1 :
名無し三等兵 :
2005/03/24(木) 20:51:25 ID:???
2 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 20:53:17 ID:???
歴史板池
3 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 21:05:18 ID:???
また荒れるんだろ・・ 攻撃的で衒学なコテハンと、それに突っかかる名無し&ステハン 取り巻きでさらに攻撃的な名無し 面白いもっと煽れ
4 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 21:05:56 ID:???
で、平安時代や南北朝時代に弓で公算射撃やってた証拠って何?
5 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 21:08:32 ID:???
つーか、レベルが違いすぎるだけな希ガス
6 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 21:10:03 ID:???
7 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 21:11:37 ID:???
衒学と揶揄しているつもりだろうが嫉妬に身悶えしてるようにしか見えないぞ。
8 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 21:12:02 ID:???
前のスレの話題をそのまま引きずるのか? 新しい議題でもいいんじゃないか? ちなみに前スレで火縄銃が有効射程200メートルの、最大到達距離が 500メートル程度といってた者だが。 現用小銃とかわらないから、ありえないという意見もあったけれども。 小銃自体の役割が変化していることを忘れないでほしかったりもする。 現代の小銃は基本的に近距離で使うものになってきている。長距離は 携帯ミサイルや砲迫があるしね。機銃もある。 一次大戦くらいの時代なら、交戦距離は1キロ近い小銃だらけだったが。 有効射程とかいたのは、ちょっと誤解をまねいたようでスマソ。 交戦距離という話になるなら、もっと近距離だろう。 それに発射速度も精度も現用小銃とは比較にならない。だが、 日本の火縄銃はいちおうマスケット銃。口径は20ミリ近く、かなり 大きい。黒色火薬で威力はおとるとはいえ、かなり遠方まで弾丸自体は 届く。 …というような反論でいいか? あと、これは私見だが、悪魔の証明めいた詭弁の応酬は今後やめにしないか? ある程度具体的な事例をだす、またはそれに対する明確で客観的な反論はOK として。
9 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 21:15:40 ID:???
>口径は20ミリ近く、かなり大きい。 口径20ミリといえば十匁以上。 火縄銃の中でも化け物クラスだぞ・・・。
10 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 21:21:18 ID:???
銃身が旋条じゃない上に球形弾だから遠距離になるほど精度や威力の低下は著しいだろうな 大口径だから遠くまで届くとは言えないだろう
11 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 22:12:16 ID:???
少なくとも公算射撃以外の射撃方法を採っていた証拠があれば納得もできるけど なんの根拠の無しに「事例はない」ってのはあまりにも乱暴だと思うのだが。
12 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 22:17:02 ID:???
>>前スレ996 とりあえず、「していた」根拠のような物は>>前スレ946が出しているだろう。 >かい盾”や“仕寄り柵”(共に持ち運べる大型の盾や柵。陣の前面に置き、前進する部隊を守る)の後から >矢を撃ちまくり、矢衾を作る、 これが、弾幕射撃でないとしたらなんなの?
13 :
○V○ :2005/03/24(木) 22:39:54 ID:???
>これが、弾幕射撃でないとしたらなんなの? 単に弓を集中的に投入していることを示しているに過ぎません 確かに大量の弓兵を集中的に投入していますが、「公算射撃による弾幕射撃」ではありません 弓の五射のうち、標的を狙わず大仰角で矢を射る射方は遠矢(延矢)だけですが、 「遠矢は的を射るに非ず只矢を遠く射遣る義にて其効は矢文等を射るに用ひらる」とあり、 矢文を射ち込むための射法であり、弾幕射撃のためのものではありません つまり、日本の弓はイングランドの長弓戦術のように大仰角をとった公算射撃による弾幕で 敵の突撃を破砕するような運用は行われていません
14 :
名無し三等兵 :2005/03/24(木) 23:18:55 ID:???
火縄銃には全く詳しくないが
>>8 >ちなみに前スレで火縄銃が有効射程200メートルの、最大到達距離が
>500メートル程度といってた者だが。
そもそも火縄銃時代の「有効射程」の基準はなんだ?
現代銃なら「射距離xxxmでxxをxx貫通する事」といった基準があるんだが?
それが一緒じゃないと「有効射程xxx」が現代銃と変わりないと言っても同じ
威力とは言えない。
で、当時の有効射程の基準は何?(前スレ参加してないから既出だったらゴメン)
15 :
名無し三等兵 :2005/03/25(金) 01:25:12 ID:???
確か所荘吉の「火縄銃」に有効射程200、最大射程500って書いてあった、 これの引き写しじゃないかね。同書には有効射程の定義は載ってなかったけど。 ちなみに射撃場でしっかり狙って人間大の目標に必中が期待出来るのが100mくらい。 兵法書などから見ると戦場で撃ち始める距離は大体80〜100mくらいだそうだ。
16 :
名無し三等兵 :2005/03/25(金) 01:42:46 ID:???
すまん、前スレ見たら、 「戦略戦術辞典日本戦国編」がソースと書いてあった。
17 :
名無し三等兵 :2005/03/25(金) 02:18:14 ID:???
宇田川武久は有効射程100mと書いていたな。
18 :
8 :2005/03/25(金) 22:49:46 ID:???
スマソ。 ソース書くべきだったね。 有効射程については、どうも定義がはっきりしないので、漏れも よくわからないが。 ただ、弓との差も驚異的なほどではなかろうし。 ○v○氏の意見と、大意は違わない。 弓の公算射撃についてはどうなんだろうなぁ。 弓足軽というのは、狙いすまして撃つ鎌倉武士とは違い、数で 矢ぶすまを作るものという話を聞いたことがあるんだが。 この矢ぶすまのことを、計算された公算射撃とまでいうか、それとも 単なる各自の射撃の総合ととるかは、難しいところのように思う。 これについては、誰かほかにソースはないのか?
ソースは雑多な上につまみぐい、自分で戦国時代当時の弓術を研究している 知人からの伝聞も含むので、まあ話半分ぐらいで聞いて下さいな。 “かい盾”や“仕寄り柵”の後からの弓矢による攻撃なんだけど、もっている資料にもういちど細かく当たったら、 どうやら集中攻撃するときは、きっちり隙間無く並べていた盾をある程度どかして、隙間をつくって射掛けたらしい。 軍記物にもそういう描写がいくつかあるみたい。 当然遮蔽物の後から、攻撃を防ぎながら射る事もあっただろうが、絵巻物などの絵画資料をみるかぎり、弓を扱う武士や 足軽は、大抵ほぼ水平に弓を構えている。 戦国時代の実戦弓術を研究・実践している知人が見せてくれた、甲冑を着た状態での戦場での基本射撃姿勢は、 割り膝と言って、左の膝を地に付けて右足を立てる、しゃがんだ姿勢であり、弓の角度は10〜20度だった。 立って、40〜50度くらいの角度で撃ちこむ矢は遠矢前といい、矢文や鏑矢ようの射法だとか。 ということはやはり遠距離での、間接射撃的射法による公算射撃を用いた面制圧は、していなかった、となるのだが、 どうも信じられないんだよなあ。 笹間良彦氏の本に、弓矢を使った戦いの変遷として“遠矢で敵を射倒すこともおこなわれるようになり”といった一文が出てくるし、 源平合戦期に、源氏が夫丸まで使って矢を雨のように降らせた、みたいな軍記物の記述からは、狙うことを重要視せずに、大量の 矢を敵に放って(それも曲射弾道で)いたようにしか思えない。 弓足軽の矢衾だって、狙うことを重視せず、弾幕を張るのが本来の用途だろう。『雑兵物語』の弓足軽についての記述は、全てに 当てはまる物ではない、“心得”以上のなにものでもない気がする。
成立が江戸時代に入ってからで、さらには述べられていること(戦陣での各種作法)に地域差が ある可能性も多いにあるから『雑兵物語』は確かに良い資料ではあるけど、絶対視は出来ない ような気もするっていうのもある。 資料が存在しないものを妄想(想像)で語るのは、歴史探求・研究ではないので、重点が 置かれるのは解るんだけどね。
21 :
○V○ :2005/03/26(土) 01:14:26 ID:???
イングランドの長弓戦術に見られるように、公算射撃による弾幕射撃は敵のキルゾーンへの拘束が大前提となります 対スコットランド戦や百年戦争におけるイングランド軍は、長弓兵を大量投入すると同時に、 歩兵の戦列によって敵をキルゾーンに拘束しています 火力発揮において柔軟性に欠ける公算射撃は、機動を発揮する敵にはその効力を十分に発揮できないからです つまり、戦術教義に公算射撃を採りいれるためには、弓兵と他兵科の連携は最低限の要件となります 一方、平安〜鎌倉期の日本の戦闘は、時系列に沿って徒歩による「矢戦」→「騎射」→「乱戦に近い白兵戦」と 展開しています このような独立的に推移する戦闘の様相において、弓兵が近接戦闘兵科と連携して 公算射撃を行っていたとは思えません 鎧武者がチャンチャンバラバラ大長刀で切り結んだりお互いに寝技を極めあっているところに ろくに狙いもつけない公算射撃で矢の雨を降らせるわけにはいかないからです 徒歩の兵が堅固な戦列を組んで戦うという概念がなかった当時の日本の戦闘において、 公算射撃が慣用的に行われたとは考えにくいでしょう
22 :
名無し三等兵 :2005/03/26(土) 01:18:34 ID:???
>>13 >弓の五射
それって18世紀後半に出版された「射学要録」にまとめられたものなのでは?
だとするならば、江戸中期の文献を持って平安〜南北朝時代を語るのは
ちょっと根拠としては弱いような。
23 :
名無し三等兵 :2005/03/26(土) 01:23:12 ID:???
>>21 相対距離がゼロに等しい白兵戦ではどうかと思いますが
矢戦の時点なら同士討ちの可能性も無いように思いますが?
24 :
名無し三等兵 :2005/03/26(土) 01:55:01 ID:???
>矢戦の時点なら同士討ちの可能性も無いように思いますが? 矢戦の時点ならばますます公算射撃を行う意味がないでしょう 公算射撃は命中率の点では狙って射るよりも劣ります 公算射撃の第一義的な狙いは、敵の隊列の圧迫による組織的戦闘力の破壊です 近接戦闘を伴わない射撃戦では狙って射たほうが効率的でしょう
25 :
○V○ :2005/03/26(土) 01:59:00 ID:???
26 :
名無し三等兵 :2005/03/26(土) 11:12:53 ID:???
どうも日本人は、はっきりとしたマニュアルを作成して、実戦もフィードバックして残しておく、ということをあまり習慣的にしないように思う。 兵法書はあるし、雑兵物語のような、話し言葉でかかれた歩兵用の基礎的な文献はあるのだけれども。どうもあくまで基礎を網羅する程度で、実際にはかなり習慣や、経験から動かしていたのではないかな。 江戸期の空白時代もあるし。 だから、現代から過去の戦国時代を推定したりするのはかなり 難しい。 ○v○氏のいう厳密な意味での公算射撃まではおこなっていなかったと とるのがいまのところ妥当のようだけれども。 曲射自体を否定されているわけではないし、実際のところ日本の弓は かなり遠射がきくので、集団でできるだけ遠くの敵をまとめて いぬく、というような感じだったのではないかな。 それが、こちらの希望通りの場所に歩兵部隊でうまく敵を誘導し、 そこにまとめて矢を放つ、というような戦術だったか、というと それについてはソースがない、という話になるのでは。
27 :
名無し三等兵 :2005/03/26(土) 11:25:35 ID:???
西欧と中国以外に体系的な兵法書ってあったか?
28 :
名無し三等兵 :2005/03/26(土) 12:14:16 ID:???
いちおう、日本にもいくつかあるよ。 兵学や兵法のようなもの自体は盛んだったし。 あまり現代日本ではメジャーではないけれども。
29 :
名無し三等兵 :2005/03/26(土) 12:26:16 ID:???
いや、マウリッツの三兵戦術やクラウゼヴィッツの戦争論 孫子、呉子ほどのものがってことなんだが。
30 :
名無し三等兵 :2005/03/27(日) 18:11:51 ID:???
戦争論は、ドイツ観念論哲学的にまとめられすぎていて、イマイチ。 古典的名著ではあるけれども、「古典的」の枠からは抜けられない。 孫子は現代につたわっているのは魏武注バージョン。これはかなりの名書で現代においても通用する。それは間違いないです。 ただ、各論や時代ごとの用法を削除して、根底にながれる軍事的な 哲学を抽出したものだから、むしろ初心者向け。 呉子は、中国大陸での戦争に対する考え方の研究では役立つけれども、 実学的にはイマイチ。 現代ならリデル・ハートやマハンなどのほうがまだメジャー。 日本のだと軍法侍用集などはかなり名著だと思うのだが。
31 :
名無し三等兵 :2005/03/28(月) 22:08:59 ID:nEel0Quh
いまさらクラウゼヴィッツを出してくるのも、何だかね。 ○v○殿とかはどう御考えなのかな?
32 :
名無し整備兵 :2005/03/29(火) 01:05:11 ID:???
「戦争をどう戦うか」について書かれた本は山ほどあるけれど、「戦争とは そもそも何か」について書かれた本は、クラウゼヴィッツ「戦争論」が 最高峰なので、度々引きあいに出されるのも仕方ないかと。
33 :
名無し三等兵 :2005/03/29(火) 18:45:58 ID:???
>「戦争とはそもそも何か」 兵は不詳の器にして 君子之器に非ず 已(や)むを得ずして之を用うれば 恬淡を上と為す 勝ちて美とせず 而(しか)るに之を美とする者は 之殺人を楽しむなり 老子 兵は詭道なり 孫子 ちょっと違うけど。
34 :
名無し三等兵 :2005/03/29(火) 18:49:09 ID:???
>「戦争とはそもそも何か」 自己の意志を他に強制することの一手段、国家バージョン
>「戦争とはそもそも何か」 外交の一形態?
