【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌改め北海道【その十六】
1 :
ぺるー:
2 :
なまら名無し:2004/11/14(日) 08:54:24 ID:zQehPme.
[ i220-108-14-228.s02.a001.ap.plala.or.jp ] ここのスレは勉強になります。
3 :
西創成:2004/11/14(日) 17:33:13 ID:3FiVW5mw
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] とうとう16まできましたか。どうぞよろしくおねがいします。
北交と札幌・天神山の関係のことについては、現在考査中です。
とくに、国際ハウス建設寄付のあたりで関係があるようです。
これからは、全道対象になったようなので、
「登別温泉の権利を栗林商会が5万円で買ったはなし」だとか
「幻の町キラクのはなし」や「旧沓形村クツカンタ」だの
「白老町竹浦飛生(たけうらとびう)」だの
「壮瞥町黄渓(おうけい)鉱山」や、「豊富町稚咲内(わかさかない)における、
樺太アイヌ引揚げ史」などもやっていかないといけませんな。
こりゃ大変だ。
各地のみなさんのご参加も切に希望いたします。
ところで、きようの道新(札幌刷り、16版)のお悔やみ欄に掲載の札幌中央区の
ところに、『葬儀委員長・札幌長沼10区会長○○さん』とあるのですが、
『札幌長沼』という場所はどこなのでしょうか。
4 :
西創成:2004/11/14(日) 17:43:58 ID:3FiVW5mw
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>3訂正。
「登別温泉の権利を栗林商会が5万円で買ったはなし」は
「登別温泉の権利を栗林合名会社(現・同商会)が10万円で買ったはなし」に
訂正いたします。
勝手に値引きしてしまいました。失礼。
5 :
牛鍋蝸牛 ◆cmiAdUn8YQ:2004/11/14(日) 23:07:14 ID:jUXz4n3U
[ y065134.ppp.dion.ne.jp ] 新スレは文字通り、リニューアルしての登場です。
ということで、ワシも全道各地に実地調査へ行ければいいのですが、実際にはそれも不可能。
この際、地域々々の新たなエージェントの登場を待ちましょう。
「相馬神社」についての「平岸百拾年」の記述を、前スレからご紹介しています。
場所に付きましておさらいをしますと、最初は「現・豊平区豊平3条1丁目」に、次に「豊平区平岸2条14丁目」に、そして、すでに札幌神社の遥拝所があった「天神山」へ。
と、こういう推移のようです。
で、kさんからご提示のありました「豊平6条7丁目にあった相馬神社」と、西創成さんからの「昭和39年に豊平6条9丁目から天神山に移転した」件なのですが、同書から第二次世界戦後の同神社の記述にそのヒントがありました。
「(略)同(昭和)三十二年、豊平五条八丁目にあった社務所を神社本殿脇の現位置に移し、早坂礼二が居住し、はじめて神官の在住する神社となった」
こんなんでどうでしょう?
「天神山」をかつて南部忠平氏の父上南部源蔵氏が所有し、その後「三国屋」の破産により大正14年からは山際孫四郎氏の所有が移ったことは書きましたが、南部源蔵氏の前の持ち主とその前の持ち主が分かりました。
日を改めて書きます。
ちなみに山際孫四郎氏は先代より果樹園を経営されていた方で、地元の名士。
その息子さんが昭和36年「ホテル百景園」を建設されたそうです。
お?ホテル百景園??
南部家の次に「天神山」の所有者となった山際孫四郎さんは、新潟から平岸村に入植された山際祐松さんのお子さんであり、果樹園経営を営んでおられました。
昭和8年頃の「天神山」。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1208 「新札幌市史 第三巻通史三」、「第二章 諸町村の近代化と行財政 第七編 近代都市札幌の形成」の「大字平岸村」にも、
「(明治三十三年当時)果樹園が五〇町ほどあり、リンゴなどの果樹がすでに特産となっていた」とあり、「大規模な果樹園」の経営者として五人の方のお名前が出てきます。
で、そのうちの二人が南部源蔵氏、山際孫四郎氏なのです。
「平岸百拾年」の巻末「古老のはなし」に、山際孫四郎氏のご子息、弘純さんの書かれた文章が載っています。
「ところで私の家の果樹経営だが、最初は山際果樹園、昭和十年頃からは、山際農園といっていた。(略)
さらに大正十三年(1924)に拓銀から二万円近い金を貸りて(原文ママ)、宮地と墓地を除く天神山の全部と、北側と西側の平坦地の一部を買いとった。((略)
もともとここは、開拓使の通訳をしていた小阿瀬という人の土地で、それを三国屋の屋号で知られる南部源蔵氏(オリンピックの三段跳びで知られる忠平氏の父)が買い、それを父の孫四郎が買ったものである」
「天神山」の所有は、小阿瀬−南部源蔵−山際孫四郎−という流れできたのです。
(その後、札幌市なんだろうな、きっと)
では、小阿瀬という開拓使通訳が手に入れる前は、「天神山」はどうだったのでしょう?
実は、ここは「チヤシ」(チャシ)だったんですと。
>>3長沼10区って…。
札幌の葬儀は長沼(町の)10区町内会長さん、とういう意味でもないんでしょうねぇ…。
披露宴なら別々の場所で二度やったりすることもあるけど、葬儀はないか。
7 :
なまら名無し:2004/11/15(月) 22:53:31 ID:utSHWmx.
[ t126185.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ]
8 :
西創成:2004/11/16(火) 00:02:49 ID:IIdPD5cI
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] 葬儀委員長が札幌長沼10区会長という葬儀は、円山方面にお住まいであった方
のものです。(道新独自取材、朝日・読売・毎日共同取材の発表。各紙掲載同内容)
『長沼10区』とは札幌ではないのかな。
>>5 相馬神社のおはなし。
私の書いていた「豊平6-9」では、現・豊平会館、児童会館の敷地になりませんな。
6-9ならば、旧・札幌東急ストアー(東急ボウル跡)付近になります。
現在のストアーは、旧定鉄観光(タクシー)や私鉄総連支部の入っていた建物跡
に建っているので、豊平5-9だと思われます。
豊平5-8と6-7は向かい合わせな部分もあるので、社務所=豊平5-8、
神社お社=豊平6-7ではなかったのかとおもいます。
10 :
西創成:2004/11/17(水) 02:03:13 ID:OmoslSAI
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>9 雪の中おつかれさまでした。
「シバグリ」が「札幌神社遥拝所」の建設地選考の決定打ですか。なるほど。
「チャシ」跡地なんですかねあそこ。札幌とアイヌ関連というのは、
あまりピンとこないですな。
>>9>畏怖の念
この場合、畏敬の念だった。
訂正します。
12 :
k:2004/11/17(水) 20:29:36 ID:obfJh/9M
[ customer71-242.mni.ne.jp ] >>8 相馬神社について
以前神社があった場所は、とよひら小学校の裏、豊平6-7です。最近の地図でみると
西創成さんがおっしゃっているように、児童会館や連絡所がある位置です。これは
私はリアルタイムで見ています。ちなみに「豊平5-9」は5条通の突き当たりであり、
ここには定鉄の本社がありました。
13 :
なまら名無し:2004/11/17(水) 20:30:09 ID:7xrlUgBo
[ i60-35-47-220.s02.a001.ap.plala.or.jp ] なつかしい!!そうそうこの御神木。なんともいえない特徴のある枝ぶり。よくここ散歩したり
墓場の間をスキーすべったりしたもんだ。すごいねあの雪の中をよくまあ感動しました。
すごいついでに百景園側にたしかゴルフの練習場もあってよく父に連れて行かれたんですが
だれが経営していていつごろなくなったかわかりますでしょうか。
昨日から「シバグリ」でな〜んか、駄洒落言いたくってしょうがなかったんだけど、出そうで出なかった。
もう、気持ち悪くってしょうがなくって。
今、思いついたので書きます。
では…。
「そう言うのをな、シバグリ根性って言うんだ!」
寝る。
16 :
なまら名無し:2004/11/17(水) 21:51:27 ID:4fVULuQk
[ i220-220-149-170.s02.a001.ap.plala.or.jp ] うわーっめちゃくちゃすごい画像ですね。向かいの地下鉄シェルターやマンション群
降ってる雪まで見える。すごい迫力!!
たしかここの神主さん三吉?三好?三のつくお名前だったような。
町内会の行事で和太鼓借りました。親切な方でした。
相馬神社例大祭は平岸から澄川一円がエリアになっているはず。
「T71遺跡は、最近では平成五年(1993)に天神山児童会館建設にともなって発掘調査が
行われた。それ以前、昭和五十五年(1980)には、南斜面の詳細発掘調査が行われ、同六十三年、平成元年には範囲確認のための試掘調査が行われている。
遺跡は、西岡台地の西縁で、標高九〇bの天神山と呼ばれている独立丘陵とその周辺に広がり、山頂部にはチャシ跡が残されている。T310遺跡と同様に昭和初期から知られており、昭和十二年と後藤寿一氏によって、平岸天神チャシ跡としてチャシ部分の実測図と溝の断面図の調査記録が報告されている。平成元年に札幌市教育委員会によって行われた試掘調査によって、後藤氏の調査と同様なチャシの遺跡が確認されている(写真7)。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=1214また、昭和四十二年には、北大の菊池俊彦氏により南斜面から採集された土器片が報告され、縄文時代中期の代表的な土器片式名「天神山式」として知られるようになった。
平成五年の発掘調査によって、竪穴住居後11軒、土壙172基などの遺構が発見された。竪穴住居跡の構築時期は、縄文時代中期が二軒、後期が一軒、晩期が三軒であると報告されている。遺物は、縄文時代早期、中期、後期、晩期、擦文時代の各時代の土器、石器が見つかっている。
発掘調査によって出土した遺物の一部は、天神山児童会館に展示されている」
でですね、「T310遺跡」とは、既出の「坊主山」なんですと!
20 :
k:2004/11/19(金) 21:53:50 ID:9dx1..gU
[ customer71-242.mni.ne.jp ] 「坊主山」とはなつかしいですね。かつてスキーに行ったものです。
今では、すっかり宅地化されているようですが、
それにしてもあそこに縄文遺跡があったとはまたまた驚きです。
>>13さて、「札幌天神山国際ハウス」は平成2年7月設立ということなので、昭和57年〜平成2年の間にゴルフ練習は無くなったと推測されます。
この持ち主ですが、状況から言って、おそらくは山際家で持っておられたのではないでしょうか。
確証はありませんけど。
>>20T310遺跡(平岸坊主山遺跡)は第一次調査が、昭和39年に宅地造成に伴って行われ、同48年に道路建設に伴って第二次調査が、また、同58年には詳細試掘調査も行われていたそうです。
その存在自体は、昭和10年前後には知られていたとのこと。(以上、「さっぽろ文庫90 古代に遊ぶ」による)
遺跡があるってこと、案外知られていないもんですね。
「天神山遺跡」と言っても、山頂部のアイヌの砦「チヤシ」と、縄文期の遺跡とは別物なんですよね?
よく分からんことだらけのため、質問だらけで自信なさげな、今日の牛鍋蝸牛でありました。
ご報告。
「季刊 札幌人04年冬号」原稿仕上げ専念のため、ちょっとお暇いただきます。
留守の間、よろしくお願いいたします。
22 :
西創成:2004/11/21(日) 03:02:55 ID:.gUX6tRg
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>21「国際ハウス」って、北海道交通関連の方の寄付だったはずなんですが。現在当方確証なし
あ、
>>21の
>この持ち主ですが、状況から言って、おそらくは山際家で持っておられたのではないでしょうか。
の「この持ち主」は、
>>13の、
>ゴルフの練習場もあってよく父に連れて行かれたんですが だれが経営していていつごろなくなったかわかりますでしょうか。
への答えです。
念のため。
では、青の6号、再び潜行しま〜す。
ブクブクブク…。
24 :
バルサミコス:2004/11/21(日) 08:07:23 ID:wBTyGcCk
[ i220-220-148-242.s02.a001.ap.plala.or.jp ] 道新の記事で読んだのですが、豊平区中の島のコーチャンホー周辺ががむかーしむかし
「冷水」という地名だったそうですが由来についてリサーチしてもらえませんか。
定山渓あたりに冷水沢ってあった気がするが・・・市内で冷水なんて初めて聞いた。
ひょっとして既出かな。
25 :
k:2004/11/21(日) 08:38:26 ID:HAq7.57Q
[ customer71-242.mni.ne.jp ] >>24 定山渓あたりに冷水沢ってあった気がするが・・
定山渓から札幌岳へ登る登山路に「冷水小屋」という山小屋があり、私も何度か
立ち寄ったことがあります。その小屋のそばに流れる小沢が冷水沢と呼ばれてい
ます。この沢はさらに流れて最後は豊平川に合流するのですが、小屋の付近では
その名の通り冷たいおいしい水でした。
26 :
なまら名無し:2004/11/21(日) 09:01:26 ID:k7V2phIY
[ p21050-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 冷水
小樽内は上流の定山渓と下流の石狩湾どちらにも地名となっていました。
冷水も、定山渓の冷水沢の下流=豊平川の落ち口だからかな?
となんとなく片付けておりました。
27 :
西創成:2004/11/21(日) 18:06:31 ID:.gUX6tRg
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>24道新の折込「札歩路」の記事ですね。
過去レスのどっかに牛鍋さんのレポートがあるのですが、
どこだかさっぱりわかりません。
青の6号さん浮かんできて助けてくださいまし。
29 :
なまら名無し:2004/11/21(日) 19:21:12 ID:AuFnA.7E
[ HDOfa-02p1-214.ppp11.odn.ad.jp ] 百景園(アサヒビール園になる前の)、小さい頃(20年前位)はよく
家族で行ってたよ。ジンギスカンとか食べれたと思う。
奥のほうにはゲームコーナーなんかもあってよく遊んでた記憶がある。
30 :
西創成:2004/11/21(日) 19:38:11 ID:.gUX6tRg
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>28いやはや。早速ありがとうございました。恐縮です。
そこの「冷水」の付近。
考えてみると、「平岸」なんだか「中の島」なんだかわけわからんとこです。(住所的には「平岸」)
それに、コーチャンホーのよこの豊平川通りをちょっと行ったところにある
中央バスのバス停が「中の島」だから余計始末に悪いと思っております。
31 :
なまら名無し:2004/11/22(月) 18:52:52 ID:xJnk.OVU
[ i220-221-174-6.s02.a001.ap.plala.or.jp ] 旧百景園は昭和50〜55年くらいまでよく会社の歓送迎会でつかってましたよ。
割烹風なのでまさかあれがホテルもかねていたとはおもいもしませんでした。
持ち主は山際さんというかたで亡くなったスポーツライターの山際氏と
遠縁にあたるとかなんとかってうわさ聞いたことあるけど真偽のほどは
どうなんでしょう。
「冷水」という地名は豊平川扇状地の伏流水がわきでてくるからですかね。それとも精進川の
小滝があるからですかね。
32 :
なまら名無し:2004/11/24(水) 12:38:26 ID:D1Dyu/5w
[ p7122-ipad70marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]
青の6号、まもなく浮上いたします。
34 :
西創成:2004/11/25(木) 00:05:39 ID:.QUx8jgc
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>32私の「西創成」という名前は、
本籍が「西創成区」にあるので「西創成」なんです。
そういえば、定山渓出張所の建物に「札幌市定山渓 出張所」と書いてある
ところに「区」をはずした跡があります。
36 :
18丁目:2004/11/27(土) 01:01:58 ID:jlgfrVis
[ p21050-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>35なんと!気づかぬうちにそんなビルが建築中なのね。
最近そのあたり行かないから。
否、接待なんかで行っていたよな。
あっちゅうまに風景が変わるんだよな。
そんで、数年経つと元の風景忘れちゃう。
あー嫌になっちゃう。
37 :
西創成:2004/11/27(土) 02:53:04 ID:EslWBz3E
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>35あすか信組の横からの写真ですね。
真ん中あたりのコンクリート打ちっぱなし建物は旧ノアの箱舟ですね。
我が家にある米穀配給手帳(昭和32)には、
札幌市西創成区出張所の印と南5西6金山商店(指定店舗)のゴム印がありました。
38 :
18丁目:2004/11/27(土) 03:44:00 ID:jlgfrVis
[ p21050-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 米穀配給手帳(昭和32)
戦後12年経てもなお配給なんてあったんですか。
新鮮な驚きです。
>>32今の区よりも細かい区分ですね。
話はそれますが、現在の中央区は地区を分けています。(既出)
http://www.city.sapporo.jp/chuo/index.html 本府地区、中央地区、東北地区、苗穂地区、東地区、豊水地区、西創成地区、曙地区、山鼻地区、幌西地区、西地区、南円山地区、円山地区、大通地区、桑園地区、宮の森大倉山地区。
条丁目表示で味気ないところでも、この区分名だと親しみも湧くのではないでしょうか。
「住所から、あなたの地区を調べることができます」
http://www.city.sapporo.jp/chuo/tiiki/tiku_seach/tiku_s_i.html>>24バルサミコスさん、遅くなりましたけど初めまして。
ということで、「冷水」に関しては、以前調べたのですが、はっきりした由来が分かっておりません。
ワシも気になっている(かなり)案件のひとつです。
気長に待っていただければ、何か情報が入るやも知れせん。
なんとなく、日本酒の名前にありそうですね。
>>31ほう、「百景園」って、割烹風だったんですね。
実はワシも小学生くらいだったか、子供の頃、「百景園」って何度か行ったことがあると思うのです。
調査までなんとなくワシの思っていた「百景園」の位置が現在の「アサヒビール園」よりも南側だったことを鑑みますと、間違いないと思います。
遠い記憶の果てのため、思い出話にもなりゃしない…。
41 :
元東月寒人@琴似:2004/11/28(日) 10:44:37 ID:eKzkS0vQ
[ snjk020k051.ppp.infoweb.ne.jp ] 今までのスレをざっと読んだだけなので既出かもしれませんが。
前スレ
>>185 西岡の坂について、
http://www.city.sapporo.jp/toyohira/map/walkingmap/walkingmap-g.pdf「西岡坂めぐり・水源池ルート」というのがありました。
かなり前に、西岡は坂の多い地区なのでそれぞれに名前をつけることになった、との新聞報道を読んだ記憶があります。
>>24 「冷水」(ヒヤミズ?)は昭和20年頃の地形図にも記載があったと思います。(確認中)
>>32> 札幌市のうち 元町・篠路支所管内,および 北光区・幌北区・鉄東区・鉄西区・苗穂区・東北区・東区・中央区・白石町・菊水区・厚別町・豊平区出張所管内
公区・連合公区制度の連合公区名の名残り(その後の町内会・連合町内会)と思います。
1956(昭和31)年ではまだ、豊平町と合併していないので、「豊平区出張所」は現在の豊平区とは異なりますが。
さっぽろ文庫「町内会今昔」では、公区・連合公区制度時代は「鉄北東部」「鉄北西部」という名称を使っていたようです。
>>34>本籍が「西創成区」にあるので「西創成」なんです。
本籍の住所が「札幌市西創成区」ということではなく、行政地区名としての「西創成区」(札幌市南○条西△丁目)ということで良いでしょうか?
