【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十壱】

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1牛鍋蝸牛
前スレ
【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十】
http://hokkaido.machibbs.com/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1059476138

地名を聞いてもいまいちピンとこない札幌市の地名をあげましょう。
知名度ゼロ、名所ゼロの土地へ実地調査へ行き、見所を見つける良スレです。

「その一」から「その十」までの過去ログはこちらでご覧になれます。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/

      Special thanks!! Mr.161
2なまら名無し:2003/10/06(月) 22:16:08 ID:JFD41swg [ p4117-ipad13sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
1乙
3おとっつあん:2003/10/06(月) 23:00:15 ID:hR0nbJ92 [ i222120.ap.plala.or.jp ]
界川ですが、昭和50年近くになってもまだ水が残ってる部分が北の方にもありまして、
北1条西27丁目では、北一条通りに界川にかかる橋があって、
橋の下をどぶのようなよどみがくぐっておりました。
ちなみにその部分の北一条通りの歩道は橋の前後で3.4段ほどの階段になっておりました。
なぜ覚えているかと言うと、
その橋の下のよどみの冬場の氷を踏み抜いて腰までつかったことがあるからです(笑)。

あと、その界隈の沼ですが、円山小学校の向かい側の北1条西25丁目には、
旧五号線沿いにボーリング場があり、
今もあったような気がするのですが、その西隣に銀行のアパート(三井?三菱?)があり、
その銀行のアパート(二棟)の敷地内南側に、
長径10-20m位の池がありました(沼と言うよりははっきり池)。
当時、ゲンゴロウがいるとかなんとか話題になっておりました。
あそこら辺は札幌扇状地のなかで水が湧きやすいのかどうかしりませんけど、
円山小学校の敷地内西側には、大正年間くらいまで、古木があってその根元から泉が湧き、
秋には鮭がのぼったと言う話を聞いたことがあります。
で、銀行アパート敷地内の池は、
前スレ末尾あたりの円山小学校北の沼の一部だったのでしょうか?と、思って気になりました。
4魏幽那辺華魏幽 ◆adhRKFl5jU:2003/10/06(月) 23:01:42 ID:jrEP4V0c [ O002214.ppp.dion.ne.jp ]
4get
5真駒内川:2003/10/06(月) 23:35:48 ID:UaYxsO5s [ pd338e4.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
「その十壱」突入おめでとう御座います。
>牛鍋さん
大正時代に界川に何かがあったのか、この時代の見る地図によって池らしきものがあったり
なかったりして良くわかりませんねー。
ちなみに「札幌郊外円山町・琴似・軽川明細図<昭和13年>」には
先の池が斉藤邸敷地内にあることが書かれていますですね。
えっとー、元電車通りだった交差箇所は次の写真です。(北側からの撮影)
http://cgi28.plala.or.jp/~xapy/cgi-bin/source/up0063.jpg
ほんと、「重兵衛」って誰???
6なまら名無し:2003/10/07(火) 10:27:10 ID:DmO3GK9Y [ p9194-ipad26sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>9-12
ゴメン。
俺の気が短いばかりに規制かかっちゃってさ…
んで、レス代行依頼スレを探してて・・・

とりあえず、俺の代わりに貼ってくれてアリガd
7牛鍋蝸牛:2003/10/07(火) 22:52:12 ID:cXI8OKEk [ L066082.ppp.dion.ne.jp ]
おとっつあんさん、初めまして。
貴重な情報ありがとうございます。
「円山小学校」の辺りって、確かに「重兵衛沼」の端辺りにかかっているような気もしますね。
「重兵衛沼」は小ネタのつもりだったのですが、こうなってくるともうちょっと詳しく調べる必要があるようです。
それと勘違いかもしれないけど(最近物覚えか悪い)、「札幌文庫別冊 札幌歴史地図」の「明治」にも「重兵衛沼」が載った地図があったような気がします。

前スレ後半から色々なネタが出ていまして、あわただしい。(でも嬉しい)
「札幌第一農園」、「北海道師範学校」、「同付属小」等に関しましては明日にでもと思っています。
SWANさん、「星霜」(北海道新聞社)お持ちですか。
まだちゃんと整理がついていないのですが、同書の間違いをまた発見しちゃったらしいかも…。
さて、今日はこれで寝るとしよう。

>>6、誤爆ですよね。
8真駒内川:2003/10/08(水) 00:00:41 ID:/W2lNJw. [ pdd308b.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
先日こそっとあび行って辛味噌ラーメン食ってきました。
しんどかったぁ。(自爆
9西創成:2003/10/08(水) 20:18:10 ID:y40kgyOw [ i100028.ap.plala.or.jp ]
いやはや、体調が万全でなくて…。
ようやく良くなって来たので、復帰します。おかげで、目も飛び出さずおります。

油断してたら、このスレも11弾目ですか。
前スレにも、また色々と出てきたようですね。
今回も楽しみにしております。

ちなみに「硬石山」について。

「硬石山(かたいしやま)」371メートル
明治5年、硬石(石英安山岩他)が発見され、採掘をはじめる。(札幌硬石株式会社)

なお、この地区には、「硬石山水管橋(昭56竣工)」「硬石山福祉会館(昭49建築・現川沿18-2)」などがあるが、いずれも「かたいしやま〜」と読む。

市営バス(現在、定鉄)は、国道石山バイパス開通まで、長らく「硬石山」は終点であった。
余談だが、名残として、いまでも市内均一運賃区間の終点となっている。
これより先、定山渓方向は、定鉄の対キロ運賃を使う。

なぜに、市営バスは、「こうせきやま」としたのか、さっぱり分からない。
町内会に「硬石山町内会」があるようだが、この町内会名がもしかすると「こうせきやま」と読むのかも知れない。

そもそも、「こうせき」と読まれだしたのは、札幌硬石株式会社から来ているのかも。
10牛鍋蝸牛:2003/10/09(木) 01:08:01 ID:MhlUoaCE [ N047162.ppp.dion.ne.jp ]
西創成さん、大変ですね。
それでも回復中とのこと、なにはともあれ良かった。
そして、早速の書き込みお疲れ様です。
>>8
真駒内川さん、あれ3回食べたら完食出来るようになりますよ〜。

申し訳ありませんが、今日は特別書き込みありません。
自作PCに取り掛かっていて忙しいのです。
完成すればPCの不調によって書き込み出来ないってことは、まずなくなります。
…う?う〜ん、考えてみればサボる言い訳なくなったわけだ(汗
11菊水上町:2003/10/09(木) 08:46:19 ID:KzYlQxEk [ h023.p184.iij4u.or.jp ]
>>1さん新スレ立ておつでしたー。
当スレも無事11本目突入となりましたが
新たな地名・名所のデビューはありますでしょうか。

かちゅ〜しゃでスレが開けない謎の症状が出て以来、未読記事が
雪だるま式に増えて遅れを取り戻すのが大変です。
内容が濃いままコンスタントにスレ進行が継続していることに改めて戦慄しました
12牛鍋蝸牛:2003/10/09(木) 22:25:04 ID:QjiyANyA [ N045017.ppp.dion.ne.jp ]
自作マシンがひとまず、動くようになりました。
で、それで初書き込み。
このマシンは、「マイナーな地名in札幌仕様」といっても言っても過言ではありません。
今回は念願のデュアルモニターといたしまして、17インチと15インチの液晶モニターを並べました。
既存のpcと並んでモニター3台の壮観な机上となりました。
本格稼動の暁には、編集作業なども楽になり、さぞや良いレスが書けることと楽しみにしております。

昨日、あびへ行って「図書館ネットワークマガジン swan」、いただいて参りました。
Swanさん、わざわざありがとうございます。
ご実家は北郷とのこと、そのあたりのネタの際にはよろしくお願いします。
今日もsageだなぁ。
1318丁目:2003/10/09(木) 23:39:44 ID:fTvbCnBU [ p5227-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
閑話休題で某マイナー地名の画像です、さてどのあたりかお分かりの方いらっしゃいますか?

http://cgi28.plala.or.jp/~xapy/cgi-bin/source/up0064.jpg
http://cgi28.plala.or.jp/~xapy/cgi-bin/source/up0065.jpg
14真駒内川:2003/10/10(金) 11:10:50 ID:UTSQTQq6 [ pdd7444.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
全然わかりませんわ
15牛鍋蝸牛:2003/10/10(金) 14:19:03 ID:ufH1.02M [ N045017.ppp.dion.ne.jp ]
≫13
これ、きっついわぁ。
どこかの土手としか言いようありません。
1618丁目:2003/10/10(金) 18:12:56 ID:IS2jx/7Q [ p5227-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
17新川番地:2003/10/10(金) 20:25:52 ID:YHuUAGuY [ p6097-ipad32sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
高校のとき遠足でいきましたね。ここは
でも分かりませんでした
虫の多いところだったとしか記憶にないな
18なまら名無し:2003/10/11(土) 00:28:28 ID:0OwasBbk [ EATcf-365p79.ppp15.odn.ne.jp ]
琴似に「川添通」ってありますが由来わかりますか・・・・・?
19真駒内川:2003/10/11(土) 00:53:27 ID:.Q.ggE/o [ pdd30b8.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
近日中に新しいデジカメを購入して
市内某所の調査にいって参ります。
20西創成:2003/10/11(土) 01:05:00 ID:6vb6YfQg [ m176026.ap.plala.or.jp ]
>>10
お見舞いありがとうございます。

>>18
旧琴似町に「川添」って言う地区ありませんでしたっけ?

本日、私はどうも、お脳がお壊れになってしまいましたようです(書いててわけ分からん)。ではまた。
21真駒内川:2003/10/11(土) 01:25:56 ID:.Q.ggE/o [ pdd30b8.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>西創成さん
川添地区は現在の琴似2条1丁目から4条7丁目の範囲と思われます。
大正15年にはすでに川添の地名が見えます。
22牛鍋蝸牛:2003/10/11(土) 21:08:46 ID:R5vrfXZY [ U124024.ppp.dion.ne.jp ]
新スレに突入いたしましたが、牛鍋蝸牛ただいま新PCのカスタマイズに取りかかっておりまして、レスをするにはちょっとしんどい状況にあります。
スレを書くのにそんなのが問題か?とおっしゃるなかれ、ワシかて、いろ〜んな手を使って本スレに参加しておるわけでして、今までの環境がそろわないと思うようにレスができないのです。
わかってちょ。
ということで、しばらくは合いの手程度で参加いたします。
ご容赦願いたい。
ほだらば…。
2318丁目:2003/10/11(土) 21:58:10 ID:jSpPQm3k [ p5227-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
以前このスレでも大変話題となった、「さっぽろ思い出旅行」。
第二弾をやっているようです。

写真ライブラリー常設展「さっぽろ思い出旅行2」
内容:明治から昭和40年代の写真を展示。
期間:10月7日(火)〜来年3月31日(水)。
詳細:写真ライブラリー(中央区北2東4サッポロファクトリーレンガ館3階)

何か前回より展示期間が延びましたよね。
早速明日イって見まひょ。
24ヘリトンボ:2003/10/11(土) 22:41:34 ID:y2YYgb96 [ t200167.ap.plala.or.jp ]
>>16 18丁目さん
答えが発表されてから言うのもナンですが、予想が当たってた!
あいの里へ行く途中、右手にすんごい開けている場所がありますが、
そこですよね。
初めて見たときは「おお、だだっ広い。北海道丸出しだな」と思ったものです。

ちなみに3〜4年前はその辺りで狐を見かけましたが、
今はもういないのかな・・・。
2518丁目:2003/10/11(土) 23:04:02 ID:jSpPQm3k [ p5227-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>24ヘリトンボさんお久しぶり

狐は、この河原あたりでは見たことないですが、中沼の内陸部の方で何度か見かけた
ことありますよ。

ちなみに、>>13の写真撮る寸前に、2頭の乗馬馬がこの草原を疾走していました。
ただし中沼の内陸部あたりは、気を付けないと、表面は木々が生い茂った森林に見えても
近くに行くと、沼地になっています。だから開発もされないのでしょうが、中沼の地名
の由来を感じさせますね。
26真駒内川:2003/10/11(土) 23:43:23 ID:WEWsJETQ [ p29b3d3.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
「中沼」の地名はこの地域の旧地名の「中野」と「沼ノ端」の
合体ではないでしょうか。
この付近に「中野幹線」という道路がありますし、
モエレ沼の東側には「沼の端」というバス停があるはずです。
「中沼」という地名になったのはごく最近だと記憶してますが、
だれかご存じでしょうか。
27なまら名無し:2003/10/12(日) 08:52:02 ID:qjYwOmmA [ t163057.ap.plala.or.jp ]
月寒の干城台というのはどの辺にありましたか。
28真駒内川:2003/10/12(日) 09:35:24 ID:D3Sw7jB. [ pdda023.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
千城台は現在の月寒中央通1条〜4丁目西側及び
月寒西1条2〜4丁目の範囲だと思います。
旧陸軍の歩兵第25連隊の演習場の名称のようです。
今の自衛隊でも演習場の中の山などを「何とか山」、「何とか台」
という名前をつけているのはその名残りではないでしょうか。
29内地:2003/10/12(日) 12:55:10 ID:a9gLwpFw [ eaoska04187.adsl.ppp.infoweb.ne.jp ]
こんにちは。内地の人間なので、ここの話題には殆どついていけません。
話の流れを無視し、唐突で申し訳ありませんが、ひとことお礼を言いたくて
現れた次第です。私は、小林喜三郎の曾孫にあたります。
「いく代」さんの血筋ではありませんが、自分のルーツをたどりたくて
曾祖父の札幌時代の事をネットで調べてみようと「いく代」で検索してたら、
ここの過去のスレッドに辿り着きました。
「いく代」に関する記述を、色々調べて頂いて有難う御座います。大変興味深く参考になります。
今後も何かわかりましたら宜しくお願い致します。
30伏古 ◆Dg0ESYv6y2:2003/10/12(日) 13:14:00 ID:HJxb5YaI [ o225190.ap.plala.or.jp ]
>>16
そのあたりは立ち入り禁止になっていませんか?

http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=43.5.49.369&el=141.26.35.658&la=1&sc=3&CE.x=353&CE.y=143
このあたりで、開建の「立ち入りはご遠慮ください」との看板が立っているものですから。
31なまら名無し:2003/10/12(日) 18:48:14 ID:jON4lT0Q [ m162150.ap.plala.or.jp ]
マイナーではないかもしれないが、「伏見」というのはやはり京都の伏見稲荷からきてるの?
どんな歴史あるのかな。
先日見た「river」という映画にもちらっとでてきたが。
カラオケのイメージ映像なんかにもよく出てきますが。最近はデートスポットとして有名らしい。
32牛鍋蝸牛:2003/10/12(日) 22:21:41 ID:36czQGiY [ N046168.ppp.dion.ne.jp ]
 161さん、過去ログの「その十」のリンクが違っています。
「その九」に飛んじゃうんですよぉ。
33161:2003/10/13(月) 00:40:47 ID:QVASwJtQ [ o137026.ap.plala.or.jp ]
>>32
眠い頭で更新したからか、トップページのリンク全然ダメでした。
ほんとにただログをアップしましたって状態。
何をやっていたんでしょうか、自分は…
というわけで修正しました。

>>29
うれしいじゃないですか。
このスレでのみなさんの調査が資料となり、人々に貢献していく。
素晴らしいじゃないですか。
その資料が、ちゃんとまとまったものだったらなおいいのに… ああっ
34真駒内川:2003/10/13(月) 01:14:11 ID:sgzf80fg [ pdda023.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>31
伏見稲荷神社は明治17年京都伏見稲荷大社の御分霊を
札幌区南5条東1丁目に奉斎し、明治31年3月琴似村十二軒に御還座、
さらに明治40年2月当地に社殿を建立したとされています。
(ちょっとこの辺は還座跡を探してみないと鵜呑みに出来ない部分です。
大正5年の地図には藻岩山麓にすでに神社があることがわかります。)
当初は無格社でしたが大正8年に村社に列格、昭和16年に郷社に昇格しています。
この社格は戦後一切廃止されていますが、まだ戦前の石柱が残っている神社では
セメントなどを塗り込んで潰しているものがありますので注意して見てみると
おもしろいと思いますね。
祭神は穀物の神とされる倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と、大国主命、
大山祇命、事代主命、天鈿女命とされています。
伏見稲荷は全国に分祀社が約3500といわれ、分祀社が多いことでは
1番といわれています。
伏見の地名は京都の伏見稲荷周辺が伏見といわれていることに準えて
名付けられたと言われています。
同様に伏見稲荷から伏見の地名がついた場所は全国に散見できます。
余談ですが愛知県の豊川稲荷は神社ではありませんので念のため。
35牛鍋蝸牛:2003/10/13(月) 02:51:58 ID:fzaNcGec [ N046168.ppp.dion.ne.jp ]
36新川番地:2003/10/13(月) 20:55:09 ID:S1xcKz3I [ YahooBB219041108017.bbtec.net ]
>29 内地さん 初めまして 新川番地と申します

私は、3代目の婿さんの親戚のようで同じく「いく」さんとは血縁にはない様です
でも自分のルーツを探す時にさけて通れないのが「いく代」さんでした
「地名」からややずれるので、この話題についてはあまり触れていませんが
小林喜三郎氏については興味しんしんなのです
どうぞまたここにいらして下さい
聞きたい事は山とあるんで・・・
37真駒内川:2003/10/15(水) 00:01:24 ID:KCgWqvXo [ p29d981.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>34
誤りがありましたので訂正します。
伏見稲荷の分祀社が約3500としてますが、約35000の誤りでした。
この数字自体は公になっている社のみなので、個人の邸内嗣を加えるとほとんど無限に近いと思います。
当初の奉斎地は南5条東1丁目としています。これは神社側の公表している内容なのですが
文献によっては南1条東1丁目と書かれたものがあります。
これについては後日確認したいと思います。
もっとも神社創建は神社側の公表と古文書等による検証結果と異なる場合が多くて
珍しいことではありませんがー。
38内地:2003/10/15(水) 22:39:31 ID:dx5f1uJI [ eaoska06084.adsl.ppp.infoweb.ne.jp ]
>36 新川番地さん 初めまして。早速のレス有難う御座います。
 私は、そんなに小林喜三郎氏について詳しく知りませんが、小林喜三郎氏の最初の妻との間にできた子の孫にあたります。
 除籍謄本を遡ると、札幌の当時の住所は確認できたのですが(現在のススキノ)、その住所の謄本を取り寄せるべく、
区役所に問い合わせたところ、既に除籍から80年を過ぎており、保管義務がなく、取り寄せ不可能でした。
 今後とも宜しくお願い致します。
39牛鍋蝸牛:2003/10/15(水) 23:35:41 ID:WUbc6lq2 [ U120020.ppp.dion.ne.jp ]
内地さん、遅ればせながら初めまして。
牛鍋蝸牛でございます。
え〜と、「割烹 いく代」に関しましては確か、未発表のネタがあったと思います。
…すんません。
書いたかどうか忘れてしまいました(w
今度調べておきます。
ま、それはともかく、最近になって本スレはデータの蓄積が序々に出来てきて、データベースとして使えるようになってきたような気がします。
実は本日、また偶然、「あび」で18丁目さんとお会いしまして、そんな話もしておりました。

さて、ここしばらく後継PCの作製、および旧PCとのLANの構築に時間を費やしておりまして、レスができない状況でした。
おかげさまをもちまして、なんとか使える状況にまで持ってくることができました。
とっても快適なPC環境が出来ましたので、そろそろ復活します!!
40k:2003/10/16(木) 17:38:41 ID:FZHnolJA [ customer71-242.mni.ne.jp ]
しばらくごぶさたしました。

「いく代」の件について
昭和30年頃の「いく代」の当主は斉藤某氏(名前は失念)といい、当時札幌市議
をしていました。その頃の市議会議員の名簿があればわかります。「いく代」
についての何かの手かがりが得られるかも知れませんので、書き込みしました。
「いく代」約100年のの興亡は、きわめてドラマチックなものも含まれており、
(私が聞いたことがある範囲でも)ある作家が作品とすべくかなり詳細な資料を
集めているという話も聞いたことがあります。また、私の友人のテレビ作家も
これに挑戦すべく準備をしていたとのことですが、(これは本人から直接聞いて
います。)なぜか、途中でやめたようです。
以上、なんだか不確かな話ばかりで失礼します。
41牛鍋蝸牛:2003/10/16(木) 22:37:32 ID:bWrICYnE [ U120199.ppp.dion.ne.jp ]
ということで、まずは遣り残したことからかたをつけましょう。
ちょっと時期がずれましたがご勘弁を…。
前スレでSWANさんよりご紹介のありました、建築家「田上義也」の件です。
「宮沢賢治」が花壇用に種を頼んだ「札幌第一農園」の建物http://www.swan2001.jp/kadan01.jpg (現在の「二条小」をはさんで師範学校の東側。「南2条西13丁目」)を設計した人がこの人。
前スレhttp://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/10_log.html#279  
同氏設計による「旧小熊邸」、つまりは現存している「ろいず珈琲館」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=710 が、実は"原寸大模型"であると言う件。
ちょっと長いのですが、なかなか興味深いので「札幌の建築探訪」(北海道近代建築研究会 編  監修 角幸博 北海道新聞社)からそのまま引用します。
(使わせてもらいますので宣伝です。買ってね♪)

「旧小熊邸の移築まで」
「平成10(1998)年5月26日、建築家田上義也の代表作といえる旧小熊邸が解体された。同邸は、北海道帝国大学農学部教授小熊捍の住宅として昭和2年に建設されたもので、同26(1961)年に北海道銀行初代頭取島本融の住宅として取得後、同40年ころまで居宅として使われ、一時道銀円山クラブとして試用されながらその端正な姿を誇っていた。将来は札幌市の文化財となってもおかしくない歴史的建物の一つであっただけに、惜しまれる解体であった。
ただしオリジナルは解体されたが、この住宅の一部材料を活用しながら藻岩ロープウエー駅近くに新生小熊邸が建築されている。
平成7(1995)年から「旧小熊邸の保存を考える会」など市民による保存要望の署名活動ほかさまざまな運動が功を奏して、翌8年には同邸の移設復元が
市長から発表され、ひとまず問題は解決されたかのように見えた。
ところが話はどんどん予期せぬ方向へ動いていき、移転地では主要構造を新材で構成した、いってみれば原寸大模型というべき姿で再建されたのである。
もちろんサッシや窓枠、扉、階段、造り付け家具などの当初材はできるだけ利用されているが、全体では一割程度でしかない。もっと当初材を丁寧に使うべきだったと悔やまれる。
再建後の住宅は喫茶店として利用されるため、内部間仕切りなどいくつかの部分で、変更を余儀なくされている。本来の意味の移築復元には至らなかったのである。
ここまでこぎ着けられたことを良しとすべきという気持ちの一方で、保存運動にかかわった身として、本来の移築保存ができなかったことへの反省、さらには復元に向けての検討で常に譲歩せざるを得ない市民団体の非力さも痛感した。
救いは、現場の職人さんや監督さんたちが、何度も何度もオリジナルの住宅に赴いて、原寸をとったり、ディティールを確認してくれたこと。建築家田上義也の作品の持つ空間や造形の魅力は、この作業を通じて継承されたというべきだろう」
42牛鍋蝸牛:2003/10/16(木) 23:18:40 ID:bWrICYnE [ U120199.ppp.dion.ne.jp ]
「旧小熊邸」…。
なかなか難しいですよね。
早い話が費用の問題だったのでしょうか。
やっぱり世の中、金か…。

いやね、何年か前に行った時の写真が上記のものなのですが、その時、感じたんですよ。
「なんか、いまいち趣のない建物だなぁ」と…。
不思議に思ったワシの目に狂いはなかった。

結局、"原寸大模型"であったからなのですね。
歴史の重さは望むべくもなかったわけか。
43牛鍋蝸牛:2003/10/19(日) 09:37:23 ID:Vnzgn7Ow [ U123048.ppp.dion.ne.jp ]
♪ まわれ、ま〜われ、メーリゴーラウンド…。
回るメリーゴーラウンドから一旦降りると、再び乗るのには加速し速度を合わせて飛び乗らなければならない。
ってなわけで、未だ本スレの周りを走っているだけで、なかなか飛び乗れないワシでありますが…。

>>26 真駒内川さん。
「中沼」はそのとおり、「中野」と「沼ノ端」から取った地名です。
その命名は昭和24年とのこと。
「中沼」に関しては「水揚場」として少しやりましたが、新事実がありましたらご掲示願います。

「その四」の#124で啓明ターミナルさんが挙げられたのが、「干城台」。
ここが「界川」にその昔存在し、明治三十九年の山火事をきっかけに月寒に移転されたという「火薬庫」(弾薬庫)では?とのレスでした。
ところで「千城台」って北海道以外にもいくつもあるようですね。

さて、いくらか加速できたかな?
44真駒内川:2003/10/20(月) 02:22:05 ID:HFrLTqAQ [ pdd3026.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
先日の伏見稲荷神社の件で、現在地へ移る前に札幌区南5条東1丁目に奉斎し、明治31年3月琴似村十二軒に御還座したとされる
跡を求めて現地調査に赴きました。
その結果は惨憺たるもので南5東1周辺には影も形も無く、旧十二軒にあってはまったく所在が分からず仕舞いでした。
ただ荒井山福寿稲荷神社という社がかつて有って現在は参道の一部と跡だけが残っているのが確認できました。
なんとなくこの社が旧伏見稲荷跡だったのではないかと疑っております。
調べた過程を割愛してまとめますが、明治40年に伏見稲荷が現在地に遷宮したあと、地元の荒井氏が自分で別の祭神を勧請して
福寿稲荷神社を興したのではないかということです。

話がそれますがこの福寿稲荷跡は某宗教団体の敷地内より入ることができます。
この某宗教団体のある敷地内にはかつて拓銀荒井山研修所という建物がありました。
この建物は旧拓銀本店の建物の一部を移築されたもので非常に価値のある建物だったのですが、
北洋銀行に営業譲渡されたあと某宗教団体の手に渡り平成14年に取り壊されてしまいました。
歴史的建築物をいとも簡単に売り払い、さらにただ古いだとか邪魔だとかの理由によって無断で取り壊してしまうとは
なんとも残念でなりません。
45牛鍋蝸牛:2003/10/20(月) 06:00:51 ID:lUZV8r8Q [ U125144.ppp.dion.ne.jp ]
真駒内川さんが「伏見」に関して地道な調査をされておりますので、ちょっと乗らせていただきます。
「伏見稲荷」はワシががきんちょのころよく遊んだ所です。、
同神社の沿革は真駒内川さんの記述のとおりですのですが、それに「さっぽろ歴史散歩 山の辺の道―定山渓紀行」(山崎長吉著 北海道出版企画センター)の「伏見稲荷参詣」により付け加えさせていただきます。

「さて、伏見といえば朱の鳥居が目につく。元来、伏見という地名は、京都の伏見、伏見稲荷大社のある地名になぞらえたもので、明治四十年にこの地に遷座したことによる。(略)
大正二年に札幌神社の旧殿を払い下げてもらい伏見稲荷神社の社殿にしたことから一躍有名になった。また参拝者はこの百二十八段の階段を詰めなければならない。今は藻岩山麓の通路が横切っている。
遷座を記念して参道に三十一本のクロマツを植えたのが、今は亭々とそびえている。また昭和四十七年に本社の朱鳥居にならって、二十五基の鳥居を、さらに平成四年に一基を追加し寄進した。この鳥居にマツが配されて見事な参道をつくっている。(略)なお、現在の社殿は、平成四年に改築されたもので、一段と森厳さを増した」

なるほど、ワシが子供のころは階段こそ多くて上に行くのにひ〜ひ〜言っていたが、あんな立派な神社じゃなかったもんね。
京都の伏見稲荷神社に関しても注釈のところで触れられていましたが、割愛します。

