いかりや長介死亡
3をキープ
4 :
名無し三等兵:04/03/21 13:17 ID:sxWnnSKq
おじいさんの古い写真があるんだけど、場所がわかりません。
ここで見せたらわかる?
最近死んじゃって、いろいろ聞けなかったことが悔やまれる
5 :
名無し三等兵:04/03/21 13:46 ID:1VeeqSJn
おじいさんじゃないけど、おじさんが言ってたこと。
はじめは、大砲ぶっぱなしてたけど途中から通信兵になったらしい。
敵機の銃撃くらって足を、撃ちぬかれて必死になって穴掘って隠れたんだって。
その時掘った道具が銃剣!!やればできるもんだって言ってましたよ。
>>4 何がしかの情報が得られるかもしれません。
アップしてください。
>>1 新スレ乙種合格。
前スレ1000ワラタ。
元気ないぞー
死んでます。
10 :
名無し三等兵:04/03/24 23:38 ID:H6FU4Dhz
じい様は韓国に行っていました。
結婚した新妻をさらってレイプするのが最高だったそうです。
おいバカチョソの
>>10 「あなたのおじい様の戦争体験を教えて」 とは言うが
朝鮮戦争はお門違いなんだよヴォケ(゚Д゚)≡゚д゚)、カァー ペッ!!
お前がこんな所にレスをしている間にもお前の祖国では
偉大なる将軍様以下多くの人民が頑張っていると言うのに・・・。
ご丁寧に>11で(・∀・)ジサクジエーン!!までしやがって
もういい、今回ばかりは許してやるから早く北へ帰れ!
別のスレに書いたのですが、此方のスレに書いた方がよいといわれたので俺の祖父の話を書きます。
中国で独立野戦高射砲大隊に所属していた祖父の記憶を
さらに軍事関係には詳しくない俺が聞いたことなので間違っていたらスミマセン
航空機が専門だったから、戦車は倒しても専門外だから手柄にならなかったと
さらに高射砲は一応衝撃を吸収する機構があるが、上方を狙うのを基本に設計されてるから
戦車を撃つとかの水平射撃をすると砲が痛むのだとか
海軍は砲を早く撃つけど陸軍の高射砲はゆっくり狙うんだとか理由は海軍は波によって
上下する船上が前提なので精密に狙う意味があまりないとか、陸軍は揺れないからしっかり狙えるとか
それでも野戦高射砲じゃ一万以上の高度を取ってる機には基本的に当たらないというか届かなかったと
一度、妙にB29が低空をゆっくり飛んでいた(おそらく何らかのトラブルがあったのだろうと言ってました)
のを落としたけど表彰される日が終戦日になったので表彰されなかったのが残念だったと
戦時中にはナパームが落ちて爆撃機がいなくなったら、不発弾を探しにいったとか
なんかナパームの不発弾(の中身だったかな?)はいい風呂の炊きつけになると
独立部隊では経理や軍医などの一通りの人がそろってるが
その分経理の人がちゃんとしてないと新しい軍服とかが貰えないと(祖父の部隊の経理はダメダメだったそうです)
さらに祖父の部隊の軍医は終戦間近で「俺は実は戦争前は聴診器も持ったことがなかった」と言って皆を笑わしたと
戦時中に婆ちゃんとラブレターのやり取りをして隊の皆によく冷やかされたとか
突撃のときは後から行くより最初に突撃した方が生き残りやすいとか(理由は聞いてません)
戦後は食料がなかったから大学の庭で野菜をそだて、 理科実験室で大豆と硫酸(だったと思います)で
「醤油らしきもの」を作って近所の人に分けたのが自慢らしいです
ちなみに祖父は現在も元気で、古式泳法(と言うのかな?銃をぬらさない様水上に両手を出す泳ぎ方)
が得意で海外にもよく一人でブラブラ旅行に行ってます。
書き忘れましたが祖父は三八式が気に食わなかったらしく、この前会ったときも
「あんな古臭い銃で戦争が出来るか」と文句言ってました
マジレスすると今の北朝鮮とロシア国境で警備してたらしいと。
たとえば向こう側に風が吹いてたら枯れ草に火をつけて向こうへ火がGOすると。
こっちに風が吹いたら荷物を後ろに持っていくと。
こんなことしてたらしい。
16 :
中川泰秀:04/03/25 09:17 ID:+BgmE2DE
うちの爺様(健在)は満州で後方警備してた
で、敵と一度も交戦する事なく本土へ引き上げてきた
ところで爺様は「馬に乗って警備してた」とか言ってたが
あそこらで誰でも馬に乗れるものなのか?
(当方、欧州戦線メインの為、判らん)
18 :
名無し三等兵:04/03/25 09:41 ID:8xUXhjVd
四年前に死んだウチの父は、ジャワ島で通信兵やってたって言ってた。 椰子蟹旨かったそうな。 ちなみに大正元年生まれで、享年八十七歳でした。
>>17 騎兵か憲兵だったのでは?
憲兵はしらんが騎兵の馬は私物なので金持ちしかなれないそうだ
>>13 >突撃のときは後から行くより最初に突撃した方が生き残りやすいとか
それは私も聞いたことがあります。
なぜか後ろにいる奴のほうが流れ弾でやられるとか聞きました。
父方の祖父が海軍で工作艦に乗ってて、潜水艦にも乗ってたことがあるみたい。太平洋戦争が始まるとジャワ、スマトラ方面に行ってた。
移動ばっかで戦闘らしいことなかったけど二度、乗った船が潜水艦にやられたそうで、人がよう死んだと言ってました。
人間魚雷の訓練基地で事務関係をやり、その後呉で事務関係のことやってて終戦、原爆投下後の広島市内を歩いたと言ってました。
恩賜のタバコをもらってとっといたけど、伊勢湾台風で流されてしまったみたいです。
戦後、警察予備隊に入ろうと三回受けたがダメで、理由が赤旗とか言う新聞を読んだからとかで、どうやって調べたのかと不思議がってました。
うちの爺さん近衛兵団だったので東京にずっといたyo
なんでも近衛兵団は本土決戦のさい天皇陛下を護衛すると言う名目で
特攻隊への配属はのがれたようです。
23 :
名無し三等兵:04/03/25 21:11 ID:AWNAv8AV
ウチのじいちゃんは、終戦の3ヶ月前に海軍に入隊。
訓練途中で終戦。
1です。
やっと人が来てくれて嬉しい!
ここ数日ハラハラしてました。
こんばんわ。国際情勢掲示板から逃走してきました。
時代変わっても共産主義者と議論するとどうしても屁理屈戦争に・・・
馬鹿者のままですな自分も。
>>25 状況が分からないので何とも言えませんが、根っからのアカは相手にしないに限りますよ。
そういえば学研から日本の戦艦という、よくできた書籍が出ていましたね。
もうお買い求めになられました?
読みました。
模型の造形技術の進歩に驚愕です。
最近の模型は本物に迫っています。
>>27 船の科学館屋内に展示してある戦艦大和の模型は、本物より精密かもしれないと思いましたよ。
余談ですが、今度建築される呉海事博物館には、1/10大和の模型が入るとのこと。
この前、造船所で「進水式」まで行っていました。
しかし1/10でちょっとした巡視艇並のサイズなんですから、現物は本当に巨大だったんでしょうね。
29 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/25 23:20 ID:igt1Cqvn
十分の一!
それは凄い・・・
31 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/25 23:22 ID:igt1Cqvn
余りに巨大だと、逆に風景の一部になってしまって
実感が湧かなくなってしまうという問題点があります。
大和にせよ武蔵にせよ特にです。むしろ金剛型巡戦の方が却って大きく感じた記憶が
あります。皆さん憧れの大和型はむしろ船体とのバランスが悪くて
士官には不評だったんですよ。
32 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/25 23:23 ID:igt1Cqvn
>>30 進水式のようですね(笑う
武蔵はこの様な感じだったのでしょうか?
>>31 成る程、そんなものなんですかね。
そういえば空母と戦艦の場合、全長が似通っていたとして、
どちらが大きく感じるモノなのでしょうね。
以前、翔鶴に整備下士官として乗り組まれていた方の話だと、
兎に角大きく入り組んでるので、迷子になったら甲板に出るしかない、
と仰られていたのを覚えています。
後、機関科はどのフネでも大変だったみたいですね。
いざというとき、退艦するのに一番大変な部署だったとか。
比叡機関下士官だった方の話だと、まず助からないと覚悟していた、と仰ってました。
(その方は幸い、無事に総員退艦に間に合ったそうですが)
34 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/25 23:28 ID:igt1Cqvn
機関科は厳しいでしょうな。でも
コレは太平洋戦争期間中の話ですが、艦橋勤務も致死率は高いです。
如何せん敵機の機銃掃射をそのまま直撃に受けるわけですので。
35 :
iwsjnf[Vice Admiral]:04/03/25 23:29 ID:Z+CM/YZL
満州鉄道勤務。
詳細は語らぬまま。。。。
36 :
名無し三等兵:04/03/25 23:30 ID:LIdGR5jO
中国人をわざと見逃して、尖閣上陸させた小泉の悪辣。
対外危機を煽り、民心を掌握するために、さらに小泉の信条である
対米隷属、対米売国を説得的にするために、ついにこういうことをしやがった。
本当にやり方の汚い奴です。国民操縦術がずば抜けている。
スピーカーたるマスゴミを、完全に奴に押さえられている上、
領土問題という事の性質上、煽られるのはやむを得ないと思いますが、
国民の皆さん、なるべく冷静に善処をお願いします!
でないと、本当の大悪魔売国奴による操縦の思うつぼです!!
【参考】対米売国奴・小泉によってブチ殺された日本人外交官の死体画像6枚
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0312/031204-7.html *この投稿はHDDに保存して、頭に叩き込んでください*
37 :
名無し三等兵:04/03/25 23:30 ID:Ww1nNdRO
じいさんは給油艦知床ってのに乗ってました。
沈没してからは昭南で通信兵やってたそうです。
この前知床のプラモデルがあったんで作ってプレゼントしたらよろこんでました。
>>34 艦長達の太平洋戦争、でもそんな話がありましたね。
確か軽巡の艦長さんの話でしたが、艦橋の天蓋に穴を開け、
そこから身を乗り出して指揮をしていた艦長は無傷だったのに、
戦闘後に艦橋へ戻ったら機銃掃射で死屍累々だったとか。
米軍機は大半が、12.7ミリ以上の機銃を持ってましたからねえ・・・。
39 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/25 23:33 ID:igt1Cqvn
知床の模型なんてあるのかい?
なんでそんな無名の艦まで模型にするんだい?
>なんでそんな無名の艦まで模型にするんだい?
そりゃ酷いでしょう、無名の艦だって立派な歴史の証人なんですから。
知名度だけで模型化するか否かを決めるのもどうかと・・・。
41 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/25 23:38 ID:igt1Cqvn
失敬。言い方が悪かったですね。
「無名の艦を模型にしても、製造コストばかりがかさんで製品としてなりたたないのでは?」
という意味です。失礼いたしました。
>「無名の艦を模型にしても、製造コストばかりがかさんで製品としてなりたたないのでは?」
ああ成る程・・・・でもどうでしょうね。最近は結構、マイナーなジャンルの模型も増えてきましたし。
確か神鷹とか、改装空母の模型なんかも、最近は手にはいるとか。
後は南山や烈風のように、試作に終わり、尚かつ知名度の低い航空機の模型も、
割と普通に手にはいるようになりましたし。
オタク人口の増加が、こんな事を可能にしたのかもしれませんね。
43 :
名無し三等兵:04/03/25 23:42 ID:Ww1nNdRO
申し訳ありませんでした。
自分の感覚では模型は子供が作っているというのが多かったので。
考えてみれば今の時代は大人が作ることのほうが多いのかも知れませんね。
なんにしても失礼いたしました。
しかし、当時を活きて来た身としては模型になるというのは不思議な気分です。
かつて銅像にされた海軍軍人の恩方々も同じような心境だったのかもしてませんな。
それでは本日はこれで。
45 :
名無し三等兵:04/03/25 23:45 ID:Ww1nNdRO
当時を生きていたんですかー!びっくりですわ。
あまり気にしないで下さい。
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 殿。
お久しぶりであります。
また、お話を聞かせてくださいませ。
>>46 なになに?
嗅屁七十回のバーカはぁ?だって
ミリタリースキスキオタクで、他のオタクを騙し通せるか試してる小僧ですわ
そんな語り相手にする脳味噌、腐るよ
まぁ
>>46 お久しぶりであります
あります、あります、あります、あります、あります、あります、
あります、あります、あります、あります、あります、あります、
あります、あります、あります、あります、あります、あります、
あります、あります、あります、あります、あります、あります、
ってね、海軍軍人が「あります」って言うのか?
そういうところからボロが出るんだよ。
兵隊の位で言うと、大将の山下清であります!
かな〜〜り脳味噌足りません
>兵隊の位で言うと、大将の山下清であります!
自分も脳みそが足りないようで、48閣下の仰る意味が良く理解できないであります!
1/10 大和か・・・今ならまだ、改造間に合いそう。
信濃に・・・(w
>>49 同感であります
お久しぶりでありますと書いてるのは46であってボーカではないのであります
>>51 観察力ないよ
ポーカー氏登場、そうすると暖かく迎える奴がいる。
なんとなく箔付けになるだろう?本物なんだって思う奴も出てくるだろう?
それが狙いの小細工。
46=ポーカー氏
45もちょっとポーカー臭い
49=チャチャを入れられムカっと来たポーカー氏
51=ちょっと冷静になって考えたら、状況を説明しないと回りがわからんと思い直したポーカー氏
以上
長州出身の海軍軍人は「あります」を使うだろうねえ。
54 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/26 19:27 ID:M4aVdoyQ
此処まで全て私の自作自演、としておけば解決です。
当然52も私。
>>53=単なる書き込み
>>54=さらに冷静になって、大人びた反応を見せて廻りを納得させようという作戦のポーカー氏
さあみんな!パーフェクト海軍七十期ポーカー派マスターを目指そう!
某剣より難しいや
>>56=ポーカー氏を嗅屁七十回のバーカはぁ?と考える人 その@
>>57=ポーカー氏を嗅屁七十回のバーカはぁ?と考える人 そのA
以上デアリマス!
春爛漫。
嗚呼、春爛漫。
60 :
名無し三等兵 :04/03/26 23:27 ID:ac8P+mN5
口ひげを蓄えた爺ちゃんが、赤ん坊の頃の親父を抱っこしている
写真が出てきたのですが、そこに『第二次北安省下大討伐ヲ終テ』と
直に印刷されていました。15年も前に他界したから話を聞けないまま
だったなぁ・・・ 爺ちゃんと沢山話をしたかったなぁ
親父が航空自衛隊に居た時に山下清が来たそうです。
『裸の大将』を見るたびに山下清の事を話す親父・・・
制服着せると喜んで敬礼していたそうです。
ウソくせえ。
そもそも山下清が全国放浪したってのはウソだし。
{海兵70期採用試験}
>>25文中
こんばんわ× こんばんは○
(発音は「こんばんわ」であるが書き方は「こんばんは」である)
>>44文中
活きて× 生きて○
(「活き」は人には使わない。例:この魚は活きがいい)
>>44文中
海軍軍人の恩方々× 海軍軍人の御方々○
(恩方々では漢語読みすれば、恩があちこちに、の意になってしまう。)
以上、採点の結果、0点!
海軍兵学校には適さず!不採用
嗅屁七十回の採用試験を受けることを薦める。
予想されるポーカー氏を嗅屁七十回のバーカはぁ?からの反論。
「やれやれ最近の若い方はなかなか手厳しい。
この歳になって始めたPCですので誤変換お許しください」
まぁいい、誤変換は誰でもある、タイプミスもあるだろう。
しかし「こんばんわ」は、ないだろう?????
「わ」だぜ、わわわわわわわわわ!
こんばん「わ」じゃ、今日日の女高生並だ。
一高とな並ぶ天下の陸士海兵だぜ。
海軍マニアの小僧さんよ。
海軍のお勉強もいいけどな、日本語の勉強しろよ!
で、アリマス!
>>43 秋津洲、模型でみると、船体と大艇のバランスがなぁ…
実物の写真だと、飛行艇搭載時は、船体から羽根生えたようで迫力あったんだが…
>>63 しかし、相変わらず軍板は厨が跋扈してるんですか?
まあ島田揚子なみの正直モノだから。
>>64=シカトして大好きな軍艦の話に振ろうとするポーカー氏
>>65=そうは思いつつも、ムカっと来ているので思わず「厨」と言ってみたかったポーカー氏
ポーカ氏に質問
>>31文中
金剛型巡戦とありますかポーカ氏が「想定で」海兵にお入りになった頃は戦艦に改装されており、
戦艦に区分されていたはずなんですけど。
ですからその頃に軍人にとっては戦艦というのが普通だと思うのですが?
私、不肖「厨」には
金剛型巡戦=折れは金剛が元々、巡洋艦、巡洋戦艦だったの知ってるぞ。
誰か巡戦ってなあに?とか金剛は戦艦だ、って発言してくれないかな、
そしたら折れのウンチクをつらつらと、、、、という海軍マニア小僧的意図が感じられてしまうのですが・・・・・
如何でアリマスカ、上官殿!
百式司偵をいつまでたっても「新司偵」って呼んでたのと同じで、
「金剛型」と「巡戦」はセットで「金剛型巡戦」っていう固有名詞なんだよ。
>>54の方は、もしかして海軍兵学校70期の方ですか?
もしそうなら、僕の祖父が海軍兵学校を70期だったので、
すごく親近感を感じます。
祖父の話によると、卒業後すぐに太平洋戦争がはじまったので、
うすうす予感はしていたものの、開戦の報にはびっくりしたそうです。
あと、クラスメイトのかなりの方が戦死されたようで、
リタイアした今でも水交会というところに行っています。
山下清VS仙台四郎
山下清:知障な画家
仙台四郎:知障で商売繁盛の神様
71 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/27 16:09 ID:vLPEslJf
>>67君。
>>68氏のおっしゃるとうりです。
更に言えば、比叡の事を「練習艦」「お召艦」という者もいました。
それから、
>>64と
>>65における発言を私が行うことは「絶対に」不可能ですよ。
発言者のお名前を見ればわかるところです。もしくは数年かければ可能かも知れませんが。
>>67 漏れはポーカ氏ではないヨ。
ハン板住人ですが、何か?
>そしたら折れのウンチクをつらつらと、、、、という海軍マニア小僧的意図が感じられてしまうのですが・・・・・
67氏自身がやっておられる行為ですね。
自分がやるから他人もそうだという考え方は如何なものでしょうか?
それに、そういう知識をひけらかし他人を貶める行為はあまり誉められたものではないですが。
猶、戦後生まれの私にとっても、感覚的には金剛型は巡戦だし、比叡といえば、お召艦です。
むしろ戦艦と言われた方がピンとこない(w
>>海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2氏
ひとつ質問なのですが、
海軍では、下士官兵が”上官殿”と呼ぶことはあったのでしょうか?
73 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/27 18:28 ID:vLPEslJf
>>秋津州氏
陸軍の場合は「仲白中尉『殿』」とか「山田少佐『殿』」と官姓名のあとに「殿」をつけるのだけど、
海軍の場合に其れを(海軍軍人同士で)行うと失礼になってしまいます。
陸軍は言葉尻に非常に目を吊り上げていたみたいだけれど、海軍の場合
僕が把握できていた範疇では「敬意を表していれば」特に言葉使いで揚げ足を取る事はあまり無かったよ。
ただ、コレもめぐり合った上官しだいだね(笑う
特に相手の呼び方では宴会等で酔い始めると駆逐艦辺りでは収集が付かなくなっていた・・
(某対空駆逐艦一番艦とか同じく三本煙突重雷装巡艦あたりなんかは特に烈しかった・・)
あまりにひどいと副官が一応は注意してはいましたが、彼が酔えば最早誰も収集をつける者は居らんかったみたいで。
戦艦なども年末は結構のんびりしていましたね。 南方の地獄は何処吹く風か?
74 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/27 18:31 ID:vLPEslJf
忘れてましたが、
「こんばんわ」も「活きて」も「恩方々」も昭和十九年の日記に記述が
あるので、当時の私が天保銭で無い限りは間違いでは無いと思います(笑う
あしからず。
>>74 ポーカー氏の強引な突っ張り
アリマス君は土俵外へ転落
ポーカ氏のは説明になっていないと思う、物言いがつきそうな気が。。。。。。。。。
76 :
名無し三等兵:04/03/28 01:06 ID:tsPXI3f8
俺のじいさん、軍隊にいたとき 裏に鋲打った靴で殴られる兵隊を見たって言ってた
怪我して帰ってきてくれたおかげで今の俺がある
何のスキルもないただの公務員だったらしいので、兵卒でとられたって聞いた
お袋は、戦争になっても医者だったら最前線で戦わなくて済むって
しきりに俺に言ってたなあ、、、
鉄砲の弾が飛ぶ音が凄いと言ってました。
>>76 でも、沖縄では、患者を自らの手で安楽死させてまわるという、
ある意味(軍医として)最も悲惨な役割を担った挙げ句、
結局は自分も自決ということもあった訳で…。
それはそうと、上でポーカ氏が言っているように、軍隊も人間の集団である以上、
極力兵隊を殴らない香具師もいれば、狂ったがごとく暴力を振るう香具師もいる、と。
まぁ、戦前は、(軍に限らず)体罰が(現在に比べれば)一般的だったみたいだし。
>ポーカ派 様
レスありがとうございます。
日本では旧軍といえば陸式を連想しますからねぇ、大多数は。
>>某対空駆逐艦一番艦
上村キチのフネですか?(笑
79 :
名無し三等兵:04/03/28 07:04 ID:1foU37gO
山下清画伯、画家になってから。あちこち行かれています。またマスコミにもよく出る人でした。
61さんの父上の所に画伯が来てもおかしくない。有名人の基地訪問、普通です。
画伯はドラマで有名なのではなく、有名人をドラマにしたのです。
>>68=ごく普通の軍艦マニアの人
そりゃそうだ、戦後の軍艦マニアにとっては金剛型巡戦でいいだろう。
軍艦に関心がある人間にとって金剛型巡戦とい単語は非常に使いやすい。
また大正期までの軍人だって金剛型巡戦だろう。
しかし昭和10年頃から海軍に入った想定70期が、金剛型巡戦というだろうか?
言葉にはその年代や時代によって変わる。
想定70期が海軍に入った頃、相変わらず金剛型巡戦という先輩がいても不思議はない。
しかし想定70期年代の単語として適切なのかどうか??という疑問を折れは提したわけ。
折れはたいした軍艦マニアでもないし、巡戦という単語をめぐって突っ込んだわけではない。
言葉の使い方という部分で疑問を持ったわけだ。
>>69=こりゃむずかしいのぉ
@事実のままである
A裏ポーカー氏で、今後、話が合って行くように進み、やっぱりポーカ氏は70期なんだと思わせる小細工
さ〜どちらか???
>>72 上と同じ答えを返しておこう。
そして基本的にな、あんたなんで、この場で軍艦談義をやってるわけ?
スレの名前を見てみなよ、ここが軍艦談義する場かい?
ポーカ氏のお好みの話へ振る役目の裏ポーカー氏=ポーカー氏
上官殿の「殿」はポーカー氏への皮肉。
あんたぐらいの知識があれば、「殿」については重々ご承知のはず。
それを一々、ポーカー氏に質問しちゃうんですなぁ(藁)
>>74 折れが江戸時代に寺子屋で勉強した仮名手本では「こんばんは」「生きて」「御方々」になっていたぜ。
と返しつつ、ポーカー氏の言にはにあきれ返り・・・・・・
こりゃ艦緒オタだけじゃなくキ印も入ってるは
>>78=相変わらず強引に軍艦話に振る裏ポーカー氏
76の書き込みはどうみても陸軍の話なのになぁ〜そんなに軍艦好きかい?
>>某対空駆逐艦一番艦
上村キチのフネですか?(笑
これから、ポーカ氏が颯爽と登場して、上村キチについて説明をしてくださる。
総員、傾注!
で、アリマス
なんか粘着キチガイが住み着いちゃったな。
うちの曾おじいさん。陸軍士官学校25期卒業。その後、近衛第一歩兵連隊、上官を殴って砲兵学校へ、
少尉へ。その第一次世界大戦でチンタオへ。中尉任官。大尉へ。少佐へ。
大正あたり、父島要塞副司令へ。中佐で二次大戦では横須賀?の工廠で終戦。子ども8人生んでます。あと蒋介石が士官学校にいたとかいないとか。
セルキャブを解読しない限り、永久に自作自演は出来ないのですが・・・
うちの爺さん米海軍のパロットだった
なんで米海軍かって言うと、ハワイ在住だったから
強制収用所に、打ち込まれるか米兵として戦うか選択を余儀なくされて
米兵として戦う事にしたらしい・・・_| ̄|○
零戦を落としたり零戦に落とされたりしたみたいだけど、米軍機は頑丈だったから
被弾しても死ぬ事はいくどとなかったらしいよ
>>80,81
スレ違いになるので手短に。
殿については、書物のみの知識でなく、体験した方の話を聞きたかったから。
軍艦談義については、
>>64については確かにスレ違い。謝る。
巡戦云々については、現場だからといって必ずしも正確な表現をしてるとは限らない、といえば分かってもらえるかな?
言葉の使い方云々というのであれば、質問者の言葉使いこそ非礼という面で問題では?
あれは疑問を呈するといったレベルの書き方ではないと思うが?
また、勝手にポーカ氏=秋津洲と決めつけるのもどうか?
スレのタイトルに関していえば、
>>67,80,81もスレ違い。全て貴方の発言かどうかは知らないが。
で、
>>76 へのレスの後にポーカ氏へ話を振ってはいけなかったのか?
>>秋津州氏
わからんで一蹴されそうだからやめませう。この辺りで。
15.01にポーカー氏登場
15.24に秋津州氏登場
そして3分後、15.27ふたたびポーカー氏登場!
あんたら一日中、ここ見張ってんの?
仲がよろしいことで。
それより 上村キチの話はどうしたぁ?
折れは聞きたい。
お話、お伺いしたくアリマス!
ワシントン相手に防御の弱さをさらけ出して沈没した霧島の例を
見ればとても金剛型を戦艦なんて言えないわ。
>>87 了解しました。
ところで、またもや海軍噺になって恐縮なのですが、
当時、兵学校出の士官と、予備士官(商船学校出)との差はどうだったのでしょうか?
不祥の後輩としては、先輩のことがチト気になりまして(笑)
「門外漢野郎に何が分かるか!」
「さすがに娑婆出の奴は物分りが良い!」
「我関せず」
大きく分けたらこの3つかな?
他は特に大きな差は見当たらなかったね。
ついでに言うと、皇族士官も同様だったみたいです。
>>89 大正生まれの36サンチ搭載の老嬢が、昭和生まれで40センチ搭載のワシントン、サウス・ダコタ
というピチピチギャル(死語)と2対1で渡りあったんだからなぁ。
勝てという方が無理では。むしろ善戦した方だと思う。
>>91 なるほど、宮様と同じ扱いですか(笑
差別されてんだかされてないんだか。
ポーカ氏がご一緒に戦われた予備士官の方の中で、
何か印象に残った方とか、エピソードとかありますでしょうか?
>>93 まあ、レーダー装備の二艦に対して見張員の眼だけが頼りで行っちゃった訳だし。
ホントは前衛の駆逐艦隊が二艦共発見してなきゃならないんだけど、日本の駆逐艦は一回魚雷撃ったら戦場離脱しちゃうし。
なにもかもジサクジエン臭いなあ
じゃあオマエも俺もジサクジエン
全部オレ一人の(・∀・)ですよ?
さあ騙れ
101 :
名無し三等兵:04/03/28 20:55 ID:07DcSrlR
母の兄が戦死しており祖母や母が墓参りの時、涙を見せたり、父方の叔母が戦災で亡くなって従兄弟は継母で育った。
子供の頃、住んでいた町にはまだ戦争の傷跡が残っていた。
こういう世代環境に育った私としては、まだ太平洋戦争を単なる興味の対象としてはだけで語れないところがあります。
前スレから続く海兵七十期のポーカ派氏の発言には、今回、弾劾している88氏だけではなく、いろいろな方からクレームがついていました。
同氏の話の内容については真偽の判断がつきかねますが、文章全体は、たしかに80過ぎの方の文体ではないと感じます。
おそらく当時を実体験をした年代の人ではないでしょう。
理由はともかくあの戦争を実体験した人物かのような書き込みには道徳的不快感を憶えざるを得ません。
往時に亡くなった方、そのご遺族の方々、ご苦労された方々への冒涜だと感じます。
かといって88氏のように重箱の隅を突くように弾劾するのも、おとな気ないと考えてます。
海兵七十期のポーカ派氏と88氏には、それなりのスレッドを立ち上げて、そちらで対決していただきたいものです。
また秋津州氏にも同様のことを申し上げたい。
このスレは貴重な証言を聞くことのできるなかなかの良スレと思っています。
その証言の余談として、話題が多少発展するのはいいでしょうが、そのまま延々と逸れて行ったり、まったく関係のない海軍の話題は、このスレの趣旨に反すると思います。
そう言った話はどうぞ、それなりの話題のスレでお願いします。
103 :
名無し三等兵:04/03/28 22:17 ID:+JNM6Ahz
俺の祖父さん真珠湾ではないけど海軍中尉で五ニ型零戦乗ってた
瑞鶴にも降り立ったとよ グラマン二機いわしたとか言ってた
最後は徳之島付近で撃たれて不時着
山中を命からがら逃げ回ったとのこと
宮内庁からの賞状やら勲章とかいっぱいある
その関係の本とかに写真入りで乗ってまつ
三菱の車ばかり乗ってました
最近しにマスタ
104 :
名無し三等兵:04/03/28 22:22 ID:+JNM6Ahz
ジオン軍キタ━━━━━ー二三ヘ( ゜∀゜)ノ━━━━━━!!
>>101 あなたの仰るご主旨は分かります。
が、あなたがポーカ氏が80過ぎの方と感じることと、本当に氏が80過ぎであるという点については、
天と地との開きがありますよ。
自分が違うと感じたからという理由だけで決めつけ、かつ弾劾するのは如何なものでしょうか?
あなたの意見に対し、氏は道徳的不快快を感じているかもしれませんよ?
これはご自分が逆の立場に立たれたことを考えてみればご理解頂けると思います。
もちろん、私の意見は氏が本物と保証するものではなく、こればっかりは確かめようがありませんが。
私自身としては、氏が偽物と疑う理由なく、氏の体験を聞きたいと思っているだけで、
それ以上でも以下でもありません。
確かに、おじいさまの戦争体験を語るスレで、体験者本人が語るのはスレ違いかもしれませんが(w
>>105 ポーカ氏が本物だっていってんのはアンタだけだよ(WWWWW
ポーカ=秋津洲
だからセルキャブ解析しなきゃジサクジエンは不可能だろうが(ww
春房が増えたな・・・
またまた玄人ぶっていやですわ(オホホ
春だねぇ。
ジサクジエンでもいいよ。面白いから。
ウソでも本当でも、無事じいさんが帰ってきた家は羨ましい
父親がいない家はダメだよ・・・
春爛漫。
>>113 うちの爺さんは無事に帰ってきた。
そして漏れを軍オタに育て上げた。
>>114氏よ
おもしろいか〜〜〜ぁ?
ポーカ+秋津洲=ワンマン・ネービーの書いてること読んでみなよ。
学研の日本の戦艦って本読みましたぁ?
読んだ読んだ、最近の模型ってすごいねぇ
お船ってあんまり大きいと実感がなくなっちゃんだってぇ
戦艦大和の模型はしゅご〜〜い!
機関科も厳しいけど、艦橋も大変なんだよ、機銃掃射モロだからな
最近、なんで無名の小艦までモデルアップするのさ?
近頃、模型って大人の為なんよ。
そうか〜〜ごめんごめん
船体と搭載している飛行艇のバランスがかっこ悪いっちょ
比叡はお召し艦とか練習艦って言うんだよ
海軍は殿はつけないんだじょ。
ホンチャンの士官と予備士官ってどうなのよ?
まっいろいろ〜〜〜
以上、ワンマン・ネービー戦闘詳報より要約
この程度だぜ、はっきり言って厨房(ほんとの中学坊主ね)の軍艦オタの会話の方がマシ
折れもなぁ、ワンマン・ネービーだろうが、フェイク・ネービーだろうが「おお、これは!すごいオタ知識だ!」ってのをご披露してんなら、目をつぶるよ、為になるもんなぁ
ところが、ワンマン・ネービーの会話って前スレでもこのぐらいの低レベル。
光人社の海軍飯炊き物語でも読んでりゃ書いてあるような程度のことを延々とご披露されてもなぁ、文句のひとつも言いたくなるじゃないかい、みなの衆!
以上でアリマス!
なになに?
114氏は、バレバレなのに延々と続けるワンマン・ネービーの馬鹿ぶりが面白いって・・・・・・・・・・それなら納得っ!
しかし101氏のご意見はごもっともだ。
別スレを立てて、軍版の海軍オタの皆さんにもご参加いただいてやるかい、ポーカ+秋津洲=ワンマン・ネービー氏?
間違えた
114氏じゃなくて112氏だね
119 :
112:04/03/29 21:59 ID:???
>>118 侘/寂の背後にある『枯れた美意識』を感じ取れw
自分の思う通りにスレが進まないからってジエンだのツマラナイだの言うなって事だ。
ところで、この春の彼岸に自分家の御墓の掃除にいったのですが、
注意して見れば『義烈居士』や『忠烈居士』の御墓がたくさんありました。
そして隣には『義烈居士』さんや『忠烈居士』さんの奥さんだったと思われる人の俗名が書かれた御墓が建ってます。
『義烈居士』さんや『忠烈居士』さんが二十代後半〜三十代、奥さんが八十代でした。
>>113サソの御婆様のご苦労が偲ばれます。
自分の思うとおりの、望む知識を提供してもらえないからってファビョるとはねえ・・・・。
例えポーカー氏が本物の海軍士官で、豊かな知識や経験を備えていたとしても、
そんなヤツ相手にまともに語ってはくれないだろうなあ。
まあ、これも自作自演と思いたければ思ってくれて構わないが。
スルーしましょう、みなさん。
言わせときましょう。
キチに粘着する吉害がいるスレはここですか?
つ〜か、良スレ荒らすな、ボケ
>>117 秋津洲に相手してもらいたきゃハン板逝けよ。
ここでスレ違いのバカレスされるのは迷惑。
うちのじいさんは、背が低いってんで徴兵不合格。
たまに「わしが兵隊に行けば戦争は勝った」とか言い出す。10年ほど前に物故。
ところでじいさんの家は、戦前田んぼを三町ほど持っていたんだけど(農地解放で大半を手放した)、
これって全国で見ても豪農(?)の部類にはいるのかな。村では一番土地持ってたらしいけど。
>>125 3町ではもの凄い豪農とはいえないが、多少持ってる農家にはなると思う。
僕の父は20歳年下の女性と再婚したよ
128 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/30 19:34 ID:XWu/T9JX
なんだか混戦してるね。
『ものすごい知識』かね、そんな物は僕は持ち合わせていないよ。
そもそも
>>116君や他の方々の方が海軍に関しては博識なんじゃないのかい?
コレだけの「高度情報化社会」とやらだし(笑う
帝国海軍に関する知識なんか一日も在れば粗方概要はつかめるでしょう。
専門知識といえた、砲術・航海・天測、
これ等も全部我々の使っている「個人用超高速電算機」の登場によって
存在意義を失った以上、保有する意味も無いしね。
そもそも知識は「使用して」意味が在るわけで、
使用しない知識は保有する意味も無い。
わかるかね、この意味。
>>専門知識といえた、砲術・航海・天測、
砲術科 兼 航海科・・・・・でつたか!
ひとりで二科兼任とは、さすがワンマン・ネービー、御見逸れしました!
書く度にボロが出るというか、自らボロボロになって・・・・もうバカバカしくて相手してられませんは〜〜〜〜
>>わかるかね、この意味。
うん、わかった要するに帝国海軍についてはあまりよく知らんということだね。
それなら、もう
・・・・・・・・・・・・・・・終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ああ、こう書くと「あ、いやいや兵学校で一通り・・・」とか言うんだろうなぁ
もう
・・・・・・・・・・・・・絶対終了・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
130 :
名無し三等兵:04/03/30 21:26 ID:g2ua/DWa
>128、パソコンができたからって存在意義が薄れたとはいえねーな。経験から言うと、処理の遅いPC、少々機微に欠ける海洋データなんかより、経験の積み重ねからの知識の方が圧倒的に使い道がある。
船にまともに乗ったことない奴があふぉなこと言うな。
>>129 航海術は船乗りの表芸……って知らんのだろうな。
大戦後半の粗製乱造組はともかく、航海術はシーマンの基本だが?
ちなみに、海軍の将官は砲術屋、水雷屋が多くて、航海屋は井上提督など、
ごく少数なのは、当然知ってるよね? 理由も。
と、バカにマジレスしてみるテスト
最後にひとつだけ。
天測は航海に含まれるから、普通わざわざ分けては書かんのだよ。
天測と航海が別だったら
「おい、船頭、あの丘の松をめがけて舵を取れ」って航海になっちまうぜ。
それじゃ、房総半島の漁師だよ。
>>129 ワロタ
おまい、おもろい。
是非、別スレたてて、もっとネタを披露してくれ(w
>>131 だいぶ動揺してるな、、、、ってもう折れは書くのやめたんだっけ。
ほんとパーカー君も、もうやめときなよ恥の上塗りだ。
このスレが荒れるって苦情も来てるしさ、もうやめておこう
135 :
名無し三等兵:04/03/30 21:44 ID:Snn68Qsv
>>128 今度用事があって近くまで行くので、
西条の楢本神社寄ろうと思うんですけど関さんになんかお伝えする事ありますか?