最近読んだ資料から。
「十万坪」については、札幌区史に東本願寺関連で「十万坪」という記述と言う記述を見つけましたが、そこがどこなのか特定できませんでした。
「札北」のガソリン機関車について、「江当軌道」(江別・当別間)の機関車図面とそっくりというのが分かりました。他の鉄道も調査中です。
小樽の鉄道記念館に、「軽石」の社旗や道内馬鉄の展示があります。
「横町」ですが、角川地名辞典では「よこまち」となっています。
42 :
元東月寒人@琴似:2004/11/28(日) 14:01:16 ID:I473FEkQ
[ snjk032k088.ppp.infoweb.ne.jp ]
43 :
西創成:2004/11/28(日) 18:28:58 ID:HMY33Ldg
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>41 中央区(←後で欄外記載)
そうです。本籍地は電算化前の謄本には「札幌市南○条西○丁目○番地」となっていて、
各欄の確認?印は「原田市長」とあります。
米穀通帳の発行印のようなものは「札幌市西創成区」とあります。
この謄本、普通は行政区画や地名が変わったときは、欄に(昭和○年○月○日
行政区画及び土地の名称変更に付本籍欄中同月同日「○○町」と更正職務執行者)と
書いてあるはずなのですが、その記載はありませんでした。
話はやや違うのですが改製原戸籍って面白いですね。
家の爺さん(明治28年生まれ)の欄には「原戸籍ニ依リ出生ノ事項知ルコト不能ニ付其記載省略」とあったり、
「前戸主○○隠居ニ因り家督相續届出」「昭和32年法務省令第27号による戸籍改製」などという記載もみられます。
45 :
元東月寒人@琴似:2004/11/28(日) 23:05:17 ID:BQfF6pIk
[ snjk037k069.ppp.infoweb.ne.jp ] >>43家にある戸籍謄本にも「原戸籍ニ依リ出生ノ事項知ルコト不能ニ付其記載省略」ありました。
兄弟姉妹からその妻子まで一緒になってるのでいろんな事が書いてあります。
地名では「札幌區豊平町○番地」や「札幌郡豊平町字美園○番地」などが記載されてます。
いくつか書きたいことがあります。
まずは、「冷水」のこと。
期限切れで一旦、図書館に返していましたのでちょっとタイミングがずれましたが、「平岸百拾年」に「冷水」の地名がごく当たり前のように書かれていました。
「(略)常盤附近に源をもち真駒内桜ヶ丘の東、沢から抜けでて澄川面を潤し、冷水の滝(オソウシの滝)から中の島を流れて豊平川に合流する精進川がある」(P24)
「(略)古い頃の豊平川は、真駒内の下で分流し幌平橋の辺りで再び合流していた。
その東側を流れた分流は、冷水でオソウシの滝を流れ落ちる精進川の水を加え流れているが、これにそって長い崖が続いている」(P25)
「オソウシの滝」とは「精進河畔公園」にあると言う「精進川の滝」のことなのか、よく分かりません。
もし、そうだとすると「中の島2条11丁目」辺りが「冷水」であったように思えますが、同書に載っている2種類の地図ではちょっとずれていて、「中の島1条12〜14丁目」に「冷水」の名前があります。
http://asp.i-mediatv.com/apps/album/public/?target=DESO1101599471502&item=4 「冷水」は豊平川扇状地に当たりますので、滝とは直接関係無く、メム(湧水)があったことがその名の元のような気がします。
そして、既出の「東裏」と同じく、この名も東北地方に多い地名です。
Mapfan.netで検索したところ現在、全国には24の「冷水」という住所が存在しています。
うち二つは「蘭越」と「神恵内」、そして「福島県いわき市」、「茨城県鹿島郡旭村」、「和歌山県海南市」にひとつずつありますがのこり19は「青森県」(10)と「秋田県」(8)です。
やはり「東裏」と同じように、東北からの入植者の命名なのかも知れません。
("東裏"関連でも、書きたいことありますです)
次に「天神山」の初代持ち主(?)の「小阿瀬」という人に関して、詳しい記述がありました。
「開拓使記録係外事課に勤めていた小阿瀬克明も二十年前後に天神山一帯の土地を求め、各種の果樹を移植した(この土地は明治三十三年に南部源蔵の手に渡り、大正末期に山際孫四郎が譲り受けた)」(P115)
47 :
18丁目:2004/11/29(月) 00:11:24 ID:C.kjKROU
[ p16041-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] コアセさんって変わった苗字だなって思いました。
もしかして駅前通のコアセ歯科さんと同族なのかな。
「冷水町」というのが鹿児島県に二つありました。
「鹿児島市冷水町」と「川内市冷水町」です。
補足しておきます。
49 :
なまら名無し:2004/11/29(月) 12:20:49 ID:UzlOi5mk
[ p8028-ipad70marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ] >>41> 公区・連合公区制度の連合公区名の名残り(その後の町内会・連合町内会)と思います。
と自分も思ったけど
>>34さんの
> そういえば、定山渓出張所の建物に「札幌市定山渓 出張所」と書いてある
> ところに「区」をはずした跡があります。
定山渓は公区だったっけ
白石町と厚別町は公区でないから
町と書いてある
とたった二例から思うけど
>>41> 1956(昭和31)年ではまだ、豊平町と合併していないので、「豊平区出張所」は現在の豊平区とは異なりますが。
これは今の豊平区豊平と旭町と水車町
までは間違いないと思うけど
美園は
含まれるのかな
あと同じく菊水区に
菊水上町と元町は
含まれるのかな
>>32> 札幌市のうち 元町・篠路支所管内,および 北光区・幌北区・鉄東区・鉄西区・苗穂区・東北区・東区・中央区・白石町・菊水区・厚別町・豊平区出張所管内
豊平区もそうだけど
東区と中央区ももちろん今の区と違って
>>40> 本府地区、中央地区、東北地区、苗穂地区、東地区、豊水地区、西創成地区、曙地区、山鼻地区、幌西地区、西地区、南円山地区、円山地区、大通地区、桑園地区、宮の森大倉山地区。
の
東地区と中央地区
50 :
なまら名無し:2004/11/29(月) 12:24:17 ID:UzlOi5mk
[ p8028-ipad70marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ] >>48マピオンで確認したけど
その二箇所
だけだった
51 :
なまら名無し:2004/11/29(月) 12:26:40 ID:UzlOi5mk
[ p8028-ipad70marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ] >>46同じく
冷水
で検索すると
27個所
だった
マップファンより
マピオンのほうが
冷水はだけど
少し多い
52 :
なまら名無し:2004/11/29(月) 13:06:59 ID:sryBJ2v2
[ proxy322.docomo.ne.jp ] あの〜清田 里塚 平岡の歴史も皆さんの知るかぎり教えて下さい。
里塚は三里塚小学校や三里塚神社が歴史のなごりがあります。アシリベツという呼び名もありますね。昔は熊もいたとか・・・
53 :
なまら名無し:2004/11/30(火) 10:45:33 ID:dv89O1kA
[ proxy324.docomo.ne.jp ] 一里塚はたしか野幌の百年記念塔
断片的な情報で申し訳ありませんが、「三里塚小学校」について書いておきます。
「明治三十八年六月十一日創設
林東助氏が簡易教育所として開設した。昭和二年一時廃校となったが、厚別小学校の分教所として残り、昭和八年三里塚小学校となり、現在に至っている。
地形を生かし、歩くスキー、緑の庭など体力づくりと情操教育に力をいれている」
「さっぽろ文庫46 札幌の小学校」より。
「里塚」という地名は、昭和19年の字名改称のおりに、札幌から三里という意味で使用されていた「三里塚」から「三」を取って名付けられたとこのことですので、「三里塚小学校」は由緒正しい名前なんですね。
「天神山」まだやってます。
「紅桜公園」も(w
55 :
牛鍋蝸牛:2004/12/01(水) 22:20:33 ID:GnWaRyuw
[ L066239.ppp.dion.ne.jp ] 今、気が付いたのですが昨日書き込んだつもりのレスが書き込まれていませんでした。
うちの2chブラウザでは表示されていたのですけどね。
せっかく書いたので、そのまま昨日のレスを上げます。
ああ、月末月初は忙しい…。
しかも、昨日はまちBBSへの書き込みがエラーになってしまいました。
「冷水」の検索、Mapfan.netでは「京都府京都市右京区梅ケ畑冷水」が出てきませんでした。
しかし、この住所から検索してみると、ちゃんとありました。
さて、「清田」、「里塚」、「平岡」というお題が出ましたが、清田区って、ワシ的にはかなりマイナーなんです。
東京に9年ちょい行っていた間に急速に発展したようで、その過程を実感していないのがネックになっているのかも知れません。
「平岡」のあたりって10年くらい前までは山林が広がっていませんでしたっけね?
56 :
元東月寒人@琴似:2004/12/01(水) 23:15:44 ID:jvjKhpe2
[ snjk039k030.ppp.infoweb.ne.jp ] >>49ご指摘のとおり、1956(昭和31)年では、美園は「札幌市豊平」ではないです。
紛らわしい書き方だったので、
>>45に、手元の戸籍に記載されている年を追加します。(地名の変更の年ではなく、戸籍上の記載年です。)
ついでに、他の地名も追加します。
「札幌區豊平町○番地」(大正10年)
「札幌郡豊平町字美園○番地」(昭和34年)
「札幌郡豊平町大字月寒村字二里塚○番地」(昭和11年)
「札幌郡豊平町字八紘○番地」(昭和19年)
公区制度は昭和22年に廃止されているようなので、
>>41の「公区・連合公区制度の連合公区名の名残り」という書き方も変でした。
「白石町・菊水区・厚別町」については、「区」と「町」の区別が謎です。
昭和25年合併の白石村の部分が「町」で、それまでの「札幌市白石」の部分が「区」ということかもしれません。
また、出張所の名称かもしれませんので、もう少し調べてみます。
57 :
元東月寒人@琴似:2004/12/01(水) 23:34:13 ID:ZlxEXrZI
[ snjk037k000.ppp.infoweb.ne.jp ] 失礼、そもそも出張所の名称ということでした。
58 :
なまら名無し:2004/12/02(木) 17:41:57 ID:9St8ssr.
[ FLH1Aaf031.hkd.mesh.ad.jp ] >前スレ237
>当スレでも再三引用されている「札幌地名考」と「北緯43度・札幌という街」の中には、
地名の説明に誤った記述があったと思います。
確か両書の中では、昭和36年に札幌市に合併された豊平町の町域について、
現在の豊平区全域が含まれていた、というような書き方がされていたと思うのですが、
言うまでもなく、現在の豊平区豊平・中の島地区は明治後期に札幌市に編入されているので、
豊平区全域が昭和36年に合併されたわけではありません。
「地名考」の執筆者は、主に市内の小学校の先生方ですが、
当時の市内の小中学校の先生方には、札幌育ちの人はあまり多くなかったようです。
地名についてあまり土地勘がなかったということが、ミスの原因の一つかと・・・。
59 :
元東月寒人@琴似:2004/12/02(木) 23:23:29 ID:bDrESzto
[ snjk035k005.ppp.infoweb.ne.jp ] 札幌軌道(札北)と江当軌道のガソリン機関車の比較です。(
>>41)
http://groups.msn.com/kotoni/mudai.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=48左上 札幌軌道2.5tガソリン機関車写真(部分)[鉄道ピクトリアル'89.3月号]
右上 同設計図 [鉄道ピクトリアル'89.3月号]
左下 江当軌道ガソリン機関車写真(部分)[日本の軽便鉄道 発行'74年]
右下 江当軌道2.5tガソリン機関車竣功図(部分)[鉄道ピクトリアル'82.12月号]
両軌道の2.5tガソリン機関車は、札幌車両工務所(SSK)で設計・製作しているということです。
鉄道ピクトリアル'82.12月号では、江当軌道の3.1tガソリン機関車が札幌軌道のと同系であると推定していますが、'89.3月号には札幌軌道の3.1tガソリン機関車の記載はありませんでした。
60 :
なまら名無し:2004/12/03(金) 00:04:39 ID:0ms1xAr6
[ b147162.ppp.asahi-net.or.jp ] >>46札幌じゃないけどね、赤井川村から余市方面に抜ける道に「冷水峠」ってのがあります。
地名の由来もわかりませんが、うっかりしてたら通り過ぎてしまう様な場所です。
峠には商店がポツンと一軒あってそこの手前で地下水が汲める様になってますね。
61 :
牛鍋蝸牛:2004/12/03(金) 13:22:33 ID:FlN8iC3Y
[ L066239.ppp.dion.ne.jp ] >>58さん。
前スレ237のこの件、遅まきながら調べてみたのですが、「北緯43度 札幌というというまち…」(札幌地理サークル編 昭和55年)での記述と言いますと、「弾丸道路に沿って 定鉄のかなめだった 豊平」のところですね。
「昭和36(1961)年豊平町が札幌市と合併するまで、豊平はこの町の中心地であり、合併後も定山渓鉄道の要地として、また市電のターミナルとしてにぎわいをみせた」
と言うところを前スレ237さんは、ご指摘されているのだと思います。
確かにこの文章では、当時「豊平地区」が「豊平町」であったと読めますね。
ただ、前スレ241さんご指摘の通り、明治43年に札幌区に編入されたのは「豊平」、「旭町」、「水車町」で、「中の島」はまだ入っていませんでした。(ここだけ読まれた方が誤解するといけないので、老婆心ながら再度書きました)
この三つの町を行政では「豊平地区」と呼んでいるようです。
もともと、全部「豊平」の名がついた住所表示であったからでしょう。
最後に、同書の「総説」では、次のような表も載っていることを付け加えておきます。
明治43年1月のところをご覧下さい。
http://asp.i-mediatv.com/apps/album/public/?target=DESO1101599471502&item=5(オリジナル画像の表示をクリックしてね)
62 :
なまら名無し:2004/12/03(金) 15:01:23 ID:am7LFARc
[ YahooBB219210164154.bbtec.net ] >>60>札幌じゃないけどね
スレタイが次の通り変わりましたので、ノープロブレムです。
【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌改め北海道【その十六】
北海道全体の地名について研究しましょう!
63 :
元東月寒人@琴似:2004/12/03(金) 22:20:44 ID:UBuElXnk
[ snjk038k032.ppp.infoweb.ne.jp ]
64 :
牛鍋蝸牛:2004/12/03(金) 22:36:53 ID:5m5E0W1o
[ U125038.ppp.dion.ne.jp ]
65 :
牛鍋蝸牛:2004/12/03(金) 22:58:34 ID:5m5E0W1o
[ U125038.ppp.dion.ne.jp ]
66 :
なまら名無し:2004/12/04(土) 04:31:48 ID:lTBMXfk2
[ i220-220-129-179.s02.a001.ap.plala.or.jp ] 札幌の小別沢トンネルは昔、冷水トンネルと呼ばれていたらしいです。
豊平ネタでは一年ほど前に「東裏」を取り上げましたが、「西裏」も平岸で地区名として使われていたらしいことが分かりました。
ただ、その後地名となった「東裏」とは違い、「西裏」はそのまま消えてしまったようです。
ま、「東裏」も今はなくなってしまいましたけど。
「西裏」の件は詳しく検証しておりませんが、忘れちゃうのでメモ代わりにレスしておきます。
たまに読み方が分からないと言われるので、
>>67でHNに振り仮名を付けましたら、間違いました(w
正しくは、「ぎゅうなべ・かたつむり」です。
(「牛鍋蝸牛」って、ローマ字入力ではタイピングしづらいね)
69 :
元東月寒人@琴似:2004/12/04(土) 22:06:58 ID:XJwHAXFo
[ snjk036k051.ppp.infoweb.ne.jp ] さっぽろ文庫「札幌地名考」に「冷水」の記述がありました。
「土管道路」の項に「土管道路の入り口付近は、大正六年(一九一七)発行の五万分の一地図に『冷水』と記されている。冷たいわき水があり野草も豊富であったところから、平岸方面へ石材を運搬する馬車のかっこうの休憩地でもあった。」と記載されています。
や〜、元東月寒人@琴似さん良く見つけましたねぇ。
「土管道路」ってはじめて聞きました。
同書によりますと、
「道の両側から老樹古木が生い茂り、ちょうど大きな土管から中を潜りぬけるようなところから、だれ言うとなく土管道路と呼ぶようになった」とのことです。
ちなみにワシの死んだ父親は、よく、「煙筒ズボン」を履いていました。
少し調べてみましたが、やはり「冷水」は「豊平川扇状地」の始まりの位置にあったようです。
「豊平川扇状地は、西は藻岩山麓断層崖と、東は月寒丘陵との間に、真駒内付近を扇頂として、約80度の角度で北に向かって開かれている」(さっぽろ文庫24 札幌と水)
71 :
元東月寒人@琴似:2004/12/06(月) 21:10:47 ID:fN1oZzU2
[ snjk028k022.ppp.infoweb.ne.jp ]
「北野」、「清田」、「真栄」、「有明」、「平岡」、「里塚」、「美しが丘」、「里塚緑ヶ丘」、「平岡公園東」。
ワシにとって、とってもとってもとってもとってもとっともとっても苦手な清田区。
かろうじて土地勘があるのは、「平岡公園」だけ。
数年前のうすらぼんやりとした春、同公園に遊びに行きました。
せっかくだから、名物の「梅ソフトクリーム(?)」を食してみようと、店の前に出来た二つの列の片方に並んで待っていたワシですが、ワシの列のおじさんが作るソフトクリームの巻きが隣のおじさんの巻きに比べ、明らかに"ふた巻き"は少ないではないですか!
そこでワシは、
「おじさん!隣より巻きが少ないよ〜!」と叫びました。
おじさんは「一緒だ」と言い張りましたが、ワシは、
「ここに並んでいる全員がそう思っているよ〜!」と駄目押し。
ま、40人くらいいたお客さんは大爆笑していましたが、権利というものは主張しなければ絶対に手に入らないものであります。
ワシは幼少よりそう育てられてまいりました。
但し、この生き方、小さな島国ではなかなか辛い生き方でもあります。
閑話休題(そんなとこはさて置きまして)。
お手軽ネット検索調べで恐縮ですが、同区の住所表示ってのは、上記のこの9個だけ。
前六つは、昭和19年の字名改称の折に付けられたそうで、後三つはもちろん近年のもの。
ご感想をどうぞ。
73 :
なまら名無し:2004/12/08(水) 03:19:35 ID:oMivkfSo
[ H020227.ppp.dion.ne.jp ] 桑園駅付近のアパートの家賃ってどのくらいですか?
(桑園のスレがないから、スレ違いではないはず・・・)
74 :
元東月寒人@琴似:2004/12/08(水) 05:53:15 ID:BUByY2TQ
[ snjk035k021.ppp.infoweb.ne.jp ]
75 :
なまら名無し:2004/12/08(水) 21:54:33 ID:FGq2lkw.
[ G028074.ppp.dion.ne.jp ] ありがとうございます。いろいろと探してみます。
明日は寒いようですが、晴れるみたいです。
「冷水」に行ってこようかな?
どこかに湧き水でもあると面白いんだけど、そうは問屋は卸さないでしょうね。
77 :
なまら名無し:2004/12/08(水) 22:24:40 ID:Npes7NrM
[ e156163.ppp.asahi-net.or.jp ] >>72元・清田区民です。
「美しが丘」は里塚・真栄の一部だった所で、新町名整備に当たっての住民アンケートでは「里塚南」などの候補と競って1位になった名前でした。
そもそもは宅地分譲の販売名ですが、ニュータウンらしくて妥当な名前では?
元ある地名に方角だけつける安直なやり方よりよかったと思います。
「里塚緑ヶ丘」と「平岡公園東」は大部分が里塚番地でしたが、里塚(条丁目)や平岡とは道央道で遮断されていて生活圏は厚別区。
特にライブヒルズ辺りの住民は「里塚」に住んでいる意識などほとんどなかったのでしょう。
1位「平岡公園」2位「こもれび」3位「緑ヶ丘」、アンケート結果は確かこんな感じだったと。
「平岡公園」は公園敷地の町名に。
市街地までも「公園」としてしまえば混乱するから方角つけて落ち着いたものと。
それだったら「こもれび」の方が良かったかな…?
緑ヶ丘団地住民の要望生かされ「里塚緑ヶ丘」も誕生しましたが、頭の「里塚」は古くからの地主がつけろと強く主張したからだとか…。
78 :
北栄:2004/12/08(水) 23:01:20 ID:O381AM7Q
[ EATcf-577p62.ppp15.odn.ne.jp ] 最近の清田ではヒルズガーデン清田が新しいですね。
本当に清田の山の上と言ったところですが、10月からバス路線も出来ましたし。
山を削り谷を埋め立てて出来たニュータウンなので南東部分はコンクリートの
切り立った壁になっています。
現在は清田番地地区ですが、そのうち住居表示化されそうですし。
79 :
西創成:2004/12/08(水) 23:12:22 ID:hAbu33ic
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>59ご提示の札幌軌道と江当軌道の機関車は、これ同型みたいですな。
写真カラみてみるとどうもチエーン駆動のようです。
札幌で製作された軽便車輌には、
田井自動車製作・根室拓殖鉄道(合併して、現・根室交通)のガソリンカー
「ちどり」号と「銀竜」号という一部で有名な車輌がありますね。
80 :
西創成:2004/12/08(水) 23:24:03 ID:hAbu33ic
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] 北都交通と中央バスの空港連絡バスのバス停に「清田真栄」という何だか分からん名称の停留所が
あるのですが、最初に設置した北都バスの担当者のかたが言うには「清田真栄」で、
あの場所を地元の人は特定できるからつけたとのことなんだそうなんですが、
本当なんですかね。
>>77レスありがとうございます。
文献にはなかなか出てこない命名の実際の経緯、よく分かりました。
http://www.city.sapporo.jp/kiyota/ 「きよたFan倶楽部」の「清田区基礎知識 地名で見る清田区」では、
「美しが丘」 平成4年と5年に、それまで「里塚(番地)」だった住居表示を「美しが丘条丁目」に変更。
「里塚緑ヶ丘」 平成9年11月4日の清田区誕生に併せて、新たに名付けられた地名で、それまでは、「里塚(番地)」。
「平岡公園東」 平成9年11月4日の清田区誕生に併せて、新たに名付けられた地名で、それまでは、ほとんどが「里塚(番地)」で、一部が「平岡(番地)」。
となっています。
札幌の中では飛びぬけて新しい地名です。
しかし、名前の歴史が浅いためか、名前自体のせいか、ワシ個人なじみが薄いためか、この三つ、「地名」にまで昇華されていない感じがしてしまうのです。
あくまでワシの感じ方ですので住民の方、お気を悪くなさらないでいただきたいのですが、あながちワシの思い込みだけではないということが"最後まで"読んでいただければ分かると思います。
人間の子供は、その子の個性が発揮される前に名前を付けられます。
生まれて10年経ってから、
「この子はこういう性格の子供だから、この名前にしよう」とはならないわけです。
生まれ立ての真っ赤なサル状態でも「太郎」と名付ければ、そのサル…、いや子供は「太郎」なわけです。
(話は変わりますが、昔は「こういう人間になって欲しい」という願いを込めて付けられたことが多かったと思うのだけど、最近流行りの名前はそうじゃないんじゃないかというのが多い。音的、視覚的な感覚で付けた名前が多いように思えますな。アニメキャラ的発想とも言える)
反対に「地名」というものは、元来、土地の自然や形状、歴史、風土、由来の人名などから生まれたものがほとんどであったわけで、言ってみれば「後付」なんですね。
しかし、住宅地として新たに開発された土地はまず名前がなければイケません。
昔は名前のない所に人は住み始めたのですが、今は名前のないところに大勢の人はやってこないのです。
勢い人間的な命名方法となります。
新興住宅地(ニュータウン)の名前が、古来よりの「地名」と一線を画すのはこの辺りにあるのでしょう。
清田区の9つの地名のうち、「北野」、「清田」、「真栄」、「有明」、「平岡」、「里塚」の6つは昭和19年の「字名改称」の際に新たに付けられた地名であることは先に書きました。
これらも言わば、比較的近年、人工的に付けられた地名であります。
時代は違っていても「美しが丘」、「里塚緑ヶ丘」、「平岡公園東」と同じような付けられ方であったわけです。
しかし、
http://www.city.sapporo.jp/kiyota/ 「きよたFan倶楽部」の「清田区基礎知識 地名で見る清田区」を見ていて気が付いたことがありました。
このサイトの地名の説明文です。
「北野」、「清田」、「真栄」、「有明」、「平岡」、「里塚」の6つには命名の由来が書かれています。
「北野」 もとは「厚別北通(あしりべつきたどおり)」と呼ばれたあたりで、昭和19年、厚別の北に広々と広がる原野という意味で「北野」と名付けられました。
「清田」 もとは「厚別本通(あしりべつほんどおり)」と呼ばれたあたりで、昭和19年、美しい清らかな水田地帯という意味で「清田」と名付けられました。
「真栄」 もとは「厚別南通(あしりべつみなみどおり)」と呼ばれたあたりで、昭和19年、この土地が神様のお恵みでますます栄えるようにとの願いを込めて「真恵(しんえ)」にしようとしましたが、改めて繁栄の意味を込めて「真栄」と名付けられました。
「有明」 もとは「篠路屯田の公有地」だったので、そのまま「公有地」と呼ばれていましたが、公有地の「有」の字を生かし、「明るい」の意味を添えて、昭和19年「有明」と名付けられました。
「平岡」 もとは「厚別本通(あしりべつほんどおり)」の一部で「坂の上」と呼ばれたあたりで、昭和19年、平らな丘(岡)という意味で、「平岡」と名付けられました。
「里塚」 もとは、札幌の中心から3里(約12km)であることを示す印(塚)があったことから、「三里塚(さんりづか)」と呼ばれていたあたりで、昭和19年、「三」の字をとって、「里塚」と名付けられました。
だが、同じく人工的に付けられたはずの「美しが丘」、「里塚緑ヶ丘」、「平岡公園東」の説明文にはその命名の由来が一切書かれていないのです。
なんと悲しいことでしょう。
条丁目と同じで、単なる住所表示でしかないという扱いではないでしょうか。
単にワシ個人の思い込みではないのでは?と言ったのはこのことなのです。
83 :
なまら名無し:2004/12/09(木) 21:26:15 ID:7nE5kBn6
[ e156186.ppp.asahi-net.or.jp ] >>78ヒルズガーデン清田の辺りは起伏に富んだ山林だったので、随分平坦な宅地になって驚きました。
住所は番地表示から「清田10条3・4丁目」に変更されていたと思います。
清田南部には、近い将来市街化区域編入予定の保留区域がまだあるので、この先人口増が期待できそうですね。
>>80「清田真栄」ですか…。
地元の人間があの辺りを「清田真栄」と呼ぶことはないですね。
ただ、どの辺りかは確かにイメージし易いと思います。
周辺には区役所や大型店、金融機関の支店など、名称に「清田」を冠した施設が集まって区の核に相当する場所だとは思うのですが、「清田」という住所としては末端なんです。
住所で「清田」と言い切るには中心軸からそれて、どちらかと言えば「真栄」かな、というイメージがそのままバス停名になっている印象があります。
>>82「美しが丘」「里塚緑ヶ丘」「平岡公園東」どれも地域の歴史的経緯だとか、風物を感じさせるものではないですね。
「美しが丘」と「里塚緑ヶ丘」は宅地分譲名をそのまま頂いて、「平岡公園東」は地域のランドマークに方角をつけただけ。
確かに、あくまで都合のために決めただけの住所表示、という印象は拭えません…。
84 :
なまら名無し:2004/12/09(木) 23:22:58 ID:Eat3y0Mc
[ usen-219x120x64x190.ap-US.usen.ad.jp ] ヒルズガーデンはすでに清田10条3丁目、4丁目になりました。
ついでに、アルベ団地も清田7条1丁目に編入されました。
郵便番号も新しく清田10条の番号(004-0840)ができています。
(都市計画課によると今後清田の調整区域を市街化区域に変更する予定はしばらくないそうです。)
チセイ堂 改め 地勢社の1/10,000 札幌道路地図(H17.1版)には
すでに清田10条が記載されていました。
さらにこの地図には、
今月から変更になったバス停の名前も、変更後の名前が記載されていて便利です。
バス停つながりで、ご存知の方がいればお聞きしたいことがあります。
・真駒内花園 (南区真駒内柏丘9-10丁目)
・六区西、六区中央、六区南、石山六区 (南区石山)
の名前の由来はどこにあるのでしょうか?
