自営業阻止
2げっとおおおおおおおお!!!
5 :
名無し三等兵:03/08/27 15:12 ID:uX6TWXyr
2get
6 :
名無し三等兵:03/08/27 15:39 ID:a8Av3/Cx
死んだ祖父さんはインドで英軍の捕虜になった。
(当時の三井の駐在員だったらしい)
子供のころ、ぼろぼろのマグカップを見せてもらった。
7 :
名無し三等兵:03/08/28 14:11 ID:Xnz956BS
うちの祖父は大阪?の方の兵器工場で鉄帽を作っていたそうです。出入り口のところに
兵隊がいて厳しい検査を受けたとか、軍需工場勤務だったので、非常に優遇されたと言っておりました。
ただ、ひとつ疑問があるのです。
祖父の話によると、工場の裏には広い空き地があって、そこで鉄帽の強度検査の為に小銃で鉄帽に
試し撃ちをしていたというのです。射距離は100メートルくらいと言っておりました。
私は、鉄帽が小銃弾に耐えれるはずが無いと思い、祖父にこう聞きました。
「えっ、銃弾はヘルメットを普通、貫通するんじゃないの?」、すると、
「銃弾が貫通しては鉄帽の意味が無いじゃないか」
と、当たり前のように言ったので、私はこの話を信じます。
でもいくら帝国陸軍の鉄帽がクロームモリブデン鋼でできていても、
小銃弾は貫通しちゃうだろうとも思っちゃうのですが、誰か旧軍の鉄帽の強度に詳しい方、
おられましたら、お教え願えませんか?
さっきうちのじっちゃんがどこかのじっちゃんと
「親父が日露戦争にいっとった」
と話していた気がする。
>>7 鉄兜は真正面から命中しない限り、貫通しにくかったとのこと
ビルマの竪琴に出演
11 :
名無し三等兵:03/08/28 20:07 ID:HjUzP5EU
オレのじいさんは一度も鉄砲玉を打った事が無かったそうな。絶対に
撃つまいと誓っていたらしい。しかし、オレたち孫には体験談を決して
語ってくれなかった。じいさんの死後、叔父から聞いて初めて知った。
伯父は中国人の野戦病院を襲い傷病兵を切り殺す。復員後、顔つきが変わって
しまったらしい。
もうひとりのじいさんは第一次大戦時だったが裏へ金を回して
徴兵を逃れたらしい。
>>7 確か、鉄帽を作るときに、何百メートルかで、
小銃弾を防げるようにと言う要求項目があったはずです。
ですから、ある程度は防げるはずですよ。
鉄帽は、表面に直角若しくは直角に近くに当たれば貫通します。
弾丸を跳ね返すのではなく、逸らせるというほうが正しいです。
弾丸を逸らせた痕は凹んでるし、当り所が悪くて貫通痕の有る鉄帽も有ります。
14 :
7:03/08/29 00:08 ID:l65gNaCA
いやー
>>9,12,13さん、どうもありがとうございます。
鉄帽って、案外強度があるもんなんですね。
さすが帝国陸軍、といった感じです。
できれば
>>12さんの要求項目も知りたいですが、これでも十分です。
長年の疑問が晴れました。ありがとうございました。
機銃弾は防げまい
>>15 いくらなんでもな
頭ごと持ってかれるだろ
18 :
名無し三等兵:03/08/29 01:13 ID:UPWrnxmx
母親から聞いたんだけど、俺のじいさんは、満州にいてシベリアに
抑留されてらしい。満州では家族と生き別れになって、日本に帰国
してから、おれのおばあさんと結婚したんだってよ。
19 :
名無し三等兵:03/08/29 01:36 ID:xQvUgnNU
うちの祖父は下宿の2階物干しで寝ているところを
P51の機銃掃射を受けました。
パイロットと目が合ったそうです。
俺のじいさん、ハルピンで満鉄の総務かなんかやってた。
引き上げの時貯めたお金日本に送ったけど
帰ったら1円も日本に着いて無かったんだって。
カミさんのおじいさんは海軍で宮古島に終戦間際にいたみたい。
部隊とか何やってたとか全然わかんないけど。
うちのじいさんは、海軍の志願兵だった。セーラー服きた写真みたことある。
小学生のときに聞かせてもらった話だから、あんま覚えてないけど
とにかく、メシにありつきたかったから、食糧の豊富な海軍に志願したらしい。
いまでも、じいさんの家にいくとセーラー服の写真かざってあるし、
じいさんの部屋に入ると、なんだかよせがき(?)みたいに、
いろいろ書かれてる日本旗がかざってある。
22 :
名無し三等兵:03/08/30 11:00 ID:caOxs+qI
》17
私も怪しい話とは思いますが、誤り伝えられただけかもしれません
23 :
名無し三等兵:03/08/30 15:16 ID:zperSqkO
野戦病院の襲撃って実際に例があるの?
>>23 追い詰められた場合ならありえる
アッツ島最後の突撃の際、野戦病院が襲撃されて負傷兵や手術中の患者が皆殺しにあった
25 :
カラシニコフ:03/08/30 15:32 ID:OUgjJg9M
私の母方の祖父は海軍兵学校の生徒でした。
祖父は日本の海軍はイギリス・アメリカと並んで世界最高峰の
海軍の一つだと言っていました。海軍の教育を聞くとかなり
厳しいらしく、階段は走ってのぼらなくてはならなく、先輩
に何回殴られたか数え切れないとも言っていました。まだ
祖父は生きているのでなにか皆さんが聞きたいことがあったら
私にいってください。ちなみに祖父は大和を見たといっておりました。
乗ってはないようですが・・・
26 :
名無し三等兵:03/08/30 16:34 ID:Z+nSRIoR
うちのおじいさんは京都で軍馬に乗ってたんだけど、
馬っていうのはバカだから市電の線路に足引っ掛けて転倒&落馬。
その直後、後ろ走ってた仲間の軍馬に挽かれて大怪我で入院したんだよ。(w
祖父の兄。
大和の「おおづつ」の係りだったとか。
竣工時からずっと大和一筋でそのまま戦死だそうです。
「おおづつ」って大砲ということですか?
>>20 財産持ち出し制限があったから、
おじいさんは何がしかの不正規送金をしようとしたのでしょうね。
更に戦後に日本はデフォルトを宣言していますから。
それでウチの祖父母も一文無しになりましたよ。
ばあちゃんいわく、「日本はまだ平気だと思っていた」と言う事です。
なまじ、平和だった満州では
日本が負けるなんて事は考えられなかったみたいですね。
>>28 そうなんですか。全然知らなかった・・。
母親とその兄弟は一緒に逃げてきたから今度聞いてみます。
その時の聞いたエピソード。
逃げる時、当時6歳だったおじさんが落ちてたラッパを拾い
それを吹きながら歩いていたそうな。
するとどこからとも無く中国軍が集まってきて
それは中国軍のラッパだ!勝手に吹いて!お前ら全員殺すと
銃を突きつけられたそうな。
じいちゃんばあちゃんが土下座して謝っていたところ
引き上げを手伝ってくれた雇っていた中国人が
「この日本人は良い人だ。許してあげてくれ」
と、一緒になって土下座してくれて助かったらしい。
当時じいちゃんは関わった人(国籍問わず)に
常に親切にしてたみたいで、そのおかげみたいです。
色んな意見あると思うけど「五族共和」を心掛け、
実行していたしていたじいちゃんを俺はすごく尊敬しています。
長文スマソ
じいちゃんの話は以前書いたのですが、義父からも話が聞けたので出します。
義父は戦時中、調布に住んでいました。調布といえば244戦隊。
近所に住んでいたこともあり、迎撃に上がって行くのをよく見てたそうなんですが、
「足が浮いて、上昇したなと思ったらそのまま落ちてくる事がよくあった」
飛燕の稼働率が低いのは知っていましたが、稼動中の故障とは…
義父は当時、小学生でしたがF6FやP51によく追っかけられたそうです。
本当に動くものなら見境無くで、同級生も校庭で撃たれて死んだのが何人も。
こういう話を聞くと、直接目視でやってるぶん無差別爆撃以上に腹がたちます。
盆休みに親父の実家で聞いた話です。
大叔父(祖父の末弟)は昭和19年に海軍通信学校(横須賀?)の豊川分校に
年齢をごまかして入ったそうです。
学校は豊川稲荷のそばに在ったそうですが、数年前に行ってみたらその面影も
なかったそうです。
教科は4ヶ月の速成教育。毎週試験結果が張り出され、上位50人に入らないと
放校になるので不安で仕方がなかったそうです(落ちれば普通に赤紙で召集でした
から)。幸い、38番で卒業できました。
また、ケツバット等の私的制裁には無縁ではいられなかったそうで。
卒業後は舞鶴に通信兵として勤務したそうです(舞鎮か?)。受信文が不完全で
穴だらけのものが多く、文脈から補ったものの、持っていった電文を「何だこの文は!」
と参謀殿に突き返された事があったそうです。
また、防空壕の中の勤務で、中は真っ暗、一度中将殿(舞鎮の司令官か?)と
通路で鉢合わせして焦りまくったとのことです。
終戦後、退職金(と大叔父は言った)をもらい、昭和20年10月にこれまでの
貯金(使う暇がなかったそうだ)とを合わせて400円を持って帰省したら、
親が腰を抜かしたそうです(当時、1俵19〜20円とのこと)。でも、戦後のインフレで
21年の1月には1俵200円にもなったため、慌てて使ってしまったそうです。
伯父(父の長兄)は大叔父の1学年下で、昭和20年2月に入校したのですが、
卒業前に終戦になってしまい、退職金を37円しかもらえなかったとぼやいていました。
我々が戦争や震災の渦中にあったことは事実だが、渦中にさえ
あれば、それを経験したと思うのは誤解である。しかも、老人は
少年を説教するに、常にこの経験を以ってする。
八月十五日、新聞は「終戦」という言葉を採用した。昔なら負け
いくさ、あるいは降参といったものをごまかしたのである。経験
して、やがて忘れたのではない。初めから経験しなかったの
ではないか。
34 :
32:03/09/02 23:59 ID:???
>>33 批評はご自由に。
忘れないうちに聞いたままを書いただけだから。
大叔父も司令部勤務だったから、本当の戦場での苛烈な体験、
という点ではほとんど経験しなかっただろうけどね。
36 :
名無し三等兵:03/09/03 18:10 ID:sQCPys5I
僕の曽祖父は慶応2年(1866)鹿児島生まれ、西南戦争時12歳、日清・日露戦争
に従軍しました。日露戦争の時は老兵ながら、台湾で、近くを通るであろうバ
ルチック艦隊を迎え撃つ大砲の弾はこびをしていたと聞きました。
当時そんな部隊が台湾にいたのかな?あんま意味ないと思うけど。。。?
>>36 台湾の澎湖諸島に海軍の根拠地があった筈なので、
その地の部隊に居たのではないかと推察します。
38 :
名無し三等兵:03/09/03 21:26 ID:2pMmNRt/
>>37 多分曽祖父は陸軍だと思うんですよね、だとしたら砲兵か輜重兵?
もし会うことが出来たらリアルに体験した西南戦争のこととかも聞いてみたかったな。
祖父はまだ30代なので戦争というと八王子のスペクターとか向島のミナゴロシとか
わけわかんない名前が沢山でてきます。祖父は特攻隊長で特攻服には大日本帝国万歳
天皇陛下万歳と刺繍してあります。
40 :
:03/09/03 22:39 ID:???
俺の母方のじいさんは徴兵検査で心臓に異常があるとかで、不合格に
なった。
>>38 台湾には確か混成旅団が配されていたはずですが。
ちょっと手元に資料がないので、記憶に基づく書き込みです。
42 :
名無し三等兵:03/09/03 23:17 ID:Re7l31Bn
43 :
名無し三等兵:03/09/03 23:26 ID:T3f8f92p
1、ヒキガエルを食べた仲間が死にまくる。
2、満州で農業を教える(何の役職だろ?)満州が崩壊で一文無し。
(´・ω・`)
ウチの爺さん曰く。
「川の向こうから敵の戦車がやってきて、
お偉いさんが逃げたのでしょうがないから
自分が戦車に乗って敵をやっつけた」
ウソこけ。あんた一介の衛生兵だったろうが。
そんな爺さんはシベリア行って(これは事実)帰ってきて
今日風呂場でこけてました。
>>39 自分のことを書かんでもいい(w
そこんとこ夜露死苦。
会社の部長のお父様の話。
赤城の対空機銃を担当していたそうです。(もちろんミッドウェーまで)
その後大和へ配属(やはり機銃打ち)で、
沖縄特攻の際は怪我をしていて呉の病院にいたとか…
一度お話聞いてみたいです。
スレ違いsage
47 :
通りすがり:03/09/07 04:34 ID:FQnRz+X0
私は結構おじさんなので・・・。
うちの父親は中国で陸軍の小発艇の運転手(山崎部隊)。
時々代理で大発艇にまめ戦車積んで上陸してた。
未明に上陸するときは、指揮官艇に大きな十字架がついていて、
それに緑色の明かりがともる。
右が下がれば右へ、左が下がれば左へ。とても綺麗だったと言っていた。
上陸作戦がないときは、荷物を積んだ船の護衛して川を進む。
時々襲撃を受けたりしていたらしい。
病気になって入院しているうちに、部隊はアッツ島へ行って全滅。
うちのお爺さんは203高地で塹壕堀り。
足怪我してこれで帰れると思ったら、直ってしまい、奉天大会戦へ。
だそうです。
48 :
名無し三等兵:03/09/08 22:49 ID:i5DFzuYs
age
712 :名無シネマ@上映中 :03/09/08 23:50 ID:lL+l7yn7
たぶん、ウソ(だと思うのだが)。美しく言えば都市伝説。で、一席。
十年ぐらい前の話。とある海上自衛官の結婚式。
披露宴の席上、新婦の祖父という方が、孫娘の晴れの門出に祝辞を述べた。
老人は旧海軍出身。いわく、
「かつての自分たちがふがいないばかりに日本は負けてしまった。
その結果、現在にいたるも皆さんにご迷惑をかけている…。うんぬん…」
ホロ酔い気分だった海自の列席者は、老人の話にだんだん酔いが醒め、
ついには全員がシンとなって聞き入る…。
老人の話が終わった時、仲人を務めた海自のエライ人が新郎に尋ねた。
「おじいさんは、どの船に乗っておられたのですか?」
新郎は言いにくそうに一言。
「大和です」
次の瞬間、会場の海上自衛官たちは転がりそうな勢いで立ちあがり、
イスが倒れるのも無視して、全員が直立不動で老人に敬礼。
もちろんソースなし。この目で見たわけでもありません。
ネタということで……。お目汚しスマソ。
50 :
名無し三等兵:03/09/09 14:18 ID:+DHC9OEm
陸軍で衛生兵やってた祖父と兄が映画館に『連合艦隊』を見にいった時の
話なんだけど、上映が終わったら見ていた他のじいさんが『海ゆかば』?を歌い出し
そのうち全員で泣きながら大合唱になったそうです。
51 :
名無し三等兵:03/09/09 14:53 ID:j0trbBe0
漏れの祖父は河北省の保定で銭湯を経営していた。
漏れに父は祖父の元へ一人で日本から中国へ行った。
行程は金沢→大阪→下関→長崎→上海→保定
親父は当時12歳のガキ、人買いによくつかまらなかったと思う。
漏れは23歳のとき同じルートをたどったがくたくたになった。
昭和1桁世代は違うと思った。
広島に住んでた時、毎年夏に年寄りの被爆体験を聞かされた。
ほとんど擬音だけで何言ってるか意味不明。クラスの半分が寝てた。
その後の資料館入り口の蝋人形ははっきり言って怖すぎ。あれは
トラウマになった。
53 :
名無し三等兵:03/09/09 22:47 ID:jNMGEiXH
私の祖父は終戦の年に招集されてフィリピンに送られて戦死してしまったので
何があったのかさっぱりわかりません。
田中大隊とかいうそうですがどなたかご存知ありませんか?
母はいまだに横須賀港で別れた時の夢を見ます。
当時まだ3歳でした。
>>53 > 田中大隊とかいうそうですがどなたかご存知ありませんか?
当時の日本陸軍では、部隊名を隊長の名で呼ぶ習慣がありました。
田中さんが大隊長をしていたから、田中大隊という訳です。
大隊はそれほど大きな部隊ではありませんし、田中も珍しい姓ではありません。
実際、ちょっと検索をかけただけでも、フィリピン戦に参加した「田中大隊」
は2つ出てきました。探せばもっとあるでしょう。
もう少し詳しい情報は判りませんでしょうか?
55 :
名無し三等兵:03/09/11 20:08 ID:PNjBr0jY
53です。レスありがとうございます。
祖父の兄弟は他界してしまって、祖母はもう口のきけない状態なので
本当に何もわからない状態です。
戦後同じ部隊にいたという人が訪ねてきましたが、いわゆる復員詐欺
でしたので話に信憑性が無いそうです。
その人の話にしても途中で別の島に異動したので最期はわからないということでした。
56 :
名無し三等兵:03/09/11 20:51 ID:raS+Y8Fn
少しスレ違いかもしれないが…
先日、祖父が他界した。(88歳)
戦時中は中国大陸を転戦し、ニューギニアで終戦を迎えた。
祖父は話し好きで、家族は戦争の話を耳にタコができるほど聞かされていた。
葬式も終わり出棺の時、棺には副葬品として戦争の本が入れられた。
しかし、その題名はなんと「陸軍少年特攻隊(うろ覚え)」!
「そんな話は聞いてないし、祖父とは関係ないのでは??」
と思ったが、棺はそのまま火葬場へ…
後で理由を聞くと「戦争の本だから」ということだった。
それならニューギニアの本とかもたくさんあったのに…
家族の皆さん、あれだけ話を聞いたのに何にも理解してなかったのですね…
57 :
海軍中将:03/09/11 20:54 ID:tj1kM+3F
>>49 軍事板の他所スレでも見たぞ
そのときは「武蔵」だったがな
所詮ネタじゃよ ネタ フォッフォッフォッフォッフォッフォッ
58 :
名無し三等兵:03/09/11 20:57 ID:raS+Y8Fn
少しスレ違いかもしれないが…
先日、祖父が他界した。(88歳)
戦時中は中国大陸を転戦し、ニューギニアで終戦を迎えた。
祖父は話し好きで、家族は戦争の話を耳にタコができるほど聞かされていた。
葬式も終わり出棺の時、棺には副葬品として戦争の本が入れられた。
しかし、その題名はなんと「陸軍少年特攻隊(うろ覚え)」!
「そんな話は聞いてないし、祖父とは関係ないのでは??」
と思ったが、棺はそのまま火葬場へ…
後で理由を聞くと「戦争の本だから」ということだった。
それならニューギニアの本とかもたくさんあったのに…
家族の皆さん、あれだけ話を聞いたのに何にも理解してなかったのですね…
いい加減反応しやがれ
先日、祖父が他界した。(88歳)
戦時中は中国大陸を転戦し、ニューギニアで終戦を迎えた。
祖父は話し好きで、家族は戦争の話を耳にタコができるほど聞かされていた。
葬式も終わり出棺の時、棺には副葬品として戦争の本が入れられた。
しかし、その題名はなんと「陸軍少年特攻隊(うろ覚え)」!
「そんな話は聞いてないし、祖父とは関係ないのでは??」
と思ったが、棺はそのまま火葬場へ…
後で理由を聞くと「戦争の本だから」ということだった。
それならニューギニアの本とかもたくさんあったのに…
家族の皆さん、あれだけ話を聞いたのに何にも理解してなかったのですね…
60 :
名無し三等兵:03/09/11 20:59 ID:raS+Y8Fn
( ゚д゚)ポカーン・・・
62 :
名無し三等兵:03/09/11 21:55 ID:p+HweS+J
俺はじいさんが嫌いだった。軍人だったからだ。俺が大学の時死んじゃったけど。
しかし、2ちゃんのおかげで正しい歴史に目にし、激しい後悔が...
俺のじいさんは鹿児島で特攻隊を送り出した大佐だった。
もっと話を聞いておけばよかった。
高校の頃、俺によく言ってた言葉を今でも覚えてる。
「○○君。ワタシらは一生懸命だったんだ。一生懸命やりすぎた結果が
あんなことになってしまった。一生懸命になりすぎたらいかん...」
今は毎年霊前で後悔してる。
うちのおじいちゃんなら靖国神社で海軍の服着て徘徊中だがなにか
本物の軍人はボケねーよ。
>>64 ウチのじいちゃん、二週間ほど兵隊しましたが、ボケました。
もう、80ちょい手前だったからね。
仕事人間だったから、仕事をリタイヤしたらすぐにボケましたよ。
(自営だったから、ここまでやっていました。)
あれれ?あんなにしっかりしていたじいちゃんが、様子がおかしいな?
と思ったら、すぐにネタきりになりましたよ。
人間、目標が無くなるとダメみたいですね。
じいさんでなく父ちゃんなんだが、陸軍の少年飛行兵だったということが
わかった。岐阜で訓練受けてたが訓練途中で終戦になったらしい
本人になにか当時の資料でも見せて懐かしんでもらおうと思ったけど
検索しても出てこないねえ
>>65 ウチには80過ぎの大正生まれ爺さんがいるが、ボケ防止のために
2ちゃんデビューさせようかと思う。血圧上がって逝っちゃうかもしれないが。
さすがに2chはまずいのでは・・・
>67
御老体にはお薦め出来ない。
素直に話し相手、文通相手になっておやんなさいよ。
>>67 あなたが話し相手になるべきである。
御爺様がお元気であることが幸せである。
71 :
名無し三等兵:03/09/15 22:44 ID:EQTzfE8Y
age
72 :
名無し三等兵:03/09/15 23:28 ID:btYsY5YN
ばあさまはヒコーキを作っていたと言っている
ヒエンの排気管だったかな?プレスしたものを組み立てたのだけど
長さがぜんぜん合ってないので、無理やりハンマーでたたいたそうな
こんなんで空、飛んで良いんだろうか?と思ったとか
女学校の学徒動員だと思う
>>72 う〜ん、作っている方も解っていたんだろうね。
じい様は支給されたゴボウ剣がヤスリがけの跡が付いていて、
「こんなものまで」とびっくりしたそうな。
じいさんじゃないけど、リアル消防の時の先生は、元兵隊だった。
ジャングルの中をさまよったことがあったそうだ。
あんまり詳しい話はしなかったけれど、思い出したくない記憶だったからなのか、
子供に聞かせられるような話じゃないと判断したからなのか。
定年を迎えたのは今から30年近く前、まだご存命なのだろうか?
75 :
名無し三等兵:03/09/15 23:48 ID:ywUagKoi
私はおじさんなので、父親の話をします。 父は陸軍の飛行兵で
呑龍や屠龍、新司偵などに乗っていました。私の子どもの頃は
夕食時によく父親から陸軍軍隊内の日常生活をこんなことがあった
あんなことがあったなどとよく聞かされました。グラマンに追い
かけられたが新司偵の速さでどうにか助かった。特攻に随伴して
戦果確認をしたがほとんどが落とされてしまったとかここに書ききれ
ない位のたくさんの話しを聞けたのは今にして思えば非常に貴重な
経験だったと思っています。まだ父親は健在ですからもっと話しが
聞ければと思っています。
>>74 わしの小5の時の担任も元兵隊。
食い物の話ばかりしていた。ビルマ戦線に行ってたらしい。
部隊の残存火力を集めて、夜襲をかけて食料を分捕った話をしていた。
道徳の不撓不屈ネタは、全部戦争モノ。
彼の影響で軍オタになった。
一度、学校放送で「M先生が、海外旅行をされた時の話をしていただきます。」
というので、
「ほう、M先生って海外旅行に行ったんだ。」と囁き合った。
しかし、その紹介の後、流れてきたのは、
「ラングーンに進駐した我々の部隊を待っていたのは〜。」
というM先生の気合いの入った声だった。
78 :
名無し三等兵:03/09/16 00:05 ID:2PolmHef
>>76 ビルマは7割戦死したけど東南アジアの物資ルートを細いながらも最後まで守りきったんだよね
日教組の力が強い土地で育った漏れにとっては、元兵隊が先生になれたことが奇跡的にみえる。
80 :
名無し三等兵:03/09/16 01:49 ID:h6+sQYOH
>>79 あまりに直線的な発想でなんとも
戦争世代なら兵隊帰りが当たり前。教師でもその世代なら兵隊帰りも多いはず。
それ以前に日教組が教師を採用したのか?
どうかなー。教師は兵隊に取られてないし、比率的には多いのかなあ。
父方の祖父は田舎の国語教師で、兵隊には取られずにすんだし。
母方の祖父は大陸戦線へ衛生少尉として赴いたらしいけれど。
まさかその視力を買われて、士官候補生の下士官時代には狙撃兵だったとは驚いたなあ。
師範学校出身者は、短期現役。
徴兵に取られても、すぐ娑婆に帰してもらえる。
まあ、大戦末期はそんな余裕もなくなってたけど。
83 :
名無し三等兵:03/09/16 03:12 ID:amck2Iqf
うちのじいさんは師範学校卒業寸前が直後に終戦を迎えたらしい。
かあちゃんからの又聞きだからよくわからんけど。
84 :
名無し三等兵:03/09/16 06:20 ID:z0vedu8C
うちの祖父は徴兵検査の2〜3ヶ月前に伝染病にかかってたので、
検査に合格出来なくて家に帰らされたそうな。
85 :
名無し三等兵:03/09/16 09:19 ID:B88rRSi4
>>30 自分のじいさんは自分が大きくなる前に死んでしまったので、知り合いの
会社経営してた人の話なんだけど(今は故人)。
大陸から引き上げるときに、囲まれ、人民裁判みたいなのをやられたときに
「この人はいい人です。」と証言してくれる人が現れ、一命を取りとめ
帰国できたのとのこと。自分はとくに何か親切をした覚えはなかったが、
彼らから盗まず、馬鹿にせず、農業なんかを一緒にやっていたそうな。
>81
前にも書いたけど、漏れの爺さんは女学校の国語教師だったが、都合三回兵隊に
取られてますよ。
最初が徴兵によって中国戦線に行き、次が太平洋戦争前で予備役から現役復帰して
Guam、Guadalcanalと転戦。
負傷除隊となってから、敗戦直前に再招集されて、海岸に穴を掘っていたらしい。
爺様の場合、その勤めていた女学校というのが基督教系の学校というので目を付けられて
いたのかもしれませんが。
漏れの中学時代の担任は大正十五年生まれで、学徒動員世代だったらしい。
何かの授業(道徳だったか)で、戦争に纏わる本を朗読して、突然声を詰まらせて号泣した
時は驚きましたけどね。
普段、泣くような涙もろい人ではなかったので。
87 :
名無し三等兵:03/09/16 12:49 ID:n05QDpvt
ヲレが高校のころの数学教師は中学か高校のころ、勤労奉仕で愛知航空機の
瑞雲の補助翼の羽布張りをやっていたそうだ。
そんなで航空同好会の顧問をしてくれた。で、鳥人間コンテストに参加するのも応援してくれた。
>>87 へぇ、イイ話じゃないすか。
漏れがリアル厨房だった時の社会の先生は、やっぱり戦中世代で
兵隊に行ったといっていた。
陸軍なのにフネに乗っていた、と笑っていたから船舶工兵かも。
で、一番イヤな思い出は?の問いに、
「・・・広島港から、沢山のピカドンの屍骸を海に捨てに行った事。」
と答えた...(鬱
私の工業高校時代の教師は装甲巡洋艦「出雲」でフランスに船舶工学の勉強に行った。
そんで、溶接技術やら多連装砲塔の設計技術やら多層液層防御による水雷防御やらを
日本に持ち帰ったら、平賀派に護衛船部門に飛ばされたらしい。
「私達の持ち帰った技術で戦艦や空母を造っていたならば、史実ほど易々とは沈める事は
敵わなかったでしょう。古い頭をもつ技術屋の罪でしょう。」と、目頭を抑えて語って
おられた・・・
家の母方の爺ちゃん
召集されて
昭和18年名古屋の三菱重工業で雷電の機体のリベット打ちをやっていた
19年以降平壌で陸軍航空隊の整備兵として配属される。
20年特攻機の出撃を何度か見送る。(最初は隼だったが機体が無くなると赤トンボに。
若い17,8の少年兵が赤トンボで出撃していくのを見てなんであんな若い子が出て行かないかんのや。
と泣いて見送ったという。)
終戦になってからソ連軍に拘留されシベリアへ。凍傷を患い22年暮れ帰国。
整備・通信兵だった時の話
キ番号で 43「(配属された時はすでに戦力外。)コールタールで真っ黒に塗って特攻機に使った
45「大砲が付いていて一発でも撃つと機体全体がガタつくので
整備が大変」
46 週に一回暗号文が変わるので東京に紙を取りに行く。そのために
同郷出身の飛行士に一度だけ乗せてもらったことがある。とにかく速かったらしい。
67 でかい。機体の中で立つことができた。
84 オイル漏れがよくあったが、速くて頑丈で敵戦闘機を落としたという話をよく聞いた。
他にも 48 57 100 という数字だけは覚えているがどんな機体かは忘れたらしい。
キ61は見た記憶がないらしい。
名前忘れたスマソ
>>89 ええ話やね・・・。
せっかく持っている自分の技術が頭の固い人のために生かされないなんて、
よくある話だからね。
高校の同窓会誌に富岳の設計に関わった人の
寄稿文が載ってた。
母方
薬剤師。戦争中も国内の研究所で研究をしていたらしい。
あまり当時の事を話したがらない。なんかヤバイことでもしてたんですか。
父方
満州で軍関係の仕事(と言っても経理だったみたい)。
それから兵隊になって間もなくソ連軍に捕まる。
訓練さえほとんどしていないのにと不満顔だった。
収容所に行ったがラッキーな方だったらしく比較的マシなとこに入り比較的早く帰国。
>>96 >あまり当時の事を話したがらない。なんかヤバイことでもしてたんですか。
多分、何もしていないから特に話すことが無いんだと思います。
せいぜい、戦争中は薬が足りなくて、云々って感じなのでしょう。
ヤバイ事した人って、ほんの一部だし、
現在はほとんどが解明されているからね。
>>85 この中国人に証言してもらったって、
もしかして記憶操作なのかな?
というのも、自分のじいさんも言っていたし、
このスレにも多々出てくるんですよ。
もしかして、かなりの中国人がそう言っているのかも知れませんね。
確かに、親しかった自分の隣人が突然裁判にかけられているのですから、
そうやって証言してくれるのも解るような気がします。
多分、今、日本がどうにかなって、隣のアメリカ人が裁判にかけられたら、
自分は「この人は良い人だ」と証言すると思います。
悪いことをしていた人は、ほんの一部みたいですからね。
父方のじいちゃんから聞いた話。
新兵に洗濯をやらせてた。その間自分達は休憩してて、しばらくして
終わったかどうか見にいった。
するとその新兵は隊で一番男振りの良かった人の軍服の匂いを嗅いでいた。
問い詰めてみた。
その新兵はホモだった。
ボコボコにして怪我を理由に除隊させちゃったそうです。
ちょっと可哀相な話ですね。
100 :
漣:03/09/17 16:00 ID:q+P/YS1e
100
家のおじいさんはもう死んでいるけど
戦時中は何とかかんとかという組織に居て、よく人とお話していたそうです
何でも、おじいさんは話し上手でどんなに口の堅い人でも、おじいさんが相手だと何でも話してくれたそうな
>>99 ひどすぎる・・・もっとマシな言い訳できなかったのかな
>>99 その頃にもホモって居たのか。戦国時代じゃよく居たって聞くけど…
>>103 有史以前から現代に至るまで、途切れなく存在してらっしゃいますよ。
家の親戚のじいちゃんは関東軍で縫い物してたよ
ソ連軍が来て撤退するとき、橋を爆破して撤退して来たって言ってた
戦争について話すととっても言葉に重みがあるよ…
ウチのじーちゃんは不良少年、熊本で煙草畑荒らしてたらしい。
ばーちゃんは疎開先で生の大根食ってデキモノがイパーイできたらしい
>98
いあ、まぁ色々言う奴は言うが、中国の人は小さな親切をしてあげると、
それを恩義に思って、一生面倒見てくれる場合が多い。
それなりに、相手に対して失礼の無いように接すると、相手が苦境に陥った
時には、自分の不利益も顧みずその人に有利に話をすることもあります。
全然違う話だけど、漏れなんか、中国の貨物船の船長一行が帰れなくて困っていた
時に、一緒にその船の係留されている埠頭まで連れて行ってあげたことがあるけど、
それ以降ちょくちょくその船長さんから日本に来る度に実家に電話が掛かってきた。
毎回、律儀にお土産なんかも持ってきたりしてね。
上京してからは逢うことが無くなったけど。
>>108 そうみたいだね。
知人に中国人留学生の世話をしている人がいる。ただ、困っていたからという理由で。
世話をした留学生の中にははその知人に、
「うちに来て下さい」と、いう者がいるようだ。
実際にこの夏に中国に遊びに行ったら、歓待に驚いたそうだ。
あるデパートでファッションショーをやっていたそうだが、その留学生はマイクを奪って、日本で世話になっている日本人を紹介したそうだ。
そこにいた客の何人かはその話を聞いて、涙を流し知人に拍手を送ったそうだ。
スレ違いすまぬ。
良い話だなあ。最近ホームステイ先のホスト家族を殺してなんて話をよく聞くものだから、少し心が癒されたよ。
中国じゃなく韓国人だけど
満州だったかで、ロスケが攻めてきたとき
日ごろから親切にしていた韓国人の使用人が
自分の危険も省みず安全な地域まで送ってくれたらしい
義理人情はどこかの国の専売特許じゃないよね
>>111 国じゃないよ、人間なんだよね。
国や人種で分けようとするから、話がおかしくなると。
自分がロシアに行った時はずいぶんと親切にしてもらったものです。
いや、これ、ジョン・レノンの受け売りなんですが、本当にそう思うよ。
>>111 う、嘘だ・・・韓国人がそんなことをするはずがない・・・
俺の爺さん ムカつく上官のところに飯を持っていく時
フケやらなにやらをたっぷりいれて持って行ったらしい
>>99 他の連中もそのいい男を狙っていたりして
((((;゚Д゚))))
>>112 でも、集団になるとどの民族も恐ろしいね。特にロシア……。
狂気は個人の中ではなく集団の中にある
120 :
漫画家・水木しげるさん:03/09/19 12:49 ID:HUXK8Ev3
121 :
名無し三等兵:03/09/19 13:13 ID:bD4B74sp
122 :
リッベンドロップ ◆isOs8mM8tw :03/09/19 14:16 ID:NSWWgdzX
初めまして。
うちのお爺ちゃんも戦争行きました。
中国戦線に配属されて南京の近くにいたって聞きました。
ただ、もともと腕が悪く、更に小規模な戦いで腕を撃たれたため腕が戦いには使い物にならなくなって42年に本土に戻されたといっていました。
その後実家のある栃木で軍馬の飼育をして、何年かは失念しましたが、勲二等を貰ったらしいです。
ほら吹きじじいの特徴
特攻隊員じゃないのに特攻隊員だったと言う
自分は本土で終戦を迎えたのに、激戦地を転戦していたと言う
輜重兵なのに、常に最前線で戦っていた様な事を言う
勝手に二階級特進する
うちの親父は昭和19年生まれ。
実家は佐賀。
祖父は戦時中なにしてたか誰も教えてくれい…
祖父に聞いた唯一の戦争体験。
「家の窓から原爆のキノコ雲が見えた」
あんた家でなにしてたんだ〜!!!
