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8夢見る名無しさん:2006/03/14(火) 21:48:35 0
そうじゃないかと思っとりましたわ。
9夢見る名無しさん:2006/03/14(火) 21:51:14 0
あーひゃひゃひゃひゃ。
10夢見る名無しさん:2006/03/15(水) 09:47:29 0
            __
          /     ヽ、
         _′  ノ_ノl」l_l
          〔 { 三彡 ┃ {
            7li li (_, '''  ノ
           くノ i ! il`フ _i
          |i !l !i/ l`i

            __
          /     ヽ、
         _′  ノ_ノl」l_l
          〔 { 三彡 -‐ {
            7li li (_, '''  ノ
           くノ i ! il`フ _i
          |i !l !i/ l`i
11夢見る名無しさん:2006/03/15(水) 09:48:28 0
周りは気にせず、黙々とやろう。
12夢見る名無しさん:2006/03/15(水) 20:40:55 0
VIPからきますた
この板にきてスレ立てたお
みんなにもぜひ遊びに来てほしいお(^ω^)

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/yume/1142263862/
13夢見る名無しさん:2006/03/18(土) 20:24:38 0

14夢見る名無しさん:2006/03/22(水) 11:56:32 0
sage
15円 ◆E7s3gSGobI :2006/03/22(水) 12:00:32 0
移動
16夢見る名無しさん:2006/03/24(金) 06:41:35 0
正直、大麻なんて限りなくどうでもいい。
だって私別に吸いたいと思わないし、
合法でも違法でも、ぶっちゃけどっちでも構わない。
そりゃ、吸いたい人たちと、もうすでに吸ってしまった人たちにとっては違うだろうけどさ。

事後と事前の違い。
みんな自分を庇いたいし肯定したい。
それだけ。
17彬 ◆4MuGt8Ksw6 :2006/03/24(金) 06:44:52 0
ちょっと手が込みすぎてたかな・・・。
分かるといいんだけど。
18彬 ◆4MuGt8Ksw6 :2006/03/24(金) 06:49:51 0
これからは彬(あきら)と名乗ります。
気づいたらこっちに移動よろしく。
19夢見る名無しさん:2006/03/24(金) 21:25:57 0

20夢見る名無しさん:2006/03/24(金) 21:42:12 0
これからも頑張ってね、基地外さん。
自分の足で立ってもいない癖に言う事だけは一人前だわwwww
21夢見る名無しさん:2006/03/26(日) 09:33:26 0

22彬 ◆4MuGt8Ksw6 :2006/03/27(月) 08:05:08 0
いや〜我ながらよく頑張ったよ
誉めて遣わす
23彬 ◆4MuGt8Ksw6 :2006/03/27(月) 08:22:54 0
あっちはもうすでに落ちちゃったみたいだ
ここも危ないかもしれない

うーむ・・・
24彬 ◆4MuGt8Ksw6 :2006/03/27(月) 08:43:54 0
どっか他に移動できるところないのかな
一週間に一回くらいしか来れないのに、2日で落ちるんじゃ、無理、無理。
ああ家にネットがあれば・・
25彬 ◆4MuGt8Ksw6 :2006/03/27(月) 08:54:47 0
そうだね、独り言なんてまぁ大して価値ないしね
すぐ落ちるんでも仕方ないんだけどね・・・

でもそれじゃちょっと困るんだよね
26彬 ◆4MuGt8Ksw6 :2006/03/27(月) 09:12:04 0
いつも思うんだけど、私ってやっぱりどっか抜けてるんだよね。
いつも、「よっしゃ!」って思って部屋を出るのに、
鍵閉めた次の瞬間「あ!忘れ物!」って。

ま、大したことないことならいいんだけどさ、
いつかとんでもない失敗をしそうで怖いよ・・・
どんなことでも、間違いは少ないに越したことはないからね・・・
27夢見る名無しさん:2006/03/27(月) 09:20:30 0
>>26
ぷっw

といつも笑われる側だからちょっと笑ってみました
すいません
気持ちはめ〜〜〜っちゃよく分かりますOTZ
ハゲドウであります
28夢見る名無しさん:2006/03/29(水) 05:03:03 0
29夢見る名無しさん:2006/03/30(木) 03:53:55 0
何か書き込まなければ2日でスレが落ちるというこの不便な板を
私のような週一ユーザーがこれ以上使うのは実質不可能。ということで、
今日は用事のついでに自分のPCを遠くのネットカフェまで持ってきて、
二度目の移動を目論んでいます。
というか、むしろこの板のその性質を利用してみようと。

ttp://book3.2ch.net/test/read.cgi/poem/1101211916/l50
30夢見る名無しさん:2006/03/30(木) 03:55:34 0
=このスレは本日を持って終了いたしました=
31夢見る名無しさん:2006/03/30(木) 09:45:20 O
>>1
32夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 17:23:27 0

33夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:02:26 0
第二章 女性とその風貌、風習について
P50 33
ヨーロッパでは親族一人が誘拐されても一門全部が死の危険に身をさらす。
日本では父、母、兄弟がそのことを隠し立てして、軽く過ごしてしまう。