さて、今日これから小用のため「滝上町」に行ってきます。
帰りは明日なのでその間、よろしくお願いします。
46牛鍋蝸牛:2003/10/20(月) 06:15:17 ID:lUZV8r8Q [ U125144.ppp.dion.ne.jp ]
47真駒内川:2003/10/21(火) 23:21:01 ID:IwLsadcY [ pdd300e.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
いきなり新ネタですが、
中の島に冷水という地名が昔あったようです。
これについての情報をどなたかお持ちでないでしょうか。
48西創成:2003/10/22(水) 00:46:28 ID:tK.u8uZE [ i098036.ap.plala.or.jp ]
内地さんはじめまして。
今後とも宜しくお願いいたします。

>>40
斉藤正能氏(札幌市議、治安委員長)だったとおもいますが。

>>44
その、旧拓銀本店であったという建物にあったブロンズの看板が、市内の骨董屋主の家にあるようです。

>>47
「冷水」手元の昭和11年発行(発行社不明)によれば、平岸天神山の現・百景園あたりに「冷水」とあります。

詳細はわかりません。
49牛鍋蝸牛:2003/10/22(水) 17:11:10 ID:P/mElpqA [ N047058.ppp.dion.ne.jp ]
なかなか流れに乗れませんで、苦労しております(w
今日も休みだったのですが、滝上町への一泊二日の小用の疲れを癒すリハビリ状態。
ということで、大正5年ころの地図で「冷水」をご覧ください。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=717 

「冷水」という地名は「蘭越町」にもあるようです。
また、「札幌岳」にも「冷水小屋」という山小屋もあると、まぁ、お手軽なネット情報ですんません。
「冷たい水が湧き出るところ」ってのがそのココロのようですが、札幌の「冷水」に関しては調査しておりませんので、是非調査を継続していただきたいものです。

きっと復活するゾ…。
50新川番地:2003/10/22(水) 20:57:05 ID:26bRFUQk [ YahooBB219041108017.bbtec.net ]
冷水とか馬頭って今のどのあたりですか?
51k:2003/10/22(水) 21:17:40 ID:xAuquDQQ [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>48 西創成様

ありがとうございました。思い出しました。斉藤正能氏、間違いありません。
この人の公表されている経歴などをさぐると「いく代」についての新しい情報
が得られるかもしれませんね。
52牛鍋蝸牛:2003/10/22(水) 22:23:19 ID:P/mElpqA [ N047058.ppp.dion.ne.jp ]
>>50
「冷水」は現在の「札幌法務局南出張所」(豊平区平岸1条22丁目2番25号)辺り、つまりは「中の島通」と「福住桑園通」との交差点辺り。
「馬頭」は「石山通」から例の「御幸通」へと分岐する辺りとかと思います。
53内地:2003/10/23(木) 00:01:27 ID:Vrpwtqrw [ eaoska010055.adsl.ppp.infoweb.ne.jp ]
 牛鍋蝸牛さん、kさん、西創成さん、はじめまして。
なかなかレス出来ず済みません。先日、小林喜三郎の菩提寺に行ってきました。
 京都駅と梅小路機関区の中間辺りにあるお寺です。汽笛が聞こえてくる所です。
私は、祖父が養子縁組したため、小林姓を継いでなく初の墓参でした。
小林家のお墓に参るとお墓の側面には「明治四十三年九月 建立 北海道札幌区 小林喜三郎」
と記してありました。「幾」さんは、大正11年に55歳の生涯を終え、このお墓に眠っています。
 札幌地名情報ではないですが、どうぞご勘弁を。今後とも宜しくお願い致します。
54牛鍋蝸牛:2003/10/23(木) 21:06:47 ID:Cpyq0Vcg [ N045240.ppp.dion.ne.jp ]
内地さん、小林喜三郎さんも再婚だったのですね。
ということは、いくさんとは再婚同士のご結婚だったわけですな。
「割烹 いく代」に関しましては、その発祥の地である「偕楽園」の実地調査を未だ行っていないことにワシは、ちょいと負い目を感じております。
先日、「ヨドバシカメラ」にpcパーツを買いに行きました際にも横目でチラと見ながら、見て見ぬ振りをこいてしまいました。
反省…。
小林喜三郎さんの菩提寺、京都駅と梅小路との間のお寺といいますと、「宗徳寺」かな?「西福寺」かな?
京都だけに他にもお寺はいっぱいありますけどね。
55k:2003/10/24(金) 16:47:37 ID:loJgCa22 [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>53 内地様
貴重な情報ありがとうございました。「幾」さんはそうすると、当時は数え年
でしょうから明治元年のうまれではないかと推測されますね。するとさきに私
が書きました「斉藤正能氏」は昭和30年頃には50才台と思われますので、直接
のご子息であった可能性が高くなります。ほんとうにありがとうございました。
56真駒内川:2003/10/25(土) 00:28:30 ID:IWvJ/Zjw [ p6241a3.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>牛鍋蝸牛様

冷水ですが、中の島町内会の冊子(なんだったか忘れちまいました)の中で
水が湧き出していたらしいことが書かれています。
ただそれ以上詳しいことが分かりません。
それと、藻岩小学校の下付近にも冷水と呼ばれる所があったらしいです。
これについても裏の取れる詳しい資料がありません。
やっぱり現地調査でしょうかねぇ...
57牛鍋蝸牛:2003/10/25(土) 09:11:18 ID:jF3lME8Y [ N047176.ppp.dion.ne.jp ]
おはようございます。
「冷水」に関しては、ワシのわずかな手元の資料では調査に限界ありです。
そのほか、取り残し気味のネタも気になって入るのだけど…。

言い訳ばかりで申し訳ないのですが、今月に入ってから何かと忙しく、ここんとこへきてついに過労状態に陥りました。
本スレへのレスは、体力と気力がなければなかなか難しいですもんね。
まずは養生しようっと。

地名とは関係ないけど、札幌の「冨貴堂」、閉店だそうで。
58なまら名無し:2003/10/25(土) 10:09:03 ID:lAMlIY.A [ t523124.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ]
前スレ255に出てきた荒城二郎氏と、元首相の米内光政氏との往復書簡が本になってるはずですよ。
(タイトルは確か「米内光政の手紙」だったと思う)
2人は海軍兵学校の同期で無二の親友だったようですね。
また、荒城氏はドイツ駐在時代、国産初の鋼鉄製飛行機を作る計画に関わっていたらしいです。
日本の戦闘機の歴史について書かれた本(名前失念)で、読んだ記憶があります。

スレ違いの話題でスマソ
59なまら名無し:2003/10/25(土) 12:34:38 ID:C1/nBJUk [ p12166-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
60なまら名無し:2003/10/25(土) 14:04:01 ID:M7UvNnoU [ ZC016072.ppp.dion.ne.jp ]
突然乱入失礼します。あの〜札幌に菊水って言う地名ありますね。
九州の熊本近くにも菊水って言う所がありますがなんか関係ある
んでしょうか。それと豊平、広島にも。蕎麦で有名??です。
どなたか御存知でしょうか???
61牛鍋蝸牛:2003/10/25(土) 14:21:45 ID:jF3lME8Y [ N047176.ppp.dion.ne.jp ]
>>60
これから出かけますので、今は詳しくは述べられませんが、札幌の「菊水」のヒントは「菊亭脩季候」。
どなたかフォローお願いします。
では、ごきげんよう!
62なまら名無し:2003/10/25(土) 14:25:07 ID:Lk6rEw/A [ p1130-ip04sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]

馴れ合い禁止。チャット行為禁止。
63k:2003/10/25(土) 16:22:06 ID:0AR5UDqY [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>60 「菊水」の件
 おそらく関係ないものと思います。札幌の「菊水」は牛鍋さんも書いておられる
ように、菊亭侯爵にちなむものですが、熊本のそれは、町内を流れる菊池川に由来
するものと思われます。
64牛鍋蝸牛:2003/10/25(土) 21:56:50 ID:jF3lME8Y [ N047176.ppp.dion.ne.jp ]
札幌の「菊水」の地名の由来。
これは何度か出てきたました。
ttp://www.city.sapporo.jp/shiroishi/rekishi/pdf/reki38_39.pdf をごらんいただければわかりますように、札幌の地名としては珍しく「菊亭脩季候」という方の個人名からきたもので、>>60さんのご質問にあります九州の「菊水」とは全くの無関係でありましょう。
で、麺屋さんの「菊水」さんは北海道のメーカーさんですので、関係あるのかもしれませんね。
ワシとしては新潟の日本酒の「菊水」さんの、「ふなぐち菊水」というお酒が好きだったりしますがね。
でも「菊水」って語呂は、ワシ好きです。
とっても日本的で、札幌の地名の中では趣がまた違っていてね。

「菊亭候」に関しましては「その参」の#201 
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/3_log.html#201 にあるお噂のことを書いておりますので、ご参照ください。

>>62
ご親切にど〜も。
65西創成:2003/10/26(日) 00:18:29 ID:hH8FTBO6 [ j175062.ap.plala.or.jp ]
>>57
富貴堂(現・パルコブックセンター富貴堂)26日閉店ですか…淋しいかぎりです。

明治31年、南2西3共栄商館内で、京・九鬼藩士の長男、中村信以(のぶしげ)氏が開業した本屋なんだそうで、札幌病院(現・市立)などの入院患者等を相手に貸本の巡回貸付をはじめ、その2年後、南1西2に進出したそうです。
明治38年には、国定教科書の道中部取扱店になり、そのあと南1西3に移転しました。

また、中村氏は敬虔なクリスチャンで、屋号を聖書の中から取ったといいます。
同郷の大丸藤井の創業者藤井太三郎氏の影響で札幌独立教会で洗礼を受けたとのこと。

作家島木健作氏は、著書「地方生活」のなかで「札幌という時、私は何をおいても先ず富貴堂を思わずにはいられない。少年のころ、十銭、二十銭のこづかいをため、一円くらいになった時に、それを持ってかけつけるのは富貴堂だった(以下略)」と書いています。

読売新聞社編「さっぽろ大路小路」という本には、古老の話として『この”しにせ”のあゆみは、札幌市の一つの文化史』と書いています。

一時は書籍、教科書販売、教材などの販売や出版などを扱い、戦後でも参考書販売全国五指だったそうです。

昭和50年パルコ開業よりに入居。
昭和61年パルコブックセンター富貴堂に。

この店が消えるのは、この札幌市において『五番舘』が『札幌西武』になったのと同じ位悲しいことだと思うんですがねぇ。
ここのところ、映画館(東映、松竹遊楽館、帝国座など)も『靴のタムラ』さんなんかも閉まってしまって…なんだかなぁ。
66なまら名無し:2003/10/26(日) 10:34:24 ID:d1NiAVcQ [ t508189.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ]
旧制札幌一中(現南高)の前身、北鳴学校の「北鳴」は地名と関係あるんですか?
67なまら名無し:2003/10/26(日) 11:55:53 ID:OFYRiDIs [ ZC016072.ppp.dion.ne.jp ]
富貴堂が????????
昔.......琴似駅前通りにもありませんでしたか???
30数年前の事ですが 。
60で質問したものです。皆様ありがとうございました。
68とろんとろん:2003/10/26(日) 12:34:08 ID:nJlBhHdg [ p3108-ipbf07sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>3
おとっつあんさん、はじめまして。とろんとろんと申します。
親戚がその円山公園の近くにずっと住んでいるものですから
そのあたりのことを訊いてみました。
それによると、ボーリング場のあったのはCI(アパート、か
マンション)といって、その西にあったのは三菱銀行のアパート
だったそうです。
池もあったそうで、そのボーリング場の形もその池を
レイアウトしたかのようなつくりになっていたとか。
現在その北1条西25丁目の三菱銀行のアパートはほんの数年前に
更地になり、今はそこに28階建てのマンションが建つとかで
問題になっている模様。
69おとっつあん:2003/10/26(日) 19:39:22 ID:n1QroZ4k [ i114246.ap.plala.or.jp ]
とろんとろんさん、御丁寧に御挨拶をありがとうございます。
ヒトのコトは言えませんが面白いハンドルネームですね(笑)。
ボーリング場の形と池の形の関連なんて全然覚えてもおりませんでした。
あと、銀行は三菱だったんですね、ありがとうございました。
あそこら辺も随分変わったようで、たまに通るときょろきょろしてしまいます。

それと、遅くなりましたが、牛鍋さん、御挨拶をありがとうございました。
関連話題の時はよらせていただきます。
ちなみに中学の時は南口の登山道を7分程度で登って遊んでましたので、
どこかでつながりがあるのかも知れませんね。
70牛鍋蝸牛:2003/10/26(日) 22:12:02 ID:tAghVqME [ N047003.ppp.dion.ne.jp ]
ttp://www2.ocn.ne.jp/~hokudaic/yagatukou.htm
によりますと、「私立北鳴学校」は「炭鉱汽船会社」の「堀基社長」がつくり、「新渡戸稲造博士」が校長であった、とのこと。
これが明治24年のことであり、同28年に同校を仮校舎として札幌初の公立の中学校、「札幌尋常中学校」が設立された。
ttp://www.geocities.co.jp/HiTeens/1327/contents/intro_s.html
大正4年に「北海道庁立札幌第一中学校」と改名、同11年に「南18条西6丁目」の現在地へ移転した。

とまあこんな風になるのですが、では肝心の「北鳴学校」はそもそもどこにあったかといいますと、「札幌尋常中学校」としてではありますが「札幌案内」(明治三十二年)に載っておりました。
「札幌尋常中学校(北10西4)明治二十八年の創立にして現在生徒数五百二十一名 卒業生を出すこと本年に至るまで三回六十八名 内高等学校に入学せしもの六名 校長は矢島錦蔵氏」

「北鳴学校」は「北10条西4丁目」にあった…。
しかし、現在この住所は中島公園に当たってしまい、存在しません。
当時の条丁目表示は現在と違ったりするので、中島公園にあったとは思えない。
それに中島公園は「中島遊園地」として、すでに「札幌案内」にも掲載されていますし。

さて、肝心のご質問「北鳴とは地名か?」に対するワシなりの答えなのですが、札幌本府内であり条丁目表示の住所にあったということから「北鳴」は地名ではないという結論を出してみました。
金沢市に「北鳴中学校」があるようなので、漢詩とかからの命名かな?とも思って「北に鳴く」でネット検索してみましたがヒットせず。
う〜ん…。
そもそも、北で一体何が鳴いているのかな?

「新札幌市史」も見てみましたが、残念ながらこちらでも発見できず。
しかし、思いがけなく「冨貴堂書房」("トミ"の字に点は付いていない)から出た中学校入試の参考書、「大正三年版入学試験問題及解答」の写真を見つけました。
タイムリー!!
この時代、「札幌中」への入試はかなり難しかったようです。
なんたって遡ること明治四十三年には、受験予備校として「札幌中学校受験準備会」が発足したくらいだそうですから。
71おとっつあん:2003/10/27(月) 00:53:15 ID:gP223nMk [ t181067.ap.plala.or.jp ]
>牛鍋さま
北鳴学校ですが、手許に資料がありました。
明治24年1月に、新渡戸稲造(30)が、メリー・エリトルキンと結婚して、
ジョンスホプキンス大で論文を出して2月に日本に戻って3月に札幌農学校の教授となって、
同時に教頭となって9月に北鳴学校が開校しているんですね、びっくりです。
明治27年5月の北海道毎日新聞によると、
「市勢北漸の傾向が既に市区創設の時にあり」となっており、
「北鳴学校は当区の北隅に屹立し」と「北海道教育会雑誌(12)」にもあるように、
当時の流行りの町並み(今の南3条-北10条)にあったようです。
で、住所は北8条西4丁目に北鳴学校があり、そのやや北に札幌尋常中学校ができたとあります。
尋常中学校は当初は北8条の住所表示だったそうですけど、
市区改正の結果北10条西4丁目になったそうです。
なお、明治28年7月の尋常中学校入学式には新校舎8月末に落成した北10条の新校舎が間に合わず、
北8条の北鳴学校の校舎をつかってたらしいです。

北鳴の由来については私もわかりませんでしたけど、
道立図書館に新渡戸も編集発起人となっている「北鳴学校紀事」というのがあって、
それのどっかになにか書いてあるのかも知れません。
なんか、北で鳴きたかったんでしょう(笑)。

ちなみに牛鍋さんのおっしゃった大正3年の入試問題は、
1)算術:2.672x1.25-0.152+0.065とか、連立方程式の文章題。
2)国語:「行儀作法」の読みとか、「モウセン」と漢字で書くとか、単語とか文章の解釈。
3)作文:「北海道より内地の友に贈る文」
4)習字:土木海陸昼夜長短を楷書で書く。
などなどとなっているそうで、なるほどなぁ、と、思いました。
72k:2003/10/27(月) 08:29:06 ID:pNvFFmwk [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>70

「北鳴学校」は「北10条西4丁目」にあった…。
しかし、現在この住所は中島公園に当たってしまい、存在しません。
とありましたが、「中島公園内」となっているのは、南10条の西4丁目です。
北10条の西4丁目は昔も今も現存しています。この場所は現在、市役所の鉄
西連絡所などがある場所と思われ、以前には市電の車庫があったところです。
73真駒内川:2003/10/27(月) 11:19:05 ID:nx5rsDjM [ pdd2f82.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
旧北鳴学校は現在の北1条西3丁目の時計台付近にあったことが
写真集札幌に書かれています。
つまり札幌農学校の敷地内にあったことになります。
ここって国有地なのに私立学校があったことになるんですよね。
北鳴学校は札幌中学校の開設に伴い廃校になったそうです。
札幌農学校は痛みがひどくなったことと周囲が繁華街となったため昭和32年から現在の北大農学部の位置に
新校舎を建設を初め36年に移転しています。
74牛鍋蝸牛:2003/10/27(月) 19:33:42 ID:l690sjfs [ N047003.ppp.dion.ne.jp ]
>>72
あ、やってもうた…。
おっちょこちょいの本領発揮でした(汗
75西創成:2003/10/28(火) 00:17:52 ID:FoZ2Frjc [ j176061.ap.plala.or.jp ]
>おとっつあん様はじめまして。

”おとっつあん”といえば、
トニー谷の前口上など勝手に思い出しました。

北鳴学校の開校式で、時の北海道庁長官渡辺千秋氏は祝辞で『この校の名 北海に鳴る遠きにあらざるべし』(さっぽろ文庫7・札幌事始、中学校から抜粋)と言ってるようなのですが。意味はいかに。

◎勝手な推測
1・北の地に集う共鳴する若人
2・道庁長官の祝辞の意味の通り
3・新渡部先生がらみなので、聖書などキリスト関係のものから
76牛鍋蝸牛:2003/10/28(火) 00:19:08 ID:KekHfOL2 [ N047003.ppp.dion.ne.jp ]
「旧私立北鳴学校を仮校舎に、札幌尋常中学校として創設された」というttp://www.geocities.co.jp/HiTeens/1327/contents/intro_s.html 
からの情報をもとに、明治三十二年の「札幌案内」から「北鳴学校」の場所を推測したら「北10条西4丁目」となりましたが、>>71おとっつあんさんの詳細なご報告によりますと、「北8条西4丁目」に「北鳴学校」はあったのだけど、市区改正により「北10条西4丁目」に"なった"とのこと。
「南高」の前身ということからワシは、「南」だとばかり、つまり「現・中央区」だとばかり思い込んだのですが、「北10条西4丁目」と言いますと、こりゃもう「北区」。
じゃぁってんで、以前とろんとろんさんからいただきました書籍版「新・北区エピソード史」を見ましたら、
サイト版 ttp://www.city.sapporo.jp/kitaku/88guide/otonadata/88oto02.html にもありますように、なんとなんと「札幌中学校発祥の地」碑は「北11条西3丁目」にあるとのこと。
これは困ったなと思いつつ、同書の巻末「新・北区エピソード史略年表」をつらつらと読みましたところ、今度は「1895(明治28)年 札幌尋常中学校(北十西四 現・南高)開校」とあるんですよねぇ。
ありゃりゃ?

こうなりゃ「札幌歴代地図」に頼るしかないなと思い、明治44年版http://pernoi.chu.jp/chimei/m_44.gif を見てみました。
これによりますと、同校の敷地は「北10西4〜北11西4全部と、それぞれの西3の半分くらいまでの面積を占めていたようです。
なるほど、そういうことだったのね。

ついでに「さっぽろ文庫45 札幌の碑」で同碑を調べてみましたら、次のような記述を発見しました。
「南高校の前身である札中(一中)の旧校地跡をしのぶ「発祥の地」碑が北11条西3丁目にある。札幌中学校は、明治二十八年創立で、この地に建てられた旧校舎で学んだ同窓生によって建立された。札幌中学校はその後札幌第一中学校となり、大正十一年南高校の現在地に移転した。同校には、札中以来の創立九十年を記念する「六華の門」碑が建立されている」

以上のことから「北鳴学校」の所在地は「(ほぼ)現・北10西4丁目である」ということでよろしいでしょうか?
だとすると「写真集札幌」に書かれていたという「北1条西3丁目」は、もしかして「北11条」の間違いかな?なんて思っちゃったりするのですが…。
77牛鍋蝸牛:2003/10/28(火) 00:45:29 ID:KekHfOL2 [ N047003.ppp.dion.ne.jp ]
>>75
出ました!「北鳴学校」、校名の由来〜!
「北海に鳴る 遠きにあらざるべし」

ワシもこの言葉の意味を勝手に推測して見ました。
「北の地で声を上げろ ここが遠くはなれた偏狭の地ではないことを知らしめるために」
こんなのでど〜でしょ?
78真駒内川:2003/10/28(火) 15:30:57 ID:SUCY738w [ pdda0a4.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>76
北鳴学校の所在地≠札幌中学校の所在地というのはどうも考えにくいと思われます。
新渡戸稲造は札幌農学校の教授と北鳴学校の教頭、さらに遠友夜学校の経営をしています。
さらに遠友夜学校では農学校の生徒が教えていたことも考えると、それぞれが大きく離れる事は出来ないと思われます。
また、北鳴学校は高等学校である農学校と第1小学校の間の中学校として設立したのですから、その周辺になければならず
北11条に札幌中学校が建設されたのは、農学校が現在の北大農学部付近に移転した時期と同じ昭和36年ということから
筋が通ると思います。
つまり農場の真ん中にその学校だけがあるのは不自然だということです。
79おとっつあん:2003/10/28(火) 20:05:45 ID:aa8jxMwg [ n139168.ap.plala.or.jp ]
西創成さま、御挨拶を御丁寧にありがとうございます。
懐かしいですね、トニー谷。
遅れましたが、真駒内川さまもどうぞよろしく。

「北海に鳴る遠きにあらざるべし」なんてめちゃくちゃカッコいいですね。
西創成さんの解釈なら(1)に1票。
牛鍋さんの解釈にも惹かれたりします(笑)。

職場になんでか「北海道札幌南高等学校百年史」があり、
北鳴の由来は載ってませんでしたが、場所の記載はありました。
北鳴学校開校の明治24年は1891年とのことで、
100年以上経って校名の由来をネット上で知らん同志があれこれ言い合うなんて、
新渡戸さんも夢にも思ってないですよね(笑)。

それはそうと、また、めちゃくちゃビックリしたんですけど、
「札幌歴代地図」すごいですね。
そういう名前のサイトなんでしょうか?。
http://pernoi.chu.jp/chimei/m_44.gif
からトップに上がろうとしたんですが、見事に失敗しました(笑)。
勉強になって色々楽しいです、はい。
80めっちゃ名無し:2003/10/28(火) 22:46:27 ID:HWbz5U5k [ YahooBB219042180147.bbtec.net ]
>79のリンクで気になったんですが、北大って東北大の分校(?)から始まったんですか?
「東北帝大農科大学」ってあるんですが・・・・・?
81西創成:2003/10/29(水) 00:37:42 ID:3.StRDtA [ i097010.ap.plala.or.jp ]
>>80
めっちゃ名無しさんはじめまして。

どうもそんなもののようです。

よく北大の前身といわれる、明治9年設立の札幌農学校は、明治5年の学制や明治19年の帝国大学令に規定された大学ではない(でも、教育内容や卒業生の学位から考えると大学に近い高等教育機関といえる)ので、北海道の最初の大学ではないそうです。

この札幌農学校を前身として、明治40年6月22日設立の東北帝国大学農科大学が出来ました。

その後、これが、
大正7年4月1日 北海道帝国大学
昭和22年9月30日 北海道大学
となっていったようです。

ですから、東北帝国大学の分校のようなものが、北大の前身といってもいいかと思います。
82なまら名無し:2003/10/29(水) 01:40:25 ID:Db9EaSQM [ t508002.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ]
はじめまして。このスレのファンです。いつも楽しくROMさせていただいております。
上の西創成さんの北大の前身云々の話で、他の板でちょっと面白い事を知ったので、
ソースはネットにのっかてる情報だけですが補足を。

>明治40年6月22日設立の東北帝国大学農科大学
何故か法律上は9月1日付けで、開学式も9月のようですね。
更に当時の農科大学長が、東北帝国大学総長の職務代行をしていたそうです。
東北帝国大学初代総長任命は明治44年3月24日付。
それより前同年1月に仙台に東北帝国大学理科大学が設置されています。
つまり4年弱は東北帝大のキャンパスは札幌のみだった事になります。
法律上は仙台が本部で、実質は札幌が先行。
いわば北大と東北大は、双子の兄弟みたいなもんですかね〜。
参考:
「古きを訪ねて/北海道大学古河講堂」
http://hoba02-ue.eng.hokudai.ac.jp/archi/furukawa.htm
「東北帝国大学ニ関スル件(明治40年勅令第236号)」
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm40-236.htm
「平成15年度東北大学概要」
http://web.bureau.tohoku.ac.jp/gaiyou/
8318丁目@超久々:2003/10/29(水) 04:49:16 ID:sdJQCcwU [ p3022-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
札幌尋常中学校は医学部文化村であった場所ですね。
大黒病院あたりが当時の面影を残して居ますかね。
84牛鍋蝸牛:2003/10/29(水) 22:51:30 ID:Zr7B4U5M [ N047016.ppp.dion.ne.jp ]
>>79
あ〜、「北海道札幌南高等学校百年史」ですか。
ウチの職場には確か、「北海道新聞社○○年史」だかあったなぁ。

「北鳴学校」の所在地は今一度確かめる必要がありますので、そのうちに図書館へ行きましてウラを取ってくるつもりです。
昨日も休みだったのですが、PCいじって一日暮れました。
実地調査等さぼり気味でいかんと思っております。
デジカメの出番も減ってしまっています。
現地へ行くのが本スレの命なのに〜。

「札幌歴代地図」は「札幌市史」(昭和33年)が出典です。
で、ワシが161さんのサーバーにアップしてもらったのです。
http://pernoi.chu.jp/chimei/chizu.html から
開拓使札幌県時代 512KB  明治26年 612KB 明治44年 大正15年 916KB 784KB
昭和11年 1.04MB へ飛べますのでご利用ください。

>>80めっちゃ名無しさん、>>82さん、こんばんは。
まずはごあいさつだけ…。
今日はちょっと遅いので。
85西創成:2003/10/29(水) 23:40:51 ID:4/INQNts [ i105086.ap.plala.or.jp ]
>>82さんはじめまして。
ははぁ東北帝大=北大のつながりには、そうゆうお話もあるのですか。

