1 :
名無し三等兵:
惨状!
3 :
名無し三等兵:2006/09/03(日) 00:46:08 ID:???
わしが男塾塾長江田島平八であるっ!!
4 :
名無し三等兵:2006/09/03(日) 22:30:57 ID:???
age
5 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 08:37:44 ID:8ZYCg40N
前スレ終了上げ
6 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 16:33:11 ID:???
>>1 ああ、半島で日本が連戦連敗していた戦役か。
7 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 17:01:26 ID:???
>>1 日本人ひとりひとりがこの愚かな愚行を神妙に反省して
韓国に対し隷属の意をしっかり持つべきだ
8 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 17:19:06 ID:jQ/olu8X
9 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 17:24:45 ID:???
日本軍撤退は韓国軍勝利の事実を雄弁に物語っているが何か?
10 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 18:47:25 ID:???
>>8 具体的にそのレスを抜き出してきな。コピペでもいいが。
どうせ無いものを挙げられないだろう?wウヨちゃんw
11 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 19:22:00 ID:cX/p7F9s
6
半島で連戦連敗?じゃあなんで明がくるまで全土征服されかけてたの?
バカ発見。
7
朝鮮人一匹一匹が日本の恩恵を受けていることを自覚して
日本に隷属の意を持つべきだ
工作すんなよチョン。
あんな三流国家にだれが隷属するかよ
12 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 19:36:36 ID:???
極端すぎる
13 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 19:59:11 ID:8xBbfgHr
実際に秀吉の寿命が尽きなければ朝鮮南部の恒久支配は磐石区となり日本は朝鮮に領土を持ったであろう。
14 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:02:34 ID:???
次スレのタイトルは
「秀吉による日明戦争の軍事分析」
にしないか?
15 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:05:06 ID:???
そもそも朝鮮「征伐」という名称がおかしいのじゃないのか?
侵略なのに征伐とは表現としておかしいだろ。
16 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:09:11 ID:???
時の為政者達が「侵略」って言葉を使いたくなかったから。
そしてそれは現在でも同じ。
17 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:11:12 ID:???
967 :名無し三等兵 :2006/09/03(日) 19:27:07 ID:???
明では寧夏の乱、朝鮮の役、楊応龍の乱を「万暦三大征」と呼んでいる。
西北の寧夏城で将軍ボバイが王と称して挙兵したのは文禄の役とほぼ同時。
この反乱が鎮圧するまで明は朝鮮に本格的援軍を派遣できなかった。
実は朝鮮の役では、秀吉が基本的に西国大名のみで戦ったのに対して、
明は四川や南蛮からも動員して朝鮮に投入しており、総力戦体制だった。
この力の空白に乗じて西南地方で挙兵したのが楊応龍であり、これも慶長の役とほぼ同時。
10万の兵力を擁したといわれるこの反乱は関ヶ原合戦の頃まで続いた。
つまり、このころは東アジア全体が大動乱を起こしていた時期であり、
秀吉の2度の出兵も、実は天才的なタイミングだったりするんだな。
・・・・まんま歴群の受け売りだなw
18 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:13:05 ID:8xBbfgHr
確かに、李氏朝鮮は最重要主権たる外交権も交戦権も明国に委ねて国土の割譲が決定されれば受け入れていたであろう。
19 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:13:17 ID:???
>>15 別におかしくないぞ。
朝鮮側の視点じゃないならな。
20 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:22:55 ID:???
21 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:27:48 ID:???
何を根拠にそう主張するのか?
22 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:32:22 ID:???
日本が侵略したことは事実だから。
そして、征伐という表現は侵略という事実を覆い隠そうという意図みえみえだから。
23 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:36:36 ID:???
あなたにとって何が「侵略」で何が「征伐」なのかな?
視点の違いではないのなら、単なる個人の主観に過ぎないわけだけど。
24 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:38:30 ID:???
>>22 じゃあ例えば九州征伐も九州侵略にしないといかんのか?
25 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:47:10 ID:???
26 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:50:34 ID:???
文禄・慶長の役 豊臣vs明
日清戦争 日本vs清
朝鮮戦争 米vs中ソ
戦の主戦場なり元凶となったにもかかわらず
交渉の場にお呼びがかからなかった「当事国」…
27 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:54:34 ID:8xBbfgHr
もう豊明戦争で良いよ。
28 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:56:31 ID:???
>>24が何を言いたいのかよくわからんが
九州征伐
九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)は、羽柴秀吉と島津氏の戦いである
以下略
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
29 :
28:2006/09/04(月) 20:58:36 ID:???
30 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 20:59:44 ID:???
>>28 それのどこが征伐なの?論証して見せて。
「羽柴秀吉と島津氏の戦いである」では、征伐にならないよ。
征伐の意味分ってる?
31 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 21:02:39 ID:???
32 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 21:03:17 ID:???
朝鮮王は秀吉の明への道案内せよ、王子を人質として入朝させよとの命令に
従わなかったので征伐した(完)
33 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 21:04:09 ID:???
てか釣りのような気がしてきた。
34 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 21:09:04 ID:???
>>32 朝鮮王は秀吉の要請に従う義務はあったのか?
そうでなければ征伐ではない。
35 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 21:20:22 ID:???
>>34 なるほど
朝鮮侵略は朝鮮征伐より相応しい呼び名だなw
36 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 21:22:24 ID:???
しかし日明戦争の方がより相応しいと思うのよね
37 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 21:29:29 ID:???
>>35で紆余が論破されたことを自覚して認めましたw
38 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 21:31:42 ID:???
>>37 紆余かどうか知らんが、俺は認めようw
他の人は知らんが
39 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 21:59:00 ID:cX/p7F9s
まあ何か知らないが明の属国の朝鮮に秀吉が道案内しろ
と脅したら明が怖くて生意気にも拒否した。
だから「日本」からみれば「征伐」なんだな
南朝鮮も元寇のことを「日本征伐」とかほざいてるし。
国によって見方も違うんだな。
歴史観の押し付けにもううんざりしてるんだな。日本人は
40 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 22:22:16 ID:???
もう日明戦争で良いよ。
日清戦争や日露戦争、朝鮮戦争も同じ図式。
外征が主戦力で戦場が朝鮮半島なだけ。
41 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 22:24:10 ID:cX/p7F9s
40
うんうん。歴史の評価は{中韓除いた}歴史家にまかせりゃ十分
42 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 22:27:06 ID:???
43 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 22:27:41 ID:???
きゅうしゅう-せいばつ【九州征伐】
天正一五年(一五八七)豊臣秀吉が薩摩の島津氏を降伏させた戦い。
秀吉はこの結果九州の統一に成功、朝鮮出兵の基地とした。
ちょうせん-しゅっぺい【朝鮮出兵】
桃山時代、豊臣秀吉の派兵による朝鮮への侵攻。
文禄元年(一五九二)、宇喜多秀家、小西行長、加藤清正らを先鋒に一五万余の軍勢を派遣
京城・平壌を占領。いったん講和したが、慶長二年(一五九七)再び開戦。
翌年、秀吉の死で停戦協定を結び撤兵。
せい-ばつ【征伐】
罪のある者や、反逆者を攻めうつこと。征討。退治。subju-gation
しん-りゃく【侵略・侵掠】
正当な理由なく、一方的な武力攻撃または経済的手段などによって
他国の領土・財物を奪いとること。aggression; invasion
しゅっ-ぺい【出兵】
国外に軍隊を派遣すること。派兵。dispatch troops
ぶんろく-の-えき【文禄の役】
豊臣秀吉の行った朝鮮侵略戦争。秀吉は明遠征を企て李氏朝鮮に協力を求めたが拒否され
文禄元年(一五九二)諸大名に命じ一五万余の大軍をもって朝鮮に侵攻。
京城を占領し平壌に達したが、明の援軍や朝鮮民衆の蜂起にあって、翌年停戦。
けいちょう-の-えき【慶長の役】
豊臣秀吉による二度目の朝鮮侵攻。慶長二年(一五九七)に始まり苦戦の末
翌年秀吉の死により撤兵。
講談社日本語大辞典
44 :
名無し三等兵:2006/09/04(月) 22:48:08 ID:cX/p7F9s
43
朝鮮は生意気に言う事聞かなかったから当時の日本から
見れば「罪」になるね
45 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 07:52:27 ID:WFjTwBWh
俺的には「秀吉の朝鮮出兵」が一番しっくり来る。
ナポレオンのロシア遠征と同じだよな。
46 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 10:36:57 ID:???
まあ、負けた事になんら変わりはないがな。
47 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 11:25:36 ID:1DBSBfFA
負けたのは朝鮮だろ?
48 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 11:26:59 ID:???
>>47 がっつりコストかけて勝てなかったんだから負けと同じ。
煬帝の高句麗遠征みたいなもんだ。
49 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 12:06:26 ID:???
おまけに豊臣政権崩壊の直接的引き金の一つになってるし、
総合的に見れば明らかな負け戦だな。
50 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 12:17:07 ID:XSEntqas
49
逆に明の崩壊原因の一つになったわけだけどな
51 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 13:39:42 ID:???
まあ、蒙古や女真が中華制圧出来たんだから、豊臣に出来ないって理屈は無いよな。
全体が騎馬での移動に熟達と言うよりも特化していたとも言える前者に比べて、渡洋
海戦の戦歴がほぼゼロのまま、かつての臨機応変の柔軟な思考の出来なくなった年齢
の指導者だったのか唯一にして絶対の敗因か。
でも、大陸で泥沼に填って、元気のある世代のうちにその先には行けず、結局中国
化していたような気がする・・・あの時点で、文化的に騎馬民族よりは蓄積は大きい
と思うから、英仏みたいになってたかな?
52 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 14:25:12 ID:???
豊臣家が半島で頑張って
日本版国性爺合戦になったかもね
53 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 14:48:11 ID:???
>>47 日露戦争の奉天会戦がなんでロシア側の負けで日本側の勝利と世界の戦史家に言われたか、その理由をここに書いてみ。
54 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 17:56:37 ID:???
応永の外寇も長引いていれば、攻守立場は変わるが文禄の役のような形になったろう。
李氏朝鮮が、日本の辺境領主に対して「お前のとこは倭寇の根拠地だから征伐する」って
勝手な言い掛かりを口実に攻め込んできたわけだから。
李氏朝鮮遠征軍は宗氏の反撃を喰って早々に退散したが、
戦いが長引けば当然、李朝が明に援助を乞うたように
宗氏は室町幕府、九州、中国の大名たちに救援を願い出たろう。
いずれにしても王朝として一番勢いのある時期の李氏朝鮮としも対馬攻略すら叶わなかったわけだ。
55 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 18:31:16 ID:???
>>47 戦略的な目標を達する事が出来ずに撤退した日本側は
軍事常識的に言えばキッパリと「負け」です。
56 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 19:01:08 ID:???
応永の外寇は明確な根拠のある正真正銘の征伐だが。
朝鮮出兵は明確な根拠の全く無いから征伐ではなく侵略。
57 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 19:08:58 ID:???
ぶっちゃけ中世の外征を侵略とか言うのがナンセンス。
百年戦争をイギリスの侵略戦争とかフランス人ですら粘着せんだろう。
>>50 つーても豊臣政権にとっての朝鮮の役ほど直接的じゃないわな。
58 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 23:05:00 ID:XSEntqas
56
倭寇の根拠が対馬だからとかホザクわけじゃねえよな?
対馬以外にも倭寇の根拠地はたくさんあったわけだが?
明確な根拠も無いただの侵略。
59 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 23:07:43 ID:OtL2FDZ2
豊臣政権崩壊の直接的原因は後継君主が脆弱であったことであって、朝鮮役が無くても豊富政権は崩壊した可能性は高く、直接関係ないと思うわけだが?
60 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 23:21:33 ID:???
尾張派と近江派の対立が決定的に顕在化したというのは大きいかも知れん
61 :
名無し三等兵:2006/09/05(火) 23:59:13 ID:???
あの対立は、征伐がなくても同じように起こっていたと思われる。
ちなみに俺は「征伐」派だからな。
朝鮮の拒否行為は明らかに「敵対行為であり、間接的な宣戦布告」とみていいだろう。
明と戦争やるから道を開けろ→だが断る。われわれは、明と戦争をする日本のいうことに断固拒否する。道は開けない。
と、明らかに日本の敵国の味方をして、日本から見ると「あからさまな敵対行為(宣戦布告にも近い)」をしているわけだからな。
そもそも半島の領土が目的でもなかったし。
これらの中立的見地から、侵略行為にはあたらない。
62 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 00:20:19 ID:???
近江派と尾張派以外にも軍資金の浪費やら庶民から大名に至るまでの
豊臣家からの人心離反とかいろいろ在る罠。
特に外征に従軍させられた上に得るものなしの外様の反感は物凄い。
63 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 00:23:09 ID:???
>>61 第三国へ侵攻するために道寄越せ、なんてどんなナンセンスな話なんだw
冬戦争のとき、フィンランドを支援する名目で、
支援路の提供を拒否したノルウェーにイギリスが侵攻しようとした類例があるが、
あれだってドイツ軍の西方演習作戦前に実施してたら確実に非常識な侵略として非難されてたぞ。
64 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 01:01:44 ID:???
>>61 お前、その見解は無理ありすぎ
秀吉の為に朝鮮から通信使まで来て、その返事見ればどちらが宣戦布告してるかは明らかだろー
日本人なんだから、「征伐」という表現で問題ないが、侵略行為に当たらないのは無理すぎ、あれは侵略だ
だからと言って悪いなんて言う気はサラサラないけどなー
侵略でいいんだよ、そういう時代だったんだから
65 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 01:04:36 ID:???
>>63 >>63 現代の視点で歴史を語るなよ。
カス国家が力のある国家に逆らうっていうのは、立派な「敵対行為」なんだよ。
ましてや、ほんの80年前までは、戦争のために第三国から進軍ルートの提供をしてもらうのはそれなりに当たり前だったと思われる。
第一次のドイツも、中立国のベルギーにフランスへの進軍ルートの提供を求め、それを断られたから征伐したってのに、表立ったバッシングは確認されてないが。
戦う側にとっては「敵国以外の国が、我が国の要請を断った」ということは、こちらに不利な状況を故意的に作ったり、こちらに利益を享受させないようにした。→敵の味方をする。つまり、自分たちに対して敵対行動を起こした。
ということになるわけだ。
だから朝鮮出兵は「征伐」と呼べる。
66 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 01:31:56 ID:???
そろそろ補給戦に失敗した明・朝鮮軍について語ろうよ?
67 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 02:16:52 ID:???
もう朝鮮成敗で良いよ
68 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 08:25:54 ID:???
ドイツのベネルクス諸国侵攻って、両大戦ともに普通に暴挙扱いされてるじゃん。
69 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 08:30:22 ID:???
70 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 14:57:19 ID:???
>>65 李氏朝鮮は第三国ではないよ、大明国の属国でふ
その明に敵対するから道を仮せはむりぽ
しかも文禄の役は(秀吉だけは)道仮してくれると思ってた、朝鮮征伐するなんて毛頭なかった。
よって正確に言うと、朝鮮征伐は慶長の役だけなんだよ
文禄の役は明征伐に行く途中に躓いたって感じかな?
71 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 21:17:27 ID:c7kmStHr
地元の朝鮮軍も補給がうまくいかなかったの?
72 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 22:38:38 ID:???
>>71 文禄の役の時は、ちょうど全土が飢餓状態で侵攻軍が解放軍と見なされ歓迎されたレベル。
慶長の役の時は、明の援軍がまともに補給路確立せずに、
フリーハンドで徴発を行ったので朝鮮軍の兵站もずたぼろに。
まあ、こと陸軍に関しては朝鮮兵なんかいてもいなくても同じだったんだけど。
73 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 23:51:21 ID:???
ある日ひとりぼっちの
>>1に
手紙が届きますた・・・
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/ 仕事しろ / / /
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74 :
名無し三等兵:2006/09/06(水) 23:52:57 ID:???
すまん、ごく自然に誤爆ったorz
75 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 01:05:26 ID:???
病名 【国籍同一性障害】 こくせきどういつせいしょうがい
患者自身が日本人であるにも関わらず、自分があたかも中国人・朝鮮人であるかのような錯覚に陥る一種の精神病
何故か 中国・朝鮮が素晴らしい国・国民であるかのような幻想・シンパシーを抱く
「他国民」である日本・日本人が悪辣で卑怯・無知蒙昧な存在だと思い込むようになる
病状が進むと、自分たちの属する日本国家・国民を根拠無く貶め、批判し、あげつらうことで
自分自身がまるで 正義の味方であり、人権感覚に溢れる国際派であり
弱者の擁護者であり、不正の告発者であり、先進的な改革者であるかのように思い込むようになり
それにより 精神的な満足感を得る、といった相当に重篤な症状が発現する
自分の考えが唯一絶対だと確信しているので、絶対に妥協しない
あらゆる機会を捕らえて相手方を非難・誣告する
日本国家・日本人を自分たちの「敵」であると定義しているので、どんなに不当・理不尽な
言いがかりが日本に及んでも、患者自身が感じるのは達成感・幸福感・高揚感だけである
外国メディアの論調が日本批判だった場合、彼らと「一体になれた」ような錯覚に陥り、幸福感は頂点に達する
実際には、自分たち自身が その批判されている「日本人」そのものなのだが
どんな内容であれ、日本・日本人が攻撃を受ければ受けるほど、ますます自分の正しさ・正当性を確信する
自分たちが国際社会で支持を受けていると思い込んでいるので、いつも「日本は国際社会・アジア諸国から孤立している」
などと主張し、従って日本は自分たちの言うことを聞くべきだ、と結論付ける
なお、患者の主張する「国際社会・アジア諸国」とは ほとんどの場合、「中国・韓国・北朝鮮」の
3カ国だけであり、これらの国がしばしば世界全体から孤立し、嫌われていることには気付かないのが通常である
彼らの日本への攻撃は、そのほとんどが 愛する中国・韓国・北朝鮮自身への攻撃にもなっており、自爆が多い
最近では、病状への世間の理解も進み、当然の如く賛同者が減ったため、患者の生活権が脅かされている
治療法はあるにはあるが、自覚症状がほとんど現れないため、手遅れになるケースが大半である
76 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 14:40:03 ID:vLhGYSfS
明軍の南岸攻勢はことごとく失敗したわけだけど補給は充分あったのか?
順天攻勢以外は海路が期待できなかったけどあまり差異はないように思う。
77 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 16:46:08 ID:???
彼氏とうまくいかない。私全然かわいくない。
自分からほっといてって言ったのに、本当にほっとかれたら悲しい。
いる意味あるんかな。
もう私の事好きじゃないんかな。死にたいよ。
でも恐くて死ねない。
彼氏の事も心配だし。
誰かに愛されたい。
必要とされたい
78 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 16:46:56 ID:???
彼氏に依存がひどくてやばい…
もはや 趣味=彼氏 状態。
なのに一緒にいても不安でいつも疑ってしまう。
彼氏はとても尽くしてくれてるのに…
信頼したいのに裏切られて捨てられる事を想像すると
隣にいるのに泣いてしまう。
79 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 16:47:55 ID:???
信用してないのに好きだから一緒にいる。
信用できないから離れたいのに離れられない。
死にたいぐらいつらいよ。お先真っ暗。
80 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 16:48:31 ID:???
彼氏に裏切られたよ。
81 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 16:49:38 ID:???
毎日毎日涙が止まらない
もういやだ
82 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 16:50:58 ID:???
だれか聞いてくれ…
彼氏にもうしないって誓ったリスカをしてしまった…
83 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 16:51:46 ID:???
抗鬱剤を常用しているのが職場でバレてしまった
84 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 16:53:21 ID:???
時々頭の中が真っ白になって、ボケーっとしてしまう。
意識はあり周りの声や音も聞こえるが、
体が動かなかったり、
声かけられても返事もできなかったり…
85 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 16:54:29 ID:???
とりあえず、身の回りのものを整理している。
一気に処分したりすると家族に怪しまれるし。
86 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 18:28:48 ID:???
87 :
名無し三等兵:2006/09/07(木) 18:48:05 ID:???
88 :
名無し三等兵:2006/09/08(金) 08:19:39 ID:m9W5SFt5
それでよー明鮮の補給の話に戻ろうぜ。
89 :
名無し三等兵:2006/09/08(金) 10:42:55 ID:???
日本:
内乱中に明の奴は勝手に日本との貿易を取りやめた
天下平定もしたし、そろそろ明との国交を再開したいなぁ
どうせ明は話し合って再開しようなんて気は無いんだろうし
内戦終わって失業した兵士の雇用問題もあるし
思い切って朝鮮(明の属国領地)に出兵だ〜!
明:
和寇とか色々あって日本はムカつくから、貿易取りやめてたんだけど
おいおい日本は攻めてきちまったか…
でも攻撃されてるのは朝鮮だし、なんとか返してくれるだろう…
え?相手が強いので敗走してきました?
はぁ…軍を派遣しなきゃならないのか!本当に使えないな朝鮮は!
朝鮮:
唐辛子ウマーニダー!
90 :
名無し三等兵:2006/09/08(金) 16:52:36 ID:???
668 名前: 名無しさん@恐縮です 投稿日: 2006/07/30(日) 16:56:21 ID:/l9BPhvWO
俺もホモから逃げ切ったら10万円っていうビデオに出たことある
669 名前: 名無しさん@恐縮です 投稿日: 2006/07/30(日) 17:00:19 ID:9iyD/Oxj0
>>668 それ凄いね。逃げ切れたの?
688 名前: 名無しさん@恐縮です 投稿日: 2006/07/30(日) 17:28:30 ID:/l9BPhvWO
>>669 三人くらい捕まえたよ
91 :
名無し三等兵:2006/09/09(土) 00:02:08 ID:m9W5SFt5
軌道修正汁!
92 :
名無し三等兵:2006/09/09(土) 00:58:04 ID:???
鳴梁海戦は日本水軍の大敗と思われ、李舜臣奇跡の大勝利と言われていたが、実は日本水軍の勝ち戦だったらしいよ。
93 :
名無し三等兵:2006/09/09(土) 09:17:46 ID:ayeS4RHZ
李舜臣将軍の大勝利だ
94 :
名無し三等兵:2006/09/09(土) 13:17:37 ID:???
この間終電のがして新宿の某サウナで仮眠した後、朝5時ぐらいにサウナ室入ったらいるいるw
タオルで前隠さずに体伸ばして見せびらかすようにしながら周りに目配せしてる奴が
ちらほらいてもう出会い系サウナ状態。
そのむき出しの股間を熱く見つめてる奴とかマジで怖かった。
95 :
名無し三等兵:2006/09/09(土) 13:50:22 ID:???
話題がループしてるクソスレだし、他板に複数スレがあるから
好きなだけ荒らしてもOK
96 :
名無し中国兵:2006/09/09(土) 23:08:22 ID:???
明に火縄銃が伝来したのは1548年に倭寇から捕獲したものが最初であるが、10年後の
1558年には既に年間1万丁の生産が可能であった。
これにより旧来の三眼銃と合わせれば全軍の半数以上に火器が装備され、鄭和の伝統
を受けつく大海軍とあわせれば明軍は世界有数の火力を持った先進的軍隊となっていた
の である。
もし中国側の総司令官が万暦帝の如き無能な皇帝でなければ、この戦いは中国側の圧勝
で終わっていたであろう事は今や世界的常識であろう。
残念なことである。
97 :
名無し三等兵:2006/09/10(日) 00:57:07 ID:???
九鬼嘉隆 千五百人
藤堂高虎 二千人
脇坂安治 千五百人
加藤嘉明 七百五十人
来島兄弟(通総・通之) 七百人
菅野正影(菅の正陰) 二百五十人
桑山重勝 壱千人
桑山小伝次 壱千人
堀内氏善 八百五十人
若杉伝三郎 六百五十人
舟手の編成は、次のように十将のもとに合計一万二百人であった。
今まで、水軍ち言えばこれだけかと思ってた。
しかし、ここを読むと蜂須賀氏配下の水軍は、主家とは別行動で海上任務に就くことが多かったようだ。
ttp://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/09/0906.htm 他の大名配下の水軍も、主家とは別行動で海上任務に就いてたのではないか。
小田原の役でも徳川配下の水軍は、主家とは別行動で海上任務だった。
98 :
97:2006/09/10(日) 00:58:42 ID:???
誤
舟手の編成は、次のように十将のもとに合計一万二百人であった。
今まで、水軍ち言えばこれだけかと思ってた。
正
舟手の編成は、以上のように十将のもとに合計一万二百人であった。
今まで、水軍と言えばこれだけかと思ってた。
99 :
名無し三等兵:2006/09/10(日) 13:34:12 ID:???
小日本の小秀吉が偉大なる大韓民国を侵略した事実をもっと世界は知るべきですある。
この時代の偉大なる大韓民国には当時の金額にして100億兆円もの莫大な財宝があったのである。
それを全て略奪し偉大なる大韓民国の男性は全員小日本に強制労働のために拉致され女性は全員従軍慰安婦にさせられた。
これは今や世界的常識であろう。
世界で最も美しく優秀だった大韓民国を小日本は破壊したのである。
偉大なる大韓民国の歴史書によればこのときの大韓民国側の死者行方不明者は1億人にのぼることがあきらかにされている。
今こそ小日本は偉大なる大韓民国に謝罪し賠償するべきだというのが世界的常識である。
100get!
101 :
名無し三等兵:2006/09/10(日) 22:23:06 ID:1jNtdtPF
99
釣りだろ?あんな中国の属国で前王朝の文化財焼いて貨幣さえ流通してなかった
小朝鮮がそんなすばらしいわけないだろ
102 :
名無し三等兵:2006/09/10(日) 22:29:34 ID:bBCiTdaS
103 :
名無し三等兵:2006/09/11(月) 02:29:08 ID:Rr0WIEjU
>>99 100億兆w
=100億×兆だから
100000000000000000000000
子供銀行券じゃなきゃ賠償金テラムリスwww
冊封国と属国をごっちゃにしている池沼ハケーン
>95
29才の男です。
今日、美人で評判の高い近所の奥様(36才)とセックスをしました。
それにしても30代の女性って随分濡れるんですよね。
パンツの上からの愛撫でクリトリスの勃起がはっきり分かりました。
勿論、パンツは油をひっくり返したように夥しく汚していました。
近所ということもあり、最初は出来心の「いたずら」で済まそうと思っていたのですが・・・
でも、これだけパンツを汚した女性に恥をかかせてはいけませんよね。
覚悟を決めて挿入し時間をかけて三点攻めで絶頂に導きました。
奥様が逝く時は、快感のためかご主人に悪いと思ったのかは不明ですが・・・
「B29〜〜!」って声を上げ泣きながらしがみついてきました。
106 :
名無し三等兵:2006/09/11(月) 15:28:47 ID:VLU+KVBs
104
冊封国も広義の属国だろうが
朝貢して出兵を強要された国のどこが属国じゃない?
>104
用語じゃなくって、貿易収支で判断しようぜ。
いわゆる「朝貢貿易」で赤字を出したのはどっち?
108 :
95:2006/09/11(月) 17:20:05 ID:???
>>105 俺はつい先程、34才婚約中の女のメルアドをゲットしますた
109 :
報告:2006/09/11(月) 20:18:58 ID:???
俺は今から
>>105のネタをおかずにオナニーします!
110 :
95:2006/09/11(月) 22:08:18 ID:???
メールが返って来ねーwww
何なんだよwwwww
(>_<)
111 :
名無し三等兵:2006/09/11(月) 23:11:29 ID:PZHkafVS
李舜臣艦隊疫病餓死多数発生宣祖実録
壬辰年に捕らわれた人で、賊の入冦に随ってきた者がみな言いますには
「(前略)諸倭が西海沿いに西上して全羅道右水営に至るに及んで、李舜臣が兵船
一〇余艘を率い、力戦してこれを却けました。倭将来島守(久留島通総)は敗死
し、(毛利)民部大夫(高政)は海に落ちてやっと免れ、その他の部将も数人ばかり
死にました」と申しております。
この話から判断いたしますと、(元)均は、軍の統御に無能であったということ、
(李)舜臣がわずかの兵で多数の敵に当たったということ、をおおむね知ることが
できるのであります。
看羊録
(1597年)九月十四日、賊はすでに霊光郡を焚きはらい、山を捜し、海を漉しては、
人々を屠殺した。
(中略)二十日、始めて聞いたのであるが、水路の倭一〇〇〇余艘がすでに右水営
に至り、統制使(李舜臣)は、「衆寡敵せず」ということで海岸沿いに西上した、
という。そこで、一家の主だったものと行き先をはかったところ、ある人は船を
捨てて陸に上がろうと言い、ある人は黒山島に入ろうと言う。私は、従兄の洪○と、
「舟の中には、壮年の男子が、両船あわせてほぼ四十余人もいます。統制使に附
いて行くべきです。時には戦い、時には退いて、思うとおりにならないとしても、
まっとうな死にはなりましょう」と言った。こうして相談はまとまった。
(中略)珍月島に行き着いた時、統制の船一〇余艘がすでに各氏島をよぎって行っ
たと聞いたので、船頭を叱りつけ、船を回して西上させようとしたが、北風がと
ても強くて、船を上させることができなかった。(以下略)
看羊録
統制使李舜臣が、珍島の碧波亭の下で倭兵を打ち破り、その将馬多時を殺した。
舜臣は、珍島に到着し、兵船を収拾して十余隻を得た。この頃、沿海の人で船に
乗って乱を避ける者が無数にいたが、舜臣がやって来たと聞いて大喜びしない者
はなかった。舜臣が各方面から招き寄せたところ、遠近を問わず雲のように集ま
ったので、軍の背後に置いて陰の力にさせた。
賊将馬多時は、水戦を善くするといわれていたが、その船二百余艘を率いて西海
に侵入しようとして、碧波亭下で遭遇した。
舜臣は、十二船に大砲を載せ、満潮に乗り、潮流に順ってこれを攻めた。
賊は敗走し、軍事的名声は大いに振った。
懲○録
御帰陣被成少し前に、熊川へ被成御越候所、すいゑん(右水営)と申所に番舟の
大将分十三艘居申候、大川の瀬より早き潮の指引御座候所の内に、少し塩の柔き
所に十三艘の舟居申候、それを見付、是非共取可申由、舟手の衆と御相談にて
則ち御取懸被成候、大舟にては其瀬戸(鳴梁)を漕ぎ下し候儀は成間敷とて、何
れも関舟を御揃被成御懸り候
先手の舟共は敵船に遭ひ、手負数多出来申候中にも来島出雲守討死にて御座候
其外舟手の被思連候家老之者共も過半手負討死仕候所、毛利民部大輔殿、爽舟に
て番舟へ御懸り被成候、番舟へ十文字の鎌を御掛け候所に、番舟より弓鉄砲を烈
しく打候に付て、舟を離れ、海へ御はいり被成、危く候所に藤堂孫八郎、藤堂勘
解由両人舟を寄せ、敵船を逐退け、助け申候
朝の五ツ時分より酉刻迄御合戦にて御座候、舟之様子番船能く存候に付、風を見
済まし、其瀬戸口を抜け、帆を引掛け走らせ申に付、無是非追懸申儀も不罷成候
和泉様も手を二ヶ所負はせられ候
藤堂家覚書
>>116 要約すると、
熊川(鳴梁より何百キロも東)の本陣に行こうとしたところ(どこから?)
「右水営というところに13隻ほどの敵がいて、こいつらをやっつけようとした」
その辺は狭く流れがきつくいので大舟ではいけないので小船で成敗してやろうとした。
戦陣に立ったものは負傷者が続出し、来島殿は討ち死に。その他のものも大半は
死傷。毛利殿は敵船に乗り移ろうとしたが弓鉄砲を浴びて海に落下。
そこに藤堂一門が敵を排除して救助した。
午前7時頃から午後5時ごろまで戦いは続き(悠長な戦い?)
敵船健在の中、風を見計らって海峡を抜けたので敵の追撃もなかった。
和泉様も手を二箇所ほど傷を負われた。
というようなことでよろしいか?
毛利民部大輔の戦いのイメージは、
小船で敵の大船に接近。
乗り移ろうとしたが弓鉄砲を浴びていたたまれず、
自分で海に飛び込んで逃れた。
(鎧甲を身につけていたら沈んでしまうから軽装だったのだろう)
朝鮮側の船は追い討ちをかけようとしたのだろうが、
身分が上のものとは気づかない。
他にも似たような海に逃れるものがいたのだろう。
朝鮮側にも海中に漂う者を即座に掃討するだけの機動と火力はない。
そこで周辺にいた藤堂家の舟が接近して海に漂う毛利殿を引き揚げた。
鈴木説の「遠戦志向」とは相反するな。
119 :
名無し三等兵:2006/09/13(水) 05:33:12 ID:rpdPli8R
まあ、読む限り、
10時間にも及ぶ海戦で、13隻の敵舟に
日本水軍の参加兵力軍船133隻、運送船200隻
損失が沈没31隻、大破92隻、海没8000〜9000人(wiki)
という図がまず思い浮かばない。
戦陣での死活にさとい当時の日本人が
座して一方的にやられまくりとは。
南京30万虐殺を座して待った中国人と変わらない。
やられると思ったら、文書にあるように逃げてしまう。
李舜臣の31隻をやっつけた
という乱中日記が正しいだろう。
小船を31隻やっつけた。
来島殿も小船で果敢に突撃。猪突猛進で戦死、ということじゃないでしょうか。
>>117 最後の部分については、
「朝鮮水軍は舟のことに熟達していると見え、
風を見すまして帆を掛けて逃げてしまったので、
仕方なく追撃することができなかった」
と読むべきだろうな。
朝から夕方まで戦ったが朝鮮水軍にうまく逃げられてしまい、
追撃もできなかったと。
121 :
名無し三等兵:2006/09/13(水) 07:10:50 ID:p1IDI2l9
133隻も土民の報告隻数、31隻も戦場を確保できなかった李舜臣の戦果報告。
大先生は無批判に採用しているが、真に受けていいのだろうか?
