【そんな所】スレも立たないマイナーな地名in札幌 6番地【あったっけ?】

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1スレタイ職人
前スレ
http://hokkaido.machibbs.com/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1037627744
を立てた牛鍋蝸牛氏の文からです。


【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その五】
1 名前: 牛鍋蝸牛 投稿日: 2002/11/18(月) 22:55 ID:gZE6blJo [ N043210.ppp.dion.ne.jp ]

地名を聞いてもいまいちピンとこない札幌市の地名をあげましょう。
知名度ゼロ、名所ゼロの土地へ実地調査へ行き、見所を見つける良スレです。

過去ログはこちらから…。

http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/

      Special thanks!! Mr.161


それではPart6も熱くならずにマターリといきまっしょい!
2なまら名無し:2003/01/07(火) 02:08 ID:nmUEPxz. [ N046136.ppp.dion.ne.jp ]
すげー
過去ログを保存したページ作ったんだー
おつかれ
3菊水上町:2003/01/07(火) 06:55 ID:2kDta91o [ h122.p184.iij4u.or.jp ]
>>1さんスレ立て乙です。
少しでも話題に上れば、即座に鬼の掘り下げを食らう地名たちですが
6本目の当スレッドで新たな地名/名所デビューはあるんだべかな。

>サイロ
すごい写真ですよね。「ここどこよ!」って感じで…
平和大橋によって町が変わっていくのは少しさみしいですね。
春になったらあらためて散策してみようかな。

小沼川の遊歩道ですが、小学生の頃に何回かチャリで
走った程度で、ほとんど利用しませんでした。地元の人間でも
こんな感じなので、そのマイナーっぷりは筋金入りだと思われます。
ここも新橋の影響であの寂れた感じがなくなっちゃうのかなぁ…

水車町や旧千歳線もそうですが、遊歩道って不思議な魅力が
あるように思います。(どちらもまだ足は運んでいませんが…)
4牛鍋蝸牛:2003/01/07(火) 17:29 ID:JD/alSSA [ B136032.ppp.dion.ne.jp ]
では、新スレに書き込み。
前スレhttp://hokkaido.machibbs.com/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1037627744 >>298
18丁目さんが引用されたのは、
ttp://www5.hokkaido-np.co.jp/bunka/20century/backnumber/990127.html と思われますが、
ここで「事前申し込みによる当時の加入者名簿による」「一番」と言われている「菅原藤之助」氏の店は、「南二西三」にあったようです。
屋号は「山吉」。
明治三十二年の「札幌案内」で、「陶器店」の項目に出てきますが、「鉄砲火薬商」の項目にあるのは「○丸 高田良八」1店のみで、同店の名前はありません。
ただ、両店は住所が同じ「南二西三」なので、何らかのつながりがあったか、その後一緒になったという可能性もあるかもしれないですね。
コニカとミノルタも経営統合することだし。
関係無いか…。 
話は横道にそれましたが、電話番号「一番」にこだわって話しをしますと、18丁目さんも気にしておられる「事前申し込みによる加入者名簿」ってのがひっかかりますね。
あくまで「事前の申し込みリスト」であって、実際の加入者とは(あるいは番号とは)違うのではないかとも思える。
そして、やはり、前スレ>>288でワシが挙げた、「丸井今井物語」からの引用、「その時の一番は札幌一の大旅館山形屋、二番が料亭いく代、三番が現在の伊藤組、四番が安達要吉、五、六番が、現在の五番舘の…」って文章も、「その時」が「どの時」なのか分からない(w
想像をたくましくすれば、「菅原籐之助」さんが電話加入を辞退したってことも考えられるし、「一番」こだわらなかった人だったのかもしれない。
また、「一番」を「山形屋」に譲ったのかもしれない。
と、まぁ、考えはじめると、「小桁数電話番号フェチ」の菊水上町さん、西創成さんは夜も寝られない…。
あぁ、また「いく代・偕楽亭・清華亭」に戻れなかった。
5西創成:2003/01/08(水) 01:39 ID:08Q.fDkg [ m071208.ap.plala.or.jp ]
>>4  あたくしなどは思い余って、南9条東屯田通の金物屋の玄関にある、いまの住居表示の札みたいな、ホウロウの(電電マーク)つき・oooo番と書いた札にキッスしてしまいそうです。←ウソ。

前のスレで、五番舘(館ではないです。すみません。)の自動車部のフォード自動車の販売について、大正10年と私はしましたが、たしかに大正12年という話もあるようです。

五番舘の名称由来について、
電話番号説が有力ですが、小樽から五番目の駅逓にあたるところだからとゆう説もあるそうです。(さっぽろ大路小路・昭47、札幌市南3西1、読売新聞北海道支社編)
6なまら名無し:2003/01/08(水) 23:20 ID:pvXZZ0Gk [ i112215.ap.plala.or.jp ]
http://map.yahoo.co.jp/pl?la=1&sc=4&nl=43.4.56.425&el=141.17.48.667&CE.x=218&CE.y=296

地図を見ていて、以前から気になっていたのですが、琴似と発寒では道路の向きが異なるのは
なぜなんでしょうか?

琴似の区画は川と平行になっているようですが、発寒は実際の東西南北の方角に合わせてあるようです。
このような区画整理のコンセプトの相違は100年以上の昔から続いていることだそうです。
どちらかに統一していれば、現在のような分かりにくさは無かったと思います。
歴史的に言えば琴似村と発寒村は仲が悪かったのでしょうか?
7なまら名無し:2003/01/08(水) 23:36 ID:tMFYii12 [ x086040.ppp.dion.ne.jp ]
琴似と発寒というか
発寒の一部だけが周囲と異にしている
818丁目:2003/01/09(木) 11:23 ID:gSHvBynI [ SODfi-01p6-138.ppp11.odn.ad.jp ]
発寒の区画とても気になりますね〜
まずこの地区は屯田兵入植でしょうか?はたまたそれ以前の入植地でしょうか?
発寒地区は両方あると思いました。
いずれにせよ最初に区画整理したものが
@琴似発寒川の自然地形にあわせて区画整理した。
A開拓使がある本府(現在の南1西1)周辺の区画を意識した。
B東西南北の方角にきっちり合わせた。
こんな感じでしょうか?
918丁目:2003/01/09(木) 11:41 ID:gSHvBynI [ SODfi-01p6-138.ppp11.odn.ad.jp ]
と、ちょっとだけ調べてみましたが。
江戸幕府の在住制度(明治政府の屯田制度のはしり)によって入植した場所は、
中の川と旧5号線の交わるあたりだそうで、6,7でかかれている地区とは違いますね。
この地区は明治の屯田入植地区でしょう。
>>6
>歴史的に言えば琴似村と発寒村は仲が悪かったのでしょうか?
どうなんですかね、この辺り詳しい方いますか?
10牛鍋蝸牛:2003/01/09(木) 22:28 ID:aaexiMlU [ N022215.ppp.dion.ne.jp ]
「発寒」の区画の件。
今日はもう寝なければないので資料は明日にでも示しますが、函館本線より南の部分は「発寒屯田兵村」です。
明らかに南北を意識して区画されたと思われます。
「琴似発寒川」と「天狗橋」から南下する道路(名称不詳)に挟まれた地区の区画は、ずっと後になってから出来たものです。
昭和25年当時は、まだ区画が出来ていないようですね。
「新川」にまで引かれた排水溝(ま、新川自体も元は排水溝なんですが)に並行に作られたのが、ワシも良く使うこの道路。
(確かにこの辺りを車で走っていると、変な交わり方に、「?」と思わせられます)
この道路と、琴似発寒川とに挟まれた狭い土地を有効に使うには、「兵村」と同じく、南北の区画割が合理的かと思えます。
その周りの区画に関しては、函館本線と新川に対して、道路が並行して開削されたからだと思うのですが、いかがでしょう?
11m:2003/01/09(木) 22:42 ID:duSRY1cc [ p1082-ipad01sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
久しぶりです。

昔、社会科の先生が言ってましたが、琴似と発寒に入植した屯田兵は
お互いに非常に仲が悪かったと。それで道路もずらして作ったと聞きました。

南3条辺りから南北に伸びる道が少し西方向にずれてるのも、そんな理由だと
聞きました。
地区によって屯田兵同士の衝突があったようですね。それが道に現れてるようです。
1218丁目:2003/01/09(木) 23:48 ID:vALral1o [ SODfi-02p6-181.ppp11.odn.ad.jp ]
いやmさん久しぶりです!
やっぱり仲悪かったんだ琴似と発寒。
屯田兵制度というもの自体、なんか悲しい物語性を秘めていると思っておりました。
地区によって屯田兵同士の衝突があったとな?
衝突についてはもちろんあったでしょう、西南戦争の屯田兵出征時には上官殺しもあったようですし。
ただ区画の成り立ちについては、純粋に仲が悪いから変えたというのもいまいち納得しづらいものが
ありますね。
週末は図書館いってみるか。
13牛鍋蝸牛:2003/01/10(金) 09:49 ID:/apYb3Wk [ N022114.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=476
明治29年頃の各屯田兵村です。
お互いの位置関係と、区画割の違いが分かると思います。
参考資料にしてください。
コメントは後ほど…。
14牛鍋蝸牛:2003/01/10(金) 21:54 ID:7xycq1PQ [ K103011.ppp.dion.ne.jp ]
えっと、「発寒」の区画の件ですが、これはね、かな〜り大きな「素材」であると、ワシは思うとります。
「琴似」と「発寒」の屯田兵村間の仲が悪かったかどうかは今の所分かりませんが、少なくともそれを言い出しますと、単に「琴似−発寒間」の話に留まらず、札幌の各区域の「区割り」を検証せねばなるまい、と、こうなってまいりますな。
こりゃ大事じゃわいなぁ。
残念ながら、「琴似」「発寒」の兵村の区画割りに関しての記述は発見できなかったのですが、「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」に、篠路屯田(現・北区屯田)と、新琴似屯田についての記述がありましたのでご覧下さい。
「屯田町 兵村の区画割りは石狩街道と直角に約600m間隔に開かれた四本の道路で南から順に一番通り、二番通りと名づけられた。兵屋はこの両側に配置され、中心は中退本部の置かれた三番通りであった」
「新琴似 開村当初の区域は茨戸街道から直角に西北に伸びた六本の道路が根幹で、この両側に220戸の兵屋が位置され…」
つまり、この二地区については区画割りはわりと単純に、事務的に、つまりは幾何学的に行われたと考えられます。
さて、同書では「琴似兵村」に関して、次のような記述があります。
「(略)開拓使はこの年(明治七年)の十二月までに207戸の兵屋を建設し、翌年までに全兵屋に移住を完了させている」
ということは、琴似屯田村の区画割りは「開拓使」の手で行われたわけです。
一度に何百という単位で入植する屯田兵たちの為に、家を用意するということは当たり前でしょう。
いきなり野宿、というわけには参りませんからね。
確か、この前新琴似の中隊本部を実地調査に行った時見た資料にも、諸国から入植した屯田はあらかじめ用意された兵屋に入居した、と説明があったはず。
つまりは区画割りも屯田兵ではなく、開拓使が行ったわけです。
よしんば、屯田兵同士の仲が悪くても、だからあえて区画の方向を違えるとは考えにくい。
しかも、「琴似」と「発寒」の屯田兵の入植は一年しか違わないわけですから、仲が悪くなったとしても、それは後年のことではないのでしょうか?
ワシとしては、方角、地形、道路、年代の差による影響のほうが大きいのではないかと思っていたりするわけなのですけど、どないや?
15牛鍋蝸牛:2003/01/10(金) 22:25 ID:7xycq1PQ [ K103011.ppp.dion.ne.jp ]
そうそう!
報告しようと思っていて、していなかったことがあります。
一昨日、例の「サッポロファクトリー」で開催中の「タイムスリップ・さっぽろ思い出旅行」に行って来ました。
なかなかの盛況でして、平日の昼時とは思えないほどの人手。
来場者の年代としては、年配の方(とくにご夫婦)が多く見受けられましたが、内容や展示方法は小学生でも理解できるようにセッティングされていましたので、お父さん母さんは冬休みのイベントとして、是非、お子さんたちを連れて行かれたらいかがかなと…。
ま、そんなわけで会場は熱気でムンムン…。
いや、まじで、スポットライトがたくさんあったりするので、ファクトリー内の他の場所よりかなり暑かったのです。
ワシは汗っかきの上、長身ですので、頭や背中にまともにライトの熱が当たってのう。
さて、そんななかで、ワシは「写真ライブラリー」のO氏とお話をさせていただき、例の「札幌温泉裏焼き事件」に関して、新事実を仕入れて参りました。
なんておりこうさんなワシ…。
報告は後ほどね。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=477
あ、ちなみに、このパンフの写真のキャプション、間違っています。
「1958年の札幌市中央区南2条西14丁目」は、正しくは「南2条西24丁目」です。
16牛鍋蝸牛:2003/01/10(金) 22:27 ID:7xycq1PQ [ K103011.ppp.dion.ne.jp ]

皆さんお気づきでしょうが、「人手」は、「人出」の間違いね。
酔っ払っていて、心神耗弱のため…。
17牛鍋蝸牛:2003/01/11(土) 22:19 ID:oi/TXVAU [ U126025.ppp.dion.ne.jp ]
話が前後して申し訳ありませんが、>>9の18丁目さんの、「在住制度」での入植の地の件。
在住制度により、安政四年に入植した場所は複数あるようで、「現・発寒神社」周辺もその一つであったようです。
http://www.city.sapporo.jp/teine/chiku/sinhasamu.html 
「発寒神社」と言いますと、まさに今回のテーマの中心地なのですよ。
ということで、ここは屯田兵の入植より前に、在住制度の開墾が行われていたらしいですねぇ。
(「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」の「発寒」、「北緯34度 札幌というまち…」の「「発寒八軒・山の手」より」
で、ついでに言いますと、>>10で既出の、「琴似発寒川と天狗橋から南下する道路(名称不詳)」はどうやら「稲荷街道」ということらしいと判明しました。
「札幌というまち…」など、複数の文献に、「発寒屯田」は「琴似屯田」の"子村"であるとの記述をワシは見出しておりますので、「不仲による区画方向相違説」はちょっとどうかなと…。
話としては面白いんだけどね。
この件の研究の糸口としては、「函館本線」や「新川」の、成り立ち、時系的な関係を調べるのも興味深いのではないでしょうか?
それと、>>15の続きは後ほど書きます。
18:2003/01/11(土) 23:31 ID:O4KGJBZ6 [ p4213-ipad13sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
屯田兵の不仲はちょっと信憑性に欠けますかね?(笑)

今、ふと思ったんだけど当時は今のように琴似と発寒、
それと中央と山鼻なんかはぽつぽつと部落が離れてて
それぞれが自由気ままに開拓して、それが街の発展と
同時につながった。が、道はずれてしまった。

ってこんなところじゃないでしょうかね?
発寒が琴似から分村した理由も何なんでしょうね?
もしかしたら内紛??(笑)
19琴似:2003/01/12(日) 02:09 ID:QD1vxvyI [ JJ032239.ppp.dion.ne.jp ]
前スレから見たが、ここの人達は「さっぽろ文庫」や「北緯34度 札幌というまち…」を
よく引き合いに出している。なんであんな子供だましの本ばかり使っているんですか。
「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」なんか色々な本の寄せ集めで、参考文献は巻末に書いて
あるが、どの部分をどこから引用したのかわからないので、その情報をここにのせるのは
根拠に欠くと思うのですが。「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」を参考にするくらいなら、
その本の参考にしている書籍から情報をひいてくる方が、より正しい情報を得られると思
います。前スレでは知里真志保さんの名前も見られたが、山田秀三さんの文献はみられな
かった。最低でも北海道の地名について書くなら、山田さんの文献くらい引用してはいか
がかと思います。私は、山田さんの文献がすべて正しいと言っているのではありません。
ただ「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」は、こういうところに引用してくるのには、あまり
向いていないのではないかという事をいいたいので、悪意はありません。
2018丁目:2003/01/12(日) 06:10 ID:l.wLIGEQ [ SODfi-01p4-131.ppp11.odn.ad.jp ]
>>19
琴似さんが正しい地名に関する文献とやらをもっていらっしゃるのなら・・・
北29条東11丁目は何故ないのか?
雁来町はもう住んでいる人も建物もないのに何故住所として残っているのか?
カレキとカリキの違い、アサブとアザブの違いは?
豊平町細民部落とは現在のどの住所にあたるのか?
とかその他もろもろの疑問に、少しでも明快な回答を書き込んでくれても良いじゃないですか?
おえらい先生方のご書物には、はたして484ブルースのことなどついぞ見出せないでしょう。
子供だましの引用だと分からせるために、正調の地名考を披瀝してくだされ。
21牛鍋蝸牛:2003/01/12(日) 08:39 ID:1vaOCZFs [ N016214.ppp.dion.ne.jp ]
>>19
琴似さんへ。
山田秀三さんの本の引用ってことでしたら、「その四」http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/4_log.html #137でワシ書いています。
しかも、山田さんの文献を引用された方のサイトも紹介しています。

このスレはいろいろと文献を使っています。
「さっぽろ文庫」もそのひとつです。
手近な資料ですので、出てくる頻度が高いのは認めますけど、その記述がすべて正しいとは言ったことはありません。
他の文献も調べてみて矛盾や相違があれば、何が正しいのかまた調べるといった趣旨でやっております。
琴似さんはこのスレを最初からは読んではおられないようですが、前スレはお読みになったのですよね?
「札幌地名考」に関してではありませんが、同じ「さっぽろ文庫」の記述の過ちにも前スレの#278と279でも触れています。
その他の資料やサイトに関しても、ワシなんか自分の過ちは棚に置いて、指摘させていただいちゃったりもしています。
もっというなら「北緯43度 札幌というまち…」に関しても、前スレで大門通さんが#228で「間違いではないか?」と指摘されていますしね。
ということで、別にこれらの文献をここで扱うことに問題はないと思いますが、いかがでしょう?
(ま、「その壱」から読んでもらえればよ〜く分かると思うけど…)
どうも一般に誤解があるようですが、このスレでは「地名」と言っても、単に「アイヌ語」から発生した言語学的な「地名」だけを扱ってはいるわけではないのです。
>>20で18丁目さんがおっしゃっているように、歴史・風俗・産業・宗教・政治・経済など等、なんでもありの好奇心でやっているスレなんですよ。
ということで、琴似さんが「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」からの引用は気に食わない、とおっしゃるのは一つのご見識として拝聴いたします。
ま、今後、琴似さんがこのスレ読んでいて、「ここは事実と違うぞ」ということがあったら是非書き込んでいただけたら…と思っております。
あ、指摘ばっかりだと嫌われるかもしれないから、ネタも振ってちょうだいね。
ご一緒に札幌の面白い場所を探してみてもらえませんか?
でね、その前に「その壱」から一度、通して読んでみてもらえません?
せっかく過去ログのHPもあることだしね。
面白いよ!
22牛鍋蝸牛:2003/01/12(日) 08:49 ID:1vaOCZFs [ N016214.ppp.dion.ne.jp ]

「ご一緒に…」って、もしかして、日本語として変?(w
そうそう、「484のブルース」の「484」は、やはり番地だったんですぜ、18丁目さん。
これってまだ未解決だったよね?
23牛鍋蝸牛:2003/01/12(日) 11:47 ID:k2ouqEUk [ N043121.ppp.dion.ne.jp ]
>>18
mさんへ。
>自由気ままに開拓して…
そんなところではないかな?とワシも思っています。
もし、仲が悪かったとして、ワシだったら他の兵村と同じ区画にしておいて、そぉ〜っと開削して行って知らない間に繋げてしまい、そのまま乗っ取ってしまうのだけどなぁ、とも思ったりして。
しかしながらこの作戦、せっかく開拓したところを反対に乗っ取られるという危険性もはらんでいる。
一歩誤れば、旧軍のインパール作戦以上の被害が出ることを覚悟して遂行する必要があるのだ…。
さてぇ、サッポロファクトリーで開催中の「タイムスリップ!さっぽろ思い出旅行」で開催者のOさんとの話の件。
前スレ#272で「札幌温泉」温泉の写真があったと、18丁目さんが言っておられたので、探したのですがわからず、受付の"おねえさん"に訊いてみたのです。
「あら〜、お若いのにぃ〜」とまるで、前立腺異常を訴える患者に同情する看護婦さんか?と思わせるようなお言葉を発せられたおねえんさんは、Oさんをお呼びになったのです。
(ちなみに、ワシは実年齢は若くないのだが、若く見られる)

あ、すみません。
出かけるので、続きはまた後で…。
24新住人:2003/01/12(日) 12:56 ID:aTC8QWo. [ 211.15.39.222 ]
札幌に来てまもないオレにとって地名を通して歴史を知ることができてとても良スレです。ところでギモンですが、
1、北(南)○条東(西)○丁目という住所はいつ頃からできたのでしょうか?合併時もっと前?
2、琴似と新琴似は違う歴史があるのか、それとも発寒と新発寒のようなもの(分区のためにできた地名)なのか?
3、北区百合が原1〜3丁目は北○条にならなかったんだね・・・すぐとなりは北51条なのに。
前レスあったらごめんなさい
2518丁目:2003/01/12(日) 14:25 ID:74BgVjI2 [ SODfi-02p5-238.ppp11.odn.ad.jp ]
>>24
1、条丁目改正のはじめ
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/4_log.htmlのレス153,154
昭和の札幌市の衛星町村合併時に新たに条丁目改正されたのは、
16年中央区(藻岩村)、25年30年東区(札幌村)、30年北区(琴似村)です。
2、新琴似は上記琴似町の1部だが、明治20年の新琴似屯田がその発祥なので、
分区によりできた地名ではありません。昭和47年札幌市区制施行時の7区のときから
琴似は西区、新琴似は北区ですので、分区によるものではありません。
3、北区百合が原っていつ頃からの地名でしたっけ?(知っている方補完願います)
 すぐとなりの北51条は東区ですね。
26琴似:2003/01/12(日) 15:14 ID:pUC9BBKs [ JJ081035.ppp.dion.ne.jp ]
何か煽ってしまったようで申し訳ありませんでした。私が言いたかったのは、
「さっぽろ文庫 1 札幌地名考」のもとになっている原著に当たるほうが、よ
り正確な知識が得られるのでは、という事です。私は正しい地名に関する文献
とやらは持っていません。が、今まで刊行されて書籍だけで地名を調べようと
しても、無理が生じると思います。
北29条東11丁目は何故ないのか?
雁来町はもう住んでいる人も建物もないのに何故住所として残っているのか?
カレキとカリキの違い、アサブとアザブの違いは?
豊平町細民部落とは現在のどの住所にあたるのか?
とありますが、このようなものでしたら、行政文書を調べるのが一番よいのでは
ないかと思います。おそらく土木関係部課の通達等を調べれば出てくるのじゃな
いでしょうか。豊平の件については、行政としても補助等の何かしらの対策をし
ているかもしれないですから、保健や雇用促進関係の文書を調べるのが妥当では
ないでしょうか。しかし豊平の住所の特定は、このような掲示板でされてよいも
のとは、おもいません。現在住んでおられる方に迷惑が及ぶ可能性もありますし、
学術的になんらかの結論をだそうとするものでもない限り、このような住所の特
定などは、慎むべきだと思います。いわゆる堤防内という非私有地にあったいわ
ゆるサムライ部落とは、話が違ってくるのではないでしょうか。行政文書の検索
は大変ですが、市史などの参考文献から芋ずる式に探していけば、比較的容易に
見つけることができます。発寒のことも書かれておられましたが、開拓使の文書
等も残されているとおもいますので、北海道文書館で調べられてはいかがでしょ
うか。あと私は子供だましの引用と書いた覚えはありません。ただ「さっぽろ文
庫 1 札幌地名考」からどうせ引用してくるのなら、その原著にあたれば良いの
ではないかと思ったから書いただけです。もうここに目を通すこともないと思い
ますが、今回はすいませんでした。
27なまら名無し:2003/01/12(日) 15:37 ID:lqvT2TC6 [ pdf431a.t032ah00.ap.so-net.ne.jp ]
とりあえず雁来に行って見たら?
2818丁目:2003/01/12(日) 17:07 ID:WO7Nffpo [ SODfi-02p1-231.ppp11.odn.ad.jp ]
>>26
要するにお前ら調べが甘いぞ!と言うことですね(w
何かこのスレも長く続いて、より高いレベルの研究を求められるに至ったようですね。
初期の頃、皆で雁来町の確認に行ったことが、今となっては懐かしい思い出ですね。
29牛鍋蝸牛:2003/01/12(日) 20:50 ID:GWZLu54M [ N023200.ppp.dion.ne.jp ]
さて!
>>24
新住人さんの質問と疑問に関してですが、過去ログを調べているうちに18丁目さんに先を越された!!
ま、一応調べたことを書きますので、>>25の18丁目さんのレスが無かったことで、読んでちょうだい(w
ちょっと齟齬があるかもよ〜。

1の質問の答えは、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=289 にありますよ。
関連レスとしては、「その4」 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/4_log.html #153 #154をご覧下さい。
2の質問、「琴似」と「新琴似」の関係ですが、これは全く別物ですね。
屯田兵の入植時期が全く違います。
「新琴似」のイメージとしては割と最近、出来たような印象ですが、ここはふる〜い歴史があります。
「琴似」に関してこのスレでは特別触れたことは無いはずですが、「新琴似」に関しては、
「その四」http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/4_log.html の#31辺りから読んでみてください。
できれば、このスレの"命"である実地調査を兼ねて、「新琴似神社内」にある「新琴似屯田中隊本部」を見学していただければとも思います。
さて、問題は3だよねぇ。
これは…?(w

ってな具合。
今日は、まだ続く…。
30なまら名無し:2003/01/12(日) 20:51 ID:Uc1Fmnfg [ i108065.ap.plala.or.jp ]
このスレすげぇ…
31牛鍋蝸牛:2003/01/12(日) 20:52 ID:GWZLu54M [ N023200.ppp.dion.ne.jp ]

あ、間違った。
>18丁目さんのレスが無かったことで、読んでちょうだい(w
正しくは、「18丁目さんのレスが無かったことにして」です。
32牛鍋蝸牛:2003/01/12(日) 21:37 ID:GWZLu54M [ N023200.ppp.dion.ne.jp ]
>>26
琴似さん、そうおっしゃらずに、是非今後も参加していただきたい。
原典主義は大事だとワシも思っています。
ま、できるなら、なるべく、鋭意努力して、そうするように、していきたいと、思っている…ってことでひとつ…(w
(天の声) しかし何やねぇ、文章には癖ってもんがどうしても出るもんやねぇ…。

話があちこちに飛んですみません。
>>23の続きです。
「札幌写真ライブラリー」のOさんは、収蔵してある「札幌温泉」の写真をディスプレイ上で検索してくださいました。
そこには例の中央区のサイト、「歴史の散歩道」の札幌温泉 ttp://www.city.sapporo.jp/chuo/profile/history/200201.html 
の「裏焼き画像」の元の写真が!
で、「札幌温泉裏焼き画像事件」のことをOさんにお話しました。
(この件の顛末については、「その参」http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/3_log.html 読んでね!)
しかるに、写真の専門家であるOさんの口から、「その参」の時点でわからなかった、「なぜ、当時裏焼きが多かったのか」という疑問に明快な答えが出されました。
曰く、当時、カメラマンは写真撮影をする際、カメラに写真乾板(ガラス版)をそのつど一枚、一枚入れて撮影をしたわけですが、本来、感光面である薬剤を塗った側を、レンズ側(つまりは被写体側)に向けて入れなければいけないものを、誤って反対にカメラに入れて撮影をすることがままあったそうです。
プリントする人間が撮影をした人と同じなら問題はなく、それを裏にしてプリントすればいいわけですが、別人だとそんなことは分かりません。
感光面が被写体側にセットされたものとしてプリントしてしまうことになります。
これが所謂「裏焼きプリント」なのです。
つまり、あの「札幌温泉」の写真は、撮影者とは別の人間が焼き付けたものであることが判明したのであります。

…ああ、まだ書きたいことがたくさんあるのに、もう夜はおそいのねぇ〜。
33牛鍋蝸牛:2003/01/12(日) 21:50 ID:GWZLu54M [ N023200.ppp.dion.ne.jp ]
>>22のソース、明かしておきます。
忘れそうなので…。
「開道百年 北海道宗教教誨小史」(昭和43年 財団法人全国教誨師連盟 歩ッ稼動教誨師連盟)P35 「三、監獄の変遷」。
「札幌刑務所(札幌市東苗穂四八四)=大通・小樽・岩見沢・室蘭・滝川などに拘置支所がある=」と記述があります。
ええと、これは例の「現・南区石山」の旧地名、「土場」の拘置支所の関連を調べて出てきた事実であるぞよ。
34なまら名無し:2003/01/12(日) 22:04 ID:S9iYJkUY [ EATcf-338p35.ppp15.odn.ne.jp ]
この住人で、中央区南9条西19丁目に逝ったことある人〜?
35牛鍋蝸牛:2003/01/12(日) 22:34 ID:GWZLu54M [ N023200.ppp.dion.ne.jp ]
忙しい!
>>24の3の質問。
調べました!
「百合が原」はもともと、「北区篠路町太平」だったんですよ。
どうやら、昭和54年から天皇陛下御在位五十周年事業である記念広場「世界の百合広場」を中心に、62年までにかけて造成された「百合が原公園」からとって住所表示が変更されたらしいです。
住所表示がいつから「百合が原」となったかは、まだ調べがついていませんが、うちの地図の平成4年版ではまだ、「篠路町太平」となっています。
どなたか調べて欲しい。
だって、忙しいんだもん。
ちなみに、JR札沼線(学園都市線)の「百合が原駅」は、開設当時は期間限定の臨時駅だったそうですが、「太平駅」の開業が1986年11月1日であるのに対し、同年6月28日開業なので駅としては先輩にあたるようです。
裏は取ってませんので、これも追証してほしい。
さて、いそがしついでに>>34ですが、この住所はありません。
それについての文献がありますので、今は"さわり"だけ…。
「(略)道路の右側の住所表示をみると、約一丁の間に西二十丁目、二十一丁目、二十二丁目と変わる。そして西十九丁目がない。これは北から住所表示を追ってくると、斜めの通りに挟まれるためである。しかし、道路の東側は西二十丁目になっている」
まだ続きはありますが、今日はこのへんで。
で、この本は何かと言いますと、「さっぽろ歴史散歩 山の辺の道 定山渓紀行」(山崎長吉 北海道出版企画センター)です。
おやすみ〜〜!!
36hiragisi:2003/01/13(月) 00:51 ID:I/bkzzFA [ nthkid033035.hkid.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp ]
すごいスレ・・・
良く調べますねぇー
(ゴミレス御免ね)
37なまら名無し:2003/01/13(月) 01:30 ID:U2VwGRow [ proxy1.sappr1.hk.home.ne.jp ]
そういえば、南三条西18丁目って物凄く狭いですよね。
しかもすぐ北は南二条西19丁目。
38西創成:2003/01/13(月) 01:32 ID:KxbSI0H6 [ j175138.ap.plala.or.jp ]
>>35 百合が原駅の開設日はその通り。
花と緑の博覧会開催にともない、臨時駅として開設。博覧会終了後一般駅に。

太平駅については、国鉄最後のダイヤ改正となった、昭和61,11改正で、札幌圏輸送の増強対策として、市内各地で沢山開業した駅の一つで、百合が原と太平は開業の動機がちがいます。
61年10月までの札沼線(札幌〜篠路)の停車駅は、札幌―桑園―新琴似―(百合が原)―篠路です。

篠路町太平番地から百合が原〇丁目へ変わった日は…あっ!忘れてしまいました。あれ?
39西創成:2003/01/13(月) 02:36 ID:KxbSI0H6 [ j175138.ap.plala.or.jp ]
つづけてすみません。
百合が原の町名変更は、平成10,8,3だったはずです。

百合が原駅の変遷
昭61,6,28博覧会開催による臨時駅として開業。
(博覧会終了後も営業)
昭62,4, 1一般駅になる。
40西創成:2003/01/13(月) 02:53 ID:KxbSI0H6 [ j175138.ap.plala.or.jp ]
つづけてすみません。
百合が原の町名変更は、平成10,8,3だったはずです。