これからは、どうぞご参加くださいませ。
私も拙い日本語しか書けないくせに参加させてもらっています。どうぞ宜しくお願いします。

>>83 18丁目さま
しばらくでございました。
大黒病院は胃腸科でしたか。

>>84 牛鍋さま
だんだんと調子出てきたようですね。
ご活躍期待しております。
86k:2003/10/30(木) 15:56:40 ID:0TdX89Fg [ customer71-242.mni.ne.jp ]
北鳴学校のことでいろいと話題になっていますが、南高OBとしては黙っている
わけにもいがず、・・・・・
南高100年史については発行されたのは承知していたのですが、まだ見たことがあ
りません。南高の歴史の概略については「六華同窓会」のHPで見ることができま
すが、ここでも北鳴学校のことは触れられていません。
 cf: http://www/rirra.net/
87k:2003/10/30(木) 16:00:01 ID:0TdX89Fg [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>86
六華同窓会のURLは間違いでした。正しくは下記の通りです。参照して下さい。
  http://www.rikka.net/
88なまら名無し:2003/10/30(木) 19:17:33 ID:85nWLeqA [ P061198255128.ppp.prin.ne.jp ]
札幌の街づくりには「風水」の影響はあったのだらうか・・・?
89牛鍋蝸牛:2003/10/30(木) 21:00:43 ID:EBxqTLe. [ L066013.ppp.dion.ne.jp ]
「札幌農学校」がそのままストレートに「北海道帝国大学」→「北海道大学」と変遷したとばっかり思っていた同窓生のワシ(嘘)なんかは、その間に「東北大学」が一枚噛んでいたなんて小さな驚きでした。
>>80めっちゃ名無しさん、よく気が付きましたね。
>>82さんの「平成15年度東北大学概要」 http://web.bureau.tohoku.ac.jp/gaiyou/
は沿革図が大変すばらしいしね。
本スレに参加される方々はなにげなくすごいなぁ、とつくづく思っちゃいます。

で、ワシも「新札幌市史」の「第三巻 通史三 第八章 国民統合と教育 第二節 中・高等教育機関の整備 三 東北帝国大学農科大学の成立」から補足するため引用したします。
何はともあれ「札幌農学校」の大学昇格運動はいろんな形で盛り上がっていたと、思ってくだせぇ。
話はそっからだ。

「こうした大学昇格運動に加えて、足尾鉱毒事件で糾弾された古川市兵衛の遺族から106万円の寄付もあり、同年(明39)十二月には福岡工科大学、東北帝国大学理科大学とともに札幌農科大学の設立が決定した。そして、札幌農科大学は東北帝国大学の分科大学として、東北帝国大学農科大学と命名された(北タイ 明39・12.・8)。翌四十年六月には仙台に帝国大学として東北帝国大学を設置し、札幌農学校を東北帝国大学農科大学とすることが勅令(第二三六号、明40・6・21)によって正式に定められた」
90牛鍋蝸牛:2003/10/30(木) 21:27:49 ID:EBxqTLe. [ L066013.ppp.dion.ne.jp ]
>>89の補足です。
「新札幌市史」では「足尾鉱毒事件」に関して「古川市兵衛」となっておりますが、正しくは「古河市兵衛」かと思われます。
アップしてから気が付きました。

「北海道大学」の礎は「足尾鉱毒事件」にあった、ってのも知られざる歴史ですね。
ちょっと(ついに)風邪気味のためこれにて失礼。
おやすみなさい。
91西創成:2003/10/30(木) 23:20:33 ID:Rp2XjkPA [ u054092.ap.plala.or.jp ]
>>88
風水を考慮したんですかね。どうなんでしょ。

なんだか、聞いた話によると神宮屯宮の位置にヒントがあるらしいんですが。
9218丁目:2003/10/31(金) 01:27:56 ID:XnXtlzqw [ p16168-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>88
風水の件は一時期まことしやかに語られていたと言う風に、何かの本で読んだことあります。
北東方面が鬼門だとか・・・・・
全く笑止ではありますが、多少なりとも影響はあるのかな?
93真駒内川:2003/10/31(金) 08:38:59 ID:jrxc1Ehc [ p6242eb.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
北鳴学校の位置についてのその後であります。
札幌教育史に北8条西4丁目に置かれたことが書かれていました。
(西5丁目と書かれている資料もあります)
教育史の文章から見るとやはり周囲は農園だったようで、
同時に北鳴学校の校舎と寄宿舎の入った写真も掲載されていて、
その背景にはなんの建物も写っていないことから少なくとも北1条の位置ではないことがわかります。
また、札幌中学校はそこからやや北の北11条に建設されたことも書かれていました。
おとっつあんさんの説明がほぼ正確ではないでしょうか。
ただなぜその場所を選んだのかを記した資料は見当たりませんでした。
94牛鍋蝸牛:2003/10/31(金) 21:46:09 ID:EiC5EcUU [ N044003.ppp.dion.ne.jp ]
(以下、かなり酔っ払っているので責任はもてまへん)

「風水」ねぇ…。
「風水」は中国のものでしょうけど、「方位学」とか「気学」なんてのもあるしね。
その相関関係がわからない(w
あとね、「鬼門」って「風水」にもあるのかな?
ワシは日本独特のもののように思っておりますけど。

>>91
西創成さん。
「頓宮の位置」って、「向き」のことでしょうか?
もしもそうなら、確かに北海道神宮は鬼門といわれる「北東」を向いていますよね。
皆さんご存知かもしれませんが、ワシ、昔に「北を向いている神社は全国に二つしかない」という話を聞いたことがあります。
神社ってぇのんは、通常鬼門の方角である北東を向くような作り方はしないが、北海道神宮の場合は北方(エミシあるいはロシア)からの侵入を防ぐ目的がありそのように作ったという説です。

調べてみたら、岡山の「吉備津神社」は北を向いているようです。
真北ではありませんが、ここは北海道神宮よりは北向きですな。
そもそも、札幌の「伏見稲荷神社」だって北東を向いていますがな。
既出のようにもともと北海道神宮の社を譲り受けたものだから当然なんだけど、そうなると少なくとも北向きのお社ってぇのんは、全国で三つはあることになりますなぁ。

あ、「五天山神社」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=466 
も「北海道神宮」と同じような方向を向いていたよ。
四つか?
れれ?「旧・雁来神社」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=308 
も北向きだったし…。
五つじゃん。
「菊水神社」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=429
「石山神社」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=490 
は北西だけど、北のようなものだしね。
となると…、いくつだ?
ま、「難得神社」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=294 
は東向きだからこいつ(失礼)はちょっと気色が違う。
というわけで、「通常、神社はどっちを向いているのか?」と言う疑問に関しての答えなのですが、"千差万別"ってことでガッテンかな?

先日、NHK(衛星だったか)である有名人(忘れた!)が京都の家々の鬼門を歩いて探すという番組をやっていました。
北東の「鬼門」に植物を植えている家が結構ありました。
商売をやっているお宅やお医者さんの家もそうだったり、新築の家でも角にちょっとした植え込みを作っていたり。
そして、大事なのは「鬼門」だけではなくその反対南西の方角の「裏鬼門」。
ここにも植物を植えたり、盛塩したりしなくてはいけないようです。
京都の人に聞くと、「迷信だとかなんだとかじゃなく、普通に習慣になっている。つまりは朝、顔を洗うようなもの」と言っていました。
江戸じゃ「粋」と書いて「イキ」、京都じゃ「粋」と書いて「スイ」というってぇのんは、永六輔の受け売りだけど、ここまで来ると「粋」ですなぁ〜。

あ、「風水」と札幌の関係ね。
きっと、無関係の関係ってやつでしょうね(w
95真駒内川:2003/11/01(土) 01:28:56 ID:P/WRwCDk [ p29b351.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
神社がどこを向いているかというのは、その神社がなぜ置かれたかに起因することは想像に難くないと思います。
例えば航海を守る海の神の社はその海の方角を向きますし、荒れる川に向かっては水神を祭る社が多くその向きを向いています。
また、三輪神社や霧島神宮は背後に神体山を拝し山自体が信仰の対象になっています。
伊勢神宮や日御碕神社はそれぞれ朝日に向い、夕日に向う社であります。
これら自然を対象とした神社の場合はその向きには必然性があります。
しかし、ひとや神器を祭っている社、近世以降に勧請された社には南向きとなっている
ところが多いようです。ただしその後の移転や立地条件などで向きが変わっている社もあります。
北海道神宮の向きが北東を向いていることについては、樺太や千島を鎮護するためだといわれていますが、
これについてはちょっとほんとかいなといった感じがありますが..。
96なまら名無し:2003/11/01(土) 14:41:05 ID:qA0OdPfw [ m017139.ap.plala.or.jp ]
市内に追分という地名があるそうですが・・・
パークホテル裏手にある水天宮ってどういう由来?
97新川番地:2003/11/01(土) 19:17:05 ID:em7cuGKs [ YahooBB219041108017.bbtec.net ]
はいっ、手稲界隈に詳しい方どうぞっ

と、さりげなく復帰
98新川番地:2003/11/01(土) 20:45:03 ID:em7cuGKs [ YahooBB219041108017.bbtec.net ]
復帰ついでに

明治17年(1884)旧久留米藩士水野源四郎翁が、九州久留米水天宮本宮より御分霊を奉戴し渡道、札幌市南2条西4丁目に祀る。明治18年鴨々川畔佐藤源八郎邸に祀られ、明治21年現在地札幌市中央区南9条西4丁目に社殿を建て、終戦後昭和27年10月17日神社本庁に所属、日本第39分霊社の1つに入っている。昭和60年7月25日御創祀百年奉祝祭を斎行、平成7年7月25日には御創祀百十年祭を斎行した。
・・・そうです

札幌神社リンク集より
99牛鍋蝸牛:2003/11/01(土) 21:10:51 ID:1n9HYjnw [ x087108.ppp.dion.ne.jp ]
え〜、「北を向いている神社は北海道神宮ともう一つ。計二つだけ」説はむか〜し聞いた話だったのですが、よく調べたら本スレでもおなじみのサイト「円山物語」にもその話が出ていました。
ttp://www5.ocn.ne.jp/~doshinmy/story/story.html#6 「北海道新宮の境内案内」に、
「北海道神宮が他の神社と違う点は神社が北に向いて建っていること。普通の神社は南面 するのが常識。社殿が北面するのは後醍醐天皇を祭る吉野神宮とこの二つだけ。 明治政府は南下政策を採って樺太から北海道まで窺う気配を見せる帝政ロシアに対する、精神的な防波堤役を神社に望んだ。いわゆる北門の鎖鑰(さやく=外敵の侵入を食 い止めるべき要所)であり、"困った時の神頼み"としての札幌神社だったという性格もあっただろう」とあります。

「吉野神宮」は確かに北向きのようです。
ttp://www.town.yoshino.nara.jp/kanko/gyoji/taisai/
でも、この二つだけが北を向いているわけではありません。
既出の通り、有名どころでは「吉備津神社」だって、
ttp://www.harenet.ne.jp/kibitujinja/
ttp://ww1.tiki.ne.jp/~takaya/kibi/kibitsu/kibitsu.htm 
ほ〜ら、立派な北向きですがな。

それに北海道神宮は北向きというよりは、「北東」を向いているし、どぼじてこんな伝説が出たのか不思議です。
そもそも「神社は普通、南向き」というのが間違いだけどね。
もっと言うなら、「札幌神社」が南を向くほうが不自然な気がします。
「円山」で山側を後方に配する位置として「札幌本府」を望むとなれば、必然的に東を向くことになるわけですし。
あ…、発端は「札幌の街づくりと風水の関係」だったのにいつのまにか、「神社の向き」研究になってしまっているわいな(w

「追分」はいつかやりたいテーマでした。
100西創成:2003/11/02(日) 00:02:44 ID:5ffJCbLw [ i106151.ap.plala.or.jp ]
神社の格というのがあるそうですが(官幣大社、官幣中社、県社、郷社、村社、無格社など)、牛鍋さんご提示の『北向きの神社は2つしかない〜』というのは、ある程度の格の神社では2つしかないということではないでしょうか。

>>96さんはじめまして。
「追分」ですね。手稲のですか。

胆振の追分町は、鉄道線(室蘭線・夕張線)の分岐点なので、「植苗村アビラ」から改名したんだそうです。
江差追分という唄は、信州の馬方唄あたりが起源なんだそうです。(諸説あり)

さて、札幌の「追分」はどこからきているのでしょうか。

札幌地名考(さっぽろ文庫1)は、
「手稲追分」=旧手稲町字宮の沢の1部落名で、現在の中の川以西富丘地域までの所。

地名の由来として、明治2年開拓使が札幌本府の経営にあたって官園を設けたとき、放牧地(馬)を現在の追分川の南に設け、ここで馬を追い分けたので、「おいわけ」としたと記しています。

ちなみに、「追分川」の名の由来は、地名からつけられているとも書いてあります。

ふむむ…「追分」って、そもそもどうゆう意味の言葉なんでしょうか。
101真駒内川:2003/11/02(日) 00:41:08 ID:XlTH6HLY [ p6eddc1.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>96
水天宮は暗算..じゃなくて安産の神様であります。
戌の日の水天宮参りは広く知られるところです。
ちなみに小樽にも水天宮がありますけれど、ちょいと祭神が異なっております。

95の私の説明の中で伊勢神宮が朝日に向かうと書きましたが、ちと間違っておりました。
拝殿自体は南向きであります。(うろ覚えでよく調べねーとこうなる)
さらに三輪神社ではなくて大神神社でした。(赤っ恥!)

でもほんとにスレ違いだわ...
102真駒内川:2003/11/02(日) 01:06:39 ID:XlTH6HLY [ p6eddc1.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>100
懲りずにまた書きます。
神社の社格というのは明治4年に定められたもので、神に供える幣帛料をどこから出されるかを決めたものです。
官社は国家が自ら経営する神社のことでこれには官幣大社、官幣中社、官幣小社、国幣大社、国幣中社、国幣小社を
諸社として府社、県社、郷社、村社を設けています。
官社は皇室から、国社は国庫から、府社以下は各府県からまたは市町村から供進された神社です。
さらに祭神に奉られた神階により正三位以上を大社、従四位以上を中社、それ以下を小社としていました。
これによらずに神社の規模などで大中小を決めている例もあります。
ただし以前にも書きましたがこれらの社格は終戦後にはすべて廃止されています。
公に旧社格を名乗ることもできなくなっています。
103真駒内川:2003/11/02(日) 01:31:13 ID:XlTH6HLY [ p6eddc1.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>100
「追分」、街道の分岐点のことだと聞きますね。
逆に合流してるから「落合」という地名もあります。
古いいわれが有って付いた地名でしょうが、どっちがどう違うのか判りませんね。
104牛鍋蝸牛:2003/11/02(日) 06:05:23 ID:7mD2ik/Q [ x087108.ppp.dion.ne.jp ]
「追分」と名の付くところは日本全国たくさんあります。
住所表示だけでも、全国に112件ありました。
これを地名まで広げると、膨大な数になるでしょう。

昭和46年の「新宿クリスマスツリー爆弾事件」の舞台は、東京は新宿の「追分交番」でした。
近くに「追分だんご」ってお店もあります。
「追分神社」ってのも全国各地にあるようですし、「追分駅」もたくさんある。
他に多いのは「小学校・中学校」、「郵便局」「銀行の支店」かな。
交差点名の「追分」も全国に21ある。(件数は牛鍋蝸牛調べ。当てにならないかも〜)

真駒内川さんのおっしゃるとおり、「追分」とは本来、道の分岐点を指す言葉のようです。
たとえば、上記の新宿の「追分」は「青梅街道」と「甲州街道」の分岐です。

となりますと、札幌宮の沢付近の「追分」、「さっぽろ文庫1 札幌地名考」の説明通り、「馬を追い分けたから"追分"となった」のだとしたら、特殊な付けられ方のように思えますね。
「馬を追い分ける」…。
う〜ん、「追い立てる」っていう言い方は一般的だと思うのですけど。
イメージ的に、追い分けられた馬はどこへ行ったのか?って考えちゃう。
ず〜っと走って行っちゃいそうな。
昔の地図を調べてみることにしましょう。

現在、「追分」の名が残っているのは「追分通」、「追分川」くらいでしょうか。
「追分通」はとても広くていい道なんだけど、信号の連動がうまくなくていちいち赤信号にひっかかる感じがします。
それとも道警わざとやっているのかな?
車を追い分けていたりして。
105なまら名無し:2003/11/02(日) 06:31:02 ID:1Er9i.x. [ i150161.ap.plala.or.jp ]
へーっ手稲にあったとは知らなかった。
ほとんど土着の人しかしらないのでしょうか?
いまだにつかわれている名残ってありますか。
ついでに福井の方にいく途中、右股、左股ってあるがあれも地名?
106おとっつあん:2003/11/02(日) 09:00:03 ID:QNJBg1hQ [ t181226.ap.plala.or.jp ]
これもスレ違いではあるのですが、
放生会を行ってる博多の箱崎宮も、鳥居が北に向かっています。
外敵降伏のための神様を祭っておられるそうで、
朝鮮を睨んでいると言うことになっているようです。
全国に二つのうちのもう一つは、これなのでしょうかね?。
107真駒内川:2003/11/03(月) 00:25:39 ID:CqkESw6o [ pdd3072.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>106
筥崎宮
敵国降伏の神として香椎宮、住吉神社とならんで神威を発揮したとされます。
実は、社殿は北ではなく西を向いております。ちょうど博多湾の出口に向いていますかね。
蒙古襲来の防護のため神威を頼んだとされます。
この「筥」って普通に打つと出ませんね。
しっかし、そろそろ神社ネタから戻さないとまずいかも...
108西創成:2003/11/03(月) 00:37:12 ID:8RRMeZJM [ i220012.ap.plala.or.jp ]
>>102
神社の社格のお話ありがとうございます。
北海道神宮は、現在、北海道総鎮守と名乗っているようです。

>>103,4
そうですね。追分=分岐点
旭川にも「旭川追分」という分岐点の駅が過去にあったそうです。

それと、札幌地名考がいう『馬を追い分ける』という言い方はあまり聞きませんな。

>>105
JRバス、中央バスの停留所に「手稲追分」というのがあります。
場所は、国道5号と追分通の交差点付近です。

西野二股交差点(道銀・西野二股出張所=西野7ー2、付近)から平和に向かう道路を市道右股線、福井を経て盤渓方面へ向かう道路を道道西野真駒内清田線(西野道路または、左股)といいます。
ですから、地名というより通り名なんじゃないでしょうか。

>>106
真駒内神社の1つめの鳥居も北向いてます。
109おとっつあん:2003/11/03(月) 07:51:10 ID:4SmxaMKo [ t173142.ap.plala.or.jp ]
おはようございます。

>>107 真駒内川さま

鳥居が北を向いていれば、
神殿も当然に北を向いているものとばかり思ってました(苦笑)。
「筥」って、よくお出しになりましたね。
私は早々にあきらめました(笑)。

>>108 西創成さま

ずーッと札幌にいるのですが、
真駒内神社の存在をたったいま教えていただきました(笑2)。

ということで、神社ネタは、私はおしまいにいたします。
110牛鍋蝸牛:2003/11/03(月) 23:04:18 ID:ch1ZLbeU [ x087045.ppp.dion.ne.jp ]
西創成さんから「さっぽろ文庫1札幌地名考」に書かれている「追分」(同書では"手稲追分")の紹介がありましたが、この地名に関しては今のところ資料が少ないので、改めて全文を引用させていただきます。

「追分は、昭和四十二年三月一日に札幌市と合併するまで旧手稲町字宮の沢地域の一部落名であった。位置は現在の中の川以西富丘地域までである。
地名の由来は、明治二年(1869)当時開拓使が札幌本府の経営に当たって官園を設けたとき、馬の放牧地を現在の追分川の南に設け、ここで馬を追い分けたので"おいわけ"と名付けられたという。そのときの木柵が明治末期まで残っていた。
この辺りは、隣接地中の川付近に白石藩士の一団が入植する前から、何人かが住んでいたといわれ、アイヌ小屋も散在していたという。当時は、どこもかしこも密林とクマザサに覆われ、ツルの産卵地であったというほど、人の手のあまり入らない自然の姿が残された地区である。その後、この地域への入植者としては明治十六年(1883)に山口県人・林梅五郎ら10戸が移住している程度で、開墾には特に見るべきものはなく、他地区に比べ開発が遅れた地域であった。しかし、最近では国道五号線を中心に宅地化が急速に進んでいる」

で、他に「手稲追分」に関しての資料がないかと我が家の乏しき書架を漁りましたら、あっただよ…。
111牛鍋蝸牛:2003/11/04(火) 06:51:03 ID:jdUyv1mc [ x087045.ppp.dion.ne.jp ]
>>110の続きです。
「新札幌市史 第二巻 通史二」、「第三章 殖産興業の扶植 第二節 官園等の設置と山林政策 一 官園、牧場、その他勧業施設」より「牧馬場」に、「追分」のことであろうと思われる記述がありました。
そしてそこには、本年六月そぼ降る雨の中実地調査に行きました、「さっぽろ牧場」のことも書かれていたわけで、まずその部分から…。

「札幌に牧場という名の施設が始めてできたのは、おそらく明治三年札幌元村に設けられた牧場であろう。二年開拓使の管轄に入った虻田・有珠・浦河各郡の牧場にいた多数の馬は、翌三年駅逓備馬あるいは農業篤志者等へ払い下げとなったが、その一部321頭が札幌に送られた。元村(北七条〜八条、東五丁目〜七丁目の地域)に牧場を開いて(のち雁来村に移る)、開拓使の備馬として飼った。」
現在の地図上に落としたものがこれ。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=636 
実地調査した時の現在の同所です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=641
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=638
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=639 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=640 <つづく>
112牛鍋蝸牛:2003/11/04(火) 06:52:30 ID:jdUyv1mc [ x087045.ppp.dion.ne.jp ]
「さっぽろ牧場」のおさらいをすることにいたしましょう。
「その九」http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/9_log.html#117 
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/9_log.html#118 
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/9_log.html#124 
「東区北8条東7」の「斜め通り」("ファイターズ通"は商店街の呼称です)が「さっぽろ牧場の跡」であるというネタ。
重複しますが、「東区今昔3 東区開拓史」の「農業のあけぼの さっぽろ牧場」よりの引用を再度。

「明治の初め、現在の鉄東地区に牧場があった。住宅地が密集する今となっては、まったく想像も出来ないが、確かにそこで馬が草を喰み、駆け回っていたのである。
牧場が設置されたのは、島判官の札幌本府建設着手と同時期であったと考えられるが、本格的な整備は明治四年。現在の東区北七条から八条、東五丁目から七丁目にかけての一帯である。明治四年、岩村通俊判官指揮のもと札幌本府再経営は始まり、運送、乗用の馬の需要が急上昇し、その不足が切実な問題となった。開拓使は現在の登別市あたりで仙台支藩の片倉小十郎が遊牧していた馬に目をつけ、百頭を札幌に送らせた。これが札幌牧場の始まりと考えられ、明治六年秋頃までは、旅行者への用立てなどに専らこの牧場が活躍する」  <つづく>
113牛鍋蝸牛:2003/11/04(火) 07:05:01 ID:jdUyv1mc [ x087045.ppp.dion.ne.jp ]
しかし、せまい牧場内の草は食べつくし、札幌市街を近くにひかえ、多数の牛馬がひしめく状態は好ましくない。このため牧場移転がなされる。場所は、苗穂と対雁村間の土地を選んだ。現在の伏古、東苗穂の全域と丘珠町の南半を含む広大な土地である。このあたりは、明治三年以来入植する者が点在しており、馬による農作物の被害防止に馬留境柵がつくられた。しかし、ここを放牧地とすることは長く続かなかった。牧場のあり方が再検討され、馬、牛、豚、羊などバラバラに進められていた畜産政策を統括し、官園を整備する方向へむかっていったからだ。
明治七年、官園(現在の北海道大学構内)に仮牧場が開かれ、さらに、明治九年、真駒内牧牛場、手稲馬牧場、札幌牧羊場が一斉に開設されるに及んで、札幌村の牧場はその氏名を終え、閉鎖された。この記念すべき"さっぽろ牧場"の官舎及び土地が民間に払い下げされたのは明治九年十一月から十二月にかけてのこと。以後、この一帯は農地化が進むのである」

というわけで、すでにここで「手稲馬牧場」ってのが出てきていました。
このときは、ここがどこかまではやっていなかったので気が付きませんでしたが、こいつが後の「追分」なんじゃぁないでしょうか? <つづく>
114牛鍋蝸牛:2003/11/04(火) 07:06:20 ID:jdUyv1mc [ x087045.ppp.dion.ne.jp ]
「新札幌市史」にもどりましょう。
「四年一月備馬の内120頭を札幌市民及び近村に貸し下げたが、翌五年七月にはそれらを売り渡している。開拓使はすでに同年中、馬種の改良を目的として日高地方に広大な面積をもつ新冠牧馬場を設置していたが、七年九月札幌官園内に仮牧場を開いて、同牧場から国産牝馬数十頭を移した。
九年四月上手稲村(ナカノ川左岸、札幌越新道北方一帯)に20万3416坪の牧場を開き、五月札幌官園の牧馬を移した。しかし同場も牧馬の繁殖につれて狭くなり、また冬期間の飼料の不足も考慮して、お雇い教師エドウィン・ダン等が実地調査をした上で同年中、千歳郡漁村に放牧地と冬飼の牧舎を建設した。手稲村牧場は廃止され牧馬111頭と札幌官園の牛若干を移した。こうして札幌周辺の馬牧場は消え、馬牧場は新冠が中心となる。千歳郡漁村は一時的に牧馬場となり、のち真駒内牧牛場の付属牧場となる」

う〜ん、「札幌地名考」では同牧場の開場は明治二年となっておりましたが、「新札幌市史」では明治九年とのこと。
しかも、同書では、「追分」の由来のはずの同場は同年四月からその年の冬を迎える前までしか存在しなかったというのです。
すでに今頃の時期には千歳に移転していたのかもしれません。
ただでさえ無理があるような気がする「馬を追い分けた」説の根拠である馬牧場が非常に短い期間でしか存在しなかったとしたら、なおさらその由来については疑問が残るんだけどなぁ…。

あ、ちなみに「東区今昔3 東区開拓史」に書かれています「札幌牧羊場」なのですが、「札幌歴代地図・開拓使札幌県時代の懐古図」
http://pernoi.chu.jp/chimei/kaitakushi.gif をご覧いただければ載っております。
ここに後年、先日もネタで登場いたしましたある施設が建てられるわけですが、さて、これは探していただきましょう〜♪ <一応おしまい>
115なまら名無し:2003/11/04(火) 19:03:59 ID:MZdOKve. [ t154208.ap.plala.or.jp ]
>>114
地図にある山鼻村、屯田墓地って現曙小のあたりかな。
おもしろいねこの地図。
11618丁目@本村:2003/11/04(火) 20:58:39 ID:klIi02nk [ p21116-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>114
菊亭侯爵邸庭園(ふじこ園)が富士湖園となっとる。

追分ねー・・・
通りの名称にも残っているし、5号線と交わっている角地には追分ビルなんぞも
建っているんですが、ここでがつんと由来についての決定打が欲しいところですなー。
117牛鍋蝸牛:2003/11/04(火) 22:46:50 ID:ZazUfPh6 [ N047116.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=718 
「追分」へ行ってきました。
久々ですな〜、実地調査。
モットーは行って見なけりゃわからない、真心の現場主義です。
詳しくは後日。

>>114の「札幌牧羊場」のあった場所、わかりましたか?
ここが後に「師範学校」になるのだそうですよ。
118牛鍋蝸牛:2003/11/04(火) 23:14:10 ID:ZazUfPh6 [ N047116.ppp.dion.ne.jp ]
実地調査の報告は後程として、>>144の「上手稲村(ナカノ川左岸、札幌越新道北方一帯)」の「札幌越新道」って、なんだろうと思って調べてみましたら…。
あくまで議論の手法として、「追分」の一般的な由来を「手稲追分」に適用するとしたら、まずは、「街道」がなければ成り立たないと思っていたのですが、こいつは少し光が見えてきたかも。

ま、今日は寝ます。おやすみなさい。
119牛鍋蝸牛:2003/11/04(火) 23:16:00 ID:ZazUfPh6 [ N047116.ppp.dion.ne.jp ]

すみません。>>114の間違いです。
120とろんとろん:2003/11/04(火) 23:43:24 ID:dY0.Sv56 [ runsystem008.h-ix.jp ]
すみません。ネットの方は常時接続ではなく
ネットカフェ経由でテンプレ作って書き込んだり
するからいつも遅レスになってしまいますがすみません。