P50 36
ヨーロッパでは、男女とも近親者同志の情愛が非常に深い。
日本ではそれが極めて薄く、互いに見知らぬもののように振舞い合う。


第三章 児童およびその風俗について
P68 20
われわれの間では子供は度重ねて親戚の家に行き、彼らと親しく交わる。
日本では親戚の家には滅多に行かない。
親戚を他人のように扱う。

34夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:03:08 0
第三章 経済社会化と第三の波

2 経済社会化と人口成長

P90-  婚姻革命
世帯規模の縮小はどのようにして大きな人口成長に結びついたのだろうか。
この点については、合志郡と同じく細川氏の領有する肥後国玉名郡八ヵ村の、
世帯内の地位別配偶関係が手がかりを与えてくれる。
この史料によると、隷属農民の人口学的特徴は、
血縁親族と比べて明らかにその有配偶率が著しく低かったことである。
この点に関しては傍系親族も、家を継ぐ位置にいない直系親族(次・三男など)も同様で、
人口再生産を担ったのはもっぱら直系親族だった。
年齢別有配偶率を見ると隷属農民と傍系親族の多くは晩婚であり、
あるいは生涯を独身で過ごす者が多かった。
したがって、この人々が自立ないし消滅して減少することは、社会全体の有配偶率を高め、
その結果として出生率の上昇に結びつく。
世帯規模の縮小が進んだ十六・十七世紀は婚姻革命の時代でもあった。
こうしてだれもが生涯に一度は結婚するのが当たり前という生涯独身率の低い「皆婚社会」が成立したのである。

35夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:03:43 0
P91  小農民の自立
右に述べた世帯の変化は、いわゆる小農民自立と呼ばれる現象の一面にほかならない。
人口成長は、隷属農民の労働力に依存する名主経営が解体して、
家族労働力を主体とする小農経営へと移行する農業経営組織の変化と結びついていた。
しばしば、太閤検地の歴史的意義は一地一作人制を推し進めて、小農民の自立をめざす政策だったと言われてきた。
たしかに小農民自立の現象は十六・十七世紀の経済史を最も鮮やかに彩っている。
歴史的因果関連は、しかしその反対であったろう。
畿内に始まりその周辺地帯へと及びつつあった経営組織の変化を敏感にとらえ、小農経営を
政治・経済の基盤にすえることに成功したのが、豊臣秀吉であり徳川家康であったと言うべきなのである。
両人ともにその出身が尾張、三河という、まさに変化の最前線にあったことは、
小農民経営に基礎を置く社会の建設を当然のこととして選ばせたのだった。

36夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:04:18 0
P92-  経済社会化
名主経営を解体させ、小農経営を中心的な経営体とするような変化は、十四・十五世紀に芽生え、
その後十六・十七世紀に成長する市場経済の拡大によってもたらされ
たと考えられている。

前章でみたように、荘園制下の経済において、荘園領主の所領の管理運営に対する意欲と力は次第に衰え、
自分の消費生活を満足させるにたる荘園年貢の確保にのみ関心が向けられるようになっていた。
年貢はもっぱら現物か賦役であり、直接、領主によって消費されてしまう性質のものだった。
そのような環境のもとでは、農民の生産目的は貢納と自給に限定されるから、生産意欲を刺激する誘因は乏しかった。
強制と慣習に従う農業生産は効率的である必要はなく、したがって経営形態には、
多数の隷属農民をかかえた名主経営から小規模な家族経営までさまざまなものが共存できた。
換言すれば荘園制下の経済には一定の生産関数が存在しておらず、より多くの収穫を引き出すために
規模の最適化を図る行動が見られなかったということである(速水融『日本における経済社会の展開』)。

37夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:04:58 0
市場経済の勃興は、荘園年貢の代銭納化の進展にみることができる。
米、布、炭、材木等々の現物で貢納する代わりに貨幣(銭)で納めさせる荘園は、
十三世紀頃から目につくようになり、十四世紀になるとその数はかなり増加した。
それとともに各地に荘園内市場が簇生するようになった。
二つの現象は相補いながら進行し、停滞的であった荘園制的経済循環構造は次第に変化し始めた。
貨幣との接触は市場における交換を通じて利得の機会をもたらす。
初めは荘園役人や在地領主など一部の人々に限定されていた貨幣との接触が、
一般農民にも及ぶようになると、それは生産に対する大きな刺激となった。
畿内の中心的都市のほかに、城下町、寺内町、港町などの都市的集落が増加し成長すると、
その消費需要をめあてに、利潤獲得をめざす販売が農民の生産目的に加わった。
生産量の拡大や生産効率の上昇を図るためにさまざまな努力が試みられ、
農民はよりよい生産方法を求めて選択的に行動するようになった。
経営形態の変化も、そのような対応の一つであった。
衣食住などの費用がかさむうえに、勤勉な労働が期待できない隷属農民に依存することは、
経済環境の変化に対応するには不適当だったのである。

おもしろいことに小農自立が進んだ時代には、人口一人あたりの農耕用役畜の数も少なくなっていった。
この現象もまた、融通の利かない牛馬の労働に依存するよりも、
惜しみない労働を家族労働に期待する方が水稲耕作にとっては有利であるという計算の結果であった。