>>132 元船乗りですが、
分けても言いますよ?
最近は天測もあんまりやらんけど、昔は徹底的に鍛えられたからね、天測は。
ロラン、デッカができる前は、遠洋航海の命綱だし、ある意味特別。
猶、地文航法も立派な航海術ですが?
丘の松だって、ランドマークとして使えれば利用します。
>>136 海軍の「科」のこと
もうやめてくれ、折れPCの前で笑い崩れてる
完全にツボにはまって笑いが止まらんの、たすけて
>>137 砲術、航海術、天測術でしょ?
知識と言ってるし。
勝手に科と読んで笑ってるのか?
まさか砲術科、航海科、天測科と考えたのか?
そいつはすごい(棒読み
知識と知恵の区別が付かないと言うのは、不幸なことだな。
>>139 全く。
尤も
>>137の脳味噌はそれ以前の問題だと思うが。
スレ違いなのでこの話題は終了。
麻酔なし手術されたらしい。
142 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/30 22:52 ID:XWu/T9JX
じゃあリクエストに御答えして、
「あ、いやいや兵学校で一通り教わってまいりましたよ」
ついでに、
「異なる人格を理解する知能を持ち合わせぬ者、理解行為自体を無意識下に拒否する者と議論するの
は時間の無駄である。早々に尻帆掛けに逃走するか、鉄拳の一発も鼻面に打ち込め。」とも。
僕と一緒で多分この輩もわかって発言してるんでしょう。
こちらは人生終焉の其の日まで退屈なので、根気比べと参りましょう。
そういうわけですので御尻に帆を掛けて寝ます。おやすみなさい。
スレが荒れるからもう来ないでクレ。
もしくは名無しに戻ってくれ。
つうか今乱入しているキチはもっとうまく釣れよ。
ポーカーの技量の前に完璧劣って見えるぞ。
101氏が80過ぎの文章ではないと言ったが、折れは君の語り口は海軍軍人じゃないと感じてるの。
なぜかと言うと、折れの祖父は海軍士官だった。
とは言え、折れは前にも言ったとおり、たいした海軍オタではない。
陸軍オタなんだ。
なんで陸軍オタかと言われると、好きな物は好きとしかいえないがな。
それでも家族に海軍士官がいれば、それなりに海軍の習慣だとか、言い回しだとか歴史は自然に耳に入る。
海軍で専門とか専門知識と言えば科のことなの。
爺さんの戦友もみんなこう言ったよ。
まぁ、こう書くと「カマかけてんじゃねぇよ」と思うかもしれないからね、本物の海軍士官かその家族じゃないと知らないことを質問をしよう。
あんまりネットじゃ調べられないと思う質問をね。
@.戦後の就職先が官民に関わらず公職追放について、どこから、どういう指示が来た?
うちの爺さんは死ぬまで怒っていたよ。
A.70期前後であれば10年程前、日本国政府から「ある通知」があったはずだ。
これはどういう通知だった?
そしてそれを送った人物は日本国政府の誰だった?
B戦後、どういう風に叙せられた?そしてそれは何時ごろだった?
C軍人恩給の受給手続は?
Dここのところ、軍人恩給はどう変わった?
その他、質問はいくらでもあるよ。
そんなプライバシーに触れる事は。。。。とか返事があるんだろうなぁ
それじゃ折れも追い風を受けて寝るよ
しかし、101氏と別の意味で君のやってることは、旧軍人に対しての侮辱だと思う。
必死だな。それにちゃんとした答えが来たらオマエどうするんだ?
どうでもエエが陸海軍で上述5の質問の詳細は違う
148 :
147:04/03/31 00:18 ID:???
@は「ヨビエキレイ」で陸海軍名義で
AはBはわからんな。覚えていないかも知れんし、各々で認識が違うと思うのだが。
C、Dは各都道府県において異なりますのであしからず。
オマエいい加減にしろよ、本物か偽モノかの議論は前スレ以前で散々してるんだが・・
自分の認識が人も思うものとは限るまい。
それに奴もいってるぞ
「コノ空間のことは幻像に過ぎない、信じるも否かもそっち次第」
>>145 自分の知識こそが、絶対か...。
学会員か?チョンか?
喪前の反応ってのは、上記2者の典型なんだが。自覚できてるか?
150 :
名無し三等兵:04/03/31 00:47 ID:TuHrT1rn
もう
>>145とかがウザイのでみんなID出していこうぜ
151 :
名無し三等兵:04/03/31 01:58 ID:0sZXutVd
うちの祖父は南京総司令部の中で鹵獲した無線機を使った暗号傍受をしていたらしい
総司令部はかなり大規模で、飛行場もあったと
敵暗号は殆ど解読できず、ぼんやりと敵部隊の場所が解る位だった(それも敵の虚実通信かも…)
終戦後は戦時標準船「リバティ」に乗って内地へ戻ってきたそうです
リバティは足が遅くていらいらしたそう…
152 :
名無し三等兵:04/03/31 04:07 ID:+Gh+I6jq
お婆さんの兄が近衛兵だったと聞きましたが、近衛兵になる
審査のようなものはあったのでしょうか
153 :
名無し三等兵:04/03/31 08:51 ID:skBiIArh
>>152 いい男じゃないとなれませんw
いやマジで。余程の偉丈夫だったんでしょうね。
154 :
名無し三等兵:04/03/31 09:03 ID:vwQDW7Y8
米騒動なら体験したらしい
近衛兵の集合写真とか、どっか無いですか
当時のいい男集団を拝みたい
156 :
名無し三等兵:04/03/31 10:01 ID:+9UIVR0J
そろそろ、スレタイどおり>145氏の爺様のお話が聞きたいな。
爺様の戦友のお話とか、いろいろエピソードありそうで面白そうだ。
それとももう既出?
157 :
名無し三等兵:04/03/31 12:50 ID:D0h9m70A
以前にもカキコしたがもっと詳しい話が聞けたので・・・。
知り合いの爺さまは中島飛行機小泉工場に努め、天山や月光
の組立作業をしていたが戦局が厳しくなり、立川の陸軍航空整備
教育隊に志願したそうだ。
新兵は何かと「古参からイジメられ辛かった」話があるが
班長を除いては同じに志願した同年兵ばかりの班構成でイジメも無く
教育は基本軍事教練を除けば民間の講師が担当して
居眠りをすると班長からゲンコツをもらう程度だったそうで
よもやま物語の本を貸してあげると「こんなこと本当だったのか?」
とピンとこない様子だった。
軍事教練での銃は99式短小銃で「反動が強くてゼンゼン当たらなかった」
と言ってもいました。東京大空襲時は真っ赤な夜空を見ながら
「この戦負けるんじゃないか?」と思ったが、凄かったのはその後
で都心部は焼け野原で電力が有り余り、周囲の軍施設に集中供給され
風呂(電気釜)は毎晩。行き場の無くなった食料も集まって毎日
肉料理が食べられたそうです。
終戦となって、六百円を渡され「好きなだけ持っていけ」と背嚢雑嚢に
ぎっしりの米と砂糖を詰め込み、いの一番で帰省(東北の港町で海竜
の配備が予定されていた)して駅を降りたら駅前にはでっかい爆弾の跡と
ヤグラを組んで「非理法権天」の幕を下げ海軍将校が徹底抗戦を叫んで
たそうだ。
同じ軍隊で所変われば・・・この差はすごい。
>>145 >折れは君の語り口は海軍軍人じゃないと感じてるの
アンチ派にもマンセー派にも言っておきたいが、ポーカじいさんが海軍に居たのは
20代半ばまでで、その後60年以上民間人として生きて来た訳で、現役の海軍士官
が今にタイムスリップして来た訳じゃないだろ?
俺の会社に自衛隊(防大卒)出身の技術屋いるけど、普通のサラリーマンで
全然軍人くんじゃないし、過度の期待や特別扱いする方がおかしい…。本人に
とっては、単なる職業遍歴の一部(しかも短い)に過ぎない訳だし。。
むしろ半世紀以上前の旧海軍の記憶に縛られた爺さんが居るとしたら、そりゃ
完全に老化現象というかボケが来てる訳で、ポーカ氏がそういうボケキャラじゃ
ないことは明らかだろ?
若い人達は、ボーカじいさんが、今体験したような生々しい記憶を語らない
のがおかしいと思ってるんだろうけど、ある程度の年齢になると分るけど
人間の記憶なんて、ホントに当てにならない。自分の都合が良いように編集整理
され、更に経年劣化する訳だから、それと自分の百科辞典的教養を比較して
粗捜しするのはどうかと思うな…
>>152 以前、書いたけど、僕の伯父2人が、昭和10年前後、徴兵で長男近衛伍長、
次男は連合艦隊司令長官付き従兵(階級は知らん)だった。実家は、県内有数の
大地主で、二人とも白皙長身(175cm以上)の美男子(だったらしい)。
同僚も金持ちや(戦前の)中産階級以上で快適な生活だったと言っていたよ。
身体壮健だったにも関わらず、除隊後、二度と徴兵されなかったけど、その辺の
理由に付いては曖昧な話しかしなかったな…
>>152、
>>161 このスレは、
【白皙長身】『昭和のいい男を語るスレ』【偉丈夫】
となりました(藁
163 :
152:04/03/31 17:00 ID:+Gh+I6jq
>>153,
>>158, ..
>>161 有難うございました。
>>161の方のように、弟は戦艦乗りだったそうです。
ちなみに、私の祖母の実家は山梨の塩山、古屋という姓です。
父の会社には、陸軍伍長だった人とか、爺さんがA級戦犯(財界人。無事出所)
だった女性とか、父上が陸軍中将(?)母方の祖父が陸軍大将でそのまた父上が
東京帝国大学初代総長だった人など、色々な方がいました。
大した話でなく済みません。
あ、それから中学の同級生に伊集院五郎 海軍元帥の孫がいました。
164 :
152:04/03/31 17:06 ID:+Gh+I6jq
ついで。
隣のクラスには○◎機関の孫がいて、その友人から聞いた話ですけれど、
○◎機関として中国で活躍した人、ライフルの狙撃が得意で、
敵を千人殺したとか。名銃を沢山持っていたが、息子はある理由で
それらを相続できなかった。凄い豪邸に住んでいるらしいから、
隠匿財宝を密かに日本に持ち込んだと思われます。
インターネットの書き込みに腹が立ったのは久しいね。
@「ヨビエキレ」 僕の場合は海軍横須賀鎮守府長官名義でした。
A「どの通知」の事か分かりませんが、「新認定傷痍軍人及び死亡軍属に対する一時見舞い金通知」の事かい?
名義は当時の厚生省大臣と内閣総理大臣海部敏明氏。
Bポツダム昇進の事かね?
CDは知らんね。そもそも僕は軍人恩給の受け取りは拒否してますから。
「助けてくれ」としがみついてきた仲間を振りほどいて生き残った身なので
とてもではないですが金を受けてる気にはなれませんな。おかげで戦後一時期はガード下生活でしたよ。
こんな事聞いて楽しいのかね?
何なら当時の書類をデジタルスキャニングでもすればご満悦かい?
海部氏のお名前間違えてますな。失礼いたしました。
>>165 ポーカー派さん、ご苦労様です。
ここは煽りも多いですし、今ちょうど春休みですので暇な奴も湧いているだけなんで
無視して構わないと思いますよ。
ポーカー派氏の書き込みを楽しみにしているものも多いのですから
そう反応せずにお願いします。
わざわざ実家に帰ってしまったよ・・
このところ此処に来る機会が多くなった仕業か
頭に血が昇りやすくなった、困った傾向です。
そういえば軍人恩給受け取りに関しても戦後随分左翼団体から持ち上げられたものです。
尤も一切関与しませんでしたが。
暖かくなってきたし、オフなど如何でしょうか?。
ポーカ氏のお話聞いてみたいです。
ジジイカツカレー
>>海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2
キチガイは永遠に論破不可能なので無視されるのがよろしいと思います。
>>165 採点×
ひとつぐらいはカスルかと思ったが全滅
正解は教えてあげない。
海軍オタに余計なこと教えるとろくなことにならんからな(藁。
しかしせっかくだからひとつだけ、面白い逸話を教えてあげよう。
Aは、「新認定傷痍軍人及び死亡軍属に対する一時見舞い金通知」と来たか〜ネットで必死に調べたんだろうな。
違うよ、爺さんたちはそんなのでは興奮しない。
このある通知は、内閣総理大臣の名前で来ました。
ただし、終戦時のね。
というわけで、
モウチョットドリョクシマショウ
............終了...................
174 :
名無し三等兵:04/03/31 19:58 ID:skBiIArh
すかさず
..................再開.....................
そこのモニターの前の藻前だよ!
大体よ〜戦艦大和に乗ってた将校が生きてるワケないじゃん。
それこそソース提示プリキュア
178 :
170:04/03/31 20:19 ID:???
だからオフすれば良いんだって。
ポーカ氏、如何でしょうか?
前スレでオフの事もおっしゃっていた記憶があるのでご提案ですが。
靖国かどっかでやろう。
俺海軍の軍服着ていくよ。
ドイツのだけどさ。
>>179 去年の8/15
靖国に行ったら中田商店製の二種軍装を着た若い海軍士官が直立不動で立っていたぞ
胸に妄想70期ポーカと名札があった。
背中には、この人は誇大妄想狂なので迷子になっていたらご連絡ください。都立松沢病院TEL0000-0000って書いてあった。
8/15の靖国はこんなのたくさん居る
だから、ドイツ海軍の軍服でも、問題なし、大手を振って来い!
181 :
名無し三等兵:04/03/31 22:02 ID:TuHrT1rn
>>173 お疲れさまでした。ヽ(´ー`)ノ
さあ、おうちにかえろうね
182 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :04/03/31 22:02 ID:f6aYr2kz
>>173君。
「新認定傷痍軍人及び死亡軍属に対する一時見舞い金通知」が行われたのは
1974年と2000年の2回です。君が言っている10年前の通知とは異なります。
そもそも名称も異なりますので。
次はどんな手で来ます?
>>174が再開だというので。
折れ的に一番面白かったのはBかな。
>>ポツダム昇進の事かね?
はぁ〜〜「叙」って漢字の意味がわからないんだね。
まぁしかし、こうやっていろいろ書くと、妄想小僧に知恵つけちゃうんだろうな
すでにどっかのスレで
「戦後、かなり立ってからね、僕のところに「ある通知」が来たんだ、
それがなんと終戦時の内閣総理大臣の名前でね!」
とバーカー氏がノタマッテイル予感。。。。ああイヤだねぇ
ところで最近、バーカー氏の僚艦 秋津洲はどうしたぁ〜〜〜〜〜〜
任務放棄か?
妄想型空母バーカーが被弾炎上してるぞ。
ただちに任に復すべし!
おおおお。
ポーカー裏の裏を取った!
さぁ春房はどう反応するんだ?
>>182 >>1974年と2000年の2回です。
はぁ、そうなの、ネットにそう書いてあったの?
厚生省かなんかのHP?
だから違うって言ってんでしょう。
職業軍人とちゃんと区別しなさいって。
って、また教えちゃった
つうか消えろよオマエ。
つうか異常なスレだなココ。
何でこんなに粘着するんだ?
妄想VS粘着だからよ
簡単なことだよ、気になるからさ。
どうでも宜しいならそもそもアクセス自体しませんよ。
腹が立つ面白いと言ってみても結局は気になるということですな。
僕も貴方もお邪魔虫も。
いずれにしてももう少し洒落の聞いた茶化しが欲しいところです。
次は何処に打ってくるんだい?
自分で問題ふっといて、正解は教えないってのはおもろいな。
@予備役令と公職追放は関係ない
会社で言えばな予備役令は、解雇通知
公職追放に関わる指示は、不採用通知だよ。
ポツダム昇級は将兵慰撫の為、所属部署判断でやったことで昇級してない部署もある。
だから関係ないの。
ああ、また教えちゃった!
バーカー君、折れにからむと勉強になるだろう。
礼ぐらい言えよ。
192 :
170:04/03/31 22:20 ID:???
ポーカ氏
それでオフの件は如何でしょうか?
「ありがとうございます。」
補足すると、予備役令が解雇の意味を持ったのは
戦後行われた公職追放時に発せられた予備役令の時のみですな。
解雇の意味合いが強いのは通常の場合海軍では「待命」の方になります。
おお、いよいよオフ会へひっぱりだされて
海没処分か?
実際にお会いしようと言う事ですね。
申し訳ありませんがお断りいたします。
前にも申したのですが、何故に面をつき合わせる必要があるのでしょうか。
此処における会話では何か不十分なことでも?
オフ会野郎は多分同じ香具師だな。
>>「ありがとうございます。」
よし!やっと謙虚になったな。
公職追放についてはネットでもう一回検索してみな。
わかるかもしれないぞ。
「待命」は解雇予告だよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・どうしようもねぇキチだなコイツ(汗
それでは、本日の授業は終わる。
バーカ君はまだまだ努力が足りぬと思われる、
消灯まで自習せよ。
じゃ教官は寝るから
>>196 だな。コノあとポーカーが断った事をまた煽る・・っと。
こらこら。まだ起きていて欲しいな。
僕はコーヒー飲んですっかり戦闘配置なのですが・・(笑う
つうかポーカーも煽り返すなよ(汗
本物か偽者かの議論はもうしてるだろ。
つうかキチガイはもっと旨く釣れや。読んでいて面白くもなんとも無いのだが(汗
204 :
170:04/03/31 22:51 ID:???
>ポーカ氏
誤解なきよう申し上げますが、私は貴殿に疑いを持っているのではありません。
戦争を実体験された世代の方で、貴殿のようにWebに書き込みされる人のお話しは貴重だと思いましての提案であります
実際にオフでお会いすれば貴殿のお話も説得力が増すし、後世のためにもなるではないですか。
本物、偽者うんぬんの書き込みも減ると思いますし。
如何でしょうか?
205 :
名無し三等兵:04/03/31 22:59 ID:0sZXutVd
>>199 煽るくらいしか生きがいが無い奴なんだな _| ̄|○ 同情
所詮ネットは虚飾の世界。詮索することが間違い
って言ったら「嘘をつくのは遺族に失礼」みたいな事言い出すんだろうな。
じゃあやっぱりネタ決定だね!
強制IDきぼんぬ・・・
海軍のこと詳しいと思うけど、実際の戦闘体験の話はほとんど書いてないしねぇ。
まぁ、瑞鶴の話は前スレで書いてあったけど、それを読めばわかるだろ。
とにかく「戦争体験」を書いてくれ。
皆さんの家って軍隊手帳って残してあるのものなのでしょうか?
自分は祖父に話を聞いていたら、手帳見れば判るかもしれんな、といっていました。
手帳を残してるようでしたが、見せてくれっていうのもアレなので言いませんでしたが、
そんな手帳って残っているものなのでしょうか?
まぁ従軍してるなら持ってるだろ。
古本屋でもけっこう売ってるけど。
ポーカが偽者だったら英霊への冒涜だぜ?おい
こいつは実は戦争なんか行ってなかった腰抜けかもしれないぞ
俺はラバウルでグラマンと戦ってたなんてわめいてるホームレスを見たことあるよ、俺
被害担当艦
>>204 ポーカー氏の身の安全が寧ろ心配なんだが・・・・。
それに本人が嫌がってるのを、無理矢理呼びつけても仕方あるまい。
.__
|・∀・|ノ ようかん食べて
占|__| もちつきたまえ
| |
何だ、やっぱり騙りだったか・・・
裏山グラマンで懲りたはずだったのにまた騙された
ナンにでも突っかかりたくなる年頃ってあるよね…
ポーカ氏に突っかかってる奴って、高校生くらいの粘着厨か、さもなければ
劣等感と欲求不満でぐちゃぐちゃになってる童貞野郎か、或いは両方かも知れないけど
変なことして警察捕まる前に吉原でも行って、おねえちゃんとお話した方が
少しは身のためになるんじゃないか?
とは言え氏は「あきらかに」楽しんでいるな。
219 :
名無し三等兵:04/04/01 08:31 ID:x7m9zDZz
>>217 いや、逝っちゃうと結構歳いったオサーンの方が粘着はすごいからな。
高名な『仙台中央郵便局消印の男』とか。
>>218 ポーカー氏は長生きする
間違いない
粘着が気になるなら透明アボーンでも使えばイイのに。
オマイラも成長しないなぁ…
2ちゃんだと粘着が来るもの仕方ないよ。
ポーカ氏の個人HP開設きぼん。
そりゃ無理電波ユンユン
ポーカ氏の個人スレでも良いんだが。
でも、海軍の元軍人さんが個人でホムペやってるよね。
なかなかすごいなぁと思う。
それに比べて、、、(ry
ホムペと言うな!サイトと言え!!!!
1です。良スレだったのに・・・これ以上続くようでしたら閉鎖します。
どうやって閉鎖するのか
削除依頼する。
>ポーカ氏
>>173 他は 単なるBC あまり相手になさらない方が宜しかろうと思います。
それにしても、軍中ならともかく、軍厨の相手は勘弁したいものです。
>>173 スマンね。軍板常駐ではないもので。
それに、煽るなら煽るでもっと茶目な要素が欲しいな。
陸式でも厨でもいいが、もちっとスマートなレスを願いたいね。
>>197 知識だと待命はそうなりますな(w
果たして、当時それ以外の意味で使われることがなかったのか、興味がありますな。
言葉は正確に使われるとは限らないよ?
どちらかというと、君の方がネットで得た知識を必死に振り回しているように見えるのだが?
>>211 そのホームレスが実際にラバウルにいってないかどうかは判定のしようがないが。
明かに年齢が合わないというのであればともかく。
また、偽物でなかったらそのレスはポーカ氏への侮辱にもなりうるのだが…。
>>221 いや、十分に長生きしてると思うが(w
それより、そろそろタイトルに沿ったレスが欲しいと思う今日このごろ。
ネタ持ってる方、宜しくです。
俺の爺ちゃんは元野球選手だったんだけど、赤紙が来て南方へ・・・。
そこで利き腕の肩を傷めて帰ってきたらしい。
戦後チームに戻り逆腕で頑張るも、前のようには投げられず
退団を余儀なくされた。
戦争さえなければな・・・。
そもそも爺自身や爺を名乗る香具師が体験(妄想)談書くスレじゃないんだが
祖母に聞いたら
歩兵として戦争へ行き少尉になった。
その後フィリピンで戦死した。
これだけしか聞けなかった。
私のお爺さんは、一時期満州へ行かれていました。
しかし2ヶ月も経たずして日本へ引きあげさせられる事に。
本人は「さぼり癖のせいで帰された」と言っておりますが、
詳細は定かではありません。
その後終戦まで、大久野島のガス工場に配置されたそうです。
ガス運搬の仕事が主だったのですが、
それが嫌でたまらなかったお爺さんは、よく仮病をつかい
巧い具合にさぼりまくっていたそうです。
僕のおじいさんは関東軍だったそうです
疫病を防いだり、給水に関する任務だったらしい
ちょっと地味すぎる・・・
あまり戦争中のことは話してくれないけど、
自分が死んだら昔からつけている日記をあげるからそれを読んで欲しいと言ってます
でも長生きしてね、おじいちゃんヽ(´ー`)ノ
【本物】海兵七十期のポーカ派氏と語る【偽者】
こんなスレとかいかがですか?
>>236 軍事板ではコテハンの名前を冠したスレを立てるのはローカルルール違反。
最悪かメンヘルで立てろ。
>>237 あと、スレタイで本物偽物にこだわるのもどうかと。
そうだよなあ2ちゃんはポーカのホムペじゃないし。
しかし気に喰わないコテハンを追い出せというのは極論だろ。
真摯に戦争体験者の声に耳を傾けるべきだ。
242 :
名無し三等兵:04/04/03 13:08 ID:4BGaLbhl
>>241 >>真摯に「戦争体験者」の声に耳を傾けるべきだ。
ここは、「戦争体験を教えて」のはず。
244 :
241:04/04/03 13:44 ID:???
似たようなもんだろうがよ。
いや全然違うヨタ話を聞くスレじゃないし。
おっとソース厨のお出ましですよ
>>246 証拠もなしに事実ですというわれても困るなあ。
【事実】戦争体験者と語る【ソース】
こんなスレとかいかがですか?
>>249 それじゃあ森村誠一とか湧いてきそうな雰囲気ですな。
251 :
名無し三等兵:04/04/03 22:50 ID:nbo28MFT
やっぱりスレ分けたほうがイイと思うがなぁ・・・
253 :
251:04/04/04 01:06 ID:???
>>252 すまん(汗
つまり
>>243も逝っているように、ここはあくまでも自分の祖父などから
聞いた戦争体験・逸話を話す場であって実際の経験者または、
経験者を装ったマニアがアレコレ議論する場ではないと思う。
>>244が逝っているように似たようなものではあるが、問題は、戦争
体験者を語る人が本物かどうかというスレの趣旨から大きくズレた
争いが生まれて、荒れているということ。
どっちが悪いとかではなく明確に分けたほうが、両者とも丸く
収まると思うが?
結論として「戦争体験者が語るスレ」みたいなのを作って
体験者やその話を聞きたい人、または事実を検証したい人は
そちらに逝けばイイと思う。以上長文スマヌ。
ポーカーがそっちに行く保障も無ければいく義務も無いな
逆に言えば、自分が隔離扱いされてまでお話してやろうと思うか?
相当に無礼な野郎だな。
「本物でも偽者でも信じるも貴方次第」ではそんなに嫌かなww
国際情勢でポーカージジイが言って言葉が当てはまる状況だな。
「何もかもを理屈で完璧に解決できたときに全ては終わる」
多分このスレも、隔離スレも誰も来ないな。
>>254 >多分このスレも、隔離スレも誰も来ないな。
お前が来なきゃいいだろw ヴァカw
しかし、本当に厨が多いな(w
書こうと思ったけど書ける雰囲気じゃないな。
そう言わず、カキコプリーズ。
流れを戻しましょう。
>>253 全くもって同意する。
別スレに賛成。
>>258 書いて下さいな。
もう、爺さんやばあちゃんから話を聞けない身からすると、
みなさんが爺さんやばあちゃんを想いつつ書いてるのを読んで、
漏れもまた爺さんやばあちゃんを思いだんすんだ。
うちの祖父は公務員だったので内地にいたが
出張で長崎か佐世保に行ったとき戦艦榛名に
特別に乗せてもらったらしい。子供のような笑顔で
「ものすごく大きかった」とか言ってたのが印象的。
余談だけどテレビにガダルカナルタカが出てると激怒してたな。
戦死者に失礼な名前つけるなと。スレ違いすまん。
>>261 失敬な!ガダルカナル・タカ親方はガダルカナル戦友会から芸名を賜ったのだぞ!
え〜!まじっすか?
何故にガダルカナル・タカ氏は戦友会から名前を下賜されたのでせうか?
教えてエロい人( ゚д゚)ホスィ…
むしゃくしゃしてつけた
激戦地ならどこでも良かった
(省略〜)たけし軍団のメンバーとなり、師匠ビートたけしより
ガダルカナル・タカの芸名をもらう。
266 :
261:04/04/05 23:24 ID:???
>>262 それは本当ですか?
いずれにせよ祖父が言ってた事なので勘弁してやって下さい。
>>262 ググッてみたけど、由来わかんなかったよ
二日に81で亡くなった爺さんは中国でひたすらモールスを打つ代わりに銃は撃たなかったそーな。
10年近く前にボケちまったから復員の話とか細かい話聞けんかった・・・。
>>267 十数年くらい前に北野ファンクラブで逝ってた。
>>269 そうでしたか。サンクス しかしなぜ・・・?
「紫電改のタカ」でもよかったんだけど激戦地のガダルカナルって聞いたぞ。>>ガダルカナルタカ
僕はそろそろ口をきいても宜しいかな?
>273
問題無いんじゃないですかね。
>>273 ここは、ご先祖様から聞いた戦争体験を語るスレで、
戦争体験者ご本人のお話を聞くスレではありませんから、どうかご遠慮ください。
とくにあなたがご登場になると場が荒れます。
良識ある元海軍士官でしたら、なにとぞご配慮を。
分かりました、そろそろ潮時ですかね。
この名前での参加は此処で御終いにいたします。
長い間お世話になりました。今後もひっそりと覗いて居りますんで。
ではまたどこかで。いざさらば!
あーあ、もう来ないのか。乙可憐。
では言わせて貰うか…。
>276
場が荒れる?お前が荒らしてたんだろ。マジで死ね屑。
>>277 確かに、276が正論なのだが、
当時の「戦争体験」を語っていたたけるなら、書き込みはかまわないと思う。
ただ、「戦争体験」以外のことを「戦争体験者」として書き込みされるのは不快である。
あー勿体無い。折角の貴重な太平洋戦争体験者を…。
自分のワガママで他人の口を封じるとは、プチ独裁者達には困ったものだな…
げ・・・書いてくれんの?
ポーカさん、スレたててよう・・・
>>ポーカー様へ
魑魅魍魎が跳梁跋扈する病院医者板へいらっしゃってくださいな。
HNはそのままで。
お待ちしております。
関大尉を冒涜しただけの死に損ないは逝ってよし
このスレにも平和が訪れましたな
285 :
282:04/04/11 12:00 ID:???
>>284 なんで俺も(笑)。
コヴァ大嫌いだが。
>>283 昨日、楢本神社に行ってきたよ。
関大尉の慰霊碑がある以外は普通の神社、なんて事は無くて『記念館』がぁゃιぃオーラ出しまくり。
呼び鈴押しても誰も出てこなかったから見学できんかったorz...。
287 :
名無し三等兵:04/04/13 02:42 ID:1b8hZ1uz
すいません。
>>131 >ちなみに、海軍の将官は砲術屋、水雷屋が多くて、航海屋は井上提督など、
>ごく少数なのは、当然知ってるよね? 理由も。
結構、帝国海軍いついて調べてますが、上の理由が分かりません。
なぜでしょうか?
288 :
名無し三等兵:04/04/13 08:38 ID:a/rYRnig
うちの爺ちゃん終戦の時に半島の北側に居たんだって。
ソ連のアカ共が来るってんで必死に南下したらしい。
爺ちゃん死んでから鹿児島や北海道の戦友の方が線香をあげに来てくれました。
実家が山形なんでメチャ遠いのに・・・・・涙出るほど嬉しかったです。
仕事は飛行機の通信担当だと聞きました。
>>287 兵科(戦闘を受け持つ科)の方が出世するの
軍医、機関科などは階級の上限も決められており、中将までしか昇れない。
291 :
287:04/04/15 01:21 ID:6Xr4lJ+T
>>290 兵科将校以外は機関科中将といえども一系問題の解決までは軍行継承令の
定めで(兵科の)少尉より、立場が低かったのは知ってるけど、
兵科将校で航海術が専門だった人が少なかった理由がよくわからんのです。
>>289さんのいう理由に加えて、航海術は基本的に
機関科の仕事とされてた、とかいう理由でもあったの?
でも、航海術が専門の井上成美も海兵を出たあとに、水雷学校や砲術学校に
通って、一通りの技術はマスターしてたようですね。
292 :
名無し三等兵:04/04/15 01:34 ID:f/Jw8y/p
母方の爺さんは戦前、兵役で軍に居たときは騎兵隊だったらしいが
戦時中は「軍刀用の携帯研石」なんて物を商売にしていた
零細ながらも軍需産業に携わってたおかげで戦争には行きませんでした。
父方の爺さんは、満州の収容所から死にそうな目に遭いながら逃げてきた、らしい。
>>293 多分寝刃合わせ用の荒砥でも売ってたのかね?
最近ここ寂しいなあ
ポーカー爺さんも来なくなるし・・・
刑務所に入っているお孫さんは元気なのかね?
わたしの彼氏(米人)のおじい様の戦争体験。
おじい様はグアムにある日本兵の捕虜収容所で働いていた。
上司の目を盗んでは食べ物や時には酒をさしいれていたという。
ある日捕虜の一人がおじい様に日本画を渡した。
捕虜の日本兵が描いたものね。
布に描いてあって長年壁にかざられていたとのことでところどころ日焼けしていた。
彼らは今時々酒を飲みに行く関係だとのことだった。
ポーカー消えたとたんに過疎スレになったな(プッ
298 :
名無し三等兵:04/04/20 20:20 ID:i/Kvg+D0
ポーカーが荒らしてたことが証明されたわけだなc⌒っ^∀^)っφ
うるせいっ
オメモナ
軍医さんの話を二題、叔父は医博でしたが、公衆衛生専門で医免持ちながら臨床経験無し。
陸軍軍医となるも、前線には行かず登戸研で終戦。
実家隣の産婦人科医の先生、ビルマの高射砲隊付軍医、患者はみな男、タイで終戦。
二人とも無事に帰還。
>>295 江田島を刑務所に例えただけだろ ヴァカ
こないだ死んだうちのじいさん。
召集されたがずっと国内で運転手(って具体的に何だよ?)やってたそうだ。
かなりうまく立ち回ったらしく、終戦直後も家族みんな衣食住足りてたとか。
正直、国の役にはまったく立ってなかったっぽいが、
俺は心からこのAAをじいさんに捧げたい。
_、_
( ,_ノ` ) n
 ̄ \ ( E) グッジョブ!! 俺はアンタの自己中さを確かに受け継いだ
フ /ヽ ヽ_//
神戸で船の設計をやってた
308 :
名無し三等兵:04/04/24 23:37 ID:UsBGTzgw
うちの爺ちゃんは、昭和19年に召集され、新潟港から船で釜山へ、そこから
鉄道で満州へ。華北を徒歩行軍し、なぜかタイへ向かっていたそうだ。
幸い(?)、戦闘にあまり遭遇しなかったとか。
昭和20年8月15日に戦争が終わったあともそのことを知らず、9月まで戦っていたと
言っていた。士官は知っていたんじゃないか、とも言ってたが。
で、中国共産党の部隊につかまって捕虜になり、昭和21年に帰国したんだって。
うちの爺さんは、蛤御門の変で帝を守るために基地外長州と戦った。
だが、その後ダサツマの裏切りや、岩倉具視が帝を暗殺したりしたので、
鳥羽・伏見の戦いではやられてしまったそうだ。
てすと
>>287 遅レスすまんです。
規制に引っかかってたもんで。
兵科将校にとって航海術は基本技能。
兵学校で一通り教わるし、少尉任官後フネにのったらそこでも徹底的に仕込まれる。
なのに、鉄砲とか水雷とか、飛行機とか専門を決める時に、
わざわざ航海を専門に選ぶのはよほどの変わり者、もとい、
航海術を神様の次ぐらいまで極めようという連中な訳なのです。
兵科将校にとって、航海術とは四則演算。
航海術を専門にというとは、大学院で数学を専攻にするようなもの。
といえば分かりやすいですかね。
日常生活(海軍暮らし)では数学(航海)の専門家はそれほど必要ない、
むしろ実学(砲術・水雷)の方が需要が多い、みたいな。
ちなみに
>>131 のレスは、
>>128が砲術(専門)・航海(基本技能)・天測(基本技能)
といってるのが理解できてない事に対する皮肉ですな。
猶、機関科将校は、エンジンを扱うのが仕事で、デッキの仕事(航海)はやりませんよ。
>>311 砲術も数学ではないのですか?
私の単純なイメージだと単に人気があるかないかだけ、という感じがありますが。
313 :
名無し三等兵:04/04/25 17:22 ID:eeNnENc8
>>308 うちのじいちゃんに似てる。
そもそも新潟県人のじいちゃんは、昭和19年に入隊。
どこから出港したかは知らないけど、上海に上陸。
>>308さんのおじい様とはちがって、北京のほうへ上っていったとか。
補給部隊でただひたすら歩いていたらしい。
山間を行軍したとき、丘の上から機関銃で隊列が襲われたといっていた。
馬に乗ってるやつは偉いやつだから真っ先にやられると言っていた。
やっぱり、一週間食わないなんてこともザラにあったみたいだ。
中国で終戦を迎えたじいちゃんは昭和21年に帰国。
じいちゃんの部屋のアルバムには確か、歩兵第116聯隊と書かれた集合写真があった。
本当に戦争に行ったんだなぁ、と思った。
314 :
名無し三等兵:04/04/26 00:04 ID:KB0tzoY0
新潟が出たからカキ。爺さんの兄弟は大戦中、スパイ?(船乗り?)だったそうな。
(嘘っぽいけど
爺さんもその兄弟ももういないが、親父が言ってたので。なんとなく。
スパイの爺さんってやけに多いよな。
うちの爺さんははじめは豊橋の航空隊にいて一式陸攻で訓練や対戦警戒やってたらしい。
その後千島方面の警備に行ってソ連が攻めてきたけど、飛行機だったので整備員やら満載して
北海道に撤退できたそうです。敵のいないとこで運がよかった。
>>312 砲術どころか、海軍は一から十まで数字の世界ですが?