>>69 おとっつあんさん
発言が少ないせいかハンドルネームについて指摘されたのは
初めてなんですが、一応「地名論」などの詩がある
一般的には「折々のうた」などで有名な詩人大岡信の詩から
採っているハンドルネームなのですが。
でもホントにあるらしいんですよ、宮崎の方には、
土々呂、土呂久、とろんとろん、といふような地名が。

まあ親戚のうちそこに住んでいた祖母が今年亡くなった
のですが、まだそこには生まれてから半世紀近く円山公園に
住んでる叔父がいるので、そのあたりの話になれば
またいろいろ聞けるかと。
121とろんとろん:2003/11/04(火) 23:46:43 ID:dY0.Sv56 [ runsystem008.h-ix.jp ]
連カキかつスレ違いかもしれずすみませんが。
>>57>65
富貴堂(現・パルコブックセンター富貴堂)10月26日閉店かあ。
そういや昭和50年にパルコが開業した時にテナントに入ったのが
死期を早めた、と言ってたのは唐沢俊一の言だったけど、
何かに書かれたのを読んだのだっけ、それとも直接聴いたの
だっけか……。

なお松竹遊楽館の後に出来るゲーセンはアルシュビルから
出ていくものなのだとか。あそこも斜め向かいの観工場ともども
流転を続けているような気がするなぁ。
ニコー劇場、帝国座、ポーラスター、そしてゲーセンの
PLABOを経営していた天野興業が自己破産で9月に
消えたのも突然でした……。ホント、これで一気に狸小路
近辺の映画館、激減したからなあ……。あ、地名の話でしたね。
122牛鍋蝸牛:2003/11/05(水) 20:40:28 ID:s0ozKtj2 [ N047116.ppp.dion.ne.jp ]
実地調査の報告をしたいと思っていたのですが、まずはどうしてもその由来が気になりましてしょうがありません。
昨日の夜、布団に入ってからいろいろ考えました。
「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」によります、「馬を追い分けた」説、やはり納得いかない…。

疑問その1
何かを「追い分ける」という表現を聞いたことがない。
ワシの死んだ母親(嘘。生きている)は、「母親(つまりはワシのば〜さん。俗名"アキ")はよく馬に乗ったが、"追い分ける"と言ったのを聞いたことがない」と申しております。
疑問その2
「追分」という地名は日本全国いたるところにあり、通常は「街道の分かれるところ」を意味し、当時、万人の理解の上に成り立っているはず。
なのに、ここだけ違う意味で名付けられ、それが定着するというのは不自然であるり、不都合である。
疑問その3
「馬牧場」が起源なら、「馬込」とかのほうがより具体的である。
より大事なのは「馬」がいたからで、"追い分ける"行為自体はそれに付随する行為である。
地名として名付けられる主体がずれている。
疑問その3
たった、数ヶ月ほどしかなかった「馬牧場」が由来とは考えにくい。
「新札幌市史」によると、「追分」の馬牧場は明治九年四月からその年の冬を迎える前までしか存在しなかったわけで、馬牧場が設置される以前から少人数であれ人が住んでいた土地の地名となるというのは不自然である。

ま、こんなようなことが走馬灯のように浮かんでは消え、浮かんでは消え…。 <つづく>
123牛鍋蝸牛:2003/11/05(水) 20:56:03 ID:s0ozKtj2 [ N047116.ppp.dion.ne.jp ]
なんだかんだと申しましても、一応の権威ある「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」に反旗を翻すのには、その程度の疑問では勝負になりません。
ワシは札幌の「手稲追分」も、日本各地にある「追分」と同じ理由で付けられたと踏んでおりました。
こいつは「街道の分かれるところ」のはずだと…。
だって、「追い分けた馬」は一体どこへ行ってしまうというんや?
「馬牧場」は馬を飼うところで、どっかに追いやってしまう施設じゃないんだからねぇ。

じゃ、「街道の分かれるところ」であるとしたら、もちろん「街道」がなければいけないわけです。
野中のど真ん中で「追分」は有り得ない。
で、>>118でも述べましたが、気になったのは「新札幌市史」に書かれていた「馬牧場」のあった地域のこと。
「上手稲村(ナカノ川左岸、札幌越新道北方一帯)」。
この「札幌越新道」(さっぽろごえしんどう)ですがな。

どうやら、街道らしい…。
街道があったのだよ、やはり。
しかし、「札幌越新道」とは??? <つづく>
124牛鍋蝸牛:2003/11/05(水) 21:25:52 ID:s0ozKtj2 [ N047116.ppp.dion.ne.jp ]
「札幌越新道」なんてどこを探しても、今はもうありゃしません。
調べてみますと、この道路、安政4年(1857年)に開通した、「銭函〜星置〜島松〜千歳」を結ぶ道路であることが判明いたしました。
なんと国道36号線の元になった道路であるということです。
ワシなんかは国道36号線といえば、所謂「弾丸道路」がそれであると思っておりました。
奇しくも本日付の北海道新聞に、国道36号線が「弾丸道路」として完成してから50年云々…の記事が出ていましたしね。
もとは50年どころの話じゃないじゃん。

実はね、ワシは昨日の実地調査でちゃ〜んとツボを抑えた証拠写真を撮ってきてあったのです。
ご覧ください。
「追分」にのこる「札幌越新道」の名残りを。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=719 
ここは「宮の沢一条通」が「国道5号線」と交わる交差点で、左側が「追分」になります。

「宮の沢一条通」はこの先「追分通」と名を変えるのですが、ちゃ〜んとここの案内板には「銭函〜千歳」の表示があるではありませんか!
昨日の実地調査の時、「銭函」は分かるとしても、なぜここに遥か遠くの地、「千歳」の文字が…、と思ったのですが、これはかつての「札幌越新道」に敬意を表した、行政の粋な計らいなのかもしれませんな〜。 <つづく>
12518丁目@本村:2003/11/05(水) 21:37:14 ID:4i/9jnuU [ p25247-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
札幌越新道は現在のR5とR36の原形ですね。

石狩支庁のページでの札幌の歴史の記述↓

「石狩川流域は古くからサケの宝庫として知られ、多くのアイヌ民族にとってサケは
重要な食料でした。この地方への和人の流入にともなって、17世紀後半には商場
(あきないば)=交易場が設けられ、アイヌ民族が加工した干鮭や塩引鮭などが
本州へ送られていました。
 安政2年(1855年)、江戸幕府は蝦夷地を直轄とし、その中心を石狩地方に置きま
した。安政4年には銭函から豊平、千歳を経て勇払を結ぶ札幌越新道が開かれ、こう
した中で徐々に札幌の農業開拓が行われます。
 慶応2年(1866年)、大友亀太郎が担当者となり、現在の東区に直営農場(御手作場)
を開いて本格的な開拓が始まったといえます。明治に入り、明治2年(1869年)7月には
開拓使が設置され、次いで8月には蝦夷地が北海道と改称。開拓使によって札幌へ移住す
る入植者が増え、現在の苗穂、丘珠、円山などができました。
 その後も北海道の中心地として発展を続け、昭和47年2月にはアジアで初の冬期オリン
ピックを開催、同年4月に川崎・福岡市とともに政令指定都市に移行。区政が施行されて、
各区役所を中心としたこまやかな行政が行われるようになりました。 
現在は北海道にとどまらず、北方圏の拠点となる国際都市として、いっそう活発なまちづ
くりを進めています。」

そして札幌越新道は昭和に入り、日本で初めてのアスファルト舗装道路として実験施工されました。
名実共に、北海道の大動脈の弾丸道路でもありますね。
126牛鍋蝸牛:2003/11/05(水) 21:40:43 ID:s0ozKtj2 [ N047116.ppp.dion.ne.jp ]
さて、「札幌越新道」をネット検索しますと、ヒットしたのは「豊平区」、「清田区」そして「室蘭」関連のサイト。
ttp://www.city.sapporo.jp/toyohira/gaiyo/ 
ttp://www.city.sapporo.jp/kiyota/outline/history_m.html 
ttp://www.city.sapporo.jp/kiyota/kids/pdf/3-6.pdf 
どうも札幌の西北の事柄には触れられていません。
でも、「銭函〜星置〜」というからには、「追分付近」が関連していないわけがない。
で、とうとう、こんなサイトを発見。
ttp://members.at.infoseek.co.jp/arimasen/rekisi/rekisi_03_02.htm 
「安政2年に石狩役所が設置され、同4年(1857)には銭函から豊平、千歳を経て東蝦夷地の勇払とを結ぶ札幌越新道が開かれ、この豊平川畔にはのちに吉田茂八、志村鉄一が渡守として住んだ。さらに安政5年(1858)には石狩の場所請負を廃して箱館奉行の直支配とし、より強力な行政体制を敷いた。こうした中で札幌の農業開拓が始まった。まず安政4年から発寒、星置などが在住制によって拓かれた。在住制は士分の者が手当てを得て入地し、農民を招募して開拓するもので、このうち発寒村は明治まで続いた」

やっと「追分」近くの話が出てきたじゃありませんか。
ここで、ワシはあることに気が付きました。
「新札幌市史 第二巻 通史二」、「第三章 殖産興業の扶植 第二節 官園等の設置と山林政策 一 官園、牧場、その他勧業施設」に、「札幌越新道」がいきなりなんの前触れもなく出てくるわけがない…、と。
当然、このことに関してはその前に触れられているはずであると。
そして、もしかしたら、「追分」の由来がそこには書かれているかもしれないと。
安政年間のこととなると、「新札幌市史 第一巻 通史一」だなと思い、「札幌越新道」の記述を探し始めました。
ありましたよ〜 ♪
ちゃんと「第五章 サッポロ越新道」として一章確保されています。
この道、大事なんだなぁ。
あとは、ここから「追分」の名の由来にたどり着ければ最高なんだけど〜。 <つづく>
12718丁目@本村:2003/11/05(水) 21:41:05 ID:4i/9jnuU [ p25247-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
牛鍋さんのつづきを期待しつつ、ちょっと横道にそれちゃいます。

>>125はあくまで石狩支庁のページでの札幌の歴史の記述ですが、

「札幌市のホームページで記述されている歴史は以下のとおりです。
アイヌの人たちが住んでいた蝦夷(えぞ)地は、明治2年、北海道と改称されて、
開拓使が置かれ、札幌本府の建設が始まりました。判官・島義勇(しま よしたけ)
は、円山の丘からはるか東方を見渡し、街づくりの構想を練ったといわれています。
明治8年、最初の屯田兵が入植。人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、
産業を興して、道都・札幌を築きました。
 大正11年の市制施行以来、近隣町村との度重なる合併・編入によって、市域・人口
を拡大してきた札幌市は、昭和45年には人口が100万人を突破し、2年後の昭和47年に
政令指定都市へ移行しています。」
12818丁目@本村:2003/11/05(水) 21:53:33 ID:oaKU34ss [ p11159-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
牛鍋さんパラで走っちゃってごめんね。でも続けます。

どーもこの札幌市の歴史観が、多くの歴史に不慣れな人々に誤解と錯覚を
植え付けているようでなりません。

「アイヌの人たちが住んでいた蝦夷(えぞ)地は、明治2年、北海道と改称されて、
開拓使が置かれ、札幌本府の建設が始まりました。」
この書き方だと、アイヌしか居なかった原野に、突如として開拓使が現れ札幌の原形
を作ったように思えてしまいます。
現に、私の周りのいい大人も、屯田兵が札幌を作ったんだろーと言いきってしまう人
がどれだけ多いことか。

追分の近くの、発寒・星置の在住制がらみも、何ら札幌市の歴史の本筋ではないかの
ような扱われ方が多いように思います。

皆さんはどう思われますか?
129牛鍋蝸牛:2003/11/05(水) 22:06:53 ID:s0ozKtj2 [ N047116.ppp.dion.ne.jp ]
「新札幌市史 第一巻 通史一」の「第五章 サッポロ越街道」なのですが、同書ではかなりの紙面を割いているので、詳しく述べることは次の機会に委ねたいと思います。
なんたって今回は「追分」。
18丁目さんに、
>>116 「ここでがつんと由来についての決定打が欲しいところですなー」とも言われておりますので、じゃぁ〜、ここでガツン!と。

同書同章 「二 松浦武四郎「新道日誌」銭箱よりハッサムへ」 より引用。
「武四郎は六月十七日に銭箱通行屋を出発する。(略)
銭箱を出発し、ホンナイ・マサラカマフの小川をこえ、オタルナイ・イシカリの境界であるホシオキ川をすぎると、在住のあるホシオキ(星置)である。当時、ここは永島玄造・中島彦左衛門・中川金之助・葛山幸三郎が入植していたが、湿地も多く地積が狭隘なため、みな二、三年後には移転している。
ホシオキより、トシリコマナイ(軽川)、サンダラツケ(三樽別川)、テイネニタツ・チラエウツ(追分川)などの諸河川を過ぎると追分である」

お!「追分」出てきた!
もう、ワシはこの時点でハラハラドキドキ!
この先に由来が書いてあったなら〜。 <つづく>
130牛鍋蝸牛:2003/11/05(水) 22:21:34 ID:s0ozKtj2 [ N047116.ppp.dion.ne.jp ]
さて、「新札幌市史 第一巻 通史一 第五章 サッポロ越新道 二 松浦武四郎 「新道日誌」 銭箱よりハッサムへ」 
>>129の続きに書かれていたのは、次のとおり。

「追分の由来は、右は本道、左はハッサム在住地へ至る二叉路になっていたからである。武四郎はここで左行し、大矢分右衛門・大竹慎十郎・永田休蔵・弓気多内匠の在住地に至る(略)」

皆さん、どうやら「追分」では"馬を追い分けた"のではないようです。
ただ馬を飼っていたらしい…。
あ〜、納得の結果。
皆さんの感想は明日にでもお聞きします。
牛鍋、今日はこれにて寝ることにいたします。
おやすみ〜♪
131西創成:2003/11/05(水) 23:35:47 ID:uVBZISdQ [ m174134.ap.plala.or.jp ]
>牛鍋さん、調査お疲れ様でした。
はははぁ
ということは、「(手稲)追分」は本当の意味での追分だということですね。

私は、あの場所、ただ国鉄バスが胆振や秋田の追分と区別して「手稲追分(自動車)駅」というバス待合を作っているところだと思っていたのですが、それだと「追分」なる地名のいわれがわかりませんよね。(うかつだ)※国鉄バスの駅という名の乗車券売場は、手稲町、手稲追分、旭町(厚別)、釣橋などの札幌方向の停留所にあった。

それと『弾丸道路開通50年』
というのは、本年11月1日付朝日新聞北海道支社朝刊の『北海道のみちとくらしと未来のネットワーク』が広告特集『みち未来新聞』という紙面に特集されていて、それによれば、昭和27年、駐留軍から札幌〜千歳間道路を、これから一年間で改良・舗装せよと強い要請があり、日米行政協定による安全保障諸費から工費が支出されて、着工したとのこと。
当時、駐留軍は「サマーロート」月寒〜清田〜島松沢〜恵庭廻りと、「ウインターロード」厚別〜西の里〜広島〜恵庭廻りとを夏冬分けてつかっていたそうで、距離が短いなどの理由で「サマーロード」のほうを選択して、同年10月着工したそうです。

当時の先端的な工法の使用の誇り、最初に別ルートも考えられた点などから考えると、「サッポロ越街道」の一部=「弾丸道路」ではないとしたいのも分かる気がします。

>>128 18丁目@本村さま
それは、もうちょっとどうにか書き替えたほうが良さそうですね。
132おとっつあん:2003/11/06(木) 00:05:39 ID:NDhqpQ7. [ t198177.ap.plala.or.jp ]
>120 とろんとろんさま

レスをありがとうございました。
詩歌にはとんとうといので、
大岡信に由来する由緒正しいハンドルネームだとは想像もしませんでした。響きがよくて私の好みです。
土呂久は存じておりますが、
そちらはどうも、60-70年代の鉱毒事件の印象が強いです(苦笑)。

円山公園界隈の地名関連といえば、
「からすやま」って、坂下グランドのあたりの円山北斜面界隈を称してましたけど、
あれ、いつごろからいわれてたんでしょうね。
そういえば、坂下グランドの東端あたりに川があったのを今思い出しました。
あれ、今はすっかり暗渠になってるのかなぁ。
界川由来の暗渠の地図って見たいですよね。

富貴堂のテナント入りは札幌ネイティブとしては悔しかった覚えがあります。
帝国座やポーラスターも複雑に思い出します。

>牛鍋さま
追分けの件はスッキリしました。力作ですね。
133k:2003/11/06(木) 17:22:55 ID:mQdKo0aQ [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>132 からすやまの件

私も聞いたことがあります。昭和20年代の後半ころ、当時そのあたりの山にたく
さんの「からす」が住んでいたためにそのように呼ばれるのだと説明をうけた記
憶があります。夕方になるとほんとうにおびただしい数のからすが集まってきて
なき騒いでいました。
134牛鍋蝸牛:2003/11/06(木) 20:50:19 ID:utJafzi2 [ N044226.ppp.dion.ne.jp ]
もう、すでに今日はオネムの牛鍋蝸牛です。
昨日、「追分」の名の由来について長々と書きましたが、そのような訳で「手稲追分」は本来の意味での「追分」であった、と考えるのが妥当であるとワシには思えます。

んんっが!なら何故にして「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」では、「それは馬を追い分けたから〜」などという記述がなされたのでしょう?
お手軽に何かの文献にそう書いてあったのをそのまま引用したのか、あるいは案外、地道に実地調査へ行ってみて、地元の人にでも聞いてみた結果なのか?
ワシの勘では、なんとなく後者のような気がするのですよ。
きっと真面目に地元へ行ってみたんじゃないかな。
そこで訳の分からん、ご近所の"知ったか親父さん"がいてそんなことを口走ったのではないかなぁ、と…。

去年、本スレで「難得神社」を取り上げたときにもそんな話が出てきましたね。
縁のはっきりしている「水車町」の「難得神社」を、ある御仁が適当な御伽噺を語ってしまって、それが公式に発表されて縁の人の反感を買った事件。
「その参」の#66からご参照願いたい。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/3_log.html#066 
まぁ、「追分」がそうかは調べるすべもありません。
これはワシの妄想ということにしておいてください。

さて、「追分」実地調査の報告ですよね。
まずは写真をアップしなければならんな。
135牛鍋蝸牛:2003/11/06(木) 21:07:19 ID:utJafzi2 [ N044226.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=718 より数枚、写真をアップしました。
今日のところはキャプションなしですが、ご覧いただければと思います。
何か特別なことがなければ、今日はもう書き込みしません。
眠いのでね。
ということで、後はお願いします。
13618丁目@本村:2003/11/06(木) 23:39:41 ID:zJefn16I [ p25083-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
牛鍋さんの写真
追分03-11-04_07.JPG
の右側にちょこっと写っているのが「追分ビル」です。
137牛鍋蝸牛:2003/11/08(土) 02:19:39 ID:XASlBGqU [ N044226.ppp.dion.ne.jp ]
追分」の実地調査レポート、遅くなりましたがやります。
で、その後にワシがここのことで新たに気になりだしたことを述べます。
覚悟しておくように…。

今回の「追分」調査、行って参りましたのは、「国道五号」と北進してきた「北一条宮の沢通」が交わるところの山側の地域です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=722 
「北一条宮の沢通」が「五号線」を越えますと「追分通」と名称が変わりますので、東の「追分通」方面から来ると「五号線」を挟んで右奥がそうなります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=729 

正式な住所表示は「西宮の沢5条1丁目、2丁目」であり、「追分」は地域名でありますね。
国道側には「丸越の家具」がありまして、その山手側にあたります。
「中の川」という川が流れておりまして、その裏側には「WILD−1」というアウトドアの大型店なんぞもありましたが、今は「HARD OFF」(リサイクルショップ)に変わっております。(ちょっと覗いてみましたが、オーディオ関係はわりと大目の品揃えだった)
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=723 

「追分」は手稲山の裾野に張り付いた地域で、上には「札樽道」もあり地元の方以外はあまり踏みこまないところかと思いましたが、ま、こんなものもありまして、案外行った事のある方もいらっしゃったりして…。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=727 
ま、それはそうと、若干の会社とはあるにしろ基本的には住宅街であります。
「追分」が町内会名として立派に残っておることを発見して、ちょっと感動。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=718 
こんなことで感動できる、お金の掛からない趣味っていいね〜。

ちょいと上に上りますと、発寒方面が開けているので、なかなかのビューポイントであることが分かりました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=720 
ここは札樽道が上を走っているのですが、それほど騒音は聞こえず、割と静かで良いところです。
ただ、冬はしんどいかもしれません。
基本的にはすべて坂ですから。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=724 
道路も公園も、家の敷地もそう。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=721
138牛鍋蝸牛:2003/11/08(土) 02:20:25 ID:XASlBGqU [ N044226.ppp.dion.ne.jp ]
ここが「宮の沢公園」。
「国道五号線」沿いのホーマックの裏手にあたります。
全部歩いたわけではないので不確かなのですが、山の中の散策路がメインの森林公園と思われます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=725 
晩秋の夕暮れの、ここいらの散策…。
お勧めしたいところでありますが、最近、ヤバイ事件が多いので婦女子の方はお気をつけください。

この公園の一角になにやら開けた芝植のスロープを発見しました。
だ〜れもいないスロープ。
規模は小さいながらスキー場ではないかと思うのですが、はっきりしたことは分かりません。
でも、子供たちが遊ぶにはちょうどいい広さです。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=726 
住所は「西宮の沢」と「富丘」にまたがっています。
ちなみに写真中、牛鍋蝸牛、「レレレのレ」と言っているわけではないので誤解のなきよう。

ここからの景色もなかなかの絶景であります。
もしかしたら、百三十年前、ここにはこのような草原が一面に広がり、(ごく、短い間ではあったにせよ)開拓使の馬たちが走り回っていたのかも知れないなぁ〜と想像してみました。
そしてさらに時代を遡ること十余年の安政四年。
眼下、「ハッサム」には鬱蒼とした原始林が広がり、在住制の下、開拓をし始めていた武士たちの集落が見え始めていたのかも知れません。
あ〜、金の掛からない趣味っていですねぇ〜。

そうそう、気になることとは「追分」の位置なんですけど、もうちょい正確に知りたいと思い始めております。
139牛鍋蝸牛:2003/11/09(日) 21:29:30 ID:wAQMNmvw [ N044226.ppp.dion.ne.jp ]
レスが止まってしまっておりますなぁ〜。
落ちた、落ちた。

ワシが気になっているのは「追分」の正確な場所です。
>>129では、
「テイネニタツ・チラエウツ(追分川)などの諸河川を過ぎると追分である」
という「新札幌市史」をご紹介しましたが、御承知の通り、これは「銭箱」からの行程での話しです。
つまり、小樽方面から来て「追分川」を越えたところが「追分」であったということですよね。
先日、実地調査に行きました「追分」は現在の「追分川」の「銭箱側」なのです。
「追分川」は越えていない…。

今度行ったるわい!!
140なまら名無し:2003/11/10(月) 19:49:40 ID:XmJpig4A [ hkim2191020233.gemini.broba.cc ]
川岸 川添
141真駒内川:2003/11/11(火) 01:11:35 ID:OT503oWw [ pae2d84.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>139
松浦武四郎の歩いた札幌越新道(道路)とは今の国道5号線だったのでしょうか。
その辺にヒントがあるような気がします。
http://www.pref.hokkaido.jp/nousei/ns-tksdo/06map/index.htm
この図の赤線は当時松浦氏が通った道ではないかと思われます。
するとこの道が札幌越道路で、現在の国道5号線は明治6年に完成した銭函越道路ではないでしょうか。
142牛鍋蝸牛:2003/11/11(火) 22:16:32 ID:3JGneB1E [ N044023.ppp.dion.ne.jp ]
>>141
http://www.pref.hokkaido.jp/nousei/ns-tksdo/06map/index.htm は「東西蝦夷山川地理取調図」ですね。
実はワシとしては「追分」ももちろんなのですが、この「札幌越新道」に興味がありますね。
ちょっと、「札幌越新道」にこだわってみようかなと…。

ここんとこ、再び気力が萎えてしまっていて(ま、健康診断の結果は太っている以外は"A"だった。へへへ)なので、さらっとしか読んでいないのですが、「新札幌市史」でもこの道路については解明されていないようです。
謎は謎、定説がないならそれを逆手にとって自由にイマジネーションを働かせるってやり方もあるので、楽しんじゃおうかなって思っています。

>>140
「川岸」と「川添」に関しては今までなんどか触れられていますね。
ちょっと、過去ログ調べてもらえますでしょうか?
「川添」はわりと最近です。
「川岸」は今の「水車町」のことだと思います。
また後日改めて…。
じゃ、寝ます。
143k:2003/11/12(水) 14:48:49 ID:F5vP0Ysw [ customer71-242.mni.ne.jp ]
しばらくごぶさたしておりました。

>>140

「川岸」には、現在の「水車町」となっている「豊平川岸〇丁目」のほかに、
「菊水」ができる前に「白石川岸〇丁目」という地名もあったはずです。もち
ろん、豊平川に近いところです。
「川添」は「川沿」のことでしょうか。だとすると牛鍋蝸牛さまがいうように
わりに新しいものと思います。
144なまら名無し:2003/11/12(水) 20:29:59 ID:xjUiL732 [ i138147.ap.plala.or.jp ]
川沿町なんてのも20年前までありましたな。
日鉱団地行きというバスを見た。日鉱団地?
145牛鍋蝸牛:2003/11/12(水) 21:56:07 ID:7OyrF/3Q [ y064169.ppp.dion.ne.jp ]
あ、Kさん、>>142の「川添はわりと最近」は、実はその上の「過去ログ」に掛かるものでして…。
「その十」の#89 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/10_log.html#089 で「川添」が出てきたのです。
ということで、「川添」はやはり古い地名でして、そして、もちろん「川沿」とは違います。
「川岸」は「その弐」#195 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/2_log.html#195
でご紹介いたしました。
>>144さん、「日鉱団地」は
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=494
「豊羽鉱山石山選鉱場」跡地です。
「その六」http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/6_log.html の後半から
「その七」http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/7_log.html にかけて登場。

「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」の「追分=馬を追い分けた」説の元ネタを発見しました。
それは昭和四十三年の「手稲町誌」でした。
詳細は明日にいたします。
最近、とても眠いのです…(+.+)(-.-)(_ _) ..zzZZ
146牛鍋蝸牛:2003/11/14(金) 04:13:45 ID:j080Xpac [ L066173.ppp.dion.ne.jp ]
じゃぁ、誰も期待していないだろうけど、「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」の「追分=馬を追い分けた」説の元ネタ、「手稲町誌」の「字宮ノ沢」。
同書は昭和43年発行。

「当時は所々にアイヌ小屋があったといわれ野地にはツルの産卵も見うけられたという。また、明治十六年には、月は不詳であるが、山口県人十戸が林梅五郎を総代人として移住している。ここのことから追分の地区も相当古い所である。開拓使が札幌経営に当たって官園を設けたとき、移入した馬を手稲に放牧を委ねたことがあった。追分川の以南の地域が馬の放された場所になっていたものとみえ、今の追分で追い分けられたといわれ、明治の末期まで木柵が残っていたといわれている。追分の地名の由来もこれかと思われる」

