1 :
皆んな書いてくれ :
02/11/07 14:36 ID:pjZloBgq 良スレなるも1が立ち上げる様子が無いので保全あげ。 釣り師も多いが真実もアリ。心眼で読むべし。 1 :名無し三等兵 :02/06/25 19:16 を書いてくれ。 俺のジーちゃんの内の一人は海軍で南方に行ったそうです。そこでは整備兵で 飛行機の燃料入れをしてたそうだ。直接的戦闘は一度も無い、と。ただ死人はいやと言うほど見たらしい。 一度はアメリカの捕虜をの○○大佐と言う人が目隠しにして首を日本刀で切り落としたらしい。 孫のうちで戦争話をまともに聞くのは俺だけなので喜んで俺に話す。 もう一人のジーちゃんは俺が生まれる前に死んだので知らない。ただ海軍の中佐で勲章とか結構ある。
2 :
2 :02/11/07 14:38 ID:pjZloBgq
>1 乙 前スレ好きでした。
オヤジが生まれる前に満州で死にました
>3はもう前スレにジーちゃんの戦争体験何か書いた?
>5 3だけど、書いたよ。自分のじーちゃんと知人のと2つ。
俺のじいちゃん、徴兵で満州へ。 その兄は海軍所属。 しかし俺は詳しい話しも聞けず、じいちゃん兄弟は他界。 悔やまれる。
3年前死んだジーちゃん 食糧兵として満州へ従軍、例によって手榴弾を池にぶち込んで魚を浮かす訳だが、 同僚が7秒手榴弾を4秒手榴弾と間違えて手の中で爆発、 しばらくして感染症で死んだそーだ。
>8 逆じゃないのか?
ヲイヲイ 何で7秒を4秒と間違えて手のなかで爆発すんだよ 投げて…1秒…ん?……3秒後、ボーンだろ と言ってみる あと、手で持ってる位置で爆発して、しばらく生きてるって… よほど旧軍の手榴弾って粗悪で威力ないな(大W それともよほど運がいいのか(即死できなかったので)悪いのか?
11 :
名無し三等兵 :02/11/07 19:48 ID:OjOhEaag
うちのじいさんの話をばあさんから聞いた。 満州で戦死の連絡が軍から来たけど、戦後にじいさんの戦友という人が 訪ねて来て、実際の戦死地は南方だった。
友人のおじいさんは艦攻乗りだったとか。 詳しい話は聞きませんでしたが 相手の艦が撃ってくる弾道(機銃弾?)がちゃんとみえた、という話が よく耳に残ってます。 アニメとかで赤いスジが宙を舞うのは嘘っぱちだろうと思ってたが・・・ 程度の差はあると思うけど。
爺さんではないがカミさんの叔父さんが熊本出身で台湾の電気学校 を出て通信部隊で大陸を数年転戦してその後南方にも行ったと聞いた。 熊本なので第6師団かと思ったが、本人は南方では海8942部隊(台湾 出身兵の歩兵部隊?)という上陸専門部隊に属し、フィリピンとジャワ・ バリ島上陸の後はオーストラリア上陸作戦に向けてニューギニア方面で 訓練をしていたそうだ。将校(副官 乙)だったので内地に軍事物資の調達 &連絡に帰っていた時に米軍の反撃が始まり、原隊に戻れず部隊は全滅に 近い損害にあったと聞いた。 結婚後、近所に住んでいた関係で2,3度その手の話を伺ったがこちらも 恐縮してあまり突っ込んだ話をしない内にその年の暮れにお亡くなりに なってしまったのがくれぐれも残念。みんなも肉親が生きている内に 出来るだけ話を聞いておいた方が良いです。後悔しない為にも。 ところでこの叔父がいた上陸部隊についてどなたか知っている人はいれば 教えてもらえば幸いです。m(__)m
14 :
名無し三等兵 :02/11/07 20:59 ID:07SWeZSa
父方のおじいさんは、海軍の基地航空艦隊に終戦間際、 鹿屋基地に配属されたときに桜花を懸架した一式陸攻のパイロットとして 出撃したが、離陸直後エンジンの調子が悪くなり引き返して生き残った。 ちなみにそのときの指揮官がかの有名な元第一航空艦隊航空参謀源田実氏で 戦後空自の航空幕僚長や参議院議員になった時はおじいさんもビックリした らしい。
うちのじーちゃんは経歴だけみるとなかなかヒサーンな体験をしたようで あまり戦争の話はしたがりません。 昭和十九年ごろフィリピンへ。 バージー海峡で初手から敵潜水艦に船沈められまくり。 二十数艘に及ぶ船団、約六千名の兵士のうち九死に一生を得たのは僅かに三十五名。 その足でフィリピン上陸。八ヶ月間、深刻な食糧不足で戦死者よりも餓死者続出。 帰ってきてからも極度の栄養失調とマラリア熱で一年間寝込んでいた。 あまりにガリガリだったため、叔母は自分の父親と分からず 恐ろしがって逃げ回るほどだったらしい。 部隊のうち生きて終戦を迎えることができたのは二名だけだったそうな。 私の母は終戦後に生まれたので、私が今ここに居るのも 全くじいちゃんの生命力マンセーって感じです。
16 :
名無し三等兵 :02/11/07 23:32 ID:aQ+7UlhY
うちの爺さんは復員してきたら若い男一人に適齢期の娘がトラックいっぱいの比率だったんで 死ななくてよかった、といつも言っていた。 正直、その比率がとてもうらやましい。
>>13 その叔父が語っていたのだが、突撃の時まっ先に飛び出す将兵は
意外に敵弾には倒れずその後2番手ぐらいにいく者が良くやられたそうだ。
やはり後の方が狙いが付けやすいからか。
映画ではまっ先に飛び出す兵隊は死んでしまうものと相場が決まっていた
のでちょっと意外でした。
>>13 海8942なら歩兵第48師団の台湾歩兵第1連隊ですね。
おそらく師団主力として豪北チモール方面に展開した部隊に
おられたのだと思います。
>>18 おぉ、素晴らしい!この情報を元に自分なりに少し調べてみます。来週
この台湾歩兵第1連隊に所属していた叔父の七回忌なので良い供養になる
と思います。レスありがとうございました。
>豪北チモール方面に展開
そういえばこの叔父が亡くなる数年前上陸できなかった思い出(?)に
叔母とオーストラリア旅行に行った事が思い出されます。彼も未上陸が
心残りだったのでそれを取払いに行ったのでしょうか。
>12 敵の艦から機関銃(砲)なら、4発とか6発に1発は曳光弾と言って 尻から火を吐く玉が打ち出されるんだよ、弾道が分かるようにね じーちゃんではないが、戦闘機乗りの方に聞いたが、ピンク色の アイスキャンデーのように飛んでくるそうだ 雷電に乗ってB29を迎撃したときは、敵の12.7ミリの砲火(ピンク色)が 自分の眉間に向かって飛んでくるように見えるそうだ そして次の瞬間自機の左右にサーッと流れていく 眉間に向かってくるのが逸れないって分かった瞬間が死ぬときだ って言ってたな おいらも大学時代射撃部で、曳光弾撃ったことあるよ 小銃弾でも晴れた日には、弾に太陽光線が反射して ピッと銀色の筋が見えるそうだ(これは父の話)
私の祖父は岡山の工兵連隊です。支那事変の時に徴収され、生きて帰ってきたかと思えば、二度目の徴兵にあい(連隊は一緒)今度はラバウルにいったそうだ。敵の爆撃で壊れた施設の復旧は大変だったらしい。
(つづき) 配置は前部主砲の横辺りにある銃座の機銃員だったそうです。 海防艦とは打って変わって厳しい毎日だったそうですが、「これぞ海軍」と 思ったそうです。 さてやがて4月を迎えます。沖縄に米軍が上陸します。みなさんご存知の通り 天一号作戦が発動されます。上官の話では「沖縄に来襲した米艦隊を撃滅する」という 事なので、ジーちゃんも含め、みなヤル気満々だったそうです。 水上特攻という話はまったく無く、悲壮感は皆無だったそうです。 そうしてジーちゃんを乗せた「矢矧」は「大和」や2水戦駆逐艦と共に徳山を出撃しました。 「大和」はたしかに大きなフネでしたが、海防艦時代から見慣れていたので、「矢矧」ほどの インパクトは無かったそうです。 さて天一号作戦の経過はみなさんご存知なので詳述しません。一水兵の立場では作戦の 流れを知る術はありませんでした。 ジーちゃんはとにかく戦闘配置下令により持ち場である銃座に就き、指揮官の命令通り 雲霞のごとく群がる米艦載機に対して25ミリ機銃を撃ちまくったそうです。 いちばん恐ろしかったのは敵機の攻撃よりも間近で発砲する主砲の爆風だったそうです。 正規では主砲発砲時は警報ブザーが鳴るはずでしたが、その日はブザー無しで発砲する 事が多かったそうです。機銃指揮官が真っ赤な顔で「艦橋は俺達を殺す気か!」と 怒鳴っていたのが、印象的だったそうです。 ジーちゃんは戦闘中の「大和」やその他水上特攻隊諸艦の姿は覚えていないそうです。 とにかく機銃を撃つのに夢中だったそうです。機銃が過熱のためしばし作動不良になった そうです。撃てなくなると急に心細くなったそうです。 やがて「矢矧」は爆弾や魚雷を受け始めました。そのたびに爆風や衝撃に襲われ、 生きた心地がしなかったそうです。しかし興奮し、無我夢中だったので、あまり 怖くはなかったそうです。
22は誤爆です スマン
24 :
名無し三等兵 :02/11/08 13:36 ID:kewON0Cm
俺の母方のジーサン潜水艦のボイラー士としてウラジオあたりに配属されてた んで米軍の雷撃機に撃沈されたんだって、そん時はまだ全員脱出して 海に浮かんでたんだけどねその後に来た雷撃機の機銃掃射で 半数殺されたんだって、ジーサンは運良く生き残ったらしいけど でも胃がんであっけなく死んだけど 父方のジーサンは俺が生まれる前に心臓病で死んだけど 軍医で士官だったらしい
25 :
名無し三等兵 :02/11/09 08:56 ID:EbttxVxn
age
消防のときミリタリーブームでプラモをよく作った。日本ものでは戦闘機・戦艦をたくさん作り ドイツは戦車を棚の上に並べて悦に浸っていた。ある日遠方から爺さんが来てそれを見て「おお、戦車好きか。 日本のはどれだ?」と聞かれたので松本零士の戦場漫画シリーズから知った日本戦車の弱さを3分ほど 聞かせ、「そんなボロいのいらない」と締めくくると「そうか、そうか」と言いながら笑っていた。 数年後爺さんの葬式の席で戦友だった方から戦車兵だったことを聞き、95式の隣にたたずんでいる 爺さんの写真を見たとき戦争に行ってたことすら知らなかった自分の情けなさに涙が出た。
27 :
名無し三等兵 :02/11/10 12:19 ID:UVoCEmFB
保全あげ。
俺の爺さんは出撃直前に終戦だったらしいが爺さんの兄さんは戦死したんだって。
詳しく訊きたいけど訊いていいのかな・・・・
>>26 ナケタ・・・合掌。
俺のおじいちゃんは肩に銃弾が入っていました。
>29 ご当人がしゃべりたくないというのなら仕方ないと思うが、 もし、まだ一度も直接話を聴いてないというのであれば、話をふって 反応をうかがってみれば。
32 :
名無し三等兵 :02/11/12 01:21 ID:3JN5FX+6
うちの7年前に死んだじいちゃんは満州で特高だったみたいです。 それ以上の話になると話題を変えていました。 戦後、中国人のフリして船に乗って帰ってきたといってた。
33 :
名無し三等兵 :02/11/12 01:25 ID:oSRL+Bqe
爺さんの弟は(つまり親父の叔父)、習志野の戦車2連隊で、 中国の徐州?で戦死したらしいが、昭和14年ごろ?、これって、 戦死的にどうよ?
34 :
名無し三等兵 :02/11/12 01:29 ID:oSRL+Bqe
戦死的 → 戦史的 すまそ
>26 エエ話や...
36 :
名無し三等兵 :02/11/12 21:35 ID:303g9jT0
自慰ちゃんは戦争行く前の訓練で自爆して死んだそうです
37 :
名無し三等兵 :02/11/12 23:05 ID:kEG+equd
特高age
38 :
名無し三等兵 :02/11/12 23:26 ID:4hvmIu+D
>>26 オレも泣いた。
なんか靖国に御参りしたくなってきた。
合掌。
俺の爺ちゃんは東條英機と言っても信じてくれる奴はゼロ。 確かに、俺の先祖は織田信長。 と言ってる坊主なみに信憑性が無いが。
>39 東条英機(とうじょう・ひでき) 1884〜1948 あなた、いくつだよ…
41 :
名無し三等兵 :02/11/13 11:26 ID:5+1JM7dC
>40 ワラタ。
>42 年寄り2ちゃんねらーハケーン
いーじゃねーか別にw
45 :
名無し三等兵 :02/11/14 04:18 ID:l85vF/LU
明治末生まれのうちのジーちゃんは、 満州事変直前に軍隊に入って、事変後に 一度内地に帰って来て、その後、満鉄職員になって 満州で結婚して、うちの親父たちが生まれたらしい。 戦時中は兵隊じゃなかったらしいけど、 よく馬賊と戦闘みたいなことになって、同僚とか現地住民と 逃げたり戦ったりしたって聞いた。 夜、どこかの倉庫に、命からがら逃げ込んで、大勢の人が 寝てるので、そこで寝ることにして、翌朝目覚めたら、それが 全部死体だったってこともあったって聞いた。 いつ、どこでかは知らないけど、手の甲とかに、銃弾?の破片か 何かの鉄片(鉛片?)が埋まったままなのを見せて貰ったことも ある。そういう断片的なエピソードしか聞いたことない。 満鉄の同窓会みたいなのに、全国から集まりがある時には いつも出向くけど、さすがにどんどん減っていくって言ってた。 うちのジーちゃん、もう90歳をこえてる。まだ元気。 今度、もっと若い頃の話を聞かせて貰いに、ジーちゃんに 会いに行きたいと思う。
46 :
名無し三等兵 :02/11/14 05:24 ID:XLU2GuI5
父方のじーちゃんは多分明治末生まれで、2回兵隊に行っていると聞いた。 1回目は父がごく小さかった頃(父は昭和13年生まれ)で、 どこに行ったかは知らない。 2回目は戦争末期に南方に行っていて随分してから復員したらしい。 南方といってもどこだかわからないが、全滅に近かったらしい。 ウチは東京だが、じーさんの本籍は新潟県だったはず、どの部隊だったのか。 元々、小柄で気弱な人だったらしいが、帰ってきてからは いわゆる南方ボケというのでずっと働けなくて、祖母が家族を養っていた。 父が高校生のころ(昭和30年ごろ)、祖父母は事実上離婚した。 というか、祖父がウチから出て行ってしまったらしい。 その後はプラプラとして、こっそり子供たちにタカっていたりしたらしい。 祖父は昭和50年代末に亡くなったが、 その後、祖母には恩給の遺族年金?が支払われていたので 戸籍はそのままだったというのがわかった。 祖母は祖父の恩給には一切手をつけず、手続きは子供任せにしていた。 祖父は平均寿命くらいは生き長らえていたので、病気がちではなかったが、 南方ボケというのは今でいうPTSDのようなものだったのだろうか。 我が家では祖父のことを聞くのはタブーだったので、 葬式のときに初めて顔を知ったくらいだった。 実際には、自分が小さい頃に会ってるらしいが、覚えているわけはない。
>46当然、太平洋戦争に従軍した兵士にも戦後PTSDの問題は起きた のでしょう。ただ当時はそういう名称が無かったりや認識不足で かなりほったらかしにされて相当の人々が苦しんだのでしょう。
48 :
名無し三等兵 :02/11/14 20:26 ID:qZxYHPT/
>>26 私も今読んで泣きました。お祖父様のご冥福をお祈りします。
立派なお祖父様に負けないよう、良い人生を送ってください。
49 :
名無し三等兵 :02/11/14 22:15 ID:1vQujypG
うちのじいさんは日中、太平洋戦争ともに参加したそうです。 日中戦争では決死隊に志願して、爆弾背負って橋を爆破しにいったそうです。 橋は重要拠点ですから文字通り、雨のような弾が飛んできたそうです。 「成功したの?」と聞いたら「今、生きてるのが証拠だ」と言ってました。 かなり格好よかったです。 その後上官に「下士官にならんか?」と言われた祖父は勉強を始めました。 なにしろ東北の農村出身の祖父は学がなかったそうで、トイレで勉強したと 言ってました。アンモニアの刺激臭によって、眠らないようにしたそうです。 また、目の前に針を置いて、頭が下がったら刺さるようにしていたそうです。 下士官となった祖父は後に人事の仕事を任されました。徴兵された兵士の 審査などをしていたそうです。 その後の太平洋戦争では南方作戦に参加してビルマに行って来たそうです。 高床式の家を見て感心したと言ってました。このへんの事はあまり詳しく 聞いてないんでわからないんですが、太平洋戦争初期から転戦していたそうです。 戦争が終わったときには、故郷の同期の兵はほとんど死んでしまったそうです。 祖父は一度も戦争反対とか賛成などとは言ったことがありませんでした。 ただ「しかたない時が世の中にある」とだけ聞きました。 私にはよくわからないんですが戦功もすごかったそうで、決死隊の時にもらった 勲章等を見せてもらいました。後、恩給もかなりもらっています。住んでいる 地区で一番もらっていると聞きました。現在、年金と恩給を両方もらっています。 祖父の話を聞いていると旧日本軍が完全悪とは思えませんでした。子供の頃から。
50 :
名無し三等兵 :02/11/14 23:19 ID:53t6LkDf
>>ただ「しかたない時が世の中にある」とだけ聞きました。 ぐっときたよ。なかなかこんなこと言えないよ。 今のうちにもっと話を聞いてたほう良いかもね。
>>50 そうそう。
年齢から考えると今年の正月を越せるか分からないからね。
俺のタロット占いによると来年が怪しい。
生年月日が分かれば正確な結果が出せるが。
52 :
名無し三等兵 :02/11/15 13:41 ID:jR5IXvBX
ホント日本だけじゃなくドイツもやばい。向こうでも聞き取り調査をやっている 戦史家なんかもいるんだろうか?戦車乗りのオットー・カリウスみたいに ヨーロッパの人達は結構自分から体験談を本に書いてたりするが。
53 :
名無し三等兵 :02/11/15 21:59 ID:InAZGejH
俺のジーちゃんの親戚が、東条に頭なでられた結構感動したらしい その父が、占守で、97改に乗ってたそうだ
54 :
45 :02/11/15 22:11 ID:9rk+abn+
うちのジーちゃんは、結婚前の満州時代からずっと 日記というか自分史のような手記を書き続けてる。 個人的には、それがあっても、やっぱり機会のあるうちに (ジーちゃんの口から直接聞ける間に)もっと聞きたいこと 聞いてみようと思う。 大正時代の日本の雰囲気とか、今はなくなってしまった 満州はどういう社会だったのか、とか。貴重だと思うし。 あと、満州生まれの親父が、自分の親であるジーちゃんの 若い頃の話をあんまり知らないってのも危機感があって、 俺はまだ結婚もしてないけど、生きてるうちに聞けるだけ 聞いておかないとなぁと思う。
55 :
名無し三等兵 :02/11/15 22:46 ID:9Fl46cM5
じいさんは長男で召集令状はこなかったが、そのかわりじいさんの弟にきた。 20年8月14日志布志湾で米軍の機銃掃射でしんだらしい。 まだじいさんが生きていた頃は仏壇に弟の写真を飾っていた。 ばあさんの写真はその横にあったな。 なぜばあさんの写真を真ん中にしないのかとガキのころじいさんに 聞いたみたいなんだが(記憶にない)、じいさんはただ笑ってるだけだったらしい。
56 :
名無し三等兵 :02/11/16 21:50 ID:9N1HsIsb
age
57 :
名無し三等兵 :02/11/17 19:26 ID:Ob1kHKoP
age
うちのじいさんは、スパイ(情報将校)だったらしいけど 詳しいことは、職業柄か親や嫁さん(俺の婆さん)にも何も言わなかったそうだ。 中国から軍艦でどっかに移動する途中撃沈されたらしい。 結局、墓には遺体がない状態。(事前に家に残していった爪と髪の毛が入っているらしいが)
59 :
名無し三等兵 :02/11/18 02:47 ID:y1HVy87G
俺のジーちゃん元海軍で、山本五十六と会ったことがあるらしい。 メチャきんちょーしたそうだ。w あとちょっとのとこで大和に乗りそうだったんだって、 なんか他の命令受けて乗らずに済んだらしい。 ・・・もし乗ってたら俺生まれてなかったよ。 厨房の頃ジーちゃんに軍での履歴書と 軍にいた頃に貰った賞状見せてもらった事あるけど そんときゃ、履歴が8月15日以降にもあった事に驚いたな。 ・・・無知ですまんかった。 あと、昔の賞状って結構ぼろっちいなとか思ったっけ。 しかも工房の頃にサヨ教師の言う事鵜呑みにしてたよ。 ・・・ホントにすまんかった。 今度田舎に帰ったらまた見せてもらおうと思う、 それまでにはもっと勉強しとかなきゃな。
>>しかも工房の頃にサヨ教師の言う事鵜呑みにしてたよ。 祖父祖母や親に戦争体験を聞こうとか、小中高でそういう授業なかったのか?
俺の爺さんは駆逐艦(恐らく二等駆逐艦)に乗って戦ってたらしい。 正直、あまり話したことも無く、小さい頃に聞いた話も忘れてしまったのだが、 爺ちゃん子だったせいか、消防の頃から旧軍に悪感情は無かった。 そんな爺さんも片方が逝ってしまわれた。 まだ聞きたいことが沢山あったんだが・・・・・・ 余談で済まないが、俺の家族は両親が血液型両方A型、 他の三人の兄弟もA型。俺だけはO型。そして祖父がO型。 変な奴と聞き流してもらって構わないが、 俺は爺さんの血が、 海軍軍人の血が体に流れていると常々思っている。 ・・・まあ、大袈裟な奴と笑ってくれ。
age
ひいじいさん 三笠で日本会海戦に戦ってたって じいさんが言ってた どっちももういないけど ほんとかどうか知らんけどな
64 :
名無し三等兵 :02/11/18 10:00 ID:SPWiiqAw
地元の小学校の教諭。少国民としての基本的な精神を子供等に叩き込んでいたそうな。 で、GHQが来たら民主主義万歳。ソ連に占領されても適応できるつもりだと言ってた。
66 :
名無し三等兵 :02/11/18 14:53 ID:QDRm4/WH
前スレで葉書に絵を描いてるジーちゃんのことを書いた者ですが。 先日、晩年ジーちゃんが暮らした別荘に行く機会があり、そこに 例の葉書があったので色々と見直してみました。 全部で6通ほど存在し、出だしはいつも「無事でやっております」で 2,3通目辺りから「予てより上司にお願いしていた水彩の道具を貰い、 早速描いてみました」と果物の絵が描かれ始め、戦局も進むと また文字のみになり「戦局を思うにつけ東京の方も心配でなりません」と 戦地から内地を心配する件も。 1通の葉書に「スマトラ派遣隊富3802部隊ト隊」(数字はうろ覚え) と書いてあったのですがこの部隊についてご存知の方は居ますでしょうか?
67 :
名無し三等兵 :02/11/18 15:37 ID:Om9QKuRJ
うちのじーちゃんも整備兵で、トラック諸島方面行ってたって いっていたな、まぁ詳しいことはわからんけど 今でも当時の航空機や軍服大好きで、ゼロ戦のパーツや B29の無線機色々あるよ(w 元鉄工所なんで、軍刀とか勝手に作っているし(;・∀・) ヤフオクで売れねぇかな?
>67 羨ますい>零戦のパーツとか まだご存命のようですね? いろいろ話を聞いてみてくださいな
うちのじーちゃんは衛生兵で満州行ってたそうな。 頭もいじったことあるって行ってたな… 終戦後、腕をかわれてロシアの手伝いをしてたらしい。(じーちゃんの葬式のとき友人が行っていた) 昭和23年に帰国したそうだ。
70 :
67 :02/11/18 19:05 ID:Om9QKuRJ
>>68 今度実家に帰ったら聞いておきます
覚えているのは、ゼロ戦のと思われるプロペラとエンジンパーツ(シリンダーかな?)
B29の無線機に関しては完動品だと覚えています。
倉庫に色々あるんですが、絶対戦友以外は立ち入り禁止!という徹底ぶりです。
単なるマニアですけど。
うちのじーちゃんは近衛兵で、ずーっと穴掘ってたらしい。 勇ましい話なんかなーんにもねぇよ! 今はボケてるし赤旗とってるし…
>69 それってシベリア抑留っていうんじゃ…。
73 :
名無し三等兵 :02/11/18 20:45 ID:AvV+QAFo
うちのじーちゃん・・・ではなく親父(昭和11年生まれ)の話の上、 従軍経験でないので恐縮だが・・・ うちの親父は中国山地(山口県)の、ど田舎育ちなので空襲で恐ろしい思いと言うのも あまり無かったようだ。 ただ、爆撃機があまった焼夷弾を捨てて行ったりしたようで、 ガキだった親父は金槌でどついて遊んでいたらしい。 で他にも、銀色のテープ状の固まりが空から降ってきた。 これはいわゆるチャフなの? でも当時この地域に大したレーダーが無かったので意味なしだったとか言っていた。 この銀色テープですが、地元の農家では田んぼの回りに張って、スズメ避けに使ったそうな。 これに類するものが未だに農業資材屋で売っているけど、もともとは この米軍が落としたものを流用したのが起源なのかなあ。 誰かご存じでしたら教えて下さい。
>>66 多分、富3802部隊じゃなく宮3802部隊で、
スマトラ派遣の近衛歩兵第3連隊。
ト隊というのはイロハニで考えれば第7中隊と思われ。
75 :
名無し三等兵 :02/11/18 21:14 ID:Om9QKuRJ
よく考えたら、家の実家糞田舎なのに飛行場があったらしいな 京都北部の山奥に・・・。
76 :
59 :02/11/18 22:05 ID:???
>>60 ん〜そういう授業は記憶にないです。
あと、あんまり詳しく聞いたわけじゃないから、
サヨ教師の言ってる事のおかしな点に気付かなかったです。
>>69 俺のもう片方のジーちゃんもシベリアに行ってた。
77 :
名無し三等兵 :02/11/19 03:34 ID:bZg+wGkd
>>55 俺、中学まで志布志湾岸で暮らしてました。
78 :
名無し三等兵 :02/11/19 09:00 ID:0uafnvbT
>>67 近所の数年前に亡くなった鉄工所のじーちゃんも
昔隼鷹の艦載機の整備兵だったもんで
ゼロ戦の補修用の外板とか持ってた。
適当に貼り付けてボルトに電気を流すと、ボルトの裏の火薬が
飛んでくっ付くって仕組みだと聞いたけど。
79 :
66 :02/11/19 11:28 ID:P72Fj5DM
>74氏 情報どうもです! なるほど、でも確かに「富」だったような・・・ 自分でも色々ググって見た結果、スマトラに行った第25軍を 「富」と呼称していたみたいなんでそっちの方を書いていたのかも しれないですね。 ト隊で第7中隊ですか。おぉなんか細かい所まで段々と判明してきた・・・。 引き続きスマトラ情報お待ちしてます。 って専用スレみたいなのあるのかな?
80 :
紫暗号 :02/11/19 14:46 ID:EMTEeZeS
俺のじいちゃん(母方)、沖縄慶良間諸島出身。家族、親類全員自決・・・1人だけ生還、あまり話したがらない。
土曜日は以前書き込んだ海8942部隊にいた叔父の7回忌なので、このスレの
おかげで判明した48師団の部隊歴をプリントアウトして仏前に供えるつもりです。
>>18 さん、どうも情報有難うございます。
昭和20年1月に祖父は満州へ渡りました 19年にうけた兵隊検査も超ド近眼だったため丁扱いだったにもかかわらず赤紙がきたとの事でした 祖母が覚えている限りでは、陸軍歩兵富山48連隊?(詳細は不明)に属し、終戦の年の11月、 シナから朝鮮経由の引き上げ船で帰ってきたらしいです しかし祖父は死ぬまで一切、戦地での様子は口にしませんでした 祖父の事でとても印象に残っているのはまだ私が小さい頃、祖父の隣で寝ていると突然大声で 「おーーーい!!! おぉーーーーい!!!」 と夢にうなされとても大きな声で叫ぶ事が多々ありました びっくりして飛び起きた私は祖母のところに行き、祖父の様子を話すと、 「戦争の夢をみて叫んでるだけだから、びっくりしなくてもいいよ おじいちゃんは眠っているだけだから」 と、話してくれたました 昨年祖父の法事があり、あの頃の話を祖母に聞いてみると、祖母は遠い目をしながら 「戦争で何度も殺されそうになって、敵兵も殺して、戦友が殺されてきたのを見ているからね メガネはしてたけどとにかく目が悪かった、その分怖がりだったからよっぽど恐ろしい思いをしたんだろうよ あの叫び声も、戦中遠くに見える友軍に必死の思いで呼び叫んだのか、死んでいく戦友にむかって泣き叫んでいたのか・・・」 と声を震わせていました あー うるうるしてきちゃった 乱文スマソ
>>67 >>70 カコイイ! 立入禁止の部屋があって軍刀を作ってるなんてところに萌えました。
まあ私だって自分の部屋は立入禁止にしてますけど。ええ、Hビデオで一杯なんです(w
>>82 きっと強烈な体験だったのでしょうね。本当にお気の毒に思います。
あの世で安らかに眠られるようご冥福をお祈りします。
軍事板を覗く事さえ滅多にしない者ですが。 皆、お爺さんの話をしてるんだなあ。(そういうスレなのだが) 俺、歳を感じるよ。ひい爺様が日露従軍、親父は太平洋戦争、 お袋は満州育ち。よく俺がこの世に生まれたもんです。 俺も自衛隊上がりとはつくづく軍隊に縁が…(w。 親父も俺も戦争について余り突っ込んだ話をしないけれど、 「革の半長靴でなくズック靴が支給されて『ああ、日本はもう 駄目なのだな。』と感じた」事、「仏さんを焼く臭い」の事、 「戦争なんて言っても『グラマン』の機銃掃射から逃げ回る ばかりの毎日だった」事、いくつか生々しい話が記憶に残って います。 (余談だが、戦中派の人は対地攻撃する単座機を一括りに 『グラマン』と呼ぶ事がある。アフガン紛争中ゲリラたちが 対地攻撃するヘリを全部『ハインド』と呼んで忌み嫌ったのと 同じ気持ちが込められている気がしてならない。) ブッシュさんもフセインさんもグッとこらえてくれよ。 頼むぜ、大統領。
85 :
名無し三等兵 :02/11/19 23:07 ID:KvMKZJfg
>>75 京都に代替飛行場があったということかな?
当時近くに基地があった?
おいらの鹿児島は大隅半島に海軍の、
薩摩半島に陸軍の代替飛行場がたくさんあった。
小泉そーリーの実父は陸軍の代替飛行場の近くの教師
で、教え子がそこから南方へ飛んでったと聞いたことがある。
こちらのスレ初めて見たんですが.... 不覚にも涙してしまいました。。。
87 :
名無し三等兵 :02/11/20 04:27 ID:G+M3zl9o
88 :
名無し三等兵 :02/11/20 06:09 ID:aspP91dO
じいさんは震洋に乗って明日出撃、ってとこで戦争が終わったらしい……が! 実際そんなうまいタイミングってありえるのかな?
すいません、個人的なこと喋らせてください。 うちの爺さんは陸戦隊の高射砲下士官だったらしいのですが、 フィリピンのガンギボットというところで死んだと半分ぼけた婆ちゃんから聞きました。 しかし親父を含めてうちの家族は当時の日本を悪くいうばかりで 親父などは平気で 「アメリカに負けて良かったんだ」などという言葉を吐く始末です。 こういう事が原因で今は絶好状態・・・。 このままでは爺さんが浮かばれないので なんとか所属した師団の戦歴や、うちの爺さんの軍歴を調べたいのですが、 どこが適当でしょうか?詳しい方どうかご教授下さい。
父方のじいちゃん 東北大学出の海軍少尉。 実戦には参加せず、日本で戦闘機製造の指導をしてた。 戦後、その時に持っていた日本刀(サーベル?)を供出せず今も自宅に保管している。 …違法な気がする。。 存命。70歳頃。 母方のじいちゃん。 早稲田大学出の陸軍軍曹。 中国に渡り実戦参加。 食料が乏しかった。ただニラだけは大量にあったので、毎日の食事がニラだったとのこと。 そのせいで今、ニラ嫌いになってる。 存命。85歳頃。
消防のころ学校の宿題でじーちゃんの戦争話を聞いた。 父方の爺さんはビルマの方へ。 マラリアにかかって死にそうになったが煙草を使わずに持っていたため現地の人に薬と換えてもらったと言っていた。 インパール作線の直前に負傷して帰国。耳の後ろ(というかほぼ頭・・よく生きてたな)と足の銃創を見せてもらいました。 ちなみに爺さんの部隊は全滅したとな。 運いいよなぁ。死んでたら自分いないけど。 後から親父に聞いたんだけど銃の名手だったそうです。 母方の爺さんは満州。 銃がとにかく下手っぴでよく上官に殴られたそうな。 できることないので馬のって伝令してたみたいです。 何せ消防だったので状況はよくわからないんだけど味方の大砲に足踏まれて負傷帰国したとか。 なんか微妙に格好悪いが、おかげで死なずに済んだとも言えるし・・・ 両方とも死んじゃったからもう詳しい話が聞けない。 もっと聞いとくんだったなぁ。いまさら後悔だよ。
>89 徴兵の場合だと、本籍地の教育委員会とかに聞けば、大戦時の資料が あると思います。 でも海軍陸戦隊だったら、志願兵ですかね。 防衛庁防衛研究所戦史編纂室か、厚生労働省社会・援護局辺りかな。 遺族年金とかを貰っているのなら、その書類を手がかりに探すことが可能 かもしれない。 何処の部隊か、部隊名が分かれば、厚生労働省辺りで戦友会を紹介して 貰えるかも知れない。 ただ、戦友会は年々高齢化が進んで解散するところも少なくないけど…。
93 :
名無し三等兵 :02/11/20 10:32 ID:KQLUAFNE
>89 「フィリピンのガンギボット」とありますが、レイテ島にあるカンキポット 山のことでしょうか。カンキポットはレイテ戦で米軍に追い詰められた 第35軍が最後に立て籠もった場所ですね。山岡壮八の「小説太平洋戦争」に 出てきましたよ(ちなみに山岡壮八歴史文庫版なら第6巻255ページ以下参 照。)
>>92 (眠い人さん
良いこと聞きました。
早速逝ってきます!!
>>93 さん
早速その本買います。
貴重な情報ありがとう・・・。
しかし妙な話だ・・・
団塊の世代が死んだ爺さん達に感謝せず、馬鹿にし
戦争で死んだ人達は何も語れない・・。
なんか涙が出てきてしまったよ。
>>88 震洋艇は決戦特攻兵器としてかなりの数の部隊、機材が訓練中待機のまま終戦を
さ迎えています。国外では朝鮮、台湾、海南島、香港、シンガポール、国内では
小笠原諸島、琉球諸島、鹿児島、佐世保、唐津、小名浜、須崎、勝浦、油壺等多数。
木俣次郎著 『日本特攻艇戦史』の巻末表に出撃待ち部隊名が有ります。
とはいえ全く無事だった訳でもなく高知県須崎にあった第128震洋部隊が終戦直後に
起きた大爆発事故で137名の将兵が不慮の事故死を遂げている。鹿児島でも起きた。。
終戦時に震洋は2,150隻、陸軍の四式連絡艇“丸レ”は400隻残っていたそうです。
米軍は特攻ボートの攻撃を恐れて戦後まっ先に残存部隊資料の提出を求め、徹底的に
機材を破壊したたとの事。戦後迂闊に湾内で特攻ボートを連絡艇がわりに旧海軍の
人間が使った時、知らずにあわてた米軍が発砲した事件が在ったとも聞く。
>>88 続き
終戦前日では無いが、直後の8月17日に伊豆の第140震洋隊が出動命令を受け発進したが
敵影を見つけられずに戻ったという記録は在ります。ただ16日に出撃予定の部隊が
在った事は判りませんが、可能性は在ったと思います。おじいさんは何処の基地にいたか
一度聞いてみて下さい。3月末の靖国での震洋会には毎年出席されてますか?
>94 それがいわゆる団塊の世代と言う奴です。 戦中を生き残った人々が必死に築き上げた高度成長の中で革命ごっこに 現を抜かし、世間の中心となったバブル前に故人の遺産をぶち壊しにした上、 現在は老害として改革を邪魔する連中。もっとも恥ずべき世代なわけで。
私の父方の祖父。昭和19年9月に徴兵され陸軍歩兵になりました。 軽機関銃手に任命されましたが、軽機どころか小銃も無い部隊でした。 水筒は竹製。銃剣も竹製(竹刀?) 種子島の守備隊に配属され、毎日塹壕を掘っていたそうです。 サイズが小さすぎる編上靴をはいていたために今も足の爪が変形した まま直りません。 物資不足で軍服は冬服・夏服それぞれ1枚きり。1シーズン中、上着は洗濯も 出来ません。下着は何枚かあったから、下着だけ着替えたそうです。 でも、部隊自体は良いところで皆と仲良くやっていて、戦争が終わらなければ もっと軍隊にいたかったと言っています。 実戦には参加していません。 終戦後、昭和20年8月末に山陽本線にのって岡山県の実家に帰っている時、 広島も通りましたが、その時すでに線路は通行可能になっていたそうです。 線路はすぐに直したのかな?
>>97 加えて道徳心も自制心も失った餓鬼共も。
あの戦争を美化しようとも正当化しようとも思わないけれど、
死んでいった人達や必死で生き延びた人達が、
そんなにまでして守ろうとした国がこんな国になってしまって
良かったんだろうか。複雑。
>>94 大岡昇平の『レイテ戦記』上中下巻(中央公論新社 ISBN:4122001323,4122001412,4122001528)を薦めます。
文庫本で約1500ページあり文章も読み易いとは言えませんが、それ相応のボリュームがあります。
但し、個人の行動までを特定することは難しいので、レイテ戦の全容が分かると言うところが限界かと思います。
祖父殿が海軍陸戦隊だとするならば、海軍飛行場の守備兵であった可能性が高いと思います。
また陸軍も野戦高射砲大隊を投入したようなので、そちらに所属していたのかも知れません。
>>98 国鉄は数日で復旧した筈です。
>>99 日本は所謂経済戦争で負けたと言う事でしょう。
どうしてこうなったのか?と言うのは敗者共通の感覚だと思います。
また勝つ様に努力するしかないと思います。但し過去の方法論では勝者には勝てないので闇雲に努力すれば良いと言う訳には行かないのが難しいところです。
101 :
名無し三等兵 :02/11/20 15:20 ID:wn1iwfJr
日本の場合 郷土ごとに原隊決まってたから足取りがわかるようなHPないかな ちなみに祖父 レイテ近辺で足撃たれて負傷 内地送還組みでした
私の父方の祖父は満州にいたことがあったらしいのですが、 露助が来て、インク瓶のインクを飲み物かと思って飲んだとか、 露助は数が数えられず、1・2・たくさんだったとか生前言っておりました。
103 :
名無し三等兵 :02/11/20 16:01 ID:RSPHvW+z
戦争中の写真がアルバムにあり、見てみると 南朝鮮で戦友と肩組んでおりました。
>>88 俺の爺さん(父方)もそんな感じ。特攻隊員を乗せる電車の中で終戦だと。
ホントかなぁ。
105 :
名無し三等兵 :02/11/20 18:25 ID:yZnCYatw
母方の祖父の方はひたすら農業を続けていました。戦争中のある日、 自分の弟と話していて「日本は戦争に負けるぞ。」と言うと、弟は「 そんなこと言うと憲兵に言うぞ。」と言って怒ったそうです。終戦後、 弟は兄のところに謝りに行ったそうです。(本当は仲の良い姉弟なので す。) 父方の曽祖父。岡山県水島の工業地帯が米軍に爆撃されているとき、数 十キロ離れた農村部でも皆防空壕に避難していたのですが、 曽祖父はのんびり歩いて防空壕に向かいました。先に避難していた祖母 が「早う来られえ!」と防空壕の入り口から必死の形相で手招きしてい ます。曽祖父は「こんな田舎をわざわざ爆撃したりするもんか。」と平気 な顔・・・ >>100 レスありがとうございます。わずか数日ですか。線路の被 害は少なく済んだんでしょうか。何にしてもあの状況下で短期間のうち に復旧させたのはすごいです。
106 :
名無し三等兵 :02/11/20 19:38 ID:HnVpO2Yh
8年前に死んだジーちゃんがよく言ってた経験談なんだが、 戦場にジーちゃんを含め数名が取り残されて、隠れてたんだけど、 飛行機から遠慮なく撃ってくるんだって。 で、そのうち一人が壁から顔を出して覗いたら、その瞬間に顔面蜂の巣になった らしいです。こわいっすね。 戦場にいたのはそれだけで、 後は死体の掃除とか専門にやらされてたらしいです。終わり。
107 :
名無し三等兵 :02/11/21 02:13 ID:nfrp4/4g
俺の大好きだったじいちゃんが今年亡くなった。じいちゃんはシナ事変で出征。いつ も武漢三鎮言ってたな。3年行ってたけど最前線は三倍に換算されるらしく恩給は9年 行ってたことになってるんだってさ。ホントかな。クリークから立ち上がった瞬間胸 撃ち抜かれた慶応卒の上官がじいちゃんの横で死の間際に「お母さん、お母さん」 って呟きながら死んでいったそう。人は死ぬときは「天皇陛下バンザイなんて言わな い」が口癖だったな(サヨクじゃないよ)。悲惨な体験よりも初めて目にする大陸の文 化や仲良くなった中国人の話をよくしてた。終戦間際の20年6月に召集された時はも う生きて帰ってこれないと思ったらしく娘(母ちゃん)を抱いてぽろぽろ涙を流して 泣いたそうだ。目黒の近衛連隊(ってあるの?)に配属。長野の姥捨山近くで穴掘って たそう。トラックや戦車も通れる通路が延々と続いていたそうだ。長野の山奥だから 住民は兵隊を見たことがなくて珍しがっていたそうだよ。輸送部隊としてトラック 乗ってたじいちゃんは終戦を迎えてすぐ帰ろうとしたんだけど残務整理していた 上官が1週間待って一緒に帰ってくれるのと交換条件にトラックと燃料好きなだけく れる提案があったけど、一日でもはやく家族の顔が見たくて帰ってきたんだって。 製材職人なのに「あのトラックがあれば牛乳配達ができた」の意味不明?な回想 をよく口にしてたっけ。 九十九里の海岸近くに住んでた祖母は艦砲射撃が凄まじくて成田に避難してたそう だ。じいちゃんの葬式の晩にじいちゃんが帰ってきた晩の話をしてくれた。空襲で鉄 道はほとんど運行していなかったからひたすら何日も歩いて帰って来たっていって た。夜中の2時ごろに満面の笑みで「ただいまー!」帰ってきたんだってさ。部屋にず っと昭和天皇の御真影が飾ってあったけど今はその横にじいちゃんの叙勲とシナ事 変の召集状?を額装して掲げてあるよ。自分のじいちゃんの戦争体験は本屋じゃわか らないし、自分の子供達に伝えていくのは孫(ホントは子も)の責務だと思う。じいち ゃんは軍人でもないし特別な戦功を挙げたわけじゃないけど、あの時代を生き抜いた、 日本の精神土壌にもとづく教育を受けた純潔の日本人として誇りに思ってるよ。 戦争体験からズレたかな。
母方のじいちゃんは爆撃機をいっぱい落として生還したけど、 自衛隊で事故で亡くなったそうな。 運命ってわからないなぁ。
>107 良い話じゃ。お祖父さんの戦後の意見も戦争体験が元になっているのだろうから スレには合ってるのでは。もう話が聞けないのは残念ですな。将来子供に伝えてください。
110 :
名無し三等兵 :02/11/21 06:02 ID:kniG7kgX
>>95 うわあ……詳細なレスありがとうございます。お手数おかけいたしました。
今度じいさんに色々聞いてみます。でも、じいさんが靖国神社に行ってた記憶はないなあ。
ちなみに、数年前に死んじゃったもう片方のじいさんは、ずっと国内にいたそうです。
たしか、なんかの寮の責任者だったとか。でも、軍隊の寮なんて聞いたことないですよね……謎だ。
実はあんまし掘り下げちゃいけないことだったりしてな。
>>107 全部読んだ!!もう、
その世代が亡くなってしまって、そういうお話を聴けるのは本当に貴重なことだとかみしめながら読みました
私の亡くなった祖母は大戦中、新潟で、たけやり訓練を受けていたのと、
大戦後、米兵がやってきて、村人に対して「ニワトリ、ニワトリ」と云っていたと聴きましたが、
いまおもえばチキンチキンって馬鹿にされてたんだなあ。
。。。それくらいです。。。
>>100 様
そしてその他の方。
ありがとうございました。
今まで他の人にいただいた説も含めて祖母に昨晩報告しました。
そろそろ呆けが入っているのでどこまで理解してくれたかは解りませんが、
なぜ死んだかをほとんど聞かされていない祖母にとっては新鮮だったでしょう。
しかし陸戦隊やフィリピンにおける陸海軍将兵のこと調べているうち
色々なことが解り、涙が出てくるようでした。
海では漂流し、陸では飢餓の憂き目にあい、灼熱地獄、飢餓地獄、
ありとあらゆる責め苦にあいながらその遺骨さえも拾って貰えない。
家の祖父は満州事変から陸戦隊に参加し、
19年に再招集、20年3月に大和でフィリピンまで下りそのまま帰らなかったそうです。
当時父を懐妊していた祖母は祖父の
「俺は必ず生きて帰る」
と言っていた言葉を今でも覚えています。
そういう祖父達の名誉回復はいったいいつになったら出来るのでしょうか。
ちなみに祖父に花を手向けてくれる人はほとんどいません。
そしてその子孫からは
「負けて良かったんだ」
と言われる。
私の父がこの言葉を吐いたのですが、
我が父ながらこの言葉は許せませんね。・・
私が父に絶縁するきっかけとなった言葉です。
こういう言葉を吐くのは父だけでなく、周囲の人間もそういう感じです。
正月も盆も実家と連絡を取らない私は、孤独を時折感じますが、
かといって今の環境に後悔はありません。
113 :
名無し三等兵 :02/11/21 13:14 ID:P+IqGzVm
>>112 口をはさむようで申し訳ないのですが、
あなたのお父さんが「負けて良かったんだ」というのと、
国のために頑張って戦ったおじいさんを否定するのは、
別の問題だと思うのです。
お父さんは戦ったことすら無駄だといったわけではないと思うのです。
さしでがましいことをしてすみませんでした。
114 :
名無し三等兵 :02/11/21 13:37 ID:XNC1/vhg
父親の戦争体験は書き込んでいいの?
↑どんどん書くべし!
116 :
名無し三等兵 :02/11/21 14:17 ID:XNC1/vhg
漏れはハーフで、父がベトナム戦争に行ったんです。 20歳の時に徴兵されてベトナムのファン・ラング空軍基地の警備をやっていたそうです。 父は軍用犬の部隊に配属されて犬とパトロールしていました。 こっちから聞かない限り、父あまりその当時の事を話そうとはしません。 聞いたところ、いつもベトコンは夜に攻撃してきたそうです。 彼曰く”昼は俺達が支配した。夜はCarlieが支配した。”(Charlieはベトコンの事) 続きを又書きます。
オレのお爺ちゃんは広島にいた。原爆の時は満州にいってて 助かった。お婆ちゃんもそう。お婆ちゃんは満鉄で働いてた。 お爺ちゃんに小さい頃敵を撃ったか聞いたけど、 空に向けて撃ってたって言った。お爺ちゃんごめん... お爺ちゃんの弟は陸奥と共に亡くなった。
118 :
116 :02/11/21 15:26 ID:XNC1/vhg
>>116 文章が読みにくてすみません。日本語で文章書くのは慣れてないので... 書き忘れましたが父が所属していたのはアメリカ空軍第35警備隊(35th Security Police)です。 なぜベトコンがCharlieかと言うと、それはベトコンはVCと表記され、無線用語では VCはVictor Charlieと為るからです。
「憲兵で満州に行った」としか知らないなぁ
120 :
名無し三等兵 :02/11/21 18:05 ID:PVk0ym04
俺のお爺ちゃんは軍属で、ボイラーの技術者として満州方面で働いていた「らしい」。 なにせ戦争中の事はほとんど話さないから・・・ ただ15年くらい前に日本政府がシベリア抑留された人に銀杯と感謝状みたいなもの、 そして見舞金(10万円位だったと思う)が届いたことで抑留されていたことを初めて 知った。モスクワ放送と社会主義にかぶれていた当時の俺は本当に馬鹿な孫でした。
121 :
名無し三等兵 :02/11/21 18:09 ID:PVk0ym04
↑すまぬ、「見舞金」ではなくて「10万円の国債」だったと記憶してます。 爺ちゃんは昔も今もロシア人のことは必ずロスケと言ってます。
>112 猫見直したよ。スレ立て厨と思ってたけど、立派な軍歴?と意思持ってるね。
123 :
名無し三等兵 :02/11/21 18:26 ID:sD//XDC4
うちのじいちゃんは(陸軍軍曹)千島だかサハリンだかに派兵されて 終戦間際まで魚釣りをしていたがある日停戦協定を無視して南進してきた ロスケにとらわれて3年間のシベリア滞在を送ったそうです。 食い物がなくて草や木の皮を引っぺがして煮たり、蛇やトカゲなどを よく食べたそうです。隣の収容所にはドイツ兵が収容されていて よく柵越しに物々交換をしたそうです。
124 :
116 :02/11/21 18:51 ID:XNC1/vhg
(つづき) ファン・ラング空軍基地には韓国人の部隊がいて、非常に強く残虐な事で有名だったそうです。 夜になるとその韓国部隊が敵の陣地と思われる場所に砲弾を何回も撃ち込んでいたんです。 只、使っていた砲弾が朝鮮戦争に使われていた中古の物だったんです。 ある晩、いつものように基地の周りをパトロールしていたら、不良弾(と言うんだろか?)が父の30M程後ろに直撃したそうです。 幸い、怪我はしなかったそうですが衝撃で数十センチ吹っ飛んだと言う... ベトナムでの最後の十日が一番恐かったそうです。後アメリカに帰るために空港行きのトラックに乗っていたときも物すごく恐かったと言ってました。 自分はピストルも持っていないのにベトコンに襲われたらどうすると... 母に聞いたところ、矢張り結婚後暫く毎日寝ている時にうなされていたそうです。 今はもう乗り越えたようですが...