おそらくは地名だと思うのですが…
♪ Hold me tight 入江の奥は 誰も誰も知らない秘密の花園〜
松本隆作詞のこの歌、かなりスケベだと思いませんか?
ま、そんなことはどうでもいいのですが…。
「真駒内花園」の件、「花園」で「さっぽろ文庫1 札幌地名考」に出ていました。
http://www.sapporobunko.jp/ で確認いただければと思いますが…。
あれ?いつの間にかコピペが可能になっていた。
柏ケ丘の東側、真駒内川と道道札幌支笏湖線に沿う地区で、戦後満州から引き揚げて来た人達が二十六年(一九五一)に入植し、開拓五カ年計画の開墾の結果、成功検査に合格したところである。酪農をとり入れて混合農業が確立されたが、入植者の東海林諭吉は老齢のため酪農経営が困難となり、簡易温室を設け、花卉園芸経営に着手し、生花や盆栽の販売を始めたところから、真駒内花園(かえん)と呼ばれていた。
三十八年に中央バスの空沼二股線、厚別の滝線が運行され、停留所が設けられたとき花園(かえん)と命名したが、その後、宅地化がすすみ花園(はなぞの)団地が造成されて、バス停も花園(はなぞの)と呼称されるようになった。
地元では、この地域のことを花園(はなぞの)と通称名で呼ぶことが多い。
「石山六区」は以前、名前だけ出ましたね。
これはどなたかにお任せします。
「冷水」行って来ました。
シイタケの栽培が行われていたのには驚いた。
しかも、買えます。
86 :
元東月寒人@琴似:2004/12/10(金) 06:21:34 ID:r3YK0g0g
[ snjk035k039.ppp.infoweb.ne.jp ] >>79「日本の軽便鉄道」の江当軌道の写真説明は、次のようになっています。
「先頭のガソリン機関車はチェーン駆動で走った このような"足回り"はめずらしい(当別操車場)」
また、「Bガソリン機関車」とも書いてあります。Bとは何でしょ?
札幌車両工務所(SSK)にも謎があるようで、調べている所です。
根室拓殖鉄道の気動車も2枚ありました。車名は書いてありませんが、説明はこうなっています。
「単端式気動車 うしろにトロッコを牽いてお客をのせているのがいかにも軽便鉄道らしい」
「ありあわせの材料で組立てられたようなボロボロの気動車」
JTBの「廃線跡壊想」に「ちどり」号、改造前後の「銀竜」号、「かもめ」号が載っていました。
「日本の軽便鉄道」の写真は「ちどり」号と改造後の「銀竜」号のようです。
87 :
西創成:2004/12/10(金) 07:44:38 ID:PlRtsMUQ
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>83「清田真栄」というバス停名称、たしかにそういう所にあるからでしょうね。
>>84銀竜号は、はじめジュラルミン製トラック型で作られたのが、車輌重量のバランスが悪いために
いんちきボンネット取り付け、荷台部分を地元の大工に頼んで客車に改造、
これまた地元の鉄工所にバックギアで早く走れるように改造したようです。
88 :
西創成:2004/12/10(金) 08:13:31 ID:PlRtsMUQ
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] 87番の書き込み
>>84は
>>85の間違いです。
>>84〜5
定鉄「石山6区」は過去の地名・町会名の名残で、
(この路線のよくあるバス停のつけかたです。)
昭和59.12.1改正で
「石山1区」→「石山2−2」
「石山5区」→「石山2−8」
と改称されたため、「石山6区」、「6区中央」、「6区西」のみ、
ここの地域が石山番地地区のため残っています。
定鉄には同様なバス停名称として、
「簾舞4区」(7.8.12系統定山渓線、現存)
「7区」(定山渓番地地区・豊橋環状線、経路変更のため廃止)
「上7区」(旧名称「うすべつ」定山渓番地地区・洞爺湖線、路線廃止)
「8区」(定山渓番地地区・豊羽元山線、路線廃止)があります。
89 :
西創成:2004/12/10(金) 08:26:36 ID:PlRtsMUQ
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] 何回もすみません。
訂正しなおします。87番の書き込みの
>>84は、
>>86に対してのものです。
90 :
なまら名無し:2004/12/10(金) 19:33:16 ID:sHq5W8Mg
[ i220-220-11-141.s02.a001.ap.plala.or.jp ] コバランドのこばは小林峠からとったのですか?
そのふもとに「山水団地」というのがありバス路線にもありますが・・・
名前の由来は?
あぼーん
93 :
元東月寒人@琴似:2004/12/11(土) 13:13:07 ID:gfclG5yo
[ snjk039k005.ppp.infoweb.ne.jp ] >>92シイタケの栽培の詳細希望します。
採り立てのシイタケは炭火で焼いて食べると美味ですから。
炭火といえば、里塚にあるチキンのモモセですね。
94 :
なまら名無し:2004/12/11(土) 15:06:29 ID:yjjCqzhE
[ U041203.ppp.dion.ne.jp ] >>93モモセは今、美しが丘ですね。
30年くらい前の航空写真をみたら原野の中にぽつんとあるって感じですね。
我が家にもたまにいいにおいが漂ってきますよ。
97 :
なまら名無し:2004/12/12(日) 10:07:15 ID:xeqJCAok
[ i220-220-148-49.s02.a001.ap.plala.or.jp ] 95の画像。昔は豊平川の側侵と隆起でできた河岸段丘崖にへばりつくように行政書士屋さんが
軒を並べてましたね。
なつかしいですね。たしか20年前はここで自動車免許の更新したような。
みんなすいかで有名な山口に行っちゃったんですよね。
99 :
元東月寒人@琴似:2004/12/13(月) 21:05:26 ID:0EkPST6c
[ snjk039k001.ppp.infoweb.ne.jp ] >>94においがいいんですよね。
久しぶりに、あの煙の中に行きたくなりました。
>>98豊平川ではなく真駒内川の方が可能性高いと思います。
冷水周辺の平岸側(高台側)は真駒内川の扇端になっているようなので。
精進川もありかと思いますが、地形図の雰囲気からは真駒内川だと思います。
中の島側は地下水というより川の水という感じになります。
この辺の地質図を調べないとはっきりしませんが。
「冷水」の「冷水」たる所以…。
こいつはしっかり調べる必要があると思いますねぇ。
さて、では、どうやって調べればいいのでしょう?
地形・地質だけ調べても、素人にはなかなか分からないようない気もします。(悲観的かな?)
となると、まずは聞き込みでしょうかね。
ビンゴでなかったとしても、そこからの消去法と言う方法もあるわけですし。
何はともあれ、今度、椎茸栽培のHさんとこ行って椎茸買って、そんでもってついでのフリして訊いてみようっと。
ちなみに、このHさん、今まで何度かマスコミに登場されているようです。
北海道新聞にて明日の朝刊より、札幌のマチを考える連載が始まるようです。
で、なにやら、本スレのことが取り上げられる、という情報がワシの元に寄せられています。
さぁ〜て、どんな記事なのか、刮目して待て!
102 :
北栄:2004/12/14(火) 22:34:49 ID:sN/Cb5z2
[ EATcf-519p35.ppp15.odn.ne.jp ] 道新ってちょっと前に円山ネタちらっとやりましたね。
円山と呼ばれる地域が拡大して「円山ブランド」がどうのこうの・・・
103 :
18丁目:2004/12/15(水) 00:01:42 ID:OXQz6546
[ p10021-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] あら残念、私ここ10年ほどは道新購読していません。
ところで私今日仕事で函館行ってきたんですよ。
札幌は路面テカテカの冬景色なのに、室蘭あたりからは雪もなく
景色も日本らしいんですよね。
新幹線着工も決定して、ますます函館は本州化していくんですな。
地名もどことなく本州風ですしね。
そう思うと、県庁所在地である札幌は今まで独特な都市として、大いなる
田舎なんぞといわれたりしていましたが、ここ2〜3年で激変してきた感が
ありますね。
札幌アルタ、札幌シャンテ、大丸、ホテル日航なんかができ、
拓銀消滅、そうご電器消滅に符号をあわせたかのように、地場企業の東名阪
資本傘下入り。
「北の零年」のような映画で札幌にシフトを向けたものが欲しいところです。
某国策TV局の「新撰組」で描かれたような薩長憎しの構図になってしまう
かも知れませんが、面白い題材はかなりあると思うんですよ。
104 :
元東月寒人@琴似:2004/12/15(水) 06:54:45 ID:43VkWfYs
[ snjk038k049.ppp.infoweb.ne.jp ]
105 :
西創成:2004/12/15(水) 19:10:28 ID:9eo4YQiA
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ]
108 :
西創成:2004/12/15(水) 22:00:41 ID:9eo4YQiA
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>106〜7
現在でも、精進川沿いの自衛隊駅付近や天神山山麓で、
たいした深く掘っていないのによく水がでる井戸を使っておられるお宅や会社があります。
>>107「真駒内川支流」というのは、
種牛場の「真駒内用水路」ではないですか?
110 :
KIT:2004/12/16(木) 09:36:43 ID:2i3RUkN.
[ i219-167-96-226.s02.a001.ap.plala.or.jp ] >>107>>「平岸1条22丁目」には豊平川が流れていたということで、伏流水どころではなくなって
>>しまうわけなんですねぇ。
中の島通の東側に豊平川ってのはありえないと思いますが。
111 :
なまら名無し:2004/12/16(木) 11:46:26 ID:OxvJ1V42
[ p4232-ipbf12sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>109道新見てすっ飛んできました!掲載おめでとうございます。
これからもスレ活性に努めてくださいね!
ところで、48歳だったんですねw
KITさん。
そのとおりです。
「平岸1条14丁目」に訂正させていただきます。
以後気をつけます…、といいながら何回間違えたことやら。
>>111さん。
へぇ、48でございます。申年なんです。(ウキ)
でも、見た目は若いんでっせ。(マジ)
先日、道新の美人記者さんと、一時間半もお話させていただきました。
最近は、うら若き婦女子の方とお話する機会がありませんでしたので、うれしかったです。ははは。
記事には、スレのことはあまり出なかったですね。
「札幌人」のA編集者と並んで書かれていましたが、あちらに取材があったことは記事読むまで知りませんでした。
新聞記事は出るまで内容が分からないので、ちょっと不安だったりしますね。
サッカー、みよ。
え〜、またやってしまいました。
>>112の「平岸1条14丁目」。
もちろん「中の島1条14丁目」の間違いでございます。
ドツボにハマりました。
サッカー後半みたら、今日はおとなしく寝ます…。
114 :
元東月寒人@琴似:2004/12/16(木) 23:03:42 ID:5KHLj89g
[ snjk014k027.ppp.infoweb.ne.jp ]
115 :
なまら名無し:2004/12/17(金) 04:43:09 ID:7Om5bLU2
[ EATcf-343p98.ppp15.odn.ne.jp ] >>112セクハラになり得る発言です。注意しましょう。
116 :
なまら名無し:2004/12/17(金) 06:45:34 ID:3Wja9FMI
[ proxy313.docomo.ne.jp ] >115
そんな、公式文書や配布資料じゃあないんですから
多少のおフザケ言葉は、大目に見ましょうよ。
もしかして、あなたは
マスコミ関係とか文筆家ですか?
117 :
なまら名無し:2004/12/17(金) 19:24:31 ID:sY7d9EJg
[ i219-167-133-64.s02.a001.ap.plala.or.jp ] 牛鍋様、昨日の朝刊ひっぱりだしてやっとこ見つけました。ご尊顔を拝めなかったのは
ちょっと残念でしたが、まずは48にして堂々のデビューおめでとうございます。
これからも今は埋もれて見向きもされないような面白ネタをいっぱい発掘してください。
ところで真駒内川ってサケ科学館の横を流れすぐに豊平川に合流してる川ですよね。
昔は中の島のあたりで合流していたのですか?
たしかに精進川沿いは昔から地下水が豊富で現在も井戸水をくみあげている家があるそうです
伏流水ときくと典型的なのは西岡月寒台地の先端から湧き出る白石神社の湧き水が有名ですね。
あそこも豊平川扇状地の扇端といえるのですか?
>>115ほ?セクハラ ???
前にも言いましたが、ワシ個人に対するご意見はメールで直接下さいね。
>>166さんのように、他の方にお気を使わせて迷惑ですからね。
>>114 月琴さん。
文章だけでは分かりにくかった「冷水」のビジュアル化、お疲れ様です。
出来上がってしまうと簡単そうに見えますが、こういう仕事は手間がかかるものです。
現地聞き込みをしたいと思っていますが、日曜日に左足を捻挫してしまいまして…。(と、言い訳)
他に専門の方に聞くとしたら、どういう人に訊けばよいのでしょうね。
>>117ビジュアルには自信がありませんので、顔なんぞは出せませんとです。
でも、こんなこと言ってはエラソウですが、「見向きもされないようなネタ」を探すのは、昔から結構得意でした。
しかしながら、一人で出来ることには当然限界があります。
今後ともよろしくお願いいたします。
「真駒内川」の昔(大正5年頃)の合流地点の地図アップします。
今の「豊平川」とはかなり形状が違いますので、見ていただくのが手っ取り早いと思いまして。
http://asp.i-mediatv.com/apps/album/public/?target=DESO1101599471502&item=26「白石神社」付近には何度か行っていましたが、湧き水のことは最近知りました。
ここのことも含めて、「豊平川扇状地」は良く調べて見なければならないと思っています。
120 :
なまら名無し:2004/12/18(土) 20:47:54 ID:yuSP3G1I
[ i220-220-151-48.s02.a001.ap.plala.or.jp ] >>118白石神社近くに用事があったので立ち寄ってみました。たしかにこんこんと
湧いていて池には鴨が2−3羽。無料で水を分けてくれるそうで水くみに
年配の方2−3名、おいしいコーヒーが飲めるそうです。水質検査も表示してあり
大腸菌0とありました。なかなか風情がありました。これが伏流水というものかと
あらためてみとれていました。向かいの大きな病院にちょっと興醒めしましたが。
近くに西山ラーメンなどいくつかの工場が立地してるのは良質な地下水があるから
なんですね。
122 :
なまら名無し:2004/12/18(土) 21:14:46 ID:7VFZD.h.
[ h236.p997.iij4u.or.jp ] 115 はちょっと頭のおかしいババーの発言でしょう。
最近、朝鮮人俳優の「ぺ」だか「チョン」だかしらんけど、そんなのに夢中になっている
勘違い中年女のなんと多いことか。と、言いつつ、スレ汚し申し訳ない。
123 :
元東月寒人@琴似:2004/12/18(土) 22:46:49 ID:m5/QqjCI
[ snjk017k016.ppp.infoweb.ne.jp ] >>118平岸、澄川辺りの土木建築関係の会社なら知っている可能性あります。
精進川の放水路工事の時に色々調べていると思うので、その方面の資料に当るという手もあります。
平岸郷土史料館があるようですが、冷水についての資料があるかどうかは?ですね。
小中学校で調べたりしているかも知れないので、地元の人のレスを期待したいです。
124 :
西創成:2004/12/18(土) 22:56:56 ID:GmhHORok
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] 中心部のビルなどでも、雑用水などに井戸水を使っている所が多いです。
千秋庵本店には、無料で井戸水を飲むコーナーがあります。
昔、地下街オーロラタウンにあった川や噴水も地下水であったはずです。
>>122さん他。
115さんの書き込みについてのお話はもうやめましょう。
それぞれご意見御有りでしょうが、こうゆう話はキリがないですから。ヤメヤメ。
>牛鍋蝸牛さん。
道新読みましたヨ。これからのご活躍期待しております。
マイナー地名界の大泉洋になるかも・・。
125 :
西創成:2004/12/18(土) 23:07:36 ID:GmhHORok
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>114札幌軌道か根室拓殖軌道でしょうか。
車輌の型としては、軽便鉄道に多い型ですね。(日本車輌製みたいですね)
126 :
元東月寒人@琴似:2004/12/19(日) 09:17:46 ID:NwEZKd3.
[ snjk015k028.ppp.infoweb.ne.jp ]
127 :
西創成:2004/12/19(日) 11:56:13 ID:PmW8TiM.
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>126札幌温泉のガソリンカーでしたか。それでは軽便ではないですね。
北見鉄道という会社は、
止別〜小清水に路線があって、
昭和2年6月免許
昭和5年6月開業
昭和14年廃止なんだそうですね。
128 :
横丁:2004/12/19(日) 20:24:11 ID:kD5Z7zi.