これが昭和52年の「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」では既出の通り、
「地名の由来は、明治二年(1869)当時開拓使が札幌本府の経営に当たって官園を設けたとき、馬の放牧地を現在の追分川の南に設け、ここで馬を追い分けたので"おいわけ"と名付けられたという。そのときの木柵が明治末期まで残っていた」となります。
上記の「…と思われる」という推測が、「…という」と、ほぼ断定的な表現に置き換わってしまっていますね。
ツルの産卵地云々ということも「札幌地名考」に書かれていますので、同書の「手稲追分」の項は「手稲町誌」からの引用であることは間違いないでしょう。
ちょっと安易でありましたな。
147牛鍋蝸牛:2003/11/15(土) 10:36:03 ID:OkGOmdwA [ U121112.ppp.dion.ne.jp ]
さて、ここんところレスが付かない状況ですので、一息入れ、地名関連の本について…。
最近、平凡社より「日本歴史地名大系 1北海道の地名」 ttp://www.heibonsha.co.jp/catalogue/
という地名辞典が発売になりました。
定価は今のところ28,000円ですが、しばらくすると三万円を越えるお値段になるというシロモノ。
新聞などでも話題になったので、先日本屋さんで覗いて見ました。

で…。
他の地方はともかく、「札幌」に関しての記述は"かなり少ない"という印象を受けました。
この広い北海道を一冊にまとめるというのだしょうがないとは思いますが、項目数も少ないし、内容もいまいちでした。
本スレと比較してもしょうがないけど、圧倒的にこっちのほうがスゴイです。
平凡社さん、ごめん。

もう一つ。
昨日、PCショップめぐりついでに、ちょいと中心部の古書店(複数)へ立ち寄りました。
ここしばらくで、なぜか札幌関係の古書とその相場について詳しくなったワシは、早速価格調査に取り掛かりました。
(お店にとってはいい迷惑)
当然といえば当然なのですが、場所柄このあたりのお店はお値段が高めに設定されているようです。

この前、うちの近所の古本屋で「石狩百話」というのを買いました。
「その十」にも書いたけど、100円…。
それが昨日行った古書店では1,800円(ただし初版本)という値付けで、かなり驚きました。
その他、現行の本が定価で売っていたりして。
なら、新本買ったほうがいいだろうと思うのだけど…。

ま、古書の値付けはその店々で違うのは当たり前なので、文句は言えません。
ただ、買う際にはよ〜く調べてから買ったほうが良いですね。
あ、「さっぽろ文庫」全百巻、60,000円てのがネットの「古書店ネットワーク」で出ていましたよ。
ワシは買わないけど、これはお買い得です。

それと、まことに遅まきながら「偕楽園」の実地調査、いまさらながらに行ってきました(w
148真駒内川:2003/11/16(日) 01:22:12 ID:jgosczvA [ p624078.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
いやぁ、ものすごく古いネタなのですが自分としてはものすごく引っかかっていた「五天山」の五天山神社。
岩国の宇野八幡の分霊を祭ったと言われますけど、岩国に宇野八幡ってないんだと思うので。(岩国出身の宇野千代って人は有名ですが)
ただ岡山県玉野市宇野にある宇野八幡宮は見つかります。
さらに明治2年創建も怪しいと思われます。名前の出ている人物の出身地と「宇野」を結ぶ線がないのです。
これってそれ以前の在住者によって奉られた可能性はないでしょうかね。
おいそれと行けない山頂部に奉られたのも、ちょっと例がありませんですしね。
神社と聞くとうるさい私の独り言..てなわけでsage。
149牛鍋蝸牛:2003/11/16(日) 07:41:46 ID:vJAC/A22 [ N046119.ppp.dion.ne.jp ]
「五天山」。
今回の「追分」調査で「手稲町誌」を読んでいたら「宇野八幡」の記述を見つけまして、「五天山、懐かしいなぁ〜」と思っておりました。
調べたらまだまだ面白いネタだと思いますよ。
特に「五天山神社」に関しては未調査の部分も多いですしね。
改めて既出のネタを取り上げる試みも面白いかもしれません。
150なまら名無し:2003/11/17(月) 13:11:14 ID:ytkNv3kI [ N046119.ppp.dion.ne.jp ]
「追分」はおいおい追跡調査をやりたいと思っています。
区域の確定もまだやっていませんしね。

でですね、それはそれとして、スレの活性化のためにも新ネタありませんでしょうか?
151牛鍋蝸牛:2003/11/17(月) 13:12:50 ID:ytkNv3kI [ N046119.ppp.dion.ne.jp ]
>>150
牛鍋蝸牛でした。
152真駒内川:2003/11/17(月) 17:44:07 ID:4eZpxdEs [ p6240e3.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
では早速、
厚別町山本。..って、前から出てたか..
153なまら名無し:2003/11/17(月) 20:16:44 ID:224aGs4g [ YahooBB219041108214.bbtec.net ]
オヨヨ通り
154なまら名無し:2003/11/17(月) 20:17:38 ID:Ch1Zj6zY [ i223158.ap.plala.or.jp ]
もうそろそろネタ切れではないかと・・・・いっちゃなんですが。
たたいてももうでてこないような・・・
155牛鍋蝸牛:2003/11/17(月) 22:20:35 ID:ytkNv3kI [ N046119.ppp.dion.ne.jp ]
>>154
まだまだ、ネタは山ほどあると思いますよ。
しかし、それを取り上げ、掘り下げなければ、これは何もないのと同じことです。

まぁ、小難しいことは別にして、いろいろ調べて推理して、実地調査に行って知らない所をテクテク歩いて、写真を撮ったりするのは、少なくともワシにとってはストレス解消になります。
かといって、掲示板の性質上、皆で楽しまなければ意味ないですし、とにかく、今後ともよろしくお願いします、ってことで(w

「山本」って今まで何度か出てきましたね。
でも、本格的に取り上げれないまま、今日に至る…。
「厚別区厚別町山本」が正式な住所表示だと、今日知りました。
もうすでに「その壱」でも出てきていたのにね。
いやね、ワシにとって、「厚別区」、「清田区」って"前人未到のチョモランマ"の様相を呈していましてね。("チョモランマ"はもうすでに"前人未到"ではありません。念のため)

「厚別区」の下にわざわざ「厚別町」って付くのはなんだか怪しい…。
そう、これは未だ人口の少ない地域に共通する住所の付け方であるのは、本スレの古くからの住民の方なら、もうすでにピンと来ておられることでしょう。
(「手稲前田」の項を参照願いたい)

じゃ、「山本」以外に「厚別区厚別町なにがし」というところはどんなところがあるかといいますと、
「厚別町上野幌」、「同下野幌」、「同小野幌」。
以上、全部で四つです。
「山本」以外はぜ〜んぶ、とりあえず「野幌」なんだね。
う〜ん、「山本」ってやはりマイナーか?
156本村@18丁目:2003/11/17(月) 23:07:28 ID:U6sk715w [ p3122-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>153
オヨヨ通りのことなんかは、前スレでとろんとろんさんが紹介していた
「札幌青春街図」(アリス社出版)に出ていた記憶があります。
今やタウン情報誌が百花繚乱ですが、当時は貴重な文献での記述であったと思います。

山本ですね、うーんマイナー地名とは言えあまりマイナー過ぎてレスもつかないとは、
これいかがなものかと・・・・
本当は厚別住民の方で、言いたい言いたいって人が相当数いらっしゃると思ったりも
しているんです。何せ私はお客さん等と飲み屋で話すとき、必ずといってよいほど
地名の話題をしているのです。その場で白石近辺(旧白石区現厚別区)の人が居ると
かなりの確立で、小野幌や川下や山本がいかにマイナーかという話題を競ってしてる
光景をよく見ます。

来たれ厚別町の古強者達よ!
157真駒内川:2003/11/17(月) 23:18:06 ID:mjC/4/5Y [ p6edde5.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
さっぽろ文庫「札幌地名孝」より
「厚別町山本のことで、ひどい泥炭湿地帯のため、かつては厚別原野と呼ばれた。
明治41年に小樽の山本久右衛門が農場を建設、開墾に着手した。昭和9年、山本と命名。」
この山本久右衛門って、どのようなお方でしょ。
158真駒内川:2003/11/17(月) 23:27:22 ID:mjC/4/5Y [ p6edde5.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
さらに新ネタ「金玉横町」

お下劣な名前なので、やっぱりsage
159なまら名無し:2003/11/18(火) 15:09:46 ID:r1Mi67xQ [ YahooBB218127136079.bbtec.net ]
>>158
これがあるのは狸小路の10丁目でしたっけ?
160牛鍋蝸牛:2003/11/18(火) 21:57:40 ID:JIcxLNI6 [ N046119.ppp.dion.ne.jp ]
私、嘘を申しておりました。
>>155の「厚別区、清田区チョモランマ発言」。
大変申し訳ありません。
少なくとも、「厚別町山本」はワシ、一時期よ〜く通っておりました。
あそこがそうだったんだ。
いや、知りませんでした。
こんな調子ですので、ワシにとっては確かにマイナー(?)

「厚別町山本」…。
一口に「厚別町」と言いましても既出の通り、他に「上野幌」、「下野幌」、「小野幌」があります。
これらは全部「野幌」の名が付くのに、「山本」だけ気色が違う命名。
地図を見ますと、確かに「山本」と「野幌」ではちょいと離れています。
で、「野幌町山本」と他の「厚別町"各"野幌」を人の動きから調べてみました。

今から5年前の1998年10月。
厚別町山本 262世帯 518人
厚別町上野幌 80世帯  337人
厚別町下野幌 6世帯   15人
厚別町小野幌 1世帯   1人

それが、2003年10月には、
厚別町山本 256世帯  497人
厚別町上野幌 321世帯  455人
厚別町下野幌 6世帯    16人
厚別町小野幌 1世帯    1人
となっております。

こう見ますと、「上野幌」の世帯・人口の増加率が高いことがわかります。
「小・下野幌」はほとんど変化していない。(地理的条件でしょうね)
なのに「山本」は世帯数・人口とも、反対に減少しておるやないですか!
やはり「山本」は…。
161:2003/11/18(火) 23:03:45 ID:gFxXIfdw [ p5108-ipad11sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
小野幌の一世帯・一人って。。。寂しすぎw
で、地図を見てみると小野幌って開拓記念館周辺だと思っていたら
厚別北の北方(山本と隣接)に飛び地があるんですね。
以前は厚別北・厚別東も小野幌だったんでしょうか?
それと現在の在住者一人はどこに住んでるのでしょうか?

山本・川下は確かにマイナーですね。土地も悪いしこれ
からもあまり拓ける可能性も低いのでは???
でも隣接の川北・東米里も拓けてきたので、いずれは山本・
川下も住宅街になっていくのかな?
昔は釜谷臼に人が住むとは思ってもみなかったのに、いまでは
すっかり都会になってますしねぇ〜

あいの里にお住まいの方、すみません。。。(~_~;)
162:2003/11/18(火) 23:09:40 ID:gFxXIfdw [ p5108-ipad11sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
http://ras.chizumaru.com/ncg/ras.dll?FUNC=2&X=151203858&Y=109305610&LV=4&NX=&NY=&WID=350&HEI=350&TAB=mapple&ID=NCZ&PASS=NewCZ&EMP=50&ETAB=MR2&NTAB=MR2&EM=1&NM=2&CM=0&NI=1
↑ここが小野幌飛び地っていうか開拓記念館のほうが飛び地??
そういえば私がむかし大麻に住んでた頃には、いまのJR森林公園周辺は
全て小野幌だったような。。。何せ30年くらい前なので記憶が定かでは
ありませんがw
163本村@18丁目:2003/11/19(水) 00:18:27 ID:YnT7tez. [ p5160-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
「札幌青春街図」(アリス社出版)=×
プロジェクトハウス亜璃西編著=○

また超いい加減なこと言ってしまった。
アリス社なんて、どこかのエロ本屋じゃないか(w
164北栄:2003/11/19(水) 00:33:15 ID:rVJySheg [ EATcf-599p158.ppp15.odn.ne.jp ]
>>162
今造成中です。将来また増えるでしょうね。
その前に住居表示化されるでしょうけど(w

森林公園周辺は昔はほとんど「小野幌」ですね。
http://www.misawa-h.co.jp/secondstage/atsusecond01.html
165牛鍋蝸牛:2003/11/19(水) 22:19:44 ID:ZP9vMp6o [ N044210.ppp.dion.ne.jp ]
>>163
大丈夫、「アリス社」はワインの会社らしいよ。
セーフ。
でも、「〜出版」なら…。

「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」からの引用が>>157にありますが、これは要約された文章です。
実は、同書に於いてこれほどひどい書き方がされた地域はおそらくはないであろうと思われるくらいの書き様であります。

「厚別川と野津幌川の間にひろがる海抜10m以下の低地で、かつひどい泥炭湿地で昔は厚別原野と呼ばれていた。年数回に及ぶ水害。特に明治三十一年(1898)には泥炭層が土ごと浮き上がって、水田が隣の水田の上に重なったという程の農耕不適地として見捨てらていた土地であった」

後、眠いので、皆さんよろしく〜。
166とろんとろん:2003/11/20(木) 00:49:11 ID:p9kIhvc2 [ runsystem006.h-ix.jp ]
なんかいろいろ書かねばならないことが増えてきたようで。

>>156 本村@18丁目さん
はい、それで少し「札幌青春街図」(プロジェクトハウス亜璃西編著)
を確認してみたのですが、該当箇所が若干少なく絞り切れない
ので確実に確認できるところだけを抜粋。
 オヨヨ通りは以前東映仲町と呼ばれるところにあったこと。
 ちょうど1980年代前半の地上げによって多くの店が立ち退きを
余儀なくされたこと。
 で、その立ち退きで移転した老舗の居酒屋を経営していたのが
現在も亜璃西社と縁の深い「シアターキノ」(当時経営してたのは
「エルフィン・ランド」)の中島洋氏だ、といふこと。
 一読した限りではこのくらいしかわからなかった、といふところ。

で、厚別区の厚別町山本なんですが、前スレでもちょっと触れた
『あつべつ区再考』を本村@18丁目さんか牛鍋さんに読んで
説明して欲しいな、といふ感じ。おそらく厚別図書館の書庫あたり
に眠っているか……以前言った西18丁目近くの某図書館には
確実にあるだろうけど。
 なお前スレの「本田区」といふのは山本地区と命名される
大正時代のあの地区の名前のことだそうで。

>>147
「日本歴史地名大系 1北海道の地名」って……。多分その監修者
って、以前いた大学の教授だったような……。
167牛鍋蝸牛:2003/11/20(木) 01:55:37 ID:O22Enq.o [ N044210.ppp.dion.ne.jp ]
>>166
とろんとろんさん、「あつべつ区再考」ですか。
西線沿線の某古書店で、1000円で売っているようです。
厚別関係の資料って持っていないのでどうしようかな?
しかし、「再考」かぁ…。
と言っても、「厚別区」のこと今まで一度も考えたことなかった…。

「厚別町山本」に関する資料がないワシは、今のところネットで検索してみるより手がないのでが、変なものを見つけちゃいました。
ttp://d-mail.tadadenpo.com/base/za1_pmmboakjpjbp/za2_oekkpmnpoenjocfaplcaobem/za3_ocfaplcapiacoelipmnb/area3.html 
ギフトのサイト。
ここに、「2003年11月のオススメ 北海道札幌市厚別区厚別町山本に配送可能」ってわざわざ書いてあるんですよ。
こういうものって「山本」には配送されないのが当たり前なのでしょうか!?
やはり「山本」って…。
168本村@18丁目:2003/11/20(木) 06:56:33 ID:.heDH7h. [ p2088-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>2003年11月のオススメ 北海道札幌市厚別区厚別町山本に配送可能
えー!?あははは(爆
169本村@18丁目:2003/11/20(木) 07:26:35 ID:.heDH7h. [ p2088-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>164北栄さん久々です
地図中の北13条・北郷通は「あび」の前の通りです。
そこをまっすぐ延々と進むと、この森林公園近辺に出ます。
右に折れ、12号を少し行くと「北海道開拓記念館」
左に折れ、厚別通を右折、小野津幌川を渡ると、右側は三菱地所の新興住宅地。
左側がミサワの新興住宅地。
今やあの辺り一帯は綺麗な住宅街区となってしまいました。
170(ぶ):2003/11/20(木) 18:02:16 ID:EZxbgfuM [ p4220-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ご無沙汰しています。
「定着」するはずが、なかなか書き込めなくて・・・

でもようやく身近なネタが。

「厚別町山本」についてです。
私事ですが、以前、この住所に僕の祖父母が住んでいました。
1960年代後半頃の話ですが、当時、鉄道の北側は、
全部「山本」だったような記憶があります。
(あやふやですみません)
周囲は畑が多く、牛を飼っている農家もあり、
新鮮な牛乳をいただきました。

祖父母が住んでいたところは、今は「厚別西」になっていますが、
同地区に今でも「山本稲荷神社」があります。
いつ変わったのかは記憶にありません。

さて、当時はどこからどこまでが「山本」だったのでしょうか。
「厚別町」は?
171牛鍋蝸牛:2003/11/20(木) 20:07:47 ID:O22Enq.o [ N044210.ppp.dion.ne.jp ]
とってもマイナーなんだけど、反面、案外ここってそれ故に"メジャー"なのかも…。
そんな「厚別町山本」ですね。
結構、レスつくじゃあーりませんか。

ま、「厚別町山本」がどうだらこうだらと申しましても、その範囲があいまいではどーしょーもない。
ちゅ〜ことで、地図をアップいたします。
ありがたく拝観されるように。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=731 
川で区割りされているのきゃ?と思いきや、とんでもハップン(ふるい)。
結構、その形状は複雑でありました。
172牛鍋蝸牛:2003/11/20(木) 23:39:02 ID:4tT07koY [ N044164.ppp.dion.ne.jp ]
>>170
(ぶ)さんへ。
昔の「山本」の地図は、近々アップしたいと思っております。
別に勿体つけているわけではないのです。
大きな地図をスキャナーにかけるのが面倒なだけなんですよ。

既出ですが、「札幌地名考」に書かれている「厚別町山本」は、出だしからひどい書かれようです。
「厚別川と野津幌川の間にひろがる海抜10m以下の低地で、かつひどい泥炭地で昔は厚別原野と呼ばれていた。年数回に及ぶ水害、特に明治三十一年(1898)には泥炭層が土ごと浮き上がって、水田が隣の水田の上に重なったという程の農耕不適地として見捨てられていた土地であった」
こりゃ、浮島ならぬ、浮田ですね。
この水害は9月6日のことのようです。
「新北海道史年表」によりますと、
「全道的な豪雨はじまり、2昼夜にわたる。洪水による大被害、とくに石狩川流域に多発(死者248人、損失倒壊家屋3500戸余、田畑の浸水5万6000町歩)」とあります。
173真駒内川:2003/11/21(金) 00:53:53 ID:y/tw4nG2 [ p6edd58.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
小樽の山本久右衛門氏が開墾に入る前に、厚別地区には明治14年(16年?)に長野から30戸が入植されています。
そのため「信州開墾地」と呼ばれていたようです。
するとー、山本氏が開墾に入ったのはその北部ということでしょーか。
この山本久右衛門というお方は、船主だったようなのですが事実なのか裏が取れません。
どういう経緯で開墾に乗り出したのかも含めて、情報をお待ちします。
174k:2003/11/21(金) 11:24:18 ID:HAq7.57Q [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>173 真駒内川様
 
 ありがとうございました。それでようやくわかりました。
 厚別地区にある小学校、中学校はともに「信濃小」「信濃中」というのですが、
 なぜそのようになったのかは、長い間私にとっての一つの「?」でした。これは
 鉄北、石狩街道沿いにある「諏訪神社」とも関係があるのでしょうか。
175真駒内川:2003/11/21(金) 18:07:58 ID:wnzzWGM. [ pdda09d.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>174 kさま
どういたしまして。
両小中学校と信濃小学校裏の信濃神社にその名前が残っておりますね。
石狩街道沿いの諏訪神社は、厚別入植者とは別の団体ですがやはり長野からの入植者によって勧請されたものです。
このように入植などで移り住んだ人々は、出身地にある神社や一族に縁のある神社を勧請することが昔から行われています。これを信者勧請といいます。
人々の移動とともに神社が出来ていくので祭神などや神社の創建を見ることで、逆に人々がどこからやって来たのかを推測できます。
176(ぶ):2003/11/21(金) 18:09:22 ID:T.fqEiGQ [ p4220-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>172 牛鍋蝸牛さん、サンクスです。
昔の地図、楽しみです。
のんびり待ってます。

当時も確かにひどい泥炭地で、土がふわふわしていました。
ところどころに排水用と思われる幅20センチほどの深い溝が掘られていて、
底の方に濁った水が溜まっていました。
177なまら名無し:2003/11/21(金) 21:04:31 ID:JAZPArGU [ 251.90.180.203.dy.iij4u.or.jp ]
>>175
そうなると、神社マップ見たいのがあると面白いですね。
178牛鍋蝸牛:2003/11/21(金) 21:30:06 ID:No1mWy2c [ N044164.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=732 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=733 
「山本」の大正5年頃の地図です。
広いので、二つに分けました。
732が南で733が北です。
例のごとく小さくて見づらいですが、「信州開墾」、「阿波開墾」なども読み取ることが出来ます。

「白石発展百年史」(昭和45年)を借りてきました。
ここに「山本地区」のことが記されています。
詳しくはまた明日にでも(勿体つけてスンマセン。もうすでに眠いんだよ〜)

でもね、これには「小樽の山本久衛門」氏の身元ははっきり書かれていないのですよ。
政治家であったような風に書かれてはいますが…。
あ、息子の厚三氏は衆議院議員だったと「山本神社の謝恩之碑」に刻まれているそうです。
この人、「憲政会(後に立憲民政党)」の幹部だったようで。
ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/seitou_hoka/kenseikai-kanbuzinzi.htm 
ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/seitou_hoka/minseitou-kanbuzinzi.htm
179牛鍋蝸牛:2003/11/21(金) 21:30:57 ID:No1mWy2c [ N044164.ppp.dion.ne.jp ]
真駒内川さん、船主であった「山本久衛門」のことは某サイトにありましたね。
ttp://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00165/05/contents/05-030.htm 
ワシもこの「山本久衛門」が同一人物かどうか知りたかったのです。
でも、「北日本汽船」で検索したら、
ttp://member.nifty.ne.jp/jpnships/company/prof_kitanihon.htm 
を見つけました。
「大阪小樽樺太線の北洋丸 Hokuyo Maru (1936)」とあります。
「小樽」と関係ある航路ですので、おそらくは同一人物であろうと一応、判断しました。

ただ、これでもなんだかいまいちなので、「謝恩之碑」から何とかならないかと思い直しまして、「さっぽろ文庫45 札幌の碑」を見ましたら、こう書かれていました。
「小樽の海産問屋山本久衛門」とね。
ほぼ決定ではないでしょうか?
180牛鍋蝸牛:2003/11/22(土) 22:54:45 ID:RLmC0kgY [ U122014.ppp.dion.ne.jp ]
「白石発展百年史」(昭和45年)の「山本地区」の記述。
「厚別地区で、いちばん遅く開けた所である。
この地は一面に泥炭の湿地帯で、いまのような、りっぱな美田になるとは、当時を知っている人には予想もできないことであった。いわば、見捨てられた地帯であったが、将来を見通す政治家は、それを放ってはおかなかったのである」

もう、いきなり出だしからインパクトがありますね。
「いまのような、りっぱな美田になるとは、当時を知っている人には予想もできないことであった」
時空を越えたとっても不思議な文章です。
何べん読んでもわからない(w
以下、続けます。

「すなわち明治四十一年、小樽の山本久衛門は、この地区の払い下げを受け、翌四十二年から私費を投じて開墾に着手したのである。
まず、四十三年には、北海道の将来に期待して来道した明井才二郎、福蔵、円野中左衛門、岡田庄助、四十五年には美勢仁三郎、青木伝吉、石戸谷庄之助、大正二年には高力留次郎、増田利作、同三年には佐藤竹蔵、高橋寅蔵、高橋万助がそれぞれ入地したが、ひどい泥炭地で排水溝もないため、造田にたいへん苦労を重ねていた。
この時、小池嘉一郎が、川下開拓の経験から、部落民を率いて指導に当たり、排水溝掘りに協力して、ついに完成するに至ったのである。
嘉一郎は、自ら赤飯をたいて持参し、山本部落民とともに、心から完成の喜びを分かち合ったという。この排水溝が、いまの山本大排水に発展したのである」
181k:2003/11/23(日) 14:20:00 ID:mw56zJdM [ customer71-242.mni.ne.jp ]
山本久衛門の名は私は、はじめて聞きましたが、山本厚三氏についてわずかに
聞きおぼえがあります。同氏は昭和17年のいわゆる翼賛総選挙の時、北海道1
区で首位で当選したはずです。
戦後、公職追放となり、解除後は政界へは復帰しなかったようです。その選挙
地盤は椎熊三郎氏が引き継ぎました。その後の経緯については、よくご承知で
しょうから省略します。
182牛鍋蝸牛:2003/11/23(日) 21:03:18 ID:YHQusxV6 [ U122014.ppp.dion.ne.jp ]
>>181
なるほど…。
「大政翼賛会」ってやつね。
「♪ トントントカラリ」の「隣組」だってその末端組織で、いわば相互監視のためのものですからね。

ワシが学んだ学校の歴史の授業って、先史時代から始まるのはいいにしても、三学期が来てもまだ明治維新とかでうろちょろしていて、本年度中に終わるやろかぁ〜?と思っていると結局そこいから現代までは大急ぎで走り抜けてしまい、この辺りがうやむやのまま現在に至る…っと。
近代史は別に教科を作ったほうがいいんじゃないでしょうか?
あとね、最近の幼児虐待なんかのニュースを聞くたびに思うのだけど、親になるための国家資格、これ必要。
あ、関係ないか(w

閑話休題(それはともかく)。
「白石発展百年史」から「山本地区」の記述は、まだ続きます。
183牛鍋蝸牛:2003/11/23(日) 21:38:37 ID:YHQusxV6 [ U122014.ppp.dion.ne.jp ]
「当、この地区は、"本田"と称し、部落は厚別西部に属していたが、昭和九年四月、山本厚三の姓を取って、"山本"と改め、独立したのである。
一地主の下で、同じ境遇と同じ条件の中にあった山本農場の小作人だけで、部落会を結成したのであるから、いまでもその団結心は強く、すべてのことに、まとまりも早い。
歴史の流れは早いもので、開発五十周年を迎えた昭和三十三年九月、全部落民の寄付によって、山本神社境内に建設された、次の「謝恩之碑」文の中に、この精神と、そのかみの労苦とが、しみじみにじみ出ているのである」

「そのかみの労苦」は「その間」の誤植かな?
この後、「謝恩之碑」の碑文が続きます。
かなり長いので割愛しますが、誰に対しての謝恩かと言いますと、これは「山本厚三」氏に対してのもの。
一個人に対してここまで謝恩の意を表す碑というのも、珍しいかも。
184牛鍋蝸牛:2003/11/23(日) 21:56:10 ID:YHQusxV6 [ U122014.ppp.dion.ne.jp ]
あ、「さっぽろ文庫45 札幌の碑」には、この碑文の文字は元衆議院副議長椎熊三郎氏によるものとあります。
kさんからのレスでこれまた納得ですね。
同書からの引用はまた明日にでも…。

さ、下調べはある程度まで来たようです。
そろそろ実地調査の出番ですよ。
185真駒内川:2003/11/23(日) 23:02:04 ID:ssY7IN22 [ p624035.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
では、行ってきます
186牛鍋蝸牛:2003/11/24(月) 20:27:42 ID:A9w8ALu. [ N045078.ppp.dion.ne.jp ]
>>185
あら〜、真駒内川さん、かっる〜い♪
あ、いえ、フットワークが…。
では、その間お時間をいただきまして、本日「勤労感謝の日」にかかわらず勤労していたワシが、「さっぽろ文庫45 札幌の碑」からの引用をいたしましょう。