>>118 >(鎧甲を身につけていたら沈んでしまうから軽装だったのだろう)
古式泳法(シンクロナイズドスイミングの立ち泳ぎと同じ)は鎧兜着用してても泳げる。
火縄を濡らさないよう鉄砲を上げて泳いだり、泳いだままの射撃も出来る。
>>120 双方、言ってる事が逆だね。
片方は大勝、片方は「敵は逃げた」
ほとんどの時間睨み合っていたりしたんじゃないのかな。
来島殿が討ち死に召されたのは初動だろうか。
その分を評価すると、朝鮮側に軍配。
(だとしたら露梁は…)
124 :
名無し三等兵:2006/09/13(水) 17:58:33 ID:Dv9rxb+d
どちらにせよ李舜臣以外の朝鮮軍は超弱くて陸でボロ負け
明軍の最精鋭も日本軍と死闘を繰り広げてたとき
海では李舜臣がせこせこと日本の補給部隊を襲撃してたと・・・
まあ大局を読んで日本軍を間接的ながら苦しめた彼は名将だけどね
よくあんな民族に李舜臣みたいなのが現れたもんだ
>>116の続き
其より青国へ御取かけ被成、山々城々を御落し被成、それよりまへかどのこもか
いへ御はいり被成、一ヶ月計御逗留にて、あんかうらいへ御越被成、付城などこ
と〃〃く被遊、番手の長曾我部殿に御渡し候、御帰朝被成御感状並一萬石之御加
増、都合八萬石に御成被成候事
藤堂家覚書
126 :
名無し三等兵:2006/09/13(水) 20:46:32 ID:p1IDI2l9
李舜臣がせこせこと日本軍の補給舞台を攻撃
具体的にいつどこで?
寡聞にしてその事実を知らないんだが?
李舜臣が強いってんじゃなくて、
日本の水軍が弱すぎた所為。
ただでさえ、強力な陸軍に比べて、水軍は劣ってたのに、
信長のせいでさらに・・・
信長と家康の所為で負けたようなもんだな。('A`)
128 :
名無し三等兵:2006/09/13(水) 22:13:23 ID:2y8ziON8
>>114 李舜臣は勝ったのかもしれないが朝鮮水軍は負けていたのは確か。
129 :
名無し三等兵:2006/09/14(木) 16:36:26 ID:CvsRNorA
で、どっちが正しいの?
>>117 些細なことだけど「手を負う」で「傷を負う」という意味になる。手に怪我した
という意味ではない。
131 :
名無し三等兵:2006/09/14(木) 16:57:11 ID:+rxQc8Bk
126
いや全体的にそうじゃん
>>59 外征軍の留守を守るという名目で一兵たりとも動かさなかった徳川家の力が
出兵で疲弊した他大名と比べて相対的に増大したというのも大きい。
このしょーもない戦いで日本側が得た唯一の成果は陶芸技術の進歩ぐらいなもんかな。
134 :
名無し三等兵:2006/09/14(木) 18:11:25 ID:Iya7p5sB
>>132 もし家康が自らの要望通り、
渡海していたらどうなっていたの?
135 :
名無し三等兵:2006/09/14(木) 18:13:28 ID:eZcJpWXE
>>133 バカか?
その後の文化は、すべてこの戦役で得られたものがルーツだろう。
それまで日本にはろくな文化が育たなかったのだから。
日本は朝鮮からの人の強制連行によって、
ありとあらゆる文化が流入されたのだ。
戦略が失敗したんであって、半島南の半分くらい
日本領に出来た。
イングランドが仏に攻め込んで、一部を領有したが、
あのくらいはもう少しで出来た。
総力戦にしなかったのがそもそもの失敗。
徳川許すまじ
>134
その場合は歴史が変わる。
日本の敗因は指揮系統の不統一につきるので、家康が総大将格で出陣していれば負ける要素がない。
>>135 ご承知とは思いますが、
その手のデマは通用しなくなったのですが。
有田焼の陶工だけじゃないぞ。
秀吉は金属活字を大量に略奪したのさ。
で最終的にこれを徳川がまとめて本を造った。
江戸初期の日本の文化は朝鮮金属活字の影響が大きいのだ。
>>138 こんな分かりやすい釣りに反応するなんて、よほどの馬鹿なんだな。
145 :
ニッポンの夜明け:2006/09/14(木) 21:43:39 ID:9cAG9ELv
朝鮮から日本につれてこられた職人たちは、徳川幕府と李氏朝鮮との関係修復により
自由に朝鮮に帰れることになった。だが、大部分は帰らなかった。
理由は朝鮮では職人に対する差別が激しいのに対し日本ではほとんど差別されなかった
からだ。朝鮮の職人の中には武士待遇を与えられたものもいる。朝鮮では考えられない
朝鮮では肉体労働は蔑まれている。それは、今でもそうだ。日本で働いている朝鮮人の
エステシャンやコックは腕が上がれば上がるほど韓国には帰りたがらない。なぜなら
日本では『この道15年のベテラン』として威張っている人でも韓国に帰れば、ただの
肉体労働者だからだ。
儒教の弊害だな。
孔子の言う士の心得には弓術とか肉体を使うものもあったのに何故なんだろうね?
家康も動員から免れていない罠
秀吉は朝鮮の地図のうち、慶尚道に白色、全羅道に赤色、忠清道と京畿道に青色を塗り
白国、赤国、青国とよんだ
秀吉の朝鮮侵略
日本でも伝統的に儒教が官学で普及していたけどな。
日本の儒教はお粗末で上辺だけの物だと朝鮮通信使のエラいヒトも言っています。
捕虜になって日本に連行された儒者
↓
藤原惺窩
↓
林羅山
↓
日本朱子学
↓
皇国思想
↓
明治維新
人生万事塞翁が馬と言うべきか、因果は巡る…
また偉大なる大韓民国を卑下する発言をしているのですか?
日本人はもっと現実を知るべきです。
現大統領のノムヒョンは日本に対してあまりにも穏健寛大でNOと言えない大韓民国というイメージをつけてしまいました。
偉大なる大韓民国国民は全員激怒しています。
あかちゃんから老人まで偉大なる大韓民国国民は嘘をつき続け謝罪しようとしない日本人を恨んでいます。
偉大なる大韓民国には民という字が含まれています。
これこそは民意の高さを象徴しているでしょう。
次の大統領は日本に対してWARと言える正義感の高い人物が求められています。
日本人はアジアはもとより世界でもっとも嫌われている民族です。
これまでの間違った歴史を清算する為に大韓民国固有の領土である九州四国沖縄を即刻返還する事を要求します。
大韓民国の話なんて誰もしてませんよ。
154 :
名無し三等兵:2006/09/15(金) 19:59:40 ID:rFyVYLGk
152
へえ〜偉大?建国以来中国の属国で経済も文化も日本に遅れをとり
反日ばっかりしてる韓国が?
ウソついてんのは手前らだ。朝鮮併合時に人口二倍にしてインフラ
整備してやったのにそれを隠して従軍慰安婦だのウソばっかつく
もう一度中国の属国になれよ
・・・とつられてみる
まったく、NHKの秀吉の酷かったな。
「晩年、馬鹿げた朝鮮侵略を・・・」
ってなぁ。
朝鮮征伐だろうが。別にトチ狂ってるわけでもない。
糞サヨ局め( ゚д゚)、ペッ
>>151 藤原惺窩はそれほどの影響力はない。
捏造はよそうね。工作員さん。
秀吉が朝鮮出兵を明らかに意思表示したのは出兵より10年近く前。
NHKのクソ番組がいうような
「秀長が死んで…」
などという取ってつけた理屈とか、
晩年の狂乱とかいったものではなくて、意志的なもの。
それと当時の武士団の好戦性、
秀吉の統治的な処理技法、
それらが噛み合わさって必然的に生起したもの。
秀吉軍の意志であった。
それを否定するべきではないし、
また卑下すべきでもない。
159 :
名無し憲兵:2006/09/15(金) 21:36:08 ID:???
>>157 貴様!皇国の道徳を否定する気か!
大方津田左右吉あたりの曲学阿世の徒に惑わされた非国民だろう。
その腐った根性を叩き直してやるからちょっと来い!
160 :
名無し三等兵:2006/09/15(金) 23:17:21 ID:8mML2Hy6
秀吉の朝鮮征伐に関しては私も褒められたことではないと思う
あまりにも計画が場当たり的で、戦上手であったとは言えない
まあ、内戦の経験は豊富でも、言葉の通じない多民族の国への外征の経験がまったくなかったので
その違いに当時の日本人が気づかなかったのは仕方がないかも知れないが
もう少し上手い戦い方もあっただろうと思うけどね
…其後総大将秀家より、相談すべき事あり、各都へ来り給ふべしと諸大将へ触ら
れれば、諸将皆都へ被相集
総大将並三奉行の詮議にいはく、各御手柄にて所々の城没落す、然れ共朝鮮は元
来大明へ属したれば、定て大明より加勢を出すべし、然る時大明人と戦ん手立て
如何思ひ玉ふぞと問はれける
孝高も其座に居られしが是を聞、仰のごとく、朝鮮のやぶれをきかば、大明より
援の兵来るべし、都より釜山浦へは十日路有之、日本の通路遠く、運送不自由には
候へ共、朝鮮を切○たがへたる規模にて候へば、都を捨て帰らん事本意なく候間
秀家並諸大将は都に居玉ひ、是を根城とし、都より大明の方へ一日路程に、取出
の城を数ヶ所かまへ、人数を籠置、大明の兵攻来らば、都より助勢を出され、勝
負を決せられ可然と存也
都より数日を経て行きすヽみ過ぎて、遠き所に城を取らば、大明より大軍出来る時
都より助の兵遣す事成がたかるべしとぞ被申ける
黒田記略
>>160 >161-162
にあるように、秀吉軍は状況を適確に認識し
上手く戦っていたと思うんだがなあ。
無駄な犠牲はそれほど出していない。
上記に則して言えば、
都が安定した兵站にならなかったこと。
また、
平城の小西が判断を誤って明の敵対介入を見抜けず、
守備を強化できなくて負けてしまったのが最大のTURNINGポイント。
そういう意味での統率の脆弱性は指摘できるかもしれないけど。
小西摂津守すヽみ出て申けるは、がほど朝鮮人を大勢討殺し、敵恐れて逃去りぬ
もはや朝鮮人は出て戦ふべからず
大明の王、数萬人の命を朝鮮王へあたへて加勢有べからず
其上朝鮮と大明との境に鴨緑江とて大河あり、大明より大勢の人馬兵糧諸道具等を
渡し来らん事成がたかるべし
各はいづれになり共城を御取候へ
行長は、なり次第大明ちかくまで押行、城を攻落し、籠り居るべしとぞ申ける
孝高重て被申けるは、王城より程遠く居城し給はヾ大明の大軍出来る時、四方を
取囲み、堅固に向城を付、後詰の来るべき道筋を指しふさがば、身方五萬七萬の
人数にては敵しがたかるべし
諺にも用心は臆病にせよと申事の候へば、都近き所に居城然るべし
敵の大軍防ぎがたくして引退んも見苦し、第一は身方のよはり、日本の恥辱也
軍法を○にし、後悔なき様に然るべしと申ければ、小早川隆景聞きて、孝高の被
仰所尤也、都より遠く出城を被取候事、必後の憂有べしとぞ被申ける
>>163 水軍の戦略拠点を陥落させながら、それを放置するというのは余りにも杜撰だ
島国でありながら、まともな海軍を保有しなかった日本には、そのような戦略を練ることが出来なかったのだろうが
ともかくそれをやっていれば朝鮮は滅ぼせたはずだ
167 :
名無し三等兵:2006/09/16(土) 06:41:32 ID:kx9f+GHy
勝ってるよ
李の負け
168 :
名無し三等兵:2006/09/16(土) 12:11:52 ID:vkgn+F5f
ま、朝鮮にあった中国の劣化コピーを日本に持ち込んで
中国のものをはるかに超える文化を作り出した・・・と
李朝朝鮮って中国の劣化コピー文化しか持たなかったモンね
・・ていうか李舜臣が役の終盤で死んだわけだが
あのまま続けてたら日本が勝ってただろうな・・・
まあ所詮秀吉など日本ローカルの英雄。
朝鮮どころか明朝まで鎧袖一触で撃破した太祖ヌルハチや太宗ホンタイジといった
真の英雄に比べれば、まさに鳥無き島の蝙蝠にすぎなかったわけだ。
そういうわけでヌルハチ達英雄の子孫である朕を、日本人はもっと尊敬しろよ。
李舜臣は文禄役では朝鮮水軍を率いて活躍したが
慶長役では日本軍の戦略への影響はなく、居ても居なくても大差ない
戦略目標を達成できなかったので秀吉の負けじゃん。今更なにいってんだYO!
秀吉の負け
それはそうだ
それと
>>170は別の話になる
朝鮮人とは話にならない
全くのクソ民族
173 :
名無し三等兵:2006/09/16(土) 12:48:11 ID:vkgn+F5f
171
プ・・・秀吉が死んで目的がなくなったから戻っただけだけどな
ま、戦略目標は明治に完成されたわけだが・・・
結局朝鮮人は明の助けがなけりゃな〜〜〜〜んもできない
劣等民族。
徳川がせめて、半島最南部と対馬に軍を送れば、
安定感が断然違っていた。
九州にとどまるってのは、早い話東北にいるのと同じ事だw
明治に戦略目標達成って馬鹿かお前は?
177 :
名無し三等兵:2006/09/16(土) 17:14:34 ID:vkgn+F5f
171
YOだって
ププププ・・・・
178 :
名無し三等兵:2006/09/16(土) 17:15:50 ID:vkgn+F5f
176
朝鮮併合はなりましたが何か?
朝鮮支配という目標は達成したわけだが・・・・
>178
秀吉の目標は明の制圧、朝鮮半島支配はそのための手段にすぎん。
ついでに、明治期の戦略目標は朝鮮半島からの適性勢力の排除。
どちらにおいても半島支配は手段であって目的ではない。
これが目的になってしまったのが日露戦争後の大陸進出。
180 :
名無し三等兵:2006/09/16(土) 18:23:35 ID:xuU6iVIc
まぁ島津最強と言う事で話を纏めようじゃないか。
182 :
名無し三等兵:2006/09/16(土) 20:58:51 ID:vkgn+F5f
179
いやいや、そんなの誰でもわかってますよ
俺が言いたいのは
「結局朝鮮は征服されたじゃん」ってこと
つまり、日本は秀吉以来、延々数百年も朝鮮をねらい続けた侵略国家って事か。
184 :
溥儀:2006/09/16(土) 21:28:13 ID:???
まあ朝鮮なんぞ満州族にかかれば太宗ホンタイジの電撃戦であっという間に全面降伏だからな。
日本が数百年かけた目標を、一瞬で・・・
186 :
名無し三等兵:2006/09/16(土) 21:49:17 ID:BVWB2S4W
李舜臣は韓国人が言うとおり名将だと思う。
朝鮮海軍は李舜臣がほとんど一人頑張っていたというのはなんとなく分かったけど、
明の海軍の方は何をしていたの?
この前NHKスペシャルでやっていた鄭和の大艦隊はどこにいってしまったの?
188 :
名無し三等兵:2006/09/16(土) 21:53:18 ID:BVWB2S4W
たぶん本気で助け気ってのがなかったんジャマイカと。
>>187 莫大な金が掛かるので解体された。
さらに数十年後、再び大航海が計画されたが
財政の悪化を恐れた一人の官吏によってほとんどの記録が燃やされた。
>>179 対外防衛の防波堤ってぇ目的もあっただろうが、どっちかと言うと武断派大名のガス抜きなのでは?
三成の様な官僚型を重用してたし、恐らく戦後(統一後)を睨んでの行動ではないかと。
朝鮮を制圧できれば、対外防波堤になって良し。
例え負けても、今後邪魔になってくる武断派が戦死してくれるから良し。
まぁ俺の推測に過ぎんが。
>>189 残念…(´・ω・`)
でも明海軍が健在だったらそもそも海を越えた戦争を計画したりしないか。
明治の日本の大陸進出とこの役を結び付けて考える
というのは学問的にも妥当、正統性があると思う。
今の学者(学会)はヘタレだからネガティブにしかこれを扱わない。
しかしこの役があったからこそ明治維新とその後の近代日本の発展があった
というか因果があったのは否定できない。
日本にとって支那大陸は「物的対象」(Object)以外の何者でもなかった。
それが近世(あるいは中世以後)のアジアにおける日本の特性。
その象徴的行動が文禄慶長の役。
193 :
名無し三等兵:2006/09/17(日) 10:02:40 ID:bvx5ysvo
183
そして朝鮮は中国無しじゃ国を守れなかった弱小国家だったってわけだ
なんせ対馬の地方領主に正規軍追い返されるんだもんな
対馬は韓国の領土だとこのスレの多くの教養ある日本人が言ってるぞ
軍事板の朝鮮役スレはスレ住人のレベルが更に落ちたな
明の属国朝鮮には、日本軍と独力で戦う様な軍事力を持つ事は許されていなかった
同じく属国のベトナムもフランスの前にあっという間に屈服したからな。
まあフランスは救援に来た中国軍にも勝ったけどね(笑
何故かフランスが出てくるのが朝鮮人
朝鮮軍は当初、敗北を繰り返し、王は都を捨てて逃走する。日本軍15万人の軍勢
に対して、朝鮮軍は数分の一程度の規模だったらしい。
韓国人研究者から「あまりに貧弱で情けない」といった意見が出たのに対し、成
均大(ソウル)の宮嶋博史教授(朝鮮史)は「当時の朝鮮軍は近代国家の軍隊とは違
う」と指摘した。冊封関係にあった朝鮮は明の軍事力の傘の下に入っており、持
つことが認められていたのは国内の反乱に対抗する軍事力だけ。規模も装備も外
国と戦うことを想定していなかったというのだ。
李舜臣の率いる水軍が日本軍を打ち破って戦局が変わるが、韓国海軍士官学校の
李敏雄教授(海洋史)によると、この水軍も海賊である和冦の対策を目的に増強され
たものだという。李舜臣の私兵という性格が強い、との指摘が参加者からはあった。
陸上でも朝鮮側の戦いは正規軍ではなく義兵が中心となる。その性格についても
宮嶋教授は「近代の国軍と同一視してはいけない」と注意を促した。秀吉軍にあ
わせて立ち上がった国内の反乱への、自衛策として支配階層側が組織した軍隊と
いう側面があるという。「国軍」の概念では割り切れない姿だ。
朝日新聞 「倭乱」と東アジア 韓国の国際シンポから 上
半島に勢力が定着できたとして
日本から半島の武将をコントロールできるのか?
>>165続き
され共小西同心せず、大明の兵出たり共恐るヽにたらずとぞ申ける
(中略)小西が居城平壌は、都より程遠ければ、諸将是を捨て都近く居城せんも快から
ず、都より平壌迄段々につなぎの城を取て居城せらる
平壌より日本路十四里此方鳳山に大友義統、鳳山より日本路七里此方龍泉に長政の家
臣小河傳右衛門、龍泉の南白川に長政在城せらる、龍泉より六里此方平山に小早川隆
景の家人を被籠置、平山の南江陰に長政の家臣栗山四郎右衛門、平山より三里此方牛
峯に小早川秀包、牛峯の六里此方開城府に隆景在城し玉ふ、それより都迄日本路十五
里あり、其間に城三あり、皆隆景の一手籠れり、元利元康も都近き城に居らる
凡都より西大明の方平壌まで五十里の間に城数十三あり
黒田記略
…間もなく、明将祖承訓の平壌来襲があり、隆景は、京城駐在の諸将から、軍議の
ため招請されて錦山・茂朱の占領地を去り、駐留部隊が、道内および忠清道から
反撃して来た官・義兵との戦いをくりかえしたが、日本軍は、ついに、再度、全
州進撃の機会をもつことができなかった。
そして、軍議の結果、平壌・京城間の守備を補強する方針にもとづいて、隆景が
開城府の守備にあたることが決定すると、かれを中心とする軍団は、ここに集中
することになり、九月中旬に、茂朱・錦山の日本軍が、すべて撤還し、全羅道攻
撃は終局をつげたのである。
日鮮関係史の研究
蒙古の日本侵攻が15万
ローマ帝国の第三次ポエニ戦争でカルガゴに送り込んだのが二十万
第二次ポエニ戦争でのハンニバルの軍勢が五万か六万か、ともかく数万程度だ。
秀吉の朝鮮の役とほぼ同時期に行われた、ナポレオンのエジプト遠征が一万程度
他にも世界史に名だたる渡洋作戦を調べても、朝鮮侵攻に日本が動員したほどの兵力を海を越えさせた例は数少ない
白村江の戦いでは、日本軍は百済救援のために三万の兵力を送り込んだのも稀有だが
ともかくこれほどの渡洋作戦を可能と為さしめた当時の日本の国力は相当のものだ
島国であるから隣国への睨みを利かせる戦力を残す必要性が、比較的に少なかったと言っても
ローマ帝国や蒙古帝国の動員力を当時の日本は示せたのだからな
当時のわが国の総力を以てしては、十数万人の補給線を京城は勿論
釜山周辺にしか維持できなかったのである
信長と秀吉
>205
それは当時の技術の限界だな。
時代が下って蒸気機関ができるまでは、万単位の軍隊に安定した陸上補給路を確保できたことはない。
ナポレオンにしろ中国の将軍にしろ、大軍は駐屯地周辺の物品を食い尽くしたら移動を余儀なくされている。
兵站という軍用語を一般にはどのように解しているかと思って、広辞苑を開いてみると
「第一線の作戦軍と後方の留守隊との連絡を保つために後方にあって活動する機関。馬匹、軍需品の
補充運搬などに当る」とある。
さらに世界大百科事典によると、「作戦軍に対し、補充人馬や補給軍需品を前送し、作戦軍から傷病
者や損壊した軍需品を後送するため、作戦地と本国の基地との間に交通路線を設定し、その路線に前
送後送を円滑にするための諸機関を配置して、これを適切に運営する必要があるが、この運営を兵站
業務、その路線を兵站線という。海を渡って外地に作戦軍を進める場合、作戦地域の直後に兵站管区
が設けられ、ここに兵站末地が設定される」とあり、さらに続けて
明を征服するには、まず半島を完全に占領下に置いた上で、
そこから補給できないと逝けないしな。
その農作も半島で遣らないと逝けない。
被差別朝鮮人を管理下に置いて、支配させるのが手っ取り早いが・・・
「作戦兵団は、戦闘によって生じた傷病兵馬を、その後方機関をもって後送し、兵站医療機関に収容
し加療のうえ、重症傷病者は兵站病院から内地病院に後送する。また損壊した兵器、器具車両や戦場
で収集した敵側のそれを、兵站主地に開設した工場に送って修理の上再使用をはかる。一方、戦闘に
よって生じた人馬の補充は、内地の兵站基地から海路兵站主地に送られ、ここから兵站線上を旅行し
て作戦軍に到着する。これら人馬の宿泊や給養は、すべて兵站機関が担任する。作戦軍が消耗した軍
用糧まつ、弾薬、燃料などは、兵站主地、兵站末地を通ずる兵站線を経て作戦軍に補給されるので
兵站地には多くの倉庫が設けられる。ただし、本国基地からの前送によらず、現地の物資によって自
活を講ずることもあるのは勿論である」と書かれている。
この解説者は勿論、元軍人であり、比較的平易に、しかも相当詳しく解説しているので、これ以上原
則的な補足説明を加える必要もあるまい。
従って、以下これが実戦では如何に運営されたか、その概要を辿ってみよう。
兵站自動車部隊総ざらい
明治時代
「明治は遠くになりにけり」と云われているが、順序として明治時代の兵站から、そのあらましを述
べることとする。
明治陸軍は建軍以来、範をフランス陸軍に求めてきたが、明治一八年三月、ドイツ参謀少佐メッケル
が陸軍大学校教師として着任した頃から後は逐次ドイツ式への改革が進められた。
当時の陸軍は、まだ六鎮台の時代で、後方兵站に関する研究までは、まだ十分に手が廻りかねていた
ので、メッケルは後方兵站の重要性を強調すると共に、戦時の給養やし重の運用についても教育した。
メッケルの任期は三年で満了し、明治二一年三月には帰国したが、この年に鎮台が廃止されて師団の
編成に着手しており、これら一連の軍制改革もメッケルの指導によるところが多かったと云われている。
しかし、如何に彼が後方兵站を重視したからと云って、やっと師団が出来かけたばかりの時期であるの
で、後方兵站に関する軍備の充実とその教育研究も、漸くその緒についたばかりであったと云えよう。
折しも東亜の風雲は急を告げるものがあり、来るべき戦争準備のための軍備拡張が促進せられたこと
は勿論である。
この様な情勢下、明治二七年には、遂に清国との間に日清戦争が開始された。わが陸軍としては建軍
以来最初の外征である。
本戦役間、東京では戦地との通信連絡が不十分なため、大本営は広島に移されたが、当時の大本営陸
軍参謀は川上繰六陸軍中将で、兵站総監を兼務した。従って、大本営の兵站は兵站総監によって計画
運営されたが、ここでは、野戦軍の兵站を中心として記述することとする。
さて、大本営が最初に第五師団の混成第九旅団を京城に派遣し、ついで同師団主力を増派するに当っ
ては、それぞれ兵站部を配属したが、その後第一軍の戦闘序列が下令された時には、第一軍兵站部が
編成せられた。参考までにその内容を述べると次の通りである。
兵站監 少将 塩谷方○
兵站監部 憲兵、法官部、監督部、軍医部、兵站電信部
兵站し重
野戦砲廠二、野戦工兵廠二、砲兵監視隊四、衛生予備員二、衛生予備廠二、患者輸送部三、兵站糧食縦列二
兵站司令部
これは開戦当初のもので、その後逐次変更が加えられたのは当然であるが、名称にも大分見なれない
ものが多い。これらは戦役を重ねるに従って逐次に改正せられて行くわけである。
一方、遼東半島に上陸した第二軍には、同様に第二軍兵站部が編成せられた。その編成中、兵站し重
には若干の違いがあるものの、そのほかは第一軍兵站部と同様であるので省略するが、この中に縦列
とあるのは後の中隊に相当する用語で、原語のトレインの直訳である。
本戦役における兵站線路は、第一軍方面においては、釜山から朝鮮半島を縦貫し、第二軍方面におい
ては遼東半島を横断して大連湾に跨り、その延長は実に二千余粁に達した。また別に山東作戦及び台
湾征伐においても、それぞれに兵站線が設定せられた。
しかし、当初朝鮮半島においては、兵站輸送を地方の人員材料の徴発に依存する計画であったが、国
軍最初の出師であり兵要調査等不十分なため、思わぬ食い違いが生じ、第五師団などは度々給養の欠
乏を訴えたが、同師団の平壌攻略により多量の糧まつをろ獲することができたので、辛うじてその給
養を維持することが出来た。
ついで、第一軍の北進に際しても、兵力の増大、気候の変化により追送量が激増し、兵站業務は困難
を極め、更に兵站線の延伸に伴って輸送力は益々欠乏したため、糧まつの追送が間に合わず、軍はや
むを得ず北進中の軍隊を一時停止し、沿道の軍隊を挙げてその輸送に協力させたが、成果は挙がらな
かった。幸いにも、海軍の協力により、鴨緑江口近くに軍需品の揚陸地を発見して、ここに揚陸を開
始したので、漸く北進運動を再興することが出来た。
また、清国内に侵入してからも、厳冬期と解氷期には多大の困難に遭遇した。
一方、第二軍方面においては、朝鮮半島方面の戦訓を取り入れ、又比較的好適な軍需品の揚陸地を軍の
背後近くに逐次選定することが出来たので、その兵站業務は第一軍に較べ概して順調に維持せられた。
この日清戦争の結果、清国の弱体さが世界に暴露されたので、ここに列強の支那蚕食競争が展開せら
れた。明治三三年に列国と共同出兵した北清事変もその一例と云えよう。
兵站自動車部隊総ざらい
一、以文字は万事相通候、字の音律・言語は、倭律に殊の外相違候、依然従太閤様通事一人被付下、
所々可申付通、被成御掟候、言語之事、明日我等名を遣、通玄判官に成、寺忠次可有言上候由候、
一、内々於其許如申候、高麗人にいろはを教、髪をはぎ、童部をば、中そり仕、召使候、日本人の様
にも候はで、童部も物書、詩を作候、高麗人文字仕候を召寄、五日・十日づつ置候て、在所々々へ遣
候、今二三人召使候者、日本人よりもいさかしく候、
これは、安国寺恵瓊が朝鮮にあって、文禄元年六月八日に、安芸国なるその住寺の諸僧に送ったものである。
(中略)この書状には、ここに挙げた前条に、通訳を太閤から付けられたとあるのは、前掲の表に見え
る対馬島人泉甚兵衛を指すのであろう。後条は、興味あるもので、かねて安国寺にいったときにいっ
たように、朝鮮人にいろはを教え、髪をそらせ、子供には中ぞりをして、日本の風俗に倣わせて召使
ってみると、大いに役にたっていると推称し、また文筆の心得がある朝鮮人を五日か十日ずつ訓練し
て、各方面に派遣しているというのである。
これによって、かれが、日本語の普及をはかり、風俗の同化をくわだて、○吏を臨時に日本の軍政に
適するように養成していたことが知られる。
このような工作は、ただ恵瓊だけのものではなく、諸軍が、いずれも、心がけていたことは、―もち
ろん、かれは、とくに卓越した手腕により、成果をあげていたにちがいないが―彼我の記録によって
推察されるところで、小西軍などのばあいが、僧天○の「西征日記」によっても知られる。
日鮮関係史の研究
…その間(全羅道進撃中)の恵瓊の画策は目ざましく、「征蛮録」上所収の慶尚道巡察使状啓に、安
陰県朴知述の報告によれば、被虜人を路上で捕らえてみると、日本軍の章標を衣襟につけ、吏民に通
諭伝令する文章を携帯していた、と見えるのもその一つで、安国寺の名は、全羅、慶尚両道の境界を
中心として、敵を風靡していた観がある。しかも、かれのもとには、吏民が帰順して日本兵とともに
活動していた者が多く、使役の状況は、彼我の文献が相一致している。
一般に、日本軍が朝鮮人の帰順者を短時日の間に、よくその国俗に化して使役していたことは、朝鮮
の識者をして、その易俗を嘆じさせたのでもわかる。
その一例として、文禄元年の五月において、すでにこの事を書いている日記がある。すなわち、前に
も引用した「○シ間集」に収める「辰巳日録」の壬辰五月十九日条に
留○洞、流聞、賊倭留住空城、糧○亦○、将欲窮追大駕所在、○指燕京(北京)以為○食之計、
且欲以其俗易吾俗云、果如此言、寧○魯連之海、何忍○活於裔夷之世乎、
と見えている。よく日本軍の行動を的確にとらえている。
日本の習俗に同化するものが多かったことは、「宣祖実録」その他にも、豊富にその記述を見出すが
これが深刻な問題になっていたことは、翌文禄二年十月、宣祖が京城にかえったさい、ただちに令し
て倭俗に倣ったものを禁制にしているのによっても察しられる。
この程度を理解できないなら、このスレにくる意味は無いぞ?
毛筆文書はともかく、活字化された古文漢文くらいは読めるようになっておいで。
とりあえず214については、ここを百回音読。
それでも理解できなかったら、韓国に帰化をすすめる。
>一般に、日本軍が朝鮮人の帰順者を短時日の間に、よくその国俗に化して使役していたことは、朝鮮
>の識者をして、その易俗を嘆じさせたのでもわかる。
>>216 掲示板に書き込む初歩としては、人に自分の意見を伝えたいならわかりやすく書くこと。
あとは厨房語を使うのをやめて日本語で書くこと。
例:このスレにくる意味は無いぞ?
Will there be no meaning that comes to this Sre?
218 :
216:2006/09/19(火) 18:04:52 ID:???
>217
>214 その他は関連資料の提示であって、意見の提示ではない。
現代語訳した場合は誤訳や解釈の誤りが混入する可能性があるから、写真資料の方がいいんだがな。
現代日本語を使うのは、214その他に基づいてコメントしたい場合だ。
個人的には>216の何処に「厨房語」が含まれているか興味のあるところだが、
お前の韓国英語相当品を見るのは遠慮したいので、もう来なくていいぞ。
219 :
214:2006/09/19(火) 21:04:16 ID:???