>>123 ほら吹きじじいの特徴2
・「あの事件は実はワシが原因で・・・」と現在では解明されている
事件の原因がじじいになる。
・南方でモテまくりである。
・逆福のタイガーを見たことがある。
・日本が負けるはずが無かった、もしくは勝てる戦争だったと言う。
さくらももこのともぞうじいさんは大酒のみで徴兵検査に落とされたそうだ。
>>123 激戦地を転戦して負傷後送、最終的に内地で終戦ってのはあるよ。
俺の親父方のじいさんがそう。南方を転戦してガダルカナルで餓死寸前。
その後ブーゲンビルフィリピンを経由して本土還送。
おかげで今の俺がいます。が、今でも酒を飲むたびその話を何度も言うので
会った事もないじいさんの戦友のことを俺もよく知ってたり(w
それから、勝手に2階級特進したのは俺の親父方のじいさんの弟。
いや、あのジジイは軍曹だったのに幼い頃の俺に中尉だったって抜かしたから
4階級特進か。いくら星の数が同じでも線が2本足りないだろうが・・・・(w
まぁ、ほら吹きじいさんにやさしく接してあげるのもボランティアだ。
128 :
名無し三等兵:03/09/28 13:44 ID:RzWMBNm3
age
俺の友達はじいちゃんが天皇の守備隊だったとかいってた、とかいってた。
うそくせぇ…。
>>129 単に近衛師団所属ってことだったんじゃないの?
友人に爺さんの話を聞いて回ったら
大和に乗ってたのが三人、空母に乗ってたのが二人、「終戦の次の日に特攻」が一人
この中に正直者が何人居るやら・・・
老い先短い爺様の話だ、下手に突っ込まずマターリ聞いてやれよ
そういうホラも含めて、戦争体験なのかも知れないね。
>「終戦の次の日に特攻」
これは俺も聞いたことがある。
終戦当時、13歳の人なんだけどね。
135 :
名無し三等兵:03/09/29 18:26 ID:qK9MsCVT
5航艦の宇垣中将は15日じゃなく16日に
沖縄に向け出撃したって言う説もあるし・・・
このときは中津留大尉以下10数名が一緒に行ってるし・・・
136 :
名無し三等兵:03/09/29 18:59 ID:Xg81y3kn
おじいさんではないんですが、、(スレタイに反してごめんなさい。。)
僕の大叔父さんの三田中尉は北支に於いて小隊長を務めていました。
昭和19年、支那軍との戦闘後、点呼している途中に谷の上に潜んでいた
ゲリラに撃たれ戦死されました。
その後小隊の人たちは谷を登ってゲリラと戦い、勝ったそうです。
三田少尉以外にも、おじいちゃんの兄弟が3人戦死されています。
もし、他の兄弟じゃなくておじいちゃんが戦死してたら、僕いないんですよね。。
(´Д`;)
>>136 うん、まぁ、そういうものよさ。
ウチのじいさんも、東京大空襲を生き延びたらしいから。
母は戦後産まれだから、その時に亡くなっていたら自分もいないです。
138 :
名無し三等兵:03/09/29 21:37 ID:sm0nbrBz
爺様ではなく、親父の話。
学校出たら太平洋戦争勃発。
海軍に志願して、基礎訓練を受ける。
南西方面と南東方面のどっちがいいかと聞かれて南西方面を志望。
根拠地隊としてインド洋のニコバルへ派遣され、対潜監視任務に就く。
病気を患い内地に帰還。
回復するも戦況は激化。
海防艦長となり、関釜航路を中心とした護衛任務に就く。
終戦。
しばらくの間、掃海を行う。
とりあえず戦果無し、被害無しが親父の自慢です。
>>135 中津留大尉は、城山三郎の本じゃすっかり善人扱いだね。
最初に宇垣中将が命令したのは二機(本人の乗機と先導機)、
参謀が飛行隊に下令した時点で五機に増え、命令を受けた中津留が
飛行隊の可動機全機十一機での出撃に決めた、との説も有り。
ぎりぎりで米軍のパーティを避けたというアレか。
144 :
名無し三等兵:03/09/30 22:17 ID:R4bplQrg
あげると書きこみ増えるから楽しい
145 :
名無し三等兵:03/09/30 23:27 ID:EIp2Tl1M
爺様の弟は大和の航海町だった。
つねずね、日本人の他国文化軽視政策に怒っていたらしい。
旧日本軍は現在の米国軍と同じ体質を持っていたのかも・・。
ちなみに、爺様の弟(おじさんと言う実感がない。)は、
大和と一緒に沈んでしまいました。
146 :
名無し三等兵:03/09/30 23:47 ID:nL/PJDPe
うちの爺ちゃん(終戦時陸軍中佐)は終戦直前まで
満州にいたが、終戦直前に陸軍の爆撃機(機種不明)に同乗させてもらって、
岐阜各務ヶ原の基地に帰還したらしい・・・
帰りの爆撃機の機内は相当緊迫していて、日本海通過中敵の爆撃機らしき
飛行機(B-29?)と遠くですれ違った時、死を覚悟したらしい
ホンマかどうかは知らんが・・・
大尉時代は河(なんていう河か忘れたが・・・)で
渡河中に敵に太腿を狙撃され、マジで死にかけたらしい。
んで、じいちゃんが死んで、火葬場で燃やしてもらった時、
マジで太腿の骨の辺りからライフルの弾が出てきた時は
正直ビックリしたが、肩の骨の近くからも拳銃弾(らしき物体)が
見つかりました。
そういえばじいちゃん、肩不自由やったなぁ・・・
母方のジィさんは、第15軍第33師団にいたそうなんだが。
遺品の中から、戦後になって発行された、かつて第33師団にいた人向けな戦記みたいな本(目は通したけど表題その他詳細は失念)
で、昭和19年にはビルマあたりにいたそうだが。
・・・・・・これってもしや、ジィさんは佐藤幸徳の第33師団の一兵卒だったってこと?
だとしたら、よく帰ってきたものだ。
うちの母方の爺様のお話です。
戦果公開のためか、新潟の市役所の前に撃墜した米軍機
(B29という話だが…)が展示してあったそうです。
ちょんどそん頃、家の鍋が壊れたしまった爺様。
東亞戦争真っ盛り、鉄物資なんか欠乏なんで新し
い鍋なんか手に入らず…そこで爺様考えた!!
夜こっそりと展示してある米軍機からちょっこり
と鉄を拝借。その機体からひっぺがした鉄板で新
しい鍋を作ったとさぁ めでたし、めでたし
ちなみに
爺様の口癖は「イモ食って勝てるわけねーだろ」でしたW
149 :
名無し三等兵:03/10/01 22:38 ID:r9nXwDcM
77歳になるうちの親父。
18歳で志願して北に配属されました。
奉天の840部隊?を経て、ハルピンの11998部隊?の密偵に、その後
3年弱シベリアに抑留されました。
終戦前の7月に日本に3,000円送金したが、届かなかったそうです。
満州では、駱駝というタバコを愛飲していたと言ってました。
150 :
名無し三等兵:03/10/01 23:28 ID:uVTOZjXm
良スレの予感。
152 :
名無し三等兵:03/10/01 23:45 ID:r9nXwDcM
>>151 sage進行の方がいいんでしょうか?
名前、数字、地名等がボンボン出てくるので・・・。
うちの父方の爺様、視力が悪くて徴兵されなかったらしい。
戦中戦後を通して近所から村八部にされ、家族揃って疎開も出来ず
(疎開しようにも近所の人がさせてくれなかったらしい)
空襲を経験して3人いた子供の内私の親父以外の2人が焼死。
その後も食事も生活品もろくに手に入らず家族でひもじい生活したらしい。
戦後に夜逃げ同然で引越しして今にいたる。
「私は戦場に行けず御国のために戦えなかった。
その事が悔しかったがそれ以上に周囲の仕打ちが悲しかった。
昨日まで仲の良かった周囲からされる仕打ちのなんと辛いことか。
私さえ御国のために戦えば・・・本当にすまなかった」と
5年前のお盆に泣きながら仏壇に向かって詫びていたのを覚えています。
コヴァの戦争論を読んだ爺様の感想は、
「靖国にいる親兄弟にさえ会いにいけない私をお前は恥じるかい?」でした。
曾爺様も爺様の兄弟も満州で死亡したらしいですが詳しい話は分かりません。
爺様は東京に行って昔の知り合いに会うのが怖くて靖国神社に行けず、
その事を心残りにしつつ3年前に没しました。
なんか暗い話でスマソ、こういう経験もあるよって事で。
>>153 とても悲しい話ですな・・・・・お祖父様のご冥福をお祈りします。
155 :
149:03/10/02 01:00 ID:???
詳しい話はタブーのようですね。
失礼しました。
156 :
名無し三等兵:03/10/02 01:02 ID:p3Rnfzgu
153> 本当に悔しくて痛い話だった。・・
しかし、今の日本でも同じ事があるんだよ。
>>157 嘘じゃないですよ。
当時の満州国は物価が高かったらしいです。
>>158 嘘ではないでしょう。
日本にいると食いっぱぐれるが、
満州に行けば、食いはぐれないといっていたからね。
ウチのじいさんは満州で役所勤めだったが、
本州にいるときの三倍の給料を貰っていたってさ。
うちの爺さんは本土のどこぞで整備兵だったとか。
漏れがガキの頃、雷電のプラモ作って爺さんに見せたら
「じいちゃん、これ整備しとったんやで。」とか色々聞かせてくれた。
他にも「近所のあの人は決死隊に志願しとって生きて帰ってきたから
勲章いっぱいもらっとる。」とか
「うちの村から一人だけ近衛兵で行っとった人が(云々」とか。
何せ聞かせられたのが鼻垂らしたガキの頃だったもんで漏れにとっちゃ
近所のじいさん全員頼もしく見えた記憶がある。
うちの爺様は大連にいたそうだけど、靴を取られまくって大変だったらしい。
今で言うチャリンコ泥棒ぐらいのダメージ?
実家の母親に靴が取られた、と何回も仕送りを頼むので
不審に思ったのか、いいかげんにしろー!という電報が届いたそうな……
博打でもしてるのでは……、と思われていたらしい。
あと、ひい爺さんは日露戦争に行って傷痍軍人になって帰ってきたらしい。
軍人恩給が結構な額だったので多分結構上のほうだったんだろうけど、
働かんでも食べていけたため、囲碁と将棋ばっかり打っていたので、
うちの家では囲碁と将棋は出来ません。
真面目に働かなくなるからだそうで……
なんか、うちの家系の戦争体験は緊張感があんまりないです……
田舎だったせいもあるからかなぁ?
162 :
名無し三等兵:03/10/04 02:23 ID:mLeL3Gav
先祖の経歴ってどこかで調べられないのですか?
戸籍で追うとか、お寺の台帳を見るとか。
けど、生きている人に聞くのが一番ですね。
なかなか難しいですからね。
164 :
名無し三等兵:03/10/04 21:10 ID:4C5/FAGu
>>151 age、sageは気にしなくていいと思います。
密偵という特殊な活動に興味があったのでお聞きしたいと思いました。
じいちゃんには、こっそり越境してソ連側で情報収集してくる人がおったな。
くらいにしか聞いてないもので。
軍板としても密偵についての情報は少ないので是非ともおねがいします。
165 :
名無し三等兵:03/10/04 21:17 ID:vP5lbSLp
父方じーさま(故人)は運動神経がえらく悪かったらしく、島根で広報担当みたいな仕事で
ガリ版をすってたらしい。
母方じーさまは満州で軍馬に餌をやってたらしい。戦争に負けて猛ダッシュで逃げ帰ってきたらしい。
おかげでおいらは運動神経悪いけど足だけは速い。
166 :
名無し三等兵:03/10/04 21:19 ID:LkTVRYIj
うちのじいちゃんは
戦争中のことしゃべらなかった。
一度聞いてみたんだけど
「うん、戦争はやるもんじゃないよ」
としか言わなかった。
結局話さないまま亡くなりました。
出征して、その時のことを語らない人は、きっととても凄惨な体験をしたから
なのではないかと思う今日この頃。
168 :
名無し三等兵:03/10/04 21:54 ID:nujsm2yG
病院船に乗っていて安全だと思っていたら
アメリカ軍に攻撃されたこととそこでくったアイスクリームが
非常にうまかった、と言っていた・・・
>164
せっかくですから、シベリア抑留スレで書きたいと思います。
よろしいでしょうか?
170 :
名無し三等兵:03/10/04 23:38 ID:EyMCE7yY
うちの爺さんは海軍の偵察機に乗ってたらしい。
本土で訓練中の墜落話、ニューギニアで巨大ミミズの調理、
戦地の病院での荒療治など色々聞かせてもらった。
墜落話はうろ覚え。ミミズはぶつ切りにして食ったってだけ。
つー事で戦地の病院話を。
手や足を切断する際、麻酔無し手術を恐れて暴れる兵がいた。
そんな場合は複数名で押えて頭部を鈍器でブッ叩き、意識朦朧としている
間に縛りつけて手術に取り掛かったそうだ。
どうも単純な話しか覚えてないので今度色々聞き直してみます。
171 :
名無し三等兵:03/10/04 23:51 ID:D1X/rDxV
172 :
名無し三等兵:03/10/05 00:57 ID:cEVbHhXu
祖父じゃなくて、近所の人だが…。
駆逐艦に乗っていて、沈む敵艦から次々に
海に飛び込んだ米兵をおもいきり機銃掃射。ほんとの血の海に。
帰還の途中で、次の戦場に急行することになった。
邪魔になるということで、深夜、捕虜をひとりずつハンマーで殴って水葬。
翌朝、血と脳漿まみれの甲板掃除。
ちなみに、大和沈没の時、かなり近くにいたらしい。
漏れの母方の爺さまは昭和19年に海軍主計兵を志願して、海兵団入団。旧制中学の徴用で食い物に困ったらしく、食い物にありつける主計兵を選んだらしい。
海兵団を出た頃、連合艦隊主力はリンガで猛訓練中のため、成績優秀者のみ海軍経理学校普通科練習生に回され、爺さんは九州の航空隊へ。
航空隊の烹炊所勤務になったが、水やら食い物やらを貰いにくる搭乗員が片っ端から沖縄へ特攻。その話になると爺さんは泣いてました。
学校へ行った同年兵は、卒業後ほとんどが大和乗組を命ぜられ、沖縄特攻で総員戦死。(まあ呉鎮の兵隊だから当然大和に乗るか)
爺さんは、戦争に参加した兵隊の中では最年少の部類に入りますが、もうそろそろ80になるんですよね。
重複スマソ。
高校の非常勤講師の先生の話。私立だったから定年にとらわれずいらっしゃった。貴重な話を聞かせて頂きました。
先生は専門学校(旧制)だか、師範学校だかの時に学徒出陣で、陸軍航空兵に。
操縦ではなく偵察で、しかも特攻要員だったから、九九軍偵とか九九軽爆とかに乗っていたかもしれない。
花巻の陸軍航空隊(現花巻空港?)にいて、飛行訓練に明け暮れたらしいが、昭和20年は冷夏で東北地方は度々やませに見舞われたとか。やませが吹くと飛行作業が中止になるから、皆喜んだといっていました。
2年に満たない間ですが、過去に軍に籍を置かれたとは思えない、丁寧な口調の先生で
「私の仲良かった友達はほとんど戦死してしまい、残ったのは私ともう一人だけです。あなた方にはそんな思いはさせたくありません。」
と、授業の合間に語られた時は万感胸に迫りました。
日教組が物言うよりも、何万倍も重みがある言葉でした。
夜、池のほとりで野営をして、その池の水で飯を炊いた。
その飯は塩味がきいていて美味しかったそうだ。
朝になって、池は戦死した兵士がいっぱい浮いていて血の池状態。
飯が塩味だった理由が…。
177 :
:03/10/05 06:29 ID:???
漏れの祖父さん年齢的には、兵隊になってるはずなんだが
戦前は祖母さんと朝鮮に渡って
昭和17年に親父(長男)が生まれて
戦後に引き上げて来るとき伯母さん(昭和18年生まれ)が死んだ
つ〜話しか聞かないんだよな〜
大卒で建築士、死ぬちょい前まで大学で講師してた
身長も高い(176cm)し体も丈夫
本家の大伯父は軍属だったのに
なんでたろ?
>>177 うちの爺様も身長170以上、柔道2段、しかも末っ子だったけど、
陸軍の学校の飯炊きで終了してる。。
兵隊じゃないけど、これでも軍属になるから徴兵されなかったんだそうで。
建築なら陸軍の工兵系の会社みたいなのにいたんじゃないのかなぁ?
架橋とか設計とかそういうのを研究してたりしたんじゃ?
>>177 移民として朝鮮に渡ったんじゃないですかね。
それで徴兵されなかったと・・・。
183 :
名無し三等兵:03/10/06 19:52 ID:58iiqliV
age
>>177 朝鮮などの外地では末期まで徴兵が無かったです。
日本政府はそういう制度で、外地への移民を促していた様子ですね。
ですから、ぜんぜん不思議でもないし、なんら不正もありません。
185 :
170:03/10/08 22:39 ID:???
色々聞いてみました。
うちの爺さんは福島県郡山で海軍に志願→百里ヶ原で訓練→台湾高雄
だそうです。
百里での訓練は霞ヶ浦に古い漁船を浮かべての雷撃訓練が主
だった(96艦爆?攻?)。
800キロ爆弾を落とすことを想定しての訓練だったようだ。
訓練中には2度墜落し、そのうち一度は己の整備不良によるもので、
同乗していた教官は顎の骨を折る重傷だった。
本土から台湾へは潜水艦による人員輸送、高雄に到着後は航空機が
届いておらず、やることが無かった。
しばらくして上海経由で零52型が8機届く。
続く
186 :
170:03/10/08 22:51 ID:???
8機のゼロ52型が届き、まずは4名が沖縄方面に出撃。
返って来る者はなかった。
その後、フィリピン方面への偵察で爺さん他9名が出撃(ゼロではなく
3人乗りの偵察機)。フィリピンのどこかは聞いてないけど、敵の大編隊に
見付かり追いかけられるが、※入道雲へ飛び込み難を逃れた。
※ 航空機にとって入道雲を避けるべきものだったらしく、機体は激しく
きしんだ。
難を逃れたものの敵機の攻撃による損傷から台湾への帰還は不可能となる。
何とか海上に着水し、無線機だけを持ってボート(救助用)に乗り
漂流する。無線により要請した救助で高雄へ戻る。
出撃した他の2機の内、一機は無事帰還、一機は行方不明であった。
続く
187 :
170:03/10/08 23:03 ID:GWX8wlwj
高雄に帰還後しおばらくして基地が艦砲射撃に遭い、まともな航空機が
無くなる。上官は残ったボロ飛行機での出撃を考えたようだが、隊員の中
では「あんな機には乗れない」と言う不満で満ちていた。
結局そのボロ飛行機すら修理し、飛行可能な状態に出来ず終戦を迎える。
終戦後、上官(少将らしいが名は不明)が簡単な舞台を築かせ割腹自決。
中尉(こちらも名は不明)が介錯した。また、中尉は介錯した刀で自決。
他6〜7名の上官も皆の前で若人達を死なせてしまった事に謝罪の言葉を
述べてから自決した。
武装解除後はこれと言ってすることは無く、ワニの皮で作ったボールと
パラシュートの素材で作ったグローブを用いてひたすら野球ばかり
やっていた。
聞いたのはここまで。ノートにまとめながら聞いてたけど、ラストの
上官自決の話では非常に湿っぽいムードになった。俺も爺さんも。
188 :
170:03/10/08 23:08 ID:GWX8wlwj
訂正
170で述べたミミズ調理の話は他の人の体験談。
戦地の病院の話は親戚にあたる方の体験談。
189 :
名無し三等兵:03/10/09 00:20 ID:a3QWCWH1
168> 以前から緑十字船への無差別攻撃を噂は聞いていたが、
やっぱり、病院船を攻撃したと言う事か。
>>189 うんにゃ、そんな事は無いです。
日本軍が病院船で兵隊を輸送して捕まった事件は有名だし、
ミドリ十字をつけた船を沈めたときは、アメリカは日本に謝罪もしているよ。
また、対馬丸を撃沈した潜水艦の責任者は処罰されたはず。
双方ともに、これくらい法規は守っていた感じ。
ただし、事故は上のようにかならずあります。
>>188 長文、乙です。
ミミズは不味いけれど、栄養はあるらしいですね。
192 :
189:03/10/09 01:25 ID:a3QWCWH1
190> 少しスッキリしたよ。あのアメリカが謝罪していたんだ・・。
レスありがとう!!
193 :
名無し三等兵:03/10/09 02:16 ID:xvWuYYN4
阿波丸の撃沈の件でも「戦争がどのような形で終了しようとも米国は
阿波丸の沈没による損失を日本に補償する」という中立国を介した連絡で
取り決めがあったはずなんだが、、、、、
さすがアメリカ・・・。余裕ありすぎ
195 :
名無し三等兵:03/10/09 02:26 ID:xvWuYYN4
GHQが「ヲマエラ!無条件降伏したんだからそんな話はチャラだ!」
というわけで補償は無しになりますた>阿波丸
>>195 まあ、そうなんだけど、
あれは政治的なかけ引きに使われたと言う事でしょう。
阿波丸の補償を引っ込める代わりに他の物資などを交渉で引き出すと。
そういう名目で日本は引っ込めました。
197 :
名無し三等兵:03/10/10 00:19 ID:oxVifoc3
そういや戦争中、アイルランドの首都ダブリンにいた日本人領事が
戦争中かかさず給料をもらえたのが不思議だ。
アイルランドは中立国だが?
199 :
名無し三等兵:03/10/10 01:21 ID:oxVifoc3
当時、アイルランド「自由」国で完全な独立国ではなかったよう気がする。
>>197 それどころか、日本は戦争中もイギリスへの借款の返済を
スイスを通じてしていたよ。
もし、一度でも借款が滞ると、たちまち日本の為替が信用を失って、
返さないよりももっと被害を受けるからだって。
ロシアも、最近になって、ロシア革命時に
デフォルトした債務を買い取っているね。
債務不履行で有名な北朝鮮の国際は、表示価格の5%が相場だって。
もしかして、将来、北朝鮮と韓国が併合したら、
韓国が北朝鮮の国際の払い戻しをする事が
期待できるからこの値段らしい。
この位のだったら買ってもいいかも。
俺の母方の爺さんは…書けない。
書けないんだよ。
語りたいが特殊な事してたのさ…。
皆さんが羨ましい(泣
202 :
名無し三等兵:03/10/10 12:20 ID:oxVifoc3
ドイツのある機械メーカーも兵器製造誤術の特許料を
戦争中にもスイスを通じて米国の会社に支払っていたな。
アフリカのエルアラメインという所でロンメルと戦ったそうです
>>122 軍人として勲二等を貰うのは将官級の人間だよ。
戦後、何かでとんでもない功績上げた人なら貰えるもんだろうけど。
中野学校へ行ってたんだな
曾曾御祖父さんは西南戦争に官軍として従軍。田原坂?かで左腕を斬られ
左手再起不能。酒を飲まずには人は斬れないとの話。
曾御祖父さんは陸軍士官学校卒業後、某天皇を守ると言われる師団へ。
226事件は家柄も良く分からない馬の骨のやったことらしい。
明治までは家柄が良くないとダメだったらしい。
祖父さんは戦争前に海外の支店へ。徴収は病気で免れた。徴収された仲間は
沖縄で戦死。
210 :
名無し三等兵:03/10/13 04:32 ID:f6WeBKA2
戦中や戦後史を学校で教わらない。
自分で勉強すると、知識が偏りがちだし、
国際性の一番大事な事も見えない。
無知は罪悪である。
>>175 亀レスなんで恐縮なんですが私の中学時代の歴史の先生がやはり似たような雰囲気の方でした
陸軍幼年学校出身(在校中に終戦を迎えたのかもしれない)という噂でしたが軍籍にあられたのは事実のようです
しかしながらそんな雰囲気は普段はまったく漂わせない微笑をいつも浮かべている温厚な紳士でした……
けどついたアダナが【悪魔の微笑】(笑) 怒った時の雰囲気だと流石…と思わせるものがあったようです
父方の祖父(故人)は警察官でしたが徴兵で陸軍に取られて憲兵少尉として比島で終戦を迎えたようです
軍隊時代のことは何一つ話さない人ですが亡くなるまで背骨がしゃんと伸びた方でした
母方の祖父(やはり故人)は多額納税者として貴族院議員だったそうです
当時の議会活動の様子なんかをよく話してくれていたんですが戦争に関することはやはり翼賛議会の色が濃かったですね
この祖父のお抱え運転手さんが陸軍上等兵として終戦を内地で迎えられました
この方から小学校に上がる前に色々な軍歌を教わって意味もわからずに歌ってました(汗)
俺の叔父さんの昭和20年春頃の話です。当時中学一年だった叔父は級友二人と、
「このままでは日本は負ける 何とかしよう」と相談し、当時富士山麓にあったという
「陸軍少年戦車学校」への入学を決意し、担任の先生に願書を取り寄せてくれと
3人で頼みに行ったそうだ。ところが先生はいきなり3人を殴りとばしてこう叫んだ
「貴様等が死んで日本が勝てると思うのかっ!! これからの日本には貴様等の
力が必要なんだっ!!」
戦後叔父は高校の教師となり、そして日○組とも深く関わっていたらしい。ただ、
叔父は酔った時は何故か「加藤隼戦闘機隊」や「愛馬行進曲」を歌っていた。
昨年叔父は鬼籍に入りました。
213 :
名無し三等兵:03/10/13 08:26 ID:FBsbb0rU
若干スレ違いかもしれませんが。。
うちの爺さんは外務省勤務で、戦中は南京で外交官をしていたそうです。
終戦直後日本に引き上げる際、揚子江河口付近で機雷が船に触れて沈没、
しかしたまたま通りがかった米国の船に救助され、
英語が堪能だったので船内では通訳をやってたとのことだけど、
少し前まで戦っていた敵国に救助されて複雑な気分だったらしいです。
でもこの救助がなかったら漏れこの世にいないんだよな。。
うちの爺さんはもう20年位前に死んじゃったんだけど
戦艦榛名の機関兵として乗艦してた。
最後の呉空襲の時に爺さんも榛名で死のうと思ったらし
いが当時の艦長に「貴様らは乗らんでいい」と強く言わ
れ乗艦出来なかったみたい。
終戦後鉄くずと化した榛名をみながら涙の杯を交わして
生き残った方々は全国に散っていったらしいよ。
その話しの時爺さんの目は真っ赤だったのがすごく印象
に残っているな・・今も生きていれば色々聞けたんだけ
どね。
215 :
名無し三等兵:03/10/16 22:40 ID:Nx2LHniZ
私の祖父は、練兵所時代、銃剣道の訓練中に、教官とガチンコ勝負することになった。
柔道有段者であった祖父は、日頃いじめられているからと、ここぞとばかり、銃剣で教官を締め落としてしまったそうだ。
それ以降教官や先輩からもいじめられなかったと。
その頃、胸囲が三尺五寸あった祖父も三月前に亡くなった。最期は、胸囲は二尺七寸に満たなかった・・・
217 :
名無し三等兵:03/10/16 23:19 ID:1EyBanh2
自分は厨3なんだけど社会の先生が戦争の話しててなにやら戦艦の話に・・・
その先生の祖父は長門に乗っていたらしくシブヤン沖海戦で被弾した際に
500キロ爆弾の破片に当たって出血多量で逝ったとか。。
詳しくしらないんで間違っててもたたかないでくださいw
218 :
名無し三等兵:03/10/16 23:34 ID:aiQq7nyJ
うちの爺さんは仙台の予備士官学校をでて、台湾で病気になり、原隊に置いて行かれ
台湾航空戦を見物し、そのまま台湾の部隊に転属し、来るはずも無い米軍を待ち、
終戦。その後、二年間台湾で現地人とともに畑を作って部隊ごと自活。最後は国民党に武装解除されて復員した。
そんな爺さんも今、すい臓がんで寝たきりです。帝国陸軍軍人よ、永遠なれ。
220 :
名無し三等兵:03/10/17 00:17 ID:btm6J1k3
漏れの伯父は陸軍の航空輸送部隊で、台湾〜フィリピン間を往復していました。それだけ。
221 :
名無し三等兵:03/10/17 00:23 ID:k6ZPJoxh
皇国のため日夜奮闘してくださった帝國軍人の皆様に対し、
深く哀悼と感謝の念を抱いております。
大日本帝国陸海軍よ永遠なれ。敬礼!
222 :
名無し三等兵:03/10/17 00:32 ID:X2CsegBu
アジアのために戦ったうちのジイさんが大好きだったよ。
223 :
名無し三等兵:03/10/17 00:37 ID:BnJMicui
>218
すい臓ですか・・・なんとか治癒していただきたいものです。
私の父は63才の時に膵臓癌の末期で「余命3ヶ月です」と診断されたんですが
その後1年生きました。
海上自衛隊創設期に入隊し勤め上げたお陰なのかどうかわかりませんが
がんセンターのドクターは「さすが、鍛え方が違いますねえ」と変な感心の仕方をしてました。
関係ないんだけど入隊時の先輩方って曹にしろ幹部にしろ太平洋戦争経験者が結構いたらしいです。
もっともっとその頃の話しを聞いておけばよかったな。
スレ違い、すんません。
うちの爺さん、東京の秋津に墜落したB29からアメの千切れた足を拾ったらしい。
殺人は関東大震災の際、チョソを・・・
>>224 >殺人は関東大震災の際、チョソを・・・
つまらんネタだな
226 :
名無し三等兵:03/10/17 17:05 ID:0jNQWVCK
あげ
227 :
名無し三等兵:03/10/17 17:29 ID:TKyjwsjN
>>224がチョソとか言うからチョコ食いたくなってきたよ
228 :
名無し三等兵:03/10/18 19:32 ID:fpzx2cNH
age
229 :
やよい:03/10/18 20:21 ID:x+qPB13s
230 :
:03/10/18 20:35 ID:TY5m7rpw
うちの爺さんは陸軍の上等兵だったけど、上官に逆らいまくりで、挙句に馬を谷底に捨てたらしい。
兵隊やくざか
うちの爺さんは軍人じゃないんだがもと満鉄の社員で満州にいた。露助の満州進行時はあんま聞かなかったけど大変だったらしい。
戦争が終わり、日本に帰って来れたのは奇跡だって言ってたな。
あと、橋本元首相から賞状を貰ってた。内容は満州から生きて帰ってきておめでとう・・・・だった。
ちなみにその時の爺さんの感想、売国奴から賞状貰っても嬉しくも何ともないだった。
南方に送られる船に乗ろうと荷造りをしていたら戦争が終わってしまった。
なんてラッキーボーイなんだじいちゃん!
モチ喉に詰まらせて染んじゃったけどな・・・
漏れの爺ちゃんは戦車の整備兵で中国にいたんだって。
あの頃はパスポート無し&ただで海外旅行できたって言ってた。
終戦時は北海道にいたらしい。
終戦直後の中国の混乱を見ると爺ちゃん、運良かったんだなって思タヨ。
>>234 もっと詳しく、プリーズ。
何の戦車とか、チハタンは強かったとかとか。
>>232 抑留者のうちの親父は、銀杯でごまかされた。
こんなものより銭よこせって言ってた。
237 :
名無し三等兵:03/10/19 23:51 ID:5rhZaWLO
よく短期現役っていいますが、短期現役だと普通どれくらいで帰って
これるのですか?
>>237 時期によって差があるけれど、制度が廃止される直前の昭和14年だと、5か月。
海軍の短期現役士官は、2年。
えー、私の曽祖父は元A級戦犯です。
ちなみに祖父の弟の奥さんの父親も戦犯になりかけました。
240 :
名無し三等兵:03/10/21 16:30 ID:ID4i5Hob
>239
A級戦犯なんてものは戦勝国が勝手に決めたものでありまして
239の曽祖父は犯罪人でもなんでもありません。
立派な曽祖父をお持ちで尊敬すべきではと思います。
241 :
名無し三等兵:03/10/21 16:38 ID:J7yI1HTD
中卒のほうのじいちゃんは「妻子があると外地には送られないんだよ」と
本土の陸軍病院で衛生兵をして、大学受験失敗して三菱の飛行機工場に
いたためスグに除隊になった。
尋常小学出のじいちゃんは妻と子供が4人いて、2度目の召集(学歴が
ないので平時にも徴兵された)だったけど南方に送られた。
こっちは海軍だったので石油探ししてるうちに終戦。島ごと降伏したが
オランダ兵の捕虜殺害(じいちゃんがしたわけではない)の報復で捜索が
来るとみんなで「そいつは死んだ」とお墓を作ってたそうな。
242 :
名無し三等兵:03/10/21 17:20 ID:zprpioUU
>129氏
果てしなく遅レスですが、当時東京に住んでいたのであれば近衛師団で
間違いないかと。うちの爺様も東京で徴兵→近衛師団配属だったので。
243 :
名無し三等兵:03/10/21 18:18 ID:EU3n0us8
数年前、うちの現場に70過ぎた15tブルのオペがいてさ、
その人は旧陸軍の整備兵上がりだったよ。
さすが鍛え方が違うなって思ったよ。
父方の祖父は工兵(架橋)、昭和20年にビルマで戦死。
元々所属していた部隊から他隊に移り、その配属先部隊がビルマ中部エナンジョンで全滅したので、そこで戦死したという事になっている。そんなわけで死亡時の状況はよく分かっていない。元々の部隊からは生還者もいるので、運が悪かったのだなあと…。
戦地からの手紙と、転属時に原隊の係りの人に預けていった郵便貯金の通帳が、実家に残されている。
母方の祖父は歩兵(擲弾筒)、中国大陸に5年間。こちらは今も元気。
辛い話も笑い話も色々聞いていて書き切れないけれども、印象に残っているのは
「男は修行のために一回は兵隊に行った方がいいという人もいる。それはまあそうかも知れないが、二度と行くところじゃない」
と言う一言。
父方の爺さんは俺の生まれる前に亡くなってるんだが、親父の話によると大陸で先頭切って
突撃して弾食らって帰ってきたとか。
「ここから入ってここから抜けたんだ。」と右肩と左脇の傷跡を誇らしげに見せてたらしい。
247 :
名無し三等兵:03/10/22 03:06 ID:YdCYKPvo
以前、近所を散歩しているときにばったり会ったばあさんの話。(親戚でなくてスマソ)
そのばあ様は、ちょうどハタチの時敗戦したらしい。地元出身で、地元の大空襲を隣県の
唐津という町の山の上から見ていたという。戦争について、総論をポツリポツリと話してい
た。インパクトがある話だったので2つだけ簡単に紹介したい。
曰く「戦争なんて、あまりにも人が死にすぎてもう絶対するもんじゃない。それでも私
ら昔の人間は、白人に良い様にされてなるかと立ち上がったが・・・結局日本は勝ちきら
んかった。」←『勝ちきらんかった』というところをかみ締めるように言ってて、なんか
凄みを感じた。上手くいえないけど。
もうひとつ。「国が生きていくために戦争をするということはね、ギリシャやローマの
頃から続く人間の、民族の一つの在り方なんだよ。」←戦争のない、平和すぎるこの国の
環境で育った人間しか見たことがなかったが、これを聞いたとたん「ああ、本来の人間っ
てコウイウモノなんだろうなと感じた。・・・おおげさ?笑
248 :
名無し三等兵:03/10/22 04:38 ID:r/9/QdGE
ペンキ屋だったので、飛行機の塗装をする仕事をしていたのだが、
酒が入ると真珠湾を攻撃したことになってしまいます
>>248 塗装した飛行機が真珠湾に向けて飛び立ったということなのかも。
252 :
名無し三等兵:03/10/22 19:24 ID:rcitft0B
うちの祖父は陸軍第三十三師団。歩兵第二百十三聯隊でした。
インパール作戦に参加して、生還しましたが、家の方には戦死の知らせが来て、葬儀まで行われたそうです。
葬儀までしたものだから、祖父が帰還した時は皆、驚いたそうです。
インパール作戦では食糧に困り、毛虫なども食べたそうです。
253 :
名無し三等兵:03/10/22 19:34 ID:nuL/M9og
↑こんな話けっこうあるみたい。うちの近所でも3度戦死の知らせが来て遺骨が届いて葬式をやって、4度目に本人が生きて帰ってきたらしい。
254 :
名無し三等兵:03/10/22 19:36 ID:1i/YG0sd
とりあえず、地元の小学校の上空を
近所出身のパイロットが乗った戦闘機が超低空で
何回か周回し、出撃して行ったと聞いた。
そのパイロットは特攻隊員だった為、その後戻ってくることは無かった。
255 :
名無し三等兵:03/10/22 19:36 ID:nuL/M9og
ペンキ屋がいなかったら真珠湾攻撃も不可能。
256 :
名無し三等兵:03/10/22 19:39 ID:nuL/M9og
昔うちから500m位のところに戦闘機が墜落したらしい。
ここ勉強になるなぁ
259 :
名無し三等兵:03/10/22 19:56 ID:nuL/M9og
海軍の教育機関(詳細不明)で全員が航空機の操縦士を希望したら、教官に全員操縦士で飛行機が飛ぶか!と怒られたらしい。
261 :
名無し三等兵:03/10/22 22:55 ID:k1atBt+G
お調子者の叔母は戦時中、陸軍の女子通信員に応募した。
まだ16歳だったので合格するはずなかったのだが、地元新聞に愛国少女とか書きたてられてしまい、軍も無視できず採用されてしまった。
大陸の軍司令部に勤務したのだが、なにせ子供なので司令部のマスコットみたいなもんだったらしく仕事は楽だったらしい。
ある少尉と親しくなって結婚するつもりだったが、終戦直後の武器廃棄の際に同僚の誤射で少尉は死んじゃったとか。
>>261 >司令部のマスコット
某スレの桜花タンと同じような境遇が合ったのですね
・・・史実がある以上話題として使えないのが悲しいところですが
>>252 ウチの母方の叔父はどこか南方で亡くなったのだが、
帰ってきた遺骨は空だったので、何処かで生きているかもしれないと
希望をつないでいたが、
戦後、同僚が戦死の状況を報告しに来てくれて、確実と解ったらしい。
それでおばあちゃんがずいぶんと泣いたって聞いた。
母は戦後生まれなので、これは叔母から聞いた話です。
以前働いてたバイト先(東京駅)は、結構年齢層が広くて
軍隊経験者が三人いた。
70過ぎの最年長が陸軍、常に薄いサングラスをしてたじいさんは、
爆撃機乗り(銀河)、三人目は終戦間際に予科錬の生徒。
77才のじじいは陸軍だけあって足腰が以上に丈夫、
100キロ以上ある台車を、ホームの端まで平気で押して歩く。
爆撃じいさんと組んで作業してる時、天皇のお召し列車が停まってた事があった。
作業が終わってエレベーターの前で待ってるとき、爆撃じいさんがその
お召し列車に向かって「俺の仲間殺しやがって...」と呟いてました。
下町生まれの予科錬じじいは、その頃既にこの戦争は負けだと察したそうです。
その理由は、「だってよう、演習の時に鉄砲はあるけど弾がねえんだもん。」
と、江戸弁でぼやいてました。
265 :
名無し三等兵:03/10/23 07:54 ID:MU4YhsEJ
ネタがブレンドされてない?