36 :
名無し三等兵 :2005/03/29(火) 21:25:10 ID:1dheAVBe
>>32 別に最高峰じゃないと思うんだが。
もっとも、観念論哲学を利用してうまくまとめた高度な書籍の
ひとつではある。
ただ、あまり現代の軍事関係の海外の書籍を漁ると、あんまり
古典的な研究書以外、クラウゼヴィッツを今さら引用する
書物はあんまりない。
37 :
名無し三等兵 :2005/03/29(火) 21:57:43 ID:1dheAVBe
お前らクラウゼヴィッツを信望しすぎだろ
38 :
名無し三等兵 :2005/03/29(火) 22:31:22 ID:???
そういうわけじゃないんだが
39 :
名無し三等兵 :2005/03/29(火) 22:33:19 ID:???
信望じゃなくて「信奉」な。
40 :
名無し三等兵 :2005/03/29(火) 22:57:40 ID:1dheAVBe
信望の人は、阿呆ということでOK?w
41 :
名無し三等兵 :2005/03/30(水) 22:12:00 ID:???
ところで、つぎのお第はどうする? 3スレ目までで決着がついたわけだが。 戦国武士軍団VSローマ軍団は、 圧倒的な火力投射量の差により、戦国武士軍団が圧勝する。 たとえばローマ軍団VS全盛期のアレクサンドロス率いるマケドニア軍。 または戦国武士軍団VSチンギスハーンのモンゴル軍。 …というのはどうだろう?
42 :
名無し三等兵 :2005/03/30(水) 22:28:29 ID:???
明軍VSティムール軍が実現していたらどうなっただろう。 実際ティムールは出兵してるわけだし。 どちらも全盛期の時代。
43 :
名無し三等兵 :2005/03/30(水) 22:33:51 ID:???
明側で待ち受けていたのは、だれだったっけ? 何となく地元の有利で中国側が最終的に勝ったような気がするなぁ。
44 :
名無し三等兵 :2005/03/30(水) 22:43:36 ID:???
45 :
名無し三等兵 :2005/03/30(水) 22:45:15 ID:???
そうそう。 だれだっけ?? それと明軍は当時、すでに火器はあったっけ。 何だか教えて君でスマソ…。
46 :
名無し三等兵 :2005/03/30(水) 23:08:00 ID:???
>>45 ごめん、自分もどういう人が国境に付いてたかは知らない。
おそらく永楽帝の部将の一人が迎撃するんだろうけど。
明軍は当時も火器を所有してたよ。
というか洪武帝の頃から既に使われてる。
いわゆる鉄砲である鳥銃ではないけど。
47 :
名無し三等兵 :2005/03/31(木) 22:17:51 ID:???
どちらかというと、戦国武士軍団の鳥銃のほうが命中精度では かなり上だったわけで。 ティムールの火力は、弓くらいなのか?
48 :
名無し三等兵 :皇紀2665/04/01(金) 22:11:15 ID:???
日本に伝わった銃は、狩猟用だったらしいがね 戦闘用は伝わらなかった
>48殿 種子島に伝わったのは、南方(東南アジア)起源の、狩猟用らしいですね。 だからストックが無いんだろうな。しかし、なぜストックレスのまま発展しつづけた のか、疑問が残る。誰かが考えそうなんだけど。
51 :
名無し三等兵 :2005/04/02(土) 11:44:12 ID:???
あれ? そもそも本当は種子島起源かどうかも微妙なんじゃなかった? 種子島「にも」銃が入ってきたのは事実のようだけれども。 キリスト教宣教師などを介して、複数のルートで、いくつかの種類の 銃が入ってきていたと思うんだが。 それと、ストックがないのも当時の世界の主流だったような。
52 :
名無し三等兵 :2005/04/02(土) 11:45:44 ID:???
明の三眼銃とか、すでに輸入されていたかもな
53 :
名無し三等兵 :2005/04/02(土) 11:53:10 ID:???
肩付け銃は頬付け銃と比べると、反動には強いものの命中精度が悪い。 命中率の向上を優先した戦国の武士達には馴染まなかった。 という説を聞いた事があるが。 ・そもそもそんなに命中精度が違うのか ・たまたま日本では知られなかっただけではないか ・逆に武器が使用者の指向を生み出した可能性はないのか と言う疑問も……
54 :
名無し三等兵 :2005/04/02(土) 11:55:03 ID:???
うお、宣伝の合戦みたが、面白そう! 衣装その他は、みるかぎり自弁ということみたいだけれども、 実際にそうなのですか?
55 :
名無し三等兵 :2005/04/02(土) 12:03:43 ID:???
日本の火縄銃の場合、肘を肩よりも上にもってきて、上からかかえるようにして撃つわけだけれども。 その姿勢でうつと、肘と肩にロックがかかるので、結構安定した姿勢になる。 もちろん長時間構えたりすると疲れるだろうし、肩当てのほうがシンプルで実用性は高いかもしれないけれども。 柔軟に銃を使えるという利点はあると思う。 どちらかというと、日本人の場合、銃の形自体の改良(細かな改良はちょこちょこと行われていたようだけど)をするよりも、撃ち方の改良で、銃撃の能力向上を目指していたような感じがするなぁ。 それは、火縄銃製造のノウホワイをしらず、ノウハウだけをうけいれたために、「火縄銃はこういう形のものだ」という観念が根強かったのもあるかもしれないね。
56 :
名無し三等兵 :2005/04/02(土) 13:15:33 ID:???
ティムールVS明軍に話をもどすと、 近接戦闘では火力の充実した明軍やや有利かな? ただ、すでに同時代、インドあたりでも火器はつかわれていたはずだが。 ティムールはどれだけの火器を携行していたんだろう。
57 :
名無し三等兵 :2005/04/02(土) 14:36:06 ID:???
この時期既にティムールはお爺さんだが永楽帝は壮年なんだよな。
58 :
名無し三等兵 :2005/04/02(土) 16:06:47 ID:???
単純に指導者同士がなぐりあったら、永楽帝の勝ちだねw
59 :
名無し三等兵 :2005/04/02(土) 22:22:05 ID:???
もしティムールが中国まで攻め入っていたとしても、結局 年齢のために、どこかで倒れてしまったかな? そうすると、ティムール軍と明軍の比較以前の問題に なってきそうな悪寒。
60 :
名無し三等兵 :2005/04/02(土) 23:40:50 ID:???
ティムールって戦争メチャクチャ強いよね。
61 :
名無し三等兵 :2005/04/03(日) 19:14:47 ID:???
なんとなく、高齢の優秀な戦争指導者ということで、トォリルハンとだぶるところがあるね。
62 :
名無し三等兵 :2005/04/03(日) 20:10:46 ID:???
火縄銃に追加。 笠間良彦の著作によると、どうも「鉄砲」や火薬自体はもう室町くらいには日本にはいっていたらしい。中国式の火槍のようなものもあったようだ。
63 :
名無し三等兵 :2005/04/03(日) 21:17:23 ID:???
文献にも考古学資料にも無いんだが。
64 :
名無し三等兵 :2005/04/03(日) 21:20:35 ID:???
石火矢が鉄砲になるかどうかだな それなら室町でも火器が導入されていたことになるが…
65 :
○V○ :2005/04/03(日) 21:29:27 ID:???
「碧山日録」には応仁の乱で細川勢が大陸から持ち込まれた火槍を使用していたという記述があります 欧州でハンドカノンと言われている類の火器でしょう この頃はまだ数も少なく火薬の供給も困難で、日本の兵器体系に組み込まれるまでには至っていません 後の種子島に比べて洗練されてはいませんが、原理的には種子島と同じものです
66 :
名無し三等兵 :2005/04/04(月) 22:09:24 ID:???
>>63 試しに、これはだれでも手に入るから、笠間良彦さんの
日本甲冑武具辞典でもよんでみ。
火縄銃の項目。死ぬほど一次資料も列挙されてるわけだが。
いくらなんでも、文献にないといいきるのには、寡聞にもほどがあるぞ。
>66 笠間じゃなくて、笹間良彦先生では? 先生の本はとても資料価値が高いが、同時に値段も高いので、 なかなか手が出ない。 知り合いが先生のお宅に何度かお邪魔しているので、オレも御存命の内に 会ってみたいなあ。珍しい武具・防具の本物や、自らフルスクラッチで造られた レプリカとかがいっぱいあるらしいよ。
68 :
名無し三等兵 :2005/04/04(月) 22:35:21 ID:???
おう! 失礼! たしかに笹間良彦先生だ! スマソ。 恥ずかしいので逝ってくる。微妙なる記憶違いだった。
69 :
名無し三等兵 :2005/04/05(火) 00:31:19 ID:???
>>66 それはすまんかった。
で、実際の遺物は無いわけだな。
>69殿 出た、という話は聞いた事ないですね。 でも、“種子島”以前に、飛砲とか火槍と呼ばれていた兵器が使われている 描写が軍記物に結構あるのは事実のようです。 明から入ってきた、胴銃(英語ではハンドカノン、もののけ姫で使ってた銃)がこれに あたるようです。 応仁の乱頃に、大陸から火箭や火槍が伝わってきて、西国(の水軍)を中心に広まって いったという説があるようです。
>54殿 遅レスすいません。ええ、基本的に自弁です。実行委員会が、某映画(黒と赤の…) で使われた足軽用の鎧(近くで良く見るとチャチイ)を払い下げてもらって、 ある程度の数を所有してはいますが。 あとは衣装会社からのリースや個人が買ったり、自作したりした鎧です。
72 :
54 :2005/04/05(火) 22:40:21 ID:???
結局日本戦国の場合、火縄銃は種子島がもっとも初期、というのは
どうも言切りすぎってことですね。
そういえば、どこかの外国の文献に「火縄銃はほとんど改良
されずに明治維新を迎えた」というようなものをみた記憶がありますが…。
早合や、連発銃は開発されたものの、あまり広まらずに、海外での
知名度も高くはないということなのかな?
>>71 レスありがとうございます!
自弁ですか…。うーん、今年は厳しそうなので、来年はやめに
準備して、参加させていただくかもしれません。
丁寧な御返事、ありがとうございました。
73 :
名無し三等兵 :2005/04/05(火) 23:04:22 ID:???
江戸時代にもフリントロック銃が来ていたそうだが あんまり興味もたれなかったそうだ どうしても燧石叩くと命中率が下がるからな、命中率大好き日本人には見向きされなかった
74 :
名無し三等兵 :2005/04/05(火) 23:12:42 ID:???
>>72 改良されてるよ。
宇田川武久 著 「鉄砲伝来」と「鉄炮と戦国合戦」を読むといい。
種子島に伝来した銃、それをコピーした銃、堺や国友で作られた銃はそれぞれ違う。
>72 1人分くらいなら装備は回せますよ(オレの自作品の腹当とか)。 得物もあるので、直足袋とかだけ用意してもらえれば大丈夫です。 でもまあ本番まで日が無いので、やっぱりキツイでしょうけど。 来年はぜひよろしく。よければ今年も見学だけでもどうぞ。
76 :
名無し三等兵 :2005/04/06(水) 07:09:18 ID:???
>>72 火縄銃からそれ以上には発展しなかった、の間違いだと思う。
火縄銃としては世界で最も改良されたと言われている。
77 :
名無し三等兵 :2005/04/06(水) 19:28:57 ID:???
>火縄銃としては世界で最も改良されたと言われている。 それって最新型の旧式銃ってことでは? 日本がマッチロック銃を懸命に改良している間に 西欧ではフリントロック銃が普及していた訳で
78 :
名無し三等兵 :2005/04/06(水) 19:33:41 ID:???
つーか幕末の頃にはパーカッションロック銃も登場してるし・・・
79 :
名無し三等兵 :2005/04/06(水) 20:56:32 ID:???
>>77 いちがいにフリントロックの方が優れているとは言えない。
運用法が違うし。
点火方式が違うだけでマスケットなのは同じ。
80 :
名無し三等兵 :2005/04/06(水) 21:10:55 ID:???
互いに一長一短はあるもののフリント・ロックのほうが構造が単純で操作も簡単。 兵器としてはフリント・ロックのほうがマッチ・ロックより優れていると言わざるをえない。 作家の東郷隆氏は東アジアの軍事技術は極めるに従って宗教色を帯びるようになると言っているが、 小手先の改良に拘って本質的な技術革新を怠った好例だな。
81 :
54.72 :2005/04/06(水) 22:06:00 ID:???
>>75 ご好意、感謝いたします。
そうですね、せっかくなので、見学だけは行くかも
しれません。
フリーバトルにも興味がありますし。
来年までにはしっかり準備固めておきますよw
82 :
名無し三等兵 :2005/04/06(水) 22:09:05 ID:???
ただ日本の場合、兵隊(というと語弊があるけど)が 並んで銃列を作り、正規軍(これも語弊があるかなぁ?) 同士が激突するような戦争がなくなって久しかったからなぁ。 どうしても、さらに先へ、先へ、少しでも相手よりもよい銃を、 という流れからは取り残されてしまってたのは事実。 せっかく早合や三段連発銃や、輪転式連発銃も生み出されながら、 それを全鉄砲足軽組に、という発想にはならなかったんだろうね。 費用もかかるし。 もし、対外的な交流がストップしておらず、常に外との 何がしかの接触が、出島以外でもあれば、また違った話に なっていたかもしれないが。 和船ももっと発達していただろうし。
83 :
名無し三等兵 :2005/04/06(水) 22:18:11 ID:???
島原の乱以降は戦や内乱が無いからな。 軍事に注いでたリソースを他に転用したから江戸期の経済発展に繋がったわかえだし。
84 :
○V○ :2005/04/06(水) 22:18:56 ID:???
江戸幕府の軍事政策の基本理念は軍縮ですから、軍事技術も保守的になる傾向にありますね それが当時の日本にとって悪かったか良かったかは議論の分かれるところですが
85 :
名無し三等兵 :2005/04/06(水) 22:41:54 ID:???