>>215 すまんが
>>214は俺も難しい
留蘆洞、流聞、賊倭留住空城、
糧
「餃の左半分(しょくへん)の右に向(ショウ@ほしいい・かれいい。携帯用の食べ物。弁当Aかて。兵糧。
転じて軍用金Bおくる。食べ物などをおくる。ショウ遣)」
亦
窘(キン@たしなめるAくるしむ。困窮するBつまる。ゆきづまる)、
将欲窮追大駕所在、
「にんべんに乃(ジョウ・ニョウ@よる。もとのままにしたがうAしきりに。かさねてBなお。そこで)」
指燕京(北京)以為
「くさかんむりに存(セン・ゼン@しきむしろ。ものの下にしくむしろAしきりに。かさねて。ふたたび)」
食之計、
且欲以其俗易吾俗云、果如此言、
寧「ネイ・デイ・ニョウ@やすらか。やすい。ねんごろ「安寧・丁寧」「寧日」Aむしろ。いっそ。どちらかといえば」
○「トウ ふむ。ふまえる。ふんでいく。ふみおこなう(たたらを踏むの漢字のたたらの最初の字)」
魯(ロ@おろか。にぶい「魯鈍」A中国周代の国の一つ。?〜前二四九年。都は曲阜(山東省)。孔子がう
まれた国。「春秋」はこの国の年代記にもとづくBロシア(魯西亜)のこと」
連之海、
何忍
苟(コウ・ク@いやしくも。かりそめにもAかりそめ。まにあわせ「苟且(こうしょ-かりそめ。まにあわ
せ。一時しのぎ)
活於裔夷之世
乎(コ@か。や。疑問・反語・感嘆などを表すAに。を。より。場所・時間・対象・比較などを表すB
形容する語の語調をととのえるのに用いる「確乎・断乎」)
留蘆洞、流聞、賊倭留住空城、糧「ショウ」亦窘、将欲窮追大駕所在、「ジョウ」指燕京(北京)以為「セン」食之計、
果如此言、寧「トウ」魯連之海、何忍苟活於裔夷之世乎、
そして、日本語の普及も、かなり徹底していたらしく、「宣祖実録」二十六年十月壬午条、すなわち
宣祖が京城に還入した翌日の記事に、次のような一条がある。
伝曰、都中小民、久陥賊中、不無染習倭語之理、各別掛傍痛禁、如或有倭語之者、各里厳加糾正、
母使蛮夷讐賊之音、或雑於○里之間、
また、「宣祖修正実録」二十六年十月条にも
命禁民間倭語、
とあって、民間の日本語を禁制したことがわかる。
これで見ても、日本軍が占領地の官民を○撫するにつれ、日本語も、おのずから民間に広まっていた
ことが察しられる。
日本軍が、京城を占領してから、ここを撤去するまでの期間は、わずか11カ月余にすぎない。しか
も、宣祖の還都は、撤兵後、すでに半年余りすぎていたにもかかわらず、都中には、日本語が通用し
ていたのである。
占領行政が徹底して、秀吉が、「いろは」を学ばせるといったことも、現実におこなわれていたことが
うかがえる。
日鮮関係史の研究
東国の蝦夷征服もこんな感じだったのかね。
223 :
名無し三等兵:2006/09/19(火) 22:10:34 ID:UJyicuu9
222
近いかな?蝦夷の一部族を帰服させて他の蝦夷と戦わせてたらしいけど・・
朝鮮半島の地勢と鉄道・道路の状況
(日清戦争)当時の朝鮮半島では鉄道は僅かに仁川・京城間に開通しているのみで、陸上輸送のほとん
どは道路と河川の水運に頼らざるを得なかったが、道路網は極めて粗悪であった。
「朝鮮半島ハ到処山地多クシテ交通便ナラス住民貧少ニシテ給養困難ナリ…(中略)…八道ノ道路ハ
概ネ徒歩路ニシテ其大街道ト称スルモノト雖モ山地ヲ通過スルニ至レハ幅員忽チ狭縮シテ三、四十珊
米ト為リ一二ノ街道ヲ除クノ他皆車両(荷車・馬車等)ヲ通ス可キモノ無ク僅ニ駄馬ヲ通スルニ過キ
ス而シテ水田多キ地方ニ於テハ往々田○ヲ以テ通路ト為スモノアリ河川ニハ堤防ノ設ナクシテ水ノ氾
濫ニ任シ又其大ナルモノニハ殆ト皆橋梁ナシ」
「従来彼地車両ヲ用イサルカ故ニ公道以外ノ道路ハ総テ細徑○路殆ト道トスヘキナク○ンヤ山間ノ小
徑ハ雨水又ハ渓流ノ流注ニ依テ自然ニ形成シタルモノニシテ水出レハ川ヲナシ水去レハ道ヲナスモノ
多シ」と記されている。
満鮮国境の白頭山から発した背梁山脈が東海岸沿いに走り、東海岸には永興湾の元山港以外には良港
はない。背梁山脈からの支脈が西南に走り、各支脈の間を清川江・大同江・臨津江・漢江・錦江等の
河川が流れて黄海に注いでおり、これらの河川の河口付近には港があるが、土砂の堆積で海岸が遠浅
なうえに潮の干満の差が激しく、小さい船での水運には使用できるが、大型船舶から揚陸できる場所
の発見は困難であった。
主要な道路は京城に集まっており、京城から義州に至る義州街道が最も良い道路で幅三ないし六メー
トルあり概ね馬車等の通行ができるが、それでも山地を通ずる部分は極めて狭く急峻であり、河川を
渡るには舟筏を利用しなければならなかった。
日本軍が初期の作戦や兵站活動で利用した釜山〜京城道、元山〜平壌道等は、断崖絶壁の多い山地を
通過する部分が多く、そこでは車の通過は困難で一人ずつ徒歩で通過しなければならなかった。
また沿道の河川の多くは徒歩できるが、大きな河川では舟筏を使う必要があった。
近代日本戦争史 第一編 日清・日露戦争
>>216 ここはコピペするところじゃないのだからね。
簡潔に分かりやすく自説を披露すること。
それが掲示板での要諦だよ。
一、大明国へ年内乱入事、先手へ申遣、跡々の衆可押詰之由令相談候之処ニ、小西都(漢城)へ罷越、
さきさき兵糧己下も之無、其上赴寒天如何之由申候、又跡之路次無人にて通路不「車取」候付而、
先被仰付国都へ入渡所務申付静可申通、各致相談、得、御掟候事、
一、小西、小野木先手より罷越候て申ハ、唐人為加勢少々相越、朝鮮人数加、小西、
小野木陣所へ三万計にて取懸候之間、及一戦追崩千計討捕候由候、小野木弟又六なとも討死仕候、
何□□何之国□□□人成敗仕候も、追崩数多討ちとり候へハ敵五百も千もころし候へハ、
此方の者も五十百つ、相果候、又手負以下も候へハ、勝申候内ニ日本人は無人に罷成候間、
年内之儀如此先国難治、今年ハ如何候条、丈夫ニ申付候事、
八月初旬、総帥宇喜多秀家・秀吉の特使黒田孝高は、小早川隆景・黒田長政・小西行長・島津義弘な
ど主だった在鮮諸将を漢城に召集し、軍奉行の石田三成・増田長盛などを交えて軍議をもった。日本
軍は釜山上陸以来、一気に首都まで駆け抜けたが、その後の戦局は、かならずしも秀吉の意図した方
向へ進んでいなかった。各道統治の停滞、日本水軍の大敗、明の大軍の来攻予想など対応すべき難問
が山積していたのである。
軍議は、漢城防衛を巡って黒田孝高と小西行長の大論争があったが、大勢は漢城防備を一層、堅固にす
ること、漢城・釜山間の輸送路を確保すること、各地の軍隊を拠点城に集結することなどと決定した。
五月初旬の「八道国割」後、わずか三か月で朝鮮統治は破綻し、戦線を大幅に縮小せざるをえなかった。
一九九一年、この漢城会議を裏付ける文書が、関西の旧家から発見されたが、それは一五九二年八月
朝鮮在陣の石田三成などの奉行から秀吉に宛てた手紙だった。
「前線の日本軍には食料はなく、路(輸送路)を守る兵もおらず、無人の状態である。占領地は安定
していない。進撃をやめて占領地を固め、その政務に力を注いだほうがよい」
など、朝鮮統治の困難な様子をリアルに訴えている。手紙は漢城会議をうけて発信されたものだろう。
この軍議後、しばらくして黒田孝高は帰国するが、前線の状況は秀吉に伝えられた。戦況は朝鮮軍優
勢、日本軍劣勢のパターンに逆転しはじめ、明征服はおろか朝鮮統治も難しい事態へと進行していた。
秀吉が勝てなかった朝鮮武将
占領地は都市と道路だけ。戦闘には勝っても戦争には勝てない。
何か日本人は外征には向いていない民族なのかね。
侵略慣れしたホンタイジ率いる清軍の一方的勝利と比べるとどうにも見劣りするような、、、、、
>戦況は朝鮮軍優
>勢、日本軍劣勢のパターンに逆転しはじめ、
こういうプロパガンダ記述が従来の文禄慶長の役関連書物のパターン。
>>227 それ歴史群像にも告示した事が書いてある。
同じ人物がいろんなところで記述している。
231 :
名無し三等兵:2006/09/20(水) 06:26:10 ID:mmKnz1wg
日本の朝鮮統治は成功寸前まで行っていたんだよ?
>208
嫌韓厨は来るな。
>231
事実は大失敗でFA
234 :
228:2006/09/20(水) 12:30:43 ID:???
諸説入り乱れていてよくわからない…
朝鮮の役について、お勧めの書籍はありませんか(´・ω・`)?
235 :
名無し三等兵:2006/09/20(水) 15:25:04 ID:BnHl9nro
227
間違い
明軍一時優勢に見えたが四川の戦いで敗北し膠着状態。
当然ながら朝鮮優位などではない
>>218 そうそれが日本語だ
わかったじゃないか
いくら個々の戦闘に勝っても戦争に勝てるワケではない。
秀吉の軍事遠征はその典型例。
>>234 どうしてもたくさん読むことになりますよ
この役は大規模なので、調べ始めるとキリがありません
>>220訂正
留蘆洞、流聞、賊倭留住空城、糧「ショウ」亦窘、将欲窮追大駕所在、「ジョウ」指燕京(北京)以為「セン」食之計、
且欲以其俗易吾俗云、果如此言、寧「トウ」魯連之海、何忍苟活於裔夷之世乎、
去八日之御折紙、昨日廿五日、高麗星州と申所にて拝見候、
一、此国之儀、存候外手弱候間、不及一戦逃崩、手ニかヽる所なく、至都各被打上候、然所、
都之儀も被明退、島ニ被居由申候、追々至唐可被罷退候様申候、自是都へ十日ほとニ罷越候條、
程遠候間、○今しかとの儀、不聞候、都一着事実候、
一、我等事、官兵(黒田孝高)隆景同前ニ、一日路程同道申候へ共、ちと気分悪候而、一日おくれ候へは、
雨ふり、渡ニ逗留仕候、官兵・隆景は追々被罷越而、我等は此表へ、去十八日ニ罷越候、然者、
太閤様近日可有御渡海候條、其上又各乗舟、悉至名古屋進上候へと御意候、左様之儀、申付候故、
彌相延候、道筋も、此筋は都へ程遠く候、其上、難所・大川多候、上様御動座候道にても無之候へ共
官兵息甲斐守(黒田長政)此口被罷越候、跡つめ可仕候由、被申候間、隆景・我等事、此口罷越候、
路次之城々、無○期候事を、只々番衆申付、我等罷通候、於○今は、又中通打越候而、御宿々御普請申付候人数、
未罷著候而、小分之儀候へは、先取かヽり申付候人数、今度惣別不足、不及是非候、我等は気分悪候而、
又其上、京藝をかけ、上下仕候而、然々念入不申、各○にて萬申付候故、何共無調法候て、只今心遣非大方候、
一、さて〃〃、此国手廣事、日本より廣候すると申事候、今度御人数ニては、
此国御おさめは、少分之事候、其上口通せす候、一所〃〃ニ、通事も、物しり、あまた入可申、
殊外六かしき事ニ候、唐渡なとヽ申事、御弓矢は此国より手弱候すると申候、可成候人か、いかにも有間敷候、
此国御渡海候は、可有御推量候、此国之者は、ばはん衆(八幡衆・倭冦)と計心得、山へ退候而居候、
左候て、少人数ニて通り候へは、半弓にて人をいため候、又めきとしかけ候へは、
あさましく候、十萬之高麗之人々、日本者五十人にて追崩候、是にて御推量候へく候、さて〃〃、
城数多さ無申計候、是は皆其所之代官所と聞候、三年二年替済持と、惣国皆王之所務ニて候、其故、
其所之兵糧、其外多さ無限候、
一、わるき物儀、焼捨候も、御法度衆中にて候、兵糧ニは事○不申候、後は不存候、高麗之人ハ及飢候へく候、
浅猿さにて候、只々おかみまわり喉を切たヽきはき仕候、目もあてられぬ事候、
一、都へ御動座候は、可為大普請候、何と候する哉不存候、八月には各御打入とは申候、只今ハ無御沙汰候、
此儘、唐なとへは中々人か有間敷候間、不成事候、少々之大成事にてはなく候、御推察被給候、
一、當国に二筋候道通、都まての絵図、寫進候、東西南北へ廣さ無限、城も多候へ共、左様は不成候、
大方二通之筋を書付進之候、追而惣国絵図可進候、
一、其元、萬不可有御緩候、さそ〃〃無御心元候すると存計候、此国へ渡海、殊外安事候、
關(下関)よりは日より能候すれは、三日ニ可成候、船着候釜山浦と申より都へ廿日と申候へは、
十五六日ニ安候、只大河多候、
一、京都へ左右、關を罷立後不聞候、大坂へ下と商人申候つ、事実候哉、互にはや不通候、
御心付頼申候〃〃、不断是のみ存候、書状進候、御届頼申候、此御方様への状を、大坂へ被遣候へ、
別に書候事不成候、為御心得候、
一、元次(宍戸元続)無何事候、一所に罷居候、可御心安候、各手つまり、可有御察候、
一、遥々御使、御軍勢之みちさきと申書、かし候て、是まて届候て、被罷越候、別而可有御褒美候、
一両人にて可被罷越所にてはなく候、無御存知候へは、大方と可被思召候一廉之事候、今日まての趣、
此分候、便候も重而可申候、○而可為帰朝候條、御祝儀以面拝可申上候〃〃、萬吉〃〃、恐○謹言、
五月廿六日 右馬頭輝元華押
覚隆様
御返報
此状、大坂へ御みせ頼申候、絵図も御副ニて候、為御心得候、○元家皆かわらふきにて候、宮之拝殿にて候、
〃〃、さま〃〃にくわう大に候、ちく生の心にて候、きたなさにて候〃〃、はい(蠅)の多さ大方ニてなく候、
地も見へぬ程に候、いたみ申候、水かたヽり申候、家のうち、たる木、其外、ゑとり申候、見事成事なく候、
まはりは石かきも候、石ほそく候、其元ニ仕候、ねりへいニ石をませ候、築地多候、牛共くい候故、
くさく候にて、牛多候、皆々あめ牛計にて候、何方も日本ニかわり不申候、此弓矢も去年より覚悟ニて候へは、
時刻ニて候はんと被申、隙明候て被罷たると聞候、今度、国中成かヽらぬ御事候、
(厳島文書)
従軍僧の中でも異彩を放つのは安国寺恵瓊で、彼は朝鮮人に日本語を教えることを積極的に推進して
いる。子供達に月代を剃らせ、日常の用に召使った。また朝鮮の者で文字を知る者を五日、十日ずつ
訓練して、各方面に派遣して効果のあったことを、その手紙の中で述べている。秀吉は朝鮮にあてた
国書の中で、大明を征服してその俗を日本のものに変えると豪語していた。その実現に向って動いた
武将のあったことが、これで知られる。
このように、日本軍に帰順し、その行政の先棒をかつぐような者も現れてきた。また日本人のように
月代を剃って、乱暴略奪を働く者も現れる。商売上の必要から日本語を覚えたのも当然あったろう。
国王宣祖は後に日本軍撤退後の京城に戻るが、日本語の使用を禁止する通達を出している。わずかの
間に日本語を習得した者が意外にいたのである。
しかし、全体として日本軍の占領行政が、うまくいったとはとうてい言えない。互いの言葉が出来る
者がごく限られた数しかない中で、有効な占領行政が機能するはずもないのである。
空虚なる出兵
しつこいなあ。
性格がにじみ出ている。
日常もこんなのだろうか。
なんか本人は自信満々で、俺って最高〜歴史の王〜みたいに書いてるんだろうが・・荒らしにしか見えん・・
俺は元々荒らしだw
占領行政の模様を如実に示すものとして、毛利輝元が故国に送った書状がある。毛利輝元は諸戦の勝
利をうけて、秀吉渡海のための宿泊所を釜山から京城までの道筋に建築するという任務を帯びていた。
秀吉は名護屋にも豪華な屋敷を作らせていたが、朝鮮でも快適な宿泊所を欲したのだ。奢りの気分は
ここにも露わである。
輝元は、「さてさて此国手広き事」と朝鮮の地が思いの外広いことを述べ、今の人数では朝鮮の一部
分しか治めることは出来ない、という。十五万人という遠征軍も、点と線の確保がやっとで、朝鮮全
土を支配するには不充分だというのである。しかも言葉が通じない。
「其上口通ぜず候、一所一所に通事も物しりあまた申すべく、殊の外六かしき事に候」
各所で通訳、漢文ができ事務をとれるものが多数必要であって、思いの外行政は難しい。
通訳も各武将に一人ずつ、つまり数十人の単位ではとても足りないことがわかった。また行政事務の
とれる人数も不足している。秀吉の宿所の普請は遅々として進まない。
各地の城で手に入れた兵糧は豊かで足りないということはない。しかし、毛利勢はそれを飢えた民衆
に与えようという考えは、いささかもなかった。朝鮮の民衆が飢え、ただただおがむのを、毛利の兵
は、「切たたきはき仕り候、目もあてられぬ事に候」。飢え、食糧を求めて哀願する人々を毛利の兵
は切りふせた。輝元自身「目もあてられぬ事」と言っている。
安心して生業にはげむよう、布告はたびたび出されたが、住民は日本兵を恐れて倭冦と同じように思
い、山の中に隠れた。日本兵が少人数と見れば弓を射て来る。ゲリラ的な抵抗が早くも始まっていた。
空虚なる出兵
こと文禄慶長の役に関しては、
空虚なる書物が山積している。
そろそろ真実を忌憚なく叙述した書物が待たれる。
そんな本があったら是非読みたいね
そもそも日韓での対等な共同研究というものが出来ないから不可能
中国側はどう記述しているんだろうか?
慶尚道は日本軍の侵入をもっとも早くうけた地域である。役人・両班たちはその報を聞くやいなや、
大半は民衆を放置し、安全な地域へ逃亡した。道内の支配は観察使(知事・従二品)を長官にし、府
・牧・郡・県には府使・牧使などの守令(地方官)に任されていた。彼らは、科挙に合格し、中央から
派遣されたエリート官僚だったが、責任感に乏しかった。
これまであらゆる圧迫をうけていた人々は、支配機構の崩壊で一気に様々な束縛から解き放たれ、力
を失った役人や両班に公然と反抗した。例えば「○川・草渓・固城・晋州などでは、賊(蜂起)が発生
し、彼らは昼間から政府の倉庫を襲撃し、穀物を奪った。こるは逃亡した兵卒が、盗賊となった」と
いう記録もある。政府はこのような慶尚道内の動きを、「固城県令の金絢は赴任して七年になり、刑
罰が大変過酷で人々の支持を失った。そこへ日本軍が侵入したので、反乱(蜂起)が四方に起こった」
と、日頃の金絢の悪政のためとしているが、蜂起は一酷吏の責任にするほど単純なものではなかっただ
ろう。また、宜寧では奴○が自分の主人(両班)を殺害し、財物を掠奪したという事件もおこっていた。
日本軍の侵入を受けなかった全羅道は、社会の動揺はあったが、支配体制が崩壊するまでにはならなかった。
秀吉が勝てなかった朝鮮武将
中国側の記述については全然勉強不足だなぁ
日本軍への投降者も多くでた。日本軍の侵略が最も広範囲にわたった慶尚道では、投降者は両班から
役人・僧侶・軍兵・商人・農民そして奴○など各階層におよんだ。当時、最も劣悪な条件におかれて
いたのが奴○たちで、「草渓の私奴○、宇音同の父子四人は、戦初、洛東江から進撃してきた日本軍
を境内に誘い、近隣の掃討の手助けをした。また、草渓府へ先導し、軍器・倉穀の隠し場所をことご
とく教え、分け前にあずかった」というように、日本軍の手先となって、積極的な協力者となった者
もいた。日本軍の快進撃の背後には、現地の協力者がいたのである。
人々は去就に迫られた。従来の支配者につくか、新しい支配者日本軍を選ぶか。彼らの間では「監司も
兵使も逃亡し、復帰する見通しはない」という噂が伝わり、「日本軍は、われらはお前たちを殺害に
来たのではない、今までの支配者を懲らしめに来たのだという。民衆は日本人も人間であるから、どう
して家を捨てて逃げることがあろうか。われらを苦しめていた者を懲罰せよ」と、新支配者日本軍へと
傾いていった。こうして、人々は日本軍の宣撫工作を受け入れて、従来の支配者を糾弾しようとした。
秀吉が勝てなかった朝鮮武将
256 :
名無し三等兵:2006/09/21(木) 23:43:07 ID:wgdFLMYr
韓国人は戦闘で優勢だったと勘違いしてる奴が大杉
朝鮮人が戦闘で優勢と勘違いしている
大勢の人間がこのスレのどこにいる
もしかして「韓国人」の事か
それならば俺は
>>172だな
俺は朝鮮は嫌いだが、朝鮮人叩く為に朝鮮役調べてる訳ではない
秀吉と毛利家に興味があって、その一環
だからどうだったのかなとは思うが
どちらかがこうでないといけない
みたいなのは一切ないな
何で秀吉はホンタイジになれんかったん(´・ω・`)?
李自成の乱まで生きてなかったから
262 :
名無し三等兵:2006/09/22(金) 11:07:08 ID:A9cJk6km
朝鮮武将でまともなのって李舜臣だけだろ?
他は雑兵なみ
ホンタイジは征服事業二代目。かけた年月が違う。
地理的にも有利だったし、明との付き合いも深かった。
日本に比べれば中国文化圏と濃密に接触していた。
日本にないもの。地の利人の利もあった。
秀吉がやらずに、彼の死後に家康がやってたらいいとこまでいけたかな?
後金(清)と日本が半島で潰しあう展開になりそうだが
266 :
名無し三等兵:2006/09/22(金) 20:39:27 ID:A9cJk6km
いや、結構ウマがあって領土の分け合いかな?
参謀のドルコンは北京入城のとき余りにふがいない中国人を見て
始めて中国の支配を考えたらしい
{中国人の上流階級は農民軍の入城のときもご機嫌伺いにきたらしい}
最近、ロシアの永久凍土から多数の遺体が発見された
当初はスターリン時代の犠牲者かと思われたが、持ち物を見てみると、16世紀のフランス軍の兵装などを持っていた
死因を調べれば大半が栄養失調で赤痢などに犯されていた
言わずと知れたナポレオンのロシア遠征の際の犠牲者達だ。
兵站を維持できず、飢餓地獄に陥って赤痢などの感染症にやられたのだろう。
数万単位の軍隊の兵站を維持するのは、16世紀の技術では欧州諸国でも大変なことだった。
それだけに遠征の犠牲者は戦死者より感染症や餓死によるものの方が圧倒的に多かったようだ
崇禎帝が自殺したとき傍にいたのは宦官ただ一人。
ただし、皇帝の自殺を聞いて殉死した重臣は結構いるんだけどね。
269 :
溥儀:2006/09/22(金) 22:26:37 ID:???
秀吉による朝鮮侵攻 … 6年にわたる戦いで成すことなく撤退。
豊臣政権はその後ほどなくして滅亡。
ホンタイジによる朝鮮侵攻 … 1年に満たない戦いで朝鮮は全面降伏。
満州族の300年に及ぶ黄金時代が始まる。
結論
満州八旗 >>>> (世界帝国の壁) >>>> 日本武士
我ガ国ハ維新後日尚浅ク諸般ノ準備十分ナラザルモ正義ノ為敢然立チテ世界ノ大国ヲ以テ任ゼル清国
ヲ敵トシ外国ノ制肘ヲ受クルコトナク海ニ陸ニ戦フテ勝タザルナク皇軍ノ向フ所実ニ敵ナキガ如クニ
シテ我ガ国軍ハ連戦連勝ノ後名誉アル戦勝ノ光栄を担ヒ遂ニ克ク戦争ノ目的ヲ達成シ日清両国ノ久シ
ク抗争セル朝鮮問題ハココニ解決シ韓国ノ独立ハ公然確定セリ
而シテ本戦役ガ我ガ国ノ光輝ヲ発揚シ我ガ国民ノ意気ヲ壮ニシ精神上偉大ノ効果ヲ将来ニ収メタルコ
トニ至リテハ測リ知ルベカラザルモノアリ
殊ニ此ノ役ハ我ガ帝国ノ東亜ニ於ケル近世大戦ノコウ矢ニシテ我ガ軍事上ニヒ益セシコト亦スクナカラズ
又世界ニ未ダ其ノ名ヲ認メラレザリシ帝国ハ本戦役ヲ劃シテ一躍其ノ地位ヲ高メ東亜中ニザン然頭角
ヲ現ハスニ至レリ
此ノ偉大ナル成績ノ淵源ハ実ニ我ガ国体ノ精華ニ基クモノニシテ此ノ精華ハ維新以来国運ノ発展ト共
ニ進歩セル軍事ト相待チテ以テコウ古ノ美果ヲ結ベルモノナリ
即チ戦フノ日ニ勝チシニアラズシテ戦ワザルノ前勝チシモノナリ
本史ヲ読ム者夫レ思ハザル可ケンヤ
戦史教程 巻一
>>269 朝鮮人はそのくらいのリクツでしか優越感を持てないのか…
273 :
溥儀:2006/09/23(土) 02:24:36 ID:???
満洲八旗は日本武士より強い。
よって満州人は日本人より優秀。
故に清朝皇帝は天皇より偉い。
だから朕は偉い。
日本人はもっと朕を尊敬しろよ。
274 :
名無し三等兵:2006/09/23(土) 15:48:55 ID:vf4RJfus
273
はいはい。
本当に誇りを持つ女真人はそんな朝鮮人みたいなこと言わないけどねw
275 :
溥儀:2006/09/23(土) 16:29:21 ID:???
くそ、蒋介石も石原も甘粕も毛沢東も、どいつもこいつも朕を馬鹿にしやがって!
ち、朕は高貴なる満州貴人の末裔なんだぞ。
みんなもっと朕を尊敬しろーーー!!1!
276 :
名無し三等兵:2006/09/24(日) 07:42:10 ID:moSsiQ5F
朝鮮が豊かだったら成功していたな。
277 :
名無し三等兵:2006/09/24(日) 10:25:44 ID:J2ygnept
276
豊かだったら・・・っておい!!
朝鮮が豊かだったらってアフリカ諸国が日本並みに経済力を持っていたら
っていう荒唐無稽な仮定と同じくらいありえないんだぞ!
一時期の高麗みたいに武人政権だったらどうかな?
いや高麗もモンゴルにはやられちゃったけど、モンゴルは反則ということで。
尚州陥落の報に京城市民の避難あいついで抑えられず、軍事を司る兵曹は市民や公私の賤民をかりた
てて防衛の策を講じたが、「皆烏合の衆にして逃散の心あり」
そして四月二十九日国王が都を脱出すると市民はまず奴○のことを司る掌隷院と司法警察を司る刑曹
とを焼き払った。その夜おそく国王は東○○についたが、下人に食を奪われて○食、しかも大臣さえ
「大駕一歩本土を離れれば朝鮮はわが有にあらず」と主張したのに、王曰く「(明に)内附はもと予が
意なり」と。翌五月一日開城につくと百姓あつまり、「主上民事を思わず後宮(妻妾)を富厚にする
を事となし、金公諒を愛着するを第一の策となす。今日此に到りて何ぞ公諒をして倭を討たしめざる
や」と叫び、ついに王に向って投石したが、護衛の者みな逃げて防げなかった。
日本軍の全然入らなかった全羅道でも軍隊が叛乱をおこして役所や刑務所を焼打、出陣する将兵が殺
される始末であった。
しかしこれらが抵抗の出発点であった。
豊臣秀吉 鈴木良一著
一方、フランス軍においては、前述の如き五〇万の大軍もその質はかつてのナポレオン軍の如き迅速
なる機動作戦を実行し得る耐久力はなく、また余りにも広大にして荒涼たる地域の上に、折悪しく尿
道病のために体力とみに減退したナポレオンの活動力は旧の如くならず、中央と右翼の各軍を指揮せ
しめたオイゲンもジェロームも将帥の材にあらず、百戦錬磨の各軍団長の元帥達も戦略戦術の独断能
力に欠けていたので、ナポレオンの期待した戦場においてロシア軍をとらえて決戦を挑み、一挙に勝
利を修めることは到底望み難いことであった。
殊にロシア軍の成り行きにまかせて無計画に退却して行く速度に惑わされ、ナポレオンはロシア軍に
対する判断を誤り、作戦の第一歩において期待した決戦の時機が掴めず、その天才的政戦略をもって
直ちに爾後の作戦に対する根本的考察を必要とした時に、心身ともに彼がこれを行うことの出来る状
態になかったことは悲劇の最大の原因であったといえよう。
ニーメン渡河後に襲来した暴風雨のため、フランス軍は糧食の欠乏と湿原の水草を食べたための疫病
等の流行で、早くも十三万五千の兵と数千の馬匹を喪失したが、ヴィルナにおいてもウィテブスクに
おいてもロシア軍に逃げられた上に、豪雨によって泥○と化した道路のため、行軍はもとより補給部
隊との連絡も困難を極め、現地物資の補給は悉く退却に当たってロシア軍の焼却した村落からは不可
能の有り様で、逃亡兵の続出と馬匹の倒れるもの夥しく、ウィテブスクに達した頃には兵力の三分の
一と馬匹の四分の三を失っていた。
西欧近世軍事思想史
仏軍損害一覧(一八一二年六月乃至十二月行程概算往復四百五十里)
前進行
Niemen河畔出発360000(人員)
Smolensk著185000
分遣75000(Smolenskニ至ル迄。以下之ニ倣フ) 損害100000(〃)
Borodino著135000
分遣25000 損害25000
Moska著95000
分遣10000 損害30000
退却行
Moska出発100000
増加5000
Smolensk著45000
損害55000
Beresina河著30000
増加20000 損害35000
Beresina発後三日9000
損害21000
Wilna著4000
増加13000 損害18000
Niemen河著1600
損害2400
奈翁戦史講授録
>>278 対馬に大勢で押しかけて
島民に撃退される「武人」政権なんて知れてますよ。
>>282 古い字で漢字がなかったり、探すのが面倒な時なんかに○
>>279の最初の○(奴○)は奴隷か奴婢じゃないの?