125 :
初めて来る板 :02/11/21 19:09 ID:DSwAeXLr
友人の爺が満州や日本が占領したとこはすべていったと話してた。 旅行気分だったらしい。 菊水という部隊らしくて、かなり弱かったらしくその菊水とわかる バッチをはずしとけと上の人から戦闘前に言われてたらしい
126 :
116 :02/11/21 19:12 ID:XNC1/vhg
文章が読みにくくて本当にスマソ。 後“だそうです”が多くてすみません... 日本語でタイプするのを勉強しなくては...
127 :
名無し三等兵 :02/11/21 20:56 ID:f25kUUvs
私の祖父は空母の蒼龍に乗って真珠湾攻撃に参加したらしい。 家にその当時の航海日誌とか写真がたくさん残っています。 その後、蒼龍を降りて地上勤務になったらしいですが そのまま乗艦していたら戦死していたかも・・・。 色々と話を聞きたかったんだけど私が生まれるだいぶ前に亡くなってしまいました。
長期入院生活を強いられていた時の事。同室になったお爺さん がシベリア抑留経験を持つ元戦車兵の方でした。 戦争体験談に耳を傾ける人も少ないらしく、私が自衛官(当時) である事を知ると、嬉しそうに話しかけてくれました。 以下、聞き書きの形で。 私の部隊、満州に居ったんですが、ソ連が侵攻して来たと 言う事でソ満国境に配置されましてね。防衛線を死守しなきゃ ならんと言う命令で、全車掩体を掘って車体を埋めました。 その内、敵が接近して来て、後方に控えていた砲兵同士の 撃ち合いになりましたが、それも少しの間です。 その頃の味方砲兵の砲身は磨滅した物ばかりでしたから、 彼我の距離が近くなって来ると撃つ訳に行かないんですよ。 どっちに当たるか判ったもんじゃ無いですから。 そうこうする内、敵戦車が眼鏡で見える様になって来ました。 その時ですよ。何かおかしいぞ、と気付いたのは。 奴ら、何でこんな早く撃って来る。こっちはどう考えたって まだ射程外です。 (…書き始めたら思いの外長くなりそうなんで、よろしければ 以下続く。)
129 :
116 :02/11/21 21:49 ID:XNC1/vhg
130 :
USMARINES :02/11/21 22:04 ID:hj4ZgoSY
自分の母親の兄は陸軍軍医。 亡母の話では、かなり破天荒な人だったらしく、医務室で「インターナショナル」の鼻歌かましてアカの本を読んでいたらしい。 頭の回転が速すぎて、周りの人間にペースを合わせるため、いつもボーっとした顔をしていた。 ウデが良いのか、人柄のおかげか、それでも上官からは好かれていたらしく、家によく「偉いさんから」と言ってお菓子やお米を持ってきては、近所にも配っていた。 開戦前には、怪しげな集会に出席したところを特高にパクられて、取調中に財布の中から師団長(だか偉い人の)の名刺かメモが出てきて連中を慌てさせたらしい。 逮捕されたと知らされた家族(母含む)は、生きた心地もしなかったらしい。 が、翌日には涼しい顔して帰宅して、母親(バァチャン)にスリコギで嫌と言うほど殴られた。 叔父は、タンコブだらけの頭をさすって母に「特高や憲兵よりオカンが一番恐い」と言ったそうだ。 開戦後も内地勤務が続いたが、「ガダルカナル」を聞くようになった頃、南方へ行く事になった。 叔父が言うには「向こうじゃ軍医が足りない」からだそうだ。 しかし母は、叔父が帰宅後コッソリと近所の朝鮮人街の病人を診ていた事がばれたのが原因だと信じていた。 出征の日、いつもボーっとした顔をしている兄が真顔で「何が何でも生きろ。死ぬな」と言った。 周りが無邪気に沸く中で、母は泣きじゃくっていたそうだ。 叔父は、便乗した輸送船が潜水艦に喰われてそのままMIA。 空っぽの骨箱が届き、葬儀には朝鮮人街の代表も出席した。 母は叔父の言いつけを守って神戸大空襲・戦後の混乱を生き抜き、自分を生んでくれた。 親戚の大半が戦中派なので話には事欠きませんが、今夜はこの辺で。
俺のじーちゃん。病気で後方に送られてさ、旭川の師団に配属になった時があったんだけど、 夜の不寝番で、廊下を歩く将校の幽霊を見たそうな。 後で知った事で、そこにもと居た部隊は、ガ島に転属になって、穴埋めに じーちゃんも回されてきたらしい。 その幽霊を見た頃と、ガダルカナルの悲惨な状態だったであろう頃の 次期は大体一致してたんだと。 その話を聞いたら、何とも切ない気持ちになったよ・・・ 魂は帰ってきたんだね。 そのじーちゃんが後方に送られる前の原隊は満州の山部隊とか言われた所で、 沖縄に転属になって、首里の前方に配置されて玉砕。 一昨年俺が沖縄に行った際、戦没者慰霊のあの広大な所で、 原隊で一緒だった同郷の戦友の名前が刻まれた碑を写真に撮って 渡してあげたら涙ぼろぼろ流して泣いていたよ・・・
>>128 まさか旧軍戦車があまりにもロシア戦車と比べて小さかったため彼我の
距離感が狂ったというオチじゃぁ…。ヾ( ̄o ̄;)
>>113 漏れもそう思う。
敗戦と言うのは当事者にとっては、字面で考えるより深いと思いますよ。
>>107 >純潔の日本人
植民地の人達も徴兵または募兵され、戦場で死傷し、また軍事裁判にかけられた者も少なくないので、このような言い方は酷だと思いますよ。
>>128 確かソ連侵攻時、満州で戦車戦があったという話を聞いたことがありません。
この当時満州には第三方面軍の隷下に独立戦車第一、第九旅団があるだけでした。
そして第三方面軍の中でソ連と戦闘を行ったのは第107師団だけでこの2つの旅団は戦闘に参加していない筈です。
以上の事から信憑性が薄いと思われます。
135 :
名無し三等兵 :02/11/21 23:53 ID:PDPmXvlH
>>129 116さん、ありがとうございます。日本語でタイプするのは
お得意で無い、との事ですが、充分お上手ですよ。
軍隊言葉が出て来る話なので、解りにくい言葉が有ったら
言って下さい。私も英語は余り上手ではないので、英語で説明
できるかどうか自信がありませんが。
>>128 から続く
初めの内、敵の弾は地面に当たるだけでしたから、有効射程も
考えないで撃っているのだと思って馬鹿にしていました。
でも、それも仲間がやられ始めるまででした。
こっちは地面の上に砲塔しか出していませんが、そこに命中
し出したんですよ。当たったら最後、あっさり貫通するんです。
それで仕方無くこっちも反撃を始めたんですが、当てても全部
跳ね返される。車体や砲塔を撃っても無駄なので、足止めだけ
でもしようと履帯を狙いましたが、あれは中々命中する物では
無いし、当たったからと言って必ず切れる物でもありません。
我々は、『ロシアは野蛮な国であるから、兵器も時代遅れ、
兵隊も無能な者ばかりだ。侵攻して来るのは二線級の部隊だ。
恐るるに足りない。』と教育されていたんですよ。
とんでもない。全部間違いでした。
切れた履帯を引きずって、それでもまだこちらに向かって
来ようとするんですよ。動けなくなっても弾が切れるまで撃ち
続けるんですよ。どこが『無能』ですか。どこが『時代遅れ』
ですか。
あれを見た時、初めて本気で「逃げたい」と思いましたよ。
結局、わずかに生き残った者は降伏しましたが、全滅同然です。
あれは玉砕、なんて聞こえのいいものじゃありませんよ。
袋叩きにされただけの事です。
以上です。この後シベリア抑留の体験談が続きました。
136 :
128 :02/11/22 00:02 ID:???
>>134 え、そうなんですか。私、旧軍の戦史には知識が無いもので。
…すると、あの話は単なるフィクションだったんでしょうか…。
137 :
116 :02/11/22 00:12 ID:3HV5g7Cd
>>135 返事有り難うございます。
反応が全く無かったのでネタと思われたのではと勘ぐってしまいました。
私日本語で文章作るのは下手なんですが読むのは完璧です。軍事ヲタなので軍事用語も大丈夫。
ところでこう言う事を言って良いのでしょうか?
何となくスレ違いな気が...
>>116 貴方の日本語は、大変にお上手ですよ。ご自分で申告されなければ、
恐らくは誰も貴方が日本語で文章を書くのは苦手だなどとは思わないでしょう。
ここではベトナム戦争従軍者の話はなかなかでてきません。
(私の記憶が正しければ初めての書き込みなのではないかと思います。)
大変貴重なお話ありがとうございました。
139 :
116 :02/11/22 00:36 ID:3HV5g7Cd
>>138 ご返事有り難うございます。
私は日本語で文章を書くのは苦手と思っていましたが単なる自意識過剰のようですね。
まだ2chを見始めて数日なので緊張していたんです。
重ね重ね丁寧なお返事有り難うございます。
>>137 いえ、私が質問したから答えて下さったまでで。
スレ違いと言われるなら私も同じです。
どなたか当時のソ満国境事情に詳しい資料なり、サイトなりを
ご存じでしょうか。もちろん私も探してみますが。
>128 >135に書き込ませて頂いた話が作り話とは、いまだに
信じ難い気持ちなので…。もし事実でなかったら、裏付けの
無い事を書いた負い目を感じますし。
141 :
名無し三等兵 :02/11/22 02:00 ID:DR8s40Ny
>>137 ネタとかヲタとかスレとか。。どこでそんな言葉覚えたねん
142 :
116 :02/11/22 02:06 ID:3HV5g7Cd
>>141 2chを見ていたらよくそう言う言葉が出てくるし、話の流れから意味は大体分かります。
もし間違っていたら教えてください。
143 :
名無し三等兵 :02/11/22 04:58 ID:i71VB3E0
ハーフ・・・ 軍用犬部隊に配属・・・ 犬と人のハーフ?(バキッ
自分の父親 「日本は戦争に負けて良かったんだ」 についての発言についてRESしてくれた方、ありがとうございます。 私に対して心配してくれてのご意見ですので、余計な物とは思っておりません。 ご配慮ありがとうございます。 この件について補足しますね。 私の父は前述のとおり団塊の世代なんですが、 もろ自虐史感の持ち主なんですよ。 これこれで中国に悪いことをしたとか、 アメリカは良い国だとか・・日本は世界一安全だから安心だとか・・。 まるでウォーギルティーインフォメーション政策の見本のような人です(苦笑 カンキポットで死んだ祖父の顔を父は知りません。 しかし、子孫としての最低限、祖父を知る義務はあると思います。 戦争の善悪は一下士官の祖父の知る所ではなかったでしょう。 ただその心にあったのは「郷土恋し」の一言だったはずです。 そういった人達の立場を子である団塊の世代は知る義務があり、 それはそれで敬意を払う必要があると自分は思っておるので、 少なくとも陸戦隊下士官の子供である父が、数々の 自虐史感的な発言を繰り返すのには怒りを覚えるんです。(泣 なぜ灼熱の大地で焼かれ、人肉を食するまで飢えに苦しみ、 正体不明の病で手当する手段も無く責苦に喘いだのか。 子である団塊の世代は敬意を払う最低限の立場が必要では無いでしょうか。
>>132 それじゃ理屈が逆。
距離感が狂ったなら接近するまで撃たなかったと思われ。
>>112 昭和20年3月(実際の出発は4月)の大和の行き先は沖縄です。
この時期、本土からフィリピンに向かった史実はありません。レイテ沖海戦(捷一号作戦)に参加した時の出航地はリンガ泊地(インドネシア)ですので該当しませんし、この時大和から陸上部隊は降りていません。
ちなみにレイテ島から軍司令部が転進したのは昭和20年3月下旬です。
記憶違いや幾つかの事象の混同もあるかと思いますので、再度詳しく聞かれた方が宜しいかと思います。
>>144 端から史観を持ち出すと意見がまとまらないと思いますよ。
中国、アメリカなどの話がどうしてそう考えるのかと言う問いと、自分はこういう理由だからこう考える、と丁寧に話をして且つ継続して欲しいと思います。
それから、団塊の世代(厳密には父上はその1歳上の世代になるのでしょうけれど)は個人としては流されやすく、また会社員の顔としては辛抱強く、ある意味非常に日本人らしいと言えるので、単なる特殊な世代として扱うだけでは不十分だと思うのですが。
147 :
名無し三等兵 :02/11/22 10:28 ID:h8BbJefh
うちのじいちゃん 日本海海戦のとき 連合艦隊司令長官でした
148 :
名無し三等兵 :02/11/22 11:40 ID:HHuxdlz5
母方のじいちゃんは中華鉄道に勤めてて、物資の流れでヤバイと感じ、 生まれたばかりの母親とばあちゃんを日本に返したらしいです。 そして終戦直後に帰還船に乗っていた時、磁気機雷で乗ってた船が沈没したが、 アメリカの客船に助けられ、その後、お礼に日本に船長夫妻を招待したのが 新聞に載ったらしいです。切り抜きは見たことあります。 父方のじいちゃんは呉の海軍工廠で砲弾の完工検査してたそうです。 大和の46cm砲弾もあつかっていたらしく、 先端のキャップの付け根の線下に苗字の刻印(検査済みの)を打っていたそうで、 一緒に呉に行った時、入り口に立てらせて展示してある砲弾を撫で回して、 自分か同僚の刻印がないかと探してました。 繋留してある大和に入ったことがあったとも言い、 隔壁(?)の数や鉄板の厚みみて、沈むとは思わんかったと言ってました。 その割には「乗るか?」と聞かれた時しっかり断ったらしいです。 それぞれ19年前と10年前に亡くなってしまいました。
>>146 さん
貴重な意見ありがとうございます。
祖父の言葉として大和に乗ったことがある。
そしてその後フィリピンへ行ったと
祖母が言っているのですが、それはもしかしたら時期が外れた
記憶違いかもしれませんね。
いずれにしても色々な角度からの検証が必要だと思います。
ありがとうございました。
151 :
116 :02/11/22 19:59 ID:3HV5g7Cd
ワンワワンワン、ワンワンワワワン、ワンワンワ、ワンワン 訳(僕はれっきとした人間です。犬扱いするなんてとんでも無い。)
サムゲタンにするニダ(プ
>>140 さん
>>128 〜のお話については、少なくともあなたと当事者の方との
二人の記憶を経ているわけですから、多少の記憶違いも有るかも
知れません。
だからといって「資料に載っていないから事実でない」と判断
するのは早すぎると思います。浅学にして私も旧軍の満州に
おける戦闘に関しては無知ですが、同じ敗戦国であるドイツの
大戦末期の状況なども、ここ数年になって初めて確認されたり、
常識として長年信じられてきた事が覆る例がいくつもあります。
戦史全般に言える事と思いますが、永久に書物に記されること
のない事実など数限りない事でしょう。
むしろこの際、知識を広める良い機会だとお考えになって
お調べになられるのも良いのではないでしょうか。
>>150 さん
の例に関しても、同じ様な事が言えるかと思います。
次の世代に記憶を語り継ごう、という御祖母様のお気持ちには
一片の偽りもないのですから。
154 :
116 :02/11/22 22:56 ID:3HV5g7Cd
>>151 今読み返して見ると目茶苦茶面白くないですね。スレを汚してすみません。
ちなみに父はニューヨークのブロンクス生まれで高校を退学させられその後徴兵されました。
低学歴は真っ先に前線に送られる見本みたいなケースです。
155 :
133 :02/11/23 00:17 ID:???
>>149 人に対する哀れを知らぬとは日本人にあって日本人にあらず。
文意を解さぬ大馬鹿者。恥を知れ。
まあ煽り(?)のようなレスはともかくとして、興味深いお話が続いていますね。
>>130 さんのお話も、ご一家の暖かい雰囲気がよく伝わってきました。それにしても
本当に立派な叔父様だったんですね。尊敬します。
>>154 >今読み返して見ると目茶苦茶面白くないですね。スレを汚してすみません。
そんなこと誰も思っていませんから、気にする事ないですよ。マターリして下さいな。
157 :
Zzz :02/11/23 17:59 ID:jG8SdFTG
ジーちゃんの戦争体験ではないんですが・・・・ 今、アパートの前でジーちゃん(?)が、なにか掘っているんですよ。 「何を掘っているんですか?」 「弥生時代の遺跡です」 話は遡って、前の赴任地は旧産炭地方だったんですが、そこでも ジーちゃんがなにか、掘ってたんですよ。 「何を掘っているんですか?」 「強制連行された人達の遺骨です。」 ウー・・・
158 :
133 :02/11/23 18:53 ID:???
Λ_Λ / <-( ´∀`) < 植民地の人達も徴兵または募兵され、戦場で死傷し、 ( ) \___また軍事裁判にかけられた者も少なくない、謝罪と賠償(略_______ | | | 〈_フ__フ
159 :
133 :02/11/23 19:29 ID:???
>>158 生粋の日本人ですが何か?(w
コピペで遊んでないでじーちゃんの戦争体験でもカキコしたらどーよ?
160 :
116 :02/11/23 20:00 ID:G81OyL/J
父の話をもう一つ。 父には兄(私の叔父)がいて、1966年に徴兵検査を受けました。 当時はまだそれ程検査が厳しくなく、又叔父は眼鏡を掛けていた為に不合格でした。 次の年(1967)に父も検査を受けました。その年から審査が厳しくなり、叔父と同じ視力で眼鏡を掛けていたにも関わらず、 合格してしまいました。陸軍、空軍、海軍の内どれかに入るオプションが有り、父は陸軍に入ろうとしましたが、ニュージャージーに有った陸軍基地が第二次世界大戦の設備をそのまま使っており、 暖房も無かったそうです。又検査を受けたのが1月だったので、そこは嫌だと空軍に入ったそうです。(ここら変が中途半端(苦笑)) ニュージャージーに有る空軍基地に入り、そこで数ヶ月訓練を受けた後にベタナムに送られました。
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
162 :
116 :02/11/23 20:05 ID:G81OyL/J
訂正:ベタナム−ベトナム
163 :
名無し三等兵 :02/11/23 23:08 ID:cMi4EIKJ
私の祖父(衛生伍長)、マニラの山中を逃げ回っていたらしいです。 ある日、衛生材料を受け取るために、部隊から先行して野戦病院に向かったところ、 すでに米軍に占領されており、おもわずブッシュに隠れたそうです。 夜になってなんとか部隊に戻り、事態を部隊に伝えたとのことです。 2-3年逃げ回り、米軍に捕虜として捕まったのですが、 「これで生き延びられるかも」と感じたと言ってました。 そぉいえば、うちにU.S.ARMYと刻印のあるスプーンがあったなあ。 生きて帰ってきてくれて良かった。 今でもたまに、寝言で軍歌を歌ってます。
父方の爺さん、中国で戦死した・・・と思ったら数年後帰還。 自分の墓見て笑ってたそうです。 でも、学校の宿題で俺が戦争ってどうだった? て詳しく聞こうと すると、苦い顔して忘れたって言い張るんだよ。 昔は辛くて忘れたいんだろうと思ってたけど、今は本当の理由がわかる。 婆さんは未だに、シナと言わないとどこの国のことかかわからないです
165 :
USMARINES :02/11/24 00:44 ID:9mtxLm9P
叔父の話(130)、つづき。 怪しげな集会に出席して特高にパクられ、それでも無事釈放された叔父。 立件されなかったとはいえ、やはり隊内で問題になったらしく、上官に呼び出された。 が、叔父の凸凹の頭を見、その原因を聞かされた上官は苦笑して「気を付けろよ」と言っただけだった。 ……とは、同じ隊にいた叔父の弟(これまた叔父さん)から聞いた話。 特高にパクられた件については、隊内では上から下まで「ああやっぱり」とか「ヘタ打ったなぁ」とかばっかりで、叔父を追及する雰囲気は皆無。 とてもアカを悪鬼のように憎んでいる帝国陸軍とは思えない反応に信じられなかったが「ホンマやで」と叔父さん。 この叔父さんも凄いヒトでした。 徴兵で引っ張られて叔父と同じ隊にいたんですが、勤務中も兄を呼び捨てにして、事情を知らない下士官からぶん殴られること数回(そりゃそうでしょ)。 で、後から事情を知った下士官が青い顔して叔父のところへ謝りに行くこと数回(下士官は悪くないが、気持ちは分かる)。 兵卒の間では「今度は○○軍曹ドノがね……」と笑い話のネタになっていたそうです。 そんな叔父さんは、運良く終戦まで内地勤務で生き延びた。 「頭のエエ奴からこき使われて死んでいくンや。適当に馬鹿な方がエエ」 酔うといつも叔父の事を語ってくれた。 最後は「何で死んだんじゃあ、アホォ」と泣いてた。
166 :
名無し三等兵 :02/11/24 01:59 ID:ZkJNgd6Z
>>133 植民地の人達も徴兵または募兵され、戦場で死傷し、また軍事裁判にかけられた者
も少なくないので、このような言い方は酷だと思いますよ。
べつに純潔の日本人ってのは国籍や流れてる血を意味するんじゃないよ。強制され
たアメリカンデモクラシーに毒され飼い慣らされた今の日本人は流れている血こそ
祖父と同じだけど精神的にはハーフみたいなもんじゃない?それに対して戦前、戦
中の日本人は日本の精神土壌から然るべくして現れた価値観にもとづく教育を受け
ている自然な日本人って意味だよ。
そういう意味では当時の人は朝鮮人だろうが台湾人だろうが日本人と同じつもり。
誇りに思ってるよ。今は嫌いだけど。
167 :
133 :02/11/24 04:09 ID:???
>>166 =107ですね。
先ず、sageの気遣いを示して下さい。
和魂洋才の精神で近代化を成し遂げた後の日本の精神土壌が西欧文明を取り入れる前の江戸時代と比較して純潔とは言えず、ましてや「自然」ではありえない。
洋式の軍服を着て鬼畜米英を叫ぶ思想の何処に自然さがあるのか?
その偏屈さを大和魂と称して敵の研究を怠り何百万もの将兵と国民を亡くし、また窮乏させた思想を全く是と考える根拠を知りたい。
また、貴方の言っている「(当時の)朝鮮・台湾の人達は日本の精神土壌から然るべくして現れた価値観にもとづく教育を受けた自然な日本人と同じ精神を持っている」と言う事は、
言い換えれば「日本の人達はアメリカの精神土壌から然るべくして現れた価値観にもとづく教育を受けた自然なアメリカ人と同じ精神を持っている」という事になる。
制圧された国民が制圧国の思想を取り入れたと言う意味において同じだが、日本の思想は全肯定でアメリカの思想が全否定な理由は何か?
168 :
名無し三等兵 :02/11/24 14:54 ID:SyXbgpuf
何でそこまで必死なの?
ほうら、133が馬鹿サヨマゾの馬脚を現しやがった。板違いだからでてけ。
Λ_Λ / <-( ´∀`) < その偏屈さを大和魂と称して敵の研究を怠り何百万もの将兵と国民を亡くし、 ( ) \__________また窮乏させた思想を全く是と考える根拠を知りたい。 | | | 〈_フ__フ
戦中神話、とでも呼ぶべきものがある。 その最たるものは、「英語が禁止されていた」あるいは「英語教育が禁止されていた」という話だ。 こういうことを言う人たちのバカの一つおぼえが、「野球でセーフを『よし』、アウトを『だめ』と言った」の類である。 そんなのはごくごく一部のことだ。軍の学校でもセーフ、アウトでやっていた。一般は言うまでもない。 野球のことから話をひろげてその種の人たちは、日米開戦後アメリカでは日本語教育がさかんになった、 日本は英語教育はもとより英語を使うことさえ禁じた、日本人は近視眼だ、狭量だ、愚かだ、と話をもっていく。 ルース・ベネディクトが言っているように、アメリカにとって日本は、知らない相手であった。日本語のわかる者もごくすくない。 ケンカ相手のことを知ろうとするのはあたりまえだ。それと、何百万の人間が英語を習い、英米の書籍の翻訳が充満し、 英語を話す者読む者なんぞ掃いて捨てるほどいる日本とがいっしょになるものか。 野球の「よし」「だめ」と、「アメリカでは日本語教育がさかんになったのに、日本人と言えば……」とをしたり顔して言い出すやつは、 浅薄人間と判定して頭から信用せぬがよい。 英語教育が禁じられていたというのももちろんウソである。 昭和十九年四月から使われはじめた文部省の中等学校英語教科書二年用に、「ADMIRAL YAMAMOTO AND HIS HOUSE」というおもしろい文章があるので御紹介しよう。 聯合艦隊司令長官山本五十六大将がソロモンで戦死したのが十八年の四月、発表が五月である。それをさっそく翌年からの教科書にとり入れたのだから、なかなかすばやい。
172 :
名無し三等兵 :02/11/24 15:34 ID:5Us8j7Xa
↑がウソかマコトかは当時中学生だった人がまだイパーイいるのだから 確かめてみるのがイチバン確実。
そりゃそうだ 敵性言語禁止は戦局がもっと逼迫してからだもの。
何が一般だ嘘付け職業野球はセーフアウト禁止じゃねぇかよ どっから引っ張ってきたんだよ
175 :
名無し三等兵 :02/11/24 15:44 ID:b21FVSpd
そんなに熱くならないでよ。言葉尻捉まえて揚げ足取らないでくれよ。理屈はわか らないでもないけど極論というかやや飛躍してんじゃない?結果論の一面から断 罪しないでよ。ある意味恩恵受けてるわけだしべつに全否定してるわけじゃないよ。 ただ自然に発露したものじゃないから不自然なのは否めないんじゃないかなぁ?。 あなたに強制するつもりはないよ。ヒトの思想は理屈じゃないんじゃない。サヨク は肩身狭いですよ将来。
職業野球の日本語化、ゲートル、戦闘帽は軍部のご機嫌取りだ。 軍が敵の国技に現を抜かすとはけしからんといえば、たちまち禁止だからな。 ほかにも隠しダマ禁止、試合前の手榴弾投擲、朝日、黒鷲、大洋、大和何かに名前を変えて、 必死にご機嫌をとり、やっていた訳だ。
平和な時代でしか文句を言えん豚どもよ。 戦時下においてもそのように言えたら大した物だ。 個よりも公が重い試練の時代を批評しながら 自分はエアコンの利いた部屋で2ちゃんか。 良い時代になったものだ。
178 :
名無し三等兵 :02/11/24 16:33 ID:6QrewM40
うちのじーさんは戦時中満州で補給部隊だったそうな。 軍の倉庫から物資を運ぶとき、上官から 「貴様ら、酒でも煙草でも砂糖でも好きなだけ持っていってよし」 と言われて、たんまり懐に詰め込んでもって帰ったそうだ。 ところが、倉庫から帰る途中、ロスケの飛行機に機銃掃射されて、戦友が弾に当たって一人 死んだと言っていたが、そんなことほんとにあったんだろうか。 ちなみに、それがあったのは少なくとも1945年8月8日よりは前らしいが、じーさんはすでに他界し、割とほら吹きであった。 ……。
>177 なかなか皮肉がきいていますね。 言うまでもなく、困難な時代を生き抜いた国民一人ひとりについて 批判したりするつもりはありません。ただ、時代全体を無批判に受け入れる 事は出来ません。どうかその点を肯定的に捉え、もし議論におかしいところがあれば、 その点について反論していただくよううお願いできれば幸いであります。 ところで不躾ながら伺いますが、あなたは戦争体験のあるお方ですか? もしそうであれば、スレの少し上の方に出ていた敵性語が当時、どの程度「止」されていたのか、 国民は公私においてどの程度それに従っていたのか、ご自分の体験から お話して下さると非常にありがたいのですが、いかがでしょうか?
だから133は半島か、アカ板に帰れってば
下手にでて、丁寧な口調でごまかそうが、133はサヨ。
182 :
179 :02/11/24 17:37 ID:+PucRdrm
>180-181 あらら、もしかして私の事を言っているんですか? 133ではありませんよ。
184 :
179 :02/11/24 18:01 ID:+PucRdrm
えーと、仮に183のレスが私に向けられたものであると仮定して申しますが、 私は133ではありませんし、またお言葉のように「日本軍を精神主義に凝り固 まった敵性語を禁止すれば勝てると思っているような前近代的軍だと貶めた い」というわけではありません。ただ、私は敵性語が当時、一般的にどのよう に考えられていたのかを知りたいだけなのです。というのは、以前私が軍事し りとりスレにおいて、「敵性語」という言葉を持ち出して、それについて説明 をつけ加えたからなのであります。もしそれが謝りであるならば、訂正しなけ ればなりませんので。その説明とは以下のとおりです。 敵性語 読んで字のごとく、敵が話す言語のことを指す、大日本帝国の当時の言葉。 要するに英語。 とはいえ、英語、英単語の使用が禁止されていたわけではないそうで、「敵性 語だから使用するな」とは、一部では運動として存在したかもしれないが、国 民全体にとっては、公の社会だけ何となく存在する空気のようなものであった らしい。 昭和63年当時の自粛ムードのようなものだろうか? 「ご」です。 間違いがあればどうかご指摘下さい。お願い致します。 なお、レスの流れからあたかも私が133であるかのような印象を与えてしまっ のであればあなた(方?)と133には申し訳ないと思います。 長文レスすまそ。
無知なも者は、意識的な情報操作よる反戦反日教育に犯されている。 知っているものでも、日本軍の負の面ばかりを強調する。 怪しいコラージュ虐殺写真ばかりで日本兵と楽しく遊ぶシナの子供は載せない。 服装は皆ヨレヨレの防暑襦袢、ゲートル、帽垂れで、世界有数の意匠と技巧で仕立てられた大礼服や三式軍衣は載せない。 飛行機は残骸か、二十五番積んだ練習機で、敵機をバタバタ叩き落す戦闘機や、巨艦を轟沈する攻撃機は載せない。 船は艦載機に沈められる大和ばかり。海面を黒く覆い尽くさんばかりの聯合艦隊は載せない。 悲惨な従軍話ばかりで(大抵は反戦軍人)、貧しい農家の者にとっては平時は衣食住に事欠かない天国だったという話は載ってない。 そしてそれらが、残念ながら戦後一般的に言う「日本軍」の概念である。
186 :
116 :02/11/24 18:08 ID:HlRi55Bg
私が言うのも何ですがこの議論は物凄くスレ違いなので新しいスレを作った方が良いのでは?
>>133 矢張り、お前はただの無知だ。
敵性語とは敵の言語ではない。国民精神総動員体制に不適切な退廃的な言葉の事だ。
つまり日本語でも共産や平和は敵性語と言える。(共栄や東洋平和、正しき平和だともちろんオッケー)
ベルトを帯革、ゲートルを脚伴と呼ぶのは、ただのプロ意識、文語調、漢語的表現。今でも本職はそう。
もちろん機械は日本語だけで動いてる訳でないから便利な英語も使う。
だから当時から零戦をゼロ戦とも読んでいるし、技師などはA6とさえ呼ぶ。何も士気を挫くものではないからな。
旧制高校の寮生がドイツ文学に傾倒し、ドイツ語を隠語に使うように、
英国式の海軍、特に「士官である前に紳士たれ」をモットーに徹底した英国式教育を施された兵学校生徒は、
もちろん英語がペラペラだし、隠語は英語だらけだ。
188 :
179 :02/11/24 18:26 ID:+PucRdrm
>187 レスありがとうございます(くどいようですが、私は133ではありません。でももういいでしょう) 趣旨はわかりますが、共産や平和というのははたして敵性語なのでしょうか? その言葉は士気高揚の点から言って好ましくなかったのでしょうが、仮に敵性語 の範疇に入れるとしても、圧倒的大多数は舶来の言葉を日本語におきかえて使用する という性格のものであったのではないでしょうか。 私が疑問に思うのはその点だけであります。無知ではありますが。
揚げ足取りが楽しいは判るが、お前らはこの板に必要ないから出てけ
190 :
179 :02/11/24 19:05 ID:???
>186 >189 スレ違いの話を続けて申し訳ありませんでした。 もし187が必要と認めるならば、別のスレに移動しますが。
思想板にでもいけばあ?
活動家ウザすぎ 大体どう持っていきたいんだよ 日本軍は近代思想によって開かれた啓蒙的で近代的なものだった って言いたいの?それともその真逆ですくぁ どっちもウザいから出て毛よ
日本軍と特高、憲兵は微妙に違うのは確かだが 前者の思想を日本軍全体にあてはめてあった無かったと言う所に ウヨークとサヨークの微妙なオルグを感じる
陸軍と海軍ではまた微妙に違う罠 つーかスレ違いもいいとこだが菜。
たまに分かんなくなるんだけどさぁ 一体あんたらどうしたいの?無様に負けましたあるいは勇戦しました はー、で、それでどうしろと? 平和あるいは大和魂とやらを取り戻せばアメリカにでも勝てるのですか。 在日米軍追い出せますか。いい加減現実見たらどうよ。
196 :
133 :02/11/24 19:44 ID:???
正直スマンカッタ。反省したから粘着しないで本題に戻ってくれ。
>>197 歴史とやらを直視して現実の課題に何か見えてくる、なんてのがうそ臭いと俺は思ってる
からな。歴史研究は面白いぜ。はたから見てると。ただ
それを現在の問題に結びつけるのはいい加減どうなのかと
健全な日本人精神を取り戻せば米の戦後支配から抜け出せるわけ?
小麦粉急に作り始める日本人が増えるの?急に石油が出るとか、あるの?
世界は平和になりますか?
と俺は思ふのだ。
では仕切りなおしということで
純潔の日本人とかいう方も近視眼的にしか物をみれてないということでFA。 精神がどうとかいってる時点で思考停止なのでどうしようもないな。
再 開 ↓
ああ、良かった。イデオロギー闘争は終結したんですね。 また語り部たちが立ち寄ってくれるといいのですが。
203 :
USMARINES :02/11/25 00:56 ID:pcnaAUki
しばらく読まない間に凄いハナシになってますね…… 戦中派の親戚に囲まれて育った自分には不毛な論議に思えます。 「あの戦争は負けて良かった」 「負けたんじゃない。負けてやったんだ」 「チョン公(朝鮮人兵)は弱かった」 「台湾高砂族の兵は本土の兵より強かった」 「大卒の予備士官達は使いモンにならんかった」 「下士官達がだらしなかったから戦争に負けた」 みんな親戚達の言葉です。 通夜の席でそんな発言が元で老人同士の殴り合いになった事もあります。 叔父のようにインターナショナル歌う軍医もいれば、戦後修正史観のステロタイプのようなバカ士官も多数実在したと叔父さんは言ってました。 いろんな真実・事実があったと思います。 現在はその多くが墓の中で、文字に残っている僅かな事例が、その時々の都合でピックアップされているのだと思います。 そう言った意味で、この板は「こんな話があった」と劣化や歪曲の少ないエピソードを知る貴重な場です。 板に上がったネタをどう見るかは皆さんの自由ですし、感想を述べるのもまた自由でしょう。 でもかき回さないで下さい。 お願いします。
204 :
116 :02/11/25 01:02 ID:IvbZbsu5
今まで書いたのを一つにまとめます。又、書き忘れた事や最近聞いた事なども追加します。 又、間違いなどが有ったのでそれも訂正しておきます。長くなると思いますがそこはご勘弁のほどを(笑) 1947年一月27日生まれ。シリアル番号:AF12757565。 階級:入隊当時:Airman 除隊時:Senior Airman 父(私の祖父)はロシア系ユダヤ人。母(私の祖母)はポーランドから移民してきたユダヤ人。 ニューヨークのブロンクス生まれ。 父には兄(私の叔父)がおり、1966年に徴兵検査を受けた。 当時はまだそれ程検査が厳しくなく、又叔父は眼鏡を掛けていた為に不合格だった。 次の年(1967)に父も検査を受けた。その年から審査が厳しくなり、叔父と同じ視力で眼鏡を掛けていたにも関わらず、 合格してしまった。父は最初陸軍に入りたかったが、ニュージャージーに在る陸軍の養成学校は大変古く、暖房も無く、 又検査を受けたのが一月と真冬だった為、考えなして空軍の方に気が移った。幸い?軍のは父を空軍の軍用犬部隊に配属させる事に決定し、 ニュージャージーに在る空軍養成学校に入り、そこで訓練を受け、ベトナムに送られた。 ベトナムには1967年の4月から1968年の4月と丸一年ベトナムで過ごした。 父の役目は基地の周りを警備する事で、毎日犬(名前はデューク、シリアル番号9F44)と共に基地周りをパトロールした。 よくベトコンが基地を攻撃し、父も何回か戦闘に参加したと言う。ベトコンは決まって夜に攻撃してき、父曰く“銃声が聞こえてもどこから撃ってくるのか見当もつかなかった。” 続きは明日書きます。うざかったら行ってください。又誤字、脱字等があれば教えてくれると幸いです。何せ不慣れな者で...
まずはメール欄に sage と入れてくれ。意味はわからなくてもいいから。
>>204 気になるほど日本語に難はないし、興味ありますよ。
このスレも何か変な空気ですが
>>116 あまり
>>206 は相手にされない方がよろしいかと…
ベトナムで韓国軍がやった事・やらなかった事に関する大論争に巻き込まれる事になると思います…
209 :
名無し三等兵 :02/11/25 21:16 ID:60WlbOmR
俺のじーちゃんではないけど、俺が学生のときの先生で海軍の整備兵だった人がいて、空母「赤城」乗組で真珠湾、インド洋、ミッドウェーに行った人がいたよ。 魚雷の調整とかしてて、同時に南雲長官の従兵もやってて、長官に食事とかも運んでいたんだって。それで、例の赤城が被爆したときは艦内に閉じ込められたけど、かろうじて舷窓から脱出したんだって。 その後 搭乗員になって、一式陸攻に乗り、機銃撃ってたそうです。 本人いわく「撃ってる時は怖くないが、弾が切れた時、急に怖くなった。」そうです。 俺はそんな修羅場をくぐりぬけてきた先生をマジで尊敬している。
210 :
116 :02/11/25 21:45 ID:???
>>205 Sageって入れたら書き込んでも板のトップに表示されなくなるんですよね?
興味本意の荒らしが来るのを防ぐ為ですか?
>>206 ベトナムの韓国軍には余り詳しく有りませんが父に基地に配属されていた韓国軍について聞いたところ、
韓国部隊の一人がある村でベトコンに撃たれたそうです。そしたら韓国部隊がその村にやってきて、ベトコンを皆殺しにした後、
村民を皆虐殺し、鶏などの家畜まで全部殺した後村を焼き払ったそうです...
又どのアメリカ人の部隊よりもタフで強かった為、その部隊を尊敬していたアメリカ兵も沢山いたそうです。
>>207 有り難うございます。日本語に余り間違いが無くて幸いです。
確かに途中から変なイデオロギー論争になりましたね。最もそれももう終わりましたし、
あまり気に知なくても良いとおもいます。
>>210 206のものです レスありがとうございます。
あちらでの横暴振りを読んで一方向だけのものの見方だけでは
偏ってしまうと思い、また事実を知るものがどのような証言を
しているか知りたかったものであちらに書き込みをお願いしました。
しかし、凄まじいですね(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
212 :
116 :02/11/26 21:44 ID:???
>>212 ベトナム戦で韓国軍が強かったのは有名だから事実なんでしょ。
214 :
116 :02/11/27 01:10 ID:???
>>213 勘違いされておられるようですが、 <<まあ、父も当時聞いただけで実際見たわけでは無いので100%正しいとは限りませんが... は、 <<韓国部隊の一人がある村でベトコンに撃たれたそうです。そしたら韓国部隊がその村にやってきて、ベトコンを皆殺しにした後、 <<村民を皆虐殺し、鶏などの家畜まで全部殺した後村を焼き払ったそうです... の事です。
215 :
えぷぉん :02/11/27 21:20 ID:6t1oZv1J
漏れの曽祖父は身長が低すぎて兵隊に入れなかったらしい。
216 :
116 :02/11/27 22:36 ID:???
えー続きです。遅くなってしまいました。 これは母から聞いたんですが、父は1968年の2月にかなり大きな戦闘に参加したそうです。 240発の弾丸を持っていって戦闘が終わった時は全て使いはたしてたそうです... この時の事は父には直接聞いた事は無いんですが、聞いても良い物なんでしょうか? 聞いた方が良いとも思うし成るべく思い出させたく無い... 母に父の後遺症の事を詳しく聞いてみたんですが、結婚当初は毎晩うなされてたそうです。 暫くたった後も一週間に二回はうなされてたらしい。 ところが弟が生まれた後はぱったりうなされなくなったそうです。 もう後遺症は克服した思うんですが、 数ヶ月前に虚ろな目をして“知ってるか?曳光弾はとても奇麗なんだ。夜には花火みたいで美しい” と言った事があって背筋がゾッとしました。 私も突っ込んだ事は聞いた事がほとんど無いんですが聞いても大丈夫なんでしょうか? 宜しければアドバイスを...
217 :
116 :02/11/27 22:39 ID:???
すみません、文章が目茶苦茶だ...日本語に成っていない... あといい加減シツコイと思ったら言ってください。書き込みを控えますから。
>>116殿 個人的には大変興味深いので続けて欲しいのですが、貴方のお父さんにあまり 突っ込んだことを聞くのは良くない気がします。 フラッシュバックと言って、トラウマが急によみがえる可能性もあるので。
219 :
116 :02/11/28 23:08 ID:???
>>218 レス有り難うございます。続けさせてもらいます。
私もフラッシュバックが恐いのであまり突っ込んだ事は聞かない事にします。
この間バンドオブブラザーズを見たんですが、父の感想が“清潔すぎる”と言うものだったで、
父にとってベトナムは相当強烈な体験だったと思います。
他の皆さんも宜しければもっとお爺さんの戦争体験を書き込んでみてください。
そっちも大変興味深いので。何だか偉そうな口調ですみません(笑)
220 :
名無し三等兵 :02/11/29 19:38 ID:2RJILCSc
age
221 :
名無し三等兵 :02/11/29 21:52 ID:Axa0vLo8
私の祖父は小生が8歳の頃に他界してしまったのですが、祖父が生前話してくれた。物事を記憶の正しい限り再構築してみると、このようになります。 祖父は甲種合格で機関銃部隊に配属、中支から上陸し、転戦を続け南進。タイ・ビルマ国境の辺りで駐屯していたと、現在も生きている祖母からは聞かされております。 祖父は戦場で小銃弾を一発太ももにくらい、負傷をした経験があります。その祖父の太ももに埋もれた弾丸が摘出されることは死ぬまでありませんでした。 当時小さな私と遊んでくれた祖父は、酒に酔うと負傷した箇所を見せてくれました。それが自分の名誉の負傷なのか、二度とこんな事を繰り返すなというメッセージなのかは定かではありません。 その部分を指で突付っかせてもらった事があるのですが、弾力性がある他の太ももの筋肉や肉などとは異なり、冷たく硬い金属の感触であったことを、祖父の死後11年たった現在でも覚えております。 以上祖父は酒に酔ったときのみこのようのな事を話してくれた事を記憶しています。 現在日本が平和で、このように祖父たちの話題を昔話のように話していられるのも、死ぬような思いをして戦った兵隊さんや南方の島々で家族の事を思い、志半ばで亡くなった兵隊さんたちのおかげだと自分は信じて疑いません。 ガキであった為、祖父に孝行をしてあげられなかったので、尊敬する祖父に対するせめてもの、お返しとして祖父の命日には必ず墓参りをするように心がけています。 祖父がなくなったのは暑い夏の8月なので「じいちゃん今年も来たよ、今日は暑いね・・・」そんな事を言いながら、祖父の墓石に水をかけ帰るときも「また来年来るよ、じいちゃん」と祖父に敬意を表しつつ帰ります。 中途から祖父の戦争体験ではなくなり、自分の思い出話などに変わってしまい申し訳ございません。
222 :
名無し三等兵 :02/11/30 12:31 ID:qfEZ2pK3
スレッドの題目とずれてます。 皆さん原点に立ち返ってください
皆さん?
問題ないだろ、続けてお話をお願いします。
226 :
東夷 :02/12/01 01:15 ID:7tEkekn9
>>226 えっ、そうですか?
私が気にしすぎだったのかも...
キャップを覚えたので、これから使用します。
今日はもう寝ますが、明日は書き込むと思います。
228 :
名無し三等兵 :02/12/01 02:21 ID:OQZY8Wuq
うちの父親のほうの爺ちゃんは結核で戦争にいかなかった。 「すぐに死ぬと思ってたのに今でも生きてるから不思議だ。健康だった友達とかは みんな戦争で死んじまったのにな・・・」と言ってる。 うちの母親のほうの爺ちゃんは海軍。 イタリアで開戦したというニュースを聞いてかなりびびったらしい。 あと欧州では天皇のことを「ヒロヒト」と名前で呼んでいるのを聞いて以来天皇に 対する絶対的な敬意の念がとかれていったらしい。「ああ、天皇といえど俺らと 同じ人間なんだな」という感じで。 そんで欧州から今度はフィリピン(?)らへんに行ったんだけど、そこで船が沈没。 命からがら泳いで島にたどり着き、当時生まれた俺のおばちゃんの顔を見るまで死ねない という一心で生き延びたらしい。 母親のほうの爺ちゃんの話は母からの又聞きなので、正月には直接話が聞きたい。 昔はピンと来なかったが、今ではかなりすっげー生き様だと思うし。
229 :
名無し三等兵 :02/12/01 17:21 ID:y6kBlwVM
俺の親戚のジイさん(詳細不明)は陸軍のパイロットで3機撃墜したそうです。しかし、 得意技は待ち伏せで3機とも相手が油断しているところを落としたそうです。 スコアは小型輸送機と偵察機そして小型爆撃機ですが全部連絡機課も知れないそうです。 仲間内からは「辻斬り王」と呼ばれていたそうです。 本人曰く「43は長距離移動の時は信頼できるけど、戦闘となるとちょっと」 との事です。
>229 「辻斬り王」の名が可笑しい(w
231 :
名無し三等兵 :02/12/02 00:14 ID:CePxU8KX
漏れのじいさんは84歳で健在。陸軍大尉で終戦。 日厨戦争の頃から従軍してたそうです。あの南京にも占領後暫くたって立ち寄ったそうですが、 虐殺があったことには気付かなかったそうです。ただ、確かに捕虜の首を云々の話は あり、刀が曲るとか曲んないとか・・・・。終戦時はたまたまタイにいて、比較的いい待遇 受けてたらしい。武装は引き上げの船に乗るまでしていたそうです。ただ、ビルマから 逃げてくる部隊の人は悲惨だったそうです。 ばあちゃんの兄弟は4人中2人戦死して。一人は中国で、もう一人はあの硫黄島で 戦死したそうです。今でも護国神社の御霊祭りには、堤燈をだしてます。
>>231 硫黄島の日本軍の勇敢さは米軍海兵隊でも有名です。
貴方の大叔父に合掌。
父の部隊の同僚でThomas Shamboって人が居たんですが、その人がある夜パトロールに出かけたんです。 そしたら、人影を見かけて、Shamboさんはベトコンだと思ってライフルを取り出して発砲したんです。 その人影が倒れて、Shamboさんが確認しに行ったんですが、その人影はベトコンじゃなくてアメリカ兵でした。 まだ生きていて、すぐに医務室に運んだそうなんですが、分かったのは、驚いた事に銃弾は外れたんですが、 木か石に当たった銃弾が砕け、その銃弾の破片が頭に命中したそうです。すぐに医師が破片を取り出しその撃たれた人は助かったんですが、 ShamboさんはRule of Engagementとかを守らなかったとかで、軍法会議に掛けられ、サイゴンの軍刑務所に一ヶ月送られたそうです。 ちなみにShamboさんは今も健在です。
>>148 俺の爺さんも呉の海軍工廠で働いてたとか言ってたよ。
当時英語は敵性外国語ってことで禁止されてたってよく聞くけど、
戦後、爺さんが英語教えてたから実際はそうでもないのかな?
あと、ばあさんが『月月火火水木金』とかよく口ずさんでいたのを良く覚えている。
戦後、物も無く金も無く生活が大変だったこととか、いろいろ小さい頃によく話を
聞いていたんだが、当時の自分に今ほどの理解力が無かったことが悔やまれる。
生きていたら、面と向かってありがとうって言えるんだけどな・・・
>虐殺があったことには気付かなかったそうです。 やっぱりね
236 :
紫暗号 :02/12/02 13:58 ID:k6EFDz71
虐殺と言うより、ゲリラを処刑した時の首では?