そうですね。 江戸期は軍縮によって、軍備の重圧から解放されたからこその 経済的発展と町人文化が開花したというのはあるでしょうね。 それによって、町人の教育も進展し、民度がさらに高まり、 最終的な明治維新後も士族以外からも優秀な人間を集めることができた …というのはちょっと言い過ぎかもしれないですが。
86 :
名無し三等兵 :2005/04/07(木) 20:23:45 ID:???
>それって最新型の旧式銃ってことでは? 最先端技術を使って開発された、世界最高の7.62ミリ弾使用アサルトライフル …みたいなもんか。
87 :
名無し三等兵 :2005/04/09(土) 14:20:37 ID:???
インドの部族たちも火縄銃はつかっていたからなぁ。 世界最高かどうかについては検証の必要があると思われ。 ただ、かなりの精度には達していたんだろうね。
88 :
名無し三等兵 :2005/04/09(土) 23:15:23 ID:???
日本の火縄銃なんてクソ。 ヨーロッパのミニエ銃とかには絶対かてないな藁 所詮太平をゆめみた連中のゆめの後だぜ。
89 :
名無し三等兵 :2005/04/09(土) 23:36:52 ID:???
ライフルと比べればそりゃ当たり前。
90 :
名無し三等兵 :2005/04/10(日) 17:47:08 ID:???
なんだかこのスレもさびれてきたね。 また熱い激論にならないものか。 戦国武士軍団VSエドワード黒太子軍団とかはどう? 戦国武士軍団はまだ火縄銃が一般的でなかったころの設定で。
91 :
名無し三等兵 :2005/04/14(木) 22:28:10 ID:SIfcQCdw
何か他にいい対決のアイディアがある香具師はおらんのか?
92 :
名無し三等兵 :2005/04/14(木) 22:59:17 ID:???
まぁ無理に対決にしなくても。
93 :
名無し三等兵 :2005/04/15(金) 03:30:49 ID:???
厨は火葬戦記が大好きだから 知識なくても妄想でなんとでもなるから
94 :
名無し三等兵 :2005/04/15(金) 09:13:56 ID:???
"自称"元傭兵が書いてる英雄大戦でもネタにしてみる?
95 :
名無し三等兵 :2005/04/15(金) 21:42:42 ID:akBH0XYc
あ、それいいんじゃない?
96 :
名無し三等兵 :2005/04/16(土) 11:10:38 ID:???
英雄大戦 織田信長対チンギスハン 戦場 平壌 勝者 信長 英雄大戦 曹操対ハンニバル 未読 読んだ人教えて 英雄大戦 豊臣秀吉対ヴァレンシュタイン 戦場 琵琶湖湖畔 勝者 秀吉 英雄大戦 カエサル対アレクサンドロス大王 戦場 すまん忘れた 勝者 カエサル 英雄大戦 織田信長対サラディン 戦場 すまん忘れた 勝者 信長 出てるやつだとこんな感じか。ネタふった当人が未読だったり忘れてたりしてすまん。
97 :
名無し三等兵 :2005/04/16(土) 12:38:20 ID:A71TdhZG
信長とサラディン/チンギスハンかぁ…。 火力の勝利といいたいところだけど、その話にでてくる 両軍の規模はどれくらい?
98 :
名無し三等兵 :2005/04/16(土) 12:45:17 ID:???
すまん。牛肉よく食うせいかw数字とか名前とか物覚えが最近悪くて、 とりあえず日本の武将が参加した戦いは火縄銃の火力がアドバンテージ になってた。欠点は騎兵の貧弱さ。モンゴルとアラブはそこが強力だったので 対戦相手になったのかな。対ヴァレンシュタインは大砲に苦戦してたな。 全部立ち読みで手元にないのじゃ。すまんのう…
99 :
名無し三等兵 :2005/04/16(土) 17:16:07 ID:A71TdhZG
戦国武士軍団というか…。 この対決の場合だと、信長軍、秀吉軍がメインになるのかな。 騎兵の貧弱さは、どっちかというと、演出上の都合という気もするなぁ。 騎兵まで互角だったら、話を盛り上げることが難しくなってくるし。 ただ、蒙古騎兵軍団が相手だと、さすがに厳しいかな?
100
>>73 あと、日本で採れる火打石は火花が弱く
フリントロック式用に供給が無理だったというのもでかい
命中率云々は、吉宗の前でウンテレキレイマンとかいう外人がこれの試射をやったんだが
こいつの腕がよほど悪かったのか、ろくすっぽ当たらなかったため
世界銃砲史つう本のなかで、火縄式と燧石式、両方撃った著者は命中精度に違いはない と書いてたな。 日本でフリントロックが普及しなかったのは強いばねが量産できなかったからだ、と言う 説も聞いたことがある。
103 :
名無し三等兵 :2005/04/17(日) 14:51:56 ID:E4MS9q0Y
現実問題、日本の場合、外敵はいない(という幻想をもっていた)し、 いちおう徳川幕府の下で、各大名も太平のその日暮らしを楽しんで いたわけで。 それぞれ経済的に云々はあっても、ちょうど現代日本が、なんだかんだ で官僚や経済に不満がありながらも、国の世話になってのんびり 平和を楽しんでいるような現状だったので…。 そもそも火縄銃の改良や、発達にはそれほど関心がなかったんじゃ ないかなぁ。 実際、兵器の改良は、金もかかるし、維持にも金がかかる。 もし、激しい内戦が続いていたり、中国あたりと何らかの戦闘が 頻繁におこっていれば、話がまた違ってくるんだろうけど。
考えて見りゃ不思議な話だが、燧石式小銃の命中率が悪いなんて俗説がどうして人口に膾炙 したのかな。燧石式ライフル銃って命中精度重視の銃もあったのに。 連隊まとめて一つのユニットの欧州の歩兵銃とは精度が違って当然。 日本人の負け惜しみが受け入れやすくしたとしか思えんなあ…
>>104 >>101 でも書いたが、試射した外国人が幻滅ものの成績しか残せなかったため
しかも将軍の目の前でやったもんだから、結果的にこの説が広く流布しちゃった
燧石式ライフル銃???
>106 ケンタッキーライフル。ベイカーライフル。etcetc…
なんにしろミニエー弾じゃない限り軍用としては特殊すぎる。
>108 特殊ではあるけど、散兵の基本装備でよく使われていたのも事実です。
>>109 つまり主力にはなり得ないってことさ。
ナポレオンも後半は散兵戦術取れなくなってるしな。
アメリカは別だがあれは例外。
にしてもサラトガやヨークタウンでライフル装備の兵が主力とは聞いたことがない。
111 :
名無し三等兵 :2005/04/23(土) 10:59:07 ID:wKn7oMq1
>>110 ん?
すると独立戦争でのアメリカ兵の主力火器は何だったんだ?
112 :
名無し三等兵 :2005/04/23(土) 11:28:25 ID:G0MUKhbv
>>111 イギリスもアメリカも、主力は燧石式マスケット銃に決まっている。ライフルもあったが、主に狩猟用。弾込めに時間がかかるから。
独立戦争でライフルを使ったのは民兵でもっぱら狙撃用。主に将校を狙撃したから、当時としては評判が悪かった。
卑怯千万というわけだ。捕虜になったらただではすまなかったらしい。しかし、イギリスには決定的に劣るのだから、こうでもしないと太刀打ちできなかったのも事実だ。なりふり構わずというところか。
以前、同じようなスレを建てたら、歴史板に行けって言われたな
114 :
名無し三等兵 :2005/04/23(土) 15:21:56 ID:wKn7oMq1
>>112 まぁ、将校を狙うのは基本だぁね。
第一次世界大戦でも、将校はあきらかに将校然としていたから、
結構狙撃の対象になった。
戦術上それはしょうがない。
最近は、できるだけ見た目は兵と同じにしようとはしているが…。
自衛隊の場合も、将校は拳銃をもっていたり、地図をもっていたり、
結構実戦になったら狙われそうな悪寒。
近代戦だと死者は小銃弾よりも砲弾の破片や爆弾の破片のほうが遙かに多いから それほど兵との服装差別を将校が気にするほどではない
場合によりけり。 火力支援が制限される視界が開けていない土地や市街戦なんかは未だに狙撃が怖い。
>>116 陸自だと拳銃持つのは中隊長クラス以上
このクラスが狙撃を気にするほどの状況ならどうにもならん。
狙撃が問題になるのは小隊長や分隊長、通信兵だが
ここら辺が狙撃されるのはどうしようもない。
>>115 その論法には些か無理が有る気がするが。
捕手
120 :
名無し三等兵 :2005/05/30(月) 20:27:59 ID:v22ktX0J
たまにはage
ここで白村江ですよ。
中世から近世への移行期にヨーロッパで「軍事革命」があったという考えは現代では定説となっている 仮に「革命」が起こったとして、それがいつ起こったかの正確な時期については意見が一致していない 最も一般的な見解では、1496年にイタリアに押し出したシャルル8世の軍勢を 3世紀後にナポレオンが率いた軍隊と構成が根本的に異なっていないという理由で 軍事革命の最初のケースであると見なしている 確かに歩兵の戦術的地位の向上、広範にわたる火器の採用、新型の火器に抗堪できる築城技術の急速な発展等、 軍事革命の多くの要素が15世紀末には出揃っている しかしながら、16世紀中頃から17世紀中頃にかけて、軍事革命にとって最も重要なファクターである プロフェッショナルな常備軍が出現したとする主張も根強い この時期、東欧周辺地域を除く中欧と西欧では、アジャンクールでイングランド軍が見せたような、 飛び道具と迅速な機動の必殺の連携が銃兵と重槍兵の密集戦闘隊形によって確立した 騎兵は、十二列以上の縦深に配列された重槍兵の槍の列を前に、正面突撃を放棄せざるを得なくなっていた 同時に、戦力集中原則に則って緊密な隊列の維持を要求された歩兵は更に鈍重になり、 歩兵が攻撃的な運動を行うこともますます困難になっていた こうした防御偏重の戦術的な不活発は兵站と戦略的な諸要因によってさらに強められた 長期にわたって野戦軍を養える地域は少なく、更に輸送手段や交通網も貧弱であったため、 部隊は補給を要塞に置かれた倉庫に頼らざるを得なかった この重要な補給点である要塞は多面的な稜堡を備えたイタリア式築城で構築され、 攻城砲の放列ですら迅速に攻略することはできなくなっていた 攻城戦は古代からのオーソドックスな攻囲のセオリーに則って行われ、 長期にわたる攻囲が重い攻城砲と多くの弾薬や貯蔵庫を必要とした 会戦の全てが攻城戦を巡って行われるようになり、攻城戦が野戦より重要になっていた そんだけ
この時期の軍隊の大部分は傭兵だった 16世紀以前にもある程度の常備軍は存在しており、多くの国ではまだなお封建的な騎士の従軍義務と 民兵的兵役義務という中世封建軍制の名残が存在していたが、これらはほとんど何の役にも立たなかった 傭兵は十分戦闘には耐えたが、あくまで金銭と引き換えに軍事技術を提供する者であり、 少なくとも契約の上では雇用者である国王や諸侯と対等の立場にあった この時期のヨーロッパの傭兵制はいわば封建軍制から絶対主義軍制への過渡期において必然的に発生した 暫定的な存在であり、国家の信頼できる暴力装置として軍務を遂行する効果的な軍隊を いかに整備するかという問題は既に15世紀末から認められていた イタリアでは、古典文明への関心の復興が軍事理論とその実践に大きな影響を与えた 古代ローマの軍制に関する研究は、特に改革者、性格には改革者を自認する者にとって発想の源泉となった マキャヴェリの「戦術論」は、古代ギリシャ・ローマの軍制の価値を再発見し、 その復活を推奨した数多くの論述の中の、最も有名なものでしかない そんだけ
この「新古典派」の中には実際に弾雨や槍林をくぐった軍人も含まれていたが、 彼らの示唆は素人による机上の空論の域を出なかった そして、古典に影響された改革の多くが短命で、または原形をとどめぬほどに変容したが、 マキャヴェリやその他の多くの人文主義者たちの中心的な考え、 すなわち社会が軍事的義務を担うべきとする観念は、一面では間違ってはいない フィレンツェでは多くの人文主義者が国民軍のほうが傭兵よりも優れかつ信頼できると主張していた しかし、支配者は臣民を武装することに躊躇していた 最も重要なことは、古代ローマの執政官と軍団長たちが直面したものよりはるかに巨大で複雑で 専門的な当時の軍事技術を体得できるのは傭兵のみだと信じていたことだった そして、この点に関しては支配者のほうが正しかった 実際、西欧においては必要な時にだけ任務を遂行するパートタイマー的民兵軍には多くの問題があった 民兵は召集には時間がかかり、野戦では不手際で、主に自分の町の防衛のみ有用だったが、 複雑で長期にわたる作戦には不適当だった 例えそうであっても、階級組織の指揮系統、機能的な任務付与、不断の訓練と教練によって達成される 軍事能力等、マキャヴェリが強調したことは、八十年戦争のオランダにおいて 戦闘効率が高く高度に統制された軍隊が出現したことで実現した もっとも、それは兵の士気や忠誠心の問題に端を発したものではなく、 指揮下の兵士と兵器をどう使えば敵を打倒できるかという純粋に技術的な要求への回答からだったが そんだけ
オランダの寡頭政治の支配者は、自国の司令官、すなわちナッサウ・オランイェ家の諸侯に 新型軍隊の指揮を委ねる覚悟があった この時期のフランスやスペイン、ドイツの教養のある軍人と同じく、オランイェ家の将帥たちは 古代の軍事著作に通暁しており、銃と槍の組み合わせから最大の効果を引き出すために、 新しい戦闘隊形とより一層の訓練を結合した新しい統制が必要であることを認識していた 火力と機動を効果的に発揮するため、歩兵は大規模な密集方陣を解き、 比較的小型の隊列の集合体として展開するようになった 将校はより高度な主導性と熟練した指揮法、作戦計画への服従が要求された この新しい軍隊は、後の絶対主義軍隊の原型と言うべき存在で、残念ながら古代ローマのレギオンとは 幾つかの部分で本質的に異なっていた ナッサウ家の改革者たちは、軍事専門技術と社会的、精神的な価値観を兼ね合わせた新しいタイプの プロフェッショナルな兵士と戦闘指揮官を作り上げたのである 火力と機動の発揮を連携させ組織的戦闘力を最大限に発揮させるという戦術的要求は高度な部隊教練を要求し、 それを実現させるために規律が重要な要素となった オランイェ家の改革者たちは最初から国民兵構想など当てにしてはおらず、長期雇用の専門的な傭兵に 頼っていたが、規律を重視し、専門的な将校と教練を通じて規律の強化と維持に努力を払い続けた これは、近世初期における絶対主義軍隊の成立に社会的・道徳的側面から基本的パラメーターを提供した マウリッツと彼の従兄弟たちによって実行された施策は後のヨーロッパの軍隊の基準となった ヨーロッパで支配的になった絶対主義軍隊は、いまだ幾つかの重大な欠陥を内包していたが、 それ以前の傭兵軍に比べればかなり効率的な道具となり、明確な政治的・軍事的指揮系統の命令に 予期できる形の服従で対応していた そんだけ
これらの変容は、戦略と戦術に実質的な影響を与えた 戦略と戦術は相変わらず不十分な通信連絡網と要塞に支配された環境の制約下にあり、 戦略と戦術の輪郭は18世紀末までずっと不明瞭だったが、規律ある常備軍が指揮官の立案した計画に基づき、 長期的かつ持続的な作戦を遂行することが可能となったのである 18世紀末の軍隊とマウリッツの軍隊は多くの点で異なっているが、本質的な点では共通している グスタフ・アドルフとモンテクッコリは、よく統制された軍隊が戦争の基本的要求であることを確信していた ヨーロッパ絶対主義体制の常備軍の発展は、二つの独立した系統から出現した オランダのモデルが広く模倣されたが、トルコとの長期戦に由来する「帝国」モデルも存在した 神聖ローマ帝国において、アヴェンテュニスやフロンスペルゲア、シュヴェンディは、 オスマン・トルコの軍事制度を賞賛し、同様の制度と組織の導入を再三にわたって主張していた スウェーデンとトルコの両方との戦闘を経験したモンテクッコリは 二つの系統の融合を体系的に著した最初の人物である こうして、オランダ、スウェーデン、オーストリアの遺産が近代に至るヨーロッパ列強の軍制に 継承されることになる 後に、シャルンホルストはモンテクッコリを戦争の普遍的性格に導く欠くことのできない先達と称した 「軍事革命」の定義を、新しい兵器や戦闘隊形の採用以上の、軍隊や戦争の性格の基本的な転換を 含むものであるとするならば、そのような転換は1560年代以降、マウリッツ、グスタフ・アドルフ、 モンテクッコリに代表される多くの指揮官たちの努力と実験の末に大部分が達成されたと言える そんだけ
127 :
チーム :2005/06/07(火) 19:50:04 ID:???