百合が原駅の変遷
昭61,6,28博覧会開催による臨時駅として開業。
(博覧会終了後も営業)
昭62,4, 1一般駅になる。
41西創成:2003/01/13(月) 04:02 ID:KxbSI0H6 [ j175138.ap.plala.or.jp ]
ごめんなさい、二重に書いてしまいました。
ついでなので…

「あさぶ」と「あざぶ」について、考えられることとしては…。(あさぶ=麻生が正しい)

(1)北海道によくある濁音化しただけ。
   「あさひがわ」「どうや」などとおなじ。
(2)東京の麻布に、似ているので混同された。
(3)ほんとうは「あざぶ」で、「あさぶ」が間違っている。
   これはないはずで、あざぶなら麻布とするのが普通だとおもう。

サムライ部落等について。
白石遊廓でも、豊平町細民〜にしても、サムライ部落にしても、土場にしても、ある意味悪い対象なのかもしれない。当時その地域で暮らしていた関係者もいれば、現在、その土地で暮らしている人もあるので、せっかく市民から忘れられた事柄を、わざわざ掲示板などというところで、公表するべきではないという意見もわかる。最近出版された、本屋で売っているような書籍などで、これらが省略されているのも、その辺の配慮かもしれない。ただ、私をふくむこのスレに書くような人々は、差別するのに知りたいのではないわけで…。ただ札幌だと、差別まで行かないで、「ふ〜ん」ですみそうかと。土地の値段などは、すでに結構その辺考慮されているかとおもいますが。でも、今だに「豊平、白石は、ろくたら所でない」などと言う向きもあるか…。難しい話ですなぁ。

【内地等で、ご覧のかたへ】
北海道で一般に「部落」というのは、いわえる被差別部落を指しません。集落・地区のことをいいます。だから平気で、「オラの部落」などと言う人もいます。阿寒湖のアイヌコタンに、「アイヌ部落入口→」などと平気で大看板立てているのもそのせいです。ただ、北海道民には、部落差別は無い(というか、知らない)が、アイヌ・朝鮮人を差別することは、残念ながら残っています。
42牛鍋蝸牛:2003/01/13(月) 10:18 ID:m3IYKSIQ [ y068073.ppp.dion.ne.jp ]
本レス>>33でとんでもない変換ミスをやっちまいましたぜ。
「開道百年 北海道宗教教誨小史」の編者のところで、「歩ッ稼動教誨師連盟」な〜んてね。
これはもちろん「北海道教誨師連盟」の誤りです。
レスをご覧の方々、ならびに「北海道教誨師連盟」様に謹んでお詫び申し上げます。
ちなみに「教誨師」は「きょうかいし」と読みます。
意味がわからない人は、辞書に出ていますので御自分で調べてみてください。

あ、さてぇ、この何日か、特に「その六(6番地)」になってからあわただしくレスのやり取りをしていたので、一度"やり残し"を整理しなければ自分でもわけ分からなくなってきた。
やり残し。
その1 「十二軒」の範囲の画像をアップする。
(前スレhttp://hokkaido.machibbs.com/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1037627744 #256)
その2 「割烹 いく代・偕楽園・清華亭」のまとめをする。
その3 本スレ>>18での、mさんの疑問、「発寒が琴似から分村した理由」。
その4 「タイムスリップ!さっぽろ思い出旅行」のレポートの続き。
その5 「中央区南9条西19丁目」の件の続き。
※ 「百合が原」に関しては西創成さんから詳細なレポートが提示されましたので、一応お任せします。

ところで、>>20で18丁目さんが挙げられた諸問題は全て、このスレの過去ログに答えが(完全ではないにしろ)書いてあります。
いや、それ以上にいろいろな事案(札幌温泉・五天山・水車町・難得神社・札幌飛行場・陸上自衛隊札幌駐屯地月寒送信所・新琴似中隊本部・新琴似大根などなどなどなど…♪どなどなど〜などぉなぁ〜どなどなどなぁどぉ〜)が満載!
しかも、ただ!
過去ログを是非お読みください。

さて、一度休憩します。
>>30さん、>>36さん。
レスありがとう。
励みになります(w
43牛鍋蝸牛:2003/01/13(月) 14:12 ID:GsHOWAhQ [ K103198.ppp.dion.ne.jp ]
>>34の「中央区南9条西19丁目」の件ですが、
「さっぽろ歴史散歩 山の辺の道 定山渓紀行」(山崎長吉 北海道出版企画センター)から、関連部分を>>35の重複となりますが、引用します。
「(略)道路の右側の住所表示をみると、約一丁の間に西二十丁目、二十一丁目、二十二丁目と変わる。そして西十九丁目がない。これは北から住所表示を追ってくると、斜めの通りに挟まれるためである。しかし、道路の東側は西二十丁目になっている。
この南北道は山根通と呼び、斜めに通っている。それは南二条から南十四条に至るもので、明治三年に円山、つまり庚午(かのえうま)三の村と称して最初の入植者が、この両側に家を建て入植した円山発祥の地なのである。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=478 
住所表示の不都合は、さらに南に続く。南十三条に至ると山根通と西十八丁目通が狭められ、その角の廣瀬医院のところで合わされ西二十丁目はこの一軒になる。
その近く啓明バスターミナルは南十三条西二十二丁目にあるが、その南側は南十四条西十九丁目で、二十丁目の住居表示はない」http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=479 
説明不足でしたが、最初の「(略)道路…」というのは「南九条通」のことです。
ここで気が付いた。
「その角の廣瀬医院のところで合わされ西二十丁目はこの一軒になる」
これって変じゃありませんか?
「南十三条西二十丁目は廣瀬医院一軒のみ」ってことですよね?
「心和病院」もあるし、「サイクルハウスかわた」ってお店もあるらしいんだけど…?
この本1995年の本なんですが、その時は「廣瀬医院」しかなかったのかな?
そんなことはないと思うけど。
44牛鍋蝸牛:2003/01/13(月) 22:57 ID:Iz9IWO1I [ U126052.ppp.dion.ne.jp ]
>>37
本当だ。
南三条西18丁目って、まさに猫の額ですね。
うちのネット地図で見た限りでは、建造物は7つ程度しか確認できません。
実はワシ、昔ここらに住んでいまして、この前の啓明線のバス停を利用していました。
啓明線も地下鉄が出来てからすっかり本数も減り、不便になったもんです。
当てにならない記憶ですが、昔は5分に一本程度はあったような気がします。
ま、個人的なことはいいのですが、サッポロファクトリーで好評開催中(?)の、「タイムスリップ!さっぽろ思い出旅行」のレポートの続きを書かなければならない。
では…。
実は「写真ライブラリー」に保管されている「札幌温泉」の写真は、中央区サイトの裏焼の画像、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=372 が正しく焼かれたオリジナルの、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=374 だけしかない。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=362 とか、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=373 とか、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=371
(これは362と同じ。トリミングが違う)なんてないのですよ。
ましてや、「絵葉書の世界」
ttp://www.medianetjapan.com/2/15/government/layla/sapporo_index-02.html の#029〜032にある
ような鮮明な写真はないのです。
45牛鍋蝸牛:2003/01/13(月) 23:19 ID:Iz9IWO1I [ U126052.ppp.dion.ne.jp ]
で、ワシ、「札幌市写真ライブラリー」のOさんに、「絵葉書の世界」というHPに「札幌温泉」の内部の写真があることなどをお話ししました。(もちろん、その他の写真も興味深いものばかりですが…)
すると、Oさんは、
「札幌温泉の内部の写真…。欲しい…」と一言。
ワシとしては、人のモノではありますけれど、できればこの絵葉書をもっとたくさんの方々に見ていただきたいと常々思っていました。
しかしながら、ワシ如きが、「絵葉書の世界」の管理人 s.laylaさんに、そんなメールを送ってもおそらくは相手にされないでしょう。
んが、「札幌市写真ライブラリー」からとなれば、これは、脈はあると思うのです。
ワシとOさんが、「札幌温泉」の画像の映ったディスプレイ前で話していると、一人の来場者のおじさん(なぜかクビにタオル、長靴)が、
「こ、これはいったいどこにあったんですか!?」と食いついてきました。
ワシとOさんは、「札幌温泉」について説明申し上げました。
(いや、このOさん。写真だけじゃなく、「札幌温泉」についても詳しかった…)
ことほど左様に、この建物は人々の興味をそそるものなのです。
ああ、それなのにそれなのに、あの不鮮明な遠景の画像しか、「札幌市写真ライブラリー」には無いなんて…(泣
46牛鍋蝸牛:2003/01/13(月) 23:22 ID:Iz9IWO1I [ U126052.ppp.dion.ne.jp ]
さて、Oさんから伺った、あなたの知らない「タイムスリップ!さっぽろ思い出旅行」の裏情報をそっと…。
実は、この催し、経費を安く上げるため、通常の「写真の焼き付け」は行わず、全てPCからのプリントなのだそうです。
写真で焼いた場合、あの枚数だとそれだけで100万円ほどの経費がかかるから。
今回は、写真のレタッチ等も職員の方がPC上で行ってプリントアウトしたので、催しの総額で15万ほどしかかからなかったとのこと。
ただ、レタッチは最後には時間が足りなくなって、ま、ある程度"はしょった"って言っておられました。
確かに、画像のレタッチってのは時間がかかるし、どこまでやっていいものかっていう見極めも難しい作業。
職員の方々、ご苦労様でした。
4718丁目:2003/01/14(火) 01:26 ID:er07Jo26 [ SODfi-02p3-69.ppp11.odn.ad.jp ]
>>32牛鍋さん
(天の声) しかし何やねぇ、文章には癖ってもんがどうしても出るもんやねぇ…。
あっ!何となく意味わかったけど、そーゆーこと?
何か私は今回のこの「誰か」さんのレス、無性に腹立たしかったんですよ。
牛鍋さん今回は妙に奥ゆかしい表現ですね(w
それと484番地の件は、納得です。
4818丁目:2003/01/14(火) 02:29 ID:ADxpF5XQ [ SODfi-02p6-179.ppp11.odn.ad.jp ]
西創成さん
諸々フォローありがとうございます。
百合が原の町名変更は平成10年でしたか、極最近ですね。

いやー我ながら熱くなりすぎたと、反省しています。
湯ノ沢にでも行って、ひとっぷろ浴びてくるかな。
それとも土場にこもって、発電所工事に殉じるか、東苗穂484番地から
篠路まで行って赤坊川に橋でもかけてくるか。お迎えの車は美澄通りにまわしてね。
49北栄:2003/01/14(火) 03:43 ID:iTQ3Y1JI [ EATcf-325p223.ppp15.odn.ne.jp ]
南三条西18丁目…

地図上では住居の真上を条丁目界が引かれてますが
地番図では大正15年の状況のままなので現在の道路の引き方と
大幅にズレがでてきています。
昔の道路に沿って条丁目界が引かれているので今の区割りとは違うんですね。

中心部が未だに住居表示されないのはなまじ歴史がある分、権利関係やなんやらで
かなりドロドロしたものがあるらしいため、とか。
50新住人:2003/01/14(火) 20:44 ID:6xiwIxeE [ pl334.nas921.sapporo.nttpc.ne.jp ]
18丁目さん、牛鍋蝸牛さん、西創成さんありがとうございました。
1、そんなむかしからだったんですね。
2、北区と西区の境目を新川にしたいから、新しく地名を作ったのかな?と想像しておりましたがそれは間違いだったんですね。
新琴似屯田中隊本部を見学してきます。
3、地名変更の時に、北51条とかにすればいいのに・・・って思ったんだけど、
(北51条と百合が原の境目が道路じゃないから)
「北区北51条」と「東区北51条」があると、まぎらわしいのかな・・・。
51牛鍋蝸牛:2003/01/15(水) 10:39 ID:H7YevmRQ [ B136054.ppp.dion.ne.jp ]
偶然にも今回連続して取上げられた、「発寒の区画ズレ」、「百合が原と条丁目表示」、「山根通付近の住所表示の不都合」問題などは、言ってみればすべて我々の、「札幌は碁盤の目神話」からくる思い込みなのかもしれないと感じ始めました。
「東西南北の碁盤の目で区画されている」のは所謂、「札幌區(本府)」に限ってのことなのです。(注・正確な方位とはずれているが)
つまり、「苗穂村」、「雁来村」、「丘珠村」、「篠路村」、「琴似村」、「発寒村」、「豊平村」、「平岸村」、「月寒村」、「白石村」、「上白石村」、「山鼻村」、「円山村」、「上手稲村」、「下手稲村」、「山口村」など、かつてあった付近の町村は各々ある時期までは、それぞれに発達してきたわけです。

本府に近かった「山鼻村」の区画割は札幌と同じく「方形」を導入していますが、やはり接点で「ズレ」が生じていますし、「円山村」も「さっぽろの昔話 大正編」で「条丁目」で区画した、との記述を見ましたが、「円山」が迫っており地形的に無理があったのでしょう。
本府は比較的平坦な土地に大胆に区画を割ることが可能だったわけですが、周辺の町村には、山や川や沼が立ちはだかったわけです。
しかも、本府へ最短の距離で放射状に街道や鉄道が開削されており、「碁盤の目の区画割り」は実行が困難だったのではないでしょうか。
もちろん、当初の入植者が区画などということを考えずに、自然発生的に家を建てたということもあったでしょうし。

…ってなわけで、我々が現在の「大札幌市」の姿を見て、
「区画が変。ズレている…」、「ここ、なんで条町目表示じゃないの?統一すればいいのに…」と思うのは、言わば一種の"錯覚"なのかもしれないなぁ〜と、思っている今日のワンコ…、じゃない、牛鍋蝸牛なのでしたぁ〜。
52牛鍋蝸牛:2003/01/15(水) 12:24 ID:/1coeRew [ N020203.ppp.dion.ne.jp ]

ええっと、誤解があってはいけないので、追加レスします。
「今後、区画ズレ等に関しての話題は取上げるつもりはない」とか、「それは全て錯覚です」で片付けてしまう、という気持ちは毛頭(毛の頭ほど。亀とちゃう)ありません。
今後ともレス頂きたい。
逆説的ですが、こういう場合、>>51のような「思い込み」があるから「ここは変」と思うのであって、それがなければこのスレは成立しないとも言えるわけです。
ま、「求めよ。さらば与えられん」、「信ずる者はだまされる」と…、あれ?
53牛鍋蝸牛:2003/01/15(水) 22:05 ID:SFEu5/5. [ L064055.ppp.dion.ne.jp ]
本日は「宮中歌会始の儀」が執り行われたことは、皆さんご存知でしょう。
してからにして、今年の"お題"ももちろんご存知でしょうね?
「町」ですよ、「町」。
ま、宮内庁も本スレに気を使ってくれたようで、こんなお題を用意するなんて、にくいね、この!
では、ワシも「町」をお題に、一つ歌でも詠んでみましょう。

札幌の〜〜〜ぉ!マイナー地名〜〜ぃ!幾千里〜〜〜ぃ!
今日も今日とてぇ〜〜〜!あびでラーメン〜〜〜!

ってなわけで今日は(も)、本スレ公認ラーメン店(?)の「らーめん あび」に行ってまいりました。
皆さんご存知とは思いますが、「あび」には例の鮮明な「札幌温泉」の写真、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=481 が掲示されております。
この写真がこの店において、数奇な運命を辿っていたことを、今日始めて知りました(涙
去年、「借金で潰れそうだ事件」を起こした「あび」も、皆さんのおかげをもちまして、なんとか売上が向上してまいりました。
(でも、まだまだ赤字…)
今までは顔なじみしかこなかったこの店にも、最近は新規のお客様がたくさん訪れるようになったとのことで、めでたし、めでたし…。
とはいかないのが、この世の恒だったようです。
ワシが面白半分に壁に貼った「札幌温泉」の写真。
当初はマスターもなじみのお客に、
「ナニ、これ?」と訊かれたら、
「へい…。あっしの生まれた家でして」
な〜んて答えようと言っていたんですが、新規客が増え、そういう冗談も言えない雰囲気も出てきて、しかも、1日に一人はあの写真の前に行って、
「じ〜〜っ」と凝視し、
「札幌温泉…? これ、何なんですか?」と真顔で質問する事態に、マスターも、
「え〜、大正時代から昭和にかけて、界川にあった温泉施設で…」と答えるのがとっても苦痛になってきたと、あの顔で、ええい!あのスキンヘッドのあの顔で、まだ借金があるくせにあの顔で、そんなことを言うようになったなんて、あんたえらいね。
とまぁ、そんなわけでマスターはワシに、
「札幌温泉に興味のあるお客に読んでもらう説明文を作製し、直ちに提出せよ!」
とまぁ、我が旧軍も斯くや、と思わせる命令を発したのであります。
…しょうがねぇか、
「本格的に興味のある人には、このスレのHPのアドレスも必要だろうから記入せよ」、と言うことだから、本スレの布教活動として甘んじて受け入れるか、ということになり、前代未聞の「ネット掲示板とラーメン屋」の"マルチメディア戦略"をより一層推し進める、というこういう状況になってきたのです。
54なまら名無し:2003/01/15(水) 22:10 ID:rsYnhXIA [ j175115.ap.plala.or.jp ]
私もあびのあの写真、いっつも食べに行った時に気になってたんだぁ。
55西創成:2003/01/16(木) 01:11 ID:x6pz3MPk [ o050101.ap.plala.or.jp ]
>>50 なぜ、町名改正にあたって、篠路町太平を北〇条としなかったか?ということですが、それはおそらく篠路町だったからだとおもいます。それと、現百合が原町内の道路の情況からみて、北〇条とするには、区画設定が難しいこともあるとおもいます。

>>51 「札幌は碁盤の目」神話ですか。
それはありますね。いまとなっては、郊外に行っても〇条通がつづく旭川のほうが、碁盤の目の完成度が高いように見えます。
段々と区画のごちゃごちゃな地域が増えてしまったのは、合併都市として仕方ないことなんでしょう。

話は違いますが、「札幌温泉」なかなか深いですな。レスちがいなので書きませんが、小樽の「オタモヰ遊園地」なみに、色々ありそうですね。

それと、私の「百合が原」の話に、皆様よりお礼頂き有り難うございます。もっと細かくご紹介するべきでしたとちょと反省。
56牛鍋蝸牛:2003/01/16(木) 05:10 ID:u0vd7SHQ [ K102040.ppp.dion.ne.jp ]
西創成さん。
「札幌温泉」は「その三」の#88 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/3_log.html#088 辺りから取上げております。
そのとおり、色々ありました(w
57牛鍋蝸牛:2003/01/16(木) 22:41 ID:HBKnRCu. [ N016217.ppp.dion.ne.jp ]
>>53の「札幌温泉」の説明文、完成しました。
ラーメン屋さんで、しかも、さして興味の無い方にも気軽に読んでもらうということで、簡単な文章にまとめました。
もちろん、飽きさせないように画像もふんだんに取り込んでね。
ま、初めての作品としてはこんなもんかな?
表紙を入れて全部で4P。
汚れないように工夫をして近々に持っていくなり、郵送するなりしなければならない。
「あび」で閲覧できるようになったらまた報告します。
58なまら名無し:2003/01/17(金) 01:44 ID:O8sPYg4M [ spro047n044.ppp.infoweb.ne.jp ]
過去レス覗かしてもらいました。
今更かもしれませんが、ちょっと書かせていただきます。
>>その五 114 119
サムライ部落の語源ですが、「廃品を掴むための二本の棒を腰にさげる姿
が、サムライっぽい」という説もあるようです。

>>その五 220
新制中学は、第一(道立一中 内)、 第二(道立高女 内)
第四(道立工業 内)→いずれも昭和24年廃校。
第三は、どこかは分かりませんが、昭和25年廃校とのこと。もしかして、道立二中?
第五(当初 市立高女 内)→中島、第六(当初 市立中学 内)→啓明、
第七(当初 円山・桑園小学 内)→向陵、第八(当初 東橋・豊平小 内)→幌東、
第九(当初 苗穂小・旧市庁舎 内)→美香保。
最初から校舎があったところは、北辰(第一高等小から)、柏(第二高等小から)、
一条(女子高等小から)。一条は、昭和29年にできた陵雲と統合し現 中央。
>>その五 86
東北中学というのは、なかったと思いますが。
59西創成:2003/01/17(金) 02:47 ID:vueLk12k [ i106119.ap.plala.or.jp ]
札幌温泉が軌道線を持った理由って、本当のところ、経営陣どう考えていたのでしょうか。どうももしかしたらどっかの話、もらったのかも。(昭和初期ならバスでもいいわけで、軌道なんて金かかるものをわざわざ…)

それで、妄想ぎみな考察を…

定山渓  鉄道 大正7年開通。(昭44廃止)
登別温泉 軌道 大正4年開通。(昭8廃止)
洞爺湖電気鉄道 昭和4年開通。(昭16廃止・戦後合併して、道南バスになる)

上に示したものは、札幌温泉以外に同時期にあった、温泉がらみの鉄道であります。とりあえず、札幌温泉開業までにはすでに、2大温泉場には鉄道軌道があったということです。

ただ、洞爺湖電気鉄道だけ、札幌温泉の軌道開業と前後して、特許がだされ、開業しているのです。

札幌 温泉 昭和3年特許。昭和4年開業
洞爺湖電鉄 大正15年特許。昭和4年開業。
洞爺の電車開業前、床丹温泉、丸山温泉(現・洞爺湖温泉町)には2軒しか旅館がなく、全然知られていませんでした。そこに小樽の板谷某というボンボンが、国会議員選出の好機に「電車引いて、温泉開発をするっ!」とぶちあげたのです。そして、電車二両と電動貨車一両で、昭和4年1月26日、虻田駅(現・洞爺)〜洞爺湖駅・湖畔貨物駅間で営業を始めます。例の温泉教授、松田忠徳氏のお父さんが写した絵はがきによると、車両も札幌温泉のと似た様なものです。泉源もきちんともっていたし、洞爺湖停車場通も桜の並木にしていました。
洞爺湖電気鉄道KKは、昭和2年5月の設立・工事開始ですが、路線特許は、大正15年です。開業も、札幌温泉と同じ年ですが、少し早いわけです。もしかして…札幌温泉さん、小樽の板谷某国会議員の構想と阪急の小林一三の構想、足して2で割ってたりして? ワシらもいずれは札幌一の軌道王!はっはっは!なんてね。

まあ普通は、市内電車をみて「あれやってみょ」となったとみるのが普通だとおもいますが。

参考資料 「物語虻田町史・第5巻 洞爺湖温泉発展史」虻田町史編集委員会編
60牛鍋蝸牛:2003/01/17(金) 21:38 ID:H8wpDz/A [ N023014.ppp.dion.ne.jp ]
牛鍋蝸牛、感想を述べるの巻
>>58
「廃品を掴むための二本の棒を腰にさげる姿が、サムライっぽい」
なぁ〜るぅ〜…。
いや、全くの感想としか言いようが無いのですが、これって、イメージはわくよね。
このスレでも「サムライ部落」の語源に関して諸説出ましたが、ワシとしてはこれが一番、五臓六腑に
ストンと落ちました。
理屈ではなく、あくまでエモーショナルな部分ですので、根拠はありません。
あしからず。
それと「新制中学校」の件。
>第六(当初 市立中学 内)→啓明、というのは間違いないようですが、その経緯がこれまた複雑なのですよ。
(ワシは「その壱」でカミングアウトしています通り、「啓明中学校」出身です)
ま、長くなるし、さして大したことでもないので今回は述べますまい…。
世の中にはもっと大変なことで悩んでらっしゃる方が、大勢おられるわけですしね。
も、ど〜しょ〜もなく!知りたいかたは「さっぽろ歴史紀行 山辺の道―定山渓紀行」(山崎長吉著 北海道出版企画センター)の27Pをご覧下さい。

>>59
「札幌温泉」は当時の新興住宅地である、円山地区(特に界川・双子山)の付加価値を上げるために作られたリゾート施設です。
なんたって「円山十勝」ですからね(w
>当時の経営陣
ん〜〜…。
これもワシの想像ですが、「経営陣」と呼べるようなものは無かったのではないでしょうか?
きっとワンマン社長が一人で決めたような、なんだかそんな気がします。
いや、これもほんとにワシの感想ですから、根拠はありません。
そんな気がする今日この頃です…。
61月寒村:2003/01/18(土) 00:56 ID:9D9nVlKY [ spro046n134.ppp.infoweb.ne.jp ]
58を書いたものです。こちらは、コテハンが多いようなので、私もならって、
「月寒村」とさせてもらい、少々参加させていただきます。

 私は、何故かサムライ部落のことが気になり、色々と調べてみたいのですが、
何せ文献等乏しそうな感じが。そこで、現地に赴き東橋付近の古くからの
住民への聞き込み等をしてみたいなどと、僭越ながら思っているところです。
一番良いのは、実際に部落に住んでいた人に聞く、でしょうが、はたして??
 何が気になるかというと、いつ頃からいつ頃まであったのか? その範囲は?
どのくらいの規模(世帯、人口等)? はたして河川敷のみであったのか? 
人々の暮らしは? 何処から来て何処へ去ったのか? 去った後の暮らしは?
一般の人等はどう見ていたのか? 等々。
 実際にそこに住んでいた方々にとっては、不愉快に感じられるかもしれませんし、
「やめろ」といわれるかもしれません。しかし、サムライ部落内と思われる写真の
中の、肩を寄り添い、明るい表情で写っている人々を見、なにか感慨深いものが
あったのです。

 ここで一端区切って、次回に、(皆さんは既に知ってる事かもしれませんが)
私の知っていること(極めて少ない)を記したいと思います。
予告、たわいない話ですが、現地調査あり。
雁来問題と接点あり(??)、新たな展開(???)。
62牛鍋蝸牛:2003/01/18(土) 07:05 ID:UdeAArfI [ N021045.ppp.dion.ne.jp ]
月寒村さん、改めまして、いらっしゃい!
「少々」などと言わず、どんどん参加願いたいと思います。
「サムライ部落」についての文献ですが、「その五」の
http://hokkaido.machibbs.com/bbs/read.cgi?BBS=hokkaidou&KEY=1037627744 #119で、書きましたとおおり、「新札幌市史」にも記述があったと記憶していますし(定かではないが)、未だ売れていなければヨドバシカメラの並び、北八条西5丁目「南陽道書店」の3階にある「ケルン書房」に「白石老人会」(?)とかが出した本がありまして、それに記載されています。(本自体のタイトルは失念しましたです)
それを見つけたときは目次で「サムライ部落」と見ただけで、内容までは確認しませんでした。
その後、すぐにこのスレで話題になったので、「失敗した…」と思ったものです。
ちなみに、店の"おねえさん"がパソコンやりながら座っている、ほぼ、真中の棚にこの本はありました。
ただ、"おねえさん"は幅がちょっとある方なので、真中といっても範囲は多少広いです(w

さて、この本に、「サムライ部落」がどうか書かれているか分かりませんが、決して触れることがタブーということはないと思います。
「実地調査」の件にしても、「サムライ部落」にもきっと、プライドを持って生活をされていた方も多かったと思いますし「実地調査」は本スレの"命"でもありますので、できるものなら是非やってみていただきたい。
ま、ワシも冬になってからなかなか思うような活動が出来ていませんけどね。
63牛鍋蝸牛:2003/01/18(土) 07:11 ID:UdeAArfI [ N021045.ppp.dion.ne.jp ]
そういえば、現在「タイムスリップ!さっぽろ思い出旅行」が開かれている「サッポロファクトリー赤レンガ館」の「札幌市写真ライブラリー」へ、二度目の訪問をしてまいりました。
再度、O館長さんとお話をさせていただくのが目的でした。
「札幌市写真ライブラリー」の現状などを聞いてまいりまして、なかなか面白かったです。
本スレで「思い出旅行」の宣伝(?)をしていることも、恩着せがましく報告してまいりましたが…。
レポートを途中まで書いておりますので、少々お待ちください。
で、本日付の北海道新聞にこの展覧会の記事が出ていました。
入場者数が九千人とか。
ワシのようなリピーターも多いようで、大盛況らしいですね。
その記事の写真にO館長さんが写ってらっしゃいます。
「思い出旅行」展は明日19日まで開催ですので行かれていない方は、是非行ってみてください。
では、月寒村(ツキサッップでしょうか?ツキサムでしょうか?)さんの予告の件、期待して待ちましょう!
6418丁目:2003/01/18(土) 18:24 ID:jGFlspJw [ SODfi-01p6-147.ppp11.odn.ad.jp ]
月寒村さんの調査結果を楽しみにしつつ、気になる地名を又一つ。
(冬場は現地調査もなかなか思うようには出来なくて、家で悶々としています)
南区に小樽内と言う地名が残っているのが面白いなーなんて思っています。
ネットで地図を見ていたら、南区定山渓の定山渓ダムとつながる豊平川の支流があります。
そこは、釣りやカヌーなどアウトドア派の人には広く知れ渡っている、小樽内川です。
そしてその川に沿った地区には、確かに小樽内と書かれています。
現在の小樽市は、その昔小樽内川沿いに住まうアイヌの人々を、入船地区に移住させ小樽内
場所を作ったのが始まりと言われます。
その頃の小樽内川は、現在の新川下流の石狩湾河口のところまであったようですが、
定山渓にダムが出来て小樽川はほとんど消滅、この再上流部だけが残っているようです。
定山渓ダムは、小樽内ダムと名づけれれていたが、小樽市と間違われる為改名。
例のごとく私のレポートは中途半端気味ですので、どなたか詳細フォロー願います!
65西創成:2003/01/18(土) 18:30 ID:gOEgusQ2 [ i221159.ap.plala.or.jp ]
>>61 月寒村さんはじめまして。

サムライ部落についての実地調査は、現状、誠に難しいですよ。
いまでも、話がらないひと多いし。

私も、樺太引揚者の二代目ですから、河原に住んでいた人に知り合いいます。その方80代ですが、樺太の話はしても、サムライ部落時代の話はしてくれません。こちらとしても、「あそこには人さらいがいるよ」といわれたところの話、聞き出すことはなかなかできません。
ただ、昨年死んだ私の父親が、サムライ部落から、白石の旧遊廓の建物に引っ越ししたとき手伝いにいったといっていました。

それからこの前、骨董屋の親父さん(40-50代)によると、その方が中学のとき、サムライ部落からも通学生がいた(平岸中)そうです。

前のレスで、「豊平町細民部落」というのが出ていますが、私はどうも「サムライ部落」と関連性があるような気がしており、鈍意調べ中です。今のところ、札幌資料館機関誌・札幌の歴史の16号掲載の「札幌における細民街の成立―堅田聖司著」を読んでる最中ですが。
私も、月寒村さんの研究成果レス、楽しみにしています。
66西創成:2003/01/18(土) 18:49 ID:gOEgusQ2 [ i221159.ap.plala.or.jp ]
つづけてすみません。
>>60 牛鍋さん、私のバカ鉄道話読んでくださいまして、ありがとうございます。