237 :
名無し三等兵 :02/12/02 14:54 ID:jezAr48p
頼むからこのスレで南京大虐殺に対する考察なんて語り出さないでくれよ。スレ違いさん達のお陰で一時クソスレに化したんだからな。
まったくだ。ここは一次情報の収集が目的であって、それを分析して南京大虐殺が云々言いたい のであれば、南京大虐殺スレでやってくれ。 それ以前に、ここの一次情報であった・なかったと議論するのは無意味な事に気づけよ…
239 :
名無し三等兵 :02/12/02 17:17 ID:YCJhNhGt
自分の親父ですが(大正14年生まれ) 昭和19年6月に現地入営(武漢だが武昌だか、よく武漢三鎮っていってる) 丙種-足が悪かったのでまさか徴兵されるとは思わなかったらしい-、部隊名は 中支派遣軍呂師団自動車第32連隊といってたような(数字が違うかも) 重慶を目指して進む部隊だったようで、国民党軍を押し捲ってたとのこと。 中国兵は鍋と傘もって闘うから弱いとか、戦闘自体は勝ってたとか。 で、おもしろいのが、小隊長があの岡本太郎で当番兵で褌洗ってたって。 うそくせ〜と思ったら学生のとき週刊PB誌に岡本太郎が連載、そんとき偶然 戦地の話がでて、む〜〜〜と思ったです。 問題は米軍機の機銃掃射と補給(1日乾パン5粒)蛇、蛙はご馳走、食べられない 又は腹下す兵隊は戦病死。(実際に敵弾に当って死んだより多いって) んで終戦になっても山に篭っちゃって軍使を切り捨てたりでなおも戦闘中。 最後は降伏して、捕虜収容所に入れられた。 で、岡本小隊長はフランス語ができ、向うの将校と仲良くなって先に帰国、兵隊は ぶ〜ぶ〜言ってたとのこと。なお、捕虜収容所自体が中共軍に包囲されると、 押収してた武器を親父たち渡して攻撃させた。日の丸の旗を立てると戦意が上がり また、日本軍は強いってイメージがあるらしく、中共軍を何度も撃退した。 おそらく、この方面から引き上げる殿軍だったのだろう。日本軍は昭和22年まで 組織的に闘っていたのですよ大陸で。 で、ようやく引上げ船で下関港に上陸、原爆で100年人が住めないと噂のあった 広島を通ったときちゃんと若芽が吹いて人も住んでたので泣けたといってます。 で、漸く故郷に帰ったところで最初の仕事は死んだ戦友の家族に会って話しを することだったそうです。これが一番辛かったとのこと。
>239 うわ〜読ませるお話ですね。 岡本太郎のふんどし、自分だけ先に帰ってしまったこと等には 思わず笑ってしまいました(ゴメンナサイ しかし、お父様にはとにかく本当にご苦労様でしたと敬意を表したいと思います。 前線と銃後で亡くなられた方々にも黙祷。
>239 スレにふさわしいレスで読ませて良し。
242 :
名無し三等兵 :02/12/02 19:32 ID:k49K5j8L
やっとまともに戻り一安心です
243 :
名無し三等兵 :02/12/02 19:37 ID:/ukES+lb
自分の祖父は今で言う工業大学に通っているときに召集され、満州で陸軍の百式重爆「呑龍」の整備員をしていたらしい。その後侵攻してきたソ連軍に捕まり、シベリア抑留。 帰国後は就職した炭坑会社の援助で大学に入り直し、卒業後は炭坑の機械技術担当として働いていたという。頭の良い人だったらしく、平和の時であれば本当はなりたかった職業があったよう。 その祖父も昨春この世を去った。死ぬ前に会ったとき、皆本当に行きたい大学に行きなさい、と自分たち兄弟に言ってくれたのが心に残っている。 少々スレ違い気味になってスマソ。
244 :
ガイシュツか? :02/12/02 19:39 ID:k9bDmo8J
245 :
ガイシュツか? :02/12/02 19:45 ID:k9bDmo8J
ちなみにうちのおじいちゃんだが、海軍さんで駆逐艦乗り。 最終階級が少尉なので、なーんだヘボイと思ってたあの頃・・・ 特務少尉がどれほどに任官が困難かなんて知らなかったから・・・ カムチャッカで北方警備担当、あのあたりは海の幸が取り放題?で、部下たちが 家にいろいろな魚介類を送るのに、自分だけは拒否。 見かねた部下が、ばーちゃんに鮭?とかを送ってくれたらしい。 しかし、そんなじいちゃんがガキのころから自慢でした。 はなばなしい手柄話とかじゃなくてメンゴ。
>245 いやそんな事ないですよ。 シャケの話なども戦争の諸相のひとつでしょうから。 トンボだけじゃなくて魚も釣っていたんですね(なんつって
>>245 凄惨な話が多い中不謹慎かも知れませんがこういう話を見るとほっとします。
ばあちゃんは、部下の人はいろいろ魚とかイカ?とかを送ってくれたのに、おじい ちゃんときたら何も送ってくれなくて・・・ウチだって子供がいっぱいいたのに・・ といったニュアンスでしたが、こども心に(当時私は小学校低学年)、おじいちゃん は自分の地位を利用して、家族に食料を送ることを嫌がったんだな、と思いました。 その後、(戦時中の)先生が小学校の生徒に配るアンパンを自分の家に持って帰ろう として子供たちに捕まり、「実は先生の奥さんはオッパイが出ないのでアンパンを 食べさせてあげようと思った・・・」 みたいなことを言い、子供たちがアンパンをあげたと言う小説(誰か読んだこと無い ですか?)を読んで、ウチのじいちゃんに比べると・・・と思ったものです。 まあ、今にして思えば、どっちが正しいとか悪いとかいう問題でないのは分かっているん ですが。 スレ汚しスイマセン。
スレ汚しついでにもう一つ、じいちゃんは軍人時代、ばあちゃんのことを 「貴様」 と呼んでいたそうで、ばあちゃんはものすごく嫌だったそうです。
全然スレ汚しじゃないから気にしなくて良いですよ
うちの祖父さん戦艦に乗ってたらしい 乗ってた戦艦は沈められちゃったそうです。 沈められた時、海に浮いていると敵戦闘機の機銃掃射があり、 その都度水中に潜ったそうなのですが、浮いてこない仲間が大勢いたそうです。
252 :
USMARINES :02/12/02 21:33 ID:6VJDAHz6
叔父の話、続き。 戦前の事だと思いますが…… 年に数回、兵の家族達が駐屯地を訪れる、父兄参観日みたいな日があった。 故郷の家族達は、精一杯のご馳走を持って息子達に会いに行った。 駐屯地の運動場にゴザを広げて、兵達は母親が作ってくれたオハギやバッテラ、好物の手料理を頬張った。 叔父は軍医(士官)だったんで、兵士が対象のそんな行事と無縁だったかと言えばそうでもなかった。 救護所のテントでプカーっとタバコを吹かしていると、新兵が母親連れて 「軍医殿! 自分の母親であります!」 とか言って、お土産のお裾分けを持ってくる。 で、叔父は「すまんな」と言って旨そうに食べ、頭を下げる母親に 「○○君は元気で見込みのある兵士です」 とか何とか言って、母親以上に頭を下げていたそうだ。 これが数人ならまだいいが、10人単位となると、一種の拷問で…… 家に帰った叔父は「今日は何も食えん」と言って、パンパンに膨らんだ腹を刺すって早々と布団に潜り込むのだが…… 「ウチが作った晩飯が食えん言うンか! おおっ!」 とオカンに凄まれて嫌々晩飯食わされた(後に胃薬を用意するようになった)。 自分の母親(叔父の妹)は、旨いモン腹一杯食べて何を贅沢な……と思いつつ、ちょっと兄に同情したそうだ。 今夜はここら辺で。
253 :
USMARINES :02/12/02 21:35 ID:6VJDAHz6
訂正 刺すって:× さすって:○
254 :
名無し三等兵 :02/12/02 21:36 ID:78l8QC6h
きな、家の近ぐの吉野家さいったんず吉野家。 したっきゃ、なんだがさ人がっぱいで座らいねーんず。 んで、よぐ見だっきゃ垂れ幕さがってで、ふぇぐごんじゅえん引きって書いじゅーんず。 もうな、ほんずがと、バガがど。 ふぇぐごんじゅえん引きぐらいでいっつも来ね吉野家さくるなじゃよ、ほんずが。 ふぇぐごんじゅえんだよ ふぇぐごんじゅえん。 なんが家のやづみんなきちゅーし。 一家そろっで吉野家な おめでてーじゃ。 「とっちゃ、特盛り頼むじゃ」とかいっちゅーんず。 もう見でらいね。 おめ達や、ねぷた煎餅やるはんでその席空げろって。 吉野家ってのはもっと殺伐としちゅーべぎなんだね。 いづ Uの字カウンターさ向かい合っちゅーやづさやすめらいるがもわがんねー やすめらいるがふんじゃまがいるが、、そった雰囲気がいいんでねーんずな。 かっちゃわらしだば家さ引っ込んでろ。 で、やっと座るにいいがと思ったっきゃ、となり奴が、つゆだぐけじゃ〜とか言っちゅーんず。 そごでまんだブヂ切れだべさ。 なーよ、つゆだぐだの今時流行らねんだいな、ほんずこの。 なにいい面してつゆだぐけじゃ〜、よ。 吉野家通のわぁがら言わさへりゃ今、吉野屋通での最新流行だっきゃやっぱし、 白、これだねな。 大盛り白ギョク。これが通の頼みがだや。 白ってば白飯だげ。そんかわり肉も汁もなんも入ってね。これや。 で、それさ大盛りギョク(玉子)。これ最強。 だばってこれとば頼むど次がら店員さ目とば付けらいる諸刃の剣。 素人さだっきゃ薦めらいねな。 まぁ、おめみてった素人だば、十万国でめぐねウニでも喰ってろってごったね。
255 :
名無し三等兵 :02/12/02 22:34 ID:UM4ckh/0
おじさん(母の兄)は昭和2年生まれで予科練に入ったそうです。そのとき秋水の 飛行を見たといっています。垂直上昇と言って、当時では凄い離陸をしたけど すぐにエンジン音が聞こえなくなり、そのまま墜落、パイロットは殉職したそうです。 ただ、本によると、昭和20年7月7日となっているんですが、おじさんは5月の末だ と言い切ります。 また、自分は大正16年生まれと言い、理由は昭和生まれと言うと軍隊では 昭和生まれの若造となめられ、また、昭和生まれは成っとらん!と制裁を加えられた からだそうです。今も元気なおじさんは軍隊大好きで、たまに会うと軍隊時代の話を してくれますが、一晩に同じ話を4,5回は聞かされます。
シナ事変に従軍したらしい 汚い金鶏章(?)残っているけど もらった理由を家族誰もしらない・・・。 聞いとけばよかった・・
257 :
名無し三等兵 :02/12/03 00:09 ID:gXOm/6Lb
実は私の親戚が軍人だったらしく、帝国海軍の戦艦陸奥の写真が出てきました。 写真の上方中央には菊の御紋、左上方には昭和天皇の御真影が円縁で 映っています。 土蔵を解体していた時に出てきたもので、書類関係などもでてきたらしいのですが 全部すててしまったそうです。。。はぁ。 他にも軍刀などもでてきたのですが金目のものは全部本家の方が 持っていったらしいです。 一体こういう写真がどういった経緯で出来たのか知っている方是非教えてください。 教えて君の厨房ですが、お願いします 山本五十六と一緒に殉死した参謀だったらしいです。 詳しくはわかりませんが。
258 :
名無し三等兵 :02/12/03 00:11 ID:zrqubmqG
俺の父方の祖父は支那事変の時と大東亜戦争勃発時と2度従軍し、後者はラバウルだったそうだ。結婚してたのにラバウルで女の人と関係を作っちゃったもんだから復員した時に祖母に無茶苦茶怒られたって言ってたな。こんな話ですみません。
260 :
名無し三等兵 :02/12/03 00:18 ID:zrqubmqG
艦船で生き残った方がいる人は運がいい。生存者がいない艦艇もあるんだから...
>>257 竣工式の記念写真かな。
それが戦前のものなら、出入りの写真館が写したブロマイドみたいなものかも
知れません。
特に観艦式の際には、そう言った写真を出入りの写真館が写して、土産物として
売ったこともあったようです。
流石に戦時中はそう言う事は出来なくなっていますが。
262 :
名無し三等兵 :02/12/03 01:28 ID:PlN5cBJ1
私の祖父は重機関銃兵でした。 「機関銃は3つに分割して運んでいた」 「弾は30発ずつ装填するようになっていた」 「うち続けると、銃身が焼ける」 なんてことを当時10歳の時に聞いて、軍事のことを知らなかった私は、 でかいってことは、当時は武器に関する技術が進んでいなくて、 小型化できなかったのかなあとか、なんだ、30発しか入らないのか とか、銃身が焼けるなんて、結構ボロだったんだなぁとか思っていました。 (当時は、戦争映画みたいに、腰ダメで何百発でも撃ちまくれるものだと 思っていました) しかし、軍事の知識を得ることにより、決してこういう兵器がボロいわけでもなく、 重機関銃ならやむを得ないということに気がつきました。 本当なら、すぐに祖父の所に行ってお話しをいろいろ聞きたいところなのですが、 現在の私は鬱病にかかっていて、無職です。 そんなときに、祖父祖母に会いに行ったら、余計な心配を掛けてしまいそうで…。 だから、病気を治して、ちゃんとした職に就いたら会いに行こうと思っています。 せめてそのときは、もう一度詳しいことを聞きたいです。 鬱病は死と隣り合わせの病気です。(自殺の可能性が飛躍的に高くなる) だから、お互い「死線」を越えた者同士、きっと分かり合える部分も あるのでは…そう思っています。 祖父は、未来を信じ引き金を引き続けたと信じています。 私も「よりよく生きたい」とやはり未来を信じ、勉強などの努力をしてきました。 (その結果鬱病になってしまいましたが…。) その点の共感もできるのでは?とも思っています。
私の貧弱な日本語では掛ける言葉が見つかりません... 私に言えるのは自分が出来る範囲で頑張って下さいと言うことだけです。
猫侍は精神科勤務ですので・・一言。
>>263 さん
鬱病に実は「がんばれ」は禁句なのです。
何もしなくていいですよ、がいいかも。
>>262 さん
無理に病気を治して、職を見つけようとしないのがいいですよ。
鬱病の度合いにもよりますが、ほとんどの場合は
無意識なプレッシャーが自分の病状を悪くします。
もし症状が悪くなれば、祖父母は無職のあなたよりも、病気の進んだあなたを憂うはず。
病気になることは悪いことでも何でもないことです。
職があるのはいいことですが、、健康は財産です。
職の替えはあっても心の替えはないので健康を大事にしましょう。
スレ違いスマソ
265 :
名無し三等兵 :02/12/03 02:40 ID:P8ujJQuZ
>>257 それが本当ならいろんな意味で凄い祖父をお持ちで。山本五十六と一緒に殉死したなら、場所は忘れたけど、1943年に前線視察に一式陸攻で行く途中で、暗号を解読して移動日程を掴んだアメリカ軍のP38に待ち伏せされて撃墜され殉死、ってことだよね。
同行の将校がいたって話は聞いたことなかったけど、確かに元帥がお供無しで行くのは不自然だからおかしい話じゃ無いよなぁ。調べたら名前すぐ出てきちゃいそうだね。恨むべきは旧軍の暗号技術の低さと、一式陸攻の防御力の貧弱さかと。
266 :
名無し三等兵 :02/12/03 09:21 ID:gXOm/6Lb
>>261 さん
ありがとうございます。納得しました。
みやげ物にしては出来が良いので、みやげ物とは思いませんでした。
>>265 祖父ではないんです。苗字も違いますし。枝分かれした分家の子孫です。
私が直系なら曽祖父にあたるみたいです。
でも直系の血はもうすぐ絶えそうです(悲
軍刀なんかも数本ありました。さすがにそういう良い物は貰えませんでしたが(笑
267 :
名無し三等兵 :02/12/03 11:11 ID:y2ImHiAt
>>240-242 レス感謝です(^^)
自分が厨房のころまで戦友会のハガキが定期的にきてましたが、
1回も出席しなかったみたい。カナーリいじめにあって辛かったのかな。
ガキの頃のTVで「どてらいやつ?」かな、内務班で主人公がやたら
ビンタされるシーンとかで「そ〜なんだよな、こういう嫌なヤツいたんだ」
とか言ってた。旧制中学でだったんだけど、それもいじめの理由だった
らしい。あと、コンバットとかで兵士が隠れてるとクシャミだか音出して
戦闘になるんだけど「生きるか死ぬかであんなことするか!ばか!」とか
マジで怒ってたな。夜襲のときはツバを飲む音も気にしたと。
あと、戦車はあったの?って聞いたら「チッ、ハッ」って言ってた。
なんだかわかんなかったが、「チハ」という戦車らしい。
持って歩ける機関銃はどんな型でも「カービン銃」といってる。
負けると思った時は?と聞いたら「ちぇっこ」という敵軍の銃とか装備が
すごく良くなってる、制空権がなくたまに友軍機が飛んできても
脚付きの飛行機で、見た目米軍機に勝てそうもなかったっていってた。
こないだ温泉にいったらそこの温泉宿が岡本太郎の定宿だったらしく、
その当時の話を宿の主人に話したら、岡本さんのご家族の方から
お話を伺いたいとかのハガキが来たって。長文スマソ
>>267 「ちぇっこ」とは中国国民党軍が輸入して日本軍を悩ませた通称チェコ機銃
ZB26の事か。英軍のブレン機銃の原形にもなった優秀な軽機関銃で、大陸では
陸軍の一部も捕獲兵器として重用している写真があるが。
269 :
紫暗号 :02/12/03 12:17 ID:6dRHWlPM
チェコ機銃ってドイツが輸出したものだったけ?間違いだったらすいません。
270 :
名無し三等兵 :02/12/03 18:03 ID:GKVaka4E
>257 山本五十六大将と一緒だったなら殉死じゃなく戦死です。 1943年4月8日あ号作戦中の前線基地ブイン基地にラバウルより 前線視察中アメリカの待ち伏せに合い乗機の一式陸攻が撃墜され 戦死されました。 1番機(山本五十六乗機)全員戦死 2番機(宇垣纏中将乗機)3名生存 でした。 当時この2機に搭乗していたのは連合艦隊司令部職員の殆ど全員でした。 調べれば戦死された全員分かりますが調べましょうか?
知り合いのおじいさんの話 赤城に乗って真珠湾攻撃にいったそうです。 赤城は燃料が多く積めなかったらしく、 不足分をドラム缶に入れ通路とかにまで積んで行ったそうです。 途中、天候は大荒れで艦体に亀裂が入るほど揺れ、 真珠湾攻撃にはとてもじゃないが行けないと思ったそうです。 ちなみにこのじい様はミッドウェーで赤城が沈む時も乗っていたそうです。
頼むから、116はこれ以上自分の日本語の程度が低いとか言わないでくれ。 自分が低いと思っているのは十分わかったから。 それに、あんたの日本語の程度は決して低くないんだから、もう少し自信持ってくれ。 謙遜も、過ぎると目障りになるぞ。
274 :
名無し三等兵 :02/12/03 19:47 ID:NM8G//Wd
ひーじーちゃんの話でも良いですか?
275 :
116 ◆tr.t4dJfuU :02/12/03 19:48 ID:VAuLq4aJ
276 :
274 :02/12/03 20:18 ID:NM8G//Wd
んじゃ、ひとつ。 僕の母親の母親の父親の話。 広島生まれ。16歳にして学校の先生となる。 日露戦争に従軍し、旅順で伝令をしていたとのこと。 戦友に英語を熱心に勉強しているのに触発されて自分も始めた。 日露戦争後、地理を専門とし、地理教育の充実に奮戦する。 西日本各地と朝鮮半島の学校を転任し、太平洋戦争が始まるころに広島へ戻る。 広島の女学校の校長をしていたが、8月6日、朝礼中に被爆。 翌日、生徒達に看取られ、亡くなったという。 広島に新型の爆弾が落とされたという知らせを聞いた祖母(僕の母親の母親)は、 当時大阪に住んでいたが、急いで広島へ向かい、焼け野原を歩き回った。 そんなことがあったため、うちの母親は生後すぐ、 アメリカの軍医に胎内被爆児(って言うのかどうかしらんけど)の検査を受けたらしく、 ERなんかを観ながらいつも自慢する。まあ、典型的な外人コンプレックス。 ひーじーちゃんの話といってもこれだけなんで、ついでにじーちゃんの話も。 みなさんの祖父殿みたく、武勇伝があるわけではないのですが。
277 :
274 :02/12/03 20:18 ID:NM8G//Wd
(続き) その祖母と結婚した祖父も教師で、英語や数学を教えていた。 第2次大戦中は教師ということで終戦直前まで徴兵を免れた。 終戦3か月ぐらい前に徴兵され、九州の部隊へ配属され、実戦へ出ないまま終戦を迎えた。 僕の母親は2人兄弟で、兄、僕から見れば伯父が居るのだけど、 その伯父が生まれる前に、実はもう独り男の子が生まれていたらしい。 だが、戦中の栄養が良くない時分だったせいか、生後間もなく亡くなったという。 祖父はその徴兵のためにその初子の誕生と最期に立ち会うことが出来ず、 軍を非常に恨めしく思っていたようだ。 そのことと、上官の態度が横柄で気に入らなかったことが、戦争にまつわる口癖だったらしい。 父方の祖父は、日中戦争に従軍中、肘に被弾し、除隊。 徴兵される前は地元でも有名な宮大工だったが、その怪我が原因で満足に仕事が出来なくった。 帰って来た後はすっかり生きる気力を無くし、映画館のビラ貼りの仕事をして日銭を稼ぐ程度で、 あまり仕事には意欲を示さなかったという。おかげで父親は相当貧乏な少年時代を過ごした。 中国での軍隊経験やその負傷がトラウマになったのか、戦争中の話はほとんどしなかったと言う。
すいません、心配事があるので苦言をひとつ。 もちろん私も昔の話が好きで、時に祖母に聞いたりしますが、 人によっては、みなさんご存じだと思いますが、フラッシュバックという現象が起きます。 各人によっては思い出すもおぞましい過去もあるかも知れません。 精神科では、そういう傷ついた人は自分から喋るまで、 あるいは長い長い時間をかけ、時には気が遠くなるような時間までかけて その過去の傷が癒せるプログラムを布いています。 過去の傷というのは本人が死ぬまで深刻な問題を背負わせるということもあります。 私も祖母が話したくないようなそぶりがある時は、 あまりそれ以上はつっこまないことにしています。 もちろん喋りたい、訴えたいという人の話を聞くということは 素晴らしいことなのでいいのですが、 中には、当時の傷が今でも残り、あまり話したくないという人達も居ると思うので、 そういう人と話をする際にはお互い気を付けましょう。 ここのスレに水を差したらスマソ
279 :
名無し三等兵 :02/12/03 21:07 ID:LVi0cl0N
じいちゃんは中国で盲腸(虫垂炎)の手術をしたそうで麻酔無しだったそう。 今でもフランス軍の将校から取り上げた革の手袋と乗馬用の鞭がある。
116です。どうでも良い事ですが私の祖父は両方とも私が生まれる前に亡くなりました。 母方の祖父は中国に行ったそうですが詳しい事は何も知りません。 父方の祖父は第二次大戦には行ってませんが大叔父が二人行ったそうです。 一人は欧州前線、もう一人は太平洋で爆撃機の通信手をしていたそうです。 これも詳しい事はわかりません。
281 :
名無し三等兵 :02/12/03 22:29 ID:yHYxLJKF
10年程前に亡くなった曽祖父は、騎兵科所属で満州にいたそうです。 1度だけ軍刀を見せてもらった事がありますが、刀身に傷があり、 馬賊に狙撃された時にここに当たったんだと教えてくれました。 この刀を持っていなかったら大怪我をしていたと言っていました。 後に昭和18年頃から鉄道輸送の部隊に転属となり、広島へ。 次いで昭和19年頃に名古屋へ転属しており、 満州・広島を運良く離れていたようです。 最終階級は陸軍少将か中将。 潔さのなせる事か、戦後は一切の仕事をしなかったそうで、 その分曾祖母が苦労していたとのことです。 自分の記憶の中の曽祖父は、あの世代にしては洒落た人だったようで、 遊びに行くといつもコーヒーとビスケットを勧めてくれていました。 水彩画が趣味だったようで、いつも絵を書いていましたが、 消しゴムのカスを払うのに使う羽毛のハケが、 実は騎兵の軍装の羽根飾りだったとかそうでなかったとか・・・。
282 :
名無し三等兵 :02/12/03 22:57 ID:OJfiDtgR
親父は昭和19年に門司から南京へ赴任した。 関西人なんだが、船の関係なんかで皆門司に集められたそうだ。 船の準備が出来るまで何日かは港近傍の民家に4,5人づつ泊めて もらい、そこの人達にはすごく良くして貰ったとか。 運良く潜水艦にも沈められず、南京へ。15センチ榴弾砲付の 若年兵ではじめは馬の世話ばかりしていたらしい。 南京は中国人にとって首都として象徴的な意味があったので 終戦時は八路軍が攻めてきてにらみ合いになり武装解除どころ じゃなかったらしい。結局昭和21年まで膠着した上でようやく 武装解除できたとか。 親父いわく 軍隊はとにかく最短距離で進むので、武装解除のときも 八路軍との約束の場所にまっすぐ進んだ。 そこで武器を渡して帰ろうとしたら、中国人の農民が 竹やりや鎌で脅すんだそうな。そのとき初めて歩いてきた 道が畑で5センチくらいの麦の芽が出てることに気がついた とか。結局帰りはあぜ道沿いを大回りして帰ったらしい。 陣地をつくれば家は壊すし、行軍すれば、畑も歩く しゃーないやないかと言ってました。 ちなみに今でもデアゴスチーニのワールドウェポンを 買って読んでるお茶目な親父ですが(笑)
270、272さん有難う御座います。背景良く分かりました。 是非調べて頂きたいです。 その他、山本元帥といっしょじゃなく、同時期に亡くなられた 中将か中佐を調べていただくことは可能でしょうか? 272さんから教えていただいた参謀様では、苗字が異なる為違う可能性が高そうです。 実は最近そういう事を知ったものですから情報が錯綜していて。 祖母、母ならまだしも私が直接その親戚に聞くのは失礼ですし(^^; 母などには電話してそれとなく話を聞いたのですが 参謀とは聞いたが中将か中佐かわからない、との事。余り興味もない、などといっておりました。 遺族年金は今だに頂いておるみたいです。
>>280 アメリカ軍として戦われたお父様と祖父の兄弟の方の従軍体験も非常に参考になります。
ベトナムの従軍体験はさすがに壮絶ですね。
285 :
名無し三等兵 :02/12/05 20:12 ID:ffLuCMO1
定期age
286 :
名無し三等兵 :02/12/05 20:47 ID:+3z2Lfjr
今年亡くなった俺のじいちゃんは水戸歩兵第二連帯所属だったそうな。 除隊?でたまたま内地に戻っていた時に 部隊はぺリリューへ・・・・ 戦友達は全員玉砕したそうな。 「サクラサクラ」という連隊最後の言葉を語る時のじいちゃんは いつも目に涙を浮かべていた。 あの世で戦友会しているかな? あ・・・涙が・・・
287 :
名無し三等兵 :02/12/05 20:49 ID:Ve93wwfB
おれは朝鮮攻めに逝ったときけっこうヤンチャしてきたぞ。 まあ、若くて見た目普通な女はレオプしてちゃったね。 数百人はいくと思うね。 それと、人を殺しまくったよ。 抵抗できない女子供でも眉ひとつ動かすことなく殺しちゃった。 赤ん坊を銃剣で串刺しにしても罪悪感はなかったよ。 その後の酒はうまかったよ。
朝鮮攻めってなんだ(ワラ
>>287 成る程、つまり君は現在430歳位なわけか。
>>287 霊に憑依されたか・・・
お祓いしてもらえ!
287は考え中と思われ。
高麗が元に攻められ滅びた時の霊だろ?
僕の祖父は皆さんの御祖父様のように死を賭して皇国を守った経験はありませんが 某重工で技術者をしていました。 新型エンジンを作っている所で終戦したらしいですが。 やっぱりその時代にもスパイはいたそうです。 その詳しい事は聞けず亡くなってしまいましたが、今思うと残念です。
294 :
名無し三等兵 :02/12/06 20:59 ID:Nkzxagvw
おれも朝鮮に攻めに逝ったよ
296 :
名無し三等兵 :02/12/07 03:03 ID:U00R7gcW
知り合いの、当時名古屋で女学生だった人の話。 たぶんドゥーリットル爆撃のことだと思うが、 戦争が始まってそれほど時間が経ってない頃 とても小さな空襲があり、(終わった後で空襲だということが分かったそうだ) クラスメイトの家が焼け(運の悪い話だ) 毛布などをクラスでカンパしたそうだ。 で、そのうち勤労奉仕に借り出されるようになり、 市電の車掌としてや、軍用機の鋲を作る工場で働かされた。 工場を狙った爆弾のために 違う種類の鋲が床に落ちて混ざってしまうと、 全部作業台の端から立てて並べて 一本ずつ長さをチェックして整理し直したらしい。 (この人は工場では、鋲の数を帳簿につける仕事に回されていたそうだ)
297 :
名無し三等兵 :02/12/07 03:04 ID:uWo6J0mg
俺の爺さんは「麻布三連隊」・・ あの2・26事件の帝国陸軍第一師団歩兵第三連隊です。 麻布三連隊は沖縄の宮古島で終戦を迎えたんだが、 同じ第一師団の第一連隊はフィリピンで玉砕・・・・。 爺さんも下関から沖縄行きを告げられた時は死を覚悟 したそうですが、配属先は激戦地沖縄本島ではなく宮古島。 いろんな運が積み重なって今の俺がいるのかと、しみじみ思います。 そんな爺さんも年に一回九段で行われる「歩三会」には 曲がった腰にも関わらず元気に参加してます。
298 :
296の続き :02/12/07 03:41 ID:U00R7gcW
そのうち空襲がひどくなり岡崎に疎開し、 工場もそちらに移った。 しかし肝心の材料が全く届かなくなり、 そのまま待機状態で終戦を迎えた。 あと、爆弾の直撃を食らった近所の家の庭の木に 住んでた人のものと思われる肉片が引っかかってたとか、 知り合いで防空壕の中に子どもを隠し 自分は外にいた親本人が無事で かえって中の子が死んでしまった家族があったとか、 その他いろいろ聞いたが長くなるので割愛。 またこの人のお兄さんは 大陸で輜重兵をやっていたが、 才能を見込まれたか何かで 後で暗号解読の方に抜擢されたそうだ。 以上、ややスレ違い&長レススマソ
299 :
名無し三等兵 :02/12/07 19:56 ID:P6YuZF/c
桜金三のじ〜ちゃんは、紫電改の設計者だったらしい。
300 :
S :02/12/07 19:59 ID:FnI5dFDq
まあ、そんな事より聞いてくれよ、1よ。 あれは俺がまだ中学の時だ。 友達三人で森に行き、銃でBB弾で撃ち合う遊びをしてたんだよ。 よくある遊びだ。 三人しか居ないってんで仕方なく2対1になって遊んでたんだ。 俺は運良く、相方が付いた。 で、隠れながら敵を探し、見つけたとばかりに撃ち込んでだんだよ。 隣を見れば、相方も気付いて、乱射してるじゃないか。 そう、もう集中砲火よ。 で、敵はどうやら弾が切れたが詰め替える暇が無い様だった。 そりゃそうか、こっちはひとりが詰め替えてる間に相方が撃ちっぱなし、 それのくり返しでいいんだ。 そのうち、「痛い、やめて!痛い、やめて!」と敵が叫んでる。 …そう言われてやめられるわけが無い。 俺達は丸腰の敵を撃つ快感に頭をやられ、奇人の様に撃っていた。 そのすぐ後、事件が起きた。
301 :
名無し三等兵 :02/12/07 19:59 ID:m7EeezS1
俺のダチのジーちゃんは、中国戦線でも便衣兵に3度襲われた 何でも1回目は後ろから銃撃され 2回目は、老婆がいきなり手榴弾投げてきて 3回目はガキが銃撃って来たりしたが、何故か怪我ひとつ負わず無事終戦を 迎えた
303 :
S :02/12/07 20:18 ID:FnI5dFDq
コピペじゃない。 「ぎゃ!」と敵が叫んだかと思うと顔を押さえうずくまってしまった。 さすがに俺達はなにかあったと思い、側に駆け寄り「大丈夫か?」などと 心配してみせた。 彼の眉間にBB弾が当たったのか 丸く凹んで、血が出ていた。丁度、眉間のど真ん中で その面はインド人、いや仏様の様に見えた。 それを見た時、俺達は爆笑した。 翌日、彼の親が学校まで来て とても大きな問題になった。 しかし、校長室で三人とそれぞれの親がいるその状況でも 俺達は彼の眉間のど真ん中の丸いかさぶたを見ては 笑ってしまい、叱られていた。 良い思い出をありがとう。
>>303 スレ違いにも程があるサバゲー板へどうぞ。
305 :
S :02/12/07 20:23 ID:FnI5dFDq
>>304 んだと、コラア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
>>305 ×コラア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
○(゚Д゚)ゴルァ!!
俺のじいちゃんは佐世保の三菱系企業技術者だった、 昭和16年の11月、至急の工廠指定の作業を艦内で行うよう指示され「航空母艦」に乗船した。 不眠不休で改造作業を行ったが指定日の26日に完了とは成らず、他の工員は下船させられたが、俺のじいちゃんは完成させるため残った。 航空母艦が雪降る停泊地から汗が吹き出る南へ進む間も一人で黙々と作業を続け、91魚雷改造が終わったのは十二月七日だったそうだ。 額に入れてある連合艦隊司令長官感状の事を聞くといつもこの話をしてくれた。
309 :
名無し一飛曹 :02/12/07 23:38 ID:e0idQO28
じゃあ308のじいちゃんの頑張りで ウエストバージニアやアリゾナ沈める事が出来たのか。
age
311 :
名無し三等兵 :02/12/08 00:52 ID:o/qpEuKx
>>299 徹子の部屋では、紫電と言う戦闘機をを強風と言う水上機に設計したと
言っていた。(様な気がする)
戦争の時中国にいたらしい。 南京大虐殺に関わってると思うとつらい。
>>311 強風と紫電が逆だ。水上機から局地戦闘機を派生させた。
314 :
名無し三等兵 :02/12/08 01:21 ID:KOKSbUf1
同居中のうちの父方のじいさんは終戦時陸軍一等兵だった 沖縄、台湾、満州、と移転して生き残った運の良い人だ。 機関銃兵だったので移動のときが一番苦労したそうな、 ちなみに昼間は艦載機が危ないので移動のときは決まって夜だった。 一度、休憩の時間に疲れ果てて眠りこけてしまい、起きると周りが静かなので 「置いていかれた」と焦ったらしいが、よく辺りを見ると中隊長以下全員 眠っていたそうなw それ以外は大抵蛸壺なんかばかり掘らされていた。 しかし、一度伝令で中隊(だったか?)本部にいって戻ってみたら、その間に 空襲にあったらしく、ほとんど全滅に近いことになっていたらしい。 今でもそのときの話はよくしてくれる。 そして母方のじいさんは、終戦時はまだ教習中で戦地には行かないで済んだ、 こちらもまた機関銃が担当で、何でも適正試験のときにたまたま機関銃で全弾 的に当たったらしく(その頃には訓練での弾丸も節約されていて一人当たり 2〜30発位しか撃たせてくれなかった)教官に褒められたそうな。 空襲時にはどこかの婆さんが腰を抜かしていたので、おぶって焼夷弾の中を 逃げ回ったそうだ。 父方のじいさんは今も元気過ぎる位健在で、今でもよく話を聞かせてくれる。 今では『同期の桜』を聴いて涙ぐむ程の俺だが、 厨房の頃サヨに汚染されかかった時にひどい事を言ったのが恥ずかしい。 まだ元気な内に謝れて良かった。
315 :
名無し三等兵 :02/12/08 02:34 ID:LMkmQUcM
このスレをみてたら 日本軍版バンドオブブラザーズをキボンしたくなった
316 :
日本兵 :02/12/08 03:19 ID:ekvGl6mK
昭和11年に召集され陸軍の自動車部隊へ、 中国で終戦まで鉄砲一発も打たなかったと言ってました。 サイドカーにチャンコロのせてかっ飛ばしてたら 自軍のトラックとニヤミス避けたら田んぼに落ちて名誉の負傷、 横に載ってたチャンコロに「タイレン 大丈夫あるか」と助けられ病院へ 入院先でタバコおぼえた、入院中暇でひまで支給されたタバコ吸ってみた。 食料、ガソリン等兵站に不住はなく、 歩兵部隊はトラックを貸してくれ航空隊は部品を回してくれ と手土産持って頼みに来る。自動車部隊はかなりえばって居られたようです。 大戦が始まる頃はもう古参兵で(日本刀装備) 特にいじめは無く新兵に尊敬される存在だったらしい。 他の戦線は知らんが かなり楽な戦争してたみたい 南京大虐殺の事を聞いたがぜんぜん知らないと言ってます、 大同とかに居たらしいので知らなくて当然かも
317 :
日本兵 :02/12/08 03:19 ID:ekvGl6mK
戦友が捕虜のチャコロ列車で移送中に居眠りこいて 日本刀奪われそれでチャンコロに殺され 逃げられたと悔しがって降ります。 大戦中も戦闘に巻き込まれること無く終戦。 引き上げ時部隊指揮して二台のトラックで移動中 徒歩で引き上げ中の民間人一行と遭遇かなり悲惨な状態で 見かねて部隊を一台のトラックに押し込み もう一台と食料を民間人に一行に渡し一緒について来いと 言ったのだが(民間人だけでの移動はかなり危険) 目的地が違うと言うことでそこで別れた、その後彼らが どうなったかは不明。 連合軍に投降(米軍ねソ軍じゃなくてよかった)武装解除 そこで金目な物は全て米兵(3等兵)に取り上げられた日本刀・時計など 長い事中国に居たのでかなりおたからを私物として持っていたのだが 全て取られたと泣いてます。日本刀も国の兄より送ってもらった貴重品 悔しい。 他の戦線からして見れば天国のような所だなとオモイマスタ。
爺さんは北支から中支へと転戦した。小学生の頃よく話を聞いたものだ。 徴兵されて金沢の師団に入り、最終階級は陸軍准尉だったかな。 メシを食いながら談笑していたら隣の奴が狙撃されて死んだり、 馬を引いていたら中国軍?の飛行機に銃撃されたり、 捕らえた便衣兵を銃殺したり(人間を殺して死体を確認したのはこれが唯一とか)、 そういう話より、支那大陸の自然、大きさ、食い物の話が多かった。 昭和19年頃、中支のある村での出来事。 村人に駐留するから世話して欲しいと交渉したら、何と戦争をやっていること自体知らない。 八路軍や国民党と間違えられたことは多いが、ここまでのん気な村は初めてで呆れた。 「おい、もうこんな所から帰ろまいけ」 「言うても命令やし、どうにもならんちゃ」 「だらくさいの〜」 山口の下関に戻り、原爆投下直前の広島を経由して、何故か盛岡で終戦を迎えた。 戦後は大阪で商売を始めた。軍刀は進駐軍を恐れた兄に捨てられてしまった。 行きつけの銭湯の長男(無職)が共産党かぶれで、得意気に軍人の悪口を言っていたものだから 口喧嘩になり、最後は言い負かしてやったとか。 爺さんは富山で健在。85歳。愛車のカローラで毎日ゲートボールしに出かけているみたい。
319 :
名無し三等兵 :02/12/08 19:55 ID:wHKz8HTw
>>313 桜金蔵がそのように語っていた。
320 :
名無し三等兵 :02/12/08 20:56 ID:G09rRi4J
岐阜で飛燕作ってたそうだ。 そのときの上司というのが東条の弟(甥だったかも)だったらしい。 似てたらしいよ。 こんなのでもいいの?
321 :
続、兵隊おたく :02/12/08 21:39 ID:fm2T9Jay
俺の爺さんは昭和12年、召集され歩兵104連隊で分隊長として勤務。 上海上陸、南京攻略に参加したが、昭和13年10月大別山系の戦いで 手榴弾にやられて名誉の戦死・・・ 戦歴を調べ、子孫でそれを知っているのは俺だけになってしまったよ。 オマケで二人の知り合いの爺さんの話。 ひとりはガダルカナルで撤退の際引き上げの駆逐艦最後のランチに乗り 込もうとしたが「定員一杯だからオマエから後ろは残れ!」と言われた そうだ。彼は”このままでは生きて帰れない”と思い、わざと前に並んで いた戦友を桟橋から海に突き落とし、助けるために自分も飛び込んだ。海 に落ちた二人をそのままに出来ないのでランチは二人共引き上げてもらい 駆逐艦に乗り込むことが出来たそうだ。後に残った者がどうなったかは・・・語るも涙。 もうひとりは中島飛行機太田工場でゼロ戦等の組立作業をしていたが19年末に 徴兵されて立川の陸軍航空隊に配属。20年3月の東京大空襲で真っ赤になった 空が印象的だったそうだ。その時、東京の市場にあった食料が行き場を無くした末、 軍に引き取られ、当時には考えられない肉や魚がどっさりの豪華な食事がしばらく 続いたそうだ。
祖父は大和乗り組みだった。 はじめてその事を聞いた時に「じゃあい●か●だ●に 行ったんだ!すげー!」と叫んだ 当時の自分に回し蹴り。 だがその祖父も、大和の思い出を語ってくれと言うと 「艦長が格好よかった」という意味のことしか言わないので、 おあいこかも知れぬ。 なおこの場合の艦長は、話の内容から察するに 四代目の森下信衛さんを指している確率が高い。
私はかつて歩兵49連隊にいました。 ノモンハンでは九十五式軽戦車に乗ってまして、隣の戦車がソ軍の攻撃で木っ端微塵にされていたのを覚えています。 大東亜戦争時ではではグァム、レイテ、セブと転戦していましたが、迂闊にも被弾して内地送還となりました。
324 :
名無し三等兵 :02/12/08 23:12 ID:nJnGMJc/
19歳の時、米軍機の爆撃で大怪我したときの親父の話。 前の方でチカッと何か光ったと思ったら、古参兵達はもう退避行動を 取っていた。さすがなんだが、こっちはそんなことわからんもんだから 逃げ遅れてえらい目にあった....etc. 戦争で被害をこうむるのは、いつも民間人というお決まりのTVニュースには 「そんなもん若年兵に決まってる!」と突っ込んでおりました。 どんくさいんだか、これがフツーなんだか判らんが、生きていてくれた おかげで俺もこうしていられるわけで。
325 :
名無し三等兵 :02/12/08 23:32 ID:bLpQeH6B
>>325 いちいち突っ込むな。
お前だって全部が全部、本当の話だと思ってる訳じゃなかろう
軍記物口調は全てネタだな、爺さんの話は軍記と違って逆にインチキくさい。
328 :
名無し三等兵 :02/12/08 23:50 ID:GhTnOK/J
俺のじいちゃん 中央大学卒 ↓ 陸軍のパイロットの学校 ↓ 九州のどっかの航空隊に配属 ↓ 陸軍中尉に昇級 ↓ 結核にかかる ↓ 戦場に逝かなくて済む。ウマー
329 :
名無し三等兵 :02/12/09 12:43 ID:jmJbPWeE
陸軍大学校を19期?で卒業した曽祖父は日本軍が隆盛の時に亡くなったらしい。 祖父は警察に勤めたんだけど、やたら自分の父上を自慢してたのを覚えてる。 自分の褒章じゃないのに大切にしている父が少し哀れ。 そのくせ曽祖父の軍服売ってるし。 こんな父はどうでしょうか...。
>322 い●か●だ● ってハア? って思ったが ●す●ん●るのことかYO!
331 :
名無し三等兵 :02/12/09 21:16 ID:MOQkT4RJ
うちのじいちゃんは南洋の島の電信隊(あっているのか?)の隊長だったらしい。 この前、戦友から手紙が来ていて、見たらうちのじいちゃんを大尉殿と呼んでいた。 下っ端から大尉まで出世していったらしい。じいちゃんすげー! でも、そのじいちゃんはもうこの世にいない。 もっと話聞いときゃよかったー!ちくしょー! 大尉に敬礼!
>322 >330 俺は小さいときに、大和とヤマトがごっちゃになった。 艦首魚雷発射管、煙突ミサイル、戦闘機多数搭載、 自動制御対空砲火、高性能電探、etc・・・ ガミラス艦隊を圧倒する凄い艦が、 何故沈んだのか理解出来ずに、大人に質問しまくった。 ヤマトを知らない大人は、さぞ困っただろう。 スレ違いスマソ。 「現実話」 血縁関係に無い遠い親戚が零戦に乗ったらしいが、 詳細な事を訊く前に亡くなってしまった。 右手の小指が湾曲していたので、 何故そうなったかを尋ねたら、 操縦桿を必死で握っていた結果、 指が曲がったまま戻らなくなったそうだ。 一生懸命に操縦したが、弾は当たらなかった。 が、被撃墜はされなかったと語ってくれた。 還って来たので、本土防空戦かな? 氏名で所属部隊、戦歴等は調べられるかな・・・
>>308 うちのじーちゃんも佐世保海軍工廠の技術者だった。
加賀の改装に携わって、試験航海で乗船したと言っていた。
あと、那智・羽黒の建造に携わったそうな。
でも戦争が終わった時は正直ホッとしたと言っていた。
伝え聞いた話なので真相は定かではありませんが・・・。 友人の祖父は海軍にいて『大淀』に乗っていたそうです。 そこで、司令官室(?)の掃除をしていたとき、 小沢提督が部屋に戻ってきたので、直立不動の姿勢をとったところ 緊張の余りか轟音を立てて屁をこいてしまったそうです。 顔を赤くしたり青くしたりしていると、小沢提督は一言、 「面白いヤツがいるもんだな」と言って笑い出したそうです。 シリアスさが微塵もなく、期待されていなさそうな話なのでsage
いえ、シリアスさばかりを求めている方はいないでしょう。 貴殿の披露されたような話、わたしゃ大好きです。
詳しい事わからないけど。 オトン側のじーさんは満州で軍医だったらしい。 オカン側のじーさんはしょんべん凍るくらい 寒いとこで戦ってたらしい 知り合いの在日さんに伊藤博文卿を暗殺したアンジュウコン の末裔がいる。本当か否かは分からないが
遠い親戚のジイサンの葬式に行ったら祭壇に飛行帽とゴーグルが供えられていた、 昔の写真も飾ってあった、彩雲の搭乗員だった。
338 :
名無し三等兵 :02/12/11 02:01 ID:gwDiDokx
母の姉の旦那が横須賀海軍工廠で働いていたらしい。その時、空母飛鷹が雷撃を 受けて傾きながら駆逐艦を横抱きにしながら帰って来たらしい。すぐに入渠して 修理したところ浸水していた区画からは取り残された人の死体がいくつも出てき たらしい。しかも溺れながらハッチを開けようとして、指で壁を掻いたようで どの死体も皆爪は無かったそうです。 その伯父さんも今年の春に亡くなりました。
ウチのお爺ちゃんはハルピンで食料関係の仕事をしていた。 戦後に総理大臣から賞状を貰った。 階級は軍曹。
340 :
名無し三等兵 :02/12/11 07:10 ID:tI8OiOH1
爺さんの師団が昭和18年にシンガポールに一時入港した際に一隻の輸送船と近い距離で擦れ違ったらしい。○○丸と覚えてたが忘れてしまった 輸送船だったが、甲板に日本帰還の在留邦人が沢山乗っているのを発見。喜んで甲板に皆で並んで万歳!万歳をしたら輸送船の方も答えてくれてお互いが万歳しながら擦れ違ったそうだ でも、シンガポールに入港してから暫くすると、その船がバシー海峡で雷撃されて撃沈、錫鉱石と一緒に140程の邦人全員死んだという話伝わってきたんだって。 「なぁ、あの時なぁ、皆で万歳万歳したのになぁ」 とか言われて涙
このスレを読んでいると自分の命が歴史という鎖の末端に繋がれているような気になる…
中にはネタが混じっているかもしれないけど、大抵は皆ホントに聞いた話なんだろう。
それにしても、人間の生死を分けるものが何であるか、という事を読んでいてずっと
考えてしまう。
>>321 の話に出てくる、ガダルカナルから撤退する駆逐艦にもぐりこんだ
という例は、機知に富むというか、まことに天晴れというか、賞賛されてしかるべき事だ
と思うが、機銃掃射されて自分だけに弾丸が当ったり、魚雷攻撃された船に偶然乗り合わ
せていたとか、原爆投下時にたまたま当地に用があったとか、そんな事で簡単に死んでし
まったような場合は、不運としか言いようがないのだろうけれど、それでもなぜ死ぬ運命
にあったのがその人でなければならなかったのか、生死を分けるものが何であったのか、
という事を考えずにはいられないな。
343 :
340 :02/12/11 16:47 ID:ZsguLzb8
まだまだ爺さんの話はあるのですが、この際書いてみようかと思います。皆さん読んで頂けますか?
読むよ
読みたい
346 :
340 :02/12/11 17:58 ID:Sm5gN2VG
343さんありがとう。 昭和19年頃タイ国に移った爺さんの連隊はインパール作戦に参加することになったが、爺さんの第二大隊はタイに残置されたそうだ。 しかし他大隊増強のための人員は割かれ、爺さんのいた炊事班からも優秀な曹長(氏名不明、爺さんは戦友の名は殆ど覚えているが)が選ばれ参加した 結果、インパール作戦後その曹長が部隊に帰ることはなく、参加した兵隊から曹長が前線の炊事班でピストル自決した話を聞いたそうだ。 理由は「皆に食べさせる食料が無いことが申し訳ないから」だったらしい。 この話思い出す度その方の人柄を偲んでしまう。
347 :
340 :02/12/11 18:00 ID:tI8OiOH1
間違えた。344さん345さんありがとう
曹長が悪いんじゃなくて、物資が届かなかったから食料がなかったんだろうにねぇ
349 :
続、兵隊おたく :02/12/11 18:11 ID:J8dXgN97
>>342 おれもそう思う。
ガダルカナルの方はその後ビルマに送られてインパール作戦
に参加、工兵だったので撤退の際は進路の爆破作業で最後尾
に残ったそうだ、「運が良かった・・・」本人はそう語っていた。
もっと話を聞きたかったが昨年他界された、家族には戦争時の話
はほとんどしなかったそうだ。
俺は模型クラブに参加しているので、展示会で戦艦や軍用機
の模型を観に来られた年輩の方に「よもやま話」を良く聞かされる
年月の経過にウソがホントに変わって「?」な話も多少あるが・・・。
350 :
USMARINES :02/12/11 18:53 ID:AGWCZIdI
叔父の話、続き(戦前編)いいですか?
