1 :
名無し三等兵:
鎌倉武士が2度にわたってモンゴル軍を粉砕!!
2 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 03:17:38 ID:???
〇∧〃
/ > でもそんなの関係ねぇ!
< \ そんなの関係ねぇ!
〇/ はい!
/| オッパッピー!!
/>
3 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 03:42:33 ID:???
日本は当時世界最強。
論拠は当時世界の大部分を支配していたモンゴル軍を完膚無きまでに叩き潰したから。
日本は世界で唯一重装弓騎兵を使い人間の身長より長い弓を使っていた。
神風によって日本が勝ったと言うのは戦後の歴史家の陰謀。
反論はあるか?
4 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 07:49:53 ID:???
反論する気にもならないw
5 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 11:09:51 ID:???
あの国の法則が発動しただけだろ
6 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 11:10:04 ID:???
モンゴルにも騎槍&湾刀&合成弓を装備した重装騎兵がいたし、類似の装備の重装騎兵
はアフガニスタンに起こったトルコ系のハルジー朝にもいた。
まあビザンツ朝の重装騎兵も槍、盾、湾刀、弓で武装してた。
重装弓騎兵なんて当時じゃありきたりの兵種。
>>3無教養をさらして満足したら帰れや。
7 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 11:10:45 ID:???
ベトナムが世界最強とか言ってる様なもんだろ
8 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 11:30:41 ID:???
>>7 ベトナムは1257年に僅か3000のモンゴル軍によって首都を占領された国。
文永の役で4万、弘安の役で14万のモンゴル軍を、大宰府に指1本触れさせないまま
撃退した日本より強いなんてことは、ありえない。
9 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 11:43:16 ID:???
そんな大雑把に最強だのなんだのと決めれるんだったら
日本=アメリカに負けた
ベトナム=アメリカ撤退
よってベトナム>日本とかになるだろ
10 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 12:50:10 ID:???
>>9 第二次大戦中の日米の戦いと、冷戦中のベトナム戦争とは、異なる時代に、全く違う状況下で行なわれた戦争。
それに対し、モンゴル帝国の日本とベトナムに対する侵略戦争は、フビライという同一人物のもと、同じ時代に
並行して行なわれた戦争。
その結果、ベトナムが攻め込まれる度に首都を占領され、王族を人質に差し出し、朝貢を認めたのに対し、日本は
まったく橋頭堡を築かせないまま撃退し、最後まで完全独立を維持した。
当時、ベトナムより日本の方が強かったのはあきらか。
11 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 13:19:09 ID:???
なんだネタスレか
12 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 14:14:59 ID:???
>>4 >>6 >8と>10さんに反論してみろ。
すぐにだ。
13 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:24:56 ID:???
>>6だけど
>>8と
>>10に何を反論すればいいわけ?
さっぱりわからない。具体的に反論すべき文脈を教えてようw
14 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:27:05 ID:???
>ベトナムは1257年に僅か3000のモンゴル軍によって首都を占領された国。
>文永の役で4万、弘安の役で14万のモンゴル軍を、大宰府に指1本触れさせないまま
>撃退した日本より強いなんてことは、ありえない。
>第二次大戦中の日米の戦いと、冷戦中のベトナム戦争とは、異なる時代に、全く違う状況下で行なわれた戦争。
>それに対し、モンゴル帝国の日本とベトナムに対する侵略戦争は、フビライという同一人物のもと、同じ時代に
>並行して行なわれた戦争。
>その結果、ベトナムが攻め込まれる度に首都を占領され、王族を人質に差し出し、朝貢を認めたのに対し、日本は
>まったく橋頭堡を築かせないまま撃退し、最後まで完全独立を維持した。
>当時、ベトナムより日本の方が強かったのはあきらか。
これに反論するんだよ。
そんな事も解らないの?w
15 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:42:10 ID:???
>>14 >>3のおバカさんは重装弓騎兵が日本にしか存在しなかったと言ってるから重装騎兵が弓を使うのは
当時ありふれていたと
>>3に指摘したまでだが。
ああ、あとモンゴル軍と日本鎌倉武士軍が同等の条件(充分な機動作戦の余地、アウェイでの補給の有無)等を
克服してモンゴル軍に勝ったならモンゴル軍最強といえるかもね。
まさか渡海侵攻軍と防御側で条件が同等とは思ってないよね。鎌倉幕府軍が渡海侵攻して大都を攻略できた?
そこまでできなくとも橋頭堡を確保できたの?
16 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:44:53 ID:???
おっと修正
>>15 誤)克服してモンゴル軍に勝ったならモンゴル軍最強といえるかもね。
正)克服してモンゴル軍に勝ったなら鎌倉軍最強といえるかもね。
17 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:59:10 ID:???
>>15 騎兵部隊の海上輸送なんか、ウィリアム征服王や十字軍だって普通にやっている。
大モンゴル帝国にできなかったとしたら、そっちの方が問題だろ。
対馬海峡を超えて戦力投入することなんか、大昔から誰も苦労なんかしていないぞ。
391年に日本から朝鮮半島に渡った軍勢は、新羅・百済を征服。
663年の白村江の戦いでも、日本から2万7千もの大軍が朝鮮半島に渡っているし。
現実に文永の役でも弘安の役でも、普通に万単位の元軍が渡航してるじゃん。
元寇の際の防御の有利さなんて、元軍の数的有利と奇襲効果で簡単に相殺されてしまう。
文永の役でも弘安の役でも元軍は揚陸には成功している。
その後の陸戦で負けただけ。
よって日本海は関係ない。
元寇はほぼ同時期の東南アジア侵攻と比較して、一桁多い兵力によって行なわれているが、
これは船舶の輸送力を利用できたから。
さらに鎌倉幕府は長門や京都でも万単位の兵力を動員しているが、これも元軍が日本海や
瀬戸内海を利用し、大宰府以外の場所を襲撃する可能性を捨て切れなかったから。
お陰で鎌倉幕府はその兵力を九州防衛に集中させることができなかった。
つまり鎌倉武士は日本海のせいで、より厳しい条件で元軍と戦わなければならなかったと
いうこと。
18 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:59:57 ID:X3SPkhPB
鎌倉武士が世界最強というつもりはないが元寇の2度の戦いは鎌倉武士軍が戦闘に勝利したのは事実。
日本に負けて散々な目にあったのは事実だから。
文永の役では3万の元軍わずか5千の鎌倉武士軍に負けてたった1日で戦意喪失。
撤退したところ玄界灘の暴風雨で船が転覆。
神風でも何でもなく鎌倉武士軍の戦闘による勝利です。
19 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 16:04:29 ID:???
日本に侵略しようとしたのは元だけではない。
チョンも、連合軍として参加していた。
20 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 16:15:30 ID:???
>>17 >騎兵部隊の海上輸送なんか、ウィリアム征服王や十字軍だって普通にやっている。
>大モンゴル帝国にできなかったとしたら、そっちの方が問題だろ。
でも昭和のマレー作戦でも海上輸送による馬匹の損耗を非常に警戒している。
結果的に杞憂に終わったんだけどさ。
>>17が挙げた例はあくまで「成功したエピソード」だから
適切な提示だとはいえないんじゃないだろうか。
あと問題は渡航じゃなくて補給の継続だから、百済を策源地に出来た日本側と比べても仕方ない
21 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 16:42:46 ID:???
一度目は弾薬ど持ってきてないし、二度目はやる気のない南宋兵主体だから、元軍撤退=日本最強はちょっと違う。
世界最強クラスなのは、むしろ朝鮮征伐時の日本軍。
22 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 16:51:29 ID:X3SPkhPB
>>21 戦場に出向いて、しかも海を越えてまで行ってやる気なしなら殺されるだけですよ。
っていうか南宋兵中心の南路軍が東路軍と合流したのが旧暦7月20日。7月27,28日にかけて海戦が行われこのときは鎌倉武士軍によって約千艘近くが焼かれたり破損したりしてるが、船の補修のため一旦壱岐に引き返し7月31日に台風直撃。
実際には弘安の役だって鎌倉武士はほとんどを蒙古、満人、漢人、高麗人中心の東路軍相手に費やした。
あと関係ないけど朝鮮征伐時の日本軍だが韓国人がやたら誇るイ・スンシンって明史には一行も書かれてないんだよね。
23 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 17:13:28 ID:???
>>22 やる気がないという言い方がまずかったのかな?正確には南宋兵は戦意が低い。
あと、江南軍はつかえねー奴らだけど、君も書いてるようにそいつらとの合流、上陸作戦初期の戦力集中にさえ失敗してる。
これじゃ常識的に考えても石塁まで用意して元側とほぼ同数まで兵力をかき集めてきた日本側には勝てない。
結局、元軍は負けるべくして負けた戦い。
24 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 17:31:45 ID:X3SPkhPB
当時は無論、現代的な意味での民族主義はなかった。
しかし鎌倉幕府は鎌倉殿と御家人との間で御恩奉公の関係はあった。
承久の乱などでも手柄立てた御家人には恩賞が与えられたがこれが武士たちの戦闘意欲を高めたのかな。
25 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 17:38:17 ID:???
幕府「藻前ら!元は侵略したら当然藻前らの土地分捕るつもりだYO!」
御家人「な、なんだっt(ry」
こんな感じで御家人を焚きつけまくった。
26 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 17:46:43 ID:QWm5+RRh
まあモンゴルがあれだけの大帝国となったのは全ての戦争をモンゴル人だけでやったわけでは当然ない。大帝国なんて征服した民族から新規に兵を調達し次の戦争へ使うなんてこのの繰り返し。
征服された民族だって大帝国の中で生き抜くには帝国の忠実な軍隊となることなど世界史的に珍しくもなんともないこと。
満州人の清朝だって軍事の中核は漢民族部隊の緑営だった。
別に空前の世界帝国を作ったモンゴルが日本遠征に限り愚かで戦争に無知だったとかというわけでは決してないだろう。
鎌倉幕府の御恩と奉公の関係は空前の大帝国をも撃退出来るシステムだったといっていいのでは?
27 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 18:06:22 ID:???
>>17 これって今の海上保安庁の密輸密航摘発や自衛隊の人員配置にも言えるよなあ。
長い海岸線をどうやって守るのか…。
28 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 18:18:05 ID:???
>>26 元は渡洋作戦の経験は少ないし、作戦面では不手際だらけでしょ。
なんか米帝のような世界最強の軍事国家を撃退したウリナラの政治システムは世界1!みたいな言い方はちょっと・・・。
だいたいご恩と奉公の関係って封建制度の亜種みたいなもんで当時としてはその種のシステムは大して珍しくないのでは?
29 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 18:36:33 ID:QWm5+RRh
いやそういう意味ではなくて日本を攻めて来た元という国の国力を軽視するのもどうかと思う。
鎌倉幕府のシステムを必要以上に過大評価するわけでないが当時の日本だってそれ相応の国力があり鎌倉幕府のシステムはそれを生かせるだけの
ものがあったと。
実際鎌倉幕府は承久の乱当時10万以上の兵で京に攻め上っているから弘安の役のときの
元軍14万だって決して兵力でかなわないというほどではない。
ちなみにバトゥのヨーロッパ遠征ではモンゴル12万に対しドイツ・ポーランド諸侯連合軍はわずか3万しか集められなかった。
当時の日本の人口、農業生産(米の二毛作はほぼ全国に普及。宋代の中国より早い)そしてその後の室町時代は日本刀や日本の鎧などが主要な輸出品だったことを思うと手工業なども相当に発達していた。
それだけの力はあったと思う。モンゴルに軽く征服された弱小国以上の国力があったのでは?
30 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:13:35 ID:???
>>29 何が言いたいのか今イチよくわからないけど、
国家のシステムとしては大して先進性があったとは思えないけれども、国力自体は当然そこらの弱小国以上はあるよ。
元が南宋問題をぬきにしてガチで掛かってきたら流石にやばいけど。
31 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:20:47 ID:???
>>28 元軍は渡洋作戦の経験が少ないというのは誤解。
元軍は元寇直前に三別抄相手の珍島や耽羅への渡洋作戦を経験しているから、
文永の役が3回目で弘安の役が4回目。
同じ部隊が実戦でこれだけの渡洋作戦を経験しているなんて珍しい部類だろ。
32 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:33:27 ID:???
>>9 ならないですぅ
元寇 元+高麗(敗) 対 日本 (勝)
大東亜 日本+朝鮮(敗) 対 連合国 (勝)
ベトナム 国連軍+韓国(敗)対 ベトナム(勝)
日本が勝ったのは運が良かっただけですがな
33 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:35:38 ID:POccrOoQ
34 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:36:32 ID:???
>>32 元+高麗は、元寇後のナヤン・カダアンの乱で勝ってる
35 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:37:32 ID:???
>>32 敗北した側が、必ずといってある地域の国が味方についていますよね。
何故?
36 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:42:32 ID:???
>>31 確かに軍司令部忻都を初めとして元軍は朝鮮半島の小島への上陸作戦は行っているけど
あれは渡洋というより、むしろ渡河作戦に近いものではないかと。
37 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:44:45 ID:???
>>17 どうしてそんな大軍送る必要あったの
実際桁違い過ぎね?
初めから補給の見込みなしで攻めてるようにしか見えねえ
行き詰ったら即撤退するしかないんじゃね?
38 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:54:24 ID:???
>>36 確かに珍島は近いが、耽羅へはそれなりの距離がある。
それに耽羅遠征は文永の役の前年。
元軍にとっては、文永の役直前に手頃な距離の手頃な相手にスパーリングできたようなもの。
かなり恵まれた状況だと思うが。
39 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:58:46 ID:???
>>38 確かに耽羅を渡河って言うのは無理があるか・・・。
渡洋作戦の経験が少ないってのは撤回します。
40 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 20:13:09 ID:???
なぜ元軍は、九州攻撃にこだわったのか、
また、壱岐や対馬を恒久占領しなかったのは何故か、
ちょっと分からない。
41 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 20:34:58 ID:???
一回しただけで経験豊富?
42 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 20:46:15 ID:???
この時期の高麗はまだ強かった、というよりガッツがあった
中央アジアのようににあっさり崩壊した国も多い中で
この時期の高麗の粘りは特筆に値する
43 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 20:59:55 ID:???
1、日本は王権が古来から比較的強く
2、農業生産力ばかりでなく、鎌倉政権と言う軍事政権が国内統治をある程度掌握、
軍事動員体制も含めて国力があった
3、経験があったとは言え当時の気象条件や造船技術の下では渡海上陸戦は不利
4、さらに地理的にも高麗頼みで不案内
5、何よりも蒙古襲来を予測して備えを固めていた幕府・御家人の防備が優秀
こんなところ?
>>40 日本じゃないけどサハリンにモンゴル軍が侵入してなかった?
網野善彦の本にそんなこと書いてあるよ。
44 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 21:15:01 ID:???
>>42 まったく同意だな、高麗こそ真の最強国
たかが渡河作戦数回の経験しかない状態で海を越えさせられ、
精強な蒙古兵もほとんどおらず、最初から無理矢理従軍させられた戦で士気も低い高麗兵主体の元軍に、
そんな青息吐息の高麗軍に戦闘とすら呼べない戦いでただ一方的に虐殺され、
敗走を繰り返しながら防御施設にこもり、ガタガタ震えて必死に神仏へ祈祷していた鎌倉武士……
勉強嫌いのネット右翼よ、現実を正視するがいい
45 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 21:18:49 ID:???
>>44 退却戦で大損害出してないので、「敗走」とは言えないと思う。
後半三行意外は同意できるんだが
46 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 21:22:54 ID:???
常識的に考えて、やっぱり高麗の方がはるかに鎌倉武士より強いよな。
あの悲惨な状況で、防御施設を築いて待ち受ける十万の鎌倉武士に敵前上陸を強いられ、それでもなお一方的に蹂躙してのけた高麗兵……
やはり鎌倉武士など足元にも及ばないな
47 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 21:28:21 ID:???
高麗>(好敵手の壁)>蒙古兵>>>>>>(事前築城万全、相手は渡海作戦で無理矢理連れてこられてやる気なしの壁)>>>>>>一方的に虐殺され神頼みするしかなかった雑魚鎌倉武士
48 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 21:32:59 ID:???
常識的に考えてみてさ、海で隔離されて切り離された環境のものが強い訳ないんだよね。
オーストラリアやニュージーランドの生き物だって、外敵がいないから生き延びられただけ。
鎌倉武士もそれと同じw
蒙古や高麗という苛烈な大陸から渡ってきた外来種に、手も足もでず一方的に虐殺されていたところを、
たまたまの自然災害で命拾いしただけw
もし高麗がもう少しだけ本気だったら、鎌倉武士は完全に一掃されていただろうな……
49 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 21:41:44 ID:???
鎌倉武士の弱さと高麗の精強さが語られれば語られるほど、
朝鮮半島を併合し、された近代日本の強さと李氏朝鮮の弱さが際だつということでよろしいか。
50 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 21:51:28 ID:???
>>49 ネット右翼脊髄反射乙
鎌倉武士の絶望的な弱さから目を逸らしても、君が得るものは何もないよ
こんなところで思いつきの「ぼくのかんがえた最強鎌倉武士」を疲労しているより、仕事を探しにいくことだね……
51 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 21:53:44 ID:???
>>50 いや鎌倉武士がいくら弱くてもいいんだけれども・・・
52 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 21:58:05 ID:???
>>51 勝ったのに弱いといわれるのもなんだかなw
53 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:05:44 ID:???
>>52 実際弱かったんだから仕方ないんだけどな……
54 :
42:2007/09/09(日) 22:13:29 ID:???
>>44 そこまでは言わないけど
江華島に宮廷を移して徹底抗戦できるぐらいの気負いはまだあった
結果的には負けたが、日本だって陸続きでモンゴル軍に三十年ぐらい攻め続けられたら
どうなってたかはわからない。
後期高麗〜李朝以後は全く見るべきものなどないが
55 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:16:02 ID:???
56 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:20:18 ID:???
>>55 ん? モンゴル軍と高麗兵は圧倒的に強かっただろう。ただ彼らには運がなかったし、士気も低かった。
モンゴルの尖兵となって日本なぞという未開の僻地へ寄越され、厭戦気分が蔓延していた。
それでもゴミ以下の鎌倉武士は簡単に粉砕できたが、内輪の問題はそうも行かない。
そのうえ何せ、決まり手は台風だからな……
57 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:37:21 ID:???
>決まり手は台風だからな……
いまだにこんなことを信じているとは・・・
58 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:39:03 ID:???
59 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:39:46 ID:???
60 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:40:24 ID:???
モンゴル軍と高麗兵の士気は高かったぞ。
特に高麗兵はやる気満々だった。
でも、悲しいことに鎌倉武士には全く歯が立たなかった。
蒙古襲来絵詞には血まみれになって鎌倉武士から逃げ回る、高麗兵とモンゴル騎兵が描かれている。
何より高麗自身の史書である高麗史にはっきりと「戦って負けた」と書いてあるしな。
『高麗史』87巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
61 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:44:41 ID:???
>>58 ちゅうか最近の教科書では決まり手は台風って書かれなくなりました
62 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 23:01:36 ID:???
>>56 季節風を利用した航海をようやく卒業した程度の航法で補給の当ても無く
大軍を投入してる時点で終わってるとしか思えないのだが?
帰路はいづれも遭難で・・・没
完全に日本を舐めていたとしか思えん。
自滅したも同然だよ
63 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 23:18:47 ID:???
二度目は海岸線に陣地を作って上陸を許してないのが素晴らしい
64 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 23:53:45 ID:???
決まり手ってわけじゃないけど
上陸を阻止してる間に台風来てそこを一気に叩いたってのは事実だから
神風が来たってのは間違っては無い
65 :
名無し三等兵:2007/09/09(日) 23:59:56 ID:???
>>60 そういうのって絵巻なんぞがどこまで史実どおりなのか疑問だし
高麗史だって負けたといってるのは元も含めてなのか
単に朝鮮軍がボロ負けしたのかの区別も付かないし
情報収集や共有もままならなかった時代にどこまで
ただしく把握してたのか疑問なのに歯が立たなかったなんて表現して大丈夫かよ
66 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 00:25:20 ID:???
でも長篠合戦図屏風とかって、
旧通説じゃなくて最近の有力説を唱える研究者にも引用されるよね
武田軍の部隊編成なんかで
もちろん誇張はあるけど、史料批判を通過すれば使えるんじゃない?
67 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 04:43:18 ID:???
>>65 古今東西、どんな合戦でも最重要史料は、実際に戦闘に参加した兵士の残した史料。
当然元寇でも史料の重要度は、蒙古襲来絵詞>>>その他の史料。
68 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 06:08:37 ID:???
文章じゃなくて絵って誇張が相当入ると思うが
しかも国内合戦ならともかく侵略戦争で
69 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 06:39:19 ID:???
>>68 蒙古襲来絵詞って絵だけじゃなく文章もついてるの。
「・・・武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。
小勢は別府の塚原へ退く。麁原より鳥飼の汐干潟を大勢に成り合はむと退くを追駆くるに、
馬干潟に駆け走して、その敵を延ばす。兇徒は麁原に陣を取りて、色々の旗を立て並べて、
乱鉦暇無くして犇めき合ふ。・・・」
こんな感じでね。
これは赤坂で菊池武房にボロ負けした元軍が、二手に分かれて麁原まで敗走する様子。
70 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 06:58:04 ID:???
訂正
「・・・武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。
小勢は別府の塚原へ退く。塚原より鳥飼の汐干潟を大勢に成り合はむと退くを追駆くるに、
馬干潟に駆せ走して、その敵を延ばす。凶徒は麁原に陣を取りて、色々の旗を立て並べて、
乱鉦暇無くして犇めき合ふ。・・・」
71 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 07:30:37 ID:iIoRQ8TR
和弓と日本刀の性能を考えたら頷けないこともない。
当時世界最強の弓にして、世界最強の刀と言っても差し支えない。
和弓は金神頭という、置盾を砕くための矢まであった。現代のホローポイント弾
をはるかに先取りしている最強の矢だ。
盾を矢で砕くなんて発想そのものが世界的に無かった。しかし、和弓はこれを可能に
していた。日本で携帯式の持盾が発達しなかったのも、これがあるためだ。
72 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 08:30:43 ID:???
>>69 宣伝の為にかかれたんだろ?
それを文面通りに受け取ってどうする。
73 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 08:40:32 ID:???
>>72 蒙古襲来絵詞が「恩賞たため書かれた」とかいう話は嘘だから。
実際に絵巻について調べれば簡単に嘘とわかるレベルの話だし、まともな本で
そんなことを書いているものもない。
それが何でこんなに広く流布されているのか・・・
74 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 08:51:13 ID:???
そこでGHQの陰謀ってつなげるんだろ?
75 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 08:58:21 ID:???
>>73 自身の戦功を書かせたと言う時点で宣伝だろう。
なんでそんな物を聖典みたいに扱うんだ?
76 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 08:59:54 ID:RnMc5pio
いずれにせよ弘安の役のときの14万程度の軍ではとても日本征服は不可能だったろう。
フビライの誤算は日本の国力を過小評価しすぎたことか。
77 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:00:11 ID:???
要するに、当事者によって書かれたからガリア戦記の記述に問題は無いと言う事でいいのか?
78 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:06:27 ID:???
>>74 GHQの占領政策としての戦後歴史教育への介入は、公然と行なわれたんだから、
陰謀云々の話じゃないだろ。
お前は、GHQが不都合と判断した歴史教科書の記述を、戦後の子供たちが墨で
塗りつぶすように指示された話を知らないのか?
79 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:06:46 ID:???
史料批判って言葉が上で出てるだろうが
80 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:09:24 ID:???
>>77 ガリア戦記は、普通にローマのガリア征服の最重要史料じゃん
81 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:21:03 ID:???
>>80 その記述に問題や宣伝が無いと言う歴史家は誰一人としていない。
重要な史料である事とそれの記述に問題あると言う事は矛盾しない。
そして日本最強厨は単にその方が気持ちいいから妄信してるだけだ。
82 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:22:53 ID:???
>>80 同時代人の元老院議員に向けた説明なんで、あんまりあからさまな嘘が書けなかった
っていう事情があったんで信用度が高いという評価をうけているんだが。
83 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:26:33 ID:???
>>81 じゃあ、元寇に関して記述に問題の無い史料で何だよ?
どんな史料のどんな記述にも多かれ少なかれ問題はある。
元寇について、日本に不利な内容ならどんな怪しげな文献の荒唐無稽な記述でも
平気で受け入れるくせに、蒙古襲来絵詞だけを信用できないなどというのは、
史料に対する公平な扱いじゃ無いだろ。
84 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:32:55 ID:???
>じゃあ、元寇に関して記述に問題の無い史料で何だよ?
そんな物ない。
だから史料批判と言う言葉がある。
>元寇について、日本に不利な内容ならどんな怪しげな文献の荒唐無稽な記述でも
>平気で受け入れるくせに、蒙古襲来絵詞だけを信用できないなどというのは、
>史料に対する公平な扱いじゃ無いだろ。
そんな事は言っていない。
自分の武功の宣伝と言うあからさまにバイアスが入ってそうな史料を妄信するのはおかしいと言っている。
85 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:39:29 ID:???
>>84 蒙古襲来絵詞は、自分の武功の宣伝のために作成されたとは考えられていない。
恩賞奉行として御家人たちの戦功を査定した安達氏に対する追慕のため作成されたというのが定説。
自分の武功を誇張したりしたら、安達氏に対して追慕どころか、当て付けにしかならないだろ。
86 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:41:15 ID:???
問題になりそうなこと書くときは、
「☆☆については○○の記述ではこうあり、一方××ではこう記述してあって相互に矛盾がないので
☆☆は□□であったといえる」
と書けばいい、というかよそのスレじゃ航空機エンジンについて書くときでもそうしているお前らが
どうしてこういうスレだとそれが出来ないんだぜ?
87 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:10:07 ID:RnMc5pio
「蒙古襲来絵詞」は世界の多くの学者によって史料批判はされている。
鎌倉武士の集団騎馬武者攻撃に逃げ惑う蒙古兵の装束は中央アジアで発見された
モンゴル軍を描いたものと見事一致した。モンゴルは世界帝国だっただけに研究対象は世界中で多い。
その世界各国の学者が調べた上で価値が高い史料と判断されたもの。
しかし竹崎季長に向かって弓を引いている3人の兵だけは他の蒙古兵と比べ装束色彩が異なっている。
この3人に関しては後世の加筆であることが最近になって判明。史料的価値は全くないという結論に至った。
史料批判というものはこういうもの。史料のすべてを盲信したりもせず前面否定もせず何が真実で何が真実でないかを見極めることをいうのだ。
ちなみに学校教育においてこの蒙古襲来絵詞は騎馬武者の先頭になって突撃する竹崎季長とその前で弓を引く後世加筆の3人の兵士のみをカットして記載。
3人の兵の左側で逃げ惑う蒙古兵は記載されず。また季長の右側にいる騎馬軍団も一人も載せない。
そんなカットを教師は鎌倉武士は単騎で集団の中に突撃して元軍の集団戦術に苦戦したなどと教えている。
思えばひどい教育受けたものだ。
88 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:22:28 ID:RnMc5pio
高麗の忠烈王は元の南宋攻撃の際、従軍する処女500人差出せと命令されたら、
婚姻禁止令まで出して実際に高麗の女を蒙古兵に差出した。
これってあの国の伝統?
それにしても高麗の番犬ぶりはお見事。
いつの時代でもあの民族ってこういう体質であることがよくわかるよね。
89 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:26:54 ID:???
>>84 蒙古襲来絵詞なんて竹崎が描かせたものだ
当然都合よく「敵を追い払った」と描いている可能性がある
90 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:28:17 ID:???
蒙古襲来絵詞なんて後世に手が加えられている巻物だ
こんなものは資料として使えない。
91 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:32:59 ID:???
>>88 わが国の特殊慰安施設協会のことなど考えると東アジアの伝統ではないかと思う
92 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:34:30 ID:???