「((略)この地域は、明治四十一年まで全く人の手の入らぬ、見捨てられた泥炭地であったが、小樽の海産問屋山本久衛門(厚三の父)が払い下げを受け、私費を投じて小作を入植させ、開墾に当たらせたのを初めとする。ところが度重なる冷水害で初期の入植者はほとんど夜逃げをしてしまい、悪条件の中を堪え抜いた数戸と、大正末期以降入植した人々によって、山本農場が拓かれていった。
衆議院銀であった山本厚三は、秘書の後藤一郎をこの農場の支配人として差し向け、農場の状況に応じて小作料を免除したり、私設の消防を設置、道路・排水路の開削、土地改良等への援助を行うなどして、小作人たちの人望を集めていたという。「謝恩之碑」の文字は元衆議院副議長椎熊三郎、背面碑文は元管理人後藤一郎の筆による。台座には、建設委員九人、賛助者九六人の指名が記されている」

真駒内川さん、もう夜の9時だよ。
帰っておいで〜。
187真駒内川:2003/11/25(火) 00:40:46 ID:Ee2Q2jaY [ p624256.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
ただいまw
えー、行って参りました。けど、あまり収穫なしです。
山本稲荷神社を中心に見て参りました。
山本稲荷神社は現存する山本用水の東端に位置しておりまして、参道と拝殿はその流れてくる方向に向かっております。
鳥居と燈籠は最近立て替えられたもので、非常にきれいです。
社名表示の石柱と狛犬(稲荷なのでお狐様)は昔のものです。ただし、昭和9年と彫られていますから拝殿の建設時には無かったわけです。
手水舎は冬の養生のためか基礎はあるものの水盤は見当たりませんでした。
ちょっと面白い物があって、小さな石の祠です。高さは3、40cm程しかありません。
横の立て看板によると「開拓時代の祠」とあります。この神社の起原というわけです。
ただ、山本用水の建設のころでその付近に奉られたとすると、最初は稲荷ではなく、水神を奉っていた可能性もあるでしょう。
もうひとつ、平成14年9月に建てられた「山本用水記念碑」がありました。
この碑文よりちょっと抜粋、
「山本用水のあゆみ
大正八年、部落民全部の水田と飲水のため厚別川から取水して利用したのが初めである。
昭和十九年、当時の地主山本厚三氏名義の用水路を戦後の農地解放を待たず低廉な価格で小作人五十七名に名義変更して
いち早く小作人の自立の道を開いた。
昭和二十年より山本用水組合を設立し、管理運営につとめ現在に至る。..」
ってことはまだ使って営農している方がいらっしゃるということですな。
厚別川からのびる用水路を見ましたが、取水門以外はほとんどがコンクリート板で蓋をされていて、先端が山本排水に流れているので「使ってる?」って感じです。
というわけで報告は以上。なんか神社の調査になっちまった感じで..。
写真も撮りましたが、msnの方のあっぷの仕方がよく分かりませーん。
188161:2003/11/25(火) 19:55:08 ID:ijfaHkDM [ t053103.ap.plala.or.jp ]
ちょっとスレ違いですし、山本にはぜんぜん関係ありませんが、
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p
こんなものがあるんですねえ…
札幌近辺なら、昭和51年と昭和60年のものが見られますです。
189桜台:2003/11/25(火) 22:19:32 ID:LdXF/VlA [ o092104.ap.plala.or.jp ]
はじめまして!桜台と申します!
今住んでいるところは、山本稲荷神社から歩いて1分以内のところです!
おととしに今住んでるマンションに引っ越してきたので、この辺りを
昔から知っているわけではありませんが…。
おとといこのスレを発見し、おかげさまで3連休の3分の2が奪われました…。
というのも、あの「札幌温泉」のすぐそばの高校出身(啓タさん、自分は
32期です!)で、その後雁来大橋を通学路とし、釜谷臼の近くの大学へ…。
自分の詳しい土地の昔のようすが次々とわかり興奮しまくりです。
161さん、そのリンク先見てみました。昭和51年ってちょっと前のようですが、
ほんとここ20年くらいで特に厚別付近は急速に発展したのがよくわかりました。
まだ開通前、工事中の札幌新道を見て興奮しているところです。
今夜も睡眠時間が奪われる…。
190西創成:2003/11/25(火) 23:34:24 ID:T1U60Ixc [ j175032.ap.plala.or.jp ]
みなさま、暫らくでございました。
(ぬ)さま、桜台さまはじめまして。

たしかに、札幌市内で「篠路町篠路」とか「厚別町旭町」「白石町横町」といった大字小字のような地名やその短縮形のような「手稲稲穂」といったような所がありますな。

普通、合併町村で「利尻郡利尻町沓形字緑町」のように、合併前の「沓形町」を残すようなかたちの法則で地名改正をした場合には、同じ形にする場合が多いのに、札幌では「札幌市豊平区平岸真駒内」などというのがなかったりして統一感がありません。

札幌市では、住居表示や区画整理されてないようなところは「〇〇町〇〇」か「(旧町名)△△」「〇〇1234番地」「〇〇無番地」とするなどと決まっていないのでしょうか。

それと、(ぬ)さまの所の雑誌に、評論家の西部邁さんの寄稿かなんかで、『旧厚別町に再起を促す文章』のようなもの(うろ覚えですみません)が掲載されたことがありますね。
191牛鍋蝸牛:2003/11/25(火) 23:49:54 ID:iYYospTM [ N045225.ppp.dion.ne.jp ]
まずは真駒内川さん、「山本」の調査お疲れ様です。
先にお答えしますが、
>写真も撮りましたが、msnの方のあっぷの仕方がよく分かりませーん。
うちのアルバム http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw でしょうか? 
え〜っと、これだとすると、うちの環境だと繋げるとすぐにアップできる状態になるので…???

「山本」は広大ですので、実地調査と言っても焦点が絞りにくいような気がしていました。
荒れ野のイメージもありますしねぇ。
真駒内川さんの今回の調査が神社を中心にしたものでありますならば、ワシは別の切り口から迫ることが出来ないものかと。
皆さんも、♪ ララララララ ララララララ〜 行って見たいと思いませんかぁ〜。
しかし、明日明後日休みだけどまた風邪をブリかえしているし、愛車の国産フェラーリは夏タイヤのままだしの。

161さん、お久しぶりです。
ttp://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p
これは面白いサイトですねぇ。
昭和51年とか60年とか、昔のものってのがまた泣かせます。
日を改めてゆっくり見ることにいたしましょう。
例の"過去ログのまとめ"、よろくね。(と、プレッシャーをかけておこう)

桜台さん、お初です。
ネット掲示板と言っても、なかなか侮れないでしょう?
今後ともよろしくお願いしますね。
実は例の、中央区のサイトの「札幌温泉」の裏焼き写真
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=372
なのですが、鮮明な画像を見つけましたのでアップしておきます。
「ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 札幌」(昭和54年 国書刊行会)からです。
でも、この本でもまんま、裏焼きで載っています。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=734 
これを反転した正しい写真が、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=735 
であります。
ま、名刺代わりということで…(w

>>190
西創成さん!
ちゃいまんがな、(ぬ)さんやのうて、(ぶ)さんでっせ!
ちなみに、ワシのひいばあちゃんは「ぬう」という名前だったようです。
アフリカにいる牛の仲間か!?
192牛鍋蝸牛:2003/11/26(水) 10:41:27 ID:sxTiyizU [ N045225.ppp.dion.ne.jp ]
え〜、これまた話題が外れてしまいますが、ご容赦を。
以前にちょっと言いましたけど、北海道新聞社から出ています「星霜 北海道史」の5巻目に記述の誤りがありまして、本日老婆心ながら同社に、
「ここ違ってまっせ」のお電話を差し上げました。

P273からのコラム「その頃 空中戦」の中で、"「興農園飛行場」がその後「札幌飛行場」になった"ということが書かれているのです。
(札幌飛行場http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=260 については
「その四」http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/4_log.html をご覧ください。)
「興農園飛行場」は現在の「北区北10条東1丁目」にあった簡易飛行場でして、片や「札幌飛行場」は北24条から31条まで、東西は西5丁目から西11丁目付近までの53万平方メートルの飛行場。
てなわけで、全然違います。
さて、改訂版の時、直してくれるかな?

あぁ、また文句を付けてしまった…。
193真駒内川:2003/11/26(水) 11:13:38 ID:ROSzT6xA [ pae2d2a.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>牛鍋様
写真をアップさせていただきました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=736
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=737
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=738
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=739
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=740
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=741
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=742
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=743
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=744
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=745
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=746
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=747
ちょっと多すぎましたかね。
記念碑の裏側をもっと鮮明に見たい方がいらっしゃいましたらお申付け下さい。無圧縮でアップいたします。
後書きですが、道路の路床改良はされているのでしょうがやはり地盤が不安定なために幹線道路も至る所で波打ってまいした。
>>188
これは感動です。
先日までは首都圏部分しか公開されていませんでしたので大変なことです。
できれば平成に入ってからのものが欲しいところです。
しかし、マル秘の施設の空中写真まで出しちゃって大丈夫なんですかね...。
194牛鍋蝸牛:2003/11/26(水) 17:52:20 ID:sxTiyizU [ N045225.ppp.dion.ne.jp ]
今日は実地調査行きたかったのですが、体調不十分でしておとなしくしておりました。
長引く鼻風邪の上、冷えと疲れで腰までこりやがった…。

真駒内川さん、画像の圧縮の件ですが、msnのアルバムは自動的に圧縮がかかりますので、もし事前になさっておられるのならその必要はありません。
というか、圧縮した上でアップすると返って容量が大きくなるようです。
テストしてみてください。

「山本稲荷神社」は住所としては「厚別西」になるので、写真を見ますと周りは住宅街ですね。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=740 
の灯篭に「…と共に秋田県より山本本田」と見えますね。
「山本」はその前には「本田」と呼ばれていたことは調べが付いていますが、「山本本田」とは?
ダブルネームってやつ?
そもそも、「本田」って?
ま、これも人の名前だろうな、とは推測が付きますが、はたして。
195とろんとろん:2003/11/27(木) 16:04:04 ID:gFaHrdvk [ SODfa-02p3-50.ppp11.odn.ad.jp ]
>「北海道の地名」の監修者
その後ネット検索等で確かめましたが、確かに
北大の名誉教授で北海学園人文学部の学部長も
後に務めた永井秀夫氏だったようですね。
 穏和な性格の人で面倒見がよくいろんな話を
冷静に受け止めてまとめるタイプの人だと
思いましたが、ここで名前を見かけたのには
少々びっくりしました。
 今はまたどうやら北海学園大からも離れた
ようなので連絡が取れるかはわかりませんが、
また逢う機会があれば、何かこのスレにも
フィードバック出来るようなことが紹介できるやも
しれませんね。

そういや今年10月に出た「札歩路」に「北の
映像ミュージアム」に関する話が出ていたけれど
そこに亜璃西社の和田由美さんと、「シアターキノ」
の中島洋さんが並んで映ってましたね。その隣に
いた竹岡洋子さんは確か永井先生と共に以前
北海学園大で教えていた故・竹岡和田男さんの
奥さんだったような……。
なのでこのあたりにつながりはあるハズなんで、
この人達の持っている昔話あたりを訊くともっと
いろんなマイナーなに地名なり、札幌の文化に
ついて深い造詣を得られそうだな、とは思って
いますが。
196牛鍋蝸牛:2003/11/27(木) 18:35:07 ID:rIetyUXI [ N045225.ppp.dion.ne.jp ]
>>195
とろんとろんさん。
是非、フィードバックよろしくお願いします!!
で、「札歩路」の10月号ですね。
道新取っているのだけど、見落としました(苦〜
※ 解説しよう。「札歩路」(さっぽろ)とは、北海道新聞に折り込まれる"別刷り"の地域情報紙である。ただし、札幌市の地区によりその内容は変るとも言われ、一説には四種類あると言われる。注・要確認。
197西創成:2003/11/27(木) 23:44:26 ID:gswj7.F. [ m071163.ap.plala.or.jp ]
>>192
いやぁワテ味噌汁で顔洗ろうてきましたわ。
(ぶ)さん。失礼しました。
牛さんありがとさんでした。
ワテ通天閣のビリケンさんに、牛さんの風邪と腰の回復祈のうてきましたんや。(ウソ)
>>194
山本本田=山本氏、本田氏
なるほどねぇ。
まさか山本氏の本田(ほんでん)だの、
新田(しんでん)という意味じゃないですよね。

>>195
シアターキノ(前身はイメージガレリオ)の中島洋氏や、亜璃西社(前身は、プロジェクトハウス・亜璃西、元ステージガイド札幌の発行人)の和田由美氏といった面子で、(他に、CMプロジューサーの、のしろや秀樹氏、スタジオセイビの大塚彩子氏、三角山放送局の木原くみこ氏、占いの木村天山氏などを入れても良い)で、対談会でも開いてもらえないかな。

月刊さっぽろの枝木順子氏あたりの主催で、年配層ばっかりの方々で、「さっぽろ地名を語る」会も面白いかも。
198k:2003/11/28(金) 09:08:48 ID:M73HroWE [ customer71-242.mni.ne.jp ]
まだ「山本」の話題が続きそうですが、次のネタとして「東裏」を取り上げたいと
思います。「東裏」は「マイナーな地名」というよりは「消えてしまった地名」で
はありますが。
昭和戦前の地図=地形図(国土地理院ではなくて陸軍参謀本部発行の5万分の1)
には、しっかりと注記がありますが、昭和40年版のそれでは消えています。
旧豊平町では昭和19年に地名の全面的な見直しをやったようですが、あるいは
その折にでも消えたのかも知れません。
実は私、昭和30年代の前半にこの近くに住んだことがあるのですが、その当時
そのような地名は全く聞かなかったのです。札幌郡豊平町美園1区〇〇番地と
標記されていましたし、これに接続する地区は札幌郡豊平町平岸4区〇〇番地
でした。「東裏」という地名の由来は平岸本村に対してその東側の裏側という
ことと考えてよさそうです。少し長くなりましたので続きはまた。
199西創成:2003/11/29(土) 00:18:41 ID:/vMnqk.Q [ o050078.ap.plala.or.jp ]
>>198
「北裏」は、豊平町大字月寒村字北裏(旧東月寒の一部)なんだそうですが、
そうすると「東裏」は、
豊平町大字月寒村字東裏なんでしょうか。

だと位置的におかしいので、やはり大字平岸村か大字豊平村になるのでしょう。

大体、NHKドラマの『バス通り裏』(古い)でもあるまいし、地名に”裏”って…。
もうまったく。隅に置けない豊平町役場!
なんの裏だか説明してほしいです。(ムリな話)

さっぽろ文庫1『札幌地名考』も無責任な奴で、(大してそうも思ってない)
「美園」ノ欄に
「豊平村字望月寒川沿」だけ紹介しちゃってさ、昭和19年字名、「美園」改称した。
「旧大字豊平村、月寒村、平岸村の一部である。」て書いたってねぇ。

昭和30年代初期には、我が家にも美園に家土地があったようだけど、「豊平町美園〇区〇番地」と登記はなってました。
200なまら名無し:2003/11/29(土) 02:53:25 ID:kABVZ76k [ EATcf-376p172.ppp15.odn.ne.jp ]
こんばんは。其の一からたまーにカキコさせていただいてます。
地名とは直接関係ないのですが、
161さんが>>188に貼ったサイトを眺めていて気になったことがひとつ・・・
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/76/cho-76-6/c10/cho-76-6_c10_15.jpg
ここの右下の三角形の敷地にある建物は何でしょうか?(恐らく現市民ギャラリーの土地だと思われます)
学校でしょうか・・・。
201k:2003/11/29(土) 13:34:04 ID:dFod4t9E [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>199
「東裏」は、以前はおそらく豊平町大字平岸村字東裏であったと思います。この
辺りは平岸と美園の谷間であり、町割りも平岸本通に平行または直角につくられ
た平岸系の町割りとR36を基線として展開している美園系のそれの接合部にあり
ます。現在平岸〇条〇丁目となっているところと、美園〇条〇丁目となっている
ところはこの町割りと一致しない部分もあります。そして、たとえば美園小学校
の所在地は平岸です。
この辺りは昭和30年代の後半になって宅地化が進み、かつては映画館や銭湯もあ
りましたが、宅地化される前は、平岸本通沿いのりんご園とは異なりほとんどが
水田でした。
202m:2003/11/29(土) 15:28:44 ID:OsQvRwB. [ p3188-ipad32sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>200
ここは確か一条中学校だったはずですよ。
203なまら名無し:2003/11/29(土) 19:00:51 ID:KqQRF8M6 [ t182063.ap.plala.or.jp ]
たしか丸井さんの前を一条橋と書いた市電走ってたっけな。なつかしい。
昭和46年に廃線でなかったか。
204◆DON/ojXXPI:2003/11/29(土) 19:39:14 ID:NrZxBo.c [ p041113.ppp.asahi-net.or.jp ]
うそ?
205牛鍋蝸牛:2003/11/29(土) 20:27:05 ID:8gMe98vA [ N045225.ppp.dion.ne.jp ]
話が豊平方面に行っていますね。
「北裏」、「東裏」ですか。
実は、ただの「裏」ってもあったようですよ。

ま、何はともあれ、取っておきの資料を公開いたしましょう。
豊平区でいただけます、「豊平の歴史」から。
「豊平町字名新旧対照表」
http://cgi28.plala.or.jp/~xapy/cgi-bin/source/up0067.jpg
20618丁目:2003/11/29(土) 23:13:11 ID:06wXgMmw [ p15102-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>205
さすが牛鍋さん、こんな決め手の資料を見つけてきましたか。

何と!?器械場、機械場、厚別機械場とか、
簾舞、簾前、ミソマップ、ミスマイ、ミソマイなんて・・・

マイナー地名は摩訶不思議ですね。
207西創成:2003/11/29(土) 23:15:18 ID:/svihV0M [ i106092.ap.plala.or.jp ]
>>205
牛鍋さんありがとうございます。
「東裏」…澄川にもあるようですね。

>>201
あの美園と平岸、豊平の入り交じったあたりややこしい地名割りですね。

それで、
やはり、私も調べてみたところ「東裏」は大字平岸村字東裏のようです。

今日、図書館から『りんご並木のある町 美園を見たり、聞いたまゝ』加藤幸作氏著(昭63・自費出版?)という本を仕入れてまいりました。

ここには、豊平町大字豊平村の大部分が札幌区編入(明治43年4月)したときに、大字豊平村のうち豊平町に残ってしまった部分が「美園」であるとしているようでした。

「美園」の地名由来として、
明治43年〜は、大字豊平村〇番地としていたが、昭和19年3月27日に「御園」と字名変更することが、第二回町会で決まったが、内務省より”御”の字にクレームがつき、廃案になり、昭和19年4月21日の町会で「美園」と修正して改正したとのこと。

この地域では、花卉類の生産が多く一帯が花園のようだから「美園」としたそうです。
208西創成:2003/11/29(土) 23:27:52 ID:/svihV0M [ i106092.ap.plala.or.jp ]
>>205
牛鍋さん、その表の中の「平岸」の旧地名の一つとして「定山渓」とありますが、これは誤植ですか。それとももうひとつ「定山渓」があるのでしょうか。
20918丁目:2003/11/29(土) 23:52:23 ID:06wXgMmw [ p15102-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
西創成さんが以前調べた↓
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/7_log.html#109

○札幌郡豊平町土場区

 昭和3年豊平町は部落名に区制を採用した。
 昭和15年区制廃止
 昭和19年「大字平岸村字土場」を「大字平岸村字常盤」に改称。
 なお「常盤」には、「大字平岸村字湯ノ沢」も含む。

常盤や湯ノ沢も含まれているのであれば、定山渓もありかな?って感じがしますが、これいかに。
21018丁目:2003/11/30(日) 00:11:33 ID:9CTnzbZU [ p15102-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>198 k様
>「東裏」という地名の由来は平岸本村に対してその東側の裏側という
>ことと考えてよさそうです。

全くその通りでしょうね。
ただし、この東裏という地名はいつからなんでしょうね。
どっち側が裏だとか表だとかは、意外と鉄道敷設なんかを境にはじまったりするまのだよな、
とも思ったりしています。

定山渓鉄道が大正四年に開通していますよね。
東裏=定山渓鉄道の東側ってな意味かもですね。
21118丁目:2003/11/30(日) 00:24:36 ID:9CTnzbZU [ p15102-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ぜーんぜん話変わりますけど、スレ違い気味かも知れませんが、
東区ななめ通りの「かねや今井」が跡形も無く撤去されていました。
街中を走っていると、「東映」も撤去されていました。
「かねや今井」 牛鍋さんが札幌牧場の痕跡調査の時にはありましたよね。
寂しいですね。
21218丁目:2003/11/30(日) 00:40:45 ID:9CTnzbZU [ p15102-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
広報さっぽろにはこのように書かれていました。

美園
 豊平村の一部だったこの地域は、開拓当時、「望月寒川沿」と呼ばれていました。
明治43(1910)年に豊平町大字豊平村の一部が札幌区に編入されたとき、編入されず
にそのまま残ったため、「残村」と呼ばれていた時期もあります。
 昭和19(1944)年、「御園」と字名が変更されましたが、その後すぐに現在の「美
園」に修正されました。当時、ここには花き栽培農家が多くあり、花園のように花
畑が広がっていたことから付けられたといわれています。

「残村」とは無残な名称ですね。
「御園」の件も書かれています。
213牛鍋蝸牛:2003/11/30(日) 22:22:31 ID:Ei/h5gGA [ N045225.ppp.dion.ne.jp ]
え〜昨日、風邪のため早々に寝入った後にレスが相次いだようですね。
本日も仕事であったため、お返事遅れて、ごめ〜んね。
おかげさまでかなり回復いたしました。

さて、色々とご意見、ご質問のありました「豊平町字名新旧対照表」
http://cgi28.plala.or.jp/~xapy/cgi-bin/source/up0067.jpg ですが、ちょいとワシの見解を述べさせていただきたいと存じます。
それが各疑問・質問の答えになるかと…。
んで、この対照表、まんま素直に見るのはいかがかと思っております。
あくまでこう読むと矛盾点がなくなるという読み方ですので、根拠はあいまいなのですが…。

「旧字名」は、昭和19年までの各年代の各地の名称であると、ワシはこう思うのであります。
「現・豊平区」は行政区が「札幌郡時代」に「平岸村」、「月寒村」、「白石村」、「第一大区時代」に「「豊平村」と「上白石村」、「札幌郡札幌区時代」に「豊平村」、「広島村」、「白石村」との分離・合併をしております。
同対照表の「旧字名」は、各時代の付属と名称の変遷を一つにまとめて表現したものではないかと、こう思うのです。

つまり、>>206で18丁目さんご指摘の、「器械場」、「機械場」、「厚別機械場」は同一のものである、とワシは思うのであります。
各年代、行政区の変遷によって呼び名が微妙に変化したものではないかと。
そして、>>207で西創成さんがご指摘の、>「東裏」…澄川にもあるようですね。 に関しては、「澄川地区」の「東裏」は「平岸村の東裏」と同一のものでその南端が「澄川」まであったのではないかと思うのであります。

で、>>208の「平岸の定山渓」。
これは同表の「定山渓の定山渓」と同じ、"あの定山渓"であるが、ただしそれとは違った時代、「大字平岸村字定山渓」であった時のことが書かれたのであろうと、ワシは思うのです。
その証拠ですが、「その六」の#239 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/6_log.html#239 
「豊羽鉱山研究」で同鉱山があった場所が、「札幌郡豊平町大字平岸村字定山渓」であることをワシ、述べておりますもんで…。

ああ、だいぶ酔いが回ってきました。
ここまで書いてきたことが、果たして辻褄があっているのかもよく分からなくなってきましたので、今日はこの辺りで止めにしましょう。
言っておきますが、変な記述は全て酒のせいです。
じゃ、よく検証してみてくださいね〜。
214牛鍋蝸牛:2003/11/30(日) 22:31:59 ID:Ei/h5gGA [ N045225.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=752 
大正5年頃の「東裏」付近の地図です。
参考にしてください。

それと「山本」に関して、新事実が判明!(それほどでもないけど、まだ続行中ですぜ)
215西創成:2003/11/30(日) 23:32:38 ID:D4nVvknQ [ j176196.ap.plala.or.jp ]
「豊平町新旧字名対照表」
昭和19年改正時分の小字名ではなくて、昭和19年までに〜と考えれば合点がいきます。
私の理解が単純すぎたようです。
21618丁目:2003/12/01(月) 02:21:46 ID:JkH/pg8s [ p25142-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ひつこく東裏ですが
豊平墓地の東裏かも?

山本の新事実公開楽しみです。
217なまら名無し:2003/12/01(月) 16:09:27 ID:DhwdRfvQ [ YahooBB219041108214.bbtec.net ]
東裏って墓地と関係ある?
当別も東裏は墓地なんですけど
何かそーいう方角ですか?
218牛鍋蝸牛:2003/12/01(月) 20:52:09 ID:LV7h/7CY [ N045117.ppp.dion.ne.jp ]
>>217
「東裏」が墓地に関係するのかどうかはさておいちゃいまして、どうやらこの地名、札幌だけに限らないらしい…ということが分かりました。
で、現在「東裏」と住所表示されるところを調べましたところ、全国に20ヶ所あることが判明。
その共通点を調べれば、その由来が分かるかも…。
じゃ、ご紹介いたしましょう。

北海道石狩郡当別町東裏
岩手県北上市相去町東裏
岩手県紫波郡紫波町日詰東裏
岩手県胆沢郡衣川村東裏
宮城県仙台市泉区市名坂東裏
宮城県仙台市泉区七北田東裏
宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉東裏
福島県福島市清水町東裏
福島県喜多方市熊倉町熊倉東裏
福島県二本松市東裏
福島県伊達郡梁川町大関東裏
福島県南会津郡下郷町大内東裏
愛知県豊橋市植田町東裏
愛知県一宮市浅井町小日比野東裏
愛知県一宮市春明東裏
愛知県西尾市下道目記町東裏
愛知県知立市牛田町東裏
愛知県宝飯郡音羽町赤坂東裏
京都府宇治市広野町東裏
徳島県板野郡松茂町広島東裏
219牛鍋蝸牛:2003/12/01(月) 21:09:10 ID:LV7h/7CY [ N045117.ppp.dion.ne.jp ]
あ、「東裏」だけで判断するのは難しいおっしゃるのですね?
じゃ、オマケです。
全国の「西裏」さん、いらっしゃ〜い!!

岩手県北上市相去町西裏
岩手県紫波郡紫波町日詰西裏
岩手県胆沢郡衣川村西裏
宮城県仙台市泉区市名坂西裏
宮城県刈田郡蔵王町宮西裏
宮城県登米郡米山町西野西裏
山形県東田川郡立川町狩川西裏
福島県福島市清水町西裏
福島県白河市本沼西裏
福島県喜多方市熊倉町熊倉西裏
福島県伊達郡梁川町大関西裏
福島県伊達郡霊山町掛田西裏
福島県河沼郡会津坂下町見明西裏
福島県大沼郡会津高田町西裏
福島県西白河郡泉崎村太田川西裏
愛知県岡崎市桑谷町西裏
愛知県刈谷市半城土町西裏
愛知県豊田市畝部西町西裏
愛知県西尾市下道目記町西裏
愛知県知立市牛田町西裏
愛知県海部郡美和町丹波西裏
愛知県宝飯郡音羽町赤坂西裏
京都府宇治市広野町西裏
220k:2003/12/01(月) 21:15:12 ID:Px2gB3r6 [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>210 18丁目様
「東裏」の地名注記は、#214で牛鍋蝸牛様がupされた大正5年版の地図では定山渓
鉄道が記入されていないのに、存在しています。さらにその前の版にも記入があり
ますので、鉄道とは関係ないものと考えられます。
221牛鍋蝸牛:2003/12/01(月) 21:32:50 ID:LV7h/7CY [ N045117.ppp.dion.ne.jp ]
ちょっと横道に逸れていますが、このまま横道に逸れ続けます。
日本全国に「東裏」があり、「西裏」があるとこはご納得いただけたかと思います。
じゃぁ、当然「南裏」も「北裏」もあるのかな?とお思いのあなた。
そ〜、その通り。
これも全国各地にあるのです。
ま、これは各々調べていただくとしましょう。
じゃ!