一発で変換できるが
本役(日清戦争)の明治二十七(一八九四)年六月六日から明治二十八年十二月三十一日までの戦地にお
ける戦病者は患者二〇万四四二四人、この患者のうち治癒は一〇万四五一一人、内地への転送が六万
八〇六〇人であった。戦地入院患者の内訳をみると入院患者総数一一万五四一九人のうち全身病とい
われたコレラ、マラリア、赤痢、流行性感冒、脚気等が実に過半数を占め六万六九五六人、次いで栄
養器病とされた急性胃腸炎、胃腸病、腹膜病等が二万一三九九人とつづき外傷等の戦傷者は一万三八
三六人であり患者総数の一割強であった。
戦病の区分でみると最も多かったのは脚気で三万人を越え、且つ治療日数も全身病の半数、患者総数
でも二割を占めた。脚気に次いで治療日数が多かったのは凍傷であり患者も七〇〇〇人に達した。肺
結核は適切な撰兵もあり患者は百余名に過ぎなかった。
このように戦病者が非常に多く発生し、患者一〇〇〇人についみても戦傷者が一二九人であるのに戦病
者は八七一人に達しており、地域別でも清・韓・台湾のいずれにおいても戦病者数は戦傷者数をしのい
でいる。この割合は朝鮮が最も多く戦傷者の約六倍、清国で約三倍、台湾で約二倍半である。死亡数の
割合は台湾で甚だしく戦病死は戦傷死の約三四倍、朝鮮で八倍、清国が七倍半であり衛生部の業務は戦
傷者より戦病者のために多数の人員及び材料を要するとともに、戦病のために多くの兵力を損失した。
日清戦争における医療・衛生業務は戦病者の対策で苦慮したが、この経験は日露戦争以降の教訓となった。
日露戦争における戦病者の発生は大規模な防疫・検疫にもよるが日清戦争に比較して非常に減少した。
マラリア、腸チフス、赤痢の発生率も減少しコレラは皆無である。ただ脚気は相変わらずであったが栄
養対策もあり症状は軽く疲労性の者が多かった。凍傷患者も装備等の対策から減少し約五千人の発生で
あり軽傷の者が多かった。
近代日本戦争史 第一編 日清・日露戦争
この遠征で、幾人の日本人が日本から朝鮮に渡り、そのうちどれだけの人が死亡したかを知りたく思
うのは当然である。それを確認しようと百方手を尽くしてみたが、もっとも信頼でき、かつ正確と思
われる(情報によれば)兵士と輸送員を含めて一五万人が朝鮮に渡ったと言われている。そのうちの
約三分の一に当る五万人が死亡した。(しかも)敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者
は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである。
朝鮮人の死者については知り得なかったが、死者と捕虜を含め、(その数は)日本人のそれとは比較に
ならぬほど膨大であった。なぜならば、都その他の地方に連れて行かれた者を除き、この下にいる(朝
鮮人)捕虜の数は、数えきれぬほど多いからである。
フロイス日本史
『雑兵たちの戦場』には戦国で行われた奴隷狩りがそのまま朝鮮でも実行されたと書いてあったが…
一五九八年のイエズス会による奴隷売買者破門令の決議は、こう告白していた。日本人が無数の朝鮮
人を捕虜として日本に連行し、ひどい安値で売り払っている、とくに長崎一帯の多くの日本人は、ポ
ルトガル人に転売し巨利をあげるために、日本各地を廻って朝鮮人を買い集め、また朝鮮の戦場にも
渡って、自ら朝鮮人を掠奪した、と。日本の国内で朝鮮人を買い、外国に転売した奴隷商人やその周
旋人は、戦場で活躍した兵士たちか、長崎の商人たちであった。イエズス会の宣教師が「日本人は計
り知れぬ程の朝鮮人を捕虜にし、彼等を日本に連れ戻った後、捨値で売り払った」と書いていたのは、
このことであった。
また一五九六年度、長崎発のフロイスの年報も、朝鮮から連行されて長崎に留まっている、多数の男
女に布教したが、その数は一三〇〇人以上にのぼった、と記していた。
その頃、長崎や平戸は世界有数の奴隷市場として知られていた。
雑兵たちの戦場
希有の熟慮と才覚の持主でありながら、(老)関白はいかにしてこのように大胆で無謀なことを企て、
かつ着手しようと考え得たのであろうか。それ(シナの征服事業)はもろもろの(話題の)中で、日本
中を未曽有の不思議な驚きで掩い、人々の判断を狂わせ、考えを一点に集中させ、まるで何かにとり
つかれたかのように口にせずにはおれないことであった。
事実、それ(シナの征服事業)に伴う困難は、あまりにも明瞭であり、その危険はいとも切迫したも
のであった。そしてさらにそのような考えを一同に強めさせたのは、日本中が彼に対して叛起する危
険があることが明らかに看取できることであった。なぜなら[たとえ、現下のように人々が絶対的な
支配下に置かれるようなことは、かつて(日本史上)前例がなかったにせよ]、(老関白が)日本のすべ
ての君候や武将を(専制的に)支配していることと、彼らを母国、領地、妻子、親族、家臣から離別
せしめ、その悦楽を奪い、祖国から放逐し、生きてふたたび帰郷することはほとんど不確実で、まる
で眼前の死に向かって直進させるに等しく、明白な危険と災厄に身を曝させることと(で)は、くらべ
ものにならないからであった。
以上、第一に挙げた多大の困難に加えて、当然のことながら、日本中の武将が彼に対して容易に○起
した場合に生じ得る、他のより大いなる障害や非常事態を加えることが出来る。
第二に、日本人はもともと他国民と戦争することでは訓練されていない。(シナへの)順路も、航海
も、征服しようとする敵方の言語や地理も、彼らにはまったく知らされてはいない。
第三に、この企ては、海路、軍団を(派遣すること)になるが、内陸の(海から)距たった地方にすむ
君候や武将たちは、船舶も水夫も、航海に際して必要とする他の手段も持ち合わせてはいなかった。
第四に、たとえ財力によって船舶その他、装備に必要な武器、食糧、弾薬を購入することを望んだと
しても、彼らに対して定められた期日はあまりにも短く限られていたので、一同は絶望的になってお
り、多くの者は、家人や親密な者との談話の際に、これほどの果てしない苦難を冒して外国の地に、
同じ死を求めに行くくらいならば、日本で自害する方がましであると漏らしていた。
フロイス日本史
通常、日本人は大海原の猛威と怒涛に堪え得るような頑丈な大型船を所有せず、建造されたものは、
大軍団を輸送するには数が不足していたので、彼らはできうるかぎり短い航路で(兵員を)輸送するこ
とに決めた。
その際(老)関白は、日本の近くに高麗(朝鮮)と称する国があり、同国はシナに近接しているので、
まずその国を武力を持って征服した後、そこからシナへ向かうのに(必要な)弾薬や食糧を補給するよ
うにすれば、まさに一石二鳥であるとの情報に接した。
…この対馬の屋形(宗義智)は、義父にあたる津の守殿(小西行長)に、日本軍が容易に朝鮮に侵入
できる方法と、この征服に適したあらゆる知識と技術について、きわめて正確な情報を授けた。そし
て彼自らは先陣に加わり(たい)と申し出た。これらの諸報告がアゴスチイノ(小西行長)から関白の
許にもたらされると、彼は非常に喜び、先陣の名誉をアゴスチイノに与えるために、彼が一同に先ん
じて軍勢を率いて出陣するように命令した。
日本の諸候や武将たちは、いずれも戦場において同様の名誉に与りたいとの野望を抱いていたから、
これがために彼らは彼を大いに嫉妬するに至った。
また同時に、彼は、一同にとって至難の業であるこの企てを実行するための諸情報を、関白の許へも
たらす役をしていたので、彼らは彼にあまり好意を示さなかった。
フロイス日本史
私が捕らわれて倭国に連行されてから、倭僧に細かく聞いたところによりますと、平時のいわゆる倭
の使者なる者はみな(対)馬島主が送って来た私人であり、いわゆる倭の国書なるものはみな(対)馬島
主が書いてよこした偽書であって、ただ群倭があずかり知らないばかりでなく、壱岐、肥前の将倭ら
もよく知らない、ということであります。
対馬島中には水田が一畝もなく、わが国を欺いて賜米を取り、それを公私の費にあてているのであり
ます。金誠一らが(倭に)来た時、倭僧がこの事をわが国の通訳から聞いてその偽りを言おうとした
のを、(対)馬島の通訳が真相が漏れるのを恐れ、あわてて連れ去った、ということです。
交戦のきっかけは、悉く(宗)義智の謀から出たものであります。(小西)摂津守行長は義智の妻の父で
あります。義智は、自分から(直接)賊魁に通じることができず、行長を通じてわが国の虚実を細かく
(秀吉に)報告し、(行長は)自らその事に任じたのであります。(こうして)戦いがうち続き、禍いは
連なって、物故(する者)も増大し、倭人といえどもその怨みが骨に徹し、
「摂津守(小西行長)が実にこの事態を引き起こしたのだ」
と言い、(加藤)清正のような荒々しい者でさえも、
「朝鮮との戦いのきっかけを開いたのは、摂津守その人である」
と言ったのであります。
行長は、わが国での事(態)の結末が無期(限につきそうもない)と見(てとり)はしたものの、一朝に
して撤(退帰)還すればわが国が義智を声討し、しかも相互間の貿易も許さないだろうことを恐れ、そ
れで熱心に和解に努力したのであり、実に義智の立場を考え(てそうし)ただけであります。
看羊録
(都)には、焼失を免れた国王の他の宮殿があり、そこに行くまでに、ごくわずかではあったが(朝鮮
人)の抵抗に出くわした。アゴスチイノは、町の(城)門が閉ざされており、それは鉄でできていて、
そこからは入れなかったので、兵士たちとともに城壁を乗り越えて入場した。これら多くの兵士たち、
しかも武装した異様な集団の中にありながら、(朝鮮の)老幼婦女子たちに対する(日本側の)安全保障
(態勢)にはみるべきものがあったと言われる。(朝鮮人)はなんの恐怖も不安も感じずに、自ら進んで
親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねる有様で、日
本人の方が面喰らっていた。
正午になって虎之介(加藤清正)が(都に)来たが、彼の計略は万事が失敗に帰したのであった。彼はア
ゴスチイノの用意周到な事に舌を巻き、二人の家臣を彼の許に遣わして賛辞を述べ、(拙者には)失敗
以外の何ものもないが、都内に宿営することを許可してもらえるかどうか、と伺いを立てさせた。ア
ゴスチイノは彼に、そうするようにと答えた。その後、彼は九回もアゴスチイノに、連名で(老)関白
に報告書を出すことを承諾してもらえぬかと願い出たが、アゴスチイノは決して同意しなかった。彼
は、虎之介に、もし貴殿が町(都)を(先)に占拠していたならば、予が城門にたどり着くことすら許し
はしなかったであろうし、貴殿は徐々に(この)国の状態に関する情報を入手したがっているし、その
うちに(目的を果し)、(老)関白に報告できることだから、勝手になさるがよいと言った。事実、虎之
介はそのように振る舞って、あたかも彼がひとりで都を占領したかのように(老関白に)報告した。
フロイス日本史
アゴスチイノは、自分の側からは、対馬のある有力者の息子で朝鮮語を話し、同国の事情に明るく、
このたびの遠征に道案内を務めた権之助と称する人物を(老関白の許へ)派遣した。彼は(老)関白か
らきわめて快く迎えられ、政庁の諸候から賞賛された。(老)関白は彼に上等な衣服と高価な刀剣を授
け、高禄を約束した。そして虎之介に対しては、事実でないことを書いて寄こしたことゆえ、汝が届
けて来た他の情報も偽りであると思う、と答えた。
この頃、日本軍においては、その大軍団に必要な食糧の不足が叫ばれ始めた。なぜならすでに十四万
前後の兵員が朝鮮に赴いており、同年、朝鮮の農民たちは、(戦乱の)恐怖から(穀物の)種子を蒔か
なかったし、小麦は収穫期に刈り取られなかったので腐敗していった。また朝鮮人は多くの食糧を焼
き払った。
(上記の)使者が(老関白の許へ)出発したまでに、日本軍が占領したのは三カ国(慶尚、忠清、京畿)
だけで、まだ占領していない国は五つも残っていた。
一部の朝鮮人は、生計に窮して、日本人のように月代を剃り、頭髪を結んで日本人を装い、掠奪を目
的として手真似や恐喝でもって同胞を襲った。
フロイス日本史
(五月)三日、賊が京城に侵入した。留都将李陽元、元帥金命元は、ともに逃走してしまった。
始め、賊は、東○から三路に分かれて(北)上した。
(中略)(賊の)○旗、剣戟は千里にも連なり、砲声が響きわたった。通過する先々では、あるいは十里、
あるいは五、六十里ごとに、天険に拠って営柵を設け、兵を留めておいて守らせ、夜は火を焚いて互
いに呼応しあった。
都元帥金命元は、済川亭にあって賊の迫って来るのを望み見ながら、さらさら戦おうともせず、軍旗、
火砲、器械をことごとく江中に沈め、衣服を変じて逃走してしまった。従事官沈友正がきびしく止め
たが、聞き入れなかった。
李陽元は、城中にあって、漢江の軍隊がすでに敗れ散ったのを聞くや、城は守りきれないと見切りを
つけ、同じく城を出て、楊州に逃走した。
江原道助防将元豪は、初め、兵数百を率いて○州の北岸を守り、賊と相対峙した。(このため)賊は数
日間(漢江を)渡ることができなかった。ところが、江原道巡察使柳永吉が、檄文を出して元豪を呼び
寄せ、本(江原)道に召還した。賊は、村の民家や官舎を毀し、その屋材を連ねて長い筏を組み、川を
渡ったが、流れの途中で溺れ死ぬ者が甚だ多かった。しかし(元)豪はすでに去っており、対岸には一
人として守る者がなく、結局(賊は)数日を費やして渡り切ってしまった。
こうして、賊の三路の兵は、みな京城に入った。城中の民衆は、すでに逃れ去って、一人もいなかった。
懲○録
都とりの道すがら。あそこやこヽにて戦有。いつもみかたははやぶさの小鳥すヾめをかけまはし追散にも
ことならず。されども宮古は。諸国よりはせあつまると聞からに。心にくヽも行程に。十七日と申ける。
五月二日の夕暮れに。都は是より一日路と聞けし所の河ばたにて。都の空を詠れは。放火の煙立登り。
夫をあやしめ。夜をかけて行は。程なく宮古成東大門に着給ふ。よもほの〃〃と明行は。都のうちに
きり入て四方をみれは。限なき十六万計の宮古也。くうてん楼閣数々に。たはり〃〃〃火を掛て。上
下萬民こと〃〃く。唐国さして落にけり。
みかたはやがて公中にはや打入て陳を取。七珍さい宝金銀やけんふのたぐひにいたるまで。皆取すて
ヽ逃ければ。日本の宝と成りにけり。しばしはここにやすらひて。つヽく勢をそ待給ふ。
同三日に加藤殿、六日。七日は浮田殿。次第次第につヽく勢。あるひはもり壱岐守。あるひはくろ田
かいのかみうんかのことくつヽきけり。
大名達は参会し。兵儀をなして。是よりも王の行衛を尋ねんと。いぬるの方にさヽんとて都はうき田
さいしやう殿請取給ひし惣勢は五月十日や十一日我も〃〃と打出て。一日路行て大河有。
吉野甚五左衛門覚書
あげ
戦闘が終り、有馬と大村、その他の兵士らが帰った後、アゴスチイノは城塞を十分堅固にした上で、
朝鮮の都に向かって出発した。すべての主立った武将たちは同所で会合し、今後いかに対処すべきか
を協議した(
>>161-162 >>164-165 >>202-203 >>226-227)。折から冬が近づいていたので、一同は、
攻略を一時停止し、陣地を固め、冬から夏にかけての食糧を確保することが急務であるという点で意
見の一致をみた。朝鮮の状況をよく理解するためには次のことを知る必要がある。
日本人たちは、最初の上陸地である釜山浦から都に至るまでの道中に、日本の八里ないし十里ごとに
城塞を築いた。それらには(朝鮮の)都地方にいた武将たち、すなわち(老)関白の婿の八郎殿(宇喜多
秀家)、中国の領主毛利(輝元)殿、その他二、三の者が駐屯していたが、彼らはこの(朝鮮)遠征の首
脳者たちであった。沿道に築かれた城塞は十八あまりを数えた。(都)から北方にわたっては、肥後国
半領の領主(加藤)虎之介がおり、彼とともに壱岐守(毛利吉成)が薩摩と日向の兵を率いて布陣した。
シナに接した北方地方(平安道)にはアゴスチイノが駐屯し、彼とともに(黒田)官兵衛(孝高)殿の息子
で、一キリシタン国の領主(黒田)甲斐守(長政)が、豊後の兵を率いていた。
このように(日本軍の)城塞が道から道へと造られており、ある時期まで朝鮮人は残余の国を支配し
て、一地方から他の地方にわたってしばしば(日本軍を)攻撃した。このために釜山浦から(朝鮮の)都
までの道中は、日本兵は三百人足らずの隊員では(危険で)通行しかねる状態であり、都(京城)からア
ゴスチイノがいる所(平安)までは、五百人以上が集団となって歩く必要があった。アゴスチイノは同
所から弟のジアンを(老)関白の許に派遣して現地の情勢を報告し、多くの理由を挙げて、シナへの遠
征は実行不可能である旨伝達した。
フロイス日本史
りうとう(遼東)国に名を得たるゆうげきしやう軍。ちよくしにてしう〃〃五きにて来りたり。日本国
しる唐人に。文を持せて。まつ先に平安城にもち来る。摂州文を見たまへは。らんはうとくとそ聞へ
けれ。やがてちよく使にたい面し。其理をすヽめ。さらは十月廿日の日。人しちつれて参らんとふか
くけいやく有てそ帰りける。
さて八月下しゆんの比よりは。十月廿日と持給ふ。○長陣の其内に。ちうはい城の番ての衆送りむか
への時ともは。をつきりふせヽい多けれは。うんめい○たる人人は。皆おいうち(追撃)にうたれけり。
あるひはやまひをみにうけつ。あるひはらうさい(肺結核の類)彼是に。ひましにみかたはうすくな
る。かヽるうき目を見る上に。つまれる物は米とゑんそ(塩噌)の類とさけさかな(酒肴)。やう〃〃
有は栗(粟)ときび(黍)。うま(馬)もなければいかヽせん。
いつならはしの諸大名。やせおとろへて色くろみ。さけをめさねは。心をも慰たまふ事もなく。はや
る物にはかさくしと。目のくらむこそふしぎなれ。かヽるうきめを見たまひて。十月廿日も過行ど。
更におとつれなかりけり。
やう〃〃霜月廿日比。ゆうけき将軍来りつヽ。跡より人しち参そと。たばかりけるとはしらすして。
すてに人質取かはし霜月末には都迄引取なんと有けるに。てうせん(朝鮮)人か申むね。さま〃〃なれ
はへんかはり。
明る正月三日には。小西摂州。御馬まはり武之内吉兵衛。とうす大せん両人を。しゆんなん(順安)の
城によはれつつ。○きはかりめしつれて。いつものていにて行けるを其まヽ牢に取て入。さうしき
(雑色)共はうちころす。是を手きれのはしめにて五日の日よりはいくさ有。
吉野甚五左衛門覚書
こういう文書、ふつう皆読んでるはずなんだけど、
どうしてコピペするのかな?
ソースの浪費と思うんだけど…。
明らかに読んでない人間の為と、簡単な議論の土台作り、寝言の防止用だな
ロシア皇帝は三カ条に渡る次の如き要旨の回答をナルボンヌに与えた。
一、ナポレオンは予にロシア人民を滅亡させる手段をとるように強いるのであるか。
二、予がもしナポレオンの要求を拒絶すれば、彼は二、三回の戦いによってロシアの主要都市を占領
し、予が講和を請うであろうと予想して、戦争をもって脅迫するであるか。
三、予はナポレオンを最も偉大な将帥であり、彼の軍隊を最も勇戦的であり、また彼の○下の将校も
勇敢であり、最も老練であると信じている。然しながら、距離は一種の障壁であることを彼は知らね
ばならない。もし予が数回敗戦しても、人民をひきつれて退却すれば、気候と荒野によってフランス
軍は最も恐るべき運命に陥るであろうことを覚悟しなければならない。
もとよりナポレオンはロシア遠征の困難は知っており、幾度か躊躇しながら、なおかつ決行しなけれ
ばならない羽目に自ら陥り、ロシア皇帝の言葉を無視して六〇万とも称せられた大軍を進め、一八一
二年春かねて立案していたポーランドの東方百数十キロにわたるプリペットという一大沼沢地帯の北
方から一挙に攻め入り、守勢に立つであろうロシア軍の右翼を迂回包囲して退路を断ち、プリペット
に向かってこれを捕捉殲滅しようとした。この作戦はかつてのウルムの包囲戦の如く、成功すれば必
ず大勝を博するものであったが、ロシア軍の約三倍にも及ぶ軍とはいえ、ナポレオンの率いる大軍の
質的内容はウルムの時の精兵に比すべきもない寄せ集めの俄か兵隊が多く、聡明な将校達は早くもこ
の遠征の破局を予言していた。
東プロイセンからロシアに入り、ニーメン河を渡ればモスクワまで、およそ一千キロの荒野には人口
一万以上の都市ウ"ィルナ、スモレンスクなど僅か五つしかないため、ヨーロッパ諸国の如く、敵に
糧をとることも不可能なため、数千のし重車両を必要とする空前の大遠征であった。
西欧近世軍事思想史
これより以前、賊将の平(小西)行長は、平壌に到達するや、書簡を寄せて「日本の水師十余万が、また西
海から到来する。大王(朝鮮国王)の竜御(車輿)は、ここからどこへ行かれるというのか」といってきた。
おもうに、賊はもともと水陸の軍勢を合わせて西下しようとしたのであるが、この一戦によって遂に
賊の片○を断ち切ったので、(小西)行長は、平壌城を獲得はしたものの、その勢力は孤立しており、
敢えてそれ以上前進しなかったのである。
懲○録
抑々フランス革命以前のいわゆる専制国家の軍隊では、その兵力も少なく、到底征服的な殲滅戦略な
ど不可能であった。すなわち大軍をもって敵地深く侵攻し、これを征服することは、必要な糧食やそ
の運搬、背後連絡路の援護などを考えれば、非常に困難で、敵をわれわれに屈服させるだけの決定的
勝利を得ることなど、全く不可能と考えられていた。
しかるに、この不可能を可能にしたのがナポレオンである。すなわちフランス革命によって生まれた
国民的軍隊の指揮官として、ナポレオンという不世出の名将が現れ、旧時代の軍隊のもつ凡ゆる束縛
と制肘から解放された新時代の戦略として、敵地深く侵攻し、これを征服できる殲滅戦略を見事に考
案し、実行したのである。
ナポレオンは一たび戦うや、常に決戦を求めて全力を尽くし、敵が彼の提出する条件に従うまで勝利
を追求した。こういう原則から生まれた彼の戦略は、大は遠征計画より小は個々の戦闘行為に至るま
で、殲滅戦略として一貫していた。
ナポレオンは遠征計画の必然性を明瞭に認識するや、直接的簡明さをもって戦術とし、その眼中には
ただ敵の軍隊があるだけであった。そのため一たび彼が剣を抜くや、迅速果敢に攻撃するだけでなく、
その結果として、敵を殲滅しなければやまなかった。
ナポレオンにおいては、この殲滅思想は絶対であった。かれは同時に数カ国の敵をもっている場合が
多かったので、一国また一国と逐次始末をつけてゆく各個撃破を得策としていた。
西欧近世軍事思想史
ナポレオンはロシアで負けた?
ウ"ィルナからモスクワまで、ロシア軍の中にあってフランス軍と戦った体験を持ったクラウゼウウ"
ィッツは、戦争論の中で、ナポレオンのロシア遠征の敗因等について各章にわたり、詳しくかつ批評
しているが、その中で、特に注目すべきものをあげてみよう。
一八一二年にナポレオン軍の主力は、ウィテブスクにおいて二五万、スモレンスクで一八万二千、ボロ
ヂノにおいて一三万に減じた。このことはロシアの主力軍と数において漸く均衡に達したことを意味
する。ボロヂノは国境から九〇マイルの地点である。しかしロシア軍はモスクワにおいて初めて決定的
な優勢を得て、その優勢は彼我両軍の間の関係を一変せしめたので、たとえマロヤロスラウ"ェッツ
の会戦でフランス軍が勝利を得たとしても、大局に変化を生ぜしめることは最早不可能であったろう。
西欧近世軍事思想史
一八一二年の戦役が開始された当時、フランス軍に対するロシア軍の戦闘力の比は七年戦争における
フリードリヒの場合よりも遙かに有利であった。しかもロシア軍には、戦争の経過中に兵力を著しく
増強し得る見込みがあった。
その上ナポレオンに対しては、全ヨーロッパがひそかな敵意を懐いていた。ナポレオンの勢威はすで
にその極限に達していた。彼はスペインでは消耗の甚だしい戦争を行わねばならなかった。
また面積の広大なロシアでは、ロシア軍が百マイルも深く内地へ退却することによって、敵兵力を極
度に弱化することが出来た。
かかる重大な状況のもとでは、フランス軍の企図が失敗に終われば(しかし、この企図は、アレクサ
ンドル皇帝が和議に応じるか、あるいは、ロシア国民が政府に対して反乱を起こしでもしなければ、
到底成功の見込みがなかった)、ロシア軍の強力な反撃は必至であるばかりでなく、この反撃はナポ
レオンの命取りにもなり兼ねなかったのである。
してみると当時ロシア軍が成り行きまかせに立てた戦争計画は、期せずして最高の知慮だったのである。
クラウゼウ"ィッツは更に広大な面積を持つロシアの特色について観察し、ヨーロッパでは退却線が
百マイルに及ぶ国は極めて稀なため、ロシア遠征軍にして初めて五〇万という大軍を編成することに
なったとのべ、最初はロシア軍に倍するこの「大陸軍」が精神的にも決定的優勢にあったにも拘わらず
どうしてその兵力比も精神力も逆転したのか、すなわち百マイル前進して漸く生じたこの現象は、ロ
シア以外の場合なら、恐らく五〇マイルか三〇マイルでも生じるであろうと論じている。
また、クラウゼウ"ッツはこの時のロシア軍の側から考察して、防御方式の有利である状況を次のよ
うな三件にまとめて論じている。
一、耕作の殆ど行われていない地域。
二、忠誠でかつ勇武な国民。
三、天候の不良な季節。
これらの事情はすべて攻撃軍の保持を益々困難にし、大量の輸送、多数の支隊の派遣や困難な陣中勤
務を余儀なくさせ、また諸種の疾病を誘発し、更にまた防御者が攻撃者の側面に対して起こす行動を
容易ならしめるのである。
ナポレオン軍の右の如きモスクワ遠征は、孫子の訓える次の如き長駆遠征作戦の弊の典型と言えるの
である。
是の故に甲を巻きて趨り、日夜処らず、道を倍し行を兼ね、百里にして利を争えば則ち三将軍をとり
こにせられ、つよき者は先だち、罷るる者は後れ、其の法、十の一にして至る。五十里にして利を争
えば則ち上将軍をたおし、其の法、半ば至る。三十里にして利を争えば則ち三分の二至る。是の故に
軍に軽重なければ則ち亡ぶ。糧食なければ則ち亡ぶ。委積なければ則ち亡ぶ。
クラウゼウ"ィッツのいう三件の一は孟子のいう地の利であり、二は人の和であり、三は天の時であ
る。孟子の説に従ってこの三者を考慮すれば、ナポレオンのロシア遠征は徒にロシア民衆に愛国心の
基本となる人の和すなわち国民的自覚を促し、これを敵としたことになったといえるであろう。
孫子はこれらのことを冒頭の始計第一の五事七計の中で、次のように論述している。
一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法。
道とは民をして上と意を同じくし、これとともに死すべく、これとともに生くべく、畏危せざらしむるなり。
天とは陰陽、寒暑、時制なり。
地とは遠近、険易、広狭、死生なり。
将とは智、信、仁、勇、厳なり。
法とは曲制、官道、主用なり。
凡そ此の五つの者は、将として聞かざるなく、これを知るものは勝ち、知らざる者は勝たず。
この孫子のいう道が人の和であるが、孟子や孫子の説いている論旨が遙かに「戦争論」に優ることは
クラウゼウ"ィッツが平和について論じなかった一面性よりして当然のことでもある。
右の如く、焼土と化したモスクワに在って、期待した皇帝アレクサンドルからの講和の提議もなく
さすがのナポレオンも決戦の機会が全く失われた以上、外交による政略的解決の外ないことを悟り
九月二〇日アレクサンドルに親書を送り、会見を申し込んだ。しかしこれがクトウゾフによって握り
つぶされたことを察知するや、侍従武官を使者として派遣した。
クトウゾフはますます時が味方となることを認め、今度は出来るだけナポレオンのモスクワ滞在を釣
っておくため、皇帝にとりつぐと共に、「ロシア軍の窮状と世論とは、ロシアを救う道が講和より外
にないので、これを希望している」という風説まで流したため、ナポレオンもアレクサンドルからの
和議を期待し、クトウゾフの思うつぼにはまったのである。
もとより、皇帝アレクサンドルからは音沙汰なしであったから、モスクワを占領したフランス軍もこ
のままでは自滅の一路しかない上に、ロシア軍にとっては益々有利な状態が生じつつあった。すなわ
ちトルコとの和議成って、この方面のチチャコフ軍三万四千がブカレストより北進し、フィンランド
方面にあったウ"ィトゲンスタイン軍三万も南下を開始した。
ナポレオンは、時日の経過がロシア軍に益々有利となる反面、フランス軍にとっては益々不利となる
を認め、一〇月上旬に至って、スモレンスクに退却するに決して一〇月一九日からその行動に移った。
フランス軍は兵力一一万、火砲約六百門をもってモスクワを退却したが、この時を待っていたクトウ
ゾフは猛追撃に移り、かつコサック騎兵の襲撃に加えて、バルチザンのゲリラ戦が執拗に行われた。
西欧近世軍事思想史
孫子の時代は軍人と政治家が未分化で
クラウゼヴィッツの時代は分化してるって
ことだよ。
それぞれの時代背景によって分析の
対象、分析の仕方が違うのは当たり前。
優劣の問題じゃない。
>>319 それについて書いてありますが、気が向いたら写経します
このようなナポレオンのロシア遠征の失敗について、クラウゼウ"ィッツが次のように批判し、論述
しているのは、この戦いの体験者としても、深い歴史的考察と理解力を持つ軍事思想家としても適切
かつ当然のことである。
「ナポレオンのロシア遠征が失敗したのは普通に言われているように、彼の前進が迅速に過ぎ、或い
は彼が敵地に深入りし過ぎたためではなくて、成功に必須な手段を欠いていたためである。ロシア帝
国は正式に攻略され得るような、換言すれば、侵略者がこれを占領地として守備し得るような国土で
はない。少なくとも現代のヨーロッパ諸国の兵力では、従ってナポレオンがこの遠征に引率した五〇
万の兵力では到底不可能である」
「かかる国を屈服させるには、その国に内在する諸般の弱点と国内の分裂作用とによる外ない。そし
てこれらの政治的弱点を衝くには、国家の心臓部に達する程の震撼を必要とする。ナポレオンは強力
な突進をモスクワまで続行しない限り、ロシア政府の勇気を挫き、国民の忠誠心と剛毅な心情とを震
撼することを望み得なかった。彼はモスクワで講和を締結し得ると信じていたのである。またこのこ
とこそが彼がロシア遠征によって達成しようとする唯一の目標であった。そしてこの目標は彼にとっ
てぬきさしならないものであった」
「そこでナポレオンは彼の主力と相対せしめた。すると慌てふためいたロシア軍はドリッサの陣営を
捨てて退却し、スモレンスクに至って漸く停止することが出来た。ナポレオンはバクラチオン軍を席
巻してロシアの本陣を撃破し、ついにモスクワを奪取した。ナポレオンはこの戦役にも、彼の常套手
段を用いたのである。実際、彼はこのようにしてのみヨーロッパの支配者となったし、またなり得た
のである」
「してみると、それまでのすべての戦役を見事に統率したナポレオンを最大の将帥として賛歎する人
は、ロシア遠征における彼を俄かに見くだすわけにはゆくまい」
西欧近世軍事思想史
一番被害の大きかった大名は誰でどれぐらい被害を受けたかな?
従来語られたような動員命令数マイナス前線点呼数は被害を大きく見積もり過ぎだし。
325 :
名無し三等兵:2006/10/10(火) 22:48:11 ID:XYnmB0zN
秀吉の朝鮮出兵って、チャンぐむの高麗王朝の頃だろ、中国は明の時代だし、
チャンぐむのドラマを見ていると、結構、朝鮮は繁栄しているよな
豪華な宮廷料理が並んでいるし。
ただ、あのぶっとい包丁で、日本料理みたいな細工物(ねじ梅とか)は難しそうだが
やっぱり、日本文化こそが世界一なのだ
隅から隅まで例のドラマと同じような○○な文章ですね。
>>325
>>325 あのさ、事実を知ればそんなこといえなくなるよ
李氏朝鮮の頃なのに、高麗ときたもんだ
三月二十日、三奉行京城内外ノ士卒ヲ点検スルニ総て五萬三千余人アリ。蓋シ我軍名護屋出帆以来風
雨霜雪ニ暴露スルコト既ニ一歳。攻城野戦ノ労多キハ数十回、少キモ数回ニ下ラス。陣亡病死其半ニ
過キ、戦闘力大ニ減少セリ。各隊ノ人員左ノ如シ。
小西行長等6629人 加藤清正5492人 鍋島直茂7644人
黒田長政5269人 大友吉継2052人 毛利吉成1425人
高橋元種288人 秋月種長252人 伊東祐兵597人
小早川隆景・同秀包・吉川廣家等9552人 島津忠豊293人
立花統虎・高橋統増1132人 筑紫廣門327人
宇喜多秀家5352人 加藤光泰1400人 前野長康717人
大谷吉継1505人 増田長盛1629人 石田三成1546人
京城方面ノ我カ主力既ニ南ニ退キ一部ハ尚州ニ、爾余ハ釜山地方ニ駐屯セリ。是ニ於テ秀吉ハ
(文禄二年)五月二十日命令ヲ在鮮軍ニ下シ、其部署ヲ規定シ、方略ヲ示授ス。其要旨左ノ如シ。
晋州攻城隊
第一隊 25624人
6790人 加藤清正・相良頼房
5082人 黒田長政
7642人 鍋島直茂
1671人 毛利吉成
2128人 島津義弘
741人 高橋元種
388人 秋月種長
476人 島津忠豊
706人 伊東祐兵
第二隊 26182人
7415人 小西行長・宗義智・松浦鎮信・大村喜前・五島純玄・有馬晴信
2470人 長谷川秀一
2296人 長岡忠興
4400人 昌原十一人衆(姓名未詳)
4000人 浅野長吉・長慶
4018人 故羽柴秀勝ノ兵
1258人 伊達政宗
325人 黒田如水
第三隊 18822人
1823人 太田伴助・山田藤蔵
638人 稲葉貞通
363人 明石則実
370人 斎村廣英
313人 別所吉治
406人 一柳可遊
246人 竹中重利
693人 服部一忠
340人 谷衛友
298人 石川貞通
912人 宮部長煕
201人 垣屋恒総
450人 木下重賢
803人 南條元清(元続ノ弟)
第四隊 13600人 毛利秀元
第五隊 8744人
6596人 小早川隆景
400人 小早川秀包
1133人 立花統虎
288人 高橋統増
327人 筑紫廣門
(1〜5隊)合計92972人
右ノ内、第三ノ一隊ト第四、五ノ二隊トハ抽籤ヲ以テ一ハ攻城ニ従事シ、一ハ受手(敵の後援軍ヲ監
視抗拒スルノ義)ト為ル可シ。若シ金海ヨリ晋州マテ繋キノ城(即チ連絡拠点)ヲ要スルトキハ昌原十
一人衆ノ兵ヲ置クヘシ。
>>332 第三隊修正
追加
7785人 宇喜多秀家
1646人 石田三成
1535人 大谷吉継
修正
1823人 木村重○・太田伴助・山田藤蔵
諸城守備隊
釜山城 6990人
3000人 毛利輝元
1624人 増田長盛
922人 前野長康
1097人 加藤光泰
347人 早川長政
右ノ内増田ハ糧食ノ事ヲ掌リ東○城ニ守備ヲ要スルトキハ前野、加藤、早川三隊中ヨリ分遣ス可シ
金海城 520人 毛利重政
機張城 1336人 亀井真矩
此ノ二城ニ増援ヲ要スルトキハ釜山ヨリ派遣スヘシ
巨済島
6950人
4500人 蜂須賀家政
2450人 生駒親正
7430人
2590人 長宗我部元親
2500人 福島正則
2340人 戸田勝隆
水軍
2724人
834人 久鬼嘉隆
314人 加藤嘉明
106人 菅達長
570人 来島通総
900人 脇坂安治
2736人
1473人 藤堂高虎
574人 堀内氏善
185人 杉谷氏宗
504人 桑山一晴・桑山貞晴
水軍ハ加徳島ニ在リテ、巨済島ノ四国兵ト協同シ、以テ敵ノ水軍ニ備フ可シ。
以上在鮮軍ノ総兵力十二万一千六百余人ナリ。
参謀本部編日本戦史朝鮮役
まだ騙されてるのかよ
340 :
名無し三等兵:2006/10/15(日) 19:20:10 ID:vHlOSc+m
この朝鮮征伐の時、日本軍には参謀本部とかあったのかね?秀吉が日本で作戦たててたとか聞かないよな!