実は、この大正中期〜昭和のはじめは、私鉄開業ブームだったそうで。
このころ、地方鉄道補助法による補助金に、拓殖費からの補給金上乗せの措置(戦時体制移行まで)があったからだとか。
67牛鍋蝸牛:2003/01/18(土) 22:43 ID:f4Cjftuo [ L065021.ppp.dion.ne.jp ]
サッポロファクトリー赤レンガ館内、「タイムスリップ!札幌思い出旅行」が開かれております、「札幌市写真ライブラリー」の第二回目のレポートです。
>>63で書きました、道新記事にチラッと写っていたO館長から戴いた名刺によりますと、ここは「財団法人札幌市芸術文化財団ギャラリー課」の運営であるようです。
「カンチョウ」と言えば、ワシなんかが思い出すのは「宇宙戦艦ヤマト」の「沖田艦長」くらいのもんですので、エライ方なのかな?と思うと、案外これが「係長」だったりして親しみが持てるわけだ…。
しかもこの方は写真はもちろん、札幌の歴史そのものにも憧憬が深い方で、やっぱりエライ。
本スレの説明のため、「雁来町」のことなんかもお話させていただきましたが、
「それとも、そこは豊平川の流れが変わって中洲になったとか…」と即、推理を働かせてもらって(ま、実際は違うのだけど)、結構好き者(地名・歴史だよ)だったりするわけです。
ま、二度目の面談(?)ということで、O館長とは長々とお話させていただきまして、ここの運営の方針(スタンス)と現状というものが分かってきました。
実は、現在のところ「写真ライブラリー」では、進んで写真を探して回るとかはしていないそうです。
言ってみれば、あくまで市民の皆さんから提供されたものをコツコツと整理して、展示等でご覧戴くというのが現在の仕事。
というのは、今で二万点以上の写真を保存していて、内、整理がついているものが1万点ほど。
整理・分類に時間が取られるため、まずはあるものから…、ということらしいのです。
ま、確かにそうかもしれませんね。
年代の特定もあるでしょうし、修正し、分類の上、保存しなければならないわけだ。
これはたいへんな作業でしょう。
そして、そこには著作権や使用権という問題が出てくる、というお話はまた明日のココロだ〜!
68牛鍋蝸牛:2003/01/18(土) 23:13 ID:f4Cjftuo [ L065021.ppp.dion.ne.jp ]
緊急報告!
本日ひょんな事から手に入れました重要資料に、「サムライ部落」の写真を発見しました!
6918丁目:2003/01/19(日) 00:33 ID:0OjFoL6s [ SODfi-01p2-72.ppp11.odn.ad.jp ]
牛鍋さん、そしてこのスレの1から参加されている方々へ。
ここに来て「サムライ部落」の件がとりざたされていますが、何かうすうすではありますが
例の「雁来町」問題とリンクしてきているように感じませんか?
確か牛鍋さんがとある人に「雁来町」のことをインタビューした際に、「雁来は昔はもっと上流まで
来てたんだけど」とのことを言われてましたよね。
まさにそれは所謂「サムライ部落」のあったとされる「東橋」付近までが雁来だったということではないでしょうか?
そして現在「雁来町」の名は、何故か住所としてだけ残されている。
今のところの少ない情報を組み合わせて推理してみましたが、いかがでしょうか?
牛鍋さん、月寒村さん、西創成さんいかがです?さーいかがです!?
70西創成:2003/01/19(日) 08:24 ID:AGKc9DDA [ m174021.ap.plala.or.jp ]
>>69 
いま、サムライ部落と細民街について、調べておりますが、どうも、豊平橋を中心にして細民街が形成され、その内河原まで広がっていったようです。ですから、前に18丁目さんが書いておられた、ルネサンスホテル付近のお話も、的外れではないと思われます。
サムライ部落の範囲も、最盛期には東橋下流だけではないようです。ですから、苗穂、雁来もわかりません。あったかもしれない。職業などは、どうも土木作業員、露天商、廃品回収業、ちんどんやなどいろいろいるらしく、一概にいえないようです。

ただ、資料も少ないし難しい件です。

近々まとめます。

月寒村さん、大変ですよ。この件。
7118丁目:2003/01/19(日) 09:00 ID:HxEDNV0A [ SODfi-01p5-45.ppp11.odn.ad.jp ]
そういえば、札幌歴史写真集<大正編>の社会事業の発達の項で、大正10年頃の
豊平町細民部落の写真が載っていたんです。
またその写真に写っている住民と思しき男性の姿が、紋付袴にうっすら髷を結っているようにも見え
明治は遥か過ぎ、大正デモクラシの世の中とは思えないものがありました。
72月寒村:2003/01/19(日) 14:06 ID:ng5uJLvQ [ spro047n079.ppp.infoweb.ne.jp ]
牛鍋蝸牛さん
 本の紹介、激励ありがとうございます。時間があれば、ぜひケルン書房に
行ってみたいと思います。「月寒」の読み方については、どちらでも結構で、
漢字を視覚的(絵文字的)に捉えて下さい。(←ダメ?)
>>68
 「サムライ部落」の写真、見たいです。

18丁目さん 西創成さん
 はじめまして。助言ありがとうございます。「札幌における細民街の成立」私も読んで
みたいです。

皆さんよく研究されていて、知識豊富ですね。頭が下がります。現在の私の知識
などは、本当に稚拙なものばかりで、恥ずかしいのですが、参加宣言(?)した
以上、一応書かせていただきます。

【サムライ部落に関して その1】
 昭和34年、貧乏追放をめざして徒歩で日本縦断し、主に社会的・経済的に恵まれない
人々のもとを訪ねた、徳澤りゅうたん氏の再編本『ニッポン裏街道紀行』と、この方に同行
した児島正晴氏のメモ(徳澤氏のHP内)を参考に述べさせてもらいます。ただし、これらの
中でサムライ部落の記述は残念ながらほんの少しです。
 「昭和34年7月20日 札幌市北1条東14丁目(大通東14の誤り?)豊平川岸に広がるサムライ
部落、250軒ばかりの掘建て小屋が並んでおり、小さな寺まである。親分格の人始め大勢の
人が出迎え、よく来てくれたと抱きついてきた。」とある。「横浜で自由労務者をしたことの
ある人等、同じような場所を求めて放浪する人たち多い」「子供・・割に少ない(60人位)」
「親分格の人によれば、生活保護103世帯、ニコヨン稼業(日雇人夫)120名」「ヒロポン・
売春なし」ともある。
 250軒ということは、かなり広い範囲、東橋付近から鉄道橋付近まではありそうな感じです。
右岸にもあったかは、ここでは不明。西創成さんの70での指摘にあるように、ピーク時には、
もっと広い範囲にあったのではないかと想像できます。(ピーク時は、いつか?)
また、この本に載っている毎日新聞社提供の「近代的アパートと対照的なスラム街。北海道札幌市」
と題する写真(徳澤氏のHPにもあり)、いかにも私のイメージするサムライ部落に合致する。
しかし、ここは、どこなのか? 
 明らかに堤防の下と思われるが、よく見ると、堤防内の高い位置に建っている家は割とキチッと
した家で、低い位置にあるのは、まさにバラックという風貌。大雨の時、どうなったのか。
堤防の外(一般地。苗穂側?)には、4階建と思われる白いアパート2棟、これは北1東15に4・5棟ある
アパート(市営住宅? もう住んでない?)や、北1(2?)東17に2・3棟あったアパートとは
雰囲気・向きが違うと思うので、それらの場所ではない(?)。そして、この写真上のアパート
の後ろには、コンクリート工場と思われる建物(苗穂町1丁目アサノコンクリート?)と、
遠くにおぼろげに山が写っている(何山?)。
 そこで、私の勝手な推測では、ここは北2条東20丁目で、ここに写っているアパートは既に
取り壊された、とみましたが。違うかも。皆様いかがでしょうか?
 それでですね、18丁目さんの69でも示唆されているように、この辺も昔(昭和9年or30年or39年
まで?)、雁来であった、と私も思っていました。はたして? 
もしそうだとして、以前話題になった「雁来のバラ」もサムライ部落出身だったり、しないですね。
年代の問題、雁来といっても広いので、可能性低い。撤回。
 西創成さんのおっしゃるとおり、サムライ部落といっても、もっと広い視点で・・・細民部落等も
含めて・・・捉えなければ、ならないのかもしれません。

蛇足。大通東14丁目も河川敷しかないように思うのですが。これは、大した意味ないのかも?

長くなりましたので、その2以下は、また明日以降ということで失礼いたします。
7318丁目:2003/01/19(日) 16:01 ID:v1Kje0rc [ SODfi-01p5-178.ppp11.odn.ad.jp ]
>>72
月寒村さん
本当だ!大通東14丁目は河川敷のみだ。
ちょっと、いてもたってもいられなくなったから、本当はスキー買いに行こう思ってたけど、
文献あさりに行ってこよう!
74牛鍋蝸牛:2003/01/19(日) 22:32 ID:7Se5zIHw [ N021129.ppp.dion.ne.jp ]
「サムライ部落」の写真、アップします。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=482 
出典は、「新聞と写真に見る北海道昭和史 1926−1989」(北海道新聞社編)。
「札幌郊外豊平河畔のサムライ部落は正式地番で白石9条1丁目。街の人が一顧の価値なしと捨てたものから丹念に財宝を拾い集め『廃品回収の国策に協力している』と、世間の風向きも変わった。13分間で7棟13戸を全焼し、焼失面積で8坪、損害40円という白石サムライ部落の火事記録もある。写真は5月のサムライ部落。手前に流れるのが豊平川」
前スレhttp://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/5_log.html #108 西創成さんの質問にやっと答えが出ました。
「白石村白石九条1丁目」だそうです。
ってことは現在の「菊水九条1丁目」でいいのかな?
「東橋」のまさに麓ですね。
となると、前スレ#111の18丁目さんがおっしゃる「ルネッサンスホテル周辺」説は、覆ることになってしまう…。
しかしながら、#124大門通さんのお母さんの証言では、
「現在札幌市民ギャラリーが建っている場所にあった旧一条中学校に、豊平川堤防内にあったサムライ部落からの通学者もいた」ということです。
「札幌市民ギャラリー」は、「南二条東6丁目」。
「菊水九条1丁目」からはかなり離れていていますね。
ルネッサンスホテルのある、「豊平四条1丁目」から通学なら納得できるけど…。
それと、もうひとつ。
「新聞と写真に見る北海道昭和史」によると、昭和11年には「白石のサムライ部落」はあったわけで、同じく前スレ#123の西創成さんの、
「サムライ部落の人たちは、外地引き上げ者などが多いそうです」という説と齟齬が生じるわけです。
外地からの引揚は戦後の話ですから。
これらのことから考えられるのは、「サムライ部落」は豊平河畔に、長期に渡って広範囲にあった。
あるいは、複数あった。
もしくは、年代ごとに移動したか、別個の集落が発生し消滅した、など等。
または、その複合形…。
上記の記事にあるとおり、火事などで移転を余儀なくされた場合もあったと考えられますし、札幌以外の道内にも、「サムライ部落」と呼ばれた地域が複数あったわけですしね。
ただ、ここで「サムライ部落」の本家・元祖・宗家が「白石サムライ部落」であるとすると、「なぜ、"サムライ"なのか?」という疑問にある一筋の光が差してきたような気が…(w
75牛鍋蝸牛:2003/01/19(日) 22:46 ID:7Se5zIHw [ N021129.ppp.dion.ne.jp ]
いっけねぇ!
>>72の月寒村さんの、【サムライ部落に関して その1】について触れなかったよ。
画像アップしているうちに、自説の披露に終始してしまいました。
ということで、とりあえずの措置として、
>>74の、>これらのことから考えられるのは、「サムライ部落」は豊平河畔に、長期に渡って広範囲にあった(略)
の句読点の後に、「月寒村さんのおっしゃるとおり」って一文を挿入してお読みください。
76牛鍋蝸牛:2003/01/19(日) 22:47 ID:7Se5zIHw [ N021129.ppp.dion.ne.jp ]
いっけねぇ!
>>72の月寒村さんの、【サムライ部落に関して その1】について触れなかったよ。
画像アップしているうちに、自説の披露に終始してしまいました。
ということで、とりあえずの措置として、
>>74の、>これらのことから考えられるのは、「サムライ部落」は豊平河畔に、長期に渡って広範囲にあった(略)
の句読点の後に、「月寒村さんのおっしゃるとおり」って一文を挿入してお読みください。
77牛鍋蝸牛:2003/01/19(日) 22:48 ID:7Se5zIHw [ N021129.ppp.dion.ne.jp ]

お、分身の術!
78月寒村:2003/01/19(日) 22:58 ID:.V.KY8ts [ spro047n098.ppp.infoweb.ne.jp ]
牛鍋蝸牛さん
>>74
初めてみる写真です。「白石村白石九条1丁目」ですか。
「昭和11年にはあった」のですね。
「サムライ部落」といっても一概には片づけられない問題があるのですね。
奥が深い。

私が示した写真等は以下です。

徳澤りゅうたんの世界
ttp://203.205.74.32/ryutan/

「近代的アパートと対照的なスラム街。北海道札幌市」
上のHPの日本縦断のコース→7月19日毎日グラフの写真

児島正晴氏のメモ
上のHPの児島資料館→児島メモ→No.1→上から2段目の左から3つ目・4つ目
上のHPの児島資料館→児島メモ→スナップ写真のNo.1で、サムライ部落の写真あります。
79月寒村:2003/01/19(日) 23:55 ID:mR.QIU4w [ spro046n185.ppp.infoweb.ne.jp ]
牛鍋蝸牛さん
>>74
この写真よく見ると、堤防がない?というか何というか、すごい風景ですね。
白石「村」?? はたして、ほんとに(牛鍋蝸牛さんの?と同じ気持ちで)、
現在の「菊水九条1丁目」で良いのですかねぇ?

西創成さん
>>65
平岸中に通学ですか。ということは、まさか私の勝手な憶測(空想?)に正当性が
みえてくるかも? どういうことかは、今日はやめときます。

18丁目さん
>>73
大通東14丁目は昔、牛鍋蝸牛さんのサムライ部落の写真にみるように、堤防が
なかった(低かった)かもしれない、ということと関係があるかも。東橋は、
昔(昭和20何年かまで)、今よりも300メートル程上流にあったのではと思いますし。
80なまら名無し:2003/01/19(日) 23:56 ID:Ibuc2hAk [ a161.spacelan.ne.jp ]
行啓通り
81西創成:2003/01/20(月) 02:05 ID:vgoVtcfg [ o051042.ap.plala.or.jp ]
とりあえず、細民街から派生していった、「サムライ部落」について、わかったことを書いてみます。(さらに調査中)

「南3条以南東各町」に明治16年ころ、力役者(人夫)が集中し、細民街が成立したと思われる。
明治27年には、細民街に遠友夜学校が誕生し、寺院、教会も出現した。だが、このころには、細民街が、豊平2ー1方面及び河岸方面へ広がっていく。

そして、大正期、新聞等に河岸部落の探訪記事が掲載され…河岸部落をいつしか「サムライ部落」と呼ぶようになったという。

昭和31年には、豊平橋上手〜東橋下手に149世帯385人いた。
市では昭和25〜6年から、更正住宅建設費を計上して解決しようとするも、部落側の猛反対でうまくいっていなかった。だが、白石(旧白石村)住民の協力などもあり、昭和31年から分散移転が実現したという。

今回の参考資料。
思い出すまま 板垣武四 著 思い出すまま刊行会・桂信雄 発行。
82西創成:2003/01/20(月) 02:39 ID:vgoVtcfg [ o051042.ap.plala.or.jp ]
サムライ部落のつづき。

>>81 の書き込みは、板垣元市長の一代記から出てきた話しです。昭和31年〜45年まで助役だった人の話ですから、昭和31〜のことは間違いないと思います。(発行責任者、桂市長だし)ただ、これだと、間ずいぶんぬけております。調べないといけない。

ちなみに81にある「南3条以南東各町」は、創成川〜豊平川のあいだ(南〇東〇)の地域です。81の細民街のくだりは「札幌における細民街の成立。札幌の歴史16号」を参考にして、簡単にしました。

細民街については、後日書きます。
8318丁目:2003/01/20(月) 03:23 ID:5jgMjrn6 [ SODfi-01p3-196.ppp11.odn.ad.jp ]
いや皆さん凄いの一言。
ただただ今思いつくこと。
・東橋の菊水上町側の角に簡易宿泊所が一軒ある
・東橋は水害で幾度も流されていたのに、住民は無事だったのだろうか?
・川の両岸に街は成立していたんでしょうね。
・創成川沿いの北10〜12条東あたりも、つい最近まではスクラップ屋が軒を連ねていて
 一種独特な雰囲気だった。
84西創成:2003/01/20(月) 03:53 ID:vgoVtcfg [ o051042.ap.plala.or.jp ]
「すいませんねぇ。うちの馬鹿息子が…連続書き込みしてぇ。でもねぇワリイ子でないからさ、みなさん許してね。」←西創成の母語る(うそ)

サムライ部落の語源…どれが正しいのか。
個人的には、「侍魂をもった奴がいる部落」なんていうのがいいと思いますが。

どうもこの部落、皆さんが言うとうり時期により情況がちがうようです。

道内よその町(函館か?)のは「ほいと部落」でないのか。山谷や寿町、釜ヶ崎とも近いようなちがうような。札幌「サムライ部落」は、なかなか特異なところのようです。

>>72,78  徳田りゅうじん氏のところの写真、わたしには場所特定できません。
長万部とか開拓地など、ほかのところに興味がわいてしまいました。

>>74 ということは、写真の所は札幌市白石9ー1地先か、番外地となるのでしょうか。
明治18年の札幌区内流行病患者資料に、北3条番外、一名とあるのですが、この人は河原の住人なのかな。

引揚者の住人もいたと訂正したほうが良いようです。

まだよく分からないのですが、
最後に残った所は、東橋付近白石側、一条橋付近中心街側のようです。

>>79 そちら方面は、調査中です。
85西創成:2003/01/20(月) 04:48 ID:vgoVtcfg [ o051042.ap.plala.or.jp ]
間違い訂正。(スミマセン)

徳田りゅうじん氏→徳澤りゅうたん氏
東橋付近白石側→東橋付近
訂正しておわびいたします。

>>72 世帯数、私のとちがいますね。数年で増えたのでしょうか。親方の言うことはまちがいないですから。

>>83 洪水等の件いろいろあったようです。窮民救済の件は後で書きます。
北のスクラップ屋はまた別口の件とおもいます。

神の牛鍋蝸牛さんにお伺いしたいのですが。

豊平の通称「六番地」について、知っていることがおありでしたら、教えていただけますか。お願いいたします。
86牛鍋蝸牛:2003/01/21(火) 09:48 ID:EjP6IbRk [ L065114.ppp.dion.ne.jp ]
>>85
ええっと…、神です。
御賽銭クダサイ…。

お尋ねの件、先にお答えしておきます。
残念ながら、「六番地」というのは存じ上げませんのですわ。
西創成さんのご質問に答えていただける方はいませんでしょうか?
役立たずで、ごめんね。
さて、>>74で紹介しました昭和11年の、
「街の人が一顧の価値なしと捨てたものから丹念に財宝を拾い集め『廃品回収の国策に協力している』と、世間の風向きも変わった」
という、「北海タイムス」の記事の当時の時代背景や、ワシが勝手に推測したことなど後ほど書きます。
今日は「あび」に「札幌温泉」の説明文を持っていきます。
87牛鍋蝸牛:2003/01/21(火) 18:28 ID:5curvvqw [ E168208.ppp.dion.ne.jp ]
「サムライ部落」の調査が昨日から今日にかけて、かなり進みました。
>>86の時点よりも、"かなり"です。
後ほど分割して書きます。
それと、「あび」に持っていった「札幌温泉」の説明の文章なのですが、「立派すぎる」との理由で、ダメだしを食らいました…(泣く
子供たちにお土産まで持っていったのにぃ。
88月寒村:2003/01/21(火) 18:59 ID:TXE9sSvE [ spro047n151.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>87
たのしみ。

西創成さん
「札幌における細民街の成立。札幌の歴史16号」「思い出すまま 板垣武四 著」は、中央図書館などに
おいてあるのでしょうか? あるなら、見に行きます。

 サムライ部落については、皆さんの書き込みをみて、豊平川河畔のみにおいても、かなり長い時期、
広範囲(3km以上?、左岸・右岸にも)にあった、結構流動的でもあり、くらし、風土、職業等も多様で
あった、ということが分かりかけてきました。
 そして、それこそ、部落が沢山点在していた。つまり、A部落・B部落・C部落・・・とあり、それぞれに
親分格の人がおり、もしかして、部落間で商売敵というか縄張り争い(争わなかった?)みたいな事も
あった(←部落毎に呼称があったかは?)。このように思えてくるのであります。結構自然な発想かも?
ピーク時には、数kmにわたり両岸にビッシリ隙間なく連なっていたかも。想像すると壮絶な光景。

【サムライ部落(豊平川河畔系 戦中・戦後時代)に関して その2】
 札幌文庫14『昭和20年の記録』より、強制疎開のかかる昭和20年春頃まで北2条東12丁目に住んでいた
女性(当時17才くらい)の手記によると、「東橋の下の両側から川下の鉄橋までサムライ部落があった。」
と記されています。この頃の東橋は、今より300メートル程上流、現東橋公園の西辺りに架かっていたと
思います。現橋の建設、旧橋の解体時に、すぐ下にいた人々は、やはり立ち退いたのでしょうね。
 ちなみに、このかたの家は、近くに「中山機械」という小さな工場があり、その工場が軍需工場となり、
工場拡大のため、立ち退きがかかったとのこと。
 更に余談、このかたが物心ついてから近所(サムライ部落ではない)に建った家には、
「玄関に筵を下げた家、馬と一緒に寝る家族、潰れそうな長屋、共同の井戸・便所」があったと
書かれています。疎開になった頃、近所も人も変わり家並も良くなっていたとのこと。

 今、時間的に余裕がなく(寒いし)、本格的な実地調査・資料探索ができませんので、こんなもんで
勘弁願います。雪解ければ・・・??

P.S. 最近気になっていることがあります。それは、本州なんかの所謂「被差別部落(歴史的)」みたい
なものは、はたして、札幌にはなかったのか、ということです。もしかして、例えば明治時代、
むこうほど差別・偏見が激しくなくとも、小規模で存在していたのではないかと考えているのです。
89牛鍋蝸牛:2003/01/21(火) 20:51 ID:5curvvqw [ E168208.ppp.dion.ne.jp ]
さて…。
では、「サムライ部落」ですが、実はある程度、ワシとしての結論が出てしまっています。
しかしながら、これが本当の「サムライ部落」の姿であったのかは分かりませんので(何しろ実地調査は行っていない)、皆さんに検証していただきたい。
そして、ここにいきなりワシとしての結論を書いてしまってもしょうがないのと、検証のためにそのプロセスを知っていただきたいということで、昨日から今日にかけての推論と、その調査結果を順に書いていきます。

とりあえず昨日の段階では、「細民部落」と「サムライ部落」の関係がワシ個人として確認できなかったため、既出である、昭和11年の北海タイムスの記事、>>74のみを出発点として始めました。
さて、
「札幌郊外豊平河畔のサムライ部落は正式地番で白石9条1丁目。街の人が一顧の価値なしと捨てたものから丹念に財宝を拾い集め『廃品回収の国策に協力している』と、世間の風向きも変わった(略)」
…と、北海タイムス(現・北海道新聞社。潰れた北海タイムス社とは名前は同じでも全く無関係)が新聞記事として取上げたと言うことは、そこにはなんらかの時代背景があったからだ、と推察しました。
いくらなんでも、ただ脈略もなく、「サムライ部落」を新聞記事にするわけが無い…と。

「サムライ部落」は所謂、「スラム街」であったわけです。
つまりは当然、スラムを構成する人々が、どこからかやってこなければならないわけです。
ということで、記事が出た、昭和11年より以前の時代背景を見てみることにしました。
はたして、昭和4年にニューヨークで株が暴落、これより世界恐慌が始まりました。
翌6年には本道で冷害凶作がおき、これは翌7年、9年、10年と続きます。
農家では娘の身売り、一家離散が相次ぎ、「欠食児童」の盗みが発生。
「満州事変」、「上海事変」、「5.15事件」などを経て、その年、11年には「2.26事件」が発生します。
第一次世界大戦の軍需景気で潤ったのも遠い昔となり、その反動での恐慌に、まさに国全体が進んでいっていた時代であったことが分かってきたのであります。
90牛鍋蝸牛:2003/01/21(火) 21:36 ID:5curvvqw [ E168208.ppp.dion.ne.jp ]
凶作により農村から人が集まってきた札幌も例外ではなく、不況の真っ只中。
北海タイムスの昭和6年10月27日の記事に、
「二千人!もう満員だ ルンペンよ来るなかれ この冬は施食も止め 札幌から全道へ予め通報」
とあります。(「星霜 6」、「新聞と写真に見る 北海道昭和史」 両方とも北海道新聞社編)
翌、昭和7年4月の北海タイムスの記事。
「失業の都市 飢餓の農村 姿さまざま 自殺一千人」
しかも、この時期から、道庁がある札幌への集中が始まっています。
なぜなら、政府は有事下であると判断し、経済の統制を厳しくし始め、道庁のある札幌が今まで以上に重量な都市になってきたわけです。
そのため、「札幌へ行けばなんとか…」という幻想を抱いて、人々は集まり始めたのです。
そして、札幌はそれを受け入れに受け入れ、昭和12年には20万1628人。
函館の21万8466人に、あと一歩と迫っていました。(「星霜 6」を参考にしました)

…ワシとしては、このように時代背景があって、札幌の「サムライ部落」は形成されたのではないか?との思いを強くしたのは、昨日の夜のことだったのです。<まだ、続くよ〜ん!>
91五の31:2003/01/21(火) 22:28 ID:mR3S92tM [ J009105.ppp.dion.ne.jp ]
みんな本籍のあるところをハンドルにしているんですか。
じゃ本府と名乗るべえか。

それはさておき、
昭和ヒトケタ時代の豊平川の橋々の様子。

豊平橋。何も無し。札幌でも有数の繁華街。住み着こうとすればすぐに巡査が飛んでくる。
一条橋。冬の間だけ橋の下の両岸に一人ずつ乞食の方がいたという。
東橋。堤防からちょっと降りたあたりにバラックが沢山。
中にはちゃんと畳を敷いたりしてきれいにしているうちもあり。
大学(当時は帝大と早慶)を出た人もいたという。
もちろんそうじゃない人もいた。

○番地についてはもちろん知っているがここに書くべきではないと思う。
92なまら名無し:2003/01/21(火) 23:35 ID:tlpZb0Yc [ j176170.ap.plala.or.jp ]
ぐぐってみた。
戸長役場が豊平村6番地にあったってことしかでなかった。
関係ある?
9392:2003/01/21(火) 23:51 ID:tlpZb0Yc [ j176170.ap.plala.or.jp ]
で、その戸長(郡長)役場があった今の豊平4-6の近くにある郵便局が「豊平六」局(豊平3-7)。
ちょっと不思議な名前だなーとか思ってみたり。
94なまら名無し:2003/01/22(水) 02:13 ID:6lenEKrw [ j120233.ppp.asahi-net.or.jp ]
地名じゃないんですが、東本願寺から中央区役所にかけて、番地(○号)
が妙にインフレナンバーになってることに気が付きました。

って、それだけなんですが。。。 まだ地図を眺めてるだけなんで。

実は、3月に東京から札幌に引っ越します。このスレは少し前から愛読
させてもらってます。みなさんすばらしい。資料の妥当性について厳しい
意見もありましたが、みなさんが楽しそうに調査や推理してるのが読んで
て心地よいです。自分も引っ越した後に余裕があれば調査してみたいです。
95牛鍋蝸牛:2003/01/22(水) 02:26 ID:jEyfjVsc [ y068149.ppp.dion.ne.jp ]
>>94さん。
待ってますよ。
96西創成:2003/01/22(水) 04:49 ID:kyKOHdvA [ o051112.ap.plala.or.jp ]
最近、侍やってからとゆうもの寝不足で。(昨日今日はお休みします。)

>>86 大明神殿、ありがとうございます。お賽銭は、豊平峡の炭酸水なぞいかがでしょうか。6番地の件、自分でわかりました。すみません。

>>88 札幌の歴史は、中央図書館にあります。思い出すままは、そこらのBOOKOFFなどで、よく100円で売ってます。
それと、被差別部落がらみは札幌だと問題ないとおもいます。ただ、多少地域的なもの、人種的なものと、外地引揚者にはありましたが、いまでは、地域的なものと引揚者については、年寄を除いてないようです。

>>89,90 中々鋭いです。窮民救済の件もありますね。

>>94さん、お待ちしてます。3月だと、冬物衣料やストーブもお忘れなく。雪、溶けてればいいですね。

ひとりごと
>>91さんの話(6番地の話)もあるし、細民街はまずいのか。タブーたってねぇ。差別がらみになるのかなぁ。忘れられた過去ほじくりかえさなくてもって、はなしになるか。
したら、いくら河川敷の不法住宅街でも、通称「サムライ部落」だってダメだよなぁ。ただ、両方とも、いまは解消されたんだから、いいような気もするんだけどなぁ。内地の同和系統ともちがうし。白石遊廓だって、まずいことになるか。この街の歴史で重要な部分だと思うが…。急に人口増えて、住宅難な面もあるし。隠してもろくなことないんだが。テレホン人生相談にでも相談して、マドモアゼル愛さんにでも答えだしてもらうかな(ウソ)
97五の31:2003/01/22(水) 07:29 ID:mLgAzeLY [ P137214.ppp.dion.ne.jp ]
>>94
>妙にインフレナンバー

札幌区は明治43年に近隣の元村、苗穂村、上白石村、豊平村、山鼻村の一部を区に編入しました。
その部分はかつての山鼻村で札幌区山鼻町○番地と言っていましたが、札幌区が市に昇格する際、南○条西○丁目と中心部と同じ住所表示になりました。
ただし、番地のほうは山鼻町の南のほうから付け始めていますから、旧区内との境界に近いそのあたりで千番前後になっています。
98牛鍋蝸牛:2003/01/22(水) 21:19 ID:ojFZ4Z2M [ N022201.ppp.dion.ne.jp ]
>>80
「行啓通り」は、「その四」の#26あたりから話題になりました。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/4_log.html#26
ご一読ください。
ということで、今は「サムライ部落」、やらさせて頂きます。

「街の人が一顧の価値なしと捨てたものから丹念に財宝を拾い集め『廃品回収の国策に協力している』と、世間の風向きも変わった」
「サムライ部落」の評価に関する昭和11年の「北海タイムス」の記事の背景には、戦争へとひたすら向かう日本の世情があったのです。
さて、直接「サムライ部落」とは関係ないのですが、「統制経済下での廃品回収業者の悲鳴」というエピソードが「星霜 6」にありますので、ちょっと紹介。
「ともかく、節約運動は物資不足のウラ返し。(略)
『北海タイムス』が廃品回収業者の悲鳴にニュースバリューを認めたのは、彼らがいわば節約運動を物資不足の両方の被害者だったからだろうか。
鉄、紙、ゴムなどの統制が進むにつれ、家庭からこの種のくず類のお払いがさっぱり。忠勤を励む愛国婦人会や国防婦人会のおばさんが一本の針まで集めて献納してしまうから―というのがバタ屋の苦情だった。
婦人会にかけ合ってみたものの、一オクターブ高い彼女らの愛国談義を聞かされ、すごすご引き下がるしかなかった」(昭和十三年8月25日付け)
このような状態で、バタ屋さんもなかなか大変だったようです。<つづく>
99牛鍋蝸牛:2003/01/22(水) 21:21 ID:ojFZ4Z2M [ N022201.ppp.dion.ne.jp ]
閑話休題(一服したので…)。
ま、そんな理由>>89から、ワシは、「サムライ部落」は北海道が凶作に見舞われた昭和6年頃から発生したのではないか?という推察を立てました。
で、翌日(21日)ワシは、とっても気になる例の>>62、「ケルン書房」にあった「老人会」(?)編の本を再度見に行きました。
その本の題名は、「白石歴史ものがたり」。
正しくは、「白石老人クラブ連合会」が出版。
古書としてのお値段は3,000円!
誠に申し訳ないのですが、いや、「ケルン書房」さんになんだけどね、ワシこの本に3,000円は出せないなぁ〜と、こう思ってね。
ま、早い話、「サムライ部落」の関連2Pを立ち読みしました。
良い子のみんなは、真似しちゃダメだよ。<つづく>
100牛鍋蝸牛:2003/01/22(水) 21:27 ID:ojFZ4Z2M [ N022201.ppp.dion.ne.jp ]
でも、店のお姉さんが、すぐ横でノートPCになにやら打ち込みされながら店番されておられるので、ちょっとやりづらかった。
じ〜っと同じページを真剣に読んでいる姿は、たこにもである。
もとい。
いかにも、である。
これによると、「サムライ部落」の発生は昭和6年頃からとのこと。
う〜ん!
ワシの読みは当たった…。
また、いつ頃まであったのかということについても書かれておりました。
進駐軍の指導により、昭和31年に苗穂、琴似、白石に「更正住宅」が建設され、そこへ住民が移転をし、"一応の消滅"を見たとのことです。
ここらは西創成さんの>>81>>82のレスにちょい、絡みますね。
しかし、「サムライ部落」はなくなっても「更生住宅」に住む人の生活の実態は変わらなかったようで、親の意識の低さから児童の就学率もなかなか思うようには上がらなかったとのことでした。
まだ、他にも重要なことが書いてあったのですが、おぼろげな記憶なので、これ以上は語りますまい…。
と言ったら、みんな怒るよね?<つづく>
101牛鍋蝸牛:2003/01/22(水) 21:46 ID:ojFZ4Z2M [ N022201.ppp.dion.ne.jp ]
「ケルン書房」を後にして、ワシは「らーめん あび」経由で図書館へ向かいました。
そこで「白石発展百年史」なる本をめっけました。
「昭和45年発行 白石発展百年史編集委員 薩 一夫編」です。
そして、ここにも「サムライ部落」の記述が…。
「第二章 敗戦から合併まで」、「(5)福祉事業の進展 E 時には、うらはらのことも」より。
「このように社会事業には、積極的な理解をもっている白石町であるが、昭和二十九年、救護施設白石福祉園(白石駅前)と、簡易宿泊所白雪荘(菊水東町)の設置に当たっては、設置反対の町民大会など、町民の手ひどい抵抗によって、ひと騒動が演じられた。
白石福祉園についての反対理由は、薄弱者や身障者、ことに特殊部落(注・俗にサムライ部落といっていた)の住民を収容する施設を、町の真中に建てられては、町の発展を阻害するから、別な場所に建てろというもの。
保護センター白石町設置反対期成会(会長・○○○○)を結成して、設置団体の札幌厚生会(理事長・○○○○)や市に反対した。
市長高田富与や、社会福祉協議会が仲にはいって、説得に当たった結果、初めの計画から、百bほど東へ移す、という条件で妥協、同年十二月に開設されたのである」(伏字は牛鍋蝸牛)
さて、「白雪荘」についての記述がこの後続きますが、結果として、この施設は日の目を見ないで終わったそうです。
今のこのように書くと、「白石町の人は、ひどい人たちだ」となるわけですが、この後、こうこの本は述べるのです。
「(5)福祉事業の進展 F しかし美しき根は厳然として」
これは次のレスでね。<つづく>
102西創成:2003/01/23(木) 01:59 ID:sv3rkluE [ m071229.ap.plala.or.jp ]
ようやくみつけました。

「サムライ部落の場所」(戦前まで)

(1)南2東6辺り河岸。
   明治末期に出現。労災犠牲者多し。

(2)現、でんでん大橋〜一条橋、白石側河岸。
   明治40年〜大正7年。(1)の住人が豊平橋工事による立ち退き命令で移転。

(3)南1東7、現・1条橋付近河岸。
   明治末期〜大正11年。ここが侍部落の本家らしい。ここの侍は、土工を差す。

(4)旧・白石9か10条1丁目河岸付近。
   発祥年不明〜。主に遊廓からの廃棄物で生計。昭11頃から移転の動きあり。

(5)大通東14丁目河岸付近。
   発祥年不明〜昭和14〜15年。親方衆多し。鉄屑回収業中心。

(6)函館線鉄橋下河岸付近。
   昭和15年〜戦時下。(5)の住人の一部が移住。

◎昭和7年頃、(4)(5)の地域で、約300戸700人くらいいた。
103西創成:2003/01/23(木) 02:32 ID:sv3rkluE [ m071229.ap.plala.or.jp ]
「サムライ部落の場所」(戦後)

(イ)南4東5付近河岸。
   昭和21年〜。引揚者、復員者多し。

(ロ)南4東5〜大通東14付近河岸。
   昭和21年〜。集落が7〜8ヶ所あった。キャンプクロホード建設人夫もあり。

(ハ)大通東14付近河岸。
   昭和21年〜。日雇等。

(ニ)南13西1付近河岸。
(ホ)現・水車町7付近河岸。
   昭和25年〜。詳細不明。

◎一説として昭和29年、天皇来道のため激減したとあり。

◆参考資料◆
札幌郷土を掘る会「2000年度証言・講座集」
104なまら名無し:2003/01/23(木) 03:08 ID:sJo5FmiQ [ 61.195.41.37.eo.eaccess.ne.jp ]
あ、、、やや関係者かも。
うちのご先祖は八軒と円山に入植して未だに一族で住んでますが。

琴似と発寒の区画がずれてるのは、札幌と琴似の区画がずれてるのと同じで
単純に、つなげなきゃいけない(将来、区画がつながるまで発展する)
なんてことを誰も考えなかったから、と聞きました。

たとえば、人口増で琴似と円山の住宅街がつながったのなんて
3代あとの子孫にとってもびっくり仰天だったらしく、
だれも、発寒の区画の方向が違うと面倒なことになるなんて
思いもしなかったのでしょうね。

明治の人に昭和のことを予想した計画性を求めるのは酷ですよー
105なまら名無し:2003/01/23(木) 03:19 ID:sJo5FmiQ [ 61.195.41.37.eo.eaccess.ne.jp ]
>「山鼻村」の区画割は札幌と同じく「方形」を導入していますが、
>やはり接点で「ズレ」が生じていますし

ついでに、
もう誰か書いてるかも知れませんが、これは測量ミスだと聞きました(苦笑)
106西創成:2003/01/23(木) 03:21 ID:sv3rkluE [ m071229.ap.plala.or.jp ]
>>100,101  薩一夫さんですね。前にご紹介した、板垣武四前市長の自伝、「思い出すまま」によると、白石で、侍部落民受け入れのいいだしっぺは、薩さんだそうですよ。さすが、財界さっぽろ社主!?