竹崎季長なんて一介の兵士だろ
竹崎から逃げる元軍が本当のことだったとしても
全体的にはどうだったかわからん
93 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:37:27 ID:???
文永の役
元軍は御家人の抵抗を排除して上陸に成功するが
矢を使いすぎて、大宰府を占領できずに撤退、
その際に博多を荒らしまわる。
弘安の役
幕府が防壁を築いていたので元軍は上陸できず海に釘付けにされる
そのご台風が来て大打撃
94 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:38:46 ID:???
な文永の役での御家人の数は数千人ほどで
少なかった。(援軍は次々に来ていたが)
博多占領もそうしたことが原因だろう
95 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:41:08 ID:???
日本は別に世界最強の国でもないし
神に選ばれた特別な国でもない。
戦いに負けることもあるし失敗だってする
ネットウヨが多い2chはそこんとこをよく認識しておくように
「日本は特別な国ではない」
96 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:42:08 ID:???
>>91 んなもん世界中にあったべさ
ベトナム戦争時の米軍とか
97 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:46:27 ID:???
文永の役は日本の史料にも高麗の史料にも「元軍が戦って負けた」とかいてある。
鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」
帝王編年記
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」
高麗史87巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
信頼できる文献に「元軍が博多を占領した」などと書いたものは存在しない。
98 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:47:57 ID:RnMc5pio
やっぱり番犬の高麗は最弱だったんだ。
99 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:48:51 ID:???
また、『高麗史』金方慶伝にいう、
倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、『蒙人雖習戦、何以加此。』
諸軍与戦、及暮乃解。方慶、謂忽敦茶丘曰、
『兵法千里懸軍、其鋒不可当。我師雖少、已入敵境。人自為戦、即孟明焚船、准陰背水。請復戦。』
忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍。』
欧亨(蒙古軍の副将)中流矢、先登舟、遂引兵還。
会夜大風雨、戦艦觸岩崖多敗」
日本軍は大敗し、その屍は麻の如く散らばっていた。
それを見た忻都は、「蒙古の人間は戦に慣れているとはいえ、日本もなかなかのものだ。彼らにこれ以上付け足すものは何もない」と言って感心した。
勇者への賛辞といったところか。額面通りに受け取ってもかまないが、忻都は一種の余裕も感じながら発言したのだろう。
諸軍は終日戦い、日没になって軍を引き上げた。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/histo2-5.html 高麗軍は戦って勝ったとある
竹崎季長が戦った敵て高麗軍だろ
>>98博多から大宰府まで引いて
水城を防衛拠点にしている
>>99 忻都が引用した兵法の「小敵之堅、大敵之擒」で、「小敵」に該当するのが元軍、
「大敵」に該当するのが日本軍。
その上で、撤退すなければ、元軍が日本軍の「擒」になってしまうと言っているんだから
要するに元軍がボロ負けしたと言うこと。
>>100 竹崎季長がいたのは赤坂
高麗軍が攻めたのも西部から
>>102 海岸から一掃されて御家人のどこが勝ったんだよ
大敵というのは敵に(幕府側)援軍が次々来て兵力が逆転したことを言っているんだろうが
>>102 日本は神国でもないぞ、
失敗する時も
他国に遅れをとる時もあるんだぞ
わかってるか?
高麗史に書かれた上陸地点に居たのは松浦党。
高麗史に元軍が少弐氏率いる御家人たちに勝利したという記述は無い。
「神風」の伝説が生まれたのも
当時の元軍がいかに恐ろしかったことの裏返しなんだろうな
>>107 元側は壱岐対馬をおとしたあと
博多付近に上陸している
高麗部隊も博多に上陸している
高麗史はそのことをいっている
実際に兵力が少なかった御家人は
敵の上陸を許して後方の大宰府、水城に引いている
>>104 「御家人が海岸から一掃された」の根拠となっている八幡愚童訓には、
「元軍もボロ負けして海岸から一掃された」と書いてあるぞ。
何で片方だけを受け入れるのさ?
>>108 壱岐じゃ根切りにされてるし、普通に戦っても強敵でいつまで戦闘が続くか分からんしね。
神風自体はありがたかったと思う
113 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 11:17:28 ID:RnMc5pio
>>108 神風云々なんて江戸時代の学者だって一言もいってないんだが。
ちなみに昭和天皇が受けて教育でも神風など一言もなかったらしい。
大正時代になってから出始めたこと。
ある意味、元寇の鎌倉武士の合理的な戦い方をきちんと勉強しなかったから昭和の悲劇は起きた。
八幡愚童訓に書かれた文永の役の元軍敗退
「夕過る比、白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろえて射ると見えしは、
神の降伏し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、松原の陣をにけ、海に出るけるに、
あやしき火もめくり、船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまたま沖に、にけたるは、
大風に吹しつけられにけり」
この八幡愚童訓をソースに「御家人が大宰府に撤退した」とか言っておきながら、
一方で元軍の敗北は認めないってのは、一体どういうことだ?
初心者ですが
入手可能な日元戦争関係の必読文献、良書あったら教えて下さい
書店に行っても歴史学のコーナーで、「蒙古襲来」しか積んでません
書籍でもサイトでも
当時の政治状況とかでもいいです
史料を編纂して市販してるやつとかでも…
>>115 かなり古い本だけど【本土防衛戦史元寇 陸上自衛隊福岡修親会:著】というのがある
ヤフオクや古本関連のサイトをマメに探せば、入手はそれほど難しくないです(安けりゃ千〜二千円程度)
かつては、軍事関連書籍スレで防衛戦に関する内容が評価され、一時的な中古価格高騰を招いたことも…
ただ、文体がちょっと古めかしい感じ&画像があまり多くないので、慣れない人はちょっと読みづらいかも?
118 :
115:2007/09/10(月) 12:20:05 ID:???
>>116 有難うございます、早速書店や密林に問い合わせてみます
ちゃっかりしてますが、史料、東洋文庫とかで必読文献あったら
他のかたもぜひご教示下さい!
>>118 ちょっと待った
116だけど、この本は昭和38年頃の既に絶版本なので書店に問い合わせても入手不可です
ヤフーオークションや日本の古本屋で検索しながら探すのが良いかと
>>119 俺はついさっきネットで売ってた最後の一冊頼んじゃった
122 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 14:36:32 ID:RnMc5pio
>>113 確かに寺社勢力は自分たちも土地ほしいから言ったが江戸時代の頼山陽の「日本外史」などには
戦闘で戦って勝ったとあり神風思想など全く影も形もない。
モンゴル軍の側は舟の上で何を食ってたの?
124 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 17:31:55 ID:RnMc5pio
ところで元寇当時のモンゴルと日本の力関係は16〜17世紀のオスマン・トルコとサファビー朝ペルシアに例えるのは無理があるかな。
トルコの方がより強大であったがペルシアもそれなりに実力があったからトルコはバルカン諸国や北アフリカの国々などは次々と征服したが東への侵攻は
サファビー朝に阻まれてメソポタミアまでしか拡大できなかった。
まあ13世紀のモンゴルはオスマン朝以上に強大であったが。
どうも日本の歴史というものを明治維新まで常に世界の後進国で日本はちっぽけな国で遅れていたなんて短絡的な見方をする呪縛から未だ
抜けられない考え方の学者が多いような気がする。
鎌倉時代というのは米の二期作の普及で農業生産が随分と飛躍した時代。
また鎌倉幕府は承久の乱で10万以上動因した政権。
モンゴルとてそんなに安易に征服できるような国では無かったのではないかと思うが。
まぁ平安時代なら100%負けてた
江戸時代あたりだと最強のヒッキーだからな
どうでしょう。
足軽がただの下級役人化した江戸時代の日本が
果たして世界一の使い手だったかどうか…
128 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 19:44:37 ID:RnMc5pio
>>125 うん。平安時代の刀伊襲来のときの貴族の対応ぶりをみると文永の役の時の3万程度でも
京都まで攻められた可能性ある。
>>126 江戸時代だともうアジアの遊牧民族の時代じゃないからねえ。
129 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 19:53:36 ID:PbMwWY+h
お互いの軍装や戦術について触れる人は誰もいんね。
1はそのことについて語りたいようだが。
>>5で早くも粉砕されたからな。
130 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 20:34:53 ID:RnMc5pio
>>129 鎌倉武士が名乗りを上げての一騎打ちを挑んで元軍の毒矢戦術や集団攻撃
に多数の死者を出したなどという教科書的な解釈はもう卒業すべきでしょう。
それが事実なら3万の元軍に対し博多に出向いた武士軍団は5千。
城に篭っての篭城戦ならともかく野外戦であるから教科書が事実とすれば午前に始まった戦闘は日没まで続くはずがない。
当時の武士の大鎧だが以前テレビでタレントが着てたがとにかく重くって歩くのも一苦労って感じだった。」
「ええーっ。武士ってこんな重いものつけ戦ってたんですかあ?」といってた。
日本の大鎧は少なくとも攻撃の機動性よりも防御に重きをおいたものであると思うが。
南北朝時代の何かの文献に護良親王が矢を体中に受けたような苦戦ぶりが書かれていたが別に親王は戦死
していない。
また日本刀は室町時代の日明貿易の主要な輸出品。中国では倭刀を剣で受ければ刃が折れると言われていた
くらい切れ味鋭いものだった。
武器や防御用具だって教科書にあるほど歴然とした差があったとは思えない。
>>中国では倭刀を剣で受ければ刃が折れると言われていた
>>くらい切れ味鋭いものだった。
「折れる」のに切れ味鋭いと…?
どのみち、日本刀は主要武器じゃ無いだろう。
確か鑓、長刀と弓あたりが主要武器だったようなきがする。
まあ、頑丈ではあろうな
こないだ、タイの剣作成の様子を見て山田長政が活躍したか納得した
だって、タイの刀剣って二枚の鉄板を繋ぎ合わせる作業から入るんだよ。
まぁ、この時代の武士の装備だと、弓矢・薙刀・長巻がメインウェポンで刀がサイドアームだろうな
長い槍はもうちょい後の時期くらい?
印字打ちを忘れないでくだしあ
そういや前にディスカバリーチャンネルで元寇やってたな。
元軍の難破船引き上げたりいろんな錨の方向からてあれこれ考証したあげく
台風で沈んだのを実証してた。日本人から見たらアレな内容だったが
外人が見ると面白いんだろうな。侍マンセーだったし
137 :
名無し三等兵:2007/09/10(月) 21:51:42 ID:RnMc5pio
>>133 タイの剣作成の様子についてもっと詳しく知りたいのですが。
>>元軍の難破船引き上げたりいろんな錨の方向からてあれこれ考証したあげく
詳しく。
>>137 NHKの「その時歴史が動いた」の前番組(松平アナではない)で、山田長政の特集中で見た。確か「堂々日本史」だったかな。
アユタヤの日本人街跡から陶器や畳、五右衛門風呂など出てきて、タイ在住の日本人の生活ぶりが興味深かった。
他国でも日本人流で住む人たちを思い起こして、望郷の念とかあったのかなあ、とか考えさせられて、非常に面白かった。
その時に刀剣の話が出てきて、二枚のパーツで刃を作るタイ方式が紹介されていた。
戦国時代崩れで戦慣れしていた当時の日本人親衛隊は当然日本刀装備で勇敢だったらしい。
>>134 弓矢がメインウェポンでしょう。馳せ違いざまに射るというのが基本。
日本刀の陰に隠れていますけど、和弓って実は凄い兵器ですよ。
ヨーロッパで戦術に革命をもたらしたロングボウは1.4m〜2mくらい。
一方、当時の和弓は7尺5寸が定寸でした。ロングボウは木材のみの単一素材弓ですが、
和弓は木材と竹を複数張り合わせた合板弓です。特に竹という素材は靱性に
優れていて弓の素材としては最適です。さらに和弓では竹に火を通して炭化させて
使用しています。竹は炭化させると性質が変化し、より弾性が強化されるんです。
一種のカーボン素材ですね。
また、大型弓なんで使用する矢も長く重くなります。矢が重いということは命中した
時の威力が高くなるということです。トルコ弓が開発されるまでは世界一の威力だった
のではないかと個人的に考えています。
>トルコ弓が開発されるまでは
トルコ弓と蒙古弓は基本的に同じものでしょう。
>>143 19世紀のトルコ弓は、モンゴルの弓みたいな2重S字形じゃないよ
>>一種のカーボン素材ですね。
いや、他の場所でも大して珍しくないですよそれは。
なんで張力を無視してるんでしょうか。
146 :
名無し三等兵:2007/09/11(火) 12:54:57 ID:Isz7hFjp
>>130 中世において10万以上の軍を動員できる国などそんなにない。
そういう意味では大帝国VS極東の弱小島国といった先入観を取っ払って
大国同士の戦いと見方かえていいかも。
大体あのチムールだってオスマン=トルコとのアンカラの戦いで動員したのは20万、
明遠征も20万、オスマン=トルコのスレイマン1世がウィーン包囲したときも20万。
元の日本遠征は海を越えてとなるわけだから弘安の役の14万は当時としては最大限といったところか。
明の永楽帝の宦官鄭和の大遠征は5万程度でそれでもセイロンその他の戦闘では無敗だったから。
前に初質スレでも世界史板でもちゃんとした回答が無かったんだけど
元軍が使ってた毒矢の毒って成分は何?
鉱物系の毒?動植物系の毒?
149 :
名無し三等兵:2007/09/12(水) 08:34:23 ID:euyOYZXU
>>146 そういう見方をすると鎌倉時代の日本って世界有数の大国のような感じがする。
十字軍からエルサレムを奪還したことで有名なサラディンが、1179年にエジプトで動員できた兵力は、
アミール111騎、タワーシー軍団6976騎、カラグラーム軍団1553騎の合計8640騎。
鎌倉時代の軍の表現で〜万騎って使われてるけどこれは名前通り騎兵だと取っていいの?
152 :
名無し三等兵:2007/09/12(水) 11:56:20 ID:jVv6wQKJ
島国で朝夜構わず、無尽蔵な兵員で襲撃されたら
元軍に勝ち目は無い、ジリ貧になり確実に弱体化
元がある程度国土占拠しちゃったのを苦労して苦労してやっと回復って展開だったら日本人のメンタリティも変わってたかねえ
154 :
名無し三等兵:2007/09/12(水) 12:54:55 ID:ei892J2J
中世の侵略では相手方,皆殺しにするか,相手国に寝返る奴がいないと難しいだろうね。
まあ,現代でも同じだけど。
そういえば、今日は筥崎宮の放生会だな。
支那・バカチョンを撃退したご先祖方に感謝したい。
平安時代なら完敗
アイヌもサハリンとかで元軍と戦っていたんだよね
>>140 >また、大型弓なんで使用する矢も長く重くなります。矢が重いということは命中した
>時の威力が高くなるということです。トルコ弓が開発されるまでは世界一の威力だった
>のではないかと個人的に考えています。
それはおかしい。矢の長さは片腕の長さ+α。
せいぜい弓の射手の体格差程度の差しかないよ、特殊な用途以外では。
日本の弓矢が史上でも最強クラスだったのは間違いないな
欧米かぶれの馬鹿がしったかぶりをするな
と、日本かぶれの馬鹿が申しております。
日本の弓は、張力は、ほぼ手で引ける限界に達してるし
弓の大きさは(長さ)は、大きな方なので、世界的にみても
威力は高い方なのは間違い無い。
ただ取りまわしとか命中精度には、疑問はあるな。
ただ和弓自体の性能はかなりのものだったとしても
それを使った戦術自体が洗練されていなかったのが日本
163 :
名無し三等兵:2007/09/12(水) 22:03:16 ID:oikPJmqo
それにしてもナショナリズムがなかった時代に九州の御家人の中に元と手を結んで自分の勢力を拡大
なんてことを考えた奴がいなかったのが不思議。
大体鎌倉幕府自体が朝廷と幕府の2重権力の一つで強固な統治組織を持っていた訳ではない。
承久の乱以降も朝廷や寺社勢力はまだまだ強かったし北条氏は所詮御家人。
飾り物とはいえ宮様将軍がいたし北条専制体制の強化を謀る内管領の平頼綱と御家人代表の安達氏の対立の火種は燻っていた。
北条氏自体も名越家の反乱など一枚岩でなかったのに。
よくそんな状態で敵に内通するものも出さずに一致して当たれた。
内部分裂しない限り日本の国力を考えれば征服されることはなかったろう。
これが南北朝時代だったらどうかわからない。
>>張力は、ほぼ手で引ける限界に達してるし
何kg位?
165 :
名無し三等兵:2007/09/12(水) 23:06:08 ID:oikPJmqo
>>150 サラディンのアイユーブ朝って世界史的にも有名で大国ってイメージあるけどそんなもんだったの?
人口比率考えようね
>>163 それは逆では?
時宗政権になってからは蒙古の使者が度々国交を促しに来ていたわけで、
それを蹴った時点で来襲は予想できていたはず、だから二月騒動とかで
名越などの有力諸家を潰した一種の戒厳体制だったんじゃと。
あと日本は王権が古代から強くて、ナショナリズムはないがかなり纏まった国家
(武士同士の私戦でも朝廷の権威が絡んだので、異教徒討伐戦に近い様相を呈した)
そこに御家人の一所懸命と言う所領防衛のインセンティブが働けば、
蒙古に対抗して所領を確保するため幕府の動員令に従って決して無理はない
>>162 戦術が洗練されていたから元軍に勝てたんだろ
元寇と同時に東北大反乱とかおきたらやばかった
>>164 現在使用されている和弓の張力なら一人で弦を張れるよな
張力70sでも二人居れば弦を貼れるだろ
とすれば三人張りの弓の張力は、それ以上ということ
173 :
名無し三等兵:2007/09/13(木) 08:49:44 ID:eCk0w7un
>>150 源平合戦の頃なら木曾義仲や平家でも十字軍に優に対抗できた?
>>173 信頼できる史料とされている玉葉に、1183年4月に平家が動員したと書かれている兵力が4万余騎。
余裕で対抗可能。
純軍事的には十字軍は第一回を考察するなら兵力的にはぜんぜんすごくない。
アラブ側が分裂してた事実が大きいよ。
176 :
名無し三等兵:2007/09/13(木) 12:41:11 ID:mvJQ6ZPN
現在の一般向けに作られている和弓と往時の戦闘用の和弓を比べてはいけない。
33間堂の通し矢の記録は現代の名手をもってしても再現できてない。
和弓は弓の性能もさることながら、鏃も大型のものが使われている。
狩又やら平根なんてとても鏃とは思えない。クナイ並の大きさ。盾を砕くための
鏃まで存在したらしい。凄まじい話だ。
>>172 五人張りの弓というのも聞いたことがある。
>>174 鎌倉時代の軍の表現で〜万騎って使われてるけどこれは名前通り全部騎兵だと取っていいの?
>>177 日本に限ったことでもないが騎兵というのはほとんどが徒歩兵
兵力=騎兵なのはモンゴルくらいだ
179 :
名無し三等兵:2007/09/13(木) 15:58:22 ID:kTiuQvVY
>>179 リーグニッツの戦いじゃ騎兵主体じゃなきゃあんな作戦は取れなかったぞ。
時期と戦闘によってはモンゴル軍=騎兵でも間違ってない。
181 :
名無し三等兵:2007/09/13(木) 17:42:36 ID:4xXIwYdq
>>180 >兵力=騎兵なのはモンゴルくらいだ
^^^^^
が無知だといっただけ。
182 :
名無し三等兵:2007/09/13(木) 20:41:59 ID:TLelAulb
もしかして13世紀当時の世界で、世界最強の国がモンゴル帝国なら2番目が日本だったんじゃないのかなあ。
エジプトのマムルーク朝と日本とどっちが大国だったんだろ?
>>182 いかに元軍が強敵とはいえ、
敵さん得意の騎兵集団が、陸続きで押し込んで来た訳ではない元冦は、
直接の比較対象にはなりづらいような。
陸続きだったら3ヶ月ありゃ攻略されとるわな
動員兵力が桁違いだしな。
三ヶ月とは言わないが南宋よりは余程楽に攻略できるだろ。
>>176 > 五人張りの弓
そいつは鎮西八郎こと源為朝の強弓だな。
一矢で300人乗りの軍船を撃沈できるぞ。
兵を数でしか言えないようだが、質の方が重要だぞ。
数で言ったらモンゴルだってたいしたことなかったはず。
何で楽に攻略できるなんて言える。
188 :
名無し三等兵:2007/09/13(木) 21:23:13 ID:TLelAulb
>>183 まあ確かにそうだ。
ただ日本が日本たるゆえんは島国であり陸続きの朝鮮とはその点中華文明とも
一定の距離を保つことが出来たわけだから。
話はそれるが元寇当時の鎌倉幕府はよく国内の様々な利害関係の対立を抑えて一致して
対処したと思う。
しかし元寇をきっかけに北条氏も長門探題だの鎮西探題だのと西国まで一門を派遣して
これ幸いとばかりに北条専制体制の強化を計った。
一方足達氏は結構御家人に土地の分配などで気を使ったようだが。
>>186 どう見てもただの伝説です。
本当にありがとうございました。
>>187 兵の質なんて不確かなものを持ち出すと、しまいにゃ精神論に行き着いてしまうからですよ。
練度や指揮は確かに重要な要素ですが、一回二回の戦闘ならともかく、
戦争という視点で見た場合、それで数倍〜数十倍の敵相手に勝てると思う方がちょっと・・・。
>>174 >信頼できる史料とされている玉葉に
どうでしょう
貴族の日記が軍事面に関して果たしてそれ程正確かどうか…
>>187 ちなみにモンゴル帝国の初期で最大10万程度、元では最大で100万程度は動員できたはず(うろ覚え)、
中世ヨーロッパにおける最大規模の開戦が両軍3万程度だった事を考えると、これはアジア地域以外ではかなりの大軍だと思いますが。
193 :
名無し三等兵:2007/09/13(木) 21:54:51 ID:TLelAulb
>>191 そりゃ軍事というか戦闘の経緯とかはともかく実際京を埋め尽くした人間の数だから。
源平合戦の時代、頼朝、義仲の征討軍は度々集められ実際遠征に出向いているわけだし。
兵士政権というのは京にあったわけですから。
京に住んでるお公家さんが4千を4万と勘違いしたりはしないでしょう。
>>193 実際に自分で数えた訳じゃないでしょうし、この手の数は実際以上に多く認識してしまうのが常。
さすがに4万が4千と言うのは無いにしても4万が実際は1、2万だというのは十分に有りえるでしょう。
武士が大鎧姿で、元船に斬り込んでる場面が描写されてる竹崎季長絵詞。
絵巻の都合は都合として、実際の襲撃は、胴丸とか腹巻とか、いま少し身軽な武装で行ったんじゃないかって気が。
戦争はスポーツじゃねーだろ
武士がどんなに強かろうが、モンゴルの様な遠征軍とか無理
中国上陸しただけで息切れ
倭寇がこのあと復讐も兼ねて向こうの沿岸部を荒らしまくるんですけどね。
>>194 現実にこの時代の遺構には、藤原氏が築いた阿津賀志山二重掘みたいなものも存在している。
全長約3キロで建設に必要と推定される人夫はのべ20数万人。
全長約3キロの防塁が想定しているのは、当然双方が万を大きく上回る規模の合戦だろ。
199 :
名無し三等兵:2007/09/14(金) 08:51:39 ID:dju2KMgX
>>199 となるとこの時代の日本は十字軍とサラディン軍との戦いより遥かに大規模な戦争が何度も行われてるんですね。
でも何で中世のヨーロッパなんてはっきり言って僻地みたいなもんなのにヨーロッパの戦争が世界史の大事件で中心的な出来事のように教わったんだろ。
いずれにせよバトゥがワールシュタットでドイツ・ポーランド諸侯連合を瞬時に壊滅させたようなことは日本では絶対に不可能だったでしょうね。
やはり当時の日本は大国のひとつであり北条政権は数々の矛盾を抱えていたとはいえ元寇の際にはそれを表面化させず一致して当たれた。
日本が内部分裂でもしない限り全土が征服されるなんてありえないことだったと思う。
教えて君で申し訳ないんだけど…
日本に近い地域には猛毒を持つサソリっていないよね?
中東辺りで大量に確保してたり、養殖してたりしたの?
だとしても毒矢の大量投入て難しいと思う
一部の部隊しか使ってなかったけど日本軍にはインパクトが大だったから広く伝わったのかな?
>>いずれにせよバトゥがワールシュタットでドイツ・ポーランド諸侯連合を瞬時に壊滅させたようなことは
壊滅?
未だに信じてるの、そんな事を?
素朴な疑問として山がちな日本の地形でモンゴル騎兵ってどうなのかしら?
>>199 ワールシュタットは戦後のドイツ騎士団の名簿から考えて予想よりずっと損害は少なかったんじゃ?
>>203 ボヘミア軍への攻撃を諦めた事から考えてモンゴル軍の被害も想像以上だったと言われているはず。
>>202 元軍と日本軍が戦ったのはオープンスペース。
騎兵を活用するには絶好の場所。
そして元軍はわずか15%の数の日本軍に完全に粉砕された。
この事から世界最強が鎌倉武士なのは明らか。
日本式の兵力表記で○○騎というけれど、あれって随伴歩兵は入れない騎兵の数だよね?
あと、〜絵詞の加筆の話で、有名な3人の蒙古兵のほかの加筆箇所ってどのへんなの?
文永の役の戦闘場面で、妙に鎧の描写が細かい蒙古兵が混じってるけど、
あれはどういう風に評価されてるの?
>>182 日本が弘安の役で勝利したモンゴル軍は、マムルーク軍がアイン・ジャールートで勝利した
モンゴル軍の10倍以上の規模。
マムルーク軍の戦いなんて日本のそれとは比較にならないスケールの小さな戦いだよ。
>>207 その通り。
当時世界最強のモンゴル軍が動員しうる最大の数を完膚なきまでに叩きのめした日本こそが最強なのは自明の理。
このスレにはバカチョンもいるようだね。
当時の日本の軍事力を無理に過大評価させようとしている。
あと「平安時代なら負けていた」とかほざいていたがバカチョンは
平安時代から対馬や九州を度々王の命令で侵略していたが尽く失敗
している。やっぱりチョンと血の穢れた雑種の意見は面白いな。
>>209 ほう、ならモンゴルが日本以外で一国に15万の大軍を送った例を見せて貰おうか。
と言うか和弓を散々貶めようとしていたチョンはお前だろ。
211 :
209:2007/09/14(金) 16:52:03 ID:???
>>210 オレは和弓を辱めた事など一度も無い。人違いだ。
212 :
210:2007/09/14(金) 16:54:26 ID:???
最近のチョンは自分の正体がバレそうになると先に相手の方を在日認定して難を逃れようとする噂は本当だったんだな。
だいたい無理に過大評価って何?
世界最強の元軍を文永の役では三万三千を僅か五千で叩き潰し(しかも平原)、弘安の役では上陸すら許さず殆ど一人も残さず殺した。
元軍にこれだけの損害を与えた国は歴史上日本だけ。
これでなお日本を当時世界最強だと認められない奴こそがチョン。
3 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2007/09/09(日) 03:42:33 ID:???
日本は当時世界最強。
論拠は当時世界の大部分を支配していたモンゴル軍を完膚無きまでに叩き潰したから。
日本は世界で唯一重装弓騎兵を使い人間の身長より長い弓を使っていた。
神風によって日本が勝ったと言うのは戦後の歴史家の陰謀。
反論はあるか?
214 :
209:2007/09/14(金) 17:09:30 ID:???