時制が途中でおかしくなってるような
母方の祖父
本土で高射砲部隊の指揮を執っていたらしいが、実は弾薬が無くて空砲撃ってた。もう亡くなりました。
父方の祖父
満州行って戦った。馬はとても大事で死んでも守れと言われたそうな。それで、冬は民家からいろいろ盗んで、牛も盗んで暮らした。
そのうち敗戦。そのあとはカエル、蛇、その辺の草食べて何とか生き残ったそうな。もう亡くなりました。
268 :
名無し三等兵:03/10/23 15:07 ID:OFmGXN5v
祖父は爆撃機の通信担当だと聞いた。高雄にいたらしい。
終戦が少し遅れていたら特攻隊になって死んでいたと言ってた。
戦後、公務員になり自己紹介では「私は人殺しです」
と言ってたらしい。それが己に対する皮肉なのか真意はわかりませんが。
二十数年前に懺悔の気持からか在家ながら坊主になり、毎朝読経してた祖父。
彼は私の誇りです。
四年前朝鮮の方向にはション便もしたくない、と言いながら鬼籍に入りました。
おわり
>>268 >四年前朝鮮の方向にはション便もしたくない、と言いながら鬼籍に入りました。
朝鮮についてそれ以外に何か言わなかったの?
270 :
名無し三等兵:03/10/23 16:27 ID:OFmGXN5v
朝鮮に対して特に政治的発言は聞いてません。
甘い物好きな糖尿持ちは饅頭と大福を買って見舞った時、
死を賭して食べておりました。
>>268 おじいちゃんは中国で捕虜になった?
そこで思想改造教育を受けたのかな。
>>270 おじいちゃんが大福を買ったの?あなたが大福を買ったの?
272 :
名無し三等兵:03/10/23 23:06 ID:2IxvFEAa
軽巡洋艦・龍田の乗組員、どっかで沈められて日本に送還。
通信兵としてフィリピンへ。そこでマラリア(餓死かも)で死んだ。
そもそも龍田っていつ沈んだの?
273 :
272:03/10/23 23:08 ID:2IxvFEAa
沈没した場所を聞くのも忘れてました、ごめんなさい。
>>272 1944年3月13日、八丈島沖で、米潜水艦サンドランスの雷撃により沈没。
275 :
名無し三等兵:03/10/23 23:13 ID:2IxvFEAa
>>272 ここは質問スレではないのだが・・・まぁいいか。
277 :
名無し三等兵:03/10/23 23:34 ID:dMcD3Q4z
>>232 ウチのじいちゃんも勲章もらってたけど、
「こんなもんよりアルバムとかの方が全然役に立つ」
とか言ってた。
>>232 うちのじいさんはその賞状を泣きながら焼いてたよ・・・・
実家ではじいさんが生きてる限りシベリアの話は禁句
279 :
名無し三等兵:03/10/24 09:05 ID:h2jSpnvG
>271
たぶん洗脳はされてないです。中朝、共産の反目にまわる人でしたので。
旧日本軍を敬う気持は強い人間でした。東北から鹿児島の戦友会に行ってましたし。
人殺しはいけないが守る為には殺る
読経は戦友の弔いとアジアに対する沢山爆弾落としてゴメンネ。だと思います。
詳しいことは今度帰省した折り祖母に聞いてみます。
饅頭買ったの俺です。看護婦、祖母に怒られながら食ってました。
>>279 そっかー。サンクス。
あと、これから、糖尿病の人に甘いものをおみやげに持っていくのは絶対に止めてくれよ。
でも亡くなる前にうまいものを腹いっぱい食わせてあげるのもひとつの優しさであり
命を懸けて守ってくださったおじいさんに対する感謝の表れとも・・・・言えない?
282 :
名無し三等兵:03/10/25 01:13 ID:zzyfXfo4
>281
亡くなる前に……って、死因を作ってどーすんだ(笑
サッカリンとかパルスィートみたいな人工甘味料もだめなのか?>糖尿
戦闘には不馴れなのに、普段威張り散らしている若い小隊長がいて、
祖父の戦友が腹を立て、戦場で後ろから小隊長の頭上5メートルあたりを狙って三八銃を一発。
件の小隊長は頭を抱えて蹲り、一同は溜飲を下げたそうだ。
経験を積めば、音で弾丸の遠近や方向が分かるようになるから、
5メートル離れた弾なら音を聞いても大して怖くないし、
後ろ弾だと気付きもするらしい。
祖父「それが分からん間は、将校もあんまり威張っちゃいかん」
漏れ「で、その後ろ弾を撃った戦友というのは、実はお祖父さん?」
祖父「いやいや、とんでもないw」
漏れ「もう時効だし、正直にひとつ」
祖父「俺じゃないってww」
栗林中将の妻死去
栗林 義井さん(くりばやし・よしい=太平洋戦争の激戦地・硫黄島で戦死した旧日本軍の指揮官、栗林忠道中将の妻)は23日死去、99歳。
葬儀は26日午前11時から東京都立川市柏町1の26の4のセレモアつくば立川会館で。自宅は東京都昭島市中神町1148。
義井さんは95年、硫黄島で行われた日米合同の追悼式に参加するなどした。
285 :
名無し三等兵:03/10/25 06:14 ID:6YXlpLTt
私の父方の曽祖父は白虎隊でした。
母親が山口出身なので結婚するとき、ものすごい家族会議になったそうな。
286 :
279:03/10/25 14:21 ID:A5uODOTR
私は祖父のお陰で兵隊に対し普通に感謝、尊敬できます。
自衛隊板を見たら心ない誹謗中傷に呆れました。
義務教育段階で成績優秀な人ほど偽物の平和に惑わされてる気がします。
えれーぞ、爺さん。
287 :
名無し三等兵:03/10/25 14:28 ID:A5uODOTR
>285
未だに双方の市長が公人の立場での訪問してないんですよね。
吉良こうずけのすけは私の地元上杉藩では良い領主なので、
忠臣蔵の人気薄です。
うろ覚えなのでちょっと変かもしれません。
うちのじいちゃんはソ連国境にいて、少年兵などを訓練していました。
敵の陣地は丸見えで(こっちも)機関銃、砲などの位置をいつも確認しほうこく、
あと時々、捕虜交換なども・・・。
実戦で撃つことが無いので、時々猟に出て猪とか鳥などをとってたそうです。
そのとき使ったのが機関銃!(ほんとか?
その後、理由は言わなかったけど内地に帰る途中で日本戦車を見て
「ちっちゃかねー、こんなもんで勝てるとね?」
って、乗員に聞いたら
「敵戦車を見たら一目散に逃げます」
こりゃだめだ。
内地では、また少年兵の訓練。
つづく
あと、近くの空港にちょくちょく行ってたみたいで
飛行場のことも良く話しました。
飛行場の近くに戦闘機をうまく偽装しておいてても
すぐばれて機銃掃射されるので、偽装もせず置いていたら
敵に動かないものと思われて機銃掃射をまのがれた、
飛行機の燃料は竹の容器に入れて田んぼのあぜ道に置いていた、
出来立ての飛行機のエンジンを荷台に載せて牛に引かせ
飛行場のエンジンのついていない飛行機に取り付けていた
とかほかにもいっぱい話してくれます。
また機会があったら・・・
>敵に動かないものと思われて機銃掃射をまのがれた、
これ、ワラタ。
たしかに、そう思うかもね。
うちのじさま、支那人の話はよくするが朝鮮人の話はまったく
しない。
292 :
名無し三等兵:03/10/26 11:04 ID:MzOEAQwh
大正15年生のじいさんは、師範学校生時代に都下の石神井公園で、
池に落ちた爆弾によって浮かび上がったコイをひろって、近所の
農家の豚のエサにしたらしい。その後陸軍士官学校に入って、
千葉の九十九里浜で塹壕掘らされたとか。米軍上陸予定地点だったらしいから、
戦争が長引いてたら、守備隊として戦死していただろうな。
>>291 中国か満州?
それだったら、当時、それほど朝鮮人があふれていたわけではないよ。
だから、話さなくても普通みたい。
>287
Σ(・д
そうなんだ。
米沢藩は吉良の息子が藩主だったよね?
なんか吉良は金使い荒くて藩政を傾かせた一端を担ってるって思いこんでたけど
山形では人気有るんだね。びっくり。
>>295 山ほどあるので、ここには書き切れません。
せめてもう少し範囲を限定してくれませんか?
歩兵部隊とか、航空部隊とか。
>>295 配置時期と兵科さえわかればある程度絞れるかもしれないけど、
そんな質問じゃどう答えていいかわからんよ・・・・
299 :
295:03/10/28 21:19 ID:???
すみません。もう少し詳しく書きます。私の曽祖父の兄なのですが、
話によれば歩兵部隊で階級は中尉あたり、終戦直前頃は名古屋にいたそうです。
自分では第13方面軍に配属されていたと予想しておりますが、確証が持てないのです。
>>299 ということでしたら、所属はおそらく第13方面軍で間違いないでしょう。
第13方面軍隷下の歩兵部隊としては、第73師団隷下の歩兵第196連隊が、
名古屋で陣地構築中に終戦を迎えているので、そこの可能性が高いのではないかと。
301 :
295:03/10/28 21:56 ID:???
>>300 どうもありがとうございます。後は自力で調査してみます。
良スレ
次はばあちゃん
戦争末期、戦闘機による攻撃が増えいろんなとこに被害が出た。
動くものは何でも撃ってきて、家畜がよく殺さた。
その肉は肉屋さんに頼んで解体してもらい、近所に配ったそうです。
肉屋さんは、解体料の変わりにいい部分の肉をもらっていきました。
あと、ばあちゃんのお母さんの親戚の人が、独逸で仕事をしていたが
独逸が戦争に負けたので帰ろうと思ったが、ほとんどが連合軍に抑えられていて
帰るのが難しい状態だったが、いろんなとこをさまよい逃げながら
やっとのことで日本に帰ってきた。本当でしょうか?
304 :
名無し三等兵:03/10/31 01:49 ID:EOlJ9Nl9
祖父。日露戦争で軍医。陸軍中尉でした。
今年の六月に亡くなった祖父は山砲三十六連隊・陸軍伍長で昭和二十年七月に
中国より本土防衛要員として帰国だそうです。
「馬で大砲を引っ張って運んだ」とか「万里の長城を大砲で撃ったor壊した」
「天皇の前で走った(運動会みたいな事をした?)」というような事を言ってました。
戦闘に関しては聞いた事はないですね。
只、戦争体験よりも車に撥ねられること3回、家畜の牛に刺された事もある祖父は
頑丈というか何というか。
祖母は出稼ぎだか行商だか軍需工場の作業員だかで東京に居たが前日に汽車で
帰郷したので難を逃れたと言ってました。
>>305 > 車に撥ねられること3回、家畜の牛に刺された事もある
す、すげえ体験盛り沢山の人生だったんですね・・・
なんかすごく豪快な男気あふれる人という印象です。
>>303 >やっとのことで日本に帰ってきた。本当でしょうか?
本当みたいです。
何処かでベルリンにいた一般日本人の本を読んだことありますが、
残留を希望したが、強制的にソ連経由で送還されたって。
当時、ソ連とは中立だったからね。
また、連合軍側も一般日本人には手を出さなかったみたい。
309 :
名無し三等兵:03/10/31 23:46 ID:+uszAGe9
今日、おじいちゃんの家に行き、たまたま、居間に置いてあった戦友史と書かれた本
を発見し読んでみました。その本には、戦争に行った方の経歴、部隊名、階級、戦地が
書かれており、何気なくみていたら、うちのじいちゃんも載っていました。それによると
昭和17年、入隊、シナ方面にて軍務奨励。その後、第201歩兵部隊に配属、南方方面
にて終戦を迎えると書かれておりました。どなたか、201部隊の詳細をご存知ないでしょうか?
ちなみに、階級は、兵長でした。
310 :
305:03/11/01 02:36 ID:???
肝心な事を書くのを忘れてました。
山砲三十六連隊とはどの様な部隊だったのでしょうか?
自分も調べたのですが大東亜事変・支那事変従軍記章という物が
当時の写真と一緒に額に入っていたので恐らく支那派遣軍の一部隊
だとは思われますが活動内容まではわかりませんでした。
どなたかご存知ありませんでしょうか?
>>310 第36師団隷下の砲兵連隊です。
第36師団は、元々山西省の警備部隊として、昭和14年に編制され、昭和18年に南方に転出するまで、山西省一帯の治安維持、対ゲリラ作戦などに当たっています。
昭和18年からは、西部ニューギニアに移動しています。
歩兵第222連隊を主力とするビアク支隊は、米軍のビアク上陸作戦に際し全滅していますが、残りの師団主力は終戦までニューギニア各地で米軍と戦っていました。
>>287 現山口市長はそうでもないんんだけど・・・前市長がドアホウな山口国粋主義者で「維新100年構想」
とかバカな事言って維新100年記念公園つくるし・・・事有るごとに維新維新って喚いてたから相当
顰蹙買ってたみたいよ。
歴史的問題だけじゃなくて馬鹿な政治家のせいでもある。
思い出した。
307の本は、ベルリン落日か、ベルリン陥落という本です。
もしよかったら、探してみてください。
良い供養になると思いますよ。
>>307 >>313 ありがとうございます
先日テレビで、スマトラ島で空挺師団が云々、
あってましたよね?
ばあちゃんがそれ見て
「近所のあのじいちゃん、スマトラ島で
イギリス軍ば撃ち落としよったとバイ」
嘘臭!スマトラ島にいた人で帰還できた人っていたのですか?
あとマレーシアにも友達が行ってたそうです。
母さん側のじいちゃんは死んじゃってるんですけどね・・・
はぁ・・・じいちゃん・・・今頃何してるのかなぁ
このはなしは、母さんにきいたものです。
じいちゃんは、ビルマ(多分)に遺骨回収に行ったことがあり
現地に着くと何の検査もされ無かったらしい。
帰ってくると、鉄兜・機関銃の弾乗っける板などを持って帰ってきたらしいです
その遺品は小郡の基地に預けたらしい。
>314
そりゃ、戻った人の方が多かったですよ。
ただ、戻るのに時間が掛かった(シベリアほどではないですが)だけで。
「嘘くさっ」と吐き捨てる前に、事実を調べてから言いましょうね。
どっかのスレに書いたかもしれないがうちの婆さんの女学校卒業写真に
軍事教練シーンがあった。いいとこのお嬢さんが銃を手に整列してる姿は圧巻で、
おおーと驚いていると「弾も撃ったわ。意外とよく当たるのよこれが。」といってきた。
婆さんが38式を扱っていたとは・・・本土決戦があったら女子挺身隊で玉砕だったんだろな。
317 :
305:03/11/02 02:17 ID:???
>311
詳細、有り難う御座います。
中国に居たことしか知らなかったので少し祖父の事が判りました。
>305の修正
東京大空襲の前日に〜でした
>>201 第201歩兵部隊ってのはない罠
支那方面ってことから考えると歩兵第114師団の独歩第201大隊だと思うんだが
この部隊は南方方面には行ってない。
晒せる範囲でもう少し教えてくれれば調べてみる
319 :
318:03/11/02 03:22 ID:???
320 :
309:03/11/02 10:09 ID:8Z6tufDS
>318
有難う御座います。
戦友史によれば、第201歩兵部隊に配置転換し、南方方面に行くと書かれてました。
また、本人もせまい輸送船に乗せられて南方に行ったと言っていたのを聞いた事
があるので、間違いなく南方には、行っているようなのですが。
宜しくお願いします。
>>320 歩兵第201連隊ってのもありますが、ここは姫路で編成された後、本土を一歩も出ていませんね。
「201」ってのは部隊の番号ではなく、通称号の方では?
201の前に、1〜2文字の漢字がくっついていないでしょうか?
確か母方のじいちゃんが徴兵されてフィリピンに
送られたけど船がフィリピンに到着する前に戦争が終わったとか。
>>321 通称号の可能性も考えたんだけど、それだと関東軍の満201部隊(歩兵第177連隊)と
朝鮮201部隊(馬山重砲兵連隊補充隊)しかないからなぁ。
もしかしたら歩兵第177連隊から南方方面に抽出されたのかもしれない。
あと201で歩兵だと第201師団ぐらいしか思いうかばないけどこれも内地だし。
324 :
309:03/11/03 08:25 ID:gpM59Trl
>>321 323
祖父に確認すれば確実にわかると思うのですが、戦争の事を一切話したがらないので、
難しいと思います。どうも、有難う御座いました。
すまんこっちが質問しちまうんだが
福岡か小倉で編成されてビルマ方面に送られた部隊って知らん?
うちの母方のじーさんが徴兵で取られた時ビルマに行ってたらしい。
じーさん本人は負傷して後送されたお陰で生き残ったらしいけど、部隊は
全滅しちまったらしい。
じーさん30年以上前に死んじまったからなあ。本人に訊く訳にも行かん。
>>325 いくつかありますね。
第18師団の歩兵第114連隊、第31師団の歩兵第124連隊、第56師団の歩兵第113連隊、
このあたりが福岡からビルマに送られた部隊。
>>326 有難う。参考にします。
何せじーさんの遺族ってのが娘ばっかり(要するにウチのお袋のねーちゃんたち)
だから、この手の情報全く覚えてないのよ。
まあこのじーさんの生還話ってのも結構神がかり的な眉唾な逸話があるんだけどな〜。
小倉から出征、19年の6月にミートキーナで戦死。
祖父は40代半ばにして海軍に志願したそうです。
視力の悪さと年齢的な理由から兵隊としては使い物にならんと判断されたものの、
軍艦の飯炊き係に充てられ、毎日芋の皮を剥いていたそうな。
>329
それだって、りっぱな報国だ。
卑下する事は無いよ。
331 :
329:03/11/04 23:20 ID:???
>330
本当に有難う。
祖父は真面目だけが取り柄の男だったと聞いています。
全く無趣味で、時々キセルで煙草を吸うだけが楽しみだったそうです。
復員後は本職の郵便配達員に復職して、
雨の日も風の日も、吹雪の日はスキーを履いて配達をしたと聞いてます。
スレ汚しすまん。でも、いい供養になると思います。
やっぱり良スレ。
>>331 スレ汚しどころか、久しぶりにいい話を聞いた。
そういうじいさんやばあさんたちが、この国を作ってきたんだよな。
NHKを見なさい
>>329 結構根性あるね
あなたのおじいさん
まじめ故に、自分だけ行かないのは間違いだと思ったのかな
>>309 ウチにも似たのがありますよ。もしかしたら同じかもしれませんが。
それによると私の祖父は、宮古島沖で雷撃を受け闘病生活にはいったとか。
まあこの話は、祖母から何十回と聞かされましたが。
で、本には記されていない祖父の話によると、同乗していて救助された乗組員のほとんどが、
漂流中に海上に漂う重油を飲んでしまい、救助されても助からなかったそうな。
祖父も救助されたときはかなりヤバかったそうですが、
奇跡的に一命をとりとめました。
祖父の乗っていた船は、横須賀を6月24日に出航したそうです。
一般的に、4の付く日はゲンかつぎで出航しないそうですが、
戦時中はそうも言ってられなかったようです。
この6月24日うんぬんの話も、祖母から何十回も聞かされました。
昨夜放映の『トラ・トラ・トラ!』を見て思いだした。トピずれ気味だが…
じいさん、木曽の漆塗り職人だったんだが、金につられて名古屋の塗装工場へ。
「ゼロ戦の○は俺にしか塗れなかったんだ!」というわけのわからん自慢をよくしていた。
マルの仕上げにそんな奥伝があるのかどうかアヤシイが、戦時をつうじてまったく徴兵されなかったのは事実。
そのために敗色濃厚時には町内のイジメがえげつなかったらしく、空襲時、防空壕に入れてもらえずに
娘が死にかけた(っていうか、俺の母親なんだが)こともあったらしい。
#教訓のないまま終わる。
>>339 マリアナ海戦時の空中戦、カラーフィルムの中で紅蓮の炎を上げて撃墜される零戦の
翼の赤い日の丸を見る度に藻前様の祖父殿を思い出す事にしますた。
・・・この時のフィルム、
『駆逐艦を飛び越えて行く、雷装した天山艦攻』
なども有名ですが、先の零戦の例に漏れずみなピカピカのきれいな機体です。
藻前様の祖父殿のような人が一生懸命に塗って、各空母の整備兵の皆さんも一生懸命磨いたのでしょう。
もちろん操縦者も一生懸命操縦したんでしょうが、技量が追い付かず悲劇を生みますた。
(技量が勝って魚雷が当って敵空母をへし折ったらもっと悲劇になりますけど)。
合掌。
私の祖父は、旧満州に仕事で入植していたそうです。
(多分、満蒙開拓団の一員だったのではないかと思うのですが)
具体的な場所は失念しましたが、馬賊にスタームルガーで、
左手の薬指を吹き飛ばされたそうで、気絶した所を友人に助けてもらい、
一命を取り留めたそうです。未だにその指は不自由で、
お国から貰った障害者手帳でバスにタダで乗れる事がステイタスらしいです。
>>315 すいませんでした。
昨日じいちゃんが入院しました・・・.
2ヶ月前、農作業中にこけて足を悪くしてからなんか、生きがいを無くしてしまったからかなぁ。
「最近、ビールが不味か!」
って、言ってたし・・・.このせいかな?
入院する前の日,唇が腫れてたし・・・、
人は死んでいくものなんだけど,なんかね・・・認めたくない!
帰ってきてじいちゃん・・・
関係ない話をすいません
344 :
名無し三等兵:03/11/08 05:06 ID:ZrMMjI4h
10 名前:名無し三等兵 投稿日:03/11/07 12:46 ID:???
うちのじーちゃんがいってた
ある夜ぶーんぶーんという低いうなり音がすると思ったら
頭上からうんこが大量に降ってきたらしい
爆撃で足をやられていたじーちゃんは避ける術もなく
とうとう頭に一発うんこの直撃をくらったそうな
この野郎! と言いつつ見上げた空にはB−29の大群で埋めつくされていて、
見る間に東京目指して悠々と飛んでいったらすぃ
食らったのが爆弾じゃなくてうんこで良かったわい、とじーちゃんはカカカカと笑っていた。
345 :
名無し三等兵:03/11/08 07:34 ID:G/uQvi6T
高空から落とされても形を保っているウンコって相当便秘なんだと思うが。
>>345 高空の寒気で凍結ウンコになると思われ。
347 :
名無し三等兵:03/11/08 09:43 ID:7uJEKjaP
>344
ネタだろ
>>339 防空壕に入れてもらえなかったから、助かったのかもしれませんよ。
親戚のじいさんの話たけど、防空壕に入った人は焼夷弾で蒸し焼きになった、
で、それからみんな川に飛び込んで逃げたそうだ。
それから戦闘機の機銃はほんとに怖いらしい。
プライベートライアンを5.1CHで聞くとなんとなく恐怖感が分かる気がする。
終戦時満州に配置されていた陸軍部隊で次に該当するものをこ存知な方はいらっしゃいますか?
ナカムラジキゾウ兵団長
カナスギ参謀
8/17頃までソビエト軍と戦闘を行い。その後上記の方が降伏交渉を行った。
祖父の話ではナカムラ兵団や一七七部隊という単語があったのですが、
検索してもそれらしい該当はありませんでした。
よろしくお願いします。
>>349 第112師団のことと思われます。
初代にして最後の師団長が中村次喜蔵中将。
昭和19年7月12日に編成。
昭和20年8月9日よりソ連軍と交戦、8月17日、第1方面軍からの命令で停戦。
家の爺ちゃんは、大戦中、飛行艇(何かは不明)に乗ってたそうだ。
それで、偵察任務に当たっていたところ、敵戦闘機と遭遇、爺ちゃんは射手だったそうだが、
奮戦むなしく撃墜。これで、10人中6人が戦死、
爺ちゃんたち4人は、ゴムボートで1週間ほど漂流。
無人島に流れ着いたそうだ。そこで終戦までを過ごす。
そして帰ってきたら、家族が驚いたそうだ。
理由を聞くと、
「既に国から死亡通知が来ており、葬式を済まして、墓まで建てていた。」
と言われ、開いた口が塞がらなかったそうだ。
>>351 その手の話はよく聞きます。
ひどいのになると、奥さんのところに死亡通知がきて、奥さんは別の男と再婚。
戦後、旦那さんが戻ってきて、大騒ぎとか。
>>351 よくぞ、生き残られましたね。
二式大艇でしょうか。
水面ぎりぎりまで降下して、必死で逃げる大艇の写真を見たことがありますが、
このように写真が残っているのはホンの一部であり、
大部分が「未帰還」の文字が残るのみ・・・
355 :
349:03/11/08 23:48 ID:???
>>350 ありがとうございます。それに間違い無いと思います。
祖父の話では8/15夜から戦闘が激しくなり、まるで花火を見ているようだったとのことです。
降伏後山を降りたところ、多数の敵戦車が破壊されていたそうです。
その後、コンシン飛行場という所で暴動と勘違いされて銃撃され、
古年兵と一緒に逃げた話など、普段無口な祖父が、兵隊の話だけは何時間も熱心にしてくれました。
3、4年前に亡くなったおじいちゃんはお医者さんだったんだけど、中尉で軍医をやってました。
戦場には出なかったらしい。終戦後はシベリアに行かされたらしい。
こんなに天気いい日に、家のじいちゃんが亡くなりました(TT)
病室で最後を見取るために家族全員がそろいました。
僕が「なにか最後に言いたいことない?」って聞いたら、じいちゃんが虫の息のように小さい声でこういいました。
「そそが観たい」と…(そそ)というのは女性のアソコの別名です。
僕は「じいちゃんスケベだったからな〜」っと思いましたが、さすがに「えらいもん聞いてもうた」と思いました。
早速家族会議がその場ではじまり、皆口々に「どないしよ、どないしよ、看護婦さん?そら無理やわ」ってかんじで会議をしていたら、
兄の妻が、「私でよければ…」と言ってくれたので、皆悩んだ末「お願いします」と頼んだ。
後で聞いたところ、昔兄の借金をじいちゃんが立て替えてくれたその恩返しだったらしい。
兄嫁は「失礼します」とベットの爺の顔の上にオシッコ座りをしました。
2〜3秒過ぎて、俺が「じいちゃん満足か?」って聞いたら
「そそやない、外や」って・・・・・・・・
うちのじいさんは身長が180cm以上あった。
当然甲種合格、あまりに体格がよいので新聞に顔写真が載ったらしい。
福知山の歩兵二十聯隊機関銃小隊に配属され、機関砲の台座を担いで
中国各地を転戦したらしい。
満期除隊となって内地へ帰ってきたときに、機関砲の弾をひとつ記念に
持ち帰ろうとしたが税関で没収されたらしい。
じいさんは大東亜戦時は既に40を超えていたので招集はないモノと思っ
ていたらしいが、昭和20年8月に京都深草特別隊の要員として招集され
た。が、装備点検中に終戦となったらしい。
余談だが、舞鶴在住のじいさんは戦後復員船の慰問に何度も出向いたらしい。
検疫のため一時停泊していた船に弁当を包んでいた風呂敷を振って歓迎の意
を伝えたところ、船は大騒ぎになってしまったらしい。(風呂敷がたまたま赤かっ
たため、日本が赤化していると勘違いされたため)
>359
あの、うちの爺様と同じ時期なんじゃ。
2回目の召集で20連隊で南京言ったて自慢してましたよ。
孫文のお墓とか中山門のたたかいとか酒飲むたびに。
便乗なんすが・・
その後1回帰って、徐州作戦出てまた帰って・・・。
このときは地元の部隊で吉岡隊とか言うそうですが。
17年に伏見の工兵隊から中國へ出て・・。
終戦は南京で21年の6月に復員ですが・・。
部隊とか分かりますか?
>>357 昔からある落語ネタですな。中島らもの「寝ずの番」で読みました
うちの曽祖父は日本人で初めて敵を空から攻撃したらしい。
もうとっくに亡くなってしまったから詳細が分からない。
なんでも複葉機で敵(中国大陸だが、相手も不明)の上から
レンガを少し落としたらしい。
それで金鵄勲章もらったとのことだったが、子供のときしか
勲章も見ていないので真偽も分からない。
ねただったのだろうか。
>>362 それはお孫さんだけでも信じてあげるべきだよ。
日本ではじめての空中攻撃ということは、
日本ではじめて、もしくは日本で50番目以内の
パイロットだったのかもしれないんだから
誇って良いことだと思うよ。
うちの母ちゃんの里には、金鵄勲章で金歯作ってもらったじいさんが
いたらしい。
金鵄勲章は本当に金で出来ていたそうだ。
うちの祖父は三式戦に乗っていたらしいが二度も零戦に撃たれたらしい。
だからかどうかは知らんが大の海軍機嫌いで実家にある大量のプラモの山の中に軍艦は有っても海軍機は無かった。
それは、運がないというか・・
やはりP−51あたりに誤認されたのだろうか?
ドゥーリットル隊が去った次の日だかにも
誤認で日本軍機が撃墜されているね。
そういう事は多々あるのでしょうね。
>>365 逆の現象で、海軍機の雷電なんかも米機と良く誤認されて
陸軍の高射砲部隊から撃たれたそうですね。
(米機の中には雷電に似た機体は無い様に思うんだけれども
負けがこんで追い詰められてくると敵味方識別の前にとりあえず撃っちゃうんでしょう)
戦場での同士討ちは仕方ないよ。
ある統計では敵にやられるより多いそうだからね。
この前の米軍のイラク侵攻でも
M1がM1を撃ってニュースになっていたからね。
この科学の発達した時代にでさえそうなんだから
昔はもっとひどかったろうね。
キスカ島なんて死傷者は全て同士討ちだったし。当たり前だけど
371 :
365:03/11/12 01:07 ID:???
>>369 >戦場での同士討ちは仕方ないよ。
代替機が来て初めての出撃で今度は足の指もってかれたと言っていたからな。
こんな目にあったら本人は仕方ないとは思えないと思う。
しかも特攻志願の血書を8月17日に出したら戦争は終わったと言われて初めて終戦を知ったらしい。
戦後も闇市で朝鮮人の愚連隊に刺されたり。あと少しナイフが長かったら死んでたそうで。
今も単車でこけて入院中だし。運がいいのか悪いのか。
今度の休みに見舞い行ってこよう。
372 :
名無し三等兵:03/11/12 21:27 ID:bTzlyWgi
>>371 誰にも書けなかった戦争の現実って言う本で
味方からの攻撃・誤射がいかに激しかったか書いてある
イギリス爆撃機隊のある部隊は
イギリス側から飛んでいっているのに
味方の高射砲部隊に打ちまくられて落とされまくったらしい
それは宮崎駿の雑想ノートで読んだ。
374 :
名無し三等兵:03/11/12 23:47 ID:3jZNvsE/
うちのじいちゃんは中国に3回出兵して撃ち合いもした、隣の戦友が撃たれて戦死
しか〜しアメリカとはじめてからは地元の空港警備ですごしてて、最後に20年8月
召集されたけど瀬戸内海で輸送船にのってて終戦。運がよかったか
>>371 単車乗りなのか…格好良い爺様だな。
新しいグローブかメットがお見舞い品?
しかし、とっくに戦争が終ってたのを知った時には何を思ったんだろうか。
というか、零戦に追撃されて助かって良かったな
20ミリ銃なんかがまともに命中した日には・・・
消えてなくなってるな。
ウチ爺さんは戦車に轢殺されて煎餅のようになった死体を見たと言ってたよ。
378 :
名無し三等兵:03/11/14 00:08 ID:08qRL/HI
380 :
名無し三等兵:03/11/14 03:05 ID:MH0vYsSA
俺の母方の祖父の父、満州鉄道の総督かなんかやっていて満鉄のTOPだったみたい
で、家もかなりでかくて下手な学校よりも広かったらしい
祖父はソ連が攻めてきて日本に逃げてきて、山口あたりで過ごしたらしい 山口では祖父の父は国鉄の駅長やってたみたい
祖母はある程度金持ちで大阪に住んでて和歌山に疎開、帰ってきたときには焼け野原で呆然と・・・
しかしなぜかまた裕福な暮らしが出来て祖父とめぐり合ったとか・・・
この間、数年前に他界した祖父の家を祖母が訪れた。今でもそのまま残っていてやっぱり大きかったらしい
祖父の姓は塚本です 上の方で満鉄に勤めていた方の話があったような気がします 機会があったら聞いてみてください
381 :
名無し三等兵:03/11/14 07:19 ID:IlZEjeSS
満州鉄道の社長ってたくさんいるの?
これまで芸能人知人その他10人以上の人間が満鉄の総裁だか副総裁だか
だって話聞くんだけど。満州ってもうないから詐称するには恰好なのか?