351 :
名無し三等兵 :02/12/11 19:28 ID:uJmGDwjG
たのんます
353 :
名無し三等兵 :02/12/11 20:18 ID:chcPUMeO
おねがいしまっす
354 :
USMARINES :02/12/11 20:25 ID:AGWCZIdI
叔父の話、続き。 関西の某連隊で軍医をしている叔父のトコロに軍医の見習い(インターン?)が臨床実習にやって来た。 が、運が良いのか悪いのか、患者が来ない。 来ても、銃のボルトに指挟んだとか、下士官にビンタ食らって鼓膜が破れたとか、色町で病気もらって……とか、ロクなのがいない。 叔父も見習いもウデの振るい場が無く、悶々としていたある日、腹痛を訴える古参兵がやってきた。 叔父は長年の経験から「仮病だな」と思ったが、そこはアウンの呼吸。 「うーん。急性胃カタルかな? 一日寝てろ」 と、診断。こうなると、訓練サボれる他に、病院食として水気の多いご飯(:普通より中身が多い)が出る。 喜々としてベットに潜り込む古参兵。 「まぁ、一応コレのんどけ、胃薬だ」 と、叔父。実はソレ、睡眠誘導剤。 叔父は高いびきの古参兵に麻酔かけて、インターンに盲腸摘出手術やらせてしまった。 手術は成功したが、納得しないのが古参兵。 腹一杯飯が食えると思っていたら、向こう三日(だったか?)流動食しか口に入れられない。 で、「痛くもない腹をいじくられた」と、上官に訴えた。 叔父と古参兵は連隊長のトコロへ呼び出されて「一体ナニやっとんのや?」と詰問。 そこで古参兵が口滑らせて仮病だってバレタ。 怒ったのは連隊長。 叔父の事は放っておいて、古参兵を「新兵の模範となるべき云々」から小一時間絞りあげた末、 連隊長「軍人ならハラ切れーっ!」 血の気の抜ける古参兵。 一瞬の間。 叔父「連隊長」 連隊長「なんや?」 叔父「こいつ、もうハラ切ってます」 連隊長「…………」 オチが良かったのか、馬鹿馬鹿しくなったのか、叔父も古参兵もお咎めは無かった。 ただ、この一件の後、しばらく仮病を使う兵はいなくなったそうだ。 会話に多少の脚色はあるかも知れませんが、事の次第は実話です。
355 :
430 :02/12/11 20:31 ID:QXvOYgcX
それから終戦までは連隊兵力が激減しているので九州の部隊等と一緒になり、徹底抗戦のため山を丸ごと陣地化。通称「千早城」と呼ばれたらしい。末期は戦車特攻訓練ばかりだったそうだ。ランバーンで終戦時伍長に昇級 連隊旗の奉焼は兵隊は遠くで見学したが、実は旗は軸だけが燃やされて本体は燃やされなかった。房は密かに細かく分解され皆に分配(おそらく下士官クラス位までに)されて爺さんも糸屑みたいな連隊旗のかけらを貰ったが無くしたらしい。 ただ、ある将校が衿の裏に縫い付けた房を内地に持ち帰り、それは今も現存してる。
356 :
340 :02/12/11 20:36 ID:ZsguLzb8
また間違えた430は340です。 348さん 色んな性分の人がいますよね。それが運命をかえることも。炊事だからとうまく立ち回った人もいますし…
祖父は陸軍士官学校卒業後、飛行機乗りになるべく訓練していたそうですが、 単独飛行ができるようになった頃に終戦。 終戦直後、飛行機の操縦士として生計を立てることを考えていたらしく、 同期の仲間と「飛行機操縦の免許」を発給するように上層部に申請したものの、 あえなく却下された、と言っていました。 曰く、あの時免許証がもらえていれば旅客機のパイロットくらいやってただろうなぁ、とのこと。 でも、車の運転は非常に下手で、小さいながらも何度か事故を起こしているので、 旅客機のパイロットになっていなくて良かったね・・・、と言ったら、 空には信号がないから大丈夫、と言っていました。 あと、食糧不足のため兵舎でいろいろな奇天烈な食事が出たそうですが、 一番印象に残っている話は、「するめフライ」。 酒のツマミだったらともかく、メシのおかずには厳しかったなー、と述懐していました。 >祖父 お願いだから、そろそろ車の運転をやめてください・・・(´д`;)
358 :
340 :02/12/12 03:52 ID:+RUX/pzW
340の爺さんの話続きです タイは全体的にパンパンとかっぱらいだらけのメチャクチャな国だ。という印象だそうで、昭和19年ともなると炊事室のラジオに盛んに英軍の日本語放送が入って来て、その劣勢が明らかだったらしい。 爺さんが「もう日本もあかんわ、先見えとる。ワシら日本に帰れんぞ」と言えば 「○○!お前そんな情けないことばっかり言うな!!」 と戦友に窘められたそうな。なんだか倒産寸前企業の社員の会話のようです。 読んでくれてる方ありがとう。 次は昭和18年6月に遡ってインドネシアの話でもします。
359 :
340 :02/12/12 03:53 ID:3TNYRhgz
340の爺さんの話続きです タイは全体的にパンパンとかっぱらいだらけのメチャクチャな国だ。という印象だそうで、昭和19年ともなると炊事室のラジオに盛んに英軍の日本語放送が入って来て、その劣勢が明らかだったらしい。 爺さんが「もう日本もあかんわ、先見えとる。ワシら日本に帰れんぞ」と言えば 「○○!お前そんな情けないことばっかり言うな!!」 と戦友に窘められたそうな。なんだか倒産寸前企業の社員の会話のようです。 読んでくれてる方ありがとう。 次は昭和18年6月に遡ってインドネシアの話でもします。
>>349 なるほど、そういう接点があるのか。
いろいろ話が聞けるのはいいね。中には兵器の仕様や運用に関する貴重な証言が
出てくるかもしれないかも? ひとつひとつが貴重な体験談であるわけだけど。
>>354 まるで落語みたいですね、おあとがよろしいようで(w
オチとは言っても古参兵を実際に窮地から救った機転だったわけでしょうが。
また、いろいろなお話を期待しております。
>>357 お元気そうなおじいちゃんで何よりですね。ともあれ交通安全をお祈りします(^^;
>359 倒産寸前と言っても…倒産して路頭に迷う事になるかもしれないけど、 戦争じゃ生死の境をさ迷う事になるかもしれないからねえ(^^; インドネシアの話きぼんぬです。
362 :
340 :02/12/12 09:46 ID:lZ6dNP2b
361さんありがとう うまい言い回しが思い付かなかったんですが、今も昔も大差ない部分があるんじゃないかと。 とかそんなイメージを持ちました。特に実際は実家の方言丸出しなもんですごく身近に聞こえて。 爺さんに話を聞く時は「戦争は絶対するな」しかし「死ぬことは絶対怖がるな」という二つは必ず言われます。 それでは輸送船でのエピソードから行きます。
363 :
340 :02/12/12 09:50 ID:+RUX/pzW
340の爺さんの話続き 18年6月に爺さんの歩兵六十一連隊は青葉山丸にて内地を出発、シンガポール経由でスマトラに向かった。 途中一度深夜に潜水艦の追跡を受けた際、沈没に備えて総員甲板に出る命令が出たが爺さんら古参連中は 「こんな海のど真ん中で沈んだらどのみち助からへんわ!寝とけ!」 と甲板に上がらず寝たままだったらしい。で、何とか攻撃を免れ無事スマトラへ。 この話は少し怪しい気がするけど、古参兵なら現代考える以上に勝手もムチャもきいたという。 どちらにしても輸送船の航行は危険になりつつあった時期だから結構紙一重なこと思う。
364 :
名無し三等兵 :02/12/12 09:59 ID:SAnXENxF
うちの母方の爺ちゃんは漏れが幼い頃に死んだんで、 戦争の話は聞いたことがないけど、 元軍人会の資料がある。それによれば、 昭和12年、戦艦「榛名」に乗り組み、大陸沿岸の警備。 その後、上海特別陸戦隊編入。 昭和13年、馬公防備隊に於て通信要員。 その後、巡洋艦「妙高」乗り組む。 太平洋戦争になると、南方へ。 母の話によると、南方では最終的に輸送艦か何かにいたらしいが、 空母「瑞鳳」にも乗っていたらしい(何時かは不明)。 で、終戦後に帰ってきた時に、現地の人がくれたという お土産をたくさん貰ってきたそうな。 階級は海軍兵曹長
このところマターリと良い話が続いてますね。このまま荒れずに続いてホシィ。
366 :
340 :02/12/12 17:11 ID:UiEwoiAz
340の爺さんの話続きです。 スマトラに着いた爺さんは炊事班に配属され、そこで現地の中国人を25人雇ったが、名前が発音しにくいので「ジロチョー」「イシマツ」等全員に森の石松のあだ名をつけて呼んだそうだ。 近くの飛行場の航空兵からタバコ「光」(箱が二色刷りのタイプ)をよく貰ったが、それを炊事班の中国人にあげたら帰りに門衛に取られたと言われたので、皆怒ってその日門衛を飯抜きにしたそうだ。 慕われて全員タイまで連れて行ったが終戦で別れる時 「上等兵殿、自分達も一緒に日本に行きたい!連れて帰って下さい!」 と必死に頼まれたらしい。
367 :
340 :02/12/12 17:14 ID:zvUqMy6R
おっと、上の森の石松は清水次郎長伝の間違いです。気付かなかった…
>>340 氏 いい話ですねお疲れです。・゚・(ノД`)・゚・。
うちの爺さんは戦場で味方に敵と間違われて撃たれたって文句言ってたなぁ
横腹にある撃たれた跡とか見せてもらったりした
でもそのおかげで生きて帰ってこれたって言って、仲間の話して泣きそうになってた
今はその仲間の所に逝ってしまいましたが・・・
369 :
340 :02/12/12 18:41 ID:UiEwoiAz
368さんありがとう 祖父母のこういう話ってなんだか人間の根本の意味みたいなものも考えさせられますよね。 私の爺さんは今では耳も遠く話を切り出しにくいのですが、そこで軍装品や本を渡すことにしています。みながら色々な話を思い出して話してくれるので。今度学研本の「戦場の衣食住」を見せようと思います さてこの炊事の中国人達は想像するに「ジロチョー」は親分でやや年長。でも「コマサ」あたりになると結構当時10代だったりして今もスマトラでご存命かもしれないなぁとかも思います。 次はスマトラの市場について書くつもりです。
370 :
名無し三等兵 :02/12/12 19:01 ID:Ffrcqf8R
漏れの場合は爺さんでなくて、親父の話なわけだが。 10才の頃グラマン(F6F?)の機銃掃射で死にそうになったらしい。 両脇に着弾してたとさ。 そんな親父はムスタングやコルセアやライトニングも見たらしい。 コルセアはともかく、他は本土爆撃に使用してたのか? ちなみに爺さんは厚木基地で警備をしてたらしい。
371 :
名無し三等兵 :02/12/12 19:30 ID:LI8wqVj8
先月結婚して、人と違う写真が撮りたいと思い軍服で撮りますた。 妻の実家に極めて保存状態の良い「改45式」と装備一式があった 為に、揃える手間が省けました。ちなみに軍隊行李に入っていて、 拳銃も一緒にあったので撮影後に警察に届出ますた。
硫黄島陥落以降はムスタング来てますけど?
>>373 これは何の映画のシーンですか?ビデオ借りたい。
375 :
373 :02/12/12 20:27 ID:???
376 :
370 :02/12/12 20:41 ID:qpxEDmC5
今、携帯からなので家に帰ったら( ´Д`)ハァハァしながら見ますです。
機関銃だけのプロペラ機の戦闘(;´Д`)ハァハァ
祖父は徴兵されて満州に行った。日本がまだウハウハの時期ね。 フツーの兵隊さんだったらしいんだけど、ある日酒のつまみに何か作れと言われたそうな。 で、大根と人参のなますを作ったら、これがまたえらく好評で、 連隊長だかその上の人だかにまで褒められたって。 くだんのなますの作り方は祖母、母、私と受け継がれています。 鮭のアラを使うのがポイント。
このテの元床屋や按摩師や板前だった人が思わぬ腕を軍隊で振るった話は おもしろい。水木しげるもグータラ兵隊ながら似顔絵の技術が中隊長に 認められて精勤章を貰った逸話を書いてあったっけ。
380 :
378 :02/12/12 23:45 ID:???
ちなみに祖父の本業は大工です。
381 :
374 :02/12/12 23:55 ID:???
以前に漏れのじいちゃんの日記が出てきて皆で翻訳したことがあった。 呉で被弾した大和を見たとか、出撃は8月15日だったとか 書いてありますた。 「掲げられたのはZ旗ではなく、作戦中止を告げる信号旗だった」 とかでかなり燃えますた。
>373 やっとダウンロードが終わった。 重かった。 大東亜決戦機、四式戦が! くそぉ!
ウチのじいちゃんは話題が東南アジアのほうにいくと よく戦争当時の話をしてくれていたっけな 残念ながら話の内容はほとんど覚えてなかったけど 銃剣道が得意でなんか勲章ももらったとか・・・? で、半年くらい前にじいちゃんは死んだんだけど じいちゃんの部屋をかたづけてたら、変な形のずいぶん長い木刀が出てきたんだよ よく見ると、ライフルの形してて先っぽに丸い、なんつーのかな?綿でカバーがついてんの じいちゃんが死んでもあまり感慨がなかったんだけど それ見つけた時はさすがに、あぁ・・・とかって思ったね
385 :
340 :02/12/13 08:43 ID:+oUUXAlW
340の爺さんの話 食料の買い出しはパサル(つまりバザール?)と呼ばれる市場に行ったが、トバ湖という湖にある島で栽培しているパナナ(何故か爺さんの発音はバナナではなくパナナ)や果物野菜等が大量にあった。頭に乗っけて運んだり売ったりしているのは殆ど女で男は家の中でデンスケ賭博ばかり。 買い出しを任されていた爺さんは後にスマトラを離れタイに行く時に市場の代表から良い腕時計をプレゼントされて嬉しかったそうだ。 スマトラは田舎だったが皆が素朴だったそうで、ここでの話は今なお喜々として話してくれます。
>384 変な形のずいぶん長い木刀 = 銃剣刺突訓練用の木銃
388 :
340 :02/12/13 15:35 ID:GsDwa+XM
340の爺さんの話続き バダン地区で陣地構築に従事した際は山の上に擬装砲を作って取り付け、大砲の色(白と言ってたような…)も塗ったという。 スマトラでは一度空襲(確かB25)があり、中隊長がとっさに 「兵舎から離れて山に逃げろ!」 と命令してくれたので中隊から死傷者が出ないで済んだが、他の中隊からは多数死者も出て、中には20才前後の若い兵士も沢山いたそうだ。最後は重油をかけて焼いたそうな。 爺さん本人は排水溝を這って必死に逃げたらしい 命令で動く組織って緊急時誰が命令を出すかが大切だとつくづく思う。
389 :
340 :02/12/13 15:49 ID:GsDwa+XM
さて、340の爺さんの南方での話は一段落付いたと思います。 あとスマトラのではぐうたらな兵隊は西南の小島に左遷されるとかも聞きましたが。 ここで終戦時のエピソードを一つ。 終戦はかねてより予想された事態だったが、どうなるのか行く末が解らなかった。そんな中、笠松?(記憶に自信無いです)連隊長が英軍と会見した。 連隊長はおもむろに英軍司令官に右手を差し出し一言、 「おめでとう!(恐らく英語で)」 と言ったことが連隊中で噂になった。 「やっぱり連隊長は違うなぁ!」 と連隊中が隊長を頼母しく思ったそうだ。
390 :
名無し三等兵 :02/12/13 15:56 ID:UM1NZGN8
ひいじいちゃんの話。 捕虜になった時のこと。 食肉文化が日本に無いのを知った上で食事に(当時一の)高級ステーキを 出してきた米兵。困ってる日本兵を見て楽しんでたらしい。 オチつきだった。 米兵の姿が消えた後、急いでその肉を食べたらしい。 ちなみにその話聞いて1月立たないうちにじいちゃん死んだ。 連絡来たのがAIRやってた最中ってこともあってものすごく泣けた。
母方の爺様の話。 戦時中に赤紙が来て、どっかに出兵したそうな。 でも途中で死ぬのが嫌で嫌で味方殺して逃げようと思い、 機銃で味方を撃ったそうな。しばらくして味方に取り押さえられた後 隊長に基地外と思われたらしく、日本に送還されたって話を聞いた。 母方の爺様の従兄弟の爺様の話 戦時中(終盤)赤紙来たけど、戦争に行きたくないから 近所の八百屋から食い物かっぱらって、戦争が終わるまで山の中で身を 潜めていたそうな。
前スレで書いた、祖父が満州で建設技師やっていたと書いた者です。 祖父が「年をとっていたから徴兵されなかった」と言っていたのですが、 当時の祖父の年齢を考えると徴兵されておかしくない年齢でした。 それで、調べてみたのですが祖父が所属していた、 満州開拓団の人達は徴兵免除を約束されて入植していた様子です。 その為、戦争も末期も末期で関東軍がスカスカになるまで徴兵されなかった様子です。 実際に祖父は終戦二週間位前に徴兵されて、終戦後しばらくして除隊した様子です。 実戦は経験していません。 (指揮官がオマエラは実質兵隊をやっていないから、捕まる前に逃げろと言われた。)
続きです。 終戦後、暇なので兵舎でうどんを打って食べていたら、 近くの橋を警備したいた露助が射撃してきて、ドアを突き破って 祖父の隣に座っていた方の臀部に命中したそうです。 そこで、その負傷者を病院まで連れて行く事になったのですが、 どの程度武装すればいいか揉めたそうです。 結局、士官が拳銃とゴボウ剣で武装して付いていったそうですが、 帰ってきた時には武装解除されていたそうです。 その負傷兵の安否は解りませんが、多分亡くなっただろうとの事です。 そのすぐ後に現地で招集された兵隊は解散となって、散って行きます。 祖父も祖母の行きそうな方角に向かいます。 そして、ある場所に止まっていた時、 国民党がやってきて、男は全て学校跡地に集められました。 そこでとりあえず警官だけが分けられて、すぐに射殺されたそうです。 次に一般人が集められて首実験をしたそうです。 この時に政府関係者と満人に酷い扱いをした日本人は処刑されたそうです。 祖父は当然殺されるはずでしたが、祖父が助けてあげた満人がその場に居合わせて、 (凄い偶然だと言っていました) 「この人はいい人だ」と証言してもらってその場は助かったそうです。 その助けた話と言うのは、その満人に何かの原因で給料未払いのトラブルが起きた時に、 祖父が間に立って給料を払うように働いたからだと聞きました。
その日は開放された様子ですが、後にすべての日本人男子は学校に集められて、 「労働か?」と思っていたら、機関銃で掃射されたそうです。 気が付いたらどこかに一人でいたそうです。 「よく生きていたなぁ、どうやって逃げたのかまったく憶えていない」と言っていました。 その後、どこかの開拓団と合流してハルピンに向かいました。 この時、前方に満人の暴徒が見えたので、団長がお金を持って交渉しに行ったら 血だらけで戻ってきた。 「もっと良いものを持ってこい」と言う意味だそうです。 全ての満人の家には暴徒対策に大型の火縄中があって、 これは二人で扱い、一人の肩に乗せて射撃するものだそうです。 しばらくして団長は死んだそうです。 この間、祖母と(父7才)・叔父(3才)は開拓団で集団で逃げており、 開拓団に50人近い子供がいましたが、歯が生えていたのは父と叔父だけだったらしく、 開拓団の子供で生き残ったのは父と叔父だけだそうです。 途中、あまり歩けない父の手を引いて、叔父を背負って歩いていた祖母はついに力尽き、 開拓団の人達に「置いていってくれ」と頼んだそうです。 その時に「せめて日本の土を踏むまで頑張ろう」とある兵隊さんが父を背負ってくれて なんとか付いていけたそうです。 祖母はこの方が誰だったか思い出せなかったのですが、 後に(1980年位)年金給付の証言をしてもらいに、 当時の知り合いの方達を回った時に この方もご存命でその時の事を克明に憶えていて判明したそうです。 (満州国に払っていた年金がそのまま日本の年金として加算される様子です。 その為には、2人以上の証言が必要だったので、旅行を兼ねて日本全国を回ったそうです。)
その後、逃げ延びた場所に偶然にも死んだと思っていた祖母と叔父・父がいて合流し、 ハルピンでしばらく露助相手に土木工事等をしながら暮らしていたそうです。 その間、祖父を知っている満人の幾人かが、 「これだけしか出来ないけど」とお金を届けてくれたそうです。 そのお金も露助の強盗が3回入ってきて盗られたそうです。 また、祖母は昼間は現地のトウモロコシの取り入れを手伝い、 夜にその農地に忍び込んでトウモロコシを取ったあとの殻の中から、 取り残しを祖母が歯でかみ砕いて父と叔父に与えていたそうです。 その後、祖母はチブスに罹り、「助からない」と言われていたそうですが、 この時は祖父も諦めた様な事を言っていましたが、祖父が仕事に行っている時に、 熱にうなされて二階から飛び降りて正気を取り戻し、それで回復したそうです。 その時に脊椎を損傷してしまい、猫背になってしまいました。 その祖父も今年大往生を遂げました。 このスレを見ていると、そこそこ、当時の話が聞けた自分は幸せな方みたいです。 祖母は元気ですが、逃避行の途中は「とにかく日本の土の上で死にたい」と思っていた事が 生き延びた原因だと言っていました。 以前、海外赴任時の事を祖母に告げたら、 泣きながら「蛮人の所へ行ったら生きてかえれない」と止められました。 祖母の当時の体験を考えると、心配するのが理解出来たのでちょっと悲しくなりました。 父はほとんどその頃の記憶が無いそうですが、 ハルピンにいた時にロシアの子供と石を投げっこしていたそうです。 これで終わりです。
396 :
378 :02/12/13 23:36 ID:???
なますを作って褒められた祖父の話続き。 駐屯していた村だか町だかでは、いつも大きな木の下に 村の若い娘さんたちが座って手仕事をしていたそうだ。 みんなとても綺麗で親切で、絵を見ているような光景だったって。 空いた時間になにをやってるのか見せてもらったら、 手のひらに載るくらい小さな靴に細かい刺繍をしていたそうだ。 ある日、部隊の人全員が娘さんたちから小さな包みを貰った。 開けてみたら刺繍入りハンカチ。 奥さんやお嬢さんに上げて下さいって言われたって。 祖母はそのハンカチを棺桶の中まで持っていくと決めている。 なにしろ時期が良かった上に、部隊の人が上から下まで呑気者のいいひと揃いで、 人に言えない真似はしなかったし嫌な思いもそんなにしなかったと言っていた。 運と言ってしまえばそれまでだけど。
397 :
名無し三等兵 :02/12/14 02:01 ID:1V6dHrJn
かなり強烈な体験をなさったんだね 機銃掃射や政府関係者、警官皆殺しか
戦闘員ではないけど満州時代の写真アルバム見せてもらったら すごい贅沢な暮らしをしてたのはわかった。
399 :
名無し三等兵 :02/12/14 07:21 ID:MjimHjjz
>398 それは満州で写したものッスか?
>>398 395ですけど、同じ公務員、同じ土木建築科で、
満州では日本で働いている時の4倍の給料だったそうです。
満州の家の見取り図を見せてもらいましたが、
となりに軍医さんも住んでいたと聞きました。
祖母に聞くと、満人を3人使っていて、それが遠くから水を汲んできてくれるそうです。
風呂炊き等も満人の仕事だそうです。
やはり日本人と現地人と言う明確な経済格差があった様子です。
一方、日本では父祖が日本で働いていた時に(終戦時に父が7才なので、昭和10年前後)、
青森で灌漑用に堤防を作っていたら、
鉄の代りに竹が支給されてこれで作れと言われたそうです。
「日本はこんなものまで不足しているのか」と呆れ返ったそうです。
竹でどうやって強度計算をすれば良いが物すごく困ったそうです。
(もしかして、予算が無かっただけかも知れませんが)
>>400 一連の文章、読みました。いい時もあったのかもしれないけれど、
これがいわゆる「東洋の合衆国」の結末の、悲惨な実態なのですね。
襟を正すような気持であります。
貴重なお話をありがとうございました。
402 :
名無し三等兵 :02/12/15 14:59 ID:GITfSt7+
いいスレを発見したので、俺も書きます。 これは俺のおじさんの話。 おじさんは、戦争体験など一度も話したことが無かった。 いつもニコニコしている寡黙な大人しい人だった。 いとこから、おじさんが零戦乗りだったことを聞いた。 「知らなかったのか?近くに当時の飛行場もあるよ」 当時、戦争のことなど何も知らない俺は、「何で言わないの?かっこいいなぁ」と言った。 突如おじさんは激怒して「ばかたれ!何がかっこいいんだ!」と怒鳴り、それ以後何も言わなくなってしまった。 俺が、おじさんと話したのはそれっきり。 それ以降、俺のことを避けるようになってしまった。 おじさんはその3年後、ガンで無くなった。 兵庫県加西市の山奥に、今は雑草の茂るコンクリートで固められた広大な広場があった。 教えてもらわなければ、それが飛行場の跡地だとはわからない。 ここは軍の秘密基地で、戦争末期本土決戦を見越して造られたそうだ。 マリアナ沖海戦以降の台湾沖航空戦、フィリピンレイテ島戦、硫黄島戦、沖縄戦 この飛行場から特攻機が次々に毎日のように飛び立ったそうだ。 最後に知ったのは、おじさんの出撃の時の事。 いよいよ順番が回ってきた日、8月15日だったそうだ。 「今日は重大なラジオ放送があると聞いたので、出撃はそれを聞いてからにしたい。」というやり取りがあったらしい。 そして玉音放送。 俺みたいな奴が、軽々にしゃべる事では無いんだね。
403 :
名無し三等兵 :02/12/15 15:15 ID:GITfSt7+
402です。別の話。 友達の家に遊びに行くと、どこの家にも軍人の遺影があるね。 俺が子供の頃は、町のあちこちに傷痍軍人がいた。 ひどい怪我で手足のない人が多かった。 1人のときもあれば、10人くらいの時もあった。 近くに寄ると、ひどい匂いがした。 当時、保育園児だったので、あの人たちの異様な雰囲気と匂いが、とても怖かった。 少しはなれた工場には、高射砲台もあった。 東京九段下の靖国神社近くの、戦争資料館に行くとあの時の匂いがする。 人間魚雷の部品に潜り込んで遊ぶ子供を見ると、耐えられないものがある。
404 :
名無し三等兵 :02/12/15 15:25 ID:GITfSt7+
402俺の小学校の頃の話。 俺は警察の道場に、剣道を習いに行っていた。 剣道教室を始めた警察官の先生は、足に大きな傷があった。 なんでも、フィリピン戦に召集された時に、銃で撃たれた傷跡らしい。 先生は剣道の達人だった。 当時は「殺人剣」と言って、殺しの為の剣道だったらしい。 武道は殺人の手段として教えられたそうだ。 現在は「活人剣」と言って、武道を通して人を活かすのだそうな。
私の祖父は婚約者を残し、沖縄の敵艦隊へ突入しました。 えっ、じゃあなぜ、私が存在しているのかですって? それは...。
406 :
340 :02/12/15 19:30 ID:NXbe+PUl
340の爺さんの話し以下訂正です 「光」二色刷り→三色刷り(青いやつじゃなくいわゆるカラーのです) あと擬装砲の設置場所はバダンでは無かったかもしれないです。 連隊長名ですが調べた所、門松正一氏です。ただ爺さん「あー門松はんだったかいな…?」と言ってましたからよく解りません 以上失礼しました。 昭和16年からの千葉県陸軍習志野学校の話もリクエストあれば書いてみますがいかがですか。
407 :
名無し三等兵 :02/12/15 19:45 ID:+sXV10i5
うちのじーちゃんが奉天にいたころ、じーちゃんの部隊が 川島芳子の映画撮影の警護を担当したことがあるらしい。
408 :
名無し三等兵 :02/12/15 20:28 ID:28+6icec
爺さんが響の乗員だった。 でも、俺が生まれる前に病気で逝ってました。 艦が触雷したときに怪我をして、療養のため上陸、そのまま内地勤務で終戦を向かえた。 触雷してなければ大和の沖縄特攻に付いていって、艦も爺さんも無事では無かったろう。 と言うのを、婆さんから聞いたのが唯一知っている話です。 婆さんももう生きていないので、話を聞けないのが残念です。
所であのベトナム戦争の香具師はネタだったんだろうか?
410 :
名無し三等兵 :02/12/15 23:30 ID:GITfSt7+
数年前、東京九段会館の前を通りかかった時、兵隊の同窓会の看板が掛っていた。 その看板を見て仰天!「富岳搭乗員同窓会」 あの幻の日本の大型爆撃機「富岳」だ。 あれって、実在の飛行機なのか??? 六発エンジンの大型爆撃機で、日本本土から直接アメリカ本土攻撃する飛行機 片道飛行の特攻機だが、やはり実在していたのかと驚いた。
>>410 実機がなくとも搭乗員の養成はしていたろうから、そんな部隊だろ。
あと九段会館はやばいロッカー系の人にも場所を貸すから、ヲタの集会なのかも。
>>410 411の言うように実在はしてないらしいけど、
(不謹慎ながら)その任務に燃えるよなあ。
片道というか、爆撃の帰りにドイツまで行くって話もあったみたい
ですが・・・どっちにしても夢想か。
413 :
おじさん :02/12/16 05:31 ID:GEkrrNPt
私の母の実家のオジさんは、第二次世界戦争当時、地方の富豪でした。 それで税金の物納として、戦闘機紫電、又は紫電改1機5万円なりを 納めたそうです。 (戦闘機の名称はお婆さんだから分かりません)
414 :
名無し三等兵 :02/12/16 07:56 ID:zy9Dqb/8
わが曽祖父は朝鮮に出兵し、形見が満州の硬貨。 曽祖父の兄は陸軍少尉で、どっかの名家に養子にいったらしい。 祖母のいうには戦争については一言も語らず、少尉になるまでに 敵さんを大勢殺したからだろうと言っていた。
この間母方の祖父の実家に行った時、色々話を聞いてきました。 孫の中で戦争中の事を聞いてきたのは俺が初めての様で 2時間近く怒涛の勢いでしゃべっていました。 陸軍の衛生兵として南方を転戦したそうです。 階級は軍曹でした。 敵の爆撃の時に防空壕の中にいたけど危ないと思って飛び出した 直後に壕が吹き飛んだそうです。 他にも餓島に行くはずだったが途中で船が引き返して助かったとか ビルまで終戦を迎えたそうですが英軍の捕虜になったとき持っていた 値打ち物の懐中時計を取られて悔しかったと言っていました。
416 :
名無し三等兵 :02/12/16 09:58 ID:hAIY0pCa
>>390 遅レスだが
落語の「饅頭こわい」みたいで愉快だね。
>>415 >2時間近く怒涛の勢いで
訊かれても話したくない、という人もいれば、あなたのおじいさんのように
語ることでカタルシスを求めている人もいるんでしょうね(しゃれではないがw)。
お話できて良かったですね。
418 :
名無し三等兵 :02/12/16 11:39 ID:IUq+gwwY
大学出てると少尉からスタートですか
419 :
340 :02/12/16 11:44 ID:W2929eUd
たしか大学出でも二等兵からです。このシステムはイギリス人には理解出来ないらしいです。
420 :
66 :02/12/16 17:04 ID:WTH6wJrd
おー、久々に来たらスマトラ駐留の方がいらっしゃるようで。 もしかしたらウチのじーさまとどこかですれ違ってたかも しれないですなぁ。
421 :
340 :02/12/16 18:37 ID:9IeDMkWr
66さん 同じスマトラ仲間とは!そうですねーどこかで擦れ違ったかもしれませんね。拙文を読んで頂きありがとうございます。スマトラには一度行ってみたいと思ってるんです。トバ湖も見たいし、パサルも行きたい。それに光とか肌で感じてみたいんですよ。 あとはタイも。先週某番組でタイのランバーンの象園が紹介されてましたが、あの爺さんが半世紀前ここにいたのか…と思うと不思議でなりませんでした。 部隊や年月等などお解りになりますか? 私の爺さんは和歌山歩兵六十一連隊で昭和18年6月から19年頃までです。
うちのジーサンはヒョロヒョロの元桶屋 まあ次男坊だったから徴兵され、南方へ 日本から出発する前の壮行式の頃の話らしいが、 米内海軍大将(当時は総理だったかも)の息子さんと一緒にいた期間があるらしい その時、日本は負けるかも、と告げられたとか言ってた 与太話っぽいが俺は信じてる(w 南方(ジャワ)行ってからは事務方で、給料の管理とかしてたらしい 戦闘には参加してないのに、なぜか銃創があったし、マラリアの経験もある とんだヘタレだ 最も興味深かった話が、捕虜(スパイだったかも)の尋問 電気椅子に電気を流すのが当番制でちょくちょくやってたらしい 何の良心の呵責も無いジーサンにびっくりした 今じゃ痴呆で寝たきり 孫の顔もわかりゃあしねえ、というか武三さんは30年以上前に死んだよ
海軍で主計兵だったらしい。 でも細かい話を聞く前、漏れがリア厨のときに逝ってしまいました ずっと内地で、温存のために末期に北海道かどこかに移動したらしいが それ以上は分からん。
424 :
名無し三等兵 :02/12/16 20:48 ID:8Vuz8U3T
うちのじーさまは親戚中の若手を軍属として引き連れて トラック島で軍艦の甲板張り(チーク材ね)をしとったそうな。 戦闘破損した軍艦のスノコって前線で船大工が応急修理をしてたのね。 戦後はそのまんまそろって引き揚げてきてじーさまを棟梁に、横須賀で家を建ててました。
425 :
名無し三等兵 :02/12/16 20:53 ID:9rVGt6NJ
>422 電気椅子って何よ? 拷問用具?
426 :
鏖殺 :02/12/16 21:03 ID:fhfgfEQb
俺っちのGちゃんは、軍医でした。
427 :
鏖殺 :02/12/16 21:04 ID:fhfgfEQb
人体から摘出した弾丸がごろごろと……。
428 :
名無し三等兵 :02/12/16 21:13 ID:xJbAgCLL
>413 文春文庫日本の名機100選によると零戦1機57000円だったようだ。
じいちゃんから聞いたのか小説だったか忘れたけど 戦地へ行く時の輸送艦に乗船するとき、階段(テロップだったけ?)で 足を踏み外しそのまま海へ、仕官殿は「早く上れ」というだけ 落ちた兵士はそのまま死んだんだろうと思う 戦果をあげるっていって田舎出てきてこの死に方はあまりにもかわいそう もう一つ、戦後田舎の秋田に帰るとき列車に乗ったらしいのですが 列車は満員乗れない兵士は必死に列車にしがみついて故郷に戻ったらしいです その中で力尽きて手を離してしまう者もいたらしいのです そのとき「その人はどうしたの?」と質問したら 「まさか列車を停止するわけには行かないだろ、置いていったよ」 じいちゃんが運転してるわけではないのですが 皆必死だったのだろうなと思いました 母方父方共に満州へ行きました
430 :
66 :02/12/17 16:22 ID:0u/DGJnZ
>340さん 名前の通り当スレ>66参照(w 情報によると近衛歩兵第3連隊第7中隊では?という事だそうです。
431 :
340 :02/12/17 17:43 ID:FA7LDoQa
66さん どうも失礼しました(w 宮三八○二部隊ならやはり近衛歩兵第三連隊でしょうね。終戦時所在地はスマトラ島ビルン。 近衛歩兵第三連隊といえば正にスマトラ攻略軍ですね。 爺さんの連隊は占領後にやって来たわけですけど、近衛第三連隊が終戦まで常駐していたとすると擦れ違うことはあったかもしれません。絵葉書大変気になります。果物はトバ湖産かも!?しかしビルンとはどこでしょうね?手持ちの地図には載っていませんでした
432 :
名無し三等兵 :02/12/18 01:39 ID:ESY33I0n
じーちゃんの背中にあった、味方がタコツボに落とした手榴弾でできた傷跡すごかった・・・。
25歳。
去年まで金無し君だったけど、オンラインカジノとパチンコで
二年で350万貯めた。一度やってみなよ。
初回のみだけど、1ドル以上のチップを買えば30ドル(4000円くらい)貰える。
もらうだけもらってプレイせずに換金することもできるし、ルーレットで赤か黒に
思い切って賭けてしまえば50パーセントで二倍になる。
金なきゃオフラインでゲームすればいいだけ。暇つぶしになる。
ビデオポーカーとかスロとか色々あるのでマジでお勧め。
http://www.imperialcasino.com/~1kl5/japanese/
434 :
学徒 :02/12/18 01:53 ID:???
爺ちゃんは台湾で決戦に備えていたそうです。 婆ちゃんの方は下手したら長崎の代わりに原爆が直撃していたかもしれません。 沖縄と長崎の大きな犠牲の下においらは生まれました。
>433
25歳。
去年まで牛鮭定食だったけど、大盛りねぎ抜きとギョクで
二ヶ月で店員にマークされた。一度やってみなよ。
何らかのメニューを注文すれば、紅しょうがは(いくらでも)貰える。
150円引きごときで来店する家族はおめでたいし、一家四人の前で
思い切って特盛を注文すればパパの威厳も二倍になる。
金なきゃ並盛でつゆだくにすればいいだけ。安上がりになる。
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http://www.yoshinoya-dc.com/yoshinoya/top.html
うちのじーちゃんは戦時中中国から阿片を密輸して自分も中毒になりますた 禁断症状であばれるじーちゃんを親父たちがしばって押し入れに放り込んで監禁したそうです・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
うちのじーちゃんも痛み止めの注射のせいで、ヒロポン中毒になったらしい。
438 :
名無し三等兵 :02/12/19 09:58 ID:1ygDcvpx
>>434 小倉には落ちなくて良かったね。弾倉の扉まで開いていたのにいろいろ偶然が
重なって結局投下されなかったという話だよね、たしか。ガクガクブルブル
母方の爺さんは単なる陸軍情報技術参謀。士官学校時代に辻にいじめられたらしい。 母方の爺さんの嫁さんの父さん(曾爺さん)は陸軍MTシップの責任者 母方の爺さんの父さん(曾爺さん)は陸大首席で卒業した。 日露の時代から参謀本部で頑張っていたみたい。色々な本に載っている。 父方の爺さんは満鉄で水道工事の責任者だった。 爺さんの嫁さんの兄弟は満鉄勤務で張作霖爆殺のボタンを押したそうな。 日本の歴史を学ぶのは自分の血を調べるようなものだと実感する。 しかし俺自身は大したことはない。
折れの母の親父(もう亡くなってる)はアッツもしくはキッカ駐留の水兵だったらしく なぜかあんな辺鄙なところに駐留していたのに山本五十六の死体を内地に輸送するための 人員として徴収されて、その後すぐにその二つの島がアメリカの攻撃されて結果的に徴収 されたおかげで助かったそうです。 父の親父(まだ生きてる)はこれまた水兵で当初呉の軍港に行かされて戦艦大和の乗組員 になるのかと思ったら輸送艦に配備されたそうです。前線の兵隊が餓死しているのに 飯が喰い放題の輸送艦で太ったらしいですが、そんな幸運長くは続かなかったみたいで アメリカの潜水艦に輸送艦を撃沈されて何日か海の上を漂っていたらしいです。そのあと 駆逐艦か他の輸送船に救助されたとの事。
終戦後ロシア方面残留しての作業部隊みたいなのにくじ引きで決まったらしい。 その直後「帰還せよ」の指令が届いたんで、くじ引きやり直しになったとか。 で、帰還第一便を引き当てて今に至る俺の母方の祖父(ランス・ヘンリクセン似)
俺の祖父は、海軍だった。 ある日、軍艦の一番上に上って、手旗信号をしていた。 当然、船は揺れる。 そして、一番上に上っている祖父の位置が、もっとも揺れる。 祖父はゲロを吐きそうになった。 吐き場所に困った祖父は、 「自分がかぶっていた帽子の中に吐く」 という、Mrビーンのようなことをした。
その時、運悪く、上官が上ってきた。 またもや困った祖父は、 その帽子を頭にかぶった。 なんとかその場をやり過ごしたそうな。 ほかにも、「週に一度はカレーだった」とか 「海軍では茶碗はこう持つんだ」とか いろいろなことを教えてくれた。
444 :
名無し三等兵 :02/12/21 17:33 ID:75ysXVqA
故 柳家小さん師匠は、2・26事件の時、反乱軍兵士だった。 入隊して1ヶ月の新兵部隊の反乱で、「演習」「反乱を鎮圧しに行く」と命令されていたらしい。 所属は機関銃中隊。 8mmフィルムに映っているかも。
445 :
名無し三等兵 :02/12/21 17:38 ID:75ysXVqA
ちなみに、2・26を研究している俺にも、よくわからないのだが、 安藤中隊が立てこもったホテルは、赤坂見附のホテルニュージャパンのあった場所か? あの付近らしいとしかわからない。 毎年2月26日にはNHK前の、2・26事件の像と、麻布のお寺で遺族が慰霊祭をするらしい。 最近までは、生き残った兵士の同窓会だった。
447 :
名無し三等兵 :02/12/21 19:07 ID:0SwKyCBK
>>409 ネタにきまってる。
あの気持ち悪い謙遜。
ただの厨。
448 :
名無し三等兵 :02/12/21 19:19 ID:1akhul8x
じいさんは衛生兵でフィリピンとかにいたらしい。 敵よりも上官が怖かったらしい。鉄砲の的にされたり 実際上官にいじめ殺されることもあったそうだ じいさんが見た一番悲惨ないじめは ”しらみ”がわいた人に風呂も着替えもするなと命令し あまりのかゆさに半狂乱になりながらも上官に逆らえず 全身”しらみ”だらけになって死んだ人がいたらしい じいさんはその死体の始末をさせられたらしい。
449 :
名無し三等兵 :02/12/21 19:58 ID:+5LlbVYc
>448 ネタだろ?弾は前からだけとは限らないって聞いた事ないか?せいぜいビンタとかミンミンセミの真似どまりだろうよ。
>>445 山王ホテル跡地はホテルニュージャパンの通り沿いを南もう少しへ行くと
山王パークタワーが建っている所。
戦後米軍施設となった山王ホテルの機能を引き継いでいるのは、南麻布
のニュー山王。
>>447 俺にはネタとは思えんが。
あんなに沢山書き込む程暇な奴が居るとは思えんなあ。
>>445 、
>>450 歩三の安藤輝三大尉以下400名は、鈴木貫太郎侍従長官邸を襲撃後に料亭幸楽
(旧ホテルニュージャパン)に立てこもったのでは?柳家小さん師匠が機関銃
中隊ならたぶん高橋中尉以下37名の内の一人だったのでしょうか。ここのサイト
も参考になります。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/showa2.htm むかーし、昔に見たNHK特集の傑作、戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」―2.26事件秘録
でこの立てこもった歩三の機関銃隊の一軍曹と外の説得する将校との生なましい
電話のやり取りに感銘した事を思い出しました。
安藤隊は2月29日幸楽から山王ホテルへ移動。 安藤大尉はホテル内で拳銃自決未遂。
454 :
名無し三等兵 :02/12/22 01:54 ID:L/CZOXxD
>>116 >漏れはハーフで、父がベトナム戦争に行ったんです
>文章が読みにくてすみません。日本語で文章書くのは慣れてないので...
ネタでなきゃ英文で書いてもらってかまわないぜ、厨房。
煽りたいだけの人は来ないでください
ジーちゃんの話でもないし従軍してた話しでもないんだけど… 実家が鹿児島の南、知覧の近くの港町なんでかなり空襲があったらしい。 俺の父親、母親とも昭和14年生まれだから、物心ついたときには サイレンが鳴ると防空壕へ避難するっていう生活だったそうだ。 終戦間近には集団疎開して恐い子供時代を過ごしたそうだ。 いまでも消防車のサイレンを聞くとビクッとするって言ってたよ。 ちょっとスレと違うね、スマソ
457 :
名無し三等兵 :02/12/23 19:15 ID:0s408y4n
10年前に死んだおじいちゃんの形見の皮製のペン入れに、騎兵24連隊二中隊 昭和9年入隊と書いてあるんですが、騎兵24連隊とは何処の部隊かご教授 お願いします。
>>457 盛岡騎兵第3旅団に属する騎兵連隊だったようですね。
騎兵第24連隊の第1中隊には、1939年ですが後の田中角栄が入隊して
います。
459 :
457 :02/12/23 21:44 ID:0s408y4n
眠い人様 早速のご教授ありがとうございました。祖父は徴兵で陸軍に入ったんですが、 騎兵は二等兵でも乗馬ブーツをはき、軍刀を吊っているので、下士官が将校 と間違って敬礼してくるので、困ったと話していました。ちなみに祖父は 秋田出身です。
盛岡市の厨川に赤レンガの通用門と兵舎の一部が残っていたのだが、 今はどうなっているか、門だけは残っていると思う。 角栄もいたのか・・・。
461 :
457 :02/12/23 22:54 ID:0s408y4n
祖父はその後満州へ出征しています。その頃満州にはロシア革命を逃れてきた ロシア人がいて、よく日本人と相撲をとったそうですが、からだは、3回り ほど大きかったが、捕まえて投げると、すぐに転んだ、足が長くて相撲は弱かった 様だ。
>>454 横レスだが煽り厨は帰れ。ここは真剣な話をするスレだ。
463 :
:02/12/23 23:21 ID:???
うちのじーちゃんは三男坊だったので、郷里を離れて満州へ。 満鉄で働いていたが、じいちゃんの兄貴はノモンハン事件で戦死。 ジーちゃんも大戦末期に徴兵されたが、敗戦。で、ばあちゃんがうちの母親と弟を連れて 引き上げる直前に帰ってきた。4人で命からがら何とか帰ってきたけど、 帰りに雇ってた中国人からお土産に渡された貴重なゆで卵にあたって、かあちゃんの 弟は日本について一週間で死亡。 じいちゃんは元気だけど、耳が遠くて詳しい話を聴くのが大変。 じいちゃんとばあちゃんだけにすると、熊本弁と中国語が入り混じって埼玉人の俺には 何を話しているのかわからない。
「戦場のメリークリスマス」みたいな話は無いのか
465 :
BUS67 :02/12/25 12:02 ID:lOdWoRlN
チョットぁゃιぃ話ですが 前に付き合ってた彼女がアメリカ人で 彼女のじいちゃんが2次大戦中 南方に そこでジャングルで日本軍と戦闘になって 追い詰められた一人の日本兵を銃殺しようとしたところ 英語で「私は国に命令されて戦ってるだけ 殺さないで。」 と言ったので殺さず捕虜にしたそうです。 聞いた時、日本兵に英語が喋れたのだろうか?と 疑問に思ったんですけど どうなんでしょう?
466 :
名無し三等兵 :02/12/25 12:43 ID:OFWuISMJ
母方のじいさん軍人だった。 写真見ると馬に乗ってます。 それ以上は素人なんでわかりません。 で、話ですが 大陸で国民党軍の陣地に突入したら あっさり降伏 敵兵は2人1組鎖でつながれていましたと。(マジかよ) 「かわいそうになあ」と言っておりました。 パタッという音がしたら誰かに弾が当たった音だ。とか 飛んでくる弾の音で自分が狙われているのか わかったらしいですよ。(わかるものなのか???) 自分にはいろいろ話してくれましたが、 周りの人には補給部隊にいたと話していたそうです。 心配かけたくないからでしょうか? 家族は戦地から来る手紙の内容などから大陸の地図に 現在この辺かと書き込んでいたそうです。 田舎に帰るたびじいさんから話を聞きました。が、 自分はクソガキだったのであまり覚えていません。 今度詳しく調べます。
467 :
名無し三等兵 :02/12/25 12:48 ID:oAZB3oSr
>>462 真剣な話はすきだが、断りを入れない引用と
ネタ丸出しの作り話は大嫌いだ!
ネタの出典元もわからん香具師がエラソなこというな。
>462 >467 そんな前の話…やめてくれよ。
469 :
名無し三等兵 :02/12/25 13:12 ID:OFWuISMJ
マンションのとなりに住んでるじいさんの話 陸軍航空隊で満州へノモンハンで戦ったときの印象 空で圧勝、地上はさんざんだった。 その後北海道に。 近海をうろつく敵潜水艦に爆弾をお見舞いしてやったそうです。 でも、よく間違えてクジラに落としたと・・・
470 :
名無し三等兵 :02/12/25 13:37 ID:eAqn7u6y
>>469 面白い話ですね。
クジラに落としたとは…
同じ人間同士が殺しあいをしてる間でも、クジラや動物達は
今までと同じように生き続けているんですね。
大戦中って戦争とまったく関係ないと思われる地域、たとえばペルーとかアフリカの国は
どうだったんでしょうか?
でっかい戦争やってるらしい みたいなノリだったんでしょうかね??
472 :
名無し三等兵 :02/12/25 21:39 ID:/Pt6BXZs
473 :
名無し三等兵 :02/12/25 21:46 ID:m6uQo2In
>>470 戦争中のアフリカ
と言うと少年ケニアを思い出す。あの話、アフリカのジャングルで日本人商社社員の親子が生き
別れになるが、戦争でオヤジがイギリス軍に拘束されちまって子供を置き去りにせざろうえない、
話だったと思ふ。非交戦地域でも大半は植民地なのだから宗主国の管理が厳しくなっていたと思われ。
>>467 え!
あのベトナム戦争の話元ネタ有るの?