人々がこのように経済合理性を重視した行動をとるような社会へ変化していくことを速水融は、
経済社会化と呼んでいる。これこそ、人口成長の第三の波をひき起こした原動力であった。

38夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:05:30 0
4 人口停滞の経済学

P105-  マルサスの罠
日本の人口が著しい停滞状態にあったちょうどその頃、イングランドのひとりの経済学者が、
現在でも強い影響力を持ちつづけている『人口論』を著した。
マルサス(T.R.Malthus)である。
マルサスは両性間の情熱は不変であり常に増加する傾向をもつが、
人間の生存にとって不可欠な生存資料(食糧)の増加はそれより緩慢でしかない。
あるいは限界生産力は逓減的であるから、人口増加につれて必然的に生活水準は低下し
貧困に陥らざるをえないと考えた。
しかしそれ以下では生存できない最低限の水準、すなわち最低生存費水準というものがあるから、
これを超えて人口は増加しつづけることはできない。
したがって最低生存費水準に至ると、貧困が疾病、飢餓、捨て子、嬰児殺し、堕胎、犯罪、
あるいは戦争を招き、死亡率を高めて人口増加を「むりやり」押しとどめることになる。
こうして、長期的には最低生存費水準に均衡する出生率と死亡率の組み合わせが達成されて、
人口は増えも減りもしない状態になるとマルサスは説明する。
これが「マルサス的均衡の状態」あるいは「マルサスの罠」と呼ばれる均衡状態である。

マルサスの罠に捉えられた社会では、所得はすべて人口を維持するだけのために消費されてしまい、
貯蓄=投資の余裕はない。
したがって、いつまでも所得水準が最低生存水準に固定されたままにとどまらざるをえないことになってしまう。
たとえ耕地拡大や技術変化が一人あたり所得を一時的に押し上げたとしても、
このような傾向をもつ社会では、すぐに人口増加がひき起こされて生産増大の高価は相殺されてしまうであろう。
工業化される前の低開発社会の状態は、一般に右のように説明されている。
39夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:06:07 0
第二章 女性とその風貌、風習について

P50- 38
ヨーロッパでは、生まれる児を堕胎することはあるにはあるが、滅多にない。
日本ではきわめて普通のことで、二十回も堕した女性があるほどである。

 当時の言葉で堕胎のことを「産み流す」といった。
 堕胎が頻繁におこなわれていたことは宣教師の報告にもしばしば記されている。
 コリャードの『懺悔録』にも「腹を捻って」あるいは「薬を用いて」堕した例が見えている。

P51 39
ヨーロッパでは嬰児が生まれてから殺されるということは滅多に、というよりほとんど全くない。
日本の女性は、育てていくことができないと思うと、みんな喉の上に足をのせて殺してしまう。

40夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:06:58 0
ひとりぼっち
タンザニアの六〇歳台の女性は言う。
「七人の子供たちがエイズで死んだから、生活に困っているよ。
年取ったときに面倒を見てくれると思っていた人間が先に死んじゃったら、誰に頼ればいいの?」

南および東アフリカの一部地域では、エイズが原因で、若年成人の人口が激減している。
高齢の女性が、残された孤児の世話をしているが、この子供たちも一部はHIV感染者である。
これは自然の秩序に反している。
「自分の子供が死ぬのを見る以上につらいことはないわ。大事に育ててきたのに。
子供を育てたのは何のためだったの。無事に育て上げたら、年をとったとき面倒を見てもらえるはずだったのに」。

貧困と人口をめぐる議論のほとんどは、豊かな国々での事実を無視している。
人々に子供の人数を制限させるのは「教育」でも「産児制限」でもなく、もちろん「自己抑制」でもない。
それは安全なのだ。年をとったときに面倒を見てもらえることがわかると、一家の子供数は少なくなる。
これが西の世界で起こっていることである。貧しい人々にとって、子供は、将来欠乏から逃れられることを意味する。
安全こそ人々が欲しているものであり、避妊薬や避妊手術、性的禁欲に関する助言ではない。

タンザニア、マラウィ、南アフリカの村々は、人生を全うできなかった人たちの亡霊でいっぱいである。
土饅頭は、避けられたはずの病気で死んだ子供たちだけの墓ではない。働き盛りで死んだ大人たち、
生命を永らえるための薬を供給しなかったグローバル・マーケットの犠牲者の墓もたくさんある。

世界のほとんどの人たちにとって、貧困に対抗するための唯一の資源は、
生活保護支給金という「セーフティ・ネット」ではなく血肉のネットワーク、つまり親類や家族である。
これらのものだけが、人々に住まい、食べ物、病人や老人の介護といった保護を提供するのである。
「開発」は、人々が生活手段を求めて移動することによる都市化、移民、家族の崩壊を通じて、こうした関係を蝕む。
南の国々は、大きな、かつて行われたことのない実験の実験場となっている。
それは、安全の古い形式が崩壊し、政府が財政的にこれに代わるものを用意できない場合、何が起こるか、という実験である。
41夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:08:02 0
3 貧困を定義する