ウィレム沈黙公の二番目の息子、ナッサウ家のマウリッツは著名な行政官、戦術家で攻城戦の権威であるが、 偉大な戦略家であったとまで言い切ってしまうのは賞賛というより神への盲目的な信仰に近い 彼は非常に慎重で、軍隊を危険な状態に置くことを避け続け、20年間に一度だけ本格的な作戦を 実施しただけだった 彼は連邦共和国の独立を守るという戦略目的を達成したが、慎重な余り、戦闘的ではあるが それほど組織的ではない敵に対してしばしば不利な状況に陥っている 1589年から1609年にかけてのマウリッツの兵制改革の実行は軍人、政治家、各分野の学者の 参加による共同研究の成果だった 軍隊の全般的な編制を作り、その財源を確保するために、マウリッツはホラント州の法律顧問であり 連邦共和国を形成する七州の集合体の連邦共和国議会で三十年間にわたって最高政治家であった ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトの支援を受けた 兵站と戦術的問題は二人の従兄弟ウィレム・ローデウェイク、ヨハン・ファン・ナッサウ・ジーゲンに、 攻城戦と軍事技術については数学と攻城技術の個人教師であったシモン・ステヴィンの助言を受けた シモン・ステヴィンは軍の工兵監となり、多くの攻城戦を指導し、工兵団の創設に貢献した そんだけ
マウリッツの用心深さと慎重さもまた、連邦共和国の複雑な政治的、軍事的状態を反映し、 彼の置かれた独特の立場から生まれた グスタフ・アドルフやフリードリヒ2世、ナポレオンのような君主将軍と違って、 彼は常に強固なシビリアン・コントロールの下に置かれていた 1588年、彼は21歳で「連邦共和国陸・海軍司令長官」と「ブラバント、フランドル陸軍大将」、 すなわち両州の野戦軍の最高指揮官に任命され、加えて既にこの時にはホラント、ゼーラント両州で 元首の代理である総督の公職にあった 1591年以降、更にヘルデルラント、オーフェルエイセル及びユトレヒトの総督に任ぜられた 同時に彼の従弟のウィレム・ローデウェイクはフリースラントの、1594年以降はグローニンヘンや ドレンテの総督であった しかし、多くの公職は権力を意味していなかった 海軍の指揮官として、マウリッツは異なる五つの州の海軍本部委員会に対して責任を有していた そして、共和国によって「陸軍大将」に任ぜられていたが、連邦共和国陸軍の全てを指揮できるわけでは なかった 州の独立性は軍隊の発展と時に作戦を抑制し、連邦議会の特別委員会である国務会議は常に特別戦場委員を 通じて作戦を監視した マウリッツの立場は、最高司令官というよりもむしろ軍事技術のエキスパート、作戦のマネージャー、 連邦共和国の軍事顧問に近い そんだけ
129 :
鶏卵の幸運 :2005/06/07(火) 19:51:37 ID:???
このシステムは、かなりの軋轢の種にはなったが、長い間それなりにうまくいっていた マウリッツは政治的野心を抑え、一方で軍事的伝統を欠く商業寡頭制の支配者は軍人の経歴を 好まなかったので、総督に軍隊管理の細目を任せて満足していた それでも軋轢を完全に避けることはできなかった 1600年、政治家が圧力をかけてフランドルで作戦を強行させた時、高級将校たちはロング・コート(政治家) が軍隊を不必要な危険に晒したと不平を述べている そして結局、マウリッツとオルデンバルネフェルトの政治闘争の際、オルデンバルネフェルトが民兵軍 (共和国軍とは別に都市の予算で創設された新しい軍隊)を新編することにより共和国軍の役割を 減じようとした時、マウリッツはオルデンバルネフェルトを逮捕して裁判にかけ、1619年に死刑にした 1588年にマウリッツが陸軍最高司令官に任命されたときには、まだこうしたことは起きていなかった その頃は、政治家も軍人も、傭兵と民兵の非効率な軍隊を、スペインの老練なフランドル方面軍を駆逐する 能力を備えた軍隊に改革する必要があるという点で合意していた 当時、フランドル方面軍はパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに率いられ、 オランダ北部を完全に奪回しようと窺っていた この年も、オランダの反乱勃発以来と同様に闘争は均整のとれたものではなかった 低地帯での長い紛争は民族解放戦争であると同時に内戦でもあったし、 オランダが当時最強の軍事大国であるスペインと対決しながら生き延びられていたのは、 彼らが異常なほどの努力を払って死に物狂いで戦ったからではなく、オランダの地形のためであり、 またスペインが長期間にわたる大規模な作戦を行う上で困難に直面していたからだった そんだけ
1566年の反乱初期にはスペイン・ネーデルラントは人口約300万の十七州からなっていた この地域を流れるライン、マース河とスヘルト河川系が、平坦で農業も栄え主要な都市である南部十州と 人口もまばらで貧しい北部を分断していた 南部は反乱の最初の焦点となったが、間に合わせの反乱軍は野戦で度重なる敗北を喫し、 貴族的な指導者層と過激化する都市部中下層民を中心とした反乱支持層の分裂の結果、 1579年には南部諸州はスペインの支配下に戻った 当時、北部七州は連合を結成しており、南部で抵抗を続ける地方を支援しようとしていたが、 1584年、反乱指導者の沈黙公が暗殺され、北部の軍事的努力は頓挫することになる 党派的地方的な対立によって分裂していた北部諸州は統一的努力を払うことができず、 一方で傭兵への報酬は滞り、都市は次々にパルマ公の手に落ちた アントワープ等、幾つかの都市は長く抵抗したが、多くは戦う前に交渉により降伏した パルマ公は河川障害を克服しつつ北へ進撃しながら東部に第二戦線を形成し、 エイセル河に向けてフリースラント、グローニンヘン及びヘルデルラントに侵攻し、 ユトレヒトとホラント、ゼーラントを脅かした スペインが勝利をつかみかけたため、それまで反乱軍に間接的な支援しか与えていなかったイギリスの エリザベス女王も直接介入を決意し、軍隊を派遣し、軍資金を提供せざるを得なくなった しかし、イギリスの干渉も結局は実を結ばなかった イギリス軍指揮官レスター伯は連邦共和国と対立し、彼の部下の中には拠点をスペインに 売り飛ばす者さえいた そんだけ
131 :
糾える縄 :2005/06/07(火) 19:53:21 ID:???
1587年には反乱軍は危機的な状況にあった パルマ公の東部攻勢はザイデル海に達して南部戦線と合体し、反乱軍の抵抗地域をホラント、ゼーラント、 ユトレヒト諸州とオーフェルエイセル、ヘルデルラント、フリースラントの幾つかの孤立した拠点と、 大河の南にあるオステンド、ベルヘンオプゾームに押さえ込んでいた 1587年から翌1588年にかけて、パルマ公が任務を完全に達成できなかったのは、 イギリスの干渉がフェリペ2世を怒らせてイギリス攻撃のために無敵艦隊を派遣させ、 パルマ公が彼の軍隊をイギリス遠征の乗船準備のためにダンケルクに転進するよう命ぜられたからだった イギリス遠征の企図が失敗し、翌年パルマ公は再びオランダに移動する準備を行っていたが、 フランスの宗教戦争におけるカトリック軍を支援するために転進させられた こうして強敵の転進により軍を再建する時間的余裕を得たマウリッツは、北部地域の多くを回復し、 防衛線を補強することができた そんだけ
132 :
水に落ちる :2005/06/07(火) 19:53:58 ID:???
オランダがホラント要塞と呼ぶ戦略的要塞地域を保持していたことが重要な利点となった この地域は北部と西部を北海とザイデル海に、南部を河川に、東部をエイセル河と沼沢地に守られ、 運河、水路、入江、沼で分割され、主に小規模な要塞都市が点在する低地帯からなっていた この要塞地域は後に1672年のフランスの侵攻からも持ちこたえ、 1940年にドイツの電撃戦で陥落するまでオランダの軍事的聖域であり続けた オランダは1572年から1574年にかけて既に採用していた手段、 すなわち運河を決壊させることによって広範囲に氾濫作戦を実施することができた スペインが優勢な艦隊を集中できればスペインに勝機はあったが、既にフランスと地中海への干渉、 海外植民地の安全保障の必要からそれだけの戦力投入は不可能になっていた 挙句に、スペインの経済的破綻はフランドル方面軍の度重なる反乱を引き起こした 一方、英仏海峡のコントロールが保障されていなかったため、軍隊の増援はイタリアからの長い迂回路、 スペイン街道によって行わなければならなかった 対照的に海と内陸水路を支配したオランダは、部隊を水上機動させてブラバントとフランドルに 奇襲的な攻勢を加えることができた 更に、まだ無敵とまではいかなくとも、海上交通路の支配権を強化したことで オランダの海上貿易が急速に拡大し、経済に発展をもたらした 当時のアムステルダム市長は、オランダは戦争によって繁栄したと放言した この経済力がオランイェ家の改革者たちにプロフェッショナルな常備軍を養い、 大規模な攻城戦を実施し、前線に新たな防衛線を構築する財源を提供したのだった そんだけ
兵制改革の発想は16世紀の戦争を遂行する必要から生じたもので、 マウリッツのブレインの一人でマキャヴェリの信奉者であったユスツス・リプシウスの主張にもかかわらず、 古典的なモデルを参考としていたわけではなかった リプシウスが忠実な国民兵を用いることを提唱していたにもかかわらず、 改革者たちは専業的な兵士を雇い続けた オランダ人は海上で功績を上げたが、軍隊の大半は外国人の傭兵で構成されていた 低地帯での初期の攻城戦では多くのオランダ人が直接戦闘に参加していたが、 海上貿易と海軍の成長が自国の人的資源を必要とした 地方や要塞防衛の軍務は地方民兵で補充された民兵中隊が任じられていたが、 新古典主義の純理論家よりも現実主義者であった総督は、数は多くないが、選抜され、 十分な給養と高給を保証された規律の高い傭兵野戦軍を募集した そんだけ
新しい軍隊の際立った性格は、論理的な統率、確固たる服従、戦術展開と機動性の改善にあった 改革は人員の削減から始まり、部隊の兵力を削減された財源に合致させた 1600年まで、オランダの野戦軍は歩兵1万、騎兵2000を超えることは滅多になかった そしてこの軍勢は比較的有力な砲兵放列(1595年の時点で42門、うち野砲6門)に支援されていた 下士官の多くはフランス人、ドイツ人、イギリス人、スコットランド人で、少数ながらスイス人や スウェーデン人、デンマーク人もいた 年間契約と給料の即時支払によって兵は規律を受け入れるようになっていた マウリッツは兵の行状に対して厳しい軍律で臨んだが、同時に規律を身につけさせる方法として教練を 用いることを発見した ウィレム・ローデウェイクの提案で兵は日課を課せられ、号令はオランダ語、英語、ドイツ語に翻訳されて 毎日訓練された 勿論、それまでも陸軍は兵器の操作法に習熟するよう兵を訓練していたが、 この場合の訓練では個人と部隊の技能を達成する以上の目標が与えられていた 兵器の操作と部隊の教練を適切に実行することは規律を外部に示すことになり、 訓練は命令に即時服従することを刷り込み、部隊の組織的戦闘力を強化するよう計画された 軍隊における教練の再導入はオランイェ家の改革の本質的な要素であった そんだけ
教練が進むにつれて戦術展開の効率も向上した 日常の武装訓練は銃と槍の連携を改善し、部隊の機動性の向上につながった 1594年にはウィレム・ローデウェイクがマウリッツに提案していた斉射戦術が採用された 部隊は次第に小型化され、マウリッツは中隊の定数を130名に削減して銃兵の比率を高めた こうした動きは試行錯誤と実験を伴っており、結局マウリッツが恒久的な戦闘隊形を確立することは なかったが、各中隊は800名、後に550名の大隊に編成され、直線的な梯隊配置により戦列を形成した オランダの戦術ドクトリンは、常に訓練を必要とし、更に下級部隊に独立的な行動を要求していたため、 多くの下級将校を必要としていた マウリッツが現代ヨーロッパの将校団の始祖と言われる理由だが、 より重要なことは、新教と新古典的教育の影響を受けていたマウリッツが、 指揮官は貴族出身であることではなく、国家が裁定した将校任命辞令によって権威づけられた公的責務を 負うものであると考えていた点にあった これは軍隊に確立された階級間の絶対服従の概念と結合された 勿論、現実はこの理念とは異なっており、オランダ軍内の上級の地位は総督の縁故で占められていた 高級将校には多くの外国人も採用されていたが、それは彼らだけが必要とされた専門技術を備えていたからで、 ようやく不動の昇進基準が導入されるのは1618年になってからだった そんだけ
オランダ軍の戦術は批判されることもあった 精密な部隊運動を要求する斉射戦術は、部隊の投射火力の総量を増加させたわけではなかった 新しい戦闘隊形は決定的な攻撃を行うにはあまりにも小さく精緻でありすぎたため、 一般的には防御にしか適していなかった 1597年のトウルノの遭遇戦と1600年のニューポールの戦闘でオランダの戦闘隊形はその有効性を 証明したが、それでもトウルノでもニューポールでも攻撃で決定的な役割を演じたのは相変わらず騎兵だった 一方で攻城戦へのマウリッツの貢献は疑う余地がなかった 彼は攻城放列を増強し、砲兵、工兵、段列に対して軍内で永続的役割を付与した マウリッツは部隊による労務の実施を導入することにより、攻城作戦の効率化を図った それまで将兵の一部には応急的な野戦築城のような差し迫った状況でもなければ、 塹壕掘開のような土木作業が自尊心を傷つけるものと考える風潮があった このため軍は土木作業を雇用または徴用した労務者に依存しなければならなかった 無論、こうしたやり方があまりよくないことを知って、将校の中には自らショベルやツルハシを取って 兵が作業を始めるよう仕向ける者もいた マウリッツは更に進んで、ショベルを歩兵の標準装備に加え、作業を鼓舞するために 割高な臨時手当を支給した 1593年のヘールトライデンベルヒュ攻城戦では3000名の志願者が昼夜兼行で攻撃築城に従事した 毎日きちんと日当10スタィヴァの割増賃金が支払われたからだった そんだけ
137 :
神出鬼没 :2005/06/07(火) 19:58:36 ID:???