475 :
名無し三等兵 :02/12/25 23:38 ID:bW1vO3sl
うちの母方の爺ちゃんは、軍医(軍医だと少尉扱いになるのかな?) として2回出征。1回目は中国の南の方(香港だか上海あたり)で戦闘もなく 軍票持って水餃子とか中華料理をよく食べに行ってたらしい。 おいしいものは食べれるし、気候は温暖と言うことなしだったみたい。 2回目は戦局が切迫してた頃でビルマ方面に送られたんだけど いざ着いて着任の報告をしようと司令部に向かうと すでに撤退したとのこと・・つまり、おいてけぼり(汗 ジャングルの中を撤退したんだけど、仲間はどんどん栄養失調や病気で 亡くなったみたいです。 なんでも、配給のオレンジの皮を丁寧に剥いて食べた人はほとんど死んで 皮ごと全部食べた人は生き延びる確立が高かったらしい。 後編に続く
476 :
457 :02/12/25 23:41 ID:/Pt6BXZs
>466 やはり祖父も同じような話をしていました。映画などで弾が飛んでくるピュンピュン 見たいな音は流れ弾だけど、ビュンビュンと聞こえ始めたら至近弾に、ビシビシと 聞こえると自分が狙われていると判る様になるといっていました。
477 :
上等兵 :02/12/25 23:52 ID:e1g/jCFe
うちの爺さんは、近衛連隊(?)にいたとか言ってた。東京の部隊らしい。 輜重兵だったそうだ。(自衛隊で言うと何だろ?) この辺の話は詳しく聞いたはずなんだけど忘れちまった。 満州にも行たらしい。 どっかの村を攻めたとき銃撃戦の間にあった竹林が 戦闘の後無くなってたって話を聞いた。草刈機のようだ… 捕獲兵器の敵の小銃で、よく当たるやつがあって、 トラックを運転しているとき、いつも脇に置いておいたそうだ。弾も一緒にね。 あるとき、同じ部隊のやつが徴発に使うから貸してくれ。 といってきて貸してやったら、そいつが戻ってこなくて、 捜索したら農家の便所の中で真っ裸で殺されてたって。 銃がなくなって残念だった、弾もたくさんあったのになって、でも ちょっと鈍くさいやつだったそうで、かわいそうだったって言ってた。 上官がいい人だったらしくて、次の戦闘で死んだことにしてたってさ。 大東亜のときは、八丈島でトンネル掘りやったって言ってた。 で、普通その頃の話を聞くと(とくに南方かな?)食糧難でつらいって聞くけど、 八丈島は本土から立て篭もり用の食糧がどんどん来ていたそうで、 帰るときは来たときより太っていたそうだ… で、ガイシュツだけど、トラックの運転・整備が出来るってことで、 戦後もしばらく八丈島で残務処理をやっていたらしい。 備蓄した弾薬を米軍の指導で海に捨ててたとかどうとか。 ただ、その作業中誰かがこぼれた火薬に煙草のポイステをやったそうで、 捨てる予定だった弾薬が次々に爆発して大惨事に! 吹き飛んだ軍靴が遠く離れた民家の中にいた赤ちゃんに当たって、 赤ちゃんも一人死んだそうな…
478 :
上等兵 :02/12/25 23:53 ID:e1g/jCFe
(続き) あまり詳しくなくてスマソ 今度実家に帰ったら、一日かけて爺さんに話しきいとこ。 ここまでの話は父方の爺さんの話。 母方の爺さんは、御大臣(田舎用語でお金持ち)だったそうで、 当時としては珍しくヴァイオリンなんかもやってたようで、 「鉄砲担いだらぶっ倒れちゃう!」とか言ってたから、 ほんとに徴兵検査通らなかったんじゃないかな… ちなみに自分は自衛官。 徴兵検査(身体検査)は通ったけど、空挺の適性検査は通らなかった。 今度の4月に下士官(陸曹)になります。爺さん喜ぶだろうな…。 長々スマソ。正月に爺さんに詳しく聞いてきます。 時間と、スレがあったらまた書き込みます。んじゃ!
479 :
名無し三等兵 :02/12/26 00:02 ID:c0wWw4dQ
475の続き 行軍してたら流れが速い川にぶちあたって、泳げる人はどんどん先に 行ってしまって、全く泳げない祖父が困っていると軍曹さんが太い木の 枝を三角形に組んだ小さなイカダ(浮き輪のように使った)を作って くれたらしい。それで下流にだいぶ流されながらもなんとか渡河に成功。 隊になんとか追いつくと泳ぎが上手で先に行った人の多くは敵の待ち伏せに あって機関銃でほとんどやられてしまったとのこと。 その後、結局捕虜になってしまったらしいんだけどインド北部の 精強な部族の兵士っているよね?ターバン巻いて髭がモジャモジャで 曲刀もってる・・その兵士に殺されそうになったんだけど、爺ちゃんは おでこに黒子があって徳がありそうってなことでなんとか殺されずに すんだみたい。現地の村の人からも果物とか差し入れてもらって 嬉しかったみたいなことを話していたそうです。 戦後少したって帰国できたみたい。 直接、祖父から聞いた話ではなく、母親の思い出話とか祖父の自費出版 の本を読んで書いたので事実とは違うことも書いてあるかもしれませんが そのへんは勘弁を・・ 祖父は90近くで白内障でほとんど目も見えず、ボケちゃって、きちんと 話を聞いておけばよかったなあと思ってます。 ちなみに同じ部隊の1割程度しか内地に帰還できなかったそうです。 なんでも軍隊に入るなら陸軍にしろと母の弟(つまり叔父)には 言ってたようで、理由は海軍は船が沈むと死ぬけど陸ならなんとかなる とのこと・・
480 :
名無し三等兵 :02/12/26 01:09 ID:pFlAzFX5
>>477 八丈島なら、昭和陸軍の研究・保阪正康書に書かれてますゎ。
京都の人の話があり、全国から集めた独立混成67旅団16連隊らしいです。
他の小隊では、敗戦後の不発弾の処理で亡くなった方もいたらしいです。
481 :
人八号 :02/12/26 02:11 ID:dFI63mon
じいちゃんは、韓国の南にある済州島という島で陸軍の砲兵をやってたらしいです・・・ 上等兵で終戦を迎えたっぽいです。 なんだかじいちゃんは身長が180近くあって歩兵になれなかったとかで。 誰か大戦中の済州島のことを知ってる人がいたらぜひ教えてください。 じいちゃんにはもうおそらく聞けないから・・・・・ ほんとかどうかしらないけど、グラマン(F4F?F6F?もしやTBF?)にやられそうになったことがあるらしい
482 :
名無し三等兵 :02/12/26 21:13 ID:UG802a5i
>>481 昭和20年の春に編成された師団では、
福岡の96師団と
善通寺の121師団が、
済州島で終戦を迎えてます。
それ以前に編成された師団では、すぐわからずスマソ。
483 :
480 :02/12/26 21:49 ID:pFlAzFX5
>>477 上に書いた本をよき見ると、
第15連隊は沖縄
第17連隊は硫黄島に送られた
となってます。
八丈島は、旅団が一万五千人、海軍が五千人くらいで守ってたそうです。
第16連隊は、二千数百人とあるので、他の連隊かもしれません。
>>465 >聞いた時、日本兵に英語が喋れたのだろうか?と
>疑問に思ったんですけど どうなんでしょう?
米軍の硫黄島戦記には、深夜日本軍の奇襲攻撃隊が
担架を持って「衛生兵、衛生兵!」とかなり良い英語で
叫びながら米軍指揮所の至近まで突入して来たとある。
485 :
名無し三等兵 :02/12/27 00:07 ID:EXIoc8Om
今日、本屋で丸を立ち読みしてた。 そしたら、隣に70代後半くらいの爺さんがきた。 爺さんも丸を手に取り、帝国海軍の軍艦(たぶん)の写真を眺めていた。 もしかすると、と思って従軍経験とかあります?と聞くと、 海軍に入っていたということを教えてくれた。 詳しいことは聞けなかった。 そのあと、小説を探しにいくと、その爺さんがポルノ写真集をマジマジと眺めていた。 爺さん・・・・
486 :
名無しさん :02/12/27 00:19 ID:C8Z6EWVw
うちのひいおじいちゃん海軍少将だったらしいんだけど これはわりと偉いの?戦後、捕まったみたいだけど。 写真見ると色々ごちゃごちゃついた軍服でしたが。 開成でて頭良かったらしいが、ひいおばあちゃんは 「各港に女がいた。」とお怒りでした。
488 :
:02/12/27 00:53 ID:???
489 :
名無し三等兵 :02/12/27 00:54 ID:/1Nq8rqU
当時、英語を片言でも、話せるの、旧制中学くらい行かないとだめでは? ただ、東京などの都会を除けば、 数パーセントしか行かないから、卒業するだけで、その土地の指導者と認められるほどではなかったかと。
490 :
名無し三等兵 :02/12/27 00:58 ID:gvMxmyR1
海軍の将官って、アンタ、かなり偉い人だわ。 大きな本屋なら、海軍将官辞典あるから、ひーじぃチャンの略歴解るはず。
491 :
名無し三等兵 :02/12/27 00:59 ID:beJsy874
硫黄島守備隊はロートルが多かったから、英語の先生とかも いたのでしょうね。
492 :
BUS67 :02/12/27 12:43 ID:aqxdzO6m
レス さんくすです。 あっしはアメリカ在住です 今度日本に帰ったらじいちゃんに戦時下の話を聞いてみます。 わかってるのは 三男だったため 満州に佐渡開拓団の一員としていって 警察学校卒であることから騎馬隊の副隊長に任命され 夜間に戦闘になって部下の落ち度で馬が全て逃げたため 責任をとって敵陣の中に進入して 何とか2頭の馬を 連れ戻してきた話ぐらいですね あと 母が満州から帰ってくる途中で生まれたため 出生地が中国になってるぐらいですか
493 :
66 :02/12/27 13:49 ID:kVel+si2
うちのジーサマは英語が喋れるので重宝されて 終戦後も通訳で食ってたそうだ。 帝大落ちの慶応生だけどね。
494 :
名無し三等兵 :02/12/27 15:17 ID:3atD2BsU
フォークランド戦争でも アルゼンチン兵をガシガシ殺した英兵が 英語のしゃべれる重体のアルゼンチン兵が 「ほんとは戦争なんか来たくなかった」 といったのを聞いて泣き出した話とか 日本兵でも英語がしゃべれると捕虜にとってもらえやすかった ロシア語がしゃべれたおかげで満州で殺されなかったorシベリア抑留でも楽な仕事だったなどなど 敵国の言葉がしゃべれると生存率上がりますな
495 :
名無し三等兵 :02/12/27 16:23 ID:1DIfYxm6
うちの母方のじいさんは 戦艦大和、戦艦日向という戦艦に乗った少佐だったらしい。 なんでも数学が得意で、大砲の角度を測ったたみたい。 母の話では、大きな分度器とかがあったらしい。 でも、母親が生まれる前に40歳代で腸チフスで死んだ。 数年前に、親戚のオジサンが呉漁港にジイちゃんの名前が 慰霊碑か何かに入れられるので呼ばれた。 田舎には、東郷平八郎か、なんかしらないけど 勲章沢山のおっさんの肖像画が飾ってありました。 10年以上帰ってないので忘れちゃった(スマソ じいさんも2,3個くらい勲章付きの肖像画があったと思う。 あと、血のついたサーベルもあるらしい。中国人を逃がしてやったりもしてたらしい。 こんな話はココでは何唾もの?
496 :
名無し三等兵 :02/12/27 16:24 ID:gvMxmyR1
相手が同じ人間だと思うと、殺せないだろ。 同じ言葉を話すのを聞くと、同じ人間であることに気づき、殺せなくなるのでわ。
497 :
上等兵 :02/12/27 16:34 ID:ZoIf30b9
>>480 ,483
レスthx!!
30日以降に、爺さんの話聞いて書きこします。
480さんのレス参考に話したら、爺さん喜ぶかも…
よく調べたなって w
っと!、483のレスは…
もしうちの爺さんが16連隊だったら運がよかったって話ですね。
気になる気になる…
そうそう、爺さんの軍隊手帳を実はもらって持ってるんだけど、
よく読んだら経歴みたいの書いてあるのかな?
例によって達筆すぎて読めんけど…
もしそうなら今度実家に帰ったときに、持ってきます!
498 :
名無し三等兵 :02/12/27 16:56 ID:c5KtRd2Q
自分の場合は父親の話。 昭和3年生まれなので、このへんが軍隊経験ありの下限かな? 終戦時は満16歳だもんね。ただし実戦経験なし。 予科練でパイロットの訓練受けてました。ご存じのように航空兵は食事がいいし、 配給でもいろいろもらえたので、軍隊に悪い思い出はないんだそうな。 父の両親は原爆で死んじゃったけど。 戦後は海自に入って、江田島の学校にも行ってました。 自分としては、訓練の遠泳の話が印象に残っている。 若い頃あんなに鍛えたんだから、いまでも丈夫なわけだよな。
499 :
:02/12/27 17:03 ID:cIWsw5Le
じーちゃんは死んじゃったのでばーちゃんからつい最近聞いた話 ウチのじーちゃんはボルネオに行ってて、捕虜になってたらしい。 日本に戻ってきた時は手ぶらでマラリアにかかってたって聞いた。 確か軍服着てる写真が家にあったな…もっと色々聞いて置けばよかった。
500 :
名無し三等兵 :02/12/27 17:40 ID:W2rTN7Bc
おやじが幼少のころ広島県の三次あたりで グラマンとゼロ戦が 山の間を縫うように飛んでいったと。 なんかかっこいいす! ゼロは343空かな?
501 :
名無し三等兵 :02/12/27 18:41 ID:hEhsjKFg
うちの爺さんは海軍だったそうです ポナペ島守備隊に配属されていたとのこと ポナペ島は環礁地帯で喫水の深い船は入り込めずに 遠くから艦砲射撃するのが精一杯だったそうだが 時々艦載機からの爆撃や機銃掃射があったそうです 島にいるときは食料には事欠くこともなく甘藷などを栽培したり 魚介類を取って食べたりしていたそうです。 時々島の山頂付近に駐留する陸軍守備隊が甘藷を盗みにきていたそうです 俺:陸軍と海軍って本当に仲が悪かったの? 爺:うん。
502 :
名無し三等兵 :02/12/27 19:02 ID:/1Nq8rqU
>>551 ポナペ島ってトラック諸島のまだ向こうの島でしたっけ?
間違いならスマソ。
503 :
名無し三等兵 :02/12/28 02:06 ID:Pe3gSbAD
私の祖父は満州で中隊長してました。一兵卒から大尉までいったそうです。 自分の隊が管理している地区を見回る時は八路軍の攻撃に備えて(将校が) 携行を禁止されている小銃を持っていったそうです。 あと、神棚に戦死された部下の名前を書いた紙がずっと張ってありました。 満州事変の従軍記章もありました。 点でしか拠点を持っていなかったのが負けた原因といってました。 戦後も含めていろんな話を聞きましたが最も尊敬する人が祖父です。
504 :
名無し三等兵 :02/12/28 02:58 ID:efmRcML3
うちの死んだ親父は陸軍上等兵だった。砲兵。日中戦争に参加。3年で病気の為除隊。太平洋戦争には参加せず。 親父の2番目の兄貴は海軍工機学校卒。戦艦大和・軽巡鬼怒などを乗り継いでラバウルで終戦。帰ってくるのに数年かかった。健在。 家に空母や巡洋艦の写真がある。部屋がエンジンの上にあったからうるさくて寝られなかったと言ってた。 親父の1番目の兄貴はよくわからんが終戦間際に徴兵されて陸軍衛生兵として広島へ行って原爆死。
505 :
ななしさん :02/12/28 03:23 ID:GuW9ALH6
うちのじーちゃんは、中国大陸で諜報員をしていたらしい。 なんでもロシア軍の戦車の数を数えたり、中国人になりすましたりしていたらしい。 でも日本人がいくら中国人の格好をし、言葉も完璧にマスターしても諜報員とばれてすれ違いざまに射殺されたりしたようです。 じいちゃんも市場で買い物してるときに売り子の中国人に「うわー良い躯してますねー、まるで日本の兵隊さんみたいですね…。」 と、言われてハラハラしたそうです。 じいちゃん曰く「日本人は顔を洗うときに手を動かして洗うが中国人は顔を動かして洗う、」
506 :
名無し三等兵 :02/12/28 13:59 ID:gOLgNJaG
徴兵検査(?)で、あまりの近視に丙種合格だったそうだ。 戦後、英語が喋れたから通訳になって進駐軍兵士を遊郭に案内したんだって。
うちのじいさんは酒の席でチェコ重機の使い方を語ってくれました まだ、生きてます
508 :
名無し三等兵 :02/12/29 02:37 ID:kTIlbyx2
私の父は特攻帰りで、昭和18年の14歳当時、此の侭ではその内学徒動員されて工場 に行かされる、で、空襲に遭えば丸腰で何の反撃も出来ず殺されるだけなのが業腹だと いうので、中国語が出来た事もあり海軍に志願した。 何故、中国語が出来たかというと、祖父がフランス留学の帰りに暫く逗留した上海から 連れて帰って来た中国人の使用人(周さん?)から習ったからだそうだ。 因みに父は敗戦で没落するまでは大阪・船場のボンボンだった。 山東省・青島の海軍陸戦隊主計科の下士官として東京出身の若い将校付きになった との事。この将校さんは度胸試しだか何だかで、新兵が中国人捕虜を軍刀で処刑させ られる順番が父に廻って来る直前にいつもさり気なく用が有るから来い、と呼びに 来てくれたので、父はせずに済んで助かったらしい。 其の頃の父の実家は綿布工場を既に青島でも展開してたのもあり、祖父は昔ドイツ人が 建てた寝室20部屋、テニスコート3面、プールは勿論、地下室ではビリヤードも 出来、門から車で大分かかる様な邸宅に父、そして他に幾人かの将校方と住んでいた そうだ。(祖母は父が7歳時に既に死去) 伯母(父の姉)の一家は当時天津に居て、そこで私の従兄弟の1人が生まれたが、 この従兄弟は中国人の乳母任せだったので言葉(日本語)が凄く遅れたらしい。 祖父は繊維関係の会社数社の役員と自分の事業をする傍ら、森之宮に在った士官学校 でフランス語と英語を教えていたので、陸海両軍で少佐の位があったそうだ。(所謂 名誉職みたいなものでしょうか?)だから父も人前では祖父に向かって敬礼しなければ いけなかったとか。 肝心の特攻体験は、あれはとてもじゃないけど、「志願者は前に出ろ!」って 言われると断れる雰囲気ではなかったそうで、実際その場に集合した全員が前に出た そうだ。で、計3回志願したけれど、確か1度目は燃料不足で出撃延期。2度目は 基地が空襲され延期。最後に志願した回は出撃前に日本が降伏したので助かったと。 何度目かの出撃前の夜、月を観ながら、「俺も明日死ぬのか・・・」ってしんみり してたら、雇われてた中国人が「ジャングイ(?)大丈夫だよ、日本強いよ、日本 勝つよ!」と言って慰めてくれたそうだ。
509 :
508 :02/12/29 03:15 ID:NOR/9oBt
祖父の話ですが、敗戦近くになり、住んでいた邸宅の窓から流れ弾が飛び込んで来る 様になっても、父や他の将校方が床に伏せている一方、1人悠然と紅茶を啜っていた と。 又、敗戦後、祖父の留守中に米兵数人が家捜しに現れ、軍刀を強奪して行った際、 父達は負けたから仕方無いと諦めていたのに、「それとこれとは別だ!」と激怒。 父と将校方が殺されるから止めろって必死に止めるのを押し切って、停泊中の 米軍の駆逐艦(?)に乗り込んで、司令官と談判し、見事、軍刀を全て取り返して 来た。其の時は物珍しげに集まって来ていた中国人の野次馬達からも祖父の勇気に 拍手が湧いたらしい。 父は人力車引きの少年苦力(栄養失調なのか、物凄く小さくて、人力車を引くと 自分の身体が浮いたりしたそうだ)に、いつも御飯を奢ってやっていたそうだ。 この少年は1度奢ってやった後、父の顔を憶えて、父が通りかかるのを待ち構えて いたと。中国人の料理屋店主はみずぼらしい姿のこの苦力を乞食と勘違いして追い出そうとするので、 父が「これは私の連れだ」と言って、食べさせてやってたとか。
爺ちゃんについてはフィリピンあたりにいたということは知ってるが なんか気を使って詳しく聞いたことないな・・・。 少し聞いた話だと相当悲惨な体験したらしいけど。 ちょっと気が重いが今度聞いてみます。 ちなみに母方のばあちゃんは長崎で原爆体験。 本人は一名を取りとめたものの片方の目が使い物にならなくなり 自分で眼球取り出して洗ってたそうです。(母が言うには その当時3人の子供がいたが下2人は原爆で死亡。 一番上のおじさんはまだ元気に存命してますが、ばあちゃんは5年ぐらい前に病気で死にました。 うちの母は戦後生まれだからばあちゃん原爆で死んでたら自分も生まれてなかったんだな、と。 それと父方のばあちゃんも佐賀南部に住んでたんで 長崎から運ばれてくる被爆者を一杯見たと言ってました。 それもあんまり思い出したくない光景みたいですね。
ここの書き込みも接続元が重複してるのがいくつもあるぞ。 なんで軍オタってのはこうまでして偽証したがるんだろうねェ?
じゃあ漏れの接続元をさらしあげキボン
俺のじーちゃんの話ですが、俺のかあちゃんは幼いときに養子に出された為、 生みの親と育ての親がいます。どちらのじーちゃんも戦争に行ってます。 詳しい話を聞いた事が無いので、覚えてる事だけ書きます。 産みの親の方は、終戦まじかに満州へ行き、すぐソ連の捕虜になったそうです。 戦後日本に帰ってきたら、ソ連の捕虜になったのでアカの疑いがあるという事で 会社をくびになってしまったそうな。その会社は今では超有名な企業なので 勤めていればと、愚痴を言ったりしてます。 育ての親の方は、もう死んでしまったので詳しい話は知りませんが、 シナへ行きこれまたマラリアにかかって、すぐ帰ってきたそうです。 親戚のじーちゃんは南方に行ったそうです。 たしか、マレーシアだと記憶してますが、もしかしたらインドネシアかも。 その人は輸送部隊にいたそうで、トラックの運転ばかりしていたそうです。 戦闘の話は聞いた事がありませんが、川に爆弾を投げて魚を取ったり、 それぞれの村には現地人の村長?のような人がいて、村の人はその人に 頭を下げてばかりいた。という話を聞いた事があります。 あまりにも、へーこらしてるので、不思議だったと言っていました。
514 :
508 :02/12/29 07:58 ID:NOR/9oBt
台湾の高雄付近(?)で父が4人乗りの機体(機種は失念しました)に搭乗して 移動中、米機の攻撃に遭い父は両足に被弾、操縦士は鼻をもぎ取られる重傷で、機体の エンジンからも煙が出ていたらしい。操縦士がとっさの機転(?)で自分のして いたマフラーを別れの挨拶さながら振ったところ、米機はそれ以上追撃せず去った。 その後、停泊中の友軍の艦上に不時着して助かったそうだ。 敗戦後は在留邦人を守る名目で武装解除もされず、米軍からMPの腕章を付与されて いたので、日本占領中の仇討ちをしようと思っていた中国人は手出し出来ず悔しそう にしていたらしい。
515 :
名無し三等兵 :02/12/29 11:25 ID:cmDRc1Ms
>>511 まぁ、いいじゃないか。
戦争体験の話なんて、
玉石混淆だよ。
聞く方に、
真贋を見抜く力
があれば、イインじゃ。
父方の爺さんは当時40台で大阪市内で料亭を営みながら3人の子持ちだ った。親戚家族で兵隊に誰も行っていない。大阪大空襲も風上だったの で特に被害も無く空が真っ赤になるのを家族で眺めていたそうだ。 母方の爺さんは当時50台長崎で質屋を営みながら10人の子持ちで町内で は顔役だった。そのせいで戦艦武蔵の進水の際見回りをしてた憲兵の順 番が一番最後だったので、前の晩から用意したご馳走を振舞って朝から ドンちゃん騒ぎしたそうだ。国の政策に従って満鉄の株を買いまくるも 戦後ただの紙屑となり大損する。年頃の子供が尽く娘だった事もありこ れまた一族で兵役についた者もおらず原爆も爆発音を聞いただけで終わ り被害者ゼロだったが、戦後の食糧事情の中栄養失調なか妻と子供4人を 失う。
517 :
名無し三等兵 :02/12/29 11:59 ID:s8xHEn3K
祖父さんではなく親父なんだが戦争中ず〜と輸送船に乗っていた。 初めてその話を聞いたときにじゃあ海軍だったのかと聞いたら、親父に 本気で怒られた。馬鹿ヤロー陸軍だ!ってね。 知らなかったんだよ陸軍船舶兵なんて。 戦友はほとんど戦死したそうで板子一枚下は地獄だってよく言ってたよ。 ところで日本にも対戦車ライフルが有ったんですかね、親父がシンガポール で一回り大きな小銃を持った兵隊が居たので其れは何だと聞いたところ新兵 器だ、これで戦車なんてイチコロだと言ってたそうだけど。
>>517 >ところで日本にも対戦車ライフルが有ったんですかね
九七式20mm自動砲と言うのものがありました。
半自動砲で、徹甲弾を用いて250mの距離で30mmの貫徹力があります。
戦車相手よりか、歩兵戦闘に主に用いられたようです。
3年前に他界したじーちゃん。 あんまり戦時体験の話は聞いたことが無いけど少しだけ。 最初は満州に行ってたらしい。 その後沖縄防衛のために移動の準備してたら急遽台湾へ行くことに。 台湾のどこにいたのか知らないけどB29が爆撃しに来たときに防空壕に入って 見てたとき、隣の戦友が「よく見えないから場所変わってくれ」と言ったので変わった その直後に爆弾が落ちてきて 漬物石みたいな大きさの爆弾の破片が変わってあげた戦友の胸をブチ抜いていったそうだ。 その破片はもの凄く鋭い刃物みたかったとか。 今は無いけどウチの座敷になんか部隊の表彰状と勲章が飾ってあった。 確か、第五百六十二独立歩兵連隊とか書いてあったような・・・ 母方のじーちゃんもやはり満州にいたとか。 10年前に亡くなった後写真整理していたら機関銃を傍らに何人かと並んでいる写真が。 「あ〜、日本にもこういう時代があったのか・・・」と。
521 :
名無し三等兵 :02/12/29 13:09 ID:D8MMvUzQ
俺の爺ちゃんはさっき聞いたらピョンヤンの高射砲隊だって。 で、シベリアに何年か居た。竹下登からもらった「あなたの戦後強制抑留中の〜」 っていうの飾ってある。
うちの爺ちゃんは開業医で婆ちゃん日本女子大出てて息子も三人いたけど うちの爺ちゃん兄弟、ばあちゃんの兄弟ともに誰一人戦争に行ったり 戦争で被災したのいなかったよ。 ただ戦後MPかなにかの通訳してたのがいた。
523 :
名無し三等兵 :02/12/29 19:07 ID:njV4dBwq
524 :
281 :02/12/29 19:26 ID:uf7JUxxT
太平洋戦争中の話題が多いですが、もうちょっと古い話を。 私の曽祖父の祖父だか曽祖父は、 陸軍の軍曹(と言って良いのでしょうか?)で 西南戦争に参加していたそうです。 手記とかは残っていませんが、 亡くなった曽祖父の遺品を整理していたら写真が出てきました。
>>520 独立混成第75旅団独立歩兵第562大隊
死に損ないの爺の話が面白いか?
死んでしまった爺の話もありますが
ここの連中ジジイと一緒に死にたいのか?
530 :
508 :02/12/30 03:26 ID:8KF/H2r6
父は中国語の通訳としての任務も果たしていた訳で、捕虜の尋問の通訳をさせられた 事も有ったそうだ。この話を聞いて私が捕虜の立場なら、こんな子供が自分の命の かかった尋問の通訳なのか!?と恐慌に陥ると思った。 父は実際、上官から「若いのにご苦労さん」と言って、饅頭を貰った事も有った らしい。 尋問する兵の中には1人本物のサディストも居たそうで、何でも棒切れに何本も 釘を打ち付けた物で捕虜の睾丸を殴り付けていたらしく、仲間内でもあいつは 変態だと敬遠されていたそうだ。 尋問(と言うより拷問か?)法の中には、捕虜に綿入れの外套(?)を着せた後、 水中に浸し、その後、屋外に放り出すというものもあったそう。翌朝、その捕虜 はカチカチになって凍死していたと。 しかし匪賊も日本兵を可成惨い方法で殺していたらしく、肛門に竹槍を突き刺さ された遺体を見て、「この仇は必ずとってやるからな!」と怒りに震えた経験も 有ったと聞いた。 少し軽めの話では、父は自分に年の近い戦友達と連れ立って、中国人の青物店に チョッカイを出したりもしていたそうだ。 先ず1人が店の者の注意を逸らせる為、 何か質問し、その隙にもう1人が店先の電球を割り、残りの者が商品を其々、手に 持てるだけ持って逃走すると。 後ろから中国人の悪態が聞こえたけれど、何せ 相手は日本軍人なので何も出来ず、非常に悔しそうだったとか。
531 :
508 :02/12/30 03:41 ID:8KF/H2r6
慰安所については私自身が成人・結婚後、さり気なくきいてみたら、矢張り 当時、父も興味は有ったらしかったが、祖父に「病気(性病)は怖いぞ」と 一言で諭され、結局、利用せずだったそうだ。 尤も海軍さんは大いにもてたそうで、在留邦人の中でも娘が海軍さんと 交際しているというのは自慢になったらしい。 父は京都出身の病院長の娘と戦争が終わったら結婚しようと将来を誓い 合っていたが、復員後、彼女を捜したもののどうしても見つからず諦めて しまった。その後、逆ナンされて付き合い始めた大阪の材木屋の娘と婚約。 新・婚約者とダンスホールに繰り出した際、そこでダンサーに身を窶して 父を捜していた元・婚約者と再会。父はダンス狂いだったので、ダンスホール に通っていれば、きっと何時か見つかる筈と思っての事だったと。父は 責任(?)を取って、新・婚約者と別れ、元・婚約者とも復縁する事無く、 随分後に私の母と見合い結婚しました。 この話を聞いた時は元・婚約者と 結婚したら良かったのに・・・と思ったけれど、その時は既に新・婚約者に愛情 が移ってしまっていたらしい。
532 :
名無し三等兵 :02/12/30 04:06 ID:Nnu99oM1
うちのじーちゃんは近衛だった。(じーちゃんが死ぬ1日前に親戚に聞いた) この大ばーちゃん(19世紀生まれ)、普段はめちゃくちゃ厳しくて「武士の子がなにやっとるかー!」 と怒ってばかりだったそーだが流石にこの時ばかりは「これなら戦争に行かずに済む」とよろこんだそ〜な。 もう一方は海軍でヒコーキをいじっていたそうな、でやられたところ知り合いの医官が 重症気味に書いてくれたおかげで後方に回されて病院で終戦を迎えたそうな。 そんなじーちゃんもつい最近逝ってしまった…。 戦中の話が聞きたくても聞けなかったのが歯痒くて仕方ない。 最も近衛を知名だと勘違いしていた母には呆れたが… 「田舎で馬に乗ってた」じゃ全然分らんよ…。(汗
533 :
名無し三等兵 :02/12/30 04:07 ID:IYddwWrJ
慰安所は、 むしろ、 性病の蔓延を防ぐ役割を果たすためと思っていたが。 上層部にとって、花柳病により、 兵隊が無力化されるほど、 情けないものはない。
534 :
名無し三等兵 :02/12/30 05:37 ID:iGMUKDYY
俺の母親のジーさんは日露戦争で、大活躍して金鵄勲章貰ってる。 報奨金も結構な額で、戦後はそれを元手に大阪で呉服屋を始めたらしい。 まあ、武家の商法で失敗したというのが落ちなんだが。 一旗あげるってのはそういう事なのかと思ったしだい。
535 :
名無し三等兵 :02/12/30 14:30 ID:JgLuNo6H
オレのジーさんはその時まだ子供で岡山の水島で爆撃機を作っていたらしい その時作った爆撃機をテストするパイロットに爆撃機にのせてもらったらしい、だけどすごく揺れて怖かったらしい
俺の父方の祖父は朝鮮に住んでてパプワニューギニアで戦死したのだけれど ニューギニアの方面はどういう部隊だったのかわかる方いらっしゃいませぬか。
537 :
名無し三等兵 :02/12/30 19:38 ID:lOhKnJxs
536さん 七十七連隊か七十九連隊あたりではないかと思いますが。
538 :
名無し三等兵 :02/12/30 20:21 ID:sght8PKc
なんだ、ジニーちゃんじゃないのか。 サガフロスレもどろ
539 :
名無し三等兵 :02/12/30 20:40 ID:r6O50LA5
おれのじいちゃんは紫電改で撃墜王だったそうだ。
うちの祖父も医師だったが戦争に行かずに終戦迎えたらしい。 開業医は兵役免除でもあったのだろうか?
541 :
名無し三等兵 :02/12/31 00:54 ID:eFq5oN6I
>>536 ニューギニアは、最激戦地のひとつ。
東部なら、第18軍の第20師団、第41師団、第51師団が有名。
他にも、かなりの部隊が派遣された。
ニューギニア戦線は、本もあるから、読んでみたら。ただ、かなり苦労されたと思います。
バーチャンが遺族年金もらってるなら、
役所に聞けば、正確な部隊など判るはず。
遠く故国を離れ、異郷の地で果てられた、
じーちゃんさんのご冥福をお祈り申し上げます。
542 :
名無し三等兵 :02/12/31 01:27 ID:nuDAx5Kv
>>540 医者だから、兵役免除っのは、聞かないなぁ。
逆に軍医は重要だから。
学生とかは、軍医とかで行ってるし。
すでに開業していたなら、年齢が高かったかも。
ただ、これも地域による。
実は、漏れの爺さんも、行ってない。
運送の商売をしていて、町の顔役的なとこがあったからと、
本人は言ってたけど、これは、あんまり信用できん。
開業医も、当時は、
土地の指導者的なところあったはずだし、
銃後を守る重要な役割を認められていたのでは。
543 :
名無し三等兵 :02/12/31 01:30 ID:7+Tjnw/e
>>539 えらいモノに乗せられてたんだなぁ・・
それで撃墜王なんだからスゲェや。
で、ネタなの?
>>540 医者は軍隊にも、軍医学校があったから民間からの徴集は少ない。
545 :
名無し三等兵 :02/12/31 05:20 ID:KnlYFLVK
じーちゃんの話ではないが 特高、警察、憲兵の監視の目が厳しくなっていく中、 海軍士官だけが「日本は負けるよ」などと発言して、 「あいつは非国民じゃ!」と激しくののしられていたという。 まーでも末期には連日空襲を受けるのに、ろくな防空もできない 日本が勝つのはさすがに無理なのではと陰で皆な噂していたと。
546 :
山崎渉 :02/12/31 08:07 ID:???
(^^)
>>540 俺の父親も当時医大に通う学生だったがお陰で兵隊に取られなかったそうだ。
本人は行きたかったらしいが1人息子を死なせまいとする祖母の画策らしい。
548 :
名無し三等兵 :02/12/31 22:02 ID:xhsukfA9
うちのじいちゃんは海軍航空隊の少尉で空母赤城に乗っていたが肺に水が溜まっるのにただの風邪と誤診した軍医さんのおかげで勤務中にぶっ倒れえて、急遽病院送りになって敗戦になったらしい。 そういえば、天皇嫌いだから勲章全部つき返したって言ってたなぁ。写真しか残ってねぇや。 あと、上官に無理な命令を出させられて反対したら殴られそうになりとっさに鼻に噛みついたそうな。罰として飛行場の回りを走ってたら眠くなって持ってたハンモックを枕代わりに格納庫でお昼寝をしてたそうな… そんなじいちゃんも今年で80歳… もう片方は満州鉄道員だったとか満州の沿岸警備隊でショボイ潜水艦(潜水艇?)で浮いたり沈んだり訓練繰り返していたという話をするが両方ともうさんくさい
>>547 うちの叔父も文学部志望だったが、兵役が免除されるという事で祖父によって
医学部に行かされた
しかし、原爆によって19歳で死亡…
好きな道に進ませてやればよかったと祖父は死ぬまで悔やんでいたそうだ
うちの祖父さんはブラックタイガー隊でヤマトに乗艦してたそうな。 いつも山本隊に配属で古代の無能ぶりに辟易してたそうだ。
ああ。オレの爺さんは第3艦橋勤務だったそうだよ。 戦後、異常なまでに「見捨てられる」「脱落」「剥落」「崩落」いう言葉に 反応するようになったのは何かのトラウマじゃねえかって婆さんがいってた
552 :
名無し三等兵 :03/01/02 03:39 ID:gv+pwh23
父方の爺さんは、終戦をビルマ出迎えたらしい。 高射砲で耳をやられたとかで耳が遠かった。 亡くなってしまった今となっては、死後出てきた戦友会の会報「九九会」って名前と ラバウルに一時期いて、ビルマで終戦ってことしかわからない。 このスレ読んでいたら、なんで聞かなかった聞けねかったで悔しくて悲しくて・・・ こんな情報しかないけど、何かわかる人がいたらレス下さい。 父も母も無関心でホントに悲しいので
うちの祖父さんは06式の「ざく」とかいうのにのってたらしい。 ルーム戦役で大きな負傷して長いこと病床で、終戦を公国の軍病院 で迎えたんだと。
554 :
名無し三等兵 :03/01/02 04:12 ID:OPRGXSon
自分の祖父ではないが、ミャンマー〔ビルマ〕で出会った 老人が言ってたよ、本当に砲撃や爆撃がすごかったってね 会話もままならないので、それ以上深い話はできなかったが 日本語で 飯たべたか? やあなた日本から来たのか? ときかれてシビレタよ。
>>548 赤城の搭乗員と終戦との関係がなんか辻褄あわないような気がするなぁ。
結構ネタも入っているね(w
556 :
508 :03/01/02 08:23 ID:TAAvA+Zd
伯父(父より10歳年長の兄)の話ですが、陸軍で重機関銃の射手(?)をしていた そうで、ビルマ方面に行ったそうだ。戦車の操縦は出来たそうなのに、自動車の運転 免許は結局、取らずじまいだった。 私が未だほんの子供の頃、伯父の戦友だったという方に1度お会いしましたが、「貴方 は伯父さんを誇りにすべきです。伯父さんは私の命の恩人です。」と感情をこめて 何度も言われたので、後で伯父に事情を尋ねると、「あいつの分の飯をいつも取って おいてやってただけの話だ」との回答で、その時はもう一つ意味が判らなかったが、 私が長じて、其の行為が如何に重要だったかが理解出来た。 復員時に元々体格が良いというより太めだった伯父がガリガリに痩せ細って戻って 来たので、祖父もまさかこれが伯父とは判らず、「失礼ですが、どちら様でしょうか?」 と誰何してしまったらしい。伯父は情け無さそうに苦笑したとか。 伯父が或意味凄い(?)のは、復員時にタイから戦争花嫁(?)を連れ帰った事だ。 この女性は当時タイ在住だった日本人夫妻に姉妹揃って養女に迎えられた内の妹の 方だったそうで、勿論、現地人。(この日本人養父母も姉と共に敗戦後、日本に 引き揚げたそうだ。)伯父との間には既に1人息子も生まれていたのにも関わらず、 敗戦に依る没落後も気位だけは変わらず高かった親族一同に結婚を認められなかった らしい。伯母(父より12歳年長の天津に居た姉)の話に依れば、矢張り日本人 なら未だしも、タイ人だった事が親族の気に染まなかったからとか。 しかし、この伯父の最初の妻は僅か数年後、結核で病没。伯父との間に生まれた 遺児は、彼女の姉に引き取られたそうだ。 余談ですが、伯父は計3回結婚したものの、全ての妻には病気で先だたれ、親族内 では「死神」と仇名されている。
557 :
名無し三等兵 :03/01/02 08:45 ID:dEIZfFD3
ただの嫁使いの荒い夫じゃないの?
558 :
508 :03/01/02 09:10 ID:TAAvA+Zd
>>533 おっしゃる通りですね。実際の慰安所での性病罹患率は私には判りませんが、祖父が
父をこうして諭した真意には、未だ若い(と言うより当時ほんの子供だった)内から
買春などという悪習に我が子が染まって欲しくないという親心もあったのでは?と
思われます。
>>557 新年早々笑わせて戴きました。(笑)私に恋愛運が余り無かったのは案外、父の
元・婚約者達2人の祟りのせいだったのかも知れません。(笑)
母の従兄は憲兵中尉でフィリピンで戦犯として処刑されたそうです。 母はそのことについては一切語ってくれません。 そーとー悪いことしたのかなあ・・・・・ 母は希姓(カバヤ)なのでしらべればここで報告できるかも。
じいさんシナ人**人殺したという話しかしなかった。 最低。
>>552 ラバウルに一時期いて、ビルマで終戦…。
太平洋戦争勃発時にグァム上陸とかした話はありませんか?
あったら、漏れの爺様と同じ部隊だと思うのですが。
観音寺か広島の師団だったらしいです。
562 :
名無し三等兵 :03/01/03 09:43 ID:grZ1xVnO
中学生の頃戦争の学習で祖父などに話をしてそれを発表する授業があった。 祖父は、シナ人に日本人を食われた〜って話をして、それを聞いたまま発表したんだけど 先生にとめられ、 「日本人が、中国人を食べたのを勘違いなさっているんじゃないかしら?」 などどほざきました。 ぼくも普通のバカ優等生だったので、その文献を先生から借りて そのまま鵜呑みにしじいちゃんを口撃しだしました。 そのことを謝ることができないのが心残りです。なんで自分の血親を信じられなかったのか。。 そんな悲しいお話。
うちのじーさん、ガダルカナルでフォスに墜とされた26機のうちの一機だそうだ。 生きてかえってきたじーさんの弟に聞いた。 そのフォスも先日亡くなったようで・・・合掌
564 :
名無し三等兵 :03/01/03 10:06 ID:FkR4QAJU
>559 ろくに検証もされずに即決裁判で処刑された人が殆どです。海外での扱いは戦犯でも日本国内では戦犯は存在しません。彼等の扱いは法務死なのです。彼等は犯罪者ではありません、冥福を祈ってあげてください
>>555 時系列あわないネタが増えてきたな。ヽ(`Д´)ノウワーン
>>548 の爺さんは最短でも3年は入院してたってことか…。
小さい頃じーちゃんが今の暮らしが夢のようだって 言ってたの思い出すなあ。多くを語らなかったけど。 辛かったんだと思う。20年前に他界したんだけど もっと漏れが大人だったらと思ふ。 じーちゃんは満州にいたらしい。 母方は樺太(母生まれる)でやっぱり命からがら 逃げ延びてきた話を聞いた事ある。 やっぱり詳しいこと聞けずで後悔。。。 今の日本をどう見てるんだろ。 そして漏れが2chカキコしてることに感謝。 なんか漏れ情けな。 詳細情報なくてスマソ。
>565 さすがに半世紀以上昔の記憶だから、細かい時系列はかなり曖昧なんだよ。 よっぽどのじゃないかぎり、そういう風に思いねぇ
毎年1月3日はじいちゃんのイトコ達が集まる会がある。 さっき迎えに行ってきたんだが、帰りの車でじいちゃんが、 「あいつらみんな、よう生きて帰って来れたわ。 わしも入れてみんなビルマで死ぬもんだと思っとったからの。」 と言っていた。今日集まっていた人の中には片目の人がいた。 砲弾が近くで炸裂して、飛んできた小石が左目に飛び込んだらしい。 もう少し勢いよく小石が飛んできたら、脳までいってたといつも言う。 みんな長生きしてほしいと改めて思った次第である。
569 :
名無し三等兵 :03/01/03 20:56 ID:04AU0DrD
俺のじいちゃんは広島でフバーハを唱えて助かった。 もちろん俺もできる。
570 :
548 :03/01/03 21:39 ID:fah0Z11h
>>555 ネタなのかどうかは知らないが俺はそう聞いたんだが…正月は実家に帰れないので今度改めて聞いてきます。
まぁ、完璧ボケきてるから本当のこと話してくれるかどうか解らないけど
おれは死にぞこないのジジイを擁護するつもりはない。
その死にぞこないのジジィが死んでいたらお前は存在しない。これもまた事実
>>572 横レスだが何で?
今の日本があるのは戦争特需とアメリカの庇護と高度成長期に必死に働いたサラリーマン、ビジネスマンの皆様だと思うが?
574 :
名無し三等兵 :03/01/03 23:44 ID:e4Opx+UE
パート1で書いたもんですが昨日じいちゃんがついに亡くなりました。あれほど元気だったじいちゃんが最後には、あっさりと眠るように逝きました。結局戦争体験は聞けず終いでした。。。
死にぞこないのジジイの孫でDQN = 571
お悔やみ申し上げます>574 眠るように亡くなったお祖父さんは幸せな戦後生活を送ったのでしょう。
577 :
「憲斬」23型甲 :03/01/04 00:00 ID:r+m90on8
オレのじー様は近衛兵で、大戦末期には父島で戦った。もう一人のじー様は満州で戦った。二人とも無事生きて帰って来てくれて、 一人は亡くなったが、一人は存命されている。ただし当時の事 はあまり語りたくないとうだ。ただ、前に家族と父島を訪れた際 、慰霊碑の前で崩れて号泣したという事は知っている。 。亡くなった方のじー様は戦後、洋服の仕立てをしていた。 古いミシンを操りながら 、遠くなった耳で、無知なオレの質問にも笑いながら答えてくれたものだった。 「いやあ、オレは後方だったからなぁ。結構安全だったよ。 最後の方は、南方の島に連れてかれたのが幾人かいたけどな。」 本当に野仏のような優しい人だった。そして、何より運にも 恵まれていた祖父であった。コーヒーと甘い物が大好きだった。 その祖父と別れた祖母は今、痴呆になってしまい、何やら 30年前の状態になっており、今まで口にも出さなかった 祖父の話を好意的に話すそうだ。その話を聞いてオレも泣いてしまった。
>>564 レスありがとうございました。母の従兄の件は自分にとっても心に刺さった棘でした。
早速時間をつくって靖国神社にお参りにゆこうと思います。
母はいまでも一回り以上も年が違うその従兄を慕っています。でも、一族でもその方の
話はタブーで・・・・出来れば自分で調査して、冤罪ならその汚名をすすげたら、とも
思います。
重ねてありがとうございました・・・・・(;;)・・・
近衛兵結構多いなあこのシリーズスレ。 やっぱり生き残る確立が段違いなんだろか。
580 :
名無し三等兵 :03/01/04 01:39 ID:V+TrDEhb
近衛兵って、近衛師団のことか? ジャワ島で終戦じゃなかった?
581 :
名無し三等兵 :03/01/04 01:56 ID:ziKYYPDy
>>578 フィリピンですか。。。
山本七平氏の
「一下級将校の見た帝国陸軍」
に、収容所での様子ことを少し書かれますね。
漏れからも、ご冥福をお祈り申しあげます。
582 :
名無し三等兵 :03/01/04 02:09 ID:ueEITVdT
俺の爺様は海軍で呉でアメの艦載機相手に機関砲撃ってますた。 あまりにアメの艦載機が速すぎて一発も当たらなかったらしい。 まっさかさまに急降下して軍港の軍艦を爆撃する様は敵ながら あっぱれと思ったそうです。 たいしたことない話ですまそ。
583 :
アパム三世 :03/01/04 03:00 ID:iJ0nliYo
俺のじじ(72)は戦争が10月以降まで続いていたら兵士になっていたらしい。
じじの兄弟は12人だかでじじの母ちゃんは天皇からなんか賞をもらってたと聞いた。
じじは兄弟の末っ子で兄貴達は戦争に行っていた。
戦病死だったり普通に戦死したりしてほとんどの兄貴は死んでしまったらしい。
あ、じじは北海道生まれね、俺も北海道に住んでるけど。
今も89歳で生きているじじの兄貴の話をすると、シベリア出兵の時に小隊長としか聞いてない。
ってかそのじじの兄貴家でその当時の小隊の名簿らしき物を見たことがある。
確か・・・・・中尉だったか伍長だったか・・・・しかし中尉で小隊長は違うかなーと思うんで
おそらく伍長かそれ以上の階級だったと思う。
戦闘でのエピソードは聞いてない。
しかしその後はシベリア抑留で死ぬほど辛い思いをしたらしい。
一方ばばの方は大阪生まれでじじが生まれた北海道とは比べ物にならないほどの空襲があったらしい。
艦載機「グラマン」が攻撃しまくってたと聞いている。
グラマンが低空で攻撃してきてばばは米兵士の顔が見えたと言っている。
俺は旧日本軍は悪いこともしていたかもしれない。
しかし軍人にも悪いやつもいれば良い人もいる、それはどの軍隊でも同じ事。
とにかく国のため家族のため死ぬ気で戦った人々には焼き敬礼したいぐらいです。
俺は厨房から自衛隊が夢なんで。
>>49 の「しかたない時代が世の中にある」
俺の中で一番感銘を受けました。
585 :
名無し三等兵 :03/01/04 04:09 ID:cyVgz5+2
>>583 小隊長は、小いですね。
ただ、末期は消耗が激しかったので、
准い(曹長)が小隊長してたかも。
兵隊さんからなら、かなり優秀な方だったはず。
特高 特務 憲兵だと?・・・・それにコネでうまく立ちまわった奴? 恥を知れよ。 卑劣な爺の子孫が集うスレってここでつか?
589 :
名無し三等兵 :03/01/04 15:31 ID:1GCZDI/c
非国民爺と糞孫さらしあげ
チョンが烈しく妬んでおります。
>>589 同意 戦場で命を的に戦った人々とそうでない連中は区別すべき。
後方にいて楽してた佐官以上の連中、それに将官の子孫どもは書きこみを控えるべき。
俺の意見だが、将官以上の連中に対する遺族年金や恩給は停止すべきだとさえ思う。
・・・・まったく小平義雄だって戦死すれば英霊だものな・・・・
592 :
143 ◆bodgOoQOHA :03/01/04 17:22 ID:DeL6WRwW
>>116 死ね。今すぐ死ね。腐れ米人の血が入ってるお前は屑。
>>591 大尉クラスまでは前線でも戦ってますが何か?
自慰ちゃん、がんばれ。
595 :
名無し三等兵 :03/01/04 18:25 ID:XRIgKMrm
南方からの引き揚げ船で、 甲板では嫌われていた上官に対してリンチがあって、 じいちゃんは、怖くて船室から出られなかったと言ってた。 最後には上官は海に突き落とされたらしい。 じいちゃんは戦争について、あれこれ話す人ではなかった。 多分、相当精神的にキツかったんだと思う。 そんなじいちゃんが亡くなって、 火葬後に骨を取り出すときに親類一同騒然となった。 太いボルトが骨と一緒に何本も出てきた。 「戦争では少し怪我をしただけだった」としか言わなかったじいちゃん。 最後の最後で大泣きした。
>>592 冷静になられよ。楽してた 佐官以上 と言っておる。
具体的には陸大での参謀などのこと。
屑の代表→
>>547 徴兵忌避を得意気に・・・反吐が出る。
つーかガンダムネタにもつっこめよw
人間の価値 陸大出身者>>絶対に越えられない壁>>ペペウ
日本人>>絶対に越えられない壁>>大陸出身者
日本人>>絶対に越えられない壁>>半島出身者
>>598 食卓にガンプラが乗ってても構わんが、ペペウやタリ警が正座していたら・・・イヤソ
>>599 陸大出身者>>絶対に越えられない壁>>ペペウ=陸大出身者(例 富永とか)の一部
603 :
名無し三等兵 :03/01/04 19:17 ID:EDu93kCo
>>592 ここはキミが居て良い場所では無い。
去れ!
604 :
糞スレでも祭りにするぜ!! :03/01/04 19:18 ID:TwOQf6cl
俺は戦争経験者ですが何か?