382 :
名無し三等兵:03/11/14 07:22 ID:IlZEjeSS
満州は土地が広いから家の敷地が広いのは当然だし。
単に満州鉄道のある駅の駅長やってたレベルの人がこぞって
満州鉄道のトップとか言ってるだけか。
384 :
名無し三等兵:03/11/14 08:31 ID:2QiFw0Nr
偉い人の周辺はそれを云いたがるから、大勢名乗りを挙げることになるが、
嘘ってことでもあるまい
>>381 満鉄は当時世界一の企業だから、(東インド会社みたいなもの)
課長クラスだとしてもそこらへんの社長よりぜんぜん影響力があったからね。
その点、満鉄のえらい人が総裁に変わっちゃったのかもしれないね。
日中戦争なんて、満鉄利権が引き起こしたとも言えるからね。
自分のじいちゃんは満鉄の橋を作っていたらしいよ。
それでも家に召使いの満人が3人いたと言うからね。
課長クラスともなれば、豪邸は当たり前だから、
地元でも総裁って勘違いされるかも。
386 :
380:03/11/14 16:32 ID:cVh8/LCg
間違っていたらすいません
387 :
名無し三等兵:03/11/14 19:02 ID:X1LFHgR1
母方のじっちゃも父方のじっちゃも満州でござる
父方のほうが鉄道敷設の仕事、母方が国境を守る重機関銃部隊
>>386 まあ、満鉄のトップだったという話は、
>>383のリストを見る限り間違いなのだが、
あるセクションのトップだったという意味なのかもしれないし。
満鉄に入社できるだけでも当時はエリート中のエリートだったのだから、
あなたのおじいさんが並の人ではなかったのはおそらく間違いないだろう。
一駅長でも満鉄なら充分名士だと思うぞ。
今の鉄道会社とは比べものにならないし。
先日祖父が亡くなったあと、遺品を整理していると戦後の混乱期に書かれたと
思われるボロボロのノートが出てきました。読んでみると、戦中ニューギニア
にいたらしく、戦争末期にはあまりのひもじさに禁忌を犯しこと、そのことで
自分は靖国には行けない等の記述がありました。
生前はいつも笑顔を絶やさない祖父が戦争の話題になると、席を立ってしまう
姿を思い出し、涙がでました。
わずか60年前にそんな出来事があったことを考えると、今の日本を有難く思
ってしまいます。
>>390 『ゆきゆきて神軍』で暴かれたようなコトなのか...。
つうか、“暴かれた”んじゃなくて“確認された”だけか・鬱
おれのじいちゃんも満鉄。
この間本屋で古地図展やっていてじいちゃんの仏壇に供えようと思って
満州の地図買いました。
地図見てたらハルピンに競馬場って書いてあったんだけど
競馬場なんて本当にあったのかな?
>>393 南東部の郊外にあったらしいです。
あと、スケート場とかも。
意外に満鉄所属の人って多いですね。
漏れの曾祖父も、満鉄の嘱託医ですた。
婆様が、その時の給料は、某市の市長と同じくらいで、郵便局に為替を換金しに行く時は
大変だったと言ってますた。
結局、数年で郵船に移ったのですが。
まぁ、無事に帰ってこれた人がほとんどだからね。
満州からの脱出ルートってどこからなんでしょうか?
大連からですかね?
398 :
名無し三等兵:03/11/15 01:12 ID:T5jibSQh
>397
大連ルートは余り用いられていなくて、1946〜49年まで20万人。
南満州からの引揚げメインルートとしては、錦州南部の葫蘆島から1946年中に
100万人が引揚げています。
奥地からは朝鮮半島ルートが使われ、避難民は興南と元山に集められ、1946〜
48年の間に5回に渡って引揚げが行なわれています。
それ以後は、1952〜58年にかけて塘沽から8万人が引揚げ、以後も70年代まで
に毎年数人が引揚げているそうです。
400 :
名無し三等兵:03/11/15 01:15 ID:P/lZz2/t
我が家の祖父様は戦中近衛兵だったそうでつ
今でも元気に暮らしてらっしゃるので今度お話聞いてみます
親戚に80才以上の人がいる人は
今のうちに昔の話を聞いておいた方がいいと思う。
俺はいつでも聞けると思っていて、永久にその機会を失いました。
403 :
名無し三等兵:03/11/15 01:33 ID:025CFqhm
老人ホームとか訪れる機会があったら積極的に話を聞くべし
漏れは明日行くことになってるからついでに聞いてくる
>>401 そうですよね。
いつもおちゃらけていた親戚のおじさん(故人)に
駆逐艦に乗ってた話を聞いたときは固まりました。
406 :
名無し三等兵:03/11/15 01:51 ID:T0n9d21b
うちの父方のじいさんも満鉄職員だったらしい。
俺の親父も満州生まれで、当時満鉄の社宅に住んでたけど
朝鮮人のお手伝いさんがいたと言っていた。
社宅住まいでお手伝いがいる生活って、今の日本からじゃ
到底想像がつかんな(笑)
じいさんは俺が2歳のときに他界、ばあさんも俺がこういうことに
興味を持ったときはすでにボケてて話は直接聞けなかったが、
じいさんはシベリア送り、ばあさんと親父、叔母の3人は38度線越え
して日本に帰国したらしい。
そういえば親父から「じいさんは満鉄だったが原爆製造に
かかわってた」って聞いたことがあるけど、これネタだよなぁ?(笑)
>>406 ネタとは言いきれないです。
朝鮮に原爆の工場を作ろうとしていたからね。
ここでかかわっていたかもしれないです。
とにかく、とてつもなくデカイ企業連合体だったから、
国家事業に深くかかわっていたのですよ。
>>399 その情報ありがたいです。
じいちゃん一家は北満州から、ハルピンに一、二年住んでから帰ってきたそうです。
すると、メインルートの方かな?
家に帰ったら確認してみますです。
まんしゅうって国内で貧乏なので新境地を求めて行った人が多い。
410 :
名無し三等兵:03/11/15 16:45 ID:rftfU7Bb
しかし現実は厳しかったんだろ
終戦間近には日本も原爆やレーダーを開発しようとしていたんだよね
レーダーは出来てます。ちゃんと実戦で使ってます
中島飛行機の富嶽は原爆積載を織り込んでいたな
413 :
名無し三等兵:03/11/15 17:43 ID:4fSaEGJx
俺「爺さま戦争行った?
爺「大きい船に乗船しとった」
俺「(ω・`)!!か・艦名覚えてる?」
爺「忘れたが、南方で撃沈された輸送船の船員だった」
富嶽が計画通り生産されてたらアメリカに勝てたのにな
スレ違いです。
416 :
名無し三等兵:03/11/15 22:39 ID:hwryQVZY
>>411 肉眼に映る敵がレーダーに映らないこともあったんだろ
>>416 硫黄島のレーダーのように200キロまで探知できた物もある
418 :
名無し三等兵:03/11/15 22:51 ID:cHILmfKx
富士山レーダーのように800km先まで探知できたレーダーもあった。
419 :
名無し三等兵:03/11/15 22:59 ID:zV+ZXwxM
>>416 んなもん戦艦が写るレーダーに人間が写ったら話にならんやろ
航空機用のレーダーと艦船用のレーダーは波長が違うのでは?
人間なんかレーダーにうつってもなんにもならーん
ライト兄弟とかイカロスが補足できてもなあ・・w
>>409 当時というか、対戦前はちょうど世界恐慌のまっただ中だったから
若者は満州に開拓団として渡るか、
政府の救済事業の助けになるかどっちかしかなかったって。
日本はいち早く世界恐慌から立ち直ったといっても、このレベルみたいです。
じいさんは早稲田卒だけどそれでも役所で政府の救済事業をやっていて、
その後、開拓団で満州に渡りました。
満州に渡ったら給料がいきなり三倍だったそうです。
他の戦争体験者の話でも、
満州に渡るしかなかったというようなことが出てくるので
これが当時の不況の状況だったみたいです。
満州では1等国民が日本人、2等国民が朝鮮人、3等が満州人、4等が中国人
(←ここのところ不正確)だったんで、日本人はすごくいばってたみたいですね。
日本にいたらとても無理だけど、中国人とか満州人なら安い値段でどんどん
使用人として雇えたとか。
要するに欧米人が植民地にいって受ける待遇が受けられるわけです。
祖国では下働きをするのような人でも植民地に行けば、日本人って
だけで使用人が雇えるわけです。
あの、あくまで爺さま婆さまの戦争体験スレですので
政治色の強いレスはご遠慮下さい。
開拓団の方のように大変な苦労をされた方も大勢いますので。
うちのばあちゃん、結構前からぼけてんだが、戦時中のことはまだよく覚えてるっぽい。
ただ、たまに脳内の時間が戦時中に戻ってるっぽい。
こないだも花火の音聞いてB29がどうのって大騒ぎ。まだ元気なじいちゃんいわく、
花火の音は対空砲の音とソクーリらしい。いまだに戦時中の悪夢に苦しむばあちゃんが気の毒
死んだパアさんは、サイレンを聞くとトイレに行きたくなる、と言っていた。
小用を済ませてから防空壕に退避していた習慣が、抜けなかったらしい。
大阪空襲で焼け出され、故郷高松に戻ってまた空襲に遭い、
空襲のたびに子供を亡くしたので、かなり偏屈な性格になってしまい、
嫁(私の母)も、孫(私)も、すこぶる付き合い辛かった。
晩年まで、慰霊祭には欠かさず出席していた。
うちのばあさんは、プロペラ機の音を聞くと空襲を思い出すと言ってた。
戦時中は大阪の郵便局で働いてて、働いてる途中に空襲が来たことがあったけど、
建物がコンクリート製だから焼夷弾ではビクともせず、屋上では男性従業員がバケツで消火してたらしい。
427 :
名無し三等兵:03/11/16 13:00 ID:VRdvBXwS
貫通しないの?
>>427 焼夷弾は木造住宅の屋根を突き破って、
天井裏に留まるようなスピードで落ちてくるように作られているんだって。
天井裏に留まるのが一番効率が良いと言うのが理由だそうです。
>>421 世界大恐慌で、いち早く脱却したと言われた日本でさえ仕事が無い。
アメリカ等の状況は「怒りのぶどう」等を読めば状況がわかるね。
中国だって例外ではないです。
更に伝統的な農業国家では農家の次男・三男は飼い殺しです。昔の日本といっしょ。
そんな中で農家の次男、三男の
ほぼ唯一の働き口が日本人のもたらす産業だったのです。
これを見方を変えて曲解すればあなたのおっしゃる通りかもしれませんね。
うちの祖父は、戦争には行ってません。
その数年前、東南アジア方面に、軍命で農業の研修に行ったのが兵役の代わりだったとか。
占領地にどのような農業が適しているか、そういうのを調べる仕事だったそうで。
その関係で、戦争中はずっと台湾で農業指導。母は台湾生まれです。
台湾から帰国する時には、一緒に仕事をしていた台湾人が駆けつけて、
ただ黙って顔を真っ赤にして泣いていた、と、祖母は言います。
日本に帰国して、家族を連れて最初に行ったのが、明治神宮と皇居だったとか。
今になって、何で祖父の話をもっとよく聴かなかったかと後悔してます。
祖父は10年前に亡くなりました。
良いおじいさんだね。
432 :
名無し三等兵:03/11/17 23:54 ID:sVNgF7VJ
軍板の最初の「僕たち、わたしたちは あなたたちの勇気を忘れません」を見て目から汗が・・・
433 :
名無し三等兵:03/11/18 01:14 ID:gizCA1Gu
435 :
433:03/11/18 01:39 ID:gizCA1Gu
なんか向こうはすごいことになってるな(笑
関大尉はどんな人だったんだよオイ・・
80にもなろうかというお年寄りがこの時間、PCを使って2chしてるってのも結構凄い話だな・・・・。
向こうの話を聞いてると、関大尉も存命だったら案外、老2ちゃんねらーになってたかも(w
家の祖母は、TVのニュースでアメリカの空母の事を取り上げていた時、
「艦載機」という単語を聞いて
「艦載機はいかん、アレは地上の人を鉄砲で撃ったりする」
とか何とか言っとりました。
戦時中に祖母本人が狙われたりしたわけではないそうですが、
市街地の方を飛び回っている?のを見てたそうです。
438 :
名無し三等兵:03/11/18 02:05 ID:gx1C27Iv
>436
昭和3年生まれの爺の私も2ちゃんネラーです。
ROM(これは何の略なんですか、前から気になってたんですが)
専門ですがw
ReadOnlyMember
読むだけの人です
440 :
名無し三等兵:03/11/18 02:10 ID:gx1C27Iv
>>439 なるほど。
ReadOnlyMemberですか
ありがとうございます。
441 :
433:03/11/18 02:11 ID:gizCA1Gu
なんかトイレ行って寝そびれたみたいだね
442 :
海兵七十期のポーカ派:03/11/18 02:21 ID:gizCA1Gu
世界史掲示板から紹介されて参りました。
今後機会あればこちらでお話してもよろしいでしょうか?
こんばんわ。海兵七十期だったものですが、
世界史掲示板でこちらを紹介されてまいりました。
どっちがホンモノ?
>海兵70期のポーカー派様
あ、はい。良かったら今後、こちらでも宜しくお願いいたします。
なるほど・・・之が名高き「騙り」行為ですか。
そういえば、軍艦の中で同じ姓名の者が他の者の給金を横領するという事件
作家の阿川氏の本にもありましたが。私も実際に一回だけやらかした事かあるので
あまり433氏を責められませんね。
関大尉の人となりや、沈み往く「瑞鶴」の艦内の様子とか、貴重な証言が
淡々と...。
海兵70期の方は、日を改めてこちらにも顔をだされるそうでつ。
450 :
449:03/11/18 02:36 ID:???
・・・て、いらっしゃってるし!
>>448 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 艦長に通報しますた!
\
 ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ ( ´Д` ) < 憲兵隊に通報しますた!
( ´Д` ) /⌒ ⌒ヽ \_______
/, / /_/| へ \
(ぃ9 | (ぃ9 ./ / \ \.∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /、 / ./ ヽ ( ´Д` )< 当直将校に通報しますた!
/ ∧_二つ ( / ∪ , / \_______
/ / \ .\\ (ぃ9 |
/ \ \ .\\ / / ,、 ((( ))) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /~\ \ > ) ) ./ ∧_二∃ ( ´Д` ) < ついでに故郷にも通報しますた!
/ / > ) / // ./  ̄ ̄ ヽ (ぃ9 ) \_______
/ ノ / / / / / ._/ /~ ̄ ̄/ / / ∧つ
/ / . / ./. / / / )⌒ _ ノ / ./ / \ (゚д゚)シマスタ!
/ ./ ( ヽ、 ( ヽ ヽ | / ( ヽ、 / /⌒> ) ゚( )−
( _) \__つ \__つ).し \__つ (_) \_つ / >
連行される前に夢の世界に沈みますね。それではまた
454 :
名無し三等兵:03/11/18 02:44 ID:gx1C27Iv
>>448 はじめまして。
海兵の猛者にお会いできるとは光栄です。
私は昭和3年生まれで、終戦時は旧制中学の5年でした。
陸士を受けたのですがアボーンw
学徒動員先の瀬戸内の造船所で終戦を迎え、武勇伝には
縁がありませんでしたね。
一挙にスレの平均年齢が上昇したな(汗汗
>>451 むこうでもそのネタやってたな。
いったい、何のつもりなのやら。
では明日を楽しみに、お休みなさい・・。
457 :
名無し三等兵:03/11/18 02:59 ID:K+IoHCrN
ほんものか?
つうか
>>433はCMしたりAA貼ったりなにがしたいの?
さっさと半島にカエレ
459 :
名無し三等兵:03/11/18 09:52 ID:tW6C6Mp/
海兵七十期氏がまた来てるね。
夜中の2時にカキコしたのに、7時間後には「おはようございます」なんだ・・
スゲェな。
それになんか影響された後輩?七十五期の人もカキコしてる・・・って
朝の5時かよ!?
年よりは早起きだ( ´Д` )
∧_∧
( ・∀・) ドキドキ
( ∪ ∪
と__)__)
何しに軍人になったんだ!!
旨い飯食うためさ。
462 :
名無し三等兵:03/11/18 12:01 ID:QUJpTIa/
うちの爺さんは、身長188cm、体重100kg(89歳現在でも)
の巨漢で、当時は「白兵でアメ公殺れる貴重な兵隊」として、本来の所属連隊ではなく(奈良県出身)
激戦地ばかり所属無視でとばされたらしい。
重慶-ニューギニア-ビルマ-フィリピンと転戦し、最後は本土決戦用員(高射砲装填手:久我山)として
内地で終戦を迎え死なずに済んだらしい。
その後は、大阪のヤミ市で、進駐軍とポリ公相手にゲリラ戦やってた。
463 :
名無し三等兵:03/11/18 12:19 ID:uR0zrNjd
>>462 たのもしい爺ちゃんだな〜。
しかし元帝国軍人が2ちゃんねるに光臨されるとは・・・
2ちゃんねるも出世したな。
>70期のポーカ派様
海兵70期だと・・・・・大体終戦当時、25〜27歳くらいだった方でしょうか?
因みに大正十年生まれの祖父は、開戦の年に薬専を繰り上げ卒業した後、
郷土師団である第五師団に士官候補生(下士官)として入隊し、
暫く狙撃兵として大陸戦線を従軍した後、南京で予備士官教育を受け、
その後は陸軍衛生少尉として北支方面へ従軍。
終戦直前に南へ戻り、無事に終戦を迎えたそうです。
前線部隊にいることの多い祖父でしたが、
五体満足で、共産党やソ連軍に捕まることもなく、
戦後は割りと早く復員することもできた、運の強い祖父です。
>>438 昭和3年生まれですか。私の親父と同じ年ですね。
親父は昭和18年、太刀洗の陸軍少年飛行学校に入り卒業後ジャワに配属され、
ジャワから知覧に行く途中東京で終戦を迎えました。
5年前に他界したのですが、もし生きていれば間違いなく2ちゃんねらーに
なっていたと思います。とは言っても、パソコンは扱えそうにないので印刷
したやつを読むだけ。よほど言いたいことがあれば誰かに代筆させるってとこでしょうか。
(私もエエ歳なのでほとんどROM専ですがw)。
まさか、現役の方達が現れるとは。
武勇伝じゃなくてもいいですから、何か当時のことを話していただければと思います。
レスが伸びているから何かと思ったら、
良い話が聞けて何よりです。
>>466 良い資料ですね、ありがとー。
468 :
名無し三等兵:03/11/20 06:42 ID:1fquhao2
>>465 465さんのお父上は元陸軍少年飛行兵ですか。街では少年飛行兵募集のポスターがよく貼ってありましたね。
若鷲の少年飛行兵と予科練習生は少年のあこがれでした。適性と学力の双方が必要なので、ある意味で陸士、海兵より難しかったと思います。
ジャワから知覧に行く途中で終戦・・・まさしく昭和3年生まれですね
多感な十代を戦争で過ごし、先に続けなかった負い目を持って生きてきた者が多いと思います。少年Hのようなやつは居ませんでした。
さて、何か当時のことをと仰っておられるので、私が動員されていた造船所での話を
させてもらいます。当時は今のような安全基準なんてものはないので、造船所での作業(私は主にリベット打ち)かなり危険でした。
作業中、上から人が降って来たり、焼けたリベットがすっ飛んで来たり。落ちてきた鉄板で人が真っ二つになったこともありました。
朝鮮人がわけのわからないことを喚きながら、手押し車で突っ込んで来るのには驚きました。
人が居ようが居まいがおかまいなしなんですから。危うく引かれそうになって喧嘩になりましたよ。憲兵が飛んでくる前に逃げたので、割を食ったのは朝鮮人の方でしたが。
造船所ではアメリカ人の捕虜も働いていましたね。げっそりやせて、可愛そうでしたよ。
まあ、日本人も食うや食わずだったので仕方ないのですが。監視の憲兵の目を盗んで片言の英語で話をしたりしましたが、
人懐っこいやつも多かったです。鬼畜のイメージとはずいぶん違うなと思いました。
一人一人で相対すればいいやつなのに、いったん艦載機に搭乗すると機関砲で女子供を追い回す。困ったものです。
動員先ではつらいこと苦しいことが多かったですが、同窓会で集まると
話は動員のことになります。地獄の釜のようなドック内で炙られ、コーリャン交じりの麦飯と腐臭の漂う得体の知れない魚の煮つけ食って、便所で呻吟したことは忘れられんのでしょうな。
いつか動員先の造船所へみなでいっしょに行こうと言ってるうちに、クラスの半分以上が鬼籍に入ってしまいました。残りの者も身体が不自由になってきた。人間、やれるときにやっておかねば後悔しますね。
当時の方がいらっしゃるとは2chも捨てたものじゃないな・・・
>人間、やれるときにやっておかねば後悔しますね
今からでも遅くは無いかもしれませんよ
そういったことを手伝ってくれる人もいると思うので
↑
未来への御礼?
この祖父の話が本当か判断してほしいのですが・・・。
うちの祖父は武蔵作ってたといってますた。
でかい艦だからこの戦艦のどこの部品を作っていたか
イマイチわからん状態だったといってました。
でも好きな船作れて戦地に行かなかったので幸せだったといっていた。
戦後も造船所勤務でした。確か三菱だったような。
そういえば武蔵も長崎で三菱でしたっけ?
それ以上は語ってくれなかった。
孫の私はすぐ話を誇張する人が多いと聞いていたので
今でも信じてないけど。
この情報で祖父を信じるべきか・・・。
>>472 お孫さんが信じなくてどうするの。
それにあれだけ大きな船だから、
何千人、末端まで含めたら何万人の人が関わっているプロジェクトですよ。
それであっても不思議でもなんでもないですよ。
ご供養に少し調べてみてはいかがですかね?
良い供養になりますよ。
>>468 レスありがとうございます。興味深く読ませていただきました。
会社のパソコンを使っているので仕事の合間息抜きでレスしてます。
陸士・海兵は士官(キャリア)養成、少飛は下士官養成、雲泥の差があります。
本人も陸士・海兵は雲の上みたいに言っていました。もっとも少飛を受験する人の中
には陸軍士官学校の予科みたいなものと勘違いして受験する人もいたらしいです。
>先に続けなかった負い目を持って生きてきた者が多いと思います
御気持ち御察しします。しかし日本の戦後復興は468さん世代の人たちが
がんばってくれたおかげだと感謝しております。
うちの親父はたいして貢献していませんがw。
造船所ですか。私も長崎の三菱造船所内で仕事をしていたことがあります。
造船関係ではなくプラント関係でしたが、海上自衛隊の護衛艦やイージス艦が目の前にありました。
以前、吉村昭の「戦艦武蔵」を読んだことがありますが「リベット打ち」のことも書いてありました。
>上から人が降って来たり、焼けたリベットがすっ飛んで来たり。
落ちてきた鉄板で人が真っ二つになったこともありました
よく「戦場のようないそがしさ」と言いますが(最近あまり言わないか)
まさに戦場そのものですね。
>>472 武蔵は三菱長崎造船所で間違いありません。上の「戦艦武蔵」という本に
詳しく載ってるよ。どこの本屋にも結構置いてあるので一度読んでみては。
確か新潮文庫だったと思います。
>>473 >>474 >>475 ありがとう。本当に関わっていたんでしょう。
現在の祖父の家は本州の端の造船所近辺だからあっているはず。
※検索したらやっぱり三菱。戦後移動になったのかな?
なんだか漏れの人生にも誇りを持てます。
これから武蔵調べてきます(`Д´)ゞ
477 :
名無し三等兵:03/11/20 16:58 ID:2Ah+nhzX
お邪魔いたします。
武蔵でしたら海兵卒業直後に配属された呉工廠で「第2号艦」という
名称で多少ですが建造に関与いたしました。自分は大和配属になる関係上
内部儀装の問題点洗い出しの為、長崎出張して儀装岸壁に横付け儀装中の武蔵に
乗り込んだ記憶があります。第一印象は以外にも小さい事でしたね。
自分が派遣された時点ではまだ前艦橋が半分も完成してない状況だったと思います
478 :
海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/20 17:00 ID:2Ah+nhzX
続けます。
内部儀装は記録にあるとうり、武蔵の方が豪華でした。
士官室も明らかに武蔵の方が格上でしたね。
ただ、全部中甲板付近の構造は大和とほとんど変わらないほど似ておりましたよ。
479 :
名無し三等兵:03/11/20 17:05 ID:dpDZvEOQ
3年前に鬼籍に入った祖父に小坊の頃聞いた戦争の話。
本人は陸軍の整備兵、本州中部の今も自衛隊の駐屯地がある海なし県から南方へ行ったとしか教えてくれなかった。地名はフィリピンだけ聞いた覚えがある。
「武蔵と大和は電波で繋がってて同時に大砲が撃てた。でも一斉射撃すると武蔵の電気が全部消えた」
…後半は本当なのかしりませんが未だにわすれられません(笑)
「南方にいた頃一式陸攻(あやふやです。ひょっとしたら違うかも)の整備していた。オイルクーラーがしょっちゅう壊れて苦労した。
ある日午後一で出撃する機の整備が長引いて数人で飯も食わずに整備してて、終わらせてから飯喰ってたら空襲があって出撃で並んでた連中や他の整備兵たち含めて隊がほぼ全滅した。
その後内地勤務になった」
ほんとかどうかは分かりませんが本土勤務だったのは間違いないようです。戦友会の通知なんかも見たことないし、ほんとに全滅してたのかな…とも思います。これ以外の戦闘に関する話は聞いたことないんですよね。
祖母に聞いた話は一つだけで、「裏の庭でどすーんっ!とものすごい音がしたので近所中に「うちの庭に爆弾落ちたでみにきてくりやー!」と触れ回ったけどどこ探しても跡も無い。
結局近くの河原に落ちた爆弾の爆風で屋根の石が落ちてただけだった。爆弾落ちた跡探すなんて馬鹿だったいなぁ」と笑ってました(笑)
祖父の弟は陸軍士官学校から満州行って引き上げてきた時に東京で車にはねられて片目失明、6年前に自宅の前で跳ねられて鬼籍に入りました。何も聞けなかったけど何か硬いものを切って欠けた所を研ぎなおしたような軍刀が残ってます…ナニやってきたんだろう。
隣組の爺さんは中野学校出でした。結局最後まで何も語らずに逝かれました。
9,000円ってとこかな?
482 :
名無し三等兵:03/11/20 18:17 ID:v+iDqh27
もれのじいさん、パーシバル見たことあるって言ってたなあ
483 :
465:03/11/20 18:24 ID:???
>>475のつづき
捕虜のことについてですが、マスコミのおかげで戦時中、捕虜は
ずいぶん虐待されていたというイメージがありますが実際のところ
扱いはどうだったのでしょうか?
日本人の食事でさえ
>コーリャン交じりの麦飯と腐臭の漂う得体の知れない魚の煮つけ食って
↑ こんな状態ですから捕虜が自分達は虐待されたと言うのも
わからなくもないですが。食事以外のことで。
最近、朝鮮問題がよく話題になっていますね。親父もご多分にもれず朝鮮嫌いでした。
少飛にも半島出身の生徒が何人かいてよくけんかもしたらしいのですが、
生前、スポーツの日韓戦なんかテレビでやっていると「この、チョンが!」といった
具合でした。私は当時、あの日本に対する露骨な敵愾心にはウンザリでしたがチョン呼ばわりは
あんまりだろうと思っていました。しかし最近、2chのハングル板を覗くようになって
親父の気持ちがわかるようになってきました。台湾人に対しては結構、好意的でした。
10年前に2chがあったらと悔まれます。戦争の話はわりと聞いていたのですが、朝鮮人
の話になると聞き流していたものですから。468さんはその点どうでしたか?微妙にスレタイの
趣旨からずれるようでここの住人さん達には申し訳ないのですが(ハン板逝けって
言われそうでw)、よかったら。
あっ、あまり関係ありませんが、今日11月20日は親父の命日です。
(合掌・・・)
軍事板で軍事以外の事を話すなと言うならコスタリカ・ヘーロ国スレ、食べ物スレ、鬼戦車T-72スレ等も駄目になるぞ。
誤爆
487 :
名無し三等兵:03/11/20 19:25 ID:L1C90ho8
うちの伯母の夫の父は関東軍で主計班だったそうで、
家族(父、母、兄、弟)みんなで満州に住んでいたそうです。
ソ連が攻めてきたときに子供を捨てていく人がまわりにいるなか、
このお母さんは引揚船に乗るまで子供の手を離さなかったそうです。
ちなみに父親はソ連軍の捕虜となり、殉難死されたそうです。
488 :
名無し三等兵:03/11/20 19:45 ID:hCsYvU2Z
祖父ではないが、高校の時の技術の先生が
戦時中、図工をやってたらしい。
とにかく朝から晩まで図面を書きまくっていたとか。
で、恐らくトレースの事だと思うが強烈な光をズーっと
見ながら書いていたそうで、結局目に障害を負い
日光などを見れなくなったため常にグラサンかけてた。
489 :
名無し三等兵:03/11/20 19:48 ID:NN11HKRS
俺の爺さんは関東軍第775部隊に所属していた。
490 :
名無し三等兵:03/11/20 20:02 ID:AZr3xGbc
ボクのじーちゃんは三菱長崎で造船技師やってたそうな
武蔵建造にも関与してたんだって
へーと思ったのは召集令状が3回きたのに海軍がかけあって
ぜーんぶ取り消してくれたってこと
理由は腕のいい造船技師が召集されると海軍として困るからだって
じーちゃんみたいなケースって他にもあるのかなあ?
491 :
名無し三等兵 :03/11/21 07:59 ID:W0EU9A3F
>465
造船所で働かされていた捕虜の待遇はお世辞にも良いとは言えなかったですね。
げっそりやせて、服はぼろぼろで、腰にいつも空き缶をぶら下げていました(残飯を入れるため)
憲兵が捕虜に厳しかったのはもちろんですが、工員も些細なことで苛めたりはしてました。
日本各地で空襲や艦載機の銃撃による被害も尋常でなくなってきていましたから、
捕虜に憎しみを持つのは当然と言えば当然です。ただ、好奇心旺盛な
中学生としては、憎しみだけでなく、捕虜とコンタクトを取ってみたいという気持ちが押さえられなませんでした。私の中学では敵性語云々などどこ吹く風で、動員されるまでは英語は作文、文法、読解としっかり
勉強させられていました。その結果、英語の文化に対するあこがれみたいなものがありました。
インテリもどきの朝鮮人の「日本人は嫌いだが日本文化は好きだ」みたいなもんですか。
憲兵の目を盗んで話し掛けて、答えが返ってきたときはうれしかったですね。
「本当に通じた。生で英語文化に触れた」という感じですか。向こうもこちらが年端もいかぬ学生ということもあり気を許していたのでしょう。腹下しで困っている捕虜が多かったので、なけなしの征露丸などをやると大喜びしていました。
朝鮮人のことですが、巷では朝鮮人は日本人に虐待されていたということになってますが
私の知っている限りでは違います。一般の人には、むしろ怖がられていました。気性が荒く、
すぐ暴力をふるう。身体は大きいから、いったん切れると一人や二人では押さえられない。
おまけに徒党を組んで雲霞の如く集まって来るから、危なくてこちらから手を出せないですよ。
私の郷里にも朝鮮部落がありましたが、日本人はあまり寄りつきはしなかったです。
向こうもこっちに同化する気はさらさらなかったでしょう。彼らの暮らしは非常に貧しく、不潔で、子供などは頭に虱を一杯たからせていました。その虱をプチプチ潰して食べるのが気持ち悪くて
たまらなかった。ああまで貧しく、日本人にも疎んじられてるのに、なぜ日本に居続けるのか。理由がわからなかった。部落の朝鮮人は無理やり連れて来られたわけじゃないですからね。今から思えば、日本の悲惨な暮らしでも朝鮮に居るよりはましだったんでしょうね。
492 :
468:03/11/21 08:35 ID:ohYY9hcM
>>469 いえ、いえ、つまらぬ私事で若い方にご迷惑をかけるわけにはいきません。
それに、造船所も当時とはずいぶん様変わりしているでしょうから、思い出は瞼の中に
留めておくのが良いのかもしれません。
>>470 貴重な話などとはとんでもない。
軍事とは関係のないとりとめもない話ですみませんでした。
493 :
名無し三等兵:03/11/21 08:45 ID:vX+rS3N1
漏れのばあちゃんは92歳でこの前無くなったが、親類が長崎県五島に居て
日本海海戦の時遠くから「ドーンドーン」と音が聞こえて来てたんだって。
>>490 ああ、生の歴史の話はとても参考になります。
ありがとうございます。
495 :
465:03/11/21 09:22 ID:???