P48-
貧困に関するさまざまな考えが、いかに限りない経済成長を、そして際限のない欲求を前提としているか。
絶対的貧困と相対的貧困――開発の植民地主義、充足の植民地化、富の貧困。

村の家族が貧乏なのは子供が多すぎるからだ、と人口問題の専門家は批判する。
母親は腹立たしげに一二人の子供を小屋の外に並べ、彼に向かって言う。
「この子たちを見てちょうだい。いったい、どの子とどの子がいなければよかったっていうの」。


貧困は定義を必要としないと思われるかもしれない。
誰もが、毎日のように世界中のテレビ画面に現れる「貧しい人々」を目にしている。
中央アフリカの戦闘地域を逃れた、あるいは東南アジアのサイクロンの被害を受けた、
またはジンバブエやエチオピアの旱魃地帯で暮らす、やせ衰えて疲れきった子供たちや老人の映像に
見覚えのない人がいるだろうか。栄養失調で膨らんだお腹と退色した髪の毛、骸骨のような姿で
だるそうに横たわる人たちの目のあたりにハエが群がっている映像である。

これは、何も持たない人々、生きていくための基本的な資源の欠如のために、
その生命が絶えず脅かされている人たちの「絶対的貧困」である。
42夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:08:40 0
貧困はわれわれの顔を覗き込む。ある意味で、貧困はわれわれすべてに常に連れ添っている。
貧困の存在、あるいはむしろその存在の象徴は、さまざまな目的のために利用されている。

物にあふれた世界での欠乏に心を揺り動かされたせいであれ、悪霊を追い払うという迷信のためであれ、
貧困を目にした人々は慈善行為へと向かう。
だが、善意はせいぜい最悪の事例に歯止めをかけ、大災害に遭った人たちに一時的な慰めを与えるにすぎない。

生きるか死ぬかの瀬戸際にある人間の姿は、恐ろしい警告という意味ももつ。
人々は言う。「見てごらん、一生懸命働かないと、どんな目にあうか」。彼らは抑止力である。
貧困者のたどる運命を知らない者はいない。これが人々を経済的努力へと駆り立てる。
とりわけ、われわれと最も貧しい人たちの状況との違いが、
自分の手で働くことと自分の頭で創意工夫することだけという場合はそうである。

この種の貧困は援助団体や政府、国際金融機関の関与の対象である。
地球上で最も力を持つ人たちの決断があれば、こうした過酷な窮乏はすぐさま解消し、
こういった光景は世界から姿を消すはずである。
それがいまだ実現していないというのは、この時代の不思議の一つである。
富裕な者たちがこれほど貧困の削減に努めているのに、どうしてこのような悲惨さが続いているのだろうか。
43夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:09:14 0
貧しい人々の維持
貧困の軽減がすべての政治家、国際機関、援助供与者、慈善事業の主要な目標であるということは、
今では常識となっている。だが、彼らの熱意は、貧しい人々を維持しようという点に向けられているのである。
あらゆる歴史的記念物と同様、「貧困者保存協会」があるにちがいない。
しかし、それはグローバル経済の構造そのものに書き込まれているがゆえに、特別な措置を必要としないのである。
個々の貧困者が死ぬ可能性はいくらでもあるが、貧困が根絶する可能性は皆無である。
44夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:09:54 0
貧困線
イギリスでは、貧困線は中位の所得の六〇パーセントに設定されている。
金持ちがより豊かになるにつれ、中央値も上昇し、外見上、より多数の人間が貧しくなった。
この定義は、貧困が永遠に続くことを保証するものである。
それは、貧困が不断の成長というモデルに組み込まれていることを是認している。
したがって、貧しい人たちを食い者にしている人間たちが生活手段を失う見通しは全くない。
貧しい人たちは、ただ経済の浮力、豊かさの上潮によって引き上げられるのを待つだけの、不活性の塊として扱われている。
彼らは、少なくとも社会主義の死が公式に宣言された以上、自分たち自身の解放者にはなれないだろう。
彼らは開発の対象なのである。

貧しい人々が集団で行動すると、すぐさま結託して「暴徒」となり、石や爆弾を投げたりして、社会秩序を攪乱するとされる。
彼らが存在を認められるのは、他の人たちの、もちろん金持ちの人たちの、気高い行為の対象となるときだけなのである。

貧しい人たちは自己主張しない。国内の貧困者も世界の貧困者も、消音ボタンを押されている。
サイクロンで家が破壊されたとか、内戦、環境破壊などで大きな被害を受けた後、苦痛にゆがんだ顔、
飢餓で膨れた腹などを哀れんで、救援の手が差し伸べられる。こうしたイメージは何も語ってはいない。
CNNやBBCのコメンテーターは、いつでもこう語る用意ができている。
「これらの人々はすべてを失いました」「これらの人々には行くところがありません」
「これらの人々は生きるか死ぬかの崖っぷちに立たされています」