>>210 元軍は慣れない船旅の後、博多に上陸した。弘安の役では、家畜なども連れてきていたから
伝染病が蔓延してもおかしくない。栄養も海上だと満足に補給できなかっただろう。さらに
当時は戦闘で死亡する数よりも感染症で死亡する数も方が上だった時代だ。だから、疫病で
消耗するであろう人数を含め多めに配備した。
こういったことも冷静に判断でき無いんだな。
ちなみにウチのご先祖様は弘安の役で戦った。貴様のような馬の骨にチョン呼ばわりされる覚えは無いぞ。
大兵力のモンゴル軍に勝利したのは事実なんだから、日本の軍事力の過大評価なんじゃ全くないだろ。
普通に当時の世界で日本は圧倒的な軍事大国。
>>214 対馬海峡を超えて戦力投入することなんか、大昔から誰も苦労なんかしていないぞ。
391年に日本から朝鮮半島に渡った軍勢は、新羅・百済を征服。
663年の白村江の戦いでも、日本から2万7千もの大軍が朝鮮半島に渡っているし。
現実に文永の役でも弘安の役でも、普通に万単位の元軍が渡航してるじゃん。
文永の役でも弘安の役でも元軍は揚陸には成功している。
その後の陸戦で負けただけ。
よって船旅は関係ない。
さらに鎌倉幕府は長門や京都でも万単位の兵力を動員しているが、これも元軍が日本海や
瀬戸内海を利用し、大宰府以外の場所を襲撃する可能性を捨て切れなかったから。
お陰で鎌倉幕府はその兵力を九州防衛に集中させることができなかった。
つまり鎌倉武士は日本海のせいで、より厳しい条件で元軍と戦わなければならなかったと
いうこと。
217 :
210:2007/09/14(金) 17:27:47 ID:???
つまり日本は不利な状況で6倍以上の敵(しかも世界最強の元軍)と正面から戦いそれを叩き潰したわけだ。
そして弘安の役では事前に海岸線を要塞化し上陸すら許さず、元軍の艦隊は武士から逃げ回ってる内に勝手に嵐に巻き込まれて全滅。
世界最強のモンゴル騎兵も鎌倉武士の前には無力。
ここで必死になって日本最強を否定してるのは在日じゃなくて白人様が黄色いジャップ如きに劣ってたと認めたくない肉便器だろ。
日本最強を認めれば必然的に雑魚のモンゴルに滅茶苦茶にやられたロシア、ポーランド、ハンガリーなどはそれ以下のゴミになるし、モンゴルは白人様が何回やっても征服出来なかったサラセン人もあっさりと倒してるからそれも間接的に白人様の弱さを証拠づける。
日本最強論はどうでもいいんですが、元軍の上陸経過が気になります。
日本側は水際撃破に成功したと考えていいんでしょうか。
220 :
209:2007/09/14(金) 17:40:26 ID:???
あんたら当時の鎌倉武士の努力を否定してないか?
民族性の優位性とかで戦争は決まらない。では、ベトナムはどうだった?
日本以上に侵略を受けているだろ。それも民族性で解決か?
そういった単純な思考だけでなく、当時の状況にあわせて判断しなくては
いけないだろう。
オレは決して日本人を卑下している訳じゃない。しかし、ナショナリズムで
戦争に勝てない事は、第二次大戦で実証済みなのだからもっと科学的に検証
すべきだろう。
221 :
210:2007/09/14(金) 17:40:51 ID:???
防塁に阻まれて上陸出来ず、ようやく防塁の無い志賀島に上陸するもあっさりと海を追い落とされる。
その後武士から逃げ回ってる内に江南軍がやっと到着して合流するがすぐに嵐に巻き込まれて壊滅。
ベトナムは1257年に僅か3000のモンゴル軍によって首都を占領された国。
文永の役で4万、弘安の役で14万のモンゴル軍を、大宰府に指1本触れさせないまま
撃退した日本より強いなんてことは、ありえない。
ベトナムが攻め込まれる度に首都を占領され、王族を人質に差し出し、朝貢を認めたのに対し、日本は
まったく橋頭堡を築かせないまま撃退し、最後まで完全独立を維持した。
当時、ベトナムより日本の方が強かったのはあきらか。
223 :
209:2007/09/14(金) 17:44:26 ID:???
あと
>>216 対馬海流の速さを考慮しているのか?増してや当時は人力、運が良くて風が運ぶ。
当時の船旅はかなり苦労するはずだが。
>>214 >弘安の役では、家畜など
弘安の役のときは、一種の屯田兵が多かったみたいですね。
特に後発の江南軍10万は。
>ウチのご先祖様は弘安の役で戦った
下手すると余計にチョン扱いされてしまいますよw
艪をこぐの大変でしたねみたいな。
>>221 あんた、打通太郎みたいに、鎌倉太郎でも名乗ったほうがいいんじゃないか?
>>223 日本から朝鮮半島を攻めた戦いでは、「対馬海流の速さを考慮しているのか?」なんて誰も言わないのにね。
それって、単に負けたことの言い訳だろ。
>>226 百済があるうちは現地物資の活用が簡単ですから、
慶長の役かなんかと比べるべきだと思いますけれども。
228 :
209:2007/09/14(金) 17:55:48 ID:???
>>227 慶長の役と比較すれば、ほぼ同数の兵力を投入しながら海岸から10キロちょっとの
大宰府にすら到達できなかった元軍の弱さが際立つだけ
>>186 為朝の弓は8尺5寸、矢の長さ十五束、8人張りの強弓と言われている。1矢で大鎧を着た武者3人を貫通させた
記録がある。矢継ぎ早に射るのも得意だったとか。まあ、伝説だろうが。
でも、5人張りの弓は伝説の類でなくて、実際にあったらしいです。当時の弓は7尺5寸、矢の長さ十二束が標準
とされたが、古墳などからは全長3mを越える超大型の弓も発掘されている。
サイズで言えば和弓は世界最長でしょう。
>>176さん
実際に置盾を射砕くためのヤジリ?も存在しました。カナジトウとか言う奴です。
平たく言えば、矢の先端に鉄球を付けたような矢です。貫通力よりもストッピング
パワー重視のヤジリです。
>>229 李氏朝鮮の軍隊なんて有って無い様な物だから当たり前。
232 :
名無し三等兵:2007/09/14(金) 21:41:03 ID:58GXFp5G
北条時宗と河野通有と武藤景資をお札にしよう。
南朝鮮は一度も国際紛争に勝ったことがない最弱国
234 :
名無し三等兵:2007/09/14(金) 22:18:13 ID:58GXFp5G
>>201 ドイツ・ポーランド諸侯連合は盟主シレジア候が首を取られた。
北条時宗は鎌倉を一歩も動かず。
ワールシュタットって
ドイツ諸侯連合軍は農民も含んだ寄せ集めの4万に対して
モンゴル軍は15万いたらしいんだから
モンゴル軍が勝って当たり前じゃないの?
羊あわせて15万
>>234 それにしても「瞬時に壊滅」したというのは間違いだしモンゴル軍も無視出来ない損害を受けた。
そもそも本拠地を直接侵略されようとしてるんだから盟主も出陣するのがそんなにおかしいか?
仮に元軍が鎌倉付近まで侵攻して北条時宗が鎌倉から動かなかったら変だと思うが。
238 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 07:17:45 ID:+jVGSa2B
敗戦と勝利の間には天地の差。兵の動員能力も強さの証。
>仮に元軍が鎌倉付近まで侵攻して北条時宗が鎌倉から動かなかったら
鎌倉まで侵攻できたらの話でしょ。
ワールシュタットばかり有名だけど、モヒの戦いでもヨーロッパ諸侯軍は大敗くらってるよ。
国王ベーラ4世は国外逃亡。
239 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 07:27:17 ID:+jVGSa2B
WIKIより
>1240年春、バトゥはカルパチア山脈の手前で遠征軍を5つに分け、ポーランド方面と
ワラキア方面、カルパチア正面からトランシルヴァニア経由でハンガリー王国へ侵攻した。
まず西方では右翼のオルダの支軍がポーランド王国(ピャスト朝)に侵攻し、3月には
クラクフを占領。続いてバイダル率いる前衛軍が1241年4月にはワールシュタットの戦い
でポーランド軍を破ってポーランド王ヘンリク2世を処刑した。シレジア、モラヴィア地方
もペタなる人物の侵攻を受けたようだが、これはバイダルのことと考えられている。
カダアン、ブリ率いる軍はカルパティア山間に居住していたサーサーン人(恐らくザクセン人)
を破り、ボチェクの軍は山脈のワラキア人と思われる集団を撃破している。
一方同年3月にはバトゥの本隊はトランシルバニアからハンガリーに侵入し、ベーラ4世に
降伏勧告を行った。やがてモラヴィアからバイダル、カダアンおよびスブタイが合流し、
ペシュト市を陥落させている。ティサ川流域のモヒー平原でハンガリー王ベーラ4世と対峙、
宿将スブタイおよびシバンの前衛部隊が夜半にベーラ4世の幕営を急襲して破り、
ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海へ敗走した。続く1241年はカダアンらによる
トランシルバニア全域の征服や、クマン人、マジャール人などのハンガリー王国の残存勢力
の掃討などが行われた。夏から秋にかけてはバトゥの本隊はドナウ川河畔に幕営したのち、
冬には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市を包囲攻撃した。
240 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 07:29:35 ID:+jVGSa2B
WIKIより
>しかし1241年12月21日にオゴデイが死去すると、ほどなくバトゥの本陣にもその訃報が届いた。1242年3月に
バトゥはオゴデイの死去にともなう遠征軍全軍の帰還命令を受けると、直ちにエステルゴムを陥落させ、
カダアンにベーラ4世の追撃を命じた。モンゴル軍の一部はウィーン近郊のノイシュタットまで迫ったようだが、
この地域の征服は諦めドナウ流域を経由してキプチャク草原へ撤退したようである。こうしてバトゥ指揮下の
モンゴル帝国西方遠征軍は、ハンガリー支配を放棄して帰国することを余儀なくされた。しかし、バトゥの支配
したカルパチア山脈以東のルースィ諸国を中核とする東欧の領土は、その後のジョチ・ウルスの基盤となったのである。
241 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 07:46:43 ID:AnwPFIW2
209は逃亡した様だな。
日本弱い派の例にもれず反論出来ないとすぐに逃亡したか。
>>241 つーか、日本が勝ったのに弱い、ってのはハナからおかしい話w
>>238 ハンガリーは当時モンゴル軍から逃げてきたクマン人の難民で混乱しており暴動も発生していた。
ヨーロッパ諸侯軍?
どこにヨーロッパの諸侯が?
オーストリア公は戦いの前に帰国している。
他には少数のテンプル騎士位な物だ。
またベーラ四世はハンガリーの諸侯から嫌われ多くの貴族は戦いに参加しておらず、参加していた人間もベーラを臆病者と呼び指揮系統は滅茶苦茶だった。
その状態でもモンゴル軍はバトゥが敗走するハンガリー軍の追撃を躊躇う程の損害を受けている。
>>241 たった一晩しかたってないのに、何を急いでるんだ?
>>241 209氏は鎌倉武士が弱いと言いたいんじゃなくてお前がキチガイだと言いたいんだろ。
246 :
210:2007/09/15(土) 08:26:05 ID:???
>>245 俺の言う事には何一つ反論出来ていない癖にキチガイ呼ばわりね。
一般論としてだがオレも既知外には反論できそうにないw
鎌倉武士(笑)
「やーやー我こそは!」 ビュッ! ビュッ! ビュッ! ぬわああ! 「やーやー我こそは!」 ビュッ! ビュッ! ビュッ! ぬわああ!
「やーやー我こそは!」 ビュッ! ビュッ! ビュッ! ぬわああ!
「やーやー我こそは!」 ビュッ! ビュッ! ビュッ! ぬわああ! 「やーやー我こそは!」 ビュッ! ビュッ! ビュッ! ぬわああ!
「やーやー我こそは!」 ビュッ! ビュッ! ビュッ! ぬわああ! 「やーやー我こそは!」 ビュッ! ビュッ! ビュッ! ぬわああ!
ーやー我こそは!」 ビュッ! ビュッ! ビュッ! ぬわああ!
250 :
210:2007/09/15(土) 09:34:28 ID:???
>>243 単なる負けた事へのいいわけだな。
戦いは結果が全て。
そして結果は 日本>>モンゴル>>ヨーロッパ。
これは自明の理。
ヨーロッパなんて雑魚中の雑魚。
>>249 病院から脱走したのか?
それともあんまり論破されて発狂したのか?
251 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 09:55:51 ID:S/rvdhHn
いや 負けたのはあくまでも韓国海軍であって‥
モンゴルは乗った船を沈められた単なる被害者です。
教訓:勝ちたければ韓国と味方同士になるな(涙)
ただ「騎射の芸」については、最近の武士論なんかでは
頼朝は熱心に御家人に奨励したけれども、
時頼の時代にはかなり廃れていたと見る論者もおられるね
吾妻鏡のそれらしい箇所を引いてみたが、
時頼が嘆いている記述が何箇所か見られる
(それに引き換え相模太郎時宗は立派、と言う意図があるにせよ、
子供に負けてるようじゃ御家人のレベルはあまり高くなさそう)
韓国海軍?
>>251 実際は江南製の船に乗っていた元軍より、高麗製の船に乗っていた元軍の方が、
生還率が遥かに高い
>>250 その結論が成り立つのは、日本が朝鮮なり大陸なりに逆侵攻して、そこで元軍を破ったような
状況があればこそだな。
現実には自軍に不利なアウェーでの戦闘で勝利していない以上単純に戦闘能力の優劣は比較できんよ。
>>255 ヨーロッパは自軍に有利なホームでもモンゴル軍に散々だったが
>>257 戦国時代や第二次大戦をテーマに、この手の強さ議論は軍板や歴史板のいたるところで
行なわれているだろ。
あきらかに「日本の方が強い」という結論しかない時だけ、そうやって逃げるんだな。
>>戦国時代や第二次大戦をテーマに、この手の強さ議論は軍板や歴史板のいたるところで
>>行なわれているだろ。
全部不毛な議論だ。
特に大和対アイオワなぞ笑止。
>>あきらかに「日本の方が強い」という結論しかない時だけ、そうやって逃げるんだな。
うん?
どこがどう明らかなんだ?
>>ヨーロッパは自軍に有利なホームでもモンゴル軍に散々だったが
>ワールシュタットは戦後のドイツ騎士団の名簿から考えて予想よりずっと損害は少なかったんじゃ?
>ボヘミア軍への攻撃を諦めた事から考えてモンゴル軍の被害も想像以上だったと言われているはず。
>その状態でもモンゴル軍はバトゥが敗走するハンガリー軍の追撃を躊躇う程の損害を受けている。
261 :
259:2007/09/15(土) 11:21:09 ID:???
まさか、「ヨーロッパに勝ったモンゴルは日本に負けたから日本がヨーロッパより強い」なんて理屈を正気で信じてるんじゃないんだろうな?
>>260 損害を受けたはずのモンゴル軍が、ワールシュタットの戦後も一年近くに渡って
東欧を荒らしまわっていたのは一体どういうことだ?
>>261 当然、鎌倉時代の日本はヨーロッパなんぞ話にならないくらい強いだろ。
ワールシュタット:波蘭、独逸側の死傷者は言われているよりずっと少なく、モンゴル軍の損害は想像以上。
モヒ:指揮系統が滅茶苦茶な状態だが前哨戦には勝利し会戦時もバトゥを討ち取りかけ、モンゴル軍は敗走しかけ、追撃を躊躇う程の損害を受ける。
>>262 ハンガリー軍の主戦力が壊滅したから。
ついでにいうとモヒの戦いの後もハンガリーの残存勢力はモンゴル軍をドナウ川で川が冬に凍結するまでの八ヶ月に渡って防いでいおりハンガリーの諸都市の多くはモンゴル軍の包囲を撃退している。
263が中世ヨーロッパの軍事制度について何を知っているのか非常に疑問ではあるが…
>>250 >戦いは結果が全て。
その通りだが、ここでは別に勝ったか負けたかについて話してる訳ではない。
「バトゥがワールシュタットでドイツ・ポーランド諸侯連合を瞬時に壊滅」と言うのが間違いだと言う事だ。
>>264 ワールシュタットは、戦いの規模自体が小さかったと言われているだけ。
だから「独逸側の死傷者は言われているよりずっと少なく」だっただけで、
モンゴル軍は損害なんか受けてないぞ。
>>265 中世ヨーロッパの軍事制度のどこが鎌倉時代の日本より優れていたの?
ボヘミア王ヴァーツラフ1世の軍への攻撃を諦めてる事から考えてある程度の損害を負ったと考えるべきだろう。
>>268 異なる軍事制度どうしの何が優れていて何が劣っているかなんて簡単に決められる物じゃないし数値化出来る物でもないと言うのが理解出来んのか?
で、結局お前は中世ヨーロッパの軍事制度についてどれ程知った上で発言してるんだ?
>>270 モンゴル軍が攻め込んだ時、まったく機能しなかった軍事制度だったってことを知ってるよ
>>まさか何も読まずに適当なイメージだけで語ってるなんて事は…
いや、どう見てもそうだろ。
274 :
210:2007/09/15(土) 12:07:39 ID:???
>>272 そんな物はどうでも良い。
肝心な事実は白人様がモンゴルに叩き潰されモンゴルは鎌倉武士に叩き潰されたと言う事だけだ。
>>274 ポルトガルの黒船を焼き討ちにした日本水軍を打ち破った亀甲船は世界最強艦隊でっか?w
>>275 朝鮮水軍は漆川梁海戦で日本水軍に全滅されられてるじゃん。。。
277 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 12:22:25 ID:WvDg8gCr
パンパンパン
さぁ話題を元に戻そうw
文永・弘安そのものの話しようぜ。。。
278 :
210:2007/09/15(土) 12:24:10 ID:???
とうとう尻尾を出したな、チョン。
亀甲船なんて確かな資料が全くなく、そのためチョンの妄想し放題。
実際の亀甲船は木造船の一種で衝角が張り出した手漕ぎの突撃艇似すぎないんだよ。
>亀甲船なんて確かな資料が全くなく
>実際の亀甲船
お前馬鹿だろ。
>>278 へぇーw
日本水軍は制海権確保できたのかよヤプーw
鎌倉幕府は元だか朝鮮への上陸作戦を考えてなかったっけ?
>>278 nipに質問
結局 大日本帝国海軍を2分割した余力で軽々壊滅させた合衆国海軍最強かい?
で数百年前の昔話でオナニーですかHAHAHA!
>>272のどれにモンゴル軍が攻め込んだ当時の東欧の軍事制度が書いてあるの?
>>280 対馬海峡の制海権が脅かされたことは無い。
更に朝鮮半島南部の制海権も戦争の進行とともに広がる一方。
東欧も西欧もシステムの基本に大きな違いは無い。
軍装だって似通ってる物だし特にハンガリーはこの頃になると西ヨーロッパの影響をかなり受けている。
というイメージで語っていたわけね
>>248 明軍が登場したのは日本軍が平壌に到着した後だぞ。
>>288 秀吉が死んだからだよ。
明史にそう書いてある。
>>283 「K. DeVries, Infantry Warfare in the Early Fourteenth Century: Discipline, Tactics, and Technology」
じゃないかな。ぐぐった限りでは。
なぜ元寇が日本史の教科書に数行しか書かれていないんだ!
せめて1ページにでも元寇を書いて欲しかったね。
やっぱり、チョンの陰謀だな。
NHKの「そのとき歴史が動いた」で元寇があったが、
当時の朝鮮が元の勢力圏外になっていた(笑)
296 :
名無し三等兵:2007/09/15(土) 14:32:06 ID:xngHa505
元冠はあれだしな。
高麗が反乱鎮圧をモンゴル軍に任せてたことから南宋経由で日本にいかれると困るので無理矢理朝鮮経由になったし。
モンゴル軍にまた来てほしくて三回目の元冠を頼んだら断られてるし。
だったら最初から日本に反乱鎮圧頼んどけばよかったんじゃね?
>>294 チョンの陰謀はむしろ刀伊の来寇とか応永の外寇だろ
高校の教科書にすら一言しか書いてない
そういえば、新しい歴史教科書の場合は元寇や、刀伊の外寇等の
チョンの侵略行為についてどう書いてるんだ?
朝鮮人は昔からキチガイなので味方にした時点で終わってた。
『高麗史節要』巻十九、二十五に撤退決定の軍議の様子がある。
元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」
内心「もう、付き合ってられねーよ。カエロ」
高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」
内心「全滅してもかまわないニダ!、突撃ニダー(火病)!!!、ちょっと今から自分の船を焼いてくるニダ!」
元軍司令官「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」
内心「マジ、朝鮮人ってキチガイだよなぁ、つーか、死にたきゃお前らだけ残って死ね!犬の餌になって死ね!」
朝鮮すら征服出来なかった日本が最強とかありえない
海を隔てて守る分には強いが遠征能力ないよ
少なくとも最弱は万年奴隷の朝鮮で決定は桶?
モンゴル制圧から逃げる旧高麗軍の日本への救援を黙殺して見殺しにしてすまんのう。
その後、すっかり傀儡政権が高麗にできたわけだが、奴隷根性が身に付きすぎwww。
>>302 三別抄についての時系列がおかしい。
三別抄が日本に救援を要請してきた10年以上前の1260年には、既に高麗にモンゴルの
傀儡政権が誕生している。
あと、日本に救援を要請する半年前の1271年5月に三別抄はモンゴル軍に大敗し、本拠地の
珍島は陥落、兵船1000隻と言われた戦力もわずか80隻にまで弱体化している。
つまり、1271年9月に日本に使者を送ってきた時点で、三別抄は既に軍事的には何も期待
できない状態だったわけ。
それに三別抄って実は日本だけでなくモンゴルに対しても「自分たちの朝鮮南部の支配を
認めてくれたらモンゴルに直接臣従する」とか要請していたんだよ。
こんな信用できない連中を抱えてモンゴルと戦うくらいなら、日本単独で戦った方がマシ。
>>272 すみません、読みたいのですがアメリカのアマゾンの本って、
代引きは効かないんですか?どうやって払ったらいいんでしょう
誰か教えて下さい
大国対超大国の戦いだったのか
普通にカード払いでいいんじゃないの?
>>304 洋書読むつもりなら英語の説明書きくらい読めよ。
どうしてもわかんなかったらメールで問い合わせすればいいだろ。
>>304 Amzon.co.jpでおなじ書名入れれば普通に買えるよ。
もちろん代引きも可
ロシア以外の東欧は、曲りなりにもモンゴルに征服されて
無いのだから、それは、無いでしょう。
バトゥの遠征以後は、ウクライナとモルダヴィア、ワラキアあたりまでがタタール人の直接支配下になり
ルーシ諸侯国とブルガリア帝国、ビザンツ帝国がタタールに貢納をおさめ
ポーランドとハンガリーはタタールの傘下にならずときどき戦っていた。
何がどう作用してそういう風に分かれたのかはわからない。
>>309 バカチョンって本当に面白いな。受けるわ、マジで。
まあ、朝鮮は地の利を生かして長期抵抗したから、
東欧は死ぬ気で対抗した感じはない。すぐに妥協して政治的傘下に収まった。
314 :
名無し三等兵:2007/09/17(月) 16:00:14 ID:lXQj5iPT
だけど高麗の忠烈王、モンゴルから従軍処女500人差し出せとの命令に
婚姻禁止令まで出して本当に処女500人献上した。
番犬ぶりで高麗に勝るものなし。
元に媚びたのも忠烈だったな。正にバカチョンの鑑だ(笑)
農耕に適した入植地として日本は期待されてたんだろうか?
>>317 当時の中国人の認識だと元寇の目的は「日本の富」だったらしいぞ。
日本は南宋に莫大な黄金を輸出していたからね。
元自身も弘安の役の前に日本の商船と金と銅銭の取引をやっているし。
>>316 今の日本に対するような態度を取れは良かった
謝罪と賠償を(r
>>319 地続きで、軍事力に圧倒的な差が有り属国状態で忠烈王自身が元から多大な援助を受けてるのに?
その状態で元の命令に背くってどれだけのアホなんだ?
仮に献上の命令に逆らって反乱を起こしていたとしてもすぐに鎮圧されて別の人間が元に王位につけられるだけだし、
314−315みたいな手合いは「勝つ見込みも無いのにチョンは火病をおこしてあっさりと鎮圧されましたwwww」とか言い出すのは明らかだろ。
322 :
名無し三等兵:2007/09/17(月) 19:22:09 ID:lXQj5iPT
>>321 三別抄のような卑劣な二枚舌ではなく真に国内を統一し、その上で
日本に対し誠心誠意同盟を申し込めばよい。
自分たち王室が贅沢するのをやめてその分軍事力の強化に努めれば良いのだ。
そういう誠実さがあればモンゴルの番犬になることもなければ日韓併合もなかった。
それにしても、三別抄の信用ならない嘘つきぶり、忠烈王の番犬ぶりを思うに明治日本の脱亜論は
全くもって正しかった。
清や李氏朝鮮と同盟して欧米列強に当たるなどという愚劣なことをしてたら日本は共倒れになっていただろう。
日本のように自らの力で近代化なんて出来る能力全くない馬鹿国ども。
そして戦後の日本が長く韓国、中国と国交がなかったが、復興し高度経済成長を遂げたことを思うと
元寇の教訓は今に生きている。アジアに深入りするな。
議論が斜め上の方向に向けて突進しているように思いま〜す
しかし、元寇で沈没した船の残骸が未だに海底に眠っていたのには驚いた。
>>322 こう言う「なんでも自分の予想通りにうまく行く筈だ」と何の根拠も策も無く言う精神から考えるに、お前在日だろ。
>真に国内を統一し、
どうやって?
具体的には?
>日本に対し誠心誠意同盟を申し込めばよい。
どうやって?
大した交流も無く援助も大して期待出来ない日本になんでわざわざ元に逆らって同盟を組む必要があんの?
高麗王家にとって何のメリットがあんの?
>その分軍事力の強化に努めれば良いのだ。
どうやって?
具体的には?
>>325 >>326 お前らみたいな利益さえあれば国や民族の誇りなんてどうでも良いって言うバカのおかげで今の日本は滅茶苦茶なんだよ。
死んで責任を取れ。
おいおい、今の日本が滅茶苦茶だったら現在に滅茶苦茶じゃない国なんて存在しないぞ。
329 :
名無し三等兵:2007/09/17(月) 20:13:34 ID:lXQj5iPT
>>326 所詮朝鮮なんて根っからの番犬ってことだよ。
日本のすぐ隣の国にはこんな番犬ばかりが住んでいるということは日本人として自覚すべき。
>>314 つまり特殊慰安施設協会なんてシロモノを作った我が国も朝鮮と同等ということだな。
どうするべえ
>>328 在日勢力に教育とメディアをコントロールされ、政治もシナとアメ公の言いなりのこの国のどこが滅茶苦茶じゃないんだ。
こうなったのも金さえあればそれで良いと言うこいつらの様な売国奴どものせいだ。
332 :
名無し三等兵:2007/09/17(月) 21:07:06 ID:lXQj5iPT
>>321 仮に献上の命令に逆らって反乱を起こしていたとしてもすぐに鎮圧されて別の人間が元に王位につけられるだけだし、
314−315みたいな手合いは「勝つ見込みも無いのにチョンは火病をおこしてあっさりと鎮圧されましたwwww」とか言い出すのは明らかだろ。
そんなことは決してない。もしそんな命令に逆らって勇敢にも反乱を起こせば武家政権である鎌倉幕府は高麗人に尊敬の念を持ち、
いずれ降りかかってくる日本への防衛のため固い同盟関係を築いたはずだ。
いや、むしろ高麗にそのような高邁な精神が無かったからこそ鎌倉幕府も三別抄などというゴロツキからの援助を拒否したのであろう。
渡海作戦ということを考慮しろよ、、
334 :
名無し三等兵:2007/09/17(月) 21:24:53 ID:/+fTg5+H
>>158 お前は弓道くらい知ってるだろう。
矢の長さは 片腕の長さ+半身の長さ+α だろ。
>>331 よし分かった、日本が滅茶苦茶な国だと仮定しよう。
滅茶苦茶じゃない国ってどこだ?