311では、海軍、というか船乗りにとって航海術は、
一般人にとっての四則演算と同じくらい基本的な素養だと言ってるだけだが…。
>私の単純なイメージだと単に人気があるかないかだけ、という感じがありますが。
これが何を指すのか今ひとつ判然としないが、人気と需要は必ずしも一致しない、で答えになるのかな。
スレ違いなのでsage
318 :
名無し三等兵:04/04/26 15:23 ID:BLF7Ejgb
(おじいちゃんではないけど)
義父が陸軍(中隊長)で中支に行ってたらしい。
武装解除の時、軍刀を
そのままで渡すのは悔しくて
木とか竹とか切りまくって
使えないようにして渡したと聞きました。
我が家の実家には、60年前の1枚の家族写真があります。
武運長久と書かれた日の丸を背に出征する長男(伯父)と親、兄弟、親族。
19年3月、中国で戦死。21才。
うちの爺ちゃん、日華事変に甲種兵として出征
徐州攻略の際に機関銃で撃たれて負傷、
その怪我が元で第二次大戦には参加せず命拾い
余談だけど甲種合格は祖父の自慢の一つだった
(2%しか居なかったらしい)
あと爺ちゃんじゃないけど、
友人の婆ちゃんが工場で「戦闘機より小さい海軍の爆撃機」
を作ってたらしい
諸条件から考えて彗星三三型の事だと思う
おれのじいさんは関東軍(憲兵)で満州で女と遊びまくってたとさ。
ソ連が攻めてきて捕虜になってシベリヤ抑留4年間。 復員後も
女と遊びまくって、株で大金持ちになって海外旅行行きまくって
たばこすいまくって、年取ってからはゲートボールして海外旅行行って
たばこすいまくって金が使っても使っても余って余ってしょうがないくらい
おもしろい人生だったとさ。 若い軍服着たカッコイイ顔のじいさんの写真があった。
俺は心からこのAAをじいさんに捧げたい。
_、_
( ,_ノ` ) n
 ̄ \ ( E) グッジョブ!! 俺はアンタの自己中さとイケメンを確かに受け継いだ
フ /ヽ ヽ_//
>>322 どの程度イケメンなのか
体験談を語ってくれ
>>317 これは失礼。確かに数学はどの部門でも必要ですね。まあ、思いつきの発言なので勘弁していただきたい。
イメージ云々の話は、以前どこかの本(多分吉田俊雄)で兵学校の生徒が希望する専攻は一位砲術、二位が水雷若しくは航空という記述を読んだ覚えがあったので。
そうなると、航海、通信や運用は進む人が少ないのかなぁ、と。
ところでうちの爺様は、習志野でティーガー(爺様曰く、「虎戦車」)を操縦したことがある、と言ってますが本当に日本にそんなものあったんだろうか?
昨日、俺の叔父が87歳で亡くなった。
戦時中は二度召集されて、一度目は昭和14年のノモンハン事変に
参加し肩に銃弾を受けたらしい。大勢の味方が死んでとても恐ろし
かったと昔我が家に来た時話してた。うちのオヤジがが叔父の遺体
に対面した時、その傷跡を見たらしい。
二度出征していたことは今回初めて聞いたので、その話を知ってい
るなら、今度オヤジにに聞いてみようかと思ってる。
叔父上、本当にご苦労様でした。
326 :
名無し三等兵:04/04/27 02:43 ID:LwYigKiR
>>311どうもありがとうございます。
「航海術」を専門にしていた海兵卒の士官が少なかった理由が良く分かりました。
僕は今年の4月からある大学の理系に入学したのですが、
教養で「数学」「物理」「化学」「生物」「統計学」を一通りやらされます。
これらは全て大学教養レベルです。
ですが、理学部数理学科の学生は普通の理系学生がやる数学や統計学の
履修はせず(履修禁止されてる)、いきなり理学部数理学科生専門の数学の
授業をやります。確かに彼らは「数学」という学問を神様の次くらいに
極めたいだろうけど、僕らは「数学」という知識を専門分野で応用できれば
それで十分ですからね。
ちなみに、大学図書館で井上提督の指揮した「珊瑚海海戦」の詳細な記録を
見つけたので読んでいましたが、「定石に忠実に戦った海戦」というのが
僕の印象でした。(この頃の帝国海軍はまだ余裕があったんだね)
327 :
名無し三等兵:04/04/27 03:09 ID:Leo8iUH+
私の祖父ではないが、知り合いの爺さんが、もともと民間船の船乗りだったのだが、徴用されて陸軍の輸送艦に乗ったのだよ
しかしアメリカの機雷で船を沈められ、片足を失っていたよ。
それでも戦後も船乗りを続けていたから元気なものだ
しかしあの爺さんは、昭和天皇の皇后陛下
いや何年か前亡くなった皇太后陛下と言った方が通じるかな?
負傷して帰国した後で陛下より下賜された義足をいまでも大切に飾っていたな。。
それだけ栄誉あることなのだろね
328 :
名無し三等兵:04/04/27 08:53 ID:SW6QeUbf
渋谷区広尾に旧日本軍の毒ガス兵器の研究所があったってホント?
じいさまに聞いてくれ
うちの爺さんは大工で南方の島に行き兵舎を建てたそうな。
足に照明弾を喰らって火傷(ピストルで飛行機を撃ったらしい)。一足先に帰ってきた。
その島は玉砕しちゃったんだって。
日立で機関車設計
↓
空襲
↓
終戦
331 :
名無し三等兵:04/04/27 12:40 ID:5+QKfBfj
私の祖父はニューギニアへ行っていたそうな。。。そこで全滅した一個師団の生き残りらしい。。。
3000人いた中で生き残ったのは十数名らしいので、、、生存率0.5%未満・・・ってことになる。。。
空からは蜂の巣を突っつくように、雨あられのように降ってくる爆弾。。目の前でも炸裂段が爆発したらしい。。
湿度は100%、、食うものも無い、、という環境だったらしい。。でもさすがに人の肉は食わなかったらしい。。。虫は食ったらしい。。。
池に爆弾をセットして爆発させると、魚がぷかぷか浮いてくるらしい。。。
人にうじが湧くとその人はもうだいたい助からないらしい。。。うちの祖父曰く、、人間最後は体力と気力と根性らしい。。。
自分の家族には死んだと思われていたらしい。。。自分の持ち物も遺品として焼かれていたらしい。。。
日本に帰ってきた後、戦友の家族の所を訪ね回ることになるのだが、泣かれて泣かれて大変だったらしい。。。
その祖父も3年前に寿命をまっとうした。。。戦争後、祖父は石炭関係などの実業家としてとある田舎の名士のようになった。。。
その恩恵受けて漏れは今、その残してくれた家から2ちゃんを書き込んでいる。。。
片方のじいちゃんは終戦直前に中国に赴き、無事帰ってきた。
戦地では機銃兵として日々手入れをしつつも、
魚を取ったり現地民の手伝いをして豚を貰ったりと、比較的かなり平和に過ごしてきたようだ。
実際に人を撃ったのは、終戦後、国民軍の手伝いをした時だけだったらしい。
共産軍が潜んでいるとの情報のあった村に対し、機銃掃射。
しかし当然憎くも無い、無抵抗の人民を撃つのに気乗りもせず、
ダラダラおっかけまわしていたらやはり国民軍の士官にアイツを撃て、ふざけんなと言われてしまった。
しぶしぶ狙いを定め、結局一発がケツに突き刺さったらしい。
人を(拳骨以外で)傷つけたのはこれだけだという。
祖父は馬の扱いが上手で、よく馬の当番兵にさせられた。
本来持ち回りなのだが、どうも祖父でなければいけない馬などがおるらしく、よくやらされたという。
そして犬もよく当番になった。
基本的に動物の相手などというのはあまり嬉しくない仕事だが、
なかなかどうして、これが「いい仕事」だったらしい。
軍において馬や犬というのは木っ端二等兵よりも重視されていた。
馬は日々馬体を掃除され、良いカイバを与えられ、
犬はなんと肉を与えられる・・・・。
そう、その肉を時たま失敬していたのだ。
(勿論全て肉というわけではないから、犬が空腹で夜鳴きするということはない)
祖父が当番となるとその親友達はひそかにほくそえみ、おこぼれを期待したものだという。
333 :
332:04/04/27 14:10 ID:???
中国に行く前、日本で訓練中に大雪が降ったことがあった。
厩の雪下ろしをすることになった祖父は、屋根に上って懸命に雪をかいていたが、
足を滑らせて隣の犬小屋に落ち、さらに地面に落ちた。
犬小屋の前では他の隊の上等兵が雪かきをしており、驚いた上等兵は祖父を殴りつけた。
驚いたのはそちらの勝手、落ちて驚かせたのはすまないが殴るとは何事だ、と、
当時二等兵の祖父はその上等兵を殴り返し、のしてしまった。
数日後、上官に呼び出された祖父は、「貴様は他隊の上等兵に殴られてどうしたか!」
と聞かれ、事情を話しつつ「我が隊の威厳のため、殴り返しました」
と言い放った。上官は「よくやった」と言うと、祖父を帰した。
さらにその数日後、祖父は上等兵に特進したw
祖父の話は本当に面白い。俺の文じゃ表現しきれん。
もう何年も前のことだが、煙草(両切りピース)の吸いすぎで肺がヤニでつまり(!)、
喘息になってしまって未だに患っている。
長生きしてもっと話を聞かせてもらいたい。。。
334 :
332:04/04/27 14:16 ID:???
戦場のヘビーな話題だけじゃなく、こんなのもどうか、と。
で、次は他人の話。多分出典は宮崎学氏の「突破者」
うろ覚えだけど大筋は合ってるかと。
ある戦場で決死の作戦の前夜、兵達の士気をあげようと、
調理師だった兵士がとびきり旨いカレーを作った。
兵士達は喜んでカレーを食い、力をみなぎらせていった。
しかしそこに上官が。上官にはカレーを作ることなど伝えていない。
折檻を恐れる兵達をよそに
「なんだこの匂いは!・・・・・・わしにも食わせんか!」
結局この匂いで敵に感づかれて逃げられてしまい、作戦も中止となりましたとさ。
元帝国ホテル料理長の持ちネタですな>カレー話
336 :
名無し三等兵 :04/04/27 22:06 ID:Zf0CUwmc
じいちゃん(年齢は昭和天皇のいっこ下)の弟は、陸軍の工兵だったらしい。
中国で河に橋を架けてる最中に敵襲に遭い、戦死されたそうな。
おじいさんから昔聞いた話。
地元民にもカレー?かなにかをおすそわけしてたら、なんだか敵の奴まで
もらいに来てしまったらしい。ずうずうしい奴らだとおもいつつも、そのまま
配ってせっかくだからついでに酒飲んで宴会したそうだ。敵も味方も戦意が
低かった。
だらだらしてたらなんとなく終戦になって帰国。焼け太り状態でいろんなも
のをもって日本に帰還。田舎に帰る途中、日本の被害にびっくり。焼け野原
みたいなとこで孤児にあってかわいそうだからと持ち物をみんなあげ
ちゃったらしい(ほんとかよ?)
そういう性格だから敵がほとんどいなくて、葬式にはわんさと人がきた。
戦争中の口癖は「ああ億劫だ億劫だ。」だったらしいと戦友らしき人から聞いた。
南方だったら100回は死んでそうなじいさんでしたよ。
私の祖父の兄弟
つまり私にとっては大叔父にあたる人物だが
その人は陸軍にいて、満州方面で抗日パルチザンと戦っていたよ
その戦った抗日パルチザンの頭目は金日成だとさ。
もっとも当時は複数の抗日パルチザンが金日成と名乗っていたので
北朝鮮の先代首領さま、金日成こと金聖柱と同一人物かどうかは不明だ。
まあ。大叔父からはその辺の話は詳しくは聞いてないが、しつこいゲリラ攻撃にけっこう苦労したようだ。
折れの祖父が建大に留学してたとき乞食に100円恵んでっやったら、ソイツは
後の金日成で・・・・
ウチの家系は虚言癖がある。
俺の父方の爺さんは、中国戦線と南方戦線を両方経験したそうな。
戦後、ムリが祟ってか足を患い、俺の父が若いころ亡くなっている。
父方の婆さんは、タイピストとして満州にいたらしい。
よく中国人を扱き使ってたんだとさw
終戦直前に無事帰国。ほんと運のイイ婆さんだったw
その婆さんのお兄さん、つまり俺の大叔父は南方を経験した後
沖縄に配属されてしまった。通信兵だったらしい。
しかし残念ながら戦死してしまった。うちの親族で唯一亡くなっている。
最後は、こんな感じだったらしい↓
ガマ(洞窟)に仲間と共にいる時に、蓄えの水が切れた。
誰かが水を汲みに行かなければならないが、外には米兵が、
待ち構えているかもしれない。当然誰もが躊躇した・・・
そのとき大叔父が、「僕が行ってきます」と言った。
そして颯爽とガマを飛び出した。しばらくして爆発音が響いた・・・
大叔父は、砲弾に直撃し跡形もなかったらしい。
この話は、沖縄を生き抜いた戦友が、わざわざ婆ちゃん達に
伝えに来てくれたそうだ。
沖縄の日本兵と言うと、とかく悪者にされる・・・
しかし大叔父のように絶望の中で勇気を見せた人がいた事を
知って欲しいと思う。
昭和20年4月1日生まれの家のママン
出産間近のお腹抱えて、東京大空襲の中、婆ちゃんは逃げ延びたよ。
>341の婆ちゃんGJ!
344 :
341:04/04/30 00:43 ID:???
345 :
名無し三等兵:04/04/30 03:48 ID:VrWhhXm8
341さんの話に親近感沸いた!
うちの婆ちゃんも東京大空襲の時に
生んだばかりの漏れの叔母さん(母の姉)を連れて逃げたそうで
その時に手に持っていたもの(つまり叔母さん)以外は
親類縁者も着ているもの以外の物的財産もその日に全て失ったそうだ。
その後再婚しさらに娘二人と息子一人を儲けた・・・
失礼な話かもしれないがイラクでアメリカの爆撃云々
なんて話がテレビで流れると「あの程度で済むなら良いじゃないか」とw
もう1つ思い出したのは以前会社に勤めていらっしゃった方がたが
ふと酒の席で語ってくれた事。
と言っても酒の席だったので当方が失念しているが _| ̄|○
空襲の時敵さんの爆撃は其れはもう見事なくらい正確で
今思うと絨毯爆撃とは言い得て妙であったと口々に仰っていた。
346 :
名無し三等兵:04/04/30 10:44 ID:Ts0hj032
俺の祖父母は全員健在。話を聞いてみると 父方の祖父 青年満州開拓団に参加するも羅病し昭和19年に帰国。親戚の人でトラック島に松本連隊の一員として行った方がいて戦後その体験記を自費出版されました。
母方の祖父 昭和19年に九州に派兵されそこで終戦を向かえました。軍隊生活については「殴られた事しか記憶にしかあらへん」「同じ隊にトロイのがいてドンドン痩せていった」と語ってくれました。友達の何人かが海軍経理学校に行ったそうです。
母方の祖母 親戚の何人かが特攻隊員、潜水艦員として亡くなられました。終戦時調子に乗って暴れる朝鮮人を見てから嫌いになったそうです。
母方の祖父は森林保安の仕事をしていて、満州で生活していた。
祖母と結婚したのが内地時代なのか、渡航してからなのかは知らない。
昭和20年の初頭、召集されてそれっきり。
祖母曰「あの人は優しいから、真っ先に死んだと思う」
祖母は子供4人を抱えて大陸から無事戻り、20年前に病気で他界。
どんな苦労があっただろうか。
俺は当時10歳、昔の話を聞くような子供じゃなかったので想像するしかない。
ちなみに当時子供だった母によると
「ロシア人は大きくて、体中毛が生えてるし目が青くて怖かった」
「満州では周りがみな標準語を使っていたので、帰ってきて母(祖母)の実家(山形)に
身を寄せたときに話が通じなくて困った」
348 :
名無し三等兵:04/04/30 14:32 ID:HvyeNJgo
良スレ、age
>召集されて、それっきり
当時は結構あっただろうなあ。つらいなあ・・・・
近所の婆さんが義父、夫ともにそんな感じだった。
再婚もせず養子も取らず義母が死んだ後は一人で家守り続けて
数年前に火事で家と共に亡くなったよ。
なんだかなあと思ってしまった。
350 :
名無し三等兵:04/04/30 23:39 ID:gaWSYyPE
このスレ悲しすぎる。
本当に心が痛いよ〜。
351 :
名無し三等兵:04/05/01 00:57 ID:75FWXMWy
数年前に亡くなられた私の親友の祖父はあの戦艦大和に乗っていた。
探照灯?(正式名称はよく知りません、とにかく照明灯。)を操作していたらしい。
沖縄特攻の前の戦闘中(レイテ沖海戦とおもわれる。)に米軍機の機銃掃射で
首を撃たれ負傷、治療の為に幸い沖縄特攻に参加せずにすんだとのこと(首には
大きな傷跡があった。)
撃墜した米軍機のパイロットが大和の乗員に助けを求めたがそれを射殺する現場に
居合わせそれが忘れられないと語っていたことを覚えている。
小学生の時大和のプラモデルを作ってお見舞いにいったら爪楊枝で自分のいた所を
説明してくれた。
もっと大和のことを聞きたかったなぁ。
なんかこのスレを読んでると自分が戦争のない日本に生きていることを幸せに思う。
うちの爺さん、8年前他界したけど。
2度目の徴兵の中国戦線で終戦迎えたらしいけど
終戦まぎは(漢口作戦だったかな?)の時は
旧日本軍と国府軍が地上で戦っていると
米軍の爆撃機が日中両軍と民間の中国人関係なしに
みんなに爆弾を落としていったって
それで、戦死するのは日中ともに、米軍の爆撃でが
ほとんどだったらしい・・・
昭和2年生れの父は予科練で出雲にいた。敵機の機銃掃射は避けれると言う。真面目な人なので嘘ではないと思う。
昭和9年生れの母縁故疎開先の村にB29落ちる、見かけない大型機を見ていると、なんと敵機、村はパニック、B29村の川原に落ちる。
搭乗員村の彼方此方に降下、騒ぎ大きくなるも町の憲兵隊より急行の憲兵により米兵無事収容される。
>>撃墜した米軍機のパイロットが大和の乗員に助けを求めたがそれを射殺する現場に
>>居合わせそれが忘れられないと語っていたことを覚えている。
捏造うざい。
355 :
名無し三等兵:04/05/01 11:13 ID:YdWIKnsW
うちのお祖父さんは北海道の連隊でずっと
内地にいたらしい。士官に殴られた時、殴り返して
営巣?に入れられていたとか。しかも素手じゃなく
工兵用の大きなスコップで殴ったらしい。
356 :
名無し三等兵:04/05/01 11:56 ID:YzuRk2Mp
東南アジア周辺で米軍の手榴弾(至近弾)の破片を腹に受ける→生存
同じく東南アジアで米軍のM1カービンの7.62ミリを尻に食らう→生存
その後中国にも行った模様・・しかも終戦まで
当時リッツ学生から徴兵されたらしい・・・(汗)
負傷話は捏造と思いたいが・・事実患部に穴が開いてる・・(油汗)
現在元気な84歳のターミネーター・・・
俺なら手榴弾のくだりで染んでると思う
そんな防弾仕様なウチの祖父・・どうよ?
お尻を噛まれたー!はいいとしても、
手榴弾で腹部ってまず運がいいとしか思えん・・・。
すげーじっちゃまだな
>>347 ロシア人で目が青い人って珍しいらしいが。
359 :
347:04/05/01 20:26 ID:???
>>358 ああ、記憶違いなのかも知れない。
本人、当時10歳になるかならないかだろうし。
「露助」という言葉は母に教えてもらいました。
「露助、露助と言って、子供らはみんな怖がってた」だそうで。
ついでに何でもない話。
母達が満州で暮らしてたころ、自宅に蓄音機とクラシックのレコードが
沢山あったそうな。それが祖父の趣味なのか祖母の趣味なのかは
聞いてないけど。
子供のころずっとそれを聞いていた母は、今じゃクラシックのCD数百枚を
買い集めて聞いてる婆様になっとりやす。
ちなみに父親の方は「庭に防空壕を掘った」くらいで、食料に困ったとか
いうエピソードはないみたい。
田舎で、両親がどちらも教師をやってる家庭でした。
360 :
351:04/05/01 23:47 ID:75FWXMWy
>>354 捏造じゃないんですよ、じいちゃんが私に語っていたことは事実。
まあそれが本当か嘘かはわかりませんが。
本人の口からから聞いた私は信じてますよ。
361 :
346:04/05/02 00:34 ID:QNBAZ7mx
これは俺の祖父では無いんですが、高校の時のクラスメイトに駆逐艦天霧の艦長をしていた親戚(クラスメイトの祖父の弟)がいる奴が居ました。クラスメイト曰く「戦後ケネディに呼ばれ訪米した」そうです。
ちなみにクラスメイトの御爺様も陸軍の将校だったそうです。
うちの爺は南方で「つちのこ」を食べてきたらしい。
なんて話はここではスルーでつか?
363 :
名無し三等兵:04/05/02 02:00 ID:rFQYUZJM
うちのじいさんチャンコロに腕切られたって。
ウチのジーチャンは酒屋で防空警護団・・・・平たくいえば消防団で防空壕を掘ってた。
ただそれだけ。
>>362 うちの爺は南方で[ゴジラの先祖(松井ではない)」を食べてきたらしい。
それで復員してから腹の調子が悪い日があってトイレにいったら突然
ゴジラが出てきて、家から脱走。自衛隊が出動して鎮圧したらしい。
その爺曰くチャンコロに腕切られたって。
そりゃエイリアンだ。
369 :
名無し三等兵:04/05/03 18:11 ID:b6TV8vDa
黄金厨帰れ!!
370 :
名無し三等兵:04/05/03 21:34 ID:TteJyfjT
戦争とは直接関係無いがうちの爺は終戦間際に
38式が重くて訓練が嫌で嫌で溜まらなかったと言っている
その代わり唯一楽しみがあったらしい
それが教官が見ていないときに友達と一緒に海に飛んでいる鳥を撃つことらしい
命中率がとてもいいらしく当たると鳥の毛全部抜けて北京ダックのようになって落ちていくらしい
でも撃ったらすぐに逃げないと教官に怒られるから
「逃げろ〜」
とかいって逃げてたらしい
ちなみに軍の射撃大会みたいのでは3位に入るほど射撃が上手かった
あと剣道の試合では気合と大声さえ上げれば竹刀が相手に当たっていなくても一本らしい
まあ、なんとも精神力を重視する軍隊らしい話ですな
へえよくアメリカのアニメとかで鳥を撃つと羽根が全部抜けるってのギャグじゃなかったんだ。
>>371 全部ではないかもしれないが羽毛布団破いたみたいに飛び散るぐらいカモ
曾おじいちゃんは近衛師団、義和団事件で爆弾の誤爆で
木の上に上半身がひっかかってたらしい。
数年前に他界された近所の爺さんはあのレイテの生き残りであった。
私が消防のころ現地に戦友の弔いにいったのだがその時撮った写真が・・・
ほんまもんの心霊写真、であった。
あれから二十数年経つが卒塔婆のような慰霊碑の前に「ボッ」と燃える
火の玉は今でも鮮明に覚えている。・・・ひさしぶりに来た戦友を歓迎
していたのか・・・それとも?
ちなみに慰霊碑を撮影した写真は3、4枚あり火の玉が写っていたのは
そのうち2枚。よくある光線の具合だのカメラの調子だのとは考えにくい
と思われます。(もちろん他の場所ではなんら異常なし)
そりゃ露光だろ。
377 :
名無し三等兵:04/05/04 22:25 ID:5RHXT6aL
死んだ祖父のアルバムの中から墜落したドーリットル爆撃隊のうちの一機の写真があった。
あと今村均中将の写真もあった。
378 :
名無し三等兵:04/05/04 22:26 ID:5RHXT6aL
それでだ、それらの写真をうpしたいんだがいいアップローダーはないかね?
そりゃウチにもあるよプロマイド写真だ。
380 :
名無し三等兵:04/05/04 22:32 ID:c3KAkevj
おじいちゃんは神風特攻隊の生き残りでした。
出撃のちょっと前に終戦したらしいです。ほんとかなぁ
そういうジジイ多いんだよな。
あと近衛師団や特務機関にいたってのが多いよね。
383 :
名無し三等兵:04/05/05 01:50 ID:5vYYzIDB
入院してた時、知り合ったおじいさんの話。
「夜中に出撃した時ねぇ、真っ暗で見えやしないのだけれど上官の命令で
小銃(38式とのこと)を適当に1発打ちましたよ。
そしたらね、そこらじゅうから何十、何百と撃ち返されましたよ。
あれじゃ勝てるわけありませんよ。」
384 :
383:04/05/05 01:53 ID:5vYYzIDB
もひとつ。
こんなことも言ってた。
「私たちは若い人に謝らなければならない。負ける戦争を何故やった?と
言われても仕方ないんですよ。」
なんて謙虚な昭和のサムライ・・・・
俺の友達の友達が井上和香とヤッたらしい(典型的都市伝説)
>>384 そういう謙虚なお年寄りには敬意を払いたくなる。
なんだか知らないが靖国で昼間から出来上がっていてバカウヨに説教垂れる
クソジジイはどうでもいいかんじ。
どっちがすきかきらいか、というかどっちも庶民的だな。
まあ酔っぱらいよりも謙虚な素面の方が好感が持てるけど。
斉藤秀雄という小澤征爾の師匠のチェリスト・指揮者・教育かがいるけど
「あの戦争はネエ、やらねばならなかったんです(か、「やらざるをえなかった」)。
まけてよかったけれども・・・」
という言葉が当時生きて、そして戦後に生き残った人間の正直な感想の一つだと思う・・・・
三年前に死んだウチの爺様は、関東軍防疫給水部の林口支部に赴任してから、
満州やらあっちこっち回って南方で終戦迎えたとかいうてた。
詳しいルートとか防疫給水部で何してたかとか、割と細かく聞いた覚えが
あるんだが、全然覚えてねー。
メモとかとれよと当時の自分(中学二年生)に言いたい気分。
そこに赴任する大分前だとは思うんだが、将棋の丸田なんたらというのが
部下にきた時、訓練とか適当にすませてそいつと将棋打ってたという話しも聞いた。
この丸田って人の話はほかでもぼちぼち聞いたことがあって、戦争中は上司に
可愛がられて死なずにすんだ、というのを年配の同僚に教えてもらった。
丸田とかいう将棋指しを優遇してたのは、きっと他にもいっぱいいたなと思った。
390 :
お涼 ◆vruOCeLX1s :04/05/05 20:36 ID:8zKdZsKG
ttp://that2.2ch.net/test/read.cgi/gline/1082255500/736 の続きです。
連休に実家に帰ったので、前回のことを詳しく聞いてきました。
この時、782氏から教えていただいた陸軍師団総覧を資料として使いました。
あと、投稿が途中で途切れてもいいようにHNとトリップをつけました。
徴兵検査
昭和十年に徴兵検査があり、地区からは30名ほど(現在の地区人口は4千人)
受験したが、甲種合格はじいちゃん含めて2名しか合格しなかったそうです。
この年はまだ大正軍縮の影響が残っていたらしく、次の年からは徴兵人数を
増やしていったそうです。
このような状況からなのか、徴兵検査会場で甲種合格者がでると、立会いに
きていた軍人が机をたたいて喜んだそうです。
徴兵(昭和11年9月)
地元では壮行会が催され、4Km先の駅まで音楽隊が送ってくれたそうです。
両親は連隊本部前まで付き添い、本部前で別れる際、母親が袖をつかんで離さなかったので、
じいちゃんは恥ずかしくって「ええぃ! いじっかしい」といって、腕を振り払い
連隊内に入って行ったそうです。 しかし、これが両親との最後になってしまい
この時、「無事に戻ってくるから」と、もっと優しくしてやればよかったと悔やんでいました。
392 :
お涼 ◆vruOCeLX1s :04/05/05 20:39 ID:8zKdZsKG
ウザ
395 :
お涼 ◆vruOCeLX1s :04/05/05 20:44 ID:8zKdZsKG
出兵〜満州
入隊してから、2週間としないうちに動員が掛かり満州に行くことになり、
途中旅順で訓練(じいちゃんは「イッキ」と言っていた。)を行いましたが、
あの203高地を何度も登らされ、倒れると上官が土をとり
「この土には、まだ先祖たちの血の跡が残っておる!
こんなところで、倒れるとはどういうことか!」と、よく殴られたようです。
満州へ行った目的は、匪賊討伐(毛沢東を含む)で、相手が1週間で4日間移動するなら
こっちは6日間移動しないと撃滅できない、と言うことでひたすら強行軍だったそうです。
軍事美談
満州で匪賊討伐中のある日、突然部隊に集合が掛かり全員が整列する中
「いったい何事かなぁ」と思っていると、隊長が壇上に上がり、
突然じいちゃんの名前を呼ばれ、「おら何か悪いことでもしたかなぁ」
とびくびくしながら前に出ると、隊長が「わが部隊より軍事美談が上がった
・・に10日間の休暇を与える」といわれ、何事かと聞くと
入隊3ヵ月後に母が亡くなり、亡くなる間際に
「満州に行った息子(じいちゃん)にこのことを伝えないでほしい。」
と言い残したそうで、このことに父が困り果てて役場の兵事課に相談に行くと、
この担当者が上手い文書を書いたらしく、師団本部ではなく軍令部(?)に送り
軍事美談として「この母にして、この子あり」と取り上げられ、
当時の新聞(地方紙かな?)に掲載されたそうです。
軍事美談に取り上げられると、訓練等の成績上位者より優遇されるらしく
昇進がトントン拍子で進んだそうです。(といっても軍曹までですけどね)
396 :
お涼 ◆vruOCeLX1s :04/05/05 21:25 ID:8zKdZsKG
呉淞(ウースン)上陸作戦
第2次上海事変がおこり、第3師団が苦戦しているので、その援軍に行ったそうです。
ソーマトクリーク(川)、トンゴ、陸家橋で進軍が頓挫し、中国兵が銃眼から
こちらを見ているところを突撃し、第9師団第2大隊は全滅状態になり、
最後は原田大隊長が原田村(無名村で攻撃目標名)へ大隊本部と予備隊をつれて突撃を、
敢行し7発の銃弾を受け戦死されたそうです。 大隊長の遺体はラッパ兵が、「大隊長を敵に
渡すものか」と、這いながら回収したそうです。
これで、第2大隊には指揮官がいなくなってしまったので、どうすることもできず
じいちゃんが後退しようと言うと、ラッパ兵が「敵に背を向けるわけにはいかない」と
言うので、後退もせず塹壕に隠れていました。 その後、野砲による支援射撃が始まり、
援軍の第3大隊棚橋部隊が砲撃の勢いに乗り中国陣地を撃破しました。
これで、じいちゃんは助かったものの、結局第2大隊の生存者は800名中30名だったそうです。
397 :
名無し三等兵:04/05/05 21:46 ID:6yAQVPWE
俺の爺ちゃんは南方の島で戦ってたらしいんだけど、父の話だと爺ちゃんが
島の中の密林の中米軍と交戦してたとき爺ちゃんは上官(階級わからん)の後ろから
援護射撃してたんだと、そしたら手元がくるってその上官を撃ち殺してしまたんだって
。でもそのとき密林の中は深い霧が発生していてしかも米軍側の銃撃がすさまじかったので
誰も気がつかなかったんだってさ。
嘘か本当か、爺ちゃんが死んでしまった今では誰もわからない...
398 :
名無し三等兵:04/05/05 21:57 ID:r259vwLQ
>>381-382 うちのじいちゃんは海兵出身で、米内さんの副官を務めたことがある。
開戦前には米国と戦争しても絶対に負けると心の中で思ってたらしい。
だから、真珠湾攻撃が成功したと聞いた時も、顔色一つ変えなかった、
と言っていた。
レイテ沖海戦の後、日本の将来に危機感を感じ、じいちゃんは同士と
終戦工作をおこなったが、残念ながら工作は失敗した。
戦後は、船からおりて、東北の田舎に帰ってつつましく暮らして、10年前に死んだ。
なんていう「うちのじいちゃんの思い出の記」を創作ってしまいました。
396の続き
南京攻略1
第9師団第36連隊脇坂部隊が光華門を山砲と爆撃で、第9師団第7連隊は中山門を
山砲で城壁を少しずつ壊している時、じいちゃんの第7連隊第2大隊は、その間の角部を
攻略するよう命令されていました。
しかし、山砲が無いので両側の門が壊れていくのをただ見ていると伝令が来て、
突撃のために決死隊を編成していることを隊長に伝えると、その場に居合わせた
じいちゃんは無視するわけにはいかないので、私も行きますと志願し、
城壁を目指し蓮の池を(膝位の深さ程度)超え、城壁にたどり着くと、
そこには中国兵が何人もいたそうです。
しかし、この中国兵は城内に逃げ込む前に門を閉じられて困っていたようで(?)
戦闘にもならず、じいちゃんは中国兵に身振りで城壁に上って日の丸を振りたいと
伝えると、中国兵が梯子になって手伝ってくれたそうです。(?)
話によると、一番最初に城壁上で日の丸を振ったということで、金鵄勲章をもらったそうです。
南京攻略2
じいちゃんが南京城に入ったときは、中国軍が撤退した跡でほとんど兵士も民間人も
いなかったそうです。
じいちゃんは、日本軍が進撃する途中の村には村人が誰もいない事を不思議がっていて、
南京の民間人も安全地帯に避難したんだろうと、言っていました。
南京での行動を聞いたところ、城内の米屋から米を取っては第2陣が来るまで
10日間ほど待っていたそうです。
南京でのことかは確認しませんでしたが、揚子江の川辺に中国兵を並べ射殺し
川に流した事も有ったと言っていました。
ネットで調べたところ、第1大隊の兵士の日記に似たような記述があったので、
同じようなことがあったのかなと想像しています。
この時、話がそれ「ロシアのやつらには安全地帯は関係なかった」と言っていました。
でも、当時の第9師団はソ連兵と戦闘していないのと、シベリア抑留について
気にしていたので、シベリアに抑留された知り合いからの伝聞かも知れません。
その後
第1次長沙作戦中に除隊。
しかし、大東亜戦争により再徴兵され、シンガポール攻略に参加する為に、
自転車でマレー半島を縦断する訓練(?)をしたが、参加前に山下大将が
占領したので行かなくて済んだそうです。
その後、帝都防衛の為千葉に配属。
東京空襲の様子がよく見え、対空砲が爆撃機まで届かず下の方で炸裂し、
迎撃機が上がっても撃ち落とされるのが分かったそうです。
また、今も昔も制空権・制海権が無いとやられ放題とも言っていました。
終戦後、武装解除を行い、米兵が基地にその確認に来た時、殴られると覚悟
していたら、突然握手をされ「米兵は紳士やなぁ」と思ったそうです。
その他
「昭和天皇がマッカーサーに全責任を負うと答えてくださったおかげで、
マッカーサーは日本に対する印象を変えて、サンフランシスコ講和条約まで
もって行ってくれた」と言い、今でも昭和天皇を尊敬しているようです。
しかし、「日本は欧米列強から認められるために、日清・日露戦争と
頑張ってきたけど、大東亜戦争で負けて中国にも文句を言えん国になってしもた」
と嘆いていました。 でも、大東亜戦争後にアジア諸国が独立できたことには
誇りを持っているようでした。
あと、「日本は朝鮮・満州に本土をさし置いて税金等を投入し発展させようとしてきたけど、
敗戦によって税金を本土だけに使うようになったから日本は発展したんだ」とも
言っていました。
最後に「こんな事を孫に話すとは思いもよらんかった。 けど、こんな事を知っている
年寄りはもうあんま居らんのやろなぁ」と一言。
以上 長文、乱文、リンクミスすいませんでした。
お疲れです。
大変為になりますた。
404 :
名無し三等兵:04/05/06 01:28 ID:TtnWz0BY
うちの爺さんは某有名戦艦の航海長だった。
それ以前にも有名艦の艦長だった。
(これは、最近になって解った。)
しかし、戦史には全く載っていない。
オレが子供の頃、生き残った戦友が一週間に一度は訪ねてきた。
部下から好かれていた事は良く解かるのだが、本人が戦死しまったら、
真実が解らない。
大変楽しく読ませていただきました。しかし、陸軍師団総覧は
…全体把握の為の本だよな、悪い事をした。気を遣わせてスマソ。
しかし、どう間違えたらtanasinnのガイドラインを貼るんだ…台無しw
>>405 お久しぶりです。
書き込み直前に眞子様スレを読んでいてtanasinnと書き込みがあったので、
なんだろうと思い、ぐぐるのにコピーしてたのを貼っていました。 (/_;) ほんと台無し・・・
陸軍師団総覧は、確かに全体把握的な本でしたが、第9師団の作戦行動
に関連した他師団のことや、最後に所属した本土決戦師団、第一部の部隊と兵隊等
じいちゃんの記憶をたどるのに非常に役に立ち、また、じいちゃんもいろんなことが
書いてあると喜んでました。
じいちゃんは耳が遠くなったけど、まだ畑仕事をするほど元気なので、7月にまた帰省するので
また話を聞こうと思います。 しかし、私では聞きだせる内容に限界があるので、
皆さんからうちのじいちゃんへ質問があれば今度聞いてきますので、よろしくお願いします。
参考までにじいちゃん(90歳)の戦歴は以下になります。
第9師団第7連隊第2大隊
昭和12年 満州の匪賊討伐
同年 ウースン上陸
から
第一次長沙作戦の途中まで
第152師団
大東亜戦争の途中〜終戦まで
(シンガポール攻略の為に訓練した時は、どの部隊いたんだろうか?)