「これらの人々」。貧困によって口を閉ざされ、無言になった彼らは、沈黙の誓いを強いられてきたのだ。
なぜなら、もちろん、言うべきことがないからだ。
45夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:10:38 0
こういった人々は、どんな話をするだろうか、すべきだろうか。
金持ちの代弁者が腹話術的に貧困の説明をするのには、もっともな理由がある。
貧しい人たちの声が求めるのは、安全、充足、必要なものや次の世代を育てるだけの空間が手に入ることだけである。
贅沢な暮らしを望んでいるのではなく、平和に、生活に困らないで暮らしたいのである。

そして、これらのものこそ、彼らが手にできないものである。
富の創造の原動力は、なによりも不安定性、無限に満足や経済成長を追い求めることにある。
みすぼらしい空腹な懇願する人たちというイメージは、企業家や野心家、働き者や富の創造の信奉者に対し、
経済的能力を発揮してより大きな成果を挙げるように刺激する働きをしている。
貧困のイメージがなければ、われわれにのしかかるストレスや暴力、残虐行為を誰が甘受するだろうか。
落ちぶれて、時に容赦なく「持たざる者」といわれる人たちの仲間になることへの恐怖感が、
われわれを押しとどめているのである。

貧困は、遺伝学的に決定されている病気のように「不治」だということはない。
これは、グローバルなメディアの支離滅裂な合奏で自分たちの声をかき消された貧しい人たちの慎み深い主張である。

彼らは実際、金持ちにとって危険な存在である。
しかし、彼らがそうだと説明されてきたようにではない。
彼らが猿ぐつわをはめられるべきだと決められたのは、彼らの願望の単純さゆえであった。
彼らの必要とするものは容易に手に入るのに、剥奪されたままでいなければならなかったのは、
全くイデオロギー的な理由からであり、欠乏とは何の関係もなかった。

貧しい人たちを引き上げるために必要なのは、より大きな経済成長ではなく、富を構成するものと、
それが生み出す貧困のより厳密な評価である。
そのためには、貧困緩和に懸命に取り組むふりをするという、
盛んに行われている狡猾な活動以上のものが要求される。
46夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:11:24 0
2 貧困を測定する

P34-
アジアやアフリカの多くの文化に共通する民話には、金持ちになろうという知恵に疑問をさしはさむものがある。
例えば、こうである。

漁師が木陰で昼寝しているところに旅人が通りかかった。
旅人は眠っている男を起こし、なぜ魚を捕まえないのかと尋ねた。
「家族の夕食に、もう二匹捕まえたよ」
「もっと大きい網で、もっと長い時間漁をすれば、一〇匹は捕まえられるのに」
と見知らぬ男は言った。
「でも、二匹しか要らないのに、一〇匹も捕まえてどうするんだ」
「売ればいいだろう。毎日同じようにすれば、舟を買うお金が貯まるよ」
「それで、どうするんだ」
「もっとたくさん、魚を捕まえるのさ。人を雇って、もっと魚を捕らせることもできる。金持ちになれるよ」
「金を持って、どうするんだ」
「楽しい毎日が過ごせるさ。くつろいで、楽しく木陰で寝ることができるだろう」
「今やっているみたいに?」
と漁師は聞いた。

貧困について学ぶ必要があるのは誰か。地球上のほとんどの人間は、貧困になじみがある。
多くの人たちは、再び貧乏に捕まるのではないかと恐れているし、他の人たちは貧困からできるだけ遠くへ逃げてきた。

さまざまな統計が出されている。援助団体、国際機関、人道組織が啓蒙活動をしている。
これらの事実がなぜ、世界で拡大しつつある不公正にほとんど影響を与えないでいるのか、というのが本書の中心問題である。
47夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:11:58 0
不平等

貧困を考察するには、他の方法もある。その一つは、国家間および国内の不平等の増加を見ていくことである。
貧困と不平等とをはっきりと区別することが重要である。
貧困は絶対的窮乏の状態(生きるためになくてはならない必需品の欠如)を示すのに対し、
不平等は社会的不公正の指標である。
不平等が増大する一方で、貧困は減少しているかもしれない。

どのような方法で考察するにせよ、社会的不公正が増大し続けるかぎり、極貧は存続する。
このことは、貧困をめぐる議論に強い影響を与える。
というのは、グローバリゼーションが体現している改善のモデルは
「金持ちが今よりはるかに金持ちになったときにのみ、貧乏人は少しだけ貧乏でなくなる」
というものだからである。
48夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:12:37 0
1 目に見えない貧困

豊かな社会では、貧しい人々は目に見えない存在になっている。
彼らが占める場所に、金持ちが踏み込んでくることはない。
グローバルな通信複合企業が好んで描く進歩の壮大なドラマで、
貧しい人々は通行人の役を与えられているにすぎない。
国際ニュースの中で貧しい人たちが取り上げられるのは、主にこけおどしやチャリティの呼び物としてである。

欧米諸国は、自分たちの国の貧しい人々に消失の手品をかけている。
今や、人目を引く犯罪、暴動、人種問題がからんだ騒動、ドラッグ売人宅への警察の手入れ、
サッカーのフーリガンといった形で噴出しない限り、貧しい人々は統計上だけの存在となっている。
彼らは、繁栄し、忙しく、上り調子である社会の主流からは排除されているのである。