>>491 こういうことを体験者から生で聞けるということはいいことですね。
ありがとうございました。
親父には戦争以外のことももっと聞いておけばよかった思っています。
まさに珍事なのですが、なぜ記録に残らなかったのかは謎のままです。
戦時中の事だったので、あえて残さなかったのではないかと思います
おや?どうやら書き込みに失敗致したようです。
申し訳ございません。もう一度改めて書き込み致します
∧,,∧
ミ,,゚Д゚彡 ドキドキ
ミ つ旦)~~ ワクワク
〜と,,,~),,~)
おいらのひいじいさん。
若いころの写真は「やらないか?」なくらいカコイイ。
近衛師団にいたけど、2・26のあと
口封じだか懲罰のためか満州の対ソ連最前線に飛ばされた。
現地では物資が豊富で、停戦命令が出たあとも余裕で継戦可能なほど
武器弾薬食料が残っていたとか。
でも、収容所の話になると何も語ってくれません。
491氏
朝鮮人の労働者でしたら、私も短期赴任中の呉工廠で若干名見た事がございます
私が見る限りは、大変知的水準の高い熟練工でありました。
捕虜でしたら、私の体験の中ではひとつの珍事がございます。
昭和18年のことでしたが、マーシャル諸島での混戦期に、
珍しく武蔵以下の艦艇が、トラックを抜錨・出撃との事になり出動いたしました。
出港してから20分くらいのことでしたが、突如艦隊に航空機から平文で
「作戦行動中に申し訳ない。偵察中に帰還方位を見失い帰還できなくなった。
そちらに余裕あれば収容ねがないか?こちら位置○○」
という趣旨の無電が着信し、また今現在こちらに接近してきているとの事でした。
急いではおりましたが、まだこの頃は見殺しにするほど戦局も切迫してはおりませんでしたので
収容しようとの事になり、「了解した、位置○○。」と暗号で返答いたしました。
ここまでならば、特段珍しいことではありません。「不時着収容」は少数例ですが
海軍でも前例がございます。(ただ、なぜかこの偵察機は「平文」で送信してきたのです。)
話はここからで、参謀長が「どこの所属か?この付近に作戦行動中で、なおかつ艦偵を
搭載している艦はいないはずでは?」とおっしゃられましたので、
私が調査を申し出て調べたところ、伊号潜水艦数隻が作戦行動中だったので
「零式小型水偵ではないか?平文なのはよほど切迫しれいるのかも・・」と報告したところ、
零式小型水偵に山本長官が興味を示され、武蔵直々に収容しようとの事になり
収容行動のために単独行動となりました。
501 :
海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/21 10:01 ID:Xpn7LoFS
ところがそのまましばらく待っても
航空機の姿が見えないので不思議に思っていると、さらに平文で
「どこを航行中か教えてほしい、先ほど無電を受信したが、暗号で送信されてもこちらには
解読の手段がない。現在位置○○(武蔵からおよそ8分の距離でした)」と連絡が入り司令部一同大騒ぎになりました。
なんとこの偵察機は、『米軍機』だったのです。
最初は参謀長もまさかと思われたのか、「事態が把握できないので、詳細に伝えてほしい」
と返答したところ、発進後スコールに巻き込まれて帰還方位を見失い、距離が開きすぎて
味方とも連絡できなくなった。外洋下で不時着水も困難、偶然そちらの周波数無電を受信したので
観念して水偵ごと捕虜にしてくれ」と言う内容でした。
こうなったのも私や参謀、そして当の長官ご本人の「早合点」が重なったのが要因なのですが
いまさら戦闘準備して撃墜するわけにも行かず、このまま放置して
位置を通報さてはたまらないと、結局収容ということになったのですが
私も第三砲塔脇から見物いたしました。乗組員や仕官、それに山本長官まで甲板にあらわれて
この、突飛な訪問者を収容いたしました。大きく取り舵を切って収容し、
艦尾のクレーンで、後部飛行甲板に収容いたしました。
なかに乗られていたのが大尉と中尉で、山本長官直々に挨拶し所属その他を聴かれているようでした
まさに珍事なのですが、なぜ記録に残らなかったのかは謎のままです。
戦時中の事だったので、あえて残さなかったのではないかと思います
502 :
海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/21 10:08 ID:Xpn7LoFS
戦時下での捕虜の扱いに関してはあまり記録も少なく
また残っているものも虐待行為などの記録が目立ちますが
海軍に関しては日露の役でのロジェストベンスキ将軍と東郷元帥との美談に
心酔しているものが多かったせいか、少なくともこのときはとても丁重に
扱った事を覚えております。
海軍の艦艇は欧州の海軍艦とは異なり捕虜収容施設がないので
収容後大尉の方は予備士官室、中尉の方も一般水兵予備休憩室に収容されて
普通の仕官と同じ扱いをしておりました。
503 :
海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/21 10:10 ID:Xpn7LoFS
付き合いはおよそ20日間で食事も何度かともにいたしましたが、
この大尉と中尉はトラック帰着後、捕虜になり春島の飛行場整備労働に回されていた様ですが
私が見る限りは「拘束された客人」という扱いでしたね。
生きて本国に帰れたのかは存じませんが、おそらく米軍トラック大空襲の時に
お亡くなりになられたのかもしれません。
504 :
海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/21 10:16 ID:Xpn7LoFS
お名前はもし生還成されていたら名誉を汚す事になるので申しませんが
収容したほうもされた方も、特に嫌悪の雰囲気はなく
御互いに「嫌な時代になった」と言うような事を愚痴り、故郷や
米海軍の機密に触れない限りの生活を話していただけました。
トラック帰着後に陸軍から、「捕虜を甘やかすのは如何か?」と
文句を言われましたが、対応に出た当直将校は「陸軍は知らんが
海の戦争は軍艦がする、水兵は部品に過ぎない。」と追い返しておった事を
覚えております
505 :
海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/21 10:18 ID:Xpn7LoFS
長くなりましたが以上です。謎だったのは
彼らがどこの米艦隊に所属していたのか?という事です
トラック停泊中に、武蔵が出撃した事は数えるほどしかないので
日時は特定できると思うのですが・・
初耳です。不思議なこともあるもんですね。
捕虜に関してですがこんな記事が10/12の朝日新聞に。(雑談スレよりコピペ)
「駆逐艦沈没、日本軍に救われた 元英兵、60年経て感謝の来日」
太平洋戦争初期の42年に海戦で敗れて海を漂流し、日本の駆逐艦に助けられた元英海軍中尉が、救助してくれた元日本海軍中尉に
会うため、16日に来日する。
「日本に行って感謝しないと、私の一生は終わらない」と、話している。
2人は26日、救助した駆逐艦の名を継ぐ護衛艦に招待され、相模湾で海上自衛隊の観艦式に臨む。
2人は、英国バース在住のサムエル・ファーレさん(84)と北海道で食品会社を経営する田上俊三さん(86)。
インドネシア占領を目指す旧日本軍の艦隊と連合国艦隊が戦ったスラバヤ沖海戦で、当時砲術士官の
ファーレさんが乗っていた駆逐艦エンカウンターは砲撃のため42年3月1日昼頃に沈没。
直前に沈んだ巡洋艦エクゼターの乗組員と共に約400名が救命ボートなどで海に漂った。
20時間近く経った翌朝7時頃、日本の駆逐艦「雷」が通りかかった。
英国側が「殺されるのではないか」と恐れていた時、雷から縄梯子が下りた。
艦上では砲術長の田上さんらが救助を指揮していた。
「直ぐ救助が決まった。異論を挟むものは居なかった」。
404人を救助した。甲板は英兵で一杯になった。
血気盛んな水兵が、「英兵に暴力を振るうかも知れない」。田上さんの心配をよそに、怪我の手当は基より、重油まみれ
の体を拭いてやる者、飲み物や煙草を与える者も居た。
戦場で敵兵に見せた優しさに田上さんは驚き、涙したという。
英兵は捕虜になり、戦後、帰国した。
海戦から45年後の87年夏。田上さんはふとしたことから手にした雑誌で、ファーレさんを知った。
英誌に寄せた体験記の邦訳が載り、日本兵の行いを、「騎士道」と称えていた。
「あの時の砲術士官に違いない」。防衛庁を通じて調べて貰い、当時、妻の故郷のスウェーデンに
住んでいたファーレさんに手紙を出した。
「私が今日生きていられるのは、あなたの艦長始め、乗組員のお陰」と、感謝の返事が届いた。
田上さん夫妻は88年6月、ファーレ家を訪問、46年ぶりの再開を果たした。
孫も含めた交流は続き、今年6月にも英国に戻ったファーレさんを田上さんが訪ねた。
田上さんの手元に、当時の部下が撮った救助時の貴重な写真が残る。
田上さんは、「大戦で日本は中国やミャンマーなどで残虐行為をしたと指摘された。ファーレさんが
感謝のため来てくれるのは、日本人が本来優しい心を持っていることを証明してくれることにもなる」
と再開を喜ぶ。
状況によりけりなんでしょうけど、残虐非道なことばかりではなかったようで。
連合艦隊司令部もアフォが多かったのか?
まぁ「本当」ならそうなんだろうけど(プッ
(プッ
を使う奴は知能が低い
以後無視で
510 :
465:03/11/21 11:54 ID:???
>500
491氏は学徒動員として造船所で勤務、海兵七十期のポーカー派氏は海兵出身の士官、
目線が違うのだから受ける印象がちがうのは当然かと。
捕虜の扱いも戦地と日本国内、陸軍と海軍とではずいぶん違うようですね。
もっと別に体験者が来てくれるとおもしろくなりそう。
>>501 じいちゃん、ありがとう!!
こんなハプニングがあったんですね。
まったくもって事実は小説より奇なりですね。
>500-501について疑問があるのですが、
日米共通の非常時用の通信取り決めといったものがあったのでしょうか?
それとも日本語を操る米軍士官が乗っていたということでしょうか?
識者の方、よろしければお教え下さい。
すばらすぃ
武蔵の話、駆逐艦の話、
誰か映画に汁!ヽ(`Д´)ノ
と思うくらいイイ!
1943年01月22日 トラック島入港。
1943年02月11日 連合艦隊旗艦となる。
1943年04月18日 海軍甲事件。
>500-505
この短い期間にこのような逸話があろうとは・・・。
我々から見れば逸話だけど、当時はひょっとしたらどこでも普通にあった光景なんで残らなかったんでは…と思ってしまいました。
ほのぼの。
・・・おおおお、武蔵のエピソード、雷のエピソードどちらも本当に素晴らしい話だと思います。
海軍将兵、というか船乗りの人々全般は洋の東西を問わず、
『板子一枚下は地獄』
という共通の認識があると聞きました。
現在でも、軍艦/民間船を問わず、航行中に“SOS”を受信すれば、
二重遭難の危険性があっても、自船の能力の限り必ず救助に向かうそうです。
(硫黄島に配備されている海上自衛隊の救難飛行艇US−1は、SOSを受信すれば大嵐の中を遥かポリネシアまでも救助に出動します)
また、こう言っては七十期氏や七十五期氏に怒られそうですが、海軍の戦争は
『殺す相手の顔を見なくて済むきれいな戦争』ですので、戦闘が終了すれば、
すぐに「さっきの敵は今の友。」の気持ちになれたでしょう。
殺す相手の顔どころか、返り血までも浴びなきゃならない陸兵とは随分違います。
なお、雷のエピソードとは逆ですが、
重巡古鷹の元乗組員の方が、“サボ島沖夜戦”で古鷹が撃沈された後、
「油まみれで海面を精魂尽き果てて漂う内に夜が明けた。
すると、米軍艦船が近づいてきて、なんと自分を助け上げようとする。
“No Thank you ! ”と言って身振りでも拒否したが、米水兵は有無を言わさず引っ張り上げた。
あの時、カッコ付けて沈んでいたら今の自分はない。本当に感謝している。」
と証言されていたのを見た事があります。
(NHK特集かなんか。『鉄底海峡なんたらかんたら?』すいません題名忘れました)
ええ話や・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
うん、エエ話やね・・・。
3つの話、全部面白かったので良スレage
>>501−
>>505 読み始めた時「米軍の罠の話かな?」
と思ったんですが良い話でした。(*´Д`)
でも、その御年でパソコンを使いこなせるとは
海兵七十期のポーカー派氏はスゴイでつ。
うちには海兵78期の爺ちゃんがいるのですが
開いたエロ画像が閉じなくなったのがトラウマになって
未だに使いこなせないようです。_| ̄|○
スレ違いスマソ
>>522 爺ちゃん元気だね〜
トラウマに負けずガンガレ!
524 :
:03/11/21 23:58 ID:UJ4O9q4C
すばらしい!
ただただすばしい!
すばらしいエピソード集です。
その時代を逃げずに生きてきた方々に心より敬意を表します。
今の軍事板のバナーと同じく、「僕たち、私たちはあなたの(愛と)勇気を忘れません。」です。
自分は、468さん、海兵70期さんそしてその他大勢のお仲間の方々が残こしてくれたこの「日本」を受け継ぐ資格があるかどうかわかりません。(と、いうか今のままではその資格がありません。ハズカシながら)
背筋がシャンと伸びる思いです。これからは襟を正して生きようとおもいました。
スレ違いすんません。
>>522 がんばれ!海兵78期の爺ちゃん!とお伝え下さい(w
曾祖父が青島攻略に参加していたらしいが、
いまさら話は聞けないよなぁ。
と言うわけで祖父から聞いた話ですが
戦争末期、内地でも食う物がなくなって(支給された物かどうかは判りませんが)
遂に、革靴を鍋で煮て食べたそうです。
他にヘビも山から捕って食べたのだそうです
この前ニュースで北朝鮮の人達が玉蜀黍の芯をお粥にしていたのを見て
「なんだ、おらも色々食ったけどもここまではしねがったな。」
こんな感じらしい
白米>>>ヘビ>>革靴>>>>>>玉蜀黍の芯
526 :
名無し三等兵:03/11/22 01:03 ID:0zZR+4jk
私は、47歳です。祖父は、日露戦争時陸軍軍医中尉でした。父は廚卒で予科練に入り、海軍航空二等兵曹になりました。昭2年生まれです。
父の兄たちは、陸軍大尉。薬学生.商船学生。でしたが、皆生き残りました。
父は軍は地方より甘味が多かった、よく食べた。と、いいます。
証言者が複数いないと、にわかに信じられんな。
俺でも作れる話だし・・・。
もっと、自分のいた部隊や使っていた兵器、戦果等を
数字をからめて具体的に書いてもらわんと。
それを言っちゃあ、おしまいよぉ・・・
529 :
アナル:03/11/22 01:42 ID:mBQM9rDI
まぁまぁ ここはひとつ しんじて きいてみようや
いちいち うたがってたら 2ちゃんねるなぞ
やっとれん
まぁ 2ちゃんねるのせいで ぎしんあんきに なりかけてる おれではあるが
530 :
名無し三等兵:03/11/22 02:17 ID:I3soLTmE
うちのジイチャンは特攻隊を志願して終戦の直前に知覧に配属
しかし終戦。そんな時に満州に露助が攻めている、という話を
聞き、満州へ言って馬賊になって露助ドモをぶっ殺す!!!!!!!
と立ち上がった所、教官から「戦争はもう終わったんだ。」と命
の大事さを説得され今は静かにバアチャンと趣味の盆栽に囲まれ
静かな隠居生活をおくっていまつ。ただ戦友会かなんだかワカラナイ
けど、毎年戦友がいなくなるのは寂しいものだよ、と話してくれます
嘘を嘘と見抜ける人で無いと(掲示板を使うのは)難しい
ゴーストライターかいな?
いわゆる古参の上等兵だったじいちゃんは86歳で永眠した。
多分新聞で知ったんだと思うけど、葬式が終わってもひっきりなしに
じいちゃんの死を悼む封書がかつての上官や戦友達から届いていたよ。
死線を共にした者たちだけが共有できる連帯感ってあるんだね。
少し戦友っていいなと思ったよ。
ここすごい良スレだね。電波2chで紹介されてもおかしく無い。
(´-`).。oO( βαкαが殺到するから紹介されませんように )
( つーか電2=疫病神 )
米軍機と平文でやり取りって、日本語話せる人が米軍機に乗ってたって事かな?
エリートクラスの人間は英語の文法とか語呂とかの知識教養はかなり高かったと聞いているけれど
そのせいじゃないかな?
あ それじゃ日本軍の機体とは間違えないか
その辺あんまり追求しないこと。
さっと流して次のお話を聞きましょう。
つか、電信だろ?
541 :
名無し三等兵:03/11/22 12:26 ID:mBQM9rDI
日系アメ人もけっこういた。
543 :
512:03/11/22 13:40 ID:???
>536
敵情報傍受の為の通信基地の電波受信状態が悪く、
日本の通信を上空から傍受していたとか。
しかも今とちがって便利な機械は無いから
人(日本語の出来る人)を乗せるしか
なかったとか。
日本も通信状態が悪い時や緊急時には平文で
電信打ったりもするからそういう地道な活動が
結構有効だったのかも。
>>543 山本長官が撃墜された時なんて、まさにそれかな?と思います。
545 :
名無し三等兵:03/11/22 14:13 ID:6mQLZgPR
国際船舶信号とかは日本語や英語に限らず万国共通なんでなかった?
て言うか偵察で出ててんだろ。
その2人。なんでも良いから電波出させて傍受するための
餌に使われたんじゃなんんか?
ジャップの艦隊が珍しく出てきたけど
位置不明てんで因果含められて志願・・。
たぶんその頃雨さんの司令部じゃ敵の位置とか行動方向
割りだして大喜びとか・・。
兵学校出身者の方々が佐藤大輔氏の著作を読んだら
どんな感想を抱かれるのか大変気になる。
ポーカー氏の話の内容だと、平文で自艦隊の位置を
敵機に教えたのか。
いやはやなんとも・・・。
549 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/22 19:02 ID:yEfVxnYg
こんばんわ。
年寄りの冷や水で夜起きていたせいか少々機関が不調の模様です。
518氏
そうですね。陸軍将校の気持ちも十分に今では理解できます。
海軍は捕虜への感情は上から下まで「丁重に」だったみたいですが、
陸軍は上級の方は「丁重」で、下のほうに行けば行くほどに「険悪」であったと記憶してます。
522氏
私は戦後、国鉄から日本電気に勤めておりましたんで
コボルやCはある程度使えたのがきっかけで、TK-80からの付き合いです。
今のコンピュータはもう11台目くらいかと思います。今は
ペンティアム3ジオン(読み方に誤りがあれば申し訳ございません)というのを使用しております。
524氏
まぁ、海兵教育を受けてもどうしようもない阿保も不思議にたくさんおりましたので
あまり緊張されなくても結構ですよ。私自身も当時そんなに年がら年中真剣に生きていたと胸ははれませんね。
525氏
私はそこまで切迫した話は聴いた記憶がございませんね。
すくなくとも末期に長門に配属されていたころも、麦飯でしたが普通に食べていた記憶がございます。
527氏
もっともなお言葉です。
当時、自称日露の勇士が海軍にもたくさんおられました。
547氏
武蔵の話ですが、説明が悪かったようで混乱を巻き起こして申し訳ございません。
通信は国際信号を用いたローマ字式で通信されてきましたと報告を受けた記憶がございます。
投降した将校が多少ですが日本語を知っていたのと、当時配属されていた通信班に
英語の心得があるものが多かったからですね。
連合艦隊旗艦通信班ともなると、さすがに何カ国語か理解できる兵が配属されておったようです。
547氏
仮想戦記は昔にもございましたよ。
有名な「海底軍艦」の著者などや海軍の軍人などもかかれておりますよ
550 :
名無し三等兵:03/11/22 19:09 ID:6mQLZgPR
水野某「この一戦」「次の一戦」とかかな?>架空戦記
海兵七十期のポーカ派様、貴重な体験をご披露していただき有難うございます。
>>昭和18年のことでしたが、マーシャル諸島での混戦期に、
>>珍しく武蔵以下の艦艇が、トラックを抜錨・出撃との事になり出動いたしました。
との事ですがそれは下記の所に軍艦武蔵の行動が記載されていましたので
ご参照ください。
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~ENDOH/NAVY/IJN/BB/MUSASI/HISTORY.htm この記載に昭和18年の武蔵が出航しているケースで
1943年10月17日 トラック島出港。
1943年10月19日 ブラウン環礁到着。警戒待機。
1943年10月23日 ウェーキ島方面の索敵行動のためブラウン環礁発。
マーシャル方面で武蔵が関係する件と言えばこれぐらいしか確認できませんでした。
件の将校がアメリカ艦隊の何処に所属していたのか、興味がありますので
この時に行動していたアメリカ艦隊を記録から追ってみようかと思っています。
お聞きしたいことがあります。日本軍の暗号ですが、アメリカに住む日系人が
日本軍の暗号解読に協力する事を考慮していたのでしょうか?
アメリカは暗号を難解にする為に、少数民族の言語も利用しましたが
日本でもアイヌや高砂族、ミクロネシアの言語を利用しようと発想する人は
いなかったのでしょうか?
お門違いの質問だと思いますが、ご存知でしたらお聞かせください。
552 :
名無し三等兵:03/11/22 21:22 ID:t7HqrrLy
>>551 日本も薩摩弁使って
数ヶ月アメリカは分からなかった
逆にいえば、よく薩摩弁と分かったもんだよな・・。
同じ内容を暗号と平文で送る神経がわからん!
早合点では済まされない。
>>553 薩摩弁を話せる日系人を使って解読させたそうだ。
対独連絡任務に就いた潜水艦についての本で読んだんだけど、
深海の使者だったか、NHKの方だったか、よく覚えてない。
>>554 つうかさ、俺ら軍オタと比べたら悪い気がするぞ
>>549 PCに関しても大先輩でしたか・・・・・それもXEONをお使いとは。
あれはサーバー用の信頼性の高いCPUでしたね。
後、貴重なお話の方は大変ありがたいのですが、最近冷え込んでまいりましたので、
お体の方は充分にお気をつけ下さい。
>>555 それドラマにもなった二つの祖国中にも出てくる
エピソードだったけど本当だったんですね。
私の祖父は海兵七十二期だったそうなのでもしかしたら兵学校で海兵七十期のポーカ派氏の
指導を受けていたのかもしれません。
祖父は卒業後は搭乗員になったそうですが、専攻が偵察だったため戦局が悪化しても特攻に
は行くことがなかったと聞いたことがあります。
3、4年程前、電車に乗ってた時、ご老人に席を譲った。
で、オレは立ったままその人となんとなく世間話をした。
話題が戦争の話になり、その人は軍隊に入った弟さんを
戦争で亡くした、と。へぇ、どこで亡くされたんですか?と
聞いてみたら、ミッドウェーで、「赤城」の乗組員でした、と。
「戦争はイカンですな、前線も銃後も関係無く皆不幸だ」と言ってた。
自分の爺さんの話でなくてスマソ。
561 :
名無し三等兵:03/11/22 23:25 ID:mBQM9rDI
そんなことより力道山の話しようぜ。
562 :
518:03/11/22 23:34 ID:???
>>549 レス キタワー。.:*・゚・*:.。゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*・゚ !!!☆
ありがとうございます。小癪な事を申しましたが、
どうかこれからも折を見て貴重なお話をよろしくお願いします。
・・・それにしても、『海底軍艦』の名が出てくるとは驚きです(w
せめて『潜水艦イ-57降伏せず』にして下さい(w
>>554 早合点、てのは以外と有るモンですよ。たとえ戦争中でも。
変な例ですが、“第三次ソロモン海戦”では、戦艦・霧島のベテラン見張員が、
始めて見る敵艦・サウスダコタ(これが初陣なので、日本兵で今までサウスダコタを見た者は居ない)を
暗闇の中で正確に識別し言い当てたといいます。
しかし、その前を行くより大型のワシントンは発見できませんでした。
サボ島のさらに暗い島影の中に見逃してしまったのです。
>>555 松本幸四郎(いまでもこの名前だっけ?)と西田敏行が出てましたよね。
>>562 それは早合点とは言わん。
俺が言いたいのは、十分時間があるのに
暗号と同じ内容を平文で送ったこと。
麦飯食いすぎると判断力も鈍くなるんか?
まぁ、軍艦乗りは白兵戦の経験がないからな。
あっ!潜水艦は違うぞ、潜水艦は。
565 :
名無し三等兵:03/11/23 00:36 ID:/OLl/q5R
うちのじいちゃん(故人)、穀物なんか食えなかったって言ってた。
じゃ何食ってたのって聞くと、聞いたことも無い虫とか草・・・。
566 :
名無し三等兵:03/11/23 00:57 ID:Xfh/KeMk
力道山の話しようや。
567 :
名無し三等兵:03/11/23 01:25 ID:mWnpIvCq
家の母側の爺ちゃんの兄は沖縄戦でガマに入っていたところ、
火炎放射機で殺られたって話聞いた。
凄く頭の良い人だったらしい
その時殺られてなきゃ今も生きてたんだろうなぁ
そう思うとなんだか不思議
一度会ってみたかったな、写真で顔も見たことないよ。
ちなみに父側の爺ちゃんは背が低いから馬の世話してたってさw
一名粘着がまぎれこんだな。
569 :
名無し三等兵:03/11/23 01:44 ID:Xfh/KeMk
世界のRIKIDOHZAN。
>>563 基本的に近代戦争で救助とかSOSを騙る事は卑怯なんでしては
アカンという暗黙の了解があるのをしらんのか?
各員ここが戦争体験スレであることを忘れるな。
軽挙妄動は慎め。
>>570 だな。そういう類は禁止のはず。で
>>563はどう反論するんだ?
戦争にルールなんか〜というお決まりのブサヨ発言は勘弁してよ。
573 :
526:03/11/23 05:39 ID:Q3kYs7Ve
戦中は、物流がペケだつたので、食品は、偏っていたようです。父のいた出雲市あたりでは海軍には甘味が多く有り。休みに倶楽部で大福を大食いしたうえに、外出留の戦友のために、大福を航空隊に持ち帰った。と父は言います。
>>573 軍隊は物資を貯蔵していたからかな?
あとは輸送船が着く港にちかかったりすると豊富だろうね。
後は旧植民地とかだと、洋物が手に入りやすかったらしいね。
爺ちゃん、上海で洋もく吸って以来、「敷島」や「ほまれ」なんかマズくて吸えなかったって言ってたなあ。
>>573 漏れの親戚のおばさん(60代)の話で、
戦争の時に近所の庄屋?網元?の家に若い海軍士官さんが下宿してたとか。
で、その海軍さんは偶にしか下宿に帰ってこなかったんだけど、
黒塗りの海軍の車でその海軍さんが帰って来るのが見えたら、すぐにその下宿に遊びに行ったんだと。
なんでかっつーと、
「そりゃあ・・・その海軍さんが男前だったっていうのもあるけど、それよりも甘いお菓子をくれるのが嬉しくて。」
漏れ:(;゚Д゚) ポカーン
577 :
名無し三等兵:03/11/23 16:26 ID:B2N2kqAh
ガダル撤退でラバウルから平分打ちまくったの
知らんのか?
578 :
名無し三等兵:03/11/23 18:35 ID:B2N2kqAh
てゆーか力道山を熱く語ろうぜ。
力道山 光浩(りきどうざん みつひろ)
本名 金 信洛→金村→百田 光浩
出身地 長崎県大村市(旧 長崎県東彼杵郡、
出生地は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道(旧 朝鮮咸鏡南道))
赤坂のキャバレーで暴力団員に腹部を刺された傷が元で没した
>>579 松竹映画「力道山物語」では長崎の小学校で優勝した写真や健康優良児で表賞
されたときの表彰状やらが出て来たが
ヤラセだったんだな。
581 :
名無し三等兵:03/11/23 19:20 ID:Xfh/KeMk
よし、その調子。
力道山といえば年末に必ず酒飲んで大暴れして新聞を賑わしたモノだが。
力道山といえばシャープ兄弟より蔵前国技館でキングコングとの死闘かなあ。
584 :
名無し三等兵:03/11/23 20:15 ID:Xfh/KeMk
ポーカー派もバリバリの力道山世代じゃない?
585 :
525:03/11/23 23:51 ID:???
ポーカー派様へ
わたしの祖父は陸軍だったようなので
海軍とは事情も違ってたと思います。
確か九州の何処かの基地で
「飛行機に爆弾や魚雷を積んで知覧に送り出した、」
という風なことを言っておりました。
また、「足の引っ込まない97戦も特攻機として飛んでいった。」
とも言ってました。
階級は上官の褌を洗わされる位の階級だそうです。
五省
1.至誠に悖るなかりしか
1.言行に恥ずるなかりしか
1.気力に缺くるなかりしか
1.努力に憾みなかりしか
1.不精に亘るなかりしか
メインタソクブロー(゚Д゚)ウマー
587 :
名無し三等兵:03/11/24 01:40 ID:LLJTVsbv
空気の読めんヤシが約一名。
588 :
名無し三等兵:03/11/24 02:02 ID:i44l/txI
クソバカは 北ショソへ行け!!
589 :
586:03/11/24 02:25 ID:???
>>588>>587 ∧_∧
( ・∀・) 俺のことだろうかドキドキ
( ∪ ∪
と__)__)
590 :
名無士:03/11/24 04:52 ID:qxJzHNM8
終戦時、叔父は調布近くの(柴崎)通信隊にいた。
同隊には関口弘の親父にあたる正三郎氏がいたとの
事(芸名:佐野周二?)乙幹の曹長だったと事。
591 :
名無し三等兵:03/11/24 04:56 ID:LLJTVsbv
五省に勃るなかりしか、て言ってさぼってたらしいけど。
592 :
名無士:03/11/24 05:12 ID:qxJzHNM8
>>
曹長
593 :
名無士:03/11/24 05:14 ID:qxJzHNM8
曹長殿〜
594 :
590:03/11/24 05:27 ID:qxJzHNM8
中隊本部の曹長ゆえ滅多に会わんと爺は言ってました。
☆☆☆の立場から見れば。銀幕のスターは「神」かも
しれませんが、やっぱり?相撲人や映画人は前線には
逝かんのね〜v
595 :
573:03/11/24 06:26 ID:eSQ9FtUw
義父「妻の父」は古参の陸軍上等兵で19−20年、択捉島にいました。港に公用で行くと、水産会社の人が、蟹をくれたそうです。
「内地のより大きい。ゆでて食べた。」と言います。タラバガニなのでしよう。
596 :
名無し三等兵:03/11/24 07:55 ID:ChZQ8aht
ずっとハノイにいて何事もなく過ごしたとか。
この度、新設板の大規模OFFに
【紙媒体化】大東亜戦争の記憶【計画】
というスレを立てました。興味のある方は覗いてみて下さい。
…というか、このスレと内容がかぶりますか?
俺の父方のじーさんは厚木の航空隊基地で整備兵してた。
じーさんかなり間抜けな人で、ある日零戦にガソリンを入れようとした時
誤ってガソリンの入ったバケツをひっくり返して、上官に死ぬほど殴られたと話してくれた。
ガソリンの一滴は血の一滴だしなぁ・・・
人間くさいじーさんですね
というかバケツでガソリン運んでいたという部分に泣けます。
放射性物質といい危険物をバケツで運ぶ伝統がある国なんですね(´Д⊂
601 :
名無し三等兵:03/11/24 14:25 ID:MWz6V/V0
力道山は何してたの?
602 :
名無し三等兵:03/11/24 15:09 ID:9QLvn6wl
【海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2】 氏はまだかのう・・・。
604 :
名無し三等兵:03/11/25 00:15 ID:9amHyf7K
祖父は、戦車の小隊長、千葉県で終戦を迎えたそうです。
「訓練より穴掘りばかりしとった、ははは!」と良く言っていました。
ある日、大分の玖珠の一般道で自衛隊の戦車が十両ほど走ってくるのに遭遇。
祖父は、まるで孫か何かを見るような「優しい」眼をして戦車隊を見ていたのが印象に残ってます。
さらに祖父は、当時使っていた自分の軍刀を大事に持っていました、手入れを怠らず常に使用可能な状態でした。
そんな祖父も、6年前に鬼籍に入り、終戦時の祖父と同じ2尉(中尉)になっていた私の手には「○○君(私の名)この国を頼む」という祖父の遺書とともに祖父の軍刀が残りました。
私は、その軍刀を手に、イラクに逝ってきます。
まぁ持ち歩く事は出来ないでしょうが…、帰って来れれば「私の戦争体験」を孫に語れそうです。
>>576 ムリも無いよ。
おばさんが69歳だとしても、終戦時に11歳だよ。
とても色恋沙汰のある年ではないですよ。
>>595 タラバガニは深海に住むので、
最近に漁法が開発されるまでかなり効率がわるかったそうですから
昔は内地まで流通していなかったのかもしれませんね。
608 :
名無し三等兵:03/11/25 02:02 ID:pelXuoZF
俺の爺が最強だな。
徴兵ばっくれて山に隠れてたからな。
親兄弟親戚のものはどえらい目にあったらしいが。
609 :
名無し三等兵:03/11/25 03:14 ID:JtZXfAZx
>>608そんで結局捕まって広島に連れていかれて憲兵に
ブッタ斬られそうになった時に原爆が落ちて、瓦礫の
上で「帰って来ーい。帰って来ーい。皆、帰って
来ーい。」って叫んでたら、ラグビー場で
目覚めたんでしょ?君のおじいちゃん。
610 :
名無し三等兵:03/11/25 05:35 ID:pelXuoZF
>>608 偉い!格好良く死ぬより、格好悪く生きる、基本だよ、基本。
611 :
名無し三等兵:03/11/25 05:37 ID:yYoq/uAl
>>609 そのときの憲兵は石橋蓮司という名ではなかったかね?
608 名前: 名無し三等兵 [] 投稿日:03/11/25 02:02 ID:pelXuoZF ←
俺の爺が最強だな。
徴兵ばっくれて山に隠れてたからな。
親兄弟親戚のものはどえらい目にあったらしいが。
610 名前: 名無し三等兵 [] 投稿日:03/11/25 05:35 ID:pelXuoZF ←
>>608 偉い!格好良く死ぬより、格好悪く生きる、基本だよ、基本。
( ゚д゚)ポカーン・・・
こうして日本のイタリア化は進んでいくのであった。
イタリア人も自分の国が危険に晒されたら必死に戦うさ
少なくとも今のイタリアの軍警察は退却してないぞ
616 :
名無し三等兵:03/11/25 15:16 ID:4n9vXypd
親父から聞いた話しなんですけど、うちの祖父は結核で徴兵検査に不合格で戦争にいってませんでした。
しかし終戦後にロシヤが攻めてきたのを相当怒ってていつも口癖で
「露助だけは絶対に許さん! 露助と戦争になったらおれは最前線に立ってやるぞ。」
と言ってたそうです。
徴兵検査で思い出したんですがぼくの友達のじいさんは検査のときあまりに背が低かった
ので落とされそうになった、と言ってましたが実際そういった例はあったんでしょうか?
友達いわく150センチもないそうです。そのじいさんはビルマで捕虜になってたときに終戦を
迎えたそうで、戦争中は30キロ以上ある重機関銃を担いで山の中を一日20キロメートルも
行軍したそうです。
私物で日本刀なんて持っていけるわけ・・・
619 :
名無し三等兵:03/11/25 18:15 ID:NXfla4fK
>>220 >漏れの伯父は陸軍の航空輸送部隊で、台湾〜フィリピン間を往復していました。それだけ。
めちゃめちゃ遅レスですが・・・
私の叔父にあたる方も台湾の陸軍航空隊の輸送機に搭乗してました。しかし20年の
5月に戦死されました。聞いた話だとグラマンに落とされたとか・・
確か部隊名は飛行108大隊だったと思います。
同じ部隊の可能性が高いですね、もしかしたら当人同士話したことあるかも?
>>618 一応マジレスすると、士官の軍刀は全部私物 下士官が私物の日本刀を持っていくことも普通だった
刀にこだわらない連中は適当に昭和刀を持って行ったが
ちょっとこだわる連中になると買ったいい刀や家宝の刀を軍刀拵えに仕立て直したり、
中には軍刀拵えにしないで、普通の日本刀の鞘だけを吊環付き革包みの野戦鞘に交換しただけの物も
622 :
名無し三等兵:03/11/25 18:43 ID:vC5se0OW
>>620 おっしゃる通りですが
>618は今の自衛隊員が海外に持っていけるのかと言いたいんでは?
>>622 どうだろ?
国外に日本刀持ち出す場合は登録を抹消せにゃならんが
624 :
名無し三等兵:03/11/25 19:23 ID:ITJk3cwz
うちの隣のじーさんは、大砲の弾が頭をかすめて波平ハゲになったそうな。
625 :
604ではないが現職:03/11/25 19:35 ID:k88+mQ4H
部隊コンテナで空自の輸送機、又は海自の輸送艦で送れば全然問題なく可能です。
>>620 憲兵だった祖父が軍刀を支給してもらったと逝ってますが。
力道山は日本人ではじめてピザを宅配させた。
下士官と見習い士官には支給されます
>>627 力道山は朝鮮人ですよ
「力道山は在日朝鮮人としてはじめて日本でピザを宅配させた」
これが正解。
630 :
名無し三等兵:03/11/25 20:15 ID:JtZXfAZx
力道山は戦争体験者?
631 :
620ではないが:03/11/25 20:16 ID:k88+mQ4H
>>626 下士官の軍刀は部隊に装備された官物。
ただし、私物を用意した人もいたみたい、しかし、終戦時の武装解除で下士官の軍刀はあぼ〜ん。
士官は原則私物なので持って復員できた(外地では、武装解除担当国によるようだが…)。
横レス、スマソ
632 :
626:03/11/25 20:18 ID:???
>>631 ありがとうございます。
でも私の祖父は憲兵少佐だったのですが。。。
ヴォケてんでしょうか。
>>626 ちなみに憲兵の場合は上等兵にも支給されます
力道山は戦争中故郷に帰って子供作ってた。
その子供が現在の朝鮮民主主義人民共和国スポーツ委員長だとか。
>>625 いや、物理的/法律的にではなく軍刀佩いた自衛官がイラクを歩くのは、
イラク人から見て心情的にどうかと。
(個人的には是非見てみたいですが・♥)
>>620 凄いですよね、九四式や九八式とか名前のちゃんと付いた正規の兵器なのに自前という所が。
>>626 憲兵でなくても曹長、伍長くらいでも軍刀を支給されてる人が多数います。
自衛官が軍刀下げてたら?
AKMで狙撃されそう。ズギューンと。
638 :
620ではないが:03/11/25 20:24 ID:k88+mQ4H
>>626 さっきもかいた通り、「部隊装備品」なので、中佐であれば私物の故障等により官物を使う事もありかもしれない…(補給担当者も断れんでしょう)。
>>633さんの言う通り、憲兵であれば、全員官物という可能性も…。
639 :
620ではないが:03/11/25 20:26 ID:k88+mQ4H
>>637 抜き身振り回さない限り大丈夫じゃないか?
アレだ臨時立法でイラク派兵に限り全自衛官に日本刀を支給し日本の工業レベル
の高さをイラク国民に是を知らしめれば良い。
早速、首相官邸にメールで直訴しよう!
>>635 98式や94式はあくまでも「軍刀拵えの標準型」なので
実際には目安程度です
644 :
620ではないが:03/11/25 20:31 ID:k88+mQ4H
>>641 おおっ!是非してくれ
しかし、漏れ軍刀持ってないから支給をキボンヌ…
その前に日本刀は工業製品じゃないよ・・・
昭和刀は工業製品です。
>>646 それは銃刀法の上で言うと日本刀じゃありません あくまでも軍用刀身
648 :
646:03/11/25 20:37 ID:???
じゃあ新しく「平成刀」という自衛隊向けに日本刀を関市の刀鍛冶さんに作ってもらう。
俺のジイチャン60代だから軍人じゃない
力道山を倒した男フレッド・アトキンソン。
のちにヒンズー・ハリケーンことのちのタイガー・ジェト・シンを日本に送り込んだ男でもある。
651 :
641:03/11/25 20:55 ID:???
首相官邸にメールしました。
「拝啓内閣総理大臣小泉純一郎様
この度の自衛隊イラク派兵に際し全自衛官に日本刀の携行を切に熱望いたします(略)
イラク国民もその美しさ、実用性の高さ、そして武士道の素晴らしさを理解できるとおもいます。
Y・M生(メールでは本名)」
本当だったらとんだ電波さんだ。
きっと首相官邸はそういう電波メールが毎日いっぱい届いてるんだろうな
653 :
620ではないが:03/11/25 21:09 ID:k88+mQ4H
>>652 参りました!