[ p1133-dpe01hon.tokyo.ocn.ne.jp ] >120,121
そういえば私も以前白石神社を散策したことがあって、
水汲みに来られていた方が居るのを見たことがあります。
ただかなり「ちょろちょろ〜」っとしか流れていなかったような気がします。
そして白石神社で思い出したのですが、境内にある奉納された灯篭などには
奉納者の住所と名前、奉納した年月日がよく彫られてますよね。
それに確か「白石町横丁(若しくは横町)」と彫られたものがあったような気がしたのです。
これがはっきりわかれば私の横丁/横町問題も一歩先へ進むのではないかと・・・。
というわけで、私も近々白石神社へ行ってみてきたいと思います。
>牛鍋さん
道新みましたよ。「ぎゅうなべかたつむり」のルビがおもしろかったです。
では、「旧豊平川扇状地」とはたこなる…もとい、いかなるものであったのか、「平岸百拾年」から引用いたします。
<やっぱり続いた>
「豊平川右岸の真駒内から澄川、平岸一帯にかけて広がる平地がある。これを旧豊平川によってつくられた旧豊平川扇状地という。
標高は真駒内面で71.83b、澄川面で64.09b、平岸面では平岸小学校正門のところで51.64b、平岸二条一丁目面で33.70bと北に向かって低くなっている。(中略)
この扇状地を流れて豊平川に合流する真駒内川、精進川、望月寒川がある。空沼岳(標高1251b)の万計沼附近に源をもち、藻岩橋附近で合流する真駒内川、常盤附近に源をもち真駒内桜ヶ丘の東、沢から抜けでて澄川面を潤し、冷水の滝(オソウシの滝)から中の島を流れて豊平川に合流する精進川がある。
この二つの流れは水田灌漑用水として澄川、平岸、東裏などで利用されていた」
ふむふむ…、なるほど。
で、続くんだな、やっぱり。
「火山灰台地から扇状地に向かっていくつかの沢がのぞいている。沢の出口近くには各所に湧水がみられたが、近くに住む人の飲料水として、流れては田の用水として利用された。(中略)
中の島面は、現豊平川が藻岩橋附近を頂点としてできた札幌扇状地の一部である。平岸面の崖下を豊平川の分流が流れていたとき、中洲としてできたもので初めは中河原といわれた。表土は浅く砂地で、下部の砂利層は約50bから100bといわれている。この砂利は札幌市の道路づくりの材料として採取がおこなわれた。
りんご、ぶどう、その他畑作物が栽培されていたが、今は住宅地に変わった」
「冷水」は、沢(の出口)からの湧水であったようです。
飲料水や稲作用水として使われたということで、ただそこに「水が湧いていた」っていうだけではなかったのですね。
生活に密着した湧水だったからこそ、地名になったということなのかもしれません。
そして精進川も真駒内川も、結局は豊平川の扇状地の上を流れていたのです。
札幌の「母なる川」はやはり、豊平川だったのです。
今回、「澄川」と「真駒内」の郷土誌もあわせて借りてきました。
関連事項が載っていないか、調べてみます。
132 :
札苗線:2004/12/20(月) 23:18:43 ID:kFyKW/yw
[ ZB105030.ppp.dion.ne.jp ] ずーっと前に書き込みした者です。覚えている人は少ないでしょうけども。
地形に関する事柄に関しては自分自身調べる必要がある関係で多少知っている事柄があるので
突然ながら書き込ませていただきます。
旧豊平扇状地(平岸面)というのはおよそ1万年ほど前(氷河期が終わった頃)に形成されたもので、
この頃は琴似・発寒・星置でも同様に扇状地が形成されていました。
豊平川の流路はたびたび変更され、時には石山から平岸の方へ(旧定鉄沿いに)流れていた時期もあったそうです。
平岸の天神山や真駒内柏丘はその時削られなかったなごりです。
その後も精進川・柏丘以西は豊平川に削られ、およそ3500年前の大洪水で現在の豊平川扇状地
(藻岩下から札幌駅付近まで)が形成されたそうです。
さっぽろ文庫77「地形と地質」に詳しく乗っているので、興味がある方は図書館などで読んでみてください。
という訳で、牛鍋蝸牛さんのおっしゃるとおり、全ては豊平川扇状地の上にあたるわけです。
ただ、「冷水」がどの川からの湧き水かというと・・・
地形の都合上豊平川、真駒内川、精進川、どれもありえそうですね。曖昧ですみません。
以上、突然の書き込み失礼しました。
札苗線さん、お久しぶりです。
ちゃんと覚えておりますですよ。
そうそう、そうなんです。
「冷水」の水がどこの水かというと、ま、これはまた別の話です。
それで「澄川」と「真駒内」の郷土誌を調べて見なけりゃな、と思った次第です。
そして、湧き水があったとはいえ、平岸全体ではその量は十分とは言えなかったようで、結局、四本の用水堀が掘られたようです。
ということで、水に恵まれた地区であったとは思わないほうがいいかもしれません。
この辺りの話は詳細な記述が「平岸百拾年」に載っています。
申し訳ありませんが、はしょりますけど。
さて、「冷水」が湧水であったろうという前提では話を進めてきたのですが、これが本当に正しいのか、いまいち確証が得られないのが歯がゆいです。
134 :
なまら名無し:2004/12/21(火) 00:23:12 ID:Z0LJxM/s
[ KHP222000011015.ppp-bb.dion.ne.jp ] >>129”きたいばらぎ”なんて地名がある(あった)んですね。
135 :
元東月寒人@琴似:2004/12/21(火) 06:54:59 ID:kqGTQnhw
[ snjk012k000.ppp.infoweb.ne.jp ] >>133崖下(コーチャンフォーの辺り)に涌き水があったとすると、飲むのに適しているかが問題となります。
地下水と川の水(浄化されていない)とが混じっていることが考えられるので。
崖から染み出ていた可能性もありますが、平岸面の隆起により旧豊平川扇状地の地下水面は、より深くなっていると思いますので、この場所(崖や崖上)で豊平川の伏流水が出ていたとは考えにくいのですが。
と言いつつ、答えが何なのかは分かりませんが。
136 :
k:2004/12/21(火) 17:05:08 ID:HAq7.57Q
[ customer71-242.mni.ne.jp ] >>133ごぶさたしてます。
さて、平岸地区は多少の湧き水があったとはいえ、水はすくなかったとおもいます。
だから、平岸には水田が少なく、果樹園が多かったと私は理解しています。
水に恵まれたところはほんどが水田になっています。
>>134実は「北茨木」は定山渓鉄道の駅名でして、純粋な地名(地域名)ではないんです。
「北茨木駅」ってことですね。
「その弐」#79
http://pernoi.chu.jp/chimei/2_log.html#079 で、遥香さん(お元気かな?)が
>北茨木(<よく考えたら地名じゃないや) って指摘されていますが、これ正解。
そして、
http://pernoi.chu.jp/chimei/2_log.html#096 で、
「現在の地下鉄南北線澄川駅のところにあった、定山渓鉄道の駅名です。
所有していた農場を鉄道用地として寄進した地主、茨木与八郎の名字にちなんだ
名前です」と彼女は書かれています。
なぜ「北」を付けたのかについては「郷土史 すみかわ」(昭和56年)に、こうありました。
でも、こいつは間違いですからね。
「茨木県の茨木駅との同一を避けた」P20
北関東の「いばらき県」は「茨城」でありまして、「茨木」は大阪府ですがな。
ごっちゃになっている。
で、読み方は、「茨木」は「いばらき」、「茨城」も「いばらき!」って濁らないのはCMでご案内のとおりです。
話がややこしくなりましたが、「北」と付けたのは、「東久留米」、「北広島」と同じ理由のようです。
さて、「南区歴史探訪1 南区地名考」ってサイトがありました。
http://www.city.sapporo.jp/somu/koho-shi/200407/minami/mina02.pdf 参考にして…、と思ったけど!
この「南区地名考」にも、おかしな記述を発見してしまいました。
「澄川 この地域は、精進川が流れており、その川の名前から精進川と呼ばれていました。
昭和19(1944)年の字名改正により、精進川の清澄な流れから澄川と名付けられました。
この一帯は、明治期に所有者が札幌の石田呉服店から茨木与八郎へと移り、茨木牧場と呼ばれていた頃もあります。
大正7(1918)年、定山渓鉄道の開通にあたり茨木氏が鉄道用地を寄付したことから駅名が「北茨木」と名付けられましたが、字名改正が行われた際、駅名も「澄川」に変更されました。現在は、南区の玄関口としての役割を果たしています」
さて、僭越ですが、皆さんに質問。
どこが変なのでしょう?
(いや〜、他人の間違いってのには気が付くもんですねぇ)
>>135月琴さん。
ワシそんな水、飲みませんよ(w
さてと、
>>137の答えが出るまで、「冷水」のお話をさせていただきたい。
「郷土誌 すみかわ」を読んでいましたら、こんな記述がありました。
「(略)そして現在では消滅してしまって跡形もなくなってしまったが、自衛隊前駅の東、木挽山の北側麓を水源とし、丘陵添いに、丘陵の細水を吸収しながら小泉川という清流が流れていて、今の美園でも望月寒川に注いでいた」
「遺跡と遺物の散列地帯」って図に、「小泉川」の位置がありました。
http://asp.i-mediatv.com/apps/album/public/?target=DESO1101599471502&item=28 ざっと見てみますと、澄川図書館から辺りから始まり、ほぼ地下鉄路線に沿った形で北上して行ったようです。
「小泉川」は「冷水」とは離れていますが、「丘陵の細水」というのがところに注目したいと思います。
>>136 kさんのレスにもありますように、「冷水」はその名のイメージとは違い、数は多くともそこから湧き出ていたのはチョロチョロの水だったのかもしれませんね。
水が少ない、水が貴重な地域であったからこそ「冷水」と名付けられたと考えると、この地名に当時の人たちが込めた想いが一層深く感じられるのであります。
どうでしょう?
この解釈。
139 :
なまら名無し:2004/12/21(火) 19:32:55 ID:yM6AdKs2
[ i218-47-238-118.s02.a001.ap.plala.or.jp ] >>136その通りです。平岸は岩手県の水沢藩によって開拓されましたが
河岸段丘上にあるため礫岩が多く水にも恵まれなかったようです。
精進川公園の下におりると段丘崖の上層部が礫層になっているのがはっきり
わかります。
それで精進川から水を引き用水堀を作りました。この堀のことも
精進川と地元の人は呼んでいました。
今は平岸街道の下に眠っていますがたしか昭和40年代前半まで
道路の真中を流れていたのを記憶しています。
冷水の語源は段丘崖を流れ落ちるオソウシの滝に由来すると見るのが自然だと思います。
年末に向まして、いろいろとご意見・ご見解が出てきて盛り上がってまいりました。
なかなか、「冷水」という地名の由来の直接的な資料・証言が出てきませんで、苦労していました。
発表いたします。
やっと、「冷水」の由来を書いた文献を見つけました。
「郷土史真駒内」(昭和52年)のP45に、
「冷水(ひやみず)真駒内から中の島へのおり口(運転試験場前)付近一帯は冷たい水が湧き冷水といわれた。
現在の本町一丁目付近から平岸の河岸段丘の発達しているところである。
赤間という飲食店が一軒あり、石材運搬の馬車などの休憩地であった。近くには空橋(からばし)といって、雨の日以外の流れのない小さな沢地に橋がかかっていた。夜札幌から買える途中よく狐にだまされたという話題が語り継がれている」
>>139さん。
上記の記述はともかくとして、残念ながら今まで調べた限りでは、「オソウシの滝」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=290 ("精進川の滝"の方が一般的)と「冷水」との合理的な接点が見られないのです。
それに、「精進川の滝」の位置が、「冷水」とはちょっとズレていると思えます。
141 :
元東月寒人@琴似:2004/12/22(水) 06:39:33 ID:8Ajxi9fQ
[ snjk027k027.ppp.infoweb.ne.jp ] >>137ギブアップです。
「茨木県の茨木駅との同一を避けた」は読み飛ばしてしまいそうな所です。
>>140>「よく狐にだまされた」
札幌は新しいまちなのに、狐や狸にだまされた話しが結構出てきますね。
石材運搬の馬車で冷水は賑わったようですが、馬鉄や定鉄の開業で流れが変わったということでしょうか。
>>137の答えです。
「南区歴史探訪1 南区地名考」
http://www.city.sapporo.jp/somu/koho-shi/200407/minami/mina02.pdf 「茨木牧場」とあるのは、「茨木農場」の間違いです。
ここでは、りんごと稲の栽培が行われていたようです。
ま、家畜もいたかも知れませんが、名称は「茨木農場」。
南区に教えてあげました。
なんかください、南区さん。
「石山緑地」で良いや…。
「冷水」まだまだか書きたいことがあるのですが、ちょっと「北茨木駅」について調べてしまったもんですから、書きます。
以下、「郷土誌 すみかわ」からの要約です。
「定山渓鉄道」に用地を寄付した「茨木与八郎」さんは、実際にはこの辺り(当時は"精進川"と呼ばれていた)には住んでいなかった不在地主であったそうです。
この「茨木与八郎」さんは二代目で、初代は山形県の出身。
明治10年頃船頭の手伝いで渡道し、タラ釣船に乗り、増毛や浜益の漁場で働き、やがて小樽の祝津で漁場を経営するようになった。
二代目与八郎は、汽船による海運業にまで事業を拡大、ウラジオストックにも出航するほどになったが、海運事故で船を失い、事業を廃止し、代わりに農場経営に専念したそうです。
参考資料はこちら。「小樽商工会議所」サイト「小樽商人の軌跡 小樽経済の100年史 第9章−3」
http://www.otarucci.jp/kiseki/kiseki-09c.html 「小樽の豪商といわれたような人たちは、本業が安定するとすぐ土地に手を出す傾向が特に目立っていた。茨木与八郎 祝津、軽川(札幌市手稲区)、雄冬などで92町歩」
(妬み入ってない?)
再び、「郷土誌 すみかわ」より。
ま、ワシなんかついつい饒舌に成りがちなので、レスを一度下書きしまして、推敲に推敲を重ねて初めてアップするわけですわな。
ちゅうことで、
>>142の
>再び、「郷土誌 すみかわ」より。
ってのは、次のレスの下書きでした。
昨日、あまりに眠くてコピペするときにうっかりしたわけです。
では、今日も眠いので、これにて失礼いたします。
144 :
西創成:2004/12/24(金) 06:54:54 ID:NTj0to1c
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>142茨木家の屋号(商号)って、「カクコメ」なんですね。
147 :
元東月寒人@琴似:2004/12/26(日) 22:28:51 ID:IKt9LxRs
[ snjk027k021.ppp.infoweb.ne.jp ] 「北茨木」駅ですが、定山渓鉄道の開通時にはまだ駅はない様です。
また、澄川の字名改正後もしばらくは、「北茨木」駅だった様です。
(以上地形図から)
148 :
k:2004/12/27(月) 17:06:53 ID:pNvFFmwk
[ customer71-242.mni.ne.jp ] >147
「北茨木」から「澄川」の改称ですが、昭和32年11月です。
小熊米雄「定山渓鉄道」/鉄道ピクトリアル232(1969)所載。
149 :
元東月寒人@琴似:2004/12/27(月) 20:38:03 ID:UdxalEn.
[ snjk011k047.ppp.infoweb.ne.jp ] >>148そうでしたか。駅自体の開設は昭和10年前後だと思いますが、記載されているでしょうか。
「北茨木」駅は、茨木農場の北に位置しているから名付けたんではないかと、地図を見ながら思い付きました。
駅の設置も、精療院の患者のためではないかとそんな気がします。
あくまでも、思い付きですが。
毎年のことなのですが、ワシ年末年始は仕事が異常に忙しく、年明けは体がぼろぼろになっています。
もう、すでにろくにレスできない状況です。
と言いながら、するわけですが…。
「定鉄北茨木駅」の名前の由来となられた、というか土地を寄付された「茨木与八郎」さんの末裔の方は現在も「小樽市祝津」にお住まいです。
その名も「茨木与八郎」さん。
何代目なんでしょうか分かりませんけど、水産業を営んでおられるようです。
>>149駅の開設は昭和8年11月30日です。
>駅の設置も、精療院の患者のためではないかとそんな気がします。
「精療院」とは「市立札幌病院付属精療院」。
結果的にはそうなったようですが、当初は平岸墓地新設予定を見込んだ、というのが真相だそうです。
「見舞客を含め病院関係者の利用が地元の人の利用よりかなり多く、病院の停留所かと思われる位で、北茨木といえば精療院といいノイローゼになりそうだと言えばすぐ北茨木…… といわれるほど有名になり、地元にとっては甚だ迷惑なことであった」
以上、すべて「郷土誌すみかわ」より。
151 :
なまら名無し:2004/12/28(火) 10:08:57 ID:7rADDV1k
[ i60-42-25-251.s02.a001.ap.plala.or.jp ] 精療院とは現在の静療院のことですよね。
いつごろ「精」から「静」に改名したのでしょうか。
そんな昔からあったとは・・・
152 :
なまら名無し:2004/12/28(火) 12:59:59 ID:wKZyYWKs
[ p3079-ipad509marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ] 子供の頃よく
平岸の精神病院
という話
というか子供同士でからかうことがあった
お前なんか平岸行きだ
など
あれって
澄川のことだったのか
153 :
なまら名無し:2004/12/28(火) 16:45:46 ID:2HMhrJGw
[ y131164.ppp.dion.ne.jp ] そういうのもあったりして駅名が変わったのかな。
あ!
>>151 「セイリョウイン」は「静療院」でした。
「精療院」はタイプミス…、いや、所謂老眼のための、原本の見間違いです。
「市立札幌病院付属静療院」が正しいので、訂正します。
ついでと言ってはなんですが、
>>150で、
>すべて「郷土誌すみかわ」より …としましたが、
「茨木与八郎さんが祝津にお住まいで水産業を営んでおられる」というのは、ワシの調査によります。
誤解があるとまずいので…。
>>152静療院の所在地は「平岸4条18丁目」です。
最寄の駅が「北茨木駅」だったということでしょう。
で、ワシは昭和31年(1956)、啓明地区(中央区)生まれですが、「平岸行き」という囃子言葉は使ったことがありません。
これは地域的な違いなのでしょうかねぇ。
>>153昭和19年の字名改称で「精進川」は「澄川」となったのですが、駅名はそのままで、「澄川」に改正されたのは昭和32年だそうです。
ということで、静療院が云々というではなかったように思えます。
ここで一旦、コマーシャル…。
言い忘れておりました。
「季刊 札幌人」04年冬号 25日に発売になりました。
新連載「地名の虫走る」(書いたのはワシ)を読まずに年を越せるかッ!!
155 :
西創成:2004/12/28(火) 20:33:45 ID:HMY33Ldg
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] 静
156 :
西創成:2004/12/28(火) 20:36:22 ID:HMY33Ldg
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>155 ミスです。
静療院の旧住所は「札幌郡豊平町字平岸910番地」です。
158 :
元東月寒人@琴似:2004/12/28(火) 22:19:56 ID:WviLf1uc
[ snjk020k053.ppp.infoweb.ne.jp ] 昭和20年ごろの地形図では精療院となってました。精進川からとったのかとも思いましたが、誤植でしょうか。
静療院は小児外来や老人外来の専門科を備えており、重要な医療機関の一つでもあります。
159 :
なまら名無し:2004/12/29(水) 08:04:45 ID:PZYHaGYs
[ i219-165-143-183.s02.a001.ap.plala.or.jp ] >>154昔は豊平川以東は中央区の住民からすると「川向こう」とよんで見下していたそうです。
ですからそういう差別的言い方したのかも。
中央区で精神科のある病院といえば啓明中学の向かいにあった医大分院や旧教育大学前にあった
平松病院が有名だった記憶があります。
静療院は住所は平岸ですが交通手段としては澄川駅(定鉄北茨木駅)の方が近いと思います。
160 :
なまら名無し:2004/12/29(水) 12:57:45 ID:Z90Z/HLc
[ p2020-ipad70marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ] >>159 > 昔は豊平川以東は中央区の住民からすると「川向こう」とよんで見下していたそうです。
中央区の住民→山鼻町の住民
かと思う
円山は当時は市外
明治の末に
札幌村、苗穂村、上白石村、豊平村、山鼻村の各村の一部が
当時の札幌区に編入された
新しく札幌区山鼻町となった地域は
同時に札幌区に組み込まれた豊平などに比べて
やや発展が遅れたらしい
しかも旧札幌区内のつまり今の都心部の住民から
山鼻は屯田兵が耕したような土地と
やっぱり見下されていたらしい
それで妬んで
山鼻地区は旧札幌区内と地続きだが
(大きな商店街で賑っている)豊平地区などは川の向こうだ
と言ったとか言わなかったとか
そもそも見下すという感情は
見下されているのではないか
という感情と表裏一体
その後
山鼻地区住民は
中心部と同じ(南○条西○丁目という)住居表示にしてほしい
と嘆願して
札幌区が市に昇格する大正時代に実現している
このあたりも
やや屈折した感情を
物語っているような気がする
161 :
なまら名無し:2004/12/29(水) 20:06:39 ID:fxngEvz2
[ wtl7sgtn01.jp-t.ne.jp ] 戦時中の札幌市内の配給店はどんな所が有ったんですか?
162 :
k:2004/12/29(水) 21:30:03 ID:dFod4t9E
[ customer71-242.mni.ne.jp ] >161
何の配給店でしょうか。例えば、米、酒、衣料品などそれぞれ商品ごとにありましたが。
163 :
なまら名無し:2004/12/29(水) 21:56:57 ID:fxngEvz2
[ wtl7sgtn01.jp-t.ne.jp ] >>162米について気になります
南1西4辺りに有った様ですが
164 :
元東月寒人@琴似:2004/12/30(木) 08:39:48 ID:cpqnVl7w
[ snjk015k010.ppp.infoweb.ne.jp ]
165 :
160、162:2004/12/30(木) 16:44:05 ID:mzMBcmrw
[ wtl7sgtn01.jp-t.ne.jp ] 南1西4じゃなく西5だった様ですが、今でいうとどの建物が米の配給店だったんですか?
166 :
西創成:2005/01/01(土) 15:09:47 ID:hxTj5842
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] 今年もよろしくお願いします。
>>165よく分からないのですが、
そのあたりだと、
岡本米穀店 南3西6
狭間孫兵衛 南1西8
金山商店 南5西6 があります。
手元の資料でみてみると、
昭和21年の政府買取米価は、一石550円。消費者売価一石450円。
昭和21年度上期の道内主要都市闇価格は、一升4円60銭(公定価格2円88銭)だったという。
167 :
なまら名無し:2005/01/01(土) 15:28:55 ID:HGAd4Qwc
[ wtl7sgtn01.jp-t.ne.jp ] 菊屋食料品店ってのを聞いた事が有るんですが、どの辺りで何の配給をしたんですか?
謹賀新年!
本年もよろしくお願いしますね。
ここしばらく休みも無く、超多忙のため、ご無沙汰しました。
昨日はイエモンのコンサートDVDを観て年越し、今日もまた仕事でした。
と言うことで、疲れていますので、まずはご挨拶だけ。
169 :
西創成:2005/01/01(土) 23:48:26 ID:hxTj5842
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>167カク辰 菊屋食料品店 電話4090番
南1西5、現サッポロドラックストアー横、5丁目通南隣付近です。
おそらく、醤油、味噌、砂糖、食用油他一般食料品だと思われます。
塩、煙草の専売品や米穀は、小売所認可や米穀商免許があったのかどうか私は分からないので、
ここで販売していたかは不明です。
手元にある「大日本職業別明細図 索引附住所入信用案内 東京交通社発行(昭14}」に載っていました。
さて、年末よりご無沙汰しておりましたが、なんとか通常の生活にもどりつつありますので、また参加させていただきます。
「北茨木駅」をサラッとやりまして、なんとなくレスも落ち着きました。
新ネタないでしょうか?