俺の爺さん、学徒出陣でMS-14Aに乗っていた。古参の先輩兵士は乗りなれた 方がいいと言ってMS-06Rに乗っていたが、戦後実は若い兵士を死なせないための 配慮だと知って感謝と申し訳なさでむせび泣いたらしい。星の屑作戦でも生き残った つわものだったが撃墜された際に片腕を失い今でも後遺症に悩んでいる。
うるせえんだよ! 糞アメ公の息子がいるのに何いってりゃがんだ糞売国奴共め! こいつの大叔父は太平洋で爆撃機の乗員だったんだぞ! 116は死ね!
>>606 お前が死ねって。
前線の兵士に罪があるわけねえだろ。さっさとタリ板に帰れ。
それに何故今更sageでID隠すの?(藁
生きる価値 人間>>比較することも馬鹿らしいくらいの差>>ペペウ
609 :
143 ◆bodgOoQOHA :03/01/04 19:52 ID:AuSksgfC
生きる価値 人間>>比較することも馬鹿らしいくらいの差>>米人、116、軍事ヲタ
かわいそうに、自分が最低の存在であることに気がついて、それで必死に 自分以下の存在を作ろうとしているんだね…ホロリ
>>606 工房のおまいは水師営の故事など知らんだろ?
おまいのジーさんは先の大戦で栄養失調の捕虜をぶん殴ってた
憲兵だろ?
613 :
143 ◆V.peCNRj3k :03/01/04 19:59 ID:AuSksgfC
水師営の故事? なんだそれ? 大体俺のジーサンは中国にいった一兵卒だ! 最も戦闘には参加しなかったらしい。 一回現金輸送のトラックを護衛して守ったお礼にたらふく中華料理を食べたそうだ。
ペペウのじーさんって後方でぬくぬくと暮らしていただけなんだ。 しかも、お礼と称して搾取していた、と。
>>613 はペペウが今までにしてきた発言の中でも一番意味があったなw
お前がこんな所でこんな糞の様な発言を垂れ流してる何て知ったらお前の爺さん悲しむぞ。
>>613 おまいな、おまいのやってることはおまいが非難する偏狭な白人と同じだぞ。
コヴァの本ばかり読まず、明治の先人たちのこと、勉強汁!
水師営も知らず愛国者気取りとは・・・・・・(悲
>>613 残念ながら116氏はお前と違って人並みの常識があると思われるから相手にされないよ。
兎に角次のレスから再開。
かなり近い親戚に、兵として南方に輸送されている途中、 撃沈されて戦死した人がいたと聞いた。 俺のじいさんは呉で工員として働いていた。 終戦時、大和を造ったドックに蛟龍が100隻くらい ずらーと並んでいて、それを解体していったそうな。
619 :
618 :03/01/04 20:20 ID:???
ごめん。ついでに。 俺のもうひとりのじいさんは、 北海道にいて、グラマンの機銃掃射にあったときいた。
620 :
孫 :03/01/04 20:31 ID:sjim8+Am
俺の爺さんの話はシベリア抑留モノばかりでした。 ダチ公の爺さんは「戸籍がなくなる」部隊に入っていたそうだが。
621 :
糞スレでも祭りにするぜ!! :03/01/04 20:37 ID:TwOQf6cl
俺ってどこにいっても相手にされないんだね。 ヒッキー板出身だからな(藁
>>591 俺のじいさんは海軍少佐だったが船を撃沈されて死んだ。
小さな船ばかり乗りついているが、
最後の船に乗る前の船では、乗艦沈没数時間の水泳、
ほかにも舵故障で乗員一同発狂寸前などなどで
結構ひどい目にあっている。
更に職業軍人でなく徴兵されているという・・・。
623 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/05 00:40 ID:r10SFoEP
477です、軍隊手牒と爺さんの話から… 所管 近衛師団宇都宮 〓〓〓〓〓〓 部隊號 近衛輜重兵大隊第二中隊 兵科 輜 官等級 輜 特 上等兵 陸軍兵長(特・上等兵については線で消されている…) 本貫族籍 栃木縣 氏名 戸主***甥 *** 誕生 明治四拾四年拾月弐拾八日生 身長 一米五七糎九粍 特業住所 栃木縣下都賀郡***村大字******番地ノ* 戰時著装被服大小區分 帽 六號 衣袴 四號 外套 四號 靴 十文七分 服務年期 二年 自六年十二月一日至七年十一月三十日 實役 自七年十月一日至七年十一月二十五日 善行證書 昭和二十年十一月十五日附典 履歴 昭和七年十一月一日現役兵トシテ近衛輜重兵大隊第二中隊ニ入管 十一月二十五日〓休退管 昭和九年簡閲點呼濟 昭和十一年簡閲點呼濟 昭和十五年簡閲點呼濟 何かの資料にと思ったのですが、スレとはあまり関係ありませんね。ごめんなさい!
624 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/05 00:45 ID:r10SFoEP
出戰務 昭和十二年八月十四日動員下令 (長男で近衛兵になって、出征は無いと思っていたところへの赤紙だったそうだ) 昭和十二年八月二十一〓充員召〓ノ〓近衛師〓渡河材料中隊ニ〓召 昭和十二年八月廿六日近工出発 同月廿八日宇品港出発 九月四日呉淑波止場上陸 同月九日迄〓家宅ニ器材ノ運搬 同日第三師團長ノ令化ニ入ル (普通はもとから師団について行くそうだが、近衛師団自体は戦争に行かないそうで 三師団に配属になったそうだ。三師団は九州の部隊だったらしい) 自九月九日至同月十二日揚行鎭附近ノ戦闘参加 (敵は準備万端で待ち受けていたらしく、味方の航空爆撃があったそうだ このときの航空機は、複葉機だったとのこと) 自同月三日至十月二日劉定行及〓家宅附近戦闘参加 自同月三日至同月廿七日大揚鎭附近戦闘参加 (この時には単葉機になっていたらしい。そういう話するところを見ると 航空機の攻撃が多大な戦果を上げていたのだろうか… この戦いの勝利のあと、国内では提灯行列などがあったとかどうとか…) 自同月廿八日至十一月十一日蘇州〓附近ノ戦闘参加 自同月十二日至同月十六日南翔嘉定附近ノ進撃戦闘参加 自同月十七日至十二月一日常(熱)(無)(金易)附近ノ水上機動戦闘参加 (水上機動戦闘って何って聞いたら、あまりよくわからない返事が返ってきたので 敵が対岸から攻撃してくるのに、無理やり仲間を船で渡すの? と聞いたら、そんなようなもんだ。といっていた 舟には、銃弾の穴があき味方の血も結構付いていたそうで 最初は気持ち悪いと思ったらしいが、すぐ慣れたといっていた 戦場じゃ気持ち悪いなんて言っていられないとのこと) 自同月二日至同月廿五日鎭江附近ノ渡河並ニ江北追撃戦斗参加
俺のじいちゃん(91)は体が小さくて、20歳の徴兵時には丙種でしか合格 出来なかったので兵役免除。それでも大戦時には引っ張られたらしく、 釜山-上海経由で中国戦線にて勤務…していたのだが丙種ゆえか 体を壊して内地に帰還、療養中に終戦を迎えたそうです。 兵科が工兵だったこともあり、結局、実戦には一度も参加していないとのこと。 病弱だったのに今では90過ぎても毎日畑仕事しています。
626 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/05 00:48 ID:r10SFoEP
自同月廿六日至昭和十三年一月廿八日(シ除)縣附近ノ警備並ニ爾後ノ作戦ノ準備 自一月廿九日至五月二日准陽平地ニ於ける戦斗並ニ警備 自五月三日至五月廿九日徐州會戦参加 自五月三十日至七月廿四日安慶及潜山ニ至ル作戦 自七月廿五日至九月六日太湖宿松及(黄)梅附近ノ戦斗並ニ警備 自九月七日至十月七日廣済附近戦斗並ニ警備 十月八日ヨリ内科末(定)ニテ廣済野戦予備病院入院十月廿四日復隊 (マラリアだそうだ) 自十月廿四日至十一月十六日漢口並二岳州攻略戦参加 自同月十七日至同十四年二月四日武昌附近ノ警備並二爾後作戦ノ準備 自二月五日至三月三十一日南昌攻略戦 自四月一日至五月三十一日裏東會戦 自六月一日至七月二日應城附近ノ警備 自七月三日至九月九日大冶附近ノ警備 昭和十四年九月十日交代歸還ノタメ保安鎭出発 九月廿一日漢口出発 十月三日宇品港帰着 十月六日近衛工兵(耳并)隊ニ帰隊 昭和十四年十月九日召集解除 (帰ってきてからマラリアが再発したそうだ この出征の時じいさんは、すでに車の免許を持っていたらしいが、 書類が書き換わっていなかったとかで、運転手ではなく馬を引いていたそうだ。 馬引きにもいろいろあって、じいさんは荷車つきの馬引きだったそうだ 荷車にはでかい舟が乗っかっていたそうで、馬の背の上まで船が突き出ていたとか… 舟が乗っかっていないやつには、舟に渡す板が載ってたそうだ 前回書いた中国の捕獲兵器の話と、それを持って徴発に出て死んじゃった人の話は本当らしい 本部に勤務していた学のある人だったそうだが、ちょっと抜けていたそうだ。 あと、どこかの村(?)を占領したとき、防衛のための銃眼を作っていて じいさんの頭を銃弾が掠め(生暖かかったらしい…)一緒にいた戦友の股の下を 銃弾がくぐったとき、戦友は腰が抜けてしまって何もできなくなったって話を聞いた じいさんは、平気だったのかな…?笑 気を抜いたら死ぬっていう話はこれくらいかな。じいさんから聞いた話では)
627 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/05 00:52 ID:r10SFoEP
昭和十九年七月七日動因下令
(この時、じいさんはすでに結婚して子供二人を置いての出征だったそうだ
見送ってもらったときのことを今でも覚えているとのこと…)
七月十七日充〓召集ニ依リ東部第四十四部隊に應召
同日基矛二八五六部隊ニ偏入
七月二十五日動員完結
同日屯営出〓
七月三十日大陸命第一〇八六號ニ〓リ〓第一二三七八部隊の隷下ニ入ル
八月一日横浜港出帆
八月二日八丈島上陸
(上陸して最初の仕事は自動車の組み立てだったらしい
シャーシと各種部品を森の中に運んで組み立てたそうだ)
自八月二日至十二月三十一日間八丈島防衛準備作戦参加
自昭和二十年一月一日至昭和二十年六月三十日間昭和二十年度第一次八丈島防衛作戦参加
自七月一日至八月十四日間昭和二十年度第二次八丈島防衛作戦参加
(末吉に野戦病院建てるための資材を運んだり、樫立に車庫やら陣地やら作ったり、
本土から運ばれてくる物資を港から山の中に隠したりトンネル掘ったりしたそうだ
(二万の兵隊二年分くらいの食料と弾薬があったらしい
483の話からすると二万はホラかもしれないけど…)
この間、豊富な物資のため、じいさんはたいそう太ったそうな…
三根港と八重根港と二つ港があって(三根港は地図に無いのですが…)、
風の具合で、船が着くのがどちらの港か決まったとのこと)
>>625 さん
工兵って自衛隊の施設科みたいなところで、地雷処理やら橋の爆破やら
結構大変だったんじゃないかと思いますよ。
銃で撃ち合いよりも怖いかも…(個人的にね)
628 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/05 00:54 ID:r10SFoEP
自昭和二十年八月十五日至昭和 年 月 日八丈島港出帆 (日付は未記入でした 終戦から十一月二十一日(?)までの間、飛行場の作成(今ある飛行場の元らしい) 前回書いた隠匿した物資の処理などをしていたそうだ 前回書いた爆発事故のあった弾薬の処理などは三根港の方でやっていたそうで… なぜじいさんが爆発事故の現場にいなかったかというと その日たまたま車両整備の日にあたっていたからだそうだ(今でいうB整備かな…?) 事故の知らせを聞いた中隊の人(?)に 軍医を連れて行くから動かせる?と聞かれて、 キャブレター(?)付ければ行けるよ、といって、 キャブレターつけて途中まで行ったけど八重根港過ぎたあたりで 三根港付近がバンバン爆発しているのを見て、 危なくて行けないよ、と言って車を停めたそうだ 軍医は様子を見ながら木なんかに隠れて歩いて現場まで向かったとかどうとか… 充分安全になってから、じいさんも事後処理に向かったそうだけど みかんの箱なんかに人間の肉片を集めたりする作業をやっていたとの事 じいさんの戦歴を考えるに、一番凄惨な場面だったんじゃないかと思う…) 同年十一月二十二日伊藤ニ到着 同年十一月二十三日召集解除 (電車賃は取られなかったそうだ。復員列車っていうやつ?) 昭和二十年三月一日陸軍上等兵 昭和二十年十一月十五日陸軍兵長 (戦後に兵長になってるのね…これってアリなのかな?笑 でも、兵長になるのって中隊でニ、三人だったそうで、結構名誉なことだそうだ) 以上読めるけど書けない部分は「*」で 読めないかわからない部分は「〓」で それらしい字は()内に一字で 二文字合わせるやつは()内に二文字で記入!
629 :
143 ◆bodgOoQOHA :03/01/05 00:55 ID:h45jh8H/
116は米人の息子の雑種。死ね。
630 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/05 01:03 ID:r10SFoEP
長々スマソ、
>>625 さん
>>627 に埋もれたレス有りもしよかったら見てちょ
>>483 さん
レスもらったことが、じいさんに話を聞くきっかけになりました。
改めてthx!
昨日靖国神社にも参拝してきました。上まであげていただきました。
資料館の花嫁人形は泣けますね…。
ところで…自衛官で殉職した場合って靖国神社に奉ってもらえるのでしょうか?
ご存知の方いたら教えていただけると幸いです。
631 :
名無し三等兵 :03/01/05 01:09 ID:MmuMBBBa
>>629 良レスだったのにバカが一人いるから、荒れてるなー。消えろ!二度と来るな!
633 :
143 ◆bodgOoQOHA :03/01/05 01:18 ID:h45jh8H/
>>631 何が馬鹿だ。
116の先祖は爆撃機の乗員でやつの乗ってた爆撃機の爆弾で何人の日本市民が死んだ事か...
>>633 おまえさあ・・・ネタなのはわかってるから良スレにまで進出するのはやめろよ
>>633 そんなに116氏を罵倒したいなら自分でスレたててそこで吠えてろ。
ほっときましょう。これだけ個人攻撃してれば・・・そのうちね。 基地外は放置で、再開!
まあ、116さんも気にするな。ペペウはただの気狂いだから。
640 :
483 :03/01/05 14:05 ID:neeyGZFd
>上等兵さん 乙です。 お爺さんは、中国から、八丈島と、かなりの軍歴をお持ちの方ですね。まさに、歴戦の兵です。 八丈島は、前にも書きましたが、最後は二万人くらいですね。 だから、お爺さんさんの記憶が正しいと思います。 あと、カンボジア?に国際平和維持活動で派遣され、殉職された自衛官の方は、靖国にまつられた記憶があります。 訓練中の事故なんかは、ちょとわからんです。 お爺さんが、お元気そうでなりよりですね。 これからも大切にしてあげてくださいね。 漏れからも、ご壮健をお祈りします。
641 :
名無し三等兵 :03/01/05 14:07 ID:96ciYGLY
フランス外人部隊ですがなにか
642 :
名無し三等兵 :03/01/05 14:37 ID:3EkGhsbp
うちのじーちゃんは陸軍の三等兵?で本土にいたので あんまり人が死んだのを見ていないといっていた。 ただし上官からはずいぶん殴られたりしたみたいで 戦争の話はすごくいやそうだった。
643 :
:03/01/05 14:48 ID:QSViIq7t
うちの爺さんの話。 中国軍は日本の敵ではなかった。非常に士気も低く弱かった。 しかし、パーロ(八路軍=共産党軍)だけは非常に士気が高かった。
>643 当たり前です。督戦隊がいます。
うちの死んだじーさんは近衛兵だったから戦場へは行ってない 死んだいまでは所属が陸軍なのか海軍なのかも不明 近衛兵って何軍所属なの?
647 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/05 16:34 ID:HiJ+XJw1
>483さん 爺さんは陸海全部合わせて言ったんですね。失礼しました! > 殉職された自衛官の方は、靖国にまつられた記憶があります。 そうですか。自分も爺さんと同じで(たぶん)基本的に出征しない部隊(教導隊) 所属なのですが、有事の際は出動するらしいので、ちょっと気になりまして…。 死にたくはありませんが、有事の際は逝ってきます… 重ね重ね、レスありがとうございました。
うちのじーちゃんは農家の三男だが体格が悪く試験に合格せず 初期は引っ張られなかったそうだが後期になって急に引っ張られ 本来2〜4か月?かける訓練をかなり短縮して 終了させ満州に送られたそうだ 満州では屈強な体を持つ人々は南方に送られ 似たような二男三男の境遇の人々が多くいたようだ そこでソ連が参戦したため現地の日本人を守りながら 撤退をしその途中で場所がばれぬようデタラメな進路を取って 退却をしてる途中にソ連の捕虜になった 相手の兵士もろくに訓練を受けない囚人ばかりったそうだ 捕虜になっている間にも 自分と同じような次男三男の冷飯食いの人々が異国で死ぬのと 祖国日本に帰る時にも仲間が死ぬのが 悲しかったそうだ 祖父は行きて帰ってきた 蛇足だが靖国問題にはとても複雑な考えらしい 小学生なみの文ですいません
649 :
名無し三等兵 :03/01/05 17:05 ID:82786FDJ
俺のじーちゃんはなにげに ノルマンディー上陸策戦のオマハビーチにいたひと
650 :
名無し三等兵 :03/01/05 17:07 ID:dQnIsD2r
オレのじぃちゃんは20歳の時試験に合格した後、たしか少尉になってずっと 日本で医学の勉強をやらされていたらしい。 だから前線には一度も行く事なく終戦した。 なんでもメリケンに勝った時に本土に渡って治療を行う事を想定とした任務だったそうだ。 同じ境遇のじぃちゃんおる?
651 :
アパム三世 :03/01/05 18:09 ID:T/ESHgJw
うちのじーちゃん 長門=>武蔵=>金剛=>漁船改造駆逐艦=>伏竜突撃隊 なぜか生きて終戦を向かえた。伏竜の時は訓練中で戦友が死んだらしい・・
>>652 なんか何処かで落ちこぼれたような異動だけど
生き残って良かったね。
654 :
maro' :03/01/05 23:34 ID:g6mojl4M
>>652 お祖父さんの伏竜突撃隊の練成は久里浜の第71突撃隊でしょうか?あるいは
呉の第81突撃隊か長崎の川棚突撃隊でしょうか?ちょっと調べ中なのでレス
があれば幸いです。
久里浜の訓練でも簡易潜水機の事故で中の苛性ソーダが肺に飲まれて多くの
予科練生が事故死したと生き残りの方から伺いました。お祖父さんが無事
で何よりです。戦歴から見ると最後は助教の下士官だったのでしょうか?
655 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/06 00:33 ID:/C0GiHtC
簡易潜水機で苛性ソーダっていうのは、空気中の二酸化炭素濃度を減らすためでしたっけ? 以前潜水艦の話で聞いた気がしたので…。違ってたらごめんなさい ところで、海軍の人って軍隊手牒持ってたんでしょうか?船が沈むこと考えると無さそうな… 空軍の情報もあわせてキボンヌ!
>>655 つまらん突っ込みだが、帝国陸海軍に空軍はないよお。
それぞれの航空隊だ。
657 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/06 07:49 ID:/C0GiHtC
>>656 う、そういえばそんな話聞いたことがあるような無いような… アホアホでスマソ!
正月おやじと飲んでじいさんの戦歴を聞いてみた。都合3回出征したらしい。 東北の連隊に集められて仙台へ行き(師団司令部?)旭川へ移動して、 以後大坂、大連へ上陸。間不明でマレー半島、シンガポール、タイ、 ニューギニアのどこかで終戦?、サイゴンで収監されたようだ。 ニューギニアに移動中、輸送船沈められ、漁船に引き上げられたらしい。 そこに戦闘機が銃撃、仲間5人と魚入れとく倉庫(水槽?なんというの?) に飛び込んだそうな。じいさん3番目で、後ろ二人は死んだらしい。 魚と戦友に守られて上陸したとのこと。 長男だったが出征。男は二人だけで、養子に出した末の弟がもしもの為に連れ戻されたとか。 じいさん語る口調は熱く、おやじにとってはいまでも英雄だということがわかった。 後は短い小話しか聞けなかったが、通じて前線勤務(恩給が倍扱い)だったとのこと。 田舎の仏間にはじいさん含めて軍服の男の遺影が幾つか飾られている記憶がある。 じいさんというと、良くある爺さんイメージしかなけど(うちもモロでした)、 ここ知らなければこれで終わるとこでした。
東北の仙台の現在の榴ヶ岡公園で狂った軍医が兵士を 大量虐殺したって本当?
↑嘘です。
661 :
名無し三等兵 :03/01/07 23:45 ID:9yqhVNoM
私の祖父は島根?鳥取?の方の飛行場で木製飛行機(ダミー?)をつくっていたそうだ。 終戦間近に部隊が船で派遣されることになったが、 家族に不幸があって実家に一人帰らされたんだと。 その間に部隊は出港、海で潜水艦にやられて部隊は全滅。 唯一生き残ったのは共に出港しなかった祖父であったと聞いた。 その祖父もいまは天国へ。 あまり当時のことは語らなかったと祖母から聞いた。 というのも、そのとき家族に不幸があったっていうのは息子が亡くなったためで、 自分が生きているのは息子が身代わりになったんだと喜べなかったからだ。 ちなみに私の親は終戦後に生まれているから祖父が実家に帰らなければ私も 生まれていなかったわけです。
662 :
通貨 :03/01/08 20:40 ID:???
>>661 一人生き残ってしまったという点では俺の祖父も同じぞ。
俺の祖父は満州生まれ。昭和19年あたりに第二乙種合格で徴兵された(つまり平時なら不合格)。
元々裕福で、本国の親戚に送金もしていたし、母方の親戚は皆医者だったそうだ。
当然祖父も医者志望だったが、その受験直前に徴兵されてしまった。
憲兵に「医者になりたい」と言ったところ「非国民め!」で一蹴。
「せめて軍医になりたい」と言っていたが、それもかなえられなかった。
朝から晩まで勉強していたのに、全てが無駄になったという。
その後満州で訓練を受け、重機関銃大隊に配属。
祖父の残した本(何冊か著作がある)によれば、水野大隊との記述がある。
そして(新兵イジメを含む)訓練を受け、出撃。ところが祖父は病気で後送となった。
祖父はあくまで「俺も行きます!」と言い張ったが、祖父を可愛がってくれていた福田准尉という方が「お前は残れ。生き残 れ」として祖父を残したそうだ。
水野隊の先任たちは皆人命軽視の塊で、その中にあって唯一新兵を大事にし、人命を重く見たのがこの福田准尉だっ た。
そして水野重機関銃大隊は全滅。福田准尉も戦場に散った。
この福田准尉、フルネームが分からないのが残念極まりない。
(スマンが続かせていただきます)
663 :
通貨 :03/01/08 20:45 ID:???
(続き) その後シベリアで散々な目に遭って祖父は生還。しかしここからが祖父の戦争だった。 当然満州にあった私財は没収された。 そして医者ばかりの母方の親戚は、医者になれなかった祖父を”脱落者”として蔑み、助けてくれなかった。 (そのせいか、母方の話は全然してくれない) 父方の親戚は本国にいたが、彼らは戦時中に祖父の家から多額の送金を受けており、満州から帰還した祖父に「送金した分返せ」と言われると思ったらしい。 こちらも助けてくれなかった。 一応住居は割り当てられたが、「出てけ」という雰囲気を常に発していた。 (こちらの親戚ともほぼ絶縁関係) 祖父は今で言うバイトのような雑用をしながら、独学で勉強し、公務員になった。 職場でも「復員者」と言われ相当のイジメにあったらしい。 「女性職員にさえ馬鹿にされた」と著書には残っており、相当悔しい思いをしたらしい。 徴兵されただけでここまで馬鹿にされる理由が現代の感覚では分からんが。 (さらに言うなら、安全な内地にいた女に何故馬鹿にされるのかもわからん) 祖父はもう他界したが、頭のいい人だったと思う。 裕福なエリート人生から転落し、軍隊、シベリア、本国でたくさんの嫌な思いを味わされたが、決して赤なんかには染まらな かった。 もちろん公務員という立場もあるんだが、戦争当事者でありながら戦争を公平に見ていた姿勢は、手前味噌だが自慢だっ たりする。 長文ですまん。
664 :
59ですけど・・・ :03/01/09 01:34 ID:sV2xmjs8
正月に久々に田舎に帰ってジーちゃんやバーちゃんに会って昔の話を聞いてたので
もう少し詳しく話せそうです。
まず、父方のジーちゃんから、
ジーちゃんは16年12月1日に軍隊に入って羽黒に配属されました。
んで、羽黒に乗って珊瑚海海戦、ミツドウエイ海戦や
アリユウシヤン、北太平洋の辺りをずっと従軍していました。
ジーちゃんは下っ端の方だったけど上官の人には結構かわいがられていたらしい。
ある紀元節の日に上官の人達と輪投げをやったそうな。
その結果、ジーちゃんが勝って負けた人にデコピンをしたらしい、
その中には山本元帥もいたらしく、山本元帥にデコピンをしたのがジーちゃんの自慢。
戦闘の時はかなり激しかったらしく、近くで眼鏡(双眼鏡かな?)で敵を見ていた人が
撃たれたり、本来指揮する人が敵の銃撃に伏せてしまい指揮をしなかったために
代わりにジーちゃんが「あの飛行機を撃て!」とか叫んでたそうな。
その後、横須賀の砲術学校に入るために羽黒を降りて、
卒業してからは佐世保にいて、そのまま終戦になりました。
ジーちゃんが砲術学校に入る時には親戚に学校を出て死んだ人がいたので
親戚から反対されたそうな。
でも実際には学校に入るために羽黒を降りたため沖縄の方に行かずに済み
生き延びる事が出来ました。
>>59 の大和云々は俺の勘違い、スマン。
たぶんジーちゃんが乗ってたかもしれない羽黒が大和と一緒に沖縄の方に
行ってたってのを勘違いしてたんだと思う。
665 :
59ですけど・・・ :03/01/09 01:36 ID:sV2xmjs8
ちなみにジーちゃんの兄ちゃんはニューギニアの方に行ってて、 物資が届かずに相当悲惨な状況の中死んでいったらしく、 最後の方では敵兵と撃ち合いではなく刺し合いという状況だったそうな。 一緒にそこで戦ってて生き残った人からジーちゃんが聞いた話ですが、 その方はいまだご存命だそうです。
666 :
59ですけど・・・ :03/01/09 01:39 ID:sV2xmjs8
母方の方のジーちゃんは 徴兵される時に親戚に軍の人事を担当してた人がいて、 その人曰く、満州は日ソ不可侵条約あるため安全だからということで 満州に配属されて、そこで色々訓練とかしてたらしい、 ある日、軍で試験を受けたけどいい点を取ると戦場へ行かされてしまうと 思いわざと悪い点数を取ったそうです。 いい点を取った人は本土決戦に備えて本土に帰って行ったそうな、 んで、悪い点を取ったジーちゃんはそのまま満州に残りました。 ところが、ソ連が条約を破って攻めてきたため、満州は戦争状態になってしまい ジーちゃんも戦う事に、しかしまともな人材は殆どが南方に行っており、 また本土決戦に備えて本土に帰っているため、残っているのはジーちゃん含め雑兵ばかり、 おまけに弾薬も殆どない、ジーちゃんがいた部隊がまともに戦えたのはたった二日だけ、 後は弾薬を補給しに移動していただけ、ジーちゃん達は素人同然で、あまり統率が とれてなく、軽く掃射されただけでかなり乱れてしまったりしてたそうな。 しばらくして、日本が無条件降伏して武装解除するように言われたとか、 またその時、いや逆に日本が勝ったためソ連が攻撃してこなくなったんだ というデマが流れたそうな、色々情報が入ってくるうちに日本が負けたというのが はっきりしてきたそうです。 武器を持っていた人が武器を手放した時というのは相当不安に駆られるらしく 武装解除した時にはかなり不安だったらしい。 満州に攻めてきたソ連兵は囚人やその類の人が中心だったためかなり乱暴だったらく、 日本軍はどんな下っ端でも“万年筆、時計、財布”はみんな持っていたんだか、 万年筆と時計はみんなソ連兵に盗られてしまったらしい。 (それでも軍人はまだましな方だったらしいけど・・・)
667 :
59ですけど・・・ :03/01/09 01:40 ID:sV2xmjs8
んで、ソ連に連行されるんだがすぐにはソ連には入らずに満州をあちこち回ってたそうな。 当時のジーちゃんはなんでそんな事をしていたのかよく分からなかったが、 今のジーちゃん曰く、どうやら日本が満州に残していた物資を回収して回ってたらしい。 実は当時のソ連も物不足は深刻だったようで、ジーちゃんに支給されてた缶詰なんかも すべて made in USA だったそうな。 ようやくソ連に入るんだが、その途中で“たこつぼ”なんかがあった元戦場を 通ったそうで凄惨な場所だったらしい、しかしそこにはまだ生きている負傷兵達がいて、 その人達はまだ日本が負けたことやジーちゃん達の状況を知らずにジーちゃん達に 「武運を祈る」 と声を掛けてくれたそうな。 ジーちゃん達も連行されているという立場のため何も出来ず、その人達にただ 「そのうち衛生兵が来るからそれまで頑張れ」 と、ホントに気休めにしかならない嘘の言葉を掛ける事しか出来なかったそうな。 ジーちゃんはソ連に4年間いたんだが、4年というのは長い方らしく、 ジーちゃんが日本に帰ってきたときにまだソ連にいたのは殆どが戦犯とか ロシア語が堪能とかちょっとわけありの人で、他の人は先に帰ってきてるか 帰らぬ人になっているという状況だった。 (しかし悲しいかな4年間抑留されていたんだが、 軍役に就いていたのは1年に満たないので恩給が出なかったらしい。) 家族がまだソ連から帰ってきてないという人達から話を聞かせてくれという お願いがたくさん来たが、その人達が帰ってくることは絶望的だったので ジーちゃんは全部忘れたと言ってソ連の事は全く語らなかったそうな。 おかげでジーちゃんには共産主義にかぶれたと言う噂が立ち、 日本に帰ってから2ヶ月間は仕事しなくていいと言われ家で休まされてたそうな。 ジーちゃんの母ちゃん(つまり俺のひバーちゃん)もこのままではいけない、 早く所帯を持たせなければと思い、んで白羽の矢が立ったのが俺のバーちゃん。 とりあえず以上です、長々とスマンです。
668 :
名無し三等兵 :03/01/09 02:21 ID:WSttWbnr
シベリア抑留の人は新兵がいっぱいいるから 長い間抑留されてたのに恩給が出ないんだよね ほんと何とかならんか日本政府
669 :
名無し三等兵 :03/01/09 03:07 ID:iPJqXvhE
うちの爺様は、駆逐艦(恐らく二等)に乗艦していたらしい。 船団護衛の任についていた、と親父が言ってた。 というか、うちの親父は駆逐艦は皆、船団護衛に付いていると思っているから タチが悪い。
正直、長文でもこのスレのレスは全て読んでしまう俺がいる。 他で罵倒しあった後では、一服の清涼剤。
じいちゃんは乗ってた船を潜水艦にやられて死んだが、 位置と日付と沈めた潜水艦の名前しかわからない。 小艦艇のうえに完成した途端に沈んだから本にはまず出ない。 どういう任務で、どういう状況で、生存者はいるのか(いない気がするが・・・・) などを知る方法はないですかね。 一応親戚が防衛庁で史料見てきたらしいけど、 やっぱり位置と日付と相手だけ。 一般に出ている本とかわらん。
672 :
晴國の白いハト :03/01/09 16:43 ID:sWC21nmU
漏れの母方のジィちゃんは香港・華蓮から陸軍特別攻撃隊として逝きますた。 もとは指令管だったジィちゃんは部下だけが死ぬのは見るにしのびないと長男であるにもかかわらず志願したそうでつ… ジィちゃんの墓石の裏には感状が彫ってありまつ。 終戦まであと2ヶ月の事でつた… ジィちゃんの部下を思う気持ちもすごいが、戦後の混乱期、再婚もせずにかぁちゃんと叔父、伯父、叔母さんを育てたバァちゃんにも頭が下がる思いでつ…
673 :
名無し三等兵 :03/01/09 17:31 ID:l28dbzOq
今日親族の葬式があってその際に父親から聞いた話 じいちゃんは海軍で、横須賀の軍港にいたそうで 太平洋戦争以前は日本全国を船で哨戒していたそう そして戦争が始まったら南方方面各地を転進(?)していたらしく サイパン、ラバウルにももちろん行った なんとあのガダルカナル海戦にも参加したらしい。 乗船していたのは「霧島」(違うかもしれん) また少尉だったので自分の隊もあったとのこと
674 :
名無し三等兵 :03/01/09 17:32 ID:l28dbzOq
またある南方の島でじいちゃんは盲腸に腹膜炎を併発し 手術のため内地に送還されることになったのだが 普通ならば輸送船で行くところをそれでは内地に着くまでに 死んでしまうというわけで急遽飛行艇に乗っていこうとしたのだが、 しかし定員オーバーだと言われたらしい が、そこは階級が乗員より上だったので、 無理矢理(かどうかは知らんが)乗り込んで帰ってきたとのこと。 そのときは本当に身一つで、荷物なんかは 乗るはずだった輸送船に乗せたらしいのだが、 その船が米潜水艦にあぼーんされてしまった また残った自分の隊はその後全員玉砕の憂き目に・・・ そんなじいちゃんは本当に運が強いと思う
675 :
名無し三等兵 :03/01/09 17:33 ID:l28dbzOq
あと誰かも書いてたような気がしたが、じいちゃんはペーペーのころに 山本五十六元帥のお付きみたいな立場だったんだと 船内で酒盛りをして泥酔した元帥を用足しのため 甲板までおぶっていったのだが、その途中で必ず漏らしてたんだってさ じいちゃんは酔うと必ずこの話をしたそうだ ホントかよ?って思うわな、普通は あとじいちゃんは何でも記録する几帳面な人だったので 自分の戦歴を事細かに書いた資料が実家にあるらしい 今度帰ったらぜひ見せてもらおうと思っとります そうすればもう少し詳しく書けるかも
676 :
名無し三等兵 :03/01/09 17:44 ID:iMa4WDW4
ガダルカナル島奪回を命ぜられた一木支隊の2等兵やってる。 先日赤紙もらって地元の連隊本部に行ったら身体検査の瞬間に甲種で即決された。 カッコイイ、マジで。そして強い。38式小銃の引き金ひくと弾が出る、マジで。ちょっと感動。 しかも近代戦なのに単発式だから操作も簡単で良い。 単発式は連射ができないと言われてるけど個人的には単発でいいと思う。 自動小銃と比べればそりゃちょっとは違うかもしれないけど、 そんなに大差はないって店員も言ってたし、それは間違いないと思う。 兵隊の強さにかんしては多分ウチの支隊もあとから派遣される予定の川口支隊も変わらないでしょ。 川口支隊に所属したことないから知らないけど15榴があるかないかでそんなに 変わったらアホ臭くて大本営も一木支隊なんて派遣しないでしょ。 個人的には一木支隊でも十分に強い。 嘘かと思われるかも知れないけど先月21日の敵さんの飛行場への突撃でマジで敵さん3人を殺した。 つまりはアメ公ですら一木支隊には勝てないと言うわけで、それだけでも個人的には大満足です
5年ほど前に大往生した爺様の思い出話が忘れられない。 「舞鶴で生まれ育ったが、5歳のことだったと思うが、ある日父親に手を引かれ丘の上にのぼってみると、舞鶴湾を一杯に埋める数々の軍艦がいた。色とりどりの旗を全部掲げて、すべての煙突から煙が垂直に昇っていた...。対馬沖海戦から凱旋直後の連合艦隊だった。」 「見習技手として日本光学で製図を始めたが、直後にロシア革命勃発。号外が出て、「労働者が国を盗った」として工場は大騒ぎで操業停止。。。。そのソビエットの終わりを見ることになろうとは...。」 「大型戦艦の測距儀と射撃指揮装置は、大和級以外、全部面倒みた。日向灘で行われた実弾射撃によく立ち会ったが、40サンチ砲の一斉射撃となると、艦橋の最上階はよろけるほど揺れた。」 「通常のカメラの何百倍もあるが、精度はより高い巨大レンズ。捉えた光学画像に連動して、精巧な何百も歯車が一斉に回りだしたちまち複雑な弾道計算の解を出す。電算と違って、高等数学の計算を目と音で感じられたものぢやった。」 (爺様、その後満州工場長までいったが、ソ連に全てを奪われ裸一貫で舞鶴に帰国。振りだしに戻る。99年没)
679 :
675 :03/01/09 18:18 ID:l28dbzOq
>>677 そうなんだ
これはじいちゃんか父さんの作り話かな?
母方の祖父は戦争末期に召集され済州島へ行っていました。 それ以前は静岡県の住友の工場で働いていたそうです。 終戦後、カーペットのような軍隊の毛布をたくさん 持ち帰ってきたらしい。なぜか出兵したときよりも太って いたそうです。 母の実家には汗でにじんでしまった虎の絵が描いてある 千人針が残っていました。
681 :
名無し三等兵 :03/01/09 22:29 ID:LD89Hexg
>>673 霧島は、空母と行動をともにできる貴重な戦艦。
真珠湾攻撃、
ミッドウエー、
第二次ソロモン、第三次ソロモン
などですね。
第三次ソロモン海戦で、
壮絶な最後を遂げるわけですが。
683 :
677 :03/01/09 23:24 ID:???
>>679 =675
まあ、考えられるのは
1.人名の記憶違い(実は他人のエピソードだった)
2.山本五十六が酒を飲まされてつぶれたところを介抱した
のどちらかではないかと。しかし、いくらなんでも連合艦隊司令長官という印
象に残りやすい役職にある人の名前を間違えるというのも可能性は薄いから2
ではないかな。
684 :
名無し三等兵 :03/01/10 01:22 ID:mE4Vg7Ly
>>671 潜水艦は、生存者がほとんどいないから、
戦後多く出た乗組員の手記は、ないでしょうね。 艦名がわかってるなら、
所属艦隊の参謀の本かも。
作戦中なら、ともかく、訓練中とかだったら、わかりそうなんだが。
ホラふき男爵みたいな豪快なホラを吹いてくれる爺さんの話きぼん。
>684 いあ、>671の爺さんは、海防艦か何かの小艦艇に乗っていて撃沈された ものと思われ。
687 :
684 :03/01/11 01:07 ID:tAWkgr6v
その通りだ。 正直、スマンかった。
688 :
名無し三等兵 :03/01/12 19:34 ID:tKYb8fjz
age
689 :
山崎渉 :03/01/12 21:06 ID:???
(^^)
59へ 卑怯者の母方の祖父を持って恥ずかしくないのですか? 堂々とここにカキコできるあなたも立派にその血を受け継いでおられる。 恥を知れ・・・といってもあなたには無駄ですね。
>>690 そう言うあんたの爺さんは、さぞかし立派で誇れる戦歴の持ち主なんでしょうなぁ。
その言葉、そっくりそのまま返してあげましょう。
つーかなんで59のじいさんを叩いてるんだ? 沈没確定の大和なんぞに誰がのりたいってんだよ。 実際あの時期の沖縄行きなんて自殺行為だぜ? それを理由に沖縄への増援は中止。 大和のちょっと前に、俺(=671)のじいさんは出撃前に いつももっていた家族の写真を家に送り返して死んだ。 一等輸送艦乗組だったが生き残れる可能性はない、ということでな。 自分と一緒に沈めるのは忍びないので。 平時に恥だの何だのと他人に押し付ける奴ほど いざという時には卑怯だそうな。
693 :
59 :03/01/13 06:57 ID:???
>>691 擁護感謝。
>>692 多分
>>690 は>>664-
>>667 のとこの
>いい点を取ると戦場へ行かされてしまうと
>思いわざと悪い点数を取ったそうです。
の辺りの事を言ってるんだと思う。
>>690 >立派にその血を受け継いでおられる。
そう言ってくれると嬉しい。
>>693 なるほど。
戦場経験者多いですね。
私の祖父は商船員だったのを召集された予備士官ですが
砲術学校を出ている所為か佐官まで昇進しています。
おそらく砲術学校出の所為で
予備ながら扱いが戦闘部士官同様だったらしく
掃海艇とか敷設艇の乗組でシンガポールなどの
南方戦場に借り出されています。
695 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/13 07:58 ID:igo7zN/l
爺さんの隣の家の人が大和に乗ったのかどうか知らないけど、 沖縄のほうに行って死んでいるらしくて、 その人のうちには何も言えないとのこと、 そうそう、うちの爺さんは終戦から2ヶ月ほど八丈島で働いていたわけだが、 本土への復員船の第一便は途中で座礁したとのこと… 乗っていた人は、たぶんほとんどの人が助かったと言ってたけど… ほんとかな? 自分が陸なのも、海だと沈むから…だったりします…
被雷数回、被撃沈は最後を含めて二回かな。 数時間の水泳を経験。 祖母からの伝聞では舵破損で漂流する艦内の 雰囲気はすごいものだそうです。 恐怖に直面すると人間は変わるらしい。 祖父が死んだあと、戦争未亡人の祖母、および家族たる母は 親戚などから色々屈辱的な扱いを受けたらしい。 母も少女時代から働きに出ていたし、 昔住んでいた家というのも見たせてもらったことがあるけど あばら家だった気が・・・(当時、5歳くらいだったので記憶が) 亡くなった祖母が一人で子供たちを全員大学まで出したことを 話す母はいつも少し鼻が高そうです。 名誉とか誇るというのはそういうことを言うんであって、 進んで死ぬのが名誉だとか、生き残るのが卑怯だなんてのは 自分が死ぬことなんか想像もしてない奴の戯言だ、と俺は思うのです。
697 :
690 :03/01/13 08:17 ID:???
>>693 卑怯者の血をね。
親戚のコネで延命を図り、それが裏目に出た卑劣漢。そのくせ恩給が出ないと不満を
たれる。御立派御立派。
貴君もさぞうまく世渡りをなさっているのでしょうな。
以前から思うのだが、このスレ、玉石混交過ぎ。
立派に散った英霊とその背後から一撃を加えた奴ら。
ネタのほうがまだマシ。
同じような輩の孫たちは書きこむ前によく考えてもらいたい。
698 :
690 :03/01/13 08:29 ID:???
出来れば富永中将や田中隆吉少将の御子孫にご来臨願いたいものだ(w 693と祖父の手柄話に花を咲かせてもらいたい(w
祖父の弟は大和とともに眠っていますが何か?
>>698 > このスレ、玉石混交過ぎ。
> 書きこむ前によく考えてもらいたい。
日華事変から終戦の年まで戦い抜いて死んだ英霊の孫から
まず君にお願いするよ。
「良く考えてから書け、ドアホ」
中学生は早く学校に行って勉強しろ。
701 :
690 :03/01/13 08:45 ID:???
祖父の自慢話に目をウルウルさせるだけではなくて
物事の是非を判断したらどうか?
親戚のコネで安全な場所に配属してもらうのがどういうことか、
少しは考えたらいかが?
>>699 英霊は泣いていらっしゃるでしょうね。お気の毒。
702 :
690 :03/01/13 08:51 ID:???
胸を打つ逸話の合間に693のような話はまさに
食卓の上に乗った糞便のようなもの。自粛していただきたい。
>>700 あなたは徴兵忌避や縁故を駆使した連中とおじい様を同列に考えるのですか?
>>702 胸を打つ?
あるのは戦争があって祖父が中国方面、北方、南方海域に転戦し
最終的に沖縄輸送作戦で死んだ事実であって感動話ではない。
下っ端のどうしようもない兵隊がもがくのが何故いけない?
もがくということは、自分に死が待っているという現実の中にいるからだ。
それが普通の人間だろ。
無責任なメンツと非現実的な状況認識だけで人に死ねと「指導」してた連中とは違う。
死んだ話で感動する以前に戦争における
様々な事実を知ることが大切なんだよ。
人間が何を考えるのか、どういうことが起こるのか。
あの戦争の何が醜いのか理解も出来ない糞便レスは自粛してくれ。
黄金の中庸という言葉がある。 俺はいろんな話があっていいと思う。
705 :
690 :03/01/13 09:18 ID:???
徴兵忌避や縁故を駆使した連中 ↑ よく読んでください。 色々な話があるのはよい。だが、当然、批判も受ける。 何の疑問や自省もなく書きこんだヤシにあきれただけの話です。
事実を知ることが重要だ、といってるだろう。 じいさんから聞いた生情報は、俺はできる限りそのまま聞きたい。 そこいらが聞き手の反省とか自省で省かれてしまったら みんなが勇敢な兵士になってしまう。 本屋に一杯売ってる与太話の戦記物みたいにな。 でも実際は違って死んだ奴も生き残った奴も みんな生き残ろうと必死だった。 死んでから「英霊」なんて呼ばれたところで何になる? 君もアニメばっかり見てないでまともな本を読んだほうがいい。
707 :
690 :03/01/13 09:36 ID:???
>>706 情報は情報。ナニも加工することはなし。しかし人まともな
羞恥の感覚があればそこに一言添えるのは当然かと。
後半4行は・・・戦後おじい様達を批判してきた連中の考えの一歩手前ですな。
ここは体験談にまんせーだけするスレですか?
悪いが俺の祖父は戦後誰からも批判されたことが無い。 少なくとも俺は知らん。 とりあえずお前さんが他人に書くのを自粛しろとか 言うようなスレではないとは思うな。
709 :
690 :03/01/13 09:47 ID:???
>>708 ぶ〜いんぐしただけですよ(;^^)
サヨっていうと泥沼に・・・・あなたのおじい様個人の
ことではありません。
・・・これぐらいにしますか。
少なくとも礼を失するような事はいけないよ。。 収まってくれて良かったけどね。
ブーイングするだけで何も書かないってのはどうかと思うけど。 ……と、こんな事だけ書くと俺も同じになってしまいますので、カキコします。 母方の爺さんは特攻隊に行ったのですが、出撃前に終戦になって 給料だけもらって帰ってきたと笑っていました。 もう数週間終戦が遅れていれば、笑う事などできなくなっていました。 あとは爺様ではありませんが、うちの祖母さんの従兄弟は、 軍医だったそうです。中国に渡り、長江に浸かって体を弱らせ、 腸チフスになって内地に帰り、そこで病死したそうです。 その従兄弟の兄弟(弟?)は、ビルマで戦死したそうです。 返ってきたのは骨壺だけで、中には小石が一つ入っていただけとか。 詳しくは分かりませんが、きっとあのDQN作戦に参加したんだと思います。 その兄弟で生き残ったのは、上の兄弟が出征した時にうちの祖母様が 背負っていた赤ん坊だけだそうです。(この方は今もお元気です)
>安全な場所から批判する屑=690 ウインストン・チャーチル「第二次世界大戦回顧録」 故栗田提督のアレに関して、チャーチルがどのように述べているか、 これを読んでから言えカス。二度と出てくるな。
ようするにここは非国民マンセースレなわけだ。
・・・卑怯なヤシほど生き残って子孫を残す。712のような(w
で、そいつらが爺をたたえる、と。
血は争えないな(w
栗田提督と非国民どもを一緒にするとは・・・・
>>712 貴様のジジイも縁故で召集逃れの口か?
>>713 頭弱いな。
提督だけ、将軍だけで戦争なんかできるかね。
その手足となって働くための兵士達が居て初めて戦争が出来るのだろうが。
その提督、将軍が阿呆なら、その下の兵士たちがどれだけ悲惨な目に遭うか、
このスレはそう言う意味も持っているのだよ。
提督、将軍などには立派な人もいたがね。
あんたの爺さんだって、表で勇ましいこと言っていながら、裏でこっそり徴兵逃れ
とかしていたんじゃないのかい。
それとも死の商人として、軍人と組んで、行ってこい死んでこいとやっていた口かい?
>>714 はぁ?
公の場で縁故や徴兵忌避について無自覚に書けば
叩かれて当然だろ?
>>715 縁故を効かせられる連中が・・・・ハア・・
結局サヨ史観にどっぷり 漬かってる訳だ・・・
黙々と出征して戦った人、内地で空襲の中、義務を果たしてなくなった方・・・
そういった人々は非国民どもと一緒にされたくはないと思うぞ。
ちなみに自分の身内は後者だが。
>>713 チャーチルの本を読んでないな?
「栗田と同じ体験をした者だけが栗田を裁くことが出来る」だぞ。
反転については逃げた、卑怯だなどという判断をしていない。
チャーチル自身もアフリカで実戦をくぐり抜けてきた戦争屋だ。
>>718 なんとしても生き延びたい、生きて故国に帰りつきたい、という兵士の批判をしている
つもりはない。たとえば前レスにガ島撤退のとき偽りの申告をしたエピソードがあったが、
その方を非難するつもりも、その資格も自分にはない。
百歩譲って、身内を死なせたくない、裏から手を廻してもと言う親心も、まだ理解できる。
問題はそういった恥ずべき行いを平然と書けるヤシ、そして公然と擁護するヤシの
精神構造だよ。
>>718 まるで団塊全共闘連中の台詞だな(w
>>719 ここは善悪好嫌を語るスレではないのでは。
ただ爺様の昔話しを淡タンとカキコしていけばいいのだよ。
いい話でも良くない話でも歴史的事実なのだから。
それに対する批判やなんかは自分の脳内でやってくれ。
また番号コテハンに戻るが・・・
>>719 悪いけどそんなに年食ってない。
どうも思想を絡めたいらしいが俺は全く興味が無い。
昔、大学の寮で運動バカの戯言を聞いたが
スピーカーみたいに他人の受け売りをしているだけ。
それと栗田の置かれた環境を体験しない人間には
栗田の判断を誤りだと言うことは出来ない、という
チャーチルの弁がどう関係するのかは俺にはわからん。
戦場の霧の存在を実戦経験者のチャーチルは知っているのだ、
と俺は思ったんだが。
>>721 恥知らず、と言うことに尽きるんだよ。君のことではないが。
戦時中に縁故がばれたら・・・・わかるだろ?一般人からどういう評価を受けるか。
戦場の話ではない。汚職とかそれに類することだろ?