受けるwwwwwwwwwwwwwwww
元寇ってチョンの忠烈が元をそそのかして起こしたんだろ。
元の様な超大国を動かす事が出来るほどの事がチョン如きに出来るかよw
>>332 お前チョンだろ。だれがバカチョンに感謝するか。虐殺された対馬・壱岐・博多
の人々に謝罪しろ。クズどもが。
バカチョンが虐殺されれば良かったんだよ。
さ あ 、 い よ い よ 盛 り 上 が っ て ま い り ま し た
>>336 よし分かった、この現代に滅茶苦茶じゃない国がその2つだけだったと仮定しよう。
つまり滅茶苦茶な国が大多数でそれが普通であり日本もごく当たり前の状態にあるに過ぎん。
なにも問題はない。
バカチョンは幾度となく日本に侵略を行ってきた。
日本は利子が貯まりに貯まってるな。
なるほど、ここが噂の隔離スレですね。
346 :
名無し三等兵:2007/09/18(火) 04:56:41 ID:MDpdF7r2
被害担当艦浮上ニダ
>>340 せっかく元の属国になったのに侵略戦争にも参加できず、新たな領土も獲得できない
なんてことになったら、帝国の威信が失墜しちゃうよ
李朝の扱いで大明国の威信が失墜したなんて聞かないから、元が高麗をどう扱おうが問題ない
でも高麗ってフビライにとっては即位の年に属国になった記念すべき国だよ。
フビライの娘も嫁いでるわけだし。
李氏朝鮮は、国号を明に選んでもらうほど服従していたから
強いてなにかする必要もなかったんじゃ?
高麗からすれば日本を占領すればおこぼれが貰えて、元軍駐留の負担も減るとかの思惑があったんじゃないかね
高麗系の戦意が旺盛で本国系の武将のほうが消極的だった背景はあると思う
はかたのまちがーやかれているー
兵4万、兵船900艘を投入し、1万以上の戦死者を出しながら、戦果は海岸沿いの漁村を焼き討ちにしただけ・・・
倭寇なら30艘程度で達成可能な戦果だな。
倭寇は殆どがチョンとチャンですが?
それ後期倭寇
前期も日本人は精々三割くらいだろ。
倭寇は元寇の報復措置。よって倭寇は無罪
…と言うよりもっとチョンを減らせよ倭寇。
減らすどころか増やしてる。後期は知らんが前期は倭寇が朝鮮・シナ人を
連れてきて家持たせて嫁をあてがったりしてるから。
>>3 >論拠は当時世界の大部分を支配していたモンゴル軍を完膚無きまでに叩き潰したから。
うそこけ!元の国力見れば完膚無きまでとか叩き潰したとかいえねだろ
百歩譲って鎌倉武士は台風の中で追撃したのか?、そんなのありえないから
>>360 台風の後も10万以上の元軍がまだ日本付近に留まっていたんだよ。
でも、この元軍10余万は日本軍の追撃で全滅し、2〜3万が捕虜となり、その他は皆殺しにされた。
「モンゴル軍を完膚無きまでに叩き潰した」という表現で何の問題もないよ。
362 :
名無し三等兵:2007/09/20(木) 05:52:01 ID:guOX4WNz
なんて海戦?
なんて優しいんだ。倭寇は。
>>361 台風で艦隊が滅茶苦茶になった後各個撃破しただけでしょ。
>>200に答えようかと思って、ご時勢を考えて止めておく
毒関連は良い場合と悪い場合がある
倭寇はまったりしてるぞw、中国人なんかお持ち帰りされてもなんか馴染んでるしw
倭寇三百騎が、朝鮮の軍隊を蹴散らして短期間だけど都市を占領したこともあったな
これも偽倭か?
和光のトンカツ旨いなあ
つまりバイキング最強ってことですね
いや食い過ぎるとメタボが怖いし
バイキングみたいに川さかのぼって南京城門まで行ってるからな。
でもメインは絹を黄金で買う貿易だったみたいよ。日本が4倍の値で金を売り
絹を現地価格の1/20で買っていくという超不権衡貿易。でも断ればたちまち
倭寇になって暴れ出す。仕方なく明は足利義満に頼んで貿易船は公認の
勘合印章を持ってなきゃ駄目ということにしたが勘合印章を司っていた
大内氏が実は倭寇の大本締だったというオチ。
ひでぇ。
何なんだよ、トンでもキャラ大行進やんか当時の日本って。ビックリハウスか?
倭寇商法とでも名づけようw
貨幣経済になって破産して山賊になった武士が捕まり放逐されたのが九州。
倭寇は日本中から集まった悪人をひとかどの武将が指揮するイカス軍団なのだ。
上海なんか倭寇が揚子江をさかのぼるのを防ぐために小さな漁村に防壁を
築いて要塞化したのが始まりなのですよ。
倭寇が発展して大航海時代につなげれば白人にでかい顔されずにすんだものを・・・
まあ日本は自給自足が成り立ってたからなぁ
倭寇って日本人は三割だけでしょ。
普通に考えて倭寇みたいな海賊行為は大陸の発想であって日本人がする事じゃない。
>>377 それは後期倭寇の話。
前期倭寇はほとんどが日本人だよ。
>376、ヒッキーだからね、日本は。明治維新は高校デビューってとこでしょ
水軍衆に栄光あれ!
>>378 白丁が倭寇を名乗って暴れてたのが実態だとか朝鮮の役人が認めてるけど
だからそれは後期だっつーの。
「倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱」ってやつでしょ。最初の倭寇から
200年ぐらい経ってからの話だよ。倭寇自体は400年近く続いてるから中期あたりか。
もうその頃の真倭は中国がターゲットなんだよな
384 :
名無し三等兵:2007/09/22(土) 15:01:58 ID:nvxYdpBY
なぜこんなにも通説と違うのか
実際、元寇だけじゃなく他にも数多くのトンデモ説が終戦後のどさくさに紛れて採用され、
批判がタブー視されたまま、不良債権化してるだろうな・・・
全部GHQの陰謀です。
いん‐ぼう【陰謀/隠謀】
1 ひそかにたくらむ悪事。また、そのたくらみ。「―を企てる」「―に加担する」
終戦後、公然と行なわれたGHQの歴史教育への介入を「陰謀」と呼ぶのは正確な言葉の
使い方ではないな
じゃあ全部GHQの策謀です。
現実に終戦後半世紀以上が経過しても、「戦後レジームからの脱却」なんて発言した途端
マスコミなどから袋叩きに遭うからな。
特に歴史問題ではね。
例えそれがどんなにデタラメでも、誰も訂正しようとしないのさ。
>>終戦後、公然と行なわれたGHQの歴史教育への介入を「陰謀」と呼ぶのは正確な言葉の
>>使い方ではないな
皇室賛歌の為のトンデモ説が普通に教えられてたんだから介入するのは当たり前の話。
それとも日本人がずっと「日本は万世一系の天皇が中心の神の国だ」と言う認識を持ったままで良いと言いたいのか?
そもそも元寇関連の記述をGHQの支持によって変えたと言う証拠は何も無い。
>>392 では、この平家物語はGHQによる「教育の民主化」によってどうなったのでしょう
か。
答えは、「全文が墨で塗られた」です。
先の答えも同様です。高松城の明渡しの場面全てが隅で塗られました。
・・・
なぜ、平家物語も高松城の明渡しも全て墨で塗りつぶされなければならなかったか。
答えは、「武士が軍人だから」です。
その理念が正しいかどうかは別にして、連合国が日本に日本国憲法を押し付けたのは、
日本を武装解除し長期的に(できれば未来永劫)弱小国の地位によどめておくためです。
教育改革も目的は同様です。戦後教育に謳われた平等も平和も民主主義も素晴らしい
理念ですが、それらが日本を強国に育てるものであっては困るのです。秀吉の全国統一
によって平和がもたらせれた側面があろうと、源平の合戦に平家独裁を打ち破る側面が
あろうと、「軍人である武士」が主人公の物語はすべて学校教育にふさわしくない。こ
れが、墨を塗った側の発想でした。
付言するなら、武士を単なる軍人と捉えるのは日本史に対する理解が浅薄な証拠です。
我が国の貴族と武士の関係は、西洋はもちろん、中国や韓国の文官と武官の関係ともま
ったく異なります。武士は有事には軍人ですが平時は文官でもあります。さらには、有
事には軍人となるが平時には文官ですらない武士(いわゆる無役の状態です)もいます。
でも、そんなことはお構いなしでした。とにかく武士が登場する物語は、ことごとく
墨を塗られ教科書から姿を消したのです。
「戦後教育で失われたもの」森口郎・著
ちなみに歴史タームとして「文永の役」が教科書に登場するのは、明治末年の第二期
『尋常小学日本歴史』からであった。一回目のモンゴルの襲来については、ことさらに歴
史名辞でよぶことはしていなかったようだ。
さらにいえば、われわれの“常識”となっている文永・弘安両役がいずれも大風すなわ
ち神風との遭遇によるとの記述は、戦後の『くにのあゆみ』(第七期国定教科書)において
はじめて登場する。その意味で二度にわたるモンゴルの襲来とその撃退に、ともに大風が作
用したとの記述が教科書レベルで常識となったのは、戦後のことだった。
「神風」と文永の役
それではその意味をどのような回路で理解したらよいのか。予想される回答としては、
明治末年の国定教科書での文永の役が、かりに大風とワンセットで表記されたとすれば、
そこに時代の息吹を感ずるはずだ。
民族意識の高揚と神国観念の強調という場面である。そのことが、弘安の役はおろか、
文永の役でもまた大風が吹きあれ、モンゴル軍の退散に寄与したのだ、と。このことを介
し、「神風」「神国」観の醸成に役立ったに相違ない、と。このように連想するだろう。
だがしかし、実際はそうではない。「文永の役」の登場と大風=台風が結びつく記述は、
『くにのあゆみ』以降の常識だった。この最後の国定教科書では、戦前・戦中の反動的な
色彩は消えており、「神風」「神国」そして「神兵」の記述もない。ないなかで「大風」が
二度にわたり吹きあれ、それが勝利に結果したとの記述をどう解すべきか。
「神風の武士像 蒙古合戦の真実」関幸彦・著
395 :
名無し三等兵:2007/09/24(月) 13:44:21 ID:s27fYK40
日本の武士が自力で侵略を防ぎ、台風が大打撃になったのはその結果の一つ
しかし自衛力より外の力、台風(=外からきたアメリカ軍)のほうが役にたったというすり込みのため、真実は隠された
……無理矢理陰謀論化するとこんな感じ?
実際はすでに鎌倉幕府は魚形水雷(魚雷)を完成しており、元軍の船は台風
ではなく魚雷で沈められたことがわかっています。兵器開発って大切ですね。
って感じかな。
例えば戦前の昭和天皇の歴史教科書に書かれていた文永の役はこんな感じだった。
国史 昭和天皇の歴史教科書 口語訳
「元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫り
ました。九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。」
ちゃんと武士が自力で侵略を防いだことになってるじゃん。
まぁ2000年独立を保っているわけだからどれだけ海の壁が大きいかだな
隣の半島国家なんか独立している時期がほとんど無い。
結果、ヒガミ根性丸出し、糞民度の民族になってしまうわけだから独立は大事。
日本の歴史教科書は、欧米・欧州に比べてページ数が圧倒的に少ない。
もっとページ数を増やせよ。文科省!
イギリスも日本同様に海の壁に守られているが、何度も大陸に征服されているぞ。
ローマ帝国に征服され、遠く北海を隔てたデンマークにも征服され、フランスの地方豪族に
過ぎないノルマンディーにまで征服されている。
大陸と交流を持ちながら独立を保った日本は、島国としては例外的な存在。
そのへんは統一国家のあるなしも大きいのではないかと
向こうは泳いで渡れる海峡だもんw
プサンと博多の間泳いで見やがれ
>>402 デンマークからイギリスまで泳ぐのは大変だよ
ヨーロッパ人の方が泳ぎがうまかったんだな
で、鎌倉日本が世界最強だったということで結論は良いんだな。皆の衆
モンゴルよりも強かったし、当然イスラムもヨーロッパも鎧袖一触だと。
>鎌倉日本が世界最強
だから船舶による補給の限界とか一斉上陸(というか戦力投入)
の限界量、限界速度を考えろとあれほど
補給は船舶使った方が有利だろ
このスレ内で、途中で日本の弓の威力が凄いという話が出かけていた
しかし、為朝の剛弓ならともかく
日本の弓全体で見ると射程は100m未満だったと言うのだが
・・・しかし、モンゴルの矢が射程200m、と書いた書籍を見たことがある
イングランド長弓が150mである事を考えるとちと疑わしいなw
ただ、広背筋を上手に使った時に肩関節を固定するパワーは恐ろしく強い
短いが強い弓(アーチェリーみたいな)のを使ったら、射程だけは
伸ばせるのか?
自分も55kgのブルワーカーを片腕の引きで壁に押し当てて完全に潰せるが
アーチェリーの射程最長記録が1400mと聞いた事がある
当時の低速で行き先も安定しない船でかw
内海ならともかく玄界灘をw
実際、2回目では応援部隊到着の数日後に台風が来てしまった
1回目は、高麗人主体の軍で
残虐さは本家モンゴル軍と同様だったが
ビビリというか慎重というか
晩秋のやや強い風雨で撤退した
陸上で鎌倉幕府軍が苦戦したというものの
結局は、小手調べという事で終わったのだ
(それまでの犠牲者数も意外に多く、この兵力では落とせないと判断したからだというが)
弘安では、確かに一番風の無い季節に来た
しかし5月の九州北部は暑く、得意のボルツが腐って食中毒で死んでしまった
しかし
鎌倉の幕末の楠木正成までの日本の全てのいくさが
やあやあ我こそが だったように思えないんだがなあw
義経なんかは全て無視だなw
鎌倉初期の和田の乱だって一騎打ちなんぞやってない
ただ、一応名乗りを上げるときもあった、位で無いのか?
>>409 応援部隊は6月18日に出港して7日後に到着だから、台風遭遇の一ヶ月以上前には日本に来ていたよ。
>>411 もちろん元寇の時だって、「やあやあ我こそが・・・」なんてやっていない
そんなことを書いた信頼できる文献も存在しないし
中央アジアの各都市は砂漠にある事を除けば
防御もありきたりの方式だったからな
モンゴル軍は、イルカに乗って日本に攻め込むべきだったw
1回目、高麗人主体だったというのは嘘。
元軍の主体は2万5千の蒙漢軍で、高麗軍は8千。
日本側の文献にも元側の文献にも「元軍が戦って負けた」と明記してある。
2回目、朝鮮半島を出発した東路軍が6月上旬に博多に到着するも、日本軍によって撃退される。
6月末には江南軍も合流したが日本軍には勝てず、1ヶ月後の7月末に台風に遭遇。
その後の日本軍による掃討戦で元軍10万が全滅。
現用の軍用船舶の大半は、60海里/hまでしか出ない
イルカは50km/h、普段でも30km/hが余裕(フェリーについてくるし)
イルカ飼い慣らしてイルカが魚食いながら戦場まで人乗せて送ってくれるなら最強だよなw
馬による移動と同じになる
>>408殿
三十三間堂の通し矢をお忘れか?
全長118mの長さをほぼ水平に射通さなければならないのが遠し矢競技。
和弓の射程距離は100m以上は余裕である。
後、射程距離は矢自体の重さも考慮しなければならない。重い矢を使えば、
威力は増すが、射程距離は落ちる。
世界最大と言って良いほどの大型弓(平均弓長240p)なんだから、
当時の世界では威力も相当な水準にあったと思うんだけど。
比較のために言うと、有名なイングランドのロングボウは定義上では120p以上の弓を
言います。大体が180p以下が多く、最大の物でも200p行かないでしょう。
長さだけで比較されてもなあ
三十三間堂はもちろん知っているが
あの距離をあの天井高さで通過するような
矢の初速を
どんな弓で出せるか?だな
和弓の最後の返りの意義が微妙だよなあ
和弓は返りを使って力を逃がす
アーチェリーでは振動を逃がす棒みたいなのが一杯付いている
ま、素人はパンツゴム矢でも撃って訓練するさw
和弓の返りは振動を逃がす意味では合理的だが
それゆえにただ真っ直ぐに狙うと右上に逸れる
>>409 東路軍は6月15日を過ぎた時点で、残り1ヶ月分の兵站しか持っていなかったから、
遅れて来た江南軍から補給を受けなければ、8月1日の台風遭遇まで日本近海に
留まることはできなかった。
424 :
名無し三等兵:2007/09/28(金) 16:32:04 ID:UvvCJ9wr
1ヶ月後か数日後かはっきりしろや
応援部隊って言うか、江南軍って、中国の農民だったんでしょ?
426 :
名無し三等兵:2007/09/28(金) 21:05:32 ID:5H/qvV6G
427 :
亀レス:2007/09/28(金) 21:27:56 ID:???
>>32 君って阿呆?それともバカ?
>ベトナム 国連軍+韓国(敗)対 ベトナム(勝)
ベトナムのどこに国連軍が?
それに北ベトナム側にも北朝鮮軍が付いている罠。
防空部隊とか、パイロットとかそれなりにまとまった数が送り込まれている。
>>425 戦力として考えてなかったわけではないだろうけど、大量の農機具を装備してたのは事実みたい
>>428 江南軍は平戸に到着後すぐに野戦築城してるけど、そういう工兵作業にも鋤や鍬は使うんだよ。
430 :
名無し三等兵:2007/09/29(土) 13:12:19 ID:ZzBwKnAh
しかし平戸島なんか上陸しても山ばっかでろくに大軍は展開できなさそうだよね
てゆうか城なんか本当につくったんか?
>>430 元史卷一百六十五 列傳第五十二 張禧
「至日本、禧即舍舟、築壘平湖島、約束戰艦、各相去五十歩止泊、以避風濤觸撃。」
壘 → るい【塁】
1 軍営の周囲に巡らした囲い。《ふつう深い溝を掘り、掘り出した土石を積み上げて造る》「高塁」
2 とりで。「孤塁」
432 :
名無し三等兵:2007/09/29(土) 23:04:05 ID:4L67G6bs
>>418 一般的に言って弓は長い方が威力も増す。
ロングボウが画期的だったのもそれがロングだったから。それ以前のクロスボウ
全盛時代にも普通の弓はあったし、狩猟などで使用されていた。ただし、威力が
小さかったからクロスボウを凌駕するまでに至らなかっただけの話。
和弓を半分の長さにしたら、それは子供用の弓。
弓を太くしようとしても
太いと引こうにも折れてしまうからなあw
曲げ方向はカーブの内外で長さズレを産む
単素材1メートル弱のイングランド弓が150いくなら合成弓で長さも210センチほどある和弓のほうが普通に飛ぶだろうな
日本の侍の手の骨格構造が変形化してたって話は聞いたことがないが、当たり前なので
記録にのこらなかったのか、それとも最大威力の弓より大分低威力なものを大半の武士が
常用してたのか。
斜面に生えて一方に圧力が掛かったアテ材を使うべきか
>>435 ロングボウと日本の弓とでは射法が違う。
日本の場合は蒙古式射法というモンゴル軍と共通の射法を用いていた。
日本の場合引く量も独特だな
ふつう諸外国は顎までしか引かんのに馬手を右肩近くまで引く
大体25センチぐらい引き量がおおいのか
引く大きさの差か
・・・広背筋の壁を越えてしまうのかw
440 :
名無し三等兵:2007/10/01(月) 18:20:22 ID:f7Ws/C6h
ロングボウの射手は腕力で無理矢理引いていた。何しろ、顔の前で矢をつがえる
ので、上腕二頭筋が頼り。
和弓が合理的なのは広背筋を使って引ける所。大型弓であることが幸いした。
腕に付いている筋肉よりも広背筋などの胴体に付いている大筋肉群の方がパワー
が出るし、安定している。
結果として、手の骨格構造が変形するなんて無茶なことは起こりません。
広背筋に関しては、パワーを出し易い可動域が存在するからなあ
442 :
名無し三等兵:2007/10/01(月) 20:49:45 ID:44Xrdyno
日本の場合、矢を射るとき矢をどのように握ったのだろう?
欧州では、人差し指と中指との間で矢を挟みながら、
人差し指と中指と薬指とで弓の弦を引くんじゃなかったかな?
443 :
名無し三等兵:2007/10/01(月) 22:22:44 ID:yojq5XDG
ベトナム戦争にて米国はベトナムを占領できなかったから
ベトナム>>>米国
ですか?日本最強論者の論理を使うとこうなる。
>>422 前に、神社の神事で、通常の距離とは違う的を据えてやったことがあるが、
いわゆる弓道の正しい形でやっても、絶対にあたらないのでワロタ
>>442 今の弓道だと、親指と人差し指・中指で輪を作って矢を支え、
親指の付け根に弦をひっかけて引く感じかな。
ただ右手で引くんで無く、左手で弓を押し開く感じに近いか。
>腕に付いている筋肉よりも広背筋などの胴体に付いている大筋肉群の方がパワー
が出るし、安定している。
結果として、手の骨格構造が変形するなんて無茶なことは起こりません。
そうはいっても、伸ばしている方の腕に掛かる圧力は同じ筈だ
むしろ弓が長いことにより、手を離してから
矢が弦から離れるまでの時間が長くなっている方を期待したいなあ
当初鎌倉武士は5千くらい
少なく見積もっても2万程度は居たであろう蒙古・高麗
この元連合軍に対して、防衛線を後退させながらも丸一日持ちこたえたのは、同時代
の他国と比べても驚異的に善戦していると思う。ポーランド・ドイツ騎士連合
は、蒙古軍より数で勝っていたのに数時間で壊滅的な負け方をしたのと比べれ
ば、段違いの奮戦振り。
リーグニッツ?
平野での野戦やったら鎌倉武士も偽装退却を追撃して包囲されて終わりぽいな
大きさの割に優秀って事だと思われ
っていうかWikipediaは、ソースにならないよ。
450 :
名無し三等兵:2007/10/02(火) 12:45:12 ID:Zqi5WtAO
>>448 和弓は盾すら砕くぞ。これは本当。
諸国の弓でこんなことができるものは無い。
451 :
名無し三等兵:2007/10/02(火) 15:25:52 ID:sFCpCUVr
>>447 >平野での野戦やったら
文永の役で野戦やったのは福岡平野
>>450 なるほど、それで日本には携帯用の持ち盾は発達しなかったのか。
アフリカの土人ですら盾を持つのに日本の武士はなんで?と思っていたら、それで納得がいく。弓矢を防げない盾なんてただの荷物だろうし、置盾は使ってもちんけな持ち盾なんて使わなくなるよね。
>>450 それ、前スレからずっと言ってるようだけど、"ソースは?"、"ソースの信憑性は?"、"盾の材質は何でできているのか?"、
"使った弓はどういったものなのか?"、"その威力は現代において実験で再現されたのか?"
って点が明確にならないと信用できないねえ。
単純に威力の点ではクロスボウのほうがずっと優れているのだし(機械的に弦を引くのだから、張力は材質の限界まで強化できる)。
つーか、なんで弓矢の話ばっかりなんだよ。もっと他の話題は無いのか?
盾を射砕く金神頭のことかな
ソースも何も射砕くって行為はそんなに珍しいかね?
置き盾の材質は木だよ空手の道場の看板みたいな木
使った弓は和弓だよ
>>440-441 >>445 image.blog.livedoor.jp/kojiburo1968/imgs/4/e/4ec0aff3.jpg
かつて、アブフレックスという腹筋を鍛える機器が通販番組でも
よく宣伝されていた
その後DIYで類似品が安価に出回って廃れたw
余りお勧め出来ないが、この機器に幅2cmくらいのゴムを追加したら
幾らでも負荷を強化できる。それを用いてどんどんパワーアップしていったのだが
自分はある負荷から、後ろに引き切れなくなってしまった
そこで引き切る、すなわちこの機器の可動域限界まで動かすのに
そのゴムの数だと何kgかな?と体重計に押し付けてみたら40kgだった
www7a.biglobe.ne.jp/~kileteru/DSCF10851.jpg
ボディビルダーの大会のポージングで、上記のように広背筋を広げる
ラットスプレッドというポージングがある
このように広背筋を広げた状態で安定させるには、肩甲骨を広げたり
肋骨に繋がる前鋸筋を使う必要もある
面白い事に、このラットスプレッド状態で腕を引ける限界、
まあ「広背筋で作った壁に、腕がぶつかるまで」引けば良いというやり方にしたら
その可動域に限定すると、70kgの負荷でも簡単に引けるようになった
ただ、そこまで来たところで、このアブフレックスがぶっ壊れてしまったw
顔面にプラ破片が刺さりかねなかった
広背筋の、体の付着点を列挙する
□起始
棘突起(第7胸椎以下の胸椎、腰椎、仙骨)
腸骨稜
下位(第9〜12)肋骨
肩甲骨下角
□停止
小結節稜(上腕骨)
□支配神経
胸背神経(第6〜8頸神経)
ラットスプレッド状態では、下位(第9〜12)肋骨や 肩甲骨下角 に繋がる
広背筋の筋線維がフルに使えるのである。
ラットスプレッドにせずに、それより大きな可動域で引こうとしてもパワーが急減するのは
これらの筋線維がむしろ伸びてしまう位置になってしまうためである。
アブフレックスで思い切り限界まで引こうとしても40kgまでしか引けないが
ラットスプレッドで広背筋の肉の壁にぶつかるところまででよいなら
その倍以上でも動かせる、というのはまさにこのためである。
片手での顎までの懸垂は出来ないが、腕力だけでのロープ登り(足でロープを挟まない)は
出来る人が多い
ところが、和弓の大きな可動域をフルに生かすためには
ラットスプレッドでの力を出し易い可動域を超えることになる
これでは力は十分に出せない
洋弓の半端な位置で矢を持つ構えは、実は弓を最も強い力で
引いた状態で保持できる、という点では、優れているわけである
だが、矢に与えられるエネルギーは、その位置での力だけに
因るものではない。その位置から離され、弓が戻っていく
区間全体でのエネルギーが重要である
ここで、長い弓である和弓のメリットが生きると考えられるのである
和弓で弓の返りを使っての力の与え方が上手な人なら、弾き絞った時点での張力では劣っていても
全体でのエネルギーでは上回らせる事が出来ないか?と考えられるのである
それで、伸ばした腕の肘関節への押し付け圧力の弱い日本の弓でも、
十分な射程が得られたのではないか。それで、日本の兵士では
左右の腕で長さの違いが見られなかったのだろう、と考えられるわけだ
しかし、返りを使う分、命中精度は下がる。その分の訓練が必要になるし、
標的までの距離が読めないなら当てられない
仮に、肩口まで引くと30kgが精一杯、
ラットスプレッド状態で胸骨までの引きだと70kg、という人がいたとして、
腕の長さ(左右差無いとして)は手の平から肩まで60cm、
胸幅はとりあえず40cm、弓を引いていない時にグリップから弦まで20cmなどと仮定すると、
その間がフックの法則どおりにF=-kxとなるのであれば
30kgの和弓引きなら、30kg=0.8(m)×k1
70kgの洋弓引きなら、70kg=0.6(m)×k2
ここで、グリップと弦まで20cmの長さがあるので、弦を引いた時から戻るまでの
距離がそれぞれ60cm、80cmなると考えた。肩幅の半分が弓を持った肩から
胸骨までの距離であるので、20cmとした
k1=75、k2=350/3がバネ定数となる
それで、蓄えられるエネルギーは
和弓が0.8^2*75/2=24(単位はフックの法則と違うぞw)
洋弓が0.6^2*350/6=21
おお、和弓が上回った!