「白石歴史ものがたり」のなかで、白石更正住宅の情況がかいてありますが、住民の経済も家庭もなかなか改善されなかったのですね。

>>102,103 について。

やはりこの部落、点と点の結びつきなんですね。その点ひとつひとつの詳しい情況は、いまとなってはわかりません。もちろん、住宅地図も無いようでした。ある意味、幻の町なのかも。
107西創成:2003/01/23(木) 04:09 ID:sv3rkluE [ m071229.ap.plala.or.jp ]
(豊平)六番地、十二番地について。

ここが、例の豊平の「細民部落」です。
豊平△条1丁目6番地と、豊平△条2丁目12番地(賛否あるので、一応伏せます。記号にヒントあり。)のことです。

日清戦争や第一次大戦後の不景気の影響を受けた失業者等が、寄り集まっていました。

大正2年、岩井鉄之助という人が同地に小屋を建てて困窮者を収容して救済しました。
大正12年には、低家賃住宅を30戸建てました。大正14年には、相談所兼公会堂を建て、「愛隣舘」と名付けました。
昭和初期には「愛隣舘」を増築し、無料宿泊所、浴室を地域の困窮者にも開放しました。
戦後、引揚者や生活保護者を受け入れ、母子寮や保育所も開設しました。
そういう話もあります。

◆参考資料◆
とよひら物語・古老をたずねて  豊平区役所発行
108月寒村:2003/01/23(木) 07:24 ID:CyJCAhHo [ spro047n114.ppp.infoweb.ne.jp ]
皆さんスゴイ。このところ、めざましい進展を示してますね。(自分で調べられないのが情けない)
五の31さん、牛鍋蝸牛さんのカキコミをみると、発祥から終焉まで一貫して、やはり東橋付近が
サムライ部落のメッカかと思えたのですが、西創成さんの直前の発言をみ、そう単純でもないみたい。

【サムライ部落(豊平川河畔系 戦中・戦後時代)に関して その3】
 やはり、一条橋付近にもあった。その一つの話として、5年程前、あるお葬式に町内の男性二人
(当時70代半ば・50代半ば、若いほうのかたについてはかなりアバウト)を車に乗せ行った帰り、
市民ギャラリーの前にさしかった時の二人の会話・・・
「ここ中学校だったよね」「うん、なんちゅう中学だったっけ」
「この辺、サムライ部落あったなぁ」「そうそう。あったねぇー」「すごかったねぇ」
「でも、彼ら家はボロだったけど、結構金持ってたんだよな」「らしいね」・・・
こんなやりとりをしていた。当時私は、サムライ部落に関しほとんど興味がなかったので、お二人に
つっこむことはなく、黙って聞いてるのみであった。菊水にはいって、この話題は終わった。
10994:2003/01/23(木) 07:32 ID:KesjvoBQ [ j120233.ppp.asahi-net.or.jp ]
>>97
ありがとうございます。
なるほど。住所表示は変えたけど番地はそのままということですか。
このあたり、碁盤目の道路が微妙にずれてますね。
110月寒村:2003/01/23(木) 07:32 ID:CyJCAhHo [ spro047n114.ppp.infoweb.ne.jp ]
 ちなみに、上にでてくる一条中学は、南2東6の北西向の角に正面玄関があり、2本の柱が立っており、丁度
昔の(今も?)中央警察署の正面玄関に似た風貌で、この正面玄関を中心に東と南に2階建校舎がのびていた。
そして、学校には屋外グラウンドがなかった。←豊平川が邪魔し敷地が狭く、当初超マンモス校で、
中庭にも校舎(体育館?)が建っていた。 初代校長によれば、新制中学発足に伴い昭和22年開校したが、
前身が女子高等小学校ということもあり、グラウンドがなかったので、すぐ隣の豊平川河川敷を整え
グラウンドに充てたという。ここに部落があったのなら、ここの人々も立ち退きを余儀なくされたのでしょう。

 私は、豊平(旭町・水車町も)と旧札幌市白石(現菊水○条1・2丁目)って、何か哀愁ただよう町、
というイメージを持っていましたが、豊平川の西側(東地区・苗穂地区でいいのか? また、
北1東15以東は旧雁来町でいいのか?)も私としては、この中に含めようと思います。

 それから、西創成さんの>>65 「骨董屋の親父さん(40-50代)によると、その方が中学のとき、
サムライ部落からも通学生がいた(平岸中)そうです。」が、どうしても気になります。
その辺(かなり南)の川原にも部落があったのか? 川原ではなかったのか? それとも???
111牛鍋蝸牛:2003/01/23(木) 08:24 ID:3RYtRDYE [ N021107.ppp.dion.ne.jp ]
>>108
「細民部落」と「サムライ部落」の関係については、後ほど述べるつもりでおりますです。
それに伴い、まだ未調査ですが、新たな(いや、古いんだけど)地名が…。
あらかじめ言っておきますのでどなたか志のある方がいれば調べてちょ。
「豊平町湯殿山裏」。
さて、ちょいとご無沙汰しています「サムライ部落」の語源、ですが、前から思っていたことがあります。
その1 「白石」と言えば、やっぱ「侍」でしょう。(これには多少の根拠あり)
その2 「細民」…「細ミン」…「サイミン」…「サミュライ」…「サミライ」…「サムライ」。(くっ、くるっしいいぃ!)
112牛鍋蝸牛:2003/01/23(木) 20:01 ID:e9uow.8M [ U127224.ppp.dion.ne.jp ]
94さんへ。
>>104
>このあたり、碁盤目の道路が微妙にずれてますね。
これが>>51>>105で出ました件です。

「サムライ部落」の語源については、一段落したらワシの"妄想"を改めて語ります。
さきに、白石発展百年史」の記述から、「(5)福祉事業の進展 F しかし美しき根は厳然として」
「これとは対照的な美談もあった。
札幌市では、保健衛生の上からも、風致の上からも、豊平川原に住む人たちを、外へ移転させるために、厚生住宅の建設を計画した。
ところが、せっかく敷地を決めると、ただちに地元住民の反対が起こり、何回ともなく、決めてはこわされ、決めてはこわされて、ホトホト困り抜いていた。
そんなとき、辻行造(本通)は、それでは市が困るだろう、またその人びとの更生も遅れるばかりだと、誰もがきらっている問題に進んで協力、本通墓地付近にある自分の土地約六千平方bを提供したので、昭和32年、二十世帯収容の更生住宅が実現したのである。
しかし、この更生住宅は、道道札幌―沼田線の開発により、特殊部落撤去収容のために建設した東橋改良住宅(北一条東十四丁目)に、昭和四十五年三月、同時に引き取られ、いまは全戸取りこわされ跡かたもない(略)」
さて、この「北一条東十四丁目」という住所、>>72の月寒村さんのレスに登場しています。
ここは現在、パチンコ屋さんが建っています。
初めは徳澤りゅうたん氏のHPにある、毎日新聞社の写真のアパートが東橋改良住宅かな?と思いましたが、年代が合わない。
しかし、ワシはあの写真のアパートは「厚生(更生)住宅」(前に、更正住宅って書いたけど、間違い)ではないかと思っています。
中流階級の住宅と、「サムライ部落」の比較という興味本位の写真を新聞に載せることはないと思うのです。
おそらくは、「今はこのように立派な厚生住宅が用意されている」という意図だろうと…。<つづく>
113牛鍋蝸牛:2003/01/23(木) 20:56 ID:e9uow.8M [ U127224.ppp.dion.ne.jp ]
以前、「新札幌市史」に「サムライ部落」のことが書いてあると書きましたが、その内容に関してはさっぱりだったワシ。
今回改めて読んでみましたら、非常に詳細に述べられていることが分かりました。
都市貧民に関しては、札幌市も昔から取り組んでいたようで、それなりのスペースを割いての記述です。
詳しくは書き込み出来ませんので、興味のある方は、是非、図書館へ行ってみてください。
ま、最初から「新札幌市史」を読めば良かった、と言えば言えちゃうのですが…。
ここへは要約を書かせていただきます。
「新札幌市史 第四巻通史四 第八篇 転換期の札幌 第七章 二 苦悩する下層社会」より。
(尚、「新札幌市史」も「札幌市社会事業のおいたち」という本を参考にしています。以後、カッコ内は牛鍋蝸牛・注)

「それ以前には民間の手にゆだねられてきた都市貧民対策は、大正中期から急速に行政の手に移ってきた。
内務省、北海道庁、札幌区各々に社会事業部門を新設、札幌をはじめ道内五大都市にも保導委員制度が施行された。
大正12年に細民調査が行われ、この時点での札幌区内の細民は、居住地5ヵ所、92戸、275人。
昭和2年の細民調査では(甲)救護を必要とする者、(乙)一朝生活中心者に事故が生じた場合たちまち救護を要する者、の二段階に分類され、甲種が12ヶ所、57世帯、186人、乙種が156世帯、535人に上り、居住地区も広範囲であった。(豊平地区は合計数が93世帯と一番多い)
細民救済の具体的施策はまず、民間主導で開始され、行政が後押しする形で行われた。(この辺りの記述では「愛隣館」のことを語っている。>>107と、ほぼ同じ内容なので参照のこと)
細民の巡回診療も行われたが、トラホームの罹患者が最も多かった。
昭和5年からは金品供与が開始され、昭和6年から13年が不況によって排出された救済人員のピークであった」
と、ここまでが「細民部落」に関しての記述。
「サムライ部落」に関しては、このあと「バタヤと新スラムの形成」からになります…。<つづく>
114西創成:2003/01/24(金) 01:16 ID:97zwwkic [ i253082.ap.plala.or.jp ]
>>112 更正住宅→住民の更正の為の住宅という意味でつかっていたとのこと。
   東橋改良住宅は、3階建てで、5棟あった。
115牛鍋蝸牛:2003/01/24(金) 20:31 ID:42EQs/pg [ N022017.ppp.dion.ne.jp ]
ひとまずは、「コウセイ住宅」に関して書かせてください。
この「コウセイ」、「白石の歴史ものがたり」と「白石発展百年史」では「更生」、「新札幌市史」では「厚生」の字を使っています。
ワシはIME2000を使っているのですが、これで「こうせい」と打つと、
「更生」―生まれ変わる。「更生して社会復帰する」「悪から更生する」
「厚生」―生活を豊かにする。「福利厚生」
「更正」―登記や深刻を改め正す。「予算の更正をする」「登記の更正」、と出てきます。

去年発売になったばかりの「類語大辞典」(講談社)によりますと、
「更生」は「直す」の項で ― 堕落していたり、犯罪を犯していた人が、生き方や考えを改めて立ち直ること。「深く反省し、更生を誓う」 類語として、「再起」「再生」「復興」など。
「厚生」は「治す」の項にあり ― 生活を健康で豊かなものにすること。「厚生施設」「福利厚生」 多く、複合語の構成要素として用いる。とあり、類語としては、「衛生」「保健」があります。
「更正」は「正す」の項にあり ― 間違いを正しいものに直すこと。「乱れた世の中を更正する」となってます。「更正登記」 類語としては、「修正」「訂正」「手直し」「改定」「是正」など。
…ってな具合です。
このように改めて確認してみると、「コウセイ住宅」というのは、「厚生住宅」と書くのが一番いいのではないかと…、とまぁ、こう思った次第です。

誠にもって、申し訳ないけど、ちょっと疲れ気味ですので、「サムライ部落」の続きはまた、明日。
今日は、「千と千尋…」でも見てください。
116西創成:2003/01/25(土) 00:58 ID:Lscs1SlA [ i099232.ap.plala.or.jp ]
>>114 訂正。更正→更生。
いま気ずきました。いやはや…私も御脳が御壊れになったかも。すみません。

「更生住宅」「厚生住宅」どっちでしょうか。
私は、「更生」だと思います。「白石歴史ものがたり」のさむらい部落の項を書いた方、白石コウセイ住宅地区の民生委員だった方ですから、間違わないとおもいますが、いかがでしょうか。前、道立図書館に行ったときに、けっこう古い市内の住宅地図が揃っていて、昭和40年位の真駒内のをみてきたことがあるのですが、白石のはみてこなかったので、あるのかないのかわかりませんが、あるかもしれないから、みてみたいのですが遠くていま行けません。
117牛鍋蝸牛:2003/01/25(土) 20:09 ID:.lov/2bk [ N022045.ppp.dion.ne.jp ]
「コウセイ住宅」は、当初は「更生住宅」という表記だったのが時代の変化もあり、その後「厚生住宅」と呼ぶようになったのではないかな?と憶測しております。
後に述べますが「新札幌市史」の第五巻通史五(上)では、「低家賃住宅(現厚生住宅)」と書かれていますので、すくなくとも最初は「厚生住宅」とは呼ばれていなかったようです。
さて、「コウセイ住宅」の表記問題はこの辺にして、いよいよ核心へ向かいましょう。
「新札幌市史 第四巻通史四 第八篇 転換期の札幌 第七章 社会生活 二 苦悩する下層社会 バタヤと新スラムの形成」より原文のまま引用。
「大正末期から昭和初期の不況期に、札幌に流入してくる失業者が浮浪者化し、豊平の細民街をはじめ豊平川沿いに集落を作って居住し始めた。豊平川にかかる東橋の右岸に、丸太を寄せ集めた上に鉄板を張り合わせて雨風をししのぐ程度の小屋が建ちはじめ、昭和九年十月には九五戸にもなっていた。新スラムの形成である。バタヤ(屑拾い)業を営むものが多いことからバタヤ集落、通称「サムライ部落」と呼ばれ、一区〜四区の区長からなる親交会を組織していた。バタヤは、紙屑、鉄屑、ガラス屑、ボロ等を扱い、月収10円の収入になった(北タイ 昭9・10・7〜13)。<つづく>
118牛鍋蝸牛:2003/01/25(土) 20:40 ID:v1ftl/iU [ B136147.ppp.dion.ne.jp ]
十二年、日中戦争突入とともに鉄屑、紙屑、古ゴムが高騰し、空前の景気に湧いたが、翌年には戦時統制のため物資供出等によりバタヤ業から日雇いに転業しなければならなくなった(北タイ 昭13・8・25)。やがて十五年、「置くにのため」に炭鉱労働者になることを会合で決議、産業戦士として立ち退くことになった(北タイ 昭15・11・10)。
なお、十四年には「サムライ部落」から応召者五人を出した(北タイ 昭14・12・23)。また、南一条橋下流沿いにもスラムが形成され、昭和十年の国勢調査段階で九人居住が確認されている(北タイ 昭10・10・2)。彼等は、白石遊廓地帯を中心とする紙屑拾いをおもな業とした」
「新札幌市史」による札幌の貧民層に関する、戦前の記述は以上です。
戦後の記録は、同じく「新札幌市史 第五巻通史五」に詳記されています。
つまりは、「豊平細民部落」と「サムライ部落」には直接の相関は見られないと、こう言っても良いのではないのでしょうか。<つづく>
119牛鍋蝸牛:2003/01/25(土) 20:53 ID:v1ftl/iU [ B136147.ppp.dion.ne.jp ]

「置くにのため」はもちろん、「お国のため」の間違いです。
ごめんなさい。
ちゃんと推敲しなけりゃいけませんね。
さて、>>118の続きはまた明日ということにしまして、遅ればせながら今回のような"びみょ〜な"地名を取上げるに当たって、ワシのスタンスを皆さんにご理解いただくべく、座右の銘をご紹介しておきたいと思います。
「無知は誤解を、誤解は偏見を、偏見は差別を生む」  (思想家 ビーフフォンデュ・エスカルゴの言葉)
120月寒村:2003/01/26(日) 02:17 ID:HTOwuFkk [ spro046n176.ppp.infoweb.ne.jp ]
 わたくし、なにを血迷ったか、東橋周辺を徘徊してきました。その中で、この辺に古くから住んでいる方から
ほんの少々お話を聞くことが出来ました。いきなり、サムライ部落の話に触れるのもなんなんで、たわいない
ことから聞き始め、いけると思ったらサムライに持っていった。ただし、私は気が弱いので、尋問のように
詳しく問いただすことは出来ず、数分の立ち話に終わった(後から思えば、もっと色々聞けばと)。収穫と
いえるほどのものはないが、ある種の自己満足はしています。その報告をさせてもらいますが、人物等に関し
今回は一応、ボカシをいれさせていただきます。

 その前に、昨年12月、北1条東11丁目に、何故か立ち寄った時の話をさせていただきます(私は酒好き)。
ここの南北に走る細い通りは以前、「銀座通り」(だったっけか?)と呼ばれ、飲食店が軒をつらね、
国鉄職員等の客で結構賑わっていたらしい。今も数軒の店がある。
 一件目居酒屋、二件目スナックにはいり、変な客と思われるのを覚悟で、サムライ部落のことを
聞いてみたが、どちらの方も10年ほど前にこっちに移ってきたとのことで詳しくは分からないと。
 三件目のスナックのママは、40年程前に15才で地方からこの辺にこしてきて、
この店はお兄さんの後を引き継ぎ(だったっけか?)、20代でママとなり、この店を続けているという。
20代ママには、まわりからから結構とやかく言われたらしい(まだ早い等)。
 例によって例の質問をぶつけてみたら、この店にもサムライ部落からのお客さんがきていた、と。彼らは
「ママ、俺、そこのサムライ部落からきてるんだ」と自らカミングアウトしていたよう。また、彼らに
「ママ、今度遊びにきなよ」と、よく言われてたらしく、それは流石に怖くて一度も行ったことはなかった、と
いう。この「怖くて」は、特に何かされるとか、そういう意味ではないと、私には感じられた(言葉のあや)。
(続く)
121月寒村:2003/01/26(日) 02:33 ID:HTOwuFkk [ spro046n176.ppp.infoweb.ne.jp ]
>>120の続き)
 私の「彼らは雑品屋さんみたいなことをしていたのかな?」の問いには、ママ「いやいや、雑品屋さん
ちゅんでなくて」と。私「廃品を集めてきて、そういうところで換金してもらってた、みたいな?」
ママ「そんな感じかなぁ」と。(雑品屋と廃品回収業では、微妙に違うのかな?)
 私「部落の様子はどうだった?」の問いには、ママ「滅多に堤防の上なんか歩かなかったし、
たとえ用事があって歩いたとしても、そんなしげしげと見ることもなかった。なんかあんまり記憶にない。」
みたいに答えられた。昔のことで、忘れかけてた記憶という印象。部落の実際の生活については無頓着?
ママいわく「そんなこと聞くお客さんは初めて」と。
 これらの問答から、私のみたかぎり、このママは部落の人々に対し偏見などは持っておらず、特別な目で
みてはいけない、という気持ちがあったのではないかと感じられた。
 ママによると「彼らは、言われなければ、そうとは分からないし、酒癖も悪くなく、会計もキチッとしており、
いいお客さんばかりだった」と。(←「ばかり」と書いてしまったが、そう言ったかどうか? 何人くらい来て
いたか聞けば良かった)
 でもママ、年齢鯖よんでない? まあ、ママも女性だし。「40年程前」は、もう少し前では?
そうでなきゃ、22・3でママになったとしても、札幌オリンピック直前まで部落はあったってことになる。
あったのか??
(続く)
122なまら名無し:2003/01/26(日) 03:33 ID:oJKCUa16 [ PPPa213.e14.eacc.dti.ne.jp ]
>>121
うろ覚えですが、札幌オリンピックの際にサムライ部落が撤去されたと
いう話を聞いた事があります。

たしか、ここのBBSか212ちゃんねるで、サムライ部落出身者の方から書き込みがあったと
記憶してます。

ソース無いんでsageます。
123西創成:2003/01/26(日) 10:58 ID:KfdTSdZY [ i104139.ap.plala.or.jp ]
>>117  コウセイ住宅の件、了解しました。

>>122  さむらい部落の終焉は、オリンピック前頃でいいと思います。
124菊水上町:2003/01/26(日) 11:02 ID:xevYdRbA [ h065.p184.iij4u.or.jp ]
>>122
この話題が上がった時から、当該URLを提示していいものか
ずっと判断が付かないでいました。しかしここまで考察が進んでくれば
いずれたどり着くスレッドであると思いURLを投稿させていただきます。

▼北海道って部落差別ないってほんと?
http://piza.2ch.net/log2/hokkaido/kako/947/947351124.html

地元の話題だったこともあり、当時は好奇心いっぱいで読んでいました。
あくまで2chに書き込まれた投稿ということで確たる情報ソースとは言えません。
考察の確かな裏付けとはなり得ないかも知れませんが、興味深く読めるかと存じます。
125西創成:2003/01/26(日) 11:36 ID:KfdTSdZY [ i104139.ap.plala.or.jp ]
>>119の牛鍋さんの座右の銘をうけて、細民街とさむらい部落のはなしをします。

この前簡単にしましたが、今回は少しちゃんとします。


明治4年、「開拓使開墾係、辛未市中人別申出綴」によると、市中居住者総数、160戸。
そのなかに、日雇・土方を渡世(職業)とするものはない。
ただ、札幌建設が開始されているのに、人夫がいないはずもなく、一説によると、札幌区内で、この年の春、職工人夫は千数百人いたとのことである。ただこれら人夫は、人夫小屋に収容・監禁されており、市中に住んでいなかったから、市中居住者に数えないのである。
人夫小屋は最初、西部にあったが、西部は水が豊富ではなく、2〜3年で、豊平川付近に移ったようである。土方人夫は、毎日水でからだを洗う。そのため、水の豊富な川縁に移ったのは当然といえよう。(つづく)
126西創成:2003/01/26(日) 12:18 ID:KfdTSdZY [ i104139.ap.plala.or.jp ]
人夫達が市中に住むようになったのは、屯田兵入植後以降らしい。
明治15年の「札幌市街政表」には、細民の報告はない。
明治15年4月、札幌東部で洪水があったが、南3条以南東各町(創成川と豊平川の間)で、被害を受け、公費救助を受けた内訳は、

◎内訳(計231人)

男 151(人)
女  61
子  19   であった。単身者が多い。

明治17年に、区内で、賭博で逮捕された5グループのうち、職業・日雇としたものは多数おり、市内各所に居住していたが、多くは商家の従業員であったが、次の者らは、人足である。

(1)南5東3 日雇
(2)南2東2 日雇
(3)南2東2 日雇
(4)豊平橋前 鉄道修繕雇・人夫

これをみると、南2条以南東各町(創成川と豊平川の間)に、人足街が形成されつつあったと読める。

全国的に不景気だった、明治17年、札幌区の人口は、前年比1252戸・807人と増えた。戸数と人数から、単身者が多いことがわかる。これにより、明治17年が細民街の成立時ではないかとのこと。(つづく)
127西創成:2003/01/26(日) 12:42 ID:KfdTSdZY [ i104139.ap.plala.or.jp ]
ただ、「南3条以南東各町」とよばれたこの地域は、土工・人夫・力役者が集中していたが、定住地ではなく、安定した職業を地区の有力者などに斡旋してもらい、次第に他所へ移っていく通過点であった。
この頃は、有力請負人を除いて、普通、請負人(親方)はこの地域に住んでいた。
侠気の持ち主も多かったという。

定住がはじまったのは、1890年代であるという。
この頃になると、人夫には家族持ちも増え、親方衆はこの地域を出ていった。この地域の人夫達は仕事を失った。(河川交通の衰退も影響)それで、この地域は貧民街となっていくのである。
128西創成:2003/01/26(日) 13:06 ID:KfdTSdZY [ i104139.ap.plala.or.jp ]
細民街の豊平、川岸への拡大は、明治後期とみてよい。第一次世界大戦後の不景気等によるものであるといえる。
「さむらい部落」については、現・市民ギャラリー裏、川岸のごみ捨て場で、労災で障害などをもった人々が、拾い物をして暮らしていた人々がその場所に住み着いたのが発祥らしい。
129五の31:2003/01/26(日) 13:32 ID:KdS71nkk [ J026004.ppp.dion.ne.jp ]
>>119

「生まれながらの差別主義者はいない。差別は学習の結果である。」 五の31名言集より

市営住宅はまだ人が住んでいると思います。住所や建物の名称を挙げるのは控えたほうがいいんじゃないでしょうか。
130五の31:2003/01/26(日) 13:37 ID:KdS71nkk [ J026004.ppp.dion.ne.jp ]
>>124

私が大学に入ったころだから三十年前の話です。
関東出身の学生が「藤の学生に『札幌はきれいな街だね』って言ったら、『菊水にスラムがある』と言われた」と話していました。
アルバイト先の先輩が菊水上町に住んでいたのでその話をしたら、「川の反対側にあったんだ」と彼はちょっと怒って言いました。
前のスレッドに書いたのがこのとき聞いた話です。

近くの河原にあった→川沿いの住宅街にあった→その地域には今もスラムがある
となってしまうでしょうね。
地名その他を挙げるときは十分注意したいと思います。
131西創成:2003/01/26(日) 13:39 ID:KfdTSdZY [ i104139.ap.plala.or.jp ]
明治44年12月24日付・北海タイムスに、「新任警察署長が、12月23日に、大通5・南4東5・豊平町の貧民窟を視察された。」とあるので、同年には、豊平にも細民街が出来ていたのは間違いない。

記事要約すると、
署長曰く…
・差し詰め困ったものなく安心した。
・大概は、出面(日雇)にでていた。
・家の周囲が不潔で、注意した。

同行した、警部曰く…
・雪で職業失った者の多く→炭俵を買う。一俵あたり八厘一銭位儲かる。
・介箱を探して歩くも者もいる。
・藁靴を作っている者もいる。一足三銭の利あり。
・食物は馬鈴薯等だが、米食っているものあり。
・夜具、満足になし。
・薪、河原で拾う。生木でよく燃えない。火の粉がとぶので、火災の憂いあり。衛生とともに注意した。
・子供、学校へ出てないもの多し。
とある。

ただ、細民街では、役人等の視察があると、事前に情報が流れ、役人のみる細民街には、住民の演出があったという。
132西創成:2003/01/26(日) 14:36 ID:KfdTSdZY [ i104139.ap.plala.or.jp ]
話、休んで。

>>129,130 そうくると思った。それが差別でしょう。

>>129 だれも、市営住宅=更生住宅と言ってない。

>>130 貴方の理論、単純すぎませんか。

細民街、サムライ部落共に、書いてある本には、ほとんど住所書いてあるし、ここに書いてある住所等はその範囲内だし…。
だめですかねぇ。

五の31さん、無礼お許し願います。
この件について、総論としてどうお考えでしょうか。私は、貴方のレスをあらためて読まさせていただきますと、『語ってもよいが、具体的には×』と受け取りました。

この件は、そっとしておいて、なかったことにした方がよいのでしょうか。
お考え、参考にしたく思いますが、当方のようなタクランケでもわかるようレス願えませんでしょうか。
133西創成:2003/01/26(日) 19:53 ID:Paz0MvB6 [ i104038.ap.plala.or.jp ]
>>131のつづき

明治45年1月9日付、北海タイムス紙に、記者の探訪記事がある。
「貧窟の吹雪」とある。
住民の様子が出ているが、省略したい。

以下、次回。
134西創成:2003/01/26(日) 20:15 ID:Paz0MvB6 [ i104038.ap.plala.or.jp ]
横道のはなしですが。
牛鍋さんご指摘の、昭和初期の市内における浮浪者増加にまつわる話を1つ。

来道された皇太子に、ルンペンストーブの由来について聞かれた、北大・高倉名誉教授は、「苗穂の空き客車に集められた浮浪者」が考案したと説明したそうです。(ストーブの由来には諸説あり)
その、「苗穂の空き客車に集められた浮浪者」ですが、
昭和初期、増えた浮浪者は札幌駅の1・2等待合にたむろしたそうです。
だが、彼らのせいでソフアーに蚤、蝨がわいて客からの苦情が多く、札幌駅は苦慮し、苗穂留置線に客車を置いて、収容したというはなしです。
135なまら名無し:2003/01/26(日) 20:27 ID:iXm70SGE [ EATcf-93p143.ppp15.odn.ne.jp ]
おいおい、書きすぎでないの?
少しは言葉を選べよ。
136牛鍋蝸牛:2003/01/26(日) 22:15 ID:vugIKo6. [ U126191.ppp.dion.ne.jp ]
>>129
「生まれながらの差別主義者はいない。差別は学習の結果である。」 
これは、町の思想家 ビーフフォンデュ・エスカルゴに言わせると、こうなるね。
「生まれながらの差別主義者はいない。差別は誤った学習の結果である」

土地々々にいろいろと曰く因縁があるという事実は、避けようにありません。
しかも、土地の因縁とは即ち、人の因縁であります。
そしてここは、(白いも黒いも含めた)「札幌という土地の因縁」を語るスレなのです。
「因縁を語る…」、それを避けることはこのスレの存在自体を否定することになりましょう。
ああ、恐ろしや、恐ろしや…。
とは申しましても、あくまでも"インターネット掲示板"という場ですので、当然、自ずとルールがあるわけです。
こんなことを言うのもおこがましいのですが、"おかげさまで"このスレは、ワシが多少おちゃらけていることを除きますと、皆さん大変真面目に書き込みされている、良スレでございます。
今回の場合も、個人名を出す(個人が特定できる)、蔑称を使用する、誹謗中傷発言をする…などの問題もなく、皆さん真摯な態度で臨まれています。
ってことで、今のところは五の31さんに特にご心配戴くこともないようです。
ま、五の31さんに限らず、今後「これはさすがにイカン!!」ということがあったらご指摘ください。
ワシとしては是々非々をもって、その都度検証させていただきたいと存じます。

もうちっと、詳しく述べさせていただきますと、具体的に地名を挙げることが差別に繋がるとはワシは思っておりません。
逆に、地名を挙げ、その詳細を述べ、実態を分かっていただくことが差別を無くす最善の方法であると信じます。
なぜなら、「差別」とは「いわれのない区別」、「人に対して不当に区別すること」を言います。
つまりは、「差別」とは実態のないもの、人の心の問題そのものなのではないでしょうか?
そしてその「心」は、無知や蒙昧によって形成されるものであるとワシは思うとります。
今日の道新の総合面4、「今を読む」に、「無知からくる無残な行為」という投稿記事が出ています。
内容がどうのとは申しませんが、興味のある方はご一読を…。
この記事には、「生活の視点でアジアを学べ」という小見出しも付いていますが、このスレなんかは言わば、「生活の視点で札幌を学ぶ」スレかな?