伝聞にしては話が微細に渡りすぎてうさん臭すぎるんだが。
まあ、言うだけ野暮というものか。
708 名前: :04/05/06 09:26 ID:/WQen/Ji
漏れの爺さんは昭和1ケタで昭和20年の空襲の際は小学生だった。
房総半島の先に暮らしていたが連日B29が頭上を通過していく日々。
そんなある日グラマンが機銃掃射で登校する子供を襲ってきたが迎撃する戦闘機すら
ないので若い兵隊さんが「自分たちはこれでいきます」と言って呑龍という爆撃機で
飛んだ。こんなもんではとても勝てない無茶だと周りが止めてるのにな。
結果はものの数分で撃墜されて何人かが担架で運ばれてきたがみんな手足を失い
大出血で助からなかったそうだ。そのなかの一人が爺さんとよく遊んでくれてた
十代の人で一晩じゅう苦しみながら「子供達を護れなくてすいません」「すいません」
とひたすら謝リ続けて亡くなったそうだ。
>>408 読んでる方がいたたまれなくなるよな・・・・・・。
鬼畜米英許すまじ。
ニューヨークに原爆を落とせばよかった。
艦載機が昼間出撃するわけないだろ。
14年位前、小学生の俺は地図マニアだった。世界地図や日本地図の載った地図帳を
眺めるのが好きだったわけね。んで、元・小学校教師で定年後は暇してるばあちゃんに
「ロンドンってどんなとこ?」「ノバヤゼムリャって人住んでるの?」「ぐりーんらんどって(ry」とか
色々聞きに言っていた。物知りなばあちゃんは色々面白い話を聞かせてくれたが、
リスボンだかダブリンについて聞いたときだけ、表情が変わって凄く嫌な顔をした。
「戦争中、日本にはアメリカからの情報は殆ど入ってこなくって、リスボン(ダブリンだったかも)
発の共同しかソースが無かった」とか「リスボンって聞くとあのB29の音を思い出して苦しい」とか
言ってたが、詳しいことは失念。なので、このスレの人に質問。戦時中、日本の新聞のソースはリスボン発が
多かったというばあちゃんの話は本当でしょうか?最近はあまり実家に帰れないし、
ばあちゃんにこれ以上そのこと聞くのも悪いと思うので。。
>>412 当時の新聞読むと【リスボン発同盟】って多い。
中立国のポルトガルにAPと共同通信の支社があって日本の新聞社にもニュースを配信してた。
415 :
名無し三等兵:04/05/06 20:04 ID:vYevL5qM
ひょんなことから知り合いになったおじいちゃんだが、アメリカ陸軍の軍曹
として朝鮮戦争に行ったらしい。三島瑞穂さんなんかは、確か、アメリカに
渡ってからのはずだが、そのおじいちゃんは、日本に居るときに、
「スカウト」されたらしい。そのような日本人米兵は7人位居るらしいが、
情報のある方は居ないか?ちなみにそのおじいちゃんは、米軍の前は日本海
軍の中尉だったらしい。職種まで書くと、個人が特定されるので、それは
避ける。かの「マッカーサの賭け、仁川上陸作戦」にも参加したらしい。
417 :
名無し三等兵:04/05/06 20:12 ID:vYevL5qM
いやいや、それよそれ、むちゃくちゃ純粋な日本人なんよ。
ボクのおじいちゃん北朝鮮で狩りしたらしいよ。
ずっごい英雄だったんだ。カッコイイ!
ボクもおじいちゃんみたいに英雄になるんだ。
じゃ証明してみてくれ。
421 :
名無し三等兵:04/05/06 20:25 ID:vYevL5qM
415です。418よ、それはかっこよくないぞ。おじいちゃんも
もしかしたら後悔してるかも知れんぞ。
日本人である証明は難しいですね。否定を証明することは難しいです。
まあ、信じてもらうしか。やたら日本の姓名でした。そうそう、
生まれは日本です。あの年代で日本ですから。
弥生時代の渡来人なら打つ手なしだが。
帰化外国人ってのはやたら日本的な姓名だ象太郎。
424 :
名無し三等兵:04/05/06 20:45 ID:vYevL5qM
んー、やはり、否定を証明するのは難しいですね。
信じるかは分からんが、小話を一つ。
かのおじいちゃんは、日本海軍から復員した時、身内は全て空襲でお
亡くなりなってたらしい。その後、街を俳諧していて、米兵と喧嘩を
し、基地に連行された後、ひょんなことから、基地従業員になり、そ
の後、上司に軍歴を知られるところとなり、米軍に入隊した。そして
朝鮮戦争に行った。ちなみに仁川へは、佐世保から行ったとの事。
任期満了後除隊となり、アメリカに渡った。その後よ。信じるかは、
妥当と思うかは、皆さんに任せるが、身内が誰一人居ない日本に帰っ
てきて、今も生きていれば、もちろん、日本で暮している。あの年代
で朝鮮人なら、身内の居ない日本に帰ってくるよりも、朝鮮半島に帰
ると思う。それでも、日本に帰ってきたのだから、日本人と考える
のが自然と思うのだが。後はの判断は皆さんに任せる。とにかく
否定を証明するのは、難しい。
425 :
名無し三等兵:04/05/06 20:52 ID:vYevL5qM
んー、やはり、否定を証明するのは難しいですね。
信じるかは分からんが、小話を一つ。
かのおじいちゃんは、日本海軍から復員した時、身内は全て空襲でお
亡くなりなってたらしい。その後、街を俳諧していて、米兵と喧嘩を
し、基地に連行された後、ひょんなことから、基地従業員になり、そ
の後、上司に軍歴を知られるところとなり、米軍に入隊した。そして
朝鮮戦争に行った。ちなみに仁川へは、佐世保から行ったとの事。
任期満了後除隊となり、アメリカに渡った。その後よ。信じるかは、
妥当と思うかは、皆さんに任せるが、身内が誰一人居ない日本に帰っ
てきて、今も生きていれば、もちろん、日本で暮している。あの年代
で朝鮮人なら、身内の居ない日本に帰ってくるよりも、朝鮮半島に帰
ると思う。それでも、日本に帰ってきたのだから、日本人と考える
のが自然と思うのだが。後はの判断は皆さんに任せる。とにかく
否定を証明するのは、難しい。
>米兵と喧嘩を
>し、基地に連行された後、ひょんなことから、基地従業員になり、そ
>の後、上司に軍歴を知られるところとなり、米軍に入隊した。
そりゃ大山倍達か?空手バカ一代で読んだ。
折れはゴルゴ13で読んだ。
それでカシミアの密輸とかしてるんだよ。
漏れの祖父さんは日露戦に参戦しますた
漏れは外地生まれだから戦争より引き揚げの体験のほうがキョーレツだったーよ
429 :
名無し三等兵:04/05/06 21:01 ID:vYevL5qM
いや、大山氏は確か、陸軍系だったのでは?それと、大山氏は、
基地従業員になって、米軍に入ったんかな?
かの、おじいちゃんは言ってました。「日本人で米軍に入って、朝鮮
戦争に行った、と、口外しないとサインをした。でも、もう、時が経っ
てるから良いだろう。」と、うそのような、この世界の決まり文句を
ね。だから、大山さんの本のが出た位の時代はまだ、口外できない
時代だったと思われるから、大山さんとは別人です。
>>429 そんな非人道的なことが許されるわけないだろ。
それともゴルゴか?ゴルゴなのか?!
432 :
名無し三等兵:04/05/06 21:15 ID:vYevL5qM
>>431 429/425です。
そこですよ。戦争中は、そういうことがあり得るんですね。
ゴルゴみたいというか、柘植やら、毛利やら、三島などの諸氏よりも
先を行ってたわけですね。日本に帰国後は、軍事関係とは無縁の
お仕事をしていました。(時々、胸に日の丸つけて外国に行く立場
ではあったらしいけれど。)
タバコをくゆらせながら「ベトナムには行かなかったなぁ」と言った
ときは、しびれました。
ウンチクセー>(゚∀゚ )( ゚∀゚)<ウンチクセー
森村誠一の小説よりウソ臭いな。
435 :
俄将軍:04/05/06 21:22 ID:???
>>415 参謀(のようなもの)として、朝鮮戦争にという話は、何処かで読んだことが
あるようなないような気がしないこともなく。
436 :
名無し三等兵:04/05/06 21:31 ID:vYevL5qM
429・432です。
信じるかは人それぞれですが、真実です。日本国籍をもち、
アメリカ軍に入隊し、朝鮮戦争に行った、が真実です。
詳しく書いたらきりがありませんが、中共軍が豆満江に陣取って
大砲を国連軍に向けているが、国連軍は中共軍には大砲を向けられず
辛酸をなめた、や、朝鮮半島の仁川と反対から船に乗って逃げる時に
岸壁の自軍の弾薬を爆破した事、命からがらで釜山に逃げ、再度38度
線まで北上し、任期満了で連絡機で帰ってきたなど、その他、ネタ
は尽きません。
もうハリウッド映画なみだな。
438 :
俄将軍:04/05/06 21:36 ID:???
>>437 国内でメガホンをとったとたん、それなりに矮小化がおこりますので。
439 :
名無し三等兵:04/05/06 21:37 ID:vYevL5qM
>>435 432・436です。
軍曹で従軍です。
海上保安庁の機雷処理でもありません。
仁川上陸の時、軍艦から縄梯子でおりたら、足が海底につかなくて
横にいた黒人兵に引っ張られた、なんて事も話してました。
体が小さかったから、銃も他の兵隊と違い、M1カービン(これは私
はうろ覚えか?)だったと。
440 :
名無し三等兵:04/05/06 21:50 ID:vYevL5qM
>>437.438
それでは、ハリウッドでもなく、国内でもなく、釜山フィルム・コミ
ッションにお願いしましょう。
441 :
俄将軍:04/05/06 21:59 ID:???
>>439 参謀云々という話は、中野学校関連の書籍に記述があったような。
自称、KGBの工作員だったという御老体もおりましたので、これだけでは
なんとも。
終戦後も、白団など、戦争しておった方々もいるようですが。
>>440 プロパガンダとして、利用されてしまうので、不可ということで、願います。
442 :
名無し三等兵:04/05/06 22:10 ID:vYevL5qM
>>441 439/436です。
他のネタもあるんですが。国内にいたときは、九州の部隊にいて、この部隊
が派遣される直前に東北の部隊に転属になったと。九州のこの部隊は朝鮮で、
ソ連製の新しい武器で壊滅させられたので、新装備の訓練を富士の裾野で
訓練して、佐世保から行ったとさ。歴史書どうりなので、うそ臭く聞こえる
かもしれんが。細かい、部隊の偵察行動なども話してくれました。
>>440 プロパカンダで良いかも知れんぞ。「朝鮮戦争で、韓国の為に戦ってくれた
日本人が居たんだ!」と韓国の方々に分かってもらう良いチャンスだよ。
あ、もっとも、朝鮮戦争の種は日本が蒔いたか。
>>411 お前そしたら本土が艦砲射撃食らったこともしらんだろ。
ググって勉強しなはれ。
444 :
411:04/05/06 23:52 ID:???
そりゃ知ってる。バーカ
446 :
名無し三等兵:04/05/07 13:26 ID:wDp0Zchs
>>445 まいてないんですか?ここらへんは詳しくないんで良かったら教えてください。
母方の叔父が百姓だからイモがらの養殖だかなんだかで南方で食料供給に成功して
勲章だか賞状もらったらしい
448 :
名無し三等兵:04/05/07 15:56 ID:s1O/PFDS
祖父は海軍で駆逐艦「暁」に乗船。
撃沈されたときの生き残り13人のうちのひとりです。
祖父はあまり当時のことを語らぬまま20年近く前に他界しました。
私も含め、叔父叔母従兄弟10人の運命を分けた出来事については
是非もっと知りたいと思っています。
詳しいサイトがあったら教えてください。
449 :
名無し三等兵:04/05/07 16:09 ID:Z8U5PXI/
ほんとにギリギリで生き残った方って語りたがらないこと多いよな……
450 :
名無し三等兵:04/05/07 18:04 ID:Q8NmDtju
PTSDなんて言葉すらなかった時代の人達だから何も語らないだけで人知れず後遺症を抱えて生きてきた人は多いのだろう。
俺の親戚でフィリピン戦線から復員した人がいたらしのだが。
出征前は温厚を絵に書いた様な人物だったのが復員して帰郷してからは酒浸りになり酔っぱらっては暴れて手が付けられなくなってしまった。
復員後数年でアル中でのたれ死んだそうだが、周囲は五体満足で帰ってきてイイ若い者が何を甘ったれてるんだ?という認識だったらしい。
誰からも理解される事無くロクデナシのレッテルだけ貼られ、のたれ死ぬ。そんな人は結構多かったのだそうだ。
去年亡くなったじいちゃんから昔聞いた話。
じいちゃんは東南アジアに行って、そこの住民はすすんで寝床を用意したり
食べ物を用意してくれたりと、非常に好意的だったそうです。
その話を聞いていたので、日本軍=悪というのは受け付けなかった。
(-@∀@)それは日帝の軍隊を恐れたからです。
>>406 そうか、役に立てて良かった。
『陸軍部隊戦史』という本(これも同じ所、新人物往来社から出版)の
第五部には「兵営と兵隊」というモノが載ってます、これもお爺さん喜ぶかもしれない。
軍事選書堂というサイト、そちらの日中戦争関係の一覧に一通りの本はあったよ。
もし機会があったら覗いてみるのもいいかも。
後は金鵄勲章の等級と最終階級が気になるくらいかな、個人的には。
それでは、また書き込みが或るのを楽しみにしております。
>>451 中国にいたオレのじいちゃんも、割りと好意的に接してもらっていたらしい。
比較的安全な地域だったので、ヒマをもてあまして地元民の依頼(治水とか)を聞いてやったりしてたとか。
ま、水木しげるのように原住民に殺されそうになった人もいることだし。
457 :
名無し三等兵:04/05/10 13:43 ID:JKZa1SUg
うちのじいちゃんは戦争中、陸軍経理学校に入ったので
戦地に行かなくて済んだと言ってました。何やらその学校は
試験を受けた当時、九州からは数人しか受からなかったようで
かなりの難関で村の人に自慢したそうです。どなたかこの学校
について知ってる方いますでしょうか? もうじいちゃんはかなり
ぼけててくわしい内容は聞けませんでした。
>>457 陸軍経理学校
主計士官の養成校です。軍の会計とか、兵の給与の支払いとか、
そういうことを担当する軍人さんを育てる学校。
相当の「狭き門」だったことは間違いありません。
お祖父様はかなり優秀な方だったのでしょう。
459 :
名無し三等兵:04/05/10 22:45 ID:u+r5yDX+
460 :
457:04/05/11 12:25 ID:???
>>458 そうだったんですか、ご返答ありがとうございます。
じいちゃんのことをより深く知れてとてもうれしいです。助かりました。
私の祖父は、私の生まれる前に鬼籍に入っていたので、父や叔父からの聞き書きですが…
彼は商船の船長で、軍人ではありませんでしたが結構戦争には関わっていたようです。
日米開戦直前、アメリカから機密文書を運んだりもしていたそうで、船をFBIに捜索された事もあったとか。
肝心の文書は、油紙に包んで満タンの燃料タンクの中に隠していたので見付けられなかったと聞いています。
開戦後も物資の運搬をしていましたが、祖父の船はいつも無事で、「Y(祖父の名前)が乗る船は絶対に沈まない」とのジンクスまで生まれたそうです。
そのため特高に目を付けられ、尾行もされていたとか。
叔父と祖父が散歩に出掛けた時、祖父が叔父に「後をちょっとだけ見てみろ」と言われたのでその通りにしたら、後にいた男がさっと物陰に隠れた。
祖父曰く、「自分の国の国民が信じられなくなったら、その国はおしまいだ…」
祖父はそれからも、「軍が開発した栄養剤」を飲用しての強行軍で自分の仕事を果たし、戦後すぐに亡くなっています。そして火葬にされたのですが、骨の関節が紫色に変色していたそうです。
これはメタンフェタミン=ヒロポンの常用者特有の事だそうで、つまり「栄養剤」というのはいわゆる「猫目錠」だったらしい。
祖父は銃こそ持ちませんでしたが、自分の立場で国のために戦い、戦死したと言ってもいいと思います。私は死ぬまで祖父を越えることは出来ないでしょうね…
462 :
名無し三等兵:04/05/11 18:29 ID:TCT4qss9
祖父は騎兵第四旅団だった。何も語らずこの世を去った。
悪名高い第四旅団。泣く子も殺す第四旅団・・・。遺品の中から虐殺のスナップが沢山出てきた。
じいちゃんではなくばあちゃんの妹さんの旦那さんなので大叔父になる人ですが
広島に原爆が落ちた日に所属していた隊が呉市にいてキノコ雲を見たそうです。
小学校の修学旅行で広島に行って来てお土産にもみじまんじゅう持って行ったら
そう言われてびっくりした……。
465 :
名無し三等兵:04/05/12 19:12 ID:xwpzy/u+
おちの爺ちゃんは、名古屋市近郊の病院の窓から名古屋城の天守閣が焼け落ちるのを
呆然と眺めていたそうです。
466 :
名無し三等兵:04/05/12 20:42 ID:3zVZFJ11
漏れの爺様は海軍の軍医学校出身(卒業時、銀時計を貰ったらしい)。戦時中はシンガポールにいたとのことで、その際、華僑系で所謂「癌」を患っていた方がいたらしく、爺様が治療。
これを恩義に感じてか、終戦直後の現地の収容所生活では、なにかしらその人が便宜を図ってくれたらしい。復員後は、その人の息子さんが外務省を通して爺様の住所をつきとめ、来訪してくれたそうだ(漏れの幼少期にため、殆ど記憶にないが)。
なんか横浜だかでそんな話聞いたことあるぞ>>466
俺の親父は大正十三年生まれで志願兵だった。
同じ隊にクボタの御曹子がいて何時もいじめられてたそうだ。
体が弱くて行軍してると直ぐばてたり,食うのが遅くて
班の連帯責任で全員が雪の中で腕立て臥せさせられてたので
かなり恨まれて,備品を盗まれて朝錬のときに下士官にぶっ飛ばされてたと
ちなみに親父は車両中隊にいたので,盗んだ備品を食い物と
交換してきてと頼まれたそうだ。
469 :
名無し三等兵:04/05/12 22:24 ID:IOUoKE9z
俺の爺さんは満州の独立守備隊の職業軍人。
金日成の部隊を討伐してたらしい。そして終戦、武器隠匿の容疑を
かけられ戦犯として死刑判決を受けた。
470 :
468:04/05/12 22:27 ID:???
華北省の駐屯地はとてものんびりしてたそうだ。
終戦後,国民党の捕虜にになったときには
国民党の兵士に自動車の運転を教えてたんだと
待遇が良くて太ったそうだ。将校にするから
残ってパロと戦おうとスカウトされた。
国民党の将校に「日本はまた必ず強くなる。そのときは仲良くしましょう。」
と言われたそうだ。だから熱烈な親台派だった。
471 :
468:04/05/12 22:36 ID:???
爺様はシベリヤのチタで衛生兵だった。
日本酒が凍ったそうだ。
472 :
名無し三等兵:04/05/12 22:44 ID:tyY4osxi
爺さんは関東軍にいて満州で戦った。夜、飛んでくる小銃弾はくるくる回っているのがわかるそうだ。
それと、爺さんがシベリヤ抑留中に作った将棋の駒がいまだにある。(これで将棋を覚えた)
473 :
名無し三等兵:04/05/12 22:48 ID:tyY4osxi
うちの親父は小学生のときに機銃掃射するグラマンに追っかけられたそうです。
いまだに「グラマン」と言うとビクッとします。
だから昼間に艦載機が出撃するわけないだろがよ。この軍事素人が。
うちの爺さんは太平洋戦争中、ミンダナオ島にいた。
戦後、遺骨収集に頻繁に行ってたんだが、
そのときいわゆる残留孤児の人と知り合った。
帰国してから、彼が持っていた戸籍謄本一枚を頼りに
方々の役所を渡り歩いてついに親族の方を探し当てたんだが、
結局あまり幸せな結末にはならなかったらしい。
爺さんは外務省だか厚生省だかに文句付けられたとかで
その後のことは役所に全部任せたとか。
>>450 うちの爺さんも同じだ、フィリピン帰りで酒浸りになって。
でも死なずに済んだ。なんとかアル中から復帰したそうだ。
復員後数年は何もできなかったって人、多いらしいね。
他にも聞いたことあるし。
477 :
名無し三等兵:04/05/12 23:23 ID:tyY4osxi
474>末期には艦載機も出撃してました。よく調べよう!!
478 :
474:04/05/12 23:28 ID:???
いや聞いてくれ、じつは浦安在住のウチの親父も戦時中グラマンに機銃掃射された
ことがあるので以前質問スレで聞いたら「艦載機は昼間には出撃しないヴォケ」と回答
があった訳さ。だから悪いのは以前質問スレで回答した人。
>>478 ネタをネタと(ry
ま、ちょっと調べれば判ることを、2chの質問スレで聞くようなお前が悪い。
その上他人を素人呼ばわりとは
>474
じゃあ夜間戦闘機って何よ。
夜間飛行訓練って何。
計器飛行って何。
昼間じゃなきゃ何時出撃するのよ。
昔、大掃除した時にちっちゃいポケットサイズの会話ガイドが出てきた。
祖父曰く軍隊に行った時配られたもので、英語、中国語、ロシア語で「こんにちは」
「さようなら」「ありがとう」「いくらですか」といかにもな単語のあとに
「降伏しろ」「両手を頭より上に上げろ」「跪け」「我々は敵ではありません」と
穏やかでない言葉が続いていた。風刺漫画風の図解付き。
>>261 遅レスだが、うちの母は子供の頃、比叡に乗せてもらった事があるそうだ・・・
ちょっとうらやましい・・・
大戦末期30台後半で召集令状
↓
((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル
↓
「心臓が悪い」と徴兵検査不合格
↓
(゚д゚)ウマ-
>>470 だから「相手を間違えて安易に手切れした近衛が悪い」と愚痴をこぼす人がいるわけですね。
485 :
名無し三等兵:04/05/13 21:26 ID:e4EIXQTW
じいちゃんの弟は沖縄で神風特攻したらしい。。。最近その事実を時ちゃんから教えてもらい
(といううよりじいちゃんがポツリと呟いた)何だかよく分からないがショックを受けた
486 :
名無し三等兵:04/05/13 21:33 ID:3k8EJ2ie
大戦中は満州にいた。鋳物職人として工場で働いていた。
ロシアが攻めてくる!とかで逃げまくったらしい。で、とある田舎の
丘を超えるとき足もとを戦車の大砲玉が抜けていった!
そのときの傷。やけどがふくらはぎ外部に苦っきりと20センチくらい
残って要る。幼い頃一緒に風呂入りながら教えてくれた武勇伝。
死後10年ほどたって婆さんにその話しをし、いつ頃知り合ったの?とか
聞いた?大砲の後?前?一緒に逃げたの?って。
「ぁぁ、あの跡か。ありゃ爺さんがヤカンひっくり返した火傷の跡じゃわ〜」
ジジイ! おまえってやつは!!
うちのじいちゃんは耳が難聴気味だったが戦争中砲兵でノモンハンで活躍したと逝ってたが
オヤジに聞いたら戦争中バッテリー工場で勤労奉仕してて爆発事故でツンボになったと先頃判明。
ジジイ! おまえってやつは!!
488 :
名無し三等兵:04/05/13 22:30 ID:2t3tulN9
うちの父方母方の爺さん双方いまでもご存命なんだが母方のほうは中国方面に騎兵として
騎兵として出征、父方の爺様は徴兵に落ちて中島飛行機に就職して終戦まで
零戦作ってたそうです。もしよかったら書き込ませてもらってよろしい
でしょうか?
ドンドン書き込んでチョウダイ
あの年代は軍歴がある人は、その話題になると、みんなえばるそうだな。
だから偽っちゃうんじゃない? そりゃ〜えばりたくもなるし、
偽りたくもなるよな・・・ かわいそうな世代だ・・・
聞いてもいないのに自ら「俺は大和の乗組員だった」云々語る奴は
たいてい嘘らしいw
ところでこのスレがステキな本になることになりました。
「あなたのおじい様の戦争体験を教えてBY2ちゃんねる軍事板編」
アッと驚くスペシャルゲストも登場だよ。
ゲストってまさかヽ(-@∀@)ノ
このスレから追い出されたポー・・・うわっなにす(tbs
うちの爺さまは近衛師団で、関東大震災の時に被災者の救助に出動したのが自慢だった。
>>491うちの近所には本物いたぞ
近所のというか厨房の頃の友人の家業の肉屋の大旦那なんだが気さくな方で
結構なお年の筈なんだがよく店番にたっておられた。漏れも何度か遊びに行く
間に顔覚えられて揚げ物買いに行くとよくおまけしてもらえた。揚げたての
メンチカツが絶品で母も厨房時分はよく買い食いしてたとか。でしばらくた
ってたしかなんかの集まりのときだったかにそのおじいさんを見かけたんだが
なんか古ぼけた白い帽子をかぶってたのを覚えてる。あとで件の友人に話しを
聞いたところそのおじいさん、戦時中に大和に乗り組んでいたそうで帽子は
その時に被っていた制帽だったとか。従軍体験者がこんな身近にと
厨房心に思いますた。
>>489ではお言葉に甘えて
まず母方の祖父なんですがが昔でいう地主の三男坊で家が裕福だったんで馬術を
やってたこともあり日中戦争の時に騎兵として志願して各地を転戦したとか。
南京攻略前哨戦?のおりに偶然兄の所属する部隊と出会いなにか感じるもの
があったのか兄から遺髪を渡されたそうです。結局兄と出会ったのはそれが最後で
少し後に戦死したことを聞いたそうです。馬は寒い日は毛布を掛けてやったり
疲れている時は飴?をやったりと人間並みにかわいがっていたそうです。
夏場は蚊やブヨがひどく用を足す時に尻を出している間に噛まれたりして
大変だったとか。ある時には敵への吶喊命令が出て死を覚悟したそうだが
すんでのところで中止命令がきて助かったとか。戦後は会社員として慎ましく
働いていたそうです。戦友会の集まりにもちょくちょく出かけているようです。
祖父いわく矢玉の下を共にくぐった仲やしなということです。
おおざっぱで申し訳ない・・・
497 :
名無し三等兵:04/05/14 00:40 ID:7DWMeF7o
母の従兄弟は、フィリピンで回天の訓練中に亡くなったそうです。親戚中で
唯一の戦死者でしたが、田舎では神童と呼び名が高い秀才で、中学の恩師の勧めで
16,7で志願しての戦死だったそうで、遺髪だけ帰ってきたと聞きます。
戦後、その恩師が家まで訪ねて来て泣いて謝ったそうですが、「死んだ者は
帰ってこない。いつもにこにこしてた優しいお兄さんだった」と母は従兄弟の
思い出を語るたびに無念そうに言います。
戦闘で華々しく散ったという話も良いが訓練中に亡くなったというのも人柱精神を感じさせる良い話だな。
そうだね日本人が失ってしまったなにかを感じるね
>>497
500 :
名無し三等兵:04/05/14 01:02 ID:7DWMeF7o
>>498-499 後に私の高校の恩師(元海軍機関中尉)から、回天のハッチは外からしか
開けられない閉じ込め方式だったと聞き、いやな気持ちになりましたが、
事故の具体的な状況は分りませんが、安らかな最後であったら…と思います。
501 :
名無し三等兵:04/05/14 01:12 ID:7DWMeF7o
因みに、「大和の乗組員」の話が出ているので、ついでに書きますが、
>>500に書いた元海軍機関中尉は、一時、大和に乗組んでいて、あるとき
内火艇からラッタルに乗り移り損ねて海に転落、早い海流に流されまい
として、内火艇が一回りして戻ってくるまで、必死で大和舷側の鉄板と
鉄板の間に指を挟みこんでしがみ付いていたため、両手指先が曲がった
ままになったという御仁であります。以前、同種のスレに書きこんだ
記憶があります。
ポーカー派どこ?
母方のじいさんは大陸で砲兵だったと言ってた。
戦争の頃の話を普段まったく語らないじいさんだったが、
大病で入院して俺が付き添っている時に何を思ったかポツリと語った。
で、俺が大陸のどの辺にいたのか聞いた途端、ハッとした顔になって
それっきり黙ってしまった。まあ、いい思い出は何もなかったんだろうな
ってことでそれ以上聞けなかったよ。
父方のは丙種合格で中島飛行機で飛行機作ってた。
・・・と判明したのはじいさんが死んで七回忌か何かで親戚が集まった時。
やはり生きてた時は何も語らなかったよ。
あと、知り合いのばあさんが世間話で、最近、外国人犯罪が多いってな話をしてた時に
ポツリと「戦争に負けた国だからねえ」と言ってたのが忘れられない。
漏れの母方のひいじいさんは陸軍少将だったけど、留守部隊だったので一回も実戦にはいかなかったらすぃ。
しかも戦中に除隊したから、何とか戦犯にもならず。。ヨカータヨ
阿南さんと仲が良かったとも聞いているが、、、
ばあちゃんがそういう話に興味が無いらしく、聞いても要領を得ないので悲しい。。(;´Д`)
505 :
504:04/05/14 11:49 ID:???
ちなみに2.26事件の裁判長だったとかばあちゃんが抜かしてたが、、ウソクサイネ(´・ω・`)
きっと、裁判官だったとか書記官だったとか、、下手したら裁判見てたとかかもしれんが。。。
>505
陸士20期台の後半あたりになるはずだから裁判官判士位で関わっててもおかしくないとおもわれ。
さらに初代金日成と陸士で同級だったりする可能性まであったり
507 :
504:04/05/14 13:50 ID:???
>>506 ひいじいちゃんは陸士19期生です。今村さんとかと同期。
金日成って陸士出なんですか!?しらんかった。。。
うちのじいちゃん
満州で砲兵やってたそうだ
数学ができたから前線に出なくて良くて死なずに済んだそうだ
弟2人は特攻と赤痢でお亡くなりになったそうです
>507
北一輝らの裁判で裁判長判士が陸士20期の方なので
実際に2・26事件の裁判で裁判長であったのでは?
初代金日成は陸士26期か27期らしいです。
>>496 馬は歯ごたえのあるものが好きだからね〜。
ニンジン、ざら目の砂糖とかも好きなんだよ。
可愛がってやると、引っ張らなくても後ろからついてくるし、後ろから
ポケットにスリスリして、ポケットのニンジンくれくれって催促してくるよ。
512 :
504:04/05/14 23:01 ID:???
>>509 おぉ〜、そうなんですか!
じゃあもしかしたら事実だったかも!?
ググッてもイマイチ裁判記録みたいのはヒットしないのでわかりませんが。
どっかに記録無いのかなぁ。。
回天のハッチが外からしか開かないなんて嘘だよ。
>493
粘着野郎は恥ずかしげもなくまだ生きてたか。早く死ねよ。
↑ネタにマジレスするポーカー信者カコワルイ(・∀・)ニヤニヤ
チョトスレ違いだけど、
今日職場(本屋)に70、80台のおじいさんがやってきて、地図を探されてた。
でもお探しの地図は無かったんで、代わりになるようなのを一緒に探したんだわ。
とりあえず良さそうなのを見つけて渡したら「これでいい、これでいい。」って喜ばれたんで
こっちもヨッシャ!(・∀・)って感じだった。
そしたらそのおじいさんが
「昔ビルマで一緒に戦った戦友が遊びに来るんだ。車で案内するから地図が無くちゃ。」
と話された。
おじいさんとその戦友さん、楽しまれるといいなあ
まあまあ皆さん、軍板に来ている者同士「貴様と俺は」の仲と思って
マッタリ往きませう。
瑣末なネタですが我が祖父は餡パンと大福餅が何より好物で(寧ろ餡子?)
以前大病を患った折に見舞いの品を持って言った際には
他の品には目もくれず大福餅を頬張っておりました。
聞くところによると酒保にはソレ等しかなかったらしく
故に好物となったそうです。
酒保というくらいですから、酒はおいてあったのでありましょうか?
母方の祖母から、母がしつこく聞かされた話らしい(原文ソノマンマ)
満州から逃げる時、外人に見つかったんやけどお父ちゃん
こんな事いいはってんで
「コイツ等差し出すから、俺だけは生かしてくれ!いろいろ報告せなあかんねん!!」
普段ギャグなんか言わなかった祖母だったが、こんな状況で助かるモンなの…?
助かってなきゃ、母も私も存在しないはずなんだけど。
>>521 わらた。ひでえ爺さんだな。
ていうか爺さんのギャグだったんじゃないの?
外人に向けたんじゃなくて、妻に向けたシャレ。にしてもひどいがw
523 :
名無し三等兵:04/05/19 09:57 ID:fIVtYYbZ
>>523 だから韓国人には何を言っても無駄なんだって・・・。
しかしまじでイイハナシだな。
525 :
名無し三等兵:04/05/19 16:48 ID:HiUl+uqX
韓国人の反応うんぬんより、そういう反応するのは軍板なら誰でもわかるだろうが。
馬鹿だな。
こういう韓国人がいるからいつまでも日韓友好が成立しない
527 :
ハムハム君〜:04/05/19 19:25 ID:KLLg5QCI
若い高校生や今年卒業入社みたいな諸君のおじいちゃんは、団塊の世代
で”受験戦争”とか”交通戦争”体験か?
>>523 おれも泣きました。これからどんな困難な目に遭っても
生きていけそうです。
フィリピン人みんなが日本に親しみを持っているとは思えないけどな…
私の祖父の兄、私から見れば大伯父にあたる人はフィリピンに出征したんだが、
終戦の年にルソンで住民になぶり殺しにされてしまったそうだ。
軍政の失敗例だからね>フィリピン
大岡昇平の野火でも、フィリピン人は寧ろ敵として描かれてる、
一方で小瀬本氏の本では、ワニの居る川に近付こうとしてる氏を
必死になって止めようとするフィリピン人が描かれてたり・・・
要は親日も嫌日も居たと言うことでしょ、当然のことだが
インドネシアでも嫌日の島はハッキリと嫌日だそうだしね
漏れのおじいちゃんは、今で言う大学を卒業したのがたしか1945年で、
職探しをしようとしたとこで、召集令状が届いたけど設計士ってことで
戦地に飛ばされずに、各務ケ原の川崎航空?の工場を明石に
地下工場として移転するために明石に行く事になったそうな。
漏れが小学生のときおじいちゃんは死んじゃったので、良く覚えてないが
「零戦作ろうとしとったんだが、穴掘りだけで終わっちゃった、(´▽`*)アハハ 」
と語っていました。実際兵器の良くわからないおじいちゃんにとっては戦闘機は全部
零戦だったんだろうと思います。結局なに作ろうとしてたんですかね?
最近実家に帰ったときに、おばあちゃんに聞いてみますた。
ちょうどおばあちゃんと結婚したばかりで、明石の宿舎に夫婦ですむことになり
満員の汽車の廊下に新聞紙を敷いてそこに座って明石に向かったとのことで、
それが私の新婚旅行と語ってくれますた。そのころは米軍の艦載機が機銃掃射をしに
やってくるそうで、そうなると、おじいちゃんは招集が架かって出かけてしまい
他に知り合いもいなく、一人になるので凄く怖くて押し入れの中で震えてたと言ってました。
朝鮮は文化欠乏症。
朝鮮人は劣等民族。
533 :
518:04/05/20 23:25 ID:???
酒保にはサイダーもあったらしく、
今の物と比べると昔の物の方が炭酸がキッツイそうです。
因みに曾祖母(明治弐拾参年生まれ享年93歳)は、
90歳にしてコカ・コーラを飲み、その感想が
(自分が生まれる前から)
「こんな美味いものを飲んでる奴等と戦争して勝てる訳がない!」
と怒ったそうですw
爺さんは大正七年生まれで
尋常高等小学校を卒業して軍に入ったとか言ってますが
詳しいことは今度見舞いに行ってきいてきます。
>>531 今の川崎重工ですよね。
近所にあります。
昼間っから自衛隊機の音がうるさいw
>>533 >尋常高等小学校を卒業して軍に入った
幼年学校に入られた訳ですな。
536 :
518:04/05/23 00:15 ID:???
今日祖父に見舞いがてら聞いてみました。
尋常高等小学校の後村の青年学校に入ったとの事で残念ながら
陸軍幼年学校には入っていませんでした。
勲七等青色桐葉章と勲八等白色桐葉章と言うのを各一つ貰ったそうです。
白黒でよく判りませんでしたが当時の祖父の写真には見間違いでなければ
星二つと星を貫くように中央に線が入っている階級章が写っていました。
最近こういう事に興味を持ち出して、
祖父への理解と会話の糸口になればと思ったしだい。
以下に祖父から聞いた略歴を載せます(真偽の程を知りたいので
537 :
518:04/05/23 00:36 ID:???
昭和十四年 十月一日東京目黒輜重兵第一連隊に現役入隊
十二月一日一期の教育任務終了 命 陸軍一等兵
十五年 六月南支那派遣の為廣島字品港を出航し
広東省の広東港に上陸、鐘村にて警備討伐任務に従事
十六年 二月八日南方派遣の第九三六二部隊渡辺隊に編入され
広東港を出航 命 陸軍上等兵
仏印支那(フランス領インドシナのこと?)サイゴン港に上陸
同市内にて待機
十二月十二日サイゴン空港を出発しバンコクを経て
マレー半島を南下 マレー半島作戦に参加
十七年 二月十五日シンガポール攻略(と言っただけで参加したか不明
七月二十日シンガポール港を出航し、
スマトラの治安警備防衛任務に従事
十八年 内地帰還のためメダン港を出航し、神奈川県浦賀港に上陸
千葉気球連隊に転属
六月六日現役満期除隊
二十年 一月十二日近衛輜重兵連隊に召集入隊
品川憲兵分遣隊補助憲兵隊として治安警備任務に従事
八月十五日同憲兵隊にて終戦
九月十五日復員完結帰郷
以上ですが祖父の記憶違いもあるかもしれませんし、
孫へ適当に言っているかもしれませんのであしからず。
>>533 三ツ矢サイダーが瓶で売られていた平成初期の頃はまだ炭酸がきつかった。
新しいサイダーはすぐ気が抜けて駄目ね。もっと炭酸詰めてよアサヒさん!!
ノドを痛めるんじゃないかと思う程の強力な刺激が魅力の一つだったのに残念です。
539 :
名無し三等兵:04/05/23 04:25 ID:yzH/WU7r
>>538 生ビールサーバに砂糖水を詰めろ。
あ〜ら不思議サイダーの出来上がりだよ〜
542 :
518:04/05/23 20:31 ID:???
