877 :
世界@名無史さん:04/12/01 10:36:39
ていうか、当時の連合国に謝罪と賠償を求めるのが筋だろ?
878 :
世界@名無史さん:04/12/01 19:13:37
白人は今だにアジア人は白人にコントロールされるものって意識があるからな。この先も変わらないだろうけど
くだらん雑談はよせ。スレが汚れる。
880 :
世界@名無史さん :04/12/10 22:33:07
昔、世田谷のガソリンスタンドで東条英機の孫と一緒にアルバイトをした。
「戦犯」で「刑死」なら家族も当然財産没収で一家離散!
と何となく勝手に思いこんでいたのでかなり驚いた覚えがある。自分の不勉強
さと浅い思考が嫌になった。あまり仲良くなかったので話全然聞いてません。
スマン。ちなみにその人のお母さん(娘だね)父親の手記出版してる。
当時の参謀本部事情は高山信武著「参謀本部作戦課」ってのでおぼろげに知った。
例)意見対立!!→先送りか折衷案→貧乏気違い広範囲南方戦線すごく悪化
今とあんま変わらねえ
ちなみに著者の高山と言う人、あの玉音放送の原稿を起案した人らしいです。
では
;
882 :
世界@名無史さん:04/12/16 09:33:22
太平洋戦争のまっただなかでも
軽井沢では東京の超富裕層が
戦時下とは思えないほど優雅に欧米風の生活していたらしい。
>>880 高山大佐が起草したのは陸海軍に与える詔勅で玉音放送ではない
884 :
世界@名無史さん:04/12/17 01:15:43
うちの爺ちゃん元陸軍士官
最近になって戦時中のことを文に纏めてることを知った
読んでみたらすげー面白かった
ついでに兵学校の卒業アルバムも見せてもらった
誰が誰だかわからなかったが
卒業に当たっての一言に
「ワシントン入城しルーズベルトの首を取る」と
書いてあってビックラこいた
いつも温厚な人だったから余計に。
最近某フェスタで日本刀を差して記念撮影した爺ちゃん
昔軍刀つけてた成果一番様になってってかっこよかった。
こんな226の当日の東京のことを生の目で見て記憶してるような時代の人も
年齢的にもうきついんだろうな、とおもうと
そろそろ悪い意味でもう人波乱きそうな気がする
生き字引きみたいなもんだしね。長生きしてください。本当に。
うちの一族で一番まともな人なんです。
885 :
世界@名無史さん:04/12/17 04:47:24
東条英機って滅九族にされなかったのかw
うちの爺さんの兄は南方へ行って
それこそ泥水を飲んで命をつないだらしい。
爺さんは背が小さかったので徴兵の審査に合格せず
茨城と福島の境目あたりの勿来で風船爆弾を作っていたらしい。
小学生のときクラスで
「おじいさんおばあさんの戦争の話」集を
作ったことがある。あれはどこへ行ってしまっただろうか。
近所の住職から昔聞いた話。
戦争も末期だったそうだ。
おそらく1945年の6月の話だったように思う。
あるとき やはりB29の大編隊がやってきて爆撃をしたんだと。
そのとき空襲警報を聞いて、40人ほどの人が
鉄道のガード下のトンネルに逃げ込んだらしい。
ところがその両入り口にひとつずつ爆弾が落ちて
そのトンネルに逃げ込んだ人は全員死んでしまったのだと。
その住職さんのお寺は山にあって、境内のがけに防空壕があったから
空襲警報が鳴ったときたくさんの人たちがそこへ逃げてきたらしい。
爆弾が投下されるとまるで雨のような「ザァーーー」という音が鳴るのだといっていた。
空襲が終わったあと、前述したガード下のトンネルで亡くなった40数名の人が運ばれてきたのだが
(確かうろ覚えだが)体がパンパンに膨れていたのだと。
その話とは別に、空襲の時に、体を守る方法なんてものも教えてもらった。
確か、耳の穴と鼻、口あたりを手でガードし、背中を丸めてお腹をガードするという方法だった。
888 :
悠志郎 ◆Arima/ycuU :04/12/18 05:25:41
私の今年亡くなった祖父がいた部隊の話
フィリピンルソン島の中隊で宣伝部隊
隊長は中尉で明治大学卒の銀行員,二番目は私の祖父で軍属中尉相当官英語の通訳,
副隊長は少尉で旧制専門学校を出たばかりで軍暦無し。 准尉はいなかった…。
下士官トップの曹長は早稲田大理工学部卒の通信技術兵…
こんな部隊に三年間もいてよく生還できたな…
戦闘しろ! って言われても恐らくお荷物だろうな…。
889 :
世界@名無史さん:05/01/06 18:20:33
ほしュ
俺のじいちゃんは満州にいた
終戦後シベリアで抑留された
戦闘の事なんかは何も話してくれなかった
終戦の時は内心ホッとしたが生きて日本へ帰れるとは思ってもみなかったと言ってた
シベリアではとにかく寒さが半端じゃなく便所で用を足すのも命がけだったと言ってた
あと中国人に麻雀を教えてもらったという話も聞いた
朝鮮人のことは「・・・・気難しい連中じゃった」と言ってた
891 :
世界@名無史さん:05/01/26 03:40:06 0
>>890 中国で戦ったおれの親戚も似たようなこといってたよ。
『中国人はそうでもなかったけど、朝鮮人はひねくれた連中だった、付き合いにくかった』
みたいなこと言ってた
892 :
世界史@名無史さん:05/01/26 07:30:36 0
その中国人も共産党の反日政策のおかげでチョン並みに厄介になったね。
893 :
世界@名無史さん:05/01/26 08:35:51 0
中国人はもともとやっかいな存在だったのだよ。
そういう連中だということを知らないで大陸政策をやった結果
今のような反日、反世界人種ができたのだ。
[●]唐突ですが訃報です
[亜細亜の光、日本!]