韓国人の英語版ウィキ荒らしは酷いらしいな・・・
>>338 そもそもウィキペディアってあまり信用してないな
誰が書いたか分からない
例えば
>>114のノート鳴梁海戦を見るとw
要するに十七世紀の軍司令官達が戦略の基礎を置いた基本的な兵站の実相は次のようであった。
第一、食って行くためには移動し続けることが絶対必要。
第二、行動の方向を決めるとき、根拠地との接触を維持することにあまり頭を悩ます必要はない。
第三、河川をたどり、できるだけその水路を支配することが重要である。
これら三原則のすべてはスウェーデン王グスタフ・アドルフの戦歴によってよく例証されている。
補給戦
(文禄元年)七月三日には釜山浦へ押入りたり。ここに七日逗留して、七月十日に奥へぞ上ける。
道すがら朝鮮人共を追剥打殺し、兵糧奪取、七月十七日には、広嶋を立て七十九日めには、殿様(毛
利輝元)御座所開寧の館へぞ参着し、やがて遂御対面、則郡外邦と云在所の代官を承り、新米色付け
れば、民共に催(促)し、一万五千余石の兵糧を納也。
朝鮮人の詞は、日本の言には相違したり。荒々書付ける、米をびしまりと云、刀をばはんどうと云、
大名をばしやぐわんと云、民をばさるみと云、来とはいらをならと云、帰とはぢからと云、一はな、
二つふる、三そい、四のい、五たす、六よそ、七じこう、八よとる、九あはう、十よる、百はふ、右
多分如此。書きつくし難し。
三十九の歳は、八月一日に、釜山浦を出し、同七日には、御帰朝の御供申、広嶋へぞ着たりける。
身自鏡(玉木土佐守覚書)
ここまで、戦場の商人たちの姿を追ってきて、私はあらためてヨーロッパ中世の軍隊に関する、山内
進氏の指摘を思い出す。
兵士は常に飢えの恐れの下にあり、それをかろうじて救っていたのは酒保商人だった。彼らがいて、
兵士が給与によって買物をできるときにのみ、軍隊に治安が保たれていたのである。従って、酒保商
人は、近世ヨーロッパの傭兵的軍隊の下ではなくてはならない存在だった。
日本の戦場で起きていた事態は、山内氏のいうヨーロッパの実情と、じつによく似ている。
日本の中近世でも、軍隊が戦争をやり遂げる仕組みは、はじめから戦場の商人による供給と現地補給
を前提としていた。そればかりか、戦場で雑兵たちによって略奪された家財や男女も、「商人これを
(買い)受け、奈良と坂本には、日市を立ててぞ、売り買いける」(応仁記)という証言がよく示すよう
に、戦場に群がる商人によって、略奪の現場から、兵糧と引き換えに買い取られ、戦場の外の市場で
売りさばかれていた。
これまで私たちは、戦国大名軍の兵糧といえば、平時に村や町から納められた年貢米の備蓄や、戦時
に行われた兵糧の強制徴発などによって調達され、大名の組織した小荷駄隊によって戦場に補給され
ていた、と思いこんできた。しかし、以上みたような実情と、私たちの通念との間には、かなり大き
なへだたりがある。
こうして戦場の商人たちの活動ぶりに焦点をしぼって、戦国の戦場の裏側に思いをはせると、戦争を
大きなビジネスチャンスとした、戦場の商人たちの存在感はまことに大きい。戦国時代の日本各地に
あいついだ戦争は、経済生活という点でも、戦国の世の村や町の日常の暮らしに、ただならぬ影響を
及ぼしていた。
戦国の村を行く
文禄元(1592)年三月、嶋井宗室は(神屋)宗湛らとともに、小早川隆景から、博多津内の蔵を全部空け
て、兵糧米を貯えるようにという秀吉の命令を受けた。兵糧米の集荷にあたって、秀吉は米を相場よ
り高く買い上げる制度を設けて渡航基地名護屋へ九州一円の米を集め、渡航する大名には米を貸すな
ど、万端怠りない政策を考案し、実施した。
これらの米は博多に積み込まれ、諸大名への米の配付は多く博多でなされた。夥しい量の米の集荷・
貯蔵に一役も二役も買ったのが、宗湛と宗室だったのである。このころの博多は、米蔵が立ち並び、
米を積み下ろす人夫たちのせわしげな動きとかん高い怒声が混じり合って、活気に満ちていたことだ
ろう。
なお、米の積出港兼米蔵として、箱崎・津屋崎・鐘崎・江口・山鹿各港も利用された。米売買という
商いと倉庫業は、この時代にはまだ未分離で渾然一体を成していた。宗湛、宗室は米商人兼倉庫業者
そのものであった。あるいはそれにもう一つ旅館業も兼ねていたのであり、宗湛は毛利秀元、宗室は
石田三成の宿所に自分の屋敷を提供している。宗湛、宗室以外の大半の博多の上層町人も、おそらく
大名らの宿所に自分の屋敷を提供した者が多かったはずだ。この時代の博多の大資本の性格は、売買
・倉庫・運送・宿所を兼ねたところに特徴があった。
博多 武野要子著
秀吉のように経済感覚のすぐれた武将が、豪商との関係を深くしないということはない。なんどもい
うように、彼は織田時代からの茶頭である今井宗久・津田宗及、また千利休を茶頭として用いて、堺
商人との関係を続けた。また本能寺の変を最初に秀吉に知らせた長谷川宗仁、キリシタンとして知ら
れた小西立佐とその子如清・行長もいたが、行長は肥後・宇土城主となり朝鮮出兵の先鋒をつとめ、
のち関が原合戦で敗れて死んだ。堺に近い摂津の平野郷でも末吉一族らが活躍していたし、日本海水
運を握る敦賀・小浜の豪商や、大陸貿易をおさえる博多の神屋宗湛・島井宗室などの豪商の経済力を
巧みに利用したのであった。
さて、秀吉が豪商を重用する必要があったのは、当時の市場関係による。戦国時代においても、全国
的な流通や国際貿易はおこなわれていたが、その量は少なく、武器や奢○品が主なものであった。豪
商たちは大船などの運輸手段をもって、その市場をおさえていた。とくに秀吉の時代になると、戦闘
においても数万以上の大軍を動員したから、それだけでも武器・弾薬の補給や兵糧の輸送に膨大な輸
送手段が必要となった。また城郭普請や都市建設などにも多くの資材と食料が必要であった。このよ
うな状況は、信長の末期から秀吉の時代において本格化してきたものである。そこでは武器産業を行
い流通手段をにぎる豪商たちとの結びつきが必要となっていた。
秀吉の経済感覚
国内的な対応について整理しておくと、元年の末に秀吉は黒田長政に対して
「朝鮮在陣之衆兵糧無之由、被聞召届候付て、於釜山浦来年八月迄之兵糧可被下とて、数万石被召寄
候、正月より順風次第ニ浅野弾正渡海可仕候由被仰付候、其外兵糧も追々可被遣候条、可成其意候」
と書き送っており、当面文禄二年八月までの食糧を確保して、釜山浦に廻漕することを表明している。
この計画の前提として、名護屋や博多には「諸国御蔵米」をはじめとするさまざまの米穀が徐々に集結
された。国内の沿岸諸地域から北部九州への米穀集積は長束正家・山中長俊・木下吉隆らの管轄下で
遂行されている。彼らのほか、寺沢正成も同様の任に従っている。
たとえば文禄二年(推定)三月二二日に小早川隆景が博多の島井宗室・神屋宗湛に宛てた書状には
「津内之蔵悉く明置、御米可被積せ之由、以寺沢殿被仰付候条、得其意裁判干要候※」とみえている。
彼の場合は主として海上輸送に関わる「船奉行」的な存在ではなかったろうか。
※「島井文書」 この文書は従来天正二〇(文禄元)年のものと比定されているが、前注にあげた史料か
ら明らかなように、寺沢は天正二〇年三月の初頭から「太閤様御迎船」徴発の任に当たるため朝鮮渡
海が命じられており、少なくとも六月までは同様の任務を継続している。したがって、寺沢が天正二
〇年三月段階に国内にあって廻漕集積の任に当たっていたとは考えられない。(以下略)
豊臣政権の対外侵略と太閤検地
秀吉は各大名に六カ月分の兵糧を準備して渡鮮するよう命じているが、つぎに引く大友氏の例などを
考えると、この命令が正しく遵守されたとは言い難いようである。またそれ以後についても天正二〇
年産米による補給をどのような形で展開する計画であったのかも判然としない。
この点に関して朝尾直弘氏は「朝鮮侵略は当初計画では六ヶ月の予定で兵糧米三〇万石の準備を指示
していた」と述べられているが、この戦争がそういう意味で「計画的」に開始されたとは考えにくい。
豊臣政権の対外侵略と太閤検地
ここ数日の日本語版ウィキペディアの韓国人の荒らしを見てるんだがひど過ぎだな。
まとめサイトが必要だと思う。
>>351 確かに凄いねw
リアルで話すべきかもしれん
あれが韓国人の標準なのだろうね。
途中、日本人が冷やかしを入れるとすかさず、
喧嘩両成敗みたいな奇麗事を言ってきてごまかそうとするのもいた。
あれは在日だろうな。
典型的なやり口。
史実の実態を見て議論するという姿勢が全くない。
在日ならともかく、わざわざ日本のサイトに来るのが凄い
日本人なら普通わざわざ韓国なんぞのサイトに書き込もうとは思わんな
韓国も日本を嫌っているなら来ないで欲しいね
355 :
名無し三等兵:2006/10/26(木) 21:18:47 ID:eB2WyuOs
文芸春秋11月号は、中国人歴史研究家・趙無眠なる人の「日中戦争 中国も同罪だ」という
論文を掲載している。中国語で書かれた論文の原題は、「もし日本が戦勝国であったなら」。
筆者はアメリカ在住で、中国内のサイトでは民族の裏切り者と集中砲火を浴びている。
本論文は、ネット上で自由に閲覧できたが、すでに規制の網がかかっている。日中関係を
考えるに当り、数々の示唆に富む論文を、埋もれさせてしまうのは惜しいと、文春が筆者の
許可を得て掲載したものである。
http://blogs.yahoo.co.jp/kim123hiro/archive/2006/10/14 この論文で、著者は、モンゴルや満州族のその後を例に挙げ、日本が中国を征服するのは
中国が日本を征服するのと同じ、と指摘し、暗に征服されるべきだったと書いている。
台湾や満州は発展したと。
秀吉の時代にシナを征服したら、満州族に征服されるよりシナは発展しただろうが、
日本はその後どうなっただろうか?
日本語版ウィキ「李舜臣」のノートで韓国人が暴れています。
追放にご協力を。
倭寇の負け惜しみは右翼の捏造史観だけが頼りですね
まじめに話したら面白いテーマなのに
チョンが暴れてるから無理だな
なんで朝鮮民族は喚くことしか出来ないんだ?
まあだからこそ半万年属国だったわけかw
当時の日本は白村江以来、千年以上に渡り外征の経験が無かったことから
外征に無知だったことは、否めないな。
実際、当時の日本軍も、せっかく海軍の拠点を落しながら、それを早々に放棄
して進軍を続けるという愚挙を為している。
百年余りの戦乱で実戦経験が豊かと言っても、それは同じ民族同士の内乱の
経験が豊かなだけで、違う言語を操る異民族相手には対処法はより難しいもの
にならざろう得なかった。
そのことも理解していなかったのは事実だろう
>>354 日本人で韓国語を学ぶ奴なんておかしな人ばかり。
韓国人で日本語を学ぶのは実利が伴うから一般的。
だから一般的な韓国人が日本版に書き込める。
あちらのサイトに書き込む日本人がいないのは
韓国語で一般的な意見を言う人物がいないから。
はいはい、外国語の一つもマスターできない低能の自己弁護ありがとう。
せめて、英語を学んでwikiへ参戦してくれ。
しかしアレだ、ウィキペディアは当スレには関係ない
ここに韓国人が来たならともかく、ここで言われてもな
ハングルの李舜臣スレがいいのではないかと思う
363 :
名無し三等兵:2006/10/29(日) 17:49:45 ID:dPzXeTn4
右翼出版物をコピーするだけの倭寇が論破あうのは当然ですね
忠武公に惨敗あった倭人は見苦しい
>363
>右翼出版物
具体的に書名をあげてみ?
日曜の昼間から韓国人が元気だな。
お前ら夜の仕事だろう。
ご苦労様です。
この手に詳しいコテはいるの?
いない
>>363 で、中国の助けなしでは日本に勝てない朝鮮人はどうなんの?www
369 :
名無し三等兵:2006/11/04(土) 22:09:06 ID:NFTQFg7B
また小日本鬼が妄言をはいてるな
北の軍事力は小日本の10倍、偉大なる大韓民国は東アジア最強の戦闘機を調達し独自の優秀なる科学技術によりその戦闘力はオリジナルの10倍
ここに軍事バランスは崩れ南北合わせた偉大なる大韓民国は父なる大中華人民共和国と同等になった
良と質において小日本を圧倒した偉大なる大韓民国はアジアのリーダーである
世界中が偉大なる大韓民国を尊敬し国際連合のトップに選出された
愚かなる小日本は世界を侵略しようとし安全保障理事国入りしようと画策するも世界中の反対により敗退
この歴史的事実を認め小日本は全世界に謝罪し自分達の愚かなる犯罪行為を子孫に伝え永遠に反省せねばならぬ
これは世界中の命令である
370 :
名無し三等兵:2006/11/04(土) 22:16:27 ID:p8JLcLuE
(´_ゝ`) プッ
371 :
名無し三等兵:2006/11/06(月) 09:39:02 ID:C1jAiXnX
明軍と朝鮮軍の指揮関係を説明できますか?
372 :
三国志:2006/11/06(月) 09:50:28 ID:BqqpB7OP
高貴なる 太子の お言葉
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
||||||||||||||||||ii | 1.朝鮮人とは交渉しないこと。
,,|||||||||||||||||||| | 2.朝鮮人を相手にしないこと。
i||||||||||||||||||||||||||||i | 3.朝鮮人を仲間と思わないこと。
i|||||||||||||||||||||||||||||||||||||i | 4.朝鮮人と結婚しないこと。
||||||||||||||||||||||||||||||||||| !||. | 5.朝鮮人を雇わないこと。
|━- -━━━ |||||||| ||| | 6.朝鮮人の国には行かないこと。
,・=-| -=・=- / ̄||| ,|||| | 7.朝鮮人を優遇しないこと。
| / _!|||||!! < 8.朝鮮人の話を信じないこと。
. | (_,  ̄||||| | 9.朝鮮人を招かないこと。
| ━__━ |||| | 10.朝鮮人に金をやらないこと。
ヽ、 `~ ,,,;;;;;;;__ |||| | 11.朝鮮人の傍で寝ないこと。
|||||||||||| | 12.朝鮮人の匂いを嗅がないこと。
!|||||||!! | 13.朝鮮製キムチを食べないこと。
!||||! | 14.朝鮮人の行動には警戒すること。
| 15.朝鮮人の犬喰いはマネしないこと。
| 16.朝鮮人の偽装に気を付けること。
| 17.朝鮮人のエラに刺されないこと。
\______________
>>369 小日本の十倍の北の軍事力→兵隊の数だけ
偉大なる大韓民国の東アジア最強の戦闘機→数が少ない上に日本はさらに強力
な戦闘機を配備予定
独自の強力なる科学技術→ロシアからパクった核技術
世界中が韓国を尊敬し〜→弱小国のポスト
愚かなる小日本〜→中国と韓国だけ
歴史的事実→中韓の歴史歪曲は世界の知るところ
プw
このスレも終わりだなw
まだまだ韓国人の妄想爆発中。
朝鮮人の特徴
科学的な事実を認めない。
捏造で誤魔化す。
自らの利益のためなら倫理など無視。
すべては陸上強風のせい。
>>373日本はさらに強力な戦闘機を配備予定
これは恥ずかしいからやめとけ・・・・
例えるなら
漏れわ身長150の体重150で体脂肪率90%でアニメオタク声優オタクだ
しかしながら将来大阪で組に入る予定
大阪だぜえw組だぜええwwwwwここまで言えばわかるな?wwwwこええか?wwwwww
とまあこんな感じだ恥ずかしいだろ
少しわかりにくいか?
軍事的には成功していたのでは?
目的を達成していない以上、失敗です。
382 :
名無し三等兵:2006/11/15(水) 23:04:48 ID:yQD/E0Kb
韓国海軍には李舜臣艦が二隻あんだな。
秀吉の朝鮮出兵の時代、つまり1600年ごろの中国の実質GNPは、世界のGNPの30%を占めていた
同じ時期の西欧の実質GNPが20%程度
日本の実質GNPは3-4%程度に過ぎなかった。
これを見れば、日本が中国と戦うのは、国力比で10倍にも達する国と戦うわけだから、どれほどの困難な戦いか理解できるだろう。
日露戦争時にはGNPが12倍のロシアを退けたのだから、GNPだけで戦争の勝敗が決まるわけではないが
ともかく太平洋戦争時の日米のGNPも十倍くらいの開きがあったのだし、困難な戦闘であったのは間違いない
384 :
名無し三等兵:2006/11/16(木) 02:25:28 ID:JP7vs3RY
>>383 日清戦争当時の日清のGNP比率を教えていただけませんか。
それが比較の対象として適当かと。
385 :
名無し三等兵:2006/11/16(木) 03:21:12 ID:zegAMoMw
体脂肪率90%には誰もツッコまないわけ?
>>384 日清戦争当時、つまり1900年前後の実質GNPは、日本が3%くらいに対して、清国は7-8%くらいですね。
実のところ、日本と中国の実質GNPが逆転したのは1950年ごろで、それ以前は中国の方が上だった。
生産力は高くとも、国内の混乱で国力を生かせなかったに過ぎなかったわけだ。
ちなみに1998年ごろには、すでに中国が実質GNPでは日本を凌いでいる
民主党の原口が、中国など発展途上の国なのだから暖かく見守れば良いのです
そんな現状認識も出来ていない事を言っていたな
加藤紘一が、北朝鮮は日本の二百分の一のGNPしかないから何ら脅威ではないと言っていたし
その小国が日本人を拉致して、核兵器を持っている事実などそ知らぬ顔だ
何れにしても、日本の政治家の危機意識のなさは末期的だよ
私が一番に怖いのは彼らの存在なんだけどね
388 :
名無し三等兵:2006/11/17(金) 22:00:50 ID:lBYwLnT8
敗退?
389 :
名無し三等兵:2006/11/19(日) 12:32:22 ID:pHtVgZ2f
勝退
390 :
名無し三等兵:2006/11/21(火) 13:38:23 ID:3wi2oCGl
戦闘では勝てなかった。
うむ
392 :
名無し三等兵:2006/11/22(水) 09:49:17 ID:h0PCiReE
幸州大捷にはどんな意味があったんだ?
さあ?
394 :
名無し三等兵:2006/11/27(月) 10:28:14 ID:45pWWYjS
いつまで鳴梁海戦が朝鮮の大勝利と認識され続けるのか・・・
そろそろ日本は目覚めるべき。
>幸州大捷
哀れな言葉だな…
>>395 俺も最近そんな気がしてるんだよ
島津の泗川ならともかくと言うか…w
399 :
名無し三等兵:2006/12/02(土) 10:02:12 ID:BXeRyE1f
秀吉が元気なら明軍を迎撃して反攻してたろな。
400 :
名無し三等兵:2006/12/02(土) 15:22:15 ID:eiVvSpxt
で秀吉が朝鮮に渡ったとたんに家康謀反。
補給の滞った秀吉軍は朝鮮で孤立。
さあどうする。
401 :
名無し三等兵:2006/12/02(土) 15:35:40 ID:BXeRyE1f
当然、家康が先鋒ね。
下層戦記スレになったか
403 :
名無し三等兵:2006/12/02(土) 16:51:18 ID:BXeRyE1f
撤退は秀吉の寿命次第。
つーか、せっかく朝鮮の王子をとっ捕まえたのになんでそいつらに
傀儡政権を組織させようとしなかったんだろう。
土日になるととたんに
半島人跋扈。
407 :
名無し三等兵:2006/12/03(日) 14:25:32 ID:5aWV3oMI
第一次晋州城も幸州山城も韓国人は大勝利だと思ってるみたいなんだけど
実際に日本軍はどの程度の打撃や戦略影響を受けたのでしょうか?
408 :
名無し三等兵:2006/12/03(日) 17:22:30 ID:5aWV3oMI
他の勝利は明軍がいるから誇らないみたいだな。
李舜臣提督率いる韓国軍の前に全日本軍は木っ端微塵。
どう分析したところで最終的に勝ったのは韓国なんだから意味ないよww?
まあ二度も韓国の侵略に失敗してるから悔しいのは分かるけどもう諦めてほしい。
しつこいよ。
独島から出て行け。
何で日本は昔から韓半島を狙うんだろう??
大昔半島を追放?された恨みを晴らしたい本能だろうか?
410だけど正確には独島に日本人は居ないね。
だから独島を狙うな。しつこい!
>412
自作自演おつ。
ところで韓国人はなんで日本人をそんなに意識するんだ?
414 :
名無し三等兵:2006/12/03(日) 19:18:23 ID:5aWV3oMI
本当は日本にコテンパンにのされたのを知ってるんじゃない?
>>414 最終的に負けたくせそれはないんじゃないww?
そういう態度って恥ずかしくて笑えるよww
なんかここに常駐してる朝鮮人がかわいく思えてきた。
日本は壬申倭乱で負けてまた数百年後に韓半島を侵略した。
20年ほど占領に成功したが結局日帝は滅んだ。
韓国人は広い心で許したのにまた独島を侵略しようとするのか。
こんどはちゃんと滅ぼしてやるから安心しろ。
更地にして塩を撒いとくかw
>>410 >どう分析したところで最終的に勝ったのは韓国なんだから意味ないよ
明軍のおかげで追い出せたんだろ?w
明に感謝なさいw
てか日本は指導者がなくなったから撤退しただけw
>まあ二度も韓国の侵略に失敗してるから
あれ?「日帝36年」は?w
>何で日本は昔から韓半島を狙うんだろう??
大昔半島を追放?された恨みを晴らしたい本能だろうか
そうだね。もともと日本の植民地だったのに野蛮人が奪ったからねw
>>417 自力で独立できなかったくせに何が「広い心」だよw
竹島は渡さなんよ
悔しかったら国際司法裁判所に出て来いww
421 :
名無し三等兵:2006/12/03(日) 21:27:10 ID:5aWV3oMI
負けたって?どこに?明国?
明の力がちょっと大きかったとしてもだから何?
今日本が中国に攻撃されたら反撃するのは米日同盟があるからアメリカだろう。
それで中国に勝って韓国人に笑われたらどうするの?同盟も作戦のうちと強がるんだろ、お前達は。
要するに韓国が民国の力を利用しただけじゃん。
それも広い意味で韓国の力じゃん。
同盟も戦略のうちだよ。
お、朝鮮人が明国のおかげで秀吉軍を追い出せたってみとめたぞ。
426 :
名無し三等兵:2006/12/03(日) 22:05:44 ID:5aWV3oMI
確か秀吉が寿命に負けたんだったよな?
>>425 だからそれも韓国の力じゃん。
同盟も戦略じゃん。
この機会に日本人全員は今こそ心からの反省をするべきではないでしょうか?
日本人が今まで大韓民国や中華人民共和国の心優しい方々に対してどんなひどいことをしてきたかはみなさんも知ってますよね?
大韓民国や中華人民共和国で正しい教育を受けてきた立派な子供達は今ひどい苦痛を受けています。
あの清く正しい子供達は邪悪な日本の国旗を見ると、とても気分が悪くなります。
なかには日本の国旗を見ただけで泣き出す子もいるんですよ?どう思いますか?
子供達の心は純真です。誇り高き血の中に日本人にされてきた残虐行為の記憶が蘇るのです。
さあみなさん、今こそ日本の国旗を燃やしましょう!
日本の国歌は世界侵略の歌です!みんなで拒否しましょう!
心からの反省の態度を大韓民国や中華人民共和国の清らかな子供達に今こそ見せましょう!
平和の行動を起こしましょう!
429 :
名無し三等兵:2006/12/04(月) 18:08:03 ID:9zR2jq96
朝鮮人が先を争って大陸へ進出したり捕虜を虐待したわけですが。
430 :
上級兵長:2006/12/04(月) 18:11:42 ID:Kz54LpqL
・・・残忍
>>422 >明の力がちょっと大きかったとしてもだから何
明が来る前まではボロ負けしてたクセにw
>今日本が中国に攻撃されたら反撃するのは米日同盟があるからアメリカだろう
日本は「九条」があるからな。手を出せないんだよ。
まあ近づいてきたヤツはツブせるが。
李朝は「交戦権」があったに関わらず明に頼ったんだが?w
>要するに韓国が民国の力を利用しただけじゃん。
それも広い意味で韓国の力じゃん
都合のいい解釈だな。
「利用」したのではないだろう?朝鮮は明の「属国」だったんだから
明は対面上兵を出さざるを得なかった。それだけのこと。
朝鮮が明を「利用」したならなぜに明は戦争の初期に朝鮮国境に
部隊を配備したんだ?w
結局明がなければ日本に太刀打ちできなかった と
結局は明と日本の戦いだな。
なんかもりさがってるな。
おい、帯同中の朝鮮人、盛り上げてくれよ。
一週間振りに見たら…お前等な、雑魚過ぎるんだよ
たまには俺が参考にする様な書き込み出来ねえのかよ
あとチョン、ネットでも日本に来るんじゃねえよ
チョンの書き込みは全然参考にならんのだよ糞馬鹿が
具体的に何を書けと?
435 :
名無し三等兵:2006/12/06(水) 08:30:48 ID:zPgyd9/a
>>428 >誇り高き血の中に日本人にされてきた残虐行為の記憶が蘇るのです。
有史以来の属国なのに誇りなんてあるの?
>>435 有るよ、第二次大戦後に捏造した偽りの埃だけど。
元均の評価は?
日本=ドイツ
朝鮮=フランス
明=アメリカ
439 :
名無し三等兵:2006/12/09(土) 23:44:52 ID:acwREqd/
明が助けにこなかったら亡命して朝鮮滅亡。
「秀吉の軍令と大陸侵攻」を購入
「秀吉の軍令と大陸侵攻」中野等著(\9500+税)
「大陸侵攻において、秀吉は前線の諸大名に決定権を与えず、日本からの軍令で指示を出した。
軍令が届くまでの「時差」は、戦局にどのような影響を及ぼしたのか。
軍令を分析して、戦争の変容を解明、侵攻を体系的に叙述する」
まだ読んでる途中だが、買って良かったw
朝鮮役でこんな本が読みたかった
いい本だが
「戦い(鳴梁海戦)ののち、日本の船手衆は熊川まで後退し、
これによって船手が西方に展開するという作戦は頓挫する」
となっている。
「朝鮮役」でググると「阿波水軍と朝鮮の役」というのが三番目に出るが、その中の文には
(注,那波利貞先生の月峯海上録注釈に慶長2年9月27日,七山島附近で鄭希得(月峯と号す)等が
倭将森志摩守忠村に捕えられ、12月31日徳島に護送された。とあるように海上の攻防戦はその後も続けられていた)。
というのがあるね。
今後はこうなって行くのかな?
「文禄・慶長の役」中野等著(戦争の日本史一六)2007年刊行予定
ではどうなるやら…。
(九月)二十四日、務安県の一海島‐落島(不詳)という‐に着いた。
〔そこには、〕賊船が数千艘も海港に充満し、紅白の旗が日に照り輝いていた。
(中略)船がすでに中流にさしかかった時、一人の賊が、通訳を引き連れて来て、問いかけた。
「水路の大将〔李舜臣〕は、今どこにいるのか」
私は答えた。
「泰安の安行梁は、もと難行梁といって、〔ここを〕下る漕船が毎年漂流、沈没したものだから、そ
の名称を、〔航行し難い瀬という意味の難行梁から、航行し易い瀬という意味の安行梁と改め〕善く
することによって、これを鎮めたのである。いわば水路の天険である。それで、明国の将軍、召・顧
両遊撃がか船万余艘を従え、〔その安行〕梁の上下を横切り、遊〔撃〕船はすでに群山浦に到着した。
統制使〔李舜臣〕は、衆寡敵せずとの見地から、退いて明の兵と合勢したのである」と。
〔これを聞くや、〕賊徒の互いに見合わせる〔顔の〕色が変った。
私はひそかに、「私を執えたのは誰か」と通訳に問うたところ、
「伊予州守佐渡(藤堂高虎)の家来、信七郎という者である」と答えた。
看羊録
賊は私を士族と認めたのでしょうか、私と兄弟を同じく船楼に縛りつけ、船を回して務安県のとある
島に至りました。
〔そこには〕賊船六、七〇〇艘が数里ばかりにわたって満ち溢れており、〔それらの船には〕わが国の
男女が倭〔人〕とほぼ相半ばするほどいて、船ごとに哭き叫ぶ声が海や山を震わせるほどでありました。
順天の左水営についてから、賊将佐渡守は私と兄のジュン・ホアン、妻の父金ボンら、そして家属
(家族、下人ら)を一船に載せ、倭国に押送させました。
船は順天を出て一昼夜で安骨浦に着き、翌日の暮に対馬に至り、風雨のため二日留まりました。
その翌日の暮れに壱岐島に着き、また翌日の暮に肥前州に、次の日暮に長門州の下関に、その翌日の
暮に周防州の上関に着きました。いわゆる赤間関であります(※赤間関は下関の別称であり、間違い)。
更に翌日の暮に伊予州の大津県に到着し、そこに留置されました。
看羊録
しかし秀吉の軍令と大陸侵攻は、今後朝鮮役考える上で背骨になりそう
この本に今まで集めた本を当てはめて…って感じ
>>392 一五九三年二月十二日に、日本軍が漢城の北西約一四キロメートルに位置する幸州山城に籠城してい
た権慄の率いる朝鮮軍攻略に失敗した幸州山城の戦いは、日本軍の宇喜多秀家、石田三成、吉川広家、
前野長康らの武将も負傷するほどの激戦であり、日本軍に大きな被害を出すこととなった。
この幸州山城攻略の失敗は、日本軍の被害の大きさと相俟って、漢城の諸陣を再編せざるを得ない事
態を引き起こした。四月八日に入ると、
「自賊中逃還人言、城中賊陣凡六処、幸州接戦時、墨寺洞臣陣、即倭将以下(尽)死、
其余各陣之倭、亦多死傷、今則只有南山三陣、小公主洞一陣云」(宣祖実録)
という状況となり、以前は漢城内に六ヶ所の日本軍陣所が存在していたが、幸州の敗戦後は南山の三
陣所と小公主洞の一陣所に縮小されたのである。「賊中」から逃げ帰った人物の証言であることから、
ある程度信用してよいであろう。幸州山城の敗戦が、日本軍に如何に大きな影響を与えたかを、陣所
の再編成という動きが証明している。
朝鮮の役と日朝城郭史の研究
城は放棄されたけど日本軍は配置を元に戻さなかったよね?
別の要因では?
>>449 他の要因について何か提示等あればお願いします
俺は基本的にこうだと言うつもりはないよ
こういう話があるという程度
ただの趣味だからな
>>450 3月中旬から日明の和平交渉が開始され、
4月7日に漢城撤退を許可する秀吉の命令書が届き、
4月17日に明の使節が到着して翌18日から撤退を開始している。
この時系列から見れば、4月8日の兵力再編は撤退準備のためなんじゃないかな。
市街地の南方に兵力を集中しているようだし。
朝鮮は日明交渉では完全に無視されていたので、
日本軍の動きを「幸州大捷」の影響と勘違いしたのも無理はないと思う。
>>451 四月八日という記事の日時を重視し、撤退時の状況ではないかという事ですかね
なるほど
南側には元々いた様だ
ちと忙しいので詳しくは数日内にまた書き込みします
453 :
名無し三等兵:2006/12/17(日) 13:46:57 ID:Ywyb+Z7K
幸州山城攻めは日本軍にとって城攻めで明軍主力を誘い出して会戦で仕留めるというMI作戦のような企画だったんじゃないか?
>>452に詳しく書くと書いたが、面倒だなw
スレのレベルも低いし
特にリクエストがなければ放置で
吹くだけ吹いてそれかい?
>>487にも書いたが、相手によるし、気分にもよる
真面目なリクエストなら書くよ
俺は宇宙の中心に位置する男だからよ…
俺の機嫌をそこねたらもうこないぞ・・・
いつ謝罪するのか待ってるんだが・・・
全羅道軍が北の本隊へ合流した後に明の作戦支持を得られずに単独籠城したのが幸州山城の戦い。
日本軍撤退には後巻きの援護が効いていたわけだが単独で日本軍を追い返せたかに見えるので大捷を名乗っているんだろうな。
464 :
名無し三等兵:2006/12/23(土) 14:57:03 ID:9PRUA7b1
465 :
名無し三等兵:2006/12/28(木) 22:26:07 ID:Xfrtxn+A
征伐
頑張れない
百まで長生きして矍鑠としていれば違ったかも?
龍仁戦闘について教えて下さい。
李舜臣将軍が殺した倭人は何万人ぐらいですか?
日本提督達も忠武公を崇拝していたことでわかっています。
初心者質問スレを参照
24 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2007/01/03(水) 19:16:50 ID:ErGZzQq9
壬辰倭乱で李舜臣将軍が何万人の倭人を殺したか教えてほしい。
96 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/01/04(木) 05:00:38 ID:???
>>24 七年間の朝鮮役で李舜臣指揮を含めた朝鮮水軍と明水軍の攻撃による日本軍の戦闘死傷者総数は数百人から数千人の規模(最大でも五千人前後)と考えられます。
また李舜臣の攻撃で日本軍の補給や連絡が恒常的に遮断されたことはなく、極短期間の攻撃時間以外で補給連絡線の制海権を維持できたことはありません。
二次的な船腹不足に影響が無いとは言えませんが、海象による事故や寿命の自然減耗に比べるほど戦闘消耗は激しくありません。
97 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/01/04(木) 05:19:37 ID:???
>>24つづき
また日本軍には廻船補給計画は元々存在せず、例え朝鮮水軍が存在していなくとも陸上作戦的な海岸支配と技術的な海路開拓の問題によって漢城方面への海路補給が成立することは非常に困難です。
98 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/01/04(木) 05:32:13 ID:???
>>24さらに続き
李舜臣に対する評価は戦争指導指揮を行なっていたのが明であり、朝鮮独自の勝利ソースの少なさと李舜臣の属した派閥の評価から朝鮮内部で珍重されたこと、それの日本での江戸時代の受け売りと豊臣失政というレッテル貼りが罷り通った。
そして、明治以降のマハンの海上権力論を奉戴して海軍権益を拡充した帝国海軍の宣伝が原因となっています。
これが権威となり、詳細研究や先行研究批判が充実しないまま戦中に頂点を迎え、戦後の史観へ退凋します。
つまり李舜臣への幻想は朝鮮役という戦争全体の研究不足が原因となっています。
472 :
名無し三等兵:2007/01/05(金) 14:41:21 ID:OvF6TuRh
へ?その程度なの?