>炭酸変わってないんだよ。知ってた?
と言うことはアレですか?
祖父が年をとって舌の感覚が鈍くなっていると言うことでしょうねw
もしくは缶になって炭酸が抜けるのが早くなったとか?
>>542 御前も知らないのか? だから平成初期の瓶と二酸化炭素の濃さはかわあらんよ。
544 :
518:04/05/24 21:05 ID:???
>543
7年前の正月の時にコップに注いであったのを
祖父が懐かしがって飲んだのでやっぱり炭酸の気が抜けてたんだと思います
我が家は山梨県なんですが甲府の連隊ではなくて何故に目黒?
歩兵じゃなくて輜重兵ってことは爺さん余り優秀じゃなかったのかな?
3ヶ月で一等兵?(これは聞き違いかな?)
気球連隊の気球って風船爆弾造ってたの?
一年経っていないのに南支那派遣?
と、まあ直接祖父に聞けばいいんですけど聞き辛いですw
出来れば履歴の間の細かいことも聞けたら聞いて見ます。
(輜重兵ってヤッタヤラレタの話はないかも
>>544 気球連隊は、風船爆弾も運用してましたが、
本来は砲撃の時の観測気球を上げる部隊ですよ。
隷下部隊を、各地の砲兵部隊のために「貸し出す」ことは
よく行われていたので、移動は多かったはずです。
山梨って戦時でも日本軍基地が一つしかなかったよな・・・
おれも山梨だが、大O村って知ってるか?
村の墓地には村出身の英霊がまつられてるんだ・・・
547 :
只の俄リングスファンの恥さらし:04/05/24 23:27 ID:l3kWfoWD
548 :
名無し三等兵:04/05/24 23:32 ID:iNL1LDWW
うちにはじじ使用の軍刀があります。
1回使用(敵を切った)したそうです。
手に持つと・・・・振り回したくなります。(フフ
549 :
518:04/05/25 00:54 ID:???
>>545 レスありがとうございます。なんだかマイナーで地味な部隊ですねw
もっとも祖父は家族にも身の上を話した事がないので似合っているようなw
>>546 母方の実家が高○町です。
近々ケコ━━━━(・∀・)人(・∀・)━━━━ンして北○市になりますね
父方は御○町です。
祖父は3男4女の長男で、次男(大叔父)はレイテで亡くなったそうです。
もう一人の弟については詳細不明
昨日祖父が永眠した。
ちょっと体調崩したと思ったらあっという間に肺炎で逝ってしまった。
聞こう聞こうと思ってなかなか聞けずにいた祖父の戦争体験はこれで
永遠に封印されてしまったよ。
おまえら、聞きたいことがあるなら聞ける時に聞いておいた方がいいぞ
年寄りの体調はたやすく変わる・・・
予科練落っこちたそうな。
そして少年戦車兵受けたら合格。招集日前に終戦で生き延びたとか。
なんで少年飛行兵受けなかったのかと訊いたら、そんなもんしらんかったと。
ほんとかいな?
553 :
名無し三等兵:04/06/12 02:43 ID:rdNiINdS
あげ
554 :
名無し三等兵:04/06/12 02:59 ID:3CAiRMJU
祖父がハルマヘラ島の海軍部隊に(取り残されて)いた。
航空整備兵だったが、海軍航空隊も昭和18年後半までは
大編隊で迎撃できたし、戦果報告もイーブンだったので、
負けるとは思わなかったそうだ。
戦力比は一旦傾くとつるべ落としだと言ってた。
うちには祖父が銃剣競技で取った賞状がある。
よほど嬉しかったのか大事に持ち帰ってきたらしい。というか賞状から満州で貰ってきたことがわかるが、終戦はフィリピンの山の中で迎えたので、その間、ずーっと持っていたことになるんだが。
早急な事実確認の程をお願いします。
557 :
名無し三等兵:04/06/13 01:18 ID:EpMpzO1v
うちの祖父は、尋常小学校を出て、一旦は大工になったものの
学校の先生の勧めで職業軍人になりました。陸軍だと重い背嚢を持って
何十キロも行軍があるので、海軍の整備士を養成する学校に入りました。
家には上海事変に参戦した勲章がありますが、その時の詳細はよく聞いておりません。
その後、足利の乗艦になり英国の戴冠式に行ったそうです。その時ソ連以外は
たいていの国に行ったと言っておりました。ピラミッドの前で映った写真などが
残されています。足利では飛行機の整備をやっていました。複葉の偵察機の
写真が何枚か残っています。その後は潜水艦の飛行機の整備士をやったり
陸奥の飛行機の整備をしていました。戦中は鹿屋航空隊で勤務になり
マレー沖海戦のことをいつも話していました。その時は一式陸攻と96陸攻
の整備などやっていたそうです。マレー沖海戦の後、何機かジャングルに
墜落したのでタイヤだけはトラックに乗って回収しに言った話を覚えています。
最後は鹿児島の鹿屋基地で特攻機の整備をしていました。小学校から
特務大尉まで登りつめた叩き上げでした。戦後は進駐軍に拳銃と
短剣とダイヤモンドを没収され、戦後は国鉄で汽車の整備士をおこなっていました。
私が中学校一年生の時になくなりました。もう17年前のことです。
早急な事実確認の程をお願いします。
559 :
名無し三等兵:04/06/13 17:43 ID:Ylpeg7a2
うちのじいちゃんはインパール作戦に参加したそうだ。
しかし、弾片を足に受けて初期に後送された為、生き残った。
ちなみに、看護兵だったらしい。
560 :
名無し三等兵:04/06/13 18:00 ID:IXK0MBhc
父方の祖父は軍属ではなかったそうだが
役人で満州にいたため、シベリアに抑留された
経験を持っているそうだ、ロシア語が喋れたことと
経理ができたので、野外で過酷な労働させれず、いつも
屋内にいられたそうで、生きて戻って来れたそうだ。
母方の祖父はインパール作戦に参加して生きて帰ってきた。
もし、二人が生き残ることが出来なかったことを考えると
今の俺は存在は本当に奇跡だと思う。
561 :
名無し三等兵:04/06/13 18:19 ID:PBWwTWLd
うちの母方の祖父は、学徒出陣で出征?
してニューギニアに居たらしい。
聞いた話と言えば、たこつぼばかり掘ってたらしい。
んで、航空機から機銃掃射を受けたりして、敵機側のたこつぼのの壁に
体を押し付けて身を守ったって。隣のたこつぼの兵隊は背中に
大きな穴が開いていて死んでいたとか。どの様にして帰還
したかは聞いてないなぁ。
自分の恩師の老教授は戦後研究室の薬品で人工甘味料を
合成し、それを闇市で売って家族の食事の足しに
していたらしい。
>>557 細かいようだけど、戴冠式に行った巡洋艦は足利じゃなくて足柄だね
貴重な話をどうもありがとう
自分の母校(東京で一番古い六年一貫校)の物理の先生は、海軍で航空機関連の設計していたらしい。
専門から考えると、無線だったのかな。零式を使って実験していたとか。
声楽と乗馬が趣味で、やたらと姿勢がいい爺さんだったな。数年前に亡くなった。もっと雑談を、まじめに聞いておけばよかった。
ついでに同窓生の話。彼が祖父の遺品を整理していたら、通信社記者の名刺(ドイツ語・ロシア語)が出てきたらしい。
そのお爺さん、陸軍の佐官だったみたいだけど、大戦中の話はほとんどせずに亡くなったとか。
566 :
名無し三等兵:04/06/14 21:43 ID:VvIiqdBn
うちの御爺さんは船の上で打たれて負傷したらしいです。その後、船は破壊されて御爺さんは溺れてしまいました。
そしてなんとか上陸したんですが、戦って討ち死にしたそうです。
確か、はくそんこうの戦いという戦いらしいです。
早急な事実確認の程をお願いします。
>566
何代前の爺さんなんだ?
うちのひい爺さんは、
退役軍人として防空監視配備中、帝都初空襲遭遇。
監視塔は阿武隈高地最南端の山(日立市)に存在。
ひい爺さんと仲間はB25を一式陸攻と思い、
通報遅れる_| ̄|〇
その5分後、慌てて水戸飛行場や霞ケ浦に連絡。
飛燕試作機が離陸したはずと聞きますた。
つか間違っちゃ駄目だよ爺さん_| ̄|〇
571 :
名無し三等兵:04/06/15 19:00 ID:susXmJyJ
亡くなった爺さんの話だが、北方領土でソ連の捕虜になって
シベリアに抑留されたが何とか帰ってきた。詳しい話はしたが
らなかったので詳細不明。昨年亡くなったが、火葬の当日に
たまたま戦友で一緒に千島からシベリアへ連れて行かれた人が
別の火葬に偶然にも来ていて線香を上げ行きました。
復員から今まで連絡先も知らなかったそうです。呼ばれたのか?
戦友に最後に会えたので成仏したかもしれない。
なんか良さそなスレみつけたと思ってたら
リアル厨房が妙に沢山いるねー、ガックシ・・・
本当におじいちゃんだったら
相手にしてないよね。
沖縄いけ、おきなわ。
海辺に、いーっぱい遺骨のこってるよ。
涙無くしては語れない、沖縄戦・・・沖縄の話がききたい・・
ウチナンチュ降臨きぼーん
573 :
名無し三等兵:04/06/18 01:34 ID:JZwinA5L
おじいさんの話ではないのですが、、「おじさん」の戦争体験です。
私の母はベトナム生まれです。
どうゆう理由か解りませんが、私のおじいさんが戦争(太平洋戦争)が
終わった後もベトナムに残っていて、ベトナム人のおばあさんと
結婚しました、そして、私の「母」と「おじさん」が生まれました。
母とおじいさんは1950年代に日本にきました。兄とおばあさんはベトナムに
残りました。1997年におじさんが日本にやって来ました。
肌はよく焼けていて、がっちりした体格でした。日本語はカタコトですが
喋れました。その時に聞いた話ですが、
おじさんは13歳から「戦争」で戦ったそうです。(ベトナム解放戦争)
おじさんの村から16人参加したのですが、生き残ったのはおじさん
含めて3人だけだったそうです。おじさんは5人の敵を撃ち殺したそうです。
アメリカ軍の捕虜は、皆で耳や鼻を削いで、目、チンコ、指、等切り落とし。
ジワジワと殺したそうです。敵を襲う時は、2〜3人単位で夜が多かったそうです。
18歳の時、膝に弾が当たって、村に帰って来たそうです。(今もビッコを引いてます)
おじさんはベトナムのサンチャ市(?)で今も元気に暮らしております。
574 :
名無し三等兵:04/06/18 03:28 ID:0UxtOR+N
うちには祖父が職業海軍だったため、あらゆる船とあらゆる生写真があります。
船もあるのか。スゲーなおぃ!
うちのおじいちゃんは、満州にいたらしい。
日本兵が鼻と耳を切られた状態で放置されていて、
ものすごく悔しかったっていう話を聞いた。
朝鮮人がすごく嫌いだった。
詳しくは話したがらないよね。
うちのじいさん三菱の静岡工場で飛行機作ってたそうなんだが
あんま戦中の話はしないから詳しく知らないんだよな
80代のいい年した爺が遊びまわって今を楽しんでるよ
しばらく死にそうにないくらいに元気で安心なんだか不安なんだかw
579 :
名無し三等兵:04/06/18 22:50 ID:NMyboVEd
うちの親父の話。
学徒動員で京都の”石曼図製作所(ノーベル賞で有名)”
に駆り出されていた。
戦闘機の部品を造るラインに居たそうだが、ある日新しいラインが出来た。
そこの指導員?曰く「この部品はプロペラの無い航空機のもんや、この航空機は
ギュ〜ンと上がってヒュ〜ンと降りて来る!。
ボーイングをやっつける為の航空機や」と言ったそうな。
後々考えると、ロケット戦闘機”秋水”のノズルを造っていたらしい。
572が一番リア厨臭いが・・・
573のお爺さんのように帰国せず現地に留まった方は結構いるそうだね
ベトナムだかでは名前も現地風に変えて将軍にまでなった人が
居るとか居ないとかそんな話があったような・・・。
581 :
名無し三等兵:04/06/19 02:08 ID:6tmIacPc
>>573 のおじさんっベトコンだろ、、、
VCの親戚持ちって凄いなぁ。
捕虜を虐殺したことを自慢にしているようじゃ、アルカイダのテロリストと一緒だな。
死ねば?
584 :
名無し三等兵:04/06/19 04:24 ID:oqZPjWYO
おばあさま(キリスト教)戦争中も自分たち家族は教会でパン食ったり、
クリスマス祝ったりで楽しく暮らしてたといってらっしゃります。
585 :
名無し三等兵:04/06/19 07:31 ID:QrbgWH0z
普通に疎開したじいさんばあさんガ多いのでは
むちゃくちゃ田舎の
実家の納屋のしっくいの白壁に
黒塗りの跡があるので、祖母に聞いたところ、
空襲を避けるため真っ黒に塗らされたとのこと。
587 :
名無し三等兵:04/06/19 10:42 ID:bdgQoark
>>85 黒人パイロットは黒人だけの航空隊で少人数が勤務していたと見た憶えが
あるけど、日系人は通常の(米軍)航空隊に所属できたの?
>うちの爺さん米海軍のパロットだった
料理人(コック長)だったから招集は免れたみたい
若いのはどんどん戦地へ行っちゃったらしいが
浅草にいた時前線から負傷した兵がどんどん帰ってきたのを見たとき
この戦争は負けると悟って今の地へ移り住んだんだそうな
戦後に天皇陛下に料理を出したのを自慢げに話してたっけ
皇族の誰か(失念スマソ)は張り切って準備したが
カレーが食べたいって仰ったのでカレーに変更して(´・ω・`)ショボーンだったそうな
戦争体験じゃねー_| ̄|○
祖父が米人で太平洋でB24のナビゲーターをやってたそうだが自分が生まれる前に亡くなった。
せめてあと15年長生きしてくれればよかったんだが。
遺品殆ど無く、時計を固定する為の(?)変な鉄製のバンドしかない。
USAAFの文字と認識番号が刻まれてる。
本当に話を聞きたかった。
>583
あ?何だお前。
>583
あ?何だお前。
その2
593 :
583:04/06/19 19:18 ID:???
>583
あ?何だお前。
その3
俺はアナン事務総長だ。
・・・ププッ
山田く〜ん、594の座布団全部持ってって。
649 :名無しさん@5周年 :04/06/20 22:56 ID:juc1extZ
泣ける話ではないかもしれませんが… 私がホテル勤めをしていた頃の話。
ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
一通りの祝いの言葉の後に、
自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を
掛けていると思う事。
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが、段々背筋が伸びていき
神妙に聞き入っていました。挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」
と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。
ウェイトレスの女の子達は不思議そうな顔をしておりましたが。
読み飽きた。
新郎は小声で「扶桑」です
それを聞いた海自一同すっ転ぶような勢いで逃げて行きました。
これも詰まらんな。
そう言えばガキのころ、友人の家に遊びに行った時、
そこのお爺さんが駆逐艦乗りだったという話をしてくれたんで、
「何って艦に乗ってたんですか?」って聞いたら綾波とか言う良く知らない船で、
皆「な〜んだ」って感じだったんだが・・・・
今考えるとガクブルだ(゚д゚)
599 :
名無し三等兵:04/06/21 01:01 ID:ojYsRhhp
うちの祖父は、九州の苅田町と言うところに在る、日立の工場で
学童動員でモーターの組み立てをしていたそうだが、戦争の終わり頃
には、艦載機の機銃掃射がよく行われたそうだ。普通は空襲警報
が鳴って、防空壕に逃げ込めば何とか成るそうだが、時々低空から
グラマンがやって来て不意打ちに撃ち込んで来るそうだ。その時
屋根から「バリバリバリ、、、、、グワン、グワン、グワン、」
一瞬の出来事で、今まで隣で働いていた同級生の頭がパックリ
割れていた時は、本当にビックリして地べたに座り込んでしまったそうだ。
冬の寒い日で、割れた所から湯気が立っていたのが印象的だったそうだ。
600 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/06/21 01:01 ID:MdqgZ7+E
600
私の祖父は海軍軍楽隊の将校でした。
あらゆる軍艦の観艦式に参加出来たのが誉れと申しておりました。
私の祖父は海軍で飛行機の整備をしてたらしく、
戦中最後に整備したのは彩雲だといってました。
>601
海軍軍楽隊の最後の仕事は11月30日に海軍省にて「軍艦マーチ」の演奏だそうです。
この日以降、海軍省は廃止、第二復員省へ。
>>598 ガクブルと言うより、まさに神と崇めたい
米4駆逐艦を単艦で蹴散らした後、ワシントンとサウスダコタの両用砲で海に消えた駆逐艦・・・
良くぞ生き長らえた
605 :
名無し三等兵:04/06/24 22:21 ID:adSr1ple
私のお祖父さんは、もう死にましたが 子供の頃は岐阜の各務ヶ原に
住んでいて、そこの飛行場に物凄く大きな爆撃機が在ったそうだ。
多分92式重爆撃機の事かな?
>>598 >>604 余談だが、二年前に亡くなられた友人の御祖父も、戦艦比叡の機関下士官で、
第三次ソロモン海戦で地獄を見たと仰っていたよ。
幸い、第三次ソロモン移行は内地に戻り、陸上勤務を無事に過ごされたそうだが・・・。
607 :
名無し三等兵:04/06/24 22:45 ID:DtsxhTwk
漏れのじいちゃん、大阪の商家に丁稚奉公に出ていて赤紙を受け取り、
里帰りのような形で、地元の歩兵連隊に入隊した・・・が、
重いものを持つのがいやで呉服屋に丁稚奉公していたほどの、本人いわく「モヤシ」。
隊長も呆れてしまい、連隊の出征からじいちゃんを外したそうな。
・・・連隊はインパール作戦に投入されたそうだから、
もし、じいちゃんが頑健な身体だったなら、高い確率で帰れなかったろう。
じいちゃんは連隊司令部の警備に残され、弾薬庫警備中に終戦を迎えた。
連隊司令部からじいちゃんの実家までは、
現在ならクルマで40分ぐらい、当時でも国鉄と歩きで半日。
・・・終戦の翌日には実家でメシを食っていたらしい。
三八式を持ったらさっぱりだったが、終戦後、もう一度ソロバンを持ち、
「商売戦線」では成功した、じいちゃんであった。
608 :
( ΘφΘ)ホスゲン君 ◆GAS49Mg50. :04/06/24 22:50 ID:ttTOY/lL
俺のじいさんはインパール作戦に参加、チンドウィン川まであと僅かと言う所で
捕虜になってしまい、生き延びたらしい。
もともと教師をしていて(復員後は中学校の校長とかしてた)語学が堪能な人だった
ので、収容所では通訳として重宝がられたので、むしろ作戦中よりも遥かに命の危険を
感じなかったといっていた。
もう亡くなって5年ほど経つが、ほとんどが収容所での話しばかりだった(イギリス人は
実に紳士だった、と良く言ってたし戦後、幾度かそこで知り合ったイギリス人を訪ねて
海外旅行へいってた)が、ほんの数回だけ、戦場での話をしてくれた。
重砲で撃たれて周囲にいた友人達が即死してしまった事や闇夜急流を泳いでわたって
逃げた事、すぐ回りを泳いでいた戦友達の水をかく音が一つ、一つと減っていき、だけど
自分も体力の限界で、到底助けてなんてあげれなかった事。悲惨な体験を淡々と語る
じいさんだったが、唯一涙をこぼしながら話してくれたのが、木の上にいたイギリス兵を
射殺した時の話だった。
引金を引いた瞬間に、あぁ、当たる、こいつは死ぬんだ。俺が殺したんだ。って思ったらしい。
何十年経ってもそれだけは忘れられない。きっと死んでも忘れないだろう。と言ってた。
今思うと、もっといろいろな話を聞いておけばよかったようにも思えるし、聞かずにいるべき
だったのかもしれない、とも思う。
だけど、母さんとか(この話は母方の祖父の事)には一切戦争の話はせずに「あぁ、まあ大変
だったよ」くらいでお茶を濁して いたらしい。
孫の俺が無邪気にあれこれ聞いて、はじめて戦場での出来事を しゃべってくれたらしい。
喋りたくない事を喋らせてしまったんだとしたら子供の頃の話 とはいえ、申し訳ない気分だが
もしも、喋る事でなにかつかえのような物が取れてくれていたら、と思う。虫が良すぎる考え
かもしれないが。。。
609 :
名無し三等兵:04/06/25 00:00 ID:gKBOdoN8
海軍の96陸攻、陸軍の97重爆は、壮大、雄渾なる戦略爆撃を敢行して、
元々貧弱な支那の國力を、木っ端微塵に爆砕した
殊に事変初期、台湾からの渡洋爆撃は世界に轟き渡る快擧であった
こう書くと、個人が特定されてしまうかも知れないが…
オレの爺様、海軍の江田島学校を首席「クラス」で卒業したそうな。
そのまま職業軍人になって、WW2の開戦当時は飛行機乗り。
真珠湾作戦にも偵察機のパイロットとして参加したらしい。
で、ミッドウェイでゼロに乗ってたそうなのだが、ここで撃墜される。
この時、弾丸が右足を直撃したらしく、以後死ぬまで義足だったらしい。
実はこの時、自分を撃墜した米軍機がやけにはっきり見えたそうな。
その時、米軍機に「ネズミの漫画」が描いてあるのを見たそうな。
(その時は何物なのか、本人は分からなかったようだが、
後で戦友諸氏の話を総合した所、どうも浦安の黒ネズミだった模様。)
それを見た瞬間、爺様は日米の圧倒的な戦力差を悟ったらしい。
「こっちは食うや食わずで戦争してるのに、向こうは機体に絵を描いて遊んでる。
…こりゃ話にならん。ハナから勝てる相手じゃなかったんだ。」
その後、右足を失った爺様は前線を退く。
この時、参謀本部からもお声がかかったそうなのだが、爺様は拒否。
「既に負けると分かってるのに、何を好き好んで戦犯になりに行くのか。」
そして霞ヶ浦の航空教育学校だかの校長として終戦を迎え、
戦後は故郷の大阪で羊毛商を始めたのだが…
義足になってからあまり動かなくなった事が仇となり、肥満が原因で病死したらしい。
これを目の当たりにしたオレの親父、同じような体型してるオレを見て非常に焦ってるようだ。
親父や戦友諸氏から間接的に聞かされてる話なんで、瑣末的なツッコミは勘弁して軍曹。
611 :
名無し三等兵:04/06/25 01:31 ID:XhHbfc3W
漏れの学生時代の教官(教師ぢゃないんだな)は大戦中風船爆弾の製造に従事していたらしい
先輩の何名かは運良くその話を聞けたらしいが、風船爆弾の話は在学中には聞けなかった
恐らく意図的に話さなかったのだろう。
未だに健在でいらっしゃるので、機会があれば話を聞きたいと思う
ちなみに、漏れの母校の1期〜2期生は「戦死」ってのが多い(同窓会名簿を見た)
母校は海軍の航空隊跡地にある
生還してる話ばかりでうらやましい。
俺のじい様は、墓石によると昭和20年5月ルソン島で戦死したらしい。
25歳だったかな、今の俺より一回り若くして亡くなってる。合掌。
高知の出身で、善通寺の第十一師団所属だったらしい。
墓には伍長と書いてあったけど、これは戦死して特進?
613 :
名無し三等兵:04/06/25 01:45 ID:ORY3nLiW
///ノ//:::||:::i::::|l::::l:::::\
我是女兵 ////‐┤/|ミl:|:::|:::|l::::|:::::::i::ヽ
r---─────-、,_ レ//ノ-=/リノ/|l:::|l::|l:::ヽ:::l::i:::|゙i
゙, 、,_ ゙"''‐ゝ-、,,_ レl/ノハl:::ノノ:::l:::\:::i:::|:l
゙、 ゙ヽ、:::::::....... ゙ヽ、_レ'///イl::|l:::::i,:l::i!|l
\::.. ゙''ヽ、"'''''─-,--、,_ ゙'''//ハヾ、l|ヽ:::ヽミi
\:::... ~"''''''‐---、イヽ、 /∧、-ゝヽ::ヽ::ヾリ …え?
゙''ヽ、::::.... \ ゙(ヘニノT.T':::i::i:::刈
゙'ヽ、;::::.... ヽ:::::"'''{ ∧゙i,:ミl:::ト:::ヽ
゙"''ヽ、 :::::::::::::ヽ川:::l:リ:::|l::::l゙i,
.ノ~゙ヽ、 :::::::ヽl|リ::l:}ヽ:ミ::::|l:i
,,-''" ::::::: :::::::::::: ヾ|メ/ ヽノl|:::|l:i
/ ::::: ::::/:::::::::::::: レ l| |/ヽ/ リ|
./ :::/:::::::::::::::: } / l/ レ'
/ :::/:::::::::::::::: /
゙、:::......, .::ノ:::::::::::::::://
゙、::::i' ,,,-'":::::::::::::::/:/
゙'┤ "::::::::::::::::::/ :::/
l ...::::::::::::::/ ::::/
: :::::::::::::::/ :::/
i .::::::::l::::::〈‐- ::::/
_i :::::::::::|:::::::゙、::::::::::/
うちの祖父は近衛兵だったそうです。
もう亡くなってしまったので詳しい話がきけない。残念。
爺さんの兄貴は満州で病院で寝てて
その後無事帰還したらしい。
戦後は接待柔道したとか言ってたなぁ。
616 :
名無し三等兵:04/06/25 03:11 ID:RhXR4jpN
すいません、海兵50期の渡名喜守定元海軍大佐が
ご存命かを調べたいのですが、どのようにすればよいでしょうか。
google検索で、沖縄タイムス、琉球新報をgoogってもなにも
出てこなかったので、すでにんばくなられているのかと思いまして。
198x年頃にご存命だったのは
当時、沖縄タイムスに寄稿された文章があるから分かるのですが・・・
617 :
名無し三等兵:04/06/25 13:30 ID:3+8iUfQ1
,,.-―――- .、
/ 丶、
r'" _,,......_ \
l ,.ィr‐ァ-.、 `ヽ、 ヽ、
〉" / /ト、 ミヽュ、ヽ、 i
// l! /|l|ヾヽヽヽヽ `ヽ、 | 英霊のご冥福をお祈り致します
レ! ! :l! lr=, `ヾ,rf==ミ ヽ \ ノ
|!| l、 |' i::;;! l !: ;リ|ト、ヽ ヽ
|ハゞ;! `´, `~´ ;! | |l ヽ ヾミ;、
|l ト、ゝ、 ー ,,.ィ | |トl ヾ、 ヽ
ハ'; \ト` ーr‐ ",./''^!ノl l!\、!ヾヽ、
" ` ,レ((y'´ ,.イ' \
,rク´,.ィ~;V^ヽr'´ ,.==\
/ < "ノく: ミヽ ,:;'" ヽ
618 :
関係者:04/06/25 18:26 ID:???
俺の爺さんはニューギニアでチンピラゴロツキ文盲の豪州兵を、
私物のモーゼル機関拳銃と軍刀で切っては棄て切っては棄ての大活躍をしたそうだ。
戦争末期は、分断された東部ニューギニアを弱り切った部下を連れて敵中突破1500km。
このことを語る時祖父は、敵中突破の最中一人も部下を失わなかったことを何よりの誇りにしていた。
うちの爺さんは中国でロシア兵に捕まり捕虜として強制労働。
一緒に捕まった仲間がバタバタと倒れていくなか、家族に会うため
「絶対に死なん!絶対に日本へ帰る!」の精神で一生懸命働いたそうだ。
ロシア兵も働き者の爺さんにパンとスープを他の人より多く与えてくれたり
作業終了後、一緒に酒を飲んだりしたとか。
もう15年前に亡くなったけど、近所の子供に柔道を教えたり、泥棒を
捕まえたりとなかなかのハッスル爺さんでした。
622 :
名無し三等兵:04/06/26 00:40 ID:7joESuZG
私の母方の祖父は、熊本大学を卒業後 陸軍のパイロットに成って。
内地勤務で戦後、GHQがピストルを没収に来る時、渡す前に
座敷の壁にピストルを何発か打ち込んだそうだ。その後炭鉱の
技術者に成って、私が生まれる前に亡くなった。母に聞いても
どんな部隊か、どんな飛行機に乗っていたのか、覚えていない。
生きていれば色々な話が聞きたかった。
母方の爺さんが結核で徴兵検査落ちてごめんなさい
皆のお爺さまが戦死したり抑留されている時にやっと徴兵されても本土決戦要員でごめんなさい…orz
625 :
名無し三等兵:04/06/28 15:25 ID:KqZweh3P
バンコクのドンムアン空港の前の小学校の校長先生(80歳のお婆さん。当時美人女子大生)のお話
当時、空港は日本の戦闘機基地だったそうで、近所の子供と遊んだり、手製のおもちゃをあげたりしたそうです。
また果物を載せて、空に上がり、戻ってきた時には、キリキリに冷えたフルーツを子供達に与えたそうです!!
戦争体験とチョト違うな。
南京で野球したそうです
向こうの人が写真とってくれたとかなんとかいってますた
628 :
名無し三等兵:04/06/28 16:05 ID:BsEt6beI
うちの祖父さん、満蒙開拓団で満州へ渡り現地召集(丙種)。
その後三角山(正式な場所は不明)で陣地構築中に
「自動車大隊へ応援に行ってこい」と命令を受け、行った矢先に
三角山がソ連軍の猛攻にて全滅。
その後、何度かの戦闘で傷を負うも無事に終戦。
終戦直後の朝鮮人による暴動の鎮圧に向かい支給された日本刀で
2〜3人突き殺した事もあったそうです。
その後はソ連軍の捕虜になりシベリアへ抑留されるも、数年後日本へ帰還。
629 :
名無し三等兵:04/06/28 19:20 ID:726D38m6
>>557 久しぶりに来たんで、亀レスですいません。
うちの大叔父がお爺さまと同じ部隊にいました。
開戦時の鹿屋空中攻隊搭乗員でした。尤も、レパルスを
沈めた分遣隊ではなく、比島攻撃をした本隊のほうでしたが。
その後部隊は合流したので、もしかしたらどこかで
出会っているかもしれませんね。
ちなみに大叔父はその後、他の大勢の搭乗員同様、
ソロモン方面で海の藻屑となりました。
630 :
名無し三等兵:04/06/28 20:00 ID:yPShEMiJ
おれはサイパン帰りだぞおまえら
>630 次は帰ってくるなよ
>>580 亀レスだけど、たしかラオス。
で、旧軍で伍長か軍曹→大佐だったかな
tetuto
俺の爺ちゃんは九州の士官学校行って満州へ。その後シンガポールの前線へ。
蛸壺?を掘ってて砲弾の音がしたんで伏せたら隣の奴が居なくなってたそうな。爺ちゃん自身も
首に迫撃砲弾の破片が刺さってるらしい。そして結局、肩から腰にかけてを撃たれて帰ってきた。
それが原因で右手首が麻痺してる。最終的な階級は中尉。本人はその時のことを笑って話してくれるが、
「あん時死んどった方が良かったんかもしれんな・・・。」とか呟くあたりかなり酷い思いをしたようだ。
今だぞ。今しかないんだぞ。
この先のニポーン人で戦争体験を語れる人は必ず0人になるのだから・・・
それは約束された真実。
ガセ、マジバナにかかわらず集めておこう。
検証はジックリすればいいのだから。
先日、他界した俺の親父、恐山に墜落した米軍戦闘機を見に行ったそうだ。
俺が工房のころ、いろいろな写真を見せたらどうやらF−6Fらしい。
焼け残った残骸から外板や骨材をむしり取って来てよろこんでたようだ。
その後、軍の調査隊が来たが、2日後だったそうです。
>>この先のニポーン人で戦争体験を語れる人は必ず0人になるのだから・・・
冷凍保存して(ry
637 :
名無し三等兵:04/06/30 02:00 ID:SWBwMBUk
漏れは長崎市の食品店の雇われ店長をしているんだけど。(出身は福岡)
先日、レシートのミスでクレームに来たおばあちゃん、つり銭ミスの話が
いつの間にか原爆体験の話にスリ変わっていて、そのお婆ちゃんが
20歳のとき被爆されたそうだ。その時右目を失明されたそうだ。
(右目だけ異様に大きなレンズが入ったメガネをしていた)、
原爆が投下直後は地獄のような様だったようだ。って言う話を
店の前で延々20分間も聞かせられて、しかも店は「お昼のドピーク」時間。
パートの冷たい視線と、レジに並んでいるお客さんの怒りの目線がちくちく
痛かった、、、、お婆ちゃん。漏れもそんな話大切だと思うけど、、、、
場所と時間考えてよ!!
友人の祖父はマニラホテルの食堂に芸者を連れた寺内元帥が入って行くのを見て上官と苦笑したらしい
639 :
名無し三等兵:04/06/30 20:30 ID:FFPHSKGt
じいさまは一式陸行に乗れるチャンスを逃してしまったのが
一番の悔いだとか言っていたな。
いや乗らなくて良かったよ。
ただ兄弟全員戦死、友達は全て生き残ったらしいんだけど
なんだか複雑だよなぁ。
640 :
638:04/07/01 01:22 ID:???
補足
苦笑した上官は後にペリリュー島で玉砕する村井将軍
10年くらい前のNHKのラジオ深夜便で聞いた話。
たしか中国戦線。行軍していると、小休止の号令がかかった。
戦友たちと休んでいると、中隊長に呼び出される。丘の上かどこかで、
二人は静かに話し始める・・・・
中隊長「恥ずかしい話だが、俺はまだ女を知らん。」
いや、これマジな話なんだが、誰かこの話の続き覚えてない?
ここ数年ずっと気になっているんだが・・・・
643 :
638:04/07/01 15:19 ID:???
>>641 師団通信本部長(本来は佐官が任官する)の陸軍大尉だったらしい
友人の祖父の自伝に書いてあった
じいさんではなく、じいさんの兄だけど
日露戦争に参加しガトリング砲で亡くなってしまった・・・・
645 :
名無し三等兵:04/07/04 08:49 ID:DV3+v/D5
532 名前:日台友好 :04/07/03 23:17
今年の年明けそうそうだったと思うけど、空港である台湾人に会った。
中国語で話しかけたら日本語で答えが返ってきた。日本語がお上手なんですね。
と答えたら「当たり前だよ!私を誰だと思っているんだい?元国民党第24師団
師団長だよ!私は日本にきて早稲田を卒業し、士官学校で学んだのだ。世が世なら
将軍だよ!日本人には多大な恩があるから日中戦争時期も部下には日本軍を殺させ
なかったし、助けたこともあるんだよ・・・」
こう言ってました。名前を聞き忘れたことが悔やまれる
>日中戦争時期も部下には日本軍を殺させ
>なかったし、助けたこともあるんだよ
おいおい
648 :
春税:04/07/04 09:39 ID:???
我思爺的年齢嘘也。一体何歳也哉?
一体何歳なんだw
日中戦争時に日本と戦わないってのは国民党的にも共産党的にも売国奴か非国民の類じゃねえのかよ・・・
651 :
名無し三等兵:04/07/04 14:05 ID:8exljvHz
シナ人はジコチュウで臆病だから命賭けで戦おうなんて香具師はいない。
よくきく話だが、戦場でのシナ兵士の死体はほとんどがうつぶせで、背中から銃弾を射たれていた。
つまり、敵を見て逃げ出した後ろから撃たれた。
日本兵はその逆に、ほとんどが仰向けで腹を撃たれて死んでいた。
つまり、敵に向かっていって撃たれた。
攻撃側の日本兵が背中向きに倒れるってのは無理だもんな。
653 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/07/04 14:08 ID:b2DJprP5
ポーカー派はどこですか?