なお、弓が引き絞られた状態から、引いていない状態の形状になるまで矢が弓から離れないものとする
ただし、個人的な経験で言えば
ラットスプレッド状態でのパワーはやたら伸び易いが
肩口まで引くのはパワーアップが困難であるように思われる。
30kg対70kgというのは、トレーニング次第でいつでも覆るであろう
しかし、腕の長さが変わってしまう度合いも大きくなるであろう
何か変だなあと思い訂正
k1=75/2、k2=350/3がバネ定数となる
それで、蓄えられるエネルギーは
和弓が0.8^2*75/4=12(単位はフックの法則と違うぞw)
洋弓が0.6^2*350/6=21
この時点では和弓が弱い
なお、弓が引き絞られた状態から、引いていない状態の形状になるまで矢が弓から離れないものとする
しかし、和弓は返りを使えるように上下非対称になっている
お陰で実際には手首辺りまで、弦から矢が離れない?と考えて
もう20cm伸ばすと1mの間矢が加速し続けるとして
75/4=で18.75なぞと出てくる。殆ど差がなくなった
更に大きく引き絞ってもパワーを落とさない肩関節を作り
更に返りの技を磨く事で、一方の腕を押し縮めることなく
長い射距離を得られるであろう
戦場では弓返しはしない。
465 :
名無し三等兵:2007/10/04(木) 02:36:45 ID:/yTZI0fs
朝鮮半島で急遽かき集めた、農民兵に武器もたせて鎌倉武士に対抗させたのが敗因
素人が何人かかってもプロレスラ〜には勝てない。侍はプロの格闘家、朝鮮農民兵、遊牧民
が勝てるはずない。
日本刀に兜割られ、和弓は馬の尻を射抜いてさらに騎手まで射抜いたという記録がある。
どう考えても、朝鮮、蒙古、南宋人が勝てる見込みはない。
1回目、蒙古軍は昼の戦いで弓矢を使い果たし船へ退却、台風がきて全滅だった。
同じ重さの弓を引いた時、明らかに和弓のが軽かったから、
アーチェリーのが引けるって言うのは、引き方が悪いんじゃないかなぁ
和弓は単純に引っ張るんじゃなくて自分の体をゆんでとめての間に割り込ませないと引けんよ
引いて引かずやね
弓の装備率自体も大きな原因じゃないか
源氏が平家に勝った理由の一つとして「従者も弓を射掛けた」という投射量を挙げることがある
この源氏方式が全国規模になっていたのなら、当時の西国武士も従者にまで弓を持たせていたんじゃ?
中国の軍隊でよくあるのは槍兵の横隊が何列かいてその背後から
弓兵や弩兵が矢を射掛ける。
初期の明軍では槍兵の他に刀と盾を装備した兵士も何割かいるが
もしかしたら16世紀の対倭寇戦のフォーメーションのように
最前列に配置されていたのかもしれない。
470 :
名無し三等兵:2007/10/05(金) 00:03:59 ID:bsEWGdCc
>>457 金神頭という種類の対物破壊用のやじりがあることは分かった。
問題は、日本以外の国でも盾をあえて破壊する戦術、またはそのような兵器は
あったのだろうか?
それが弓矢などの飛び道具で行われる場合はあったのだろうか?
471 :
名無し三等兵:2007/10/05(金) 02:13:46 ID:CFtwoKYe
おまいら、ぐだぐだ議論する必要などない。現代に当てはめれば分かりやすい。
韓国製の船は粗製濫造だった。大東亜戦争で朝鮮兵はくその役にも立たなかった。
国民党軍は連戦連敗だった。共産軍は逃げまくって戦おうとはしなかった。
800年たっても民族性は変わらない。
モンゴルに支配された大陸の国々は本当に弱かった。英仏海峡わたってアングロサクソンとやり合ったら
モンゴル勝てたかどうか興味あるところだが。
この当時のアングロサクソンは大した事ない。
プランタジネット朝とかも元々は大陸系の王朝だろ。
ローマの投げ槍なんかは、盾を封じるためというのもあったぽいけどな
>>473 ピラ。
でも封じるのは片手に持って戦うようなシールドだが。
日本の盾は、手持ちじゃなくて陣地において並べるようなもの
弓が先か盾が先かはわからんけども、対抗上そうなったんだろうな
日本の盾って状況に応じていろんな使い方をされてる。
置いて使うのはあくまでその一例。
最前列の兵士が盾を持って並び、シールドウォールを形成したまま前進したり、
後退したりすることもあった。
機動隊やね
分類上「置ける盾(つまり両手を使える)」と「置けない盾(片手がふさがる)」の区別は一応あるはず。
ローマのレギオン兵なんかは機動隊みたいな全身を隠せるような盾を使ってたが
左手でもって右手で武器を使うもの。
中世の弩兵隊には前列を防御する大盾兵なんてのがいたが
あれは考えてみると人間を置き盾にしたようなものだな。
弓矢の次は盾ですか?中世武器オタクの溜まり場だな。
軍板としては、正常な姿だと思うけど。
このテーマでオタク以外の人間がどういう目的で書き込むんだ?
以降オタ以外レス禁止。非オタは邪魔せずロムってるように。
482 :
名無し三等兵:2007/10/08(月) 20:44:00 ID:rWqh/9G2
弓騎兵と刀槍(鎌倉時代には槍は普及してないが)騎兵と刀槍歩兵の異なる兵科
を一通りこなせる鎌倉武士は、騎兵は騎兵、歩兵は歩兵、弓兵は弓兵と専門分化
していた同時代の他国の兵士より練度は高い。騎馬部者だろうと歩射の徒武者
だって太刀や長刀で接近戦を戦える鎌倉武士は陣地に突撃されても、簡単には
総崩れにはならない。自分の兵科しか出来ずに、槍兵に射撃前後を援護しても
らう様な大陸の弓兵や弩兵に比べたら、接近されたら全員が白兵戦に参加出来
る鎌倉武士は効率的。
483 :
名無し三等兵:2007/10/11(木) 17:31:36 ID:1m4MzLyH
結局、ユーラシア大陸では圧倒的な強さを誇ったモンゴル軍も同時代の日本と比較すれば、
戦術や武器の性能などで劣った存在でしかなかった。
文永の役と弘安の役で鎌倉武士にボロ負けしたことで、当時の日本以外の世界のレベルの
低さが露見したな。
露骨な釣りなのか、痛すぎるマンセーなのか……
まぁ紀元前にローマ共和国が、シチリア島を攻略し、アフリカ大陸のカルタゴを滅ぼした事を思えば、兵担や戦略の稚拙さは明らかだがな。
別に日本が優越していた訳では無く、地の利を生かしきっただけ、ナポレオンだってイギリスを攻略出来なかったんだし。
>>484 ナポレオンが敗れた当時のイギリスは世界に冠たる大海洋帝国だが
地の利ねぇまあそれもあるねぇ
ま結論から言えばモンゴルは海にでなければ日本を知らずに最強でいられたのにねということだな
勝利した戦争で自国をマンセーすることに、後ろめたさを感じる必要なんか全く無いぞ。
イギリス人はネルソンを大いにマンセーしてるだろ。
むしろ、鎌倉武士を散々こき下ろしてきた従来の歴史認識の方が異常。
鎌倉武士は勝ったから目の敵にされたとしか思えん。
488 :
名無し三等兵:2007/10/11(木) 20:00:47 ID:WEW7AHs8
万能は無能
器用貧乏
被害妄想もその辺にしたまえ
戦前戦後通じて鎌倉武士が泣いて逃げ出したなんて書いてある本なぞない
>>446 今の学説ではリーグニッツはなかった、或いは極めて小規模な戦闘だったと見るのが有力。
根拠として、伝えられるような敗北があったにしては、会戦前後でポーランド、ドイツ、リトアニアの
諸侯の顔ぶれがほとんど代わっていないため。
各国の軍事活動も活発さを維持してるので、そんな大規模な会戦があったとは考えにくい。
>>489 「武士の集団戦法に圧倒される元軍」を描いた蒙古襲来絵詞から、わざわざ敗走する元軍と
集団で突進する武士団の部分をカットし、「元軍の集団戦法に圧倒される武士」という全く
正反対の絵として教科書なんかに載せてるんだぞ。
どこが被害妄想だよ?
史料に工作してまで武士をこき下ろしてるじゃん。
>>490 国王様が処刑されている件について。
ま、ポーランドに行った奴らはそもそもが別働隊なのだがね。
後、ハンガリーの大敗はどうみてもガチだけど。首都エステルゴムが陥落したんでしょ。
それにしてもベーラ4世陛下。隣国オーストリアで踏み留まるかと思いきや、アドリア海中の
孤島まで行くなんて、いくら何でも逃げ過ぎ。
よっぽど恐かったんだろうな
で、鎌倉武士団が逃げたとか負けたとか明記してある資料はどれかね?
>>493 「てつはう」とか書いてあるアレじゃね?
>>492 大敗どころか、国王がハンガリーの諸侯から嫌われ多くの貴族は戦いに参加しておらず参加していた人間もベーラを臆病者と呼び指揮系統は滅茶苦茶な状態で 、バトゥの護衛兵を多数殺傷し討ち取りかける所まで行った激戦だが?
>>450 出来ないとする根拠は?
そもそもその金神頭とやらの
・ソースは?
・ソースの信憑性は?
・盾の材質は何でできているのか?
・使った弓はどういったものなのか?
・使用された頻度はどれ位か?
・その威力は現代において実験で再現されたのか?
これ位は答えてもらわなきゃ話にならない。
457の様な説明にすらなってない物は認めないので。
>>487 「壬辰倭乱に勝利したウリナラマンセー!!」と色んな意味で同じレベルにあるな。
「鎌倉武士は四倍のモンゴル軍に勝利しました。勝因は鎌倉武士が色々と凄かったからです」なんて説明で納得してウリナラマンセーするなんてどれだけのアホなんだ?
>>497 実際、四倍のモンゴル軍に対して大宰府へ指1本触れさせないまま勝利したんだから
鎌倉武士は凄いだろ。
お前は、一体どこが納得できないんだ?
>>498 だからさ、お前は四倍の軍勢に勝利した要因が「鎌倉武士が盾を砕く弓を持ってたりして凄いからです」なんて小学生レベルの説明で納得するアホなのか?
双方はどんな編成だ?地形は?配置は?戦闘の経過は?戦術は?双方の士気は?死傷者の数は?
これらの事を全く考慮せずに「4倍のモンゴル軍を破ったから鎌倉武士は世界最強」なんて池沼だとし言えない。
亀甲船をマンセーしてホルホルする韓国人と同じレベル。
>>499 双方はどんな編成だ?
元軍は蒙漢軍2万5千と高麗軍8千で、日本軍は九州の御家人が5千。
地形は?
騎兵運用に適した福岡平野。
配置は?
元軍は博多湾西方の松原付近に上陸し、日本軍は博多付近に集結。
戦闘の経過は?
東進してきた元軍が赤坂で菊池勢に蹴散らされて敗走。
戦術は?
双方とも集団戦法。
双方の士気は?
双方ともやる気十分。
死傷者の数は?
元側の死者・行方不明者が1万3千5百余人。日本側の損害は対馬・壱岐・松浦党に集中。
>>495 皇帝フリードリッヒ二世が、1241年7月3日付けのイギリス国王ヘンリー三世に寄せた書簡の
なかで述べているサヨ河の戦い↓
「ハンガリー軍は敵を見くびって油断したのか、敵が接近しているのにまったく気づかず、
ぐっすり眠りこんでいた。天然の要害に頼って、安心しきっていたのである。タルタル軍
は疾風のように攻め込み、突如、四方八方からハンガリー軍を包囲した。ハンガリー軍は
不意に包囲されて、取るものも取りあえずに攻めたてられながらも、敵に陣を渡すまいと
頑張った。タルタル軍とハンガリー軍の彼我の距離はわずかに五マイルであって、暁の
薄明のなか、突如、タルタル軍の先鋒は突撃し、たちどころにハンガリー陣を包囲した。
そして、まず、指揮官たちと反抗する元老たちを殺し、無数のハンガリー人を虐殺したの
である。大昔から、一つの戦闘でこれほどの虐殺がなされたことは記録にもないことである。
国王は駿馬を駆ってかろうじて落ちのびることができた」
どこが激戦だよ?
一方的にハンガリー軍が虐殺されてるだけじゃん。
502 :
名無し三等兵:2007/10/12(金) 06:22:01 ID:B8q16CyK
>>501 当時のヨーロッパは騎士道が確率しており、たとえ大勝利を納めたとしても
相手の指揮官は人質などに取り、身代金を取った上で解放してやっていた。
敗北した側を一方的に虐殺するなんてことはほとんど行われない。
その書簡は暗に敗兵の虐殺を行ったモンゴルを批判してるんだろう。
503 :
名無し三等兵:2007/10/12(金) 07:13:36 ID:UittgTHD
先生!身代金の取れない捕虜はどうなったんですか?
景品交換所に持っていくと現金になりました。奴隷商人ともいうのだが。
>>492 >それにしてもベーラ4世陛下。隣国オーストリアで踏み留まるかと思いきや、アドリア海中の
>孤島まで行くなんて、いくら何でも逃げ過ぎ。
オーストリアのフリードリフ公がベーラを捕まえて身代金をふんだくろうとしたから逃亡したんだが。
知ってて黙っていたのか?
それとも知らなかったのか?
>>500 こんなの何の説明にもならん。
なめてるのか?
>>501 モンゴル側の記録にバトゥの護衛兵30人と部下のバカトゥが討ち取られ、本人も死に掛け、バトゥの指揮が無ければモンゴル軍は崩壊していたとあるんだがな。
506 :
505:2007/10/12(金) 10:44:11 ID:???
戦いを見てない部外者の記録より当事者の記録の方が遥かに信用できるのはいうまでも無いな。
海は数個師団に匹敵する
まして荒い日本海は、急造の元・高麗水軍にはきつかったことだろう
兵站が無ければ勝てないのは古今東西同じ
>>507 元・高麗水軍900艘は兵站3ヶ月分を搭載できるんだが。
船の輸送力を利用できる分、兵站面では陸上侵攻より有利なんだよ。
>>508 どこが?
一日戦っただけで矢が尽きかけている程度なんだぞ
>>509 準備に何年もかけた遠征で、一日戦っただけで矢が尽きかけるはずがない。
もし本当矢が尽きたとすれば、それは博多の戦闘の前に対馬の80騎や壱岐の100騎程度
武士との戦闘で、元軍3万3000は大苦戦していたということだ。
>>510 それこそ思い込みの産物だろうに
何年もかけたのは造船が必要だったからで、船腹以上の物資はどうやっても運べない
だいたい前哨戦でそんなに苦戦してたのなら、侵攻スピード自体がもっと落ちてただろ
>>511 実際、侵攻スピードは対馬や壱岐の戦闘で大幅に落ちてる。
対馬で10日近く、壱岐でも丸2日を要しているから。
そりゃ戦闘のせいじゃないだろう
万余の軍勢が、しかも船で動くのなら行動のロスが出るんだから当然
光栄のゲームで語ってないか?チンギスWとかw
元軍はその後、菊池勢100余騎や白石勢100余騎にも蹴散らされているし、弘安の役
でも河野通有の兵船2艘の襲撃で大損害を受けたりしている。
武士と元軍の戦闘力の違いを考えれば、対馬や壱岐の戦闘が大苦戦だったことは
十分考えられる。
元軍は弘安の役の際、同じ900艘の船団で3ヶ月以上戦っており、輸送能力には
かなりの余裕があったわけだし。
一日で矢を半分も消耗したって話を鵜呑みにするならそれは蒙古軍の想定する以上に激しい戦闘が展開された、か
それとも蒙古軍が所要の矢の量すら碌に算出出来ない馬鹿揃いだった、という解釈のどっちかになると思うんだが。
>>501 これが本当なら油断して寝てる所を包囲されて壊滅したんであってハンガリー軍の戦術や編成がモンゴル軍に比べて劣ってた事にはならないが…
>>船の輸送力を利用できる分、兵站面では陸上侵攻より有利なんだよ。
お前バカだろ、本物の。
>>513 確かに戦闘のせいじゃないね
単に対馬領民を虐殺しただけだもんね
もしかしてこんな無駄なことしてなければもう少し矢数も保ったかもね
>>517 高麗の大型船を1艘200dとして計算すると、元艦隊300艘の輸送量は合計6万d。
同じ量を陸上で輸送する場合、馬1匹の輸送量を100`で計算すると60万匹が必要な計算になる。
昔とはいえ、いくら何でも、必要な兵站ぐらいは計算して遠征するだろう。
つうか、その計算が出来ない軍=弱すぎる軍っていっても問題ないような。
521 :
名無し三等兵:2007/10/12(金) 22:02:08 ID:74Z/NK9Y
>>516 >油断して寝てる所を包囲されて壊滅した
ハンガリーもヘタリアを馬鹿にできないですな。そんな緊張感がない奴らが
強いとは思えないが。これがイタリアだったらヘタリア武勇伝の一つになるだけ。
>>519 兵站と言う物をその程度の認識でしか見られないのか。
海上輸送と言うのがどれだけ大変な物なのかちょっと頭を使えば解るだろうに。
そもそも一隻につき200トンも物資を運べるかよ。
そしてなんで陸路の輸送で馬しか使わないんだ?
と言うか普通に考えて「船の輸送力を利用できる分、兵站面では陸上侵攻より有利」と言う文章を書いた時におかしさを感じなかったのか?
戦記物を読んでれば海上輸送の困難さなんて常識だろう。
>>500 >騎兵運用に適した福岡平野。
不十分だ。
具体的にどこだ?
>元軍は博多湾西方の松原付近に上陸し、日本軍は博多付近に集結。
ギャグか?
配置と言うのは軍勢がどの様に配置されたのかって事だ。
http://allempires.com/articles/gaugamela/gaugamela4.gif こう言う事を言うんだよ。
>東進してきた元軍が赤坂で菊池勢に蹴散らされて敗走。
蹴散らされたってのはどう言う事だ?
具体的にどう「蹴散らされた」んだ?
>双方とも集団戦法。
「戦術は?」の答えが「集団戦法」と言うのは何かのギャグか?
集団戦法と言うならマケドニアファランクスもスイスパイク兵も足軽も集団戦法になるんだが?
具体的な話をしろ。
>元側の死者・行方不明者が1万3千5百余人。
一日の戦闘での死者なのか?
四倍の軍勢に正面から戦いを挑んでそれだけ殺したと?
>>521 油断して夜襲をかけられた軍勢なんて日本を含め世界史上いくらでもあるが?
>>ハンガリーもヘタリアを馬鹿にできないですな。そんな緊張感がない奴らが
>>強いとは思えないが。
事前にモンゴル軍の前衛を蹴散らしてるからな。
慢心したんだろう。
>>522 戦記物を基準にされてもな・・・
それに、1艘につき200dって、大型船なら普通の輸送量だろ。
一応、数字の根拠としては、1268年にフビライが高麗に建造を命じた戦艦1000艘が
米3000〜4000石を積載可能な大きさということだったので、それを基準に1石60`で
計算したんだけど。
戦国時代の安宅船とかもその位だし。
それくらい船舶の輸送量というのは、陸運を凌駕しているものなの。
526 :
名無し三等兵:2007/10/13(土) 02:41:06 ID:L0rZd5sC
>>525 高麗の用意した船は急増しただけでなく、漢江や錦江といった河川運搬用の船も徴用したらしい。
内陸河川用の大型船は基本的に輸送船だから、積載力はそれなりにあったと思う。第一、平底
だから積載能力は高い。但し耐波性は悪いが。
モンゴル軍は斥候の軽騎兵が偽装撤退(負けたフリ)で勝ちにはやる
敵を自軍包囲網に誘い込み撃破、という戦法をしばしば使いました。
ハンガリーの場合は偽装撤退にノッてこなかったんでこちらから
叩きにいったんじゃないかな?
元軍は数万という単位での渡洋侵攻作戦には経験と準備が不足していたようです。
その根拠となるのは
(1)博多湾を2度も上陸拠点として選んだこと
一度目のときはやすやすと上陸に成功しますが二度目に来たときは
博多湾沿岸はかなり要塞化されてて着上陸が困難になってました
ノルマンディーでロンメルがいってた水際防御てやつです。
(2)兵力と士気の問題
弘安の役では元軍は二ヶ所から艦隊を送りました
朝鮮半島から出撃し、高麗と漢人を基幹とする900隻4万。そして
中国は江南(上海付近)から出撃した、旧南宋の将兵を基幹とする3500隻10万。
江南から出撃した奴らは投降兵が中心なのと対馬海峡じゃなく広い黄海を
時間かけて渡ってきたのとで士気とコンディションがガタガタだったようです。
んでこの10万、日本側の艦隊の泊地(平戸)に第一波〜殿(しんがり)までが全て
たどりつくのに実に3週間かかってます。
(先にやってきた朝鮮発の4万は一時志賀島に橋頭堡を築くも激しい反撃のため
艦隊から後続の物資,人員を揚陸することができず若干の陸兵を置き去りにし
志賀島→壱岐→平戸と撤退。江南からやってくる10万との合流を待っていた)
こんな大軍で来るから時間かかるのはまあしょうがないんですが
陸兵は全戦力集結〜総攻撃の発起までは日本の小艦艇の絶え間ない襲撃や
不衛生による疫病発生におびえながら狭っ苦しい船の中にカンズメなわけで
ついでに、第一次の文永の役は元軍がすげえ優勢に戦いを進めてたのにも関わらず
突然退却してしまったことから第二次侵攻に向けた威力偵察ではないかと
考えてます。なんか速攻で矢が尽きてますし。
>ついでに、第一次の文永の役は元軍がすげえ優勢に戦いを進めてたのにも関わらず
突然退却してしまったことから第二次侵攻に向けた威力偵察ではないかと
考えてます。
この部分に関しては若干誤解があるようだがほかはおおむねそうだろうな
優勢っていっても対馬での虐殺と博多湾から上陸したあとの博多焼き討ちぐらいだと思うけど
曲がりなりにも兵士なんだから圧倒的寡兵と平民相手にホルホルできても当然じゃないかな
武士に当たったとたん総崩れだし
いくらでも増援が来る鎌倉武士に対して元にしてみれば勝利条件は一気に大宰府落すしかないのだから威力偵察というよりは初めから電撃戦の計画で
それが失敗したから帰ったんでしょう
「大宰府さえ占領すればおとなしくなるだろ」ていう甘い考えだったとしか考えられない
現に二回目の弘安のときも規模以外基本的にはおなじだしな。元には大宰府しか見えてない。
高麗史でも
朝鮮「背水の陣で必死にたたかえばまだ何とかなります」
元「あほかこっちはもうへとへとだぞ逆に武士はどんどん増えるしもう無理。撤退撤退」
あと江南軍の士気に関しては低いことはないはず
直前の大将交代などでコンディションの不備はあるだろうがね
>>522 兵站っても後方の補給地点から物資、人員をピストン輸送とかしてたわけじゃなし。
派遣した艦隊に必要な物資と人員を一度に全てのせて運び、
あとは占領地から現地調達する、て手筈だったんじゃないかな。
>>528 第一次遠征に関しちゃ
元軍側にゃーあんま「負けた」という意識はなかったようですけどね
日本側の主力が当初の拠点である博多を放棄して太宰府に撤退したり、
元軍指揮官のヒンドゥが帰還後、ただちに第二次遠征の準備を命じられてます。
(おとがめや配置転換などが一切なされていない)
(もともとモンゴル軍は軽騎兵を主力にしてたから「撤退する」ことに対する
精神的な抵抗が農耕民族型の歩兵軍に比して弱い、という要素もありますが)
ぼかあ専ら当時の幕府軍よりゃモンゴル軍の内情の方に詳しいんで
このスレはけっこう参考になります。
第一次遠征については「元史」にも「高麗史」にも戦って負けたと書いてあるが
『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通
「十年、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」
『高麗史』八十七巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
532 :
某研究者:2007/10/13(土) 06:53:15 ID:zlXbjh32
南宋軍でさえ山城の攻略等容易なのかだろうし
野戦で仮にモンゴル軍が勝利しても
厳しいと言う事は無いのかだが
野戦では散開している日本側が
射撃戦では有利と言う可能性も
有るだろうが
モンゴルの重装槍騎兵の突撃を
長巻では止められるのかどうかだが
長目の薙刀も一応有ったかも知れぬが
533 :
某研究者:2007/10/13(土) 06:57:08 ID:zlXbjh32
日本の槍の無い騎馬武者相手なら
長巻で十分阻止出来たかも知れぬし
薙刀は南北朝時代に大太刀や槍が出る前には
有ったのかどうかだが
「元史」は明の時代になってから漢民族が編纂した史書だし
「高麗史」も元に屈服させられてた側が書いた史書だ、という点を
割り引いて考える必要はあると思います。
先にも言った
「遊牧騎馬民族と農耕民族の戦争における「撤退」という行動に対する
認識の違い」
が「戦って負けた」という書き方になったんじゃないかと考えます。
フビライにしても第一次の進攻は使者を皆殺しにした日本への
「懲罰遠征」で、征服までは考えていなかったんじゃないでしょか?
第一回と第二回の進攻で元軍の指揮官の人事が
ほぼそのまま引き継がれている点、
戦闘の経過だけを見る限りでは優勢な元軍が
幕府群の動きと関係なく突如兵を引いたよーにしか見えない、という点
からそー考えたんですが・・・
>>534 >フビライにしても第一次の進攻は使者を皆殺しにした日本への
誤解してるが文永の前に来た使者は殺してないよ
殺したのは弘安の戦前に来た使者
なのでその仮説はおかしい
人事に関しては単に人材不足かもしれんよ現に
金方慶なんかは高麗指揮官なのに市中引き回しのうえ公開鞭打ちだぜ
死罪にはならなかったものの一族は奴隷資財没収
手もとの本じゃ
「夕刻頃博多を放棄し主抵抗線を太宰府まで後退」
とあったもんだから博多が拠点だと書いたんだけど。
>>536 あー、確かに
「国書を黙殺した」とは書いてるけど
「使者を殺した」とは書いてないなー
軽率な物言いだった・・・
>戦闘の経過だけを見る限りでは優勢な元軍が
優勢なのは対馬での一週間と壱岐などの小島での虐殺だけだけどな
対馬の地頭の宗助国なんかはたった80騎(もちろん全員討死したけど)で戦ってるし元軍が勝てて当然
博多に上陸後元軍(金ひきいる高麗軍)が勝てたのは松浦党にだけでその後ろの菊池氏に赤坂で阻まれて撤退
別ルートで博多を目指す劉復享も進軍を開始するが少弐景資率いる武士に狙撃され重傷、撤退
やがて日没になったので日本軍も水城へ引き上げた
で忽敦はとにかく忠烈王に言い訳がいるので戦果のかわりに博多に火を放ち土産用の子供を200人拉致、そのまま夜陰に乗じて博多湾を退却
逃げ帰る
>>539 博多正面での攻勢に耐えきれなかったから
水城に撤退したんじゃあないの?
(赤坂方面では食い止めていたようだ)
劉復享を狙撃した少弐景資も敗走を余儀なくされてるし。
そのレスを見る限りじゃあ
こっちで読みこんでる資料と戦局の流れがまるで逆にみえる・・・
>>539 >少弐景資率いる武士に狙撃され重傷
やはり日本の弓は・・・
これで条件は五分だwwwwww
結果から経緯を推定した方が間違い難いと思うが、
上陸軍がせっかく手に入れた橋頭堡を捨てるのは、よっぽどの敗戦で無いと
理屈に合わんと思うんだが、防御側が戦闘で優勢でも、戦略的な理由で
一時撤退するのは、良くある話だし。
手もとの本の文永の役の戦場マップだす。
ttp://litz.sakura.ne.jp/upload/file/1192235117.jpg 個人的にはこの戦いは
「元軍は戦術的には勝利したが、将来的には(敵増援や矢の欠乏により)敗北は
避け難い状態にあったので勝ちに乗ってる間に兵を引いた」
というふうに考えとります
>>544 この戦いを「戦術的にも日本の勝利」だとすると
後に成された海岸防衛線の構築や中国,九州地方での
北条家の守護再配置による指揮統制能力強化、などの
数々の施策への説明がしにくくなります。
海岸線にわざわざ石垣を作らせたのは
「元軍を内陸に侵入させたのはまずかった」という現場及び
指揮レベルでの認識があったからこそで、
内陸の正面切っての戦闘で元軍を撃破できる自信があるのなら
わざわざこんなもん作らせたりせず早期警戒網くらいで留めるんじゃなでしょか?