大和特攻と同じように効果ではなく象徴としての意味があったということだな。
困ったときのイスンシン
胃の痛みにはサクロン
476 :
名無し三等兵:2007/01/06(土) 20:50:05 ID:rY7nvAXO
攻撃したという確たる証拠はない。
また、当時の秀吉の手紙を見ると、内陸部の補給の困難などは書いてあるが
李に補給路を攻撃されて困ったぁ、とかそんな話は現地軍からも出ていない。
そもそも、李がいてもいなくても、明に攻め込むには補給は極めて難しかった。
>>476 補給戦は日本の戦国時代には触れてないよ
朝鮮役の補給で手元の本で参考にしてるのは中野等氏の「豊臣政権の対外侵略と太閤検地」と「秀吉の軍令と大陸侵攻」かな
あとは吉川弘文館日本の時代史13巻天下統一と朝鮮侵略に中野等氏が
「唐入り」と兵站補給体制、っての書いてるみたいだけどこれは読んでない
で、ネットの意見を参考にするには、こちらもある程度勉強してないと話にならないんでないの
俺がその韓国サイトの意見を考えるのはある本を入手してからかな
後は太田秀春氏の「朝鮮の役と日朝城郭史の研究」の
「日本軍による朝鮮住民の還住政策」も面白いんでないの
日本軍の朝鮮での地域支配、占領政策
閑山島・安骨浦の海戦の影響や秀吉の動きは「秀吉の軍令と大陸侵攻」の
P117〜P123辺りがいいんでないの
もっと細かく、海戦後の築城状況時期配置計画構想等についてはまた本買わないと詳しくわからないな
黒田慶一氏の「韓国の倭城と壬辰倭乱」読むと文禄元年には
安骨浦・加徳・金海竹島・西生浦・熊川倭城はまだ築城されていない様だ
482 :
名無し三等兵:2007/01/08(月) 12:45:39 ID:3NqzF2AC
餓死者を多数出している朝鮮軍
特に李舜臣こそ補給に失敗してるんだよな
>>482 …昔のスレにもあったが、何年頃
「李舜臣」はなるべくハングル板のスレで処理して欲しいねえ
朝鮮の役と日朝城郭史の研究によると、海岸で秀吉の築城指示があった場所もしばらくは築城せずに現地の城を拠点に使ってて
「李舜臣」が熊川に来た頃もまだ朝鮮城郭利用してる様だ
そのままではないだろうが
ウィキペディアには南岸域の要所に城砦を築いてとか書いてあるが、これは本格築城と紛らわしいかもしれない
しかし
>>463は何読んだのかよくわからんな…
後巻きとか追い返したかに見えるとか…
朝鮮のいい様に訂正するのは面倒かつ不快だわ
486 :
名無し三等兵:2007/01/08(月) 19:17:40 ID:z+OTBRkD
乱中日記に水兵の餓死や疫病が記録されていたと思った。
何年何月かは知らん。
>>478 最新の「軍事史学」に「豊臣政権下での兵站整備とその限界―西欧との比較から―」
で仮に妨害を受けなくても釜山〜漢城間の陸上兵站輸送は漢城に駐留している兵の
約1.3倍の人夫が必要とある。
政宗が渡海した時は、釜山から半径25キロ以内でも兵站線が機能せず、苦労した様です
政宗は補給定員だったの?
>>490 補給定員?
政宗は当初兵站担当の浅野長政の補佐として渡海した様です
買ったよ。
朝鮮不毛。
ブクオフに流れるのを気長にマトウ
休戦中だし
497 :
名無し三等兵:2007/01/15(月) 20:36:32 ID:1KrOADxv
日本軍て負けたことあるの?
半島行くより、北に行った方が良かったな。
樺太を固有の領土にした方が
米取れますか?
むしろ南じゃないか。
オーストラリアまでなんかの間違いでとってたら今頃日本は・・・
いや太平洋横断してアメリカを目指せ!!
502 :
名無し三等兵:2007/01/16(火) 08:00:51 ID:1PopVaN9
もう十万人ぐらい投入して屯田していたら切り取っていた?
>>498 労多くして得るものなし(当時ではまだ)
先手を取ってアメリカに10万送ってインディオと同盟してれば西海岸は日本領か
徳川家をアメリカに封じてもいいね。
その場合太平洋戦争が日本人同士の戦いになった。
>>498 秀吉の蝦夷地に対する認識や対応は手持ちだと岩波講座日本通史近世1(1993)に若干ありますが
当時はオランカイ=蝦夷という地理認識があり(吉野甚五左衛門覚書)
秀吉の目は蝦夷島から樺太、そしてオランカイへ向かっていたとあります
当時の樺太なんて、北方三民族が細々と暮らしてただけで、
労せず占領できたんじゃない。
蝦夷を素通りできれば。
今月の歴史群像、加藤清正の特集がほとんど朝鮮戦役の話だった件
そっちって、どっち?
群像の概要紹介希望。
学研と小学館って似てるよな。
その逆が講談社かw
513 :
名無し三等兵:2007/01/17(水) 19:30:23 ID:JkPUCNs3
清正酷評?
歴史群像FEB.2007
豊家生え抜きの戦国テクノクラート
真説・加藤清正
第2次朝鮮出兵であった慶長の役では、日本軍は漢城に到達することもできなかった
朝鮮・明連合軍の反撃の前に日本軍は南部海岸に押し込められてしまう
そういや、征伐なんて使ってるところはもう無いんじゃないのか?
精々出兵。
侵略はさすがに見ないが。
今後は教科書でも朝鮮出張になるらしいよ
中野等氏の「秀吉の軍令と大陸侵攻」の「はじめに」には
朝鮮侵略ではなく大陸派兵、大陸出兵、大陸侵攻といった表現をとる方が
この戦争の本質に近づけるのではないかと考えている
(大陸には朝鮮半島を含む)
とあります
当然だろ、だって”唐入り”だもの。
まあ実際には、はるかに及ばず半島で止まったから、”元々朝鮮が目的だったんだー”
って言いたい気持ちは解るけど。
521 :
名無し三等兵:2007/01/19(金) 19:49:17 ID:gIAIPqPa
川船輸送が考察から除外されているな。
洛東江→漢江か
川舟輸送は現地住民の協力が不可欠だし、義民にも襲撃され易い。
まぁ、
>>520でも小早川が「途中に山坂があるので大変。川船は今の繋ぎの人数では無理」
と言うてるから、陸路ではそれ以前なのであろう。
524 :
名無し三等兵:2007/01/20(土) 11:10:40 ID:zk0L3b8k
現地調達への依存度はどうなの?常識?
>>524 侵攻軍の乱暴狼藉を恐れ、それを防ぐ為に服従の証としての兵糧の提供は
古今東西程度の差こそあれ何処でも行われている。
ただ、それを提供する側が自発的に行うか、強制的に行うかで後世の評価は
大分異なる。自発的に行う日本の農村はその意味ではかなり特異な連中。
>525
>自発的に行う日本の農村はその意味ではかなり特異な連中。
なんかいかにも日本人っぽいよね。
ってどうせとられるならこっちから渡して少しでもご機嫌を伺おうってきもちもわかる。
そんな俺は当然日本人。
日本の場合敵味方双方に親戚がいたりするし
528 :
名無し三等兵:2007/01/20(土) 14:22:11 ID:f+0XB+uM
昨日の味方には略奪されますたと言い繕い。
白峰旬著豊臣の城・徳川の城-戦争・政治と城郭
北島万次著壬辰倭乱と秀吉・島津・李舜臣
を購入
しかしキリがないな
伝えの城の築城目的は、釜山〜漢城〜平壌の間の主要ルートの確保であり、その城数として三十二城
が確認できることから、こうした長い距離に多くの城が点在した結果、伝えの城は、相互の救援体制
が不十分であり、兵糧の補給にも難点を抱えるなどのデメリットを有していた。
つまり、伝えの城の存在形態は、広大な領域を点(=伝えの城)と線(=釜山〜漢城〜平壌の間の主要ル
ート)の関係で押さえるものであり、軍事攻勢をかける場合(戦線を急速に拡大させて、明への侵入
をはかる場合)は、このような領域の押さえ方も維持できたが、日本軍が守勢になった場合(明が朝
鮮国内に兵力を投入した場合)は、伝えの城に兵力を分散させたままでは、各々の伝えの城の間を分
断されて各個撃破される恐れがあったと考えられる。
豊臣の城・徳川の城
小西行長などの攻略により平壌が陥落したのは六月十五日であったが、その少し前の六月三日付秀吉
朱印状では、漢城〜明国境までの地域において、「つなぎの城々」の普請と在番が命じられた。
この命を受けたのは、黒田長政・毛利吉成・加藤清正・鍋島直茂など、「先衆」として漢城以北に兵力
を展開させた諸将であり、平安道・黄海道・かん鏡道・江原道において、諸将が各自の戦線を伸張さ
せるのに伴い、「つなぎの城々」を築城することを意味したものと思われる。
こうした諸将による諸城での在番体制は、同年十一月頃には整備されていた様子が窺える。十一月十
日付の諸将に宛てて出された秀吉朱印状によれば、来春三月に秀吉の渡海予定を通達し、それまでの
間は、伝えの城(釜山〜漢城〜平壌)を諸将各自が堅固に守備して、兵糧を備蓄するよう指示したこ
とがわかる。
この他、船手の諸将(藤堂高虎・脇坂安治)には、秀吉渡海予定までは海戦を停止し、陸上で城を堅
固に守備するように指示した。
また、漢城以北に在陣していた小早川隆景(開城に在陣)・加藤清正・鍋島直茂(ともにかん鏡道に在
陣)に対しては、明が平壌(小西行長が在陣)に軍事的攻勢をかけた場合は援兵を出すように指示し
たほか、平壌に在陣していた松浦鎮信に対しては、冬季における明の軍事的動向を警戒するように指
示した。
豊臣の城・徳川の城
このような秀吉による命令は、@秀吉みずからの渡海予定(実際には実現しなかった)を通告するこ
とによって、弛緩しがちな在番体制の士気を高める、A伝えの城(釜山〜漢城〜平壌)での在番体制
を堅持して釜山〜漢城〜平壌間の主要ルート(「道筋往還」)を確保し、兵員及び軍需物資の輸送に支障
を来さないようにする、B平壌に対する明の軍事的攻勢を警戒し、戦闘状態になった場合は援兵を出
せるよう注意を喚起する、などの狙いがあったものと思われる。
大局的に見て、これらの点は、越冬期間を迎えようとする在番諸将に対して適切な指令内容であり、
秀吉自身が戦局を決して楽観視していなかったことの証左ともなり興味深い。
同年末には、在番諸将が上述の秀吉による命を受けて、「朝鮮之儀、諸城何モ丈夫ニ相抱、今時分往
還モ(車取)之由申上候、兵糧以下モ相蓄有之由候(文禄元年十二月二十八日付駒井重勝・前田玄以宛
長束正家書状)」とした様子が確認できる。
豊臣の城・徳川の城
>>521-523 郭再祐が洛東江で川船を攻撃してるから河川輸送は行われてたんじゃないか。
535 :
他板より:2007/01/21(日) 17:50:35 ID:???
>>535 下の文
>硬い鉄板の鎧は刃器に強い反面、弩矢や銃弾などに貫かれやすい。
>衝撃を吸収する環鎖鎧はその短所を補うものであった。
逆じゃないのか?
チェーンメイル系は刃の攻撃には強いが、矢などの突撃には弱くて
プレートメイル系が突撃にも強い。それが定説じゃないのか?
以上から、豊臣政権の国内戦での兵站についてまとめると、同政権による兵站整備は、主に海上輸送
で作戦発起点に兵糧を事前に大量集積して給付することまでで、そこから戦地までの陸上輸送は各大
名の自力に任されていた。
しかし、各大名のし重隊の能力は低く、九州征伐では前線で食料難が生じ、北条氏攻めの東海道軍は
後方あるいは小田原方面からの兵糧補給が見込めなかったため敵からの兵糧接収を意図せざるを得ず、
これが戦闘形態にも影響を与えていたと見られる。
軍事史学通巻166号
日本名護屋ヨリ壱岐対馬朝鮮マテノ道程
一 名護屋(今津 柏島) 太閤様本陣
此間海上13里長州赤間関ヨリ四拾八里
一 壱岐湯浦中国船着所有リ
壱岐ヨリ対馬府中マデ四十八里
府中ヨリ豊島マテ国中三十三里
豊島ヨリ朝鮮槇島マテ四十八里
槇島ヨリ釜山海マテ三里
以上海上百八十二里ナリ
一 対馬 (府中 豊島) 久田ノ浦中国船アリ 船着ト云所アリ 大船越小船越ト云所二ヶ所アリ
一 朝鮮槇島 毛利輝元公御持口ノ内毛利元清毛利元政
一 同 石山 輝元公の内吉川廣家小早川隆景
此間二大河アリ此河エ海邊ヨリ四里
朝鮮渡海日記 下瀬七兵衛尉頼直
一 釜山海浦 岐阜少将陣所
此間二里
一 登來 同人持口當番 品崎小傳次
一 梁山 谷出羽守石子備後守稲葉彦六
此間大河アリカチワタリ
一 安湯 別所豊後守
○ 新城 三里
一 清道 五里小作左衛門大夫
○ 新城 四里
一 大丘 四里稲葉右京 西村左兵衛 明石左近
○ 新城 四里
一 仁道 三里 木下備中守 南條左衛門尉
此間ニ大河アリ仁道ヨリ河迄二里半此河舟渡リ常ハ陸渡リ
一 開寧 一里半 輝元公本陣
一 善山 五里 宮部兵部 項屋新五郎
○ 新城 四里 戸田民部預リ
尚州 四里 戸田民部在城
一 ○昌 土佐中将預リ
一 間慶 四里 同人在城
○ 新城 六里 蜂須賀阿波守預リ
○ 新城 二里 同人預リ
此間ニ主(山元)山ト云ウ大山有リ
一 忠州 同人預リ
此間ニ大河アリ河迄二里
一 陰許 河ヨリ二里半 同人在城
一 竹山 四里 福島左衛門大夫在城
○ 新城 三里 同人預リ
此間ニ大山アリ
朝鮮渡海日記 下瀬七兵衛尉頼直
一 湯賀 中川左京預リ
○ 新城 四里 備前宰相預リ
○ 新城 一里半 同人預リ
○ ○川 一里 同人預リ
此間ニ虎戻川アリ川迄一里半
○ 新城 川ヨリ一里半 石田治部預リ
○州ノ新城 小早川左衛門佐預リ
此間ニ大河アリ
○ 新城 二里 同人預リ
一 開城府 同人在城
○ 新城 一里半 毛利輝元公預ノ内
此間ニ大河アリ河迄二里
一 平山 毛利輝元公預リ
○ 新城 四里 同人頂リ
一 鳳山 四里 大村新八郎 大友義統預リ
一 黄州 六里 同人在城
一 中和 七里 小西摂津守預リ輝元公人数
此間ニ大河アリ
一 平壌 五里 小西摂津守在城
一 順安 二里 輝元公先手番所
一 ○川 六里
是ヨリ奥ヘハ中国勢九州勢打合セ先手切払行其故番所替之次第明退々々被相詰大将不定
一 定州 十里、一 郭山 六里、一 宣州 七里、一 鐵山 七里、一 龍川 五里、一 義州 四里
是唐堺鴨緑江向ハ遼東也
新城四十五傳ノ城也
釜山浦ヨリ義州迄道一筋通法三百里
朝鮮渡海日記 下瀬七兵衛尉頼直
この『朝鮮渡海日記』で○印が付してある「新城」は、新規に築城した「つなぎの城」であり、それ以
外は既存の朝鮮の邑城を利用したものとみられる。ただし、○印のついていないもので当時邑城が築
かれていなかった邑も若干存在しており、その場合はすでに廃城となっていた近隣の古城を利用した
ものとみられる。
明への主要な侵攻路であった釜山〜平壌間以外にも、加藤清正・鍋島直茂らが駐屯していたかん鏡道
に「つなぎの城」が置かれていたことが確認できる。
朝鮮の役と日朝城郭史の研究
グッジョブ!!
543 :
名無し三等兵:2007/01/22(月) 12:28:47 ID:5XB1xpNz
>>537 釜山を兵糧の集積点に設定して、そこまでは豊臣政権が運んでやるから
後は各大名が各自で運べってことだな。
人間は、一時間で一里(約4km)歩く。
>>539-541の各拠点間の距離は、
ある拠点から隣の拠点まで、一日の内に救援に行って帰ってこれる距離に設定されており、
相互の救援体制を十分計算に入れた拠点配置である。
従って、
>>530の「相互の救援体制 が不十分」
「各々の伝えの城の間を分断されて各個撃破される恐れがあったと考えられる。」
といった表現には疑問を感じる。
546 :
545:2007/01/22(月) 17:37:14 ID:???
各拠点間が一日で往復可能行動圏と言う事に加えて
隣の拠点の情勢を視認可能距離に設定されていると言う事も付け加えておく。(霧などの視界不良時を除く)
つまり、相互支援には極めて合理的に考慮された拠点配備がなされているといえる。
百済地区だけ同盟に担ぎ上げると化できなかったのか?
当時の朝鮮は中央集権国家で有力な地方勢力がいない。
小身の土豪を集めても、それを束ねる朝鮮人がいなければ烏合の衆です。
小身の土豪って両班か?
552 :
名無し三等兵:2007/01/24(水) 08:04:51 ID:6q0+/u1o
中央弱権だよ奈良時代並み。
553 :
名無し三等兵:2007/01/24(水) 16:40:27 ID:6q0+/u1o
朝鮮史は中世を経験していないから遵法精神が育たない。
やっぱり現地の人間利用しないと。
地方の実力者でも。
犯罪者・被差別だけ味方に付けてもゴミ。
だから、地方の実力者がいないのだって。
中央=王権は強くないんだが、その下の両班階級もソウルに集まっていて領地にいない。
地方にいるのは短期赴任の官僚と徴税請負人で傀儡にするには不適当。
いわゆる”義兵”の指導者になったような連中をみれば、
当時の朝鮮にどれほどの人材がいたのかよく判る罠。
地方は完了だけでOKとは治安は良かったってことか。
軍隊も協力じゃないし奈良・平安の平和な治世って感じかな
いわゆる”義兵”の指導者は両班階級じゃなかった?
558 :
名無し三等兵:2007/01/25(木) 07:15:45 ID:MhK1oe7N
毎年、収穫前の春先に餓死者がでる貧しい国ですた。
インフラ整備をしない統治稚拙、搾取がひどく開発意欲もない農民、無成長国家。
日本の東北地方とどっちがマシかな
結局李舜臣って名将なの?
補給を絶つなんて誰でも思いつく。
日本は水軍を脆弱化していたことが致命的だった。
かつての主君の信長が仇になった。
>>561 補給を絶ったなんて捏造。
李舜臣は何もしていない。
常識で考えて朝鮮人にマトモな人物がいる筈がない。
文禄二年(一五九三)年一月段階においては、豊臣軍主力が集結していた漢城では兵糧は一万四〇〇〇
石しかなく、三月一杯しか保たないという状況であったとされる。
こうした事態に直面した豊臣政権は、それまでの間に日本から釜山付近に輸送・集積していた兵糧につき
同年二月十八日付の文書で「兵糧之儀、釜山浦へ被相付、各へ可被下候間、手(繰?)ニ仰付候、(略)」
と命じ、北条氏攻めの際と同様、作戦発起点である釜山から先の陸送は各大名の責任と認識されていた。
ただ、この兵糧輸送は不可能だった。豊臣秀吉の朝鮮半島への渡航を想定して出された「高麗都御座
所普請衆」についての書状では、釜山・漢城間を一三泊一四日とする。釜山・漢城間の連絡路は山岳
地帯を通りめぼしい水路もなく、道中は全て徒歩・駄馬に依ったと思われる。
軍事史学通巻166号
天正二十年後半は、文禄・慶長の役を通して、最も戦域が拡大した時期であり、それに伴い、諸将
(及びその家臣)が在番する諸城は朝鮮半島の中で広く分布する形になっていた。
釜山〜漢城〜平壌間の主要ルートに沿って構築された伝えの城も、前述のように、同年末には諸将に
よって堅固な在番体制が敷かれていたが、こうした状況は、文禄二年(一五九三)正月の明・朝鮮軍の
攻撃による平壌陥落を契機として変貌を余儀なくされた。
この平壌陥落では、小西行長(平壌を守備)を救援できなかった責任をとって大友吉統(鳳山に在城)
が改易処分にされたことからもわかるように、前年の十一月十日付で出された秀吉の命(明が平壌に
いる小西行長に軍事的攻勢をかけた場合は、「手寄之城々」より援兵を出すように指示した)は実行さ
れず、伝えの城が有効に機能しなかった点は秀吉の当初の戦略と相違するものであったと言えよう。
豊臣の城・徳川の城
>>560 戦術的名将(戦国武将なら上の下クラス)
戦略的にはなにもしていない。
>>561 負け側が小さな戦果を過大に宣伝するのは何処でもあること。
日本の補給が危機に陥ったことは結局無かった。
その後、明・朝鮮軍がさらに南下し、同年正月下旬、日本軍は碧蹄館の戦いで迎撃に成功したものの、
兵糧不足などの理由から同年四月には漢城からも撤退した。
こうした明・朝鮮軍の軍事的圧迫が続く中、かつて釜山〜漢城〜平壌間に所在した伝えの城のライン
は、同年正月下旬の時点で釜山〜漢城間に縮小していた。
この点は、同月二十三日付で、石田三成等が秀吉に対して、小西行長の平壌撤退後の戦況報告をした
内容からも知ることができる。
つまり、この報告の中で、@釜山〜漢城間に位置する伝えの城(「つなきの城々」)の普請を油断なく申
し付ける、A釜山における明・朝鮮軍の番船への警戒策として、「ふさんかい湊口両方」に城々を築
城する必要があり、その「城所」の絵図を提出する、B朝鮮の国土の広さに比較して、日本軍の兵数が
少ないことから、「海端・河へり」において諸城を堅固に築城する必要がある、などの点が秀吉に対
して上申された。
こうした点は現状報告にとどまる内容ではなく、数カ月先までの対策を含めたものであり、@は釜山
〜漢城間における伝えの城のラインを死守しようとする意図、Aは日本軍の戦況悪化に伴って活発化
されるであろう朝鮮水軍の動向に対する警戒、Bは内陸部における伝えの城とは別に沿岸部にも築城
する必要性、をそれぞれ意味したと考えられる。
豊臣の城・徳川の城
文禄の役での日本側の補給について中野氏は「日本からの海上輸送に関しては一定の成果をあげたも
のの、半島南岸に集積された兵糧の前線部への転送は概して不調に終わ」ったとし、「国内統一戦で
は糧まつの組織的補給を展開した豊臣軍はここにきて兵糧を『適地』にもとめるという逆行した政策
を採用している」と評価するが、二(国内戦に見る豊臣政権下での兵站整備と補給の実態)で述べた
とおり、豊臣政権の兵站改革は主に海上輸送による作戦発起点への兵糧の事前大量集積に尽き、北条氏
攻めでも特に内陸部では敵からの接収の食糧に頼っていたから、文禄の役の状況は「逆行」とは言い難い。
また、豊臣軍の陸上補給が義兵や明軍の攻撃で途絶したとの見方もあるが、当時の輸送能力を考えれ
ば、兵糧徴発への現地住民の非協力という消極的な抵抗だけでも豊臣軍の漢城維持は不可能で、戦線
停滞以降は、一(近世の西欧での兵站整備と補給の限界)で示したクレウ"ェルトの@の原則(
>>343 の第一)が、また、釜山・漢城間で水路が使えなかったことについてはB(
>>343の第三)の原則が、
文禄の役でもそのまま妥当していた。
軍事史学通巻166号
>>567修正
×兵糧を『適地』にもとめる
○兵糧を『敵地』にもとめる
569 :
名無し三等兵:2007/01/28(日) 09:29:55 ID:PyIISWke
兵糧を敵地に求めることは大軍運用では第一次大戦の初期までの常識だろ?
570 :
名無し三等兵:2007/01/28(日) 13:17:17 ID:PyIISWke
九州役でも小田原役でも朝鮮役でも海送したのは味方の港など確保済み、敵地や不安定な地点への海送は現実的な判断として無謀であった。
あげ
572 :
名無し三等兵:2007/01/28(日) 19:13:01 ID:DvH2YR8B
日本軍は船員の確保とか航路の把握とかできていたの?
一時、朝鮮半島を蹂躙すると思われた日本軍は、兵站が途切れたことで進軍を断念せざろう得なかった。
外線作戦を展開する際にはやはり補給がもっとも重要な要素となるが。。。
それにめっぽう強かったのが蒙古帝国だったな。
彼らは羊と共に移動して、迅速な遠征を成功させている。
定住民族では真似できないやり方だ
>573
ジンギスカン作戦をご存じないと?
まあ大失敗におわったんだけどねorz
半島の北越境まで言ったら、もう補給なんて陸レベルでも満足いかないだろ。
現地の食料奪っても、力の元にならないような味のメシだし。
半島経由ってルート選定が失敗だったのかね。
済州島を中継地にして、杭州あたりに行った方が良かったんじゃないかな。
それこそ朝鮮海軍に叩かれそうだが
当時、朝鮮”海軍”なんて物は存在しない。
結局
倭寇 >>>> 秀吉
なのか?
倭寇って今更ながら本当に日本人がやったことなのだろうか
最近でも悪いことは全部日本の所為にされているので何か疑問になってきた
隣村の貧乏人が盗賊をしただけだろ?
「倭」寇だったのは初期だけでそれ以降は中国の方が多かったって聞いたけどね。
ノモンハンと同じく日本軍の敗北。
でも両方とも勝利にするのが酷使さま。
>580-582
そもそも倭寇って一概に「悪い」ってものじゃないぞ。
ヨーロッパのヴィーキング等と同じで、基本的には武装商人。
初期は土地を持たない零細漁民が漁期の合間にやっていたものが、
後期にいたり専業の貿易商人となり、その主体も中国人に変わっていった。
だから、勘合貿易が盛んになると実入りが悪くなって消滅する。
つか、歴史上強盗主体の山賊・海賊なんて殆ど存在しない。
年中戦いに明け暮れていたら、早晩構成員が死傷して成り立たなくなる。
倭寇=商人
説がでました
済州島だけでも、ソ連みたいに追い出して、
移住させれば、今頃(ry
あんな島合っても役に立つかどうかはともかく、
日本史上一番休戦で戦果のなかった戦いだな。
ようするに自分より強い相手には下手に出て商人のふりをして、相手が弱いと強盗に早変わりと。
海禁政策に従わない商人という意味もあるから、そう単純でもないけどな。
最近では火縄銃を日本に伝えたのはポルトガル人ではなく、倭寇の王直だと
いうことになったらしいね。
肝心の明軍に火縄銃が伝わったのが1548年と少し遅れるのが不思議だけど。
そういや、倭 が蔑称だったのは、半島だったか支那だったか・・・
>>591 それはちょいと前の説らしい。
鉄砲は王直「など」倭寇勢力を代表とするアジア人の海上勢力によって、
同時多発テロじゃないが、ほぼ同時期に九州各地にバラバラかつ波状的に
伝わった、と考えた方がいい。というのが最新説みたい。
鉄砲は中国の「鉄 砲」氏が発明したというのが最近の有力な説である。
民名書房刊 真説!!鉄砲は誰が作ったのか より
>594
結論だけではなく、そこに至る論旨の部分も引用しれw
ちゃんと引用できたら、民”名”書房については見逃してやることも検討する。
いやだ。
やたら長文書くやつがいるが自己満足な文章ばっかで読むきもしねぇ。
ハードに頼って何回負けるつもり?
600get!
>598
本当は既に見つかってるんじゃないのかな>亀甲船
連中のことだから妄想の中の亀甲船と現実のギャップを乗り越えられずに
「これは(こんな貧相なものは)亀甲船ではない!」と言って、永遠に探し続けるんだよ。
半島思考になると、ほとんどの時期独立してたことになるしなぁ。
近代に限らず。
時期によっては東シベリアも支配してたことにもなるし。
まあ冊封国=属国であり、従って宗主国である我ら中国の一部であり、その民は我ら中華
民族の一員であることは既に常識だからな。
台湾はもちろん朝鮮やベトナムもいずれ我が中国の一部となって大平を楽しめることだろう。
倭の奴国から日本国王足利義満に続く伝統を持つ日本もこの大同の世に参加したまえ。
続いてないし。
日本が册封を受けていた期間などほんの僅かだろ?
足利家自体今もあるのか?
どっちにしろ室町幕府は既に存在しないので。
606 :
名無し三等兵:2007/02/05(月) 17:17:32 ID:mTIHV393
代替りしたら正朔が必要だから
>>601なに、奴らの事だ、明らかに現代の材質の物が使われた亀甲船を発見してくれますよ。
中国の民族主義者が沖縄の領有を主張する根拠は琉球王朝が19世紀まで中国の
册封国だからだっけ?
前近代の册封体制や君臣関係を近代の宗主国・属国・植民地関係と(意図的に)
混同するのは民族主義者にはよくあることなのか。
>>605 > 足利家自体今もあるのか?
> どっちにしろ室町幕府は既に存在しないので。
あるよ。
足利氏の子孫の一人は京大文学部長→東海大総長になってる。
610 :
名無し三等兵:2007/02/07(水) 19:03:03 ID:nfF++eaO
元均
台湾の地図じゃ、沖縄は琉球で日本じゃないぞw
沖縄県の議員・役人が台湾に行くと、国内扱いで優遇してくれるらしいな
>>611 マジで?征伐せんと遺憾な、、
台湾も朝鮮もまた占領して教育して犯ろうぜ
>613
台湾はアジアじゃめずらしく親日な国だからそう言うこというのはやめとけ。
あと朝鮮は再教育とかじゃなくて沈めるくらいの心意気じゃないといかんな。
>>614 台湾の工作員乙、そう言うことは地図を正しく変えてから言え。
やった!
台湾工作員認定されました!
>>609 足利氏の子孫って戦前は逆賊の子孫扱いされたりしなかったのかな?
おれの見た地図じゃちゃんと日本の一部になってたが、どういう地図を見たんだ?
622 :
名無し三等兵:2007/02/16(金) 16:10:30 ID:hXL8Bxef
海軍が軍拡に李舜臣を利用したの?
623 :
名無し三等兵:2007/02/16(金) 17:27:06 ID:6GuLNWxE
っつか琉球いらね。元々日本民族でもない民族の面倒をなぜ見なくちゃいけないんだ
琉球民族がどうなろうと知ったこっちゃない。北緯三十度以南の土地なんかはっきりいっていらね
琉球の人はもともと日本から渡った人達だよ
琉球人はネイティブジャパニーズだろ
628 :
佐藤:2007/02/18(日) 15:38:50 ID:xhE+21CP
利用させてもらったよ李舜臣。
弩級戦艦が欲しかったんだ。
629 :
名無し三等兵:2007/02/18(日) 16:23:29 ID:Rkvca5vx
>>627
違いますが何か?
もし私がその時の薩摩軍か明治政府の琉球進出の時の軍司令官や指導者なら
現地の少数民族なんか滅ぼしますけどね。
つまり、領有先に少数民族がいれば必ず滅ぼし、
それから誰も住んでなかったかのようにして領有するってこと。
世界をみれば少数民族を滅ぼした歴史はたくさんありますよ。
なぜわざわざ、少数民族の面倒をみる必要があるんです?
少数民族なんかどうなろうと知ったこっちゃないよ。
・・・という考えで、只今我々中共はチベットの民を滅ぼしております!
我々漢民族からすればみんな少数民族に見えちゃって〜。
あ、チベットが終わったら次は日本だからっ。その時は抵抗なんかしないようにね☆
という事でよろしいのでしょうか。
631 :
名無し三等兵:2007/02/18(日) 16:35:44 ID:Rkvca5vx
日本国内にいるチョン、チャンコロ、外国人、少数民族などを撲滅処分すべきだろ
632 :
名無し三等兵:2007/02/18(日) 16:39:50 ID:Rkvca5vx
>>630
アホか?w 俺は日本人だよ。
日本にいるチョン、チャンコロ、外国人、少数民族などを撲滅処分しないと
このままだったら日本民族が徐々に消滅するんだよ。
俺の言いたい事がわからないならいいよ。
秀吉に強制連行されてきた人の子孫なのか
ひさびさの天然だな。北京あたりから指令電波でも飛んできてるのだろうか?
637 :
名無し三等兵:2007/02/19(月) 13:13:17 ID:VaZ2QNuy
>>632 オマエみたいなのがいるから沖縄の人がすぐに反日運動するんだろうが
最新鋭の軍備で抑止力強化!竹島のように不法占拠されないぞ!=平和への逆行だ!無防備宣言だ!抵抗しないから占領して!日本は嫌!
>>632 俺のオジィなんかは沖縄戦で九月の停戦の日まで日本軍として戦ってるしオバァだって日本軍に協力してるそんな人たちをどうしたら お前が責められるんだ寝言は寝て言え
639 :
佐藤:2007/02/20(火) 20:31:07 ID:2A+4V8ud
李舜臣に負けたと解釈したほうが海軍予算を取りやすいように民衆を啓蒙できたからね。
権兵衛大臣も推薦してくれたよ。
640 :
名無し三等兵:2007/02/20(火) 20:49:35 ID:UOC9Mrgc
>>634
ば〜か! 自称じゃなくて俺は本物の日本人だよ。
そんなん言うならお前は何者なんだ?
黒か? 南方系か? 白か? 分けの分からない人種か?
>>638
元々、日本民族でもないくせに生意気な口を叩くな!!
>>637
街に出てみれば日本人じゃない人がたくさんいるね
元々、日本人じゃないくせに日本人面しやがって
吐き気がするよ ここは日本だというのに。
黒もいる、南方系もいる、白もいる、分けの分からない人種もいる。
このままだと日本民族が消滅するのも時間の問題だな
日本は日本民族の国だよ。それが移民によって取って代わられるなんて冗談じゃないよ
日本民族?
ククク...何それ...
死ぬなお前...
642 :
名無し三等兵:2007/02/20(火) 21:00:22 ID:UOC9Mrgc
>>641
日本民族がうらやましいか?
そりゃそうだろうな。食い物はある。住むところはある。
風呂もある。暖かい毛布もある。日本は何でもある。
お前が元々住んでいた三流国家とは違うからよ。
とっとと、自分の国に帰れば?w 帰って餓死してろ
643 :
名無し三等兵:2007/02/20(火) 21:01:52 ID:UOC9Mrgc
>>641
日本民族という言語すら知らないならとっとと死ねば?
あんたそれでよく生きてきたね。 漢字もろくに知らないで
その前に安価の付け方くらい覚えたらどうだ?
645 :
佐藤:2007/02/20(火) 21:09:24 ID:2A+4V8ud
海軍にとって朝鮮役は水軍軽視で敗北した遠征であってくれないと困るんだよ。いろいろね。
646 :
名無し三等兵:2007/02/20(火) 22:32:38 ID:r8e7O87c
佐藤って誰?
>>ID:UOC9Mrgc
あんた今日本民族がどうとか言ってたけど…
何それ……?
日本民族って何……?
カカカ…ククク…
何それ…?
死ぬなお前……!
648 :
佐藤:2007/02/21(水) 09:17:14 ID:9S3UA4cS
知らないの?
著述ぐらい読んでほしいな。
韓国人がよく引用して李舜臣の箔付けに利用しているんだが。
649 :
佐藤:2007/02/21(水) 20:29:20 ID:9S3UA4cS
自強将命
>>647 昔、今の社民党の福島某が、「キャハッ。日本文化って何? キャハハハ」
と軽薄な叫び声を上げたのに、さすがに満場しらけきってしまった。
お前には福島と同じ匂いがする。
>>640 >>638
元々、日本民族でもないくせに生意気な口を叩くな!!