向こう傷は戦士の勲章。
背中の傷は司令官の勲章。
655 :
名無し三等兵:04/07/04 19:04 ID:twaXZ5KA
シナ軍の兵士は逃げられないように鎖で足を陣地につながれていたとか。
親父の(もうすぐ90歳)話しだが、ほんとに人間の生死は判らんものだと。
親父は戦闘中(関東軍所属部隊)たしかに腹に弾が当たったショックがあったのに
何も異状がなかった。だが、完全に伏せていた兵が、流れ弾かどうか知らんが
横腹に受けて絶命していたそうだ。
657 :
名無し三等兵:04/07/05 16:03 ID:dJs394lq
カッコイイ 普通 醜い猿
┝━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━┥
88彡ミ8。 /)
8ノ/ノ^^ヾ8。( i )))
|(| ∩ ∩|| / / <ちゃんころはここ
从ゝ__▽_.从 /
/||_、_|| /
/ (___)
\(ミl_,_(
/. _ \
/_ / \ _.〉
/ / / /
(二/ (二)
658 :
名無し三等兵:04/07/05 19:14 ID:KnvyOs2c
俺の親父の友人の親父は学徒出陣のパイロット(いわゆる新米パイロット)だったんだが
米軍機を6,7機落としたそうだ
そのうち1機はムスタング しかも初陣でムスタングを落としたらしい
だから特攻隊にはならず、それどころか特攻隊の護衛パイロットになったそうだ
>>610 軍令部でしょ、瑣末ですが。
>参謀本部からもお声がかかった
うちの爺さんはなんでも主計科とかの兵隊だったらしく
終戦で溜め込んだ資材を売り払って一財産築いたって
自慢してました。
ずっと内地勤務で外地で鉄砲を撃った事はないそうです。
外地で鉄砲撃ってる奴なんてバカだと言ってました。
うちのじいさんは、もう大分前に死んでしまったけど、いろいろと戦争の話をしてくれたよ
じいさんは陸軍で中国戦線にいたらしい
戦争の話だから陰惨な話かと思うと、実に陽気に語るんだよね
川で米を洗っていたら敵の戦闘機が飛んできたが、米を洗わずに帰ると上官に怒られるから
機銃掃射されているなかで米を洗っていた話とか
さそりに刺されて、痺れまくった話とか
軍隊で要領よくやっていくために上官に気に入られるにはどうしたらいいかなどなど
下手な小説なんかより実話を聞いている方が遥かに面白い
じいさんが生きているうちにもっと話を聞きたかったよ
>>661 うちの爺さんもそんなかんじで、幸いにしてまだ生きてるから、おまいの分まで聞いとくよ。
このスレにもうちの爺さんの話書いたけど、まあ明るい話だよ。
663 :
北斗星:04/07/06 09:24 ID:Hh7skoMI
】616 渡名喜守定元海軍大佐の近況は海軍士官名簿で確め、クラス会幹事に照会すれば宜しい
うちの爺様は軍属で飛行士整備士やってたらしい。
シンガポールで食ったパイナップルが美味かったと言っているw
飛行士じゃない、飛行機。
飛行士を整備してどうするよ。
いや、軍医なんだろ。
いやいやウホッなことかもしれんぞ
飛行士の(ry
668 :
名無し三等兵:04/07/07 00:59 ID:8hnfbUKS
うちの爺さん、朝鮮で百姓していて 無理やり
筑豊炭田につれて来られて(ry
うちの爺さんは日本とソ連の国境で門番してたみたい。
そこでソ連の門番とよく囲碁をやってたとのこと。
囲碁のやり方はソ連の門番に教えてもらって、
その門番は中国人に教えてもらったらしい。
日本が撤退するときにソ連の捕虜になったんだけど、
機械に詳しいとかで工場の設備のメンテナンスをやらされてたとか。
そこには女性や子供ばかりで、
ヒューズの取り替えもまともに出来てなかったと言ってた。
670 :
北斗星:04/07/07 16:31 ID:X05wF+mt
暑中お見舞申上げます
本州以南の猛暑を他所に聞く北海道は、今年も涼しい夏です
先日、自衛隊の回転翼機に搭乗し、愈々涼やかに覚えました
お健やかに!
俺の爺ちゃんは満州行って わずか2週間で内地の名古屋へ技術者として送り返されたらしい。
婆ちゃんも名古屋の兵器工廠で飛行機を作ってたらしい。
婆ちゃんの話では便所いってる最中に空襲に遭い空襲がやんだ頃に外に出てみると
自分が勤めていた工場が焼け野原になってたそうな。
爺ちゃんの弟が人間魚雷回天の乗組員だったそうだが 終戦で生き残れたそうな。
友人の爺ちゃんが大和乗りだったらしいけど生き残れたらしい。
爺ちゃん 終戦後 在日朝鮮人に間違われて大変だったらしい。
在日に良くありがちな苗字だからしかたないのかもしれんが。
672 :
557:04/07/08 02:17 ID:95Ppw7gC
>>557を書いた者です。
>>564 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 04/06/13 22:20 ID:???
>>557 >細かいようだけど、戴冠式に行った巡洋艦は足利じゃなくて足柄だね
>貴重な話をどうもありがとう
そうです、私の記憶違いでした、確かに「足柄」が正しいです。
これを書いた後、断片的に祖父の戦争時代の話をいくつか思い出しました。
軍艦に乗っていた時に、舵が壊れて 潜水夫が潜って修理していた時、
鮫の大群が現れて、艦上から小銃で追っ払った事。
一式陸攻の内張りには、軽く作るため 麻が張られていた話。
戴冠式のお土産に、近所の人に「紅茶」のお土産を持って帰ったところ
誰も砂糖を入れずに飲んで、不味かったといわれた、村の駅長だけは
ちゃんと砂糖を入れて飲めた話。
カタパルトには、圧搾空気で打ち出す方式と、ばねで打ち出す方式の二通りの
方式がある話。
自分の同期の整備士は、大半がミッドウェィ等の南洋で、空母とともに死んでいった話。
「爺ちゃんは、軍刀持っていたの?」と子供の私が聞いたところ「海軍ではそんなカッコ悪いもの
持たずに、短剣を持っていた」と言う話。
戦後はドイツで買って帰ったコンタックスを進駐軍の兵隊に、高値で売って
家の屋根の修理代を捻出してくれたそうです。
カレーと、日本酒と、巨人軍が大好きだった、私の自慢の祖父でした
673 :
名無し三等兵:04/07/08 08:32 ID:fFoto5VT
昨日は優美な七夕祭りだが、支那では盧溝橋事件記念日
自ら企んで対日謀略戦争発動した挙句、日本のせいにしようとしている破廉恥シナ人め!
>>自ら企んで対日謀略戦争発動した挙句、日本のせいにしようとしている破廉恥シナ人め!
牟田口は中共のスパイだったのか。
>>674 牟田口は実は中共のスパイだったんだよ、第一五軍はハメられたんだよ!!(AAry
676 :
名無し三等兵:04/07/08 09:18 ID:xDSt1lgw
378 名前:名無的発言者 :04/06/08 19:44
支那と言うのに日本で攻める、
そすりゃ満州がたまらないよ
疼く満州を金州で抑え
蒙古できたかチチハルと
↑意味のわかる人だけわらって
>>676 >オレ「そう・・旨いよ、愛子・・すごく・・・もうドルアーガの塔だよ・・」(以下略
のコピペと同じノリかな
俺の自慰様は18歳で志願して台湾に行ったらしい。隼?に乗っていたらしく
出撃したはいいけど故障で海に墜落して、遥か遠くに見える台湾本島
目指してひたすら泳いだのが一番の思い出だってよ…
>>679 陸軍の飛行機乗りも任務によっては海上飛ばさせられたらしいね。
海上航法をきちんと学んだわけではないから、すごく怖かったそうな。
我が家のおじいさまは広島で整備兵やってたらしぃ
飛行場で機銃掃射を何度も受けてそのたびに死んだふりをして難を逃れたとかなんとか
ちなみにXデーは朝一の汽車に乗って広島にはいなかったとの事
まさに間一髪だよな
うちのひいじいさん、陸軍航空本部で事務やってたんだって。
制服着て馬に乗ってる写真がある。
実戦経験はなかったみたい。
死んだ爺さんの昔話し。いよいよ終戦間近の宮崎で給食係やっていて
たらふく飯を喰えたと。ただし、軍隊生活は合わなかったらしく、故郷に
帰った時は髪が真っ白になっていた。
685 :
2000:04/07/10 01:05 ID:txYjt7bC
父方親族−戦争情報一切ナシ
愛知県の片田舎で祖父は若くして病死。
母方親族
祖父(10年ほど前他界82歳)
工員として内地勤務(一般企業かな?)
工場長に徴兵免除みたいなものを書いてもらったらしく
兵隊さんにはならなかったそうな。
関東大震災のときは道が歩けないので、線路沿いに歩いて帰ったそうな。
226事件のときはとても怖かったとか。(情報少ないね)
祖父の弟−関東軍→復員(以上)
686 :
2000:04/07/10 01:07 ID:txYjt7bC
祖母(現在83歳)生まれも育ちも名古屋。
通りを陸軍の兵隊さんが行進中、一般人は急いでる人も
みんな隊列が過ぎるのを待っていたそうです。
『まだ若いのにかわいそうに』と当時思って見ていたそうです。
『海軍の人はホントかっこよかった』そうです。
『真っ白な服でね、背筋がシャンとしとってねぇ』だそうです。。
空襲が初めて行われた時は、落ちてくる焼夷弾を見て
『きれいだねぇ』なんて言って眺めていたそうですが
空襲が激しくなってくると怖くて怖くてガタガタと震えていたそうです。
『防空壕なんて女と子供しかはいれんかったでねぇ 男の人は外で濡れたモップで
飛んでくる火の粉を消さないかん 残っとる男の人なんて大抵老人か病人しかおらんでねぇ
ほんとみんな大変だったよ』のちに長野に疎開したそうです。
戦後どこだったか道を歩いてると、進駐軍に娼婦と間違われ絡まれていると
祖父が飛んできて助けてくれたそうです。じいちゃんナイス!!
ばあちゃん今日も元気!!大好きさ!!
いつか氷川くんのライブ連れてったる!!
687 :
2000:04/07/10 01:08 ID:txYjt7bC
ツレの祖父
陸軍の物資を扱う兵隊さんだったそうでラオスの辺りにいたそうです。
『ん〜まぁ〜前線の方には食料難とかあっただろうけども
まぁ自分のおった所ではそういうことは一切なかったなぁ うん。
まぁ あんたらが聞きたいような話は経験しとらんでなぁ〜』
除隊し終戦間際に召集→終戦。
688 :
2000:04/07/10 01:09 ID:txYjt7bC
五年ほど前に働いたバイト先の社長
元軍人に多く見られるやたらシャキッ!とした方でした
その方いわく、 医者になろうと思ったが、軍学校に入った。
そして朝鮮に渡って戦った。(相手は朝鮮人らしい)
朝鮮人は体に銃弾をたくさん巻きつけていたので
弾をはじいてどんどん向かってきた 手には大きい刀を振りかざしている
体は銃剣も通らないので空いているのは喉しかないと思い突き刺したら
その朝鮮人は手を合わせて命乞いをしたそうな。
ハッとして朝鮮人の顔をみれば まだ10代の子供で涙を流しながら
『アイゴーチョンギッターアイゴーチョンギッター』と繰りかえした。
えらいことをしてしまったと思ったが首をやってしまったので血は止まらなかった。
その後彼は『人はもう殺すな』と部下とはぐれた兵隊さん達を連れて 山に隠れたそうです。
『戦争は絶対やったらいかん。あんなものは・・』
しかし、基本的に軍隊自慢型老人でしたね。
ここは何々の傷 ここは何処云々で撃たれた傷など
全身貫通傷がブスブス残ってました。
『これが焼いたナイフでえぐった傷だ!』
『でもホレ見よ ピンピンしとる!』とつま先立ちで腰に手を当て
チョコチョコチョコチョコって歩いてました。
当時彼の話に興味が無くオートリピートで話を繰り返すので
上の空で聞いていても何とか覚えていました。
詳しく聞いておけばよかったなと思いますね。
『アイゴーチョンギッター』ってどういう意味ですかね??
689 :
2000:04/07/10 01:11 ID:txYjt7bC
2年ほど前にお話した老人
18リッター灯油缶両手にシャキシャキと歩いていたので
『すごいお元気ですねー』と話し始めると
『おう!!82だ!』ニコッ!『若いころから山登っとったで今でも丈夫だ!』ニカッ!
『だで、軍隊とられても大丈夫だったんだわ』
どちらの方に行かれたのか聞くと
『おう!香港だ!あと○○とか○○とかチモールもな!一度除隊してもう一度召集されたら終戦だった。』
『仲間はみんなガダルカナルでやられてまったでなぁ・・ 俺の中隊で生き残ったのは俺と○人だけだわ・・
俺はたまたま除隊しとったけど、行っとったら・・まぁ ここにはおらんだろうなぁ。』
やはり思うところがあるのか、笑顔でも口数が少なくなってきた。
笑顔というより苦笑いのような・・・
『まぁ・・な!そういう話に興味があるんだったら本貸したるわ!
家に分厚い本があるでよぉ そういうの読むのもなかなかおもしろいでな!』
《歩兵第228連隊史》
『そん中によぉ 若林中尉って人がおるでよぉ 俺の中隊長だ!』ニコッ!
へぇーと思いながら読んでたら、えぇーすごいじゃーん!
香港攻略の若林中隊にいたんだー!おじいさんの名前載ってるしー
けっこうスゴイ方だと思いませんか?(ぼくだけですかねぇ)
以上!長々と失礼しました。
こんなんでもアリですか?
690 :
名無し三等兵:04/07/10 01:31 ID:QuMEOte/
おれの親父のはなし。おやじは輜重兵で昭和12年から北支で3年間
ほど従軍したそうな。輜重輸卒が兵隊ならば、、、、と汗にまみれて
鉄道整備。あるとき宮様なるものが前線視察にあらせられるとな!
おまえたちは下がっておれ!チェッどうせおれたちは乞食さ!と戦友
の自嘲ぎみの声を背にさっさと一休み。ああ、極楽極楽。
次に。
ふだん威張っているやつに限ってだらしなかったそうな。ある無人の村
落に野営。こちとら久しぶりの休養と思いきや、有力な敵の襲撃ありとの
情報!こちとら実弾なんぞろくに撃ったことのない輜重兵が実包を受け取
り装填、安全装置を掛け??なにやらカチカチ音がする。はて?
と、となりの伍長殿においては震えて装填できず弾をブルブルふるわさせて
おるではないか。
691 :
名無し三等兵:04/07/10 01:54 ID:nfgC3vxB
うちのじいちゃんはトラックを運転できたので補給部隊に回されてました。
場所は、フィリピンか何処かその辺だった気がする。
ただ、うちのじいちゃん、嘘つきな所があって情報に正確差が無いけど
@よく分からないけど、車のエンジン部に飯盒付けてご飯を炊いたらしい
A敵と遭遇した事は無いけど、夜のジャングルで背後から虎に狙われていたらしい。
(その事が戦争で一番怖かったとか)
B突然体調が悪くなり2、3日寝込んで、ジャングルの未知の病気か!?と思ったらしいが
単にドリアンと酒を食べ合わせしたらしい…(ほんとか!?、これが一番嘘臭い気がする…)
Cちょっと体格が小さめだったので「乙種合格」だった(何の事かよく分からないが、そう言ってた)
軍事関係に素人でスンマソ
この御仁もガダルカナルで戦死か・・・・
ホント、餓島は地獄だぜ!フゥーハハハア(ry
>香港攻略戦の英雄として知られている。
あの香港戦の将校かよ・・・・・・・
なぜか鳥肌ったったw
しかし、今村均から感状もらってるけど
死後半年以上経ってからなんだな。
そういうもんなの?
>>691 >>単にドリアンと酒を食べ合わせしたらしい…
ドリアンとお酒の組み合わせはご法度です。
胃の中でドリアンが醗酵してしまい、大変なことに・・・
696 :
甲種幹部候補生:04/07/10 12:36 ID:4X9ufFDn
香港は酒井兵團でしたが、ガ島では第八方面軍隷下ですからね
このスレには日露戦争の話しを聞いた人はいないのだろうか?
>>697 5年前に100歳目前で死んだバーサンは、戦勝記念
の提灯行列ま記憶があるといってた。
>>691 むかし、ある4wd雑誌で似た記事が
軍隊経験自慢というのは、病院待合室での病歴自慢とあまり変わらない気が。
「こんなつらい目におうてもワシは生き残っててるんでー」
700 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 17:47 ID:1awpbFeC
オカン側のは、整備兵として龍鳳に乗ってたと言っていたなぁ。
んでパラオで終戦。
今でもじいさんの部屋には怪しげなパーツ一杯。
右腕に銃弾受けた後があるから、戦闘体験もあったのだろう。
541 :やめられない名無しさん :04/07/11 22:31
元戦車兵のじーちゃんがバーミヤンの紹興酒飲んだら「これは戦車が走る!」と叫んだ。
542 :やめられない名無しさん :04/07/11 22:36
お気の毒ですが、そういうお年頃ですね。
俺の身内には何も無いぞ!志願兵は唯の一人も居らず、召集令状がきて最寄の部隊へ行く途中に終戦とか、空襲で逃げ回った話とか、戦争の話と言うと食い物の話ばかりで・・・・
岩本徹三や檜与平のような人は居らんのか!!
>>702 生きて話を聞けるだけだけ有難いと思え。
自分の爺さんは中国で野砲を担いでたらしいが自分が生まれる20年前に亡くなったから殆ど何も知らない。
うちの身内では母方の祖父だけが、衛生将校として大陸に赴いたなあ。
大陸だからまだ良かった、ニューギニアやレイテ、ビルマだったら帰れなかっただろうと、
しみじみと祖父がこの前述べていたよ。
軍事教練をまともに受けた最後の世代で、それだけに色々な任務に就かされ、
かなり苦労したらしく、戦争のことは余り口にしたがらない人だが、それだけに重かった。
うちの婆様は布団かぶって空襲から逃げたって話してたなあ。
あれは土崎空襲(日本が最後に受けた空襲らしい)の話だったと思う。
製油所が真っ赤に燃えていたそうな。
後から調べたら、土崎空襲に参加したB-29は約130機。
都市空襲開始時の東京に投入された数より多いってどうよ。
ようやっともう一人のじいさんから話を聞けた・・・
掃海艇に二年乗った後、駆逐艦春風に一年
それから東京の通信基地(武蔵野?)で1年
最後に揚子江で2年、艦に乗っていたらしい(この期間は「陸上」と言っていた)
曰く、、
揚子江で空爆に遭い、もう艦はダメか!?と思っていたら無事で、
かわりにばかでかい魚が浮かんできた。
当然のごとく皆でかきあつめて食ったが、見た目が大きければ味も大味で、とてもマズかった。
揚子江はクソ暑く、40度を超えることもよくあって、しかも体を洗うだけのきれいな水もあまりなく、
汗でびしょびしょになった肌を掌でぬぐうと、アカがぼろぼろと落ちた。
アカは落ちても匂いがとれるはずもなく、自分の肌の匂いをかぐのも嫌だった。
体を洗う時は、揚子江のにごった水にミョウバンを加え、泥を沈下させた水を使った。
これは体を洗うのに具合が悪く、うまく石鹸がきかない。(このへん不明瞭)
戦闘体験のある、もうすぐ90歳になる親父の話し。
TVで有名だったコンバットは、数多くある戦争モノの中では
真実に近い(戦闘中にサンダース軍曹が部下に指示する所)と言っている。
死んだ爺様に聞いた話では、うちの親父(終戦時16才)は予科練にいたのだが
長男だからということで特攻へは行かずに返されたらしい。
特攻の生き残りというといかにも胡散臭い気がするのだが、小さいときに集合写真
とかいろいろ見せてもらったので、まんざらデタラメでもないと思う。(親父に頼むと
怒るので爺様から)
ただ当の本人がなんにも語ろうとしないので真偽のほどは判らない。
その親父、ここにいる諸兄に勝るとも劣らない軍オタであり、第2次大戦に関する
古い書籍で部屋中溢れかえっているのだが、「特攻」に関するものは只の1冊もない。
悪い気がするので聞けないが、出撃した同期の桜に後ろめたさでもあるのだろうか。
ちなみに俺の軍オタ振りは、間違いなく親父の血だ。
>>709 終戦時16才と言うことは、昭和4年生まれですか? だとすれば
死んだ親父と同い年です。 親父も予科練上がりでしたが、飛行
訓練はほとんど受けておらず、土木作業員みたいな事ばかり
やっていたそうです。 ちなみに親父は宇和島にいて、一時期は
宇佐に派遣されていたそうで、八幡護皇隊や神雷部隊が前方の
航空基地へ進出していくのを見送ったそうです。
711 :
709:04/07/12 23:30 ID:???
>>710 仰る通り、昭和4年生まれの75才です。
もしかしたら貴兄のお父上とウチの親父はどこかでお会いしているやも
知れませんね。
ウチの親父も飛行訓練を受けていないとすれば、特攻云々というのは
あるいは死んだ爺様の脳内妄想だったかな・・・。
その爺様は「電信柱に花が咲く」ような任務に就いていた、と笑いながら
言ってました。
うちの爺さんは昭和3年だけど特攻行かなかったよ
713 :
甲種幹部候補生:04/07/13 21:36 ID:qYwtpz+W
精々17歳ですから、年齢が足りませんね
もう亡くなっている上に、親父が聞いた話の又聞きなので
場所とかわからない。曖昧で申し訳ない。
南方か、中国か、とにかくどっかの岸で敵前上陸をやったらしい。
自分の部隊と他の部隊といたが、大勢の味方が死んで、生き残ったのは少数だった。
その中を生き残った数人が、弾が飛び交う中を命からがら近くの森に逃げ込んだ。
皆、真っ黒に汚れて、顔もよく判らない。じっと隠れて敵をやり過ごした。
しばらくして戦闘が終わったらしく、爺さんは煙草を吸いたくなった。
煙草はもっているのだが、火を失くしたらしい。
隣の兵士は別の部隊らしいが、とにかく煙草を吸いたかったので、
火を貸してくれといった。代わりに1本やった。
火を貰う為に互いに顔を近づけた時に相手の兵士が
「ノブ兄ィじゃないか」と言った。
「お前、カツか」相手は次男である弟だった。
違う部隊でお互い相手がどこにいるか知らなかったから、全くの偶然だったらしい。
爺さんは9人きょうだいの長男で、6人いる男のうち4人までが召集されていた。
特に上の二人は最前線を転戦していたらしいが、
曾ばあさんが毎朝お百度参りをした甲斐あってか、全員無傷で帰国した。
「悪運が強いというか、みんな逃げるのか上手かったんだろうな」
と親父が言うが、お陰で自分等が生まれて来れたんだからな。
悪運と逃げ足のよさに感謝しとけってことで。
爺さんではなく親類ですが
浜松?から出撃して大阪上空でエンジントラブルで引き返して再出撃前に終戦らしい。
浜松からって特攻隊では無かったんだろうか
>715
すげえなぁ
なんでもいいから根拠になるものがあれば「信じられないが本当だ」以上に
物凄い話だねえ
良い話だ、ホントだと信じたい。
718 :
:04/07/15 01:06 ID:???
うちのじい様はもう20年前に鬼籍に入っているため、
うろ覚えの記憶と母親からの又聞きであるが
(申し訳ない)
もともと商船乗りで召集されたかで駆逐艦に乗り
その後警備艇???号の艇長になったそうだ。
トラック諸島付近を警備している最中、機銃掃射を受け
ラバウルかどこかから最後の病院船に乗って帰ってきたそうだ
(摘出した銃弾はばあさんの家にいまでもある)。
戦後米軍から呼び出されて掃海作業をしていたらしい
(お袋の話だと帰ってくるたびにハーシーのキスチョコを持ってきてくれて
食べ終わった後も包み紙を取っておいて匂いを嗅いでいたらしい)。
その後、タンカーの船長になって中東戦争当時は決死の覚悟で
ペルシャ湾に行っていたらしい。
そのせいか、「ああ怒涛の輸送船」とかいう軍歌を油槽船にかけてよく歌っていたらしい。
こっちが消防だったのとあまり話したがらなかったから詳しい話は聞けなんだ。
ただ、戦艦大和と職業軍人に対しては言い感情を持っていなかったようだ。
719 :
名無し三等兵:04/07/15 01:22 ID:364Qsj/o
大正生まれのうちの爺さん(故人)は、徴兵検査の直前に
目に醤油を数滴たらして検査に臨み、見事戦地への出兵を回避したらしい。
昔の思い出話をしてくれたときに、
してやったりの表情で、にこにこ笑いながら語ってくれてたよ。
決して自慢できる話ではないぞ。 もし本当なら。
うむ、まあ719が恥入ったり爺ちゃんが卑下する必要もないがな
家の爺ちゃんは結核病後に引っ張られて
満州で輜重>シベリア>帰国後、創価へ (´・ω・`)
>>718 高等商船あたりを出た予備士官だったのかな。
>>717 >「信じられないが本当だ」
そーいう題名のウソばっかり書いてある本(アジモフの小説からパクッたり)があったなw
雑談スマソ
うちのじいさんは10年ほど前に亡くなったんですけど、
ばあさんの話では満州に行っていたらしいです。
そのばあさんは武蔵航空?というところで戦闘機を作っていた、
と言っていたんですが、この武蔵航空について知ってる人
教えてくれませんか。
だらだらと長くなるかも知れませんが書かせていただきます、私の父方の祖父の話です。
祖父は、徴兵で軍隊に入ったそうです。徴兵される前は、勤労奉仕で工場で戦闘機の部品を作っていたそうです。
家に帰ると親が泣いていて祖父は「赤紙がきたんだな」と察したそうです。
赤紙がきてから、しばらくの間は何もせずに家の中でごろごろとして天井を見ては「ここには戻ってこれないだろうな」などと考えていたそうです。
そして出征の日になったのですが特にお祝いも無く、日の丸が振られることも無く親に礼を言って家を出たそうです。
まず初めに、近くの学校に行きそこで配属先に振り分けをされたそうです。祖父は、一緒に徴兵された友人と来ていたそうなのですが学校のグラウンドではぐれてしまったそうです。
そうこうしているうちに、グラウンドの真ん中に細い紐が張られて祖父がいた側が国内配属で反対側が海外配属ではぐれた友人が反対側にいることに気づいた時にはすでに手遅れだったそうです。
なお、そのはぐれて海外配属された友人は帰ってこなかったそうです。
そうして配属が決まると、今度は立川駅で軍用列車に乗り一路浜松湖へ向かい、そこで38式の実弾5発を湖面に向かって撃ったそうです。
祖父の話によれば、38式の感想は「とてつもなく長い銃だった」「わしの身長よりはるかに高かった」だそうです。
それから、神奈川県内(はっきりした地名は覚えていないそうです)の海岸線の守備隊に正式に配属されたそうです。
そこでの生活の話を聞くと、部隊の基地は海岸近くの丘の上にある学校(集団疎開で使われていなかった)を使っていたそうです。
祖父が更に話すには、「学校の裏手に大きな洞窟があって、その中には米・味噌・醤油・弾薬・医薬品などがドラム缶や木の桶に満載されていてそれがずっと奥の方まで置いてあった」とも話してくれました。
それと、一番つらかったこととして上げたのは「ともかく上官が殴る」で「理由も訳も分からずともかく殴られた・・あれは痛かった」と苦々しい顔をしながら話をしていました。
>>728の続き
「訓練の内容は?」と聞いたところ、「海岸線に蛸壺を掘って急増爆雷をもって敵戦車の下部に潜り込む訓練の繰り返し」だったそうです。
祖父が話を進める中で一番怖かったことに触れました。それは、ある日の夜のこと「水平線に軍艦が見える」との一報を受けて祖父の所属する部隊は直ちに海岸の守備地域に展開、
ところがその後すぐに味方の軍艦であることが確認されて学校へ戻ったと言うことがあったそうです。
祖父は「あの時は、本当に死を覚悟した」と話してくれました。
それ以降は、何事もなく無事に終戦を迎えるも元々定数を割っている部隊だった様で祖父はすぐには帰れなかったそうです。
終戦の日のことは「ラジオの音は雑音がひどくとても聞き取れたものでは無かった。内容も難しくてまったく理解できず、上官が泣き崩れたのを見て『日本は戦争に負けたんだ』」と理解したそうです。
間もなく終戦による復員やら兵器の処理を行うこととなり、まず第一にお偉方から帰すことになったそうです。
ここで出てきた話が、「ともかく二度とお偉方の顔も見たくないし戻ってきて欲しくなかったので学校の裏の洞窟の備蓄してあった食糧を大量に持たせた」と言う話でした。
兵器の処理に立ち会った際の話は、「まぁ小銃ぐらいしかなかったけど、ガソリンをかけて燃やすと実によく燃える。武器は燃えるんだなぁ・・」と思ったそうです。
そうして、祖父はかなり最後までその上官の復員の手伝いやら兵器の始末やらをさせられたそうで自宅に帰れたのは昭和20年の12月頃だったそうです。
祖父は、最後の最後まで残っていたため何も持ってこれず着の身着のまま帰ってきたそうです(それでも少量の米・被服などは持ってかえってきた)。
それでも家では、両親が大喜びしてくれたそうです。
と、まぁあまり軍事的には面白くない話かも知れませんが自分が忘れないためにも書かせていただきました。
北支戦線の輜重部隊でのお話。
ある晩歩哨に立った祖父。寒さと抗日匪賊の襲撃の恐怖に耐えつつ過ごすこと数時間。
現れた交代の一等兵は何を思ってか丸腰で現れ、「おい、貴様の銃を貸してくれ」と言ったという。
当然ながら「陛下からお預かりした大切な銃を貸すことはできない」と祖父。
えらい剣幕の一等兵は「なにを貴様!待っおれよ!」と姿を消し、再び現れた彼の手には着剣した銃が。
怒り心頭の彼は突然祖父に切りつけた。彼の銃剣の切っ先は祖父の手の甲をえぐり血が滴った。
ここにきて漸く我に還ったその一等兵は急に青ざめ
「こんなことが公になったら貴様も俺もただじゃ済まん、黙っていた方がいいぞ」と言ったという。
告げ口のような事などしたくは無い祖父は頷き、ことはそのまま終わるはずであった。
しかし、後日祖父とその一等兵は分隊長に呼び出され事の次第を洗いざらい吐かされ、
一等兵は半死半生の目にあったという。
一部始終をかわやの中で古年兵が見ていたのだ。
>>730 銃剣は切れなくてもえぐることは余裕でできたのね・・・
>>732 >銃剣は切れなくても
いや、前線では研いで刃を付けてますが。
痒いなと思って腕を見たら虫に刺されてた
我慢できず掻いていたら段々と痒みに痛みも加わっていった
でも、気にせず掻き続けたら痒みも痛みも無くなり、掻くのを止めた
それから数時間経って何か腐った臭いがしてきた
周りを見ても臭いの元になりそうなものはない
ふと、自分の腕を見ると、さっきまで掻いていた部分が土色に変色していた
735 :
甲種幹部候補生:04/07/18 13:34 ID:avQ+NLrh
徴兵なら赤紙ではなく白紙です
736 :
名無し三等兵:04/07/18 13:53 ID:qEPHpKTT
うちのジーちゃんは戦艦陸奥の舵取りをしてて、どっかで降りた直後に
爆発したらしいよ。
737 :
北斗星:04/07/18 21:00 ID:6YC40MpN
左様
徴兵令状は白紙です
いきなり氏ねって、どういう事ですか?君には社会の常識がないのですか?
普通は、『あのう、すいませんけれども氏んでくれませんか?』とか
『あなたはには、氏ぬという選択肢もありますよ』とか言うものですよ、
あなたみたいに最初から喧嘩腰だと、
言われた方は『じゃぁ氏んでみようかな』とかいう気持ちがなくなるものです。
まずは、親切丁寧に人に氏んでと頼むべきだと思いますよ。
そこから、人の輪と協調が生まれ、『よーし氏んでみるか』とか
という気持ちが生まれるわけです。
740 :
名無し三等兵:04/07/18 23:37 ID:fB3nguR+
学生時代、シンガポール・ツアーでご一緒した方の思い出。
陸士出身の戦車将校。初陣はノモンハン(見習い士官)、五反田戦車隊全滅で有名な戦車十四連隊に所属、マレー作戦では中尉で小隊長(九五式に乗っていたとか)。
オプショナル・ツアーでジョホール・バルに行った時、スルタン宮殿の塔を指差して「山下将軍は、ここから上陸作戦の指揮を取られたんですよ」と俺等に教えてくれました。
その後、インパールでも生き残り、本土決戦要員として九州で敗戦を向かえた。
で、戦後は部隊の戦史を纏める為、息子さんとマレー半島縦断。息子さんはそのままシンガポールの学校に留学、現地で結婚!
フリータイムで立ち寄ったセントサ島で、お嫁さん・お孫さんとご一緒のところに偶然会ったんだけど、お嫁さんは華人系の様だった……。
恩讐を越えて、若い二人が結ばれたんだと思うと、なんとなくホノボノさせてもらいますた。
あの坊やも、今じゃ立派な青年になっているんだろうな。
>740
おれもシンガポールとマレーシア行ったときにそういうおじいさんいた!!
ジョホールバル懐かしいっていってた。
742 :
名無し三等兵:04/07/19 22:20 ID:2n6pti/0
爺さんというわけではないが、話を聞いてきたのでUPする。
83歳。比叡機関士。
1.トラックで一度だけ、大和を見た。大きかった。
内火艇が収納されるときに開く(?)んだけど、そこが大きかった。
2.魚雷を食らったのは分かった。すごい振動だった。
でも、爆弾だの何だのはよく分からんね。一番下にいるんだから。
3.飛行場を艦砲射撃にいった。
4.かなりやられてて、命令がこなくなったから、艦橋に様子を見に行ったら、
艦橋がぼうぼう燃えていた。
5.艦橋はもうすごい有様で、手のないやつ、足のないやつ、首のないやつが
ごろごろ転がっていた。
6.船体より上にいるやつらはみんなやられちゃってるみたいだった。
7.艦橋が燃えてるもんだから、命令がこなかったけど、
そのうち、通路に人が立って、命令を伝達するようになった。
8.敵は飛行場が近いもんだから、爆弾落として、またすぐ戻れるんだよ。
9.比叡は萌えてるもんだから、いい的になちゃった。
10.そのうち、総員退去(退艦とは言わなかった)になって、運良く駆逐艦に助けてもらった。
11.駆逐艦に助けてもらってる最中にも飛行機が来るんで、戦闘しながらの救助だった。
12.駆逐艦は小さいからガブって、よってしまい、飯が食えなくなった。
13.内地に戻ったら、もう乗る船が無かった。
14.それで、陸戦隊で***(失念。島)に行った。
15.敵と戦うより、マラリアと赤痢がひどかった。
16.マラリアでばたばた死んで、比叡の仲間20(失念20名ほどだったと思う)が数人になってしまった。
17.それでも、仕舞には敵の軍艦が来て艦砲射撃された。
18.こちらには明治製の10サンチがあるだけなのでどうしようもなかった。
ま、こんなところでした。飄々とした人なので、生々しさは感じなかったです。
村で、戦記を書くことになって、子供が比叡の本を買ってきてくれたけど、
詳しく書いてあったと、感心してました。結局、その本を見ながら戦記を書いたそうです。
743 :
742:04/07/19 22:22 ID:???
P.S. 助けられた駆逐艦の名前を聞きましたが、
そんなモン、名前見て救助されたわけじゃないから分からんと言ってました。
>>742 >比叡は萌えてるもんだから、いい的になちゃった。
・・・・
745 :
742:04/07/19 22:25 ID:???
>萌えてる
あちゃー。やっちまった。
746 :
名無し三等兵:04/07/19 23:12 ID:5AR++CC8
片方は東工大の研究者
片方は東大の偉い役人
片方は戦時中も研究を続け、
片方は台湾に送られてバナナの食い過ぎで太って帰ってきた。
亡くなってしばらくたつが沖縄帰りの親類がいた。
艦砲やら掃射やらのあいまに海眺めるとアメリカの船、船、船。
こりゃ死ぬな、と達観して気分が楽になったそうだ。
島民に水運ぶのにそこらの水筒もって走りまわったらしい。
砲弾が自分を避ける様に炸裂するのが不思議でしかたなかったらしい。
聞いた話はこれくらい。
いつも釣りいくぞとかクワガタとりいくぞってはぐらかしてたなぁ…
748 :
名無し三等兵:04/07/19 23:23 ID:9LFcSRPj
遅レスですが。父は昭和2年生まれ予科練です、神雷特攻で出る前に終戦でした。
うちのじい様は満映に勤めていて「李香蘭」とかに携わったらしい。
で戦後シベリア抑留。
嫌な思い出のはずなのにやたらと喋りたがり(私の親は煙たがっていた)、
「あの頃は楽しかったー。いい思い出だ」とばかり言ってました。
自分が小学生の頃の記憶だけど、そんな感じです。
軍と関係なくてスマン。
750 :
名無し三等兵:04/07/20 00:28 ID:qkTu6GaF
もう退官された岐阜薬科大の教授の話だが、まだ学生だったころ、南方の
薬草を研究するため台湾の熱帯林に住み込んでいるうち戦争が始まったという。なんとか博士論文をまとめて内地の教授らに博士論文の審査をしてもらうために
船便で送ったところ運悪く魚雷を喰らって論文は結局、大学に着かなかった。
その後、いろいろあって大学の先生になったけど、上のようなことがあって博士を
とる機会を逃したそうな。
比叡は萌えているか
>>749 むう・・・
あの「男装の麗人」と言われた銀幕のスターであり、満州建国を裏から支えた人とか・・・
シベリアは辛かったろうけど、本当に楽しく過ごしていたんだろうな
753 :
725:04/07/20 19:12 ID:???
>>727さん
遅くなりました。レスありがとうございました。
半年ぐらい前にカキコした70期アーマーの孫です。
突然ですが、来月に某所で行われる70期の同期会の末席に加えていただけることに
なりました。
会の様子や拝聴したお話など、うpしたく思っております。
>70期ポーカーさんへ
ポ−カ−さんは参加しますか?
もし参加されるのならお会いできることを楽しみにしてます。
ポーカーですと耳打ちしてくれたらうれしいんですけど
それは無理ですね。
>>755 おお、いいですね。楽しんできてください・・・って、変か?
ポーカー氏とも会えたらよいですね。
(いや、ポーカー氏は多分あなたと対面したとしてもしれっとしてるでしょうね)
>>756 これがホントのポーカーフェイスってかw
ダァーッハッハッハッハ!
>>741 THX! レス遅くてスマソ。
>おれもシンガポールとマレーシア行ったときにそういうおじいさんいた!!