171 :
札苗線:2005/01/04(火) 23:09:58 ID:y1sB9Zys
[ ZB109085.ppp.dion.ne.jp ] ネタになるかどうかはわかりませんが。
札幌市内には数箇所、複数の地名を持つ地域があります。例えばチェーン店の店名などで
明らかなのですが私の家の周りには「札苗店」「東苗穂店」が混在しています。
友人の住んでいる川沿にも「川沿店」「藻岩店」「藻南店」が混在しています。
このような地域は他にもあると思います。どちらかに統一してほしい物です。
もっとも、私が住んでいる「札苗」も、なぜ「札苗」なのかよく分かりませんが。
172 :
なまら名無し:2005/01/05(水) 10:14:40 ID:h3YobzR6
[ i219-167-128-217.s02.a001.ap.plala.or.jp ] たしかに札苗という地名は学校名や店舗名しか残っていませんがいつごろ
東苗穂に変わったのですか。昭和50年ごろの地図には残っていたと思うのですが。
道内には札内という似た地名がありますが語源はアイヌ語ですか。
どんな意味ですか。
173 :
なまら名無し:2005/01/05(水) 12:23:34 ID:yvCeH5Ms
[ p3139-ipad69marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ] >172
札苗というのは
旧「札」幌村と旧「苗」穂村
のことと思う
両者の中間
あるいは
市内ではなく旧札幌村に残った旧苗穂村
内モンゴル
と
外モンゴルみたいに
174 :
なまら名無し:2005/01/05(水) 12:41:48 ID:yvCeH5Ms
[ p3139-ipad69marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ] 前スレでは
禁止
だったらしいけど
新スレでは
大丈夫だよね
でコピペ
↓
101 名前:なまら名無し 投稿日:2004/09/01(水) 17:45:18 bnNTGCOk p3232-ipad64marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
ふと不思議に思ったんだけど
稚内のノシャップ岬
と
根室のノサップ岬
元のアイヌ語は何?
同じ語源?
それとノシャップとノサップの違いは?
詳しいかたがた
よろしく
175 :
なまら名無し:2005/01/05(水) 16:17:31 ID:0ybL4xRI
[ YahooBB219041108049.bbtec.net ] ノサップは人情岬
176 :
西創成:2005/01/05(水) 20:57:35 ID:pOJjULsk
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>174納沙布は、アイヌ語の 岬の傍ら=のっしゃむ
野寒布は アイヌ語の 下顎 =のしゃっぷ だという説がある。
「納沙布岬」、「野寒布岬」に関しまして、「アイヌ語地名を歩く」(山田秀三 昭和61年初刷 平成10年四刷 北海道新聞社 現行本)の「納沙布岬、野寒布岬」によりますと、両方とも当て字が違うだけで同じとのこと。
上原熊次郎地名考(文政七年1824)では、アイヌ語の原形はノッ・シャム not-sham(岬の・傍ら)という意味で、
「当時は何々岬などとはほとんど呼ばなかった。せいぜい、大岬、小岬ぐらい。和人が来て、それでは区別がつかないので、ここでは、そばのコタンの名をつけて納沙布岬ということにした。納沙布岬の場合も全く同じことなのであった」
といのことです。
本スレの理念は「実地調査」ですが、ワシには両岬ともあまりに遠くて行けません。
代わりに、昨年の6月に「野寒布岬」に行ったときの画像をアップします。
http://asp.i-mediatv.com/apps/album/public/?target=DESO1101599471502&item=31「納沙布岬」へも何度か行ったことがあますが、銀塩カメラ時代で、写真がどっかに行ってしまっていますのであきらめてください。
新年早々、訂正です。
>>177>納沙布岬の場合も全く同じことなのであった。
を、
「野寒布岬の場合も全く同じことなのであった」
に…。
179 :
西創成:2005/01/06(木) 23:18:31 ID:Zc5PBr0.
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] 1697に幕府に松前藩が献上したという元禄絵図には、
納沙布のほうが「のつさぷ」
野寒布のほうが「のつしやむ」と記しているのですが、
牛鍋さんの仰るとおり、語源は同じではないかと個人的には思うのですが。
さて、「札苗」なのですが、これは「地名」ではなく、おそらくは「地域名」なのでしょうね。
昭和50年頃の地図他、さかのぼっても見ましたが「地名」としては確認できませんでした。
もちろん、なんでも有りの本スレで扱うのに、なんの問題も無いわけですが。
検証していないので分かりませんが、語源としては
>>173丸の内さんの説が妥当のように思えます。
ここ、住所では「東苗穂」になるわけですよね。
「東苗穂」と「札苗」の関係とはいかなるものなのでしょうね?
学区から見てみますと、「東苗小学校」は札樽道の内側の、「東苗穂5条2丁目」。
方や「札苗小学校」はと言いますと、札樽道の外側「東苗穂7条2丁目」です。
Mapfan.netのスポット検索を試みてみますと、「札苗」と名乗るスポットは12件ありまして(元はバグのためか2件ダブって、14件となっている)、札樽道内側にあるのは「東苗穂4条2丁目」の「東消防署札苗出張所」だけ。
他の11件は、外側に集中しています。
北から、
「札幌市立札苗緑小学校」、「札幌市立札苗北中学校」、「サンクス札苗店」、「札幌市立札苗北小学校」、「英仁会札苗病院」、「札幌市立札苗中学校」、「セブンイレブン札苗店」、「札苗小学校」、「札幌銀行札苗店」、「札幌市東区札苗まちづくりセンター」、「北海道銀行札苗支店」。
ここに何かヒントがあるかもね。
雪かきばかりしています。
はぁ~…。
「札苗」という呼称につきまして。
当スレにもご登場いただきました、ひんかもさんの労作HP「札幌村史」
http://sapporo.cool.ne.jp/hinkamo/index.html に
「札幌村の地図(315K LZH形式)」ってのがありますので、皆さんDL、解凍してください。
ここに書かれた「札幌村」の地名は、「元村」、「丘珠村」、「苗穂」、「雁来」と「三角」。
「三角」は「三角点通」のことだと思いますので、"狭義の地名"は四つだけだと思います。
ここにも「札苗」という地名は見当たりません。
ただ、「札苗小学校」の名前はすでにあります。
そして、場所は現在とは違っています。
よくわからないのですが、現在の「札苗公園」の辺りかな?
「さっぽろ文庫46 札幌の小学校」によりますと、
「創立は(明治三十六年)札幌村苗穂尋常小学校分教場として開校、木造平屋で一教室、昭和三年十一月札幌村第四尋常小学校に昇格。
昭和三十八年十一月東苗穂町601番地の現在地に移転新築」
というのが同校の沿革です。
ついでに「札苗北小」は、「札苗小」より452人を迎えて、昭和五十一年に開校とのこと。
さて、話を戻しまして、「札幌村史」。
「古老座談会」には各地区の代表の古老が出席されております。
「元村」、「烈々布」、「丘珠」、「下苗穂」、「上苗穂」、「雁来」の方々ですが、「札苗」はここにも顔を出しておりません。
もしかして「札苗」は、ワシの生まれた「啓明地区」と同じように学校の名前から端を発したものなのでしょうか?
182 :
なまら名無し:2005/01/08(土) 18:33:11 ID:HJjxFkA6
[ p8247-ip03sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ] 要監視スレ。
183 :
なまら名無し:2005/01/08(土) 20:04:34 ID:DR5qSSnY
[ i218-47-238-162.s02.a001.ap.plala.or.jp ] 暇人
184 :
元東月寒人@琴似:2005/01/10(月) 13:42:04 ID:8V7uLFx2
[ snjk013k049.ppp.infoweb.ne.jp ]
185 :
牛鍋蝸牛:2005/01/10(月) 20:59:05 ID:wOt7863E
[ x086112.ppp.dion.ne.jp ]
186 :
札苗線:2005/01/10(月) 21:33:35 ID:h.ZPgps2
[ ZB109085.ppp.dion.ne.jp ] >>181他にポスフール東苗穂店にあった北洋銀行が「札苗南支店」でした(今はもうありませんが)。
ジャスコの南側には「フローラル札苗」なる老人福祉施設もあります。
なので、東苗穂全体を表すのかとも思ったのですが、住民である自分自身どうもしっくりこない。
刑務所やジャスコまで行くとさすがに感覚的にズレがあるのです。
ちなみに、確かに札苗小学校は昔札苗公園の位置にあったそうです。
私は知人に自分の家のある場所を説明するのによく困ります。
「札苗」では通じないし、「東苗穂」だとわからない人には苗穂駅の近くと勘違いされます。
というわけで、今は「高速道路の雁来I.C.の近く」と説明しています。少し寂しいです。
187 :
牛鍋蝸牛:2005/01/10(月) 21:46:14 ID:wOt7863E
[ x086112.ppp.dion.ne.jp ]
188 :
牛鍋蝸牛:2005/01/11(火) 21:34:20 ID:0tx1Wxw2
[ U125070.ppp.dion.ne.jp ] やはり、「札苗」に関しては、ワシは小学校にこだわってみています。
こだわりの心を捨てることが仏教の心なのですが、ま、この際それは関係ない…。
「さっぽろ文庫46 札幌の小学校」の「第一章 地域の中で 戦前の小学校」、志田恭司氏の「札幌村―札幌、丘珠、烈々布、札苗」に、こんな「札苗」の名の由来が出ていました。
「札苗小学校
明治三十六年、苗穂尋常小学校(現札幌小学校)の苗穂分教場として誕生した同校は昭和三年に独立して、札幌村第四尋常小学校となり、昭和十六年の国民学校令実施を期に現校名につながる札幌郡札幌村札苗国民学校と改称した。「札苗」とは札幌村宇苗穂の地域を明確にするために命名された。
この地域は豊平川下流の泥炭地が多く、度々洪水の被害に遭った。隣接する雁来村はアメル村と言われるほど水のつく所で、堤防と排水溝が完成してようやく安心して農業が出来るようになったのである。
当時村中の人々が参加して盛大に行われていた運動会で、小屋を建てようとすると、柱の丸太が押しただけで入ったり、グラウンドが軟弱でフワフワして走ることが出来ず、雁来から豊平川の砂を運んで来てどうにか走れるようにしたこともあったという。(略)」
>「札苗」とは札幌村宇苗穂の地域を明確にするために命名された。
しかし札苗線さんによりますと、この目的は現在に至るも(残念ながら)果たされていないとのことです。
たしかに、「札苗地区」と言われても…ってのはありますねぇ。
189 :
なまら名無し:2005/01/12(水) 12:36:30 ID:sHtKu1hw
[ p6116-ipad64marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ] ノサップ
くわしい説明ありがd
いっそのこと
札幌→道内を記念して
当分は札幌以外のネタを特集するのとか良さそう
札苗
やっぱり学校の名前期限がそれらしい
西創生とか
ホロキタ(大抵の札幌人はこう読んでいた)
というのも小学校起源かな
幌西はこうさい
幌南はこうなんだけど
幌東をほろとうと読んだ例もあるらしい(戦時中の防空演習か何かで)
190 :
札苗線:2005/01/13(木) 17:42:10 ID:prkTpYAk
[ ZG011227.ppp.dion.ne.jp ] 牛鍋蝸牛さん、どうもありがとうございます。やっぱり小学校が起源なんですね。
>「札苗」とは札幌村宇苗穂の地域を明確にするために命名された。
というのであれば、いっそ札幌村が合併する時に東苗穂ではなく札苗にすればよかったのに、と思います。
で、171でも書いたのですが、もう1つ気になるのが「藻南」なんです。
国道230号線を定山渓から都心部に向かう途中にも「藻南 ○km」という看板があったり、
逆方向で川沿の生協を越えて急に坂道になるあたりで「藻南」という看板があります。
藻南公園もあります。「藻岩山の南」というのはわかるんですが、しかしあのあたりの
地名は「川沿」です。札苗よりは知名度あると思うのですが、しかしなぜ「藻南」と呼ばれる
ようになったかは知らないのです。
191 :
なまら名無し:2005/01/13(木) 20:49:23 ID:ZrePAg76
[ i220-220-202-190.s02.a001.ap.plala.or.jp ] 藻南公園,藻南橋,藻南交番,もなみ幼稚園
川沿=八垂別,
藻岩小学校,藻岩南小学校,×藻南小学校
192 :
牛鍋蝸牛:2005/01/13(木) 20:51:07 ID:Y.tH/1ng
[ L066243.ppp.dion.ne.jp ] >>189札幌以外のネタを取り上げることに関しては、吝かではありません。
しかし、ただその場合、どなたかが実地調査へ行っていただけないといけませんのですわ。
ちゅうことで、奇特な方、募集いたします。
>>190そうですね。
どうやら(やはり)、「札苗」の名は起源は「札苗小学校」のようです。
今回もワシの直感が当たったようです。
もう!我ながら怖いですな、はっはっは!
で、なに?
今度は「藻南」…?
(そうはフロックでは当たらないっちゅ~の…)
193 :
西創成:2005/01/14(金) 08:12:49 ID:3FiVW5mw
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>190「藻南」という地名表示板たしかにありますね。(旧式の表示板)
定山渓の錦トンネルを過ぎて市内方向の青い看板にも、「藻南○Km」とたしかにあります。
「藻南公園」という名前はたしか昭和24か5に公募で決まったはずなんですが。
藻岩山の南で「藻南」のような気がしてます。
公園の名前が決まったあと、中の島・ふじの・もなみのヘルスセンターが
ある意味ブームになったり、子供の遠足の行き先が藻南公園だったりして、
「藻南」の名前がひろまったのではないでしょうか。
この地名に関しては、公園名発祥・地区の通称名説を勝手に唱えたいと思います。
194 :
西創成:2005/01/14(金) 08:37:57 ID:3FiVW5mw
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] そういえば、
「藻南」と付く施設や店舗というのは、
藻南交番〜川沿10-2交差点(旧国道230号と現国道230号石山バイバスとの交点)付近に
多く目立ちますね。
藻南交番・もなみ幼稚園・もなみ歯科・勤医協もなみ診療所・旧もなみヘルスセンターなど。
藻南橋(旧国道230)・藻南自動車学校もこの辺に近い位置にありますね。
195 :
牛鍋蝸牛:2005/01/14(金) 19:37:59 ID:KPnX6VUE
[ N045228.ppp.dion.ne.jp ] >>193>「藻南公園」という名前はたしか昭和24か5に公募で決まったはずなんですが。
その通りのようです。
ま、月並みで申し訳ありませんが、「さっぽろ文庫1 札幌地名考」の「藻南」から引用。
「藻南公園一帯は『ハッタ・ペッ』(渕の川)と呼ばれるように、断崖と深い渕がある。昔から"おいらん渕"、"かっぱの渕"、"かねこの渕"など多くの深い渕があり、景勝の地として知られてきた。
明治十年ごろ、成田山(南七西三)付近の某請負師に身請けされて連れてこられた花魁(おいらん)が、話と違いあまりの淋しさに東京に帰りたいと何度も申し出たが受け入れられず、遂にえん世の末身投げを決意し、着飾って本願寺道(山鼻から八垂別への道路)を通り渕に身を投じたところから、「おいらん渕」の名がある。
異説もあって、明治の初期から大正にかけて柾の木材は定山渓の奥で切り出し、豊平川を流送していた。この流送作業は大変な苦労を伴ったもので、藻南のあたりまで下ってくると親方がその労をねぎらい、『花魁でも買ってこい』と一円五〇銭か二円をくれた。これが地名の由来であるともいう。
このように、おいらんにまつわる多くの伝説が語り継がれて来た当時の豊平川は、激流が渦巻き、多くの入水自殺者を出した。時には遊泳中に水死する子供もいたので、昭和二十五年に地蔵尊を建立して冥福を祈った。
昭和八年ごろからこの景勝地をなんとかしようと地元の人の意志が盛り上がり、札幌市は十八年に健民公園として整備した。しかし戦時体制で遅れ、二十四年になって隣接地域も含めて造成開園された。一般市民から名称を募集し、一等一万円の賞金で藻南公園と名付けられた。交通も便利なところから、散策や炊事遠足などの人が多い。四十五年からは、毎年八月の最終日曜日に藻南公園祭が開かれている」
そして、「藻南」は「藻岩の南」で間違いないそうです。
「MONAMI」という響き、綴りは外国語にも通じますね。
「MONAMI」で検索してみると面白いですよ。
196 :
なまら名無し:2005/01/14(金) 20:09:13 ID:uS9PGfNA
[ i220-220-171-77.s02.a001.ap.plala.or.jp ] 油沢は既出ですか
197 :
なまら名無し:2005/01/14(金) 20:16:54 ID:Ooy.kb2M
[ YahooBB219041108049.bbtec.net ] 「MONAMI」を半ば無理に「モンアミ」と読ませていた施設もありましたね
198 :
18丁目:2005/01/14(金) 21:12:23 ID:brzZJQl2
[ p22219-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 私が小学生の時は、炊事遠足が藻南公園だったような。
そのときのバスガイドか先生が、花魁淵の話を聞かせてくれたような。
その後、友人と自転車で藻南公園まで行った事。
そして、「花魁淵」と「おいてけ掘り」が、記憶の中でないまぜになっていき、
中年になってから、改めて花魁淵は、貴重な札幌の民話だなと思い始めるのでした。
199 :
なまら名無し:2005/01/15(土) 16:30:53 ID:CTulhbkU
[ 161.184.150.220.ap.yournet.ne.jp ] 十五島公園というのは違いますか。じょうてつに乗って行った覚えあり。
藻南公園も覚えているけれど、そのときはバスだったような・・・
最初の遠足は円山でこれは市電に乗って行った。
帰ってから親に昔は円山でもどこでも学校から歩っていったものだと呆れられました。
200 :
日本合衆国大統領:2005/01/15(土) 16:34:21 ID:NY2L4I6A
[ 218-251-3-91.eonet.ne.jp ] 日本人3系
日本人は次の3つの人種に分類できる。
大和系
アイヌ系
琉球系
201 :
日本合衆国大統領:2005/01/15(土) 16:38:02 ID:NY2L4I6A
[ 218-251-3-91.eonet.ne.jp ] 千島県
もともと千島列島全域に、日本人の一種であるアイヌ系が住んでいたのだから、日本政府はロシア政府に対して、北方四島だけではなく千島列島全域の返還を求めるべきである。
千島列島全域に千島県を設定して欲しい。返還されるまでは暫定県域とし、返還後は正式に県政を施行するのがよいだろう。
千島県を4つの市に分ける。市名と市域は次の通り。
国後市:国後島、色丹島、歯舞諸島
択捉市:択捉島
新知市:新知郡、得撫郡
幌筵市:占守郡
県庁所在地は択捉市。
>>196「油沢」はちょこちょこと顔を出しておりますが、本格的に調査等はやっていません。
面白いネタがおありでしたら、是非よろしくお願いします。
炊事遠足を「藻南公園」、あるいは「十五島公園」で行うというのは、札幌市内の小学校全部がそうだったのでしょうか?
ワシはと言えば緑丘小学校だったのですが、幾度と無く両方の公園にお世話になりました。
以前書きましたように、ブッシュの上に乗った鳥(種類は分からず)の卵を発見したのが「藻南公園」で、初めて蜂に刺されたのが「十五島公園」です。
ところで、「炊事遠足」って、北海道だけのもののようですね。
東京では通じませんでした。
「花魁淵」の物語に関しては、小学生の頃から知っていました。
ただ当時、幼少の砌、ワシは花魁をどう理解していたのでしょう?