日本民族て言ったら日本に住む民族を指すことになるから
琉球人もアイヌ人も日本民族なんだが
640は沖縄人は死ねと言ってるから651は死ぬべきだ。
653 :
山本:2007/02/22(木) 20:35:01 ID:3SyO83Io
陸軍に対抗するためにも海軍の拡張イデオローグが必要だったからね。
佐藤くんの活躍が必要だし李舜臣も活躍した解釈を要したのだよ。
「日本民族」って「中華民族」みたいなものか
>>652 何で俺が死ななきゃならんのだwww
釣られてみるテスト
>>654 Wikipediaならそうなってるな
ただWikiはあまり参考にならないから
なんとも言えんのだけど
>>650 だから…「日本民族」って何…?
何それ…?
まあ日本国としては、他人の金で引きこもって社会の役に立たない自称日本民族より、
働いて税を納めて、年金不要で社会に貢献する外国人の方が有用な訳だが。
>>657 日本国民である以上は、それでも日本人の保護を優先するのが政府の役割だ。
イラクでゲリラに三人が捕らえられた時も、2chでは見殺しにすれば良いとの意見があったが
私はそれだけは許されないと明言した
ゲリラに捕らえられたのが在日外国人であるなら、無視することを主張するが
日本人である以上は政府の責任として不当な暴力より保護する義務がある
659 :
名無し三等兵:2007/02/25(日) 12:55:50 ID:lho18egp
どうやって保護できるの?
名無しで「明言」できるような人を相手にしてはイケマセン
そもそも「国民」と「民族」は別の概念だろ
まあ俺もこの人のいう「日本民族」なるものが何を意味するのかはいまいち理解できんが
レベルとか以前に違うスレになったなw
ところで亀甲船の亀頭って要らないよな。
あんな物は亀甲船を作った人間の自己満足にしかならない。
言い換えれば作った人間のオナニー道具として亀頭が存在するに過ぎないのだ。
665 :
名無し三等兵:2007/03/02(金) 10:43:48 ID:Y/bYd4rd
明国って「明と朝鮮に勝算は無かった」(明史)とかえらい厳しく戦況を捉えてたな
朝鮮王にも戦後「日本は侮れないから警戒を怠るな(ついでに援軍に対してお礼の一言も無かったことを叱られてるが)」と説諭してるし
なんでここまで悲観的だったんだろう?日本側の内情は探知できてなかった?
>ついでに援軍に対してお礼の一言も無かったことを叱られてるが
今も昔も(ry
やはり敵の内情なんてなかなかわからないものなんでしょうね。
特に昔は。
668 :
名無し三等兵:2007/03/02(金) 17:30:13 ID:KgYF95G8
やはり日本軍が異常に強かったと言うことだろうね。
義兵や朝鮮海軍の海上交通線寸断がなければ、明にとって大変なことになっていたかもしれない
義兵はともかく、朝鮮海軍の動向を明が把握していないわけはないだろ。
>665の観測は李舜臣込みと見るのが半島以外の常識。
だから朝鮮海軍による海上交通線の寸断とは具体的に何時のどの海域の事を指しているんだ?
まだ半島妄想に騙されてるのかな?うん?
671 :
名無し三等兵:2007/03/02(金) 20:18:50 ID:RskZDkAb
で、どの交通線が遮断されたの?
672 :
名無し三等兵:2007/03/03(土) 13:54:25 ID:GHeB0ua2
5号線
674 :
名無し三等兵:2007/03/04(日) 13:25:51 ID:dyWO3Xon
李舜臣の自己申告だけ信じ、日本軍が受けた具体的影響を考察していない阿呆だな。
おまけに亀船を亀甲船と言ったり、外洋航行能力の有り無しで戦況を語るなど講談史観から抜け出していない意見。
675 :
名無し三等兵:2007/03/04(日) 13:42:50 ID:+XAQ2rHC
>>645 アメリカとの戦いは 空母軽視の戦艦重視で負けた戦争でないと困るんだよ 色々とね
676 :
名無し三等兵:2007/03/04(日) 14:34:19 ID:dyWO3Xon
水軍軽視で敗戦、航空戦軽視で敗戦、どっちも読者の歓心が必要な講談師の言い草だよな。
>>674 もっと詳しく書いて。
FAQの管理人に指摘するから。
当時の当事者三者の記録いずれにも補給線切断なんて話は一個も無い
むしろ当事者が皆、悲観的だったのが目に付くな
解説キボン
680 :
名無し三等兵:2007/03/05(月) 21:44:40 ID:80hSgwGB
【質問】
朝鮮出兵で実際の所,李舜臣の艦隊はどの様な場面で活躍したんでしょうか?
日本軍は,白兵戦中心で砲術には明,朝鮮連合軍に遅れを取り,
白兵戦ができない亀甲船に日本軍は完敗したという記述もある一方で,
当時の朝鮮半島には鉄砲が実用化されていなかった為,
日本軍は緒戦で大勝利を収める事ができたとの矛盾した記述もあり,
今ひとつわかりません.
【回答】
そんだけ氏のログから抜粋
日本は,1590年代の朝鮮侵攻の失敗を契機にこのシステムを採用した
当時,豊臣秀吉は日本の統一を完了したばかりで,
朝鮮へ侵入するためには海上を支配しなくてはならないことを十分承知していた.
そこで援軍にポルトガルのガレオンを雇おうとしたがうまくいかず,
やむを得ず自分の艦隊を700隻に増強した.朝鮮海軍が,
洋上撃破と水際撃破を狙ってくるだろうと予想したからだった.
681 :
名無し三等兵:2007/03/05(月) 21:45:15 ID:80hSgwGB
(続き)
ところが,日本軍が釜山に上陸したとき,朝鮮の船は1隻も現れなかった.
日本軍は意気揚々と北上し,20日後の1592年5月2日には漢城(ソウル)に上陸した.
しかし,朝鮮海軍が手を拱いていた訳ではなかった.
5月から6月にかけて李舜臣の率いる艦隊は一連の作戦を行い,日本の戦隊をいくつか撃破した.
日本海軍の損害は72隻に達した.
そして,7月2日の決定的な戦闘で,李舜臣の艦隊は日本の主力艦隊を
閑山(ハンサン)沖で撃破し,翌日には日本から送り込まれた援軍も打ち破った.
朝鮮海軍の連勝の理由は大きく二つ考えられる.
第一に,1560年代に中国人(皮肉にも九州,中国地方の諸大名も)が
倭寇を鎮圧したため,経験を積んだ日本人の水兵が大量に姿を消してしまい,
次の世代が育っていなかったことだった.
朝鮮侵攻に従軍した艦隊の乗員の大半は,九州と四国の諸大名がしぶしぶ提供した徴集兵だった
682 :
名無し三等兵:2007/03/05(月) 21:45:49 ID:80hSgwGB
(続き)
第二に,朝鮮海軍が「亀甲船」の名称で有名な重装甲ガレーを使用したことだった.
この艦は全長33メートル,全幅8メートルで,全体が六角形の薄い鉄板で覆われており,接舷斬込を防ぐようになっていた.
左右舷側にそれぞれ12基の砲門と22基の銃眼,艦首尾にそれぞれ4基の砲門を装備していた.
亀甲船の火器装備数は日本艦をはるかに凌ぎ,一説にはその比率は40対1だった.
この様な重装戦闘艦を整備し得た理由は,長期間航海できる航洋力を無視して攻防力に重点を置いた設計のおかげだった.
そんだけ
683 :
名無し三等兵:2007/03/05(月) 21:47:04 ID:80hSgwGB
(続き)
日本軍の指揮官もすぐ事態を把握した
なにしろ,船体を鉄で装甲化するアイデアは日本人も知らない訳ではなかった.
織田信長は1578年に瀬戸内海での封鎖作戦に「鉄の船」を使ってみせた.
これは,普通の大型艦を鉄板で覆ったものだった.
秀吉は,1592年に全国の諸大名に鉄板を供出するよう命じた.明らかに亀甲艦戦隊に匹敵する艦隊を建造するつもりだった.
もっとも,これは実現しなかった.
このような鈍重鈍足で不安定な艦をわざわざ建造しても,国内から釜山まで無事に航行できるわけがないと誰もが気付いたからだった.
結局,現地部隊のとった応急処置のほうが現実的だった.
釜山では生き残った艦が大慌てで重砲を積み,港の要塞の下でひしめき合っていた.現地部隊は,亀甲船の強みはその装甲ではなく,その火力にあると看破していた.
これには李舜臣も手が出せなかった.
684 :
名無し三等兵:2007/03/05(月) 21:49:05 ID:80hSgwGB
(続き)
1593年から1597年まで,戦局は膠着状態に入った.
だがその後,日本艦隊はまたしても制海権を握るのに失敗した.
1597年7月の海戦には勝ったものの,その後日本艦隊は李舜臣に速い潮流の中におびき出されて壊滅した.
戦争はそれから1年間続いたが,海上に援軍のない日本軍は釜山の拠点から一歩も進軍できずにいた.
1598年8月,遠征軍に帰還命令が下った.
李舜臣は侵入者をもう一度撃滅しようとしたが,今度は日本艦隊も重火力を装備していた.
亀甲船は日本艦隊に大損害を与えたが,李舜臣は乱戦の最中に戦死した.
そんだけ
>>ID:80hSgwGB
>674
>676
>678
論破終了。
686 :
名無し三等兵:2007/03/06(火) 15:11:39 ID:ZRiSXPGb
たしかに
687 :
某研究者:2007/03/06(火) 15:22:39 ID:odzos/8h
>1597年7月の海戦には勝ったものの,その後日本艦隊は李舜臣に速い潮流の中におびき出されて壊滅した.
まあ彼は無視して補給ルート維持に専念すれば
良かったと言う事かも知れぬが
補給ルート寸断等は記録には無いと言う意見も有るだろうし
補給だけでは無く現地調達も当時の軍は
30年戦争等を見る限り必要だったと言う事かも知れぬし
現地調達が困難なら大兵力の進軍は困難かも知れぬが
島津なら補給が十分可能な少数戦力でも明軍に
勝てたかも知れぬが
>>665 彼らの方が兵力で少ないわけだから
「追い返す」ってのはどう見ても無理じゃないの
明の領土内に進入とかいうレベルの話になると
徳川が参戦しても無理に思う
その1597年の「早い潮流を利用されて海戦に敗北して追い返された」とは僅か李舜臣の13隻が333隻の日本水軍を奇跡的に撃破したと宣伝されている9月の鳴梁海戦のことだと思うが、実際は日本水軍の進攻を許していて10月まで日本水軍は黄海側で活動しているよ。
その間に捕虜になって日本まで連行された朝鮮人の記録が複数残されて裏付けもとれている。
「最後の一年は釜山から一歩も出れなかった」これも嘘。
西は小西の全羅道の順天から東は慶尚道の尉山まで展開して敵水軍には内部への突入を許していない。
691 :
名無し三等兵:2007/03/07(水) 07:20:01 ID:Be4jeQBJ
亀船の特徴が火砲というのも現代韓国妄想を鵜呑みにした間違い。
鉄弾が少なく丸木を使ったり石や木片を散弾発射していた当時の火砲では照準も効果も疑問であり決定打にならず、二百年後のネルソンの時代でも火砲で止めを差し切れないために海兵隊を乗り込ませている。
当時の海戦戦術で警戒すべきは焼き討ちと乗り込み、これは日明鮮共通。亀船も鉄甲船も盲船も特徴は防御力。
朝鮮陸軍が鉄砲で負けたとか、日本水軍が亀船で負けたとか、通説で簡単に語られるがハードの差が戦争の決定的な要因にならないのは軍板の住人なら理解頂けると思う。
実際に元均の艦隊が漆川梁海戦で壊滅して以降は亀船は李舜臣日記にも出てこないしな。
694 :
名無し三等兵:2007/03/07(水) 19:26:26 ID:Be4jeQBJ
通説論者は秀吉が始めから船舶攻撃用の艦隊と兵力を準備していたかのような前提で語るが、李舜臣の初期攻撃を受けるまでそのような艦隊はなかった。
他の秀吉の統一戦は艦隊決戦で得られたものではない。
当時の東洋の船舶能力と航海技術では停泊可能な沿岸を支配すれば水軍は活動できない。
戦国の海賊は海戦に負けて屈伏したり絶滅したわけではないのだから。
695 :
名無し三等兵:2007/03/07(水) 21:25:09 ID:rb3XxzKj
っていうかそもそも外洋艦隊が日本にはなかったんじゃ?
脇坂艦隊が外洋で負けたが沿岸付近で闘ったら李舜臣を撃破したのは適性からいってむしろ当然
朝鮮にも明にも無いが…
697 :
名無し三等兵:2007/03/07(水) 21:36:05 ID:SxnW6p7r
>>695 日本、明、朝鮮、みんな内海航行が原則、海戦も内海で行われている。
外洋航行する場合も有視界で追い風を受けて突っ切る航海。
名古屋−壱岐、壱岐−対馬、対馬−釜山・・・山東−遼東も同じ。
中国では宋代に既に世界に先駆けて密閉式の船体を実現していたぞ
ってかこの場合の外洋とか沿岸とかは比較の問題で、後代の基準と関係ないのでは?
>>698 そのことと外洋海軍はイコールじゃないだろ
鄭和の艦隊は解体されてるし
日本側最大の船だった九鬼水軍の日本丸とその兄弟船はどうなんだろう?
構造は和式?中国式?
そもそも日本側水軍の戦死者総数が二つの役を通して最大に見積もっても5千いくかいかないか
大規模な海戦の存在自体がイメージの産物じゃないの?
>>700 安宅船は和船、構造的には竜骨もなく明船となんら性能的違いは無い。
外洋に向いた船じゃない。
鄭和の艦隊も沿岸航行船団だよ。
外洋航行は西洋人の大西洋、太平洋横断能力を待たねばならない。
鄭和船団は既知の世界の航海、
コロンブス、マゼランは未知の世界の航海。
この差は宇宙のように隔絶としている。
>>701 空舟(攻撃される前に陸へ避難逃走を含め)の被害がかなりあると思われ
(李舜臣の記録)、
両役通じて最大2,3000、もしかしたら数百程度かもしれない。
>>(李舜臣の記録)、
捏造です。
706 :
名無し三等兵:2007/03/08(木) 07:22:03 ID:PNKTn5mS
無論朝鮮船にも竜骨はない、基本構造は三国共に同じ。
>704
仮に、数百隻がやられていたとして、では当時の日本の造船能力はどれだけあったのか?
撤収にあたって深刻な船腹の不足が起きたとは寡聞にして聞かないので、
やられた舟艇があったとしても毎月数十隻が補充されたということになる。
・・・それなんてアメリカ軍
かつては金満の時代が・・・(´;ω;)ブワッ
709 :
名無し三等兵:2007/03/08(木) 13:40:48 ID:4Qkdslw3
渡海用だけで、一年内に五百隻ぐらい準備しているよな?
それにシールが甘いだろうし自然減のが断然多いんじゃね?
711 :
名無し三等兵:2007/03/09(金) 03:34:53 ID:ImQ/odIh
>>698 山形欣哉さんがそりゃ怪しいって批判してなかったっけ?
明から参戦した軍船はジャンクじゃないし。
封建領主の集団と、建前上王ないし皇帝下に全てが統率された国家
普通なら後者が有利なイメージがあるんだが
実際負けたろ、イメージ通りじゃん
素朴な疑問で申し訳ないのだけど、倭寇って瀬戸内海から
中国まで出張してたんだよね?
まあ、中国産倭寇のことはとりあえずおいておいて
その頃はどんな船で概要に乗り出してたの?
>>713 そりゃ禁軍だけだ
兵の質も低いのはとことん低いし
陸伝いのみ
>>715 まあ、倭寇のうち”真倭は一割、二割”とされているんで
昔からのガセでしょ。
やはりそうか。
日本人が東シナ海を席巻したなんて奇怪しいと思ったんだよw
722 :
名無し三等兵:2007/03/10(土) 13:19:01 ID:OdrtZMc9
桜とエンコリの掛け持ちしている奴はいないのか?
>>723 >14世紀以降の倭寇が「日本人海賊集団」
これで宇田川武久教授の鉄砲伝来は倭寇からだから中国人説も粉砕されたな。
スレは進んでいるが…w
1000までに補給についてもう少し触れてスレから撤退する予定
>>723 なんだその政治的教科書は・・・あっちの基地外史観そのまんま
精々、一部に左翼プロパガンダを捻じ込んでるだけ
>吉野作造、柳宗悦など、一部良心的な日本人もいた
この辺の連中なんて歴史の大局的な流れに影響ないんだけどね。
今の自称りょーしんてきな人達が自分たちの立場を持ち上げるためのプロパガンダにすぎない。
>>723 壬辰倭乱当時、日本軍も5万人の損失を被ったと記している(147ページ)。
ところで、この根拠って何?
対馬は倭寇の巣窟だったからな。征伐されて当然だな。
たぶんフロイスの日本史
732 :
名無し三等兵:2007/03/14(水) 09:28:56 ID:pyB3v/1m
中国の歴史書にしっかり倭寇のうち倭人は十人中三人ぐらい、あとは偽者だ困ったもんだと書かれてるのにな
いくらカネ貰って都合の悪い第三者の史料を無視ってるんだろう、この朝鮮寄り不均衡本書いた日本人学者は
733 :
名無し三等兵:2007/03/14(水) 12:44:50 ID:hapIQTV9
世宗実録「倭人不過一二而本国民仮著倭服成党作乱(倭人は一割か二割に過ぎず、我が国の国民が徒党で偽装することが多かった)」
明史「真倭十之三」(本当の倭人は(倭寇のうち)十人居れば内三人ほど)
自国と第三国(中国)の国史すら否定する共同研究って何を研究したんだろ?
韓国マンセー論か?w
735 :
名無し三等兵:2007/03/15(木) 04:12:08 ID:QEll+G86
意図的に前期倭寇と後期倭寇を区別してないだけじゃないの?
736 :
名無し三等兵:2007/03/15(木) 09:49:54 ID:zs2Ukn+T
中国様に守ってもらったから朝鮮が救われたんだろう
なんせ朝鮮は昔から中国の属国だったからな
737 :
名無し三等兵:2007/03/15(木) 13:41:38 ID:ynPk4NAF
>>735 それだと余計話がわからなくなるんじゃ?
内実の変動は東アジアの海上事情の変化と密接に関わってるわけで、それを無視したらそもそも歴史って何?ということに
左翼の先生達は学問としての歴史を研究する意思がない人達だから
>>737 というか、もとは朝鮮日報の記事だろ。
後期倭寇は朝鮮というより中国で大暴れしてたわけで、その本での
扱いも前期倭寇より小さかろう。そこで、この記事書いたヤツが、
そういう風に組み立てた可能性も一応残ってるわけだ。
ま、ふたを開けてみたら「やっぱり斜め上だな」となる可能性も
高いと思うが。
教材に使えるの?
741 :
名無し三等兵:2007/03/17(土) 02:00:53 ID:GnYGh6i4
東京学芸大学とソウル市立大学を中心とする研究者・教員が、15回のシンポジウムを経て10年がかりで完成させた初の日韓交流通史。
「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史 先史から現代まで」
>・なぜこの本を作ったか
>今、日本と韓国の関係は、必ずしも順調だとは言えない状況です。その根幹に、靖国神社や歴史教科書をめぐる、日本と韓国の歴史認識の差異があることは明確です。
>このような状況にある大きな原因は、日本政府が戦争責任や朝鮮植民地支配について、言葉だけではなく行動で示す反省をしていないことにあると言えます。
>私たちは、このような状況の克服に少しでも寄与できればと考えて、この本を作りました。
ttp://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7503-2483-8.html
744 :
名無し三等兵:2007/03/18(日) 13:28:18 ID:SJVO0hej
どう見ても反日主義者と反日国家の連帯に過ぎない件
こいつら右かかってる日本の一部学者を敵視しているようだけどさ
つ鏡
で相手するのが足りる連中が学者って……w
朝鮮がまともに豊かで健全な判断のできる国だったら征服は成功していただろう。
>745
そんなまともな国が隣国だったら日本が占領されてる可能性もあるわけで。
747 :
某研究者:2007/03/19(月) 21:58:48 ID:nXSoDIJa
748 :
某研究者:2007/03/19(月) 22:04:24 ID:nXSoDIJa
>しかし労多くして益の少ない戦役に厭戦気分の蔓延していた諸将は積極的な追撃を行わなかったと奉行や秀吉に叱責されている。
所謂モンゴル流・大陸流の異民族同士の
殲滅戦には慣れておらず
此れに疲れたと言う事なのかどうかだが
749 :
某研究者:2007/03/19(月) 22:11:34 ID:nXSoDIJa
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1239/w-15.htm >ちなみに、日本軍が築城した山城(全部で30くらいあるそうだが)に関しては、陥落したのは一つもないらしい。
> ただし、朝鮮にあったものを再利用したものは、落とされたりしていた。敵の施設の再利用だと、使い勝手がわからなかったり、弱点を把握されたりしてるからだろう。
> 恐るべし倭城。
日本の城の場合は
石を切り出さないので短期に作れ
傾斜した低い石垣は
大砲に耐えたと言う
事だろうし堀や入り組んだ内部構造等も
有る訳だろうか
日本側も補給路を確保して
城で防戦に徹すれば
明軍はプライドが有るから攻め続ける訳だろうし
明軍が弱った所で攻勢に出て
包囲殲滅すれば容易に勝てたと言う事は
無いのかだが
750 :
某研究者:2007/03/19(月) 23:11:36 ID:nXSoDIJa
http://www.trpg.net/user/akagane/diary/200701xx.html >ここには当時の主力兵科である長鑓衆(長柄衆)の編成が記されていない。
> 何か理由があって書かなかったのかもしれないが、中西さんはこれはむしろ、清正隊は鉄炮衆を主力にもってきたせいではないかと分析されている。なお、武士や寄騎などは騎乗であるが、清正は彼らに短い馬上筒の装備を義務づけている。
馬上筒は可也
普及していたのかどうかだが
西欧の模倣と言う事は無いのかだが
ピストルの様に複数は持てない訳だろうか
>なお、その火力支援であるが、蔚山城の戦いにおいては清正隊の火力が籠城を成功させた大きな要因と言われている。
> どのぐらい撃ったかというと、清正の家臣加藤大助は従者4人に鉄炮2挺を交代で装填させて1日に280発を発射しているという記録がある。記録にあるくらいだから、まあ、撃ちに撃ったのであろう。
此れは基本的に加藤大助が放った
弾丸なのだろうか
751 :
名無し三等兵:2007/03/20(火) 10:21:36 ID:xhlZ6zWQ
泗川倭城戦では島津の追撃戦がかなり充実しており大打撃を与えた。
第一次尉山倭城戦では城内は準備と兵力の不足で追撃力なし、後巻の援軍は追撃が戦意不足で徹底を欠いたものの万余の打撃。
順天倭城戦は籠城準備が出来ていたが明水軍の包囲と呼応する援軍がないために明軍に痛打を与えられず。
戦術力が有り余る日本軍は徹底した追撃による戦術的勝利で戦略を好転できた可能性があります。
やる気と秀吉の寿命が足りませんでしたが腐った朝鮮は要らない。
752 :
某研究者:2007/03/20(火) 22:00:37 ID:obqM/ATb
明水軍と言うのは日本は
叩けたのかどうかだが
753 :
某研究者:2007/03/20(火) 22:03:51 ID:obqM/ATb
朝鮮は無視し海上ルートを通って
一気に北京上陸等と言うのは
リスクが有ったのかどうかだが
朝鮮の沿岸沿いに進めば
明水軍は陸海同時攻撃を行えば叩け
補給を経たれる可能性は無かったのか
どうかだが
754 :
某研究者:2007/03/20(火) 22:17:01 ID:obqM/ATb
囮の兵力を朝鮮南部の城にでも置いて
此所に明軍の主力を引き付けて防戦し
別働隊が海上から北京を目指し
早期に陥落させると言う様な方向も
有ったかも知れぬが
無謀な試みなのかどうかだが
さすがに無謀な気がします。。
756 :
名無し三等兵:2007/03/22(木) 20:17:41 ID:W/cvYQLO
首都を落とせば戦争が終わるというのは薄考え。
757 :
名無し三等兵:2007/03/22(木) 20:32:30 ID:V3fxRlKo
北京を落として本土を中国に取られろ。
758 :
某研究者:2007/03/22(木) 23:13:56 ID:aL9OnKNn
先ずは篭城に徹して
敵が疲弊した後追撃し殲滅
更成る前線に城を築いて
其処で防戦し敵を撃退した後
更に前線に城を築いて防戦と言う事を繰り返せば
何れは北京にも到達し勝利し得ただろうか
759 :
某研究者:2007/03/22(木) 23:16:20 ID:aL9OnKNn
海や川沿いにでも城を作って行けば
補給面も問題は無いかも知れぬし
城同士の間隔を余り開けねば
途中での襲撃の心配も減るかも知れぬが
760 :
某研究者:2007/03/22(木) 23:19:14 ID:aL9OnKNn
日本の城は石を切り出さないので
割りに容易に作れる訳だろうし
多数作って補給線を防御するのに
使用すれば良い訳だろうか
761 :
某研究者:2007/03/22(木) 23:33:06 ID:aL9OnKNn
孫子の兵法では城を攻める事が一番
愚かな事だろうし
敵に城を攻めさせ
自らは城を迂回(少数戦力で陣地でも作製し
包囲して内部の兵力を足止め)して
物資でも奪うと言う
戦術で良いと言う事な訳だろうか
(まあ敵首都の城のみは
落とすと言う方向で良いかも知れぬが
他は迂回可能だろうか)
762 :
某研究者:2007/03/23(金) 10:39:21 ID:xdVB+USf
明水軍を上手く叩ければ
彼等の補給を寸断出来たのかも知れぬが
此れは容易だったのかどうかだが
精度の低い大砲より大筒や装甲を貫く大鉄砲の方が
訳に立ったと言う事は無いのかだが
炸裂弾の少数の命中の方が
厄介だったのかどうかだが
763 :
名無し三等兵:2007/03/23(金) 13:53:24 ID:/LZuJZ1g
どっちも当時の水軍輸送に頼るほど信頼性が無いから。
764 :
名無し三等兵:2007/03/23(金) 18:40:18 ID:XBTgCg6E
>>647
日本民族というのは俺の独自の見解で説明するなら、
本州、九州、四国、及びそれら周辺の限られた島々に古代から現代に到るまで住んでいて、
日本の文明・文化・歴史などを築いた主要民族。
俺は民族、人種に関しては全くの素人であるがこれらの考えは独自で考えたんですよ。
素人の俺でもこれくらい考えれるのに、あんたは「日本民族って何?」しか言わないよな。
いくらなんでも日本民族と聞けば、日本人ならたとえ考えが漠然としていてもだいたい分かるはずだよ。
漠然とした考えすら出来ないあんたは死んだほうがいい。
素人だけあって日本が単一民族ではないと言う当たり前の事が理解出来ていない様だな。
簡単に言えばド素人が簡単に考え出した見解なんてどうでも良いし、何の価値もない。
漠然とした考えしか出来ないあんたは死んだほうがいい。
大体日本の文明・文化・歴史って何?
まるで日本に統一された文明・文化・歴史があるとでも言いたげだな。
その理屈が通るならシナも単一民族になるな。
君は知らないんだろうが戦前は日本人は混合民族であると言う論が主流だったんだよ。
つーか何で今更返事してるのかがわからんが。
>>764 >あんたは「日本民族って何?」しか言わないよな。
と言うか君が「日本は日本民族の物」と言って私が日本民族は何かと聞いてるのに何で私が答えねばならんのだ。
一ヶ月も待たせた返事がこれか。ガッカリさせやがって。死ね。
767 :
名無し三等兵:2007/03/23(金) 19:00:19 ID:XBTgCg6E
>>651
何を言ってるんだい?
元々の日本の範囲は最北端は本州の大間崎まで、最南端は種子島・屋久島(北緯三十度線)まで、
最西端は男女群島まで、伊豆諸島では青ヶ島まで。
しかも、琉球民族やアイヌ民族は日本の文明・文化・歴史を
築いた主要民族じゃないだろ。日本民族の文明・文化・歴史の中のほんの一部に
少数民族のそれがあるにすぎない。
これは764の文章の2行目〜3行目を細かく説明したものです。
768 :
名無し三等兵:2007/03/23(金) 19:19:44 ID:XBTgCg6E
>>765
このバカが。
日本民族が単一民族だと764に書いたのか? よく読め。
しかも764の説明に欠陥があるなら、どこがどう違うのか指摘しろ。
それにあんたの言う、漠然としてない考えで日本民族を説明してくれるか?
そこまで言ったんだから当然出来るんだろ? 出来ないなら死ね。
>>766
765と766は同一ですか?
言ってる意味が分からない。お前死ね
769 :
名無し三等兵:2007/03/24(土) 01:37:52 ID:gVAUl9g6
民族の中に少数民族(笑
何言ってるのか自分で理解出来て無いだろ。
だからさ、お前の様な自他共に認めるド素人が即興で考え付いた定義なんてどうでも良いんだよ。
クソ程の価値も無いんだから。「素人ですら」思いつくんじゃなくて「素人ごとき」が思いついた定義なの。解る?
>本州、九州、四国、及びそれら周辺の限られた島々に古代から現代に到るまで住んでいて、
>日本の文明・文化・歴史などを築いた主要民族。
どう見ても単一民族です。
本当にありがとうございました。
>765と766は同一ですか?
>言ってる意味が分からない。お前死ね
小学校から人生やり直せ低脳。死ね。頭が悪すぎる。
お前の定義の欠陥には既に解説している。
日本は「日本民族」なる謎の所有物で外国人を排除しろなどと狂った事を言い出し素人丸出しの764のような解説で居丈高に他人に死ねと言う。
770 :
名無し三等兵:2007/03/24(土) 01:39:10 ID:gVAUl9g6
簡単に解説してやる。
「素人が知らないことを語るな。ましてやしたり顔で主張するな」だ。
解ったかカス?
さっさと死ねクズ。
771 :
名無し三等兵:2007/03/24(土) 01:43:48 ID:irkmxpoG
キチガイさらしあげ
おや、自称歴史学者の登場かい?
773 :
名無し三等兵:2007/03/26(月) 14:12:45 ID:SmW12CZv
おい、またウィキが荒らされてるぜ。
774 :
名無し三等兵:2007/03/26(月) 14:38:24 ID:g0UKsKGM
>日本の文明・文化・歴史などを築いた主要民族。
俺の歴史認識だと渡来人
775 :
名無し三等兵:2007/03/26(月) 15:10:08 ID:TeGM57BL
つうか日本人の風習にあわせてるんだから渡来人っていうより帰化人と素直に言えばよいと思う
なんで渡ってきただけ?帰ったわけでもないのに
776 :
名無し三等兵:2007/03/26(月) 15:23:20 ID:g0UKsKGM
帰化の帰は帰服の帰
馬鹿特有の歪んだ解釈なんていらないから、火病る前に渡来と帰化くらい辞書で引けよ
帰化人という用語を使う場合もあるよ
教科書じゃ戦後は渡来人一本槍だけども
778 :
名無し三等兵:2007/03/26(月) 16:40:28 ID:g0UKsKGM
>なんで渡ってきただけ?帰ったわけでもないのに
あー、変な言語を意訳してみてやっとわかった。
渡ってくる→帰る=渡来だって認識で、
渡ってくる→帰らない=帰化って認識なのか。
曲解どころか、日本語の知識がない馬鹿を相手して損した
>>777 どんな場合なわけ?
加藤清正は馬肉を食うのも躊躇ったらしいな。どこにでも生息する両脚羊を食べる中国軍に勝てるはずがない。
781 :
名無し三等兵:2007/03/26(月) 21:37:52 ID:SmW12CZv
なんでみんな当時の船の能力やな態を無視して近代公開を当てはめた考察をするんだろうな?
日本語でおk
>>780 日本の古代史にあんま関係ないその他大勢なんてどうでもいいよ
帰化人の大多数もそうだがな
785 :
名無し三等兵:2007/03/26(月) 22:09:48 ID:UYrbDuAc
786 :
名無し三等兵:2007/03/27(火) 14:15:16 ID:3yzhTGPj
なんで臣下でもない日本が仕掛けた戦争が「乱」になるんだ?
内戦扱いするのはどう見ても不適当だろうに
日本が元寇や応永の外寇を「下っ端・朝鮮の反乱」とかやるようなものだ
そのわりに東学党の乱は甲午農民戦争に変えたけど
第二次蔚山城の戦いについて詳しい解説希望します。
もしくは詳しいHP紹介してください。
789 :
k:2007/03/29(木) 01:16:28 ID:???
791 :
名無し三等兵:2007/03/29(木) 10:54:09 ID:pb7n9ZVu
エンコリで聞けば?
当時は「唐入り」と言った。
「唐の皇帝とやらは、今まで良く玉座を守ってくれた。ご苦労。
今から正当な天皇陛下がそちらに行くのでそこを明渡すように」
ということで唐に行こうとしたのだが、朝鮮の連中が邪魔しやがるので征伐した。
793 :
名無し三等兵:2007/03/29(木) 21:59:28 ID:pb7n9ZVu
朝鮮へ行っただけで許してもらえるとは。
>>786 ハア?おまいはバカか?
当時の朝鮮王国にとって倭(現在の日本)は華夷秩序の中でも
最底辺。朝鮮にとって、臣下どころかそれ以下。
当時の正統な歴史表現なんだよ。気に食わないとかの話じゃねえよ!
>>794 そいでは、
朝鮮征伐
でよろしいんですね。我々としては。
で、一体どこでスレタイにあるような「軍事分析」をしてるんだ?
それはもう終わった
三スレまでくるとネタも飛ぶ
ネタがないならもうやめたらどうかね
おまえらがくだらん書き込み止めれば落ちるよ
800
「ネタがないなら荒らせばいいじゃない」
byバリー・アントワネッド
おはよう
>>759が面白い
次にこういう事に触れてスレ撤退する予定だが、最近は一週間か10日に一回位しかこのスレをチェックしてないので
知らないうちに落ちてるか、1000に到達しているかもしれない
多分そうなる
803 :
名無し三等兵:2007/04/03(火) 11:49:21 ID:schHIoog
804 :
名無し三等兵:2007/04/03(火) 13:36:19 ID:WHsGT3vx
講和
昔は軍事的に考察していたんだ
飛車で空から日本軍を大爆撃するニダ
摩訶大大戦略か?