でも、ありがとうございます。
654 :
名無し三等兵:03/11/25 21:12 ID:JtZXfAZx
力道山は朝鮮人?
んなわけないか
力道山 光浩(りきどうざん みつひろ)
本名 金 信洛→金村→百田 光浩
出身地 長崎県大村市(旧 長崎県東彼杵郡、
出生地は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道(旧 朝鮮咸鏡南道))
赤坂のキャバレーで暴力団員に腹部を刺された傷が元で没した
今日、うちの爺さんの命日だったもんで坊さんがきてお経をあげても
らったが、その坊さんが海軍に入っていて大戦中に呉で機関銃の整備
をしていたら、暴発して大怪我を負ったそうだ。
実際に怪我の後を見せてもらったが……痛そうだった。
でも、何の機関銃を整備していたのだろう?手で持ってと言ってた
からなぁ
20mm機銃とか。
>>656 整備で暴発?20ミリが筒内爆発でも起こしたかな?
漏れの爺ちゃんの背中には、ブローニングの12,7mmが食い込んだままだったらしいが、
ソレを知ったのは爺ちゃんが鬼籍に入ってから数年経ってからだった。
>>ALL
軍刀の話だが、個人個人の自衛官が何を精神の拠所にしようが、
別にかまわないじゃない?
昔、海自の自衛官が、ESPカード(ゼナーカード)を私物で持ち込んで、
陸上にいるヤシに遠隔透視させる実験をしたそうだ。
持ち込みを許可された私物ならかまわんだろ。
659 :
名無し三等兵:03/11/25 21:44 ID:JtZXfAZx
力道山の朝鮮での知名度はどんなもん?
>>616 俺の叔父も背が低くく、そのせいで検査に通らなかったから
実際にそのような例はあったと思うよ。
好い加減、プロレスラーの話は、プ板に逝ってくんねぇか。
>616
1939年までは、現役として身長1.55m(1940年以降は1.52m)以上のものを
兵士としていました。
身長1.5m未満は丁種となって兵役を免除されるケースもあったとか。
ただ、末期の本土決戦期には兵を無理矢理集める為に、可成り下駄を履か
せたケースがありましたが。
うちの親父は飛行兵になりたかったらしいのだが身長が足りなくて
少年戦車兵学校に行きました。
飛行兵(予科練か?)の合格身長って何センチ?
664 :
名無し三等兵:03/11/25 23:47 ID:52IadFre
665 :
名無し三等兵:03/11/26 00:12 ID:pqkS4C93
力道山はやっぱり朝鮮人か。プロレスラーとしては
もう言うこと無いが、相撲現役時代は
どれほどの力士だったの?
666 :
タラバガニ:03/11/26 01:20 ID:6/9mE+ED
665、幕内でした。スレ違いの話はおしまいにして、叔父は、戦中商船学校の生徒だつたのですが。自分の居る東京高等商船の隣には水産講習所がありました。
商船では、水産を『魚屋』と言っておりました.2校とも制服がほぼ同じで、他校の生徒に敬礼をして上級生におこられたそうです。
この2校も今年1つの大学になりました。
667 :
名無し三等兵:03/11/26 01:23 ID:wAn/fMJl
>>665 郷土愛にあふれたシトだったんでは?
ずいぶん送金とか物を半島に送ってたみたいだけど。
668 :
名無し三等兵:03/11/26 02:12 ID:+3HMZSv/
>>632 記憶が曖昧で悪いのですが、陸士だか陸大だかを優秀な成績で出ると
恩師の軍刀をもらえたのではなかったですか?
おじい様が非常に優秀な方であればその可能性もなきにしもあらずかと・・・・・・
まあ「支給」とは言いがたいですが。
669 :
名無し三等兵:03/11/26 02:25 ID:+3HMZSv/
うちの祖父は陸軍の軍医中尉で台湾におりましたが、
空襲で敵の戦闘機においかけられ、機銃掃射で危うく地面に縫い付けられるところだったとか。
戦争の末期に台湾を襲ったとなるとどこの戦闘機でしょうか?
また、私の知人の中に、お祖父さんが沖縄から生還したという人が二人います。
やはりいずれも戦争体験についてはあまり語ることを好まれないようです。
沖縄戦ですからね、何しろ・・・・・・・・
皆さん話が聞けてうらやましいですね。うちは戦争話を家族や親戚が嫌がるので、
話を聞かせてもらえないうちに逝ってしまいました。
671 :
名無し三等兵:03/11/26 02:40 ID:+3HMZSv/
>>670 本当は生の体験談(変な自慢話は論外ですが)をしてもらうのが一番ですけどね。
記憶を語らせるということはその人にもう一度同じことを体験させることに等しいですから、
無理強いはできません。
軍医だったうちの祖父も、自分のことはともかく、怪我をした兵隊に麻酔もかけてやれなかった、
という話になると辛そうでしたよ。
同時女学生だった母方の祖母は、戦争終盤は工場で働いていたそうです。
空襲を経験した事もあるそうですが、爆弾が落ちてくる恐さよりも
友達皆で「キャアキャア」言いながら防空壕に逃げ込むのが面白かったと言っています。
恐らく、直接米軍機に狙われないような小さな工場だったのでしょう。呑気なものです。
一生懸命働いて残業もすると夜食に大きなおにぎり(麦混じり)が支給されて、
それ目当てに頑張って働いたのよ、と目を細めておりました。
おばあちゃん話しちゃってスマソw
673 :
名無し三等兵:03/11/26 03:38 ID:Sdnlg5Db
うちの爺様は成増飛行場だか朝霞飛行場で(どっちか忘れた)
陸軍の飛行教官をやっていたと聞いた。
年的には大正9年生まれの後備役だったので前線に行く事は無かったという。
中津で北九州小倉に復員後住んでいた。
兄弟達は宇佐の航空隊や、インドネシアのバリクパパン攻略の落下傘部隊、
ガ島作戦にも従軍した菊第十八師団歩兵第124連隊の歴戦の勇士など
数々の武功を語る中、祖父だけは
戦争反対の薄っぺらな息子達(自分の親叔父に当たる)のせいで
自分等にも戦争体験を話そうとせず、1年前ひっそりと息を引き取った
戦後飛行機に乗り上京する事を拒み祖母と一緒に新幹線で自分等孫の顔を見に来ていた
そんな昔気質の祖父を自分は誇りに思う。
674 :
名無し三等兵:03/11/26 04:02 ID:+3HMZSv/
>>673 私はつくづく思うんですよ。
もちろん戦争が好ましいことであるはずはないから、戦争反対は当然です。
でも、だからといって戦争という過去を振り返ることをヒステリックに否定するのは間違いです。
むしろ本当に戦争に反対するなら、戦争の実態を知らなければならない。
われわれの祖父母の世代だって、知らず知らずのうちに戦争に巻き込まれたというのが本当のところでしょうから。
誰も好きで自分の意思で戦争を初めはしません。そして、われわれにもその危険は当然あるわけです。
「戦争反対。だから戦争の話なんかする人は右翼の軍国主義者」などと言っていたのでは、
戦争という過去への反省も何もあったものではありません。
お父さんや叔父さんが「薄っぺら」であるか否かはさておくとして、
あなたがお祖父さんのことをそうして思い出されるなら、お祖父さんもきっと喜ばれるでしょう。
何だか偉そうですが、拝読して思ったことを書かせていただきました。
この掲示板を見ていると「戦争の話なんかする人は右翼の軍国主義者」なのは間違いありません
米国等でも戦争の話をするのはマニアと専門家と元軍人(ちょっと怪しい)だけです
676 :
名無し三等兵:03/11/26 04:22 ID:+3HMZSv/
そうですか。
私も軍艦とか飛行機は好きですが、だからといって戦争に賛成する気は毛頭ないです。
切手集めが趣味の人が必ずしも郵政事業に興味があるわけではないのと同じく(ちょっと無理のあるたとえかな?)。
それで、このスレのタイトルからして私と同じ考えの人がいるのかと思ったわけですが・・・・・・・
ヒステリックな左の人が多いのは、その対極に、無責任な右の人がしっかり存在するからだと考えています。
ミリタリー趣味はさておいて戦争そのものを本当に賛美しうるか、という問いは、
ここの方たちにしてみたいものですね。
>>676 禿同。街宣車で騒音撒き散らしてる連中は
「ほら右翼は怖いですよー」とのたまう左翼のような気がしてなりません。
678 :
名無し三等兵:03/11/26 05:23 ID:Sdnlg5Db
軍事板には理解者が居てくれる様でうれしい。
自分は暴力も正義だと思っています。
結局今この国に残る日本らしさってなんでしょう。
あの世に行った時爺様たちに向ける顔がありません。
679 :
674・676:03/11/26 05:34 ID:+3HMZSv/
>>678 言葉尻をとらえるようで失礼ですが、私は、
「暴力は正義」ではなく「正義のためにやむなく正当化される暴力もありうる」という感じです。
「戦争自体にはあくまで反対」なので、そこだけは一線引いているつもりなんですよ。ミリタリーファンとして(笑)。
それはさておき、678さんは「愛国心」というものをどう思われますか?
私はこれは一国民としてごくごく自然な、そして不可欠の感情であると思います。
それを「戦前の軍国主義、国家主義の悪夢を呼び起こそうとするもの」などという言い方をする人たちは、
私に言わせればまさにヒステリック左翼です。
軍国主義と愛国心は全く別のもの。それが過去においてたまたま不幸にも結びついたからといって、
「軍国主義=愛国心」と叫ぶなど、無反省もいいところではないでしょうか。
今の日本人に何かが欠けているとすれば、そういう冷静な反省だと考えています。
よければまた意見を聞かせてください。長文失礼しました。
>>679 横からですが
それだけ軍国主義がもたらしたあの結果が、一般国民からの不信感を決定的にさせたということでしょう
少なくとも、現政権に限らず今の為政者のほとんどが戦前のそれと繋がりがあります
軍人の家系も上級者は同じくです
時は違えど、立場は変わっていません
彼等は国民を死に向かって徒に、あらゆる手段を使って動員したことを反省しているのでしょうか
未だに東京裁判は敗者だけを裁いた卑怯な裁判であり無効である、などと言って反省のそぶりすら示さない
為政者等々がいる限り、過激な軍国主義の中で歪められていった愛国心に嫌悪感を抱くのは当然でしょう
ましてや声高に吹聴し、その権限でもって強引な解決手段を用いようとしているのが彼等ならばなおさらです。
少なくとも国民裁判ぐらいはして欲しかったですね、まあこの国には国民主権などというものは存在しませんが。
681 :
674・676:03/11/26 06:51 ID:+3HMZSv/
>>680 わざわざのご意見をありがとうございます。
あなたのおっしゃることには一つの反対もありませんよ。私はIDを見てもおわかりのとおり、671のコメントも書きました。
そこで「変な自慢話は論外」とありますよね?戦争というのは勝っても負けても決して褒められたものではありません。
だから、どれだけの戦果を挙げて云々、などという話は、もちろん聞き方にもよりますが、私の云う「反省」には結びつかないものです。
そういう自慢話をいつまでもしているような人は、やはりあなたのおっしゃる「反省なき人々」なのでしょう。
ただ「過激な軍国主義の中で歪められていった愛国心」という、あなたも認識しておられるその点こそが大事だと思うのです。
愛国心というのは軍国主義とイコールではない。ただそれがかつて歪められ、混同され、利用されたことがあるだけです。
今の為政者は、確かに再びそれを「利用」しようとしているのかもしれません。
ならばそれに乗せられないよう、国民一人一人が上からのお仕着せではない本当の「愛国心」を持つべきではないでしょうか。
愛国心に嫌悪を抱くならば、それはお仕着せの(つまり国家主導的な)不自然な愛国心に向けられるべきであり、
(郷土愛に近い感覚としての)ごくごく自然な愛国心に向けられるべきではないと思うのです。
国民が純粋に自分たちの国を愛する心を失えば、もはやその国は滅びます。「自分たちの国を少しでもよくしよう」という心がなくなるわけですから。
そういう自然な愛国心が、私の云う愛国心です。お仕着せ型と郷土愛型とをしっかり考えて区別することこそ大事ではないでしょうか。
長くなりましたが、私の考えはこんなところです。
ちなみに、国民裁判は私もやるべきだったと思います。日本を廃墟にした責任は、当時の為政者たちにあるのですから。
682 :
674・676:03/11/26 06:58 ID:+3HMZSv/
>>680 結論の要旨を追加しますと、よろしくない現状を安易に肯定すべきではない、ということです。
不信感があるのは事実ですし、またかつて日本の国はそれだけのことはやらかしていますから。
ただ、もうそろそろ不信感とは切り離した冷静な反省をしてもいい頃ではないかと。
もちろんそれは、右翼も左翼も同じことですよ。
どっちに偏りすぎるのも極端でよくないと思いませんか?真ん中の、ごくごく普通の感覚を取り戻す時期だと思うのです。
683 :
名無し三等兵:03/11/26 09:29 ID:bDM1Hkmt
ふむふむ、ためになるわい
私は祖父を許しません
去年私の祖父が亡くなりました
「おじいちゃんと最期の別れを」と執拗に両親に言われましたが、私は 葬式には出ませんでした。
戦争中に大勢の罪もないアジアの人々を殺し、苦しめたから。
学校で 先生に教えてもらった、旧日本軍の残虐な仕打ち、私がそれを生前の祖父に
問いただした時、祖父は悲しそうな顔をして黙り込んでいました。
でも私は 決して祖父を許さない
「貴方に被害者面する権利なんて無い」、直接そう 言ったこともあります。
考えても見てください、殺すくらいなら殺された方がどれほど良いかを
他国の人を苦しめ悲しませるよりも、ずっと・・・、ずっと誇り高いことではないですか
天皇の命令だろうが、上官の命令だろうが、そんなものを何故、拒否できなかった のでしょう。
卑怯者の祖父に命を奪われた人達を思うと、私は、毎夜涙が止まりません。
日々、毎日がアジアの人々に申し訳ない気持ちで一杯なのです。
当事者達が、時の流れと死に逃げ続ける 昨今、被害にあった方達へ
謝罪を続けるのは、当然、私達若い世代だと思います。
このようなスレを見ると不愉快になります!
私達が未来に語り継がなければならない事は、そういう話ではないと思います。
>>684 ヽ('Д`;)ノ .。oO(ヒィィィィィィィそんな不敬なヤシにはおじいちゃんのおばけが出るでつよぉ〜)
釣りか。
初めて見るコピペだなぁ。
右翼的な考えの人は、自分達の考えと違う意見があると
『釣り』にするか勝手に朝鮮人に認定しようとしますよね。
689 :
:03/11/26 10:02 ID:???
これ有名過ぎるコピペをちょっと改変しただけじゃんw
うん。
私怨と義理をごっちゃにしてはいけないという教訓のコピペだろうね。
691 :
名無し三等兵:03/11/26 12:31 ID:Sdnlg5Db
「暴力は正義」ではなく「正義のためにやむなく正当化される暴力もありうる」
自分が言っているのはそう言う事ではなく
温過ぎる日本を目覚まさせるのは暴力だと(自分は)信じてます
戦争に喜び勇んでいくものは居ないのは少し考えれば判るでしょう
それでも祖父たちが戦争を遂行しなければならなかった要因
それを考えなければなりませぬ
「愛国心」
真っ当に生きていればおのずと一人一人に宿るものだと考えております
自分を生んで育ててくれた両親、大地、国家
左翼の人たちには国を出て三国あたり批判でもなんでもしろと言ってやりたいですね
692 :
名無し三等兵:03/11/26 12:47 ID:C9TdgBYR
>>684 謝罪パラドックスってやつだな。
謝罪すべき憎いじいさんが居なければ、自分は生まれていないので、
生き続ける限り謝罪し続けなければならない。じいさんが、戦争で生き
残らずに殺される選択をした場合、ばあさんと子供の配偶者以外は
生まれて来なかったわけだから、それ以外の親族を皆殺しにして自殺する
のが根本的解決方法だが、そうすると人を殺さなくてはならず、自分も
じいさんと同じ殺人者になってしまう。
693 :
597:03/11/26 12:51 ID:???
>602
携帯から2chを見て書き込んでおります。携帯からだとURLが見れないのです。
スレ立てして下さった方から、生活カテゴリの50代以上板にある、とのことです。
694 :
674・676:03/11/26 13:08 ID:5rmmWASK
>>691 うーん、ちょっと理解に苦しむところですね。
「温過ぎる日本を目覚まさせるのは暴力」・・・・・・ここがわかりません。
では、覚醒した真の日本というのは交戦状態にある軍事国家ですか?それとも学生紛争や浅間山荘事件のような物騒な事件が四六時中起きる危険な国家ですか?
その直後の文章からすると、戦争はやはりやむを得ないもの、本来ならない方がいいけれども、
なぜそんなことになったのかを考えるべき、と述べておられるようにも見えますが。
暴力そのものを肯定されるのか否かが見えてこないのです。
前者であれば私とは明らかに意見が違ってくるわけで。
>>684 腸線人が赤を装った釣り師が作ったコピペだろ。
こんなこと言う若い奴いねーよ。
残念だったね。千尋さんプッププ
>>691 個人として愛国心を持つのは良いことだと思う。
ただ、役人や政治家が「愛国心」「愛国心」と強調するのが胡散臭い。
政府の決定に反対=反日
今のアメリカみたいになってしまう。
身内が死ぬまで、連中はそのことに気付かなかった。
698 :
名無し三等兵:03/11/26 15:46 ID:0Ok7yPhK
おれのじいちゃんは東進丸という船に乗っててみらいとかいう60年後の船を見たとかいってたなぁ。
60年後って言ったら大体いまだよな?みらいなんて艦は今そんざいするの?
>>684 君は世界基督教統一神霊教会に入信しなさい。
そして朝鮮人の花嫁として海を渡りなさい。
思う存分償いが出来るよ。
>>684 釣りと思うが
他の人間を苦しませるくらいなら死んだほうがマシなら今すぐ自殺したほうがいいよ
>684
釣りだと思うが、殺人鬼に襲われたら観念するのか?
あんたも人間なんだから、自殺願望でも無い限りあがくだろう?
702 :
名無し三等兵:03/11/26 20:01 ID:pqkS4C93
多分ジパングのオチは、死んだら現代に帰れるってこと
703 :
名無し三等兵:03/11/26 20:03 ID:nVnGNmov
>>702 誤爆?
別にいいんだが、ウィンズ・オブ・ゴッドって映画に似たような筋があったね。
704 :
684:03/11/26 20:08 ID:???
すいませんでした
僕のひいじいちゃんがノモンハンでソ連軍と戦ったとき、気に入らない上官を後ろから狙撃しちゃったらしいです。
そのときは、清々していたそうですが、後年とても悔いていたようです。
この上官は、部下を木刀で平気で殴りつけるひどい人だったらしいですが、、、
似たような話はいくつもあるらしいですよ。
あと、ひいじいちゃんの友人は、北部ビルマで戦っていたらしいのですが、あまりの補給不足のため、戦死した仲間のお知りのお肉を食べて飢えをしのいだこともあったらしいです。
インドネシア方面ではもっとひどいこともあったらしいですが、ちょっと書けません。
戦時中なので仕方ないことだと思いますが、僕はちょっと悲しくなりました。
708 :
名無しブー ◆y9synVxvE2 :03/11/27 19:33 ID:2uAWUyKD
「釣りだと思うが」と前置きして、ものの見事に釣られてるヤシ。
710 :
名無し三等兵:03/11/27 20:44 ID:NG301Utq
しかし、
>>707の前段は聞いた事があるよ、突撃する局面ではないのに突撃号令を発しようとした小隊長を古参軍曹が…という話し。
でもタイミングがあるんだょね。
微妙に。
立ち上がって「突撃にイ〜〜〜〜〜前へ」「と」言う前の段階でやらんとダメ。
全部しやべらせたらアウト。
たとえぶち殺してても突撃はしなくちゃならん。
それに元々軍隊では敵にやられるより、
味方にやられる方が多いという説もある。
どっかの学者さんが研究していたというような話を聞いたよ。
その中にはそういう事もあるだろうね。
フィクションだけどプラトーンもそれがテーマだったね。
>>712 >元々軍隊では敵にやられるより、 味方にやられる方が多い
多くない多くない(w
しかし、いわゆる『後弾』はやはりあったそうです。
旧日本軍は新兵いじめが尋常ではないので、(鬱
憎たらしい古参兵や威張り散らすヘボ士官に向けて、「よくも今まで!」なんて事になったとか。
その為、匪賊や抗日ゲリラに対峙していて日常的に戦闘があった関東軍の独立守備隊では、
新兵いじめが少し緩やかで、目ざとい人は徴兵検査に甲種合格したその場で関東軍の独立守備隊を志願したそうです。
(普通に徴兵されたら郷土の連隊に入隊になるので)
戦争体験とは違うけど。
うちのじっちゃんは、幼いころ満州にいてすごくいい暮らしをしていたみたい。
そのころの話ですが。
兄と二人で帰り道を歩いていたら、馬賊に誘拐された。
で、警察だか軍だかが出てきて、無事帰ってこれた。
じっちゃんは幼かったから、誘拐された記憶がまったくないらしい。
満州での生活の話はよくするのに、誘拐の話はこれだけ。
じっちゃんのお兄さんが生きていたら、もっと面白い話が聞けそうなのに。残念だ。
似たような話でウチの父は戦後ハルピンにいたときに
ばあちゃんがチブスで死にかけていて、あまりに汚い格好だったので
ロシア人夫婦が孤児だと思って家に連れて帰って、
ロシア風お風呂に入れられて大事にされたって。
じいちゃんが心配して迎えにきてくれるまで良く待遇してくれたらしい。
じいちゃんが迎えに行ったらすぐに返してくれたそうです。
あやうく残留孤児になりそこなった話ですが、父はよく覚えていないそうです。
あ、ばあちゃんはその後奇跡的に回復していまでも元気です。
そのかわり、幻覚を見て二回から飛び降りて背骨が曲がったまんまになったそうです。
じいちゃんはもう亡くなりましたが、その後も元気でした。
悲惨な話が多い中、じいちゃん一家は不幸中の幸い死者は出していません。
が、じいちゃんのいた開拓団で生き残った子供は父と叔父だけだそうです。
717 :
童貞旅団長:03/11/28 14:35 ID:ajLaJ9hC
日の丸はち巻き しめ直し ぐっと握った 操縦桿
万里の怒濤 なんのその 往くぞロンドン ワシントン
空だ空こそ 国かけた 天下分け目の 決戦場
瞼にうかんだ 母の顔 千人力の うしろ楯
翼にこもる 一億の 燃える決意は 汚さぬぞ
空だ空こそ 国かけた 天下分け目の 決戦場
来るなら来てみろ むら雀 夜泣きしていた この腕だ
最後の無電とばしたら かたっ端から 逆トンボ
空だ空こそ 国かけた 天下分け目の 決戦場
翼に南の 月うけて 今宵また飛ぶ 索敵行
七つの海に 大空に 晴れのかちどき あげようぞ
空だ空こそ 国かけた 天下分け目の 決戦場
ウチの爺ちゃん岡山の中島飛行機場で整備士やってたので激しい戦闘のエピソードは無い
その変わりポツダム宣言の時の話は詳しくしてくれた、そもそも爺ちゃんは戦時中の話はあまりしなかった
戦時中の話を聞いたのは一回だけだったと思う。
719 :
名無し三等兵:03/11/28 15:54 ID:tdqOdXM8
>>684 で、アジアに申し訳無いと思うなら君は何をした?
おじいちゃんに能書きたれたんだから、何かしたんだろ。
当然、アジアに申し訳無いと思うんだから君の全財産を
アジアの人達に寄付してるだろうな。
アジア諸国に自費で謝罪しに行ってるだろうな。
どうなんだ?
近所に80ぐらいでガタイのいいお爺ちゃんがいまして、
家族の方の話によると満州だとかフィリピンだとかに行ってた
らしいんですが、ご本人に戦争体験をお聞きしてみると、
オレは熱田で飛行機作ってたことがあってな
内緒で九九艦爆のコックピットに座ったこともあるんだ
と、ニコニコしながら戦後に発刊された九九艦爆の本まで持ち出され、
なんだかよく分からない自慢をされてしまいました。
それはそれで、すっごく羨ましいわけなんですが。
しかし、家族の方の証言もバラバラなら、ご本人の話も見当はずれで、
なんとなく「結局なにをしてたんですか?」とは聞きそびれてしまいました。
旧日本軍の人肉食いは、実話。
「ゆきゆきて神軍」 も、この話。
北部ビルマやインパール作戦で人肉を食べたっていうのは聞いたことないけど、あって不思議はない。
あまりの補給不足に佐藤幸徳中将が牟田口中将の命令に反して撤退したほど悲惨な戦況下にあった。
フィリピン、インドネシア方面での人肉食いは、それなりに知られていると思う。
実際に、職場の先輩からも聞いたしな。
でも、彼らを責めることは誰もできんだろ。
もし、俺が戦場で倒れて戦友が餓死しかけていたら、むしろ食っていただければ幸いだよ。
戦友を食べる前に現地民を食べることのほうが多かったらしいけどな。
どっちにしても、戦争ってのは悲惨なもんだ。
僕のお爺さんは、飛行機で、新型爆弾を、落としました。
世界一の、英雄です。
723 :
名無し:03/11/28 20:35 ID:pOuShipA
関係ないけど俺の爺さんは小学校、中学校のころ、朝鮮に住んでいて社会見学で戦艦榛名ともうひとつ{名前を忘れてた}を見にいき、 ほかに特急あじあ号にも乗ったらしい ほかの爺さんはどうかな 社会見学で戦艦見にいった人いる?
724 :
名無し三等兵:03/11/28 20:36 ID:LB91sPfy
725 :
名無し三等兵:03/11/28 20:43 ID:Jyfn7eyU
父方のジー様は満州警察で捕虜の銃殺やってたらしい。
押入れ漁ってたら写真と襟章と日の丸の寄せ書きや東条英機の実印入り勧請が出てきた。
母方は近衛騎兵連体で馬を操ってたみたい。写真と勲章と軍刀(真剣)があった。
へ〜、
>>722のおじいちゃんはWW1で活躍してたのかあ
727 :
名無し三等兵:03/11/28 21:15 ID:LB91sPfy
728 :
ブー ◆y9synVxvE2 :03/11/28 21:30 ID:fp8aUzKq
うちのおじいちゃんは陸軍の上等兵で、戦争の時は
ビルマ戦線で、アナル舐めをしていたらしい。
インパール作戦にも参加したってさ。
>>723 ウチの大正五年生まれのばーちゃんは戦艦・霧島に見学に行った、って言ってたよ。
港で待ってたら内火艇が迎えに来て、わざわざ霧島まで連れて行ってくれたんだって。
帰りには紅白饅頭もらったそうだ。
で、時代は下がって、
昭和六十年、昭和天皇御在位六十年記念の堤燈行列にばーちゃんに連れられて参加したんだ。
「堤燈行列なんて、シンガポール陥落以来だねぇ。」とか言ってた。
市役所の前で万歳三唱して解散、やっぱり紅白饅頭もらった(w
730 :
9番:03/11/29 01:16 ID:otIZE919
じーさん配給の煙草をしこたま吸って、喘息になり内地勤務。
側車(多分陸王)の運転手って言ってたなぁ
・・・あ、義理のじーさんだった(3人いたんだ)
一人は坊主、もう一人は忘れた。おじさんは郡山の高射隊、
おばさんはスカで従軍看護婦だった。
(その他は知らない。なんせ「生めや増やせや」で、大勢いるもんなぁ)
732 :
名無し三等兵:03/11/29 02:22 ID:375psiOF
爺さんの陸軍での経歴や所属を調べたいんだけどどうやって調べたらいいでしょう?
本人は20年も前に亡くなってるので聞き取ることはできません。
また書類もなにも残っていないんです。
親からの情報で類推するとおそらく台湾軍の輸送部隊であったと思います。
733 :
名無し三等兵:03/11/29 02:29 ID:+81pC5SB
人間はニワトリの味って言ってた
734 :
名無し三等兵:03/11/29 02:37 ID:NKoyN/Yb
豪州豚だね。
>>732 どこで徴兵されたかからかな。
当時の本籍を調べてみてください。
そこで徴兵されているかどうかからですね。
そこから何処の部隊でとおっていくのが良いと思います。
>>732 宜保愛子か織田無道あたりに聞くのがよろし。
>>736 宜保愛子はアボーンで織田無道はタイーホじゃん・・・
738 :
732:03/11/29 13:42 ID:375psiOF
>>735 ありがとうございます。本籍は廣島です。
資料は焼けて既にないかもしれませんね。
海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 殿をお待ちしているのですが、、、。
そんなこと言われてもどうしようもありませんが、、、。
俺のじいさん
南の方で海軍航空隊付の天気図書きやってたそうな
子供の頃何も見ないで東南アジア、オーストラリア付近の
地図をスラスラ書いているのを見てすごいと思ったよ
742 :
名無し三等兵:03/11/29 16:36 ID:YJlEovlm
>>741 へー。どういう職種か教えてくれませんか。
どんな科にいたか、階級はどのくらいかとか。
>>741 聞かせて、聞かせて。
珍しい職種だから聞きたいです。
744 :
741:03/11/29 18:10 ID:???
ごめん俺が小学生の頃に亡くなってしまったので詳細は不明
天気図書いて偉い人に渡すとどの飛行機が何時に飛ぶか決めると言ってた
間違ったことを書くと仲間が遭難して死んでしまうから重要な仕事してたと酒飲んで自慢していた
そしてNHKのラジオの気象通報って番組で天気図書く方法教えてもらった
あと記憶に残ってるのは 桜(?)のマークの金バッジ見せてもらったぐらいかな
俺が軍事系に興味を持ったのはそのじいさんから大空のサムライって本をプレゼントされて
この本に載ってる人達の中に仲間だった人がいるんだよと言っていた名前まで言っていたが覚えていない
当時小学生だった俺はなんだかわからず本棚へ高校生になったある日見つけて読んだのが初まりです
役に立たなくてごめん
745 :
名無し三等兵:03/11/29 20:05 ID:cZwvCosN
ぼくのおじいちゃんは陸軍の上等兵で、戦争中は、
ビルマ戦線でアナル舐めをしてたんだって。
>>744 へぇー、でもちょっと良い話ですね。
ありがとうございました。
サイパンに配属されてからは暇で暇で、
毎日P-51で人に機銃掃射していたそうです。
日本の地形が複雑で難しいって言ってたなあ
748 :
名無し三等兵:03/11/29 21:18 ID:cZwvCosN
P51でB29と一緒に日本サイパン間を往復してたのか。
すごいですね。私の祖父は通信隊で、アナル舐めを
していたそうです。
無知な煽りが一匹張り付いているな(アナルは別として
751 :
747:03/11/30 10:02 ID:???
すいませんでした
752 :
名無し三等兵:03/11/30 15:54 ID:OqWgOLpp
うちのじいちゃんは長門にいたんだけど食い物で困ったことはないが(他の船にあげるほどあった)
水が貴重で一日一升しかもらえなくて苦労したと言ってる。
砲兵だったんで距離とか計算がめんどくさくて嫌だったと・・・
まぁ長門で幸運だったね
>>752 水は仕方ないでしょ。
船だからね。
食べ物があるだけ幸福ですよ。
754 :
名無し三等兵:03/12/01 00:14 ID:jRX8J5c1
私の爺さんは中国戦線にいました。聞くと、おっそろしくて敵なんか見れんかった。
38式歩兵銃だけ出して、めくら撃ちに撃ちまくったから人には当たっとらんだろう。
と言っていました。
そんな爺さんも終戦近くなると内地に転属で、長崎の小さな島に3名で駐屯していま
した。竹やりを作らされ、これでどうやって戦うんだ。と仲間同士で真剣に話あって
いたそうです。
ある日、爺さんは長崎の司令部に報告に上がる事となり、司令部で長い時間待たされ暇を
持て余していたところ、空襲のサイレンがなり始め、みんなが防空壕へ走って行きました。
爺さんは何処へ行けばいいのか、聞く人もおらず、トボトボと防空壕を探していたところ
ようやく運動場に小さな防空壕を見つけたので入ることにしました。
数歩中に入った時、突然首筋に熱いものを感じて、とっさに手で押さえた途端
爆音が響きわたったそうです。
それから先は話してくれません、思い出すのも嫌な感じでした。
755 :
名無し三等兵:03/12/01 00:17 ID:jRX8J5c1
私の爺さんは中国戦線にいました。聞くと、おっそろしくて敵なんか見れんかった。
38式歩兵銃だけ出して、めくら撃ちに撃ちまくったから人には当たっとらんだろう。
と言っていました。
そんな爺さんも終戦近くなると内地に転属で、長崎の小さな島に3名で駐屯していま
した。竹やりを作らされ、これでどうやって戦うんだ。と仲間同士で真剣に話あって
いたそうです。
ある日、爺さんは長崎の司令部に報告に上がる事となり、司令部で長い時間待たされ暇を
持て余していたところ、空襲のサイレンがなり始め、みんなが防空壕へ走って行きました。
爺さんは何処へ行けばいいのか、聞く人もおらず、トボトボと防空壕を探していたところ
ようやく運動場に小さな防空壕を見つけたので入ることにしました。
数歩中に入った時、突然首筋に熱いものを感じて、とっさに手で押さえた途端
爆音が響きわたったそうです。
それから先は話してくれません、思い出すのも嫌な感じでした。
756 :
名無し三等兵:03/12/01 00:29 ID:wNgdkGQK
正月に母方の爺さんが(親父の方は当の昔に死んだ)はるばる九州から東京に出て来る。年が年だし会うのも最後かも
しれないからしっかりインタビューしようと思う。
757 :
名無し三等兵:03/12/01 00:50 ID:vrTS/hic
藤岡明義さん以上の体験記はないだろうなぁ
米軍との戦い、マラリア、モロ族により日本軍将兵六千のうち生還者八十人。フィリピン南部の玉砕地ホロ島での凄惨な記録
『敗残の記 玉砕地ホロ島の記録』より
758 :
名無し三等兵:03/12/01 01:08 ID:IxaLUBWX
祖父の話ではないけど、忘れないうちに。
今年のお盆近辺で「徹子の部屋」を見てたら、関敬六という
人が戦争体験の話しをしていました。
浜松にある軍の学校(?)の試験を、「大阪から出てきた○○
(うちの父方の姓)に代わりに受けてもらった」って。
父の実家は確かに大阪…でも姓が聞き取りにくくて不確か。
関さんはその後戦艦に乗るんだけど、戦艦が沈没→甲板に
いた自分は海に投げ出されて助かったけど、船室にいた
連中はみんな死んだ、と話しが続きます。
祖父の一番下の弟が、十代の若さで、乗ってた戦艦ごと海に
沈んだ…と、聞かされたのが、20数年前の小学生の頃。
まさか…まさかねえ…
当時遺影で見たきりだけど、大叔父さんのこと?
祖父と祖母は疾うに死んで、父も最近死んで、父方の親族とは
交渉がないので(家も遙か彼方…)、確認もできません。
自分の記憶が正しいとゆー確証もない。
せめて姓がちゃんと聞こえてればなあ…
でも「呼ばれた?」って思ったんだよ…旧姓だけど…
>>758 本当に調べたいならば大叔父さんの
乗艦・姓名・階級・所属部隊などを調べるのが先だね。
調べれば出てくるはずだからさ。
話はそれから出ないと、言われたほうも困ると思う。
761 :
名無し三等兵:03/12/01 02:00 ID:IxaLUBWX
>>759、760
番組に確認も考えたんですが、「いや、私がそれを確認して
どうなる?」と思い返したりも。
直系の祖父ならともかく、遺影で見たきりの大叔父ですし。
しかも、大叔父の下の名前さえ出てこないダメっぷり…
せめて父が生きてればなあ。
自分的にはどうにももやもやが残るのですが、いつか
関さんの自伝でも見つけられたら嬉しいな、と。
相手の方芸能人だし、今頃「その○○の親戚です」ってのが
5人くらい問い合わせてるかも知れないケド。
>>761 せっかくの機会なんだし。やれるだけやってみては?
>>761 名前なんて戸籍から追えるでしょ。
それと、交流の無い親戚に生きている人はいませんか?