…と、これで納得した方は素直な方です。
へそ曲がりはこんなもんじゃ収まりが付きません。
東西南北の「裏」があるのなら、「表」もあるのかい?…って思ったあなた、十分へそ曲がっています。
「東表」、「西表」、「南表」、「北表」。
全部、全国のどこかの住所として存在しています。
("イリオモテ"は有名だけどね)
ま、札幌とは関係ないからsageとこう…。
222牛鍋蝸牛:2003/12/01(月) 23:47:47 ID:LV7h/7CY [ N045117.ppp.dion.ne.jp ]
「東裏」は何に対しての「東の裏」か…。
kさん、18丁目さんに反旗を翻すようで申し訳ないのですが、いろいろ考えてみたら、な、なんとワシ、「東裏は平岸本村に対しての"東の裏"ではない」という結論に達してしまいました…。

ええっとですね、ワシは全国にこれだけ「東裏」(あるいは"西裏")があるということは、「追分」のように何か共通の地理的条件があるはずだと、こう思ったのです。
全国の「東裏」、「西裏」がどういうところにあるか、地図をじ〜っと見続けているとそれはなんとなく見えてきたのです。
で、片っ端から再確認。
結果、どうやら、これで間違いないと。
なんたって、「平岸」にも立派なのがあるしね〜♪

で、今日のところはもったいつけてヒントだけ、お出しします。
「陸羽」、「日詰」、「七北田」、「田原」、「奈良」。
え〜い、ごっついヒントじゃ!
「旧東海道」!
223なまら名無し:2003/12/02(火) 07:41:05 ID:CbQ7SHC2 [ YahooBB219041108214.bbtec.net ]
kaido?
224k:2003/12/02(火) 16:24:46 ID:lS5kgx.Y [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>222 牛鍋蝸牛様
そうですね。七北田の東裏は若干土地勘があるのですが、まさに旧陸羽街道七北
田宿の東側の裏側にあたっています。ここには「西裏」もあります。街道が南北
に走っているので南と北はないようですが。
そういう意味ではまさにご指摘の通り、「追分」同様、普通名詞にかなり近いと
もいえますね。
225西創成:2003/12/02(火) 23:37:06 ID:9WpH3O3U [ i239088.ap.plala.or.jp ]
楽しみにさせていただきます。
226牛鍋蝸牛:2003/12/03(水) 00:20:54 ID:l7njQ0Tk [ N045117.ppp.dion.ne.jp ]
仕事帰りに誘われて、ついつい寿司屋に寄ってしまい、寿司食わずに酒飲んでご帰還の牛鍋蝸牛でございます。ヒック!
つまみだけでビール、日本酒、焼酎(乙種)を飲むと、レスする気力がなくなるので皆さん止めましょう。ヒック!

「東裏」…。
こいつは>>223さん、kさんのご推察の通り、一般的には「街道の東側」を意味しているのではないでしょうか。
つまり、札幌の「東裏」は「平岸本村」に対してではなく、「平岸街道」に対しての地名だとワシは思うのです。

し、しかし何しろ…。
しかし何しろ今日は酒が…。
ああ、酒がワシの邪魔をして、もうアカン。
眠らせて…。
オナガイ。
その検証は明日させてチョウダイ。
227牛鍋蝸牛:2003/12/03(水) 11:34:50 ID:l7njQ0Tk [ N045117.ppp.dion.ne.jp ]
全国の「東裏」。
これらの共通点は「街道」だと思います。
資料の関係で全て調べられたわけではありませんが、その関係が判明したものを挙げておきます。
これらの「東裏」は各々の街道の東側にありました。

岩手県北上市相去町東裏 陸羽街道
岩手県紫波郡紫波町日詰東裏 日詰街道
宮城県仙台市泉区市名坂東裏 七北田街道
宮城県仙台市泉区七北田東裏 七北田街道
福島県福島市清水町東裏 一般国道四線
福島県二本松市東裏 一般国道四線
福島県喜多方市熊倉町熊倉東裏 米沢街道
愛知県豊橋市植田町東裏 旧東海道
愛知県知立市牛田町東裏 知立街道
愛知県宝飯郡音羽町赤坂東裏 旧東海道
京都府宇治市広野町東裏 奈良街道
(これ調べるのたいへんだったんだからね…)

以上のことから札幌にかつて存在した「東裏」は、「平岸街道」に呼応した呼び名であるとワシは思うのであります。
「平岸本村」の南方、「澄川」付近まで「東裏」の字が付いていたということもこれなら矛盾がないと思えるのですが、いかがでしょう?
228牛鍋蝸牛:2003/12/03(水) 19:01:36 ID:l7njQ0Tk [ N045117.ppp.dion.ne.jp ]
>>227に書き間違いがありました。
一般国道四線…。
国道四号線です。
ごめんなさい。
229とろんとろん:2003/12/05(金) 14:05:30 ID:/tZG2RVg [ SODfa-02p3-50.ppp11.odn.ad.jp ]
ずいぶんと「(厚別町)山本地区」の話が拡がっていて
かなり楽しい感じになっちゃってましたが。
あともし現地調査されるなら「烈々布」の時などと同様に
地区の中心にあたる会館を訪れるのがいいのではないかと。
厚別区は昔選管のバイトで区役所に通ってたこともあるので
ある程度の土地勘があると思うのですが、「山本会館」に
行くのがよろしかろうと(ここは厚別町山本の有権者が
投票しに来る場所でしょうし)。
 あとは厚別区だとかつての中心街である十字街近辺と、
使える図書館、「厚別図書館」でしょうか(最近は厚別の
西と南あたりの地区センターにも図書室あるでしょうし、
何か参考になるものが転がっているかもしれません)。
 もみじ台はその昔国鉄所有の練成農場だったひばりが丘や
かつて貨物駅・弾薬庫のあった青葉町なんかに比べると、
札幌の地下鉄の結局終点にならざるを得なかった地に
ありがちないわゆる「ホクノー問題」とか、いろいろ
雑な要素のある分、話が上手く転がりにくいところが
あるしなあ…。

>>167牛鍋蝸牛さん
もうひと押ししてみるか。『あつべつ区再考』には
確か吉田用水が流れていた水路図や記念碑の場所など
いろいろ再発見出来るようなことが書かれていましたから
買ってソンはないと思いますよ。

しかし『あつべつ区再考』読んだ日にチラッとだけ読んだ
南区関係の本で「真駒内公園は以前米軍のゴルフ場だった」
といふのを観て「へぇ」とも思ったが、以前とある番組の
リスナーの集いで行ったときのことを思うとさもありなん、
と思ったり。
230なまら名無し:2003/12/05(金) 20:16:32 ID:RfTToXtA [ m198190.ap.plala.or.jp ]
腰を折ってすみませんが「十五島」ってがいしゅつですか?
その語源についてお聞きしたい。
231西創成:2003/12/05(金) 23:46:50 ID:KAgfIkp6 [ o050243.ap.plala.or.jp ]
「十五島」(概略)
・南区藤野108番地先にある公園の名前
・付近には、十五島町内会もある。
・昔、この地の豊平川の中に多くの岩があったことから「十五島」と呼ばれる。
・その後、多くの岩は木材輸送のじゃまになるために発破をかけたり、削ったりした。
・昭和29年公園開園。
・昭和34年には、定鉄電車十五島停留所開業。
・昭和51年には、公園が市に移管される。
・公園面積22,944平方メートル。
・炊事場などがあり、炊事遠足で有名。
・国道230号、生協付近に「十五島」との地名表示があるが、正式な住所ではない。

(参考、みなみ区小百科・南区役所市民部総務課発行に加筆)
232なまら名無し:2003/12/06(土) 00:20:56 ID:qat0TEVE [ 1Cust14.tnt1.chitose.jp.fj.da.uu.net ]
炊事遠足っていえば藻南か十五島だったもんな
23318丁目:2003/12/06(土) 09:46:18 ID:tOwvaJCA [ p19178-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
そう言えば初出でしたかね、「十五島」。
「藻南」の手前には「おいらん淵」があるね。

「東裏」は「平岸街道」の東裏ということが、かなりの確立で正しいと思われますね。
ただ、やはり気になるのがいつの時代じゃらの地名なのか?明治・大正・昭和のその
地区の住民の生の声を聞きたいですね。
234k:2003/12/06(土) 21:39:09 ID:mQdKo0aQ [ customer71-242.mni.ne.jp ]
明治42年版の地図に既に「東裏」の注記があります。従って、明治末年にはその
ように呼ばれていたのではないかと思われます。
235西創成:2003/12/06(土) 23:58:51 ID:XNm1osoM [ u054186.ap.plala.or.jp ]
裏=街道の裏
なるほど。
たしかに「東裏」大字平岸村の平岸街道東側の(どんづまりの)裏側ですね。

>>229
厚別町方面も色々な話が多いと推測されますが、私、土地勘がなくて…ピンとこないのです。

「ひばりヶ丘」=春
「青葉町」=夏
「もみじ台」=秋
と、造成した順に春夏秋となっているなんてことしか知らんのです。

>>「十五島公園」「藻南公園、花魁淵」といえば、炊事遠足のメッカですが、いまはどうなんでしょうか。
23618丁目:2003/12/07(日) 00:05:54 ID:P3V0PrAo [ p3065-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>「十五島公園」「藻南公園、花魁淵」といえば、炊事遠足のメッカですが、いまはどうなんでしょうか。
現在25歳の知り合いが、13歳の頃は滝野と言っています。
ちなみに、小学校の宿泊学習は、豊羽鉱山だったようです。
237なまら名無し:2003/12/07(日) 07:59:43 ID:96MivN5c [ m162168.ap.plala.or.jp ]
花魁ぶちってほんとにあそこで身を投げたのでしょうか?
宿泊学習はわたしたちの頃は滝野自然学園か西岡キャンプ場でした。
今は滝野にある山の家だそうです。
炊事遠足もあまりきかれなくなりましたね。
238牛鍋蝸牛:2003/12/07(日) 22:49:24 ID:yF1obnS2 [ x086248.ppp.dion.ne.jp ]
ちょいとお暇をいただいておりました。
とあるコンサートに専念するため、地名のことはあえて忘れることにしていたのです。
あ〜、ストイックなワシって素敵…。
おかげさまで堪能してまいりました。
では、今日のところはご報告まで。
じゃ。
♪ サ〜ムウエ〜 オーバ ザ レインボ〜 ♪
239なまら名無し:2003/12/08(月) 00:41:35 ID:.vwCUkhk [ YahooBB219041108214.bbtec.net ]
牛氏と同じくとあるコンサートに専念するため、地名のことはあえて忘れることにしていたのですが、暫く余韻でだめかも
ああなんて幸せなんだろう・・・オツカレサマデシタッ!
240なまら名無し:2003/12/08(月) 07:23:13 ID:w52bFzAk [ r031116.ap.plala.or.jp ]
ストイックな牛氏と同じ会場で同じ曲を聴いていたのか・・・光栄です。
241牛鍋蝸牛:2003/12/08(月) 12:42:31 ID:VGDZtfX. [ x086248.ppp.dion.ne.jp ]
>>239新川番地さん、オツカレサマデシタッ!
>>240さん。
ワシ、おだてに弱いんだから、もっと言って…。
今日はワシ休みでして(取ったのだけど)、昨日の余韻に浸りながらも"札幌のマイナー地名考察"に気持ちをシフトしようと試みておりますです。
たくさんレスをしたいのですが、あせらず、順を追ってやりましょう。

「東裏」に関しては、「平岸街道の東裏」という解釈で御賛同を得られたようです。
今後新事実がありましたら、またご報告したいと思いますし、何かありましたらお願いします。
そいえっばさ〜ぁ〜、昨日、生まれて初めて地下鉄東豊線に乗ったですよ。
とあるラーメン屋、「あび」から札幌ドームに行くのにね。
で、通ったですよ、「美園」。
「東裏」辺りだよね。
まわり何も見えなかったけど、これはワシのせいじゃない。
地下鉄にした札幌市が悪い。
242牛鍋蝸牛:2003/12/08(月) 13:05:45 ID:VGDZtfX. [ x086248.ppp.dion.ne.jp ]
「山本」に関しての新事実…。
はっきり言って大したことありません。
が、何しろこの地区に関しての文献が少ないものですから、いくらかは腹の足しになるかと思いましてね。
「さっぽろ歴史探見」(1993年 北海道新聞社)から抽出引用しますが、先に、例の「謝恩之碑」に関しての記述を。
今までの調査の重複になるので、手短にします。
「山本地区は、明治42年(1909)、山本久衛門が私財を投じて開墾に着手し、造田を進め、その子の厚三が道路・排水路の開削、土地改良などに力を注いだという。
当初、この地は「本田」と呼ばれていたが、昭和9年(1934)に開拓の祖山本父子の姓をとって「山本」と改められた。
山本稲荷神社は、明治42年の山本農場開拓当初から小祠を祀っていたのが起こりで、現在の社殿は大正9年(1920)に建立されたものだ」

今回、ここへは実地調査に行かずに真駒内川さんにお願いしたままで、ずぼらな話なのですけど、何か名物はないものか?と思っておりました。
と、同書には「1.8キロのヤチダモ並木」があると、こう書かれているじゃあ〜りませんか!
この並木は「山本通」にあるそうで、
「耕地の境界や防風林によく植えられているのが広葉樹のヤチダモ。湿った所によく育つ木で、高さ30mにもなる。アイヌ語でピンニ(割れる木という意味のペルニがなまったもの)と呼ばれるように筋目が通って割れやすい。家具、バット材に利用される。
山本地区の山本通りには1.8キロにも及ぶこのヤチダモの並木がある。
この多くは昭和の始め頃に防風林として植えられたもので、これまで山本地区の農業に大きく貢献してきたという。
また山本通り沿いの大排水は、この辺り一帯が水はけの悪い湿地帯であったため、これを改良するために小池嘉一郎らが中心となって掘られたものである」
243牛鍋蝸牛:2003/12/08(月) 13:06:42 ID:VGDZtfX. [ x086248.ppp.dion.ne.jp ]
「ヤチダモ」とはどんな木でしょう?
ttp://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/yatidamo.html
ttp://www005.upp.so-net.ne.jp/goostake/GOO/YDAMO.HTM 
ttp://moritetsu.net/zukan/M_yatidamo.html 
ふ〜ん、なるほどね。
では、「バットに使われる」というのは?
ワシなんかはアマチュアはともかく、プロが使うバットは「アオダモ」だと聞いておりましたので、はたして「ヤチダモ」とは、と思っちゃうのですが…。
1986年の記事でいささか古いのですが、この疑問を解くためのうってつけのサイトがありました。
ttp://members.jcom.home.ne.jp/souzounakano/batt-2.html 
スレに関連あるところだけ要約しました。
「ヤチダモは当時、王選手が使用した木材であった。しかし、その折れやすい特性から、メジャーでは禁止されている圧縮強化バットに加工されて使用された。
アメリカ大使の経験のある下田武三氏がプロ野球コミッショナーに就任してから、圧縮強化バットは禁止され、日本での主流のバット材料は、メジャーでよく使用されるホワイトアッシュよりも強度のある、アオダモへと移行している」
なるほどね〜。
で、折れたバットで「カットバシ」か…(W

「旧山本消防組番屋」
http://homepage2.nifty.com/folk/kaitaku/syoubou.htm
ってのもあったようです。
引き続き、同書より、「火の見櫓が懐かしい旧山本消防組合番屋」。
「かつて山本地区には、大正末期(1925年)頃に建てられた消防用具の格納庫(木造平屋建て)があったが、現在これが北海道開拓の村(厚別区厚別町小野幌50-1)に移築・復元されている。
山本地区の消防組織は大正8年(1919)頃からの自警団が前身で、後に山本消防組となり、建物は昭和45年(1970)まで使用された。
番屋横の火の見櫓は、かつて札幌の郊外によくみられたもので、災害を知らせたり、地域の治安を守る大切なものとされた」
244牛鍋蝸牛:2003/12/08(月) 13:39:32 ID:VGDZtfX. [ x086248.ppp.dion.ne.jp ]
>>229
とろんとろんさん。
「あつべつ区再考」ね。
そこまでおっしゃるのなら、西線の古書店にでも行ってみましょうか。
いずれにせよ、厚別区に関する資料は持っていないので、なにか一冊くらいは必要だとは思っておりました。

「十五島公園」は、ワシも「藻南公園」とともに炊事遠足の思い出があります。
生まれて初めて蜂に刺されたのが、「十五島公園」でした。え〜ん…(泣
で、生まれて初めて鳩の卵を見つけたのが「藻南公園」でした。クックルゥ〜。
「宿泊学習」というのは前にも書いたけど、ワシらの時代にはなかったですねぇ。
社会人になってから「宿泊研修」は何度かやらされたな。
あ、「藻南公園」、「十五島公園」でやったわけではありません。
念のため。
245牛鍋蝸牛:2003/12/08(月) 13:42:03 ID:VGDZtfX. [ x086248.ppp.dion.ne.jp ]
そういえば、「藻南公園」の公衆トイレ。
以前に困った事件が起こりましたね。
道警「I刑事」の事件の時、元上司が…。

「藻南公園」の「花魁淵」の話は有名ですが、「十五島公園」にはこんなこともあったようです。
「さっぽろ歴史散歩 山の辺の道 定山渓紀行」(山崎長吉 北海道出版企画センター)より。
「国道から十五島公園へ下って行く途中、右側に導き地蔵がある。これは昭和十年ごろこの地の中上伊左衛と篠原嘉蔵によって建立されたもので、篠塚嘉蔵の子息がこの地で行方不明になっているので、その無事を祈って建立された。この導き地蔵は最初国道沿いにあったが、四度目で現在に安置された」
(注・「現在に安置」は原文のまま)
そして、公園内には「誓 永遠に安かれ」という慰霊碑があるのですね。
これは昭和48年10月16日に柏中学校の生徒二人がダムの水量調節のため、増水した豊平川で犠牲になったことを悼んでのものであるようです。
何しろ水辺だからね、事故も多いのでしょう。
>>237さん。
「花魁淵」のエピソードに異論を挟む文章を前に読んだことがあります。
どっかのWebサイトだったと思います。
246牛鍋蝸牛:2003/12/08(月) 13:50:26 ID:VGDZtfX. [ x086248.ppp.dion.ne.jp ]
今、気が付いたんだけど、>>242の「山本」の旧地名「本田」。
ワシ、「ヤマモト」から連想して、「ホンダ」だと思っていたんだけど、もしかして「ホンデン」?
さすがに、「ホンダ」はないか…(w
247牛鍋蝸牛:2003/12/08(月) 21:41:20 ID:VGDZtfX. [ x086248.ppp.dion.ne.jp ]
え〜、未だ"EC"の余韻に耽りながらのレスです。
18丁目さんがこだわる「東裏」呼称の成立時期なのですが、確たる証拠はないにしろ、状況からの推測を試みている最中であります。
(え?なぜかモナカ食べたい?そりゃ、サブリミナルだな)

「そうじゃないかな?これかいな?」というネタはつかんでいるのですが、、まだまとまっておりませんので、予告だけにしておきます。
248牛鍋蝸牛:2003/12/10(水) 22:24:23 ID:qriayzlo [ N044034.ppp.dion.ne.jp ]
>>233 18丁目さんの、「東裏」に関しての疑問。
>ただ、やはり気になるのがいつの時代じゃらの地名なのか?

え〜、まずは、「いつまであったか」について。
「豊平町字名新旧対照表」
http://cgi28.plala.or.jp/~xapy/cgi-bin/source/up0067.jpg
により、昭和19年には既になくなっていたということが分かります。
この表は歴代の大字と字の関係を書いていると思えるので、「東裏」があちこちにあったように見えますが、おそらく全部「平岸」の「東裏」だと思います。
大字との関係は時代で違っているかもしれませんが、「東裏」自体は昭和19年まであったと考えてよいのではないでしょうか。

で、肝心の「いつからか?」ですが、「東裏」が"東の街道裏"を示すとしたなら、当然、平岸街道開削後となりますわな。
簡単な記述ですが、「平岸街道」を「豊平の歴史」(平成15年改訂 豊平区)より見てみますと…。
「平岸街道は、開拓使が現在の平岸3条1丁目から18丁目にかけて原生林を一直線に切り倒して開いただけの道路でした。この道路に沿って62区画に土地を分け、ここに、明治4(1871)年開拓移民が入植しました」
この開拓移民に関しては、同書の「月寒、平岸、豊平村の誕生」にその記述があります。
「明治4(1871)年以降、募集した開拓移民が月寒、平岸、白石、手稲などに次々と移住してきました。月寒村に盛岡(岩手)件農民44戸、185人(『開拓使事業報告書』では43戸、185人となっている)が、そして、平岸村に胆沢(岩手)県農民や仙台藩士など65戸(62戸との説もある)、203人が入植しています」
249牛鍋蝸牛:2003/12/10(水) 22:26:25 ID:qriayzlo [ N044034.ppp.dion.ne.jp ]
「平岸中央商店街」ついてのサイト。
ttp://www.011.or.jp/02_03index.htm 
「平岸は今から約130年前、仙台伊達藩の小藩であった水沢藩の家臣と農民等によって拓かれました」
詳細については、
ttp://www.city.mizusawa.iwate.jp/htm/roman/mr07001.html
 明治2年(1869)徳川幕府が倒潰(とうかい)して仙台本藩も廃藩となり、水沢でも8月水沢城を明渡し、藩主留守氏は、僅か58石の知行の身となった。800名の家臣団も家祿を失い路頭に迷うことになった。240年の長年月にわたり、水沢の地に安住し、君臣主従融和して生活してきた家臣とその家族にとって、まさしく死活の大問題となった。本藩では((略)重臣を中心に旧城大広間に全家臣を集めて会議が続行された。結局帰農するか、北海道(明治2年エゾ地を北海道と改む)に移住するかの2つの道しかなかった。
250牛鍋蝸牛:2003/12/10(水) 22:27:16 ID:qriayzlo [ N044034.ppp.dion.ne.jp ]
仙台藩の支藩である水沢藩(岩手県)の人々が「平岸」の開拓に当たったということですね。
(ちなみに、"白石"へ入植した白石藩も仙台藩の支藩)
ワシはこれが「東裏」の地名の由来であるのではないかと思うのですよ。
というのが、先に>219で紹介しました現在、住所表示として残っている「東裏」は道外では、20ヶ所の内、11ヶ所が東北地方なのです。
岩手県北上市相去町東裏
岩手県紫波郡紫波町日詰東裏
岩手県胆沢郡衣川村東裏
宮城県仙台市泉区市名坂東裏
宮城県仙台市泉区七北田東裏
宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉東裏
福島県福島市清水町東裏
福島県喜多方市熊倉町熊倉東裏
福島県二本松市東裏
福島県伊達郡梁川町大関東裏
福島県南会津郡下郷町大内東裏
251牛鍋蝸牛:2003/12/10(水) 22:31:05 ID:qriayzlo [ N044034.ppp.dion.ne.jp ]
そして「岩手県」と「宮城県」にその地名が多く残っています。
ここは「仙台藩」、そしてまさに「水沢藩」のお膝元であったわけです。
ということは、「平岸街道」の東側に「東裏」の名を付けたのは「水沢藩」の人々だったのではないでしょうか?
"平岸街道の東"に、二度と帰ることのないであろう自分たちの故郷を懐かしんでこの名を付けたのではないでしょうか?
もしそうなら、「水沢藩」の人々が入植してからそう時を待たずして「東裏」の名は付けられたのではないか、とこうワシは思うわけなのです。

これはワシの推論です。
確たる証拠ってぇのは、未だ見つけてはいないのではありますが…。
とりあえず、以上!
25218丁目:2003/12/10(水) 23:14:52 ID:ESVW3jrk [ p2081-adsau04sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
うーん、相当そーかも知れない!
この推論を裏付けする資料が欲しいところではありますが、本当の学者さんたちは
アイヌ語地名には熱を入れますが、この種の地名には興味がないと見ましたよ。
来たれ生き字引!
253k:2003/12/11(木) 11:15:33 ID:0cxGOf56 [ customer71-242.mni.ne.jp ]
「東裏」地区の開拓について
牛鍋蝸牛様にupしていただいた大正5年版の地形図にほぼ中央を南北に走っている
道路があります。そしてそのほぼ中ほどに東側に向かって分岐する道路があり、こ
こでT字路になっています。ここに石碑の記号があります。この石碑は詳しくは見
ていないのですが、碑の表面は「重延卯平翁顕彰碑」となっており、この地の開拓
に入った重延氏を顕彰する碑のようです。この碑のことはさっぽろ文庫「札幌の碑」
に記載はないでしょうか。あれば「水沢藩」云々についての大きな傍証となものと
思われます。また、現地の検証ということもありますが、この碑現在はこの位置に
ないようです。それからもう一つ、現地にはかつて日露戦争で戦死した兵士の慰霊
碑もありました。これについても何かわかれば、有力な資料となるものと思います。
私、何しろ今は内地に住んでいて、簡単に現地へ行くこともできず、また地元の図書館など
にもそのような資料がないもので申し訳けありませんが。
何かありましたらご報告お待ちしております。
254真駒内川:2003/12/11(木) 19:03:00 ID:oMeTAcCI [ p29b3f8.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>253
その場所は現在の平岸4条6丁目の交差点ですかねぇ。
それらの碑は平園公園に移設されていると思われますが。(見てないし..)
ただ重延卯平と言う人は昭和2年当時、付近を流れていた1号用水の辺りに住んでいたようです。
現在の平岸5条9丁目付近のようです。
255なまら名無し:2003/12/11(木) 20:11:11 ID:1IteMwqQ [ t020154.ap.plala.or.jp ]
♪麻畑とよばれたむかーし
ふぶきにも風邪にもまけず♪
256真駒内川:2003/12/12(金) 17:35:18 ID:aGAmXlZQ [ p29b3f8.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
えー、本日平園公園を見に行って来ましたが、わたくしとんでもない間違いをしていました。
重延卯平という人は存在しません。
「重延卯平翁顕彰碑」とは重延久太郎と卯平親子を讃えた碑でした。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=753
ピンボケ写真ですいません。
ほかにも撮ったんですが、みーんなピンボケで使い物になりませんです。
ちなみに、重延さんの御子孫の方はいまもこの付近にお住まいです。(あくまでこの付近です。はっきり書きません。)
257k:2003/12/12(金) 22:07:10 ID:F5vP0Ysw [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>256 真駒内川様 ありがとうございました。いや、私はその碑文の中に重延
氏が水沢から移住したなどという記載があるのかなと思ったのです。
重延氏のご子孫があのあたりに住んでおられることは、私も知っていました。
その中には北海高で教職についていた方もおられたようです。
258牛鍋蝸牛:2003/12/12(金) 22:19:20 ID:.W3qW2t2 [ N047232.ppp.dion.ne.jp ]
>>256 真駒内川さん、お疲れ様でした。
「重延卯平(しげのべ うへい)」氏は実在の人物であるようですよ。
>>257 Kさん。
この方は「水沢」の方ではなく、愛媛県出身です。

で、まあ、昨日のところは内密にしておりましたが、実は今日も引き続きとても眠いのでレスはまた明日にでも…。
じ、実は、いろいろと新事実がぁ〜!