○
「 ̄l二ニ=-┃
| { ┃
L_二ニ=-┃
. ┃
. ┃ ∧_∧
_. ┃<`∀´ > ____
/ ヽ⊂ )__/´ /
∠ //⌒ヽ )/| /
\ | ̄ ̄ ̄ ̄ ∧∧ /
<∧|____<〃マヽ>
<{{><}}> <{{><}}>
<ヽ.ムノ' > <ヽ.ムノ'>
∨∨ ∨∨
チョパーリ共は皆殺しニダ
809 :
名無し三等兵:2007/04/06(金) 12:32:25 ID:wc/G0jts
朝鮮に道を借りるってただの口実でしょ。日本から中国までのルートはいくつあるから、なぜ朝鮮を通さなきゃならない?
明国はモンゴル及び女真防ぐため遼東地方に数多くの兵があるから、このルートにすると悪戦続出し補給も問題ある。これより明の東南湾岸に上陸のほうがましだ(倭寇何回もそうしたじゃん)
秀吉本当の狙いは朝鮮だけ、明の実力を試す可能性もあるとおもう。
810 :
名無し三等兵:2007/04/06(金) 13:29:01 ID:efIS1mR5
損害担当スレから、他に誘導してどうするつもりだ?
813 :
名無し三等兵:2007/04/08(日) 14:41:26 ID:M+lf5Zy8
814 :
名無し三等兵:2007/04/09(月) 19:39:24 ID:4yqN5bAz
明治の台湾征伐も疫病がひどかったらしいな。
815 :
名無し三等兵:2007/04/09(月) 19:50:45 ID:I36gRPRU
台湾アイドルが好日発言?
で袋叩きらしいなぁ?
石原〇知事とか行ったら暗殺されちまうかも?
どんだけ器が小せえんだ?
>>815 日本で言えば、2chレベルの嫌韓厨とか嫌中厨とかが世間に出ていると思えばよろしい。
日本も器が小せえって言われない様に、撲滅しないとな。
818 :
名無し三等兵:2007/04/10(火) 21:35:01 ID:XG3p0QpN
朝鮮軍と明軍の指揮系統は?
819 :
名無し三等兵:2007/04/10(火) 22:15:31 ID:by3WD9ZF
日本のアイドルは、小学生でも知っている常識すら知らないのがデフォなのに、
大陸の奴らは細かい事気にしすぎだよ。
日本で言えば、太平洋戦争終戦の年を間違えるようなもんか?
……けっこういそうな気がしてきた
「ペリーってなに?食えるのか?」ぐらいのレベルじゃないかな
age
823 :
名無し三等兵:2007/04/12(木) 10:02:12 ID:dRtiNpsH
千年の海戦史とか海から見た日本の国防等を書いている松村は李舜臣をずいぶん勘違いしているな。
448 :日本@名無史さん :2007/03/12(月) 08:17:00
>>442>>444 優れた造船技術を持つ高麗の船が、沈みやすかったなんて大嘘だぞ。
例えば弘安の役で暴風雨に遭遇した際も、文献に沈んだと記述されているのは、
江南製の船のみで、高麗製の船は全然平気だった。
だから戦没者の数も、江南軍が『十万の衆、還るを得たる者三人のみ』とほぼ
壊滅状態だったのに対し、東路軍の高麗兵は1万9397名も生還を果たしている。
高麗史・家171
『丁右丞なる者の奏するあり、「江南の戦艦、大なるは則ち大なるも。遇々触るれば
則ち毀る。此れ、前に利を失する所以なり、如し、高麗をして船を造らしめ、而して
再び之を征すれば、日本取るべし」と』
弘安の役の後、フビライに対して「江南製の船が沈みやすかったのが敗因だから、
全て高麗で造船すれば、日本を征服できます」などという献策がなされているのだ。
高麗の船大工たちは、日本征服のため立派な仕事をしたんだよ。
826 :
名無し三等兵:2007/04/14(土) 17:38:19 ID:FRNet+sm
第二次では籠城準備が充実していたし、あんまり積極的には攻撃しなかったみたいだな。
あそこは向こうにとって清正というトロフィーがあるが、一番補給が苦しい場所なんじゃないか?
百余日攻撃したって言うのは嘘?
828 :
名無し三等兵:2007/04/15(日) 17:58:01 ID:mox+O89E
西路軍の麻貴は短期間に攻城を諦めて転進しているようだな。
麻貴は東路軍じゃろが
830 :
名無し三等兵:2007/04/16(月) 19:39:02 ID:u/Q5Jy8Y
間違えた。
ウィキペディアの鳴梁海戦の項目を朝鮮の辛勝から日本の勝利に書き替える意見が出ているが、このスレ的にはどうよ?
水賊大名の来島が討ち死にするくらいだから、戦術的敗北は確定。
戦略的にも海戦の影響じゃなくて、陸軍の進出でとった制海権だから、
鳴梁海戦自体は日本軍の負け。
試しに書き換え案をここで披露してみ。
日本水軍の勝利で良いんじゃないか。
日本水軍が攻勢を掛けて鳴梁海峡を抑えて残敵を掃討したんだから日本水軍の勝利じゃねーの?
先鋒が叩かれても本隊は海峡を押し通っている。
どこからどこまでを鳴梁海戦と評価するかじゃね?
李舜臣が来島を討ち取った所で時を止めれば朝鮮水軍の勝利かもな。
でも海戦はその後も続いて李舜臣を追い払って大型艦以外は日本に生け捕られたり焼き払われているじゃん。
おまけに基地も取られたし。
834 :
名無し三等兵:2007/04/17(火) 06:04:50 ID:HVIhlNNp
日本が勝ってたみたいね
835 :
名無し三等兵:2007/04/17(火) 06:50:28 ID:eK2fyGGi
水賊という言葉は初めて聞くぞ。
836 :
名無し三等兵:2007/04/17(火) 09:29:54 ID:n2Cljt2b
朝鮮側的には、李舜臣が先鋒に勝利した時点で海戦を区切っている
日本贔屓で見れば李舜臣が逃走し、戦略目的を達成したことまで含める見方ができる
良くある定義の問題
なら日本の勝ちでいいと思うよ。
普通の日本史では水軍大名だねい。
つか、あの時代の”制海権”なんて陸軍の進出に付随するものでしかないんだよ。
李舜臣を過大評価する奴って、海軍ではなく「水軍」と呼ばれる意味を理解していない罠。
当時の制海権というか、水軍活動圏が陸軍の沿岸支配で決定的となるという意見に賛成。
それは別として鳴梁海戦は日本水軍の侵攻をきっかけに朝鮮軍が主力艦以外の戦力と地勢を失った海戦。
途中経過で一時的な李舜臣の攻撃が成功していたとしても海戦レベルで見れば日本水軍の勝利と評価してよい。
841 :
名無し三等兵:2007/04/17(火) 19:05:59 ID:+dnowpbI
つか戦術レベルで勝利しても戦略レベル
補給と戦争目的が破綻してるからどうにもならン戦争だな
ぶっちゃけ朝鮮なんて通り道で戦争になったに過ぎない
おいおい、現地調達が基本の当時の戦争で、より補給が破綻しているのは本土から輸送がプラスされる日本軍よりも現地調達しかない明軍や朝鮮軍の方が深刻だろ?
843 :
名無し三等兵:2007/04/17(火) 21:21:07 ID:R2oeggKx
ノモンハンみたいに蓋を開けたら敵の被害の方が大きかった戦いになってきたな。
君が世(日本国 国歌)
キムが代は 千代に八千代に
さざれ石の巌となりて 苔のむすまで
∧__∧ ________
<丶`Д´>/ ̄/ ̄/
( 二二二つ / と)
| / / /
|  ̄| ̄ ̄
845 :
名無し三等兵:2007/04/18(水) 20:57:13 ID:94QwYZKa
鳴梁を征服した日本の勝ち。
846 :
名無し三等兵:2007/04/19(木) 19:54:52 ID:1N7dxB0U
ウィキの鳴梁海戦ノートに韓国寄りの主張がかかれたね。
847 :
日本語変だよな?:2007/04/19(木) 22:10:06 ID:bsarRBCY
848 :
名無し三等兵:2007/04/20(金) 21:22:45 ID:5Q2H3LRZ
直接戦力以外は無視?
849 :
名無し三等兵:2007/04/21(土) 18:17:21 ID:RC+vTU0w
「韓国人はそんな途方も無い主張はしません」
どの口が言うのかね?
秀吉がやったのは侵略だから、
侵略の方がよい。
(´-`).。oO(・・・侵攻だろうが、征伐だろうと、戦争は殺し合い何だよ。やってなんぼだ。言葉尻の問題ではない)
>>849 意図的に「大部分の」を外すのは、お前さんが批判するファビョンな人たちと同断ではないのか?
853 :
どの口が言うのかね?:2007/04/22(日) 06:56:08 ID:U5v6h3Qc
さらに去年放映された韓国の歴史ドラマ「不滅の李舜臣」でも鳴梁海戦では鉄鎖を使って日本水軍を壊滅に追いやって陸軍を含めた慶長の役の大攻勢を撃退したと解釈されています。
またウィキペディアでも下記の通りです。
1.例えばハングル版の鳴梁海戦を翻訳すると、
バトルボックスの日本側被害欄「戦船31隻撃沈、92尺破損及び大破、12000人余り死傷と推定」
854 :
どの口が言うのかね?:2007/04/22(日) 06:57:13 ID:U5v6h3Qc
2.同じく本文の結果欄
「日本軍は133隻中31隻を失った。これで水陸併進戦略は挫折し、日本軍は内陸への侵攻が出来なくなって南海岸一帯に相互支援可能な距離内に分散して倭城を築いて居座るしかなかった。
以後、丁酉再乱で居座る日本軍を朝鮮・明連合軍が水陸両面で挟撃する攻城戦へ移った。鳴梁海戦は朝鮮の戦略的勝利だった。
しかし、この戦闘の敗北が日本軍に与えた心理的打撃は更に大きかった。
特に、漆川梁海戦で勝利した直後に僅か13隻の李舜臣に大敗れたという事実に残された戦力(破損された約90隻は修理後に使用可能)で李舜臣に対抗することを以前より更に恐れたことで推測できる。
以後、戦局が移って約2年間に大きな海戦は起きなかった。
最後の海戦である露梁海戦が起る時までの約2年間に海戦は3回を記録したし、それ以外にも水軍は陸軍と協力して南海岸一帯の倭城攻撃に参加したのだった。
(勿論、明の和平交渉の努力によって小康状態にあったことも海戦が少なかった理由である)
3.英語版の鳴梁海戦バトルボックス欄日本側被害「沈没31隻と約92隻の船が使用不可、死傷者8,000から12,000人」yasumi 2007年4月21日 (土) 10:41 (UTC)
855 :
どの口が言うのかね?:2007/04/22(日) 06:59:22 ID:U5v6h3Qc
856 :
名無し三等兵:2007/04/22(日) 13:23:23 ID:wV8KXJce
不明確なのに戦力欄と損害欄は書く必要があるのか?
韓国人の日本語だな?
858 :
名無し三等兵:2007/04/22(日) 19:08:49 ID:NK27QP7C
>大敗れた
大を付けて強調したかったんだろうなw
859 :
名無し三等兵:2007/04/23(月) 18:42:04 ID:Q0mpZ+Gb
>>769>>何言ってるのか自分で理解出来て無いだろ。
出来てますが何か?
>>「素人ですら」思いつくんじゃなくて「素人ごとき」が思いついた定義なの。
私は素人ですよ。だけどお前も素人なんだろ? 素人なくせにそんなこと
お前から言われる筋合いはないよ。 それともなんだ? お前は博士・学者とでもいいたいのか?
そんなら、博士・学者らしい日本民族の定義を語ってもらいましょうか。
出来ないなら死ね。(言っとくがな、「死ね」という言葉を最初に使ったのは俺じゃないからな。それは遡れば分かるよ。)
>>どう見ても単一民族です。
>>本当にありがとうございました。
一応、764に主要と書いて単一とはっきり書いてはないが、
主要=単一、というニュアンスはあります。
ということは、あなたは日本民族は単一民族だということに賛成ということですね。
そりゃ日本民族は人種的には多種多様だと思うが民族的には単一だろ。
>>外国人を排除しろなどと狂ったことを言い出し素人丸出しの764
民族を守るために外国人を排除する、というのは世界では常識ですが何か?
民族差別・人種差別も世界では常識ですが何か?
日本では人種差別・民族差別をするというのがほとんど無いといいますが
それは逆にみれば日本はおかしいともいえるのですが何か?
分けの分からない人種・民族の入国を認めたばかりに食い者にされる日本人が
大勢いるみたいですが何か?
ほんの少数の外国人勢力に何も口出しできない日本人はアホだと思うのですが何か?
860 :
名無し三等兵:2007/04/23(月) 18:46:02 ID:Q0mpZ+Gb
>>770
その言葉、そのままそっくりお前にお返しするよ。
だからよ、お前も素人なんだろ。
だったらお前がそんなこという資格はない。
もし、お前が博士・学者なら日本民族の定義を説明しろ。
出来ないなら死ね
まだウィキペディアの鳴梁海戦は朝鮮軍の勝利から編集されてないのか?
早く日本水軍の勝利に書き換えろよな。
自分でやればいいのに……。
863 :
名無し三等兵:2007/04/23(月) 22:12:28 ID:XfGs8e9Q
賛成でも同意でもよいから自分でやれ。
ウィキペディアは俺の2ちゃんの書き込みがネタになってたりするからなw
最近のwikiPは、変なのも多いからな・・・
今度から信憑性が高いのは分けるらしいなw
軍板には編集者は少ないのか?
867 :
名無し三等兵:2007/04/24(火) 17:52:21 ID:4Fa6JoBg
こうなったのも佐藤鉄太郎のせい
868 :
名無し三等兵:2007/04/24(火) 20:20:17 ID:yI968R9N
こんどは38勝5分だってさ
戦死しても負けじゃないこの不思議さ
勝敗という概念がそもそも地球人類と違うとしか思えん
学会でもそんなレベルなわけw
戦時板のそのスレで聞けやカス
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(6;;;ノ ー==j 〈,,二,゙!
|;;;:: ,. ヾ "^ } ゚ } ゚ 。
|;;: ,. ‘-,",' ≦ 三
__,,,,,,∧ヾ ゝ'゚ ≦ 三―,, ゚。 ゚
"-゚ 。 ≧ 三=\
./ \,-ァ, ≧=- \
・ ゚ / \イレ,、 >三 。゚\ ・ ゚
/ >≦`Vヾ ヾ ≧ .\
\ ./ 。゚ /。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・ .\
豊臣秀吉(1536〜1598)
876 :
名無し三等兵:2007/04/28(土) 09:17:36 ID:6aAQNW9A
ウィキの鳴梁海戦のノートで議論をやっているが現状の朝鮮水軍の勝利から変えない意見が二対一で優勢だな。
韓国寄りの評価で落ち着きそう。
実際どうなの軍板の先生方?
>>876 FAQでも、李舜臣の朝鮮水軍が活躍したけど、李舜臣の活躍は幻想だとか言う矛盾したことが書かれている。
どっちでもいいんじゃない?
なんなら、エンコリで調べれば?
>>876 単純な人数勝負じゃないから、あれぐらいだと動かないよ。一応ウィキスレで
回答したけど。
第七法則 朝鮮に手を出した日本の権力者は二代のうちに破滅する
エンコリで調べるってどんだけバカよ
朝鮮から出てくんなハゲ
>>881 罵り方を間違えてないか?
脊髄反射もほどほどにな。恥かくだけだから。
鳴梁海戦は通説が朝鮮の勝利だからウィキも殉ずるべきってどんな理屈だよ?
制海権を奪取された一事からいっても日本の勝利だろ。
884 :
名無し三等兵:2007/04/28(土) 19:44:58 ID:RbkRFkYp
でも朝鮮で武勲挙げても文官優位だから浮かばれないんだよねえ
戦死するまでこき使われたり
不滅之李舜臣
887 :
名無し三等兵:2007/04/28(土) 20:20:12 ID:6aAQNW9A
敵に一撃を与えて美味しい思いをしておいて自分だけ逃走したように見えるがな。
天下統一
>887
あの場合はそれで正しい。
どうせ撃退できないなら、形だけでも勝った事にして兵員の士気を維持、
撤退に際しては補充の困難な大型船を優先。
正解かもしれないが大型艦以外の艦艇や拠点を奪われているんだから負けだよね。
何より制海権を奪われている。
>>891 なるほど、なら書き方を替えよう。
勘 違 い も 程 ほ ど に な 。
お前の的外れのレスに対しての指摘だ。
理解できたか?
893 :
名無し三等兵:2007/05/02(水) 20:36:31 ID:2XX4boIa
894 :
名無し三等兵:2007/05/03(木) 06:47:12 ID:WRN6vtyO
,.._,/ /〉___o ○(…朝風呂ぬるぽ)
./// //──∧_゚∧ ─::ァ /|
/// //~~'~~(‐∀‐ ,)~~/ / .|
.///_// "'''"'''"'" / / |
//_《_》′─────‐ ' / ./
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| /
| .| ./
|__________|/
895 :
名無し三等兵:2007/05/03(木) 17:59:12 ID:ZPpy2QEL
それは韓国風部分抽出じゃん。
イングラントの海戦史研究の権威バラード提督、砲火の歴史を書いたモントゴメリー将軍などが激賞したのが不滅の李舜臣将軍です。
897 :
名無し三等兵:2007/05/04(金) 06:16:58 ID:gq7m5qGz
>陳舜臣
作家だっけ?
実在したのかって気もする
唯一の資料の李忠武公全書が二世紀後の執筆でしょ?
違うよ。
900 :
名無し三等兵:2007/05/04(金) 08:46:58 ID:2a7Z/8ng
900なら木内梨生奈とセックスできる。
900なら05年度の天てれの魔法少女姿の木内梨生奈とセックスできる。
900なら競泳水着姿の木内梨生奈とセックスできる。
900ならメイドさんの木内梨生奈とセックスできる。
900なら秘書スーツ姿の木内梨生奈とセックスできる。
900ならブルマー姿の木内梨生奈とセックスできる。
900ならスクール水着姿の木内梨生奈とセックスできる。
900ならバニーのコスプレをした木内梨生奈とセックスできる。
900ならハイレグレオタード姿の木内梨生奈とセックスできる。
900ならセーラ服のコスプレをした木内梨生奈とセックスできる。
900ならスチュワーデスのコスプレをした木内梨生奈とセックスできる。
900なら不知火舞のコスプレをした木内梨生奈が俺の乳首を弄りながらフェラしてくれる。
900ならセーラー戦士のコスプレを一通りした木内梨生奈がディープキスをしながら手コキしてくれる。
900なら透け透けピッチリ胸あきブラウスにタイトミニの女教師ルックの木内梨生奈が生姦&膣内射精させてくれる。
900なら木内梨生奈が結婚してしてくれて、四六時中、淫らなセックスで俺様に御奉仕してくれる。
そして俺様の遺伝子で木内梨生奈が孕んでくれる!
900ならJSFに法則発動
900なら空自の次期F-Xはライノ
※拒否や無効化,棄却、取り消しはできません。
丁酉再乱で李舜臣提督がたった十二隻で秀吉進略軍の三百三十三隻を撃破して敗退させたり海賊大将を討ち取って侵略を挫折させたのが鳴梁大捷です。
これは日本の史書であり藤堂家記にも書かれていることです。
海戦自体はのってるけど人名は載ってないんでしょ<藤堂家記
今ウィキスレで議論中らしい。
載ってるよ
明史にも李舜臣なんて載ってないしね
秀吉軍の上陸阻止を命じられたらビビって命令違反してまで逃げ出して一兵卒に落とされた程度の人物
逃げ出してはいない
当のWIKIのノートで議論はしてきているのか?>ALL
今日書き込みがあったみたいだけど知識がないからロム
勝ったの?
NHKで武田の騎馬隊や長篠の三段撃ち。
挙句の果てに鉄舟や亀甲船なんてものを出すなよ・・・・・
韓国人は海戦ばかり目を向けてるようだが、
夜中に船を焼きに来たりと、そういう所に萌えるのが通。
実際、戦争なんて、こんな地道な努力が実を結ぶんだよなあ。
通すぎて、映画にしても売れないだろうが・・・・・・・
そんなの演出しだい。少人数の兵士が敵のデカイ兵器を撃破するのは映画で良くあるシーン
912 :
名無し三等兵:2007/05/11(金) 00:42:02 ID:HIBgfuML
あの時代に十数万の兵士の兵站を現地調達中心でなく、
後方からの輸送主体で行ったのは凄かった。
しかしやはり無謀すぎたと・・・
913 :
名無し三等兵:2007/05/12(土) 10:15:10 ID:SS5GaKAT
>>905 銅像まであるぞw
自国の評価が低くくても、外国からの評価が高いなんてザラな話。
東郷平八郎提督も李提督を尊敬してたわな。
ついでに言うが、人と違った意見などで人物を叩きたいなら、それなりのレスを汁。
君の意見は短略的過ぎるがなwww
東郷が李舜臣を尊敬って司馬以外にソースあるの?
無いらしい
なんか、戦後辺りから出てきたお話らしい
つか司馬遼太郎がw
それも川田功の「砲弾を潜りて」が典拠となっている。
917 :
名無し三等兵:2007/05/12(土) 11:20:59 ID:pJjtCm9B
女性は働きたければ働いて、働きたくなきゃ働かない、辛くなったらやめていい。
そもそも女性に辛い仕事を押し付けないこと。かといって雑用やらせるのもダメ。
それで給与も昇進も平等にね。ただし残業、転勤、深夜当直させたら女性差別だよ。
間接差別禁止規定って知ってるでしょ。なんでも平等にね。髪形と服装は女性の自由だけど。
それからアファーマティブアクションと管理職30%目標もね。産休育休もね。当然給与40%保障で。
主婦と言っても、家事を強制される言われはないし、出産するかどうかは女が決めること。
でも産まれたら育児を女性に押し付けないでね。二人の子供なんだから当然でしょ。
ただし離婚したら親権は母親のものだよ。育児は女性のほうが向いてるんだし。
それから働く夫を妻が支えるなんて時代遅れの女性差別。
これからは働く妻を夫が支えなきゃ。
あ、もちろん収入は夫の方が多くて当然だけどね。妻には扶養請求権だってあるんだから。
それと夫は妻に優しくね。妻が望まないセックスは家庭内レイプだよ。
夫が妻のセックスの求めに応じないと離婚事由になるけどね。
離婚したら慰謝料とか財産分与とかまあ当然だけど。
女性はか弱いから母子手当ても生活保護も税金控除も当然だよね。足りないぐらい。
それと女性に女らしさを押し付けないでよ。
そんなの窮屈で面倒だし、いまさら男尊女卑ですかって感じ。
でも男はやっぱ男らしくないとね。
いつになったらレディファースト覚えるの?ワリカンなんてありえないし。
少子化だって男のせいでしょ。男がだらしないから女性が結婚できないんだよ。
え?レディースデー?あれはいいの。
別に私たちが頼んだ訳じゃないし。店が勝手にやってるんでしょ。
>>917ってなに?誤爆か?
昔は関東vs関西、A型vsB型とか対立煽るレスが多かったけど
最近は男女対立煽ってる人がいるの?
コピペだよ
あのwikiの鳴梁論は面白いな。
勝利とは何かという論議は、旧来の説(日本のいい加減な概説や韓国史観)
が架空の講談話にすぎない
という本質を踏まえて展開されている。
一人だけ旧説にこだわる涙目の御仁がいるが。
珊瑚海海戦にたとえれば、
「ポートモレスビー攻略に失敗したのだから日本の負け」
と評するのが多くの教養戦記ものの主流のようだが、
その理屈からいうと鳴梁は日本の勝ちだよね。
また露梁にしても日本の勝ち。
いずれにしても鳴梁は言われているような「戦略的大局を揺るがした」
ものではなく、
数ある朝鮮側の抵抗の有効な一撃程度と認識しておくのが理性的
ということなのだろう。
北上した日本軍の南下の要因は明軍が打って出てチクサンで黒田と対決してみせたことではないか。
明は退いたが、あれで日本側も現地維持に警戒心を抱き、
冬季が迫って補給が負担になることを嫌い、南岸で拠点維持に徹する事になった。
その大きな戦局の流れから見た鳴梁の李舜臣の一撃は、
田中頼三のルンガ沖といったところか。
>なんか、戦後辺りから出てきたお話らしい
闇市時代の戦後伝説は他にも結構あるような気がする。
生半可な知識層が騙されて、そのまま通説になっているようなもの。
○○のルーツはどこそこ、
といったようなのは大概そうだろ。
拠点維持は半島南岸が限界だ
そこから先は落としても維持出来ん
923 :
名無し三等兵:2007/05/12(土) 18:07:34 ID:gfNDQNnN
砲弾潜りて にも東郷話は載ってないんだよね。
戦国日本弱いな
鳴梁海戦
結果: 朝鮮水軍の局地的勝利
↑少なくとも現状は変えないとね?
>>913 日清日露の頃は日本と朝鮮半島間のシーレーン維持が
海軍の存在意義の全てと言って良かった。
予算獲得のためにも、李瞬臣を徹底的に持ち上げる必要があったんだよ、
帝国海軍軍人には。
>>926 そもそも戦後に流布された捏造話し > 李瞬臣の持ち上げ
>東郷が李舜臣を尊敬って
> その出典を問うと、司馬遼太郎『坂の上の雲』があげられることが多い。小説を根拠とするのは如何な物かと思うし、同小説は
> 別の小説――川田功『砲弾を潜りて』が典拠であると載せているのであるから、最低でも、『砲弾を潜りて』*1を読むべきである。
>
> (略)
>
> しかし『砲弾を潜りて』の原文を確認すると、主人公である水兵京文吉が、日本海海戦で負傷し痛みをこらえる時の話として、
> 「殊に此時文吉を動かしたのは、李舜臣が日本から打つた弾丸で左肩をやられ、流血淋漓縷となつて踵に注いだのに、舜臣黙して
> 苦痛を口にせず、(龍略)自若として談笑して居つたと云ふ事である。
> (略)
> 鎮海湾を出るときでも無いし、艇長が祈るシーンも無い。一水兵である文吉の「痛みを軟げる」のが「遺業」とされるとは、いくら
> 李舜臣と雖も「お気の毒」な話である。
>
> 小説の記述上、幸か不幸か、文吉の乗った船はちょうど朝鮮出兵の古戦場である蔚山の東方にあったためか、文吉は李舜臣を思い出すのである。
933 :
名無し三等兵:2007/05/12(土) 22:11:02 ID:CcvUDgGY
鳴梁海戦の結果欄はどう書けば満足なんだ?
それとイギリス提督のバラードは褒めてんの?
935 :
名無し三等兵:2007/05/13(日) 12:34:21 ID:r+WT2TBT
鳴梁海戦はまったく進展がねえな。
決着付けろや。
必死なやつが一人いるなw
鳴梁海戦は10年後も同じ話をループしてるだろう
939 :
名無し三等兵:2007/05/14(月) 13:51:48 ID:xAm0gd3v
バカなことこの上ねえよな。Mなのか?
本当に子孫なのかどうか不明。
942 :
名無し三等兵:2007/05/15(火) 20:23:49 ID:+QoIF3sI
水軍ファンクラブの代表が珍島に招待されたことがあったが、韓国報道では来島通総の子孫が感謝の墓参りをしたことになってたもんな。
そこまで捏造するのか?
944 :
名無し三等兵:2007/05/15(火) 21:43:31 ID:w9W2gXMy
1590年 天下統一
ここから天下太平の世が始まっていればどうなっていたのだろうか?
朝鮮出兵も関ヶ原合戦も大坂の陣もない。
国内の統治制度を整備して法治国家を目指す。
バテレン追放政策、海禁政策(鎖国政策)、全国経済統合政策などを施行。
日本国国境を確定。
日本全国の軍を日本国軍(国防軍)として統一。 貿易船などを保護するため水軍も徐々に強化。
そもそも史実、1590年に天下統一してるんだから
こういう風な流れになってもよかったよね。
これが一番理想的な形かな?
そんな上手く行くわけがない
そもそも今と同じ国とか国境の概念があったかあやしいし
地理的に日本が外国の脅威から切り離された上で平和になると地方分権的になりやすい
その状況で日本が自発的に中央集権的な体制を整え、国家に対外的・対内的な力を集中させるとは思えない
有史以来最大規模な中央集権化の改革は大化の改新〜律令制導入、黒船以降の改革と
明確な対外的な脅威の接近と国内(かなり中央の指導者層に限定)の不安定化があったとき
徳川政権がやったことを秀吉がやれば、って設定だろうが
全国経済統合政策を施行、日本全国の軍を日本国軍として統一、は常識で考えて無理だと思う。
947 :
名無し三等兵:2007/05/19(土) 08:28:16 ID:SUEk+v3s
秀吉軍は10万人以上死んで敗退したって韓国人に言われたけど本当?
(´<_` )プッ、神風で二度も敗北した連中が神風特攻かよ
949 :
名無し三等兵:2007/05/19(土) 09:07:16 ID:onx0YNfo
>947
10万人が100万のチョソ女と遣りまくったことは想像の難くない。
秀吉自身には明の臣下だという自覚はあったがな。
希望どおり勘合貿易復活が認められて和平交渉がまとまっていれば、
順義王アルタン・ハンのように冊封を受け朝貢していただろう。
951 :
某研究者:2007/05/19(土) 10:00:33 ID:ZE4rwbW0
明・朝鮮軍の大型のクロスボウや合成弓を用いての
銃のアウトレンジと言うのは有ったのかどうかだが
こうした記述は全く無い訳だろうか
952 :
某研究者:2007/05/19(土) 10:04:46 ID:ZE4rwbW0
重クロスボウや合成弓より
大型銃や大筒のコストの方が
安いのかも知れぬが
数は果たして重クロスボウや合成弓より
有ったのかどうかだが
>>950 ホンとかいな。
秀吉は明を格下と、明は秀吉を格下と思っていたから再び戦争になったんだろ。
954 :
名無し三等兵:2007/05/19(土) 12:37:35 ID:BSUi1ved
俺は日本軍の損失は十五万人と聞いたな。
955 :
名無し三等兵:2007/05/19(土) 15:53:21 ID:gTtY4rkY
実は日本国内に朝鮮と内応する勢力があった。
勘合貿易のいいとこ取り狙いで、臣従は島船とかありかな
958 :
名無し三等兵:2007/05/20(日) 16:24:31 ID:mQlLmPP+
小西が出兵していなかったら朝鮮出兵史は大きく変わっていたろうな。
ついでに宗も激しく要らない子。
誰なら良いんだよ?
関ケ原の動員に支障があった大名はいた?
宗家文書が韓国にあって参照出来ないのは辛い
保存状況も気になる
つうか返還要求しろよ日本
それどこにあるの?
963 :
名無し三等兵:2007/05/21(月) 18:02:38 ID:24KwE4TV
>>960 小西が関ヶ原で活躍しなかった原因と聞いたことがあるが、本当かな?
964 :
次スレお願い:2007/05/21(月) 18:39:00 ID:PhcID/+G
宗家文書ほか旧朝鮮総督府所管の史料群は全て韓国政府に接収されました
966 :
次スレ立てました:2007/05/21(月) 21:05:20 ID:zcF6Xl5v
「海王は俺だけで良い」 by七つの海の支配者
早いな
明が来なければ、ボコボコ。
中共が来なければボコボコ。
なんだか他力本願な戦が多いね朝鮮人は。
明は朝鮮の藩屏ニダ
こうして国崩しの活躍により、大阪夏の陣は終了したのであった。
完
>>970 はんぺい 0 【藩▼屏】
(1)垣。かこい。守り防ぐための垣根。
(2)王室を守護するもの。藩翰(はんかん)。藩籬(はんり)。
(3)直轄の領地。
goo辞書で引いた意味はこうなっている。
全然ダメだろうが。
(1)については、事実上無人の野だからダメ。
(2)については、論外。逆に守ってもらってるだろう。
(3)については、直轄領地じゃないからダメ。
973 :
名無し三等兵:2007/05/22(火) 06:53:09 ID:U/miQ1Ec
朝鮮が明の藩屏であることの皮肉だよ。
しかし実態は明が滅び、李氏朝鮮は生き残った。
うめ
未帰還者のほとんどは前役。
これが7万人という説を唱えるものがいるけど疑問。
全渡海人数20万人から第二次晋州城攻めのときの布陣の数を単純にひいた数字。
入替え(帰還兵員と増派兵員)の重複、後詰の兵員数の扱いが不明で、
そのままでは信用できない数字。
「朝鮮の奮戦、日本の苦戦」
を強調したいための文飾に見える。
実際の未帰還者は前役5万人未満、後役2万人未満で実数6万程度ではないか。
少なくない数には違いないが。
976 :
名無し三等兵:2007/05/22(火) 21:52:59 ID:U/miQ1Ec
二、三万ぐらいじゃね?
age
978 :
名無し三等兵:2007/05/22(火) 23:49:01 ID:cRd40MJt
権慄は名将なのかな
979 :
名無し三等兵:2007/05/23(水) 00:24:57 ID:SzYOM+cA
わからん
あげ
981 :
名無し三等兵:2007/05/23(水) 13:32:03 ID:7qLpmSF8
うめ
禝山会戦あげ
梅
984 :
名無し三等兵:2007/05/24(木) 19:47:50 ID:NbhZ5Yq6
ウィキの立花は潤色し杉
うめ
うめ
987 :
名無し三等兵:2007/05/25(金) 16:05:13 ID:qGsGP2uh
かまうな
988 :
名無し三等兵:2007/05/25(金) 20:33:51 ID:0guw5hs1
黒田長政って朝鮮で負けたの?
989 :
名無し三等兵:2007/05/26(土) 09:39:56 ID:LmQqlztD
通説ではな。
990 :
名無し三等兵:2007/05/27(日) 11:14:51 ID:zrqfi1y2
992 :
名無し三等兵:2007/05/28(月) 06:56:43 ID:VLGo0+Cc
どっちだよ
埋め
>992
どっちも損害担当スレだから、どっちも本物。
995 :
名無し三等兵:2007/05/29(火) 06:35:42 ID:LYgUGD/t
ume
ume
うめ