欧米の貧しい人々は民主主義の死せる魂である。
彼らは非参与者、落ちこぼれ、消えた者たちであり、選挙人名簿や公式のリストから漏れている。
夜逃げした人間、痕跡も残さず去る短期滞在者であり、世間から拒絶された年寄り、
つまり真夏にカーテンを閉めた部屋の中、かごの中でさえずっている鳥の脇で、
午後のテレビを付けっぱなしのまま居眠りしている老人である。

死せる魂は市場の落伍者、数に入れられない存在であり、宝くじを買ったり、本のパズルを解いたり、
カフェの合成樹脂のテーブルに広げたタブロイド紙の漫画を読んだりして時間をつぶしている。
死せる魂はばくち打ち、生き残りであり、闇経済の経済的影、最終収益の確保に失敗して絶望した者たちである。
隠れた欲望にサービスする人間、欠乏の文化が誘発する不道徳な欲求に奉仕するダンサー、
未成年者の売春や不法映画の供給者、すでにあまりに頻繁に変化してきた精神をさらに変える薬物の密売人である。
49夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:13:30 0
死せる魂はさまざまな区域に存在する。
風の強い公営団地に住み、チャリティショップで手に入れた衣服を着た人たち、
野犬や洟をたらした子供たちに踏み潰された草、折れた若木、放置された乳母車や路上に散乱するビニール袋、
高層建築〔スラム化した民営アパート〕で暮らし、施しや給付金に行列する見下された人たち。

これらの人々は、体裁を気にする社会の不用品、歴史から削除された者たちである。
野宿する者、深夜、飲み物の配給車に引き寄せられるぼろを着た不眠症患者たち。
さらに、目に見えない存在として、家に引きこもった人たち、おびえた広場恐怖症患者、認知症患者たちがいる。
ドアの向こうで内部の恐怖に対してバリケードを築いて、
弱くて孤独な人間たちが自分の頭の中にこだまする声だけを聞いて暮らしている。
これらの人目に触れないで正気と狂気の瀬戸際で生活している人たちは、ある役目を果たしている。
彼らの低賃金で表に出ない労働が賃金を安く保っているし、彼らのみすぼらしい貧困は、
あんな風にはなるまいと他の人たちに思わせるための悲惨な警告、実例として利用されているのである。
50夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:14:10 0
人口が増加したことで様々な問題を抱えるようになったのはアフリカだけではなく、
人口増加率の比較的低い国でも、都市部への人の流入は留まることがない。

フィリピンのケソン市には、有名なゴミの山「スモーキー・マウンテン(煙の山)」がある。
首都圏から集められた膨大なゴミが山になり、内部で発生したメタンガスが低温火災をおこしているため、
一帯がいつも煙で覆われているのだ。
ダイオキシンは、塩素系プラスチックを低温燃焼させた時に発生するというから、
この場所を覆う煙にはダイオキシンがたっぷりと含まれているのだろう。

スモーキー・マウンテン周辺には、小屋を造って生活する人たちが三〇〇〇人余りいる。
田舎にいても耕す土地がない人、また都会に憧れて単身でこの場所に足を踏み入れた地方出身者が住人の中心で、
ゴミの中から鉄やビニールなど換金できるモノを見つけ、売ることで生計を立てている。
電気は近くの電柱から盗電し、水は共同の水場から汲む生活だ。
コネも金もない者たちに、都会は心地よい生活場所など用意してはくれない。

案内されるまま、板きれと、トタンで作った小屋に入った。
ここで出会って結婚したという若夫婦が持ち主だった。
生まれて数ヵ月しかたっていない乳児が、妻の両腕の中で小さな寝息をたてていた。

小屋内部は六畳くらいの狭い空間で、家具と呼べるものはなかった。
唯一目を引いたのは、部屋の中心に置かれた一台の冷蔵庫だった。
中古の電気製品を販売する店から、ローンを組んで買ったという。
「冷蔵庫のある生活が、子どもの頃からの夢だった」と夫婦は口を揃えた。
中を覗いてみると、入っていたのはガラス瓶に入れられた水。
鉄やビニールを売って得たお金では、一日分の食料と冷蔵庫のローンを貯めるのがやっとで、
水以外、冷蔵庫に入れるモノを買う余裕などない。

壁の一部に貼られていたのは、雑誌から切り抜かれた車や時計の広告。
いつかは所有してみたいモノなのだという。
壁を見ることで夢が見られるのだという。
51夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:15:22 0
ブラジル、アマゾン川源流を小船で旅した時にも同じような経験をしている。

曲がりくねった川に面して、一軒だけポツンと建った小さな板張りの家があった。
日が暮れたため、その家に泊まらせてもらうことになった。
家の中に入って驚いたのは、壁一面に雑誌の広告写真が貼られていたことだ。
時計にスポーツ用品、カバンに靴に靴下、口紅や調理器具の広告もあった。
塩や石けんを売る行商船が、月に一度だけ、奥地のこの場所にも来るというが、
その船が雑誌を持って来たのかもしれない。