戦略に関して、マウリッツは連邦共和国議会の要求と自らの性向に従って目標を限定し、 基本的には北部七州の回復を企図した 更に彼は戦略的要点の奪取によってこの目標を達成しようとし、敵の主力を撃破することを望まなかった 1589年から1609年の間にマウリッツは29基の要塞を奪取し、3回の解囲作戦に成功した 野戦を行ったのはニューポールの一回だけで、それもマウリッツにとって望まない戦闘だった 彼は大河の内線を利用し、南部と東部の前線の間で部隊を移動させた こうして彼の比較的小規模な野戦軍は強力な機動打撃部隊として振舞うことができた 1602年のブラバントにおけるマウリッツの作戦の失敗が示すように、 彼は水路から離れた作戦が非常に困難であることを悟っていた 最終的には彼の作戦の範囲は、各州の年来の自主独立主義と絶対に必要以上の大戦力を維持することを 不本意とした連邦共和国議会によって制限を受け続けた そんだけ
スペインがイギリスとフランスを相手に軍事行動を起こしたことは敵を撃破する好機であると 国務会議は言明した しかし、連邦共和国議会は攻勢作戦に反対し、防勢を強化すべきだと主張した 結局、マウリッツは北部のいくつかの主要な都市を奪回する限定作戦のみを認められた 作戦は1590年にブレダに対する攻撃で開始され、共和国軍は、大河川北部のスペイン軍の根拠地を排除し、 ブラバントとフランドルの一連の小要塞群を攻略するためにワール河を渡河した 翌1591年、マウリッツは会戦季節である5月から10月にかけて大規模な攻勢作戦を実施した 彼はまず東部エイセル河沿いにおいて5月にズットフェン、6月にデーフェンテルの要塞を2週間で攻略し、 続いて平底船で部隊を移動させて9月にアントワープ近くのホルストを5日間で奪取した その後、ドルドレヒトに反転し、ナイメーヘンへ陸路進軍し、10月、6日間の包囲でこれを陥落させた この一連の目覚しい成果を、マウリッツは奇襲と迅速な攻囲作戦、更に交渉に当たって敵の守備隊へ 相当に譲歩した条件をつけることで達成した そんだけ
1592年、マウリッツは北東部で作戦を展開し、ステーンウェイク、クフォルデンを奪取した この際に州の自主独立主義が表明されている すなわち、フリースラント州はオーフェルエイセルとヘルデルラントにおける作戦を支持したが、 ゼーラント州からの圧力でマウリッツが南東部のヘールトライデンベルヒュに転進を余儀なくされたとき、 フリースラント州はウィレム・ローデウェイクとマウリッツの軍勢がこの作戦に参加することを禁じた 1593年6月、ヘールトライデンベルヒュは長い攻城戦の後に予定よりも相当遅れて陥落した 翌1594年、マウリッツは東部に戻り、同年7月にグローニンヘンを占領した その後、当面の目標が達成されたということで各州は軍への資金を減らしたため、 マウリッツは一時作戦を中止せざるを得なかった この休止期間にマウリッツは軍を再編成し、1597年にスペインが再びフランスに重点を指向したので、 マウリッツはスペインの要塞をいくつか奪取し、東部戦線と南部戦線のスペイン軍の連絡を遮断した 1598年にスペインとフランスが和約を結ぶと、増強されたスペイン軍はオランダ軍の南東翼の河川域を 渡河して突出したが、1599年初頭には撃退された 当時スペイン軍内では反乱が起きていたため、これまでの成功で大胆になった連邦共和国議会は マウリッツを説き伏せてスペイン私掠船の根拠地であるニューポールとダンケルクに対して フランドルの海岸沿いに軍を進めた 1600年7月、マウリッツはニューポール近郊で臨時召集された急拵えのスペイン軍を撃破したが、 これは戦術的勝利ではあっても戦略的勝利ではなかった 計画されていたニューポールとダンケルクの攻囲作戦はいずれも戦力が不十分なために進展せず、 結局オランダ軍は8月初旬に海上経由で撤退する そんだけ
その後、スペインのアルブレヒト大公がオステンドの奪取を図ると、 マウリッツは彼としてはかつてないほど野心的な作戦によってスペイン軍の包囲を解こうとした 彼は5442名の騎兵と1万9000近い歩兵に増強された軍勢を率いてブラバントに進出し、 続いてフランドルを急襲してスペイン軍を撃破しようとした 作戦はマース河を渡河した直後に失敗した オランダ軍は十分な馬糧を調達することができず、再びマース河を渡って帰らざるを得なかった マウリッツは連邦共和国議会から作戦方針を防勢に転移するよう命ぜられ、戦争の主導権はスペイン側に、 しかもスペイン最良の将軍と謳われたアムブローリョ・スピノラの手に移った 海上からの補給を受けたオステンド要塞の攻城戦が3年間も続く間、共和国は東部戦線の脆弱な部分を 補強するため土塁の防御線の拡張工事を開始した しかしそれでも1609年に軍の主力を東部に移したスピノラを阻止できず、 スペイン軍はオーフェルエイセルとヘルデルラントまで進出した スペイン軍の進撃を阻んだのは共和国軍の決死の防戦ではなくひどい秋雨のおかげだった この時点でスペインの経済が破産に近づいていることを知ったスピノラは敵対行動の中止を主唱し、 1607年4月、翌年末から12年間の条件で休戦協定が締結された これはオランダ連邦共和国にとって孤独な戦いの終わりを意味した 1621年に再び戦端が開かれた時、戦いはドイツで起こっていた大戦争に包み込まれることになる そんだけ
141 :
獅子の臆病 :2005/06/08(水) 20:31:53 ID:???
ニューポール戦の後、オランダの戦術ドクトリンが広く注目を集めた 連邦共和国軍はいまやヨーロッパ最良の軍隊と目され、一般にオランイェ家による兵制改革は 新教国にほとんど抵抗なく受け入れられた スウェーデンではグスタフ・アドルフがマウリッツの手法を採用し、これに修正を加えて 特に攻撃的な機能を強化した グスタフは当時の歩兵の衝撃力の強化に努め、攻撃的な役割を担わせることを実行した最初の軍人だった この軍人王は主要な会戦のほとんどを自らが訓練し戦術を叩き込んだ傭兵によって戦ったが、 一方でそれまでささやかな民兵団に過ぎなかった国民徴募軍を本格的に増強した 軍事に関わる全ての面で、グスタフはオランダで専門知識を修得した将校たちの支援を受けていた 戦争に訴えようとする傾向はグスタフのほうがマウリッツよりはるかに強かったが、 グスタフの戦略的な概念もこの時代の制約を脱することはできなかった グスタフは国王としてマウリッツよりはるかにスケールの大きい計画を作成することができたが、 彼もまた大胆とは無縁の常識的で慎重な将軍だった 彼のドイツにおける有名な会戦は全て要塞を巡る攻城戦の環境の中で行われた 彼の雄大な計画にもかかわらず、実際の作戦は交通と補給の重要拠点を奪取し、 それを保持する彼の能力によって決定された クラウゼヴィッツはこうしたグスタフのスタイルを痛烈に批判し、グスタフを「大胆な征服者」ではなく 「戦術と機動、組織」に過剰な関心を抱き、これらを「注意深く組み合わせることに熱中した指揮官」と やや的外れな評価を下している そんだけ
多くの伝記や軍事史によれば1611年に17歳でスウェーデン国王を継承したグスタフ・アドルフは、 彼の軍隊が「訓練も不十分で規律も乱れた」貧弱な組織であることに気づいたという 幼い頃から国王を約束されていた人間が17歳になるまで何故気づかなかったのかはともかく、 スウェーデン軍の起源は50年ほど前のグスタフ・ヴァサとエリック14世の時代に遡る 彼らはオランダの兵制改革に先んじて封建軍と国王の傭兵軍で構成されていた国軍を国民常備軍に改編した 基本的に槍と銃が適当な比率で混成された小さな大隊に組織化されていたが、 これらの革新はヨーロッパの主流から余りにも遠く離れた辺境で起こったために 周囲に大きな影響を与えることはなかったし、ほとんどは短命に終わった その後、スウェーデン軍はデンマーク、ポーランド、ロシアとの間歇的な戦争で消耗していった グスタフはオランダの兵制改革についての知識を得ており、ヤーコブ・ド・ラ・ガルディの徒弟教育を 受けていた 実際に当時のスウェーデン軍が度重なる戦争による消耗からの回復が追いつかず、 組織の改革に着手する余裕すらなかったのは事実で、軍の再建こそが新国王グスタフの最優先事項であったのは 誰の目にも明らかだった 彼は直ちにポーランドと休戦を締結し、1613年には極めて不満足な条件ではあったがデンマークとの 戦争を解決した ついでラ・ガルディを次席指揮官としてフィンランドに作戦し、1617年にロシアと何とか満足できる条件で 和平を得ることができた 3年後、グスタフは大幅に改善された軍を率いてオスマン・トルコ及びロシアと交戦中のポーランドに侵入した しかし、短期間で容易に片付くと考えていた彼の目論見は大外れで、戦争は長期にわたる消耗戦となった 1622年、2年間の休戦によって戦争は中断されたが、その後戦争は1629年まで続き、 その年の休戦によってようやく終結した 当時ドイツで起こった大戦争がスウェーデンにとって好機であり同時に脅威であると感じていたグスタフは この短い平和の訪来を期に軍の改編に着手した そんだけ
143 :
名無し三等兵 :2005/06/11(土) 08:12:00 ID:Q2uWKmSX
内容は良いけどコピペしまくりはイクナイ
144 :
名無し三等兵 :2005/06/11(土) 17:36:38 ID:zgSwzJY9
>>143 それが「そんだけ」氏の味だからな〜。
俺は良いと思うが、駄目って人もいるわけか…むぅ。
sageにチェック入れてあるのにsageられねぇ。 Live2chなんだが、弱ったな。
あ、失礼しました〜
そんだけ氏復帰?
>>148 …そのスレちゃんと読んだのか?今やってんのは新ネタなんだが。
あぁそうなのか。 ごめんね。
これからは文句つける前に確認しとこうな
そういえば昨年か一昨年にパーカー教授亡くなったらしいね。 軍事革命論争も今は昔。
必ずアンチが湧くなあ
なんのこっちゃ
まあ一言文句言わずにはいられない人もいるってこった。 2chだから仕方ない。
つーか
>>148 って確信犯だろ?
本気で過去スレのコピペだと思ってたら頭弱すぎる。
本気で頭弱いんだろ さて何事もなかったかのように以下保守
だからどうした。
お前なんかどうでもいいんだが、氏の講義が止まったのは痛いな。
やりたきゃまたやるだけだろうに。
当の本人が消えてから一週間経ってるのにたいした粘着っぷりだな その情熱はどこから来てるんだ?