東京裁判法廷係として四百二十三回もの審理のほとんどを傍聴した
歴史の貴重な証人、冨士信夫元大日本帝国海軍少佐が、
去る二十四日御逝去されました。
謹んで御冥福をお祈り申し上げます。
|||(-_-;)||||||年賀状を戴いたばかりなのに…無念
空母『飛龍』艦爆乗りだったが、ミッドウェイ海戦には発熱のため不参加で生還。
1945年7月30日、神風特攻第三龍虎隊参謀として米駆逐艦等4隻を撃沈撃破する
海軍航空隊最後の大戦果を挙げた閣下に敬礼!
895 :
世界@名無史さん:05/01/31 09:17:16 0
>>890 俺の婆さんも満州帰り。まったく同じこと言ってた。
中国人はのんびりしてて人がいい人間が多かったって懐かしそうに話す。
韓国人に対しては嫌な顔して話すよ。工場の社長の家に集団で殴りこみとか
来てたらしい。
896 :
世界@名無史さん:05/02/01 02:00:48 0
うちの曾祖父(生きていれば108歳)は、
戦後すぐに駅で朝鮮人の集団に殴り殺されました。
朝鮮人が妊婦さんに乱暴しようとしてたのを注意したらしい。
曾祖母(102歳)は今でも曾祖父の写真を眺めて寂しそうにしています。
897 :
世界@名無史さん:05/02/01 04:29:17 0
戦中、 うちのじいさんは満州で零戦を製造していた工場で働いていた。
ある日重慶に滞在していたアメリカ軍の爆撃機が工場を空襲しにきた。
じいいさん達は以前から軍から指導されていた通り、 町一帯につみあげていた廃
タイヤに火をつけて煙幕をはったらしい。爆撃中、ジイサン 達は防空壕の中っで
『煙幕におおわれた工場を爆撃するのは無理だろう』と思ったらしい。が、爆撃
が終わり外に出てみると、 見事に工場だけが破壊されていた。 あとで分かった
のがアメリカ軍はレーダーを持ち合わせていたんだと。 技術力の差を見せつけら
れた戦争だったとさ。
898 :
世界@名無史さん:05/02/06 05:58:01 0
ハルノートは拡大解釈をしても朝鮮、台湾、
南樺太からの撤退は要求していません。
ハルノートを飲めば原爆も何もなかった。
みんな幸せだった。
899 :
(〇m〇)諸君、聴いてくれ:05/02/06 09:46:34 O
太平の平和を破る春の音
多分「満洲飛行機製造株式会社」奉天工場でしょう。
「零戦」は作ってなかったけれど…
当時の外地では最先端の工場で
九五式中練、九七式戦、ニ式高練なんかを生産していたな。
900 :
世界@名無史さん:05/02/06 10:06:53 0
春の音
>>894 亡くなられたか・・・・
確か祖父の義兄弟だったな
祖母と家にも年賀状が来てたよ
904 :
903:05/03/02 16:01:57 0
随分前に祖父から聞いた話によると
海軍兵学校67期の人間はほとんどミッドウェーや特攻で亡くなっていた
この方の結婚式では生き残りの将校など、錚々たる出席者だったとのこと
祖父の親戚は海軍関係が圧倒的に多く
終戦間際に轟沈されたイ号潜水艦の生還者もいる
その方は今も健在で翻訳業をしているらしい
905 :
世界@名無史さん:05/03/02 20:32:36 0
台湾沖で沈没した船に乗ってた人に仲間がたくさんサメに食われたって聞いた
パレンバンで将校の運転手をやっていたらしい
帰ってきて共産党員になったが、なんか嫌になって止めたとか。詳細は知らん
907 :
世界@名無史さん:05/03/04 01:17:49 O
爺ちゃんがなくなった後遺品を整理してたら満州で買った田中絹代のプロマイドがでてきた。それを見ると爺ちゃんも好きな芸能人がいる普通の若者だったんだと思えて微笑ましかった。
908 :
世界@名無史さん:05/03/05 03:40:28 O
俺の爺さんは、志願して海軍・航空隊のパイロット(一式陸攻爆撃機)でした。
任務中、搭載チェック済みの爆弾が背中に落ちて重傷を負ってしまい爺さんは入院して、そのまま終戦を迎えたそうです。
終戦後、国から慰労金らしき保障が貰えたんですが、「部隊が全滅してしまい、自分が生残ってしまっただけでも仲間に申し訳がないのに、とてもそんな物は受け取れる気になれない」と辞退したそうです。
当時の写真を見せて貰った事がありますが、機体の側で、当時20歳前後の爺さんが、白いマフラーに皮のパイロットジャケットと装着の落下傘が印象的でした。
パイロットの訓練は、右手が負傷すれば左手、左手も負傷すれば右足、右足も負傷すれば左足で操縦が出来るようにと、足の指先でハサミが使える様になったぐらいに徹底的に叩き込まれたそうです。
一式陸攻ですか。
「一式ライター」というやつですな。
防御力が低いのを除けば結構優秀なんだけどね…
96陸攻も一式並に航続距離長かったと思うんだけど、一式みたいにインテグラルタンク
では無かったんだよね?