>>545 おいおい
「たとえ勝てても次はもっと少ない被害で勝ちたい」と思うのが普通
俺が当時の北条でも普通に防衛を強化するよ
結果的に勝ったけど考えても見ろよ
文永の役ですら単純計算で5倍の元軍だったんだぞ
「次の戦では増量の可能性も大いにある」とよめば(実際南宋の僧侶とか亡命者などから弘安のときは元軍の規模も出航時期も北条に筒抜けだったから対策採るのは当たり前)
>「元軍を内陸に侵入させたのはまずかった」
略奪はもうカンベンって感じだったんだろう。
もちろん容易に白兵戦に持ち込める海戦をより望んだってのも大きな理由としてあるだろうがね
548 :
名無し三等兵:2007/10/13(土) 10:49:36 ID:gu7lp2yb
勝ったらからって防備を怠るのは下策中の下策。
まともなトップならそういうことはしない。
襲撃を受けたんなら、勝敗の帰趨に関わらず防護策が採られて当然。
てゆうか、最初に元使が来た時点でやっておくべきだったけどね。当初の幕府トップは
「元なんて国は聞いたこともない」と言ったそうだし、頭が若干お花畑ではあったね。
>>544 一旦築いた橋頭堡を放棄しちゃうとまた最初からやり直しだし、揚陸作戦において、
陸からまた船に戻っちゃうというのは、確かに腑に落ちない点があるね。
あまり聞いたことがない事例ではある。
ところで文永の役での元側の損害はいかほど?敗北したんなら損害は大きいはず。この時の
風雨はそれほど強くはなかったはずだし。
トータルで一万三千五百人(元軍調べ)
>>541 武士だって寝たりご飯食べたりしたいじゃん
兵糧の備蓄は水城なんだからそこに帰っただけだとおもうよ
>>545 個人的にはこの戦いは
「元軍は戦術的には勝利したが、将来的には(敵増援や矢の欠乏により)敗北は
>>528で言ってた威力偵察説を引っ込めたってこと?
それならあとはそんなにこっちから反論はないよ
戦術的な勝利云々はどこまで視点を引くかで変わるからな
「大宰府どころか揚陸すら失敗したが初日の先鋒の武士を少々と領民をたくさん虐殺した」を勝利と見るか敗北と見るか
「背水の陣でもしなければもう戦えない」という指揮官の言葉を勇ましいと取るか追い詰められて必死だなととるか
なんてのをあまりやりあっても意味がないしな
>>539 あたりのレスを初めとした「日本軍強いよ派」の意見を真に受けると
文永でもふつーに日本軍が野戦で元軍を
撃退してたような印象しか受けないんだけど。
文永と弘安じゃあ日本軍の防衛戦術は大きく変化してる。
文永は元軍上陸後の内陸での野戦が主体だったのに対し
弘安では海岸防塁に主戦力を貼付けた上での徹底した水際防衛に変わった。
基本的に「野戦で元軍は撃退可能である」という認識があり
もっと少ない被害で勝ちたい、という意志があるなら
動員兵力増加や指揮系統の改良こそすれ上記のような根本的な
防衛戦術の変化は起こらないと思うんだ。
一度試みて上手くいったやり方をなぜ次で変える必要がある?
実際のところは逆で
望まぬ野戦で常に日本軍は劣勢に立たされ、
「野戦じゃ元軍にかてねー」となったからこそ
防塁により水際で防衛する戦術が選ばれたんだと思う。
「己の持つ土地を守る」という御家人の価値観とも合致する戦術だし。
>>551 フビライが日本への遠征軍を「懲罰遠征」と言っとることや
文永後もしつこく使者をおくってるとこから見て
威力偵察はちと厳しいかな・・・
まあ単に手もとの資料の読み込みが足りてなかったんですがorz
一般的な難易度で言えば、水際で阻止 >>>> 上陸させた後、野戦のような。
野戦で比較的楽に勝てたから、備えがあれば、水際防備もできるんじゃねぇって
思ったんじゃないの?
文永の役の時は、まだ防塁を作ってなかったから、水際阻止なんて戦術、取りよう
なかったんです。色々準備不足でした。戦争の初期段階で、後手後手に回り、
結局、博多を焼かれた。どうも鎌倉幕府は、侵攻が本当にあるとは、思ってなかったようす。
ユーラシア大陸の内部情報なんて、入手できようがなく仕方ないですが。
鎌倉武士に「元軍に野戦で勝てる」という認識があったのは間違いないよ。
だって、文永の役の直後に「異国征伐」とか言って朝鮮半島に攻め込む準備を
開始してるんだから。
それに、野戦で勝てないから防塁で防衛する戦術を選んだというわりには、
弘安の役で防塁での戦闘にこだわっていない。
志賀島に元軍が上陸すれば志賀島に攻め込むし、壱岐や鷹島に後退すればそれを
追撃する。
どこで戦っても勝てると認識しているような戦い方。
防塁は、文永の役で元軍が女子供などを無差別に攻撃したため、そういう非戦闘員と
元軍との接触を防ぐ目的で建設したんじゃないのか。
>弘安の役で防塁での戦闘にこだわっていない。
>志賀島に元軍が上陸すれば志賀島に攻め込むし、壱岐や鷹島に後退すればそれを
>追撃する。
これは防塁が「防塁に依った防御戦闘」に限らず、例えば上陸地点の極限、
防御側が不利になるような地形での戦闘の防止、言い換えるとイニシアチブを
なるべき相手に握らせないことを目的にしてるってことじゃないかな。
「どこで戦っても勝てると認識」とまで言ってしまうとちょっと言い過ぎじゃないかと。
イニシアチブを握り、十分な兵力があれば野戦でも勝てる、くらいでは。
>どうも鎌倉幕府は、侵攻が本当にあるとは、思ってなかったようす。
ユーラシア大陸の内部情報なんて、入手できようがなく仕方ないですが。
二年も前から準備してるよ
>>556 でも、志賀島へ陸からの攻撃なんて余程の自信がないと出来ないよ。
志賀島と本土を結ぶ海ノ中道は非常に細いから、攻撃側はどうしても戦力の
逐次投入になっちゃうからね。
>>558 敵情がある程度分かれば「戦える戦えない」は判断できると思うけどね。
現代の地形での判断だけど、海の中道の接続部が応急防御に向いているかというと
そんな感じにも見えないので、タイミング次第かなと思う。
>>559 少なくとも、「防塁に拠らないと勝てない」という認識では全く無かったわけだろ。
561 :
名無し三等兵:2007/10/13(土) 15:11:55 ID:Moj45QcX
>>555 >だって、文永の役の直後に「異国征伐」とか言って朝鮮半島に攻め込む準備を
>開始してるんだから。
初耳だ。。。詳しく教えて
>>561 「異国征伐」ってのは、文永の役の直後にたてられた日本の方から元に攻め込もう
っていう計画。
作戦の予定次期は文永の役から半年もたっていない1275年3月に設定されていた。
北条時宗はそのために動員可能な武士の数を各地から報告させたり、安芸一国で
100艘を超える船をチャーターしたり、いろいろとやってる。
一応名目上の指揮官は金沢実政だったんだけど、まだ17歳だったので、実際の指揮は
その親の実時が執ることになっていた。
直前に実時が病気になり、その後死んでしまったんで中止になったけど。
弘安の役終結時点で宇都宮率いる関東勢、公称十万余はまだ東海道を抜けてなかった訳だが、
実際の規模はどんなもんだったんだろう?
>だって、文永の役の直後に「異国征伐」とか言って朝鮮半島に攻め込む準備を
>開始してるんだから。
で、なんでしなかったんだ?
>>525 船舶の輸送量しか見ずにその他のファクター一切を無視して陸送より簡単だと言ってるのがトンデモ扱いされてる訳だが。
>>562 >>直前に実時が病気になり、その後死んでしまったんで中止になったけど。
その程度で中止するという事は元々やる気なんて無かったんだろ。
日本最強厨は「鎌倉武士は元軍より優れていたから勝った」と喚くがじゃあ何がどう優れていたかについては何も言わない。
言っても「盾を砕く凄い矢があった」だの「日本刀が凄かった」だの幼稚園児なみのレベル。
567 :
名無し三等兵:2007/10/13(土) 17:41:05 ID:VY36eaJF
>>566 単に兵士の武勇や武器だけで戦争は勝てるもんじゃない。
国と国との戦争だから国力、政治、経済、生産などの面からも両者を比較する必要がある。
鎌倉時代の日本は世界でも大国といって良かった。
鎌倉幕府は承久の乱で公称19万の兵力を動因。
まあ実数はそこまではいかないが10万以上であることは確かであろう。
源平合戦の時代、関東の頼朝、木曽義仲、奥州藤原氏、平家とヨーロッパの国々なんかより
大軍を動因できる地域政権が存在していた。
モンゴルは確かに超超大国だったが、時代はまだ国民の軍隊などを作れるような時代じゃない。
ユーラシアの大半を支配したといっても全土から統一した軍を作れるわけもなし、
弘安の役の時の14万はいくらモンゴルでも海を越えての艦隊となると精一杯だったろう。
明の時代、永楽帝の宦官鄭和がインド洋まで繰り出した遠征では5万。
これでも東南アジアやインド洋、更に東アフリカの国まで威圧し結構、明に朝貢させている。
セイロンでは王が反抗したので戦争になったがあっけなく鎮圧し王を捕らえて処刑している。
しかし当時の日本はセイロン程度の国ではなかったということ。
鎌倉時代は米の二期作も全国に普及したが中国ではようやく南方で始まったばかり。
大国であり先進国でもあり国内が内部分裂もしなかった以上、そう簡単に征服などされない。
戦後教育の影響か日本は明治維新までずっと世界の後進国で小さな島国だったというおかしな
認識というより洗脳から抜けきれないから、台風で助かっただけとかその反動での鎌倉武士最強論となるんだろうね。
>>565 マーチン・ファン・クレフェルト著『補給戦 何が勝敗を決定するのか』中央公論社
「逆説的に言えば、補給物資をうまく調達する司令官になればなるほど水路に依存するようになる
ということであった。その原因は、船による運搬能力が荷馬車のそれに比べ大きかったこと、
前者だと自分自身のための補給品がさらに必要になることがないということの両方のためだった。
たとえば十七世紀の軍事技術者として一流だった人の計算によれば、100ラスト(1ラストは約2トン)
の小麦粉と300ラストの飼料を詰め込むのにたった9隻の船で足りたが、陸上だと100ラストの小麦粉
を運ぶだけで600台もの荷馬車が必要だとしている。」
>>567 >鎌倉時代は米の二期作も全国に普及したが中国ではようやく南方で始まったばかり
日本で始まったのは、「二毛作」の方だ
冬に麦を植える
>>567 そういえばセイロンって元寇とほぼ同時期にマレーシアからの海を越えた侵略を受けて、
島の一部を征服されてるんだよな。
571 :
名無し三等兵:2007/10/13(土) 18:10:19 ID:VY36eaJF
水田では豊富な水が毎シーズンごとに土を洗い流し
その後乾くから
連作障害の概念が、日本では定着しにくかった
ヨーロッパでは、後に主食になったジャガイモが連作に非常に弱かったため
間にどの作物を植えるかで工夫が凝らされ
ついに4圃式農業に至る
イモは土中に栄養のある物体がモロに出来るからすぐに
線虫病などが発生してしまう
>>566 和弓や日本刀が優れた性能を持っていたことは明かだろう。それを言うことのどこが幼稚園レベルなんだ。
確かに、戦争における1つのファクターでしかないことは明かだけど。
英仏戦争におけるクレッシーの戦いについて、ロングボウの性能を語ったりしたら幼稚園レベルになるのか。
後のポルトガルやスペインの海上進出について、銃火器の威力を語ったら幼稚園レベルか。
兵装も軍事力を構成する要素の一つだ。
574 :
某研究者:2007/10/14(日) 00:33:17 ID:iSUSkbgz
槍を持つ重騎兵に長巻を持つ歩兵や下馬した騎馬武者を
突破されるのが一番厄介かも知れぬが
モンゴルの重騎兵の槍は投げ槍と言う意見も有るし
此れなら精々1人倒せば終わりであり
陣に突入して蹂躙され何人も倒されると言う事は
無い訳だろうし
投げ槍を失った後の剣を持つ騎兵なら
長巻で十分対処出来た訳だろうか
重騎兵の投げ槍より
歩兵の槍の方が寧ろ厄介かも知れぬが
騎兵は兎も角歩兵は近接する前に射撃で可也
打撃を与えられる訳だろうし
モンゴル兵の弓の装備率は100%だろうが
主力である南宋や高麗の兵の弓の装備率はどうだっのかだろうし
弓を止められる盾は
何処迄有ったのかどうかだが
(日本側は掻盾や袖は可也
装備されて居た訳だろうか)
575 :
某研究者:2007/10/14(日) 00:38:19 ID:iSUSkbgz
>ノルマンディーでロンメルがいってた水際防御てやつです。
此れを完璧にやれた軍と言うのは
同時代には有るのかだろうし
西欧もバイキング等に対して此れは
出来て居たのかどうかだが
576 :
某研究者:2007/10/14(日) 00:53:24 ID:iSUSkbgz
>この元連合軍に対して、防衛線を後退させながらも丸一日持ちこたえたのは、同時代
>の他国と比べても驚異的に善戦していると思う。
当時の欧州の歩兵はサーベル騎兵さえ阻止出来たのかだが
シルトロンやパイクが出る前にも
ヘースティングスではシールドウォールで
槍騎兵を防いだと言う記述も有るが
一部の歩兵が防げたに過ぎぬかも知れぬが
リチャードが取った様な荷車を盾にして騎兵を防ぐ様な
方法や
ヘンリー5世等が用いた
杭を使用する方法も有ったと言う事かも知れぬが
リーグニッツでは使用はされて居ない訳だろうか
日本の場合は南北朝時代に薙刀や槍で
騎兵を阻止したと言う記述が有るが
鎌倉時代にも長巻での騎兵阻止は恐らく
行われ居たと言う事かも知れぬが
精鋭歩兵と下馬した騎馬武者のみが
可能だったと言う事は無いのかだが
577 :
某研究者:2007/10/14(日) 01:00:53 ID:iSUSkbgz
モンゴルは騎兵しか居ないから
西欧の槍騎兵の突撃等意味は無く
弓でパルティアンショットを受けて
後に重騎兵がピストル騎兵にやられた様に
一方的にやられると言う事かも知れぬが
リチャードの様に荷車を盾として
歩兵の射撃を利用すれば
勝算は有ったと言う事かも知れぬが
578 :
名無し三等兵:2007/10/14(日) 01:12:44 ID:rmXyC3gX
>>532 この時代には、南北朝期のような本格的な長巻はないぞ。長めの太刀の刀身の途中まで
皮や布を巻いて柄として使えるものはあったが。長刀は平安末からあるぞ。僧兵や神人の
主要な装備だ。
579 :
某研究者:2007/10/14(日) 01:18:41 ID:iSUSkbgz
580 :
某研究者:2007/10/14(日) 01:33:06 ID:iSUSkbgz
581 :
某研究者:2007/10/14(日) 01:39:57 ID:iSUSkbgz
582 :
某研究者:2007/10/14(日) 01:46:02 ID:iSUSkbgz
>>566 >「盾を砕く凄い矢があった」だの「日本刀が凄かった」だの幼稚園児なみのレベル。
こういう要素て基本的に集団戦よりゃ個人戦でモノを言うんです。
刀剣の類いはぶんぶん振り回して使う分兵士と兵士の隙間が広がるから
歩兵で陣形を組むには槍より不都合だったり。
弓矢にとって重要な要素は威力だけじゃないです。
威力高いから最強つうんなら中世末のロングボウ最強てことになるし。
このタイプの弓に求められるのは威力と連射性の適度なバランスでしょう。
威力だけじゃなく命中精度や連射性能でも日本と元の弓を比較したデータが
見てみたいです。
他によく出てる武者の鎧についても、モンゴルの歩兵用の皮鎧に比べりゃ
一個作るのにどんくらいコストと手間がかかるんだって話です。
あの美しさと繊細さははっきり言って防具というよりゃ美術品の類いだと思う。
ただ、「集団戦に向いてない」というのは必ずしも悪いことじゃない。
敵集団との戦いを個人対個人の戦いに持っていくよう仕向ければいいことです。
元寇においてその際たる例だと思えるのが
弘安の役でしばしば見られた小艦艇による敵船への襲撃や小,中規模の夜襲。
文永の役で日本が不得意な集団戦で苦戦を強いられたのとは対照的に
公安の役では日本の侍たちはその持ち味を十分に生かして
元軍と渡り合うことができたといえましょう
584 :
某研究者:2007/10/14(日) 02:04:36 ID:iSUSkbgz
585 :
某研究者:2007/10/14(日) 02:09:07 ID:iSUSkbgz
綿甲を着て居るモンゴル兵も多いし
此れは簡単に切れる様な代物なのかだが
(日本側も籠手は綿甲を使用しているが
脚部の布は綿甲では無いから
この部分を狙われればだろうし
綿の兜も無い兵も多い訳だろうか)
特にその強みが最も良く出てたのは志賀島での戦闘です。
志賀島海岸部の画像を見ても分かるように
(
ttp://www.kkc.co.jp/social/disaster/200503_fukuoka_eq/20050420/image/1e.jpg)
ここは大軍が集結、機動するのには極めて不向きな地形でした。
初動において海岸の堡塁に上陸を阻まれた元軍主力は手薄な志賀島を攻略し、
ここに海岸堡を築いて物資と人員の揚陸を図ります。
しかし日本軍は初日から小艦艇による襲撃を繰り返してこれを激しく妨害。
さらにこの島、
当時は干潮時だけ海の中道により九州本土と連絡が可能だったので。
島に上陸した元軍の兵はここを渡ってやってくる少数の部隊のゲリラ的な襲撃に
しばしば曝されたのです。
(日本側の記録によると6月6日〜12日にかけて行われたこの島を巡る戦いで
元軍は千人もの戦死者を出した)
最終的に海岸堡の拡大も襲撃の撃退も思うに任せなくなった元軍は壱岐、さらには
平戸まで撤退するはめになったのです、
587 :
某研究者:2007/10/14(日) 02:19:58 ID:iSUSkbgz
>脚部の布は綿甲では無いから
平治物語絵巻を見ると
騎馬武者の大半は脛当てを装備しており
腿の部分に装甲の有る兵も居るが
全てでは無い訳だろうか
>>582 > 此れも腰の部分
草摺というパーツの名称があるのだが。
前にも出ているが、一度確保した橋頭堡を放棄するってのは
例えば、ノルマンディー上陸作戦直後に連合軍謎の撤退、
後日改めて上陸作戦しますって言っているようなものだな。
反乱が起きかねないな。
>>589 それ考えると
「嵐にあったから撤退したよ説」が妥当に思えてくる。
Dデイの時も直前まで決行日の天候の件で悩んでたそうだし
591 :
某研究者:2007/10/14(日) 04:02:46 ID:iSUSkbgz
或いは橋頭堡への
頻繁な夜襲を嫌ったと言う事は
無いのかどうかだが
船上でも此れは収まらなかった訳だろうか
>>590 しかし、文永の役は太陽暦で11月後半だから、
あり得ないわけではないが撤退するほどの嵐(台風)は考えづらい。
Dデイと違って、空挺作戦や航空支援を考えるような時代でもないし。
それと、台風でないにしろ、強風下では和弓のほうが使用しづらくなるのではないかな。
仮に元軍優勢で、和弓が使用できない状態ならば、
橋頭堡の確保ぐらいは出来るだろうに。
しかし、文永の役の約3万人という元・高麗連合軍の人数は
威力偵察にしては大がかりな気もするし
本格侵攻にしては少ないし…。
まさか某半島の人が
「倭は蛮族で我々より弱い。2〜3万もいれば充分」
などと進言してたり…。
少し微笑ましい光景が見えた。
594 :
某研究者:2007/10/14(日) 06:48:53 ID:iSUSkbgz
明光鎧と言うプレートアーマーの様な鎧が
隋の時代辺り迄使われて居た様だし
此れは矢を防ぐ能力は兎も角
白兵戦では札鎧よりは上だろうが
南宋軍は使用して居たのかどうかだが
>>568 それは永続的な補給の事であって上陸作戦の事ではない。
ついでに言うと
「たとえば十七世紀の軍事技術者として一流だった人の計算によれば、100ラスト(1ラストは約2トン)
の小麦粉と300ラストの飼料を詰め込むのにたった9隻の船で足りたが、」
17世紀の船でも200トンもつめない。
>>573 誰もそんな事は言っていない。
「日本刀は兜ごと切り裂いた」だの「ハリネズミになっても戦った」だのが幼稚園児レベルだといってる。
金神頭とやらにしても具体的な事は何一つ言わない、いや言えない。
>>593 文永の役の元・高麗連合軍の人数が約3万人という理由はわかっている。
大宰府攻略のための人数だよ。
某半島の人がフビライに、「上陸して大宰府に侵攻するには2〜3万が必要」と
進言したから、その通りの兵力を投入したの。
それから史料では、はっきりと撤退→暴風に遭遇の順番。
暴風に遭遇したから撤退したのではなく、鎌倉武士との戦いで負けて撤退したから
暴風に遭遇したんだよ。
597 :
某研究者:2007/10/14(日) 08:21:30 ID:iSUSkbgz
大太刀や長巻なら兜も鎧も割れるだろうが
大振りに成るなら
上手く当てられるのかどうかだが
(太刀でも当り方に拠っては
割れるだろうか)
>>595 >それは永続的な補給の事であって上陸作戦の事ではない。
補給の事を議論してるのに・・・
船団に積んでる分が尽きたらあとは現地調達じゃないの?
日本側の補給も大問題ですよ
地元だから現物調達自体は容易いけど
文永の役の分だけで畿内にまで経済混乱が波及して、公家が日記にその困窮ぶりを書き残している
当時の日本には兵站システムなんていう上等なものはなきに等しい
むしろ我慢比べの世界だな
601 :
名無し三等兵:2007/10/14(日) 11:28:40 ID:QzEz0s0l
>>595 日本の大鎧って矢合戦で身体を防御することが目的で作られたものです。
別に日本国内の合戦だって矢を受けながらも鎧を通さずに戦った例など史書にはいくらでもある。
南北朝時代の史書にだって護良親王がずいぶんと矢を受けている記述がある。
あと和弓についていえば蒙古襲来絵詞には盾を貫かれた矢を受けて死んでいる蒙古兵も描かれているよ。
世界史的に史料として価値が高いといわれている蒙古襲来絵詞にね。
蒙古襲来絵詞って
竹崎季長が書かせたものでしょ
当時の風俗を知る上ではともかく、戦闘についてはかなり贔屓があるんじゃない?
>>601 単純に日本の武器、装備を持ち上げまくってるのが気に入らないんだ。
刀剣や鎧を見る限りじゃあ封建制の少数精鋭型の軍隊の装備としては
優秀かもしれんけど
大兵力の集団戦法に特化し、装備もそれに準じたものである元軍
(日本への遠征軍は漢民族と朝鮮族が多い上に歩兵が主力なんで
騎兵が主力だったオリジナルのモンゴル軍ともまた違う個性を持っている)
とは単純に比較すべきではないと思うんだ。
具体的にいうと装備の生産性とか扱いやすさとか,集団戦に向いた武器なのか、
それとも個人戦に向いた武器なのか、という特性の違いね。
単純に「優れてる」「劣ってる」て視点からだけじゃ
見えてこない要素もあると思うよ
604 :
名無し三等兵:2007/10/14(日) 13:14:07 ID:cluUwUAJ
>>602 手柄欲しさに周囲の反対を押し切って5人で飛び込んだ。
仲間もろとも3人が射落とされた。そこに白石さんが駆けつけてくれて命拾いした。
結局怪我しただけで何の手柄も上げられなかった。
後日鎌倉まで行って「一番乗りだ!」と強引に言い張ったら所領貰った。
とりあえず文永の役の戦闘描写はこんな内容ですよ。
周りの人のことは悪くは書いて無いけど、それを贔屓と言えるかどうか。
とりあえず読んでみなよ
>>603 感覚じゃなくてもっと資料とか出したほうが説得力あると思うよ
606 :
名無し三等兵:2007/10/14(日) 13:51:25 ID:e2TMC9jO
>>595 金神頭って本当にありますよ。何のことはない、ただの鉄球を矢の先端に取付けたものです。
実戦用の日本の矢は主に機能別に4種類に別れていました。
射通す(征矢:小さいが鋭い)、射切る(狩又など:やじりがすごく大きい)、射砕く(金神頭がそうです)
火矢。
金神頭は、全く刺さりはしないが、やじりとしては凄く重いので、物体を砕くのに適してます。
実際に置盾の破壊などに用いられてきました。
貫通力よりもストッピングパワーということで、現代におけるスラッグ弾みたいな発想でしょうかね。
>>603 学校とかで「日本は集団戦法に苦戦した」とか散々刷り込まれてきたから仕方ないと
思うけど、そんなの大嘘だから。
史料を見れば実態は全く逆。
元軍が日本軍の集団戦法に圧倒された。
『元史』だって「官軍整わず」と元軍側の軍組織の乱れをを、文永の役の敗因の一番に
挙げている。
609 :
名無し三等兵:2007/10/14(日) 18:08:27 ID:QzEz0s0l
>>603 >刀剣や鎧を見る限りじゃあ封建制の少数精鋭型の軍隊の装備としては
優秀かもしれんけど
日本の鎌倉武士が少数精鋭で一騎打ちばかりやってたなんて先入観をまず捨てないことには。
源平合戦や奥州戦争では万単位の軍隊が動因されてんだから。
奥州藤原氏は配下に10万の兵がいたというけど、頼朝に攻められたとき3万程度しか集まらなかった。
とはいえそれは泰衡が義経殺せば頼朝は許してくれると甘く考えていて頼朝が関東を出発したと聞いて慌てて奥州全土の豪族達に至急集まるように使者を飛ばしたけど
既に時遅し。
それで兄の藤原国衡に取り合えず2万の軍隊を渡して阿津賀志山で迎え撃った。
今にも残る阿津賀志山の二重堀跡は全長3キロにも及ぶからやはり2万くらいはいたであろう。
鎌倉武士軍が総力を挙げて攻めるが中々陥落しない。
そこで畠山重忠は堀に大量の大木やら岩を投げ込んで埋めて突撃するという戦術で奥州軍に大勝した。
攻める鎌倉軍は藤原国衡の2万を圧倒的に上回る兵力だったからこんなことも出来た。
日本では既に万をはるか超える軍による物量戦術なんかもノウハウとしてあった。
鎌倉武士=少数精鋭の戦なんて単純なものではない。
610 :
名無し三等兵:2007/10/14(日) 18:14:02 ID:8YtPCKkx
元寇に、とても興味を抱いたのですが、元寇の時の戦術や戦闘について纏めた本がありましたら、教えて下さい。
611 :
名無し三等兵:2007/10/14(日) 18:30:52 ID:QzEz0s0l
>>610 教科書の範疇を超えないものとか、中にはもっとひどいのもあります。
高麗の三別抄の同盟申し込みを断った鎌倉幕府に対し、
「高麗を疲弊させ弱らせて逆に侵略しようとする鎌倉幕府の侵略思想の現れ」
なんてことを書いてる本まで以前見ました。
それこそ三別抄を高麗人民の解放の為に命を賭けて戦ったなどと嘘を。
蒙古襲来絵詞だって教科書的なカットで後世の加筆である元兵3人と竹崎季長一人だけを
載せて「集団戦術に一騎打ちで挑んで苦戦した。」とか書いてる本いくらでもあります。
612 :
某研究者:2007/10/14(日) 20:16:43 ID:iSUSkbgz
モンゴル軍も綿甲を全身に施した兵が多いし
此れは長巻でさえクリーンヒットしないと
切り裂けないかも知れぬが
雑兵に重い長巻を受け流す能力は
有ったのかどうかだろうし
日本の兵の綿甲も無い脚を槍で狙うと言う事は
雑兵は出来たのかどうかだが
宋には重装甲(歩人甲)を装備した精鋭歩兵も居た訳だろうし
彼等は厄介だったと言う事は無いのかだが
無論長巻を止められる様な装甲では無い訳だろうが
彼等は精鋭兵とすると日本側の精鋭歩兵も含め
中々当てられたのかだろうし
日本側は精鋭歩兵も脚部に装甲は
絵を見る限り有るのかどうかだが
故に歩人甲を装備した様な精鋭歩兵が槍を振るったり
モンゴルの重装・軽装騎兵が下馬して剣を振るって来たら
厄介だったかも知れぬが
歩兵は近接前に矢で阻止され
騎兵は突撃中にも射撃を受け数を減らし
長巻で阻止されている間に
馬上の騎馬武者から射撃を受けて壊滅したと言う事かも知れぬが
613 :
名無し三等兵:2007/10/14(日) 20:58:25 ID:cluUwUAJ
そういや元寇資料館とかのモンゴル甲冑ってあれ、明、清代のものじゃないのかね。
元代のものも残ってるの?