「サムライ部落」本編の続きはまた明日。
今日はこの辺で…。
137なまら名無し:2003/01/26(日) 23:55 ID:leOBERXU [ i219031.ap.plala.or.jp ]
詭弁だな
138牛鍋蝸牛:2003/01/27(月) 07:32 ID:CVvcESRM [ E168135.ppp.dion.ne.jp ]
>>137
詭弁ということは、「一応、論理としては成り立っている」というお褒めの言葉と理解します。
ま、どこが、どう詭弁なのかの説明がないのが残念ですが…。
13918丁目:2003/01/27(月) 08:01 ID:L4s5i6hk [ SODfi-02p1-20.ppp11.odn.ad.jp ]
以前月寒村さんが提示された
「近代的アパートと対照的なスラム街。北海道札幌市」
の写真は、背後の山の迫り方から
西創成さんが提示された
(ニ)南13西1付近河岸。
に近いのではないかと思います。

菊水上町さんが示された、2ちゃんねる過去ログでも、元サムライ部落出身の方のカミングアウト
がありました。つぶされては(あるいはつぶしては)移転の繰り返しで、その場所の選定は必然と
空き地で、しかも仕事のある街からそう遠くない場所になるようです。
当然、明治・大正時には既に住宅地となっていた山鼻、円山、琴似や、田舎すぎる札幌村、月寒村
などには成立しないのは当然かもしれません。
社会事業の発達によって、表向きはこのスラム問題も解消されたようにも見えますが、
昔はみんな貧乏だったし、それなりに助け合っていた、それがあたりまえだった。
現代、まれにこの社会事業に漏れたと思われる人の、貧困が原因の餓死や犯罪のニュース
で驚くことがある。孤独な貧乏より、助け合いの貧乏のほうが良いな。
地名情報のスレッドなので、昔ここは××だったというのはあたりまえで、ことさら
隠したり、歪曲したりすることはないと思う。
140牛鍋蝸牛:2003/01/27(月) 12:03 ID:92Kc/was [ N021180.ppp.dion.ne.jp ]
さて、「新札幌市史 第五巻通史五(上) 第九編 大都市への成長 第六章 戦後の市民生活と社会運動の展開 三 ヤミ市と河原居住者問題」より引用。
「敗戦後の札幌には、戦災者、引揚者、復員者が流入してきた。札幌でもこの対策として住居政策を行ってきたが、職も住むための住居もない人々が戦前からスラムを形成していた豊平川の河川敷に廃材を集めて小屋を建て居住するものが現れた」
つまり、ここに至って、「サムライ部落」には、また新たな人々が集まってきたわけです。
ここより要約させていただきます。
「初めは東橋の右岸に出現し、次第に左岸にも居住者が現れ、ほとんどは仕事を持たない「底辺」で暮らす人々であった。これらの河原居住者に対し、二十四年八月、真駒内の進駐軍から都市の美観・風紀上問題があること、進駐軍の捨て場にするための用地確保の理由で撤去命令が道と札幌市に出され、第一次移転が行われた。移転地は東橋下流の左岸堤防敷地と、塵芥焼却場付近の市有地であった。
第一次移転後、今度は豊平橋上流の両岸及び幌平橋上流地にかけて仮小屋を建て居住する者が出た。居住者の中には養豚業、雑品仲買業・商業・理髪店などを営むものも現れ、ヒロポン中毒者がたむろする地域となり、札幌市でも対策を打つ必要に迫られた。二十五年・二十六年度に移転のための予算が組まれたが、移転候補地住民の反対運動で実現には至らなかった」<つづく>
141牛鍋蝸牛:2003/01/27(月) 21:50 ID:YpLpDv16 [ U127224.ppp.dion.ne.jp ]
引き続き、「新札幌市史第五巻通史五(上)」からの要約。
第二次移転計画が昭和三十年頃に持ち上がる。札幌市社会福祉協議会が、要保護世帯の更生運動に呼応して移転用地1000坪の無償提供や小住宅八棟・四十八戸の建設資金の交付を申請したのを機会に、札幌市長も厚生省に生活保護法による宿所提供施設設置の申請をする。この結果、従来からの生活保護施設静心寮・札幌明啓園に加え、東苗穂町に東明寮が開設され、三施設となった。
低賃金住宅(現厚生住宅)建設も移転用地候補地住民との話し合いの結果了解され、琴似八軒、白石平和通りに各20戸ずつ建設された。三十一年から三十二年にかけて行われた移転で、東明寮などの保護施設には49世帯・64人が、琴似・白石の厚生住宅には、40世帯・185人が収容され、この他にも「自力転出者」が103世帯・214人おり、それらの人々には援助金が支給された」
※ 牛鍋蝸牛注・ここらの記述は、「民生事業史 第一遍」からだそうです。<つづく>
142牛鍋蝸牛:2003/01/27(月) 21:50 ID:YpLpDv16 [ U127224.ppp.dion.ne.jp ]
「しかし、札幌市の河原居住者の移転問題はこれに終わらなかった。なぜなら、二十四年の第一次移転で東橋下流の左岸堤防へ移転した人々は家財道具からなにからそのまま移転させていたので、再びスラム化するのは時間の問題であったからである。
三十八年ころから、この地区に札幌と江別を結ぶ道道札幌―沼田線道路建設計画がもちあがった。
建設理由は、初期には国鉄苗穂駅東側の踏み切り混雑解消であったが、札幌冬季五輪が決定すると五輪道路建設に変化した。この地区には、四十四年段階で143世帯が居住していた(道新 昭44・7・22)。
このため、札幌市や建設開発部と地区住民の話し合いが5年にわたり続けられ、結果、市土木車両事務所跡に改良住宅を新築し、移転することが決定した。改良住宅は、四十四年十二月鉄筋コンクリート四階建二棟、ブロック二階建三棟の計104戸が完成(札幌住宅年報76)、地区住民も収容された。これが最後の移転である」

以上が、「新札幌市史」における「サムライ部落」に関連する記述です。
143五の31:2003/01/27(月) 22:13 ID:J6YLBdi2 [ J008181.ppp.dion.ne.jp ]
>>41
>「豊平、白石は、ろくたら所でない」

「屯田兵、ろくなものではない」の誤りじゃないでしょうか。

同時期に札幌区に編入されながら、山鼻町(中央区役所辺りから南)は白石町(今の菊水)や豊平町(今の豊平や旭町、水車町)に比べかなり開発が遅れました。
一つは薄野に遊郭があったことが原因かと思います。
以上は事実です。

これを嫉妬した山鼻町の住民が「川向こう」という言葉を発明したと聞いたことがあります。
これは事実かどうか知りません。
144なまら名無し:2003/01/27(月) 22:18 ID:J6YLBdi2 [ J008181.ppp.dion.ne.jp ]
>>132

白石区老人クラブ連合会の本にある三ケ所の移転先のうち、白石(JR駅付近)は消滅したかもしれませんが、
残る二ケ所の消息は不明です。今も住んでいる人がいるかもしれません。
差別する自由を侵害するのは差別であるという論理かもしれませんが、
失うものの大きさを考えてください。
まだ住んでいる人がいるかもしらないし、そこに住んでいたことで何らかの差別を受けるかもしれない。
慎重に対処すべきです。
145五の31:2003/01/27(月) 22:25 ID:J6YLBdi2 [ J008181.ppp.dion.ne.jp ]
>>132
差別が学習の結果であることに依存はないわけですね。

で、言ったことや書いたことが完全に伝わるか。
応えは否です。
言い方や書き方の問題もあるし、聞き方や読み方の問題もある。
だからこそ、地名を挙げることは慎重にしたいのです。

貴殿の考えが正しいならば、同和問題などとっくのとうに解決しています。
部落地名一覧などという本も差し障り無く売られています。
なぜそうならないか、謙虚な気持ちで考えてはいかがでしょう。
146牛鍋蝸牛:2003/01/27(月) 22:47 ID:YpLpDv16 [ U127224.ppp.dion.ne.jp ]
>>144
>差別する自由を侵害するのは差別であるという論理かもしれませんが
これね、ダメ。
言い過ぎ。
147なまら名無し:2003/01/27(月) 23:09 ID:.hh6t4XQ [ 1Cust186.tnt1.chitose.jp.fj.da.uu.net ]
このスレ前は楽しかったけど、最近見るのつらい。
148牛鍋蝸牛:2003/01/27(月) 23:27 ID:YpLpDv16 [ U127224.ppp.dion.ne.jp ]
え〜っと、ここは地名スレですので、地名に関する論議ということで一つお願いしたい。
内容によっては具体的地名を挙げるのはどうか、という論議は、地名スレに関連することですからOKだと思えますが、それから逸脱する内容は自粛願いたいと思います。
このままだとどっか変な方向へ行きそうなので、老婆心ながら…。
それと、余裕のない論議は個人的にはご勘弁願いたいねぇ。
ユーモアのセンスも忘れずに…。
14918丁目:2003/01/27(月) 23:32 ID:9mfEbgpE [ SODfi-02p5-90.ppp11.odn.ad.jp ]
■ 札幌丘珠事件
この事件は日本の熊害史上3番目の悲惨な事件である。「丘珠村の追想」という詩まで作られ、明治の開拓者によって語り継がれたという。
ことのきっかけは、明治11年1月11日、猟師が札幌丸山の林内でオスの穴グマを撃ち損ね、襲われて死亡したことに始まる。その後、穴を
追われたこのクマは、飢えて札幌の町を走り回ったため、札幌警察署は駆除にあたった。17日、駆除隊は編成され、その指揮は警察吏の
森長保が執った。この日クマを平岸で発見、後を追ったが、月寒、白石と逃げられ、雁来までは確認したが、猛吹雪のため見失った。
その日の深夜から翌日未明にかけて、そのクマは丘珠の炭焼小屋に侵入した。この小屋には堺氏倉吉一家と雇女が寝ていたが、クマは主人
と幼児を喰い殺し、残った妻と雇女も重傷を負った。日が明けて18日昼に、駆除隊は付近の山中でクマを発見し射殺した。そのクマは解剖
され、胃の中からは2人の遺体の一部が発見された。この解剖を担当したのは新渡戸稲造博士であるといわれている。この遺体の一部と
クマの剥製は現在も北海道大学付属植物園に保存されている。

スレの流れとは全く関係ないけど、以前私が古地図を見て疑問に思っていた「山中」についての記述ではないかと思われるのでコピペしました。
少なくとも大正5年、昭和12年の地図には載っており、場所は現在の「ふしこ地区センター」「生協新道店」あたり。

唐突ですみません。耐え切れなかったもので(w
150牛鍋蝸牛:2003/01/27(月) 23:35 ID:YpLpDv16 [ U127224.ppp.dion.ne.jp ]
>>147さん、ごめんね。
もうしばらくしたら、前みたいに楽しいスレに戻ると思います。
ワシにも反省するべき点はあると思っています。
どうです?皆さん。
もうそろそろ、矛を収めるというわけにはまいりませんか?
レスを書くのに、ストレス感じてもしょうがないと思いますけど?
151牛鍋蝸牛:2003/01/27(月) 23:49 ID:EcB.M/g6 [ U127116.ppp.dion.ne.jp ]
みんな寝た?
起きてるくせにぃ〜(w
明日になったらきっと元に戻っているでしょう。
じゃ、お休みなさい。
15218丁目:2003/01/28(火) 00:08 ID:.Cz/Hc2E [ SODfi-02p3-26.ppp11.odn.ad.jp ]
牛鍋さんごみんなさい。
私、レス>>20で、初めて「細民部落」のことを、どさくさに紛れて書きました。
なんかそこらあたりから何か殺伐としてきた感が・・・(インターネット掲示板だから
多少はいいか?)

マイナー地名も数に限りがありまして、そこは以前何度も語られているが、裏面史
のようなところにネタが行き着く運命にあると思います。

ところで皆さん「吉田山」って知ってる?
15318丁目:2003/01/28(火) 00:21 ID:.Cz/Hc2E [ SODfi-02p3-26.ppp11.odn.ad.jp ]
皆寝たかな本当に。
よ〜し一人でやるぞ〜
・「小樽内」・・・これ本当に札幌の地名なんだって!
・「冷水」・・・ひんやりして良い地名ですね
・「横新道」・・・地場の人はよく使う呼称だが大正時代からの地名なんだね。
154牛鍋蝸牛:2003/01/28(火) 00:32 ID:bOHaAHhY [ B136173.ppp.dion.ne.jp ]
へっへ〜!
起きてた!
まっ、ねぇ…。
ネット掲示板だから多少、荒れるのはしょうがないんだけどね。
「サムライ部落」だって、それ自体はワシやってよかったと思っていますよ。
その発生の原因として挙げられるのは、単に個人の貧困や病気だけではなく、冷害や不況、戦争といった社会的要因が大きかったのだということが分かりましたし。
大正時代から、民間の福祉活動や行政の活動というものがあった、という事実も知りましたしね。
今回だって、十分勉強になりましたよ。
ま、ヤバイネタの扱い方も、ちょっとは勉強になったかもね。

18丁目さんね、ちょっと話はズレるけどさ、>>149
"耐え切れずに"書くわりには、くら〜い話だよねぇ(w
もう少し明るい話題はなかったのかよ、と…。
も、よりによって、「胃の中からは2人の遺体の一部が発見された」かよ!と(w
15518丁目:2003/01/28(火) 00:46 ID:J4iRA9Fw [ SODfi-01p2-139.ppp11.odn.ad.jp ]
牛鍋さん
>>149の熊の事件、史上3番目よ。
2番目と1番目はもっと悲惨よ。
何故か平野のど真ん中「丘珠」の隣に「山中」という地名なのか?がとっても疑問で、
以前から気になっているんですが、情報がなく非常に歯がゆい状態なのです。
156対山橋:2003/01/28(火) 01:00 ID:dW.ZCdJs [ hospro001024.adsl.ppp.infoweb.ne.jp ]
 はじめまして。
 初めてこのBBSに来て、レスを全部読むのに5時間かかりました(笑)。
 実は私、幌南小→柏中と出ているので、遥か昔に話題になっていた柏中の
由来を…と思ったのですが、教わった記憶も文献もない(爆)。在校中に
「開校○周年」の行事でもあれば、記念誌なんかもらえて(買わされて?)
数々の歴史を紐解けるんでしょうが、残念ながら42期生なもので…。
 とはいえ、幌南小での開校50周年誌はあるので、ぱらぱらとめくってみる
と、「幌南小の校章のこころとねがい」のなかに、

  当時(注:昭和11年ころ)山鼻方面は、かしわの木が沢山生育して
 いたので、かしわの葉三葉とかしわの実3ケを組合せたものを主体に
 してそれぞれ正三角形に形取った。

とあります。…ということを考えると、昭和21年開校の柏中も、同じような
由来であろうかと思われます。正確でなくて、申し訳ないのですが…。

 それと、中島公園・流通センターに続いて、誰もが知っているのに意外な
地名として「藻岩山」があると思うのですが、過去ログを見返しても話題に
なった形跡がないのですが、「札幌市南区藻岩山○番地」という住所は、
しごく当たり前に身についているものなのでしょうか?
 近くに住んでおきながら、「藻岩山」が地名であると最近気付いた私って…。

 長々失礼しました。ぼちぼち来ますので、よろしくお願いします。
157対山橋:2003/01/28(火) 01:02 ID:dW.ZCdJs [ hospro001024.adsl.ppp.infoweb.ne.jp ]
↑ あら、長すぎて省略されちゃいました。すみません。
 読みにくいと思うので、省略部分を再掲。

 それと、中島公園・流通センターに続いて、誰もが知っているのに意外な
地名として「藻岩山」があると思うのですが、過去ログを見返しても話題に
なった形跡がないのですが、「札幌市南区藻岩山○番地」という住所は、
しごく当たり前に身についているものなのでしょうか?
 近くに住んでおきながら、「藻岩山」が地名であると最近気付いた私って…。

 長々失礼しました。ぼちぼち来ますので、よろしくお願いします。

でした。
158なまら名無し:2003/01/28(火) 05:40 ID:1ePvkpqE [ YahooBB219168050041.bbtec.net ]
>18丁目さん
吉田川のあたりの小丘?ですか。
15918丁目:2003/01/28(火) 07:39 ID:xi24792. [ SODfi-02p1-76.ppp11.odn.ad.jp ]
>>158
うーん良くわかんない(w
大正5年版五万分一地形図の、大谷地の手前あたりにある。
今の北星学園大学のあたりだと思います。
吉田川も最近知ったので、そのあたり土地鑑ありません。
158さんご存知ですか?
16018丁目:2003/01/28(火) 07:52 ID:xi24792. [ SODfi-02p1-76.ppp11.odn.ad.jp ]
対山橋さまはじめまして。
藻岩下○番地、藻岩下×丁目なんかよく聞くけど、藻岩山って住所はさすがにね。
灯台下暗しですか。
16118丁目:2003/01/28(火) 08:03 ID:xi24792. [ SODfi-02p1-76.ppp11.odn.ad.jp ]
藻岩山は確かに住所ですね。
でも例のデータ↓によると人口ゼロです。
ttp://www.city.sapporo.jp/kikakuchosa/statdata/databank/chiikibetsu/excel/jou200204.csv
162西創成:2003/01/28(火) 10:23 ID:v1RW9vPk [ o052129.ap.plala.or.jp ]
あらあら…。
私が、風邪ひいて早く寝っちまった、こんなんんなってたのね。

牛鍋さん、ごめんなさい。18丁目さんも申し訳ない。心から感謝いたします。
この「札幌最大のタブー?」のことは、私もやめます。

5の31さん、あなたの意見よくわかりました。私は賛同しかねますが、あなたに私が意見をもとめましたので、とりあえずお礼申します。

18丁目さん。
「吉田山」。豊平区体育館の北側の方に「吉田川公園」がありますが、関係があったとおもいますが。
「吉田」地主かなんかだとききましたが。

「小樽内」。昭和25年、定山渓観光協会発行「自然化學と定山渓温泉」に、鐵道の山の家(小樽内に在り)とあります。

とりあえず、わたしは医者へいきます。
163158:2003/01/28(火) 10:24 ID:1ePvkpqE [ YahooBB219168050041.bbtec.net ]
>18丁目さん
えーと、子供時代には「吉田さんちの山」なんて言ってました。
あと、吉田さんとこの川でトン魚取るべ なんて。

この、吉田さんとは
元は、仙台藩は白石城の武家で「吉田○太郎」(○は忘れました)
旧大谷地 地区に開拓入植した御仁です。

この御仁、奇特な方でして 開墾整地した私有地を、学問場として
村人に提供したり、学校を造るならと村に土地を寄付された方です。
さらに、地名の通りヤチだった場所に、排水灌漑溝や
厚別川から通じる用水路作りにも帆走しました。

最後に場所ですが、南郷19丁目から月寒東3条19丁目あたり一帯です。
吉田川公園に案内板があったと思います。
164158:2003/01/28(火) 10:26 ID:1ePvkpqE [ YahooBB219168050041.bbtec.net ]
>西創成さん
うー、5分前に・・・鋭い感覚に敬服です。
165牛鍋蝸牛:2003/01/28(火) 10:53 ID:cMQ01DnU [ U127194.ppp.dion.ne.jp ]
>>163
○の中身は、なんじゃろな!?
「善」です。
そして、吉田さんの土地全部でなく、「吉田山」の位置ということであれば、失礼ながら158さんのおっしゃるところはちょっと違うようです。
うちの大正5年(頃)二万五千分の一の地図に吉田山が出ています。
現在の「本通18丁目南」から「栄通19丁目」あるいは「18丁目」にかけてのようです。
今の「大谷地小学校」付近から南あたりとなります。
岩手出身の吉田善太郎さんは、どうやら偉い人だったようで、この学校も関係あるそうですね。
お風呂入りますので後ほど。
西創成さん、お大事に。
インフルエンザじゃないことをお祈りしています。
ワシャ、ワクチン接種済み!
166牛鍋蝸牛:2003/01/28(火) 12:15 ID:cMQ01DnU [ U127194.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=484 
「吉田山」の大正5年頃の地図をアップしました。
なお、"頃"というのは、複数の年の地図を集成しものだからです。
地図上の「吉田山」から真北、現在の国道12号線のところに、水準点と三角点が表示されていますので、現在の地図と比較する際の目安にしてください。
各々、標高22.23mと26.7mです。
167牛鍋蝸牛:2003/01/28(火) 18:37 ID:OEkfifL. [ N022045.ppp.dion.ne.jp ]
「吉田山」はまだまだ書けますが、あまり一人で書き込むのもどうかと思い、皆さんのレスを待ちつつ…。
さて、対山橋さんは「たいざんばし(きょう)」でよろしいのでしょうか?
それとも、「つやまばし」?
なにやら石川県の方に「対山橋」があるようですが、読み方が分からない(泣
もしかして一般教養だったら恥ずかしいけど…。
そうすか…。
レス読むのに5時間かかりましたか。
「壱」 からですよね。
5時間で読めるんだなぁ〜。
どのくらいかかるのかな?と思っていたものですから。
じゃ、これから人に「最初から読んでね!」という場合、1スレ1時間と言えばいいわけですね。
168月寒村:2003/01/28(火) 19:28 ID:/zjXYTq2 [ spro047n181.ppp.infoweb.ne.jp ]
 所謂サムライ部落に関するレスが、最近変に油っぽくなってしまった原因が、私のカキコミから・・・私が
詳しく知りたいと言ったことが・・・皆さんに火をつけたのであれば、謝罪いたします。
 この手の問題に関しては、人それぞれスタンスは違うと思います。「過ぎたことをほじくり返して何になる。
変に知識をもつことは差別をうむ。」に対し逆に「そのようなことに目をつぶらず、しっかりと検証・検討する
ことも必要である。無知は→差別をうむ。」など。私としては後者の立場ですが、いずれにしろ、差別や偏見の
根絶を願っている、という意味では同じだと思います。しかし、何よりも重要なのは、当のご本人方の人権、
気持ちを尊重しなければ成らないということでしょう。大したことではないと、恣意的になんでもかんでも
公開することは、彼らを傷つけるかもしれません。彼らの中には、自分らのことは一部の人間には知られている
が、多くの人には知られたくない、と感じてる人も多いでしょう。
 そういう私もつい調子に乗って、彼らの気持ちを考えないようなカキコミをするところでした(した?)。
反省します。

 現代においても、彼らほどではないにしろ、職業差別、身体的差別等々、様々な差別・偏見が多かれ少なかれ
存在していると思います。それらがなくなる社会を熱望しております。

 また、私としましても、サムライ部落問題のカキコミは、とりあえず休止いたします。ただし、個人的には、
今後も研究していきたいと思っています。このスレが、もと通り明るく楽しいスレに戻れば良いと思ってます。
私も楽しいネタを収穫したら、書き込みます。
169あみ@神奈川県在住:2003/01/29(水) 01:35 ID:lOLyWEkM [ i090208.ap.plala.or.jp ]
書き込みはしてませんが、ずっと読んでいます。最近はすごい展開ですね。
けど、これを読んでからますます札幌という街に興味を持てました。
また、住んでみたいなぁ。そして街を探訪したい!
17018丁目:2003/01/29(水) 03:00 ID:pifQb3LE [ SODfi-02p4-149.ppp11.odn.ad.jp ]
うーん、やっぱりこのスレの住人は良い人が多い。
そして、あみさん惚れたぜ!
171なまら名無し:2003/01/29(水) 03:04 ID:.yxkgcqs [ p2176-ipad67marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]
http://www.kenmon.net/

これってあり?
172牛鍋蝸牛:2003/01/29(水) 07:09 ID:H.oa2rhk [ N043092.ppp.dion.ne.jp ]
>>171
「全国検問掲示板」という交通取締りのHP。
「あり?」と言われても…(w
どうしても、と言われれば、
「北海道は道北と道南しかないんか!」、と突っ込みを入れておくということで。
あみさん、お久しぶりです。
いや〜、最近実地調査がなかなか出来なくてね。
早く春にならないかと…。
今行きたいところは以前に出たまま放置状態の、「土場」。
というか、「望豊台」。
でも、冬の渋滞を考えると…。
173牛鍋蝸牛:2003/01/29(水) 07:11 ID:H.oa2rhk [ N043092.ppp.dion.ne.jp ]
あ、書き忘れてた!
>>170 
18丁目さん。
ドサクサにまぎれて、口説いてどうする!
174西創成:2003/01/29(水) 08:51 ID:.zD8J4j. [ m176086.ap.plala.or.jp ]
牛鍋さん、心配してくれてありがとうございます。インフルエンザではなかったです。昨日、病院に行きましたが、院内感染しそうなくらい、インフルエンザの客いました。雪祭りのころヤバそうです。皆さんご注意ください。

>>156,7 対山橋さん、はじめまして。
「藻岩山」ですか。なるほど。
ところで、市内中小各山つってみんな山の名称が住所なんですかね。

>>168 楽しくない話題でも、ぜひお越し下さいまし。そんなに、責任感じなくてもいいよ。

>>169 ぜひ、御質問でもお寄せくださいまし。

>>170 本当そうだと思う。

>>171 HBCラジオ聞けば、取締情報ばっちり。

>>172 「土場」と「望豊台」ですね。
たしかに渋滞あります。

>>173 フッフッフ。
175西創成:2003/01/29(水) 09:28 ID:.zD8J4j. [ m176086.ap.plala.or.jp ]
ところで、「定山渓(番地・番外地・温泉東〇丁目・温泉西〇丁目全部含む)」って、やたら広いと思いませんか。
豊羽元山、くるみ沢、小樽内、国際スキー場、銚子口、一番通、二番通、薄別温泉、望岳台、白井川、さっぽろ湖、冷水沢、小柳沢、豊平峡、オンコの沢、三笠山、寳来鉱山、中山峠道の駅の札幌側入口の手前(石狩・後志境)、その他、みんな正式住所「定山渓」ですね。

とすると、南区って、「定山渓」と「真駒内」ばっかりやたら面積を占めてますね。
176牛鍋蝸牛:2003/01/29(水) 22:08 ID:NKRJn/56 [ L064206.ppp.dion.ne.jp ]
「吉田山」ははたして今も、山なのか…?
大谷地小学校付近に通っていた、あるいは住んでいる、土地鑑があるよと言う方のレスが欲しいところですが(実地調査、今のところワシ出来ませんので…。今日から連続10日間、出勤のため)、まずは「吉田山」の名前の由来となったであろう、「吉田善太郎」さんについて書きます。
南陽道書店にて超特価200円で買った、「札幌百年の人」(昭和44年3月20日発行 編者・北海道新聞社 発行所・北苑社)より。
「月寒地区開発の功労者。文久元年(1861年)四月、岩手県上田村に生まれた。明治四年父に連れられて月寒に移住、ほそぼそと農業を営んでいたが、同二十年大谷地の原野五十余fを譲り受け、また隣接地二十余fを借り、厚別川の上流からかんがいこうを掘って開墾を開始した。このため、この地帯に百六十余fのりっぱな田畑が造成された。また大谷地小学校や戸長役場の新設に惜しみなく寄付し、月寒歩兵第二十五連帯が札幌に設立される時も、その用地約百fを寄付した。長男の善助をアメリカに行かせ優秀な牛をたくさん輸入し、本道畜産業の先駆者の一人としての役割りも果たした。月寒郵便局長、月寒村総代人、村議などとして豊平の行政にも参画したが、大正五年十二月二十四日没」
う〜ん…。
仙台藩の武家ではなかったようで…。
177一条橋:2003/01/29(水) 23:44 ID:78qnBqvg [ PA047040.au-net.ne.jp ]
初めて書きます。今日、みなさんの話に触発されて昔東橋があった場所で車降りてしばし見ていました。
対岸も菊水側にも雪で埋もれていたものの、それとわかる跡がありました。
昔はここをはさんで苗穂駅と東札幌駅が向かい合っていたのですね。。。なんか
感激でした。
17800:2003/01/30(木) 00:33 ID:1EZ77kNA [ 202.212.191.210.dialup.hotcn.ne.jp ]
はじめまして、
「吉田善太郎」さんですが、検索してみると
http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/rekishi/pdf/reki40_41.pdf
に、陸奥国南岩手郡に生まれ吉田家は代々南部藩の藩士だったと。
土地の入手経路も詳しく記されているのを見つけました。
179あみ@赤面:2003/01/30(木) 00:39 ID:BWIAVh/s [ o192034.ap.plala.or.jp ]
>>西創成さん
2〜3年前、豊羽元山まで友人とドライブしたことがあります。確かその入口
に鉱山の地区全体図の看板がありました。その看板には○○町といくつか地名
が描かれていた気がします。その地名は忘れてしまいましたが。
それにしてもあの山奥にアパートがあるとは・・。学校横の壊れたリフトに
も衝撃を受けました。
18000:2003/01/30(木) 00:56 ID:Xv1Q900E [ 132.193.191.210.dialup.hotcn.ne.jp ]
さきほどの、HPをたどると
大正5年の地図から「吉田山」の記載が見つかりました。
http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/rekishi/pdf/reki77.pdf
181菊水上町:2003/01/30(木) 00:58 ID:mbOLuZOw [ h065.p184.iij4u.or.jp ]
>>177
>それとわかる跡
熱い…こんど行ってみます。
東札幌エリアはここ2年くらいでずいぶん変わってしまいました。

貨物駅?があった時期は物心つくかつかないか、という年齢だったので
踏切があったことくらいしか覚えておらず、東札幌駅じたいに関する記憶は
ぜんぜんありません。悔しい・・
182牛鍋蝸牛:2003/01/30(木) 07:57 ID:4TazJQGo [ N023196.ppp.dion.ne.jp ]
00さん、初めまして。
「吉田善太郎」さんって、"あの"「社台ファーム」の創始者の父さんだったんですねぇ…。
(社台ファームの歴史ttp://www.vegaeps.com/col011.htm) 
>>176 「長男の善助をアメリカに行かせ優秀な牛をたくさん輸入し、本道畜産業の先駆者の一人としての役割りも果たした」、…ってのがそうだったんだ。
ワシはギャンブルとタバコはやらないので、実は「社台ファーム」言われても、「有名な牧場…」としか思わないのですが、そんなワシでも知っている「社台ファーム」。
「白老」の国道36号線を走っていて「社台」って地名を見ると、「おお、社台だ」と思ってしまうのです。
ところで、ちょっとスレ違いで申し訳ないのですが、「社台」って地名の由来ってなんなんでしょう?
名古屋の名東区にも「社台」ってあるようですが…。
(今は自分で調べない。これから寝るから)
183西創成:2003/01/30(木) 09:17 ID:ZiCKpkfU [ m176155.ap.plala.or.jp ]
>>182 手元にある、著者・出版社の記載が全くない謎の本「北海道駅名」によると、白老町字社台は、アイヌ語で「サタイベツ」=前に林、川がある意味。
とありましたが、さてほんとうか?