芸者と同じようなものだと思っていたのかもしれませんねぇ。
まぁ、ハリウッド程度の理解力ってことでしょうか。
花魁の物語に関しては諸説ありますが、手元に、かなり具体的な話が出ている本があったりするわけです。
真偽のほどは分からないとの注釈付きですが、ご紹介しましょう。
「さっぽろ・むかしむかし」(大西泰久著 富士書院 1989年 「札幌百点」のちの「月刊さっぽろ」(財界さっぽろ発行)に昭和35年から連載されたコラムをまとめたもの)の、「第十九話 花魁が崖から身投げした話し」(昭和36年8月)から、かなり長いので要約。
「明治二十四年頃、狸小路近くにあった、ある1軒の呉服屋がその舞台。
主人の藤田為右衛門に先立たれた妻のお豊は、さみしさをまぎわらすため義太夫を習うことにした。
ところがお豊は義太夫の師匠「紋之助」といい仲になってしまい、終いには紋之助を「藤田幸三」と名乗らせ、三味線の店を出してしまうという入れようであった。
家業を継いでいたお豊の息子、為一は母親の私生活を見せ付けられ、親に対する反抗か、はたまた血筋というものか、これまた放蕩に身をくずし、吉原の花魁を身請けしてしまうのであった。
<つづく>
203 :
18丁目:2005/01/16(日) 12:02:51 ID:yXeUbDrg
[ p22219-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 「北の零年」公開初日に観てまいりました。
倒幕派の稲田家にして、あの仕打ちですから、その頃の時流が
北海道移民にあたえた運命には相当過酷なものがあったと感じます。
札幌、戸長役場、開拓使、戸籍、アイヌなど、このスレ住人にはお馴染み
の言葉も多々出てきます。
個人的に面白かったのが、アイヌが北極星マークの瓶ビールで酔うシーン。
年代的には、開拓使麦酒醸造所(サッポロビールの前身)のものを時代考証したのでしょう。
皆様にも観て貰いたい一品です。
204 :
元東月寒人@琴似:2005/01/16(日) 15:42:24 ID:hKPV16sQ
[ snjk019k079.ppp.infoweb.ne.jp ]
205 :
k:2005/01/16(日) 18:18:08 ID:FZHnolJA
[ customer71-242.mni.ne.jp ] >>196 炊事遠足を「藻南公園」、あるいは「十五島公園」で行うというのは、
札幌市内の小学校全部がそうだったのでしょうか 。
私は桑園小学校(入学したときは、国民学校)でしたが、「藻南公園」も
「十五島公園」行ったことはありません。当時(昭和22-23年頃)炊事遠足
といえば、発寒川の川原にきまっていました。今でいえばR4旧道の発寒川
橋の上流側あたりに石がごろごろした川原があり、ここへ学校から歩いて
行ったと記憶しています。
さらに、藻南公園は確かに昭和24,25年頃からそのように呼ばれるように
なったものです。それが公募であったかどうかはよく知りません。
206 :
文化人類学:2005/01/16(日) 18:25:24 ID:zt.eQz32
[ i220-220-204-203.s02.a001.ap.plala.or.jp ] 十五島公園炊事遠足いきました。藻南公園は親子レクでジンギスカンしました。
炊事遠足のこと道東では川狩りとかいうらしいです。
ちなみにわたしが昔住んでた山形では芋煮会といってました。
ちなみに北海道では豚汁かジンギスカンが多いようです。
207 :
18丁目:2005/01/16(日) 19:27:41 ID:yXeUbDrg
[ p22219-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>206芋煮会、一度は経験してみたいと思っていました。
東北では仙台国分町で飲みあげたことと、山形県南陽市赤湯温泉で湯につかり、
おいしいラーメン食べた記憶があります。
何はともあれ、
>>202の続きを…。
「困り果てているお豊だが意見も出来ず、為一はとうとう店を閉めてしまう。
花魁を自宅に囲ってから為一は、昼夜をいとわずその花魁を熱愛し続ける。
しかし、ある雨の夜に花魁は姿を消してしまい、十日目に札幌の南端、八垂別の深い水のよどみに女の溺死体が上がる。
溺死体の顔は見分けがつかなかったものの、着物は間違いなくその花魁が着てきたものであった」
とまぁ、こんな話なのですが、本スレには珍しく艶っぽいエピソードではあります。
ただ、印象としてはちょっと出来過ぎのような感じがします。
細かいことですが、花魁を薄野からではなく、東京の吉原からというのも引っかかりますね。
実際にはサバンナに住むのであり得ないのですが、言い伝えでは、獅子は千尋の谷底に自らの子を突き落とし、這い登ってきた子だけを育てると聞いております。
では、もし、花魁ではなく獅子が豊平川に飛び込んでいたら…。
「花魁淵」とは呼ばれずに、「ライオン淵」と言い伝えられたのでしょうねぇ。
い、いかん。
飲みすぎた…。
>>204「さっぽろ藻岩郷土史 八垂別」は何度も借りているのですが、見落としていました。
「九万坪」と記された所、現在の「藻岩下3丁目」辺りでしょうか。
今度、原本をよ〜く見てみます。
>>205「藻南公園」、「十五島公園」となりますと札幌の中心部から行くには、何らかの交通機関に頼らざるを得ませんものね。
>>199さんの仰るとおり、まぁ距離は遠いですが、当時「十五島公園」なら定鉄を使えばなんとかなりそうですが、「藻南公園」となるとバスしかないわけでしょうし。
札幌中の学校ではと行かなかったかもしれません。
ところで、炊事遠足ってどういう経緯で出来たものなのでしょう。
戦前からあったのかな。
>>206文化人類学さん、そのメニューにカレーとチャーハンも付け加えて置いてください。
ウチの学校(担任か?)では、ジンギスカンは調理(炊事)と見なされていなかったような記憶があります。
禁止ではなかったですが(w
山形の「芋煮会」は里芋ですね。
「花魁淵」に関しまして、山崎長吉氏の「さっぽろ歴史散歩」(北海道出版企画センター)にちょっと面白いことが書いてありました。
>>209の自レス、
>事遠足ってどういう経緯で出来たものなのでしょう。
>戦前からあったのかな。
の答えらしきことも書かれていますし、kさんの発寒川の炊事遠足のことにも触れられていました。
「藻南公園の整備は、豊平川の減水によって本格的に開始され、両岸に諸施設を作った。対岸柏ヶ丘の丘陵へは石山陵橋までう回しなければ越えられなかったので、昭和三十年ごろロープウェイの設置を計画されたこともあった。
おいらん淵は戦前、戦後の食糧事情のよくないころ盛んに炊事遠足が行われた。当時花魁淵と発寒川沿いが最もにぎやかであった」
ほっほ〜、なるほどねぇ。
211 :
元東月寒人@琴似:2005/01/17(月) 22:55:50 ID:Qs7XKB3c
[ snjk006k047.ppp.infoweb.ne.jp ]
「藻南公園のロープウェイ」というのも見てみたかったような気もしますが、こいつは過大投資でしょう。
「炊事遠足」は予想通り、食糧難というのがキーワードのようです。
しかし、ほぼ北海道限定らしいのです。
あまりに食糧事情が悪ければ炊事遠足さえ出来なかったはずですから、北海道はまだ良かった方なのかも知れません。
「さっぽろ歴史散歩 山の辺の道 定山渓紀行」の注釈の項に、「北海道の伝説花魁淵地名伝説」というものが載っておりました。
1970年第一回藻南公園まつり実行委員会の文章らしいです。
「おいらんぶち(花魁淵)の由来
右手花壇広場の崖下に佇立している岩の付近をおいらん淵という。この淵、豊平川の流れの中でも最も深く、その昔は清らかなよどみであった。
明治の末頃、吉原より身請けされて来たおいらんが話しと違うあまりの淋しさに世をはかなみ着飾って身を投じ、短く哀しい一生を終えたという話から、おいらん淵といわれるようになった。
しかしその話は伝説的に語りつがれてきたものであり、異説もあるが大要にかわりない。いずれにせよ、この淵あたりをじっと眺めていると、その昔おいらんという不幸な運命を背負った女性が身を投じたという話の実感がこもっている」
213 :
なまら名無し:2005/01/18(火) 19:24:00 ID:hJGOcYKQ
[ P222013037219.ppp.prin.ne.jp ] >>203初代北大総長佐藤昌介の息子の1人が、稲田家を継いだはず・・・(スレ違いスマソ)
214 :
元東月寒人@琴似:2005/01/19(水) 21:47:19 ID:fa00ygLU
[ snjk018k057.ppp.infoweb.ne.jp ]
215 :
牛鍋蝸牛:2005/01/19(水) 23:12:38 ID:NyNNYqB6
[ U122024.ppp.dion.ne.jp ] 昨日、「藻南公園」付近へ行ってみたのですが、あきませんなぁ、冬は…。
当たり前ですが、もう雪だらけでした。
>>208で、花魁が吉原から来たというのはどうだろか?とワシは書きましたが、今のところどれを見ても「吉原から」となっているようです。
札幌から吉原に通って、しかも「花魁」を身請けするというのはかなりの財力がなければ無理。
飛行機があったわけじゃないし、ましてや花魁と遊女とは訳が違うし。
「さっぽろ文庫」に「川の風景」って巻がありますが、そこから引用いたします。
「海底火山の堆積物の藻南公園
豊平川は、藻南公園にくると川幅も広がり、川岸には古い川の跡であるところの河岸段丘が何段も見られるようになる。
川床には、かつて、海底であったとき、海底火山から噴出した溶岩が海水に急冷却したために、溶岩がバラバラに破砕されたり、溶岩の塊は周りの海水から急冷した結果、放射状の割れ目をつくっているものが火山灰に取り囲まれて、固まった岩石がみられる。
このような集塊岩は、塊の周りから浸食されて、不規則な川床ができる。窪みに石が入り流れに回されて円形の穴ができる。ポットホールというものである」
花魁が飛び込んだのは、この「ポットホール」ってやつだったのでしょうかねぇ。
216 :
元東月寒人@琴似:2005/01/20(木) 23:31:10 ID:BSIp0r0s
[ snjk017k087.ppp.infoweb.ne.jp ] おいらん豆、おいらん焼。お買い求めは藻南公園で。
http://groups.msn.com/kotoni/mudai.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=58牛鍋蝸牛さんの書き込みから、おいらんぶち(花魁淵)バリエーションを抜き出しました。
明治十年ごろ、成田山(南七西三)付近の某請負師に身請けされて連れてこられた花魁が渕に身を投じた(「さっぽろ文庫1 札幌地名考」)
明治の初期から大正にかけての木材流送作業で、藻南のあたりまで下ってくると親方がその労をねぎらい、『花魁でも買ってこい』(「さっぽろ文庫1 札幌地名考」)
明治二十四年頃、狸小路近くにあった、呉服屋が吉原の花魁を身請けしてしまう。ある雨の夜に花魁は姿を消してしまい(「さっぽろ・むかしむかし」)
明治の末頃、吉原より身請けされて来たおいらんが話しと違うあまりの淋しさに世をはかなみ着飾って身を投じ(「さっぽろ歴史散歩」)
http://groups.msn.com/kotoni/mudai.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=58「おいらん豆」、「おいらん焼」って初めて知りました。
今も売っているのでありましょうか?
でありますならば、一度ご相伴に与りたいものだと、かように考えております。
ワシ、辛いものも甘いものも、結構イケる口でございますからにして…。
しかし、なんですなぁ。
ポットホールに身を投げた女性は、正確には"元"花魁なわけですが、身請けされ足を洗い、そして死んでしまってからまでも「花魁」と呼ばれ続けた訳ですねぇ。
「哀れな話だなぁ…」と昔、CMで山口瞳氏がつぶやいていたのを思い出しちまいましたぜ。
さて、「花魁淵」も煮詰まってきましたし、月琴さんがまとめてくれておりますので、ワシとしては中〆といたします。
ただ、出来ますものなら「藻南地区」に付きまして、まだまだやりたいと思います。
さて、話しは遡りますが、「石狩市花川南」に存在した「スカンジナビア館」の調査を勝手にいたしたことがございました。
発端は神奈川県に在住のgtmさんのレスから…。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/14_log.html#221ワシも石狩の「スカンジナビア館」のオーナーであって、新札幌団地の開発母体であった「内外緑地(後のユー&アイ・マツザカ)」の元社員さんにお会いしたりして多少のご協力もいたしました。
その後、gtmさんから興味深い新たな資料を送っていただいたりしておりましたが、このほど、めでたくgtmさんのHP「小田原建築探偵」に、「幻のスカンジナビア館」と銘打ちましてその結果がアップされました。
ここまで詳しい、万博後のスカンジナビア館は今まで語られたことがないはずです。
これは絶対です。
労作です。
と言うわけで、気になる方、是非ご覧下さい。
なお、ワシの調査の際、フィンランド人と聞き及んでおりましたコンパニオン嬢はその実、デンマーク人であったとのことです。
マンマンチャ、アッ!
http://www5.plala.or.jp/GTM/index.html
218 :
なまら名無し:2005/01/22(土) 13:15:30 ID:B2A18URU
[ d252099.ppp.asahi-net.or.jp ] >>217スカンジナビヤ・パビリオン、懐かしいですね。
当時、手稲の滝見町在住でしたが、町内会か何かで花畔のパビリオンに行きました。
頭の中では茨戸のハワイセンターとごっちゃでしたが、gtmさんのサイトを見て、
頭の中がクリアになりました。
219 :
牛鍋蝸牛:2005/01/24(月) 22:09:39 ID:zw50q0sU
[ y064122.ppp.dion.ne.jp ] いっや〜、雪も多いしとても寒いし、実地調査も思うようになりません。
スレも沈みがちなので、テーマ変えましょうか?
何かいいネタありますか?
220 :
横丁:2005/01/25(火) 09:17:31 ID:vvyaa8a2
[ p1052-dpe02hon.tokyo.ocn.ne.jp ] 新ネタとしては弱いかもしれませんが・・・。
「北十八条西1丁目」が無くなったのはご存知でしょうか?
(ネタ元はとある個人サイトなのですが・・・)。
「北十九条西1丁目」はもともと無かったようなのですが、
「北十八条西1丁目」はこれまで存在していたのに、昨年の9月に
「北十八条西2丁目」に吸収されて消えてしまったらしいのです。
各社の地図サイトを見てみると「北十八条西1丁目」はあったりなかったりと
まちまちなのですが、この地名・住所に該当する(していた)部分は、
雁来町よろしく道路や歩道部分と思われるのです。
現地の交差点の住所表示には昨年の9月以降に設置されたものであるにも関わらず
「北十八条西1丁目」の表示があったり(ここに限らず信号機下の住所表示は
結構いいかげんですが・・・)、またそもそも何のために実質的に道路部分しかない
のに条丁をふったのかなどいろいろ気になっております。
>>220その個人サイトって、「札幌の風景」というブログですね。
今、チラッとだけ拝見しましたが、タイトルとおり「札幌の風景」がたくさん載ってますね。
「札幌市の地域別人口」
http://www.city.sapporo.jp/kikakuchosa/statdata/ の「第6表 町名・条丁目別世帯数及び人口」では、平成10年10月1日時点、すでに「北区北18条西1丁目」という表示はありません。
しかし、Mapfan.netで検索すると表示しますし、昭文社のエリアマップ「札幌市」の1988、87年版にも表記されています。
確かに「創成川通」、今は広くなっていますが、昔は狭かったでしょうから「北18条西1丁目」はそれなりの面積を持っていたのかもしれませんね。
で、ちょっと気になったのですが、「創成川通」って「北41条」の北側から「石狩街道」とも呼ばれるようになるのでしょうか?
Mapfan.netでは、そこを境に「石狩街道」と「創成川通」が併記されているのです。
222 :
なまら名無し:2005/01/25(火) 23:05:37 ID:hJm4nFk.
[ p7139-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 創成川通
北区、東区の住人でこの名で呼ぶ人にあったことありません。
札幌の人のほとんどは、石狩街道と呼んでいる気がしますが、本州からの
転勤者などはよく創成川通と呼んでいる気がします。
気のせいでしょうか。
223 :
北栄:2005/01/26(水) 00:01:48 ID:lfus44IQ
[ EATcf-514p20.ppp15.odn.ne.jp ] 石狩街道→愛称、通称名
創成川通→通りの名前(都市計画で付けられる名前?)
正式には北1条から国道5号、北34条から231号となっていますね。
あと、他の地図サイトでは国道12号と5号のぶつかる北1西1の交差点から
石狩街道と創成川通の名称を併記しています。
タクシーに乗った時なんかは「北〇〇東1」というよりも
「旧石狩街道沿いの〇〇あたり」といった方が話が通りやすいですね。
「創成川通」という呼び方をワシが知ったのは、平成になってから。
東京から帰ってきて、久々に札幌の地図を見たときです。
「石狩街道」の方が一般的に通りは良いように思います。
ただ、「石狩」というと、札幌駅より南方面では違和感があるようにも思えます。
川もややこしいけど、道の呼び名も分かりにくいところが多いですね。
ところで、最近発行された「北の道づくり」(北海道新聞社編)って本があります。
この本、北海道の道を題材にしているだけあって、序章「北見豪雪からみえるもの」から始まり、第1章から第3章までは「除雪」、「雪に強い道」、「ツルツル路面」と冬の道についての記述が続きます。
「第1章 除雪」ではこのように書かれています。
「北海道の冬道が郊外まで除雪されるようになったのは、昭和三十年代に入ってのことだ。それまでは、札幌などで限定的に除雪が行われていた他は、道路から雪を排除するという意味での除雪はほとんどなかった」
札幌の除雪は、道内他地域より進んでいたようですが、どこらがどう除雪されていたのか興味があります。
同書にも面白い話が載っていますし、手元には多少ですが資料がありますので、ちょっと調べてみようかなと思っています。
225 :
札苗線:2005/01/27(木) 19:15:31 ID:ukfCt2x6
[ ZD049170.ppp.dion.ne.jp ] >224
私も東区住民ですが、中心部では「創成川通」、JRより北だと大体「石狩街道」と言ってますね。
時によっては「街道」と略する事もあります。この通称は明治時代からあるらしいです。
それと手元のマップルには「北18条西1丁目」にセイコーマートとかあるように見えるのですが・・・
住居表示をしたついでに整理したようですね。
ああ、今年は雪が多すぎる・・・今年の東区の積雪量は市内トップだそうです。
226 :
西創成:2005/01/27(木) 22:27:16 ID:EslWBz3E
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] 全然関係ないのですが、
昨日、藤野2-6・十五島生協となりのコスモ石油スタンドの前に、
「十五島」という国道地名表示板をみつけました。
「十五島」という表記も「藻南」と同じくなんだかオカシイです。
227 :
底なし沼:2005/01/28(金) 00:18:34 ID:YKVS1oHI
[ i222-150-60-26.s04.a001.ap.plala.or.jp ] 冷水。懐かしい名前ですね。ここのところあまり使っていませんね。
私も近くに住んでいましたもので。
あの名前の場所は、「H林檎園」のことでしょうね。
>>225「マップル」ではないのですが、先日購入した同じ昭文社の「札幌 街の達人でっか字便利情報地図」でも、「セイコマ」と「札幌北クリニック」が同住所にあるように記載されています。
>>226「十五島」って書いてありましたか。
「藻南」以上に妙ですなぁ。
例えば、世の中に「仲良し公園」ってたくさんありますけど、だからってその地域を「仲良し」とは呼ばないもんね。
>>227底なし沼さん、こんばんは。
そういえばワシが子供の頃は、あちこちに底なし沼がありました。
ま、ちょっとでもぬかったところは、どこでも「底なし沼だ〜!」と言って喜んでいたんですけどね。
最近、大きなネタがないので、「石狩川」とか「百合が原公園」で写真を撮って遊んでいる牛鍋蝸牛でした。
充電期間ってやつかな。
229 :
底なし沼:2005/01/29(土) 01:20:52 ID:W2sTLCQg
[ i60-35-183-101.s04.a001.ap.plala.or.jp ] >>226十五島。これも調べればわかると思いますが、中州が十五あったことから出て
きていると聞いています。
私も中学のころ、炊事遠足で行きました。
その年ある中学で、ダムの出水で生徒が亡くなる事故がありましたっけ。
230 :
西創成:2005/01/29(土) 19:11:33 ID:6AegPVhY
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>229底なし沼さんはじめまして。
たしかに「十五島公園」の地名由来はそのとおりだと思いますが、
国道の地名表記板が「十五島」だとオカシイなぁと思ったわけです。
バス停名称や旧定鉄の駅名から来ているものなのでしょうか。
「藻南」「十五島」とも旧式の看板なんですが・・。
西創成さん。
どうやら「十五島」って地名、もともとあるようです。
公園ありきの「十五島」ではなく、「十五島」ありきの公園だそうです。
ワシも勘違いしていました。
「十五島は、昭和二十九年に『十五島公園』としたことにより知られるようになった。元来ここは炊事遠足の場として親しまれてきたところである。十五島は島のように岩石が散在していることによるものであるが、かつてはそれが木材流送に支障があるところから川中の岩石を爆破してその面影を薄めてしまった。(略)
豊平川の水量調節のため上流で堰をはずすことがある。そうすると下流では一挙に増水する。今はマイクでそれを予告するが以前は十五島でそのために犠牲者が出たこともあった」
「さっぽろ歴史散歩」(山崎長吉 北海道出版企画センター)
ここでいう犠牲者とは、昭和48年10月16日に事故に遭った柏丘中学校の二名の生徒です。
同公園には慰霊碑があるそうです。
そして藤野地区では、平成2年12月、藤野小学校の二名の生徒が行方不明になり、翌年の春にカウボーイの裏手で残雪の中から遺体が発見されるという事件がありました。
子供が犠牲になる事件・事故というのは最近富みに増えてきていますが、痛ましいものですなぁ。
232 :
西創成:2005/01/29(土) 22:26:17 ID:6AegPVhY
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>231なるほど。元々ある地名ですか。
勉強になりました。
ところで、開発局はなんでこのような看板を作ったのでしょうか。
製作年月は、「藻南」が、昭和50年代はじめ頃。
「十五島」が、その数年後と思われるのですがねぇ。
昔(そうねぇ、四半世紀ほど前)、仕事で道南のある地方に行き、農協の係長をクルマの助手席に乗せて走っていると、
その係長は飲んだジュースの空き缶を窓からポンポンと捨てました。
「えっえ〜!」と驚くワシに、係長はこう言ってのけました。
「開発局は仕事が無いから、仕事作ってやらなきゃなぁ」
ま、こんなエピソードを、思い出してしまいました。
では、おやすみなさい。
234 :
元東月寒人@琴似:2005/01/31(月) 22:55:13 ID:FYtQNPys
[ snjk018k031.ppp.infoweb.ne.jp ] 定山渓鉄道について調べているんですが、なかなか良い資料ないです。車両ではなく、沿線情報が知りたいのですが、会社のパンフレットくらいしかありませんでした。
ただ、その過程で面白いものを見つけました。道路に関するものですが、朝里峠通年開通記念として、近いうちに書き込みたいと思ってます。
>>234朝里峠通年開通記念カキコ、たのしみにしております。
ところで、定山渓鉄道の沿線情報とは具体的にどのようなことでしょう?
もし分かることがあればと思いまして…。
そうそう、「十五島公園」にも停留場があったんですね。
で、春になったら川を渡った、「白川」をやりたいなぁ〜と思っております。
236 :
なまら名無し:2005/02/01(火) 02:38:19 ID:AzS9X26o
[ IP1A1253.hkd.mesh.ad.jp ] ちょっと、スレ違いかもしれませんが。。。
「茨戸ハワイランド」って施設を知ってる方いませんか?