何処で徴兵されたか、実家は何処か。
ここらへんは最低調べてから聞いたほうがよいね。
出来れば、写真もあった方がよいです。
良いご供養になると思いますよ。
偶然一致したんじゃない?たまにそういうこともあるよ。
内容も騙りにしては詳しすぎるし。
>>764 普通にトリップのかぶりなんていくらでもあるぞ。
「???」のトリップキーで出てくるコテを4人知っている。
まあアレだ、騙りだろうがなんだろうが面白ければソレで良い訳だが。
・・・以外に自宅電話番号とかでトリップキーやっちゃったのかもな。
生活50代板の大東亜戦争の記憶スレより転載。
29 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/11/28 06:48 ID:RAXl8jp6
1さん読ませていただきました。良く勉強されておられるおられるのですね。
私は二者択一が生理的に合わないので戦争、軍のことを知りません。
これから書くことが変なときは指摘してください。
「。」が付いた後は「らしい」と心の中で言って読んでください。
何故Aは生き残れたか。
当時赤紙で出征するのは恥だった。
死ぬのが当たり前なので
軍に行く前に三浦のブロマイド50枚を始め残っては恥ずかしい物は全て焼いた。
1年未満の訓練の後、満州へ行く、
内緒で見送りに来た両親は、死にいく我が子に多額の金を渡す。
Aは富山の薬のふちに穴をあけ細くこよりにして金を入れ、文学書を一冊持って船に乗った。
初年兵、2等兵がAの身分です。
軍の階級は
2等兵→1等兵→上等兵→(ここから下士官)伍長→軍曹→曹長→(ここから将校)
少尉→中尉→大尉→小佐→中佐→大佐→少将→中将→大将→元帥→大元帥(天皇)
Aの配属は師団の中の中隊です。
東満総省方面軍山下総司令官→師団本部→各師団
師団の陣容は下記のとおり
ア 連隊本部193部隊
カ 第一大隊本部北支キヘイ72連隊
キ 第一中隊
ク 第二中隊
ケ 第三中隊
コ 第一自動車隊
サ 第二大隊本部
シ 第四中隊
ス 第五中隊
セ 第六中隊
ソ 第二自動車隊
タ 第三本部岡山兵隊
・
・
・
整備大隊・衛生兵などがいる。
Aは第四中隊に配属されます。「四=死」の隊です。
30 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/11/28 07:09 ID:RAXl8jp6
山下司令官?指揮官?はマレー戦争の地雷原を通過する時、
一台の戦車を先行させ地雷で爆破すると、次の戦車を行かせるということをした。
その時当然戦車運転手は死ぬ。どんな気持ちだったんだろう。
マレーで軍功があり人望もある山下氏を東条が嫌い、
内地に戻れず満州に赴任したとうわさだった。
第一大隊本部には中隊長として天皇の奥さん皇太后の弟君、宮さんがいたらしい。
第二大隊本部には2,26事件の時実行した兵隊が居た。
彼らの身分は固定で下士官にはなれず、本国では死んだことになっていて、
一生戻れない飼い殺し身分。自暴自棄になっている人もいた。
初年兵の身分では言葉を交わすことも出来ない。(階級ではなく身分が違う)
着くと、綺麗な服から継ぎの当たったボロ軍服に着替えさせられる。
演習の毎日で3ヶ月後、一選抜によって上等兵になる。
甲乙試験を受けさせられる為中隊2名の内の一人となる。
試験勉強のため演習はしなくてもよい。
が、中隊仲間とAは考えた。このまま幹部になってはいつ内地に戻れるか分からない。
どうせ死ぬなら内地が良い。一兵卒の身分のままでいよう。
そこで、テストを白紙で提出したのだった。
32 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/11/28 19:32 ID:RAXl8jp6
さて、厳しい演習を免除されながら白紙で出した彼らは、
下士官・将校に殴られ数日間沢庵もかめない状態だった。
様々な蔑視を受けていたAにある日
「お前のような奴はこの部隊におくことは出来ない。暗号の勉強をして来い」
と追い出されるのだった。
暗号の勉強の結果2番で終える。
教官に
「南方へ行くが人数の関係でおまえは連れて行くことが出来ない。部隊へ帰れ」
と言われる。その時一番だった人は南方で戦死したそうです。
部隊へ帰ると、こちらも南方へ行くことになっていた。
宮様のおられる部隊も対象になったが宮様なので取り消しになった。
当然2.26事件上にいわれ実行した兵士は行くことになっていた。
幹部に戻ったことを告げると、
「編成は決まっている。余分な者を連れて行くことはできない。連隊本部へ行け」
周りはボロの軍服から綺麗な軍服になり、
戦いに行くので意気揚々としていた。彼らの部隊は一人として生存者はいない。
第三部隊は南方へ行く途中沈没。
山下大将(亡くなってから元帥?)は敗戦後フィリピンで絞首刑?。
東郷氏も東京で絞首刑になっている。
南方編成部隊が居なくなり、戦車第一旅団にいることになった。
師団と旅団は規模が違う。旅団は小さく上は大尉でなれる。
あくまでも「いる」だけのAに、
「挺身奇襲」を勉強して来いと命令が下りた。
33 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/11/28 19:37 ID:RAXl8jp6
兵士に給与が与えられたのを知っていますか?
Aは両親から貰ったお金も給与も使う当てが無く、
満州銀行へ預ける。現在にいたっても一円も受け取ってはいない。
34 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/11/28 20:00 ID:RAXl8jp6
「挺身奇襲」の学校は直ぐそばがソビエト領だった。
学校を一番で終えたAは教官から助手になれと言われる。
「それで、お前は何年生だ」「初年兵です」
「それじゃ、3年4年が勉強に来る時押さえがきかん。」
「一応部隊に戻れ。部隊でおまえの身の振り方を尋ねて来い」
Aは部隊へ戻るのだった。
程なく、この学校はソビエト軍の攻撃によって全員死ぬ。
「挺身奇襲」とは、敵戦車が通る道に蛸壺を堀り、
中で10kg爆弾を抱え戦車が近づいたら戦車の下に滑り込み爆破するというものです。
1分以内に戻ればいいが、まず戦車の横には歩兵がいて銃撃される。
うまく滑り込んで戦車とともに死ぬ。ようは特攻隊や人間魚雷と同じことです。
旅団はボツリから撤退していた。
はやぶさ戦闘隊が落下傘部隊に対応するため(ここら辺りもよくわからない)
四兵街に撤退していた。
林の中の幕張(テント)で生活し敗戦を街の店やで聞が信じられなかった。
幹部から敗戦を聞いた瞬間腹を切ろうとするが周りから、
「こんなところで死ぬな」と異口同音に言われ、止められる。
一度も戦う事なくイルクーツク州テレンホーボーでウーゴリラボータ(石炭堀)として働くのです。
3000人いた捕虜のうち生きて帰ってきたのは1000人でした。
35 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/11/28 20:02 ID:RAXl8jp6
間違えました。3000人中2000人が生存してます。失礼しました。
36 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/11/28 20:04 ID:RAXl8jp6
これがAの話です。
40 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/11/29 08:57 ID:xfoz/858
38の1さん
ア 赤紙で徴兵されると恥←葉書一枚の値段と人一人の命と比べられたからですか?
違います。
自分から進んで軍に行く=志願兵=自分の意思で行くこと
赤紙=徴集=自分の意思と関係なく軍に行く
国を思って自らいく志願兵のほうが良いという訳です。
Aの住んでいる田舎ではそう考えていたのです。
イ 死ぬのが当たり前←敗戦の色が濃くなって来た頃の話ですね?
違います。
兵とは消耗品、勝とうが負けようが兵には関係ありません。
マレー戦は勝ったが戦車運転手にとって勝負は関係ないのと同じです。
戦争に行く、戦うということは死と直結していた。
これはあなたからの質問で私はAに尋ねて知りました。
再三兵は消耗品と言われていたのですが、成る程と思いました。
ウは、富山の薬の入った「袋」を書くのを忘れました。
袋のふちを小さく切ってお金を細いこより状に巻き、挿し入れたのです。
こよりは、分かるでしょうか。
Aの勉強の中に軍人勅語?(Aも、うら覚え)を暗記している。
その暗記をいう時、突然背筋を伸ばし声を張り上げたときにはびっくりしました。
暗記の中に虜囚(りょしゅう)となりて辱めを受けるな、ていうのがあるらしい。
Aのなかで腹を切るとはインプットされた行動のようです。
46 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/11/30 07:11 ID:ywg/zO7y
私が死ぬ間際に言いたい言葉。
47 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/11/30 07:12 ID:ywg/zO7y
「さようなら、失礼します。」
60 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/12/01 06:52 ID:cPI6sLHI
>このような体験談は反日宣伝に利用されないか?
この言葉を50歳代以上が言っていないことを切に望みます。
1さんは、
「後々どうしたらいいか分からないけど、取り合えず書いて欲しい」
ぐらいに考え。
Aの知人は、
「戦争は知らないけど聞いた話を整理がてら書いてみよう」
ぐらいにしか思っていません。
転載は以上です。大東亜〜スレは運営上の問題により削除依頼しておきます。
消すにはもったいない話でしたのでコピペしました。
長々と失礼しました。
乙。
うちのじいちゃまは長男だったので戦争に行ってません。
じいちゃまの弟は軍医として満州に行きました。
向こうでの生活は毎日がお祭り騒ぎだったとか。
満人の愛人もいたんだって。
戦況がやばくなる前に帰って来たそう(任期満了?)ですが、
帰国する時に満州での全財産を愛人にあげたって言ってました。
780 :
名無し三等兵:03/12/03 01:07 ID:kw6eqEh3
母方の母の叔父(わしの大おじ)は
昭和17年ごろ甲種で合格したものの
ちとあほ(知的障害というほどでなく
いまでいう学習障害みたい)で何度いっても
訓練が身に付かずまだ戦局に余裕も
あったせいか上官から「使えん」と
除隊させられたとか
こまったのはひいじいさんで
近所総出で万歳して見送ったのに
すぐかえってきて大恥こいたそうな
たいしたことなくてすまん…
782 :
名無し三等兵:03/12/03 16:08 ID:fxbMLjZ4
オヤジの兄貴たち。年が20近く離れてて、皆とっくに鬼籍にはいってるが、
地方の大地主だったので、戦争始まる前、徴兵で長男は近衛師団、次男は
連合艦隊司令長官の従兵やって満期除隊。身内が言うのはなんだが
人当たりの良い紳士だった所為か上官には随分可愛がられて、良い思いで
ばかりだと言ってたなあ…肝心の太平洋戦争中は、弟達も含めて、もろ兵役
適齢期だったが誰一人徴兵されず…。何故だかわからんが、その辺の事情については
オヤジも含めて誰も口を開かない。
うちの檀家さんには第三師団の歩兵のおじいちゃんがいる。
99式軽機関銃かもうひとつの方軽機関銃で戦ってたと言ってた。
ネットで調べてみると第三師団は南京攻略戦に参加してるんだね。
今度聞いてみる事にしよう。
機関銃手は敵に良く狙われるし重いとか言ってました。
>782
連隊区司令部の動員係の特務曹長殿が小作の息子とかじゃ?
村役場の兵事係が小作人だったとか・・。
ガダルカナル島で米兵の荷物を漁っていると、小さな石鹸の様な物を発見
これは何だろう?と首を捻っていると部下の一人が「これはもしかすると食料なのでは?」
食べてみると、確かにその通り
これが、うちのお爺さんが生まれて初めてチーズを食べた瞬間であった
他にもこっち(日本軍)は機関銃をタタン、タタンとしか撃てないのに
米軍はダダダダダ!と撃って来るとか、まず水と食料が欲しかったと話していました
>>786 おお、すごい体験。
もっとあったら聞かせてクレクレ。
788 :
782:03/12/04 03:38 ID:jlvKCR59
>>785 たしかに政治的影響力はあったかも…。おやじ含めて皆、少々左入ってて軍人嫌い
なので、酒の席で戦前の話になった時も、軍人が急に威張り始めて碌なもんじゃなかった
とか、昭和19年暮れまで、県庁所在地でフルーツプァフェとか食べれたのが、
それ以降急に食料も物資も何も市場に出なくなったとかそんな話ばかり。
オヤジに言わせると物資が無くなったのは船が沈められたとかだけじゃなく
政府が価格統制やったために闇に流れたり後々の値上がりを見こんで隠したりして
物流が麻痺してしまったためで、焼け野原になってた都会は知らないが、
地方には有る所には有ったと、あそこまで食糧事情が悪化したのは政府がバカ
で政策の失敗だったと言っている。軍人とか役人は敗戦とか考えなかったが
経済界は、しっかり敗戦後のことを考えてたんだろう。
>オヤジに言わせると物資が無くなったのは船が沈められたとかだけじゃなく
>政府が価格統制やったために闇に流れたり後々の値上がりを見こんで隠したりして
>物流が麻痺してしまったためで、
ま、末期ソヴィエト状態……
790 :
名無し三等兵:03/12/04 04:04 ID:pnmNw+yT
漏れの祖父が、もう絶命する数十時間前のこと、
うちの近所では火事になるとサイレンが轟々となるのだが
(それ自体も空襲警報らしい、、今でも軍需工場地帯なので)
縁側で、そのサイレンを耳に(゚Д゚)ポカーンと口を開いている祖父に
「竹ヤリ持って飛び出したって、突く前に撃たれるぜ?」と冗談を言ったら、
暫くして、呟きはじめた、、
「あれは、あくまで練習でな、実際に米兵ども向かい合った時は
こう、、先を尖らせた管の後に、一発だけ小銃の弾を込めてな、
後から石か何かで叩いて、一正射してから突撃するんだよ。
実際、おおよそは外れて、十中八九は撃ち殺されるんだろうが
残りの人数が殺到すれば、、」
この辺まで話して、また寝てしまったんだ。そのうち、
また聴こうと思ったが、それから数日後には墓にはいってしまった。
792 :
782:03/12/04 04:59 ID:jlvKCR59
あと、年がばれるがw、高校の担任が元海軍機関中尉で、戦艦大和に乗ってた
そうだ。或る時短艇から大和に乗り移る時、海に転落して、短艇が戻ってくる
まで、海流に流されまいとして舷側の鉄板と鉄板の隙間に必死でしがみ付いて
いたため、指が曲がってしまい、今でも真っ直ぐに戻らないと言っていた。
あと、長崎だか広島だか忘れたが、原爆投下直後に救援のため市内に入り
結果、被爆してしまって、障害者手帳を持ってると言っていた。もっと
話を聞けばよかったんだが、その当時僕らの地方は、まだベトナム反戦の余韻
が残ってて生徒たちも僕を含めて遅れて来た左翼揃いだったから、その先生の
戦争の話には「また始まったのかよ」といった冷ややかな反応で、今思うと
人格者だっただけに僕らに伝えたいメッセージがあったんだろうし、もっと
聞いてあげれば良かったと後悔先に立たずというやつ。
>>790 うん、正論だね。
銃剣突撃もそれと同じだからね。
同士討ちを避けるために、一斉射撃の後に
突撃するけど、その突撃の間は撃たないからね。
>>792 そういう時代だったんですね・・・。
親戚の集まりでジイさんの話を聞いた
1.南方へ行ったジイさん
徴兵検査で皆は「甲」になりたくなく醤油飲んだりと努力したものだ。
甲から先に戦地に送られ、乙は後から増援で送られたのだが、
その頃には制海権はアメリカのもので輸送船と共に乙たちは死んじゃった。
結局は甲の方が生存率が高かった
2.中国戦線のジイさん
朝鮮族の兵隊もいた。内地で育った朝鮮人は日本語を話せるが
朝鮮で育った者は日本語を話せず苦労した。
半島で日本語強制というのは嘘だったと理解しました
795 :
314:03/12/05 15:43 ID:???
ごめんなさい
ばあちゃんの話
朝鮮戦争のとき、近くの空港から米軍の飛行機が毎日のように轟音上げて飛んでいました。
度々墜落してたそうです。ばあちゃんの友達の家に突っ込んだり、
さらに田んぼに追加燃料タンクを落としてくれました。
じいちゃんの話
じいちゃんのアルバム見せてもらったんですけど・・・
「その尻みたいなの何?」
「そりゃあ、国境のとこにあったもんたい」
「んじゃあ・・・それは?」
「それは、B29の落とした爆弾が爆発したときの写真」
結構いっぱい写真を撮って蔵に保存してたそうなんですが・・・
蔵の整理のときに焼き捨てたそうです・・・
歴史的価値のあるものってこうやって消えてゆくのですね
>>794 嘘ニダ!そんなわけないニダ!
強制はあったニダ!
797 :
795:03/12/05 17:46 ID:???
修正
×尻
○城
母方のじーさんの話なんだが。
徴兵された時に、近所の神道系の新興宗教かなんかにお参りして、
「どんな形にしろ生きて帰れるようにしてやる」ってお言葉を貰って出征したらしい。
その後じーさんは流れ弾だか破片だかで脚に負傷して内地送還。
で、本人よりも部隊がビルマで全滅したって話の方が先にばーちゃんとこに届いてて
ちょっとした騒ぎになったらしい。
じーさんは俺が物心ついた頃に死んじまったが、やっぱり脚が悪くていつも杖突いてたよ。
まあよくある話だ。
爺さんの話です。
ある時夜中に腹減って冷蔵庫からソーセージ食ってたんです。
そんで誰か来たと思ったら爺さんがそこに。
「わしゃあ兵隊の中ではいちばんえらかったばってん(多分兵長の事だと思う)、
いつか下の兵士が今のお前みたいに
夜中に隠れて飯食っとったけん殴ろったたい。昼に腹いっぱい食っとけ。」
と怒られました。他界してから戦時の事を聞いとけば良かったと後悔。悲しいです。
あと自分が住んでる町は戦艦大和の船長の出身地だったので小学校に大和の模型があります。
800 :
799:03/12/07 03:25 ID:???
修正:船長->艦長
俺の爺さん、巡洋艦に乗ってヨーロッパに行ったらしい。
当時は、海外旅行といえば移民ぐらいしかなかったろうから
海軍に貴重な経験させてもらったのかな。
実戦に参加したかはもう死んじゃってるから永久に不明です。
>>801 ヨーロッパに行った巡洋艦というと、おそらく「足柄」でしょう。
その後も「足柄」に乗り続けていたのなら、何度も海戦に参加しているはずです。
「足柄」は1945年6月8日、英潜水艦「トレンチャント」の雷撃により沈没しています。
>>803 ジョージ五世の戴冠式に伴う観艦式参加のために行ったんだっけ?
イギリスの艦艇と比べてもひけを取らない姿は、帝國海軍の威光を
示すには十分で、日頃バカにされていたイギリス在住の日本人は
涙したらしいね。
806 :
782:03/12/08 09:30 ID:OC8Y3SWm
そーいえば思い出したが、僕の父親は国の役人だったけど、その役所の同僚たち、
元ゼロ戦のパイロットとか日支事変の頃からの爆撃機のパイロット、果てはカマ炊き
が元特高の刑事だったり、年配の人はみんな元軍人ばかりだったって言ってたなあ…
良く考えると当たり前かw
同じ職場で立場が逆転していても、爆撃機の元通信手は元パイロットに頭が上がら
ないとか、今思うと非常に興味深い話を聞かされたけど、当時は子供過ぎて殆ど
憶えてない。元特高刑事のカマ炊きのおじさんは、流石にみんなから嫌われてて
いつも焼却炉の横にぽつんと一人で座ってたが、僕ら子供が挨拶するとにこにこ
嬉しそうにしてたっけ。みなさん、戦争の記憶をひっそりとしまったまま亡くなられた
んだろうな
広島の呉に住んでるんだけど、おじいちゃんは中々の腕の海軍だったみたいで
昭和天皇に直々に懐中時計(?)を貰ってる。
で、おじいちゃんは戦艦大和に乗船する予定だったんだけど、当日になって違う船に
乗船することになって、それで生き延びた。
これはお父さんから聞いた話。
結局おじいちゃんは戦争の話はしたがらなくって、聞けなかった。
808 :
名無し三等兵:03/12/08 14:54 ID:cr7WBbfP
家のじいちゃんロシアに捕まってシベリアで働かされてたが当時では珍しい車の修理工だったため他の捕虜よりも待遇は良かったらしい
809 :
スターリン:03/12/08 15:03 ID:oThPR1ac
2chってうそだれけだからさー
誰がホントのこと言ってるか和漢ねー世
810 :
名無し三等兵:03/12/08 16:36 ID:t72X9zr7
>>808 マジかよ。うちのじいちゃんもシベリアに行ったけど、病気になったりして
大変だったそうな。
812 :
名無し三等兵:03/12/08 18:19 ID:cr7WBbfP
813 :
名無し三等兵:03/12/08 18:35 ID:nU7aNfKb
俺の祖父は徴兵検査で「丙種」つまり不合格で
戦争末期の誰彼なく召集された頃にも召集されなかった
そうだ。
だが、終戦直後東京から茨城まで約150KMを数十キロ
の荷物をかついで歩いたと自慢していた。
おいおい、それくらいの体力があるならなんで丙種なんだよ
と小一時間・・・と突っ込みを入れる前に亡くなってしまった。
814 :
名無し三等兵:03/12/08 18:47 ID:cr7WBbfP
815 :
786:03/12/08 18:49 ID:???
>>787 後は、最初は実戦が恐くて仕方無かったけど、だんだん慣れて来ると恐怖感が消えていき
戦闘中は敵兵の姿がボンヤリとした何かにしか見えないそうです
あと、これもガ島なんですが、夜中に水たまりを見つけて夢中で飲んでいると
水だと思っていた物が死んだ兵士から流れていた血だったとか
体も左肩にライフル弾が貫通した跡、足には手りゅう弾の破片が埋まっていて
片方の耳も何だったのかは忘れたけど、爆発音で難聴になってしまいました
816 :
名無し三等兵:03/12/08 18:49 ID:cr7WBbfP
817 :
:03/12/08 18:53 ID:GSrdq3Cq
戦争体験=悲惨な話
っテ定式化してるのどうかっておもうな。
武勇談はなしたいじいちゃんもいるだろうに。
オイサキ短いんだから武勇談をじいちゃんたちに解禁してやったら、っておもうんだけどなあ
>>817 「人肉?ああ、あれは美味くねぇ。」
みたいな話しか?
819 :
名無し三等兵:03/12/08 19:04 ID:cr7WBbfP
そんなもんじゃねーの?
>>801 もし足柄にお爺様が乗っておられたなら、うちの爺様の同僚だったかもしれません。
往路か帰路か忘れましたが、喜望峰沖の航海やスエズ運河の話を聞かれませんでしたか?
あとドイツのキール軍港にも寄港したらしいですね。
秩父宮殿下がイギリス王の戴冠式に出席されるため、乗艦されてたんですよね。
うちの爺様はその当時、海軍士官成り立てぐらいだったと思います。
でも、足柄にはずっとは勤務してませんでした。
爺様もとっくの昔に鬼籍に入ったんで、俺ももっと話きときゃ良かったです。
821 :
820:03/12/08 21:15 ID:???
訂正
話きときゃ→話聞いときゃ
みんな、後で後悔するなら、今度の年末に帰省したときにでも
爺さん方に戦争体験を聞いておきましょうね。
823 :
801:03/12/09 18:47 ID:???
うちの爺さん仕官じゃなかったから同僚と言えるのかな?
同じ釜の飯とは言えそうですけど。
実は、爺さんが巡洋艦に乗ってヨーロッパ行ったと聞いたのは、祖母からです。
昔の写真見ながら教えてくれたの覚えてます。
その祖母も5年前に死んでます。爺さんは30年以上前に亡くなってます。
写真は確かロンドンで撮ったものだったと思うから、足柄の可能性は高そうですね。
上のほうで足柄のこと教えていただいた方を含めお礼を申し上げます。
今度実家に帰ったらもう一度史料を探してみます。
824 :
名無し三等兵:03/12/10 18:22 ID:cichIp8a
そういや家のじいちゃん戦後直後に視察にきたアメリカのおエライさんの狩りの案内をして八ヶ岳走り回ってたな
825 :
820:03/12/12 04:45 ID:???
>>801 いや〜、本当に嬉しいですね。同じ時代、同じ職場、そして同じ船に乗って
任務を果たしていたお爺様とうちの爺様は立派な同僚ですよ。
私のところも婆さんも亡くなり、詳しい話はもう聞けませんが、今度親戚が
集まった時にでも伯父、伯母にその辺り聞いてみたいと思います。
それと、うちにもヨーロッパの当時の町並みを写した写真も何枚かあります。
これも今となっては貴重な物ですよね。
801さんのお爺様もそうであったと思いますが、当時の海軍さんはすごくかっこいい
ですよね。私も爺さんの若かりし頃には憧れてしまいます。
私自身、しがない貧乏サラリーマンですが・・・。
もう少ししたら、出勤です。でも、今日は特に頑張れそうです。
長くなりましたが、801さんまた当時のお話聞けたら教えて下さい。
826 :
名無し三等兵:03/12/13 10:59 ID:ibVx6T5U
>>779 愛人ですか。
陸軍の機関銃手だった祖父には数人の愛人がいたそうです。
宇津井健のような顔立ちに長身(170センチオーバー)の祖父でしたが、
転戦してもその愛人も一緒に付いて来ていたそうです。
かっこよくて自慢のじいちゃんだったんだが4年前に心不全で亡くなった。
晩酌をする時は、焼酎の入ったグラスを前にいつも黙祷してからだった。
何を思いながらそうしていたか詳しく訊くことはしなかったが、
新兵の頃初めて敵兵を射殺し、そのショックのために数日間熱を出しうなされた話をしてくれたことがある。
機関銃手だった祖父、沢山の人を殺したのでしょう。
祖父は大正生まれですが、あの世代の多くの人はいろんな思いを胸に秘めたままあの世へと帰っていくのですね。
孫の世代には計り知れない多くの経験をして。
その祖父の弟、私の大叔父は海軍の機関士でしたが、駆逐艦松風乗艦中に敵潜水艦の雷撃により死亡しています。
遺影は「大日本帝国海軍」と右から書かれた水兵帽をかぶった凛々しい姿です。
そんな祖父の世代のことに思いを馳せながら徒然と我らの世代のことを思ってみる日々です。
関係ないが足柄ジョージ5世の戴冠式での艦観式
でその当時のカラーフィルムが残っているよ
戦前の日本軍艦がカラーで見たのは後にも先にも
記憶が無い。
他国の軍艦は灰色っぽいが足柄は黒っぽく精悍な船でした。
828 :
名無し三等兵:03/12/13 13:38 ID:uf8Njx2S
飢えた狼とか言われたんだっけ?>足柄
なんか司馬遼太郎が無理やり悪口言ってた気がする
829 :
名無し三等兵:03/12/13 14:26 ID:o98gU6Sq
大叔父の話です
「退職金1万円」にあこがれて満鉄に入ったそうです。
でも鉄道関係のことはひとつもしないで満州国の経済成長とかそんなレポート
をグループで作ったりしてたそうです。
終戦になる直前に軍の飛行機で帰国し、そのまま終戦になったそうです。
終戦後は県庁に入って県職員としてはNo3位の地位まで昇ったらしい
そんな大叔父はもう鬼籍に入ってしまったのですが・・・
830 :
名無し三等兵:03/12/13 15:19 ID:uf8Njx2S
831 :
名無し三等兵:03/12/13 15:32 ID:WSzw47FA
助役か?>829
832 :
名無し三等兵:03/12/13 16:21 ID:foNMVZWZ
833 :
名無し三等兵:03/12/13 20:51 ID:jdw9enpm
母方の祖父の話です
戦争最後の年、海軍の予科練で戦闘機(機種は不明)に乗っていたそうです。
漏れは彼から直接話を聞いたことはない(話すと、必ずうなされるので話してくれない)ので
母から伝え聞いた話なのですが、首都圏の基地で訓練していたそうで。
一度だけB-29の迎撃に上がったら、距離を見誤ったために撃った弾は命中しなかったそ
うです。
それから、基地がそばの都市といっしょに空襲を受けたとき、彼の戦友が「今街に住んでい
る両親が死んだ」といって聞かなくなったそうです。
そんな事はない、きっと防空壕に逃げて無事だろうと祖父は彼をなだめたそうですが、彼は
そこに両親が来ているといって、基地の隅のほうを指さしたそうです。その先には、人魂が
二つ浮いていたとか…。
祖父はまだ生きておりますが、戦争体験がとらうまになってしまっているようなので、残念
ながら彼に直接私が話を聞くのは無理かもしれません。長文スマソです。
伯父上は海軍にいたらしく、正装でキメた写真があった。
一度だけ、昔は今のような計算機はなかったが手動でチャリチャリとやると
照準が割り出せるようになってて大したもんだった云々と言う話をしてくれた覚えがあった。
このスレを見て、正月にでも会う機会があったら詳しく聞いてみようかと思っていたら
先日亡くなってしまわれた...
なかなか聞き辛い面もあるかも知れないが、生きてるうちに生の声を聞いておくべきですよ、皆様。
835 :
名無し三等兵:03/12/14 14:04 ID:Sw416z65
エノラ・ゲイが修復されて喜んでたなあ。
「これでまた広島に落とせる」ってね。
俺の爺様(まだまだ元気)は露助に捕まって一時的に捕虜になったらしい。
で、収容所で人数確認させられるとき、その日の担当の露助が五以上の数が数えられない奴で
寒い中何十分も待たされたとか。
>>836 数年前にロシアに行ったが、
ビザチェックで本当に10人ずつチェックしていたからビビッタ。
今のロシアだからちゃんと数は数えられるけど、
そうやってやるのが伝統みたいです。
>836
うちの伯父も同じことを云っていた。
勲章をいくつもぶらさげているくせに連中は人数を数えられなかったそうだ。
朝の寒い中点呼に時間がかかるので、体力の無い戦友が倒れたそうだ。
839 :
名無し三等兵:03/12/15 00:44 ID:MEiR0Klj
私の祖父は戦時中ニューギニアにいました。
食べるものが少なかったが何故か醤油だけは大量にあったので、
夜になると海に行ってなまこを採って醤油で食べていたそうです
肩の骨を米兵に撃ちぬかれて動くのは動くし、重いものも運べた
のですが、骨の一部が無いので五右衛門風呂に一緒に入ると肩の
くぼみにお湯を入れて水溜りを作っては孫の私に見せてくれた
ものです。
840 :
名無し三等兵:03/12/15 01:10 ID:W4PAwv/z
僕の曽祖父は海軍軍医大佐でした。
残念ながら、僕が生まれてすぐに他界してしまったのでこれぐらいしか分かりませんが
胸に勲章がたくさんついて祖父とたっている写真があります。
祖父も長崎の海軍医科大学校(名前はうろおぼえ)の人です。
自転車で出かけているときに、戦闘機に左胸を打たれましたが、急所をはずし、長崎の病院に入院しました。
祖父はそのまま原爆の日までそこにいたので、
当然、原爆の被害に・・・
っが、いきてます。
祖父曰く、爆心地から800mたらずだったそうです。
酒がはいったときですが、落ちてくる音がきこえたともいってました。
そのご、長崎から神奈川まで(もちろん船も)歩いて帰り、
もちろん被爆して紫色のあざがでましたが、克服。
いまでも、50m30秒で泳ぐ祖父です。
タフだねぇ
842 :
名無し三等兵:03/12/15 10:32 ID:fZVnbb7U
ロスケはくるくるぱー
843 :
名無し三等兵:03/12/15 15:14 ID:7DBQdTUk
漏れの知ってる人の親父さんは、広島に原爆が落ちたとき、
爆心地のすぐそば(直線で300mほど)の紙屋町のビルに居たらしい、
んで、無事生還して今も存命。
ビルの同室に居た方はほとんど亡くなられたそうだ。
今語られている被爆直後の有様は、「まあ、実際の情景の十分の一ぐらいかな」とのこと。
844 :
名無し三等兵:03/12/15 16:48 ID:XIE2C4SM
うちのじいさん滑空部隊だといっていたが、滑空部隊ってどんな部隊なんですか?
どなたか教えてください。
字から考えると、グライダーっぽいね。
輸送関係なのかな?
識者を待とう。
846 :
名無し三等兵:03/12/15 17:10 ID:EvHREK77
うちの祖父は海軍の飛行隊でしたが、すでに材料不足で乗る機体が無く、畑で豆作ったり海で魚捕ったりしてたそうですた。
祖母は長崎で原爆に・・・とは逝かず、公衆電話ヴォックス(昔の石のタイプね)に居たので無傷ですた。
>>844 陸軍では戦争末期、訓練用の飛行機が不足して飛行訓練にグライダーを
使用していたらしい。
>844のおじいさんが訓練段階で終戦を迎えたのであればこのことかと。
実戦部隊に配属されていたのであれば・・・・・わからない。
>>844 陸軍は空挺部隊(パラシュートつけて空から降りてくやつね)を敵地に運ぶ手段として、
グライダーを使っていたことが。私も詳しくは知りませんが、何でも訓練しているうちに
戦争が終わってしまったらしいです。
だから、空挺でグライダーを使っている部隊にいたという可能性も。
849 :
名無し三等兵:03/12/15 21:15 ID:GogXp6Xa
うちのじい様は木材会社で働いてたが、会社が国営化されて
弾薬を入れる木箱の技師としてボルネオだったかそこらあたりに
ばあさんといっしょにいったらしい。
ヤナギ参謀長(だったか)の部隊に所属してたとかなんとか。
あるとき、じい様は日本軍の艦隊が出撃するのを見たそうだ。
その時、こんなすごい艦隊があるんだから日本は絶対に
負けない、と思ったそうだ。それは威風堂々としていたという。
(孫のわしもぜひその光景を見たいものだと思ったわい。)
そしたら何日かしたら、その艦隊がぼっこぼこになって帰ってきたそうな。
あんなにいたのにどこにいったの?って思ったという。ちょうどそこらあたり
から、ちょっと日本やばいんじゃないか、と思い出したという。
ちょうどミッドウェー海戦の頃の時期だったとかなんとか。
直接戦ったわけじゃないがすごい体験だ。
PS
うちのじいさまは朝日新聞があまり好きではないご様子(笑)
851 :
名無し三等兵:03/12/16 09:10 ID:ujFFNtPQ
出撃地から見て昭和19年の某大作戦と思はれ
852 :
849:03/12/16 10:06 ID:bS/w7yeH
>>851 ああ、あの作戦の出撃地ってボルネオあたりだったんですか。
じゃあ、じい様がみた艦隊ってのはひょっとしてひょっとしますね。
じゃあほんとに転機だったんだ。
853 :
849:03/12/16 10:15 ID:bS/w7yeH
あっ、ミッドウェーはS17年でした。
それより遅めの時期だったのかな。
854 :
:03/12/16 10:43 ID:m0y4kDO2
うちの爺さん婆さん(共に故人)から聴いた話
20年8月6日の朝、広島から直線距離で70キロ離れた町の自宅庭で、婆さんは選択物干し。爺さんは近くで畑作業していた。良く晴れた日だったそう。
その時、婆さんは「パラパラッ」と不思議な感覚に気がついたたそうな。干していた洗濯物や辺りが光ったという
爺さんは何も気がつかず「お前、何ぼけんとんじゃ..」と笑われた。
翌日から、被災者達を通じて話を聞いて納得したそうです。
ちなみに爺さん婆さんは、14年に帰国するまでアメリカで働いていて、
「アメリカと戦うなんて大馬鹿。行ったこともないやつが夢みたいなこと言っている」と公言してはばからず、出征する息子(私の親)に、「こんな無駄な戦いで死ぬのは犬死に、絶対死ぬな」と言い切っていたそうな。
父は乗船前の検査で結核が見つかり、おかげで私が生まれました
父方の祖父は生まれつき足が悪くて徴兵されず。
母方の祖父はアル中で入院・・・
父方の祖父は自分と同じ年頃の近所の若者が次々と戦死していくなかで
拾遺から冷たい視線を浴びて辛かったと言ってますた。
母方の祖父については祖母も母もほとんど何も語りたがらないので
よくわかりません。
肉親じゃないが、渡米以来お世話になってた知り合いの爺さん。
海兵隊のパイロットだったそうで、デビュー戦はミッドウェー。
その後、サイパン、硫黄島、沖縄と転戦。
更に、朝鮮戦争、ベトナム戦争とパイロットとして参加。
3つの戦争を通じて撃墜された事が2回。
硫黄島では飛行場に着陸後、日本兵に足を撃たれたとか?