>>177 東札幌駅、昭和53年11月30日まで、貨物駅として、営業していました。(旅客は、S49,9,8まで)

>>178 00さん、はじめまして。

>>179 あみさん、元山行かれましたか。
鉱山アパート街の地図あったのは、学校の右、坂のあたりでしたか。
たしかに〇〇町といくつか書いてました。

私、子供の時、ちょっとだけ定山渓駅前に住んでいたんです。元山行の定鉄バスが、駅前バス停から何本か出ていて、元山ってどんな所?とずっと思っていたので、車の免許取ったとき、すぐいきました。それから何回か行きました。

去年あたりから、元山のアパート街へ行けなくなったようです。(豊羽小・中から先通行止め)アパート住人いなくなったのでしょう。路線バスも数年前になくなりました。
道道・京極定山渓線(京極町脇方〜元山、未着工)でも全面開通(するのか?)したら、元山も変わるかもしれません。
184牛鍋蝸牛:2003/01/30(木) 20:55 ID:Qbvv3X6Y [ L102218.ppp.dion.ne.jp ]
「吉田山」から、一つからいろいろなことが分かってきました。
「札幌百年の人」やhttp://www.city.sapporo.jp/shiroishi/rekishi/pdf/reki40_41.pdf から、 例の「ブンカー」(その四でのmさんのレス http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/4_log.html#101)も、「第七師団歩兵25連隊」つながりで関係ありそうだし、「八紘学園栗林記念館」ってのも出てきました。
(今、「札幌の建築探訪」(北海道近代建築研究会編 監修角幸博 北海道新聞社刊)でこの「栗林記念館」を見ていますが、白い、アーリーアメリカンな建物です。詳細は後ほど)
そして、「社台ファーム」、「大谷地小学校」。
他には「戸長役場」なんて、聞きなれない言葉も…。
地名では「吉田川」ですね。
実は他にもまだまだ、興味深い話があるようです。
これからこれらを、じっくり料理しましょうか。ふふふ。
185牛鍋蝸牛:2003/01/30(木) 21:12 ID:Qbvv3X6Y [ L102218.ppp.dion.ne.jp ]
「さっぽろ文庫66札幌人名事典」にも当然のことながら、「吉田善太郎」さんのことが載っておりますので、「札幌百年の人」とかなり重複しますが引用します。
「吉田善太郎 文久元・4〜大正5・12 
月寒・白石開拓の功労者。岩手県上田村に生まれた。明治4年父に伴われて月寒に移住し、開墾と炭焼きに従事。父が死亡した二十一歳当時の遺産は、家屋一棟宅地耕地1町歩に馬五頭だった。20年には月寒と白石にまたがる大谷地の未開拓地の譲り受けと貸し下げを受け、同志とともに厚別川の上流から水路を掘って水田を開くなど、田畑、牧場、原野など六〇町歩の吉田農場を作り上げ、さらに規模を広げた。
29年第七師団第25連隊設置の計画があり、基地は平岸地区に予定された、その際、利益をはかって土地の買収に走るものなどが現れたため、吉田は自己の所有地100町歩の献納などを申し入れ、その結果兵営の設置は月寒に変更された。
晩年は牧畜を志し牛の改良に力を入れた。また不在農家を改造して使っていた月寒教育所を、有志とともに敷地380坪を購入して校舎を作り公立月寒小学校とし、さらに戸長役場を建設するなど、公共への協力も惜しまなかった」
186158:2003/01/30(木) 22:15 ID:wOFzyeGU [ YahooBB219168050041.bbtec.net ]
 牛鍋蝸牛さん、西創成さん、00さん他皆様こんばんは。
「吉田山」からなんとも奥が広がるものですね。

「吉田さんちの山」もしかしたら吉田氏の所有地の丘、坂を
子供時代に「山」と呼んでいただけのような気もしてきました。

00さんの、
http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/rekishi/pdf/reki40_41.pdf
から、「吉田山」の名付親は月寒の連隊長だったとか、宅地化で現在名前も
消えてしまった幻の山・・・何か川の流れは絶えずしての感です。
187西創成:2003/01/30(木) 23:47 ID:bYoMXZCg [ o052241.ap.plala.or.jp ]
158さん、こんばんわ。

「吉田山」「吉田川」おもしろいですね。
社台ファームの創始者の小さい資料館が、千歳のノーザンホースパークにあったはずですが。前、行ったときよく見てこなかったので、失敗しました。

牛鍋さんが、前に書いていた
「豊平町湯殿山裏」。思いだせそうでだせないです。

ところで、「戸長役場」。
よく、郡の名前の地区にあったと思いますが、「二級町村」と共に、そういえば、それについてよく知らないです。はて?
18818丁目:2003/01/31(金) 04:12 ID:udXytKM. [ SODfi-02p4-179.ppp11.odn.ad.jp ]
昔からの札幌区(市)内出身の人には耳慣れないでしょうか、私のように札幌村
村民にはあたりまえの戸長制度なんですが。
眠いので又明日!
189牛鍋蝸牛:2003/01/31(金) 22:12 ID:2xhe73lY [ N021027.ppp.dion.ne.jp ]
いっやぁ〜、雪が…。
参ったっすね (>.<)
「吉田山」の件ですが、ほんとにいろいろ書きたいことが出てきました。
「戸長制度」も「区制施行30周年記念 豊平区の歴史 〜THE HISTORY of TOYOHIRA WARD 〜」(札幌市豊平区・発行 平成14年)に結構詳しく出ています。
でもこれは、眠気も取れた18丁目さんが解説されるはずなので、語りますまい、今は…。
「吉田善太郎」さんと、「月寒小学校」「大谷地小学校」の関連ですが、ワシの調査では「大谷地小学校」は間違いなく関連あるようだといえるのですが、「月寒」はどうなんでしょう。
ご紹介したしたように、「さっぽろ文庫」に「月寒小学校」の名は出てくるのですが、ここのHPを見ると、そのあたりは全く触れられていないのです。
ttp://www.tsukisamu-e.sapporo-c.ed.jp/ayumi/ayumi.htm 
ちょっと、不自然…。
この辺り、「月寒小」のOBの方、または「大谷地小」のOBの方(いや、現役小学生でもいいのだけど…)、レスいただければと思っています。
ワシも眠いので今日はこの辺にしておきます。
マイナスイオン発生する空気清浄機入れたら、よく眠れるのだ…。(+.+)(-.-)(_ _) ..zzZZ
190牛鍋蝸牛:2003/02/01(土) 20:55 ID:10VJzYYg [ K102044.ppp.dion.ne.jp ]
不覚にも、ぎっくり腰になってしまいました(く〜…)。
パソコンは出来るけど、気力がいまいちですので今日はレス、遠慮します。
じゃ。
191なまら名無し:2003/02/02(日) 09:53 ID:5FyRSvqM [ pl980.nas921.sapporo.nttpc.ne.jp ]
ここの住人で、北区篠路9条5丁目に行ったことのある人は手をあげて!
19218丁目:2003/02/02(日) 10:51 ID:1xaqH2ow [ SODfi-01p3-12.ppp11.odn.ad.jp ]
戸長制の実相について、とても面白く理解しやすい文章があったので紹介します。

ttp://www.asahi-net.or.jp/~vc9n-fkhr/furusato-Folder/kocho.html

明治4年4月4日  戸籍法制定
明治5年1月29日 戸籍調査実施(壬申戸籍)
明治5年4月    太政官布告により町村役人廃止 戸長制度実施
明治35年     戸長制度廃止

あ、それから188で言った、村だからよく分かるはあんまり意味ないです。
全国的な制度ですし、札幌区でも実施されています。
19318丁目:2003/02/02(日) 11:03 ID:KigAAh1w [ SODfi-02p2-131.ppp11.odn.ad.jp ]
牛鍋さんぎっくりでも仕事出ているんですか?お大事に。

>>191
篠路9条5丁目は無いですね。

牛鍋さんのページにもアップされている大正5年の地図は、私大好きで良く見るんです。
その頃は、札幌の北方、現在の福移あたりは、当別だったんですね。
19418丁目:2003/02/02(日) 12:08 ID:clvH.L6k [ SODfi-02p6-98.ppp11.odn.ad.jp ]
吉田山の件、本当に色々広がりがあってとても面白いですね。
土地に歴史あり 地名に謂れあり
知らなきゃ単なる場所の名前だけど、その場所が昔どんな場所だったのか、意外な
歴史を知ったときの得した気分は、このスレ住人の共通の感情だと思います。

ちょっと蒸し返しますが、無知が差別を生むの1件です
豊平川沿いのサムライ部落のことですが、少し前の有名な「西友元町店事件」が起きた時
同じ札幌市民の1部の人が、あれは貧民地帯の「東区」で起きたこと〜東区には豊平川沿いに
サムライ部落があった等々間違った認識と、「自分はそいつらとは違うんだ」という差別
意識からの流言飛語が多発しました。
このスレの住人ならば全く笑止なことでしょうが、間違った知識、ひねくれた意識を
持つ人々が多数居るのが事実なのも確かなこと。
ただしかし、こと札幌に関して言えば、屯田兵制度の明暗、移住制度の明暗、その後の
開拓地の明暗はあろうとも、全体的にはとてもフラットで差別の少ない土地柄が出来ている
と思われます。
19518丁目:2003/02/02(日) 12:48 ID:7HWARn82 [ SODfi-01p5-94.ppp11.odn.ad.jp ]
地名(地理・歴史)にあまり興味が無い人は、よく白石区と東区(白石に東札幌、東高校があるから?)
を間違えていたり、元町といっても、菊水のことだと思っていたり、その間違った知識のまま
妄想が膨らみ、歪んだ観念が持ち上がってくるのではないでしょうか?

ちなみによく一部の現代人が貧乏人の巣窟だと思い込んでいる東区については
慶応二年 大友亀太郎が創成川を掘り、御手作場を作った
明治6年の土地等級よると一等は札幌村・丘珠村・苗穂村・篠路村。
二等は円山村・手稲村・発寒村など、三等が月寒村・平岸村・白石村
・琴似村などでした。
昭和25年発行の札幌村史によると、村民の納税意識についても、明治の不況
、大正の不況時においても開村以来完納であったことが記されています。
現在の市の資料を見ても、東区民の納税額・完納率は全区中トップだったと思います。

翻って細民部落の件ですが、昔そーだったにしても、現代のわれわれがそこに住む人々
を差別は決してしないでしょう。愛隣館や愛隣病院があるすぐ横の区画には、札幌の
伝統校北海中学、札幌商業学校があるんですよ。ほとんどの札幌出身の社長さんや故郷
の有名無名の偉人達も否定してしまうことにつながるでしょう。
ここはタブー無し、ただし誹謗中傷なしのマターリスレで行くで良いと思う。
196牛鍋蝸牛:2003/02/02(日) 14:13 ID:/7G3/BOc [ N021244.ppp.dion.ne.jp ]
「這う姿 歩く姿が貞子なり ぎっくり腰のわが身悲しき」

え〜、十二年ぶりに仕事を休みました…。
さすがに無理です(力なくw
しばらく静養しますので、みなさん、後はよろしく。
197五の31:2003/02/02(日) 14:38 ID:hw57dcgI [ P148004.ppp.dion.ne.jp ]
>>58
新制中学の番号の件どうもありがとうございました。
それと東北中学の指摘も。
お礼が遅れて失礼しました。

誰も指摘してくれないと不満を述べた、もうひとつの間違いは電停の創成橋です。
記憶にないけどあとで地図を見てあったと思い込んでいたのです。
昔あったけど小生の知っている時代にはなかったようです。
198五の31:2003/02/02(日) 14:39 ID:hw57dcgI [ P148004.ppp.dion.ne.jp ]
>>136
>>162
訂正です。

145で
>>132と書いたのは>>136の間違いでした。
失礼しました。
199五の31:2003/02/02(日) 14:40 ID:hw57dcgI [ P148004.ppp.dion.ne.jp ]
>>177
旧東橋の時代の航空写真は↓にあります。
http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/rekishi/pdf/reki82_83.pdf
戦後に米軍が撮影したものだそうです。
200五の31:2003/02/02(日) 14:40 ID:hw57dcgI [ P148004.ppp.dion.ne.jp ]
>>185
良い話を聞きました。
こういう人たちが今の札幌を気付いたのですね。
名もある人も名もない人も。

そのような方々に恥ずかしくない札幌になっているか。
みんな札幌が好きなんだから頑張りましょう。
201五の31:2003/02/02(日) 14:41 ID:hw57dcgI [ P148004.ppp.dion.ne.jp ]
>>194
西友元町店事件ですが
> 同じ札幌市民の1部の人が、あれは貧民地帯の「東区」で起きたこと

事件そのものもそうですが、その後に「東区だから」と言う人が現われたとき、同じ札幌市民として悲しくなりました。

> 間違った知識、ひねくれた意識を持つ人々が多数居るのが事実なのも確かなこと。

区別したいという「ひねくれた意識」が先にあって、後から理由をもってきたのでしょう。
こういう人はたとえ正しい知識があったとしても都合よく利用すると思います。

> 全体的にはとてもフラット

前にも書きましたが、札幌は高級住宅街もスラムもない均質なまちだと思います。
無いものを無理にあると思いたがる人は、一度東京などの本物の高級住宅街を見学すべきと思います。

>>195
> ほとんどの札幌出身の社長さんや故郷の有名無名の偉人達も

これはちょっと問題。
じゃあそういう学校が無かったら否定して良いのかと聞かれたらどう答えますか。
かつて貧民救済施設が近くにあったことは現在その地域に住む人たちの評価には無関係。
それだけ言うほうが良いと思います。
202五の31:2003/02/02(日) 14:42 ID:hw57dcgI [ P148004.ppp.dion.ne.jp ]
>>195
> 白石に東札幌、東高校があるから?

細かいことですみませんが、地名スレッドなので。
東高は菊水の東端で陸橋を渡れば白石ですが、あそこはまだ菊水です。
東札幌も元は白石町横丁ですが、今は独立した地域だと思います。
203西創成:2003/02/02(日) 17:03 ID:EUcp.pE2 [ i220199.ap.plala.or.jp ]
>>192 ありがとうございました。

>>195 「東に貧乏人」という話出所は、別にあります。年配層から出たと思います。
ある時期を除いて、明治〜現在において間違った話です。

実際、西友に来た連中というのは、他所の者も多い訳で。

旧東警察署(現・白石署)、東高などは、ただ札幌中心部の東という意味であります。
東札幌は、駅名から引っ張られた地名でしょう。

>>197 市電1条線は比較的早く廃止されたはずですが。
豊平駅前電停も1回移動しています。

話は変わりますが、
現在の札幌は、本当に貧富の差のすくない街になったのでしょうか。
市内職安は失業者であふれ、生活保護の件数も軒並み増え、街のホームレスは毎年増加しているし、給料も安いし、職種も都市としてはすくない情況で、「塩鮭すら東京より高い」といわれる札幌では、困窮せざるえない市民も多い。
たしかに、スラム街も馬鹿みたいに立派な屋敷もこの街にはないですが、どうでしょうか。

>牛鍋さん、腰ですか。大変ですね。
ヘルニアでないことをお祈りします。
204牛鍋蝸牛:2003/02/02(日) 17:22 ID:Y7HFAlZg [ y068063.ppp.dion.ne.jp ]
西創成さん、かたじけない…。
いつでもワシは、天から見守っています。
205鉄人:2003/02/02(日) 17:24 ID:ms7ZagG. [ n00029.com204.phs.yoyogi.mopera.ne.jp ]
そうでも ないと思いますが どうでしょうか
206:2003/02/02(日) 17:34 ID:e3RRQVac [ p4132-ipad01sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
ども。ご無沙汰してます。
私の年代では「サムライ部落」っていうのは初めて聞きました。
ただ、小さい頃から白石・東方面は治安が悪いから注意せよとは
よく親などから言われた記憶があります。

不思議なことに街というのは西側へ西側へと発展していきますね。
東側っていうのは下町っぽい街が多いような気がします。
207牛鍋蝸牛:2003/02/02(日) 22:09 ID:Y7HFAlZg [ y068063.ppp.dion.ne.jp ]
さて、この後どう展開するのかな?
208西創成:2003/02/03(月) 02:41 ID:WLBQBLO6 [ i099233.ap.plala.or.jp ]
>>204 牛鍋さん、死んで星になったのかと思った。>>207 で生存確認。黄泉がえりしたですか?

話を変えて、こんな新聞記事を。

大正7年2月19日付、北海タイムス

【問題の札幌駅 広大な構えに遮断されて 以北の市街は廃穎の傾向】

(内容は次のとうり、原文にほとんどおなじ)

「広大な区域を領した札幌停車場が 市街北面の中央に蟠居している為に 以北の札幌市街は恰も火の消えた様に漸次廃穎の傾向があって 区の発展上誠に遺憾だという輿論がある。
▽元来 大市街の中央に停車場等設置すべきものではない
▽一番便利な停車場通は駅で遮断され 西2丁目の通りは 貨物倉庫や機関庫へ往復する長い貨物列車や機関車や上り下りの列車が終日幾百回となく頻繁に往復する為 そこの踏切柵は絶間なく昇降し為に 殆ど行通遮断の有様
▽附近の人家は白昼といえど窓や雨戸を開け得られぬ程 真黒な煤煙がもうもうと四六時中襲うので飯も好く喰えぬと云うて 衛生問題を惹起する
故に悧巧な人は皆転居し附近に住居しない
見給え 駅以北の市街は恰も貧民街のように長屋ばかりで廃穎の傾向来しつ あるではないか」←記事ここまで。

だんだん汽車の本数が増えて、開業時には予想しなかったことなんでしょう。
この記事、札幌における公害記事のはしりと思われます。

西5丁目の踏切は、昭和6年に陸橋ができるまで「親不知子不知」といわれたという。(このころこの踏切、1日の遮断回数は二百余回を数えた。)

この頃の市民が、現在の北郷通り踏切なぞ見たらたまげるかと。

参考資料
ものがたり北海道の鉄道百年 新聞記事を中心に〜
道新編集委員・北洞孝雄 寄稿(北海道の鉄道 昭55 鉄道ジャーナル社)
209牛鍋蝸牛:2003/02/03(月) 20:49 ID:m.Sa/G/I [ K103251.ppp.dion.ne.jp ]
☆ * * * きらっ…
210あみ:2003/02/04(火) 00:11 ID:NBJnN41Q [ n159022.ap.plala.or.jp ]
>>183 西創成さん
看板の地図それだと思います。人がいないのに○○町とあっても寂しいです
ね。夕張の鹿島などもそうですが。定山渓駅って?今のバス車庫のことですか?

>>206mさん
東京もそうですよね。

元白石・東区民としてはつらい(涙)内容が続きますねぇ。私が学生のころ
は市内間でどうこうより道内の地方の方が色々言われていた気がします。
いずれにせよ嬉しくない話ですが。

>>牛鍋蝸牛さん
お大事になさってください。
211西創成:2003/02/04(火) 02:42 ID:/OdWvknc [ i095055.ap.plala.or.jp ]
>>210 定山渓駅前=現・定山渓(バス停・案内所)
駅舎は、国道・豊平川側、現・ホテル山渓苑の前にありました。
駅が無くなっても、昭和54〜5年位まで「定山渓駅前」(道南、市営は定山渓)とゆうバス停でした。

ついでに、定鉄バスの系統を書きます。

◎昭和38年頃(8、9系統以外、昭和47年、市営に移管)

(1)札幌駅〜丸井〜豊平駅〜平岸農協〜平岸小〜澄川駅〜慈恵学園〜真駒内団地(泉町3)※藻岩橋まで延長便あり

(2)札幌駅〜丸井〜北海学園〜平岸小〜西岡小〜西岡水源地

(3)札幌駅〜丸井〜豊平駅〜八条中〜平岸4区〜平岸霊苑

(4)札幌駅〜丸井〜北海学園〜木ノ花団地
(5)札幌駅〜丸井〜豊平駅〜中の島本通〜平岸小〜平岸霊苑(平岸小〜慈恵学園)

(6)札幌駅〜丸井〜豊平駅〜学園通〜八条中〜豊栄橋〜月寒公園下

(7)札幌駅〜丸井〜豊平駅〜平岸小〜駒岡小〜厚別の滝〜滝野

(8)札幌駅〜丸井〜南6西11〜石切山駅〜藤の沢〜下藤野〜定山渓駅 ※(湯の町廻り)豊羽本山行、(定山渓駅廻り)無意根登山口行あり

(9)札幌駅〜丸井〜南6西11〜定山渓駅〜安江峠〜中山峠〜喜茂別〜留寿都〜向洞爺〜洞爺湖温泉

(11)苗穂駅〜東札幌駅〜豊平駅〜平岸小〜澄川駅〜慈恵学園〜真駒内団地(泉町3)

※一部系統、区間便あり
※慈恵学園(車庫)=現・東急ストア自衛隊前店
(つづく)
212西創成:2003/02/04(火) 03:33 ID:/OdWvknc [ i095055.ap.plala.or.jp ]
◎昭和53年頃

(7)札幌駅(タ)〜丸井(南1条)〜南6西11〜硬石山〜藤の沢〜下藤野〜簾舞四区〜定山渓湯の町 ※定山渓駅行、簾舞4区もあり(7系統は、石山バイパス開通により新設)

(8)札幌駅(タ)〜丸井(南1条)〜南6西11〜石山中央〜藤の沢〜下藤野〜簾舞四区〜定山渓駅 ※(石山)選鉱所行、石山6区行、(旧道廻り)簾舞小行、簾舞四区行、定山渓湯の町行あり

(12)真駒内駅〜石山中央〜藤の沢〜下藤野〜簾舞四区〜定山渓駅 ※石山6区行、(旧道廻り)簾舞小行あり

(番号なし)定山渓駅〜薄別

(番号なし)定山渓駅〜豊平峡・冷水トンネル

(番号なし)定山渓駅〜湯の町〜豊羽元山

(急行)札幌駅(タ)〜丸井(南1条)〜南6西11〜定山渓駅〜中山峠〜喜茂別〜大和ルスツ〜留寿都〜観湖台〜洞爺湖温泉

(臨時)札幌駅(タ)〜湯の町〜国際スキー場(定山渓駅〜国際スキー場もあり)

でありました。

札幌〜豊羽なんていう便もあったんですな。豊羽元山も本山時代は、あのアパート街も人が沢山いたのでしょう。

市営バス藻岩(営)が4月からじょうてつになるそうです。
一回市営に譲渡した、真駒内、豊平区内をまたじょうてつが譲渡されるという…。
歴史というのは、不思議なものです。

昭和38年頃の9系統の経由地に出てくる、「安江峠」ってどこなんでしょう。

☆☆やっぱり牛鍋さん、星になっちゃったのか☆☆文明開花の味のする、かたつむりさんだったのに。テレビ塔のプラネタリュームでその星、見られるのかな☆☆
213なまら名無し:2003/02/04(火) 03:54 ID:qVNM3Yxw [ z4.61-115-85.ppp.wakwak.ne.jp ]
正直、スレタイはそろそろ変えるべきでは?
歴史関連の話題も混ざっていることを、タイトルに入れるべきだと思います。
214牛鍋蝸牛:2003/02/04(火) 10:32 ID:bVhRPUkQ [ L065057.ppp.dion.ne.jp ]
あみさん、ありがとね。
西創成さん。
星になった牛鍋蝸牛、現在地球帰還へ向けての準備作業中ですので少々お時間を…。
大気圏再突入の際、空中分解しないように頑張ります。
え〜、真面目な話、思ったより重症でして今日も会社休んでます。
椅子に座ってキーボード打つのがつらいのは当然なのですが、職場の皆に迷惑かけてここでレス書いて遊んでるわけにも行きませんで、自粛しています。
あ〜っと、近況だけ書くってのはレスの私物化ですので、ちょっと本題を書いてageってことにしておきます。
>>213さん
そうねぇ、ワシもそれ考えていました。
現在のスレタイを生かしつつ、「さっぽろの歴史もあるよ」って、うまく入れたほうが良いのかなってね。
このスレの内容を知らない人にとっても親切だろうし、書き込むほうにとってもそのほうが書きやすいってのはあると思いますね。
今のスレタイだと、地名から離れた歴史的な内容の書き込みは遠慮気味になるし。(ま、結構書いているけどw)
ただ、あくまで重きは「地名」に置くってことでね。
まず、「地名ありき」そして「歴史」という。
たとえば、
【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名…そしてその歴史in札幌
…とか。
あ、そうだ!忘れていた!
ここ、いずれにせよ「実地調査」が大事なんで皆さん、よろしくね。
「現地行って調査」、これ基本ですので…、
【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名…その歴史in札幌【実地調査】
どうや?
欲張りすぎ?
長い?
215213:2003/02/04(火) 23:46 ID:k186n0SA [ z196.61-115-85.ppp.wakwak.ne.jp ]
>>214 牛鍋蝸牛さん
突如、無理難題を言っちゃってすみません。
このスレの根本は「マイナー地名」であることは言わずもがなです。
けれども、その「マイナー地名」から広がる話の壮大さは、
現在のスレタイでは説明しきれていないように感じました。

・・とか何とか言っておきながら、あえてこのままのスレタイで行くのも味があると思ったりして。
「あの地名は、昔○○あったときの名残りが現在まで残っているんだよ」
のように、
「あのスレタイは、当初ここまで歴史ネタで盛り上がるとはわからなかったんだ。
その名残りが現在まで残っているんだよ」
みたいな。

・・・自分でも何言ってんだかわからん・・・。でしゃばってスミマセン。
216213:2003/02/05(水) 00:00 ID:Hrw.kk4c [ z196.61-115-85.ppp.wakwak.ne.jp ]
個人的に興味がある趣旨のスレなので、過去ログを読まさせてもらっています。
凄い情報量と、皆さんのリサーチ力にびっくり。

序盤、雁来や東雁来ネタが出ていましたね。
東雁来って今すーんごい大造成しているんですが、知っていますか?
www.city.sapporo.jp/land-sale/takuchi/kariki/tochiriyouzu/totiriyo.htm
こんな感じになるらしいです。
「東雁来って田舎臭い。ちょっとマイナー」
こういう意見が過去のものになろうとしていますね。
217牛鍋蝸牛:2003/02/05(水) 21:15 ID:V6TJyWFc [ N016079.ppp.dion.ne.jp ]
213さん。
【超弩級】時空を超えたマイナーな地名in札幌【でも針小棒大】
ってのはどうでしょう?(超弩級の弩級の意味を3秒以内で答えなさい)
さて、ワシとしては「吉田山」に関してまだ書きたいのだけど(戸長制度も)、とりあえず、「豊羽鉱山の元山」について、ちょっとデシャバッチャイマス。
大正時代の「豊羽鉱山」と「元山」の記述を"たまたま"発見!
今回は「元山」の記述のみを引用。
「新札幌市史 第三巻通史三 第三章産業化の模索と進展 第七編近代都市札幌の形成 第二節鉱業・エネルギー産業 一 鉱業 豊羽鉱山」から…。
「大正六年七月に北海タイムス記者が豊羽鉱山を訪ねている。(中略)
記者は豊羽鉱山に着任したばかりの林学士福山伍郎の案内で、さらに上流の元山へ約二時間かけて到着した。この間の道路は荷車も通る広いものであった。元山には事務所、小学校、病院、合宿所、役宅八戸、飯場二軒、鉱夫長屋約300戸などがあった。二つの小学校にはそれぞれ100人以上の児童と三人ずつの職員がいたという。
元山で記者は長尾正五郎所長、三毛菊次郎採鉱係長に迎えられ、説明を聞くことになる。このときの職員層はこれらのほか精煉係長服部基、庶務係長杉山道香、法学士神谷春雄、西山倉庫主任など約四十人であった。これに対して鉱夫など従業員は、元山に採鉱夫147人、雑夫135人、神居に精煉手188人、雑夫293人がいた。(略)」
おお〜!
こりゃ、まさに、ひとつの町だったんですねぇ〜。
これって、なにやら映画のプロローグに使えそうな感じがしませんか?
パッとしない新聞記者が、ある学者の案内で山奥の鉱山を訪ねると、そこには巨大メジャーの手でひとつの街が形成されていた…。

お?
ワシ、いつの間にか地球に生還しているようですなぁ。
21818丁目:2003/02/05(水) 21:35 ID:9.WfRyOU [ SODfi-02p3-102.ppp11.odn.ad.jp ]
鉱山にははっきり言って惹かれます。
今年は雪が解けたら絶対鉱山実地調査です。

豊羽小中学校はつい最近閉校だったですよね。
最後に残った生徒は今、タクシーで定山渓まで通学している筈。
鉱山従事者が総体的に年齢があがり、若い人がいなくなり、子供も居なくなってしまったようですね。
ただしこの豊羽鉱山は、石炭鉱山なんかと違って、採算の取れている鉱山じゃなかったかな。
鉱山関係は採掘量等、非公開な事が多くはっきりしませんが、ここの鉱山で採れるのは、インジウムと
言って、世界的に需要の高い液晶モニタの原材料だった筈。
日本の鉱山界ではとても有名らしいです。
219西創成:2003/02/06(木) 02:16 ID:rHrSn7Yw [ i221171.ap.plala.or.jp ]
豊羽元山市街ですが、現状鉱山会社の先、学校までしか行けなくて、購買部やアパート街には行けないんです。(その先、カーブの登りになっているので、アパート街は見えない)
住んでいる人がいるのは、おそらく、会社向かい側の山にある、長屋みたいなところだと思われます。

鉱山会社より定山渓8区側にある、旧くるみ沢バス停前には、古い学校のような建物があります。

現在ほとんどの鉱山関係者は、場所の不便さから、藤野、真駒内方面に引っ越ししました。送迎バス(元山〜真駒内駅)や自家用で通勤しています。
元々、石山に選鉱所社宅というのもありました。(いまの日鉱団地あたりらしい)

定山渓温泉でも、旅館従業員が場所の不便さから、札幌のほうへ下りている傾向がみられます。(タクシー会社も、置屋も、信金も、産婦人科も、内科医院も無くなりました。)

なお、定山渓ではあれだけあった営林署長屋も合理化により更地になってしまいました。あった場所は、定山渓6区、国道沿い(小学校と営林署の間)「豊林荘→」と、ちいさい看板のあるところの更地です。

8区(元山〜三笠山スロープの道道沿い)も無人地帯のようになってしまいました。

私がいた昭和50年代初頭では考えられない情況です。
現在、定山渓小学校の全校児童が40数人なんて、信じられません。(昭和50年頃は、200数十人いた。)

定山渓自体が、時代とともに過疎化しているようです。
どうも、定山渓電話交換局(011365)が、札幌と市外局番なしで掛かるようになった[(011)598局に変わった]あたりが、過疎化の進んだはじめころかと思います。


☆☆牛鍋さん、さては三途の川の渡し船の船賃忘れて、生き返りましたね。よかった、よかった。☆☆
220西創成:2003/02/06(木) 03:53 ID:ABWfH.dw [ j176184.ap.plala.or.jp ]
全然話がそれますが…。

南6西4にある「ススキノ0番地」をご存じでしょうか。市民ならおなじみですね。

通称「0番地」。

ビル地下飲食店街のくせにいかにも住所のようです。
命名者は、北海道振興の久末社長(故人)です。

昭和33年、市営・薄野市場敷地に、札幌振興公社がその初仕事として、アパート併設を条件に、日本住宅公団(当時)からも金を借り、地下(現・0番地)は、中小企業育成のためのマーケット、1階は薄野市場、2〜5階は公団住宅(ススキノアパート)というビルを建てました。