元が本気で日本占領を目論んだのなら、
せっかく落とした壱岐・対馬を、
日本本土侵攻の足掛かりに永久占領もしないで引き揚げた、
その理由がいまいち解せない。
そんだけズタボロだったんじゃね?
616 :
某研究者:2007/10/14(日) 23:06:46 ID:iSUSkbgz
モンゴル軍の綿甲はどう言う形式だったのかだが
西欧のギャンベゾンの様に綿が詰まって居るのかどうかだろうし
日本の籠手の様に分厚い布を重ねただけなら
矢を止める効果は何処迄有るのかだが
日本刀や長巻が掠めただけでは
切れるのかどうかだが
だぶだぶの綿甲と中に鉄甲を組み合わされれば
矢のエネルギーは可也減少すると言う事は無いのかだが
完全に止まる訳では無いと言う事かも知れぬが
西欧もゲクランの時代辺りにはプレートの上に
ギャンベゾンを装備していたが
此れはロングボウ対策なのかどうかだが
完全に矢は止まったのかどうかだが
(これが廃れたのはプレートアーマーの進化が原因なのか
或いはロングボウが強力に成って
防弾効果が無く成ったからなのか
或いはゲクラン死後は古い
敵の弓を考慮しない戦術に戻ったと言う事なのか
どうかだが)
617 :
某研究者:2007/10/14(日) 23:10:16 ID:iSUSkbgz
甲冑の上にだぶだぶの綿甲を装備すると言う形式は
モンゴル以後は廃れたかも知れぬし
綿の裏にに鋲を打って鉄板を固定した
ブリガンダインの様な鎧が主流に成った訳だろうが
防矢効果は此れは低下していると言う
事かも知れぬが
遠距離から銃弾を止める効果なら
札は大きいので高かったのかどうかだが
618 :
某研究者:2007/10/14(日) 23:14:56 ID:iSUSkbgz
http://www.gaopu.com/soudai.html 南宋軍の場合は
上を見る限り歩人甲の上には
綿甲は装備して居るのかだろうし
防弾効果は何処迄有ったのかだが
足はブーツしか無いなら
この部分を刀や長巻で狙うと言う様な
方向も有った訳だろうが
掠めた程度では切れない訳だろうか
モンゴル軍も重騎兵の場合は綿甲は
甲冑の上に装備して居たのかどうかだが
高麗の軍はどうだったのだろうか
619 :
某研究者:2007/10/14(日) 23:20:06 ID:iSUSkbgz
>南宋軍の場合は
>上を見る限り歩人甲の上には
>綿甲は装備して居るのかだろうし
まあしかし良く見ると
腹部や肩に綿甲が有る様にも見えるが
此れは只の布であり
防弾を考慮した物では無く
飾りと言う可能性は無いのかだが
>歩兵用の甲冑である歩人甲は特徴として鎧が足下まで長く有る事で、歴史有る中国の
>甲冑の中でも最強の物と言えます。
まあしかし明甲鎧の方が胴体部分の打撃に対しては
札鎧である歩人甲より強力では無いのか
どうかだが
620 :
某研究者:2007/10/14(日) 23:27:13 ID:iSUSkbgz
621 :
某研究者:2007/10/14(日) 23:40:47 ID:iSUSkbgz
622 :
某研究者:2007/10/14(日) 23:47:44 ID:iSUSkbgz
623 :
某研究者:2007/10/15(月) 00:16:39 ID:Jmwwb7ae
>>ALL
某研究者はスルーでお願いします
ただの荒らしなので
>鎌倉武士=少数精鋭の戦なんて単純なものではない。
十万か・・・
そこまでいくとイメージ変わるなー
稲作だと面積単位の収穫量が小麦の倍くらいあった、て話聞いたんだけど
それが動員数の多さに繋がってるのかな
>>614 モンゴルは中央アジア攻めでも戦わずに降伏してモンゴルに従軍した
都市は温存する一方、抵抗した都市は徹底的に破壊した。守備兵力は
少なくても、テルモピュライのスパルタ並みに対馬・壱岐の守備兵力は
全員玉砕するまで抵抗したから、中央アジアの時と同じ方式だろう。
つまり、抵抗の強かったところを拠点にする場合、占領の為の兵力を
おかねばならないから、それよりは破壊しつくしておいた方が、兵力の
分散を防げる分有利と考えたのではないか。
>>625 数は誇張されてるかもしれないから鵜呑みには出来ないけどな。
太平記なんて50万100万当たり前の世界だぜ
>>627 軍記物語の兵数はかなり誇張されている。
でも、それとその他の文献に書かれた兵数が信用できるかということは別問題だから。
信頼性が高いとされている史料でも数万の軍勢は登場するよ。
>>628 しかし、戦闘員と後方支援要員だとかの比率まで厳密に推定できてるのか?
15世紀の欧州の傭兵軍なんか婦女子や商人なんかがぞろぞろついて回ってたわけだし。
たとえば天下第一となった織田にも商人やらが付いて回ったが
数に足されていたとは思わない。
博多防衛:北条実政 兵力四万
山陰防衛:北条宗盛 兵力二万五千
近畿防衛:宇都宮貞綱 兵力六万
兵力量の実数が正しいかどうかは措くとして、
それにしても実政軍の後詰たるべき宗盛軍の兵力が過小なのはなんでだろ。
近畿に大軍置いてても、橋頭堡の建設を許したら急場の役には立たないだろうに。
632 :
名無し三等兵:2007/10/16(火) 08:28:48 ID:uAOB4XOy
>>631 日本は島国だからどこからでも侵略できる。
鎌倉幕府は博多で迎え撃つよう石塁などを築いたが
もし博多にこないで山陰、あるいは北陸越前あたりから攻めてきた場合も想定していたのでは。
ちなみに宇都宮貞綱はその京都防衛軍を率いて博多に向かっている。
博多の総大将北条実政は文永の役のときのように御家人に抜け駆け等を禁じてあくまでも上陸させないことを目的とした戦をしている。
まず分散した各地の軍は上陸させないことを目的とし敵を食い止め、そしてその間に各地の兵力を集結させて一気に決戦に持ち込む作戦だったのではないか。
近畿に大軍置くのは、瀬戸内海を通って海路急襲される危険性があるからでは
むしろ当時の幕府軍の動員・兵站システムの限界でしょ
従者含めて一万ほどと見られる文永の役の動員さえ、国内経済に深刻な問題が出た
兵力は多いほうがいいが、食わせることや統制には限界がある
そのギリギリが分散配置になったのでは?
635 :
名無し三等兵:2007/10/16(火) 09:02:06 ID:uAOB4XOy
>>634 それも考えられる。
いずれにせよ鎌倉幕府は博多だけ守れば大丈夫っていうような軍事音痴ではないようだ。
この時代の兵站システムはかなり整備されていたよ。
鎌倉幕府は戦時には一国平均役として荘園・公領を問わず、一律に兵站を徴収
できる権限を持っていた。
兵站面は問題ない。
兵站と兵糧の区別もつかない彼は、いつもの彼か?w
文永の役の際には水城に糧料が贅沢に貯蔵されていたという文献もある
余裕あったのなら兵糧調達の混乱で近畿までコメ不足の余波が飛んだりせんよ
単に経済が戦時経済に移行しただけ
日本全体で兵站を支えるシステムがあったという証拠じゃん
改めて元寇に関する情報をネット上で当たってみましたが
文永の役に関する認識が03〜05年あたりで随分変わったような印象を受けます
「戦場レベルでは日本優勢」→日本側騎射&楯射の集団戦で持久もしくは優勢
手柄狙いの一騎駆けは撃退される。
追撃戦及び機動戦に関しては元軍側に騎兵少なく日本側優勢。
弓矢で撃ち合ったか弓騎兵で突撃したか、で総じて白兵戦の要素は希薄
なんで戦闘の規模の割に双方の損害は少ないと思われる。
「戦術レベルでは日本劣勢」→元軍は初動で1万5千程度の兵力を無傷で上陸。
対する日本側は戦域からはなれた所に所領を持つ御家人の日和見により
兵を集められず主戦力は北九州に領土を持つ御家人がほとんど。その数約5千
戦場レベルでは日本優勢で一部は逆に元軍を敗走させるほどだったが
海岸堡は終日確保されたままで全体で見ると兵力差でじりじり圧迫される。
水城への撤退が敵の圧迫のためか食料のためかは分からなくなったが
算を乱した敗走でないのは確実だ。
「戦略レベルでも日本優勢」→元軍側は抵抗の激しさから日本軍の兵力を
過大に見積もる。また兵の統率(主に士気と人種の壁に由来)に困難を感じたのと
日本側の後詰めに脅威を見い出し早期撤退を選択。
仮に戦闘を継続しても太宰府の占領は不可能だったろう。
ただし終止兵力で優位に立ち陸戦では決定的な大損害も出さなかったので
「散々に打ち負かされた」というほどの認識もなかったと思われる。
「思ったより手強い相手だ」というのが指揮官レベルでの認識かな。
手柄代わりに町を焼き奴隷を確保して撤退。途上嵐に遭遇して大損害。
以前言ってた「文永じゃ集団戦法で日本圧倒的に劣勢説」及び「元軍の威力偵察説」は
論拠が薄いんで改めて撤回しますー
642 :
名無し三等兵:2007/10/16(火) 23:14:21 ID:Qe4XiwQu
蒙古相手に一番善戦しているのはなんのかので、南宋のような気がする今日この頃。
>>642 衛青、霍去病の頃から遊牧民族と戦い続けてるくらいだから。
そこそこ経験値もありそう。
元軍が島国日本を甘く見てた
当時の日本人は世界的に見ても、意外に軍事センスがあった
日本海は荒れやすい
元軍は植民地軍主体でやる気イマイチ
日本軍は当然、全員が本国軍でやる気マンマン
こうやって見ると、負けフラグが立ってますな>>元軍
しかしまあ、なんだって日本の中学や高校の歴史教科書ってのは、
嘘ばっかり教えるのかね?
太平洋戦争関係の記述は日教組の暗躍で改竄されてるのは分かるが、
中世日本史の記述まで改竄されてるのは理解に苦しむ。
>>644 >元軍は植民地軍主体でやる気イマイチ
そもそもこの部分が歴史教科書の嘘。
高麗は自分から何度も日本侵略を進言しているし、江南軍10万も参加希望者を
募って編成されている。
それに、モンゴル帝国の侵略は昔から常に植民地軍主体。
高麗軍は非常に積極的、
モンゴル人、漢人の軍は慎重ないし消極的で
高級指揮官は両者の調整に難儀したと聞く
647 :
644:2007/10/17(水) 07:43:23 ID:???
>>645 なるほど。
教科書に騙されていないつもりの俺も騙されていたって事かorz
>>640 すまんが意味の通じる日本語で書いてくれ
649 :
名無し三等兵:2007/10/18(木) 10:55:24 ID:j48kikjO
>>643 オゴダイ時代のモンゴル軍に対して南宋軍は
むしろ優勢に戦いを進めているように見えるんだよね。
四川、京湖方面から侵入したモンゴル軍を叩き返し、
限定的ながら長江以北に攻勢もかけているし、
襄陽に大軍を集めて本格的な北伐までやろうとしている。
日本側は元船への乗船襲撃はやったけど、敵船に放火したというのはあまり聞かない。
船内皆殺しにしてから焼き討ちとか、そもそも斬り合う以前にゲリラ放火とか、いかにもありそうだけど。
>>649 南宋攻略軍の司令がバトゥなら危なかったんじゃね?
652 :
名無し三等兵:2007/10/18(木) 11:57:58 ID:fIQMMwuK
>>1 神風が吹いたおかげ
大東亜戦争のとき、何故神風が吹かなかったのか?
653 :
名無し三等兵:2007/10/18(木) 12:02:26 ID:s4Y+rbGv
対外侵略戦争の神罰アルねホルホルホル
亀風が吹いてるね
>>651 南宋攻略軍の司令官の顔ぶれも、バトゥの征西軍と遜色ないぞ
昔から南船北馬っつうように
華南は華北に比べて山がちで河川交通が発達した土地柄で
戦争の様相もかなり変わってくる。
騎兵は使いづらく歩兵と水軍が主役になるから河北の戦争とは勝手が違う。
三国時代の魏も河川を巡る戦いで足留め食らって統一の機会を逃したし
金もこれのせいで宋を滅ぼしきれなかった。
南宋が長期に渡って持ちこたえたのは別に強いからでも
戦争が上手いからでもない。
最大の山場だった壤陽の攻防戦でも文官が武官の足引っ張ってるし
中国の歴代王朝じゃ最も武官を軽んじた政権なんじゃないか?
そしてモンゴル軍が南宋討伐で長期に渡り苦戦したのは
南宋最大の防衛拠点、壤陽の攻略と
華南での戦争のやり方に適応するのに時間がかかったからだ。
まぁ、それより南宋を滅ぼすまでに
オゴデイ→グユク→モンケ→フビライとハーンが変わって
後継者争いやらの内因が最大要因だと思うけどね
>>657 壤陽は一度はモンゴル軍の手中に入ったのに、1237年の南宋軍の反撃で奪還したんだよ
661 :
名無し三等兵:2007/10/18(木) 18:31:01 ID:j48kikjO
>>657 その文官が武官の足を引っ張った襄陽攻防戦でも
孤立無援の中、5年間にわたって城を守り抜き
大いにモンゴル軍を苦しめている罠。
662 :
661:2007/10/18(木) 18:34:02 ID:j48kikjO
>>662 襄陽は外周を巨大な水濠に囲まれており、モンゴル側は巨大な投石機を作って巨石を飛ばしたという
話なら聞いたことがあります。
当時は戦国時代と違って、全国で頻繁に戦争が起きていたわけではない。
急に侵略軍にこられても食料の増産ができない。
それに多くの武士は食糧生産の担い手でもあったわけだ。
食料品は需要の価格弾力性が小さいから供給が少しばかり減っても価格が跳ね上がる。
つまり、遊牧生活を営んでいる国でもなければ、どんな国でも多少の困窮は避けられない。
上で糧食を大量に確保していたという記述もあるが、毎年毎年、戦争を想定して糧食を確保しておいて、
戦争が来なければその古米なりをどう処分したんだろう。
処分したとしても捨てるなんてことがありえないわけだし、戦時は本来の目的である使い方がなされ、普段いってる場への
穀物放出が途絶えるわけだから、糧食を確保していることで一般の困窮が避けられるわけではない。
糧食をいつも確保しているか否かは、一般世帯がこうむる困窮とは何の関係もない。
665 :
名無し三等兵:2007/10/18(木) 22:28:07 ID:ZMhp3bsS
しかし、モンゴルほど文字通り”世界中”で災厄をもたらした存在も珍しい。
ユーラシアの文明圏ではモンゴルの侵略を受けなかった地域がないくらいだ。
おまけに中世のペストの流行もその責任の過半はモンゴルにある。
直接間接にモンゴルよって殺された人間は世界中で何人いるか見当もつかん。
今や純真無垢な顔をして、草原に引っ込んでいる奴らだが、その祖先をたどれば
ほとんどは殺戮者に行きつくだろう。朝青龍もまた然り。
恐ろしいものだ。
モンゴル人は平和的な民族というイメージあるけどな。
民族衣装は詰襟で戦闘服みたいでかっこいいと思う。
>>665 まあいいジャン。その子孫達が
スタ-リンに虐殺・・・もとい粛清されまくって
十分に報いは受けたジャン
>>666 大らかなのと平和的なのは違うぞ
当時は略奪を生活の一部と思ってたから何の悪意もなく攻めてくるんだぜ
うさぎ狩りの感覚で人を狩る訳だ。オソロシス
670 :
名無し三等兵:2007/10/19(金) 15:16:21 ID:qUOfM7Vq
>>650 切り込みトップバッターの草野次郎が焼き討ちを普通にしてるぞ。
>しかし、モンゴルほど文字通り”世界中”で災厄をもたらした存在も珍しい。
吉利支丹のほうがよほどすごいと思いますが
板違いかもしれませんが、元寇当時の日本の人口や穀物生産量の判るサイトとか知っていたら教えてもらえますか。
兵力と密接な関係が有ると思うので。
鎌倉幕府成立時が684万人
関が原合戦時1227万人
文永の役5千人とかよく聞くけど、戦国時代の兵力動員数と比較すると、
5千人と言えば、文禄の役で対馬の宗氏だけで5千人動員してる。
そう考えると文永の役日本軍総兵力5千人は少なすぎると思うよ。
郎党をカウントしてないのかな?
1586年島津氏が大友氏攻略戦に際し動員した兵力は4万7百余騎
島津氏だけで(4万7百余騎)だよ。
やはり文永の役日本軍総兵力5千人は少なすぎると思う。
676 :
名無し三等兵:2007/10/19(金) 21:19:16 ID:lqD9V2/R
>>675 文永の役はいわば不意打ち喰らったようなもんだから。
もう何日も戦が長引いてたらもっと九州各地から馳せ参じてきただろう。
>>675単純に準備不足かと。
文永の役で動員を開始したのは対馬が襲われた、と報告があがってから
本土に元軍が上陸するわずか一週間足らずの間で
さらに元軍に対する認識不足と日和見から
北九州に所領を持たない御家人の中には兵を動かさない者が多かったと聞く
本土での主な戦いは丸一日しか行われなかったし、
これが何日も続く戦いだったら日本側も後詰めを繰り出すことにより
日本側の総兵力はかなり増加してたはず。
この時の反省からか弘安の役までに指揮統制能力の強化と動員数増加のため
九州と中国地方の守護職はその多くが北条一門とその与党の人間に交代し、
さらに豊後や安芸の守護には御家人でない武士まで指揮する権限が与えられた。
そして文永以後幕府は私的な大陸貿易のルートを通じて元軍の情報を収集しており
元軍の第二次侵攻を半年前には察知して動員をかけることができた。
これが文永、弘安両戦役の動員数の大きな差につながったのだろう。
>>673>>674 ありがトン。
意外と当時の日本の人口って多かったんだな。
増加したのは戦国時代の後というのは知っていたけど
(戦国時代による各種改革により人口増加、でも戦国時代の間は戦乱で減少するのでトータルではトントン)
10万人動員しても14%か。かなり大目ではあるけど社会が立ち行かなくなるほどではないか。
ただ、鎌倉武士って農業も営んでたんだよね。
戦に出ている時って農地はどうしたんだろ。
679 :
名無し三等兵:2007/10/19(金) 22:17:09 ID:P26HzXcy
農業を営んでるったって、ほとんど地主でしょ。奉公人もいただろうし。
座敷の上で旦那面してるだけで食えたとは思えないが(昔の労働生産性だし)、
主人が戦に行ってる間くらいは家族や家人や小作がなんとかするだろう。
5千ってのは博多湾の正面戦力だけだろう。
領民を軍役に駆り出すことが常態化した戦国時代と
基本的に武士及びその郎党従者だけが動員対象だった鎌倉時代を一概に比べるのも乱暴だと思うが
元寇時の兵力ってどれくらいだったの?
承久の乱では一応19万騎動員したことになってるから最大でそのくらい
奥州合戦では関東以西から28万騎動員
>>684 人口684万人のうちの28万騎かあ・・・。
って、あれ?4%?
25人に1人が参戦?
人口には女性や子供、老人も入っているだろうから
それを除いてざっと成年男子の8人に1人が参戦かあ。
・・・人口か動員数、どっちか間違ってない?
>>685 別に不自然な数字ではないが
少なくても戦国期の動員ではもっと多い比率で動員されてる。
鎌倉期でも戦国期でも兵力の最大動員数の対人口比に根本的な差はないだろう。
奥州合戦時、源頼朝の動員兵力28万(勢力圏に奥州が含まれない)
小田原征伐時、豊臣秀吉の動員兵力30万(勢力圏に奥州に加えて関東が含まれない)
奥州合戦時、源頼朝の動員兵力28万という数字はそれほど不自然ではないと思う。
>>685 >ざっと成年男子の8人に1人が参戦かあ。
戦争で赤紙が来るのが8人に1人なら殆どの奴が戦争に行かなくていいんだぞ!
気楽なもんじゃないかw
>>683 >承久の乱では一応19万騎動員
承久の乱では東国だけでこれだけ動員したんだから
西国を合わせればもっと多くなる。
封建時代ってんで西欧の騎士どうしの
戦いみたいなの想像してたんだけど
この人数見ると中国の戦のイメージの方が
実態に近いのかな。
略奪目当てで兵の中にいつのまにか
そこらの農民や野盗が紛れ込んでるとか。
>西欧の騎士どうしの戦い
戦争というよりスポーツに近い
源平合戦では源氏が行った大量動員のために
騎射で敵を討ち取る技量のない者まで騎乗の士として続々紛れ込んで
そのために「馬当て」などの形振り構わない戦法を取る者が増えたのを
老武者は嘆いたとか。
源平合戦や元寇の頃の騎馬武者と徒歩武者の比率ってどの位だったんだろう。
馬って維持に手間が掛かるから、遊牧とかでないと金持ちしか所有出来ないんだよね。
694 :
名無し三等兵:2007/10/28(日) 18:31:21 ID:8e5mAbnC
>>694 それだと鎌倉武士のほとんどは騎馬武者(たった一人の徒歩武者も側に馬がいるから、単に下馬しているだけ?)
ということになりますが。
28万匹の軍馬を揃えるのはさすがに無理では?
696 :
名無し三等兵:2007/10/29(月) 22:39:12 ID:KGOaysmn
奥州合戦の28万はさすがに誇張。
実数は7万くらい。
ただ阿津賀志山の2重堀は全長3キロだから奥州藤原氏も数万の軍はそこにいた。
5千程度ではさすがに手薄で長すぎて守りきれない。
そんな藤原氏に対し畠山重忠は大木やら岩を堀に投げ込んで埋めるという物量作戦で堀を破って突撃した。
鎌倉軍は奥州軍よりは圧倒的に多かった。
697 :
名無し三等兵:2007/10/29(月) 23:48:57 ID:MWVCO8Y9
>実数は7万くらい。
どのような根拠に基づいてで導き出された数字なのか
そこを聞かせて欲しい
つうか家の事情やそのときどきの戦術によって騎馬と徒士の比率は変わるだろ
ほとんど騎馬で構成されるときもあればほとんど徒士の場合もある
その中間のときもあるだろ
あるいは移動時は騎馬の周りに徒士がいるが戦闘が始まったらまず騎射しながら突っ込むこともあるだろう
山徒寄京都事では六波羅がたは弓も太刀もみな騎馬、対する比叡はほとんど徒歩だった
鎌倉幕府の奥州合戦兵力が7万の根拠を
>>696は何も示せない。
そこで7万では少なすぎる根拠をこちらが示そう。
文禄の役では九州だけでも8万以上の兵力を動員している。
奥州合戦では藤原氏が治める奥羽を除く関東から九州薩摩に至る全国から動員されている。
にも係わらず、たった7万では文禄の役に於ける九州だけの動員兵力8万より少ない。
そんな少ないとは考えられない。
吾妻鏡の28万ならば文禄の役に於ける九州の動員率対人口比よりも寧ろ低い。
よって十分に信憑性のある数字と言える。
文禄の役の動員数が実際は2万だった、
という落ちは?
>>701 そりゃそうだ
ただ、696は吾妻鏡などの文献の兵力を多いといっているのだろうから
それに対し文献にあった文禄の役8万を引き合いに出しても無意味なような
まあ、696が根拠を出せないので、奥州合戦7万というのが怪しいと言うことには変わりは無いが
703 :
名無し三等兵:2007/11/06(火) 19:32:08 ID:tUsYwjcg
それだけの兵を食わせるだけの兵站を維持できるのか?
現地調達といっても限界があるし。
704 :
名無し三等兵:2007/11/06(火) 23:49:48 ID:RQ2hx3vo
当時は兵力ってどうやって数えるの?一々頭数数えるの?野鳥の会会員でも無理っぽい。
まさか、印象。なら、誤差ありまくりだろうし。
部下の自己申告まかせなら、常に過大な数字が上がってくるだろうし。
何にせよ、近代以前の兵数なんて話10分の1で聞いた方が無難。
705 :
名無し三等兵:2007/11/07(水) 00:04:23 ID:tNaQvzMO
朝日が報じた11万人が実は1万数千人だったというからなぁ。
>>704 厳密に数えるだろ。
その数字が恩賞の対象になるんだから。
元寇の際の動員では、土地の広さによって人数だけでなく弓や馬などの数にも厳密なノルマが課せられていた。
部下の自己申告まかせの過大な数字を鵜呑みにして、そのまま恩賞与えるわけないじゃん。
>>704 元寇より後になると合戦注文や手負い注文等の軍忠状が始まる。これは戦闘や人数報告は
もちろん負傷者とその原因報告等々の色々な提出をさせ第三者のチェックが入る。
兵は士卒や小物・馬係やなんかの身分も載ってて配分で戦闘員比率までわかる。
一三〇〇年代のでも相当数現存してるので学者や歴史家が調べておおまかな合戦人数を割り出してる。
わからないのもあって論争になるけど200年分以上の軍忠状からある程度の予想はつく。
元寇以前のはわからんけど南北朝から戦国時代の動員数はそんなにおかしくないと思うよ。
なわけでまあ話2/3ぐらいにしといてくんないか
708 :
名無し三等兵:2007/11/07(水) 12:42:07 ID:26VUhmWz
>>707 第二次大戦時ですら時々怪しいですよ。
特に戦果報告になるともう。
撃墜数と相手側の戦闘機の損害数とが合わないことなんてざら
>>708 敵の兵力や戦果など相手側の情報が良くわからないのは当然なんだよ
それと自軍の兵力を正確に把握できるかとは別問題だろ
神皇正統記の兵力数を信じているやつはいないよね
平成の御世にも蒙古が猛威を振るってます。両国とかでw
両国で猛威を振るってる方の兄は総合でフルボッコ連敗して帰りました
もう1個スレが立ってるな
715 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 14:15:09 ID:c0uf7trj
>>641 亀だが
>威力偵察
当時の戦術に近現代の話がどこまで通用するかは疑問だが、近代的戦術では威力偵察とは
「限定的攻撃により敵の行動を偵察する戦術行動」だな。野球に例えると、一回一回の打席で
臭いコース突いて「打者が『その打席で』どんな球を狙っているか」に相当する。
それぞれの打者に得意はあれど、必ずそれを狙う訳じゃないから、基本的にはその打席での討ち取りを狙う
ためのもの。「次の打席のために打たれる危険を犯す」のはわりにあわない。それを戦術に当て嵌めると
「威力偵察はその会戦での勝利に寄与」するために行う訳だ。
となると、数年後の会戦のための威力偵察なんてものは合理的じゃない訳だな。
まああくまでも近代的戦術に照らした上での話だが。
716 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 14:36:00 ID:c0uf7trj
ついでだから、通常威力偵察に任ずる部隊について。
現代では、この種の任務は「騎兵」に与えられるのが普通。もちろん昔で言う騎兵ではなく
「戦車・装甲車を基幹とした諸兵科連合部隊」なんだが。
で、これらの部隊の任務には、威力偵察の他に「主力のための条件作為」もある。先程の野球の例に
例えたら、勝負球のためにいかに有利なボールカウントに追い込むか、に相当するだろう。
このような戦術は、実際にモンゴル軍の軽騎兵が行っていたとされているし、系統だった軍学になって
いたかどうかは別として、かなり浸透していたとは推測できる。
まあ、モンゴル軍がその種の戦術を採用していた=威力偵察も現代的な意味に位置付けていた、と
論理を飛躍させる気は毛頭ないが。
ただ、モンゴル軍が一つの方面軍(的なもの)の中に、現代戦術に合致する地位・役割の部隊を編成
してたのはほぼ確実だろうし、そこから類推するに、数万の部隊に威力偵察というごく限定的任務を
付与してたってのはいささか無理があると思うんだが。
717 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 14:55:03 ID:c0uf7trj
グダグダ書き込んだが、まあ結論としては個人的には威力偵察説に疑問を呈するが、戦術論だけで
威力偵察説を否定するのは無理があるかな、と。
むしろ、当時元が日本の政治体制をどう捉えていたかが問題なんだろうね。
もし仮に、日本がそこまで中央集権的ではなく、緩やかな諸侯連合だと考えていたなら、第一撃で
北九州の有力な領主を殲滅して他を屈服させるって考えてたってのが合理的なんじゃないかなと思う。
その場合、やはり当初の目標は太宰府と考えていいだろう。太宰府は第一線の重要拠点であり、ここを
押さえれば北九州での組織的戦闘は困難になるし、逆説的だが「太宰府を押さえるぐらいの事を
しなければ次の行動につながらない」からこそ壱岐や対馬の恒久支配をしなかった(次の軍事行動の
後拠としては小さすぎる)と予想もできるからね。
なんか仮定の上に仮定を重ねた話で申し訳ない。
七年もほっとく威力偵察なんてないだろ
どこで読んだかは忘れたけど
趙良弼の報告を受けた元側は日本軍が準備できる兵力を
だいたい10万人程度だと見積もったらしい。
それ考えると3万人程度で殴り込んでも勝ち目は薄いわけで
威力偵察説も根拠が薄いというのなら
元軍は戦略的な奇襲による勝利を目指してたのか?