高度な長期訓練を施した人材が、予定外の消耗戦により戦争の序盤で消え去ることについて。
次スレは立つのかねぇ
「ガラスのうさぎ」がアニメ化されるそうな。
日本は島国で海外体験が圧倒的に少ないと言われてますが、
植民地を持っていた時代、そして戦時中は圧倒的な数の人間が
海外に行ったわけですよね?(好むと好まざるとにかかわらず)
今の商用や留学・海外旅行以上の数の人間だったんじゃないでしょうか。
「山村に住んでたが、あの戦争で初めて世界というものに触れたよ」
という人もいたと思います。
その時の体験が国民性や世界観に影響を与えたということは
ないんでしょうか?
植民地や戦争は悪しきものということで、そのような諸々の感情や
感想も封殺されたんでしょうか?
遠戚なんだが戦艦榛名の水兵だった方がいた。
一番印象に残っているのはガ島へ三式弾をブチ込んだときの事だと言ってたな。
デカい打ち上げ花火を何百発かまとめて炸裂したような感じだったと。
なんか戦争じゃなくて派手な花火大会みたいな錯覚してしまったそうだ。
>>918 ほー、伊402も去年五島列島沖で発見されてるよね確か。ソース忘れたけどw
(こちらは『海没処分』だから船体は折れたりしてない筈)
ところで、この場合の艦名って同読むんスか?初心者丸出しで申し訳ないけど(汗
『よんひゃくいち』?『よんまるいち』?
口の重い祖父(昭和二年生・従軍されず)を
酔わせて話を聞いてみた
「物心ついてから、ずっと戦争が続いていたから
戦争がなくなるなんて、考えもしなかった」
平和ボケの自分、結構ショック・・・
921 :
世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/02(土) 12:20:19 0
俺の爺さんが守備してた所では川の向こう側でソビエト兵士が歩いているのが
よく見えたって言ってた。満州だけど
誰か従軍慰安婦について教えてください。
触れてはいけない話題ならスルーして
満州から引き上げて来る人の中には どうしてもそこに子供を置いてこなければならない人もいて
いつか会えたとき自分の子供とわかるように耳の一部を噛み切って残してきた人もいたんだって。
926 :
世界@名無史さん :
うちのじいちゃんの話でも
京都の寺院の末っ子で無類の酒好き、学生時代は浴びるように呑んで道で寝るなんてことは日常茶飯事だった
心臓が弱く徴兵検査で50歳までは生きられないと宣告されたのに合格
友人もベタに醤油一気飲みを敢行するも見事にばれて合格したらしい
何故か諜報関係の部隊(当時の軍制に詳しくないのでスマソ)に配属され旅順へ
祖父いわく食糧事情は良くなかったが飢え死にするほどではなかった
戦場では卑しい奴から死ぬとも言っていた、実際もぬけの空になった中国人の家で月餅を発見し食った食い地のはった同僚が死亡
井戸や残した食料に毒が入れられているのは常識だと
その後戦闘で足を撃ち抜かれ野戦病院ゆき、入院してるうちに終戦し生還
しかし兄弟二人は南方で帰らぬ人に、遺骨も戻ってないらしい
戦後は婿養子に行き税務署の仕事まで世話してもらった、野戦病院で使った薬(『ホルムス』という傷薬)が効くとずっと言ってた
今でも我が家の救急箱の中にはホルムスが
戦争のことはあまり語りたがら無かった
心臓病で入院、術後なかなか麻酔から覚めず夢うつつの世界を彷徨う
どうも若い頃に戻ってたらしく「戦争は嫌だ!」だと叫んだり
見舞いに訪れた親類を憲兵と勘違いして追い返したり、手錠を掛けられたような仕草をしたり
よっぽど戦争が嫌だったらしい、うちの祖父のレベルでこれだから南方に行った人の
苦労は計り知れない
そんな祖父も数年前に数年前に医療ミスで鬼籍に入った
もっと話聞いときゃ良かったと