一年後、地下マーケットは、さっぱり入居者が入らず、民間会社の北海道振興に貸して運営をまかせることにしました。

そこで、北海道振興は、『ススキノ0番地街入居募集・札幌一超デラックス飲食街・格安・各戸電話つき』と入居者を募集しました。
市の失策がきっかけで、0番地が誕生しました。
名前の由来はわかりません。

どーも、薄野近辺では、ショッピングビルはうまくいかないようです。

◇うまくいかない例
◎HBC三条ビル・東京銀座名店街(地下・1〜2階)現在は、1〜2階のみ
◎エイトビル→アルシュビル
◎サンデパート→そうご電気→ドンキホーテー
◎松坂屋札幌店→ヨークマツザカヤ→ロビンソン札幌


私のおばが、そのアパート部分に住んでいて、たまたま行くのですが、彼女の部屋は、最初から住んでいるので、建設当時のママに近い状態で、石炭部屋もついており、内装もタイムスリップしたような感じです。
家賃は当初、¥7、000位だったそうですが、いまは¥2万数千円だそうです。(風呂付き2DK)只今、満室。

同年代に、日本住宅公団から資金を借りて建設された物(公団アパート併設)に、HBC三条ビル、第一ホテル本館があります。
22118丁目:2003/02/08(土) 10:52 ID:4OSfIew6 [ SODfi-02p5-67.ppp11.odn.ad.jp ]
>>219西創成さん
豊羽住人は藤野、真駒内へ引越した方が多いんですね、納得。
定山渓全体が過疎化ですか。
東急の開発進出を拒んだ挙句、鉄道も廃止されて、結果過疎化ですものね。
222西創成:2003/02/08(土) 14:55 ID:j5VlSdKc [ i221242.ap.plala.or.jp ]
>>221 定山渓の過疎化というのは、いくつかの原因があると思います。

(1)営林署の合理化

(2)旅館の大型化により、飲食店類や遊技場、土産屋が旅館の中に出来て、街に客が出掛けなくなったため、温泉街が衰退したこと。

(3)旅館が食材などの物資を町内で購入しなくなったこと。

(4)藤野あたりが、開発され便利になったため、通える範囲なので、移住が増えたこと。(子供の教育なども考えて)

(5)昭和52年の有珠山噴火により、洞爺からの移住者が微増したが、定着しなかったこと。

(6)交通機関が、中心部から遠いのにバスしか無くなったこと。
これにより、駅〜月見橋〜旅館の通行人の減少がみられ、おまけに路線バスが、湯の町直行なのと、旅館送迎バスが増えたのも影響した。(2)と関連する。

(7)定山渓地区の大旅館経営者等、地区の有力者が、町のことをないがしろにしていた時期があった。
223西創成:2003/02/08(土) 15:18 ID:j5VlSdKc [ i221242.ap.plala.or.jp ]
そもそも、定山渓の衰退というのは、札幌市民が魅力を感じなくなってしまったことでしょう。
ある時期までの市民は、定山渓に行くことは旅行であったと思います。喜んでいったそうです。
それが時代と共に、登別、洞爺、函館などと多様化してしまったわけです。

東急進出の話も蹴ってしまい、しばらくもたもたしているうちに、こんななったのです。
ただ、当時の東急は「乗取王」といわれた五島慶太氏の経営であったので、地元は、東急にやられてしまうと恐れて、蹴ったようです。

まあ、東急の北海道戦略は、中央バス乗っ取りに失敗して、現状になっているのだから、いま考えると、定山渓に進出されてもさしたる成果がでなかったかも知れません。
224牛鍋蝸牛:2003/02/08(土) 16:19 ID:9.J0oTvo [ U126246.ppp.dion.ne.jp ]
どっもー、牛鍋蝸牛でーす!
いまだ腰痛が取れず、仕事には行っていますがリハビリ中です。
なわけで、二日ほどレスレスの状態でした。
実はワシ、小学生のある年の夏休みを「豊羽鉱山」(?)で過ごしたことがあります。
うちの母親の友人で、旦那さんが鉱山に勤めている人の家に一週間ほど居たのです。
家は社宅(長屋風。二、三棟あったかな?)で、人もいずさみしいところ。
周りは山というか、藪というか…。
ワシはすることもなく、めったくそ退屈な日々を過ごしておりました。
思えば、その家は旦那さんも普段は帰ってきていなかったように記憶しております。
近所には子供が数人おりましたが、特別親しくなることもなく…。
ま、なにしろ活気もなにもなかったところです。
がきんちょのワシは、そこが「豊羽鉱山」だばかり思っておりましたが、周りにそれらしきものは全くナシでした。
で、その場所なのですが、ワシの記憶としては、「定山渓」から国道230号を喜茂別方面に行ったところと記憶しております。
つまりは、「豊羽鉱山」でもなんでもなかったわけなのです。
今、地図で改めて確認してみると、「定山渓小学校」の辺りかと思っておりますが、定かではありません。
はたして、その辺りに「豊羽鉱山」の社宅なんてあったのでしょうか?
どなたか、ワシの遠い遠い記憶を呼び覚ましてクダサイな。
そうそう、家への帰りにあの、黄緑と緑のツートンカラーのダンプカーで送ってもらった。
ダンプカーなんて乗ったことなかったから、あれは楽しかったなぁ〜♪
225西創成:2003/02/08(土) 17:00 ID:j5VlSdKc [ i221242.ap.plala.or.jp ]
>>224 小学校の喜茂別寄り、国道沿いでしょうか。それとも、小学校の裏でしょうか。
前者には、たしかに何軒かのコールタール塗ったような色の木造長屋が数件ありました。でも鉱山会社の社宅ではなかったはずです。ただの貸家と思われます。(そこらには森田興業所の作業場?もあったはず)
小学校裏なら、変な屋根のユースホステルがあったので、目印になると思いますが。

どっちにしても、殺風景なところですが。
226なまら名無し:2003/02/08(土) 17:37 ID:qJ1iezls [ J020041.ppp.dion.ne.jp ]
>>206
>言われた記憶があります。

東京でもそうですが、地方出身の人はそういう言い方をよくします。
それでよく聞いてみると、一度も行ったことがないなんてこともあります。

うちは明治の始めから札幌ですが、
どこは治安が悪いなんて一度も聞いたことはありません。
人間というものは未知のものに対して漠然とした恐怖心をいだくものです。

スレと無関係なのでsage
227なまら名無し:2003/02/08(土) 17:47 ID:qJ1iezls [ J020041.ppp.dion.ne.jp ]
これも誤解されることが多いんですが、
東京の山の手とか下町というのは単に地面の高低だけです。
明治の頃は四谷や本郷、日暮里なんていうのは山の手でした。

四谷○○町なんて言うのは明治の東京山の手の代表的なスラムです。
三大貧民窟と言われたのがここと芝○○町と下谷○○町。
どこも今は都心の一部という感じです。

こんなのは岩波文庫辺りに載っている地名です。
今は都心になっちゃったから平気なんだろうと思います。
228牛鍋蝸牛:2003/02/08(土) 19:29 ID:NgsVFjOI [ L064004.ppp.dion.ne.jp ]
>>225
「小学校の喜茂別寄り、国道沿い」。
これですね。
そうすか、ただの貸家だったんだ。
なにしろ小学校のせいぜい4年生くらいの話ですので。
今でも、「納豆に砂糖を入れて食べる」という話題を聞くと、ここの風景を思い出します。
ここのおばさんがそうして食べていたので…。

ここからはスレ違いです。
単なるリハビリですので、ご了承ください。
>>226-227
え〜っと、ワシは足立区に9年ちょっと住んでいましたが、足立出身の複数の人が、
「足立はあぶない」とよく言っていました。
ワシは危ない目には遭ったことがなかったけど、ある日うちのアパートの程近くの公園造成予定地からバラバラ死体が発見されたことがあったなぁ。
中学生たちが、カラスがあまりに集っているのでなんだろう?と行ってみて、地中を棒で突いてみて仰天。
うちの裏の交番へ行って、「死体が埋まっている!」とお巡りさんに言ったのだが、信用されず、「お前等、帰れ」と。
それでもあまりに必死なので、「しょうがないなぁ〜」と行って見て、棒で突付いて「あ…」。
その数日前、朝早く地方へ仕事で行かなければならなかったワシは、その現場から10bほどのところに車を停め、買った弁当を美味しく戴いておりました…。
229牛鍋蝸牛:2003/02/08(土) 19:30 ID:NgsVFjOI [ L064004.ppp.dion.ne.jp ]
さて…。
もう二ヶ月も前の話題になりますが、例の「土場」の明治時代の写真を発見しました。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=485 
例の「区制施行30周年記念 豊平区の歴史 〜THE HISTORY of TOYOHIRA WARD 〜」(札幌市豊平区・発行 平成14年)で、「戸長制度」に関して調べていたら…。
いや、燈台モトクロス(燈台の下でモトクロスをやっても、燈台の灯りは届かない。危ないことのたとえ)でした。
引用します。
「産業」から「4林業」。
「また、明治時代の中ごろ、札幌で木材屋をしていた遠藤石太郎氏は、営林署の払い下げを受けて、定山渓の山の木を切り出しました。伐採された木は、豊平川の流れを利用して運び、現在の中の島1条11丁目あたりから精進川に送りこまれ、中の島1条1丁目・2条1丁目付近で受け止められました。
川から引き上げた木材は、現在のさけ・ます資源管理センターから北海道開発局開発土木研究所の辺りに、5〜6bの高さで、何ヵ所にも積み上げられました。この付近は土場(木材置き場)と呼ばれ、多いときにはここで200〜300人ほどの人が働いていたそうです。この木材は、馬車に積まれて札幌や小樽、また旭川をはじめとする道内各地に運ばれ、主に建築用に使われました」
啓タさん、土場だよ。
230牛鍋蝸牛:2003/02/09(日) 09:20 ID:/EBVQ43. [ U127113.ppp.dion.ne.jp ]
さて、以前にお話しましたが、「らーめん あび」のマスターに仰せつかった、店内に掲示中の、「札幌温泉」の写真の案内文。
一度作ったですが、「立派すぎる」とのクライアントからのダメだしをくらい、再度簡単な文章を作る必要があります。
休みもなく、腰も傷めてしまったので(こっちで休んだけど)今日明日あたりに届けなければいけないと思い、ダメを出された文章を改めて見ていました。
すると、
「もったいない…。もったいない…」ともったいないオバケが出現。
この際、皆さんに見ていただこうと思い立ち、アップしました。
PDFファイルです。
http://cgi28.plala.or.jp/~xapy/cgi-bin/source/up0015.pdf
23118丁目:2003/02/09(日) 11:12 ID:4jw.Npnk [ SODfi-02p3-66.ppp11.odn.ad.jp ]
牛鍋さん
1枚にまとめてくださいとマスターがおっしゃってました(w
232牛鍋蝸牛:2003/02/09(日) 12:01 ID:/EBVQ43. [ U127113.ppp.dion.ne.jp ]
>>231
まとめました。
今日持っていきますです。
見たい方は是非、「らーめん あび」へ。
233牛鍋蝸牛:2003/02/09(日) 18:56 ID:w5.MM7O. [ L064230.ppp.dion.ne.jp ]
てなわけで、「あび」に1ページにまとめた、「札幌温泉への誘い」の文章を持っていきました。
お客が一旦引けるまで待っていましたところ、一組のカップルが…。
席についてすぐにカレシの方が「札幌温泉」の写真に気付き、
「これなんですか?」
マスター氏、すかさずワシに、「ホレ!」と合図。
「ここが説明文です!」と間髪をいれずワシ、カレシにプリントを手渡す…。
カレシ、カノジョと、
「へぇ〜。ここがあ〜で、ここがこうで…」と楽しそうにおしゃべり。
腰の痛さも忘れる、牛鍋蝸牛でありました。
その後、合い間を見て壁に"アップ"。
見事、写真の隣に説明文が並びました。
さて、その後なのですが、マスター曰く、
「今日、夕方に18丁目さんが来る」
なにやら早い時間に一度来られたそうですが、混んでいたため後からとなったそうです。
ワシとしてもいい機会なので、この際、18丁目さんのご尊顔を拝すことにしました。
味噌ラーメン(チャーシュー入)を食し、待つことしばし。
はたして彼は現れました。
234牛鍋蝸牛:2003/02/09(日) 19:09 ID:w5.MM7O. [ L064230.ppp.dion.ne.jp ]
いやぁ、文章とはまさに人を現すものですねぇ…。
18丁目さんはワシが想像していたとおりの青年でありました。
外見も、雰囲気も。
う〜ん…、元FBI心理分析官 ロバート・K・レスラー氏も真っ青なプロファイリング。
ワシは18丁目さんが来るのを知っていたのでそうでもなかったのですが、彼は思わぬ接近遭遇に照れくさそうでした。
ま、以前に啓タさんご一家と偶然、「あび」でお会いした時などは、ワシも結構照れくさかったもんです。
彼とは今後のイラク核査察問題、北朝鮮問題などを真剣に討議し(?)、お別れしました。
18丁目さん、今後ともよろしく。
23518丁目:2003/02/09(日) 23:04 ID:20GI.4nM [ SODfi-02p4-113.ppp11.odn.ad.jp ]
思えばこのスレの第一段が建ったのが2002年7月。
まだ半年を経たばかりだが、現れては消えてを繰り返すインターネット掲示板
のなか、コンスタントにレスが続き、第6章を迎えることを出来ていることに、
正直感慨深いものがあります。
牛鍋蝸牛氏はやはり、実像もエネルギッシュなお方でした。実年齢よりもお若く
見えますし、私と見た目同年輩かと見紛う方もいらっしゃるのではないかと思います。
そして出身校が同じで、先輩だったとは・・・まあこれは別の話で。(私の実年齢も別の話でw)
これからも地名行脚を続けて行きましょう!
(「あび」は最近地名とラーメンのインタラクティブ空間の様相を呈しているw)
236西創成:2003/02/10(月) 02:23 ID:5BxUK0is [ i253236.ap.plala.or.jp ]
>>228 国道沿いの方ですか。以外と定山渓は貸家や貸間、アパート結構ありましたから。※納豆に砂糖を入れると、粘りが良くなるとゆう話ですが。

>>217 豊羽鉱山は、大正5年採鉱開始だそうですから、一年足らずでたいした発展ですね。
今、そんな山奥に突然出現する街があったらぜひ行ってみたいと思いますな。
道内で今、現役でそのような感じの所って、穂別の富内位でしょうか。
237なまら名無し:2003/02/10(月) 02:57 ID:/Fz.M0mI [ hku79231.hku.co.jp ]
茨戸のことって、ここに書き込んで良いのでしょうか。別のスレですか。
238西創成:2003/02/10(月) 03:07 ID:5BxUK0is [ i253236.ap.plala.or.jp ]
この前、「さっぽろ昨今」昭和51年 北書房発行という本を読んだんです。
そのなかに、北大の橋本誠二教授の「尾根の踏み跡」という文がありました。

そのなかに、『〜やぶのなかに絶えだえの踏み跡があった。三角山から小別峠の奥三角を越えると一人か二人の鉱夫が働く鉱山があった。こんなやぶ尾根になぜ踏み跡があったのだろうか。ほおかむりの一人、二人が見えかくれしたときもあったけど、当時、私たちは別に不思議にも感じなかった。〜』と、その方が大学生のころの山歩きの話が記されているのですが…。

この方は、大正7年の生まれだそうだから、この零細?鉱山を見たのは昭和の初めだと思われます。

この方は、その鉱山を見て不思議に思わなかったそうなので、鉱山名すら書いていません。
この場所、なんという鉱山なのでしょうか。だいたい、そんなところで1〜2人でやっている鉱山??
不思議ですよ。なんでこの方、不思議でないんだろ。


☆☆天の星になってしまったはずの牛鍋さん、戻ってこられたのですね。ロバート・K・レスラー氏に生まれ変わったのですか☆☆
とりあえずよかった。
239牛鍋蝸牛:2003/02/10(月) 06:42 ID:V.psUGvg [ B136109.ppp.dion.ne.jp ]
>>237
別スレあればそこでもいいけど、ここでもいいよ〜!
ただ、ここは、他のスレの取上げ方とは、ちょっと違いますけど(w
「西茨戸」なら以前、ワシが実地調査に行ったことがあります。
「その参」#232 http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/3_log.html#232 あたりから。
新情報待っています。
>>236
「定山渓」って貸家、多かったんですかぁ…。旅館で働く人たち用とかだったのかな?
※ 納豆は砂糖を入れると確かに粘ります。でも、意外に甘くなります。
「豊羽鉱山」について今、ワシのところにある資料、「新札幌市史 第三巻通史三」を元にお話します。
「豊羽鉱山」の当時の行政区は、「札幌郡豊平町大字平岸村字定山渓」というとっても欲張りな名前。
この辺り行政の変遷がしのばれますなぁ。
明治二十六年にはすでに、旧坑があることが「北海道鉱物調査報告書」に書かれているそうです。
「旧坑」とはすでに掘り尽くされたか、掘っても出なかったかでしょうから、実際にはかなり前から人が入っていたようですね。
さて、その後は持ち主(試掘権)が転々とします。
札幌の某〜明治四十二年札幌の佐藤仁太郎が武田己衛門の名義で〜大正二年古橋太郎衛門〜大正三年丹羽定吉へ。
丹羽が掘った結果が良かったので、同年十二月に採鉱権を得て、名義を「久原鉱業株式会社」に変更した。
「豊羽鉱山」の名は「豊平川」の「豊」と、「丹羽定吉」の「羽」をとって命名されたものだそうです。
丹羽定吉は大正二年に久原鉱業に入社していて、ここから「豊羽鉱山」に派遣されたが、自ら採鉱したのではなく、「幌延鉱山員ノ調査」に基き報告書を本社に提出してるとのこと。
本格的な採鉱が開始されたのは、西創成さんのおっしゃるとおり大正五年三月。
でね、稼動鉱脈の名前が面白いんですよ。
地名なんだよね。
ttp://www.gsj.jp/bHOK/gguide/Mine/D1-5.html
240牛鍋蝸牛:2003/02/10(月) 07:41 ID:vxcHEBUE [ N021082.ppp.dion.ne.jp ]
「豊羽鉱山」について、もうちょっとお付き合いください。
あ、>>217で書いたのは、地理的には奥の「元山」のことです。
(大正六年の地図にはそのまだ奥に、「備前」「長門」の地名あり)
成り行き上、話が前後しています。
では、「新札幌市史」からの続き。
さて、当時の産出鉱物は主に銀で、年間960万貫の産出量を予定、鉱夫総数440〜450人。
設備として、事務所、精煉事務所、倉庫事務所、分析事務所、採鉱事務所、鉄工場、撰鉱所、精煉所、発電所、分析室、製材所、物品供給所、鉄索停留所、合宿所、共同浴室、請願巡査駐在所、消防器具置場、学校、鉱夫長屋、医療所があり、鉱夫には長屋を無料で提供し、生活物資は札幌と同値で販売した。
商業人口も増え、菓子屋、豆腐屋、理髪店、時計屋など、120戸が集落を構成していたとのこと。
ここで話がした>>217に繋がっていきます。
>大正六年七月に北海タイムス記者が豊羽鉱山を訪ねている。(略) 
の、(略)の部分の要約。
「定山渓温泉に泊まった記者は、鉱山の荷物運搬用トロッコで40分かけ「水松(おんこ)の沢」に到着した。
「水松の沢」は「神居(かもい)」とも呼ばれ、鉱山事務所、鉄工場、製材所、病院、合宿測候所、役宅13戸、鉱夫長屋約150戸、請願巡査部長派出所、郵便局、小学校があり一市街地を形成し、産出した粗鉱の精煉はここで行っている」
と、ここから>>217へ続くのです。
241牛鍋蝸牛:2003/02/10(月) 08:01 ID:vxcHEBUE [ N021082.ppp.dion.ne.jp ]
>>238
>この場所、なんという鉱山なのでしょうか。だいたい、そんなところで1〜2人でやっている鉱山??
これはおそらくは、試掘鉱であったと思われます。
時代はちょっと遡りますが、「新札幌市史 第三巻通史三」に、「札幌郡内の試掘鉱区(大9.7.1現在)」という表があります。
手稲、琴似、広島、豊平、朝里、藻岩、札幌など、延べ25の試掘鉱が記載されています。
鉱業権者の項には、「個人名」、あるいは「その外一名」の計二人から、「古河鉱業株式会社」「株式会社日本製鋼所」などの企業の名もあります。で、若き橋本教授が見たのは、山を買って一発当てようという、まさに山師(死語?)が1〜2人で掘っていたという可能性が高いような気がしますが、いかがでしょう?
で、西創成さん。
今度はワシ、「地上の星」を目指します ☆ * * *
242啓タ:2003/02/10(月) 19:18 ID:7cPoGKyM [ EATcf-90p52.ppp15.odn.ne.jp ]
ひさしぶりにわしを読んでるよう気がしたので復活しました。
とうとう18丁目さんと牛さん涙のご対面したのですね。かんどー。
ぎゅうさんて一見、フリーライターか大学教授のイメージですよね。
18丁目さんもひょっとして啓明中学なの?
それはさておき話題は豊羽でもりあがってるようですが
今朝の道新の夕刊に載ってた島判官が札幌を一望した「コタンベツ」の丘
というのが円山か三角山か荒井山かって話題になってますね。
そのどれにものぼったことはあるがそれまでそんなこと考えて登ったことが
ないのでなんともいえませんが皆さんはどう思われます?
243牛鍋蝸牛:2003/02/10(月) 20:33 ID:cLu23zQE [ N043029.ppp.dion.ne.jp ]
おお! 啓タさん!
よくぞご無事で…(涙
そうなんです。
昨日、あの、例の、「あび」にて、18丁目さんとお会いしましたです。
啓タさんご一家に続き、第二回目の、ナチュラリーなオフ会とでも言いましょうか…。
あ、啓明中学校の先輩後輩ではありませんで、「大学で」です。
ま、これも、「あび」のマスターが言い出したから判明したことですがね。
なんたって皮肉なもんで、18丁目さんとワシの各々の情報を一番知っているのは、PCも、携帯さえも使えない、"あの人"ですから。
さて、先に書かれてしまいましたが、今日の道新夕刊。(啓タさん、"今朝の道新の夕刊"ってのは、ナイ…)
「コタンベツの丘」のレポートですね。
(道新取っていない人、あるいは取っているけど夕刊は取っていない人は、コンビニ、あるいは道新の販売所に行って買ってくること)
これってどうなんでしょね。
確かにワシも小学校の時、「円山」と習ったけど、「誰が、見たんじゃ?誰が、そう言ったんじゃ〜!」と疑問を持ちました。
(ワシって、なんて素直で、利発なお子様だったのでしょうねぇ)
この記事の成り行き的には、「荒井山の小高い丘」がそうだったのではないか?と思わせるものがあります。
んが!しかし、島判官が「コタンベツの丘」から一望して札幌の街づくりを構想したからと言って、"丘"から見て今の道庁が「真っ直ぐ」かどうかは関係ないと思われるのですが…。
そこらへんからして、この記事、ちょっと辛いものがあるような気がする…。
"丘"(山)から測量したわけでもあるまいに…。
ワシとしては、島判官は直感的に、「道都はここに決めた!」と言ったまでだと、思ちゃったりしてからにして。
したがって、「コタンベツの丘」がどこかという疑問を解くには、別のアプローチをする必要があるのではないか?と…。
北海道新聞社報道本部の○間○基記者、よければレスください。
244西創成:2003/02/11(火) 00:23 ID:poaidW7Y [ o052077.ap.plala.or.jp ]
>>239 なるほど。そうゆう流れでしたか。
それにしても、「札幌郡豊平町大字平岸村」は広いですな。

>>240 大正9年の地図をみると、鉱山専用線が、定鉄錦橋駅〜白井川〜水松沢と引いてあり、地図表記では、水松沢=豊羽鑛山、胡桃沢=通洞、現鉱山=元山となっていて、つづいて、たしかに、備前、長門となっていますね。

>>241 山師の試掘鉱ですか。
そういえば、最近「山師」(山師根性も含む)という言葉。聞きませんね。
245福岡県小郡市民:2003/02/11(火) 00:41 ID:1rRnz6NE [ Ckrum4DS13.fko.mesh.ad.jp ]
札幌市南区砥石山
246福岡県小郡市民:2003/02/11(火) 00:50 ID:1rRnz6NE [ Ckrum4DS13.fko.mesh.ad.jp ]
>>41
>【内地等で、ご覧のかたへ】
北海道で一般に「部落」というのは、いわえる被差別部落を指しません。集落・地
区のことをいいます。だから平気で、「オラの部落」などと言う人もいます。阿寒
湖のアイヌコタンに、「アイヌ部落入口→」などと平気で大看板立てているのもそ
のせいです。ただ、北海道民には、部落差別は無い(というか、知らない)が、ア
イヌ・朝鮮人を差別することは、残念ながら残っています。

私も内地に出てから初めて「部落」という言葉のイメージの悪さに気付きました。

>>50
>北区北51条と「東区北51条」
そのような紛らわしさを防ぐため、政令市になった時に、盤渓のうち西区になった
部分が小別沢に、平岸のうち南区になった部分が澄川に改名されたようです。

同じ年に政令市になった福岡は、3区にわたって同じ地名があるところすらあります。
「大濠」というところでは、3丁目が中央区、城南区に別れています。
247西創成:2003/02/11(火) 01:34 ID:poaidW7Y [ o052077.ap.plala.or.jp ]
>>239 温泉街というのは、よその町から来た住人が多い成り行き上、一般に持ち家が少ないですから、旅館内住み込み、寮、社宅、社宅として借りている貸家・アパート、その他貸家の需要が多いのです。

余談ですが、道内温泉街で一番人口が多いのは、虻田町字洞爺湖温泉町ですが、(現在、減って1,500〜2,000人位。最大時は、昭和52年当りで、5,000余人位)住人の約半数に少し足りない位が、町営住宅に住んでいます。今回の噴火で、増加傾向です。元々この街の町営住宅は、旅館従業員社宅用枠があるので、町営住宅住人の多い町といえます。
その他の民間アパートに住んでいる人もいますから、持ち家率は少ないということです。
248西創成:2003/02/11(火) 01:49 ID:poaidW7Y [ o052077.ap.plala.or.jp ]
>>245,246 福岡県小郡市民さんはじめまして。
私は昨年まで、小郡=新幹線の駅のほうしか知らんかったのです。
昨年、友人の彼女で福岡県に住むという人に会ったのですが、その方が小郡市出身だと聞いてはじめて知った次第です。

とりあえず、お時間があれば、最初から過去レスもお読みください。
なかなか面白いよ!
249西創成:2003/02/11(火) 02:11 ID:poaidW7Y [ o052077.ap.plala.or.jp ]
>>242,243 10日付道新夕刊6版の「コタンベツの丘」はどこ? 読みました。

たしかに記事の展開からいうと、牛鍋さんがゆうとうり、荒井山ということになるようですが、どうなんですかね。実は島さん、適当に決めてたりして。
25018丁目:2003/02/11(火) 08:31 ID:ZLyBDtN. [ SODfi-02p4-199.ppp11.odn.ad.jp ]
盤渓には札幌中央区ゲレンデがあります。
今日は盤渓へスキーしに行きます。
円山、宮の森の人だと5分程度でゲレンデ到着ですよね。
元町からでも、エルムトンネル出来てからは、25分程度でゲレンデです。
盤渓じゃ遠すぎるって人には荒井山市民スキー場もあります。
251161:2003/02/11(火) 10:53 ID:bMiqL7Mg [ o137011.ap.plala.or.jp ]
ご無沙汰です。最近はすっかりROMです。

http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/index.html
ちょこっとだけ更新。。。
25218丁目:2003/02/11(火) 19:41 ID:6Tdgc5HQ [ SODfi-02p4-169.ppp11.odn.ad.jp ]
161様
お疲れ様でございます。
トップ画像がいきなり「土場」とは!
画像上の地名が比較的メジャーどころに置き換わっているのも、今のスレの特徴を
現している様でグッドですね。
25318丁目:2003/02/11(火) 20:00 ID:6Tdgc5HQ [ SODfi-02p4-169.ppp11.odn.ad.jp ]
あ、161さんのページ内からアプローダーに記念に張っておきました。
以前ちらりと話した、小沼川跡の写真です。
254東橋小出身:2003/02/12(水) 00:05 ID:XfHgILdc [ R222060.ppp.dion.ne.jp ]
懐かしい地名が随分と…。でも思い当たる節 プンプンです。しかし、みなさんじ地元の人も真っ青な、知識ですね。
同級生の柄の悪さは、そういうところから、きてたのかな?
ちなみに、自分は小学生時代「旧千代田邸」に入って、怒られた経験アリ(w
休みの日に、また 過去ログ 読み返してみます。みなさん、まだまだ、よろしくおねがいします。
255西創成:2003/02/12(水) 00:52 ID:P7KjtKHA [ i096146.ap.plala.or.jp ]
>>254 東橋小出身さんこんばんわ。
過去ログ全部読むのは大変ですが、面白いでしょ。


そういえば、定山渓絡みで一つ。

道道小樽定山渓線(道道1号線、旧3号線)は、
昭和3年4月、工事開始
昭和5年7月、完成
だったと思いますが、当初、定山渓観光自動車という会社が遊覧バス運行のために作った私道だったそうです。
256西創成:2003/02/12(水) 01:25 ID:P7KjtKHA [ i096146.ap.plala.or.jp ]
そういえば、「茨戸」のこともちょっと書きます。

明治44年6月11日(特許、明治42年12月)、北7条〜(石狩街道)〜茨戸に馬鉄(札北馬車鉄道→札幌軌道)が開通しました。

ほぼ、この軌道の開業と同時期に、札幌軌道は、茨戸〜石狩で発動機船の運航もはじめ、釣りの名所として、茨戸周辺を売り出しました。

その後、札幌軌道が軌道事業をやめると、札幌観光バスという会社(中央バスの数ある前身一つ、現在ある同名社とは関係ない)が、北7条〜茨戸のバス運行と、茨戸公園の開発を札幌軌道から引継ぎました。昭和16年でほぼ現在並に出来上がりました。