でもね、いっぱい書きたいことはあれども、もう眠くて、眠くて。
だって、春だもんなぁ〜♪
259真駒内川:2003/12/12(金) 23:23:11 ID:aGAmXlZQ [ p29b3f8.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>258
えっと、書き方が変でしたね。卯平さんは確かにいました。
あの碑は卯平さん1人の碑ではないと言いたかったんですが、なにを考えたか「いない」という事を
書いてしまいました。
謹んでお詫び申し上げます。
「重延卯平翁顕彰碑」と「馬頭観世音碑」に並んで立っていたのが「沼田砲兵軍曹忠霊之碑」です。
おそらく最初に入植された沼田喜代治氏の身内の方の碑ではないかと思います。
この沼田氏の子孫の方も、現在この付近にお住まいのようです。
260西創成:2003/12/13(土) 00:47:45 ID:fb5P94x. [ i104188.ap.plala.or.jp ]
この前ご紹介した、加藤幸作著「りんご並木のあるまち」のなかに、『美園地区の略歴』という項に、見落とししてたのですが、次の様なことが書いてありました。

『昭和19年 豊平村を「御園」と改め、更に「美園」と改めた東裏を字名変更により「平岸4区」とした。』

これによれば、
豊平村残存地区→御園(不許可)→美園
東裏→美園(変更)→平岸4区


最初の字名改正案では、
「美園」と「御園」のふたつの地域を作ろうとしていたのに、「御園」が使えなかったので、「当初予定・御園」を「現・美園」に、「当初改正・美園」を「平岸4区」にしたということでしょうか。

なんだこれ。
261k:2003/12/13(土) 11:48:21 ID:nUHfS8Vs [ customer71-242.mni.ne.jp ]
真駒内川様 いろいろとご調査いただきありがとうございました。
問題の碑のもとの場所は、現在信用金庫の支店がある平岸4-6の交差点ではなく、
それよりも100m.くらい北にある交差点です。そしてそのそばにある商店が「沼
田商店」であり、「沼田砲兵軍曹」の一族と思われます。
それから、さきの平岸4-6の交差点をつくっている東西の道路、平岸の幌南病院
の前からずっと東へのびて美園小学校の横を通っている道路は、昭和30年以降
に都市計画で作られた道路です。
もう一つ、旧「東裏」に含まれる地域は、現在の美園と平岸の双方にまたがっ
ていると思います。地形図の「東裏」の地名注記の位置が版ごと微妙にちがっ
ており、これらからするそのような結論になるのです。「平岸4区」は旧平岸
村のうち定鉄線以東がそうなったものでです。
262大麻:2003/12/13(土) 11:49:58 ID:7I7sgfVM [ 61-27-6-94.home.ne.jp ]
はじめまして。このスレ、甚く感動しております。

さて、厚別エリアですが私も以前から疑問を抱いておりました。
開拓後〜現在の変貌について興味があります。
まずは、セキボウ。現平岡地区にあった幻のミラクルランド
“セキボウラ(ウ)ンド”でご存知かと思いますが、新札幌の
「音泉館」は以前、布団やその他繊維を扱う「セキボウ」
だったと思われます。この東地区でもやはり紡績業は重要な
ものであったことが12号線のCSコレール等の存在や、
その名のとおりの大麻の地名などから推察されます。
(ところでセキボウについて、どなたかご存知ないでしょうか?)

その後は、現菊水あたりに居住していた人々の住居の確保も
含め沢山の市営住宅が建てられたようです。
(この話題はさらりと流します)

地下鉄東西線の延長後主要交通機関がJRから地下鉄に変わり
町の中心も変わり、JR厚別付近→新札幌にコアが変化するの
ですが今となっては“札幌副都心”の名も見るかげなく
シェラトンホテルだけが不自然に聳えるハリボテのような
町になってしまったように見受けられます。

…厚別地区の現状ならびに過去を重点に“札幌再考”を
していきたく思いますので今後ともよろしくお願い申し上げます。
263大麻:2003/12/13(土) 11:50:56 ID:7I7sgfVM [ 61-27-6-94.home.ne.jp ]
sage忘れ。
264真駒内川:2003/12/13(土) 14:06:50 ID:GHJeNlbo [ p29b3f8.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>261
ありがとうございます。
交差点に位置は現地を調べた際に確認しております。
同時に沼田商店も確認しております。位置やその存在を書かなかったのは、それらの人がそれを望んでいない可能性があるためです。
重延氏のお宅や、開拓当時お住いだったお方のお宅もいくつか確認して写真も撮影してますが、資料として確認しただけでそれ以上のことにより
ご迷惑になることがあってはならないと思いましてあえて位置を出してません。
265牛鍋蝸牛:2003/12/13(土) 21:30:57 ID:s2jMqC9k [ N047144.ppp.dion.ne.jp ]
>>258 ちょっと意味不明でした。スンマセンです。
>>255 昭和24年、開校50周年を記念して作られた「平岸小学校」の校歌ですね。
>>249で紹介しました、http://www.city.mizusawa.iwate.jp/htm/roman/mr07001.html に書かれているように「平岸」にあった地名が「麻畑」。
「毎日毎日荒地をきり開く日が続き、開いた所には大麻(あさ)が蒔かれた。北海道の工業や漁業開発に最も要求されるロープや網の材料を得るための重要産業であった。今も平岸に麻畑(麻畑村)と称する地名が残っている」
「豊平町字名新旧対照表」にもありますね。
http://cgi28.plala.or.jp/~xapy/cgi-bin/source/up0067.jpg
でも、「麻畑」て残ってるの?
残ってないから校歌で「♪麻畑とよばれたむかーし」と歌われているんですよね?

ちょっと遅レスですが、Kさんからご指摘のありました「さっぽろ文庫札幌の碑」(昭和で「故重延卯平翁之碑」を引用いたします。
所在地 平岸五条七丁目 平岡公園内
建立年 昭和十一年七月五日
「明治七年愛媛県越智郡に生まれ、同十七年渡道。小作人として平岸村に居を定めたのち同二十五年には、当時の東裏にみずからの耕作地を買い取り、平岸水田の開祖となった努力家を偲んで建てられたのが本碑」
その他に、水田は無理と言われた土地でさまざまな工夫と発明を重ね、また、知人のために自身が借り入れするなど狭義的な方だったと書かれています。
ということで、「東裏」の成立とは直接の関係はないようです。

で、「沼田砲兵軍曹忠霊碑」に関して、同書から。
所在地 平岸五条七丁目 平岡公園内
建立年 明治四十年三月二十一日
「「平岸四区」の地名が地図の上から消えて久しいが、この周辺地域は昭和十九年まで「東裏」と呼ばれていた。東裏の地で最初に生まれた沼田安太郎はまた、不幸なことに戦没者第一号にもなってしまう」
沼田安太郎氏は明治15年1月18日生まれとのこと。
亡くなったのはロシアで、同三十七年以降であるようです。
この碑の、寄付人27人のうちの一人が重延卯平氏。
また、同碑の裏には太平洋戦争での戦死者の名前が記されているそうで、これは当初の建立地「平岸六条六丁目」から移転された際に合祀されたものらしいとのこと。

といういことで、「東裏」で初めての子供(沼田安太郎氏)が生まれたが明治15年1月。
これから無理に推測すると(かなりね)、「東裏」の地名は明治十年以降辺りから発生したということなのでしょうか?
266牛鍋蝸牛:2003/12/13(土) 22:29:02 ID:s2jMqC9k [ N047144.ppp.dion.ne.jp ]
>>262 
大麻さん。初めまして…。
「厚別−大麻」辺り、ワシは土地勘があまりないので、ひとつよろしくお願いします。

>>264
個人情報に関しては、こちらも神経質になりますね。
写真のピンボケに関してはワシも経験があります。
カメラの性能にもよるのでしょうが、なぜか"半押し"を維持できない日というものがあるようです。
その日撮ったものが、ことごとくダメだったりしたりしてね。
267k:2003/12/14(日) 16:06:02 ID:lkle5hbo [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>264
個人情報にかかる点については、私若干軽率でした。今後は十分に注意します。
268牛鍋蝸牛:2003/12/15(月) 19:34:09 ID:8edTuJH2 [ N047144.ppp.dion.ne.jp ]
で、>>265で書きました二つの碑の場所なのですが、書き間違いがありました。
重ね重ね申し訳ございません。(平身低頭、ぺこぺこ)
「平岡公園」ではなく、「平園公園」でおました。
ワシも「え?平岡公園??」とは思っていたのです。
ははは…。

ほんでもって、ワシも「東裏」へ行ってきました。
当然のごとくこの辺りは完全な市街地となっており、これといっためぼしい成果は挙げられませんでした。
で結局、ワシも真駒内川さんと同じく、「平園公園内」の碑へ…。
タイトルも付けておりませんが、ご覧ください。
おそらく、そのうち淘汰しますので今のうちにね。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=754 から。
269なまら名無し:2003/12/15(月) 20:06:54 ID:7.SXrLAs [ p5016-ipad84marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]
>>262
>現菊水あたりに居住していた人々

あそこは雁木だってば。
270元東月寒人@琴似:2003/12/15(月) 23:09:06 ID:emIl4.Yc [ snjk034k076.ppp.infoweb.ne.jp ]
琴似調べてたらここに着きました。
過去ログ9からとマイナー地名のページしか見てないので
既出なら無視してください。
驚いた記述があったので紹介します。

雁来 「札幌市内に雁来という場所があるが、
    ここの貧乏人が「金を借りて来た」というのが起こりだと
    伝説されている」
   (円山百年史 P281 「岩手県人の渡道を語る」から引用)

このほかマイナーな地名のページで気になったことを挙げます。

学田 学校の教育費に充てるための田畑
   明治中期から昭和初期にかけて存在
   麻生の学田は琴似小学校のものだったような記憶が?
   (資料が出てこないのではっきり覚えてないです)
   学田は西野(円山小学校)や篠路(篠路小学校?)などにもあります

栄通 30年ほど前は栄通の東端は大谷地と言っていた記憶があります
   いつのまにか栄通に変わってました
   ちなみに「栄鳥」という焼き鳥屋が8丁目あたりにあったはず

なお、東月寒はその昔、二里塚と言ってました。
271なまら名無し:2003/12/15(月) 23:12:30 ID:WEqnr0d2 [ 218-228-142-53.eonet.ne.jp ]
ネットで解禁されたばかりのサプリメント販売の情報です。

縁故募集準備中という段階ですので、びっくりするくらいのIDナンバーになります。

現在、資料請求の数、ハンパではありません。登録者様も日々加速度的に増えています。

ここのフォームより送信していただくとすぐに情報をお送りします。

http://www.formman.com/form.cgi?zL6RUZVNT3lvNFHW

是非是非ご覧ください。
272西創成:2003/12/16(火) 00:30:05 ID:Jmx2AcEs [ i102091.ap.plala.or.jp ]
「東裏」=故郷を偲んで名付けられた説。
そのほうが、たしかにしっくり来るような気がします。

>>262
大麻さま、はじめまして。

♪遊びにいこう!新札幌〜!
おもしろ〜いこと 愉快なこ〜と ググングン ググングン〜
という、CMソングもあったかと思いますが、私も国鉄新札幌駅のホーム(開業してたいした経ってないころ)から、サンピアザと空き地、グングンのびる団地群を見た記憶があります。

「セキボウ」…捜しておきます。

>>270 元東月寒人@琴似さま。はじめまして。

「雁来」については、ここのスレでは、(どこだったろ、スミマセン)初期の方で取り扱っています。一応、この地名の起こりは、さっぽろ文庫1にある、『枯木があったからともいわれているが詳しくは不明で、もとアイヌ語で「ユクミンタラ」と称し「シカの遊び場(庭)」のことである。毎年秋、シカが繁殖期に集まったので、この名がついたという。』のほうが、真っ当のような気がします。
ご提示のお話は、笑い話の類で広まったと思われます。

なが〜いスレですが、札幌温泉からサムライ部落まで、一年以上かけて各地のことが語られ、現地調査や資料提示がされていますので、ご一読をおすすめします。

>>271
お忙しいようですが、変わった地名話ありましたら、書き込みください。
273なまら名無し:2003/12/16(火) 00:46:04 ID:te1RIWDM [ ntceast043249.east.dup.ppp.infoweb.ne.jp ]
>「東裏」=故郷を偲んで名付けられた説。
それほどおセンチなものではなく、もっとオートマチックな命名なのかも。
「線路の北だから鉄北」みたいな。
274牛鍋蝸牛:2003/12/16(火) 04:46:37 ID:7FeWLYRs [ N047144.ppp.dion.ne.jp ]
あ〜、失敗した…。
>>268でアップしました「東裏」(平園公園の碑)の画像ですが、肝心な写真数枚がアップできておりませんで、まとめて見てもなんだかわけの分からないものになってしまいました。
酒飲んでダルダルでやったワシも悪いのですが、なんだか昨日はうまく上がらなかったのは確か…。
真駒内川さんもピンボケ写真だったということだし、なかなか一筋縄ではいかない「東裏」か…。
(な〜にがじゃ)
ちなみに>>266 「半押し維持できない日がある」は、カメラの調子ではなく、ヒューマンファクターのことを言っています。

>>270 元東月寒人@琴似さん。
おはようございます。そして初めまして。
>「雁来町」は本スレの原点ですね。
>すべてはここから始まったのです。
>スレの方向性は「雁来町研究」で決定付けられました。

これ、「その十」>>233でのワシのカキコなのですが、「雁来町研究」は面白かったですよ。
是非是非、「その壱」からご覧ください。
絶対に損はさせません(w
「雁来」の名の由来につきましては、>>272西創成さんからのレスにもありますが、いまいちはっきりしません。
「枯れ木が多かった」説もあるし、「"対雁"から移住した」説もあるし。
「借金説」は初耳ですけど、これはその通り"伝説"じゃないでしょうか(w

>>272
「東裏」=故郷を偲んで名付けられた説。
あれ〜?
これはちょっと飛躍しすぎ。
あくまで、「平岸街道の東の裏ということで名付けられた説」ということにしておいてください。
もちろん、そこには入植した「水沢」出身の人たちの、望郷の念がこめられているのではないか?という推察は入り込む余地はあると思いますが。
そういうことで一つ…。
でないと、いろいろ矛盾が出てきますので。
275牛鍋蝸牛:2003/12/16(火) 05:14:48 ID:7FeWLYRs [ N047144.ppp.dion.ne.jp ]
Open Janeをsegeにセットしたままだったので、そのつもりがないのにsage続けているワシです。
ageましょう。もともと自己顕示欲強いんですから…。

♪遊びにいこう!新札幌〜! というCM、ワシ知らないのです。
おそらくはワシが東京暮らしをしていた時期のCMなのではないでしょうか?
1982年から91年くらいまで。
こちらへ帰ってきてから、特に厚別方面の様相が変っていて、ただでさえ土地勘のない地域なのに、なおさら苦手になったという記憶があります。
ま、その他の地域も新しく道路ができていたりして、かなり難儀しましたけど。
10年近く離れると、ワシのようなお利口さんでも地理自体、かなり忘れてしまうものです。
(ここでちゃんと、ツッコミを入れてますか?)

追伸。
ワシの国産フェラーリは走りに徹しているので、未だカーナビもありません。
276牛鍋蝸牛:2003/12/16(火) 11:27:44 ID:7FeWLYRs [ N047144.ppp.dion.ne.jp ]
昨日の「東裏」の調査のレポです。
「故重延卯平翁之碑」は「馬頭観世音碑」と「沼田砲兵軍曹忠霊碑」と並んで奉られておりました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=764 
場所は平岸5条7丁目の「平園公園内」(美園小学校の隣の公園)です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=767 
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=763 
ちなみに「美園小学校」は、昭和三十年に創設。
「さっぽろ文庫46 札幌の小学校」によりますと、
「創立当時水田とリンゴ園の中に木造校舎が建ち月寒・平岸小学校から児童を移籍し開校。児童の急増で豊園・東山・みどりの三校に分割」とあります。
同地区の急激な人口増加が偲ばれますな。

真駒内川さんも撮影されておりますが、ここには「とよひらふるさと再発見」というステンレスの説明文があります。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=754 
「東裏の馬頭観世音碑 大正4年建立。平岸の水田農家が家族の一員である馬の無病息災を祈願するとともに、死亡した馬の霊を慰めるため建てた」
「故重延卯平翁の碑 昭和11年、開拓の先駆者であり東裏部落発展の基礎を築いた、故重延卯平翁をしのんで村人が建立した碑。東裏に初めて水田を開き米を収穫した重延久太郎、卯平親子の並々ならぬ努力をたたえたものである」
しかし、なぜかこの二つの碑のものだけで、「沼田砲兵軍曹忠霊碑」の案内板はありません。
確かに右側の同碑は字もかすれ、ほとんど何の碑か判別ができない状態でありますが、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=765 
それ故になおさら必要なのではないでしょうか?
う〜ん、何故なのかな?
調べればすぐ分かることなのに。

同碑の裏側には「さっぽろの碑」に書かれているように、太平洋戦争戦没者の方のお名前が彫られておりました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=766 
当初あった「平岸6条6丁目」から移転した際に合祀されたものとのことですが、碑文を見ますと、昭和53年11月20日と読み取れます。
戦後かなりの時を経てから奉られたのですね。
で、「平岸6条6丁目」って今ないですよね?
「平岸6条」は「9丁目」からしかないのです…。 ???
277とろんとろん:2003/12/16(火) 13:48:44 ID:FLxSTL1s [ SODfa-02p2-41.ppp11.odn.ad.jp ]
>>262
大麻さん初めまして。
実は私大麻には10数年住んでいたことがあったので
厚別から大麻あたりのことはそこそこ応えられるかも。
(ただ中高時代はちと有名なところがあったのでその
辺はちと、ね)

大麻ってたしか「大曲」と「麻畑」の合成地名だったとか。
多分北広島の「大曲」と共通の起源がありそうなんだけど。
278k:2003/12/16(火) 16:39:06 ID:FZHnolJA [ customer71-242.mni.ne.jp ]
>>276 牛鍋蝸牛様
いろいろと詳細なご報告ありがとうございます。いつもいつもたいへんお世話になって
おり、まことに恐縮です。
ご報告にありました「美園小学校」の所在地は平岸5条7丁目、つまり今は平岸地区に
入っています。しかし、設置された当時は、現地は美園だと認識されていたわけで、こ
の辺りが札幌市に編入された後でこのようになったものと思われます。
このように、「美園」と「平岸」の境界がどのようにして現行のように決まったのかは
かなり興味のもたれるところなのです。
279真駒内川:2003/12/16(火) 17:54:01 ID:ROJZ5giY [ p29b3f8.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
「平岸百二十年」という本の中で東裏についての記述があります。
ご参考にどうぞ。
280牛鍋蝸牛:2003/12/16(火) 19:54:55 ID:7FeWLYRs [ N047144.ppp.dion.ne.jp ]
>>278
K様。いつもいつも御丁寧に、かえって恐縮いたします。
ま、もしなんならば、「らーめん あび」気付でお歳暮なんぞ贈っていただければ(w

>>279
あれれ、なんか冷たいんじゃない?
真駒内川さんが心を入れ替えて「平岸百二十年」を紹介してくれるまで、こちらは手元の資料でっと…。
「さっぽろ文庫40 札幌収穫物語」−「豊平区」から「東裏」関連をちょいと拝借。
斉藤忠一さんのカキコから要約させていただきます。

「各村落の形成 (略)月寒村は岩手県盛岡、平岸村は同じ岩手県水沢で、それぞれ開拓使の募集に応じた人たちが、入植の中心になった。戊辰戦争に敗れ、領地を奪われた南部藩と仙台伊達氏の一族留守家(水沢)の旧家臣を含む農民団である。(略)開墾のはじめ、人々は麦をまき、豆を植え。ソバやアワをつくった。平岸では、故郷で手がけていた麻も栽培した」
(今日はきっと無理だけど、おそらくはつづくだろう…)

業務連絡!業務連絡!
そういえば、とろんとろんさんからのご紹介のありました「あつべつ区再考」ですが、在庫があると思われる古書店に昨日行くつもりでしたが、発見できませんで帰ってきました。
ビルの中なのかなぁ?
281大麻:2003/12/16(火) 21:15:32 ID:.3xRQBWA [ 61-27-6-94.home.ne.jp ]
>>266 牛鍋さん
今後ともよろしくおねがいします。
ご期待に沿えるよう(笑)努力しま〜す。
・・・特に団地街は独自のコミュニティを築いているので興味深いですよ。
ソースが人づてなのとデリケートな問題なので初カキコの時あえて
言わなかったのですが豊平川より東(菊水あたりまで)に住む
あまり所得の多くない方々…遊郭→赤線…このあたりのニュアンスの
仕事に従事していた人たちや炭鉱離職者などなどの住宅を確保するため
あそこを巨大団地エリアにし、移住させた云々。
アイヌ語でもなく人名でもなく土地の特徴でもない、青葉・ひばり
もみじなどの脈略のない四季の名前がまさに新札幌…。

>>270 元東月寒人@琴似さん
はじめまして。
そうそう、大谷地ってもっと昔は広かったような…。
余談ですが栄通のバス停で大谷地団地前というのが
あったのですがいつの間にか北野団地前になっている!
大谷地団地(集落)消滅…。地下鉄の駅名等のシンボルと
してだけの地名になりつつあり悲しいです。
そして、二里塚・三里塚…。このような括りも、ああ消滅の一途。

>>272 西創成さん
♪遊びにいこ〜し〜んさっぽろぉ〜♪CM、懐かしいですね。
昔はまさに「新」さっぽろでしたが、今は老朽化した団地と
建て替えられた市営住宅のコントラストがなんともいい塩梅。
町全体が“懐古!昭和40-50年代″ってな感じでgoodです。

>>277 とろんとろん様
それ、きいたことあります。大曲+麻畑。
大麻…。公団・道営・市営・道職団地がボコボコ建設され
S40-50あたりは札幌のBedTownとして栄えておりましたが今や悲しい限り。
この先この現状も歴史として語り継がれるのでしょうね。

さて、大谷地に昔、国鉄が通っていたというのを思い出したのですが…。
確かサイクリングロードのあたり????
小学生の自由研究で調べたような…。
また、現在の274号線のJRバス厚別営業所付近は湿地帯で近くに
弾薬庫跡があったと父にきいたような????

・・・復習します。
282真駒内川:2003/12/16(火) 23:10:09 ID:ROJZ5giY [ p29b3f8.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
厚別山本について、若干の補足。
昭和7年、新町制施行により「本田」成立
昭和9年、「山本」に改称。

>>280
ちょっと時間がなくてねぇ。すんません。
文献の所在は澄川図書館です。よろしく!
283元東月寒人@琴似:2003/12/16(火) 23:25:10 ID:BsS3Qs2I [ snjk006k038.ppp.infoweb.ne.jp ]
東裏については「さなぶり」(東裏親交会/編)というのも中央図書館にあります。
(貸出禁止になっていますが。図書館検索システムで調べました。)

>>281
>さて、大谷地に昔、国鉄が通っていた
栄通19にあるサイクルパークが元の大谷地駅で、ホームの跡がまだ残っているはずです。
なお、つきさっぷ駅は栄通6丁目あたりのサイクリング広場みたいなところだったと思います。
284元東月寒人@琴似:2003/12/17(水) 20:58:56 ID:HWSKkvp6 [ nc104069.ras.plala.or.jp ]
>>283でつきさっぷ駅は栄通6としましたが、もう少し西のビール工場裏にホーム跡が残っていたような気がします。
今は自転車道が交差点付近でアンダーパスになったのでもう無いと思いますが。

上野幌駅は厚別南6のあたり、青葉中、上野幌小の近くです。
10年以上前に、その先を現千歳線まで自転車で行ったことがありますが、一部法面が崩れているほかは案外楽に行けました。

同じ時期に東札幌から定山渓まで旧定鉄沿いを走りましたが、藤野の先は冒険でした。
簾舞までは一部を除き何とか行けるのですが、その先豊滝までは断念。
豊滝から小金湯までも冒険気味に何とか行けましたが、その先もあきらめて国道に戻りました。

旧230号線を中山峠から自転車で下りた事もありますが、無謀でした。
途中から獣道のようになり、薄別あたりは橋が無く川渡りをする事になりました。

地図上ではわからない事が、実際に行ってみると体験できます。
28518丁目:2003/12/17(水) 21:35:56 ID:rv1EFkjU [ p3099-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
元東月寒人@琴似様
私も自転車による探索大好きです。
菊水上町の小沼川跡などは、すぐそばの12号線や豊平川右岸通や米里通を何百回
自動車で通っても気づかないでしょう。

>旧230号線を中山峠から自転車で下りた事もありますが、無謀でした。
>途中から獣道のようになり、薄別あたりは橋が無く川渡りをする事になりました。
つ、強者ですね・・・
286元東月寒人@琴似:2003/12/17(水) 23:49:01 ID:9F5IXmTQ [ snjk018k012.ppp.infoweb.ne.jp ]
円山の重兵衛沼ですが、酒田県からの移住者の一人、金谷重兵衛(明治四年の地図では26番金谷重蔵)がちょうどそのあたりに移住してます。
(円山百年史と札幌歴史地図明治編)
287ふじ林禽:2003/12/18(木) 00:14:18 ID:WUOrXAnc [ U029225.ppp.dion.ne.jp ]
旧千歳線は処分、処分。
288めっちゃ名無し:2003/12/18(木) 02:20:56 ID:UHYsqbhU [ YahooBB219042180039.bbtec.net ]
旧千歳線跡を走る東西線が見たかった・・・
289牛鍋蝸牛:2003/12/18(木) 07:40:27 ID:Jw0onRzU [ N046100.ppp.dion.ne.jp ]
>>286
おっ、これは!
いや〜、やはりたくさんの方に参加していただくことが大事ですねぇ。
「重兵衛沼」の名の由来はちょっと諦め気味だったので、感動。
290なまら名無し:2003/12/18(木) 17:07:42 ID:hOgqHA/M [ O034229.ppp.dion.ne.jp ]
次スレ

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十弐】
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/travel/41/1071723795/
これからは300以上書けるのでスレたての無駄な労力は不要!!
291なまら名無し:2003/12/18(木) 19:17:37 ID:1QrEMJ2A [ p6054-ipad12sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
290って何かのワナですか?
292牛鍋蝸牛:2003/12/18(木) 20:25:20 ID:Jw0onRzU [ N046100.ppp.dion.ne.jp ]
>>290
の次スレは何者かがワシの名を語って、ANNEXへスレッドを立てたものです。
ちょっと早いのですが、本物の牛鍋蝸牛が次スレを立てました。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十弐】
http://hokkaido.machibbs.com/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1071746350 

こちらを使い切ってから、次スレへ粛々と移行してください。
293伏古 ◆Dg0ESYv6y2:2003/12/18(木) 20:28:03 ID:jI0VdEF. [ n135143.ap.plala.or.jp ]
次スレの2は私です。なぜかHNが表示されませんが。
294伏古 ◆Dg0ESYv6y2:2003/12/18(木) 20:29:10 ID:jI0VdEF. [ n135143.ap.plala.or.jp ]
まだHNが表示されません。ちなみにホットゾヌです。
295新川番地:2003/12/18(木) 20:48:14 ID:gLGW5Y6. [ YahooBB219041108214.bbtec.net ]
291です

何か変だと思ったんですよね
牛氏も名をかたられるようになったんですね
いいんだか悪いんだか・・・
296なまら名無し:2003/12/18(木) 21:40:12 ID:lCUUaIS. [ ZB105015.ppp.dion.ne.jp ]
スレも立たないマイナーな地名in北海道その1
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/geo/1071645239/
297新川番地:2003/12/18(木) 21:57:44 ID:gLGW5Y6. [ YahooBB219041108214.bbtec.net ]
こいつやる気あるなぁ
298牛鍋蝸牛:2003/12/18(木) 22:06:21 ID:Jw0onRzU [ N046100.ppp.dion.ne.jp ]
この人、今まで何度も本スレにコテハン変えて登場していますよ。
コテハンカタリでスレを立てるというのはかなり問題でしょうから、何らかの手を打ってもらうよう要請しましょうか?
299真駒内川:2003/12/18(木) 22:49:06 ID:itSEgUt2 [ p29b3f8.spprac00.ap.so-net.ne.jp ]
>>298
このスレの秩序維持にはそれも必要でしょう。
300御膳水:2003/12/18(木) 23:06:47 ID:q/GLlvLo [ EATcf-598p252.ppp15.odn.ne.jp ]
300げとー