大友吉統を見てみると多少戦ってますw
参謀本部編日本戦史朝鮮役で三番隊の動きを見ると
三番隊黒田長政(兵五千人)ハ(文禄元年)三月二十日名護屋ヲ解ラン(出帆)ス
大友吉統(兵二千)亦之ニ継ク
とあって、大友吉統は最初から二千人の扱いになってるのが面白いです
文禄二年三月十日のもくそ城取り巻き大友吉統人数は四千人になっています
文禄二年三月二十日京城点呼は五月二十日もくそ城取り巻き陣立てに反映されてますね
文禄二年三月二十日京城点呼が反映と言うと数字が違うので変ですね
三月五月の陣立てと京城の数字を見ると点呼確認した形跡が見えます
>>984 ないけど、現地人夫は直ぐに逃げるという話もある
また、渡海に当たって馬は後回しでよいという記述を見るに
現地で工面できるのはその場でどうにかしているの考えてるのだが
「フロイス日本史」松田毅一・川崎桃太訳
「この遠征で、幾人かの日本人が日本から朝鮮に渡り、そのうちどれだけの人が死亡したかを知りたく思うのは当然である。
それを確認しようと百方手を尽くしてみたが、最も信頼でき、かつ正確と思われる情報によれば、兵士と輸送員を含めて十五万人が朝鮮に渡ったと言われている。
そのうち三分の一に当たる五万人が死亡した。しかも敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである。
朝鮮人の死者については知り得なかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大であった。
なぜならば、都その他の地方に連れて行かれた者を除き、この下(九州)にいる捕虜数は、数えきれぬほど多いからである。」
990 :
名無し三等兵:2008/05/17(土) 13:27:29 ID:/8epK6km
うめ
991
最後の方の資料的価値が高い良レスは次スレに転載してほしい。
993
994
995
996
997
998
999
1000get!
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。