>ジョホールバル懐かしいっていってた。
ひょっとすると同一人物かも……。ただ、漏れの場合は十数年前の話だが。
山下中将の片腕・鈴木参謀長を良く知っているという話ですた。
発行した戦史は国会図書館(?)に寄付したという話だったので、春休み中に探しに行ったけど、見つからなかった。_| ̄|○
うちのばーちゃんより若いはずだし、元気でいてくれるといいな。
760 :
名無し三等兵:04/07/24 10:34 ID:D1qBID8x
レイテの軍司令官ですね
761 :
名無し三等兵:04/07/24 17:04 ID:PvE1e6dx
そして50年後
子供「おじいちゃん、ママ薬買えないから死んじゃった。どうして僕達貧乏なの?」
老人「それはワシ等が祖国を持たないからなんじゃ。後ろ盾のない民族の末路はこん
なもんじゃよ」
子供「そこく?」
老人「ワシがまだ若い頃には太平洋に日本という島国があったんじゃ。そこがワシ等の
祖国じゃ。四季の有る美しい国じゃった。・・・今はもう無いがのう」
子供「どうしてなくなちゃったの?」
老人「みんな何も言わないからじゃよ。何をされても黙って笑っているのが美徳だと勘
違いしていたんじゃ。そこにつけこんだ泥棒や売国奴が、どんどん日本を切り売
りしていったんじゃ。本当は海底資源を取られた時に気づくべきじゃった。じゃが
資源を取られても日本という国は泥棒のご機嫌取りばかりしていたんじゃ。
そのうちに、九州・四国・北海道までが次々と取られていった。気づいたときにはも
う遅かった。日本という国は世界地図から消えておったんじゃよ」
子供「うーん、よくわかんないや」
老人「すまんのう。ワシ等がもっとしっかりしておれば。すまんのう、おまえの未来まで潰
してしまって・・・」
漏れの亡き祖父の弟は戦艦山城乗り組だったらすい。
高角砲担当だったとか。
スリガオ海峡で戦死しますた。
魚雷艇、駆逐艦に向かって高角砲を撃ちまくったんでしょうな・・・南無(-人-)
鬼の山城・・・
合掌。
765 :
名無し三等兵:04/07/25 16:49 ID:Fj+tWMby
76 名前:ちと曖昧だけど :04/07/25 00:14
東条の家の隣に、ある華族の家があったらしい。
その家の前を通った天皇は侍従に
「東条は随分と大きな家を建てたんだね。馬屋もある。」
と語った。
すると侍従は、
「あの家は**様のもので、東条の家はその『馬屋』です。」と答えた。
東条の家は、華族の馬屋と勘違いされるほど質素なものだったらしい。
「祖父東条英機『一切語るなかれ』」に載ってたように記憶している。
766 :
名無し三等兵:04/07/25 18:27 ID:mkhaoxUO
馬屋は言い過ぎだけど、GHQの憲兵が連行しに来て、
東条が書斎の窓から応対している、当時のニュース映画を見たこと有るけど、
ホント、そこらに有る普通の家だった。
うちの大叔父は中野出身で満州に行ってたらしい
話しを聞こうとしてもそれ以上語ってくれなかったが
中野は語らず・・・・か
768 :
762:04/07/25 20:50 ID:???
敵の戦艦と刺し違えたいと言ってたらしいよ。
>>766 しかも、建材を一切ヤミから仕入れなかったために、小さい家なのに完成までに何年もかかってしまったと聞いた。
>>769 いろいろと批判されることが多い人だけど、金銭面に関しては潔癖だったのかね。
濡れの祖父(もう亡くなって4年になるけど)は、1944年7月に徴兵されてミンダナオ島のダバオという所の戦地に
赴いたらしいが、米軍の物凄い爆撃で負傷して負傷帰還してきた、その時の負傷の後遺症で右手が半不随に
なってた。その時の爆撃の様子を何度も教えて貰ったけど…本当に凄まじかったらしい。特に夜半から明け方に
かけての爆撃は、陣地(トーチカ?)周辺を跡形も無くす程で、祖父は壕の中でひたすら爆撃が止むのを待ってた
らしいが、その爆撃音だけで、恐怖になって足がガクブル状態になったらしい…。その後も爆撃が幾度とも無く続いて、
守備兵のほとんどが戦死したらしく、祖父は運良く負傷で済んだみたい。
でもそれ以上に濡れの心に強く残ったのは、祖父の妹さんの話だった…。
祖父の妹さんは日本赤十字社に勤めていたらしいが、戦争勃発後は自ら志願して従軍看護婦になって戦地に赴き、
実際に戦場の後方で医療活動を続けていたけど、米軍と日本軍の交戦に巻き込まれ、戦死なされたらしい。
その後、本土に帰還していた祖父の元に妹さんの戦死が知らされたが、その時、祖父は顔色一つ変えなかった…
というか、世間上の都合で悲しむことが出来なかったらしいが、家の奥で一晩泣き明かしたらしい…。
この話が一番、濡れに印象が残った話だった。
長文スマソ(´Д`;)
所で、濡れはミリタリー関係にそれほど深く詳しく無いから従軍看護婦とか日本赤十字社とかよく分からないのだが…
誰か詳しく教えて欲すぃ…
>>770さん
そりゃあ軍権力を握っていれば金権に擦り寄る必要は無かろうて。
>>771 日本赤十字社は今でもありますよ。献血とかやってるところの元締め。
ttp://www.jrc.or.jp/ 1864年の赤十字条約に基づき、各国で結成された赤十字社の、日本における代表
という位置づけです。
戦前は、日本赤十字社で養成された看護婦は、戦時には軍に招集され、従軍看護婦として
勤務することが義務づけられていました。
さすがに、最前線に出ることはなく、後方の病院での勤務ということになっていたのですが、
戦闘に巻き込まれることも多かったようです。
戦地に赴いた従軍看護婦は約2万5千人、そのうち1000人ほどが戦死したといわれています。
お亡くなりになった大叔母様とお祖父さまのご冥福をお祈りします。
774 :
名無し三等兵:04/07/26 00:40 ID:BUohbsww
俺のじいちゃんは戦争中重巡洋艦妙高に乗ってて電探を扱ってたらしい。
参加したことがある海戦はマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦のみでその後は
ずっとシンガポールにいたらしい。
大和・武蔵・長門・翔鶴・瑞鶴・大鳳等の軍艦を見たことを誇らしげに話して
くれた。
レイテ沖海戦のときは愛宕・摩耶・高雄の3隻が相次いで米潜の攻撃
を受け沈没・大破落伍し、さらに妙高に魚雷3本が迫ってきたときには
「次はこの艦か・・・」と覚悟を決めたらしい。幸いにもその魚雷は間一
髪のところで回避できたものの、10月24日に右前方の島影から突撃し
てきた雷撃機の攻撃を受けて艦が右に最大で20度ほど傾き、ついに
艦隊より落伍し10ノットの低速で駆逐艦1隻を伴ってコロン湾に向かっ
て行った時はいつ潜水艦が襲ってくるか分からずずっと怯えていた言
っていた。
775 :
名無し三等兵:04/07/26 01:20 ID:BUohbsww
上の続き
その後シンガポールに何とかたどり着き本格的な修理を行うために佐世保に向かっている
途中に米潜バーガルの魚雷を受けて艦尾が切断されたものの、じいちゃんが浮上している
バーガルをたまたま電探で捕らえ、そのおかげで主砲・高角砲で即座に反撃しバーガルの
潜望鏡を破壊し撃退することができたと軍艦妙高記という元乗組員に配られた本に載って
いました。その後は羽黒にシンガポールまで曳航してもらい無事にたどり着いた後は妙高
は対空砲台と化しその際にほとんどの水兵は陸戦隊に配属されたそうです。
シンガポールでの生活は比較的楽しいものだったと言っていました。
ただ、日本が降伏しイギリス軍が進駐してきたときにイギリス兵は上着を着ておらず。とて
もだらしない格好をしておりさらには「その時計をくれ、靴をくれ、煙草をくれ。」などと言い
海賊同然であり「アメリカに負けるのは仕方なかった、だがあんなイギリスにだけは負けた
くなかった。」と思うと同時に「イギリス海軍もここまで落ちたか・・・。」と呆れたそうです。
その後はレンパン島で復員するまで自活していたそうです。
長々と書き込んでしまいすいませんでした。
最後に妙高乗組員が歌っていた「ラバウル小唄」の替え歌を書き込ませて頂きます。
1.波の飛沫に眠れぬ夜は 軍艦妙高のデッキの上で
星を眺めて四方山話 明日の命を誰が知ろ
2.さらばシンガポールよ戦い敗れ セレタ軍港と涙の別れ
北はバトババジャングル暮らし 南はレンバン島で鍬を握る
3.日々毎日褌一つ 夜は寒くて毛布が2枚
恋し懐かし故郷の空よ パパイヤ畑で月を見る
776 :
名無し三等兵:04/07/26 02:23 ID:9JnDlRj+
少し質問です。
うちのじいちゃん、東京に徴用に行って空襲にあってるんですが
P−38に銃撃されたってゆうんですよ。
んで「じいちゃん、間違いじゃない?」と聞いたら
「いや、ちゃんと双胴の戦闘機じゃった」と言います。
P−38て日本本土まできてたんですかね?ご教授願えれば幸いです。
777 :
名無し三等兵:04/07/26 02:34 ID:5QhkWGhK
>>776 偵察型は日本上空を飛び回っていますた。
778 :
名無し三等兵:04/07/26 02:47 ID:9JnDlRj+
おおー!じいちゃんの話は本当かー!・・
偵察型は機銃掃射するんでしょうか?
779 :
名無し三等兵:04/07/26 03:55 ID:IlB3b1Np
>776
俺のじーさん(父方の)は、トバの商船学校にいて、実戦にはいったことはな
いけど、同じくP−38に機銃掃射されたって言ってたよ。
母方のじーさんは、F6Fに機銃掃射されたといってた。駅のトロッコの集積
みたいなとこで仕事中に襲われて、トロッコの下に隠れた友達はみんなヤラレ
ったって言ってた。
780 :
名無し三等兵:04/07/26 04:16 ID:5QhkWGhK
P-38は形が特殊だから見分けもつくだろうが、F6Fなんて区別はつかんわな。
単発戦闘機はなんでもグラマンだろう。
781 :
779:04/07/26 04:26 ID:IlB3b1Np
母方のじーさんの先輩の中に特攻隊員として戦死された方たちがいるそうなん
です。9.11の後に
「お前、NYのビルに突っ込んだテロリストどう思う?憎いか?」って聞かれ
たんです。俺は「酷いやつらだと思う」って答えました。そしたら、
「俺も、憎いよ。酷いやつらだと思う。でも、あいつらは幸せだ」
って言ったんです。「なんで?」って聞いたら、
「俺の先輩達は志半ばにして撃ち落された。敵艦に突入できなかった。それを
考えると、突っ込めたテロリスト達は幸せだ。」って言ったんです。じーさん
がテロを賞賛してるわけではないのは言うまでも無いけど、生きてきた時代の
違いを実感しました。普段すげー優しいひとだったから更にびっくりしました
戦争体験の話ではないですが、印象に残っているので書いてみました。文書が
下手ですみません。テロの被害者の方で、これを読んで不快に思った人がいる
としたら、「じーさんがテロの賞賛をしてたわけではない」ことは理解してく
ださい。
782 :
776:04/07/26 04:40 ID:9JnDlRj+
ではP−38はやはり来てたのですな!さすがじいちゃん。
ちなみにじいちゃんは工場で空襲にあったのですが
工場は鉄筋コンクリートだったので機銃掃射は簡単に回避できた
とおっしゃてました。うーん、えらい時代だ。(そういうことや知識
が普通な点)
ちなみにじいちゃんは東京大空襲にあい、更に件の工場空襲にあい、
工場が操業不可能になった後高知に帰ったら、高知大空襲にあい家が
焼けました。広島と長崎で二回原爆にあった人の話を聞きなんて
アンラッキーなと思ってたら、自分のじいちゃんもかなりアンラッキー
なことが判明しましたw(今となってはwで済みます)
本人に言ったらブン殴られそうだが
超ラッキーメンとも思える
784 :
771:04/07/26 11:41 ID:???
>>773 遅レススマソ
おぉ! わざわざ情報サンクスですヽ(´ー`)ノ
そうですか…25000名もの従軍看護婦が戦地に赴き実際に約1000名が戦死なされたのですか…。
濡れの祖父は『尊き命を救う最も尊き者が、最も殺戮を行う者に意味も無く殺されるとは、なんという皮肉な話だ』と
涙を流しながらよく言っていました。こういう事を聞くと、戦争というものは本当に非情な事だと思いますね…。
>775のじいちゃん
(*^ー゚)b グッジョブ!!
ウチの大叔父は血の気たっぷりで、東京でヤクザに喧嘩売るほどの胆力の持ち主・・・
もちろん戦争にも行く気満々で、それを危惧した曽祖父が無理やり医学部に叩き込んで徴兵させなかったんだとか
(ちなみにその曽祖父、開戦当初から「この戦争は負ける」と断言していたらしい)
お陰で東京大空襲を逃げ回った程度で、無事今も生きてる大叔父だが
今でも戦争に行かせてくれなかった曽祖父を、恨んで居るとか居ないとか(;´Д`)
>>776 漏れの叔父は、20年の初春にP38偵察型を撃墜してます。
木更津あたりでだったと聞いています。
「偵察機のくせに哨戒もおろそかなヘボ」だったと。
788 :
名無し三等兵:04/07/27 13:25 ID:K5vr4wQ4
. ', (./::::::::::::::::::::::ヽ, ) !、
. `'/::;:::::;::::::::;:;::::;:::::::ヾ,,/:::`:.、_
. ,'::;';;;;;';;;';;;;:',.';:;;.'-;='‐;、::::::::::::::`::::::::: - ..... _
‐''´ ̄ ,.. | !.| ..`ェ::゙ィj‐;::::::::::::::::::. ::::::::::::::::`::-..、
i !_!ェ;、_`'__ァ-'゙7‐-;、::::: .:::::::::::::::::::::;:::::::ヽ、
. ,..、-k''て´____) ノ! ./ .; `! '''ヾ 、;;::::::::::::ヽ.`ヾ.ヽ
- ...._',´ 、!.|`'ー;‐ '´/ -;' ! | | `'‐、;::::::::ヽ. `
` ' ‐、゙、て._ ';‐:/ _/ ':、.! | | ヽ;、:;:::ヽ. 支那兵は弱くて悪くて
r''´`ヾV‐''´ .::. トイ;;‐‐j=、、 //j.,ヽ;:':, 臭いから嫌いよー
゙、_,..ィ゙、i:i .:::;:' ゙、 ゙、ヾ;::::::;ヾ:、-;;;ンノ ! ヾ:、
. `',‐ !.! 、  ̄ ',. 〉 \ヾ;:',ヽ;:l´ j `
゙, | | ` 、 /、 ヾ,ヾ,.ヾ''`''´
', /、':;ヽ ` ' '、
` 、 _,..- ''"´::;:::::';::';::',
';:::i:::::i:::/:::::/::::!::i ,.- 、
} i. /::::::::;:':::::/:::! / ヽ
,' ,i´;;;:::::/::::::/:::;':'、 ,.'::'´`ヽ. ヽ
/::::/ `' ;::::::/::::;'//::::::::::;:_´ ヽ
`y゙ `ヾ:::::jヽ/::::::::::/ ` 、__ ノ
/ /  ̄ '`ヾ:;:::;'
馬賊にすら時折り負けていたと言われるシナ正規軍…。
790 :
776:04/07/27 16:02 ID:iNBg+c1O
>>787 じいちゃんの仇(死んでないけど)討ってもらい感謝ですw
>>786 じいちゃんも戦争行きたい人でしたが年が足らずに行けませんでした。
(終戦時に16歳でした)
いまでも軍歌が大好きです。
(おかげで俺のかあちゃんは軍歌のレパートリーが半端じゃないw)
791 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/07/27 16:06 ID:SLfSTXvS
ポーカ派どこ?
うちのじいちゃん(平成11年没84歳)が良く言ってたのが、当時、日立に技師
として勤務していて、昭和18年か19年に軍より呼び出されて行った先が木更津
航空隊。
東京湾木更津沖に墜落(撃墜)したB29を引き揚げたものがあり、それを分析して
同じものが作れるか聞かれたらしい(各企業の技術者も呼ばれていたらしい)。
じいちゃんは電装、特に電動機(モーター)担当だったが、エンジンスタート用?
のでかいやつから各砲塔の遠隔操縦用(すごく驚いたそうだ)に小指ぐらいの大き
さ(バルブの切替え用)のやつまで、兎に角いっぱい付いていたそうだ。
更に会社に帰って分解、検査してみたら、モーターのシャフト、ローターが
「すべてバランス取り」してあり、おったまげたそうだ。
その瞬間に日本の敗戦を確信したらしい。
軍に出した報告書には、「同ジ材料ヲ支給サレテモ当社ノ工作機械デハ製作不可能」
だったそうです。
>>792 電装ひとつにしても、これか。
・・まさに圧倒的だな。
>>793 各社工場のベテラン仕上げ工員を、
ただの二等兵/ニ等水兵として召集してなけりゃ日本でも出来るんだけどな。
誉エンジンなんか、本来はラインの最後でベテラン仕上げ工員が擦り合わせやってりゃ稼動率100%だw
(生産数は増えないがorz)
>>794 俺も同じ事をじいさんに言ったことがあるけど、「無理だね」の一言。
材質の劣化した材料(材質が不均質、不純物が多い)に補修部品の無い機械
(ベアリング、メタル、潤滑油無しでガタガタ)、最後は切削油まで足りなく
なったんじゃ、どんなベテランがいてもまともな物など作れないそうだ。
逆に、そのような状態でも何とか物を作っていた女工さんたちはすばらしい
と褒めてたよ。
794さんのレスで思い出しましたが
うちの会社に数年前までいらっしゃった方たちは皆その手のプロだった。
(って言うか戦時中勤労奉仕してた方々)
亡くなられた漏れの師匠も
図面さえありゃ小銃程度ならヤスリ一本で作れるんだぜ?
と言った話をよくされていました。
今の親方のそのまた親方は竹ベラとダイヤの粉末で
0.5ミクロン(一ミリの一万分の五)位当たり前にやってのけたそうな。
うちの会社には昭和六年製のボール盤とか十四年製の旋盤なんてのが
ゴロゴロあって未だに現役で動いてる。
補修部品ならヤスリと鉄さえあれば自分で削りだせるし
ベルトなんて千切れても何かを使って繋ぎあわせる。(酷い時は日本手拭w)
物を捨てるなんて考えもしない人たちだった^^;
漏れが入社した時、当時の製造部長が鉄材をもって来て
これを線を引いた所までヤスリで磨れと言われた、
漏れと同僚はたった数十ミリ磨るのに新品のヤスリで一日掛かった挙句
平衡も出ておらず磨り痕も酷くガタガタで先輩達も後ろでクスクス笑う有様
んで製造部長がお手本を見せてくれ初めて職人と言う人を見た気がした
もう使い古しのヤスリでものの数十分で同じ所まで磨ってしまった挙句
測定してみると歪み無し!
その時のさわやかな笑顔と
「今は機械なんて物があるけど昔はヤスリしかなかったんだよw」
と言う名言は以降あらゆる事への励みとなりました。
漏れの亡くなられた師匠と当時の部長が食堂で
「飛行機だってヤスリで作ったんだから」と言っていたのは
嘘かもしれないが実際材料と時間と図面さえあればこの人達はやるだろう!
そんな気がしたものですw
しかし795さんの仰るように切削油がないと平削り盤などは厳しいです。
熱膨張して寸法が狂うそうで10℃で0.1mm狂うとかなんとか
そう思うと女工さんたちは確かに(;´Д`)スバラスィ ...ハァハァ
長駄文失礼しますた
まさしく職人芸だったわけだな・・・
ただ物量には勝てなかったが
>>796 漏れが関わっていた会社には「ハンダの巨匠」がいたなぁ。
やっぱり戦中からその道一筋。
ただ、職人と言うよりは研究者みたいな雰囲気だったよ。
大量・長年の経験を「カン」で終わらせずに、まるで実験データかのように
常に記録・解析していた。
なんせ、30年間連続稼働していた××とか、宇宙から回収された○○とか
かつて自身が手がけたものをサンプルとして大量に持っていて、今盛った
ハンダの経年変化を予測しちゃう。
それを勘定に入れて盛るんだけど、使う量も手際も段違い。
ある分野の日本の先端工業製品が失敗続きなのは、この方の退役と無縁
ではないと、漏れは確信していたりします。
はぁー・・・昔の日本人てほんとにすごいですね・・・
800 :
798:04/07/28 22:53 ID:???
>>799 ん〜。
でもさ、ホントに凄い人って、現代の若い世代にもたくさんいるよね。
今も昔も自己アピールが強烈な=目立つ 香具師にろくなのはいない
のは変わらなくて、そんなのは時とともに淘汰される。
寡黙であっても、凄い人はのちのち語られるから、ね。
まぁウチの研究室の助教授なんざ、俺には理解できんプログラムを鬼の様に作ってるからな
NASAとか中国やロシアの宇宙開発の現場にも、
あんだい、無名の超職人が頑張ってるのかねえ。
あんだい×
あんがい(案外)○
804 :
母方の祖父談:04/07/29 13:51 ID:Tt357OZR
遠隔地に住んでいた事とすでに他界しているので断片的な情報しか聞いてない
○なんでも戦前は海外に赴任経験があったみたい(米国、地域は失念)
○開戦後も会社に勤め続けていたが海外帰りと言う事と
親米派の外務官僚と知り合いって事で尾行されたとか(特高?)
○「やる前から負けると思ってたよ」(本人談)
○「招集はなぜかされなかった」(祖母談)
○海軍さんの偉い人(人物不明)が親戚にいるとか(徴兵逃れ?)
ここで疑問?祖父はなぜ招集されなかったのか?
勤めていたのは商社だったようだけど
805 :
名無し三等兵:04/07/29 14:02 ID://T2XuMd
おれが高校で教わった、鬼のように厳しいかった数学の教師は戦争中に
瑞雲の補助翼の羽布貼りをしていたそうだ。
一般人のくせにマニアックな機体を知っているなぁ、と感動した。
濡れの爺様は今年で八十●歳になるのだが、今も現役で仕事をしている。
濡れの両親が共●党のためか、爺様からは戦争について何も聞かなかったし、濡れも特に聞こうとも思わんかった。
ただ、去年あたり
『日本は戦争をやったが何も悪い事はせんかった』
『ワシは250人ほど兵隊を率いたが、戦争では一人も死なせんかった』
とポツリとつぶやいた。
そん時は、特に何の感慨も無く聞いていたが、戦争についていろいろ知ってくるとあの言葉の深みがわかってきた。
そろそろ夏休みなので、せめての親孝行として爺様の手伝いをしてこようと思う。
父方
祖父
赤門出の満鉄社員。
祖母
父が大連で教員。
大連で女学生、その後結婚。
母方
祖父
年が足らず徴兵されず(多分)
ごく普通に思っていましたが
父方は大連で教師をしていた曾祖父に関して全く話しませんでした。
引き揚げに関しても同様です。
母方の祖父は7人兄弟のウチ何人かは兵隊にとられたはずなんですが全く語ろうともしませんでした。
ある時ロシア人は大変おおらかでおおざっぱな面白い人種だ、と私が面白可笑しく話したところ
じいちゃんは、先輩たちはシベリアでひどい目に遭わされた、ロシア人なんて悪魔だ、と突然叫びました。
それまで温厚な祖父だと思っていたのでアレはとても驚きでした。
人知れず闇を抱えたおられる老人方もいるようです。
808 :
名無し三等兵:04/07/29 19:01 ID:lYOhYpId
武蔵の射撃指揮所で方位盤がどうたらとか言ってた
809 :
名無し三等兵:04/07/29 19:47 ID:baXWHO9+
北支戦線に従軍していた親父の部隊が
隣の地区に駐屯する友軍部隊を制圧しにいくことになった。
どうやら兵が反乱を起こして士官を皆殺しにしたらしい。
隣の部隊は特別程度の悪い士官ばかりだったらしく、
軍閥の真似をして良民から通行税を取っていた。
その軍閥気取りのアホどもが宴会に惚けていたところを
部下である下士官兵が襲撃。
機銃の一連射であぼーん。
続く。
810 :
名無し三等兵:04/07/29 19:56 ID:baXWHO9+
続き。
制圧といっても事前調査の行き届いた親父の部隊には
戦闘する気などさらさらなく、整然と行軍していった。
連隊長は道すがら当番兵である親父に
「あいつらは無罪だ。あいつらは無罪だ」
と、こぼし続けた。
(戦地における軍法会議の裁判官がこれでは
ある意味困るのだが)
到着すると、反乱軍も武器を一纏めにし
整列して出迎えたそうだ。
結局軍法会議は開かれず、うやむやになってしまい、
反乱部隊兵士たちはどこかに行ってしまった。
最も戦死率の高い最前線に送られたのではないか、
とは親父の弁。
終わり。
うちの爺さんも大陸の方に、衛生少尉として従軍したが、
私的制裁はしなかったし、下手にやったら後から弾が飛んでくるから、
そもそも出来ないって言ってたなあ。
まあ、そうやって気を遣っていたお陰か、祖父の部下だった方とお話ししたとき、
「○○少尉殿だけは部下に手を上げなかった」と語ってもらえたのは、孫として嬉しかった。
でも爺ちゃん、「○○少尉殿は、中隊長殿より立派な髭を生やしておられた」ってのは何よ(w
812 :
名無し三等兵:04/07/29 20:10 ID:baXWHO9+
おまけ。
ちなみあぼーんされたのはDQN士官だけでなく、
地元のエッチ系コンパニオンもまきぞえ。
(くうにゃんって変換できないね)
いくらなんでも、これは無益な殺生としか言えない。
さすがに38式で面と向かって上官を殺すことはできなかったらしく
屋外から一気にやったらしい。
ホントに終わり。
>おおざっぱな面白い人種
これだけは非常に正しい。
814 :
名無し三等兵:04/07/29 21:56 ID:YDoXHP2g
815 :
名無し三等兵:04/07/29 23:44 ID:+WZ+jfCy
旧海軍の短期現役制度は有名ですが。
終戦直前の3年間、陸軍にも技術系将校として短期現役制度があったという話しを聞きました。
ご存じの方、いらっしゃいましたならば是非ご教示下さい。
816 :
名無し三等兵:04/07/30 00:08 ID:qXDvEIG/
父方の祖父はパイロットの訓練(?)中に終戦。
後、官僚になる。
それより凄いのは祖母。
爆撃受けて瀕死の重体で死体置き場に並べられたそうな…
幸い親戚が全て医者だったおかげで助かったがあの時の事は一生忘れられないと言っていた。
しかも鉛(?)がまだ体の中に残っているらしくレントゲンとかでも写るらしい。
昔一緒に風呂に入ったときに傷を見せてもらった。
後、英語教師。
母方の曽祖父は軍人。戦死したらしい。
その息子である祖父は何も語らず。スマソ
祖母の父(曽祖父)は墨田区でデカイ工場を経営していたと。
お嬢だったが疎開後、空襲で工場が消失。
後、日銀で働き東久邇宮稔彦王の息子と同期だったとかw
怠け者だったらしいw
女が強いww
母のいとこの話。
フィリピンで戦病死したらしい。
木の根元で蹲って居るのを同郷の人が見たのが最期。
声を掛けても力なく頷くだけだったそうだ。
それだけ。
818 :
名無し三等兵:04/07/30 00:21 ID:iNnhypgd
ノーベル化学賞を「フロンティア電子理論」で捕った福井謙一教授は
陸軍技術大尉だった。陸軍の燃料関係の研究所で研究していた傍ら、母校の
京大工学部助教授として講議を受け持っていた。
819 :
sgt.:04/07/30 11:05 ID:sAJ0h9rG
漏れのじさまは、亡くなって20年経ちますが、戦争中なにをしていたかは不明です。
階級は中尉(陸軍)ですが、どの写真を見ても坊主頭ではありません。
軍服姿でも同じです。 ちなみに英、仏、露、独、中、韓国語を話すことが出来ました。
>>819 スパイじゃねえのか。支那にいたんだよきっと。
大陸→台湾→バシー海峡でアボーン
>>811 衛生少尉→軍医少尉 ですね。
(衛生〜は、准士官以下の呼び方)
細かい突っ込みスマソ
>>819 > ちなみに英、仏、露、独、中、韓国語を話すことが出来ました。
スゲェ!!
うちのじいちゃんは、伊勢でご飯炊いたり、おかずを作ってたそうだ。おにぎり握るのが
艦の中で一番速かった、といつも自慢していた。熱い飯を握るのは大変だったらしい。
甘い物が好きで、お汁粉を作るときは「味見」として何杯も食べたそうだ。
>>819 髪を伸ばしていたということは、あなたのおじいさんは飛行機乗りか、諜報活動していたか、皇族かのいづれかだと思います。
>>824 どんなえらい人でも飯は食べるからな。まさに、陰の実力者だ。
>>826 いや、大陸に征った陸軍部隊は、
「現地人にバカにされない為に/強そうに見せる為に(笑)」
ということでヒゲを生やしても黙認されてたそうです。
もちろん、古兵を差し置いて初年兵が生やすことはないでせうがw
>>826 大使館付き武官とかも髪伸ばしてよかったよな。
髪と髭
>>824 主計兵ですか!
昔読んだ「海軍めしたき物語」思い出しました。
主計兵って戦闘中でも、時化が酷いときでも飯作らないといけないからなぁ。
尊い仕事だよな。
ウチの爺ちゃんも主計だったよ
ゲートルも巻けないほど不器用だったから、上官に無茶苦茶苛められたらしい、
こりゃやっとられんと思って、夜中毛布を被って懐中電灯で本を照らして猛勉強
(起きてるのがばれたらマズいので)
旧帝大生だけあって頭だけは猛烈に良かった爺ちゃんは、
そう言った僅かの勉強だけで見事昇進試験に一発合格。
自分を苛めてた上官が一日で自分よりも下になったのに違和感があったとか
んで中国行ったんだけど、少しでも前線に顔を出そうものなら
「おい主計お前は引っ込んでろ、お前に死なれると俺の飯が・・・」ってな感じ
自分の馬を引っ張ってる部下が、自分の親ぐらいの年齢だったので可哀想に思って、
その部下を馬に乗っけて自分は歩いたと言ってた
そんなある日、占領した町の学校にピアノがあるのに気付いて、
敵のゲリラが居るかもしれない戦場で一日中ピアノを弾いてたとか、
ある夜、一人で禿山に登って月見てたら狙撃されて命からがら生き残ったとか、
頭が良いんだか悪いんだか良く判らん行動をしまくった挙句
戦後は砂糖を袋一杯に詰めて帰郷したんだとか・・・
結構愉快なエピソードが多いけど、ただ自分には厳しい人だから、
本当はかなり辛い事もあって、それは黙ってるのかも知れない
ただ・・・仮にそう言う事があっても多分氏ぬまで語ってはくれないだろう、
うちのじいさんは、主計の作る五目飯が大好きだったと言っていた。あとは、
戦闘中に砲塔内で食うにぎりめしが美味かったと言っていた。
>>837 にぎりめし=戦闘食は、簡単に栄養が摂れるよう
牛肉と野菜の炊き込みですからね。
今みたいなレトルトじゃないし、最高に旨かったと思います。
>>838 な、なんだってー!
しかしパンやらなんやらと比較して、米は水分が多くて
飲み物無しで食えるからイイね。
食う時には便利だが、そもそも炊かなきゃ食えないという問題があるわけだが。
パンを焼く時間に比べればマシかと
しかし保存がまったく利かないという欠点が。
水分多いからすぐ腐る。
>>842 パンや、パンの元となる小麦も同様かと
いざとなれば干し飯と言う手もあるし
それでは戦国時代みたいではないか。
なんでN速だよ…
847 :
名無し三等兵:04/08/02 01:46 ID:k96jr420
漏れ先週、法事で在所に逝ってきた
・・・ひい爺ちゃんと爺ちゃん
日中戦前から満州にいたのだが
その当時の家の写真をみて驚いた
さらに、驚いたことに当時の家族の動画がありました
家は建物だけで200壺
で漏れの父ちゃんには乳母がいますた
今は経済的にはごく普通の一族
戦争にさえ負けなきゃな〜
たいそうな金もちだったのに
うちの爺ちゃん(他界)中国〜台湾と廻って復員
したらしい。
婆ちゃん「まったく・・この人だけだよ、太って帰ってきた兵隊さんは」
俺「どういうこと?」
爺ちゃん「伍長がよぉ、オイお前ホッペに餡子ついてるぞって言うんだよ・・・」
真相:酒飲みのくせに甘食にも目が無い爺ちゃんはどこからか
餡子菓子・餅などを調達する名人だったらしい。
腹も太り、顔も大きくして(上官に殴られまくって)
他人とあきらかに違う成りで帰ってきて婆ちゃんを
呆れさせた。
>>847 陸軍経理学校は、新宿・若松にありました。
大戦末期は、小平に移ったようですので、
>>457氏の祖父殿は、
そちらで学んでいたのでしょうね。
(なお、在校中に終戦を迎えたのは、第8、9、10期の約550名)
経理部士官候補生は、中学校4年終了者から試験選抜され、2年間
経理学校予科で学んだ後、9ヶ月、各師団で勤務し、その後本科で
1年10ヶ月の教育を受けて原隊に戻され、見習士官として2ヶ月の
実習を受けた後、主計少尉に任官されたそうです。
(他、各兵科からの少尉候補者、大学修了者などが経理学校で学びました。)
合格率は60倍とも言われ、合格者は秀才ぞろいということである種、
士官学校よりも尊敬されたらしいですよ。
うちの爺ちゃんは船を作ってたらしい・・・軍艦?
詳しくは分からん。
うちのじいちゃんは特攻で死に損なって、復員した後は
まわりの人に非国民とか逆賊とか言われて、一度
割腹自殺しようとした。
うちのじいちゃんは山形の通信隊にいて終戦10日前、演習から帰る途中、
通信機を載せた馬車ひいていたのだが、暑さと疲れでめまいを起こして
橋の上から馬車ごと川に落ちしまい大騒ぎになった。隊に帰ってからは
重営巣にぶち込まれ、陛下からお預かりした大切な兵器を壊してしまい
銃殺間違いなしと覚悟を決めた。しかし、終戦で何事も無かったかのように
釈放されたらしい。神様、仏様、マッカーサー様様と言っていたよ。
(兵隊は1銭5厘で通信機は1000円?、やっぱり銃殺だよなと笑って
自慢していた)
戦中、敵艦へ突入したある特攻隊員は、地元で英雄
だったのに、終戦後は手のひらを返したような扱いで、
母親が息子の墓を立てるまで数十年かかった、なん
てえ酷い話もあったな。
>>859 GJ
しかし、なぜヌー速vipに・・・
861 :
北斗星:04/08/04 08:08 ID:k0TIQ7df
盛夏の候、御勇健にてや
文月晦日、大湊鎮守府司令長官吉川榮治提督の御招待にて軍艦夕霧に乗艦
司令長官は旗艦夕雲に坐乗
続航するは駆逐艦筑摩、夕霧、補給艦摩周、輸送艦大隅、根室、潜水艦行潮、
以上観閲部隊
受閲部隊は掃海母艦豊後、駆逐艦湧別、石狩、掃海艇隊‥
他に特務船艇、艦隊、基地両航空部隊、海上保安庁船艇‥
堂々の単縦陣で軍艦旗を靡かせ、日之本の武威を輝かせ來たれり
乗艦時、ホイッスル鳴響き、舷門で當直将兵に擧手の禮で迎へられ、帝國海軍
昔日の榮光を想ひ、欣快至極に候ひき
諸子には如何被遊候半
祈健勝
862 :
名無し三等兵:04/08/04 08:34 ID:OJ5L652Z
864 :
sage:04/08/04 12:57 ID:kgG7gsny
うちのじいちゃんじゃなくて父ちゃんの話。終戦間際に小学校一年生になった
父ちゃんは学校行事(?)で松の根っこをほりに行きました。皆さんご存じの
通り松根油の材料取りなんですね。そして母ちゃんの話。当時3歳だった母ち
ゃんは捕虜収容施設の近くに住んでいたので時々捕虜のアメリカ人を見ていた
そうです。だからもしも、本土決戦があったら間違いなく私は生まれていません。
アメさんは必ず捕虜収容施設の捕虜奪還のために部隊を差し向けて地域は戦場に
なったでしょうから。
865 :
864:04/08/04 12:58 ID:???
すいません。あげてしまいました。
うちのじいさまはサイパン玉砕組だな。
83才、今も元気でパチンコ屋通い。w
昨年に手記というか本を自費で製作して配っていたけど、
まだ読んでいない。というより読む気ないし。。。
(戦争体験手記を読みたい人いるのか?)
どっちにしても、じいちゃんゴメン!
俺の爺さんは南京で10000人を虐殺した
うちの父の友人の父の話
その人は沖縄で戦いました。
ある日、その人の部隊が米軍の小隊と銃撃戦になったそうです。
けどその人は少し隊からはぐれてしまい(先に行ってしまった)
戻ろうとしたら目の前に銃撃戦中の米軍が!
米軍の相手はなんとその人の部隊。これは大変だと思い急いで戻ろうとしたそうです。
けど、そこでこう思ったそうです。
「ここから撃てばいいんだ!後方にいて相手はまったく気づいてない!撃ちまくれ!」
ということで背後から狙い、百発百中って感じで当たったそうです。
恐れをなしてかその米軍の小隊は引き上げました。
三八式歩兵銃って命中率が本当に高いそうです
ここにも、えらい読みたい
俺の爺ちゃんはグラマンに機銃掃射されたけど
無傷ですんだって言ってた
百里ヶ原基地に、近いから(といっても車で30分くらいだけど)
たぶん本当だと思う。
夜中に縁台で、話したのが印象的だったなぁー
今年も航空際の時お世話になります m(_ _)m ペコリ
でも朝から酒飲むの止めようぜ
873 :
866:04/08/04 16:26 ID:???
えっ!? そんなに読みたい人いるの?