大昔(25年程前)に茨戸園をちょっと超えた旧石狩街道沿いにあったはずなんですが。
当時、幼稚園バスに揺られながらその茨戸ハワイランドの廃墟(当時にしてすでに廃墟!)を眺めたもんです。
何か情報知ってる人いたら教えて下さい
あぼーん
238 :
元東月寒人@琴似:2005/02/01(火) 10:41:32 ID:5z45uBrs
[ snjk028k053.ppp.infoweb.ne.jp ] >>235定山渓鉄道の駅位置や経路の選定過程、ネタになりそうな沿線情報がないかと資料をあたってます。
ところで、高速を除く道内の有料自動車道路のうち、私が走った事があるのは、藻岩山と支笏湖ですが、昭和初期にも有料道路が存在しました。その案内冊子を見たのですが、そこには「いく代舞踊部」も登場します。
有料道路の詳細は後日にしますが、これについての資料も探索中です。
北18西2のセイコーマートに行って店員さんに聞いてみましたが、信号の住所表示が北18西1なのは知らない様子でした。札幌市の地域別人口のページは、0人の場所が表示されていないので、実際の町名がどうなったかで確認する必要あります。
十五島ですが、藤野に「丸重吾の沢」がありますね。「じゅうご」の読みが同じですが関係はないようです。
道路の表示は不可思議です。「藻南公園」「十五島公園」と表示するなら分かりますが。
>>236「茨戸ハワイランド」行ったことありますが、幼稚園の頃でしたからほとんど記憶ありません。牛乳びんのフタを大量にもらって帰ったという記憶だけです。
239 :
おとっつあん:2005/02/01(火) 14:44:55 ID:VjdEXc5g
[ i60-35-235-42.s02.a001.ap.plala.or.jp ] >236
昭和45年頃いきました。
プールサイドの床がピンクのコンクリートでしたが、
行った時にたまたまボイラーが不調で、
かなり寒くて凍えてしまった事を覚えております。
つぶれた時に子供心にもアレはつぶれるなぁ、と、思いました。
その頃つぶれたのは他にも樽前ハイランドとか。
建物の廃虚自体は昭和63年ぐらいにはまだ残っていましたけど。
月琴さん。
ウチにある本で、「定山渓鉄道」のことが少しでも書いてあるものを探してみましたら、10冊以上ありました。
探せばまだあるかもしれません。
でも、あまり資料が多いと、どこから手を付けて良いのか迷うものです。
どうしましょう。
>>236さん。
「茨戸ハワイランド」に関しての本は、ウチに1冊だけありました。
例の「スカンジナビア館」の際に触れました「石狩百話」(共同文化社)です。
結構詳しいです。
引用して書きましょうか?
「スカンジナビア館」の「内外レジャーランド」も「茨戸ハワイアンランド」も、出来たのは昭和44年だそうです。
「石狩百話」は現行本ですから、新本屋さんで手に入ります。
注文の際、「石狩挽歌」って間違って言わないようにしましょうね。(って書くと、間違える人がいそうで楽しみ♪)
お値段は2,200円。
ちなみにワシは某チェーン店(G)で古書(美本)を100円で買いました。
実は、雪かきのせいでしょうか、10日ほど前から後背筋を痛めておりまして整骨院通いです。
そんな訳で、どうもイマイチ気力が湧かないでおります。とほほ。
241 :
なまら名無し:2005/02/02(水) 09:49:17 ID:P5vkKjA6
[ airh128022221.mobile.ppp.infoweb.ne.jp ] >>240茨戸ハワイランド→スカンジナビア館という行程で町内会の旅行に行きました。
子どもの頃のことで印象が強烈だったのですが、かなりマイナーな施設だったんですね。
同種の施設で常磐ハワイランドがありますが、こちらは今では「スパリゾートハワイアンズ」と
名前を変えて、東京駅発着の高速送迎バスで栄えています。発着場で見かけると台湾とか
韓国あたりからの観光客を誘致しているようですね。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
まずは、「茨戸ハワイランド」に関して。
「石狩百話」の記事を紹介します。
「第九十二話『番屋の湯』前史−二つの温泉レジャーランド始末記」から「茨戸ハワイランド」に関係するところを抜粋。
「花川南団地に内外レジャーランド、花畔地区に茨戸ハワイランドの二つのレジャーラン施設が民間企業の手で開設されたのは、昭和四十四年(1969年)のことである」
あ、今気が付いたけど、「茨戸ハワイランド」って「花畔」、つまりは石狩市にあったんだね!
札幌だと思い込んでいました。
「(略)一方、茨戸観光のハワイレジャーランド(浅野惣市社長)は、茨戸公園隣の花畔九十三番地に四月オープン。"南の国、ハワイがそのまま引っ越してきた"をキャッチフレーズにした。
ヤシの葉や熱帯植物にかこまれた五十メートルの大温水プールと、高さ十一メートルのウォーターシュートが人気。ステージでは連日華やかにフラダンスが繰り広げられる。一階には遊戯場、名店飲食コーナー、喫茶部と、千人が収容できる大広間、ティーカップ・メリーゴーランドもある。
専属に民謡歌手、白川軍八郎と函青くに子一行二十名数名や、フラダンスを踊るダンシングチームを抱えていた。
入館料は大人が三百五十円で小学生は二百五十円、幼児は百五十円であった」
まだあるよ〜。
>>250の続き。
「隣に建つ白鳥閣は一年前から営業、宿泊施設と大浴場があり、同系列の経営。入浴だけなら大人百円、宿泊料は一泊二食付き千五百円から。食事は一人前三百円のジンギスカンがおいしいと大評判だった。
レジャーランドで出演が終わった芸能人は白鳥閣に宿泊する。仲居をしていた渡辺美智代は、
『青木光一や曽根四郎などスター級の歌手が泊まりましたよ。それに当時、テレビで中山千夏の出演する脱線ゲームも、ハワイランドで録画どりしましたしねぇ。いまのテルメにやや似ているかな?』
白鳥閣とレジャーランドには百五人の従業員が働いていた。オープン当時は、プールも大広間も満員。とくに日曜日は全館がお客で埋まった。白鳥閣のほうは地元農協の忘年会や新年会に利用され、役場でも会議や打ち合わせ場所として利用した。
またハワイランドは道内の地方の利用者が多く、ハワイに行ったような気分で満足して帰るのだった。
昭和四十四年(オープン時から昭和四十五年一月まで)の入館者数は四十五万人、一日最高で一万人もの入館者があったというから、順調なスタートだった」
まだあるです。
252 :
西創成:2005/02/02(水) 21:52:05 ID:PFAM7nxw
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] ♪ゴメが鳴くから〜ニシンが来ると〜(唄 北原ミレイ)
>>234 車輌は関係ないようですが、18年前位に青森の三沢駅で十和田市ゆき電車に乗ったときに、
この電車は、あんたと同じ札幌の定鉄から来たやつだと教えてくれた人がいました。
今でもあるのでしょうか。
朝里峠といえば、「定山渓観光自動車」の絡みの件ですか。楽しみにしています。
>>238藤野の古い地名[丸重吾の沢」
オカパルシ川流域は「マルジュウゴボシ」という屋号の石狩の大漁師が、
船をつくる木材を切り出したことにはじまったため「丸重吾の沢」とこの付近をいう。
大正7年定鉄開業。「藤ノ沢駅」開設。
この駅名は、鉄道用地を寄付した加藤岩吉と小沢清之助の両人の名をとったもの。
昭和4年部落名改正により「丸重吾」→「藤ノ沢」になった。(みなみ区ふるさと小百科から要約)
>>239この年代、レジャーランド類が出来てはつぶれていますね。
・洞爺サマーランド、洞爺サマー牧場、ウトナイ遊園地、ジョイランド樽前、
北海道スピードウエイ、TBS樽前ハイランドなど
253 :
西創成:2005/02/02(水) 21:58:27 ID:PFAM7nxw
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] そういえば、定鉄の残存品などは「定山渓郷土資料館」(定山渓小学校、旧図書館跡)にあります。
そうそう、無くなったレジャーランドに「定山渓自然公園太陽の里」(現定山渓パーキングエリア付近)もありました。
さて、ここで一息。
なぜ当時の石狩町に、このようなレジャーランドが同時に二つも出来たのでしょう?
昭和44年(1969)と言いますと、高度経済成長の後半期です。
もう、イケイケ、ノリノリの状態ですわな。
「♪サラリーマンは〜 気楽な家業と来たも〜んだ!」ってな具合。
茨戸・石狩地区は川と海があり、古くからリゾート地として札幌市民に利用されていましたので、レジャー産業を営業する上で、イメージ的にも都合のよい場所だったのかも知れません。
例の「札北馬鉄」だって、海水浴客を運んでいたのです。
ま、それもこれも昭和48年(1973)の第一次オイルショックによって終焉を迎えるわけです。
オイルショックの影響を受けなかった企業は無かったとは思いますが、特にレジャー産業にとってこいつは痛手だったでしょう。
「定山渓鉄道」、やりたいのですけど、今手が離せない…。
255 :
西創成:2005/02/02(水) 22:17:39 ID:PFAM7nxw
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>252「定山渓観光自動車」のちの「小樽定山渓観光自動車道(株)」
「茨戸ハワイランド」のあった、「石狩町花畔93番地」という住所表示は、今はないようですね。
現在は「石狩市花川東」となっているようです。
なんかヒロシみたいですが、
「茨戸ハワイランド」がどこにあったのか、正確な位置が分かりません!
さて、この辺りに札幌市の「茨戸下水処理場」があります。
札幌の施設なのに石狩市にあるんですね。
そういえば、「屯田墓地」も札幌市のものだけど石狩にある…。
これじゃ何がどうなっているのか、わからんとです!
257 :
元東月寒人@琴似:2005/02/02(水) 22:44:28 ID:7CMBHL8.
[ snjk020k054.ppp.infoweb.ne.jp ] >>240駅が定山渓付近に固まっているのと、平岸には最後まで駅ができなかったのに引かれ、定山渓鉄道沿線でこのスレに会うネタは無いかと探しているところです。
>>252十和田観光電鉄は平成2年までのようです(NEKO MOOK「消えた轍」より)。私の幼い記憶では、定鉄に青いのが走っていたのですが、やっとこの本で巡り会えました。
朝里峠は「小樽定山渓自動車道株式会社」なる会社の昭和14年の小冊子です。
ウトナイ遊園地は開業中に行ったことあります。ジョイランド樽前、北海道スピードウエイ、TBS樽前ハイランドは跡地に遊びに行っただけですが面白かったです。シベリアタイガーパークなる場所もかつてあったとか。
定山渓自然公園太陽の里は知りませんでした。山部太陽の里なら行った事ありますが。
番号かなり飛んでいますね。
258 :
なまら名無し:2005/02/02(水) 23:12:59 ID:6x/YMClU
[ i60-43-29-228.s04.a001.ap.plala.or.jp ] 俺がガキの頃、札幌にはまだまだ家族で温水プールなんかで遊ぶ施設なんかなくて
オヤジが休みの日「どこに行きたい」と聞かれると茨戸ハワイランドと答えていたな。
あの体育館のような建物の東側が入り口で入って左半分より少し多いぐらいが温水プール、
右側が大広間で午前10時ぐらいからと午後2時ぐらいから、夕方5時ぐらいからの3回フラダンスショーが行われていた。
午前中から遊びに行ってプールで遊び遅い昼ご飯食べながらフラダンスショーを見たな、
後、たまに芦別レジャーランドみたいにあまり有名じゃあないような演歌歌手なんかが来てキャンペーンのステージが有った。
その後またプールで遊び、中央バスの札幌駅北口行きバスの発車を待っていると夕方のショーが始まるぐらいの時間だった。
あれ、スカンジナビア館なんて結構有名かと思ってた、
37年ぐらい前、今では真駒内公園になっている場所にゴルフ場がありその場所を札幌市が回収して北海道博覧会が行われた。
その際使われたスカンジナビア館を石狩町が買い取り、町で観光施設に改修して使っていたが老朽化したため小樽市に払い下げられ
今はハローズになっている場所に20年前ぐらいまでは有ったのだがたぶん立て壊してハローズになったと記憶している。
定山渓鉄道、懐かしいね。
俺の母親が国立南療養所の看護婦してたんで幼稚園の頃の俺も何回か連れて行かれたな。
その後も小学生時代にも日曜勤務の時に何度も連れて行かれたな、
昔は定山渓温泉に行くにも定鉄が当たり前だった、簾舞の断崖を通る時は絶景だった記憶がある。
そのころ俺は真駒内曙町に住んでいたが定鉄に乗ると言うと自衛隊11師団の中を通してもらえたぞ。
昔は近所の子供は平気で戦車や装甲車に乗せてもらった。
定鉄の事は札幌文庫なんかにも書いてあるし、廃線になった後の鉄路なんかもよく探険に行ったが警察学校から石山陸橋にかけては登りがきつかったな。
そのうち地下鉄を作るからと立ち入り禁止になったが今でもショボく路線後が残ってるぞ。
259 :
なまら名無し:2005/02/02(水) 23:22:38 ID:6x/YMClU
[ i60-43-29-228.s04.a001.ap.plala.or.jp ] ついでに書き込むと十五島は昔、定鉄の駅がもっと川沿いにあったときそのような名前
だったのでバス転換後も十五島としたが、
紛らわしいので「十五島公園入り口」となった時期があった(俺も記憶している)が定鉄の記憶も薄れ、
分かりやすさから十五島になったと聞いたぞ。
261 :
なまら名無し:2005/02/02(水) 23:51:14 ID:6x/YMClU
[ i60-43-29-228.s04.a001.ap.plala.or.jp ] 258です。
そういわれると記憶違いかな?
道博の時に移設された建物は違う建物だったのかな?
何て感じになってきました。
余計混乱させるような書き込みですいませんでした。
262 :
西創成:2005/02/03(木) 23:59:40 ID:IGVSaW56
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>257平岸には、定鉄バスの系統は結構あったようですが、
鉄道の駅は最後までありませんね。平岸〜澄川の境付近の勾配の都合でしょうか。
定山渓市街には「錦橋」「白糸の滝」「定山渓」と近い間隔で
駅・停留所がたしかにあります。
それと十和田観光電鉄にいた旧定鉄車輌はもうないのですか。
>スカンジナビア館
これって、内外緑地(株)が誇る「新札幌団地」のシンボル的施設なんでしょうねぇ。
>>258定鉄の線路跡地とトンネル(石切山隋道)を使って出来たのが、
今、石山→機動隊前の一方通行になってる、石山陸橋の下の地下をくぐる道ですよね。
そうそう、芦別レジャーランドって昔ながらの保養センター・ヘルスセンターの営業ですな。
演歌ショウなんかやっていて。本間興業がロシヤボリジョイサーカス公演なんかも
やりそうな感じで・・(旭川・本間興業ってもうないか)
いま、ここ名前変わって「北の都芦別」ていうそうですよ。
あいさつ遅れましたが、今後とも宜しくお願いします。
264 :
元東月寒人@琴似:2005/02/04(金) 22:16:16 ID:KVdxl59E
[ snjk018k030.ppp.infoweb.ne.jp ] 以下は、小樽‐朝里峠‐定山渓を結ぶバスと自動車専用道路「小樽定山渓自動車道株式会社」の昭和14年頃の小冊子「定山渓観光案内 小樽より定山渓の近道」から
この道路は昭和7年に開通し、専用道路部分は28キロ、バスは南小樽定山渓間を90分、3往復で営業してます。
バス料金は大人片道1円50銭、往復2円50銭。
自動車通行料はいずれも片道で単車1円、3輪1円50銭、乗用車基本料金(空車時)50銭、乗客収容の自動車は追加料金1円50銭となってます。
当時の旅館宿料は2円から4円の時代です。温泉宿として定山渓ホテル、鹿の湯クラブ、定山園、章月旅館、ラヂオカルク、高山旅館、ときわ旅館、鉄道ホテル、また、旗亭に章月、桜亭、福住、新登美、ときわ、伊よ本が紹介されてます。
定山渓土産には、白樺細工、蕗ステッキ、アイヌ細工、熊彫。
「定山渓音頭」は振付が「いく代 舞踊部」となっており、河合裸石の歌詞は次の通りです。
1 春の温泉(いでゆ)の定山渓へ トコサイトコサイ ホントニネ
たまの湯槽(ゆぶね)にさゝ花が散るね
ハ スッチョンスッチョンスッチョンナ ハ スッチョンナ
2 人目忍んで玉川夜船よ 月の流れに睦言交わすね
3 紅葉色ます豊平峡(とよひらきょう)よ 紅い恋路を手に手に取りてね
4 雪は降る振る無意根の山に 君とスキーでクリスチニヤよ
この後沿線観光案内に続きます。
265 :
西創成:2005/02/04(金) 23:09:13 ID:Jyrs9Pqc
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] >>265すごい!! いく代の末裔の方から連絡頂いたのですか。
>>264定山渓音頭はわざわざ「豊平峡」を「とよひらきょう」と唄うのですね。
何でなんでしょうか?
266 :
山の手人:2005/02/05(土) 14:06:25 ID:LhqaB/f.
[ host-A246.f-yugyo.co.jp ] 初めまして山の手の住民です。
昔は石狩街道の整備も悪く札幌市内から茨戸ハワイランドへの道のりは
とても遠く感じられました。当時は不良のたまり場というありがたくない
評価を受け、子供は行くところではないといわれてましたね・・
今では道路も整備され旧道を通らずに石狩に抜けることができますので
人々の記憶からは忘れさられることでしょう。ただ今も生振に残る水田
をみるとなにかほっとさせられます。ここでは新しい品種のななつぼし
と言うお米を作付けしていますね・・
ところで内外レジャーランドに関しての一連の探求ご苦労様でした。
私は内外緑地の社長松坂様の娘さんと中学で同じクラスでした。当時
オイルショックの後で倒産の憂き目を見た直後で私達もそのことには
極力触れずに接していました、高校卒業後渡米し日本に戻ってから
家庭教師をしていましたがその家庭教師先の家で飼っていた鳥に病気
をうつされ残念ながら二十歳そこそこで急逝されてしまいました。合掌
ところで過去スレにあるのかもしれませんがご存知の方がいらしたら
教えて下さい。山の手墓地に関して、現山の手南小学校がある場所は、
昭和50年までは墓地でした。古くからのお墓が多く初期の頃は土葬
も行われていました関係上、移転に際しては墓石以外の所から多くの
お骨が出てきてそれらを骨箱にいれて道路端にならべてありました。
調査願いはこの墓地には過去に火葬場があったのですが、その場所の
特定が未だ出来てません。琴似町が札幌市に合併する昭和30年ごろ
までは存在していたらしいのですが・・以前にこの学区の中学に通っ
ていたころ、その中学出身の先生がいてその先生が小さい頃戦後食料
難でおやつも食べ物も豊かでなかったので火葬場の煙突から煙りが昇
ると走って見にいったそうです。お供物を頂戴するために・・
267 :
元東月寒人@琴似:2005/02/05(土) 17:23:51 ID:dHBKoJ3o
[ snjk018k026.ppp.infoweb.ne.jp ] >>265豊平区に住んでいた私が、もし読みを知らずに「豊平峡」をみたら「とよひらきょう」読んでしまうでしょう。他にもどこかで「とよひらきょう」と書いてあるのを見たことがあります。
この名称、「層雲峡」を名付けた人と同じでしたっけ?ダムができる前も結構な景勝地だった様です。
定鉄→十和田の車両ですが、平成2年に多分廃車になったと思います。(NEKO MOOK「消えた轍」では「平成2年3月まで活躍した」。鉄道ピクトリアル平成2年4月号の読者短信では「老朽化のため廃車になるとか」)他にも譲渡車両が有ったとしたら分かりませんが。
山の手人さん、お初でございます。
世の中、色んなことを調べておられる方がいらっしゃいます。
人のことは言えませんが…。
で、山の手墓地の火葬場の位置ですか…。
う〜ん。
とりあえず、話がとっ散らかっていますので、順に整理をしていきます。
「茨戸ハワイランド」は、ご存知のとおり倒産という顛末になるわけですが、「石狩百話」によると、
施設を広げすぎた為の資金繰りの悪化がその原因とのことで、あっさりと片付けられております。
「茨戸ハワイランド」に公演に来たという、白川軍八郎、函青くに子、青木光一、曽根四郎と言われましても、さすがにピンと来る世代ではないのですが、調べてみるとどなたもそこそこの方でありました。
仲居をされていた渡辺美智代さんのおっしゃる、「中山千夏の出演する脱線ゲーム」とはNTV系列(STV)で放映されていた、金原二郎アナ司会の「底抜け脱線ゲーム」のことだと思います。
確か、新旧があったと思いますが、断然面白かったのは旧の方。
「週に一度の脱線タイム、さあ底抜けに笑っていただきましょう。底抜け脱線ゲ〜ム!司会の金原二郎です」
名調子でしたなぁ。
「白鳥閣」というのは初めて聞きました。
この写真に写っているのでしょうかねぇ?
http://asp.i-mediatv.com/apps/album/public/?target=DESO1101599471502&item=32 当時の石狩町の広報も探してみたのですが、「白鳥閣」はもとより民間施設である「茨戸ハワイランド」と「内外レジャーランド」のことは一年の出来事で、「二つのレジャー施設が完成」(写真入り)とあるだけです。
営利目的の施設に関しては、どこも公的な文献ではあまり扱わないようで調査に苦労をいたします。
269 :
元東月寒人@琴似:2005/02/06(日) 10:18:30 ID:/Qb1Sf9s
[ snjk020k045.ppp.infoweb.ne.jp ] 「定山渓観光案内 小樽より定山渓の近道」から札幌市内沿線情報をいくつか。(この冊子では小樽側から紹介してますが、ここでは定山渓側からに変えてます。)
定山渓温泉付近の曳杖地
錦橋・玉川遊園地・見晴ケ丘・月見橋・白糸の滝・舞鶴瀞
巨岩奇峭重畳の豊平峡
ほかに温泉プールの写真が2枚
愛の木 いたやとあかだもの合木にて愛の木(メリーツリー)
稲豊鉱山、水力電気貯水池、時雨橋、ヘルベチュアヒュッテ
小樽内川 紅鱒を放流
古代文字
白樺の密林 都人士の憧憬白樺の純林、女神の集いたるガンピの林
熊の穴 熊の冬篭りの穴で道路開鑿時発見(写真)
朝里峠 標高2,372尺の最高地点(写真)、付近に青木郭公の句碑あり
「車道開く原始の茂りの雲の上」
270 :
元東月寒人@琴似:2005/02/06(日) 22:14:34 ID:L.N6t2yM
[ snjk018k040.ppp.infoweb.ne.jp ] 「定山渓観光案内 小樽より定山渓の近道」から朝里峠を下って小樽まで。
熊の爪跡 小熊が山葡萄を喰わんがため登った爪跡(写真)
第一蛇行 後志狩勝の称あり、宛ら十勝狩勝峠を彷徨
魚藍観世音 近郊一の大飛瀑魚留の滝、巖頭に魚藍観世音を祠る
犬塚 開鑿時土工のために殺された赤犬を弔う
朝里水源地
小樽湾の遠望 三条実美公撰小樽八景に曰く「石狩の帰帆、朝里の落雁」
(定山渓温泉は北海道三霊泉というのを追加します)
「小樽定山渓自動車道株式会社」の前身についてはまたそのうちに。
「山の手墓地の火葬場」の位置の件については、心がけておきます。
何かの拍子に飛び出るかもしれません。
文献を調べるとしたら、「琴似町史」あたりでしょうかね。
さて、
>>236さん。
とりあえず、「茨戸ハワイランド」に関しましては今の所このくらいなのですが…。
実はここを調べていくうちに、面白いものを発見しました。
当時の「帝国製麻株式会社札幌支店」、「茨戸駅」(後に「川端駅」まで延長)間を走っていました、「札北馬鉄」(明治45年 札幌軌道株式会社に改称)の広告です。
http://asp.i-mediatv.com/apps/album/public/?target=DESO1101599471502&item=33「石狩川舟運史」(平成15年)より。
「毎日午前六時ヨリ午後六時迄一時間毎ニ両駅ヨリ発車ス
団体若クハ乗客二十名ニ満ツル時ハ車両ノ都合ニ依リ定時外ニ臨時発車ヲ為ス
納涼又ハ釣魚等ノ遊覧者ニ対シテハ其季間特ニ賃金ノ割引ヲ為ス
本鉄道馬車ハ石狩行ノ汽船ニ連絡シ毎日六回ノ運転ヲ為ス」
馬鉄は毎日朝6時に「帝国製麻」と「茨戸駅」両方から始発が出、運行は一時間毎だったのですね。
興味深いのは、納涼や魚釣りのレジャー客には、割引があったという点です。
どうです。
やはり「石狩茨戸地区」は、由緒正しきリゾート地の"地筋"を持っていたのです。
「内外レジャーランド」も「茨戸ハワイランド」も「テルメ」も、そして、「ガトキン」も「番屋の湯」「番屋の宿」も、この地筋を受け継いだものだったのです。
(ホントか!?)