雑誌広告を壁一面に貼ることで嗅ぐことのできる都会の匂い。
船で何日か下った場所にある町や、そこからバスを乗り継いだ先にある「想像の都会」は、
彼らにとって、モノが溢れ、夢が実現できる場所として映っているのだろう。
かくして森の民は都市を目指すことになる。
52夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:16:12 0
ペルーの首都リマ近郊には、乾燥した砂漠の中に小さな家や小屋が無数に建ち並ぶいくつものスラムが広がっている。
全人口に占める首都圏の人口は、一九六五年に五二%だったものが、一九九七年には七二%にまで上昇した。
増えた人口のほとんどは、内戦や生活環境の悪化したアンデス山脈やアマゾン源流から、
「より良い都会の生活」を求めてリマに来た人たちだった。

一九九〇年、フジモリは大統領就任直後から、最大支援国である日本の協力も得て、
違法に家や小屋が建てられていたスラムへの援助を開始した。
スラムの生活環境が劣悪である限り、人々の不満を吸収する形で影響力を強めていたテロリズムを、
一掃することができないと考えたからだ。
主な支援は、飲み水・電気の供給、舗装道路の工事、また元大学学長である彼は、
教育の重要性を信じ、次々と学校を作っていった。

一九九七年、その一〇年ほど前から何度も足を運んでいるスラムを再訪した。
他のスラム同様、そこにも街灯がくまなく設置され、
蛇口をひねるだけで安全な水を飲むことができるまでになっていた。
生活は各段に向上していた。
だが住人の中には、以前よりも強い不満が渦巻くようになっていた。
53夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 18:16:48 0
フジモリ以前のペルーでは、違法行為で儲けた者以外、国民すべてが貧しかった。
しかし、フジモリが強権を発動し、経済を自由化したうえで、外資の参入も積極的に認めたことにより、
人々の間では、目に見える格差が生まれてしまったのだ。
高級外車が街を走り、先進国レベルのショッピングセンターが次々とオープンした。
金を持ってさえいれば、先進国同様の「快適な生活」が送れるようになったのである。

国民全員が貧しかった時代から、社会全体が底上げされたものの、
一部だけがより巨大な富を享受するフジモリの時代へ。
かくして相対的に「貧富の差」は以前より各段に大きなものになり、
繁栄を謳歌できない層に不満が溜まっていった。

生活環境が改善されたとしても、人々の間に相対的な貧困感覚が生まれる状況では、
社会から安定が失われ、政権さえ倒される可能性が生まれる。
そのことを、フジモリの引退劇が証明してしまったのである。

世界がグローバル化する中、ペルーの事例は大きな意味を持つ。
富の所在が極端に偏ってしまうと、たとえそれが相対的なものであれ、
世界全体が不安定になることがわかってしまったからだ。
54夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 23:57:13 0
じつは日本人の団結心について、ぼくはまったく逆の経験をしているんだよ。
終戦直後のことだけど、当時ぼくは満洲にいた。
ある期間、文字どおりの完全な無政府状態がつづいたんだ。
その時のことだけど、あれは奇妙というか不思議なものだね。
無政府状態というのはつまり無警察状態でもあるわけだ。
僕らは当然、ひどい混乱と暴動を予期していた。
ところが違うんだな。すくなくも日常は日本が軍事占領していた時期とすこしも変らない。
あいかわらず商店では品物を売っているし、食べ物屋には料理の湯気が立ちこめている。
もちろん日本人の立場は悪くなったよ。
軍事力と警察力を背景にして、さんざん旨い汁を吸ってきたんだから、
植民地支配の崩壊と同時に立場が逆転するのが当然だろう。
でもその逆転は、はっきり目に見えるものではなかった。
金さえ払えば、何でも自由に買えたし、品物を売りに出せば、相応の代金を支払ってもらえる。
つまり市民生活の基本ルールは、そっくりそのまま維持されたわけ。
首をひねったものだよ、たしかにインフレはひどかったけど、すくなくも通貨が……
通貨と言っても、はっきりは覚えていないけど、旧満洲国紙幣や、ソ連の軍票や、
なんだかよく分らない紙幣なんかが、ごちゃごちゃに使われていたような気がするな……
いったい何がその貨幣価値を保証していたのだろう?
そもそも貨幣価値とは何なのか?
まあ、なんであろうと、流通している限りはそれでいいわけだ。
手に入れた金で物が買えれば、その金の素性なんか二の次で構わない。
あの時くらい国家権力の存在理由を疑わしく思ったことはないな。
55夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 23:57:48 0
それはそうとして、そういう状況下での日本人の行動様式の特殊性……
たしかに基本的な日常は維持されていたけど、民族間の力関係は完全に逆転したわけだから、
もう昔のように虎の威を借りてばかりはいられない。
街や商店でたとえば中国人と金銭上のトラブルがおきたりすれば、
こんどは平等の立場で渡り合わなければならないわけだ。
そういう場合、中国人や朝鮮人だと、周囲に降って湧いたように仲間が現れてたちまち人垣が出来あがる。
べつに仲間に一方的に味方して、異民族に集団リンチを加えようってわけじゃないんだ。
裁判にたとえれば、臨時の陪審団が結成されるんだね。だから当事者同士の喧嘩も派手なものさ。
手足を振りまわすんだけど、本気で殴りあうわけじゃない、相手に届かないだけの距離を保って口角泡を飛ばすんだ。
つまり被告と原告の大弁論大会だね。そして陪審団が判決を下す。当然陪審団に同国人が多いほど有利になる。
その点中国人と朝鮮人は、集まるのが早いね。あっという間に陪審団が結成されてしまう。
ところがそういった場合の日本人、信じられないだろうけど、誰一人集まってはくれないんだ。
それまでかなりの人数が、その辺をうろうろ歩きまわっていたはずなのに、
映画の特撮みたいに一瞬にして姿を消してしまうんだ。