日露戦争や太平洋戦争と同じ、相手側が戦力を整える前に
叩く、てやりかた。
ヒンドゥが一日目の戦いの経過を見て
「こりゃ駄目そうだ」と撤退したのもその戦略が基底にあったなら
納得できる話だ。
威力偵察説ってのは最初モンゴル史研究者の杉山が言い出したんだけど、突っ込みどころが
多すぎて、本人はすぐに言わなくなった。
最近の著書では、元軍が文永の役を敗北と認識していたらしいと認めるようになって来ている。
どうしても日本の勝利を認めたくない奴が、今でも根拠がないまましがみついてるけど、既に
定説でもなんでもないよ。
721 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 16:46:34 ID:c0uf7trj
>>718 自分で威力偵察説に疑義を呈しておきながらナニだが、威力偵察説を採用してる人は本来的な意味での
威力偵察ではなく、別の考えなのかとも。
本来的な意味での威力偵察は先に示した通りだが、もしかして
日本の兵力・編制・常用戦術がわからない>ちょっかい出せば戦時体制になるし一回戦えば常用戦術わかる
って考えなのかもと。
特に編制なんかは、均質な部隊で成り立つ近代的軍隊なら一部から全体を推測できるが、封建制での軍隊は
そうじゃない(事が多い)ので、平時での情報収集では限界があるのも確かだし。
まあ、そういう考え方したとしても、元寇規模でそんな事するのは不合理だと思うけどね。
>>719 元軍は日本と交易を行っていた耽羅人から、大宰府侵攻には2〜3万の兵力が
必要との情報を得ていた。
だから、その通りの兵力で攻めてきた。
日本全土の征服を目指していたわけじゃない。
文永のほうをもうちょっと大規模にしてたらまた変わってたかもね
こっちのとっちゃありがたくないが
724 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 17:01:24 ID:c0uf7trj
>>719 問題はそこだよな。
福岡周辺は、東西の海岸沿いと水城を押さえれば、陸路での侵攻は困難になる。
逆に、現代戦術的視点からは、この3ヶ所を押さえる事により海岸堡を完成させる事ができる。
特に水城だな。地理的には水城を押さえる=太宰府制圧に繋がるし、この地域の実効支配を完成させる
と考えていいだろう(後の人民統治は別問題として)
政治的、戦略的、作戦的、戦術的どの視点でも、やはり太宰府一帯制圧が当初の目標なんでは、と思う。
当初から日本全体の軍事的制圧は考えてなかったんじゃないかな。
>>720 でも「俗説」としては、そこそこ力あるよね・・・むしろそれのが問題かも。
725 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 17:05:36 ID:c0uf7trj
>>723 機動打撃による水際撃滅から内陸持久になる訳だ(今の感覚では水城が内陸って違和感あるかもしれんが)
日本側に不利な条件での講和になったかもね。
>日本全土の征服を目指していたわけじゃない。
うん。それは理解してる。
書き方が悪かったかな・・・
要するに「日本側が迎撃態勢を整える前に太宰府を占領すること」
が第一次遠征の戦略だったんじゃないか?
て言いたかったのよ。
それが上手くいかなかったからたった一日の戦いで
元軍は引き返していったんじゃないかと。
この説でいくと対馬侵攻〜博多湾上陸まで一週間もかかったのが
不思議ではあるんですが・・・
727 :
名無し三等兵:2007/11/12(月) 18:28:06 ID:c0uf7trj
>>726 完全に推測になるけど
・近代軍と違い、兵士は野盗みたいなもの。一戦終わったら「おいしい」目を見させる必要があった。
・博多上陸のために良好な気象条件になるのを待った
って感じかな。現代的な目で見たら、壱岐・対馬は一部で拘束、主力は一挙に博多上陸を目指すべき
なんだろうけど。当時の渡洋技術で朝鮮半島から一挙に博多は可能なのかどうかは詳しくはわからん。
>>726 上陸軍と日本軍の戦いが一日で終わったとしている史料は、いささか信用度に
疑問がある「八幡愚童訓」だけなんだよね。戦闘は数日続いたという説も有力に
なりつつあるようだ。
>>728 こういう史料もある
『帝王編年記』
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」
『金剛仏子叡尊感身学正記』
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」
フビライの南宋攻略戦で、当初蒙古軍の投入兵力は
南宋の最大兵力よりも大きく劣っていて大した数ではなかった。
しかし、一旦南宋防衛の象徴ともいえる襄樊が陥落すると、
南宋の軍兵は士気崩壊し雪崩を打ったように蒙古へ寝返りが続出して彼我の
兵力差が逆転して南宋は崩壊した。
同じように日本でも防衛の象徴的拠点である大宰府さえ陥落させてしまえば、
後は寝返りが続出して彼我の兵力差が逆転し、勝利できる
との計算があったんじゃないかと考えてるんだが。
戦争には士気崩壊って現象があるでしょ。
敵の士気を崩壊させて
「敵の兵力を吸収していく」ってやり方じゃなかったのかな。
蒙古の征服活動は当初敵国の総兵力より少ない数で始められるケースは珍しくないのではないかと。
文永の役のタイミングって襄樊戦の推移で決定したように思うのだが。
襄樊の陥落で精鋭を対日戦に投入できる目処がついたので、日本を攻める決心をしたんじゃないかと。
日本史研究者たちは、どうしても三別抄の乱が遅らせてくれたことにしたいみたいだけど、当時は既に
三別抄は死に体で、使者とかも平気で対馬海峡往復していたから、ほとんど影響無かったはず。
732 :
名無し三等兵:2007/11/13(火) 08:41:13 ID:aXLFWNZD
>>731 そうだね。やたら中韓に媚びたがる学者やそいつら後押しするマスコミは
その手の説を吹聴したがるけど三別抄なんか全然関係ない。
733 :
名無し三等兵:2007/11/13(火) 19:30:16 ID:liXkyKam
>>732 南宋が粘っていたおかげという点では、「中韓」のうち「中」は
貢献してるんじゃね?
734 :
名無し三等兵:2007/11/13(火) 21:32:08 ID:ZIiqn4sR
AFCチャンピオンズリーグ 決勝第2戦 浦和レッズ×セパハン テレビ朝日で緊急生中継!
アジアのサッカークラブNo.1を決めるアジアチャンピオンズリーグにおいて、
浦和レッズがJリーグ勢として史上初の決勝進出!
それを受けて、テレビ朝日が緊急生中継することを決定した。
その決勝の相手はイランのセパハン。
これに勝てばアジア王者の栄誉とともに、12月に開催されるクラブワールドカップへの
出場権も獲得する事になり、クラブシーンにおいても世界への扉が開かれることになるが、
1997年に日本がワールドカップへの初出場を決めた時の対戦相手もイランであり、
あれから10年が経った今、またもイランのチームを相手に世界への挑戦権を賭けて挑むこととなった。
7日にイランで行われた第1戦は1-1のドロー。
14に埼玉スタジアムで行われる第2戦に勝つか0-0で引き分けると浦和レッズのACL優勝が決定する。
この歴史的瞬間を決して見逃すな!
AFCチャンピオンズリーグ 決勝第2戦 浦和レッズ×セパハン
11月14日(水)よる7時6分〜9時30分(延長の対応あり)
http://www.tv-asahi.co.jp/tafc/ アジアチャンピオンズリーグって何?って方はこちらをご覧下さい。
やべっちFC ACL準決勝特集(浦和レッズvs城南一和)2007.10.28
http://www.youtube.com/watch?v=3_4nCErjq8c
>>733 中国や韓国が日本を守るために戦ってくれたのなら感謝もするが、単に自分たちのために
戦っただけで、しかもその後モンゴル軍の一員として日本に攻めてきた連中に、何で感謝
しないといけないにさ?って話。
「○○のお陰で攻めて来るのがおくれたから感謝するべき」なんて理屈を言い出すのなら、
モンゴル軍のサハリン侵攻が20年以上遅れたのは、鎌倉幕府が元と戦ってくれたお陰
なんだから、アイヌにも感謝してもらわないと。
>>732 あと、三別抄からの救援要請に鎌倉幕府が応えなかったことを「半島情勢に無知」
と非難してるのもおかしい。
当時の半島では、救援要請の半年前に三別抄の拠点の珍島が陥落。
大敗した三別抄は戦力が兵船1000艘から80艘に激減。
三別抄が擁立した承化侯温は捕らえられて処刑、という情勢だった。
三別抄は軍事的に何も期待出来ない状態だったわけで、元の侵攻が近いと九州の
御家人に警戒を促した鎌倉幕府の対応の方が、歴史研究者たちの主張する三別抄
との共闘策より、遥かに現実的。
半島情勢に無知なのは、鎌倉幕府ではなく戦後の歴史研究者たちの方だろ。
737 :
名無し三等兵:2007/11/14(水) 20:12:57 ID:7ahkQUd1
>>731 中心人物の金精通とかいう人は文永の役よりとっくに前にくたばってるのにねw
しかも三蔑抄ってあんま成果挙げてないし
>>731 襄樊戦と文永の役は別系列で進められてるよ。
>>736 三別抄を救援しなかったことを非難してる人達ってね
もしも、鎌倉幕府が三別抄救援のために半島に出兵していたとしたら
「反乱勢力である三別抄を利用して高麗王朝を攻撃した卑劣な侵略行為である!!」
とか言って非難するんだよ。
そういう人達だから・・・
740 :
煽りでなく:2007/11/15(木) 00:07:30 ID:???
つうか誰?
白石一郎くらいしか共闘せんかったのを批判的に書いた人、俺知らんけど
研究者で名前あげて
>>740 村井章介や海津一浪。
『蒙古襲来 対外戦争の社会史』海津一郎 吉川弘文館
P15
「村井章介の強調することだが、モンゴル帝国との対応のなかで、国家が分裂して
武人政権が崩壊した高麗、冊封をうけて属国化したベトナム、国の滅んだミャンマー
(パガン朝)などと比べれば、日本の被害など取るにたらない小事件であった。
高麗や南宋の抵抗勢力から、共闘を呼びかけられたのに対して、まともな回答すら
できなかった国際間隔のお粗末さの方を問題にせよと村井はいう。」
P34
「蒙古襲来に抗するため、高麗側(三別抄反乱軍)からは日本に同盟を求めたのに
対して、日本側はそれを無視していわば「火事場泥棒」のように元の属国高麗を
襲おうとしたというのである。幕府の高麗出兵計画は、半世紀のうちに壮挙から
侵略へと、大きく評価を振幅させたことになる。」
742 :
740:2007/11/15(木) 09:14:39 ID:???
海津一浪 → 海津一郎
国際間隔 → 国際感覚
743 :
名無し三等兵:2007/11/15(木) 16:19:24 ID:GolhwmZA
三別抄とは高麗王朝と戦う反乱勢力である。
その三別抄と連携するということは、高麗王朝と戦い征伐するこということである。
たしかにそういった選択肢はあったかもしれない。
しかし、この時は文永の役の前であり、高麗王朝から日本に攻めてきた訳ではないから
こちらから攻めて行くのは道理に適わないことだった。
ただし、文永の役で高麗王朝から侵略を受けた後にはそうした道理は失われた。
そこでかつては考慮されなかった高麗出兵計画が持ち上がった。
この計画が実現していたなら雌伏していた三別抄の残存勢力が再び立ち上がり
共に戦ったていたかもしれない。
文永の役後の高麗出兵計画こそ三別抄との連携が実現するチャンスであったのだ。
744 :
名無し三等兵:2007/11/15(木) 22:31:50 ID:7tmtNSMD
>>743 文永の役のときはもう三別抄は滅んでいた。
それに三別抄は日本に同盟を申し入れる一方で蒙古には
南朝鮮の支配権を認めたら降伏するなどと言っていた
全く信用おけない二枚舌。
>>744 >文永の役のときはもう三別抄は滅んでいた。
滅びる前に連携しろとか村井あたりが言ってるんだろ。
747 :
名無し三等兵:2007/11/16(金) 01:21:56 ID:Ee9f9Git
そんなのが東大教授かよ(;´Д`)
東大教授w
姜尚中
和田春樹
高橋哲哉
東大卒他大学教授
吉田康彦
吉見義明
こうして見ると日本の愚劣さのシムボルだな・・・>東大
まあ立派な学者もたくさんいるんだろうが。
人と同じことをしても話題にはならない
東大出で普通に優秀な人が話題にならないのも同じ
つまり東大の有名人というのは(r
>>748 高橋哲哉は「韓国が靖国批判するのはナンセンス」って1行で切って棄てる
すてきな左翼さんだよ
>>752 右翼ナショナリズムを煽ってHIT数稼いでるのかな。
玉川大学の元寇サイトもひどいな
>>755 ゲイツに聞いたが酷いな(;´Д`)
斜め読みしただけでも
・中華思想に対等な関係などありえない(「不宣」はむしろ脅しを強調するためのものと解釈すべき)
と言う、当時の基礎的視点が欠けている
・未だに日本は個人戦闘で戦ったと言う出鱈目を垂れ流し
・高麗や南宋がいかにも日本のために努力したかのような論調
もはや救いがたいな。
東大卒他大学教授
吉田康彦
吉見義明 ←中央の恥部だな。
まぁ、二流だから商学部教授なんだろうけどね。
自分の趣味に合わない学説は全部出鱈目かよww
こんなこというあんたはどんだけエライ学者さんなんだかww
まさか渡部昇一みたいなシロートの歴史屋さんじゃないだろうなwww
これは酷い釣り
>>756 書き出しが「大蒙古國皇帝奉書」で始まってるところを見るに、
普通に修好を求めてきてると考えた方がいいと思うよ
>>760 その国書を持参した使節が日本に滞在していた時、フビライは外交の裏で高麗に
日本征服のための準備をさせていたんだが・・・
最初から侵略の意図がありありじゃん。
>>761 >フビライは外交の裏で高麗に
>日本征服のための準備をさせていたんだが・・・
一二六六年の段階でそんな動きあったっけ?
>>762 日本に最初の使節が到着したのは1268年だよ。
この年、フビライは日本と南宋に対する征服の意図を明確にし、そのための戦艦1000艘の
建造を命じている。
>>763 使節が到着したのは1268年の何月で、
日本と南宋に対する征服の意図を明確にし、戦艦1000艘の 建造を命じたのは1268年の何月?
>>764 使節が高麗を発ったのが1267年9月23日。
戦艦1000艘の建造を命じたのが1268年5月29日。
使節の高麗帰還が1268年7月18日。
>>765 高麗史によると、高麗が戦艦1000艘の建造を命じられたのは一二六八年一〇月一三日のようだが?
>>766 1268年10月13日のは、元の役人が5月に命じた戦艦建造の進み具合を視察に来たって記事だよ。
だから、更に100艘の追加を命じてるだろ。
高麗が戦艦1000艘の建造を命じられた記事は、高麗史だと列伝の李蔵用伝。
その他に元高麗紀事の至元5年5月29日条。
あと、元史高麗伝の至元5年5月にも同様の記事がある。
うーん、1266年から1268年5月までの間に方針が変わったということか
方針変わったと言うより、まともな国家戦略持つ国は和戦両様が基本であり、当初から軍事行動の
可能性折り込み済みで、それを一段階進めたんだろ。
モンゴル帝国は世界征服を国是としていた国。
そのことは国書にも明記してある。
実際に日本の隣国の高麗も武力で征服したが、そのことも国書に書いてある。
自国の隣国を侵略し、こんな国書を送って来るような国と友好的な外交関係を
築けると考える為政者がいたら、そっちの方がよっぽど外交オンチだろ。
鎌倉時代の日本人は、チェンバレンを首相に据えて空想平和主義に浸っていた
第二次大戦前のイギリス人より、遥かに現実的な外交感覚の持ち主だったって事。
>>770 それはない。
何であれ、相手のことは知っておかないとね。
公式、非公式問わず、使者を派遣するなりして。
>>771 鎌倉幕府は相手のことをよく知っていたよ。
元の侵略準備の合わせて、防衛の準備を進めてるだろ。
あと、非公式の使者なら1272年に元へ派遣している。
>>771 「属国になって、朝貢使を送って来い」って言う相手に
使者を送るのは、「属国になりますよ」ってことになるの。
>>773 ローマ教皇やフランス王は属国になってないよ
>>774 でも、モンゴル帝国の方はフランス王が属国になり貢ぎ物を送ってきたと解釈した。
それでフランスに更なる貢ぎ物を要求して来たから、聖王ルイは使者を送ったことを
滅茶苦茶後悔したんだって。
フランスはモンゴルと隣接してなかったから後悔だけで済んだけどさ。
北条時宗は聖王ルイより賢かったね。
>>775 勿論。
しかし、なってない、だろ。
朝貢なるものを杓子定規に考えすぎでは?
それに教皇やフランス王がともかくも接触しようとした姿勢は、
当然のことだと思うがな。
>>776 属国になってないのは隣接してなかったからだろ。
隣接した国には属国になるか、戦うかの二者択一しかなかったじゃん。
その伝でいくと、日本側が元に「友好関係結びましょう」って返答したら、次の国書は「南宋攻めるから兵だせや」
になる可能性が極めて高いよな。日本の対応を非難する人はそんな事ありえないって考えなのか?
当時の鎌倉執権の政策決定には、南宋からの亡命坊主の影響が大きい。
禅宗の坊主たちを優遇したのは、大陸情報を仕入れる為だったと考えて良い。
まあ、南宋も日本を味方につけたかったってことかもしれんけど。
>>778 戦う方針であったとしても、
とりあえず情勢探索もかねて使者(どういう形であれ)を派遣してみればいいじゃん。
破裂するのは「南宋攻めるから兵だせや」と言ってきた後でも構わないんだから。
そして向こうでも使者が首切られる
情勢探索の方に重きをおいていることがバレなきゃ問題ない。
使者を送ると
属国と見做されるから
>>774 ローマ教皇やフランス王は中華秩序なるものを知らなかったし
ちょうどイスラムと対立してたこともあってモンゴルと組もうかとの考えもあったから
使者を送ったって事情。
プレスタージョンと誤解してたという話も聞いたことがある。
>>780 だから非公式の使者なら1272年に派遣したと言ってるだろーが。
日本側は属国と受け取られない範囲で、できるだけのことは全部やってるんだよ。
『国書の解釈』
最後から三行目の「用兵」の前後は、誰が読んでも脅迫文ですが、それ以外は、当時の高麗人が元皇帝の奴隷としてこき使われていた事を知っているかどうかで、解釈がまったく違ってくると思います。
高麗が立派な独立国だったと思っている人にとっては、「用兵」以外は、
「私たちと仲良くしましょう。そうすれば高麗と同じように面倒をみてあげます」
――と言っている事になるかもしれません。
しかし、高麗人が奴隷だった事を知っていて読めば、
「貢ぎ物を持ってきて俺たちの奴隷になれば生かしておいてやるが、そうしなければ皆殺しだ」
――という意味だと、すぐに分かります。
>>786 当時の日本人の『国書の解釈』↓
『外記日記』文永4年11月25日条
「二十五日戊申、高麗の牒状、到来す。蒙古国、高麗を打ち取る。また日本を打つべしとの由と云々」
>>786 蒙古からの国書のここ
高麗君臣感戴來朝義雖君臣而歡若父子計
王之君臣亦已知之高麗朕之東藩
誰が読んでも高麗は蒙古の属国って判るだろ。
「高麗と同じように面倒をみてあげます」とは
「高麗と同じように属国として扱う」という意味になる。
玉川大学の元寇サイト
↓↓↓
>しかし,最近の研究で「国書」は日本を属国にしようと脅しているのではなく,ただ国交
>を結ぼうと言っているにすぎないのではないか,とも言われるようになってきました.
≪中略≫
>属国とか支配することまで考えていなかったのではないかと言われるようになってきました.
↑↑↑
こういうのは明らかに歪曲
玉川大学の元寇サイトが「国書」について
なんで「ただ国交を結ぼうと言っているにすぎない」などと歪曲するかといえば
日本側の対応が悪かったから、それが元寇の要因になったかのように導くため。
「ダメならダメとはっきり言うのが今も昔も国際的なルールです」と玉川大学は
言ってるけど、前近代の東アジアの国際慣習や蒙古の性質を考えれば「ダメなら
ダメ」なんてはっきり言ってたら、それこそ侵略を受ける可能性が高くなるのは
明らかだよ。
791 :
名無し三等兵:2007/11/20(火) 14:30:33 ID:6Lqsv9xC
元からの最初の使者が日本で外交交渉をおこなっていた真っ最中の1268年5月、
フビライが高麗の役人に対して発したお言葉。
「爾、爾が国に還り、速かに軍額を奏せよ。不らずんば、爾をして将に之を討たしめん。
爾等、軍を出して、将に何れの国を討たんとするか知らざらん。朕、宋と日本とを
討たんと欲するのみ。今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。爾が国、若し難あれば、
朕、安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、爾が国の出師し助戦すること、
亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、米三、四千石を載すべきを造れ」
朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ・・・
>>790 >ダメならダメとはっきり言うのが今も昔も国際的な
>ルールです
この時点で嘘だな。
条約締結国が訳文を各々都合良く翻訳するのは
良くあることだ。
>>792 確かに
足利義満が日本国王になったといっても、
別に日本は明の属国になってないもんな(永楽帝の頭の中ではいざ知らず)
入朝なんてしなかったし、独自の年号立てて勝手にやってたんだから
条約や国際慣習なんてのは、現実に則してどうとでも形を変えるものなのかもな
現在の外交の場でも
ダメならダメとはっきり言わないのが
外交辞令みたいな面もあるよ。
あんまりストレートにダメならダメと言ったら
敵対国扱いすることに成りかねない。
その辺は人と人との関係と同じ
noにも譲れるのと譲れないのがある
たまにその辺を読み間違えて軍人の出番になることがある
ってちゃんと近現代見てりゃそんなケース腐るほどあるのに
元寇だけしか見てないからそんな幼稚なこと言ってるんだろ
高麗軍の将(都督使)「金方慶」率いる高麗軍は
戦略的に意味が無い対馬・壱岐に執着し、防備の薄いこの島々を攻め
膨大な非戦闘員を殺戮した。
島々におけるこの行為は遠征目的と何の関係もなく、
それにフビライは"百姓を殺すな"と命じていた。
この無用の残虐行為は主将の「金方慶」の性格、朝鮮人の民族性によるとの事である。
彼らは島民を見つけ次第、男子は斬殺し、女子は手の掌に穴を
あけて綱を通し船舷にぶらさげるなど残虐の限りをつくした。
家屋は焼き尽くされ、家畜の被害も甚大で、壱岐牛も一頭もいなくなった。」
「ムクリ・コクリ」が来る、と言うと泣く子も黙ると言われたほど、
その残虐な行為は壱岐・対馬・北九州の人達に恐怖感を植えつけています。
ムクリー蒙古―元、コクリー高麗のことです。「蒙古トハ異国ムクリノ事
也」(『沙汰未練書』)というようにムクリが通用していました。
高麗軍と闘った将士がことごとく
戦死すると、敵兵は住民を捕らえ暴虐の限りを尽くしたということです。
山に逃げ隠れ潜む住民の赤子の泣き声を聞いて、捜しまわり、
捕らえては、ことごとく殺しました。
中には、命惜しさに愛する我が子を刺し殺して、
逃げ隠れする者もあったと伝えられています。
捕らえられた妊婦は腹を裂かれ、中の赤子を掴み出されて殺されました。
意にそまぬ婦女子は手に孔をあけられ縄を通してから、
引きずり回され、後、舷外に吊るされました。
(新元史・鎮西要略・壱岐国史・元寇物語)
玉川学園はどういう教育をしているのか不信感を
持たせるな。
ミツバチの研究では有名なんだがなあ
>>796 こういう歴史を教科書に載せないから
集団自決が強制とか騒ぎ出すお花畑がのさぼるんだよな
800なら堀江由衣がながされて藍蘭島のすずのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
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こんなデタラメを許してると韓国のようにデタラメが
当たり前になって国力が低下する。
802 :
名無し三等兵:2007/11/28(水) 18:54:17 ID:aJv3gimM
803 :
名無し三等兵:2007/11/29(木) 08:38:38 ID:vHM5GXAx
【文永の役再び?】 韓国、日本全土を照準に入れた巡航ミサイルを配備 【高麗襲来?】
韓国、日本全土を照準に入れた巡航ミサイルを配備
ttp://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000002704 原子力発電所をその攻撃目標ととらえるなら、韓国が核武装したのと
同じ効果がある。
チェルノブイリ原発事故でも分かるとおり、原発が破壊されれば
半径300キロ以上が破壊、放射能汚染され、壊滅状態となる。
日本列島を縦断する形で5基の原発を破壊すれば日本は壊滅する。
対北用ではなく、日本、中国を仮想敵にした配備であることは軍事筋の
共通した見方だ。
巡航ミサイルじゃ原発は抜けないけどな。核でも使わん限り。(で核使えばアメリカにガッ!!されるんだが)
>>803 危害範囲がどこまで及ぶか解ってるのかな?
恐ロシアも巻き込むぞ。
やっぱり、斜め上だ。
>>772 >非公式の使者なら1272年に元へ派遣している。
ひょっとして赤マフラーですか?
巡航ミサイルでも原発破壊できるんじゃないかなー
鉄筋たっぷり入った1m厚コンクリ2枚(場所によってはそれ以上)
と15cmの鋼鉄容器抜けるかな
大和の装甲抜けるなら何とかなるかもしれない
811 :
名無し三等兵:2007/12/01(土) 11:57:28 ID:DaiB2gRb
問題は直撃で抜けるかどうかより
施設の破壊や死傷者による機能停止→メルトダウン
のほうじゃないの?
原発の構造を理解してたらそんな馬鹿なことは言わない。
そんな簡単にメルトダウンするか阿呆
>>812 俺だったら関連施設も含めて
100発でも200発でもぶち込むけど
それでも機能維持するの?
原発の構造を理解してても運用を理解してないんじゃね?
いや、チョン製の原発は地震がないからヤワなのでは?
>>813 貴重な実験ですがカラの戦闘機の衝突に耐えられても巡航ミサイルに耐えられる証明にはならないように思われます
といいますか…まあスレも暇だからいいんでしょうけど…ちょっと脱線が過ぎる気が…