それは貴方のほうでしょう。 むしろ聞きたいね。
変なのが住みついちゃったなあ・・・
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
175 :
名無し三等兵 :2005/06/17(金) 18:16:13 ID:/opbbFA1
次から皇太子のかめはめ波な
>>161 バカでクズだから粘着にアンチするくらいが精一杯なんだよ。
こういうことでしか自己表現できないんだろうな、きっと。
まだ引っ張るのか。
初心者スレからきました。 古代ローマ軍と中世ヨーロッパの軍、例えば14世紀頃のイギリス軍とかを見たらどうみてもローマ軍の方が装備や戦術が優れてる様に見えますが実際にそうなのですか?
中世ヨーロッパは、時代的にはどのへんの?地域的なのでもピンキリだからそれも。
>>178 惜しい、ちょっと遅かった。過去スレでローマ軍については検証を結構やってたんだけど。
確かローマ信者が暴走した挙句にスレ的には古代ローマ軍は21世紀のアメリカ軍相手でも 勝てると結論が出た筈だが。
>>179 12世紀末期の十字軍とサラセン軍と比べたらどうなんでしょう?
183 :
名無し三等兵 :2005/06/20(月) 20:20:08 ID:xFTBiwWZ
★★★明日21日火曜日、テレビ東京の午後のロードショー『風とライオン』はすごいぞ!! 軍事マニア必見!! 監督ジョン・ミリアス、主演ショーン・コネリー、キャンディス・バーゲン
マルチは止めれ
砂漠のライオンはやらんのか。大作過ぎるか。
日本でフリントロック銃や大砲用の尖頭弾が普及しなかったのは何故だろう。 技術的な素地は江戸中期までに出来上がってたと思うのだが? 性能だけが劣るならまだ判るが明治までろくすっぽ進化してないって一体何?
>>187 そういやグライダー飛ばした奴も牢屋に放り込まれてたな。
化け学や錬金術に関わると島流し喰らいそうな時代だってのを忘れてた
しかしまた何で幕府は兵器研究を禁じたんだ?
>>190 兵器研究の禁止理由とか書いてないじゃん。
何で大砲用の尖頭弾が幕末になっても普及しなかったのか教えてくれ
凄い居丈高な教えてくんだなw
194 :
名無し三等兵 :2005/06/28(火) 18:20:56 ID:x117tHQK
フリント・ロックは湿気に弱いため、インドではマッチ・ロックが 共に長らえていた。 また、フリント・ロックのハンマーがパンを打つさいに狙いがずれる ため、一時期、敬遠されていたが、結局、使い勝手が良いということで、 普及したとも言われている。
そんだけ氏再開しないのかな・・・・
いいよね、そんだけ氏。 マクニールとか普通に持ってらっしゃるんだろうなぁ…
通販なら普通に買える。
漏れには高いの
>>195 しません
不愉快に思ってる人もいますので
申し訳ありませんでした
荒れる予感。
>>199 また気が向いたら、お願いします。
>>199 (´・д・`)エー グスタフ・アドルフ編楽しみにしてたのに・・・
>>201 すいません
私が書き込むとこのスレが荒れてしまいますので悪しからずご了承ください
そんだけ氏に要望なのだけれども おすすめ洋書10冊ほど 教えてくれませんか?
洋書が読みたいのなら近所の図書館辺りに行ったほうがいいですよ
そんだけ氏 相当に怒ったな。
つーか 有益な書き込みしていると 一人でも文句つけると 途端にやる気を なくすが 、そんな奴無視して、始めの目的を通したほうがいいよ。 自分も わざわざ調べて書き込んだら 文句言ってきた奴がいたので むかついて一時止めたけど、再開して会話を続けて正解だったことが多いよ。
207 :
名無し三等兵 :2005/07/21(木) 21:40:49 ID:dKGFsZN6
age
そんだけ氏や、ポーカー氏やら、一人の基地外のおかげで去ってしまった 人間の実に多いことか…。
周りの信者がな・・
粘着なアンチがな・・
211 :
名無し三等兵 :2005/08/13(土) 23:09:56 ID:0HmCcp6D
>>戦国武士軍団 VS 古代ローマ軍団 結局これはどうなったんだ? 過去スレを少し読んだ限りじゃ軍団補助兵の存在も知らなかったりローマ兵はリーチが短いから不利だとか(マケドニアやセレウコス朝のファランクスを粉砕したのは無視か?)レギオンが歩兵と騎兵だけで構成されてると思い込んでたりする奴だらけで萎えたんだが。
212 :
名無し三等兵 :2005/08/14(日) 05:39:21 ID:9OY9zFy+
それはかなり萎えますな・・・。 というか、よくそんな知識で議論できましたね、彼らは。
>>211 少し読んだだけじゃダメだな。
ちゃんと最初のスレから読まないと。
貴方が言ってることも議論されてる。
215 :
名無し三等兵 :2005/08/25(木) 17:11:38 ID:Hqhgl8M0
普通に考えて盾を持ってないからピラムの一撃で半分が死ぬんじゃないか?
ピラムが届く前に弓と鉄砲にやられますな。 槍衾で叩き落とすこともできます。
>>216 つテストゥード隊形
つ盾
つ軍団補助弓兵、投石兵、バリスタ
新説:ローマレギオンは投射武器を持つ敵と戦った事が無かった!
>>221 だってさんすれっどもよむのがめんどい。
ようやくすればそれですむじゃん。
>>221 要約
>41
圧倒的な火力投射量の差により、戦国武士軍団が圧勝する。
解ったか?
過去スレ読んだがローマ側には投射武器が無いだの槍衾があるから接近出来ないだのまじめに言ってる程度だった。
飛び道具が投槍以外無いレギオンでは遠距離から弓と鉄砲で言い様に殺戮されるだけ。 騎兵も鐙がある日本騎兵とは勝負にならない。 うまく近づいて槍を投げても密集隊形を組んだ足軽の槍衾に叩き落されるだけだし槍に阻まれて白兵戦に持ち込む事も出来ない。 よって戦国武士軍団の圧勝。
「過去スレ」も↑見たいなのが結論な様に見えたけど違うの?
>>217 976 :名無し三等兵 :04/12/12 23:58:12 ID:???
>>971 マリウスの兵制改革の頃まではな
クレタの弓兵とかは有名だな
しかし、それだって数は少なかったし、あくまで散兵として運用されてたに過ぎない
ちなみに補助兵が登場するのは帝政になってから
この頃には弓兵はほとんどいない
だから、クレタの弓兵とかを補助兵と呼ぶのは正しくない
弓兵が復活するのは4世紀以降だが、この頃にはレギオンが消滅してる
>>229 間違い。
地域によって補助兵の装備は違う。
東方に配属されてた軍団の補助兵には弓兵も多い。
ゲルマニア配属の軍団には弓兵はいなかったがこれはオリエントに比べてヨーロッパの弓が貧弱だった為。
だから変わりに投石兵(スリングを使う奴)が使われた。
と言うかシリアやスキタイあたりの人間を補助弓兵として使ってた事位常識だと思ったが。
何この香ばしい流れ・・・ まともに過去ログも読めない文盲なんてスルーすりゃいいのに
>>233 過去ログで出た結論がおかしい、と言ってるんだが。
>>235 >229の様な電波に突っ込みがこない程度のレベルなんだが。
ヨセフスのユダヤ戦記に記述があるというローマ軍の行軍隊形。 AD66〜73ころのユダヤ人叛乱に対処すべくガリラヤ侵攻時のもの。 前衛 弓兵を中核とした補助軍兵士 本隊その一 重装備の歩兵&騎兵 その二 軍団の百人隊から選抜された測量隊 その三 工兵隊 antecursores その四 精鋭騎兵&司令部の軍用行李 その五 騎乗した司令官&歩兵・騎兵・槍兵からなる護衛隊 その六 軍団騎兵 その七 砲兵部隊……カタパルト、バリスタなど その八 将官、大隊長、軍団旗&軍旗護衛隊&コルニケン その九 主力歩兵部隊【六列横隊】 その十 荷駄隊 後衛 傭兵隊&後衛の歩兵・騎兵混成隊 砲兵部隊にはラムなどの攻城兵器なども随伴する。 これらはプレハブ構造で分解して分散駄載ののち運搬された。 >弓兵を中核とした補助軍兵士 >弓兵を中核とした補助軍兵士 >弓兵を中核とした補助軍兵士 >弓兵を中核とした補助軍兵士 >弓兵を中核とした補助軍兵士 >弓兵を中核とした補助軍兵士 >弓兵を中核とした補助軍兵士 >弓兵を中核とした補助軍兵士
誰がクレタ弓兵の話をしてるんだ?
面倒臭いから結論はこれで。 銃火器普及前:ローマ軍の勝ち 銃火器普及後:戦国日本軍の勝ち
つーか15万人近い補助兵がいて騎馬弓兵を多用するパルティアが仮想敵国なんだから弓兵がいない訳ないだろ。
>>242 いや、だからさ、実際に補助弓兵を使用してたという記録があるだろ>237。
シリア人を補助弓兵として使ってたのも有名なんだし。
なぜレギオンが弓兵をつかってなかったと言う事にしたいのか理解出来ん。
>>243 だから、散兵的運用の弓兵じゃなくて後のヨーロッパや戦国日本の
ような弓兵隊であったのかどうかってこと。
弓兵はあくまでも「補助」兵でありメインは重装歩兵なのは当然。 つーかヨーロッパでも日本でも弓兵は主力じゃないだろ。
「弓兵隊」と言うのが具体的に何を意味するのかよく解らんがレギオンでの弓兵の役目は基本的に 騎馬弓兵への対抗 敵と接触する前の小競り合い 前進する重装歩兵の援助 に留まり弾幕を張る様な事はしなかった。
なぜそこまで弓兵隊に拘るんだろうね。 弓兵じゃ100年戦争時のイングランドみたいな使い方をしない限り決定的な戦力にはなり得ないし、戦国期の日本がその様な戦術を取ってたのは聞いた事が無い。
日本の張力の低い弓じゃそもそもロリカ・セグメンタタ鎧とスクトゥム盾を効果的に貫通出来るのかさえ怪しい。
>>251 銃火器が発明される前の軍事システムと発明された後の軍事システムを比べるのはナンセンス。
比較するなら鎌倉期、室町期と比べるべき。
やはり文盲だな 過去ログでは誰もローマ軍が弓兵を使ってなかったとは書いていない 帝政ローマ軍内の弓兵はあくまでも散兵の一種であり、 その地位も役割も独立的な戦闘兵科とはとても言えない つーか、独立的な戦闘兵科ですらなかった弓兵で戦国日本の鉄砲足軽に対抗できると信じてる時点で 大笑いなんだがな
>>254 229の976は弓兵が殆ど使用されてなかったなんて電波を飛ばしてるが。
あと俺は別に鉄砲足軽に勝てるなんて言ってない。
俺も戦国後期の日本軍にレギオンは大敗すると思ってる。
散兵ってペルタスタイやヴェリテスの様な、歩兵が戦闘を始める前に投射武器を使って敵歩兵を混乱させる兵の事だろ? レギオンでは投槍を使う補助兵と補助弓兵は違う使い方をされてたが。 補助投槍兵は散兵、補助弓兵は前書いたように前進する歩兵を援護する目的で使われた。
「殆ど使用されてなかった」と「全く使用されてなかった」とは全然違う 真性文盲か?
>歩兵が戦闘を始める前に投射武器を使って敵歩兵を混乱させる >前進する歩兵を援護する ほとんど同じ使い方にしか見えないんですけど 具体的にどう違うの?
>>257 そもそも補助弓兵は「殆ど使用されてなかった」レベルじゃないんだが。
どちらにしても976は明らかな間違い。
>>258 前者は歩兵の前にあって本格的な戦闘が始まる前に敵を撹乱するのが主目的。
後者はそれが終わった後に前進する主力を援護するのが目的。
補助投槍兵は大体において投槍した後は引き下がるが補助弓兵は戦闘中も援護する。
また補助弓兵は散兵と扱うには重装備すぎる。
弓兵が使用されてた根拠ってガリラヤ侵攻の一局面だけなんだろ? 東方の弓兵に対抗するために弓兵が特別に動員された可能性も無視できないな 弓兵が全ての戦線で常に大量に投入されてたという根拠は?