そういう板だと思って書いてみたものの、
反応があったことに驚きです。
そのうち時間が取れたら、スキャンして
うpしてみますか。少しだけ。
反応があればじいさまも喜ぶかもしれんし。。。
>>873 うむ、著作権者(キミの爺様)の了解があるなら是非是非よろしこ
まぁ仮に文章下手で、戦闘状況を把握しうる立場に無いヒラの兵士だったとしても、
サイパン玉砕戦の記録は貴重だ罠
うpまだ〜
878 :
2000:04/08/04 20:37 ID:N6Bl2BX9
読みたい世みたい読ませてください。。
>>881 悪いと思うなら読めるような形でうPせnうわなにをするやめLKZFD
著作権者の了解が無いので・・・orz
アララ
通信販売はないのかねといってみる試験
光人社とかに持ち込んでみたら?
うちのじいちゃんは、「イエスか!?ノーか!?」の会見場所に
いたそうです。「山下閣下はおっかない軍人だったなぁ。」と言ってました。
山下閣下の厳しい表情と違い、パーシバル司令官は鉛筆をせわしなく
動かしたり落ち着きがなかったと、自分の見た情景を教えてくれました。
ちなみに、山下閣下がテーブルを叩いた覚えはないと言ってました。
888 :
866:04/08/05 07:58 ID:???
ゴメン。
仕事の関係で土曜まではうpできん。>>玉砕手記
期待させて申し訳ない。
>>876 まぁ一隊員だったろうから、全体の戦局は分からない
と思います。 文章は・・・どうでしょう? 原文の字は
達筆でしたが、構成力があるかは不明です。
889 :
名無し三等兵:04/08/05 11:08 ID:/f1dMjg/
,.-‐ー''''''""´´  ̄ ``" "'''ー- ...,,,_
(;;;;:; ~`")
ヽ;;;:;,,.. γリ^大^ヾ-、 /
\;;:;::...(λY´Ω )ヽノ)、 ノ
[}{二'ゝ⌒',,ルノ⌒ノ''' ー _ {〕 〈, ´
/ヽ、,,. ` -=='''´ '''´ ̄ ヽ
人  ̄`" ´ ,,..='’ヾ
,γ`"''-、、,,,___ _,,,,、、-ー='''""彡⌒ヽ
( 〉∠てこ"'`i、;;'ュ_ ,τ;テ こヲゝ= ミι) )
ヾi '':;__,,,...ノ;;il `;;、.,,,ニ_/ 〈 「皇国ノ興廃、コノ一戦ニアリ
)ヽ ;;;;;:...ノ;;i ヾ;:,, ´ ィ〉 各員一層奮闘努力セヨ。」
{ `' ''^´':;il; `'''':;:; !ノ
} /;i' !ヽ |
|、 /;{;,_ ) ヽ、 i
i ,;' ノ `'''ー';⌒ i iヽ、 \ /、
,;<,,;;.,;;...,,;;.,.,、、、,、、、、、〉 )/´|
ト、`ー´ ̄ ━━─- / |
_______,,,,...ヽヾ、,, ,_v、、 _,..-´/ |ヽ,_,,,.._
ヾ i`ヾ、`´ ;, ` ´ ノ レ´ノ⌒
i!;;;,...`ー -.....=‐''''"´ ノ
ゝ;;;:;:;,.. i! /
890 :
名無し三等兵:04/08/05 11:33 ID:ZFcRrmYJ
漏れの爺様は海軍の将校(本人曰く中佐)で、ジェット機の燃料や基地
の構築に携わっていたらしいでつ。
ところで、日本軍の将軍のデータ集みたいなものはあるんだけど、
将校のそれはありませんかね?
誰か情報キボンヌ
891 :
名無し三等兵:04/08/05 11:49 ID:FbipGd8R
>>459 うちのおじいちゃんは陸軍経理学校に行って主計だけど、
戦争(しかも危険地)行きましたけど。
単に、偶然行かなかっただけだと思う。
経理でも、硫黄島とかペリリューとか玉砕地行けば一緒に
全滅だよ。
892 :
名無し三等兵:04/08/05 11:52 ID:FbipGd8R
>459じゃなくて
>>457でした。。失礼しました。
>>856 旧市役所の前の広場にある記念碑の台座を見て、俺が何の跡なの?
と俺が聞いたとき爺ちゃんが話してくれた話を書くね。
名誉の戦死を遂げた方の家族を「軍神の子」「靖国の母」なんてベタ褒め、
その家の前を通るとき爺ちゃん達は帽子を脱いで一礼したし、年寄りは拝んだ、
議員や町内会長の音頭取りで遺児育英募金が行われたし記念碑が建てられた。
けど、終戦になって進駐軍が来るとなったら記念穂はあわてて取り壊され、
育英金はなかった事になり、その家族に出て行って貰おうと言い出す奴まで出て、
公職追放命令が終わるまで町の実力者や役人達から嫌われまくったその家族は、
殆ど「村八分」状態、娘さんが結婚して一家が相手の方の家へ移る時も「厄介の種」が
無くなってせいせいする。と近所の人たちで話したそうだ。
「皆いなか者でなーんも知らんかった、進駐軍として中共軍がこの町に来る、
勲章貰った軍人の家族や親切にした近所の者も捕まる、なんて言うデマを信じて
毒な事したわい」と爺ちゃんはしみじみ言ってました。
「いい加減」「適当」の無い真面目な人間ほど極端から極端に振れる
895 :
名無し三等兵:04/08/05 13:29 ID:Beuch5t7
うちのばあちゃんの話。
ばあちゃんは若い頃、女学校にいっており飛行機製造工場で必勝日の丸鉢巻を締め
働いていたそうです。
爆撃などで友達が目の前でばらばらになったり、助けて助けてといわれても
何もできないという状況が幾度もあったそうです。
ある日飛行製造工場に特攻隊員の方が慰問(?)に訪ればあちゃんを工場裏
に呼び出し「明日、発ちます。どうか写真をください。一緒にもっていきたいのです」
といわれたが、突然いわれても持っているはずもなく、「明日にはもってくられます」
といいましたが発つということなので渡す事はできなかったそうです。
そのとき靴かどこかに書かれた名前を覚えており僕に教えてくれました。
こんな身近にこんな体験をした人がいたことに衝撃をうけました。
その人を探しに知覧へ行きました。
↑そんなババアの写真もらっても嬉しくなくない?
ウチのじーさん(昭和6年生まれ)は、14歳の時に少年航空兵を志願したらしいです。
なんか身体検査を受けるときは小学校で全員裸になって並んだそうです。
そんで、試験官がケツの穴を広げて見たあとタマタマを下に引っ張り
「サイケツゥ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」(`Д´ )
バッチーン!!とケツを引っぱたかれて採用になったとか。(マジな話)
今でも7つボタンに・・(なんとかかんとか)と憧れているみたいです。
喋りながらのジェスチャーが、7つボタンを示したあと、コマネチしてから帽子のつばをヒョイッとやります。。
霞ヶ浦から出発する予定でしたが、いよいよ明日出撃という日に終戦したようです。
群馬の太田空襲の時は、渡良瀬川沿いに敵の戦闘機が爆音を立てて飛んでったそうです。
山から眺めていた光景が高射砲が飛び交う中、敵の飛行機がすごい勢いで上下していたそうです。
シン・レッド・ラインを見ていたら、敵飛行機が骨と皮になった日本兵の写真のビラを
畑に撒いていったと教えてくれました。(日本兵を一掃するシーンで)
家を建て直すので物置整理していたら、20年前に亡くなったじいちゃんの大礼服や階級章が出てきた。
合わせてじいちゃんが自分の軍歴を記したノートが出てきた。
じいちゃんは明治30年の生まれで、18歳で陸軍に志願、猛勉強して主計になり第1師団や近衛師団、
東京の造兵廠を渡り歩き、中尉まで昇進した。
しかし太平洋戦争の始まる前、40歳前に一度退役したが、主計の将校は貴重だったようで、開戦直前に
再召集、フィリピンのリンガエン上陸に参加した。
その後フィリピンの兵站部隊にいたが、米軍のフィリピン反攻直前に召集解除となり、ほとんど最後の
輸送船で内地に帰還。ホッとするのも束の間、また召集されたが、既に戦地に行く輸送船も不足していた
ためか、また造兵廠で勤務している間に敗戦を迎えた。最終的な階級は主計大尉。
これからじっくりじいちゃんの手記を読んでみる。
2週間目に92歳で死んだ義理のおじさんは戦争中大村航空隊で整備兵を
してたんだそうだ。
葬式の席で初めて知った。
901 :
名無し三等兵:04/08/05 16:12 ID:qyIo28OU
うちの爺さん、アドルフ・ヒトラーをナマで見たことがあると自慢する。
士官学校卒89歳 終戦時少佐 なんか勲章持ってる それ以上は知らん。
ひいおじいさんが満州皇帝溥儀の護衛(?)をしてたという話を聞いたのですが
これってなんという役職なのですか?
勲章を10個くらい下げて写った写真もあってビビッタ
>>895 ・゚・(つД`)・゚・
そのお方のお名前は特攻会館にあったのですか?
>>898 貴重な遺品だ・・・ぜひ大事にしてくだされ。
手記の内容も、差し支えない範囲内でぜひきぼん
旧海軍の駆逐艦艦長で、指揮した艦が2度撃沈されながら生還した
という例ってあるのでしょうか?
ガキのころ叔父の家の近所の山の中に、炭を焼いて暮らす人がいて
まるで仙人のような感じでしたが、聞くところに依るともと海軍士官で
上記のような経験をお持ちとか。
10年くらい前に訪ねたときは、既に鬼籍に入られたそうですが。
>>907 いますよ。霰と秋月の艦長を務めた緒方友兄氏とか。
910 :
名無し三等兵:04/08/05 23:33 ID:/VWID74l
911 :
895:04/08/06 01:50 ID:Uc9d5b+q
記念館でも発見することができなかったのですが、
その帰りにかった特攻の本の最終ページに
戦死日・氏名・階級・出身地などがかかれた一覧があったので必死にみつけたところ・・。
見つけたんです。
本当に感動しました。ばあちゃんにもすぐに見せてあげました。
912 :
名無し三等兵:04/08/06 02:09 ID:lXXlIy/w
>>856 それは、ある特攻兵士ではなく、特攻第一号とされる関大尉のお母さんの話だ。(泣)
おれの爺さんも乗っていた艦を撃沈されて三日間海を泳いだっていってたなぁ。
そういえば子供の頃、軍帽と外套を昔もらったな。今度実家行って探してきちんと保管しておくか。
南方の島での事。
昭和19年、日本軍は窮地にたたされ島への補給や援助はことごとく
封鎖され、孤立してしまった。。
「みんな栄養失調で死んでいったんんじゃ。。」
栄養失調ってのは、しゃべりながら死んでしまうらしい。
目を閉じたて眠ったのか?と思ったら実は死んでいたと言う。
「母さんのおはぎ、、もう一度食べたいなぁ。。」
昭和20年のことである。
「内地に帰ればたらふく食えるさ。病院船がもうすぐ来るぞ」
「母さんのおはぎ・・食いたいよぅ。」
「だから、内地に帰れば食えるよ!母さんはまってるぞ!!」
「母さんのおはぎ・・・」
「おい!!どうした??」
じいさんは泣きながらこう語った。
ウチのじーちゃん、お尻にふきでものができて、船に乗るなって言われたそうです。
その船、沈んだらしいけど、尻だと何かマヌケ。
>>913 生々しく、悲しい証言だ。
餓死ってのは、なんともたまらん死に方だよなあ。
中学生の時爺さんに「爺ちゃんが載ってるぞこのしおりが付いているところに
じいちゃんがのっとるけん、見ろ」と言われて「第六師団ブーゲンビル戦記」(よく思い
出せないがそんな感じの本)を渡され見てみると確かに爺さんが載っていた、しかも
戦車を野砲で撃破したとそこには書いてあったので色々と戦争体験を聞いて見ると
ブーゲンビルで大和を見たと言って、その話をじっくり聞かせてもらったそこで
ねぎらいにと空砲を数発うってくれたらしく、まるで地震が起きたみたいだと
言っていた、さらに山本五十六の一式陸攻探しに行けと言われて探しにも行ったし
しかも撃墜されたところを遠くから見ていた、雲の隙間からぶぁーっと戦闘機
が来たらしくあっという間の出来事だったと。
まるでネタと思われるような事を経験している爺さんだが相当ブーゲンビルは
酷かったらしく食い物なんて無いからセミを食い、弾は一日2,3発
しか撃つことを許されてなかった(爺さんは砲兵だった)、驚いたのは復員船
で気が狂った奴の話を聞かせてくれた、何でもあまりに嬉しくて気が狂って
海に飛び込んで溺れて死んでいったが「さよなら、さよなら」と手を振って
沈んでいった、この時爺さんは涙が止まらなかったという。
今年で86歳になるのだがもっともっと長生きして欲しい。
こんな質問をするのは恥ずかしい限りですが大和を見たと言うのは
見間違いかネタだと思うのだがどうでしょう?ブーゲンビルに大和は来た
のでしょうか?
うちの爺さん、陸軍の航空隊で、隼に乗ってた。
ずっと一型に乗っていて、インドネシアにいたらしいです。
一度、新型か補充の受領に内地に戻り、そのまま内地で戦闘をつづけながら
終戦。
インドネシアにいたときは、飯盒にゾウ虫が入っていて「タンパク質のいい
補給源だった」と笑って話していました。
数年前にガンでなくなったのですが、最後まで強靱な精神力だったのか、
最期の真際にまで看護婦さん相手に冗談を飛ばすなど、泣き言は一言も聞いた
ことがなかったです。
ひさびさに実家に帰って手をあわせてこようかと思う今日この頃。
まえの法事のときには、戦友会の方がたくさん来てたのを思い出します。
軍の会計を教える専門の学校?みたいなところに入って、そこを出てから、
会計の仕事をしてたらしく、兵隊さんのお給金の計算して給料出したりする
仕事をしてたらしい。「俺は戦地に行ったことはないが、
俺も戦ったうちに入るんだろうかねぇ。戦死した戦友に申し訳なくて、
手も合わせられないよ。」と、悲しそうに語ってくれました。って、軍に
会計の学校とか、会計をする部隊ってあるんですか?戦争の話をじいちゃん
に聞くと、終戦の直後に色々と書類を出して燃やしたりしたらしいです。
俺は軍事は詳しくないからよく分からないんだけど、じいちゃんは本当に
兵隊だったのだろうか?軍に会計の学校ってあるんだろうか?
まさか、じいちゃん孫の俺に良いところを見せようと作り話を吹き込んでる
だけじゃないだろうな?w
ググってみると、
軍需工場などで働く徴用令状が白紙で軍隊への召集令状が赤紙っていう記述が多いけど
正確なところはどうなの?
>919
陸軍経理学校というのがあるよ。
>>919 いや、お前のおじいさんは嘘は付いてないと思うぞ。
たぶん経理学校を出て経理の仕事をしてたんだろう。
923 :
名無し三等兵:04/08/07 13:30 ID:h/RJNqYn
>>919 ブーゲンビル戦記〜海軍主計士官の死闘の記録〜によると、
経理学校を卒業すると、今後の希望を書かされれるらしい。
「最前線希望」とか「内地の工場勤務希望」とか。
それで、おじいさんは内地の工場勤務希望とか書いたんじゃないの。
そうすると上司から、おまえはヘタレか!と罵倒されたらしいけど。
今は無きおじいちゃん達だが
父方のおじいちゃんは足の親指が戦傷で無い事と万里の長城を触った事を自慢してた。
母方のおじいちゃんは戦中はまだ学生でぎりぎりのとこで戦場に行かず済んだそうだで戦後、戦場から
帰ってきた親戚の人に何をしたか知らんが「お前みたいな奴がいるから戦争に負けたんだ!」と日本刀
で追いかけまわされたらしい・・・・
僕のじいちゃんはニューギニアに行きました。
そこで、弾がじいちゃんをかすめたらしいです。
ニューギニアはとても厳しい戦場だったらしいんですが、
本当でしょうか?
何とか、ニューギニアから帰って来ましたが、
栄養失調になっていたらしいです。
しかし、今では87歳になり、元気に毎日を送っています。
いつも自転車ですいすいと何処かへ出かけています。
そんなじいちゃんも、来年の6月の誕生日で米寿になるので、
家族全員で祝ってあげたいと思います。
>>925 厳しいなんてもんじゃない。
もうこの世の地獄といったほうがいいでしょう。
ニューギニアから帰還したというのはとてもすごいですよ。
レイテから帰還した俺のじいちゃんのほうがすごい。
上海の阿片窟から生還したうちのじいちゃんに至ってはもはや神。
うちのじいちゃんは何でも特攻隊の試験に落とされ、助かったらしい。
落とされた理由が肥満で、重すぎたという理由に少し笑ってしまった。
トラトラトラの監督の1人も、特攻隊員にしては、マナーが悪いだったか
忘れたけど、そういうような理由でクビになったらしい。
マナーも良くて知性もあって、体格も適切な人が行っちゃったの。
戦争って良い人が危険なところに行かされて死んでしまうものなのね。
中国人を1000人以上殺して勲章を100個くらいもらいました
>931
くれないくれない。
933 :
名無し三等兵:04/08/07 19:38 ID:kV/Ado8B
わしのじいさんは戦死じゃが、
わしの父は大阪大空襲で学校も家もなにも無くなった。
大空襲では人が目の前で燃えていくのを見たとか色んな話を聞いた。
あと2.3年戦争が続いたら召集もされるところだったという。
そんな父ももう死んだが大空襲の光景はやはり死ぬ間際まで
忘れられなかったみたいだ。
…せつねー。
ウチのじーちゃん乗ってた輸送船が潜水艦に沈められて終戦まで台湾でボーッとしてたんだって。
片方のじいちゃんは身長低杉+耳悪杉で召集されず
片方はシベリア行き(?)の汽車に乗ってる途中で終戦を迎えて結局戦闘はしなかったらすぃ。
軍事板初心者なんで本当かどうかはよくわからないですが。
うちのじいちゃん近衛兵してたんだって。
東京に行くとき、村長さんが大喜びで、途中の駅までついてきてくれたんだそうな。
手榴弾投げが得意だったって言ってた。
>>934 問題無ければ部隊の名前を教えてくれ〜。
938 :
名無し三等兵:04/08/08 09:21 ID:aCqDpCoq
将校生徒カコイイ
うちのじいちゃんは戦争には生き残ったけど、戦後ビルマで消息断っちゃった。
942 :
名無し三等兵:04/08/08 13:46 ID:eu6LNdrf
俺のお祖父さんではないんだけど、俺の知り合いのおじいちゃんは
ラバウルでゼロ戦の整備兵をしてたらしい、エンジンをかけ損ねると
プラグを清掃しないとエンジンがかからなくなるとか、燃料を入れるときは
セーム皮でろ過させながら入れるとか、ラバウルは雷が発生すると物凄かったとか…
空母翔鶴?瑞鶴?に乗って勤務してたこともあって、ある日甲板に
居たらしいのだけど、ふと横を見たら青い筋が「さー!」と走ってきたんだって
とっさに魚雷だ!と思ったときは大音響と振動でそれはもうすごい衝撃だったらしい
飛行甲板を釘だか木ねじだかで止めてるらしいんだけど、長さが10mm位もあるその釘?
が簡単に浮き上がっちゃっただって、結局沈むと言うことになって
駆逐艦に助けてもらったんだけどその時は裸足で駆逐艦の甲板がとても熱くてたまらなかったんだって。
ゼロ戦の整備書?見たいな物も持ってたよ確か「ゼロ戦寸知」(ぜろせんすち)と読むらしいが見せてもらったよ。
よく解らんかったが…(;´Д`)
憲兵やってたじいちゃんは、いまだに軍刀の手入れしてるが、あれって持ってて
大丈夫なのだろうか・・・。
通報しますた。
日本刀は警察で許可取れば持てる。
拳銃は警察で許可くれない上に没収されるので見つけたら秘蔵しておけ。
946 :
名無し三等兵:04/08/08 14:42 ID:dbcf8i5y
去年亡くなったうちの親父。
戦時中は玉川学園(現玉川大学)在学中で、
当時の町田は現在とは比べ物にならないくらいド田舎で、
空襲なんかはなかったらしいけど、それでも機銃掃射などは受けてたらしいです。
空襲警報のラジオのものまねをよくしてくれましたが、それによると
警報発令後まもなく厚木の飛行機が編隊を組んでにどこかへ「避難」してたとか。
立川の工場が爆撃されたときは地響きがすごかったとか。
B29が撃墜されてゆっくりと東京湾に落ちていく様も見ていたそうです。
東京大空襲の日は現在大学の敷地内の山に避難してたそうですが、親父のすぐ傍に
トイレットペーパーのような銀紙のかたまりが落ちてきたとも言ってました。
終戦間近は川崎の(現在は大手家電メーカー、名前失念)に動員され、
潜水艦に搭載する?レーダーの試作品らしきものを作らされたと言ってましたが
軍事的に本当なんでしょうか?少々オーバーに言う人だったので…
947 :
名無し三等兵:04/08/08 14:47 ID:MlOHUX5O
うちのおばあちゃんは父親の勤めの関係で全国各地を転々としていた。
昭和20年8月当時、父親は広島の工場勤務で本人は高等女学校の女学生。
勤労動員で軍需工場で働いていた。
8月6日、一度鳴った空襲警報が解除され、工場内で作業をしていた。
その時、窓の全体がフラッシュを焚いたようにピカッと光った。
次の瞬間、まるでスローモーションでみるように、窓のガラスが粉々に砕けて空中を飛んでゆく。
音はしなかった。無音だった。
良く「ピカドン」という人が居るが、あれは爆心から離れた人の話だという。
すぐに帰宅命令が出された。
自宅に帰る途中、いくつも黒い丸太が転がっていたという。
考えれば死体であったが、当時は帰りたい一心。
何も考えずに夢中でまたいで帰った。
気丈な友人が大やけどの友人を運んできた。
その友人は元気で帰っていった。
大やけどの友人はすぐに死んでしまった。
元気に見えた友人は、その翌日洗面器一杯の血を吐いて死んだ。
ということは後から聞いたそうだ。
その後は怖くて何日も家から出ることはできなかった。
父親は工場の責任者であったため、何日も家に帰らなかった。
その父親は、その時の経験を語ることは決してなかった。
本当に悲惨な現場に立ち会った者は一様に口が堅いという。
良くテレビにでてくる原爆の語り部。
あんな話しが出来るのは、本当に悲惨なところを見てなかったからだ。
とは口癖であったそうだ。
948 :
名無し三等兵:04/08/08 15:26 ID:JiBQ4F5A
ウチのオヤジ、あの悪名高い731部隊員だった。一般に言われてる事より
もっとひどい事が行われていた。書ききれないほどたくさんの人体実験の
話を聞いた。自分の父親ながら、平気でそんな話ができる父親の人格を疑ったが
中国残留孤児の番組を見ると、涙を流していた。人間の多面性と不思議さを見た。
>>946 > 東京大空襲の日は現在大学の敷地内の山に避難してたそうですが、親父のすぐ傍に
> トイレットペーパーのような銀紙のかたまりが落ちてきたとも言ってました。
チャフ…?
>>948 安心しなさい。
731部隊の人体実験話は捏造だから、それはきみのお父さんの作り話だ。
君を売国サヨに育てようとしたんだよ。
慰問袋に入ってくるウイスキーとかりんとうが楽しみだったらしい。
>立川の工場が爆撃されたときは地響きがすごかったとか
そういや何年か前に家の近く(立飛工業付近)で不発弾見つかって、
立川駐屯地の陸自隊員の人が「ひなんしろ」っていってまわってたな。
漏れの爺さんの兄弟は全員身長が160糎以下で全員丙種だった。(兵隊不合格)だが、米屋をやっていた為力だけは凄くて、一人であの重たい3年式重機関銃を担いで走り回ったところ丙種だったのが甲種になった。
また、別の兄弟の方は96式軽機関銃を装備と一緒に抱えて走り回ったそうだ。結果、全員戦地に行くことに。
長男戦後病死
次男ガダルカナルにて戦死
三男同上
四男ペリリュー?にて戦死
五男サイパンにて戦死
六男硫黄島布陣中、艦船沈没により戦死
七男の爺さんは三菱名古屋工場にて生産管理事務職の為、生き残った。キ46を作っていたそうで、口癖は「急旋回すると翼に皺がよるから空戦禁止!だった。」
爺さん、安らかに。。。
>>955 1/7か。
プライベート・ライアンどころの騒ぎじゃねえな。
もうすぐお盆か。
合掌。
948=952
( ゚д゚)ノ○ チンセイザイ ドゾー
俺の友人の勤め先に85歳になる爺さんがよく客としてくる。
まだまだ元気で、『戦争中はインドまでいった』というようなことを言っていたので、友人が話を詳しく聞いているらしい。
やはりインパールからの帰還者で、爺さんの戦友の書いた一冊の自費出版?の小冊子を見せて貰ったところ、所々に赤線が引いてある。
どうやら『赤線引いてある所がワシと関係のある部分』らしい。
その中にこんな一文を発見。
『千五百人いた大隊の生き残りは四人になった。』(意訳)
その爺さんこそ祭兵団吉岡大隊の極限の戦い、ライト何とか高地戦の僅か四名の生き残りの一人だそう。
著者の戦友はそれ以前に負傷で後送されて助かったとのこと。
>>955 御冥福をお祈り致します。(-人-)
墓参り行けよ!
962 :
946:04/08/09 04:22 ID:ESTk1dzN
>>950 どうでしょうね。当時は怖くて触れもしなかったそうです。
あと、現在こどもの国の近くにB29が墜落して、憲兵隊が現場を確保
する前に、いち早く墜落場所に行ってみて、まあ当然部品が色々散乱してるわけですが、
搭乗員の長靴が落ちていたので拾ってみると、まだ中に足が残っていたとか…
羽田に一式陸攻を見に行った事とか(親父は「葉巻」と言ってました)、どういう縁か忘れてしまいましたが
「隼」設計の糸川英夫教授と懇意になって、風洞実験を見せてもらったりとか、まあ戦中世代の体験談には事欠かない人でした。
(戦地へ赴いた訳ではないので、他の皆さん程峻烈な体験は聞けませんでしたが)
残念なのは親父は戦後町田に昭和三十年代に一度行ったきりで、現在の都会化した風景を見せてあげられなかったことです。
生きているうちに一度連れて行ってあげたかった…
軍板的に萌える話でなくすみません…
初盆なのでついつい、親父を思い出し書いてしまいました…
>>950 おそらく「ウィンドウ」または、「ロープ」だと思うよ。
日本では欺瞞紙と読んでました。日本軍のレーダー妨害のため
上空から散布してました。
うちのじいちゃんはギンバイしまくってたら、連れて行かれてボコボコ
にされたと言っていた。牛肉の缶詰がうまかったらしい。俺は、じいちゃんの
部屋から、花林糖をギンバイしまくって庭に連れて行かれ、ボコボコにされた。
965 :
955:04/08/09 22:27 ID:???
>>956,960
有り難う!在所に行ったら、もう少し詳しく墓誌を見てくる。
>>957 そんなこと考えつきもしなかったYO!
ちょっと、ペリリューってのは自信が無いけど、3年式重機を担いだのは四男の方で96式は三男の方と聞いております。
他には、祖母の実家の兄弟の方も相当戦没者が多そう。あっちは8男1女だったかなぁ。
一人は近衛騎兵連隊所属で、中国戦線で戦死したら専用列車で遺骨が運ばれたなんて話があるみたい。
もう一人は最近まで元気だったけど、現在は筋ジストロフィーで闘病中。。。祖母の在所に行ったら墓碑を見てみたいなぁ。
>>965 日本の為に有り難うございます。
身内の話さえ徐々に解からなくなっている現在
貴方が話してくれる事は大変貴重です。
話せる範囲で出来る限りよろしくお願いします。
俺の爺ちゃん、戦艦武蔵と一緒に海に沈んだよ。
その時、唯一の子供で一歳だったのが俺の母さん。
婆ちゃんは、90年間、爺さんのみを愛して1ヶ月前に爺ちゃんの元へ旅立った。
爺ちゃんが俺の母さんを残してくれなければ今の俺は無かった。
爺ちゃんの生きてる姿が見てみたかった。
968 :
名無し三等兵:04/08/10 02:21 ID:ps3CcVt5
>>967 昭和十九年十月二十四日 猪口敏平少将と共に逝った
貴様の爺さんを尊敬する。ご冥福をお祈り致します。
969 :
犬:04/08/10 03:31 ID:pQUFmYcH
母親に聞いたのですが、家のお爺さんは、特高警察につかまって、
鉛筆指にはさむ拷問を受けたそうです。
ま、まさか、じいさん、共産主義者??
970 :
名無し三等兵:04/08/10 08:48 ID:Hk4pVusp
うちのジーちゃんは戦争中、疾風のエンジンカウルあたりを作っていたそうだ。
>>969 特高につかまるなんてよっぽどのことだぞ。
ごく普通の日本人には全く縁のなかった存在だからな。
973 :
名無し三等兵:04/08/10 22:57 ID:YurxzURw
私の祖父は駆逐艦「潮」に乗艦していました。
部屋に絵が飾ってあるのですが、「ほしう」なんて船あるのか?
と厨の頃は思ってました。
駆逐艦といっても、かなり大きな船だったとよく言っています。
実際、今の護衛艦で言ったらかなり大型の部類だもんな。
ただ、外洋航行時の揺れはすさまじかったそうです。
戦闘についての話は聞いたことがありませんが、今度聞いてみたいと思います。
2年前に亡くなったうちの祖父は戦艦大和の建造に
関わっていたみたいだけど、戦争中のことは
思い出したくないのか、あまり話してくれなかった。
でも「呉のドックで見た大和の勇姿は忘れられない」と
ぽつり呟いていたのを覚えてます。
比島で戦死した私の祖父の兄は戦地に赴く前、
自分の部隊は火炎放射器を扱っており、比島に渡ってそれで敵の戦車を蒸し焼きにするのだと祖父に話してくれたのだそうです。
炎が10メーター届くかどうかという代物で些か心もとないとも語っていたそうです。
何かの書籍で帝国陸軍は火炎放射器を対戦車火器と位置づけていたという話を読んだことがありますが、
実際そういう想定の元、将兵の教育をやっていたのですね。
しかしまあ、いくら身内とはいえ部隊の移動先やら何やら色々喋り過ぎでしょうね。
親しい友、親兄弟からスパイの耳へとはよく言ったものです。
内地で予算の分捕り合戦
普通に軍隊に入って普通に訓練して、普通に生活してたら戦争が終わったらしい。
だから、ここに書かれてるような立派なお話はないんだなこれがw
>>977 今の時代しか知らない日本人の事を考えたら
比べられないほど立派だよ!
>>978 それを言うなら我々も、あと五十年でも生きれば自動的に立派になる訳か・・・
ありえない(´・ω・`)
980 :
名無し三等兵:04/08/11 03:24 ID:o5xj5O84
俺のじいちゃんは、251空(台南空)の上整曹だったよ。
開戦時に台南空に配属されてフィリピン〜ラバウルまで転戦し、
251空の解隊後、105基地(ラバウル?)に転属して終戦をむかえたらしい。
とても陽気なじいちゃんだったけど、戦争の話をする時にはとても悲しそうな、
寂しそうな顔をして、目にうっすら涙を浮かべていた。
じいちゃんが死んでから、遺品を整理している時、軍の履歴表を見つけて自分の
知らないじいちゃんに出逢った。
それから、戦争について調べていくうちに、ラバウルでのすさまじい激戦のことを
知り、じいちゃんの悲しそうな、寂しそうな顔の意味がやっと理解できた。
米国の航空機に太刀打ちが出来なくなっていた大戦末期、自分が精魂込めて整備
をすればするほど、戦友を死に近づけることになる。朝出撃を見送った戦友は夜に
顔をあわせることはほとんど無かっただろう...
あの大戦で、じいちゃんは何人の戦友を見送ったんだろう?
生前、詳しい戦争の話はあまり聞けなかったけど、じいちゃんの目に浮かんだ涙が
戦争の悲惨さを物語っていた。
たまたま生きた時代が大変そうに見えるだけ。
いちいち今の時代がどうとか卑下すんなや。
>たまたま生きた時代が大変そうに見えるだけ。
( ( ( ( ( (゚∀゚) ) ) ) ) ) デンパ
キタ─wwヘ√レvv〜(゚∀゚)─wwヘ√レvv〜─ !!
個人の苦労と世代の苦労は別だわな
こちらのスレッドには初めて書き込ませて頂きます。それに
しても、興味深い話が沢山ありますね。
自分が小学生の頃、TVで「ビルマの竪琴」が放映されてい
ました。私と父はそれを観てたんですが、突然父が「お前の
爺さん(父の父)も、ビルマに行ってたんだ」と話し始めました。
よくよく聞くと、「インパール作戦」に参加してたとの事で、派
手な戦闘の話は聞けませんでしたが、終戦で捕虜になった時
の話をされました。
何百人もの日本兵が横一列に並ばされ、その前を部下を従
えたイギリス兵が歩き、合図をすると列から日本兵が引きずり
出されて射殺されたとか。どういう基準で射殺対象となったの
かは、全く不明です。
転載です。
526 :おさかなくわえた名無しさん :04/08/09 11:19 ID:99d5eF6P
戦時中の話じゃないけど
じいちゃんは薬剤軍曹だったんだが、特に笑えるエピソードは無いんで割愛
で、問題なのが戦時中中国戦線で従軍看護婦やってたばあちゃん
従軍看護婦ってのは、前線の殺伐とした雰囲気でスレる上
兵隊たちにちやほやされるもんで、大抵古兵や下士官、将校も恐れる鬼看護婦になる場合が多い(じいちゃん談)
親父が小学生の頃の話だが、ただでさえばあちゃんに頭が上がらないじいちゃんなのに
あろうことかコソーリやってた浮気がバレた
・・・ばあちゃんがブチ切れて、床の間に架けてあったじいちゃんの軍刀を抜き払い
「この前線も知らん軟弱軍曹風情がぁ!性根を叩き直してくれる!」とじいちゃんを追い掛け回した
じいちゃんは堪らず家を逃げ出し、親父がばあちゃんを必死でなだめた後探しに行った所
河原の橋の下でひざを抱え、子犬のように震えていたと
ばあちゃん怖い
http://life5.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1083152164/l50
>>985 薬剤は士官だけで、下士官にはいなかったはずですけどね。
(衛生部軍曹、ということでしょう。)
薬剤師の下士官はどうなんだ。
スレ違いかもしれませんが。8日のウルルン滞在記。ラバウルの話でした。
日本軍、良い事しまくつたみたいで。滞在先の爺さん軍歌歌いまくりでした。
「日本軍との別れが一番つらかつた。」のせりふに感動、また童謡を教えた兵
が居たようで、もしもし亀よが物物交換の合図だつたそうです。
断片的にしか聞いてませんが、3年前に没した祖父は
通信兵だったそうです。大陸には行ってないみたいです。
祖母は大連生まれで釜山にも住んだことがあるみたいです。
戦後引き上げじゃなく戦中に瀬戸内海の島に来たそうです。
島の沖合いに大和他、駆逐艦などが迷彩を施してよく浮いていたそうです。
呉のドック爆撃に行く時には大編隊が島の上を通っていたみたいです。
>>988 別れの時の「海ゆかば」
泣けましたね・・・・
991 :
名無し三等兵:04/08/13 01:23 ID:JUTofhn/
17年前に亡くなった父は、学徒出陣で台湾の飛行第十戦隊にいました。
百式司偵に乗り、大和沈没海域にも行ったって言ってました。
P38にはよく追いかけられたらしく米軍パイロットの顔も良く見えたらしいです。
特攻出撃するも、嵐で与那国島に不時着。その時の傷が頭に残ってました。
昔はよく、飛行第十戦隊の会のハガキが来てたけど、当時の戦友の方に父のことを聞いてみたいです。
もう10年も前に死んだ爺さんの話。
小さい頃はよく爺さんと風呂に入っていたんだけど、爺さんのシワシワの
お腹に縦に傷が入っていた。結構大きくて目立つ傷だった。先の戦争で
アメリカ軍に刺された傷だということで、いつも一緒に風呂に入った時は
その話を聞いていた。
ある日、ふと婆さんに爺さんのお腹の傷について聞いた見たところ、
「あれは盲腸の傷だよ。お爺さんは戦争中は工場でレンズを作る技師だった
から戦地には行ってないけどねぇ、お爺さんにからかわれたんだよ。」
そのことを爺さんに話すと、悪びれない様子で笑っていました。そんな
江戸っ子爺さんしか戦争の話を聞ける人はいなかったけど、夏になると
あの風呂での話を思い出す。
爺さんは台湾と中国へ行ってた。
陸軍兵だったらしく、何度も危険な目にあったが
中国の人に助けられたと聞く。
その爺さんの兄はパプアニューギニアで餓死。
その爺さんの義弟はトラック諸島で高射砲を使って
アメリカの軍用機を打ち落とすという仕事をしてたらしい。
「高射砲撃ってもなかなか当たらない、撃っても撃っても米軍機のシッポの方にいってしまう。」
と言ってた。
また、こうも言ってた。
「俺たちは祖国日本の為を思って戦った。本気で戦った。
死ぬ気で戦った。あれだけ日本のことを思って戦ったんだ。
それなのに日本は負けた。何故だ?
さあ、これから駐留アメリカ軍が日本を占領しに来るぞ。
負けた日本はこれからどうなる?
お前ら若い奴らには俺たちがどれだけ日本のことを思って戦ったか、
その苦労を理解できないだろう? 俺たちがあれだけ戦ったのに日本は負けた。
その苦労と悔しさが理解できる若い奴らは今の日本にほとんど居ない。
でもわかってほしい。」
>>992 そんな老人、結構多いよなw
>>993 不謹慎だとは思うが
>それなのに日本は負けた。何故だ?
この一文を見た瞬間に脳裏をよぎる定型文が・・・
まぁ悔しかったんだろうな
ガノタとは罪深いのうw