昭和27年、札幌で開かれた国体で、茨戸がボート競技会場になったことで、「水郷・茨戸」として有名になりました。
257牛鍋蝸牛:2003/02/12(水) 09:51 ID:Uc1Fmnfg [ y068065.ppp.dion.ne.jp ]
そうか。
「うpろだ」(アップローダー)だったんだ。
ワシ、「うpだ」だと思っていた…。
志村けんじゃないんだから(w
どうも、161さん、使わせていただいております。
先日、18丁目さんとの話でも、161さんのウワサでました。
良くはなっているのですが、まだ腰が痛むので以前のような勢いが出ません。
おいおいやっていきます。
新しい方々もよろくしく。
258牛鍋蝸牛:2003/02/12(水) 21:35 ID:vRtc.8ow [ N043234.ppp.dion.ne.jp ]
>>246
>そのような紛らわしさを防ぐため、政令市になった時に、盤渓のうち西区になった
>部分が小別沢に、平岸のうち南区になった部分が澄川に改名されたようです。
…なのですが、昭和25年頃のものにも、現在と同じ位置で「小別沢」と「澄川」はあるのですが、詳細を教えていただければと思います。
ところで、福岡暖かそうで羨ましいね。
冬でも実地調査、楽に出来そう…。
そうそう、「部落」って表現ですが、講談社の「類語大辞典」を見ますと、「集まる」の項の「名詞の類:トコロ」の「集落」に分類されています。
類語としては、「集落」、「村落」、「里」、「人里」、「村」、「村里」、「町」、「タウン」、「農村」、「山村」、「山里」、「漁村」、「浦里」、「港町」、「城下町」、門前町」、「宿場町」が載っています。
「部落」そのものの意味としては、
(比較的小さな)集落、「山を登り切ると、眼下に小さな〜が見えた」
とありますが、注釈が付いています。
「地域によっては歴史的にいわれなき差別を受けてきた被差別部落を指すことがあるが、その不当性を十分理解し、差別を温存するような使用があってはならない」
やはり、北海道での使い方が、本来の使い方なんですね。
そもそも、もし本来的に「部落」が「被差別部落」を現す言葉なら、移住者だらけの北海道でも同じように使われたはずなのですから、被差別部落を表す、間違った「部落」の使い方はごく近年からなのでしょう。
ま、しかし、その前はその前で、また別の蔑称が主に用いられていたわけですから、根は変わっていないのですが。
259牛鍋蝸牛:2003/02/12(水) 21:45 ID:vRtc.8ow [ N043234.ppp.dion.ne.jp ]
>>247
なるほどねぇ〜。
温泉街は持ち家率が低い…。
言われてみれば、そうかもね。
温泉で働く人って、勤務時間が朝早かったり夜遅かったりするわけだから、家が職場の近くでないと不便だろうしね。
山間の温泉なんかだと、土地の問題もあるから、個人で家を建てるというのはなかなか難しいかも…。
>>249
「コタンベツの丘」ですが、ワシも西創成さんがいうように島判官、山に登って、「ここに決めた!」って程度だったんではないか?と思いますよ〜。
石狩平野は原始林だったわけですから、平地にいてはどの程度の広さがあるのか分からない。
それで、土地を確認するために「コタンベツの丘」に登ったってことで、それは実際に区画を引くこととは違うと思いますがどうでしょう?
ま、登山道もなかったであろう時代、しかも冬に登ったってんだから、あまり高い山ではなかったと、ものぐさなワシは思うのです。
あの「五天山」だって、しかも夏に登るのだってかなり大変だったんだから〜。
だから、「低い丘」程度が当たりってことで、この記事の中で言えば「荒井山の丘」がクサイと…。
260牛鍋蝸牛:2003/02/12(水) 22:38 ID:I/XzQ7L2 [ B136228.ppp.dion.ne.jp ]
温泉で思い出した。
今日のHBCラジオ、「カーナビラジオ午後一番」が「映画・ドラマで、思わずツッコミを入れた場面」とかいう企画。
「登別」を舞台にした去年の昼ドラ「はるちゃん」で、はるちゃんが人を探して旅館から草履姿で外に出て、次の場面で登別漁協まで行っていた、と言う話。
「何キロあるんだ!」と聴視者が突っ込んでいたけど、大笑い。
たま〜に再放送されることのある、かな〜り前の「石狩川水系殺人事件」って「布施博」主演の二時間ドラマでは、布施が扮する旅行ライターが東京から来て、毎日、石狩川を散策するのだけど、泊まっている旅館が「定山渓」だった。
遠いだろ〜!
一昨年あたり放送になった「高嶋弟」が「狸小路」のラーメン屋っていう設定のドラマは、これまた最高で、店から「ススキノ」のストリップ劇場へラーメンを出前するのに、自転車で大通り公園を走っていた。(しかも、何回も。しかも笑顔で…)
ラーメン伸びるよなぁ。
ま、安物ドラマだからとはいえ、そこを知っている人間からすると「こりゃないよ」ってこと多いよねぇ。
役者の使う方言が怪しいとかってのはしょうがない部分だけど、地理的なものは動かしようがないのだから、考証は正しくして欲しいものですわ。
261牛鍋蝸牛:2003/02/12(水) 22:47 ID:I/XzQ7L2 [ B136228.ppp.dion.ne.jp ]
>>260
「石狩川殺人水系」だったかも?
262西創成:2003/02/13(木) 03:07 ID:DMOKc4t2 [ i097126.ap.plala.or.jp ]
>>259 温泉街で、持ち家率が低いのは、理由があります。

(1)ちょっと前まで、旅館に働く場合、食と住、光熱費は会社持ちだったので、会社に与えられた、社宅、貸家、寮に住んだほうが得である。

(2)ちょっと前まで、よいところがあれば、他温泉の旅館に移る人がおおく、土地に定着しなかった。(特に板前)

(3)子供が大きくなると、なるべく温泉街で就職させないようにしたい人が多く、実際そうしているので、将来的には、他所に移転しょうと思っているから温泉街に建てる気がない。

(4)温泉街の地価が以外に高いのに、たいして便利も良くないので、温泉街から近い市街地に建てようとする人が多い。
【例】定山渓→藤野方面、登別温泉→登別市街(幌別)・登別駅方面、洞爺湖→虻田(洞爺駅前)方面
263西創成:2003/02/13(木) 04:10 ID:DMOKc4t2 [ i097126.ap.plala.or.jp ]
>>258 共同通信社の記者ハンドブック(1990版)には、
「差別語・不快語」(表記の基準の項より)
『心身の状態、病気、性別、職業、身分、地位、民族、地域などについて差別の観念を表す言葉、言い回しは使わない。
基本的人権を守り、あらゆる社会的差別をなくすため努力することは、報道に携わる者の重要な責務だからである。
ことわざ、成句などの引用に当たっても、その文言の歴史的背景を考え、結果として差別助長とならないような心遣いが必要である。ただし、差別の実態や歴史に言及する記事のなかで、以上のような基本姿勢に反せず、表現上必要と判断される場合には、差別語そのものをカギカッコに入れるなどして引用することはあり得る。(以下略)』

「差別語・不快語」で特に気をつける用語として、

◎その一部(→言い換え例)

・女工 →女子工員、女子従業員
・人夫 →労働者、作業員
・土方
 土工 →建設労働者、建設作業員
・飯場 →作業員宿舎
・ドヤ街→簡易宿泊所の集まっている所
・部落 →被差別部落の意味では不適切。
     一般語として村落の意味で使う
     場合もなるべく集落、地区など
     とする。文脈上差別的に使用し
     ていないことが明らかな場合は
     部落としても構わない。
・かん婦
 いん売
 娼婦 →使用不適切
・町医者→開業医
・床屋 →理髪店
・産婆 →助産婦
・百姓
 農夫 →農家、農民、農業
     談話などで本人が、百姓と意識
     的に使うケースはその通り引用
     し、なぜそのような表現をする
     のかを明らかにする。芸人→芸
     能人も同じ。

などとありました。

こうゆう差別語といわれるものに、私は、最近、世間が過敏すぎるのではないかと思いますが。(私の考えが間違っているのかな。なんか納得できんとこがある。)
264新川番地:2003/02/13(木) 13:23 ID:d.6j1Hok [ p111-dnb17sappo2.hokkaido.ocn.ne.jp ]
会社が合併してしまってしばらく見ていませんでした
呼ばれてないけど復活
あびにも復活
よろしくね
265なまら名無し:2003/02/13(木) 16:32 ID:mvFJVBso [ o137028.ap.plala.or.jp ]
266牛鍋蝸牛:2003/02/13(木) 22:14 ID:cWalwEYU [ N043177.ppp.dion.ne.jp ]
お!新川番地さん。
呼んではいないけど、18丁目さんとウワサはしていました(w
会社合併ですか…。
うちの職場も"ちょいと"ありまして、そう言う意味ではご同輩ってことになりますな。
閑話休題。
え〜っと、所謂、差別用語といわれるもの自体はレス違いなので、これ以上は扱いません。
あくまで、地名に関する「部落」、という表現についての考察までにしておきます。
さて、道新の2月10日夕刊の「コタンベツの丘」の件ですが、ある記述を発見しました。
出典は同じく北海道新聞社発行の「星霜 1」。(日付は旧暦)
「札幌への道(下) 島判官の都市計画」より要約。
石狩地方の責任者となった島義勇ttp://www.lib.hokudai.ac.jp/collection/makuake/tenji8l.gif は十月一日函館を出発、倶知安経由の山道を通り、十二日銭函へ到着、民家を借り仮役所を置き、さっそく新道掛と営繕掛を札幌へ送り込む。
その頃、札幌にいた和人は豊平河畔の通行屋(宿屋)管理人兼渡守の志村鉄一と、対岸でやはり渡守と猟師をする吉田茂八の二家族。
先発隊はこの志村、吉田両人と、篠路の百姓早山清太郎を案内人にしてあちこち歩き回った。
そして現在の北海道神宮付近の高台から石狩の原野を見下ろし、「ここから東一里のところに札幌本府の役所を建てたら」と一応の結論を出し、銭函の島判官に報告した」
その後、11月10日(新暦12月12日)に島は札幌へ入ったわけで、記事によると(「札幌百年の歩み」1970、「札幌區史」1911より)、翌11、12日に「コタンベツの丘」に登ったとあります。
ということで、言われているのとはちょっと違って、部下によってあらかじめ下調べされていたらしいということが分かりました。
ちなみに、記事に出てくる「南一条通り」当時の「銭函通」というのは、明治元年の札幌地図には「銭函道」としてたしかに記載されています。
しかしながら、区画の基準になるものとして、記事では「大友掘り」に関して一切触れられていないというのは、片手落ち(ピー)です。
元村出身の18丁目さんに怒られるぞぃ!
267牛鍋蝸牛:2003/02/13(木) 23:18 ID:cWalwEYU [ N043177.ppp.dion.ne.jp ]
「豊羽鉱山」ネタを調べていて、「鉱山」ってぇものは戦争と関連があるものなのだ、という認識を新たにしました。
ま、戦争するには各種金属が必要なんだから当たり前なのですけど。
「さっぽろ歴史散歩 山辺の道―定山渓紀行」(山崎長吉 北海道出版企画センター)の本文最後の記述によりますと、
「(略)大正三年日本鉱業の前身久原鉱業が買収して操業を始めた。これは第一次世界大戦による鉱山開発の必要性からであった。当時は市立の小学校までできて従業員は相当数を数えた。しかし第一次世界大戦が終結すると閉抗になり、従業員はこの地を離れた。
次に日支事変後の総力戦に対応して鉱山開発が必要になり、昭和十二年に鉛、亜鉛の需要にこたえる国策として豊羽鉱山を再開、そのため5千人の従業員を擁し、社宅建築に追われ、小学校も二校を数えた。しかし、昭和十九年九月六日豊羽鉱山のある白井川の河床が陥没、やむなく鉱山を休止した。何しろ600b下からの坑道による採掘では、どうしようもなかったという。そして昭和二十五年に再開した(略)」
昭和二十五年といえば、朝鮮戦争が勃発した年です。
はたして、それと直接の関連あるのかは分かりませんが、なにはともあれ、「豊羽鉱山」(豊羽に限らないのでしょうが)は戦争と深いつながりがあったってぇ、わけですねぇ。
26818丁目:2003/02/13(木) 23:46 ID:G0857f0M [ SODfi-01p3-72.ppp11.odn.ad.jp ]
昭和19年の豊羽閉山はほとんど人為的と言ってよいでしょう。
軍用に供給するために、劣悪な環境の中を大増産し続けていたにも関わらず、
白井川の補修の為に僅かに用意されたセメントなども、軍に徴発されたのですから。
269牛鍋蝸牛:2003/02/14(金) 00:10 ID:U7l2m2MY [ N043177.ppp.dion.ne.jp ]
面白いサイトを発見しました。
1960年に「豊羽鉱山」坑内を見学した学生さんの日記。
ttp://www004.upp.so-net.ne.jp/nakama/hokkaido/hokkaido_806.html 
なかなか興味深いものです。
ここの最初にでてくる「豊羽鉱山石山選鉱場」というのは、「さっぽろ歴史散歩 山辺の道」にも記述があります。
「昭和49年2月、工場解体中失火して施設は焼失、現在は日鉄不動産会社が跡地利用の一環として住宅化を進めている」と書かれていますが、石山のどこなのでしょう?
「石山が札幌・定山渓間の通過的意味に一大変化をおもたらしたのが石山選鉱場の設置で、その盛衰は地域の発展に大きな影響を与えた」とあるくらいのものだったようですが…。
鉱山見学の日に学生さんが泊まった「北海荘」とはその後の「北海ホテル」だそうで、その跡に現・「ホテル鹿の湯 花もみじ」が出来たそうです。
くしくも学生さんが泊まる一年前、この旅館である事件が起きたそうで…。
再び同書より引用。
「これまで定山渓を舞台にした事件のうち最大規模の一つに北海道地区定山渓教育研究協議会事件がある。これは昭和三十四年八月三十一日から始まる小学校学習指導要領伝達講習会の阻止事件で、舞台は鹿の湯ホテルと定山渓ホテルの間にあった北海荘(北海ホテル)の会場に受講者を阻止するため民主教育を守る共闘会議のメンバーと警官隊の阻止行動との間に乱闘が起こり、その付近一帯の道路上で騒じょう事件になった」
昔からこの手の問題ってのは、もめるんですねぇ。
ちなみに「鹿の湯」の名付け親は、このスレの住人にはおなじみ、札幌の区画を作り「薄野遊廓」を作った、あの「御用火事」でも有名な「岩倉通俊」です。
270牛鍋蝸牛:2003/02/14(金) 00:16 ID:U7l2m2MY [ N043177.ppp.dion.ne.jp ]
>>269
ごめん、間違い。
「岩倉通俊」じゃなかった、「岩村通俊」。
あと、細かい間違いですが、
>石山が札幌・定山渓間の通過的意味に一大変化をおもたらしたのが、
は、「もたらしたのが」です。
"おもらし"したわけではありません。
271牛鍋蝸牛:2003/02/14(金) 00:23 ID:U7l2m2MY [ N043177.ppp.dion.ne.jp ]
>>267
いっやぁ〜、ごめんね。
もういっこ、ワシ間違っていた。
>>267
>当時は市立の小学校までできて従業員は相当数を数えた。
…なのですが、「市立」ではなく、「私立」の誤りです。
謹んでお詫び申し上げます。
27218丁目:2003/02/14(金) 00:50 ID:sG8b.Xj. [ SODfi-01p3-72.ppp11.odn.ad.jp ]
牛鍋さん
以前書いていた「豊平町湯殿山裏」ってどこ?
273西創成:2003/02/14(金) 01:11 ID:phKUpymQ [ i096008.ap.plala.or.jp ]
>>269 石山選鉱所跡と選鉱所社宅跡の宅地は現在、「日鉱団地」=石山2条、3条5、6丁目あたりです。
選鉱所は、石山3ー5、北豊運輸のうら側、やや山より先にあります。
「石山2ー4」というバス停は、20数年前まで「選鉱所前」でした。

鹿の湯花もみじが出来る前には、
「ホテル香取」「北海ホテル」「純喫茶と定鉄バス湯の町待合所」が、(岩屋観音から定山渓物産館に向かって)ありました。
27418丁目:2003/02/14(金) 01:22 ID:sG8b.Xj. [ SODfi-01p3-72.ppp11.odn.ad.jp ]
西創成さんの書き込みを見て、MAPIONで調べたら、石山2条は1丁目が無いようですね。
日鉱団地の辺りは、石山緑地に抜ける道路が整備されたりして、対照的に古い家屋が
迫力あります。
275西創成:2003/02/14(金) 03:32 ID:wxXrZN/A [ i239149.ap.plala.or.jp ]
>>273 急いで訂正します。

×北豊運輸のうら側、やや山より先に
〇北豊運輸のうら側、山側寄り、ちょっと先に

です。すみません。
276牛鍋蝸牛:2003/02/14(金) 19:43 ID:0i31zR3E [ E168235.ppp.dion.ne.jp ]
>>272
「豊平町湯殿山裏」…。
例の「サムライ部落」を調べていた時、「新札幌市史 第四巻通史四」の「第八篇 転換期の札幌 第七章 二 苦悩する下層社会」の項に出てきた地名。
ワシもどこにあるのかは分からない。
「豊平区の歴史」(札幌市豊平区)にも当然出てこない。
今後の調査を待つしかないですねぇ。
>>273
「日鉱団地」付近って、足踏み入れたことないところです。
ワシにとっては、「前人未到のチョモランマ」。
言われて見ると、「穴の川」の山側に「豊羽鉱山石山排水場」ってのがありますね。
100bほどもある、貯水場のようです。
これが、「さっぽろ歴史散歩 山辺の道」に書いてあったヤツかと今、分かりました。
昭和42年に「豊羽鉱山」が地元に選鉱施設を作り、44年に石山での選鉱事業が終わったあと…、
「しかしながらそのころには公害が社会的問題になり、地域住民の反対運動が高まった。これは石山選鉱場の地下水汚染と、荒廃による公害発生に焦点づけられたもので、会社としても鉱石および残さいの堆積物を山手に移すと同時に、旧堆積場の跡地に芝を張り、また専用水道を遘設した。カドニウムの流失を防ぐため貯水池も建設した」
※ 原文で「カドニウム」と書かれていますので、そのまま書きました。「カドミウム」が一般的でしょう。
ってことは、ここは夏、芝生の広場かなんかなのでしょうか?
地図で見る限りではそう見えるのですが。
ああ、実地調査行きたいねぇ。
277牛鍋蝸牛:2003/02/14(金) 23:21 ID:dt68JzUA [ K103046.ppp.dion.ne.jp ]
>>268
>白井川の補修の為に僅かに用意されたセメントなども、軍に徴発されたのですから。
これは昭和19年のこと。
当時の道新の記事に、こんなのがありました。
同年9月7日付け。
「活火山の有珠山のふもと、壮瞥長流間の噴火口−爆発の際に振り積もった真白いハイがそのまま素晴らしいセメント代用品として戦争に役立ち、いま海軍設営隊の勇士たちが噴火口近くまで挺身し降灰採収の戦ひを続けている−」
十人ほどの軍人がわらの"かます"に火山灰を入れている写真が載っています。
火山灰がセメントの代わりになるかというと、ま、気休め程度だね。
>>267で書きましたが、昭和25年に「豊羽鉱山」は操業を再開したわけです。
で、この年は朝鮮戦争が始まった年ってことも書きましたが、やはり同26年の道新にこんな記事が…。
「ゴミ捨場の崖崩れ 鉄屑拾い数名下敷 室蘭で救出進まず絶望か」、「小学生の電線切取り 三人組んで小遣ほしさに」
「金へン泥 神社荒す 函館八幡宮の屋根まで剥ぎとる」、「金具をとればブザー 函館本線に初登場 盗難よけの警報機」
「少年鉄板ドロ二件 かげに悪質業者」、「裸線だけで千四百粁 電通省 金ヘンドロに…」
朝鮮戦争特需で、金属が高騰したのです。
思ったとおり…。
278牛鍋蝸牛:2003/02/14(金) 23:22 ID:dt68JzUA [ K103046.ppp.dion.ne.jp ]

>真白いハイ
真白い灰、でした。
279西創成:2003/02/15(土) 02:33 ID:8pcjET/2 [ m077131.ap.plala.or.jp ]
>>272,273
「豊平町湯殿山裏」って、
他の豊平細民街が、「6番地」「12番地」と通称で呼ばれたように、これも通称ではないかと仮説を立ててみることにして調べてみるとこんなん出ました。

「真言宗湯殿山・弘周寺」豊平5ー1

まさかここのお寺の裏ではないですよね。
280西創成:2003/02/15(土) 02:52 ID:8pcjET/2 [ m077131.ap.plala.or.jp ]
>>277 引用されている、昭和19年9月7日付の道新のなかにある「壮瞥長流間の噴火口」というのは、現在でいうところの「昭和新山」ですね。

あそこの木目の細かい火山灰は、たしかに色艶共にセメント粉に似ているし、水でやや固まるけど、全然強度がありません。所詮代用品なんですね。

ちなみに、長流(おさる)→伊達市長和町です。

余談ですが、むかし国鉄室蘭線は、長流―有珠―虻田と停車駅がつづくので、さるかに合戦か?と言われたとか。
281牛鍋蝸牛:2003/02/15(土) 07:10 ID:Z4LDncQg [ K102118.ppp.dion.ne.jp ]
>>279
西創成さん、お手柄!
さすが!
ttp://www6.ocn.ne.jp/~aa1toyo/tiku/s24-kousyuu/link4.htm 
「とよひら商店街」のサイトです。
「真言宗智山派湯殿山弘周寺 豊平5条1丁目 
開山当時(明治20年)の地域は豊平6番地で、生活困窮者の多い、いわゆる堀立小屋式の住居が相当期間つづいた。 開山上人は、はじめ辻説法(道端で往来の人に説法を聞かせる)方式で布教に努め、2〜3世上人ともども生活困窮者のよき相談相手で喜ばれたという」
「湯殿山」って「山号」だったんだ。
「比叡山」といえば「延暦寺」だし、「成田山」といわれれば「新勝寺」だけど、「湯殿山」では…。
"山号寺号"といえば、こんなの考えてみました。
「クロワッサン、給食時」、「母さん、家事育児」、「お風呂屋さん、目地掃除」、「日産、今期黒字」、「ハッサン、王子」…。
282なまら名無し:2003/02/15(土) 08:45 ID:ZNyUSn2M [ P219108013205.ppp.prin.ne.jp ]
ふむ
283牛鍋蝸牛:2003/02/15(土) 09:34 ID:Z4LDncQg [ K102118.ppp.dion.ne.jp ]
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=487 
「石山選鉱場跨線橋跡」の写真をアップしました。
文章ばかりじゃ、皆さん飽きるでしょうから。
ま、どっちにしても地味な写真ですけど。
284軽川の畔:2003/02/15(土) 11:44 ID:yVUGWppA [ o129202.ap.plala.or.jp ]
はじめまして。スレ汚し、スマソ。
part1より全て読ませていただきました。非常に良スレで感心しております。
興味深く読ませていただいたので、丸3日かかりました。
このスレ、ROMってるひとはかなりいると思います。
んで、このスレに対する、私の思った事を勝手に書かせてもらいます。

私、趣味がサイクリングなもので色々行くんですよ。
雁来、五天山、桃源郷(湯ノ沢)、豊羽鉱山等など…
で、当スレコテハンさんの行動力、探求心、洞察力には感服しております。
(私はそこまで深くまで掘り下げて考えていませんでしたから…)

ただスレ5〜6にかけてのサムライ部落に関してはやはり、ある種のタブーに触れた事、
そして、実地でも情報を得にくい点、話題がループ気味だった事もあり読むのが苦痛でした。
やはり、この季節、実地調査は非現実的かもしれませんが、呼んでる方はその方が面白いと感じました。
285軽川の畔:2003/02/15(土) 11:59 ID:yVUGWppA [ o129202.ap.plala.or.jp ]
(つづき)
興味を持って見れたのは次の順です
1.札幌温泉 現存している者(階段やコンクリ、写真)が多く、しかも新たな真実(裏焼き)などを発見
2.雁来 484の歌や札幌の歴史そのものについて多く語られていた。
3.遊郭 現在のススキノ及び菊水を語る上で重要
4.水車町 ホントはまだなんかありそうな気もするけど…

やはり牛さんがおっしゃる通り実地調査が一番楽しく読めたと思います。
徐々に暖かくなって来ています。春になったらまた実地調査をイパーイおながいします。
(いささか無責任な発言かもしれませんが)

これからも応援しています。協力できる事は喜んでしたいと思います。
皆様、がんがってください。
P.S.あびってどこにあるの?(どっかに書いてたっけ?)
286軽川の畔:2003/02/15(土) 12:05 ID:yVUGWppA [ o129202.ap.plala.or.jp ]
訂正
誤>やはり牛さんがおっしゃる通り実地調査が一番楽しく読めたと思います。
正>やはり牛さんがおっしゃる通り実地調査が重要という事ですね。

連カキコ、スマソ
287牛鍋蝸牛:2003/02/15(土) 18:23 ID:2PmxOY2. [ y068152.ppp.dion.ne.jp ]
軽川の畔さん、感想どうもありがとう。
いや確かにワシも懸念していましたとおり、冬は実地調査がやりにくい点でちょっと煮詰まっちゃう傾向はあるわけでして、その事に関しては18丁目さんとも話していたのです。
実地調査ねぇ…。
実地調査かぁ…。
…で、まぁ、実はね、今日行ってきたんですよ、実地調査!
この時期、「豊羽鉱山」はちょっとツライので、「石山選鉱場跡」。
写真も撮ってきたよ〜。
報告まとめるのでちょっとお時間ください。
>>286
誤>やはり牛さんがおっしゃる通り実地調査が一番楽しく読めたと思います。
正>やはり牛さんがおっしゃる通り実地調査が重要という事ですね。
いや、ワシとしてはどっちでも。
読んで楽しんでいただければ、嬉しいですしね。
P.S. 「らーめん あび」ね。
http://ramen.dip.jp/shop_info.php?702 
写真はワシが撮ったものです。
288啓タ:2003/02/15(土) 18:52 ID:dQHx8Y0. [ EATcf-376p229.ppp15.odn.ne.jp ]
ひさしぶりにお邪魔します。
がるがわさんお初です。目にとまったのでひとこと。
私がかの有名な札幌温泉の裏焼き事件のなぞときに一役買った
啓明ターミナルですぞ。おほん。といっても牛さんを前にしては
大口たたけないのでご内密のほど・・・
がるがわさんのかきこみ読んでうれしかったのは湯ノ沢を桃源郷って呼んででくれた
こと。これも実はわしが名付け親なの。こほん。(たいした自慢にならん)
わざわざバイシクルでがるがわから湯ノ沢まで。すごーい。
あの桃源郷どうおもいました?
真駒内スキー場の帰りもう一度訪ねてみたらホーストレッキングしてる親子も
いたりしてなんじゃここはってほんと不思議なとこだよね。
まだ2棟売れ残ってるから250万で買わないかいなんてすすめられちゃった。
はー金があればなー。
289軽川の畔:2003/02/15(土) 20:06 ID:yVUGWppA [ o129202.ap.plala.or.jp ]
早速のレス。多謝!

牛さん>
ご苦労様でした。続き楽しみにしております。
「らーめん あび」今度行って見ます。

啓タさん>
裏焼きの件がこのスレで一番の盛り上がりでしたね。今後の更なる盛り上がりに期待!
桃源郷はホント何故こんな所にって感じでした。
確かに何世帯かは元々あそこにあったのですが、
私には突然現れたようにしか思えませんでした。
思ったのは昔のように砂利で道を作って近代的?な建物を置いてるだけ。
要はあそこは区画整理がされていない(もしくは自己流)ので
現代版屯田兵(開拓使の方がただしいかな?)にみえたのです。
ぜひ一棟買って、そこでオフでも…
290牛鍋蝸牛:2003/02/15(土) 20:28 ID:2PmxOY2. [ y068152.ppp.dion.ne.jp ]
>>283でアップした写真、カットしちゃいまいた。
代わりに、
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=488 
から見ていってください。
「石山選鉱場跨線橋跡」の現在の姿が、カラーで見られます。
レポートは、今日は書けないかもしれませんので、悪しからず。
久々に晴れたし、とっても気持ちよかったです。
車はドロドロになりましたけどね。
291なまら名無し:2003/02/15(土) 20:37 ID:mdqh/KEE [ YahooBB219168026056.bbtec.net ]
全国から視察団殺到、日本一のサイバー・ビレッジ「西興部村」
http://www.bnn-s.com/bnn/bnnLogin

どうよ?
292牛鍋蝸牛:2003/02/15(土) 21:10 ID:2PmxOY2. [ y068152.ppp.dion.ne.jp ]
新スレ立てました。
http://hokkaido.machibbs.com/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1045310800
こちらが終わってから移行してください。
スレタイは、オーソドックスにしました。
293西創成:2003/02/16(日) 00:49 ID:d90ZmGzc [ i095065.ap.plala.or.jp ]
>>281 牛鍋さんに誉めてもらっちゃった。
ありがとうございます。

豊平商店街のホームページ、覗いてみました。
なかなかよくできていますね。
294牛鍋蝸牛:2003/02/16(日) 14:30 ID:G/Fo.bUg [ y068064.ppp.dion.ne.jp ]
「とよひら商店街」のHPって実は以前に出ていました。
ご記憶の方もいらっしゃいますでしょうが、
「その五」の63あたりの「八二」で。
http://hokkaido.machibbs.com/bbs/read.pl?BBS=hokkaidou&KEY=1037627744#063
(…で飛ぶはずなんですが、飛びません。おたくではどうでしょう?)

さて、「豊羽鉱山石山選鉱場跡」の実地調査レポートです。
家を出ますと、青空も見え路面もアスファルトが顔を出しており、運転には特段の注意も払う必要のない、その点では快適なドライブでした。
しかし、雪解けでドロドロのため、ワイパーの効かない範囲は見えない状態。
しかも、雪捨てに向かうダンプのお尻に付いたりしたもんで、かなりであります。
で、このダンプはどこに向かうのかといますと、例の「五天山公園」造成予定地の雪捨て場。
昨年夏の写真をご覧ください。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=328
ここもあともう少しで公園になるわけですが、これがただの公園ではない。
http://www.hamanasu.or.jp/ima-kita/action/2-1-1.htm 
ね、「雪堆雪スペースを組み込んだ都市公園」という試みなのです。
ま、偉そうに言っているけど、今でも立派な雪捨て場なんですが…。
本題に入る前から、いきなり横道にそれている「豊羽鉱山石山選鉱場跡」実地調査。
この後、はたして、だいじょ〜ぶなのか!? <つづく>
29518丁目:2003/02/16(日) 15:34 ID:S0hiI3Ts [ SODfi-01p6-53.ppp11.odn.ad.jp ]
牛さん「その五」はもうDAT落ちしてるみたいですよ。
296軽川の畔:2003/02/16(日) 16:23 ID:jBL8AAx. [ j174087.ap.plala.or.jp ]
知人にここを紹介したところ、非常に興味を持っていただきました。
彼が今年の正月に、無意根山に登った時の写真の中に豊羽鉱山(その周辺)がありました。
http://cgi28.plala.or.jp/~xapy/cgi-bin/source/up0017.jpg

彼は明日、無意根山に登るらしいので、ついでに我々を代表して
決死の実地調査をしてもらいましょう。無理か?
冬山は危険なのでお気をつけて…

ちなみに、豊羽の生協でよくコーラを買いました。(高校生の頃)
297啓タ:2003/02/16(日) 17:40 ID:vTWT5w2. [ EATcf-341p135.ppp15.odn.ne.jp ]
無意根山、春になって五輪通りを西岡方面から真駒内へ下ってくると
真っ白いおわんふせた姿をいつもたのしませてくれる。
豊平峡温泉からだともっと雄々しく見えますが。
好きな山のひとつですが未踏峰。熊がこわい。
298牛鍋蝸牛:2003/02/16(日) 20:42 ID:RzPAZv76 [ U126188.ppp.dion.ne.jp ]
>>294 >>295
あ、混乱した…。
「八二」に関してはこちらです。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/5_log.html#063
HPのアドレスじゃなきゃいけなかったんだ(w
>>296
実にシブイ写真だ。
軽川の畔さんの知人の方、チャレンジャーですねぇ。
責任は取れませんが、「よろしく」とお伝えください。
>>297
啓タさん、冬だから熊寝てるよ。
登るなら今だ。
299牛鍋蝸牛:2003/02/16(日) 21:35 ID:rDy4E3Ro [ N023216.ppp.dion.ne.jp ]
>>294のつづき。
ちょうど一時間で「石山陸橋」へ到着。
本来はこのあたりの「望豊台」(土場関係)http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/5_log.html#179
をやりたかったのですが、雪の状態と時間的な問題で先送り。
一応、ちょっと回って、石山陸橋を渡ってみます。
なるほど、札幌がよ〜く見えます。
春になったらもう一度来よう!
さて、ワシはうっかりして、そのまま真っ直ぐ行ってしまい、「常盤」方面へ向かってしまいました。
途中気がつき、ショートカットしようと、「石山緑地」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=493 
を横切る道を行きました。
そのまま降りればよかったものを、左に向かう道の方が立派だったため、どんどん山の中へ…。
途中、民家がいくつかあったり、特別養護老人ホームがあったり、「石山中央幼稚園」(ここが中央!?)があったりしましたが、道は次第に狭くなりとにかく山の中へ。
車一台が通るのがやっとこさの道です。
どうやらここは「芸術の森」の裏側に当たる道らしい、というのは分かったのですが、持参した地図ではこの先どうなっているのか載っておりません。
「札幌市水道局芸術の森高台配水地」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=496
という施設までは行きましたが、あきらめUターンしました。
ふっ…、「意気地なし」とお笑いくださいまし…。
しかしながら、天気が良かったからよかったものの、この道、他の方にはお勧めしません。
冬に行かれる方は、ヘビーデューティーな車でと申し上げておきます。
ワシの国産フェラーリではここまでです。
家に帰ってネット地図を見ますと、この道は先で二股に分かれ、一方は再び453号線へ、もう一方は「穴の川」沿いに「日鉱団地」へ向かうことがわかったのでありますが…。<つづく>
300牛鍋蝸牛:2003/02/16(日) 21:37 ID:rDy4E3Ro [ N023216.ppp.dion.ne.jp ]