>本格的な戦闘が始まる前に敵を撹乱するのが主目的 >前進する主力を援護するのが目的 結局同じなんですけど・・・ >補助投槍兵は大体において投槍した後は引き下がるが補助弓兵は戦闘中も援護する。 散兵は投槍兵だけじゃないんですけど・・・ AOEじゃないんですから・・・ >また補助弓兵は散兵と扱うには重装備すぎる。 兵科を決定するのは装備の軽重ではなく戦術的な地位と役割なんですけど・・・
少なくとも帝政以降のローマのレギオンの編制に恒常的に弓兵が配されていたことはありません 各戦役において固有の軍制を保持した同盟軍から弓兵や弓騎兵、象兵等のローマ軍制にはない兵科が 編成されることはありましたが、これは各戦役単位で臨時に動員されたに過ぎず、 ローマ軍の戦術ドクトリンに確固たる戦術的地位を占めるには至っていません ローマ軍の戦術ドクトリンにおいて、弓兵は独立した戦闘兵科として確立するのは概ね4世紀以降です また、マリウス以降に制度化された補助軍団兵の装備と訓練は基本的に正規軍団兵と同じで、 補助軍団にのみ弓兵が編制されていたこともありません
>結局同じなんですけど・・・ 違うだろ。 戦闘が始まる前に敵を撹乱するのが散兵。 戦闘中も歩兵を援護をするのが弓兵。 >散兵は投槍兵だけじゃないんですけど・・・ >AOEじゃないんですから・・・ 誰も補助投槍兵だけが散兵だなんて言ってないが。 他にも投石兵なんかはあったが主力散兵は投槍兵。 一つ確認したいんだがここで言う散兵は英語のSkirmisherだよな? >兵科を決定するのは装備の軽重ではなく戦術的な地位と役割なんですけど・・・ それに当たって装備も変わるだろ。 敵を撹乱する散兵に補助弓兵の様なチェインメイルはいらない。 >また、マリウス以降に制度化された補助軍団兵の装備と訓練は基本的に正規軍団兵と同じで、 おい、本気で言ってるのか? 結局これの論点ってなんだ? レギオンが補助戦力として弓兵を使用してたのは明らかなんだからもう結論は出た筈だろ? 補助戦力程度の扱いじゃ集中された火縄銃には対抗出来ないって事も。
>戦闘が始まる前に敵を撹乱するのが散兵。 >戦闘中も歩兵を援護をするのが弓兵。 古代ローマの散兵は主力の戦闘展開の掩護だけでなく主力の戦闘加入後も側背の防護や追撃、後退掩護等任務は多岐に渡ります レギオンの戦術ドクトリンにおいて弓兵が独立した投射兵科として運用された事例はありません あくまで散兵の一種であり、独立的な戦闘兵科ではありません 帝政初期以降、第一戦列兵が散兵の任務を吸収するようになると、独立した戦闘兵科としての散兵は編制表から消滅しています >一つ確認したいんだがここで言う散兵は英語のSkirmisherだよな? あなたのSkirmisherの定義が具体的に述べられていない以上、何とも言えませんね 散兵は、第一義的には隊列を組まずに戦う兵士です レギオンにおける戦術的地位は戦列兵の補助兵科で、その最も基本的な役割は戦列兵の行動保障の確保です 具体的な任務は上述した通りです >それに当たって装備も変わるだろ。 本末転倒です 戦術的な地位と役割によって兵の装備が決定されるのであって、装備によって兵科が決まるのではありません 18世紀ヨーロッパでは重騎兵と軽騎兵の装備にはほとんど差異はありませんし 中世ヨーロッパの軽歩兵はしばしば重歩兵である重槍兵よりも重装備であることも珍しくありませんでした >おい、本気で言ってるのか? 正規軍団と補助軍団の装備と訓練が違うと主張したいのなら、具体的にどう違うのかきちんと説明すべきだと思いますが
>>263 火縄銃どころか戦国の弓兵隊にすら負けるよ。
兵種分化されていた戦国時代の軍における徒武者の戦術的役割は何なのでしょうか?
そうでもない。 楠木正行なんかハリネズミだぞよ。 その分大きく引き絞ってるし、鏃も大きい。 元寇でも威力は証明されてる。
弓だけで勝てるなら苦労しない。 当時のローマの敵対勢力はこぞって弓兵を集中投入しただろう。 張力の強い合成弓を使う騎馬弓兵にも勝ってる。
もちろん弓「だけ」ではないよ。 ただそれを持ってる部隊と無い部隊のどっちが有利かという話。 張力のみで語れる話じゃないし、徒歩弓兵と騎馬弓兵では役割が違う。
現実の話ローマ軍は弓兵を多用する相手に勝ってるわけで。
現実の話ローマ軍は弓兵を多用する相手にボロ負けしたこともあるわけで。
実際にカラエやトラシメヌスでローマ軍は弓を多用する敵に全滅に近い敗北を喫しており、 ローマのレギオンが敵の優勢な弓兵に対して常に優位に立てるとは言い難いでしょう 古代ローマ軍の戦術ドクトリンは基本的にケルトやガリアの軽歩兵戦術に対抗して編み出されたものです これらの伝統的な部族戦士は白兵近接戦闘を重視していましたが、 弓兵の集中運用のような概念はほとんどありませんでした
だから東方では弓補助兵を多用した訳なんだな。
>>273 トラシメヌスってハンニバルが2万5千のローマ軍を待ち伏せして包囲殲滅したトラシメヌス湖畔の戦いの事?
弓兵が何かしたの?
276 :
名無し三等兵 :2005/09/21(水) 16:24:02 ID:gFCXE1Nm
あげ
277 :
HAT :2005/09/21(水) 16:56:21 ID:qS3H6MYW
ハンニバルは由美兵にこだわっていたわけではないが、投槍や短弓、投石器を使いこなす散兵の必要性は高く見ていた。 トラシメヌスでも、ローマの総司令官フラミニウスは投槍によって絶命しているほか、歩兵での奇襲攻撃直前に混乱をねらって弓、投槍、石による一斉射撃を行っている。 オーダーミックス、すなわち数種類の兵科を混成して配置することで、作戦の幅ははるかに広がるのだ。 会戦での防戦時における長弓の有用性については、英仏百年戦争でのクレーシーの戦いが証明しているといえる。
ん?あの人が復帰したのか?
279 :
HAT :2005/09/26(月) 19:08:30 ID:???
クレーシーの戦い1 クレーシーの戦いは英仏百年戦争における両軍の戦法の象徴となった戦いといえるだろう。 まず英国軍の戦いは有利な地形を選ぶことからはじまった。クレシー村郊外になだらかな平地と手ごろな森を発見した英国軍は森から丸太を調達し、陣地の構築を始めた。 英国軍の基本装備は長弓である。イングランドのロングボウと恐れられた長弓兵は、ヨーマンリというある程度自立した農民で構成される。彼らは日常的に弓の訓練を行い、ベテランの域に達するものは6秒に1発の割合で連射できたと言われている。 この長弓兵と槍歩兵が英国軍の中核であった。
(´・∀・`)ワクワク
281 :
HAT :2005/09/26(月) 19:29:54 ID:???
クレーシーの戦い2 一方、英国軍布陣を察知したフランス軍は、行動を開始する。 フランス軍は誇り高い騎士たちからなる重装騎兵が中心だった。 彼らはプレートメイルと大剣、長槍で身を固める。 歩兵にとって重騎兵の一斉突撃はまさに脅威となり、その衝撃力は現代でいうところの戦車に匹敵する。 さらに補完的な目的でジェノバ人の強弩使いを傭兵として大量雇用していた。 強弩(クロスボウ)は木材を十字に組み合わせて弦を張り、ボルトまたはクォレルと呼ばれる短めの矢をスリットに装填して、弦の反発力によって矢を飛ばす兵器である。 長弓ほどの射程距離はないにせよ、初速が速く木製の盾ならいとも容易く貫通するほどの威力もある。 重心が安定しているため、弓に比べて扱いやすい事も普及した理由の一つであった。 フランス軍がクレーシーに着くと、英国軍はすでに布陣を終えていた。
282 :
HAT :2005/09/26(月) 19:51:52 ID:???
クレーシーの戦い3 先に動いたのはフランス軍だった。 全面にジェノバ人傭兵を並べ、横列陣を組む。号令とともにボルトの雨がうなりをあげて英軍長弓部隊の前列を凪ぎ払った。 少しの間をおいて、長弓部隊の応射がはじまる。長弓兵たちは弓を高めにかかげて射撃する。重い矢じりをいかすためである。放たれた矢は慣性の法則にならい、放物線を描いてジェノバ兵に襲い掛かった。 腰に下げた丸盾をかざして必死に防御するジェノバ兵だったが、矢は軽がると盾を貫通し、全身に矢を浴びた兵士は次々と倒れ伏した。 強弩は確かに威力は高いが、発射間隔が長いという致命的な弱点があった。 弦がかたいため、ボルトを装填する際に特別な巻き上げ器を使わなくてはならなかったからである。その結果、発射間隔は50秒に1発とかなり遅い。 発射間隔が短い長弓の前にはひとたまりもなかったのである。
283 :
HAT :2005/09/27(火) 11:20:41 ID:???
クレーシーの戦い4 ジェノバ傭兵にこれ以上の戦果を期待できないとわかったフランス重騎兵隊は後退してくるジェノバ兵を吹き飛ばしつつ、突撃の号令をかけた。 フランス騎士名誉であり最も得意とする密集突撃は、敵の前面を粉砕し陣形に亀裂を入れる打撃力となるはずであった。 英国軍長弓部隊は素早く矢をつがえて連射を開始した。矢といえども慣性の力を十分にかければ、プレートメイルをも容易く打ち抜くことができた。兜に直撃させれば、相手は即死である。 フランス重騎兵はほぼ垂直に近い角度で落下してくる矢の雨の中を、損害を顧みずに突き進んだ。 英国軍の陣地に接近したフランス重騎兵は、長弓部隊の前面に防柵と落し穴が配置されているのを見た。しかし、歩兵の前には何も配置されていない。フランス重騎兵は迷わず歩兵部隊の前面に殺到した。
284 :
HAT :2005/09/28(水) 16:11:47 ID:???
クレーシーの戦い5 手薄な歩兵前面を蹂躙すべくフランス重騎兵隊が圧倒的打撃力をもって突撃をかけた。 しかし、彼らを待っていたのは槍による迎撃だった。密集した歩兵が構築する槍襖は、突撃の打撃力をそのまま跳ね返した。 さらに中央部と両翼からも、矢が容赦無く連射された。 フランス重騎兵の第一撃は失敗に終わったが、誇り高いフランス騎士は後退して隊列を組み、再び突撃を試みた。 結果は同じである。矢によって消耗した騎兵を槍が迎撃する。撤退に移ると安全圏内から矢で追撃する、という繰り返しとなった。 4度5度と突撃するたびにフランス重騎兵の兵力は暫減され、ついにフランス軍は潰走に至った。
こういう事ここで聞くのはそぐわないかも知れないけど、 これって、どうやればフランスが勝てたんでしょうか? 当時はそういう思考がないから勝てないとかいうのは置いておいた場合。
286 :
HAT :2005/09/29(木) 18:32:23 ID:???
戦略、戦術レベル問わず地形・地理というのは重要な位置を占めることが多い。攻城戦を例にとるならば、攻撃側は防衛側の3〜5倍以上の兵力をもってして初めて互角であるといわれている。 これに加え、城の立地条件が河の中洲や、突き出した半島、山岳の峡隘地、険しい山岳地帯を背後に持つ地形等、天然の要害であった場合は難攻不落の名をほしいままにするだろう。 クレーシーの戦いにおけるコンセプトは、徹底した遠距離攻撃と、騎兵の打撃力を削ぐ馬防柵の存在であろう。 長篠設楽が原の合戦で織田信長がとった三段構えと馬防柵の作戦同様である。 フィリップ6世率いるフランス軍は、敵にとって有利な地形に誘い込まれたのみならず、敵弓兵と歩兵のキルゾーンに15回も突撃をかけるという愚をおかしてしまったのである。
相手が布陣した所で決戦って、 相手を過小評価していた、 単にだらだら駆け引きする習慣がない、 さっさとやらないと食料が持たない、 他に騎士で陣組めるような場所がない、 などのうち、どれあたりが作用しているんでしょうか? それとも、別な理由があるのでしょうか?
イングランド軍が馬防柵による構築障害を重視するようになるのはアジャンクール戦以降で、 クレーシーでは馬防柵はあまり重視されていません ダプリン・ムーアやハリドン・ヒルで同盟していたスコットランド軍が イングランドの長弓戦術でコテンパンにのされたこともあって、 フランスはかなり早い時期から長弓戦術に対抗するため幾つかの方法を試みています クレーシーにおいても決して無策で無謀な突撃だけに頼っていたわけではありません 確かに失敗に終わりましたが、クレーシーではジェノヴァの弩兵を大量に投入しており、 また、モーロンやポワチエでは下馬騎兵による徒歩突撃が試みられています この突撃は結局は失敗に終わっていますが、もう少しで成功するところであり、 実際にかなり有望な方法だと認められており、後の薔薇戦争では両軍の騎兵が しばしば下馬して戦い、ベアナックルじみた殴り合いを展開しています ポワチエ戦後、フランス軍は戦略を転換し、イングランドの野戦軍との野戦を極力回避し 攻城戦や小規模な小競り合いを重視するようになります アジャンクールは数少ない例外で、この戦闘においてもフランス軍は当初は攻撃を戒めて防御に徹しています 長弓戦術が基本的に固定防御でしか威力を発揮しないことを認識していたからです ただし、長弓兵による攻撃前進射撃という奇策によりフランス軍は結局は敗北しています フォルミニー戦は長弓戦術に対する最終的な回答となった戦闘で、 スコットランドや大陸で数多の地獄を築いてきたイングランドの長弓戦術は フランス軍の僅か3門の軽砲によって壊滅的な敗北を喫することになります
長弓戦術は決して最強無敵の戦術ではありません 長弓戦術は火力による機動の克服という命題に対する一つの回答であり、 確かに素晴らしい成果を収めましたが、そのためには様々な要件が存在しました 一つは、前述したようにこの戦術が基本的に固定的な防御戦術であり、 機動的な攻撃戦闘には全く向いていないことです アジャンクールは唯一の例外ですが、アジャンクールの長弓兵のような 大胆で冒険的な運用はその後二度と行われませんでした また、長弓戦術は至短時間に圧倒的な火力集中が可能であることが前提となっています 長弓は弩に比して発射速度で圧倒的に優越していますが、 それでも敵の突撃を破砕するためには大量の長弓兵を揃えなければなりませんでした 問題は、長弓兵の養成に多大な労力と時間が必要とされたことで、 一人前の長弓兵として大陸派遣軍に加わるためには青春をドブに捨てる覚悟と 骨格が変形するほどの修練が要求されました イングランドが大量の長弓兵を調達できたのは、当時の西欧でイングランドが 産業の後進地域だったことと無縁ではありません ウェールズ等のイングランドの農村地域は長弓兵の大量供給を支える策源でした 農家の次男坊や三男坊は、軍隊に入れなければ長男の下男として 牛馬のように働くしかほとんど途が残されていませんでした これがイングランド以外で長弓戦術が普及しなかった最大の要因です 後にイングランドで羊毛業が発展するに及び、イングランドでも長弓兵は ほとんど消滅することになります
290 :
HAT :2005/09/30(金) 06:52:16 ID:???