一生胸にしまって墓場に持ってゆくべき話さ。
それを平然と公表する神経を疑ったの。
>>720 ここは公共の場。見るに耐えない破廉恥なカキコには(ry
カキコしたヤシは消えたし、もういいけどね。
>>722 戦時中に縁故で徴兵逃れなんて当たり前に行われていたろう。
現代とは違う階級社会なのだから文句言う奴もいない、まぁ腹の中
でどう思っていたかは知らんが。
現代人の感覚で戦前をかたるな。
有った事に蓋をしたら同じことが繰り返されると思うよ。 縁故を蔑むのは祖父を失った母がすればいいことだ。 幸せに育った俺には資格が無い。 ただし事実を知る必要は絶対はある。 戦場経験、およびそれに類する話が聞けるのは今が最後の機会だ。 醜いものでもなんでも直視できなくてどうするよ。 仮想戦記なんていうアホ小説のほうが俺はたまらんよ。 同時に無かったことをあったと主張する輩も見抜く必要が あるのが戦争の話の難しいところだ。 自己弁護が入ってしまうこともあるし、 誤解や思い込み、語り手の立場、果ては政治的思惑もある。 俺は珠玉混合でいいから何でも聞きたいがな。
>>724 貴君のように語ってくれるならまだよいが。
恥ずべきことを無自覚に語られてはたまらないのだよ。
戦災孤児の父を持つ身としてはね。
まあ俺も大学ん時に叔父が731部隊の 幹部将校だったって誇らしげに話す奴と会ったときは 蹴りを入れたかったがな。 さすがに爺さんと奴らが同列とは・・・ 戦争で大量に人が死んでるにもかかわらず、 なぜか戦争経験のある爺さんを持つ奴にあまり会ったことが無いのだ。 死んでるから孫がいない、というわかりやすい図式はあるかもしれんが。 俺だって子供の頃は大和カッコええ!ていう感じだった。 興味を持って調べたから色々知っている。 無自覚な奴も知らないから無自覚なのであって、 ここがスタートでも別にいいだろう。 戦災者を身内に持つものは戦争を身近に感じる。 なおさら冷静かつ公平でなければ。
>戦災者を身内に持つものは戦争を身近に感じる。 なおさら冷静かつ公平でなければ。 大変困難だけどね。ご忠告に感謝します。
728 :
名無し三等兵 :03/01/13 17:03 ID:aQS1X+9s
兎に角次のスレから再開。
キモいバカのおかげでスレが台無しになりますた。 まぁ、>726の事なんだが。ここはお前の陳腐な演説を聞くところじゃないの。 身内の「戦争体験」を聞くところ。いろいろな社会的地位を持っていた人のが聞けると尚いい。 くだらねぇ非難はよそでやれ。
おまいら釣られすぎです。 いきなり出てきて『2ヶ月&600発言も前』<ここ重要 の発言内容に ケチを付けて場を荒らすような奴が、まともな参加者だと思うか? 大方、糞サヨか在日が参加者を騙って荒らそうとしたってとこだろ。 いきなり「非国民」だなんて言い出す香具師にロクなのがいるはずもない。 以後放置。まだ続けるような奴は全部ジサクジエンとみなすべし。
>>729-730 こーゆう読解力もないDQN厨房のジジイが略奪やレイープで皇軍の
威信を貶めたんだろうな。
おまいら少しは品というものを考えろ。
レス再開。
>731 発言の端々から見るに、君もあまり品はないみたいだね。 まぁ、ウザいし場違いなので続きは他所でどうぞ。
>>726 >まあ俺も大学ん時に叔父が731部隊の
>幹部将校だったって誇らしげに話す奴と会ったときは
>蹴りを入れたかったがな。
これはわかるけど
>さすがに爺さんと奴らが同列とは・・・
なんでこうなるの?攻撃対象が別だろ。
734 :
名無し三等兵 :03/01/13 23:53 ID:040PZznS
次の人 じぃちゃんの体験談をお願いします
735 :
名無し三等兵 :03/01/14 04:22 ID:JVvJjylm
結論 両方バカ
736 :
名無し三等兵 :03/01/14 04:29 ID:MWhWgFW3
関係ないが、うちの高校のOBの名簿見てたら硫黄島、小笠原兵団指揮官の 栗林忠道中将の名が…ちょっと感激。じいちゃんはどこいったんだろ、 聞いてみるか。
737 :
名無し三等兵 :03/01/14 06:40 ID:QYmkAOVD
このスレはいつも楽しみにしている。 私の祖父達の事は次に書くが、690に一言言いたい。 貴君は戦場に居たことがあるのか?シベリヤ抑留がどんなに地獄だったか 知り尽くしているのか? 59の祖父殿は満州で戦ったと書いてあるではないか、ろくな装備もなっかた のにだ。立派な兵士ではないか。 貴君はその言葉を生き残った部隊の方達に言えるのか? 満州に残った理由はどうであれ立派に戦った兵士にそれほどの事を言う資格 が君にあるのか? 私の祖母達は引き揚げ者だった、その祖母が昨年亡くなった。 葬儀の時に叔父が号泣しながら当時の事を話していた。兵士も民間人もそれ は悲惨な状況だったらしい。 まず、当時の戦記物を読んで欲しい。そして貴君がそれ程の事を言えるか考え て欲しい。 戦場に居なかった我々が彼らを侮蔑することは決して出来ない。
>>718 アンタがどんな考えを持とうが勝手だが妙な論理を押し付けるなよ。
ちなみに漏れの祖父はシベリア抑留者であの地獄から生きて帰っただけ
でも死んだじいちゃんは十分過ぎる程立派だよ。
>>737 >>738 貴君らこそ最前線を逃れようとしたものと国民の義務を黙々と果たした人々を
同一視できるのか?
>>738 のおじい様には言葉もなく、頭を下げるのみ。
かの小平義雄も立派に戦い、生き残った皇軍兵士だぞ(w
軍板らしからぬ無条件かつ情緒的な兵隊さんマンセースレだと解かっただけでも収穫。
冷静な
>>726 でさえ罵倒の対象になるとは・・・・
いっておくが関東軍所属者、シベリア抑留者を批判したつもりはない。
縁故で上手いこと立ちまわったジジイを自慢するヤシを罵倒しただけ。
批判を恐れるならさっさとスレをたたんで個人サイトでも立ち上げるんだね。
半可通のコヴァ諸君。
740 :
名無し三等兵 :03/01/14 10:38 ID:QYmkAOVD
>739 貴君は読解力があるのか、それとも白痴なのか。 まず、このスレは祖父達から聞いた話を記す場所であり、59氏は祖父殿に聞い たままを書いている。どう贔屓目にみても自慢気に書いているようには見えない。 更に、祖父殿は刑事犯罪を犯している訳でもなく、軍法に背いている訳でもない。 それに部隊配置が全て公平公正に行われているとでも思っているのか。 家族構成、門地、上官の認知、身体能力、性格、そして運もある。それらは旧軍に 限らず現社会でもおおいにある話だ。 さらに此処は先人達を卑しめる場所では無いはずだ。 少なくとも貴君は、平和な時代に安全な場所からろくな知識もないまま先人を罵倒 しているだけはないのか。 少なくとも私には貴君の方が卑怯者にしかみえない。 世の中には色々な物の見方、考えがある。その中で自分の意見を理解してもらう事 がどんなに難しいかもう一度考えて欲しい。 夏、九段の杜でこの話を老兵達にしてみなさい、自ずと答えがでるだろう。
久しぶりに来ました。一気にオナニースレになりましたね。次の人、お祖父さんの戦争体験書いてくれませんか?
スレの正常化を激しくキボンヌ。
744 :
市井人 :03/01/14 15:39 ID:IS2ScMx8
大分前に死んだバーちゃんから聞いた話で、うろ覚えのところが 多くて申し訳ないんですが.....。 バーちゃん実家は、昔から四国で海運業とか網元みたいな仕事を していたんだけども、戦争が長引くにつれ、若い人は徴兵でドン ドン取られちゃうんで人手不足が申告にになってきたんだそうな。 当時、店はジーちゃんの一番上の兄さんが継いでいたんだけども 困り果てた兄さん、ある日隠居していたお父さん(ヒイジーちゃん に相談したんだそうな。 すると、お父さんは「それなら、捕虜に手伝わして貰うように ワシが連隊に掛け合ってやる。その代わり、捕虜にうちで飯を出す ようにせいや」って兄さんに言ったんだと。 兄さんは最初とまどったらしい。 だけど、実家のある地方は第一次大戦の時もドイツ人だかポーラ ンド人だかの収容所が有ったらしくって、捕虜に対して慣れてた っていうか、「捕虜になった軽蔑すべき毛唐」って意識は殆ど無 かったそうな。(なんか、兄さんの息子だか知り合いの息子だかは 捕虜に鉄棒教えて貰った事もあったんだと。) >>>長くなりそうなんで、以下続く
745 :
市井人 :03/01/14 15:48 ID:IS2ScMx8
また、地元で顔が利くし、自分自身も在郷軍人(?)だった ヒイジーちゃんは、収容所の現状なんかも多少は知っていた らしくって、「前に比べて今(の待遇。特に食料)はあまり に酷すぎる。負けたモンへの情けというものが解ってない。」 って内心憤慨していたそうな。 そんなこんなでヒイジーちゃん、地元の連隊に赴いて交渉を したけども、最初は連隊の方でも渋っていたし、憲兵隊(?) なんかの了解が必要とかで、話はかなり難航したそうだけど ヒイジーちゃんは色々やって、最後は「荷役に限る。」って ことでokが出たそうな。
>>559 母の従兄についてカキコしたものです・・・
なんか荒れてますが、母の従兄のことでも書きこんで良いですか?
あと予め断っておきますが・・・・
自分は憲兵の身内を持ったことを誇りに思います。憲兵について良くない話も聞きますが、
母のわずかな話からもそれほど残虐な行為をした人とも思えません。
不快な思いをなさる方がいれば、お詫びしておきます。
747 :
市井人 :03/01/14 16:12 ID:IS2ScMx8
実際に兵隊さんに引率されて、30人だか40人だかの捕虜が派遣 されることになって.....。 「捕虜と一般人(?)の接触は厳禁」って厳しく言われてたこともあって、最初は 作業場の近くの小屋(?)で捕虜に食事を出していたりしたんだけども、ヒイジー ちゃんは「アメリカ人でも日本人でも、腹が減ったら仕事もできん!」って理屈つ けて、昼飯をたらふく(?)食わせたそうな。 最初は引率の兵隊だか憲兵から「捕虜を優遇しすぎるな」って苦情も来たらしいけ ど、「あんな若いのに何が解る!」って相手にしなかったり、引率の兵隊達にも毎 日たらふく食わ憲兵隊の偉いさん(?)に飲ませたりもして、うやむやというか 良い感じに持っていったそうな。
748 :
市井人 :03/01/14 16:28 ID:IS2ScMx8
そんなこんなの数ヶ月後に敗戦になって....。 ヒイジーちゃんの地方にも進駐軍が来たんだけども、ある日ヒイジーちゃんにGHQから 出頭命令が来たって役場から連絡があったそうな。 バーちゃんは、在郷軍人であったヒイジーちゃんが戦犯にされると思ったんだそうだけど も、ジーちゃんは「負けたんだから仕方ない。それにワシは悪いこともしておらんから 心配するな」って言って、それでも一張羅で米軍が差し回した車に乗ったそうな。 ※:バーちゃん曰く、もしそのまま刑務所→即死刑ってなっても 服だけは恥ずかしくないようにって考えだったそうな。 で、その日ヒイジーちゃんは帰ってこなくって、役場とかでも訳がわからず 家族は心配していたそうな....。 (っていうか、役場も冷たくって詳しい事を調べるどころか、けんもほろろ だったそうな。)
749 :
市井人 :03/01/14 16:35 ID:IS2ScMx8
すると翌日、ヒイジーちゃんが出かけた時と同じ格好で、また米軍の車に乗って ひょっこり帰ってきたそうな。 家族は喜ぶやら何やら....。 (バーちゃん曰く「もうホッとして涙がボロボロ出た」) そんで詳しく話を聞くと、捕虜につながりのあるGHQの将校が礼を言いたい からヒイジーちゃんを呼び出したそうな。 捕虜本人はその場には居なかったそうなんだけども、その地方のGHQ本部 で大歓迎を受けて、嬉しくなったヒイジーちゃんは酔いつぶれてそのまま 一泊してきたそうな.....。 帰ってきたヒイジーちゃんは嬉しそうで、当時では手に入りにくかった土産を もらった俺の母(当時6歳くらい?)もニコニコしてたそうな。
750 :
市井人 :03/01/14 16:50 ID:IS2ScMx8
その後日談。(長くなってスマソ) またしばらくして、今度はその捕虜のうちの何人かから手紙なんかも来たけど、あいにく 英語なもんで内容がチンプンカンプン.....。 しゃーないんで英語の出来る人に訳して貰ったそうな。 それまでヒイじいちゃんは「自慢にもならんから話すな」って、呼び出しの詳しい 事も家族以外には内緒にしてたから、近所はともかく、役場とか学校とかでは冷た い目を向けられていた様子.....。 (バーちゃんは、最後までこの時のことが悔しかったみたい。) それがコロッっと変わったらしいんだけど、ヒイジーちゃんは、褒める人には「当たり 前の事をしただけだが、それが何か?」、すり寄る人には「わしゃ隠居しているから 他を当たってくれ」って態度だったと。 その後も、捕虜とかヒイジーちゃんを招待してくれた将校とはしばらく交流が有った ようで、孫(俺の母)が肺炎か何かの時は、当時珍しかった薬を軍医が届けてくれた りした事もあったそうな。
751 :
市井人 :03/01/14 17:19 ID:IS2ScMx8
ほんま長くなってスマソ。 (まぁ、元の流れに戻すってことに免じてお許しを。) その当時の諸々....。 ヒイジーちゃんの意気込みと違って、家族は結構のんびりというか、鷹揚と いうか、そんなに構えていなかった様子。 ・食事は店で作って作業場へ届けていたそうなんだけども、それを運ぶ のはヒイバーちゃんが自らやっていたそうな。 引率と仲良くなってからは、時々だけども「手がたらんから」って、 孫(俺の母)にも手伝わせてたらしくって、母は「かわいそうやから 私のおやつ(ドロップ?)も時々あげた。」って記憶があるそうな。 (でも、最初はでかい外人を見てビックリしたらしいが...) ・当時は実家の地方は、家族が食うには困らなかったんだけども、さすがに 毎日30人とかを食わせるのは大変だった様子で、バーちゃん曰く「ヒイ ジーちゃんが知り合いの農家とかから流して貰ってたけど、体の大きい アメリカさんには足りんかったんで、ある日は刺身を出したんだけども みんなビックリしていた」そうな。 ・「たまには故郷のものが食べたいやろ」ってことで、ジーちゃんに言わ れてバーちゃんと兄嫁がパンを作ったそうな。 ところが、二人とも作り方が解らんし(そもそもイーストなんて手に入 らなかっただろうし)出来上がったのは乾パンみたいな代物だったそうな。 で、二人の結論は「これやったらアメリカさんはよう食べんやろなぁ〜」。 困ってヒイバーちゃんに相談したら「あんパンみたいにアンコつけてあげた ら食べられるんと違うか?」(←おいおい、ヒイバーちゃん(^^; ) さすがにバーちゃんと兄嫁が却下したそうな......。
752 :
市井人 :03/01/14 17:33 ID:IS2ScMx8
当時の諸々続き....。 ・「で、来て貰って実家は助かったん?」って訊いたんだけども「荷役は慣れ てないと役にたたんし、実際は女の方が沢山運べたくらい。 ご飯のことも 考えたら損やったなぁ〜」ってニコニコバーちゃんですた。 ・「非国民って言われんかった?」って訊いたけど、ヒイジーちゃんが威厳の ある人だったし、バーちゃんの次兄や旦那(俺のジーちゃん)も軍人ってい う一家だったから、近所とかの近しい人や、連隊関係の人は何にも言って こなかったそうな。 ただ、バーちゃんの姪が通ってた学校の先生とか、県の人間とかいう あたりは........。(相当いやな思いもさせられたみたい) 戦後も「軍関係者」ってことで冷たく見たりしたのは同じような人だって。 ヒイジーちゃんもバーちゃんも戦後ちょっとして他界したし、その他諸々の事情で 実家(やバーちゃん一家)は九州へ引っ越し。 そのバーちゃんも死んだ現在では、元々の故郷との微かなつながりは この話だけっす。
753 :
1 :03/01/14 17:36 ID:???
1です。ここ2、3日ちょっと目を離していたらここのスレがワヤな展開に
なっていましたが、ようやく
>>744-751 さんのようなレスがついてホッと
してます。皆んなもこのまま肉親の戦争体験記を中心にまわして下さい。
それにしても上記のスレは人間的にガイなお祖父さんの話しで感動。
754 :
市井人 :03/01/14 17:36 ID:IS2ScMx8
ううう、間違いスマソ....
>>744 誤:当時、店はジーちゃんの一番上の兄さんが
正:当時、店はバーちゃんの一番上の兄さんが
長文で間違いまでして....。
逝って来ます....。
756 :
市井人 :03/01/14 18:36 ID:IS2ScMx8
>>755 ヒイジーちゃんは丸亀ですから、多分丸亀の事と比較して憤慨していたと思います。
ついでに....。
ヒイジーちゃん自身が元は軍人だったらしくって、地元の連隊に居たときに収容所
関係のことを扱っていたらしいです。
また、バーちゃんも教えて頂いた丸亀の収容所のことは結構知っていた様子でして
「最初の日に道で旗を振ってお迎えした」とか、「最初はドイツの兵隊さんと
して来てたけど、戦争が終わったら国が分かれて、あたらしい国に帰った兵隊さん
もおった」(ポーランド独立?)とか、「兵隊さんに鉄棒を習ったりした子もおっ
た」って言ってましたから、こっち方面からも色々と知っていたんではないかな?
っと思います。
※:でも、鉄棒の話は教えていただいたHPに書いてないし、バーちゃんの
記憶違いが紛れ込んでいる可能性もありそうです....。 (^^;
>>756 そうですか、曾お祖父さんは丸亀の出身ですか。私は高松の出なのでちょっと
この話しには何かホッとさせられました。讃岐のある意味マターリした風土も
多分に影響あるのかも知れませんね。いや、ほんまに。
758 :
名無し三等兵 :03/01/14 21:35 ID:bqW1rIAs
>市井人さんサンクス
759 :
名無し三等兵 :03/01/14 21:37 ID:HxAPt/yu
760 :
名無し中将 :03/01/14 21:54 ID:AUlIm/mZ
__ /_o_|__ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /_了 ゚Д゚) < お次の方どうぞ。 ∬(φ___⊂) \____________ /旦/三/ /| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | |鬼畜厨房..|/
762 :
名無し三等兵 :03/01/15 18:07 ID:IS50J/dH
母方の祖父は機関銃中隊に配属され、徐州や北京など中国を転戦したらしい。 実戦も何回か経験しているようだが、一番記憶に残っていることはのんびりした 夕焼けの風景だった、と戦友会での冊子に書いてあったと記憶している。 その後シベリア抑留ののち復員し、今は90歳になる。 できれば当時の様子を聞いてみたいが、難しそう。 父方の祖父は頭は良かったが体が弱かったそうで、行きたい学校に通えなかった と父から聞いたが、本当にそんな事があったのだろうか。軍隊とは違うし…
763 :
746 :03/01/15 19:33 ID:???
>>762 現在とは医学の水準が全然違いますから。
身体が弱い=氏と隣り合わせ だったらしい。
自分の母方の祖父もそうでした。
766 :
名無し三等兵 :03/01/16 10:32 ID:SGpUs0zb
うちの父方の曽祖父と両祖父は軍人だったんですが 自分の祖父を紹介する小学校の授業の時恥ずかしかった覚えがあります。 長年の刷り込み教育の成果なのか軍人はバカ、というイメージがあり 高校の時までそんなイメージでいました。 偉大な曽祖父、両祖父を持ちながらバカだと思ってた俺がバカでした。 もう救いようがないバカでした。生きててすいません。
↑いや、そんなに気にしなくても…、これからそちらがちゃんと調べて 後に伝えていけば良いのではと書いてみるテスト。
768 :
名無し三等兵 :03/01/16 12:16 ID:t4QCauE0
769 :
746 :03/01/16 14:10 ID:???
>>766 自分も親戚の集まりで憲兵中尉で戦犯として処刑された身内を
悪し様に罵り、母や伯母を号泣させてしまったことがあります。
・・・だから今、彼のことを調査するのに大変苦労してます。
これからですよ!自分を責めないで!
770 :
名無し三等兵 :03/01/16 16:14 ID:oiM4SqKz
じいさんがとうとうボケ出したので、完全に忘れる前に聞きだしてきた。 44年ごろ中国に出征、長江沿いの奥(満州という諸説もあり)まで行ったらしい。 部隊長には気に入られていたらしいが馬小屋清掃の2等兵だったようだ。 全く関係ないが算術の成績は丁だったらしい(恥 くそー、ばっちり遺伝しちまった
>>764 >>765 別にネタでも本当でも良いじゃん。
本当なら物凄く興味深い話だし、ネタでも誰も困らないじゃん(俺は本当だと思ってるが)
漏れの爺さん(親父側の)は元海軍の特攻隊「震洋」部隊ですた。 でも、一回目の出撃前に米軍の船が帰ってしまい、無事。 二回目は船が壊れて流されて無事。 祖父から続く強運は漏れにも受け継がれている予感(くじでポンジュース1箱当たった事など)
>>773 むー、このスレ2回目の震洋搭乗員の話が!お祖父さんはコレヒドールか沖縄で
出撃待ちをされていたのでしょうか?何か詳細があれば情報希望。
775 :
名無し三等兵 :03/01/17 20:25 ID:5eKbyaVr
田英夫の戦友か?>震洋特攻艇隊員
776 :
名無し三等兵 :03/01/17 20:49 ID:P61pBstX
うちのじいチャンは、神戸のほうで掃海艇の少年兵だった。 朝一緒に点呼受けたやつが、機銃掃射くらって死んだりしたそうだ。
>>773 満州で玉砕寸前に降伏したウチのじいちゃんとはえらい違いだ
当人が細かい事を教えてくれなかったので状況はよく判らんがソ連軍に
包囲されて逃げるに逃げられなかったらしい.
778 :
名無し三等兵 :03/01/18 08:13 ID:dOVZQZMH
うちのジ−ちゃん、よく折れが消防のころに軍隊へ逝った話を聞かせてくれた。 消防だった当時の折れは満州事変のころに北海道富良野市より出征、 中国で中国軍の兵舎に手榴弾投げ込んで上官から誉められたとか、 ヘルメットに銃弾が直撃するとヘルメットの中で銃弾が飛び跳ねて、 脳みそがぐちゃぐちゃになるとか、 上等兵なのになぜか勲章もっていて自慢げに見せてもらった。 部屋にはでかい賞状とか小さい賞状がたくさん飾ってあったが、 消防の折れには到底理解できない内容だった。 消防のころはなんでジーちゃんは負けた戦争のことをそんなに自慢するのか、 不思議でたまらなかた。 厨房のころ、ジーちゃんに喜んでもらおうと太平洋戦争の戦記を漫画で書いた 10冊くらいのシリーズ本を購入してジーちゃんと一緒に読んだ。 今思えばこれが折れが軍ヲタになったきっかけだった。 そんなジーちゃんも折れが工房のころ他界したのだが、 他界したときに手帳から勲章から賞状からすべて捨ててしまった。 今となっては捨ててしまったことを非常に悔やんでいる。 ジーちゃんが出征した日付や除隊した日付、どこの戦地で活躍したなど、 詳細は一切不明であるが、ジーちゃんは当時北海道富良野市に在住していて、 一番近くの駐屯地は旭川である。 旭川の第七師団も満州事変当時、満州へ出動していたこともネット で調べて明らかになった。 ジーちゃんの弟さんがまだ富良野で健在なので、弟さんに話を聞けば詳しいことが わかるかもしれないが、折れは大阪在住で富良野は遠すぎてなかなか逝けない。
779 :
名無し三等兵 :03/01/18 08:13 ID:dOVZQZMH
そんなジーちゃんも折れが工房のころ他界したのだが、 他界したときに手帳から勲章から賞状からすべて捨ててしまった。 今となっては捨ててしまったことを非常に悔やんでいる。 ジーちゃんが出征した日付や除隊した日付、どこの戦地で活躍したなど、 詳細は一切不明であるが、ジーちゃんは当時北海道富良野市に在住していて、 一番近くの駐屯地は旭川である。 旭川の第七師団も満州事変当時、満州へ出動していたこともネット で調べて明らかになった。 ジーちゃんの弟さんがまだ富良野で健在なので、弟さんに話を聞けば詳しいことが わかるかもしれないが、折れは大阪在住で富良野は遠すぎてなかなか逝けない。
780 :
名無し三等兵 :03/01/18 08:17 ID:dOVZQZMH
旭川第七師団が満州事変の前後にどこのあたりでどの程度活躍したのか、 満州事変当時の兵役は何年くらいだったのかお伺いしたいと思います。 また「旭川弟七師団」という本が出版されているのもネットで判明したので、 購入して研究したいと思っております。 ちなみにうちのジーちゃんは上等兵でしたが、上等兵でも賞状をたくさん もらったり、勲章もらったりすることは至極日常的なことだったのでしょうか?
オレの爺さんは射撃大会の賞状を何枚かもってたよ。 よくわからんが速射砲隊の小銃隊班長という立場だったらしい。
782 :
名無し三等兵 :03/01/18 15:55 ID:7a/eFsmO
>>781 やっぱ、賞状とか勲章とかいうのはどこの家にでもあったものなのでしょかね。
上等兵は同年兵のなかでも抜きん出た存在ですよ。 おじい様を誇りに思ってください。
784 :
熟年 :03/01/18 16:22 ID:sJLgPptg
親戚の爺ちゃんが、中国大陸で母親とその女の子を助けた。 友軍に殺されかけたらしい。 その女の子が母親になって、そのこどもからときどき中文の手紙がきている。 そのエピソードだけで、おじさんは生きてきた価値があったね、 といったら、日本刀を一振りくれた。 無銘だがいいものらしいけど、こまるんだよなー、こんなもの貰っても。 手続きもたいへんだしさ。
785 :
名無し三等兵 :03/01/18 16:50 ID:7a/eFsmO
>>783 781です。
ありがとうございます。
ご存命だったら「そんなにたくさん賞状もらって何で上等兵から昇進しなかったの?」
と小一時間、賞状の文面と照らし合わせながらジーちゃんに
問いただしたいところです。
それとも一般で徴兵された兵隊は上等兵止まりが多かったのでしょうか?
満州で財産ぱー。
すいません、うちのじいさんが所属していた部隊はソ連の満州侵攻する ために直前に本土決戦の急遽満州から関東に移動したそうです。 漏れは、謝るべきか悩みますが満州でご苦労された方々にすいません。
788 :
名無し三等兵 :03/01/18 18:11 ID:hK187YWV
>>785 わしもよくしらんが。
上等兵以上に昇進して、伍長になるには志願しなくてはなり
ません。上等兵というのは徴兵で取られた兵隊のなかから体力、知能が
優秀な人が選抜されてなります。普通は二等兵ではいって、一等兵で
除隊です。満州事変のころ、ということであれば 徴兵検査→
甲種合格→徴兵→二等兵→一等兵→選抜されて上等兵
というみちすじだったのではないでしょうか。徴兵は師団管区単位で
おこなうので同郷の青年のなかでとくに選抜されて上等兵になるという
のは名誉とされていたみたいです。
789 :
783 :03/01/18 18:58 ID:???
>>785 上等兵になるには上等兵候補に選抜されなければならなかったようです。
で、初年兵が選ばれたりすると「候補のくせになんだ!」と古参兵から
しごかれたのこと。
でも上等兵で除隊すると就職や縁談に大変イイ!!だったそうです。
>>785 さんのおじい様は職業軍人になる気はなかったのでは?
たとえばご長男であったとか。
>>787 謝るこたぁないですよ!
爺さんの話ではないのですが、 神戸に旅行に行ったときにタクシーのおじいが戦争経験者で 静岡の浜松?の基地に居たそうで、そこにはB29を打ち落とせる 高射砲があったそうで日本に爆撃に来るB29はその地域を通らないように 空爆してたそうです。
791 :
なかこー(機長) ◆DN8w2O0kAI :03/01/18 19:40 ID:OtoPuzTd
781です。
>>783 783さん、ありがとうございました。
私は大阪府豊中市在住のなかこーという軍ヲタク・鉄道ヲタク・航空ヲタク・PCヲタクです。
#ヲタクの王道ですね。
これでジーちゃんが子供のころ上等兵で武勇伝をいつも自慢していた理由が
よく理解できました。
うちのジーちゃんは長男でしたので、職業軍人にはなりたくなかった
のだと思います。
伍長以上の階級は職業軍人だということを存知あげておりませんでした。
また、もしジーちゃんが職業軍人になって伍長以上に昇格したとしても、
第七師団は太平洋戦争時にガタルカナルへ派遣されたとのこと。
あの有名な一木支隊も第七師団の出身だそうです。
ジーちゃんが職業軍人になったら私の父と私はこの世に生まれていなかったでしょう。
職業軍人の道を選ばず、上等兵まで昇格して大小さまざまな賞状と
勲章をいただいた非常に立派で大きな戦果を収めた軍人だったことがよく理解できました。
満州事変当時、第七師団をはじめとする関東軍は10倍から20倍も兵力差が
あって、装備の点でも日本軍も中国軍も大差はなかったと聞いております。
中国軍は国民党と共産党で内戦状態にあったとはいえ、あの広大な満州を
1/10以下の兵力で制圧したこと自体、想像を絶することです。
ありがとうございました。
お礼といっては何ですが、私が運営しているホームページを
ご紹介します。
おひまでしたらごらんください。
AirTariff国際航空運賃
http://www.airtariff.com/
792 :
なかこー(機長) ◆DN8w2O0kAI :03/01/18 19:41 ID:OtoPuzTd
ジーちゃんが職業軍人になったら私の父と私はこの世に生まれていなかったでしょう。
職業軍人の道を選ばず、上等兵まで昇格して大小さまざまな賞状と
勲章をいただいた非常に立派で大きな戦果を収めた軍人だったことがよく理解できました。
満州事変当時、第七師団をはじめとする関東軍は10倍から20倍も兵力差が
あって、装備の点でも日本軍も中国軍も大差はなかったと聞いております。
中国軍は国民党と共産党で内戦状態にあったとはいえ、あの広大な満州を
1/10以下の兵力で制圧したこと自体、想像を絶することです。
ありがとうございました。
お礼といっては何ですが、私が運営しているホームページを
ご紹介します。
おひまでしたらごらんください。
AirTariff国際航空運賃
http://www.airtariff.com/
曾爺ちゃんの兄弟だったかな? 日露戦争で、ちゅうじょう(中将?)だったって子供の頃聞いた。
794 :
441 :03/01/19 03:38 ID:???
衛星でやってた「シン レッドライン」見てたらじぃちゃんが起きてきて 一緒にタバコ吸いながら最後まで見てしまった。 スレ違いすまそ。
795 :
カメ :03/01/19 22:12 ID:???
>779 手帳を捨てるとは惜しいことしましたね
>>774 さっき漏れの親父に聞いてみました。
下田(静岡)で出撃待ちだったとか。
>>781 氏
上等兵に昇進したときに、一選抜だったかどうか聞いてみるといいかも。
一選抜だったら同年兵の中では優秀な兵隊だったと思っていいよ(平時では
15%程が対象)。
798 :
:03/01/20 01:59 ID:WiefVlfi
漏れの場合、父方の曾祖父さんが日露戦争で砲兵やってたらしい。 ガキのころ曾爺ちゃんが貰ったっていう勲章を爺ちゃんに貰った。 ガキの俺にはそれがどんなものかわからず、勲章の入れ物に動物(確かワニ)のシールをベタベタ貼っていた。 今ではどこにあるかも定かでない…ごめんなさい曾祖父さん。今度実家に帰ったら探し出します。 ちなみに母方の爺ちゃんは海軍でレーダー見てたらしい。酔うとよく話してくれる。 当時は未成年だったけど、いつ死ぬかわからないから酒タバコは勿論、娼館へも先輩に行ってこいと言われたそうだ。
790>浜松はその為かわかりませんが艦砲射撃くらってます。
800 :
777 :03/01/20 03:06 ID:???
>>794 じいちゃんがまだ生きてるなんて羨ましい。
消防の頃に死んじまったから漏れの心にあるのは悔いと後悔だけだな
20超えて爺さんがボケないで生きてる人は本当に運が良いと思う。
爺さんか、生きてた当時を思い出すと何故か無性に泣きたくなる。
スレ違いですいません。
オマエラ脳内妄想自慢話をよく恥ずかしげも無く書けるな。
age
801<ぷっ
804 :
名無し三等兵 :03/01/20 17:53 ID:YDWfHZgw
うちのじぃ様がなにをやってたかはしらないけど旭日褒章(なんとうかわからないけど) があったな、大蔵省造幣局って書いてあったな、巻いてある紙には
805 :
:03/01/21 05:21 ID:???
>>801 戦争に行ってなくても日本人なら必ず戦争自体には関わってるはずだからあなたも祖父が生きてるなら聞いてみれば?
>>805 ちょっと思ったんだがな。
今年は、戦後58年になるわけだ。
昭和20年を5歳以下のガキで向かえるとするな。
で、20代前半で結婚しガキができ、そのガキも20代前半で結婚してガキができるとするな。
最大5歳、25歳、25歳と来たならば、孫は今年3歳だ。
最小、昭和20年生まれが、20歳で子作り、そのガキが20で結婚・子作りとなれば、
孫は18だよ。
つまり、何が言いたいかというと、こういうことだ。
「戦争を知らないジーちゃん」が、そろそろ生まれ出すということだ。
つか、今のリア厨房・消防ぐらいなら、
もはやそれなりの数で、「戦争を知らないジーちゃん」がいるだろうし
リア工房でもまれにいるだろう。
語り部が、減るぞ。これから一気に…
ジーさんといわず、親戚の年寄り、ジジイになった恩師…、
とにかく、軍オタ的には、高齢者には、できるだけ話しを聞いたほうが良い。
ジーちゃんに限らん。
祖母や戦前・戦中派の父母にも、B29の爆撃から逃げ惑ったとか、闇市がどうだったとか、
GIを見たとか、教科書を塗りつぶしたとか、いろいろあるだろ。
とにかく聞きまくるんだ。そういう経験を。
>>806 確かに実戦体験のお話を当人から聞ける状況は、生物学的に言っても後5年が
リミットでは…。寂しい話ですがそれはそれで、早いとこ出来るだけ聞き取りは
やっていた方が良いと儂も同感。
808 :
:03/01/21 11:56 ID:???
>>806 そうだね…イデオロギーに染まっていない一次情報は出来るだけ吸収しておいたほうがいい罠(´・ω・`)
>>807 〉リミットがあと5年
そんなことはないだろ。
うちはひいばあさんが生きてて、御年103歳に
なるが。まだまだボケてないし、毎年盆になると戦死した
息子(漏れの爺さんの兄)の話をよくしてくれる。
更に祖父母も70代後半で健在だから、もしかしたらあと10年以上は聞けるな。
↑それは元気なお祖母さんで何よりですが、世間一般では後5年ぐらいがいい線 じゃない?すれ違いスマソ。 ___ /__ o_|__ /_了´・ω・`) ソレデハ、オツギノカタドーゾ。 ( つ旦O と_)_)
>>809 いいか、日本人の平均寿命は、男が70歳代後半で、女が80歳代前半だ。
おれの婆さんも100歳越して、死んじまったが、810の言う通り、例外だ。
すなわち、昭和20年に20歳くらいだったお年寄りは、かなりの程度、いつ鬼籍に入ってもおかしかないんだ。
父方の祖父が独立守備隊(満州)というところにいました。機関銃中隊に所属して、 敵の戦車を撃破したとかでなんだか勲章を持っていました。終戦は内地で迎えて 軍曹でした。軍隊時代の写真を集めた「オモヒデ」という、今の私たちの学校の 卒業アルバムのようなものを見せてもらいました。 数年前に亡くなりましたが、いつも軍隊時代の話をしていました。死ぬ直前まで 同じ部隊だった人達とは付き合いがありました。生死を共にした人達の結びつきは やはり強いようです。祖父にとっては軍隊というのは青春そのものだったようです。
813 :
山崎渉 :03/01/22 11:12 ID:???
(^^;
好むと好まざるとに関わらず、戦争の中で青春時代を生き抜いてこられたわけだからね。 重みを感じるね。
それにしても日本の軍隊のアルバムってどうして学校と同じようなつくりの 印刷して製本したタイプが多いんだろう?ドイツ軍でも部隊で作って配った アルバムがあるが、ちゃんと整理されて本物の写真が貼っているのがほとんど。 やはり物が無い時代なので全員に配るために印刷で済ましていたからか。
うまい菓子を食ったときに「この菓子をガダルカナルで餓死した兵士が食ったら喜ぶだろうな〜」 とか思ってしまうな、最近。ある意味不健全かもしれないが。 そういえば、消防のとき「はだしのゲン」を見させられたときの晩飯もこんな感じだったな。 戦争を知らない俺がそんなことをふと思ったりするくらいだから、戦争に行ったじーさんたちも 飯を食いながらこんなことを考える時があるかもなあ。
817 :
名無し三等兵 :03/01/23 14:07 ID:dhLx/jvc
亡くなった祖父が中国で戦ってました(満州に駐屯してただけかも)。 最近、祖父の中国時代の写真を見たのですが、軍刀を持って映ってました。 ペーペーの兵隊かと思ってたのですが、もしかして軍刀を持ってるという事は、 将校とかだったりしますか?それとも、やはりペーペー?
sage侵攻ですか?スミマセン・・
死んでしまったから憶えていること少しだけ書くね、記念として。 海軍でラバウルにいたんだと。んで、爆撃受けて自分だけ他の人と逆方向に逃げたらしい。 塹壕かなんか知らんけど、飛び込んだ先のすぐ側に爆弾が落ちて、口も鼻も土で一杯に なったんだって。よく生きていたって自分でも言ってたよ。帰ってきてからもしばらくマラリで 苦しんでいたらしい。
母方の墓参りで、村の墓地の、隣の家の墓には、三人並んで戦死した方の名前が書いてある。3人目の人は 「ソレン チタ州にて戦死」シベリア抑留のことだろうけど、戦死・・なんだね。 伯母の話では、兄弟で一人だけニューギニアから帰ってきた人は、ろくでもないひとでなしだったそうで、漏れが 「戦地で苦労したから?」聞いたら、「お兄さんたちは優しい人だったよ。ただ、ニューギニアで人食いがあった そうだが、○○兄ならやりかねん」と返ってきました。 いい人ほど早く死ぬ・・とのことです。
ウチの母方のじーさんなんですが。 毎年正月になると一家揃って母方の実家(名古屋)に帰省してまして。 そこの母親の親父さん(じーさん)がよく話してたんですが… B29が空襲に来た時にじーさん、隼に乗りこんで迎撃に上がってたそうで。 その話しはよく繰り返し聞いてたんで間違い無いと思いますが 本当に隼(多分本土空襲ん時だから3式かと)でB29に喧嘩うってたんかな? いらん知識(苦笑)が一杯の今現在、直接話聴けなくなったから (5年前に他界)どうにも気になってしまってます。 パイロットだったのは首に巻く白マフラー、見せて貰ったから間違い無いんだけど…
823 :
821 :03/01/23 17:44 ID:???
>>822 レス感謝です。成る程…それならありかも。
んでも「ばったばったと落としてやった」って言ってたのは…まぁいいか。
じーさん、ゴメンよ。ひねくれた孫で…
>>823 >「ばったばったと落としてやった」
まあ、ちょっとほらが入ったのかもね。
東京からの目標切り換えで、奇襲になってたはずだから、
手近な基地から、隼でもいいから出ろ、つーことで大慌てで出撃したんだろうなあ
いや、隼で組織的にB29の迎撃をやった戦隊はちゃんと存在しますよ。 2式単戦だと一撃しかかけられないが 隼だと1撃かけたあと、再び上昇し同じ梯団にもう一撃 かけられるからとの理由で使われたそうです。 迎撃というのは撃ち落とすことが主目的でなく 爆撃コースに入れないことが第一義です。 ですので、爆撃機にひつこく付きまとえる戦闘機の方が 有用であるとも言えるのです
827 :
名無し三等兵 :03/01/24 01:00 ID:R37ZmxGz
ニューギニアの件、 真偽は不明です。
828 :
名無し三等兵 :03/01/24 03:44 ID:/8mb0q5Q
今年で89になる祖父は、海軍で潜水艦に乗っていたそうな。 最終階級は兵曹長? 伊号潜水艦で、電気技士みたいなことやっていたらしい。 今年の正月に、少し話を振ってみたところ、色々と話してくれた。 戦争後期には、南方の島々の戦線に対する補給が水上艦では 出来ない状態だったので、潜水艦がその任務に就いており、 魚雷等を最小限にして、補給物資を詰め込み目的地へ行き、 夜陰に紛れて浮上、あらかじめ決めていた合図で連絡を取り、 補給物資の引き渡しと負傷兵の収容をしていたらしい。 ただし、周りは米軍の船がうようよいるため、作業中でも物音は 立てられない。 なので、物凄く時間がかかり、気が気でなかったらしい。 また負傷兵の収容時も、ほとんど動けない状態の兵士を リレーのようにハッチから内部に入れる際に、 当初は小銃がひっかかって時間が余計にかかったために、 二回目以降は、まず小銃を全て取り上げてから運び込んだそうだ。
829 :
828 :03/01/24 03:55 ID:/8mb0q5Q
続き 負傷兵を運び込んだ潜水艦内でも、大変だったらしい。 急に食事等を与えると、ショック症状を起こすので、 「負傷兵に対して、食べ物を与えるな」と命令が出ていたが、 その負傷兵は痩せてガリガリになっており、祖父ら乗組員が 普通に食事をしていると、「キャラメル1粒を10円で買うから 売ってくれ」等と言われて、可哀想に思ったと言っていた。 ただ、そんな前線にいた兵士でもしっかりとそのお金は 持っていたそうで、「ちゃんと給料は出てたんやなぁ」と 言っていた。 その他にも、昔聞いた話ではインド洋の方から日本に 戻ってくる途中、マラッカ海峡の辺で爆雷攻撃を受け、 息を潜めて逃げのびた話とか聞いた記憶がある。 祖父はまだ元気なので、はっきりしている間に もっと色々聞いておこうと思います。
直系爺さま 20歳で出征、台北近郊へ 軍では衛兵?をしていたらしく建物を見張ったり、修繕したりと戦闘には参加していない ようです。あまりいい記憶が無いようで軍隊の話しは一切しません、唯一誇らしげに語るのは 台湾のお粥とバナナ。バナナが自生しているのを初めて見た時の驚きを何度も話してくれます。 話してくれないのは、4人の兄が戦死した為だと思います。1兄満州方面にて戦死、 2兄ビルマ方面にて戦死、3兄ガ島方面にて戦死、4兄比島方面にて戦死 (健在 母方爺さま 宮崎より出征。陸軍、インドネシア上陸作戦、その後日本語統治のための学校の先生に。 あちらの言葉はスラスラと・・2回ほどジャカルタ方面へ旅行にいったけど通訳要らず。 上陸作戦は当時で言うと「少々残念」という感じだったと、そのわけは先陣をきって上陸したわけ ではなく、後発になってしまって輸送船上で地団駄を踏んでいたといっていました。 曰く「今考えると狂った時代だった」 (健在 母方爺さま弟 陸軍航空隊、特攻に備え模擬練習中に終戦を迎えてしまう。(30年前に病死 複葉機のそばに立つ笑っている少年兵の写真が仏壇にあります。当時16歳とか・・・16歳で? 長々すみません。
832 :
828 :03/01/24 06:05 ID:/8mb0q5Q
>>830 そうですね。
当時の持ち物を、結構大事に保管してるみたいなので、
また実家に帰った時に見せてもらいます。
またここに書き込めればいいんですが…。
先年、知人のじーさんが、うちの会社にやってきて、俺が応対をまかされました。 まあいろいろとあって寄付の話だったが、話の流れで「戦争中は大変だったんでしょうねー」 とつい言ってしまい、小一時間・・以上聞かされますた。 えらいのにとっつかまったなーと、よく話を聞かなかったのは、今思うと残念。 で、じーさんは主計の下士官だったそうで、戦局の変化で満州から南洋へ部隊ごと移動し、とある島の防衛任務に つくことになったそうです。 満州からの輸送も、潜水艦を避けての航行で結構つらかったらしい。根拠地についた時に基地との連絡で海軍の ランチに乗せてもらったが、海軍さんが自慢気に「新型戦艦」の周りを一周してくれたということです。 そして着いた先が、7000人が2000人になった飢餓の島、メ○○ン島でした。
続き 米軍の完全封鎖で補給が完全に絶たれたが、捨て置かれて上陸戦にはならなかった。ただし、食料の欠乏で飢餓状態に なったわけです。早朝の点呼で、まったく返事のない分隊は、全員冷たくなっていたそうです。昼間は蟹でも貝でも とにかく食い物を探して生きているが、(寝ている時は何も口にしないから)体力の衰えで命を落としたらしい。 じーさんは、敵上陸時の兵糧として取ってあった米櫃の上で、盗まれないように寝起きしていましたが、部隊の中に 小学校の同級生が何人かいて、その人達が夜中にこっそり訪れると、靴下の中に米を分けてやったそうです。 (その行いが正しいかどうかは別として)うちの街出身で、この島で餓死した人はいないということでした。 実際、俺の知ってるおっさんの何人かは、このじーさん達が帰ってこなければ、存在していなかったのは確かです。 戦闘らしい戦闘はありませんでしたけれども、B29が爆撃の練習目標にしていたので、時たまの高射砲の応戦では、 海軍のはまだマシだったが、陸軍のはさっぱり届かなかったそうです。 ようやく終戦となった時に、一番に引き上げが検討されたのがこの島でした。輸送船が日本へ帰還した時は、横須賀でも 佐世保でも呉でもなく、別府へ船がつけられ、全員そこで療養せねばならないぐらい弱っていました。 というようなことを聞かされましたです。はい。
>>833-834 小一時間か…w TPOがあるしね。
でも大変な話だ。
ふと思ったが、それでも軍オタは一般人より、老人ホームの職員に適性があるかもな。
>831 貴殿の祖父殿は、ライアン二等兵より 兄貴を亡くされているのですね・・・
age
838 :
上等兵 ◆JGSDF.Z0zo :03/01/25 21:50 ID:ybEckXwt
母方のばあさんの話で、大震災だか、大空襲だかで 東京のほうの空が真っ赤になったことがあったって聞いた。 あと、灯火管制のなかで、結婚式(?)やった話とか… 先日書いたのは父方の爺さんの話なので、今度は それぞれのばあさんの話を聞いてみようと思います。 (母方の爺さんは数年前に死んじゃったので…) ジーちゃんの戦争体験じゃないですけど、いいですよね それと、うちの爺さんは兵長になったのを自慢してたけど、 上等兵になるのも大変だったのね。しらんかった。 今の自衛隊だと、自動的に上等兵(兵長?)になっちゃうのにね。
839 :
名無し三等兵 :03/01/25 23:01 ID:P0c+LFfp
兵長は、 兵士(兵長、上等兵、一等兵、二等兵)では、 一番偉いです。 一等兵には、だいたいなれたそうです。 兵士の上は下士官(曹長、軍曹、伍長)です。 下士官は、兵士から選抜された、 最優秀な人たちですね。
840 :
山崎渉 :03/01/26 02:17 ID:???
(^^)
少し前に伍長以上は職業軍人とか言う話が出ていますが、徴兵されて軍曹になって帰ってきたうちの祖父は 戦地で志願したということになるのでしょうか?
842 :
名無し三等兵 :03/01/26 21:00 ID:y5VrBoX1
私の祖父は18年前に70歳で亡くなりました。 海軍軍属として横須賀鎮守府で勤務中に招集され、南方へ派遣されたそうです。 私は消防だったので、どこだったかは覚えていませんが、部隊の半数が戦死する 壮絶な戦場だったとか…。 祖父がどのような戦場を歩いてきたのか、今になって知りたくなりました。 招集されたのは昭和17年だそうですが、当時の横須賀市民はどの部隊に配属 されたのでしょうか?なにぶんこの板では初心者でして、どなたかご教授 ください。
843 :
名無し三等兵 :03/01/26 22:11 ID:6FPljkWn
>>841 軍曹になったのは、志願したはず。強制なのか、希望したのかは、わからないが。
ただ、優秀なので、選抜されたと。軍曹は、分隊を率いるので、
かなり優秀でなければならない。
しかし、職業軍人ではないです。
軍人を職業とすると、国家公務員です。
普通、士官学校を出る必要があります。
下士官は、あくまで、徴兵ですから。
ただし、徴兵期間が長くなることはあります。
844 :
名無し三等兵 :03/01/26 22:22 ID:MZ5wBpBI
>>842 陸軍ですか?
海軍ですか?
徴兵だとすると陸軍のようですが。。。
徴兵時期が同じでも、
配属部隊によって、戦地が異なることもありますんで。
恩給とか出ていたら、
わかりやすいんでしょうけど。
横須賀市の記録とか調べるとか。。
>>842 招集は陸軍の方でしょうか?