あ、「石狩川舟運史」の監修・発行は「北海道開発局石狩川開発建設部」です。
役に立つ仕事してるじゃん、開発局。
>>233
>>265>定山渓音頭はわざわざ「豊平峡」を「とよひらきょう」と唄うのですね。
「豊平渓」は珍しく命名者がはっきりしている地名ですね。
大正15年に漢詩人の「国分青崖」がその人だそうで、やはり、「ほうへいきょう」が正しい。
そこで、ワシはこう考えました。
歌の文句とかではよくあるじゃないですか、わざと言い方を変えることって。
そいつが粋だということで「とよひらきょう」と歌ったのではないでしょうか?
さて、おそくなりましたが、「割烹 いく代」の末裔の方からのメールが届き、奇しくも「定山渓音頭」という歌の振り付けが「いく代 舞踏部」であることが話題に挙がりました。
メールの内容を(差しさわりの無い程度に)ご紹介をしたいと思います。
そして、「小金湯温泉」で起きた「いく代」縁の「松ノ湯」の災害のことにも触れなければなりますまい。
ま、今日はこの辺で。
273 :
西創成:2005/02/06(日) 23:18:25 ID:Zc5PBr0.
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] ところで「小金湯」って、元々「小金湯」なんですかね。
「黄金湯」だったりするんですかね。
>>266山の手さんどうぞよろしくお願いします。
琴似の火葬場ですか・・。
>>267なるほど。
「層雲峡」は大町桂月の命名でしたか。
>>268ほうほう「底抜け脱線ゲーム」。STVで放送してましたよね。
>>269〜270
「稲豊鉱山」出てますな。
「犬塚」赤犬としているのが不思議ですね。食べたのでしょうか。
274 :
木工団地:2005/02/07(月) 00:04:13 ID:SpLc1PcU
[ ZK015131.ppp.dion.ne.jp ]
275 :
横丁:2005/02/07(月) 13:49:12 ID:g7fb0GF2
[ p1075-dpe02hon.tokyo.ocn.ne.jp ]
276 :
元東月寒人@琴似:2005/02/07(月) 19:47:27 ID:JZ2a0RlI
[ snjk019k022.ppp.infoweb.ne.jp ] >>271札幌軌道の製麻会社側起点ですが、昭和初期(3年か5年)の住宅地図をみると、製麻会社の正面中央、現在の6条と7条の通りの中間、図上では確か北6西1の地点に石狩行として記されてました。軌道会社の社屋は製麻会社の石狩街道をはさんで西側、創成川のほとり北7西1の北端にあります。
この地図は中央図書館にあり、時間がないのでざっと見ただけですが、じっくりみたら面白いものが発見できるかもしれません。
>>272,273
「豊平峡」と「層雲峡」の命名者は異なってましたか。年を取り記憶があいまいになってきてますので、みなさん、私の書き込みをそのまま信用しないで、直に資料にあたってみた方が良いです。
>>275明治29年の地図では「黄金」の地名が見えてます。
さっぽろ文庫「定山渓温泉」では黄金湯温泉旅館の起源は明治20年以前に遡っており、「小金湯」の名も以前は「黄金湯」と言われ、大正4年の札幌市庁管内案内図では「黄金湯」になっていると書かれてます。また、定鉄は昭和11年10月駅開業で名称も「黄金湯停留所」となってます。(他の本で小金湯駅となっているのもありますが)
「定山渓電鉄沿線名所図絵」には、黄金滝というのが小金湯駅東方、豊平川右岸支流に見えます。
>>274「茨戸ハワイランド」の廃墟サイトは有名ですね。
職場の後輩で石狩出身者がいましたので所在地を聞いてみましたら、木工団地さんご提示の場所で間違いないそうです。
「石狩百話」にありました「花畔93番地」というのは、そのまま「花畔」を現在の住所表示「花川東」に置き換えればいいようです。
つまりは「石狩市花川東93番地」。
現在は「ケアハウスりょくえん」という施設がありますね。
近いうちに現地の写真でも撮ってきましょう。
さて、なかなかご紹介できませんでした「割烹 いく代」の創設者「小林(旧姓齋藤)いく」さんの末裔、東京在住のM子さんからのメール。
この方の、ひいひいおばあさまがいくさんだそうです。
M子さんは「(いく代が)南13条に移転するまで、すすきののあの土地(南3条4丁目)に暮らして」おられたそうです。
しかし、その後「いく代」は廃業(18年前に)されたとのこと。
以前「その十五」で、「サッポロの街角」(西條正人著 月刊北海道潟}ービス 昭和51年)という本に書かれておりました「いく代」のことをご紹介しました。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/15_log.html#183この本には、二つの「いく代」のことが書かれております。
しかし同書では、南13条(つまりは中島公園近く)に移転したほうではない「いく代」のことが主に語られています。
M子さんのメールには、件の「松ノ湯」(松の湯)の洪水にも触れられております。
あ、木工団地さん、そうです。
これは昭和24年に起きた、7人の方が無くなった災害のことです。
実はこの災害の状況について、M子さんのお聞きになっているお話と、「さっぽろ文庫37 札幌事件簿」に書かれた内容とは齟齬があります。
調べてみますと、「札幌事件簿」の内容は、同年9月23日の北海道新聞の記事を元に書いたようです。
この元記事は、「さっぽろ歴史散歩 山の辺の道 定山渓紀行」(山崎長吉著)に載っています。
で、「小金湯」と「黄金湯」に関しても、同書に詳しく書かれております。
(実は去年(春だと思いますが)「小金湯温泉」に行って、現在の「まつの湯」の写真を撮ってきてあったのですが、探してもデータがありません。
捨ててしまったようです。あ〜あ…)
何はともあれ、それやこれや(「いく代舞踏団」に関しても)書きたいこと、書かなければいけないことが山のようにございますです。
刮目して待て!
278 :
なまら名無し:2005/02/07(月) 23:20:52 ID:4rHTsgGI
[ i218-47-97-153.s01.a001.ap.plala.or.jp ] 茨戸ハワイランドは「ケアハウスりょくえん」よりもう少し西側だったような記憶があります。
今のディライトゴルフプラザ辺りじゃないでしょうか。
茨戸橋も今より少し北側にかかっていて、道道花畔札幌線はゴルフ場寄りの道を走っていました。
279 :
新川番地:2005/02/07(月) 23:42:59 ID:d5MnRKQQ
[ YahooBB219041108029.bbtec.net ] そろそろ出番だべか・・・
280 :
真駒内川:2005/02/07(月) 23:50:05 ID:z5wrqsr6
[ p29d8a1.spprac00.ap.so-net.ne.jp ] >>271石狩開建って、いつから出版社になったんですかねぇ
そんなところで役に立たれても困るんですけどねぇ
「茨戸ハワイランド」ネタはともかく、「いく代」に絡んでいくつかのネタが交錯しております。
快刀乱麻を断つようにいけばいいのですが、一気に解決は難しいのでひとつひとつ紐解いていきます。
まずは、舞台となる「小金湯温泉」についてです。
「小金湯」か「黄金湯」かのヒントになるかと思いますので、「さっぽろ歴史散歩 山の辺の道 定山渓紀行」(山崎長吉著)の「小金湯は定山渓の前湯」から抜粋させていただきましょう。
「(略)小金湯か黄金湯かを改めて問われるまでもなく、今は地名もバス停も『小金湯』で、温泉旅館名は、『黄金湯』である。
『小金湯』が定着し始めたのは、定山渓鉄道がここに停留所を設け『小金湯』としたことに始まる。しかし黄金湯にも根拠がある。
豊平川のこの地で黄銅鉱を掘り出し、それが黄金色に輝いていたとか、砂金がとれたとか、硫黄が取れたとか諸説あるようである。
さかのぼって、明治六年、開拓使の船越長善の絵には、『札幌郡豊平川支流一沢の口の滝』とあり、これがのちにここを一の沢と呼ぶようになった出所になっている。
ここを開墾地に着目したのは明治二十年ごろにさかのぼるが、熊本県出身の四人が農耕を目的に入地したことから一の沢熊本開墾と呼ばれるようになった((略))
「小金湯」は、明治三十二年発行「札幌案内」の「附録の一 定山渓」の項ですでに紹介されております。
「さっぽろ歴史散歩」をお持ちの方はご覧いただければ分かりますが、この記述を同書でも引用しております。
「(略)又其下方約一里にして黄金湯と称する温泉あり(略)」
ただ、「さっぽろ歴史散歩」では、この文章に振り仮名が振られていないのです。
ウチの「札幌案内」を見ますとそこには、「黄金湯」に「おうごんとう」とルビが振ってありました。
またまた、こんがらがってきでしょう。ニヤ。
282 :
なまら名無し:2005/02/09(水) 17:20:50 ID:CC6YdOyU
[ EATcf-349p12.ppp15.odn.ne.jp ] test
283 :
環状通東:2005/02/09(水) 17:45:32 ID:CC6YdOyU
[ EATcf-349p12.ppp15.odn.ne.jp ] =282
初めまして!札幌地名ネタって事で、仕事の合間をぬい三週間かけてようやく
追いつきました。どれもこれも非常にタメになる事ばかりで勉強になります。
で、前に登場していなかったので質問させていただきますが、幌平橋って札幌平岸橋の略ですか?手元に資料が
ないので・・・。もう一つの疑問(じょうてつ=定山渓鉄道)は、すでに出ましたもんね!
>牛鍋蝸牛さんの初めまして。あびのホルモンラーメンうま〜!でしたよ。
ただ、札幌温泉の写真はありませんでした。残念!
284 :
なまら名無し:2005/02/09(水) 17:45:34 ID:pEX/y1G2
[ p8002-ip04sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
285 :
環状通東:2005/02/09(水) 17:48:10 ID:CC6YdOyU
[ EATcf-349p12.ppp15.odn.ne.jp ] >牛鍋蝸牛さんの初めまして。
>牛鍋蝸牛さん、初めまして。
スマソ!
286 :
斜め通り:2005/02/09(水) 20:41:58 ID:iKsTRN6I
[ 210-20-70-197.rev.home.ne.jp ] 横丁→横町の問題であるが、本当は横町と名乗りたかつたと思ふ。
しかし白石村横町だと「村」の中に「町」があることになつて矛盾してしまふ。
そこで横丁と書くことにした。
戦後白石「村」が札幌市に組み込まれて札幌市白石「町」となつた。
そこで正式に横町といふ地名を名乗ることになつたんぢやないだらうか。
や〜、きびしい試合でしたねぇ。
でも、最後まであきらめたらあかんですねぇ。
さ、本業に戻りましょうか。(本業じゃないけど)
環状通東さん、斜め通りさん、初めまして。
まずは「幌平橋」の名の由来ですが、「豊平の歴史」(豊平区 平成14年発行15年一部改訂)の「幌平橋」から。
「幌平橋は昭和2(1927)に河合才一郎氏が私財をもって架けた橋で、札幌と豊平を結ぶことから札幌の『幌』と豊平の『平』をつなげ、
幌平橋と名付けました(略)」
「札幌−平岸」ではないそうです。
ちなみに、「豊平の歴史」は豊平区役所で無料配布していましたので、まだ残っていればもらえるかもしれません。
(「あび」こと。せっかくですが、過去ログにもありますように、あそことは絶交いたしましたのでコメントいたしません)
「横丁−横町問題」はワシも心がけているのですが、これといった資料を見つけることが出来ないでおります。
ワシは以前、「横丁は線、横町は面」説を掲げました。
「横丁」として人が住み出した線が広がり、やがてそれが面になって、人々が「やっぱり、横町の方がイメージもいいし…」と言い出した説。
なんの確証もありません。
斜め通りさんの説は、今まで無かった見解ですね。
「横丁」の方々は、律儀な方が多かったと言うことですね(w
さて、「山の手の火葬場」の件です。
札幌の火葬場の歴史をちょっとだけ調べてみました。
昔は、「豊平火葬場」、「札幌平岸火葬場」、「厚別火葬場」というのがあったそうです。
「札幌市史」(昭和三十三年)より。
しかし、「山の手の火葬場」というのは出てこないのです。
「新札幌市史 第五巻通史五(上)」では、現在の「里塚」、「手稲」の前にあったものとして、「平岸」、「手稲」の火葬場のことが書かれていました。
が、これまた記述は少なく、「山の手」に関しては書かれておりません。
「山の手墓地」のことは書いてありましたので、これでお茶を濁します。
面積20,794u 設置許可M16.3.31 「琴似町山の手1−9」。
見つけることは出来なかったのですが、札幌衛生局衛生管理部がS60.2.28に発行した「札幌市墓地・火葬場の沿革」という本があるそうです。
山の手人さん、これ当たってみたらいかがでしょう。
「小金湯」と「いく代」のこと、今日は書けなかった…。
288 :
なまら名無し:2005/02/09(水) 23:45:50 ID:W2y0Ypgo
[ YahooBB219174084019.bbtec.net ]
289 :
西創成:2005/02/10(木) 18:54:33 ID:PlRtsMUQ
[ YahooBB218127212002.bbtec.net ] 豊羽鉱山閉山決定なんだそうです。
290 :
18th:2005/02/11(金) 09:14:29 ID:Q8SSwjv2
[ p16163-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 鉱量が枯渇したですか。
原料は豊富にあっても、近くに精製工場がない、二次加工する工場がない、
エンドユース(液晶パネル製造)する工場がない。
そうすると、新規開拓しても海外品に勝つ経済的見込みが立たない。
会社としての日鉱はワールドワイドでの調達先投融資を行っており、
戦略的な判断なのでしょう。
日本として、北海道としてはどうだったでしょうか?
三重や大阪の二次加工工場を誘致した上で、大手メーカーの液晶パネル工場
を誘致。積極的に外国人労働者を雇用し、コスト低減の努力をする。
苫小牧市を説得して、千歳空港を拡張し、ハブ空港化すると共に、世界中
と直行便を結び、観光資源としてだけではなく、産業を創出するためのロジスティック
を構築する。
丘珠の農家を説得して、丘珠空港を拡張し、国内便の相当数を増便する。
役所の中心地としての札幌というだけではなく、東名阪以上の人物金の集積
する都市として発展させる。
石狩港もこれまで以上に意味のあるものとなる。石狩軌道も実現する。
そうすると新地名が続々出来、このスレも活性化する。
という壮大な夢・・・
豊羽鉱山閉山。
生産可能な鉱石は05年以降約一年分しか残っていなく、掘り進めたとしても、岩盤の温度が160℃にもなる地点での作業は危険である、という判断からだそうです。
鉱山としては、ある意味天寿をまっとうする終わり方なのかも知れません。
だとすれば、それはそれで良しかと…。
ただ、ワシの年齢になりますと、なにより従業員の方の今後の雇用が気になるところです。
「小金湯温泉」については今のところあまり情報がないようなので、どうしても「札幌歴史散歩」(山崎長吉著)に頼ることになります。
「小金湯温泉の発生を考えると二つの流れがあり、今日の淵源になっていることに気付く。
明治二十年古川太左衛門が温泉を始め、それが粗末であったにしろ続いて、大正三年に福田金之助に移り、さらに昭和二年宮崎秋雄に移り、昭和十七年板倉雄二になり、昭和三十四年板倉弘三になり今日に至っている。いわば七代目になるという(中略)」
それが「黄金湯温泉」だそうです。
続き。
「他方、明治二十六年に中谷彌三右衛門が湯泉の一角の払下げを受け、死後娘ヨネが継いだ。昭和十一年に更正園の温泉とし、湯元なかや温泉旅館とした。のち中谷豊治に代わったが、昭和二十九年一度火災に遭い、その後再建、昭和五十四年クアパークホテルと改称した。(中略)」
「奥にあるまつの湯旅館(松の湯とも書く)は、昭和十九年に札幌の割烹いく代の主人斉藤源蔵が別荘として温泉を始めたが、海軍の寮に転用、戦後再び元に戻った。
昭和二十四年九月、豊平川の洪水に遭い斉藤源蔵ら七名が犠牲になった。これは夜中の一瞬の出来事であった。さらに昭和三十九年に出火、再建して今日に至った(略)」
ここでやっと「小金湯温泉」と「割烹 いく代」がつながりました。
余談。
地名調査をしてきまして、どの文献の第○章第○編の○の○…、な〜んてことをやってますと色々と精神的弊害も出てくるようです。
本日、ラジオを聴いていましたら女性パーソナリティがこんな事を言っていました。
「友人も1043の第3」。
????
何のことかと思ったら、
「友人もペ・ヨンジュンさんの大ファン」の聞き間違いでした。
292 :
元東月寒人@琴似:2005/02/12(土) 09:40:30 ID:AKtl2qo2
[ snjk011k056.ppp.infoweb.ne.jp ] >>291今若者の間では、「イビョンホン」が人気です。この人、札幌市電を運転した過去があるとか。証拠ビデオも存在する様子。
「小樽定山渓自動車道株式会社」の前身会社は小樽市でモノレールの構想を持っていました。それについてはまた今度。
私もついに札幌市外に進出ですが、スレタイ北海道になったのに相変わらず市内ネタが続いてますね。産業遺産も含め多くの北海道遺産が選定されました。札幌以外の方の参加が増えるとよいのですが。
293 :
なまら名無し:2005/02/12(土) 10:05:13 ID:K9dT.LvM
[ p11003-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>291 雇用は心配ないじゃん。超大手の子会社だもん。グループ会社で吸収するらしいよ、ただ北海道に残りたい人は厳しいな。
で、質問なんだけど、インジウムももう枯渇なのでしょうか? 知ってる人いたら教えて下さい。
294 :
18th:2005/02/12(土) 10:53:40 ID:5c8mTI5I
[ p9205-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
295 :
18th:2005/02/12(土) 12:14:00 ID:5c8mTI5I
[ p9205-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
296 :
なまら名無し:2005/02/12(土) 12:17:57 ID:6H3BJaGM
[ pl209.nas921.wakayama.nttpc.ne.jp ]
297 :
なまら名無し:2005/02/12(土) 14:40:57 ID:K9dT.LvM
[ p11003-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] ふー。
298 :
なまら名無し:2005/02/12(土) 15:36:52 ID:K9dT.LvM
[ p11003-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] ふー。
>>293さん。
調べてみました。
素人調査なので間違っている部分もあると思いますが、まぁ、聞いてやってください。
インジウムは単独で転がっているのではなく、豊羽鉱山から採掘される硫化亜鉛鉱(閃亜鉛鉱型)を亜鉛製錬する際に、煙灰などから分離されるようです。
豊羽鉱山は鉛と亜鉛を生産していますので、インジウムは貴重な副産物なのかも。
何はともかく、掘るべき鉱石がないと、こういうことなのでしょう。
現在、我が家にはPCだけでも液晶ディスプレイが3枚あります。
(自作機のディアルディスプレイで2枚、VAIOノート1枚)
過去使ったものを入れれば7枚。(修理交換も含む)
このうちの何枚かには、札幌の土中から掘り出された石っころが使われているのかもしれません。
なんだか感慨深いものがあります。
インジウムは貴重なのでリサイクルされて使われるようですから、豊羽鉱山のインジウムもこれから長きに渡って世の中に貢献することでしょう。
300 :
なまら名無し:2005/02/12(土) 16:57:34 ID:K9dT.LvM
[ p11003-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>299 300!はやりたくないんだけど、ありがとうございます。