クレーシーでは敵の強力な騎兵を封じるため、長弓兵の前だけに馬防柵を設置した。それが結果的に歩兵前面に誘い込む形となったわけであるが、1575年に行われた長篠設楽が原の合戦では、織田軍は積極的に馬防柵を設置している。 騎兵の長所は、戦略的には機動力を使った奇襲や、兵站の破壊・分断である。また戦術的にはその足の速さにともなう打撃力によって敵陣を動揺させることにある。 騎兵の打撃力は、歩兵の戦列が動揺しているときにのみ発揮される。クレーシーでのエドワード3世も織田信長も、騎兵の有効性を熟知していたため、騎兵の打撃力を分散し、徹底的にアウトレンジから攻撃する戦法を考案したのである。 騎兵の突撃時の圧力は歩兵にしてみればまさに恐怖である。長槍を突き立てて突撃を受けとめるには、歩兵の恐怖心を押さえ込まなくてはならない。 その点からみても騎兵の機動力を減殺する馬防柵の存在は、歩兵に安心感を与える。柵をかわして敵陣に入る事ができても、すでに兵力が激減しており、そこから逆転するのは至難の業といえるだろう。 まさに騎兵中心の敵に対する必殺の策であった。
中世ヨーロッパの騎士って、個人戦的な戦闘から密集して突撃まで、 どんな段階で戦法が発達したんでしょうかね? ブーヴィーヌくらいだと、まだ個人技でバラバラの印象があるんだけど。 それとも、時期と場所と人員によって、条件が大きく変わって、 戦い方も変わってしまうのでしょうか?
長弓戦術は決してアウトレンジによる漸減射撃ではありません これは、ダプリン・ムーアやハリドン・ヒルでスコットランド軍のスキルトローム内部で 発生した多くの圧死者が証明しています 彼らは、不意急襲的な突撃破砕射撃の弾幕により隊列を崩し、更に両翼から イングランドの歩兵と下馬騎兵に圧迫されたことにより、 押し競饅頭状態になった挙句に戦友に押し潰されたり窒息させられたのです 長弓戦術のキモは、至短時間に限られた地域に圧倒的な火力を集中して 敵の突撃を破砕することにあり、そのためには火力集中帯を陣前に設定する必要があります この戦術の発想は、機動を発揮する敵を陣前の火力集中帯で拘束し、 そこに持てる火力を集中して敵の組織的戦闘力を破壊することにあり、 この点で長弓戦術は現代のKZ戦法と非常に似通っています クレーシーでも、敵の機動発揮を阻止する役割を歩兵と下馬騎兵が担っていました 彼らは馬防柵の後方ではなく、陣前に展開してフランス騎兵の衝撃力を直接受け止めて フランス騎兵が長弓兵の列に飛び込むことを防ぎ、長弓兵の突撃破砕射撃を保証し、 更に長弓兵の射撃で隊列を崩したフランス軍を側面から圧迫して揉み潰しています
中世初期の騎兵の原型はフランク王国のカバラリウスです カバラリウスはビザンティンの重装軽騎兵であるカタフラクトの装備と戦術を 概ね継承していますが、その装備はより重装化しています その運用は基本的に軽騎兵のそれで、歩兵と小規模な混成チームを組んで 小競り合いや襲撃、伏撃を行いましたが、集成されて大規模な野戦軍を編成した際には、 重騎兵として振舞いました フランク王国はほとんど毎年のように野合を行って検閲や演習、時には遠征を行っています 長い騎槍を抱え、緊密な隊列を組んで真一文字に敵陣目指して突撃する装甲槍騎兵が 登場するのは10世紀以降です 原型はビザンティンのクリヴァノフォロスですが、クリヴァノフォロスが 11世紀には消滅したのに対し、西欧では突撃兵科として発展し 13世紀には戦術遂行の中核兵科としての地位を確かなものにしました 装甲槍騎兵に期待されていた戦術的役割は敵軍の隊列を崩して混乱させることで、 そのためには緊密な隊形を組んだまま可能な限り速く機動することが要求されました 一人前の騎兵と呼ばれるためには、騎士物語が称揚するような個人的な武勇を 否定しなければならなかったのです
○V○氏再臨か?
騎兵による投槍ってのは、すぐ廃れてしまったような物なんでしょうか? まあ、有効なタイミングや状況が限定されるのはわかるんですが。
>>294 複雑な言葉が並べ立てられてるが当時の人間がそこまで考えてたのか?
どこが複雑なの?
軍オタとしては基礎用語ばかりだと思うが・・・・。
>>298 が単に知識不足なだけでそこまで考えられないだけだと思う。
投槍は中世初期まで割とポピュラーな投擲兵器で、歩騎ともに使用されており、 カタフラクトの装備の一つにも挙げられています メロヴィング朝初期のフランク王国においても投槍は騎兵の主要な装備の一つで、 勅令によって鎧や楯、槍、剣、糧秣等とともにその携行が定められていました クローヴィスの行った検閲に参集した騎兵はアンゴンと呼ばれる投槍を携えています ただし、時代が下るとフランクの重装騎兵は重装甲化に伴い近接戦闘用の武器で武装するようになり、 当時の墳墓の発掘調査によれば、概ね6世紀末頃までに投槍はほとんど使用されなくなっています 一方、軽装騎兵にとって投槍は主要装備の一つで、9〜10世紀頃まで白兵戦用の槍と複数の投槍を 携行していました
あー、何か先代スレにバルタン星人みたいなやたら詳しいコテの人がいた記憶があったが コテ名をどうしても思い出せなかった。 ○V○氏だったねw 文字のコテハンじゃないから思い出しにくかったのかなw
>>300 言葉足らずだったかな?
今の軍ヲタから見れば普通の用語だが、当時の王や騎士が実際に突撃破砕射撃だの漸減射撃だの火力集中帯なんて言葉を使用してたのかって事。
>>303 言葉じゃなくてそういう概念や戦法は実際にあった。
言葉は問題じゃないよ。
>>301 わざわざ回答ありがとうございます。
この前読んだ1200年頃のイギリスの小説で、
騎士は4本の投槍を準備しなくてはならない、ってのが出てきて、
他の人の小説や戦闘描写では投槍を使っているのを見たことないので、
どういうことだろうかと思っていたもので。
その小説は著者の知識の偏りがあるだろうし、実は児童文学に近い物なので、
信用したわけじゃないんですけどね。
なんか投槍というと、同時期ではナヴァールやガスコンなんかだと、
歩兵みたいだけど使用していたみたいなんですが、
読んだ本では運用の実態がよくわからなかったです。
スペインの投槍騎兵は有名じゃないか?
フランク王国圏の軍事技術が主にビザンティンからの影響を受けて発展していったのに対し、 スペインはイベリア半島のイスラム諸国の軍事技術の影響を受けていました スペインの軽騎兵は14世紀頃まで投槍を用いていましたが、 これは北アフリカのイスラム騎兵に由来したものです 同じようなケースは他のフランク王国の領域の周辺地域でも見られています 例えばノルマン騎兵も12世紀頃まで投槍を使用していました
309 :
HAT :2005/10/13(木) 10:47:36 ID:???
タギネ会戦1 騎兵を中心に据えた戦術を得意とする相手、特に重騎兵の楔形陣による突撃の弱点は先に述べた通りであるが、騎兵が本来の運用法、すなわち軽騎兵による後方遮断、側面への奇襲が可能な場合、それが決定打となって戦いの流れが変わってしまう。 このような騎兵の運用に関してはマケドニアのアレクサンドロスが『槌と鉄床』と呼ばれる戦術を完成させている。 それら騎兵運用に関する集大成とも言える戦いが544年のタギネ会戦である。 この戦いは、ナルセス率いる東ローマ軍3万と国家存亡をかけたトティラ王の東ゴート軍1万5千がぶつかり合った戦いであった。
310 :
HAT :2005/10/13(木) 18:39:42 ID:???
タギネ会戦2 長年の経験によって培った戦術眼を持つ老将ナルセスは、会戦の舞台をタギネの原野に見て取った。 中央主力(歩兵+援護弓)を高地に配してその両翼を騎兵(弓騎兵多数)で固める。布陣としてはかなりオーソドックスな部類に入るが、それだけに堅実であることは間違いない。 ただ、中央を固める歩兵を実数以上に多く見せるために騎兵を馬から下ろし、槍兵の戦列前衛としていた。これは歩兵を軽んずる気風のある東ゴート騎兵を油断させるための策であった。
311 :
HAT :2005/10/13(木) 18:54:04 ID:???
タギネ会戦3 東ローマ軍が布陣を終えると遅れてあらわれた東ゴート軍は、地形の不利を挽回するため騎兵と歩兵をわけ、騎兵を前面に出した強襲攻撃隊形をとった。 もちろん自らを最強と自負し“西欧最初の騎士”の異名を持つトティラ王は最前線で采配をふるう。 トティラ王は圧倒的な勝利を欲した。東ローマ皇帝ユスティニアヌスに講和を認めさせねば、滅亡するしかないのである。 トティラ王は騎兵の優勢によって勝利を確信していたが、万全を期すため増援兵力2200を用意していた。 増援が到着するまでになんとしてもナルセスの布陣を崩す必要があった。 トティラ王は兵を鼓舞して士気を高めると、第一波の突撃を開始した。 勇猛果敢な東ゴート騎兵は土煙を上げてナルセス陣営に襲い掛かった。
312 :
HAT :2005/10/13(木) 19:24:23 ID:???
タギネ会戦4 トティラ王の得意とする戦術は騎兵部隊を連続突撃させての波状攻撃だった。 しかし、今回は本格的な突撃をちらつかせて敵騎兵の出撃を狙う前哨的な突撃の繰り返しであった。 老将ナルセスは迫る騎兵に戦慄を感じつつも挑発には乗らず、全軍に出撃を禁止した。 代わりに歩兵両翼に配置された弓兵が続け様に矢を放ち、前衛の槍兵(下馬騎兵)は槍襖を形成して威嚇した。 東ゴート騎兵の損害は未だ軽微であったが、突撃が功を奏さないとみたトティラ王は撤退の合図とともに弓の射程外へと後退した。 両軍ともそのまましばらく睨み合い、相手の出方をうかがう。 この間にナルセスは兵に軽食をとらせ、トティラ王は馬上での見事な槍さばきを披露して士気を高めた。
313 :
HAT :2005/10/14(金) 07:37:54 ID:???
タギネ会戦5 東ゴート軍が陣形を組み直した時、待ちに待った増援2200が到着する。トティラ王は本命の連続突撃隊形を素早く組み上げると、東ローマ軍中央を固める歩兵に向かって突撃の号令をかけた。 この突撃をまともに受ければ数の上で優勢など瞬時に消滅する。 ナルセスは歩兵両翼に展開した弓兵を前進させ、歩兵前面を援護させた。歩兵正面にキル・ゾーンが形成されたのである。 損害を受けてもひるまずに突撃してくる東ゴート軍に、ナルセスは右翼の東欧騎兵をぶつけることにした。 東欧から傭兵としてやってきたこの騎兵は、精鋭をもって知られる騎馬民族である。槍を構えて突撃を開始した東欧騎兵が東ゴート騎兵の側面をついて襲いかかった。
314 :
HAT :2005/10/14(金) 20:34:14 ID:???
タギネ会戦6 東欧騎兵は東ゴート軍の側面に食らい付く。 しかし、トティラ王率いる重騎兵は突然向きを変えて東欧騎兵に突っ込んだ。その衝撃力は東欧騎兵を崩壊させるに十分であった。 ここで東ゴート軍が第2陣の歩兵を全力投入できれば勝敗は決していたかもしれない。 だが歩兵隊は動かない。 騎兵の威力を知る彼らは東ローマ軍騎兵を必要以上に警戒し、未だはるか後方にいた。 ナルセスは全騎兵に接近戦を禁止し、弓攻撃に切り替えるよう指示を出す。なんとか態勢をたて直した右翼騎兵が距離を保って射撃、左翼騎兵も前方に進出して射撃を開始した。 両翼の弓兵が馬を射すくめ、歩兵が槍を振って抵抗する。 東ローマ騎兵が弓を連射しながら退路を遮断したとき、トティラ王を含む東ゴート騎兵はキル・ゾーンの中で完全にとり残された。
315 :
HAT :2005/10/14(金) 21:01:46 ID:???
タギネ会戦7 包囲されたトティラ王は中央全面に打撃力を集中、ナルセス本陣を狙い続けた。下手に後退すれば追撃によって全滅させられるのは目に見えているからだ。 だがナルセスは遠すぎた。歩兵の分厚い戦列が東ゴート騎兵を阻み続け、後方と左右からは弓と投げ槍による攻撃が続いた。 限界である。 温存した左翼騎兵も突撃を開始、迫る騎兵を見た東ゴート騎兵は総崩れとなって後退した。 ナルセスは後方を塞いでいた騎兵隊に道を開けるように指示を出す。 かくして指揮を失った東ゴート騎兵は、後方から進んでくる味方の歩兵になだれ込んで大混乱に陥った。 東ローマ全軍が猛然と追撃を開始する。これにより、東ゴート軍は大損害を受けて壊滅した。 トティラ王自身も撤退戦にて戦死。 この後、東ゴート王国はローマをやすやすと落とされ、歴史上に復活することはなかった。
揚げ
>騎兵の突撃時の圧力は歩兵にしてみればまさに恐怖である。 長槍を突き立てて突撃を受けとめるには、歩兵の恐怖心を押さえ込まなくてはならない。 ファルサロスでこれを見事やり遂げ、騎兵を潰してしまったカエサルは 本当に凄いなあとおもいますねェ。
映画「ワーテルロー」 ありますよね。ロッド・スタイナーがナポレオン役。 軍のエキストラは、ソ連の1個歩兵師団がつとめた。 ネイ元帥が騎兵突撃するシーンでは方陣を組んでこれを迎え撃つのだが、リハーサルのときに2〜3回方陣が崩れたそうだ。 もちろん映画では、実際に方陣に突撃しないし、方陣の間を馬が走り抜けるだけなのだが、逃げ出す者が出たようだ。 もう一度言うが、エキストラは現役軍人(ソ連だから兵は徴兵だが)なのに・・・ とにかく騎兵はその物量感だけですごいらしいことが分かる。
そろそろ騎兵VS.パイク兵で誰か……。