多分識者が来られるでしょうが、少し調べてみますと、当時横須賀には
横須賀重砲連隊と言うのがありまして、御祖父様が砲兵だったなら、此
処に配属された可能性が高いと思います。
太平洋戦争勃発時は香港に、その後広東省に転戦、南方戦線が拡大した
後には、ニューギニアに派遣されました。
このときに、相当な被害を被っており、最後はラバウルで敗戦を迎えています。
846 :
マジ話 :03/01/26 22:33 ID:zJlTqTP6
どこのどんな戦場へ行ったかは知らないけど、 祖父の前歯に敵の銃弾が当たって折れたそうです。 漏れの存在も紙一重だったんだなとつくずく思う。 今は亡き祖父に当時のことや戦場体験をもっと聞いておけばよかった。
うちの爺ちゃんが満州に徴兵で行っていて自分は『炊事軍曹だった』とか言っていたけど 実際に軍曹だったのかなぁ…
848 :
名無し三等兵 :03/01/26 23:44 ID:YoZfqOZc
漏れのもう亡くなったじいちゃんは、陸軍士官だったらしい。 終戦を比島で迎え、当時のフィリピンの日本の傀儡だった大統領を連れて 連合軍の執拗な日本兵狩りから逃れ生き延びたらしい。 山下大将の部下だったそうだが、例の「山下財宝」の話になると いつも話をはぐらかしていた。 絶対教えてくれなかった。 今となってはもう聞き出す手段がないけど、怪しいよなぁ・・・・
849 :
名無し三等兵 :03/01/27 00:35 ID:8kLzEFps
私は小学校の教師をしています。 今から7年前に、6年社会科の発展課題学習として地域の高齢者に戦争体験を 話していただこうということになりました。 地域の老人会にご推薦いただいた方に、残酷・過激な話、専門的な話は極力避 けていただいて旨を事前打ち合わせにてお願いしましたが、予想どおり、血湧 き肉躍る一大戦記が展開されました。 冒頭に「私はね、10人殺したよ。銃剣でね。」 次に、「日本の軽機はダメだったね。チェッコ機銃(チェコでなく、チェッコ が正しいそうです。ZB26のことか)の方がよかった。」 そして、「重機はよかった。撃ちまくったよ。でも射手はよく狙われた。」 最後に、「戦争は悲惨だね。みなさんは、戦争が起こらない世の中にするため にしっかり勉強してください。」(全然フォローになっていないよ〜。) 校長の顔は引きつり、児童は泣き出す45分間でした。 興奮していたのは老講師と軍オタの担任である私だけでした。 因みに彼は、泣く子も黙る第六師団第二十三連隊所属の伍長だったそうです。 また、現役時代は、70mm口径の砲の開発にも加わったそうです。 「九二式歩兵砲のことですか?大隊砲のことですか?」と聞いたのですが、 当時は既に耳が遠く、「あ〜?うんうん。」と適当な返事しかいただけません でした。
>>849 戦争の悲惨さは十分に伝わったのでフォローとして
神戸などで災害救助にあたった自衛官の方の講話をお願いしてみては?
国民を護ることの大切さも分ってもらわないととんでもない子供ができるだけのような。
851 :
名無し三等兵 :03/01/27 07:29 ID:/iRAKZy1
>>844 >>845 レスありがとうございます。心当たりを調べてみます。
戦争の語り部がどんどん世を去る今、もっと真剣に話を
聞いておけばよかったな、と後悔しきりです。
852 :
名無し三等兵 :03/01/27 08:43 ID:gnZRO2Ug
父方の祖父・・・ウエーキ島に二年か三年ほどいて、餓死寸前に 病院船で帰国。祖母の話によれば、骨と皮の状態で戻ってきたよ うだ。祖父の口から聞いた話によると、司令官が馬鹿で陸上に食料 保存庫を作っていて、空襲で灰になったらしい。敵の航空機は親指 ほどの太さもある弾の機銃掃射をしてくるのに、自分が持っている 鉛筆の芯みたいな銃の弾で何が出来るか、と絶望していたそうだ。 あと、みんな餓死でどんどん死んでいって、特に体格の良い者はす ぐに餓死した。自分は運良く生きて日本に帰れたと。嘘か本当かは 分からないけど、何かの板切れの下にいたゴキブリを見つけたら争う ように仲間とそれを食べたとも・・・。 母方の祖母・・・どこかの沿岸基地にいて、敵航空機を高射砲で撃墜 して、敵兵の死体を船で回収しに行ったと聞いた。 とにかく、両方の祖父から食料に困ったと良く聞かされ、絶対に食べ物 を粗末にするなと言われた。
853 :
名無し三等兵 :03/01/27 09:24 ID:2GWsQ5JA
祖母の実家には今も、陸軍伍長の階級章を付けた大叔父(祖母の弟) の遺影があります。大叔父は村一番の秀才だったにもかかわらず、農家の 次男坊ゆえに学校へ行けず、中国戦線へ2回も招集されて敗戦直前に 戦死したそうです。当時はやはり、一兵卒から伍長へ上がるのはかなり 難しかったのでしょうか?。祖母はよく「あの子なら陸軍士官学校も海軍 兵学校も一発合格したはずだ」と話していました。 大叔父が豊かな家に生まれていれば、違う人生があったんでしょう。 誰でも高校、大学へ行ける現代は幸せなんですね。
854 :
名無し三等兵 :03/01/27 16:03 ID:hzfZFGuX
>>853 そうですね、大学に誰でも行ける時代は幸せです。
それも大叔父様、ご先祖様達の死を賭しての礎のおかげです。
戦争終わったのは昭和天皇の決断ですが何か?
856 :
名無し三等兵 :03/01/27 22:10 ID:/unEe3vQ
折れの母方のジーさん(痴呆寸前)は海軍の駆逐艦だったようだ(艦名不詳) 海軍なので食い物はそれほど不自由なかったようだ。 以前聞いた話しでは、南雲の機動部隊の一隻だったようだ。 以前、気になる言葉で「いつの間にか空母が居なくなっていた。」とか言っていた。 多分、ミッドウェーに行っていたのかも知れない。 現在、言語障害のため確認不能…
857 :
名無し三等兵 :03/01/27 22:21 ID:3F7H1iuh
満州のせいで無一文になったそうです。
858 :
名無し三等兵 :03/01/27 23:23 ID:5eOXFst8
859 :
名無し三等兵 :03/01/27 23:29 ID:z74/2hRQ
知り合いのじいちゃん(数年前に他界)、ゼロ戦乗りで重慶爆撃やらアリューシャン攻略作戦やらに 行ったらしい。じいちゃんから直接話を聞いたことがないので単発な情報しかしらなくてスマソ。 あと瑞鶴の飛行隊に居たらしい。終戦間際は本国で教官をしてたみたいです。終戦時の階級はたしか曹長。 このじいちゃんの経歴とか詳しく知りたいんだけど、どんな書籍で調べられるんでしょうか。 じいちゃんの苗字名前はわかります。
860 :
FA18E :03/01/27 23:32 ID:2jx8TPOL
ミンダナオ島に向かう時、輸送船団が航空攻撃を受け祖父の乗った船も 撃沈されたそうです。 祖父の従兄弟は島根県出身なのに横浜の警備隊にいたようですが、 末期にはB−29が300機以上飛来して絨毯爆撃し、街が焼け野原になった と話していました。小学生のころ学校の宿題で取材した時に聞いた話。
861 :
名無し三等兵 :03/01/27 23:37 ID:u0qUDr5j
うちのじいちゃん、家族へ宛てた手紙で、縦読みで文章書いてたらしい 当時は検閲で、「今居るところを手紙には書いてはいけない」という決まりが あったらしく、中国から「いま○○にいる」と縦読み作文で手紙を出したらしいが、 日本で受け取った家族の誰もが縦読みであることに気づかず、 復員してから家で大怒りしたらしい(w 「俺が苦労したのに、誰も気づかんのかーっ!」って。
862 :
名無し三等兵 :03/01/27 23:39 ID:u0qUDr5j
861だが、間違い発見 当時は文章縦書きだから、横読み作文だな・・・スマソ
863 :
名無し三等兵 :03/01/27 23:43 ID:ly/ExM9r
うちのじいさんは右手と左足を吹っ飛ばされて帰ってきたらしい。 でも生きて帰ってきたから近所の人に冷たい目でみられていたそうです。
864 :
名無し三等兵 :03/01/27 23:50 ID:Ceq+JdkD
うちのじいさんは日中戦争で北支派遣軍で北支(満州にも一時)居たらしい 何年か行ってたけどペーペーの上等兵どまり でもそれゆえにトーチカからツカイッパ(伝令)に行ってる間に残ってた人たちがチャンコロに惨殺されたのに助かったり行軍時に少数先行隊やらされて 本隊が待ち伏せ食らって多数の犠牲が出たのに助かったりと命拾いしたらしい 俺が生まれたころに亡くなったが小学生のころみた形見には従軍記章(だと思う)ともうひとつ勲章があった 打通には参加したか不明 あと伝説の漁法 「川に手榴弾投げ込み」もやってたとかw
866 :
:03/01/28 00:08 ID:???
不謹慎で申し訳ないが、昭和20年8月9日親父当時11才。 西の空を見て「太か花火のあがっとる!」とはしゃいでたそうです。 熊本より
家内の母親も八代から島原の方を見るとでっかいキノコ雲が見えて驚いた といってました。
直接の戦闘体験ない。 24歳で陸軍中尉(階級は昔聞いたのでやや曖昧)。 で、8/6 in 広島。詳しくどこかはわからんけど。 兵舎が潰れたが2階だったので助かったそうな。 原爆手帳も持ってるけど身体的に影響は残ってない(らしい)。 ま、とにかく、じーちゃんは地獄を見たそうな。 じーちゃんの物置には今でも大事に1本の恩賜のタバコ。 激しく吸ってみたいが、心情的に絶対吸えないな。 あと、祖先は会津藩の白虎隊の子孫(白虎隊っていっぱいあった)で たまに戊辰戦争の話も聞くなぁ。会津藩の殿様の子孫は今でも健在で この前会えてかなり嬉しかったらしい。やっぱりあだ名は「殿様」なんだそうだ。
869 :
名無し三等兵 :03/01/28 01:34 ID:e/xiTGTy
>>859 漏れは、識者ではない。
ゼロ戦乗りなら、柳田邦男の零戦燃ゆは、読まれば。開発から、戦いまで、書かれていて、わかりやすいです。漏れも、偶然、ハケーンした人がある。
あと、日航機が墜落した村の村長が、若い日、ゼロ戦乗りだったを知り、因果に涙した。あとは、古本屋でさがすことです。ソウ長なら、分隊長クラスなので、ズイカク物に名前かまあるかも。
アリュシャンなら、龍譲か準ようですが。 また、戦争に行かれた方が、かなりの書物を出版されてます。彼等は、身近な事や戦友を書いてるので、案外、ハケーンがあるかも
870 :
869 :03/01/28 01:40 ID:N3XC1CEY
長文スマソ。 漏れのじーちゃんは、戦友行ってない。 だから、古本屋で兵隊さんが書いた体験記を読んでます。 司令官や参謀が書いたものとは、 違う戦争を感じたいのです。 みなさんの爺さまが、体験されたようなことを知り、戦争のはかなさを感じてます。
871 :
:03/01/28 02:14 ID:mckxjaUs
うろ覚え 俺のじいちゃんは、「青葉」っていう軽巡洋艦?でコックさんをしてたらしい。 それで、港におる時に攻撃されて船と港をつなぐロープをつたって 逃げ延びたんだってさ。 話を聞いて、「青葉」のプラモ作って見せたら、 「わしは、この辺におったんじゃ〜」って、懐かしそうに話してくれたw もう死んじゃっておらんけど よくカレーを作ってくれたのを思い出す。 うまかったよ。
>>871 それは、元本職の作る、リアルな「海軍カレー」ではないか…
ウラヤマスィ…
(因みに青葉級は、ロンドン条約による重巡洋艦に分類。
その後の重巡洋艦の設計の祖と言ってもいいクラスですね)
うちの爺さんは裁判関係の人(実はよく知らない・・・)だったらしく、 戦争には行ってないらすぃ。 だいぶボケてきてるので詳細が聞けないのが無念
874 :
名無し三等兵 :03/01/30 20:16 ID:mlso0mDx
>849 俺もそんな授業を受けてみたかったなぁ 「日本の軽機はダ駄目」と言ってたならそれは11年式軽機の事かな?んで俺の父方のジーちゃんは小4の冬休みに他界。話を聞けばよかった...因みに商業学校(今高校)のアルバムをハケーン!どれがジーちゃんかわからんが38式担いでマツタ。
↑サンクス明日逝ってくる。
877 :
なほなほ :03/01/31 13:17 ID:7e9+LZDA
オレの父方のジーちゃん(オレが生まれてすぐ死去)は海軍で日露戦争に征った。 その当時艦上で撮った写真が実家に残ってる。 その姿はは水兵服ではなく、士官らしい服装で写ってる。 残念なことにどの艦に乗っていたのか親戚は誰も知らない。 こういうのって調べることできるんすかね?
878 :
名無し三等兵 :03/01/31 21:35 ID:zzZ/OJz/
俺のじいさんではないが友人の曾じいさんは海軍の法務官で最終階級は中将 あの有名な日本海海戦前の甲板で東郷さんと取り巻きがいる絵の中の一人らしい 東郷さんの葬式に参列してる写真も見せてもらった 高級将校と普通将校では帽子の被り方が縦と横で違うんだってさ
879 :
名無し三等兵 :03/01/31 22:08 ID:vB6irSIG
俺のじいちゃんの二つ上の兄が戦艦長門の砲手だったそうだ。 たしか二番砲?だったか、主砲か副砲のどっちかだったと思う。 じいちゃんは満州で若いころを過ごし、長崎に原爆が落とされたときは諫早にいたらしい。 酒を飲みながら、毎晩色々語っていたよ。 というのも、じいちゃんもじいちゃんの兄も2年前から寝たきりで、 こんな話をするのも何か強い罪悪感を感じて…
880 :
名無し三等兵 :03/01/31 23:15 ID:ZWUKV61z
>>866 867
爺ちゃんじゃなくて恐縮だが、俺の母は(そして俺も)呉出身で、
八月六日には、大人たちが青ざめた顔で「新型爆弾」の話をしている
のを覚えていたそうだ。
その母も後に掃海艇乗りの父と結婚したが、その父によると、戦後しばらくは
機雷が瀬戸内海で多数浮いており、一番手っ取り早い「機銃による爆破」の
時には、乗組員一同、目をきらきらさせて見守っていたとのこと。
スレタイに反していて申し訳ないが、つい思い出してしまい、書き込んでしまった。
申し訳ない。
881 :
ななし :03/01/31 23:22 ID:???
父方の爺ちゃん海軍。 母方の爺ちゃん陸軍。 とても仲が悪かった。
882 :
名無し三等兵 :03/01/31 23:40 ID:byhf85vL
俺の爺ちゃん広島市郊外で排便中、どっかーん!爆風で仮設トイレ 飛ばされケツ出したまま(゚Д゚)ポカーン。そう原爆だった、幸い被爆は免れたそうな。
母方のじーちゃんはスマトラ行ったらすぃ、酔っ払うとたまに話してくれる。 敵より虎のが大変だったそうな、 朝起きると隣の小屋が血糊を残して空だったとか。 父方のじーちゃんはあんま話してくんない 結核で徴兵はねられたようで、 軍属として中国でトラック転がしてたとか。
884 :
名無し三等兵 :03/02/01 07:00 ID:CTMU5BAz
漏れのジーちゃんは南方(?)行く前にボカチンを喰い、救助されて台湾に濡れ鼠で上陸。 そのおかげで命拾いしたが、そこでの生活はすべて他の部隊の借り物でずいぶん肩身の 狭い思いをしたそうだ。 沈没時は朝方だったのでなんとか落ち着いて逃げ出せたが、真っ暗の夜じゃたぶん駄目 だったといつも言っていた。
885 :
名無し三等兵 :03/02/01 07:46 ID:1HXJnXRs
俺が爺さんになった時、孫なんかに語ってやれる ことはあるのかなぁと沸々と思う・・・ このスレを読んでたくましくあらねばと考えさせられ ております・・・・
昨日ですが、62式がこっちに向かって射撃をし、 近くでTNTが爆発する中を匍匐で進む潜入体験なるものを行いました。 爺さんたちが感じていた(?)ものを疑似体験できた気がして嬉しかった… スレ違い(?)でスマソ
887 :
名無し三等兵 :03/02/01 12:20 ID:x1DGWyMg
このスレなら聞けるかな…。スレ違いかもしれんが。 私の祖父(香川県出身)は大陸方面で騎兵だったらしいのです。 「鯨」の名が付く連隊(?)に所属していたそうです。 祖父はずいぶん前に亡くなってますので戦時中の話は聞けずじまいでした。 祖父の所属していた部隊とその部隊の戦歴をご存じの方がいらっしゃれば、お教え願えませんでしょうか。 宜しく御願い致します。
ウチのじーちゃんは、兵役中に米と開戦。陸軍の航空隊に配属。 色盲をごまかしてパイロットになろうと試みた。 色盲なのはばれなかった(本人談)ものの、戦闘機乗りにはなれず、 グライダー(偵察用)のパイロットとして軍隊生活を送る。 当時の写真やら、資料?やら、ガキの頃いろいろ見せてもらったが、 部隊の人と遊んでる写真とか、 ふざけて撮ったような(どうもコスプレっぽい)写真が多くて かなり違和感があった。 ネタとしか思えないようなキャプションも付けてたし。 (小学生にとっては、戦時中って暗いイメージがあるからね。) 余興でよく演劇をやってたらしく、そのときの台本(座頭市)も見せてくれた。 (その時の配役表では、じーちゃんは主役で階級は軍曹だった。) 終戦半年前に朝鮮半島へ赴任し、そのまま終戦、シベリア抑留となるが、 2年で帰国。 小学校の宿題でよくある「悲惨な戦争体験を聞いてきましょう」みたいなのがあると シベリアの話をしてくれた。(戦争中じゃないけど) 前にも誰か書いてたけど、15年くらい前に銀杯と10万円が政府から送られた際、 俺に自転車買ってくれた。 「孫に自転車買って終わりかい。」と、じーちゃんのセリフが印象的。 抑留生活は本当につらかったんだと思う。
>>875 逝って来ました。大和の生き残りの方のなかなか聞かせる良い講演で情報多謝!
890 :
名無し三等兵 :03/02/01 22:38 ID:2+eGYzjR
887 様 おじい様の所属は、第40師団です。「鯨」というのは通称号で「鯨第688○」部隊 (○の部分に数字が入ります。)という風に使います。 鯨部隊は南京で終戦を迎えています。 部隊についての詳しくは、善通寺市にある陸上自衛隊第2混成団の広報あたりに聞けばある程度は 分かるのではないかと思います。(鯨部隊の原隊である第11師団跡に駐屯しています。) ちなみに鯨部隊歩兵第235連隊(高知編成)の連隊長は、ノーベル賞の小柴教授の父上です。
>881 うちは 母方じい 海軍 父方じい 陸軍 だけど仲いいよ。
892 :
887 :03/02/02 02:16 ID:???
>>890 おおっ!そうなのか・・・。南京かぁ・・・。
早速、善通寺駐屯所の広報に問い合わせてみます。
情報ありがとうございました。感激です。
>>888 >じーちゃんのセリフが印象的。
読んだ俺もそう思った。
>>889 俺は地理的に無理だったけれど、行きたかった。
まあ、教育テレビの人間講座という番組の再放送で、戦艦大和の最後の出撃に参加した
人々のことを取り上げるらしいから、それを見ることにする。。
894 :
名無し三等兵 :03/02/02 02:48 ID:1idI2SB1
戦艦大和の最後 〜一高角砲員の過酷なる原体験 坪井平次書 光人社文庫 こんな本あります。 教員から大和乗組員、 戦後、学校の校長先生までした人だから、 なかなか読み易く、書かれています。
895 :
名無し三等兵 :03/02/02 09:10 ID:pO+OzcXt
こんなスレあったんですね。まあ、聞いて下さい。 沖縄なんですが、両親供に戦争体験者です。‥戦地はもちろん沖縄。 母は昭和16年生まれ、父は17年生まれ、共に沖縄戦を象徴する地域(糸満市、具志頭村)の出身地で、 母の出身地(具志頭)は、米軍の艦砲射撃が凄まじく、その艦砲射撃で、両親(俺のおじぃ、おばぁ。)姉と弟を殺された‥ そして、ひとりぼっちの母は、小さな小屋で生き抜いてきました。 父方は、沖縄最後の攻防戦「マブニの丘」周辺に暮らしてて、
896 :
名無し三等兵 :03/02/02 10:04 ID:wy7Y3huY
防空壕で生活してたらしいが、表に出て、偵察機(父が言う通称トンボ)に見つかると、 見事なまでに、艦船から集中放火を浴びたそうな‥ 父曰く『一番恐ろしいのは、日本兵さぁ。いきなり家にやってきて、食べ物どころか、なにもかもを奪って‥。拒否すれば、すぐ斬る。』(父の言葉です) 実際、親戚に首を斬られたり、小さな赤ん坊が、「ギャーギャーうるさい!」と言う理由で、日本兵に殺された‥とゆうのも事実ですが(祭られているカジュマルの木があります) 戦争は、 イクナイ!!と思います。 忘れ去られるといけないと思いレスしますた。
897 :
無名さん :03/02/02 10:09 ID:wgFtc3mh
898 :
名無し三等兵 :03/02/02 12:28 ID:Fblc9/Ml
小柴さん 日経の私の履歴書に登場です。 まだ、二回目。 軍人の父のことも書かれてます、
899 :
名無し三等兵 :03/02/02 14:29 ID:zyNyIfVu
226の時、田舎から一番安全そうな部隊として麻布連隊に入れてもらったのに いきなり国内で内戦に巻き込まれたよう。山手線の駅が全部封鎖され、 買い物いけぬと、ばあさん。結構リアルな話です。泣きながら東京市長が 「兵よ!銃を引いてくれ」と.....悲しすぎて書けぬまた次回。 まじめに命がけで日本のことを考えてた人達がいたんですな。 (やり方や方向は別として)
900 :
名無し三等兵 :03/02/02 14:37 ID:zyNyIfVu
>899 追加 当時じいさんは結婚していて、もう家には帰れないものと覚悟し、 ばあさんも同様の気持ちだった。でも帰れてよかった。 でなきゃ私はいない。またぼちぼち追加を
901 :
名無し三等兵 :03/02/02 22:49 ID:zyNyIfVu
>899 兵役終えたじいさん、夜学に通い教員となり いなかっぺ弁で東京の小学校で教える。 やがてWW2悪化、東京空襲され娘ばかりの子を 心配し郷里に帰る。なぜか中学(当時)の先生として 転任。安堵もつかぬ間どこからか非国民との声があがり 無給の処罰。さらに昭和19年末再び招集かかり大陸へ。 今度こそ今生の別れとばあさん。幼い娘達は父の服をこっそり隠し 行けぬようにと。一番末だった母は祖父の服の端切れを父のいない 間ずっと... また悲しいが、さてじいさんは長生きしました。 苦労話はたくさん聞いたが、何より私が書けるのは生き残っていてくれたから と思う。多分戦中亡くなっていて、つらすぎて書けない人大勢いると思われ まず続きを勇気?をだし書いていくには、前述の遺族、故人に合掌してから。 出征したじいさんの年を越えた漏れです。 黙祷
902 :
名無し三等兵 :03/02/02 23:22 ID:kmvrh8kh
>>899 ウチのジーさんは雪の中、2.26事件を見物しにでかけたそうで、写真があります。
他に大空襲直後に家の周辺を撮影したと言われる写真(かなりグロい燒死体とか)や、闇市の写真なども。
まぁ戦後に親父(妾の子なわけだが)が生まれたときで60ン歳、善くも悪くも江戸っ子な人だったらしいが…
903 :
名無し三等兵 :03/02/02 23:55 ID:zyNyIfVu
>>902 じいさんも雪が降って寒かったと言っていた。
5年前引退した知り合いのじいさん
空襲で一人ぼっち(孤児)になったが、両国の生まれで
何とも元気で生き抜き、勝海舟の実家の近所で育ち、じいさんの
聞いた昔話を聞かされた。明治の江戸も活気があったよう。
とにかくツエー(強えー)の一言です。
明るいこと、参考になること思い出させてくれてありがとう。
904 :
名無し三等兵 :03/02/03 00:10 ID:KWun4t1b
>903=899です。 つえーじいさんの話書き忘れた。 キリスト教関係のことを耶蘇と言ってた。 昭和30年頃仕事で米国に行かなきゃならなくなり、 英語は耶蘇が知ってるからとつてを探したと。 教育界に影響力をもつ人でしたが.... 話が違ってすまぬ。粋で不況を吹っ飛ばそう べらんめえ!
陸軍の飛行第26戦隊とか言ってた。 硫黄島まで船の護衛したらしい。 その後、特攻隊志願(させられた)。
906 :
無名さん :03/02/03 14:26 ID:mP5Jri/e
月刊町会だより 349号 平成十四年九月二十九日発行 平成十四年九月号 市川三丁目第一町会広報部 長月『町内のはなし』 「私と北朝鮮の同年兵」 町会広報部 石渡孝次 秋のお祭りシーズン間近、いよいよ秋本番です。 今、新聞等で話題になっている、小泉首相と北朝鮮総書記との会談に一喜一憂する今日この頃ですが、 北朝鮮では終戦の前の年五十七年前(昭和十九年)に第一回徴兵制度が敷かれ、 私ども内地からの一般兵に交じって現地教育として一割近い北朝鮮の若者が入営し、同年兵として私達と一緒に教育されました。 一個中隊五十名に十名位ですが、印象に残ることが色々ありました。 何処の国でもそうですが、要領のいゝ奴、悪い奴、少し分が悪くなると、よく言葉が解りませんと逃げる始末で、指導係の古い兵隊もずい分困ったものです。 食事については、いつも私達と同じ食事を食べておりましたが、終戦前迄は内地からの慰問袋が、たまには配給になりましたが、 内容が乏しくなって内地での物資の欠乏を感じましたが、ある時小ビンに入った七色とうがらしが大きい食器棚いっぱいにまとまり、 このとうがらしをどうして食べるのかなと、つまらぬ心配をしておりましたが、三度々々食器の表面真っ赤になる程かけて、 ものの一週間足らずの内にきれいになり、辛い物が好きだとは聞いておりましたが実際の食べっぷりは実に見事でした。 また八月十五日の終戦を境にして状況ががらりと替わり、方や勝組我々はしゅんとした負組、頭があがりません。 涼風もたっていよいよ別れの刻を迎え、涙こそ出さない迄も固く握った両手に汗が光りました。 五十七年前とは言い乍ら、何でこんな仲になるなんて私には信じられない北朝鮮の同年兵です。
907 :
名無し三等兵 :03/02/03 16:01 ID:+kaWRpi+
山口県出身なんですが、祖父は太平洋戦争中25歳位で、 召集されて集合地に行ったら既に部隊は出発してしまった後で 出征はしなかったと聞きました。 祖母からの又聞きなんで本当かどうか分からないんですが。
908 :
名無し三等兵 :03/02/03 16:19 ID:jbF1D43G
俺の曾祖父さん(お父さんの爺ちゃん)海軍で駆逐艦に乗っていたらしい。 今は惚けて大変だけど、高射砲?(高角砲?)の指揮官でアメリカの艦爆の攻撃の 時など曾時様曰(アメ公の顔が解る位まで)あいつら近寄ってきて機銃掃射しやがった って言ってた、怪我をして内地送りになり、呉だかどこかの病院で終戦 終戦のどさくさに紛れて、米やみそやその他の金になりそうな物を軍の倉庫から 持ち出して、金に換えて復員してきたとか・・・・ 今も惚けずに生きてるけど、この曾爺ちゃんの兄ちゃんってのが 「わしゃ、戦争に行くのが嫌じゃったけん自分で指弾いたんよ。」と言って 右手の人差し指と中指の無い手を見せてくれる。 この爺ちゃんは、なんだか戦争中はヤバイ仕事をしていたらしく 今でもあまり戦争の話はしてくれない。
909 :
vvv :03/02/03 16:19 ID:Jsu9KW/A
じーさんについての話に出てきたんだけど「ヨカレン」って何? 海軍がどうとか言ってたけど…
>>910 ヨカレン=予科練。
簡単に説明すると、
海軍航空隊の優秀なパイロットを育成するために
作った制度。
若いうちから操縦技術、整備技術を習得させるなど、
英才教育を施した。
サッカーでいうところの
ユースシステムみたいなものかと思われ。
うちのじっちゃんは陸軍航空隊だが、
素直に海軍の予科練システムは評価していた。
予科練に上がれるのは相当優秀でつ。クラスで成績が1、2番で体が頑強でなければ 行けません。そのためか予科練上がりは戦後会社を興したりして社会的に成功 した方々も多いと聞く。
エリートかよ… 現状からして漏れの体の中のじーさんの血は確実に薄まってますな。 つД`)ゴメンナサイー じーさんはその後は国鉄で働いて、今は公民館で俳句の先生やってるです。
俺の親父は南樺太生まれ。大戦末期には赤軍の侵攻で祖父家族は命からがらだった そうだ。なんでも一つ前の船は魚雷で沈められたそうだ。祖母の家系は結構金持ち だったが財産は全て赤軍に没収。
916 :
名無し三等兵 :03/02/04 16:57 ID:FC9Dw2nP
教えて君で恐縮です。 亡くなった祖父は、横須賀に駐屯する海軍陸戦隊に所属していたそうですが、 この部隊はどのような戦跡をたどったのでしょうか? 祖父は早くに亡くなったので、往事の体験をきちんと聞けていないのです。
>>916 横須賀鎮守府の陸戦隊ですか。
ソロモン方面に投入されたんじゃなかったですかね?
918 :
名無し三等兵 :03/02/05 03:45 ID:+I/zAZLA
親戚のおじさん 昭和19年の時12歳位で秋に稲刈り終わった田んぼで 遊んでたら 滑空してきたF6Fに機銃掃射されたそうだ。弾は当たらなかったが 遊んでる子供を照準器に入れて打つのは 戦争犯罪じゃないのか。似たような話は 母方の方からも聞いた事がある。空襲警報に逃げ送れた近所の中学生が 戦闘機の機銃掃射で お腹半分吹き飛ばされて死んでいたのを 防空壕から出てきて 見たそうだ。東京裁判ってなんだ?戦犯ってなんだ?
919 :
名無し三等兵 :03/02/05 03:54 ID:U+zhDoUI
あのころの米軍は女子供容赦無く撃っていたからな。以前見たドキュ メンタリー番組では、パイロットには日本国民全てをターゲットにし てよしと上層部も認めていたと報じていた。鉄道が主要ターゲットと されたから、旅客車が散々撃たれまくり、多くの死傷者が出た。
920 :
名無し三等兵 :03/02/05 04:19 ID:PNDPL3O/
俺のじいさんは海軍で、豊川海軍工廠→空母翔鶴(作業員)→南方戦線(ブーゲンビル) だそうだ。 ブーゲンビル上空で零戦と米軍機の格闘戦を見たそうだ。 零戦はひらりひらりと軽快だったと。 あと、とんでもない空母が日本にあった、というのが口癖だった。 信濃のことだね。情報統制が海軍内でも凄まじかったらしく、 信濃の存在は戦後知った海軍軍人も多かったそうだ、、、、、。
>>914 戦後は国鉄マンですか!
更にエリート決定でな。
922 :
無名さん :03/02/05 17:45 ID:rXuWW7Ry
923 :
名無し三等兵 :03/02/08 11:27 ID:1nIo+Hc8
age
ボケると昔帰りするのは本当だね。 今さっき、お昼のサイレンのときに、 「敵襲だ〜!!」と言ってコタツの中に隠れてた・・・
925 :
:03/02/10 22:32 ID:???
北朝鮮スレにいたんですが、このスレを紹介されましたので来ました。 最近、母方の祖父母(ともに80歳)と話す機会があり、体験を聞きました。 (2人ともまだ存命です) で、祖母から聞いた話。 祖母は看護婦だったので、病院船で転々としておりました。 祖母の仕事は、病院船に乗って傷病兵を回収して日本に送るという仕事らしいです。 看護学校もちょっと繰り上げ卒業になって、病院船に乗ったそうです。 中国、朝鮮半島あたりの港町を訪れることが多かったそうです。 で、現北朝鮮の清津に行った時の話。 (清津=セイシンと発音してました。拉致事件でも話題になる地名ですが、「チョンジン」と 言うので、同じ場所だと最近までなかなか気づかなかったそうです) そのときに、港から少し行った場所に、きれいな住宅地があって、きれいなチョゴリを着た 女性がたくさんいて、当時の自分たちよりも、ずっといい生活をしていた様子だったそうです。 「商売女じゃなくて、上品で上流階級という感じだった。なんとなくわかる」と言ってました。 他にも中国の港町では、モノを売りに来る中国人と値切り合戦をしたらしいです。 一度魚雷が来て、危うく船が沈没しかけるところだった、とも言ってました。 (船長のとっさの舵取りの機転で沈没を免れたそうです) 少し前に、小渕総理名義の感謝状のようなものをもらったというので、見せてもらいました。
926 :
:03/02/10 22:33 ID:???
>>925 の続きです。長くてすみません。
祖父は中国南部(上海あたり)から北部へと転戦してたそうです。
祖父の職業は薬剤師でしたので、前線に出ることはなかったと言ってました。
上海、南京近辺〜奉天(=現在の日本大使館のある瀋陽のことだそうですが)
あたりまで。
そういえば、当時の満鉄社員というのは、エリート、と言ってました。
たぶんお給料も良かったと。
これは余談ですが、祖父は南京大虐殺には懐疑的、というか
「あんなものは存在しない」と言い切りました。
というのは当時、部隊の荷物持ちとして現地の中国人を雇っていたそうです。
(当然、給料は出してるとのことです)
で、祖父が転戦してた頃というのが、1940〜1943年くらいだったと。
たしか南京大虐殺は1937〜8年くらいだったかと。
その頃に本当に大虐殺があったなら、その後の40年くらいに
上海、南京あたりで日本軍が荷物持ちで中国人を雇えるだろうか?と。
(中国人が日本兵を怖がって来ないのではないか?)
あと、当時の現地の中国人と、私服っぽい服装の時の日本兵や日本人は話してみないと
パッと見た目では全然区別がつかなかったそうです。
そこまで日本人と中国人を細かく区別して、あんなに大量に虐殺できるわけがない、と。
戦争中の話には詳しくないんで、祖父のいうあたりがどれくらい信憑性があるのかは
知らないんですが…。
927 :
:03/02/10 22:50 ID:???
うちの父方の祖父の話です。これは父や亡くなった曽祖父などから聞いた話です。 父方の祖父はある田舎の医者でした。派手な人でした。 バイクが好きで戦前だというのに、日本に数台しかないハーレーに乗り 往診するような人だったといいます。。。ほんとかどうかはわかりませんがw 祖父が戦争に出て行ってから、鉄が不足してこのハーレーも供出の憂き目に あった時に、「息子が帰ってきたら乗るから」と最後まで曽祖父は守ろうとしたそうですが…。 祖父は軍医として、ニューギニア方面に行ったそうですが、転戦の途中、 おそらくジャングルで移動中に戦病死ということだそうです。 あまり詳しいいきさつはわかりません。 でもジャングルで亡くなったのではないか、とわかったのには少し後日談があったからです。 その後、曽祖父は祖父が残していった、たった1人残された子供(つまりうちの父)を育てまして、 その父も無事に医者になりまして、診療をしていたある時の話。 「あの、もしかして〇〇さん(祖父)の息子さん?」と年配の患者さんから言われたそうです。 (苗字が珍しい&父が祖父に似ていたそうです) その方は昔、南方に出征していて、怪我をして、祖父に見てもらったそうです。 で、その方は母親1人を残してきていて非常に辛い、という話を祖父にしたら、祖父が 「じゃあ、アンタは重症で従軍には不適格、要治療ということで、内地に送り返します」と 多少誇張した診断書を書いてくれて、内地に戻ったそうです。 その後、祖父を含む部隊が、南方でほとんど助からなかったことを聞いたそうです。 あの時、祖父の判断で自分は命拾いしたと。「助けてもらったから今があるんだ」と。 やはり、祖父は帰らぬ人になったことを父が告げると、診察室で大泣きされたそうです。 そんな祖父は靖国に眠っています。曽祖父は 「息子に会いにいってくる」と地方から、靖国まで何度か行っていたと、後で聞きました。 一度機会があれば、靖国に行ってみたいと思ってます。
928 :
名無し三等兵 :03/02/10 23:27 ID:tTDKXGLw
涙で画面が見えなくなったよ(泣
929 :
名無し三等兵 :03/02/11 01:02 ID:khfUyN4B
>>927 りっぱな爺様ですね。
ニューギニア軍医日記
鈴木正己著
ニューギニアの部隊に軍医として、従軍された方が書かれた本があります。
当時の部隊の様子がわかります。
参考まで。
>>2 のリンクなんかおかしいんですけど…。
前スレはどうすれば読めますか?
>>930 ちゃんと一番下の“隊長!過去ログ倉庫で、〜”をクリックすれば出ますよ。
932 :
930 :03/02/12 14:12 ID:???
>>931 ありがとうございます。
Open Janeからだと「ここは壊れています」とかいう文字化け画面に
なってしまうので困っていました。
IEからいけました。
933 :
名無し三等兵 :03/02/13 17:51 ID:ztx0Sji/
>>927 を書いた者です。
昨日父に再度この話を聞いたら、漏れの一部記憶違いがあったので
訂正しておきます。すみません。
父が、祖父の後日談を聞いたのは、たまたま出会った患者さんではなく、
父がまだ医学生のときに、ゼミで合宿をしようということになって、
父が幹事になった時に、合宿先を決めて事前に訪ねたところ、
たまたまそこのご主人が祖父と戦地で同じだったそうです。
で、そのご主人は旅館の後継ぎで、母親だけを残していくのがとにかく
心残りだったという話だったそうです。で、祖父の嘘の診断書、祖父の訃報を
聞くという話にいたるわけです。
みんな学生でお金がなかったので、「合宿の予算はこれくらいで…」と言ったら、
ご主人が、
「あなたのお父さんは命の恩人だから、せめて息子のあなたにお礼させてほしい。
その予算で食事は豪華に、お調子もたくさんつけますから」と。
父は一応固辞したそうですが、ゼミの夜の飲み会では予定に無かった活け作りの刺身やら、
いろいろ豪華な料理が出てきたそうです。、
ゼミの教授が青くなって「〇〇くん(父)…。よ、予算は大丈夫か?」と聞かれて、
父は教授にそのいきさつを話したそうです。で、宿のご主人も教授に説明されたそうで。
で、教授、「じゃあ、〇〇くんのお父さんのオゴリで乾杯!」(←おいおいw)と盛り上がり
心置きなく、飲み食いしたそうですがw
>>929 本の紹介ありがとうございます。一度機会があれば読んでみたいと思います。
保守
935 :
名無し三等兵 :03/02/14 04:31 ID:buUBCDp6
最近実家の本棚をあさってるとじぃちゃんのアルバムと書類がでてきました。 うちのじいちゃんは、近衛歩兵連隊の幹部候補生から地元の連隊に志願将校で配属。 支那事変に出征。武漢三鎮では中隊長で武勲あげたらしい。昭和16年に関東軍、 昭和19年に憲兵大尉で内蒙、昭和20年北蒙司令部付、少佐で終戦。と書いてありました。 アルバムには天皇陛下、朝香宮師団長、旅団長高田少将、小畑少将、連隊長飯沼大佐、 阿南大佐の写真が名前つきで張ってありました。たぶん2.26や南京戦に行っているので 歴史に興味がある今ならじぃちゃん沢山聞くことができたのにと思っています。 もうだいぶ昔に亡くなってしまっているけど。
初めてカキコします。 先日、祖母の葬式で田舎に行ってきたところ叔父とかから、爺ちゃんの話が ちょっと聞けた。 爺ちゃん、孫には戦争の話はしない人だし、叔父とかが 酔った上での話だったので真偽は不明だけど。 今までは陸軍伍長でニューギニアにいたと聞いていたが、どうも中支戦線 から南方に転出したらしい。 ラバウルと言う話だったが、陸軍はラバウル にいたんでしょうか? どうもラバウルって言うと海軍のイメージが強いの ですが・・・。 ちなみに茨城です。 でもカナーリ福島よりなので連隊区が 水戸だったのかどうかは勉強不足で分かりません。 狙撃兵だったらしく、そのせいもあって孫には話をしてくれないのか? 爺ちゃんの弟は満州で終戦。 やっぱり抑留されたみたいで、家には銀杯と 海部総理のときの賞状があった。 今度、この人に詳しい話を聞きたい と思っています。 ともあれ、これからは婆ちゃんが死んじゃってガックリしている 爺ちゃんをちょこちょこ訪ねて励ましてやらねば・・・。
939 :
名無し三等兵 :03/02/14 13:09 ID:CXiOgj4U
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940 :
名無し三等兵 :03/02/14 22:30 ID:Ok4OWz5U
みんな学生でお金がなかったので、「合宿の予算はこれくらいで…」と言ったら、 ご主人が、 「あなたのお父さんは命の恩人だから、せめて息子のあなたにお礼させてほしい。 その予算で食事は豪華に、お調子もたくさんつけますから」と。 父は一応固辞したそうですが、ゼミの夜の飲み会では予定に無かった活け作りの刺身やら、 いろいろ豪華な料理が出てきたそうです。、 ゼミの教授が青くなって「〇〇くん(父)…。よ、予算は大丈夫か?」と聞かれて、 父は教授にそのいきさつを話したそうです。で、宿のご主人も教授に説明されたそうで。 で、教授、「じゃあ、〇〇くんのお父さんのオゴリで乾杯!」(←おいおいw)と盛り上がり 心置きなく、飲み食いしたそうですがw そんな祖父は靖国に眠っています。曽祖父は 「息子に会いにいってくる」と地方から、靖国まで何度か行っていたと、後で聞きました。 一度機会があれば、靖国に行ってみたいと思ってます。 以上です。
>>940 誤爆しました。
泣ける話スレというのがあったので、そちらにもレスして来たのですが…
すみませんでした。
>>938 漏れの爺様も陸軍ですがグァムからラバウルですた。
広島か観音寺だけど。
敵前揚陸した後も防衛要員として残ったようです。
ただ、B-17の爆撃は激しく、漏れの爺様は衛生兵だったですが、病院にまで
爆弾が落ちてきて、爆弾の破片が頭を直撃する状況だったそうです。
943 :
名無し三等兵 :03/02/15 22:56 ID:VnlHwVl3
アゲ
944 :
ネルソン :03/02/15 23:36 ID:gtLAgaH/
俺のじいちゃんは中支で陸軍中尉・連隊副官だった。ある日、連隊長に帯同して司令部まで行く事になったが、前日に食あたり!連隊長とじいちゃんの代わりに帯同した部下は搭乗機を撃墜されて戦死…。食あたりが無ければじいちゃんが戦死…。
俺の爺ちゃんは少年通信兵で海軍に入った。爺ちゃん曰く、海軍のシゴキは凄ま じかったらしい。 ある時海戦の最中上官に書類を持っていったら 「書式がおかしい」と言って叱られたそうな。 その時おれの爺ちゃんは「船が沈むかどうかの激戦最中にこんなどうでもいい事 をあげつらうとは」と呆れたという。 また空襲を受けた時ドラム缶の陰に反射的に隠れたら、ついさっきまで居た所 が機銃掃射を受けて同僚が見るも無残に戦死したと言っていた。 最後に乗りこんだ船は空母(確か葛城らしい)で、船を下りて陸上の航空基地で 終戦を迎えたと言っていた。年齢は27ぐらいで最終階級は兵曹長 (ポツダム少尉になったかな?)だった。 爺ちゃんが言うには他の人間は部下を殴る蹴るとひどかったが俺は一度も部下を イジメなかったと言っていた。それが爺ちゃんのほこりだったみたいだ。
946 :
名無し三等兵 :03/02/16 21:51 ID:LdgPuEX2
age
>>938 ラバウルって言ったら今村閣下か…
ニューギニアだったら死亡してる確率が高いからラバウルじゃないの?
949 :
名無し三等兵 :03/02/19 00:42 ID:PWSyYslu
陸軍もラバウルにたくさんいました。 米陸軍との地上戦闘はなし。 今村大将が、方面軍司令官。 ニューギニアは、最激戦地のひとつ。 運命なのかもしれんが、 最南地で苦労されたと思います。
大学の研究室の同級生の祖父が、山城に乗り込んでいたらしい。 凄いな、奇跡的生還じゃないかと聞いたら、やはりレイテ作戦前に 新兵教育の教官?かなにかの試験に受かって船を下りた5、6人に入っていたそうな。 当然、生き残りはその人たちだけ。 歴史が身近にあったと驚きますた。
うちのジーちゃんは、車の運転が出来たので補給を任されていたみたい。 車のエンジンで飯を炊いていたらしい。出来るのか?
爺さまではなくて爺さまの兄貴の話なのだが。 今から20年ほど前のこと。 厨房だった俺は爺さまにプラモデルを買ってもらって作っていた。 戦艦が欲しかったが買えなかったので、買ったのは軽巡だった。 たまたま爺さまの兄貴が遊びに来ていて(当時70歳過ぎくらい)、箱絵を見て 「おお、わしは昔それと同じ船に乗っていたよ」 戦前の話らしいが、爺さまの兄貴は下士官として軽巡に乗っていたらしい。 プラモデルの船とは全く同じでは無かったけど、同型艦だったそうでで懐かしそうに プラモデルを眺めていた。 その時の艦長が立派な人だったそうで、今でも尊敬していると言っていた。 少しも偉ぶらず、下士官や水兵のことも気に掛けてくれる珍しい人だったのだとか。 爺さまの兄貴は90まで生きて大往生。 ちなみにその「立派な艦長」は栗田大佐といったらしい。 あの栗田中将と同一人物かどうかは分からないけど。
953 :
名無し三等兵 :03/02/19 11:48 ID:hd2dl1rW
満鉄で働いたあと徴兵されて ボタンコウという街の高射砲部隊に 配属していました。 数年前他界し部屋を整理していたら 写真がたくさん出てきました。 じいちゃんだか戦友が 中国人?の首を切ってる瞬間の 写真等があってショックだった。 ただ地元の中国人達と仲良く記念写真とかも あったりでよくわからんなあ。
>>952 栗田健男中将その人でしょう。件のおじいさんが乗っていたのは阿武隈で、あなたのプラモデル
は長良級のどれかでしょう?
955 :
952 :03/02/19 13:50 ID:???
>954 艦名までは記憶にないけど、三本煙突の5500トン級軽巡だったのは覚えてる。 メーカーはフジミだったと思う。少なくともタミヤやハセガワではなかったかと。 それにしても、そうなのか。栗田中将と同一人物だったのか。 確か昭和ヒトケタの頃、と言ってた記憶がある。 爺さまの兄貴は戦争が始まる前に除隊して広島で電器屋か何かをしていたらしい。 戦争が激しくなると頼まれたか命令されたか分からないが海軍に戻り、 終戦まで海防艦に乗っていたとか。 最後には士官になれたと言っていたと思う。でも水兵あがりで士官になれるものだろうか。 とにかく昭和のはじめに海軍に入ってから終戦まで、ずっと海軍と関わったのが自慢 らしかった。死ぬ年の春まで戦友会には欠かさず出ていたよ。
956 :
952 :03/02/19 13:54 ID:???
書き忘れてたけど。 954殿、ありがとう。ずっと引っかかってた疑問が解決した気がする。
957 :
名無し三等兵 :03/02/19 23:47 ID:Pp4dS/Gj
今まで5人の旧軍人の方に会ったが、みな陸軍の人だった。一人は元大尉で後はみな軍曹だった。 昭和13年招集で北支派遣、昭和18年除隊でそのまま満鉄に入社した人もいた。
俺のオジサン(85くらい)だけど、満州にいたのに、 なぜか海軍に徴兵された。昭和19年で、満州徴兵は ほぼ100%陸軍で、海軍徴兵は当時でも珍しかったらしい。 で、横須賀かどっかの通信隊に配属された。 実は無線士の資格を持っていたのだが、持ってないと大嘘ついて、 初等教育からやり直した。その方が戦地に行かずにすむと思った そうな。上達が早いとイジメにあうので、わざと下手なフリを したりして時間稼ぎするうちに終戦。酔っぱらうとこの話ばかり してた。どこまで本当なのやら。
959 :
名無し三等兵 :03/02/20 00:54 ID:0pXaiOra
海軍は、志願では? 陸軍が嫌だったのでは。
960 :
名無し三等兵 :03/02/20 01:02 ID:Bch89z1b
>>952 プラモは、ウォーターラインシリーズ?
懐かしい。
栗田は、軍内では、評判良かったはず。
艦隊生活が長いので、
兵隊さんの気持ちも理解していたと思う。
但し、司令長官としての、評価は別。
レイテの判断は、やむないが、
ミッドウえーやソロモンでの戦いは、
疑念ある。
961 :
958 :03/02/20 01:28 ID:???
>959 いや、徴兵だと言い切ってた。親父も兄の出征を見送ったらしい。 親父の親父、つまり俺のじーちゃんが電気技師で、20歳前だった オジサンは、じーちゃんの仕事を手伝ってるうちにモールスを覚え、 資格をとったそうな。おそらくは、その資格に目を付けられたのだ ろうと述懐してた。85くらいだけど、頭はまだしっかりしてる。
962 :
962 :03/02/20 02:24 ID:zzECqarj
爺ちゃんの部隊は満州に居たが、戦局が悪化してタイの方向へ援軍として 南下途中に終戦を迎えたらしい。蒋介石軍の捕虜となり、中国の奥地で橋 や道路を作る作業に3年間位従事して、とても沢山の橋を作ったので蒋介石 が許して帰国が叶ったと言っていた。蒋介石でなかったら帰って来れなかっ たろうと言うが、、、
>955 俺はじいちゃんが乗ってた三本煙突の「球磨」のプラモあげたら、神棚に飾ってくれてまふ
964 :
名無し三等兵 :03/02/20 14:03 ID:XSfraXuX
私の親類に戦艦大和に乗ってたって人がいたけどなぁ(たしか衛生兵をしてた とかなんとか・・・。)
965 :
名無し三等兵 :03/02/20 17:10 ID:NTjei/gF
家の父のお父さんの軍隊手帳がある。 しかし、何かいてあるかさっぱり・・・・・。 まあフィリピンとかに行ったらしい。 勲章とかも有ったらしいんだけど、お金に困った時に売っちゃったんだって。
966 :
名無し三等兵 :03/02/20 17:57 ID:QzQMj/YY
陸軍の輸送艦に乗って、フィリピンに物資を運んでいて、アメリカの魚雷に アポーンされた年寄りを知ってるよ。 片足を失ってるが、その船で生き残ったのは、その人だけ。 だから運が良かった方だろうな
うちのじいちゃん、P38に零戦で挑んで返り討ちに合った でもしっかり生還
968 :
名無し三等兵 :
03/02/21 00:01 ID:3l3bJkeD >>961 よく知らないが、21歳で徴兵され兵役は5年でちゃんと返されたそうだ。
昭和18年に除隊した爺さんが言ってた。
激戦地での勤務者は一年を三年に換算して恩給の金額を決めているってさ。