もう他界されたおじさんに、小学生の頃に聞いたのですが、
大連で訓練を受けていたか、駐留していたそうです。
そのときに、B29を高射砲が撃ち落すところを見たそうです。
B29の飛ぶ高度まで届く高射砲って、あったのでしょうか?
本人は実戦を経験すること無く、終戦を迎えたそうです。
他に私が覚えているのは、旧式のマッチをポケットに入れていたら、
発火して焦ったと言っていたこと位です。
黄燐マッチね。
古い映画とかで靴の裏やら壁やらで擦って火着けてるあれだわな。
マッチの頭に発火に必要な薬品が全部着いてるから結構自然発火してたんだと。
今主流のマッチは赤燐マッチ。
と言ってもマッチ自体、店頭に置いてる所はかなり少なくなってるが。
こっちは頭と箱の擦る所に別々に発火剤が着いてるから自然発火の心配もないんだと。
>844
1942年なら陸軍挺身練習部滑空班というのがあって、二式滑空機を装備していました。
翌年、西筑波にて、滑空飛行戦隊(四式特殊輸送機装備)が出来、更に翌年、滑空飛行
第一戦隊というのに改編されています。
滑空機絡みなら、1943年に西筑波で編成された教導挺進第五連隊が改編され、1944年
11〜12月に滑空歩兵第一連隊、同第二連隊が西筑波に於いて、編成されていますね。
これは滑空機に乗る兵士みたい。
最終的には比島に行かされています。
二式小型滑空機なら、1941年に高鍋で編成された第一挺進団滑空班に配備され、
1944年に唐瀬原で第一挺進集団に編成替えがなされ、比島に渡っています。
また、四式特輸なら、特設第13輸送飛行中隊が1944年に筑波にて編成され、後に新田原の
挺進飛行第二戦隊に吸収、特設第14輸送飛行中隊も同じく1944年に西筑波で編成され、
内地、台湾、比島、満州、中国、仏印、朝鮮に配備され、特設第15輸送飛行中隊は唐瀬原
で1944年に編成され、内地、比島、仏印、ソロモンで活動し、最終的には松戸で敗戦を迎えて
います。
>857
絨毯爆撃などで低空を飛ぶ場合もありますので、結構当ったと言われています。
高空精密爆撃でも、8000m程度ならばそれなりに高射砲は届いたみたいです。
うちの親的には、役に立たないと言ってますたが。
860 :
名無し三等兵:03/12/17 16:19 ID:at4OXePd
有益な提示だが、キリスト暦はきもい
漏れの父方の祖父と母方の祖父は、同郷出身であるがゆえに同じ部隊に配属された。
運が良かったのか悪かったのか、
やはり一緒の部隊だった大叔父と共に捕虜収容所に入れられたらしい。
捕虜収容所で、父方の祖父は赤痢だか何だかの伝染病であぼ〜ん。
母方の祖父も大叔父も病気に苦しんだそうだが、何とか生還。
生死を分けたのは、『年齢と体力』だと言うのは、晩年の大叔父の弁。
全然話は変わるが、漏れの家の近所には『出征記念碑』と呼べそうな記念碑が建っている。
戦死した人達の名前を刻んだ『忠魂碑』と、生還した人たちの『精魂碑』だったと思うのだが、
戦死した人の方が多かったのが、ちょっと切ない。
近所に爺ちゃん少ないよヽ(`Д´)ノウワァァァン
862 :
844:03/12/17 19:38 ID:kLC5xQ56
みなさんありがとうございます。
筑波にいたっていうこととシベリアに抑留されたっていうのを聞いたことがあります。
現在は時間がなく書きませんが、祖父から聞いたことを思い出してここに載せようと思います。
あまりおもしろそうな内容ではないかもしれませんが・・・
>>857 200機ぐらいは高射砲で落とされますたよ
864 :
名無し三等兵:03/12/17 21:18 ID:QN3ohkmM
母方の爺さんが近衛師団で近衛兵でした。終戦時は伊豆大島で歩兵砲構えてました。
父方の爺さんは南京攻略した軍曹だそうで軍刀を持った写真と勲章4個あったな。その後、関東軍にて終戦、シベリア抑留でした。
865 :
名無し三等兵:03/12/18 11:34 ID:iS66ISCF
父方の祖父は三人兄弟の真ん中。弟は硫黄島。兄はテストパイロットだったらしい。
家族は優秀だった兄を特に可愛がっていたらしいが、テスト飛行中のエンジントラブルが原因で事故死。
海軍だった祖父は陸奥が爆発したおかげで無事帰ってこれた。戦後、兄の友人だった人物が訪ねてこられ、いたく感激したらしい。
これが小さい頃聞いた話なんだけど。祖父はもう他界しているので何も聞けないのだが、兄のことは陸軍か海軍かもわからないし、どんな部隊だったかもわからない。
どんな戦闘機に乗ってたんだろう?残念だなぁ。ただ、近所の肉屋さんも陸奥に一緒に乗ってたみたいで「あんときゃ、お前の爺さんと二人で海に投げ出されたんだ」なんていいながらコロッケをよく貰った。
>>857 1万メートルの高高度で飛んでたのは空襲初期で
有力な対空砲火が沈黙しだすとわりと低高度で飛んでたみたいですよ。
だから戦闘機に迎撃されたりもしたり。
父の父(俺の祖父)の戦争体験を小学生の時に聞いた事がある。
ビルマでトラック運転して切り込み隊を戦場に送る任務だったらしい。
今、思うにそんな任務あったのかと思うんだけどすでに鬼籍だしなぁ。
でも、生きて帰ってくれた事には本当に今でも感謝してます。
ありがとう爺ちゃん。
868 :
名無し三等兵:03/12/18 23:45 ID:0bp78YZL
駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草履を作る人
>>868 その諺聞いたことあるけどどういう意味なんでつか?
870 :
名無し三等兵:03/12/19 09:52 ID:T/zcafse
仕事には分担が有ると言ふお話です
871 :
名無し三等兵:03/12/19 10:31 ID:vpcIbQdE
うちの父親が第二次大戦の最後の徴兵でした。
父は樺太、大泊、字馬群丹出身で18歳の時旭川第七?師団へ
ちょうど結核の初期症状がでていたため本当の戦闘はしなかったものの
その師団はアッツ、キスカ島で全滅!!
病気になっていなければ確実に死んでいたでしょう。
子供の頃はよく話をきかされたもんです。
大正15年生まれなもんで、当時の洗脳から解けるのに50年かかったと
本人は言っております。
そんなこんなで命拾いした父は死にぞこない、その後も、肺炎、肝臓癌で
死にかかっても、結局3回命拾いをしているわけです。
・・・で先週も肝臓癌の最先端手術を行い、退院してきたんですよ。
死ぬ、死ぬ・・が口癖ですがこの人は・・・多分100まで生きるでしょう。
にくまれっこぴーーーー、ですな、ハハハ
>>871 うちの親父は昭和2年の早生まれだから、同級生になるのかな。
徴兵検査学年でやってたのかどうか知らんけど。
徴兵か志願かは聞かんかったが、とりあえず入隊して
本土決戦用に地雷抱えて戦車に突っ込む訓練してたらしい。
それといつか、木なんかをくっつけて島に偽装した戦艦か巡洋艦が、空襲してきた敵機に
対空砲撃ちまくったの見たらしい。全然あたらなかったらしいけど。
うちのは六年前にもう死んだからもう聞けない。
873 :
名無し三等兵:03/12/19 12:48 ID:xRKOhnou
うちのじいちゃんは「ハルナ」とかいう船の甲板磨きしてたらしい。
かなり大きな船だったとのこと。
陸戦隊というのに所属していたらしいんだけど,詳しいことは分からず・・・
875 :
873:03/12/19 13:09 ID:???
「とても大きな船だった」といってたのでおそらく。
こんなすごい船だったんですね!
普段無口なじいちゃんが自慢げに話していたのが印象的でした。
今度じいちゃんの家に行ったとき詳しく聞いてみることにします。
おひさしぶりです。ようやく病院から開放されました。
老朽化が進む体に、不用意に鞭を打ったせいか体調を崩してしまったみたいで
入院しておりました。
ノートを持ち込んのですが、残念ながら無線圏外だったためか通信できませんでした。
また機会を見つけて参上します。
キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!
878 :
869:03/12/19 16:56 ID:???
>>870 ありがとうございます。
最近「陸軍中野学校」という本を見つけて読んでいます。
スゴイ。
>>876 海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 殿。
最近、とみに寒くなってきております。
ご自愛、くださいませ。
>>871 うちの親父も大正15年生まれで、関東軍所属。
補聴器つけて車を運転してます。
目標100才だそうです。
881 :
名無し三等兵:03/12/19 22:49 ID:IUJKoQk1
親父から聞いたから直接祖父に聞いたわけじゃないですが、祖父は関東軍
で下士官だったそうです。戦局が悪化してくると、ずっと虎頭要塞に篭っ
てたそうです。そして、ついに沖縄に米軍が上陸してくると、祖父の所属
していた部隊は、速成教育ではなく正規の軍事教育を受けた、しかも殆どが
20代前半の精鋭部隊だったので、本土決戦の為に、日本に帰ってきま
した。ちなみに、満州とソビエトの国境にソビエトの戦車が物凄い数が並
んでいるのが見えたそうです。もし、あれが攻めてきたら絶対死ぬと思っ
たそうです。そして、本土決戦が行われること無く終戦を迎えました。
結局、祖父は一回も敵に銃を撃つことなく終戦を迎えました。後々、人
を一人も殺さなくてすんで本当に良かったと言っていたそうです。
アルザスノ親戚のおじさんはドイッチュラントの前で取った写真がある
>>876 >海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2様
お帰りなさい、退院おめでとう御座います。
年の瀬ですが、今年の風邪もたちが悪いようなので、
今後も出来るだけご自愛なさってください。
885 :
名無し三等兵:03/12/21 16:55 ID:Ilgrn7u1
小生は予備学生です
本チャンにお目にかかれて嬉しく思います
ご健勝を
886 :
名無し三等兵:03/12/21 21:24 ID:mhhgpeOK
>>海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2様
退院おめでとうございます。
887 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/12/23 00:45 ID:5AYM8fAR
こんばんわ。皆様先ほどまでNHKで放送されてました番組はご覧になられましたか?
本当に様々な記録が残せる映像というのはすごいものですね。
実はあの作品、太平洋戦争の記録映像にさりげなく知り合いが2名ほど映っていたので
最初の放映当時大変驚いた記憶がございます。
2名とも若くして戦死してしまい、大変惜しい事です。
海軍を記録した映像は、かなりたくさんありましたので時代が進むにつれて今後登場するかもしれませんね。
大和にせよ武蔵にせよ、映像を撮影している風景を目撃した記憶がありますので
(文章記録では異常に防諜に気を使ったようにかかれてますが、あくまでも「詳細」を秘匿
するのが本義だったので、「存在」だけの証明である映像や写真はある程度の物なら
それほど規制を受けなかった記憶があります。規制していたのは検閲の時ですね。
撮影自体はかなり自由でしたよ。武蔵も一般人見学がなされたことが何度かございますし
新聞社が撮影していた記憶もあります)
アメリカ全土を探し回ればそのうちひょっこり出てくるかもしれませんね。
明日の第二回が楽しみ・・・こういうと人格を疑われそうなので、「興味深い」と申しておきます。
それでは。
ウチの爺さんは兵隊じゃなかったんだが、戦時中外航船のキャプテンをやっていて、
フィリピン方面の航路を走ってたそうです。
んで、2度ほどボカチン喰らったらしい。
2度目は(話から察するに)たぶん、捷一号が終わった辺りで、拾われた船にシンガポールまで
連れて行ってもらったはいいが、帰るすべが無くて呆然としてるところに、軍艦伊勢にのっけて
もらって内地に引き上げたと言ってました。
帰る最中、エライ空襲にあったそうだが、「戦艦に乗ってて沈むんだったら、もー、しょうがねえ」
と割り切ってたそうです。
この話を聞きながら「ああ、北号作戦か…」とは思ったモノの、なんとなく口に出すのが憚られ、
(当然かも知れません)、爺さんの話を黙って聞いていました…。
爺さんの話は、漂流中目の前で漂ってたコック長がフカに半身食われただの、フカがぐるぐる
回ってるトコで、助けにきた船のロープを取りに泳いだ話(曰く、「全力で泳いでいればフカに
食われない」そうで…)だの、凄まじい話ばっかりで、その実体験の持つ重みに、自分の俄知識
を披露するのは余りにも無粋で失礼な気がして…。
>>887 海兵七十期のポーカ派殿。
興味深いお話、ありがとうございます。
私も第2回放送を、興味深く待ちたいと思います。
890 :
888:03/12/23 01:16 ID:???
スレ違いは重々承知でもう少し書かせてください。
気に入らなければスルーをお願いします。
そんな爺さんも一昨年、亡くなりました。
歳は80超えてたので大往生、ということになります。
私は既に遠く離れた所に住んでいますので、死に水は取れませんでした。後から母に聞くと、
爺さんは死ぬ前の1ヶ月ほど、毎日泣いていたそうです。
その頃には、満足に喋ることすら出来なかったらしく、母はなんで泣くのかわからなかったとか。
勿論私もわかろうはずもありません。ただ、少なくとも漫然と今まで生きてきた私に比べ、余程
波瀾万丈な一生を送った爺さんは、それでも死にあたって泣いていたというのです。
だとしたら人の一生とは、一体なんなのだろうと、その時思いました。
今まで必死に生きてきて、それでも逃れられない、死とは。本人にとってなんだったのだろう、と。
それを聞くことはもう出来ないわけですが(といっても生前それを聞くわけにはいかなかったでしょうが)
今も、もしそれを爺さんに聞いていれば、どんな答えが返ってきたのだろうかと、考えています。
取り留めの無いことでした。失礼しました。
母方の祖父が徴兵でとられて海軍に入った。
海軍の陸戦隊で、硫黄島で死んだそうだ。
家族に愚痴ばかり言ってたそうだ。くだらない戦争で死ぬのは
大損だから敵をみたらすぐ降参するとか言ってたらしい。
3人の子供と妻を残して取られたんだからそういうのも無理はない。
残念なことに硫黄島なので降伏する暇すらなかったのだろう。
母はよく戦争のことになると愚痴る。祖父を取られてその後の生活が
かなり苦しかったらしい。戦争嫌いが頂点に達して、今では立派な反戦平和
主義者になった。軍事板では嫌われそうな感じの人ね。今も自衛隊を
イラクに送るなと街にでて署名活動をしている。
『死んだら家族が可哀想だし、どうせ日本政府が碌な補償なんか
遺族にするわけない』だそうだ。
『あれだけ国がいけいけでやった戦争で死んだ犠牲者の遺族に碌な補償
もしないんだから今回もそうに決まってる』とのことです。
戦争の傷は今もって深いな。と感じます。
どうもつまらない話で申し訳ありませんでした。
>>887 じいちゃん、ありがとー。
じいちゃんの青春の話だから勘ぐったりしないけど、
そういう人もいるかもしれないですね。
893 :
名無し三等兵:03/12/23 17:50 ID:dsDbW/2i
>>887 たいへん貴重な証言だと思います。そういう証言を記録に残したいものですね。
阿川弘之の「軍艦長門の生涯」など、綿密な取材で非常に興味深かったのですが
太平洋戦争に関する証言は、どうも反戦と平和とかか妙なバイアスがかかって
しまって在りのままの体験談が少ないように思います。
ここに棲息している者の殆どは、運動嫌いの小心者で、軍人とは正反対の
生きざまの戦争オタクばかりですが、他に体験談があったらどんどんお聞かせ下さい。
中には不心得者も出てくるでしょうが、少なくとも私は敬意を以って読ませていただきます。
うちの過去帳より転載
「勁猷院勇清居士 俗名清
北村家長男として生まる
幼少より武門に秀で、また学問を修る 忠孝比類無し
その学問の特に秀でたれば、海軍兵学校三十五期に選ばれ家門に錦を飾る
されど人の運命は計り難し
少尉候補生に任ぜられ、軍艦松島にて練習航海の帰途
明治四十年四月三十日馬公港に於いて轟然たる爆音起れば、軍艦松島は瞬時に沈没す
その天を焦がす火炎に命定まり、また身は四散し煙と失せ果てぬ
両親の悲嘆限りなし その身国に捧げたるものなれど、その命尽きること余りに早きに過ぎぬ」
一部虫食いと滲みで判読不能、手を加えた
いかん、なんだか読んでて悲しくなってきた・・・・
896 :
名無し三等兵:03/12/23 22:56 ID:FAGDXJNe
ポーカーさんへ。
どうせなら、出版社とかに投稿した方が良いと思います。
なにぶん貴重なお話なので・・・。
>>894 ・゚・(ノД`)・゚・。
「松島」ってあの日清戦争のヤツか?
沈んでたの?
うちのじいさんは横須賀基地で海軍訓練兵みたいなのをやってたと聞きました。
肉じゃがやカレーを良く作らされたと聞きました。
900 :
389:03/12/24 00:21 ID:???
NHK凄かった!ビデオにも撮りました。
昨日見なかったのがくやまれます・・・!
どこかで1が見れないものでしょうか・・・?
すごく見たいです。
901 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/12/24 00:22 ID:LuGQgJLz
こんばんわ。映像の世紀2集目も終わりましたね。
パソコンでの録画に挑戦しているのですが、まさか最後に地震速報が入るとは
NHKよ、第5集で同じ事やらかしたら英霊に呪われますよ。
英チャーチル氏の欧州大戦の回想文ですが、似たような内容の文章を
海兵時代の精神修養の時間で学んだ記憶がありますね。
「これからの英雄はー」のくだりで、教官が
「帝国海軍は今のところ連合艦隊司令部は例外みたいだ。もし陸の上に上がる様では
色々な意味で御終いだろう」と笑いながら話されておりました。
まさか卒業数年で現実になろうとはね。
902 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/12/24 00:27 ID:LuGQgJLz
文章は確か、ロンドンタイムスの特派員に
当時大臣だったチャーチル氏が語ったものだったと記憶してます
太平洋戦争後の回顧録とはまた違うものなのであしからず。
903 :
名無し三等兵:03/12/24 00:30 ID:WvFCTLLp
>>901 >まさか最後に地震速報が入るとは
TV録画しているとかなり頻繁に地震速報が入りますよね。日本は地震国
と実感しますが、せめてBSくらいはニュース速報や地震速報なしでお願いしたい
もんです…
904 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/12/24 00:33 ID:LuGQgJLz
まぁやむをえんのでしょうが、
ここはひとつ腹をくくってDVDを購入とまいりましょうかな?
これはDVDを売るためのNHKの戦略にちがいあるまい
908 :
389:03/12/24 00:40 ID:???
>>905さん
え?!そうなんですか!
買わなければ・・・いや金欠なのでツ○ヤに今すぐGOします!
情報ありがとう!
映像の世紀も面白いけど、
ちょっとまえにBSで放送したカラーのやつはもっと面白かった。
戦争、戦前=モノクロっていう体験しかなかったおいらには衝撃だった。
私の親戚にとある総合病院の院長先生一族がいます。
モチロンすんげぇブルジョアでしゅ。
同じ苗字なのに我が家がアジの開きを食べているのに向こうの
孫(俺と同い年)はフグの刺身を食べています。
俺は一浪してやっと某国立大に滑り込んだのに
向こうは聞いた事も無い地方の医大にストレートで入り、
俺がバイトして貯めた金で中古のフィットに乗っているのに
向こうは新車のボルボに乗っています。
この差はなんでしょうか。そうなんです。すべて双方の祖父の
戦争体験の差なのです。
さて我が祖父(兄)と院長先生(弟)は雪深い某県の
なかりの貧農家庭に産まれました。
兄も弟も小学校もロクすっぽ通いきれずに奉公に出されたそうれす。
やがて20歳を迎え徴兵検査の時を迎えます。
兄は昭和初期の軍縮期ゆえラッキーにも甲種合格籤逃れで
軍隊往きをまぬがれ、
太平洋戦争中も技術系だったゆえ最後まで徴兵の憂き目に遭わずにすみました。
一方の弟は嵐の時代に二十歳を向かえたゆえ二等兵として軍隊入り。
これが運命の分かれ道でした。
弟は勤務成績が良く、衛生兵(出来の良い兵隊がなるそうです)に抜擢され
さらに連隊の軍医にも見所アリとみなされ、
気が付いたら小学校しか出ていないにもかかわらず
しかも陸軍の金(=税金)で日大の医学部に推薦入学を果たし
しかも卒業した頃には終戦!
あとはトントン拍子にブルジョアジーへまっしぐらだったそうです。
さて、何が言いたいかと言うと、今の時代
貧乏人の子供が確実に儲かる医者を職業として選択するのは相当難しいです。
ですが徴兵制華やかな頃は、軍隊は貧乏人の貧乏人生に
一筋の光明を見出せる場でもあったという事なのでちゅ。
尤も、自衛隊もロハで大型免許が取得出来るってのがウリですけどね(w
てな訳で皆様のおじい様がたにもそんな
軍隊でのサクセスストリー(ザ・成り上がり)人生を歩まれた方が
いらっしゃるかと思いましゅ。
二等兵からスタートして補給係軍曹に抜擢され、
物資を闇市場に流して大儲け。
あるいは、同じく主計軍曹ゆえに甘味物などお姉ちゃんが喜びそうな
物資をピンハネしては色町へ繰り出しハーレムを楽しんだ。
なんて楽しいエピソードを聞かせてくれたらうれしいでちゅ。
先日亡くなった近所の奥さん、最期の一言が、
「B-29が・・・」
だったそうだ。苦労したんだね。
海兵七十期のポーカ派様
世界史板のスレで大和に乗艦されていたとのレスを拝見致しました。
いつ頃に乗艦されていたんでしょうか、差し支えなければお教えください。
私の祖父は大和に士官として乗り組み、沖縄特攻時に戦死いたしました。
祖母も鬼籍に入り、祖父について詳しいことがわかりません。
なにか手がかりになればと思いレスさせていただきました。
よろしくお願いいたします。
917 :
名無し三等兵:03/12/24 23:20 ID:roOdj5de
ポーカー派さん期待あげ
じいちゃんは徳川についたんだ
そして。のぼなががなんぼのもんじゃいって
いいながら腹きったんだ
919 :
名無し三等兵:03/12/25 00:13 ID:j0LAiIbI
漏れの爺さんは
ビルマ方面軍第*軍歩兵第*連隊の連隊長だったよ。
もちろんビルマで戦死、二階級特進で中将になった。
もちろん漏れは毎年、靖国にお参りしてる。
部隊書くと特定シマスタされちゃうからな。
920 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/12/25 00:27 ID:8Yp/xb9d
ご期待に添えて登場しました。
第3集、これはまるで現代の極東某国(亡国?)を彷彿とさせる光景でしたね。
(同じ時代の某国も少し登場してましたが、ある意味でこれは北の某国を見ているような気・・
いや、おそらく幻覚でしょう。)
誰だったか、若い頃に「幸福に満たされた地獄」という言葉を吐いた者がおりましたが
まさに的確でしょう。
旨い食い物も毎日食べ続ければ飽きてきますからね。
私が若い頃は娯楽が少なすぎて、学ぶ事くらいが一番まともな娯楽だったのやも知れません。
昔の若いのが決してストイックだったと言うわけではありませんよ。
ただ、富と快楽が降り注ぐ現世が幸せとは限らないのでしょうね。
かと言って、爆弾の降り注ぐ日々もお断りですが。
それはそうと、8Mbpsで録画し続けるともう40GBのデスクでは不足ですな。
明日用があって町に行きますので、増設も検討しましょうかな。
922 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/12/25 00:37 ID:8Yp/xb9d
>>916様
私が乗艦していたのは戦争のごく初期の頃で、まだ完成したばかりの
ころなので、残念ながらその頃と末期とでは乗員の顔ぶれもかなり異なっていると
思われますので、残念ながら私の証言ではあまり参考にはならんと思われます。
祖父母様のご冥福をお祈りいたします。
じいちゃん、いつもお世話様でーす。
924 :
916:03/12/25 09:22 ID:???
海兵七十期のポーカ派様
早速のレスありがとうございました。
終戦後、戦友の方がお越しになられて、祖父のことを
いろいろと教えてくださったようなのですが、詳しいことは
聞かなかったらしくあまりわかっていないのです。
少しでも何かわかればと思い、レスさせていただきました。
寒さ厳しくなりつつあります、ご自愛のほどお祈り申し上げます。
925 :
厨:03/12/25 11:15 ID:???
ここ読んでたら自分の祖父にまた話を聞きたくなってきました。
潜水艦勤務か・・・。大変だったろうなあ。
>>925 是非とも、お話を聞いて下さい。
食事はどのような内容だったのでしょうか?
栄養不足を補うために、食卓には栄養剤の錠剤を常に置いている艦も
あったそうです。
927 :
名無し三等兵:03/12/25 14:51 ID:pazgQ5bz
ポーカ派様に刺激されて、阿川弘之の「軍艦長門の生涯」の単行本を古本で
注文しました。
世界史版の別スレでの自己紹介によるとポーカ派様は終戦時長門に乗っておられた
とのことですが、終戦からアメリカ海軍への引渡しまでどんな感じでお過ごしに
なられていたのでしょう?いろいろご苦労があったと拝察致しますが、そのへんの
事情について教えていただければ幸いです。
しかし、乗艦経歴からするとポーカ派様、トップクラスの方のようですね…80歳超に
して、パソコン技術といい明晰な文章といい、ホントにCool!!尊敬します!
私もこういう80歳になりたい!
928 :
927:03/12/25 14:56 ID:pazgQ5bz
質問ついでに、ポーカ派様も阿川氏の取材を受けられましたか?
いや、別に詮索する意図はないので、お気に障ったらこの質問は無視して
頂いて結構です…
929 :
名無し三等兵:03/12/25 15:38 ID:DH9rydms
ちょいとズレるかもしれんが,爺さんの従兄弟が大陸で国民党に加担して
いたらしい.戦前か戦中に一度岐阜の爺さんの家に立ち寄ったことがあり,
去った直後に特高が押し掛けてきたんだと.便所の中まで調べていったと.
尾ひれが付きまくって蒋介石の右腕だったことになってるが,まぁんなこ
とはなかろうて.
戦後は消息不明.台湾にでも行ったんかな.いや多分大陸で死んでそうだな.
930 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/12/25 15:49 ID:S7t+WMBS
こんにちは。今朝町にでて250GBのHDDを購入しました。
が、BIOSが対応しておらず、また新規のBIOSも提供されてはいないの様子だったので
いい機会にマシンごと買い換えました。AMD社のオパーテロン(オプテロン?どちらが正解でしょうか?)
というマイコンを2基搭載したものにして、しめて35万円。これでちゃんと最後まで映像の世紀は録画できそうですね。
ついでに本日発売の連合艦隊という映画のデスクも購入してまいりました。
大変素晴らしい作りなので、若い方は是非御覧になられる事をお勧めいたします。
(水を差してしまって申し訳なく、また大変くだらぬ事でしょうが、レイテ作戦時の「瑞」鶴は
軍艦色ではなくミリタリ模様の塗装だったと記憶してます、とは言えこの程度のことはまさに下らぬことでしょう)
考えて見れば私も「瑞」鶴に乗艦していたのに、どうしてか映画の中の「瑞」鶴は違うものに
見えてしまいました。映画の中に描かれた程の地獄を極めていた・・・かなぁ・・・
確かにかなりの数の方がなくなられ、機銃掃射を受けた事は受けたのですが、
あそこまで凄惨を極めてはいなかった様な・・とはいえ、感じ方は人それぞれなので
全体の雰囲気はまさにあんな感じでしょうかな。
しかし悲しきかな、この作を最後に我々の世代の視聴にも耐える邦戦争映画が
登場しなくなってしまいました。残念な限りです。
>>927 受けましたよ。最も文章での簡単な調査でしたが。
私のことは載ってませんね。残念ながら。
私は米軍引渡しの現場は見てないのです。私は本の中の記述どうり
終戦後の軍属退去命令で長門とは別れましたので。
年寄りが機械を使えないというのは嘘であると確信してます。
若者の中にもPCは使えない者も多いですし、仮に使用できても
いかがわしいことにしか使用してなければそれは無意味というものでしょう。
ではまた今晩
をを、阿川インタビュー?
そう言えば、何でも鑑定団で長門に備え付けの時計が出てたっけ?
>>930 じーちゃん、新パソコンおめでとう。
じーちゃんの話が聞けて嬉しいです。
934 :
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/12/26 00:31 ID:mYZtSeRX
こんばんわ。ようやく記憶にある時代がやってきましたね
我が闘争・共産主義・そして天皇機関説
これら3大話を学校内でするのは自粛してました。
理由は別に禁止されていたからではございません。それは
話すと必ず感情が爆発して喧嘩に発展するからです。若いだけにね。
怒鳴りあい殴りあい、罵り合ってみても結論なんぞ永久にでるわけございませんので
(ですので、私も政治思想関係の掲示板は閲覧を自粛してます。頭に血が上るついでに一挙に天まで
昇るやも知れませんから。)
この掲示板でも四六時中罵詈雑言が飛びかっており、またその内容を垣間見るに
明らかに若者が多い模様です。
まぁ若い内はこういうものを論じ合うのはよいことですし、むしろ論じ合わねばならないでしょう
我々の世代は心の中で考え、そして確立し、それを表に出すことはございませんでしたね。
(今日言われる憲兵や特高等の「弾圧」あれは大嘘ですね。共産主義に好感を持ってる憲兵や特高、いましたよ。
問題は「国家解体」「宗教否定」の点ですね。そもそもマルクスの「経典」を「聖書」として「崇拝」して
一切の「批判」をせずに「妄信」する。ここに問題があったから弾圧されていたわけです。)
しかし、いくらなんでも自粛しすぎでしたね。もう少し大声で政治思想を公的に一般人が話しあうべきだったかも知れません。
逆に、1960年代の若者は面と向かって煮詰まるまで話し合いすぎた事から
若さゆえに残念ながら異論を認めず感情を爆発させて、反対論者殺戮に走った事が
このような議論事態を危険なものと世間に認識させてしまった事です。
そういうわけで物事中庸が一番。従いましてこの掲示板の存在は素晴らしいと考えております
どのように怒り狂おうと決して殺されることも殺すことも不可能ですし、ここではヒトラーの意見さえ
相対化されておりますしね。
2000年代の若者は1940年代の者が見る限り成長してますよ。
同じ悲劇を引き起こすことは絶対にないと思います。
ただ、違う悲劇を引き起こす危険性は否定いたしませんのであしからず。
もっともそれが人間の馬鹿であり可能性なんですがね。
935 :
927:03/12/26 00:42 ID:takr1HQ5
>>930 さっそくのお返事有難うございます。失礼な質問申し訳ありませんでした。「軍艦
長門〜」は注文しましたがまだ届いておりませんので、今から楽しみにしております。
新しいパソコン、64ビットですか…凄いですね(^^)。
今日の映像の世紀見てて思ったのですが、20〜30年代の世界、バブルから今に至る
世界と重なって見えて怖いです。ところで、ポーカ派様は、海兵卒業直後に
日米開戦を迎えられた訳ですが、開戦の報をどちらでお聞きになってどうお感じに
なられましたか?また周りの反応は如何でしたでしょうか…。
毎度毎度、「教えて君」ですみません。なにしろこういうお話を経験された方から
聞く機会は本当に貴重ですので。
ポーカー氏は軍板みんなのおじいちゃん。
ポーカー氏、前はXEONで今度はオプ・・・・・・サーバークラスのマシンを、
そのお年で自作されるとは、それだけでもかなり恐れ入りました・・・・⊂⌒~⊃。Д。)⊃
938 :
927:03/12/26 00:54 ID:takr1HQ5
>>934 >共産主義に好感を持ってる憲兵や特高、いましたよ。
そういう話を祖父から聞いたことがあります。といいますのは母方の祖父と
その兄が旧社会党の創設に関わっておりまして、その頃まだ小さかった母が
申しますには、特高警察の方が監視のため、毎日のように家に来られて終いには
大変仲良くなったと言っておりました。
政治向きの話は、ドレフュス事件の昔から、家庭内ですら殴り合いになることが
有ったそうで、今の我々も注意深くそういう話を避けておりますね…
939 :
名無し三等兵:03/12/26 01:16 ID:nIpxZup4
このスレの住人はポーカー氏=神だけど、他板の住民からみると
お ま い ら 釣 ら れ て い る な (藁
です。
ポーカー氏のあまりに出来すぎた話に疑問を持たないのが不思議。
多分、3、40代位の中年軍ヲタだと思われ。
予想通りの全然空気が読めてないレスが付いたな
>>939 出来すぎた話でいいんだよ。
もし、嘘だとしてもじいちゃんは良い話を聞かせてくれるからね。
やっぱじいちゃんなのだ。
942 :
名無し三等兵:03/12/26 01:33 ID:takr1HQ5
>>939 むしろ出来すぎてない部分、その時代に生きてないと分らない部分に
本物を感じるんだが…というより世界史版で海兵75期の方と話して
おられた内容を見て本物と確信したよ。文章読んだだけで理系の無茶苦茶
切れる人だと良く分る
>>934の内容を読んで釣りをする
>>939は馬鹿。
議論そのものに価値があるといっているのは正論だろ?
仮に本物でも偽者でもエエんだよ。「中庸」の議論をしあうことに意義を見出せ
と言う奴は何歳だろうが、どこのだれだろうがたいした奴だろうが。
>>939 だから何なのだと言いたい。
氏の話が全て虚構だったとしても、それをこれだけの密度で構築できるものを
内に持っていることに変わりはあるまい。そちらの方が重要なのだ。
少なくとも「(藁」などと書いて悦に入ってる君の「真実」よりは。
わかったら邪魔しないで戴きたい。
莫迦は諭すだけ無駄です。
スルーして、スレの雰囲気を戻しましょうぜ。
946 :
939:03/12/26 01:46 ID:???
すいませんでした
釣れたなたくさん(藁
だから、釣りってなんなのだ、と。
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 様、貴重なお話聞かせていただきまして
ありがとうございます。私の祖父は2人とも軍需工場に徴用されていたとの
ことで、身近に戦争体験をした人がおりません。ポーカー様のレスを興味深く
拝見している次第です。
世界史板のスレで瑞鶴沈没の際に恩賜のタバコを配り万歳三唱をしたとの書き込み
がありましたが、実際、沈没の時にそういう情景があったのでしょうか?
やはり沈没の時は相当の修羅場であると思うのですが、沈没まで時間があった
ということなのでしょうか? 沈没の時の軍人達のお気持ちはどのようなものだった
のか等、その時の事をお教えいただきましたら幸いです。
>海軍のおじいちゃんへ
今日のNHKで、アメリカが撮影したという南京大虐殺の映像が出てました。
本当にあったんですかね?>大虐殺
私はなかったと思う。勘だけど。
アメリカの映像も良くわからない画だったし。
951 :
名無し三等兵:03/12/26 07:30 ID:nZ7nNp3i
漏れの爺ちゃんは、海兵の78期で針尾
分校。
同期が数千人あって、訓練も生活も大変だったらしい。
上の方の期の人には、粗製濫造の分校の生徒など
後輩と認めないと言う香具師が多いと爺ちゃんは憤ってたけど、
海兵七十期のポーカ派さんもやっぱりそう思いますか。
>>939 初代スレからしてすでに「おまえらのじいさんは一体何人いるんだよ?w」
みたいな発言があることからもわかる通り、別に全員がこのスレの話を
真に受けている訳でもないんだよ。真偽はともかく、先の大戦を戦った
ご当人登場という手法は新鮮だし、まあそう無粋なこといいなさんな。
本当に年配の方がいるとすれば、スレの趣旨どおり"あなたのおじい様の
戦争体験をおしえて"、ということでおじいさんから聞いた日清、日露とか
戊辰戦争(さすがにこれは無理か)くらいの話をお聞きしたいな。