―― 逃げるんですか。
逃げるんだよ。ここまで集団化が不得手な民族も珍しいんじゃないか。まさにニューヨーク人なみだろう。

―― 儀式好きの国民性と矛盾しませんか。
いや、集団化が苦手だから、儀式に依存するのかもしれない。
だから儀式のもつ魔力に、必要以上に敏感だし、すべての儀式を必要以上に儀式ばらせてしまう。

―― そういう体質のなかにテレビの擬似集団化が持ち込まれると、何が起きるんでしょう。
何か嫌な影響が出てきそうな気がするね。儀式の密度が濃くなるいっぽうだ。
散文精神にとってはまさに厳冬の季節の到来だな。
56夢見る名無しさん:2006/03/32(土) 23:58:25 0
視聴者はべつに真実を求めているわけじゃないからね。
ただある一定の時間、「時間」の受動的消費に身をまかせていたいだけなんだよ。

君の言っていることとは多少ズレがあるけど、僕も最近、つくづくテレビの脅威を感じはじめていることは事実なんだ。
ただしかならずしも、放映されている内容に関してではない。
不気味なのはとにかくその瞬間に、無数の人間が小さなテレビ画面の前で、
各人の意識とは無関係に巨大な擬似集団を形成しているっていうことね……

―― テレビ自体が擬似集団の場と化すわけですね。
そうなんだ。テレビが出現する以前には、これほど簡単に擬似集団が形成されることはなかったんじゃないか。
しかもとんでもない人数だろ。
だいたい集団化は人間の能力のなかでも、とくに重要なものの一つだけど、それだけに本来非日常的じゃないと困るんだ。
いざという時の伝家の宝刀なんだよね。
例外は軍隊と学校かな。軍隊は非常事態が日常だからね。
でも学校の集団化傾向はなんだろう。あれにも何か必然性があるんだろうか。
とくに日本の学校には擬似軍隊的な風潮が顕著だね。
学校本来の機能以上のものが期待されているような気がする。
教育のひずみ、とかいろいろ言われているけど、
そもそも学校を集団訓練の場にしようとすること自体に問題があるんじゃないか。

とにかく人間って、そういつも集団でいる必要はないんだ。
むしろ個別化と分業が社会形成の原動力だったんじゃないかな。
いちいち集団を組まなくてもすむように、人間は社会を組織化し、社会に構造を与えてきたわけでしょう。
ただ社会の構造が破れて、パニックに襲われたような場合、
本能的に集団化の衝動が働いて個人を越えた集団的自衛能力を発揮する。
57夢見る名無しさん
P387- 演芸大会

ジードは生物学的根拠に基づいて男性愛を社会的にも正常化しようとしているのであるが、
一体社会が愛情に基づいて築かれたものではない以上どんな愛情も正常化される機会はないのである。
結婚とそれから派生した親子とか兄弟の愛情だけがわずかに社会に認められているが、
それは結婚が元来愛の単位ではないという単純な事実によって、愛情はもしあるならば絶えず社会に裏切られ、
社会はもし愛情を殺そうとするならば、逆に愛情に裏切られるという相互関係があるだけなのである。
キリスト教は止むを得ず一種の普遍的な愛情を仮定することによって、この劇を緩和しようとしたが、
宣伝の割には効果があがらないのは、キリスト教的愛情はあらゆる種類の愛情を薄めただけで、
愛情の存在自体をなくすことは出来ない相談だったからである。
だから劇はいつまでも続いている。

あらゆる愛情の実行者は個人的道徳(最近の日本ではモラルという片仮名で呼ばれる場合が多い)を考案せざるを得ないが、
理窟はいくら精妙になろうとも、結局個人の身勝手を出ない。
この意味で死ぬまでエゴチスムの原理の上に胡坐をかいて、社会の外に止ったスタンダールは正しく、
「チャタレー夫人の恋人」のローレンスのモラルとか「コリドン」のジードのモラルとかは未練というものなのである。

自己の変質を自覚したジードは
「要は癒ることではなく、病と共に生きることだ」
という十八世紀の僧侶の言葉を援用している。
「私のようなものでも生きたい」はあらゆる「地下室」の住人の叫びであるが、
こういう叫びが聞かれる根柢は、社会が無期徒刑囚を含めて、どんな人非人にも生きることを許すほど文明化したためである。
彼等は要するに平和な社会の寛容をあてにしている。
その証拠に社会が痙攣して個人に戦場で死ぬことを命じた時、
彼等は決して「生きたい」とはいわず、羊のように従順に殺されて行くではないか。
「地下室」の住民が多く保守党であるのと併せて考えられよ。